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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

主は御座を高く置き、低く下って天と地を御覧になり、弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げ、自由な人々の列に返して下さる。

「ハレルヤ。
 主の僕らよ、主を賛美せよ。
 主の御名を賛美せよ。
 今よりとこしえに
 主の御名がたたえられるように。
 日の昇るところから日の沈むところまで
 主お御名が賛美されるように。

 主はすべての国を超えて高くいまし
 主の栄光は天を超えて輝く。
 わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。
 主は御座を高く置き
 なお、低く下って天と地を御覧になる。
 弱い者を塵の中から起こし
 乏しい者を芥の中から高く上げ
 自由な人々の列に
 民の自由な人々の列に返してくださる。
 子のない女を家に返し
 子を持つ母の喜びを与えてくださる。
 ハレルヤ。」(詩編113:1-9)

今回、謙虚さとは何かというテーマをさらに少し追記したい。

我々の生活には、神の恵みを大胆に享受することと、暗闇の勢力に立ち向かうという二つの重大なイベントが同時進行で起きて来る。

今週一週間も大きな学習の時であった。

以前にも書いた通り、ジェシー・ペンルイスが、クリスチャン生活に起きることは100%偶然ではないと述べているように、信者の生活には、暗闇の勢力からの攻撃が多々起きて来る。

聖書において、最も試みられた人物として名が挙げられるのはヨブであろう。ヨブはサタンの試みによって、財産、家族を失っただけでなく、自分の健康、友人をも失った。しかし、ヨブはそれらの試練にも関わらず、忍耐を伴う信仰によって、神に義と認められ、失ったすべてを回復する。

このことから、私たちが学べるのは、神がサタンの活動を許しておられるのには、それなりのわけがあること、それは私たちに損失を与えたままで終わりにすることが目的ではないこと、もちろん、信者自身が強くなって、試練に立ち向かうすべを学ぶ必要があると同時に、試練を通して、信者の信仰が練られ、信者が神の御前にへりくだり、忍耐を持って、神の約束待ち望むことを学ぶ必要があるために、そうした苦難がもたらされることが分かる。

真の謙虚さとは、私たちが自分たちは無力で何もできないと考えて、神の約束までも手放して、悪魔のなすがままに翻弄されることではない。だが、同時に、神の約束が成就するまでの間には、それなりの時がある。私たちの人生に試練が起きてくるときには、私たちはほんの少しだけ、頭を下げねばならない。

人間に対して卑屈に平身低頭する必要はない。ただ心の中で、神に対して、自分の人生がことごとく神の御手の中にあることを認め、神にすべてを委ね、己を低くして、試練の時をやり過ごす必要がある。何が起きようとも、神にだけ全幅の信頼を置いていることを告白する必要がある。

筆者はかつては人間の心の裏を読むということはそれほどせず、特に信者であれば、信仰仲間だという気安さも手伝って、他者の発言を勘ぐってみたり、疑ってみることは少なかったが、ここ数年間のうちに、嘘が海のように深まるにつれ、起きた数々の出来事を通して、人間の心の裏側を予め見抜いた上で行動することがどれほど重要であるかを学ばされた。

警戒せねばならないのは、すぐにそれと分かる詐欺師ような人々の甘言だけではない。すでに書いた通り、長年のつきあいのある身近な人々から、親切心を装ってやって来る嘘の助言や、嘘の約束、偽の好意などにも、振り回されるわけにはいかないのである。もしその嘘が見抜けなければ、誰にとっても、命がいくつあっても足りないような時代が到来しているためである。

この世の不動産の広告には良いことづくめの内容しか書かれていないが、現地に行ってみれば、初めてその物件の欠点が分かることも多い。我々はそうした事実が分かったからと言って、いちいち不動産会社に向かって「嘘をついたな」と責めたりはしないかも知れないが、いずれにしても、不動産のみならず、世に溢れている広告には真実性がほとんどないことは確かである。その他にも、求人誌を開けば、存在しているかどうかも明らかでない、ものすごい数の偽りの広告が掲載されている。求人詐欺などだけが問題なのではなく、広告そのものの真実性が極度に薄れている。

今や雀の涙のような賃金で将来性もないアルバイトのように味気ない仕事でさえ、そのほとんどがとてつもない倍率となっていて、存在しないにも等しいおとり広告も同然であるという事実を実際に知っている人たちは少ない。

さらに、広告のみならず、現実生活においても、誰もが自分を粉飾し、自分にとって都合の良いことしか明らかにせず、他者の目に自分を偽っている。そこで、私たちは、世の中にこうして山のように溢れる虚偽の情報の中から、何が真実であるか、何が本当の可能性であるのかを自ら探り出して、真実な関係だけを選択して行かねばならない。それができるかどうかの能力が試されており、そこに命がかかっているのである。

何が真実であるかを見抜ける力があればあるほど、損失が少ない状態で、目的にたどり着くことができるだろう。

だが、忘れてはならないことは、私たちの助けは、そもそも人から来るものではないということだ。私たちは山に向かって目を上げる。私たちの助けは、山よりもはるかに高く、天高く御座におられる唯一の神ご自身からやって来る。

そこで、神ご自身がどういうお方であるかという事実に立脚して、私たちは神の喜ばれる選択を自ら見分けて行かねばならない。神は悪を憎み、嘘偽りを嫌われる方である。人を偏りみず、公平で、不正を憎まれる方である。

その神を信じる人々が、嘘や不正にまみれた粉飾した情報をまき散らす人々に自ら関わって、平和な生活が送れるはずもないことは明らかだ。

だが、結局のところ、神ご自身に比べれば、地上の人間は、どんな人間であれ、移ろいやすい心を持った、当てにならない存在でしかなく、誰一人、本当の意味で頼ることはできない存在である。

そうした中で、私たちは地上社会と全く関わりなく生きて行くわけにはいかない以上、もともと移ろいやすく当てにならない存在である人間社会の中にも、真実、公正、正義を飽くことなく追い求め、嘘偽りのない関係を探し、これを追い求めて行かねばならない。

このことは、誰かに自分の理想を重ね、自分の心にかなう人物が現れるのをひたすら待つという受け身な姿勢を意味しない。どんな人物が相手であれ、その対象となる人々との関係性の中に、限りなく真実な関係を追い求めて行かねばならないということを言っているのである。それができない人々、つまり、最初から真実な関係を願ってもいないような人々とは、関わってはならない。

たとえば、筆者は、先日、見違えるように変化した会社の説明会を案内してくれた親切な友人のことを記事で語ったが、その人間が本当に親切だったと言えるかどうかも定かではない。筆者はその友人の会社に行くことはなく、むしろ、その直後に、その友人の助けなどを借りなくても良い、その友人に感謝を表明する必要のない、しかも、以前に相当に劣悪な環境にあった企業などに改めて希望を見いださなくても良い、別な解決ルートが与えられたのである。

確かに、その友人の働いている会社は、以前に比べれば、かなり良好な環境となっていたと言えるだろう。確かに大きな変化があったのだ。だが、それでベストということではあるまい。しかも、ちょうど筆者が説明会を申し込んだ日が来る前日に、クライアントの都合で予定を変えてもらいたいという電話がその会社から入って来た。すでに何日も前から約束済みである予定を、クライアントのわがままでドタキャンのように突如、変えて欲しいとその会社が言い出したのを聞いて、筆者は、それがこの会社の約束の不確かさをよく物語っていると感じた。筆者はその変更の依頼を断ったが、その時に、この会社には活路が見いだせないということを理解したのだった。

さらに、友人がその後、お盆に実家に帰省する予定になっていると述べたことも、筆者には見逃せない事実であった。しかも、友人はその会社に入るに当たって、何度も、何度も面接を受け直したと述べていた。

そうした事実から、筆者は、友人は本当に筆者に自分と同じ会社に入社して欲しいがために、自分の会社を案内したのではなく、ただ自分がどれほど恵まれた状況にあるかということを、筆者に自慢したかったというのが本当の動機だろうと推測せざるを得なかった。
 
要するに、その知人の助言の中には、また、その会社の約束の中には、「然り」と「否」が混在していることが、様々な出来事を通して確かめられたのである。そこから、これは筆者のために用意された真実な選択ではない、ということが、確実に理解できた。
 
実際に、筆者が見つけ出したのは、神を信じない人々との縁故によらず、「然り」と同時に「否」と言う人々から来る助けによらないで済む別な方法であった。

このように、神が与えて下さる解決は、人知によるものではなく、人の努力や、感情に依拠した解決でもない。そして、嘘偽りに立脚して解決がもたらされることもなければ、不正な方法で達成されることもない。
 
ところで、筆者は今まで様々な環境で働いて来たが、不思議なことに、最も多かったのが、非常に眺望良好な職場であった。

どういうわけか、鳥のように空高いところから、雄大な景色を一望できるような職場に、筆者はしばしば在籍して来たのである。事務所の窓が全面ガラス張りで、東京の町がまるでタワーの天辺から一望するように見える美しい事務所もあれば、あるいは、みなとみらいの風景が高みから一望できるビルもあった。
 
そのような特別の眺望の職場に巡り合うときには、今までの一切の苦労を見ておられ、それをねぎらって下さる神の何かしらの特別な采配、恵みを思わずにいられないものである。
 
これまでに筆者は、人生で抱える様々な問題について、信仰仲間も含め、色々な人々から励まされたり、慰められたり、助けを受けたりして来た。特に、仕事については、実によく祈ってもらったものである。だが、そうして信者に祈りの支援を求めた結果、筆者が痛感して来たことは、人間の同情という感情の不確かさであった。

これまで、筆者の周りには年配者の信者が多く、その中には、専業主婦も相当な人数にのぼっていた。彼女たちは、筆者が仕事を探している時に、快く筆者のために祈ってくれると約束してくれたので、筆者はその言葉を信じて、彼女たちに、これからどんな職場に行きたいと願っているのかを告げ、差し迫っている面接や試験の予定を伝え、もしもこの計画が御心に反していないならば、神が助けて下さるように共に祈って欲しいと何度か依頼して来た。彼女たちはいつも二つ返事で引き受けてくれたものである。

ところが、実際に筆者がその仕事に採用されると、それまでは親切だった信者の態度がガラリと変わるということが、幾たびか起きた。中にはいきなり、「その仕事はあなたにはきっと合わない。すぐに飽きるでしょう」などと捨て台詞を投げつける人が現れたり、筆者があまりにも簡単にその仕事を得たように見えるせいか、憤りに近い感情を示す人々もあった。

要するに、彼女たちは、筆者が祈りの助けを求めた時には、快く同意して祈ってくれたけれども、その祈りが、実際に神に聞き届けられるとは、まるで信じていなかったらしいのである。

彼女たちが見ていたのは、現実社会の世知辛い有様や、筆者の縁故の少なさや、強そうには見えない平凡な外見だけだったのだろう。こうした人々は、神を信じ、神の助けを乞うと言いながらも、筆者が実際に御言葉に従って、神から助けを得て進んで行けるとは全く思っていなかったらしいのだ。

こうした信者らは、筆者が苦境の中にある時には、優しく、同情的に接してくれるが、筆者が大胆に神の助けを得て、苦境から脱し、問題がなくなって自立して、生き生きと暮らし始めると、早速、苦々しい捨て台詞を残して立ち去って行ったりするのであった。

筆者は当初、そうした行動を見る度に、非常に驚いたものであったが、何度か同じ出来事を見るうちに、ようやくこれらの年配者らは、ただ年少者である筆者の置かれている苦境を、自分には関係ないものとして、高みから見物して憐れみ、自分の優越的な地位を誇りたいがゆえに、筆者に同情を示しているだけなのだということを理解した。

もちろん、そのような偽物の同情ではなく、真の同情を示し、共に喜びを分かち合うことのできる信者も決していないわけではなかったことは申し添えておきたい(ただし、まれな存在ではあったが)。
  
こうして、実に数多くの信者らの同情は、本物ではないことが判明するのであった。彼らは、弱みを抱えた人々には常に優しく接するが、自分が世話をしてあげた人間に弱みがなくなって、その人が自立して、もはや彼らの助けを乞う必要もなくなり、彼らの優越的地位が失われてしまうと、その立場の逆転に我慢がならなくなり、まるで自分が恥をかかされたかのような思いになって、憤慨するか、それを機に、関係そのものが終わってしまうといった現象が何度か起きて来たのである。

彼らの目から見れば、いつまでも可哀想に思って、同情の涙を注いであげられる対象が見つかったと思っていたら、あっという間にその人が自立していなくなってしまい、自分の役割がなくなったということなのかも知れない。

だが、いずれにしても、「助ける側」と「助けられる側」との間に常に隔ての壁がもうけられているような関係は、しょせん長続きはしない。「助ける側」に立とうとする人々の同情は、同情の対象となる人々を永久に弱さの中に閉じ込め、その人をいつまでも上から憐れみ、踏み台にすることによって、自分が手柄を得ることを目的とするものでしかなく、決して心から人の解放を願うものではないのである。
 
これと似たような現象が、筆者が関東に移住して来たときにも起きたことを思い出す。筆者が移住する前には、様々な人々が、筆者の状況に心を寄せて、熱心に祈ってくれたり、励ましてくれたりもした。筆者は、その人々の言葉や感情を全く疑うことなく、またその裏を勘ぐっていられるような余裕もなかったので、人々の慰めや支援を非常に嬉しく受け止めていた。

ところが、神が真実に筆者の願いに応えて、様々な恵みを与えて下さり、筆者が移住を決行するだけのすべての必要が備えられ、すべての問題が解決し、筆者の人生にもはや何の苦境もなくなり、一切、人の同情を受けたり、助けを求めねばならないような余地がなくなると、かつて、筆者の目から見れば、最も熱心に祈ってくれて、最もその解決を共に喜んでくれるはずだと思われるような一部の人々が、筆者の目の前で、筆者に与えられた恵みのニュースを聞いて喜ぶどころか、何とも言えない苦々しい表情を浮かべたのである。

彼らの表情には「なんでおまえが」という文字が、まるで書いてあるようにはっきりと読み取れた。その反応は一瞬のことではあったが、筆者はこれを見逃さなかった。彼らの表情には、はっきりと、パリサイ人や律法学者が、イエスが病人を癒されたことに嫌悪感を示したように、とらわれていた人間が解放されて自由になることを許せないと思う憤りが読み取れたのである。
 
そこで、これらの人々も、筆者のために祈ってはくれたが、その祈りが天によって聞き届けられるなどとは、最初から全く信じていなかった人々なのに違いないと推測されるのである。
 
こうした人々も、結局のところ、困っている人々のために尽くしたり、祈ってやることにより、自分がどんなに親切心や同情心溢れる善良な人間であるかを世間にアピールし、自らの優越的な立場を誇り、自己満足することを目的にしているだけであって、初めから人の解放を心から願う気持ちなどはなかったと思われるのである。
  
さらに、こうした人々は、常に自己を粉飾して、自分の目に自分を偽っているために、心の中で非常に屈折した思いを抱えており、神に素直に助けを求めることができないという袋小路に置かれている。だからこそ、他者に起きた解放を喜ぶことができないのである。

彼らはいつも虚勢を張って、自分には一切問題がなく、自分だけは完璧で、落ち度なく、他人を助けられる指導者的な存在であるかのように思い込み、困っていて助けを必要としているのは、常に自分以外の誰かだけだと考え、そのように振る舞っている。

そのようにして彼らは、神の御前でも人の前でも、弱音を吐くことができず、自分は強いと思い込んでいるため、現実に自分がどんな弱さや問題を抱えているのか直視できず、それらの問題について素直に神に助けを求めたり、神の助けを受けることもできず、その結果、永遠にその問題から抜け出せないという苦しみを抱えることになるのである。

だから、こうした人々は、筆者のような人間が、人にどう思われるかに一切構わず、なりふり構わない率直さで、神に向かって弱音を申し上げ、人にも祈りの支援を乞い、本気で自分の願いを口にし、そこへ到達したいと信仰によって表明した結果、祈った問題に対する解決を天から受け取っているのを見ると、ちょうど放蕩息子の兄が、帰宅して父に大喜びで迎えられた弟を見るような思いになって、我慢がならなくなるのである。

これらの人々は、おそらく自分たちだけが天の選ばれた特権階級であって、自分たちは常に人を助けてやる立場にあり、その優位性のある階級の中に、自分たちとは別格の、真に弱く、貧しく、取るに足りない人々が、あたかも対等な存在であるかのように入り込んでくる余地など全くあってはならないと考えているのであろう。

そこで、彼らの思い込みが打破され、神ご自身が、彼らよりもはるかに弱く、劣った、力のない存在であるように見える人々を、塵灰の中から引き上げ、王侯貴族のような服を着せて、神の子供たちの一人として、彼らと対等に迎えられると、彼らは、自分たちが独占していた立場が揺るがされるように感じ、決してこのような事態を放置しておくことができない思いになるのである。

しかし、神の国には、特権階級はなく、これは誰の独占物でもなく、神の国には多くの人々がまるで奪い取るように熱心に殺到しており、信仰の有無以外には、これらの人々が排除される理由もない。
 
それにも関わらず、うわべだけは、あたかも貧しい人々、弱い人々、寄る辺のない人々に福音が届けられ、神の解決が行き届くことを願っているかのように述べる人々の一部が、もう一方では、筆者が最も手に手を取り合って喜んでくれるだろうと考えていた解放の瞬間に、苦々しい表情を見せたことを、筆者は忘れることはないであろう。その表情が、他のどんな言葉よりも雄弁に、彼らの心の内を物語っており、実際に、その後、予想通りの結果が起きたのである。

要するに、福音を人助けの手段のように利用して人前に善人として栄光を受けようとする人々は、神が人間を真に弱さから解放して自由にされると、彼らの助けの手を必要とする人々がいなくなり、失業してしまうため、人間の解放を決して願わず、喜ばないのである。こういう人々は本質的には福音の敵にも近い存在であると言えよう。
 
そういうわけで、話を戻せば、かつての職場の友人は、以上に挙げたような信者(?)たちとは異なり、他人の成功や良いニュースに嫌悪感を示したり、これを否定するなどの非礼な行為は決して行うことはなかったが、それでも、信仰者でないため、筆者の口からすでに別の解決ルートが与えられたという話を聞かされると、「良かったわねえ」と言ってはくれたが、「もう、そんなに早く?」と非常に驚いた様子であった。
  
彼女は筆者がさぞかし思い悩み、落ち込んでいるだろうと思って電話をかけて来たところ、慰めの必要が全くないと分かり、筆者の問題にそんなに早くの解決が与えられるとは全く思っていなかったために当てが外れた様子が伺えた。

筆者にとっては、このようなことは、実に不思議な神の采配である。要するに、神は人に栄光を与えられないのである。筆者にとって、誰が長年の友人であり、親族であり、つきあいの長い、思い入れのある存在であるかなどは全く関係がなく、ヴィオロンを助け得る存在は、天にも地にも、神お一人しかいないということを、神ご自身が、あらゆる機会に示されるのである。
 
神ご自身が、まるで筆者を助けようとした誰かに向かって「あなたは考え違いをしています。この人を助けるのは私の役割であって、あなたの出番は全くありません。人間に過ぎない者は退きなさい」と語られているかのような状況が用意されるのである。
 
だから、キリスト者同士の間であっても、何かの解決が与えられる瞬間までは、共に祈り、進むことができた信者同士が、解決が与えられた瞬間に、道が分かれるということは多々起きる。それによって、特定の誰かが「私が祈ってやったから、ヴィオロンにこの解決が与えられたのだ」などと誇りようがない状況が起きるのである。
  
神が祈りに応えて解決を与えられる瞬間は、人の目から見れば、非常にスピーディで、何の苦労もなく、劇的かつ飛躍的に物事が展開するように見える。多くの場合、人の目には、まるで筆者が神の特別な寵愛とはからいを得て、天高く引き上げられ、他の人々の及ばない安全な高みに置かれたかのように映るのである。

筆者にとって、その解決は、決して他人が考えるほどに早くもなければ、簡単に与えられたものでもないのだが、そのことは、口でどんなに説明しても、人に分かることではあるまい。筆者が一つ一つの問題を乗り越えるに当たり、どれほどの苦労を背負って来たかは、他の人には話しても決して分からず、理解してもらうことが可能であるとも思わない。
 
彼らの目には、信者が暗いトンネルの中を沈黙しながら通っている時の有様は見えないので、最後に起きた劇的解決だけを見て、すべてがあまりにも簡単で、こんなのはあまりにも不公平ではないかとさえ感じるようである。

だが、実のところ、筆者自身も、そんな風に感じないわけではない。神の助けを受けることは、確かに特別な経験である。この世で不信者と信者が公平に扱われるということは決してない。だから、信じる者の上には、確かに、神の特別なはからい、特別な関心、特別な恵みが臨んでいるのである。それは私たちの栄光のためではなく、神ご自身の栄光のために、神がなさる事柄である。
  
筆者は、高い高い空の上から、町全体をはるかに下に見下ろし、この下界の光景の中には、詐欺師たちや嘘つきどもによって日夜繰り広げられるソドムとゴモラの阿鼻叫喚のような地獄も含まれていることを考え、それらの問題をすべて足の下に踏みつけ、後にして来た事実を思い、これは実に不思議なはからいだと思わずにいられない。

新しい出来事が始まれば、かつて起きたことは忘れられ、思い出されもしない。子が生まれるまで、母親は苦労するが、生まれてしまえば、その苦労は何でもなくなると主イエスも言われた通り、新しい天と地が到来する時には、先の出来事はすべて忘れられる。
 
多くの人々は、人間の痛み苦しみだけに注目し、それに解決が与えられるとは信じていないかも知れない。人々は他人事のようにヨブの苦難には注目するが、ヨブに与えられた解決、以前よりもまさった恵みのことはあまり語らない。

だが、筆者は試練の後には、以前よりもさらにまさった恵みが与えられることが、神の御言葉の約束であると固く信じている。しかも、筆者は現在立っている地点を最終目的だとは思っていないため、今の時点で与えられている恵みに満足するつもりもなく、さらに天に近いところへ向かって、まだまだ歩みを進めねばならないと考えている。

こうしたビジョンは、多くの人々には絵空事のようにしか思われず、理解されないだろう。どうして平凡な外見しか持たない筆者にそのように長い行程を歩み通すだけの力があるだろうかと思われるだけであろう。
 
しかし、筆者は、取り立てて力があるようにも見えない無名の人間に世間が示す軽視や侮蔑の眼差しを、重大な出来事であるとは全く思っていない。我々信者が人の目にそのように無力に映るのは、いつの時代も変わりのないことで、我々が土の器である以上、そうなるのが当然なのである。

ただし、そのような中でも、ほんのわずかな瞬間、私たちが己を低くして、土の器としての痛みを黙って潜り抜ければ、その先に、思いもかけない栄光が待っていることをも筆者は知っている。

神は人が負って来た苦労のすべてをご存じで、そもそも人自身の目から見てさえ、取るに足りない力弱い存在である、塵に過ぎない人間に、永遠の御旨をお任せになったのである。そのパラドックスの意味をよくよく考えてみたい。

真の謙虚さとは、人が土の器に過ぎない己の分をわきまえた上で、その土の器に、不相応なほどにはかりしれない神の力と栄光を表すという高貴な使命を人に与えられた神のはかりしれない御旨に瞠目しつつ、この壮大な使命を喜びを持って理解し、受け止め、信仰により負って行くことではないだろうかと筆者は考えている。信じる者のうちには、脆く弱い土の器の部分と、絶大な栄光を帯び神のた力というパラドックスが同居している。人の目に確かに見えるのは、脆くはかない土の器だけであるが、永遠に残るものは、その内に住まわれる偉大な神の力、尊厳、栄光なのである。

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日々の十字架を負う意義――わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

これまでの記事の中で筆者は、嘘にまみれた世界の中で、公正、真実、誠実さを追い求めることが、命を救う鍵となるだろうと強調して来たが、実際にその通りの原則が、筆者の人生において成就している。

もちろん、真実なるお方はキリストただお一人なのだが、キリストは目に見えないお方であるがゆえに、私たちは現実生活の中で、ただぼんやり天を仰いで待つのではなく、自分自身の力で、何が本当であるかを判断し、限りなく、真実性のあるものだけを選び取って行かねばならない。
  
今、何が本当であるかを着実に見分け、真実だけを選び取って行かなければ、命取りとなるような時代が到来している。真実と虚偽を見分けることができるかどうかで、人の命運が分かれるのだ。
 
たとえば、これまで、筆者に向かって色の良いことを約束しておきながら、その約束を実行せず、いわれのない損害を与えようとする人々は、数多く現れて来た。(これは本当のことである。)しかし、その中には、見るからにいかがわしい似非宗教指導者や、求人詐欺を働く悪徳企業のような、初めから誰にでもそれと見分けられるどうしようもない組織やリーダーたちだけが含まれていたわけではない。

残念ながら、そこには、筆者にとって非常に親しい身近な大切な人たちの嘘の甘言も含まれていたのである。

今から少し前、筆者がある問題の解決に悩んでいた頃、「私が必ず力を貸してやる」と申し出た人がいた。その人は身近な人間であり、長いつきあいのある存在であった。

その人は言った、「ヴィオロンは私にとって非常に大事な人間だから、必ず、約束を実行する」と。

ただし、その約束は次のような注釈つきだった。「明日、ある人だけにはこのことを相談しておきたい。私はその人の了解なしには行動できないから」。
 
そこで、筆者は即座に答えた、「あなたは私よりも年長なのに、未だ自分のことも一人で決められないのでしょうか。ほかの人と相談すれば、あなたは必ず心を翻すでしょう」

その人は言った、「そんなことはない。私がそんなにも簡単に自分の約束を破ると思うか。私がヴィオロンのことをそんなにも軽んじていると考えるのか」

筆者は礼儀上、その言葉には何も答えないでおいた。その人はそれを筆者の同意だと思ったのか、我が意を得たりとばかりに満足そうだった。

しかし、その人は筆者と長いつきあいがあるとはいえ、信仰は全く共有しておらず、信仰面では筆者とはむしろ、正反対の立場に立っていた。そこで、筆者は、その日が来るよりもずっと前から、内心ではうすうすその人と筆者との運命は間もなく完全に別れるだろうことを予感していた。おそらく、この会話が最後の試金石になるだろうと感じていた。

その人は案の定、その翌日、まだ舌の根も乾かないうちに前言を翻し、約束は反故にしたいと通告して来た。だが、筆者は、そうなることを予想済みであったので、何のショックも受けず、静かに言った、筆者の方でも、すでに別の解決ルートを見つけたので、助けてもらう必要はなくなったと。

その人が、筆者にあたかも大きな力を貸すかのように述べたのは、筆者の生活であるイベントが予定されていた前日のことであった。もしもその大事な時に、筆者がむなしい約束を信じて、その助けを当てにして、予定通りに行動していたなら、筆者の人生は大きな損害を受けたかも知れない。

だが、筆者はこれまでの経験則から、その人がどんなに筆者にとって身近で大切な人間であっても、一切、信仰を共有することもできず、同じ立場に立っていない人から助けを受けることは決してあり得ないと知っていた。

そこで、そのような人間の約束を、信じず、当てにもしていなかった。むしろ、その人が筆者を必ず助けると言った言葉を聞いた直後、筆者は物事を熟考し、速やかに、その助けを一切、当てにしなくて済む方法に行動を切り替えた。そうでなければ損害を受けていたのは間違いのない事実である。

このように、どんなに感情的には身近で親しい人間に思われる人の言葉であっても、信仰に基づかず、真理に立っておらず、誠実さや真実性に欠ける行動ををしている人間の述べた言葉は、すべて当てにならないものとして、退けなければならない。その原則を筆者はこれまで幾度にも渡って学ばされていた。

人情に働きかけられたり、おだてられて心をくすぐられたりして、自己満足することによって、信じてはならない言葉を信じれば、取り返しのつかない害をこうむるだけである。

これまで筆者の人生において、真実を見分ける力を養うことは、まだまだ小さな予行演習の繰り返しのようであったが、社会全体が、どっぷりと海のような嘘の中に浸かるに連れて、嘘を退け、何が真実であるかを見分ける力は、死活的重要性を帯びるに至っている。

繰り返すが、ただ自分の感情にとって心地よく好ましく感じられるものだけを信じ、選び取ってていたのでは、ただちに死に直結し、生きられなくなる時代が到来しているのである。
 
さて、以上とは似ているようで、また別の話がある。
 
最近、筆者はある事件で協力を得るために、かつての信仰仲間の幾人かに、久方ぶりにコンタクトを取ってみた。すると、そのうちの一人の身に悲しい事件が起きていることが分かった。
 
悲しい事件と言っても、本人には全くその自覚がないから、そう思うのは筆者だけである。

その人は、事件への協力を約束したが、その際、あたかも筆者の健康を気遣うような口調で、熱心に電位治療器の無料体験を勧めて来た。

あまり熱心に勧めるので、直接、会うついでに寄ってみようと、筆者はその人の案内で体験会場を訪れてみた。

しかし、会場の入り口に「ハピネス」などと書いた怪しげな旗がひらめいているのを見た瞬間に、筆者の心の中では「あ、これはヤバイな」という警告が鳴り響いた。

体験会場の中に入ると、「一般社団法人ハピネス」という、宗教団体とみまごう組織名が掲げられている。
   
いくつもの椅子が並べられた会場を見回すと、そこには老人ばかりが集まり、まるで病院の待合室のようであった。

会場に並べられた粗末な椅子に置いてある座布団が、電位治療器の役目を果たしているらしいが、そこに集まった人々は、まだ何かが始まる前から、この電位治療器のおかげで、劇的に歩けるようになったとか、病気が治っただとか、ありとあらゆる奇跡物語を「あかし」していた。知人はすっかりその気にさせられている様子だったが、筆者はそれを聞いてますます「ヤバい」と感じた。

そうこうしているうちに、若い販売員が登場して、老人たちの前でパフォーマンスを始めた。そして、「この電位治療器には、病気を治癒する力はありませんが、体の調子を整えることができます。体の調子を普段から整えておくことで、将来的に、がんになったり、深刻な病気にかかるリスクを減らすことができるのです…。ついこの間も、30代の若い女の子が、病気の予防に役立つならと買ったばかりですが、今ならキャンペーン価格で…」などと語り始めた。

キャンペーン価格と言えども、65万円は下らなかったように記憶している。庶民が思いつきで手を出せる値段ではない。しかも、販売員がのっけから「がんのリスク」などと、明らかに人の不安や恐怖を煽るような話を始めたことに、筆者は非常な不快感を覚えた。

筆者は心から病気を憎んでいる。筆者がここへ来たのは、病気の話など聞かされるためではなく、暗闇の勢力にいかに勇敢に立ち向かって、それを撃退するかという問題を話し合うのためであった。こんなくだらない話につきあっている暇はない。
 
やたらと人を不安に陥れる脅し文句を並べ、何一つ科学的な証拠もないくせに、この電位治療器を使ってさえいれば、まるで将来的に病気のリスクを低減でき、がんにかかる可能性を減らせるかのような、眉唾物の話んは、筆者は心の底から憤りを覚えずにいられなかった。
 
しかも、会場の電気椅子(いや、電位治療器)に座っていると、筆者はドキドキして来て、嫌な感じを覚えた。むろん、警戒していたためもあるだろうが、そもそもペースメーカーを使っている人は、使用できないなどの説明を聞いても、明らかに、これは人体に不自然な刺激と圧迫を加えるものであると分かる。

仮にこの電気椅子にほんのわずかでも治療の効果が認められるのだとしても、このような外的刺激に頼らなければ、健康を維持できないほどまでに弱体化した人間にはなりたくないと強く思った。
 
だが、何よりも、筆者が違和感を覚えたのは、その体験会場に来ている人々が、することもなくぼんやり受け身に椅子の上に座って、販売員の説教を待っているだけであることだった。

本当に困っている人たちは、寸刻を惜しんで働いており、こんなところで時間を潰している余裕はない。志の高い人は、同じ時間を使って、社会運動にでも参加するだろう。それなのに、この人たちには、他にすることが何もないのだろうか。

病気のリスクを減らしたいなら、同じ時間を使って、家で体操でもすれば良い。ジョギングでもマラソンでもウォーキングでもして体を鍛えれば良い。そもそも、この人たちの家庭には、彼らの優しい心遣いや、世話を待っている家族はいないのか。泣いている孫や、赤ん坊はいないのだろうか。

おそらく帰宅すれば、彼らの温かい配慮や世話を待っている家族の一人もいるはずであり、その他にも、社会のためにできることはいくらでもあるはずなのに、それらすべての問題を差し置いて、自分の体のことばかりを心配し、こんなところで受け身に座っていれば、ますます筋力は衰え、知性も後退し、他人にお膳立てしてもらわなければ、何もできない無能な人間になって行くだけである。そんな方法で病気を防げるなどと本気で信じているなら、まさに愚の骨頂だ。

筆者は、眉唾物の怪しげな奇跡体験談が飛び交ういかがわしい会場に、一刻たりともとどまる気がせず、販売員の話もそこそこに、知人を無理やり外に引っ張り出すようにして会場を立ち去った。筆者がそこにいたのは、わずか5分から10分くらいだっただろう。

その後、筆者はその知人に向かって説いた、これはほとんど宗教で、霊感商法と同じだ、こういういかがわしい商売に関わるのは危ない、と。

しかし、その知人には全く効き目がなかったようであった。

それでも、しばらくの間、その知人とは連絡を絶たなかった。そのうちに、再び、ひょんなことから、会話の中で電位治療器の話が出て来た。

筆者はその会話の中で、キリストの十字架の贖いこそ、私たちの完全な命であって、救いであるのに、昨今、キリスト教徒を名乗りながらも、あからさまに聖書66巻は神の霊感を受けて書かれた書物ではないなどと否定して、自ら神の救いを拒んでいる、呆れるような人々がいる、と述べた。

そして、その話のついでに、知人に向かって、やはりあの電位治療器の無料体験に通うのは早くやめた方がいい、科学的にも十分な実験が行われたわけでないのだから、どんな副作用や禁断症状が伴うかも分からない。依存状態になる前に、こういう外的手段に頼らず、自分の命の力だけで、健康を維持できるようにした方が良い、と語った。

すると、知人からは、思わぬ拒否反応と共に、驚くべき叱責の言葉が返って来たのである。

「ヴィオロンさん、あなたは何も分かっていない。あなたはほんのわずかもあの体験会場にとどまらなかったくせに、試してみるよりも前から、電位治療にはどうせ効果なんかないと決めつけている。そんなあなたの態度は、まるで聖書66巻は神の霊感を受けた書物ではないと、聖書を読むよりも前から決めつけて、救いを拒んでいる人たちと全く同じだ!!」

「はあ? 一体、何を言っているの!?」

筆者は驚いて問い返した。

「まさかあの電位治療器に、キリストの救いや聖書66巻と何の関係もあるわけないでしょう?」

「いや、同じだ! あなたは救いがあるのに、救いなんてない、聖書なんて信じない、と救いを自ら拒んでいる人間たちと同じだ!!」

筆者は鳩が豆鉄砲を食ったように驚き呆れると同時に、これは重症だ、手遅れかも知れない、という手ごたえを持った。

孤独な老人が、販売員の親切そうな口調や、無料体験会場の賑わいに釣られて、電位治療器にはまりこむのはまだ分かるとしても、かつてキリスト教徒だった人の口から、その電気椅子があたかもキリストの救いと同等であるかのような言葉を聞かされるとは、こんな商売がまっとうなものであるはずがないという確信が込み上げて来た。

「あれはただの電気椅子でしょ。それなのに、どうしてそれを聖書とか、神の救いと同列に並べられるわけ。しかも、あれを試さないからと言って、何で私が救いを拒んでいるということになるわけ。

もしそういう理屈が成り立つならば、同じような椅子が、他にもたくさんあるはず。試せというなら、全部試して、見比べてみるべきじゃないの。他の椅子を知らないし、よく知りもしないくせに、あれだけが救いみたいに決めつけてるのは自分でしょう?」

「そりゃ、全部、試したわけじゃないから、他にももっと良いものはあるかも知れないけど…」
と知人は口ごもる。

「そうでしょう? でも、それを言い始めたら、電気椅子だけじゃなく、青汁や、サプリメントや、マッサージ器や、その他、ありとあらゆるものに、それなりの効能があるはずでしょう。TVをつければ、通販番組で、いくらでも奇跡体験を聞ける。あなたはそういうものをいくつ試したわけ。他のを十分に試してもいないのに、どうしてあの椅子だけにそこまでこだわるの?」

「自分で試したから。あれが効くって分かったんだよ」

「呆れた。騙されてるだけだって、分からないわけ」

「騙されてなんかいない。何も買ってないし」

「買わなくたって、宣伝係として大いに利用されてるじゃないの」

「だって、歩けなかったのに、歩けるようになったって言ってる人にも会ったし。それを否定するの?」

「馬鹿馬鹿しい。そんな話はベニー・ヒンの大会で病気が癒されたとか言ってる奇跡体験と何も変わらないじゃない。そういう『あかし』を聞かされただけで、証拠もないのに飛びついて信じるの? 何度、騙されたら学習するわけ?」

「きついなあ。ヴィオロンさんだって、今はそういうことを言っているけれども、十年後には、体が弱くなって、考えが変わるかも知れないよ」

「馬鹿なことを言わないで。十年経っても、私の考えは変わらないから」

「いつまでも健康でいられないかも知れない。がんになるかも知れないよ?」

「いい加減なこと言わないで。ほらね、もう脅しが始まった。あのお兄さんが会場で言っていたことを、あなたは受け売りしているだけじゃない。だって、言ってたものね、がんのリスクを減らせるかも知れないとか、云々。

あなたはそういう話を聞いただけで、愚かにも真顔で信じ込んで、都合よく利用されて、会場のサクラにされた上、電気椅子の伝道師にまでされちゃったんだね。

でも、私にはそんな伝道は要らない。私には癒し主であるキリストがすでに着いておられるんだから、病気を恐れる必要なんてないし、ましてあんな訳の分からない椅子にすがりつかなきゃいけない理由もない。
 
まことの命であり、健康そのものであり、すべての問題の解決である方が、すでに内におられるのに、何のために、あんなあの世の待合室みたいな会場の椅子に、救いを求めて通わなくちゃいけないの。

毎日、あんなところに通わないと健康を維持できないと思い込んでるなら、それはまるで教会に通っていないと救いを失うと脅されて、日曜ごとに教会のベンチにしがみついている信徒と同じじゃないの? そういう信仰生活はもう卒業したんじゃなかったの?」

「・・・」

「私から見れば、あなたはあそこで大勢の人たちと会ってちやほやされて、孤独を紛らし、自分の健康を心配してもらうことと引き換えに、すっかり洗脳されちゃって、病気の治療どころか、病気を受け入れさせられてることが分からないんだね。
 
人の人生では、自分で信じたことが本当になるんだよ。病気になるかも知れないなんて言われて、それを真に受ければ、本当にその通りになるだけだよ。しかも、がんになるかも知れないと言われて、大真面目に信じて電位治療器を買うのは、先祖の祟りと言われて、壺を買うのと同じだよね。

でも、言っておくけど、先祖の祟りは、壺を買ったくらいでは、きっと免れられないよ。一つの脅しを受け入れれば、次から次へと新たな脅しがやって来るだけだよ。壺では終わらず、さらにもっと高価なものを買わなくちゃいけなくなるだけ。同じように、がんのリスクは、あんな電位治療器なんかでは、防止できない。あのお兄ちゃんだって言ってたじゃない、電気椅子には、病気の治療の効果はないって。

だから、あなたは存在しない幻の解決と引き換えに、現実の巨大なリスクを引き受けさせられているだけなんだよ。本当の目的は、治療の効果もない機械と引き換えに、がんになるかも知れないっていう恐れを現実のものとして引き受けさせることにあるんだよ」

「・・・」

「だから、病気や祟りの脅しなんて、聞いた瞬間に、断固、拒否しなくちゃいけないわけ。しかも、私たちには真実な救いが与えられているから、そういう恐怖で脅される理由はないって分かっているはずなのに、あなたはあんな低次元な脅しを拒否しないどころか、私にまで恐怖を広めようとしているの?
 
でも、そもそもがんがどれくらいお金がかかる病気か、あなたは本当に考えたことがある? 電位治療器も買えない人が、そんな病気とおつきあいしてる余裕があるわけ? 自分の生活を考えたら、がんなんて病気と仲良くしている余裕は、最初から全く存在しないってことが、自分で分かるんじゃないの。そんな病気、お呼びじゃない。早期発見してみたところで、仕事も休めないし、残業しないと生きられない人に、どうやってそんな病気の予防策にお金を投じている暇があるの。誰がその間、面倒をみてくれるの? そんな病気、かかっただけで一貫の終わりだよね。そんな病気のことで、四六時中悩んでいられるような人たちなんて、あそこに来ている老人みたいに、ほんの一握りの恵まれた人たちだけだよ。私に言わせれば、まさにぜいたく病みたいなもの。

それでも、あなたがどうしてもそんな眉唾物の話を本気で信じて、私にまで布教したいって言うなら、まずは、あの椅子を自分で買ってからにすればいい。どうせあなたが言っている『試さないと分からない』なんて台詞は、無料お試し体験程度でしょう。

そんな中途半端な体験で、知ったかぶりされても困るんだよね。ちゃんとローンでも組んで機械を買って、自宅で毎日長時間試して、博士論文くらいのデータを集めてから、人にものを言いなさいな。中途半端にしか試してない人間から、中途半端な説教を受ける気は私にはないから。そんな薄っぺらい無責任な言葉と態度で、人を説得できると思ってることが大間違い、というか他人を馬鹿にしてるんだね。
 
あなたがその霊感商法と手を切らないなら、この交わりもこれで終わりにしましょう」

この説得の言葉を聞いても、知人はまだ筆者の考えが間違っていると確信していたらしかった。

電気椅子はそれほどまでにその知人の心をとらえ、もはや心の王座を占めていると言って良く、それに比べ、筆者のような人間は、あの会場のサクラの一人程度にしか見えていなかったのであろう。知人が誘えば、筆者もあの機械に病みつきになると本当に思われていたのだとすれば、随分と軽くみられたものである。

ところが、サクラでなければならない筆者から、電気椅子を捨てなければ、交わりは終わりだと宣告され、知人はよほど腹に据えかねたのか、その後、自ら信仰の交わりを絶つと言って来た。

しかし、それには「あなたとはこれまで互いに信仰的見解が最も近いと思っていたので、とても残念だ・・・」という未練がましい注釈と、さらに、電気椅子はやめない代わりに、これから当分の間、信仰告白をやめさせてもらう、と挑戦的な捨て台詞のおまけがついていた。

それは筆者が、この知人に向かって、人前で神を拒む人間を、神も拒まれると聖書にあるから、困難があっても、公に信仰のあかしを続けることはとても重要だと思うと語った直後のことであった。
 
ああ、やっぱりな・・・、と筆者は思った。 恐るべし、あれはただの電位治療器ではない。この知人が、筆者の前で、電位治療器などというこの世のガラクタを、聖書66巻やキリストの救いになぞらえて語ったことは、偶然ではなかったのだ。

その知人にとって、あの電位治療器は、まさに「踏み絵」の役割を果たし、信仰を棄てる契機にまでなってしまったのだ。
 
そんな人間から、「信仰的見解が最も近いと思っていた」などと言われたことに、筆者はただただぞっとして冗談はやめてくれと薄気味悪さを感じるだけであった。
 
さて、この電位治療器については、ほんの少しネットを検索しただけでも、筆者と同様の意見がたくさん見つかる。

ネットでは、筆者が目にした高額で販売されている電位治療器は、原価5万程度の代物でしかないと言われている。さらに、売り方にあまりにも問題があることは、数多くの場所で指摘されている。

「治療の効果があるわけではないが、体の調子を整えることで、がんの予防にもつながる」などと、正式に認められてもおらず、科学的に一切証明されていない効能を無理やりこじつけのように謳ってアピールするなど、違法すれすれの説明である。

しかも、販売員が奇跡体験を語ると違法になる恐れがあるため、無料体験会場には、予めサクラと思われる参加者が仕込まれ、その参加者の口から「これを使ったら、歩けなかったのが、歩けるようになった」とか、「病気が治った」などと、奇跡の「あかし」をさせることで、眉唾物の「福音」を口コミで広めて行こうとする念の入れようである。

老人や病者の孤独や弱みにつけこみ、親切心を装いながら、人々を食い物にする悪徳商法には、強い憤りを感じるが、それと同時に、筆者が思うことは、以下に引用する記事にも書かれている通り、それにひっかかる人間の側も、どうしようもなく愚かで無責任で自己中心で能天気な阿呆だけだということだけだ。

それでも、福音を知らないならば、まだ弁護の余地もあるかも知れないが、最も救いようがないのは、キリストの福音の価値を自ら知っていながら、天の御座に憧れるのではなく、あのような地上の安物の電気椅子に心を奪われ、その無料体験ごときを、キリストの救いと取り替えた人間である。これでは、まるで一杯のレンズ豆のあつものと引き換えに、長子の権を売り払ったエサウとほとんど変わらないではないか。

筆者は、暗闇の勢力との闘いの中で、少しでも力を借りられないかと思ってその知人に声をかけたのであったが、あまりにも愚かすぎる結末に、開いた口が塞がらなかった。

大体、自分の体の心配、自分の健康の心配、自分の必要性、自分の快楽・・・、そんなことばかりを四六時中、気にしているから、最後にはこういう結末へ引っ張られて行くことになるのだ。

四六時中、自分の心配ばかりをしているから、最後には椅子から全く動くことさえできなくなり、ついには立ち上がることもできなくなって、病が癒されるどころか、病に倒れて終わるのである。あれはただの椅子ではない。肥大化したセルフの玉座である。

しかも、電位治療器に正式に認められている効能とは「頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症の緩解」だけであるらしい。

だが、「頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症」などは、取り立てて大騒ぎするような不調ではなく、まして高額な治療器を使ってまで早急に撃退しなければならない深刻な病ではない。

誰でも、悩み事が生じれば、夜も眠れないほど考え込んだり、頭痛や肩こりを覚えたり、食欲もなくなり、体調も一時的に悪化したりもするだろう。

だが、それは一過性のことだ。それなのに、一体、いつから、人にとってそのような一時的で些細な悩み苦しみまでが、あってはならないもののようにみなされ、不眠や肩こりや頭痛までが、あるまじき重大な病のようにみなされるようになったのか? 

しかも、「がんになるかも知れない」などという、手に負えない巨大な病のリスクを引き受けることに比べれば、頭痛や肩こりといったほんの些細な痛み苦しみを黙って甘んじて受けることは、はるかにたやすいことではないのだろうか?

それなのに、ほんの些細な悩み苦しみをも、あるまじきことのようにみなし、ほんの少し、自分が痛み苦しみを負わされたくらいのことで、まるで重大事件が起きたかのように大騒ぎし、四六時中、我が身可愛さから、自分の体、自分の健康、自分の感情、自分の感覚のことばかりを話題にし、ほんの些細な体調不良にも神経質に騒ぎ立てて早急に手を打たねばならないと走り回り、朝から晩まで常に自分の体のことだけを心の中心に据えて生きているから、その不安につけこまれて、経済的に損失を負わされるだけでなく、巨大な病のリスクまでも引き受けさせられるはめになるのだ。

聖書は言う、

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイ16:24-27)

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」(Ⅱコリント4:16-17)

私たちの「外なる人」が衰えて行くことは、避けようのない事柄である。私たちは内に復活の命をいただいてはいるが、あくまでそれを土の器の中に抱えており、常に外なる人の限界に脅かされている。

しかし、そのために生じる痛み、悩み、苦しみなどは、実に些細なものであって、一時的な軽い艱難でしかない。地上での生涯を立派に耐え抜けば、その艱難とは比べものにもならない天の栄光が約束されているのだ。

そのようなわけで、キリスト者にあっては、地上における一時的な軽い艱難は、有益な実を生みこそすれ、無駄になることはない。ところが、そんな些細な艱難さえをも、甘んじて負うことを避け、常に自分にとって心地よい快楽体験ばかりけを追い求め、朽ちゆく自分の地上の命を惜しみ、これを大事に握りしめて手放さず、生まれながらの自分を永遠にまで永らえさせることを考えていれば、最後にはその命すらも失って、どん底に突き落とされて終わるのが関の山だ。

もともとその命は有限で、どんなに工夫しても永遠に永らえさせることなどできはしない腐敗したアダムの命なのだから。その命にしがみつく者が呪われたり、罰せられたとしても仕方がない結末である。

何がハピネスだ。もしこんな薄っぺらい幸福が、幸福だというなら、筆者はそういう幸福は要らない。

人間の幸福は、ただ喜びや快感だけでなく、悲しみや悩みや痛み苦しみと相合わさって絶妙に美しい織物のようになっている。私たちは、主の御手から恵みだけを受けとるのではなく、艱難をも甘んじて受け取るべきである。

そして、神が私たちを悩み苦しみを通しても、練り清めて下さり、私たちの思いのすべて知って下さり、必ず、問題には解決を与え、ふさわしい時にそれを取り除け、苦しみをも、栄光に変えて下さることを信じて、外からの助けにすがらず、ただ内におられるキリストの命の力だけによって、すべての危機を乗り越えて行く方法を学ぶべきなのである。

それなのに、一体、どうして、キリストの十字架における永遠の救いと、神の霊感を受けて書かれた書物である聖書66巻を、たかが電位治療器ごときと引き換えにできようか。
 
去って行った知人の後ろ姿を見つつも、筆者は、やはり、このような商売は、憎むべきものであって、何があっても関わりたくないし、こんなもののために貴い救いを失うなど、あまりにも愚かすぎる結末だと思うことしきりであった。
 

憎むべし、電位治療器。憎むべし、悪徳商法。」から抜粋

「ネット上で、私はこんなに効果がありました!と鼻息を荒くしている人がいます。
こういう人たちには、きっと悪意はないのでしょう。
自分が良くなったのだから、純粋な好意から、他人にもすすめたい、と。
しかしその好意は、周囲にとっては迷惑で、無責任なものでしかありません。
効いた原因もろくに説明出来ず、厚生省の認可も受けていない。
そんなものを、”たまたま自分に効果があった”からといって、他人に勧めるというのは、
極めて無責任で、能天気で、浅はかで、滑稽で、馬鹿で、救いようがない。
ある意味では幸せとも言えますが。
こういう図式は、カルト宗教にも良く似ています。


高齢者を集め「がんが治る」などと宣伝していた電位治療器の販売業者」(国民生活センター)から抜粋

「本件業者は、体験会場へ大勢の高齢者を集めて、「血圧を正常値に戻す」「がんが治る」などの効能・効果をうたい電位治療器を販売していた。会場でビデオを見、病気が回復したという人の話や業者のもっともらしい説明を聞き、病気を抱える高齢者は効果を信用し契約した。

当該治療器は医療機器承認番号を取得していたが、効果として表示できるのは「頭痛・肩こり・不眠・便秘」のみであった。


消費者契約法や薬事法に抵触する販売方法と思われることから、当センターは、信販会社に、加盟店の指導を十分行うよう申し入れた。

 また、本件のようなケースでは、仮に、業者が消費生活センターの相談員や相談者を訴えたとしても、逆に、業者に対して不法行為による損害賠償請求の訴えを提起することが可能であろう。


ダマされないぞ!インチキ商法! (悪質商法データベース)」から引用

分類

薬事法における管理医療機器(クラスII)に分類される。認証基準に適合する製品に関しては頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症の緩解が効能効果として認められる。

注意点

上記のとおり、頭痛、肩こり、慢性便秘、不眠症の緩解については薬事法により効能効果が認められているが、その他の効果については法的に認められているわけではない。パワーヘルスの例に見られるように、これ以外の効果(たとえば、糖尿病・高血圧・ガンの治癒など)を公的に求められた効果として謳って販売した場合、違法行為とみなされる。

 

御霊に導かれて生きる―主を待ち望み、生ける者の地で神の恵みを見る

このところ、すべての手続きが穏やかに進行中である。

何度も書いて来たことだが、訴訟などの手続きは、そのほとんどが一般市民にも弁護士なしで十分に対応できる。必要なのは、専門知識ではなく、ひとかけらの勇気と信仰である。

これらの訴えをことごとく提出した時に、筆者はこの土地で、自分のなすべき役目がほぼ終わりかけており、主は筆者をよそへ移そうと願っておられるという気がしてならなくなった。そのことは、これまで何度か書いて来た通りであるが、まるですべての状況が、ここを出なさいと筆者に語りかけているようだ。

本当はもっと早くそうすべきだったのであり、この土地はずいぶん前から不毛だったのだが、筆者が御心を掴むのに時間がかかったので、脱出の時が遅くなった。それから、最後にひと仕事、残っていた用事があった。

筆者はかつて住居を住み替えさえすれば、生活が快適になるだろうと思っていた時期があった。その頃は、この土地が不毛だなどとは考えておらず、様々な努力で未来が開けると考えていたのである。しかし、快適な住居に住み替えても、問題は去らず、この土地ではすべての努力が無駄に終わると分かった。
 
まるで首都圏の中心部から汚水がどんどん流されて来るように、年々、すべてが悪化して行くだけである。

筆者はこの土地に思い出はあるが、未練はない。そして、この土地の人々の気質が、ソドムとゴモラのように、どんどん悪くなって行っていることをひしひしと肌で感じている。

最近、街の弁護士日記というブログに「滅びるね」という記事が載った。詳細はその記事で読んでいただければ良いが、筆者はこの内容に深く頷くものである。

街はあたかも平和で、真夏の行楽日和が続き、店はバーゲンセールでにぎわっている。筆者も、連休中、偶然に立ち寄った店で、7割引きで洋服を買い、鳥を増やし、将来的な住処を探そうという考えで、土地と家を見て回った。どこかへ引っ越さねばならないという気がしているためだ。

だが、その道中、毎年、楽しんで来た夏の特製のパスタをパスタ屋さんで頼むと、それが今年には、まるで大奮発しないと買えない商品のように、値段が去年よりも随分、高くなっていた。しかし、人々の生活は潤っていない。

街はあたかも平和そうに見える。去年と似たような今年が続いているように見える。商業活動も盛んだ。だが、何かがおかしい。これは去年の続きでは決してない。商品のサイズは縮み、値段は上がり、去年できたことが、今年にはもうできなくなっている。そして、主都では、人々の頭上に刀を振り下ろすような凶悪な法案が次々と通過している。

この平和がソドムとゴモラのように映る理由を端的に言い表すのは難しい。どんなに人々の気質が悪くなり、人間が騙し合い、陥れ合い、殺し合うようになったのか、今ここで長々と説明をするつもりはない。

しかし、大量の汚泥の上に板子一枚で築き上げられたような、このうわべだけの平和が、何よりも滅びの最たる兆候である。この見せかけの平和にも、今やヒビが入り、脆いガラス細工の製品のように、人々の生活の安寧が壊れかけている。

とにかく、首都圏はもうダメなのだ。ここにはいかなる命の息吹きもなく、希望も、発展の見込みもなく、すべてが悪くなって行くだけであり、ここにいてはダメなのだ。何かがおかしいというこの予感が、具体的に何を意味するのかは知らない。巨大地震だとか、津波だとかの自然災害、もしくは戦争だとか、良からぬ出来事が迫っているという感覚なのか、それとも、理念を失った人々の生活が自滅へ向かっているために生じる感覚なのか。
 
筆者は県内にある素敵な家々を見学してみた。ところが、以前には「こんな家に住みたい」と、高嶺の花を見るように、憧れながら心躍らせて見ていた家々が、なぜか心に響いて来なかった。自分の見る目が変わったのか、それとも要求が高くなったのか、なぜそれらが魅力的に映らないのか、理由は分からなかった。しかし、どれもこれも決定打にかけるのだ。たとえただで差し上げますと言われても、筆者はそれを受け取らず、ここには住まないだろうという気がしてならなかった。
 
値段や内装がどうのといった問題ではなく、要するに、ここは筆者のための安住の地ではなく、この土地に家を構えてはならないという御霊の導きだという気がしてならない。

筆者は今、地中に深く埋蔵されたエネルギーを採掘する業者のように、収穫が深く隠されていそうな土地を探している。

あるいは、谷川の流れを慕う鹿のように、清い命の水の流れを、豊かな命の流れを備えた土地を探している。

それは間もなく見えて来るであろう。心の底から命の自由と解放を求める切なる願い求めが極限に達したときに、エクソダスが起きるのである。
 
ところで、仮の宿にいる筆者だが、生活を拡張する過程で、不思議なことがあった。

前にも書いたが、筆者は、最近、我が家の成員である小鳥たちのために、古い鳥かごをみな新調することにして、金色の鳥かごを三つ買って、そこにたくさんの色鮮やかなインコを入れてみた。
 
不思議なことに、一つ目の鳥かごは、到着してから組み立ててみると、屋根が微妙にずれて合わなかった。さらに、そこにはどういうわけかエサ入れの蓋が余計に一つ入っていた。

屋根に不具合があることを売主に書き送ると、早速、予備の屋根を二つ送ります、という返事が来た。なぜ二つも送ってくれるのだろうと不思議に思った。

その後、今度は別な鳥たちのために、同じ鳥かごをもう一つ買った。すると、到着したセットの中にあった餌入れの蓋の一つが、最初から割れていた。しかし、一つ目を注文した時に、蓋が余分に入っていたので、それを使うことが出来た。

その後、今度は別の世代の鳥たちのために、三つ目の同じ鳥かごを注文した。すると、売主から、商品は品切れ中で、取り寄せると時間がかかるが、屋根のない鳥かごなら一つある、値引きするがこれを買うかと問われた。もちろん、その屋根は、筆者に予備として送ったために欠けているのだ。

二つ返事で買いますと答えた。すると売主は本当に値引きしてくれた上、おもちゃも余分につけてくれた。商品に欠陥があるわけではないのにだ。

我が家の祝福された鳥たちである。

ここを出て行くときは、きっと民族大移動のようになることであろう。古い鳥かごを移動用キャリーに変えて、そこに鳥たちを入れ、他の動物たちもみなキャリーに入れる。まるでピクニックに行く時のように可愛らしい色の新しいキャリーだ。そして、彼らを車に乗せて、陽気な音楽をかけて、私たちは車で出発する。地上を何百キロも走って、列島を横断し、あるいは船に乗って、目的地に到達する。ちょっとしたノアの箱舟だ。その後で、車も新調することになるだろうか。むろん、その先に待っている家では、鳥たちのために一室を備えるのである。

いずれにしても、この土地にじわじわと押し寄せて来る滅びの感覚を振り払い、二つに割れた紅海を渡るようにして、筆者はここを脱出して行くだろう。だが、それはドラマの題材となるような出来事ではなく、人に知られないひそやかな歩みで、もの言わぬ我が家の成員だけが知っているひそかなピクニックだ。

どんなにこの土地に暗黒の未来が待っていようと、筆者はそれに巻き込まれて死人に数えられるつもりはなく、神にあって生きている人間として、祝福に満ちた地に達する決意と希望を失わない。

詩編には「命あるものの地で」「生ける者の地で」と訳されている言葉が登場する。私たち信者は、神にあって永遠に生きる者である。むろん、来るべき世においてだけでなく、この地上においても、生ける者なのである。

ただ生ける者であるばかりか、キリストと共に豊かな天の相続財産の共同相続人である。そこで、目には見えないが、御霊の命による我々の統治を待っている新たな地、新たな財産が存在する。私たち自身が探し求めているだけでない。その土地も、物も、財産も、人々も、私たちの現れを心から待ち焦がれて、その面影を探し求めている。だからこそ、主人の命を受けて、イサクのために使用人がリベカを探し出した時のように、求めていたものを見つけた時には、私たちは互いに必ずそれと分かるはずなのだ。

「主よ、あなたの道を示し
 平らな道に導いてください。
 わたしを陥れようとする者がいるのです。
 貪欲な敵にわたしを渡さないでください。
 偽りの証人、不法を言い広める者が
 わたしに逆らって立ちました。

 わたしは信じます
 命あるものの地で主の恵みを見ることを。
 主を待ち望め
 雄々しくあれ、心を強くせよ。
 主を待ち望め。」(詩編27:11-14)

祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する。(2)

「義のために迫害される人々は、幸いである。
 天の国はその人たちのものである。

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10-12)
 
厳粛かつ喜びに満ちた朝である。戦略的なことなので今は詳しくは話せないが、最初の訴えの提起が終わり、これから順番に複合的な訴えを次々に出して行くことになる。ものすごい量の文書だ。受けとる者をさぞかし煩わせることになろう。インターネットに発表する文章にはいかなる法的価値もないが、ネット上によた言を並べるくらいなら、ちゃんとした効力を持つ文書を書いた方が良い。
 
さて、重要な日に限り、道路へ出ると仮免許の車がノロノロと前を走っていたり、渋滞に巻き込まれたりして、なかなかスリリングである。だが、心の中は実に平安だ。主よ、目的地へたどり着くまで守って下さいと祈りつつ、何だかアクション映画の主人公になったような気分だ。
 
ところで、最近、ある若い登山家が、エベレスト登頂に失敗して亡くなったという。なんとそれまで7度挑戦し、7回とも失敗した上での8度目の挑戦だったのだという。その人は登山家と呼ぶには、世界ではあまりにも無名の存在で、プロの登山家の間では、登山家としての評価はあまり受けていなかったらしい。

むしろ、世間からの応援を受けて、「登山のショー化」とでもいうべき、プロの登山家とは全く異なる挑戦を行う異色の存在として見られていた。近年は、実績がなさすぎるのに、あまりにも無謀な挑戦をしているとして、このまま行くと死の危険があるという警告すらもなされていたというのだ。まさにその危惧が的中した形となった。
 
その登山家には大企業のスポンサーやファンの数々がついて、熱烈な応援が続けられていたという。プロの登山家の目から見れば、到底、エベレスト登頂(しかもただの登頂ではなく極めて困難な挑戦)を果たす実力などなかったにも関わらず、おだてられ、祀り上げられ、担ぎ上げられて、引くに引けなくなり、毎年の失敗の後に、ついに最後の挑戦に赴き、そこで命を落としたのだという。
 
嘘の混じった感動体験の終わりは何とも悲惨なものである。束の間の高揚感の後で、手痛いツケがやって来る。担ぎ上げた人々の心にも、忘れられない苦い教訓となって残ることだろう。

この登山家は決して詐欺をやっていたわけではないが、自分の身の丈を知らず、本当の意味での登山家の精神を持っていなかったと見られる。決してこれと同列に並べるわけではないが、最近では、ピアニストとして活躍するのに十分な実力と才能があったわけでもない日本人の若者が、「シチリア公マエストロ殿下」などと詐称して、自分を偉大なピアニストに見せかけて、ヨーロッパなどで詐欺的公演活動を繰り広げていたというニュースもあった。

約10年前の日本では、日本人が国外でこのような大規模な詐欺活動を行うとは、ほとんど考えられていなかった。我が国の人々は、根気強い努力や、忍耐力で知られていた。それがここほんのわずかな間で、地道な努力を嫌い、時間をかけて高い目標を目指すのではなく、短期間で、ドーピングのような不正な方法を使って、人を出し抜き、欺きながら、虚構の実績を築き上げ、人々のアイドルとなり、大金を稼ごうとするような人々が現れるようになった。だんだんこの国が本当に壊れて来ていることを感じる。
 
ペンテコステ運動もこれに似ている。この運動からは、実に様々な「霊の器」たちが、線香花火のように束の間、現れては消えて行った。この運動では何かの超自然的な力を持っていれば、それだけで、誰でも指導者になれる。地道な教育訓練など必要ない。短い間で人々の注目を集め、華やかな舞台を作り上げることさえできれば、それが成功なのだ。彼らの「ミニストリー」は、まさにショーと呼んだ方が良いであろう。

だが、ショーであるがゆえに、それは内実が伴わない、束の間の幻のような夢でしかなく、その夢のあとで、苦い教訓が訪れる。

ペンテコステ運動から生まれて来たカルト被害者救済活動も同じである。これは『水戸黄門』や、『暴れん坊将軍』といったドラマと全く同じ、キリスト教界を舞台とした勧善懲悪のドラマである。正義の味方をきどる人達が、勇敢に次々と悪者をやっつけるというドラマを、現実を舞台にして演じ続けているのである。

観客は斬り合いの場面を見て溜飲を下げ、悪者とされた人々をさらしものにして引きずり回し、その悪事の証拠をつつき回し、非難する。

これがドラマであるうちは良いが、現実を舞台にしているところが、非常にいやらしく、恐ろしい。現実では、一人の人間が、ずっと絶え間なく正義の味方を演じ続けるなどのことは不可能だ。むろん、そうそう都合よく悪者が次々と登場して来るはずもない。

それにも関わらず、たとえばネット上で誰かが正義の味方のように発言を始めると、おかしなことが起きる。取り巻き連中が集まり、ヨイショしてショーが始まり、彼らは現実を舞台に、ずっと正義の味方を演じ続けるしかなくなってしまうのだ。

すると、どういうことが起きるだろうか? 

悪者を「製造」するしかなくなる。次から次へとドラマの材料となりそうなストーリーをかき集めて来ては、絶えず悪者を作り出し、これを糾弾するしかなくなる。

現実にはそんな都合の良いドラマがあるはずもなく、彼らに人を裁く権限もないにも関わらず、ただ自分を正義と見せかけるために、「カルトの疑いあり」と嫌疑をかける相手を終わりなく見つけて来ては、自分が勇敢に「敵」と戦い、「敵」をやっつけているという演出を行うしかなくなる。

観客は、血に飢えているので、もはや現実と虚構の区別がつかなくなり、「生きた生贄」を次々と求める。どこかで聞いたような話だ。ローマの衆愚制の末期状態の「パンと見世物」にも似ている。
 
私たちの進むべき道は、自己栄化の道ではない。自分で自分を義とし、誉めそやし、人々から注目を浴びて、群衆と手に手を取り合って歓呼されて進んで行く道ではない。

自分に都合の良いことを言ってくれる人が、真実を述べているのだという短絡的な考え方を、いい加減に卒業せねばならないのだ。

人々があなたを取り巻き、あなたにおべっかを使うのは、決してあなたを愛し、あなたのためを思っているからではない。コメント投稿者は、ただ自分の欲望を誰かに重ね、その人間に賛辞を送ることで、自分はしかるべき代価を払わずに、誰かの中に手っ取り早く夢を見、自分の代わりに、その人物を前線に立たせて自分の夢を実現するために戦わせようとしているだけだ。

要するに、あなたを破滅させるために、あなたを賞賛しているだけなのだ。

虚栄の生き方を行う人々の末路は非常に厳しいものとなる。そのようにして偽りの高みに祀り上げられた挙句、破滅することに比べれば、低められることは、イエスの過越の血潮の中に隠れることであるから、まことに幸いである。

主イエスは罪がなかったのに、罪とされ、十字架の死に至るまでの苦難を受けられた。ご自分の生きておられた時代にもてはやされることなく、宗教指導者として祀り上げられ、権威を振るうこともなく、地上では、家も、財産も、ご自分の職業も、家族も、友人も、何一つ所有せず、何も持たない人として、ご自分の生涯をすべて人々のために捧げられた。

我々の救い主が地上で栄光をお受けにならなかったのに、その僕である私たちが彼に先んじて栄光を受けるとすれば、それは何かが完全に間違った生き方であると言える。

これが試金石なのである。私たちがイエスのために、自己を否むことができるのかどうか、蔑みや、嘲笑や、悪罵の言葉をも乗り越えて、福音のために身を捧げることができるかどうか。それとも、ただ自己の栄光のために福音を利用しているだけなのか。

それをはっきりさせる何より明白な試金石である。

地上のエルサレムはそれぞれの石が残らないほどに崩壊したが、天のエルサレムにこそ、神の眼差しが注がれている。

誰がご自分の僕であり、誰が神の義に立っているかは、必ず、神ご自身が証明される。だが、私たちは、それを自分で人前に振りかざすことはしない。悪魔の不当な訴えには毅然と立ち向かい、当然ながら虚偽をのべている人々は恥をこうむることになるが、それでも、私たちがよって立つのは、神の義であって、自分自身の義ではないのだ。

地上のエルサレムは、神が遣わされた預言者らを受け入れることを拒んだ。
今の言葉で言えば、彼らは神が遣わされた預言者や僕らを、カルト扱いしたということになろう。

しかし、私たちは、心から言う、

「祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する」と。

私たちは誰が主の御名によって来る人々であるかを見分け、彼らを追い出したり、排斥することなく、喜びを持って迎え入れる。

そう、この言葉は、私たちが「主の家」にいればこそ、言えることだ。

ダビデは言った、

主はわたしの光、わたしの救い
 わたしは誰を恐れよう。
 主はわたしの命の砦
 わたしは誰の前におのおくことがあろう。

 さいなむ者が迫り、
 わたしの肉を食い尽くそうとするが
 わたしを苦しめるその敵こそ、かえって
 よろめき倒れるであろう。

 彼らがわたしに対して陣を敷いても
 わたしの心は恐れない。
 わたしに向かって戦いを挑んで来ても
 わたしには確信がある。

 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
 命のある限り、主の家に宿り、
 主のを仰ぎ望んで喜びを得
 その宮で朝を迎えることを。

 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ
 幕屋の奥深くに隠してくださる。
 岩の上に立たせ
 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださう。
 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
 主に向かって賛美の歌をうたう。」(詩編27:1-6)

偽りの証人、不法を言い広める者が、ダビデに逆らって立つ時、ダビデは、はっきりと彼らの前で、神の守りと慈しみを宣言する。神が自分の頭に油を注いで下さり、敵前で食卓をもうけて下さることを確信していた。
 
「わたしは信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを。
 主を待ち望め。雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」と。

命あるものの地で、主の恵みを見る。何と良い言葉ではないか。私たちはまだ見ぬ都に思いを馳せながら、主の御顔を尋ね求める。主に似た者とされるために。エクレシアは要塞をも打ち破る力を持った強力な神の軍隊。神の守りが私たちを覆い、私たちの霊・魂・肉体のすべてを人知を超えた平安により守っている。

義人の道はあけぼのの光のように。キリストの死を打ち破った非受造の命は、信じる者にすべてを供給する

「義人の道はあけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」(箴言4:18)

不思議なもので、独学でヴァイオリンを始めてから、もう少しで一年が来ようとしているが、当初、確信した通り、しょせん人間の作った楽器だ。アクロバットな要素は何もなく、きちんと取り組めばそれなりの成果が出る。

初めはとにかく憧れの難曲に、生きているうちに何とか到達するといったことを目標に、何年がかりかで曲を完成しようと覚悟していた。そこで、初めから初心者が取り組むにはかなり難しい楽譜を印刷して、無我夢中で運指を探して書き込んだ。当初は、それらしき音へたどり着くのが精いっぱいであったが、次第に、自分の音が出来て来たのである。

不思議にも、一旦、自分の音らしきものが出来上がって来ると、ピアノの鍵盤とそう変わらない感覚で、音程が取れるようになる。楽器を構えた瞬間から、音楽らしき音が出るようになったときはまさに感動であった。正しい音程を探して四苦八苦するのではなく、目を凝らして神経を費やして楽譜を追うのでもない。耳に自然な音楽が聞こえるようになって来たのである。

筆者が目指していたのは、まさにそれなのであった。最初の一音から、強制とは無縁の、自発的な、まさに自分の音楽と言える、オリジナルな音色を奏でることができる境地にたどり着きたかったのである。

筆者は子供の頃からピアノを習っていたため、ピアノに取り組んで来た年月の方がはるかにヴァイオリンよりも長かったにも関わらず、ピアノという楽器に対しては、楽器ではなく機械に向かっているような、何か言い知れない抵抗感やよそよそしさのようなものをずっと感じ続けて来た。

もちろん、音楽が嫌いなせいではない。弾きたいと思う曲は山のようにあり、頭の中にはイメージが駆け巡っている。にも関わらず、楽器に向かうとき、何かどうしようもないぎこちなさ、不自然さのようなものがあり、ピアノが自分自身の一部であるかのように自然に感じられるようになるまでには、教師に教えられたのとは全く異なる、自分のスタイルを見つけ出すための試行錯誤の年月が必要だった。

こうして、かねてより持っていたピアノに対する抵抗感が、だんだん払拭されて来たのは、ヴァイオリンに取り組み始めてからのことであった。それよりも前から、二年間ほどの緻密な練習を通して、すっかり遠ざかっていた鍵盤に再接近を試みたことも前に述べた通りである。

そうして真面目に練習再開をしたことに加えて、自分で音を作ることから始めねばならないヴァイオリンに取り組み始めてから、案の定、楽器というものに対する考え方が根本的に変化し、ピアノに対する抵抗感も次第になくなっていったのである。

やはり、ピアノに関しては、子供の頃に、自発的に習い始めたのではなく、やりたくもなかったのに無理に習わされていたという負の記憶がよほど鮮明に脳内に焼き付いていたのかも知れない。間違った音を出しては怒られていた記憶も残っており、長い間、どうしても楽譜通りに誤りなく正確に弾かねばならないといった意識が常に先行して、自由が束縛され、心から弾きたいと思う自分の音楽を探すことも、それを奏でることも二の次であり、自分の音楽などというものは、片鱗さえも手に入れていなかったようなのである。それが変わって来たのが、ヴァイオリンへの取り組みを始めてからであった。

ヴァイオリンは、当初は、1時間も楽器を構えていられないという状態から始まった。もちろん、子供の頃に知っていた曲以外は、新しい楽譜を見ても、何とかそれらしき音程を探すだけで、音楽にならない。高音域などは、指の力がないために、押さえても全く音にならない。

だが、そんなところから始まっても、楽器が自分になじむまでは、無理なことは何もしなかった。次第にそれらしい音が出るようになったからと言って、やはり、一つの楽曲の中でも、とても初めから弾けそうにない速いパッセージを無理やり全体に合わせるために猛特訓するようなことは決してしなかった。弾けるようにしか弾かない。弾けないところはスローモーション。とにかく体に負担がかかることを一切やらず、楽器が自分の親密な友達になるまで、無理な近づき方をせず自然に接近し続けることに月日を費やしたのである。

そして、半年が過ぎ、一年近くが経とうとする頃に、相当な変化が訪れ、楽器が楽器としての音を出し始めたのである。おそらく、自分にとって自然な楽器の構え方がだんだん身に着いて来たのであろう。楽器をしっかりと固定できるようになったことに続いて、両手の指の自由度が増し、それなりに速い動きも可能になって来たのである。

どうせ締め切りもなく、発表会が迫っているわけでもない。自分のペースで、嫌にならない程度、ひたすら練習を続ければ良い。多忙状況に置かれた際には、一カ月以上も、楽器をケースから出すことさえなく、中断していたこともあったので、本当のことを言えば、まだ一年も真面目に練習したわけではない。

だが、休んでいる間にも、驚くような進歩があった。眠っている間にも変化が起きるのである。最初は一曲すらも弾き通すことも無理であったのが、いつの間にか、余計な力が抜けて、連続して一つのソナタの第4楽章まで弾き通すことができるようになり、重音にも相当耐えられるようになって来た。オクターブももう少し練習すれば、何とかなるだろう。高音域を押さえる時にも、かすれず、はっきりした音色がだんだん出るようになって来た。

取り組めば取り組むだけ、それなりの答えが出て来る楽器である。通常、教師について、週一回か、二週間に一回くらいレッスンを受けていれば、多分、三年くらいかかるであろう行程を、一年で通過したのではないかという気がしている。

やはり、教師には就かない方が良いと助言を受け、筆者自身がそう感じていたことは正しかったという気がしてならない。自分にとって何が自然で、何が一番楽なやり方であるか、それは人に教えてもらうことがどうしてもできない領域なのである。おそらく教師について習っていれば、この最も基礎となる部分を入念に時間をかけて探し出すことができなかったのではないかと思う。

さて、話題は変わるが、当ブログを開いてから、今年で約10年が経ったことになる。これはお祝いのために書いているのではない。当ブログは、開設当初から近代化もしておらず、レイアウトの変更もほとんどなく、トレードマークの長文も変わらない。

当ブログが検索で上位を占めることが気に入らないため、毎日、必死になって検索結果を操作している読者たちがいるのだが、なぜそんなことをせねばならないのか、筆者は全く首をかしげるばかりだ。

毎回、筆者はその人たちに断っている、そんなことは徒労でしかないと。なぜなら、当ブログは、彼らが思うほどに、読んでいる人は多くなく、そもそもこんな学術論文のような長文を最初から最後まで読むことのできる人は限られている。筆者自身、最近は、眼精疲労のために、文章を満足に遂行することが追い付かないでいる。だから、初めの頃のように、隅から隅までチェックして満足のいく文章が書けていない。

さらに、10年もやっていると、検索してたどり着いて来る人などほとんどいない。だから、検索結果の操作をしても、その効果はほとんどないと言える。

さて、ヴァイオリンを教師に就かずにやり始めたことを当ブログに書き記したのは、半年ほど前のことだったであろうか。その時、筆者の心の中に、はっきりした直観があった。教師につけば、必ず、ピアノの二の舞となり、自分の音楽を見失ってしまうことになるだろうと。

その直観はまことに正しく、別に教師などいなくとも、大量の動画などもあるわけだから、いくらでも模範となるものは十分に揃っている。そういう意味では恵まれた時代である。

このように、教師に就かないという筆者の原則は、音楽だけでなく、信仰生活にも同様に適用されている。筆者はこの先、いかなる宗教リーダーにも就かず、目に見える人間から教えを乞うことを決してしないつもりである。

そもそも当ブログを始めた2008年にすでにその結論が出ていたのに、その原則を確固として貫けなかったところに、筆者の弱さがある。筆者の人格的未熟さのゆえである。

だが、年月が経つうちに、当初持っていた確信は心の中で強まり、ますます教師などなくても大丈夫だと確信するようになった。どんなことも、自分の内なる直観に基づき、解決できる。信仰においては、御霊を通して、神が必要のすべてを備えて下さると信じて、大胆に進んで行くことができる。

筆者が当ブログを始めて後、筆者より前からブログを書いていた多くのクリスチャンたちが、途中で書きやめてしまった。彼らはある時点までは、良好な交わりを持ち、意気揚々と信仰告白を記していたが、途中で、人間関係に変化が起こり、信仰的立場に変化が起き、様々な嵐が押し寄せ、自分がどうも大きな間違いを犯したのではないかと感じ、軌道修正を迫られた際、彼らは決して自分の誤りを人前に表明して修正することができなかった。人を傷つけないために、自分の体面を保つために、彼らは自分の心に起きた変化を決して外に表さなかったのである。それゆえ、彼らの発言は、途中から辻褄が合わなくなり、続けられなくなって行った。

そういう例は、キリスト教に限らずとも起きている。どういうわけか知らないが、人々がある時点を境に、とても良いことを熱心に書いていたと思われるブログやツイッターを放棄して行くのである。見かけがどれほど有意義で、どれほど大勢の読者がいたとしても、彼らの心の中で、何かの重大な変化が起こり、続けることができなくなったのは明白である。

だが、筆者は言っておきたい。真に信仰に立っていれば、必ず、最後まで告白を続けられると。ブログのレイアウトなどは問題ではない。問題は、神の御前での正直さ、誠実さである。

長く続けるために重要なことが一つある。それは神の御前で正直であらねばならないことで、そのためには、人に対しての遠慮を捨てねばならない。自分が間違いを犯したと感じる時には、たとえ面目を失う危険があっても、それをはっきり言い表し、立場を修正せねばならない。間違っているものは、間違っている、受容できないものは、受容できないと、態度をはっきりさせねばならない。

たとえば、自分が関わっていた一つの交わりが、途中から御言葉に背いて腐敗して駄目になったり、人に頼ってキリストを見失いそうになったりした際、その誤りや危険をきちんと認め、口で言い表し、あるべきところへ戻らねばならない。その過程で、決して自分の面目を惜しんだり、人の気分を害することを恐れてはいけないのである。

だが、それさえできれば、神の御前での首尾一貫性を失うことはない。ある信仰告白が残るかどうかの決め手は、首尾一貫性が保たれているかどうかにある。レイアウトを近代化することなど、それに比べれば大きな問題ではない。どんなに斬新なアイディアが溢れていても、そこに真実性がなく、首尾一貫性がなければ、長く続けることはできない。

何度も言うように、筆者は当ブログを人のために書いてなどおらず、神に対する信仰告白として書いている。

そこで、筆者が最も避けたいのは、たとえば、自分が誤りを犯していることが重々分かっているのに、面目を失うことが怖くて、また、人の期待を失うことが怖くて、人への遠慮や気遣いから、それを告白できなくなり、自分の人生を全く修正することができなくなって、嘘に嘘を重ね、ごまかしにごまかしを重ねながら生きることである。

筆者にはそのような不自然な生き方は、到底、逆立ちしても無理であるが、多くの人たちがそのように逆立ちして歩くように、器用に自分をごまかしながら生きている。信者を名乗っている人たちの中にも、そういう偽善的な生き方を確信犯的に行っている人たちが数知れず存在する。一体、何のための信仰生活なのか、筆者には分からない。不信者にはまだそういうことが許されても、クリスチャンにはごまかしは無理である。そんな生き方を重ねていれば、いつかしたたかに破滅する時が来よう。

砂地に立てた家は、嵐がくれば、ひどい崩壊を遂げるが、堅固な岩の上に立てた家は、崩壊しない。筆者はそういう家を築きたいと思っている。だが、そのためには、ヴァイオリンに取り組み、ピアノに取り組むときのように、人目につかない隠れたところで、根気強く、自分の納得がいくまで基礎を積み上げて行く地道な作業が必要になる。本当に自分が納得のいく生き方を、一人で黙って試行錯誤を重ねながら、模索して行かねばならないのである。

人に教えられ、強制されて身に着けた基礎は、どこかの時点ですべて取り払って、やり直さなくてはならなくなる。ピアノに関しては、筆者は約2年間をかけて、鍵盤への向かい方から始まり、基礎を全部やり直さなくてはならなくなった。教えられて身に着けたものは、決して自分にとって最も適切で正しい自然な方法ではなかったためである。自分にとって何が一番適切で自然であるかを自分で探し出すために、それなりの時間がかかった。

だが、やるべき努力をしていれば、その基礎は、一定期間が過ぎると、外に姿を現すようになる。自己満足の域を超えて、誰が見ても、一定の評価を下せるレベルになる。筆者はそのようにして、すべてのことに、自分で試行錯誤を重ねながら、自分の道を見つけて行くことこそ、重要であると考えている。教師につくと、自由が制限されてしまうように、人の采配の下で働けば、仕事の自由が制限される。まして宗教指導者の助言やアドバイスを受ければ、それに人生全体が拘束される。

人は人に向かって正しい道を教えられない。楽器の構え方一つをとっても、何が最も自然で無理がないかは本人でなくては決して分からない。人が人を助けられると思うことは、幻想であり、思い上がりでしかないと筆者はずっと言っている。

筆者はすべてにおいて、真に自由でありたいと考えている。そして、キリスト者のうちには、神の霊が宿っており、必要のすべてを、この霊が供給するからこそ、我々は自由であることができる。

キリストの霊は死を打ち破った非受造の命であり、自分の外にあるいかなるものにも依存しない命である。

この命がキリスト者の内側にあるということは、この命を通して、キリスト者はすべての供給を受けることができることを意味する。尽きせぬ命の水の源は、この霊の中に存在する。

それに引き換え、人に頼ることは、すぐに枯れてなくなってしまう水のために何度も何度も井戸へ向かうのと同じである。だから、筆者はそのような生き方を「隔離される」ことであると考えている。

多くの信者が、日曜ごとに教会に「隔離」されに行く。彼らは「罪」という不治の病にかかっており、これはおそろしく差別されている伝染病なので、彼らは自らを恥じ、社会を避けて、日曜ごとに、お参りをして自分を清めてもらうために、教会という療養所へ隔離されに行く。

だが、何度もお参りを繰り返しても、彼らの不治の病は治らない。日曜ごとに清めてもらわなくては、彼らは清くなったという確信も得られないし、罪や失敗や恥の意識もなくならない。

本当は、その不治の病を奇跡的に直すことができる力は、日曜礼拝にはなく、牧師たちにもなく、礼拝の場所も、あの山でもエルサレムでもなく、真理と霊によって神を礼拝することをせねばならないのであって、それを可能にして下さるのは、見えないキリストの御霊だけなのである。

人間の雑踏の中にこの方を見つけようとしているうちは、回答は得られないだろう。

この方に出会うためには、私たちは、しばしば、人里を離れてスカルの井戸のようなところで、キリストに出会う必要がある。日曜礼拝の只中でも、エルサレムの神殿でもなく、荒野のような寂しい場所で、主に出会うのである。

今、時代や社会はますますバビロン化が進んでいる。黙示録には獣の刻印を受けなければ、売ることも買うこともできない社会が来ると記されており、今やそうした時が近づいて来ていることが感じられる。

だが、キリストの命は、バビロン社会の全ての統制を超えて、信じる者に必要のすべてを供給する。

だから、筆者は述べておきたい。たとえどれほど大勢の人たちが、ヨブの苦難を見て、彼を責めた妻のように、「キリストを信じたがゆえに、あなたの人生は苦悩の連続になったのではありませんか。もっと楽な生き方があったとは思いませんか。あなたの信仰は愚かだとは思いませんか」と問うても、筆者は答える、決してそうは思わないと。

むしろ、この絶大な御名の権威のゆえに、筆者も当ブログも、堅固な家のように残るであろうと。多くの人たちは、筆者に比べれば、自分ははるかに幸せだと考えているのかも知れないが、この先もずっと今までのような時代が続くわけではない。筆者も当ブログも、人の目にどのように映ったとしても、10年後にも残るであろうし、しかるべき時が来れば、キリストが御顔の栄光を信じる者の上に朝日のように輝かせて下さるだろう。

アブラハムがそうであったように、キリスト者の人生は、晩年にさしかかればさしかかるほど、ますます光を帯びて壮健に輝いて来るはずである。

どういうわけか、筆者は今、当ブログを始めた時と同じような感慨に浸っている。その当時、筆者はいかなる宣伝もなしに、誰を満足させるためでもなく、ただ真実なる方を追い求めるためにブログを書き始めた。

読者もいなければ、手柄も功績も何一つなく、どこへ向かうのかさえ明らかでなかったその時と、似た様な感慨を味わっている。

神ご自身を真剣に呼び求めること以上の目的が、人にあるだろうか。

神ご自身が答えて下さりさえすれば、それにまさる満足がどこにあるだろうか。

筆者は、人として、神と共に地上で乙な歩みをしたいと思うのである。だが、人から見てどう思われるかなどは重要ではない。神と筆者との間で、後になってから、「これで良かった」と言える満足な歩みをしたいのである。その模索はまだまだ道半ばで、真の成果は今まで一度も完全に現れたことがない。だからこそ、前にあるものを一心に見つめ、まだ見たことのない約束の地を待ち望むのである。

ヴァイオリンがこの先、どうなるのかはまことに楽しみであるが、信仰生活にどんな実りが生じるのかは、もっと楽しみである。からし種のような信仰から、いくつも芽が出て、幹が伸び、成長して行く。光を照らし、水を注いで成長させて下さるのは神である。

この救いの岩に頼る者は決して恥と失望に終わることはない。

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

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