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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

愛は全てを完全に結ぶ帯(2)

「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」(Ⅰペテロ5:6-7)

あまりにも幸福であったので、記事を更新するのが遅れた。日曜日は、暗闇の圧制に対する、主と私とのとてつもない共同の凱旋の日であった。 憐み深い我が主は、私の心にあった、誰も取り去ることのできない不信と疑いを打ち破り、また新たに、一人の尊い姉妹を私にお与えくださった。

姉妹は、この日本社会において、とても弱い立場に置かれて苦労している人である。それなのに、これまで、私はその寄留者としての立場を思いやることもな く、かえって、一方的な冷たい疑いを彼女に向けていたのだった。だが、私がこの事柄について、主に向かって率直に真実を問うた時、主ははっきりと答えを与 えて下さった。

姉妹の祈りを通して、主は私に働かれた。また、私の生活に起こった事件を通して、主は私の心を砕かれた。そして、ちょうど良い時に、私たちは主によって出 会い、豊かな交わりを持つことができた。私は何も隠さずに、自分の心を姉妹に打ち明け、姉妹も何も隠さず、真実を語ってくれた。そこで、私は自分の疑いが 全て虚偽であったことを確認し、姉妹に赦しを乞うた。

確かに、神の御前に、全ての不信と疑いは罪である! 弱い者を容赦なく罪定めする人の心の非情さよ! 私は改めてそれがどんなに罪であるかを知った! に も関わらず、私の心には今、ただ喜びが溢れている、なぜなら、主は、このように弱く、不安定で、恐れに満ちた、真実の欠けた私の心さえも、大いなるいたわ りと憐みを持って扱われると分かったからだ! 主は誰の愛にも値しない私を、愛される者として下さり、姉妹の赦しを授けて下さった! 私たちの主は、何と いうお方なのだろう! 彼は私の心の愚かしいきりきり舞いや、ばかばかしい右往左往や、一つの実も結ばない思い煩いにさえ、豊かに報いてくださるお方なの だ。

主は、私の心には土台、不真実しかないということを知っておられる。彼は私の心にひとかけらの真実も期待してはおられない。それなのに、主は、その愚かし い弱さの中で苦しみ、もだえ、主に向かって叫び求める私を見捨てられない。もしも私がへりくだるなら、主は不真実な思い煩いの代償として生じる私の心の痛 みをさえ、憐れんで、優しく包帯で包んで下さる。

夜の闇がすっかりあたりを包んだ頃、スポットライトに照らされた小さな店の中で、肩を抱き合って泣いている私たちの姿は、通行人から見れば、よほど変に見えたことだろう。だが、それが何だろう、この巨大な喜びに比べれば!

その日から、主は彼女を私の姉とし、私を彼女の妹として、一つの神の家族に、しっかりと結び合わせて下さった。その絆が、この先も、切れないだろうことを 疑わない。だが、私は気を失って倒れそうだ、一体、主の憐みといつくしみは、どこまで大きいのだろう? 主の御思いは私の思いを超えて、どれほど高く、深 いのだろう? なぜこの弱く惨めな腐敗した私が、受けるに値しない恵みを受けているのだろうか? 

私の心が恐れと疑惑の真っ只中にあって、私の心が最悪の状態にあって、全世界から閉ざされているような時に、我が内に、大胆に、力強く、立ち上がって働か れる主――。私の心の内に、より頼むべきひとかけらの真実もなくなり、誇るべき一握りの清さもなくなり、誰もが私を見て、呆れ果てて溜息をつき、肩をすく めて立ち去って行くような時に、主が私のために真実となられ、私のために清さとなって下さり、我が内に働いて、私の不信を突き破って、御業をなされる!  しかも、私と同じように、貧しく、弱い者たちと一緒になって! その不思議さ、その筆舌に尽くしがたいパラドックスよ!

だから、私は自分の汚れきった、恐れと疑いに満ちたちっぽけな弱い心を、自分で何とか改善しようとして、努力に努力を重ねる必要がない。人を愛し、信じよ うと無理な努力を重ねる必要もない。私のなすべきことはただ一つ、自分の不真実な心をありのまま主に打ち明け、その不真実な心の痛みの中で、塵と灰をか ぶって、へりくだって主を待つことだけなのだ。

主はまた、別の尊い姉妹の心をも、私にお与え下さった。もしも、この姉妹がいなければ、私の今日はなかったに違いない。愛する賜物とは何であるかを、この 人を通して、私は知った。私が疲れ果て、悲嘆に暮れて、全てのクリスチャンの交わりから、永久に遠ざかりたいと告白した時に、しっかりと私に寄り添い、主 の限りない愛を私に示してくれたのはこの人であった。私は姉妹からたとえ絶縁されたとしても、当然の状況であったのに、それなのに、この姉妹もまた、私の 大きすぎる疑いや不信によって、揺るがされることがなかった。むしろ、姉妹は、私の心の弱さを吸収し、私の怒りも悲しみも涙も吸収し、吸収し尽くして、私 の心をすっかり空っぽにしてしまった。そして、私の心に何もなくなった時に、そこに、主の愛が津波のように、どっと流れ込んで来たのである。

今まで、このようなことは、私の身の上に、人生で一度たりとも、起きたためしがなかった。私の不信を打ち破ることのできた人間は、地上に一人としていな い。だから、分かる、これは人の力によらないと。これは誰の人徳でもなく、ただ信仰による功績である。人の天然の能力には、このようなことをなし遂げる力 はなく、人の生まれながらの心には、金持ちを愛する愛はあっても、ラザロを愛する愛はない。

にも関わらず、ラザロを愛し、ラザロを泥の中から引き上げて、王の息子、娘にまでしてやりたいと願われるのは、私たちの主なのだ。ラザロが愛されるのは、 人の信仰のうちに働かれる、主の愛による。疑いに満ちた、真実のひとかけらもない、不公平で、冷たい人間の心に、ただ信仰だけを通して、神は人を愛する愛 をお与えになり、傷ついた者に寄り添い、卑しめられた者のために涙を流し、その弱さを打ち明けることさえできない者を抱きしめる心を与えられる。そして、 決して、消えることのない、愛のともし火をともし、地上では絶対に一致できないはずの人々を、神の家族の一つに結び合わせることができるのだ。ただ主の栄 光ある御名を賛美します!

「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したよう に、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」(ヨハネ 13:34-35)

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夫婦なのだから

夜 更けのある時間帯になると、早くも朝を主張して鳴き出す蝉の声と共に、頑固に夜を主張する虫たちの声が、ひときわ目だって、甲高く、聞こえて来る。だが、 その虫たちの合唱は、実に怪しげな音楽なのだ。じっとりと肌にまとわりつく蒸し暑い空気の中で、否応なく耳に飛び込んでくる虫たちのアカペラを聞いている と、まるで墓場にいて、じっと怪談でも聞かされているようで、薄気味悪く、居ても立ってもいられず、鳥肌が立って、どこかへ逃げ出したくなる。

昨日、主と私との間での心の葛藤について記したら、エクレシアの成員が、とても面白いメールを送って下さった。追伸の部分のみ、抜粋。

PS:主よ。ビオラさんに、元気を与えてください。

 自分は荒野へ一日の道のりを入っていった。彼(エリヤ)は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」
彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい」と言った。・・・それから、主の御使いがもう一度戻ってきて、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」と言った。       
                 第一列王記19:4-7


 思わず、微笑んだ。まだまだ道は遠い…か。なるほど、そうなのだろう。けれど、ハレルヤ、確かに、主は私に元気を与えて下さったようだ。こうして、御からだを通して、適時、力づけて下さる主に感謝――。
 
 昨日の夕方、主と共に生きるとは何かを思いめぐらしていると、突然、私の心に平安が訪れ、何かがすっきりし、単純明快になった。

 そうだ、これからは、私が脇に退いて、全てをキリストに受けていただければ良いのだ!

 主と私との関わりは、これまで、まるで「かかあ天下」になってしまった夫婦のようであった。何事に関しても、妻は亭主を差し置いてでしゃばる。亭主は妻 の尻に敷かれ、重大な事件が起こっても、主人が何か言葉を発する前に、妻はもう、現場にしゃしゃり出て行っては、何事かをしている。

 だが、妻の物事を処理する際のでたらめさとぞんざいさは、目に余るほどであり、妻がしゃしゃり出て行くと、全てのことがより一層、悪くなる。それでも、 妻は自分の無能を認めようとはせず、物事が自分の手に負えなくなるまで、握りしめて放そうとしない。時折、ふと思い出したように、亭主の方を振り返って、 「ねえ、あなた、あなたはどうお考えになるの?」と聞くことはあっても、それでも、亭主の答えなどはなから無視して、あくまで自分のやり方で解決しようと する。

 そして、ついに、物事がにっちもさっちも行かなくなって、非難と攻撃が沸き起こり、全面的に妻が責任追及される段階になると、妻はめそめそ泣きながら家 に帰って来て、亭主にこう問うのである、「あなた! あなたはどうしていつもそんなに冷めていて、消極的で、無関心で、無責任なんですか? こんなに私が 困っているのに、どうしてあなたはいつもただ見ているだけで、少しも私を助けようとしてくれないんですか? あなたには同情ってものがないんですか? そ れに、厄介な物事に応対させられているのは、いつもいつも、私ばかり…。こんなの不公平じゃありませんか!」

 必要なのは、妻が初めから引き下がって、夫に出番を与えることである。私は脇に立って、全てを全面的に主に受けていただくことが必要なのだ。良いこと も、悪いことも全部だ…。特に、悪いことが起こった時、私が一人で矢面に飛び出して行っては、絶対にいけない。サタンの集中砲火、降り盛る火の粉は、絶対 に、私が受けてはならないし、私には受けられないのだ。その時、私は引き下がって、その非難が、最初から、キリストに向くようにしなければならない。私が そこで引き下がることは、卑怯でも何でもないのだ。元々、私の手には負えないのだし、我が家の総責任者は、私ではなく、キリストなのだから。厄介な事件 は、初めから全て、キリストに受けていただくようにし、キリストが私に代わって、不正に対して立ち上がられるように仕向けなければならない。

 ああ、我が家には最高のウルトラマンがいるのに、私は何と彼を信用していないのだろう、何と彼に出番を与えようとしないのだろう。これからは、何者かが 家の扉をノックしたその時点で、私がドアを開けに行くのではなく、親方が立ち上がって、ドアを開けに行くのを待つようにしよう。誰かが家に押し入って来た ら、私は脇にすっ飛んで、親方に戦わせよう、彼が侵入者を撃退するまで。

 良いことがあったら、共に手を取り合って幸せを分かち合おう。どんな時でも、全てを彼に報告し、彼と協力して物事を運ぼう。これ以上、私一人では生きるまい。我々は夫婦なのだから。

私を空にして下さい

この一年間というもの、主が私に教えられた学課はただ一つ、「あなたには何もできません」、ということだけであった。

主は私を見捨てておられない。そのことは、日々、与えられる恵みを通して、はっきりと分かる。貧しさの中にも、どれほどの豊かさを主は届けて下さったろ う。日々の糧に困ったことは一度もないし、頼るべき知人も、わずかしかいないというのに、困り果てた時には、いつも、必要な助け手がどこからともなく現 れ、誰もそばにいない時には、必ず、主ご自身が、私のために解決となって下さった。

だから、本当の絶体絶命には、一度も、たどり着いていない。けれども、私が自分で作った計画表は、ことごとく、廃棄されなければならなかった。自分が何も できない人間であるということを、日々、思い知らされるのは、苦しい。生活が思いのままにならないだけでなく、特に、主に従うことのできない自分、主の御 心に反することをし続けて、失敗を重ねている自分を発見するのは、つらかった。偽りと欺きに満ちた世に巻き込まれ、容赦なく投げ倒され、苦しまぎれに、抗 議の声を上げないでいることも難しかった。

人生を主にお捧げしますと、心から告白したその日から、どんな前進があっただろうか。あるのは後退、無力、窮乏、弱さだけであり、それに加えて、以前には 持っていたはずの、生まれつきの能力までが、ことごとく尽きて行った。良かれと思った計画の全てが徒労に終わっただけでなく、今では、まるで歩くのもやっ との病人のように、当たり前の事柄にさえ、つまずいている。

ついに、善悪を識別する能力さえ、私から取られようとしている。

「あなたはもう何もしなくてよろしい。なぜなら、あなたには元々何もできないからです」

そんな主の御声が、耳に聞こえて来るかのようだ。なのに、私はまだそこでじたばたしている。どうして?こんなに一生懸命にやっているのに、なぜ何も成就しないの?

「物事が上手くいかないのがなぜか分かりますか。あなたの手の中に計画が溢れすぎているからです。私の働く余地はありません」

「でも、主よ、怖いのです。もしも考えることをやめてしまったら、大変なことになりませんか。手立てを打たなかったら、どうなるというのです? 善悪を識 別し、自分で判断することをやめたら、より一層、欺かれはしませんか? 流されるままに、暗闇に落ちて行くのではありませんか?」

それでも、状況は有無を言わさない。計画という計画が頓挫した今、それでもまだ自分の思考力を信用することほど、愚かなことがあろうか。最近、何かもっと もらしいことを言おうとすると、力が抜けて、言葉が出て来なくなるようになった。御言葉を引用して、正しいことを語るのも、ひどく億劫になった。世間で沸 騰している議論のどれ一つにも、関心が持てない。私の知性は破壊され、何やら、愚かさの極みのようなところへ導かれている。

憐みに満ちた我が主。世の荒波に容赦なくもまれ、全ての望みと計画が失敗に終わり、悔しさに唇を噛みしめ、疲れ果ててよろめきながら、ただこのお方のうちに駆け込む。

「私はずっとあなたが力尽きるのを待っているのです。私が光なのです。あなたの知性に光はないのです。暗闇に巻き込まれず、目を覚ましているために必要な のは、私のもとに来ることです。あなたが自分で考える必要はありません。私に聞きなさい。私が解決なのです。私のもとに来なさい。私が命なのです。あなた の全てを支配しているのが、私であることを認め、全ての道で、私を認めなさい。たとえ失敗の最中であろうと、裏切られている最中であろうと、騙されている 最中であろうと、嘲弄されている最中であろうと、私を認めなさい。どんなに知識を集めてみても、あなたは自分の努力によって、自分を救えません。どんなに 試行錯誤を重ねても、あなたが達成できることは、何一つありません。あなたの善悪の識別能力に、あなたを生かす力はないのです。私に任せなさい。ただ私だ けが、あなたを生かすのです。それを学ぶまで、あなたにはただ失敗しかありません」

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは 柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのく びきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

絶望するには、まだ重荷が少なすぎて、私はそれでも自分の足で歩こうとしているのだろう。呪われた私の生まれながらの命よ! いつまで試行錯誤を続けるの か! おまえにできることは何もない、その答えに本当に甘んじるまで、あとどのくらい時間が必要なのか。しかし、日々、弱められ、日々、力尽き、毎朝、自 分の計画表が差し戻されるのに抗うこともできず、どんなに強情な人間でも、これが偶然でないことくらい、そろそろ、分かっても良い頃だ。

私は自分の冠を投げ捨て、ただ主を拝します。私が完全に無用の器であることを、どうか私が認めますように! 主よ、空っぽになった私を、あなたがお受け取 り下さり、御心で満たして下さいますように。大祭司なる主イエスよ、あなたの命の中に隠れ、あなたの御手の下に、我が身を横たえます。

愛は全てを完全に結ぶ帯

「これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。 」(コロサイ3:14)

愛はちょうど水のようだ。ひたすら低い方へ向かって流れることを使命とし、欠けや穴ぼこを見つけると、それがどんな形であろうと、すぐさま、開いた隙間に入り込み、それを浸し、潤してしまう。

水が全ての穴を平らに満たすように、愛は、欠けを見つける度に、喜びに溢れてそこを満たす。でこぼこであろうと、とげとげであろうと、ぎざぎざであろうと、欠けを満たすことこそ、愛の最も得意とすることなのだ。

ぎざぎざやでこぼこは、人に最も嫌われるものだ。硬いものと硬いものとがぶつかると、より一層、欠けがひどくなる。だが、愛は、柔軟であり、目に見える形 がどんなに脅威的であろうとも、形に脅かされることがない。むしろ、人の恐れるどんな欠乏や貧しさに向かってでも、愛は、何の恐れも、ためらいもなく、喜 びに満ちて進みゆく。欠乏を満たすことは、愛にとって、この上ない喜びなのだ。

愛は全ての欠乏にぴたりとはまりこみ、全てのひび割れと溝にまで浸み通り、乾いた地を潤す。愛はぶつかり合うことがなく、ひび割れや溝をさえ、いたわりをもって満たすので、溝は愛によって傷つけられることがなく、また溝が愛を傷つけることもない。

私たち人間は、ぎざぎざとでこぼこを恐れ、隠しながら生きている。自分のぎざぎざが、乱暴な扱いによって、さらにぎざぎざにされることを嫌って、傷を医者 に診せることさえ嫌がっている。私たちは何とかして病人ではなく、完全な者として神と人との前に立ちたいのである。それが私たちのプライドである。だが主 は、全ての欠乏をいたわりを持って満たそうとして、溢れる愛を両手に、私たちが心を開いて、彼の患者となる時を待っておられる。私たちに必要なのは、主イ エスは私たちの欠乏を愛で満たすことができると信じる信仰、そして、自分は癒しを待っている病人であり、患者であると認める正直さだ。

愛の使命は満たすことであり、欠けた器の使命は満たされることである。私たちが、自分の心の欠けが、神の愛によって満たされる必要があることを正直に認 め、それを受けたいと率直に願い求め、彼の癒しの御手の下に、へりくだって自分を患者としさえするなら、私たちの心の欠乏は、満たされ、喜びに溢れた物語 へと変わり、もはや傷つけ、傷つけられるだけの悲劇の物語とはならないだろう。

主は人の心を取り扱うにあたって、驚異的なまでの憐みといたわりに満ちておられる。彼の手に負えない病はない。むしろ、私たちの欠乏や病や弱さが、主の愛 を受けるに必要な土壌となるのである。私たちの弱さが、私たちを主の御許に連れて行くのである。主のなさることの不思議さに、日々、言葉がない。

バアルにひざをかがめない七千人

私の内には、主をお喜ばせできるものは、何もない。主が下さらなければ、私には主を愛する愛もなければ、兄弟姉妹を愛する愛もない。

誤解されても、罪定めされても、たった一人で、主の義の側に立ち続ける勇気など、私にはない。私も罪人の一人であり、弱い人間に過ぎないのに、どうして私が主の義を擁護して立てるだろうか。これ以上、罪定めされるのも、誤解されるのも、孤立するのも、嫌です…。私の人生は、もはや、私の手には負えません…。

苦しみの中で、主に叫び求めると、主からの応答があった。絶望に飲まれてしまうのかと思いきや、かえって、どしゃぶりの雨のように、洪水のように、主の愛が降って来た。

エリヤは洞穴に隠れて主に祈った、

「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」

主は彼に答えられた、

「…わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」(列王記上19:9-18)

疑いに満ちて、くじけそうになる私の心に、雨のように主の愛が降り注ぐ。主はご自分に忠実な人々を通して、いつでも、慰めの言葉を届けて下さるのだと分かった。こうして、私を勇気づけて、主の愛に触れさせてくださる神の憐れみは、何と深いのだろう。

弱りきってはいけない。一人だと思ってはいけない。主の軍隊に不足はない。たとえ多くの人が沈黙し、あるいは倒れたように見える時でも、主はご自分を心から愛する人たちを、いつでも用意しておられるのだ!

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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