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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

シオンのために黙せず

「わたしは高く、聖なる所に住み、
 また心砕けて、へりくだる者と共に住み、
 へりくだる者の霊をいかし、
 砕けたる者の心をいかす。
 
 わたしはかぎりなく争わない、
 また絶えず怒らない。
 霊はわたしから出、
 いのちの息はわたしがつくったからだ。」(イザヤ57:15-16)

「シオンの義が
 朝日の輝きのようにあらわれいで、
 エルサレムの救が燃えるたいまつの様になるまで、
 わたしはシオンのために黙せず、
 エルサレムのために休まない。

 もろもろの国はあなたの義を見、
 もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。
 そして、あなたは主の口が定められる
 新しい名をもってとなえられる。
 また、あなたは主の手にある麗しい冠となり、
 あなたは神の手にある王の冠となる。」(イザヤ62:1-3)
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見えるものによらず

主を愛し、主を知りたいと願うほどに、それ以外のものに、興味がわかなくなっていく。似て非なる教えの糾弾、とかいう作業に没頭していたこともあったが、今では、それにも興味がわかない。

目に見えるものに、すぐに頼ろうとする私は、その弱く、不信仰な心のゆえに、何度、主の御姿を見失って、水に溺れかけただろう! 何度、見えるものの中に、主の御姿を見出そうとして失敗して来ただろう!

欺きは、初めは、私の幼さと愚かさに合わせてやって来た。その後、次第に、私の信仰の成長に応じて、少しばかり、高尚そうに、姿を変えた。だが、紳士の姿であろうと、物乞いの姿であろうと、やはり欺きは欺きだったのだ!

それら全てが100%嘘であったと言うわけではない。それが私の信仰生活の重要な通過点だったことは、確かである。しかし、私はいつも、自分の内なるキリ スト以外のどこかに、自分以外のどこかに、主の御教えを探そうとしていた。主に出会い、主を知ったその後でさえも、感覚を満たしてくれるものの中に主を探 そうとしたり、兄弟姉妹との交わりの中に主を探そうとしたり、現在の自分に、何か足りないものを補うために、さらに高尚で深く霊的な教えを求めなければな らない、という考えに駆り立てられたりして、真の命を、偽りの命に取り替えようとしたのだった。

内なるキリストがおられ、彼が私に全てを供給してくれようと、十分な恵みを携えて準備なさっておられるのに、そこに全てを補って余りある恵みがあるとは信 じられず、世界中で、誰よりも、最高の権威を持ったお方が、私に給仕して下さろうと備えて下さった食卓をあえて蹴ってでも、私は単純な静けさの中で、御霊 によって教えられることに、物足りなさと、寂しさを感じて、主を退けて、目に見える食卓の方に駆けつけて来たのだった。

そのような私の姿は、「ここにキリストがいる、ほら、あそこに」と言われれば、すぐに着いて行こうとするクリスチャンも、同然であった。敵が私の注意を引 くためには、すぐには手に入りそうにない、深遠で霊的な書物や、その手ほどきをしてくれる優しいクリスチャン、幾人かの兄弟姉妹の集う、奥義的な雰囲気を 漂わせる、秘めやかな交わりがあれば、十分だった。内なるキリストの臨在から、私を引き離すためには、大した舞台装置は要らなかった。

だが、柔和で謙遜な姿でやって来て、私の五感に巧みに訴えかけて、私の期待を誘った見えるものとその教えは、結局、やがて、とてつもない傲岸さと、尊大さ をあらわにして、それ自体が、審判者になり代わったのだった。見えるものそれ自体が、「キリスト」ご自身であるかのように振る舞い、ついにキリストをさえ 名乗り始めた。そこでは、十字架が語られていたのに、人の自己が真に十字架につけられていなかった。霊的な教えが、目に見える人間の権威を強化するために 利用されていた。真理と偽りが混在していた。罪の告白もなければ、悔い改めも欠如していた。敵陣の只中で私は欺かれ、失意のどん底に突き落とされ、そう なってからは、誰に何を訴えても、後の祭りであった。

ああ、欺きの深さと、終わりのなさよ! 人知ではどうやって見えるものの欺きから逃れられよう。世の中全体が、何かしら、巨大な詐欺のるつぼのようなもの に変わりつつある現在、見えるもの全てが、嘘と思っても、差し支えない現在、この世という、嘘によって築き上げられた体系を覆う、絶望的な暗闇の中で、た だ一つ、確かに輝く光は、私の罪のために、身代わりとなって、十字架で死なれ、復活された主!

主を通してのみ、私はこの世の偽りから救われる。主以外のどんな権威を通しても、私は偽りから救い出されることはできない。魅力的に見える多くのもの、人 の賞賛を受けているものに、何と多くの欺きが隠されていることか。高尚な教えを説く人が、私を救うのか。兄弟姉妹が、私を救うのか。書物が、私を救うの か。人から受ける名誉と評判が、私を救うのか。それとも、私の義が私を救うのか。

私の魂よ、思い出せ、私をエジプトの虐げと死の淵から救い出し、命の中に置いて下さったのは誰だったのか。死の惨めさから、命の豊かさへと、連れ出して下 さった方は誰だったのか。私の消えるはずのない罪を血によってすすぎ、義の衣を着せて立たせて下さった、そのお方は誰だったのか。この先にも、私が御心に 従って歩むために、必要の全てを、永遠の十字架を通して、余りあるほどに備えて下さったのは誰なのか。

にも関わらず、私の魂よ、なぜ主を捨てるのか。なぜおまえは、いつもきらびやかで奥義的で秘めやかな、自分をさらに高めてくれそうなものに心誘われるの か。なぜ、最も謙虚で、最も貧しさを知っておられ、最も穏やかで、最も柔和で、最も弱さを知り、最もへりくだったお方に、満足していられないのか。なぜ魂 をかきたてる情感と、知性を満足させる死んだ文字と、目を楽しませる刺激を求めてやまないのか。主が最も謙遜であられ、侮られても沈黙しておられるがゆえ に、私は彼を軽んじているのだ。それは私の罪である! 主を軽んじた代償は、私の魂に重い。それでも、私が打ち砕かれ、弱くされ、へりくだらされ、うめき の中で主に叫び求める時、主は驚くばかりの愛と憐れみを持って、私を救われる。私が自分自身を頼らず、ただ主を頼りさえするなら、主の救いはいつも速い。

「わたしは主である。
 わたしのほかに神はない、ひとりもいない。
 あなたがわたしを知らなくても、
 わたしはあなたを強くする。
 これは日の出る方から、また西の方から、
 人々がわたしのほかに神のないことを
 知るようになるためである。
 わたしは主である、わたしのほかに神はない。
 わたしは光をつくり、また暗きを創造し、
 繁栄をつくり、またわざわいを創造する。
 わたしは主である、
 すべてこれらの事をなす者である。」(イザヤ45:5-7)


偽りに心誘われ、主の臨在から引き離されることの苦い代償を知るごとに、私の中には、次第に、見えるものに頼ろうとする心がなくなっていく。

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。」(ヘブル11:3)

見えない神の愛にとどまり、神の愛の中に住み、神の愛をさらに知ろうと努めること、それ以上に、大切なものが、何か他にあるだろうか? 地上の一切の心惹 かれるものから目を背け、ただ主だけに一心に心を向けて、主を愛そうと努めること以上に、重要なことがあるだろうか? 主を否定することは、全てを否定す ることに等しい。万物の主権者は神である。その神を退けて、私たちは目に見えるどんな良きものも手に入れることはできない。私の脱線と失敗ゆえに、時間が 遅延しており、来るべき報いを失っていることを考えると、やるせなさと恥ずかしさを感じずにいられないが、それでも、目に見えるものに欺かれるという痛み を伴う学課も、主が私に与えられた最善の教訓であったのだと信じよう。

主を賛美します。主イエス・キリスト、このお方こそが、私の救い主です。私には全く希望がないけれども、彼こそは、希望の全てです。彼は私の弱さと愚かさ を知っておられます。そして私の弱さに同情して下さいます。このお方が、私の内に住んで下さり、私に代わって命となって下さり、私を教え、導き、守って下 さる、その事実に立ち戻り、しがみつきます。主よ、どうか、これ以上、目に見えるものに私が頼らないように、どうか、まことの命なる主ご自身を、もっと深 く知ることができますように、この地上で与えられている時間を、これ以上、益にならないもののために無駄にせず、神と共に生きられるよう、私を教えて下さ い。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜って神を認 めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神 の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知 るに至るようにと、祈っている。」(エペソ1:17-19)

詩篇第37編

「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。
 不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
 彼らはやがて草のように衰え、
 青菜のようにしおれるからである。

 主に信頼して善を行え。
 そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
 主によって喜びをなせ。
 主はあなたの心の願いをかなえられる。

 あなたの道を主にゆだねよ。
 主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
 あなたの義を光のように明らかにし、
 あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。

 主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。
 おのが道を歩んで栄える者のゆえに、
 悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。

 怒りをやめ、憤りを捨てよ。
 心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。
 悪を行う者は絶ち滅ぼされ、
 主を待ち望む者は国を継ぐからである。」

「人の歩みは主によって定められる。
 主はその行く道を喜ばれる。
 たといその人が倒れても、
 全く打ち伏せられることはない、
 主がその手を助けささえられるからである。」 (詩篇37:1-9,23-24)


主が与え、主が取りたもう

書こうか迷ったが、やはり書くことにしよう。

私の飼っていた文鳥が、数日前、天に召された。こうして、私は身近なただ一人の家族を失って、一人地上に残された。この猛暑のためである。言い訳できない。全ては私の責任であり、私の管理不行き届きのためである。

自分自身も、気を失って倒れそうな暑さの中、毎日、自分を騙し騙し、やっとこさ生きていた。まさかこれほどまでに、何日間にも渡って、窓を開けても、風一 つ通らない、殺人的な暑さが続こうとは…。生きる道を何とか切り開こうとして、私がハローワークなどを巡りつつ、試行錯誤を続けていた最中、文鳥は少しず つ、体調を崩して行ったのだった。だが、あまりにも、自分の大変さに気をとられ、その深刻さに気づいてやることができなかった。主は癒して下さると思った し、自分は弱い立場にあって、苦労しているのだと思っていた。

だが、一体、他者を生かす力のない私の苦労が、何の誇りとなるのだろうか。自分よりも弱い生命のために、何もしてやれない私の無意味な強さが、何の価値を 持つというのか。誰をも利さない私の徒労が、何の同情と、憐れみに値するのか。むしろ、これは弱さではなく強さであり、自己中心と言うべきものである。

まことに、キリスト以外に、私の内に誇るべきものは何一つとしてない、ということを、主は憐れみを持って、こうして、私に示して下さった。私から出て来る 全てが、腐敗であり、邪魔でしかないのだということを…。私の正義感と、自己義認が邪魔であることは言うまでもなく、私が何とか生きながらえようとして、 試行錯誤し、努力することの中にさえも、主の御前には、徹底的な腐敗があるきりであり、私の努力など、何の解決にもならないのだと…。

だが、不思議なことに、この出来事を通して、何かしら、主の憐れみが、雨のように私に降り注いだ。私には失意と後悔が残されたが、それに伴って、主から受 ける慰めも深いように思われる。何だろう、これは? 罪の増し加わるところには、恵みも増し加わる、とは、こういうことをも言うのだろうか?

気の狂いそうな暑さの中で、愛する小鳥のなきがらを手のひらに包んで、私は心の中で叫んだ、

「主よ、私を憐れんで下さい! 私はどうしようもない罪人なのです! 自分のことさえもどうにもできず、まして、弱い家族のために、してやれることが何もないのです! 私は何という情けない、憐れみに欠けた、無力かつ有害な人間なのでしょう!

でも、主よ、どうか私を憐れんで下さい、私はたった一人ぼっちになりました! 私を慰めてくれる家族はいませんし、助けを求める相手もありません! 誰よ りも信用ならない私が一人いるきりです。主よ、あなただけが頼りなのです。あなたが今、私と共にいて下さり、私を見捨てておられないことを、どうか、はっ きりと示して欲しいのです。私がどんな罪人であろうとも、あなたが今も、私と共にいて下さり、私を愛して下さっていることを、知りたいのです。

主よ、お願いがあります、今、私にはこの小鳥を埋葬するために、地面を掘る道具がありません。スコップが必要なのです、どうか、あなたがそれを用意して下さい!」

もはや暑さのため、何も考える力もなく、茫然自失のうちに、私は祈ったというよりも、主に向かって、要求したのだった。だが、こんな支離滅裂な祈りにさ え、主は憐れみを持って即答してくださり、地面を掘るものは、階下に下りて行くと、私の思った通りの場所に、探す必要もなく、備えられていた。しかし、埋 葬に適した場所が見つからなかった。私はいつかこの土地を離れるだろう。旅の道連れをこんな所に置いて行きたくない。私はこの小鳥を故郷の地に埋めること を決め、それまでは、小さな植木鉢を仮の墓地にすることにした。

この事件を通して、私は自分の義を主張することをやめた。私は弱いのだと考えて、自分の弱さによりすがることもやめた。もしも私が弱いのだとすれば、私よ りも、もっともっと弱い者たちはどうなるのか。その者たちの前で、私にどんな弁解の余地があるのだろうか。一体、自分に何の同情を乞うことができるのか。 自分の弱さの上に開き直って、自分よりも弱い者から、平気で同情を要求することは、間違っている。

だが、私の生まれながらの命はとことんまで腐敗しており、私が生きようとすることでさえ、他者の命を脅かすことにつながりかねない。私もアダムの生まれな がらの命においては、ただまむしの子孫でしかなく、本質的に殺人者なのだ。なのに、私にはこの呪われた死の身体から自分を救う道がないのだ。

ただ私たちの主イエス・キリストに感謝するのみである。もしも主を知らなければ、こんな時、どこに希望があっただろうか。しかし、今は神を信じているの で、望みを微塵に打ち砕かれ、自分の腐敗を思い知らされ、剥ぎ取られ、打ちのめされる時でさえも、主の憐れみを信じられる。私の命が極みまで腐敗していよ うとも、主は真実であられるからだ。キリストによって生まれることだけが私をアダムの命から救う。主の裁きは正しい。主が私になさることは、全てが、最善 である。たとえそれが自分の無力と恥を思い知らされることであったとしても…。

どんな時でも、主の優しさと、憐れみと、愛とは、私に注がれている。私には、自分で自分の生存を支えることもできないし、まして、自分に連なる命を守る術 もない。ただ生きるというだけのことが、いつもいつも、なぜこれほどまでに、困難であるのか知らない。だが、私にできることは、ただ必死に、神の内に隠 れ、自分の生まれながらの命を拒んで、神の命の中に駆け込むことだけである。私にはできなくとも、主にはできる。義人は信仰によって生きると、御言葉に書 いてある。どんなことが起ころうと、私にできることは、ただ主の御名を賛美することだけ。主が与え、主が取りたもう、主の御名は誉むべきかな! 私の生ま れながらの命にできることはただ罪を犯すことだけであり、そこにはどんな希望もないが、それでも、キリストの十字架の死が、日々、私の内で実際となり、キ リストの命が、死んだ私に代わって、私を内側から生かすことを信じて、主を見上げ、主を待ち望むのみである。

不思議なことに、状況は長い間、こう着状態のようであるが、小さな出来事の中に、日に日に、主の明らかな慰めが現れている。今日は、『敬虔な生涯』の入荷 が、もう何週間も遅れているので、速やかに本が手元に届くよう、エクレシアの一人の成員に祈りの助力を求めた。すると、晩には、もう本がポストに入ってい た。これが主の憐れみでなくて、何だろうか。

私たちは懲らしめられても、失望してはならない。主に心から従おうと思って自分を捧げた者は、誰でも、主イエスが肉体を裂かれたように、自分も裂かれなけ ればならない。私たちは裂かれることのない、無傷できれいな人生を送ることはできない。私たちの無力と、腐敗と、貧しさは、いたる所で明らかになるだろ う。他の人々が喜び、安んじている時に、私は追いつめられ、みっともなく転び、剥ぎ取られ、打ち倒され、無力を覚え、涙しているかも知れない。誤解され、 罪定めされ、嫌われ、排斥されているかも知れない。そんなことが、この先も、幾たびあるかも分からない。

だが、たとえそうなったとしても、己を義とせず、主の義により頼む者は幸いである。なぜなら、主を待ち望む者は、恥を見ることがないからである。仮に失敗 したとしても、困難の中で、行き場を失ったとしても、神の愛と、憐れみを信じられる者は、幸いである。主を信じて待ち望む者に対して、主は憐れみ深く、苦 しみの中にも、深い慰めを与えられるからである。

人は私を見てすでに気がおかしいと思うかもしれないし、こんなのは自己安堵だ、ごまかしだ、無責任だと言うかも知れないが、何かしら、人知を超えた安らぎ が、私を包んでいる。生死は主の支配下にある。主の許しなしには一羽の雀さえも、地に落ちることはない。そして主は私の孤独と悲しみを確かに知っておら れ、私を心配し、同情しておられるのである。だから、こんな時でも、私に言えることは、主の御名は誉むべきかな、という一言に尽きる。少しの間ではあった が、この生命を私にお与え下さり、共に寄り添い、喜びを分かち合わせて下さった主に、心から感謝を捧げ、そして、私の至らなさをお詫びした上で、この小さ な命を主の懐にお返しし、預けるのみである。

そして、たとえどんなに人生が困難に見えたとしても、どんなに追いつめられ、孤独の中を通らされたとしても、私の命そのものを主にお預けして、この先も、主の真実に信頼し、主の愛により頼みながら、歩いて行く。

「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:38-39)
 

真の弱さとは何か

「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 」(Ⅱコリント12:9)

「わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。」(Ⅱコリント12:5)

「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない。」(ローマ15:1)


地上での弱さや、貧しさは、しばしば、私たちが心から主を待ち望む、最も大きな動機となります。私たちはこの地上で弱く、追いつめられており、貧しいがゆ えに、主に助けを求めて叫ばずにいられません。そして、主の憐れみに満ちた解決を信じて、待ち望まずにいられません。こうして、地上での貧しさや、弱さ が、しばしば、私たちの信仰が増すきっかけとなります。

しかし、御言葉が述べている「弱さを誇る」ということが、どのような意味であるのか、もう少し、踏み込んで考えてみたいと思います。

私たちは間違いやすいのですが、ここで御言葉の述べている弱さとは、私たちが地上で豊かであるか、それとも、貧しいのか、私たちの生まれながらの力が、強 いのか、それとも、弱いのかという問題ではなく、私たちが生まれながらの命の内に、何一つ、より頼むものを持たず、私たちの天然の命の力が、全て無となっ た状態を言うのではないでしょうか。それは、人が主と共なる十字架を通して、自分に死んで、キリストの他に、何一つとして、自分の内に、より頼むべき誇り を持たなくなった状態を言うのではないでしょうか。

そこでは、私たちは、自分の成功を誇らないと同時に、自分の不成功をも、誇りません。世間で自分が名声を得ていないことや、繁栄していないことや、自己実 現していないことや、自己満足していないことや、豊かでないことや、健康でないこと、あの人、この人に比べて、私が何か特別な試練を耐え抜いて来たこと や、誇るべき所有物を何も持っていないことにさえも、より頼みません。過去の苦しかった経験や、現在置かれている状況の困難ささえも、誇りとしません。

私たちは時折、弱さを誇ると言いながら、依然として、自分の弱さを武器に変えようと望んでいる場合があります。強い人は、10の力を誇るかも知れませんが、弱い人も、1しかない自分の力を強みにして生きることが可能なのです。

強い人には、強い人なりの自己義認があります。しかし、弱い人にも、弱い人なりの自己義認があります。そして、人知れぬ困難を耐え抜いて来たという自負が あるだけに、弱者の自己義認の感情は、なお一層、屈折して、取り扱いにくいものとなっている場合が多いのではないでしょうか。

いずれにせよ、人の天然の命から出て来る弱さは、偽りと、自己中心性に満ちています。病であれ、失敗であれ、無名であれ、貧しさであれ、人は何らかの欠乏 を抱えている時には、それがために、より一層、わがままになりがちです。弱さのゆえに、自分がより一層、理解され、同情を受け、憐れみを持って扱われるこ とを、当然のように考えるようになります。天然の命から出て来る弱さ、貧しさは、かえって、私たちをさらなる自己中心性へと導くことが多いのです。

しかし、御言葉の言う、弱さを誇るということは、そのようにして自分の弱さを、自分の立場を有利にし、自分の正しさを世間に印象づけて、自分を美化し、自 己中心性をより一層強めるための道具として用いることを指すのではありません。それは、弱者による自己義認とは無関係です。神の御前では、強者の自己義認 も、弱者の自己義認も、どちらもが、十字架によってはりつけにされなければならない、忌まわしいものなのです。

主にあって、真に弱くされる時、私たちが今、持っている天然の命の力が、大きかろうが、小さかろうが、その一切が、十字架に渡されるでしょう。そこでは、 力の強い人も、弱い人も、どちらもが、自分の生まれながらの命の力に死んで、それを自分を有利にするために全く用いることができないでしょう。あの人に比 べて、私は成功していないし、豊かでもないし、優れた能力がなく、美しくもなく、健康でもない、だから私は弱いのだ、と考えて自分を慰める思いも、そこに はありません。人と比べての相対的な弱さは、御言葉が誇るよう勧めている弱さと同じものではありません。

真の弱さとは、自分から出て来るものを、何一つとして、自分を有利にするために利用できなくなった状態のことではないでしょうか。その時、私たちは、もは や世間の前で、自分の苦悩をアピールし、自分を悲劇の人のように見せかけて、印象づけることもできないのです。これまで耐え抜いて来た苦境の重さを語るこ とによって、人の同情と涙を誘うこともできません。

主にあって弱くされる時、人の目を絶えず自分にひきつけようとする、私たちの自己中心性は、完全に打ち砕かれて、十字架に渡されるでしょう。私たちは成功 であれ、失敗や苦難であれ、自己から出て来るものを、何一つ、誇れなくなるでしょう。それは、私たちが、自分の内には何一つとして良いものがなく、これま で耐えてきた苦難を自分の正しさとして誇ることさえも、主の御前に忌まわしいということを、自覚させられた時です。むしろ、世間の前で誇ることができるよ うな力や経験が、わずかでも私たちの内にあるならば、それはキリストのゆえに、一切が損であるということを自覚した弱さなのです。

ただキリストの他には、誇るべきものは何もなく、自分に由来する一切が十字架に死に渡されることだけにふさわしいと自覚する時、自分に属する全てが、キリ ストのゆえに、損なものであると認める時、私たちは真の弱さとは何かを知るのではないでしょうか。そうなって初めて、私たちが無とされたその場所に、ただ キリストが生きて下さるのではないでしょうか。

私たちは、十字架により、このような地点にもたらされるほどまでに、弱くされることが必要です。私たちが真に退去するならば、信仰によって、主イエスが来 られるでしょう。この弱さは、十字架の向こうに、墓の向こうにあります。そこへたどり着くために必要なのは、人の同情を誘って、私たちの美名をさらに築き 上げるような、あれやこれやの悲劇の物語ではなく、ただキリストの十字架です。そこでは、私たちの自己義認の感情が、徹底的に十字架に渡されなければなり ません。自分の弱さを武器にして、あの人よりも私は正しい、私は苦難によって練られ、清められたのだから、同情に値すると考えて自己義認しようとする思い は、ことごとく、十字架に渡される必要があります。

もしも、神が私に与えられた十字架の死の宣告に対して、私がもっと従順になり、全ての自己義認、自己中心性を捨てて、自分はただ死の刑罰を受けて、墓に死 んで横たわるだけにふさわしいことに同意し、それでも、死んだ私を、主が再び、生かして下さると信じて、定められた時まで、黙って主を仰ぎ望むなら、この ような弱さに対して、主は速やかに働かれ、ご自分の復活の命を現されるでしょう。

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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