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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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油を絶やさない花嫁となるために

オリーブ園より、ジェシー・ペンルイス著、カルバリの十字架とそのメッセージ第七章 十字架と聖霊

…使徒パウロを通して、私たちは彼の内住と満たしがただカルバリのみに基づくことを学びます。彼は記しています、キリストは私たちを贖って下さいました。(中略)私たちが御霊を受けるためです

「贖われた」という語は、私たちをカルバリに連れ戻します。私たちはカルバリで、「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血」(ペテロ第一の手紙1章19節)によって贖われました。それだけではありません。キリストは私たちのために呪われたものとなって、私たちが御霊を受けられるようにして下さったのです! 「キリストは、私たちのために呪われたものとなって、私たちを贖って下さいました。(木にかけられる者はすべてのろわれたものであると記されているからです)その目的は、私たちが信仰を通して約束された御霊を受けることです」(ガラテヤ人への手紙3章13、14節、C.H.)

このように、カルバリの二重のメッセージは明らかに聖霊の賜物と関係があります。キリストが私たちのために呪われたものとなったことは、私たちは呪われたものであって、私たちのために彼が木にかけられたこと、そして私たちの代表として、彼は彼と共に私たちをその木に連れて行かれたことを意味するからです。

十字架の呪いは御霊の約束と関係があります。このことは、彼が私たちのうちで自由に働くことのできる条件をも深く暗示します。なぜなら、自分自身であるものはすべて「呪われている」ことを真に理解する時だけ、私たちはカルバリのメッセージ――私たちは私たちのために死なれた方と共に十字架につけられている――を喜んで受け入れ、聖霊の完全な内住と働きのために場所をあけるからです。

十字架は御霊に導き、御霊はふたたび十字架に戻る」(マーレー)。ただキリストの死を通してのみ、人は御霊を受けることができます。そしてこのように受けた御霊によってのみ、信者はキリストの死にしっかりと結び合わされ、復活の主の内住を確かに知り、「私はキリストと共に十字架につけられた」と真に言うことができます。「キリストが私のうちに生きておられます!」(ガラテヤ人への手紙2章20節)。しかしながら、次のこともまた真実です。すなわち、十字架でキリストとさらに深く交わることによってのみ、私たちは聖霊の豊かさと力を知ることができるのです。

ガラテヤ人へのパウロの言葉もこのことを示します。というのは、パウロは彼のカルバリの宣べ伝えを彼らの間の聖霊の働きの土台として強調しており、しかも、彼らは明らかに聖霊を受けていたにもかかわらず、もっとはっきりと十字架を知る必要があったことは明白だからです。また、もし彼らがキリストと共なる彼らの死をパウロのように十分見ていたなら、昔の自己努力の段階に戻る気にはならなかったはずだからです。

ガラテヤ人は、律法を守ることに一点でも失敗した者の上にふりかかる律法の呪いガラテヤ人への手紙3章10節)を悟っていませんでした。そのため、彼らは自己信頼の終焉に至っていなかったのです。彼らは「御霊によって」始めましたが、十字架につけられた神の御子を信じる信仰に基づいて、どのように「御霊によって」生きればよいのか知りませんでしたガラテヤ人への手紙3章3節)。その信仰が最初に彼を彼らの生活の中にもたらしたのです。

今日、ガラテヤの信者に対するパウロの言葉を新たに強調する必要があります。なぜなら、神の子どもたちの多くもまた、魂の内側における聖霊の働きに関して、カルバリの十字架のいっそう明瞭な幻を必要としているからです。また、聖霊はカルバリだけに基づいて働かれるからです。贖われた者たちに対するキリストの死の意義をどの程度理解するかが、個々の信者がどの程度聖霊で満たされるかを決めます

十字架は御霊に導きます! キリストの贖いの御業により、明け渡された心はみな聖霊を受けることができます。そして受け手の明け渡しに応えて、彼は「信仰によって(その)心を清め」、満たして下さいます(使徒の働き15章9節)

御霊は十字架に導きます! このことは主キリストの生涯にはっきりと示されています。彼がヨルダン川でバプテスマを受けた時――彼が(型としての)死の水の中に入り、罪人と同一視されることを選んだ時――、天が開けて、聖霊が彼の上に臨みましたマタイによる福音書3章13~17節)。しかし、これは実際のカルバリではありませんでした。

彼が御顔をまっすぐエルサレムに向けて進みルカによる福音書9章51節)、カルバリで実際の死の杯を飲むことができるようにされたのは、ヨルダン川で彼の上に臨んだ永遠の霊によって」(ヘブル人への手紙9章14節)でした。十字架の後、彼は神の霊によって生かされ、死人の中から復活させられました。そして御父の右で、共に立つ者にまして油を注がれました詩篇45篇7節、ヘブル人への手紙1章9節)

彼の足跡に従う人たちもみなこのようです。神への明け渡しと、ヨルダン川によって予表される十字架の受け入れを通して、聖霊は心の砦を占領し、信者を真の 十字架の交わりに導かれます。聖霊は、内側から外側へ、中心から周辺へ向かって継続的に御業を進め、生活の新たな領域を取り扱い、新たな必要を示してそれ を満たす十字架の様々な面を次々と啓示されます。この聖霊の働きは、古いいのちから分離する力であるキリストの死を適用することと、復活のキリストのいのちを分け与えて新創造コリント人への第二の手紙4章13節)を建て上げることによります。

信者は、最初に御霊を受けた時、御霊で「満たされた」と言えるでしょう。ただし、信者はその時の容量内で満たされたにすぎません。その容量は小さいかもしれません。御霊は十字架に導いて容量を拡げ、聖霊の大いなる豊かさを真に知らせて下さいます。しかし、信者がこれを理解しないなら、その容量は小さいままでしょう。

聖霊のすべての取り扱いに「はい」と喜んで即答して彼に協力する時、聖霊はその信仰者を信仰から信仰へ導かれます。この聖霊の働きは、主が天から現われる時、信者の卑しい体が変容されて主の栄光の体のようにされる時コリント人への第一の手紙15章43節)まで続きます。あるいは、肉体の死が贖われた人に対する神の御旨の場合、聖霊はキリストの豊かないのちを与えられるので、彼は「死を見る」ことなく眠りに落ちて、「いつまでも主と共に」いるようになります。今や、死ぬべきものはいのちにのまれています。私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は私たちに御霊の保証を下さいました」( コリント人への第二の手紙5章4、5節 )

神の満ち満ちたさまにまで満たされる

どうか父が、あなたがたの内なる人に彼の霊を与えて、あなたがたに力を与えて下さいますように。こうして、信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストが住んで下さいますように。(中略)キリストの愛を知ることができますように。こうして、神の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3章17~20節、C.H.)

この御言葉は、信者の中の聖霊の働きの目的を簡潔に要約しています。パウロはエペソ人のために、彼らが御霊によって力をもって強められ、信仰によって彼らの心のうちに「キリストが住んで下さいますように」と祈ります。御父の永遠の霊は贖われた者たちを満たします。それは特に、御子の内住を啓示するという目的のためです。キリストが内側に完全に形造られるガラテヤ人への手紙4章19節)のに必要な条件を満たすため、彼は信者を強めます。私たちはすでに、その条件がガラテヤ人へのパウロの手紙の中で説明されているのを見ました。「私はキリストとともに十字架につけられました――キリストが私のうちに生きておられるのです」

贖われた人の側の信仰が、ふたたびここで述べられています。信仰はその対象を離れては存在しません。信仰は、単純に神の御言葉に信頼すること、神ご自身が彼の御言葉の背後におられると信じることです! 「信仰は聞くことから始まり」(ローマ人への手紙10章17節)、彼が神の御言葉を魂に語られる時、神ご自身の霊により、受け入れる心の中に呼び起こされます。「彼をよみがえらせた神によってあなたがたの中にもたらされた信仰を通して、あなたがたは彼の復活にあずかる者とされたのです」(コロサイ人への手紙2章12節、C.H. )とパウロはコロサイ人に書きました。

ですから私たちは、私たちのすべての必要を満たして下さる聖霊に信頼しましょう。聖霊は信仰さえも与えて下さいますその信仰により、私たちは彼に協力し、主キリストが私たちのために十字架上の死によって達成して下さったものをすべて所有します

不信仰は主によって罪として示されています。それにもかかわらず、不信仰はしばしば、その力の下にあるあわれな魂が負うべき「欠点」として嘆き悲しまれます。しかし、私たちは不信仰をとして扱わなければなりません。不信仰をとして神に告白しなさい不信仰をとして放棄しなさいキリストの死を通していかなる既知の罪からも解放されるのですから、不信仰からの解放をも期待しなさい

もう一度、カルバリを見つめましょう。私たちはキリストと共に十字架につけられています。ですから、生ける方である彼に信頼しましょう。彼は私たちに信仰の霊」(コリント人への第二の手紙4章13節)与えて下さいます。そして「信じよう」ともがくのをやめて、彼の御言葉に信頼し、その上に横たわりましょう。そうするなら、幼な子のような信頼に満ちた確信を与えられ、御子が御父によって生きたように、神の御子の信仰によって生きることを教えられるでしょう。

キリストがこのように内に啓示される時、神の霊は信者をさらに導かれます。信者はすべての聖徒とともに、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解できるように強められますエペソ人への手紙3章18節)あの愛はカルバリの彼の死において最高度に現わされました

「理解できるように強められる!」。神の力が必要です。なぜなら、その理解は彼の苦難にあずかることによってのみ生じるからです。人の悲しみを心で理解するだけでは、同じ道を歩むことから生じる交わりを産み出しません主は弟子たちにあなたがたは私の飲む杯を飲むであろうと言われましたマルコによる福音書10章39節)

しかし、キリストをカルバリへ導いた愛を多少理解できるように強め」られることがすべてではありません。使徒は「あなたがたが満たされますようにと記しています。パウロよ、どのくらいでしょうか? 神の満ち満ちたさまにまでです!

しかし、おお、忠実な十字架の使徒よ、これは私たちの理解力を越えています。その通りです。しかし、「彼は、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて、はるかに豊かに施すことのできる方」です。なぜなら、ここに人の観念が入り込む余地はないからです! 私たちのうちに働く力によって」(エペソ人への手紙3章20節 )、私たちはキリストの愛で満たされることができます
私たちは満たしに満たされて、神の満ち満ちたさまにまで満たされます。そうして、「水かさは増し、泳げるほど」(エゼキエル書47章5節)になります!
* * * * * * * * * *
以上の言葉を読んだ人の中には、「ああ、このさいわいな生活を自分も送れたら!」と心の中で叫んでいる方がいるかもしれません。神の子どもよ、もしあなたが、神の霊の内なる働きに信頼せずに、カルバリの解放を実現しようと空しく努力しているのなら、あなたの全存在を彼に開いて、彼の御手に自分を委ねなさい彼は、あなたを十字架につけられた方にしっかりと結び合わせ、あなたの内に生ける主を啓示して下さいますこの方に明け渡しなさい

あなたはどんな代価を払っても、喜んで絶対的に彼に服従されるでしょうか? あなたの人生の通行権をまったく彼に渡されるでしょうか? 今、信仰の知らせ(ガラテヤ人への手紙3章2節)のための用意はできているでしょうか? そうならば、もう一度カルバリへ向かいなさい。死なれた方を仰ぎ見る時、「私はキリストと共に死んだ」と書いてある神の御言葉を思い切って信じなさい。そうすれば、奥義である神の知恵(コロサイ人への手紙1章27節、2章3節、コリント人への第一の手紙1章30節)永遠の霊(ヘブル人への手紙9章14節)によってあなたに啓示されます。

「しかし、御霊の油塗りとは何でしょう?」

あなたは王の奉仕の中におられるでしょうか? 聖霊があなたの内にキリストを啓示される時、あなたの主があなたの内に住んでおられることだけでなく、あなたがキリストのからだの一員であることもコリント人への第一の手紙12章27節)、あなたは理解するでしょう

あなたがそのからだの中であなたのいるべき所にもたらされる時、彼のともがらにましてキリストを油塗った聖なる油は、あなたの上を、あなたを通して流れ、神のみこころのあらゆる奉仕のためにあなたを油塗り、彼の衣の裾にまで流れ下ります詩篇45篇7節、133篇2節、ヘブル人への手紙1章9節)

あなたが自分を彼のみこころに明け渡す時、キリストご自身があなたを通して聖霊によって力強く働かれます。しかし、このことを覚えていて下さい。「賜物にはいろいろな種類がありますが、御霊は同じ御霊です」。「働きにはいろいろな種類がありますが、神はすべての中ですべての働きをなさる同じ神です」。「同一の御霊がすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです」(コリント人への第一の手紙12章4~11節参照)

神の御子は彼のともがらにまして喜びの油を注がれました。なぜなら、彼は「義を愛し、不正を憎んだ」からです(ヘブル人への手紙1章9節)キリストも同じように、罪に対する深い憎しみと神の義から出たすべてのものに対する愛を、あなたのうちに送られますあなたはあなたの主を、愛なる神としてだけでなく、恐るべき聖なる神としても愛するでしょうあなたは、あなたのうちにある主にふさわしくないすべてのものに対する主の厳格さを切望し、主の聖さにあずかる者となるために喜んで懲らしめを受けるでしょうそうしてあなたは、あなたの主といっそう親密な絆で結ばれ、彼の油塗りにあずかる者となるでしょう彼の御国の杖は「公正な」杖、「厳格な」杖です(ヘブル人への手紙1章8節、欽定訳欄外)

聖霊に明け渡したことを覚えつつ、今一歩一歩御霊によって歩みなさい彼だけにより頼み、彼のみこころと喜びだけを求めなさいそうするなら、彼はあなたを導き続け、どのようにあなたの主の中に住むのかを教えて下さいますあなたは彼の奥義的からだの中で、あなたのいるべき所に調整されます。そしてあなたは知るでしょう、「彼から受けた油塗りがあなたがたのうちにとどまっています。(中略)同じ油塗りがすべてのことについてあなたがたを教えます。それは真理であって、偽りではありません。それがあなたがたに教えたとおりに、あなたがたは彼のうちにとどまるのです」(ヨハネ第一の手紙2章27節、欽定訳)
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杯が溢れた分だけ

不思議なことに、今、私は、かつて置き去りにして打ち捨てて来たはずの教会生活へ、再び、導かれている。それはかつての教会生活と同じものではなく、神の命の中での御身体の一致である。


御身体の一致の中で、クリスチャンの命が豊かな供給を受けられることを、主は私に確認させて下さっている。ただ神の御前の単独者として生きるだけでは十分 でない。御身体の一致の中で整えられ、栄養を補給され、訓練されることが、私にはどれほど必要であるか。誰からも何の強制もされない、思いのままに振舞え る信仰生活は、気楽であるかも知れないが、その生活は、御身体の一部として霊の建造物に立て上げられ、神の命の「一つ」の中で生かされるためには、まった く不十分である。

御言葉なる主イエスご自身から、私たちは朽ちない命のパンの供給を受けられると同時に、その命を、御身体全体を通して共有することができる。キリストの裂 かれた身体としての兄弟姉妹と、神の同じ命を共有することから得られる恵みを、きっと私はまだ少ししか知らないのだろう。

最近、とても感謝なことに、主が私をとても細やかに面倒をみて下さっていることを、至る所で、感じさせられている。まるでお気に入りの花を育てている人 が、毎日、鉢植えのそばにやってきては、その成長を見て喜び、枯れた葉や、害虫を丹念に取り除き、やがて花開く時を待ち焦がれながら、その世話に喜びを見 出すように、主は日々、私を整え、飾って下さり、そして、ご自分で飾られた私の姿を見て、喜んで下さる。

だが、恵みを受けると同時に、ある誘惑が私にやってきた。主からの恵みを受ければ受けるほど、それを人に分かち与えたい衝動に私は駆られたのである。私の 心の内に蒔かれた愛が、他人にも同じ恵みを受け取ってほしいと主張せずにいられなかった。だが、もしこのことについて、兄弟姉妹からの忠告を受けることな く、自分ひとりで何かをしようとしていたならば、私はきっと大きな危険の中に落ち込んでいただろう。

クリスチャンがひとたび神の愛で満たされ、主からの絶え間ない恵みの中で生きはじめ、貧しい者たち、弱い者たち、困っている者たちに主の愛を示したいと強 く願いはじめるならば、危険がすぐさま彼を待ち受けている。かつて孤独のうちに閉じこもっていた間には、発生しなかった危険が、新たに発生する。それは、 私たちが、神の愛によってではなく、自分自身から出てくる、十字架の死を経ていない、魂の愛によって、弱者を愛し、自らの力で相手を救済しようとして、卑 しめられ、傷ついた相手に同形化し、自分を犠牲にすることによって、偽りの愛による、破滅へ至る関わりへと落ち込んでいく危険性である。

新約聖書には、賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえ話がある。10人のうち5人の乙女は、花婿なる主の来られる時に備えて十分な油を用意していなかった。だが、 油を用意していた他の5人の花嫁も、彼女らに自分の油を分けてやることはできなかった。油(聖霊)は、人がただ神ご自身のみから直接いただくことができる ものであり、決して、人から人へと分け与えることのできるものではない。

古い皮袋を使って新しい皮袋につぎあてすることはできない。そんなことをしようとするならば、皮袋は引き裂かれ、ぶどう酒も、袋も、台無しになってしまう。

だが、私たちはそのことを忘れがちである。私たちは、主によって、物乞いの衣装を捨てて、尊い王族の衣装を着せてもらった。ところが、私たちは時に、魂か ら出てくる同情や、強い憐れみや、愛の思いから、主が自分に与えて下さった聖なる衣装を引き裂いてでも、それを貧しい人たちに分け与え、自分の手で卑しめ られた人々を引き上げ、王族の衣装を着せてやりたいという誤った願いを持つことがある。

しかし、卑しめられ、貶められたラザロに王族の衣装を着せてやれるのは、主ただお一人である。どんなに私たちが弱い者たちを憐れんでも、私たちには彼らを 泥の中から引き上げることはできない。神の愛は、人間による救済とは無縁である。にも関わらず、それを忘れて、私たちが彼らのために自分を投げ出し、自分 を犠牲に捧げて彼らに同形化することによって、救済しようと試みるならば、そのような魂の愛は、私たちの人生を狂わせ、自分をも相手をも滅ぼし、主がお与 え下さった恵みの全てを台無しにする関わりへと至るだろう。

ある姉妹が私にこのような内容の忠告をして下さった。

「あなたは誰かを愛すれば、一途に愛するタイプの人かも知れません。けれども、たとえどんな人であろうとも、どれだけ相手を愛したとしても、この先、あな たは決して、自分の杯が空になるまで、その人に自分を注ぎだしてはなりません。ただ、杯があふれた分だけ、あなたの愛を与えなさい。

自分のすべてを捨て去ってでも、相手に同形化しようとすることが、真の愛なのであはりません。傷つき、卑しめられた人々に同情するあまり、彼らと同じさまにまで落ちぶれ、同じ苦しみを担うことで、相手を救おうと思ってはなりません。

卑しめられた人と同じさまにまで卑しめられた姿になることにより、人に愛をお示しになられた方は、ただお一人なのです。もしもあなたが、自分を犠牲にする ことにより、自分の手によって誰かを救おうと思うなら、必ず、それは痛ましい失敗に終わります。もし今度失敗すれば、あなたはもう立ち直れないかもしれま せん。全てを与えつくして裏切られ、全てを失った時、残りの人生を、あなたは世捨て人以下の状態ですごさなければならなくなるかも知れません。だから、主 があなたの杯を満たして下さり、杯があふれた分だけ、人に分け与えなさい。自分の杯が空っぽになるまで、相手のために自分の全てを注ぎだしてはいけませ ん」

そんなことがあって、私はここ最近に起こった自分の大きな誤りの原因が、何であったかを、ようやく悟った。高度な教えや、兄弟姉妹の見える交わりに満足を 見出しすぎたことが、私が主の臨在から離れてしまった原因であると思っていた。だが、私が神の霊なる命の中から、偽りの命へと誘い出されたその最初のきっ かけは、私の強い憐憫の情にあったのである。

苦しい状況にあったクリスチャンの知人を憐れむあまり、私はその人の苦しみを何とかして共に担えないだろうかと願った。やがて、それはいつの間にか、その 人に自分を同形化しようとする願いになった。そして、私はその人の持っていた全ての教えと考えを自分に吸収し、その人と同じ理解に達し、その人と同じさま になろうとしたのである。いつの間にか、キリストに同形化するのでなく、人に同形化することを、私は考えるようになった。そしてその交わりは、裏切りと失 望に終わってしまった。

十字架の死を経ていない愛、魂からの愛は、人を決して生かすことはない。傷ついた者を真に包んでやれるのは主の愛だけである。与えても、与えても尽きない のはただ神の愛だけであり、私たち人間の魂から出てくる愛は、代償なしには続かないのである。十字架なしの、魂の愛による関わりは、相手の弱さを憐れんで やるようにみせかけて、かえって弱さを助長する。この偽りの愛による関係は、相手を救うように見せかけて、相手を支配しようとする。それはやがて互いに全 てを求め合って満足せず、互いにしがみつき、互いに食い合い、全力で相手を所有し、支配しようとする腐りきった関わりの正体を表す。自分を与えつくして裏 切られ、踏みにじられ、引き裂かれ魂には、ただ終わらない痛みと、叫びと、恨みと、憎しみと、絶望が残るきりである。

私たちは他人を愛するときに、相手と同じさまとなり、同じ苦しみを担い、同じように低められることを願うかも知れない。しかし、私たちが真に同形化してよ い相手は、キリストだけである。私たちはすでに神にのみ捧げられた聖なる神殿であり、私たちの所有者は神である。私たちはキリスト以外の何者にも自分を捧 げる余地は残されていない。

神の愛と魂の愛とは異なる。神の愛は時に、人間から見ると、とても厳しいものに思われる瞬間がある。人の愛は、人間が本当の限界点に達して神を求めようと する前に、相手を自力で救済してしまおうとする。しかし、父なる神は、放蕩息子が自らの力の限界にいたりついて、自分の足で父の許へ戻ってくるまで、じっ と彼を待ち続けた。彼に助けの手を差し伸べなかった。そのようにして彼を待ち続けることは、父にとっては、きっと、とても苦しいことであったに違いない。

私たちの魂の愛は、愛する対象が苦しむことを願わない。私たちの目は、愛する人の苦しみを見ることに耐えられない。愛する人が傷つく前に、自分の全てを やってでも、その苦しみから助け出してやりたいと思う。しかし、それは一見、相手のためであるように見えて、真の救済とは程遠いものである。そこにあるの は、本当は、私たち自身が苦しみたくないという願望である。父なる神のご計画は、私たちのそのような限界に満ちた思いをはるかに超えて高い。

神は、私たちが魂の愛を十字架で死に渡す時、この偽りの愛によってではなく、尽きることのない神の愛によって、人を愛することを可能にして下さる。ただ し、神の愛によって人を愛するためには、私たち自身が、いつも、神の臨在の中にとどまり、神の愛に満たされ続けていなければならない。私たちは、自分の水 貯めを手放して、空になるまで人にやってしまってはいけない。自分の油を最後まで人に分け与えてはいけない。主がお与え下さった新しい皮袋を、古い皮袋に つぎあてしてはいけない。神の新しい命を、古き命と混ぜ合わせ、自分がいただいた子羊の血によって清められた王族の衣装を引き裂いて、他人に着せてやろう としてはいけない。

私たちは自分が主から与えられた恵みを大切にし、全ての良きものの供給者は、私たちではなく、ただ神お一人であることを忘れないようにしたい。私たち自身 が、絶えず全ての全てであられるキリストのうちにとどまり、人間関係も、魂の愛も、日々、十字架の死へと渡し、主からの命の供給を絶えず受けて、喜びのう ちに生かされて初めて、私たちは尽きることのない神の愛を隣人にも示し、主の愛によって、他人を愛することができる。キリストの愛のうちにとどまりたい。
 

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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