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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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命の道と死の道


年が明けて仕事も始まりました。忙しい毎日の中、何かしら力強いいのちの力が内側から私を支えています。私はただ心の口をいっぱいに開けて主に期待してい ます。主は我が人生にこれからどんな恵みを下さるのでしょうか? 御父はどんなに大きな愛を私に知らせて下さるのでしょうか? 私はヤコブのように真剣に 主と交渉しています、我が主よ、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(創世記32:26) 

主よ、御名の栄光を表して下さい、そうすれば、私は喜びましょう、御名の栄光を表して下さい、そうすれば、全地の被造物はあなたを礼拝し、誉めたたえるでしょう…。

「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」
「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」(黙示7:10,12)


しかし、今年は全体としては、とても厳しいふるい分けの年となるものと予想しています。カインとアベルの相克がさらに明確になり、誰がいのちの道に立って おり、誰が死の道に立っているのか、その結ぶ実により、ますますはっきりと明らかになるでしょう。神の義ではなく、自己の義を選んだ人々には、神の裁きの 御手が置かれるでしょう。

神は正しい者が揺るがされるようなことを決してなさいません(詩篇55:22)。 しかし、正しい者とは誰でしょうか。それは自分の行いによって自分を義としようとする人々ではなく、ただ主イエスの血潮の中に身を避け、神の義によって義 とされる者のことです。人は尊い神の子羊の贖いの血潮によってのみ義とされ、主に身を避ける者は誰も罪に定められません。

「だれが、神の選ばれた者を訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:33-34)

今、キリスト教界では、ますます主イエスの十字架が語られなくなっているばかりか、子羊の血潮という言葉さえも聞かれなくなっています。これは恐ろしいことです。

昨年と一昨年を通して、クリスチャンと称する大勢の人々が自ら十字架を否定し、血潮を踏みにじり、偽証により無実の聖徒たちを告発し、自己を神とする偽り の福音へと逸れて行きました。その上、義人を罪に定め、血潮を否定する者たちを、他の人々が擁護し、彼らも共に罪にあずかりました。

しかし、私たちは血潮を否定することの恐ろしさを知らなければなりません。他人の罪に共にあずかってはなりません(Ⅰテモテ5:22)。主イエスの十字架は神のご計画の中心をなしており、それを退けては私たちにいかなる救いもなく、子羊の血潮を他にして、私たちを義とし、私たちを神の御怒りから救うものは何もないのです。

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残 されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。だれでもモーセの律法を無視する者は、 二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。

まして神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮るものは、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。私たちは、『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。』、また、『主がその民をさばかれる。』と言われる方を知っています生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」(ヘブル10:26-31)


ですから、私たちは決して、このような文脈で生ける神の御手に陥る者となってはいけません。主イエスの血による契約を踏みにじって、自ら神に敵したり、神 に敵対する者の罪に加担すべきではありません。主イエスは、この世の終わりには、収穫の時がやって来て、遣わされた御使いたちが、人々を束のようにしてよ り集め、役に立たないものを全て炉の中に投げ入れると言われましたが、この刈り入れはさまざまな点で、すでに始まっているように思われます。

「…毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです

そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:40-43)


終わりの時代には、いのちの道を選んだ者と、死の道を選んだ者の違いは、極端なまでに明確な人生の結末となって現われるものと思います。悪しき者はますま す悪くなり、正しい者はいよいよ正しくなり、持っている者はますます豊かになり、持たない者はますます乏しくなるでしょう。

「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」

「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えてくる。<…>自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を取って都にはいれるようになる者は、幸いである
犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。」(黙示22:10-15)


すでに刈り入れは始まっています! 私たちは都に入って、幸いな者と呼ばれるのでしょうか。それとも外の暗闇に追い出されて、泣き叫ぶのでしょうか。血潮 にて罪を洗われ、キリストの十字架の死を通って、いのちに至る人々は幸いです。彼らは主と共に食事を楽しみ、ますます健やかにされ、自由にされるでしょ う。主イエス自らが給仕する姿を取って、たとえ敵前であっても、私たちのために食卓を整えて、豊かにもてなして下さるでしょう。

しかし、子羊の血潮に身を避けず、アダムの命を擁護し、自己の義により頼んで生きる全ての人々の上には、神の御怒りがとどまるでしょう。その人生は、神の 焼き尽くす火によって焼き尽くされて荒廃し、その上、エジプト人に下ったような災いがその人生にふりかかるかも知れません。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)

「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまで取り上げられるからです。」(ルカ8:17-18)

私たちの目の前にはいつでも、いのちと死、祝福と呪いとの二 つの道が置かれています。選択はそれぞれに委ねられています、キリストを選ぶのか、それともセルフを選ぶのか、キリストのよみがえりの命に生きるのか、そ れとも生まれながらのアダムの命に生きるのか、神の義により頼んで生きるのか、それとも、自己の義により頼んで生きるのか…。

両者の間には、主イエスの十字架という、信仰によらずしては超えることのできない隔てが永遠に横たわっています。もしも主イエスの血による契約を退けるな らば、私たちにいのちはありません。子羊の血によらずして、キリストのよみがえりの命に達することのできる人はいません。


私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。

確かに主はあなたのいのちでありあなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。」(申命記30:15-20)


「あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。 この町にとどまる者は、剣とききんんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物とな る。なぜならわたしは、幸いのためにではなく、わざわいのためにこの町から顔をそむけるからである。――主の御告げ。――この町は、バビロンの王の手に渡 され、彼はこれを火で焼くであろう。』」(エレミヤ21:8-10)

主が私たちの命なのです。子羊の贖いの血以外に私たちを義とするものはありません。それなのに、人間の行いによる義をひたすら積み重ねて、 天(神の義)にまで届こうとする偽りの福音を説いている場所からは、早急にエクソダスすべきです。艱難辛苦を背負い、自己犠牲の道を歩むことによって、自 分で自分を救済しようとする偽りの十字架(いわゆる「クルシチャン」の人生)を信徒に負わせる場所からは早急に遠ざかるべきです。

人が自分で自分を義としようと努力することは、人の目には正しそうに見えるかもしれませんが、それは実際には「死に至る道」(箴言14:12)であり、それは神の知恵に逆らって、人が罪という、自分では返しきれない負債を自ら返済しようと、先祖たちも負いきれなかったくびき(ルカ11:46,使徒15:10)を再び自分の首にかけて自分を滅ぼすことに他なりません。

キリストの十字架のゆえに、私たちは罪と死の法則から解放され、命の御霊の法則の中に導き入れられたのです。サタンは依然として、自己犠牲、艱難辛苦その 他の偽りの十字架を持ち出し、私たちが自力で自分に死ぬようにとそそのかしたり、もしくは知恵を積み、数え切れない善行を行なうことによって義とされる道 を目指すように勧めるかも知れませんが、キリストの真実な十字架は、私たちが彼の死と共にアダムの命に対してすでに死んだこと、それにより、私たちが罪と死の法則からすでに自由とされたことを啓示します。

信仰によって、私たちの古き人がすでに主と共に十字架につけられて死んだという事実を信じ、受け入れるならば、私たちはキリストのまことのよみがえりのい のちによって生かされ、しかも、そのいのちを豊かに受け取って生きることができます。それが神が私たちに望んでおられることなのです。(福音はこのように 極めてシンプルであり、私たちの難行苦行を必要としません。)

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 」(ローマ6:6)

あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:3-4)


「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:9-10)

私たちは門なるキリストを通って、牧草地に導かれ、そこで安らかに生き、いのちを味わい、楽しむように召されています。私たちはもはや死の恐怖の奴隷の子ではなく、上なるエルサレム、すなわち命の自由(エクレシア)の子です。ですから、御霊の思いである「命と平安」(ローマ8:6)のうちにとどまり、「神の豊かな知恵」(エペソ3:10)が、私たちの存在を通して世に証しされる事を願い求めようではありませんか。私たちはこの地上にあって、キリストのまことのいのちの健やかさ、力強さ、自由さを存分に味わい知り、いのちの言葉を堅く保って、闇の世に光として輝くことを願おうではありませんか。

「義人の道は、あけぼのの光のようだ。
いよいよ輝きを増して真昼となる。
悪者の道は暗やみのようだ。
彼らは何につまずくかを知らない。」(箴言4:18-19)


キリストの十字架により自由とされた者たちが、またも、もろもろの霊力に縛られて、奴隷の子に逆戻りし、負わなくて良いくびきを身につけて、苦しみや束縛 に満ちた不自由な人生を送るべきではありません。人間の作った数々の規定に縛られて、自己の義を積み重ねて神の義に達しようという、見込みのない努力に逆 戻るべきではありません。

今年は私たちにとって真に過越が必要な年となるように思います。主よ、主よ、と御名を呼び、多くの力ある業を行い、うわべは敬虔そうに振舞っていたとして も、自己の義により頼んで生きている人々は、試練の時にふるい分けられ、ひどく打ち倒され、主によってあなたたちを知らないと言われ、炉に投げ入れられ て、人生を焼き尽くされてしまうでしょう。恐らく、一人ひとりが何により頼んで生きているのかが、公に試され、露にされるのではないかと思います。

血潮によってその衣を洗われ、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入り、主と共に食卓に着く者は幸いです。神の武具を身につけ、邪悪な日にあっても、子羊の血と真理のあかしの言葉に堅くとどまり、敵のあらゆる偽りに打ち勝つ者は幸いです。

「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼ととともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座についたのと同じである。」(黙示3:19-21)
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新年、家族もろもろ

夜行バスでの帰省は、毎回、身体にとってはかなりの負担となる一方で、いつもいつも、主のユーモラスでチャーミングな采配を感じさせられる旅となります。

今年は昨年の大晦日から正月にかけて、山陰地方で大雪が降り、交通機関に多大な支障が出ました。新幹線の中で、車中泊にて元日とその翌日を迎えた乗客も多 くいたそうですし、帰省途上の道路で足止めを食らい、マイカーに一日以上、缶詰となって過ごした乗客もずいぶんいたそうです。この地方はもともと気候は温 暖で、冬に大雪が降ることは滅多にありません。ですから、楽しいはずの正月にこんな天候に見舞われるとは、誰も予想していなかったでしょう。食料のストッ クもなく、ガソリンが枯渇すれば暖房も切れてしまいかねない車中で、人々はどんな思いで正月を過ごしたのでしょうか。

しかし、異常気象も含めて、昨年から人々に恐れを抱かせる色々なニュースがまさに間近まで迫る中、私の今回の帰省は、まことに幸いな一年の始まりを予想さ せる平和なものとなりました。バスには大した遅れもなく、隣の席も空いていたため、ゆったりと過ごせたのです。しかも、前日になるまで、席の予約さえして いなかったという手配ぶりのまずさにも関わらず、天候をふくめ、全てをつかさどっておられる主の恵みと憐れみによって、幸いな新年を過ごすことができました。これはただ主の功績でしかありません。

大晦日の誕生日には色々と嬉しいことがありました。80代の祖父母の元気な姿をみられたことに加え、長らく音信の途絶えていた妹の一人からも、お祝いの便 りをもらいました。一年以上前に、さまざまなすれ違いの上、思いを通じさせることもできないままに、不本意ながら別れた妹です。しかし、私たちの思いをは るかに越えて、ただ私のうちに生きて働かれる御子の信仰によって、主自らがこの家族を保って下さっていたこと、そして私たちを一つにして下さろうとしてお られるのを感じました。ただ畏れのうちに主の御名をあがめるのみです。

これで、子ども時代を共に関西で過ごした私たち姉妹は、全員、関東に移住し、互いに富士山の見える場所でそれぞれ元気に暮らしていることになります。

誕生日には、父が私のために手作りケーキを焼いてくれました。中身はスフレチョコ。何歳であろうと、このような気遣いを受けられることは本当に嬉しいですね。

父の料理の腕前もなかなかですが、しかし、パティシエであり、プロの料理人である上記の妹の料理の腕前もピカ一です。下記は、妹が業務用に作ったケーキの 数々ですが(今は画像がありません m(_ _)m)、持ち前の美的センスが存分に生かされ、もはや芸術作品の域に達しているようにしか見えません。今は料理から離れている彼女ですが、このセンス と才覚をどんな風に将来に発揮してくれるのでしょうか、楽しみです。



そ してさらに、もう一人の妹には無事に赤ちゃんが誕生し、彼女は母となり、私は叔母となりました。この赤ちゃん、まだ会ったことはないけれど、何という愛ら しさでしょうか。会う人は皆メロメロになりそうですね。妹も美人ですから、将来、美人になることでしょう。おそらく、姪っ子だけでなく、妹とも再会の時が 近づいているのだろうと感じます。

私が不信仰のゆえに人生のどん底を歩いていた頃、一時、家族の絆はまるで空中分解したように見えた時がありました。交流は断ち切れ、心は通わなくなり、それぞれが修復不可能なほどに深い痛手を負って生きていたのです。

しかし、御言葉が我が家で実際となる時が来ました。神がキリストの十字架によって私たちの債務証書を無効にし、キリストにあって私たちの隔ての中垣を取り 除き、分裂したものを一つにし、和解をもたらして下さいました。その時が来るまで、罪の債務証書というものが霊的に存在するとは、私は夢にも考えたことも ありませんでしたが、しかし、家族の和解のテーブルで、私にははっきりと分かったのです――神はその見えない御手によって、我が家にはるか昔から存在して いた罪の債務証書を破り捨てて下さり、サタンの玉座を打ち砕き、人知を超えたキリストの愛によって、私たちを一つに結びつけて下さったのだと。

私は闇の王国から救い出され、愛する御子の支配下に移されました。以来、それぞれの立場や思いもはるかに超えて、神はただ信仰によって我が家の成員に恵み をもたらされ、その全ての計画を祝して下さり、明らかに、我が家は年々、完全な修復へともたらされつつあります。姉妹が再び、一つ心でまみえる日まで、あ とわずかでしょう。そして私たちが本当に主にあって一つとされた時、どのように喜びに満ちた生活が始まるのでしょうか?

主が我が家に打ち立てて下さった十字架の堅固さを、こうして確かめ得ることは、えも言われぬ幸い、えも言われぬ感動です。主イエスの十字架の意義を真に 知って以後、どんなに不安を感じさせられる出来事があっても、ただ主の達成された御業が、我が家において、何によっても、永遠に揺るがせない事実であるこ とを信じ続けました。その結果、次の御言葉が、理屈をはるかに超えたところで成就しつつあるのです。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)

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さて、兄弟の和解ということを思う時、私は旧約聖書のヨセフの物語を思い出さずにはいられません。

ヨセフの生涯に与えられた神の召しは真に偉大なものであり、ヨセフの後の栄光につながるものでした。しかし、その栄光ある啓示がヨセフ自身の中に作りこま れて実際となるまで、彼は他の兄弟たちの誰よりも、苦難の時を経なければなりませんでした。彼の受けた啓示は誰にも理解されず、彼は神の選びゆえに栄光を 受けるどころか、ただ周囲の不興とねたみを買って、故郷や父の愛からも遠く引き離されて、異国の地に奴隷として売り飛ばされねばならかったのです。

神の召しは相応の代価を人に要求します。神は召された人に、すぐに栄光や満足をおあたえになることはあまりありません。むしろ、苦難や裏切りや誤解や迫害 という苦しみの中を通らせ、神の懲らしめの御手の下にへりくだることをまず学ばせることの方が多いようです。それは、人が相応の代価を払うことなしには、 神に従うことができないからです。

ヨセフは初めから他の兄たちにまさって父イスラエルに愛され、そして、神にも愛されていたのですが、天の御父の愛が彼に実際に示される過程は、逆説に満ち ていました。彼は地上で愛される子どもとしての特権を全て失い、外的には、神からもあたかも見捨てられたかのような逆境にあって、目に見えるものによら ず、ただ信仰によって働く、神の愛を信じ続けなければならなかったのです。

しかし、ヨセフは逆境に置かれても、決して打ちひしがれませんでした。また、自分を脅かした者たちを恐れ、おびえながら、沈黙のうちに世を避けて口を閉ざ し、貧しい人生を弱々しく送ったわけでもありません。それどころか、逆境の中で、人としての彼の弱さにも関わらず、神の強さが彼の上にはっきりと臨んだの です。神の溢れるほどの愛と祝福がヨセフの上にとどまり、神ご自身が彼と共におられることが、周りの人たちの目にも、はっきりと認め得るほどに示されたの です。

聖書には、何度も、何度も、次のような言葉が出てきます。

主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり…」(創世記39:2)
主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。」(創世記39:5)
「こうして彼は監獄にいた。しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(創世記39:20)
「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」(創世記39:23)
「そこでパロは家臣たちに言った。『神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。…神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者は他にいない。あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。…さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう。』」(創世記41:38-41)


もしも、ヨセフと私たちとは違うから、私はヨセフのような者にはなれない、と言う人がいるならば、私たちは、自分たちのうちにおられる方がどのような方であるか、本当には分かっていないのです。主はヨセフと共におられたように、私達にもこう言ってくださいます、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

世に勝った方が私たちのうちにおられます。なのに、何を恐れるべきでしょうか。なぜこの世が私たちを脅かし、私たちを支配しなければならないのでしょう か? 私たちは弱くとも、神は強くあられます。使徒パウロは、私たちが内に住んで下さる方のゆえに、どれほど絶大で栄光に富んだ望みを受けているのか、真 に知るようにと促しています。

「イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくだ さいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどの ように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知るこ とができますように。

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、権力、 主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世におてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足 の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:17-23)


私たちはエクレシアであり、この世に遣わされ、この世に身を置いていますが、この世の者ではありません。私たちはこの世から愛する御子の支 配下に移され、神の宮とされ、キリストの身体とされたのです。一切のものを一切のものによって満たす方が、私たちの内にお住まいになり、私たちのうちに満 ちて下さるというのです。これは普通では考えられないことですが、事実です。その方はただ私たちを満たすだけでなく、私たちの内から溢れ、流れ出し、その まことの命の統治が、私たちの見るもの触れるもの全てに及ぶでしょう。御霊が生ける水の川々となって、私たちの腹から流れ出すのです。神が共におられるの に、どうして私たちの人生が祝福されない理由があるでしょうか。

時に私たちは、とてつもない苦しみや、耐えがたい誤解や、裏切り、別離、非難、断絶の悲しみに遭遇します。にも関わらず、どんな状況にあっても、御言葉に 基づき、信仰によって、神の愛と慈しみ、憐れみの変わらないこと、神の私たちへの最善の采配を信じ続けるならば、信仰のうちにすべてを保っておられる神 が、絶えず私たちに恵みを施して下さり、失われたものを再び回復して下さるだけでなく、主ご自身が私たちと共におられることを、はっきりと分かるように世 に示して下さるのです。

主と共に生きる、それ以上の幸いが、人にあるでしょうか? 神ご自身が私達についておられ、神ご自身が私たちと共にとどまって下さり、神ご自身が私たちの うちに住まいを設けて、私たちと共に住んで下さり、私たちの喜びも悲しみも、全てのことを共に分かち合って下さるだけでなく、それらをご計画のために有益 に用いて下さり、あらゆる良き物を持って、私達の人生を満たして下さるのです。ですから、私たちは何が起ころうとも、恐れる必要はありません、ただすべて のことの後ろに働いておられる主の御手を信頼し、我が人生を神ご自身に委ねるのです。

「あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。 人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめに会った人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕らえられている人々を思 いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んでしのびました。

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

『もうしばらくすれば、
来るべき方が来られる。おそくなることはない。
わたしの義人は信仰によって生きる
もし、恐れ退くなら
わたしのこころは彼を喜ばない。』

私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」(ヘブル10:32-39)


ですから、私たちはキリスト教界で見舞われた苦難、不信仰のゆえに人生を焼き尽くされた苦難、また、主の御名を信じ、従うようになってから受けた数々の迫害、侮辱にも関わらず、喜びに満ちて主を賛美するのです。

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。
しかし今は、あなたのことばを守ります。
あなたはいつくしみ深くあられ、
いつくしみを施されます。

高ぶる者どもは、私を偽りで塗り固めましたが、
私は心を尽くして、あなたの戒めを守ります。
彼らの心は脂肪のように鈍感です。
しかし、私は、あなたのみおしえを喜んでいます。

苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。
私はそれであなたのおきてを学びました。
あなたの御口のおしえは、私にとって
幾千の金銀にまさるものです。」(詩篇119:67-72)


我が心は主を賛美します。我が唇は主を誉めたたえます。まことに「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」のです(伝道の書3:11)。

主によって懲らされ、主のおきてを教えられる人は幸いです

主にある兄弟姉妹へ

田舎ではしみじみと心ゆくまで休養を取っています。あと少し滞在期間が延びれば、もう二度と都会には戻れなくなりそうですよ。家族がそばにいてくれ、楽し い語らいがあって、美味しい食事があって、自然豊かな場所で、創意工夫に満ちた生活が展開するって、こんなにも楽しいことなのですね!

ただ平和に生きるというだけのことが、ある人々にとってはどれほど困難であることか! このひと時の平和は主が私にお与え下さった宝、静かな休養です。

食べ物は美味しいし、生活は生き生きと展開し、空は青く、空気はきれいで、山々はどこまでも続き、生き生きした人々のネットワークがあって…、一体、どう やってこの暮らしを離れられましょう? 仕事柄、すっかり社交的になってしまった両親の終わりのない話に耳を傾けながら、猛暑の中、ただ一人、倒れそうに なりながらハローワークを巡り歩いていた頃のことを思い出し、主の恵みに満ちた采配に涙したい思いでした。

これまでの人生で苦労が多かったためか、私は今でも主の慈しみ深さ、恵み深さを信じ切れないのです。しかし、主が愛する僕のためにどれほどの恵みを用意し て下さっているか、どれほどの天的な平安と喜びを常に与えたいと願っておられるか、私はただ不信仰のゆえに、想像も出来ていないだけなのだと痛感させられ ています。

今の時代、暗闇は深く、迫害も厳しいかも知れませんが、主はそれに負けず劣らず、強力な働きをしておられると信じます。主の僕には苦難が臨む時ほど、深い 慰めが与えられます。今でも、読者からの励ましと応援が絶えず寄せられているのです。公開していないコメントもありますが、主にあって「同志」と書いて下 さった方、ありがとう、この闇の時代、共に光の子として勇敢に進んでまいりましょうね。

ニー兄弟が書いている通り、試練なくして、私達が御霊の通り良き管とされることなどありえないと思います。キリストが私たちを神に和解させるために、ご自 分の肉体を裂いて苦しみを忍んで下さったのと同様に、主の僕である私達も、肉を裂かれ、十字架の下で己を砕かれることがなければ、御霊の高速道路となるこ とはないのです。もし私達が地上で自分の美しさを保とうとするならば、それを失うでしょうが、逆に、罵られ、非難され、主の着せて下さった美しい衣 (royal robe)を引き裂かれ、泥まみれにされている時に、かえって私達のあずかり知らないところで、誰かが私達を通して主の恵みを受け、主の栄光が私達を通し て全地に輝き渡るのです。どうか我が神、我が主が栄光をお受けになられますように!

私達にはそれが自分に関係あることだとは永久に分からないかも知れません。けれども、私達の苦しみはキリストの御身体を富ませるために確かに必要なもので す。だから、苦しみを与えられることは幸いなのです。私達はそれによって主のおきてを学び、主の御身体なる兄弟姉妹が、私達の貧しさによって富む者とされ るのですから。兄弟姉妹の誰かが主の恵みにあずかる、そんな嬉しいことはありません。

不思議な喜びに満たされて、時間をさえ忘れてしまいそうですが、そろそろ気を引きしめて、帰途に備えます。では、皆さんとお交わりできる時を楽しみに!
あなた方の姉妹 ビオラより
 
「あだを報いられる神よ、光を放ってください。
地をさばかれる者よ、立って
高ぶる者にその受くべき罰をお与えください。
主よ、悪しき者はいつまで
悪しき者はいつまで勝ち誇るでしょうか。
彼らは高慢な言葉を吐き散らし、
すべて不義を行う者はみずから高ぶります。
主よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、
あなたの嗣業を苦しめます。<…>
彼らは言います、『主は見ない、
ヤコブの神は悟らない》と。

民のうちの鈍き者よ、悟れ。
愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
耳を植えた者は聞くことをしないだろうか。
目を造った者は見ることをしないだろうか。
もろもろの国民を懲らす者は
罰することをしないだろうか。
人を教える者は知識をもたないだろうか。

主は人の思いの、むなしいことを知られる。
主よ、あなたによって懲らされる人、
あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。
あなたはその人を災の日からのがれさせ、
悪しき者のために穴が掘られるまで
その人に平安を与えられます。
主はその民を捨てず、
その嗣業を見捨てられないからです。
さばきは正義に帰り、
すべて心の正しい者はそれに従うでしょう。」(詩篇94:1-15)

子たる身分を授ける霊

主にある大切な姉妹へ

今すぐ姉妹のところへ飛んで行って、全てのことについて喜びを分かち合えたらと願います。こんな時、顔と顔を合わせて語り合うことができないなんて! けれど、主の栄光の御名を誉めたたえます。今はただそれしか言えません。ひざまずいて主を誉めたたえます。

万事の中に生きておられる主、私たちを守り、私たちのために、どんな時でも、最善をなして下さる主を、昨日、確認することができました。昨日は、全ての事 柄が主の御手の中にありました。主が私たちの思いを超えて働いて下さり、無力な私たちに代わり、最善の策をなして下さったことを信じています。ただ全ての 命が守られただけでなく、私たちの兄弟がいかに主に愛され、守られているかを知ることができたのも感謝です。さらに、ユーモラスで、はかりしれない知恵に 満ちた天のお父様は、予想していなかった休息のひと時を、私のためにお与え下さいました。

神は私たちのような有限な者、弱い者に、真理を宣べ伝える仕事をまかされました。弱すぎる私たちには、何もできないというのに、なぜ神はこれほどまでに、 無に等しい私たちに目を留めて下さるのでしょうか。どうして尊い福音を、こんな虫けらのような者に委ねられたのでしょうか。不思議きわまりないことです。 全ては主の功績です。今後も、全ての出来事が、主の栄光を表すものとなるよう、切に願います。良いことも、悪いことも、主にお委ねします、全てが天の御父 に栄光を帰する機会となりますように…。

キリスト教は罪定めのための宗教ではありません。イエス様は罪人を赦し、羊に命を与えるために、しかも、豊かに命を与えるために、この世においで下さったのです。真理の御霊は私たちを自由にします。キリストにある者は、もはや「再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けた」(ローマ8:15)のです。

なのに、クリスチャンが互いに裁きあい、罪定めし合い、互いを再び、律法でがんじがらめにして、恐怖の奴隷となり、自ら死と呪いの下に服したりする理由が どこにあるのでしょうか。多くのクリスチャンが、真理を退けて、善悪の路線で、今も、果てしない戦いを戦い、ぼろぼろになっているのは、どういうわけなの でしょうか、そんな必要はないのです。

なぜなら、キリストにある命の御霊の法則は、私たちを罪と死の法則から解放した、と御言葉が宣言しているからです。肉の思いは死でしかありませんが、キリ ストと共なる十字架を通して、私たちは、この肉に対して、すでに死んでいるのです。主と共なる十字架によって、私たちは肉を支配する罪と死の法則から解き 放たれ、肉の思いである死からも解放されて、今や、霊の思いである、命と平安の中を、御霊による自由の中を歩む権利を得ているのです。

放蕩息子は、今や御父の胸の中に飛び込みました。彼はもう孤独ではありませんし、罪に定められることはありません。御父は彼の涙を拭い、彼に新しい衣装を着せ、彼を豊かな食べ物で飽かせ、彼のために祝宴を開き、私たちは神の子供としての身分を授ける霊を受けたのです。

私自身、この真理に、いつも立ち帰りたいと思いますし、この真理を、クリスチャンはもっともっと受け取って自由になって良いし、神の命の豊かさを味わって 良いのではないかと思います。それが天の御父の私たちに対する御心であると信じます。どうかもっと多くのクリスチャンが主の憐みを受け、私たちが御霊に あって、真に自由とされて、律法による罪定めと死から解放され、命と平安の内を歩み、神の満ち満ちた命の豊かさを、この地上でも、受け取ることのできる、 幸いな者とされますように!

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。

律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。

なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安とである。なぜなら、肉の 思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は神を喜ばせることができない。

しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。<…>もし、キリストがあなたがたの内におられ るなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に 宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生か してくださるであろう。

それゆえに、兄弟たちよ、わたしたちは、果すべき責任を負っているものであるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、も し、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。

すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受け たのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしし て下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なの である。」(ローマ8:1-17)


大切な姉妹、今日も、姉妹が守られるよう祈ります。苦難の中にあっても、私たちはキリストと共同の相続人です。

「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」(ヤコブ1:12)

私が弱音をこぼした時に、姉妹が語って下さったこの御言葉が、私にとって、どんなに慰めとなっているでしょう。主にあって生きるならば、私たちにとって、 どんな出来事も、無駄になることはないのです。孤独も、病も、涙も、別離も、迫害も、裏切りも、試練も、全ては主にあって益です。インマヌエルなるお方が いつも私たちと共にいて下さり、私たちを孤児とはせずに、絶えず守って下さることの、言い知れない幸い。兄弟姉妹が、主にあって、常に私と共にいて下さる ことの、言い知れない幸い。地上ではほとんど孤児同然であった私に、主がお与え下さった神の家族を、心から感謝します。

どうか私たちの関わりが、常に十字架を経たものでありますように。主の平安が今日も豊かに私たちに臨みますように。苦しむ者の上に主の慰めがありますように。
 
あなたの妹ビオラより
 

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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