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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

みどり子、乳飲み子に賛美される主

いよいよ近所でも蝉が鳴き始め、夕暮れになると、美しい虫の声が聞こえるようになった。主が私を力づけて下さったので、日々、なすべき仕事を果たすために、歩いている。(ただし、写真は横浜ではなく、数年前の神戸。)

時折、自分の生活を振り返って、主の御前に、偶像に当たるようなものがないか、点検することは重要である。人、もの、人の教え、先人の言葉、金銭、飲食、 兄弟姉妹の交わり…。もしも私たちが、主ではなく、何か別のものにしがみつき、それに栄光を帰し始めるならば、何でも、偶像になりうる。

「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」(Ⅰテモテ2:5)。神と私たちとをつなぐお方はただ一人。私たちは、何者をも介さず、ただキリストに直接、結ばれて、ただ主から、そのまことの命によって、生活に必要な全てを満たしていただき、私たちの死んだ古き命に代わって、キリストに生きる力となっていただきたい。

しかし、目に見えるものは、あまりにも、人の五感を誘うので、目に見える現実が、時折、私たちの心をしっかりつかみ、あるいは心を落胆させる。見える現実 が、知らず知らずのうちに、神と私たちとの間に立ちはだかって、それこそがまことの供給源であるかのように、私たちを偽り、主から直接の命の供給を受け、 信仰によって歩む妨げとなってしまうことがある。

「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」(Ⅱコリント5:7)。私たちにとっての現実はキリストである。そしてキリストとは次のようなお方である。「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。」(コロサイ2:3)、

「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのであ る。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨 てたのである。」(コロサイ2:9-11)。


私たちの真の供給者は、目に見える現実や感覚ではなく、キリストご自身である。たとえどんなに現実が困難で、悪しきものに見えても、キリストは全ての支配 と権威のかしらであり、神の良きものの全てに満たされたお方である。このキリストを内にいただいている私たちは、主にあって、主の御名を通して、キリスト に満ちている全てを必要に応じていただけるのである。そこで、このまことの供給者であられるキリストと、私たちとの間に、何者も、何物も、挟ませないよう にしたい。どんなに素晴らしい地上の事物であっても、キリスト以外の何かに頼らないようにしたい。たとえ油紙一枚のような薄い隔たりであったとしても、ま ことの命なるキリストと私たちを隔てる障害物があるならば、それは私たちの信仰を弱める材料になりかねず、また、そこを足がかりにして、敵は私たちを攻撃 できるのである。

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ6:12)

特に、暗闇の勢力との戦いに一歩でも足を踏み入れた後には、私たちは、ただカルバリで主が取られた勝利に依拠して、すなわち、死と復活を経られたキリスト との直接的な結合に堅くとどまり続けることによってしか、悪しき者のあらゆる攻撃に耐えて立ちおおせることはできないことが分かるだろう。この霊的戦場に おいては、自分の信仰を通して、ただキリストの勝利だけを持って、敵に当たらなければならない。そこでは、いかなる教師や、兄弟姉妹、先人たちの言葉や、 彼らの信仰によっても、武装することはできないのだ。

このことを知らないうちは、私たちは、自分の拙い信仰告白を、他人の経験豊富なメッセージによって、補うことができるかのように錯覚している。私たちは、 自分の信仰告白を、まるで学術論文か何かのように、権威ある人の言葉の引用で補強しようとしがちである。しかしながら、信仰が真に試される瞬間に、他人の 言葉の引用によって武装するほど、愚かで、無益なことはない。

先人に学ぶことが全て無益なのではないが、どんなに優れた人の言葉であろうと、他人から借りて来た信仰告白は、私たちの信仰が真に試される瞬間には、役に 立たない。暗闇の勢力に対して、衝撃力を持つのは、私たちが自分の信仰に立脚して、他ならぬ自分の口で、キリストの十字架の勝利を大胆に誉めたたえ、カル バリに堅くとどまって、御言葉によって武装し、どんな悪しき現実によっても、心を揺るがされないでいることを、大胆に証する場合だけである。

もう一度、言うが、私たちは他人の経験、他人の証、他人の信仰を借りて来て、暗闇の勢力と直接、戦うことはできない。もしも、私たちが自分の信仰に立たな いで、自分以外の誰かの言葉を用いて、暗闇の勢力に立ち向かおうとするならば、それは重大な危険を身に招くことになるだろう。なぜなら、その時、敵は私た ちに対して、このように対応できるからだ。

「すると悪霊がこれに対して言った、『イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえた ちは、いったい何者だ』。そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押さえつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その 家を逃げ出した。」 (使徒19:15-16)

このような意味で、私たちは、誰か立派な教師や、先人や、リーダーの言葉を用いて、暗闇の権威に立ち向かうようなことを避けなければならない。敵はそれが 借り物に過ぎず、本当は、私たちに、それを述べるに十分な信仰がないことを見抜いた上で、倍の反撃を浴びせて来るだろう。

必要なのは、私たちが自分自身の口を通して、直接、偽りのない良心に基づき、自分自身の信仰によって、主の勝利を賛美し、証することである。力に乏しく、深みもなく、稚拙で、幼いように思われる、私たちの乏しい信仰の告白を、主は尊んで下さるのである。

「主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、み どりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。」(詩 篇8:1-2)

みどり子、乳飲み子によって、誉めたたえられる主! これは何と驚くべき御言葉だろうか。生まれたばかりの幼子のように、弱く、取るに足りない、私たちの 口の賛美を通して、主はまさに、敵に立ち向かう要塞を築かれるのだ。みどり子、乳飲み子に過ぎない弱い者たちが、高らかに主イエスのカルバリの勝利を歌う 時、神に敵対する者、恨みを晴らそうと、機会をうかがって、獅子のように吼えたけっている者たちでさえ、敗退し、口を閉ざさざるを得なくなる。

そこで、私たちはどんなに弱々しくあっても、借り物の言葉でなく、まさに自分自身の口で、主を誉めたたえよう。現実がどうあれ、主の勝利を信じ、高らかに 宣言しよう。神のあらゆる良きものに満ち満ちておられるキリストから、日々、生きる力をいただき、このお方に私たちの現実となっていただこう。幼子のよう に弱い私たちをも、神はその偉大な力によって強くして下さる。悪しき日に、暗闇からの全ての攻撃に対して立ちおおせるために、私たちはただ主イエスの御名 の権威によって立ち上がり、神の武具によって直接、武装し、信仰を強められるべきである。

「最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。

それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、 正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるで あろう。

また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)
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主の愛をいつまでも歌い続けよう

友と一緒に歩いた海。「後のものを忘れ、前のものに向かって」(ピリピ3:13)、ひたすら身を伸ばそうと、共に決意したその日。どんな先人の言葉にすがるよりも、ただ、御言葉に帰ろうと約束したその日。互いの無礼と誤解を赦し合ったその日。イサクの神が、私たちを心の底から大笑いさせて下さったその日。

このことは書くまいと思っていた。だが、この出来事を思い出すだに、心に不思議な愛と感動がこみ上げて来てならない。自然と、涙と笑顔が生まれ、主の栄光を証せずにはいられない!

ああ、私たちの主は、何と素晴らしいお方だろう。何と恵みと憐れみに満ちておられるのだろう。一人ひとりのキリスト者を、私たちの隣人を、何と愛してやま ないお方なのだろう。どうしてこんな私が、主の御名によって集まる二、三人の愛のうちに加わっているのだろうか。まだ見ぬ者をさえ巻き込んでいる、この一 致の喜びは何なのだろうか。それはただ主の憐れみと愛ゆえなのだ。

主の愛に触れる時、私の冷え切った心に、初めて、隣人への愛が生まれる。その愛は私を除外しない。むしろ、その愛は、この低いところにいる私へ向かって も、ひたすら流れて来る。主は、打ち捨てられた私の悲しみや孤独をも理解し、日々、疲れ切っている私のために、こまやかに行き届いた配慮を示して下さる。

主を誉めよ! 主を賛美せよ! 主の栄光を誉めたたえよ! どんな出来事をも、主は、主を待ち望む者のためには、益と変えて下さる。私たちの失敗や、つま ずきや、悲しみや、涙や、恥でさえも、私たちが心の底から、神に従いたいと願って、主に叫び求め、己の罪を悔い、御言葉のうちにとどまるならば、全てを神 の栄光になるように、変えて下さる

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28)


本当は、煙るような霧雨が降っていて、美しい海の青色は見えなかった。だが、ほんの少し色彩を加えると、こんなにも色合いが違って見える。忘れまい、主の 恵みを。いつまでも歌い続けよう、主の愛の広さ、深さを。私たちが罪人であった時に、十字架で命を捨てて下さった、主のはかりしれない愛を誉めたたえ、こ の愛のうちにとどまろう。

迫害する者を祝福しなさい

「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。

自分が知者だと思いあがってはならない。だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。

愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。

むしろ、『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:14-21)


(補足の上、再掲)

マーク・トゥエインの没後100年になって、彼の自伝が出版されるというニュースが発表されました(参考)。その中で、彼がキリスト教(界)を激しく非難していることが話題にされています。

100年以上前の作家の発言が、なぜ今、話題を呼んでいるのでしょうか。ここに、今の時代の狙いがあるように感じられます。今、この時代は、キリスト教界 への批判をしきりに煽ることで、クリスチャン同士を互いに争わせ、戦わせ、不信に陥らせて、疑心暗鬼の中で、いたずらに消耗させようとしているのです。キ リスト教界を非難することで、教界を権威失墜させるのみならず、キリストの御名の権威までもおとしめ、信徒に御名の権威を信じる力を失わせようとしている のです。

これまで、多くの先人たちが、キリスト教界の嘆かわしい状態について指摘して来ました。アンドリュー・マーレー、オースチンスパークス、ウォッチマン・ ニー…、彼らもこぞって、その著書の中で、キリスト教界には、本来、持ち込まれてはならない、聖霊をいたく悲しませる偽りや、人の肉による産物があまりに 多く存在することを指摘しています。彼らの指摘や嘆きは当然でした。主の宮に偽りが持ち込まれる時、信徒がどうして嘆かずにいられるでしょうか。

私たちも、今日、主の宮の中に、主の忌み嫌われるものが多数存在し、偽りの教えが存在していることを知っています。このようなものはあるべきではありませ ん。しかしながら、それを取り扱うことができるのは主だけです。私たちはこの問題について、主に熱心に解決を求めて祈るべきですが、キリスト教界批判や、 他のクリスチャンへの批判や軽蔑を、私たちの信仰生活の主要な柱に据えるようなことを、決してしないようにしましょう。

私たちが教界批判や、他のクリスチャンの批判に没頭すべきでないのは、そこに、二つの重大な危険性が含まれているからです。一つは、それにより、私たちが キリストご自身から目を逸らし、似て非なるものの糾弾に目を奪われた結果、信仰から注意を逸らされてしまう危険性。もう一つは、偽りの教えを非難するうち に、私たちが高ぶりに陥り、私たちが己を義として他者を裁き、罪定めするようになり、ついには神の裁きの権限を犯してまで、自らが裁き主となって、悪に よって悪に報い、キリストの御身体なる教会を傷つけ、踏みつけにし、クリスチャンへの迫害者と化してしまう危険性です。

旧約聖書を見れば、イスラエルの民が心頑なで、再三に渡り、神に背いたことは明らかです。しかし、それでも、この強情な民は、主ご自身が選ばれた民であることには変わりがなく、この聖別された民を踏みにじり、滅ぼす者は、自らが呪われたのです。
「イスラエルは主のために聖別されたもの、その刈入れの初穂である。すべてこれを食べる者は罪せられ、災にあう』と主は言われる。」(エレミヤ2:3)

同様に、今日の教会、クリスチャンたちは、たとえどれほど強情であり、神に逆らい、信仰が形骸化し、偽りの教えが溢れ、そこにいる人々の器がみすぼらし く、到底、憐れみを受けるに値しないように見えても、それでも、やはり、それは主のために聖別された宮なのです。私たちが自分でこれを踏みにじって、裁き の宣告を下してはなりません。神を知る前の自分自身を振り返りましょう。むしろ、全てが神の恵みと憐れみによることを証明するためにこそ、主は私たちのよ うな、強情で、不従順で、みすぼらしい器を、あえて選ばれたのではないでしょうか。

ですから、私たちは、主の宮の腐敗について嘆き、祈り、兄弟姉妹に勧告する時でも、「思うべき限度を越えて思いあがること」(ローマ12:3)が ないよう注意しなければなりません。愛に基づいて兄弟姉妹をいさめ、勧告することは許されても、自ら復讐したり、悪をもって悪に報いたり、自分が裁き主と なって、判決を下したりしてはなりません。まして、神が与えられた嗣業としてのキリスト教(界)そのものを告発し、破滅を宣告してはなりません。そのよう なことをすれば、我が身に呪いを招くでしょう。

私たちは不正を目撃する時、裁きについては神の怒りに任せなければなりません、義憤にかられて悪を告発することに心を向けているうちに、憎しみに燃え、自ら、「われらの兄弟らを訴える者、夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者」(黙示録12:10)に等しくなってはなりません。主の民への尽きせぬ憎しみと、絶え間ない告発は、サタンの特徴なのです。神の選ばれた民、神の宮である教会、そして、神に身を避けるクリスチャンを訴え、絶えず争いをしかけ、これを踏みにじり、破壊する者には、必ず、神ご自身による災いと滅びが臨みます。

「もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。 」(Ⅰコリント3:17)

私たちは、たとえどんなにキリスト教界の中につまずきをもたらすものを多く見たとしても、だからといって、決して、行き過ぎに陥って、キリスト教界そのも のに敵対してはなりませんし、また、神の宮そのものを踏みにじるような発言を控えねばなりませんし、また、キリスト教そのものの中に、人間を狂わせる要素 があると言ってはなりません。

十字架は元来が、全てのアダムにとって非人間的なものです。全てのアダムにとって、十字架は大いなる脅威であり、愚かな教えであり、狂気とすら見えます。「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」(Ⅰコリント1:18)。 キリストと共に、全てのアダムが死んだと信じればこそ、私たちは、キリストの復活の命を受けることができたのです。もしも、アダムの死という、キリスト教 の徹底的な「非人間性」を、受け入れられないとするならば、その人こそ、十字架を本当は信じていないのであり、クリスチャンではないのです。

クリスチャンを狂わせるのは、その人の御言葉への不従順であって、キリスト教でもなければ、神でもないのです。自分にとって、最も不利である、主と共なる 十字架の死を信じ、受け入れる者が、主と共に死んで神に対して生きるのです。そして、十字架の死の自分への不利性を、「非人間性」や「狂気」として拒む者 が、かえって自分の命を失い、人生を狂わせるのです。クリスチャンがつまずくとすれば、神ご自身につまずいているのです。彼らは今日も、「つまずきの石、妨げの岩」であられるキリストご自身につまずき、真理そのものにつまずいて、倒れているのです。はっきりと聖書は言います、「…彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。」(Ⅰペテロ2:8)

時折、御霊の導きに聞き従わないことが、クリスチャンの人生を、あまりにも、大きく狂わせるのを見ることがあります。私たちが、無知であるがゆえに犯した 過ちは、悔い改めるならば、神は赦して下さいます。しかし、御霊の導きが何であるかを知っていたにも関わらず、故意に真理に逆らい、御霊を踏みにじり、御 言葉に聞き従わないでいるならば、あるいは、あまりにも長い間、悔い改めを拒み、不義なる生活を離れようとしないならば、その人はやがて、真理に逆らった ことの報いとして、正常な意識を保ち得なくなります。「主を恐れることは知識のはじめである」(箴言1:7)と言われている通り、主への恐れにとどまることが、私たちが最も、狂気から遠ざかり、健全で、正常な意識を保つ方法でもあるのです。

真理は私たちを自由にします。神を信じて気が狂った人はいません。にも関わらず、クリスチャンが自由でなくなり、意識の健康さと正常さを失うのは、偽りの 霊に影響されて、神ではなく人(やもの、人の教え、組織、その他、偽りの命である偶像)に聞き従うか、もしくは、キリストにつまずき、真理に逆らった結果 なのです。「…その石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」(マタイ21:44)

ですから、私たちはキリスト教を罪定めすることによって、自らの罪から逃れられるわけではありません。もしも、私たちの心の中に、何か苦々しいものがある ならば、それは、神から来たのだと思ってはなりません。一部のクリスチャンは、暗闇でつまずいたそのことを、自分たちが御言葉に従わなかった責任であると は考えず、むしろ、キリスト教の方に責任があったと転嫁して、キリスト教を憎み、クリスチャンを憎むようになりました。キリスト教界に偶像が存在している ことは確かですが、彼らは自分自身の罪は見ようともせず、他人の罪だけを厳しく訴えたのです。こうして彼らは、自分が十字架の死にしか値しないという真理 を拒み、己を義として、真理を曲げたので、神に敵対し、主の民にも敵対し、キリスト教界とクリスチャンへの敵愾心に燃えて、クリスチャンを告発することを 習慣とするようになったのです。しかしながら、これは全く愚かで支離滅裂な責任転嫁であり、私たちはこのような道を歩んではなりません。

もしも、私たちが御霊の導きを受けて、本当に真心から、主に聞き従うならば、私たちは決して、たとえ死の陰の谷を歩む時でも、何ものにもつまずくことはありませんし、まして、狂わせられることはありません。つまずきが起こるのは、私たちに闇が、罪があるからなのです。「正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる。悪しき人の道は暗やみのようだ、彼らは何につまずくかを知らない。」(箴言4:18-19)

ですから、私たちクリスチャンが、キリスト教そのものを訴えることにより、神ご自身を敵に回すようなことが、あってはなりません。また、たとえ他のクリス チャンがどんな不正に陥っていたとしても、彼らを訴えることを、なりわいにしてもいけません。まず、自分自身が神の御前に罪人であることを認め、自分こそ が、十字架の死へ赴きましょう。主イエスが負って下さった十字架の死の効力を、誰よりも、私たち自身に適用して下さるよう、祈り求めましょう。もしも、私 たちが真に十字架で死ぬならば、私たちは全てのとらわれから解放されて、神に対しても、人に対しても、正常に生きようになるでしょう。他者がいかに変わら なくとも、事態がいかに変わらなくとも、私たち自身が生ける水の流れる川々の源とされることによって、兄弟姉妹は潤され、全てが変わるでしょう。

にも関わらず、自らが罪人であることを認めず、自分の罪を責任転嫁するために、キリスト教界を憎み、クリスチャンを憎み、兄弟たちを次々と訴えている者 は、必ず、自らの言葉によって、有罪とされる日が来ます。もし悔い改めがないならば、彼らは兄弟たちを陥れるために、自分が作った罠に落ちて滅びるでしょ う。「悪しき者は自分の手で作ったわなに捕えられる」(詩篇9:16)「愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分を捕えるわなとなる。」(箴言18:7)と、言われている通りです。

私たちは、「できる限りすべての人と平和に過ごしなさい」と命じられています。 私たちの主要な仕事は、訴えることではありません。勧告しても聞き従わず、意図的に、悪と偽りに生きる人々からは離れ去り、ただ神ご自身に心を向けるよう にしましょう。もしも、クリスチャンを名乗っている人たちから裏切られたり、告発されたり、踏みにじられることがあっても、自分でそれに報いようとせず、 ただ主ご自身が解決となって下さることを信じましょう。

ハレルヤ! 私たちには最高の弁護人がついています。ハレルヤ! 主イエスが私たちの勝利です。悪に対する私たちの抵抗の方法はただ一つ、カルバリの主の勝利の地点に立って、そこから動かされずに、主の勝利を信じ、耐え忍んで救いを待ち望むことです。

ハレルヤ! 訴える者は、カルバリですでに敗北しています! ハレルヤ! 私たちは神の内に身を避け、子羊の血によって義とされています! ハレルヤ! 「主に寄り頼む者は…罪に定められることはない。」(詩篇34:22)のです! キリストがその命を持って贖って下さり、神が義とされた者を、誰が訴えるのでしょうか? 憐れみのない者には容赦のない裁きが下ります。主の民を吊るすために、絞首台をもうける者は、必ずや、自らがそこに吊るされて、終わりを遂げるのです。(エステル記)

「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」と、御言葉は勧めています。 ですから、私たちは敵対する者に対しても、主の愛にとどまりましょう。右の頬を打たれたら、左も打たせましょう。上着を取られたら、下着もやりましょう。 私たちに罪を犯す者を、快く赦しましょう。もし敵が飢えるなら、食べさせ、渇くなら、飲ませましょう。報復と裁きは、神のなさることであって、私たちのな すべき仕事ではありません。私たちは、自分を愛さない者を愛し、倒れた同胞のためにとりなし、敵をさえ愛する愛を神に求めましょう。彼らを祝福で迎えま しょう、それにより、「あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。

その聖なるすまいにおられる神は

「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。」(ヨハネ14:18)
と言われる主。

主を知る前には、たった一人きりで、苦難の中に取り残されることが、幾たびもありましたが、今は弱さを覚え、失敗したと思う瞬間にさえも、主は決して、私を一人で見捨てられないことを痛感させられています。

このことは、自分を心配してくれる者の乏しい環境に生きて来た私にとって、どんなにか大きな恵みであり、喜びでしょうか! 私の不信仰をどんなに教えてく れる、嬉しい証拠でしょうか! しかし、これは、私の功績では全くありませんし、誰かそばにいる人を誇っているわけでもありません。ただキリストの復活の 命だけが、時にかなって、私に必要な助けや支えを全て供給してくれるのです。

主はまことのぶどうの木です。今日を生きるに必要な全ての栄養は、ただキリストから来ます。時には、朝を迎えると、今日を生きるに必要な勇気が全く足りな いように思われる時があります。しかし、主の御名を誉めたたえます! 主に感謝を捧げます! イエス・キリストは昨日も今日も変わりません。私を守って下 さる方は、「その聖なるすまいにおられる神は みなしごの父、やもめの保護者」(詩篇68:5)と言われるお方。この天の父なる神様に、今日、生きるに必要な全ての力と勇気を求めます。

神の命の内に隠された生活(2)

「『わたしの恵みは、あなたに対して十分である。わたしの力は、弱さの中で完全に現れる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。<…>なぜなら、わたしが弱いときにこそ、わたしは強いからである。」(Ⅱコリント12:9)

しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っているその測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 」(Ⅱコリント4:7)



ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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