忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

今日が恵みの時、今日が救いの日ーー栄光から栄光へ、主の似姿に変えられて行く

最後の記事から随分日が空いたが、この間にヴィオロンの人生には実に大きな進展があった。

まず、耐え難く狭苦しく感じられるようになった住居を脱出して、広いところへ移った。さらに仕事も新しくなり、かつての専門の道に戻りつつある。

こうしたことが成就したプロセスがまた素晴らしかった。それは全てが私の力というより、神のみわざとしか言えない方法だったからである。

まるでイザヤ書第59章のみことばがまさに私の身の上に成就したかのようであった。

横浜に来ることが決まった直前、以下の みことばを噛み締めていたことを思い出す。

「海沿いの国々よ、わたしに聞け。
遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ。
主はわたしを生れ出た時から召し、
母の胎を出た時からわが名を語り告げられた。
主はわが口を鋭利なつるぎとなし、
わたしをみ手の陰にかくし、
とぎすました矢となして、
箙にわたしを隠された。
また、わたしに言われた、

「あなたはわがしもべ、
わが栄光をあらわすべきイスラエルである」と。

しかし、わたしは言った、
「わたしはいたずらに働き、
益なく、むなしく力を費した。
しかもなお、まことにわが正しきは主と共にあり、
わが報いはわが神と共にある」と。

ヤコブをおのれに帰らせ、
イスラエルをおのれのもとに集めるために、
わたしを腹の中からつくって
そのしもべとされた主は言われる。
(わたしは主の前に尊ばれ、
わが神はわが力となられた)
主は言われる、
「あなたがわがしもべとなって、
ヤコブのもろもろの部族をおこし、
イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、
いとも軽い事である。
わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、
わが救を地の果にまでいたらせよう」と。

イスラエルのあがない主、
イスラエルの聖者なる主は、
人に侮られる者、民に忌みきらわれる者、
つかさたちのしもべにむかってこう言われる、
「もろもろの王は見て、立ちあがり、
もろもろの君は立って、拝する。
これは真実なる主、イスラエルの聖者が、
あなたを選ばれたゆえである」。

主はこう言われる、
「わたしは恵みの時に、あなたに答え、
救の日にあなたを助けた。
わたしはあなたを守り、
あなたを与えて民の契約とし、
国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。
わたしは捕えられた人に『出よ』と言い、
暗きにおる者に『あらわれよ』と言う。
彼らは道すがら食べることができ、
すべての裸の山にも牧草を得る。
彼らは飢えることがなく、かわくこともない。
また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。
彼らをあわれむ者が彼らを導き、
泉のほとりに彼らを導かれるからだ。
わたしは、わがもろもろの山を道とし、
わが大路を高くする。

見よ、人々は遠くから来る。
見よ、人々は北から西から、
またスエネの地から来る」。

天よ、歌え、地よ、喜べ。
もろもろの山よ、声を放って歌え。
主はその民を慰め、
その苦しむ者をあわれまれるからだ。

しかしシオンは言った、
「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。

「女がその乳のみ子を忘れて、
その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、
わたしは、あなたを忘れることはない。
見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。
あなたの石がきは常にわが前にある。
あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、
あなたを荒した者は、あなたから出て行く。

あなたの目をあげて見まわせ。
彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。
主は言われる、わたしは生きている、
あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、
花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、
住む人の多いために狭くなり、
あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。
あなたが子を失った後に生れた子らは、 なおあなたの耳に言う、
『この所はわたしには狭すぎる、
わたしのために住むべき所を得させよ』と。

その時あなたは心のうちに言う、
『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。
わたしは子を失って、子をもたない。
わたしは捕われ、かつ追いやられた。
だれがこれらの者を育てたのか。
見よ、わたしはひとり残された。
これらの者はどこから来たのか』と」。

主なる神はこう言われる、
「見よ、わたしは手をもろもろの国にむかってあげ、
旗をもろもろの民にむかって立てる。
彼らはそのふところにあなたの子らを携え、
その肩にあなたの娘たちを載せて来る。
もろもろの王は、あなたの養父となり、
その王妃たちは、あなたの乳母となり、
彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、
あなたの足のちりをなめる。
こうして、あなたはわたしが主であることを知る。
わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。

勇士が奪った獲物を
どうして取り返すことができようか。
暴君がかすめた捕虜を
どうして救い出すことができようか。

しかし主はこう言われる、
「勇士がかすめた捕虜も取り返され、
暴君が奪った獲物も救い出される。
わたしはあなたと争う者と争い、
あなたの子らを救うからである。
わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、
その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。
こうして、すべての人はわたしが主であって、
あなたの救主、またあなたのあがない主、
ヤコブの全能者であることを知るようになる」。


長い引用であったが、ここにはヤコブ(イスラエル)がこうむった苦難と損失の深さと、神にあって与えられた回復の大きさの見事なコントラストがよく見て取れる。そして、その回復は、ヤコブが世間で強く、尊敬される者であったから成し遂げられたのではなく、むしろ、ヤコブが弱く、侮られ、蔑まれていた時に、神がその恵みに満ちた選びによってこれを救われたのである。

さて、筆者の今回の「エクソダス」は、横浜へ初めてやって来た時とは少し違った。かの時は、筆者が人と交渉して何も要求せずとも、神が全てを整えて下さったが、今回ははっきりと交渉し、要求することが必要だったからである。しかも、自分が不当にこうむった損失の数々を取り返すために、立ち上がり、主張することが必要だった。それはある意味では、「悪魔に奪われたもの」の数々を列挙して、このひどく不当な損失、不当に苦しんだ月日の補填のために、悪魔を責め、悪魔に請求書を出し、これを最後まで支払わせる、という霊的なプロセスを踏むことを要した。むろん、これは比喩であるが、現実を動かすには、霊的秩序を踏むことが必要であり、結果を出すためにたゆみない交渉をし続け、実際に「悪魔を非難し、悪魔の加えた理不尽な打撃の補填のために悪魔に請求する」ことが可能であることを知ったのである。

これは信仰における大きな前進であった、と言える。今までは、ただ神に望みを申し上げるだけで、執拗に戦ってまで結果を出すということに、どちらかと言えば消極的だったが、ここに来て、筆者は自分が今までどれほど悪魔の嘘を吹き込まれ、本当はとうにみことばにより解放されてしかるべきものを理不尽を不当に耐え忍ぶよう、欺かれてきたかに目が開かれたのである。そして、このことを不信仰として嘆き、反省するのもさることながら、何よりも人を欺いた張本人である悪魔を糾弾し、失われた月日を補填させることをしなければならないと気づいたのである。

たとえば、あまりにも多くの人たちが、私の周りで、あまりにも苦痛に満ちた、自由も望みもない仕事に従事している。彼らの仕事内容とは、交通費も支給されず、毎日の労働時間も自分の希望通りにならず、土日も祝日も休むことができず、雇用主のご機嫌次第でいつ解雇されても文句も言えず、しかも労働契約は一ヶ月未満で、その先は保証の限りではない、というような仕事である。その他の劣悪な条件は推して知るべしで、仕事内容のほとんどは不誠実な企業や団体や上司の引き起こしたトラブルの後始末であり、その仕事のみじめさ、やりがいのなさには言及する価値もない。

ところが、それでも彼らはその仕事を辞めれば、自分は路頭に迷うしかなく、代わりはないと思い込み、何があっても黙って耐え忍びつつ、その仕事にしがみつくのである。たたしがみつくだけでなく、辞めて行く者を引き止め、裏切り者扱いしさえする。しかし、このことはすでに何度も書いたが、筆者は自分の経験から、そのような仕事には代わりはいくらでもあって、もっと幅広い選択の自由が存在することを知っていた。特に、キリスト者には、選択の自由がないはずがない。

そこで私は実際に、まるでわらしべ長者の物語のように、これまでに仕事を変わる度に、一歩、一歩、極度の制限の中から、信仰によって自由を獲得して来たのであった。たとえば、たった数ヶ月の契約は年単位の契約に置き変え(ついには終身雇用になるであろうが)、日曜日は当然、休みとし、勤務時間は固定し、残業代が支払われないよう違法労働は当然ながら拒否、さらに交通費は全額支給が当然(できれば数ヶ月分の前払い。通えば通うだけ損になるような仕事に何の価値があろうか)などなど。むろん、ただ生きるためだけに専門外の仕事をすることも、ある時期を境に完全にやめたのであった。

以上のような世界を筆者が去って来たのはとうの昔のことであるが、しかし、これら全ては、こんなに当たり前のように些細なことでさえ、信仰のない人から見れば、無謀な冒険にしか見えなかったろうし、わがままとさえ断じられたであろう。その言い分に耳を貸していたならば、筆者自身の境遇も以前と何一つ変わらず、当然ながら、生活を拡張するの無理な相談に終わったはずだ。

だが、こうして、信仰によって天に直談判し、悪魔に請求書を出し続ける過程で、ヴィオロンはふと高校時代の学友を思い出した。彼女は私に触発されてのことか、高校生になってからピアノを始めたが、そのうち、何が何でもピアニストになるのだと言い出し、音大受験に挑むと決めた。私は彼女の熱中ぶりがあまりにも凄じかったので、幾分か距離を置いて、冷ややかな眼差しで他人事のようにその挑戦を見守っていた。

その頃、筆者も本当は音楽にはかなりの熱意があったので、音楽の道に進むことを考えてはみたものの、隣で彼女があまりにも熱意を込めてピアニストになるのだと言い張っているさまを見て、何だか先を越されたというか、気がそがれた感じで、同じように挑戦して音楽家になろうとは決して思わなかった。彼女は音大の短大に合格し、それから四大に編入するのだと言って頑張っていたところまでを知っている。

だが、音大生になってからの彼女は、再会すると以前よりもさらに変わっており、今度は好きな人が出来たと言っていた。が、その人にはすでに彼女がおり、片思いなのだが、その彼女は彼に相応しい人間ではないと言って、何が何でも彼を彼女から奪い取りたいのだと言うのである。

私はそれを聞いて、彼女の凄まじいまでの熱意にまたもや興ざめになり、その恋愛を応援する気にもならず、人から横取りしてでも自分の望むものを手に入れようとしている彼女の態度にうんざりしてしまった。そして、その時を限りに、彼女に会ったことはない。彼女はピアニストになるのだと言い張っていた時と同じように、今度は好きな人を手に入れたいと望み、望みに従って行動することの何が悪いのだと言って私を非難したのであった。

時を経て、彼女はおそらく意中の人の心を得ることに成功したのであろう。結婚して、子供も生まれたことを風の便りに知った。一見、めでたしめでたしである。結婚してしまえば、それが最初は横恋慕であろうと、何であろうと、非難されることはないであろう。

だが、音楽はどうだろう? 音楽もそのような熱意で手に入れられるものであろうか?

音大というところは、過酷な競争の世界で、高校生からピアノを始めた人を好意的に受け入れるような環境では決してない。神学校では信仰を学べないのとよく似て、おそらく音大では音楽の真髄は学べず、学歴としての価値はあっても、打ちのめされ、大きな壁にぶつかることになったのではないかと思う。

そういうことの影響があったのかどうかは知らないが、彼女はその後、純粋なクラシックの世界からは幾分か遠ざかり、あえてそれに背を向けて、純粋に楽しめるもっと庶民的な音楽の方向へ舵を切ったように見える。というより、クラシックの世界は、裕福でなければ、あるいはコネがなければ、コンサート一つも簡単に開けず、熱意と努力だけではどうすることもできない世界だ。彼女はその世界に居場所を見出せなかったのではないか。そういうこともあってか、子供のための音楽や、民族音楽などの方向へ、関心が変わって行ったようである。

だが、ヴィオロンは、そこでも、めでたしめでたし、とも思わないのである。自分が若くて小さな子供がいるうちは、子供向けのコンサートを開くのも良いだろう。しかし、年を取り、自分の人生にそれなりの深みが出て来なければならない年代にさしかかったとき、誰を対象として、何を訴えるために演奏するのかという課題に、誰しもぶち当たるであろう。憧れや、楽しい気分だけでは、もはや進んで行けない時が来る。特に、年老いて来た時、彼女が何を原動力として進み続けるのか、それは筆者の目から見れば(余計なお世話ではあろうが、かなり)疑問である。

私から見ると、この彼女は、いつも何か欲しいものがあって、(しかも大抵、それはもとは他人が持っていたものなのだが)、他人に触発されて、自分も同じように欲しいものを得て、望みの自分像になるために、頑張ってアプローチして生きてきた人だった。たしかに、望みへ到達するための努力は大変なものであったろう。しかし、芸術というものは、もともと自分自身の中にあるものが外側に湧き出て来て表現されるものであって、努力して到達するものではない。努力するのはただ表現力を磨くためでしかない。

カラオケでも上手な人は本物の歌手そっくりに歌うことができるが、クラシック音楽も、努力すれば、素人でもそれなりの域に達することはできる。音大に入ることさえそう難しくはない。だが、それで音楽家になったと言うのは早すぎる。そもそも、自分自身の中に湧き出てくる泉のように、表現の源、核となるものがなければ、どんなに練習を積んでみたところで、それは他人の真似事にすぎないのだ。偉大な作曲家の優れた楽曲をうまく演奏すれば、誰でも「ひとかどの人間」に自分を見せることはできるが、それでも、真似事だけでは決して進んで行けない、より深い動機が必要とされる時が必ず来るのだ…。

ただ単にピアニストという職業が醸し出す、煌びやかで崇高そうな雰囲気、俳優のように自分の演技を人に見せて観客と一緒に酔いしれることのできる陶酔感、自己満足だけが目的だったのであれば、それだけでは、進んでは行けない時が来よう。特に、金やコネで占められている、あらゆる汚辱の存在を知っていながら、それでもそれなりの苦い代償を支払って、それでもあえてクラシック音楽にとどまるのは無理であろう。

これらの苦い代価の全てを支払ってでも、自分のうちに音楽を通してどうしても表現せずにいられない何かがあって、そのために演奏家にとどまっているのか、それとも、ただ自分が舞台の主役となって、美しい音楽を奏で、心地良い注目を浴びて、聴衆と共に満足したいがためだけに演奏家を続けているのか、試される時が必ず来るであろう。

さて、しかし、今ここでその彼女のことを引用したのは、彼女を批判するためだけではなかった。むしろ、長年、私は彼女の猪突猛進型の熱意に、ある種の恐れを抱き、それを自己中心だと思って、敬遠してきたが、今考えてみると、その態度にさえも、何かしら学ぶところもあったものと思う。

ヴィオロンは、他人から何かを奪い取ってまで手に入れようとは決して思わないし、なりふり構わず、己の欲望に突き進むことを賞賛するつもりも全くないが、しかし、本当に心から望む(理にかなった正しい)目的のためならば、人はどんな困難があろうと決して諦めずに前進し続けるだけの揺るがない決意と情熱が必要であると思う。その意味においてのみ、彼女の態度にも学ぶべきものはあると感じる。今までを振り返り、私にはいささかそのなりふり構わぬしぶとさ、図太さ、粘り強さ、自己中心なほどに諦めないしつこさ、といったものがかけていたのかも知れないと思わないこともない。もっと言えば、かけていたのは、どれほどの障害にぶち当ろうとも、何が何でも信念を貫き通すために必要な、不動の自信と勇気、決意だったかも知れない。

だが、これは信仰の文脈で言うことであって、神の栄光、みことばの正しさを証明するためにこそ、人は自分の全てをかけて戦う価値があるのであって、自分勝手に望みのままになりふり構わず突進して生きよと言っているのではないのだ。そのようなあきらめることのない熱意は、人やモノに向けられる前に、まず神にこそ向けられるべきである、とヴィオロンは思う。どんな些細な願いも、まずは神のみ元にこそ持って行き、しつこく交渉してみるべきなのである。

だから、私はこの度、ちょっと実験してみることにしたのだ。前述の彼女のしつこさには及ばないにせよ、自分の望みを、困難がやってきたからと決して簡単にあきらめることなく、天の扉を叩くことに使ってみようと思ったのである。

その結果、実際に生活を向上させ、仕事を変えることができた。こうしたことは、前述のピアニスト志望の学友の望みのように、世間からは、わがままだと非難されることもあるかも知れないし、博打のような冒険とみなされることもあろうが、誰に何と言われようとも、私はこれ以上、もう一歩も退却したくないし、この望みをあきらめるわけにも行かない、というほど、にっちもさっちも行かないところまで追いこまれたのである。現状のままでは、何が何でも我慢できないうという思いが到来したのである。そして、しつこく天に直談判してみた結果、扉が開いたのであった…

家庭集会などは開くつもりはないが、家庭集会が夢のまた夢だと言わねばならないような環境からは抜け出ることができ、ほっと一息ついて、神の恵みに感謝することができるようになった。

さて、こうした飛躍や進展と思われる事柄も、代償なしに与えられたものではなく、以前、書いたように、もしヴィオロンが、地上の生まれ故郷にとどまって、地上の親族への義務感や情愛から、「死人を葬ること」に熱中していたならば、決して達成できなかったろうと言える。

最後の記事で触れた件の親族は、病床についてから一ヶ月半という比較的短い期間で亡くなったので、その苦しみはそんなにも深刻重大ではなかったかも知れない。というより、筆者はその最期の様子を知らない。だが、それでも、この故人は、人生の最期になって、「私は何も悪いことはしていないのに、なぜこんなに苦しまねばならないのだろう」とこぼしていたというから、悔い改めは、まさに神が信仰によって人にお与えにならなければ、誰も決してすることのできない奇跡なのだと言うしかない。

ヴィオロンは、この親族の最期の時に、枕元で、人間の原罪と、人が救われるためには悔い改めて神に立ち返る必要性があることについて語った。しかし、おそらく、上記の言葉が、この促しに対する故人の偽らざる返答だったのであろう。つまり、故人は、己に罪を認めず、悔い改めの必要性をも認めなかったのだ。何しろ、生長の家は、人間はみな生まれながらにして神の子であり、人に罪はないと教える。そして、神の子である人間を脅かしうるものは地上に何もなく、病も幻想に過ぎないのだと言うのだ。

しかし、彼らの信念によれば、神であるはずの人間が、病に打ち勝つこともできずに亡くなった。だとすれば、悪いのは誰なのか。生長の家の教えが間違っているのか? それとも、罪なき人間をいわれなく罰したもう神が悪いのか? 生長の家の教えだと、きっと暗黙のうちに後者ににならざるを得ないだろう。何しろ、彼らによれば、人間は正しいのだ。正しいから、苦しめられるはずはないのだ。それならば、正しいはずの人間を苦しめる何者かが存在するのであり、その人間以上の存在ーー本当の神は、悪神ということになろう。この問題は彼らの狭い教義からはもはや外にはみ出ているが、彼らは悪魔の存在をもきっと認めないであろうから、きっと人間を理不尽に苦しめている悪神が存在するということにならざるを得ないだろう…。決してそのようなことを教義としては主張すまいが、結局、その教えの根底にあるのは、人間の自己義認と、人を罪に定める聖書の神に対する敵意なのである。

こうして、苦しみを通して、神の力強い御手の下にへりくだるどころか、苦しみにあって、ますます自分は悪くないという思いに凝り固まり、自分以外のところに悪の源を探そうとする人たちが現れる。福音を聞いた時に、人の態度が試されるのである。そして、自分は悪くないのに不当に苦しめられているという思いが最後に行き着くものは、ずっと今まで書いて来たように、神に対する恨みと敵意なのである。

私は、こういう話を聞いて改めて、私がこのような考え方に至らず、自分がキリストの十字架の贖いによらなければ、救われ得ない罪人であることを知って、自分が救いを必要とする罪人であることを素直に認めて、この贖いを受け入れて救いにあずかったことを感謝し、これが私の努力によるものでなく、神の側からの恵みであり、奇跡なのだと痛感するのである。

故人は若い時分に戦争があった他は、平穏な人生を送り、不自由はほとんどなかった。人の目から見れば、幸福であろうし、孤独でもない人生であった。就職氷河期に見舞われたり、女手一つで必死に働いてなお半人前のように言われたり、寡婦となったり、子供に死なれたりすることもなく、平凡な家庭の主婦となり、家長としてごくごく世間並みの人生を生きた。まさに世間から見れば、何も後ろ指さされることのない平穏無事な人生であり、お勤めを果たしたことになろう。病に伏した期間も九十二年という健康な人生の最後の一ヶ月程度でしかないのだから、限りなく恵まれていたと言える。

しかし、その見栄えの良さはあくまで表向きの話でしかない。私は、この人の死を前にして、私の人生はこの人と比べればたとえようもない苦難や紆余曲折に満ちていたかも知れないが、神に対して自分は正しいと言い張って心頑なにしたまま死んで行くことなく、神の御子による永遠の十字架の贖いの事実を認め、受け入れることができている自分の人生に、今更ながら、途方もなく安堵するのである。

このように述べると、肉親の情からは、故人にはいささかすまない気持ちにもなるが、正直に言って、この親族が亡くなったことを機に、筆者の名前も含め、一族全員の名前をあげて、夜な夜な仏壇に向かってお祈りする人間がいなくなったことに、筆者はどこかしらホッとする思いを隠せないのである。人間としての筆者は、誰の死をも喜ばないし、寂しい気持ちを禁じ得ない。だが、それとは別に、この故人が生前、筆者には自分の神様がいるから筆者のために仏壇に向かって祈ってくれるなとどんなに言っても、自らの祈りを善意と確信して、決して筆者の願いを聞き入れることなく得体の知れない対象に祈り続けていたその祈りがもはや聞かれなくなったことに、筆者はどこかしらホッとするのである。家長であった人の死と共に、親族全体に及んでいた一つの強固なイデオロギー的支配力が消失したことをも感じるのである。

この親族が亡くなる前に、筆者は故人の考えを変えることはできないことを感じつつ、自分自身の決意表明として、自分がこのような価値観の支配する地上の家の一員ではないことを証するために去った。むろん、異教の儀式としての葬儀にも参列していない。

それはある人々の目には奇異に映るかも知れないが、筆者の曲げられない信念であり、信仰告白なのである。だが、それは代償なしに行われた行動ではなく、その行動が筆者にとっては決意を要したのは言うまでもない。だが、今回、その信仰による行動がなければ、おそらくそれに続く筆者の人生の進展もなかったのではないかと想像する。もっと言うならば、地上の故郷を振り返ることすら、本当はすべきではなかった。怪我をした小鳥は順調に回復して今はすっかり日常生活に戻っているものの、故郷への大移動がなければ、そうしたことも避けられていたであろう。

こうして、地上の生まれや故郷がどうあれ、我々が見るべきお方、その歓心を得るために心を砕くべきお方は、天にも地にも、たった一人であることを思う。私はたとえ全世界から否定されようとも、その方から是認されることをのみ望んでいる。そして、その是認(義認)あればこそ、どんな困難があっても望みを失うことなく進んで行けるのである。このお方は、信仰によって、私の内側に住んで下さり、今すでに我々は一つであると言って下さる。御名によって願いなさいと言って下さる。願いが成就するまでにそんなに長い月日を耐える必要はない。信じる者にとっては、今日が恵みの時、救いの日なのである。
PR

十字架の死のと復活の原則――信者のからだの命でもあるキリスト――ただキリストの復活の命によってすべての必要を満たされて生きる

ですから、私はあなたがたに、食事をとることを勧めます。これであなたがたは助かることになるのです。あなたがたの頭から髪一筋も失われることはありません。」(使徒27:34)

「しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。
それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。
どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。
しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。
あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます
」(ルカ21:12-18)


かつて巨大なエクソダスが起き、筆者が初めてキリストの十字架の死と復活に同形化されることの意味を知った時の出来事を思い返している。というのは、それとほぼよく似た体験をつい最近もしたばかりだからである。

一つ前の記事において、神から信者への御言葉による光の照らしを筆者はレントゲン写真にたとえたが、これは少しばかり不適切なたとえかも知れないと思う。なぜなら、神による照らしは、レントゲンのように有害な放射線によらず、また、我々が自分を吟味していただくお方も、あくまで神であって、目に見える誰か人間に向かって客観的に自分の状態を確認してもらうことが目的ではないからである。

以前、筆者は、獣医の誤診によってさんざん無益な狂奔をさせられた事件について書いたことがあるが、医者という存在は、どこかしら牧師にもよく似ていて、もしも自分の体のことを自分で管理できない不安を抱く患者が安易に助けを求めるならば、医師たちは、そのような患者をあたかも問題から助けてやるかのように見せかけながら、さらにその問題を悪化させ、よりひどい依存状態へとがんじがらめにして行くということが、全くないわけではない。

だから、キリスト者が頼るべきは、人間の医師ではなく、まことの医師たるキリストであって、キリスト者を生かす命は、人間による外科治療や薬による外的影響力ではなく、内側から働くキリストのまことの命なのである。キリスト者が受けるべき検査は、人体に有害な人工的な光の外側からの照射による検査ではなく、神の無害な御言葉の光の内側からの照射による検査である。
 
前回の記事で、筆者は『キリスト者の標準』を引用しながら、ウォッチマン・ニーが憔悴状態にあった時の体験に触れたが、彼には何かしらの持病があったらしく、それが悪化した際に、一度は重篤な状態に陥り、兄弟姉妹からも命を危ぶまれ、診察した医師からも、余命いくばくもないと宣告されたことがあるそうである。その体験を、筆者は別な著書で読んだ。だが、ニーはその時、息も絶え絶えの病の床で、医師から受けた死の宣告を、信仰によって拒否し、そして、実際に彼は奇跡的な回復を遂げるのだが、それからしばらく経って、たまたま読んだ新聞の死亡欄に、自分を診察した医師の名前を見つけ、神は生きておられると痛感した、というくだりがあったと記憶している。

筆者もそれにかなりの部分で同意する。筆者は、信者が医学的な治療や、薬や、検査を一切拒否すべきとまで言うつもりはないが、極力、そのようなものは受けないに越したことはないと考える。そういったものに頼って自分の健康を維持しようとすることは常に失敗に終わる。

たとえば、誰しも分かるように、薬などによって症状が抑えられるのは、ほんの一時的な間でしかない。たとえどんなに小さな傷であっても、患者の体自身に受けたダメージから根本的に治癒する力がなければ、患者が薬を飲み辞めた時点で、また症状が再発するだけなのだ。そのように外側からの影響力に頼って、人間が自分の状態をごまかそうとすることは、回復というよりも、目くらましに近い。薬のせいで、傷があるという事実が忘れられ、さらに、傷が治らないか、あるいは治る見込みが薄ければ、今度は、外科治療によって体の部位ごと切除しましょうという話になる。医師たちから見れば、それこそ「治療」である。だが、もし患者がそれに同意すれば、患者は最初に受けたダメージよりも、はるかに大きなものを永久に失わなければならなくなる。体に必要な部位を切除すれば、体に必要な器官がなくなるわけだから、その悪影響は、何年後かにまた必ず現れて来る。一つの症状は治まっても、今度は体の部位がなくなったことから来る弊害のための「治療」が必要になるのである。

だから、信者は、このような無限ループのようなごまかしに近い療法で満足するのではなく、根本的な原因は何かというところに目を向けて、目くらましの治療ではごまかせないもっと深いレベルまでで、人間ではなく、神によって根本的な治療をしていただかなければならない。人間は常に外からの影響力に頼って問題の本質をごまかし、なおかつ、人間の肉眼で見える証拠しか採用しないので、しばしば判断を間違うが、神はキリストを通して、人間を内側から生かすことのできるまことの命をお与えになっているのであって、その診断は決して間違うことなく、その命は、患者をいかなる外的影響力にも依存させずに自ら立ち直らせる力のあるものである。
 
キリスト者には、地上で様々な圧迫や苦しみが起きて来ること自体は避けられない。どんなにすべての思い煩いを神に委ねているとしても、色々な出来事に対処を求められる過程で、また特にサタンによって引き起こされる様々な問題に立ち向かう上で、極度の憔悴や、疲労困憊に追い込まれることは実際にないとは言えない。だが、信者がそのような圧迫によって起きた状態を、「取り返しのつかない現実」であると考えて、死や、損失を、避けがたいものとして受け入れるか、もしくはそれに信仰に立って徹底的に抵抗して、信仰によってその損失を拒否し、命を選び取るかどうかは、あくまで本人の選択による。

キリスト者はその生だけでなく、死によっても、神を証すべき存在であり、殉教と、サタンの攻撃や不摂生の結果として起きただけの病死や、もしくは老衰などによる死は、決して同列に論じるべき事柄ではない。アブラハムや、モーセがそうであったように、信者は老いてもますます神の命によって支えられ、輝かされるくらいでなければ普通とは言えない。病についても同じことが言える。信者の歩む道は自然の法則によるものではないのである。

だから、もし抵抗できるなら、信者は最後の瞬間まで、病や、圧迫や、死を拒んで、いのちを選び取るべきなのである。それはただ自分が苦しみたくないとか、死にたくないといった自己中心な利益を求めてなされる抵抗ではなく、もしキリストの御名のためならば、いつでも死を辞さない覚悟はあるが、それでも、キリストの死を打ち破った命が、人間をすべての圧迫から救い出すことができ、神は人に死ではなく命を与えるためにこそ人を創造されたのだと、天地の前で生きて証明するために堅く信仰に立って抵抗し続けるのである。

キリストのまことの命が信者を生かすようになると、信者の内側に未だかつてない新たな確信が生まれると共に、信者の滅びゆく肉体の幕屋にも新たなエネルギーが注がれる。

キリストの十字架の死と復活に信者があずかることは、信者の生涯で決して一度では終わらない体験であり、この原則は、信者の人生に極めてダイナミックな出来事の形を通して適用されることもあれば、そうでないもっと些細な出来事によって適用されることもある。

だが、表面的な見え方がどのように違えど、地上におけるごくごく軽い患難を通して、永遠の重い栄光にあずかることは、信者の生涯に渡る絶え間ない体験である。 文字通り、自分が地上で受けるすべての悩み苦しみについて、信者はこの原則を適用することができるのである。

ごくごく最近も似たような体験をしたばかりなので、改めて書いておくと、筆者が、2009年当時に初めてキリストの復活の新しい命が自分を生かしていることを知った時に、真っ先に感じたことは、このまことの命は、たとえ地球が七回核爆弾で滅んでも、それでも滅びないほどまでにとてつもない力を持つ命だ、ということであった。 つまり、この物質世界で起きるどんな脅威をも打ち破るほどの、何かしらのとてつもないエネルギーをもたらす新たな強力な命が、自分自身の力には全くよらずに、自分の内側に存在することを感じたのである。

次に、理解できたのは、こうして信仰によって新しく与えられた御子の復活の命が、筆者自身の脆く弱く朽ちゆくはかない有限な肉体の幕屋にも、絶えずエネルギーを送り込む主電源となっている、ということであった。

当時を思い返すと、十字架の死が霊的に適用されるまでの間に起きた様々な圧迫のせいで、筆者はかなり憔悴していた。その当時はまだ、十字架の死と復活が信者に適用される直前には、多々そのような予期せぬ圧迫が起こることを知らなかったので、多くの出来事が不意打ちのように感じられ、そのために翻弄され、悲しんだり、悩んだりしたせいで、心身が極度に憔悴していたのである。

ところが、主の死に霊的に同形化され、よみがえりにも同形化されると、キリストの復活の命が、はっきりと自分自身の中で働きを始めたのが分かり、そして、その瞬間を境に、それまで死に向かって処刑台を行進させられる囚人のように憔悴の一途を辿っていた心身が解放され、肉体は強められて健康に回復され、疲弊していた魂は新たなエネルギーを得て生き生きとし、生きた人間として自分がまるごと刷新され、活性化されたのが分かるのである。

サタンの圧迫によって苦しめられたり意気消沈していた魂はたちまち健康を取り戻し、体には食欲の増進が起き、あらゆる食べ物が極めて美味に感じられ、体がそれまでの霊的死のために通らねばならなかった疲労状態から回復するために、急速にエネルギーを回復している様子が分かった。だが、それは決して病的な傾向ではなく、真に健康であるがゆえに、食事を楽しむことができるという幸福なのである。そして、採った食べ物が、どんなストレスにも妨げられることなく、体を生かすための栄養源になるという幸福な状態なのである。

幾度も書いている通り、信者の人生には、しばしば、十字架の死と復活の原則が適用されるために、思いもかけない激しい戦いのような出来事が起きることがある。十字架の死を迎える瞬間までは、信者はまさに死のクライマックスに向かって自分が行進をさせられているかのように感じ、まるでこの世全体が自分にスクラムを組んで敵対しているのではないかとさえ感じるであろう。

しかし、それが、何ら予期せぬ出来事でもなく、思いもかけない不審な事柄でもなく、ただキリストと共なる霊的死にあずかるために、信者が避けて通れない軽い患難、小さな杯であることが分かれば、信者は、そういう事柄に心を煩わせる必要が全くないことを理解するであろう。それは、自分の信仰が試されているだけであり、その苦しみの先には、はかり知れない栄光が待ち受けていることを、まだその苦しみが終わらないうちから、大胆に確信でき、天の褒賞にあずかる喜びを楽しみにさえすることができるようになる。そして、実際に信者が御子の復活に同形化されると、かつての苦しみによって受けたすべての損失が嘘のようにそれを補って余りあるほどの回復、祝福にとって代わる幸いを見ることができる。
 
苦しみによってダメージを受けた心や体が回復されるだけでなく、さらに、失われたこの世の富も、回復されるであろう。信者に与えられた新しい神の命は、すべてを統治・支配する命であるから、信者のために必要な全てを(肉体のエネルギー源のみならず、生活の必要の全て、また信者の心の願いを)自然な形で供給することができると分かるはずである。

キリストは地上におられた時、何も財産を所有しておらず、職業を持っておらず、生計を立てるための具体的手段を持っておられなかった。それにも関わらず、神の国の宣教は、信仰によってのみ支えられたのである。こうして、今日、キリストだけでなく、信者自身も、持って生まれた権勢、自己の力で築き上げた権勢によらず、生まれつきの才覚や、後天的に獲得した優れた能力によらず、職業的な専門技術によらず、親族や知人のコネに頼らず、神への信仰を生きて働かせることだけによって、すべての必要を神に供給していただくのである。
 
キリストはご自分も肉体を持っておられ、人としての弱さを知っておられたにも関わらず、決してご自身の必要のためだけに人々に関わられたり、懇願されることはなく、むしろ、常に人々に豊かに与える側に回っておられた。そのキリストが信者の内側に住んで下さることは、キリストが地上におられた時にすべての必要をただ信仰を通して神によって供給していただいたのと同じ法則性が、信者の内に生きて働くことを意味する。

だから、 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じて、バプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:15)という命令を実行する力と条件を信者に与えるのは、神の側の仕事なのである。信者はただ信仰を働かせ、すべての必要をイエスの御名によって父なる神にかなえていただくのであり、それを実際に可能にするのが、信者の内に住んでおられるキリストの支配する命である。

また、その命は霊であり、その中に神と信者との交わりの中心がある。そこで、信者はキリストの復活の命を知ると、それまでのように、神との交わりを求めて自分の外をさまよい、神を知るためにあれやこれやの指導者を訪ね歩く不安に満ちた生活から、ただ自分自身のうちに住んでおられるキリストへと平安のうちに関心を転換することができる。
 
どんな時にも、信者は自分は心の内側で、聖なる御座へ進み出て、誰をも介さず、神に直接、全てを願い求め、祈り、交わることができる。自分の霊の内側に祭壇があって、そこで、いつでもキリストを通して、どんな問題についても、父なる神に直接、祈り、相談し、求めることが可能になるのである。神はもはやどことも知れない遠くにおられて、自分をいつでも見捨るかも知れないような不確かなお方ではなく、たとえ目で見られず、耳で聞こえず、肌で感知できずとも、生涯の終わりまで、共にいて下さり、信じる者を力強く守って下さり、すべての必要を満たして下さる方であり、信者は、祈る時にはいつでも天に直結してその願いが聞き届けられていることを知る。

だが、このような命が信者に与えられているのは、ただ信者一人だけの満足のためではない。信者は自分自身がキリストの復活の証人として世に出て行く使命を負っているのであり、そのためにこそ、主と共に死からよみがえらされて証人として立たされているのである。

キリスト者が伝道するのは、多くの信者たちが誤解しているように、教会組織の人数や権勢を拡大するために、神を求めていない人の関心をあの手この手で引こうとすることとは断じて関係がない。キリスト者が人々に奉仕する意味も、自己変革によって神に到達するための精進などでは決してない。すでに、全ての全てであられる方を内に得ているのに、何のために自己変革などするのか。信者がもし自己変革などを目指すとすれば、それはただ地上において、軽い患難を耐え忍ぶことを通して、重い天の栄光があることをより深く知り、より深くキリストの十字架の死と復活に同形化されて、内に住んでおられるキリストと深く交わり、この方への愛を深め、御子に似せられて行くことのためだけである。だが、それは信者が何かしら偉大な人格者へと変えられることにより、世から賞賛を受けることとは何の関係もない事柄である。
 
キリスト者が世に出て行くのは、世に自分の欠乏をかなえてもらうためではなく、世の欠乏をかなえるためでもなく、むしろ、惜しみなく与えることを願うキリストの命を注ぎだすことにより、神の召しに応え、神の愛を全うするためなのである。

こうして、信者が自分自身を注ぎだすのは、まず第一に神のためであり、信者がまだ反抗的な罪人であった時に、信者のためにすべてを捨てて下さった方の愛に応えるために、自分自身も彼にならって、この方にすべてを捧げるのである。だが、それが成就した時に、実に不思議な形で、信者自身の地上的な必要も満たされ、また、多くの場合、信者をとりまく人々の必要も満たされるのを信者は知るであろう。その順序は決して逆にはならない。

もし信者が神のために一切のものを留保せずに惜しみなく捧げ切ることができれば、この地上で信者が神を証して生きるために必要なその他の一切は、すべて自然に与えられる。まるでそうしたものは、全く取るに足りない付属物に過ぎないもののように、軽やかに、ごく自然に、悩みなく与えられ、成就するのである。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)


<追記>

今日、この記事を急いで書き上げて、用事を果たすために出かけたのだが、実はその用事には乗り気ではなかった。果たさなくても良いものなら、果たしたくないと考えており、もし神が十全にすべてに備えを下さっていることを信じるならば、奔走しなくて良いという感じがしていた。

それにも関わらず、出かけると、案の定、その用事は空振りに終わり、ついでに帰り道でさんざん道に迷わされた。そこで、改めて、神の御前に、決して「ながら」ではなく、きっちりと姿勢を正し、時間に制限をつけずに、自分のすべてを「注ぎだす」決意と態度の重要性を思い知らされ、不信仰を補うために、今、もう一度、この記事に追記している次第である。

これは、筆者の泣き言と思われるかも知れないが、一つの記事を真面目に書くには、ゆうに5時間以上はかかる。どんなに短く、すいすい書けるときにも、何度も見直すので、3時間以上はかかる。時には2日、3日寝かせてから、もう一度推敲する。一つのテーマが心に生まれてから、それが記事の形になるまでには、数週間以上が経過することもあり、書きたくて仕方がないのに記事にならないテーマもある。

あまりにも記事が長く、書くのが手間なので、「ひとこと欄」をもうけた時もあったが、そこに書いた文章の半分以上は、記事の水準に達していないということで、ボツになった。やはり記事を書くためには、どうしても一定の水準が必要なのである。しかも、それは論理構成力や文章力ではなく、霊的な意味における「高度」であり、つまり、信仰の水準が必要なのである。

だから、このブログの記事に何の意味があるのかと問う人があるかも知れないが、それでも一定のふるいわけは存在するのである。全力を出そうと思えば、更新頻度はそれだけ遅くなる。その上、当然のことであるが、報酬などない。この記事の対価として筆者が地上で受けとれるのは、長文ゆえの悪評や、望ましくない誤解や偏見だけである。むろん、好評の意見やコメントをもあったのだが、今はそういうものも受けつけていないせいで、もはや読者からの励ましを糧に記事を書いてもいない。

一体、なぜそこまでして書き続けているのかと言えば、天に備えられた栄光があると確信しているからであり、また、つまらない誤解や偏見に圧迫されて、信仰告白を放棄しているような曖昧な生き方はしたくないと思うためであり、また、何よりも、筆者自身が記事に向かうことで、自らの信仰の姿勢を正されるからである。

他のどんなことよりも、自分自身の霊的姿勢を正すこと、神ご自身から教わることを益として書いていると言っても良いかも知れない。つまり、ぼんやりした意識のままでは決して分からなかったであろうことを整理させられ、自分が第一に求めているのは何なのかを常に思い起こさせられ、ここで意見表明したことを、机上の空論に終わらせず、実人生で実際にしなければいけないという責任が生じ、なおかつ、筆者自身が神の光に照らされ、教えられることが無数にあるためである。

しかしながら、仮に筆者がどんな学びや教訓を得たとしても、人間が栄光を受けることなく、神が栄光を受けられることこそ、本ブログの最終目的である。だから、神への愛や信頼を表明すること、神がどれほど信じる者にとって憐れみに満ちた確かな助け手であるかを表明し続けることは、信者が生きている限りの義務であると考えている。

だから、記事のために費やした時間を浪費であるとは、筆者は考えたことがない。さらに、本日、空振りに終わった用事と道に迷ってロスした時間が合計3時間くらいであったことを思うと、その時間を最初から真剣勝負で記事に当てていれば、もっと有意義な時間が送れただろうと思う次第である。

全くもって、人間は目に見えるパンだけで生きているわけではない。神から受ける御言葉のパンこそ、信じる者を生かす本当の命である。神から受ける照らしを重んじ、主の山に備えがあることを信じ、地上の事柄のために奔走しなければ、すべての必要性は天によって備えられる。書いているだけで、行わない人になってはいけない。そうすれば、何事も「空振りに終わる」ことなどない。だが、もちろん、時折、それでも起きてしまう空振りの中にも、神の愛や憐れみは存分に見いだせるのだが…。

ところで、実は、この記事を書いた当初は、記載するかどうかを決めていなかったため、あえて本文に含めなかったのだが、筆者が先の記事でレントゲン撮影について触れたのは、筆者自身が、最近、レントゲン写真の撮影を求められるという出来事が起きたせいでもある。実際に筆者が撮ったのは二枚のレントゲン写真のみなのだが、ここしばらく色々な出来事に奔走させられ、消耗していたので、その間に起きていたごくごく些細な症状が、思いがけず別の症状を引き起こし、そのせいで町医者から大病院を紹介され、あわやもっと大がかりな検査が必要かという直前まで及んだのである。

その検査は快適な大病院に予約済みで、町医者は親切に患者を送り出してくれたが、ちょうどその検査の一、二週間ほど前に、筆者は自分自身に改めて、「十字架の死と復活の原則」が適用されたのが分かった。そうすると、それを機に、体調がみるみる回復して行くのである。それまでには、医者に任せるしかないように思われていた症状が、検査直前までに急速に劇的に緩和し、症状も痛みもほぼ消え、自分の体があまりにも急速に回復しているのが分かったため、筆者は検査を見合わせたのであった。

大病院の医者は「治療もしていないのに治るはずがない」と肩をすくめ、相変わらず混雑している町医者は「せっかく素晴らしい病院を紹介してやったのに、まさかそこでの治療も終えていないのに、こんなところへ戻って来るとは」と迷惑そうな様子であった。だから、残る最後のほんの簡単な医学的処置は、おそらく他所で完了することになると思うが、いずれにしても、問題の症状は98%消え去り、あとの2%も、2週間も過ぎないうちに完全におさまるであろうと予測できるのである。

医者は互いの紹介や面子を重んじ、自分たちの診断を誇り、患者の言い分など聞いても信じないかも知れないが、まるで二週間前の状態が嘘のように、ほぼすべての問題が消え去り、筆者は至って健康に戻ったのである。

ちなみに、筆者が受けようとしていた検査は、放射線をかなりの程度、浴びねばならないという、人体にとって相当に有害なものであった。その直前まで、筆者はそれも仕方がないと思っていたのだが、折しも、筆者が検査時刻を待って、椅子に座っている時に、筆者の目の前に、二人の老人の寝たきり患者がベッドごと連れられて来ていた。そのうち一人は、おそらく意識もなかったと見え、完全な無言状態で、もう一人は、付き添いの看護婦らと雑談を交わす中で、自分は東海村の原発で働いていたのだと語った。その話を耳に挟んだとき、筆者は何とも言えない居たたまれない気分になって、こんなところで悠長に検査を待っている場合ではない、自分はここにいるべき人間ではないから、一刻も早く立ち去らねばならないと感じた。

医者はこういうことは患者たちの神経過敏だと考え、自分の診断や助言に従わない患者は、自己過信しているだけであって、今後どうなっても知らないと宣言するかも知れないが、筆者は、まことの医者を知っているので、最後の最後の判断は常に自分自身で下さねばならないこと、時にはどんな専門家を名乗っていようとも、人間に過ぎない者たちの忠告を思い切って退けねばならない場合があることが分かっている。筆者の述べていることが、単なる神経過敏や自己過信なのかどうかも、わずか数ヶ月のうちに明らかになるであろう。

筆者がここで語っているのは、およそ証明不可能な事柄ばかりであり、それを誇張された文学表現だと思う人もあるかも知れない。だが、筆者はこれまでの人生の過程で、人の病や、被害者意識や、その他もろもろの受けた霊的な傷というものが、まるで感染症のように、他者に簡単に憑依しうるものであること、人の運命が取り代わるうるものであることを理解している。

聖書には、多くの病が悪霊に由来するものであることが書かれているが、筆者の見解では、病に限らず、そのきっかけとなる傷というものも、そのほとんどが悪霊の影響力によるものであり、そのようにして悪霊が人間に病をもたらしている場合には、病が完治した人から悪霊が出て行った場合には、また別の人間にとりつき、餌食にするのである。目に見える客観的な症状しか診ることのできない医者には、病の本当の原因が決して分からない。多くの病は、人の魂の傷口から侵入するのであり、それをもたらしているものは多くの場合、悪霊である。

さらに、聖書によると、エサウが不信仰ゆえにヤコブに長子の権を奪われたように、神から恵みや祝福をいただいていたはずの信者が、不信仰ゆえに、それを他人に奪い取られ、かえって他者の運命を身代わりに負わされることも、あり得ないことではない。犠牲者の運命が別な人間に憑依するといったことは、不信者同士の間では多々起きている。堅く信仰に立って揺るがされないようにしていなければ、人が信仰によって達した恵みが、掠め取られたり、失われるということも起きうるのである。
 
だからこそ、被害者意識を持たないことが、人の心身にとって極めて重要であると筆者は何度も述べて来たのである。なぜなら、そういうもろもろの悪しき影響力に扉を開いてしまう最大の侵入口となりうるのが、人の心に生じた被害者意識だからである。さらに、恐怖心や、不信仰や、キリストの救いの完全性を信じない心、神の御言葉に聞いても従わないことなどが、そういった悪影響の侵入する足がかりになり得る。
 
信者が主と共に十字架の死を経ると、そういうものは取り去られる。おそらく信者が自覚している以上に、心の大掃除がなされ、神にとって望ましくない信者の心の傾向が除去される。神の光の照らしにより、不要なものは殺され、仮にもし何か信者の中にサタンの圧迫を受ける足場となりうるものがあったとしても、それも取り払われるのである。

そこで、信者が病や、傷といったもろもろのむなしい悪影響や、悪霊に寄りつかれたくなければ、そういう悪しき影響力には徹底的に信仰によって抵抗した上で、とにかく神に賛美と感謝を捧げ続けることである。そして、神の勝利と救いの完全性を宣言し続け、これを手放さないことである。これまでの人生に、どのような損失と見える出来事が起きていたとしても、不信仰や自己憐憫や被害者意識などは一切かなぐり捨てて、神こそ、人の受けたすべての損失を補って余りある方であることを信じ、キリストにこそ、完全な人間性が備えられていることを信じ、そのキリストが、信仰によってすでに信者に与えられ、信者自身の内に住んで下さり、信者の諸々の問題について天の神にとりなしていて下さることを信じ、この方にすべてを委ね、それゆえすべての出来事について、喜びに満ちて主を賛美することである。

信者がどれほどの苦境の中にあっても、絶えざる損失を受けているように見えても、大胆に神を崇め、喜びのうちに自分のすべてを神に委ね切って、神から実際にすべての問題の解決を引き出している様子を見ると、地獄の軍勢もそれに対してはどう反論・反証することもできない。
 
この他にも、記さなければならない事件は色々あるのだが、それはもう少し時間が経ってからにしたい。いずれにしても、神の憐れみの深さ、愛の深さ、神の救いの完全性が、信じる者の人生にどれほど豊かに実現するかという話ばかりであるが、同時に、それは決して信者が自分の救いを確固として手放してはならず、不信仰な他人の負うべき報いを身代わりに負わされてはいけないという教訓でもある。信者の信仰は一足飛びに強くなるというわけにはいかないが、神は信者が心から望むなら、一歩一歩、確実に教えて下さる。

十字架の死と復活の原則――自分を低くする者が高くされる――ただ神のために自分を注ぎ出すことによってのみ結ばれる永遠に朽ちない実

「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

すなわち非常な忍耐と、悩みと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも
また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」(
コリント6:2-10)

ここ最近、キリスト者が苦難を通して得られる天の栄光があることについて、連続して記事を書いているが、上記の御言葉もそれにぴったり重なる。
 
パウロが耐え忍んだ「非常な忍耐、悩み、嘆き、鞭打ち、投獄、暴動、労役、徹夜、断食」の話を聞くと、不信者は、そんな信仰の試練は御免こうむるとばかりに一目散に逃げて行くかも知れない。

だが、信者にとって、キリストの御名のゆえに受ける苦難は、恥でもなければ、災いでもない。パウロはこうした苦難をものともせず、別な箇所では次のようにも述べている。

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
あなたのために、私たちは一日中、
死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。」(ローマ8:35-36)

人類の罪のために永遠にほふられた小羊なるお方は、もちろん、キリストただお一人である。しかしながら、キリストの十字架の死と復活に信仰を通してあずかる主の弟子たちもまた、イエスと同じように「一日中、死に定められている」のである。

不信者はこういう話を聞いて、ますます疑念を深めて言うだろう、「私にはそんな信仰は理解しかねます。あなたの信仰はあまりにも偏っています。あなたの話すことを聞いていると、クリスチャンがどんなに神のために苦しまなければならないか、そんな話題ばかりではありませんか。私はそんな信仰は嫌です。御免こうむります。」

このような考えの人をあえて説得しようとは思わないが、何度も述べて来たように、キリスト者の人生にはただ苦しみしかなく、幸福は伴わないなどと勝手に誤解されては困る。

さらに、言っておかなくてはならないのは、クリスチャンが主の御名のゆえに地上で受ける苦しみは、ただ贖われた信者から成る教会のためであるばかりか、まさに以上のような不信者たちのためでもあるということだ。

なぜなら、自分が損なわれることにより、地に落ちて実を結ぶことが、初穂として贖われた者たちの役目だからである。

むろん、世は信者たちの受ける苦難が自分たちのためだとは少しも思っていない。そこで、キリスト者が受ける試練のことで、世が感謝したり理解を示すことは決してないと言えよう。

そのようなことは世に告げ知らせる必要もないことであり、世は、預言者たちを迫害して殺し、主イエスを十字架につけて殺し、主イエスの弟子たちをも迫害して命を奪った時から今に至るまで、その悪しき性質は寸分たりとも変わっていない。

だが、それにも関わらず、主イエスご自身がそうされたように、主イエスの弟子たちもまた、教会のため、自分自身のためだけではなく、神の愛のゆえに、福音に敵対し、神に反抗し続ける世人のためにも、自分自身を注ぎだし、それによって神の僕としての道を全うするのである。キリスト者が世から拒絶され、憎まれ、嘲られ、低められることによって受ける苦難を通してしか結ばれることのない実が存在し、このようにして神の国が拡大する法則は今も変わらない。

こうしてキリストの僕たちが、自分を拒絶する世の罪人らの反抗をものともせず、彼らをも救いへの道に招き入れるために福音を語り続けることができたのは、そこに人間の思惑によらない、神の無条件の愛があったためであり、彼らは自分自身の利益をはるかに超えるもっと大きなものにとらえられていたからこそ、自分たちを拒絶し、あるいは殺そうとまでする人々のために苦しみを受けることを辞さずに、神の国の権益拡大に向かって進んだのである。

だから、キリストの僕たちが地上で受ける苦しみは、ただ単に彼ら自身の信仰の成長のため、彼らが受ける天での栄光のため、あるいはすでに贖われた者たちの栄光のためだけではないのである。たとえ世が理解せずとも、彼らがそのように自分自身を注ぎだすことができたのは、神のためであると同時に、人々のためでもあり、世人のためでもあった、と言える。そして彼らの苦しみを通して教会が大きな前進を遂げて行ったのである。

さて、今回の記事では、殉教というスケールの大きな試練は脇に置いて、むしろ、それに至るまでの、もう少し小さな日常生活のスケールにおいて、信者が信仰ゆえに受ける「苦しみ」に必ず「栄光」が伴うこと、また、そのようにして、キリストの十字架の死と復活に同形化されることによってのみ、信者は多くの実を結び、「栄光から栄光へ」主の似姿に変えられて行くことができるということについて、引き続き書いていきたい。

すでに述べた通り、信者がもしも主の御名のゆえにいかなる苦しみをも試練をも受けないならば、その人の信仰は何かがおかしいと言える。だが、同時に、信者の地上生活が絶えず苦しみだけに満たされ、試練を勇気を持って耐え忍んだことへの報いとしての、天の喜びに満ちた栄光を何一つ経験しないならば、そのような信仰生活も、やはり何かがおかしいのである。

信者の正常な信仰生活においては、信者が地上で主のために受ける苦しみには、必ず報いが伴う。それは天の重い栄光の前触れとしてもたらされていることが、多くの場合、信者自身にも分かる。そして、多くの場合、実際に、試練を耐え忍んだことへの報いとして、天の父なる神から与えられる栄光を、信者は自分自身でも確認できるのである。

もちろん、信者が耐え忍んだ苦しみのゆえに、地上でどんな実が結ばれたのかは、最後まで分からないこともある。そして、「主の御名のゆえの苦しみ」と言っても、それは必ずしも、信仰に対する迫害だけでなく、信者が地上で耐え忍ぶあらゆる圧迫を含んでいる。信者は地上で受ける全ての苦しみを「御名のゆえに」甘んじて受けるのである。そして、多くの場合、信者はそのような出来事を通して働く十字架の死と復活の原則を、自分の人生で生きて実際に知ることができる。

だから、クリスチャンの生活が絶え間なく苦しみに満たされているだけで、喜びも勝利も栄光もないのだと考えることは大きな間違いである。信者は、地上で受けるあらゆる圧迫や制限、人として生まれ持った愚かさや限界にも関わらず、そこに神の偉大な力が働いて、巨大な勝利がもたらされるというパラドックスを味わうことができる。

だから、もしクリスチャンの中に、十字架の死と復活の原則が人生でどのように働くのか知らないという人ガあるなら、実際に自分の生活を使ってこの法則を試してみることをお勧めする。つまり、主の御名によって、信者が己を低くして、小さな苦難を信仰によって耐え忍ぶことにより、どんなに大きな栄光がもたされるのか、日々の生活のごく些細な事柄を通して、誰しも十分すぎるほどに確かめられる。

だが、これは先に述べた通り、信者がただ悪魔の虜となって苦難にいたずらに翻弄される消極的で受け身の生き方や、信者が無用な苦しみを自分から好んで招くような自虐的な生き方を意味しない。信者は現在、自分が望まずして、自分の生活に働くあらゆる制限、圧迫、束縛、予期せずして起きて来る迫害や苦難を、主のために耐え忍ぶのであり、そうした弱さが弱さで終わらず、時が来れば必ず、神がその出来事の解決となって、ご自分の栄光をそこに現して下さり、信者をも共に高く引き上げて下さることを確信して、その時を勇気と確信を持って大胆に待ち望むのである。

信者は、ただ自分が一刻も早く楽になり、不快な思いをしたくないから、また、自分の名誉が傷つけられたくないから、といった利己的な動機で、苦難が長引かないように神に願うのではない。その苦しみを通して、神に栄光が帰されることだけを願って、自分のためでなく、神の栄光のために、神の御心が地上に成るようよう願い求め、神を信じて待ち望む者が、地上で忍耐することによって、ふさわさしい時に助けを得て、神自らが信者の弁護者になって下さり、信者をあらゆる苦難から確かに力強く救い出して下さる助け主であることを天地の前で証明し、それによって、主の御名がほめたたえられることを願うのである。つまり、神が栄光を受けられる機会として、自分の苦難があることを信じるのである。ダビデが次のように詠った通りである。

私たちにではなく、主よ、私たちにではなく
あなたの恵みとまことのために
栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」(詩編115:1)

信者は「御名のために」地上におけるすべての苦しみを耐え、「御名のゆえに」神がその苦しみを栄光に変えて下さることを信じるのである。信者が、あらゆる苦難を信仰によって堅く勝利の確信のうちに耐え忍ぶ秘訣を学びさえすれば、苦しみは多くの場合、急速に取り去られる。たとえそうでなくとも、信者の内なる人が強められることにより、信者は地上で経験する苦しみによって圧迫されたり、心悩まされ、悲しみに打ちひしがれたりすることがなくなり、むしろ、そこに復活の命が働くことを信じて期待できるようになる。

だが、苦難を通して受ける天の栄光を逃さないためには、信者は自分が何を主の御名のゆえに耐え忍んでいるのか、人にはあまり触れ回らない方が良いであろう。「私は神のためにかれこれの巨大な苦しみを耐え忍びました。すでに殉教をも辞さない覚悟です」などと人前で言うのは、やめておいた方が良い。そのような決意表明は失敗に終わる可能性が高い。

もしどうしても信者が受けた苦難について語りたいならば、苦難をいわゆるお涙頂戴の物語に変えて多くの人々の関心を引きつける材料としたり、自己宣伝の材料として用いたりするのでなく神だけが栄光を受けられるように、聖書の神が信じる者をどんな状況においても見捨てられることのない確かなお方であることを世が知ることができるように語るべきである。
 
とはいえ、主が本当に信者の苦しみを喜びに変え、御業を成して下さる時には、人はどんなに黙っていようと思っても、黙っていられないほどの喜びに突き動かされることは確かなのだが。
 
このように、信者は大きなことから小さなことまで、神と信者とだけが知っている日常のごく隠れた様々な出来事を通して、信仰による訓練を絶え間なく重ねて行くことにより、その先に初めて殉教などの極めて大きなスケールの試練にも十分に耐えうるだけの力が養われる。つまり、信者に地上で与えられる試練は、各人の信仰の成長段階に応じて与えられるのであって、決して一足飛びのものではなく、戦いの初心者がいきなり熟練者しか勝利できないような困難な戦いに直面することは絶対にないと言える。

そして、何度も書いているように、キリスト者が地上で受けるあらゆる試練は、どんなに些細なものであっても、神の御前に覚えられており、予想だにしない大きな栄光が伴うのであり、その栄光は、信者がこの地上に実際に生きている間に、あらゆる生活場面で確認することができる。

聖書の神は、信者に与える恵みを出し惜しみされるような方ではなく、また、信者を無駄に追い詰めたり、苦しめる残酷な主人でもない。信者がこの地上に生きる間、良きものを惜しみなく与えて下さり、あらゆる祝福で満たして下さる方である。だから、信者が地上で人としての生活を送るために必要なすべてを十分に備えて下さらないことはない。

だが、だからと言って、信者は恵みが与えられるがゆえに神に従うのではなく、地上の一切の利益にも増して、神ご自身を愛するがゆえに従うことを、絶えず告白し続けるのである。そして、信者は地上で必要な一切のものを、この世の手練手管によらず、ただ信仰によって地上に引き下ろす。それによって、神こそすべてのものの造り主であり、すべての供給者であり、キリストの命の中にこそ、あらゆるものを支配し、供給する力があることを知るのである。

キリストの復活の命は、支配する命である。この命が信者の内にあることによって、信者は外見的にはこの世の有限な滅びゆく弱い存在に過ぎないが、その内側に、この世を打ち破る圧倒的な勝利の法則性を確かに有していることが分かるのである。そこで、信者自身が地上で抱える生まれ持った人間としての様々な弱さとは対極的に、彼の内にある死を打ち破った支配する命によって、外からやって来るすべての圧迫に翻弄されることなく勝利する秘訣を学ぶのである。

***

さて、次に、信者に対する神からの吟味、光による照らし、検査というテーマについても少し書いておきたい。
 
神のさばき、神の吟味というものは、レントゲン写真の撮影にもどこかしら似た、神から人間への吟味である。そして、しばしば、神は試練を通して、信じる者の心の内を吟味される。

人間は生まれつき自分を試されることや、自分自身を吟味され、検査されることを望まない。人間には光の照射によって自分の本質が明らかにされることを拒む本能があり、それはレントゲン写真を撮られるような時でさえそうだ。

たとえば、私たちは、肺や手足のレントゲン写真といった、首から下の写真ならば、健康診断でよく見慣れているであろうが、首から上のレントゲン写真を見慣れている人はどれくらいいるであろうか?

特に、頭がい骨の写真を、真正面でも横からでない別な角度から撮られたりすると、死人のように目も鼻も空洞化した自分の顔の写真を見て、一体、これが生きた自分自身を少しでも反映した写真なのだろうかと改めて驚かされる。
 
レントゲン写真はすべてグロテスクなものであるが、それは病気や歪みを早期に発見するために撮られたものだから、撮影される人間が、カメラの前でポーズを取るようにして、必死に自分のグロテスクさを取り繕ろうとするのは無駄なことである。
  
余計な肉が排除され、取り繕いが通用しないからこそ、正確な写真が撮れるのであり、仮に異常が発見されても、落胆するどころか、むしろ、不調の原因はこれだったのか、早期発見できてよかったと安堵するのである。

ところが、今日、多くの信者たちは、全くこれとは逆の道を歩んでいる。彼らは神に認められるためには、まず、神の御前に正直に取り繕わない自分自身の姿を見せなければならないのだということが、どうしても認められないのである。

彼らは、神に受け入れられるためには、相当に立派な行いが信者の側になければならないという巨大な錯誤の中にあって、いわゆる教会生活を通して、神の目に認められるための善行を必死になって積み上げている。

彼らは、いわば、神のさばきに耐えるためには、人間の側で満たさなければならない高度な要件があって、信仰の「優等生」になるための努力を毎日続けねばならないと思い込んでいるのである。

だが、このような考え方は極めて深刻な自己欺瞞の罠である。そんな彼らの努力は、まるでレントゲン写真を撮るに当たって、少しでも美しい「自分の骨の写真」を取ってもらおうと、医者に向かって懸命にせがみ、撮影された自分の写真が気に入らないと注文を付けては、あれこれとポーズを取って撮り直しを要求し、取り繕いを重ねる患者の姿にも似ている。

この種類の「患者たち」は、自分の病気や弱いところが何であるかを知るために、少しでも正確な写真を撮ってもらうことにはいささかも関心がなく、むしろ、少しでも自分の恥や弱さが暴かれないで済むように、自分を可能な限り飾り、健康に見せかけるために、どれだけ本当の自分を偽って、外面を取り繕い、裸の恥を撮影されることを免れられるかに腐心しているのである。
 
だが、神にはそういう人間の取り繕いは一切通用しない。神が人間をご覧になるまなざしは、レントゲン写真よりももっとはるかに正確で、人間の側では、小骨一本のごくごくわずかな歪みまで、どんな小さな病巣まで、隠しおおせるものはなく、どんな心の弱さであろうと、信者の過去であろうと、現在であろうと、未来であろうと、隠蔽できるものは何もない。神の目にすべては明らかで、裸であり、人間の取り繕いが全く功を奏さないのである。

だから、来るべき日に神のさばきの御座の前に立たされる時に向けて、信者が、常日頃から、この地上生活においても、神の御前で自分自身を探られ、申し開きを求められる場面でも、信者が神に対して自分を取り繕ったり、ごまかすことは一切通用しないし、それは有害である。

むしろ、信者がそこで果たすべき義務があるとすれば、ただ正直であることだけである。現在の自分の状態がどうあろうとも、どれほど合格基準に満たない、惨めなものに思われても、信者は神の側から行われるすべての吟味に対して、ただ自分を隠し立てなく明らかにして、正直に差し出すのである。
 
つまり、信者はレントゲン写真を撮る時に、自分を取り繕わずにあるがままの自分を撮ってもらうのを目的とするのと同じように、あるいは、ナビを設定する際に自分の現在地を偽って目的地を設定したりしないのと同じように、現在の自分にどんな弱さがあって、どんな欠点があり、どれほど過去に取り返しのつかない失敗を犯し、人生がいかなる損傷を受けているように思えようとも、自分の歩んで来た過去、現在のすべてを恥じることなく、隠し立てなく、神の光の照射に委ね、こうして自分が一切を神の御手に委ねていること、また、信者が受けた損失が何のせいであるにせよ、神がそれらの損失を豊かに補って余りある方であると信じていることを態度で表明するのである。
 
だから、信者は、人の目から見て、恥や、不完全さ、弱さ、欠陥、失敗と映る事柄についても、決して自己を飾るために、自分の過去を自力で修正しようとせず、自分自身の存在がまるごと神に委ねられており、神がすべての問題に正しい処置を施し、信者をあるべき状態へと導くことのできる唯一の方であると信頼して、この神に自分を委ねるのである。

このようにして、信者が神に明け渡すことにより、神の光によって照らされた信者の心の領域だけが、漂白された布のように罪から清められ、神の力に覆われて、新たにされて行く。信者が神に明け渡そうとしさない領域には、神の力は働かず、それどころか、それは長い間、施錠されたままの暗い地下室の倉庫のようなもので、そこにどれほど蜘蛛の巣が張り、埃が分厚い層のようにたまり、そこに蓄えられていたはずの宝がすでに錆び、朽ちていたとしても、信者がこの部屋を自分で開錠して大掃除に了承しない限り、誰もどうすることもできないのだ。

多くの信者たちは、神と人の前に自分を取り繕うために、自分の心に開かずの間を作り、そこに自分の見たくないあらゆるものを押し込んでいる。そして、そこに自分の弱さが集中して隠されていることを無意識に知っているので、それを恥じて、そのような開かずの間が自分の心の中にあること自体を自分にも隠し、外にも隠し、神にも隠しながら、自己を対外的に粉飾し、虚勢を張り続けるのである。だが、このように、信者が神の吟味に明け渡そうとしない心の暗い領域が罪の温床となって行くのである。
 
従って、信者の神への明け渡し、清め、従順は、信者が自分の行動をどれだけ律して「神の合格基準」に達するように外面的に整えたかによるのではなく、むしろ、信者が現状の自分をどれほど不完全で未熟に感じていたとしても、信者がその自分をありのままを神に探られることに同意し、自己の見たくないすべての欠点を隠そうとしたりせず、自分の全てを神によって吟味され、照らされ、明らかにされることに了承し、その痛みに耐えつつ、自らの弱さに対して神がもたらされる力強い解決に信頼して自分を委ねることができたか、その程度によると言っても良い。
  
信者がそのようにして神に自分を照らされる時に感じるごくごくわずかな痛み、ごくごくわずかな恥を耐え忍んで、自分の限界を正直に、あるがまま、恥じることも、隠すことも、取り繕うこともなく、従順に神の御手に委ね、自分の弱さの中に、神が力強く働いて下さることを信じさえするならば、信者の弱さは、たちまち神の憐れみに満ちた強さによって覆われ、信者は自分の無力や限界の中に、キリストが生き生きと働いて下さるのを知り、「もはや私ではなく、キリスト」が生きておられることを知るのである。
 
開かずの間は大掃除されて明るく清潔な小部屋になり、骨しか見えない白黒のレントゲン写真には肉や目鼻がついて生き生きとした色彩と表情が生まれ、死人がよみがえって、生きた者とされるのを見ることができるのである。

信者の生活は、片方では、地上の滅びゆく人間に過ぎない自分自身が、もう片方では、まことの生きた人であるキリストにしっかりと結ばれることにより、共に生かされているようなものである。片方は滅びゆく人間というよりも、すでに死人である。自分では何もすることはできず、まして実を結ぶ善行を行う力などない。だが、その人間の死が、信仰によって、キリストの死に結ばれているがゆえに、死んだはずの腐敗した人間が、キリストの復活にあずかって、清められ、彼の豊かな命によって生かされ、生き生きと輝いて、この両者が一人の新しい人の中で平和裏に結合・共存しているのである。

だから、信者は、自分の抱えるあらゆる弱さや限界に限らず、自分の存在そのものが、まるごとキリストと共に十字架で「すでに死んでいる」こと、それと同時に、十字架で共によみがえらされ、「神の中に隠されて生きている」ことを確信し、それゆえに、自らの死を帯びた圧倒的な弱さの中でも、大胆に神の命の強さを信じて前進して行くことができるのである。

このようにして、信者は地上で受けるあらゆる苦難を通して、絶えず神に自分を探られることに同意しつつ、より深く、より一層、自分の弱さを含めて、自分自身の全てを神に明け渡し、自分の処遇の一切を神に委ねることにより、死の中に生きて働く神の復活の力を知り、天の恵みを地上に引き下ろし、天の父なる神から栄光を受けることができるのである。

こうした法則があることを知っていたからこそ、預言者たちも、使徒たちも、みなキリストのゆえに受ける苦しみをものともせずに、喜んで苦難に甘んじることができたのである。

だから、信者の歩むべき道は、自分の力で必死に自分の外面を取り繕い、あらゆる努力を払って、信仰の「優等生」であろうとして、人目にそのように認められようと努力することとは真逆なのである。

むしろ、すべての真に「優秀な」イエスの弟子たちは、そうした自己宣伝とは無縁であり、むしろ、地上生活において、辱めや、苦難や、恥や、悪評や、そしりに耐えたのであり、決して地上の生涯において、偉大な宗教的権威者のように高められ、誉めたたえられることを目指したりはしなかった。

キリスト者の信仰の前進は、自分で自分を優秀な人間として人前に推薦したり、自分で自分を飾り、偉大にみせかけることによって、自分で自分を救おうとする努力とどこまで手を切って、自分の価値ではなく、キリストの価値だけにすべての信頼を置いて、ただキリストのみを頼りとして生きるのか、それによって決まるのである。
 
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(マタイ6:1)

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10-12)
 
「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に表れるからである。」と言われたのです。

ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さ誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじていますなぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(Ⅱコリント12:9-10)
 
 
 * * *
  
さて今、思い起こされるのは、ウォッチマン•ニーの『キリスト者の標準』の次の一節である。

「一九ニ九年に、私は上海から故郷の福州に帰りました。ある日私は、健康を害したため、非常に衰弱したからだを杖で支えつつ道を歩いていましたが、途中大学時代の教授に会いました。

教授は私を喫茶店につれて行き、私たちは席につきました。彼は私を頭のてっぺんからつま先まで眺め、次につま先から頭のてっぺんまでを眺めてこう言いました。

「ねえ、きみ、きみの学生時代には、われわれはきみにずい分期待をかけていたし、きみが何か偉大なことを成し遂げるだろうと望みをかけていた。きみは 今この有様が、きみのあるべき姿であるとでも言うのかね。」

彼は私を射抜くようなまなざしで、この質問を発したのです。正直なところ、私はそれを耳にした時、くずおれて泣き出したい衝動にかられました。私の生涯、健康、すべてのすべてが消え去ってしまったのです。しかも大学で法律を教えた教授が今ここにいて、「きみは成功もせず、進歩もなく、なんら取り立てて示すものも持たずに、いぜんとしてこんな状態でいるのか」と尋ねているのです。

しかし、次の瞬間ーーそれは私にとって、始めての経験でしたがーー私は自分の上に臨む「栄光の御霊」とはどのようなものであるかを、真に知ったのです。自分のいのちを主のために注ぎ尽くすことができるという思いが、栄光をもって私の魂に溢れました。そのとき、栄光の御霊そのものが私に臨んだのです。

私は目を上げ、ためらうことなく言うことができました。「主よ、あなたを讃えます。これこそ望み得る最善のことです。私の選んだ道は正しい道でした。」私の旧師にとっては、主に仕えることが全くのむだであると思えたのです。しかし、福音の目的は、私たちをして主の価値を真に自覚させるためにあるのです。」『キリスト者の標準』、ウォッチマン・ニー著、斎藤一訳、いのちのことば社、pp.306-307 、下線は筆者による、本文では点による強調。)

ウォッチマン•ニーは今日、彼の名がつけられて残されている著書の文章を通しても理解できるように、かなり研究者肌の知性の持ち主だったようで、霊的な事柄についてこれほどまでに知的・論理的に分析を試みた信仰者は他に類を見ないように思う。

若い時分には、聖書注解者になることをも夢見ていたようだが、それも頷ける話で、知的分析、論証は彼の天与の才であり、以上の引用からも、学生時代から彼は同期に抜きん出て将来を嘱望されていた様子が伺える。

少しでも学術研究に関わったことのある人間ならば、ニーの文章が知的好奇心旺盛な人間にとってどれほど魅力的に映るかも分かるであろう。 ところが、ニーはその才能を主のために放棄し、「浪費してしまった」のである。

それは、大学の恩師にとってはさぞかし手痛い損失に見えたものと思う。もし研究者を目指していたならば、権威として大成していたのは間違いないからである。そうでなくとも、新しい発見によって社会を揺るがし、変革する人物になるだけの資質は十分に備わっていた。だからこそ、期待を裏切られた恩師は、この久方ぶりの邂逅の場面で、ニーの衰弱して落ちぶれた「惨めな姿」に痛烈な皮肉を浴びせたのである。

しかも、それだけではない。ニーは聖書注解者として名を残すことをさえも断念した。そして、彼がどんな最期を遂げたのかは知られている通りである。

一体、この人は自分に与えられた大きな才能を何に使ったのか? 神のためにとは言うが、ただ自虐的に自分を苦しめ、人生を浪費しただではないのか? という疑問も生まれて来よう。

彼がもし聖書注解を書いていれば、今の時代になっても、並ぶもののない書を残せたであろう。我々にとってもそれは興味深い内容だったに違いない。だが、それすらもしなかったのはなぜなのか。今日ニーの著書とされているもののほとんどは同時代人の速記録の書き起こしによるもので、色々な人々の思惑がつけ加わり、偽りの宗教によって書き換えられ、改ざんされ、ただで利用され、宗教的権威にしたて上げられ、ニー自身がどんな人だったのかすらも、粉飾されて分からなくなり、純粋にニーの作品と言い切れるものがどれだけあるのかも不明だ。もし自分の名を冠した著書を発行してさえいれば、そうしたことは避けられたはずである。

にも関わらず、彼がそうしなかったのは、自分のためでなく、この世の人々のためでもなく、社会の発展のためでもなく、ただ神のためにだけ自分を注ぎ出し、地上では完全に無名の、いかなる権威とも無縁の人間として生きるためであったと見られる。もし願いさえすれば、自らの得意とする分野で、様々な成功を手にする事ができたであろうが、人前に栄光を受けないために、それをあえて望まなかったのである。

学術研究の分野に身を置くことは、「先生」と呼ばれる立場に立つことと密接に結びついている。それは自分自身を学問的権威者として他人に推薦する行為である。また、その探求はどこまで行っても、神を抜きにした人間の魂による終わらない探求であり、人間の天然の知的好奇心を満たすためだけに行われる活動である。そうである以上、そのような探求は、人間の堕落した魂の働きを活性化させ、肥大化させることはあっても、純粋な霊的な活動には本質的に対立する、信仰に基づく行動ではないのではないかと筆者は推測する。

知識欲に限らず、人間の魂が持って生まれた欲というのは、情であれ、他の何であれ、どれもこれも、人間の目にどんなに美しく優れた性質のように映っても、すべて堕落に陥る可能性を持つ。それは、人間の魂そのものが罪によって腐敗・堕落しているせいである。そこで、天与の才を発揮して生きるという、人の耳にはまことに無難そうに、もっともらしく、良さそうに聞こえる言葉でも、一歩間違えば、己の欲に好きなだけ邁進して生きよという貪欲の奨励になりかねない危険が存在するのである。

ただ神だけが、人間の天然の魂の衝動から生まれて来る腐敗した活動と、純粋に霊的な活動を正しく切り分けることができる。前者はどんなに人の目に立派に、良さそうに見えても、あくまで人間の探求に過ぎない腐敗した活動であって、永遠に神に向くことがなく、永遠に残る実を結ぶこともない。

ウォッチマン・ニーはどこかの時点でそれを悟り、知的研究の分野から身を引いたのであろう。聖書注解者になることの中にさえ、神から来たのでない人間の魂の探求が紛れ込む可能性を悟り、自分はそのような方法で神に仕え、人々に仕えることはふさわしくないと理解したのであろう。彼が自分の可能性や才能を脇に置いて、これらを捨てても、御国への奉仕を優先したのは、主に仕えるためであり、神への献身のためだったのだが、同時に、それが教会に対する奉仕でもあり、人々に対する奉仕でもあったことを筆者は疑わない。

だが、もしも仮にそこで彼が身を引かず、知的研究に携わり続けた場合、この人の身の上に何が起きただろうか? 彼はおそらく学問的権威者となって、多くの弟子を従えて、立派な先生として、新調の服を着て巷を歩くことができ、自分について何一つ引け目も感じず、情けなく思うこともなく、まして若くして衰弱したからだで、よろめきながら杖をついて歩いたり、その格好のせいで、人に哀れまれたり、蔑まれたりもしなくて良かったであろう。

だが、そうして得た社会的成功と引き換えに、彼を待ち受けるものは何だったろうか? サタンの誘惑だけだったのではあるまいか? 彼はそのようにして地上で自分が栄光を受け切ってしまうことよりも、神としての栄光を自ら捨てて十字架の死にまでご自分を渡されたキリストにならって、自分も自分を高くせず、人からの栄誉ではなく神から栄誉を受けることの方を潔しとしたのである。

このようなことは、人の目から見れば、あまりにも馬鹿げた損失に過ぎないものと映るであろう。色々な才覚が与えられていたのに、それを十分に活用しないまま世を去るとは、何と愚かな無駄であろうかと人々は思うだけであろう。人は、この世において頭角を現し、ひとかどの人間として認められ、名を残すことを成功と考え、自分の才能や活動意欲を余すところなく発揮できる場を求め、なおかつ、著書や、目に見える様々な功績を手柄として残すことを願う。それが自分のためであると同時に、他者のためにもなるのだと信じて疑わない。そして、自らの名を残すことができなければ、地上に生きている意味もないと考えるのであろう。

だが、神の評価は、人の評価とは多くの場合、正反対であり、まさに裏返しである。地上で自分で自分を高くしようとする者が、神の御前に賞賛を受けることは絶対にできない。神は、世から徹底的に憎まれ、蔑まれ、退けられたキリストの苦難に、信者がどれほど自分もあずかることに同意し、キリストの死に自分を同形化したか、その度合いによって、信者が天で受ける栄光をお決めになる。

だから、信者が地上で人前に栄光を受けながら、同時に、天の神からも栄光を受けようとすることはできない相談なのである。そして、何が本当に主の御名のために信者が耐え忍んだ苦難であるのかは、ただ神だけがご存知である。
 
ニーに限らず、キリストに従う者は、地上で自らいかなる権威になることもなく、最後まで無名の知られざる信徒として、人の目にではなく、ただ神の御前にのみ覚えられ、認められることを目指して生き続けるべきであると筆者は考えている。

信者が主のために自分を低くされ、苦しみを受ける時、ニーが書いているように、栄光の御霊が力強く自分に臨む瞬間を、信者が必ずしも常に経験するわけではない。だが、たとえ主の臨在が、信者に実感を伴う形で感じられない場合にも、信者は、この地上で自分が低められることによってしか働くことのない天の法則と栄光が確かにあること、それによってしか結ばれない実が確かにあること、それはまさに神が願っておられる事柄であると、人生のあらゆる場面で知ることができる。そして、信者がそのように神の御前で低められ、無に徹することを耐え忍ぶと、神はその労苦を特別に重んじて下さり、特別な恵みによって報いて下さるのを、実際に多くの場面で見ることができるのである。

だから、信者が一時的に陥った苦しみだけを見て、落胆するには全く及ばない。ヨブがそうであったように、多くの場合、信者が主のために失った様々な富は、時が来れば、前よりも一層、豊かにされて信者の手に返される。それが死後になってしか起きないことは決してない。この地上に生きている間に、信者は、十字架の死と共に働く復活の原則を、キリストの命にある絶大な権威や力を、信者のために神が天に蓄えて下さっている無尽蔵の富や栄光の大きさを、十分に伺い知ることができる。

そのような歩みを主と共に地道に続けて行った最後の段階になって、ようやく殉教というテーマが信者の目の前に現れて来る。信者が十字架の死と復活の原則をほとんど知らないうちに、一足飛びにそのような事柄が求められることはまずない。そして、その段階になると、信者はそれまでの人生を通して、すでに神の恵み深さ、憐れみ深さ、誠実さ、愛の深さを十分に知っているので、もはや自分の内には神のために留保するものは何一つありませんと、ためらいなく応答する心の準備ができているのである。

人類の偽りの自己救済の努力としての労働の不毛性―一億総活躍社会という偽りの救済論と、プロテスタントにおける救いの代替物としての労働―

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)

最近、ある会話の中で、プロテスタントのキリスト教界は、神が全く喜ばれない、呪われた場所へと変わっているということが改めて話題となった。信仰を持たない人間から見てさえ、プロテスタントで起きている出来事は、異様に見えているのである。

多くの一般人は、キリスト教に対して、決して悪い印象は持っていない。だが、教会となると話は別だという人も多い。キリスト教には好感を持ち、聖書の神には一定の敬意を払っていても、教会組織にだけは属したくないと考えている人たちの数は相当数に上る。そういう人たちは、現在、キリスト教界で起きている出来事を見れば、こんな組織だけには絶対に属したくないと改めて願うことであろう。

杉本徳久のような人物は、プロテスタントなしには決して登場することのなかった人物であると筆者は思う。このような人間が現れたこと自体が、プロテスタントの終焉を何より物語っているが、同氏が、長年、数多くのクリスチャンに対する迫害に及び、聖徒らを次々と泥沼の裁判に引きずり込んでは、神が贖われた聖徒らに有罪を宣告することを願い、クリスチャンの平和で穏やかな信仰生活を妨害して来たことや、また、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が、教会を訴え、牧師を訴えては、クリスチャンの平和な信仰生活を妨げている様子を見ても、プロテスタントからは、すでに聖書の御言葉に従う生命の息吹きが消え去り、キリストの香りが消え去り、その代わりに、全く別な異質な霊が持ち込まれ、以前とは全く異なる別の堕落した宗教へ変質しつつあることが明白である。

筆者は、村上密牧師や杉本徳久を率いるものは、まさに「プロテスタントの霊」ではないかと考えている。杉本は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の出身で、とうにプロテスタントを去っていると言われるが、それにも関わらず、自ら去ったはずの「プロテスタントの霊」と未だ訣別せず、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の弊害とも訣別することができないでいる。そのことは、杉本が村上牧師の行って来たカルト被害者救済活動との訣別宣言を出すことができない事実に最もよく表れている。
 
こうした事実を見ても、筆者に思い起こされるのは、キリスト教界への批判が高まっていた2009年当時、「カルト二世」と呼ばれる人々が、信者の中に数多く出現していた事実である。これは一般に多くが団塊の世代の子供たちの世代に属し、リーマンショックなども経験して、当時、生きづらさを抱えていた世代であるが、その中でも、たまたま親がキリスト教徒であったがために、幼少期から教会で宗教教育を受けさせられ、そこで受けた誤った宗教教育がもととなって、大人になってから社会に適合できなくなり、思想的にも生きづらさを抱えることになったと自ら告白する元信者たちが相当数、現れた現象を指す。

当時は、そのような生育歴を持つゆえに宗教教育の歪みを理解する人々が、インターネット等でキリスト教界の現状を語り、一体、自分が受けた教育のどこに問題があったのか、なぜその宗教教育が誤っていると言えるのかについて考察していた。当時は比較的、冷静な議論が多く、キリスト教界の諸問題について、かなりあけっぴろげで自由な議論が穏やかに交わされていた。キリスト教界を断罪するためでなく、その弊害から抜け出すために何が必要であるかが、多くの信徒たちによって、穏やかに厳粛に論じられていたのである。

杉本のような人物も、まさに「カルト二世」というカテゴリーに当てはまると言えるのではないかと思う。要するに、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団によって、人生の決定的に重要な時代に、誤った思想を植えつけられたがために、この教団を出てもなお、誤った思想に苦しめられ続けている一人である。そうであるがゆえに、当時、自身のブログにおいても、激しいキリスト教界への批判を繰り広げていたものと思われる。

しかしながら、誤った宗教教育のために生じた苦しい状態から解放されるかどうかは、あくまで本人が自分に植えつけられた思想の誤りにどれくらい気づき、それとどの程度、訣別することができるかによる。

冷静な考察や、穏やかな分析により、教え込みの誤りに気づいて離れられた人たちは幸いであるが、それができない人々もいる。後者は、たとえ自分たちを束縛する偽りの思想を憎み、告発したとしても、その思想と手を切るどころか、むしろ、より一層、深くその道具となって生きることになる。

杉本徳久の生涯を通して、我々が見ることができるのは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念の恐ろしさだけでなく、幼少期や青春時代にこの教団に関わった人々が、その理念の間違いに気づき、この教団を脱したとしても、それだけでは問題は終わりにならないという事実である。たとえ教団を出たとしても、この教団の理念や、教団の牧師の活動に依然として積極的に関わり続ければ、その人は、教団から出たことにはならず、たとえ他の宗教団体に去っても、誤った思想を引きずり続けて、その思想の手先となって生きるしかないのである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に限らず、人間は誤った理念を持つ団体に気づかず接触してしまうことはありうる。問題は、そういう事件を100%防ぐことにあるのではなく(100%防ぐことは誰にもできない相談である)、その団体が誤っていると気づいた時に、そこに接近した自分自身の誤り、その思想に身を委ねた自分自身の誤りを認めて、その悪しき理念と本心から訣別し、それと二度と関わらないことを誓って、新たな人生へ踏み出すことができるかどうか、その一点にかかっている。

筆者は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を出た人間が、いつまでもこのような教団に関わり続けることに全く意味はないと考えている。そこから離れたならば、思想的にも、この教団とは訣別し、人生を穏やかに再スタートさせた方が良いであろう。

しかし、杉本徳久については、残念なことであるが、多くの人たちが指摘していたように、すでに引き返せる橋をとうに超えてしまったようである。それは同氏が数多くのクリスチャンを断罪する作業に自ら手を染めた時点からすでに判明していたことであるが、現時点では、同氏においては、聖徒らとの和解はもはや永久に不可能となってしまったという印象を筆者は受けている。

これは非常に恐ろしい厳粛な現実でもある。人の肉眼で見える対立は、ただ単に人間的な確執のようにしか見えないかも知れないが、そこにクリスチャンが関わっている場合には、その人間的な対立の背後には、必ず、霊的な対立が存在する。そこで、聖徒らに対して一線を超える罪を犯してしまった人間は、この地上だけでなく、永遠の領域においても、罪を赦される可能性を失い、生きているうちに神に立ち戻る道が永久に絶たれ、不可能となってしまうことが実際にありうるのだという実例を、同氏の例を通して見ることが出来るように思う。どんなに聖徒らが憐れみをかけたとしても、本人の中にもはや立ち戻る道が絶たれてしまっているのである。

神が贖われた聖徒らに対してどういう態度をとるかは、その人が神に対してどういう態度を取っているのかをはかるための重要な指標である。聖書は、兄弟姉妹を愛せない人間が、神を愛することは絶対にできないと告げているからである。

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(Ⅰヨハネ4:20)

そこで、聖徒らを裁判に引きずり込んでは罪に定めることに血道を上げるような行為は、まさに、神に対する愛の全くない人間だけが取り得る行動であると言える。そのような願望を抱くこと自体が、キリストの御霊とは程遠い、神から来るのではない別な霊、しかも、クリスチャンを大々的に迫害した皇帝ネロの霊、「兄弟たちを訴える者」と同じ霊の持ち主だけが可能な行為である。

だから、そのような願望を積極的に抱く人間が、聖徒らとの和解の道を失い、ますますキリストの十字架に背を向けて、「キリスト教徒の迫害者」になって行くのは必然的な結果なのである。

そのような恐るべき欲望の持ち主は、キリスト教徒を罪に定めようとして、常に「クリスチャンが世を冒涜した、世人に対して脅威をもたらした」という口実を持ち出すが、聖徒らを罪に定めるための彼らの試みは決して成就せず、成功しない。

なぜなら、永遠に変わらない聖書の御言葉においては、世人の心証を害することが罪なのではなく、神の御言葉に逆らうことこそ、罪と定められているからである。

聖徒らは、キリストと共なる十字架を通して、バプテスマの水の中に沈み、世に対しても、悪魔に対しても、自分自身に対しても、死を帯びている存在である。聖徒を弁護するのは、キリストご自身である。

だから、我々、聖徒らに立ち向かう人間は、肉眼で見える我々自身という人間に立ち向かっているのではなく、神ご自身に立ち向かっているのである。聖徒を告発する者は、信じる者を贖われた神の義に自ら立ち向かっているのである。そうである以上、そのような人間は、永遠に神が変わらないものとして定められた契約である聖書の御言葉に逆らっているのであり、その結果として、必ず、キリストの十字架に敵対した報いとして、滅びだけが待ち受けている。彼らにはもはや弁護の余地は存在しない。

ところで、坂井能大氏、山谷少佐については、Dr.Lukeの支援を受けていたことが、彼らの致命的な弱点となったと筆者が理解していることはすでに述べた。

Dr.Lukeのキリスト教批判を聞いて、同氏が本心から、キリスト教界の制度的な腐敗を嘆き、これを糾弾し、訣別を唱えているのだと誤解した人々は多かったものと思う。しかし、同氏の批判は、結局は、村上密牧師の被害者活動と同じく、キリスト教界の繰り広げる出来レースの一環に過ぎなかった。

Dr.Lukeは自らパスタ―を名乗っていたのだから、牧師と同様の存在であり、その意味で、同氏率いるKFCは、どんなに口ではキリスト教界を批判していたとしても、実際には、牧師制度を取るキリスト教界の一端に位置する組織でしかなかったのである。

KFCは、信者たちに向かってキリスト教界からのエクソダスを唱えていたにも関わらず、自らがキリスト教界をエクソダスしていなかった。そこで、そのような二重性を帯びた立場から、キリスト教界を告発しても、それが真に迫真性を帯びた主張とはならず、そのような方法で、キリスト教界に戦いを挑んでも、勝利することが、土台、不可能なのは目に見えていた。

キリスト教界をエクソダスするとは、牧師制度と訣別することと同義である。KFCだけではない。ゴットホルト・ベック氏の集会のように、キリスト教界を批判しながらも、結局、特定のリーダーの下に強力な牧師制度を維持し、キリスト教界と根本的に変わらない組織を築いているのでは意味がない。それでは、キリスト教界を出たことには決してならず、彼らの唱えるエクソダスや、キリスト教界への批判も、結局は、有名無実のスローガンにしかならない。

筆者は、今やキリスト教界をエクソダスせよ、という表現ではなく、プロテスタントからエクソダスせよ、と言った方が正確ではないかと考えている。プロテスタントは、すでに霊的に終焉を迎えており、ここからはキリストの御霊に息吹かれた新たな信仰復興運動は、決してもう二度と出て来ることはないと確信している。

プロテスタントは当初、ペンテコステ運動のような過激な霊的運動を警戒していたが、ペンテコステ運動が拡大して信者が増えるにつれ、結局、これを受け入れざるを得なくなった。その上、エキュメニズムを通して他宗教にも寛容な理解の手を差し伸べており、こうして教義的に妥協に妥協を重ね、聖書から遠い理念を提唱する団体となった。

その上、自身が統一教会の出身者である村上密のような牧師たちが、統一教会からの信者の半強制的な脱会活動を行って、彼らをキリスト教に改宗させたことにより、プロテスタントには、統一教会からの信者たちが数多く流入し、異質な影響力がもたらされ、そのような活動も、ここ十数年の間で、教界の変質を加速化させる大きな要因となった。

牧師制度の弊害、教会成長論などに見えるような教義の誤り、異端化に加えて、カルト宗教からの信者奪還運動が繰り広げられたことにより、また、それと並行して、問題や悩みを抱えて行き場を失った社会的マイノリティへの支援活動に重きが置かれたことにより、プロテスタントには、カルト宗教の霊が公然と持ち込まれただけでなく、この世の諸問題も雪崩を打って押し寄せ、この宗教全体が、聖書に基づく、神を中心とした、平和な信仰生活の場ではなくなり、人間を中心とした、この世の諸問題に対処するための「病院」のようになり、あらゆる点で問題の宝庫となって、聖書からますます遠ざかり、聖書とは異質な宗教へと変質して行ったのである。

今となっては、この教界は立ち直り不可能であり、平穏な信仰生活を送るためには、信徒はここを出るしかない。牧師制度の中に身を置きながら、キリスト教界を批判しても無駄であり、平和な信仰生活を送るためには、信者は「アカンの外套」になりうる一切の持ち物、つながりを断ち切り、プロテスタントそのものを出るしかないのである。

* * *

筆者は最近、プロテスタントの以上のような問題点は、資本主義の弊害とも密接に関わっているのではないか、という確信を持つようになった。そして、この問題を考えるにつれて、プロテスタントとは、ひょっとすると、最初から、何か空恐ろしい、根本的に聖書に反する問題を内に含んでいたのではあるまいか、という疑念が生じてならないのである。

現在、世界各国においてだけでなく、日本においても、資本主義は末期状態に陥っており、日本の労働市場は閉塞感にまみれ、社会主義国であったソ連における強制集団化の時期のような悲惨な状態へと転落しつつある。

我が国の労働市場の現場は、悪化の一途を辿っており、搾取、騙し合いがますます横行し、人間性がますます失われ、人間を生かす場所ではなく、排除する場所、殺す場所へと変わって来ている。

我が国は、年長者が年少者を搾取し、食い物にするという形で、ようやくこれまでの繁栄を維持しているが、労働市場には、この悪しき弱肉強食の異常な関係が凝縮された究極の形で現れている。

日本の若年者たちは、学校を卒業して社会に出ても、正規雇用にありつけるのはほんの一握りであり、それが出来なかった者たちは、生涯、低賃金で将来の希望のない仕事をずっと続けるしかない状態に置かれている。若年者に限らず、非正規雇用の者たちはますます苦しい状況に置かれ、未来への展望が何も描けないでいる。外国人実習生のような人々は、奴隷制と呼んで差し支えない苦役にあえいでいる。最近では、政府は年金削減のために、老人を死ぬまで働かせることを考えており、生きている限り、国民が労働から解放されることがないような社会づくりに知恵を絞っている。

このように、我が国は、表向きは労働を賛美する社会主義国ではないにも関わらず、社会主義国と同じように、全国民に労働を強制する異常な思想に憑りつかれており、そのような文脈における労働の概念は、正しいものではなく、人間性を貶め、歪める誤った思想でしかない。

そのような意味で、我が国における労働は、もはやただ単に人が働いて身を立て、家族を養い、普通の暮らしを維持するために不可欠な活動ではなくなり、誤ったイデオロギーに基づく、人間同士の騙し合い、搾取のし合い、人間性の貶め合い、弱肉強食の肯定・強化という、極めて不健康で、悲劇的な、社会に地獄絵図をもたらすような恐ろしい概念へと変わり果てている。

そこで、なぜそのような現象が起きるのかという問題を追求していくと、結局、労働の本質とは何かという問題に突き当たらざるを得なくなり、筆者の分析においては、その問題は、そこからさらに進んで、プロテスタントのキリスト教界における奉仕と献金という問題につながり、最終的には、プロテスタントが本質的に抱える教義的な欠陥へと行き当たるように思われてならないのである。

マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、今でもこの点に関して、プロテスタントの本質に鋭い光を当てていると言えよう。

本書は信仰的な観点から書かれたものでないため、筆者はこれまであまりその論に注意を払わず、また、日本のような非キリスト教国に、上記の論理をどの程度、当てはめることが可能であるかについても、疑問であったが、最近、プロテスタントと資本主義との関係性を、批判的な文脈で振り返るに当たり、この書は実に多くの点で、謎解きのヒントを与えてくれており、考慮しないわけにいかないと思うようになった。
 
この書でも指摘されているように、プロテスタントにおける「救い」の概念は、非常に不確かな、非人間的と言っても良いほどまでに、不安定なものであり、プロテスタント独特のこの救済観が、資本主義の発展の原動力となったのだという指摘について、これを今日の我が国における労働との関係性にあてはめて、改めて考察してみる必要があるように思う。

ウェーバーが上記の書で言わんとしていることの中核部分は、かなり荒っぽく要約すれば、次のようになるだろう。

「プロテスタントにおける救いの概念は、一般的に、信者が、自分に対する神の救いが本当に確かなものであるのか、自分が本当に神に受け入れられ、救いを失っておらず、神の国の住人として、いのちの書に名が記されているのかどうか、死後の神のさばきの時が来るまで、信者本人にも本当には分からず、生きているうちに内的確信を得ることができないという、極めて不安定な概念である。

このような不安定で(非人間的な)救済観が、プロテスタントの信者たちに、自分は本当は救われておらず、神に拒まれているのではあるまいか、そもそも神が分からず、神の御心が何なのかも分からないという、生涯に渡る恐怖を抱かせるのは当然である。

そこで、プロテスタントの信者たちは、こうした恐怖から逃れるために、絶えず、行動に駆り立てられる。彼らは、自分が確かに救われているかどうか分からないからこそ、自分が救われた者であることを社会や自分自身に証明しようと、熱心に禁欲と労働に励み、贖われた人間にふさわしい模範的な生活を送る努力をしたのである(=絶えざる自己吟味と現世生活の合理化)。

この点において、カトリックとプロテスタントの間には隔たりがあり、カトリックにおいては、信者たちは、教会内で宗教行事に励んだり、聖職者に教わることで、自分が神に救われている者であることを証明しようと努力する一方、世俗の生活は(教会生活のつけ足しに過ぎないもののように)重視されなかったが、プロテスタントの信者たちは、教会を離れた世俗の生活にも、教会と同じほど重点を置き、世俗生活において禁欲と労働を通じて、天職を全うすることで、キリスト者の召しを積極的に果たすことができると考え、こうして、神に贖われた「新しい人」としての模範的生活を客観的に証明することが、信者の使命であるとみなしたのである。こうして、プロテスタントは、世俗における生活をも、教会生活と同じほど重要な信仰生活の実践の場ととらえ、熱心に労働に励み、利潤を生むことを、信仰生活と何ら対立しないものとみなした。

禁欲は、言い換えれば、世俗生活の合理化のことであるが、それは信者が自己を吟味することによって、神に喜ばれないあらゆる不徳なものを徹底的に自分の生活から捨てて行く一方で、神に与えられた召しに合致するものだけを残して行くことを意味する。

だが、信者にはそもそも自分が救われているかどうかがよく分からず、神の意志も分からないので、自己吟味とは、「おそらく自分は救われているのだろう」という前提のもと、「おそらく神が喜ばれないであろう」と想像されるものを自ら捨て、「おそらく神が召しておられるのだろう」と想像される職業に邁進することで、神に喜ばれようという努力を指す。

こうして、プロテスタントにおいては、信者が自己の(本当にあるかどうか分からない)救済を維持するために、絶えざる自己吟味と禁欲、社会奉仕活動による生活の合理化を行なうことが信仰生活の大前提のようになり、その結果、修道院生活の規範が、世俗の生活に公然ともたらされたような具合となった。

その結果、信者が内心の恐怖から逃れるために行った熱心な禁欲と労働が、資本主義の発展を促し、社会に経済発展がもたらされた。

つまり、極言すれば、「神が分からない。自分が本当に神に救われているのかどうかも分からない」というプロテスタントの信者たちの内心の恐怖と不安、そこから逃れるために、彼らが労働を通じて社会に奉仕し、自分が救われていることを客観的に証明せねばならないと考えた強迫観念が、資本主義の初期の発展の原動力となって行ったのである。」

筆者は、ここでカルヴァンの予定説などに深入りしてプロテスタントの救済観について詳しく議論するつもりはないが、実際に、プロテスタントの一般的な救済観は、今日に至っても、まだなお、ウェーバーが指摘した状態から大きく外れていないように思われる。

クリスチャンとは、本来、神を見いだした人々から成るものと考えられるため(筆者もそう考えている)、実は、神を見いだせず、自分が救われているかも分からない信者が、クリスチャンを名乗る人々の大半を占めるのだと聞けば、世人はさぞ驚くことであろう。
  
だが、それが実際なのであり、もしそうだとすれば、そのようなプロテスタントの救済観は、聖書の提唱する救いに本当に合致するのだろうか?という疑問が生まれる。 そのような不確かな救いの概念しか持たない者を、果たして、クリスチャンと呼ぶべきなのであろうか。

プロテスタントの信者であるかどうかを問わず、クリスチャンが、「自分は神が分からない。神に救われているかどうかも分からない」という状態に陥っているとしたら、それは極めて異常な事態であり、そのような人々を「クリスチャン」とみなすこと自体に、相当に無理があるのではないかと筆者は考えている。
 
「信者」と呼ぶからには、その人間に信仰がなくてはならないが、自分が救われているかも分からない人たちは、果たして、何を信じているかも分からない人々である。自分が神に救われているかどうかも分からない状態にある人々を、「信者」と呼ぶのは適当であろうか。

人間には、自分を本当に救ったかどうかも分からないような不確かな神を信じ、そんな不確かな救いしか提供できない「神」を生涯に渡り、心から愛し、仕えることが可能なのだとは、筆者にはどうにも信じられない。だから、自分の救いさえ、本当にあるかどうか分からない人々は、神を信じている人々の概念に該当せず、彼らの「神」と彼らが、何によってつながっているのかも不明である。 

しかしながら、プロテスタントでは、救いの確信が内側になく、「神が分からない。自分が神に救われているかどうかも分からない」という状態は、極めて信者にありがちな、一般的な状態なのであり、そういう事情は、今日になっても、変わらない。いや、むしろ、そのような異常状態にある信者こそ、プロテスタントの平均的な信者像であると言える。

だから、筆者はそのような不確かな確信しか信者に与えることのできないプロテスタントの救済観を、全く正常なものとはみなしておらず、そこで、ウェーバーが、そのようなプロテスタントの教義とそこから生まれる精神を、資本主義の発展と結びつけて論じているのは、結局、プロテスタントの誤った救済観が、資本主義の発展の最初の原動力となったと言っているのと同じであると理解している。

つまり、ヨーロッパ諸国における初期の資本主義の発展は、プロテスタントにおける誤った救済観がもたらした結果であり、そうである以上、その発展は、発展という言葉が持つ、一見、輝かしい、喜ばしい響きとは裏腹に、そこに流れる思想的弊害は、必ずや、何かの恐るべき形で実を結ばざるを得ないだろうと考える。それが、今日、労働の悪なる本質として現れていたとしても不思議ではないのである。

さて、上記の書から、筆者に理解できるのは、自分が本当に救われているかどうか分からないという不安ゆえに、プロテスタントの信者たちは、絶えず労働に邁進し、社会貢献することで、自分が善人であることを世にアピールせずにいられないという一種の強迫観念に陥っていたことである。

こうした事柄は、当ブログでずっと述べて来た問題と重なる。要するに、「神が分からない。自分が神に救われているかどうかも分からず、罪が赦された確信もない」という恐怖が根底にあればこそ、プロテスタントからは、カルト被害者救済活動やら、ホームレス伝道やら、マイノリティへの救済活動といった、各種の社会奉仕活動が登場して来たのである。

つまり、自分が救われているのかどうか分からない不安から逃れるために、プロテスタントの信者は労働に励み、数々の社会奉仕活動を生み出して来たのである。

こうして、プロテスタントが生んだ社会奉仕活動は、カトリックの慈善事業に見かけはよく似ているが、その動機が決定的に異なる。

筆者は再三に渡り、プロテスタントの諸教会が繰り広げる社会奉仕活動や、マイノリティへの支援活動は、隣人愛に基づく活動ではなく、そもそも自分自身が罪赦されたという実感を持てない「信者」たちが、自らの心の内側にある払拭されない罪悪感を解消するために行う贖罪行為であり、彼らは自分よりもはるかに哀れな境遇にある弱者を探して出して来ては、彼らの状態を改善することにより、その弱者の姿に自分自身を重ねて、彼らを救うことで、自己救済をはかろうとしているのだと述べて来た。

つまり、プロテスタントの社会奉仕活動は、根本的に救いの確信を得られない信者たちが繰り広げる終わりなき贖罪行為であり、彼らが自己の罪悪感、不安、恐怖から逃れようとして強迫観念に基づいて生み出す活動なのである。

だから、そのような社会奉仕活動に従事する信者たちが、さぞ立派な人々だろうと考えるのは間違いで、むしろ、そのようにして熱心な社会貢献を目指さざるを得ない信者たちのほとんどは、信者を名乗っているにも関わらず、教会の中で、神に出会うことができず、救われてもいない世人のもとで神を探すしかないほどまでに、救いの確信がなく、内心では絶望している人たちである。彼らは自分が贖われたという実感を持てないからこそ、不信者への奉仕活動を通して、自分の正しさをアピールし、不信者たちの間で神を見い出せない絶望感を薄め、自己を慰めることしかできないのである。

そのように、自己の救いの確信がないがゆえに、絶えず不安に脅かされる状態、自らの信仰生活の中で真の満足が得られず、教会の外の世においてしか、神を見いだせる希望を持てないという転倒した心理状態は、プロテスタントでは、一般の信徒のみならず、牧師にさえ見られる一般的な状態である。

そうした文脈で、以前にも引用したホームレス伝道に励む奥田知志牧師の文章を、改めて引用してみたい。

神はどこだ。どこにおられるのだ。」 こんなことを考えている人間が、牧師になることなどできるのか。しかし結局のところ、私が牧師になったのは、生涯を通じてこの問いの答えを探すためである、としか言いようがない。それが、牧師になった理由なのだ。答えは今もはっきりしないしかし、混迷がさらに深まる今日の社会において、「神はおられる。いてもらわないと困る」という思いはますます深まり、「神を探す」日々はより忙しくなっている。

牧師というものは、何かを悟った人ではないだろう。もちろん、すでに神を見いだしている人でもない信徒も牧師も厳しい現実のなかでもがいており、ただ聖書を頼りに神を探しているのだろう。「神はどこにおられる。」それは、私たちの人生そのものの問いであり叫びなのだ。生きている限りこの問いを、問い続けなければならない。」
(『もう、ひとりにさせない』奥田知志著、いのちのことば社、pp.28-29)

 
奥田牧師のこの記述の中には、「自分は神が分からない。自分が本当に救われているのどうかも分からない」というプロテスタントの信者に共通する心の不安(=叫び)がよく現れている。
 
神を見いだせない人たちが、それゆえに、生涯かけて、神とは何かということを探求するために、教会生活に足を踏み入れていき、牧師にまでなるのだというのである。

だが、このような形では、どれほど探求を重ねても、彼らが神に出会うことはできず、答えが出ることもないであろうと筆者は考える。ただ生涯、神を見いだすための探求だけが続き、救いの確信は、ついに得られないまま終わるのである。

そうなるのは、彼らが神に出会うために、決して神ご自身に向かおうとはせず、絶えず人間の方を向いて、世の不信者の方を向いて、人に向かって自分の正しさを主張し、不信者の間で神を見いだそうと、見当外れな方向を探し求めているせいである。

筆者は、プロテスタントの信者がこのような状態にとどめ置かれていること自体が、極めて異常な状態なのだと思わざるを得ない。そして、そのような人々が、本当のクリスチャンであるとも考えていない。

自分は救われているかどうかも分からない不安を抱える人々が、信者であるだけでなく、牧師にさえなって、福音を知らない、自分よりもはるかに哀れな状態にある社会的弱者に助けの手を差し伸べ、その人たちと一体化して、彼らの生活の向上に喜びと恵みを見いだし、彼ら弱者の中に「神」を見る、それが、果たして、正常なキリスト者の信仰生活と呼べるのか? 絶対に無理である。

そのような形で、「神を見いだせない」不安に駆られ、世の方を向いて行く信者たちの姿は、ウェーバーが著書において指摘したプロテスタントの信者が抱える不安とまさに一致するが、ウェーバーの著書が書かれた時代、そのような信者たちは、自己の不安を、職業訓練に振り向け、労働に励み、自分の職業に邁進することで解消しようとしていたが、それが今日の時代には、労働のみならず、各種の社会奉仕活動、マイノリティへの支援などに結びついている。

しかし、表面的にどんな形態を取っていようと、これらの社会貢献活動は、みな根本的に同じ動機から発生したものであり、それらはすべて「自分が救われているかどうか分からない」という内心の恐怖から、信者が逃れるために生み出された模索(現実逃避)の過程なのである。
 
その探求は、神を求めるために行われているというよりも、むしろ、神が分からないという恐怖を紛らすために行われるアリバイ工作のようなものだと言った方が良い。

もしも真実、それが神を求めるために行われている活動ならば、その活動は決して人の方を向かず、見えない神だけにすべてを求め、神ご自身から全ての答えを求めるというものであったろうが、プロテスタントの信者たちの「探求」は、常に世の方を向き、社会に対する貢献に重きを置いて、人からの承認や賛同の中に、自分たちの信仰の正しさを求めようとするものなのである。

こう考えると、一体、プロテスタントとは何なのか、そこで唱えられる救済は、本当に聖書の神が提供する救いと関係があるのだろうかという疑問にまで辿り着かざるを得なくなる。

何よりも、プロテスタントの信者が、本当に自己の救済を確かなものとして、個人的に救いの確信を得たいならば、なぜ、彼らは神ご自身に向かわず、絶えず人間にばかり奉仕し、あるいは自己吟味に没頭し、常に神の目から見た救いの合格ラインではなく、人間の目から見た合格ラインにこだわり続けるのか、疑問に思われてならないのである。

そこには、何かしら重大な概念のすり替えがある。本来、神と信者との間で、信仰に基づいて個人的に結ばれるものである救いの確信が、神を抜きにした、人間の目で見て確かめられる一般的な承認や賛同という代替物に取り替えられているのである。

早い話が、神が信者に信仰を通じて個人的に与える救いが、社会貢献という、救いとは似ても似つかない代替物にすり替えられているのである。

信者が自己を吟味し、禁欲と労働に励み、社会貢献を果たすことによって、世人に認められる模範的な生活を送ることは、信者が神に受け入れられることとは、直接的に何の関係もない。それはすべてこの世の観点、人間の観点から見た活動であって、神の視点というものが徹底的に欠落している。

天職や、社会貢献という言葉は、魔法のトリックのようなものであり、人間が自分自身の状態を見て自己安堵するために作り出された幻想に過ぎないと言うこともできよう。人間の必要を満たして、人の目に認められ、社会に貢献し、自分の目から見ても、自分に合格点を出せるようになりさえすれば、神もきっと納得して下さるだろう思うのは、人間の側の独りよがりでしかない。信者が人間社会にどれほど奉仕してみたところで、それは神がその信者をどうご覧になり、どう思われるのかをはかる基準にはならない。

神の御思いを知るためには、神に向かうしかないのであって、社会にお伺いを立てても無駄なのである。信者がどんなに人間社会に配慮を示しても、その信者の心が神に向かわないならば、信者の信仰生活は無である。

そして、神がご覧になるのは、人の立ち振る舞いのうわべの美しさではなく、信者の行動の真の動機である。人の目にどんなに立派な行いをしても、その労働や奉仕が、信者の恐怖から、信者の自己満足・自己肯定・自己安堵を目的として行われているのであれば、そのような自己中心な動機で、神を喜ばせることはできない。自分のために行われた奉仕は、神のためではなく、御心にかなわず、神のために実を結ぶこともない。

それにも関わらず、プロテスタントの信者は、徹底的に神ご自身だけに向き合って、神から回答を得ることで、自己の恐怖を克服しようとはせず、むしろ、「神が分からない、救われているかどうか分からない」からと、神からはさっさと目を背けて、分かりやすい人間社会の方を向いて、人間の中へ埋没して行き、人間の只中で承認や慰めや安堵を得、これを神からの承認や賛同と取り替えようとするのである。

こうなった時点で、それはすでに信仰生活からの著しい逸脱である。だが、プロテスタントは、教義的に、もともと救いに関して極めてあいまいな重大な欠陥を抱えているがゆえに、信者たちは、その弱点を補強するために、世の方を向かざるを得ないという悪循環が続いているのである。

このような教義は根本的におかしく。そもそも、救われているかどうかという信仰生活の根幹に関わる重大問題が、死後になってしか分からず、神のさばきの座に立たされるまで、本人に分からないというのでは、一体、信者の地上生活は何のためにあることになるのか、甚だ疑問である。それでは、その信者の地上生活は、ただ刑の執行を待っている囚人と変わらないことになる。

こうして、あるかなきか分からない救いの確信を補い、自分は本当は救われていないかも知れないという内心の恐怖を克服するために、信者たちは、刑の執行を待っている囚人が赦免を求めるように、世に対する奉仕をにいそしみ、お勤めに励むことで、不安から目をそらし、神に受け入れられていないかも知れないという恐怖を、世からの賛同や承認を得ることで埋めようとする。そして、自分はこんなにも善人として模範的に努力し、自分の利益を差し置いて社会に貢献しているのだから、その努力はきっと神も認めて下さるはずだと自己を慰める。

だが、そういう外側の努力が、内側の確信の欠如を補う日は決して来ない。神からの承認を、世からの承認に取り替える事は無理なのである。 

そのような信者の「社会貢献」は、救いとは何の関係もないものである。「義人は信仰によって生きる」という聖書の御言葉と、救いが本当か分からないがために地上の職業に邁進して社会貢献を果たすことで救いに近づこうという生き方は、まるで正反対である。

後者は、律法の義務を全うすることで神に受け入れられようとしたユダヤ教徒の努力と変わらず、贖われて、罪赦された人々の生き方ではなく、まさに罪ゆえに刑罰を待っている囚人が、自分の努力でわずかでも減刑されようと願う生活に他ならない。そんな地上生活は、神の召しを果たす場というよりも、囚人同士の慰め合いに近く、神のさばきに至るまでの地上の待合室で、恐怖から少しでも気を紛らしたいと考えている人たちが、互いに目くらましのために行う現実逃避に過ぎない。

だから、そのような観点から見るならば、プロテスタントの救済観は、初めから決定的に何かがおかしいのである。それゆえ、その決定的に異常な救済観がもたらす恐怖に基づいて生まれる各種の良さそうな社会貢献活動も、結局、決定的に異常な結果しかもたらさないのである。

筆者自身の経験について言えば、筆者が神とは何か、救いとは何かということを明確に理解したのは、プロテスタントの教会に関わるのをやめてからのことである。この教界を出て、教界とのつながりを絶って、誰の仲介もなしに、自ら聖書に接して、初めて、聖書の神ご自身がリアリティであること、キリストの贖いが永遠であること、信じる者に与えられた救いが永遠に変わらないこと、それがまさに自分自身に対する救いであることがクリアに見えたのである。そして、「神はどこにおられるのか」という問いは終結し、神はキリストを通して、信じる者の内側に住んで下さり、力強く御業を行なって下さり、必要な時に常に助け手となり、砦となって下さるということが分かったのである。

だが、だからと言って、信者は、確かにいつもいつも神の意志が自分に分かるわけではなく、神と直接結びついているという感覚的な実感を常に持っているわけでもない。感覚的には、パウロが、「ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。」(Ⅱコリント5:6)と述べている通り、人間の堕落した肉体の感覚は、常に人を神から引き離そうとする。信者は、地上で様々な問題が持ち上がる時などには特に、神が遠くにおられるように思ったり、神が何を願っておられるのか分からない時もあり、神に見捨てられたのではないかとさえ思われる瞬間もある。

だが、そういうものはあくまで信者の地上の幕屋としての肉体の感覚、この世の影響が感じさせることであって、信仰とは関係ない事柄である。信仰は、そのような表面的な感覚よりも、もっと深いところで感知されるものであって、一見、かすかな実感に過ぎないように思われても、信者の内側で、深く持続的な、変わらない確信をもたらす。だから、信者の心の内側では、外側で何が起きようとも、表面的な感覚や印象に関係なく、救いの確信は決してなくならず、神が生きておられ、自分を贖って下さったことへの確信は変わらないのである。信者は不安に駆られても、その不安の分だけ余計に、神に助けを求めて祈ることができ、神が確かに応答して下さることを信じて待つことができる。だから、この世で起きるどんな事象も、信者を神から引き離すものとはならない。

こうして、信仰に基づく自らの生涯を通じて、信者は神が確かに生きておられ、あらゆる場面で信者を守って下さり、自分が確かに神の愛する子供として神に受け入れられ、愛され、助けられていることを実践的に確かめることができるのである。どんな人生の嵐に見舞われようとも、いつまでも不安の中に取り残されることなく、まして、神が分からないとか、救われているかどうか分からないといった不安の中を堂々巡りしてさまよい続けることはないのである。

ところが、プロテスタントにおける救済観は、これとは全然違うものであって、そこにいるほとんどの信者たちは、自分が救われたかどうか、内的確信を持っておらず、どんなに教会生活を続けても、神に出会うことがない。ただ学校で教科を教わるように、キリスト教の教義を学ぶだけである。自分は神を信じている、とどんなに思っても、その信仰が、現実生活における力とはならず、信者を変える力ともならず、そして、ウェーバーが述べたように、信者たちは、自分が救われているかさえ分からないという不安ゆえに、社会において労働に励むだけでなく、教会生活をもそのような観点から行う。

自分が救われているかどうか分からないがために、信者たちは熱心に教会に通い、牧師の説教を聞いて自分の行動を正し、奉仕と献金に励むのである。そのような精進の果てに、自らの「霊性」を高め、神に近づくことができるかのように、彼らは錯覚している。そのような信者たちは、この世における労働も、教会に献金を払うために行う。彼らは、そうした熱心な努力によって、自分の信仰の正しさを客観的に証明することをやめて、教会を離れてしまえば、自分は悪魔の餌食となって、救いを失うだけだと思わされており、絶えず恐怖に駆られているのである。

このように、プロテスタントの信者は、禁欲と労働だけでなく、教会生活すらも、恐怖から行っている。救いの確信が内側にないからこそ、それを教会への所属という目に見える地上的な代替物に取り替えようとするのである。そして、教会への所属を失うことを、救いを失うことと同一視し、所属先を失いたくないがゆえに、熱心に世でも労働に励み、献金と奉仕の源を得る。だが、いつまで信者が努力し、奉仕と献金にいそしんでも、目に見える地上的な保証は、目に見えない天的な保証とはならない。地上の教団教派、教会組織に所属しているという信者の立場が、信者の内側で、救いの大胆な確信へとつながることは決してなく、どんなに牧師の説教を聞いて自己吟味し、いつまで奉仕を重ねても、自分は救われたのだという確信がやって来ることはなく、清められた実感もなく、様々な問題、思い煩いから解放されることもない。まして、新創造に達したなどという確信が生まれることはない。だから、信者はあるかなきかの救いを求めて、ハムスターが輪の中を走り続けるように、ずっと教会への所属にしがみつき、奉仕と献金に励み続けるしかないのである。

このようなものは、神の救いの概念を悪用しただけの、何か空恐ろしいトリックであり、救いの悪魔的代替物だとしか筆者には思えない。人の目の前に、救いという幻想をちらつかせておいて、それを求めてやって来た人々に、決して救いを与えず、その偽りの夢の代わりに、彼らを永遠に馬車馬のように走らせて、奉仕と献金を提供する道具とするために作り出された偽りのトリックでしかないものと思う。

このように、プロテスタントにおける救いの不確かさという恐るべき教義的欠陥が信者にもたらす恐怖は、資本主義という体制を通して、非キリスト教徒にも無意識のうちに及んでいるのではないかと筆者は想像する。

我が国では、まるでプロテスタントの信者たちがそうするのと同じように、非信者も、労働を通じて、自己の正当性や価値を証明しようと、勤務先に熱心に奉仕する一方で、労働から除外されて、働く場を失い、所属先がなくなり、「社会貢献」できなくなれば、自分は人間でさえなくなるかのように思い込まされ、恐怖におののいている。

このようにして、絶えず人目を気にし、自分が社会からどう思われているのか、模範的に義務を果たせているのか、社会に貢献しているのか、価値ある存在として認められているのか、人の思惑ばかりをおもんばかって、人に良く思われ、自分には所属先(居場所)があると誇って、自己安堵するために、終わりなき奉仕にいそしまざるを得なくなっているこの世の人々の姿は、まさに救いが分からないがゆえに教会への奉仕と献金をやめられなくなっているプロテスタントの信者の姿にぴったり重なる。

救いの確信がないがゆえに、それを教会籍と取り替え、存在しないかも知れない救いを維持するために、絶えず奉仕と献金を行なっていなければ安堵できない信者の姿と、自己価値が分からないがゆえに、企業や団体などの地上の所属先から承認を受け、その承認を維持するために絶えず奉仕を行なっていなければ落ち着かない世人の姿は重なる。

つまり、現代においても、信仰を持たない非キリスト教徒でさえ、プロテスタントと同様の精神に毒されており、労働は恐怖から行われるのであって、人々は、労働し続けることでしか自己の救いを担保できないかのような強迫観念に絶えず無意識に追い立てられているのである。

そのような文脈における労働は、根本的に異常であって、それは本当の意味での他者への奉仕ではなく、また本当の意味で本人の幸福につながるものともならない。

これまでずっと述べて来たように、我が国における労働は、単なる労働の概念に当てはまらず、より深い意味がある。そこで言う労働とは、神に逆らって行われる、人間の偽りの自己救済の努力であって、人間が人間の力で自己肯定し、理想状態に達しようという、カルト的な偽りのイデオロギーに基づく、決して報われることのない努力なのである。それだからこそ、そのような文脈における労働は、根本的に呪われており、何の実りもたらさず、人間をただ不幸に追いやる効果しか持たないのだと筆者は言うのである。

それはちょうど、沈没船に乗っている人たちが、互いに「私たちは大丈夫、死ぬはずはない」と言って慰め合う風景のようなものである。船はまだ沈んでおらず、沈む気配もそれほど感じられず、船の中ではまだ平穏な生活が維持されている。ある人は甲板を磨き、ある人は食事を作り、ある人たちは子供たちの世話をし、談話に明け暮れ、舵を取る。そうして皆が互いに心地よく過ごせるために配慮し合って、互いに奉仕し合い、一見、まことに美しい、思いやりに満ちた風景が広がっている。

だが、そのようにして人々が互いに配慮を示し合い、仕え合い、認め合うことの本当の目的が、船の沈没という決定的に覆せない未来の事実を覆い隠し、そこから目を背けることにあるとすれば、彼らのその涙ぐましい努力は一切が無意味であり、悪であるとさえ言える。彼らがどんなに努力して、そこに生活の向上と発展をもたらし、弱い人々を助け、他者の幸福を支え、善良に高潔に振る舞い、互いを受け入れ合っても、その船が決定的に壊れており、やがては沈むしかないことが明らかならば、彼らの労働や奉仕の成果はすべて無に帰するのである。彼らの自己肯定は、自己否定へとつながるのである。沈みゆく船の上で、互いへの愛や、社会貢献度を誇り合っても、むなしいだけである。

むしろ、沈没船から一刻も早く脱出することこそ、救済であり、善であり、社会貢献である。沈没船上での生活を維持することが善なのではなく、その生活から人々を解放し、自分も解放されて、沈没船によらない新たな永続的な生活を打ち立てることの方が、緊急課題である。

だが、どういうわけか、沈没船の中にいる人たちは、絶対にそこを出ることができないと思い込んでいる。彼らは自由になるために、船が沈む前に脱出することを自らの義務とはみなさず、むしろ、自らそこにとどまり、破滅を選びながら、それまで通りの生活を送り、さらに生活を向上させることができるという偽りの夢にしがみついている。そして、「神は私たちを見捨てるはずはない、神は私たちを哀れんで下さる。ほら、私たちはこんなに恵まれているし、こんなに努力している。私たちの善良な努力は神に覚えられている。私たちは神に受け入れられている」と言い続けているのである。

彼らは一度も神の方を向いたことがなく、ただ人間に奉仕しているだけなのに、自分たちの人類への奉仕活動、社会貢献の努力を、神も認めて下さるはずだと思い込み、自分たちの奉仕を指して、神が自分たちを見捨てるはずがない根拠だと言い続けているのである。

要するに、彼らは、自分たちの努力を振りかざして、これをもって自分たちを義と認めよと、神に迫っているのである。

人間が己が労働を通じて経済を上向かせ、社会を発展させ、理想状態に近づけることができるという考えは、筆者に言わせれば、それ自体、神に敵対するイデオロギーであり、結局、沈没船に乗っている人々が唱える実現するはずもないユートピア理論と同じなのである。

その労働や奉仕は何のためのものなのか? 結局、人間が恐怖から目を背け、自己安堵するためのものでしかない。もっと言えば、人間が自力で己が罪を克服して、自力で新創造に達して、神を抜きに、自力でユートピア的理想社会に至りつくために行うむなしい努力でしかない。

そこには徹頭徹尾、神が不在なのである。個人的な救いの確信がなく、神が分からず、神を見いだせない人々が、互いに寄り集まって支え合い、集団的に自己肯定しようという、イチヂクの葉同盟、バベルの塔の試みしか存在しないのである。神はそのような人類の自己救済の努力をこそ、最も忌み嫌われ、退けられる。

だから、我が国が推し進めている一億層活躍なる概念も、結局、プロテスタントの教会の信者たちと同様に、自分が本当に救われているという確信のない人たちが、罪の意識と恐怖から目を背けて、自己肯定するためのに作り出された嘘のカラクリに過ぎないのである。

そのような自己救済の努力としての労働や社会貢献を通じて、人が自己の正しさを客観的に世に証明し、あまつさえ、これを神にまで認めさせ、それによって自ら救いにあずかり、新創造へ至りつこうという考えは、完全な幻想に過ぎず、絶対に実現することはない。

その願望は嘘であり、恐怖に基づく現実逃避でしかないからこそ、そのような努力としての労働は、やればやるほどますます人間を悪くし、不幸を増し加えて行くだけなのである。

兄弟たちを日夜訴える者の敗北――プロテスタントの終焉と、キリスト者の新しい時代の幕開け――

カルト被害者救済活動の自滅――兄弟たちを訴える者の敗北と、プロテスタントの時代の終焉――
 
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためなのです」(Ⅱコリント5:20-21)

最近、筆者はキリストの義、キリストの贖いの完全性、永遠性というテーマを追求している。

キリストの贖いを通して、クリスチャンが受けた神の義は、この地上の生涯だけでなく、永遠にまで及ぶ。

キリストが十字架で達成された贖いの御業を通して、神が信じる者にお与えになった義は、この世のどんな事物や、どんな人間の思惑によっても、左右されず、信者の年齢、性別、能力、知識、経験などにも全く左右されない。

信者自身がこの尊い救いを自分自身で否定して退けでもしない限り、神が信者にお与え下さった義は、永遠に至るまで信者に適用されて、悪魔の側からのどんな訴えをも大胆に退ける根拠となる。

だから、たとえば、仮に共謀罪に類する法律が、この国で、100、200と制定され、訴える者たちが何百人、何千人集まって、信者を罪に定めようと協議しても、無駄なことである。

パウロは、キリスト者が神から受けた絶大な特権についてこう言った。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めて下さるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:33-34)

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。<…>

 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらのすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:35-37)


「圧倒的な勝利者」。これは信者にとって、絵空事や空文句ではなく、揺るぎないリアリティなのである。

だが、信者は依然として、見かけは弱く、取るに足りない人間にしか見えないことであろう。しかし、信者を勝利させるのは、外見的な強さではなく、信仰にあって働く神の力である。

だから、神がキリストを通して信者にお与え下さった義が、永遠に変わらない完全なものであることがこの地上で証明されるためには、あえて戦いは難しい方が良い。ダビデがゴリアテの前に立った時のように、エリヤがバアルの預言者たちの前に立った時のように、信者には、敵の訴えの前に立つとき、信仰以外の肉の武器は、できるだけ少ない方が良い。

こうして、己の権勢にも、能力にも、知識にも頼らず、ただキリストの御霊だけに頼るいと小さき者が、御言葉への信仰だけによって、激しい戦いを勝ち抜いて、勝利をおさめるのを見る瞬間ほど、キリスト者にとって光栄かつ爽快な瞬間はない。

肉の腕により頼んで、己の勝利を確信してすっかり自己安堵していた人たちが敗北し、キリスト者の神が、永遠に生きておられ、正義を持って右の手を動かし、信者を力強くかばってすべての訴えを退け、あらゆる危難から救い出して下さる方であることを知って、茫然自失するのを見るのは、キリスト者としては言葉に尽くせない喜びであり、そういう瞬間には、ああ、やっぱり、私はキリスト者になって良かった、と思いながら、神の御言葉の確かさの前に、畏れかしこみ、心から神に感謝を捧げ、神に栄光を帰するのである。

そういう瞬間が、筆者の人生には増えつつあって、大きな楽しみとなっている。

我らの神は、その名を不思議と呼ばれる方、どんな時にも信者と共におられる力強い助け主。神には対処できない状況は何一つない。

だから、信者が自分をどんなに力不足のように感じたとしても、恐れることはないのである。キリストが、信者のために、神の知恵、義と、聖と、贖いになられるからである。

「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

 しかし、神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

 また、この世の取るに足りない者や、見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:25-31)

さて、信者がいくつもの戦いを経験し、その中で、神への愛と信頼をより深め、キリストの義、キリストの聖、キリストの贖いを自分自身のものとして受け取れば受けとるほどに、信者の心からは、恐れから去って行く。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(Ⅰヨハネ4:18)

恐れは、罪の意識から生じるものであって、人が自分の罪や、未熟さ、不完全さのゆえに、報いとして刑罰を受けねばらないという予感がその根源なのである。

だが、神の愛の中に確信をもってとどまる信者は、罪意識とは無縁であり、恐れることなく、心を雄々しく、強く持っていられる。そのような信者は、もはや「兄弟たちを訴える者」である悪魔からの挑戦や脅しの前に、揺るがされることなく、大胆な確信を持って、御言葉を証言することができる。その確信は、やがて来るべき日に信者が神の御前で受けるさばきの時にも、大胆に立ちおおせる力を与える。

このように、キリストにあって神の目に義とされたという確信は、信者が信仰の道を進めば進むほど、より確かなものとなって行く。それにも関わらず、神が義として下さった信者を再び罪に定め、訴え、陥れ、滅ぼそうとするような者は、信者個人に挑戦しているのではなく、信者を贖われた神ご自身に挑戦し、神の国の秩序に挑戦しているのであるから、その者は、自分こそ罪に定められて滅びるであろう。

神が義とされたクリスチャンを再び罪に定めるという、悪魔的挑戦は、どんなにやっても無駄な骨折り損で終わる。それは神の定められた永遠に変わらない秩序を覆そうとする試みであるから、続ければ続けるほど、当人にとって不利益をもたらすだけである。

ところで、主の御業は、早い時にはとても早い。

先日、武蔵野警察から連絡があった。当ブログの読者であれば、これが何の件に関するものであるかは、説明するまでもないと思う。この地球上に、武蔵野警察経由で、筆者に連絡を試みて来るような人間は、たった一人しかいない。

それはかつて筆者を警察に訴えると言って息巻いていた杉本徳久氏である。同氏がどれほど筆者を提訴することを強く望んでいたかは、杉本自身の書いた文章からはっきり感じられる。

上記の文章も、ゴールデンウイーク中に送られて来たことを思い出すと、同氏はこの年末年始も、またしてもこの件に夢中になっていた可能性があるように想像される。

だが、武蔵野警察は筆者にはっきりと言った、杉本氏からの筆者に対する告訴は事件として成立しないと。

これは筆者の読み通りであった。筆者は、長年、このような事件に巻き込まれたせいで、それなりの下調べを行ったので、どうせこういう結末になるだろうと予想していた。それは上記の杉本氏の文章に対する返答の中でも書いた通りである。

しかしながら、筆者のその確信は、冒頭に書いた通り、何よりも信仰に基づく確信であり、神がキリストを通して筆者に付与して下さった神の義が、こんな程度の事柄で動かされるようなことは絶対にないという確信に基づいていた。

信者が、こんな程度の事実無根の脅しを真に受けて、信仰告白を自ら放棄しているようでは、キリスト者の名がすたる。

こうした事件は、信者の信仰を試すために、神があえて許されて起きているのである。神は、信者が脅しを真に受けて、自ら信仰告白を断念するかどうか、ご覧になる。

もしも筆者の信仰告白が、見ず知らずの、信仰さえあるかどうかわからない第三者の、根拠もない恫喝によって、簡単に左右されたり、放棄されるほどに軽いものであるなら、そんな程度の証は、初めからしない方が良いであろうし、神の名折れにしかならないその信者は、信仰者を名乗らない方が良い。

それほど不確かな救いの確信しか持っていないなら、そんな信仰は、生涯の終わりを迎えるまでに吹き消されるだろう。

そんな風に、自分を危険にさらしたくないばかりに、不利な状況になればさっさと信仰告白をやめて、神の栄光のために、自分を惜しんで働くことを厭う、無精で自己中心で臆病な信者は、来るべき裁きの日に、神に叱責を受け、そして、人前でイエスを拒んだ罪の報いとして、主イエスからも拒まれて、御国から除外されるであろう。

聖書によれば、おくびょう者を待ち受ける分は、「第二の死である火と硫黄との燃える池だけである。臆病者は神の国に入れない(黙示21:8)

臆病者は、神が自分に与えて下さった贖いの完全さを信じないので、悪魔に脅されれば、自分が贖われた者であることをあっけなく否定して、犯してもいない犯罪の数々を喜んで自白して、自ら世の罪人の軍門に下って行くであろう。そんな信者が、神の国に受け入れられることはまずありえない。自分で告白した通りに、罪人のまま死ぬであろう。

悪魔の嘘は、いつも最大限に膨らました風船ガムのようなもので、どんなに大きく見えても、細い針でわずかな穴をあけただけで、音を立てて弾け飛ぶほど、脆く、はかないものでしかない。あるいは、ナメクジのようなもので、塩をかけておけば、そのうち溶けて消え去る。もっと美しい表現が好みなら、シャボン玉と言っても良い。七色の光彩を放って、一時的には美しく輝くかも知れないが、次の瞬間にはもう跡形もなく消えている。掴むこともできず、痕跡すらも残らない。そういうものを真に受けて、これを揺るぎないリアリティだと思い込むのは、子供か、よほどの愚者だけである。

だから、武蔵野警察には、この機をとらえて、むしろ、筆者を口封じしたいと思っていた連中が、長年に渡り、どんなに卑劣で陰湿な方法を用いて筆者を追い詰め、断筆させようと数々の不法な嫌がらせを行って来たか、かなり時間をかけて仔細に説明しておいた。

警察も、根拠のない訴えを真面目に取り上げたりすれば、自分自身が逆に訴えられ、害をこうむる可能性があることは知っている。虚偽の事実に基づいて刑事告訴に及んだりすれば、訴えた人間だけでなく、その訴えを取り上げた警察も、一緒になって名誉棄損で訴えられる危険が伴うのだ。

昨今、スラップ訴訟という言葉が世間に普及するに連れて、カネや権力や地位や人数にものを言わせて、ただ恫喝によって自分に不都合な言論を口封じすることだけを目的に、何らの確たる証拠もなしに、自分よりもはるかに弱い市民を、法廷闘争に引きずり出しては、痛めつけようとするような人間は、相応の社会的制裁を受けてしかるべきだという考えが、世間に常識として広まり、定着しつつあるように見受けられる。

折しもちょうど良い頃合いで、DHCという巨大企業から、企業に不都合な言論弾圧を目的に、6000万円という高額なスラップ訴訟を起こされて、被告とされながらも、この闘いを耐え抜いて勝訴した弁護士のブログ「澤藤統一郎の憲法日記」のつい最近の記事「「ヘイト・デマ ニュース番組」の元凶・DHCとの闘いにさらなるご支援をー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第99弾」(1月28日)にも、スラップ訴訟をしかけるような人間に対しては、その逆の損害賠償の訴訟を起こすことで決着をつけねばならないことが書かれている。

この記事を通しても分かるように、不当な訴訟に巻き込まれた人々は、ただその訴訟に勝つだけでは不十分なのである。スラップ訴訟にただ勝訴しただけでは、いわれなく被告とされた人々が受けたダメージを消すことはできない。彼らは、不当な訴訟をふっかけられて被告とされた年月の間に傷つけられた社会的名誉、受けた精神的苦痛、訴訟への準備によって奪われた時間、気力、体力などの全ての損失を、原告側から取り返すべきなのである。
 
そうしない限り、スラップ訴訟自体が、悪であり、しかけた人間にも、とてつもない損となって跳ね返ることを思い知らせる方法はない。こうしない限り、カネや権力にものを言わせて、言論弾圧のために、司法の場を悪用して、悪意ある訴訟を起こしたい人々の思いに歯止めをかけることもできない。

杉本徳久氏は、村上密牧師が鳴尾教会にしかけた、初めから勝ち目のなかった、ただ恫喝だけを目的とする訴訟にも、かなり深く関わって、村上サイドを支援して来た。その経過は杉本氏のブログに記されている。

だが、初めから敗訴覚悟で恫喝目的の訴訟をふっかけることは、非常に大きなリスクを伴うことであり、その訴訟を支援した者も、不利益を受ける可能性がある。つまり、村上密だけでなく、村上サイドを支援して、根拠なきデマを広めた人々も、一緒になって賠償請求の対象とされる危険があるのだ。

教会やクリスチャンは、この世の人々と違って、訴えると言われれば、すぐに怯えてひっこむか、あるいは、反駁して、不当な訴訟に勝っても、受けたダメージを取り返すこともなく、何の反撃もして来ない、羊のようにおとなしい人々だと、思われているのかも知れない。もしそうだとしたら、それは事実ではないので、考えを改めてもらわないと困る。

聖書は、悪魔を「兄弟たちを訴える者」と呼んでいる。それは、悪魔がいわれのない罪をおびただしく着せては、クリスチャンを告発することを稼業にしていることを物語っている。あらゆるスラップ訴訟は、まさに悪魔の精神から来るものである。

だが、同時に、聖書は、「訴える者」である悪魔を「ほえたけるしし」にたとえ、この「しし」の咆哮(根拠なき訴え)に、信者はきちんと立ち向かうよう警告している。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさいご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」(Ⅰペテロ5:8-9)

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコブ4:7)

「ほえたけるしし」のごとく、獲物を求めて教会をさまよい、咆哮によって聖徒らを脅かし、聖徒らを獲物のように捕まえては、泥沼の裁判に引きずり込んで見世物にし、虚偽の訴えによって傷つけ、苦しめるような不届き者は、獣のごとく捕獲されて、教会の外に追い払われるべきである。だが、それだけでなく、そのような者は、聖徒らに不当な打撃を与え、神の国を宣べ伝える教会の使命を不当に遅延させた罪の報いとして、相応の償いを要求されてしかるべきである。

だから、「ほえたけるしし」に脅かされた人々は、牧師であれ、信徒であれ、いわれなくこうむった損害に対して、黙っておらず、きちんと物申した方が良いであろう。そうしなければ、このような連中は、決してその咆哮をやめないからだ。

箴言には次のような御言葉もある。

罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。」(箴言13:22)

クリスチャンの使命は、悪魔の不当な訴えを反駁して退けることだけにあるのではない。悪魔に「立ち向かう」姿勢が必要なのである。それは、聖徒が、神の義によって、自分自身の潔白を主張するだけでなく、神が贖われた聖徒を訴えた悪魔の有罪性を指摘し、悪魔の不当な打撃によってこうむった損失について、悪魔に補てんを要求し、ダメージを取り返すことを含んでいる。

悪魔から財産を没収して、悪事を働く機会を奪い、これを教会財産として、福音伝道という目的のために用いることは、神の利益にかなっており、罪ではない。

このように、敗訴覚悟でスラップ訴訟を起こすことは、今の時代、自滅行為でしかないのだが、さらに、訴訟さえ成立するかどうかも分からない段階で、気に入らない相手を恫喝して、黙らせるためだけに、「訴えてやる」などと脅しをかけるのは、それに輪をかけてたとえようもなく愚かな行為である。

だが、武蔵野警察は、杉本徳久氏が、相も変わらず、筆者を憎み抜いて、打撃を与えるために、警察にせっついているのではないらしいこと、明らかに、筆者を告訴するなどといった荒唐無稽な脅しは霧消し、むしろ、今は同氏が「早期解決を望んでいる」らしいことを伝えて来た。

特に、筆者に感じられたのは、杉本氏が、もうこれ以上、村上密や、他の牧師たちの仲間とみなされたくないと考え、村上の活動から手を引きたいと願っているらしい様子であった。おそらくは、杉本氏自身が、こんなむなしい反キリストの悪魔的精神に貫かれた聖徒らの迫害運動に関わることに嫌気がさして、それが自分にとってどんなに限りなく不名誉な損失であるかを理解したのであろう。そして、この活動に関わった記録を消し去りたいと望んでいるのであろう。

もしそうだとすれば、それは大変、歓迎すべき事実であって、筆者には反対する理由もないのだが、ただし、筆者としては、できもしない告訴その他その他の脅かしにより、8年にも渡って、脅され続けた年月に対しては、相応の責任は取ってもらうことが条件となる。

杉本氏とのトラブルは、そもそも、2009年の秋に、筆者がたった一件の自分の手で杉本氏のブログに投稿したコメントを削除してほしいと申し出たことをきっかけに始まった。この何でもない依頼をきっかけに、杉本氏は削除に応じるどころか、見ず知らずの筆者に向かって、削除を要求した理由が我慢ならないと、不当な因縁をつけ、それ以来、自分にとって不都合な言論を筆者が発表する度に、中傷や脅しや嫌がらせによって、次々削除を要求して来たのである。こうして、筆者が脅され続けた年月は、なんと今年で8年目を迎える。

約8年間という長きに渡って、できもしない告訴をちらつかされたり、個人情報をばらすと言っては脅されたり、誹謗中傷の弾劾記事を次々と書かれて冷やかされ、病気でもないのに人格障害だと言われ、重症のマインドコントロールを受けているとか、カウンセリングを受けているとか、人間関係についても虚偽の事実を流布され、社会活動をも、執筆活動をも、妨害されて来たのだから、このような他人を深く傷つける行為には、相応の対処を求められて当然である。もし杉本氏に市民としての自覚や礼節の感覚がわずかでも残っているなら、彼は自分の行為に対して責任を取るべきである。

だが、それに応じさえするならば、筆者の側でも、和解は可能である。我らの神は、悔い改めた人の罪は二度と思い返されないと言われる方なので、一旦、書いた記述は取り消せないとは、筆者は考えていない。悪魔にも悪霊にも悔い改めの余地はないが、人間はそうではないのだ。人間は生きている限り、変わり得る存在であり、願わくば、良い方へ変わって、神の和解を受けるチャンスを逃さないことである。

「今日、もし御声を聞くならば、
 荒野で試みの日に
 御怒りを引き起こしたときのように、
 心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル3:7-8)

警察は、以上のような思惑を告げると、民事には不介入だが、かといって、筆者の意見に反対するでもなく言った、「あなたの納得のいくようにして下さい」と。

まるで、いたずらでボールを投げて学校の窓を割った悪餓鬼中学生を、反省させるために、学校へ同伴して来た親のようであった。

こうして、筆者に対しては、スラップ告訴も成立しないうちに、杉本氏が筆者について訴えていた「罪状」なるものは、シャボン玉のように消し飛んだわけだが、このことは、筆者に対する神の贖いが正真正銘、完全であることをはっきりと物語っている。

聖書によれば、クリスチャンは、世によって罪に定められるような存在ではなく、まさにその逆であって、クリスチャンこそ、世をさばく存在なのである。

キリストと共なる十字架により、律法によって律法に死んで、神の御前に義とされたクリスチャンは、もはや、この世のどんな法によっても、罪に定められることのない、むしろ、世のすべての法体系を超える、超法的な存在なのである。

だからこそ、パウロは次のように言ったのである、あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか」(Ⅰコリント6:2-3)

もちろん、クリスチャンも、神の御前で申し開きを求められるので、自分の行動については、何が神が喜ばれることであるかをきちんとわきまえねばならないが、パウロは、クリスチャンは、世から罪に定められるどころか、世を超越し、世をさばく資格のある天的存在であり、さらに、御使いさえもさばく者であると言ったのである。

それほど絶大な権威をキリストにあって付与されて、天的な秩序の中に召されているクリスチャンを、村上密のような人々は、再び、世の支配下に置いて、世の法廷のさばきの下に引きずり出して、世人の目線によって罪定めしようと望んでいるわけだから、これは聖書の御言葉の完全な否定であり、まさに悪魔的発想から来るものとしか言えない。

筆者はこれまで、村上密の主張の根本的な異端性は、同氏の思考における、この世の秩序と、天的な秩序の逆転にあることを、再三に渡り、述べて来た。

つまり、この牧師が試みたように、神が罪赦されて義とされたクリスチャンを、世の法廷に引きずり出して、罪に定めようと試みることは、クリスチャンに適用された神の救いの御業を否定し、人類の罪を贖うために十字架で流されたキリストの血潮の価値を否定し、それによって我々信じる者に与えられたキリストの義を否定することであるから、それは到底、信仰のある者の取る行動でないが、そのような考えは、この世が教会の上に立ち、世が教会の裁き主となることを肯定するものであるから、天と地の秩序を逆転させて、教会におけるキリストの支配を否定して、教会を世の支配下(悪魔の支配下)に置き、悪魔を教会の主人に据えようとするのと同じであり、神に対する反逆の反キリスト的精神からでなければ、決して生まれ得ない発想であることを述べた。

そのようにして、神が贖われて世から召し出された者である教会に、恐れ知らずにも有罪判決を下そうと試み、教会を再び世の奴隷とし、世の支配下に置こうと企む者たちは、反キリストの精神に息吹かれたアイディアを提唱しているであり、しかも、このようなアイディアを、他ならぬキリスト教界の牧師が提唱し、その主張を他の牧師たちが、反対するどころか、黙認し、賛同さえしているのだから、その様子を見れば、キリスト教界というところが、どんなに聖書から遠い、悪魔的精神に毒された場所であるか、また、牧師という連中が、どういう異常な考えの持ち主であるか、おのずと知れようというものだ。

そもそも、この世の社会でも、自分に不都合な言論を繰り広げる人間に向かって、誰彼構わず告訴の脅しをかけまくるヤクザのような人間は、誰からも信用されないのが当たり前で、まして尊敬など受けるはずもない。そのような人間は、公衆の面前でナイフを振り回す幼児と同じく、気のふれた人間として、大人たちによって取り押さえられ、隔離されるだけである。

ところが一体、どうして、キリスト教界では、そんな人間が、いつまでも傍若無人に歩き回り、その乱暴狼藉を周りの人々が黙認し、あまつさえ、拍手を送っているのであろうか。

自分の教団や教会がありながら、教団や教会の規則を無視して、他教会の内政に首を突っ込み、他教会の信徒に密偵のごとく近づいて、他教会やその信徒を法廷闘争に引きり込んで教会を崩壊させるチャンスがないかどうか、弱点を探り出すために、密告を奨励し、チャンスがあれば、スラップ訴訟をしかけて教会に打撃を与え、リーダーを悪者扱いして追放し、信徒を分裂させて弱体化させ、こうして弱体化した教会を自分の教会に併合し、群れを乗っ取ることで、自分の教会を拡大して行く。これらすべてのことを「被害者救済」や「傷つけられたマイノリティへの支援」という正義の旗印のもとに行う。

こういう人間、こういう異常な牧師を、クリスチャンがどうして仲間とみなすことができるだろうか? こんな人間を、もしクリスチャンが「神の家族」の一員、「兄弟姉妹」として自分の教会に歓迎し、さらには、「牧師」として、リーダーとして敬意を払ったりすれば、その人たちの教会の行く末がどうなるか、分からないのであろうか?
 
以上のように教会を荒らし回る人間は、どこからどう見ても、牧者ではなく、ただ羊の群れに紛れ込み、羊を食い散らすためにやって来た凶暴な狼」(使徒20:29)でしかない。聖徒らを法廷闘争に引きずり込んで有罪を宣告することをライフワークとするような牧師は、牧師の名にすら値せず、私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」(黙示12:10)、「荒らす憎むべき者」(マタイ24:15)、「ほえたけるしし」(Ⅰペテロ5:8)などの名で呼ばれることこそふさわしい。

ところが、こんな似非キリスト者、もっと言えば、悪魔に息吹かれた反キリストの精神の持ち主としか言えない人間が、公然と教職者を名乗り、講壇から信徒に向かって教師として説教し、信徒の献金を集め、それによって自らの生計を立て、あまつさえ、その献金をキリスト教界に内紛を起こして、信徒同士を争わせるために用いている。そして、他の牧師たちがその活動の罪深さを指摘するどころか、同業者だからと、その罪をかばいだてし、喜んでその悪しき教会破壊活動を黙認している。これが、今日のプロテスタントのキリスト教界のあまりにもお粗末かつ悲惨な現状である。

結論から言えば、こんなキリスト教界は、もはや霊的に機能しておらず、とうに終わっている組織だと言って良い。

そういうことになるのは、この教界に君臨・支配している牧師たちのほとんどが、本当の牧者ではなく、むしろ、キリストの栄光を盗んで、自分が神の代理人(いや、本心を言えば神そのもの!)として栄光を受けることを願う、信徒を踏み台にして、自分の名を上げたいだけの偽牧者ばかりだからである。

プロテスタントの牧師制度は、以下に記す通り、根本的に聖書に反する誤った制度であり、このような誤った制度のもとで、教職者となっているほとんどの牧師たちは、残念ながら、羊のために心を砕く牧者から、最もほど遠い人たちで、信徒から収奪した献金と奉仕によって己を養う特権階級としての偽牧者に過ぎず、彼らは「羊の所有者でない雇い人」(ヨハネ10:12)である。彼らは、己の名誉、地位、俸給を目当てとして教会にやって来た、雇われサラリーマン牧者だから、もともと羊を守る気などさらさらなく、村上密のような牧師が現れて、他教会を泥沼の訴訟に引きずり込み始め、羊を中傷し、食い散らすのを見ても、「ほえたけるしし」の脅威から信徒を守るどころか、むしろ、獣の咆哮に喜んで同調し、獣の怒りをなだめるために、気に入らない信徒をいけにえに差し出し、信徒が食いちぎられる瞬間を見世物として楽しみ、獣による蛮行に自ら加わることで、自分も「兄弟たちを訴える者」となり、自ら獣と化すのである。

こうして、多くの牧師たちが、「ほえたけるしし」の咆哮に自ら同調したのは、彼らが村上密と同じように、自分自身を神に等しい存在であるとみなし、聖書の御言葉に逆らうことを罪とせず、教職者である牧師の意向に信徒が逆らうことを罪とみなし、自分に歯向かって来る信徒は、徹底攻撃して引き裂いても構わないという、村上密と全く同じ、恐るべき悪魔的思想の持ち主だったからである。
 
教会内で事実上の現人神と化した高慢な牧師たちにとって、村上密の繰り広げるカルト被害者救済活動は、何ら反対すべき性質のものでなく、むしろ、自分たちの特権的地位を脅かしうる、不都合な信徒を、自ら直接手を下さずに「始末」するのに非常に役立つ、手堅い運動であって、手放せない道具であった。
 
何しろ、この運動は、放っておいても、選ばれた特権階級としての牧師たちの地位を脅かすような告発をする「不心得な信徒」を、次々と泥沼の訴訟や、誹謗合戦に引き入れて、都合よく「始末」してくれるのである。しかも、牧師たちが争いの矢面に立って、自らの手を汚すことなく、信徒同士の争いという形で、この「始末」を成し遂げてくれるのである。

キリスト教界の不祥事が次々と暴かれ、被害者運動のようなものが拡大して行くことは、牧師たちにとっては、常に脅威であった。なぜなら、それはやがてキリスト教界全体への批判の高まりを招き、牧師全体に対する批判となって、キリスト教界全体が揺るがされる事態へと発展しかねない危険を秘めているからである。

そこで、牧師たちは、そのようなことが決して起きないように、一計を案じる必要があった。すなわち、キリスト教界への批判を骨抜きにして、キリスト教界(=牧師たちの特権的地位を守るための砦)を揺るがしうるような、本質を突く批判が、決して信徒の中から出て来ないように、まずはキリスト教界への批判者たちを、「カルト被害者救済活動」という、出来レースのような嘘っぱちの似非改革運動の旗のもとに集めて、牧師たちの監視下に置いておき、他方では、この活動に賛意を示さない信徒、あるいは、この運動から離脱する信徒には、暴徒のような被害者運動の支持者をけしかけて、誹謗中傷を浴びせ、信徒同士の同士討ちに陥れることで、口を封じようとしたのである。

こうして、牧師たちが被害者運動を自らの管理下に置いて、動向をつぶさに監視し、信徒同士を互いに争わせている限り、どこの教会でどんな牧師がどんな不祥事を起こうそうとも、キリスト教界全体が揺るがされることはない。出来レースに過ぎない被害者運動に、キリスト教界への批判を独占させている限り、牧師階級全体に非難の矛先が向くことは決してなく、牧師たちの地位は安泰である。キリスト教界の異端性を真に告発する信徒は、みなこの運動が「始末」してくれる。

こうして、自分たちの特権的地位を守るためにこそ、キリスト教界の牧師たちは、暗黙のうちに、村上密の運動と手を結んだのである。牧師たちは、「神に等しい」キリスト教界の聖職者たちの悪事を率先して暴いたり、牧師制度を否定したり、キリスト教界の欠点を指摘し、その教義に紛れ込んだ異端の要素を暴き出すような、分をわきまえない、小賢しく、不届きな信徒を、全員、抑圧・排除して、言論弾圧するための装置として、「カルト被害者救済運動」を大いに利用し、これを用いて、いついつまでも気に入らない信徒を辱め、脅すことを願ったのである。

こうして、信徒を食い物にして自分自身を養うだけの雇われ羊飼いたちの身の上には、「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」(ヨハネ10:12-13)という主イエスの御言葉が、文字通り、成就したのであった。

こうした牧師たちにとって大切なのは、羊(信徒)ではなく、教団や教会で得られる自分の地位、名誉、俸給だけである。それだからこそ、彼らは狼の脅威の前に羊をさっさと見捨て、狼の支配に喜んで屈し、羊を恐怖と暴力で支配し、教会の上に世(悪魔)を主人に据えることに同意したのである。こういう牧者たちの姿は、エゼキエル書で、神が糾弾された「羊を犠牲にして自分自身を養う牧者」たちの姿にそっくりである。

「神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。

弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力づくと暴力で彼らを支配した。

彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。<…>

それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって、牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。それゆえ、牧者たちよ、のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。」(エゼキエル34:2-10)
 
今日のキリスト教界にはびこる以上のように歪んだ偽牧者たちの姿は、主イエスが地上におられた時に、御子を最も激しく迫害した、律法学者やパリサイ人たちといった宗教的エリートの姿にぴったり重なる。

今日の多くの牧師たちは、自らが、律法学者、パリサイ人と変わらない、歪んだ宗教的エリートとなっていればこそ、自分たちの罪や、キリスト教界の闇が真に暴かれて、牧師階級全体が糾弾されて揺るがされることのないように、策謀を巡らせ、表向きには「キリスト教界で被害を受けた者たちの優しい支援者」を演じながら、その実、キリスト教界への不満分子をことごとく監視対象とし、弾圧することで、批判を骨抜きにし、批判者を駆逐して行ったのである。その際にも、この牧師たちは自分自身が訴えられないために、杉本徳久氏のような人物を、まことに都合の良い捨て駒のような存在として、自分の身代わりに全てのリスクを負わせて争いの矢面に立たせ、存分に利用するほどまでに卑怯・卑劣であった。

とはいえ、その杉本氏も、村上密の繰り広げるカルト被害者運動をすでに見放しているようだから、一時は疫病のように猛威を振るった村上の運動も、もはや事実上は、壊滅し、無と化していると言って良い。

こうして、己を神とみなすキリスト教界の教職者たちが、どんなに寄り集まって、陰謀を巡らして、気に入らない信徒を誹謗中傷し、引きずりおろして罪に定めようと試みても、その計画は成らなかった。今や、信徒はみな次々とこの悪魔的活動から手を引き、神が贖われた信者を再び罪に定めるような不届きな願いを抱いているのは、もはやキリスト教界の牧師たち以外にはいない。

筆者は、キリスト教界はそれ自体がフェイクであって、偽物の教会であることを、これまでずっと書いて来た。プロテスタントの牧師制度は、「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5) 「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」(マタイ23:8)という聖書の真理に真っ向から逆らい、神と信徒との間に、キリストの他に、神の御言葉を取り継ぐための教師としての宗教指導者を、不可欠な存在として置くものであるから、聖書に根本的に反している。

牧師制度は万民祭司という新約の真理を否定する制度であり、制度自体が反キリストの精神の上に成立している以上、こういう制度によって生まれた牧師たちが、神が贖われた信徒を中傷したり、罪に定めようと策謀を巡らし、見世物にして食いちぎったとしても、全く不思議ではない。

牧師制度の忌まわしさは、この制度が搾取にまみれているという点からも、明らかである。プロテスタントでは、聖書の真理を否定して生まれた牧師という忌むべき聖職者階級全体を維持するために、信徒が献金と無償奉仕を続けて、牧師一家を養っている。牧師だけでなく、牧師の妻や子供までも養っている。退職金や、老後の世話までもする。中には、一週間、労働もせずにブラブラしている若い牧師を支えるために、信徒が夜の仕事をする例もある。信徒の奉仕はどれほど長い年月に渡って続けても無報酬だが、牧師だけは一年生でも報酬をもらう。こうした事実に照らし合わせても分かるように、牧師制度とは、結局、教会内の信徒間にもうけられた不当な差別であり、キリスト教の装いをしたカーストであって、牧師は事実上、信徒に君臨する特権階級、宗教貴族なのである。

結局、牧師制度とは、宗教に名を借りただけの、信徒からの搾取と差別の体系なのであり、カトリックの聖職者のヒエラルキーとはまた違った形で、信徒間に差別をもうける、神の御心にかなわない反聖書的な制度である。
 
さらに、プロテスタントの牧師職には、一体、どうして上記したように、神に逆らい、聖書の御言葉を否定して、信徒を食い物にし、恐怖と暴力によって羊を支配する、見栄と出世欲と自己保身の塊のような、人格的に未熟で、どうしようもない考えの持ち主がやって来るのかと言えば、それはただ牧師制度が間違っているだけでなく、牧師になるためのハードルも、あまりに低すぎるからである。

プロテスタントの牧師職に就くためには、一般的に、カトリックのような長い教育訓練は必要とはされない。人手不足や、大した俸給をもらえない事情も手伝って、候補者が少なく、誰でも志願すれば、簡単に牧師になれる。

特に、ペンテコステ運動に属する組織では、状況は他の教団教派と比べても呆れるほどひどく、すでに述べた通り、牧師になるための条件は、本人の熱意以外には、無きに等しいと言って良い。信仰歴も要求されず、場合によっては、神学校での教育さえ受けずに、名乗り出れば、明日からでも、誰でも「パスタ―」になれるというお手軽さである。

そのようなハードルの低い牧師職には、当然ながら、集まる人々の人格的・教養レベルも低くなりがちで、果ては神に出会ったこともなく、救いの確信もなく、神から召しを受けていないことが明々白々な、信仰さえあるか不明の人間が、ただ自分勝手な情熱だけで、献身して牧師になったりもする。あるいは、社会ではどこへ行っても通用しない、到底、教師やリーダーにふさわしくない未熟な人間が、手っ取り早く地位と名誉を求めて献身する。あるいは、カルト団体から強制脱会させられた人間が、マインドコントロールさえ解けていないのに、ただカルトの教義とキリスト教の教義を取り替えて献身する。家庭的に大きな不幸を抱える人間が、自らの抱える精神的問題が全く解決していないのに、問題解決を求める過程で献身したり、あるいは、プロテスタントの多くの教会が繰り広げるお涙頂戴の社会的弱者への支援の対象となったホームレスや、元ヤクザのような人々が、受けた恩義を返したい気持ちから人情によって献身する。あるいは、世襲制の寺のように、たまたま親や親族が牧師だったからと、その息子や娘が二世三世として献身して牧師になる。

神学校は、牧師の卵たちが、自分の将来に有力なコネとなってくれそうな牧師家庭の子女を物色するための結婚相談所も同然の存在に成り果てている。つまり、キリスト教界は、水と霊によって新しく生まれた信者が集まる場所どころか、この世の肉の絆や、血統がものを言う、完全に地上的で世俗的な宗教に成り果てているのである。

こういう得体の知れない不届きな動機で聖職に志願した人々が、社会で切磋琢磨して人格を練られることもなく、ほんのわずかな学びの年月を経ただけで、もうひとかどの教師となって、「先生」と呼ばれ、信徒にお説教を垂れ、信徒が汗水流して働いて得た献金で自分自身を養い、寄り集まって、自分の教会を互いに自慢し合い、ライバル牧師を凌ぐために、教会をどうやってもっと大きくして、献金額を増やすか、日々、思いを巡らせているのである。

一般に、プロテスタントでは、牧師同士の争いは相当にひどいと言われている。牧師たちは、自分の教会の礼拝堂の規模や、信徒や献身者の人数を巡って、絶えず競い合い、教団が事実上の献身者のノルマを課したりして、争いを煽っている。そこで、牧師たちは、互いの成功を妬み合い、陰で中傷し合って、足を引っ張り合うなどは日常茶飯事で、こんな場所で、エキュメニズム運動など、どんなに唱えてみたところで、互いに競い合う牧師たちの間に信頼関係や、協力関係が生まれることはない。

プロテスタントの「多重分裂病」(=牧師たちの争い、教会同士の争い)のひどさは、牧師たち自身も認めており、これこそプロテスタントの致命的な弱点であって、牧師たちの目指す「リバイバル」を不可能にしている最も深刻な原因であるということは、牧師たち自身が、認め、度々、説教などで反省材料として語るほどである。(人間的な確執に加えて、宗派や教義の違いから生じる絶えざる争いもある。)

このように、プロテスタントには、牧師たち自身が、教職者たちの間で争いがやまないことを憂慮している現状があり、インターネットで起きていることは、その反映に過ぎない。要するに、牧師たちの分裂闘争や、妬み合い、足の引っ張り合いが、信徒に飛び火しているだけなのである。インターネット上で、信徒をさらし者にし、中傷することで、誰よりも喜び、鬱憤を晴らしているのは、牧師たち自身なのである(村上密はその代表格に過ぎない)。

筆者は物心ついた時から、プロテスタントを観察して来たので、決して誇張した事実をここに書いているわけではないが、このような状況なので、人格的に高潔で、真実、信仰深い信徒は、どんなに主イエスに従う決意をしても、あくまで信徒のままにとどまり、決して牧師にはならない。謙虚な人間ほど、決して自分から名誉や高い地位を求めないものだが、さらに、聖書が「多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)と述べている以上、多くの信者は、この警告に真摯に耳を貸して、自ら「先生」と呼ばれる立場に立って、格別きびしいさばきに自分をさらそうとは思わない。また、プロテスタントの多くの牧師たちがやっているように、自分の名を大々的に掲げて、正義の旗の下に、お涙頂戴の偽善的な弱者救済活動を繰り広げたり、福音伝道を口実に、奇抜な格好をして世界各国を練り歩き、神の恵みと言っては高価な車を乗り回したりはしない。カルト問題の専門家として、世間で有名になったりすることを目指したりもせず、こうしたすべてのことを売名行為として嫌悪し、忌避する。(筆者がこのブログをペンネームにしているのも、関係者を守るためと、自ら栄光を受けないためである。)

だが、牧師職は、神の目にのみ覚えられるように、隠れたところで奉仕を行う生き方とは正反対の生き方をする人たちが、積極的に手を挙げる職業であり、なおかつ、上記した通り、この職業は、それ自体が、信徒への搾取の上に成り立ち、見えない神ではなく、牧師という目に見える人間に栄光を帰するシステムであるから、この職に志願するために集まって来る人々が、お世辞にも謙虚とは言えない、信徒を踏み台にして出世することを願う名誉欲・出世欲・自己保身の塊のような卑しい人間であっても、何の不思議もないのである。

つまり、牧師制度という聖書に反する制度自体が、教会を腐敗させる根源となっているのである。

だから、村上密の訴えているような「教会のカルト化」は、一部の腐敗した牧師だけの専売特許ではなく、牧師制度そのものが結ぶ悪しき実なのだと、いい加減に、理解すべきなのである。牧師制度という、聖書に逆らい、キリストの栄光を奪って成り立つ、人間崇拝の罪にまみれた制度ある限り、カルト化はやまず、牧師制度そのものの持つ根本的な悪を見ずして、ただカルト化という現象だけをどんなに叩いても、トカゲのしっぽ切にしかならず、一切は無駄なのである。

しかも、牧師が牧師を取り締まることで、カルト化を抑えようという発想なのだから、呆れるようなマッチポンプ、プロレスごっこでしかなく、それは結局、教会のカルト化を取り締まることを口実に、村上密のような野心的な牧師が、他の牧師たちを抑えてキリスト教界の覇権を握りたいがために行われているだけの運動であって、そんな方法では、カルト化は防げないばかりか、教界は前よりもより一層悪くなり、もっと恐ろしいカルト的腐敗に落ち込んで行くだけである。
 
だから、こういう人々の行うカルト取締運動は、上記した通り、本当は牧師制度そのものを温存するために作り出された目くらましの運動であって、牧師階級に属する者たちの利益を守り抜くために作られた出来レースに過ぎないのである。
 
筆者の目から見れば、カルト被害者救済活動などというものが登場して来て、諸教会の腐敗が次々と明るみに出された時点で、これはプロテスタントが役目を終えて、霊的に終焉を迎えていることが、公然と世に示されたという事実を意味する。

かつてマルチン・ルターの登場と共に、ヨーロッパで隆盛を極めたカトリックの組織的腐敗が暴かれ、宗派としてのカトリックの信用が徐々に権威失墜して行き、これに代わって、プロテスタントに信仰復興運動のバトンが預けられたのと同じように、今また、プロテスタントの牧師制度の闇が暴かれ、教会成長論や、ペンテコステ・カリスマ運動のような、教界に蔓延する異端思想が明らかになったことにより、プロテスタントも存在意義を失って、霊的に終焉を迎えつつあるのである。

だから、今後、信徒が真剣に心を砕くべき課題は、プロテスタントの腐敗したキリスト教界をどう立ち直らせるかという問題ではなく、むしろ、このようにまで腐敗したキリスト教界を離れて、牧師制度のないところで、どのように神が贖われたエクレシアとして、神の国の権益に仕え、天的リアリティをこの地においても実際とし、キリストと共にこの地を治め、キリストにある成人になるまで、信仰を成長させるのかを模索することにある。

重ねて言うが、牧師制度という人間崇拝の罪と手を切らない限り、信者が見えないキリストだけに頼り、聖書に基づく信仰の本質に立ち返ることはできないであろう。この教界に身を置いていたのでは、信者は信仰の何たるかも分からないまま、ただ聖職者階級を養うための道具として生涯を終えるだけである。

牧師制度という、人間崇拝・指導者崇拝の罪なる制度を敷くキリスト教界の組織の中で、信者はまことの神に出会うことはできず、真にキリストに従うこともできない。だから、真実、主イエスに従いたいならば、信者は人間の指導者に従うことをやめて、キリスト教界を出て、御霊によって直接、御言葉を教わりながら、見えない神にだけ頼り、キリストだけに栄光を帰する生活に転換するしかないのである。

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー