忍者ブログ

私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(9)―たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放して下さいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(Ⅱテモテ1:7)

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。」(ルカ8:17)

 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)


 「このように、あなたがたも、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:11)

「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:5-6)

* * *

虚偽告訴罪(刑事告訴・告発支援センター)

「人に刑事又は懲戒の処分を受けさせる目的で、虚偽の告訴、告発その他の申告をした者は、3月以上10年以下の懲役に処する(刑法第172条)。 」

最新の記事で「霊的優位性」について書いたのは偶然ではなかったものと思う。

村上密が本日、ブログ記事で筆者を告訴したと発表している。この一報を最初に報じたのは掲示板であった。仮処分の申し立てを作成していなければ、気づかなかったかも知れないが、タイムリーに投稿があったので、リアルタイムに知ることが出来た。

 
*ちなみに、村上密はこの記事を投稿してすぐ削除した模様。
 悪ふざけなのか、本気で魔女狩り裁判を開始して、これから
 クリスチャンに有罪宣告を下したいという悲願を語ったものか、
 筆者には真意が完全に不明。

 控訴審できちんと釈明していただきましょうね・・・。
 もはやオーウェルのディストピアと化している宗教トラブル相談センター。
 人格権侵害と合わせれば、あまりにも重大な名誉毀損に該当するこの記事、
 信徒相手に、
普通に考えて、牧師としてヤバすぎでしょう・・・!?
 事実ならば、むろん、こちらも虚偽告訴罪で対抗するのみですが。


こうしてテレスクリーンに「ビオロンは人民の敵」との見出しが躍り、かの全体主義国では、筆者はゴールドスタインさながらの扱いを受けている。そこはすべてが鏡のようにさかさまに映っている。罪人が聖人に、聖人が罪人に置き換えられる・・・。

本日、筆者は、先にチェックをお願いしていた告訴状を、明日受理してもらうことで警察と合意していた。先週から人格権侵害の記事については、警察へ資料を提出、最終チェックと校正をお願いしていたが、明日には受理されると聞かされた。

従って、この情報が事実ならば、村上は筆者に先手を打とうとしたことになろう。

村上の告訴事実が何から成っているのかは知らないが、村上の記事内容から判断すると、村上は、筆者が訴訟において、村上と杉本から「反訴の脅しを受けた」と記していることが、名誉棄損に相当するという主張も含めているらしい。

しかし、村上が杉本と一緒に第一審において、筆者が彼らの提示する和解条件を飲まなければ、反訴すると筆者に主張したことは、まぎれもない事実である。そのことは、村上自身が、前掲記事で、「彼女は、裁判の中で私が反訴を口にすると、「反訴の脅しをかけた」と4月13日の記事に書いている」と書いている通りである。

そこで、村上の主張は、筆者にとっては、まさに「唐沢治から密室で呪いの予言を受けた」と主張したKFCの元信徒を彷彿とさせるものである。

筆者は当初、KFCの元信徒は、杉本のブログでありもしない虚偽の事実を主張したのだと考えていたが、後になって考えを翻したと書いた。従って、もしも筆者のその予測が的中しているならば、この信徒は、虚偽告訴罪を主張できたはずだということも、繰り返し書いて来た。

それは、虚偽の告訴に対しては、毅然と立ち向かい、その罪を相手にお返しすべきだという筆者の信念を述べたものである。
 
このような事情であるから、筆者は驚いてはいない。村上は筆者がこのニュースを聞けば恐れると考えたのかも知れないが、筆者自身が、告訴状が受理されて後、どういう顛末を辿るかを、実際に確かめて知っている。その上、筆者は、村上の行った権利侵害について、警察に相談を重ねて来たのである。
 
今、筆者は、4月1日にも、今回と同様のことが起きたのを思い出す。筆者は3月末日、コラム欄に、掲示板に実名を挙げながら村上密の家族に言及しているコメントがあるのを見て、こうした掲示板の投稿を整理して、村上密について書くつもりだと予告した。すると、それからわずか1時間も経たないうちに、村上は筆者の人格権を侵害する記事をブログに投稿したのである。
 
幾度も述べた通り、村上によるこの権利侵害がなければ、今回の訴訟は第一審で終わっていたはずである。筆者は、杉本徳久の記事が名誉棄損に相当することが認められただけでも、十分な成果だと考え、判決に不服を述べないために、一審で終了するつもりでいた。

ところが、神はこの紛争をここで終わらせず、第一審では出て来なかった不法行為の証拠として、村上に以上の権利侵害を犯させたのである。

村上はこの時、おそらく筆者に実名入りの記事を書かれる前に、先手を打ったつもりであったと見られるが、その焦りが、権利侵害を犯している事実を彼に見えなくさせた。筆者は、このことは、天の采配であり、この紛争を妥協せずに最後まで徹底的に戦い抜き、望む成果を勇敢に勝ち取りなさいという天の命令であると解釈した。

今回も、村上の主張を見る限り、これと同じ現象が起きているものと見られる。告訴状を提出するには、十分かつ入念なチェックが必要で、それがあったとしても、疑義や問責が生じる可能性は十分にある。

従って、自分の焦りできちんとした構成要件を満たさない告訴状を提出した場合、その不備が後になって重大な問題となって自身に跳ね返って来る可能性は大いにあると言えよう。

特に注意が必要なのは、匿名掲示板のように、誰が投稿したかも分からない投稿を告訴する場合ではなく、相手が分かっている場合である。

もしも誰かが、筆者の記述が真実であることを知りながら、これをあたかも虚偽であるかのように主張して、自分に対する名誉毀損であると主張して告訴した場合には、当然ながら、虚偽告訴罪に該当する可能性が出て来る。
 
上記した通り、虚偽告訴罪は重い罪である。従って、告訴人の言う告訴の事実に裏づけがなく、その理由に整合性が取れず、その訴えの真実性が証明できず、故意性が認められれば、いたずらに被告訴人とされた者は、告訴人に対してこの罪を主張しうる。

実を言うと、筆者は昨日まで、控訴審での戦いのポイントを思いめぐらし、かつ、明日受理される告訴状について考えながら、これではインパクトが足りないと考えていた。確かに、この告訴状には、受理される要件は整っている。そのことはお墨付きをもらっており、第二審においても、これが確かな材料となって行くであろうことは明白に予想できた。

だが、人格権侵害だけでは、いささか被害のインパクトが軽すぎる気がする。これでは起訴―有罪に持ち込む根拠とはならないだろうという予感がある。しかも、筆者の控訴状は、「未熟児のサイズ」と記した通り、昨日までの時点では、第一審で取りこぼしたわずかな記事と、人格権侵害の記事の削除および微々たる賠償を追加するだけのものでしかなかった。

むろん、手堅く事件を進めるためには、それで十分な主張なのだが、「小さく産んで、大きく育てる予定」と当初から書いていた通り、このような些末な理由で、二審を戦う結果には、きっとならないだろうという予感があった。こんな微々たる理由では、たとえ勝ってみたところで、御名を冠する戦いにふさわしい勝利と呼ぶには、いささかインパクトが小さすぎる。

そこで、今回起きたことも、やはり主の采配であると思わずにいられない。

筆者は二審について、大々的な注目を集めるつもりは全くなかった。だが、村上がこのような記事を出した以上、この戦いは、否応なしに注目を集めるものとなろうし、まさに筆者が2009年から主張して来た通り、反カルト運動の陣営による「魔女狩り裁判」の様相を帯びて来たのである。

筆者は2009年から、村上密の活動は、このような結果に至ることを幾度も予告して来た。今回のことは、その霊的法則性が成就しただけと言えよう。信者を解放するように見えて、人間の正義によって抑圧する反カルト運動の悪しき本質が、いよいよ正体を現したのである。

ところで、筆者は今回の裁判で、告訴が確かになされたという事実を客観的に証明すること自体が、かなりの苦労を伴うことを知った。

杉本は、筆者が告訴状を提出したことを否定していなかったが、あくまで事件化はされていないなどと主張していた。

村上と杉本が、一緒になって、筆者が警察を証人として呼ぼうとした行為をメールで嘲笑っていたことは、記事で記した通りだが、告訴状が受理されていることを客観的に証明するためには、確かにある種の苦労が伴うのである。

裁判官は筆者の申し出を調査嘱託に変えたが、それでも十分ではなかった。さらに、筆者はそれを補う証拠を提出したが、それでも、十分であったとは見られない。民事では、終結していない刑事事件の確かな進行状況を認定することは、およそ不可能であり、そのようなことを争点とするのも難しいのである。

そこで、結論から言えば、検察に事件が送付されて、きちんとした結末が出てもいないうちに、誰かに対する告訴の事実を名指しで公表することは、決して得策とも賢明とも言えない。そのようなことは、100%確実に勝算の見込みがある場合以外には、絶対にしてはならないと言えるほど、リスクの大きい行為だと言えよう。

筆者の事件では、今回は第一審において、はっきりと杉本による名誉毀損や侮辱の事実が認められたゆえに、刑事事件でも、ほぼ同等の結論が出ることを予想でき、それが大幅に覆ることはまずないとみなせる。それゆえ、以上のリスクは回避することができたし、筆者の論証も十分であった。
 
しかし、これがもし民事で名誉毀損が認められず、控訴審でその事実を争うとなった場合には、早まって人物を特定して刑事告訴を公表してしまった人間は、控訴審で窮地に立たされることになる。

たとえば、村上密自身が、五次元スクールから名誉毀損で告訴されたが、不起訴になったと得意げに記事に記している。そのような結果となったにも関わらず、それ以前に、早々と相手を告訴した事実を実名で発表してしまった場合、後になって、それは事実無根の主張として、重大な名誉棄損の罪に問われる可能性も出て来る。
 
しかも、ペンネームだけであれば、人権侵害には相当しないが、村上はすでにその条件を自分で破ってしまっているのである。

そこで、今回の村上の記事の発表は、筆者から見れば、勇み足と言うべき、村上自身にとって極めて重大なリスクをはらむ危険な行為であり、筆者にとっては、控訴審における主張を大いに補強する材料となる。

この記事は、筆者に対する人格権の侵害の記事と合わせれば、十分な名誉毀損行為に相当する要件を満たしているから、これこそ、控訴審を戦い抜く上で、御名を冠する戦いとするにふさわしい最も大きな被害のインパクトとなる。
 
さて、警察とのやり取りは、ものすごい消耗戦である。告訴状を出しさえすれば、後は警察が自動的に捜査をしてくれ、自分は何もしなくても、ただ待ってさえいれば、すぐに警察が犯人を逮捕してくれて、裁判が開かれ、犯人が有罪とされて事件が終わる・・・などという甘い世界はないことを、筆者はこれまで痛感して来た。

それは、民事でも刑事でも基本的に同じであるが、民事ならば、定期的に口頭弁論が開かれ、嫌でもいつかは審理終結が来るが、刑事事件の進展はまことに見えない部分がある。

そして、この壁を打破するために、筆者はものすごい苦労を払い、ようやくのことで、風穴を開けたのである(だからこそ、筆者の事件に、これ以上の遅延はないと断言できる)。
 
だが、刑事事件の進展が遅い場合、民事において、告訴されたこと自体を名誉毀損だと相手が主張して来た場合、告訴要件をきちんと満たしていることを立証することには、膨大な時間と手間を要する。

その作業を2名の被告を相手にしながら、筆者は一審で成し遂げたが、これから、その作業が、村上に課せられることになる。杉本と一緒になって、筆者が警察を証人に呼ぼうとしたことを嘲笑った村上である。どのような手法でそれを行うのかは、注目される。弁護士を雇ったとしても、唐沢治が出して来た陳述書のような理屈では、勝算の見込みは薄いであろう。
 
だが、それよりも、今回、注目されるのは、信徒を告訴したと自ら発表したことにより、村上密という人物の内面が、極みまで明らかになったことである。

かつて相談にやって来た信徒を告訴する牧師のもとに、これから身を寄せたいと願う信徒がいるとは思えない。そこで、村上の行為は、村上の率いる宗教トラブル相談センターに、致命的と言っても良いくらいの打撃を与えることであろう。

さて、筆者は、このようなことがあってもなくても、自分の果たさなければならない仕事を淡々とこなすだけである。

幾度も言うが、キリスト者の身には、神が許された事柄しか決して成就することはない。そして、神は信者の同意がないのに、突然、試練をもたらされるようなことはなさらない。

読者は知っている通り、2009年から、筆者は、村上が構想したカルト監視機構の危険性を世に訴えて来たのであるが、その時から抱いていた危惧が、このような形で成就するまでには、10年間という月日が必要であった。

本来ならば、10年もの月日があれば、記憶も薄れ、関わりも断たれ、かつてそんな主張がなされていたこと自体を、当人同士が忘れていておかしくない。だが、霊的な領域においては、記憶が忘却されるとか、主張が消滅するということは決してないのである。

だから、今回の出来事は、かねてより懸念されていた事柄が、実際となっただけであるが、そうなるまでの10年という月日は、筆者自身の霊的・内的訓練の期間であり、主は、筆者が当時から予想していた出来事に対して、十分な準備が出来るまで、待って下さったのである。

幾度も繰り返すが、筆者は個人の人権を守るためにここに立っているのではない。ここから先は、過越し――御名の主権がものを言う世界である。

今、カルバリで流された主の血潮の絶大かつ永遠なる効果のほどが、万人の前で問われているのであって、もしも筆者が罪に問われるようなことがあれば、それは主の名折れでしかない。

神はそのような方でないことを、筆者はこれまでの人生のあらゆる場面で実際に確かめて来て知っている。第一審でも、これと全く同じ、十字架の死を潜り抜けた。この事件に向き合うことを決めたときから、筆者の覚悟は固まっている。そこで、筆者にとって、このような出来事に対峙することは、日々の十字架でしかない。

神の救いは、一度限り、永遠のものであって、血潮の中に隠れる者を、罪に問える者は誰もいない。それにも関わらず、そのようなことを試みるなら、その訴えのすべてがその者自身に跳ね返ることになる。まさしく――虚偽告訴という罪として。

それが、過越しである。筆者は自分の家の鴨居に幾重にも小羊の血を塗っておく。そうしておけば、外に死の風が吹き荒れても、それは家の中の者に触れることはない。かえってエジプト人の長子が滅ぼされるのである。

神の御前で起きることに、何一つ偶然はない。そこで、なぜ村上が杉本と一緒になって反訴を言い立て、さらにこれを見送りながら、今、告訴を選んだのか、その理由は以下にあると筆者は見ている。

反訴には、どんなに虚偽の訴えを出そうとも、いかなる罪も伴わないが、告訴が虚偽だった場合には、罪に問われる。

それが、神が村上に告訴に及ばせたことの真の理由である。
 
* * *

さて、掲示板はこれまで、筆者が自分自身をエステル妃になぞらえているのを見て、さかんに嘲笑していたが、エステルは、モルデカイがハマンの策略によってユダヤ人が皆殺しにされようとしている計画が存在することを知ったとき、自分は死を覚悟して、王の前に進み出ると述べた。

すでに幾度も述べて来た通り、筆者は、杉本・村上からの反訴の予告をきっぱりと退けて、第一審を終えるだけでも、自分の命を最後まで注ぎだす必要があった。その時に、筆者の覚悟は決まったのである。

エステル記を読んでみれば良い。ハマンは自分の家の庭に、モルデカイを吊るすための絞首台を作った。その頃、モルデカイは、ハマンに手をかけることなど、考えてもいなかったであろう。

ハマンはモルデカイのみならず、ユダヤ人全体を殺害しようと考えていた。モルデカイ一人に対する憎しみをきっかけに、ユダヤ人全体に対する尽きせぬ殺意を抱いていたのである。

そして、ハマンは王の信任を得ていた。絶大な権限を持っていた。それにも関わらず、ハマンが作った絞首台は、ハマン自身の絞首台となった。

そうなるために、エステルが死を覚悟した勇気を振り絞ったからである。
 
筆者はこの物語に2018年の初め頃から、幾度となく言及して来た。それは、この戦いを貫徹するためには、筆者は、まさにエステルやモルデカイと全く同じ覚悟を固めねばならないことを初めから知っていたからである。

主はいつも筆者に問われる。「あなたはどのくらい本気ですか? 私のためにどんな代価を払うつもりがありますか?」

筆者は答える。「私は準備が出来ました。私はあなた以外に価値とするものは、何もありません。私はあなたがどういう方であるかを知っています。あなたが決してご自分のもとに身を寄せる者を見捨てられたり、失望に終わらせない方であることを、私は知っています。

私は自分のすべての利益に変えても、あなたご自身を現していただくことを利益と考えています。私が欲しているのは、私の正義以上に、あなたの正義、私の真実以上にあなたの真実であり、あなたの自由と解放、命に満ちた統治を得るために、自分の十字架を負うつもりです。たとえ、私が不真実であっても、あなたは真実な方です。あなたのおられるところに、私の命もあるのです。ですから、何が起きようとも、最後までご一緒いたしましょう・・・。」

これは宿命の戦いである。村上の思惑を忖度した信者らは、筆者が第一審で村上に勝訴できなかったことをさかんに嘲笑しているが、もしも村上密が、控訴審で必ず勝てると考えていたなら、このような措置を講ずる必要はなかったであろう。

筆者が控訴したことを、筆者よりも前に報じたり、筆者の告訴が完了する前に、筆者を告訴したと報じたりするところに、村上の恐怖心の表れを感じざるを得ない。

* * *

もう一度、エステル記(4:9-17、7:1-10)の以下のくだりを引用しておく。

「ハタクが帰ってきてモルデカイの言葉をエステルに告げたので、エステルはハタクに命じ、モルデカイに言葉を伝えさせて言った、「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという一つの法律のあることを知っています。ただし王がその者に金の笏を伸べれば生きることができるのです。しかしわたしはこの三十日の間、王のもとへ行くべき召をこうむらないのです」。

エステルの言葉をモルデカイに告げたので、 モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。


そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。」

「王とハマンは王妃エステルの酒宴に臨んだ。 このふつか目の酒宴に王はまたエステルに言った、「王妃エステルよ、あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。

王妃エステルは答えて言った、「王よ、もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしよしとされるならば、わたしの求めにしたがってわたしの命をわたしに与え、またわたしの願いにしたがってわたしの民をわたしに与えてください。 わたしとわたしの民は売られて滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています。もしわたしたちが男女の奴隷として売られただけなら、わたしは黙っていたでしょう。わたしたちの難儀は王の損失とは比較にならないからです」。

アハシュエロス王は王妃エステルに言った、「そんな事をしようと心にたくらんでいる者はだれか。またどこにいるのか」。 エステルは言った、「そのあだ、その敵はこの悪いハマンです」。そこでハマンは王と王妃の前に恐れおののいた。 王は怒って酒宴の席を立ち、宮殿の園へ行ったが、ハマンは残って王妃エステルに命ごいをした。彼は王が自分に害を加えようと定めたのを見たからである。

王が宮殿の園から酒宴の場所に帰ってみると、エステルのいた長いすの上にハマンが伏していたので、王は言った、「彼はまたわたしの家で、しかもわたしの前で王妃をはずかしめようとするのか」。この言葉が王の口から出たとき、人々は、ハマンの顔をおおった。 その時、王に付き添っていたひとりの侍従ハルボナが「王のためによい事を告げたあのモルデカイのためにハマンが用意した高さ五十キュビトの木がハマンの家に立っています」と言ったので、王は「彼をそれに掛けよ」と言った。 そこで人々はハマンをモルデカイのために備えてあったその木に掛けた。こうして王の怒りは和らいだ。
PR

わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、 わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。

わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、 わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(Ⅱコリント12:9)

「体は一つでも、多くの部分から成り、 体のすべての部分は数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

身体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。

神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。」(Ⅰコリント12:1-26)

休暇中の時間は筆者にとって黄金の時だ。この時間をぜひとも活用して、忙しいときにはできない正しい仕事を果たさなければならない。

今年の新年は警察との連絡で幕を開けた。新年早々の仕事が、告訴状の文面の練り直しとは。しかし、思い起こせば、ここ何年間も、年末年始をゆっくり過ごした記憶がない。大勢で観光地を訪れたり、家でくつろいで料理を作ったり、TVでスポーツ観戦することもなく、常に何か波乱の出来事に見舞われて、日常生活が中断していたような気がする。

そんな年が続いた挙句、今年はもはや普通の正月を過ごすことに未練がなくなった。人生はそんなにも長くはない。大切な仕事を果たすには、時間が限られている。どうせ同じ時間を使うならば、束の間で消えて行く個人としての地上の幸福を享受することよりも、むしろ、御国に到達してから神に褒められ、永遠の収穫として残る仕事を果たしたい。

これは2017~2018年に激しい戦いを乗り越えた後で、筆者が心に確信することだ。とはいえ、年末年始をくつろいで過ごせない職業の人々は、筆者の他に多数、存在しており、警察官もその一人である。

年末年始に警察は当直体制となり、少ない人数で管轄の全域を担当する。筆者の事件を担当してくれている警察官も、奇跡的に当直していたが、呼び出しても、呼び出しても、全くつかまらない。ようやく連絡が入って来たのは、当直明けのこと。つまり、勤務中ではなく、勤務外で、要するに、筆者の順番は、区内で一番最後なのだ。
  
とはいえ、勤務が終わったから、ようやく電話できるのだと言われるのは、勤務中だから時間がないと言われることに比べてかなり嬉しい。一番最後の順番とはいえ、最もほっとできる瞬間に電話がつながったのだと思える黄金の時。まさにボアズがルツのためにわざわざ畑に残しておけと命じた落穂を拾うルツの心境である。

当ブログに対する様々な権利侵害を事件化することを決めてから、こういうコミュニケーションを関係者との間で取れるようになるまで、何カ月もの歳月を要した。警察官は、下手をすると、一日、二日どころか、一週間以上もつかまらない。黙って電話を待ち続けることには未だに慣れられず、当初はそのことでどれほど巨大な不安に陥れられたか分からない。

しかし、担当者は、ない時間をひねり出すようにして、時には休日出勤して対応してくれたり(つまり、通常の勤務時間にはこの事件に向き合う暇がない)、近くの交番まで書類を届けてくれたりし、それを見ているうちに、筆者は考えが変わり、長い時間、待たされても、それが怠慢や悪意によるものではないことを理解し、やがて彼らの誠意を尊重しないわけにいかなくなった。

それは裁判所の人々との関わりも同じであった。不愉快な事件をきっかけに人々と関わるのは、誰にとっても気が進むことではなく、それだけで関係者一同に大きなストレスとなりかねない。しかし、この事件に関わってくれるすべての人々も生きた感情を持つ人間であることを理解し、筆者はついに自分の感情を乗り越えて、事件の影響を乗り越えて、互いをよく知って、理解・尊重し、信頼関係を築くことが最後には可能となった。

そうなるまでには、多くの時間がかかった。何度、取っ組み合ったことであろう。その間に、彼らにも、筆者の心の弱点などは、きっとお見通しになったはずである。だが、筆者は、どんな時にも、心から正直であり、目指している高い目標から決して目を逸らさなかった。だから、人々は筆者の心の弱さや限界を見ても、それが悪意によるものでも、怠慢によるものでもないことを理解してくれ、筆者の弱さを彼らの強さで補い、覆い隠してくれるようになったのである。

こうして、最後には互いが互いの限界を理解した上で、相手を尊重する術を学んだ。筆者はこのような体験を通して、絶望的な状況下で、どれほど様々な波風が起きても、目的を見失いさえしなければ、最後にはその波乱をすべて乗り越えることができると言える。

たとえ一時的にものすごい痛み苦しみを味わうことになったとしても、その犠牲があって初めて、新しい関係が生まれて来る。何が生まれて来るのかは、苦しんでいる当初には分からない。だが、信仰のあるなしに関わらず、人が命をかけて訴えていることを、無碍に扱うことができる人はそう多くはない。あきらめないで前進していれば、少しずつかも知れないが、理解者は増えて行く。そして、それがついにはやがて固いチームワークのような結束になって行くのである。

かつてあるクリスチャンが、「ヴィオロンさんには、関節と関節をつなぐ能力がある」と言ったことを思い出す。ここで言う「関節」とは、私たち一人一人、エクレシアの構成員のことである。キリストのからだなる教会の成長は、節々がしっかりと組み合わされ、補い合うことによると聖書にある。

「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:16)

その信者は、筆者には必要な関節と関節を出合わせ、互いに結束させる働きがあると述べたのであった。今、筆者は、いわゆる教会と呼ばれる建物の外で、その頃と同じような働きをしているのかも知れないと思う。

なぜそうなったのか。それは教会と呼ばれる団体があまりにも神の働きから逸れてしまったことによるものと筆者は思う。そこで、初めはユダヤ人に福音を宣べ伝えたパウロが、異邦人に向かねばならなかったように、筆者はいわゆる教会と呼ばれる信仰を持った人々の外に、関節や節を見つけるはめになったのである。

そうして、筆者が一人で始めた信仰を守るための戦いという目に見えない事業に、今や数多くの人たちが関係するようになった。そして、その人々は、嫌々ながらではなく、自らの意志で、自発的に積極的に事態に関与しており、筆者は彼らに大いに助けられている。

信仰者と呼ばれていないこの人々から、どれほど多くのことを筆者は学んだであろうか。彼らとの関わりは、本当に切実なメッセージを筆者の心に伝えてくれる。

この事件を進めるうちに、筆者は、人々から助けられることを学んだ。これまでの筆者はほとんどの作業をただ自分一人だけで成し遂げ、他者の力を借りることがなく、他者の知恵によって自分の知恵の不足を補われることもなく、そのような可能性があるという期待すらも持っていなかった。あまりにもすべてを自力で背負い、自力で処理することに慣れており、人を信頼する必要性にさえ見舞われなかったのである(それは裏切りや離反が横行していたためでもある)。

だが、今、筆者は、そうした離反を克服する方法を学び始め、自分の弱さを他人の強さによって補われる術を学び始めた。しかも、筆者が途中まで書きかけた歌の、見事な続きを書く人々が現れた。筆者が一人だけで行って来た途方もない気の長い作業が、他の人々の手に委ねられ、他の人々がこの作業に参加し始めたのである。

筆者はこのことに非常に驚いている。筆者は自分の肩から重荷が取り去られるのを感じ、初めて自分の知恵を超える知恵が存在すること(これは神の知恵のことではなく、神が地上のもろもろの人々を通して筆者に表して下さる知恵のことである)、その知恵に信頼して自分を委ねることを知った。人々を信頼して自分の仕事を託すことの意味を知った。こうして自分の知恵が限られていることを思い知らされ、他者によってそれを補われるのは、非常に嬉しく楽しいことである。

こうして、新たな関係性が生まれ、筆者が一人で編んでいた歌に、多くの人が参加するようになり、共同作業が生まれた。やがてはそれが大きな流れになり、合唱のようにまで至るのではないかとさえ思う。

これは実に不思議な関係性である。この世のほとんどの人たちの人間関係は、どんなに広いように見えても、地上的な絆の中に束縛され、そこから出ることがない。その人間関係は、自分の家庭、自分の職場、勤務上で生じた関係、所属団体の枠組みなどにとらわれている。

しかし、筆者が他者に関わるのは、そういう地上的な枠組みによるものではなく、信念に基づくものであり、信仰に基づく関係性である。そして、その関係性が、今や信仰を持たない人々にまで波及しているのである。

これまでもそうであったが、信仰のために必要なことならば、筆者は地上的な絆の束縛を超えて、どこまででも出かけて行く。そして、これまで知らなかった新しい人たちを見つけ出し、これらの人々を、一つの信念によって結びつける。

そうして彼らを目に見えないチームのように結束させるまで、根気強く説得する。だが、筆者は目に見えるチームを作っているわけでなく、そのリーダーでもないし、筆者が計画的にそのようなことを行って人々を感化しているわけでもないので、以上のような現象が起きているとは、はた目には分からない。

だが、筆者が命がけで人々に関わり、命がけで信念を訴えているうちに、いつの間にか、それまで敵対していたような人々にさえ影響が及び、協力してくれる人々や、筆者が目指しているのと同じ目的に向かう人々が増えて行くのだ。

このように、筆者の場合、人間関係を築く土台となる要素が、通常の場合とは全く異なる。それは個人としての筆者の利害に立脚するものでなく、それにとらわれるものでもない。それよりももっと広く、もっと高く、もっと大きな目的のために、筆者は人々に関わっている。そして、そうであるがゆえに、人々はその中で筆者の限界を見ても、それを寛容に扱ってくれ、筆者が目指している目的は、互いに立場の全く異なる人々を、個人的な限界を超えて、一つに結びつける原動力となりうるのだ。

このような人間関係が生まれるためには、やはり筆者自身はどこまでも十字架の死に身を委ねるしかない。一粒の麦として絶えず死に続け、自己を放棄する以外に手立てがない。

このことを指して、以上の信者は、「ヴィオロンさんには、関節と関節をつなぐ能力がある」と言ったのである。

そういうわけで、またも書面の練り直しである。世の人々は告訴状と聞いて眉をしかめるかも知れないが、これも公益のためであって、筆者個人の利益のためだけではない。この他にも大量の書面作りの作業が残っている。そして、筆者に関する事件の後処理が終われば、次に筆者と同じような被害を受けた人々の権利の回復を手伝う作業が待っている。それに着手できるのは、今年の春以降であろうか。気の長い仕事である。

味気ない新年であるが、自己の信念に基づく作業であるから、これで良しとせねばならない。こうして、筆者の心は地上を離れ、御国へと階段を上って行く。

だが、最後に一つ述べておきたい。聖書は、神のためにどんなに巨大な犠牲を払っても、愛がなければ一切は無意味だと述べている。ただ関節と関節をつないで、建物を作るだけでは不十分であり、そこに最後の総仕上げとして、上から神の愛が注がれなければならない。それはちょうど美味しそうな焼きたてのパンケーキに特上の甘いメープルシロップを注ぎかけるような具合で、エクレシアには上から下まで滴り落ちるほどに神の愛が溢れていなければならないのだ。
 
その愛は、私たち人間から生じるものではなく、まさに上から、神が注いで下さる愛である。ちょうど預言者エリヤが、死んだ子供を生き返らせた時のように、全焼のいけにえとなっている筆者の上に、新たに上から御霊によって吹きかけられる復活の息による。

人々は、死んでいたも同然の筆者が、生き生きとよみ返らせられるさまを見て、初めて神が今日も生きておられること、信じる者をあらゆる窮地から大胆に助け起こす力を持つ方であることを知る。

その御業は神のものであって、筆者の力によるものではない。だが、地上では極めて弱く限界ある存在に過ぎない筆者の神への信仰による愛と従順、そして、筆者に注がれる神の愛の深さを見ることにより、筆者の周りにいる人々も、神が生きておられること、そして、筆者のみならず、神を呼び求めるすべての人々に力強く応えて下さること、神が愛であり、すべての人間に対して、どれほど深い配慮を持っておられるかを知らされるのである。

筆者が行っていることはすべてそのためである。

そういうわけで、もう一度、以下の御言葉を引用しておく。

「「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のようにみなされている」
と書いてある通りです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:36-39) 

しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

ただ一点、キリスト。

以前にあるキリスト者からよく聞かされた言葉だ。その当時は、標語のようにしかみなしていなかったこの言葉が、筆者にとって、今はもっと深い意味を持つ。

当ブログとブログ主に対するさまざまな人権侵害を理由として筆者が起こしていた裁判が、12月27日に結審した。判決言い渡しは3月末に予定されている。

すでに記して来た通り、この裁判はネット上で起きた紛争処理の一部であり、これに付随して続行しなければならない訴えが複数残されている。そこで、この審理終結をもって事件が完全に終結したわけではない。

だが、今、筆者が書きたいのは、この紛争のために筆者が支払った犠牲のことではなく、むしろ、この事件を通して、神がどれほど筆者を含めた関係者一同に大きな恵みと学びを与えて下さったかということである。
 
今、判決を準備している最中の裁判官の心の静寂を邪魔したくないため、多くのことは書かないが、予め断っておけば、筆者は、 今回の裁判は、教会史の中に刻まれておかしくないほど、深い意義を持つものであり、今回の裁判を担当してくれた裁判官や書記官の名は、私たちクリスチャンの名と並んで、初代教会の時代から現在まで続く目には見えない使徒行伝の記録の中に、永遠に刻みつけられ、神の目に留められるだろうと信じている。

それほど神はこの裁判を通して、我々にお与え下さった救いの確かさを、余すところなく証明して下さったものと筆者は信じている。結審の様子を思い起こすと、今でも心に深い感動が込み上げて来る。

通常、裁判などというものは、原告であれ被告であれ、誰も関わりたくないと願うものであるが、今回の紛争において、筆者は弁論の回を重ねるごとに、裁判官や書記官を近しい存在に感じるようになった。これは、自分の住所の所轄裁判所で訴えを起こすことができる原告の役得のようなものである。

この訴訟においては、弁論のほとんどが電話会議という形で行われた。電話会議は、被告らにとっては遠方の裁判所まで足を運ばなくて良い利点があり、原告にとっては、法廷のような段差や距離感を取り払い、裁判官や書記官と顔と顔を合わせて互いの表情がよく見える近い場所で、リアルに感情を分かち合いながら審理を進められるという利点がある。

そうして回を重ねるうちに、最初は裁判所をただ近寄りがたい場所とみなし、紛争解決の糸口を探していただけであった筆者が、最後には、この事件に関わってくれた全ての人々に対する厚い信頼を持つようになり、最後にはまるでチームワークのような固く緊密な結束・連携により、弁論を終結に至らせることができたのである。判決をまだ聞いていないうちから、筆者は、このような紛争のために労してくれた人々に心からの感謝や敬意を払わないわけにいかない。

今回は、当事者の誰も弁護士をつけなかったことにより、それぞれが本音で心を開いて語り合うことができた。そのおかげで、非常にリアルでドラマチックな展開が生まれたのだと言える。関わった一人一人の正直な心の本音が、裁判所の関係者に至るまで、明らかにされたことにより、事件にふさわしい結論が導き出されるために必要なすべての前提が整えられたのである。

以前にも書いたように、筆者は弁護士という職業を好かない。筆者の弁護者は、今もこれからも見えないキリストただお一人だけで十分であり、もしも今回もこの審理の輪の中に一人でも弁護士が入っていれば、率直な話し合いはたちまち不可能となっていたであろうと思う。

筆者は最後の弁論期日において、電話会議が終了した後、法廷へ移動する前に少しだけ与えられた時間の中で、ちょうど投獄されたパウロが獄吏に向かって福音を宣べ伝えたように、裁判所の人々に対し、筆者を贖って下さった神の福音のはかりしれない意義を伝えることができた。そして、そのことこそ、他のどんな結果にまさって、有益かつ貴い収穫だったのではないかとみなしている。

神はこの事件を通して、御子キリストを通して筆者に与えて下さった贖いがどんなに揺るぎないものであるかを見事に証明して下さった。だから、筆者はこの紛争を提起したことに、何一つ後悔はなく、神に栄光を帰することができたと心から喜んでいる。

しかし、今回の結審を勝ち取るためには、筆者自身にも、己を低くして通らなければならない狭き門があった。

この裁判が始まった時から、裁判官は年度末に異動を予定していることを明かしており、もしも彼に判決を書いてもらいたいならば、我々は年内にすべての弁論を終えて審理を終結させる必要があった。しかし、被告らは反訴を主張して、それを不可能にしようとしていたし、この裁判を結審させて判決を勝ち取るためには、筆者も自分の主張を脇に置いて、個人の利益をはるかに超えたところにある、神の利益のために、身を投げ出すことが必要だったのである。

およそほとんどの裁判は、人権を守る目的のために起こされるものであるが、筆者はクリスチャンとして、この裁判を通して自己の権利だけを主張しようとしているのではなく、私たちのために贖いを成し遂げて下さった聖書の神の正しさを生きて世に証明し、神の利益を擁護するために立たされた。

クリスチャンには、自分の命と引き換えにしてでも、信仰の証しを守り通さなければならない瞬間が存在する。そこで、この裁判を通して、筆者は求められた代価を払うことで、わずかながらも、福音のために命をかけた初代教会のクリスチャンらのような殉教の精神を学ぶことができたものと思う。

キリストこそ私たちの人生の真の主人であり、私たちの全ての全てであり、我々の人権も、幸福も、すべてこの方に由来している。このお方を否定して、私たちにはいかなる命もなければ、権利も幸福もない。当ブログの標題にも引用している以下の御言葉の通り、私たちは代価を払って買い取られたのであり、もはや自分自身のために生きているのではないのである。

「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
(ガラテヤ2:19-21)


私たちはクリスチャンとして、何が聖書の御言葉にかなう真理であって、何がそうでないのかという事実については、決して主張を曲げることも、譲ることもできない。そうは言っても、私たちは自分の主義主張を掲げているのではなく、真理に立つ民として、福音の使徒とされているのであるから、ヨブのように、常に自分をむなしくして全焼のいけにえとして祭壇で焼き尽くされ、自分の主張を神の御前に投げ捨てる覚悟がなければならない。

そこで、裁判官の異動のためにもうけられた制約も、筆者の心を試す良い試金石となった。最後に行われた電話会議では、裁判官と書記官は、筆者をできるだけ早くこの紛争から解放するために、真心をこめて、この日に結審できるためのすべての手筈を予め整えてくれていた。

だが、弁論を終結するためには、あくまで筆者が自分自身を十字架に置くことが最後の決め手としてぜひとも必要だったのである。もしもこの日、筆者が自分の主張に固執し続けていたならば、年内終結というリミットは守れず、筆者は望んでいた判決を得ることもできず、裁判官の交替はやむを得ないものとなっていたであろうと思う。

この日、裁判官は、弁論が始まる前に、被告と口論にならないために、被告の主張を最後まで黙って聞くよう筆者に注意を促した。

さらに、裁判官は被告から締め切りを超えて出された書面があることを説明し、これを受けとるかどうかを筆者に尋ねた。筆者は、締め切りを守らず期日直前に出された書面を受けとりたくないという意向を前々から表明していたが、この日ばかりは、書面を受けとることに同意せざるを得なかった。

その後、書記官が被告らとの電話をつなぎ、裁判官がいつものように陳述扱いにする書面を読み上げ始めた。

筆者は当初、それをうつむいて聞いていた。裁判官が原告の提出した書面について尋ね始めた時も、まだうつむいて返事をしていた。ようやく目を上げようとすると、筆者の視界には、目の前で裁判官が読み上げた書面を手元の書類と照合してチェックをつけている書記官の様子が入りかけた。

筆者が何気なくその様子を見やろうとしたその瞬間、突如、どこからともなく、「いけない!目を上げて裁判官だけを真っすぐに見なさい!」という、まるで叱責のように鋭く厳しい制止の言葉が、筆者の心に飛び込んできたのである。

筆者ははっとして裁判官を見やったが、裁判官は事件のファイルと、陳述扱いにする書類を記載した書面をせわしなく見比べながら読み上げている最中で、以上の制止の言葉が、誰から(どこから)筆者に向けて発せられたのかは分からなかった。

しかし、筆者はこの警告を非常に重要なものと受け止め、それ以後は、しっかりと目を上げて、裁判官の言葉や態度から目を逸らすことなく注目し、ただ裁判官と連携して弁論を終結させることだけにすべての意識を集中した。

裁判官は、これが最後の弁論になることを断った上で、各自に最後の機会として自分の主張を言うよう、一人一人に発言を求めた。「まずは原告から」と、最初に発言を求められた筆者は、即座に、言うべきことは何もないと返答した。すると、被告らも、それに続いて、まるで調子を合わせるように、次々に言うことは何もないと発言し、原告に反訴もしないと答えたのである。
 
筆者の目の前で、書記官が心底、驚いている様子が伝わって来た。何しろ、その一つ前の弁論時には、議論は紛糾して非常に険悪な雰囲気となり、被告らは原告に必ず反訴すると宣言し、裁判官は我々の議論を遮って制止し、電話会議が終わった時、一同は絶望的な雰囲気に包まれ、裁判官は大きなため息をついて、これですべての希望が砕け散った、すべては原告のせいだ、と言わんばかりの表情をしていたのである。

だが、その時、筆者は信仰者として、被告らの反訴の脅しが決して実現しないことをただ一人確実に知っていたので、何とかして筆者のために労してくれている人々の心を取り戻し、絶望感を払拭して、勇気づけねばならないと思い、残された時間で、ほとんど捨て身と言っても良い態度で、すべてのことは想定内であり、どんな結果になろうとも、筆者はそれを身に負う覚悟ができており、反訴であろうと、控訴であろうと、その他の脅しであろうと、何一つ恐れているものはなく、誰の責任にするつもりもないと説明しなければならなかった。

しかも、筆者は、その時、まだすべての主張が言い尽くされたわけではなく、最後の総仕上げが残っているという印象を受けていたので、被告らの憤りを恐れず、最後まで主張を言わせてほしいと裁判官に頼んだのであった。
 
その後、筆者は自分の主張を書面で提出することができたので、最後の弁論では、いかなる主張もしないことを心に決めていた。そして、裁判官も、誰にも追加の主張がないことを確かめると、あっという間に口頭弁論の終結を言い渡した。その際、結審のために必要な最後の手筈までが予めすべて裁判所の側で整えられていたことが鮮やかに証明された。

こうして最後の電話会議は(双方の弁論の)開始からわずか1,2分程度で終了した。見事な連携プレーが成し遂げられて、議論の紛糾もなく、鮮やかに審理が終わった。

議論してはならないという裁判官の忠告がやはり正しかった。筆者は思わず満足の笑みを隠せず、裁判官もほっとして笑顔を見せ、一同、緊張が解けて解放感に包まれた。

しかし、このように息の合った連携は、もしも筆者が少しでも裁判官の判断に不服を感じていたならば、きっと成し遂げられなかったであろうことを疑わない。
 
人間が発したのではないかも知れないあの厳しい制止の言葉は、ほんの一瞬でも、その審理の場で最高の指揮官であり権威者である裁判官から筆者が目を離し、各自の思いがバラバラになったまま審理を進めることの危険性を筆者に告げたものだったように思う。

書記官も多くの配慮をなしてくれ、書類のやり取りはすべて書記官を通して行い、この審理の極めて重要な立会人となっていた書記官は、ついに筆者には親しみ深い、身近な存在になっていた。

とはいえ、この紛争の行く末を決める決定権を持っている存在は、裁判官を置いて他になかったのである。

そこで、権威に服するという点においては、決して覆せない序列がそこにあり、書記官は裁判官の権威に服し、それに従っていた。そこで、筆者も、この序列を壊さず、自分を解放する宣言を下すことのできる唯一の人間だけを真っすぐに見つめ、その発言に耳を澄まさなくてはならなかったのである。
 
筆者には、この事件を担当した担当してくれた裁判官が、この事件をとても深く理解してくれ、これを終結させるためにあらゆる努力を払ってくれていることが、前々からとてもよく分かっていた。だが、それでも、筆者がもしも最後まで自分の主張、自分のポリシーだけにこだわっていたとすれば、裁判官の深い配慮に気づけないまま、むしろ、裁判官に不服を覚えながら、各自の心がバラバラの状態で最後の弁論が行われた可能性がある。

たとえば、裁判官が弁論が始まる前に、筆者の発言に注意を促したことや、筆者が書面の当日受け取りをせざるを得なかったことなどの些細な事柄に、筆者が少しでも気を取られ、それに不満を覚えていれば、以上のような展開もなく、我々には着地点が見つからなくなって、弁論の終結もできなくなっていた可能性がないとは言えない。

つまり、この裁判官に判決を書いてもらいたいという筆者の願いが実現するかどうかは、筆者が彼を信頼してその采配に自分を委ね、その判断に全面的に従うことができるかどうかにかかっていたのである。(だからこそ、最後の弁論では、筆者はすべてを脇に置いて、裁判官を注視しなければならなかった。)

筆者から見て、地上に立てられた裁判官は、見えない裁き主としての神の権威を象徴する存在である。もちろん、すべての裁判官がみな同じような存在であるわけではない。しかし、私たちが地上の裁判官の判断にどのような態度を取るかは、私たちが神の裁きに対してどのような態度を取るかという問題ともどこかで密接につながっているように思う。
 
もしも私たちが、顔を上げて、まっすぐに自分の上に立てられた権威者を信頼して見つめないならば、その行為の中には、何かしら非常に恐ろしい危険が生じ得ることが分かったのである。

創世記において、カインは弟アベルを殺す前に、まず神に不満を抱き、神から目を逸らして、顔を伏せたとある。神の采配に対する不満が、カインの目を神から逸らさせ、顔を伏せさせるという行為につながり、そうして光であるお方から目をそらしたことで、カインの心に暗闇が生まれ、そこに罪が入り込む余地が発生し、彼は罪に誘われるまま、弟を殺したのである。

「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。 」(創世記4:3-12)

もしも私たちがただの一瞬でも、私たちの最も愛する方、私たちに命を与え、自由を与えることのできる方、私たちを祝福し、あらゆる悪から力強く救い出す権威を持ったお方から目を離し、神に向かって顔を上げることをせず、自分の顔を伏せて、自分自身の思いや、ほかのことに気を取られ始めるならば、その一瞬の気の緩みが原因となり、私たちは神との親しい交わり、神との同労を失い、あっという間に、御心から遠くへ引き離されて、神の御前から退けられてしまいかねない危険を思わないわけにいかない。

筆者はこれまで主に心の姿勢について語って来たのであり、私たちが肉眼で何を見つめるのかという目線の重要性を語ったことはなかった。しかし、私たちの目が何を見つめるのかという問題は、私たちの心の姿勢を如実に表すものであり、非常に重要な問題である。

この審理においては、ただ裁判官だけが、筆者を法的に保護する判決文を書くことができるのであって、他の誰にもその真似をすることはできない。その人物に向かって不服を表明することは、自分を解放する決定を自分で否定し、退けることと同じである。
 
裁判官の割り当ては、原告や被告の希望によって行なわれるものではない。しかし、審理の初めから、筆者にはこの人にはこの事件を理解して解決に導くことが可能であり、この人に判決を書いてもらいたいという願いがあった。そこで、一人の裁判官に判決を書いてもらうために、訴えを分割して他部署に委ねることをも断った。

そこで筆者は、弁論終結のためには、地上の裁判官の考えや判断を尊重してこれに同意し、彼が何を意図し、弁論をどのように導こうとしているのか、まっすぐに裁判官を見つめて、その言葉や表情に注意を払い、これに同意しなければ、次に起きることを予想できず、同じ目的に向かって同労して、自分を解放に至らせるための判決を得ることができなかったのである。

最初は偶然のように始まった人選であり、出会いであったが、弁論の終結が近づくに連れて、裁判官の交替という出来事は、筆者には何としても阻止せねばならない選択肢となって行った。それは筆者が自己の義に固執して正義の判決を失うこととほとんど同じほどの意味を持ち、そこで、裁判官は弁護士でないにも関わらず、筆者は待ち望んでいる判決を得るために、裁判官の判断に完全に同意してこれを受け入れ、彼と同労することが必要不可欠だったのである。

これと同様に、私たちはクリスチャンとして、地上において、絶えず神と同労する必要に迫られている。もしも私たちがその役目を放棄して、最高権威者である神ご自身に不満を抱き、一瞬でも神から目を逸らすならば、私たちは自分をあらゆる悪から救い出すことがおできになる方の力強い決定を見失い、生きる方向性を失って行くことになる。

最後の弁論では、そのような危険はすべて排除されて、鮮やかに審理が終結し、その後、信仰の証しをする時間までも与えられた。筆者は、裁判官や書記官の前で、改めてキリストの十字架の意義を伝え、この裁判が、筆者を贖い出して下さった神の御業を表すものであることを伝えることができたのではないかと思う。

その後、筆者は書記官に伴われて、予め準備が整えられていた法廷に導かれ、すでに法壇に着座して我々を待っていた裁判官に迎え入れられた。その時、ここは筆者が自分を捨てて十字架に服さなければ、決して到達することのできない場所であったことをしみじみと感じた。

この裁判を最後まで遂行するためには、筆者はクリスチャンの一人として、神の御言葉の正しさを公然と証するために、すべての虚偽の脅しに立ち向かって、自分の命を最後まで注ぎだす必要があった。また、自分の心の中で、己を低くして、狭い道を通り、狭き門としての十字架を通らなければならなかった。それができなかったならば、決して到達できなかった場所、得ることのできない決定に、筆者はたどり着いたと感じたのである。

主イエスは言われた。わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マルコによる福音書 8:34-38)

法廷はしばしば人間のエゴとエゴとがぶつかり合うたけの闘争の場所のように見えるかも知れない。しかし、実際には、そこで人の痛み苦しみの記録にじかに触れ、また、人の魂が切にあえぎ求めている解決に達するためには、それぞれが己を低くして通過せねばならない見えない門が存在する。原告や被告だけが苦しみながら戦っているのではなく、そこに一堂に会するすべての関係者が心に持たなければならない謙遜さが存在する。

法廷では、裁判官は最も高い席に着席し、それよりも一段低い席に書記官が着き、原告や被告などの紛争当事者には、傍聴席と同じ目線の一番低い席が用意されている。裁判官が最も高い席に着くのは、その権威の高さに照らし合わせて当然のことと思われるかも知れないが、その裁判官といえども、決して傲然と上から人々の苦しみを見下ろしているわけではない。

裁判官は退廷するとき、決して傍聴席に背を向けず、法廷を目の前にしたまま退出する。しかも、退出する時に通る扉はかなり低く、背の高い裁判官は、ちょうど法廷に向かってお辞儀をするような恰好で身をかがめて退出せねばならない。

筆者はそれを見るにつけても、裁判官にさえ、法廷に出るためには、己を低くして通過せねばならない狭き門があるのだと感じた。そして、筆者には筆者なりに、この最後のステージに到達するために、身をかがめて通過せねばならない見えない狭い門があった。各自がそれをクリアしなければ、この三者のメンバーで、審理を終結させることはできなかったであろうことを思わされた。

法廷は神聖な儀式の場ではなく、そこにあるのはキリスト者の交わりでもない。しかし、筆者は今、キリスト者の交わりが成立するためには、それに参加する信者らの自己が、ことごとくエクレシアの戸口で焼き尽くされて死んでいなければならないという、ある信仰者の言葉を思い出さずにいられない。

モーセは燃える芝の前で靴を脱ぐように言われたが、神聖な場所に入るためには、人は自己を焼き尽くされて死を通過していなければならない。今回、法廷においては、死に定められた者が、命を与えられ、贖い出されてゲヘナから連れ戻され、名誉を回復されるという、奇跡のようなことが起き、私たちが信じている神の救いの確かさが、それによって公然と世に証されたわけであるが、それが実現するためには、まず人の自己が低められ、十字架で死に渡されていることが必要だったのである。

こうして、今回の裁判では、その全過程において、神が随所で憐れみに満ちた采配を施して下さり、すべてがドラマチックな展開を辿った。おそらく、このような裁判は他に類例がないもので、一生、忘れることのない意義深い思い出として、関係者の脳裏に刻まれるのではないかと思う。

判決言い渡しの時に、もう一度、彼らと再会することが筆者には許されている。その時、筆者がどうなっているのか、どんな変化が身に起きているのか、それもまた楽しみである。

最後に、筆者はこの裁判を通して、クリスチャンがキリストにあって与えられている絶大な特権のことを思わずにいられない。筆者は教会やクリスチャンを罪に定めるカルト被害者救済活動がなぜ誤っているのかを説明するために、準備書面を作成する過程で、ビュン・ジェーチャン牧師が民事では賠償を命じられたものの、刑事事件では無罪判決を受けたことに触れたが、こうした事例を見るにつけても、ひょっとすると、クリスチャンに有罪を宣告することは、この世の人々には不可能なことなのかも知れないという気がしてならない。
 
信仰の道の途上で足を踏み外すクリスチャンは大勢いるであろうし、そうした信者や、過ちを犯した宗教指導者らが、神の御前で受ける裁きが格別厳しいものとなることも確かであろうが、それでも、私たちは、神が贖われたクリスチャンに罪を宣告できる者は、神ご自身と、福音の使徒以外には誰もいないという厳粛な事実を思わずにいられない。

誰かが福音の使徒とされたことには、それほど人間の理解を超えた神秘があり、神が義とされたクリスチャンに有罪を宣告し、手をかけることは、まさに悪魔(とその代弁者)にしか許されていない所業なのだと言えよう。

そういうわけで、神がキリストの貴い命と引き換えに贖って下さった筆者を告発できる人間は地上には誰もいない、という事実が、またしても公然と証明された。もちろん、筆者を刑事告訴したり、反訴したりできる人間も誰もいないことが。それは筆者が暗闇の勢力から脅される度に、幾度も述べて来た以下の御言葉の通りである。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。


「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のようにみなされている」
と書いてある通りです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:33-39)

 
教会とは、キリストの命によって新たに生まれたクリスチャンの総体であり、神が罪赦されて、キリストを通して義と聖と贖いを授けられた人々の集団である。神は地上の脆く弱い存在に過ぎない私たちをお選びになり、私たちをこの世から召し出されて、ご自分の栄光を表すための器とされた。神はこのように弱く脆い存在を通して、ご自分のはかりしれない知恵を、天上のもろもろの支配や権威に対して知らしめようとなさっておられるのである。

「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(エフェソの信徒への手紙3:10-13)

教会とは、キリストをかしらとするキリストのからだであって、キリストが満ちておられるところである。からだは、かしらであるキリストの思いを体現するためにこの世と接点を持ち、この世と接触する。私たちは、この闇の世において、キリストの栄光を証するための器官として、土の器の中に神のはかりしれない命をいただいて、星のように輝いている。
 
この先、どんなに教会が迫害されようとも、神はなお教会を通して、この世のすべての欺きを超越するご自分の多種多様な知恵を表されるだろう。だから、私たちは苦難を受けても落胆せず、あらゆる試練の中で、さらに一層、信仰を強くして、大胆に御座に進み出て、恵みを受けることができると疑わない。

敵がどんなに激しく活動して、クリスチャンの望みを絶やそうとしても、私たちは、どんな状況でも、神がご自分の栄光を力強く鮮やかに示して下さることを信じており、失望落胆する理由がない。

私たちが見るべきは、ただ一点、キリスト。詩編の中に記されている通り、奴隷が主人の手を一心に見つめるように、私たちはただキリストだけを一心に見つめ、すべての名にまさる彼の御名を高く掲げ、最高の権威者である神から目を離さない。

私たちはまっすぐに目を上げて、天の御座におられる方に目を注ぎ、神が私たちに何を望んでおられるのかに注目し、その御声に一心に耳を澄ます。

そして、神が私たちがまだ罪人であった時に、私たちを愛して、その独り子を地上に送り、命を捨てて下さったその愛をより深く知り、私たちもそれに同じ愛で応え、身を捧げて生きるために、ルツのように、心の中で愛と真実をもって神への従順を言い表すのである。

もし私たちが己を低くして主と共なる十字架で自分を死に渡すならば、神は私たちが信仰を守り通す上で受けたすべての苦難や損失を、それとは比べものにならないほどに豊かな命によって回復して下さる。

神は敵前で私たちのために宴をもうけ、私たちの頭に油を注ぎ、私たちの杯を満たして下さるだろう。

私たちの信じている神のどれほど不思議で偉大なことか。この方に賛美と感謝を捧げ、栄光を帰したい。
  
目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます
天にいます方よ。

御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ、
はしためが女主人の手に目を注ぐように
わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ
憐れみを待ちます。

わたしたちを憐れんでください。
主よ、わたしたちを憐れんでください。
わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。
平然と生きる者らの嘲笑に
傲然と生きる者らの侮りに
わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。」

* * *

「イスラエルよ、言え。
「主がわたしたちの味方でなかったなら
 主がわたしたちの味方でなかったなら

 わたしたちに逆らう者が立ったとき
 そのとき、わたしたちは生きながら
 敵意の炎に呑み込まれていたであろう。

 そのとき、大水がわたしたちを押し流し
 激流がわたしたちを超えて行ったであろう。
 そのとき、わたしたちを超えて行ったであろう
 驕り高ぶる大水が。
 
 主をたたえよ。
 主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。
 仕掛けられた網から逃れる鳥のように
 わたしたちの魂は逃れ出た。
 網は破られ、わたしたちは逃れ出た。

 わたしたちの助けは天地を造られた主の御名にある。

* * *

「主に依り頼む人は、シオンの山。
 揺らぐことなく、とこしえに座る。
 山々はエルサレムを囲み
 主は御自分の民を囲んでいてくださる。
 今も、そしてとこしえに。

 主に従う人に割り当てられた地に
 主に逆らう者の笏が置かれることのないように。
 主に従う人が悪に手を伸ばすことがないように。

 主よ、良い人、心のまっすぐな人を
 幸せにしてください。
 よこしまな自分の道にそれて行く者を
 主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。

 イスラエルの上に平和がありますように。」

* * *

「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて
 わたしたちは夢を見ている人のようになった。
 そのときには、わたしたちの口に笑いが
 舌に喜びの歌が満ちるであろう。
 そのときには、国々も言うであろう 
 「主はこの人々に、大きな業をなしとげられた」と。

 主よ、わたしたちのために
 大きな業を成し遂げてください。
 わたしたちは喜び祝うでしょう。
 主よ、ネゲブに川の流れを導くように
 わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。

 涙と共に種を蒔く人は
 喜びの歌と共に刈り入れる。
 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
 束ねた穂を背負い
 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
(詩編123-126編)

あなたを離れ、あなたから別れて帰るよう、私にしむけないでください。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。

「ルツは言った。『あなたを離れ、あなたから別れて帰るよう、私にしむけないでください。あなたが行かれる所に私も行き、あなたが住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。死以外のものによって私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰して下さいますように』」。」(ルツ記1:16-17)

このところ、オリーブ園のブログに掲載されているオースチンスパークスの連載はまことに身につまされるような厳しい内容が続いている。主の民の敗北や後退がテーマとなっているからだ。主の民が神に従う上で、どれほど妥協を繰り返したか、それによって、どれほど前進が妨げられたか、引用すると、あまりにも厳しい内容になりすぎるのではないかと心配に思われるほどであった。今日あたりの「「霊の力の回復」第三章 主と共に進み続ける (9)」で、ようやく希望ある結論が見え始めた。

神の召しに従うためには、私たちの側からその召しに積極的に応答するという過程がなくてはならない。神は多くの人を招いておられるが、その招きに従う人もいれば、従うことを断る人々もいる。真に神を満足させる働きをして、主と共に大いなる栄誉にあずかるためには、私たちは絶え間なく新たな霊的領土を獲得することを目指して前進し続けなければならないが、それは非常に骨の折れることであって、しかも、自分の限界を絶えず思い知らされながら、これを打ち破らなければならない戦いとなる。
 
私たちの前進とは、自分の考えに基づいて進むのではなく、常に人間の心の思いを超えた神の最善の御旨を探し続け、自分の満足ではなく、神の満足を追い求めて進み続ける姿勢を意味する。そこに到達するためには、日々の十字架を取って主に従う決意が必要であり、厳しい犠牲をも厭わず払い続ける姿勢が必要なのである。

多くの人々は、その途中で挫折してしまう。それは、彼らが自分には限界を打ち破る力がないと思い込んでしまうことによる。この人々は、いわば、神の最善が何であるか分かっているのに、次善で満足することを選んでしまった人々である。

次善には次善らしい長所や利点があるが、それでも、次善はただ最善ではないというだけの理由で、本質的に悪なのである。

しかし、主の民はしばしばこの点に欺かれる。それは人々が、人間の目に心地よく、人間の感覚にとって好ましく、人間に恥をかかせず、人間の望みを手っ取り早く満たし、人間を傷つけないように見えるというだけで、次善を最善と勘違いしてそれを選び取ってしまうことによる。

今日の多くの教会は、社会的弱者支援などの、人間に利益をもたらす、人の目に優しい活動には熱心に精を出すかも知れないが、神の栄光が傷つけられても、見向きもしない。人間の利益のためならば、人の心(自分の心)が傷つけられないためならば、いくらでも立ち上がって声を上げるのに、神の利権が脅かされ、御名の権威が否定されても、声を上げる者もない。

そのような状態が今日のクリスチャンを取り巻く状況ではないだろうか。神の教会が、どれほど脅かされても、そのために立ち上がる者もなく、声を上げる者もないのは、あまりにも多くの教会が、神の利益という最善ではなく、人間の利益という次善に仕える団体となってしまったことの結果である。

繰り返すが、クリスチャンにとっての最善とは、もちろん、神の御心を指すのであり、人間の思いを超えた、神が満足される目的の水準に到達するために、人は代価を払わなければならない。

ところが、クリスチャンが自分にとって何が最善であるのかが分かっているのに、それを差し置いて、しばしばあえて次善を選ぶとうことが起きるのは、その信者が、自分は最善には値しない劣った存在だという心の恐怖を乗り越えられないためである。

そのような恐怖心は、しばしばコンプレックスや、過去に起きた出来事から来るトラウマや、自信のなさなどに起因して起きて来るが、根本的にはすべて不信仰の表れである。

神はしばらくの間ならば、信者の心の弱さを理解して、信者が御心に従うのを躊躇している間も、忍耐強く待って下さる。従いたいと願っているのに、それができないでいる心の迷いや躊躇を理解して下さらないわけではない。

だが、もしも人が最終的に最善(神の御心)を退けて、次善(人自身の利益)を選ぶなら、場合によっては、そこで人は神を退けて、自分の救いを失ってしまうことにもなりかねない。

それが、神と富(この世、生まれながらの人間)に兼ね仕えることはできないという御言葉の厳しい意味なのである。

人が自分にとって何が最善であるかを知りながら、次善で満足することは、自分で自分をディスカウントすることと同じである。そのような妥協をすることによって、人は本来ならば達成できるはずの高い目的を失ってしまう。そのために、輝かしい達成が失われ、主の民の前進が妨げられる。しかも、それは当事者だけでなく、その人間に関係する多くの人々に悪影響を与える。

そのような妥協を繰り返したがために、神の教会が力を失って今日に至っていることを思わずにいられない。前回の記事で触れたハガルとイシマエルは、肉的な力の象徴であって、あれやこれやの人物を指すわけではない。それは霊的な比喩であり、敵は私たちの心の中に攻撃をしかける。
  
要するに、主の民が、自分の心の中に起きる恐れに打ち負かされ、自分には願っている最も高い目的に到達する力がないと早々に諦めて妥協を繰り返すことが、敗北の始まりとなるのであり、私たちはそのように主の民から証の力を失わせる虚偽のささやきを、自分の心から徹底的に追い出さなければならない。

だが、今、この問題について多くを書く必要はないと思う。なぜなら、私たちの心がただ一心に神に向いてさえいれば、すべての心の覆いは取り除かれるからだ。そして、すでに書いた通り、主の民が自分の心の弱さに負けて回り道をしたとしても、神はなぜそのようなことが起きているのかもご存じで、民の心が訓練されて、ただ神だけを神として崇めるようになるまで、長い月日を耐えて待つことがおできになる。

神の側には弱く脆い器である人類を用いて、ご自分の栄光を表すために、果てしない忍耐の道のりを耐える用意がある。神には私たちを訓練するための十分な計画があり、知恵と力がある。私たちは決してそのことを忘れてはならない。たとえ私たちの側で忍耐がつきかけ、自分たちは道を見失った、あまりにも弱く、愚かすぎて、失敗したのだと諦めてしまうようなときでも、神の側にはまだ忍耐があることを忘れてはならない。

私たちが意図的な反逆に及んで、自ら神の御心に従うことをやめることさえなければ、私たちの側の不用意から来るあらゆる失敗や、恐れによる紆余曲折、愚かさによる遠回り、回り道に見えることさえ、神は益として下さることができることを思い出す必要がある。

これは決して回り道を良いものとして認めるわけではない。しかし、神は主の民の側のあらゆる不従順や失敗にも関わらず、常にご自分の御心にかなう人々を探し出して、これをご自分の栄光を表す器として用いることがおできになる。そのために必要なすべてを自ら与えて下さる。それが神が教会に与えておられる使命なのである。
 
そこで、できるならば私たちのすべてが、失敗して終わる一群ではなく、キリストと共に栄誉にあずかる一群に入るべきだと思う。そのような高い志、動機をすべての信者が持つべきである。

もう一度、オースチンスパークスの「ルツ記注解」第二部からを引用しておきたい。

まさに、あなたや私に対して、主イエスは関心と愛に満ちておられます。主は私たちを得ることを心から願っておられます。しかし、他のすべてのものが道からどかない限り、私たちは決して主の真価を認めないであろうことを、主はとてもよくご存じです。ですから、主は中途半端な忠誠は受け入れません。半分しか持たないで次席を占めるくらいなら、すべてを手放す用意が主にはあるのです。主はあらゆる危険を冒されます。

「別の救い主を見つけることができるなら、いいでしょう、見つけなさい。これに関して私が何かを行うには、あなたはまず、私がすべてとなる地点に達しなければならないのです」。主は妬み深くそのような地位を欲しておられます。主にはできます。主は願っておられます。主は切望しておられます。しかし、それはおそらく隠されているのでしょう。主は縛られてはいません。主は自由です。主には他の関心や興味は何もありません。主はこのもう一人の人とは違い、何にも興味はありません。主はこのようなすべてのものから自由なのです。


ルツ記注釈については、以前にも当ブログで紹介したため、この物語の筋書きについて繰り返すことはしない。ルツ記はちょうど士師記の霊的荒廃の時代に起きた出来事の物語であり、ちょうど現在のオースチンスパークスの連載で語られているような、神の教会が荒廃状態に陥った時代を指す。そのことは、ちょうどこの物語が、現代という霊的飢饉の見舞う荒廃した時代のクリスチャン生活にとって非常に良い教訓となることをよく物語っている。

主の民から占め出され、呪いの下にあり、嗣業を失いかけていた一人の女が、自分を買い戻す権利のある近親者に出会い、幸せな結婚を遂げるハッピーエンドのこのストーリーは、士師記の絶望感とは対照的である。霊的な筋書きにおいては、ルツとボアズの結婚は、キリストと花嫁たる教会の婚姻を指している。

ここでは、ボアズがルツを買い戻す前に、もう一人、ルツを買い戻す権利がある人が名乗り出たことが記されているくだりに注目したい。

こうして現れた彼が「次善」である。

ボアズはルツにとって「最善」であり、ボアズの役目は、神の最善――すなわち、ご自分の命を投げ出して人類を罪から完全に贖われた神の独り子なるキリスト、私たち信じる者にとってすべてのすべてである方を象徴している。しかし、最善の価値が証明されるためには、次善の価値がまず明るみに出されなければならない。いや、次善の悪が証明されなければならないと言っても過言ではない。いわば、次善は次善でしかなく、決して最善に届かない不完全で呪われたものでしかなく、そこには人を救い得るいかなる望みもないことが、まずはっきりと証明されなければならない。

しばしばこのテストは回り道のように見える。人々は早くルツが買い戻されて彼女の立場が安楽になれば良いと思う。なぜボアズは自分にとって不利なことをわざわざ口にして、自分以外の人間にチャンスを与えるようなことをするのか。

しかし、神はご自分の価値を知っておられるがゆえに、ご自分の願っている結論を得るために、急いだり、焦ったりすることはなさらない。人がすべてのものを試し、神以外には人を救いうる方が他にないことを人自身が理解して納得するまで、神は忍耐強く待って下さる。それは神が本当にご自分に自信を持っておられ、完全で欠けることのない方であり、人間の理解を超えた方だからである。

だからこそ、神と人との出会いは壮大なドラマなのだと言える。それは決して人間の思惑通りには進まない。波乱に満ち、ほとんど絶望的な状況が幾度も展開され、人類は幾度も神以外には自分を救い得る者がないと叫ばなければならない窮地を通らされる。その戦いが繰り返されるうちにスケールが拡大し、最後に最も大きな決戦へと至る。

「次善」は、未来の人類史の終わりには、堕落した巨大な都バビロンにまで発展し、「最善」である方の思惑の前に大きく立ちはだかる。バビロンは生まれながらの人間が、自らの知恵と力によって神の高みにまで到達しようとする呪われた努力の集大成であり、そこには多くの住人がおり、大勢の味方、軍隊がいる。

しかし、その一方で、「最善」である方のみにつき従おうと身を整える、天の都エルサレムに属するつつましい聖徒たちがいる。彼らには、神以外に頼るべき味方はおらず、「彼女」はまだ花嫁になっていないので、独身であり、やもめであり、愛人もなければ、多くの味方も援軍もない。今日も、真にキリストの花嫁として彼に就き従う教会は、いわば、ルツのような孤独な立場にある多くの人々から成る。

筆者は、現代のような曲がった荒廃の時代にも、バビロンに与することなく、最後までキリストに従い、勝利を得るために、ルツのような心の有志たちが各地で起こされていることを疑わない。

さて、私たちは聖書を読んで、これを人間の悪なることを証明しただけの残酷な物語だと考えるだろうか。聖書は神が人間を罪と滅びに定めただけの残酷な物語で、人間を辱める救いのない荒唐無稽な作り話に満ちているだけだと決めつけるだろうか。それとも、そこには、生まれながらの人間には何の希望もないという、絶望的な状況の中でも、神だけは揺るぎない確かな希望であるから、私たちには望みを捨てる理由がないという結論が力強く提示されていると信じるだろうか。

私たちは士師記の絶望感を究極的な結論だと受け止めるだろうか。それとも、その中でルツとボアズの物語が人知れず展開していることを信じるだろうか。どちらの立場に立つのかによって、私たちの得る結論は全く異なるものとなる。

私たちは聖書の中から、自分のためのボアズを見つけることができるだろうか。それとも、自分を救う力のない「次善」を選んで、絶望という結論を握りしめるだけに終わるのだろうか。

もう一度言うが、私たちは自分の心から、自分は最善には達し得ない劣った存在だという恐怖感を徹底的に追い出さなければならない。最善に到達するために代価や犠牲を払うことを厭うがゆえに、手っ取り早く次善で満足しようとする妥協を心の中から追い出さなければならない。次善はどんなに良く見えても、人を救う力がないことを悟らなければならない。

キリストと共なる十字架を日々通過することこそ、私たちの最善である。生まれながらの人間にとって心地よく、恥とはならず、苦しみの少ない安楽な道を行くことを拒否して、主と共に栄光にあずかるために、主と共にどんなに困難な道をも通過することを決意しなければならない。

ルツがナオミに向かって語った言葉は、キリストへの従順の告白であり、ほとんど彼女の心の叫びと言っても良い、心の底から語った彼女の願いである。

「あなたを離れ、あなたから別れて帰るよう、私にしむけないでください。あなたが行かれる所に私も行き、あなたが住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。死以外のものによって私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰して下さいますように。」

このような告白を、私たちは本当に心から神に向かって捧げることができるだろうか。告白できたとしても、実際に、それを実行するために代価を払うことができるだろうか。

私たちは信仰によらなければ、神に徹底的に従う力がない。私たちは神ではなく、被造物に過ぎない者であるから、信仰によらなければ、神の厳しい検査に耐えうるような徹底的な清さを持つこともできない。
 
私たちも、被造物であるから、被造物としての弱さを日々存分に噛みしめながら生きている。そこで、私たちは、主に従うと決意するに当たっても、口では、神のためにすべてを投げ打っても構わないと言いながら、自分を見て、「自分にはできるだろうか」と恐れのうちに問うことがあるかも知れない。

御心がどこにあるのかを知っていながら、躊躇し続けて、新たな一歩を踏み出さないことがあるかもしれない。自分にはあまりにも厳しい理不尽な代価が要求されていると苦にして、心の中でこっそりと自分を哀れんで涙を流すようなことがあるかもしれない。
 
ある人々は言う、「殉教ですって。ご冗談を。何を言っているんですか、そういうのはカルト的信仰ですよ。神はあなたに行き過ぎた残酷な要求をしているのです。あなたは今のままで十分です。自分の権利を握りしめ、これを守りなさい。あなたは最善には達し得ないから、次善で満足しなさい。一歩を踏み出す必要なんてありません」という次善のささやきを聞く時、それに頷きそうになる心を拒否して、先へ進んで行くことができるだろうか。

人にはできないことも、神にはできるのだと信じられるだろうか。
 
もしもあなたが、神があなたに求められている代価が、あなたには過剰かつ理不尽なものであって、あなたにはそれに耐える力がないと認めてしまえば、あなたの前進はそこで止むことになる。それだけではない、あなたは自分を哀れむことによって、神はあなたに理不尽な要求をされているのだと信じ込むことになり、その自己憐憫の思いを周囲の人々に振りまいて影響を与え、その思いが高ずれば、あなたは必ずやいつか神に対して反逆し、自ら神を裏切って捨てることになる。

しかし、神が私たちを選んで立てられたのは、私たちに被造物の愚かさ、弱さ、限界、罪深さという、自明の理を証明させる目的のためではない。むしろ、私たちが被造物としての限界を打ち破り、神の栄光を証する器として、出て行って実を結び、その実がいつまでも残るためなのである。決して私たちを辱め、罪に定め、滅ぼし、排除することが目的ではないのである。

キリストが十字架において、人類が負うべき恥のすべてを、私たちに代わって負って下さり、私たちの弱さ、愚かさ、不従順、罪に対する罰をすでに受けて下さった。だから、私たちは、自分に求められている代価が、人の目にどんなに厳しいものに見えたとしても、主に従うならば、それが「負いやすいくびき」に変わることを知っているし、そのことを常に信ずべきである。

筆者は、この記事を読んでいる一人一人が今、神の御前にどんな形で「日々の十字架」を負うことを求められているのかを知らない。ある人にとっては、それは自分の心の恐れを乗り越えて前進することを意味するかもしれないし、自分で負って来た心の重荷を主に明け渡すことを意味するかも知れない。

だが、 いずれにしても、信者には、日々、負わねばならない十字架が存在する。主と共なる十字架は、人の目には非常に厳しく、肉にとっては限りなく残酷に見えるだろう。それは人の生まれながらの自己にとっては、自分が死の刑罰によって殺される恥辱の場所であるから、生まれながらの自己は、自分の醜さ、恥がそこで暴かれることを望まない。これを憎むべきものとみなして、何とかして退けようとする。

しかし、十字架を回避して「次善」を選び取れば、生きやすくなると考えるのは錯覚でしかない。人間が与える偽りの十字架は、神が与える本物の十字架に比べ、百倍も千倍も厳しいものであり、次善が提案する道を選べば楽になれると考えるのは、錯覚でしかない。

だから、勇気を持って、自分の十字架を取って、キリストの御許へ赴くべきである。そして、まことの医者に、自分の中に切除されるべき腫瘍があることを正直に見せて、彼に従順に身を委ね、自分を吟味してもらいなさい。あなたがこれまで自分で背負って来た全ての呪いと罪定めと恥と刑罰を、主の御許に置きなさい。そうすれば、主がくびきを負って下さり、あなたの負うべき十字架が格段に軽くなったことが分かるだろう。

私たち信者は土の器に過ぎなくとも、その中に神のはかり知れない命の力が入れられている。そこで、私たちが前進するために通過せねばならないすべての試練には、予め勝利が与えられていることを、いついかなる瞬間にも、固く思い出さなければならない。ただ従いますと言うだけでは不十分で、従い抜くことができるという勝利の確信を握りしめて、実際に前進して行かねばならない。その新たな一歩を踏み出すことを決して恐れてはならず、これ以上、躊躇していてはいけない。

カルバリこそ、私たちの常なる住処であり、終着駅である。
 
あなたを離れ、あなたから別れて帰るよう、私にしむけないでください。あなたが行かれる所に私も行き、あなたが住まわれる所に私も住みます。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。死以外のものによって私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰して下さいますように。

キリストの十字架の死と復活の原則―死ぬべきものが命に飲み込まれるために、天から与えられる住処を上に着たいと願う―

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。

それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。

死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として”霊”を与えて下さったのです。」(Ⅱコリント5:1-5)

筆者は様々な文書をこれまで作って来たが、文書にはいつもある程度の完成度というものがある。公式な文書であれば、当然ながら時間をかけて推敲し、誤字脱字もすべて修正せねばならない。字数制限がある場合もある。

ブログとなると、誤字や誤表現にそこまで気を使わなくても良い。間違いに気づけば後から訂正すれば良いし、気に入らなければ、全面的な書き直しも許される。

だが、どんな文書であれ、いつも思うように推敲の時間が取れるわけではなく、形式については、どうしてもある程度のところで手を引かざるを得ない。
 
その代わり、妥協できないのが内容だ。内容のない文書など書くだけ意味がないのだから。

そして、内容については、最初から書きたい内容がすべて目に見えているわけではない。ほとんどの場合、書いているちに内容が掘り出されて来る。

筆者はどのような公式文書よりもブログの価値を重く見ている。

ブログでは、自分の書いた内容について、何年も何年も経ってから、当時、言わんとしていたことの重さが分かって来ることが多い。自分でも気づかないうちに、そこにある種の予言的な意味合いが込められていたことに、後になってから気づく。

御霊はクリスチャンに来るべき事柄を教える。私たちは心の奥深くで、未来がどうなるのかを知っている。そしてその未来とは、究極的には、神の勝利の計画の成就である。
 
ここしばらくの間、筆者は、このブログの題名を「私ではなくキリスト」とつけたことは、間違いなかったと感じている。今回はその理由を述べたい。
 
筆者の子供時代、家の近所に川があり、よく遊びに行っていた。その河川敷に、おかしな鳩がやって来たことがあった。
 
川の橋げたには、いつもたくさんの鳩が群れとまっていたが、ある時、そこにとまろうとしてやって来た一組の鳩の様子がおかしい。

二羽がまるで団子のようにくっついて飛んでいるのだ。よく見ると、その二羽は、鉄線か何かで足がからまり、離れられなくなって、二人三脚のような状態で、一緒に飛んでいるらしい。

しかも、一羽目が上にしきりに飛び立とうとしているのに、二羽目は下へ下へと落ちて行く。

子供だった筆者は、それを見て、何とか助けてやれないものだろうか、と哀れに思った。あの絡まった鉄線をほどいてやれさえすれば、二羽とも自由になれるのに、と。

そこで、近づいて助けるチャンスはないだろうか、と、しばらく様子を伺っていた。

しかし、橋げたにとまることがどうしてもできずに、とまることをあきらめた鳩が、水面すれすれにまで降りて来て、筆者の前を飛び去った時、筆者にははっきり分かった。二羽目はもう死んでいるのだと。

生きている鳩が、死んだ鳩と鉄線でつながれたまま、死んだ鳩をぶら下げて、飛んでいるのだ。
 
その鳩は、死体の重みで下へ下へと引っ張られながらも、何とか上へ飛び立とうともがきつつ、そのまま筆者の目を通り過ぎ、飛び去って行った。

筆者は、子供心にも、何とも醜悪でグロテスクなものを見せられた気分になり、衝撃を受け、言葉を失って、家に帰った。
 
その光景を、筆者は今でも、時折、思い出すことがある。
 
だが、その光景は、現在、筆者の中で、当時とは全く異なる新しい意味合いを持っている。

それは、その光景が十字架において罰せられたアダムとキリストへと重なるからだ。

筆者の中では、あの死んだ鳩は、罪人として罰せられた人類の姿に重なる。

キリストの十字架は、罪なく永遠の命を持つキリストと、罪を犯して滅びゆく人類が一緒に罰せられた場所である。

もちろん、信仰のない人にとっては、キリストの十字架は、あくまでキリストだけが罰せられた場所であり、その死は、自分の死ではなく、それは自分の十字架でもない。

そこで、そのような不信者の中には、「キリストさんは、可哀想だなあ。無実だったのに、弟子に裏切られ、罪を着せられて、殺されたんだからなあ」などと、他人事のように哀れんでいる人もあるかも知れないし、キリストは新しい宗教の開祖で、誤解のゆえに殺された犠牲者だと思っている人もいるかも知れない。

しかし、信仰に立つ者は、ゴルゴタで、神の独り子なるキリストの死と、自分の死とが一つになっていることを知っている。

そこで、信じる者にとって、ゴルゴタは、「無実にも関わらず、裏切られて売り渡された哀れな犠牲者としてのキリストが罰せられた場所」では決してないのだ。

そこは何よりも「十字架刑に処されて当然であった「私」(=アダム=人類=人間の自己)が罰せられて死んだ場所」である。そして、そのように御子を罰することは、人類を救うための神の深遠なご計画だったのである。

罪なくして罰せられたキリストは、十字架においてさえその尊厳を失われなかった。どんなに鞭打たれ、あざけられ、唾を吐きかけられても、最後までご自分の尊厳を保ち、父なる神に従われた。

しかし、滅びゆく人類は別である。滅びゆく人間は、まさに罰せられて当然の存在であった。

もし十字架において罰せられた「アダム(「私」=人類=生まれながらの人の自己)」の姿を実際に見ることができるとすれば、それは誰もが目をそむけたくなるほどに醜悪で、まさに嘲りと罵りと鞭打ちと拷問に値する存在であると言えたであろう。

それほど残酷に罰せられてさえ、己が罪を認めず、キリストを見下げて罵り、嘲っていたかも知れない。ゴルゴタでキリストと一緒に木にかけられたあの強盗の一人のように。
 
筆者は思う、子供の頃に見た、あの死んでしまった鳩でさえ、あれほどグロテスクで醜悪な印象を醸し出していたのだから、十字架においてキリストと共に罰せられた人類(人間、アダム、生まれながらの人の自己)を見ることができるとすれば、それはどんなに目を背けたくなるほどに醜悪な姿であろうか、と。

だが、そのことを思うと同時に、筆者は平安を感じるのだ。それは「心配要りません。あなたの裁きはもう終わりました。」と、神は筆者に言って下さるという確信を心に持つことができるからだ。

「カルバリでの御子の死が自分の死であることを認め、その裁きを心に受け入れさえするならば、あなたが再び罰せられることは決してありません」と、神は言われるからだ。

だが、信仰によってキリストと自分が一つであることを認めても、やはり、信じる者は、地上での生活において、一歩一歩、十字架の死と復活を背負うことが必要となる。

筆者はこの度、キリストの十字架を嘲り続ける者を、この世の諸手続きによって暗闇に引き渡そうとしている。だが、これは筆者の生まれながらの自己の義憤から出た行動ではないことを予め断っておきたい。

筆者は多分、このブログに自らの地上の名を記すことは最後までないだろうと思う。それは、多くの人々が考えているような理由からではなく、以前にも述べたように、このブログによって栄光を受けないためである。

多くのクリスチャンが、牧師や教師や指導者となって、自分の名を公然と世に掲げて著書を出し、ミニストリーを開き、献金を集め、CDを売った。

「偉大な霊の器」などの触れ込みのもと、何千人も収容できるスタジアムを借りて集会を開いたりもした。

だが、筆者は決してそのようなことをせず、このブログを有料化もしない。

無料だからと言って、自分の名を売るために、利用することもしない。それをミニストリー扱いするつもりもない。何よりも、筆者は決して人を上から教える立場に立たない。

だから、最後まで無名の「ヴィオロンさん」のままで良いのである。

多分、何年も後になれば、すべての記憶が風化し、「ヴィオロンさん? それって一体、誰なの? 現実にいる人なの?」ということになって終わるだろう。

「ヴィオロンさん」は、牧師でもなく、教師でもなく、指導者でもない。神学博士でもなければ、キリスト教社会主義の政治家でもない。無学な人間なのか、偉い人なのか、一体、何者なのかも分からないまま、ただの名もない人間として、風のように現われ、風のように過ぎ去って行くだけである。

だが、現実の筆者の名は、市民権を持っている。社会生活がある。筆者に連なる人々も同様である。そこで、現実の筆者を貶める行為に及べば、当然ながら、その者は報いを受けなければならない。

それはこの世の法則である。

いわば、筆者はその時をずっと待っていたのだとも言える。

上手く説明できる自信はないが、筆者にとっては、「ヴィオロンさん」こそ、生きた鳩であり、この世で生きる筆者は、ゴルゴタの十字架でキリストと共にすでに死に渡されており、あの醜悪な死んだ鳩も同然なのである。

この二つは切り離せないものとして一体である。

生きている鳩とは、信仰によってよみがえらされ、生かされた「新しい人」としての筆者である。
 
多くの人々にとっては、驚くべきことであろうが、筆者から見れば、死んだのは地上における筆者(アダムとしての筆者)なのである。
 
その意味で、筆者の目に映る「現実」は、多くの人が見ている光景とはさかさまである。

筆者の地上における名は、決して天の栄光と結びつけるつもりはない。むろん、地上における名も何かを為すことくらいはあるかも知れないが、その栄誉は束の間で、これは絶えず十字架で死に渡されているアダムである。
 
ゴルゴタにおけるアダムの死が絶えず筆者に適用されることによって、逆説的に、信仰によって復活の命が働くのである。

あの河川敷にいた鳩は、いつまでも死体と結びついていたのでは、生きるのは難しいであろうが、キリスト者は、信仰によって絶えずキリストと共なる死と復活を経ていなければ、進んで行くことができない。

筆者には、ここで訴えている内容が、決して自己の利益のためではなく、神の国の権益に関わるものであることを証明するために、代価を払ってそれを証することが、どうしても必要なのである。

なぜなら、代価を払わなければ、天の褒賞を得ることができないためである。

その意味において、地上における筆者が何かの犠牲を払わされることになることを決して厭うつもりはないし、脅しつけられたからいって黙るつもりもないのである。
 
それは神がご自分のために要求されている代価を支払うことなしに、神に従うことが不可能であり、エクレシアはこの代価を払って神に従うことで、神に栄光を帰するために召された存在だと知っているからである。

人々はあざ笑うであろう、「あなたには色んな才能があり、それを有用に用いれば、もっと社会的に成功できたはずなのに、いつまでこんな無料ブログに『命をかける』だなんて寝言を言ってるんですか。なんて馬鹿げているの。それこそ人生の浪費、犬死でしょう。

いいですから、たかがペンネームのブログごときのために、現実のあなたが社会的地位を失う必要はありませんよ。そんなのはもったいない。あなたはもっと人類に奉仕できるはずの存在じゃありませんか。今からでも遅くありません。何が本当に価値あることか見極めて、こんなブログはお遊びとしてうっちゃって、もっと自分のためになることをおやりなさい。決して真剣に命がけでここに文章を書こうなんて思っちゃダメですよ。幼稚な喧嘩をわざわざ買って出る必要はありません。茶番劇は放っておきなさい」と。

なるほど極めてもっともらしい説得である。だが、筆者は言う、「そうではありません。私はあなたがおっしゃるようなものは、もうすべて後にして捨てて来ました。私が目指しているのは、あなたが考えているような『社会的成功』ではありませんし、『名声』でも、『地位』でもありません。

いいですか、私の信じる神は、そんなものをいつでもいくらでも私のために用意することができるんです。実際に、信じる者のためには天に莫大な富が蓄えられていて、私たちはいつでもそういうものは引き出せるんです。

でも、私は神の目に、私が何を第一として生きているのかをまずは証明しなければならないんですよ。

私は自分の利益や、人の目に認められることを目指しているのではありません。人の目にどう映るかを恐れているのではなく、神の目にどう映るかを恐れているのです。私は信仰の証しを述べたことにより、自分が痛めつけられたり、脅しつけられたりすることを恐れてはいません。聖書の神の御言葉が曲げられ、神の国の権益が侵されていることを憂慮しているがゆえに、叫んでいるのです。

もし聖書の神が冒涜されているのに、私たちが立ち上がらなければ、世の人々はどうして私たちが神を信じていることを知り得ますか。脅かされればすぐに黙ってしまうような信仰なら、最初からない方がましでしょう。

私はすでに死んだのです。ですから、何度、死んでいるという事実を突きつけられても、ビクともしません。この地上の我が国でも、死者には名誉という概念がありませんが、それと同じですよ。 死者には人権もないのです。死者が冒涜されているなどととんなに言っても、死者には法的権利がないんですよ。

でも、本当の意味での死者とは、私のことではなく、滅びに定められたこの地上にいるすべての人たちのことなのですよ。

そして、本当の生者とは、神がキリストを通してよみがえらせて下さったすべての信者のことなのです。ですから、それは私のことでもあるのです。

ある人々は、「カルト被害者が冒涜された」などと言って騒いでいますが、神聖な存在は「カルト被害者」ではありません。神聖な存在は、聖書の神ただお一人です。さらに言えば、神聖なのは、神がキリストと共に死に渡され、よみがえらせて下さった神の子供たち一人一人ですから、それはすなわち、私たちのことなのです。

キリストが内に住んで下さっている信者の一人一人が、神の神聖な教会なのですよ。

ですから、あの人たちが言っていることはすべてさかさまなのです。彼らは自分たちが「冒涜された」と叫んでいるけれども、彼らこそ、神聖な神の宮を冒涜しているんですよ。

私たちは、一方では、滅びゆくアダムに過ぎませんが、他方では、信仰によってよみがえらされた新しい人、聖なる人なのです。私たちのアダムに十字架の死が適用されている以上、真の私たちとは、キリストと同じ性質で覆われた、神の満足される、聖なる新しい人なのですよ。

ですから、信仰のないあの人たちが、自分たちを神聖であるかのように主張しているのは間違っています。もし彼らがそう言うなら、なおさら、私たちこそ、真に神聖な神の宮なんです。

それが現実なんですよ。

ですから、あの人たちは、神の聖を奪い取って、あたかも自分たちが神聖な存在であるかのように主張したいだけなのです。だからこそ、彼らは神の宮である教会をしきりに乗っ取っては、破壊しようとするのですよ。

でも、本当は彼らこそ、何も主張できない死体に過ぎないのです。死んだはずのものが、どうしてゾンビのようによみがえって、生きている人を脅かしたりできますか。彼らは超えてはならい境界を踏み越えました。死者と生者の境界を踏み越え、しかも、神がよみがえらされた人々の権益を脅かしているのですから、これこそ神聖の冒涜ではありませんか。

死体にはまっすぐに墓にお帰りいただかなくてはいけません。死者が立ち上がって生者に狼藉を加えるなど許されることではありません。

ですから、私はこうして荒野で叫んでいるのです。そして、あの人々は、私の訴えていることが真実であるからこそ、自分の罪が暴かれない為に、私を殺そうとしているんですよ。

アダムとしての私に攻撃を加えることはいくらでも可能でしょうし、私はそれに甘んじましょうし、そんなことではビクともしません。でも、今の世で、ステパノの証が聞くに耐えられないからと、ステパノを石打にして殺せば、その人たちが殺人罪に問われるのは当然でしょうね。たとえステパノが死んで口がきけなくなっていたとしても、殺した人たちは罪人として連行されるのが当然でしょうね。それはこの世がこの世の秩序を守るために、放っておいても自らするような仕事なのですよ。

何度も言いますが、キリストと共なる十字架で、私はすでに死んでいるのですから、私には惜しむべきものはありません。でも、だからと言って、誰かが地上に生きている私を本当に殺してしまえば、殺した人たちが罪に問われるのは当然ですね。侮辱を加えれば、罪に問われるのも、仕方がないですよね。

いいですか、私はこの地上にある限り、まだまだ「死んでしまった鳩」とのくびきを断ち切るわけにはいかないんです。処刑されたアダムも、まだこの地上での仮の宿としてのつとめがありますから、やってもらわねばならないことが色々残っているんです。
 
いくら仮の宿とは言っても、その内側に神聖な神の霊が宿っている以上、アダムに攻撃を加えた人間は、神聖な宮の入れ物となるべきものの破壊行為について、罪に問われることになりますよ。でも、それはアダムに属する事柄ですから、あくまでこの世の法によって裁かれるのがふさわしいのです。
 
恐れるべきは、それよりももっと厳しい裁きが天に存在することです。「聖霊を穢す者は赦されない」と聖書に書いてある通りです。彼らは神聖なものを冒涜したことの報いとして、この地上だけでなく、永遠に至るまで、引き渡されます。それが彼らの避けようのない運命です。

私はどんなにそうならずに済むなら、その方が良いと願ったでしょう。しかし、彼らはついに私たちが与えた最後の和解のチャンスまで踏みにじり、罵り、嘲ったのですよ。ですから、もう彼らに猶予は残されていません。

私は彼らを「サタンに引き渡す」と以前に書きましたが、そう書いた後、まさに予告した通りのことが起きたのです。彼らの宿主である悪魔が、彼らを本当の破滅に引き渡したのです。

私は言いましたね、悪魔の法則は使い捨てだと。

ひと時、悪魔は手下となってくれる人たちを使って、すさまじい乱暴狼藉を繰り返します。その勢いは破滅的で、誰も止めることができないと思うほどです。しかし、それは疫病のように、いつまでもは続かず、時が来れば、たちまち勢いを失って行きます。そして、その後は、悪魔の宿主とされた人々は、責任を問われ、地上での人生を失って行くんです。

聖書に書いてある通り、悪人たちは、ひと時、雑草のように生い茂っても、振り返れば、彼らはもういない。痕跡もとどめず、思い出そうと思っても、思い出せない。跡形もなく消し去られてしまうんですよ。それに引き換え、主に従った者たちの名は命の署に記され、永遠に残ります。

あるクリスチャンが私の前でこう言ったことを思い出します、

「悪魔は本当に愚かです。キリストを殺しさえしなければ、地上には、復活した人間は一人もいなかったはずなんです。悪魔がキリストを殺せば、復活という、悪魔が最も恐れていたことが起きてしまい、悪魔がどうやっても手出しのできない領域が生じてしまうことが、悪魔自身にも、予め分かっていたんです。

(悪魔が支配することができるのは、旧創造だけである。復活の領域には、悪魔は指一本、触れることができない。)

なのに、悪魔は抑えがたい欲望から、キリストへの殺意に燃え、どうあってもキリストを十字架にかけて殺さずにはいられなかったんです。殺せば、よみがえりが生じる。自分にとって最も恐ろしい、不利なことが起きる。それが分かっているのに、悪魔はわざわざそれをやってしまったんです。これがいつの時代も変わらない悪魔の愚かさです、悪魔は自分にとって最も不利なことをやり続けているのです!」」

まさにその通り。それこそが悪魔の法則というもの。

だから、筆者は「サタンに引き渡す」と書いたのである。その結果、何が起きるかは、天と地の前で証明されることであろう。

筆者は彼らを憐れまないし、惜しまない。

彼らが決してクリスチャンの言うことに耳を傾けないことは分かっているので、筆者は彼らを罠にかける。彼らがその愚かさによって自らつまずくように。自らしかけた罠に落ちるように。筆者は旧創造としての自分をも憐れまずに十字架に引き渡すが、自分以外の旧創造をも憐れまない。彼らを弁護もしないし、救おうともしない。

生きた鳩と死んだ鳩を一緒に救うことはできないのだ。

だが、生きた鳩は、どんなに死体の重みに引っ張られても、自力で上へ上へと飛び立って行くだろう。そうこうしているうちに、鉄線は古くなり、いつか重みで断ち切れる。気づくと、鳩は自分が自由に、軽やかになっていることが分かる。

あの死体はどこへ行ったのだろう。分からない。しかし、そんなことはどうでもいい、鳩は自由になったのだ。鳩は軽々と天へ羽ばたいて行く。

私たちの地上の幕屋はいつか壊れる。地上的名声や地位は束の間である。

しかし、神に従ったことから得られる褒賞は、永遠である。

その永遠のものが、死すべきものを飲み込む時が来る。天の永遠の栄誉が、滅びゆく無価値な地上の栄誉を飲み込んで行く。こうして、死んで滅びたはずのものさえ、命に飲み込まれて、新しくされる時が来るのだ。

アダムの死は過去となり、気づくと、新しい人が立っている。私ではなくキリスト。

私たちは地上の幕屋を負ってうめきつつ、天から与えられる新しい幕屋を上から着る時を待ち望んでいる。新しい天と地を喜びを持って迎える時を待ち望んでいる。

私たちの希望は決して失望には終わらない。神はご自分を頼る者を決して見捨てられることがないからだ。

カレンダー

03 2019/04 05
S M T W T F S
2 3 5
7 8 10 11 12
17 18 20
21 24 25 26 27
28 29 30

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

☆☆

ヴィオロンのブログ

最新記事

アーカイブ

ブログ内検索

カテゴリー