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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

キリストと共に天の御座から御名の権威を持って地に向かって命ずる

 以前に書いていた「キリストと共に天に昇り、御座から統治する」という記事を補足しておきたい。

 十字架においてイエスと共に死ぬこと、イエスの復活の命によって新しく生きること、それはもちろん、クリスチャンが日々、経験しなければならないことであるが、大まかなプロセスとしてみるならば、確かに、ある日、御霊の光によって、それらを経験的にはっきりと実際として理解させられる、ということは起きるのである。

 筆者自身、この経験を通して、ちょっとやそっとでない変化がもたらされた。いや、十字架の経験は、筆者を永久的に、完全に、内側から変えてしまった。たとえば、それまで、筆者は信仰を持っていたが、世人とほとんど変わらない人間で、自分の弱さと状況次第では、どんな罪でも犯しうる人間だと感じてきたが、その主と共なる十字架の経験以後、あからさまに罪を犯すことはもうできなくなった。

 聖書に書いてある「新しい霊と心を与える」ということがどういうことなのか、実感を伴って理解したのである。筆者の魂はあらゆる痛みや傷から全く解放されて、生まれたばかりのように生き生きと健康になり、肉的な悪習慣は跡形もなく消え去り、罪なる思いを否んで退けることができるようになった。

 自分が、今や御霊の制限の中を生きており、かつてのような罪と死の法則性には二度と戻ることができなくなったのを理解したのである。

 だから、御言葉が光となって人の内側を照らす時、光は人の中で死ぬべきもの(=旧創造に属する部分)を永久に殺してしまうということが分かる。この変化は、ある人が一旦、やめると宣言した悪習慣に、時が経てばまた逆戻するような、優柔不断で曖昧な変化ではなく、上から来る光は、照らすと同時に、殺す力を持っている。御言葉は、肉なるものを切り分けると同時に、永久にそれに死を宣告する効力を持っているのである。
 
 暗闇にいた人が、光の下で、徐々に目が慣れて来るように、筆者はそれ以来、何が肉であり、何が魂であり、何が霊であるのか、おぼろげながら、見分けられるようになった。たとえば、魂から出た愛情や、善意は、たとえどんなに美しく見えようとも、全て腐敗しており、希望がないこと、御霊によって生まれたものだけが、真のリアリティであることが理解できるようになった。

 周囲で起こっていることを見ても、何が魂の活動であり、何が霊の活動であるか、その微妙な境目を、少しずつ、識別できるようになった。

 それに加えて、少しずつ、御霊による支配が始まった。内なるキリストが、直接、筆者を通して、状況に働かれたという他には、全く説明のつかないような出来事が、さまざまな場面で起きた。キリスト者の内に住まう聖霊が、確かに生きて力強く働かれることが分かって来たのである。

 だが、決してそこで信者の歩みが完全になったわけではない。信者の中で生まれた「新しい人」は、まだ力なく、十分に成長していない、子供のようなものである。信者はもはや暗闇の中を歩んではいないとはいえ、依然として、この世や、暗闇の権威に打ち勝つ力をまだ知らず、暗闇からの圧迫が、予期せぬ事件や、突然の不調、不安を煽るような状況などとなって、波のように寄せてくるとき、それに対して信者は、初めのうちは、よくても受け身、悪い場合には、ただ翻弄されて後退を繰り返すだけで、これらの出来事に圧倒的に勝利する秘訣をまだ知らないが、それを掴む必要があるのだ。

 信者の生まれたばかりの新しい人の霊的無力さは、彼が天の高度に霊をはばたかせ、キリストと共に昇天し、主と共に御座から、キリストの御名の権威を持って主と共に治めることを実際に経験し始めれば、変わるであろう。むろん、信者は、資格の上では、すでにキリストと共に死と復活を経て、御座についているのであるが、それがどういうことなのか、実際に経験しなければならないのだ。そして、その経験の過程で、信者の新しい人は、霊的に強められ、信仰が成長し、勝利をおさめながら、キリストの似姿へ成長して行くのである。

 そこで、「キリストと共に天の御座から統治する」ということの意味を、知りたいと筆者は考え、神に願った。そのように霊的に天に昇り、御座から統治するという経験は、信者が暗闇に勝利する生活を送るにあたって、なくてはならない死活的重要性を帯びていると感じたためである。
 
 もし、十字架の死、復活と、それに続く昇天の経験がなければ、クリスチャンが、キリストの王国の勝利と支配の前味を生きて経験することはできないだろう。たとえば、地上の経済がますます悪化し、人心が荒れ、嘘と騙しと搾取が横行する今の世の中にあって、信者の職業の問題、経済の問題などには、信者ただ一人分の命を何とかしてつなぎとめるなどという意味ばかりでなく、それを通して、信者がキリストのまことの命による支配をこの地にもたらし、暗闇の勢力による支配を敗北させ、後退させるという意味を帯びているのである。

 ある信者が、「悪人の富は、善人(信仰者)のためにこそ、蓄えられる」と語ったが、まさにその通りなのである。キリスト者には、御名の権威によって、地の富が蓄えられている倉庫を開錠し、不正な罪人たちの富を天の倉庫に移行するということが可能なのであり、その方法を信者は実際に知らなくてはならない。

 この富の移行は、地上の悪人たちがいつもそうしているように、嘘や不正や脅しや略奪や搾取によるのではなく、ちょうど新約聖書で、ザアカイが主イエスの前に自ら悔い改めて、自分の蓄えた不正な富を虐げられた人々に還元すると述べたときのように、悪人が信仰による義人の前に、自ら己が不正な富を明け渡すという自然な成り行きによる。そのようにして地が天に仕えることが、本来の秩序なのである。そして、信者は、天の正しい霊的統治を地上で持ち運ぶ器なのである。
 
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 もう一度言うが、キリスト者は、主イエスと共に霊的に統治する方法を知らなければならない。そして、それは天の御座の高度から行われるべきことである。

  ただし、ここで少しばかり注意が必要なのは、これはスピリチュアリズムで流行した「アセンション」などとは全く異なる事柄で、アセンションなどは、キリストと共に信者が御座から統治することの偽物に過ぎないという点である。

 悪魔と暗闇の勢力は、人があたかもキリストの十字架を介することなく、神の恵みによらず、自力で自分本来の力に覚醒することによって、何かしら天的存在となり、神のようになれるかのような教えを常に捏造して来た。つまり、今もって彼らは、キリストと共なる死・復活・昇天の体験の偽物を盛んに流布しているのだが、このように偽物が現れて来るのは、本物がそれほどまでに貴重だからに他ならない。

 だから、キリスト者は、虚偽の教えが蔓延していることに幻滅して、本物を探し求めることまでやめるべきではなく、偽物が隠そうとしている本物が必ずあるはずだということに注目して、真に高価な「真珠」である霊的真理を探し続け、御言葉が生きて実際となる経験を求めるべきである。

 キリストの御座からの統治とは、山上の垂訓が実現した世界であり、それは信者の肉的高揚のために行われる自己顕示などとは全く異なる事柄である。信者は、自分に何らかの感覚的な高揚感をもたらす超自然的な体験の有無に左右されることなく、あくまで聖書の御言葉に立脚して、静かで落ち着いた信仰のもとに、これらの事柄(復活、昇天、御座)が、御霊によって信者の内側で実際となることを確信し、それを追い求めるのである。

 たとえ感覚的に何も体験したように感じられずとも、御言葉への確信の中にとどまることが肝心である。

 さらに、筆者がこのような追求の間に学ばされた重要なことがある。それは、キリスト者は、天の御座に就いて主と共に統治する者であるから、地上の経済の悪なる支配に巻き込まれて、その奴隷となってはいけない、ということである。

 筆者はこれまで、さまざまな方法で生計を神に満たしていただいたが、その満たしの方法は一定ではなく、時には、ジョージ・ミュラーのように信仰を試されることがなかったわけではない。

 なぜなら、信者は天に終身雇用されているのだが、地上においての雇用は変化する可能性があるからだ。地上には何一つ永続的な事柄は存在しない。そこで、この世で、どのような形で生計を満たすかという問題については、主はその時、その時で、いつも筆者に違った答えを下さった。

 だから、筆者はかなり長い間、世人と同じように、この世の職業に就き、まじめに働いて生きようと考えて来たのだが、いつも、その結果として、思い知らされることは、地上の労働なるものは、地上の呪われて堕落した経済の一環として、非常に悪しき呪われた要素をはらんでおり、その支配に身を委ねれば委ねるほど、誰しも、豊かになるどころか、貧しくなっていくだけだということである。

 そのような呪われた悪循環に身を委ねることが、神に喜ばれる信者の生き方ではなく、信者が養われる方法は、常にこの世が規定しているような自己の労働によるのではない別な天的な方法によるのだということを学ばされるのであった。

 だから、どんなに筆者が世人と同じような生活を送ろうと試みても、いつもいつも不思議な展開により、どういうわけか、神は常に労働によらない別の蓄えを用意して下さり、自己の努力によらず、神の恵みによって生きるようにと、筆者に促されたである。むろん、それは不正に蓄えられた富などではなく、むしろ、不正な罪人が裁きを受けて、正しい人のために、蓄えて来た富を明け渡さなければならなくなる、といった結末によって生じるものなのであった。
 
 だから、たとえこの世の経済がまるで呪われた悪循環のようなものとなっており、どんなに多くの世人がそれによって追い詰められ、暗闇の勢力がそれを使って信者の生活をも妨害しようと試みたとしても、結局、最後には、彼らの方が降参して、己が富を信者に明け渡さなくてはならなくなる、ということの連続なのである。そして、そのように不正な罪人が恥をこうむり、悔い改めた時に生まれる富の移行が、信者がこの世的な労働によって得るものよりもはるかに大きいのである。
 
 だから、筆者が言えることは、もし信者がキリストのみに忠実であろうと堅く決意し、主以外の何者にも頼らずに御言葉を守って生きるなら、我々の生存に必要な条件はすべての面において、神が保障して下さると信じて構わないということである。神が信者の義となって下さり、信者のために戦って下さり、信者のために報復し、この世の不正な罪人を屈服させて、彼らに恥をこうむらせ、彼らが義人から収奪して蓄積して来た富を、信者に明け渡させるのである。

 たとえ筆者自身がそういうことを望んでいなくとも、それでも、キリスト者は、地上の経済よりも上位にいて、地に対するキリストの命の霊的統治を及ぼす権威を持つ者なのだということを、どういうわけか、筆者は常に確信せざるを得ない出来事の連続の中に置かれて来たのである。

 キリスト者を騙し、虐げ、踏みにじり、搾取しようとするような者は、必ず恥と損失を受けることになる。そのようにして、地の富が天の宝物庫に移行することは、神の御心にかなっているのである。
 
 だから、筆者は誰かの施しや憐れみにすがって困窮状態を解決してもらわねばならないようなマイナスに陥ったことはこれまで一度もないし、かえって、筆者の「貧しさ」をあざ笑ったり、追い詰めたり、あるいは筆者を騙して損失をこうむらせようとした人々が、常に最後には恥をこうむり、償いをせねばならない事態となって来たのであった。

 たとえ望まなくとも自然にそのようになったのである。今、地上の経済は年々悪化の一途を辿っており、あらゆる組織・企業・団体が悪鬼化し、嘘と騙しと搾取が横行しているにも関わらず、御名の権威を持って、信者が彼らの前に立つとき、地上の悪なる主人たちは、結局、恥をこうむり、己が宝物庫を、キリスト者のために明け渡さなければならなくなるのである。

 だから、キリスト者の使命は、地上の悪なる主人の手下や奴隷となって、その思い通りに動かされ、無益な苦しみを味わうことではない、とはっきり言える。むしろ、聖書に書いてある通り、悪なる人々が、義人を陥れようと、どんな不正な計画を企み、罠を張ったとしても、信者は神にのみ絶対的な確信を置いて、心安らかに歩いて行けば良い。神が、彼らを自分でしかけた罠に突き落とされるからである。その結果、彼らの富が義人の手に移行するということが自然に起きるのである。
 
 だから、信者は神にのみ絶対的な確信を置いて、神に対してのみ忠実であればよく、聖書に書いてある通り、明日のために思い煩うということは、する必要のないことである。むろん、最低限度の管理は必要だが、自分で自分を支えようと絶えず心を悩ませ、限界まで力を振り絞って悲痛な努力をして(もしくは不正な方法論を巡らして)まで己の力で己を養おうと努力する必要はないのである。

 信者はただ率直に、何が自分に必要なのかを天におられる父に向かって祈り、申し上げ、主を信頼して生きれば良い。

 さらに、こうした祈りの際に、非常に有効なのは、信者がただ地上から天に向かって祈りを通して願いを神に懇願するだけでなく、もっと力と権威を持って、天の御座からキリストと共に、御名の権威によって地上に向かって命じるということなのである。

 これをするために、信者には「キリストと共に昇天し、御座につく」という経験が必要になるのだと筆者は考えている。天の御座からの権威をもった祈りは、地上から捧げる懇願の祈りよりももっとはるかに強力な効果を持っているからだ。
 
 信者の地上での行く先、なすべき事は、常に、天に備えられているが、ただ備えられているだけでなく、それは祈りによって、常に信者の心の願いに沿って与えられるものなのである。

  だから、信者はこの世のものさしに従って自分の人生をおしはかり、願いを限定すべきではない。たとえば、地上の経済が悪化しているから、選択肢もないだろうと考えて、信者があえて劣悪な条件に自ら志願したり、二度と関わるまいと決意した領域に戻ろうとしても、その道は常に絶たれる。

 主が信者のために用意して下さるのは、良心に恥じず、自分で自分を苦しめたり、貶めたりする必要がなく、不正に加担せず、なおかつ、信者自身の心の願いに合致し、さらに歴史の立会人になるような生き方である。

  信者にとって生活の糧は、自分で探し回って自己の努力によって得るものではなく、はたまた巧みな自己アピールによって獲得すべきものでもなく、主と信者が共同で作り出して行くものなのである。御霊の知恵が、どのように生きるべきかを信者に常に教えるのである。

  神には無限の多様な知恵があり、無からでも有を呼び起こすことのできる方が我々の主である。その主と共に生きている限り、信者は、神と共に信仰によって、自分の願う事柄を創造しているのであり、神には足りないとか、万策尽きたということが絶対になく、信じる者のために、神は常に豊富に選択肢を用意して下さることができる。

 だから、キリスト者の生活とは、この世の状況がどんなに悪くなって行ったとしても、それに左右されるものでは決してないのである。

  しかしながら、そこに信仰の戦いがある。信者の願いが成就するよりも前に、必ず、暗闇の勢力からの妨害があり、彼らは主が信者のために創造して下さった富が、何としても信者の手に渡らないように、必ず、何らかの方法で妨害して来る。

 その時に、信者は、敗北感や、恐れや、弱さを覚えたり、自分が神に願った恵みを受けるに値しないという怖れの中に沈まないことである。この否定的感覚に対して、徹底的に立ち向かい、これを拒否し、神の勝利に立ち続けて、天の高度を維持しながら、すべての圧迫に立ち向かうことが有効である。

 信者は決して起きる出来事にただ翻弄され、振り回されるだけの立場でいてはいけない。神が約束して下さった栄光に信者を至らせまいとする全ての悪魔の策略を見抜き、これを打破して突き進んでいく積極性が必要なのである。

 このような戦いを経由することなく、願っていた栄光(キリストの似姿)に信者が到達することはまずないと言えよう。悪魔はあらゆることについて信者に敗北をささやき、あらゆる方法で信者を意気消沈させようと試みるだろうが、敗北は悪魔に突き返してやり、絶対に認めないことである。また、敗北的な台詞を人々から投げかけられる時、これをきっぱりと否定することが重要である。

 悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう、と書かれている通り、キリスト者を迫害して来るような連中の悪事は、声を大にして世に告げ知らせれば良い。これについて、黙っている必要はない。この世の罪人がどれほど連帯して信仰によって生きる義人を迫害し、陥れようとしたとしても、キリスト者の内におられる方は、この世全体を合わせたよりもはるかに強いのであり、すでに世に勝った方なのである。

 だから、この世の情勢がどんなに厳しくなっても、信者の生存のために必要なすべては主が天に備えておいて下さり、しかも、それは必要最低限をはるかに上回るものなのであって、それを信仰の戦いを勝ち抜いて獲得することができる、ということを信じずべきである。

 信仰によって、天から地に御心を引き下ろし、地上の富を天に移行することが信者の重要な責務の一つなのだと認識すべきである。

 地は、天に住む者のためにその宝を蓄えており、これを明け渡さなければならない立場にある。キリスト者が地上の人々に仕え、その悪なる支配に翻弄されるのではなく、地上の人々がキリスト者に仕え、天の支配を知らなければならないのであって、これが本当の秩序のありようなのである。信者が地の奴隷になるべきではなく、信者はかえって地の悪なる主人の支配に恥をこうむらせ、これを後退させ、御心にかなう天的秩序を地にもたらすために地上に存在しているのである。

 人の力は、どんなに優れた能力がある人の場合も、年々衰えるだけであるが、主を待ち望む者は新たに力を得る。キリストの死と共に働く偉大な復活の力は、人間的な望みが尽きれば尽きるほど、ますますはっきり現れて来る。

 神を信じてより頼む者が失望に終わることはない、と聖書に書かれている通り、この世の法則と、信仰の法則は逆なのである。この世的な観点から絶望が増し加わる時にこそ、信者の信仰が試されており、信者に約束された天の栄誉も大きい。

 だから、今の時代のような時にこそ、信者は勇気をもって暗闇の勢力の妨害に敢然と立ち向かい、約束された勝利を勝ち取る積極性が必要とされる。たとえ確かな証拠が目に見えるところに何もなくとも、見えない神の偉大なみわざを信じる信仰を生きて働かせるべきである。

 敗北から立ち上がり、勝利の叫びをあげ、凱旋の歌を歌いなさい。もうこれ以上、弱々しい懇願の祈りを捧げていないで、まだ見ていなくとも、天の御座に主と共に座していることを信じ、地に向かって権威を持って命じなさい。

 アダムのために地は実りをもたらさないが、地はキリスト者のためには実りをもたらさなければならない。なぜなら、キリストは、アダムが失敗した統治を実現するために地上に来られ、今やその任務を、信じる者に委ねておられるからである。

 悪人の富は信仰による義人のためにこそ、蓄えられている。地はすべての富をキリストご自身に明け渡すためにこそ、蓄えているのである。彼らが己の欲のために富を蓄えていると思っているのは、勘違いに過ぎない。彼らが義人を虐げて不正な富を増し加えていると思っているのは勘違いに過ぎない。不正な罪人自身も含め、この地上にあるすべては結局、キリストに服従させられることになるのである。

 キリスト者は神の代理人として、霊的に地を治め、地の富の蓄えられている倉庫を開錠する権威を行使できる者である。特に不自然な努力を重ねなくとも、神にのみより頼み、御言葉のうちにとどまりさえすれば、最後には不思議とそういう結果になって、地上の不正な罪人らがキリスト者のために道を譲り、キリスト者のために奉仕し、不正を悔い改めて、その富を明け渡さなくてはならいような成り行きにすべてが進行する。そうなったときに、筆者がここに書いてあることが何だったのかも、分かるであろう。

 だが、これはキリスト者がこの世で権威者となることを意味しない。主イエスや弟子たちが地上にある間、あくまでこの世の経済的支配圏の外に立っていたように、キリスト者は、この世の支配に組み込まれない自由な人間として、それでも、この世の支配を超越した高み(天)から、この世の支配圏に対して権威を持って命じることのできる立場にある。

 このようなことを、筆者は人間的な思いで、あるいは高慢や支配欲もしくは復讐心などから言うのではなく、実際に、キリスト者には、貴い主の御名のゆえに、地を治める権威があって、その権威の前に、地の人々が従わなくてはならない、という秩序が存在することを知ってもらいたいがゆえに、述べているのである。筆者はおびただしい回数、それを見て来たのでそれが事実であることを知っている。
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私の歩むべき道―御名によってすべてのものを統治する―

「まことに、シオンの民、エルサレムに住む者よ
 もはや泣くことはない。
 主はあなたの呼ぶ声に答えて必ず恵みを与えられる。
 主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる。

 わが主はあなたたちに災いのパンと苦しみの水を与えられた。
 あなたを導かれる方はもはや隠れておられることなく
 あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る。
 あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。
 『これが行くべき道だ、ここを歩け 右に行け、左に行け』と。

 <…>

 主は、あなたが地に蒔く種に雨を与えられる。
 地の産み出す穀物は豊かに実る。
 その日にはあなたの家畜は広い牧場で草をはみ
 地を耕す牛やろばは ふるいや箕でえり分け発酵させた飼葉を食べる。」
(イザヤ30:19-24)


主に従う者は、乏しいことがない。
生きる限り、いつくしみと恵みとが追ってくる。
そうダビデも書いている通りだ。

足りないということもなければ、間に合わないということもない。
何が起きても、主ご自身が解決となられ、すべてに行き届いて下さるのである。

最近、家の給湯器が壊れるという出来事があった。
点検に来てもらうと、「もう古いですね。これは直せません。取り替えましょう」と、
診断書を書いてくれた。
むろん、取り換えは全て無料である。
だが、工事にずいぶん時間がかかるという。
事情により、なかなか対応できない。
それに、何か心にためらわれるものがあった。

業者はとにかく早く新しいものに取り替えたいらしい。
新しい機械を導入することで、何か彼らに儲けでもあるのだろうか?と思うほどであった。

だが、筆者はハイテクで新しい機械には関心が全くない。
どうせ取り替えても給湯器ごとき、そんなに性能が変わるわけでもない。
普通に暮らせさえすればそれで良いのだ。

ところが、筆者が何もしないでいる間に、不思議なことが起きた。

まず点検に来た人が、給湯器をある程度復旧させて行ったので、
機械が使えるようになった。
ランプは点くようになり、お湯もある程度出るようになった。

ただ機械が古いので、冬場、お湯がきちんと出ないかも知れないと脅かされ、
やっぱり早く取り替えるようにとの促しが何度も業者から来た。

ところが、それにも関わらず、それでもまだ対応をぐずっていると、
驚くべきことに、もうダメだと言われたその機械が、
時を追うごとに、正常に作動するようになって行ったのである。

一体、これはどういうことだろう?
呆れる人もいるかも知れないが、筆者にはよく理解できるのだ。

筆者はこれまでにこのような形で壊れたはずの機械を何度も復旧させて来た経験がある。

自動車がエンストを起こした時に、レスキューが来る前に復旧させた。
窓を自動で開けられなくなった時にも、自力で元通りに直した。

もっと以前には、コーヒーをこぼして一度動かなくなったパソコンですら、
復旧させたことがあった。

工具を使ったのではない。
中を開けて修理をしたわけでもない。
そんな技術が筆者にあるわけではない。

すべてはただ主の御名によって復旧させたのである。
御名によって命じ、何事もなかったかのように、元通りにしたのである。

信じられないという人は別に信じなくても良い。
アホらしい、さっさと買い替えてしまえと思う人は買えば良い。

だが、筆者の信念は、壊れたからと言って、古いものをどんどん捨てて、
新しいものに買い替えれば良いというものではない。

使えるものは可能な限り使い続ける。
可能な限り、寿命をのばすのだ。
おそらくは、それが道具にとっても本望であろう。

さらに、テクノロジーは人間が造ったものであって、人間に従わなくてはならない義務があるのだ。だから、テクノロジーの反乱は、御名によって静めるのである。

テクノロジーだけではない。環境も、天候も、自分自身の体も、人の思いも、御名によって従わせるのである。

今、一体、その実験がどこまで可能なのかを試しているところである。

別に筆者は超能力者を目指しているわけではない。
キリストが信じる者にお与え下さった御名の権威によって、信仰者がどれほど自然で豊かな生活を送ることができるか、主がどれほど全ての場面において、あらゆる問題の解決となって下さるかを試しているだけである。

いずれにしても、どんな状況でどんな問題が生じても、御名を信じる者には、足りないということはないし、手遅れということもない。もうダメだという時は来ないのである。

キリストの復活の命は、信じる者を通して、生き物だけでなく、道具にも、環境にも及んでいる。これは本当のことである。

貧しい者は、御名によって命じるが良い。
主はご自分に羊に、命を豊かに与えて下さる。

[2016]

神の御言葉に逆らう者の永遠の滅びと、すべてにまさるキリストの御名

このブログは、「東洋からの風の便りⅡ」がネトウヨのようなカルト被害者陣営からバッシングを受けた後に書き始めたものである(彼らの犯した罪は神の聖霊に対する冒涜として永遠に残り、神の怒りと裁きの対象となる)。

その事件のために、筆者はこのブログに何を書くべきか、しばらく考えていたが、今やその事件が信者にキリストの復活の証を失わせるための、暗闇の勢力による激しい妨害であることが理解できるため、筆者は今、こうした妨害にも立ち向かう強度を持つ天的な力強い衝撃力を持った証を取り返し、また、目に見える人間ではなく、よりキリストだけに栄光が帰されるように、当ブログを記事を御言葉によって補強しているところである。
 
カルト被害者救済活動の支持者たちは、あたかも筆者が「被害者を冒涜した」かのように非難していたが、その実、彼らは御言葉に従わない不信仰で罪深い人間の利益を擁護することと引き換えに、十字架の死を通られ、復活された、永遠に神のみ前に義と認められたキリストの御言葉と御霊の証を退けることにより、聖霊を冒涜し、神と人の前に永遠に赦されない罪を犯したのである。実際、彼らのバッシングがどれほど苛烈を極めたもので、一線をはるかに越えていたかは、当初から信仰を持たない世人でさえ指摘していた。カルト被害者でさえ抗議していたし、まして、筆者の周囲の信者たちは猛烈に抗議したのである。しかし、彼らはターゲットとなる信者の範囲を広げ、信者の交わりを引き裂くことにより、数多くの信者たちの証を失わせ、吠えたけるししのように振る舞った。筆者の周りでこの妨害に立ち向かって証を書き続けている信者はもう見当たらない。みな彼らが迫害によって追い詰め、食いちぎったからである。これは現代における皇帝ネロの霊を持った人間たちによるクリスチャンへの大迫害であり、神は彼らに報復されるであろう。
 
だが、以上のようなバッシングは、信者に恐怖感を抱かせることにより、信者を天的な高さから地に引きずりおろし、霊的な証と恵みを失わせ、信者をあたかも信仰を持たない「ただの人」のように生きさせるためにしかけられた策略であることが筆者にはよく分かるため、むなしい脅しに屈するつもりはなく、その妨害に対しては、筆者は「ただの人」ではなく、あくまで「上から生まれた新しい人」、すなわち「キリストの復活の証人」として、子羊の血潮と証の言葉により、立ち向かうのみである。だから、今ここで記事を補強しているのは、天的な高さからキリストの復活の証を発信するためであり、暗闇の勢力の主張する正義なるものが、罪深い人間のよりすがるぼろ切れに過ぎず、何の力もないものであることを証明し、そのようなむなしいものと引き換えに神の永遠の救いを退けることが神のみ前にどれほど大きな罪であるかを指摘し、堕落した地と暗闇の勢力に対して御名の権威を持って、罪の宣告と裁きを予告し、御言葉に従うよう命ずるためである。
 
繰り返して言うが、クリスチャンを名乗りながら、同胞であるはずの信者を裏切り、聖徒らを迫害し、売り渡し、交わりを破壊し、御霊による証を冒涜した彼らは、神と聖徒らの前に永遠に赦されない罪を犯したのであるから、彼らには悔い改めるチャンスはもうないであろう。実際、筆者自身も忍耐の限りを持って、彼らに常軌を逸した迫害をやめて信仰に立ち返るよう呼びかけたが、それも効果なく、神は彼らの心をあのパリサイ人•律法学者にも劣らず、より一層、曲がって、頑ななものとされた。それは神がされたことなのである。
 
聖書にははっきりと「赦されない罪」が存在することが記されており、それが御霊を冒涜する罪である。私はキリストの御名の権威に基づき、彼らの所業は永遠に赦されない罪であることをここにはっきり宣告しておく。筆者自身は人間に過ぎないので、たとえ肉なる人間としての筆者を侮辱しても、それは永遠に赦されない罪とはならないが、筆者の証が御霊によって書かれたものである以上、これを冒涜して退けた者は、筆者に対して罪を犯したのではなく、神に対して罪を犯したのである。彼らはキリストの血潮と証の言葉を、滅びゆく不信仰な人間の利益のために踏みにじり、退けたのであるから、彼らは自ら神の救いを否定して自分を救いから切り離し、なおかつ、御霊を冒涜したのであり、彼らのための神の憐れみはもう残っておらず、その罪は永遠に赦されることはない。

さて、ネトウヨのような迫害者については、以上の宣告で十分であるから、本題に入りたい。クリスチャンとは、よく知られている通り、キリストの復活の証人である。このことの意味をよく考えてみたい。

まず、キリストの死と復活とは、もう二千年以上も前に、我々が生まれてもいなかった時代に起きた事実である。我々はそれをこの目で見たわけでもなく、キリストご自身とお会いしたわけでもないのに、その知りもしないはずの出来事を、まるで見て来たことのように、固く心に信じている。それだけでも不思議なことである。

我々はペテロやパウロと同世代人でないので、キリストの歩まれた人生は、我々の人生とは直接何の関係もない。キリストの人生と我々の人生の接点は、地上にはなく、ただ信仰だけによるのである。

それにも関わらず、キリストの復活の証人であることは、我々の人生そのものを全く根本から塗り変えてしまうほどに衝撃的な意味を持っている。

我々は、キリストに出会って以降、自分自身と自分の人生の証人である以前に、キリストの復活の証人となった。私たちは、もはや自分が何者であるかという事実に立脚して生きておらず、キリストの復活の証人であることが、我々のアイデンティティなのである。

これは考えられないような出来事である。一体、自分の目で見たわけでもない出来事、出会ったこともない人間の生き様によって、我々の人生が根本から変えられるということが、なぜ起きうるのか。さらに、それは単なる人間ではなく、神の貴い独り子であり、贖いの小羊なる方なのである。そして、ただ単にそれを信じたことによって我々の人生が変化したというだけでなく、我々が何者であるかという事実さえ、それによって根本から変わってしまったのである。

この世においては、筆者にも肉の父母があり、先祖代々から受け継いだ名前があり、故郷がある。「あれはナザレのイエスではないか」と主イエスが地上で揶揄され、軽んじられたように、この世の出自においては、筆者もただのありふれた人間に過ぎない。

ところが、そのただのありふれた死すべき人間が、キリストに出会ったことにより、「復活の証人」へと変えられる。ただキリストの復活の証人であるだけでない。私自身もキリストと共に死んでよみがえったのだから、それは私の復活のことでもあるのだ。自分自身が実際に死んで、復活したわけでもないのに、キリストを通して、自分も死を経て復活したことを信じている。これもまた考えられない不思議である。
 
我々が宣べ伝えているのは、死を打ち破られたキリストの勝利であると同時に、それはすなわち、我々の死に対する勝利でもある。カルバリのキリストと私が一つであるがゆえに、もはや死は人類を脅かすことはできないと、私たちは高らかに証言しているのである。

凡庸な個性の持ち主であり、どこにでもいるありふれた死すべき未熟な人間の一人、あるいは、世からはどちらかと言えば嫌われ者・はみ出し者に過ぎない筆者が、キリストの死と復活を介して、キリストと同じように、キリストの命によって、天から生まれた一人の新しい人となる。

同じように、弱々しくされていた信者たちが、御言葉によって奮い立たされて、力強く立ち上がる。もはや我々は、世から迫害されて追い詰められるだけの弱々しい人間としてではなく、世に対して力強く罪の宣告を突きつけ、世に勝つ者として、悪魔の支配する世全体に対峙するのである。

それは下から生まれた有限な人間とは全く違ったアイデンティティであり、なおかつ、アダムの命に属する一人の死すべき人間をはるかに超えた、はかりしれない権威に基づく新しい人である。

信仰者のブログは、本来、このように、主の御名によって、上からの承認によって始められ、続けられなければならないものであった。文学的修辞など問題ではなく、肝心なのは、信仰の証を書いている人が、天にいるのか、それとも地にいるのかという霊的事実である。天に立っていなければ、信者の証は力を持たない。

筆者の証を支えているのは、ペンテコステの日に上から下った御霊の承認である。もしこのブログがただヴィオロンの名のもとに書かれているだけであれば、それは単なるありふれた趣味に過ぎず、暗闇の勢力から攻撃されて駆逐されても、人類にとって何の損失にもならず、神も痛手を受けられることはないであろう。

だが、これは、ヴィオロンというありふれた人物が、どうでも良い個人的な人生の出来事を単なる趣味として書き綴っているのではなく、これはキリストの御名のもとに、キリストの復活を宣べ伝えるために書かれている証なのである。
 
ある時点を境に、ヴィオロンという一人の有限な人間は死によって消え、その人間が、信仰によってキリストと一体化して新しく生まれた、そして、今、キリストにある新しい人だけが残っている。何千年も前に地上を生きた一人の人――神の生ける御子キリスト――が、時空間を超えて、ヴィオロンという人間の中に信仰を通じて入りこみ、死と復活により、ヴィオロンと一つとなって内に住まわれた。それによって、今、ここに生きているヴィオロンという有限なる一人の個性は、キリストに飲み込まれて消えたのである。あたかも、ここにいるのは筆者だけであるように見えて、そこに生きておられるのはキリストなのである。
 
そういうことは、人間の頭脳で理解することはできない現象だが、悪魔にとっては、決してあってはならない事実である。なぜなら、下から生まれた出自だけであれば、人間は誰しも死に打ち勝つ力を持たないので、罪の奴隷であり、地上においてあらゆる圧迫に翻弄され、苦しめられるだけの悪魔の所有物のままである。

だが、キリストの死と復活と一つになった人間は、もはや悪魔の奴隷ではなく、死によって脅かされる理由もなければ、悪魔と暗闇の勢力のなすがままに翻弄されなければならない理由も存在しない。むしろ、悪魔と暗闇の軍勢の方が、彼によって罪に定められ、駆逐される側に回るのである。

だからこそ、そのようなキリストと一つに結合した新しい人間の出現は、暗闇の勢力全体にとって重大な脅威であり、そのような人間が述べる信仰の証は、彼らにとっては、まさに歯ぎしりして消し去りたいほどの衝撃的な内容なのである。何しろ、そのような例外がありうることを、世の中に大胆に知らしめられると、悪魔の監獄全体が根底から揺り動かされて崩れるからである。

さて、この記事を書いている間に、ある企業から連絡が入った。この世の経済体系からはいつかエクソダスせねばならないという予感を筆者は抱いて来たのだが、マモンの経済体系から本格的に脱出する前に、どうしてもまだせねばならない準備が残っている。

筆者は、年々、絶望的な様相を呈する我が国に愛想を尽かし、かつてはロシアに逃亡しようと試みていたが、その考えを改めて、ロシアを「今、ここ」に呼んで来ることにした。我が国にいながら、国外亡命しているような、そんな不思議な状態を作り出すつもりなのであるが、その試みが、一歩進んだ。
 
ヴィオロンの履歴書は、すでに相当長くなっている。一般に、履歴書が長いのは、良いことではなく、通常であれば、一目見ただけで眩暈がして来て、弱気になるだろう。これでは生きていられるだけマシだから、すべての夢をあきらめるしかない、などと結論づけそうになるのではないだろうか。

むろん、これは一つの比喩である。ここで言う履歴書とは、アダムの出自が意味するすべてのものであって、人は地上の下からの出自によっては、たとえ逆立ちしたところで、大したものは手に入れることはできない。どんなに優れた能力があり、どんなに立派な経歴のある人間も、自分の力でもがいて行き着くことのできる場所はたかが知れており、結局、その先に待っているのは、死だけなのだ。

それにも関わらず、その地上の出自においてさえ、それほど恵まれているとは言い難い人間が、自分の願いにこだわって生きているのであるから、信仰を持たない世人なら言うであろう、「えり好みをしていては、あなたに明日はありませんよ。妥協することが、生き残る道です」と。

世人であれば、自分の地上の出自に鑑みて、それに見合った将来しか、手に入れることはできない。世に悪徳ブラック企業ばかりがはびこるようになれば、我慢してそれに合わせるしかない。我が国が経済不況のどん底に突入したり、戦争に突入しても、それと手を携えて心中するしかない。そう考えるのが当然である。

だが、筆者はこれまで自分の地上の履歴に従って歩んでこなかった。堕落した罪人であり、死すべき人間の一人に過ぎないアダムの名によっては、筆者は歩んで来なかったのである。

筆者のよりどころは、あくまで「権勢によらず、能力によらず、神の霊によって」歩むことにあり、信仰者にとって唯一の救い主であり、唯一の助け主、唯一の真の伴侶である主イエスの御名の権威によって生きることである。この御名によりすがる時、およそ自分自身の能力や、人の地上の出自によっては、到底、達成不可能と思われる事柄が全て整えられ、生きるために必要なすべてが、その都度、天から信仰によって供給され、地上に引き下ろされる。

神の国とその義とをまず第一に求めれば、すべてのものが添えて与えられる。神が必要を備えて下さるのだから、悪魔と取引する必要はない。そのような歩みが実際に可能であることを、筆者は生きて一歩、一歩、確かめて来た。

人を生かすことができる権威を持っているのは、ただ一つの御名だけである。そして、その名は、信じる者と一つである。神は、信じる者を生かすために、いや、ただ単に生かすだけでなく、豊かに命を与えるために、独り子を地上に送られた。そうである以上、神はご自分だけに頼る人間を、あらゆる恵みによって祝福して下さり、ご自分の子を永遠に守られ、決して見捨てられることはない。

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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