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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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人の子が来る時、地上に信仰が見られるであろうか

主は仰せになりました。「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ18:8)

主の再臨の時、地上の人々はどのような心の状態で彼をお迎えするのでしょうか? 主イエスの仰せられたこの問いの意味を、私たちは、御子の降誕という出来 事の中に振り返ることができます。御子の降誕の際、人類は彼をどう迎え、彼のためにどのような場所を用意したでしょうか? その迎え方は、人々のどのよう な浅ましい心の状態を示していたでしょうか? 降誕の時の人類の反応が、すなわち再臨の主をお迎えする私たちクリスチャンの反応であって良いと思います か?

泉あるところⅡ(straysheep さん)のブログに非常に示唆に富んだ記事が掲載されていましたので、そのまま転載させていただきます。

私たちは自分の意志によって、今こそ、心の中から 「世に属するもの」、「地に属するもの」、「心のエジプト」を捨て去り、それらのものによって満たされるて生きることを断固拒否すべきではないでしょう か。 私たちは真に「上にあるもの」を慕い求めて生き、天の空気の中で生きることを主に願い求めるべきではないでしょうか? 上にあるものを求めるために は、下にあるものと決別することは避けられません。二心で生きる限り、私たちは天とは何であるかを明確に知ることはできないでしょう!

私たちは自分の心の愛する、地上のあれやこれやのものでいっぱいに満たされた心の要塞を捨て去り、その悪しき要塞を御子の十字架により、最後まで破壊し て、解体していただき、永遠へと至ることのない私たちの腐敗した思いと生活を、主の焼き尽くす火で根こそぎ燃やし尽くしていただいた上で、心の深みまで新 たにされて、全ての思いをとりこにしてキリストに服従させ、今度こそ、間違いなく、馬小屋の飼葉おけ以上の場所を、戸口に立って扉を叩いておられる主のた めにご用意すると、今度こそ、蔑みではなく、ふさわしい尊厳を持って、主をお迎えする決意があると、主の御前で信仰によって厳かに告白し、それを実行に移 させていただけるよう願い求めるべきではないでしょうか。

もしも私たちの態度の中に、たとえ他の用事を全て捨て去ってでも、主をお迎えするために全力を傾けようという思いが微塵も見られないのだとしたら、もしも 私たちが依然としてエジプトに心惹かれていることを公然と人前で告白し、エジプトの空気を欠かせないものとして慕い求め、エジプトのエキゾチックな香辛料 のきいた料理を愛し、音楽を愛し、踊りを愛して、さまざまな彩りの化粧の美女たちを愛して、それがなければ生きられないと告白しているのだとしたら、一 体、その私たちがどうして他の敬虔な人々の前で再臨について語る資格があるのでしょうか!? 

もしも私たちが主を愛すると言いながら、それでも、香水の漂う上等な羽根布団のある寝床(世)を愛し、御霊や他の兄弟姉妹が何と言おうとも、その居心地の 良さを楽しむことを捨てられないでいるなら、もしも私たちが自分の生活を愛し、取引や、飲み食いや、娶ったり嫁いだりすることや、自分のために用意された この世のあれやこれやの用事に心奪われたままでいるならば、その人は依然として、御子は飼い葉おけで十分だと言っているのと同じなのです。私たちが自分の 魂の愛するものを微塵も犠牲にすることなく、地上の楽しみと同時に、主のお心を得られると思っているのなら、それは大きな間違いです!

降誕の時に犯した過ちを、何の反省もなく、来臨の時に繰り返す人は、主の御前に恥を受け、御国から除外されるでしょう。御子は降誕の時には、私たち人類の 傲慢さの前でへりくだって下さったかも知れませんが、神を侮ってはなりません、来臨の時には、御子を蔑んだ人類の方が恥を受けるのです! 

私たちは自分の心の中から今こそエジプトを閉め出すべきです。これを「善悪路線」の問題にすりかえて、自分の自由を確保するために、その議論を脇に退ける 口実とすべきではありません。御霊の与えて下さった自由を、肉の働く機会として濫用すべきではありません! 花婿をどれほど愛するか、花婿のためにどれほ ど自分の魂の命を捧げるのか、神の妬む愛の激しさの前で、どれだけ自分の心を主にお返しできるのか、キリストの命のうちに隠されている、天に属する絶大で 無尽蔵の宝のゆえに、どれほど地上のものをふん土と思っていることを明確に証しながら生きるのか、この信仰の決意を実行に移すことは、ただ本人の決断によ らなければ、決して誰にも強制できないのです。

繰り返しますが、あなたが主に捧げる愛と犠牲(献身)の度合いの深さについては、決して何人たりとも忠告することはないでしょう、主でさえも、そのことに ついてあなたに何ら強制されることはないのです――たとえあなたがどれほど地的なものを恋い慕い、それに満たされて生きており、どれほどあなたの信仰が不 十分だったとしてもです。しかし、強制がないからといって、御霊の忠告を侮り、主に恥をかかせてでも、自己の安寧を優先する者は、来臨の時に自らが恥を受 けて退けられるでしょう。

重ね重ね言いますが、今はまだ兄弟姉妹で互いに助け合うことができます。互いの忠告、支えあいが可能です。しかし、来臨が真に差し迫った時には、灯火の油 が欠乏している兄弟姉妹を見ても、私たちはもう自分の油を分けてあげることはできないのです。油は本来、それぞれが神との一対一の関係で手に入れることし かできないからです。私たちは自分こそが愚かな花嫁となってしまわないように、今こそ、へりくだって御霊の忠告に耳を傾け、油を絶やさず、地を慕うことを やめ、天に生きることを第一に願い求めるべきではないでしょうか…。


飼葉おけのなかに

「客間には彼らのいる余地がなかったからである」(ルカ2:7)
「見よ、わたしはすぐに来る」(黙示録22:12)

選民としての歴史のうちに長い年月を経ましたユダヤ人は、預言と約束をもって育成されていました。彼らは時代について深刻な感覚をもっていましたから、彼らは約束の救い主を待ち望んでいたのです(ルカ2:15)

神はその真実をもって約束を重んじ彼らの待望みに答えて、遂に独り子を彼らの救いのために遣わし万民の救いとなし給いました。学者も宗教家も心してこの時を待ち、メシヤ待望を忘れませんでした。

ところが一面においてはユダヤはローマの属国として肉の生活に窮々としていました。事実神の遣わし給うた御子はご自身の国に来たり給うたのに、世は彼を受 け入れる余地がありませんでした。聖書に記されているように客間には余地がなかったのです。何と厳かな出来事でしょう。人の子は来たり給うたのに知らな かったのです。真の王は押しのけられ、この世の君が栄えています。

しかしこれは昔の出来事、よそごとに見ておられません。主イエスがわれわれの心に訪れ給う時、われわれの客間は他の客で混乱しており、世の旅人がわがもの 顔に飲食をほしいままにしていますし、われわれもそれらを押しのけて主を迎えようとの強い抵抗をしません。そして栄光の主は馬小屋の飼葉おけの中に宿られ たのです。あさましいことです。私どもは二千年前のクリスマスをふりかえって胸痛むように思います。しかし自分の心を反省します時、自分にも同じ心がひそ んでいますまいか。

客間の主客である救いの君が飼葉おけに迎えられ、神を喜ばせ奉る信仰の主客には馬小屋をお使いくださいと平然とし、当然のように思っているとは!

そんな生活でどうしてやがての日、主の前に立つことができましょうか。主のお顔をさけて暗い木かげにかくれるよりほかにありません。そんなことは思うだに辛いことです。

真実な心をもってクリスマスを喜ぶことはそうたやすいことではありません。真に罪と滅亡の恐ろしさを知り、救いの恵みの、何物にもかえられない価値を知っ た時本当の意味でクリスマスが祝えるようになります。大切な客間を主にささげ、熱い心をもって主を迎えまつる日こそ真のクリスマスです。そうでないと二千 余年前のある日のあの町のように世のもので心を一パイにしているのです。

救いの恵みを心から喜ぶ者は再び来たり給う主に対する待望も強いことです。その日首を挙げて主を迎えまつるために、また勝利と喜びにみつる朝を迎えるため に、きょうわが生活の客間を主に提供しましょう。人類同志の関係においては言訳も都合も肩巾ひろく通過できましょうが、すべてを知り給う主の前にわれらの 内なる思いはかくれる山かげも、身をよせる岩かげもありません。主に飼葉漕を提供した過去を悔い、砕けてへり下った心の客間に主を迎え、救い主の降誕を賛 美しましょう。やがて栄光の王としてきます主を思いつつ!

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著12月5日の項目から引用)
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舌を制御する(1)

神がご自分をヨブに啓示された時、私は自分をさげすみますが神に対するヨブの唯一の返答でした。ヨブがどのように神と共に歩んだか、そして神が彼の心の完全さについて何と言われたか思い出す時、これはとても注目すべきことであり、主を知るにつれてさらに深い取り扱いが必要になることを私たちに示します。

また私たちはヨブの人生から、心の完全さにもかかわらず、無意識の自己義認が多く存在しているかもしれないことを見ます!

繰り返しますが、決して忘れることのできない神との出会いがあります。この出会いは私たちを砕くので、私たちは他人を裁くことができません唯一の願いが自己を真に消し去られることであるような場所に導かれるには、長い時が必要です。その場所に至る時、自分自身に関して持っている知識が、私たちを何事にもでしゃばらないよう注意深くならせます。なぜなら私たちに言えるのは、「私を裁くのは主です」ということだけだからです。

真の自己放棄は私たちをとても素直にし、喜んで他の人より低い地位に着くようにし、努力しなくてもちりに下ることができるようにします。その時、「自分を低くする者は高くされます」

再びイザヤのことを考えましょう。神の幻は彼にとって何を意味したでしょうか。

「私は主を見た。……そして私は言った、『災いなるかな、私はもうだめだ! 私は唇の汚れた者だからだ。……しかも、私の目が万軍の主である王を見たのだから』」(イザヤ6:1,5)
 
これが神のメッセージを託される者たちに対する神の幻です。神はエレミヤに言われました、「もしあなたが卑しいことではなく尊いことを言うなら、あなたは私の口のようになる」。神の子供よ、あなたは自分の口をただ彼の口としてだけ主に用いていただくことを満足に思うほど、主に明け渡しておられるでしょうか? これは浅はかな会話を断ち切ることを意味します!


主イエスは「問題のある人」について弟子たちに話したことがあったでしょうか? 彼はユダについて他の人々と議論したでしょうか? あなたが他の働き人たちに話すかもしれないので、あなたに心を開くことを人々が恐れる、という経験をあなたはしたことがないでしょうか? 私たちは多くのことを不注意に話してはいないでしょうか? 私たちは「問題のある人」呼ばわりされることを好みません! 信頼している人に自分の心の奥底を打ち明け、後になってそれが他の人に筒抜けになっていたことを知るのは、愉快なことではありません。

神に真に占有されることは、実際生活に深く切り込みます。これは、神に私たちの生活すべてを、地上におられた時の主イエスの歩みとまったく同じにしていただくことを意味します。舌は神の支配下に置かれる最後の器官のようです

使徒ヤコブは、神にまったく占有されている人であるかどうかの最高の試金石として、舌を抑えることをあげました。私たちが神との交わりをこんなにも多く失ってしまう理由、そして神の臨在の環境からこんなにも速やかに出てしまう理由を、彼は私たちに告げます。ヤコブは舌を「船の舵」として描写しています。彼が言うには、舵手が舌を握るなら自分の望むままに体を動かすことができます。

ヤコブはさらに、舌は全身を汚し、天然の車輪すなわち天然のいのちを燃やす、と言っています。たとえば、あなたが傷つけられたとします。あなたはそのことを話し、自分だけでなく他の人々も燃やします。そして、神聖な臨在の香りを失ってしまいます。


神の啓示がイザヤに訪れた時、それは彼の唇を対処しました。彼は、「私は唇の汚れた者で、汚れた唇の民の間に住んでいる」としか言えませんでした。

舌が神の支配下にあるなら、神は他の人々に関して私たちを沈黙させ、傷について沈黙させ、時として自分の経験についても沈黙させます。キリストの生涯は非常に静かな生涯でした。

絶えず神の力の下にとどまりたいのなら、緊張した不自然な沈黙ではなく、神の中に静かに隠れることを学ばなければなりません。神の中に静かに隠れることは、私たちをとても静かにします。そのため、状況がどんなに悪くなっても、私たちはとても静穏に保たれ、瞬間的に不親切な言葉が口をついて出てくることもありません自分の経験、自分の傷、自分の働きについて、もはや人に話す必要がないということが、神と共なる深い歩みのしるしの一つです。大いに用いられているにもかかわらず、決してそれを話さないこと、傷つけられ、誤解されても、それを決して誰にも話さないことは、神がいかに私たちを支配しておられるかを示します。

ジェシー・ペンルイス著、『開かれた天』、第一章より


ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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