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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

遅くなっても待っておれ、それは必ずやって来る(2)

ある姉妹が、自分の理想の家を手に入れるために、何年間も祈り続けたことを語ってくれた。この婦人とは、KFCで出会い、KFCに疑問を持って離れた後、交わるようになり、今すでに彼女はもうこの世の人ではないのだが、KFCで出会った人の中では、例外的に、主にある真実な交わりの何たるかを筆者に教えてくれ、そして心から筆者を愛してくれた本当の姉妹であった。

その彼女が、筆者を自宅に招き(それは素晴らしい家であった)、若い頃から、このような家が与えられるようにと、家の図面を書いて、主に願い続けて来たのだと話してくれた。むろん、色んな紆余曲折があり、どこに土地を買うのかなどで、誤った選択をしそうになったことも何度もあると言っていた。

姉妹が亡くなった後、ご主人にも会ったのだが、実際に、彼女はその家が与えられる前から、「まるでその家がすでにあるように話していた」とのことであった。

面白い姉妹であった。その姉妹のご主人は病気がちな人で、何度も、死ぬような大病に見舞われ、彼女はひやひやさせられるのだが、その都度、彼女の熱心な祈りと、不思議な方法で、夫の病気は回復するのだった。夫があまりに大病を繰り返し、いつもそのために姉妹が祈っていたので、まさか妻である姉妹の方が先に召されるとは、誰も考えていなかったに違いない。

基本的に、やむを得ない手術を除いて、薬は使わず、長く入院しての闘病生活も送らずに、自然な生活の中で夫の病気を治すというのが彼女の方針だったので、彼女は一生懸命、夫のための健康食に力を入れていた。一度は、結石が出来たとき、手術せずにこれを治すために、夫婦でジェットコースターに乗ったら、それで治ってしまった、などという話をしていたこともある。

「神様の知恵よ。こんな不思議な楽しい方法で神様は主人に『手術』をなさったのよ」などと、彼女が喜んで証していたのを覚えている。

この姉妹の話していた内容は、信仰を持っている信者にも、にわかには信じがたいと思うような内容が実に多かったが、筆者にはよく分かる。

話は変わるようだが、最近、筆者がペットを何気なく獣医に連れて行った時に、誤診に遭うという出来事が起きた。些細な怪我の治療のために、獣医へ連れて行くと、それをきっかけに、別件で手術が必要だと医者に言われたのである。

「ヴィオロンさん、これは問題ですね。これは先天性の病気ですよ。こんな問題を知らずに押しつけられたとは、あなたは可哀想です。」

と、そこまで医者は言ったのであるが、その言葉が、全くの誤診だったのである。この誤診がもととなって、大変なすったもんだが起き、あわやペットそのものも手放すかというほどの事態へと発展したのであるが、筆者はそのハプニングの途中で、それが悪霊からの攻撃であると気づき、嘘の不安を振り払って、事なきを得た。

ペットを筆者に譲った人の確認、セカンド・オピニオン、サード・オピニオンの結果、それが獣医の完全な誤診であり、筆者は全く悩む必要のないことで悩まされていたことが判明したのである。

結果的に、問題はすべて嘘のように消えてしまい、平穏が取り戻された。だが、混乱させられ、対応を考えていた時間は、損失であったと言えるかも知れない。さらに、もしも万一、筆者が一人の獣医の診断に従って手術を決行していれば、ただ単に余計な費用がかかっていただけでなく、臓器の一部を永久に摘出し、ペットの一生に関わる重大な悪影響を招いていたことになる。まさに筆者自身が何を信じるのか、ということが問われていた瞬間であった。

筆者は自分自身のためにはよほどのことがない限り、薬も飲まず、医者になど極力かからないタイプなのだが、ペットのためということになると、専門家の判断を無条件に信じてしまいそうになる心の弱さがあることに気づかされた。

そのような不安を入り口として、暗闇の勢力が信者に罠をしかける。獣医が悪意を込めて故意に誤診したとまでは思わないが、この出来事の背景には、筆者の平穏とペットの健康を破壊しようとの暗闇の勢力からの悪魔的な意図が働いていたことは間違いない。

そういう出来事は、今まで、この他にも数知れず、起きて来た。だから、筆者のみならず、神を信じる信仰者の生活には、誰しも戦いがあり、信者は自分の生活に対して悪魔のしかける絶えざる妨害と攻撃の意図を見抜き、それらを全て主の御名によって撃退しながら、自分自身と自分の管理下にあるすべての者たちの平和と健康と安全を守り抜かなければならない義務があると筆者は確信している。

霊感商法のように、人の不安を煽り、それをきっかけに深刻な災いへと発展させようとすることは、暗闇の勢力の常套手段である。そして、悪魔の最終的な狙いは、死をもたらすことである。医者までも、そのきっかけとして利用される危険があることが分かった。だが、そのような試みの最中で、神は常に信者の心に問われる。あなたは何を信じるのかと。

神は筆者に問われる。あなたが信じているのは、神の守りの完全さか、それとも、悪魔のもたらす不完全さと、その結果としての滅びなのか。すなわち、筆者がこれまでにも信じて来た通り、神は信じる者とその家族に完全な健康と幸福と安全を与えて下さり、全ての局面において、守って下さることを信じ切るのか、それとも、神は理不尽な病気を送ったり、思いもかけない災いを下したりして、信じる者の生活を苦しめ、絶えず悩ます存在だと考えるのか。常に筆者自身が、何を信じるのかを選択して行かなければならないのである。

筆者はこれまで自分の生活の全ての局面において、神の守りがあることを確認し続けて生きて来たが、以上のようなことがあってから、神の守りの完全性を、以前よりもなお一層、確信するようになった。そして、神以外のものに頼り、助言を求めようとする心の弱さを、徹底的に追い払って行ったのである。

たとえば、筆者は以前には、専門家と称する人たちに一定の敬意を持ち、定期的に医者にかかるのも良いことだと考えていたが、そのような考えをも改め、たとえ自分に専門知識があるわけでない分野のことであっても、目に見える人間の言葉よりも、まず第一に、まことの命と健康を保証して下さるただ一人の神に信頼を置く生活に切り替えたのである。
 
もし筆者が神を信じていない人たちに助言を求めるならば、その不信者たちを通して、悪霊が筆者の望んでもいない、御言葉にもそぐわない助言や指導をもたらし、それがきっかけで大変な混乱が生活にもたらされる危険がある。筆者はそのようにして不信仰な人たちに心を煩わされ、翻弄される余地を極力、排除して行ったのである。

だから、そういったことの結果、このブログでそれまで受けつけていたコメントや、設置していたアクセス解析の装置も、すべて取り払ってしまった。良い読者も悪い読者もみなそれによって筆者への応答の余地を失ったわけであるが、それをもったいないとも思わない。

以来、このブログは完全な一方通行になった。すなわち、地から天への一方通行である。このブログはもはや人に捧げられるものではなく、天に向かってのみ捧げられるものになったのである。

他にも、例を挙げれば、スカイプをやめ、以前に登録していた転職サイトのようなものもすべて退会してしまった。登録していると色々な企業からオファーが送られて来て、かつてはそれを見るのも楽しく、筆者を必要としている多くの場所がこの地上にはあるように思われて、悪くない気がしていたものだ。だが、そのようなオファーは、大抵、以上に挙げた獣医の誤診と同じように、全く筆者の望みとは関係ない方向へと筆者を誘導し、無駄な時間を費やさせるだけで、結局、人生で何の助けにもならないのである。

キリスト者は、自分自身の人生の主導権を決して他人には預けず、何もかも、自分の意志によって決断し、決定して行かなければならない。それこそが、統治するということの意味なのである。キリストは、人間的には無力で無知に思われる我々の存在を通して、ご自身の完全な統治を現したいと願っておられるのであり、また、我々の人生をも、我々と共に、統べ治めて下さる。だが、その統治が実現するためには、まず他者からの無用な助言や忠告によって、知らぬ間に自己決定権を奪われるようなきっかけを作らないことである。いたずらに人に頼らず、主導権を明け渡さないことである。そのようなことが起きうる心のきっかけを、とことん排除して行かねばならないのである。

それはちょうど冬が来ると、ロシア人が家のあらゆる隙間を目張りして埋めてしまうのに似ているかも知れない。ロシア人は隙間風を嫌う。冬の冷たい隙間風は人の健康を思いもしない形で損ない、万病のもとになると考えられているため、彼らは本格的な冬が到来する前に、家の窓や扉の隙間を完全に塞いで、外からの風が家の中に全く入りこまないようにしてしまうのである。

それと同じように、筆者は霊的隙間風が筆者の信仰生活に入って来ないように、侵入口を徹底的にふさいだ。その結果、筆者の霊の家には出口がなくなってしまった、ただ一つの方向を除いては。信者は言う、「たとえ信者にとって四方は塞がっていても、天に通じる扉はいつでも開いているのですよ」

そうなのだ。上にあるものを求めなさい、地上のものに心を惹かれてはならない、と、聖書にある通り、我々信仰者の扉は、地上の人々に向かってではなく、ただ天に向かって開いている。我々の心の扉は、天におられるまことの神に向かって開いてさえいればそれで良い。専門家だとか、助言者だとか、教師だとか名乗ってやって来る人々に心を預けても、ほとんどの場合、願っている解決は来ないどころか、とんでもない結末が待ち受けているだけである。

我らのただ一人の助言者、救い主に、常に相談できる特権が与えられていることは大いなる幸いである。この方から、我々は必要な解決のすべてをいただくことができる。たとえ時に、神から来る解決が、遅いように思われ、かなり長い間、待たなければならないことがあったとしても、神はすべてに間に合い、すべてに十分に行き届く方である。

神には遅いということはないし、手遅れということもない。悪魔の囁きに負けて、人間的な不安を煽られて、取り返しのつかない性急な判断をしないことである。ただこの方に信頼し、この方にすべてを打ち明け、力となり、解決となっていただき、健やかに生きるのが、人にとっては最も安全な策である。
  

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遅くなっても待っておれ、それは必ずやって来る(1)

クリスチャンの間でよく語られている逸話に、信者が不信仰によって受け取らなかった天からの贈り物の幻というエピソードがある。

正確には記憶していないが、筆者が覚えているかぎり、こんな内容だったように思う。

ある信者が、幻の中で天国に連れられて行き、天使に天国の中を案内された。ある部屋の前で、信者はとても興味を惹かれ、立ち止まった。この部屋の中をぜひとも見てみたいので、扉を開けて欲しいと信者は天使に願う。だが、天使はその部屋は見ない方が良いと信者に言った。理由を尋ねると、天使はこう答える、「その部屋の中には、あなたが生前、神から贈られながらも、不信仰ゆえに受け取ろうとしなかったために、天に送り返されて来たプレゼントの山がしまってあるのです。」

信者は見ない方がいいと言われても納得できず、天使にどうにか懇願してその部屋を開けてもらってみた。実際に、その部屋には素敵なプレゼントの数々が天井に届くほどうずたかく積まれており、すべての贈り物に、その信者宛てのお祝いのカードまでついていた。どれもこれも、信者が確かに、こんなものがあれば、と生前、神に願って祈っていたものばかりであった。信者は愕然として、こんなにも多くの祝福を、神は自分宛てに送って下さっていたのに、自分は受け取りそこなっていたのかと、いたくがっかりしながら幻から目覚めるというような筋書きであった。

筆者はこの意地悪な作り話の内容をほとんど信じていない。

ある意味では、これは身につまされるような話である。実際に、筆者は不器用ゆえに天からの贈り物を受け取りそこなったことが幾度もある。明らかに、筆者自身が主に一生懸命にこいねがい、その願いに応えて、神が用意して下さったと分かっているものさえ、受け取りそこなったことが幾度もあるのだ。

人は本当に心から願っていたものが目の前に現れるとき、妙な緊張感を覚えるものだ。また、あまりにもタイミングよく物事が進むとき、怖れに駆られ、目の前にある祝福を受けとるのに、奇妙なためらいを覚えることがある。

そんなこんなで、せっかく祈り、またその祈りが応えられたにも関わらず、結局、筆者が怖れに駆られて受け取りそこなったものはたくさんあるのだ。だから、上記のようなエピソードは、まさに筆者にはよく当てはまっているように感じられる。

にも関わらず、筆者は以上のような話をまことだとは信じていないのである。

どうしてかというと、天からの贈り物にも、まず保管期限や不在通知なるものはあって、一度や二度、信者が不信仰によって受け取りそこなったからといって、それで終わりにならないからだ。

宅配便や、郵便と同じように、天から送られて来た荷物も、地上での一定の保管期間がある。それが過ぎると、天に送り返されてしまう。そこまでは確かなことだ。たとえば、祈りが応えられて、自分が受け取れるはずだったものも、長い間、怖れ、ためらっていると、自分の前を素通りして行き、他の人が代わりにそれを受け取り、他の人が祝福にあずかるのを見せられることもある。そうして祝福がもはや他人のものになってから、どっと後悔が押し寄せて来て、どうしてあの時、チャンスが与えられていたのに、もっと勇気を出してそれを受取ろうと行動しなかったのか、行動してさえいれば、それは今頃は自分のものになっていたはずなのにと、嘆いたりする。

だが、信者の人生に、本当はそんな後悔は必要ないのだと筆者は確信している。仮に保管期限を過ぎて、贈り物が天に返されたからと言って、一度や二度、祝福を受け取りそこなうと、天からの祝福は、それで終わりになってしまようなものなのかと言うと、そんなことは決してないからだ。

何よりも、私たちの神は、信者の目の前にたくさんのニンジンをぶら下げて、一番、早く大胆にニンジンに飛びついた者が、天の祝福にあずかるのです、などとおっしゃって、多くの信者たちを競争させるような意地悪な方ではない。早くニンジンに積極的に飛びつきさえすれば、天の祝福により多くあずかれると考えるのは、地上的な愚かな考えであり、錯覚である。

天からの贈り物は、一度、天に送り返されても、その後、何度も、何度も、形を変えて送られて来る。そして、後になれば、食べ物が腐ったりするように、中身が悪くなるのかと言えば、そういうことも全くない。むしろ、後になるほど良いものが送られて来るほどである。

人間の心は、体と同じように、絶えず変化するものであって、信者が神に願い出るものもの内容も、絶えず変化する。天からの贈り物は、常に過去ではなく、現在を起点として、信者が今、神に何を願うのか、それを基準に送られて来る。過去に何があったかなど、全く問題ではないのだ。

たとえば、一年前に買った服は、どんなに気に入っていても、今はもう着られないかも知れない。たとえ着ても、自分には似合わなくなっている可能性がある。人はそれを見て、「あなたが太ったのが悪い。前はもっとスリムだったから、その服がよく似合っていた。あなたはもっと痩せるべきだ」と言うかも知れない。あるいは、「あなたが老けたのが悪い。もっと前は若々しく見えたから、その服がよく似合っていた。あなたは十年ほど若返るべきだ」と言うかも知れない。

だが、よく考えてみれば分かることであるが、そんな考えの何と非現実的なことか。人間は今の自分に合う服を探すべきなのであって、過去に遡って、過去に買った服に現在の自分を合わせるなどナンセンスである。そもそも、服が人間に合わせて作られるべきなのであって、人間が服に自分を合わせるなど馬鹿げている。

だから、それと全く同じように、もし仮に信者が過去に受け取りそこなった天からの祝福なるものがあったとしても、それはその時を逸してしまった以上、今はもうたとえ送られて来ても、役に立たないものばかりである。今、信者が必要としているものは、過去とは違っているはずである。それなのに、過去に受け取りそこなったものを数え上げては、自分の不信仰を責めるなどという無意味な悪循環に陥るよりは、今、自分に何が必要なのかを、率直に天の父に申し上げた方がどれほど生産的か。

にも関わらず、大事にしていた服が着られなくなった時に、人が惨めさや失望を味わい、自分がすっかり変わってしまったことに自責の念すら覚えることがあるように、信仰においても、以上のようなナンセンスな考え方を、信者は自分の信仰生活に適用しがちである。すなわち、過去のことを振り返って、自分の不信仰を責め、あの時、ここで間違ったから、このような惨めな結果に至ったのだ、とか、あの時、ああしていれば、こうはならなかった・・・などとくよくよ考え、まるで自分の行動次第で、現在とは違う、バラ色の可能性が開けていたかのように想像をめぐらして、自分を責める思いがこみ上げて来ることがあるのだ。

あたかも、自分が受け取らなかった恵みの山がストックされた部屋がどこかにあって、意地の悪い天使が、死後、あなたにそれを見せて、あなたにはもっと恵まれた生活の可能性があり得たのですよ、でも、もう今となっては遅いですね、と囁いているかのように。

だが、そんな思いには、きっぱりとさよならを告げて、地獄へお帰りいただかなくてはいけない。その思いは、御霊から来たものではない。実際には、そんな部屋はどこにも存在しないのだ。天からの恵みは、あなたを満たすために送られて来るものであって、受取人であるあなたに恥をかかせるために送られて来たものではない。

神はあなたをあらゆる祝福で満たし、慰め、喜ばせたいのであって、それによって、ご自分も栄光を受けたいと願っておられるのである。神があなたにプレゼントを贈るのは、あなたの不信仰を責めるためではなく、あなたがそれを受け取りそこなって絶えず失意に落ち込むためではなく、あなたが神の気前の良さ、神のあなたへの愛の深さ、あなたへの思いやりの深さを、生きて知るためなのである。

だから、もしあなたが神の恵みを受けとることに不器用であったとしても、自分が願った祈りが本当に叶えられるのか、不信仰なときがあったとしても、神は何度も、何度も、あなたが神はどういうお方なのかを知るまで、あきらめることなく、プレゼントの山を送り続けられる。筆者はそのことを保証できる。

そういう意味では、神は、愛した女性にあきらめずにプロポーズを続ける求婚者のような方であって、一度や二度、いや、百度、二百度、すれ違いが続いたとしても、神の側からは、そんなことは何の障害にもならず、あなたが神の方に注意を向けて、神への忠実と愛を失わないでいる限りにおいて、必ず、また恵みの山を何度でもあなたのもとへ送られるのである。しかも、それは一年前のあなたの願いに応えられるのではなく、現在のあなたの心の願いに基づいて、神が実行されることなのである。

求めなさい、そうすれば与えられます。探しなさい、そうすれば見つかります。叩きなさい、そうすれば開かれます。というのは、そういうことである。

ここには、「いついつまで」という期限は存在しない。どんな風に懇願したか、という態度にも条件はない。具体的にどういうものならば、求めても良いのか、リクエストの内容にも、条件はない。ただ求めなさい、と言われているだけである。

地上における人の人生には限りがあるので、人間は、自分の努力が足りなくて、何かが手遅れになり、もう間に合わなくなるのではないかという怖れを常に抱えている。常に、急がなければならない、もっと大胆に、積極的にならなければならない、そうでなければ、せっかくのチャンスを逸してしまう、という恐怖が心に存在する。だが、神の側からは、人間の有限性など、全く問題にならないのである。

神はあなたの時を知っておられ、あなたの心を知っておられ、あなたの限界を知っておられ、あなたがこの地上では一瞬で消えて行くようなはかない存在であることを知っておられる。どんなにあなたが頑張って、完璧に振る舞おうとしても、あなたにできることなどもともと限られている。それにも関わらず、神は大いなる祝福であなたを満たしたい、と言われるのである。それはあなたが努力によって達成する課題ではなく、神の側からの願いなのである。

神がアブラハムに向かって、彼の子孫が空の星のように、海の砂のように多くなると言われた時、アブラハムにはまだ一人の息子もなかった。あなたは、周りを見回して、自分には何もない、と言うかも知れない。もし本当に神が自分を祝福されたならば、豊かな命で満たして下さったならば、この何もない状況は、何が原因なのか、神が間違っているのでなければ、多分、自分の不信仰のせいで生じたのに違いない、と思うかも知れない。そして、何も結果らしい結果が出ていないことで、自分を責めたり、不信仰ゆえに受け取りそこなった宝の山がどこかに隠されているに違いない、などという無駄な想像までもめぐらすかも知れない。

だが、そうではないのだ。神の祝福は、一見、届くのが遅いように見える、このことをよく覚えておくことも有益である。むろん、早い時もあるのだが、それはあなたが願ってから、あなたの手元に届くまでに、時差があるのが普通だ。随分、長いこと待たされることもあり、一年以上の月日が過ぎ、あなたは自分の願いをもう忘れ、あきらめかかっていることもある。だが、それは必ず、届くのだ。

だから、一体、何のせいで恵みが手元に届くのが遅れているのか、それが人間の側の不信仰によるのか、不器用さのためなのか、それとも別の原因によるのか、などといったことは探らないが良い。それよりも、あくまで神に求め続けることが肝心である。

求めることに、遅すぎるということはない。信者が何かを神に求めることに、期限はつけられていない。何かを願い出るならば、いついつまでに神に予約しなければ、手遅れになる、などとも、聖書に書かれていない。つまり、信者は生きている限り、どんなことでも、神に求め続ければ良いのである。もし期限を考慮されるとしたら、それは神の側で考慮される。神があなたの状況をご覧になって、いつまでに何を送れば良いのかをきちんと考慮される。神はすべてにおいて、必要なタイミングを知っておられ、万事を良きにはからうことがおできになるので、そこに全幅の信頼を置くべきである。だから、遅すぎるかどうか、といったことは、あなたが心配すべきことではないのだ。

信仰においては、遅すぎるということはない。神はすべてに間に合う方である。神にあっては、手遅れであるとか、遅すぎるとか、不可能であるということは、存在しないのである。神ご自身が完全な救いであり、解決だからである。
 

<つづく>
 

ショッピングモールへ

昨日、初めて地域のショッピングモールへ出かけました。この地域に慣れない私は、どこへ行けば手に入るのか分かりませ ん。ネットで検索すると、なんと、最寄り駅の近くに大きなショッピングモールがあることを発見! バイクで15分程度の距離です。道に迷い、スピード違反 の取締りをしている警官に道を尋ねたりしながら、何とかたどり着きました。しかも、破格の買い物ができました。ウールとカシミヤのコートがセールであり得 ないような値段(9割引)になっていました。単身者も、家族連れも、一日のんびりとくつろげる場所のようです。

愛する主よ、私たちの兄弟姉妹を職場にあってお守り下さい。また、これから勤務に着こうとしている全ての人々をお守り下さい。私たちの日々の糧を、必要の全てを守って下さる主を信じ、あなたに感謝を捧げます。

<2016年 追記>

横浜に来る前、岡山の地でも、私は暇さえあれば、近くの大型ショッピングモールへ出かけていた。昔から、大型ショッピングモールは私の棲息の地と言っても良いほどで、買い物のためだけではなく、休息のため、散策のため、思いを巡らすために役立ってくれた。

この地にやって来たとき、近くのショッピングモールはまだ建設されたばかりであった。まるで私のために、神様が備えて下さったかのようだと感じたことを覚えている。今でも、車で毎日のようにそこへ出かけるので、食べ物から、着る物から、色んな買い物に役立ってくれている。

このように便利な場所にいるわけだが、それでも、家が手狭になって来たので、新たな場所へ行きたいという願いが最近、心に起きて来た。おそらく、横浜を離れることはなかろう。

横浜は貿易の町である。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を・・・」とあるように、世界に目を向けて、世界に影響を及ぼすような何かをしたいのである。もちろん、あくまで、私のケーニヒスベルクを拠点としながら。

哲学者カントが自分のケーニヒスベルクに全世界を集めたというならば、ましてキリスト者はそれが出来るはずである。ちなみに、東プロイセンの主都だったケーニヒスベルクは今はなく、美しい町だったようだが、その面影も今は全く残ってはいない。だから、カントのケーニヒスベルクは今や幻なのである。

筆者のケーニヒスベルクも幻である。それは筆者がこの地では寄留者に過ぎないからであって、筆者は天に見えない拠点を置いて、そこにすべてを集めようとしているからである。だが、その拠点は、それはそれは美しい都である。

筆者はこの天の都を拠点として、そこにかなり色々なものを呼んで来た。だが、神の命を通して、どれだけ多くのことができるのか、天の支配がどれほど地に及ぶものなのか、もっともっと確かめてみたいと思うのだ。

キリストの内に隠れる(3)

人は、自ら発した言葉によって、自分の霊的な世界を規定し、霊において創造する。

だが、言葉は誤りやすい不完全なもので、私たちの思いを必ずしも正確に表さない場合がある。だから、キリスト者の信仰告白は、決して言葉だけが全てなのではない。

キリスト者は、自らの言葉と、心の思いと、態度とで、自らの霊的世界を規定して行く。

むろん、悪魔と暗闇の軍勢は、この世を支配下に置いて、ありとあらゆる厄災と混乱を日々、そこにもたらし続けている。

その混乱に満ちた世に身を置いていながら、信者は悪魔の支配とは全く別の、キリストの統治をこの世に確かにもたらしている存在なのである。

キリストの統治とは、すべては御子の御業によって、永遠に完成された、という統治である。それは混乱ではなく秩序と調和に満ち、何の欠けたところもない、神の御心にかなう統治である。
 
そして、信者の「統治」は、主と共なる霊的な創造行為であり、信者自身の言葉と、思いと、態度によって、その統治内容が規定されて行くのである。

キリストによって新しく生まれた人は、神の命に基づく霊的統治の力を知り、これを引き出すべきである。それによって悪魔に勝利する方法を見つけるべきである。

もし注意深く自分の心と周囲で起きている事柄の関係を観察するならば、信者はたとえ気づいていなくとも、自分の言葉と心の願いによって、霊的統治権を行使していることが分かるであろう。

信者は自分が願っているものを、神に率直に願い出て、実体化することができる。だから、自分が何を願っているのか、心の本当の願いに正直になって、これを言葉にして神に求めなさい。

世がますます悪くなって行くからと言って、その影響に心を支配されて、悪い言葉や、悪い想像や、悲観的で絶望的な思いに明け暮れるのをやめて、自分は神に何をしてほしいのか、心の中にある本当の願いを率直に言い表しなさい。

言葉に出して祈ることも有益であるし、言葉に出さずに心の中で祈っても良い。紙に書き出しても良いし、人に伝えても良い。
 
これは世で言われているような、単なる「ポジティブ・シンキング」やら、自己啓発といった類の話ではない。ただ聖書の神がどのような方であるか、そしてどれほど神が信者を愛して下さり、信者に豊かな命を与えて下さり、信者を常に気にかけて、あらゆる恵みで満たして下さろうと待ち構えておられる方であるか、そのことだけを一心に見つめ、あらゆる状況にも関わらず、それだけを事実として受け取るのである。

もし信者が自分の願いを神に率直に言い表したら、それがすでに霊的な世界において実体化されたことを信じて、受けとる態勢を整えるべきである。少しばかりの時差を置いて、それは現実になる。信者の願いが、御言葉に基づいて、現実になって現れて来た時に、「本当に願いが叶えられるだろうか」などと、不安がっていると、受けとるタイミングを損なう。だから、そうならなくて済むよう、神に何かを願ったら、心の不安を捨て、しっかりと神を信じて、心を期待でいっぱいにしながら、いつどんなタイミングでそれが与えられても、しっかりと握れるよう、忍耐強く待ち続けることである。時間がかかったからと言って、神を疑わず、動揺しないことである。

悲しいことがあっても、落ち込むことがあっても、死のあるところには復活が働くから、神は信者の「損失」に見える出来事を、もっと豊かな祝福で覆って下さることを信じるべきである。何が起きても、神を賛美し、それを神の偉大さと恵み深さが証明されるための機会へと変えて行けることを確信すべきである。

信者はそのようにして、自分の心と思いと態度とをコントロールすべきである。それはただネガティブな気分に落ち込まないといったことではなく、常に神のご性質、神のご人格、神の御思いに心を向けるようコントロールすべきなのである。
 
この世の状況は移り変わるが、神は移り変わらない。どちらがリアリティかは一目瞭然である。リアリティでないものに翻弄されるのは、最小限度にした方が良い。世の中の情勢がどうあれ、信者を取り巻く状況がどれほど悲観的に見えたとしても、神があらゆる祝福で信者を満たそうと願っておられるその御心は決して変わらないのだ。

だから、奴隷が主人の手を一心に見つめるように、信者は期待を込めて、神を見つめるべきである。

分厚い雲の上にも、常に太陽が輝いているように、世が闇に覆われていようとも、信者がその混乱から目を背け、天に目を向けるならば、そこに光輝く、永遠に変わらないお方がおられ、いつでも、神との同労によって、信者は環境に対する支配権を行使できる。

神のご性質は決して変わらないこと、その神が信者の味方であり、信者と共に生き、歩んで下さることを固く信ずべきである。

エペソ書にあるように、神はキリストにあって、私たち信ずる者を天地の基が据えられる前から選び出し、そしてあらゆる霊的祝福ですでに満たして下さっているのである。

繰り返すが、神はすでにキリストを通して、信者をあらゆる霊的祝福で満たして下さっているのである。この祝福を生きて実体化することが、信者の務めである。

だから、この世の状況がどうあれ、自分が置かれている状態がどうあれ、過去に何が起こったにせよ、そうした一時的に過ぎない状況を見て、恐れに駆られ、悲観的な思いに支配されたり、悩みに落ち込んで立ち上がれなくなるようなことを、可能な限り、避けるべきである。

状況から目をそらしなさい。そして天に目を上げなさい。

状況は一時的なものに過ぎないが、神は永遠に変わらない確かなお方であることに目を向けなさい。そして、あなたはもはや一時的なものから生まれたのではなく、永遠なるお方から生まれたのであり、キリストは永遠にあなたと一つとなって下さり、あなたのために常に父なる神にとりなし、あなたに必要なすべてを供給して下さる事実に目を向けなさい。

心に平安がやって来て、神がどのような方であるかがはっきりするまで、状況から目を背けて、天におられる父なる神だけに目を向け続けなさい。そして、あなたのものである天の祝福と恵みに思いを向けて、これを大胆に地上に引き下ろしなさい。

キリストの内に隠れる(2)

「緑の牧場」、「憩いの水際」と「死の陰の谷」はワンセットである。

キリストの命にある偉大な解放の御業と、命のかすかな現れさえ見えないほどの闇に包まれた暗いトンネルは、あたかも車の両輪のようなもので、どちらか一方だけを選び取ることはできない。

復活は、常に死と共に働く。もし信仰さえあるならば、死のあるところに、復活があると言って良い。

だから、たとえ信者が、暗いトンネルの中のようなところにいて、神の命の大胆な現れが今目に見える形で目の前に広がっておらずとも、それでも信者は信じるべきである、キリストは昨日も今日も永遠に変わらない方であり、そのはかりしれない神の命は今の瞬間にも、信者の内に生きて働いていることを。

信者はキリストが霊の内に生き生きと啓示されている時だけでなく、神が遠くにおられるように感じられる時であっても、信じるべきである、自分が神を選んだのではなく、神が信者を選ばれたのであって、自分が枝として幹につながっていること、その結合によって、信者がキリストと一つであること、キリストが世の終わりまで、目に見えるどんな人間よりも近しく、親しく、信者に寄り添い、信者を助けて下さり、信者と一つとなって、信者の内で生きて下さることを。

生きることはキリスト、死ぬことは益・・・、どのような瞬間も、起きるときも、寝るときも、食べるときも、出かけるときも、歩くときも、何をしているときも、そこにキリストが共に働いて下さり、信者の一つ一つの行動を、天的な統治の中で生かして下さることを信ずべきである。

キリスト者は、キリストと同労して、この地にキリストの命による支配をもたらすべき存在である。

信者の存在そのものが「統治」なのである。このことに気づかなければならない。 

それは「主と共なる統治」である。この統治の力を、死の陰の谷を歩むときにも、信者はそこにもたらすべきなのである。

「私を信じる者は、二度と渇くことなく、その腹から、生ける水が川々となって流れ出すだろう」

と、主イエスが言われたのは、そういうことである。

「なぜこの状況はこんなにひどく、なぜこの地は砂漠のようで、潤っていないのだろうか」、「なぜ私から流れ出る命の川はこんなにか細いのだろうか」などと考えて、悩みながら、待ち続けるのをやめなさい。

信者が生長したら、生ける水の川がもっとほとばしり出るようになる、と考えるのをやめなさい。「主イエスよ、どうしてあなたは私を通して、こんなに貧弱なわざしかなさらないのでしょうか。もっと私から豊かに現れ出て下さい。もっと私を大胆な器にして下さい」などと懇願して祈るのをやめなさい。

主イエスが言われたのは、将来のことではなく、今のことなのである。

すなわち、信者から、生ける水の川々が奔流のように激しくほとばしり出て流れ出すのは、遠い将来のことではなく、明日のことでもなく、昨日のことでもなく、今のことなのである。

あなたからの主イエスの流出が貧弱なのではなく、あなたが信じていないから、何も起こらないだけである。

あなたがキリストと一体であり、あふれ出る命の泉なる方は、あなたと一つであり、あなたは今瞬間、これを小川のようにではなく、奔流のように、洪水のように、ダムのようにもたらすことができることを信じなさい。

たとえ周りに「死の陰の谷」しか見当たらなくとも、そこに、「緑の牧場」と、「憩いの水際」をもたらすのは、信者が主と共に同労して行うことであり、御名によって、あなたにその力が与えられていることを信じなさい。それはあなたが命じて作り出すものである。

弱々しく「もし御心ならこうして下さい、ああして下さい。もっと私を強めて下さい」と懇願するのではなく、状況に向かって命じなさい。枯れた骨が立ち上がり、砂漠に水が流れ、不毛の地が緑の牧場に変えられるよう、状況に向かって命じなさい。

生ける水の川々は、今まさに信者であるあなたの腹を突き破ってあふれ出ようとしていることを確信し、その水を豊かに流し出しなさい。

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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