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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

御霊に導かれて生きる―主を待ち望み、生ける者の地で神の恵みを見る

このところ、すべての手続きが穏やかに進行中である。

何度も書いて来たことだが、訴訟などの手続きは、そのほとんどが一般市民にも弁護士なしで十分に対応できる。必要なのは、専門知識ではなく、ひとかけらの勇気と信仰である。

これらの訴えをことごとく提出した時に、筆者はこの土地で、自分のなすべき役目がほぼ終わりかけており、主は筆者をよそへ移そうと願っておられるという気がしてならなくなった。そのことは、これまで何度か書いて来た通りであるが、まるですべての状況が、ここを出なさいと筆者に語りかけているようだ。

本当はもっと早くそうすべきだったのであり、この土地はずいぶん前から不毛だったのだが、筆者が御心を掴むのに時間がかかったので、脱出の時が遅くなった。それから、最後にひと仕事、残っていた用事があった。

筆者はかつて住居を住み替えさえすれば、生活が快適になるだろうと思っていた時期があった。その頃は、この土地が不毛だなどとは考えておらず、様々な努力で未来が開けると考えていたのである。しかし、快適な住居に住み替えても、問題は去らず、この土地ではすべての努力が無駄に終わると分かった。
 
まるで首都圏の中心部から汚水がどんどん流されて来るように、年々、すべてが悪化して行くだけである。

筆者はこの土地に思い出はあるが、未練はない。そして、この土地の人々の気質が、ソドムとゴモラのように、どんどん悪くなって行っていることをひしひしと肌で感じている。

最近、街の弁護士日記というブログに「滅びるね」という記事が載った。詳細はその記事で読んでいただければ良いが、筆者はこの内容に深く頷くものである。

街はあたかも平和で、真夏の行楽日和が続き、店はバーゲンセールでにぎわっている。筆者も、連休中、偶然に立ち寄った店で、7割引きで洋服を買い、鳥を増やし、将来的な住処を探そうという考えで、土地と家を見て回った。どこかへ引っ越さねばならないという気がしているためだ。

だが、その道中、毎年、楽しんで来た夏の特製のパスタをパスタ屋さんで頼むと、それが今年には、まるで大奮発しないと買えない商品のように、値段が去年よりも随分、高くなっていた。しかし、人々の生活は潤っていない。

街はあたかも平和そうに見える。去年と似たような今年が続いているように見える。商業活動も盛んだ。だが、何かがおかしい。これは去年の続きでは決してない。商品のサイズは縮み、値段は上がり、去年できたことが、今年にはもうできなくなっている。そして、主都では、人々の頭上に刀を振り下ろすような凶悪な法案が次々と通過している。

この平和がソドムとゴモラのように映る理由を端的に言い表すのは難しい。どんなに人々の気質が悪くなり、人間が騙し合い、陥れ合い、殺し合うようになったのか、今ここで長々と説明をするつもりはない。

しかし、大量の汚泥の上に板子一枚で築き上げられたような、このうわべだけの平和が、何よりも滅びの最たる兆候である。この見せかけの平和にも、今やヒビが入り、脆いガラス細工の製品のように、人々の生活の安寧が壊れかけている。

とにかく、首都圏はもうダメなのだ。ここにはいかなる命の息吹きもなく、希望も、発展の見込みもなく、すべてが悪くなって行くだけであり、ここにいてはダメなのだ。何かがおかしいというこの予感が、具体的に何を意味するのかは知らない。巨大地震だとか、津波だとかの自然災害、もしくは戦争だとか、良からぬ出来事が迫っているという感覚なのか、それとも、理念を失った人々の生活が自滅へ向かっているために生じる感覚なのか。
 
筆者は県内にある素敵な家々を見学してみた。ところが、以前には「こんな家に住みたい」と、高嶺の花を見るように、憧れながら心躍らせて見ていた家々が、なぜか心に響いて来なかった。自分の見る目が変わったのか、それとも要求が高くなったのか、なぜそれらが魅力的に映らないのか、理由は分からなかった。しかし、どれもこれも決定打にかけるのだ。たとえただで差し上げますと言われても、筆者はそれを受け取らず、ここには住まないだろうという気がしてならなかった。
 
値段や内装がどうのといった問題ではなく、要するに、ここは筆者のための安住の地ではなく、この土地に家を構えてはならないという御霊の導きだという気がしてならない。

筆者は今、地中に深く埋蔵されたエネルギーを採掘する業者のように、収穫が深く隠されていそうな土地を探している。

あるいは、谷川の流れを慕う鹿のように、清い命の水の流れを、豊かな命の流れを備えた土地を探している。

それは間もなく見えて来るであろう。心の底から命の自由と解放を求める切なる願い求めが極限に達したときに、エクソダスが起きるのである。
 
ところで、仮の宿にいる筆者だが、生活を拡張する過程で、不思議なことがあった。

前にも書いたが、筆者は、最近、我が家の成員である小鳥たちのために、古い鳥かごをみな新調することにして、金色の鳥かごを三つ買って、そこにたくさんの色鮮やかなインコを入れてみた。
 
不思議なことに、一つ目の鳥かごは、到着してから組み立ててみると、屋根が微妙にずれて合わなかった。さらに、そこにはどういうわけかエサ入れの蓋が余計に一つ入っていた。

屋根に不具合があることを売主に書き送ると、早速、予備の屋根を二つ送ります、という返事が来た。なぜ二つも送ってくれるのだろうと不思議に思った。

その後、今度は別な鳥たちのために、同じ鳥かごをもう一つ買った。すると、到着したセットの中にあった餌入れの蓋の一つが、最初から割れていた。しかし、一つ目を注文した時に、蓋が余分に入っていたので、それを使うことが出来た。

その後、今度は別の世代の鳥たちのために、三つ目の同じ鳥かごを注文した。すると、売主から、商品は品切れ中で、取り寄せると時間がかかるが、屋根のない鳥かごなら一つある、値引きするがこれを買うかと問われた。もちろん、その屋根は、筆者に予備として送ったために欠けているのだ。

二つ返事で買いますと答えた。すると売主は本当に値引きしてくれた上、おもちゃも余分につけてくれた。商品に欠陥があるわけではないのにだ。

我が家の祝福された鳥たちである。

ここを出て行くときは、きっと民族大移動のようになることであろう。古い鳥かごを移動用キャリーに変えて、そこに鳥たちを入れ、他の動物たちもみなキャリーに入れる。まるでピクニックに行く時のように可愛らしい色の新しいキャリーだ。そして、彼らを車に乗せて、陽気な音楽をかけて、私たちは車で出発する。地上を何百キロも走って、列島を横断し、あるいは船に乗って、目的地に到達する。ちょっとしたノアの箱舟だ。その後で、車も新調することになるだろうか。むろん、その先に待っている家では、鳥たちのために一室を備えるのである。

いずれにしても、この土地にじわじわと押し寄せて来る滅びの感覚を振り払い、二つに割れた紅海を渡るようにして、筆者はここを脱出して行くだろう。だが、それはドラマの題材となるような出来事ではなく、人に知られないひそやかな歩みで、もの言わぬ我が家の成員だけが知っているひそかなピクニックだ。

どんなにこの土地に暗黒の未来が待っていようと、筆者はそれに巻き込まれて死人に数えられるつもりはなく、神にあって生きている人間として、祝福に満ちた地に達する決意と希望を失わない。

詩編には「命あるものの地で」「生ける者の地で」と訳されている言葉が登場する。私たち信者は、神にあって永遠に生きる者である。むろん、来るべき世においてだけでなく、この地上においても、生ける者なのである。

ただ生ける者であるばかりか、キリストと共に豊かな天の相続財産の共同相続人である。そこで、目には見えないが、御霊の命による我々の統治を待っている新たな地、新たな財産が存在する。私たち自身が探し求めているだけでない。その土地も、物も、財産も、人々も、私たちの現れを心から待ち焦がれて、その面影を探し求めている。だからこそ、主人の命を受けて、イサクのために使用人がリベカを探し出した時のように、求めていたものを見つけた時には、私たちは互いに必ずそれと分かるはずなのだ。

「主よ、あなたの道を示し
 平らな道に導いてください。
 わたしを陥れようとする者がいるのです。
 貪欲な敵にわたしを渡さないでください。
 偽りの証人、不法を言い広める者が
 わたしに逆らって立ちました。

 わたしは信じます
 命あるものの地で主の恵みを見ることを。
 主を待ち望め
 雄々しくあれ、心を強くせよ。
 主を待ち望め。」(詩編27:11-14)
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祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する。(2)

「義のために迫害される人々は、幸いである。
 天の国はその人たちのものである。

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10-12)
 
厳粛かつ喜びに満ちた朝である。戦略的なことなので今は詳しくは話せないが、最初の訴えの提起が終わり、これから順番に複合的な訴えを次々に出して行くことになる。ものすごい量の文書だ。受けとる者をさぞかし煩わせることになろう。インターネットに発表する文章にはいかなる法的価値もないが、ネット上によた言を並べるくらいなら、ちゃんとした効力を持つ文書を書いた方が良い。
 
さて、重要な日に限り、道路へ出ると仮免許の車がノロノロと前を走っていたり、渋滞に巻き込まれたりして、なかなかスリリングである。だが、心の中は実に平安だ。主よ、目的地へたどり着くまで守って下さいと祈りつつ、何だかアクション映画の主人公になったような気分だ。
 
ところで、最近、ある若い登山家が、エベレスト登頂に失敗して亡くなったという。なんとそれまで7度挑戦し、7回とも失敗した上での8度目の挑戦だったのだという。その人は登山家と呼ぶには、世界ではあまりにも無名の存在で、プロの登山家の間では、登山家としての評価はあまり受けていなかったらしい。

むしろ、世間からの応援を受けて、「登山のショー化」とでもいうべき、プロの登山家とは全く異なる挑戦を行う異色の存在として見られていた。近年は、実績がなさすぎるのに、あまりにも無謀な挑戦をしているとして、このまま行くと死の危険があるという警告すらもなされていたというのだ。まさにその危惧が的中した形となった。
 
その登山家には大企業のスポンサーやファンの数々がついて、熱烈な応援が続けられていたという。プロの登山家の目から見れば、到底、エベレスト登頂(しかもただの登頂ではなく極めて困難な挑戦)を果たす実力などなかったにも関わらず、おだてられ、祀り上げられ、担ぎ上げられて、引くに引けなくなり、毎年の失敗の後に、ついに最後の挑戦に赴き、そこで命を落としたのだという。
 
嘘の混じった感動体験の終わりは何とも悲惨なものである。束の間の高揚感の後で、手痛いツケがやって来る。担ぎ上げた人々の心にも、忘れられない苦い教訓となって残ることだろう。

この登山家は決して詐欺をやっていたわけではないが、自分の身の丈を知らず、本当の意味での登山家の精神を持っていなかったと見られる。決してこれと同列に並べるわけではないが、最近では、ピアニストとして活躍するのに十分な実力と才能があったわけでもない日本人の若者が、「シチリア公マエストロ殿下」などと詐称して、自分を偉大なピアニストに見せかけて、ヨーロッパなどで詐欺的公演活動を繰り広げていたというニュースもあった。

約10年前の日本では、日本人が国外でこのような大規模な詐欺活動を行うとは、ほとんど考えられていなかった。我が国の人々は、根気強い努力や、忍耐力で知られていた。それがここほんのわずかな間で、地道な努力を嫌い、時間をかけて高い目標を目指すのではなく、短期間で、ドーピングのような不正な方法を使って、人を出し抜き、欺きながら、虚構の実績を築き上げ、人々のアイドルとなり、大金を稼ごうとするような人々が現れるようになった。だんだんこの国が本当に壊れて来ていることを感じる。
 
ペンテコステ運動もこれに似ている。この運動からは、実に様々な「霊の器」たちが、線香花火のように束の間、現れては消えて行った。この運動では何かの超自然的な力を持っていれば、それだけで、誰でも指導者になれる。地道な教育訓練など必要ない。短い間で人々の注目を集め、華やかな舞台を作り上げることさえできれば、それが成功なのだ。彼らの「ミニストリー」は、まさにショーと呼んだ方が良いであろう。

だが、ショーであるがゆえに、それは内実が伴わない、束の間の幻のような夢でしかなく、その夢のあとで、苦い教訓が訪れる。

ペンテコステ運動から生まれて来たカルト被害者救済活動も同じである。これは『水戸黄門』や、『暴れん坊将軍』といったドラマと全く同じ、キリスト教界を舞台とした勧善懲悪のドラマである。正義の味方をきどる人達が、勇敢に次々と悪者をやっつけるというドラマを、現実を舞台にして演じ続けているのである。

観客は斬り合いの場面を見て溜飲を下げ、悪者とされた人々をさらしものにして引きずり回し、その悪事の証拠をつつき回し、非難する。

これがドラマであるうちは良いが、現実を舞台にしているところが、非常にいやらしく、恐ろしい。現実では、一人の人間が、ずっと絶え間なく正義の味方を演じ続けるなどのことは不可能だ。むろん、そうそう都合よく悪者が次々と登場して来るはずもない。

それにも関わらず、たとえばネット上で誰かが正義の味方のように発言を始めると、おかしなことが起きる。取り巻き連中が集まり、ヨイショしてショーが始まり、彼らは現実を舞台に、ずっと正義の味方を演じ続けるしかなくなってしまうのだ。

すると、どういうことが起きるだろうか? 

悪者を「製造」するしかなくなる。次から次へとドラマの材料となりそうなストーリーをかき集めて来ては、絶えず悪者を作り出し、これを糾弾するしかなくなる。

現実にはそんな都合の良いドラマがあるはずもなく、彼らに人を裁く権限もないにも関わらず、ただ自分を正義と見せかけるために、「カルトの疑いあり」と嫌疑をかける相手を終わりなく見つけて来ては、自分が勇敢に「敵」と戦い、「敵」をやっつけているという演出を行うしかなくなる。

観客は、血に飢えているので、もはや現実と虚構の区別がつかなくなり、「生きた生贄」を次々と求める。どこかで聞いたような話だ。ローマの衆愚制の末期状態の「パンと見世物」にも似ている。
 
私たちの進むべき道は、自己栄化の道ではない。自分で自分を義とし、誉めそやし、人々から注目を浴びて、群衆と手に手を取り合って歓呼されて進んで行く道ではない。

自分に都合の良いことを言ってくれる人が、真実を述べているのだという短絡的な考え方を、いい加減に卒業せねばならないのだ。

人々があなたを取り巻き、あなたにおべっかを使うのは、決してあなたを愛し、あなたのためを思っているからではない。コメント投稿者は、ただ自分の欲望を誰かに重ね、その人間に賛辞を送ることで、自分はしかるべき代価を払わずに、誰かの中に手っ取り早く夢を見、自分の代わりに、その人物を前線に立たせて自分の夢を実現するために戦わせようとしているだけだ。

要するに、あなたを破滅させるために、あなたを賞賛しているだけなのだ。

虚栄の生き方を行う人々の末路は非常に厳しいものとなる。そのようにして偽りの高みに祀り上げられた挙句、破滅することに比べれば、低められることは、イエスの過越の血潮の中に隠れることであるから、まことに幸いである。

主イエスは罪がなかったのに、罪とされ、十字架の死に至るまでの苦難を受けられた。ご自分の生きておられた時代にもてはやされることなく、宗教指導者として祀り上げられ、権威を振るうこともなく、地上では、家も、財産も、ご自分の職業も、家族も、友人も、何一つ所有せず、何も持たない人として、ご自分の生涯をすべて人々のために捧げられた。

我々の救い主が地上で栄光をお受けにならなかったのに、その僕である私たちが彼に先んじて栄光を受けるとすれば、それは何かが完全に間違った生き方であると言える。

これが試金石なのである。私たちがイエスのために、自己を否むことができるのかどうか、蔑みや、嘲笑や、悪罵の言葉をも乗り越えて、福音のために身を捧げることができるかどうか。それとも、ただ自己の栄光のために福音を利用しているだけなのか。

それをはっきりさせる何より明白な試金石である。

地上のエルサレムはそれぞれの石が残らないほどに崩壊したが、天のエルサレムにこそ、神の眼差しが注がれている。

誰がご自分の僕であり、誰が神の義に立っているかは、必ず、神ご自身が証明される。だが、私たちは、それを自分で人前に振りかざすことはしない。悪魔の不当な訴えには毅然と立ち向かい、当然ながら虚偽をのべている人々は恥をこうむることになるが、それでも、私たちがよって立つのは、神の義であって、自分自身の義ではないのだ。

地上のエルサレムは、神が遣わされた預言者らを受け入れることを拒んだ。
今の言葉で言えば、彼らは神が遣わされた預言者や僕らを、カルト扱いしたということになろう。

しかし、私たちは、心から言う、

「祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する」と。

私たちは誰が主の御名によって来る人々であるかを見分け、彼らを追い出したり、排斥することなく、喜びを持って迎え入れる。

そう、この言葉は、私たちが「主の家」にいればこそ、言えることだ。

ダビデは言った、

主はわたしの光、わたしの救い
 わたしは誰を恐れよう。
 主はわたしの命の砦
 わたしは誰の前におのおくことがあろう。

 さいなむ者が迫り、
 わたしの肉を食い尽くそうとするが
 わたしを苦しめるその敵こそ、かえって
 よろめき倒れるであろう。

 彼らがわたしに対して陣を敷いても
 わたしの心は恐れない。
 わたしに向かって戦いを挑んで来ても
 わたしには確信がある。

 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
 命のある限り、主の家に宿り、
 主のを仰ぎ望んで喜びを得
 その宮で朝を迎えることを。

 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ
 幕屋の奥深くに隠してくださる。
 岩の上に立たせ
 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださう。
 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
 主に向かって賛美の歌をうたう。」(詩編27:1-6)

偽りの証人、不法を言い広める者が、ダビデに逆らって立つ時、ダビデは、はっきりと彼らの前で、神の守りと慈しみを宣言する。神が自分の頭に油を注いで下さり、敵前で食卓をもうけて下さることを確信していた。
 
「わたしは信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを。
 主を待ち望め。雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」と。

命あるものの地で、主の恵みを見る。何と良い言葉ではないか。私たちはまだ見ぬ都に思いを馳せながら、主の御顔を尋ね求める。主に似た者とされるために。エクレシアは要塞をも打ち破る力を持った強力な神の軍隊。神の守りが私たちを覆い、私たちの霊・魂・肉体のすべてを人知を超えた平安により守っている。

義人の道はあけぼのの光のように。キリストの死を打ち破った非受造の命は、信じる者にすべてを供給する

「義人の道はあけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」(箴言4:18)

不思議なもので、独学でヴァイオリンを始めてから、もう少しで一年が来ようとしているが、当初、確信した通り、しょせん人間の作った楽器だ。アクロバットな要素は何もなく、きちんと取り組めばそれなりの成果が出る。

初めはとにかく憧れの難曲に、生きているうちに何とか到達するといったことを目標に、何年がかりかで曲を完成しようと覚悟していた。そこで、初めから初心者が取り組むにはかなり難しい楽譜を印刷して、無我夢中で運指を探して書き込んだ。当初は、それらしき音へたどり着くのが精いっぱいであったが、次第に、自分の音が出来て来たのである。

不思議にも、一旦、自分の音らしきものが出来上がって来ると、ピアノの鍵盤とそう変わらない感覚で、音程が取れるようになる。楽器を構えた瞬間から、音楽らしき音が出るようになったときはまさに感動であった。正しい音程を探して四苦八苦するのではなく、目を凝らして神経を費やして楽譜を追うのでもない。耳に自然な音楽が聞こえるようになって来たのである。

筆者が目指していたのは、まさにそれなのであった。最初の一音から、強制とは無縁の、自発的な、まさに自分の音楽と言える、オリジナルな音色を奏でることができる境地にたどり着きたかったのである。

筆者は子供の頃からピアノを習っていたため、ピアノに取り組んで来た年月の方がはるかにヴァイオリンよりも長かったにも関わらず、ピアノという楽器に対しては、楽器ではなく機械に向かっているような、何か言い知れない抵抗感やよそよそしさのようなものをずっと感じ続けて来た。

もちろん、音楽が嫌いなせいではない。弾きたいと思う曲は山のようにあり、頭の中にはイメージが駆け巡っている。にも関わらず、楽器に向かうとき、何かどうしようもないぎこちなさ、不自然さのようなものがあり、ピアノが自分自身の一部であるかのように自然に感じられるようになるまでには、教師に教えられたのとは全く異なる、自分のスタイルを見つけ出すための試行錯誤の年月が必要だった。

こうして、かねてより持っていたピアノに対する抵抗感が、だんだん払拭されて来たのは、ヴァイオリンに取り組み始めてからのことであった。それよりも前から、二年間ほどの緻密な練習を通して、すっかり遠ざかっていた鍵盤に再接近を試みたことも前に述べた通りである。

そうして真面目に練習再開をしたことに加えて、自分で音を作ることから始めねばならないヴァイオリンに取り組み始めてから、案の定、楽器というものに対する考え方が根本的に変化し、ピアノに対する抵抗感も次第になくなっていったのである。

やはり、ピアノに関しては、子供の頃に、自発的に習い始めたのではなく、やりたくもなかったのに無理に習わされていたという負の記憶がよほど鮮明に脳内に焼き付いていたのかも知れない。間違った音を出しては怒られていた記憶も残っており、長い間、どうしても楽譜通りに誤りなく正確に弾かねばならないといった意識が常に先行して、自由が束縛され、心から弾きたいと思う自分の音楽を探すことも、それを奏でることも二の次であり、自分の音楽などというものは、片鱗さえも手に入れていなかったようなのである。それが変わって来たのが、ヴァイオリンへの取り組みを始めてからであった。

ヴァイオリンは、当初は、1時間も楽器を構えていられないという状態から始まった。もちろん、子供の頃に知っていた曲以外は、新しい楽譜を見ても、何とかそれらしき音程を探すだけで、音楽にならない。高音域などは、指の力がないために、押さえても全く音にならない。

だが、そんなところから始まっても、楽器が自分になじむまでは、無理なことは何もしなかった。次第にそれらしい音が出るようになったからと言って、やはり、一つの楽曲の中でも、とても初めから弾けそうにない速いパッセージを無理やり全体に合わせるために猛特訓するようなことは決してしなかった。弾けるようにしか弾かない。弾けないところはスローモーション。とにかく体に負担がかかることを一切やらず、楽器が自分の親密な友達になるまで、無理な近づき方をせず自然に接近し続けることに月日を費やしたのである。

そして、半年が過ぎ、一年近くが経とうとする頃に、相当な変化が訪れ、楽器が楽器としての音を出し始めたのである。おそらく、自分にとって自然な楽器の構え方がだんだん身に着いて来たのであろう。楽器をしっかりと固定できるようになったことに続いて、両手の指の自由度が増し、それなりに速い動きも可能になって来たのである。

どうせ締め切りもなく、発表会が迫っているわけでもない。自分のペースで、嫌にならない程度、ひたすら練習を続ければ良い。多忙状況に置かれた際には、一カ月以上も、楽器をケースから出すことさえなく、中断していたこともあったので、本当のことを言えば、まだ一年も真面目に練習したわけではない。

だが、休んでいる間にも、驚くような進歩があった。眠っている間にも変化が起きるのである。最初は一曲すらも弾き通すことも無理であったのが、いつの間にか、余計な力が抜けて、連続して一つのソナタの第4楽章まで弾き通すことができるようになり、重音にも相当耐えられるようになって来た。オクターブももう少し練習すれば、何とかなるだろう。高音域を押さえる時にも、かすれず、はっきりした音色がだんだん出るようになって来た。

取り組めば取り組むだけ、それなりの答えが出て来る楽器である。通常、教師について、週一回か、二週間に一回くらいレッスンを受けていれば、多分、三年くらいかかるであろう行程を、一年で通過したのではないかという気がしている。

やはり、教師には就かない方が良いと助言を受け、筆者自身がそう感じていたことは正しかったという気がしてならない。自分にとって何が自然で、何が一番楽なやり方であるか、それは人に教えてもらうことがどうしてもできない領域なのである。おそらく教師について習っていれば、この最も基礎となる部分を入念に時間をかけて探し出すことができなかったのではないかと思う。

さて、話題は変わるが、当ブログを開いてから、今年で約10年が経ったことになる。これはお祝いのために書いているのではない。当ブログは、開設当初から近代化もしておらず、レイアウトの変更もほとんどなく、トレードマークの長文も変わらない。

当ブログが検索で上位を占めることが気に入らないため、毎日、必死になって検索結果を操作している読者たちがいるのだが、なぜそんなことをせねばならないのか、筆者は全く首をかしげるばかりだ。

毎回、筆者はその人たちに断っている、そんなことは徒労でしかないと。なぜなら、当ブログは、彼らが思うほどに、読んでいる人は多くなく、そもそもこんな学術論文のような長文を最初から最後まで読むことのできる人は限られている。筆者自身、最近は、眼精疲労のために、文章を満足に遂行することが追い付かないでいる。だから、初めの頃のように、隅から隅までチェックして満足のいく文章が書けていない。

さらに、10年もやっていると、検索してたどり着いて来る人などほとんどいない。だから、検索結果の操作をしても、その効果はほとんどないと言える。

さて、ヴァイオリンを教師に就かずにやり始めたことを当ブログに書き記したのは、半年ほど前のことだったであろうか。その時、筆者の心の中に、はっきりした直観があった。教師につけば、必ず、ピアノの二の舞となり、自分の音楽を見失ってしまうことになるだろうと。

その直観はまことに正しく、別に教師などいなくとも、大量の動画などもあるわけだから、いくらでも模範となるものは十分に揃っている。そういう意味では恵まれた時代である。

このように、教師に就かないという筆者の原則は、音楽だけでなく、信仰生活にも同様に適用されている。筆者はこの先、いかなる宗教リーダーにも就かず、目に見える人間から教えを乞うことを決してしないつもりである。

そもそも当ブログを始めた2008年にすでにその結論が出ていたのに、その原則を確固として貫けなかったところに、筆者の弱さがある。筆者の人格的未熟さのゆえである。

だが、年月が経つうちに、当初持っていた確信は心の中で強まり、ますます教師などなくても大丈夫だと確信するようになった。どんなことも、自分の内なる直観に基づき、解決できる。信仰においては、御霊を通して、神が必要のすべてを備えて下さると信じて、大胆に進んで行くことができる。

筆者が当ブログを始めて後、筆者より前からブログを書いていた多くのクリスチャンたちが、途中で書きやめてしまった。彼らはある時点までは、良好な交わりを持ち、意気揚々と信仰告白を記していたが、途中で、人間関係に変化が起こり、信仰的立場に変化が起き、様々な嵐が押し寄せ、自分がどうも大きな間違いを犯したのではないかと感じ、軌道修正を迫られた際、彼らは決して自分の誤りを人前に表明して修正することができなかった。人を傷つけないために、自分の体面を保つために、彼らは自分の心に起きた変化を決して外に表さなかったのである。それゆえ、彼らの発言は、途中から辻褄が合わなくなり、続けられなくなって行った。

そういう例は、キリスト教に限らずとも起きている。どういうわけか知らないが、人々がある時点を境に、とても良いことを熱心に書いていたと思われるブログやツイッターを放棄して行くのである。見かけがどれほど有意義で、どれほど大勢の読者がいたとしても、彼らの心の中で、何かの重大な変化が起こり、続けることができなくなったのは明白である。

だが、筆者は言っておきたい。真に信仰に立っていれば、必ず、最後まで告白を続けられると。ブログのレイアウトなどは問題ではない。問題は、神の御前での正直さ、誠実さである。

長く続けるために重要なことが一つある。それは神の御前で正直であらねばならないことで、そのためには、人に対しての遠慮を捨てねばならない。自分が間違いを犯したと感じる時には、たとえ面目を失う危険があっても、それをはっきり言い表し、立場を修正せねばならない。間違っているものは、間違っている、受容できないものは、受容できないと、態度をはっきりさせねばならない。

たとえば、自分が関わっていた一つの交わりが、途中から御言葉に背いて腐敗して駄目になったり、人に頼ってキリストを見失いそうになったりした際、その誤りや危険をきちんと認め、口で言い表し、あるべきところへ戻らねばならない。その過程で、決して自分の面目を惜しんだり、人の気分を害することを恐れてはいけないのである。

だが、それさえできれば、神の御前での首尾一貫性を失うことはない。ある信仰告白が残るかどうかの決め手は、首尾一貫性が保たれているかどうかにある。レイアウトを近代化することなど、それに比べれば大きな問題ではない。どんなに斬新なアイディアが溢れていても、そこに真実性がなく、首尾一貫性がなければ、長く続けることはできない。

何度も言うように、筆者は当ブログを人のために書いてなどおらず、神に対する信仰告白として書いている。

そこで、筆者が最も避けたいのは、たとえば、自分が誤りを犯していることが重々分かっているのに、面目を失うことが怖くて、また、人の期待を失うことが怖くて、人への遠慮や気遣いから、それを告白できなくなり、自分の人生を全く修正することができなくなって、嘘に嘘を重ね、ごまかしにごまかしを重ねながら生きることである。

筆者にはそのような不自然な生き方は、到底、逆立ちしても無理であるが、多くの人たちがそのように逆立ちして歩くように、器用に自分をごまかしながら生きている。信者を名乗っている人たちの中にも、そういう偽善的な生き方を確信犯的に行っている人たちが数知れず存在する。一体、何のための信仰生活なのか、筆者には分からない。不信者にはまだそういうことが許されても、クリスチャンにはごまかしは無理である。そんな生き方を重ねていれば、いつかしたたかに破滅する時が来よう。

砂地に立てた家は、嵐がくれば、ひどい崩壊を遂げるが、堅固な岩の上に立てた家は、崩壊しない。筆者はそういう家を築きたいと思っている。だが、そのためには、ヴァイオリンに取り組み、ピアノに取り組むときのように、人目につかない隠れたところで、根気強く、自分の納得がいくまで基礎を積み上げて行く地道な作業が必要になる。本当に自分が納得のいく生き方を、一人で黙って試行錯誤を重ねながら、模索して行かねばならないのである。

人に教えられ、強制されて身に着けた基礎は、どこかの時点ですべて取り払って、やり直さなくてはならなくなる。ピアノに関しては、筆者は約2年間をかけて、鍵盤への向かい方から始まり、基礎を全部やり直さなくてはならなくなった。教えられて身に着けたものは、決して自分にとって最も適切で正しい自然な方法ではなかったためである。自分にとって何が一番適切で自然であるかを自分で探し出すために、それなりの時間がかかった。

だが、やるべき努力をしていれば、その基礎は、一定期間が過ぎると、外に姿を現すようになる。自己満足の域を超えて、誰が見ても、一定の評価を下せるレベルになる。筆者はそのようにして、すべてのことに、自分で試行錯誤を重ねながら、自分の道を見つけて行くことこそ、重要であると考えている。教師につくと、自由が制限されてしまうように、人の采配の下で働けば、仕事の自由が制限される。まして宗教指導者の助言やアドバイスを受ければ、それに人生全体が拘束される。

人は人に向かって正しい道を教えられない。楽器の構え方一つをとっても、何が最も自然で無理がないかは本人でなくては決して分からない。人が人を助けられると思うことは、幻想であり、思い上がりでしかないと筆者はずっと言っている。

筆者はすべてにおいて、真に自由でありたいと考えている。そして、キリスト者のうちには、神の霊が宿っており、必要のすべてを、この霊が供給するからこそ、我々は自由であることができる。

キリストの霊は死を打ち破った非受造の命であり、自分の外にあるいかなるものにも依存しない命である。

この命がキリスト者の内側にあるということは、この命を通して、キリスト者はすべての供給を受けることができることを意味する。尽きせぬ命の水の源は、この霊の中に存在する。

それに引き換え、人に頼ることは、すぐに枯れてなくなってしまう水のために何度も何度も井戸へ向かうのと同じである。だから、筆者はそのような生き方を「隔離される」ことであると考えている。

多くの信者が、日曜ごとに教会に「隔離」されに行く。彼らは「罪」という不治の病にかかっており、これはおそろしく差別されている伝染病なので、彼らは自らを恥じ、社会を避けて、日曜ごとに、お参りをして自分を清めてもらうために、教会という療養所へ隔離されに行く。

だが、何度もお参りを繰り返しても、彼らの不治の病は治らない。日曜ごとに清めてもらわなくては、彼らは清くなったという確信も得られないし、罪や失敗や恥の意識もなくならない。

本当は、その不治の病を奇跡的に直すことができる力は、日曜礼拝にはなく、牧師たちにもなく、礼拝の場所も、あの山でもエルサレムでもなく、真理と霊によって神を礼拝することをせねばならないのであって、それを可能にして下さるのは、見えないキリストの御霊だけなのである。

人間の雑踏の中にこの方を見つけようとしているうちは、回答は得られないだろう。

この方に出会うためには、私たちは、しばしば、人里を離れてスカルの井戸のようなところで、キリストに出会う必要がある。日曜礼拝の只中でも、エルサレムの神殿でもなく、荒野のような寂しい場所で、主に出会うのである。

今、時代や社会はますますバビロン化が進んでいる。黙示録には獣の刻印を受けなければ、売ることも買うこともできない社会が来ると記されており、今やそうした時が近づいて来ていることが感じられる。

だが、キリストの命は、バビロン社会の全ての統制を超えて、信じる者に必要のすべてを供給する。

だから、筆者は述べておきたい。たとえどれほど大勢の人たちが、ヨブの苦難を見て、彼を責めた妻のように、「キリストを信じたがゆえに、あなたの人生は苦悩の連続になったのではありませんか。もっと楽な生き方があったとは思いませんか。あなたの信仰は愚かだとは思いませんか」と問うても、筆者は答える、決してそうは思わないと。

むしろ、この絶大な御名の権威のゆえに、筆者も当ブログも、堅固な家のように残るであろうと。多くの人たちは、筆者に比べれば、自分ははるかに幸せだと考えているのかも知れないが、この先もずっと今までのような時代が続くわけではない。筆者も当ブログも、人の目にどのように映ったとしても、10年後にも残るであろうし、しかるべき時が来れば、キリストが御顔の栄光を信じる者の上に朝日のように輝かせて下さるだろう。

アブラハムがそうであったように、キリスト者の人生は、晩年にさしかかればさしかかるほど、ますます光を帯びて壮健に輝いて来るはずである。

どういうわけか、筆者は今、当ブログを始めた時と同じような感慨に浸っている。その当時、筆者はいかなる宣伝もなしに、誰を満足させるためでもなく、ただ真実なる方を追い求めるためにブログを書き始めた。

読者もいなければ、手柄も功績も何一つなく、どこへ向かうのかさえ明らかでなかったその時と、似た様な感慨を味わっている。

神ご自身を真剣に呼び求めること以上の目的が、人にあるだろうか。

神ご自身が答えて下さりさえすれば、それにまさる満足がどこにあるだろうか。

筆者は、人として、神と共に地上で乙な歩みをしたいと思うのである。だが、人から見てどう思われるかなどは重要ではない。神と筆者との間で、後になってから、「これで良かった」と言える満足な歩みをしたいのである。その模索はまだまだ道半ばで、真の成果は今まで一度も完全に現れたことがない。だからこそ、前にあるものを一心に見つめ、まだ見たことのない約束の地を待ち望むのである。

ヴァイオリンがこの先、どうなるのかはまことに楽しみであるが、信仰生活にどんな実りが生じるのかは、もっと楽しみである。からし種のような信仰から、いくつも芽が出て、幹が伸び、成長して行く。光を照らし、水を注いで成長させて下さるのは神である。

この救いの岩に頼る者は決して恥と失望に終わることはない。

聖なる都、新しいエルサレムとしての教会より、小羊の血潮と証の言葉により、悪魔の言いがかりを退ける

「義人の道は、あけぼのの光のようだ。 いよいよ輝きを増して真昼となる。」(箴言4:18)

何年も前から、当ブログがカルト被害者救済活動の支持者たちから被害を受けて来たことは、すでに幾度も書いて来たことであるが、この件で、警察が具体的に動き出したので報告しておきたい。

以後、加害者らに対しては、彼らが再三、強調して来た「市民社会の掟」に基づき、責任追及がなされることになる。反省のための猶予も、和解のためのチャンスも、十分に与えたが、それを再三に渡り、拒否したのは向こう側であり、これから起きることは、彼らが自分自身で招いた結果である。約9年間もの間、深刻な被害をこうむって来た筆者に、憐れみを求めるのは無駄なことである。

こうして、キリスト者は一歩、一歩、地歩を固め、陣地を取り返して行く。これは霊的支配権の激しい争奪戦であり、退くことのできない戦いである。

悪魔の策略は、キリスト者に「この世のすべてが当てにならず、誰一人頼りにならず、神もなければ、正義も真実もなく、絶望するしかない」という錯覚を吹き込み、他者の犯した罪をいわれなく背負わせた上、望みを放棄させて死へ追い込むことにある。

だが、実際に行動してみれば分かるが、世の中には神も正義も真実も存在するのだ。特に、キリスト者にあっては、確実に存在するのだ。欺かれてはいけない。いかにこの世が堕落した悪魔の支配下にあるとはいえ、キリストの復活の命は、この世の秩序を超越してすべてを支配する。愛する御子の王国へ移し出された我々には、悪魔の支配下に置かれなければならない筋合いはない。なぜなら、キリストは十字架において、悪魔をすでに打ち破られたからだ。

そういう意味で、我々に関する取り扱いはこの世の一般人と同じではない。この世の一般人であれば、正義も真実もないと考えざるを得ないような状況でも、我々のためには、神ご自身が生きて働いて下さる。従って、孤立無援の状況に置かれているのは、キリスト者ではなく、暗闇の勢力なのである。

筆者はここで、教会から被害を受けたとする元信徒らを募っては、彼らの怨念を煽り立て、牧師でもなく教職者でもない一般の元信徒を矢面に立たせる形で、教会に対立させ、筆者のような、地上の教団教派とは一切無関係のクリスチャンに対してまで、いわれのない迫害に及ばせたアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏の責任は限りなく重いということを、改めて強調せざるを得ない。

村上密氏の思想と活動の影響がなければ、カルト被害者救済活動の支持者らがこのような行為にまで至ることは決してなかっただろうと言える。

津村昭二郎氏と言い、村上密氏と言い、(筆者は牧師制度そのものに反対だが、その誤った牧師制度の中でもことさらに)牧師の道に外れた人々ばかりが登場して来る異常なアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を、筆者が子供時代に去ったのは、今から考えても、まことに正しい決断であったと思わざるを得ない。

筆者は信仰こそ捨てず、むろん、これからも捨てるつもりは一切ないが、聖書の真理とは別に、地上の組織がどんなに誤りに満ちたものであるかは、この教団で初めて思い知ったと言えよう。

村上密氏の活動の本質は、幾度も述べて来たように、神の教会の破壊にこそある。別な言い方で言えば、キリストの花嫁たる神の教会を断罪し、冒涜し、蹂躙し、呪うことにある。同氏の思想に突き動かされた人々が、教会に対する怨念を募らせ、一線を超えて、筆者のように教会の不祥事とは何の関係もない無名のクリスチャンに対してまでいわれなき迫害に及び、結果として自ら人生を滅ぼしたのである。

筆者は彼らの活動の偽りに立ち向かいながら改めて思う、彼らが筆者に浴びせて来た言葉は、誹謗中傷というより、まさに「呪い」であると。彼らは筆者を呪い、死へ追いやることを願って、数々の汚し言を浴びせて来たのである。しかし、その圧迫は、御子の血潮によって断ち切られ、呪いはこれを口にした本人に跳ね返る。

彼らにはダビデの祈りである詩編109編をお返ししよう。1編まるごとお返ししておくので、きちんと聖書を開いて、何が書いてあるのか、全文目を通し、声に出して朗読されたい。忍耐強いダビデも、どんなに愛や憐れみを持って接しても、憎しみと偽りを持ってしか答えようとしない霊的な敵に対しては、ついに次のようにまで厳しい宣告を告げざるを得なかったのだ。

「わたしの賛美する神よ。
 どうか、黙していないでください。
 神に逆らう者の口が
 欺いて語る口が、わたしにむかって 開き
 偽りを言う舌がわたしに語りかけます。

 憎しみの言葉はわたしを取り囲み
 理由もなく戦いを挑んで来ます。
 愛しても敵意を返し
 わたしが祈りをささげても
 その善意に対して悪意を返します。
 愛しても、憎みます。

 彼に対して逆らう者を置き
 彼の右には敵対者を立たせてください。
 裁かれて、神に逆らう者とされますように。
 祈っても、罪に定められますように。

  彼の生涯は短くされ
  地位は他人に取り上げられ
  子らはみなしごとなり
  妻はやもめとなるがよい。
  子らは放浪して物乞いをするがよい。
  廃墟となったその家を離れ
  助けを求め歩くがよい。
  彼のものは一切、債権者に奪われ
  働きの実りは他国人に略奪されるように。
  慈しみを示し続ける者もいなくなり
  みなしごとなった彼の子らを
  憐れむ者もいなくなるように。
  子孫は絶たれ
  次の代には彼らの名も消されるように。
  主が彼の父祖の悪をお忘れにならぬように。
  母の罪も消されることのないように。
  その悪と罪は常に主の御前にとどめられ
  その名は地上から断たれるように。

 彼は慈しみの業を行うことに心を留めず、

 貧しく乏しい人々
 心の挫けた人々を死に追いやった。

 彼は呪うことを好んだのだから
 呪いは彼自身に返るように。
 祝福することを望まなかったのだから
 祝福は彼を遠ざかるように。
 呪いを衣として身にまとうがよい。

 呪いが水のように彼のはらわたに
 油のように彼の骨に染み通るように。
 呪いが彼のまとう衣となり
 常に締める帯となるように。

 わたしに敵意を抱く者に対して
 わたしの魂をさいなもうと迫る者に対して
 主はこのように報いられる。

 主よ、私の神よ
 御名のために、わたしに計らい
 恵み深く、慈しみによって
   わたしを助けてください。

 私は貧しく乏しいのです。
 胸の奥で心は貫かれています。
 移ろい行く影のようにわたしは去ります。
 いなごのように払い落されます。
 断食してひざは弱くなり
 からだは脂肪を失い、衰えて行きます。

 わたしは人間の恥。
 彼らはわたしを見て頭を振ります。
 わたしの神、主よ、わたしを助けてください。
 慈しみによってお救いください。
 それが御手によることを、御計らいであることを
 主よ、わたしを助けてください。
 慈しみによってお救いください。
 
 それが御手によることを、御計らいであることを
 主よ、人々は知るでしょう。
 彼らは呪いますが
 あなたは祝福してくださいます。

 彼らは反逆し、恥に落とされますが
 あなたの僕は喜び祝います。
 わたしに敵意を抱く者は辱めを衣とし
 恥を上着としてまとうでしょう。

 わたしはこの口をもって
  主に尽きぬ感謝をささげ
 多くの人の中で主を賛美します。
 主は乏しい人の右に立ち
 死に定める裁きから救って下さいます。
(詩編109)


カルト被害者救済活動の支持者らは、未だに心ない牧師や教会が、被害者の信徒を死に追いやったかのように主張して、牧師に謝罪や反省を求めている。しかし、筆者はここではっきりと言っておきたい、カルト被害者救済活動に携わる者こそ、その元信徒から信仰を根こそぎ奪い去り、死に追いやった最大原因であると。

カルト被害者救済活動の支持者らは、決して自称被害者の立ち直りに貢献しない。彼らの仕事は、被害者を永久に被害者のままにして置くことである。そして、あわよくば、その者が受けた被害を苦にして自ら死を選ぶよう仕向けることである。

彼らが決して自分のもとへやって来たどんな信徒の解放も願っていないことは、一度でも彼らのもとを訪れた筆者を逃がすまいとして、彼らが行って来た数々の行為を見れば明白であろう。

弁護士が、紛争が長引けば長引くほど儲けになるのと同じように、この人々は、カルト被害者の被害がいつまでも永遠に長引き、被害者の立ち直りが永遠に不可能となり、教会を断罪する材料がより一層増え、それが自らの手柄となることを願っているのであり、そのために、相談にやって来た人々の打ち明けた些細な被害を、針小棒大につつき回し、どんどん膨らませて、死に至るほどまでに苦しみを増し加え、負担を重くして行くのだ。

元信徒が自殺でもすれば、彼らにとってはまことに好都合で、また一つ、牧師や教会を責め立てる材料が増える。そんな状況で、どうして彼らが被害者の元信徒の心の回復になど真に注意を払おうか。

従って、筆者ははっきりと言っておく、被害者信徒を殺したのは牧師でも教会でもない。その者の死の責任は、カルト被害者救済活動の支持者にこそあり、また、そうした人々の言い分にまんまと欺かれて、聖書の神への信仰を捨てた者自身にあると。

村上氏は、自殺者を擁護して、自殺者は天国に行けないとか、自殺を罪とするキリスト教の考え方は誤っていると記事で語る。

「法律では自殺を罪としていない。聖書の中でも自殺を罪としていない。自殺を罪とするのは、習慣的な考え方である。この習慣が自殺をした人の遺族を苦しめる原因になっている。作られた罪意識が、人を苦しめるなら、私たちはそれを変えていかなければならない。鬱の回復期の自殺を罪と見做すのは酷である。自死を選択するほどに追い詰められた状況、原因にも目を向けるべきだ。よって、私は自殺を罪とするキリスト教的な教えを聖書の教えと違うものと見做している。」

要するに、村上氏が言いたいのは、追い詰められて死を選んだ自殺者を責めるのは酷であり、また、自殺者の遺族がいつまでも罪悪感に苦しめられるのも可哀想だから、キリスト教の伝統に従って、自殺を罪とする考えは、残酷で間違った考え方だと思うということなのである。どこからどう見ても聖書に基づかない全くとんでもない話である。

これは要するに、罪意識が人を苦しめるから、罪意識自体があるべきでないと言っているのと同じで、もっと言えば、罪という概念そのものが、人を残酷に苦しめるものだから、なくしましょうと言っているのと同じで、滅茶苦茶な理屈だ。

別なたとえで言えば、痛みの感覚が人を苦しめるから、人から神経そのものを取り去って、痛みを全く感じないようにしましょうと言っているのも同然で、痛みの感覚がなくなれば、人はますます鈍感になり、身の危険を察知することもできなくなり、重症の被害を受けても、全く分からず、死に至るだけだ。

罪意識は、痛みとよく似て、人が逸脱していることに気づくための重要なサインである。それがあればこそ、人は罪を犯さないように自制することができるし、過去を振り返って反省もできる。にも関わらず、罪意識が人を苦しめるからと言って、これを否定すれば、人はどんなに恐ろしい罪を犯しても、鈍感で、無感覚になり、ますます人間性を失って、獣のようになり果てて行くだけである。

もし自殺について、非難すべき対象があるとすれば、自殺を罪と見なすキリスト教を非難するのではなく、人を死においやる悪魔をこそ非難すべきであるのに、村上氏は転倒した理屈で、悪魔を非難せず、かえってクリスチャンを非難するのである。

村上氏がこのようにして、常にキリスト教を罪に定め、キリスト教が、この世の不信者に持たせる罪意識を、あるまじきことのように訴え、不信者を擁護しながら、かえって、信仰を持つキリスト者に、巧みに罪悪感を持たせようとしているトリックに注意する必要がある。

村上氏の理屈は、常にこのように、聖書とはさかさまである。要するに、その主張は、神がキリストの十字架を通して罪赦されたクリスチャンに再び罪悪感を持たせ、罪に定めようとする一方で、信仰を持たず、神の目に罪赦されているはずのない世人の罪悪感をやわらげ、世人の罪を免罪しようとするものだ。

こんな支離滅裂な主張に長い時間をかけて反駁する必要はない。聖書は言う、

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。」(ローマ8:6-7)

「肉の思い」である「死」を擁護する村上氏が、「神に敵対しており、神の律法に従っていない」ことは明白である。村上氏は「私は自殺を罪とするキリスト教的な教えを聖書の教えと違うものと見做している。」と言いながら、聖書が自殺を奨励したり容認したりしているとする具体的な根拠を何一つ挙げない。それも当然だ。そんな聖句があるはずもないのだから。

従って、このような考えの人物のもとに身を寄せた被害者たちが、村上氏の考えに触発されて、次々と信仰を捨てて、自殺を選んで行くとしてもそれは当然である。

このような反聖書的な思想に触れれば、人は自殺を罪とも思わなくなって、死に抵抗感がなくなり、周りの人々をどんなに苦しめることになるのかにも思いが至らず、ただ自分が楽になりたいという思いだけで、率先して死を選ぶようになるだろう。あらゆる苦難に信仰を持って勇敢に立ち向かい、キリストの勝利を生きて味わおうとする望みを捨てて、すすんで死に至るのはまさに当然である。

だから、クリスチャンは、こうした信仰のかけらもない人々による断罪を決して真に受けて懺悔させられてはいけない。被害者の元信徒が自殺を選んだとしても、それは自己責任である。また、自殺を選ぶように唆した人々に罪がある。責められるべきは悪魔と暗闇の勢力とカルト被害者救済活動の支持者であって、クリスチャンではない。

カルト被害者救済活動の支持者らが、このように、元信徒に生きる力を失わせるような反聖書的思想を自ら吹き込んでおきながら、その罪をクリスチャンに転嫁して、「キリスト教が自殺者を罪として責めるのは残酷だし、遺族が可哀想」などと、同情を装いながらうそぶていること自体、笑止千万としか言いようがない。

神を知らない世人が自ら死を選ぶなら、まだ情状酌量の余地も残るかも知れないが、キリスト教徒となって信仰を持ち、聖書の御言葉を知って、神に従うことを選んだにも関わらず、自ら死を選んだとなれば、世人よりももっと重い責任に問われるのは避けられないだろう。

どんなに追い詰められた状況であっても、ごくわずかな信仰でも残っていれば、神はその信者を救うことがおできになる。多くの霊的先人は、信仰を守り通すためにも、究極的に追い詰められた状況を何度もくぐった。あらゆる状況で、神の助けを信じるか、信じないかは、あくまで本人の決断なのである。

にも関わらず、追い詰められた人々に、信仰によって立ち上がるよう促すどころか、最後のなけなしの信仰までも失わせるような偽りを吹き込み、容赦なく心傷つけ、「貧しく乏しい人々心の挫けた人々を死に追いやった」罪は、クリスチャンではなく、カルト被害者救済活動の支持者たちにこそある。

そこで、筆者はあらゆるクリスチャンに、村上氏の主張のトリックを見抜き、罪悪感を持たされないように注意するよう呼びかけたいと同時に、村上氏のブログで深刻な人権侵害を受けた大勢のクリスチャンらに向かって言いたい。同氏と直接の話し合いで物事を解決しようとするのをやめて、第三者を介入させて、早期に具体的に手を打つようにと。わざわざ弁護士などつける必要はない。市民としてのアクションで十分である。

信徒には信徒のレベルで向き合えば十分だが、牧師には牧師のレベルで向き合う必要がある。おそらく、村上氏の牧師としての逸脱行為を主張するに最もふさわしいのは、同氏から最も深刻な被害を受けた同僚の牧師たちであり、また、鳴尾教会に他ならないのではないかと筆者は考えている。

さて、繰り返すが、村上密氏の活動は初めから反聖書的な特徴を持つものであった。もともと「教会のカルト化を防ぐ」とする村上氏の活動は、同僚の牧師や、信徒らの恥や欠点を容赦なく暴き出しては、世間の前で断罪することでしか評価を得られないという欠陥を持っていた。しかも、この活動は、最初から、クリスチャンではない、信仰を持たない世間に、クリスチャンの非を見せつけて、この世の観点から、クリスチャンの行動の是非を裁き、それによって、信仰を持たない世間から評価を得ようとするものであった。

そのようにして、兄弟姉妹の恥を容赦なく不信者の前で暴露し、不信者の観点に立って信者を罪に定めようとする活動が、どうして、聖書に合致するものとなり得よう。また、どうして聖書の説く信仰による兄弟姉妹への愛や憐れみに基づく活動となり、同僚や信徒のプライバシーを尊重せねばならない牧師の職業倫理と両立し得ようか。

だから、村上氏がライフワークとしている、カルト化問題をきっかけとした諸教会への介入は、初めから、牧師としての職務を逸脱しており、反聖書的で、悪魔的な活動に終わることが明白な活動であったと言える。牧師がなさなければならないのは、福音伝道であって、被害者を募っては、自分が所属もしていない教会を訴えることではない。

そんな活動は、牧師の職務の範疇には全く含まれていない。この世の人々でも、牧師が牧師を訴え、信者が信者を訴えるような活動には疑問を感じ、共感も理解も示さないだろう。そのような活動は、ただ同士討ちを奨励するものでしかない。

カルト被害者救済活動の支持者らは、もともとクリスチャンではなかったと筆者は考えている。周知の通り、筆者は何度も「兄弟」として彼らに和解を呼びかけたが、彼らは最後までその提案をことごとく踏みにじり、嘲るだけであった。そうした彼らの行動からも、彼らには信仰によって結ばれた(はずの)兄弟姉妹に対する、いかなる愛情も、思いやりもないことがよく分かる。従って、彼らは信仰を持っておらず、我々の同胞でもないのである。そうであれば、当然、我々も彼らを同胞として扱う必要がなく、教会の方法で向き合う必要もなく、この世の方法で向き合えば十分であり、同胞としての情けは無用である。

繰り返すが、牧師であるにも関わらず、諸教会に敵対し、同僚を訴え、信徒を訴え、信者のプライバシーを暴き、中傷するような活動は、牧師の活動とは呼べないだけでなく、神と教会に敵対する極めて恐ろしい行為であると筆者は思う。彼らが相手にしているのは、この世の罪人ではなく、神が贖われたクリスチャンなのだ。従って、その活動には、神ご自身を敵に回すも同然の言い知れない恐ろしさがあり、どんなに厳しい裁きが待ち受けているであろうか。

カトリックのような統一的なヒエラルキーのないプロテスタントの教会には、それぞれの教会の自治があり、規則がある。それは尊重されなければならない各教会の「聖域」である。牧師や信徒は、諸教会にそれぞれ定められた規則を尊重すべきであって、自分が所属してもいない教会に、各教会の規則を踏み越えてまで、介入することは許されない。そのことは、宗教法人が不当に優遇されているという話とはまるでわけが違う。巧妙に話をすり替えられてはならない。

自分がその教会で被害を受けたならばともかく、当事者でもない人間が、自分が所属していない教会の内情に干渉して行くことは、法的にいかなる根拠も持たない。

このことは、信者の内心にも当てはまる。憲法は信教の自由を保障しており、これを侵害する行為は悪であり、違法行為である。

従って、筆者と面識もないカルト被害者救済活動の支持者が、筆者の内心を取り締まろうとして言いがかりをつけて来ることにも何の根拠もなく、また、筆者のようにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を去って久しい信者に、村上氏が何年間にも渡り、個人情報を暴くような形で中傷を言いふらしていることにも、何一つ正当な根拠がない。

自ら宗教トラブル相談センターを開設しておきながら、そこへ相談にやって来た信徒が、自分にとって目障りな存在になったからと言って、信徒のプライバシーに触れるような虚偽の情報を公然と流布し、信徒の信用を貶めるなどは、誰が聞いても呆れ返るような話でしかない。そういう事例がすでに生まれていると分かっているのに、誰がこの先、そんな恐ろしいセンターに、自分の個人情報を携えて相談に訪れる気になるであろうか。

このように、彼らのしていることは、聖書の倫理とは全くさかさまであり、聖書のみならず、この世の常識にも、法律にも、全くそぐわない行為である。彼らにはクリスチャンを断罪する資格など初めから全くなく、むしろ、クリスチャンの方にこそ、彼らを断罪する資格がある。このことをクリスチャンは自覚せねばならない。

教会がこうした人々に恥を暴かれ、圧迫されている立場から抜け出て、教会こそが、カルト被害者救済活動を断罪し、これを退けなければならないのである。

さて、不当な言いがかりを受けた際、キリスト者が何も主張しないでいるのは、悪魔に罪を着せられることに自ら同意するに等しい。私たちは、人間的には色々な弱さを抱えているとしても、神と人との前で、キリストの流された血潮を根拠に、自らの潔白を公然と主張せねばならない立場にある。

なぜなら、私たちは、自分の義に立っているのではなく、神の義に立っているからだ。キリストが十字架で流された血潮が、この世においても、来るべき世においても、私たちに何の非もないことを主張する根拠である。

血潮が、私たちを、神の目に、何一つ欠点のない、しみもしわもない、キリストの完全な花嫁として立たせる根拠となのる。この点で、私たちは神から受けた義認を軽んじてはいけないし、悪魔の訴えに一歩たりとも譲歩してはいけない。

悪魔の前で、圧迫に負けて、犯してもいない一つの罪を認めることは、百も千もの犯していない罪を認めることと同じである。たった一つの罪でも認めれば、身の潔白はもう成り立たない。そこで、信者であった人間が、村上氏のような、カルト被害者救済活動の支持者の側から、クリスチャンに対して発せられる断罪と非難の言葉に負けて、一度でも屈服させられて、懺悔すれば、それを皮切りに、その人間は、その後、百も千も万も、犯していない罪をあげつらった供述調書にサインを迫られるだけである。そして、サインを拒む根拠は彼らにはもうない。

クリスチャンは一度でも血潮を退ければ、もう二度と自分自身を擁護する根拠をどこからも得られない。そんなことになれば、世人以上に厳しい裁きに晒されるだけである。地上の組織としての教会に対するあれやこれやの不満を表明することと、真理そのものを退けることを、絶対に混同してはならない所以である。

しかし、何という馬鹿げた事態であろうか。キリスト教会で「被害」を受けたと主張している人たちが、正式に「加害者」になってしまったのだから。

いつまでも人を赦さない心、特に、神の教会を憎み、信徒と和解しない心が、どんなに危険で恐ろしい運命へと人を導くかをよく物語る出来事だろう。

結局、神が義とされたクリススチャンを罪に定めようとする活動に手を染めるなら、その者は誰であれ、自分自身が罪に定められて終わるだけである。とげのついた棒を蹴っていれば自分が痛いだけである。

筆者は、地上の教団教派としての教会には属しておらず、地上の教会を擁護するつもりはないが、それでも、キリストの花嫁たる天的なエクレシアが存在することを確信している。

どの教団教派に属していようと、どんな誤謬の最中にあろうと、それに関係なく、一人一人の兄弟姉妹の信仰を通して、目には見えない霊的共同体としてのエクレシアが存在し、機能しているのである。

カルト被害者救済活動の支持者らの罪深さは、彼らはただ自分自身の心の痛みと向き合い、自分が所属した教会とのトラブルに目を向け、これを解決することだけに専念すれば良かったにも関わらず、自分の心の傷や問題と向き合おうとせず、これを他者の問題に置き換え、他者を助けるという口実で、一つや二つの教会ではなく、教会全体を否定して敵に回し、全教会とクリスチャンの恥を暴くような活動に熱中することで、キリストの花嫁たる天的なエクレシアそのものを冒涜したことにある。

その罪は、地上の滅びゆくものを毀損する罪とは比べものにならないほど重い。その罰は、この地上だけでなく、永遠に至るまで続いて行くだろう。

さて、次回からは、こうした事件に関連して、「エクレシアを冒涜する罪」について考えてみたい。その過程で、三島由紀夫なども引き合いに出すことになろうが、このテーマは、これまで、何度も書きかけ、書きたいと思いながら、なかなか完成できずに来たため、いよいよ着手しなければならないと思っている。

裁きの時には一つの罪でも有罪となるが、恵みが働く時には、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下される

オースチン-スパークスの論説を読むと、キリスト者の中には、神から特別に厳しい訓練を課される者たちがいることが記されている。

そういう者たちは、端から見れば、信じがたいほど絶え間なく困難に見舞われているように見えるだろう。しかも、苦難の規模が通常人をはるかに上回っているため、なぜそこまで苦しまねばならないのか、周りの人々には理解できない。中には自業自得と誤解して責める者もあるかも知れない。

だが、そうした患難には神の深遠なご計画がある。

困難が次々と起きるからと言って、それだけを見て決して落胆する必要はないと言えるのは、これまで幾度となく繰り返して来たように、神がクリスチャンに地上で苦しみを許される時には、必ず、それと同時に天に慰めも用意されているからだ。

つい数日前、筆者はブログを更新していない間に、一つの思いがけない喪失を経験したが、ほぼ同時に、神は大きな慰めを用意して下さっていた。筆者が探してみると、ただちに失ったものを上回るほどの稀有な新しい宝を得ることができたのである。良い人と出会うことができ、受けた損失を補うほどの価値のあるものを得ることができた。

そこで、求めなさい、そうすれば与えられます、叩きなさい、そうすれば開かれます、あるいは、罪が増し加わるところには恵みも増し加わる、と聖書に書いてある通り、どのような出来事が起きても、キリスト者は、落胆することなく、死から命へ、苦しみから慰めへ、天に備えられている恵みだけをまっすぐに見上げ、それを実際にすべく具体的な行動を起こすなら、そうして信仰によって踏み出すと同時に、苦しみの時は束の間に過ぎ去り、豊かな恵みと慰めが待ち受けていることをすぐに確認できるだろう。

繰り返すが、キリスト者には、苦しみもあるが、同時に、その苦しみを補って余りあるほどの豊かな慰めが必ず天に備えられている。だから、クリスチャンの中のある人々が絶えずひっきりなしに困難な状況に見舞われているように見えたとしても、その人には、受けた苦難と比べものにならないような慰めが天に同時に用意されていることをも思った方が良い。そういう人生を送ることは、非常に希少な幸福であると言えるかも知れない。
 
イエスは言われたのである。

「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:29-30)
 
クリスチャンが地上で福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てて、主に従わざるを得ない瞬間に、失ったものの百倍を受ける時が来るというこの御言葉を思い返しても、信じがたい気持ちになるだけであろう。そういうことが起きる度に、心は悲しみにふさがれ、孤独に苛まれるかも知れない。

実際に、神の御手の中で訓練を受けているクリスチャンが、苦しみの渦中にある時、慰めの方向へ目を向けることは難しい。見えるものに従って歩んでいるわけではない、とどんなに口では言っても、目の前に嵐のような目まぐるしい状況が展開するときに、その出来事に注目しないことは難しい。

さらに、以前にも書いたように、クリスチャンが霊的に巨大なエクソダスを遂げる直前には、特に大きな激動が起きるものだ。キリストと共なる十字架の死を経て、命へと移される直前には、極めてドラマチックな展開があることが稀ではない。だが、その中をくぐりぬける当人にとっては、それは少しも「ドラマチック」などと言って笑っていられる状況ではなく、全世界が自分に敵対しているかのような、まさに生きるか死ぬかのような体験に感じられることだろう。

そのような状況の中でも、失望や落胆に沈むことなく、どんなことが起きても、あるいはそれが自分の過失や、不注意や、愚かさによって起きた取り返しのつかない損失のように見える時でさえ、決して自分自身の不完全さに拘泥することなく、神の憐れみや恵み深さにのみ目を留め、どんな瞬間にも、神を信頼し、天に備えられた希望だけを見つめ続ける姿勢が必要である。そのような姿勢が保たれていて初めて、苦しみと同時に天に用意されている慰めに到達することができる。

だが、クリスチャンの信仰の歩みの中で最も難しいのが、以上の姿勢を保つことではないかと筆者は思う。つまり、どんなことが起きても、決して失望落胆することなく、絶えず自分の不完全さから目を離し、キリストの完全さだけを見つめ続け、自分自身ではなく、キリストに依拠して、神の完全が自分自身に適用されることを求め続ける姿勢である。

さて、聖書には裁判官とやもめの有名なたとえ話がある。

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。

ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとはしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』

それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:1-8)

このたとえ話は、クリスチャンが神に正しい裁きを求める権利を有していることをよく示している。

もちろん、地上ではすべての市民に裁判を受ける権利がある。世にはスラップ訴訟なども存在し、司法が悪用される危険もないとは言えないが、裁判それ自体が悪ではないことは、誰しも認めることであろう。

上記の聖書箇所における地上における裁判官の描写は、クリスチャンが神に正しい裁きを求めて祈ることのたとえとして描かれている。

だが、その御言葉は、幾分かは地上の裁判にも当てはまるであろう。筆者はこれまで、地上の裁判に対する考え方を少しずつ変えて来た。教会に関わる事柄は依然としてこの世の裁判にかけるべきでないと考えているが、この世に関する事柄は別である。

筆者は、暗闇の勢力がいかに人の正当な訴えを邪魔し、正しい主張を封じ込めようとするかを、幾度にも渡り、見せられて来た。人が自分に保障された正当な権利を取り戻そうとして主張する前に、主張すること自体を諦めさせようとするのが彼らの手口である、と言って良い。

たとえば、ブラック企業が従業員の正当な訴えを封じ込めようとする手口を考えてみると良いのだ。世に言うブラック企業には、往々にして、専属の悪徳社労士や悪徳弁護士が雇われている。彼らは企業が従業員に対して定められた賃金を支払わなかったり、不当解雇を行ったりして、様々な不正かつ不当な措置に出る時、常に企業の味方となって、従業員を黙らせる役割を担っている。この人々は、いわば、口封じのために雇用されている「専門家」だと言っても過言ではない。

このような「専門家」がブラック企業についている場合には、彼らは、企業によって不当な措置を受けた従業員が、決して裁判に訴えて自らの権利を取り戻したりしないよう、事前に様々な文書を送りつけては、訴えを封じ込めようとする。訴えるよりも前から、訴えてもどうせ結果は変わらないので諦めた方が良いと、あの手この手で主張を放棄させようとするのである。

むろん、そのようなことは、社労士や弁護士でなくともできるのだが、強欲な依頼主の要望に従って、そのようなむなしい目的のために自分の専門知識を活用している人々が存在する。本来、そのような人たちは、専門家と呼ぶにも値しないが、彼らはうわべだけは、自分たちが本来の道理を曲げていることを悟られないよう、まことしやかな文書を書き記すものだ。
 
従業員はそれを見たとき、考えなければならない。本当に、自分が何をしても結果は変わらないのか、それとも、それはそう思わせるためのうわべだけの工作に過ぎないのか。自分に何の責任もないにも関わらず、不当な措置を黙って受け入れ、その結果を自分で身に背負うべきか、それとも、そのような事態は、自分のせいで起きたことではないと、公然と主張して、不当な結果は、不当な措置を行った張本人にお返しして、彼らに背負っていただくのか。

主張するか、しないかによって、人生の結末そのものが変わって来ると言って良い。その争いは、法廷などに持ち出されるよりもはるか前に、従業員の心の中で始まっている。その従業員が、専門家を名乗る連中からやって来る様々な脅しのテクニックにまんまと乗せられて、失望落胆して、自分の権利をみすみす諦め、主張せずに終わるのか、それとも、最後まで不当な決定に抵抗して、正々堂々と自分の主張を打ち出して、権利を取り戻すのか。すべては従業員の心次第である。

多くの人々は、主張することの重要性を考えてみない。専属の弁護士がいるかどうかや、書類が自分で上手に書けるかどうかや、要するに、人数やテクニックの問題ばかりに目を留めて、初めから自分には分が悪すぎると諦めている人が多いものと思う。

だが、本当の戦いは、そのような表面的な事柄にはなく、最も弱い、不利な立場に立たされた本人の心の中から始まる。明らかに不当と分かっている主張に遭遇した時、人がどのような態度を取るか、最後まで勇気を持って抵抗するのか、それとも、脅されれば簡単に諦めるのかどうかにすべてがかかっている。

ある人々は、これまでクリスチャンを提訴して法廷に引き出すことに何のためらいもなかったにも関わらず、筆者にはあたかも彼らと同じように市民としての権利を行使することが全く許されないかのように主張している。

その人々は、筆者がまだ何一つ手続きもしていないうちから、まるで今しも自分が筆者に提訴されるのではないかとでも言うような勢いで、筆者を含む数々のクリスチャンが、彼らに対してスラップ訴訟に及ぼうとしているかのように非難して来た。

だが、彼らの主張を見ても分かることは、彼らは、よほどクリスチャンから訴えを起こされることを常日頃から恐れているに違いないということだけである。

彼らは、何とかして自分が訴えられることを阻止し、自分の主張の不当さが、公然と世人の前に知れ渡るのを避けるために、筆者一人だけでなく、彼らを訴える可能性のありそうなすべてのクリスチャンをさんざんに罵倒したり、脅しつけたりせずにいられないのであろう。

そのような彼らの行動は、自分が罪を犯していることを、内心ではよく知っているがゆえの本能的な自己防衛の心理に基づくものだと言える。

なぜなら、身の潔白を信じている人々は、誰かから不当な訴えを出される可能性があると分かっても、決して慌てないからである。不当な訴えには、ただ毅然と立ち向かえば良いだけであり、訴えられる前から自分を懸命に弁護したり、自分を訴える可能性のある人間を片端から攻撃・非難したりする必要もしない。そのような行動を取る人間は、訴えられれば必ず負けると分かっていて、恐れの心(本質的には罪の意識)に支配されているのである。

筆者は、自分の運命を振り返って、よくよく数奇な歩みだと思わずにいられない。

筆者は、初めの内こそ、教会のカルト化はあってはならないという立場に立ち、カルト化の疑いをかけられた牧師や教会を非難しても構わないという考えを持っていた。にも関わらず、筆者の運命は、その後、それとは全く逆の方向へ転換し、カルト化の疑いをかけられた教会よりも、むしろ、カルトを撲滅すると自ら主張している人間の方がはるかに重大な危険であることが分かった。そこで、前者ではなく、後者にこそ、筆者は立ち向かってもの申さなければならないことが判明したのである。

筆者はキリスト教界の堕落を否定するつもりはない。筆者自身が、当ブログにおいて、プロテスタントの諸団体の中に怪しげな理念のものが数多くあることについて書いて来た。

今ここでは詳しく繰り返さないが、そうした例の中には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(および聖霊派の主張)の誤りや、ゴットホルト・ベック氏の集会の理念の問題性や、Kingdom Fellowship Churchの問題もあった。

筆者はこうした集会の理念について、具体的な問題点を挙げ、それを聖書の御言葉と対比しながら、何が問題であるかについて説明して来た。
 
筆者自身は、教会に牧師制度を導入することに反対である。牧師制度というものは、本来、対等であるべき信徒間に差別をもうけ、信徒の献金で養われる特権階級を作り出すものでしかない。

多くの霊的先人が、この制度が間違いであることを指摘し、ゴットホルト・ベック氏の集会や、KFCなども、表向きは、公然と牧師制度を否定している。こうした集会は、牧師制度を取っていることを理由の一つとしてキリスト教界と訣別している。

ところが、上記の団体は、一方では、牧師制度を否定しながら、他方では、牧師制度とほとんど変わらない固定的な指導者制度を置いている。そこで、これらの集会の現実は、表向きに掲げている理念とは正反対であり、大きな自己矛盾をはらんでいることを指摘し、筆者はこれらの集会の理念と行動の首尾一貫性のなさを非難して来た。

だが、筆者が当ブログにおいて、以上のような見地から、これらの集会の理念と活動を疑問視する発言を行ったからと言って、こうした団体から、筆者に抗議が送られて来たことは、これまで一度もない。対立関係が起きたこともない。筆者の記したブログ記事内容について、彼らの側から教義論争が起こされたり、反対意見が寄せられて来たことも一度もなかった。

そして、このことは、これらの団体が筆者の主張を初めから誤謬とみなして相手にしていないためではなく、もともとこうした団体は、筆者が彼らに関わるよりはるかに以前から、数多くの批判にさらされて来た過去があるためであると見られる。
 
以下にも記すように、こうした団体は、過去に巨大な分裂、大規模な離反などの騒動を繰り返し経験して来ている。そこで、彼らは批判や離反には相当に慣れているだけでなく、批判者や離脱者を執念深く追いかけては取り戻そうとして脅しつけたり、論争をしかけるようなことをしないのである。

たとえば、ベック氏の集会は、もともと争いを嫌う平和的な性格の団体であり、さらに教養人が数多く集まっているせいもあって、集会の雰囲気そのものが温和で上品で寛容である。兄弟姉妹の間で意見が割れたからと言って、口汚い論争が発生することはほぼなく、兄弟姉妹は、離脱者に対しても寛容で、筆者が彼らと異なる考えを持って集会を離れた後でも、いつでも交わりはウェルカムという態度を崩さない。

つい先日も、知り合いの兄弟が召されたから祈って欲しいという連絡が、その集会の一人の姉妹から来た。そのリクエストの是非はともかく、こうしたことからも、時が経っても、依然として、彼らが筆者を兄弟姉妹の一人に数えている様子が分かる。

残念ながら、筆者はそうした接触を機に、集会に戻ろうとは思わないが、そのような連絡が未だにやって来ること自体が、この集会にいる兄弟姉妹の誰一人として、筆者に憤りを持っておらず、筆者を憎んでもおらず、筆者の考えをあるまじきものとみなして、筆者が考えを改めない限り、二度と受け入れるつもりはない、などという狭量な考えを持っていないことをよく示している。

そして、彼らがそのような考えに立っている理由は、この集会の成りたちを考えてもすぐに分かる。

ベック氏の集会は、もともとキリスト教界に失望幻滅してそこを去って来たクリスチャンが大半を占める。ベック氏のメッセージの中心的テーマの一つにも、キリスト教界には決して行ってはいけないということがある。そして、こうしたメッセージ内容は、ベック氏が独自に編み出したものではなく、古くはハドソン・テイラーや、オースチン-スパークス、ウォッチマン・ニーなどを含め、地上の組織や団体としての教会の欺瞞性を悟り、組織としての教会から離脱し、エクレシアが地上の団体ではなく天的な共同体であるという事実を知って、本来のエクレシアのあり方を追い求めた霊的先人たちから部分的に受け継がれたものである。

こうして、この集会には、キリスト教界を離脱した人々が数多く集まっているため、この集会の信徒たちの多くが、かつて何かの苦い対立や、深刻な失望を味わって、教会組織を出た経験を持つ。それゆえ、彼らは、信徒が牧師や指導者の意向に逆らって、時には悪魔扱いさえされながら、組織と対立し、組織を離脱することの難しさや、苦しみをよく理解している。

こうした背景があるので、この集会の信徒らは、一人の信徒が彼らの集会にやって来るまでの間に、どれだけ数多くの団体で苦い経験を味わったか、どれだけの団体を遍歴したかなどの事実を追及し、あげつらっては、これを非難や嘲笑の材料としたり、あるいは、彼らの集会を離れた信徒をいつまでも悪しざまに言うことをしない。

彼らにとってはキリスト教界は出るべきところであって、教会組織を離れる行為を悪とみなすような考え方は彼らにはない。

むろん、そうは言っても、それでも、彼らが自ら立てた指導者にだけは従うべきと考えていることは自己矛盾なのであるが、だからと言って、この集会が、筆者が集会を去ったことを、指導者に対する下剋上のようにみなして非難して来ることもない。まして、筆者を追いかけて来てまで、戻るよう説得した者もいない。
 
筆者がその集会を立ち去る前に、筆者を引き留めようとして色々とお説教めいた忠告をして来た兄弟姉妹からは、そのすぐ後に、お詫びと理解して差し支えない内容の手紙が届いた。そこには、彼らとは根本的に考えの異なる筆者を異端者扱いして退けるどころか、依然として、筆者を兄弟姉妹の一人とみなしていることが分かる内容が書かれていた。

このように、この集会の信徒らは、基本的には非常に情の篤い、世話好きで、もてなし上手で、人間的にも好感の持てる純朴な人々である。彼らの信仰のあり方は、日本の戦後間もない開拓時代を思わせるような、極めて単純で素朴なものである。筆者は彼らがクリスチャンでないなどと決して言うつもりはなく、筆者と同じ信仰が彼らの中には全く見られないとも考えていない。

だが、そのように、彼らが極めて好感の持てる人々で、筆者と幾分かは信仰も共有している兄弟姉妹であるという事実と、その集会の理念が持つ問題性は、別個の問題なのである。

筆者はすでに述べた通り、エクレシアにはいかなる固定的な指導者をも置く必要がないと確信している。そこで、この集会が自ら牧師制度を否定しているのであれば、牧師制度に類するいかなる制度をも置くべきでなく、にも関わらず、一人の指導者を祀り上げているのは自己矛盾でしかない。

筆者は、牧師という名であろうと、その他の名称であろうと、人間に過ぎない者を師として仰ぎ、その指導者が教会を管理するようになれば、組織が腐敗することは避けられないと考えている。ただ腐敗するだけでなく、その指導者は、キリストに代わって信者の心と生活を支配するようになるため、反キリストに等しい存在となる。そこで、牧師制度という名称であろうとそうでなかろうと、階級制度としての教職制度自体が教会にはあってはならない、というのが筆者の見解である。

また、以上の集会が家族ぐるみで信徒を取り込もうとすることに対しても、筆者は非常に懐疑的である。なぜなら、聖書は地上における肉の家族の絆がそのまま霊的な神の家族を形成するとは全く述べていないからである。むしろ、地上における肉の家族は、往々にして福音には敵対する誘惑となる。

このように、筆者がとらえている聖書のエクレシアの理念と、以上の集会の理念とは、多くの点で著しい相違がある。このような理念の相違こそが、筆者がこの集会を去った理由であり、人間的な対立は起きていない。起きたとしても、すでに解消されており、そのようなことが本質的原因ではないのである。

にも関わらず、筆者がその団体を去ったことを人間関係の問題に置き換え、すべての問題を、常に聖書との対比において検証しようとせず、ただ人間関係の相克といった低い次元のドラマに置き換えようとする人々は、そのようにして、筆者が組織を離脱した根本的な原因をすり替えることで、牧師制度そのものが根本的に誤っているという、筆者が提起している重大な議論の本質をごまかしているのである。

さらに言えば、その人々は信者を再び人間の支配(組織のヒエラルキー)に従わせ、人間(指導者)の奴隷としたいだけなのである。
 
そういう人々の理屈は、たとえるならば、ブラック企業を辞めようとしている社員に向かって、「社長の言うことには従うべきだ。権威には従いなさい」と説教するようなものである。社員が過重労働のために死の寸前まで追い込まれても、それでも社長という権威に逆らうことや、組織を離脱することは悪だと教え、人間関係を損なうべきではない(和を乱すべきではない)などという口実で、社員が命を守るために逃げ出すことさえ禁止して、自由を奪おうとするのである。

そのようなやり方で、信者一人一人が、何が聖書の理念に照らし合わせて正しいことであるのか、自分自身で判断して行動する自由を妨げ、人間(指導者)の思惑や支配に盲信的に従わせようとすることこそ、まさにカルトの手口と言って差し支えない。

カルト化した組織では、すべての物事の是非が、聖書の御言葉に照らし合わせて検証・吟味されず、ただ指導者の思惑や、組織のヒエラルキーに従って解釈される。人間の立てた権威や秩序に逆らわずに黙って従うことが、聖書の御言葉に従うことよりも優先される。聖書の理念が、人間の作り上げた指導者制度を支えるための添え物として利用されているのである。

こうして、何が正しく、何が間違っているかという価値判断を、信者自身が行うことを阻止し、人間に過ぎない指導者が代わって行い、その指導者の意向に信者を盲信的に従わせるのがカルトである。

笑止千万なのは、カルトに立ち向かうと豪語しているカルト被害者救済活動の支持者が述べている言葉が、まさにカルトのマインドコントロールの手口そっくりになりつつある点である。

彼らは、筆者が様々な団体を離脱したことを悪であるかのように非難する。しかし、もしそれらの団体が聖書の御言葉に従っていないならば、筆者がそれらの団体を離脱したことは何ら悪でないどころか、離脱しなければ正しい信仰生活を送れないのだから、離脱して正解なのである。

にも関わらず、カルト被害者救済活動の支持者らは、決して聖書の理念に照らし合わせて物事を考えようとはせず、ただ筆者が人間の立てた権威や秩序に従わず、組織のヒエラルキーに従わず、団体内で波風立てる行動に及んで(団体の理念に異議を唱えて)そこを離脱したことを理由に、筆者があたかもそれらの団体であるまじき対立関係を引き起こした(「和を乱した」)かのように筆者を非難している。

そのような彼らの主張には、どこにもクリスチャンらしい判断基準はない。聖書は、「和をもって貴しとなす」という価値観とは正反対の理念に貫かれている。

聖書は、人間の作った地上的な組織の秩序の中で、「波風立てずに行動する」ことを正しい信仰生活のあり方として教えていない。むしろ、多くの点で、聖書の御言葉は、この世の人間関係に「波風立てる」ものばかりであり、地上のすべての権威や支配を超える霊的な秩序を唱えているのである。

従って、彼らが、筆者が地上的な団体を離脱したことを下剋上のようにみなして非難しているのは、彼らが内心では、筆者を人間の立てた権威や制度に盲信的に従わせ、人間の奴隷にしようと目論んでいたことを表しているに過ぎない。

しかも、彼らは、筆者とは異なり、以上の団体に通ったことが一度もなく、それらの団体の実情を少しも知らず、筆者の行動を見て知っているわけでもなく、兄弟姉妹の心中も知らないにも関わらず、ただ筆者がいくつかの団体を去って来たというだけで、その離脱が「悪」であるかのように非難しているのである。

彼らは結局、筆者が人間に過ぎない指導者たちの意向に盲信的に従わず、自分自身で物事の是非を判断して行動したことが気に食わないために、筆者を非難しているだけなのである。結局、彼らの言い分は、筆者は牧師制度の前にひざまずくべきであり、指導者の意向に従うべきであった、ということに尽きる。

これは、組織内で波風立てずに行動することを至上の価値のように唱えるこの世的な価値観そのものであり、もっと言えば、指導者に対する絶対服従を要求するカルト的思考である。

こうして、カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者に指導者への絶対服従を要求しているのであり、彼らの思考こそ、笑止千万なことに、どんなカルトよりも、より一層ひどいカルト的思考に陥っているのである。
  
さらに、追記しておけば、ベック氏の集会では、対立など全く珍しいことではなく、筆者が立ち寄る以前から、ベック氏の後継問題を機に巨大な分裂騒動が起きていた。筆者がこの集会を訪れた頃は、かつて一つだった集会が真っ二つに分裂し、互いに論争を続けながら、別々の場所で集会を開いていた。

だが、この集会はもともとかなり平和的な性格の団体であるため、集会が分裂したからと言って、両者の間で、あからさまな中傷合戦や、政治的駆け引き、教会財産の争奪戦のような、あまりにも次元の低い争いが起きることはなかった(と見られる)。分裂した二つの集会は、できるだけ衝突や対立を避けながら、独自に平穏な集まりを続けており、さらに、筆者が驚いたことには、深刻な対立があったにも関わらず、両方の集会を行き来しながら楽しんでいる信徒もいるという始末だった。

このように、元来がジメジメした対立や論争を嫌う、根の明るい性格の団体であるから、筆者がそこを去った後でも、「深刻な対立」やら「相克」は起きようがなかった。

KFCも然りである。KFCもそのほとんどはキリスト教界を去ったクリスチャンから成るため、ここにも、指導者に絶対服従を説いたり、組織や教団を離脱することを「悪」とみなす考え方はほぼ見られない。ウォッチマン・ニーなどを一時しきりに教本のごとくメッセージの土台としていた様子を見ても、地上の組織や団体に信者を縛りつけて従わせようとする考え方には根本的に否定的であると言える。

この団体も会員制度がなく、さらに、時期によってメッセージ内容があまりに大きく変化していることもあり、信徒の入れ替わりが非常に激しい。一時はメッセージに共感していた信徒も、ある時期を過ぎると、着いて行けなくなり、去って行くという具合で、大きな離散があり、古参のメッセンジャーもほぼいなくなって現在に至っている。

こうして、もともと信徒を管理し、団体に縛りつけようとする制度自体がない上に、様々な離反や騒動を経験し、信徒の入れ替わりが激しい以上、その団体に失望幻滅して去る信徒が出たからと言って、それは全く珍しいことではなく、去った信徒がいつまでも悪しざまに言われることもない。

中にいるうちは色々言われるかも知れないが(しかも、外野のようなメンバーを中心に)、むしろ、出てしまえばすっきりしたもので、去った信徒を追いかけてまで嫌がらせを加えるような陰湿さは全くないし、そんなことに携わっていられるほど余裕があって執念深い人間もいないと言える。

特に、KFCには、昔から相当に数多くの批判者がいた。もともとキリスト教界への辛辣な批判を定番としており、キリスト教界側の人々には恨みも買っていたであろうし、彼らに言わせれば、「どこの教会からも落ちこぼれた信徒しか集まっていない」と言われるほどに「異端児的」な団体であるため、筆者が当ブログでKFCの理念に対して相当に深く切り込んだ批判を述べたからと言って、そのようなことはKFCにとって何ら目新しいことでなく、誰一人としてその内容に反駁して来た信者もいない。この団体に残っている人々と筆者との間で対立や論争が起きたことは一度もない(その理由には、この団体の信者の平均年齢が、筆者とは全く異なるため、そもそも共通の理解さえ成り立たないということもあったかも知れない)。
 
今になって考えてみると、KFCという団体は、筆者の子供時代にTVで放映されていた「ジミー・スワガート・アワー」にも似たような、聖書の教義の中核に迫る議論からはおおよそ外れた、興業的な意味合いの強い集会であったように思われる。もっと卑近なたとえでは、七色に光るイミテーションのガラス玉か、3分で完成するエスニックの即席麺のようなもので、たくさんの香味は効いているが、本質となるべき中核を欠いているのである。ウォッチマン・ニーやその他の先人の教えを数多く引き合いに出していたとはいえ、それもうわべだけの装飾でしかなく、すべては単なるパフォーマンスとして見るべきもので、真面目に論じるだけ時間の無駄であったかも知れない。

また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団について言えば、この教団は「しるし・不思議・奇跡」を求め、常軌を逸するほど聖霊を強調する過激な集会のあり方のせいで、長らくプロテスタントの中でも、異端視され、排除されて来た過去があることは周知の事実である。この教団がプロテスタントの一部であるかのように公然と認められるようになったのは、比較的最近のことであり、それもキリスト教人口が一向に増加しない中、大衆受けする集会のあり方が功を奏して、この教団の人口の成長率がプロテスタントの他の教団と比べても著しかったためでしかない。

教義面では、依然として、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、聖書研究に重きを置く福音派などの伝統的な教団教派からは、あまりにも思慮分別の足りない「体育会系」に偏りすぎた教団とみなされ、半ば軽蔑気味に退けられる傾向が強い。

そのことは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を出てから、他の福音派の教団に行って、実際に、評判に耳を傾けてみればすぐに分かることである。だが、そうした評判を待つまでもなく、事実、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、聖書に基づく深い理念の考察を怠り、現象・活動にばかり熱中して来た歴史があるため、もともとしっかりした教義というものが存在しないも同然である。

そこで、伝統的な福音派から見れば、このように聖書研究が考えられないほどにお粗末で幼稚なレベルにとどまっているにも関わらず、異言を語ることや、しるしにばかり重点を置いて、それがないことで、他のクリスチャンを見下し、自分たちが優位に立っているかのように思い込んでいる態度が気に食わないと、半ば軽蔑ぎみに批判されるのも仕方がない。そして、その批判は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団もそれなりに理解しており、昨今は、以前はトレードマークのようであった過激な礼拝のあり方を自粛する教会も増えている。

このように、この教団は、長きに渡り、プロテスタントの中でも異端視されて来た歴史があるので(教義の面から見ても、異端視されて当然の理由(重大な欠陥)があったと筆者は考えるが、今はその問題には触れない)、批判には慣れており、教団を去ったクリスチャンが批判を口にしたからと言って、いちいち目くじら立てることもなく、まして去った信徒を追いかけてまで口封じしようと嫌がらせに及んで来ることもない。

そのようなわけで、筆者はいくつかのプロテスタントの団体を束の間、通過した過去があるとはいえ、現在に至るまで、それらの団体と筆者との間で、対立や論争が続いている例は一つもない。
 
現在に至るまで、筆者との間で長年、対立関係を深め、筆者の考えを改めさせない限り決して許さないと尽きせぬ執念を燃やして筆者に論争をしかけている存在があるとすれば、それはただカルト被害者救済活動の支持者だけである。
 
そして、これは極めて重要な事実である。つまり、色々と問題を抱えて欠点が多く異端視されても仕方がない数多くの教会は、筆者を決して中傷したり、論争をしかけて来ないし、打ち負かそうと挑んでくることもない。むしろ、そういうことをして来るのは、正義の旗を掲げて「カルトを取り締まる」と主張している陣営だけなのである。

だから、そのことを見るにつけても、筆者は、牧師制度には反対を唱えないわけには行かず、教義面で多くの問題を抱える教会が数多く存在することも疑わず、地上の組織や団体としてのキリスト教界を擁護するつもりは微塵もないにも関わらず、だからと言って、そのような疑わしい教えを唱える教会がすべて筆者と敵対関係にあるとは思わないし、そこにいるクリスチャンが、ことごとく筆者の兄弟姉妹ではないと言うわけでもない。
 
ここに、クリスチャンに対峙することの非常な難しさがある。クリスチャンは外見的には、全員が、途方もなく多くの欠点を抱えた、とりわけ未熟な人々ばかりである。この世の人々と引き比べても、何一つ長所が見いだせないどころか、むしろ、格段に劣っているとさえ言える場合が少なくない。何しろ、何かのきっかけで自分の限界を思い知らされなければ、教会になど足を運ぶことはなかったであろうし、神を求めることはなかった。そういう意味で、クリスチャンは、世の人々と比べても、圧倒的に弱々しく、生きるのに不利となる様々な厄介事や困難や弱さを抱えた人々ばかりであり、とりわけ見劣りのする不器用な連中から成っていると言っても過言ではないだろう。

その上、聖書の御言葉への理解や、信仰の成長という点でも、全く芳しくない人々が99%以上を占めるのである。こうなっては世人からは、弁護の言葉もほとんど出て来ないであろう。
 
ところが、そのように、外面的には極めて弱々しく、不器用で、ぱっとしない、見栄えの悪い人々、そして内面的にも、極めて未熟で、欠点だらけの、愚かな人々に、この世の不信者以上に、神の愛と憐れみが信仰によって及び、義認が行き届いているのが現実なのである。

クリスチャンとは、自分自身の優れた長所によらず、立派で正しい心がけによらず、ただ信仰によって神に受け入れられた人々である。そうである以上、たとえ彼らが未熟であって、その行動が欠点や誤りに満ちており、さらに理念の面でも愚かさと誤りが明白であって、危ない道を歩んでいるようにしか見えなかったとしても、彼らの心の内に、もし真摯に神を信じ、すがり続ける信仰が少しでも残っているならば、その限りにおいて、ただ彼らが未熟で欠点だらけであるという理由だけで、兄弟姉妹ですらないと全否定することは難しく、また、すべきでもないのである。

筆者は、すでに書いて来たように、兄弟姉妹を名乗っている人々に裏切られた回数は数知れず、二度と関わりたくないと嫌気が差した人々や、その高慢さにうんざりした人々も存在する。そういう思いを味わえば、彼らをクリスチャンだとは一切認めたくない気持ちになることも人間としては往々にしてあると言える。いっそ自分は正しく、彼らはみな異端者だと決めつけてしまえば、気も楽になるであろう。

だが、誰がクリスチャンで、誰がそうでないのか、その線引きは、筆者がすることではなく、その線引きは非常に難しく、判断は極めて慎重でなければならないと思う。たとえあるクリスチャンの欠点や非が明々白々であって、また、そのクリスチャンが筆者を再三に渡って裏切り、打撃を加えて来たような場合であっても、もし筆者が彼らを全否定すれば、それによって神を敵に回してしまう危険性が十分にありうるためである。

それだからこそ、筆者は、特定の人物をその人格の未熟さや行動の欠点を取り上げて非難することをできるだけ避け、むしろ、その人物の主張の内容や、特定の集団に流れる思想・理念の問題を洗い出し、理論面からの批判にとどめるように心がけているのである。そして、ほとんどの場合、理論面から問題を洗い出すと、そこに異端思想の共通構造が隠されていることが分かって来るのである。

つまり、敵はあれやこれやの人間ではなく、神に敵対する思想なのである。そして、悪魔から来る思想の基本構造とでも言うべき、異端の型というものが存在することを、筆者は当ブログで再三に渡り、繰り返して来た。

そのようなわけで、あれやこれやの危うい歩みをしているクリスチャンを敵のようにみなして非難することによっては、何ら異端の問題は解決しないのである。そのような方法は、まるで病原菌を根絶するために、感染した人間を全員殺しましょうと言っているのと同じほどナンセンスである。

つまり、教会の堕落は看過すべきでない問題であるとしても、一部の堕落のために、エクレシア全体を否定することは避けねばならず、そのような極端な議論を容認すると、恐るべき結果が生まれるのである。

見かけ上は肉的であり、堕落そのものにしか見えない教会であっても、そこに信仰によって霊的なエクレシアの成分がわずかでもあるとすれば、すべてを否定するわけには行かないのである。たとえ神社に油をまくようなクリスチャンや教会が出て来たとしても、そのような恐るべき行動に及ぶ人々も、やはり教会の末端に位置する以上、そこには、嘘と真実、信仰と不信仰が混じり合い、本物も少しは紛れ込んでいる可能性があり、それにも関わらず、行動があまりにも未熟かつ異常だからと言って、一概にすべてを異端と決めつけて退けてしまうと、本物のエクレシアの成分さえも否定することになってしまうという難しさが存在するのである。

かつて教会の迫害者であり、クリスチャンを断罪して殺すことに加担していたパウロでさえ、あのような回心を遂げたわけであるから、神に対する熱心さのあまり、逸脱を犯している信者らについては、判断は慎重でなければならない。

神社に油をまくことが、神の国に奉仕することでないことは、聖書的観点から見て明白であり、そのような行為は、この世的な観点から見れば、言語道断でしかないであろうが、それでも、そのような行動を本気で正しいと信じるクリスチャンの中にも、1%でも純粋な信仰があるならば、我々は、その行為の表面的な愚かさと迷惑さ加減だけを取って、彼らをクリスチャン失格であるかのように決めつけることができないのである。もちろん、そうした行動は正されるべきではあるが、それはあくまで同胞としての忠告によって是正を試みるにとどめるべきであろう。

このようなわけで、筆者の目から見れば、最も重大な危険は、未熟さや愚かさや過ちがあまりにも明白すぎるために、誰からも「カルトの疑いがある」と名指しで非難されているクリスチャンにはなく、むしろ、自分だけは正しく、決して誤らないという根拠のない自己過信に陥って、指導者然と、自分以外の数多くのクリスチャンの「非行」をあげつらっては裁き、「カルトを撲滅する」と主張している人々の方にあるのである。

繰り返すが、クリスチャンはどの人間も未熟であり、自分は神に従っていると思いながら、実際には、間違いを繰り返しながら生きている人々でしかない。間違いは、それが大きなものであれ、小さなものであれ、神の目から見て、同じように逸脱であり、不従順であるという点で、すべては五十歩百歩である。神社に油をまくことを非常識だと笑うクリスチャンも、毎日、何かの行動において、神の願っておられる水準に達せず、神の聖霊を悲しませながら生きている。

そういうことが全くないと胸を張って言える信者は、地上に一人も存在しないことであろう。それでも、神の愛や憐れみ、義と聖と贖いは、その愚かなクリスチャンにも、信仰によって十分に及んでいるのである。だとすれば、一体、表面的な行動だけをあげつらって、クリスチャンを断罪できる存在がどこにあるのだろうか?
 
我々が警戒しなければならないのは、愚かな間違いを犯して、クリスチャンの村社会の中でもの笑いのたねにされることではなく、むしろ、「私は完全に正しい」という思い上がりに陥って、自己反省の余地を全く失って、自分が神のようになって、自分以外の信者を裁くようになることである。

異端に関する教義論争はいくらでも行われるべきであるし、構造面から異端を明るみに出す作業には意義がある。だが、ある人間がクリスチャンと呼ぶに相応しいかどうかを判断する基準は、決して特定の人間に委ねられるべきでなく、その判断に当たっては、極めて慎重な吟味がなされなければならない。

クリスチャンであるかどうか、クリスチャンとしての要件を満たしているかどうかは、この世の価値観によっておしはかることはできず、それにも関わらず、この世から見て、常識的に振る舞い、世人に受け入れられる条件を満たしているかどうか、まして社会的に成功しているかどうかとかいった基準で、クリスチャンが判断され、裁かれるべきではない。

むしろ、信者は、クリスチャンであるがゆえに、世人から見てどんなに失格者の烙印を押されようとも、神の尽きない愛と憐れみにあずかって、その弱さを神の強さによって覆われているのであり、この世の価値観に従って判断されることから解放されているのである。

クリスチャンとは、そのようにして、信仰によって神の特別な寵愛(恩寵)を受けている人々であり、そうである以上、クリスチャンの価値は決してこの世的な判断基準でおしはかることはできないのである。

筆者はこのことを開き直りの材料として使っているわけではないが、それほどまでに信じる者への神の恵みが深いのは事実である。

そこで、我々は、あるクリスチャンの人間的な欠点や、未熟さ、あるいは、誤った熱心さが行き着いた愚かで非常識な行動だけをとって、彼らがクリスチャンに相応しいかどうかを外側から判断すべきではない。ただし、誤った理念がこの先も、他のクリスチャンらをそうした行動に駆り立てる危険性が十分にあるため、異端を糾弾したいのであれば、行動面だけにスポットライトを当てることをやめ、他の信者の愚かで非常識な行動をあげつらっては、これを一方的に上から非難・断罪して終わりとするのではなく、何よりも信者をそうした行動に及ばせる原因となった思想・理念が何であるかを地道に検証しながら、その誤謬を証明する作業を行っていかねばならない。

時に、筆者は、異端の教えというものは、空中をうごめく病原菌のようなものかも知れないと思う。病原菌は、体力の弱った人々には重大な感染の脅威となり、存在しないに越したことはないかも知れないが、それがない限り、人の免疫抵抗力も育たない。
 
仮にクリスチャンが、一切の異端とは無縁の、完全に純粋で正しい教えだけを受け取り、その中で成長することができるとしても、もしその人が誤りとは何かを知らなければ、それはあたかも無菌室の中で育つ人生のようになってしまうだろう。

霊的無菌室だけしか知らずに育った人間は、その部屋を一歩でも外に出れば、たちまち生きる力を失って死んでしまうだろう。悪に対する免疫抵抗力がないためである。
 
そこで、信者は地上に生きている限り、数多くの疑わしい教えに出会い、その嘘を自力で見抜き、識別し、退けて行く力を養わなければ、信仰は育たず、従順も育たない。神への従順を証明するためには、不従順を選ぶことが可能な状況が前提としてなければならない。信者が誤った道を選ぼうと思えば選べる状況で、自ら正しい道を見分けて、偽りを退け、神に従うことを自ら選ぶのでなければ、その信者には、判断力も、自己決定権も育つはずがない。

だから、信者が多くの誤った教えを見聞きした上で、その誤りを自ら識別する力を養うことが大切であり、その意味で、誤謬と出会うことは何ら恥でないどころか、それこそ、信者の霊と魂の成長のために、避けて通れない不可欠な過程(訓練)ではないかと筆者は思う。

そういう意味で、筆者はこれまでに通過して来た団体や集会を振り返り、そこを訪れたことを後悔するつもりは微塵もない。そうした団体の理念に疑わしいところがあるというだけの理由で、そこに行ったのは時間の無駄であったとか、そこで出会ったクリスチャンのすべてが兄弟姉妹ではないと否定するつもりもない。

むろん、ある団体で唱えられている理念に、聖書に合致しない点がないかどうか、吟味することは重要であり、もし聖書い合致しないと分かったならば、分かった瞬間から、筆者はそこにとどまるべきではないだろう。だが、だからと言って、その中に残っているすべての人々が、みな異端者であるとか、非クリスチャンであるなどと筆者は考えてもおらず、そこで見聞きした経験のすべてが無駄であるとも思わない。
 
筆者はその団体にいる兄弟姉妹が、筆者と同じようにその団体の理念を疑わないからと言って、彼らに自分の見解を押しつけるつもりはない。筆者が理解している内容を彼らに向かって述べたとしても、それが彼らに理解されるかどうかは分からない。すべては信者自身の中の「時」による。今日気づかなくとも、明日気づく人も出て来るかも知れない。気づかせて下さるのは神である。
 
筆者の義務は、自分で理解した事柄に忠実であることであり、他の人々がどう行動するかまでは、筆者の責任ではない。ただし、筆者は、誤りだと分かっているものに接触を続けるわけにはいかないため、忠告しても聞き入れない人々からは離れるのみである。
 
カルト被害者救済活動の支持者らの盲点は、自分の欠点や未熟さには目を向けようともせず、常に他者の欠点や未熟さばかりをあげつらい、神ご自身を退けて、神になり代わって、自分がクリスチャンの内心や生き様に対する裁き主になり、周囲の人々がまだ理解する時期が来ていないかも知れない事柄についてまで、何の資格もなしに、強制介入・干渉して行き、聖霊になり代わって信者を教え、信者の内心や行動を正し、支配しようとしている点にある。
 
異端は教義面から明らかにしなければ意味がないにも関わらず、彼らは信者の行動の欠点や、外側の出来事ばかりを中心に据えて、この世の観点から信者の行動の是非を論じ、信者を裁こうとする。

だが、そのような観点からは、決してこの先も正しい教義論争は生まれて来ないであろう。それどころか、彼らは何をよりどころにして他者を裁いているのか、その土台をますます見失って行くだけである。聖書は何と言っているか。
 
「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。

この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。


裁きの場合は、一つ一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。

そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ローマ5:15-21)

クリスチャンを裁くことに躍起になっているカルト被害者救済活動の支持者らは、信者の行動の非をあげつらったところで、自分自身の罪から逃れられるわけではないことを知らないのだろうか。彼らは無罪とされるためには、完全に罪なき人でなくてはならず、自分の内にわずかに一つの罪でも見いだされれば、たちまち有罪を宣告されることを知らないのだろうか。

他方、クリスチャンは、キリストのゆえに、「いかに多くの罪があっても、無罪の判決」を受けた人々である。罪が増し加わるところには恵みはなお一層増し加わるというのは、クリスチャンにこそ誰よりも当てはまる。クリスチャンがいかに欠点が多く、多くの罪を犯して来たとしても、キリストにあって、神はそのクリスチャンのすべての非をすでに血潮で覆って下さっているのである。クリスチャンが世人に比べ、いかに絶大な特権を持つ者であるか、いくら認識してもし足りない。

だから、誰かがこの世的な観点に立って、一人一人のクリスチャンを、見かけの貧相さや、行動の不器用さや、未熟さ、愚かさや、弱さのゆえに、非難したり、断罪するのは、非常に容易であろうが、そんなことはやめておいた方が良い。むしろ、クリスチャンが弱々しそうに見えれば見えるほど、その弱さが神の憐れみに満ちた強さによって特別に覆われていることを考えてみるべきなのである。その事実を見ずしてクリスチャンの表面的な弱さだけを見て、これをあげつらって非難・説教・嘲笑していれば、いずれ神ご自身を敵に回すことになる。聖書には次のように警告されている。

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」(マタイ18:10)

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当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

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