忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

キリストの十字架の死と復活の原則―死ぬべきものが命に飲み込まれるために、天から与えられる住処を上に着たいと願う―

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。

それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。

死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として”霊”を与えて下さったのです。」(Ⅱコリント5:1-5)

筆者は様々な文書をこれまで作って来たが、文書にはいつもある程度の完成度というものがある。公式な文書であれば、当然ながら時間をかけて推敲し、誤字脱字もすべて修正せねばならない。字数制限がある場合もある。

ブログとなると、誤字や誤表現にそこまで気を使わなくても良い。間違いに気づけば後から訂正すれば良いし、気に入らなければ、全面的な書き直しも許される。

だが、どんな文書であれ、いつも思うように推敲の時間が取れるわけではなく、形式については、どうしてもある程度のところで手を引かざるを得ない。
 
その代わり、妥協できないのが内容だ。内容のない文書など書くだけ意味がないのだから。

そして、内容については、最初から書きたい内容がすべて目に見えているわけではない。ほとんどの場合、書いているちに内容が掘り出されて来る。

筆者はどのような公式文書よりもブログの価値を重く見ている。

ブログでは、自分の書いた内容について、何年も何年も経ってから、当時、言わんとしていたことの重さが分かって来ることが多い。自分でも気づかないうちに、そこにある種の予言的な意味合いが込められていたことに、後になってから気づく。

御霊はクリスチャンに来るべき事柄を教える。私たちは心の奥深くで、未来がどうなるのかを知っている。そしてその未来とは、究極的には、神の勝利の計画の成就である。
 
ここしばらくの間、筆者は、このブログの題名を「私ではなくキリスト」とつけたことは、間違いなかったと感じている。今回はその理由を述べたい。
 
筆者の子供時代、家の近所に川があり、よく遊びに行っていた。その河川敷に、おかしな鳩がやって来たことがあった。
 
川の橋げたには、いつもたくさんの鳩が群れとまっていたが、ある時、そこにとまろうとしてやって来た一組の鳩の様子がおかしい。

二羽がまるで団子のようにくっついて飛んでいるのだ。よく見ると、その二羽は、鉄線か何かで足がからまり、離れられなくなって、二人三脚のような状態で、一緒に飛んでいるらしい。

しかも、一羽目が上にしきりに飛び立とうとしているのに、二羽目は下へ下へと落ちて行く。

子供だった筆者は、それを見て、何とか助けてやれないものだろうか、と哀れに思った。あの絡まった鉄線をほどいてやれさえすれば、二羽とも自由になれるのに、と。

そこで、近づいて助けるチャンスはないだろうか、と、しばらく様子を伺っていた。

しかし、橋げたにとまることがどうしてもできずに、とまることをあきらめた鳩が、水面すれすれにまで降りて来て、筆者の前を飛び去った時、筆者にははっきり分かった。二羽目はもう死んでいるのだと。

生きている鳩が、死んだ鳩と鉄線でつながれたまま、死んだ鳩をぶら下げて、飛んでいるのだ。
 
その鳩は、死体の重みで下へ下へと引っ張られながらも、何とか上へ飛び立とうともがきつつ、そのまま筆者の目を通り過ぎ、飛び去って行った。

筆者は、子供心にも、何とも醜悪でグロテスクなものを見せられた気分になり、衝撃を受け、言葉を失って、家に帰った。
 
その光景を、筆者は今でも、時折、思い出すことがある。
 
だが、その光景は、現在、筆者の中で、当時とは全く異なる新しい意味合いを持っている。

それは、その光景が十字架において罰せられたアダムとキリストへと重なるからだ。

筆者の中では、あの死んだ鳩は、罪人として罰せられた人類の姿に重なる。

キリストの十字架は、罪なく永遠の命を持つキリストと、罪を犯して滅びゆく人類が一緒に罰せられた場所である。

もちろん、信仰のない人にとっては、キリストの十字架は、あくまでキリストだけが罰せられた場所であり、その死は、自分の死ではなく、それは自分の十字架でもない。

そこで、そのような不信者の中には、「キリストさんは、可哀想だなあ。無実だったのに、弟子に裏切られ、罪を着せられて、殺されたんだからなあ」などと、他人事のように哀れんでいる人もあるかも知れないし、キリストは新しい宗教の開祖で、誤解のゆえに殺された犠牲者だと思っている人もいるかも知れない。

しかし、信仰に立つ者は、ゴルゴタで、神の独り子なるキリストの死と、自分の死とが一つになっていることを知っている。

そこで、信じる者にとって、ゴルゴタは、「無実にも関わらず、裏切られて売り渡された哀れな犠牲者としてのキリストが罰せられた場所」では決してないのだ。

そこは何よりも「十字架刑に処されて当然であった「私」(=アダム=人類=人間の自己)が罰せられて死んだ場所」である。そして、そのように御子を罰することは、人類を救うための神の深遠なご計画だったのである。

罪なくして罰せられたキリストは、十字架においてさえその尊厳を失われなかった。どんなに鞭打たれ、あざけられ、唾を吐きかけられても、最後までご自分の尊厳を保ち、父なる神に従われた。

しかし、滅びゆく人類は別である。滅びゆく人間は、まさに罰せられて当然の存在であった。

もし十字架において罰せられた「アダム(「私」=人類=生まれながらの人の自己)」の姿を実際に見ることができるとすれば、それは誰もが目をそむけたくなるほどに醜悪で、まさに嘲りと罵りと鞭打ちと拷問に値する存在であると言えたであろう。

それほど残酷に罰せられてさえ、己が罪を認めず、キリストを見下げて罵り、嘲っていたかも知れない。ゴルゴタでキリストと一緒に木にかけられたあの強盗の一人のように。
 
筆者は思う、子供の頃に見た、あの死んでしまった鳩でさえ、あれほどグロテスクで醜悪な印象を醸し出していたのだから、十字架においてキリストと共に罰せられた人類(人間、アダム、生まれながらの人の自己)を見ることができるとすれば、それはどんなに目を背けたくなるほどに醜悪な姿であろうか、と。

だが、そのことを思うと同時に、筆者は平安を感じるのだ。それは「心配要りません。あなたの裁きはもう終わりました。」と、神は筆者に言って下さるという確信を心に持つことができるからだ。

「カルバリでの御子の死が自分の死であることを認め、その裁きを心に受け入れさえするならば、あなたが再び罰せられることは決してありません」と、神は言われるからだ。

だが、信仰によってキリストと自分が一つであることを認めても、やはり、信じる者は、地上での生活において、一歩一歩、十字架の死と復活を背負うことが必要となる。

筆者はこの度、キリストの十字架を嘲り続ける者を、この世の諸手続きによって暗闇に引き渡そうとしている。だが、これは筆者の生まれながらの自己の義憤から出た行動ではないことを予め断っておきたい。

筆者は多分、このブログに自らの地上の名を記すことは最後までないだろうと思う。それは、多くの人々が考えているような理由からではなく、以前にも述べたように、このブログによって栄光を受けないためである。

多くのクリスチャンが、牧師や教師や指導者となって、自分の名を公然と世に掲げて著書を出し、ミニストリーを開き、献金を集め、CDを売った。

「偉大な霊の器」などの触れ込みのもと、何千人も収容できるスタジアムを借りて集会を開いたりもした。

だが、筆者は決してそのようなことをせず、このブログを有料化もしない。

無料だからと言って、自分の名を売るために、利用することもしない。それをミニストリー扱いするつもりもない。何よりも、筆者は決して人を上から教える立場に立たない。

だから、最後まで無名の「ヴィオロンさん」のままで良いのである。

多分、何年も後になれば、すべての記憶が風化し、「ヴィオロンさん? それって一体、誰なの? 現実にいる人なの?」ということになって終わるだろう。

「ヴィオロンさん」は、牧師でもなく、教師でもなく、指導者でもない。神学博士でもなければ、キリスト教社会主義の政治家でもない。無学な人間なのか、偉い人なのか、一体、何者なのかも分からないまま、ただの名もない人間として、風のように現われ、風のように過ぎ去って行くだけである。

だが、現実の筆者の名は、市民権を持っている。社会生活がある。筆者に連なる人々も同様である。そこで、現実の筆者を貶める行為に及べば、当然ながら、その者は報いを受けなければならない。

それはこの世の法則である。

いわば、筆者はその時をずっと待っていたのだとも言える。

上手く説明できる自信はないが、筆者にとっては、「ヴィオロンさん」こそ、生きた鳩であり、この世で生きる筆者は、ゴルゴタの十字架でキリストと共にすでに死に渡されており、あの醜悪な死んだ鳩も同然なのである。

この二つは切り離せないものとして一体である。

生きている鳩とは、信仰によってよみがえらされ、生かされた「新しい人」としての筆者である。
 
多くの人々にとっては、驚くべきことであろうが、筆者から見れば、死んだのは地上における筆者(アダムとしての筆者)なのである。
 
その意味で、筆者の目に映る「現実」は、多くの人が見ている光景とはさかさまである。

筆者の地上における名は、決して天の栄光と結びつけるつもりはない。むろん、地上における名も何かを為すことくらいはあるかも知れないが、その栄誉は束の間で、これは絶えず十字架で死に渡されているアダムである。
 
ゴルゴタにおけるアダムの死が絶えず筆者に適用されることによって、逆説的に、信仰によって復活の命が働くのである。

あの河川敷にいた鳩は、いつまでも死体と結びついていたのでは、生きるのは難しいであろうが、キリスト者は、信仰によって絶えずキリストと共なる死と復活を経ていなければ、進んで行くことができない。

筆者には、ここで訴えている内容が、決して自己の利益のためではなく、神の国の権益に関わるものであることを証明するために、代価を払ってそれを証することが、どうしても必要なのである。

なぜなら、代価を払わなければ、天の褒賞を得ることができないためである。

その意味において、地上における筆者が何かの犠牲を払わされることになることを決して厭うつもりはないし、脅しつけられたからいって黙るつもりもないのである。
 
それは神がご自分のために要求されている代価を支払うことなしに、神に従うことが不可能であり、エクレシアはこの代価を払って神に従うことで、神に栄光を帰するために召された存在だと知っているからである。

人々はあざ笑うであろう、「あなたには色んな才能があり、それを有用に用いれば、もっと社会的に成功できたはずなのに、いつまでこんな無料ブログに『命をかける』だなんて寝言を言ってるんですか。なんて馬鹿げているの。それこそ人生の浪費、犬死でしょう。

いいですから、たかがペンネームのブログごときのために、現実のあなたが社会的地位を失う必要はありませんよ。そんなのはもったいない。あなたはもっと人類に奉仕できるはずの存在じゃありませんか。今からでも遅くありません。何が本当に価値あることか見極めて、こんなブログはお遊びとしてうっちゃって、もっと自分のためになることをおやりなさい。決して真剣に命がけでここに文章を書こうなんて思っちゃダメですよ。幼稚な喧嘩をわざわざ買って出る必要はありません。茶番劇は放っておきなさい」と。

なるほど極めてもっともらしい説得である。だが、筆者は言う、「そうではありません。私はあなたがおっしゃるようなものは、もうすべて後にして捨てて来ました。私が目指しているのは、あなたが考えているような『社会的成功』ではありませんし、『名声』でも、『地位』でもありません。

いいですか、私の信じる神は、そんなものをいつでもいくらでも私のために用意することができるんです。実際に、信じる者のためには天に莫大な富が蓄えられていて、私たちはいつでもそういうものは引き出せるんです。

でも、私は神の目に、私が何を第一として生きているのかをまずは証明しなければならないんですよ。

私は自分の利益や、人の目に認められることを目指しているのではありません。人の目にどう映るかを恐れているのではなく、神の目にどう映るかを恐れているのです。私は信仰の証しを述べたことにより、自分が痛めつけられたり、脅しつけられたりすることを恐れてはいません。聖書の神の御言葉が曲げられ、神の国の権益が侵されていることを憂慮しているがゆえに、叫んでいるのです。

もし聖書の神が冒涜されているのに、私たちが立ち上がらなければ、世の人々はどうして私たちが神を信じていることを知り得ますか。脅かされればすぐに黙ってしまうような信仰なら、最初からない方がましでしょう。

私はすでに死んだのです。ですから、何度、死んでいるという事実を突きつけられても、ビクともしません。この地上の我が国でも、死者には名誉という概念がありませんが、それと同じですよ。 死者には人権もないのです。死者が冒涜されているなどととんなに言っても、死者には法的権利がないんですよ。

でも、本当の意味での死者とは、私のことではなく、滅びに定められたこの地上にいるすべての人たちのことなのですよ。

そして、本当の生者とは、神がキリストを通してよみがえらせて下さったすべての信者のことなのです。ですから、それは私のことでもあるのです。

ある人々は、「カルト被害者が冒涜された」などと言って騒いでいますが、神聖な存在は「カルト被害者」ではありません。神聖な存在は、聖書の神ただお一人です。さらに言えば、神聖なのは、神がキリストと共に死に渡され、よみがえらせて下さった神の子供たち一人一人ですから、それはすなわち、私たちのことなのです。

キリストが内に住んで下さっている信者の一人一人が、神の神聖な教会なのですよ。

ですから、あの人たちが言っていることはすべてさかさまなのです。彼らは自分たちが「冒涜された」と叫んでいるけれども、彼らこそ、神聖な神の宮を冒涜しているんですよ。

私たちは、一方では、滅びゆくアダムに過ぎませんが、他方では、信仰によってよみがえらされた新しい人、聖なる人なのです。私たちのアダムに十字架の死が適用されている以上、真の私たちとは、キリストと同じ性質で覆われた、神の満足される、聖なる新しい人なのですよ。

ですから、信仰のないあの人たちが、自分たちを神聖であるかのように主張しているのは間違っています。もし彼らがそう言うなら、なおさら、私たちこそ、真に神聖な神の宮なんです。

それが現実なんですよ。

ですから、あの人たちは、神の聖を奪い取って、あたかも自分たちが神聖な存在であるかのように主張したいだけなのです。だからこそ、彼らは神の宮である教会をしきりに乗っ取っては、破壊しようとするのですよ。

でも、本当は彼らこそ、何も主張できない死体に過ぎないのです。死んだはずのものが、どうしてゾンビのようによみがえって、生きている人を脅かしたりできますか。彼らは超えてはならい境界を踏み越えました。死者と生者の境界を踏み越え、しかも、神がよみがえらされた人々の権益を脅かしているのですから、これこそ神聖の冒涜ではありませんか。

死体にはまっすぐに墓にお帰りいただかなくてはいけません。死者が立ち上がって生者に狼藉を加えるなど許されることではありません。

ですから、私はこうして荒野で叫んでいるのです。そして、あの人々は、私の訴えていることが真実であるからこそ、自分の罪が暴かれない為に、私を殺そうとしているんですよ。

アダムとしての私に攻撃を加えることはいくらでも可能でしょうし、私はそれに甘んじましょうし、そんなことではビクともしません。でも、今の世で、ステパノの証が聞くに耐えられないからと、ステパノを石打にして殺せば、その人たちが殺人罪に問われるのは当然でしょうね。たとえステパノが死んで口がきけなくなっていたとしても、殺した人たちは罪人として連行されるのが当然でしょうね。それはこの世がこの世の秩序を守るために、放っておいても自らするような仕事なのですよ。

何度も言いますが、キリストと共なる十字架で、私はすでに死んでいるのですから、私には惜しむべきものはありません。でも、だからと言って、誰かが地上に生きている私を本当に殺してしまえば、殺した人たちが罪に問われるのは当然ですね。侮辱を加えれば、罪に問われるのも、仕方がないですよね。

いいですか、私はこの地上にある限り、まだまだ「死んでしまった鳩」とのくびきを断ち切るわけにはいかないんです。処刑されたアダムも、まだこの地上での仮の宿としてのつとめがありますから、やってもらわねばならないことが色々残っているんです。
 
いくら仮の宿とは言っても、その内側に神聖な神の霊が宿っている以上、アダムに攻撃を加えた人間は、神聖な宮の入れ物となるべきものの破壊行為について、罪に問われることになりますよ。でも、それはアダムに属する事柄ですから、あくまでこの世の法によって裁かれるのがふさわしいのです。
 
恐れるべきは、それよりももっと厳しい裁きが天に存在することです。「聖霊を穢す者は赦されない」と聖書に書いてある通りです。彼らは神聖なものを冒涜したことの報いとして、この地上だけでなく、永遠に至るまで、引き渡されます。それが彼らの避けようのない運命です。

私はどんなにそうならずに済むなら、その方が良いと願ったでしょう。しかし、彼らはついに私たちが与えた最後の和解のチャンスまで踏みにじり、罵り、嘲ったのですよ。ですから、もう彼らに猶予は残されていません。

私は彼らを「サタンに引き渡す」と以前に書きましたが、そう書いた後、まさに予告した通りのことが起きたのです。彼らの宿主である悪魔が、彼らを本当の破滅に引き渡したのです。

私は言いましたね、悪魔の法則は使い捨てだと。

ひと時、悪魔は手下となってくれる人たちを使って、すさまじい乱暴狼藉を繰り返します。その勢いは破滅的で、誰も止めることができないと思うほどです。しかし、それは疫病のように、いつまでもは続かず、時が来れば、たちまち勢いを失って行きます。そして、その後は、悪魔の宿主とされた人々は、責任を問われ、地上での人生を失って行くんです。

聖書に書いてある通り、悪人たちは、ひと時、雑草のように生い茂っても、振り返れば、彼らはもういない。痕跡もとどめず、思い出そうと思っても、思い出せない。跡形もなく消し去られてしまうんですよ。それに引き換え、主に従った者たちの名は命の署に記され、永遠に残ります。

あるクリスチャンが私の前でこう言ったことを思い出します、

「悪魔は本当に愚かです。キリストを殺しさえしなければ、地上には、復活した人間は一人もいなかったはずなんです。悪魔がキリストを殺せば、復活という、悪魔が最も恐れていたことが起きてしまい、悪魔がどうやっても手出しのできない領域が生じてしまうことが、悪魔自身にも、予め分かっていたんです。

(悪魔が支配することができるのは、旧創造だけである。復活の領域には、悪魔は指一本、触れることができない。)

なのに、悪魔は抑えがたい欲望から、キリストへの殺意に燃え、どうあってもキリストを十字架にかけて殺さずにはいられなかったんです。殺せば、よみがえりが生じる。自分にとって最も恐ろしい、不利なことが起きる。それが分かっているのに、悪魔はわざわざそれをやってしまったんです。これがいつの時代も変わらない悪魔の愚かさです、悪魔は自分にとって最も不利なことをやり続けているのです!」」

まさにその通り。それこそが悪魔の法則というもの。

だから、筆者は「サタンに引き渡す」と書いたのである。その結果、何が起きるかは、天と地の前で証明されることであろう。

筆者は彼らを憐れまないし、惜しまない。

彼らが決してクリスチャンの言うことに耳を傾けないことは分かっているので、筆者は彼らを罠にかける。彼らがその愚かさによって自らつまずくように。自らしかけた罠に落ちるように。筆者は旧創造としての自分をも憐れまずに十字架に引き渡すが、自分以外の旧創造をも憐れまない。彼らを弁護もしないし、救おうともしない。

生きた鳩と死んだ鳩を一緒に救うことはできないのだ。

だが、生きた鳩は、どんなに死体の重みに引っ張られても、自力で上へ上へと飛び立って行くだろう。そうこうしているうちに、鉄線は古くなり、いつか重みで断ち切れる。気づくと、鳩は自分が自由に、軽やかになっていることが分かる。

あの死体はどこへ行ったのだろう。分からない。しかし、そんなことはどうでもいい、鳩は自由になったのだ。鳩は軽々と天へ羽ばたいて行く。

私たちの地上の幕屋はいつか壊れる。地上的名声や地位は束の間である。

しかし、神に従ったことから得られる褒賞は、永遠である。

その永遠のものが、死すべきものを飲み込む時が来る。天の永遠の栄誉が、滅びゆく無価値な地上の栄誉を飲み込んで行く。こうして、死んで滅びたはずのものさえ、命に飲み込まれて、新しくされる時が来るのだ。

アダムの死は過去となり、気づくと、新しい人が立っている。私ではなくキリスト。

私たちは地上の幕屋を負ってうめきつつ、天から与えられる新しい幕屋を上から着る時を待ち望んでいる。新しい天と地を喜びを持って迎える時を待ち望んでいる。

私たちの希望は決して失望には終わらない。神はご自分を頼る者を決して見捨てられることがないからだ。

PR

私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。

オリーブ園の新着ブログに、オースチン-スパークスの「主の御腕」が掲載されている。
 
誰もが知っているイザヤ53章、キリストに関するあの有名な詩編は、次のように始まる。

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
 の御腕は、だれに現れたのか。」(イザヤ53:1)

これは矛盾に満ちた始まりである。オースチン-スパークスは記事全体を通して問いかける。「主の御腕は誰に向かって伸ばされたのか?」と。つまり、「神は誰を擁護されたのか?」、「神が満足される人の姿とは、どのようなもので、どのような条件を備えた人を、神はご自分の僕として力強く弁護されるのか?」
 
この問いかけが極めて重要なのは、それが次のようなくだりとも呼応しているからだ。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天の御国にはいるのではなく、ただ、天におられるわたしの父みこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)。

「主よ、主よ」と日々熱心に祈る人々は、いかにも外見は敬虔そうで、天の御国にふさわしい信者に見えるかも知れない。多くの証を語り、ひざまずいて涙して祈り、たくさんの奇跡を経験し、人々をキリストのもとへ導いているように見える信者たちがあるかも知れない。

だが、神は、あくまで人の外見や行動ではなく、心をご覧になられる。その人が何をしゃべり、行なっているかではなく、その人が「父のみこころを行なっているかどうか」を基準にすべてを判断されるのである。

そして、一体、「父のみこころ」とは何であるのか。イザヤ書の上記のくだりを読んで行くと、神が満足される条件を備えていたただひとりの人であるキリストは、何ら人の目から見て賞賛されるべき特徴を持たなかったこと、世間で敬虔な信者として認められるために今日多くの人々が熱心に求めているすべての条件において、むしろ完全に規格から外れていたことが分かる。

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
 輝きもなく、
 私たちが慕うような見ばえもない。
 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:2-3)

このような人は、今日の教会からも「のけ者にされ」相手にはされるまいと思う。

だが、今日、信者は、イエスに従い、日々自分の十字架を負って彼に従おうと決意するとき、果たして、自分も主が通られたこの道を通り、父なる神の御心を真に満足させる人となりたいと願うだろうか?

たとえ自分の願望が否定され、自分のプライド、名誉欲が傷つけられ、人に賞賛されることなく、疎んじられ、裏切られ、蔑まれることになっても、本当に、古き自己のものが十字架につけられ、自分が主の御前に恥を受け、低められることに甘んじることができるだろうか? そのようなことを人は決して自ら願わないが、もし主の御心ならば、自分がキリスト共に十字架につけられることに信者は同意することができるだろうか?

聖書にはこんなくだりもある、

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論できず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21:10-19)

そろそろ、この終わりの記述が少しずつ近づいて来たようである。殉教者以外は「髪の毛一筋も失われることはない」と言われている。それが復活の体のことなのか、それとも、地上における体を指しているのか、筆者には分からない。

主がご自分に忠実に従う者を守って下さることがよく分かる記述である。おそらく、もし殉教しなければならない者がいるとすれば、そのことも主は事前に知らせて下さるだろうと筆者は確信している。

だが、それにしても、とにかく、すさまじい記述である。「両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られる」。誰がそのようなことを願うであろうか。

しかし、筆者はこれをあらかた実際に経験して来たのでよく意味が分かる。特に今日、クリスチャンを名乗る者がクリスチャンを裏切り、売り渡すということがどれほど現実味を帯びているか、よく理解できる。十字架に敵対する者、十字架を通らずに神に至ろうとする者があまりにも多いからである。

そこで、もし自分の十字架を真に負って主イエスに従おうとする者が現れるなら、この世全体が(特に、クリスチャンを名乗っている者たちが)立ち上がって反対する、「そのようなことは正気の沙汰ではないのでどうかやめてくれ、あなた一人に本当に十字架に赴かれたら、我々全員の嘘がバレるので迷惑だ、どうか我々の商売を妨害しないでくれ」と言って引き留めようとする。その説得もかなわないと、ついに「狂信者」というレッテルを貼って排斥するのである。人を喜ばせる偽りの砂糖菓子のような「十字架」を拒み、この世と調子を合わせたご都合主義的な福音と訣別し、真に聖書の御言葉に立脚して生きるような信者は「悪魔の使い」とされて排斥される、今日の情けない似非信仰者たちの実態である。

そういう者たちからの裏切りが起きたときには、人は混乱したり、原因を色々考えたりしない方が良い。原因を探す必要などない。それは聖書が予告していることだからである。

だが、それにしても、筆者の経験も、まだ聖書の記述の深さにまでは達していない。似たようなところは常に通ってはきたが、いつもどこかに祈ってくれる者や、励ましてくれる者たちも主が備えて下さり、「わたしの名のために、みなの者に憎まれます。」言葉という言葉の深さにまでは達していない。次第に、しかし、時が縮まっていることは感じられる。

主イエスは最も身近な弟子たちにも裏切られ、見捨てられ、一人で十字架に向かわれた。確かに、そのためにこそ、私たちは死から救われ、贖われ、命を与えられた。まず、神が愛する独り子の命を、不従順な我々の贖いの代価として差し出して下さったのである。

だが、だからと言って、神は、この苦しみを御子だけに押しつけておいて、あたかも自分だけは一切、何の苦しみも悲しみも味わわずに、十字架の死など絶対に通らず、ハッピーな人生を送りたい、愛する人々と常に手を携えて、孤独を知らずに共に歩み、仲間に裏切られたり、憎まれるなどまっぴらだ、そのように自分は決して傷つくことも蔑まれることもない安楽な人生のために神を利用し、御言葉を利用して、自分を立派な信仰者として飾り立てたい、と願う似非信者によって、侮られ、利用されるようなお方ではない。

だから、信じる者は、そのようにならないために、常に自分の命を拒んで十字架を取り、主イエスに自ら従う決意が求められているのである。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたし仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:24-26)

私たちは人生においてしばしば激しい戦いを通過する。その時、信者は自分は神に守られていると思っているかも知れない。だが、神の側には、私たちを擁護するにあたり、外せない条件があるのだ。それが、信者がカルバリに留まり続けるという条件である。

だから、もし信者の側がその条件を満たしていなければ、誰であろうと、最も重要な決戦の時に、自分から力が失せていたことを知らないまま、敵にやすやすと捕らえられたサムソンのようになる可能性がないとは言えない。デリラを愛しすぎたことが、サムソンの弱点だったと言って、これを他人事のように笑う人々は多い、しかし、デリラとは、人のセルフなのである。それが分かれば、サムソンを笑える人は誰もいないであろう。

主の御腕は誰に向かって現されたのか、神はどのような人をご自分の民としてお認めになり、どのような人を力強く弁護し、守って下さるのか。

主の御腕は誰に現れたのか。

十字架は、決して人にとって心地よく、優しいものではなく、人の五感にとって甘く、麗しいものでもない。カルバリには人が慕い求めるどんな見ばえの良い姿も、輝きもない。カルバリには何の栄光もなく、人からの賞賛や理解もない。そこにはただ十字架につけられたキリストがおられるだけである。それでも、その栄光の消え失せた十字架に主と共にとどまり、これを自分自身の死として受け取り、全焼の生贄として静かに祭壇に身を横たえ、御言葉が実際になることに同意するだろうか。

十字架を回避して、己を神と宣言する人々が身近に増えて行くに連れて、筆者は厳粛にそのことを思わされる。一体、どれだけ大勢の人々がこの先、惑わされるのであろうか。そして、誰が十字架にとどまり続けるのであろうか。

人にはできない、しかし、神にはできる。駱駝に針の穴を通過させるのは、神の仕事である。お言葉通りになりますようにと応答するのが信者の側の仕事である。

その時に、主は御腕を力強く伸ばされ、山々を割いて降りて来られ、山上の垂訓のあの完全な統治を信者は生きて知るであろう。しかし、今、ダイナミックな復活の命の統治だけに注目するよりも前に、人に注目されることのないこの霊的死の意義にあえて心を向けたいのだ。たとえ主が御腕を力強く伸ばされ、ご自分の民を人知を超えた力によって擁護して下さるその光景を見ても見なくとも、主の御腕の守りの中にとどまり、人に承認されるのでなく、神に承認される者として生きたいのである。


神のこの奇妙な道はなぜか?


 さて、このような反応をすべてまとめると、神が御腕を現す方向に向かって動かれる時の、神の深遠な道を目の当たりにすることになります。神の道は何と深遠なのでしょう!何と神秘的なのでしょう!何と見出しがたいのでしょう!そして、ああ、神の道が分かり始める時、それは何と驚くべきものなのでしょう!私たちはこの御方が神の御子であり、人の贖い主であることを知っていますが、この御方に対して人の思いが下すこの解釈や判断について考える時、このような道は神の深遠な道であることを認めないわけにはいきません。神は動いておられます――常に動いておられ、堅い決意をもって、毅然として動いておられます――御腕を現す地点に向かって動いておられるのです。これが神の道であるとは、凄いことではないでしょうか?

 さて、ここで二つの疑問が生じます。一つは、「なぜ世の人はこのエホバの僕に対して、このような普遍的反応を示すのだろう?」という疑問です。クリスチャンとしての私たちの観点からすると、人が普遍的にこのような判断や反応をすることができるとは驚くべきことです。しかし、事実、人々はそのような判断や反応をしたのです。さらに、これは依然としてそうであることを、私たちは知っています。この世の人々の思いからすると、この十字架に付けられた御方には慕うべき点は何も見あたりません。

 第二に――おそらく、この疑問はこの問題全体の核心・根幹にさらに迫るものですらあります――「なぜ神は、人からのこのような反応を避けられない、このような道をわざわざ取られたのでしょう?」。この道は本当に奇妙です。まるで人からこのような反応を引き出すために、神はこの道を行かれたように思われます。なぜ神は誰からも認められる「まったく愛らしい」御方、一目見ただけで誰からも受け入れられる立場にある御方を遣わされなかったのでしょう?なぜ神は御子を遣わすとき、威厳、光輝、栄光の中で遣わされなかったのでしょう?なぜ彼は最初に天からのあらゆるしるしを示して、すべての人が見るようにされなかったのでしょう?なぜ神は、このような反応を生じさせる道をわざわざ取られたのでしょう?神はわざとそうされたように思われます。そのような反応は必然的でした。イザヤが描いたように、この絵を描いて下さい、「彼の顔立ちは損なわれて人と異なり」――その姿は「人の子と異なっていた」。他にも詳しく記されています――次に、この絵を持ち上げて、「これがあなたの贖い主です!」と言ってみて下さい。神は人を驚かせて憤慨させる道を、わざわざ取られたように思われるでしょう。

 そして、神はそうされたのです!しかしなぜでしょう?

人の間違った価値観のため


 今や、この現実的問題にかなり迫っています。人の価値観はまったく間違っており、神はそれをご存じなのです。人の価値観はまったく完全に間違っています――なぜなら、それは人の自尊心の所産だからです。次のような言葉は自尊心が傷つけられたからではないでしょうか。「こんな水準まで降りなければならないだって!自分の救いのために、そんなことを受け入れなければならないだって!こんな水準まで身を低くしなければならないだって!絶対嫌です!そんなことは人の性質に反します!」。そうです、これは人の性質には人の高ぶりによって生み出された全く間違った価値観が備わっているためなのです。ですから、この受難の僕という思想は人の自尊心にとって侮辱であり、つまづきであり、人の価値観に対する挑戦なのです。まさにこの理由により、ユダヤ人も異邦人もこの知らせを受け入れようとしませんでした――自尊心がそれを許さなかったのです。私たちは次のように歌います。

 「素晴らしい十字架を見渡す時
 私は自分の自尊心をまったく蔑みます。」

 これが十字架の及ぼす影響であるべきです。しかし、そうではありませんでした。人はこのような者なので、人の自尊心はそれを受け入れようとしません。ですから、「彼はさげすまれ、拒絶された」のです。「彼には私たちが慕うべき美しさは何もありません」。

 私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。十字架は人の自尊心や尊大さのまさに根本を打ちます。十字架は人自身の威信や価値観に基づく生活の根本を打ちます。たとえ、この世の観点やこの世の価値観からすると、人はひとかどの者になって、それなりのものを得ることができたとしても、また、先天的あるいは後天的に、自分の頭脳や賢さによって、熱心に働いたり学んだりすることにより、人は何らかの地位、栄光、成功、威信を得ることができたとしても、もしあなたや私が神の御前でそのようなものに基づいて生活するなら、私たちもまた神の価値観に完全に反している人々と同類と見なされるでしょう。

隠れた内なる人


最近、神の御前に静まる必要性をとても感じています。兄弟姉妹の交わりにおいても、礼拝においても…。若者には大きな情熱が与えられています。それゆえ、 尽きせぬ語らい、高揚感溢れる礼拝が生まれ、知的な議論も終わりなく繰り広げることができます。いいえ、若者だけがそうなのではありません。

人は天然の力を使っても、どれほど人の目に素晴らしいものを作り上げられるでしょうか。才気溢れる人々が集まれば、どれほど素晴らしい礼拝を編み出せるでしょうか。主が恵みを雨のようにお与え下さる時、何と私たちは子供のように有頂天になってはしゃぐことでしょうか。

しかし、「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。」(ヨハネ6:63)の です。御霊のか細い声に耳を傾けるためには、静けさが重要です。それは決して瞑想などによって得られるものではなく、静かな環境に由来するものでもなく、 ただ私たちの心のへりくだりによります。高慢は常に霊的鈍感さに直結します。肉なるものが主の御前にへりくだり、砕けた心を持って進み出ることなしに、御 霊の声を敏感に聞き分けることはできないでしょう。

それなのに、多くの信者たちは何としばしば、神のために熱心に「活動する」ことにより、自己肯定、自己顕示しようとしていることでしょう。熱烈な賛美、長い祈り、 倦むことを知らない交わり、麗しい礼拝…。確かに一時、主はそれらを私たちのために恵みとして配剤されます。しかし、それらの活動に身を投じることに比 べ、何もしない(何もできない)状態は、何という忍耐を私たちに要求することでしょうか。

クリスチャンはしばしば、主によって閉じ込められます。孤独の中に、静けさの中に、誤解の中に、病の中に、困難な状況の中に。それでもなお、ある人たちは閉じ込めと いう主の訓練を避け、拒否しようとするのです。自分が世間から忘れ去られ、没落しているがごとくに思われたくないために、兄弟姉妹との交わりを求め、活発な行動を求めます。 神によって懲らしめられているその弱さと傷みを隠そうとして、恵みの数々を誇ります。神の手によって打たれ、病床に伏してもなお、自己の正しさを求めて、 「神のために」熱心に活動しようとします。
 
それほどまでに、生まれながらの人間は、何もしない(何もできない)ことに耐えられません。沈黙に耐えられません。忘れ去られることに耐えられません。活動しないでいることができません。人間の自己はあまりにも軽薄であり、絶え間なく自己顕示し、絶え間なく自分の正しさや、優位性を誇らずにいられないので す…。

しかし、キリストの十字架は、これらの自己から来るやむことのないむなしい活動に対して、ただ死を啓示します。人の自己から出た活動は、御国の富のために何の役にも立たないと言われます。

犬を飼う時には、主人が「良し」と言うまで、犬が餌に飛びつかないように訓練するものではないでしょうか? もし犬にわきまえがないままであれば、主人と共存することはできません。主人との関係を楽しむことはできません。犬でさえ、そのように「待つ」訓練にあずかるというのに、クリスチャンの大勢は、人間でありながら、な お、主が「待て」と言っているのに、何のわきまえもない野良犬のごとく、浅ましく餌に飛びついているのではないでしょうか。神を口実に、絶え間なく自分の 栄光と楽しみを求めているのではないでしょうか。多くの人たちは、主が栄光をお与え下さる前に、自分の栄光を自分で掴もうとします。そのような姿を主はご覧になっ て、みっともない、情けない、見苦しいと思われないでしょうか?

「あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきであるこれこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。」(Ⅰペテロ3:3-4)

悲しいことに、ある人々は、エクレシアというものを全く誤解しています。美しく着飾った花嫁の写真をたくさん並べて、それを自分たち信者の姿と同一視して、「私たちは神に選ばれた美しい花嫁である!」と言って、自己満悦に浸っています。しかし、その人たちは完全に一つの事実を忘れています。それは、結婚式の主役は、花婿だということです。確かに、花嫁の役割も大きいですが、花嫁は誰よりも花婿の喜びのために存在します。花婿あってこその花嫁です。それなのに、花嫁が花婿を差し置いて、自分一人、美しく着飾り、自分一人だけを主役として舞台の中央に据えて、花婿を隅においやり、花婿の思いをよそに、一人だけ注目を浴びて自己満悦に浸っているとすれば、そんな結婚式に何か意味があるでしょうか? もし私が花婿であれば、まっすぐに一人で出口へ向かい、そんな花嫁との結婚は考え直すと思います。

以上に挙げた御言葉は、主の花嫁たるエクレシアが身につけるべき品性として語られています。飾られなければならないのは、外面ではなく、内面です。私たちは御霊がよしとされる時まで、忍耐して待つことを知らねばなりません。それは生まれながらの人間の活動的で自己顕示欲に満ちた自己にとっては、死の苦痛以外の何ものでもないように感じられるでしょう。その死は私たち自身の力によってはなし遂げられず、また修道生活のような禁欲的苦行によるのでもなく、ただ御霊により、十字架によるのです。

御霊は、信者たちに本当のわきまえというものが何であるかを内側から教えてくれます。いつ私たちが口を開くべきか、何を語るべきか、どのように行動すべき か、行き過ぎに至らないよう警告して下さいます。それは決して、私たちが操り人形のようになって自主性を失うことを意味するのではなく、御霊が私たちの内で品性そのものとなり、私たちが自分自身を霊によって治めるべく導いて下さるということです。

アダムの死だけでは、自己の死だけでは、十分ではありません。主と共なる十字架を経て、私たちはいのちに与らねばなりません。それは霊によって自分自身を治める人となることを意味します。

ですから、信者たちはいつまでも自己中心で軽率で浅はかな、自分の欲求だけに基づいて行動するわきまえのない動物のようであってはなりません。神が私たちの主人です。どれほど派手に、どれほど上手く活動し、どれだけ多くの注目を集めることができるかが、私たちの成功な のではありません。主人の命令に服さないような僕は、どんなに活発に活動しても、僕とは呼べません。主人が「待て」と言う時、忍耐して待つことのできる僕になることの方が、主人の命令を無視して活動することよりも、はるかに重要な訓練です。そのようにして忍耐して待つ僕を、どうして主人がかえりみて下さらない理由があるでしょうか。

なのに、あまりにも多くの信者を名乗る人々が、信仰生活を自己顕示の手段と取り違え、他者を押しのけ、神をさえ押しのけて、自分が舞台の中央に立って脚光を浴びることだけを追い求めていることに、私は大いなる疑問を抱かざるを得ません。また、そのような人たちと同じ道を行きたいとも思わないのです。私たちの内側にキリストが形作られることの意味を、今一度、静まって考えてみたいと思います。

我が命の砦なる主

兄弟姉妹との交わりの中で、主の命の喜びに十分に浸されながら、語り合うことのできる幸い。このような交わりが与えられているとは、何と喜ばしいことでしょう。

もはや恐れるものはありません。どんなに孤独の中を通らされても、どんなに大切なものをことごとく失っても、どんなに大勢の人から誤解され、見放されて も、主は決して私を見捨てられず、世の終わりまで私と共にいて下さいます。それだけでなく、主が血によって結び合わせて下さった兄弟姉妹も共にいるので す。

私たちは、世に勝った方が自分の内にいて下さることの意味をどれくらい知っているでしょうか? 子羊の血と証しの言葉によって勝利することの意味をどれく らい知っているでしょうか? 自分の力では太刀打ちできない試練が襲いかかる時にも、私がただ自分の十字架を取って主に従いさえするならば、私の自己が残 らずキリストの十字架に死に渡されることに同意しさえするならば、束の間の苦しみの後で、主は前よりもさらに多くの、溢れるばかりの祝福で私を覆って下さ います。そして、私の失われた尊厳を、ご自身の勝利によって取り返して下さり、主の僕を告発した敵どもは、御言葉であり、岩なるキリストにぶつかって微塵 に砕け散り、自ら暗闇の中でつまずき倒れるのです。

ただ、私たちはいつも駱駝が針の穴を通るようにして、小さな穴をくぐりぬけねばなりません。それは痛みを伴う十字架です。この世の沢山の荷物をぶら下げな がら、その穴をくぐり抜けることはできません。自分だけ無傷できれいなままで、その穴をくぐり抜けることはできません。世を友として十字架の向こうに渡る ことはできません。十字架の向こうに持って行くことができるのは、信仰によって生み出される朽ちない宝だけであり、この世の富はその向こう側に何一つ渡れ ないのです…。たとえ人の目にどんなに素晴らしい知恵、美徳であっても、人から出たものは十字架を通過することはできません、キリストから出たもの、永遠 に朽ちない宝だけが、十字架を通過することができるのです…。

多くの人たちが十字架の前で踵を返して去って行きます。多くの人たちが真理に耐えられず、虚偽を信じてつまずき倒れます。多くの人たちが荷物を持ちすぎて 穴をくぐることができません。多くの人たちが自己を愛しすぎて十字架のテストに耐えられません。つらい別れが何度もやって来て、裏切りがあり、苦しみがあ ります…。自己を愛する人々、真に十字架を経過したくない人々は、何と巧妙に十字架の意味を曲げようとし、また、激しく十字架に敵対することでしょう!

しかし、不思議です、私が主と共なる十字架の死を受け入れる時、その死によって私は孤立したり貧しくなるどころか、なぜか、思いもかけない恵みが後を追っ て走って来るように、人の思いをはるかに超えたところで、キリストの命が自然にあふれ流れ出すのです。キリスト者が御名のゆえに味わわなければならない苦 しみの深さをどんなに覚悟しても、それでも、喜びと平安が後を追って走って来るのです。私は何も持っていません、けれども、キリストにあってすべてを得て いるのです。

敵が陣を敷いて私たちを取り囲むことがあります。しかし、主が共におられるのですから、恐れるものはありません。そして、神は御旨にかなった人々を常に私 の前に置いて下さり、そして、これらの人々が、主の血によって一つとされており、まことの命によって結ばれていることを、不思議な方法で、何度も何度も、 確かめさせて下さるのです。

キリスト者は一人ではありません。たとえ悩みの中を一人ぼっちでくぐらされることがあったとしても、その時に、私たちが世を避けて、敵を避けて、追いつめ られて、涙の内に駆け込んだ主の懐、私たちの霊の内に主が設けて下さった至聖所、その避け所の中に、私たちは御霊によって、永遠の御国がすでに到来してい るのを見るのです。そこに、命と平安があります。そこに、主の御霊との交わりがあります。そこに、主が御顔を輝かせて下さいます。

我が魂よ、強くありなさい。雄々しくありなさい。主によって選ばれ、主に愛される者とされた幸いを味わい、楽しみ、元気づけられなさい。主のご計画の確か さを信じなさい。主の御言葉のどれ一つとして、むなしく地に落ちることはないのです。主よ、どうかあなたが御顔の光を私に輝かせて、御言葉によって私を照 らし、聖別して下さいますように。


主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。
主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。
悪を行う者が私の肉を食らおうと、
私に襲いかかったとき、
私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。
たとい、私に向かって陣営が張られても、
私の心は恐れない。
たとい、戦いが私に向かって起こっても、
それにも、私は動じない。

私は一つのことを主に願った。
私はそれを求めている。
私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさを仰ぎ見、
その宮で、思いにふける、そのために。

それは、主が、
悩みの日に私を隠れ場に隠し、
その幕屋のひそかな所に私をかくまい、
岩の上に私を上げてくださるからだ。

今、私のかしらは、
私を取り囲む敵の上に高く上げられる。
私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、
歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。

聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。
私をあわれみ、私に答えてください。
あなたに代わって、私の心は申します。
「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。

主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。
どうか、御顔を私に隠さないでください。
あなたのしもべを、
怒って、押しのけないでください。

あなたは私の助けです。
私を見放さないでください。見捨てないでください。
私の救いの神。
私の父、母が、私を見捨てるときは、
主が私を取り上げてくださる。

主よ。あなたの道を私に教えてください。
私を待ち伏せている者どもがおりますから、
私を平らな小道に導いてください。
私を、私の仇の意のままに、させないでください。
偽りの証人どもが私に立ち向かい、
暴言を吐いているのです。

ああ、私に、
生ける者の地で主のいつくしみを見ることが
信じられなかったなら。――
待ち望め。主を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め。主を。

(詩篇第27編)

キリストと共なる十字架の死

主にある一人の姉妹へ

ハレルヤ! 主の栄光の御名を誉めたたえます! 喜びが心に溢れる出来事がありましたので、ご報告しますね。現在、直面しているあれやこれやの困難につい て思いめぐらしていた時のことです。最近、私の新しい隣人となって下さった遠方の友より、「一週間をたった3000円で過ごさねばならない」という便りが 来たのです。

一瞬、これは大変だ、と思ったのですが、まず祈るべきだと心に感じました。そこで、すべてを主の御前に持って行き、心のすべてをさらけ出して、へりくだっ て神様の御前に出て、必要を申し上げてください、改めるべきところは全て改めますから、どうか私を正しい道へ導いて下さいと、祈ってみてはどうかと申し上 げたのです。

主は私たちと夫婦のように親しい交わりを結びたいと願っておられるので、主を信じる者にとって、全ての困難は主に通じる道です。主イエスは「羊に命を与え るために、しかも、豊かに与えるために地上に来られた」方であること、「義人は信仰によって生きる」こと、「主により頼む者は失望に終わることがない」な ど、御言葉を宣言しました。そうです、私たちの死ぬべき身体も、主のよみがえりの命によって生かされ、愛する御子の信仰によって「生きる」のです。

彼女からは早速、主の御前に出てくださったという喜びに満ちたお返事がやって来ました。神の御前にへりくだるってこういうことなんだねと、喜んでおられる様子でした。主はどんな風に彼女に応えて下さるでしょうか。(食料備蓄などは十分あるそうです。念のため。)

けれども、話はここからです。この隣人の苦境の話が、私をハッとさせ、重要なことを思い出させました。かつて主を知る以前、信仰を離れて生きていた頃、私 はどんなに貧しい生活を送っていたかを思い出したのです。それはまるで死の陰の谷の淵を歩くような生活でした。教会の友達と共に最も安いファミリー・レス トランで昼食を取るときでさえ、清水の舞台から飛び降りるような決意をせねばならなかったのです。ついにその生活は保てなくなり、しがみついていた全ての ものが私から剥ぎ取られました。私は自分で自分を支えようとする全ての努力をやめて、主の御前に自分を投げ出して降伏宣言をし、心のすべてをさらけ出し て、ただ神に向かって祈り始めたのでした。

生活は完全に失われ、そこから、長い長い悔い改めの期間が始まりました。そのような悔い改めと待ち望みの期間は、約一年間ほど続きました。窮乏という言葉 では表しきれない、まさに私が牢に閉じ込められ、死んで墓に葬られたかのような真っ暗闇の期間。主以外の希望が全て閉ざされた期間。どの扉を叩いても、何 一つ、開かれず、地上の最後の居場所も奪われたような期間。もはや自己の努力によっては何一つ成しえないことが分かり、ただひたすら主の解決を待ち望むし かありませんでした。

それが主による閉じ込めであり、キリストと共なる十字架の死を実際に知るための準備期間だったということは、その頃は考えもしませんでしたし、知りもしま せんでした。ただ私は自己の力が尽き果てるまで、もがくだけでした。解決は、究極的な瞬間まで延期されました。ついに全ての希望がなくなり、信仰さえも絶 え果てるかに思われた時、主は私の心を訪れて下さり、私の上に十字架を実際として下さり、大いなる解放を成して、未だかつてなかった喜びと平安をもって、 私を深い暗闇の淵から引き上げてくださったのです。

それからどれほど私の生活は変わったでしょう。命が与えられました。自由が与えられました。暮らしが与えられました。隣人が与えられました。職が与えられ ました。家族が和解のうちに戻って来ました。確かに困難は尽きませんし、弱い器としての私は、痛みも苦しみもリアルに感じ、時には憤り、弱音をこぼし、涙 し、叫び声を上げそうになる時もあるのですが、それでも、主を知らなかった頃のあのような苦しみと絶望だけは、二度と味わうことがないという平安が心の中 に与えられているのです。

主を知ることの喜び! このことを思い出すとき、地上での苦しみがいかに取るに足りないかが分かるのです。人が私に何をできましょう? これは決して人が 私に何もしえないという意味ではありません。人は私を苦しめることができます。追いつめることができます。失望させることができます。非難することができ ます。居場所を奪うことができます。あらゆる方法で迫害し、圧迫することができます。しかし、そのどれも主が私になした裁きには遠く及ばないのです!

私はキリストと共に十字架で死んだのです! この意味がお分かりでしょうか。神が私に最も重い刑罰を下したのです。今日も、私は主と共に、あの木にかけら れて、最も重い刑罰を受け続けているのです! この十字架の死に同意なさるでしょうか? カルバリにおいて、我が肉体は我が罪のために、永遠に釘付けら れ、裂かれてさらし者とされ、我が魂は苦しみのうちに最後まで注ぎ出され、キリストと共に木にかけられて死んでいるのです。この事実に同意するでしょう か。

人のどんな圧迫も、神が私に下したこの刑罰には及ぶべくもありません。この世のどんな呪いも、非難も、圧迫も、何を合わせても、この十字架の死以上のもの にはなりません。しかも、そこにあるのは永遠の死です。十字架の死、それは私たちの自己の総決算であり、神が私に下された正しい裁きであり、宣告なので す! 私は裁かれました! 神ご自身が、私のアダムの命には生きる価値がないと宣告されて、私を死に至らしめられたのです! 

この世はあらん限りの方法で私を罪定めすることができるでしょうが、私たちはすでに死んでいます。十字架という最も重い奴隷め刑罰を、私たちは今日も、信 仰によって、主と共に受け続けているのです。私たちの命は絶たれ、キリストにあって、神のうちに隠されています。ですから、世が私たちに対して何をなしう るのでしょう。ただこの十字架を通して、私たちはアダムの命に死に、この世との結びつきに対しても死にます。この世から怒号のようにやって来る全ての嵐に 立ち向かう術はただ一つ、このカルバリの死にしかありません。

主の死を思う時、ただその前に深く頭を垂れるのです。主が私たちの罪の身代わりに、十字架で全ての痛みを負って下さり、その打ち傷を通して、私たちを自由 とし、平安を与えて下さったことを思い、はかりしれない厳粛な感謝が心にやって来るのです。あの恐ろしい生活から助け出されたこと、あの苦しみから助け出 されたこと、今やなくてはならぬ全てのものが上から与えられ、神によって養われているその恵みを思うのです。

こうして今、自由とされた私の前には、主が与えて下さった数々の恵みが置かれています。平凡で穏やかな生活、友との親しき交わり、何という甘さがそこにあ ることでしょう。しかし、それでも、目に見える宝は、もはや私の心を引かないのです。パウロが言ったように、日々、キリストの死と復活を知ることを追い求 めたいと願います。どうか私が道を間違えることがありませんように。この世が私を歓迎せず、この世が私の居場所とならなかったことを心から感謝します。主 が私を日々、より一層、カルバリの死にあずかる者として下さり、キリストにあって神のうちに隠して下さり、愛する御子の信仰によって生かして下さいますよ うに。

友へ:時には、私たちの財布には一週間分で3000円以下しかないかも知れませんが、それでも、義人は信仰によって「生きる」のです。

つづきはこちら

カレンダー

06 2018/07 08
S M T W T F S
2 3 4 5 6 7
8 9 11 12 13 14
15 16 17 18 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー