忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

主に叫ぶ私の叫びがその耳に達しました


 
「わたしが低くされたとき、主はわたしを救われた。 」(詩篇116:6)
 
80代の祖父母にプレゼントを贈ると、早速、電話が返って来た。懐かしい声が郷愁を誘う。祖母の少女のように無邪気な笑い声。新しくしたばかりの快適な風呂で、祖父はゆっくりくつろいでいるようだった。いつまでこの声をこうして聞くことができるだろう。

子供時代、受話器越しに聞く祖父の声に、ふるさと懐かしさのあまり、何度、こっそり物陰で涙を流しただろうか。都会暮らしが嫌いで、夏休みに田舎に帰郷する度に、何度、ここに住みたいと憧れたか知れない。
 
だが、田舎への憧れは、いつもはかない夢のように終わり、短い帰郷の後には、より重く感じられる都会の現実が待ち受けていた。田舎は私に長い間、ユートピアのように見えていた。だが、本当のユートピアは、そこではなかった。
 
私たちは苦難に見舞われる時、今すぐに神の御業を見たいと願う。すぐに奇蹟が起こって欲しい、すぐに主とお会いして、窮地から助け出され、愛と慰めと平安 を得たい、すぐに生活が安定して欲しい、などと願う。そして、自分の落ち着かない心の状態や、平安からは程遠いような世の中の状況を見て、苦境に立ち向かおうと奮起したり、可能な限り、正しいクリスチャンであるかのように演技し、「正しい心の状態」を作り出 そうとする。

状況が悪い時、悪いままで、主に向かうことが、多くのクリスチャンにはできない。彼らは何とかして、自分がそれなりの満足できる正しい状態があるように装い、なければそれを作り出そうとする。時にあらゆる理屈を並べて、現実を美しく塗り替えながら。
 
しかし、私が主に出会うためには、長い、長い、待ち望みの期間が必要であった。主に出会うためには、なりふり構わずの信仰が必要だった。食卓のパンはもらえなくても良いから、せめて食卓から落ちるパン屑だけはいただきたい…、衣の裾に触れさせていただくだけで良いから…、お言葉をかけていただくだけで良い から…、自分が惨めで盲目で裸であることを嫌というほど知らされ、もうこれ以上、そのような状態に我慢はならないので、主に振り返っていただくまで、絶対にあきらめずに、主にすがり続け、祝福を与えて下さるまではここを去りませんと懇願し続けるほどの強い決意と信仰が必要であった。

それを信仰と呼ぶべきなのか、叫びと呼ぶべきなのか、分からない。そこには、とてもきれいごとでは済まされない、戦いがあるからだ。

そこには信仰者らしい美しい振る舞いもなければ、神に振り返っていただくに値するだけの立派な行動は、何もなかったように思う。

だが、神が必要としておられるのは、人が見て喜ぶ見てくれの良さではなく、何が何でも神に出会うまでは、絶対にあきらめないというほど、神以外のものに絶望し、なおかつ、神だけを待ち望む打ち砕かれた魂をなのである。

そういう魂を、主は放って置かれない。主が私に目を留められたその理由は、私の心が打ち砕かれていたこと、主のみを希望として、主に向かって叫んでいた、というただその一点だけであっただろうと思う。

神は、人の力が尽き果てて、自分の力では、もはやいかなる正しい状態も維持できなくなり、信仰さえなくなろうという限界状況で主に呼ばわるとき、すみやかに応答し、同情の手を差し伸べられる。

十字架が内に啓示されるためには、キリストと同じくらいのへりくだりがなければならないのである。主の御霊が上から臨むためには、キリストと同じくらい、砕かれた魂が必要なのである。そのために必要な状況を、主が用意される。人が神に出会うための道は、神ご自身が整えられる。

だが、主に出会う時、すべての状況が変えられる。それまでの疲れは癒され、悲しみは癒され、対立は解消され、まるで心に軟膏を塗ってもらうように、主の霊の中で、人は慰めを得、休みを 得る。

本当に主に出会うために、人はまず自分の限界に達しなければならないのである。

以来、私のユートピアは、地上のどこか気に入ったあれやこれやの場所ではなくなった。このような美しい自然に囲まれた、このように開放感ある場所に住めたら、きっとさぞかし幸福な人生が送れるだろう…といった浅はかな空想はなくなった。人にとっての故郷は、主の霊の中にしか存在しない。そして、私はそれが存在することを確かに見、知らされたのである。
PR

全地はあなたの前にあります


創世記第13章より
アブラムは妻とすべての持ち物を携え、エジプトを出て、ネゲブに上った。ロトも彼と共に上った。

アブラムは家畜と金銀に非常に富んでいた。彼はネゲブから旅路を進めてベテルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ。

アブラムと共に行ったロトも羊、牛および天幕を持っていた。その地は彼らをささえて共に住ませることができなかった。彼らの財産が多かったため、共に住め なかったのである。アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちの間に争いがあった。そのころカナンびととペリジびとがその地に住んでいた。

アブラムはロトに言った、「わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも、わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましょ う。全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けば私は右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行き ましょう。」

ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。

こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。

ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。すべてあなたが見わたす地は、永 久にあなたとあなたの子孫に与えます。わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数 えられることができましょう。あなたは立って、その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」。

アブラムは天幕を移してヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわらに住み、その所で主に祭壇を築いた。


子供の頃からよく聞いたこの箇所を最近私はよく思い出すのです。

突然ですが、あなたに問いたいと思います。主の御前で、あなたはどれくらいへりくだった態度でいるでしょうか。私はあなたがどれくらい頻繁に主を礼拝して いるかを問うているのではありません。どれくらい熱心に礼拝に通っているかを問うているのではありません。どれだけ多くのものを主のために捧げ、どれだけ の時間を尽くして奉仕し、どんな風に兄弟姉妹と交わり、どんな賛美を歌い、どれほどの功績を積み重ねて来たかを問うているのではありません。失礼かも知れ ませんが、あなたがどれくらい主に対して、砕かれた、悔いた心を持っているかを尋ねているのです。

主の御前で、真に正しい人として立ちたいなら、私たちにはへりくだり、砕けた心を持つことが、どれほど重要でしょうか。もしその心がなければ、私たちには血潮も、十字架も必要なく、神の御前での私たちの礼拝は、成り立たないと言っても言いすぎではありません。

ルカによる福音書第18章には、「自分を義人だと自認して他人を見下げている人たち」(ルカ18:9)のたとえが登場します。

パリサイ人は次のように祈りました、「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています。」

それに対し、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしないで、胸を打って言ったのです、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と。私たちはこの物語の結末を知っています。神に義とされたのは、行いの上では落ち度なく神を礼拝していた立派なパリサイ人ではなく、礼拝にさえ値しない自分を正直に認めて、神の御前に罪を悔いて告白した取税人でした。

詩篇の作者は言います、「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」〔詩篇51:17)

私たちは御言葉を無視しないように注意しなければなりません。神は私たちの賛美よりも、祈りよりも、奉仕よりも、ささげ物よりも、他のどんなものよりも、 私たちの砕けた、悔いた心をお求めになっておられるのです。

砕けた、悔いた心とは何でしょうか。それは神の御前に自分は到底、立ちおおせることのできない 罪人であるという自覚を持ち、ただ神の憐みに満ちた贖いによって立たせていただき、神の御前で自己義認しないことです。

お尋ねしますが、あなたが神の御前で最後に心を痛めて、嘆き悲しんで、自分の罪を悔いたのは、一体、いつのことだったでしょうか。どのくらい長い間、あなたは神の御前に己が罪を照らされようともせず、己が恥を悔いることもしないで、自分は正しいという思い込みのもと、頑なに他人の罪ばかりを責め、周りにいるクリスチャンたちの非をあげつらい、不器用に生きる人々を嘲笑し、砕かれない心を持って、そのような哀れな人たちとは違って、自分は恵まれており、神に愛されている幸福な人間だと自己義認していたでしょう。

あなたはあまりにも当然のごとく自分には神の御国に入る権利があると思って、神を信じない人たちを哀れんでいますが、本当にそうでしょうか。もしかすると、あなたは御国を遮っているのではないでしょうか。
 
さて、話を戻しましょう、「全地はあなたの前にあります」、そう言われたとき、 ロトはおじアブラムの前で、ためらわず低地を選び取りました。彼には自分にとって有利な選択をするにあたり、おじへの遠慮はありませんでした。たとえ相手が年長の身内であっても、目上の人であっても、ロトはためらわずアブラムを押しのけて、自分の分を主張し、自分にとって有利な選択をためらわずに選んだのです。彼はそれを良心に鑑みて恥とは思いませんでした。そして多分、アブラムの性格をよく知っていたので、彼が自分の選択に異議を唱えることもないと知っていたのではないかと思います。

確かに、アブラム自身がロトに選択の自由を与えたのですから、ロトのこの選択は許容範囲内であり、罪と呼ぶほどのものではなかったかも知れません。しかし ながら、ロトのこの行為には、敏感な人であれば誰でも気づく厚かましさ、霊的鈍感さが含まれていました。彼はまずアブラムの方にこ そ、最初に選ぶ資格があることを考えませんでした。彼は何のためらいもなく、真っ先に自分の取り分を主張しました。そのことは、アブラムに対してだけでな く、神に対する彼のへりくだりも欠けていたことを示しています。

この世を生きるに当たり、ロトのように、自分にとって損がないように上手く立ち回り、他人の前で自分の取り分を明確に主張し、絶えず自分に有利な選択を重 ねて生きることは、あたかも美徳のように思われていることでしょう。それができる人がこの世では成功者とみなされ、賞賛を受けるのです。それにひきかえ、 アブラムのように、相手により良い方を与え、自分は不利な選択に甘んじる態度は、ともすれば臆病さや、不器用さ、女々しさ、弱々しさと考えられ、嘲笑の対象となるだけです。

ロトの前で自分の威厳を守るために、自分の取り分を先に主張しようとしなかったアブラムは、ともすれば、その行為によって自分の僕たちにも侮られる危険がありました。にも関わらず、彼はロトに完全な選択の自由を与えたのです。

なぜアブラムにはそのようなことが出来たのでしょうか。それは彼が主に対して全幅の信頼を置いていたからです。彼は事なかれ主義が原因で、ロトとの争いを 避けようとして、あえて甥に有利な選択をさせたのではありません。アブラムはロトの選択も含め、全てのことが主の御手の中にあることを信じていればこそ、 安心して、ロトに最大限の選択の自由を与えたのです。

それは、アブラムは、ロト以上に地上の宝から心が自由であったからです。神への信仰によって生きていた彼は、ロトの選択の如何によって、つまり、地上における所有物の状態によって、自分が脅かされたり、圧迫されるという不安を持たなかったのです。そして、ロトが何を選んでも、神はそれに劣ることのない最善の祝福を自分に与えて下さり、自分はただ主の最善を主の御手から受けるだけだと確信できたのです。
 
他方、ロトの選択は、彼がアブラムに比べ、地上のものにより心惹かれていることをはっきりと示しました。彼は地上の目に見える豊かさに誘われて、低地(天からより遠い場所)を選び取り、そして何よりも悪いことに、天幕をソドムに移しました。ロト自身は「義人」(Ⅱペテロ2:7)と 呼ばれていることから、ソドムやゴモラの住人のような悪人でなく、主を畏れる人であったことが分かりますが、それでも、彼の選択は、神のご計画に対する彼の無関心さ、霊的鈍感さをはっきりと示していたのです。

自分を喜ばせることを第一に考えて、何が神に喜ばれることであるかを第一にわきまえなかったがゆえに、 彼は地的なものに惹かれ、やがて地にあるものによってひどく心煩わされることになるのです。最終的には、自分が選び取った低地をすべて失ってしまいました。

従って、この世的な観点からすれば、ロトは最高の選択をしたように見えたかも知れませんが、霊的な秩序においては、彼はかえって(致命的な)損失をこうむり、そのことが、後にはっきりと明らかになったのです。ロトの選択が、彼と彼の家族に何をもたらしたかは、私たちの誰もが知っていることです。

ここで、それでは自分に不利な選択をすればそれがクリスチャンにとっての勝利なのかといったむなしい議論に陥らないようにしましょう。私たちはただ神の御前での自分の分をわきまえるべきなのです。たとえ全ての選択の自由が与えられていたとしても、何をすれば神が喜ばれるのか、何が永遠の報いを得ることなのか考えてみるべきなので す。

すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。(Ⅰコリント10:23)

ですから、「全地はあなたの前にあります」と いうような提案を受けるとき、私たちは用心しなければなりません。それは私たちに対する霊的なテストかも知れないからです。目の前に豊かさがおとぎ話の絵巻物のように開かれるとき、まさに望んでいたものが差し出されるとき、恥をさらさないよう用心せねばなりません。同じような提案を、サタンが主イエスにしたからです。

次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて、行った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。

するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。(マタイ4:8-10)


主イエスは全世界が目の前に置かれても、自分の取り分を何一つとして主張しませんでした。それは全てのものが神の所有であることを知っておられたからで す。誤解してはなりません。彼は無産階級の代表者として立っているのではありません。彼は全てのものを自分の主張によって得るのではなく、ただ神の御手から、御旨に従って受け取ることを望まれたのです。

神がサタンの提案する以上の栄光を彼に下さらないことがあるでしょうか? 神はすべての名にまさる名を彼に賜ろうとなさっておられたのです。

しかし、それはただ神の御前での徹底的なへりくだりを通してのみ得られる栄光でした。人としての弱さを身にまとい、神に対する死に至るまでの従順によってのみ得られる栄光でした。彼が自分からその栄光に手を伸ばしてはいけなかったのです。

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむ なしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられ た。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あ らゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。(ピリピ2:6-11)

これと同様に、アブラムはロトに対して自分を低くしてへりくだり、仕える姿勢を取ったのでした。地上においては臆病さや敗北とも見られかねない彼の姿勢は、神に喜ばれました。そこで、ロトが自分に有利なものをことごとく選んで立ち去って行ったその後に、主はアブラムを特別に祝福されたのです。アブラムは何も選びま せんでした。自分の取り分を主張しませんでした。にも関わらず、神は彼に言われたのです、見渡す限りの土地は、全て彼の所有として与えると。

このことは、地上における所有と、霊的な所有との二重の支配構造を示しています。地上における所有という点では、アダムが地を治めることに完全に失敗して 以来、人類には希望がなくなりました。人は地を治めるべく創造されたのに、罪のゆえに、かえって地は彼のために実を結ばなくなったのです。人々はむなしく 地上での所有権を争い、我勝ちに自己主張し、互いに押しのけあいますが、地を治めようとする人の努力は実を結びません。

ところが、神は霊的な秩序において、信仰によって、再び、人に地を治めさせることを計画されたのです。神の国の霊的な秩序は、この世の秩序に優先します。 神は人が御霊にあって、霊によって治める人となるよう計画されたのです。この世の秩序においては、早い者勝ちで、他者よりも声高に自己主張し、力強く要求した者がその権利を得るかも知れませんが、霊的な秩序においては、そのような自己主張はほとんど役に立ちません。

ただ信仰によって待ち望んで与えられた神の御言葉だけが成就するのです。アブラムの目の前に広がる豊かな土地は、ロトによって持ち去られ、彼の所有は何も残ってないかのようです。しかし、霊的な秩序においては、アブラムの己を低くした姿勢は神 に評価され、御言葉により、すべてが彼の所有として与えられたのです。そして神の御言葉は時至って必ず成就するのです。

アブラムの例は、人が主と共なる十字架を通してアダムの命に死に、キリストにあって真に地を治める新しい人となることの予表です。私たちは選ばなければなりません、日々のパンを得ることを最優先して、神の前で貪欲に自己主張して自分の取り分を選び取るのか。それとも、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるものである」(マタイ4:4)との信仰に立ち、地的な富と栄誉を退けてでも、神がまず御言葉をお与えくださるのを待つのでしょうか。
  
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マタ イ16:25-26)

「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであっ てはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならな い。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同 じである。」(マタイ20:25-28)

悪魔の作成した地上の奴隷契約を終了し、神の作成した天の自由な契約に生きる

一応、末尾に以前に書いた「契約満了」という記事を残しておく。この記事は、以下の企業がまぎれもなくブラック企業であることをよくよく示す内容である。

とはいえ、それは一部の企業に限ったことでなく、今や日本全土がブラック企業化している。筆者は、政府、独立行政法人、等々の組織も見て来たが、公の組織も全く例外ではない。

公的団体においても悪徳企業とまるで差のない現状が広がっており、法令違反は日常茶飯事であり、末端の人々は虐げられ、歪んだ労働条件の下で、未来のない生活を強いられている。その搾取が民間企業から始まったものであるのかどうかは怪しい。むしろ、政府や公的団体の腐敗と、民間企業との癒着・腐敗こそが、民間企業のブラック化となって反映しているのだと言うのが事実であろう。

異教のアハブ三世に率いられる我が国は、「美しい国」という偽りのユートピアを掲げて、是正されるどころか、ますます悪化の一途を辿っている。

まさに黙示録で警告されている通り、地上の経済はバビロン化し、反キリストの手に委ねられる時が刻一刻と近づいて来ているのを感じざるをえない。
 
当初は、就いた仕事が、たまたま条件の良くない仕事だっただけで、もっと良い条件を探せば、他にも希望ある選択肢があると思っていたこともあった。筆者の身近にいる信者たちが、好条件の仕事を探すように助言したこともあった。

だが、今、筆者がはっきり言えるのは、筆者がこれまで見て来たような有様は、日本の経済界(政財官すべて)がバビロン化して、反キリストの王国へと統合されて行く過程の一環でしかなく、この地上経済からは「エクソダス」しか道はない、ということである。

だから、もっと処世術があれば、もっと能力や知識があれば、もっとコネがあれば・・・、うまくチャンスをつかんで、社会において自分のより良い「居場所」を確保できるのに、という考えは、誤っており、幻想でしかない。

マモン(悪魔)の経済にすがっている限り、チャンスなどというものは決してやって来ない。だが、たとえ地上の経済に生きて来た人間であっても、もしキリストにあって、神に生きるためにこの腐敗した体系からのエクソダスを模索し、真実と正義を主張して一歩も譲らなければ、暗闇の勢力に打撃をこうむらせた上で、手土産くらいは持って、その世界を去ることはできる。

なぜなら、神はこの地上を悪魔のために創造されたわけではなく、この地上の目に見えるものは、たとえ滅びゆく定めにあったとしても、すべて御子の栄光のために存在するからである。だから、悪者(不信者)の富が正しい者(信者)の手に渡ることは、神の御心にかなうことである。

筆者の確信は、日本は、社会主義国としての本質を現したのだということである。この国が資本主義だったのはうわべだけのことで、市場原理主義というのは、根本的にグノーシス主義と同じ偽りのユートピアであって、それは共産主義とも同根である。これらの思想の根底に同じように、神に逆らう悪魔的な発想が潜んでいるということである。

我が国は「一億層活躍」などという題目の下、一億総プロレタリアートを目指す社会主義国となっており、その挙句の果てに、一億総奴隷的囚人労働へと向かっている。

たとえ現実には囚人でなくとも、労働者は人間の作った組織に束縛されている精神的な囚人である。どんなにひどいパワハラが行われ、どんな法令違反が行われ、たとえ賃金が支払われなくなってもなお、辞めることができない。それは彼らが心の囚人、心の奴隷だからではないのか?
 
こうしたことが、極論でないことを示すために、筆者が実際に経験したこの世の経済においてもはや日常茶飯事と化している不法な労働条件や法令違反の例を挙げておこう。
 
働いても雇用保険に加入させない、雇用契約書を渡さない、理不尽に即日解雇しておきながら労働者が自ら契約を短縮したことにして事を済ませようとする、不意に理由なく契約期間を短縮する、残業代を払わないか、あるいはピンハネする、試用期間が過ぎても本採用しない、零細企業で人を雇う余裕などないはずなのに、絶え間なく求人を続けている(=常に誰かがリストラされている)、労働時間を過ぎて帰宅しようとすると、上司に終業時刻ぴったりに仕事を終えるなど言語道断だと猛烈に叱責される、無賃労働を強いられる、始業時刻よりも30分前に皆が出勤している(当然ながら無賃労働)、電車遅延による遅刻が認められず、遅延証明書を提出しても叱責対象となる、休日出勤しても手当てが出ない、休日出勤しても代休が思うように取れない、休日に開かれる社内イベント(無給)に参加しなければ、仕事への積極性がないとみなされ叱責対象とされる、体調不良で二、三日休むとまるで犯罪でも犯したかのように叱責される、専門知識のある社員を知識のない社員たちが全員で虐め抜いて次々と退職に追い込んでいる、前任者が後任者への引継ぎを意図的に拒む、または上司が引継ぎをさせない、毎日朝礼で誰かが叱責されている、著作権侵害やその他の不法行為を黙認するような業務内容がある、社内(もしくは組織内の)規約の定めに公然と違反する業務が行われている・・・

書き出せばもう終わりがないほどである。

こうしたことが、我が国では日常茶飯事と化しているのである。適正な労働条件が守られず、不法な搾取を正当化しようと、企業や公的団体は、嘘と悪事と不法行為の温床となり、行政機関も、カルト被害者救済活動と同様に、被害者救済を自己のビジネスとし、機能していないに等しい。

この地上の経済は、あたかも、法を犯し、人を騙すことに、悦楽を感じてでもいるかのような、悪意ある仕組みとなり、時が経てば経つほど、反人間的なものとなり、自浄作用が全く働かなくなっている。そういう希望のない仕組みには、見切りをつける頃合いであろう。

筆者はこの地上の経済が悪鬼化し、荒廃して行く様子を見ながら、どうしても教会を思い出してしまうのであった。

神の御心にかなうエクレシアからはほど遠い、地上の組織としての教会は、不法な労働条件や、搾取や、リストラが横行する企業もとてもよく似ている。そのような条件下での「淘汰」において、最後まで生き残るのは、最も卑劣で、最もどうしようもない、良心の麻痺した人間だけなのである。

教会であれば、善良で心優しく、誠実に生きる信徒ほど、日曜礼拝に来なくなる。だが、鈍感で厚かましくて、心の麻痺したような、うわべだけ品行方正な、心冷たい信徒は、牧師やリーダーの覚えめでたく、最後まで我が物顔で、献金や奉仕に邁進し、教会に来なくなった信徒たちを「悪魔の虜とされた」などと言って見下す。彼らは、教会という地上的な組織に「居場所」を持っていさえすれば、自分は救いを失うことなく、大丈夫だ、と考えて安堵している。彼らにとっての救いとは、もはや主イエス・キリストの十字架を通して得られるものではなく、牧師や信徒などの人間からの承認、または地上の組織から得られる承認がなくては維持できないものへとすり替わっている・・・。

神からの救いが、いつの間にか、悪魔の用意する地上的な承認に取り替えられているのである。だから、そのような団体からの承認にすがって、それがあるために、自分たちは大丈夫だと考えているような信徒は、言っておくが、主の来臨の時には、素通りされ、地上に置き去りにされるであろう。

企業や公的団体もこれと同じで、無賃労働や長時間残業を積極的に引き受け、優秀な同僚を次々と密告して排除し、自主的に自らの各種の権利や自由を返上して、組織や団体のために奴隷的な奉仕に邁進した者だけが、出世して生き残って行く。だから、その組織からは、最も良い人間が真っ先にいなくなるのである。最も卑劣で、良心に欠ける人間たちが、自己保身の思いで抜け目なく立ち回って、上部に取り入り、同僚を蹴落として一番最後まで残り、「自分たちこそ勝者だ」などと勝ち誇っているわけだから、そんな団体にいかなる未来の希望もないことは明白である。悪人ばかりで占められた団体が、善良な行為に従事することなどあり得ない。悪人と詐欺師が互いに都合の良い嘘やおべっかを使って騙し合いながら、手に手を取り合って滅亡へ向かって行くだけである。
 
しかも、そんな様子を見ても、もはや心が痛む人もいないほどに、人心が麻痺しており、我が国に生きる人々の精神崩壊の度合いの深さを感じざるを得ない。

年越し派遣村のことで世間が大騒ぎしていたのは、今は昔である。それよりもはるかにひどい現状が広がっている今、もはや誰もそれを事件だと認識さえしておらず、騒ぐ声も聞かれない。フクシマ原発の労働者が白血病で倒れても、世間は「仕方がない」というあきらめの境地にいるのか。

ただメディアが政府に占拠されたから真実な報道が国民に届かなくなっただけでなく、どこかで何かがはっきりと変わり、悪の霊が解き放たれ、人の心に変化が起きたのだろう。つまり、我が国はどこかで一線を越え、後戻り不可能な道へ踏み出したのだ。共産主義へと。だが、社会主義国が崩壊したように、その道を歩むなら、いずれ、この国にも同じ破滅が降りかかることになる。

そうなる前に、エクソダスしなさい、ということである。
バビロンの倒壊に巻き込まれないうちに、そこからエクソダスせよ、ということである。

この国の国民である以上、国民をやめるということはせずとも、地上の悪魔的な体系から霊的にエクソダスすることが可能なのである。

それが天の経済に生きる、ということである。

主イエスも、この地上において、人としての肉体を持ち、世人と何ら変わらない制約を受けて生きておられたが、それにも関わらず、主イエスは、世人と同じように、この地上の王国のために仕え、地上への義務を果たすために生きておられたわけではなかった。

主イエスは神の権益のために、神の国の権益拡大のために地上に来られ、ただ天におられる神だけに仕えて生きられたのである。
 
だから、地上で起きている驚き呆れるような事件に注目し、これに憤慨したり、是正を訴えたりするのは、ほどほどでやめておくに越したことはない。そのようなことには何度巻き込まれても、同じ結末が待っているだけである。

そこから、エクソダスせねばならないのである。

キリスト者は、この世を超越した、神の国の霊的統治に生きるべきである。

おそらく、筆者は横浜へ来て、初めから天の経済に生きる道があったのだろうという気がしてならない。だが、それはジョージ・ミュラーが信仰だけによって孤児を養ったように、ハドソン・テイラーが中国伝道を実現する手段をただ神だけに頼ったように、一切の地上的な保障のないところで、御言葉への信仰だけを手がかりに神を頼る道である。

この道へ踏み出すためには、常識の転換が必要となる。だが、ここ一年間ほどは、筆者はその訓練をずっと受け続けて来て、その度ごとに、神の約束の確かさを思い知って来たのである。

だからこそ、言える、たとえ地上の経済を離れても、神は必ず、信者を養って下さると。蒔くことも刈ることもしない空の鳥や野の花を生かせて下さっているのと同じように、神が自ら信者を養って下さると。キリスト者は、その領域に生きねばならないのである。

筆者は以下に記したよりもはるかに「恵まれた」条件の「恵まれた」仕事もいくつも経験したが、結局、どれもこれもすべてが同じ穴の狢であることを、ついには理解せざるを得なかった。つまり、地上の組織というものに関わる限り、人の奴隷となってそこに束縛される支配関係を免れることはできず、それはキリスト者にとって神の御心に著しく反する事柄である。たとえそれが教会組織でなく、信仰とは何ら関係のない企業であれ、公的団体であれ、信者が地上の組織に束縛されることは、すなわち霊的自由を奪い取られることと同義だと理解せざるを得なかったのである。

だから、最も損失や浪費が少ないのは、信者が人の奴隷となったり、人の思惑に従って生きることを一刻も早くやめて、神に直接養われる天の経済に生きることである。それはキリスト者が牧師に従うことをやめ、地上の組織としての教会の一員であることをやめて、これらの地上的なバッジを捨てて、天におられる父からの目に見えない承認だけを受けて歩き出すのと同じである。地上のいかなる組織や団体からの承認も受けずに生きて行くことである。
 
人の奴隷となることをやめて、神に自分の全てを捧げて、自由になって歩き出しなさい。

むろん、神は少しずつ信者に学習させて下さるので、 過去に紆余曲折があったとしても、大した問題ではない。今、信者が何に価値を置いて、何を追い求めて生きているのか、神にとって重要なのはただそれだけである。

キリストだけを見上げ、キリストだけを目標に、他のものは見ないで生きなさい。

<2016年>
 
---------------

<2010年>
 
昨日、以前にも記事に書いた上司に手続きをしてもらい、私は会社を退職してきた。詳しいいきさつは今、ここには書かないが、かなり喜ばしくない事件も手伝って、急な展開により、このような結末となった。

ただ、連日のように、人が黙って辞めていくこの会社では、私の今回の退職は、普遍的現象の一部に過ぎない。私もまた、これまで辞めて行った人々と同じよう に、黙って去って行く一人である。祝福のうちに送り出してもらうわけではなく、むしろ、会社に残る人々には、まるで戦列から脱落していく兵士のように映っ ていることだろう。しかし、これも全て主の采配の下での出来事であると私は確信を持って言えるので、不名誉と思う気持ちは全くないし、人の目は気にならな い。

私はこの業務のために全力を尽くした。可能な限りの力を振り絞って、会社の要望に応じた。(だが、会社の要望そのものが、もともと、私が逆立ちしても、応 えることのできない過剰なものであったことは確かである。)だから、今、私には何一つとして、悔いはない。これ以上、働いていれば、ただ体を壊し、判断力 が低下し、ミスを重ね、ついには病気になって終わっただろう。どんなに一生懸命、会社に尽くしたとしても、せっかくこれまで学んで来て、積み上げて来たス キルさえ、破壊されて終わってしまうのでは意味がない。

それが分かるように、ある時、業務中に、主は、私の不注意により、極端なまでの事件が、私の身に降りかかることを許され、そして、この会社での私の就業 に、この先、希望がないことを示された。だが、その時、私はこの職場にまだとても愛着を感じており、去りたくない気持ちが強かったので、何日にも渡って、 心を引き裂かれるような思いで、悩んだが、しかし、結局、事態を冷静に受け止め、導きに応じて、職場への未練を手放すことにした。その決意を実行に移した 時、完全な平安が心に与えられた。

今回、これが私の独断ではなく、主が私を守るために、愛を持って私を「クビになさった」ことの証拠として、実に嬉しいいくつかの展開が起こった。まず、主 は私の退職を実に円満に運んで下さったのだ。時期的にかなり急な話であったにも関わらず、全くの偶然にしか思えない出来事をいくつも整えて、主は私を「契 約期間満了」として下さったのである。

さらに、私には一つ、心から気がかりなことがあった。それは、私を会社に引き止めてくれた上司の心中であった。今回の私の退職は、彼の期待を、結果とし て、裏切ることになってしまう。いかに人の目は気にならないといえども、ただ尊敬するこの人のことについてだけは、私は悩んだ。彼は、日曜礼拝の件でも、 その他の件でも、どれほど私のために、色々ととりはからってくれたか分からない。どれほど優しい配慮を持って研修時代から私たち一人ひとりを見守ってくれ ただろう。その配慮を一切、無にすれば、どれほど残念な思いを味わわせてしまうだろうか…。

だが、この件についても、主は、解決を与えて下さった。この喜ばしいニュースについては、いずれまた、詳しく語る日が来るかも知れない。

最後に、この会社の名誉のために、つけ加えておこう。この会社は現在、契約社員に対して、有給休暇はきちんと法律に基づいて付与しているそうである。さら に、私の他の同期生たちも、私より随分後のことではあったが、結局、ほとんどが異動となった(異動先での彼らの活躍を願う)。この先、たとえ試用期間中で あっても、労働基準法にそぐわない即日解雇の危険が、契約社員から、完全にとり去られる日が来ることを願う。

主のなさることは全て、時にかなって美しい。こうして再び失業者となった私に、寂しさや、不安が全くないと言えば嘘になるが、主は真実な方であり、地上の どんな存在にもまして、愛をもって、私を養い、育てて下さる、私の唯一無二の、最大の保護者である。ただこのお方に、私は信頼し、人生を委ねていきたい。

肉の家族にはとても知らせる勇気が起きないこの失業のニュースを、主にある二人の兄弟姉妹は、早くも、共に喜び、祝ってくれた。ハレルヤ! こんな時で も、主は私を一人にされない! こんなことからも、主の私への愛を確かに感じるのである。私は喜びをもって主に感謝をささげ、全てのことについて、ただ主 に栄光を帰します。

荒地から神の庭へと…

 「神の導きにおいては、その人がなしえないこと、時期に合わないこと、あるいはそれをなす力が与えられていないことは、なに一つ要求されない。
あなたを前進させるすべてのものが、きわめて明白な要求、あるいは機会という形をとって、つぎつぎに、しかも正しい順序で、あなたを訪れてくるのである。」
(ヒルティ著、『眠られぬ夜のために』、第一部より)

「僕たる者よ。キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心をこめて、肉による主人に従いなさい。人にへ つらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。あなたがたが 知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。」(エペソ6:5-8)

 
「庭が多くの働きをするわけではない。
 花と実をつけるだけである。
 責任をもつのは私たちの庭師である神なのだ。
 神は私たちを祝福し、恵みで満たし、訓練してくださる。
 私たちが望むと望まないとにかかわらず、
 神は働かれる。
 私たちに必要なのは明け渡すことである。
 すると神は、私たちの人生を
 荒地から神の庭へとつくり上げて下さる。
 神はそのように願い、またそうおできになる。
 すばらしいことではないか。」
(コーリー・テン・ブーム)

これらの一連の記事を書いていた当時から現在に至るまで、残念ながら、筆者はまともな労働条件の仕事を一つたりとも見たことがない。

以前、このブログ記事を読んだ「兄弟姉妹」からは、「そんなに苦しんで生きなければならないはずがありません。そんなに過酷な労働条件じゃない仕事が絶対にあるはずです」と説得されたものだ。そして、実際に、「ましな条件」を探し求めたものである。

憲法さえも、「意に反する苦役」を課すことを禁じているように、神は信者に対して意にそぐわない仕事を強制なさることはない。

だから、筆者が一つの仕事に愛想を尽かして、次の仕事を探し始めると、不思議に、願っている方面で新たな選択肢が開けるのであった。

しかし、残念ながら、いくつ新しい選択をしてみても、分かって来るのは、この世の仕事はどれもこれも似たり寄ったりで、嘘と不正と搾取にまみれ、長くは続けられないし、そこに居場所はもうけられない、ということだけであった。

筆者は一つ一つの仕事を心を込めて誠実に成し遂げて来た。だが、その努力も、企業の悪を助長するだけであれば、裏目に出るばかりである。

当初は、「近頃は、正社員になる可能性が少ない」と筆者は嘆いていたが、今は、正社員になどなるべきではないのだと確信している。

正社員という仕組みは、教会とよく似ていて、それ自体が、フェイクなのである。

教会籍というものは、信者が継ぐ天の見えない国籍とは全く意味が違う似ても似つかない偽物に過ぎない。そのようなバッジを身につけたところで、それは世に対してものを言うだけであって、神に対しては何の意味も持たない。

神に対して何の意味も持たないものにこだわり続けていると、やがて悪魔的な結末に陥ることになる。

教会籍というものは、あたかも、地上における教会内での信者の居場所を保証してくれているように見えるだろうが、実際には、教会籍なるものを設けているような地上の団体は、行けば行くほど、より疎外されて行くだけというパラドックスに陥るのである。

救いとも、天の御国とも、実際には何の関係もない、むなしい教会籍という、自己安堵の(いや、奴隷の?)バッジを維持し続けるためだけに、どれほどその団体に信者は貢がなければならないだろうか? どれほど無償で奉仕しなければならないだろうか?

それは「貸与された救い」であると筆者は考えている。貸し出されている救いだから、いつまで経っても信者のものにならず、実質的に、献金や奉仕によって「賃料」を支払わないと、そのバッジは安泰ではないのである。

会社も同じである。
 
「正社員」という奴隷のプラカードを首からぶら下げるという「権利」を獲得・維持するためだけに、終わりなき奴隷的奉仕が延々と求められるのである。奴隷的奉仕、と言うのは、決して過言ではない。なぜなら、無賃で働いている管理職さえいる始末だからだ。
 
そして、そのように悲劇的に自己犠牲して貢ぎ、尽くし続けた挙句に、「あなたはこの団体にそぐう人間でありません」という三下り半が突きつけられて終わることになる。それが、奴隷のバッジを自ら求める人間の辿るお決まりの末路である。

それにも関わらず、人々は「奴隷のバッジ」というこの世の居場所を求めて殺到し、争い、蹴落とし合い、もがき、悩み、苦しむのである。

まるで植物人間になってベッドにくくりつけられ、チューブだらけになるために争っているようなものである。

何のために、永遠でもない無価値なものを得るために、そんな無駄な苦労をする必要があるのか。

もし、信者が庭なら、神が水をやり、育て、花を咲かせるまで世話をして下さるだろう。

信者がしなければならないのは、ただ信仰によって望み、望んだ方向へ向かって身を伸ばすことだけである。それ以上の「何か」は、信仰によるのではない、この世的な努力であるという気がしてならない。

もし「庭」が荒廃しているなら、何かがおかしいのである。

庭を土足で踏み荒らし、実のなる木があれば、勝手に取って食べ、あれが足りない、これが足りないと、上から目線で勝手な要求ばかりを繰り返している人間どもは、庭師ではなく、不法侵入者である可能性が極めて高い。そういう人間は、追い払ってしまわなければ、庭は荒廃する一方である。

まことの庭師だけを、招き入れるようにした方が良い。そうすれば、木は実り、花を咲かせるようになり、庭は美しい花々でいっぱいになるだろう。

キリストの内に隠れる(1)

「あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない」(申命記9:5)

神が私たちの正当性や、私たちの心の正直さをご覧になって、私たちを恵まれることなど、決してあり得ない。仮に、私たちが信仰の歩みを大胆に歩き続けて、今や一年前、二年前よりもはるかに信仰が成長した、と思っていたとしても、その進歩ゆえに、神が私たちに何か特別な寵愛を賜るということは決してない。

むろん、神は信仰を喜んで下さるし、信仰に応じて、私たちに御言葉を実際として下さるが、しかし、私たちが恵みを受け取るのは、自分自身のゆえでなく、あくまで、主イエス・キリストのゆえである。

だから、信者はあまり自分を振り返って、自分がどれくらい聖潔になったか、とか、どれほどクリスチャンらしくなったか、とか、どれくらい努力して信仰が成長したか、とか、そういったことばかりを見ない方が良い。

これは決して放縦でいい加減で無責任な生き方を奨励して言っているわけではない。信者が神の御心にかなう生き方を目指し、神の義と聖に近づきたいと追い求めることは、有益なことであって、それはやめるべきことではない。

だが、信者はどちらにしても、私たちは自分の力でそれを達成することはできないのである。だから、信者はどちらかと言えば、自分がどれくらい進歩したかに注目するよりは、自分の失敗を徹底的に吟味して、そこから成功の秘訣を探り出した方が良い。

オリンピックを目指す選手でも同じことであろうが、自分が何かを「達成した」などと思っていると、もうそれ以上、高みを目指すことは不可能となる。

これは決して、自分に厳しすぎることの奨励ではない。そうではなくて、私たちは生きている限り、神と共に手を携えてできるだけ遠くまで歩きたい、というビジョンを持つことは有益である。

だが、遠くまで行くためには、あえて今の自分に自己安堵せずに歩き続けることにこそ、価値がある、ということを言いたいのである。

信者の祈りや、信仰告白は外に見せるためのものではない。信者が自分は「どれだけ進歩したか」を推し量り、その進歩の度合いを世間に証明するために、信仰告白が存在するのではない。

それは一種の罠である。「自分はこれほどクリスチャンとして真面目に努力している」という、自己の正しさをアピールするために、証を書き続けることは、大きな罠である。むろん、暗闇の勢力の前では、「キリストにあっての正しさ、成長、豊かさ」を大いに誇るべきである。

だが、自分自身の進歩だけを目的に信仰生活を送るようになれば、信者は自分の告白によって罠に落ち、すっかり自己安堵してしまうであろう。

だが、信者は、どこまでも今到達している地点に満足することなく、「まだ見ぬ約束の地」を目指して、主と共に歩き続けるべきであり、その目指している目標は、他者には理解することができず、誰とも分かち合うことができない、信者自身に与えられた約束の地である。

信者はそのゴールを、神と共に親しく交わり、語らいながら、発見し、神と協力してそこを目指すのである。そのゴールは、偏差値のように、何かしら一般的な物差しではかれるものではなく、あくまで信者の個別の人生で与えられる個別の人生設計である。

人前に「進歩した」と認めてもらうために、霊的な階段をいち早く上に駆け上がっていこうとすることには全く意味がない。だが、信者は、真に神から認められるために、本当の「上昇志向」に生きるべきであり、それは人の目から隠されたところに存在する生活の中にある。 
   

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー