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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する。

思った通り、働かせ方改悪法案が強引に押し通されようとしており、これが通れば、まさに我が国は24時間働かせ放題のディストピアへと転じることになる。

筆者がこれまでずっと述べて来た通り、労働がまさに罪のゆえの終わりなき懲罰と化す時代が到来しているのだ。アウシュヴィッツ行きの列車が人々を満杯に乗せて、汽笛をあげて発車しようとしている。

この列車に乗ってはいけない。今は勤労の精神を説く時代ではない。プロテスタントの始まりと共にヨーロッパ諸国で勤労の精神が取り入れられたが、プロテスタントも、労働市場も、徹底的に腐敗堕落し、もはや終焉にさしかかっているのだ。

「私たちは安定的な雇用を得て、定期的な収入と、高い職業的な地位を得て、まっとうな市民としてのつとめを果たしているから大丈夫・・・」などと思っていると、行き先は飢えと死の支配する強制収容所となろう。

それはキリスト教界も同じで、宗教組織に所属し、宗教指導者に従うことで、それを神の救いの目に見える形の代替物のように思って握りしめていると、行き先は地獄でしかない。
 
この国は、もはやすべてにおいてタガが外れており、善と悪が逆転し、すべてのことがひっくり返っている。善良な人々が悪人とみなされ、悪人が善人面して跋扈している。
 
だが、そうなったのには、深い理由がある。これは我が国が経済成長だけを第一として、金儲けを至上の価値として歩んできたことの手痛いツケであり、必然的な結果なのである。

戦前もそうであったが、戦争は、政府や皇族や大企業の金儲けのために起こされるものであって、口実など何でも良いのである。要するに、儲かりさえすれば、どんな手段を取っても構わないという精神が、戦争へとつながって行くのだ。

人権軽視の憲法改悪と、武器の製造と輸出(軍需産業の育成)、国公立大学における人文科学の縮小、人間を過労死させるまで働かせて使い捨てることを厭わない働かせ方改悪法案などは、すべて根底では一つにつながっている。要するに、これらは金の力の前に人権および人命が徹底的に軽視され続けたことの結果、起きたことである。
 
最近、辛淑玉さんが事実上の国外亡命を果たしたというニュースを知って驚いた。以下のニュースは「読む・書く・考える」のブログから転載したものである。
 

東京新聞(3/14):

 「ニュース女子」問題で辛淑玉さん
 ヘイト標的 拠点ドイツに 

 沖縄県の米軍基地反対運動を扱った東京MXテレビの番組「ニュース女子」で、名誉を毅損されたと認められた団体代表の辛淑玉さん(59)が昨年11月からドイツに生活拠点を移した。本紙の取材に対し、昨年1月に番組が放送されてから民族差別に基づくヘイトクライム(憎悪犯罪)の標的にされかねない不安が高まったとして、「事実上の亡命です」と明かした。(辻渕智之)

 辛さんによると、番組放送後、注文していない物が自宅に届いた。近所で見知らぬ人が親指を下に向け批判するポーズをしたり、罵声を浴びたりもした。これまでも仕事先などへの脅迫や嫌がらせはあったが「私の身近な生活圏に踏込んできた」という。(略)
(略)
 最近は「スリーパーセル」(潜伏工作員)との中傷もある。先月、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部が銃撃されたことに触れ、「私が狙われてもおかしくなかった。国のリーダーは北朝鮮と敵対しても、『日本の中にいる朝鮮人たちは一緒に生きていく隣人です』と宣言してほしい」と訴える。


 この出来事についてブログの著者は呼びかけている、
 

「辛淑玉さんは、日米両政府から差別・迫害されるマイノリティ(沖縄)に連帯し、その自己解放運動を支援してきた。そんなマイノリティ(在日コリアン)女性の自宅を特定し、嫌がらせを繰り返して、ついには国内で生活できなくなるまで追い詰める。これが「愛国」だの「美しい国」だのを標榜している連中の正体なのだ。

一刻も早く、そんな不良日本人どもからこの国を取り返さなければならない。それは、間違いなく、この国のマジョリティである我々の責務である。


まったく同感である。だが、それにしても、ここまで事態が深刻化していたと知って筆者は驚いた。単なるテレビ番組だけの問題ではなくなり、実生活にまで被害が及び、もはや日本にいられないというまでの事態になっていたのだ。

「ニュース女子」とは、化粧品会社DHCの傘下のグループ企業が制作しているテレビ番組である。このDHCは、澤藤統一郎弁護士のブログの文章を理由に、弁護士に高額スラップ訴訟を起こしたことで知られる。DHCが起こした高額スラップ訴訟については、「澤藤統一郎の憲法日記」に詳しく、弁護士はDHCと勇敢に戦って勝訴し、今やDHCが被告となっている。

「ニュース女子」では最近、沖縄の高江・ヘリパット基地建設に関連して、事実として裏づけの取れていない、基地反対派の活動を一方的に敵視して貶める内容の放送を行ったとして、ネットでも数多くの批判を浴びていた。DHCのグループ会社が制作するこのTV番組は、まさにDHCという企業の意向を強く受けて制作されていたと見られる。
 

朝日新聞デジタル 「ニュース女子」打ち切りへ MXと制作会社に隔たり 
田玉恵美 2018年3月1日03時21分 から抜粋
 
 ニュース女子は、化粧品大手ディーエイチシーのグループ会社「DHCテレビジョン」が取材・制作し、MXが完成版の納品を受けて放送している。問題になった昨年1月2日の放送回については、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が昨年12月、MXが番組内容を適正にチェックせず、中核となった事実についても裏付けがないとして「重大な放送倫理違反があった」とする意見を公表していた。

 関係者によると、批判を受け、MXは自ら番組の制作に関与したいと申し入れて交渉していたが、DHC側から断られたという。このため、今春の番組改編に合わせて番組の放送をやめることを決めた。

 
しかし、BPOから放送倫理違反との結論が出されたことに対し、DHC会長は、かえって「BPOは正気か」とする反論を発表し、そこでBPOは委員のほとんどが「反日、左翼」に占められており、正常な判断など下せるはずがないと、偏見としか言いようのない衝撃的な見解を述べている。そして、「ニュース女子」はうちきりになったわけではない、これからも放映を続行すると強弁して、BPOに対決宣言と見える姿勢を打ち出している。
 

【DHC会長独占手記】「ニュース女子」騒動、BPOは正気か 
「ニュース女子」DHC会長、衝撃の反論手記 
から抜粋
「田嘉明(DHC会長)


 今、問題になっている放送倫理・番組向上機構(BPO)についてですが、まずこの倫理という言葉を辞書で調べてみると「善悪・正邪の判断において普遍的な基準となるもの」(「大辞泉」)ということになっています。そもそも委員のほとんどが反日、左翼という極端に偏った組織に「善悪・正邪」の判断などできるのでしょうか。

 沖縄問題に関わっている在日コリアンを中心にした活動家に、彼らが肩入れするのは恐らく同胞愛に起因しているものと思われます。私どもは同じように、わが同胞、沖縄県民の惨状を見て、止むに止まれぬ気持ちから放映に踏み切ったのです。これこそが善意ある正義の行動ではないでしょうか。

 先日、情報バラエティー番組『ニュース女子』の問題に関して、朝日新聞が「放送の打ち切り決定」というニュースを大々的に流したようですが、『ニュース女子』の放映は今も打ち切ってはいません。これからも全国17社の地上波放送局で放映は続行します。」
 


 だが、以上のような見解を見ても、すぐに分かることは、DHC側が、沖縄の基地問題を、日本と米国の外交問題、政治問題、また、日本本土と沖縄との偏って不公平な関係といった観点からとらえるのではなく、これを日本人対在日コリアンという民族対立のヘイト問題にすりかえることで、人々の目を問題の本当の核心から目をそらそうとしていることである。

もしも民族的対立という観点からとらえるのであれば、沖縄の基地問題は、何よりも、日本人から琉球人への差別という観点から論じられねばならない。今でも続行している日本本土による沖縄への基地の押しつけという不公平にこそ、まずは目を向けなければならない。

ところが、本土と沖縄という問題を、それとは全く異なる日本人と在日コリアンの対立という問題にすり替え、「在日コリアン側からの日本人への敵視」が行われているという、一種の被害妄想めいた話を作り出すことによって、沖縄を差別してきた加害者であるはずの日本人が、かえって被害者であるかのような問題のすり替えが行われようとしている。

そうした原因すり替え論の結果として、辛淑玉さんが国外亡命さざるを得ないような状況さえ起きて来ている。本来は、企業が政治活動に携わること自体が、望ましいことではないと筆者は考えるのだが、最近は、企業にもあからさまな右傾化が起きており、DHCのみならず、巨大企業がブランド力と動員力を使って、テレビだけにとどまらない政治的影響力を行使するようになっている様子が伺える。

とはいえ、日本人もTV番組や巨大企業の宣伝だからと裏づけの取れない情報を完全に鵜呑みにするほどまで愚かではないため、こうした動きに対しては、強い反発も起きており、DHC製品の不買運動もじわじわ広がっているようであり、上記の弁護士などもDHCの不買運動を呼びかけて広く反響を得ている様子である。

東京MXテレビとDHCの開き直りに反感、デモや不買運動もー『ニュース女子』沖縄ヘイト放送
志葉玲  | フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和)  2017/1/27(金) 8:59


だが、今のままだと、まもなく不買運動など呼びかけずとも、化粧品のことなど誰も考えていられないような恐るべき時代がやって来ることになるだろう・・・。しかも、まるでロシア革命時に大勢のロシア人が国外に亡命したように、辛淑玉さんのみならず、我が国で「非国民」のレッテルを貼られた人々が、続々とこの国を捨てて国外亡命を果たすような時代が、もうすぐそこまで来ていると感じられてならないのである。

こうした一連の出来事を見つつ、筆者も色々と考えさせられる。

筆者は最近、ヴァイオリンを弾きながら、辛淑玉さんのように、将来、ドイツへ行ってみるのも悪くないなあ・・・、などと思いめぐらしている。国外亡命のためではない。何しろ、ドイツは教育が無償だそうだから、改めて音楽を学び直す良い機会ともなろう。

音楽には国境もなければ言語の壁もないため、いざとなれば、日本国内外を問わず、そこから何か開けてくるものがあるだろうと思うのだ。筆者はこの試みが、深いところで、筆者自身の自由とも密接につながっていることを強く確信している。

筆者は以前から、この国はソドムとゴモラ化していると書いており、まさしくその通りの展開となっていることを感じている。そして、このような腐敗した領域からは出るべきだと述べている。だが、筆者が述べている「エクソダス」とは、あからさまな国外亡命のような、物理的な移動を指しているわけではないのだ。時には、そういうことが不可欠な場合もないわけではないと思うが、はるかに重要なのは、霊的エクソダスである。

これから先、どれだけ早く真実に気づいて「エクソダス」を成し遂げるかが、一人一人の生死を分けることであろう。

筆者は、働かせ方改悪法案に賛同しておらず、事実上の24時間労働制・国家総動員体制などに賛成票を投じるつもりも全くないが、それでも、残念ながら、我が国に国家総動員体制のようなものが敷かれるのはほとんど避けられない結果だと考えている。

それはこの国がこれまで敷いて来たヒエラルキー、競争原理が必然的にもたらす結果なのであり、一旦、とことん行き着くところまで行き着かない限り、この残酷な競争の激化は止められないのではないかと考えている。

だから、私たちはそうした先行きのない世界から目を逸らし、新しい地境を見るべきなのである。もし船の左側に網を降ろして何も魚が取れなかったなら、右側に網を降ろしてみれば良いのだ。左側は、人間の努力によってすべてを達成する道、右側は、神の約束によってすべてが達成される道である。

話が変わるように思われるかも知れないが、経済界および労働市場の絶望的なることを示すために、あるエピソードを述べておきたい。

それはかつて筆者が何年も前に、アルバイトのような仕事をして、とある故障・修理受付のセンターで働いていた時のことであった。

筆者がその職場に入ったとき、その職場は、開けた都会の駅からすぐの大型ショッピングモールのビル街の只中の、きれいでピカピカのオフィスにあった。まだ立ち上がったばかりで、大勢の同僚たちが雇用され、活気があり、窓から見える景色はきれいで、食べ物屋にも困らず、まことに良い雰囲気であった。

ところが、それがとことん異常になり果てて行くまで、3ヶ月もかからなかった。そのセンターの仕事には最初から前線部門と技術部門の二つの区分があり、最初、これらの部門の間に差別はなかった。だが、最初から給与が違っており、技術部門の方がわずかに高かった。前線部門は修理の受付をして技術部門へ渡すための一次対応であった。

センター始まってしばらくすると、いつの間にか、前線部門と技術部門との間にヒエラルキーのような格差が出来てきた。前線部門は、技術部門に接続する前段階の苦情受付のための捨て駒のような役目を押しつけられ、技術部門との間に、だんだん給与面だけでなく心理的にも大きな格差ができ、技術部門は特権的な地位のようにみなされるようになって行ったのである。

職場の中にヒエラルキーがあるということは心理的にも非常によくない。職場内にあからさまな無気力感が漂い、同僚同士が妬み合ったり、足を引っ張り合ったりして、何一つ良いことは起きない。

だが、そのセンターには、筆者が働き始めて3か月頃した頃から、今度は、いきなり現場の仕事には全く携わることのない庶務部門や、社員の仕事をチェックしてはダメ出しするだけの品質管理部門といった新たな部門が導入されて、さらに新たな重層的ヒエラルキーが出来上がり、事務仕事に携わる連中が、前線部門、技術部門を問わず、センター全体の仕事を見張り、難癖をつけては、大きな顔をするようになったのである。

いきなり導入された庶務部が、シフト管理などにうるさく口出しをし、全従業員に君臨して大きな顔をし始め、一つの職場内で、事実上の官僚集団のようになって行った。一つのセンターの中に完全な「お役所」が出来上がり、筆者は開いた口がふさがらなかった。

そのような事態になるまでの間に、仕事の質もどんどん落ちて行った。最初は活気があったセンターが、連日の苦情のために、どんどん疲弊して行った。さらに、従業員は、あくどい形で、顧客から金をとるために、修理しなくても良い箇所まで、修理させるようにとの業務指示を下されたりと、納得のできないことの連続で、顧客が可哀想だと思われることしきりであった。

何より、連日のように顧客から異常と思われる終わりのない苦情が入って来るようになり、それにみなが苦しめられていた。むろん、そんな苦情が発生したこと自体、企業の経営方針、倫理の欠如が深刻に問われる。そうした希望の見えない仕事の中で、職場では身びいきがはびこり、幹部の覚えめでたい連中だけが、見る間に出世して管理職に登用されて行き、管理者ばかりがゴロゴロいるようになったのであった。

筆者はより高い給与とましな仕事内容を求めて技術部門への転身を試みたが、あいにく実現しなかった。(そして、筆者の人生では、この仕事が本業とは関係のない最後のアルバイトとなった。)
 
以上のような変化の中で、筆者はこの職場には将来の希望が全く見いだせないため、早く転職せねばならないと思うようになった。品質管理部門が、皆の仕事に目を光らせて、あれやこれやとうるさく難癖をつけているため、思うように仕事もできなくなり、筆者はこの職場を一刻も早く出るべきと確信した。
 
ほんのわずかな期間に、入ったばかりの頃のわきあいあいとした雰囲気、同僚たちとのあけっぴろげな談笑、これから何かが始まるぞという活気は、急速に萎み、見る影もなくなっていた。

筆者が仕事に愛想を尽かしかかっている気配を察知して、それまで同僚だった人が、それを上部に密告し、友達の顔をして、筆者の動向を調べ上げ、中枢部に報告するようになった、筆者はうすうす同僚の裏切りを感じてはいたが、それでも、それを全く意に介さず、その同僚の説得を振り切って、センターを去った。

その同僚は、筆者の退職後、筆者を裏切り者のように言いふらしていたらしい。(だが、自己弁明しておけば、そのように悪しざまに言われていた人々の中には、筆者のみならず、この職場を脱出しようとしたすべての同僚たちがを含まれていたのである。)
 
そして、密告までして上部に媚を売り、その仕事にしがみつき、センターに残った人たちが、その後、どのような末路を辿ったのかは、センターにいた仲の良かった別な同僚が仔細に至るまで教えてくれた。

筆者がそこを出た後、なんとごくわずかな間で、本社からリストラ精鋭部隊なるものが送り込まれて、大規模リストラを決行し、そのセンターが事実上、崩壊したというのである。

筆者はその話を聞くまで、追い出し部屋だとかの話を耳にしても、半信半疑で、リストラ部隊などといったものは、あるはずのない話だと思っていた。まさかそれなりに名の通った大企業に、自社の社員たちをリストラすることだけを専門にしている社員が雇われているなど、考えてみたこともなかったのである。一体、何のために?

ところが、それは本当のことらしかった。本部から四人の凄腕のリストラ精鋭部隊が送り込まれて来て、センターに残っていた同僚たちをことごとく片っ端からクビにして行ったというのだ。

仕事のできる優秀な人々がまず真っ先にターゲットとされ、仕事に難癖をつけられては、何度も、何度も、訂正を求められ、それにうんざりして自分から辞めた人も多かったという。数か国語を扱える優秀な社員も同じようにターゲットとされて追い払われた。

次に、管理職、平を問わず、大規模なリストラが決行されて、センターの人員が半数近くもいなくなった。その後は、事実上の恐怖政治が敷かれ、最後までクビにならずに残った人たちは、シフトも自由に申告できなくなり、休みも思うように取れず、恐怖で辞めることもままならず、会社への密告を恐れて同僚と口を利くことさえできなくなり、職場に出勤しても、恐怖のあまり手が震えてパソコンを打てないほどだったという。

センター自体はなくならなかったはずだが、筆者が見知っていた同僚の8割がたは解雇されて入れ替えられた。筆者がいた頃に、身びいきで出世していった人々も、みなすげ替えられたのである。

筆者はこの他にも、職場の腐敗や、崩壊に近い現象をそれなりに見て来たが、短期間でこれほどまでにダイナミックな崩壊(自滅?)を遂げた事例は他に聞いたことがなかった。立ち上げ当初の活気ある雰囲気を知っていただけに、まさかという思いが今でも込み上げて来るが、やはり、自分の中の直観は正しかったのだと思う。

リストラ部隊は、筆者には、抜き身の剣を持った御使いたちの姿を思い起こさせる。コネや身びいきがはびこり、不平等なヒエラルキーが敷かれ、お友達ばかりが管理職になって出世し、誠実な人々はひたすら苦情処理のような味気ない仕事を押しつけられ、昇進の道も閉ざされ、将来の希望もなく、不公平、不正義、堕落、腐敗の代名詞のようになったセンターには、こうして目に見えない剣が投げ込まれて、誰の手にもよらず、職場が自壊して行ったのである。

そうした話を同僚から克明に聞かされた時、職場がそんなひどい状態に陥るよりも前に、筆者がそこを去ったのは、まことに正しい決断だったと、改めて心の中で頷いたものであった。たとえ裏切り者のように罵られたりしたとしても構わない、残っていれば、もっとはるかにひどい事態が待ち受けていたことは明らかなのである。

可哀想なことに、優秀でまじめで仕事好きだった同僚は、精神的に追い詰められて、疲弊した様子だった。決して誰とも対立したり、会社の悪口を言ったりするようなタイプではなく、思いやり深く、働き者の同僚であったが、結局、無理がたたって怪我をして、その仕事を続けることはかなわなくなったようであった。

筆者が何を言いたいかは、しまいまで言い切らずとも、分かってもらえるのではないかと思う。

これまで我が国は、「国と企業のために役立つ優秀な人材」を求めて、ひたすら偏差値教育やら、就職戦線やら、国家公務員試験制度やらを通して、国民同士を競争させ、国民の間にヒエラルキーを敷いて、差別的な階層を作り出した。仕事を得る上でも、新卒・既卒の差別や、正規雇用と非正規雇用の身分差別、圧倒的な賃金格差を作り出し、とことん不公平な体制を敷いて、国民同士を「勝ち組・負け組」に分断して、戦わせて来たのである。

そのような悪しき分断作戦に、国民は気づいて立ち向かうべきであったのに、競争原理に踊らされ、自分を「勝ち組」として、地位にしがみつくことに必死の人々は、隣人に起こっていることに無関心で、自分が優位にあるうちは、自分だけが大丈夫であれば良いと考え、他人を見殺しにした。自分自身が徹底的にターゲットとされるまで、搾取や、リストラや、過労死や、ハラスメントなどは、自分には関係のないことだと高をくくっていた。

そのような愚かさ、無関心さ、無慈悲さ、利己主義がもたらす最後の当然の結末として、我が国では、今や国家や企業の無限大の搾取の願望が、ついに24時間働かせ放題のディストピアという形で押し通されようとしているのだ。

もうこうなると、国の崩壊そのものが近いと言えよう。今や抜き身の剣を持った御使いたちが、天から派遣されて、目に見えない死の剣を、我が国の国民全体の頭上に振りかざしている最中なのである。

それなのに、人々は殺されるまで物言わぬ羊として、上からの覚えめでたい人間として生きるため、地位にしがみつくため、殺人的な政策にも黙って従い、屠殺場に黙って引いて行かれるつもりなのであろうか? 

残念ながら、こうした現象は、経済界だけに限ったことではなく、むろん、国の組織も、学術研究機関も同じであり、およそ地上の組織という組織が、腐敗して、頼りにならない、人間を苦しめ、圧迫し、閉じ込めるものとなっているのである。

それは、宗教指導者の利益を第一とし、宗教指導者から評価されることを信者の「救い」と取り替えた腐敗した宗教組織にも共通することである。

「囲いの呪縛から出よ!」と、筆者はもう一度、言いたい。私たちは「和の精神」の呪縛から自分を解放すべきなのである。

カルト団体では、宗教指導者が信者に死ぬ寸前まで奉仕を要求するが、今の経済界で起こっていることは、それと本質的に同じ現象である。合理的な結果を出すために働かせるのではなく、人間を完全に奴隷化して支配するために、限度を超えた労働を要求しているのである。

このような死の世界には触れてはいけない。問題は、過労死をいかに防ぐかとか、企業や団体に労基法をどうやって守らせるかとか、正規と非正規の格差をどうやって埋めるかと言ったところにはもはやないのだ。

この果てしない地獄のような搾取の願望、人命を何とも思わずに犠牲とする金儲け第一主義の腐敗した理念から、どうやって一人一人が身を引きはがし、身を守り、これにNOを突きつけ、これとは全く異なる価値観に従って生きて行くかという選択の問題なのである。

筆者はクリスチャンとして言うが、今やまさに一人一人の信者が、信仰によって神ご自身との直接のつながりを得て、人間の指導者を介さず、組織を介さず、神のまことの命からすべての供給を受けて生きて行かねばならない時代が来ている。
 
それはハドソン・テイラーやジョージ・ミュラーを含め、幾多のキリスト教の先人が生涯に渡って成し遂げて来た方法であるから、何も不可思議な方法論ではないし、恐れることでもない。

イエスは十字架にかかられる前にこう言われた。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:23-26)

この御言葉は、隣人愛のために自分を捧げるという文脈で誤解される向きが強いが、実際にはそうではない。この御言葉は、クリスチャンが、この世で得られるすべてのかりそめの栄誉、地位、財産など、人間の間で作り出される虚栄に対して死ぬという意味を強く持っている。

これは、人の目に立派な人間と認められ、この世でひとかどの者と認められて地位を築き上げようとすることをやめて、ただお一人の神だけに評価され、神の御心を満足させることだけを求めて生きよという神の命令なのである。そして、主イエスは、その実現のために、十字架の死に向かわれたのであり、ご自分の死を指して、ご自分の「栄光」だと言われたのである。

イエスが地上に来られた時代、地上には立派なエルサレムの都と神殿があった。多数の宗教指導者がいて、人々に敬われていた。だが、イエスはそうした人々から全く栄光をお受けにならなかった。むしろ、主イエスは彼らを偽善者と呼び、「白く塗った墓」にたとえ、「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ23:27)と非難されたのである。

イエスは彼らにこう言われた、

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者の子孫であることを、自ら証明している。

先祖のが始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ。蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。

こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」(マタイ23:29-36)

今日の時代もこれと全く同じではないだろうか。地上には荘厳で立派な教会がいくつも建てられ、立派な服を着た宗教指導者たちが講壇から重々しく説教し、うやうやしく荘厳な儀式が行われている。そして、彼らのもとに集まる信者は、自分たちは正しい宗教指導者を拝む正しい信者であると自負している。

あたかも、そこには完成に近い素晴らしい礼拝があり、素晴らしい敬虔な指導者や信者たちがいるように見えることであろう。

ところが、そうした人々は、神が遣わされた「預言者、知者、学者」を決して認めようとはせず、その中の「ある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」。そして、その血の責任を、自分自身の身に負っているのである。

イエスが、エルサレムの都と神殿の崩壊を予告して言われたことを思い出したい。

「「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。

見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。

イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指した。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石ここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」」(マタイ23:37-39.,24:1-2)

このような宣告が一切、我が国とは関係がないと、私たちは言えるだろうか? 義人を罪に定め、真実を闇に葬り、不法と虐げを見て見ぬふりをし、寄る辺ない弱い者たちを嘲笑して死に追いやり、神に従う信者を迫害し、神が遣わされた預言者を殺そうとする国や街が、この先、無傷で立ちおおせることなどあるだろうか?

だが、私たちは、地上のエルサレムではなく、天のエルサレムを目指して歩んでいる。地上の目に見える都、宗教組織、目に見える礼拝、目に見える宗教指導者に帰属するのではなく、天の都に根差して生きている。だから、私たちは常に見えない新しい地に目を注ぎ、地上の目に見える有様に足を取られることは決してない。上にあるものを求めるために、崩壊しかかっている地上の有様からは目を離すのである。

今日、私たちがこの身に負っている「イエスの死」は、現実の死ではなく、十字架における霊的死である。私たちは絶えず自分の心に問われている、あなたは何を第一として生きるのかと。この地上における栄誉、人からの賞賛や理解、高い地位などと言ったものを求め、それを第一として生きるのか、それとも、見えない神からの賞賛や評価だけを求めて生きるのか。神を愛し、神に従って生きることと、地上での栄誉を求めることは決して両立しない。

筆者は何も持たずにこの地へやって来たときと同じように、手ぶらかつ気楽に、しかし心から、神に向かって祈る、主イエスよ、私はあなたに従います。何があろうとも、私はあなたに従います。私は、キリストがそうであったように、完全な人となり、あなたに従いたいと心から願っている僕の一人です。私の行くべき道を教えて下さい。私を教え、導いて下さい。私の人生は、あなたの御手の中にあり、私は人生最後の瞬間まで、あなたの僕です。

私たち自身の努力や決意は不完全であっても、神は私たちの信仰に必ず応えて下さる。何しろ、私たちが神を選んだのではなく、主が私たちを選んで下さったのであり、それは私たちが出て行って、実を結び、その実が永遠に残るためなのである。

そこで、地上の有様がますます悲惨に、混乱に満ちて行ったとしても、私たちの心の中には、常に新しい尽きない感謝の歌がある。それは、私たちの永遠になくなることのない希望である、まことの神への尽きない賛美と感謝の歌である。

だから、私たちは確信を持って大胆にこう言う、「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなし得よう」と。イエスはすでに十字架で私たちのために勝利を取られたのであり、生涯の終わりまで、完全に私たちの味方でいて下さるのである。

「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
 イスラエルは言え。  慈しみはとこしえに。
 アロンの家は言え。  慈しみはとこしえに。
 主を畏れる人は言え。 慈しみはとこしえに。

 苦難のはざまから主を呼び求めると

 主は答えてわたしを解き放たれた。
 主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
 人間がわたしに何をなしえよう。
 
 主はわたしの味方、助けとなって
 わたしを憎む者らを支配させてくださる。
 人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
 君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。
 
 国々はこぞってわたしを包囲するが
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
 蜂のようにわたしを包囲するが
 茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。

 激しく攻められて倒れそうになったわたしを
 主は助けてくださった。
 主はわたしの砦、わたしの歌。
 主はわたしの救いとなってくださった。

 御救いを喜び謳う声が主に従う人の天幕に響く。
 主の右の手は御力を示す。
 主の右の手は高く上がり
 主の道の手は御力を示す。

 死ぬことなく、生き長らえて
 主の御業を語り伝えよう。
 主はわたしを厳しく懲らしめられたが
 死に渡すことはなさらなかった。

 正義の城門を開け
 わたしは入って主に感謝しよう。
 これは主の城門
 主に従う人はここを入る。
 わたしはあなたに感謝をささげる
 あなたは、答え、救いを与えてくださった。

 家を建てる者の退けた石が
 隅の親石となった。
 これは主の御業
 わたしたちの目には驚くべきこと。
 
 今日こそ主の御業の日。
 今日を喜び祝い、喜び踊ろう。

 どうか主よ、わたしたちに救いを。
 どうか主よ、わたしたちに栄えを。
 
 祝福あれ、主の御名によって来る人に。
 わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
 祭壇の角のところこまで
 祭りのいけにえを綱でひいて行け。
 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。
 わたしの神よ、あなたをあがめる。

 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編118:5-29) 

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もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか。どんな被造物も、キリストによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために取り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができるましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために、
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-19)

とても気持ちの良い穏やかな日が続いている。書類の作成の真っただ中であるが、冒頭では少し違った話題を提供しておきたい。

筆者がヴァイオリンを再開してから約1年が経とうとしているが、今取り組んでいる曲の中には、バッハの『シャコンヌ』もある。

ブゾーニがこの曲をピアノ用に編曲していることを知ったのは比較的最近だ。両方をやってみると、改めてバッハのこの曲の奥深さ、ブゾーニの編曲の見事さが分かる。ピアノとヴァイオリンの両方の楽器の特性を活かして、それぞれの長所を曲に取り入れることもできる。

むろん、シャコンヌはもとは舞曲の様式であるから、葬儀とは何の関係もない。だが、筆者が昨年、ブゾーニの編曲版を練習し始めたのは、親族が亡くなる直前にあることを知らされたことがきっかけだった。
 
親族を見送るために演奏しようと考えていたのである。しかし、その親族の家にはピアノがなく、筆者は葬儀には立ち会うこともなかったので、幸いなことに、この美しくダイナミックな曲を葬儀で演奏することはせずに済んだ。

それでも、不思議なことに、その人が亡くなったのは、ちょうど筆者がこの曲に取り組み、曲がそれなりに出来上がった時のことであった。「そろそろ、完成したな」とつぶやいたその次の日に、その人は亡くなったという知らせが来たのであった。

バッハは敬虔なキリスト教信者であったが、筆者はこの曲の中に、それほど信仰的な要素を感じない。これはバッハの信仰を否定しているわけではなく、バッハの曲が、非常に人間的に感じられるということを言いたいのである。

信仰の歩みは、ある意味で、とても軽快な部分がある。人間の魂のあの切ないまでのもつれ、悲しみ、叫びといったものは、信仰生活にはそれほど関わって来ない。キリストの復活の命を知ると、特にそうだが、以前には抜け出られなかったそうした魂の重荷ともつれから、かなり解放される部分がある。

キリストにあっての信仰の歩みは、重い足取りではなく、相当に軽快な足取りなのである(筆者の記述からはあまりそれが感じられないと言われそうだが…)。
 
しかし、バッハの曲には、永遠にたどり着こうと願いながらも、自力ではそれができない、生まれながらの人間の限界、魂のもがき、紆余曲折、脆さ、儚さなど、人間のあるがままの弱さと、魂の遍歴、呻きが非常によく表れているように感じられる。

この曲を聴くと、生まれながらの人間の有限性を痛切に感じさせられ、人間とは一体、何なのだろうかという厳粛な思いにさせられる。聖書の中で呈される「人とは何者なのでしょう」という疑問は、神の人間に対する深い愛に基づくものであるため、感謝と喜びに満ちているのだが、バッハの曲から感じられる疑問は、まだ永遠にたどり着く前の人間の切ない叫びのように感じられてならない。

さて、ピアノがない代わりに、親族の家にはヴァイオリンを持って行ったが、その時、筆者の手元にあったのは、安物の楽器商から買った音の良くないヴァイオリンだけで、顎当てもなく、覚えている曲も、子供時代に弾いた一曲くらいであった。

当然ながら、演奏と呼べるような曲は弾けず、親族からのコメントもなかったが、その人と筆者とは全く異なる価値観に生きており、その人はクラシック音楽にも一切、関心がなく、最後まで「音楽など聴く高級な耳は私にはない」などと皮肉を言っていたほどなので、うまく演奏ができていたとしても、やはりコメントはなかっただろうと思う。

筆者がその人をバッハの曲で送ってあげたいと考えたのは、どちらかと言えば、筆者の自己満足であり、その人はバッハの音楽を理解する耳を持っていなかったので、そんなことを全く必要としていなかったのである。

だが、そういういきさつもあって、筆者は、この人と生きているうちに喜びを共有するためだけに会い、この曲を葬儀で演奏しなかったことは、まことに幸いだったと考えている。そして、この曲を弾いているうちに、いかにこの曲が荘厳で、有限なる人間の切ない魂の叫びを感じさせると言っても、それでもやはり、生きることの喜びを感じずにいられないのである。

音楽を演奏するのは、人を死出の旅路に送り出すためではなく、生きていることの喜びを共有するためである。
 
さて、それにしても、初心者が『シャコンヌ』をヴァイオリンで弾くというのは、どう考えても、背伸びのしすぎという考えもあるだろうし、実際、その通りだと言えよう。もし十分に時間があるならば、この曲にたどり着くまでの間に、あまたの曲に取り組み、そのような無謀な挑戦は避けるべきだと思う。

それでも、筆者はもともとこの楽器を思うように弾けるようになるまで、何年越しかのチャレンジだと覚悟を決めていたので、時間がかかることは最初から承知で、焦りもなく、気楽なものであった。

筆者は、ヴァイオリンについては、まずは楽器に友達になってもらうことが大切と考え、決して強引で無理な接近はしないことに決めている。一日に長時間弾くこともせず、難解な箇所を延々と繰り返すようなうんざりする練習の仕方を決してしない。弾けても弾けなくとも、無理をせず、曲が難しく、嫌になりそうになれば、2、3日、「寝かせておく」。

すると、しばらく経って、再び取り上げてみると、思いのほか、前には弾けなかったところが、弾けるようになり、出せなかった音が出て、不思議と上達しているのだ。一体、眠っている間に、なぜ上達があるのか、本当に不思議としか言いようがない。

ヴァイオリンは音作りのためだけに相当な時間がかかる。曲を覚えるのに時間は要らず、運指やポジションを覚えるのも全く大変ではない。とはいえ、重音の連続を美しく聞こえるように弾けるようになるまでには、大変な月日がかかる。低い弦の高音域は、押さえても音にならない。一曲を弾き通すだけでも、最初はエベレスト登頂のようにはるかに遠く感じられた。

それでも、取り組むこと3~4ヶ月くらいの頃だろうか、ある時、動画を見ていると、演奏者がまるで自分に乗り移ったように、力加減、バランスのとり方などについて、ふっと疑問が氷解したのであった。ああ、これで峠を越えたな、あとは時間をかけてゆっくり細部を完成させて行くだけだ…と分かったのである。この曲をある程度、満足するよう弾けるようになるまで、3年も5年もの月日はかからないであろうと分かった。

さて、この記事と話題が異なるが、今準備している書類について、少しだけ書いておこう。損害賠償請求訴訟は、原告の住所地(の管轄裁判所)で提起できる。被告が移送を申し立てても、よほどの理由がない限り、認められないことは、IWJの岩上氏が橋下氏から受けたスラップ訴訟の件でも証明されている。

裁判の管轄を決めるのはあくまで裁判官であって、管轄を争った場合の結果をある程度、予想することは可能でも、事前に断定することは不可能である。特に、岩上氏はジャーナリストで全国各地を飛び回っていることから、移送の申立てが認められなかったと見られる。それでは、被害者のために全国各地を飛び回っている牧師はどうだろう? 少し予想すれば、軽はずみに断定的な発言を記すことは控えようと思うはずである。

また、ブログの記述が名誉毀損に該当しないことを証明するためには、その記述内容が真実であることを裏づけるために被告の論証が必要になるのは言うまでもないが、これは被告にとって大変に骨の折れる作業になるというか、ほとんど不可能であると言って良い。もともと真実でない記述を真実だと論証するなど、誰にとっても無理な相談だ。

また、他人のブログの題名や文章を大量に剽窃して記事やコメントに含めたり、他人のブログに不必要なリンクを大量に貼るような記事を数多く投稿したりすることは、むろん、逆SEOの手法に含まれる。

工作員や親衛隊という言葉も、学生運動の専売特許ではない。コメント投稿者と共同して不正に検索順位を操作した記録があまた残っているのだから、工作員との共同作業と言われるのは仕方がないだろう。

もちろん、裁判手続きを取ったり、警察を利用することは、市民としての正当な権利を行使することであって、「公務員に助けを求める」ことを意味しない。裁判所の書記官はただ事務手続きを行うだけであり、警察は捜査を行うだけで、物事に白黒つけて決着を下すのは彼らではない。これらの人々は市民の救済者ではない。公務員は国民の公僕であるから、行政の職員はサービスを提供し、司法の職員は司法手続きを前に進めるだけである。

筆者がブログで述べているのは、憲法の言う公務員とは、選挙で選ばれた政治家を指すのであって、国家公務員制度や公務員試験の由来は、戦前の明治憲法時代の官吏にあるということだ。つまり、現在の公務員と呼ばれている人々は、旧時代の遺物なのである。

だが、こうした主張も、筆者の専売特許ではないし、何ら筆者が公務員を「罵倒」していることにも当たらない。ましてそれは筆者が市民として裁判を利用したり、警察を利用したりすることを不当であるかのように非難し、押しとどめる根拠とはならない。

こうしたごくわずかな事項を取り上げただけでも、向こうの記述がいかにデタラメで、およそ司法手続きを理解しない人間の言い分であり、勝ち目が薄いかは誰にでもすぐに分かるだろう。反論する価値もないので、これ以上詳しく書く必要もないものと思う。しかも、大半の記事は内容の是非を問う以前に単なる著作権法違反として削除の対象となる。

このような事態だからこそ、ずっと以前から、筆者はラスコーリニコフに学ぶよう伝えているのだ。

筆者は大地にひざまずき、神に感謝を捧げる。だが、それはラスコーリニコフのように罪の赦しを乞うためでなく、罪赦されて、義とされ、復活の命が与えられ、勝利していることを神に感謝するためだ。

クリスチャンは、自分が神に選ばれた者であることを大胆に宣言できなくて一体、どうするのだろうか。万民祭司の今の時代、クリスチャンは一人一人がみな神の預言者であり、祭司なのではないと否定するつもりなのだろうか。一体、そうした揺るぎない聖書的事実を自ら否定してどうするつもりなのだろうか。それは自分がクリスチャンではなく、神に選ばれておらず、神の祭司でも預言者でもなく、「神に疎外されし者」であることを、まさに自分自身の口から告白しているのと同じではないのか? そのようなことは考えるだに恐ろしい告白である。
 
筆者は、冒頭に挙げた御言葉は、まさに筆者のためにあることを信じて疑わない。筆者だけでなく、むろん、すべてのクリスチャンに同じように当てはまる。悪魔はディアボロスすなわち中傷者であり、訴える者である。しかし、キリストにあって、私たちにはすべての訴え、すべての罪定めからの救いと勝利が与えられているのだから、絶大な血潮の価値を確信して、大胆に前進して行くべきなのである。

この土地に、キリストの主権が打ち立てられることを確信して、高い山に登頂した人がするように、筆者は目に見えない勝利の旗を立てる。そして心で言う、主よ、感謝します。あなたの御言葉は正しく、あなたの知恵は十分で、あなたの栄光は揺るぎません。

私たちは永遠に至るまで、キリストの復活の証人であり、自らの証しを公然と高所に掲げるのです。私たちは世の光であって、山の下にある町は、この光から隠れることはできません。

白毫が世界を照らすのではない。私たちの持っているこの小さな光こそ、神の御言葉の真実を証するものとして世を照らすのです、私たちはこの光を隠しません・・・。


<参考までに…>


アルトゥール・ルービンシュテイン


ヤッシャ・ハイフェッツ


ナタン・ミルスタイン


イツァーク・パールマン


アンドレス・セゴビア

見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。

「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。 」(イザヤ65:17)

目覚めると、この御言葉が心に響いた。何の変哲もない朝だが、いつの間にかエクソダスが完了していた。いつの間にか紅海を渡り切り、追っ手はいなくなり、エジプト軍は溺れ死んでいた。あの激しい戦いがすべて過去になり、新しい朝が来たことが分かったのである。

このような確信は、言葉で証明できるものではない。まだ周りには、がれきの山が散乱しており、洪水の爪痕が残り、後片付けが残っている。また雨が降るのではないか? 箱舟から降りて大丈夫なのか?

目に見える保証はない。それにも関わらず、「戦いは完了した」とはっきり心の中で理解できるのである。

前にも書いたように、霊的「エクソダス」の瞬間には、いつも激しい戦いが伴う。その脱出は、命がけの試みであり、壮大なドラマである。私たちは信仰の小舟に乗っているが、外の嵐に、小舟は翻弄される。嵐が本当だと信じるのか、それとも、信仰によって与えられる内なる平安を信じるのか。それは常に私たちの心にかかっている。

どんなに波が高く、風が強く見えようとも、心の奥底にある平安を確固として握りしめ、御言葉に立って、主に従い抜けば、いつの間にか、考えられないような静けさが訪れる。戦いは止み、平安が訪れる。

もし本当に脱出したいと望むならば、絶対に目的をあきらめてはいけない。追っ手がどんなに強力に見えようと、妨害がどんなに激しく感じられようと、決してあきらめてはならない。

神が必ず自由な地へと導いて下さる。長血の女がイエスに出会って癒されたように、長年、主の民を圧迫し、食い破ろうとしていた獰猛な獣は追い払われ、鉄の枷が打ち砕かれたのだ。

筆者は、キリスト教界からのエクソダスはとうに完了したと思っていたが、もしかしたら、未完了の部分が残っていたのかも知れない。何が過去に引き留めていたのかは知らないが、いずれにせよ、改めて自分自身をキリスト教の一切の宗教組織から引きはがし、この呪われた絆をキリストの十字架の死において完全かつ永遠に断ち切ったのであった。

むろん、筆者は生涯の終わりまで聖書に忠実な信仰者である。だが、地上の宗教組織は、もはや筆者とはいかなる関係もない。そういうものとは一切縁を切り、地上の呪われたキリスト教界とは何の関わりもないただの人として生きることに決めたのである。

その決意と共に、この古き絆から派生していたすべてのしがらみが死に絶え、断ち切られたのであった。筆者は、全く新しい方向へ向かって歩き出した・・・。
 
溺れ死んだのは、古き人、古き過去、古き呪われた縁の数々・・・。気付くと、キリストにある新しい人としての新しい朝がやって来たのであった。

ちょうど横浜へ来る直前がそのような状況であった。信者の刷新は、まず霊の内側から始まる。霊から始まる新しい命の息吹が、魂へ、体へと波及し、現実に少しずつ影響を及ぼしていく。この変化は少しずつ行われる。

十年ほども前のことであるが、筆者はその頃、色々な戦いがあって疲れていた。霊の内側は新しくされても、体はまだ過去の残滓の只中にあり、主が色々なことを用意して下さったのに、目まぐるしい展開に着いて行けず、自ら望んだことだったにも関わらず、こんなことで大丈夫だろうかと不安に思っていた。

いつものように朝寝坊をしかけていると、御霊によって起こされた。最後の平日だから、今日は住民票を取らないと手続きが間に合わないから行きなさいと、心に思い起こさせられたのであった。

その頃、自分が新しい土地へ旅立ち、どこで何をすることになるのか、皆目、分からないまま、それでも平安の内に御霊と共に歩んでいた。何もかもが手探りである。不慣れゆえすべてに戸惑いがないわけではない。だが、心の底では平安だ。主が着いておられるという確信があった。体がどんなに疲れていても、御霊が新しい命の中から、筆者自身のものではないエネルギーを心と体に供給してくれる。

その当時と今は全く同じである。神と私との間を隔てるものが何もなくなった。おそらく、筆者と神との間を隔てていたものがあるとすれば、それは地上の呪われた宗教組織、神と人との間に立ちはだかろうとする肉なる指導者、十字架を経ていない生まれながらの人間の古き人の情による絆としがらみだったのであろう。
 
だが、古きものはみな水の下に沈み、滅ぼされた。一つの時代が過ぎ去り、ノアは恐る恐る箱舟から降りて、新しい地へ一歩を踏み出す。まだ誰も降りたことのない、清められた新しい地、復活の領域に・・・。

主は私に顔を上げるよう促し、目の前に見える広大な土地を指して言われる、「目をあげて、目の前にある新たな土地を見なさい。あれがあなたのための土地です。まだ誰も足を踏みいれたことのない新しい土地です。これから始まることに思いを馳せなさい。古き世界のものがあなたを追ってくることはありません。それはあなたに手を触れられません。かつてあったものはみな死んだのです。

あなたはキリストにある新しい人、先のことをもう思い出す必要はありません。それは私の中では無きに等しいものですから、あなたも同じように考えなさい。死んだものに未練を持たず、それを振り返らず、これから進むべき地、獲得しなければならない新たな目的をしっかり見据えなさい。

恐れることはありません。私が着いています。私があなたのすべての戦いに共にいます。私の守りの中にとどまりなさい。呪われたものには二度と触れてはなりません。」

依然としてまどろみの中にあるように、心の中で、これは本当のことなのだろうか、と思いめぐらす。40日間、洪水がやまなかった間の窮屈な生活をよく覚えている。だが、神は、これから起きることに目を向けなさいと促される。

自然と、新しい歌が口をついて出て来る。それはこの世の音楽ではない、歌詞やメロディのない、人知を超えた、新しい霊の歌である。

それは、とどまるところを知らない神への賛美である。主を賛美せよ、万軍の主は戦いに勝利を取られた、心貧しい人、虐げられた人、蔑まれる人、弱い人、圧迫された人、神を呼び求め、神の義を求めるすべての選民よ、喜びなさい、神はあなた方のために、新しい人を用意され、新しい天と地を創造されたのだ・・・。

あなた方の古き人の上に、天から下られた聖なる新しい人である主イエス・キリストを着なさい。あなた方の罪のために十字架で死なれ、よみがえられたキリストを着なさい。

見よ、この新しい人の中にすべてがある。キリストこそ、すべてのすべてであって、彼こそあなたのためのまことの命なのです。
 
だから、キリストがお与えになったすべての良き性質を身に着けなさい。あなたのために天に備えられているすべての宝を、賜物を、義を、知恵を、命の糧を、キリストを通して得なさい、それはあなたのために払われた犠牲なのだから…。

主は勝利を取られた。肉の人としてのノアは、まだすっかり以前と変わってしまった大地に戸惑いを覚えている。しかし、霊の人としてのノアは、喜びに溢れ、主を賛美している。人は神のなさることを魂で理解できないが、霊においては、御霊を通して、神が人知を超えた解放の御業をなしておられることを確かに知っている。

だから、信仰の先人たちは、行く先を知らないで出て行くことができたのであり、何が起きているのかを知らないままで、主を賛美しながら、新しい目的に向かって行ったのである。

私たちは、神を畏れながら、新しい大地に跪き、主を崇め、誉め讃え、感謝する。

私たちの目は新しい契約に注がれている。それは神の目に喜ばれる新しい人であるキリスト、復活の命、新しい天と地、私たちのために用意された永遠の都である。

そこでは、もはや人の教えだとか、儀式だとかといったものはない。人が人に向かって「主を知れ」と教えることはない。神と人との唯一の仲保者であられるキリストが、直接、御霊を通して私たちを教え、導いて下さる。キリストは、信じる者たちにご自身を喜んで啓示される。

「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、
主は言われる。
それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
わたしも彼らを顧みなかった』と、
主は言われる。

『それらの日の後、わたしが
イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、
主は言われる。

『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
 彼らの心にそれを書きつけよう。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 彼らはそれぞれ自分の同胞に、
 それぞれ自分の兄弟に、
 「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。
 小さな者から大きな者に至るまで
 彼らはすべて、わたしを知るようになり、
 わたしは、彼らの不義を赦し、
 もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消え失せます。」(ヘブライ8:7-13)

「年を経て古びたもの」という言葉は、「年を経たあの蛇」を思い出させる。

「わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。」(黙示20:1-3)

復活の命には、経年劣化がない。この命は常に新しい命である。だが、堕落したもの、朽ちゆくもの、呪われたものにはすべて老いと死の跡が刻まれる。

エクレシアとは、死を打ち破ってよみがえられたキリストの命によって生かされ、立たされているすべての者たちである。いかなる外的な証明手段にもよらない、復活の命の刻印を帯びたすべての人々を指す。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:17-18)

キリストにあって、神と和解し、一つとされた人々。キリストに結ばれた聖なる花嫁。この人々は、新しい天と地、新しい都へ向かって進軍し続ける強力な軍隊である。

私たちのためには堅固な都が用意されている。そこには汚れた者は入ることはできない。だが、その都へ入るために、私たちは勇敢に前進して、信仰の戦いを戦い抜いて、御言葉を守り抜き、勝利を得る必要がある。聖書は言う、臆病者、不信仰な者になってはいけないと。勝利を得る者が、神の相続財産を受け継ぎ、神の子どとして栄光を受けるのだと。

だから、エクレシアよ、神の軍隊よ、花嫁たちよ、臆することなく、勇敢に前進して行きなさい! あなた方のために備えられた約束の地を勇敢に勝ち取りなさい!
 
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
 見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
 しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示21:1-8)
 
最後に、「神は決して正しい者がゆるがされるようにはなさらない。神は志の堅固な者を全き平安のうちに守られる。」という記事から、もう一度、以下の御言葉を引用しておこう。


あなたの重荷を主にゆだねよ。

主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

しかし、神よ。あなたは彼らを、
滅びの穴に落とされましょう。
血を流す者と欺く者どもは、
おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。
けれども、私は、あなたに拠り頼みます。
(詩編55:22-23)

私たちには強い町がある。
神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。
城門をあけて、
誠実を守る正しい民をはいらせよ。
志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。

いつまでも主に信頼せよ。
ヤハ、主は、とこしえの岩だから。
主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、
これを下して地に倒し、
これを投げつけて、ちりにされる。
貧しい者の足、弱い者の歩みが、
これを踏みつける。
(イザヤ26:2-6)


神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。死人を葬ることは、死人に任せなさい。

どのようなことでも、自分自身でやってみることに価値がある。最初は抵抗感を覚えるような難しいことでも、少しずつ、取り組んでいるとコツが分かって来る。訴状もいわば作品の一つのようなものだ。
  
ものを書くのは、ひたすら考察と推敲の繰り返しである。当ブログの記事も、かなりの回数、書き直している。一度書いたものは二度と書き直さないという人々もいるが、筆者はとにかくひたすら文章を推敲するタイプだ。まして公に出す文書は、それにかける手間暇はすごいものがある。

その作業をこれまでずっと着実に果たして来たからこそ、自信を持って、どんなことでも自分でできると断言できるのだ。これは主イエスがついておられるがゆえの自信でもある。自分自身により頼まず、神により頼んでいるからこそ、言えることなのだ。

筆者は、当ブログを迫害して来た暗闇の勢力の手口を、何年間もかけて研究した結果、その手口には、ほとんど定型化された複合的なパターンがあることを学んだ。恫喝による口封じ、誹謗中傷による圧迫、個人情報の暴露の脅し、猜疑心を植えつけることによる仲間との分断工作、訴訟で反撃しようとすれば、スラップ訴訟だとわめき、権利を主張することを何とかして諦めさせようとすることなど・・・。

こうしたことは、ブラック企業が労働者に権利をあきらめさせようとする時に使う手口と非常によく似ている。だが、筆者はこうしたやり方にも、毅然と立ち向かう術を学んで来た。それ通して、卑劣な訴えにどう立ち向かうかという具体的な方法論を学んで来たのである。学生時代のディベートで鍛えた能力に加え、悪徳社労士、悪徳弁護士のような人たちにも根気強く向き合い、代価を払って、どのようにして自分の権利を守るかという具体的な方法を学んだ。

今やネトウヨが弁護士に大量に懲戒請求を出したりしている時代であり、人権そのものを敵視し、これを葬り去りたいと願っている勢力が蠢いている。しかし、そのような考えにチャンスを与えてはいけないのだ。弁護士を攻撃することの背景には、人権への敵視が潜んでいる。だが、卑劣な訴えには、弁護士の方も黙ってはいない。何百人ものネトウヨに毅然と反撃を開始しているし、DHCのような巨大企業からスラップ訴訟を起こされた弁護士もこれに立ち向かい、今やDHCを被告席に座らせていると聞く。 

パウロは空を撃つような拳闘はしないと言ったが、筆者も負けるような戦いはしない。だが、努力なしに勝利できる戦いなど何一つない。実践の積み重ねでしか、手応えを掴むことはできないのだ。従って、脅されたからと言って、すごすごと引っ込んで取引に応じて妥協などしていれば、そんな臆病な態度では、初めから何一つ学習できない。まして殉教などを語る資格は全くないと言えよう。
  
さて、今回の訴えの中には数々の不法行為に加えて、著作権侵害も重要なポイントとして含まれるので、記事にまとめるために推敲しようと一旦、非開示にしていたコラム欄も公開しておきたい。

当ブログに長年敵対しているブログだけでなく、匿名掲示板でも多数の剽窃が行われている。掲示板のコメント投稿者らの中には、ネタ探しのためだけに、様々なブログを訪問し、出典も示すことなく、文章を無断で剽窃して行く者たちがいる。

剽窃者らは、ブロガーが最も手間を割いて書いた肝心な記事には見向きもせずに、ただゴシップ探しのためだけに様々なブログを訪問している。そして、わずか1~2秒ほどで、前後もわきまえずに、短い文章をコピペして盗み取り、別な場所へ貼りつけるために去って行く。そういう読み方を、ブログの作者は全く望んでおらず、それがブロガーへの敬意でもない。

法律上、出典を示せば、ある程度の引用は認められているが、本文のほとんどがコピペのような文章は、引用の範疇には含まれない。他者の画像や文章の出典を示さずに引用することは、剽窃に当たり、それだけで違法行為として、後日、責任追及がなされる可能性がある。

そこで、当ブログの文章を許可を取らずに引用することは控えていただくようにされたい。匿名掲示板だから、他人の争いだけを高みの見物できると高をくくっていると、思わぬところから足をすくわれることもありうる。

権利侵害を受けている当事者には、被害を語る権利があり、訴えられている人間にも、合法的な範囲で自己弁明する権利がある。もし合法的な範囲を超えて、反論をすれば、当然ながら、その訴えは認められず、かえって罪として追及されるだろう。

だが、当事者でなく、裁判官でもないのに、どっちつかずの立場から、人を裁き続ける「無数の匿名氏」らの罪も非常に重いと言えよう。もし真に「匿名氏」として非難されるべき存在があるとすれば、それは、当ブログではなく、むしろ、自分は何の苦労も責任も負うことなく、最低限度の自己紹介もなしに、ただ他人の文章を無断でコピペして、評論家然と、知ったかぶりで物事を論じ、部外者にも関わらず、当事者をよそにして、他人の人生を見物材料として高みの見物し、裁判官でもないのに、どっちつかずの立場から、人々を裁き、争いに火に油を投じようとしている人々であろう。

誰からも被害を受けていないにも関わらず、自分が審判者となって他人の争いに首を突っ込み、事態をよりこじらせるような投稿を行い続ける人々は相当に悪質であると言える。

また、人が自分で公開していない個人情報を無断で収集し暴露することも、プライバシーの侵害であり、不法行為に当たる。どんな理由があっても、本人が公開していない個人情報を第三者が無断で暴き、公表することは許されない。

ところが、牧師の中にさえ、当ブログを「匿名氏」と呼んで、実名暴露せよといきり立つ暴徒のような人々に暗黙の賛同票を送り、彼らの怨念を煽り立て、犯罪行為に焚きつけようとする者がいる。それはカルト被害者救済活動の筆頭に立ち、実際にこれらの暴徒たちに筆者の個人情報を提供したと見られる村上密のような牧師だけではない。

たとえば、以下の記事を読んでいただければ分かるように、筆者と面識のない牧師でさえ、そのような考え方に暗黙の賛同表を送っているのである。

死人を葬ることは死人に任せなさい―肉による情愛や、弱者救済を口実に、エクレシアにこの世を公然と持ち込むプロテスタントの偽牧師たち ―

異なる意見を持つ人々がネット上で議論することは大いに奨励されて良い。だが、平和な議論と、他人が公開していない個人情報を暴露したり、暴露を助長するような呼びかけを行うことにより、恫喝や権利侵害によって反対意見を力づくで封じ込めようとする行為は、厳に区別されなければならない。

実名でブログを書くかどうかは、あくまで本人の判断であり、ペンネームでブログを記すことは何らの不法行為にも当たらない。個人情報をどこまで公開するかは、あくまで本人の自主的な判断によるのであって、それは他人がとやかく言える問題ではない。実名を出さないから無責任だとか、逃げているなどといった主張も成立しない。

特に、現代社会ではセキュリティ上の観点から、一人一人が慎重な決断を求められており、世間でも、様々な犯罪事件の被害者が二次被害の発生などを抑えるために、個人情報の公開を自ら制限することは当然視されている。

にも関わらず、キリスト教界の牧師たちには、以上のような認識がまるで欠けているのである。
この教界には、表向きには、弱者を助ける優しい正義の味方のような顔をしつつも、実際には、自分よりも目下と考えている信徒らから、ほんの少しでも自分の論を批判されただけでも、相手を赦すことができない思いになり、生涯をかけてその相手を恨み続け、相手が一般信徒であっても、個人情報を暴露するなどして、何年間かけてでも徹底的に報復せずにいられないという、ヤクザ顔負けのような牧師たちが跋扈している。

自分が信徒に批判されて、少しでも面子を傷つけられたと感じると、一人を寄ってたかって大勢で痛めつけ、個人情報を暴き、徹底的に辱めようとする。むろん、相手が女性であろうと、一般信徒であろうと、一切の容赦もデリカシーもない。さらに、自分の手を汚さないために、一見、自分の教会とは無関係に見える信徒を焚き付け、手先のように利用して、復讐を加える。

しかも、その執念深さたるや、まさに異常のレベルである。些細なことで10年間も誰かを恨み続ける。法律には時効があるのに、彼らはその時効さえ無視し、法も無視して、私刑を加える。たった一件のコメントでさえ、頼まれても削除に応じない。一旦人を憎むと、恥知らずな嘘のプロパガンダを終わりなく流布して、徹底的にその人の人生を滅ぼそうとする…。

世間は、これがキリスト教の宗教組織の醜い現実の有様であることをよく見れば良いだろう。筆者の知り合いには、他宗教の信者も数多くいるが、自らの知人に対して、このような陰惨な復讐劇のような光景が繰り広げられているキリスト教界を見て、これに人々は少しでも近寄りたいと考えるだろうか。このような悪しき、忌むべき牧師たちを抱える宗教組織に自ら関わりたいと、人々は考えるだろうか。

むしろ、筆者に対して彼らが行っている仕打ちを見れば、筆者でなくとも、このような業界からは、誰しも「エクソダス」を唱えるのが当たり前であろう。当ブログで批判されて向きになって言い返している牧師や信徒たち、信徒の個人情報を言いふらす信徒、嘘八百を垂れ流して信徒を傷つける信徒、掲示板で騒ぎを拡大している信徒らを見て、こういう人たちに関わりたいと思う人は、誰もいないだろう。要するに、カルトを批判している人たちが、一番カルト化しているわけで、この光景を見ただけで、この宗教は何かがおかしいと世間は考え、近寄りたくないと思い、逃げ去って行くのは当然であろう。

こんなものが真実なキリスト教徒の姿と言えるはずもない。一般人以上に異常である。このような人々の出現は、キリスト教の名折れでしかないと、筆者ははっきり言っておきたい。そして、このような人々が、他の宗教団体を敵視して、正義漢ぶって争いをしかけるなど、百年早いと断言する。

だが、こういうことが起きたのも、牧師制度が既得権益となり、政治家と同じように世襲制となり、利権そのものと化していればこその事態である。牧師制度などというものが導入されたこと自体がとてつもない誤りであり、牧師制度が徹底的に腐敗すると同時に、キリスト教界全体が腐敗し、完全にセルフで塗り固められた搾取と虚栄の世界と化したのである。

筆者は生涯の終わりまでキリスト教徒であり、聖書への信仰は失わないつもりだが、こんなにも醜い宗教組織は、聖書とは何の関係もない、堕落した世界でしかなく、関わりたいとも思わない。世間はよくよくこうした事件を通して、この宗教の何たるかを学ぶことだろう。筆者は幼い頃からキリスト教界を知っており、通りすがりの人間としてコメントしているわけではないことも重く見られると良い。

牧師たちは自教団・自教会内での地位さえ守れれば良く、そのためならば、どんな手段を使ってでも、信徒の口を封じれば良いと考えているのかも知れないが、そのようにプライドと自己保身がすべてとなった姿が、客観的に見て、あまりにも幼稚で醜く忌まわしいものと映り、キリスト教の評判をさんざんなものにしていることに、自分で気づいていないのである。

安倍政権と同じだ。内実のない者が職務的に高い地位に就き、自分よりも賢明な者たちに横暴な権力を振るっている。だが、偉そうに君臨していられるのは国内だけで、世界からは呆れられている。要するに、自分を客観的に見る能力が欠けているのである。

かつて筆者の前で、プロテスタントの牧師の未熟さ、幼稚さ、傲慢さについて思いの丈をぶちまけ、非難の言葉を残して、カトリックへ去ると述べた信者がいた。筆者は、プロテスタントに絶望してカトリックに去ることが正しい選択だとは思っておらず、キリスト教を改革して母性原理を補うべきと唱えるペンテコステ運動をも支持しないし、禅や、ニューエイジ思想を取り込むことにも賛成できず、統一教会やその他の異端を支持するわけでもない。

筆者はカルト団体を支持しないが、他のカルトの犯した罪がどうあれ、今日、これほどまでに徹底して腐敗堕落したキリスト教界は、そもそも他宗教を非難できる筋合いにはないと思う。まずは牧師制度という階級制度を撤廃すればよろしい。牧師制度こそ、諸悪の根源であり、どの異端よりもさらに悪質で、完全に間違った制度であると、声を大に言わざるを得ない。
 
カルト被害者救済活動の暴徒のような信徒を生んだのも、牧師制度であり、キリスト教界を声高に非難し、憎しみの言葉を発し続けているKFCを生んだのも、牧師制度である。この制度こそ、まさに信徒同士を戦わせるすべての悪の根源になっていることが、なぜ多くの人々には分からないのだろうか。

牧師制度には聖書的な根拠がない。使徒パウロは信徒らから献金を受けとることができる立場にあったにも関わらず、何が何でもその権利を使うまいと考えて、身を粉にして働いた。初代教会には、信徒からの献金で生計を立てたような宗教指導者は、誰一人として存在しなかった。

今日の牧師たちは、羊を食い物にする強盗であり、霊的な中間搾取者階級でしかない。彼らには自分たちの利権だけが大切なのであり、信徒は野望を実現する手段でしかない。だからこそ、彼らは思い通りにならない信徒に徹底的に復讐を果たし、信徒を闇に葬ろうとするのであり、このような醜い精神は、悪魔から来るものであって、どこをどうやっても聖書に基づいて生まれて来るものではない。

だからこそ、当ブログでは、彼らはグノーシス主義者だと、再三、言っているのである。筆者がこの論稿を書いているのは、今日のキリスト教界が、全く聖書に基づかない別な教えによって陥落されていることをはっきりさせるためである。

誰が本当のキリスト教徒であるのかは、神ご自身が証明される。悪党を支援した牧師は恥を見ることになる。

さて、当ブログについて虚偽の非難を繰り広げている人々に公に反駁することは、訴訟が始まってからで良いと思っているので、ここに書いていることは、あくまで予告であって、公の反論は後日、きちんと手順を踏んで行うつもりであるが、それに先立って、いくつかかいつまんでトピックを挙げておこう。
 
労働紛争を闘うためには、会社の登記簿謄本を取り寄せるのは必須条件なので、会社と闘ったことのある人が、会社情報の調べ方を知らないことはあり得ない。だが、料金を払ってまで、会社の登記簿謄本を取り寄せたいと願う人がいるかどうかは別問題だ。仮に登記簿謄本を取り寄せなかったとしても、それだけで「会社情報の調べ方も知らない」と決めつけることはできず、そういう決めつけを発表すれば、誹謗中傷となるだろう。

さらに、「…という説もある」とあえて疑問の余地を残している記述を基に、「ガセネタを流布した」と言い切ることはできず、そのような主張こそ、かえって「ガセネタ」とみなされる恐れがある。むろん、掲示板からの情報だと記されていないものについて、勝手に掲示板の情報だと決めつけ、それを基に非難を繰り広げることも、誹謗中傷である。

さらに、「キリストの香り」「キリストを着る」といった言葉は、クリスチャンとしては最低限度、知っておかねばならない聖書表現である。この表現を知らないのであれば、せめてネット検索だけでもしていれば、すぐに分かったはずである。むろん、どちらも筆者の「お得意の造語」などではない。むしろ、「一人修道院」といった訳の分からない言葉の方が、間違いなく造語に該当するだろう。

「殉教」を「言論テロ」と決めつけたい者たちがいるようだが、もはやこうした稚拙な論には呆れて反論する気にもならない。テロを主張するためには、まずは具体的な犠牲が出てなくてはならないが、殉教の精神を説くことによって出る犠牲とは何を意味するのだろうか?

日本でも、長崎を含め、殉教したクリスチャンは、すべての信者らから尊敬を受ける存在である。殉教者を尊敬する気風は、世界のすべてのキリスト教に共通する。にも関わらず、今日、殉教の精神を説くことだけで、これを「カルト」とみなしたり、「言論テロ」と決めつける者がいるとすれば、その人は果たして本当のクリスチャンなのかという疑問が生じるのは当然である。

むしろ、彼らが自分たちの論を批判する言動をすべて「言論テロ」や「犯罪」と決めつけていることこそ、最も激しい言論テロではないのか。

筆者が、当ブログに対して長年、行われている嫌がらせ行為を刑事告訴の対象としたことを嘘だとわめきちらしている人々がいる。

だが、実際には、刑事告訴が成立しているのは事実であり、ちょうど警察が追加された中傷記事についても、長い報告書を書いているところである。筆者は、ゴールデンウィーク明けに、当ブログに対して加えられたさらなる誹謗中傷の記事を警察に提出し、これからも、改めて追加資料を提出する予定である。

警察が作成している報告書は、量刑に関わって来るものであり、むろん、筆者もさらに調書を提出する。このような話が、全て筆者による作り話だと、読者は本当に思うのだろうか? 

しかも、刑事告訴された事件について、警察は捜査義務を負う。捜査しなければ、職務放棄に当たるわけで、事件が解決してもいないうちに、警察が告訴人を「見離す」という事態は起き得ない。

警察は一般に警告を文書で出さない。もしそういうことをするとしたら、裁判所の仮処分等であろう。また、民事調停委員は中立的立場で話し合いに臨んでいるため、申立書の内容について個人的な意見を言う立場になく、まして職務として臨んでいる調停の申立内容を「分からない」と発言すること自体があり得ない。

むろん、筆者が提出した申立書の趣旨は、具体的な損害賠償請求であるため、「神学的議論」には当たらない。もしも神学的議論で埋め尽くされた申立書が出されるようなことがあれば、裁判所がそれを受け付けない。裁判所は、訴訟であれ、調停であれ、申立書に不備があれば、訂正を求め、訂正が完了するまで、決して審理を進めない。
 
申立人が、自ら費用を払って調停を申し立てたこと自体が、話し合いによる解決を目指す姿勢を意味する。そこで、相手方が、申立人の訴えを「棄却する」という答弁書を出したにも関わらず、「自分は話し合いを強硬に拒否された」と主張しても、それが認められることはまずない。

期日当日、開始時刻間際に出した答弁書の内容は、その日の議題に取り上げてもらえず、従って、その日中に回答が出ないのは当然である。それを「回答できないからしないのだ」と決めつけるのは無理筋の話である。調停では、申立人と相手方は対面しないため、必要な説明はすべて調停委員から行われる。もし説明不足があるならば、それは委員に言わなくてはならない。

第二回目の期日が決められれば、「今後の見通し」が立ったことになるので、「今後の見通しが立たず」という主張は成立しない。民事調停への出廷は任意なので、調停に呼び出されたことで損害を受けたという主張は成り立たない。
 
さらに、筆者はネット上を含め、どこにも「随想」を発表した事実がなく猫を飼っていたこともない。KFCに夜行バスを使って訪ねたのも、人生に一度きりの出来事であり、夜行バスを使って月に何度もKFCに通った事実などない。むろん、会ったことのない人間に「ラブレターのようなメール」を送った事実もなく、当ブログのグノーシス主義研究は、大田俊寛氏以外にも、荒井献氏、ハンス=ヨナス氏など、グノーシス主義研究で著名な研究者の論を度々引用しており、一人だけの研究に依拠して書かれていないことは明白である。当ブログのグノーシス主義批判が研究者の「受け売り」であると主張できるだけの具体的な論拠は何もない。

また、「Sさんへの手紙」の中には、どこにも「実名」は出されていない。この手紙が書かれたのは、2010年10月であり、当ブログに対する1千件のコメントを伴うバッシング記事がネットに掲載されたのは、2009年11月である。従って、この手紙が紛争のきっかけになったという主張は時系列的に成立しない。むろん、この手紙が和解のために書かれたものであることは、一読すればすぐに分かる。当ブログがカルト被害者の裁判を狂言呼ばわりした事実もない…。

この他にも、終わりなく事実は列挙できるのだが、わずかにたったこれだけの事実を挙げただけでも、当ブログに向けられている非難が、いかに嘘八百のデタラメであるかは、誰にでも十分に分かるだろう。そうした主張には、いかなる具体的な証拠も示されていない。真実性を証明するためには根拠がなくてはならないが、そこにあるのは嘘、ごまかし、すり替え、トリックだけなのである。

これでクリスチャンを名乗ろうというのだから、まさに呆れるような詐欺としか言いようがない。さらに、筆者から見て、最も気になる点は、どうにも彼らには「御霊に導かれるクリスチャン」という言葉に、拒否反応を起こさずにいられない傾向が見受けられる点だ。

筆者は当ブログにおいて、自分が聖霊に導かれるクリスチャンだと決して誇示したり、それを自己顕示の材料としたりはしていない。さらに、筆者は「自分たちだけが正しい信仰を持っている」と一度も述べたことがない。そもそも当ブログは、筆者個人の信仰告白を述べたものでしかなく、団体による告白ではないのだ。

さらに、既存の教会組織からのエクソダスを唱えたのも、当ブログが初めてでは全くない。内村鑑三、古くはハドソン・テイラー、ジョージ・ミュラー、それから、オースチンスパークスや、ウォッチマン・ニーなども、みな同じことを主張して、既存の教団教派から離れて行った人々である。それにも関わらず、筆者が「エクソダス」を主張していることが、まるで筆者特異の極めて新奇な概念であるかのように考えている人々があるとすれば、その人々は、キリスト教史を知らなさすぎると言えよう。
 
それはさておき、いずれにしても、「御霊に導かれるクリスチャン」に対する拒否反応こそ、彼らが、一体、なぜ当ブログに対して、これほど執拗に絡み続けて来たのか、その答えを解く最も核心となるだろうと思う。この問題を突いて行けば、隠れていた最後の動機が明らかになるという気がしてならない。

どうして彼らはこれまで聖霊派をあれほどまでに敵視し、徹底的に叩き続けて来たのか? そのような行動を取る動機として何が具体的に隠されているのか? ただ単に過去にペンテコステ派の異様な集会を見てつまずいたといったような表面的な動機ではないだろう。そこには「聖霊」そのものに対する憎しみが隠れているのだと筆者には感じられてならない。まさにステパノに向かって歯ぎしりした群衆や、イエスをベルゼブルと呼んだ人々のように・・・。 

小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださるのだから。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

さて、当方が申し立てた民事調停の第二回目の期日が開かれなかったことを、まるで当方が一方的に調停期日を「キャンセル」したかのように、自分に都合よく言いふらしている連中がいるようなので、一言断っておきたい。

普段から、裁判、裁判と叫んでいる割には、彼らは裁判手続きの詳しいことをよほど知らないらしい。当方は、申立を取り下げたわけでは全くなく、そもそも民事調停のキャンセルと不成立は全く違うものなのだ。

今回は、訴訟へ切り替えるために、裁判所に調停不成立としてもらえるよう要請を行った。後日、必要文書が裁判所から送られて来るので、それをつけて訴状を出すだけである。

民事調停は不成立になれば、これを前提として訴訟に移行することができる。その方がゼロベースから訴訟を起こすよりはるかに有利なのだ。しかも、今度は、原告の住所地の裁判所へ訴状を出すことになる。わざわざ遠方へ足を運ぶ必要がない。実に便利である。

訴えは複数、提起することになろう。しかし、この辺のことは戦略なのでブログで詳細を公にはしない。だが、本訴となれば、判決も含めて、申立の内容も、答弁書も公表されるため、誰が嘘を言っているのかは、当然ながら、万人に知れ渡ることになる。訴えに反論するためには十分な証拠が必要であり、根拠のある反論ができなければ、原告の言い分が認められるだけである。

カルト被害者救済を唱えている陣営は、案外、裁判手続きに疎いようで、この当たりのことを何も知らずに、ただ調停が開かれなかっただけで、争いは終わった、自分たちは勝った、通常通りの生活に戻ったと、恥ずかしげもなく嘘のプロパガンダを流布しているようだ。相変わらず、刑事事件も終結していないうちから、あまりにも軽率な連中である。
  
だが、考え違いをしないでもらいたいのだが、彼らのついた嘘は必ず、責任追及されることになる。当ブログは信仰告白がメインなので、裁判手続きについて細かいことは、これからも事前には決して書かない。場合によっては、事後も書かないことがあるかも知れない。今、言えるのは、こちら側では必要なアクションを着々と取って行くだけであり、脅されたからと言って退却することは決してないということである。

向き合う価値のない連中、あまりにも愚かな論争とは思うが、バアルの450人の預言者を相手取ったエリヤと同じように、勇敢に、決して途中で諦めたり、手を引くことはせず、決着をつけるまで戦い抜く所存である。

これまでも、幾度も見て来た光景なのだが、理屈の勝負となった時に、人数や力だけをよりどころとして来た連中は、絶対に勝てない。仮に向こうが当方を「口達者なだけで臆病な兎」と考えて馬鹿にし、見下げているとしても、口で筋の通った理屈を唱えられなければ、負けるのが裁判というものなのだ。そこでは、人数も図体も腕力も何の頼りにもならない。

それが証拠に、鳴尾教会との裁判で、アッセンブリー教団・村上サイドはボロ負けしている。そうなるまで、鳴尾教会の信徒の人数の減少を、村上は鬼の首でも取ったように吹聴して、さんざん上から目線で馬鹿にしていたが、その村上が負けたのだ。次には、「穴にこもった兎」と揶揄してさんざん馬鹿にしていた人間に負けることになる。事前に馬鹿にすればするほど、敗訴した時にはさらに面目丸つぶれとなろう。
 
このように、ジャイアン対のび太、ジャイアン対スネ夫の勝負であっても、ジャイアンが必ず負けるのが裁判というものなのだ。ジャイアン相手であれば、誰でも訴状を出しさえすれば、自動的に勝てると言っても過言ではない。別に口達者でなくてもよいのである。ジャイアンには腕力以外の取り柄がないので、誰にとっても恐れるに足りない。しかも、申立書は8割方出来ている。

もっと言えば、私たちはロゴスなるキリストに立脚して、信仰によって、すべてのことを行っている。私たちには、決して揺るがされることのない永遠の岩なるお方がおられる。だが、向こうには何も立脚するよりどころがない。あえて言うなら虚無の深淵、混沌から生まれて来たような、信仰のない連中である。このような闇が光に打勝つことは決してあり得ない。よろめいても、つかまる支えになるものさえ彼らにはなく、風に吹き去られるもみ殻である。

このような状況で、とある連中が、決着も着いていない争いについて、嘘のプロパガンダをさんざん流布していることは、こちらにとっては、実に好材料である。間違いなく、彼らが垂れ流す嘘は、賠償金や罪の重さに関わって来ることになるからだ。大いに油断させて、言いたい放題言わせて、周到に材料を集めながら、様子を見るのも一つの戦略で、愚か者は口が軽く、思い込みが強く、自惚れ切って、慢心しているため、自らの愚かさによって墓穴を掘るに任せよう。

ちなみに、参考までに書いておくと・・・

(被告の)名誉毀損行為が違法でないと認められるには以下の3つの条件が必要になります。
• 【公共の利害に関すること】
• 【書き込んだ目的が公共の利益を図るもの】
• 【その内容が真実である又は真実と信じる相当の理由がある】
これらを1つでも満たしていないことを裁判所に主張し、認められれば(原告の)請求が認められる可能性はあります。

これを読めば、我々にとっての戦いのハードルがどんなに低いかすぐに分かるのではないだろうか。筆者に関する誹謗中諸の書き込みは、この条件を全部満たしていない。筆者は公共性のある人間ではない。当ブログは公刊論文でもなく、宗教団体の発信したメッセージでもなく、公共の利益とは関係のない、私人の信仰告白に過ぎない。さらに、最後の真実であることの立証責任を彼らは絶対に果たせないであろう。本人でない者がこれを立証するのはもともと至難の業だからだ。

たとえば、実際に刑事告訴された人物について、事実に基づき、「誰それが刑事告訴された」とブログに書くのは、事実なので、基本的に違法行為とはみなされない。しかし、「誰それのブログ内容が犯罪的である」とか「誰それは精神疾患である」などと書き、それが名誉毀損の違法行為に当たらないと主張するためには、「誰それのブログに具体的な犯罪性があること」および「誰それが精神疾患に陥っていること」を、書いた本人や情報を掲載した者が、具体的根拠と共に立証せねばならないのである。

そこで、相手をよく知りもしないのに、根拠なく人を貶める印象批評ばかりしていれば、その記述のすべてについて、立証責任を問われることになり、それが立証できないために、誹謗中傷になって終わる。記事の削除くらいで済めば良いが、賠償請求の対象となる危険が極めて高いのだ。

だからこそ、当ブログでは結論を述べるに当たっては、必ず根拠となるソースを明白にするようにしている。画像の転載でも、安全と認められなければ、出典を記載しないことはない。こういう細かい作業は、論文の書き方の基本である。しかし、彼らの主張には根拠となるソースがいつもない。そこで、多分、彼らは反論のために論拠を探し出すだけでも、大変な苦労となるだろう。次々とネガキャンを書けば書くほど、立証責任がますます重く彼らにのしかかって来るというわけだ。

それから、もう少しだけついでに予告すると、訴えの内容如何によっては、賠償金は必ずしも判決が出てから支払いになるとは限らない。さらに、調停で一回請求がなされていると、延滞利息がつけられることもある。むろん、追加の請求が発生することは言うまでもなく…あとは、残念ながら、訴状が届いてからのお・楽・し・みだ。

そういうわけで、今、思い出されるのは、以前、筆者がこちらへ引っ越して来たばかりの頃に、筆者のバイクがいたずらで盗まれ、犯人が全員検挙された時のことだ。筆者は警察に被害届を出した際、犯人が見つかることには大した期待を寄せておらず、バイクも見つからないかも知れないと半分あきらめていた。しかし、すぐに近所で乗り捨てられていたバイクが発見され、それほどの故障もなく、十分に使用可能であったので、日常生活にはまるで支障をきたさなかった。後ほど弁護士から示談の電話がかかって来て、その時に、筆者のバイクを盗んだのは、8人くらいの少年グループで、あちこちで似た様な事件を引き起こしていたため、別の家で防犯カメラにばっちりと犯行の映像が映っていたことから、全員、面子が割れて捕まったと聞かされた。悔やまれるのは、その時、一人一人にきちんと賠償請求していれば、即座に新しいバイクが買えていたに違いないということだけである。

そこで、以前にも書いたように、村上密、杉本徳久を含め、カルト被害者救済活動の支持者らに誹謗中傷された人々は、集団訴訟に移行することを強くお勧めする。筆者はカルト団体は基本的に支持しないが、信教の自由を守る戦いにおいては、心は一つである。しかも、以上の連中は「不正に時効はない」という考え方のようなので、大昔の事件でも思う存分に追及されたら良いと思う。根拠のない脅しメール一通であっても、賠償請求に上乗せすればよろしい。迷惑を受けた宗教団体の方々は、アッセンブリー教団に公式に苦情と罷免の請求を送りつけられたらどうだろうか。当ブログでも、訴訟が開始すれば、署名なども募るかも知れない。

当ブログは、裁判沙汰やネガキャンにのめりこむことなく、この先も、あくまで基本路線の穏やかで平和な信仰告白と異端反駁を続けて行きたいと考えているが、おそらく、この事件の決着をつけることと、安倍政権の崩壊は深い所では一つにつながっているのではないかと感じられてならない。ネトウヨが跋扈して弁護士に勝ち目のない懲戒請求を送りつけるような、薄汚れた曲がった時代は早く終わらねばならない。きっと大勢の人々がそう感じているはずだ。

しかし、神の国の前進は、我々がぽかんと空を仰いでいてやって来るものではなく、一人一人のクリスチャンの毅然としたアクションにかかっている。そこで、我々は勇敢に真実を持って誠意ある行動を取るべきなのである。

「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)

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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

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