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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

「わが義人は信仰によって生きる」

ロー マ帝国時代、グノーシス主義者が自分は霊的に死を初めから超越していると誇り、殉教を拒んだのに対し、クリスチャンたちが自ら殉教を選んでいったその根底 には、何があったのでしょうか? そこには、主の十字架の死を自分自身の死として受け取り、そして、受難を通じて、肉(旧創造)に対する神のお取り扱いを 受けたいという願いがあったのだと私は思わずにいられません。

「それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 」(マタイ16:24)

もしもキリストの十字架が(複数形の)罪の贖いのためだけであったなら、私たちにとっては、キリストが身代わりとして死んで下さったことだけで十分であ り、私たちが主と共に苦難を背負わなければならない理由は何もなかったでしょう。私たちは、苦行を通して自分の罪を贖うことは不可能であるのを知っていま す。新たな十字架を自分で作り出すことによって、自分を贖うことは誰にもできません。その意味において、キリストの十字架は完成されたのであり、私たちが 努力によって付け加えるものは何もありません。

しかし、十字架にはより深い働きがあるのです。それは私たちの旧創造(肉)を対処するという働きです。生涯を通じて、キリストの十字架は、信仰により、私 たちの肉を対処するために働きます。地上にいる限り、私たちは贖われない肉体の中でうめきながら生きていますが、それでも、私たちの霊、魂、肉体のすべて に渡って十字架が実際となることが神の御旨です。

「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。 」(Ⅰペテロ1:7)

この御言葉は、金が炉で洗練されるように、私たちの信仰も、試練という炉の中で試され、洗練されなければならないことを示しています。

私たちが信仰だと思っているものの中には、常に自分では気づいていない不純物があまりにも多く混じっています。人はたとえ自分が過ちの多い人間であること を認めたとしても、自分の自己が神の御前に真に罪深いものであり、汚れたものであるという事実を認めることができません。人は自分の目に旧創造の忌まわし さを見ることができません。肉は絶えず見栄を張り、自己の威信を主張し、自分は正しく神に仕えていると考え、神によって低められ、懲らしめられ、栄光を奪 われることを嫌います。

私たちは自分のこの手の中に自分自身をしっかりと握りしめています。そして、私たちの自己が神によって取り扱われる時、それに抗おうとします。しかし、このように巧妙に神に敵対する私たちの肉(セルフ)に対して、神は十字架を適用することを願っておられます。

そこで、主は私たちのために苦しみを用意されます。それは私たちが肉を信頼しないようになるために必要な経験です。シモン・ペテロが、自分たちの前途に苦難が待ち受けていると知った時、主の御前で次のように言ったことは有名です、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」(ルカ22:33)

ペテロはこの言葉を魂の愛から告白したのでしょう。彼は主をとても愛しているがゆえに、主を失うことに耐えられず、だからこそ、どこまでも彼に着いていき たいと自分の願いを告白したのです。しかし、彼はその自分の言葉が、アダムの命に属する魂の愛から発せられたものであることを知りませんでした。彼はその 告白によって、主を失うまいとしていたのです。しかし、神のご計画は彼の思いよりはるかに高く、主イエスが十字架で命を捨てることが神の御旨でした。

アダムの命に属する愛は、常に自己を喜ばせてくれる何物かを失わずに済むよう確保しておこうとします。魂の愛は、自分の愛する者を手放すことを嫌います。 ペテロは自分の告白によって、主を失わずに済むと考えました。死に至るまで主に従えば、主が彼を是として下さるだけでなく、生きている限り、彼の目は主を 見続けて慰めを得ると想像したことでしょう。 

しかし、主イエスは、ペテロのその告白の後ろに、彼の自分を喜ばせようとする動機があることを知っておられました。そして、人が自分を喜ばせようとする動 機によっては、神に従うことができないのを知っておられました。主イエスにとって、死に至るまでも神に従うということは、「神にさえ捨てられる」ことを意 味していました。それは彼が自分の命を捨て去るだけでなく、神からも切り離されること、神に喜ばれ、受け入れられているという慰めに満ちた感覚さえも失う ことを意味していました。

多くの信仰の先人たちは、一様に口をそろえて言います、真実に主に従った人々は、いつもいつも、神の慰めと慈愛に満ちた側面だけを感じて、喜びの感覚だけ を享受することはできなかったと。苦しみの中で、神からあたかも捨てられたかのような経験を、何度も、味わわなければならなかったと。それは人が自分を喜 ばせる感覚によって生きるのではなく、真に信仰によって生きるために、避けては通れない試練だと言います。

私たちは多くの場合、自分が一生懸命に何かをすることで、神を喜ばせ、神の心を獲得できると考えています。そして自分の努力が神に受け入れられ、神に評価 されることだけを願います。カインの捧げものも、人間の努力という点では、人の目には十分に評価されておかしくなかったでしょう。カインも、弟アベルに劣 らず、主のために心を砕き、自分の考える最も良いものを神に提供しようとしたのです。

しかし、神がお受け取りになったのは、人が自分の努力によって勝ち得たもの、人の考え出した最善のものではありませんでした。神がお受け取りになったの は、ただ信仰によって捧げられたものだけでした。そして、信仰は、人に文字通りすべてを要求したのです。私たちの考える最善のものよりも、さらに上回るも のを、神はお求めになるのです。

アベルはキリストの型です。信仰によって捧げられたアベルの捧げ物は、主に喜ばれ、受け入れられました、しかし、神がアベルに求められた捧げ物は、それで 終わりませんでした。アベルの信仰は、彼に地上での栄誉を何ももたらしませんでした。彼は神に愛され、受け入れられましたが、それゆえに、世の憎しみを向 けられ、世からは拒絶されて、自分の命を手放さなければならなかったのです。

主が好まれるのは、目に見える犠牲ではなく、私たちの砕かれた心です。「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:17)  義人ヨブでさえ試みに遭って悔い改めねばならなかったように、神に忠実であろうとする人々は、試練の中で、自分が最善と思ったものよりも、さらに多くを求 められます。アブラハムはイサクを連れて山に登るように促されました。結果的に、イサクを手にかけることはなかったとはいえ、その山で捧げられたものは、 確かに、彼にとって最も大切なイサク、彼が自分自身のように愛するイサクだったのです。

私たちは自分の命のごとく愛するもの、自分自身のように愛するものを手放すように求められ、自分の望み、自分の義に対して死んで、自分自身が碾き臼で挽か れるようにして砕かれていく光景を見て、耐え忍ばなければならないかも知れません。理不尽な経験を味わい、人には嘲笑され、屈辱を味わい、それでも、神を 信じ、神を愛するかどうかを試されるかも知れません。

多くの殉教者たちが、処刑台の前で、大胆に信仰を告白し、勇気ある死へ赴いて行きました。そのような話を聞いて、私たちは興奮するかも知れません。私たち は彼らの勇気に心打たれ、心に喜びを感じ、自分も同じように、断頭台に立たされても、神を誉めたたえようと決意するかも知れません。

しかし、私の予想を述べさせて下さい、恐らく、この先、殉教者からは、殉教によって得られる栄光は何もなくなることでしょう。世間から隔絶された場所で、 トラクターの上に荷物のように積まれ、ぼろ切れのように死んで行く光景には、何の栄光もなければ、興奮もありません。その死の事実さえ、長い間、覆い隠さ れてきたため、それを聞いて拍手喝采を送る人もいなかったのです。この先、主に忠実であろうとするクリスチャンたちは、それよりもさらに無名の最期を遂げ ることになるかも知れません。私たちが神のために何を手放したのか、それを知る人も、神ご自身の他には誰もいなくなるかも知れません。しかし、それでも、 もしも神が許されるなら、「彼は死んだが、信仰によって今なお語」るのです…。

「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」(ヘブル11:4)

私たちは殉教が本当に何を意味するのか、今、時間のあるうちに、考えてみたいと思います。主イエスは、十字架にかかられたあの恐ろしい苦しみの間中、完全 に神に見捨てられていました。それまで彼が御国を宣べ伝える働きを支え、常に共にいて下さり、彼の知恵となり、力となり、彼の命となって下さった御霊は去 りました。神との親しい交流は失われ、彼はたった一人ぼっちで、全世界の憎しみの前に立たされ、その怒りと憎悪を一身に向けられて、屈辱的な死を迎えねば ならなかったのです。

サタンの集中砲火が主の上に降りかかりました。神に愛される者への全人類の敵対、神のご計画への全人類の敵対、そして、神に永遠に捨てられた者であるサタ ンの尽きせぬ憎悪に満ちた攻撃が、主に一身に向けられました。しかし、その時、天でさえ彼の上に閉ざされたのです! まさか、こんな決定的な瞬間に神がご 自分の愛する子を見放されるなど、あってよいでしょうか? これ以上に、彼が神の助けを必要とした瞬間が他にあったでしょうか?

今まで絶えず彼に注がれて来た神の温かい眼差しは、一体、どこへ消えたのでしょう? 主が十字架を負って、人々の怒号の中を歩き続けた瞬間、主の手足が木 に釘づけられていた瞬間、彼が十字架の上で恐ろしい苦痛を味わっていた瞬間、神の愛なる眼差しはどこに向けられていたというのでしょうか?

神は彼の苦痛に対して完全に沈黙されました。愛する御子の叫びに沈黙されました。全人類の不正に目をつぶり、罪なき者が罪ある者として濡れ衣を着せられ、 最も屈辱的な死刑に処されるという忌まわしい事実に対して沈黙されました。神の愛はあたかも消えうせ、神が不正を憎まれる方だという事実も、あたかも消え うせたかのようでした。さらに、主イエスはその時、全世界から見捨てられ、裏切られ、憎まれただけでなく、彼の上には神からの呪いが下ったのです。死に至 るまでも神に忠実であった、完全に罪なき神の愛する御子が、神に拒絶され、捨てられたのです!

だからこそ、主はこのように、叫ばないわけにはいかなかったのです。「…三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 」(マタイ27:46)

私たちはこの事実をよくかえりみなければなりません。十字架で命を捨てる、そのことの中には何の甘やかさもありません。そこには何の自己陶酔もなく、人を 喜ばせる要素は何もありません。この決定的瞬間には、自分が神によって愛され、受け入れられているという安心感、甘ささえ全くないのです。そこには、残念 ながら、私たちクリスチャンが常に愛している神の慈しみ、愛に満ちた優しさ、神の保護、祝福といった側面は見いだせません。

確かに、私たちは御子の十字架のゆえに、神に受け入れられた者なのですから、神によって拒絶されることはもうありません。しかしながら、真実に自分の十字 架を取って主に従うならば、私たちも、御子の味わわれた苦しみにならうことを求められるでしょう。私たちがそれに耐えうるのは、ただひとえに、御子がすで に肉体を裂いてその道を作られ、すべてを完成されたからであり、その彼が私たちのうちに働いて、来るべきすべての試練に耐える力となって下さるからです。

ですから、死に至るまでも神に従うという決意を、自分自身の力で守りきれる人はいません。なぜならそれは人としての栄光のすべてを奪われることを意味する からです。誰一人、自分の力でその苦痛、恥辱、恐怖に耐えうる人はいません。そこには私たちの安心、安全、喜びはなく、私たちの心の最も愛する感覚、神に 喜ばれ、受け入れられているという感覚さえもないかも知れないのです。


「たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。」(Ⅰコリント13:3)

パウロが言ったこの言葉は、殉教は私たちの内で働いて下さるキリストの神への愛、ご自分のすべてを捨てて、死に至るまでも神に忠実であられたキリストの神 への愛によってしか遂げられないことを意味しています。その愛は人の考える愛、魂の愛とは異なっています。自分を喜ばせてくれる対象を常に自分のために 取っておこうとして、すべてを手放すことを拒む魂の愛とは異なっています。

自分で自分を義とするために、あるいは命を捨てる人もいるかも知れません。多くの人々は自分の政治的・社会的・宗教的信念を全うするために実際に命を捧げ てきたのです。しかし、神は私たちの信仰の中からそのような自負を取り除き、自分で自分を義としようとする願いを取り除き、そして、真に栄光を剥ぎ取られ た、真に無化された形で、私たちが召しを全うするように導いて下さると信じます。

「すべて肉なる者よ、主の前に静まれ。主はその聖なるすみかから立ちあがられたからである。」(ゼカリヤ2:13)

私たちの真の保護者は神です。私たちの名誉の守り手は神です。地上のどんな権勢も、能力も、私たちに真の栄誉をもたらすことはできません。私たちは低めら れ、ただ主の御名だけがたたえられるべきです。ですから、私たちは自分の冠を投げ捨て、神の懲らしめの御手の下にへりくだり、私たちはどのような試練を受 けても、ただ主の御名だけが讃えられることを願おうではありませんか?

私たちがこれ以上、肉を頼みとし、己を義として、旧創造に生きることのないように、神は私たちが自己を否んで、十字架を取って主に従うよう、あえて私たち に苦しみの中を通ることを許されるのです。これは罪の贖いのための十字架ではなく、私たちの自己、肉に深く適用される十字架です。これは私たちに深い痛み をもたらすでしょう。それは私たち自身にとっては死に他なりません!

しかし、内におられるキリストに生きていただくために、目に見える栄光を全て剥ぎ取られ、アダムの命を捨て去ることになっても、自分自身の何かによってで はなく、ただ「信仰によって生きる」ことを願うでしょうか? そのために燃える炉の中を通らされ、神の聖なる火によって自己の不純物を焼き尽くされても、 絶えず主の死に自分自身を同形化することを私たちは願うでしょうか? 

ただ主だけが私たちに何が必要かをご存知です。どうか主が御心を私たちの上になして下さいますように。

「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」(ベブル10:38)


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何事も思い煩ってはならない

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 」(ピリピ4:6)

主にある私の大切な姉妹へ

主の御業は本当に素晴らしいです。何事も思い煩ってはならない、という言葉の意味を、昨日ほど、思い知らされた日は、ないかも知れません。昨日は、私に とって、かなり不運な一日だったのです。予定していた行事は台無しになり、重要な連絡は通じず、誤解や行き違いも生まれ、機械は壊れ、私の心は穏やかでな く、ブログを書いている意味をも、改めて、問われました。

私は心細く、弱気になると、すぐに愚痴と泣き言を並べそうになります、そんな時には、とうに終わったはずの事件まで持ち出しては、自分を憐れんだりしそう になります。私は孤独にめっぽう弱く、追いつめられることに弱いのです。ところが、そんな時、主を呼ぶと、主の御働きは、実に早いのですよ。

こうしてブログを書いていることの意味が一つあります。それは、全世界の前で、主が私を守られ、支えられる方であることを、はっきり証できるということで す。主は決して、ご自分の御名によって約束された事柄が、踏みにじられたり、失敗に終わったりするのをお許しになりません。御名の誇りにかけて、私を守っ て下さり、かばって下さるのです。

主は昨日、私の求めに応じて下さり、すぐに、私の人生に起こる、行き違いや、失敗のように見えることでさえ、愛に満ちたご計画の中で、どんなに必要な出来事であるかということを、知らせて下さいました。

全ての出来事に意味があり、たとえ御身体の建造が遅れているように見える時でさえも、主の御手は私たちの上に置かれ、主は私たちと共にあられることを教え て下さいました。ですから、私たちは、この望みの確信を捨ててはならないのだと。思い煩うことなく、困った時には、ただ心の願いを、率直に主に申し上げれ ば良いのです。主は必ず応えて下さいます。その意味が、こんなにも明らかに、分かった以上、この先は、たとえ不運が重なっても、今までのように落ち込むこ とはもうできません。

「家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。<…>キリ ストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神 の家なのである。」(ヘブル3:4,6)

主が御業を始められたら、本当に速いのですね。誰にも止められないほどの勢いなのです。私が思い煩っても、一体、何になるでしょう。御身体 は確実に建造されています! 私たちはもう神の家の中に置かれてしまっているのです! 私たちは確実に結び合わされています! 聖徒たちと私とは、永遠に 一つであり、地上では、このつながりはまだ小さくて、弱くて、揺るがされやすいかも知れませんが、それでも、私は生ける石として、他の聖徒たちと共に霊の 家に築き上げられており、一人にされることは、もはや決してないのです! あなた方はもう孤児ではない、神の家族なのであると、主は教えて下さっているの です。

ハレルヤ! 何という大きな喜び、何という大きな安心でしょうか。全ての出来事の中で、全ての道で、主を認めることができるとは…。ですから、この先、ど んなに心の負担となるような出来事が起こっても、決して、今までのように思い煩ったり、取り乱したり、感傷的になって涙を流したり、過去を振り返って自分 を憐れんだりすまいと思います。ただ、神を信頼して、望みを捨てず、キリストの誇りを捨てず、いつも喜んでいたいと、心から思います。

何と感謝なことでしょう、全ての道において、主が私と共にいて下さると、分かったとは。主が結び合わせて下さった聖徒たちとの絆が、こんなにも強く、恵みに満ちていると、分かったとは。我が愛する栄光の主の御名を誉めたたえます。

あなたの妹ビオラより
 

その打ち傷により…

「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。
 主の腕は、だれにあらわれたか。
 彼は主の前に若木のように、
 かわいた土から出る根のように育った。

 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
 われわれの慕うべき美しさもない


 彼は侮られて人に捨てられ、
 悲しみの人で、病を知っていた


 また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
 彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった


 まことに彼はわれわれの病を負い、
 われわれの悲しみをになった


 しかるに、われわれは思った。
 彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
 
 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
 われわれの不義のために砕かれたのだ。

 彼はみずから懲らしめをうけて、
 われわれに平安を与え、
 その打たれた傷によって、
 われわれはいやされたのだ。

 われわれはみな羊のように迷って、
 おのおの自分の道に向かって行った。

 主はわれわれすべての者の不義を、
 彼の上におかれた。

 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
 口を開かなかった。
 ほふり場にひかれて行く小羊のように、
 また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
 口を開かなかった。

 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。

 その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
 彼はわが民のとがのために打たれて、
 生けるものの地から断たれたのだと。
 
 彼は暴虐を行わず、
 その口には偽りがなかったけれども、
 その墓は悪しき者と共に設けられ、
 その塚は悪をなす者と共にあった。

 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、
 主は彼を悩まされた。

 彼が自分を、とがの供え物となすとき、
 その子孫を見ることができ、
 その命をながくすることができる。

 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。

 義なるしもべはその知識によって、
 多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。

 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
 物を分かち取らせる。
 彼は強い者と共に獲物を分かち取る。

 これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
 とがある者と共に数えられたからである。
 しかも彼は多くの人の罪を負い、
 とがある者のためにとりなしをした
。」(イザヤ書第53章)


 キリスト者なら、誰も知らない人はいないこの章。

 昨夜、ある兄弟との交わりの中で、エクレシアの成員の多くに臨んでいる苦難について考えさせられた。病や、死や、誤解や、孤独や…、今、何と多くの苦難が、私たちキリスト者に臨んでいることだろう。

 だが、キリスト者の義務とは、それらの苦難を都合よく追い払い、自分を高みに押し上げてくれる、自己高揚の教えに走ることではない。私たちがなすべき は、ただ主の御前に自分を低くし、へりくだって十字架を負うことなのだと感じた。その時に、主が私たちを引き上げて下さり、私たちの力となり、義となっ て、私たちの代わりに戦い、また、働いて下さるのだ。

「イエスがベタニヤで、…食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。 」(マルコ14:13)

 私たち自身が、砕かれた石膏の壺とならなければ、中にある香油は注がれない。その香油は、誰よりも、主イエスのために注がれ、また、キリストの御身体なる兄弟姉妹のために注がれる。

 私がこれまでもっていた自信や、誇りや、魂の愛情や、願いを、主によって砕かれる時、もしそれに同意するならば、私という、砕かれた器から、主イエスの ために、信仰によって、芳しい油が流れ出すだろう。そして、それは、頭なるキリストから滴り落ち、キリストの御身体全体を潤し、衣のすそにまで及び、その 芳香は永遠に漂うだろう。

「見よ、兄弟が和合して共におるのは
 いかに麗しく楽しいことであろう。
 それはこうべに注がれた尊い油がひげに流れ、
 アロンのひげに流れ、
 その衣のえりにまで流れくだるようだ。 」(詩篇133:1-2)


 石膏の壺が砕かれることは、痛みに満ちた体験を通してしかあり得ない。キリスト教は自己犠牲の教えではないので、私たちが自ら苦難を追い求めたり、苦難 を作り出す必要は絶対にないが、しかし、主イエスの僕として、キリスト者は、いつか主が砕かれたように、自分も主によって砕かれ、多くの実を結ぶ時が来る だろう。

 振り返ってみれば、私は霊的な真理を追い求めるという口実で、どれほど自分が高められることを願って来たであろうか。しばらくの間、主はそれを寛容に許 しておられた。しかし、それがもはや許されない時がやって来た。私が一粒の麦として、いつまでも自分の殻を保とうとすることは、多くの実が結ばれるという 主の願いとは、まさに正反対であった。私も日々の十字架へ向かうべき時が来た。前述のイザヤ書の最後の箇所は、まさに私たちキリスト者への呼びかけである ように思う。

 「義なるしもべはその知識によって、
 多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。

 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
 物を分かち取らせる。
 彼は強い者と共に獲物を分かち取る。

 これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
 とがある者と共に数えられたからである。
 しかも彼は多くの人の罪を負い、
 とがある者のためにとりなしをした。」


 もしも私たちキリスト者が、強い者(キリスト)と共に獲物を分かち取り、天において、主イエスと共に栄光にあずかる者になりたいと願うなら、私たちは義 なる僕として、多くの人を義とするために、自分は不義に定められことになるだろう。私たちは弱められ、見るべき姿も、威厳も、慕うべき麗しさもなくなり、 主イエスがそうされたように、ただ死に至るまで、神と隣人のために、自分の魂を注ぎ出すことになるだろう。そうして、愛により、私たちは自分は罪とされる ことに甘んじ、それにより、多くの人々の罪を覆う者となるだろう。

「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。<…>

 よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう

 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さる であろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:15-20)


 私たちが地上でつなぐものは、天でもつながれるというこの御言葉の意味を、今ほど考える時はない。これには色々な意味があると思うが、私 たちが地上で兄弟姉妹と赦し合うこと、和解すること、兄弟姉妹のとがを覆い、兄弟姉妹の絆を結び合い、互いに欠かせない節々としてキリストの御身体を建て 上げ、神の与えて下さる愛により、愛し合うことをも、指しているのではないだろうか。

 もしも私たちが地上で誰かを赦すなら、地上で一人の兄弟を得られるのと同様に、天でも、一人の兄弟が得られる。だが、もし私たちが地上で赦さないままであるならば、天でも、一人の兄弟は失われたままであろう。

 私たちはつなぐ者となりたいのだろうか。解く者となりたいのであろうか。ああ、私は今まで何と多くの不信に目をくらまされて来たのだろうかと思う。誰が 地上で神に召されている御国の子たちなのか、誰がそうでないのか、それを確かめるのは、私たちの仕事ではない。麦と毒麦が識別されるのは、世の終わりのこ とであり、麦を蔵におさめるのは、神の仕事である。

 それなのに、私が兄弟姉妹を罪に定めるとは、何と大きな罪なのであろう。私の仕事は、生ある限り、赦し続けることだけ、兄弟たちを愛し、彼らの手を、握 り続けることだけ。主の救いと憐れみは、世の終わりまで、どんな罪人にも注がれている。流された小羊の血は、この罪人の私にも注がれている。エクレシア は、キリストの御身体は、ただ神の愛のうちに育てられていく。「愛はすべてのとがをおおう」(箴言10:12)

 我が主よ、私の努力によっては、兄弟姉妹を愛することはできません。けれども、何という愛をあなたは私たちに教えて下さっているのでしょう。ただあなた が私の内で愛となって下さることを信じます。ただあなたの憐れみによって、主イエスの愛を、もっと私に教えて下さい。あなたの愛がどんなに素晴らしいか、 その広さ、長さ、高さ、深さを、どうか私に教えて下さい。あなたの愛で私を満たし、あなたの愛を私のうちに全うさせて下さい。そして兄弟姉妹との愛の連結 の内に、私を御身体の内にとどめて下さい。

 誰よりも、我が主よ、あなたを心から愛します。私はあなたのものです。

愛は全てを完全に結ぶ帯(2)

「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」(Ⅰペテロ5:6-7)

あまりにも幸福であったので、記事を更新するのが遅れた。日曜日は、暗闇の圧制に対する、主と私とのとてつもない共同の凱旋の日であった。 憐み深い我が主は、私の心にあった、誰も取り去ることのできない不信と疑いを打ち破り、また新たに、一人の尊い姉妹を私にお与えくださった。

姉妹は、この日本社会において、とても弱い立場に置かれて苦労している人である。それなのに、これまで、私はその寄留者としての立場を思いやることもな く、かえって、一方的な冷たい疑いを彼女に向けていたのだった。だが、私がこの事柄について、主に向かって率直に真実を問うた時、主ははっきりと答えを与 えて下さった。

姉妹の祈りを通して、主は私に働かれた。また、私の生活に起こった事件を通して、主は私の心を砕かれた。そして、ちょうど良い時に、私たちは主によって出 会い、豊かな交わりを持つことができた。私は何も隠さずに、自分の心を姉妹に打ち明け、姉妹も何も隠さず、真実を語ってくれた。そこで、私は自分の疑いが 全て虚偽であったことを確認し、姉妹に赦しを乞うた。

確かに、神の御前に、全ての不信と疑いは罪である! 弱い者を容赦なく罪定めする人の心の非情さよ! 私は改めてそれがどんなに罪であるかを知った! に も関わらず、私の心には今、ただ喜びが溢れている、なぜなら、主は、このように弱く、不安定で、恐れに満ちた、真実の欠けた私の心さえも、大いなるいたわ りと憐みを持って扱われると分かったからだ! 主は誰の愛にも値しない私を、愛される者として下さり、姉妹の赦しを授けて下さった! 私たちの主は、何と いうお方なのだろう! 彼は私の心の愚かしいきりきり舞いや、ばかばかしい右往左往や、一つの実も結ばない思い煩いにさえ、豊かに報いてくださるお方なの だ。

主は、私の心には土台、不真実しかないということを知っておられる。彼は私の心にひとかけらの真実も期待してはおられない。それなのに、主は、その愚かし い弱さの中で苦しみ、もだえ、主に向かって叫び求める私を見捨てられない。もしも私がへりくだるなら、主は不真実な思い煩いの代償として生じる私の心の痛 みをさえ、憐れんで、優しく包帯で包んで下さる。

夜の闇がすっかりあたりを包んだ頃、スポットライトに照らされた小さな店の中で、肩を抱き合って泣いている私たちの姿は、通行人から見れば、よほど変に見えたことだろう。だが、それが何だろう、この巨大な喜びに比べれば!

その日から、主は彼女を私の姉とし、私を彼女の妹として、一つの神の家族に、しっかりと結び合わせて下さった。その絆が、この先も、切れないだろうことを 疑わない。だが、私は気を失って倒れそうだ、一体、主の憐みといつくしみは、どこまで大きいのだろう? 主の御思いは私の思いを超えて、どれほど高く、深 いのだろう? なぜこの弱く惨めな腐敗した私が、受けるに値しない恵みを受けているのだろうか? 

私の心が恐れと疑惑の真っ只中にあって、私の心が最悪の状態にあって、全世界から閉ざされているような時に、我が内に、大胆に、力強く、立ち上がって働か れる主――。私の心の内に、より頼むべきひとかけらの真実もなくなり、誇るべき一握りの清さもなくなり、誰もが私を見て、呆れ果てて溜息をつき、肩をすく めて立ち去って行くような時に、主が私のために真実となられ、私のために清さとなって下さり、我が内に働いて、私の不信を突き破って、御業をなされる!  しかも、私と同じように、貧しく、弱い者たちと一緒になって! その不思議さ、その筆舌に尽くしがたいパラドックスよ!

だから、私は自分の汚れきった、恐れと疑いに満ちたちっぽけな弱い心を、自分で何とか改善しようとして、努力に努力を重ねる必要がない。人を愛し、信じよ うと無理な努力を重ねる必要もない。私のなすべきことはただ一つ、自分の不真実な心をありのまま主に打ち明け、その不真実な心の痛みの中で、塵と灰をか ぶって、へりくだって主を待つことだけなのだ。

主はまた、別の尊い姉妹の心をも、私にお与え下さった。もしも、この姉妹がいなければ、私の今日はなかったに違いない。愛する賜物とは何であるかを、この 人を通して、私は知った。私が疲れ果て、悲嘆に暮れて、全てのクリスチャンの交わりから、永久に遠ざかりたいと告白した時に、しっかりと私に寄り添い、主 の限りない愛を私に示してくれたのはこの人であった。私は姉妹からたとえ絶縁されたとしても、当然の状況であったのに、それなのに、この姉妹もまた、私の 大きすぎる疑いや不信によって、揺るがされることがなかった。むしろ、姉妹は、私の心の弱さを吸収し、私の怒りも悲しみも涙も吸収し、吸収し尽くして、私 の心をすっかり空っぽにしてしまった。そして、私の心に何もなくなった時に、そこに、主の愛が津波のように、どっと流れ込んで来たのである。

今まで、このようなことは、私の身の上に、人生で一度たりとも、起きたためしがなかった。私の不信を打ち破ることのできた人間は、地上に一人としていな い。だから、分かる、これは人の力によらないと。これは誰の人徳でもなく、ただ信仰による功績である。人の天然の能力には、このようなことをなし遂げる力 はなく、人の生まれながらの心には、金持ちを愛する愛はあっても、ラザロを愛する愛はない。

にも関わらず、ラザロを愛し、ラザロを泥の中から引き上げて、王の息子、娘にまでしてやりたいと願われるのは、私たちの主なのだ。ラザロが愛されるのは、 人の信仰のうちに働かれる、主の愛による。疑いに満ちた、真実のひとかけらもない、不公平で、冷たい人間の心に、ただ信仰だけを通して、神は人を愛する愛 をお与えになり、傷ついた者に寄り添い、卑しめられた者のために涙を流し、その弱さを打ち明けることさえできない者を抱きしめる心を与えられる。そして、 決して、消えることのない、愛のともし火をともし、地上では絶対に一致できないはずの人々を、神の家族の一つに結び合わせることができるのだ。ただ主の栄 光ある御名を賛美します!

「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したよう に、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ 13:34-35)

夫婦なのだから

夜 更けのある時間帯になると、早くも朝を主張して鳴き出す蝉の声と共に、頑固に夜を主張する虫たちの声が、ひときわ目だって、甲高く、聞こえて来る。だが、 その虫たちの合唱は、実に怪しげな音楽なのだ。じっとりと肌にまとわりつく蒸し暑い空気の中で、否応なく耳に飛び込んでくる虫たちのアカペラを聞いている と、まるで墓場にいて、じっと怪談でも聞かされているようで、薄気味悪く、居ても立ってもいられず、鳥肌が立って、どこかへ逃げ出したくなる。

昨日、主と私との間での心の葛藤について記したら、エクレシアの成員が、とても面白いメールを送って下さった。追伸の部分のみ、抜粋。

PS:主よ。ビオラさんに、元気を与えてください。

 自分は荒野へ一日の道のりを入っていった。彼(エリヤ)は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」
彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい」と言った。・・・それから、主の御使いがもう一度戻ってきて、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」と言った。       
                 第一列王記19:4-7


 思わず、微笑んだ。まだまだ道は遠い…か。なるほど、そうなのだろう。けれど、ハレルヤ、確かに、主は私に元気を与えて下さったようだ。こうして、御からだを通して、適時、力づけて下さる主に感謝――。
 
 昨日の夕方、主と共に生きるとは何かを思いめぐらしていると、突然、私の心に平安が訪れ、何かがすっきりし、単純明快になった。

 そうだ、これからは、私が脇に退いて、全てをキリストに受けていただければ良いのだ!

 主と私との関わりは、これまで、まるで「かかあ天下」になってしまった夫婦のようであった。何事に関しても、妻は亭主を差し置いてでしゃばる。亭主は妻 の尻に敷かれ、重大な事件が起こっても、主人が何か言葉を発する前に、妻はもう、現場にしゃしゃり出て行っては、何事かをしている。

 だが、妻の物事を処理する際のでたらめさとぞんざいさは、目に余るほどであり、妻がしゃしゃり出て行くと、全てのことがより一層、悪くなる。それでも、 妻は自分の無能を認めようとはせず、物事が自分の手に負えなくなるまで、握りしめて放そうとしない。時折、ふと思い出したように、亭主の方を振り返って、 「ねえ、あなた、あなたはどうお考えになるの?」と聞くことはあっても、それでも、亭主の答えなどはなから無視して、あくまで自分のやり方で解決しようと する。

 そして、ついに、物事がにっちもさっちも行かなくなって、非難と攻撃が沸き起こり、全面的に妻が責任追及される段階になると、妻はめそめそ泣きながら家 に帰って来て、亭主にこう問うのである、「あなた! あなたはどうしていつもそんなに冷めていて、消極的で、無関心で、無責任なんですか? こんなに私が 困っているのに、どうしてあなたはいつもただ見ているだけで、少しも私を助けようとしてくれないんですか? あなたには同情ってものがないんですか? そ れに、厄介な物事に応対させられているのは、いつもいつも、私ばかり…。こんなの不公平じゃありませんか!」

 必要なのは、妻が初めから引き下がって、夫に出番を与えることである。私は脇に立って、全てを全面的に主に受けていただくことが必要なのだ。良いこと も、悪いことも全部だ…。特に、悪いことが起こった時、私が一人で矢面に飛び出して行っては、絶対にいけない。サタンの集中砲火、降り盛る火の粉は、絶対 に、私が受けてはならないし、私には受けられないのだ。その時、私は引き下がって、その非難が、最初から、キリストに向くようにしなければならない。私が そこで引き下がることは、卑怯でも何でもないのだ。元々、私の手には負えないのだし、我が家の総責任者は、私ではなく、キリストなのだから。厄介な事件 は、初めから全て、キリストに受けていただくようにし、キリストが私に代わって、不正に対して立ち上がられるように仕向けなければならない。

 ああ、我が家には最高のウルトラマンがいるのに、私は何と彼を信用していないのだろう、何と彼に出番を与えようとしないのだろう。これからは、何者かが 家の扉をノックしたその時点で、私がドアを開けに行くのではなく、親方が立ち上がって、ドアを開けに行くのを待つようにしよう。誰かが家に押し入って来た ら、私は脇にすっ飛んで、親方に戦わせよう、彼が侵入者を撃退するまで。

 良いことがあったら、共に手を取り合って幸せを分かち合おう。どんな時でも、全てを彼に報告し、彼と協力して物事を運ぼう。これ以上、私一人では生きるまい。我々は夫婦なのだから。

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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