忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

命の御霊の法則に従って支配する―一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(3)

御霊によって統治する、というテーマについて語る際、これまでキリストの復活の命は、あらゆる環境条件や物流をも支配する力を持っている、ということを繰り返し書いて来た。

その文脈で、先日、我が家の小鳥たちも、御霊の導きによって与えられたと書いたが、その矢先、筆者自身が、改めて主に問われるような出来事が起きた。もちろん、愛らしい小鳥たちに何の不満があるわけではない。だが、こんなスケールの出来事よりも、はるかにもっと大きなものを、信仰によって望むべきであることを思わされたのである。

ちょうど主にこう問われたような具合だった、「あなたの満足は、こんな小さなスケールで終わるようなものなのでしょうか。あなたはこれらの小鳥たちにすっかり満足しきっているようですが、あなたの望みは、そして信仰の名に、御霊の名にふさわしい恵みは、この程度だとあなたは考えているのでしょうか。これよりも大きな望みはないのでしょうか」と。

その時、筆者は以前に大きな鳥を飼い、今やその鳥にまさる鳥を手に入れたいと願いつつ、それを素通りして来たことをはっと思い起こされたのだった。
 
それというのも、希少な鳥には、庶民が聞いて呆れるような値がつけられている。一言で言ってしまえば、良いクラスの新車を買うのと同じくらいの値がつく。その値段を見た瞬間、「あ、これは私には関係ないことだな」と思って、願うよりも前に諦めて通り過ぎて来たといったことが何度も起きてきたことを思い出したのだ。

だが、愛らしい小鳥を何羽も与えて下さる主が、大きな鳥だけは無理だとおっしゃるはずがない。
 
むろん、これは比喩である。そんな風に、心の底では、何か望むところがあるのに、あれやこれやの現実のリスクを回避したいがために、本能的に自分には過ぎた贅沢であるかのように考えて素通りして来た恵みがどれほどあっただろうか、と考えさせられたのである。
 
後から考えてみれば、そのような稀有な出会いは、まさに信仰によるプレゼントだったとしか思えず、その時、恐れを捨てて一歩踏み出しさえしていれば、そこから開けていたものがあったに違いないと思われることが多い。

そうやって、真に信仰を要する選択を素通りし、信仰がほぼ必要のないささやかなスケールの恵みだけを手に取り、それがあたかも偉大な信仰によって得られた戦利品ででもあるかのように誇っている場合ではない。

むろん、そこにもちゃんと信仰は働いてはいるのだが、それが可能であるならば、もっと大きな事柄も当然ながら可能であったことを常に思うべきなのである。

私たちが信仰によって何かを得るとき、そこには常にある種の困難、リスクが伴う。目に見える世界にはその選択が正しいと保証してくれるものが何もなく、ただ内なる確信だけに基づいて進んで行かねばならないからだ。

信仰による創造は、たとえるなら、常に目に見えないデポジット(預り金)を担保にした引き出し行為のようなものである。言い換えれば、主に対するつけ払いのような形になる。
 
あなたの預金口座に今現在、うなるほどに自由になる資金があるなら、あなたはどんな壮大な娯楽も、自分には贅沢すぎると思うことなく、あるいは、今あなたが広大な土地の所有者であれば、あなたはその土地を担保に、何の不自由もなく、新しい壮大な事業を開始することができよう。

しかし、 信仰による歩みはそういう目に見える保証によらない。それは常に目に見える担保が存在しない時に、ただ信仰だけによって、無から有を生み出し、創造する行為である。だが、クリスチャンの間でもあまりよく知られていないことは、信仰の世界でも、「信用創造」は存在しており、目に見えない新しい「資金」を天から調達するには、元手となるものが要ることだ。それが、からし種一粒の信仰なのである。

聖書には、もしも人の内にからし種一粒の信仰でもあるならば、山をも動かす原動力になるだろうとの句がある。

「使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。
もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(ルカ17:5)

「弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイ17:19-20)

「イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13:31)

こうしたイエスの言葉は、すべて信仰による無からの創造を指している。ほんのわずかでも人の内に信仰があれば、それを担保に、人は目に見える世界に大きなものを呼び出して来ることができるのである。

最初からいきなり巨大なスケールのものが生まれることも稀にあるとはいえ、ちょうど「わらしべ長者」の物語みたいに(むろん、この話は聖書とは本質的に関係ないが)、信仰によって一つ一つの創造行為を積み重ねているうちに、最後にそれが巨大なスケールにまで達する場合も多い。

いずれにしても、筆者が何羽かの美しい小鳥が手に入ったと喜んでいるようなスケールはごく些細な話であって、むしろ、そうした小鳥たちが無数に宿ることのできる木を育てるのが、信仰の力なのであり、 その木は、今、私たちの目には見えないかも知れないが、すでに信仰によって存在しており、筆者は今、その木に宿る小鳥たちのほんのごく一部を目にしているに過ぎないことを思わされたのである。

その木には、まだまだ筆者が一度も見たことのない魅力的な鳥、まだ知らない美しい稀有な鳥が、たくさん宿っている。そして、その木は、それらの鳥たちを全て養うのに必要かつ十分な条件を備えている。その木を、私たちは信仰によって心の内に持っているのである。

見るべきは小さな枝葉ではなく、その木それ自体であり、その木は当然ながら、キリストご自身であり、彼の命の力なのである。

・・・

霊的に前進して行くためには、ある意味で、非常に貪欲でなければならない。これは決して物欲のことを指して言うのではなく、人が神の御前で、真に自分のために備えられた恵みを理解するためには、自分自身のちっぽけな思考と経験の枠組みを常に打破しながら、飽くことなく先へ進んで行く態度が必要となることを意味する。

神が人間のために備えられた崇高で偉大な使命、恵みの大きさ、完全さを生きて知りたいと願うならば、信者にはある意味、わき目もふらずにその目標だけに向かって突き進む覚悟がいる。そうした中で、自分自身の思いの限界が障壁となるだけでなく、人々の思惑や、人々の理解といったものも、障壁となり、そうしたものに気を取られるならば、先へ進むことができなくなってしまうことが往々にしてある。
 
最近、筆者は、オリンピックを間近に控えた頃に、TV番組である記者が外国のアスリートたちの稽古場を訪ねた風景を目にした。その時、当時、金メダルの最有力候補の一人と見られていた若いアスリートが、TVの記者に気前よく自分たちの稽古場を案内していた。
 
それを見たとき、筆者は、その有名なアスリートの親切でオープンな態度は、きっとカメラ映えし、誰にでも好感を持たれ、取材班は大喜びだろうが、金メダル候補が試合前にそのようなことに時間を費やしていたのでは、その人は勝てないかも知れないと思った。

そして、案の上、その人は自分よりも年若い選手に敗れて二番手におさまり、その上、自分が気前よく記者たちを案内してやった稽古場を去ることになったのである。むろん、それには様々な要因があり、一概に、稽古場を案内したことが原因だなどと決めつけられる問題ではないが、筆者は、この選手が、受付係よろしくTV番組の取材記者を自分たちの稽古場に導き入れた姿を見たとき、そこに、この選手の油断(もしくは慢心)を見た気がした。

稽古場は、表舞台には見せられない、人の目からは隠れた勝負の場所であって、そこでは常に過酷な競争や死闘が繰り広げられている。そもそもアスリートは俳優ではなく、案内係でも、受付係でもない。稽古場でアスリートが果たすべき役割は、観光案内よろしく、記者を親切に案内して取材に協力してやることではなく、稽古場で目に見えない苦労を人知れず負い、積み重ねながら、自分が真に満足できる高い目標だけをわき目もふらずに目指し続けることである。

その役割を忘れた途端、その選手は、後学に追い落とされて、選手としての価値を失ってしまう。そして、その稽古場は、その選手にとって、自分が記者を案内してやった通りの観光地のようなものにはなっても、もはや自分の稽古場ではなくなってしまう。

その原則はすべてのことに共通するのであり、真に一位を取ろうと思ったとき、つまり、他者の追随の及ばないような高みに到達したいと願ったとき、人はその目的以外のすべての目的をみな捨て去り、誰からどう思われようとも、わき目もふらずに、自分を満足させるたった一つの目的のためだけに、自分のすべてを捧げ、先へ進まなくてはならなくなる。

信仰の世界でも、その原則は同じなのである。もし信者が、キリストのみに仕え、神を満足させるという目的を目指すならば、誰にどう思われようと、たった一人で、人の目には全く評価されない、気の遠くなるような地道な試行錯誤の積み重ねの中で、信仰の模索を絶え間なく続けて、他のすべての目的を犠牲にして、ただ一つの目的(神を知ること)だけに仕えねばならなくなる。

往々にして、多くの人々に対して気前よく親切で、社交的であろうと考える人間には、それができない。彼らは、他者の心の満足を基準に得られる自分の満足を捨てきれないために、人の思惑とは一切関係なく、ただ自分だけの満足だけを目指して、貪欲に一つの目的に向かって進むことができないのである。言い換えれば、一つの目的、一人の人(キリスト)だけに仕えるには、あまりにも気が多すぎるのである。
 
だが、他者と自分はそもそも同じ人間ではない以上、人が他者と同じ満足を共有できることはほぼない。ある人が、他者の満足を自分の満足と考え、他者の利益のために仕え始めれば、その途端に、その人は、自分の目的を他者に奪われ、見失ってしまう。
  
キリスト教界というところには、人が自分個人の目的を目指すことを最初からあきらめさせ、捨てさせてでも、無数の鏡のような(抽象的かつ曖昧な)他者の満足のために、自分の人生を初めから差し出して生きるように促す魔力的な悪しき力が働いていると筆者は感じている。

そして、筆者はそれが正しい生き方であるとは全く考えていない。
 
そのようにして「他者の満足のために生きる」という実現不可能な虚構の生き方を手本として目指す筆頭格が、牧師である(牧師という名で呼ばれていないすべての宗教指導者をも含む)。

牧師などの宗教指導者は、絶えず信徒らを養うためと称して講壇からメッセージを語り続けるが、それは、筆者から見れば、自分自身が選手であるにも関わらず、そのことを忘れて、自分の訓練を後回しにして、自分の稽古場を訪れる無数の記者らを絶えず得意げに気前よく稽古場に案内してやっているアスリートとほとんど同じなのである。

牧師とは、自分個人の満足のために生きることができなくなった人々である。彼らは絶えず信徒の満足を自分の満足に置き換えて、他者のために生きようとして努力している。彼らはそれが福音伝道に仕えることだと考えており、そして、多くの信徒らがその牧師の姿にならって、自分自身も同じように他者の利益と満足のために生きようとする。

だが、本当は、そんな生き方は誰にとってももとより不可能な相談なのであり、人は本質的に自分のためにしか生きられないのである。それは献身者の場合も全く同じで、神に身を捧げ、神の満足のために生きることと、自分以外の人間の満足のために生きることは全く話が別である。

神は人にそれぞれ他者とは異なる使命を与えておられる以上、自分の個人的な人生目的を捨ててまで、他者を助け、他者を満足させることに人生を費やすことは、最初から間違っており、自分自身を犠牲にすることであるから、してはならないことである。

人が自由になるのは、外からの物質的・精神的な助けによるのではなく、ただその人の内なる命の力から来る自立による。従って、たとえ人が直接他人を助けようとして、自分のすべてをかけて物質的・精神的支援を与えたとしても、それによって他者を自立へ導くことはできず、かえって相手の自立の力を著しく奪い取ってしまい、その人の尊厳を根こそぎ奪い、傷つけるだけである。そんな方法で人助けを行うことは無理である。

筆者はこのことを以前にホームレス伝道になぞらえて語り、またハンセン病者への絶対隔離政策になぞらえて語った。要するに、他者を助けてあげているという自己満足の中に潜む悪というものがれっきとして存在するのである。

たとえば、ホームレスであるという人々の弱みを利用して、彼らがまるで公園に群がる鳩のように、パンを求めてキリスト教の伝道者たちの集会に毎回依存して生き、そこから抜け出られないように囲い込んで行くことが、支援なのでは決してない。

カルト被害者救済活動も同じであり、人の弱みや挫折体験につけこんで、それを解決することを助けてやるように見せかけて、その人の自立をより一層、損ない、人の弱さを食い物にして自分が脚光を浴びようとすることが、人助けなのでは断じてない。

だが、牧師は、そもそも神に代わって、自分が信徒のために自己を犠牲にすることで、信徒を助けるという不可能事を目指している人々であるから、彼らがそういう「伝道」を次々と考え出しては、弱みを抱えた人々を食い物にしてさらに自立を損なう事業を考え出すのは不思議なことではない。

しかし、信徒たちがこれにならって「福音伝道」という、実体のよく分からない抽象目的のために、自分個人の人生を捨て去ろうとすれば、自分の人生を完全に失って行くことになる。その行き着く先は、エホバの証人とほとんど変わらない生き方である。
 
筆者は、神はそのようなことを決して人間に期待されてはおられないと確信している。また、そのような方法で、人の信仰が成長することも決してないと確信している。

人にはそれぞれ決して他者には理解できない、他者とは異なる生き方が存在するのであり、まず自分自身のオリジナルな生き方を発見しないことには、自分の人生もない。漠然とした抽象的な基準に従い、誰か別人を手本として生きることも人には無理である。

従って、自分を捨てて他者の満足のためだけに生きられる人間はどこにもおらず、そもそも他者の満足とは一体、何なのか、誰一人として、それを明白に定義できる人間もいない以上、それは実体のない漠然とした抽象的な基準でしかなく、そのようなあるかなきかの基準に身を捧げて、人が自分の利益を捨て去ったような風を装い、他者の満足だけを目的に生きるようになれば、その人の人生は破綻・崩壊することになる。

だから、人は、神が人間(自分)に願っておられる真に高い水準の生き方が何であるかを本当に心の底から理解しようと願うならば、わき目もふらずに、ただ自分だけのために、神が天に備えて下さったはかりしれない恵みを見つめ続け、それを引き出して生きることにすべての心血を注ぐというある種の熱心さとそれゆえの犠牲が必要になるのである。

キリストご自身以外の方には目もくれず、地上を生きる他者の思惑などには決して左右されずに、自分が定めた目的を一心に見据えて進み続けるだけの決意が必要になるのである。

そのようにして、真に満足できる高い水準に達しないことには決してあきらめず、一歩も後に退かない覚悟で、自分のために備えられた恵みを一心に目指すことは、決して悪として非難されるべき貪欲さではない。

むしろ、私たちが生きて味わうために主が備えて下さった恵みを知ることなのであるから、まずはそれを十分に開発すべきであって、自分がその道を知りもしないうちに、今現在、自分が持っている乏しい知識だけで他者を助けられると思うべきではない。
 
人を真に助けたいならば、まずは自分自身が尽きることのない泉を発見し、そこから十分に水を汲み出した上で、その泉へたどり着く方法を他者に教えるべきである。しかし、箴言には、以下に示す通り、自分のための泉を他人に与えるなという警告がある。

アスリートは、自分が苦しい思いをしながら猛特訓をして、自己を犠牲にして獲得した技術を、他の人に簡単に伝授するだろうか。引退して教師にでもなれば、そういうこともあるかも知れないが、現役の選手がそれをすることは決してない。そんなことをしていて、どうやって一位を獲得できるだろうか。
 
代価を払って得た教訓が貴重であればあるほど、人はそれをただ自分だけのものとして大切に扱うことであろう。現に、代価を払わない人間に、どんなに方法論だけを教えても、それを他人が獲得することはできない。

だから、他者を助けようなどと思う前に、人はその同じ時間を使って、もっと自分自身の目的と満足のために生きるべきなのである。その満足とは、神が人間に対して願っておられることは何なのか、神が人間を創造された当初の高い目的、完成、尊厳とは何なのか、自分はどうやってそこへ達するのかというテーマを存分に追求することである。

要するに、人は神の恵みと約束の確かさを、生きて十分に味わい知ることを第一に追い求め、どんな満足を得ても、それで満足したなどと考えるべきでなく、それは目的に向かうほんのごくわずかな一歩でしかないということを思うべきであり、それなのに、ほんのごくわずかな恵みを得たからと言って、それを偉大な達成であるかのように満足げに吹聴して回っているようでは、その人にその先はないということなのである。

(むろん、信仰によって神がなされた御業を他の人に伝え聞かせ、証することが決して悪いというわけではないのだが、人には往々にして、ほんのわずかな恵みを得ただけで、それを十分な恵みを勘違いし、しかも、それを自分が獲得した偉大な方法論の獲得であるかのように吹聴して人に教えようとする傾向があり、もしそのような地点で立ち止まるならば、あなたの信仰はそこで終わりになることを思うべきなのである。)
   
以下の箴言第5章における「遊女」が何を意味しているかについては、諸説あるだろうが、筆者は、これはバビロンを指しており、遊女の道とは、自分がキリストになり代わり、教師となって講壇に立って信徒らを教え、信徒らから注目を浴び、感謝され、栄光を受けようとするすべての目に見える宗教指導者に就き従う道に当てはまると考えている。

このような指導者たちは、他人に向かって教訓を語るが、自分自身はそれを実践しない。他人に向かって泉のありかを指し示すが、自分自身はその泉から汲んで飲もうとはしない。

彼らは親切心を装って、絶えず困っている他者のために気前よく奔走し、「神はあなたを愛しておられます。その愛を十分に受け取って下さい」などと説教はするが、自分の心の内では「神が分からない。神はどこにおられるのだ」と叫んでいる。そして、キリストを自分の心の内に確信できず、そこから恵みを引き出す方法も分からないまま、自分が持てるほんのわずかな物質的・精神的なアイテムだけを頼りに、人助けにもならない人助けを行おうとし、他者の眼差しの中に「神」を探し、他者から肯定・承認されることで自己存在を獲得しようと、常に困った人々のもとを駆け回っている。
 
私たちは、どんなに彼らが卓越した指導者のように名を馳せていたとしても、そのような空虚な人間には決してなってはいけないし、彼らにつき従って行ってもいけないのである。

以下の御言葉の中で「会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」という表現から、私たちは、以下の警告が、不信者に向けられたものでないことが分かる。

「遊女」というのは、要するに、地的なもの、悪魔的なもの、すなわち、地上を生きる生まれながらの人間全般の欲望の総体を指すのであり、人間の宗教指導者の栄光を建て上げ、人類の利益に仕えて生きることも、遊女の道に従うことである。

人間の利益に仕えて生きることと、神の利益に仕えて生きることは、決して両立せず、それにも関わらず、人類全般の利益を優先して、人間社会の思惑に従い、人間の満足を目的に生きれば、その信者は、ただ自分自身のためだけに備えられた命の泉を、他者の欲望の犠牲として失ってしまうことになるという教訓なのである。
  
「わが子よ、わたしの知恵に心をとめ、わたしの悟りに耳をかたむけよ。
これは、あなたが慎みを守り、あなたのくちびるに知識を保つためである。
遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。

子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。

あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。
おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。
そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、
教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、
集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。

あなたは自分の水ためから水を飲み、自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。

あなたの泉を、外にまきちらし、水の流れを、ちまたに流してよかろうか。
それを自分だけのものとし、他人を共にあずからせてはならない。

あなたの泉に祝福を受けさせ、あなたの若い時の妻を楽しめ。

彼女は愛らしい雌じか、美しいしかのようだ。いつも、その乳ぶさをもって満足し、その愛をもって常に喜べ。

わが子よ、どうして遊女に迷い、みだらな女の胸をいだくのか。

人の道は主の目の前にあり、主はすべて、その行いを見守られる。
悪しき者は自分のとがに捕えられ、自分の罪のなわにつながれる。
彼は、教訓がないために死に、その愚かさの大きいことによって滅びる。 」(箴言第5章)

PR

命の御霊の法則に従って支配する―一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(1)

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を畏れなさい。

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:26-31)

さて、標題につけた「一羽の雀でさえ、天の父の許しなくして地に落ちることはない」という御言葉は、従来の文脈では、神がご自分の創造された最も小さな取るに足りない命までも、最新の注意を払って心に留めて、養っておられるという、神の愛や憐れみの深さを示す文脈でよく引き合いに出される。

しかし、今回は、そういった従来の文脈とは、少し違う文脈で、この御言葉を引用したい。

なぜなら、今回の記事のテーマは、一羽の雀が地に落ちるかどうかは、私たちの采配にかかっているのだという点にあるからである。

神は人類を創造された際、地上のすべての生き物に対する支配権を人間に任された。それゆえに、むろん、神はそれらの生き物の生殺与奪の権を握っておられるとはいえ、現在、それらの生命を直接的に管理する権限を与えられているのは、私たち自身なのである。

創世記の人類創造の場面にはこうある、

「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 」(創世記1:26)

そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。 」(創世記2:19-20)

以上の御言葉に示されている「名をつける」という行為は、人間が地球上のすべての生き物の名を支配することで、その生き物の命に対する支配権を握ったことを表す。地球を、神が造られた大きな庭にたとえるならば、人間はその庭を管理する園丁のような存在である。

神はこの目に見える世界をご自分で直接、統治することもできたが、あえてその支配権を人間に委ねられ、人が神の代理としてこの目に見える世界のすべてを適切に支配・管理するよう任されたのである。

しかし、その後、アダムの堕落が起こり、アダムが任された地上における支配権は、堕落したアダム自身と共に、悪魔に渡ってしまった。しかし、それにも関わらず、神が人間を創造された目的はその後も全く変わっていないのである。

堕落して不適格者となったアダムの代わりに、神は人類に与えられた正当な使命を取り戻させるべく、独り子なるキリストを地上に遣わされた。クリスチャンは、キリストの十字架の贖いが、ただ単に、人間の罪の赦しのためだけにあるのではなく、また、贖われたキリスト者が個人的に聖霊に満たされて幸福な生活を送る目的のためだけでもなく、また、福音宣教によって地上にキリスト者が増え広がるといったキリスト教の拡大などという目的のためでもなく、そもそもアダムの失敗によって失われた統治権を人類に取り戻させるためにこそ、キリストが贖いを成就されたことを認識する必要がある。

そこで、今日、神はキリストにあって新生されたクリスチャンに、再びこの地の適切な統治権を任せようとしておられるのである。それによって、人自身が神の御思いの体現者として、山上の垂訓に見るような神の憐れみに満ちた霊的統治を、この世に実現することを願っておられるのである。
 
とはいえ、その統治権とは、目に見えない霊的な統治を指しており、この世に目に見える地上の権力を打ち立てることではない。御霊による統治は、新生されたクリスチャンが、この世に自分たちの名を冠した偉大な宗教組織を作り上げ、その威信を全地にとどろかせ、地球の覇者たろうとするといった方法でなされるのではない。

御霊による統治は、常に取るに足りない一人一人のクリスチャンの心の内側で、目に見えないひそやかな形で、個人的に進行する。それは人の目からは隠された歩みであるが、どんなに取るに足りないように見えるクリスチャンであっても、その内側で、もし御霊による統治が実際に行われているならば、そのプロセスは、天地にとって絶大な価値を持つ。

今日、宗教組織に所属しているほとんどのクリスチャンは、自分に与えられた絶大な御名の権威を知らず、キリストの復活の命に働く偉大な法則性をも知らず、その新しい命の力を行使した経験もほとんどないばかりか、自分に任されている支配権のことなど全くと言って良いほど知らない。

彼らは、まるで次々とチャンネルを変えながらTV画面にくぎ付けになる視聴者のように、数多くの宗教指導者のパフォーマンスに心を奪われ、魅力的な指導者らが、自分たちの代わりに物事を決定してくれ、自分たちの代わりに命令を下してくれるのを受け身に待っているだけである。

このような信者たちは、指導者が与えてくれる哺乳瓶を介さなければ、自分では何一つ聖書の御言葉の意味をわきまえることもできず、何事も決められず、いつまでも天を仰いで、神のお告げや宣託が自分にそれと分かる形でひらめき降りてくるまで、そこを動かないと決めてただぼんやりと待っているような具合である。

彼らは、祈りと称して無数の願い事を告白することはしても、誰かがゴーサインを与えてくれるまで、決して求めている解決が与えられたと心に信じることなく、大胆に立ち上がって自分の人生を自分で決めるために歩いて行こうともしない。彼らの祈りは、言いっぱなしの告白のようなもので、彼ら自身にとってさえ、神がそれに応えられたかどうかは、しばしば全く重要ではないのである。

こうした人々は、クリスチャンを名乗っていても、人間の古い言い伝えに従って生きており、宗教的なしきたりを守ることには熱心であっても、その生き方は、完全にこの世の不信者と変わらず、この世の常識から一歩も外に出ようとはしないため、彼らには、キリストが信者にお与え下さった内なる命の法則性に従って主体的・能動的に生きた経験もなければ、御子の贖いを通して自分に与えられた命の中にどれほど測り知れない神の力が隠されているかといった知識も全くと言って良いほどない。

一言で言えば、今日のあまりにも多くの信者は、自立の力が欠けすぎており、神が与えて下さった新しい命の力だけによって生きた経験自体がないため、その命の性質を知らず、その命の中にどんなに偉大な力が隠されているかも知らないのである。

キリストの復活の命に働く法則性は、それを行使しなければ、発揮されることはない。車を運転するためには、車のメカニズムを知らねばならず、楽器を弾くためにも、楽器の性能を理解しなければならないのと同じように、御霊による新しい命の法則性に従って生きるためには、信者はまずはその命がどういう性質のものであるのかをよく探ってこれを知り、その命を活用する方法を自分で学ばなければならない。

それなのに、ただ天を仰いでいつまでも願い事を祈っているばかりで、自分で物事を考えようともせず、自主的に決断も行動もせず、宗教指導者が決めた古い人間的なしきたりや常識に従って歩み、自分に与えられた新しい命の法則性に従って生きる秘訣を全く探ろうとも知ろうともしない人々のうちには、新しい命の法則性が働くことは決してない。

その命は、あくまで信じる者に個人的に一人一人に与えられているものであり、誰も本人に代わってこれを行使することのできる者はいないのである。従って、信者がいつまで経っても、自分以外の誰かがやって来ては、自分を適切に指導・操縦してくれることを願っているだけの受け身の赤ん坊のような状態では、キリストのよみがえりの命の法則も、御霊に導かれて生きることも、その人には最後まで分からずじまいで終わるであろう。

話を戻せば、宗教界には、常に時代を超えて、キリストの復活の命の統治といったものがあることなど考えもしない赤子的クリスチャンが大勢いるとはいえ、そのような現状とは一切関係なく、神が人間を創造された当初の目的は、今日も、全く変わらず、それはあくまで人間が、地上の目に見える世界およびそこに住むすべての生き物たちを適切に管理・支配する者となることなのである。その管理を通して、神の栄光を生きて地上に表すことなのである。

そういう意味で、「一羽の雀でさえ、天の父の許しなくして地に落ちることはない」という御言葉の意味は、本来の意味から転じて、天の父は、一羽の雀も含め、地上にいる生き物たちを管理する責任と役割を人間に委ねられたので、今やその雀が地に落ちないかどうかは、人間自身の選択と確信にかかっているという意味として受け取れる。
  
それは言い換えれば、キリスト者には、自分の許しなく、自分の支配圏内にあるいかなる命も失われることがないように支えることができるという絶大な権限が与えられていることをも意味する。むろん、地上の命はいつか終わりを迎えるとはいえ、信者は少なくとも御霊によって生きている限り、信者自身の同意なくして、信者の支配する領域にある命に突然の災いがふりかかることなどを防ぐことができるのである。

もしもそれにも関わらず、信者が自分の支配圏内で思いもかけない異変や災いが起きていることを察知したなら、信者の生活のどこかに御霊による支配の破れ目がないかどうかをもう一度、点検することを勧めたい。信者が生活の中で何を最優先しているのか、優先順位が狂い、命の御霊の法則から信者自身が逸れていないかどうかを点検することを勧めたい。

信者の生活には試練や苦難ももたらされるが、ほとんどの場合、それは信者自身が準備が出来た時にやって来る。神は信者に何かの犠牲を求められるときには、事前に信者が心の準備をする猶予を設けてくださる。しかし、悪魔が信者を攻撃するために不意にもたらす災いには、信者が心の準備をする余裕はない。そのような出来事が起きる時には、今一度、信者は、御霊の警告を軽視したりしたことがなかったどうか、十分に目を覚まして警戒を怠らないでいたかどうかを振り返ることを勧めたい。
 
王国という言葉は、王の支配権が及んでいる領域を指し、神の国とは、神の命の統治が及んでいる領域を指す。御霊が信者の内に住んで下さることによって、神の国が信者の只中に来ていることは、信者自身が、御霊を通して働く命の法則を一定の領域に及ぼし、その領域を管理・支配していることを意味する。

キリスト者は、神に対しては子供であり、僕であるが、地上のすべてのものに対しては、一人の王のような存在なのであり、信者には自分の支配領域を治める権限があり、それを適切に治めることを神に期待されているのである。

繰り返すが、キリストの復活の命を内に持っている信者は、神の命の統治を持ち運ぶ存在であるから、圧倒的かつ絶大な支配権を実際に持っているのである。

しかし、この地上に生きている限り、信者の内には二つの命が存在している。堕落した有限なアダムの被造物の命と、神の永遠の命である。

堕落した朽ちゆくアダムの命に従って生きるなら、信者を通して周囲に及ぼされるのは、罪と死の法則だけである。しかし、命の御霊の法則に従って生きるならば、そこには命と平安が生まれよう。信者がこの二つのうちどちらの命に従って生きるかによって、信者を取り巻く領域に、どのような性質の影響が及ぶかが決定する。

信者はこの選択について非常に注意深くなければならない。信者は自分の支配圏内にあるすべての生き物、自分が関わるすべての他者にとてつもない決定的な影響を及ぼす存在だからである。

聖書には「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16:31)という有名な御言葉があるが、これが意味するところも、以上と同じように、実は信者の命の支配権の行使という問題なのである。

多くの信者らは、「主よ、家族を救って下さい」と受け身に祈り、天を仰いで、神が自分の代わりに働いて自分の家族を救って下さることを願い、家族に自分自身の霊的支配が及んでいるなどということは考えてもみようともしない。

だが、信者はそのように天を仰いで受け身の祈りを捧げる代わりに、まずは自分自身が、一定の霊的な支配を持ち運んでいること、自分こそが、自らの支配圏内にある全てのものに対して絶大な影響力を行使している主人であって、家族にも当然ながらその影響力が目に見えない形で及んでいることを自覚すべきなのである。

信者は、キリスト者の中にある神の新しい命の法則が、自分自身のみならず、家族にも影響力として及ぶことをまずは心から確信せずに、家族の救いといった問題に答えが与えられることを期待できない。

多くの信者の場合、足りないのは、祈りではなく、その信者の心の確信である。なぜなら、キリスト者が大胆に心に信じたことが、その信者の支配圏内にあるすべての物事に決定的な影響を及ぼすからである。家族とは、信者の霊的統治が及んでいる身近な人々のことであるが、信者自身が自らの統治権をろくに行使する方法も知らないうちに、家族の救いという問題について折るのは、間違いとまで言えずとも、ある意味では、順番が逆だと言えるかも知れない。

ヨセフは、幼い頃からすでに自分が家族の中で極めて重要な役割を果たすことを知っていた。彼の兄たちは、幼いヨセフの大胆な言葉を聞いて、ヨセフは兄たちを差し置いて自分を偉大な人間であると思い違いをして己惚れに陥っているだけだと考えて、ヨセフを憎み、妬んだが、ヨセフは、心の内側で、自分の霊的役割の重要さを初めから知っていたために、それを語っただけであり、彼の言葉は、自惚れから来るものではなかったのである。

それが証拠に、ヨセフは兄弟たちに裏切られてエジプトに奴隷として売られたが、結果的に、ヨセフのおかげで、ヨセフの家族全員が救われる結果となった。その事実は、ヨセフが幼い頃に見た夢は、彼自身が、一家の中で果たす霊的役割の重要さを予見したものであり、それは彼の変わらない召しだったからこそ、彼が奴隷として売られ、家族と離れていた間にさえも、見えない領域で、家族に対して及ぼし続けた霊的支配力があったのである。

しかし、与えられた召しが偉大だったからこそ、それが目に見える形で実現するまでの間、彼は多くの訓練を経なければならなかったのだと言える。本当の意味で、彼が家族に対する霊的支配権を行使できるようになるまでには、それほどの歳月が必要となったのである。
 
このように、キリスト者は、すべての物事が自分の意志に逆らって進んでいるように感じられる時にも、霊の内側では、御言葉に基づき絶え間ない創造と支配を行うことができると信じて進んで行かなければならない。

つまり、この世の有様がどうあれ、信者は、それとは関係なく、朽ちゆく不完全で限界あるものの只中から、命の御霊の法則によって、神の満ち足りた命の力を働かせて生きることが可能なのであると信じねばならず、その気高い目的が自分に与えられていることを確信し続けなければならないのである。

その信者が心の中で何を思いを巡らし、何を現実だと信じるかによって、その確信が信者を通して、信者の霊的支配が及ぶすべての領域に決定的な影響を及ぼす。

もしも信者が、目に見える有様に気を取られ、その限界を現実として受け入れ、罪と死の法則に従って生きるなら、信者の支配圏内にあるすべての生き物、人々、物事の運命にも、同様の影響がもたらされ、その信者の誤った選択に、信者の支配圏内に存在するすべてのものが巻き込まれるであろう。

そういう意味で、「一羽の雀」を天にはばたかせるのか、それとも、地に落とすのかは、常にキリスト者自身の選択によるのだと言える。なぜなら、神がその権限を人間に委託されたためである。

むろん、すでに述べた通り、地上に存在する命あるものはすべていつかはその生涯を終えることになるとはいえ、それでも、信者は、自分の管理している領域においては、決して自分の許しなしに、どんなに小さな命でさえ地に落ちることはないように支える力を持っていることを、まずは信じなければならない。

そして、もちろん、ここで言う「一羽の雀」とは、文字通りの雀だけを指しているのではなく、信者の支配圏外にいるすべての生き物、人々、物事、環境を象徴的に表している。これは信者が自分で世話をしたり、心にかけて管理している自分に属するすべての命と環境のことを指しているとも言える。もしくは、主イエスが「一羽の雀」よりはるかにまさる存在であると言われた信者自身をも指していると言えるだろう。

多くの信者は、そのようにして自分自身で環境を創造するというよりも、むしろ、自分が環境に創造されて、不意の出来事に常に翻弄されて生きているような按配であるが、本当はすべてが逆なのである。信者が環境を統治しなければならず、それが正しい順序なのである。

一言で言えば、神は人間に対して非常に高貴で高い目的意識を持っておられ、私たち自身には思いもかけないほどの人格的完成を願っておられ、それゆえ、非常に高度な責任と絶大な影響力の伴う重大な管理を私たちに任せようとされたのである。

私たちは、神が人間に望んでおられる御霊による命の統治の完全な行使が、どれほど高い成熟度を必要とするものであり、重い責任が伴うものであるかを、おぼろげながらに想像することはできよう。

だが、生きている間に、その支配権の行使に相応しいまでに、キリストの身丈まで成長して到達することは、すべてのクリスチャンのミッションなのである。

キリストの復活の命は、統治する命であるから、その統治の力を働かせて、自分の関わる圏内すべてに及ぼすことができることを、クリスチャンはまず知らねばならない。そして、アダムの朽ちゆく魂の命と、キリストを通して与えられた神の永遠の命と、どちらに従って生きるのか、自分自身で決めねばならない。

そして、もし命の御霊の法則性に従って生きると決めたなら、これまでのように、恐る恐る自分の願い事を神に申し上げたり、不安の表明でしかないような祈りを言い表すといった生き方から、大胆に、望みを確信して、自ら命の支配権を行使するという生き方に転換する必要がある。

しかしながら、それは単純な道のりではない。その方法を学ぶために、信者はしばしばヨセフが辿ったような苦難の道のりを辿らねばならない。

順境の時に、大胆な願いを告白し、それを信じるのは、誰にとってもたやすいことで、そのためには信仰など要らない。しかし、すべての物事が閉ざされて、絶望的で、困難に見える状況の中で、神の恵みの約束に堅く立って、目に見えない命の御霊の統治を大胆に働かせて生きることには、信仰が必要である。

信者に期待されているのは、そのようにして、ただ信仰によって、任されたものを管理し、この世の卑しい朽ちゆく有限なものを通して、見えない高貴な永遠の収穫を得ることを通して、神のはかりしれない恵みの大きさ、完全さ、命の豊かさを、目に見える形で世に実現・証明して行くことで、神に栄光を帰することなのであり、それが、地上でクリスチャンに任された、神の喜ばれる奉仕なのである。

御霊によって生きる自由――風は思いのまま吹く、それがどこから来てどこへ行くのか人は知らない

「風はその思いのままに吹き、
あなたはその音を聞くが、
それがどこから来てどこへ行くかを知らない。
御霊によって生まれる者もみな、
そのとおりです。」(ヨハネ3:8)

「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:17-18)

 
キリスト者には、御霊による内面の造り変えの過程がある。
それは、信者がキリストに同形化され、キリストに似た者とされて行く過程である。

筆者は、キリストにある新しい人として生きるという、この栄光ある召しを、より深く知りたいと願う。この方の命、この方の人格、この方の性質を知ること―それ以上の願いは存在しない。

一体、人が地上に生まれて来るのに、キリストを知る以上に目的があるだろうか。神の花嫁たるエクレシアにふさわしく、キリストに似た者とされて行く以上に、人がこの地上に生きる醍醐味があるだろうか。

だが、それは信者が道徳的な人になることとは違い、より正しく、より立派な人になることとも違う。信者が御霊によって生かされる新たな人となること、それは従来の人間の変革の概念には全くおさまらず、どんな言葉でも説明し尽くすことはできないであろう。

キリストに似た者とされる内的刷新の過程で、おそらく信者は、それまで当たり前のように持って来た常識的なものの考え方にも、訣別を迫られることであろう。

たとえば、かつて筆者には、自分でも美徳と思っていた様々な長所があった。だが、それはこの世的な標準においてであり、神の目から見た美徳は、それとは異なる性質のものであることを知らされたのである。

筆者には、早くから、自分なりのものの考え方や、譲れない信念があり、キリスト者となってからは、殉教や、迫害といった事柄が自分とは無縁であるとも思っていなかった。

だが、それでも、一方では迫害や殉教を覚悟しながらも、他方では、筆者の中には、キリスト者として芽生えた人格と、この世の常識のもとに形成された人格が、同時に存在しているかのような状態が続いた。そして、この世で美徳とされている様々な性質を良きものとしてとらえていたがゆえに、これをキリストのゆえに手放すに至るまでに、多少の時間がかかったのであった。

たとえば、心優しく、繊細かつ敏感であるがゆえに、人との対立を嫌う思いもあり、周囲の激しい反対や妨害をくぐり抜けてでも、ただ神と差し向かいで、自分一人だけで御言葉に立ち続けて生きるほどの強さが養われるには、時間が必要であった。
 
また、潔癖で、真面目で、誠実でありたいと考えていたがゆえに、この世の信仰を持たない人々の中でもとりわけ卑劣な人々のように、自分がどれほど攻撃されても、嘲笑されたり、反対されても、決して己が非を認めることなく、あれやこれやと言い抜けながら、我欲を貫き通すほどの鉄面皮と言える大胆不敵さの持ち合わせはなかった。

だが、信仰生活を続ければ続けるほど、筆者は、神を知らない世人の不誠実さや厚顔さとは全く別の意味で、あらゆる反対や妨害を耐え抜いてでも、ただ神の権益のためだけに立ち続けるために、キリスト者にはどうしてもある種の強さと、揺るぎない自信が必要であることを思い知らされたのであった。

ただ心優しく、善良で、世間の誰からも好かれる、人と対立しない、柔軟で謙虚な自己イメージを持っているだけでは、何の役にも立たず、それは信仰者にあるべき強さとは全く無関係であり、かえって弱さにつながりかねない偽りの美徳と言っても差し支えない、早期に訣別する必要のあるものであった。
  
ただ神だけに栄光を帰して生きることが、どれほどこの世における価値観とはかけ離れた事柄であるかを、筆者は年々、思わずにいられない。

これはある意味で、厳しく、狭い道である。

この狭い道を通る過程で、以前には美徳だと思っていた様々な自己の長所すらも手放して行かざるを得ない。

実のところ、人が自分の人格の美徳だと思っているものの十中八九は、本当の美徳ではなく、世に対する恐れや、自己防衛の感情から来た印象操作でしかない。たとえば、世で謙虚さと呼ばれているもののほとんどは、真の謙虚さではなく、「出る杭は打たれる」という風潮の中で、自分が攻撃されないために、自分をあるがまま以上に低く、みすぼらしく見せかける自己防衛の手段でしかない。
 
こうした偽りの「長所」は無用なものとして手放す必要があることはもちろんだが、他の人にはない自分の専門や知識、人々に評価される様々な特技といったものですら、筆者は一つ一つ、十字架において手放して行く必要を感じた。それは誰から強いられたのでもなく、手放すとは、それらを全くなかったことにすることをも意味せず、ただそのようなものに自分を生かす力がないことを知り、そこに価値を見い出し、これを誇りとすることがもはや不可能なときが自然にやって来たのである。
 
神に従うために、本当にそこまでする必要があるのか? と問う人があるかも知れない。あなたの言っていることは、禁欲主義や、人が自分で自分を滅却しようとするむなしい自己否定の努力と、何が違うのですか? と。

筆者にも、万人を説得できるだけの上手な説明の持ち合わせはないが、それでも、使徒パウロも、キリストを知る絶大な価値のゆえに、自分が持っていた全ての肉なる長所を、まるでふん土のように無価値なものとみなした事実を挙げておきたい。

パウロは当時のユダヤ人の中でも最高と言って良いほどの宗教的なエリート教育を受けた人間であった。生まれも、受けた教育も、申し分がなかった。彼は八日目に割礼を受けた者、イスラエル民族、ベニヤミン族の出身で、生まれながらのローマ市民であり、律法を落ち度なく守るパリサイ人、へブル人の中のへブル人・・・。だが、パウロは、神の恵みによる救いの前に、キリストを知る価値のゆえに、自分がエリートとして持っていたすべての長所や特権や美徳をむなしいものとして投げ捨てたのである。

「もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私はそれ以上です。・・・しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うよういなりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。」(ピリピ3:4,7-8)
 
人間の目に美徳や長所として映るものは、大抵、神の目には、無価値である。パウロの生まれながらのエリート性は、彼を神の教会の迫害者にする以外の何の効果も持たなかった。

だが、パウロが、そうした肉の誇りを無価値なものとして投げ捨てたのは、教会の迫害者としての過去を反省していることをアピールするためのパフォーマンスなどではなかった。

パウロは、キリストの人格、キリストのご性質の持つはかり知れない価値を知っていたがゆえに、地上的な人間の出自にすがりつき、それにより頼むことがどれほどむなしいことであるかをはっきりと理解していたのである。

これと同じように、筆者は、人の目にはあたかも長所と映るかも知れない自己の特徴さえ、もはやどうでも良いものとしかみなしていないのである。

筆者が知りたいのは、何よりも、キリストのご性質である。パウロが述べたように、キリストの死と復活にさらに同形化され、生きることはキリストとなるその瞬間のために、信仰によって、御子の性質を受け取りたいと願っているのだ。
 
かぐや姫の物語とは全く趣旨が異なるが、多分、キリスト者であれば、誰もがみな天の故郷に憧れて、そこへ帰る日を待ち望んでいることであろう。我々の本当の故郷は天にあるからだ。それに引き換え、地上での生まれや、経歴や、アイデンティティは、正直なところ、みなどうでも良いものばかりでしかない。天の故郷がリアリティを持って臨むに連れて、信者にとって、地上の出自や、肉の誇りはかすみ、意味が薄れて行く。

御霊は、ご自分と同じ性質のものを慕い求める。信者の内に住んで下さる御霊が、キリストの人格とご性質を追い求めるので、信者の思いも、キリストを知ることに一心に向けられるようになる。

信者の人生は、ただキリストを知るためにこそあり、それ以外の地上的な事柄は、すべて些末なことでしかない。

もし望むなら、信者には地上で世人と同様の生活を送ることもできよう。この世で尊ばれている職業に就き、立派な家を構え、子孫を増やし、財産を築き、この世の仕組みをよく理解してそこに居場所を構え、繁栄を享受することも可能であると筆者は思う。

だが、たとえそうであっても、この世を知るために費やす時間を、筆者はただ神だけに捧げ、キリストを知るために費やし、残る人生のすべてを、ただ神の栄光のためだけに捧げ尽くしたいと思わずにいられない。

それ以外の事柄は、みなどうでも良い事柄である。筆者がこれまで何者として生きて来たのか、どんな知識、どんな経験を蓄え、どれだけ人と異なる強みを持っているのか、そんなことは全くどうでも良いことである。

筆者は、そういうものを利用して、成功に至りつきたいという願いを全く持っていない。むしろ、もし神が栄光を受けられることを妨げるのであれば、そのような地上的な要素はみな無いことにして通り過ぎた方が良いと思う。

人にとってもし長所と呼ぶに値するものがあるとすれば、それはキリストのご性質だけである。キリストにどれほど同形化されたか、どれほど御子と同じ性質に与り、その似姿へと変えられたのか、どれほどキリストの思いを自分の思いとして、地上に引き下ろして生きたのか、人の人生で意味を持つものは、それ以外にはないであろう。

そういうわけで、キリストにある新しい人の性質を、筆者はより深く知りたいと願わずにいられないのだ。

ただし、この新しい人にあっては、信者が十字架において無価値なものとして捨てたように思っていた様々な要素も、以前のような形ではなく、新たな形で、ごく自然に、さりげなく、信者の新しい人格の中に統合されているものと筆者は思う。

だから、信者は自分で自分の過去を否もうと努力して、自己否定にいそしんだり、不自然な反省や懺悔をしたりする必要は全くないのである。過去に美徳であった性質は、世に対する美徳としては死んで、今度は、神に対して用いられる長所として、以前とは異なる形で、さりげなく、自然に、信者の中に生きて来ることであろう。

神の霊の重要な特長は自由である。キリスト者は主と共なる十字架を通して、この世に対して死んで、死の恐怖による悪魔の奴隷的束縛から自由とされた人々である。この自由を保ち、何によっても奪われないことが非常に重要である。

主イエスは言われた、風は思いのまま吹く、それがどこから来てどこへ行くのか人は知らない、御霊によって生まれた者も同様である、と。

これは信者の御霊にある内的な自由を指している。キリスト者は、キリストの命によって天から生まれ、束の間地上に生き、天へ帰って行く存在である。地上や、世の思惑にとらわれ、それに縛りつけられ、拘束される存在ではない。

世人は信者の姿を束の間、地上に見るだろう。そして、彼らの外見を見て、「あれはナザレのイエスだ」と、主イエスのことを噂し合ったように、信者の地上的な出自に注目して、その人となりを判断しようとするであろう。

だが、信者には、たとえ世人の目には分からなくとも、それとは異なる上からの出自があって、上からの人格があり、上からの生活がある。

主イエスは、地上におられた間、世人とは異なる生活を送られた。主はこの世におけるご自分の職業を持っておられず、ご自分の住処を持っておられず、どこに行って、何をする予定であるのか、どうやってご自分を養っておられるのか、人々には知らせなかった。世人は彼の生き様をも、目的をも理解することができなかった。それはみな上からの御霊の知恵によるものであり、御霊によらなければ、理解することのできないものだったからである。

キリスト者の人生もこれと同様である。御霊に従って生きることには、決まったスケジュールや、方法論はなく、序列もなければ、ルーチンもない。しばしば、御霊の導きは、信者自身にも、常識によっては全くおしはかることのできないものである。だが、たとえ人知や常識によって理解できないものであったとしても、そこに平安があるので、信者はそれが神から来たものであることを理解する。

霊の人は誰からもわきまえられることはないが、すべてをわきまえる、と御言葉にあるように、キリスト者が世に仕えるのではなく、世がキリスト者のために仕えねばならない、それが本当のあるべき秩序なのである。世はキリスト者を理解することができないが、キリスト者はこの世を超越した統治をこの世に対してももたらす存在である。ただそれは、ひとえに、信者が信仰によってキリストの死と復活に同形化されることによる。

そのようにして、この世がキリスト者を通して治められ、すべてのものが膝をかがめてキリストの権威に服することが、神の御心にかなう秩序なのであり、信者は神の国の秩序を地上で持ち運ぶ器であり、その秩序が信じる者の只中にすでに到来していることを、生きて証明しているのである。

割られた壺

主のために何もかも捨てた、と思った。
もっとも、捨てられるほど、持っていたものは、そう多くはなかったが…。

こんな風に、神のために捧げられた人生だからこそ、今度こそ、
主の御名のゆえに、私は光の中を堂々と歩んでいけるはずだ…、
そんな期待が心にあったのだと思う。

もっとも神は私を豊かに祝福して下さったので、私の幸福は
偽りのないものであった。
素晴らしい学びと交わり。主の導きに従っていれば、
この先も、王道を歩んでいけると思った。

ところが、主は私からその「王道」をあっけなく取り去られたのだ!
ウォッチマン・ニーの『キリスト者の標準』、pp.314-315から。

「『私は地位を捨て、奉仕も捨てた。私は主と共に歩むために、
輝かしい未来に対する魅力的な可能性を捨てた。
さあ、これから主に仕えるように努力しよう。

ところで、時には主が私の祈りを聞いて下さるように思われ、
時には、主が明確な回答を与えずに 私を待たせておられる。
主は時に私を通り過ぎてしまわれるようだ。

そんな時、私は自分を大きな組織の中にいる人と比較して考える。
その人もまた私と同じように輝かしい未来をもっていた。
しかし彼の場合は、それを捨てなかった。
彼はなお同じ状態を続け 主に仕えている。
彼は、魂が救われるのを経験しており、主もまた彼の働きを祝福しておられる。

彼は成功している――物質的でなく霊的に――そのため時々私は、
彼が非常に幸福そうであり、非常に満足しているので、
彼のほうが私よりはるかにクリスチャンらしいと考える。

結局このことから、どのような結論が出るのだろうか。
彼は楽しい時を過ごしているのに、私は困難な時だけに見舞われている。
彼は決して私のとった道を歩かなかったのに、
今日のクリスチャンが霊的な繁栄とみなしているものを多く持っている。

しかし私は、いろいろの悩みに襲われている。
いったいこれはどういうわけだろう。
私は人生を浪費しているのだろうか。
私は献げすぎたのだろうか。』

これがあなたの問題です。あなたはこう考えるのです。
もし自分があの兄弟の通った道に従っていたなら――
言うならば、困難を受けるほどに徹底してではなく、
祝福を受ける程度に献身していたなら、
また、主に閉じ込められてしまうほど徹底してではなく、
主に用いられる程度に献身していたなら、
何もかもうまく行っていた、と。
しかし、果してそうでしょうか。
あなたはそうでないことを、十二分に知りつくしているのです。

あなたの目を、ほかの兄弟から離しなさい!
あなたの主を見上げ、主が最も高く評価されるものはなんであるか、
自らに尋ねなさい。


神様、分かっています、私が捧げすぎたわけではないこと、
たとえ私が多くのものをあなたに費やしすぎたと非難されても、
それもこれも、あなたの御名を思えばこそであり、
あなたは必ず、私の外面的行為ではなく、
心の正直さをご覧になって、全てを判断されること…。

私が何もかもあなたに捧げた以上、
すべてのことはあなたが許されたために起こり、
すべての試練はあなたが私のためにはかって送られたものであり、
私の間違いも、成功も、何もかも、
あなたの御手から受けた最善の贈り物であることを信じています。

ですから、あなたのために生きたことを後悔する気持ちはありません。
たとえ私という器が、あなたの御手から滑り落ちて、
地に打ちつけられて、粉々に割れたように見える瞬間があっても、
主のために賭けたものは、何一つとして、無駄にはならないことを
私は知っています。

けれども、一つの願いが私の心にあります。
主よ、私があなたの道を歩いているという確信がほしいのです。
私の心はたやすく揺れ動き、不安になり、途方に暮れます。
私は平安のうちにとどまり、平らでまっすぐな道を歩いて行きたいのです。

華々しい成功などは何一つ要りませんから、
主よ、ただあなたの臨在を与えて下さい。
かのペンテコステの日に誰もが経験したように、
主が私と共にいて下さる、ということが、
弱さの中にあっても、はっきりと分かりさえすれば、
それでいいのです。

御霊を豊かに注いで下さい。
私をそのために清められ、整えられた器として下さい。

営所の外に出て

主の言葉ゆえに、人に避けられ、笑われる身となったエレミヤを思う。
もちろん、私が預言者に自分をなぞらえることは、不遜なたとえだと思うが、
あれもこれも、主の御名のために生きることを決意していなかったら、
起こらなかったはずの出来事ばかりです。

主よ、最終責任者はあなたですよね?
すべてを正しく裁いてくださる方は、あなたですよね?

実家にて、祈る時を持った。
私にはあまり良くない予感がしています。
それは、今までにも、繰り返し言ってきたことなのですが、
クリスチャンには、これから厳しい時代が始まるだろうということです。
もしも、用心と警戒を怠るならば、
主の民であっても、きっと悪しき日に立ちおおせないかも知れません。
ですから、今こそ、本気でキリストの中にとどまるべき時です。
神の守りの中に身を避けるべき時です。

今、門の外で苦しみを受けられた主のことを思い出し、
私たちも営所の外へ出て、
辱めを受けることをいとわず、十字架を負おうではありませんか。

キリストと共なる死に、しっかりとどまりましょう。
世に対して死んでいる者を、この世の誰が攻撃できるのでしょう。

私たちは、しっかりと主の死に結びついていなければなりません。
たとえ暗闇の中を歩む時でも、
しっかりとキリストの死の中にとどまっているならば、
 キリストの復活の命も必ずそこに働くでしょう。

そして、すでに死は打ち破られ、命によって飲み込まれたことを固く信じるのです。
 
私の義ではなく、キリストを信ずる信仰による義が、
暗闇の中に、朝日のように輝き出る時を待ち望みつつ。

万軍の主よ、へりくだって心優しい小羊よ、
あなたのはかりしれない御力と、限りない優しさに憩います。

カレンダー

06 2018/07 08
S M T W T F S
2 3 4 5 6 7
8 9 11 12 13 14
15 16 17 18 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー