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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

十字架の死と復活の原則―カルバリに住む―権勢によらず、能力によらず、ただ神の霊によって生きる―

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃え盛る火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。

もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(Ⅰペテロ4:12-14)

* * *

キリスト者は荒野の中で泉を探して地中を深く掘り続けているうちに、ついに願っているものに達した。神が信じる者のために用意して下さった尽きることのない命の水脈を発見したのである。

そこで、次なる課題は、灌漑設備を作り、命の水を荒れ果てた大地に広く流れさせ、土地を潤し、再生させるための装置を建設することにある。

生ける水の川々が流れだす秘訣は、十字架の死と復活にこそある。

キリスト者が自己を否んで十字架を負う時、そこに復活の法則が働く。信者は束の間、低められても、それがまるで嘘だったかのように、高く引き上げられ、重い栄光に満ちた瞬間を見る。

日々、主にあって、ほんの少しの軽い患難を負い、自分が低められることや、誤解されたり、栄光を奪われることに同意し、常に何者かでありたいと願って、人前に栄誉を受けようとする自己の願望を退け、十字架の死を負うならば、信者が自分自身で「何者かになろう」と努力する代わりに、主が信じる者を高く引き上げて、願っておられるところに到達させて下さる。人間の願いではなく、神が願っておられることが何であるかを見せて、実現して下さる。その時、多くの場合、信者一人だけでなく、信者を通して、多くの人々が潤されることになる。

この復活の命の現われこそ、御座から流れる生ける水の川々である。

* * *

ウォッチマン・ニーは、クリスチャンが生ける水を流し出す秘訣を「血の高速道路」と呼んだ。

血の高速道路とは、何ともすさまじい表現ではないだろうか。十字架が、文字通り、剣のように、クリスチャンの自己を貫き通し、刺し通すという意味である。つまり、主にあって真に祝福を得たいと願い、主と共に栄光を見たいと思うなら、その信者は、主と共に十字架を負い、自分が低められることに同意しなければならない。キリスト者の自己が裂かれた分だけ、生ける命の水の川々が、そのキリスト者自身から流れ出すのである。

その血がにじむほどの、いや、血が噴き出るほどの苦しみが、高速道路と表現されているのである。おそらく、それは他者がそのキリスト者の栄光を奪い、彼を踏みつけて、その上を走って行くことにも同意せよ、という意味であろう。

これはある意味、キリスト者が主にあって負うべき苦しみの極致を示していると言える。最終的には殉教を指している。

しかしながら、クリスチャンは殉教といった巨大なスケールに達するよりも前に、これをもっとごく小さなスケールで繰り返して生きており、日々、信者が神の国の義のために、神への愛のために、他者への愛のために、人知れず自分を裂き、注ぎだした分だけ、そこに命の法則が働くというのは確かな法則なのである。

ところで、殉教といった言葉を聞くと、必ず、反発する人たちが現れる。そういう考えはカルト思考だというのである。しかしながら、聖書の神は、願ってもいない人たちに、殉教を強制されるようなことは絶対にない。だから、クリスチャンが神のために死を強いられているなどといった考えは全く正しいものではない。たとえば、かつての日本がそうであったように、皇国史観に基づいて天皇のために国民に強制された死と、クリスチャンの殉教を並べて論じるのは正しいことではない。
 
キリスト者が日々、主と共に負っている十字架は、あくまで霊的な文脈であり、信仰によって、信者が自主的に同意して成るものである。そして、キリストを信じる者にとって、十字架の死は、決して死で終わることなく、復活という、実に栄光に満ちた事実と分かちがたく一つである。人間に過ぎない君主のために命を捧げても、何の見返りもないであろうし、それは人情の観点からは讃えられても、何も生み出すことのない無駄な犠牲でしかない。

だが、キリストはまだ我々が罪人であり、背く者であった時に、我々のために十字架でご自分の命を与えて下さったのであり、我々はそのまことの、永遠の命にあずかり、その命をこの地上に流し出し、主と共に天で永遠の栄光を受けるためにこそ、カルバリの十字架に自分を重ね、日々、主と共に自分が死んだことを認め、彼の死に自分を同形化するのである。
 
クリスチャンは、こうして日々、主と共に死を負うことにより、苦しみが苦しみで終わらず、患難が患難で終わらず、死が死で終わらず、御名のゆえに負った苦難には、どんな小さなものであれ、必ず、絶大な命の法則が働くことを実際の体験を通して知っている。

筆者もまた十字架の死と復活の法則が確かなものであることを、日々、自分の意志によって試しており、そこに相応の成果を見ているので、このやり方に間違いはないと確信している。

信仰の初歩においては、信者は殉教などといったテーマを考えることなく、日々の小さな十字架から始めるのが良いだろう。そうしているうちに、最終的にもっと大きなスケールの試練にも耐えうる力が養われる。

だが、信仰者にとって、一体、何が主の御名のゆえに負う「十字架」であるのか、一体、何が後々、天の栄光に満ちた益をもたらす土台となりうる苦難なのかは、人間的な観点からは、はっきりとは分からず、見分けがたいとしか言いようがない。

たとえば、人の目から見て、空振りや、無駄でしかないと見える様々な事柄、もっとうまくやりさえすれば、時間を短縮して、浪費を少なく出来たはずなのにと後悔するような出来事であっても、あるいは、みっともない恥だ、失敗だ、と思われるような出来事さえも、信仰の観点からは、損失でないばかりか、後々、えもいわれぬ大きな収穫を生み出す土台となることもあり得るのだ。おそらく、神の観点から見て、信者が御名によって耐えた全ての試練に、無駄というものはないのではないかと思われてならない。

たとえば、筆者は、ある年末年始の休日に、歯痛に襲われ(実際には一時的なストレスから来るもので病気ではなかったのだが)診療所を探して行ってみた。すると、祝日にも関わらず、待合室は大混雑して、長蛇の列ができており、待ち時間が一時間以上に渡り、パイプ椅子が並べられていたにも関わらず、数が足りず、子連れの親も数多く来て騒がしかった上に、診療それ自体も、決して良い雰囲気ではなく、結局、大した治療もできず、しかも病気でもないことが判明し、筆者は疲労だけを手に完全な無駄足だったと思いながら帰途に着いたという出来事があった。

ところが、その後まもなく、実に不思議ないきさつで、その診療所のすぐ近くに拠点を構えるある企業に仕事上でお世話になる機会を得たのであった。筆者が無駄足だったと思いながら、疲れて帰途に着いている時には、そのような縁が生まれることを予測せず、地上で誰一人、そのようなことが起きると知る者もなく、筆者自身も、その会社組織の存在さえ知らなかったが、今となっては、歯科医を探してその場所へ赴いたこと自体が、まるで未来へ向けての下見のようであった。神はそのような全くの無駄に見える出来事の中にさえ、しっかり働いておられ、不思議な形で、この出来事を新たな有効な出会いへと結びつけて下さり、筆者と共に生きて働いて下さっていたのである。この話には後日談もあるのだが、それはまたの機会にしよう。

さて、筆者は、キリストの復活の命に生きるために、何年も前にこの土地へやって来たのだが、長い間、悪魔の巧妙な策略のために、生ける水の川々を流れさせる法則をうまく掴めないでいた。

それは、かつて筆者の周りにいたクリスチャンたちの間では、主のために信者がすすんで負うべき苦しみについて、ほとんど語られなかったせいでもある。あるいは、語られることはあっても、実践されなかったのである。

その当時、筆者を取り巻いていた交わりでは、信仰者が主のために苦しむこと、いわれなき苦難を負うこと、主のために損失や、恥や、無駄を負うことについては、何か時代遅れの気まずい話題のように避けられ、信者が神を信じたことによって得られる祝福や恵みばかりが強調されていた。

信者たちは、仲間内で、自分が神に愛されている者として、他の人々には与えられない優れた祝福にあずかり、どれほど幸福に生きているかというイメージを演出することを、一種のお約束事のようにしていた。そうすることで、彼らは自分たちが他の信者たちの及ばない霊的高みに達している証拠のように誇示していたのである。

だが、筆者はこれにいたく疑問を感じていた。筆者はもともと世故に長けて器用に立ち回ることによって、己が力で人生の成功者となりうるような才覚の持ち主ではなく(もしそんな才覚が生まれつきあれば、自己過信して、神を求めることもなく、キリストに出会うこともなく、信仰を持つこともなかったであろうから、そのような手練手管を持たなかったのは、極めて幸いなことであり、また、それが神の筆者への特別なはからいであり、愛に満ちた恵みであることを疑わないが)、さらに、確固たる信仰を持つよりも前から、筆者はそのような地上的な成功を目指して生きることに、何の意味をも感じていなかったので、人生の成功だけを全ての価値のようにみなすこの世の不信者の社会においてならばともかく、信仰者の社会においてまで、自分が「上手に器用に立ち回って失敗を避け、そつなく生きている成功者」であり、「霊的勝ち組」であるかのようなイメージを演出して自己の成功を誇る空気には、全く同意できなかった。

そのため、仲間内で器用に立ち回って賞賛を浴び、他人の名誉が傷つけられても一向に平気であるにも関わらず、自分の名誉が傷つけられることだけには敏感で、それが起きないように先手を打ち、あるいは自分に歯向かう者には策謀を巡らして徹底的に報復し、自分だけは人と違って高みにいて幸福だと豪語して、他者の苦しみを高慢に見下す周りのクリスチャンたち(?)(おそらく彼らはクリスチャンとは呼べまいが)のあからさまな自慢話を聞かされる度に、筆者は首をかしげ、悩まされ、苦しめられていた。

幾度か、彼らのあまりの自画自賛のひどさに耐えきれず、それとなく間違いを指摘してみたこともあったが、しかしながら、いかなる説得によっても、彼らの強烈な思い込みを変えることは無理であった。

ついに最後には、筆者と彼らとの生き様や信仰的な立場の違いは、否定しようにも否定し得ないほどの大きな溝となり、彼らから見れば、筆者の存在自体が、彼らのままごと遊びのようなお楽しみの括弧つきの「信仰生活」に水を差すもの、彼らの虚飾の栄誉をいたく傷つけるものでしかないと感じられたのだろう。彼らは、すでに上流階級の特権的社交界クラブと化していた彼らの偽りのソサエティから、筆者を似つかわしくないメンバーとして除外したのであった。(ただ除外しただけでなく、相当な報復をも加えたのである。)

筆者は、彼らの進んでいる方向が、根本的に聖書に相違する間違ったものであることを随分前からよく分かっていたので、そのような結末に至ることを予想済みであったが、何とかその結末を食い止めて、彼らを真実な道に立ち戻らせることができないかと当時は思っていたので、その願いにも関わらず、目の前にいる生きた人間から排斥され、残念と思われる結果に至ったことに、何の痛みも感じなかったわけではない。

だが、その体験は、主にあって、筆者の人生でまことに幸いな実を結び、大きな恵みを受けることへとつながった。それからほどなくして、筆者は自分が神に出会って後、心から正しいと確信していた通りの、聖書に基づく、純粋で素朴な信仰生活に何の妨げもなく平穏に立ち戻ることができただけでなく、まがいものの交わりの代わりに、もっと親しく愛情に満ちた豊かな交わりに加えられ、人生の別な方面においても、収穫を得たのである。

その後も、色々なところで、類似した出来事が繰り返された。誤解や、非難や、対立や、排斥といった出来事は、往々にして起きて来るものであり、クリスチャンと呼ばれる人々の中では、特に、激しい戦いが常に起こるものであるが(なぜなら、真に聖書の御言葉を実践して、神に忠実に従う信者は、クリスチャンを名乗る者の中にも、極めて稀だからである)、今、思うことは、信者がそういった何かしらの尋常でない苦しみや痛みを伴う事件に遭遇し、人の誤解や、非難や、嘲笑、排斥に遭遇し、慣れ親しんだコミュニティを離れることがあったとしても、そのような出来事のせいで、傷ついたり、落胆する必要は全くないということである。

むしろ、信者が地上において、主に忠実に従うがゆえに、人からの拒絶を受ける時には、常にほどなくして、それに相応する天の栄光が待ち構えていると言って良いから、それを待ち望むくらいでちょうど良いのである。信者が主に従う過程で負った苦しみには、どんなものであれ、必ず、天での報いが伴う。

だから、信者は、人間に過ぎない者たちの言い分や、人の思惑に振り回される必要がなく、また、自分の地上生活における苦しみだけに注目して、落胆したりする必要もなく、それとセットになって天に備えられている絶大な栄光に思いを馳せ、神が地上の軽い患難と引き換えにどのような大きな喜びをもたらされるのか、それだけを心に留めて進んで行くべきなのである。

繰り返すが、信者が地上でいわれなき苦難を黙って身に背負うとき、神はその信者の態度をよく見て下さり、信者のどんな些細な苦しみに対しても、予想だにしない大きな祝福を備えて待っていて下さる。

むしろ、そのようにして、自分が地上で低められ、恥を負うことによって、十字架の死を負う態度がなければ、信者はキリストの死に同形化されることができず、キリストの死に同形化されていない者が、キリストの復活に同形化されることは決してない。

つまり、信者が主と共に十字架を負うことに同意しない限り、その者に神の復活の命の現われが見出されることもないのである。主の死を共に負わない信者が、キリストと一つであると豪語するのは、嘘であり、悪魔の罠でしかない。主の死に同形化されずに、主の復活にあずかろうとする者は、神に従うどころか、逆に悪魔と同じ高慢さに落ちて行くことになる。これは大変恐ろしい罠である。

聖書ははっきりと告げている、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)。これは世人のみならず、まさにクリスチャンを名乗る人々にも同様に当てはまる事柄である。

いのちに至るための小さな門、狭い道とは、主と共なる十字架の死のことである。主と共に、人前に蔑みや、排斥や、そしりを負い、自分で自分を高く掲げないことである。もし神の御前で高くされたいなら、その人は、まず低くされることに同意しなければならない。神と人との前に真に賞賛に値する者とされたいならば、まず、人前に低められ、誤解されたり、そしられたり、嘲られたり、のけ者にされたり、拒まれ、栄光を奪われ、無とされることに同意しなければならない。その経緯を辿って初めて、天の栄光にあずかることができるのである。

筆者がしばらくの間、生ける命の水の川々を流し出す秘訣を十分に知らずにいたのは、この絶えざる十字架の死こそ、復活の命の現われであると、まだはっきりと気づいていなかったためである。信者の信仰生活につきものである苦難を驚き怪しむどころかこれを積極的にキリストの苦しみにあずかる機会として用い、御名のゆえに、自己を余すところなく十字架の死に渡すことが、どれほど絶大な喜びへとつながるか、まだ具体的に十分には知ってはいなかったためである。
  
クリスチャンになってまで、主のための苦しみを避け、自分が人生の成功者であり、失敗や痛み苦しみとは一切無縁であるというイメージを醸し出しては、それを神の恵みと称して、人前に誇っているような人々は、ただ自分の生まれ持った肉の力を誇っているだけである。だが、人が生まれ持った人間的な手練手管によっては、誰も、神が信じる者のために備えて下さっている天の栄光にあずかることはできない。

旧約聖書に登場するヤコブは、自分の手練手管により、兄であるエサウを出し抜いて、長子の権を奪うことには成功したが、その後、彼より上手だったラバンからしたたかに利用され、つらい様々な紆余曲折を経なければならなかった。ヨセフは、父のお気に入りの息子として、他の兄弟たちにまさって親の愛を受け、自分が将来、兄たちの上に立つ支配者になることを幼い頃から予感していたが、その栄光に満ちた召しへたどり着くためには、兄弟たちに裏切られて、奴隷として売られ、家からも親の愛からも遠く引き離されねばならず、さらには使用人として仕えていた家でも、主人の妻の偽りの証言がもとになって、いわれなく投獄されたり、相当につらい体験を味わわなければならなかった。モーセも、エジプトの王子として育てられ、言葉にもわざにも力があったが、イスラエルの民をくびきから解放するという光栄な召しを果たすために、神によって指導者として立たされるまで、長い間の失意の逃亡生活を耐えなければならなかった。

待望の息子が生まれるまでに肉の力が尽きるまで待たされたアブラハムとサラは言うに及ばず、このようにして、天の栄光が信者に現れるためには、必ず、信者が地上で低められるという過程がなければならない。それによって、信者が生まれ持った肉の力が尽き、どんなに生まれつき才覚のある人間でも、もはや自分自身の力で自分を高く上げることができなくなったときに、信仰によって、神の力がその人に臨み、人間の努力や才覚によらず、ただ神の霊により、神の御言葉により、その信者を通して、神のご計画が成就し、信じる者がキリストと共に高く上げられるということが起きるのである。

筆者は、20世紀に地上の人間として生まれ、人間としての常識を持っているために、さまざまな問題が持ち上がる時、人間的な観点から、常識に従って、その解決方法を考えないわけではない。時には、専門家と呼ばれる人々に助けを求めたことがなかったわけではない。ヨセフがポテパルの妻の讒言が災いして投獄されていた時、一刻も早く釈放されたい願いから、他の囚人に助けを求めたように、人間の助言や力に頼ろうとしたこともないわけではない。だが、そういう方法では、決まって問題が解決せず、かえってこじれることの方が多いということを、筆者は思い知らされて来た。

つまり、神が信者のために供えられた苦難に対しては、神が定められた方法でしか、解決が与えられないのである。そして、その解決とは、人間の力によらず、ただ神の御言葉から来る。

人間は、自分の体に不調があれば、医者にかかれば治ると思うかも知れない。それがこの世の常識である。だが、結局、医者ができることなど限られており、人間の体を健康に戻す最大の力とは、その人の生命それ自体に備わった自然の治癒力にこそある。そして、しばしば医者の助言は、患者にとって極めて有害なものともなりうる。たとえ大手術をしても、手術が患者を救うのではなく、その手術から回復する力がなければ、むしろ、手術自体が命取りになりかねない。そして、本当に必要な手術でない手術も、病院では「治療」と称して極めて多く行われている。
 
人間が生まれ持ったアダムの命の治癒力には限界があるが、この治癒力を他のどんなものよりも効果的かつ完全に発揮できるのは、キリストの復活の命である。そこで、キリストの復活の命を持っているということは、その信者が、あらゆる問題を、主と共に、自らの力で解決することができる立場に立っていることを意味する。

同様のことは、病気だけでなく、人間が遭遇するあらゆる問題に共通する。何かしらのこじれた問題が起きれば、人は弁護士のもとを尋ねたり、裁判所に赴いたり、警察に赴いたりすれば、解決が早まると信じるかも知れない。だが、その問題を解決する力は、そのような識者や専門家にはなく、その人自身の霊的な状態と思考力、その人自身の判断力、交渉力、決断力にこそある。

だから、筆者は、今となっては、様々な問題が発生する時に、その解決を、この世のどんな「専門家」に委ねようとも思わない。そのような人々に接近して、自分の問題解決を委ねた信者たちがいることは知っているが、彼らの末路は決して明るいものではなかったとはっきり言える。

幾度も述べて来たように、医者に頼る者は、不安を煽られて、切除しなくても良い臓器まで切り取られて健康を失い、裁判に頼る者、警察に頼る者は、信仰の道から逸れて、人間のプライドを立てるためだけの終わりなき闘争に引きずり込まれて行った。

神は筆者に対して、そのような方法を決してお許しにならなかった。そこには何か目に見えない線引きがあって、他の人たちにはできることが、筆者には許されず、神ご自身がはっきりとそれ以上、その道を進んで行ってはならないと、ストップをかけられるのである。つまり、人間的な力を用いて、自分の名誉や権利を力づくで取り返そうとすることを、神は決して筆者にはお許しにならない。これは極めて厳粛な線引きである。そして、このような神の知恵と守りがなければ、信仰の道から脱落した他の信者たちと同様、筆者も誤った道に容易に足を取られていたであろう。

神は筆者に対してこのように語られる、「ある人々は、自分の名誉が傷つけられれば、徹底的に相手に報復することで、自分が潔白であると主張しようとするでしょう。そのためならば、他人に濡れ衣を着せて告発したり、有罪に追い込み、悪口を触れ回ることをも辞さないでしょう。しかし、あなたはそのような人たちが、自己を守るために引き起こしている絶え間ない争いを見て、それを美しいと思うでしょうか。そこに栄光を見るでしょうか。むしろ、その反対ではないでしょうか。

クリスチャンとは、人を罪に定めるために召された存在ではなく、神の和解と赦しを勧めるために召されたのです。人を告発し、罪に定める仕事よりも、人に罪の赦しを宣べ伝え、解放を告げる召しの方が、どれほど栄光に満ちた、名誉ある、感謝される仕事であると思いますか。どちらがあなたに栄光をもたらす仕事だと思いますか。あの不正な管理人のたとえ(ルカ16:1~13)を思い出しなさい。

だからこそ、信者には、この召しの実行のために、人前に甘んじて不義を受けるという態度が必要なのです。私があなたの義である限り、あなたの潔白はゆるぎません。誰もあなたを再び罪に定めることのできる存在はありません。しかし、私はあえて私の愛と栄光を、信じる者たちを通して地上に現したいのですよ。そのために、あなた方に、反抗する罪人たちに、終日手を差し伸べる者となって、私の耐えた苦しみを、あなた方にも共に背負ってもらいたいのです。私が神であるにも関わらず、その栄光を捨てて地上に弱い人間として生き、その中でも最大の恥辱を負って十字架にかけられることを辞さなかったように、その愛にあなた方もならって、地上で自分を低くすることで得られる天の栄誉の大きさをを共に知ってもらいたいのです。それによってしか、私の栄光をあなた方が共に得ることはできないのです。」

だから、信者は、どんな瞬間にも、自分は主と共にすでに死んでいることを思い、日々、人生に起きて来る、ごく些細な苦しみに同意して、神の御前に自分を低めることによって、ただ神だけがなしうる不思議な方法で、その些細な苦しみと引き換えに、それとは比べものにならないほどの、絶大な天の栄光が与えられるのを確認するのである。

信者にとって真のリアリティは、苦しみではなく、それと引き換えにもたらされる天の栄光である。地上的な試練は、ほんの束の間に過ぎ去るものでしかない。たとえば、車の運転をするときに、障害物だけを見つめて運転していたのでは危険であろう。また、障害物が現れたからと言って、それを迂回せず、無理やりどけてから進むという者はいないだろう。そんなやり方では1mも前進はできない。

同じように、信者の信仰生活には、様々な「試練」や「苦難」や「障害物」が現れて来るが、信者はそれを見つめず、あくまで進むべき進路だけを見つめ、道の先に待っているもの、目指している目的地だけをまっすぐに見つめるのである。それが天の都、信者が主と共にあずかるはかりしれない永遠の重い栄光である。

多くの信者たちは、障害物がリアリティだと思い込んでしまうので、そこでつまずいて前に進めなくなってしまう。自分が傷つけられ、栄誉を奪われれば、取り返さねばならないと思い、目の前に何か大きな障害が立ちはだかって、前進が妨げられているように見えるときには、その問題を解決しない限り、前に進めないと思い、主と共に解決を落ち着いて考えようともせずに、苦しみから早く逃れようと、不安を煽られて、専門家のもとを闇雲に走り回り、無用な忠告を受けて道に迷わされ、さらに問題をこじらせてしまう。人間的な力で物事を正そうとするがゆえに、御言葉を退け、十字架につまずいて、前に進めなくなってしまう。そして、もっと悪いことには、それをきっかけに、信仰から逸れて行ってしまう者も多い。

覚えておかなければならないのは、信者の人生に、主と共に信者が自分で乗り越えられないような障害物は、地上に何一つ存在しないということである。障害物を絶やすことは、信者の力ではできず、それらをすべて力づくで除去することもできない。必要なのは、障害物は進路ではなく、注意を払うべき対象でもなく、さらには現実でもないことを認識して、真にリアリティである方から目をそらさずに、まっすぐに前だけを見て進む方法を見つけることである。間違っても、障害物を除去するまでは前進できないなどと誤解してはならない。

信者が障害物を乗り越える方法は、その時々によって様々である。人間的な手練手管によって、上手に迂回することはほとんどの場合は無理である。むしろ、人間的な力や策謀によらない、実に不思議な方法によって、神はそれを乗り越える方法を信者に示して下さる。それが、御言葉が信者の人生において実際になるということである。障害物は、最初は巨大な壁のように見えても、信仰によって進んで行くうちに、いつの間にか、それは全くリアリティではないこと、すでにキリストによって打ち破られて、効力を失っており、注目に値しないことが分かる。信者に障害物だけを見させて、前進を忘れさせるのが、悪魔の目的なのである。
 
地上にどんなに障害物が多く現れても、キリスト者にとって、道がなくなることはない。道とはキリストである。この方だけが真のリアリティである。だから、信者はこの方だけを見つめ、他のものから目をそらすのである。すべてのすべてであられる方が自分と共におられ、すべての解決であられる方が、自分の内に住んで下さっていることを確信し、地上で何が起ころうと、それに心を留めず、自分の目の前に置かれた喜びだけをまっすぐに見つめて、天の栄光だけを信じてまっすぐに進むのである。

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(マルコ5:34)と、主イエスが言われたように、信者が信仰によって目を注ぎ、心に思い、それがリアリティだと思って見つめるものが、現実になるのである。あなたにとっての現実とは何だろうか。病が現実なのであろうか。障害が現実なのであろうか。苦難が現実なのであろうか。はたまた、不幸な過去や、嘆かわしい生い立ちや、過去の失敗や、恥や、不完全な自分自身や、人の身勝手な思惑や、いわれなき讒言や、迫害や、傷つけられた自己の名誉やプライドが現実なのであろうか。

仮にそういうものがどれほど数多くあったとしても、神はあなたにとってそういうものを解決できないほどまでに弱々しい存在なのであろうか。あなたは一体、何を現実として選び取るのか。人の弱さや不完全さの中にこそ、神の強さと完全が生きて働くという幸いな事実を見ることができるだろうか。信者が地上において御名のゆえに負うすべての苦しみは、信者を通して、神の栄光が現されるためのほんの些細なきっかけでしかないという幸いな事実を見ることができるであろうか。
 
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。


「あなたのために、私たちは一日中、

死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。」

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威あるものも、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)
   
    

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十字架の死のと復活の原則――信者のからだの命でもあるキリスト――ただキリストの復活の命によってすべての必要を満たされて生きる

ですから、私はあなたがたに、食事をとることを勧めます。これであなたがたは助かることになるのです。あなたがたの頭から髪一筋も失われることはありません。」(使徒27:34)

「しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。
それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。
どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。
しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。
あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます
」(ルカ21:12-18)


かつて巨大なエクソダスが起き、筆者が初めてキリストの十字架の死と復活に同形化されることの意味を知った時の出来事を思い返している。というのは、それとほぼよく似た体験をつい最近もしたばかりだからである。

一つ前の記事において、神から信者への御言葉による光の照らしを筆者はレントゲン写真にたとえたが、これは少しばかり不適切なたとえかも知れないと思う。なぜなら、神による照らしは、レントゲンのように有害な放射線によらず、また、我々が自分を吟味していただくお方も、あくまで神であって、目に見える誰か人間に向かって客観的に自分の状態を確認してもらうことが目的ではないからである。

以前、筆者は、獣医の誤診によってさんざん無益な狂奔をさせられた事件について書いたことがあるが、医者という存在は、どこかしら牧師にもよく似ていて、もしも自分の体のことを自分で管理できない不安を抱く患者が安易に助けを求めるならば、医師たちは、そのような患者をあたかも問題から助けてやるかのように見せかけながら、さらにその問題を悪化させ、よりひどい依存状態へとがんじがらめにして行くということが、全くないわけではない。

だから、キリスト者が頼るべきは、人間の医師ではなく、まことの医師たるキリストであって、キリスト者を生かす命は、人間による外科治療や薬による外的影響力ではなく、内側から働くキリストのまことの命なのである。キリスト者が受けるべき検査は、人体に有害な人工的な光の外側からの照射による検査ではなく、神の無害な御言葉の光の内側からの照射による検査である。
 
前回の記事で、筆者は『キリスト者の標準』を引用しながら、ウォッチマン・ニーが憔悴状態にあった時の体験に触れたが、彼には何かしらの持病があったらしく、それが悪化した際に、一度は重篤な状態に陥り、兄弟姉妹からも命を危ぶまれ、診察した医師からも、余命いくばくもないと宣告されたことがあるそうである。その体験を、筆者は別な著書で読んだ。だが、ニーはその時、息も絶え絶えの病の床で、医師から受けた死の宣告を、信仰によって拒否し、そして、実際に彼は奇跡的な回復を遂げるのだが、それからしばらく経って、たまたま読んだ新聞の死亡欄に、自分を診察した医師の名前を見つけ、神は生きておられると痛感した、というくだりがあったと記憶している。

筆者もそれにかなりの部分で同意する。筆者は、信者が医学的な治療や、薬や、検査を一切拒否すべきとまで言うつもりはないが、極力、そのようなものは受けないに越したことはないと考える。そういったものに頼って自分の健康を維持しようとすることは常に失敗に終わる。

たとえば、誰しも分かるように、薬などによって症状が抑えられるのは、ほんの一時的な間でしかない。たとえどんなに小さな傷であっても、患者の体自身に受けたダメージから根本的に治癒する力がなければ、患者が薬を飲み辞めた時点で、また症状が再発するだけなのだ。そのように外側からの影響力に頼って、人間が自分の状態をごまかそうとすることは、回復というよりも、目くらましに近い。薬のせいで、傷があるという事実が忘れられ、さらに、傷が治らないか、あるいは治る見込みが薄ければ、今度は、外科治療によって体の部位ごと切除しましょうという話になる。医師たちから見れば、それこそ「治療」である。だが、もし患者がそれに同意すれば、患者は最初に受けたダメージよりも、はるかに大きなものを永久に失わなければならなくなる。体に必要な部位を切除すれば、体に必要な器官がなくなるわけだから、その悪影響は、何年後かにまた必ず現れて来る。一つの症状は治まっても、今度は体の部位がなくなったことから来る弊害のための「治療」が必要になるのである。

だから、信者は、このような無限ループのようなごまかしに近い療法で満足するのではなく、根本的な原因は何かというところに目を向けて、目くらましの治療ではごまかせないもっと深いレベルまでで、人間ではなく、神によって根本的な治療をしていただかなければならない。人間は常に外からの影響力に頼って問題の本質をごまかし、なおかつ、人間の肉眼で見える証拠しか採用しないので、しばしば判断を間違うが、神はキリストを通して、人間を内側から生かすことのできるまことの命をお与えになっているのであって、その診断は決して間違うことなく、その命は、患者をいかなる外的影響力にも依存させずに自ら立ち直らせる力のあるものである。
 
キリスト者には、地上で様々な圧迫や苦しみが起きて来ること自体は避けられない。どんなにすべての思い煩いを神に委ねているとしても、色々な出来事に対処を求められる過程で、また特にサタンによって引き起こされる様々な問題に立ち向かう上で、極度の憔悴や、疲労困憊に追い込まれることは実際にないとは言えない。だが、信者がそのような圧迫によって起きた状態を、「取り返しのつかない現実」であると考えて、死や、損失を、避けがたいものとして受け入れるか、もしくはそれに信仰に立って徹底的に抵抗して、信仰によってその損失を拒否し、命を選び取るかどうかは、あくまで本人の選択による。

キリスト者はその生だけでなく、死によっても、神を証すべき存在であり、殉教と、サタンの攻撃や不摂生の結果として起きただけの病死や、もしくは老衰などによる死は、決して同列に論じるべき事柄ではない。アブラハムや、モーセがそうであったように、信者は老いてもますます神の命によって支えられ、輝かされるくらいでなければ普通とは言えない。病についても同じことが言える。信者の歩む道は自然の法則によるものではないのである。

だから、もし抵抗できるなら、信者は最後の瞬間まで、病や、圧迫や、死を拒んで、いのちを選び取るべきなのである。それはただ自分が苦しみたくないとか、死にたくないといった自己中心な利益を求めてなされる抵抗ではなく、もしキリストの御名のためならば、いつでも死を辞さない覚悟はあるが、それでも、キリストの死を打ち破った命が、人間をすべての圧迫から救い出すことができ、神は人に死ではなく命を与えるためにこそ人を創造されたのだと、天地の前で生きて証明するために堅く信仰に立って抵抗し続けるのである。

キリストのまことの命が信者を生かすようになると、信者の内側に未だかつてない新たな確信が生まれると共に、信者の滅びゆく肉体の幕屋にも新たなエネルギーが注がれる。

キリストの十字架の死と復活に信者があずかることは、信者の生涯で決して一度では終わらない体験であり、この原則は、信者の人生に極めてダイナミックな出来事の形を通して適用されることもあれば、そうでないもっと些細な出来事によって適用されることもある。

だが、表面的な見え方がどのように違えど、地上におけるごくごく軽い患難を通して、永遠の重い栄光にあずかることは、信者の生涯に渡る絶え間ない体験である。 文字通り、自分が地上で受けるすべての悩み苦しみについて、信者はこの原則を適用することができるのである。

ごくごく最近も似たような体験をしたばかりなので、改めて書いておくと、筆者が、2009年当時に初めてキリストの復活の新しい命が自分を生かしていることを知った時に、真っ先に感じたことは、このまことの命は、たとえ地球が七回核爆弾で滅んでも、それでも滅びないほどまでにとてつもない力を持つ命だ、ということであった。 つまり、この物質世界で起きるどんな脅威をも打ち破るほどの、何かしらのとてつもないエネルギーをもたらす新たな強力な命が、自分自身の力には全くよらずに、自分の内側に存在することを感じたのである。

次に、理解できたのは、こうして信仰によって新しく与えられた御子の復活の命が、筆者自身の脆く弱く朽ちゆくはかない有限な肉体の幕屋にも、絶えずエネルギーを送り込む主電源となっている、ということであった。

当時を思い返すと、十字架の死が霊的に適用されるまでの間に起きた様々な圧迫のせいで、筆者はかなり憔悴していた。その当時はまだ、十字架の死と復活が信者に適用される直前には、多々そのような予期せぬ圧迫が起こることを知らなかったので、多くの出来事が不意打ちのように感じられ、そのために翻弄され、悲しんだり、悩んだりしたせいで、心身が極度に憔悴していたのである。

ところが、主の死に霊的に同形化され、よみがえりにも同形化されると、キリストの復活の命が、はっきりと自分自身の中で働きを始めたのが分かり、そして、その瞬間を境に、それまで死に向かって処刑台を行進させられる囚人のように憔悴の一途を辿っていた心身が解放され、肉体は強められて健康に回復され、疲弊していた魂は新たなエネルギーを得て生き生きとし、生きた人間として自分がまるごと刷新され、活性化されたのが分かるのである。

サタンの圧迫によって苦しめられたり意気消沈していた魂はたちまち健康を取り戻し、体には食欲の増進が起き、あらゆる食べ物が極めて美味に感じられ、体がそれまでの霊的死のために通らねばならなかった疲労状態から回復するために、急速にエネルギーを回復している様子が分かった。だが、それは決して病的な傾向ではなく、真に健康であるがゆえに、食事を楽しむことができるという幸福なのである。そして、採った食べ物が、どんなストレスにも妨げられることなく、体を生かすための栄養源になるという幸福な状態なのである。

幾度も書いている通り、信者の人生には、しばしば、十字架の死と復活の原則が適用されるために、思いもかけない激しい戦いのような出来事が起きることがある。十字架の死を迎える瞬間までは、信者はまさに死のクライマックスに向かって自分が行進をさせられているかのように感じ、まるでこの世全体が自分にスクラムを組んで敵対しているのではないかとさえ感じるであろう。

しかし、それが、何ら予期せぬ出来事でもなく、思いもかけない不審な事柄でもなく、ただキリストと共なる霊的死にあずかるために、信者が避けて通れない軽い患難、小さな杯であることが分かれば、信者は、そういう事柄に心を煩わせる必要が全くないことを理解するであろう。それは、自分の信仰が試されているだけであり、その苦しみの先には、はかり知れない栄光が待ち受けていることを、まだその苦しみが終わらないうちから、大胆に確信でき、天の褒賞にあずかる喜びを楽しみにさえすることができるようになる。そして、実際に信者が御子の復活に同形化されると、かつての苦しみによって受けたすべての損失が嘘のようにそれを補って余りあるほどの回復、祝福にとって代わる幸いを見ることができる。
 
苦しみによってダメージを受けた心や体が回復されるだけでなく、さらに、失われたこの世の富も、回復されるであろう。信者に与えられた新しい神の命は、すべてを統治・支配する命であるから、信者のために必要な全てを(肉体のエネルギー源のみならず、生活の必要の全て、また信者の心の願いを)自然な形で供給することができると分かるはずである。

キリストは地上におられた時、何も財産を所有しておらず、職業を持っておらず、生計を立てるための具体的手段を持っておられなかった。それにも関わらず、神の国の宣教は、信仰によってのみ支えられたのである。こうして、今日、キリストだけでなく、信者自身も、持って生まれた権勢、自己の力で築き上げた権勢によらず、生まれつきの才覚や、後天的に獲得した優れた能力によらず、職業的な専門技術によらず、親族や知人のコネに頼らず、神への信仰を生きて働かせることだけによって、すべての必要を神に供給していただくのである。
 
キリストはご自分も肉体を持っておられ、人としての弱さを知っておられたにも関わらず、決してご自身の必要のためだけに人々に関わられたり、懇願されることはなく、むしろ、常に人々に豊かに与える側に回っておられた。そのキリストが信者の内側に住んで下さることは、キリストが地上におられた時にすべての必要をただ信仰を通して神によって供給していただいたのと同じ法則性が、信者の内に生きて働くことを意味する。

だから、 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じて、バプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:15)という命令を実行する力と条件を信者に与えるのは、神の側の仕事なのである。信者はただ信仰を働かせ、すべての必要をイエスの御名によって父なる神にかなえていただくのであり、それを実際に可能にするのが、信者の内に住んでおられるキリストの支配する命である。

また、その命は霊であり、その中に神と信者との交わりの中心がある。そこで、信者はキリストの復活の命を知ると、それまでのように、神との交わりを求めて自分の外をさまよい、神を知るためにあれやこれやの指導者を訪ね歩く不安に満ちた生活から、ただ自分自身のうちに住んでおられるキリストへと平安のうちに関心を転換することができる。
 
どんな時にも、信者は自分は心の内側で、聖なる御座へ進み出て、誰をも介さず、神に直接、全てを願い求め、祈り、交わることができる。自分の霊の内側に祭壇があって、そこで、いつでもキリストを通して、どんな問題についても、父なる神に直接、祈り、相談し、求めることが可能になるのである。神はもはやどことも知れない遠くにおられて、自分をいつでも見捨るかも知れないような不確かなお方ではなく、たとえ目で見られず、耳で聞こえず、肌で感知できずとも、生涯の終わりまで、共にいて下さり、信じる者を力強く守って下さり、すべての必要を満たして下さる方であり、信者は、祈る時にはいつでも天に直結してその願いが聞き届けられていることを知る。

だが、このような命が信者に与えられているのは、ただ信者一人だけの満足のためではない。信者は自分自身がキリストの復活の証人として世に出て行く使命を負っているのであり、そのためにこそ、主と共に死からよみがえらされて証人として立たされているのである。

キリスト者が伝道するのは、多くの信者たちが誤解しているように、教会組織の人数や権勢を拡大するために、神を求めていない人の関心をあの手この手で引こうとすることとは断じて関係がない。キリスト者が人々に奉仕する意味も、自己変革によって神に到達するための精進などでは決してない。すでに、全ての全てであられる方を内に得ているのに、何のために自己変革などするのか。信者がもし自己変革などを目指すとすれば、それはただ地上において、軽い患難を耐え忍ぶことを通して、重い天の栄光があることをより深く知り、より深くキリストの十字架の死と復活に同形化されて、内に住んでおられるキリストと深く交わり、この方への愛を深め、御子に似せられて行くことのためだけである。だが、それは信者が何かしら偉大な人格者へと変えられることにより、世から賞賛を受けることとは何の関係もない事柄である。
 
キリスト者が世に出て行くのは、世に自分の欠乏をかなえてもらうためではなく、世の欠乏をかなえるためでもなく、むしろ、惜しみなく与えることを願うキリストの命を注ぎだすことにより、神の召しに応え、神の愛を全うするためなのである。

こうして、信者が自分自身を注ぎだすのは、まず第一に神のためであり、信者がまだ反抗的な罪人であった時に、信者のためにすべてを捨てて下さった方の愛に応えるために、自分自身も彼にならって、この方にすべてを捧げるのである。だが、それが成就した時に、実に不思議な形で、信者自身の地上的な必要も満たされ、また、多くの場合、信者をとりまく人々の必要も満たされるのを信者は知るであろう。その順序は決して逆にはならない。

もし信者が神のために一切のものを留保せずに惜しみなく捧げ切ることができれば、この地上で信者が神を証して生きるために必要なその他の一切は、すべて自然に与えられる。まるでそうしたものは、全く取るに足りない付属物に過ぎないもののように、軽やかに、ごく自然に、悩みなく与えられ、成就するのである。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)


<追記>

今日、この記事を急いで書き上げて、用事を果たすために出かけたのだが、実はその用事には乗り気ではなかった。果たさなくても良いものなら、果たしたくないと考えており、もし神が十全にすべてに備えを下さっていることを信じるならば、奔走しなくて良いという感じがしていた。

それにも関わらず、出かけると、案の定、その用事は空振りに終わり、ついでに帰り道でさんざん道に迷わされた。そこで、改めて、神の御前に、決して「ながら」ではなく、きっちりと姿勢を正し、時間に制限をつけずに、自分のすべてを「注ぎだす」決意と態度の重要性を思い知らされ、不信仰を補うために、今、もう一度、この記事に追記している次第である。

これは、筆者の泣き言と思われるかも知れないが、一つの記事を真面目に書くには、ゆうに5時間以上はかかる。どんなに短く、すいすい書けるときにも、何度も見直すので、3時間以上はかかる。時には2日、3日寝かせてから、もう一度推敲する。一つのテーマが心に生まれてから、それが記事の形になるまでには、数週間以上が経過することもあり、書きたくて仕方がないのに記事にならないテーマもある。

あまりにも記事が長く、書くのが手間なので、「ひとこと欄」をもうけた時もあったが、そこに書いた文章の半分以上は、記事の水準に達していないということで、ボツになった。やはり記事を書くためには、どうしても一定の水準が必要なのである。しかも、それは論理構成力や文章力ではなく、霊的な意味における「高度」であり、つまり、信仰の水準が必要なのである。

だから、このブログの記事に何の意味があるのかと問う人があるかも知れないが、それでも一定のふるいわけは存在するのである。全力を出そうと思えば、更新頻度はそれだけ遅くなる。その上、当然のことであるが、報酬などない。この記事の対価として筆者が地上で受けとれるのは、長文ゆえの悪評や、望ましくない誤解や偏見だけである。むろん、好評の意見やコメントをもあったのだが、今はそういうものも受けつけていないせいで、もはや読者からの励ましを糧に記事を書いてもいない。

一体、なぜそこまでして書き続けているのかと言えば、天に備えられた栄光があると確信しているからであり、また、つまらない誤解や偏見に圧迫されて、信仰告白を放棄しているような曖昧な生き方はしたくないと思うためであり、また、何よりも、筆者自身が記事に向かうことで、自らの信仰の姿勢を正されるからである。

他のどんなことよりも、自分自身の霊的姿勢を正すこと、神ご自身から教わることを益として書いていると言っても良いかも知れない。つまり、ぼんやりした意識のままでは決して分からなかったであろうことを整理させられ、自分が第一に求めているのは何なのかを常に思い起こさせられ、ここで意見表明したことを、机上の空論に終わらせず、実人生で実際にしなければいけないという責任が生じ、なおかつ、筆者自身が神の光に照らされ、教えられることが無数にあるためである。

しかしながら、仮に筆者がどんな学びや教訓を得たとしても、人間が栄光を受けることなく、神が栄光を受けられることこそ、本ブログの最終目的である。だから、神への愛や信頼を表明すること、神がどれほど信じる者にとって憐れみに満ちた確かな助け手であるかを表明し続けることは、信者が生きている限りの義務であると考えている。

だから、記事のために費やした時間を浪費であるとは、筆者は考えたことがない。さらに、本日、空振りに終わった用事と道に迷ってロスした時間が合計3時間くらいであったことを思うと、その時間を最初から真剣勝負で記事に当てていれば、もっと有意義な時間が送れただろうと思う次第である。

全くもって、人間は目に見えるパンだけで生きているわけではない。神から受ける御言葉のパンこそ、信じる者を生かす本当の命である。神から受ける照らしを重んじ、主の山に備えがあることを信じ、地上の事柄のために奔走しなければ、すべての必要性は天によって備えられる。書いているだけで、行わない人になってはいけない。そうすれば、何事も「空振りに終わる」ことなどない。だが、もちろん、時折、それでも起きてしまう空振りの中にも、神の愛や憐れみは存分に見いだせるのだが…。

ところで、実は、この記事を書いた当初は、記載するかどうかを決めていなかったため、あえて本文に含めなかったのだが、筆者が先の記事でレントゲン撮影について触れたのは、筆者自身が、最近、レントゲン写真の撮影を求められるという出来事が起きたせいでもある。実際に筆者が撮ったのは二枚のレントゲン写真のみなのだが、ここしばらく色々な出来事に奔走させられ、消耗していたので、その間に起きていたごくごく些細な症状が、思いがけず別の症状を引き起こし、そのせいで町医者から大病院を紹介され、あわやもっと大がかりな検査が必要かという直前まで及んだのである。

その検査は快適な大病院に予約済みで、町医者は親切に患者を送り出してくれたが、ちょうどその検査の一、二週間ほど前に、筆者は自分自身に改めて、「十字架の死と復活の原則」が適用されたのが分かった。そうすると、それを機に、体調がみるみる回復して行くのである。それまでには、医者に任せるしかないように思われていた症状が、検査直前までに急速に劇的に緩和し、症状も痛みもほぼ消え、自分の体があまりにも急速に回復しているのが分かったため、筆者は検査を見合わせたのであった。

大病院の医者は「治療もしていないのに治るはずがない」と肩をすくめ、相変わらず混雑している町医者は「せっかく素晴らしい病院を紹介してやったのに、まさかそこでの治療も終えていないのに、こんなところへ戻って来るとは」と迷惑そうな様子であった。だから、残る最後のほんの簡単な医学的処置は、おそらく他所で完了することになると思うが、いずれにしても、問題の症状は98%消え去り、あとの2%も、2週間も過ぎないうちに完全におさまるであろうと予測できるのである。

医者は互いの紹介や面子を重んじ、自分たちの診断を誇り、患者の言い分など聞いても信じないかも知れないが、まるで二週間前の状態が嘘のように、ほぼすべての問題が消え去り、筆者は至って健康に戻ったのである。

ちなみに、筆者が受けようとしていた検査は、放射線をかなりの程度、浴びねばならないという、人体にとって相当に有害なものであった。その直前まで、筆者はそれも仕方がないと思っていたのだが、折しも、筆者が検査時刻を待って、椅子に座っている時に、筆者の目の前に、二人の老人の寝たきり患者がベッドごと連れられて来ていた。そのうち一人は、おそらく意識もなかったと見え、完全な無言状態で、もう一人は、付き添いの看護婦らと雑談を交わす中で、自分は東海村の原発で働いていたのだと語った。その話を耳に挟んだとき、筆者は何とも言えない居たたまれない気分になって、こんなところで悠長に検査を待っている場合ではない、自分はここにいるべき人間ではないから、一刻も早く立ち去らねばならないと感じた。

医者はこういうことは患者たちの神経過敏だと考え、自分の診断や助言に従わない患者は、自己過信しているだけであって、今後どうなっても知らないと宣言するかも知れないが、筆者は、まことの医者を知っているので、最後の最後の判断は常に自分自身で下さねばならないこと、時にはどんな専門家を名乗っていようとも、人間に過ぎない者たちの忠告を思い切って退けねばならない場合があることが分かっている。筆者の述べていることが、単なる神経過敏や自己過信なのかどうかも、わずか数ヶ月のうちに明らかになるであろう。

筆者がここで語っているのは、およそ証明不可能な事柄ばかりであり、それを誇張された文学表現だと思う人もあるかも知れない。だが、筆者はこれまでの人生の過程で、人の病や、被害者意識や、その他もろもろの受けた霊的な傷というものが、まるで感染症のように、他者に簡単に憑依しうるものであること、人の運命が取り代わるうるものであることを理解している。

聖書には、多くの病が悪霊に由来するものであることが書かれているが、筆者の見解では、病に限らず、そのきっかけとなる傷というものも、そのほとんどが悪霊の影響力によるものであり、そのようにして悪霊が人間に病をもたらしている場合には、病が完治した人から悪霊が出て行った場合には、また別の人間にとりつき、餌食にするのである。目に見える客観的な症状しか診ることのできない医者には、病の本当の原因が決して分からない。多くの病は、人の魂の傷口から侵入するのであり、それをもたらしているものは多くの場合、悪霊である。

さらに、聖書によると、エサウが不信仰ゆえにヤコブに長子の権を奪われたように、神から恵みや祝福をいただいていたはずの信者が、不信仰ゆえに、それを他人に奪い取られ、かえって他者の運命を身代わりに負わされることも、あり得ないことではない。犠牲者の運命が別な人間に憑依するといったことは、不信者同士の間では多々起きている。堅く信仰に立って揺るがされないようにしていなければ、人が信仰によって達した恵みが、掠め取られたり、失われるということも起きうるのである。
 
だからこそ、被害者意識を持たないことが、人の心身にとって極めて重要であると筆者は何度も述べて来たのである。なぜなら、そういうもろもろの悪しき影響力に扉を開いてしまう最大の侵入口となりうるのが、人の心に生じた被害者意識だからである。さらに、恐怖心や、不信仰や、キリストの救いの完全性を信じない心、神の御言葉に聞いても従わないことなどが、そういった悪影響の侵入する足がかりになり得る。
 
信者が主と共に十字架の死を経ると、そういうものは取り去られる。おそらく信者が自覚している以上に、心の大掃除がなされ、神にとって望ましくない信者の心の傾向が除去される。神の光の照らしにより、不要なものは殺され、仮にもし何か信者の中にサタンの圧迫を受ける足場となりうるものがあったとしても、それも取り払われるのである。

そこで、信者が病や、傷といったもろもろのむなしい悪影響や、悪霊に寄りつかれたくなければ、そういう悪しき影響力には徹底的に信仰によって抵抗した上で、とにかく神に賛美と感謝を捧げ続けることである。そして、神の勝利と救いの完全性を宣言し続け、これを手放さないことである。これまでの人生に、どのような損失と見える出来事が起きていたとしても、不信仰や自己憐憫や被害者意識などは一切かなぐり捨てて、神こそ、人の受けたすべての損失を補って余りある方であることを信じ、キリストにこそ、完全な人間性が備えられていることを信じ、そのキリストが、信仰によってすでに信者に与えられ、信者自身の内に住んで下さり、信者の諸々の問題について天の神にとりなしていて下さることを信じ、この方にすべてを委ね、それゆえすべての出来事について、喜びに満ちて主を賛美することである。

信者がどれほどの苦境の中にあっても、絶えざる損失を受けているように見えても、大胆に神を崇め、喜びのうちに自分のすべてを神に委ね切って、神から実際にすべての問題の解決を引き出している様子を見ると、地獄の軍勢もそれに対してはどう反論・反証することもできない。
 
この他にも、記さなければならない事件は色々あるのだが、それはもう少し時間が経ってからにしたい。いずれにしても、神の憐れみの深さ、愛の深さ、神の救いの完全性が、信じる者の人生にどれほど豊かに実現するかという話ばかりであるが、同時に、それは決して信者が自分の救いを確固として手放してはならず、不信仰な他人の負うべき報いを身代わりに負わされてはいけないという教訓でもある。信者の信仰は一足飛びに強くなるというわけにはいかないが、神は信者が心から望むなら、一歩一歩、確実に教えて下さる。

十字架の死と復活の原則――自分を低くする者が高くされる――ただ神のために自分を注ぎ出すことによってのみ結ばれる永遠に朽ちない実

「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

すなわち非常な忍耐と、悩みと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも
また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」(
コリント6:2-10)

ここ最近、キリスト者が苦難を通して得られる天の栄光があることについて、連続して記事を書いているが、上記の御言葉もそれにぴったり重なる。
 
パウロが耐え忍んだ「非常な忍耐、悩み、嘆き、鞭打ち、投獄、暴動、労役、徹夜、断食」の話を聞くと、不信者は、そんな信仰の試練は御免こうむるとばかりに一目散に逃げて行くかも知れない。

だが、信者にとって、キリストの御名のゆえに受ける苦難は、恥でもなければ、災いでもない。パウロはこうした苦難をものともせず、別な箇所では次のようにも述べている。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
あなたのために、私たちは一日中、
死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。」(ローマ8:35-36)

人類の罪のために永遠にほふられた小羊なるお方は、もちろん、キリストただお一人である。しかしながら、キリストの十字架の死と復活に信仰を通してあずかる主の弟子たちもまた、イエスと同じように「一日中、死に定められている」のである。

不信者はこういう話を聞いて、ますます疑念を深めて言うだろう、「私にはそんな信仰は理解しかねます。あなたの信仰はあまりにも偏っています。あなたの話すことを聞いていると、クリスチャンがどんなに神のために苦しまなければならないか、そんな話題ばかりではありませんか。私はそんな信仰は嫌です。御免こうむります。」

このような考えの人をあえて説得しようとは思わないが、何度も述べて来たように、キリスト者の人生にはただ苦しみしかなく、幸福は伴わないなどと勝手に誤解されては困る。

さらに、言っておかなくてはならないのは、クリスチャンが主の御名のゆえに地上で受ける苦しみは、ただ贖われた信者から成る教会のためであるばかりか、まさに以上のような不信者たちのためでもあるということだ。

なぜなら、自分が損なわれることにより、地に落ちて実を結ぶことが、初穂として贖われた者たちの役目だからである。

むろん、世は信者たちの受ける苦難が自分たちのためだとは少しも思っていない。そこで、キリスト者が受ける試練のことで、世が感謝したり理解を示すことは決してないと言えよう。

そのようなことは世に告げ知らせる必要もないことであり、世は、預言者たちを迫害して殺し、主イエスを十字架につけて殺し、主イエスの弟子たちをも迫害して命を奪った時から今に至るまで、その悪しき性質は寸分たりとも変わっていない。

だが、それにも関わらず、主イエスご自身がそうされたように、主イエスの弟子たちもまた、教会のため、自分自身のためだけではなく、神の愛のゆえに、福音に敵対し、神に反抗し続ける世人のためにも、自分自身を注ぎだし、それによって神の僕としての道を全うするのである。キリスト者が世から拒絶され、憎まれ、嘲られ、低められることによって受ける苦難を通してしか結ばれることのない実が存在し、このようにして神の国が拡大する法則は今も変わらない。

こうしてキリストの僕たちが、自分を拒絶する世の罪人らの反抗をものともせず、彼らをも救いへの道に招き入れるために福音を語り続けることができたのは、そこに人間の思惑によらない、神の無条件の愛があったためであり、彼らは自分自身の利益をはるかに超えるもっと大きなものにとらえられていたからこそ、自分たちを拒絶し、あるいは殺そうとまでする人々のために苦しみを受けることを辞さずに、神の国の権益拡大に向かって進んだのである。

だから、キリストの僕たちが地上で受ける苦しみは、ただ単に彼ら自身の信仰の成長のため、彼らが受ける天での栄光のため、あるいはすでに贖われた者たちの栄光のためだけではないのである。たとえ世が理解せずとも、彼らがそのように自分自身を注ぎだすことができたのは、神のためであると同時に、人々のためでもあり、世人のためでもあった、と言える。そして彼らの苦しみを通して教会が大きな前進を遂げて行ったのである。

さて、今回の記事では、殉教というスケールの大きな試練は脇に置いて、むしろ、それに至るまでの、もう少し小さな日常生活のスケールにおいて、信者が信仰ゆえに受ける「苦しみ」に必ず「栄光」が伴うこと、また、そのようにして、キリストの十字架の死と復活に同形化されることによってのみ、信者は多くの実を結び、「栄光から栄光へ」主の似姿に変えられて行くことができるということについて、引き続き書いていきたい。

すでに述べた通り、信者がもしも主の御名のゆえにいかなる苦しみをも試練をも受けないならば、その人の信仰は何かがおかしいと言える。だが、同時に、信者の地上生活が絶えず苦しみだけに満たされ、試練を勇気を持って耐え忍んだことへの報いとしての、天の喜びに満ちた栄光を何一つ経験しないならば、そのような信仰生活も、やはり何かがおかしいのである。

信者の正常な信仰生活においては、信者が地上で主のために受ける苦しみには、必ず報いが伴う。それは天の重い栄光の前触れとしてもたらされていることが、多くの場合、信者自身にも分かる。そして、多くの場合、実際に、試練を耐え忍んだことへの報いとして、天の父なる神から与えられる栄光を、信者は自分自身でも確認できるのである。

もちろん、信者が耐え忍んだ苦しみのゆえに、地上でどんな実が結ばれたのかは、最後まで分からないこともある。そして、「主の御名のゆえの苦しみ」と言っても、それは必ずしも、信仰に対する迫害だけでなく、信者が地上で耐え忍ぶあらゆる圧迫を含んでいる。信者は地上で受ける全ての苦しみを「御名のゆえに」甘んじて受けるのである。そして、多くの場合、信者はそのような出来事を通して働く十字架の死と復活の原則を、自分の人生で生きて実際に知ることができる。

だから、クリスチャンの生活が絶え間なく苦しみに満たされているだけで、喜びも勝利も栄光もないのだと考えることは大きな間違いである。信者は、地上で受けるあらゆる圧迫や制限、人として生まれ持った愚かさや限界にも関わらず、そこに神の偉大な力が働いて、巨大な勝利がもたらされるというパラドックスを味わうことができる。

だから、もしクリスチャンの中に、十字架の死と復活の原則が人生でどのように働くのか知らないという人ガあるなら、実際に自分の生活を使ってこの法則を試してみることをお勧めする。つまり、主の御名によって、信者が己を低くして、小さな苦難を信仰によって耐え忍ぶことにより、どんなに大きな栄光がもたされるのか、日々の生活のごく些細な事柄を通して、誰しも十分すぎるほどに確かめられる。

だが、これは先に述べた通り、信者がただ悪魔の虜となって苦難にいたずらに翻弄される消極的で受け身の生き方や、信者が無用な苦しみを自分から好んで招くような自虐的な生き方を意味しない。信者は現在、自分が望まずして、自分の生活に働くあらゆる制限、圧迫、束縛、予期せずして起きて来る迫害や苦難を、主のために耐え忍ぶのであり、そうした弱さが弱さで終わらず、時が来れば必ず、神がその出来事の解決となって、ご自分の栄光をそこに現して下さり、信者をも共に高く引き上げて下さることを確信して、その時を勇気と確信を持って大胆に待ち望むのである。

信者は、ただ自分が一刻も早く楽になり、不快な思いをしたくないから、また、自分の名誉が傷つけられたくないから、といった利己的な動機で、苦難が長引かないように神に願うのではない。その苦しみを通して、神に栄光が帰されることだけを願って、自分のためでなく、神の栄光のために、神の御心が地上に成るようよう願い求め、神を信じて待ち望む者が、地上で忍耐することによって、ふさわさしい時に助けを得て、神自らが信者の弁護者になって下さり、信者をあらゆる苦難から確かに力強く救い出して下さる助け主であることを天地の前で証明し、それによって、主の御名がほめたたえられることを願うのである。つまり、神が栄光を受けられる機会として、自分の苦難があることを信じるのである。ダビデが次のように詠った通りである。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく
あなたの恵みとまことのために
栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」(詩編115:1)

信者は「御名のために」地上におけるすべての苦しみを耐え、「御名のゆえに」神がその苦しみを栄光に変えて下さることを信じるのである。信者が、あらゆる苦難を信仰によって堅く勝利の確信のうちに耐え忍ぶ秘訣を学びさえすれば、苦しみは多くの場合、急速に取り去られる。たとえそうでなくとも、信者の内なる人が強められることにより、信者は地上で経験する苦しみによって圧迫されたり、心悩まされ、悲しみに打ちひしがれたりすることがなくなり、むしろ、そこに復活の命が働くことを信じて期待できるようになる。

だが、苦難を通して受ける天の栄光を逃さないためには、信者は自分が何を主の御名のゆえに耐え忍んでいるのか、人にはあまり触れ回らない方が良いであろう。「私は神のためにかれこれの巨大な苦しみを耐え忍びました。すでに殉教をも辞さない覚悟です」などと人前で言うのは、やめておいた方が良い。そのような決意表明は失敗に終わる可能性が高い。

もしどうしても信者が受けた苦難について語りたいならば、苦難をいわゆるお涙頂戴の物語に変えて多くの人々の関心を引きつける材料としたり、自己宣伝の材料として用いたりするのでなく神だけが栄光を受けられるように、聖書の神が信じる者をどんな状況においても見捨てられることのない確かなお方であることを世が知ることができるように語るべきである。
 
とはいえ、主が本当に信者の苦しみを喜びに変え、御業を成して下さる時には、人はどんなに黙っていようと思っても、黙っていられないほどの喜びに突き動かされることは確かなのだが。
 
このように、信者は大きなことから小さなことまで、神と信者とだけが知っている日常のごく隠れた様々な出来事を通して、信仰による訓練を絶え間なく重ねて行くことにより、その先に初めて殉教などの極めて大きなスケールの試練にも十分に耐えうるだけの力が養われる。つまり、信者に地上で与えられる試練は、各人の信仰の成長段階に応じて与えられるのであって、決して一足飛びのものではなく、戦いの初心者がいきなり熟練者しか勝利できないような困難な戦いに直面することは絶対にないと言える。

そして、何度も書いているように、キリスト者が地上で受けるあらゆる試練は、どんなに些細なものであっても、神の御前に覚えられており、予想だにしない大きな栄光が伴うのであり、その栄光は、信者がこの地上に実際に生きている間に、あらゆる生活場面で確認することができる。

聖書の神は、信者に与える恵みを出し惜しみされるような方ではなく、また、信者を無駄に追い詰めたり、苦しめる残酷な主人でもない。信者がこの地上に生きる間、良きものを惜しみなく与えて下さり、あらゆる祝福で満たして下さる方である。だから、信者が地上で人としての生活を送るために必要なすべてを十分に備えて下さらないことはない。

だが、だからと言って、信者は恵みが与えられるがゆえに神に従うのではなく、地上の一切の利益にも増して、神ご自身を愛するがゆえに従うことを、絶えず告白し続けるのである。そして、信者は地上で必要な一切のものを、この世の手練手管によらず、ただ信仰によって地上に引き下ろす。それによって、神こそすべてのものの造り主であり、すべての供給者であり、キリストの命の中にこそ、あらゆるものを支配し、供給する力があることを知るのである。

キリストの復活の命は、支配する命である。この命が信者の内にあることによって、信者は外見的にはこの世の有限な滅びゆく弱い存在に過ぎないが、その内側に、この世を打ち破る圧倒的な勝利の法則性を確かに有していることが分かるのである。そこで、信者自身が地上で抱える生まれ持った人間としての様々な弱さとは対極的に、彼の内にある死を打ち破った支配する命によって、外からやって来るすべての圧迫に翻弄されることなく勝利する秘訣を学ぶのである。

***

さて、次に、信者に対する神からの吟味、光による照らし、検査というテーマについても少し書いておきたい。
 
神のさばき、神の吟味というものは、レントゲン写真の撮影にもどこかしら似た、神から人間への吟味である。そして、しばしば、神は試練を通して、信じる者の心の内を吟味される。

人間は生まれつき自分を試されることや、自分自身を吟味され、検査されることを望まない。人間には光の照射によって自分の本質が明らかにされることを拒む本能があり、それはレントゲン写真を撮られるような時でさえそうだ。

たとえば、私たちは、肺や手足のレントゲン写真といった、首から下の写真ならば、健康診断でよく見慣れているであろうが、首から上のレントゲン写真を見慣れている人はどれくらいいるであろうか?

特に、頭がい骨の写真を、真正面でも横からでない別な角度から撮られたりすると、死人のように目も鼻も空洞化した自分の顔の写真を見て、一体、これが生きた自分自身を少しでも反映した写真なのだろうかと改めて驚かされる。
 
レントゲン写真はすべてグロテスクなものであるが、それは病気や歪みを早期に発見するために撮られたものだから、撮影される人間が、カメラの前でポーズを取るようにして、必死に自分のグロテスクさを取り繕ろうとするのは無駄なことである。
  
余計な肉が排除され、取り繕いが通用しないからこそ、正確な写真が撮れるのであり、仮に異常が発見されても、落胆するどころか、むしろ、不調の原因はこれだったのか、早期発見できてよかったと安堵するのである。

ところが、今日、多くの信者たちは、全くこれとは逆の道を歩んでいる。彼らは神に認められるためには、まず、神の御前に正直に取り繕わない自分自身の姿を見せなければならないのだということが、どうしても認められないのである。

彼らは、神に受け入れられるためには、相当に立派な行いが信者の側になければならないという巨大な錯誤の中にあって、いわゆる教会生活を通して、神の目に認められるための善行を必死になって積み上げている。

彼らは、いわば、神のさばきに耐えるためには、人間の側で満たさなければならない高度な要件があって、信仰の「優等生」になるための努力を毎日続けねばならないと思い込んでいるのである。

だが、このような考え方は極めて深刻な自己欺瞞の罠である。そんな彼らの努力は、まるでレントゲン写真を撮るに当たって、少しでも美しい「自分の骨の写真」を取ってもらおうと、医者に向かって懸命にせがみ、撮影された自分の写真が気に入らないと注文を付けては、あれこれとポーズを取って撮り直しを要求し、取り繕いを重ねる患者の姿にも似ている。

この種類の「患者たち」は、自分の病気や弱いところが何であるかを知るために、少しでも正確な写真を撮ってもらうことにはいささかも関心がなく、むしろ、少しでも自分の恥や弱さが暴かれないで済むように、自分を可能な限り飾り、健康に見せかけるために、どれだけ本当の自分を偽って、外面を取り繕い、裸の恥を撮影されることを免れられるかに腐心しているのである。
 
だが、神にはそういう人間の取り繕いは一切通用しない。神が人間をご覧になるまなざしは、レントゲン写真よりももっとはるかに正確で、人間の側では、小骨一本のごくごくわずかな歪みまで、どんな小さな病巣まで、隠しおおせるものはなく、どんな心の弱さであろうと、信者の過去であろうと、現在であろうと、未来であろうと、隠蔽できるものは何もない。神の目にすべては明らかで、裸であり、人間の取り繕いが全く功を奏さないのである。

だから、来るべき日に神のさばきの御座の前に立たされる時に向けて、信者が、常日頃から、この地上生活においても、神の御前で自分自身を探られ、申し開きを求められる場面でも、信者が神に対して自分を取り繕ったり、ごまかすことは一切通用しないし、それは有害である。

むしろ、信者がそこで果たすべき義務があるとすれば、ただ正直であることだけである。現在の自分の状態がどうあろうとも、どれほど合格基準に満たない、惨めなものに思われても、信者は神の側から行われるすべての吟味に対して、ただ自分を隠し立てなく明らかにして、正直に差し出すのである。
 
つまり、信者はレントゲン写真を撮る時に、自分を取り繕わずにあるがままの自分を撮ってもらうのを目的とするのと同じように、あるいは、ナビを設定する際に自分の現在地を偽って目的地を設定したりしないのと同じように、現在の自分にどんな弱さがあって、どんな欠点があり、どれほど過去に取り返しのつかない失敗を犯し、人生がいかなる損傷を受けているように思えようとも、自分の歩んで来た過去、現在のすべてを恥じることなく、隠し立てなく、神の光の照射に委ね、こうして自分が一切を神の御手に委ねていること、また、信者が受けた損失が何のせいであるにせよ、神がそれらの損失を豊かに補って余りある方であると信じていることを態度で表明するのである。
 
だから、信者は、人の目から見て、恥や、不完全さ、弱さ、欠陥、失敗と映る事柄についても、決して自己を飾るために、自分の過去を自力で修正しようとせず、自分自身の存在がまるごと神に委ねられており、神がすべての問題に正しい処置を施し、信者をあるべき状態へと導くことのできる唯一の方であると信頼して、この神に自分を委ねるのである。

このようにして、信者が神に明け渡すことにより、神の光によって照らされた信者の心の領域だけが、漂白された布のように罪から清められ、神の力に覆われて、新たにされて行く。信者が神に明け渡そうとしさない領域には、神の力は働かず、それどころか、それは長い間、施錠されたままの暗い地下室の倉庫のようなもので、そこにどれほど蜘蛛の巣が張り、埃が分厚い層のようにたまり、そこに蓄えられていたはずの宝がすでに錆び、朽ちていたとしても、信者がこの部屋を自分で開錠して大掃除に了承しない限り、誰もどうすることもできないのだ。

多くの信者たちは、神と人の前に自分を取り繕うために、自分の心に開かずの間を作り、そこに自分の見たくないあらゆるものを押し込んでいる。そして、そこに自分の弱さが集中して隠されていることを無意識に知っているので、それを恥じて、そのような開かずの間が自分の心の中にあること自体を自分にも隠し、外にも隠し、神にも隠しながら、自己を対外的に粉飾し、虚勢を張り続けるのである。だが、このように、信者が神の吟味に明け渡そうとしない心の暗い領域が罪の温床となって行くのである。
 
従って、信者の神への明け渡し、清め、従順は、信者が自分の行動をどれだけ律して「神の合格基準」に達するように外面的に整えたかによるのではなく、むしろ、信者が現状の自分をどれほど不完全で未熟に感じていたとしても、信者がその自分をありのままを神に探られることに同意し、自己の見たくないすべての欠点を隠そうとしたりせず、自分の全てを神によって吟味され、照らされ、明らかにされることに了承し、その痛みに耐えつつ、自らの弱さに対して神がもたらされる力強い解決に信頼して自分を委ねることができたか、その程度によると言っても良い。
  
信者がそのようにして神に自分を照らされる時に感じるごくごくわずかな痛み、ごくごくわずかな恥を耐え忍んで、自分の限界を正直に、あるがまま、恥じることも、隠すことも、取り繕うこともなく、従順に神の御手に委ね、自分の弱さの中に、神が力強く働いて下さることを信じさえするならば、信者の弱さは、たちまち神の憐れみに満ちた強さによって覆われ、信者は自分の無力や限界の中に、キリストが生き生きと働いて下さるのを知り、「もはや私ではなく、キリスト」が生きておられることを知るのである。
 
開かずの間は大掃除されて明るく清潔な小部屋になり、骨しか見えない白黒のレントゲン写真には肉や目鼻がついて生き生きとした色彩と表情が生まれ、死人がよみがえって、生きた者とされるのを見ることができるのである。

信者の生活は、片方では、地上の滅びゆく人間に過ぎない自分自身が、もう片方では、まことの生きた人であるキリストにしっかりと結ばれることにより、共に生かされているようなものである。片方は滅びゆく人間というよりも、すでに死人である。自分では何もすることはできず、まして実を結ぶ善行を行う力などない。だが、その人間の死が、信仰によって、キリストの死に結ばれているがゆえに、死んだはずの腐敗した人間が、キリストの復活にあずかって、清められ、彼の豊かな命によって生かされ、生き生きと輝いて、この両者が一人の新しい人の中で平和裏に結合・共存しているのである。

だから、信者は、自分の抱えるあらゆる弱さや限界に限らず、自分の存在そのものが、まるごとキリストと共に十字架で「すでに死んでいる」こと、それと同時に、十字架で共によみがえらされ、「神の中に隠されて生きている」ことを確信し、それゆえに、自らの死を帯びた圧倒的な弱さの中でも、大胆に神の命の強さを信じて前進して行くことができるのである。

このようにして、信者は地上で受けるあらゆる苦難を通して、絶えず神に自分を探られることに同意しつつ、より深く、より一層、自分の弱さを含めて、自分自身の全てを神に明け渡し、自分の処遇の一切を神に委ねることにより、死の中に生きて働く神の復活の力を知り、天の恵みを地上に引き下ろし、天の父なる神から栄光を受けることができるのである。

こうした法則があることを知っていたからこそ、預言者たちも、使徒たちも、みなキリストのゆえに受ける苦しみをものともせずに、喜んで苦難に甘んじることができたのである。

だから、信者の歩むべき道は、自分の力で必死に自分の外面を取り繕い、あらゆる努力を払って、信仰の「優等生」であろうとして、人目にそのように認められようと努力することとは真逆なのである。

むしろ、すべての真に「優秀な」イエスの弟子たちは、そうした自己宣伝とは無縁であり、むしろ、地上生活において、辱めや、苦難や、恥や、悪評や、そしりに耐えたのであり、決して地上の生涯において、偉大な宗教的権威者のように高められ、誉めたたえられることを目指したりはしなかった。

キリスト者の信仰の前進は、自分で自分を優秀な人間として人前に推薦したり、自分で自分を飾り、偉大にみせかけることによって、自分で自分を救おうとする努力とどこまで手を切って、自分の価値ではなく、キリストの価値だけにすべての信頼を置いて、ただキリストのみを頼りとして生きるのか、それによって決まるのである。
 
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(マタイ6:1)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10-12)
 
「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に表れるからである。」と言われたのです。

ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さ誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじていますなぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(Ⅱコリント12:9-10)
 
 
 * * *
  
さて今、思い起こされるのは、ウォッチマン•ニーの『キリスト者の標準』の次の一節である。

「一九ニ九年に、私は上海から故郷の福州に帰りました。ある日私は、健康を害したため、非常に衰弱したからだを杖で支えつつ道を歩いていましたが、途中大学時代の教授に会いました。

教授は私を喫茶店につれて行き、私たちは席につきました。彼は私を頭のてっぺんからつま先まで眺め、次につま先から頭のてっぺんまでを眺めてこう言いました。

「ねえ、きみ、きみの学生時代には、われわれはきみにずい分期待をかけていたし、きみが何か偉大なことを成し遂げるだろうと望みをかけていた。きみは 今この有様が、きみのあるべき姿であるとでも言うのかね。」

彼は私を射抜くようなまなざしで、この質問を発したのです。正直なところ、私はそれを耳にした時、くずおれて泣き出したい衝動にかられました。私の生涯、健康、すべてのすべてが消え去ってしまったのです。しかも大学で法律を教えた教授が今ここにいて、「きみは成功もせず、進歩もなく、なんら取り立てて示すものも持たずに、いぜんとしてこんな状態でいるのか」と尋ねているのです。

しかし、次の瞬間ーーそれは私にとって、始めての経験でしたがーー私は自分の上に臨む「栄光の御霊」とはどのようなものであるかを、真に知ったのです。自分のいのちを主のために注ぎ尽くすことができるという思いが、栄光をもって私の魂に溢れました。そのとき、栄光の御霊そのものが私に臨んだのです。

私は目を上げ、ためらうことなく言うことができました。「主よ、あなたを讃えます。これこそ望み得る最善のことです。私の選んだ道は正しい道でした。」私の旧師にとっては、主に仕えることが全くのむだであると思えたのです。しかし、福音の目的は、私たちをして主の価値を真に自覚させるためにあるのです。」『キリスト者の標準』、ウォッチマン・ニー著、斎藤一訳、いのちのことば社、pp.306-307 、下線は筆者による、本文では点による強調。)

ウォッチマン•ニーは今日、彼の名がつけられて残されている著書の文章を通しても理解できるように、かなり研究者肌の知性の持ち主だったようで、霊的な事柄についてこれほどまでに知的・論理的に分析を試みた信仰者は他に類を見ないように思う。

若い時分には、聖書注解者になることをも夢見ていたようだが、それも頷ける話で、知的分析、論証は彼の天与の才であり、以上の引用からも、学生時代から彼は同期に抜きん出て将来を嘱望されていた様子が伺える。

少しでも学術研究に関わったことのある人間ならば、ニーの文章が知的好奇心旺盛な人間にとってどれほど魅力的に映るかも分かるであろう。 ところが、ニーはその才能を主のために放棄し、「浪費してしまった」のである。

それは、大学の恩師にとってはさぞかし手痛い損失に見えたものと思う。もし研究者を目指していたならば、権威として大成していたのは間違いないからである。そうでなくとも、新しい発見によって社会を揺るがし、変革する人物になるだけの資質は十分に備わっていた。だからこそ、期待を裏切られた恩師は、この久方ぶりの邂逅の場面で、ニーの衰弱して落ちぶれた「惨めな姿」に痛烈な皮肉を浴びせたのである。

しかも、それだけではない。ニーは聖書注解者として名を残すことをさえも断念した。そして、彼がどんな最期を遂げたのかは知られている通りである。

一体、この人は自分に与えられた大きな才能を何に使ったのか? 神のためにとは言うが、ただ自虐的に自分を苦しめ、人生を浪費しただではないのか? という疑問も生まれて来よう。

彼がもし聖書注解を書いていれば、今の時代になっても、並ぶもののない書を残せたであろう。我々にとってもそれは興味深い内容だったに違いない。だが、それすらもしなかったのはなぜなのか。今日ニーの著書とされているもののほとんどは同時代人の速記録の書き起こしによるもので、色々な人々の思惑がつけ加わり、偽りの宗教によって書き換えられ、改ざんされ、ただで利用され、宗教的権威にしたて上げられ、ニー自身がどんな人だったのかすらも、粉飾されて分からなくなり、純粋にニーの作品と言い切れるものがどれだけあるのかも不明だ。もし自分の名を冠した著書を発行してさえいれば、そうしたことは避けられたはずである。

にも関わらず、彼がそうしなかったのは、自分のためでなく、この世の人々のためでもなく、社会の発展のためでもなく、ただ神のためにだけ自分を注ぎ出し、地上では完全に無名の、いかなる権威とも無縁の人間として生きるためであったと見られる。もし願いさえすれば、自らの得意とする分野で、様々な成功を手にする事ができたであろうが、人前に栄光を受けないために、それをあえて望まなかったのである。

学術研究の分野に身を置くことは、「先生」と呼ばれる立場に立つことと密接に結びついている。それは自分自身を学問的権威者として他人に推薦する行為である。また、その探求はどこまで行っても、神を抜きにした人間の魂による終わらない探求であり、人間の天然の知的好奇心を満たすためだけに行われる活動である。そうである以上、そのような探求は、人間の堕落した魂の働きを活性化させ、肥大化させることはあっても、純粋な霊的な活動には本質的に対立する、信仰に基づく行動ではないのではないかと筆者は推測する。

知識欲に限らず、人間の魂が持って生まれた欲というのは、情であれ、他の何であれ、どれもこれも、人間の目にどんなに美しく優れた性質のように映っても、すべて堕落に陥る可能性を持つ。それは、人間の魂そのものが罪によって腐敗・堕落しているせいである。そこで、天与の才を発揮して生きるという、人の耳にはまことに無難そうに、もっともらしく、良さそうに聞こえる言葉でも、一歩間違えば、己の欲に好きなだけ邁進して生きよという貪欲の奨励になりかねない危険が存在するのである。

ただ神だけが、人間の天然の魂の衝動から生まれて来る腐敗した活動と、純粋に霊的な活動を正しく切り分けることができる。前者はどんなに人の目に立派に、良さそうに見えても、あくまで人間の探求に過ぎない腐敗した活動であって、永遠に神に向くことがなく、永遠に残る実を結ぶこともない。

ウォッチマン・ニーはどこかの時点でそれを悟り、知的研究の分野から身を引いたのであろう。聖書注解者になることの中にさえ、神から来たのでない人間の魂の探求が紛れ込む可能性を悟り、自分はそのような方法で神に仕え、人々に仕えることはふさわしくないと理解したのであろう。彼が自分の可能性や才能を脇に置いて、これらを捨てても、御国への奉仕を優先したのは、主に仕えるためであり、神への献身のためだったのだが、同時に、それが教会に対する奉仕でもあり、人々に対する奉仕でもあったことを筆者は疑わない。

だが、もしも仮にそこで彼が身を引かず、知的研究に携わり続けた場合、この人の身の上に何が起きただろうか? 彼はおそらく学問的権威者となって、多くの弟子を従えて、立派な先生として、新調の服を着て巷を歩くことができ、自分について何一つ引け目も感じず、情けなく思うこともなく、まして若くして衰弱したからだで、よろめきながら杖をついて歩いたり、その格好のせいで、人に哀れまれたり、蔑まれたりもしなくて良かったであろう。

だが、そうして得た社会的成功と引き換えに、彼を待ち受けるものは何だったろうか? サタンの誘惑だけだったのではあるまいか? 彼はそのようにして地上で自分が栄光を受け切ってしまうことよりも、神としての栄光を自ら捨てて十字架の死にまでご自分を渡されたキリストにならって、自分も自分を高くせず、人からの栄誉ではなく神から栄誉を受けることの方を潔しとしたのである。

このようなことは、人の目から見れば、あまりにも馬鹿げた損失に過ぎないものと映るであろう。色々な才覚が与えられていたのに、それを十分に活用しないまま世を去るとは、何と愚かな無駄であろうかと人々は思うだけであろう。人は、この世において頭角を現し、ひとかどの人間として認められ、名を残すことを成功と考え、自分の才能や活動意欲を余すところなく発揮できる場を求め、なおかつ、著書や、目に見える様々な功績を手柄として残すことを願う。それが自分のためであると同時に、他者のためにもなるのだと信じて疑わない。そして、自らの名を残すことができなければ、地上に生きている意味もないと考えるのであろう。

だが、神の評価は、人の評価とは多くの場合、正反対であり、まさに裏返しである。地上で自分で自分を高くしようとする者が、神の御前に賞賛を受けることは絶対にできない。神は、世から徹底的に憎まれ、蔑まれ、退けられたキリストの苦難に、信者がどれほど自分もあずかることに同意し、キリストの死に自分を同形化したか、その度合いによって、信者が天で受ける栄光をお決めになる。

だから、信者が地上で人前に栄光を受けながら、同時に、天の神からも栄光を受けようとすることはできない相談なのである。そして、何が本当に主の御名のために信者が耐え忍んだ苦難であるのかは、ただ神だけがご存知である。
 
ニーに限らず、キリストに従う者は、地上で自らいかなる権威になることもなく、最後まで無名の知られざる信徒として、人の目にではなく、ただ神の御前にのみ覚えられ、認められることを目指して生き続けるべきであると筆者は考えている。

信者が主のために自分を低くされ、苦しみを受ける時、ニーが書いているように、栄光の御霊が力強く自分に臨む瞬間を、信者が必ずしも常に経験するわけではない。だが、たとえ主の臨在が、信者に実感を伴う形で感じられない場合にも、信者は、この地上で自分が低められることによってしか働くことのない天の法則と栄光が確かにあること、それによってしか結ばれない実が確かにあること、それはまさに神が願っておられる事柄であると、人生のあらゆる場面で知ることができる。そして、信者がそのように神の御前で低められ、無に徹することを耐え忍ぶと、神はその労苦を特別に重んじて下さり、特別な恵みによって報いて下さるのを、実際に多くの場面で見ることができるのである。

だから、信者が一時的に陥った苦しみだけを見て、落胆するには全く及ばない。ヨブがそうであったように、多くの場合、信者が主のために失った様々な富は、時が来れば、前よりも一層、豊かにされて信者の手に返される。それが死後になってしか起きないことは決してない。この地上に生きている間に、信者は、十字架の死と共に働く復活の原則を、キリストの命にある絶大な権威や力を、信者のために神が天に蓄えて下さっている無尽蔵の富や栄光の大きさを、十分に伺い知ることができる。

そのような歩みを主と共に地道に続けて行った最後の段階になって、ようやく殉教というテーマが信者の目の前に現れて来る。信者が十字架の死と復活の原則をほとんど知らないうちに、一足飛びにそのような事柄が求められることはまずない。そして、その段階になると、信者はそれまでの人生を通して、すでに神の恵み深さ、憐れみ深さ、誠実さ、愛の深さを十分に知っているので、もはや自分の内には神のために留保するものは何一つありませんと、ためらいなく応答する心の準備ができているのである。

十字架の死と復活の原則―栄光から栄光へ―鏡のように主の栄光を反映させながら、主と同じかたちに姿を変えられて行く

偽りの宗教からのエクソダスが完了し、悪しき霊どもを除霊し、地獄の軍勢にもと来たところへ帰るように命じ、原点に立ち戻って、生ける水の水脈を見つける。

追いすがるファラオの追手を振り切って、その軍隊がことごとく水に沈むのを見届けて、この地にやって来た時に見えていた、新たなすがすがしい展望を取り戻す。

キリスト者が立っている土地は、悪しき軍勢に占領され、踏みにじられたために、荒廃している。この土地に、彼はキリストの復活の旗を立てて、御子の統治を宣言する。

キリスト者は、はるかに天の都を仰ぎ見つつ、前途に神が信じる者のために備えて下さった豊かな約束の地を見据える。そこで天の無尽蔵の豊かな富と、永遠の栄光がキリスト者を待ち受けている。

そう、御子の復活の命の統治は、信じる者の内ですでに始まっているのだが、信者が自分の内でそれを知ったことで、すべてが終わるのではない。キリスト者にはまだまだこれから獲得せねばならない土地がある。つまり、自分自身の内にある統治を外へ流れ出さなければならないのだ。

信じる者の足元では、荒れ果てた大地の割れ目から、澄んだ泉が湧き出すように、復活の命の統治を通して、清らかな水が流れ出ている。それはまだ少量の流れだが、いずれは大河になって、荒廃した大地全体を潤し、よみがえらせるはずだ。これは、主イエスが信じる者たちにただで受けよと言われた生ける水、疲れた人々を癒し、病んでいる人を立ち上がらせ、死んだものを生き返らせ、サタンに支配されていた人々を解放する力のある命の流れである。

御座の統治から流れ出す生ける水の川々である。

長年に渡り、深く深く井戸を掘り続けてきたキリスト者は、ようやく水脈に達したという確かな手ごたえを感じて、安堵する。飢え渇きと共に飽くことなく井戸を掘り続けて来た彼は、ようやく荷を降ろし、喜びのうちに安堵して、額を拭う。やはり、神は信じる者の呼び声に応えて下さったのだ。求め続けるうちに、天の資源にようやく達した。そうなれば、工事はあらかた終わったようなもので、あとはこの水を汲み出し、絶え間なく流れさせるための設備を整えなければならない。

さて、前回の記事では、キリスト者にとっての苦しみと栄光の不思議な関係について述べた。

キリスト者が神の御前に栄光を受けようと思えば、地上で苦しみをも受けなければならないことを書いた。この二つは密接に結びついており、苦しみがキリスト者の体を通過することによってしか得られない栄光がある。

クリスチャンは世から召し出された者たちであるが、御国の働き人であり、神の兵士でもある以上、ただ自分自身の幸福と平和と繁栄のためだけに召されたのではなく、神の国の権益を守る兵士として、神の利益のために召し出されたのである。そうである以上、キリスト者は、神の軍隊の兵士として、地獄の軍勢との激しい戦いを戦い抜いて勝利をおさめることなしに、神からの褒め言葉にあずかることは決してできない。そして、戦いはどんなものであっても、命がけであり、自分自身のためだけでなく、自分を召して下さった方の栄光のために、あらゆる障害を乗り越えてでも、勝利したいとの強い願いがないなら、むしろ、初めから臨まない方がましである。
 
だから、クリスチャンには、地上で人前に栄光を受けて、拍手喝采を浴びて、安楽に生き、自分自身だけを楽しませながら、なおかつ、神の御前にも栄光を受けようなどという生き方は成り立たないのである。むしろ、神の御前にどれだけ己を低くして地上における患難を耐え抜いたかが、来るべき日において、キリスト者が神の御前で受ける栄光の度合いを決める。

今回は苦難がもたらす栄光というテーマをさらに発展させて、「栄光から栄光へ」というテーマを語りたい。

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


古い契約、それはキリスト者が去って来た世界、すでに水に沈んでいる世界であるが、それは何も律法や、ユダヤ教のことだけを指すのではない。今日、聖書に従う信仰に見せかけた偽りの宗教においては人が敬虔な信者を装うために勝手に作り出した様々な規則や掟が存在する。日曜礼拝を遵守することや、奉仕や献金を行うこともそれに含まれ、そのような定めを数多く守って、人の目に正しい行いをしていると認められることこそ、敬虔な信者のあるべき姿だと説かれる。

しかし、そのようにして、各種の規則で自分を縛り、自分自身の立派な行動を通して、人前に義を得ようとすることは、どこまで行っても終わらない偽りの霊性を得るための偽りの精進である。どれほど人が善行を積んでも、そのことによって、「私はここまで達したのだから、もう義人となった。これ以上、誰からも後ろ指をさされることなく、何も要求されることはない。もう大丈夫だ」と言える日は来ない。また、世が信者が学びや精進によって高みに到達しようとする必死の努力を認めてくれて、「あなたはここまで努力を払ったのだから、合格水準に達しました。もうこれ以上何も要求しません」と言ってくれる日も来ない。

むしろ、人が努力すればするほど、ますます深く泥沼にはまって行くかのように、要求だけが加算される。どれほど人が善行を積んでも、心に「もう大丈夫だ」という確信と平安はやって来ないばかりか、彼に対する期待と要求がさらに増し加わる。だから、そのように自分自身の善行や努力によって義を得ようとする人は、自分自身の心の消えない不安を覆い隠すために、永遠に終わらない努力を重ねているのであり、その行為は、人が義とされるために行っているというよりは、むしろ、心の内なる罪悪感を薄め、本当の自分自身の惨めな姿から目を背け、これを覆い隠すために行われる自己欺瞞であり、キリストによらない人類の偽りの贖罪行為なのである。

このような努力を人がどんなに重ねても、ちょうど巨額の負債を抱えて苦しむ人が、返済しても、返済しても、利子がますます膨らんで行くことにより負債の額が減らないように、人類がどんなに自分で自分を義としようと努力しても、罪悪感はますます膨らみ、義とされることはなく、神に到達することはない。魂のあがないしろは高価で、人は自分で自分の罪を贖うことはできないからである。

そのような人たちは、心に覆いがかかり、思いが鈍くされており、神の義が分からなくなってしまっているのである。彼らは自分では神を信じていると思っているかも知れないが、彼らの悲痛なまでの努力の根底にあるのは、神への信頼や、愛ではなく、むしろ、神に対しての虚勢、演技、取り繕いであり、なおかつ、彼らの心の根底にあるのは、「どうして神は我々に対して、こんなにも重い返済不可能な罪の負債を負わせたのだ」という憤り、恨みである。そして、彼らは「神によって不当に負わされた罪の債務証書」を帳消しにするために、それほどまでに悲痛な努力を払っているのだから、神もそれを認めざるを得ないと考えて、神ご自身を否定して、神の御心を退けて、神の御怒りから身を避けて、自分自身を守るための偽りのレンガの塔(バベルの塔)を建設し続けているのである。

だが、そのように人が己が力では到底、返しきれない罪の負債を人類に負わせたのは、神ではなく、サタンである。だから、サタンを打ち破ることによってしか、人がその負債から解放される術はない。そして、神はそれをすでに成し遂げて下さったのであり、神はキリストの十字架を通して、すでに人間の罪の債務証書を無効にする道を開いて下さっているのである。だから、人がこの「罪の債務証書」を自力で返済する必要はなく、また、そのことで神を恨みに思う必要もなく、むしろ、糾弾されるべきは悪魔であって、神はキリストを通して彼に打ち勝たれたことを確信し、それを宣言し、喜び、現実に適用するだけで良いのである。

ただ上記のような人々はそれが分からず、自分に負わされた途方もない負い目を返済し続けることにより、自分たちは神に仕えているのだと誤解しており、彼らが仕えている相手は、神ではなく、彼らをまさに罪の負債地獄に突き落とした地獄の看守たる悪魔であるということが分からないのである。

しかし、人が真にキリストご自身の方を向くならば、この救いようない古い契約でがんじがらめにされた泥沼の状態から、誰しも自由にされることができる。それだけではない、その人の内側が新たにされ、主の御姿へと変えられて行く。

しかしながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行くことは、やはり、信じる者が己を低くして苦難を甘んじて受け、キリストの遜りにあずかることにしかないのである。だから、キリスト者が「いいとこどり」の人生を送ることはできない。神から喜びや恵みと平安だけを頂戴し、苦しみは一切御免だと言うことはできない。

しかし、誤解してはならないのは、信者が無駄に虐げられ、抑圧の中にとどまり、悪魔の圧迫の虜とされ続けることが、神が栄光をお受けになる手段ではないことである。むしろ、信者はそうしたすべての圧迫の中で、これに勝利する力を信仰によって得なければならないのである。

信者にとって地上の苦しみとは何なのかと問えば、それは、苦しみを通して信者に突きつけられる地上的な限界のことだとも言えよう。信者は患難を通り抜けることによって、恐れや、不安や、自分自身の限界を痛切に感じる。しばしば、自分自身の人生を照らされ、自分の誤りの多い選択を振り返り、もしかしてこれは避けることので来た苦しみではなかったかと考える。

しかし、信者は自分の抱えるあらゆる限界や愚かさにも関わらず、それに対して自分の力によってではなく、ただ信仰に立って、キリストにより、絶え間なく、この限界に「NO」を突きつけるのである。つまり、信者は、「自分にはできないが、神にはできる」という確信に立って、迫りくるすべての苦難に立ち向かい、それを乗り越えるのである。信者はこの地上で圧迫を受け、苦しめられ、追い詰められもし、そのような出来事が起きた原因がどこにあるのかさえ分からないことが多いが、絶え間なく、これらの地上の圧迫に対し、地上の限界ある人間としての自分自身に基づいてではなく、天的な人である「キリスト」によって、立ち向かい続けるのである。その時、そのパラドックスの中に、神のはかり知れない力が働く。

従って、信者が患難を通過することによって得られる天の栄光とは、信者が苦しみに翻弄され、悪魔に圧迫され続ける立場に受け身に立つことや、自虐的的で、自縄自縛の立場に身を置くことを意味せず、むしろ、それとは反対に、信仰によってそれらの圧迫を内面的に打ち破り、これに勝利する秘訣を学ぶことにある。信者の人生には、絶え間なく外側で様々な事件が起き続けるであろう、しかし、信者が苦難に勝利する力を学ぶと、それらの出来事が、信者の内面に影響を及ぼさないようになる。いかなる現象が起きようとも、どのように自分自身を脅かされようとも、信者が大胆な確信に基づいて、キリストの復活を宣べ伝えることが可能になるのである。

パウロは書いている、

「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。

ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する賞賛が届くのです。」(Ⅰコリント4:3-5)

パウロは神の力ある使徒であったにも関わらず、兄弟姉妹と呼ばれた人々からも中傷されたり、あらぬ疑いをかけられたりもし、兄弟姉妹ではないこの世の人々からは、まして誤解され、憎まれ、迫害され、しばしばあらぬ罪を着せられて法廷にも立たされ、弁明を求められたりした。

このような迫害を使徒たちも経験したというのに、今日、キリスト者がこうした誤解や偏見や対立や苦難を全て避けて通ることができると考えるのは大きな間違いであろう。もしそのようにいかなる対立も迫害も生じないのだとしたら、その信者の信仰生活は何かがおかしいのだとはっきり言える。

しかしながら、パウロは、この世の目線に立って、人間の見地から、自分に対して下される評価や「人間による判決」をものともせず、「私は自分で自分をさばくことさえしません」と述べた。パウロはかつては熱心なユダヤ教徒であり、教会の迫害者であり、それゆえ、クリスチャンからは回心当初は恐れられもし、疑いもかけられもしたが、そのような過去でさえ、パウロは神の御前に死んだものとして一切ないがごとくに自分の手から放し、すべてを神の御手に委ね、自分自身では全く過去に拘泥せず、それに限らず、回心後に起きたどんな事柄についても、自分で自分を振り返って犯した過ちとキリストへの従順を勘定して、自分がどの程度義人であるかをはかるようなことをしなかった。

パウロは人前に立たされて弁明を求められる時、自分自身により頼まず、ただ彼を贖い出されたキリストの御名、キリストの義と聖と贖いだけに頼って立ったのであった。それだけが自分を守る防御の盾であることを彼は知っていたからである。彼は、神がいずれ自分を裁かれることを知っているが、神の裁きをも恐れてはいない。神の裁きについて大胆に述べることができたのも、彼が人間の裁きから身を避ける口実として、神の裁きを持ち出していたからではなく、人間の裁きよりもはるかに正確で決して間違いのない、すべてをご存知である神のさばきの前に立たされる時でさえ、確信を持って進み出ることができるという自負を持っていたためである。

その確信に満ちた自負は、地上の人であるパウロ自身から生まれるものではなく、パウロを通して働かれるキリストによるものであった。全身全霊でキリストに従い通しているがゆえに、パウロは、この方が、自分自身を力強く弁護して下さり、義として下さり、神は信じる者の信頼に応えて下さるという確信がったのである。

それだけではなく、パウロは、神の裁きの前に立たされる時、自分が罪に定められることがなく、義とされるばかりか、朽ちない栄冠を受けるであろうことを確信していた。信仰者はただキリストの贖いを信じて神の目に義とされただけでは十分ではない。それだけでは、罪赦されて、ただスタートラインに立っただけのことである。それ以上に、神からの栄誉にあずかるために、地上で勝利を持って試練を通過せねばならないのである。

兵士が戦いを経ずして勲章をもらうことはできず、スポーツ選手が試合を経ないのに賞を勝ち取ることができないように、信者には、この地上において患難を忍び抜くことによってしか、得られない天の栄誉がある。苦しみや圧迫を通して、信仰が試され、すべての試練に勝利する秘訣を学び、キリストにあって、完全に「おとな」にならない限り、神の朽ちない栄冠を得ることはできないことを、パウロは知っていた。だからこそ、救われた後の地上における生涯を、彼はこの朽ちない「神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走る」ことに費やしたのである。

つまり、天で用意されている「神の栄冠」という栄誉を得るために、信者は、この世における苦しみを通され、それを通して、キリストの十字架の死に同形化され、より深く復活の命にあずかるのである。この死を土台とした復活の命の増し加わりこそ、教会の成長の秘訣なのである。

「私たちは、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくさる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:12-14)

ヤコブも同じように、試練、患難、苦しみを信仰によって忍び通すことによってのみ、信者は「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者とな」ることを書いている。

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いてよしと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)

以上の事から、私たちは、どうすれば信者がキリストに似た者とされるのか、どうすれば、「鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」くことができるのか、どうすれば、「キリストの身丈まで成長し、完全なおとなとなる」ことができるのか、その秘訣を学ぶことができる。

エペソ書4章11節から16節には、キリストのからだを建て上げるために、信者それぞれに与えられた賜物に従い、教会には役割分担があることが語られると同時に、そうして信者一人一人が賜物に応じて互いに仕え合うことが、信じる者たちが「キリストの満ち満ちた身丈」にまで成長し、「完全におとなになって」、もはや人間の言い伝えに過ぎない偽りの教えに騙されたり、弄ばれたりすることなく、真理のうちにとどまり、キリストに従い抜いて成長するためであることが語られている。

しかしながら、多くのプロテスタントの教会においては、エペソ書のこの箇所は、組織としての教会内の信者の役割分担を示すものと解釈して、教会に牧師制度を置く根拠とさえみなしている。だが、筆者はそのような文脈でこの聖書箇所を引用しない。筆者はそもそも教会というものを、地上の組織としては見ておらず、教会内に町内会やらPTAやら、はたまた学習塾のような、様々な固定化された役割分担を置くことにより、教会の成長を促すことができるとも考えていない。

むしろ、筆者自身の経験に立って言えば、キリストのみからだなるエクレシアの働きは、決して、地上的な組織としての役割分担や、まして教団教派や組織の枠組みにとらわれるものではなく、むしろ、そのような地上的な疑似教会組織と無関係になった時点で、初めてキリストの生きた働きが信者に見えて来るのである。神は人間が人間の意志によって立てた地上の組織のネットワークを通さず、人の思いによらず、人知を超えた不思議な方法で、互いに知らない信者たちをも時宜に応じて引き合わせ、しばしば、予期せぬ形で、塩気を失って死んだこの世の地上組織としての教会の代わりに、この世の不信者からの圧迫でさえも、エクレシアを建て上げる機会として用いられる。

これは、決して不信者が教会の一部となって、教会のために奉仕していると言うのではない。不信者はあくまで教会の外にいて、教会を建て上げる目的でその働きに関わっていないのだが、それにも関わらず、この世の不信者からの迫害や圧迫を、神は教会を建て上げる手段として用いておられるのである。

前回、ステパノの殉教の場面に触れたが、イエスの復活後、このような形でユダヤ教徒による教会への迫害が強まるまでは、弟子たちの宣教によって、神の御言葉を受け入れる人々が地上に増え広がり、神の教会に加えられる兄弟姉妹が増加していた。人の目には、あたかも、そのようにして信者数が地上で増加し、教会が地上で権勢拡大し続けることこそ、教会の「成長」を指すように見えるであろう。

ところが、神は教会の成長を、決して、そのような規模や人数や組織力によってはかられないのである。むしろ、神は、サウロによる教会への迫害、ステパノの殉教などの出来事を許されて、教会が地上で勢力を増して人間的な力の結集する場所となって、強大な組織が建設され、弟子たちが多くの信者たちを従えて宗教的権威となるよりも前に、信者たちを迫害によって散らされ、教会を離散させられたのである。

教会の成長は常にこのように、世からの激しい迫害や苦難と背中合わせで、人間の目から見た繁栄や成功とは真逆の方向性を向いており、真にキリストに従う弟子たちが、大勢の人びとから敬われ、かしずかれ、立派な教師、宗教的権威者として崇められることはない。神の望んでおられる「教会成長」は、これとは全く正反対で、地上における迫害や苦しみや誤解や偏見とは一切無縁の、地上で歓迎され、安泰な地位を築き上げることのできる強力な組織力を意味しないのである。むしろ、神から見た教会の成長とは、量や規模といった、外側から見て誰しもすぐに分かるような基準でおしはかられることはなく、より深く内面的な基準によってはかられ、量よりも質を指していると言えよう。つまり、信者があらゆる苦しみの中を通され、代価を払って、ただキリストだけに従い抜く過程で生まれて来る洗練された従順、献身、信者がキリストの死と復活に同形化されたその程度の増し加わり、神への燃えるような愛の増し加わりを意味するのである。

このようなわけで、筆者は、エクレシアが何であるのかを、信者が肉眼でとらえて理解することはできず、エクレシアというものを、人が地上の組織の中に限定・固定化することもできず、また、エクレシアをキリストにふさわしく建て上げ、成長させるために、神がどのような方法を用いられるのかを、決して人知でははかりしることができない、という考えに立っている。

神がエクレシアを成長させられる手段は、この世の人々が組織を成長させるために考え出すような手練手管とはむしろ反対なのである。この世の人々は、教会に学習塾のような役割分担を設け、専門家による教育訓練を充実させ、入塾した者たちを鍛えれば、それによって教会全体の信仰を成長させることができると思うかも知れない。だが、神は決してエクレシアの成長のためにそんなな方法を用いられることはない。

先の記事でも触れた通り、パウロが述べたのは、むしろ、教会に栄光がもたらされるのは、キリスト者が投獄されたり、迫害されたり、誤解され、排斥され、苦しみを受けるなど、人間の目には決して好ましくない、心地よくない様々な出来事を通してだということであった。そのようにして、一人のキリスト者が苦しむのは、教会全体のためであり、教会全体の利益にかなっていると、彼は述べたのである。

これはまさに人が肉眼で見て、組織を成長させ、発展させる方法とは真逆である。人間の目には、苦しみや、迫害や、組織を弱体化させるものにしか映らないであろう。このような逆説的な方法を用いて、神が教会を成長させておられるとは、信仰者でさえ、信仰によらなければ、理解することはできないであろう。

しかしながら、たとえ人知ではかることができずとも、このような形で、キリスト者が不思議な形で互いに仕え合うことによって、教会が成長して行くのである。信者たちが互いにお世辞を述べあって、互いを誉めそやし、互いに栄光を受け合い、苦しみとは無縁の、人間にとって心地よく安全な共同体を地上に確固として築き上げることで、教会が成長するのではなく、むしろ一人一人が自分の代価を払って、試練を忍び通しながら、キリストに従い抜くその過程で、初めて互いが仕え合うことが可能になるのである。そのようにして、信者一人一人が「完全におとなになってキリストの満ち満ちた身丈にまで達する」のである。

「それが、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。<…>

 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:12-16)

果たして、今日、キリスト教と呼ばれる宗教が、すっかり人間の安楽と現世利益のためだけの疑似宗教と化している中、このように主のための試練をも甘んじて受け、この世からの迫害や誤解や偏見や危難をも勇敢にくぐり抜け、様々な訓練を通して、神の御手に懲らしめられながら、それでも己を低くしてそれに耐え、苦難を忍び通して信仰を成長させ、キリストの死と復活により深く同形化され、朽ちない神の栄冠にあずかりたいと、心から願う信者は、どのくらい存在するのであろうか? 

そういう信者がどのくらいいるのかいないのか、それは筆者の知るところではないが、苦難と栄光の深い関わりについてのテーマは、この後の記事でもさらに続行して行く。

十字架の死と復活の原則―患難が生み出す栄光―後ろのものを忘れ、ひたすら前のものに向かって進み、キリストが上に召して下さる神の栄冠を得るべく、目標を目指して一心に走る

「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ14:11)

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。


 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。


私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:16-18)

巨大なエクソダスが完了して、不思議なほど心が平安に満たされている。

一つ前の記事で、「キリストに従うことに、そんなにも多くの代償が伴うなら、信じることに何の意味がありますか。キリストを信じたゆえに、世からの理解を失い、迫害されるなら、生きることが前より苦しくなるだけで、信じることにどんなメリットがあるのでしょうか」という不信者の問いを取り上げた。

確かにキリストに従うことには代償が伴い、多くの患難がつきものである。不信者のほとんどはそれを聞いただけで、踵を返すことであろう。ちょうどイエスのために全財産を捨てることをためらった金持ちの青年のように。

だが、キリスト者は、イエスに従うことに伴う代償だけに注目して、恐れ、失望したりはしない。なぜなら、地上における患難が、むなしい代償では終わらず、永遠の重い栄光をもたらすことを知っているからである。

今回は、キリスト者にとっての苦しみと栄光との不思議な関係について、つまり、十字架の死と復活の原則について、信じる者が代価を支払ってキリストに従うことに伴う恵みが、どれほどはかりしれないものであるかについて、少しばかり書いておきたいと思う。

さて、冒頭からまたもや突飛な展開だと言われるかも知れないが、今、筆者が思い出すのは、次の聖書箇所である。これは筆者が好んで使っている箇所なので、以前にも幾度か引用したかも知れない。

「ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した
しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。

彼らはその町で、福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った」(使徒14:19-22)

パウロは、かつては熱心なユダヤ教徒であったが、主イエスに出会って、十字架の贖いを知り、福音の使徒とされてから、かつては仲間であったユダヤ人や律法学者から激しく憎まれ、妬まれ、執拗に命をつけ狙われ、迫害されるようになった。

上記は、ユダヤ人たちに扇動された群衆に取り囲まれたパウロが、石打ちに遭い、あわや命を失う寸前まで追い込まれる場面である。当時の石打ちは、死罪を宣告する行為であり、つまり、ユダヤ人たちは、個人的にパウロの働きを妬んでいただけでなく、パウロがユダヤ教の教えに基づく律法による義を捨てたことを深く恨みに思っていたので、何の罪も犯してなかったパウロを、勝手に死刑にしようと狙っていたのである。

その恨みと憎しみの背後には、キリストの十字架によって人類が贖われ、罪赦されるという、律法によらない、信仰による義そのものが、決して認められない、というユダヤ人たちの思いがあった。

それは、人が自分の努力によらず、神の一方的な恵みを信じることによって、信仰によって義とされる道が開かれてしまうと、ユダヤ人たちが日々熱心に律法を守って、落ち度なく立派に行動することによって、自分で自分を善人とし、義としている一切の努力が水泡に帰するからである。そこで、ユダヤ人たちは、パウロの宣教によって、自分たちの教えそのものが危機に晒されていると感じ、自分たちの必死の涙ぐましいまでの努力が無にならないために、パウロの宣べ伝えるキリストの信仰による義を何とかして否定しようと、パウロをつけ狙い、迫害し、神が罪赦された聖徒であるパウロをあわよくば再び罪に定めて、自分たちの手で処刑して死に追いやろうと執拗に試みていたのである。

しかしながら、群衆が獣のごとき暴行に満足して、パウロはすでに死んだものと思い込んで立ち去った後、パウロはまるで何事もなかったかのように起き上がり、自分で歩いて町に入って行った。そして、その後、危篤状態に陥ることもなく、入院することもなく、翌日にはもう別の町に向かって出発し、そこで福音を宣べ伝えて多くの人々を悔い改めに導き、キリストの弟子とした。

パウロの身に起きたことは、多くの信者たちを驚かせたと同時に、勇気づけた。すなわち、パウロは、キリスト者には、地上での生涯を終えて、完全に神の国に入るまでの間に、多くの苦難が残っているが、それだからと言って、決して信者が失望する必要はなく、勇気を出しなさいと勧めたのである。なぜなら、神はキリスト者に、地上で受ける全ての患難を乗り越えるに十分な力をお与えになっているだけでなく、信者が地上で失ったものの代償として、天で栄光に満ちたはかりしれない重い褒賞を用意して下さるからである。だから、たとえ地上で予想外の事柄が起き、人々の思わぬ反対に直面し、物事が順調に行かないように思われる時にも、勇気を失うことなく、むしろ、あらゆる患難には死を打ち破ったキリストの復活の命が働くことによって、信者にはいかなる損失も生じず、天の御国に収穫がもたらされることを知って、勇気を出してしっかりとこの道にとどまり、信仰を捨てないようにと勧めたのである。

聖書の他の箇所を見ても、御霊を通してパウロの内に住んで下さったキリストは、パウロの内なる人を通して、彼の外側の限界ある肉体をも強め、人知では考えられない力を与えていたことが分かる。

キリストと共に十字架の死を経ると、その信者を生かしている命は、滅びゆくアダムの命から、死を打ち破ったキリストの復活の命へと変えられる。その復活の命は、キリスト者が地上で使命を終えるまで、信者のすべての必要を供給し、信者がこの世で受ける全ての圧迫を超えて、神から受けた召しを果たす力を与える。

贖われた人々は、自分を生かす命が、キリストの新たな命となったことを知った瞬間から、神の超自然的な命の力が自分を支えていると同時に、悪魔と地獄の全軍勢の尽きせぬ憎悪の前に、自分がキリストの復活の証人として立たされていることを知る。この人間のものではない、超自然的な、神の非受造の命のゆえに、キリスト者を巡っては、暗闇の勢力からの激しい陰謀や妨害を含む、途方もない規模の霊的対立が起きるのである。

信者が主と共に十字架の死と復活に同形化されると、信者の意志とは関係なく、信者を巡って、常識では考えられないような極めて異常で極端な出来事が起きるようになる。だが、それは信者にとっては当たり前のことで、驚くには値しない。逆に言えば、もし信者に地獄の軍勢の憎しみに直面している自覚がなく、何らの激しい対立や圧迫も起きないならば、その人が本当にキリストのものとされているかどうかは極めて怪しい、と言えよう。

さて、筆者は、偽りの宗教体系を含めて、信者が訣別すべきこの世の教えの体系からエクソダスを果たす際には、多くの圧迫や激変が起きることを書いた。そうした圧迫は、人間の目には、無用な苦しみでしかないように見えるかも知れないが、信じる者にとっては、大きな栄光の前触れである。冒頭で挙げた御言葉の通り、キリスト者が受ける苦難には、すべて後々報いが伴うのである。

人間は生まれつき試されることを喜ばないので、神の手から与えられる患難や試練を忍耐強く乗り越え、これを喜んで受けることを学ぶまでには、少しばかり時間がかかる。だが、聖書の御言葉は真実であり、キリスト者が地上で受ける苦難は、どんな種類のものであっても、すべて「軽い患難」に過ぎない一方、これを耐え忍んだ対価として与えられるのは、天での「測り知れない、重い永遠の栄光」である。

だが、不信者は言うだろう、「いや、ちょっと待って下さい。ユダヤ人に憎まれ、扇動された群衆にあらぬ罪を着せられ、石打ちになって殺されそうになることのどこが、「軽い患難」なのでしょう。しかも、パウロは生涯に渡って、ずっとそういう迫害に直面していたのでしょう。」それでも、筆者は言う、そういうものはみな軽い患難でしかないと。たとえ、信者が殉教に至り、地上の肉体の幕屋を破壊されたとしても、それもすべて軽い患難でしかないと。

重要なのは、そのような一つ一つの患難に対して、神はそれをただ耐え忍ぶのみならず、勝利を持って乗り越える力を信者にお与えになり、多くの場合、信者のこの地上での人生がまだ終わらないうちに、それに対する報いとしての天の栄光を垣間見せて下さり、それによって信者が十字架の死と復活の法則が信じる者の内に生きて力強く働いていることを知ることなのである。

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という御言葉が意味するのも、同じことなのである。もしキリスト者が、地上では苦難しか味わえず、敵意や、辱めや、嘲笑や、迫害にしか遭遇することなく、その報いとして与えられる栄光や喜びは、すべて死後になってしかやって来ない、などと考えるなら、それはあまりにも大きな間違いである。信者が地上で受ける全ての苦しみは、信者が自分を低くするために与えられるものだが、日々の十字架を耐え忍んだ代価として与えられる栄光を、信者は生きているうちにも、日々見ることができる。

多くの場合、信者が地上で受ける苦しみは、神が信じる者を高く上げて下さることの前触れである。信者は、神が大きな解放の御業をなし遂げて下さろうとしている時には、ほとんど決まって、人の目から見ると苦しみとしか思われない事柄が前もって起きて来るのを理解するようになる。だが、その苦しみは栄光の前触れでしかなく、信者が心騒がせずに神を信頼してこれを受けるならば、そこに、天の法則が働いて、人の思いもかけない解放が起こり、神が願っておられる通りに天の栄光がもたらされる。

キリスト者は、この地上にありながら、内にキリストをいただいていることにより、すでに来るべき世の統治の中に入れられているのであり、天の支配下に生きているのである。そこで、死後を待たずとも、キリスト者の内には、絶えず天的法則が働いて、御言葉が実際として成就する。だから、こう書いてある。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」と。

ここで「私たちのうちに働いて」と言われているのは、患難が「私たちキリスト者の内なる人を通過することによって」、重い栄光をもたらすと述べられているのと同じである。

つまり、キリスト者にとって、患難とは、それが自分の内なる人を通過することによって、そこに天の法則が働いて、測り知れない、重い永遠の栄光がもたらすきっかけでしかないのである。その証拠の一つに、石打にされそうになったパウロが、別の町で行った宣教の際に、新たな弟子たちが起こり、天に収穫がもたされたことがある。他にも色々な収穫があったかも知れないが、要するに、パウロが受けた苦難を通して、十字架の死と復活の法則が働いて、人々の魂が神に立ち返り、御国に大きな収穫がもたらされたのである。

このことは、キリスト者が地上で苦しみを受けることによってしか生まれ得ない天の栄光が存在することを教えてくれる。だが、誤解してはならないのは、これは決して信者が自ら苦しみを求めて良いという意味でなく、人が自分で自分を苦しめることとは全く異なる。信者の意志とは関係なく、神が許されて、地上で患難が与えられ、信者がそれを己を低くして信仰によって受け止める時、天で大きな報いが伴うのである。

さて、信者の「内なる人」とは、キリストと言い換えても良いかも知れない。確か、ウォッチマン・ニーがどこかの解説に書いていたように思うが、キリストの御霊が、信者の内側に住んで下さることによって、信者の内側では、御霊と信者の霊とが分かちがたく結びついている。

これはちょうど一人の人の中に二つの人格があるようなものだが、しかしながら、それは病的な二重人格ではなく、あるいは、ローカルチャーチの教えのように、「神と人とが混ざり合う」ことでもない。キリストと信者との結合は、ただ霊においてのみの結合だからである。

信者の内側で、キリストの人格と、信者の人格は、互いに分裂して押しのけ合ったり否定し合ったりすることなく、調和の取れた形で不思議に同居している。それが、キリストの人格が、御霊を通して、信者の内に住んで下さることの意味である。だが、それは自動的に達成される調和ではなく、信者の側からの協力が必要であり、信者にはキリストの人格を無視することもできるし、拒絶し、否定することもできる。もし信者がキリストの御声に聞き従うのをやめれば、キリストの人格は信者の中で働きをやめ、その状態が続けば、御霊はやがてその信者を去るだろう。

正常な状態の信者にあっては、信者の「内なる人」が、キリストの内住によって満たされ、強められているがゆえに、信者は外側ではこの世の滅びゆく肉体を持った有限な存在に過ぎず、魂においては、地上の人としての記憶や意識を持っているが、それでも、信者の内側には「キリストの成分」とでも呼ぶべきものがあって、それが信者の「内なる人」を形成するのである。つまり、信者の「内なる人」は、信者自身の霊と、キリストの御霊との結合から成り、この二つの人格を共に指していると言っても良い。

それゆえ、信者が地上で苦しみを受け、患難が鋭い矢のように信者の内側を通過してその存在を射るとき、その苦しみは、ただ信者という一人の人間を通過するだけでなく、信者の内におられるキリストをも通過するのである。それによって、ただ地上の滅びゆく有限なる存在としての人間が苦しめられただけでは、決して起き得ない現象が起きる。つまり、信者が受けた苦しみが、天ではキリストの受けられた苦しみに加算され、それが天の権益に関わる事柄として受け止められ、そこに天の法則が働いて、栄光に満ちた収穫がもたらされるのである。

パウロが「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と言った言葉の意味はそこにある。キリストが十字架で受けられた苦難は、それ自体、完全であって、人間によって補わなければならない欠点はない。だから、信者が地上で苦しみを受けることで、キリストの御業に何かをつけ加えたりするわけではない。だが、それにも関わらず、神は地上において、あえてキリスト者一人一人が、主イエスに従う過程で苦しみを受けることをお許しになる。神はそれを通して、信者一人一人を練られ、ご自分にならう者として鍛え、その心を吟味されると同時に、さらに、その苦しみを通して、信者に栄光をお与えになり、何よりも教会に栄光をもたらされる。上記の御言葉は、前後を踏まえて引用すると次のようになる。

「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです
私は、あなたがたのために神からゆだねられた努めに従って、教会に仕える者となりました神のことばを余すところなく伝えるためです。」(コロサイ1:24-25)

つまり、パウロが受けたような迫害は、キリストのからだなる教会のためだというのである。パウロは教会に仕える者として患難を受け、そこに天の法則が働いて、神の国に収穫がもたらされるのだというのである。

この死と復活の法則は、ステパノの殉教にも当てはまるだろう。パウロの回心という巨大な事件は、ステパノの殉教なしには起こらなかった出来事であると考えられる。

キリストの弟子とされた後、「ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。」(使徒6:8)。つまり、ステパノは、イエスの力ある弟子であった。これに対し、その当時、パウロ(サウロ)はまだ青年で、キリストを知らず、熱心なユダヤ教徒として、教会を迫害する側に回っていた。サウロは個人的にステパノの石打に大いに賛成しており、群衆によるステパノ殺害の場面にも立ち会っていた。

しかし、当時は何のためらいもなく、確信を持って、ステパノを迫害する側に立っていたパウロが、ダマスコ途上で復活のキリストに出会って、キリストの僕に変えられる。この出来事は、直接的には、ステパノの死とは関係がないように見えるが、それでも、これは信仰者の目から見ると、ステパノが受けた患難なしには決して起き得ない収穫だったものと思われる。

ステパノが殉教した場面で、彼が群衆に向けて語った最後のメッセージの締めくくりと、群衆の反応を、ここに引用しておこう。ステパノは群衆に向かって言った、

かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです
あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか
彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。

人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。
「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

人々は大声で叫びながら耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出し、石で打ち殺した

証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。

こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。

「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。」(使徒7:51-60)

前の記事で引用したイザヤ書の預言の通りである。ユダヤ人たちは、福音を聞いても耳を塞ぎ、神の御言葉を携えてやって来たイエスの弟子たちを見ないために目を覆った。彼らは、自分たちは律法を守り、落ち度なく行動しているという自負のゆえに、信仰による義を認められず、福音を全くの有難迷惑として退けた。彼らは福音をただ受け入れなかっただけでなく、福音を語った神の僕にも、尽きせぬ憎しみを燃やし、迫害し、石で打ち殺すまでに至ったのである。

これは、決してユダヤ教対キリスト教などといった対立構造を示すものではなく、神の義対人類の義の霊的対決を示すものである。すなわち、ステパノが神の恵みとしての信仰による義を語って、人類が自らの力で神の義に達しようとしている必死の努力を否定したために、有史以来、常に自力で神に到達するためにバベルの塔建設に励んでいる人類が、人類の涙ぐましい努力を否定する神の福音を、人類を冒涜するものとして理解し、これを宣教することが、死罪に当たる「罪」であると考え、福音を聞かないために耳を塞いで、神の義を否定しながら、その証人である神の僕を迫害して殺したことを意味する。こうして、世は人類の存在しない「聖」や「尊厳」を守るために、常に神を冒涜し、神の御言葉を退け、神の僕をも退けるのである。

先に引用したパウロの石打ちの場面とは対照的に、ステパノはここで殉教して生涯を閉じる。しかし、これら二つの場面に共通しているのは、パウロが、ユダヤ人たちの憎しみによって内面的に全く影響を受けなかったのと同様、群衆の激しい憤りと殺意に直面したステパノも、その出来事によって全く魂を触れられなかったことである。

ステパノは群衆が福音を拒絶することや、悪意に満ちた反応を返すことを前もって完全に予測していた。彼は霊的に贖われない人々が福音に対してどういう反応を示すか、理解していたのである。だから、彼は群衆の反応に動じることもなければ、彼らの憤りの前に譲歩することもなかった。彼は憎まれることを承知で群衆の前に立ち、拒絶されることを知っていながら福音を語り、殺されることも覚悟の上で、あえて真理を宣べ伝える神の僕として、最後まで世の前に立ち続けたのである。

そして、群衆の激しい憤りに直面しても、ステパノの人格が傷一つ受けず、動揺することも、悲しみに暮れることも、怒りをかきたてられることもなく、彼の心が、群衆の反応とは一切無関係に、最後まで平静を保ち、外側の肉体の幕屋が傷つけられても、内側では全き平安のうちに、揺るぎなく真理の確信に立ち続けることができるように守ったのは、主イエスご自身であった。

このように、全世界から激しい憎しみと悪意を向けられ、ついには命さえ奪われても、それによって全く微動だにしないような、人知では説明のできない、圧倒的な内なる平安が、ステパノの全人格を覆っていた。それは、パウロも全く同様であった。

このように、神の福音は、これを信じて受け入れた人々を、世から完全に切り離し、神だけに全幅の信頼を置いて、神の僕として立たせる。使徒たちは、人に拒絶されても、誤解されても、否定されても、そのような世の反応によっては全く変わらず、揺るがされることのない、圧倒的な平安を伴う内なる満ちた確信を持っていた。それは、決して相手に見返りを求めない、神の無条件の愛から来るものであり、神の愛が、それに捕えられた人々をも、キリストと同じようにあらゆる苦しみに耐えられるよう励まし、力づけ、勇気づけるのである。

このように、人の目から見て苦難が最大になった時にも、信者がその中でなお真理の確信に立ってこれを力強く守り抜く力を与えるのは、神ご自身である。ステパノの殉教の後、回心したパウロも、やがてはキリストご自身や、多くの弟子たちにならって、殉教することになる。使徒行伝にパウロの殉教の場面は描かれていないが、彼は皇帝ネロによるキリスト教徒への大迫害の時代に、ペテロなどと共に殉教したと言われている。おそらくは、描写もはばかられるような形で非業の死を遂げたに違いないと想像するが、最後までキリストの僕として、喜びと確信に満ちて大胆に主を証しつつ、衝撃的でドラマチックな形で生涯を閉じたのであろう。
 
このような殉教の場面を、信者ならば理解することができる。人間の目にどのように見えようとも、どれほど多くの人たちが理解せずとも、もし代価を払って主イエスに従うことができるなら、それは言葉に言い尽くせない栄光だと感じるのである。もちろん、人間の努力によってはそんなことは達成できない。誰も自らの目に損失と見えることを願う者はない。だが、信者が代価を払うことに心から同意し、自分の全ての利益よりもキリストを優先することを願い、神に自分自身を完全に捧げるならば、神がふさわしい時に全ての機会を用意して下さり、何が起きても、最後まで動じず、確信に立ち続ける力を信者に与えて下さると、はっきり言うことができるのである。

だが、不信者はこのような話を聞けば、ますます疑念を深めるだろう、「私はそんな人生を送りたくありません。そんなのは狂信者の道ですよ。あなた方の神は、信じる人々にそんな重い代償を要求なさる神なのですか。苦難を与えた上に、命まで捨てて殉教までせよというのですか。一体、そんな人生のどこに「測り知れない、重い永遠の栄光」があるのですか?」

これを人に分かるように説明するのは難しく、以上のような意見の持ち主を説得するのは不可能であろう。ステパノの殉教と、パウロの回心を直接的に結びつけることができないように、どうやって信者の中で患難が栄光を生むのか、それは理屈によって説明できることではない。だが、それでも、「今の時の軽い患難」「測り知れない重い永遠の栄光」と一つに結びついている、というのは確かな御言葉だと言えるのである。地上での些細な苦しみさえそうなのだから、ましてパウロやステパノが辿った殉教がそうでなかったはずがないのである。

ダマスコ途上でパウロに現れた復活のキリストは、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:5)と名乗られた。このことは前述した通り、キリストのものとされた信者たちの内側には、キリストが住んで下さっており、その意味で、彼らはただの地上の人間ではなく、彼らは「キリストのからだ」を構成しており、それゆえ、信者たちの内面を苦しみが通過する時、それは信者の中におられるキリストの人格をも通過することを意味する。だからこそ、信者たちが受けた苦しみを、神はキリストが受けられた苦しみと同じものと考えられ、イエスは、迫害されている教会が、ご自身であると言われたのである。

ここに、教会を迫害することの恐ろしさがある。今までにも書いて来たように、神に贖われてエクレシアとされたクリスチャンを迫害することは、あれやこれやの地上の人間を苦しめることだけを意味せず、キリストの御身体だを傷つけることを意味し、文字通り、「キリストを迫害する」ことと同義だからである。パウロの場合のように、その人々がまだ福音を知らず、回心する余地が残っていれば良いが、もっと恐ろしいのは、群衆を扇動した首謀者としてのユダヤ人や律法学者や、あるいは、福音を知り、キリストの弟子を名乗りながら、神を裏切ったような人々に、果たして、悔い改めの余地があるかどうか分からず、場合によっては、アナニヤとサッピラに降りかかったような報いが及びかねないことである。

パウロは書いている、「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。」(Ⅰテモテ1:20)

御使いたちをさえさばく権限を持っている教会は、信者を名乗りながらも信仰を捨て、御言葉を否定し、神を裏切った人々を「サタンに引き渡す」権限をも持っている。昔であれば、それは教会から信者を除名することと同義に解釈されたのであろうが、地上の教会がむしろ不信者によって占拠されている今の状況で、筆者は、これをそういう文脈では解釈しない。「サタンに引き渡す」とは、信者が御言葉を否定する者たちに向かって、その者が「神の家族でなく、兄弟姉妹でもなく、神の守りの外にいて、サタンの支配下に追いやられていることを公然と宣告する」といった意味である。もっと簡単に言えば、信者がある人たちに向かって、「この人たちは私たちと同じ神の家族には属していないよそ者であって、私たちは彼らを守りません。この先、悪魔が彼を好き勝手に翻弄して、彼らの魂を占領しても、私たちはそれに対して一切、責任を負いません」と宣言しているのと同じである。

パウロを通して教会からこういう宣告を受けた二人にどういう結末が降りかかったのかは分からない。彼らに悔い改めの余地があったのかなかったのかも分からない。しかしながら、教会が彼らを見捨てると同時に、彼らの魂が悪霊に引き渡されて、サタンの思うがままになり、その人生が尋常ならぬ破滅へと向かって行ったであろうことは予想がつく。

ステパノは自分を殺した群衆を罪には定めなかった。それは、多くの群衆は扇動されていただけであって、自分が何をしているかも理解していないことを知っていたからである。しかし、それはあくまでそれまで福音を聞いたことがなかった人々に対する神の憐れみであって、確信犯的に福音に敵対し、神の御言葉を闇に葬るために、群衆を扇動してでも、陰謀を巡らしていたような人々の中には、おそらく神の憐れみも届かない人々が含まれていたことであろう。ステパノを拒絶した群衆も、その後、どれだけの人々が悔い改めることができたのか分からない。悔い改めなければ、いずれにしても、罪の報いが降りかかるのである。

このように、クリスチャンは世の人々にとって重大な試金石であって、外見がどんなに無力に見えるありふれた地上の人間であっても、内側に、測り知れない神の力である御言葉を携えている以上、信者の存在を通して、御言葉が人々をふるい分けるのである。信者の内におられるキリストが人々をふるいわける。そのため、御言葉を宣べ伝える使者が現れる時、人々の心の内に隠されていた、人が思ってもみなかったような内面が明らかにされる。多くのパラドックスが生じ、人の目に賞賛されていたものの醜さが明るみに出され、人の目に正義と見えていたものが、むしろその逆であることが判明し、ある人々は、御言葉につまずいて、あからさまに福音の敵と化す。ここで、応答の方法を間違えると、その人の人生全体が、取り返しのつかない方向へ向かって転げ落ちて行きかねない怖さが存在する。

だが、クリスチャンはある人々を「サタンに引き渡す」ことまではしても、その人の命運に最後まで手を下すことはしない。それは神の領域だからである。そこで、暗闇の軍勢との激しい闘いの中にある時、信者は、どこまでその闘いに関与して良いかについて、その程度をも、神に教わる。

たとえば、かつては兄弟姉妹と呼ばれた信者の中から、福音を否定し、教会の迫害者となるような者たちが現れ、彼らに勧めても、説得しても、何の効果もない場合、ある時点を境に、信者は彼らを公然と「サタンに引き渡」し、その人間どもから手を引かねばならない。神に逆らう人々をいつまでも相手に語り続けることがキリスト者の使命ではないからである。

そして、「サタンに引き渡」されたその瞬間から、彼らの存在は、聖徒らの全く手の届かない領域に去る。すべてのつながりが断ち切られ、彼らに降りかかる一切の事柄の責任は、聖徒には及ばないものとなる。そうなると、聖徒らはもう二度と彼らの命運を気遣うことも、関わることもない。

最近、筆者は、そのようなことを経験したばかりである。ある出来事を通して、あたかも、神が御使いらと共にこう言われたかのようであった、「ヴィオロンさん、あなたはよくやりました。あなたはやれるところまで十分にやりました。しかし、もうこれ以上、この出来事にあなたが関与する必要はありません。ここから先は、私たちの領域です。心配することなく、私たちにすべてを任せなさい。」こうなると、この世的な観点から見れば、決着がついておらず、まだ打つ手が残っているように見える場合でも、信仰的観点から見て、信者はその出来事から手を引かねばならないのである。あとは神と御使いたちの出番となる。

信者は、天と地の前でキリストの復活を証する使命を負ってはいるが、信者の目的は、人間的な思いで人々を説得することにはなく、人間的な観点から見て、すべての人々と折り合いをつけることにもない。この世は、ちょうどソドムとゴモラの町のようなものであって、その町で、キリスト者と住人とがどんな「折り合い」や「決着」をつけることが可能だろうか。

だから、キリスト者の使命は、福音を拒絶する人々を力づくで説得することで、自分の正しさを論証することにはなく、世に向かって語りはしても、世と交渉もしないし、深入りしない。世の敵意に直面しても、世と交渉するうことで、これをやわらげようとはしない。もしも、世に向かって、信者が自己の正当性をどうしても分からせようと、あるいは、何とかして福音を受け取らせようと、御言葉に逆らう世人を説得したり、論争に熱中したりして、世に深入りして行くと、結局、信者は世人の思惑に翻弄され、信仰による義から逸れて行くことになる。

どんなに神の福音が正しいものであっても、それを受けとるかどうかはあくまで個人の自由な選択に委ねられており、御言葉を聞いても従わない人間の末路は、信者の責任の外にある。世は始まって以来、福音を拒絶し続け、神の僕を迫害し続け、キリストを十字架にかけて殺したのであり、今に至ってもその悪しき性質は寸分たりとも変わらず、これを変えることがキリスト者の使命でもない。

だから、信者は、決して世から受け入れられることを願うべきではなく、むしろ、主イエスが地上でどのような扱いを受けられたかを思い起こし、低められることの中に、十字架の死の原則が働くことを思い起こすべきなのである。ソドムとゴモラの住人と、人間的な観点から折り合いをつけたり、彼らから歓迎されたり、理解されることが可能だと思えば、とんでもない間違いに陥るであろう。むしろ、神の目から見て、有益な結果が結ばれるためには、必ず十字架の死をくぐらなければならないこと、誤解や、拒絶や、否定や、蔑みや、迫害があって初めて復活の原則が働くことを思うべきなのである。何より、人が自分を真に高くしたいならば、低くされることに甘んじねばならないのである。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル12:2-4)

主イエスが罪人たちの反抗を耐え忍ばれ、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれたのは、「ご自分の前に置かれた喜び」を見て、来るべき栄光を確信しておられたからであった。つまり、神はご自分に従う者を決して見捨てられず、辱めが辱めで終わらず、苦難が苦難で終わらず、死が死で終わらないことを、予め知っておられたからである。だから、我々聖徒たちも同じように、自分が低められ、卑しめられる時に、落胆するようなことはなく、むしろ、一つ一つの苦しみに対して、天でどんなに栄光に満ちた報いが待ち受けているかを確信しつつ、この天の褒賞をまっすぐに見つめて、喜ぶ。

信者は、キリストの新しい命が、地上で受けるどんな損失をも補って余りあるものであることを確信しており、地上で起きる苦難には目もくれず、天に備えられた栄冠が、すぐそこに見えており、すぐ手の届くところにあることを知って、それだけを見つめて喜ぶのである。

ある信徒は言った、「悪魔は本当に愚かです。悪魔は、キリストを殺せば、復活という、悪魔が最も恐れる出来事が起きてしまい、悪魔の最大の武器である死が打ち破られて、役に立たなくなることを知っていたのです。それにも関わらず、地獄の軍勢は、抑えがたい殺意によって、キリストを十字架につけて殺害しないことがどうしてもできなかったのです。彼は自分で自分にとって最も不利になることをやってしまったわけですね。」

これは信徒が遭遇するあらゆる患難に同じように当てはまるであろう。信者たちは、至る所で、憎しみや、反目や、敵意や、辱めや、殺意にまで遭遇する。地獄の軍勢は彼らを見て歯ぎしりし、聖徒らの背中を踏みつけて、「自分たちは勝った」と誇るであろう。しかしながら、その次の瞬間、思いもかけないことが起きる。聖徒らの受けた一つ一つの苦難の中に、「十字架の死と復活」の原則が働いて、暗闇の軍勢が駆逐され、天の収穫がもたらされるのである。暗闇の勢力が占拠していた地には、復活の旗が立てられ、すべての名に勝る名を持つ方が高く掲げられて、この方が、すべてのものを足の下に踏みつけられる。サタンは彼のかかとで踏みにじられ、聖徒らもこの方と共に高く上げられて栄光にあずかり、共に喜ぶのである。

もちろん、私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:4)という御言葉が完全な形で成就するのは、キリストがやがて再び地上に来られる時である。だが、その時を待たずして、この地上で彼を待っている間にも、聖徒は様々な患難を通して主と共に栄光にあずかり、常に来るべき時代の栄光の前味を知ることができるのである。

この法則は、自分が低められることを拒み、ひたすら自分の正しさだけを主張して、人前に自分を義と認めさせようとしている世人や暗闇の勢力には決して理解できないものである。

今日、「人造のキリスト教」であるキリスト教界は、パウロやステパノのような弟子たちよりも、むしろ、彼らを迫害したユダヤ人や律法学者に似たものとなっている。そこにいる人々は、あらゆる努力を払って、人前に立派な善人と見られ、敬虔な信徒と認められようと、外見を飾り、熱心に奉仕に励み、自分の正しさを人前で主張することをやめられないでいる。彼らはあまりにも心頑ななので、人前に自分を折ることができず、己が罪を認めることもできず、熱心さの上にも熱心さを増し加え、ひたすら努力によって神に到達することが可能であると考えている。そして、彼らが神に至る手段だと思っている熱心な奉仕を否定する者が現れると、尽きせぬ憎悪をむき出しにし、教会から追い出し、迫害を加える。

だが、見落としてはならないのは、クリスチャンは一体、誰の目に義と認められる必要があるのか、という点である。私たちは、神の目に義と認められたいのか、それとも、神を知らない世間の目に認められたいのか、あるいは、クリスチャンの世間の目に認められたいのか、自分自身の目に正しい存在と認められたいのか。

外見的に自分を正しく見せかける能力に長けていることは、人にとって極めて不幸なことである、と筆者は思う。なぜなら、そのような能力が巧みであればあるほど、その人は十字架の死の意味が分からず、己を低くすることもできず、それゆえ、復活の命に至るチャンスが失われるからである。彼らは、自らの巧みな演技によって他者を欺くだけでなく、自分自身をも欺く。自分でイチヂクの葉で編んだ衣装、自らの手で建設した城壁に夢中になって、自分はこれほどまでに精進したのだから、すでにひとかどの人間になったはずだ、と思い込み、自分と同じように精進に励む仲間と一丸となって、人に対してだけでなく、神に対しても、自分たちを集団的に義と認めさせようと迫るのである。

だが、神はそのようにして人間の振りかざす義を退けられる。神が認められるのはキリストだけだからである。聖書にはこう書かれている、キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:6-11)


ここに、キリストが神の御前に高く上げられたのは、まさに彼がご自分を徹底的に低められ、十字架の死にまで渡されるほど、低められたためであることが分かる。だから、今日、キリストにならって己を低くすることのできない者が、天の栄光にあずかることは絶対にない、と私たちは言える。

こう考えると、自分の義を人前で捨てることができない人間ほど、哀れな存在はない、と言えるだろう。神の御前で己の義を誇って罪に定められたパリサイ人に連なるよりは、そのパリサイ人に罪人と蔑まれ、神の御前で悔い改めて義とされた取税人に連なる方が、人にとっては幸いではないだろうか。自分の中にはいかなる義もないことを認めて、自力で自己を改造して神に達しようとの努力を一切放棄して、自分自身がどうあろうと、ただ恵みとして与えられた神の義にすがることである。キリストの義こそ自分にとっての義であることを信じて、自分自身の努力によらず、これを信仰によって受けとることである、

贖われてキリストのものとされた信者は、もはや決して人の目に自分がどう映るかという基準で、自分を見たり、規定したりしてはいけない。信者がクリスチャンの世間を気にして、人前に敬虔な信者として自分の見てくれを整えようとすることは、極めて大きな誘惑であり、罠である。贖われた人々であっても、その罠に陥ることはありうる。ひとたび、信者が、神が自分をどうご覧になるかという基準でなく、人の目に、世間の目に、自分がどう映るのかという基準で、自分自身を推し量り始めると、その瞬間に、信者は蜘蛛の巣のように錯綜するこの世の人々の思惑に捕えられて自由を失い、信者に与えられた神の完全な義は曇らされ、信者は恐れの念に駆られて、聖書が教える通りに、神の福音を正確に宣べ伝えることが不可能になってしまう。

だから、信者は、バプテスマを通してすでに水に沈んだものを振り返るべきでなく、死んだものの名誉を気遣うべきではないのである。振り返ってはならないものの中に、信者の過去、信者の自己も含まれている。死体のあるところにハゲタカが集まっていたとしても、そんなものは注意に値する現象ではない。死んだ者には名誉も利益も存在しないのである。キリスト者が真に目を注ぐべきは、バプテスマを通して、水から上がった時に、天から注がれた喜び、神から受けた義認、死を経ることによって内側に生まれた、キリストに連なる新しい人、ちょうどノアが洪水を経て初めて足を踏み出した新しい大地に感動し、紅海を渡ったイスラエルの民が感嘆を込めて約束の地を仰ぎ見たように、信仰の人たちが焦がれ、待ち望んだ天の都を、つまり、キリストご自身を、どこまでも追い求めるべきなのである。信者はこの地上における生涯において、肉体の幕屋の中にあって、絶えず呻きつつ、キリストの十字架の死と復活に同形化されて、軽い患難と引き換えに、天の永遠の重い栄光を得る。それを通して、世人には決して分からない不思議な方法で、御心が成就し、天の御国に収穫がもたらされ、信者自身も主と共に栄光と喜びにあずかる。それが、信者がこの地上で信仰によって患難を通過することの意味なのである。
 
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。」(ピリピ1:21-22)

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るため、目標を目指して一心に走っているのです」(ピリピ3:12-14)

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです

 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています

 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのですそれゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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