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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

十字架の死と復活の原則―死よ、おまえの棘はどこにあるのか。死を打ち破り、よみがえられたキリストの御業―

さて、記事では、これからずっと、キリストにある新しい人(栄光から栄光へ主の似姿に変えられて行くこと、復活の命による統治、命の御霊の法則)というテーマを追って行きたいと考えているが、このテーマについて、何かしら方法論めいたものを記すのは土台、無理であるばかりか、避けるべきことだと考えている。

なぜなら、こうした問題には決まった方法論というものは存在しないと思うからだ。筆者が考えているのは、信者が何かしら偉大な宣教者や、偉大な人格者となったり、超人的な力を発揮して生きるための方法論を見つけることではない。

もちろん、筆者は、キリストの復活の命が、父なる神の御心にかなった天的な統治そのものであり、そうである以上、この命によって生かされるキリスト者には、様々な不思議が起きることを否定しない。だが、それでも、キリストにある新しい人とは、決して超人めいた存在を意味するのではなく、むしろ、ごくごく自然で素朴な人間なのである。それは、信者がキリストにあって、神が本来かくあれかしと意図してその人を創造された通りの、のびのびとして誰にも似ていない自然な個性を生きることであり、主ご自身がそうであられたように、調和の取れたあるべき人間として、地上を生きることであると考えている。

だが、調和の取れたあるべき人間と言っても、それは決して、どんな苦難や挫折や失敗とも無縁の、何かしら偉大で理想的な人間の標準や鋳型を意味するのではない。そもそも、信者になったとたんに、信者の人格が突如として高められ、すべての心の葛藤がなくなって、どんな困難や苦しみにも直面せずに生きられるようになると考えるのは、大きな間違いである。

むしろ、信者になればこそ、起きて来る葛藤もある。ジョージ・ミュラーやハドソン・テイラーなどの信仰者の伝記を読んでもすぐに分かることだが、信者になって改めて生じる罪との闘い、聖潔への願いなど、キリスト者にならなければ起きない葛藤というものも存在する。また、信仰ゆえの苦難や迫害なども起きて来る。

だが、そのような戦いから来る葛藤をさて置いても、筆者は、キリストにある信者の内的刷新とは、一直線に高みへと昇って行くというような、非常に分かりやすい単純な変化の過程を辿るとは思わない。ワインにも熟成期間があるように、信者の人生には、ただがむしゃらに前進するだけではなく、一見、何のためにあるのかも分からないような「遅延」や「停滞」の時期も必要なのではないかと思う。

これは筆者の自己弁護のために作り出した詭弁ではない。もしそうでなければ、何のために、アブラハムとサラは、待望の息子イサクの誕生をあれほど長い間、待ち望まねばならなかったのか? なぜヤコブはラケルを得る前にレアを娶らねばならなかったのか? なぜヨセフは兄弟に裏切られ、エジプトへ売られねばならなかったのか?そもそも、なぜキリストは十字架にかけれられ、死を経ねばならなかったのか?

信者が意識していなくとも、神は、天然の命から来る衝動が死に絶えるまで、信者の人生に「停滞」や「遅延」のように見える期間を許される。それは神ご自身が用意されるものであって、信者が自ら望んで獲得するものではないが、ある意味、十字架の死の象徴であり、霊的な葬りの期間である。

さて、前回の続きとなるが、筆者はある商人からヴァイオリンを買った。それはそれほどまでに大した楽器ではないので、帰郷の際に、子供の頃から練習していたヴァイオリンを家人に借りてみると、そちらの方が良い音がするように思われた上、体にもよくなじんでいた。むろん、どちらの楽器にも良さはあるのだが、弾き続けた楽器以上のものはない。そして、このなじみ深い楽器を手に取って数週間が過ぎると、子供の頃に練習していた曲がいくつも自然と思い起こされるのだった。

世間では、楽器をマスターするには、15歳頃から、どんなに遅くとも20歳を迎える頃までに、技術的に完成の域に達していないと、一流の水準に達するには遅すぎるものと考えられている。つまり、成人するまでの間に、完全なテクニックをものにできなければ、その後は、どんなにやっても、しょせんプロの水準とはならず、生涯、アマチュアの域を出ないと考えられている。そういうわけで、当然ながら、プロの音楽家を目指す人々は、物心ついたその時からずっと楽器を弾き続ける。10代後半で技術的完成の域に達し、その後、60歳、70歳を迎え、死ぬまでずっと楽器を弾き続けるのである。

しかしながら、以上に記した通り、十代ですでに完成の域に達していなければ、その後はどんなにやっても、しょせん、お楽しみ程度にしかならないという考えは、多くの人々が音楽に取り組むにあたって、あまりにも深い、無意味な絶望感と無力感を与える障壁となっているように筆者は思う。筆者には、果たして、このような考えは本当に正しいのだろうかと首をかしげざるを得ない部分がある。

筆者は、ピアノを弾くにあたって、幾度も、何年間ものブランクを経験したが、不思議なことに、かなり長い間、ピアノの鍵盤に触れずにいても、ある時、ふと練習を再開してみると、最後に弾き辞めた時から、まるでほとんど歳月が経っていないかのように、最後に弾いた時の曲のイメージがそっくり鮮やかに眼前に出現するということが多々起きた。もちろん、忘却や、運動能力の低下が全く起きないわけではないが、それでも、一旦、ある程度の水準に達したものは、そうそう簡単に忘れ去られたりするものではない。むしろ、黙って「寝かせていた」期間に、さらなる熟成を遂げていたと判明することもある(これはブランクなしに弾き続けている時でさえ起きる。三日、四日ほど、取り組んでいる曲をあえて「寝かせておく」と、もう一度弾いた時に、最後に弾いたときよりも圧倒的に曲の完成度があがっていることはよくある。)

このように、音楽には、寝かせておいても、演奏家の人格の成長と共に、沈黙のうちに熟成する可能性があるのだ、と筆者は確信している。その熟成期間が、一日、二日程度でなく、なんと十年以上に渡ることもありうるものと思う。日々、楽器や鍵盤に触れて、がむしゃらに練習し続けることだけが全てではない。演奏家が自分の人生を通して得たすべての経験が総合的に作用して、曲のイメージが完成するのである。その意味では、人が生きれば生きるほど、演奏に深みが増して来るのは当然であり、十代前半の子供たちをまるで神童のごとくもてはやし、若い時期を過ぎてしまえば、すでに演奏家としてのデビューの時期も通り過ぎ、演奏の価値もその後は落ちていくだけであるかのように思い込む風潮は、完全に間違っていると言わざるを得ない。

確かに、語学と同じように、音楽にも、若いうちに基礎を習得してしまわねば、後からのつけ足しが極めて困難な部分が存在することは否めないとはいえ、単に基礎を習得しただけでは、どんなに優れた技術があろうとも、機械仕掛けの人形とほとんど変わらない。さらに、演奏は漬物のように、時間をかけて弾きこまなければ、決してその人のものにはならず、良い味は出て来ない。

筆者は楽譜を読むのは遅い方ではないが、それでも、一つの曲を本当に自分のものにしたいと願うなら、どんなに少なくとも、一カ月以上の時間をかけて、弾きこむことがどうしても必要となる。楽譜通りに弾くだけが目標であれば、場合によっては初見か、数日もあれば十分という曲もたくさんあろう。しかし、それでは、間違いなく弾いたとしても、しょせん「楽譜通り」でしかない。曲に込められた情感、イメージ、思想、芸術性といったものを読み込んで、自分なりの形を完成し、それを思うように表現できるようになるためには、どうしても、一定の時間が必要である。その期間が、一カ月では、あまりに短すぎると言えるだろう。

この「熟成期間」には、必ずしも自分でその曲を弾きこむだけでなく、優れた演奏家の演奏を聴いたり、楽譜を読み直しながら、新たなインスピレーションを受けて、頭の中で曲のイメージを練り直したりすることが有益である。散歩中に思索を巡らしているうちに、それまで何度も聴き、弾いて来た曲のイメージが、突如として「分かった」ということもよくある。

こうして、セールスマンが足しげく営業に通いながら、自分のセールストークを磨いて行くように、曲想を練り上げ、それを完全に自分のものとし、自分自身の言葉として表現するためには、一定の期間がどうしても必要なのである。それはただ間違いなく指を動かして楽器を正しく演奏するために必要な期間ではなく、自分が何を表現しようとしているのか、その全体像を掴むための期間である。

話を戻すと、筆者は、信者の人生にも、このような時期があるかも知れないと思う。人から見れば、一体、何のために必要なのかも分からない、成果からはほど遠いように見える、「無駄な時間」である。同じパッセージをうんざりするほど繰り返しているだけのような時もあれば、まるで演奏など放棄したかのように、楽器から遠ざかり、黙って思索を巡らしているだけの時もあろう。全く何もしていない、という時さえ多く存在するかも知れない。だが、たとえそうであっても、その人の心の内側に深い探求があり、どれだけ多くの困難、どれだけ多くの障害、どれだけ長い遅延や停滞があったとしても、あるいは、生きているうちに達成不可能であるとか、手遅れであると宣告されても、なお諦めきれないほどの切なる希求が存在するのであれば、それは「何もしていない期間」ではないのだ。

その希求とは、ただ優れた楽曲を譜面通りに弾けるようになりたいという程度の浅薄な願いではない。曲の向こう側にあるもの、曲を作り出す源となる壮大な深みに手を伸ばし、何とかしてそこに至りつき、一つになりたいという願いなのである。

このように、筆者は、音楽の場合と同じように、キリストにある新しい人をも、信者が自らの努力によって獲得するのは不可能であると考えている。探求する努力は必要であるとはいえ、それは努力だけによって到達できるものではない。信者の側には、追い求めたいとの切なる希求があるきりで、それを達成させて下さるのはあくまで神である。そして、それは決して、若ければ若いほど良いといったような安直な歩みではなく、人の目には実に不思議な、しばしば逆説的な形で達成されるような気がしてならない。

さて、筆者がこの度、地上のふるさとに戻って来たのは、郷里にある親族を見舞うためであったが、この親族はすでに90歳を超えており、病床にあるため、この年齢から察するに、そろそろ生涯の終わりに来ているのではないかと見られる。しかし、長年、他宗教の信者であったので、帰郷の際、筆者はどちらかと言えば、気が重かった。もっと前に、この親族が健康な時期に、信仰について長く話し合ったが、共通理解に達しなかった記憶も残っている。

そこで、帰省前、筆者は、自分で書いた「死人のことは死人に任せなさい」という記事を思い出し、まるでその記事が不吉な予言となって、今回、別な親族のための思わぬ帰郷を招いたかのように感じたりもした。またもや、筆者は、キリストを受け入れないまま、親族を見送らねばならないのだろうか? そのために帰郷することにどんな意味があるのだろうか?という、敗北感のような感情にも襲われた。

しかしながら、筆者は、その無力感や敗北感にも似た悪しき感情を撃退し、悪魔に恥をかかせ、神に栄光を帰することだけに集中しようと決めたのであった。このところ、筆者はずっと、そういった「いかにもそれらしく感じられる」、「現実はすでに決定済みで、悪しき結末は動かせないものであるかのような感覚」、しかも、「その悪い出来事が、まるでキリスト者のせいで起きたものであるかのように、信者に罪悪感を呼び起こそうとする感覚」に、徹底的に抗って、願いを獲得するまでしぶとく諦めないで神に懇願し続ける姿勢が、信者にとっていかに重要なものであるかを学習させられていた。

そこで、筆者は、長年、他宗教の信者であったからと言って、この親族が聖書の神による救いを拒んだまま亡くなるかも知れない、という予想に、徹底的に抗うことに決めたのであった。筆者が見舞った時、この親族は、まだそれなりに元気ではあるが、他宗教の説教の録音テープを握りしめるようにして聞いており、それを心の安定剤にしようとしているように見えた。そして、残された元気を、食べることや、飲むことや、体の調子を向上させることだけに費やしており、周囲もそれを手助けしており、そこに伝道の余地など微塵も残されているように見えなかった。また、そのチャンスもめぐって来なかった。それゆえ、筆者の心は絶望感に覆われかけた。

が、しかし、数日経って、病床にある親族の様子が少し変わって来た。このまま話すチャンスもないままに別れが来るのであろうかと予想されるほど、コンディションに浮き沈みが見られたとき、筆者は、伝道のチャンスを、改めて神に願い求めた。すると、その機会が少しずつ巡って来たのである。

筆者は、この親族が、出会い頭に、筆者に向かって、「苦しまなくていいように、キリストさんに祈ってもらえるか」と尋ねて来たことをとりあげて、筆者だけが代わりに祈っても、本人に信仰がなければ、神に聞き届けられず、ほとんど意味がないことを話した。そして、自分でキリストを信じるように勧めた。そして、多神教の誤りを指摘し、夫と妻が一対一であるように、人間を救うことのできる神は唯一であり、キリストの十字架以外に救いはなく、他の神々を捨ててでも、この唯一の神だけを信じて祈るべきことを、親族に語った。罪の赦しと、死とよみがえり、永遠の命について話した。すると、かつては信仰を巡って論争めいたやり取りもあったこの親族は抵抗感を示さず、「分かる?」、「信じられる?」との筆者の問いに、素直に頷くのである。

調子の悪い時には、話しかけても反応すらも返さないのが、多神教を否定する筆者の言い分を、抵抗もなく受け入れる姿勢を示したのであった。筆者は、長年、ずっと考えが合わないまま、全く違う世界で生きて来た親族に、まるで火事場泥棒のごとく、残された時間がわずかとなってから駆けつけて伝道している自分自身の無理を思いながらも、それでも、この反応を見たとき、非常に厳粛な気持ちと深い感動に襲われずにいられなかった。こうしなければならない、こうでなければならない、という感じがしたのである。

これとどこかしら似たような現象が、筆者の連れて来た小鳥にも起きた。物音に驚いた小鳥が、鳥かごの金網に自ら足を引っかけて複雑骨折に至り、発見した時には、多量の出血と、足の指に血が通わないことにより、指が紫色になっていたのである。その状態を見た時には、筆者は、正直、足の指が持たないのではないかと恐れを感じた。医者に診てもらうと、解放骨折なので、治るかどうか分からず、もし足の指が壊死すれば、ただ単に足が不自由になるだけでなく、全身に毒素が回って致命的な影響を及ぼすことさえありうると言われた。

筆者はこの状況に対し、心の中で、猛抗議した。何か取り返しのつかない事態が起きて、すでに手遅れとなっているかのような印象と感覚を全身全霊で拒否し、死んだ息子のために預言者エリヤに抗議した女のように、神に願い求めたのであった。すると、医者に連れて行ってから二日ほどで足に再び血色が戻った。骨折が治癒するには時間がかかり、解放骨折となるとさらに治癒に困難が生じると言われているにも関わらず、それから現在に至るまで、小鳥はほぼ完全に近い形で治癒するだろうと思われるほどの驚異的な回復を遂げている。

こうした出来事は筆者に、神の守りが動物一匹に至るまで家族全体に及んでいることと、神には手遅れだとか、不可能はないのだと、改めて感じさせた。いや、どんな状況でも、悪魔のささやきに負けて、御言葉に反する負の結果をたやすく受け入れたりせず、神に心のうちをすべてさらけ出して、しぶとく諦めず、神に直談判するがごとくに懇願し続け、結果を獲得するまでに退かない態度が必要な場合が多々あることを、改めて思い知らされたのであった。
 
むろん、どんなに健康であっても、人間同士には地上でいつか別れが来るとはいえ、人間にとって最も克服しがたい、いや、生まれながらの人間には克服不可能である死をも、キリストは打ち破られて、よみがえられたのだから、我々は一体、何を恐れる必要があろうか?
 
このことを、つまり、十字架の死と復活の原則を、筆者は知っているつもりではあっても、それを自分自身の信仰告白として改めて自分の言葉で表現し、その告白が現実となって、目の前で主のみわざを見せられるとき、それによって、神の御心が何であるかを知らされるとき(神の御心は、人を罪に定めることにはなく、赦すことにあり、人を滅ぼすことにはなく、生かすことにこそある)、自分の信仰のスケールを改めて急速に押し広げられるような、厳粛で感動的な気持ちにさせられる。悪魔のささやきに簡単に耳を貸して敗北を受け入れることの無意味さと、御言葉に反対するものに、最後まで、固く立って抵抗し続けることの重要性、そして、神が我々一人一人の信仰に、どんなに真摯に耳を傾けて下さり、これを喜んで下さる方であるかを思うのである。

他人に向かって信仰の証を語っている時でさえ、筆者自身が、御前に畏れかしこんでひざまずき、「神よ、あなたこそ、我ら人間のただ一人の救い主です」と告白し、瞠目と感動のうちに、神を崇めずにいられないのである。
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十字架の死と復活の原則―患難が生み出す栄光―後ろのものを忘れ、ひたすら前のものに向かって進み、キリストが上に召して下さる神の栄冠を得るべく、目標を目指して一心に走る

「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ14:11)

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。


 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。


私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:16-18)

巨大なエクソダスが完了して、不思議なほど心が平安に満たされている。

一つ前の記事で、「キリストに従うことに、そんなにも多くの代償が伴うなら、信じることに何の意味がありますか。キリストを信じたゆえに、世からの理解を失い、迫害されるなら、生きることが前より苦しくなるだけで、信じることにどんなメリットがあるのでしょうか」という不信者の問いを取り上げた。

確かにキリストに従うことには代償が伴い、多くの患難がつきものである。不信者のほとんどはそれを聞いただけで、踵を返すことであろう。ちょうどイエスのために全財産を捨てることをためらった金持ちの青年のように。

だが、キリスト者は、イエスに従うことに伴う代償だけに注目して、恐れ、失望したりはしない。なぜなら、地上における患難が、むなしい代償では終わらず、永遠の重い栄光をもたらすことを知っているからである。

今回は、キリスト者にとっての苦しみと栄光との不思議な関係について、つまり、十字架の死と復活の原則について、信じる者が代価を支払ってキリストに従うことに伴う恵みが、どれほどはかりしれないものであるかについて、少しばかり書いておきたいと思う。

さて、冒頭からまたもや突飛な展開だと言われるかも知れないが、今、筆者が思い出すのは、次の聖書箇所である。これは筆者が好んで使っている箇所なので、以前にも幾度か引用したかも知れない。

「ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した
しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。

彼らはその町で、福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った」(使徒14:19-22)

パウロは、かつては熱心なユダヤ教徒であったが、主イエスに出会って、十字架の贖いを知り、福音の使徒とされてから、かつては仲間であったユダヤ人や律法学者から激しく憎まれ、妬まれ、執拗に命をつけ狙われ、迫害されるようになった。

上記は、ユダヤ人たちに扇動された群衆に取り囲まれたパウロが、石打ちに遭い、あわや命を失う寸前まで追い込まれる場面である。当時の石打ちは、死罪を宣告する行為であり、つまり、ユダヤ人たちは、個人的にパウロの働きを妬んでいただけでなく、パウロがユダヤ教の教えに基づく律法による義を捨てたことを深く恨みに思っていたので、何の罪も犯してなかったパウロを、勝手に死刑にしようと狙っていたのである。

その恨みと憎しみの背後には、キリストの十字架によって人類が贖われ、罪赦されるという、律法によらない、信仰による義そのものが、決して認められない、というユダヤ人たちの思いがあった。

それは、人が自分の努力によらず、神の一方的な恵みを信じることによって、信仰によって義とされる道が開かれてしまうと、ユダヤ人たちが日々熱心に律法を守って、落ち度なく立派に行動することによって、自分で自分を善人とし、義としている一切の努力が水泡に帰するからである。そこで、ユダヤ人たちは、パウロの宣教によって、自分たちの教えそのものが危機に晒されていると感じ、自分たちの必死の涙ぐましいまでの努力が無にならないために、パウロの宣べ伝えるキリストの信仰による義を何とかして否定しようと、パウロをつけ狙い、迫害し、神が罪赦された聖徒であるパウロをあわよくば再び罪に定めて、自分たちの手で処刑して死に追いやろうと執拗に試みていたのである。

しかしながら、群衆が獣のごとき暴行に満足して、パウロはすでに死んだものと思い込んで立ち去った後、パウロはまるで何事もなかったかのように起き上がり、自分で歩いて町に入って行った。そして、その後、危篤状態に陥ることもなく、入院することもなく、翌日にはもう別の町に向かって出発し、そこで福音を宣べ伝えて多くの人々を悔い改めに導き、キリストの弟子とした。

パウロの身に起きたことは、多くの信者たちを驚かせたと同時に、勇気づけた。すなわち、パウロは、キリスト者には、地上での生涯を終えて、完全に神の国に入るまでの間に、多くの苦難が残っているが、それだからと言って、決して信者が失望する必要はなく、勇気を出しなさいと勧めたのである。なぜなら、神はキリスト者に、地上で受ける全ての患難を乗り越えるに十分な力をお与えになっているだけでなく、信者が地上で失ったものの代償として、天で栄光に満ちたはかりしれない重い褒賞を用意して下さるからである。だから、たとえ地上で予想外の事柄が起き、人々の思わぬ反対に直面し、物事が順調に行かないように思われる時にも、勇気を失うことなく、むしろ、あらゆる患難には死を打ち破ったキリストの復活の命が働くことによって、信者にはいかなる損失も生じず、天の御国に収穫がもたらされることを知って、勇気を出してしっかりとこの道にとどまり、信仰を捨てないようにと勧めたのである。

聖書の他の箇所を見ても、御霊を通してパウロの内に住んで下さったキリストは、パウロの内なる人を通して、彼の外側の限界ある肉体をも強め、人知では考えられない力を与えていたことが分かる。

キリストと共に十字架の死を経ると、その信者を生かしている命は、滅びゆくアダムの命から、死を打ち破ったキリストの復活の命へと変えられる。その復活の命は、キリスト者が地上で使命を終えるまで、信者のすべての必要を供給し、信者がこの世で受ける全ての圧迫を超えて、神から受けた召しを果たす力を与える。

贖われた人々は、自分を生かす命が、キリストの新たな命となったことを知った瞬間から、神の超自然的な命の力が自分を支えていると同時に、悪魔と地獄の全軍勢の尽きせぬ憎悪の前に、自分がキリストの復活の証人として立たされていることを知る。この人間のものではない、超自然的な、神の非受造の命のゆえに、キリスト者を巡っては、暗闇の勢力からの激しい陰謀や妨害を含む、途方もない規模の霊的対立が起きるのである。

信者が主と共に十字架の死と復活に同形化されると、信者の意志とは関係なく、信者を巡って、常識では考えられないような極めて異常で極端な出来事が起きるようになる。だが、それは信者にとっては当たり前のことで、驚くには値しない。逆に言えば、もし信者に地獄の軍勢の憎しみに直面している自覚がなく、何らの激しい対立や圧迫も起きないならば、その人が本当にキリストのものとされているかどうかは極めて怪しい、と言えよう。

さて、筆者は、偽りの宗教体系を含めて、信者が訣別すべきこの世の教えの体系からエクソダスを果たす際には、多くの圧迫や激変が起きることを書いた。そうした圧迫は、人間の目には、無用な苦しみでしかないように見えるかも知れないが、信じる者にとっては、大きな栄光の前触れである。冒頭で挙げた御言葉の通り、キリスト者が受ける苦難には、すべて後々報いが伴うのである。

人間は生まれつき試されることを喜ばないので、神の手から与えられる患難や試練を忍耐強く乗り越え、これを喜んで受けることを学ぶまでには、少しばかり時間がかかる。だが、聖書の御言葉は真実であり、キリスト者が地上で受ける苦難は、どんな種類のものであっても、すべて「軽い患難」に過ぎない一方、これを耐え忍んだ対価として与えられるのは、天での「測り知れない、重い永遠の栄光」である。

だが、不信者は言うだろう、「いや、ちょっと待って下さい。ユダヤ人に憎まれ、扇動された群衆にあらぬ罪を着せられ、石打ちになって殺されそうになることのどこが、「軽い患難」なのでしょう。しかも、パウロは生涯に渡って、ずっとそういう迫害に直面していたのでしょう。」それでも、筆者は言う、そういうものはみな軽い患難でしかないと。たとえ、信者が殉教に至り、地上の肉体の幕屋を破壊されたとしても、それもすべて軽い患難でしかないと。

重要なのは、そのような一つ一つの患難に対して、神はそれをただ耐え忍ぶのみならず、勝利を持って乗り越える力を信者にお与えになり、多くの場合、信者のこの地上での人生がまだ終わらないうちに、それに対する報いとしての天の栄光を垣間見せて下さり、それによって信者が十字架の死と復活の法則が信じる者の内に生きて力強く働いていることを知ることなのである。

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という御言葉が意味するのも、同じことなのである。もしキリスト者が、地上では苦難しか味わえず、敵意や、辱めや、嘲笑や、迫害にしか遭遇することなく、その報いとして与えられる栄光や喜びは、すべて死後になってしかやって来ない、などと考えるなら、それはあまりにも大きな間違いである。信者が地上で受ける全ての苦しみは、信者が自分を低くするために与えられるものだが、日々の十字架を耐え忍んだ代価として与えられる栄光を、信者は生きているうちにも、日々見ることができる。

多くの場合、信者が地上で受ける苦しみは、神が信じる者を高く上げて下さることの前触れである。信者は、神が大きな解放の御業をなし遂げて下さろうとしている時には、ほとんど決まって、人の目から見ると苦しみとしか思われない事柄が前もって起きて来るのを理解するようになる。だが、その苦しみは栄光の前触れでしかなく、信者が心騒がせずに神を信頼してこれを受けるならば、そこに、天の法則が働いて、人の思いもかけない解放が起こり、神が願っておられる通りに天の栄光がもたらされる。

キリスト者は、この地上にありながら、内にキリストをいただいていることにより、すでに来るべき世の統治の中に入れられているのであり、天の支配下に生きているのである。そこで、死後を待たずとも、キリスト者の内には、絶えず天的法則が働いて、御言葉が実際として成就する。だから、こう書いてある。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」と。

ここで「私たちのうちに働いて」と言われているのは、患難が「私たちキリスト者の内なる人を通過することによって」、重い栄光をもたらすと述べられているのと同じである。

つまり、キリスト者にとって、患難とは、それが自分の内なる人を通過することによって、そこに天の法則が働いて、測り知れない、重い永遠の栄光がもたらすきっかけでしかないのである。その証拠の一つに、石打にされそうになったパウロが、別の町で行った宣教の際に、新たな弟子たちが起こり、天に収穫がもたされたことがある。他にも色々な収穫があったかも知れないが、要するに、パウロが受けた苦難を通して、十字架の死と復活の法則が働いて、人々の魂が神に立ち返り、御国に大きな収穫がもたらされたのである。

このことは、キリスト者が地上で苦しみを受けることによってしか生まれ得ない天の栄光が存在することを教えてくれる。だが、誤解してはならないのは、これは決して信者が自ら苦しみを求めて良いという意味でなく、人が自分で自分を苦しめることとは全く異なる。信者の意志とは関係なく、神が許されて、地上で患難が与えられ、信者がそれを己を低くして信仰によって受け止める時、天で大きな報いが伴うのである。

さて、信者の「内なる人」とは、キリストと言い換えても良いかも知れない。確か、ウォッチマン・ニーがどこかの解説に書いていたように思うが、キリストの御霊が、信者の内側に住んで下さることによって、信者の内側では、御霊と信者の霊とが分かちがたく結びついている。

これはちょうど一人の人の中に二つの人格があるようなものだが、しかしながら、それは病的な二重人格ではなく、あるいは、ローカルチャーチの教えのように、「神と人とが混ざり合う」ことでもない。キリストと信者との結合は、ただ霊においてのみの結合だからである。

信者の内側で、キリストの人格と、信者の人格は、互いに分裂して押しのけ合ったり否定し合ったりすることなく、調和の取れた形で不思議に同居している。それが、キリストの人格が、御霊を通して、信者の内に住んで下さることの意味である。だが、それは自動的に達成される調和ではなく、信者の側からの協力が必要であり、信者にはキリストの人格を無視することもできるし、拒絶し、否定することもできる。もし信者がキリストの御声に聞き従うのをやめれば、キリストの人格は信者の中で働きをやめ、その状態が続けば、御霊はやがてその信者を去るだろう。

正常な状態の信者にあっては、信者の「内なる人」が、キリストの内住によって満たされ、強められているがゆえに、信者は外側ではこの世の滅びゆく肉体を持った有限な存在に過ぎず、魂においては、地上の人としての記憶や意識を持っているが、それでも、信者の内側には「キリストの成分」とでも呼ぶべきものがあって、それが信者の「内なる人」を形成するのである。つまり、信者の「内なる人」は、信者自身の霊と、キリストの御霊との結合から成り、この二つの人格を共に指していると言っても良い。

それゆえ、信者が地上で苦しみを受け、患難が鋭い矢のように信者の内側を通過してその存在を射るとき、その苦しみは、ただ信者という一人の人間を通過するだけでなく、信者の内におられるキリストをも通過するのである。それによって、ただ地上の滅びゆく有限なる存在としての人間が苦しめられただけでは、決して起き得ない現象が起きる。つまり、信者が受けた苦しみが、天ではキリストの受けられた苦しみに加算され、それが天の権益に関わる事柄として受け止められ、そこに天の法則が働いて、栄光に満ちた収穫がもたらされるのである。

パウロが「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と言った言葉の意味はそこにある。キリストが十字架で受けられた苦難は、それ自体、完全であって、人間によって補わなければならない欠点はない。だから、信者が地上で苦しみを受けることで、キリストの御業に何かをつけ加えたりするわけではない。だが、それにも関わらず、神は地上において、あえてキリスト者一人一人が、主イエスに従う過程で苦しみを受けることをお許しになる。神はそれを通して、信者一人一人を練られ、ご自分にならう者として鍛え、その心を吟味されると同時に、さらに、その苦しみを通して、信者に栄光をお与えになり、何よりも教会に栄光をもたらされる。上記の御言葉は、前後を踏まえて引用すると次のようになる。

「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです
私は、あなたがたのために神からゆだねられた努めに従って、教会に仕える者となりました神のことばを余すところなく伝えるためです。」(コロサイ1:24-25)

つまり、パウロが受けたような迫害は、キリストのからだなる教会のためだというのである。パウロは教会に仕える者として患難を受け、そこに天の法則が働いて、神の国に収穫がもたらされるのだというのである。

この死と復活の法則は、ステパノの殉教にも当てはまるだろう。パウロの回心という巨大な事件は、ステパノの殉教なしには起こらなかった出来事であると考えられる。

キリストの弟子とされた後、「ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。」(使徒6:8)。つまり、ステパノは、イエスの力ある弟子であった。これに対し、その当時、パウロ(サウロ)はまだ青年で、キリストを知らず、熱心なユダヤ教徒として、教会を迫害する側に回っていた。サウロは個人的にステパノの石打に大いに賛成しており、群衆によるステパノ殺害の場面にも立ち会っていた。

しかし、当時は何のためらいもなく、確信を持って、ステパノを迫害する側に立っていたパウロが、ダマスコ途上で復活のキリストに出会って、キリストの僕に変えられる。この出来事は、直接的には、ステパノの死とは関係がないように見えるが、それでも、これは信仰者の目から見ると、ステパノが受けた患難なしには決して起き得ない収穫だったものと思われる。

ステパノが殉教した場面で、彼が群衆に向けて語った最後のメッセージの締めくくりと、群衆の反応を、ここに引用しておこう。ステパノは群衆に向かって言った、

かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです
あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか
彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。

人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。
「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

人々は大声で叫びながら耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出し、石で打ち殺した

証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。

こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。

「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。」(使徒7:51-60)

前の記事で引用したイザヤ書の預言の通りである。ユダヤ人たちは、福音を聞いても耳を塞ぎ、神の御言葉を携えてやって来たイエスの弟子たちを見ないために目を覆った。彼らは、自分たちは律法を守り、落ち度なく行動しているという自負のゆえに、信仰による義を認められず、福音を全くの有難迷惑として退けた。彼らは福音をただ受け入れなかっただけでなく、福音を語った神の僕にも、尽きせぬ憎しみを燃やし、迫害し、石で打ち殺すまでに至ったのである。

これは、決してユダヤ教対キリスト教などといった対立構造を示すものではなく、神の義対人類の義の霊的対決を示すものである。すなわち、ステパノが神の恵みとしての信仰による義を語って、人類が自らの力で神の義に達しようとしている必死の努力を否定したために、有史以来、常に自力で神に到達するためにバベルの塔建設に励んでいる人類が、人類の涙ぐましい努力を否定する神の福音を、人類を冒涜するものとして理解し、これを宣教することが、死罪に当たる「罪」であると考え、福音を聞かないために耳を塞いで、神の義を否定しながら、その証人である神の僕を迫害して殺したことを意味する。こうして、世は人類の存在しない「聖」や「尊厳」を守るために、常に神を冒涜し、神の御言葉を退け、神の僕をも退けるのである。

先に引用したパウロの石打ちの場面とは対照的に、ステパノはここで殉教して生涯を閉じる。しかし、これら二つの場面に共通しているのは、パウロが、ユダヤ人たちの憎しみによって内面的に全く影響を受けなかったのと同様、群衆の激しい憤りと殺意に直面したステパノも、その出来事によって全く魂を触れられなかったことである。

ステパノは群衆が福音を拒絶することや、悪意に満ちた反応を返すことを前もって完全に予測していた。彼は霊的に贖われない人々が福音に対してどういう反応を示すか、理解していたのである。だから、彼は群衆の反応に動じることもなければ、彼らの憤りの前に譲歩することもなかった。彼は憎まれることを承知で群衆の前に立ち、拒絶されることを知っていながら福音を語り、殺されることも覚悟の上で、あえて真理を宣べ伝える神の僕として、最後まで世の前に立ち続けたのである。

そして、群衆の激しい憤りに直面しても、ステパノの人格が傷一つ受けず、動揺することも、悲しみに暮れることも、怒りをかきたてられることもなく、彼の心が、群衆の反応とは一切無関係に、最後まで平静を保ち、外側の肉体の幕屋が傷つけられても、内側では全き平安のうちに、揺るぎなく真理の確信に立ち続けることができるように守ったのは、主イエスご自身であった。

このように、全世界から激しい憎しみと悪意を向けられ、ついには命さえ奪われても、それによって全く微動だにしないような、人知では説明のできない、圧倒的な内なる平安が、ステパノの全人格を覆っていた。それは、パウロも全く同様であった。

このように、神の福音は、これを信じて受け入れた人々を、世から完全に切り離し、神だけに全幅の信頼を置いて、神の僕として立たせる。使徒たちは、人に拒絶されても、誤解されても、否定されても、そのような世の反応によっては全く変わらず、揺るがされることのない、圧倒的な平安を伴う内なる満ちた確信を持っていた。それは、決して相手に見返りを求めない、神の無条件の愛から来るものであり、神の愛が、それに捕えられた人々をも、キリストと同じようにあらゆる苦しみに耐えられるよう励まし、力づけ、勇気づけるのである。

このように、人の目から見て苦難が最大になった時にも、信者がその中でなお真理の確信に立ってこれを力強く守り抜く力を与えるのは、神ご自身である。ステパノの殉教の後、回心したパウロも、やがてはキリストご自身や、多くの弟子たちにならって、殉教することになる。使徒行伝にパウロの殉教の場面は描かれていないが、彼は皇帝ネロによるキリスト教徒への大迫害の時代に、ペテロなどと共に殉教したと言われている。おそらくは、描写もはばかられるような形で非業の死を遂げたに違いないと想像するが、最後までキリストの僕として、喜びと確信に満ちて大胆に主を証しつつ、衝撃的でドラマチックな形で生涯を閉じたのであろう。
 
このような殉教の場面を、信者ならば理解することができる。人間の目にどのように見えようとも、どれほど多くの人たちが理解せずとも、もし代価を払って主イエスに従うことができるなら、それは言葉に言い尽くせない栄光だと感じるのである。もちろん、人間の努力によってはそんなことは達成できない。誰も自らの目に損失と見えることを願う者はない。だが、信者が代価を払うことに心から同意し、自分の全ての利益よりもキリストを優先することを願い、神に自分自身を完全に捧げるならば、神がふさわしい時に全ての機会を用意して下さり、何が起きても、最後まで動じず、確信に立ち続ける力を信者に与えて下さると、はっきり言うことができるのである。

だが、不信者はこのような話を聞けば、ますます疑念を深めるだろう、「私はそんな人生を送りたくありません。そんなのは狂信者の道ですよ。あなた方の神は、信じる人々にそんな重い代償を要求なさる神なのですか。苦難を与えた上に、命まで捨てて殉教までせよというのですか。一体、そんな人生のどこに「測り知れない、重い永遠の栄光」があるのですか?」

これを人に分かるように説明するのは難しく、以上のような意見の持ち主を説得するのは不可能であろう。ステパノの殉教と、パウロの回心を直接的に結びつけることができないように、どうやって信者の中で患難が栄光を生むのか、それは理屈によって説明できることではない。だが、それでも、「今の時の軽い患難」「測り知れない重い永遠の栄光」と一つに結びついている、というのは確かな御言葉だと言えるのである。地上での些細な苦しみさえそうなのだから、ましてパウロやステパノが辿った殉教がそうでなかったはずがないのである。

ダマスコ途上でパウロに現れた復活のキリストは、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:5)と名乗られた。このことは前述した通り、キリストのものとされた信者たちの内側には、キリストが住んで下さっており、その意味で、彼らはただの地上の人間ではなく、彼らは「キリストのからだ」を構成しており、それゆえ、信者たちの内面を苦しみが通過する時、それは信者の中におられるキリストの人格をも通過することを意味する。だからこそ、信者たちが受けた苦しみを、神はキリストが受けられた苦しみと同じものと考えられ、イエスは、迫害されている教会が、ご自身であると言われたのである。

ここに、教会を迫害することの恐ろしさがある。今までにも書いて来たように、神に贖われてエクレシアとされたクリスチャンを迫害することは、あれやこれやの地上の人間を苦しめることだけを意味せず、キリストの御身体だを傷つけることを意味し、文字通り、「キリストを迫害する」ことと同義だからである。パウロの場合のように、その人々がまだ福音を知らず、回心する余地が残っていれば良いが、もっと恐ろしいのは、群衆を扇動した首謀者としてのユダヤ人や律法学者や、あるいは、福音を知り、キリストの弟子を名乗りながら、神を裏切ったような人々に、果たして、悔い改めの余地があるかどうか分からず、場合によっては、アナニヤとサッピラに降りかかったような報いが及びかねないことである。

パウロは書いている、「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。」(Ⅰテモテ1:20)

御使いたちをさえさばく権限を持っている教会は、信者を名乗りながらも信仰を捨て、御言葉を否定し、神を裏切った人々を「サタンに引き渡す」権限をも持っている。昔であれば、それは教会から信者を除名することと同義に解釈されたのであろうが、地上の教会がむしろ不信者によって占拠されている今の状況で、筆者は、これをそういう文脈では解釈しない。「サタンに引き渡す」とは、信者が御言葉を否定する者たちに向かって、その者が「神の家族でなく、兄弟姉妹でもなく、神の守りの外にいて、サタンの支配下に追いやられていることを公然と宣告する」といった意味である。もっと簡単に言えば、信者がある人たちに向かって、「この人たちは私たちと同じ神の家族には属していないよそ者であって、私たちは彼らを守りません。この先、悪魔が彼を好き勝手に翻弄して、彼らの魂を占領しても、私たちはそれに対して一切、責任を負いません」と宣言しているのと同じである。

パウロを通して教会からこういう宣告を受けた二人にどういう結末が降りかかったのかは分からない。彼らに悔い改めの余地があったのかなかったのかも分からない。しかしながら、教会が彼らを見捨てると同時に、彼らの魂が悪霊に引き渡されて、サタンの思うがままになり、その人生が尋常ならぬ破滅へと向かって行ったであろうことは予想がつく。

ステパノは自分を殺した群衆を罪には定めなかった。それは、多くの群衆は扇動されていただけであって、自分が何をしているかも理解していないことを知っていたからである。しかし、それはあくまでそれまで福音を聞いたことがなかった人々に対する神の憐れみであって、確信犯的に福音に敵対し、神の御言葉を闇に葬るために、群衆を扇動してでも、陰謀を巡らしていたような人々の中には、おそらく神の憐れみも届かない人々が含まれていたことであろう。ステパノを拒絶した群衆も、その後、どれだけの人々が悔い改めることができたのか分からない。悔い改めなければ、いずれにしても、罪の報いが降りかかるのである。

このように、クリスチャンは世の人々にとって重大な試金石であって、外見がどんなに無力に見えるありふれた地上の人間であっても、内側に、測り知れない神の力である御言葉を携えている以上、信者の存在を通して、御言葉が人々をふるい分けるのである。信者の内におられるキリストが人々をふるいわける。そのため、御言葉を宣べ伝える使者が現れる時、人々の心の内に隠されていた、人が思ってもみなかったような内面が明らかにされる。多くのパラドックスが生じ、人の目に賞賛されていたものの醜さが明るみに出され、人の目に正義と見えていたものが、むしろその逆であることが判明し、ある人々は、御言葉につまずいて、あからさまに福音の敵と化す。ここで、応答の方法を間違えると、その人の人生全体が、取り返しのつかない方向へ向かって転げ落ちて行きかねない怖さが存在する。

だが、クリスチャンはある人々を「サタンに引き渡す」ことまではしても、その人の命運に最後まで手を下すことはしない。それは神の領域だからである。そこで、暗闇の軍勢との激しい闘いの中にある時、信者は、どこまでその闘いに関与して良いかについて、その程度をも、神に教わる。

たとえば、かつては兄弟姉妹と呼ばれた信者の中から、福音を否定し、教会の迫害者となるような者たちが現れ、彼らに勧めても、説得しても、何の効果もない場合、ある時点を境に、信者は彼らを公然と「サタンに引き渡」し、その人間どもから手を引かねばならない。神に逆らう人々をいつまでも相手に語り続けることがキリスト者の使命ではないからである。

そして、「サタンに引き渡」されたその瞬間から、彼らの存在は、聖徒らの全く手の届かない領域に去る。すべてのつながりが断ち切られ、彼らに降りかかる一切の事柄の責任は、聖徒には及ばないものとなる。そうなると、聖徒らはもう二度と彼らの命運を気遣うことも、関わることもない。

最近、筆者は、そのようなことを経験したばかりである。ある出来事を通して、あたかも、神が御使いらと共にこう言われたかのようであった、「ヴィオロンさん、あなたはよくやりました。あなたはやれるところまで十分にやりました。しかし、もうこれ以上、この出来事にあなたが関与する必要はありません。ここから先は、私たちの領域です。心配することなく、私たちにすべてを任せなさい。」こうなると、この世的な観点から見れば、決着がついておらず、まだ打つ手が残っているように見える場合でも、信仰的観点から見て、信者はその出来事から手を引かねばならないのである。あとは神と御使いたちの出番となる。

信者は、天と地の前でキリストの復活を証する使命を負ってはいるが、信者の目的は、人間的な思いで人々を説得することにはなく、人間的な観点から見て、すべての人々と折り合いをつけることにもない。この世は、ちょうどソドムとゴモラの町のようなものであって、その町で、キリスト者と住人とがどんな「折り合い」や「決着」をつけることが可能だろうか。

だから、キリスト者の使命は、福音を拒絶する人々を力づくで説得することで、自分の正しさを論証することにはなく、世に向かって語りはしても、世と交渉もしないし、深入りしない。世の敵意に直面しても、世と交渉するうことで、これをやわらげようとはしない。もしも、世に向かって、信者が自己の正当性をどうしても分からせようと、あるいは、何とかして福音を受け取らせようと、御言葉に逆らう世人を説得したり、論争に熱中したりして、世に深入りして行くと、結局、信者は世人の思惑に翻弄され、信仰による義から逸れて行くことになる。

どんなに神の福音が正しいものであっても、それを受けとるかどうかはあくまで個人の自由な選択に委ねられており、御言葉を聞いても従わない人間の末路は、信者の責任の外にある。世は始まって以来、福音を拒絶し続け、神の僕を迫害し続け、キリストを十字架にかけて殺したのであり、今に至ってもその悪しき性質は寸分たりとも変わらず、これを変えることがキリスト者の使命でもない。

だから、信者は、決して世から受け入れられることを願うべきではなく、むしろ、主イエスが地上でどのような扱いを受けられたかを思い起こし、低められることの中に、十字架の死の原則が働くことを思い起こすべきなのである。ソドムとゴモラの住人と、人間的な観点から折り合いをつけたり、彼らから歓迎されたり、理解されることが可能だと思えば、とんでもない間違いに陥るであろう。むしろ、神の目から見て、有益な結果が結ばれるためには、必ず十字架の死をくぐらなければならないこと、誤解や、拒絶や、否定や、蔑みや、迫害があって初めて復活の原則が働くことを思うべきなのである。何より、人が自分を真に高くしたいならば、低くされることに甘んじねばならないのである。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル12:2-4)

主イエスが罪人たちの反抗を耐え忍ばれ、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれたのは、「ご自分の前に置かれた喜び」を見て、来るべき栄光を確信しておられたからであった。つまり、神はご自分に従う者を決して見捨てられず、辱めが辱めで終わらず、苦難が苦難で終わらず、死が死で終わらないことを、予め知っておられたからである。だから、我々聖徒たちも同じように、自分が低められ、卑しめられる時に、落胆するようなことはなく、むしろ、一つ一つの苦しみに対して、天でどんなに栄光に満ちた報いが待ち受けているかを確信しつつ、この天の褒賞をまっすぐに見つめて、喜ぶ。

信者は、キリストの新しい命が、地上で受けるどんな損失をも補って余りあるものであることを確信しており、地上で起きる苦難には目もくれず、天に備えられた栄冠が、すぐそこに見えており、すぐ手の届くところにあることを知って、それだけを見つめて喜ぶのである。

ある信徒は言った、「悪魔は本当に愚かです。悪魔は、キリストを殺せば、復活という、悪魔が最も恐れる出来事が起きてしまい、悪魔の最大の武器である死が打ち破られて、役に立たなくなることを知っていたのです。それにも関わらず、地獄の軍勢は、抑えがたい殺意によって、キリストを十字架につけて殺害しないことがどうしてもできなかったのです。彼は自分で自分にとって最も不利になることをやってしまったわけですね。」

これは信徒が遭遇するあらゆる患難に同じように当てはまるであろう。信者たちは、至る所で、憎しみや、反目や、敵意や、辱めや、殺意にまで遭遇する。地獄の軍勢は彼らを見て歯ぎしりし、聖徒らの背中を踏みつけて、「自分たちは勝った」と誇るであろう。しかしながら、その次の瞬間、思いもかけないことが起きる。聖徒らの受けた一つ一つの苦難の中に、「十字架の死と復活」の原則が働いて、暗闇の軍勢が駆逐され、天の収穫がもたらされるのである。暗闇の勢力が占拠していた地には、復活の旗が立てられ、すべての名に勝る名を持つ方が高く掲げられて、この方が、すべてのものを足の下に踏みつけられる。サタンは彼のかかとで踏みにじられ、聖徒らもこの方と共に高く上げられて栄光にあずかり、共に喜ぶのである。

もちろん、私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:4)という御言葉が完全な形で成就するのは、キリストがやがて再び地上に来られる時である。だが、その時を待たずして、この地上で彼を待っている間にも、聖徒は様々な患難を通して主と共に栄光にあずかり、常に来るべき時代の栄光の前味を知ることができるのである。

この法則は、自分が低められることを拒み、ひたすら自分の正しさだけを主張して、人前に自分を義と認めさせようとしている世人や暗闇の勢力には決して理解できないものである。

今日、「人造のキリスト教」であるキリスト教界は、パウロやステパノのような弟子たちよりも、むしろ、彼らを迫害したユダヤ人や律法学者に似たものとなっている。そこにいる人々は、あらゆる努力を払って、人前に立派な善人と見られ、敬虔な信徒と認められようと、外見を飾り、熱心に奉仕に励み、自分の正しさを人前で主張することをやめられないでいる。彼らはあまりにも心頑ななので、人前に自分を折ることができず、己が罪を認めることもできず、熱心さの上にも熱心さを増し加え、ひたすら努力によって神に到達することが可能であると考えている。そして、彼らが神に至る手段だと思っている熱心な奉仕を否定する者が現れると、尽きせぬ憎悪をむき出しにし、教会から追い出し、迫害を加える。

だが、見落としてはならないのは、クリスチャンは一体、誰の目に義と認められる必要があるのか、という点である。私たちは、神の目に義と認められたいのか、それとも、神を知らない世間の目に認められたいのか、あるいは、クリスチャンの世間の目に認められたいのか、自分自身の目に正しい存在と認められたいのか。

外見的に自分を正しく見せかける能力に長けていることは、人にとって極めて不幸なことである、と筆者は思う。なぜなら、そのような能力が巧みであればあるほど、その人は十字架の死の意味が分からず、己を低くすることもできず、それゆえ、復活の命に至るチャンスが失われるからである。彼らは、自らの巧みな演技によって他者を欺くだけでなく、自分自身をも欺く。自分でイチヂクの葉で編んだ衣装、自らの手で建設した城壁に夢中になって、自分はこれほどまでに精進したのだから、すでにひとかどの人間になったはずだ、と思い込み、自分と同じように精進に励む仲間と一丸となって、人に対してだけでなく、神に対しても、自分たちを集団的に義と認めさせようと迫るのである。

だが、神はそのようにして人間の振りかざす義を退けられる。神が認められるのはキリストだけだからである。聖書にはこう書かれている、キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:6-11)


ここに、キリストが神の御前に高く上げられたのは、まさに彼がご自分を徹底的に低められ、十字架の死にまで渡されるほど、低められたためであることが分かる。だから、今日、キリストにならって己を低くすることのできない者が、天の栄光にあずかることは絶対にない、と私たちは言える。

こう考えると、自分の義を人前で捨てることができない人間ほど、哀れな存在はない、と言えるだろう。神の御前で己の義を誇って罪に定められたパリサイ人に連なるよりは、そのパリサイ人に罪人と蔑まれ、神の御前で悔い改めて義とされた取税人に連なる方が、人にとっては幸いではないだろうか。自分の中にはいかなる義もないことを認めて、自力で自己を改造して神に達しようとの努力を一切放棄して、自分自身がどうあろうと、ただ恵みとして与えられた神の義にすがることである。キリストの義こそ自分にとっての義であることを信じて、自分自身の努力によらず、これを信仰によって受けとることである、

贖われてキリストのものとされた信者は、もはや決して人の目に自分がどう映るかという基準で、自分を見たり、規定したりしてはいけない。信者がクリスチャンの世間を気にして、人前に敬虔な信者として自分の見てくれを整えようとすることは、極めて大きな誘惑であり、罠である。贖われた人々であっても、その罠に陥ることはありうる。ひとたび、信者が、神が自分をどうご覧になるかという基準でなく、人の目に、世間の目に、自分がどう映るのかという基準で、自分自身を推し量り始めると、その瞬間に、信者は蜘蛛の巣のように錯綜するこの世の人々の思惑に捕えられて自由を失い、信者に与えられた神の完全な義は曇らされ、信者は恐れの念に駆られて、聖書が教える通りに、神の福音を正確に宣べ伝えることが不可能になってしまう。

だから、信者は、バプテスマを通してすでに水に沈んだものを振り返るべきでなく、死んだものの名誉を気遣うべきではないのである。振り返ってはならないものの中に、信者の過去、信者の自己も含まれている。死体のあるところにハゲタカが集まっていたとしても、そんなものは注意に値する現象ではない。死んだ者には名誉も利益も存在しないのである。キリスト者が真に目を注ぐべきは、バプテスマを通して、水から上がった時に、天から注がれた喜び、神から受けた義認、死を経ることによって内側に生まれた、キリストに連なる新しい人、ちょうどノアが洪水を経て初めて足を踏み出した新しい大地に感動し、紅海を渡ったイスラエルの民が感嘆を込めて約束の地を仰ぎ見たように、信仰の人たちが焦がれ、待ち望んだ天の都を、つまり、キリストご自身を、どこまでも追い求めるべきなのである。信者はこの地上における生涯において、肉体の幕屋の中にあって、絶えず呻きつつ、キリストの十字架の死と復活に同形化されて、軽い患難と引き換えに、天の永遠の重い栄光を得る。それを通して、世人には決して分からない不思議な方法で、御心が成就し、天の御国に収穫がもたらされ、信者自身も主と共に栄光と喜びにあずかる。それが、信者がこの地上で信仰によって患難を通過することの意味なのである。
 
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。」(ピリピ1:21-22)

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るため、目標を目指して一心に走っているのです」(ピリピ3:12-14)

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです

 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています

 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのですそれゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)

死よ、おまえのとげはどこにあるのか!!

「平 和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの 霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(Ⅱテサロニケ 5:23-24)

キリストの命は私たちの霊、魂のためだけでなく、私たちの身体のためでもあります。神は私たちの霊と魂だけが聖くされるだけでは決して満足されません。も ちろん、肉体の完全な贖いは、来臨の時を待たねばなりませんが、地上に生きている間にも、私たちは主イエス・キリストの贖いが私たちの霊、魂、肉体のすべ てに及ぶものであることを知ることができます。繰り返しますが、主イエスの贖いは私たちの肉体のためでもあります。そのことを知って、私たちは思いと、肉 体を攻撃するあらゆる病、弱さ、圧迫、死を拒絶し、信仰によってこの身体を健全なものとして守り通すべきです。

良きサマリヤ人のたとえを私たちは知っています。道に行き倒れていた旅人の姿は私たち自身です。そして隣人とは主イエスです。ある兄弟が語ってくれた通り、律法に照合するなら、民数記19:11-12に記されている、死人に触れた時の3日目の清めは十字架の型です。私たちはかつては真理を知らず、無分別で、情欲と快楽の奴隷となり、悪意と妬みで日々を過ごすだけの生まれながらに神の怒りの子であり、罪によって神に対して死んでいました。

しかし、主イエスは死んでいた私たちのそばを通りかかり、私たちの苦しみを見過ごしになさらず、私たちを抱き上げて乗り物に乗せて、宿へ連れて行ってくださり、その治療にかかる全ての代金を支払ってくださいました。

これは、主イエスの十字架を信じて、私たちが罪と肉とこの世に対して死に、死から命へと移され、神に対して生きる者とされたことを意味します。しかし、聖 霊の証印を受けて、私たちの知ったこの3日目の贖いは手付金に過ぎません。私たちの治療には本当は「もっと費用がかか」るのです。それは私たちの贖いには まだ続きがあることを意味します。

何ということでしょう、主イエスはこう言われるのです、「もっと費用がかかったら、私が帰りに支払います」(ルカ10:35)と。これは、主イエスが再び戻って来られることと、その時に私たちの完全な贖いをなして下さることを告げています。その時に私たちは7日目の清めを受け、この肉体においても全く聖くされ、復活の身体を受けて、主の栄光の似姿へと変えられるのです。

今、私たちは3日目から7日目の間にいます。7日目は近づいています! この喜びをどうして霊の内に感じずにいられるでしょう? 冒頭に挙げた御言葉はこの観点に立って、私たちが来臨に備えるように呼びかけています、私たちが、霊、魂、肉体のすべてにおいて、来臨の日に「責められるところのないように」、完全に守られるように神に願いなさいと教えているのです。

私たちはこの文脈についてよく考えてみなければなりません。なぜならこの御言葉は、もしも私たちが霊、魂、肉体のすべてにおいて神の完全な守りが備えられ ていることを信じず、その守りの中にとどまらないならば、不信仰のゆえに、来臨の時に責められる者となってしまうかも知れないと警告しているからです。今 回は、特に、私たちの身体が完全に守られることの必要について考えてみましょう。

これは私たちが苦難や病に遭ってはならないと言っているのではありません。ヨブがそうであったように、神は私たちを子として訓練されるために、時に私たち を病にあわせ、肉体を打たれ、苦難にあわせられることがあります。神は苦難を通して私たちの信仰を練られます。しかし、主は決していつまでも怒られ、いつ までも私たちを懲らされる方ではなく、私たちが御手の下にへりくだり、服従を学ぶなら、速やかに私たちにもとの繁栄を、いや、もとの二倍の繁栄をさえ返し て下さり、私たちを自由とし、健やかな者として下さいます。

私たちは忘れてはなりません、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ローマ8:6)  ですから、私たちは決して、自分から苦難を求めたり、まして、死を求めるべきではありません(否、私たちはすでに死んだ者であって、私たちの命はキリストとともに神のうちに隠されているのです)。ダビデが述べたように、私たちは時に「死の陰の谷」を歩くかも知れませんが、それでも私たちは「わざわいを恐れません」、なぜなら、「あなたが私とともにおられますから」(詩篇23:4)

私たちは決して、全ての苦難が神から来ると思うべきではありません。十字架という名目を装う、サタンからやって来るいわれのない圧迫、無用な苦しみ、病、 死は拒絶すべきです! 何が神の与える苦しみで、何が罪やサタンから来るいわれのない苦しみであるか、私たちははっきりと見分けなければなりません。そし て後者を拒絶し、追い返すべきです!

ダビデは言います、「あなたのむちと杖、それが私の慰めです。」(詩篇23:4) これは神から来る苦難が、私たちに結果として慰めを、いつくしみ、恵み、命をもたらすことを示しています。しかし、サタンの与える苦難は、人の霊、魂、肉体をいたずらに傷つけ、人生をただ荒廃させるだけなのです。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリント7:10)。 私たちは苦難には二種類あることを見なければなりません。もしも神の御心によって人が懲らされるなら、その時に生じる悲しみは、へりくだり、悔い改め、救 い、平和といった実を結びますが、サタンの与える無用な苦しみは、人を悔い改めや救いに導くことなく、かえって心頑なにし、ただ無益な苦痛を長引かせた上 で、ついには死へと追いやるのです。

私たちはサタンから来る苦しみを拒絶し、サタンによって人生が盗まれ、荒廃させられ、死へと追いやられることを拒絶すべきです! 私たちは死に立ち向か い、主イエスが与えて下さる命を選び取り、しかも、豊かに命を得るべきです。それが神の御心だからです。主イエスは言われました、「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10) 

主は地上におられた間、信仰によって応答した人々の病を癒され、死の恐怖のとらわれから解放し、自由を得させました。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」と言った病人に向かって、主は言われました、「わたしの心だ。きよくなれ。」(マタイ8:2-3)。このことは、私たちが、霊、魂、肉体の全てに渡って、聖められ、新しくされ、完全とされることが、神の御心であり、私たちの肉体も健やかであるようにと神が願っておられることをはっきりと示しています。

ですから、私たちは生きている限り、神のいつくしみと恵みとが、私たちを追ってくることを求めるべきです! 敵前で主が私たちのために食事を整え、私たち の頭に油を注いでくださることを求めるべきです! 悩みの日に、主が私たちの完全な守りの砦となって下さり、私たちを悪しき者の全ての圧迫から完全に守っ て下さることを信じるべきです! 私たちは無用な圧迫を全て退けるべきであり、苦難を日常的なものとして迎え入れてはなりません。たとえ束の間、主に懲ら されることがあっても、断じて、必要以上に苦難の中にとどまろうとしてはなりません!

注意して下さい、多くの異端の書物は、死後の世界の美しさについてまことしやかに語り、私たちの心を巧みに死へと誘います。病、貧困、死を甘く美化する多 くの書物があります。多くの人たちはそれに欺かれて、病や、死をまるで美しいもののように考えて憧れ、まだ主の定められた時が来ないのに、時期尚早な死を 遂げた人々を美化し、それが、神の御心であるかのように勘違いしています。そうしているうちに、自分も早々と召されることを願うようになり、地上で果たす べき召しを軽視するか、あるいは、あきらめてしまうのです。

しかし、私たちは苦しみや、病や、死を美化する誘惑的な教えを心に受け入れるべきではありません! 生きている今から、病や死と戯れたり、死と協定を結ん だりしてはなりません! 私たちはいわれのない病や、無意味な苦しみ、時期尚早な死を断固、拒否すべきです。そして、信仰によってキリストの命を選び取る べきです! なぜなら、御言葉ははっきりと、私たちが御霊によって生きるべきであること、いや、それが私たちに与えられた権利であることを告げているから です、「もしイエスを死人の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:11)

私たちの目の前には、いつでも、命の道と死の道が置かれています。何を信じ、何を選ぶのか、決めるのは私たち自身であり、私たちは自分で意志を活用して、 積極的に御言葉によって真理を選び取り、虚偽を心から退けねばなりません。私たちの肉体のうちには、常に罪と死の法則が働いており、もしも何も考えずに、 ただ肉に従って生きるなら、私たちは死ぬ他ないでしょう。しかし、キリスト・イエスにある命の御霊の法則は、私たちを罪と死の法則から解放したのであり、 この事実を信じ、選び取り、その事実のうちに堅くとどまり、御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8:13)

思い出しましょう、ラザロが死んだ時、主はマルタにこう言われました、わたしは、よみがえりです。いのちですわたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありませんこのことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)

マルタは信仰によってこのことを信じると告白したことにより、死んだ兄弟をよみがえらせてもらいました。使徒の時代にも、命の御霊の法則により、幾人かの死んだ者が復活にあずかったことを私たちは知っています。しかし、私たちはそこからさらに進んで、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありませんという衝撃的な御言葉の意味を考えてみたいと思います。これは携え上げのことを言っているのではないでしょうか。主はマルタに問うたように、今日、私たちに問うておられるのではないでしょうか、「このことを信じますか」と。

ですから、私たちは死を見ないで生きたまま主にお会いして、携え上げられるかも知れないという望みを持つべきです。いや、それを目指すべきです!

もう一度言いますが、私たちは時ならぬ死を来たらせるだけの世の悲しみや苦難を拒絶して、苦しみを美化したり、苦しみの中で感傷にふけるのをやめて、その ようなものを心から追い出し、命を選び取るべきです。時が来て、もしも主が私たちに殉教を求められるなら、それに従うことも素晴らしいことではあります が、何よりも、携え上げを願うべきではないでしょうか。殉教とは、キリストのよみがえりの証人として立ち続けることと同義ですから、殉教を願うならば、何 よりも、その者自身が、この地上において、死を打ち破ったキリストのまことのよみがえりの命を知って、その命に生きるべきです。復活の命の何であるかを知 ることもないうちに、絡みつく罪と、地上の重荷と、サタンの圧迫にひしがれて打ち倒されることを、私たちは断固、拒否すべきです。私たちは無意味な苦難を きっぱりと拒絶し、死を戸口まで追い返すべきです。ハデスの門を閉ざすべきです!

ラザロの死を目の前にした時、主は「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」(ヨハネ11:33)ら れました。神は罪と死を憎んでおられます。神が最初に人間を造られた時、そこに死はありませんでした。死はサタンを通して人類に罪が入り込んだ結果として もたらされたのであり、死は罪の終局的な実です。主イエス・キリストは、御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を得るために、ご自分の肉体を 裂いて十字架で死なれたのであり、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人人を解放してくださった(ヘブル2:14-15)のです。

パウロはコリントの教会の信徒たちに宛てて、彼らの間に多く見られる肉体の弱さ、病、死は、不信仰の結果であるとして責めています、「そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」(Ⅰコリント11:30) 弱 々しさの中に平然ととどまっていたコリントの信徒たちに、パウロは異議を唱えました。死を打ち破った方のよみがえりの命をいただいているのに、彼らのうち に神の命の強さがほとんど現れていないのはどうしてなのでしょう? なぜ信徒たちは絶え間なく圧迫され、地上のことばかりを思い、互いに争い、食い合って 相身を滅ぼし、自分の命のことばかりで絶え間なく思い煩っているのでしょうか? それは神の御心を退けることを意味するのではないでしょうか?

パウロは肉体に一つのとげを与えられていましたが、その弱さ のうちに、絶えず、神の強さの供給を受けていましたので、決して、自分の弱さについて人の同情を乞う必要はありませんでした。また、何か並外れた障害を抱 えている弱者、受難の人として、自分をアピールしたり、人の助けを求める必要もありませんでした。パウロが「大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:9)と言ったとき、それは「キリストの力が私をおおう」ことを誇っていたのであり、彼は「神の強さ」を誇っていたのです。だからこそ、彼は「私が弱いときにこそ、私は強い」(Ⅱコリント12:10)と大胆に言えたのです。

ですから、キリスト者は、断じて、自分の欠陥、自分の弱々しさを誇りとすべきではありませんし、苦しみが作り出す「受難の人」のイメージを、自分の信仰の美的なシンボルにすべきでもありません。神は私たちがどんなに弱くとも、御言葉のうちにとどまり、御言葉を行うならば、
「力ある勇士たちよ」(詩篇103:20)と 呼びかけて下さるのであり、私たちはキリストの強さが自分を覆うことを信じるべきです。欠乏や、弱さや、病や、死と感傷的に戯れ、それらを両手で大事に抱 きかかえ、いつまでも仲良く手を携えて歩けると思ってはなりません。そんなことをすれば、死が私たちを捕えて飲みつくすでしょう。しかし、キリストの命は 統治する命であり、私たちを真に健やかに、自由とします。それは私たちをあらゆる欠乏から解き放ち、死の奴隷的恐怖から解放し、真に健やかに自分自身を治 めることを可能とし、さらには地を治めることさえも可能とします。

「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)、と主は言われました。神の御心は、私たちが非難されるところのない純真な者となり、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝」(ピリピ2:15-16)くことです。

このことは私たちの品性や、行いや、霊や魂の状態について言えるだけでなく、身体についてもあてはまります。律法の時代に、神に捧げられたのは傷のない動 物でしたが、私たちは今日、神に捧げられた生きた供え物です。主が望んでおられるのは、傷のない完全な供え物であることを、私たちは思い出す必要があるの ではないでしょうか。多くの人は、それは自分とは関係ないことだと思っていますが、断じて、そうではありません。主が迎えようとしておられるのは、
しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」(エペソ5:27)であり、そのために、神は私たちを世界の基が置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1:4) 

神が私たちを聖く、傷のない者にしようと願っておられることに心を留める必要 があります。御心を退けてまで、弱さや、傷や、不完全さにしがみつくことに何の意味があるでしょうか。キリストの統治する命がどのような力と性質を伴うも のであったか、私たちは思い出す必要があります。主イエスは言われました、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:17-18)

私たちは自分自身から目を離し、青銅の蛇――すなわち十字架のキリストを見上げます。主の死 を見つめ、主の死を受け入れ、主の死と一つとなるならば、私たちは蛇の致命的な毒から救われて、主のよみがえりの命によって生きるのです! 今までは蛇が 私たちをつかんでいましたが、今は、私たちが蛇をつかみ、ふるい落とすのです! 私たちは自分がどのような瞬間へ向かって歩いているのか、もう一度、思い 出す必要があります。私たちは7日目の清めに向かって、すなわち、完全な贖いに向かって歩いているのです! その日には、私たちはキリストとともに栄光の うちに顕れます。もはや死も、悲しみも、苦しみもありません。なぜなら、神ご自身が私たちとともにおられるからです。

「私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:4)

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとと もにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったか らである。」(黙示21:3-4)

今、私たちはまだ死の陰の谷の存在するこの地上を歩いています。私たちの肉体はまだ完全に贖われていません。しかし、私たちは聖霊によって、来るべき世の 前味をすでにいただいています。御国はすでに私たちの只中に来ています。そして、この邪悪な時代の只中にあって、私たちはキリストのまことの命を灯火とし て輝かせる純潔の花嫁として召し出され、立たされているのです。ですから、私たちはキリストのよみがえりの命の絶大な力を、生きて味わい知ることをもっと 追い求めるべきではないでしょうか。キリストとともに死んだのですから、もはやこの世は私たちに害を及ぼすことはできないことを信じるべきではないでしょ うか。私たちはキリストの十字架を通して、自分自身に対して死に、神に対して生かされたのですから、豊かに命を与えて下さるよう神に願い求めて良いのでは ないでしょうか。それによって、神ご自身が栄光をお受けになるのです。主こそまことの牧者、命を与える方、生ける者の神だからです。

私たちはキリストと共なる十字架によって、アダムの命に死に、この世に対して死んで、キリストのまことのよみがえりの命によって、神に対して生かされたこ とを信じています。私たちは絶えず主イエスの死をこの身に帯びています。ですから、この世のもの、地上のものが自分に触れて、死が私たちの内側に入り込む ことを、断固、拒否すべきではないでしょうか。弱さ、欠乏、貧困、思い煩い、死を来たらせる悲しみ、病、死を戸口まで追い返し、ハデスの門を閉ざし、次の 御言葉が、今から私たちの大胆な宣言であるべきではないでしょうか。なぜなら、主イエスがすでにご自分の死によって死の力を持つ悪魔を滅ぼし、死は勝利に 飲まれてしまったからです。

「死は勝利に飲まれた。…死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげは、どこにあるのか。」!!(Ⅰコリント15:54,55)

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)



(後日追記) この記事はある闘病生活を送る信者にキリストにある健康と癒しを求めることを促すために書いたものであるが、その信者は癒しを信じず、この記事をも半ば嘲笑ぎみに拒否し、健康を求めることはなかった。(健康を求めることについては、キリストによる超自然的な癒しの他にも、移植を受けるなどの現実的な手段があった。たとえそれが応急処置でしかないと言われたとしても、それでも、ある程度、時間を引き延ばすことは可能だったのである。)

その結果として、以前は温泉に行ったり交わりも可能であった信者は、手術による体の切除、抗がん剤治療などに手を伸ばし、さらには生活環境の悪化による転居により、中心部での生活もできなくなった。自分自身の体も含め、次から次へと色々な宝を手放して行かなくてはならなかったのである。もはや二度と以前のように温泉で楽しく交わることなど不可能であろう。

筆者はこのようなことは決してキリスト者の歩むべき道ではないと確信している。信者に一時的な闘病生活はあり得るかも知れないが、長期に渡る、いや生涯抜け出せない不自由な闘病生活とその結果やって来る必然的な弱体化と死ーーこのようなものには断固憎むべきものとして立ち向かい、神に命がけで解放と自由を懇願することがぜひとも必要であると考える。そうでなければ、ただ死に飲まれてしまうだけである。そこにはただ誰にでも分かるこの世の悪魔的法則が働いているだけで、神の解放のみわざもなければ、キリストの命の完全さもない。聖書には、悪霊によってもたらされる病が確かにあって、信者がそれに縛られ続けることが神の御心ではないと分かる。主イエスが長血の女を解放された時のことを思うべきである。

だが、中には病を自ら選び取る信者もいる。闘病生活を美化し、困難な生活を美化し、悲劇や問題の渦中にあって健気に生きているという自己イメージから生じる周囲の同情や共感を捨てられないためである。それは一種の自作自演劇のようなもので、あるいは自己から逃避するためのイチヂクの葉による擬態のようなもので、病によって隠したい何かがその人の心に存在するのである。こうして、何か別のもっと深刻な問題(多くは自分自身の真の姿)から逃げるために、自ら解放よりも苦しみを選び取る人々が存在し、彼らは苦しみによって自己を美化するために、ひっきりなしに、次から次へと自分で問題を呼び込んで来る。その生活は本人が選び取っているので、これを周囲の説得によって変えるのは難しい。なぜ病を憎むべきものとしてとらえないのか、なぜ解放されることに抵抗し、健康になれと言う人を嘲笑するのか、そこに確かに心理的な(霊的な)問題が存在するのであるが、本人はこの世の常識に目を塞がれているので、たとえ説得したところで、目を開く可能性は低い。求められないのに奇跡を行うことは神もなさらない。

こうして、貴重なかけがえのない時間を常に病や問題のために消費し、大切なものを次々に失いながら、ついには当然のごとく死へ至る。筆者は本当にこうした結末を心から憎むべきものと捉えている。

ちなみに、その信者は、キリスト教会からのエクソダスを考えていたこともあったが、夫の病のために教会員が祈ってくれたことに感動したことをきっかけに、キリスト教会からのエクソダスを断念したのであった。ここでも、後ろを振り向く原因となったのは、同情である。病が家庭に深く入りこんでいた。そして、病と親しみ、それがもたらす美しいイメージにのめり込みすぎた結果、誰からも同情される必要のない自由を手にすることよりも、不自由な人間として人に同情されて生きる道を選び取ったのである。

これは筆者の目から見てあまりにも愚かなことであるが、多くの人は同じようにここでつまづいてしまう。すなわち、人に真の解放を見失わせる同情という感情が持つ悪魔的な厄介さに気づかないのである。同情には人を生かす力も、癒す力もなく、かえって心密かに他人を上から目線で哀れみ、蔑みながら、優しさと見せかけて、その人を依存状態に置いて、立ち上がる力を失わせ、不自由な状態に永遠にとどめてしまう。そこで、人からの同情によりかかり、これを受け入れると、不自由な状態に対する憤りと、絶対にそこから立ち上がって自由になってみせるという強い抵抗、自由への希求が失われるのである。

多くの人たちが同情の持つ悪魔的な策略の罠にはまり、人に同情され、注目されただけで満足してしまい、この厭わしい呪われた感情を振り切って、誰からも哀れまれたり、手を差し伸べられたりする必要のない、真に自立したキリストにある完全な命に至り着こうと思わず、かえって弱さを美しいものとして握りしめるのである。人情によってベタベタにされた神の命からほど遠い共同体が、その時 、人を神の約束された命の自由と解放に決して至らせないための束縛の枷として作動する。

神の家の建造のために――枯れた骨を立ち上がらせるキリストの復活の命――

高慢とは何であろうか、真の謙遜とは何であろうか。

実は、その実態は、多くのクリスチャンが考えているのとは真逆であると筆者は思う。「私は神の恵みに値しない」という考えほど、うわべは謙遜に見えて、その実、悪質な高慢はない。

筆者は幼い頃からのキリスト教徒であったので、清貧貞潔な生活へのこだわり、社会的弱者への憐れみ、などの感情を物心ついた頃から持っていた。そのため、ある時期が来るまで、貧しいことは悪いことではなく、病に陥ることは悪いことではなく、追い詰められて死を願うことも、悪いことではなく、そのような困難な状況にある人たちに、信者は積極的に手を差し伸べ、大いに同情や共感を持つべきである、と考えていた。

ところが、不思議なことに、信仰生活を送れば送るほど、実際はその逆である、ということが分かって来るのだった。困難の中にある人に同情し、助けの手を差し伸べれば差し伸べるほど、同情する側も、同情される側も、ますます困難の中に居直り、深みにはまり、そこから抜け出せなくなっていくという堂々巡りが起きるのである。

このようなことを言えば、早速、「あなたは社会的弱者を追い詰めるつもりか」という非難がやって来るであろう。ちょうどカルト被害者救済活動の支持者が、この活動の欺瞞性を指摘した筆者を断罪したようにだ。

だが、今、筆者はそんなことを目的にこれを書いているのではない。

筆者が、貧しさや、困難や、病や、死を心から憎むようになったのは、かなり前からのことであり、カルト被害者救済活動と訣別した頃には、すでにその考えの原型が心に固まっていたのだが、その完成となる事件は、KFCで起きた。

その事件も今から振り返ると相当に昔のことであるが、その当時、雇用情勢はますます悪化し、ブラック企業が横行し、正常な仕事を見つけるのが難しくなっていたが、筆者が職を変わる時、兄弟姉妹に祈りの支援を求めていたことが、KFCで災いし、これが嘲笑の材料とされたのである。

KFCにいた信者たちは、筆者よりも20~30歳ほど年上の世代ばかりで、比較的裕福な閑人が多かった。ほとんどが年金生活者か、働いていない者たちであった。だから、月曜から金曜まで真面目に労働に明け暮れ、なお、豊かにならない若者世代の苦しみを、そんな彼らの世代が、理解すること自体が、無理な相談であった。それでも、ある時期までは、信者たちの幾人かは、決して筆者の祈りのリクエストをあざ笑ったりすることなく、共に祈り、それなりに心配もしてくれていたのである。

ところが、KFCがいよいよ異端化していることが明確になる頃、そこにいた兄弟姉妹たちは、あからさまに弱肉強食の原理を信仰生活に持ち込み、そこに世代間格差のエキスも混ぜ合わせて、自分たちが「神によって恵まれた特権的な豊かな信者であって、それ以外の貧しい信者とは違う」と、年少世代の苦境をあからさまに嘲笑するようになったのである。

筆者が彼らに相談事を持ちかけたり、祈りの支援を乞うたりしたことが、悪用された。そうした相談事が、あたかも筆者が「信仰的に自立できておらず、神の恵みを拒んで人に甘え、人に頼っているがゆえに、いつまでも抜け出せない困難の堂々巡り」であるという決めつけの根拠とされ、「ヴィオロンなどには同情する意味もなければ、助ける価値がない」と結論づけられ、筆者の抱えていた窮状は全て「不信仰の産物」として片付けられて、嘲笑され、踏みつけにする材料とされたのである。

むろん、そのような考えの発信源はほかならぬDr.Lukeであって、同氏がいつものように取り巻きをけしかけて不都合な信者に集団イジメをしかけただけであった。KFCでは筆者の他にも、絶え間なくそのような事件が起きて、年少者でなくとも、何かの理由をつけられては、信徒が見下され、仲間から批判されていたのである。

それが、筆者に矛先が向いたのは、筆者が常日頃から、Luke氏が聖書の御言葉から著しく逸脱していることを、面と向かって同氏に忠告し、かつ、Br.Taka夫妻を含め、メッセンジャーたちが信徒の上に立って勝ち誇っていることを強く非難し、指導者と信徒との霊的姦淫の関係が結ばれるべきではないと言ったので、ついに筆者の「生意気さ」に同氏の我慢の限界が来て、報復行為に及ばれたのであった。

その当時、神への霊的純粋さを失い、なおかつ、決して他の信徒を教える立場から離れることができなかったDr.Lukeにできることといえば、高みに立って、己が富を誇り、聖書に立ち返れと叫ぶ信者の貧しさを嘲笑することくらいしか残っていなかったのであろう。

KFCはもともと外側の物質的豊かさを、まるで内側の霊的豊かさのように誇り、自分たちは「天の特権階級だ」と他人を踏みつけにすることを、よすがのようにしていた。そのような方法で、自分たちは他のクリスチャンに比べ、特別に神に恵まれ、覚えられている存在であることを強調することだけが、この団体の特徴になってしまったのである。Dr.Lukeは取り巻きの老人たち(もはや婦人たちという言葉さえ、使うのがもったいない)を巻き込んで、筆者の置かれていた状況を、筆者を見下すために悪用したのだが、それによって、御言葉から逸れている自分たちに対する筆者の非難をかわせると考えていたのであろう。

だが、以上のような事件は、当時はまだ筆者にとってショッキングに感じられはしたが、ある種の「霊的平手打ち」となり、筆者がよりはっきりと目を覚ますきっかけとなった。その頃から、悪魔に対しては、弱みを見せるどころか、とことん見栄を張らなければならない、ということが筆者に分かって来たのである。

以来、筆者は悪魔に魂を売った連中に、「不信仰だ」などと後ろ指を指されて、嘲笑されるような機会を決して作らないように、自分の生活の欠乏を他者に打ち明けて、祈りの支援を乞うことを、やめてしまった。特に、そのような連中に助けを求めるなど言語道断であるから、彼らとの兄弟姉妹の絆を絶ち切り、彼らをキリストの御身体から断ち切って、彼らと完全に訣別し、自分の生活に起きるすべての状況と、すべての思いを、ただ天の父なる神だけに完全に委ねるようになったのである。

世の中の情勢は、その頃から今に至るまで、寸分たりとも改善することなく、刻一刻と悪くなっているだけである。我々の世代を取り巻く状況は、今も悪化を繰り返しているだけで、何の将来の見込みもない。

だが、だからと言って、筆者がその時代の趨勢に従って歩むべきかと言えば、そんなことは全くないのである。こうした状況は、そもそも果たして筆者の負うべき責任であろうか。むしろ、そういった世の悪しき状況は、どちらかと言えば、年長世代の貪欲と怠慢によって引き起こされたものであり、彼ら自身の罪の結果だと言えよう。それなのに、その状況が、なぜ年少世代に自業自得であるかのようになすりつけられなければならないのか。そんな理由はどこにもないのである。

そんなわけで、筆者はこの「刻一刻と悪化して行く世の情勢」なるものを、自分とは無関係なもの、筆者には責任のないもの、さらに、すでにキリストが十字架で終止符を打たれたもの、神の御心に反する悪魔の憎むべき嘘として、自分から切り離したのであった。

そして、今までのように、「世の中がこうだから」という理由で何かをあきらめ、妥協することをせず、自分が何を願っているのかだけを、世の情勢に頓着せずに、率直に神に申し上げ、あきらめずにそれを神に懇願し続けた。その際、人には全く頼らず、相談もせず、どんな細い道を通らされる時にも、ただ天におられる父なる神だけを見上げ、神がすべてのことを良きにはからって下さるという確信だけを胸に抱いて、今日まで歩み続けて来たのである。

その過程で、筆者は度々、ジョージ・ミュラーのように信仰を試されるに至った。むろん、まだまだジョージ・ミュラーほどの経験には及ばないことは知っている。それでも、この世には一切、保証を求めず、人に助けも乞わず、ただ祈りだけによって、すべての必要を神に叶えていただく、その秘訣を、筆者は、確かに学び始めたのであり、ミュラーと同じ道を今も歩き続けているのである。むろん、その道は、ミュラーが開拓したものではなく、イエス・キリストが切り開かれたものである。
 
そうこうしているうちに、筆者に対して己が富を勝ち誇っていた人々は、時代の趨勢の悪化に伴い、凋落して行ったようであった。もともとそうでなくとも、筆者より年長の世代は、普通に考えれば、筆者よりも早く亡くなるのが当然である。彼らが筆者の貧しさや苦しみを嘲笑していた時、筆者はまだ人生のほんの駆け出しであったが、他方、彼らはすでにとうに頂点を通り過ぎ、あとは次の世代にバトンを預けるのみの状態であった。にも関わらず、そんなことも考えずに、彼らは筆者の前で、自らの栄耀栄華を誇っていたのである。今になっても、彼らは舞台から降りるどころか、「神になり」、自分たちの時代を永遠に謳歌するつもりでいるらしい。

だが、もしそのように主張するならば、彼らは老衰にも、死にも、打ち勝たなければならない。普通の老人たちのようにただ老いて、病に倒れ、生活を縮小し、先細りとなって活動をやめるというのではなく、モーセのように、人生最後の瞬間まで、気力が衰えず、生涯の終わりに近づけば近づくほど、ますます若者のように明るい輝きを放ち、神の命の永遠なることを世に立証せねばならない。それでこそ、自分はただの人間ではなく、神が内に生きておられると、はっきり言えるであろう。

今、彼らの凋落を、彼らの不信仰の産物だと筆者が言うのは、彼らの発言の裏返しである。彼らは、自分たちが時代の幸運に見舞われていた時には、それを信仰の手柄のように誇った。もしそうならば、時代が悪化した時に、なぜ彼らの信仰は役に立たず、彼らの凋落を食い止める手立てとならなかったのであろうか。それは最初から、彼らが誇っていたものが、信仰の産物などではなかったからだ。

時代の趨勢によって手に入れただけのものは、時代の趨勢によって奪い取られる。時代に媚びる人間は、時代に逆らう術を持たない。自分が富んでいる時に、貧しい者の悩みを蔑み、悩んでいる者に助けの手を差し伸べることを拒み、祈りの支援を乞うた仲間と共に祈ることを拒み、その人の願いをあざ笑って、蔑み、呪い、貧しい者を自分たちとは全く無関係な人間として突き放していれば、自分自身が衰えて凋落した時に、人からも同じように冷たい態度を返されるのは仕方ないであろう。

だが、筆者にとっては、以上のような人々の仕打ちでさえ、有益な教訓となったと思うのは、人の心には、神の恵みを受けとることに、常に恐れやためらいを感じる瞬間があり、たとえ信者であっても、神の恵みを素直に十分に受け取れるようになるまでには、時間と訓練が必要だからである。

特に、清貧貞潔、弱者救済、などの理念を掲げて生きて来た人ほど、貧しさを憎み、病を憎み、死を憎んでこれを拒絶し、キリストの命を選び取ることが難しい。

彼らは、貧しくあることが高潔であり、弱者であることが、美徳であるかのように思い込んでいるからだ。

そこで、筆者が貧しい時には、それを不信仰だとあざ笑っていた人たちが、いざ自分たちが貧しさや、病や、老齢や、苦難に見舞われると、一体、どうするのかを見ていると、それらの欠乏をまるで自分を飾る美しい衣のように大切に握りしめるのである。

そして、「苦しみや、困難の中で神に従い、健気に生きている自分」を美化する。そして、そのように苦難に耐えるのが信仰だと言い始める。

彼らは病にしがみつく。貧しさにしがみつく。卑小な自分自身にしがみついて、物乞いのぼろ服を後生大事に抱え込み、いつまでも、これを手放そうとしない。「病に打ち勝つ信仰」などと言いながら、いつまでもずっと病の話ばかりを続けているのである。その話をやめられないこと自体が、そのテーマが、彼らの中で過去になっていないことの何よりの証である。そんな姿は、彼らが筆者をかつてあざ笑っていたのと何の違いがあるのであろうか?

人の人生には、その人自身が作り出したとしか思えないような幾多の困難が存在する。多くの人たちは、不幸は不運な偶然や、事故が原因であると思って、可哀想な人々にいたく同情している。

だが、クリスチャンの人生には偶然というものはなく、すべての出来事が、天の采配であると同時に、本人が信仰によって選び取った結末なのである。信者が神の側に立っているのか、悪魔の側に立っているのか、すべての出来事を通して、信者は自分の信仰を表明しなければならないのだ。

だから、たとえ一時的に困難に見舞われることがあったとしても、それも神の栄光のために用いることができることを信じなければならない。預言者が空の器を次々、油で満たしたように、神は信者の生活の欠けを隅々まで満たすことがおできになり、従って、我々の弱さや欠乏は、神によって満たされ、神が栄光を受けられる材料に過ぎないと思うべきなのである。

聖書における病人たちは、主イエスに会って病を癒された。死んだ者たちはよみがえらされた。主イエスは病人たちに同情の涙を注いで、ただ施しをして終わりにはせず、彼らが本当に自立できるまことの命をお与えになった。主は貧しい人たちを空腹のままで去らせたわけではない、目に見えるパンが、目に見えないパンからできていることを教え、すべてを手に入れるための本当の秘訣であるご自身の命を人々にお与えになられたのである。

ところが、どういうわけか、今日のキリスト教では、困っている人たちにキリストの命によって立ち上がるよう求める代わりに、施しや、同情という網でがんじがらめに捕えて、慈善事業に明け暮れている。こうした慈善事業はどんなに繰り返しても、決してキリストの命にたどり着かない。

だが、そのようにして人間が人間の欠乏を満たし合うという関係を離れ、キリストの御名を通して、天におられるまことの神に向かって自分の欠乏を差し出すならば、それは必ず、不思議な方法で満たされるのである。満たされた欠乏は、すでに欠乏ではない。それは神の栄光である。だから、神に従う人間には、どんな困難があっても、それらはすべて神の最善を証する機会へと変えられる。信者を嘲笑していた人たちが真に恥じ入るのは、そのような瞬間が来た時である。らい病人が癒され、死者が立ち上がり、喪にくれていた人たちが喜びに涙し、悲しむ者が慰めを得、貧しい人が食べ飽き、義に飢え渇いていた人が、義に飽き足りるようになる時である。

その瞬間は、遠い未来のことではなく、今なのである。今、すべての欠乏を抱えたまま、天の父なる神の御前に進み出て、神の限りなく愛なること、神の限りなく善なることを告白し、神は信者が悪魔とその手下どもに嘲弄されるままの状態を、決してお見逃しにならないことを信じるべきである。

「主よ、お聞きください、暗闇の軍勢がこう言っています、信者が貧しいままなのは、あなたの助けが足りないからだと。信者が苦しんでいるままなのは、神に見捨てられているからだと。信者に力がないのは、神など存在しないからだと。私に対する侮りの言葉は、すなわち、あなたに対する侮りの言葉であることを覚えて下さい。

しかし、悪魔とその軍勢がどれほどあなたの御名の偉大さを否定し、あなたの助けを貶め、信じる者には助けがないと言ったとしても、私は断固、そのようなことを事実として信じておりません。私は、私が地上で何者であるかに関わらず、ただあなたの御名において、あなたのものとされた人間として、私に対するあなたの守りと助けの常に完全であることを信じています。

御力を現して下さい。この虐げられて、疲れ切って、弱々しくなっている民に、あなたの御名にふさわしい新しい力を与えて下さい。新たな衣を着せ、足腰を強めて立ち上がらせ、枯れた骨のような人々を、一人の新しい人に、神の軍隊に作り変えて立ち上がらせて下さい。御名がこれ以上侮られ、辱められることのないよう、あなたの名で呼ばれている民を、立ち上がらせて下さい・・・。」

<2106年>

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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