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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

詩篇第37編

「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。
 不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
 彼らはやがて草のように衰え、
 青菜のようにしおれるからである。

 主に信頼して善を行え。
 そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
 主によって喜びをなせ。
 主はあなたの心の願いをかなえられる。

 あなたの道を主にゆだねよ。
 主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
 あなたの義を光のように明らかにし、
 あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。

 主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。
 おのが道を歩んで栄える者のゆえに、
 悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。

 怒りをやめ、憤りを捨てよ。
 心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。
 悪を行う者は絶ち滅ぼされ、
 主を待ち望む者は国を継ぐからである。」

「人の歩みは主によって定められる。
 主はその行く道を喜ばれる。
 たといその人が倒れても、
 全く打ち伏せられることはない、
 主がその手を助けささえられるからである。」 (詩篇37:1-9,23-24)


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主が与え、主が取りたもう

書こうか迷ったが、やはり書くことにしよう。

私の飼っていた文鳥が、数日前、天に召された。こうして、私は身近なただ一人の家族を失って、一人地上に残された。この猛暑のためである。言い訳できない。全ては私の責任であり、私の管理不行き届きのためである。

自分自身も、気を失って倒れそうな暑さの中、毎日、自分を騙し騙し、やっとこさ生きていた。まさかこれほどまでに、何日間にも渡って、窓を開けても、風一 つ通らない、殺人的な暑さが続こうとは…。生きる道を何とか切り開こうとして、私がハローワークなどを巡りつつ、試行錯誤を続けていた最中、文鳥は少しず つ、体調を崩して行ったのだった。だが、あまりにも、自分の大変さに気をとられ、その深刻さに気づいてやることができなかった。主は癒して下さると思った し、自分は弱い立場にあって、苦労しているのだと思っていた。

だが、一体、他者を生かす力のない私の苦労が、何の誇りとなるのだろうか。自分よりも弱い生命のために、何もしてやれない私の無意味な強さが、何の価値を 持つというのか。誰をも利さない私の徒労が、何の同情と、憐れみに値するのか。むしろ、これは弱さではなく強さであり、自己中心と言うべきものである。

まことに、キリスト以外に、私の内に誇るべきものは何一つとしてない、ということを、主は憐れみを持って、こうして、私に示して下さった。私から出て来る 全てが、腐敗であり、邪魔でしかないのだということを…。私の正義感と、自己義認が邪魔であることは言うまでもなく、私が何とか生きながらえようとして、 試行錯誤し、努力することの中にさえも、主の御前には、徹底的な腐敗があるきりであり、私の努力など、何の解決にもならないのだと…。

だが、不思議なことに、この出来事を通して、何かしら、主の憐れみが、雨のように私に降り注いだ。私には失意と後悔が残されたが、それに伴って、主から受 ける慰めも深いように思われる。何だろう、これは? 罪の増し加わるところには、恵みも増し加わる、とは、こういうことをも言うのだろうか?

気の狂いそうな暑さの中で、愛する小鳥のなきがらを手のひらに包んで、私は心の中で叫んだ、

「主よ、私を憐れんで下さい! 私はどうしようもない罪人なのです! 自分のことさえもどうにもできず、まして、弱い家族のために、してやれることが何もないのです! 私は何という情けない、憐れみに欠けた、無力かつ有害な人間なのでしょう!

でも、主よ、どうか私を憐れんで下さい、私はたった一人ぼっちになりました! 私を慰めてくれる家族はいませんし、助けを求める相手もありません! 誰よ りも信用ならない私が一人いるきりです。主よ、あなただけが頼りなのです。あなたが今、私と共にいて下さり、私を見捨てておられないことを、どうか、はっ きりと示して欲しいのです。私がどんな罪人であろうとも、あなたが今も、私と共にいて下さり、私を愛して下さっていることを、知りたいのです。

主よ、お願いがあります、今、私にはこの小鳥を埋葬するために、地面を掘る道具がありません。スコップが必要なのです、どうか、あなたがそれを用意して下さい!」

もはや暑さのため、何も考える力もなく、茫然自失のうちに、私は祈ったというよりも、主に向かって、要求したのだった。だが、こんな支離滅裂な祈りにさ え、主は憐れみを持って即答してくださり、地面を掘るものは、階下に下りて行くと、私の思った通りの場所に、探す必要もなく、備えられていた。しかし、埋 葬に適した場所が見つからなかった。私はいつかこの土地を離れるだろう。旅の道連れをこんな所に置いて行きたくない。私はこの小鳥を故郷の地に埋めること を決め、それまでは、小さな植木鉢を仮の墓地にすることにした。

この事件を通して、私は自分の義を主張することをやめた。私は弱いのだと考えて、自分の弱さによりすがることもやめた。もしも私が弱いのだとすれば、私よ りも、もっともっと弱い者たちはどうなるのか。その者たちの前で、私にどんな弁解の余地があるのだろうか。一体、自分に何の同情を乞うことができるのか。 自分の弱さの上に開き直って、自分よりも弱い者から、平気で同情を要求することは、間違っている。

だが、私の生まれながらの命はとことんまで腐敗しており、私が生きようとすることでさえ、他者の命を脅かすことにつながりかねない。私もアダムの生まれな がらの命においては、ただまむしの子孫でしかなく、本質的に殺人者なのだ。なのに、私にはこの呪われた死の身体から自分を救う道がないのだ。

ただ私たちの主イエス・キリストに感謝するのみである。もしも主を知らなければ、こんな時、どこに希望があっただろうか。しかし、今は神を信じているの で、望みを微塵に打ち砕かれ、自分の腐敗を思い知らされ、剥ぎ取られ、打ちのめされる時でさえも、主の憐れみを信じられる。私の命が極みまで腐敗していよ うとも、主は真実であられるからだ。キリストによって生まれることだけが私をアダムの命から救う。主の裁きは正しい。主が私になさることは、全てが、最善 である。たとえそれが自分の無力と恥を思い知らされることであったとしても…。

どんな時でも、主の優しさと、憐れみと、愛とは、私に注がれている。私には、自分で自分の生存を支えることもできないし、まして、自分に連なる命を守る術 もない。ただ生きるというだけのことが、いつもいつも、なぜこれほどまでに、困難であるのか知らない。だが、私にできることは、ただ必死に、神の内に隠 れ、自分の生まれながらの命を拒んで、神の命の中に駆け込むことだけである。私にはできなくとも、主にはできる。義人は信仰によって生きると、御言葉に書 いてある。どんなことが起ころうと、私にできることは、ただ主の御名を賛美することだけ。主が与え、主が取りたもう、主の御名は誉むべきかな! 私の生ま れながらの命にできることはただ罪を犯すことだけであり、そこにはどんな希望もないが、それでも、キリストの十字架の死が、日々、私の内で実際となり、キ リストの命が、死んだ私に代わって、私を内側から生かすことを信じて、主を見上げ、主を待ち望むのみである。

不思議なことに、状況は長い間、こう着状態のようであるが、小さな出来事の中に、日に日に、主の明らかな慰めが現れている。今日は、『敬虔な生涯』の入荷 が、もう何週間も遅れているので、速やかに本が手元に届くよう、エクレシアの一人の成員に祈りの助力を求めた。すると、晩には、もう本がポストに入ってい た。これが主の憐れみでなくて、何だろうか。

私たちは懲らしめられても、失望してはならない。主に心から従おうと思って自分を捧げた者は、誰でも、主イエスが肉体を裂かれたように、自分も裂かれなけ ればならない。私たちは裂かれることのない、無傷できれいな人生を送ることはできない。私たちの無力と、腐敗と、貧しさは、いたる所で明らかになるだろ う。他の人々が喜び、安んじている時に、私は追いつめられ、みっともなく転び、剥ぎ取られ、打ち倒され、無力を覚え、涙しているかも知れない。誤解され、 罪定めされ、嫌われ、排斥されているかも知れない。そんなことが、この先も、幾たびあるかも分からない。

だが、たとえそうなったとしても、己を義とせず、主の義により頼む者は幸いである。なぜなら、主を待ち望む者は、恥を見ることがないからである。仮に失敗 したとしても、困難の中で、行き場を失ったとしても、神の愛と、憐れみを信じられる者は、幸いである。主を信じて待ち望む者に対して、主は憐れみ深く、苦 しみの中にも、深い慰めを与えられるからである。

人は私を見てすでに気がおかしいと思うかもしれないし、こんなのは自己安堵だ、ごまかしだ、無責任だと言うかも知れないが、何かしら、人知を超えた安らぎ が、私を包んでいる。生死は主の支配下にある。主の許しなしには一羽の雀さえも、地に落ちることはない。そして主は私の孤独と悲しみを確かに知っておら れ、私を心配し、同情しておられるのである。だから、こんな時でも、私に言えることは、主の御名は誉むべきかな、という一言に尽きる。少しの間ではあった が、この生命を私にお与え下さり、共に寄り添い、喜びを分かち合わせて下さった主に、心から感謝を捧げ、そして、私の至らなさをお詫びした上で、この小さ な命を主の懐にお返しし、預けるのみである。

そして、たとえどんなに人生が困難に見えたとしても、どんなに追いつめられ、孤独の中を通らされたとしても、私の命そのものを主にお預けして、この先も、主の真実に信頼し、主の愛により頼みながら、歩いて行く。

「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:38-39)
 

真の弱さとは何か

「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 」(Ⅱコリント12:9)

「わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。」(Ⅱコリント12:5)

「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。」(ローマ15:1)


地上での弱さや、貧しさは、しばしば、私たちが心から主を待ち望む、最も大きな動機となります。私たちはこの地上で弱く、追いつめられており、貧しいがゆ えに、主に助けを求めて叫ばずにいられません。そして、主の憐れみに満ちた解決を信じて、待ち望まずにいられません。こうして、地上での貧しさや、弱さ が、しばしば、私たちの信仰が増すきっかけとなります。

しかし、御言葉が述べている「弱さを誇る」ということが、どのような意味であるのか、もう少し、踏み込んで考えてみたいと思います。

私たちは間違いやすいのですが、ここで御言葉の述べている弱さとは、私たちが地上で豊かであるか、それとも、貧しいのか、私たちの生まれながらの力が、強 いのか、それとも、弱いのかという問題ではなく、私たちが生まれながらの命の内に、何一つ、より頼むものを持たず、私たちの天然の命の力が、全て無となっ た状態を言うのではないでしょうか。それは、人が主と共なる十字架を通して、自分に死んで、キリストの他に、何一つとして、自分の内に、より頼むべき誇り を持たなくなった状態を言うのではないでしょうか。

そこでは、私たちは、自分の成功を誇らないと同時に、自分の不成功をも、誇りません。世間で自分が名声を得ていないことや、繁栄していないことや、自己実 現していないことや、自己満足していないことや、豊かでないことや、健康でないこと、あの人、この人に比べて、私が何か特別な試練を耐え抜いて来たこと や、誇るべき所有物を何も持っていないことにさえも、より頼みません。過去の苦しかった経験や、現在置かれている状況の困難ささえも、誇りとしません。

私たちは時折、弱さを誇ると言いながら、依然として、自分の弱さを武器に変えようと望んでいる場合があります。強い人は、10の力を誇るかも知れませんが、弱い人も、1しかない自分の力を強みにして生きることが可能なのです。

強い人には、強い人なりの自己義認があります。しかし、弱い人にも、弱い人なりの自己義認があります。そして、人知れぬ困難を耐え抜いて来たという自負が あるだけに、弱者の自己義認の感情は、なお一層、屈折して、取り扱いにくいものとなっている場合が多いのではないでしょうか。

いずれにせよ、人の天然の命から出て来る弱さは、偽りと、自己中心性に満ちています。病であれ、失敗であれ、無名であれ、貧しさであれ、人は何らかの欠乏 を抱えている時には、それがために、より一層、わがままになりがちです。弱さのゆえに、自分がより一層、理解され、同情を受け、憐れみを持って扱われるこ とを、当然のように考えるようになります。天然の命から出て来る弱さ、貧しさは、かえって、私たちをさらなる自己中心性へと導くことが多いのです。

しかし、御言葉の言う、弱さを誇るということは、そのようにして自分の弱さを、自分の立場を有利にし、自分の正しさを世間に印象づけて、自分を美化し、自 己中心性をより一層強めるための道具として用いることを指すのではありません。それは、弱者による自己義認とは無関係です。神の御前では、強者の自己義認 も、弱者の自己義認も、どちらもが、十字架によってはりつけにされなければならない、忌まわしいものなのです。

主にあって、真に弱くされる時、私たちが今、持っている天然の命の力が、大きかろうが、小さかろうが、その一切が、十字架に渡されるでしょう。そこでは、 力の強い人も、弱い人も、どちらもが、自分の生まれながらの命の力に死んで、それを自分を有利にするために全く用いることができないでしょう。あの人に比 べて、私は成功していないし、豊かでもないし、優れた能力がなく、美しくもなく、健康でもない、だから私は弱いのだ、と考えて自分を慰める思いも、そこに はありません。人と比べての相対的な弱さは、御言葉が誇るよう勧めている弱さと同じものではありません。

真の弱さとは、自分から出て来るものを、何一つとして、自分を有利にするために利用できなくなった状態のことではないでしょうか。その時、私たちは、もは や世間の前で、自分の苦悩をアピールし、自分を悲劇の人のように見せかけて、印象づけることもできないのです。これまで耐え抜いて来た苦境の重さを語るこ とによって、人の同情と涙を誘うこともできません。

主にあって弱くされる時、人の目を絶えず自分にひきつけようとする、私たちの自己中心性は、完全に打ち砕かれて、十字架に渡されるでしょう。私たちは成功 であれ、失敗や苦難であれ、自己から出て来るものを、何一つ、誇れなくなるでしょう。それは、私たちが、自分の内には何一つとして良いものがなく、これま で耐えてきた苦難を自分の正しさとして誇ることさえも、主の御前に忌まわしいということを、自覚させられた時です。むしろ、世間の前で誇ることができるよ うな力や経験が、わずかでも私たちの内にあるならば、それはキリストのゆえに、一切が損であるということを自覚した弱さなのです。

ただキリストの他には、誇るべきものは何もなく、自分に由来する一切が十字架に死に渡されることだけにふさわしいと自覚する時、自分に属する全てが、キリ ストのゆえに、損なものであると認める時、私たちは真の弱さとは何かを知るのではないでしょうか。そうなって初めて、私たちが無とされたその場所に、ただ キリストが生きて下さるのではないでしょうか。

私たちは、十字架により、このような地点にもたらされるほどまでに、弱くされることが必要です。私たちが真に退去するならば、信仰によって、主イエスが来 られるでしょう。この弱さは、十字架の向こうに、墓の向こうにあります。そこへたどり着くために必要なのは、人の同情を誘って、私たちの美名をさらに築き 上げるような、あれやこれやの悲劇の物語ではなく、ただキリストの十字架です。そこでは、私たちの自己義認の感情が、徹底的に十字架に渡されなければなり ません。自分の弱さを武器にして、あの人よりも私は正しい、私は苦難によって練られ、清められたのだから、同情に値すると考えて自己義認しようとする思い は、ことごとく、十字架に渡される必要があります。

もしも、神が私に与えられた十字架の死の宣告に対して、私がもっと従順になり、全ての自己義認、自己中心性を捨てて、自分はただ死の刑罰を受けて、墓に死 んで横たわるだけにふさわしいことに同意し、それでも、死んだ私を、主が再び、生かして下さると信じて、定められた時まで、黙って主を仰ぎ望むなら、この ような弱さに対して、主は速やかに働かれ、ご自分の復活の命を現されるでしょう。

みどり子、乳飲み子に賛美される主

いよいよ近所でも蝉が鳴き始め、夕暮れになると、美しい虫の声が聞こえるようになった。主が私を力づけて下さったので、日々、なすべき仕事を果たすために、歩いている。(ただし、写真は横浜ではなく、数年前の神戸。)

時折、自分の生活を振り返って、主の御前に、偶像に当たるようなものがないか、点検することは重要である。人、もの、人の教え、先人の言葉、金銭、飲食、 兄弟姉妹の交わり…。もしも私たちが、主ではなく、何か別のものにしがみつき、それに栄光を帰し始めるならば、何でも、偶像になりうる。

「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」(Ⅰテモテ2:5)。神と私たちとをつなぐお方はただ一人。私たちは、何者をも介さず、ただキリストに直接、結ばれて、ただ主から、そのまことの命によって、生活に必要な全てを満たしていただき、私たちの死んだ古き命に代わって、キリストに生きる力となっていただきたい。

しかし、目に見えるものは、あまりにも、人の五感を誘うので、目に見える現実が、時折、私たちの心をしっかりつかみ、あるいは心を落胆させる。見える現実 が、知らず知らずのうちに、神と私たちとの間に立ちはだかって、それこそがまことの供給源であるかのように、私たちを偽り、主から直接の命の供給を受け、 信仰によって歩む妨げとなってしまうことがある。

「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」(Ⅱコリント5:7)。私たちにとっての現実はキリストである。そしてキリストとは次のようなお方である。「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。」(コロサイ2:3)、

「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのであ る。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨 てたのである。」(コロサイ2:9-11)。


私たちの真の供給者は、目に見える現実や感覚ではなく、キリストご自身である。たとえどんなに現実が困難で、悪しきものに見えても、キリストは全ての支配 と権威のかしらであり、神の良きものの全てに満たされたお方である。このキリストを内にいただいている私たちは、主にあって、主の御名を通して、キリスト に満ちている全てを必要に応じていただけるのである。そこで、このまことの供給者であられるキリストと、私たちとの間に、何者も、何物も、挟ませないよう にしたい。どんなに素晴らしい地上の事物であっても、キリスト以外の何かに頼らないようにしたい。たとえ油紙一枚のような薄い隔たりであったとしても、ま ことの命なるキリストと私たちを隔てる障害物があるならば、それは私たちの信仰を弱める材料になりかねず、また、そこを足がかりにして、敵は私たちを攻撃 できるのである。

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ6:12)

特に、暗闇の勢力との戦いに一歩でも足を踏み入れた後には、私たちは、ただカルバリで主が取られた勝利に依拠して、すなわち、死と復活を経られたキリスト との直接的な結合に堅くとどまり続けることによってしか、悪しき者のあらゆる攻撃に耐えて立ちおおせることはできないことが分かるだろう。この霊的戦場に おいては、自分の信仰を通して、ただキリストの勝利だけを持って、敵に当たらなければならない。そこでは、いかなる教師や、兄弟姉妹、先人たちの言葉や、 彼らの信仰によっても、武装することはできないのだ。

このことを知らないうちは、私たちは、自分の拙い信仰告白を、他人の経験豊富なメッセージによって、補うことができるかのように錯覚している。私たちは、 自分の信仰告白を、まるで学術論文か何かのように、権威ある人の言葉の引用で補強しようとしがちである。しかしながら、信仰が真に試される瞬間に、他人の 言葉の引用によって武装するほど、愚かで、無益なことはない。

先人に学ぶことが全て無益なのではないが、どんなに優れた人の言葉であろうと、他人から借りて来た信仰告白は、私たちの信仰が真に試される瞬間には、役に 立たない。暗闇の勢力に対して、衝撃力を持つのは、私たちが自分の信仰に立脚して、他ならぬ自分の口で、キリストの十字架の勝利を大胆に誉めたたえ、カル バリに堅くとどまって、御言葉によって武装し、どんな悪しき現実によっても、心を揺るがされないでいることを、大胆に証する場合だけである。

もう一度、言うが、私たちは他人の経験、他人の証、他人の信仰を借りて来て、暗闇の勢力と直接、戦うことはできない。もしも、私たちが自分の信仰に立たな いで、自分以外の誰かの言葉を用いて、暗闇の勢力に立ち向かおうとするならば、それは重大な危険を身に招くことになるだろう。なぜなら、その時、敵は私た ちに対して、このように対応できるからだ。

「すると悪霊がこれに対して言った、『イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえた ちは、いったい何者だ』。そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押さえつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その 家を逃げ出した。」 (使徒19:15-16)

このような意味で、私たちは、誰か立派な教師や、先人や、リーダーの言葉を用いて、暗闇の権威に立ち向かうようなことを避けなければならない。敵はそれが 借り物に過ぎず、本当は、私たちに、それを述べるに十分な信仰がないことを見抜いた上で、倍の反撃を浴びせて来るだろう。

必要なのは、私たちが自分自身の口を通して、直接、偽りのない良心に基づき、自分自身の信仰によって、主の勝利を賛美し、証することである。力に乏しく、深みもなく、稚拙で、幼いように思われる、私たちの乏しい信仰の告白を、主は尊んで下さるのである。

「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、み どりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。」(詩 篇8:1-2)

みどり子、乳飲み子によって、誉めたたえられる主! これは何と驚くべき御言葉だろうか。生まれたばかりの幼子のように、弱く、取るに足りない、私たちの 口の賛美を通して、主はまさに、敵に立ち向かう要塞を築かれるのだ。みどり子、乳飲み子に過ぎない弱い者たちが、高らかに主イエスのカルバリの勝利を歌う 時、神に敵対する者、恨みを晴らそうと、機会をうかがって、獅子のように吼えたけっている者たちでさえ、敗退し、口を閉ざさざるを得なくなる。

そこで、私たちはどんなに弱々しくあっても、借り物の言葉でなく、まさに自分自身の口で、主を誉めたたえよう。現実がどうあれ、主の勝利を信じ、高らかに 宣言しよう。神のあらゆる良きものに満ち満ちておられるキリストから、日々、生きる力をいただき、このお方に私たちの現実となっていただこう。幼子のよう に弱い私たちをも、神はその偉大な力によって強くして下さる。悪しき日に、暗闇からの全ての攻撃に対して立ちおおせるために、私たちはただ主イエスの御名 の権威によって立ち上がり、神の武具によって直接、武装し、信仰を強められるべきである。

「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。

それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、 正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるで あろう。

また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)

主の愛をいつまでも歌い続けよう

友と一緒に歩いた海。「後のものを忘れ、前のものに向かって」(ピリピ3:13)、ひたすら身を伸ばそうと、共に決意したその日。どんな先人の言葉にすがるよりも、ただ、御言葉に帰ろうと約束したその日。互いの無礼と誤解を赦し合ったその日。イサクの神が、私たちを心の底から大笑いさせて下さったその日。

このことは書くまいと思っていた。だが、この出来事を思い出すだに、心に不思議な愛と感動がこみ上げて来てならない。自然と、涙と笑顔が生まれ、主の栄光を証せずにはいられない!

ああ、私たちの主は、何と素晴らしいお方だろう。何と恵みと憐れみに満ちておられるのだろう。一人ひとりのキリスト者を、私たちの隣人を、何と愛してやま ないお方なのだろう。どうしてこんな私が、主の御名によって集まる二、三人の愛のうちに加わっているのだろうか。まだ見ぬ者をさえ巻き込んでいる、この一 致の喜びは何なのだろうか。それはただ主の憐れみと愛ゆえなのだ。

主の愛に触れる時、私の冷え切った心に、初めて、隣人への愛が生まれる。その愛は私を除外しない。むしろ、その愛は、この低いところにいる私へ向かって も、ひたすら流れて来る。主は、打ち捨てられた私の悲しみや孤独をも理解し、日々、疲れ切っている私のために、こまやかに行き届いた配慮を示して下さる。

主を誉めよ! 主を賛美せよ! 主の栄光を誉めたたえよ! どんな出来事をも、主は、主を待ち望む者のためには、益と変えて下さる。私たちの失敗や、つま ずきや、悲しみや、涙や、恥でさえも、私たちが心の底から、神に従いたいと願って、主に叫び求め、己の罪を悔い、御言葉のうちにとどまるならば、全てを神 の栄光になるように、変えて下さる

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28)


本当は、煙るような霧雨が降っていて、美しい海の青色は見えなかった。だが、ほんの少し色彩を加えると、こんなにも色合いが違って見える。忘れまい、主の 恵みを。いつまでも歌い続けよう、主の愛の広さ、深さを。私たちが罪人であった時に、十字架で命を捨てて下さった、主のはかりしれない愛を誉めたたえ、こ の愛のうちにとどまろう。

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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