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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(コンリントの信徒への手紙 二 5:11-21)

* * *

キリストの愛が私たちを取り囲んでいる、押し迫っている、圧倒している・・・。

以上のくだりは様々に訳すことが可能であるが、いずれにしても、海のように広く深い愛が私たちの周りを取り囲んでいる。

筆者はこれまで、真実、正しいことが何であるかが明らかにされるためならば、どんな代償を支払うことをもいとわないと考えて進んで来た。しかし、最近、愛のゆえに、自分の義を捨てることも、可能なのだと分かった。

可能というよりも、まず神が、そのような愛で、私たちを愛して下さり、罪人である私たちを義とするために、ご自分の義を捨てて、罪とは何の関わりもない、正しい方である御子を罪とされたのである。

何の誤りも犯していない正しい方が、罪人のために、ご自分の義を捨てて、罪となられた。それゆえ、私たちは義とされた。十字架に込められた神の深い深い愛情が、最近、ある出来事を通して、筆者に深く伝わって来た。

最近、筆者が主張しさえすれば、その主張が正しいとして、人々の違反が認定されるはずのある出来事があった。時間の経過と共に、深刻な対立が起きようとしており、そこで、筆者が主張しさえすれば、筆者を圧迫する人たちに対して、自分の正しさをアピールし、優位を勝ち得られたはずであった。ところが、筆者はそこで自らの訴えを自分で破棄し、破り捨てたのである。

それは、筆者の主張により違反に定められるかも知れない人々が、筆者を追いかけて来て、筆者をなだめ、心を変えさせたからである。筆者は、その人々が、あまりにも弱く、羊の群れのように無防備で、苦しみと蔑みでいっぱいになり、到底、打撃を加えるに忍びない人々であるのを見て、彼らに対して自分の正しさを主張しても、無意味であると考え、かえって同情心が込み上げて来て、自らの主張を破り捨てただけでなく、彼らの弱さを共に担うことに決めた。

それ以来、筆者は自分の正しさを捨てて、彼らの味方となった。それゆえ、彼らの弱さをも共に背負わされているが、それでも構わないと決めたのである。もしも彼らが罪人であるならば、筆者も一緒に罪人となり、もしも彼らが弱いなら、筆者も一緒に弱くなり、もし彼らが罰せられるなら、筆者も一緒に罰せられ、何もかもを共にして、進んで行こうと決めたのである。

しかし、それは筆者が罪に定められ、弱くなり、罰せられるためではない。むしろ、筆者の義が、彼らの中に働いて、彼らの義となり、筆者の強さが、彼らの強さとなり、筆者の潔白が、彼らの潔白となって、彼らがいかなる違反にも認定されずに、正しい生き方をするためである。

そうなるために、筆者は彼らが弱々しい赤子の状態を抜け出し、大人として立ちあがるまで、そばにいて様子を見ようと決めた。たとえ筆者にとってもどかしいほど彼らが弱く、中途半端に見えても、最後まで共にいようと決めたのである。

筆者はこれまで、人々のために、自分は無実にも関わらず、罪に定められても良いと思ったことは一度もない。むしろ、キリストにあって得られた義は、筆者をあらゆる罪定めから救ってくれるため、筆者が無実にも関わらず、罪に定められるようなことは絶対になく、不当な讒言に対しては毅然と立ち向かわねばならないと考えて来た。

むろん、カルバリで流された血潮がある限り、この先も、筆者が罪に定められることはない。筆者はそれを知っているが、それにも関わらず、この人々のためならば、かえって筆者が罪に定められ、彼らが義とされても構わないと思う人々に出会ったのである。

なぜそのような深い愛情が突然にして生まれたのかは知らない。いや、それは突然にして生まれたわけでは決してなく、最初からあったものなのだが、それが新たに強固な強い絆のようになり、人々の解放を願う心となって湧き起こって来たのである。

この人々のためならば、筆者がどんな風に思われても構わない、ただ彼らがまことの命に至り着き、本当の義とは何かを知って欲しい、そのために、彼らの弱さと恥と罪を自分のものとして共に担おうと思ったのである。

筆者は、自分の思惑次第で、人々の罪を赦すことも、赦さないでおくことも可能であると知っている。だが、赦す赦さない以前に、筆者が手に持っている訴えに記された名前を見て、彼らが罪に定められて滅びて欲しくないという願いが、抑えがたいほど強く心に湧き起こるような人々には、これまで出会ったこともなかった。

そういうわけで、筆者は自分が正しいにも関わらず、人生で初めて、正しい主張を自ら放棄し、罪人の仲間になっても構わないと思った。それは決して悪人と馴れ合い、悪事を見逃し、自分も悪事に手を染めるためではなく、むしろ、彼らが本当の義にたどり着くため、人として真にあるべき尊厳を回復するためであり、そのためにならば、筆者は自分の主張を脇に置いて、後ろに退き、彼らの生長を見守るべきと考えたのである。

そのとき、神が私たちを愛された愛が、筆者の心に押し迫って来た。

このようにして、神は弱い私たちのために、弱さを担われ、ご自分の義をとことん投げ捨てられたのである。

だが、同時に、そこまで筆者の心を変えさせた人々も、なかなかのつわものである。何かしらの相思相愛の関係のようなものが、やはり、初めに出会った時から成立していたのであろう。

この人々は、渇いた地が水を吸い込むように、筆者の中にある愛情と慰めを彼ら自身のために引き出して行った。信仰者でないのに、彼らは筆者の中に、彼らのための解放が用意されていることを知っていた。

彼らは筆者のうわべだけの様相に欺かれず、筆者の心の中にある本当の願いを掴んでおり、それを巧みに引き出して、自分たちのために必要なものを獲得したのである。

* * *

筆者は、筆者を生かすと書いた判決を受け取り、それによって吹き込まれた命を携え、新たな場所に赴いた。そこで干潟を開拓しているのだが、干潟から命の水を存分に汲み出すためには、筆者自身の心を、何よりコントロールせねばならない。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

この御言葉は、私たち信じる者自身が、生ける水を流し出す泉となることを表している。そして、その生ける水の根源となるものは、御霊であり、キリストの復活の命である。

だが、これを流し出すためには、私たちが不信感で心を曇らせてはならず、どんな困難に見舞われるときも、平安の中にとどまり、人々に命を与えることができるという強い確信を、決して手放さないようにしなければならない。

「わた子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。
 わたしの言うことに耳を向けよ。
 見失うことなく、心に納めて守れ。
 それらに到達する者にとって、それは命となり
 全身を健康にする。
 
 何を守るよりも、自分の心を守れ。
 そこに命の源がある。
 曲がった言葉をあなたの口から退け
 ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。

 目をまっすぐ前に注げ。
 あなたに対しているものに
 まなざしを正しく向けよ。
 
 どう足を進めるかをよく計るなら
 あなたの道は常に確かなものとなろう。
 右にも左にも偏ってはならない。
 悪から足を避けよ。」(箴言4:20-27)

目の前には、常に心に思い描くものと相反する光景が広がっている。私たちを失意に突き落とす材料は尽きず、目的の達成が不可能だと思わせる材料は山とあり、忍耐を圧迫する出来事は果てしなく起きる。

約束の地は目の前にあるのに、そこは敵に占領されており、我々のための場所はなく、敵はあまりにも強そうで、我々を傲然と見下ろし、勝利の確信は遠のく。

だが、目の前の混乱に気を取られず、信じ続けなければならない、必ず、この地に目指している秩序を打ち立て、命と平安に至り着くことができると。そこは敵のための場所ではなく、我々のための領土なのである。

* * *

先週から今週にかけて、書面を次々に書き終えて発送した。筆者は時折、紛争に「とどめを刺す」ために、アクロバティックな行為に及ぶことがある。本来ならば、1ヶ月以上の時間をかけて準備すべきところを、一挙に書類を放出する。これは、相手方の主張が筆者に到達する前に、これを空中で相殺するための太刀打ちである。

告発を放置していれば、それは徐々に効力を及ぼし、死の力を発揮する。だから、飛んでくるミサイルは即座に迎撃しなければならない。紛争が持つ強力な罪定めの力を、瞬時に無効化するための時間が用意されたので、必要な作業を完遂した。

こういう作業をしていると、敵は人間ではないということが身に染みて分かる。人間を含め、目に見える様々な事物の背後にいて、これを動かしている悪の勢力が存在する。戦いは人間相手のものではなく、人々の背後にいる見えない悪意を打ち砕くことが目的である。その悪意とは、告発や非難の中に込められた罪定めの力、もっと言えば、罪そのものが持つ死の効力である。

人々には、サタンから発せられた罪定めの火の矢に込められた死の棘が、いくつもいくつも突き刺さり、これがじわじわと効力を発して、人格を傷つけ、肉体をむしばみ、最終的には死へと追いやっている。

筆者は、この死の棘を自分自身からも抜き取り、そして他の人々からも抜き取り、人々を死ではなく命へと向かわせるための作業をしている。飛んでくるミサイルに対しては、迎撃ミサイルを撃ち込まねばならないが、筆者の目的は、人間を攻撃して滅ぼすことにはなく、ミサイルすなわちサタンの放つ火の矢を粉砕・撃墜することで、人々をその火中から救い出すことにある。

そのために、この巨大な死の棘が、これ以上、人々を傷つけることのないよう、命によってこれを飲み込んで解毒・無害化せねばならない。それができるのは、キリストの復活の命を用いる場合のみである。

死を打ち破ったこの命に立つときのみ、私たちは、敵からのどんな攻撃からも身を守ることができる。そこで、この命を引き延ばして、防衛の盾を張り巡らして、愛する人々をその要塞にかくまう。かつては敵対していても、投降して来る人々はことごとく安全地帯に避難させる。

筆者は、敵陣に捕虜として連れて行かれた人々を奪還し、これ以上、誰も敵に渡さないために、心の中で奮闘している。なぜなら、戦いは、まずは筆者自身の心の中から始まり、そこにおいて、筆者自身が、アブラハムが人々のためにとりなしたように、自分自身と周りにいるすべての人々のためにとりなし、勝利の確信を打ち立てなければならないからだ。

心の中から不信感を追い出し、失意や無力感や敵意を追い払い、自分を含め、愛する全ての人々を、確固とした神の守りの中にかくまい、彼らを縛っている罪と死の力が打ち破られるよう主に願い出、敵に奪還された人々を取り返すための作戦を練り、心の中で、勝利の確信が訪れるまで、戦い抜かねばならない。

これまで、筆者はソドムとゴモラに飽き飽きしてそこからの脱出をひたすら願っていたが、今はどれほど嫌悪を催す光景が目の前に広がっていても、神が未だ忍耐されていることを心に覚え、今ひとたび、何とかしてこの世の腐敗から救い出されて、罪赦されて命に至り着く人々が少しでも増えるようにと願っている。

その奮闘の中で、最近、どういうわけか、敵陣から命からがら筆者の陣営に投降して来る人々の数が増えるようになった。見かけは取るに足りない、何らの価値も持たないように見える筆者のもとに駆け寄って来るのである。神の御前でとりなす作業は一人だが、孤軍奮闘する時代が明らかに終わったことを感じる。

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御父の愛


職場の同僚と帰り道のバスで話を咲かせ、お茶を楽しむ。主はさまざまな人々を送って、交流を補って下さる。年長者が適時に与えてくれる忠告、重要な事件に ついて、思いがけない時にやってくる打ち明け話…。パズルのピースが一つ一つ合わさるように、人々の眼差しを通して、主は私の人生に光を当ててくださる。 これは何と楽しいことだろう。

以下の記事で、ある出来事について述べたが、その話にはまだ続きがある。人を責めるのが大好きなギョウカイ人たちは、優しいクリスチャンのふりをしながら、そばにやって来て、他人が困っているときには指一本貸そうとせ ず、根掘り葉掘り噂話を聞き出し、さらに、無実にも関わらず苦しめられている人を見ても、その弁護のためには一言も述べようとしないのに、誰かを石打にするチャンスを得たと思うと、ここぞとばかりに殺到し、教師然と己の義を主張して、他人を罪定めしようとするのを楽しんでいるらしいが…(これがクリスチャンに偽装してカルト被害者活動に携わるネトウヨたちの主たる特徴である)、そのような人々には気の毒な話である。
 
上の出来事について振り返り、主に問うて見る時、主の私への答えは、いつも全く同じなのであった、「人間の思惑が人を義としたり、罪に定めたりするのではありません。私があなたを赦したのに、誰があなたを責めるのでしょうか」

「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。
イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」(ヨハネ8:10-11)


私は何度も、何度も、主の答えに耳を傾ける。主は私の砕かれた魂をご覧になって、こう言われる、「誰かあなたを罰した人がいましたか? 私 はあなたの砕かれた魂の悲鳴を聞きました。私はあなたが多くの無関係な人からも、絶えず誤解され、絶えず責められ、石を投げつけられているのを見ました。 あなたが全く助けのない、寄る辺ない状態に置かれるのを見ました。あなたがどれほど自分を責め、悔いたかは、私が知っています。しかし、私は言います、私の血潮があなたを義としているのです。行きなさい。あなたを罪に定められる人は誰もいません。あなたを責める人は、あなたではなく、私に敵対しているのです。」

「あなたは依然として無力かも知れません。あなたは依然として弱いかも知れません。あなたは依然として腐敗している、と自分では思うかも知れません。けれども、勇気を出し なさい。私の十字架の贖いは、ただあなたの複数形の罪のためだけでなく、あなたのアダムの命に存在する単数形の罪のためでもあるのです。私があなたを砕くのは、力はあなたの中になく、私こそ力であることを知らせるためです。私があなたを砕くのは、義はあなたの中にはなく、私こそあなたの義であることを知らせるため です。私が砕かれたあなたの中で、あなたの新しい命となり、力となり、あなたのために日々、神にとりなしながら、すべての必要を供給しているのです。あなたと私とはもはや一つであり、私の義があなたの義となり、私の命があなたの命になっているのです。なのに、私のとしなしを、あなたは無効と思うのですか? 私の判決を不服とするのですか? 私の命では不足だと言うのですか? いいですか、あなたを訴え続ける者は、あなたにではなく、私につまずいているのです…」

主の変わらない返事を、何度も、確かめているうちに、不思議な喜びと力が心に溢れる。主が血潮によって、私を義として下さり、主に身を避ける者はだれも罪に定められない。告発者がどれほど吠えたけっていても、キリストと共に死んで、神のうちに隠されて生きる特権を奪い去ることのできる者はいない。

一部、クリスチャンを名乗っている人たちが、いつまでも他者を責め続け、罪悪感によってがんじがらめに縛ろうとしていることは不思議な自己矛盾である。そういう人たちが、もしも十字架における罪の赦しをさえ、「手前勝手な自己弁護」として退け、自分で自分を赦さないなら、それはもはや福音の形をなさない、何か別の残酷な責苦に変わるだろう…。

彼らが宣べ伝えているものは一体何なのだろうか? 人を罪に定めることを、彼らは「福音」だと勘違いしているのだろうか? だからクルシチャンとして生き、彼らはどんなに長い間、信仰生活を送っても、罪の自覚が増し加わる だけで、神の赦しに決してたどりつかないのである。根本的に罪の問題をはき違えているからである。彼らはクルシチャンと言うより、むしろ、兄弟たちを訴える者に近い。自分自身をも訴え、仲間をも訴え、可能な限り、大勢の人たちを罪悪感の虜とするために、キリストが十字架で流された血潮の価値を、彼らは今日も否定し続けているのである。

「あなたはいけにえを好まれません。
 たといわたしが燔祭をささげても
 あなたは喜ばれないでしょう。
 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
 神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:16-17)

 
「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。
 主の腕は、だれにあらわれたか。
 彼は主の前に若木のように、
 かわいた土から出る根のように育った。

 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、
 われわれの慕うべき美しさもない。
 彼は侮られて人に捨てられ、
 悲しみの人で、病を知っていた。

 また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
 彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。

 まことに彼はわれわれの病を負い、
 われわれの悲しみをになった。
 しかるに、われわれは思った、
 彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。

 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
 われわれの不義のために砕かれたのだ。
 彼はみずから凝らし目をうけて、
 われわれに平安を与え、
 その打たれた傷によって、
 われわれはいやされたのだ・・・」(イザヤ53:1-5)

「今見よ、わたしこそは彼である。
 わたしのほかに神はない。
 わたしは殺し、また生かし、
 傷つけ、またいやす。
 わたしの手から救い出しうるものはない。」(申命記32:39)

「わたしは主であって、あなたをいやすものである。」(出エジプト15:26)

 
御子をさえ惜しまないで、私たちのために死に渡された方が、どうして御子のみならず、万物をも賜らないことがあろうか。この御言葉をじっくり読んでみるなら、人が自らの力によって、罪の償いをしようとすることの無意味さがよく分かる。

私のなすべきことは何も残っていない、ただ御言葉を信じて従う他には。主が私のあらゆる弱さのうちに働いて、すべてを成して下さるのだから。ただ主の御業を信じて、すべてを主に委ねれば良いだけなのである。

面白いことに、主が私を義とされるとき、主は私に今以上に強くなるように促されることはなく、弱いままで、主を信じて血潮の中に隠れよとおっしゃる。主は、決して私が自分で完全無欠な人間であるかのように振る舞い、大勢の人たちと不自然な和解のセレモニーをしたり、できるだけ人の目に正しい人間と映るように行動したりするようにはおっしゃらず、何事にも、私が自分の力で立ち向か わないようにと釘を刺される。

なぜなら、それは私が行うのでなく、主が代わって行なわれるからだ! 

このことを上手く言い表すのは難しい。

たとえば、年明けに帰郷した時、私は子として迎えられる幸いを改めて知った。相変わらず言葉少ない父が、黙って、私の好物を含めた、たくさんの食料を買い込んで来て、贅沢な料理を作ってくれる姿を見た。その時、今まで我が家に起こったすべての出来事を、父が黙って背負い、すべてを耐え、すべてを受け入れ、私の分の重荷も、いつもそばにいなくとも、共に担ってくれているのが分かった。
 
彼は何も言わない。甘ったるい会話はなく、過去の出来事についても誰も振り返らない。不自然に明るい慰めや励ましの言葉が飛び交うわけでもないが、言葉がなくとも、一人一人が歩んで来た道を、たとえつぶさに知らなくとも、みなが無言のうちに共有していることが分かる。

家人は完全に私を受け入れており、私は家族と一つであり、言葉を通してでなく、みながそれぞれの心を何とかして慰めようと考えているのである。そこには、私を責める者はおらず、もしも私を責める誰かが現われるなら、父はその人に向かっ て、こう答えるだろう、「この子を責めるなら、その前に私を責めなさい。私が最高責任者なのだから、もし責任を取らされるなら、私が取ろう。誰か私を責める勇気のある者がいるならばの話だが、この子を責めるのでなく、私に立ち向かって来なさい。」

父は物静かながら、相当に知的で、議論に長けた人で、洞察力も鋭い。怒る時には、火砕流のようなパワーがある。実務肌で現実的な人なので、物事についての分析力が並大抵でなく、私も議論で勝ったことがないくらいだから、今まで父と議論して勝った人は誰もいないのではないかと思われる。

私を未熟者とみなし、軽んじている人々も、私に対するのと全く同じような態度で、父を責めたり、嘲笑することはできないだろう。何しろ、父には私にはない威厳があり、実績があり、人生経験があるのだ。父は私よりもはるかに強いのである。

それでも父は被造物であるから、私をかばうには限界があるが、私のまことの父は、天におられる全知全能の神であり、この宇宙の時空間を含め、万物を造られた全ての創造主なる神なのだ。

この神が、全ての父と呼ばれる者の父として、私を子とみなして、かばわれるのだ。神は御子を地上に送って、私たちの負うべき罪の責任を、身代わりに担わされた。神はそれほどに私たちが罪に定められ、死に定められることを望まれず、むしろ、ご自分が私たちの代わりに罰せられ、罪を負わされて、十字架にかかられることを望まれたのである。

だから、神は今日も信じる者たちすべてに向かってこう言っておられるのだ。
 
「私が創造主である。私が全ての最高責任者である。あなたは私が造った被造物である。それでも、私は被造物に過ぎないあなたの代わりに責めを負うために、独り子を送 り、十字架につけて罰した。この十字架と、流された血潮と、聖霊が、私があなたをかばい、あなたを赦し、あなたを子として受け入れたことの証しである。この十字架を通して、あなたは罪に対して死に、義に対して、神に対して生きる者とされ、私の子となったのである。あなたが子である限り、私があなたを永遠に守る。あなたがどんな苦しみにあっても、どんないわれない非難をこうむっても、私があなたを守る。私があなたの潔白の力強い証人であり、永久にあなたの保護者であり、父である。私を信じなさい。さあ、立ち上がって、勇敢に生きなさい。」

これが神の強さのなせるわざである。神はその強さを持って、私たちの無力を覆って下さり、私たちの弱さの内側から、強さとして働かれるのだ。

御父に守られること、それは子供であるからこそ、享受できる特権ではないか? 弱さを知っているからこそ、守られることの特権が分かるのではないだろうか。もしも私たちが強く、完璧で、自分の限界を知らず、腐敗などとは無縁で、強くされる必要もないほど、完全であったならば、いや、もしも私が自分で強くなり、義となることが できると考え、神に向かって守りを叫び求める必要もなかったなら、私は御父に守られる子どもではない。天の父なる神に庇護され、かくまわれる幸いを生きて知ることもなかったろう。
 
主に明け渡すとは、多くの人々が考えているように、大仰な罪の告白を人前で繰り返し、「私を主に明け渡します」と幾度も涙ながらに叫び(本当に明け渡しているなら、そのような告白はむしろ不要である)、派手なデモンストレー ションを伴う、あまたの告白や儀式を通して、いかにも自分を主に明け渡したかのように、いかにも自分にはもはや悩みなく、いかにも自分が義人であるかのように見せかけようと骨折ることとは違う。

神は私たちをさまざまな逆説的な状況、時に耐え難い状況にも遭遇させ、その困難の只中で、私たちが無であることを知らせ、主が力となって下さることを私たちに学せる。神は私たちから自己安堵という栄光を奪い去り、自分で自分を義とし、かばおうとする全ての努力を無効化し、徹底的な無力の中に留め置いて、 ただ主だけを頼りとし、見上げることを学ばせる。

そして、私たちが自分で自分に対する責任を果たそうとする思いあがりを捨てさせ、私たちが自分の弱さと限界と重荷の中で、呻きながらでも、自分によりすがることをやめて、ただを仰ぎ、ただの栄光を待ち望むようになる時、が私たちの保護者として、自ら力強く立ち上がられるのである。
 
神は全てのことをご自分でなさりたいのである。私たち自身から出た努力は不要である、だが、そうでありながら、不思議なことに、神は私たちと協力して、私たちの意志を尊重して、私たちと共に事を運ばれる。私たちはただかばわれ、かくまわれるだけの弱い子供ではなく、神のパートナーであり、僕でありながら同時にキリストと共なる共同相続人であり、主イエスは私たちを友と呼ばれたのである。これは極めて不思議なことである。

この不思議は人間に対する神の愛の測り知れない深さを示している。

「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜らないことがあろうか。

だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:31-34)

御父の愛

「たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。」
(詩篇27:10)
「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。」(詩篇103:13)


教会の座席生活を離れて、久々に我が家に戻って来た。慣れない雑魚寝だったため、帰るなり爆睡。そして、たまった家事をこなす。早天祈祷会、夜の祈り会…、教会で過ごした時間は、いずれも御言葉の学びに満ちた、有意義なひと時であった。

だが、これは夏季学校のような、ひと時の楽しみである。この先、私は世に出て行き、世の人々の内で、クリスチャンとしての光をともす生活をしなければなら ない。ある人は、私が関東に引っ越して来た時、私の性格では、この先、ホームレスになるしかないのではないかと、真に心配したという。本当にそうなのかも 知れない。それほどまでに、私には世渡りの才覚が無く、生きる力が乏しい。しかし、そんな弱い私だからこそ、そこに、主の大能の御力が働く余地が溢れてい るのだと信じている。一人では到底生きていけない、脆い土の器であればこそ、まさにそれを選んで、主はご自身の栄光を表す器とされたのだ。だから、恐れは ない。

たとえ世の中の情勢がどれほど不安定になり、争いが近づいてきたとしても、動かない岩なるお方の上に立っている者の心は平安である。早く仕事が与えられ、 完全に自立した、誰に対しても、恥じることのない、一人前の生活を送りたいと心から願っているし、私たちに「手ずから働きなさい」と教えて下さる主は、世 がいかなる状況にあろうとも、この健やかな自立を、信じる者にただちに可能として下さると強く信じている。

昨夜、遠方の友と電話でお交わりをした。友は言った、かつて私からの電話を待っているときは、ドキドキしたものだが、今は安心して電話できると。そうなの だ、私たちは互いに、かつては近づくことさえできないほどに恐れにとらわれていた。だが、主は、こんなにも性格の離れた、共通点もほとんどない、欠点の多 い、遠く離れた私たちを、不思議な運びで、御身体の一つの中に結び合わせて下さり、互いに重荷を担い合い、互いに喜びを分かち合い、互いに欠けたところを 補い合う者へと変えて下さった。まだ私が会ったことのない他の姉妹たちとも、すでに御身体の一つの中にいるのだと信じている。ふさわしいときに、顔と顔を 合わせての交わりを主が与えて下さることを願う。

今はただ神の愛の中で、全ての重荷を下ろし、主が与えて下さった兄弟姉妹への愛の中で憩う。このように友を通じて隣人への愛の何たるかを教えて下さった主 に、感謝は尽きない。だが、現在のような幸いな交わりに至りつくまで、私には、実に長い孤独な行程が必要であった。私の心の中にあった人への執着心、しが みつきがふっきれるために、主はあえて、そのような期間を設けられたのではないかと思う。人に対する浅はかな期待は、私の中で根こそぎ死ななければならな かったし、また、この先も、日々、死ななければならない。人の魂から出て来る諸々の腐敗に落ち込まないためには、兄弟姉妹の交わりも、日々、十字架の死に 渡すことが必要である。

ああ、主の恵みと憐れみは何と深いのだろう。放蕩息子(娘)のように反抗を繰り返し、主に背いて生きて来た私であっても、自分の愚かさと過ちを告白し、 誤った計画を全て手放して、本心から、主に立ち戻る時、御父は何という大きな愛をもって、私を迎えて下さるのだろう。彼は待ち構えていたように駆け寄って 来て、泥だらけになった私を抱きしめて下さる。失敗の痛みは大きかったが、父なる神の愛と憐みで包まれる幸せは、もっと大きい。だから、過去を振り返って 嘆く必要は全くないし、自分を恥じる必要もない。毎日、御父が私に新しい衣装を着せて下さり、新しい食べ物を与えて下さるのを、私は待ち望んでいる。私た ちの父なる神は、信じる子供たちに、常に新しい恵みを備えて下さり、思いも浮かばないほどの祝福を授けて下さり、子供たちを常に安全のうちに守って下さる ことを疑わない。この天の父に心から信頼し、これからも、御父の懐の中に隠れながら、平安のうちに生きていきます。

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

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