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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

聖なる都よ、さめよ、力をまとい、美しい衣を着て、ちりを振るい落として立ち上がれ!

シオンよ、さめよ、さめよ、力を着よ。聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よ。
 割礼を受けない者および汚れた者は、もはやあなたのところに、はいることがないからだ。

 
捕われたエルサレムよ、あなたの身からちりを振り落せ、起きよ。捕われたシオンの娘よ、あなたの首のなわを解きすてよ。


 
主はこう言われる、「あなたがたは、ただで売られた。金を出さずにあがなわれる」。

 主なる神はこう言われる、「わが民はさきにエジプトへ下って行って、かしこに寄留した。
 またアッスリヤびとはゆえなく彼らをしえたげた。
 それゆえ、今わたしはここに何をしようか。わが民はゆえなく捕われた」と主は言われる。

 主は言われる、「彼らをつかさどる者はわめき、わが名は常にひねもす侮られる。
 それゆえ、わが民はわが名を知るにいたる。その日には彼らはこの言葉を語る者がわたしであることを知る。わたしはここにおる」。

 よ
きおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、

 シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は
 山の上にあって、なんと麗しいことだろう。

 
聞けよ、あなたの見張びとは声をあげて、共に喜び歌っている。

 彼らは目と目と相合わせて、主がシオンに帰られるのを見るからだ。

 エルサレムの荒れすたれた所よ、声を放って共に歌え。
 主はその民を慰め、エルサレムをあがなわれたからだ。

 
主はその聖なるかいなを、もろもろの国びとの前にあらわされた。

 地のすべての果は、われわれの神の救を見る。

 
去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。

 その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。

 あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで行くにも及ばない。
 主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたのしんがりとなられるからだ。

 見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。
 多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、
 その姿は人の子と異なっていたからである――

 彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。
 それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。
 (イザヤ52章)

 この箇所は、これまでにも当ブログでは霊的なエクソダスの瞬間に幾度となく引用して来たが、今再びこに引用しておきたい。

 以上は「聖なる都エルサレム」への呼びかけであるから、象徴的にはエクレシアへの呼びかけを含んでいると受け取って差し支えないものと思う。

 激しい霊的な戦いがあったが、決着はすでについており、それはまもなく天から地に引き下ろされる。

 無割礼の者、贖われない者、キリストの救いにあずからない者たちが、エクレシアを蹂躙した月日は終わり、彼らは出て行き、キリストが教会のかしらとして栄光のうちに支配される。キリストこそ教会の真の主人であり、その真の主人が、あるべき地位を取り戻されるのである。
 
 「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」(ヤコブ4:7)

 悪魔の不当な言いがかりには徹底的に立ちむかわねばならないが、聖徒らが真に穢れた者と分離するなら、悪魔は聖徒らの反撃にたじたじとなって、自ら逃げ去って行くことになる。

 そうして、教会が回復される。不法者に蹂躙されて荒れ果てていた都も、聖なる都として美しい衣をまとい、新たな力を身にまとって、高貴な姿で立ち上がる。荒れ果てた場所はきれいに修復され、不法と搾取は終わり、嘆き悲しみは去る。
 
 決着とは以下の通りである。

 「見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。 」
   
 もちろん、「わがしもべ」とは、直接的にはキリストを指す。十字架において、人々に蔑まれ、罵られ、拒絶され、顔立ちや姿が損なわれるほどに痛めつけられ、死に渡されたキリストが、しみも傷もない完全な復活の姿で現れ、天にまで挙げられ、神の右の座に就き、栄光をお受けになることを指す。

  だが、そのことは、主イエスを指しているのみならず、主に従う我々全てのキリスト者をも含んでいる。

  我々は、主が苦しまれたと同じように、地上での苦難を通して、天の偉大な栄光にあずかる。キリストの死と同形化することによって、キリストの復活にあずかり、キリストをかしらとする教会として、キリストと共に天に座する。

 天の権威と栄光が、この地上にも反映し、我々はこの地上を歩んでいる間にも、天に備えられている御国の前味わいにあずかり、栄光の前触れを見て、喜び楽しむ。

  他方、神の義に悪質に逆らい、人間の肉なる自己と、人間の義を掲げるカルト被害者救済活動は、間もなく終焉を迎える。

  これはもともとキリスト教とは本来的に何の関係もない運動である。

  教会で受けた「被害」なるものを主張して、教会に争いをしかけることや、受けた「被害」から脱しようと、懸命にカウンセリングや自己改善に取り組むことは、本質的にはキリスト教とは全く無関係である。

 無関係であるばかりか、それはキリスト教に悪質に対抗する思想から生み出されて来た運動である。

 教会で受けた「被害」なるものをどんなに主張し、どんなに自己改善プログラムを続けようと、キリストと共なる十字架の死を経ないなら、彼らは一ミリたりとも自己を改善できないままに終わる。

 死を経ない限り、誰も復活にあずかることはできない。新しく生まれることなくして、神の国に入ることは誰にもできない。そのようにして、神の義にあずからない人間たちが、自己の正義をどんなに振りかざして自己改善に取り組み、他人を裁いても、そこから生まれて来るものは何もない。

 まして、贖われない者たちが、自分たちの肉なる正義を振りかざして、神に贖われた者を罪に定めるなど、秩序の転倒もいいところだ。彼らはアナニヤとサッピラのごとく、エクレシアに手をかける前に、打ち倒されて終わるであろう。 なぜなら、神の教会は、神の御言葉の聖なる支配が及んでいる復活の領域であるから、穢れた者が手を触れることはできない。

  こうして、自己の義を掲げる肉なる運動は敗退して行く。だが、信仰によってキリストの十字架にとどまる義人たちは、神の完全にあずかるだろう。そして、神の義にあずかる人々が、この世の法においても義とされ、自己の義を掲げる人々が、この世の法によって罪に定められるというパラドックスに満ちた結果が出る。

 「聖なる法(御言葉による支配)」は、「この世の法」に抵触しない。キリストの義は、律法の要求をすべて満足させるものであるから、そのキリストの義を受けた者が、この世の法によって罪に定められるようなことは起き得ないのである。

 カルト被害者救済活動は、聖なるものを冒涜する運動であるばかりか、この世の法や常識を含め、あらゆる規則をあざける運動であることが間もなく明らかになろう。これは「嘲りの霊」によって支配される運動であり、神の聖を侮り、嘲っているだけでなく、すべての尊いもの、良識あるもの、この世の常識、この世の法、あらゆる規則を踏みにじって、肉なる人間に過ぎない者が、自分自身をすべてにまさって高く掲げ、己を神とする、聖書の神に敵対するあざけりの霊に支配される運動なのである。
 
 彼らは今まで「この世の法」を「聖なる法(教会規則)」以上のものであるかのようにふりかざして、教会の「聖域」を取り払うとして、クリスチャンを裁き、罪に定めようとして来たが、いざ、彼らは自分たちが「この世の法」によって裁かれ、罪に定められそうになると、「この世の法」をもあざけりながら逃げ出すことしかできない。

 結局、このような人々は、「聖なる法」にも「この世の法」にも服さず、「自分は被害者である」と主張して、あらゆる人々に言いがかりをつけることによって、自分だけはどんな法にも服さないで済む人間である(=自分は神だ)と宣言しているだけなのである。

 だが、ペンテコステ運動や、サンダー・シングのような異端の教えが、どんなに「神は愛だから誰をも裁いたり、罰したりなさらない」などと言って、聖書の二元論を骨抜きにし、人間の罪もなければ、裁きもなく、地獄もないかのように主張しても、それは聖書に逆らう悪質な虚偽であるから、結局、そのような教えを信じる人々(カルト被害者救済活動の支持者らを含む)は、みな自分自身の罪によって裁かれ、罰せられることを避けられない。

「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。 「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。 」(エレミヤ17:9-10)

 とある通り、神は一人一人の行いに対して報いをなされる方である。己が罪を認めず、悔い改めもせず、キリストの贖いも受け入れない者が、自分だけは何をしても許され、決して罰せられることはないと考えることは、思い上がりに過ぎず、そのようなことは決してあり得ない。

 この世における裁きは、来るべき裁きのひな型であるから、今回のことでも、筆者は、神の裁きは確かに存在していることが、神と人との前で公然と証されるであろうと予告する。(人間的な感情がどうあれ、動かせない霊的法則があることを筆者は知っているからだ。)

 カルト被害者救済活動は、教会の霊的堕落や堕落が生みだした猛毒の副産物のようなものであるが、エクレシアがキリストを正しい位置に迎えさえすれば、このような悪しき運動は終結する。

 キリストが栄光をお受けになること、キリストがかしらとして支配されることこそ、教会が本来的な機能を回復する正しい道筋なのである。

 地上の組織である教会が、牧師制度と訣別できるのかどうかを筆者は知らない。だが、少なくとも、筆者自身は、これまでのすべての信仰の歩みを通して、エクレシアには決してキリスト以外の目に見えるリーダーを据えてはならないという厳しい教訓を常に学ばされた。

 筆者は、兄弟姉妹はみな対等であり、キリスト以外に兄弟姉妹の上に立って教える教師は必要なく、ましてそのような制度を固定的なものとして作ってはいけないと確信しており、その確認に、生涯、立ち続けるつもりだ。

 万民祭司のこの時代、信徒には、目に見える人間のリーダーを介することなく、直接、キリストの御名を通して、神に祈る特権が与えられている。神の子供として、直接、神にすべての必要を懇願し、御霊によって直接教えを受けることができると聖書に書いてある。

 その確信を離れないことである。二度と人間の指導者に逆戻りしないことだ。兄弟姉妹の交わりを持つことと、人間の指導者を頂点とする組織を作ることは全く別の話である。
 
 もしも我々信者らが、地上の罪深く滅びゆく人間の指導者に栄光を帰することをやめて、組織や団体に栄光を帰することをやめて、牧師や指導者やその他の権威者を担ぎ上げては彼らを誉めたたえたり、自分自身を高く掲げて誉めたたえたりすることをやめて、ただ見えないキリストだけが栄光をお受けになるよう行動しさえすれば、すべてが急展開して、たちまち秒読みのような速さで、あらゆる問題が取り除かれ、解決されるに違いないと筆者は考える。

 何度も述べて来たように、キリスト教界が腐敗する時、最も被害を受けておられるのは、神であって、人間ではないのだ。神が正しい地位を取り戻され、受けるべき栄光を取り戻され、キリストがすべての御名にまさって崇められるべく、正しい地位に就かれることこそ、教会のあるべき姿の回復なのであり、それは人間のどんな利益にもまさって優先的に回復されなければならない神の利益である。それをさしおいて、人間が人間自身の利益をどれほど声高に主張したところで、それがかえりみられることも、回復されることも決してないであろうと筆者は言っておく。

 つまり、我々がエクレシアの一員としてどのように神の恵みを享受して生きるのかということは、我々がキリストを自分の心の中で、また生活において、どのように扱うかということに直結している。キリストが我々の心の中であるべき地位を占めておられないのに、我々だけが先に栄光を受けて成功し繁栄を享受するということはまずないと見て良い(そのような繁栄があるとすれば偽りであるから長くは続かない)。
 
 さて、筆者も、キリストと共に十字架の苦難と死を経て、復活の命へと結びつき、この世に対して死んで、この世のすべての罪ゆえのもろもろの呪いに満ちた束縛や、奴隷的拘束から解き放たれて、自由の中で、高く天に上げられ、御座から主と共に統治したいと心から願い、またそれが事実であることを信じる。

 そのようにして、今や聖徒ら一人一人がキリストと共に御座から統治する時代がすでに来ている。だが、そのためには、我々には主と共なる十字架の死にとどまり続けるという土台が必要である。死を経なければ、復活も御座の統治もない。それゆえ、日々、御名のゆえの苦難にも甘んじる姿勢は常に必要である。

 だが、死の圧迫を受けても、御名にすがり、救いの確信を守り、神の義を決して離れずに、人間に栄光を帰さず、キリストだけに栄光を帰して、御言葉に従う信徒らには、神がどれほど豊かに報いて下さり、守って下さるか、神ご自身が証明される。だから、これから起きることに注目されたい。

 神はご自分に頼る民を決して捨てることなく、常に我々の砦となって我々の名誉や地位や生活を守って下さり、しかも、最も良きもので満たして下さる。私たちは羊のように緑の牧場に伏し、憩いの水際で安らう。

 だが、末尾に引用する通り、神を退けて人間や自己により頼む者、その心が神を離れている者は呪われる。

 カルト被害者救済活動の支持者らは、何もかもすべてをさかさまに見ている。彼らにはクリスチャンを罰する権限など最初からなく、クリスチャンこそ、彼らの悪行を神に訴え、彼らを罰する権限を持つ。彼らは「孤立は狂気への道」などと言って、自分たちは一人ではないとさかんに吹聴して、人間のつながりばかりを重視しているが、神につながらない彼らの誇る連帯は、バベルの塔と同じように、途中で粉砕されて、散らされて終わる。焼けつくような塩路に住み、「交流の少ない所」で暮らさねばならないのが誰であるかは、以下に挙げるエレミヤ書にも明らかにされている通りだ。

 この先、カルト被害者救済活動の支持者らには、孤立しか待つものはないだろう。

 彼らはこれまでクリスチャンを追い散らし、不名誉を着せて、何とかして聖徒らの連帯を粉砕しようと腐心して来た。だが、それはこれから先は逆転し、彼ら自身の運命となるであろう。

 これまで御名のゆえに、孤独や苦難をよく耐えて来たクリスチャンにとっては、孤立も迫害も恐れるに足りない。しかし、一度もそのような苦しみを通らされたことなく、常に徒党を組んでは、その勢いで、クリスチャンを踏みつけにして威張り散らして来たようなわがままな人間にとっては、たった一度の短い孤立でさえ、さぞかし耐えがたい試練のように受け止められるであろう。

 彼らは人間の絆を失えば、頼るものはなくなり、心打ち砕かれて、すっかり枯れ枝のようになって意気阻喪し、これまで築き上げて来たすべての虚飾の栄光、偽りの連帯、勢い、財産を失うことになる。落胆して枯れ枝のようになれば、せっかく貯め込んで誇りとしていた財産も維持できなくなるであろう。
 
 しかし、生ける水の源である主につながっているクリスチャンは、常に主を頼みとして生き、繁栄する。暑さの中にあっても枯れず、水が絶えた時でも、常に地下深く根を下ろし、尽きることのない水脈から汲み上げることができるため、常に青々とした葉を茂らせ、永遠に至る実を結ぶ。

 人間の心を傷つけず、人間に恥をかかせず、人間の中で孤立しないようにうまく立ち回って生きることは、この世の処世術としては高く評価されるかも知れないが、信仰生活とは何の関係もなく、本質的に重要な事柄では全くない。そればかりか、そうした手練手管は、神の目から見れば、呪われるべき肉なる手腕でしかない。

 聖書の原則は、たとえすべての人間の歓心を失い、すべての人間を偽り者とすることになっても、ただお一人の神だけに従い、神を正しい真実な方であると告白し、神の御言葉を守り、従い抜いて生きるべきことを教える。

 それだけが、まことの命への道であり、結果的に、そのようにして御言葉を守って生きる時こそ、人間の理解や歓心も、最終的にはついて来ることになる。だが、神の歓心を第一とせず、人間の歓心や、人間の評価や寵愛だけを第一に求めて生きることは、風に引き去られるもみ殻同然のはかない価値しか持たないものを追って生きることであるから、結局、そのような人生には何も残らない。

 教会よ、今こそ悪しき者どもの汚い手を振り払って、聖なる高貴な贖われた者として勇敢に毅然と立ち上がりなさい。花婿キリストの尊い御名にふさわしい尊厳と力を今こそ取り戻しなさい。

 私たちの聖所は天にあり、キリストの栄光の御座と共にある。クリスチャンこそ、教会に狼藉を働く悪しき者どもの罪を神に訴え、権威を持って彼らを打ち据え、追い払う権限を持つ者である。

 恐れることはない。私たちが発する言葉の一つ一つ、神への懇願の一つ一つは、すべて聞かれている。神の戦士たちよ、激しい霊的戦いが起きる時も、気を確かに持って、最後まで御言葉に堅く立って、立派に勇敢に戦い抜きなさい。この世にあって神の子供たちに艱難はあれど、キリストはすでに世に対して勝利を取られたのだから。
  
    
    「主はこう言われる、

 「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、
  その心が主を離れている人は、のろわれる。
  彼は荒野に育つ小さい木のように、
  何も良いことの来るのを見ない。
  荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。
 
  おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。
  彼は水のほとりに植えた木のようで、
  その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。
  その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。
 
  心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。
  だれがこれを、よく知ることができようか。
  「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。
  おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。
 
  しゃこが自分が産んだのではない卵を抱くように、
  不正な財産を得る者がある。
  その人は一生の半ばにそれから離れて、その終りには愚かな者となる。

  初めから高くあげられた栄えあるみ座は、われわれの聖所のある所である。
 
   またイスラエルの望みである主よ、あなたを捨てる者はみな恥をかき、
   あなたを離れる者は土に名をしるされます。
   それは生ける水の源である主を捨てたからです。」(エレミヤ17:5-13)

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死に至るまでも命を惜しまなかった

私 の個人的な経験を語るなら、主は人の自由意志をとても尊重しておられるがゆえに、私たちが御国のために大切なものを捧げるように求められる時に、無理強い はなさいません。永遠に至る実を結ぶような犠牲を私たちに求められる時、主は大抵、前もって私たちの同意を得られるか、もしくは、私たち自身が自主的にそ れを手放す決意を固めてから、それを実行に移されます。

焼き尽くす火であられる神は、私たちの内の不純物をろ過するために、時に、私たちが恐るべき苦難の中を通過するよう求められることがあります。しかし、そ のような時でさえ、御霊は前もって、私たちに来るべき苦難について教え、また、その時、何を手放すべきかを教えて下さり、私たちが自らそれを願い求めるよ うになるまでに、心の準備を整えて下さるのです。

ですから、殉教を選び取るクリスチャンは、その時が来るまでに、自分の命を手放す心の準備がしっかり出来た人たちです。その人々は、その時が来る前から、 主に命を捧げる覚悟をすでに固めており、それが彼らに対する主の御旨であることを十分に分かっているのです。だからこそ、実際に死を目の前にした時、喜ん で死を選び取っていくのです。

御言葉は主の来臨についてこう言います、「…主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。 」(Ⅱペテロ3:20)

「だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。 」(黙示録3:3) 

「(見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。) 」〔黙示録16:15)


主の来臨の時がいつであるかを知ることのできる人は誰もいません。その日には、大いなる災いが地球を襲うでしょう。目を覚ましていない人にとっては、それはまさに青天の霹靂のような完全に不意打ちの打撃となります。

「しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。 」(Ⅰテサロニケ5:4)

けれども、ハレルヤ! 主に忠実な僕らは、怖じまどうことはありません、その日が近いことを御霊がはっきりと告げて下さるからです。御霊は、私たちが主の ご計画に対して目を覚ましているよう、絶えず語りかけています。もし私たちが御霊に聞くならば、不意打ちのように災いが臨むことはなく、主はご計画の一端 を私たちの心に明らかにして下さり、どのような準備が必要かを予め知らせて下さるでしょう。「…真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネ16:13)

殉教は決して強制される出来事であってはなりません。私たちが主に捧げるものは、何一つ、強制されてではなく、自主的なささげ物であるべきだからです。しかし、それでも、主のために命を捧げることのできる人は幸いです、主の御心は、次の御言葉から明らかだと思うからです。

「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。 」(マタイ10:32-33)  

「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」(マタイ10:28) 


殉教について語ることで、私たちはいたずらに苦難を美化したり、奨励したりしているのではなく、また未来の絶望的な展望を提示して、人を不安に陥れている わけでもありません。ただ主が私たちに何を求めておられるのかに、しっかり注意を払いたいのです。自分自身の決意によっては何一つ成し遂げられないとはい え、終わりの時に、自分の命を失うことを恐れて人前で主を拒むことのない、勇気ある者でありたいと願うのです。注意して下さい、黙示録の次の御言葉は、 「おくびょうな者」を、「人殺し」や「姦淫を行う者」、「偶像礼拝者」と同列に並べ、おくびょう者は第二の死に定められるとさえ述べているのです! 

「しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」(黙示録21:8)

恐らく、ここで言う「おくびょうな者」とは、マタイ25章に出て来る1タラントを地中に埋めた僕のような者のことではないかと私は思います。主を信じてい ると告白しておきながら、恐れや不安に支配されて、いざという時になるといつも主のために何かを捨てることを惜しみ、御旨に従うことをためらって足踏み し、しかも自分の信仰の薄さを、神の厳しさや残酷さのせいにして言い訳している人々を指しているのではないかと思われます。

主は言われました、「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」(マタイ16:25) 

この御言葉そのものが、セルフかキリストか、アダムの命かキリストのまことの命か、人類による人類の自己救済かそれとも御子の十字架による救済か、善悪の 路線に生きるのか命の御霊の法則に生きるのか、と言った二者択一の問いを発しています。終末の時代には、とりわけこの選択は厳しいものとなるでしょう。私 たちがこれ以上、何とかして自分の弱さを言い訳して、主の私たちへの要求の水準を引き下げ、自分の不信仰や不従順を神に大目に見てもらおうと、人の耳に優 しい水増しした「福音」ばかりを語るなら、恐らく、私たちはきっとセルフを選んで十字架を捨て去る結果となってしまうでしょう!

私たちは試練の日に、ロトの妻のようにならないよう主の憐みを希いたいと思います。主の名を三度に渡って否むという、ペテロには許された過ちが、もしかす ると、その日には、もう私たちには許されていないかも知れません。どうか私たちが、かの日の火のテストに耐えうるよう、今から、神の子供として十分な訓練 を受けることができますように。もし私たちが不要なものを沢山抱えているなら、主が今からそれを剥ぎ取って下さいますように! どうか私たちが今日富める 者として生きる一方で、かの日に主の御前で貧しい者として恥をかくことがありませんように! フィラデルフィヤの教会のように、かの日に主の誉め言葉にあ ずかり、主が保護したいと願って下さるような、忠実な者となることができますように!

「見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少し しか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。<…>忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わ たしも地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試練の時に、あなたがたを防ぎ守ろう。」(黙示録3:8-10)

「兄弟たちは、小羊の血とあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。」(黙示録12:11-12)


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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

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