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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。

先の記事で、筆者は、キリストのみに捧げられた聖なる花嫁としてのエクレシアの一員として、人間を頼りとしないで、改めて主にのみ頼って生きる覚悟を固めたと書いた。

これは神が筆者の心を、予め様々な別離に準備させたものであったようにも感じられる。

昨年には、困難な戦いを戦い抜くに当たり、筆者は多くの力添えを得た。しかし、筆者の事件のために、助力してくれた人々は、そのほとんどが、今年の春までには、様々な理由により、筆者のそばを離れて行こうとしている。職務上の異動が複数、他に、信念の違いが浮き彫りとなったケースもある。信仰の違いによる別離が起きる場合には、もしかすると、この地上だけでなく、天においても、別離となる可能性が考えられないことではない。

こうして、人々が散らされて行くのを見ることには、寂しさがないとは言えないが、それでも、このような現象に対して、筆者は予め心の準備がかなり出来ていたものと思う。

昨年の一年間は、それほど大きな心の生長を筆者にもたらしてくれた。この一年間の戦いは、筆者が、一人で立つために十分かつ激しい訓練の期間となったのである。

前々から述べて来たことであるが、筆者は、支持者や、理解者の人数を誇り、肉なる腕を頼りに生きたくないと願っている。預言者エリヤがしたように、ただ神だけを頼りとして、神のみに栄光を帰するために、450人のバアルの預言者を前にしても、一人で向き合うことのできる信仰が常に必要であるものと思う。

そのようにして、神以外の何者にも頼らない自由を保つために、筆者は自分の心が、周囲にいる人々に結び付けられて離れられなくなったり、あるいは、周囲にいる人々の心が、筆者に結び付けられて離れられなくなるよりも前に、彼らが様々な理由により、筆者自身の意思とは関係なく、神の采配により、去って行かざるを得なくなることを、肯定的に受け止めている。

我々の弁護者はキリスト、御霊が私たちのための約束の保証、裁き主は、天におられる父なる神であって、私たちには世の終わりまで共におられる方が一緒であるから、肉なる腕に頼る理由がない。

そういうわけで、「あえて事を難しくする」ために、筆者はますます念入りに、祭壇に水をかけているところである。

さて、代価を払って戦いを最後まで耐え忍んだ人と、それをしなかった人との間では、この先、大きな差が生まれるのではないかと筆者は思う。その差は、最初は小さなもののように見えても、十年も経つ頃には、巨大な差になっているものと見られる。

たとえば、あなたが仮に学校を卒業したばかりの若い世代であり、友人と共に、同じ企業に就職して、入社数ヶ月で、そこがブラック企業であることが判明したとしよう。賃金の支払いは滞りがちで、残業代は支給されず、果ては雇用契約書さえ交付されず、強欲な社長は、すでに多くの社員を不当に解雇している。

あなたと同僚にも、ついに順番が回って来て、共に落ち度もないのに解雇が言い渡された。あなたたちはこの措置を、何も言わずに受け入れるであろうか。働きづめに働いた期間の給与もあきらめて、路頭に迷わされる選択肢を受け入れるだろうか。それとも、何らかの方法でこの悪しき企業に打撃をもたらし、彼らが不当にため込んだ富を吐き出させて、取り返すべきものを取り返すであろうか。

それをするかしないかによって、その後の道は分かれることであろう。だが、受けた打撃を取り返すためには、声を上げて、自分の権利を主張して、戦わなくてはならない。だが、あなたの元同僚は、狭い業界で、そのようなことをすれば、次の就職先は見つからなくなると危ぶんでいる。多分、どの企業も似たり寄ったりの状態だから、このような理不尽をも、甘んじて受け入れる心がなくては、この先、どの企業でも、やっていけないだろう、などと言っている。さて、あなたはどのような選択肢を選ぶだろうか。

筆者の考えはこうである。もし抵抗しなければ、その人は、黙って就職した次なる会社でも、前よりもさらに悪い搾取の犠牲となるだけであり、おそらく、その連鎖は、本人が抵抗して断ち切ろうとしない限り、ずっと続くことであろう。これを断ち切るためには、業界からの根本的なエクソダスが必要になるかも知れない。

奪われたものを取り返す手段は存在する。また、不当な濡れ衣も返上する方法も存在する。多くの人々を傷つけ、獲物ののようにかみ砕き、食い物にして来た要塞のような企業に、恥辱と打撃をもたらし、しかるべき償いをさせてから、これと手を切る方法は、確かに存在する。
 
だが、声を上げる際にも、注意しなければならないことがある。一方には、弱い人々を食い物にする強欲な企業があるかと思えば、その反対には、食い物にされた人々の苦しみをさらに食い物として、強欲な救済ビジネスを展開している人々がいる。ブラック企業との戦いを売り物とし、成功報酬を分捕ろうと待ち構えている長蛇の列がある。このような人々に助けを求めている限り、あなたには、戦ったとしても残るものがない。だから、自分の権利や栄光を安易に他者にかすめ取られないよう、きちんと考えてから行動することが肝心である。

さて、以上の話は、ブラック企業の話をしたいがために持ち出したのではなく、信仰の世界で起きている事柄の比喩として持ち出したものである。筆者がここで言いたいのは、神の国の権益を守るために、代価を払って勇敢に戦った人と、それをしなかった人が、同じ報いを受けることは決してないということである。

キリスト者は、ただ自分のためだけに生きているわけではない。私たちは、自分が不当な濡れ衣を着せられたから、それを晴らそうとしているのではなく、神の御言葉が曲げられ、神ご自身の栄光が傷つけられているから、これに立ち上がって応戦するのであり、私たちの信仰の証しが妨げられることにより、神の国の権益が傷つけられているから、これに断固、立ち向かい、御国の前進に貢献しようとしているのである。従って、ここには、個人の失われた利益をや名誉を取り戻すというだけには決して終わらない、もっと大きな利益というものが存在する。
 
だが、いずれにしても、御言葉に従って、神がキリストを通して私たちにお与え下さった自由の絶大な価値を知って、これを守り通し、行使することができた者と、それをしないで、自由が取り上げられることに甘んじた者との間では、地上の生涯においても、やがて大きな差が現れるだろう。
 
筆者はかつて、神の御言葉の正しさを証明し、不当な言いがかりを跳ね返すために、ある人々に訴訟を勧めたことがあった。弁護士など雇わずとも、勇気と根気があれば、訴訟はできるのだから、諦めてはならないと筆者が言ったところ、彼らは言った。

「ヴィオロンさん、それはきっとあなただからこそ、出来たことだと思いますよ。」
筆者は、眉をひそめて聞き返した。
「どういう意味ですか、それは。私が文章を書くことを得意としていたから、出来たという意味ですか。」
「いや、あなたがとても強い人だからです。」
筆者はますます眉をひそめて問い返した。
「何を言っているんですか。私は一人の弱い人間に過ぎません。それでもこうしていられるのは、私の力ではなく、神様が助けてくれているからです。でも、この私にできるならば、あなたには、私よりも、助けてくれる人たちが、もっとたくさんいて、はるかに有利な立場にあるじゃありませんか。それなのに、私にできて、あなたができないはずがありません。
でも、状況はどうあれ、もしも私たちが真に正しく、御名の栄光のためになる仕事を果たそうとするならば、神様はそのために、必要なすべての手段を与えて下さることは確かです。あなたがたが、勇気を持って、御名のために立ち上がるなら、そのために必要な時間も、費用も、何もかも天が用意して下さいます。それは主のための戦いですから、必要なものは、すべて神ご自身が用意して下さらなければなりません。」
「いやはや・・・、私たちは、あなたを雇いたいくらいですね」
「何ですって?」
筆者は耳を疑い、聞き返した。
「私に何をしたいですって?」
「いや、私たちはあなたを雇いたいくらいだと言ったんですよ」

筆者はその言葉を聞いて心の中で絶句してしまった。だが、うわべはまるで聞かなかったようにして、御国のための権益を守る戦いに参加することを、真剣に検討しておいてもらいたいとのみ提案し、話を終えた。

筆者は、神の国の権益を守るための戦いのためならば、無報酬で働くつもりであったし、せいぜい要求できるとしても、紙代とインク代程度であろうと思っていた。そもそも裕福でない信者らが、弁護士に払うような報酬を筆者に払えるはずがないし、筆者も、金さえ払われれば、誰の味方にでもなる弁護士ではない。筆者はこの世の富に仕えるために、御言葉の証しを書き続けているわけではないし、この世の富の支配下に置かれるつもりもない。

それにも関わらず、もしも誰かが、このように貴重な仕事のために、筆者に金を払うというならば、それは、筆者をはした金で雇うという意味でしかない。つまり、彼らは、はした金でもいいから、筆者に金を払って、自分たちは雇い主であるという顔をすることなしに、弱く無名な存在である筆者に、無報酬で助けられるなど、プライドが許さないと、内心では思っていたものと見られた。

まるでそれは、一人で歩行がおぼつかない病人が、自分よりももっとはるかに重症に見える患者から差し伸べられた助けの手を、こんなにも哀れな人間から同情を受けたくないと、心の中で蔑み、冷たく振り払ったような具合であった。
  
以上のような返事を聞いた時点で、筆者は、彼らには決してこの戦いに参加することは無理であろうことを悟った。多分、彼らには筆者を助けてあげているという思いはあっても、自分たちも、命がけで立ち上がらなければ、救いを保てない恐れがあるとは、考えてもいなかったのに違いない。

だが、すべては神のなさることであるから、神がこの人々を導かれるのに任せようと、筆者は彼らを説得することも、異議を唱えることもなく、少し時間を置いて待った。

数ヶ月後、もう一度、彼らに心中を問い尋ねてみると、彼らは、面倒な争い事を自分から起こすのは嫌だとはっきり返答したので、筆者はそれを聞いて、この人たちのために助力することは必要ないと、主が答えを出されたのだと、ほっと胸をなでおろした。

それはちょうどギデオンが、ミデヤン人の13万5000人の軍隊に立ち向かうために、300人の勇士たちを集めた時のことを思い出させる。

主のための戦いに勝利するためには、数さえ集まれば良いということはない。むしろ、数などなくとも、心から、その戦いのために自分を捧げることに、準備が出来ているほんのわずかな人々がいれば、いなごのような大群にも、十分に立ち向かうことができる。

暗闇の勢力との戦いを貫徹するためには、代価が必要であり、世との間で軋轢が生まれることを望まない人は、これに参加することはできない。ただ人間の利益が侵害されたというだけの理由では、主の権益を守る戦いを共に戦うことはできず、兄弟姉妹との連帯さえも成り立たないのである。

かくて、エクソダスできる人々と、そうでない人々が分かれる。紅海を渡るところまでは、共に進んで行けた多くの信者たちが、その後、荒野に入ると、そこで倒れてしまう。いや、今は、荒野で倒れるというよりも、むしろ、神が奇跡によって開いて下さった紅海を、船頭を雇ってまで逆に渡り、再びファラオの奴隷となって生きるために、エジプトへ舞い戻ってしまうと言った方が良いかもしれない。
 
そのような光景を見る度に、筆者は、愚かな花嫁のたとえを思い出さずにいられない。筆者がどんなに誰かに自由になって欲しいと願ってみたところで、自分自身で代価を払おうとしない人々に、筆者は自分の油を分けてやることはできないし、それは許されない相談なのだと痛感する。

だから、そうした人々は、自分の足りなくなった油を増し加えるために、筆者の助けなど全く借りない代わりに、安価かつ偽物の油を買うために市場に走って行き、その遅れのために、結局、花婿を出迎えることができなくなり、宴会の扉が閉められて終わってしまうのである。

このようにして、今やプロテスタント全体が、御霊の油の欠如により、御言葉の証しを公然と保つことができなくなって、敵の圧迫に屈し、沈黙に入ったのではないかと思われる。この宗派に属するほとんどすべての教会と信者が、教会が迫害されても抵抗せず、御言葉が曲げられても、抗議せず、主の御名が傷つけられているのに、ほえたける獅子の咆哮に怯え、全く立ち上がることなく、腰砕けになって、一切、戦わずして、敗北する道を選んだことは、筆者には唖然とするような出来事である。

このように、神の教会が冒涜されても、立ち上がることができないという極度に情けなく臆病な有様を見ても、筆者は、プロテスタントはもはや霊的に終焉を迎えており、今、新たな信仰回復運動が起こることが必要なのだという確信を強めないわけにいかない。
 
だが、このような状況でも、絶望など一切する必要がないと言えるのは、神はどんな状況からでも、最も先駆的で前衛的な、新鮮な御霊の息吹を持つ新たな霊的運動を起こすことがおできになるからである。今日、信者に求められているのは、プロテスタントの中でも、どの教団教派ならば、多少、マシであるかなどと考えて、教団教派の間を走り回ることではなく、あるいは、プロテスタントが駄目ならば、カトリックに戻れば良いなどと議論することでもない。

新たな革新的で先駆的な信仰回復運動の登場が待たれるのだが、これから起きる信仰回復運動は、かつてのような大規模な大衆運動とはならないであろうと筆者は予想する。それはただ万民祭司という新約の原則を忠実に実行に移すだけで良く、筆者のような、無名の信者が、一人一人、知られざる場所で、ただ御言葉なるキリストご自身だけに忠実に従い、静かに自分の十字架を負って歩みを進めさえすれば良いのだと思わずにいられない。

それは牧師のいない、宗教指導者のいない、宗教団体や組織の枠組みにとらわれることのない、神と信者との直接的で個人的な知られざる信仰の歩みである。

そこで、筆者の周りに団体が築き上げられることは、今もこの先も決してないであろうと言える。筆者が何かを成し遂げる際に、周りに集まって来た人々がいるとしても、彼らも、必ず、やがて散らされることになる。なぜなら、そこにバベルの塔のような、人間の肉なる力が結集することは、神の御心に全く反するからである。
  
改めて、金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通過するよりも難しい、という御言葉を思う。「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マタイ22:14)

筆者は、招かれただけで終わりたくはない。神の褒賞を受けるために、試練に勝利する者でありたい。そのために、自分の心が、地上の何者にもとらわれることなく、自由であって、ただ主だけに捧げられ、御心の実現だけにいつでも傾けられる状態であって欲しいと強く願う。そこで、筆者と神との間に立ちはだかって、主の栄光の妨げとなりうるようなものは、この先も、何であれ、取り去られる必要があることを認める。

人や物や目に見えるものに心を傾注しすぎることは極めて大きな危険である。そこで、 御国の権益にとって、損失とならないのであれば、筆者は、地上的なすべての別離に対し、「主が与え、主が取りたもう。主の御名は誉むべきかな。」(ヨブ1:21)と同意したいと考えている。

* * *

さて、話が少し変わるが、裁判手続きを通して、司法の世界を垣間見るようになって、筆者はそこではかりしれないほど大きな学びを得た。

誰もが知っている通り、訴状には、まず最初に、以下のような命令文で、被告に対する請求が記される。
「被告は、××××万円を支払え。」
「被告は、××××をしてはならない。」

このように書き記すことによって、原告はその通りの判決が下されることを裁判官に求める。

しかし、この世においては、ただ訴えが出されただけで、それが認められることはまずなく、通常は、幾度もの弁論手続きが重ねられ、証拠が積み上げられ、議論が尽くされてから、判決が出される。

しかし、筆者はただ原告として以上のような文面を書いてるわけではなく、キリスト者として、キリストの御名の権威を帯びた者として、このような命令文を書いている点で、そこには世人の訴えに込められた以上の重みがあると言えよう。
 
もちろん、筆者は地上においては何者でもないただの無名の市民であって、筆者の訴えが、他の人々の訴えと異なる理由などないかに見えるだろう。しかし、筆者は、信仰によって、キリストの代理として、御名の権威を持って、自らの言葉を発している。そこで、筆者の書いている命令文は、単なる文字である以上に、霊的に、はかりしれないほどに重い意味を持つものであると言えよう。

昨年が来るまで、筆者は主としてブログにおいて、信仰の証を続けて来たが、裁判手続きの場に信仰の証が持ち出されてからは、御名の権威を行使して証する作業が、より厳粛で重い意義を持つようになったと感じている。
 
こうした手続きの中で、極めて重要なことがいくつも分かった。そのうちの一つが、主に依り頼んで生きるキリスト者が、被告として訴えられるようなことは、絶対にあってはならず、また、あり得ない事態だということである。

この世には冤罪事件もあれば、スラップ訴訟もあり、誰かが被告として訴えられたからと言って、決してそのことは、その人々が何かの罪を犯した証拠を意味しない。事実無根の訴えや、不当訴訟といったものも、存在しないわけではないからだ。推定無罪の原則があり、何が事実であるのかは、審理を進めてみなければ分からない。

ところが、信仰の観点から見るならば、キリスト者が被告として訴えられることは、それだけで、深い霊的な敗北の意味を持つのである。そこには、何かしら非常に暗い運命的な意義があることを、筆者は思わないわけにはいかない。

筆者はこれまで、このささやかな信仰の証のブログのために、提訴、反訴、控訴、刑事告訴の脅しを幾度にも渡り受けたが、そうした脅し文句を聞く度に、ただちに以下の御言葉を使って、その脅しの効力を無効化し、敵の放った火矢が、筆者に届く前に、それを空中でへし折って来た。

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために
 一日中、死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。


わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39)

そういう経緯があったおかげで、聖書の御言葉には、現実に、私たち信じる者を、完全に潔白な者として神の御前に立たせ、敵のすべての言いがかりに満ちた訴えを無効化することのできる絶大な意義があることを、筆者は幾度も実地で学ばされて来たと言える。

キリストの命は、私たち信じる者を、本当に一点の罪の曇りもない、しみもしわもない、完全かつ潔白な存在として立たせることができるのである。

そこで、私たちも、自分を見るとき、主がご覧になるように自分を見なければならない。神が選ばれた民であるにも関わらず、私たちに、被告として訴えられる根拠などがどうしてあって良かろうか。

キリスト者を訴えるという行為は、その者を贖われたキリストの贖いを無効にすることを目的とする行為であって、悪魔と暗闇の勢力のみが抱く願望であると言えるが、そのようなことをする力を、暗闇の勢力はそもそも持っていない。

暗闇の勢力にできることは、せいぜい嘘を振りまいて信者を脅すことだけであり、神の下された永遠の判決を覆すような力は、彼らには付与されていない。そういうわけで、それにも関わらず、キリスト者を名乗る人間が、訴えられて法廷で被告とされることには、何かしら非常に深い、暗い霊的な意味が込められており、筆者の目から見れば、それ自体が、すでに信仰的に敗北を意味することが分かったのである。

一体、自分が有罪者として訴えられている者が、どうして100%の潔白に立って、悪魔と暗闇の勢力を全身全霊で糾弾することができようか? 

そのようなわけで、私たちは、暗闇の勢力の不当な言いがかりには、決して屈してはならないのであり、敵のあらゆる訴えを断固、はねのけて、冒頭に挙げた通り、声を限りに、容赦のない宣告を突きつけ、
  
おまえたちは、××してはならない!!
××することを禁じる!!
××せよ!!

という強い命令を、実行力のある方法で発して、彼らの口を封じなければならいのであって、それ以外の「コミュニケーション」はあり得ないのである。

ところが、ある人々は、それは暗闇の勢力に対して失礼かつ残酷すぎる措置であると考える。彼らは、暗闇の勢力と毅然と向き合って、断固、命令するどころか、かえって、おずおずと

私たちは、あなたたちに××して欲しいと願っています。
××して下さいませんか?

と、もみ手ですり寄るような、弱腰な訴えを口にして、直接交渉に及ぼうとする。

彼らはそのような”礼儀”が、暗闇の勢力に対しても必要だと信じているのである。だが、それは訴えではなく、懇願であるから、そんな言葉は、悪魔と暗闇の勢力にとって、自信を増し加える根拠にはなっても、何の脅威にもならず、痛くもかゆくもない。

彼らはそういう風に、自分たちの意思を問う人間が現れれば、喜んでいついつまでも彼らが頭を下げて自分のもとに懇願しにやって来ざるを得ない状況を作り上げるだけである。

アダムとエバの敗北は、そもそも神ご自身を抜きにして、蛇と直接、口をきいた時点から始まっていた。

そこで、今日、我々キリスト者に必要なのは、聖書の御言葉の権威に固く立って、それに基づいて、闇の勢力に対して、有無を言わさぬ命令を発することだけであって、彼らの意思など問うてはいけないし、中途半端な和解も、懇願も、してはならないのである。

ところで、裁判においては、弁論が重ねられるうちに、必ずある種のクライマックスがやって来る。つまり、どこかの時点で、論敵の嘘と詭弁に満ちた脅しが最大に達する瞬間が来る。そのときが、弁論の激しさが最高潮に達する時であり、裁判のクライマックスだと言えるが、信者は、その時、敵のもたらす恐怖に打ち勝って、敵の最大の武器をへし折ることによって、彼らの武装を解除して、彼らを無力化せねばならない。

それができるかどうかが、勝敗を分ける。つまり、裁判の決着は、判決が述べられる瞬間に初めて訪れるものではなく、むしろ、判決読み上げの瞬間が訪れるよりも前に、私たちキリスト者の中で、霊的な勝利がおさめられていなければならないのである。

そういう意味で、訴訟は一か八かの賭けであってはならず、裁判官の善良な人柄や、証拠の分量や、支援者の人数や、精緻なロジックの組み立てや、運の良さにすべてを委ねるような受け身の態度では、勝利をおさめることはできない。
 
これは裁判のみならず、日常のすべての場面に当てはまることである。キリスト者は、日常生活においても、暗闇の勢力と対峙することが必要となるが、その際、敵が持っている最も強力な武器が何であるかをよく理解し、時が来たときに、これを粉砕して無効化することで、敵の武装を解除することなくして、戦いに勝利して、次のステージへ進むことができない。
 
一つの戦いをクリアできないと、いつまでもずっと同じ問題に悩まされ、脅しつけられ、圧迫されたまま、不自由の中を生きて行くこととなる。
 
私たちキリスト者には、聖書の御言葉を武器として用いて、敵の嘘と詭弁の要塞を破壊して、彼らの武装を解除し、すべてのものをキリストの御名に従わせ、不従順を罰することが可能とされていることを忘れてはならない。

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なもののになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(Ⅰコリント10:3-6)

さて、「最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。」(Ⅰコリント15:26-27)とある通り、敵(悪魔)の最大の武器とは、死である。従って、悪魔と暗闇の勢力の最大の武器とは、死の恐怖によって、人々を脅かすことであると言えよう。

そこで、当然ながら、キリスト者が暗闇の勢力の武器を粉砕して、彼らの圧迫を打ち破り、勝利を収めるために必要なことも、死の恐怖に打ち勝つことである、と分かる。

このことは、王妃エステルが、ハマンの策略により、ユダヤ人の民が皆殺しにされるかも知れない危機にあった際、この脅しによる圧迫に立ち向かうために、自分自身も死を覚悟した上で、王の前に進み出たエピソードの中にも見て取れる。

私たちも、暗闇の勢力との戦いに勝利するためには、死をも厭わない覚悟で、自分をとことん主の御前に投げ出して、敵の脅しに徹底的に立ち向かうことが必要となるのである。

「今や、我々の神の救い力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉で、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12]10-11)
 
神に従い、御言葉を地に実際として引き下ろし、御心を成就するためには、死をも厭わない決意で、主と共なる十字架において、絶えず霊的な死を帯びて、敵の脅しを打ち破ることがどうしても必要なのであり、そうした決意を抜きにして、主に従い抜いて、敵の武装を解除して勝利をおさめることはできないのである。

そこで、私たちは、敵が最大限の脅しを用いて向かって来るときには、自分自身を完全に主と共なる十字架に同形化して、これに応戦することが必要となる。この世の訴訟においても、そのような瞬間があり、言葉や証拠の争いよりも、もっと深いところで、霊的な激しい戦いが繰り広げられる。この世に現れて来る勝敗は、この領域における霊的な勝敗に沿ったものにしかならないのである。

そこで、キリスト者は、いかなる瞬間においても、まずは御言葉によって、霊的に敵の武器を無効化し、彼らの武装を解除することなくして、自由と栄光を掴むことはできないことを知るべきである。
 
とはいえ、私たちの勝利の根拠は、私たち自身にあるのではなく、カルバリの十字架で、キリストの死と復活を通して、悪魔と暗闇の勢力に下された裁きと滅びの宣告にこそある。それが、私たちが悪魔と暗闇の勢力がもたらそうとする死の恐怖に対して、すでに完全な勝利をおさめていることのすべての根拠である。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」(ヘブライ2:14-15)

だから、私たちがなすべきことは、いかなる嘘、詭弁、脅しを受ける瞬間にも、徹底的に十字架の原則に踏みとどまって、キリストの死を、自分自身の死として受け止め、適用し続けることによって、そこにキリストの復活の命が働いて、勝利を得るまで、御言葉を武器に戦い抜くことであると言えよう。
 
私たちを死から命へと移し出す根拠は、ただカルバリにのみ存在するのであって、十字架にかかられたキリストこそ、私たちの命の源であり、私たちの勝利、栄光、自由の源なのである。

従って、私たちの平和と自由の根拠は、決してこの世との和合にあるのではない。この世との間に軋轢を生まず、強い者たちの意向に逆らわず、世に波風立てず、ご機嫌伺いをすることによって、命を保てる者は、誰一人としていない。それどころか、そのような方法では、かえって命を失うということを、聖書は一貫して教えているのだと言えよう。

従って、私たちが世に接触する時には、深入りしないための警戒が必要である。私たちを生かしているまことの命の源がどこにあるのか、片時も忘れない用心が必要となる。

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にして下さる。」(ヨハネ12:24-26)

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油を絶やさない花嫁となるために

オリーブ園より、ジェシー・ペンルイス著、カルバリの十字架とそのメッセージ第七章 十字架と聖霊

…使徒パウロを通して、私たちは彼の内住と満たしがただカルバリのみに基づくことを学びます。彼は記しています、キリストは私たちを贖って下さいました。(中略)私たちが御霊を受けるためです

「贖われた」という語は、私たちをカルバリに連れ戻します。私たちはカルバリで、「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血」(ペテロ第一の手紙1章19節)によって贖われました。それだけではありません。キリストは私たちのために呪われたものとなって、私たちが御霊を受けられるようにして下さったのです! 「キリストは、私たちのために呪われたものとなって、私たちを贖って下さいました。(木にかけられる者はすべてのろわれたものであると記されているからです)その目的は、私たちが信仰を通して約束された御霊を受けることです」(ガラテヤ人への手紙3章13、14節、C.H.)

このように、カルバリの二重のメッセージは明らかに聖霊の賜物と関係があります。キリストが私たちのために呪われたものとなったことは、私たちは呪われたものであって、私たちのために彼が木にかけられたこと、そして私たちの代表として、彼は彼と共に私たちをその木に連れて行かれたことを意味するからです。

十字架の呪いは御霊の約束と関係があります。このことは、彼が私たちのうちで自由に働くことのできる条件をも深く暗示します。なぜなら、自分自身であるものはすべて「呪われている」ことを真に理解する時だけ、私たちはカルバリのメッセージ――私たちは私たちのために死なれた方と共に十字架につけられている――を喜んで受け入れ、聖霊の完全な内住と働きのために場所をあけるからです。

十字架は御霊に導き、御霊はふたたび十字架に戻る」(マーレー)。ただキリストの死を通してのみ、人は御霊を受けることができます。そしてこのように受けた御霊によってのみ、信者はキリストの死にしっかりと結び合わされ、復活の主の内住を確かに知り、「私はキリストと共に十字架につけられた」と真に言うことができます。「キリストが私のうちに生きておられます!」(ガラテヤ人への手紙2章20節)。しかしながら、次のこともまた真実です。すなわち、十字架でキリストとさらに深く交わることによってのみ、私たちは聖霊の豊かさと力を知ることができるのです。

ガラテヤ人へのパウロの言葉もこのことを示します。というのは、パウロは彼のカルバリの宣べ伝えを彼らの間の聖霊の働きの土台として強調しており、しかも、彼らは明らかに聖霊を受けていたにもかかわらず、もっとはっきりと十字架を知る必要があったことは明白だからです。また、もし彼らがキリストと共なる彼らの死をパウロのように十分見ていたなら、昔の自己努力の段階に戻る気にはならなかったはずだからです。

ガラテヤ人は、律法を守ることに一点でも失敗した者の上にふりかかる律法の呪いガラテヤ人への手紙3章10節)を悟っていませんでした。そのため、彼らは自己信頼の終焉に至っていなかったのです。彼らは「御霊によって」始めましたが、十字架につけられた神の御子を信じる信仰に基づいて、どのように「御霊によって」生きればよいのか知りませんでしたガラテヤ人への手紙3章3節)。その信仰が最初に彼を彼らの生活の中にもたらしたのです。

今日、ガラテヤの信者に対するパウロの言葉を新たに強調する必要があります。なぜなら、神の子どもたちの多くもまた、魂の内側における聖霊の働きに関して、カルバリの十字架のいっそう明瞭な幻を必要としているからです。また、聖霊はカルバリだけに基づいて働かれるからです。贖われた者たちに対するキリストの死の意義をどの程度理解するかが、個々の信者がどの程度聖霊で満たされるかを決めます

十字架は御霊に導きます! キリストの贖いの御業により、明け渡された心はみな聖霊を受けることができます。そして受け手の明け渡しに応えて、彼は「信仰によって(その)心を清め」、満たして下さいます(使徒の働き15章9節)

御霊は十字架に導きます! このことは主キリストの生涯にはっきりと示されています。彼がヨルダン川でバプテスマを受けた時――彼が(型としての)死の水の中に入り、罪人と同一視されることを選んだ時――、天が開けて、聖霊が彼の上に臨みましたマタイによる福音書3章13~17節)。しかし、これは実際のカルバリではありませんでした。

彼が御顔をまっすぐエルサレムに向けて進みルカによる福音書9章51節)、カルバリで実際の死の杯を飲むことができるようにされたのは、ヨルダン川で彼の上に臨んだ永遠の霊によって」(ヘブル人への手紙9章14節)でした。十字架の後、彼は神の霊によって生かされ、死人の中から復活させられました。そして御父の右で、共に立つ者にまして油を注がれました詩篇45篇7節、ヘブル人への手紙1章9節)

彼の足跡に従う人たちもみなこのようです。神への明け渡しと、ヨルダン川によって予表される十字架の受け入れを通して、聖霊は心の砦を占領し、信者を真の 十字架の交わりに導かれます。聖霊は、内側から外側へ、中心から周辺へ向かって継続的に御業を進め、生活の新たな領域を取り扱い、新たな必要を示してそれ を満たす十字架の様々な面を次々と啓示されます。この聖霊の働きは、古いいのちから分離する力であるキリストの死を適用することと、復活のキリストのいのちを分け与えて新創造コリント人への第二の手紙4章13節)を建て上げることによります。

信者は、最初に御霊を受けた時、御霊で「満たされた」と言えるでしょう。ただし、信者はその時の容量内で満たされたにすぎません。その容量は小さいかもしれません。御霊は十字架に導いて容量を拡げ、聖霊の大いなる豊かさを真に知らせて下さいます。しかし、信者がこれを理解しないなら、その容量は小さいままでしょう。

聖霊のすべての取り扱いに「はい」と喜んで即答して彼に協力する時、聖霊はその信仰者を信仰から信仰へ導かれます。この聖霊の働きは、主が天から現われる時、信者の卑しい体が変容されて主の栄光の体のようにされる時コリント人への第一の手紙15章43節)まで続きます。あるいは、肉体の死が贖われた人に対する神の御旨の場合、聖霊はキリストの豊かないのちを与えられるので、彼は「死を見る」ことなく眠りに落ちて、「いつまでも主と共に」いるようになります。今や、死ぬべきものはいのちにのまれています。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は私たちに御霊の保証を下さいました」( コリント人への第二の手紙5章4、5節 )

神の満ち満ちたさまにまで満たされる

どうか父が、あなたがたの内なる人に彼の霊を与えて、あなたがたに力を与えて下さいますように。こうして、信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストが住んで下さいますように。(中略)キリストの愛を知ることができますように。こうして、神の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3章17~20節、C.H.)

この御言葉は、信者の中の聖霊の働きの目的を簡潔に要約しています。パウロはエペソ人のために、彼らが御霊によって力をもって強められ、信仰によって彼らの心のうちに「キリストが住んで下さいますように」と祈ります。御父の永遠の霊は贖われた者たちを満たします。それは特に、御子の内住を啓示するという目的のためです。キリストが内側に完全に形造られるガラテヤ人への手紙4章19節)のに必要な条件を満たすため、彼は信者を強めます。私たちはすでに、その条件がガラテヤ人へのパウロの手紙の中で説明されているのを見ました。「私はキリストとともに十字架につけられました――キリストが私のうちに生きておられるのです」

贖われた人の側の信仰が、ふたたびここで述べられています。信仰はその対象を離れては存在しません。信仰は、単純に神の御言葉に信頼すること、神ご自身が彼の御言葉の背後におられると信じることです! 「信仰は聞くことから始まり」(ローマ人への手紙10章17節)、彼が神の御言葉を魂に語られる時、神ご自身の霊により、受け入れる心の中に呼び起こされます。「彼をよみがえらせた神によってあなたがたの中にもたらされた信仰を通して、あなたがたは彼の復活にあずかる者とされたのです」(コロサイ人への手紙2章12節、C.H. )とパウロはコロサイ人に書きました。

ですから私たちは、私たちのすべての必要を満たして下さる聖霊に信頼しましょう。聖霊は信仰さえも与えて下さいますその信仰により、私たちは彼に協力し、主キリストが私たちのために十字架上の死によって達成して下さったものをすべて所有します

不信仰は主によって罪として示されています。それにもかかわらず、不信仰はしばしば、その力の下にあるあわれな魂が負うべき「欠点」として嘆き悲しまれます。しかし、私たちは不信仰をとして扱わなければなりません。不信仰をとして神に告白しなさい不信仰をとして放棄しなさいキリストの死を通していかなる既知の罪からも解放されるのですから、不信仰からの解放をも期待しなさい

もう一度、カルバリを見つめましょう。私たちはキリストと共に十字架につけられています。ですから、生ける方である彼に信頼しましょう。彼は私たちに信仰の霊」(コリント人への第二の手紙4章13節)与えて下さいます。そして「信じよう」ともがくのをやめて、彼の御言葉に信頼し、その上に横たわりましょう。そうするなら、幼な子のような信頼に満ちた確信を与えられ、御子が御父によって生きたように、神の御子の信仰によって生きることを教えられるでしょう。

キリストがこのように内に啓示される時、神の霊は信者をさらに導かれます。信者はすべての聖徒とともに、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解できるように強められますエペソ人への手紙3章18節)あの愛はカルバリの彼の死において最高度に現わされました

「理解できるように強められる!」。神の力が必要です。なぜなら、その理解は彼の苦難にあずかることによってのみ生じるからです。人の悲しみを心で理解するだけでは、同じ道を歩むことから生じる交わりを産み出しません主は弟子たちにあなたがたは私の飲む杯を飲むであろうと言われましたマルコによる福音書10章39節)

しかし、キリストをカルバリへ導いた愛を多少理解できるように強め」られることがすべてではありません。使徒は「あなたがたが満たされますようにと記しています。パウロよ、どのくらいでしょうか? 神の満ち満ちたさまにまでです!

しかし、おお、忠実な十字架の使徒よ、これは私たちの理解力を越えています。その通りです。しかし、「彼は、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて、はるかに豊かに施すことのできる方」です。なぜなら、ここに人の観念が入り込む余地はないからです! 私たちのうちに働く力によって」(エペソ人への手紙3章20節 )、私たちはキリストの愛で満たされることができます
私たちは満たしに満たされて、神の満ち満ちたさまにまで満たされます。そうして、「水かさは増し、泳げるほど」(エゼキエル書47章5節)になります!
* * * * * * * * * *
以上の言葉を読んだ人の中には、「ああ、このさいわいな生活を自分も送れたら!」と心の中で叫んでいる方がいるかもしれません。神の子どもよ、もしあなたが、神の霊の内なる働きに信頼せずに、カルバリの解放を実現しようと空しく努力しているのなら、あなたの全存在を彼に開いて、彼の御手に自分を委ねなさい彼は、あなたを十字架につけられた方にしっかりと結び合わせ、あなたの内に生ける主を啓示して下さいますこの方に明け渡しなさい

あなたはどんな代価を払っても、喜んで絶対的に彼に服従されるでしょうか? あなたの人生の通行権をまったく彼に渡されるでしょうか? 今、信仰の知らせ(ガラテヤ人への手紙3章2節)のための用意はできているでしょうか? そうならば、もう一度カルバリへ向かいなさい。死なれた方を仰ぎ見る時、「私はキリストと共に死んだ」と書いてある神の御言葉を思い切って信じなさい。そうすれば、奥義である神の知恵(コロサイ人への手紙1章27節、2章3節、コリント人への第一の手紙1章30節)永遠の霊(ヘブル人への手紙9章14節)によってあなたに啓示されます。

「しかし、御霊の油塗りとは何でしょう?」

あなたは王の奉仕の中におられるでしょうか? 聖霊があなたの内にキリストを啓示される時、あなたの主があなたの内に住んでおられることだけでなく、あなたがキリストのからだの一員であることもコリント人への第一の手紙12章27節)、あなたは理解するでしょう

あなたがそのからだの中であなたのいるべき所にもたらされる時、彼のともがらにましてキリストを油塗った聖なる油は、あなたの上を、あなたを通して流れ、神のみこころのあらゆる奉仕のためにあなたを油塗り、彼の衣の裾にまで流れ下ります詩篇45篇7節、133篇2節、ヘブル人への手紙1章9節)

あなたが自分を彼のみこころに明け渡す時、キリストご自身があなたを通して聖霊によって力強く働かれます。しかし、このことを覚えていて下さい。「賜物にはいろいろな種類がありますが、御霊は同じ御霊です」。「働きにはいろいろな種類がありますが、神はすべての中ですべての働きをなさる同じ神です」。「同一の御霊がすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです」(コリント人への第一の手紙12章4~11節参照)

神の御子は彼のともがらにまして喜びの油を注がれました。なぜなら、彼は「義を愛し、不正を憎んだ」からです(ヘブル人への手紙1章9節)キリストも同じように、罪に対する深い憎しみと神の義から出たすべてのものに対する愛を、あなたのうちに送られますあなたはあなたの主を、愛なる神としてだけでなく、恐るべき聖なる神としても愛するでしょうあなたは、あなたのうちにある主にふさわしくないすべてのものに対する主の厳格さを切望し、主の聖さにあずかる者となるために喜んで懲らしめを受けるでしょうそうしてあなたは、あなたの主といっそう親密な絆で結ばれ、彼の油塗りにあずかる者となるでしょう彼の御国の杖は「公正な」杖、「厳格な」杖です(ヘブル人への手紙1章8節、欽定訳欄外)

聖霊に明け渡したことを覚えつつ、今一歩一歩御霊によって歩みなさい彼だけにより頼み、彼のみこころと喜びだけを求めなさいそうするなら、彼はあなたを導き続け、どのようにあなたの主の中に住むのかを教えて下さいますあなたは彼の奥義的からだの中で、あなたのいるべき所に調整されます。そしてあなたは知るでしょう、「彼から受けた油塗りがあなたがたのうちにとどまっています。(中略)同じ油塗りがすべてのことについてあなたがたを教えます。それは真理であって、偽りではありません。それがあなたがたに教えたとおりに、あなたがたは彼のうちにとどまるのです」(ヨハネ第一の手紙2章27節、欽定訳)

杯が溢れた分だけ

不思議なことに、今、私は、かつて置き去りにして打ち捨てて来たはずの教会生活へ、再び、導かれている。それはかつての教会生活と同じものではなく、神の命の中での御身体の一致である。


御身体の一致の中で、クリスチャンの命が豊かな供給を受けられることを、主は私に確認させて下さっている。ただ神の御前の単独者として生きるだけでは十分 でない。御身体の一致の中で整えられ、栄養を補給され、訓練されることが、私にはどれほど必要であるか。誰からも何の強制もされない、思いのままに振舞え る信仰生活は、気楽であるかも知れないが、その生活は、御身体の一部として霊の建造物に立て上げられ、神の命の「一つ」の中で生かされるためには、まった く不十分である。

御言葉なる主イエスご自身から、私たちは朽ちない命のパンの供給を受けられると同時に、その命を、御身体全体を通して共有することができる。キリストの裂 かれた身体としての兄弟姉妹と、神の同じ命を共有することから得られる恵みを、きっと私はまだ少ししか知らないのだろう。

最近、とても感謝なことに、主が私をとても細やかに面倒をみて下さっていることを、至る所で、感じさせられている。まるでお気に入りの花を育てている人 が、毎日、鉢植えのそばにやってきては、その成長を見て喜び、枯れた葉や、害虫を丹念に取り除き、やがて花開く時を待ち焦がれながら、その世話に喜びを見 出すように、主は日々、私を整え、飾って下さり、そして、ご自分で飾られた私の姿を見て、喜んで下さる。

だが、恵みを受けると同時に、ある誘惑が私にやってきた。主からの恵みを受ければ受けるほど、それを人に分かち与えたい衝動に私は駆られたのである。私の 心の内に蒔かれた愛が、他人にも同じ恵みを受け取ってほしいと主張せずにいられなかった。だが、もしこのことについて、兄弟姉妹からの忠告を受けることな く、自分ひとりで何かをしようとしていたならば、私はきっと大きな危険の中に落ち込んでいただろう。

クリスチャンがひとたび神の愛で満たされ、主からの絶え間ない恵みの中で生きはじめ、貧しい者たち、弱い者たち、困っている者たちに主の愛を示したいと強 く願いはじめるならば、危険がすぐさま彼を待ち受けている。かつて孤独のうちに閉じこもっていた間には、発生しなかった危険が、新たに発生する。それは、 私たちが、神の愛によってではなく、自分自身から出てくる、十字架の死を経ていない、魂の愛によって、弱者を愛し、自らの力で相手を救済しようとして、卑 しめられ、傷ついた相手に同形化し、自分を犠牲にすることによって、偽りの愛による、破滅へ至る関わりへと落ち込んでいく危険性である。

新約聖書には、賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえ話がある。10人のうち5人の乙女は、花婿なる主の来られる時に備えて十分な油を用意していなかった。だが、 油を用意していた他の5人の花嫁も、彼女らに自分の油を分けてやることはできなかった。油(聖霊)は、人がただ神ご自身のみから直接いただくことができる ものであり、決して、人から人へと分け与えることのできるものではない。

古い皮袋を使って新しい皮袋につぎあてすることはできない。そんなことをしようとするならば、皮袋は引き裂かれ、ぶどう酒も、袋も、台無しになってしまう。

だが、私たちはそのことを忘れがちである。私たちは、主によって、物乞いの衣装を捨てて、尊い王族の衣装を着せてもらった。ところが、私たちは時に、魂か ら出てくる同情や、強い憐れみや、愛の思いから、主が自分に与えて下さった聖なる衣装を引き裂いてでも、それを貧しい人たちに分け与え、自分の手で卑しめ られた人々を引き上げ、王族の衣装を着せてやりたいという誤った願いを持つことがある。

しかし、卑しめられ、貶められたラザロに王族の衣装を着せてやれるのは、主ただお一人である。どんなに私たちが弱い者たちを憐れんでも、私たちには彼らを 泥の中から引き上げることはできない。神の愛は、人間による救済とは無縁である。にも関わらず、それを忘れて、私たちが彼らのために自分を投げ出し、自分 を犠牲に捧げて彼らに同形化することによって、救済しようと試みるならば、そのような魂の愛は、私たちの人生を狂わせ、自分をも相手をも滅ぼし、主がお与 え下さった恵みの全てを台無しにする関わりへと至るだろう。

ある姉妹が私にこのような内容の忠告をして下さった。

「あなたは誰かを愛すれば、一途に愛するタイプの人かも知れません。けれども、たとえどんな人であろうとも、どれだけ相手を愛したとしても、この先、あな たは決して、自分の杯が空になるまで、その人に自分を注ぎだしてはなりません。ただ、杯があふれた分だけ、あなたの愛を与えなさい。

自分のすべてを捨て去ってでも、相手に同形化しようとすることが、真の愛なのであはりません。傷つき、卑しめられた人々に同情するあまり、彼らと同じさまにまで落ちぶれ、同じ苦しみを担うことで、相手を救おうと思ってはなりません。

卑しめられた人と同じさまにまで卑しめられた姿になることにより、人に愛をお示しになられた方は、ただお一人なのです。もしもあなたが、自分を犠牲にする ことにより、自分の手によって誰かを救おうと思うなら、必ず、それは痛ましい失敗に終わります。もし今度失敗すれば、あなたはもう立ち直れないかもしれま せん。全てを与えつくして裏切られ、全てを失った時、残りの人生を、あなたは世捨て人以下の状態ですごさなければならなくなるかも知れません。だから、主 があなたの杯を満たして下さり、杯があふれた分だけ、人に分け与えなさい。自分の杯が空っぽになるまで、相手のために自分の全てを注ぎだしてはいけませ ん」

そんなことがあって、私はここ最近に起こった自分の大きな誤りの原因が、何であったかを、ようやく悟った。高度な教えや、兄弟姉妹の見える交わりに満足を 見出しすぎたことが、私が主の臨在から離れてしまった原因であると思っていた。だが、私が神の霊なる命の中から、偽りの命へと誘い出されたその最初のきっ かけは、私の強い憐憫の情にあったのである。

苦しい状況にあったクリスチャンの知人を憐れむあまり、私はその人の苦しみを何とかして共に担えないだろうかと願った。やがて、それはいつの間にか、その 人に自分を同形化しようとする願いになった。そして、私はその人の持っていた全ての教えと考えを自分に吸収し、その人と同じ理解に達し、その人と同じさま になろうとしたのである。いつの間にか、キリストに同形化するのでなく、人に同形化することを、私は考えるようになった。そしてその交わりは、裏切りと失 望に終わってしまった。

十字架の死を経ていない愛、魂からの愛は、人を決して生かすことはない。傷ついた者を真に包んでやれるのは主の愛だけである。与えても、与えても尽きない のはただ神の愛だけであり、私たち人間の魂から出てくる愛は、代償なしには続かないのである。十字架なしの、魂の愛による関わりは、相手の弱さを憐れんで やるようにみせかけて、かえって弱さを助長する。この偽りの愛による関係は、相手を救うように見せかけて、相手を支配しようとする。それはやがて互いに全 てを求め合って満足せず、互いにしがみつき、互いに食い合い、全力で相手を所有し、支配しようとする腐りきった関わりの正体を表す。自分を与えつくして裏 切られ、踏みにじられ、引き裂かれ魂には、ただ終わらない痛みと、叫びと、恨みと、憎しみと、絶望が残るきりである。

私たちは他人を愛するときに、相手と同じさまとなり、同じ苦しみを担い、同じように低められることを願うかも知れない。しかし、私たちが真に同形化してよ い相手は、キリストだけである。私たちはすでに神にのみ捧げられた聖なる神殿であり、私たちの所有者は神である。私たちはキリスト以外の何者にも自分を捧 げる余地は残されていない。

神の愛と魂の愛とは異なる。神の愛は時に、人間から見ると、とても厳しいものに思われる瞬間がある。人の愛は、人間が本当の限界点に達して神を求めようと する前に、相手を自力で救済してしまおうとする。しかし、父なる神は、放蕩息子が自らの力の限界にいたりついて、自分の足で父の許へ戻ってくるまで、じっ と彼を待ち続けた。彼に助けの手を差し伸べなかった。そのようにして彼を待ち続けることは、父にとっては、きっと、とても苦しいことであったに違いない。

私たちの魂の愛は、愛する対象が苦しむことを願わない。私たちの目は、愛する人の苦しみを見ることに耐えられない。愛する人が傷つく前に、自分の全てを やってでも、その苦しみから助け出してやりたいと思う。しかし、それは一見、相手のためであるように見えて、真の救済とは程遠いものである。そこにあるの は、本当は、私たち自身が苦しみたくないという願望である。父なる神のご計画は、私たちのそのような限界に満ちた思いをはるかに超えて高い。

神は、私たちが魂の愛を十字架で死に渡す時、この偽りの愛によってではなく、尽きることのない神の愛によって、人を愛することを可能にして下さる。ただ し、神の愛によって人を愛するためには、私たち自身が、いつも、神の臨在の中にとどまり、神の愛に満たされ続けていなければならない。私たちは、自分の水 貯めを手放して、空になるまで人にやってしまってはいけない。自分の油を最後まで人に分け与えてはいけない。主がお与え下さった新しい皮袋を、古い皮袋に つぎあてしてはいけない。神の新しい命を、古き命と混ぜ合わせ、自分がいただいた子羊の血によって清められた王族の衣装を引き裂いて、他人に着せてやろう としてはいけない。

私たちは自分が主から与えられた恵みを大切にし、全ての良きものの供給者は、私たちではなく、ただ神お一人であることを忘れないようにしたい。私たち自身 が、絶えず全ての全てであられるキリストのうちにとどまり、人間関係も、魂の愛も、日々、十字架の死へと渡し、主からの命の供給を絶えず受けて、喜びのう ちに生かされて初めて、私たちは尽きることのない神の愛を隣人にも示し、主の愛によって、他人を愛することができる。キリストの愛のうちにとどまりたい。
 

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