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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。

オリーブ園の新着ブログに、オースチン-スパークスの「主の御腕」が掲載されている。
 
誰もが知っているイザヤ53章、キリストに関するあの有名な詩編は、次のように始まる。

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
 の御腕は、だれに現れたのか。」(イザヤ53:1)

これは矛盾に満ちた始まりである。オースチン-スパークスは記事全体を通して問いかける。「主の御腕は誰に向かって伸ばされたのか?」と。つまり、「神は誰を擁護されたのか?」、「神が満足される人の姿とは、どのようなもので、どのような条件を備えた人を、神はご自分の僕として力強く弁護されるのか?」
 
この問いかけが極めて重要なのは、それが次のようなくだりとも呼応しているからだ。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天の御国にはいるのではなく、ただ、天におられるわたしの父みこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)。

「主よ、主よ」と日々熱心に祈る人々は、いかにも外見は敬虔そうで、天の御国にふさわしい信者に見えるかも知れない。多くの証を語り、ひざまずいて涙して祈り、たくさんの奇跡を経験し、人々をキリストのもとへ導いているように見える信者たちがあるかも知れない。

だが、神は、あくまで人の外見や行動ではなく、心をご覧になられる。その人が何をしゃべり、行なっているかではなく、その人が「父のみこころを行なっているかどうか」を基準にすべてを判断されるのである。

そして、一体、「父のみこころ」とは何であるのか。イザヤ書の上記のくだりを読んで行くと、神が満足される条件を備えていたただひとりの人であるキリストは、何ら人の目から見て賞賛されるべき特徴を持たなかったこと、世間で敬虔な信者として認められるために今日多くの人々が熱心に求めているすべての条件において、むしろ完全に規格から外れていたことが分かる。

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
 輝きもなく、
 私たちが慕うような見ばえもない。
 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:2-3)

このような人は、今日の教会からも「のけ者にされ」相手にはされるまいと思う。

だが、今日、信者は、イエスに従い、日々自分の十字架を負って彼に従おうと決意するとき、果たして、自分も主が通られたこの道を通り、父なる神の御心を真に満足させる人となりたいと願うだろうか?

たとえ自分の願望が否定され、自分のプライド、名誉欲が傷つけられ、人に賞賛されることなく、疎んじられ、裏切られ、蔑まれることになっても、本当に、古き自己のものが十字架につけられ、自分が主の御前に恥を受け、低められることに甘んじることができるだろうか? そのようなことを人は決して自ら願わないが、もし主の御心ならば、自分がキリスト共に十字架につけられることに信者は同意することができるだろうか?

聖書にはこんなくだりもある、

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論できず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21:10-19)

そろそろ、この終わりの記述が少しずつ近づいて来たようである。殉教者以外は「髪の毛一筋も失われることはない」と言われている。それが復活の体のことなのか、それとも、地上における体を指しているのか、筆者には分からない。

主がご自分に忠実に従う者を守って下さることがよく分かる記述である。おそらく、もし殉教しなければならない者がいるとすれば、そのことも主は事前に知らせて下さるだろうと筆者は確信している。

だが、それにしても、とにかく、すさまじい記述である。「両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られる」。誰がそのようなことを願うであろうか。

しかし、筆者はこれをあらかた実際に経験して来たのでよく意味が分かる。特に今日、クリスチャンを名乗る者がクリスチャンを裏切り、売り渡すということがどれほど現実味を帯びているか、よく理解できる。十字架に敵対する者、十字架を通らずに神に至ろうとする者があまりにも多いからである。

そこで、もし自分の十字架を真に負って主イエスに従おうとする者が現れるなら、この世全体が(特に、クリスチャンを名乗っている者たちが)立ち上がって反対する、「そのようなことは正気の沙汰ではないのでどうかやめてくれ、あなた一人に本当に十字架に赴かれたら、我々全員の嘘がバレるので迷惑だ、どうか我々の商売を妨害しないでくれ」と言って引き留めようとする。その説得もかなわないと、ついに「狂信者」というレッテルを貼って排斥するのである。人を喜ばせる偽りの砂糖菓子のような「十字架」を拒み、この世と調子を合わせたご都合主義的な福音と訣別し、真に聖書の御言葉に立脚して生きるような信者は「悪魔の使い」とされて排斥される、今日の情けない似非信仰者たちの実態である。

そういう者たちからの裏切りが起きたときには、人は混乱したり、原因を色々考えたりしない方が良い。原因を探す必要などない。それは聖書が予告していることだからである。

だが、それにしても、筆者の経験も、まだ聖書の記述の深さにまでは達していない。似たようなところは常に通ってはきたが、いつもどこかに祈ってくれる者や、励ましてくれる者たちも主が備えて下さり、「わたしの名のために、みなの者に憎まれます。」言葉という言葉の深さにまでは達していない。次第に、しかし、時が縮まっていることは感じられる。

主イエスは最も身近な弟子たちにも裏切られ、見捨てられ、一人で十字架に向かわれた。確かに、そのためにこそ、私たちは死から救われ、贖われ、命を与えられた。まず、神が愛する独り子の命を、不従順な我々の贖いの代価として差し出して下さったのである。

だが、だからと言って、神は、この苦しみを御子だけに押しつけておいて、あたかも自分だけは一切、何の苦しみも悲しみも味わわずに、十字架の死など絶対に通らず、ハッピーな人生を送りたい、愛する人々と常に手を携えて、孤独を知らずに共に歩み、仲間に裏切られたり、憎まれるなどまっぴらだ、そのように自分は決して傷つくことも蔑まれることもない安楽な人生のために神を利用し、御言葉を利用して、自分を立派な信仰者として飾り立てたい、と願う似非信者によって、侮られ、利用されるようなお方ではない。

だから、信じる者は、そのようにならないために、常に自分の命を拒んで十字架を取り、主イエスに自ら従う決意が求められているのである。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたし仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:24-26)

私たちは人生においてしばしば激しい戦いを通過する。その時、信者は自分は神に守られていると思っているかも知れない。だが、神の側には、私たちを擁護するにあたり、外せない条件があるのだ。それが、信者がカルバリに留まり続けるという条件である。

だから、もし信者の側がその条件を満たしていなければ、誰であろうと、最も重要な決戦の時に、自分から力が失せていたことを知らないまま、敵にやすやすと捕らえられたサムソンのようになる可能性がないとは言えない。デリラを愛しすぎたことが、サムソンの弱点だったと言って、これを他人事のように笑う人々は多い、しかし、デリラとは、人のセルフなのである。それが分かれば、サムソンを笑える人は誰もいないであろう。

主の御腕は誰に向かって現されたのか、神はどのような人をご自分の民としてお認めになり、どのような人を力強く弁護し、守って下さるのか。

主の御腕は誰に現れたのか。

十字架は、決して人にとって心地よく、優しいものではなく、人の五感にとって甘く、麗しいものでもない。カルバリには人が慕い求めるどんな見ばえの良い姿も、輝きもない。カルバリには何の栄光もなく、人からの賞賛や理解もない。そこにはただ十字架につけられたキリストがおられるだけである。それでも、その栄光の消え失せた十字架に主と共にとどまり、これを自分自身の死として受け取り、全焼の生贄として静かに祭壇に身を横たえ、御言葉が実際になることに同意するだろうか。

十字架を回避して、己を神と宣言する人々が身近に増えて行くに連れて、筆者は厳粛にそのことを思わされる。一体、どれだけ大勢の人々がこの先、惑わされるのであろうか。そして、誰が十字架にとどまり続けるのであろうか。

人にはできない、しかし、神にはできる。駱駝に針の穴を通過させるのは、神の仕事である。お言葉通りになりますようにと応答するのが信者の側の仕事である。

その時に、主は御腕を力強く伸ばされ、山々を割いて降りて来られ、山上の垂訓のあの完全な統治を信者は生きて知るであろう。しかし、今、ダイナミックな復活の命の統治だけに注目するよりも前に、人に注目されることのないこの霊的死の意義にあえて心を向けたいのだ。たとえ主が御腕を力強く伸ばされ、ご自分の民を人知を超えた力によって擁護して下さるその光景を見ても見なくとも、主の御腕の守りの中にとどまり、人に承認されるのでなく、神に承認される者として生きたいのである。


神のこの奇妙な道はなぜか?


 さて、このような反応をすべてまとめると、神が御腕を現す方向に向かって動かれる時の、神の深遠な道を目の当たりにすることになります。神の道は何と深遠なのでしょう!何と神秘的なのでしょう!何と見出しがたいのでしょう!そして、ああ、神の道が分かり始める時、それは何と驚くべきものなのでしょう!私たちはこの御方が神の御子であり、人の贖い主であることを知っていますが、この御方に対して人の思いが下すこの解釈や判断について考える時、このような道は神の深遠な道であることを認めないわけにはいきません。神は動いておられます――常に動いておられ、堅い決意をもって、毅然として動いておられます――御腕を現す地点に向かって動いておられるのです。これが神の道であるとは、凄いことではないでしょうか?

 さて、ここで二つの疑問が生じます。一つは、「なぜ世の人はこのエホバの僕に対して、このような普遍的反応を示すのだろう?」という疑問です。クリスチャンとしての私たちの観点からすると、人が普遍的にこのような判断や反応をすることができるとは驚くべきことです。しかし、事実、人々はそのような判断や反応をしたのです。さらに、これは依然としてそうであることを、私たちは知っています。この世の人々の思いからすると、この十字架に付けられた御方には慕うべき点は何も見あたりません。

 第二に――おそらく、この疑問はこの問題全体の核心・根幹にさらに迫るものですらあります――「なぜ神は、人からのこのような反応を避けられない、このような道をわざわざ取られたのでしょう?」。この道は本当に奇妙です。まるで人からこのような反応を引き出すために、神はこの道を行かれたように思われます。なぜ神は誰からも認められる「まったく愛らしい」御方、一目見ただけで誰からも受け入れられる立場にある御方を遣わされなかったのでしょう?なぜ神は御子を遣わすとき、威厳、光輝、栄光の中で遣わされなかったのでしょう?なぜ彼は最初に天からのあらゆるしるしを示して、すべての人が見るようにされなかったのでしょう?なぜ神は、このような反応を生じさせる道をわざわざ取られたのでしょう?神はわざとそうされたように思われます。そのような反応は必然的でした。イザヤが描いたように、この絵を描いて下さい、「彼の顔立ちは損なわれて人と異なり」――その姿は「人の子と異なっていた」。他にも詳しく記されています――次に、この絵を持ち上げて、「これがあなたの贖い主です!」と言ってみて下さい。神は人を驚かせて憤慨させる道を、わざわざ取られたように思われるでしょう。

 そして、神はそうされたのです!しかしなぜでしょう?

人の間違った価値観のため


 今や、この現実的問題にかなり迫っています。人の価値観はまったく間違っており、神はそれをご存じなのです。人の価値観はまったく完全に間違っています――なぜなら、それは人の自尊心の所産だからです。次のような言葉は自尊心が傷つけられたからではないでしょうか。「こんな水準まで降りなければならないだって!自分の救いのために、そんなことを受け入れなければならないだって!こんな水準まで身を低くしなければならないだって!絶対嫌です!そんなことは人の性質に反します!」。そうです、これは人の性質には人の高ぶりによって生み出された全く間違った価値観が備わっているためなのです。ですから、この受難の僕という思想は人の自尊心にとって侮辱であり、つまづきであり、人の価値観に対する挑戦なのです。まさにこの理由により、ユダヤ人も異邦人もこの知らせを受け入れようとしませんでした――自尊心がそれを許さなかったのです。私たちは次のように歌います。

 「素晴らしい十字架を見渡す時
 私は自分の自尊心をまったく蔑みます。」

 これが十字架の及ぼす影響であるべきです。しかし、そうではありませんでした。人はこのような者なので、人の自尊心はそれを受け入れようとしません。ですから、「彼はさげすまれ、拒絶された」のです。「彼には私たちが慕うべき美しさは何もありません」。

 私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。十字架は人の自尊心や尊大さのまさに根本を打ちます。十字架は人自身の威信や価値観に基づく生活の根本を打ちます。たとえ、この世の観点やこの世の価値観からすると、人はひとかどの者になって、それなりのものを得ることができたとしても、また、先天的あるいは後天的に、自分の頭脳や賢さによって、熱心に働いたり学んだりすることにより、人は何らかの地位、栄光、成功、威信を得ることができたとしても、もしあなたや私が神の御前でそのようなものに基づいて生活するなら、私たちもまた神の価値観に完全に反している人々と同類と見なされるでしょう。

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隠れた内なる人


最近、神の御前に静まる必要性をとても感じています。兄弟姉妹の交わりにおいても、礼拝においても…。若者には大きな情熱が与えられています。それゆえ、 尽きせぬ語らい、高揚感溢れる礼拝が生まれ、知的な議論も終わりなく繰り広げることができます。いいえ、若者だけがそうなのではありません。

人は天然の力を使っても、どれほど人の目に素晴らしいものを作り上げられるでしょうか。才気溢れる人々が集まれば、どれほど素晴らしい礼拝を編み出せるでしょうか。主が恵みを雨のようにお与え下さる時、何と私たちは子供のように有頂天になってはしゃぐことでしょうか。

しかし、「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。」(ヨハネ6:63)の です。御霊のか細い声に耳を傾けるためには、静けさが重要です。それは決して瞑想などによって得られるものではなく、静かな環境に由来するものでもなく、 ただ私たちの心のへりくだりによります。高慢は常に霊的鈍感さに直結します。肉なるものが主の御前にへりくだり、砕けた心を持って進み出ることなしに、御 霊の声を敏感に聞き分けることはできないでしょう。

それなのに、多くの信者たちは何としばしば、神のために熱心に「活動する」ことにより、自己肯定、自己顕示しようとしていることでしょう。熱烈な賛美、長い祈り、 倦むことを知らない交わり、麗しい礼拝…。確かに一時、主はそれらを私たちのために恵みとして配剤されます。しかし、それらの活動に身を投じることに比 べ、何もしない(何もできない)状態は、何という忍耐を私たちに要求することでしょうか。

クリスチャンはしばしば、主によって閉じ込められます。孤独の中に、静けさの中に、誤解の中に、病の中に、困難な状況の中に。それでもなお、ある人たちは閉じ込めと いう主の訓練を避け、拒否しようとするのです。自分が世間から忘れ去られ、没落しているがごとくに思われたくないために、兄弟姉妹との交わりを求め、活発な行動を求めます。 神によって懲らしめられているその弱さと傷みを隠そうとして、恵みの数々を誇ります。神の手によって打たれ、病床に伏してもなお、自己の正しさを求めて、 「神のために」熱心に活動しようとします。
 
それほどまでに、生まれながらの人間は、何もしない(何もできない)ことに耐えられません。沈黙に耐えられません。忘れ去られることに耐えられません。活動しないでいることができません。人間の自己はあまりにも軽薄であり、絶え間なく自己顕示し、絶え間なく自分の正しさや、優位性を誇らずにいられないので す…。

しかし、キリストの十字架は、これらの自己から来るやむことのないむなしい活動に対して、ただ死を啓示します。人の自己から出た活動は、御国の富のために何の役にも立たないと言われます。

犬を飼う時には、主人が「良し」と言うまで、犬が餌に飛びつかないように訓練するものではないでしょうか? もし犬にわきまえがないままであれば、主人と共存することはできません。主人との関係を楽しむことはできません。犬でさえ、そのように「待つ」訓練にあずかるというのに、クリスチャンの大勢は、人間でありながら、な お、主が「待て」と言っているのに、何のわきまえもない野良犬のごとく、浅ましく餌に飛びついているのではないでしょうか。神を口実に、絶え間なく自分の 栄光と楽しみを求めているのではないでしょうか。多くの人たちは、主が栄光をお与え下さる前に、自分の栄光を自分で掴もうとします。そのような姿を主はご覧になっ て、みっともない、情けない、見苦しいと思われないでしょうか?

「あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきであるこれこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。」(Ⅰペテロ3:3-4)

悲しいことに、ある人々は、エクレシアというものを全く誤解しています。美しく着飾った花嫁の写真をたくさん並べて、それを自分たち信者の姿と同一視して、「私たちは神に選ばれた美しい花嫁である!」と言って、自己満悦に浸っています。しかし、その人たちは完全に一つの事実を忘れています。それは、結婚式の主役は、花婿だということです。確かに、花嫁の役割も大きいですが、花嫁は誰よりも花婿の喜びのために存在します。花婿あってこその花嫁です。それなのに、花嫁が花婿を差し置いて、自分一人、美しく着飾り、自分一人だけを主役として舞台の中央に据えて、花婿を隅においやり、花婿の思いをよそに、一人だけ注目を浴びて自己満悦に浸っているとすれば、そんな結婚式に何か意味があるでしょうか? もし私が花婿であれば、まっすぐに一人で出口へ向かい、そんな花嫁との結婚は考え直すと思います。

以上に挙げた御言葉は、主の花嫁たるエクレシアが身につけるべき品性として語られています。飾られなければならないのは、外面ではなく、内面です。私たちは御霊がよしとされる時まで、忍耐して待つことを知らねばなりません。それは生まれながらの人間の活動的で自己顕示欲に満ちた自己にとっては、死の苦痛以外の何ものでもないように感じられるでしょう。その死は私たち自身の力によってはなし遂げられず、また修道生活のような禁欲的苦行によるのでもなく、ただ御霊により、十字架によるのです。

御霊は、信者たちに本当のわきまえというものが何であるかを内側から教えてくれます。いつ私たちが口を開くべきか、何を語るべきか、どのように行動すべき か、行き過ぎに至らないよう警告して下さいます。それは決して、私たちが操り人形のようになって自主性を失うことを意味するのではなく、御霊が私たちの内で品性そのものとなり、私たちが自分自身を霊によって治めるべく導いて下さるということです。

アダムの死だけでは、自己の死だけでは、十分ではありません。主と共なる十字架を経て、私たちはいのちに与らねばなりません。それは霊によって自分自身を治める人となることを意味します。

ですから、信者たちはいつまでも自己中心で軽率で浅はかな、自分の欲求だけに基づいて行動するわきまえのない動物のようであってはなりません。神が私たちの主人です。どれほど派手に、どれほど上手く活動し、どれだけ多くの注目を集めることができるかが、私たちの成功な のではありません。主人の命令に服さないような僕は、どんなに活発に活動しても、僕とは呼べません。主人が「待て」と言う時、忍耐して待つことのできる僕になることの方が、主人の命令を無視して活動することよりも、はるかに重要な訓練です。そのようにして忍耐して待つ僕を、どうして主人がかえりみて下さらない理由があるでしょうか。

なのに、あまりにも多くの信者を名乗る人々が、信仰生活を自己顕示の手段と取り違え、他者を押しのけ、神をさえ押しのけて、自分が舞台の中央に立って脚光を浴びることだけを追い求めていることに、私は大いなる疑問を抱かざるを得ません。また、そのような人たちと同じ道を行きたいとも思わないのです。私たちの内側にキリストが形作られることの意味を、今一度、静まって考えてみたいと思います。

我が命の砦なる主

兄弟姉妹との交わりの中で、主の命の喜びに十分に浸されながら、語り合うことのできる幸い。このような交わりが与えられているとは、何と喜ばしいことでしょう。

もはや恐れるものはありません。どんなに孤独の中を通らされても、どんなに大切なものをことごとく失っても、どんなに大勢の人から誤解され、見放されて も、主は決して私を見捨てられず、世の終わりまで私と共にいて下さいます。それだけでなく、主が血によって結び合わせて下さった兄弟姉妹も共にいるので す。

私たちは、世に勝った方が自分の内にいて下さることの意味をどれくらい知っているでしょうか? 子羊の血と証しの言葉によって勝利することの意味をどれく らい知っているでしょうか? 自分の力では太刀打ちできない試練が襲いかかる時にも、私がただ自分の十字架を取って主に従いさえするならば、私の自己が残 らずキリストの十字架に死に渡されることに同意しさえするならば、束の間の苦しみの後で、主は前よりもさらに多くの、溢れるばかりの祝福で私を覆って下さ います。そして、私の失われた尊厳を、ご自身の勝利によって取り返して下さり、主の僕を告発した敵どもは、御言葉であり、岩なるキリストにぶつかって微塵 に砕け散り、自ら暗闇の中でつまずき倒れるのです。

ただ、私たちはいつも駱駝が針の穴を通るようにして、小さな穴をくぐりぬけねばなりません。それは痛みを伴う十字架です。この世の沢山の荷物をぶら下げな がら、その穴をくぐり抜けることはできません。自分だけ無傷できれいなままで、その穴をくぐり抜けることはできません。世を友として十字架の向こうに渡る ことはできません。十字架の向こうに持って行くことができるのは、信仰によって生み出される朽ちない宝だけであり、この世の富はその向こう側に何一つ渡れ ないのです…。たとえ人の目にどんなに素晴らしい知恵、美徳であっても、人から出たものは十字架を通過することはできません、キリストから出たもの、永遠 に朽ちない宝だけが、十字架を通過することができるのです…。

多くの人たちが十字架の前で踵を返して去って行きます。多くの人たちが真理に耐えられず、虚偽を信じてつまずき倒れます。多くの人たちが荷物を持ちすぎて 穴をくぐることができません。多くの人たちが自己を愛しすぎて十字架のテストに耐えられません。つらい別れが何度もやって来て、裏切りがあり、苦しみがあ ります…。自己を愛する人々、真に十字架を経過したくない人々は、何と巧妙に十字架の意味を曲げようとし、また、激しく十字架に敵対することでしょう!

しかし、不思議です、私が主と共なる十字架の死を受け入れる時、その死によって私は孤立したり貧しくなるどころか、なぜか、思いもかけない恵みが後を追っ て走って来るように、人の思いをはるかに超えたところで、キリストの命が自然にあふれ流れ出すのです。キリスト者が御名のゆえに味わわなければならない苦 しみの深さをどんなに覚悟しても、それでも、喜びと平安が後を追って走って来るのです。私は何も持っていません、けれども、キリストにあってすべてを得て いるのです。

敵が陣を敷いて私たちを取り囲むことがあります。しかし、主が共におられるのですから、恐れるものはありません。そして、神は御旨にかなった人々を常に私 の前に置いて下さり、そして、これらの人々が、主の血によって一つとされており、まことの命によって結ばれていることを、不思議な方法で、何度も何度も、 確かめさせて下さるのです。

キリスト者は一人ではありません。たとえ悩みの中を一人ぼっちでくぐらされることがあったとしても、その時に、私たちが世を避けて、敵を避けて、追いつめ られて、涙の内に駆け込んだ主の懐、私たちの霊の内に主が設けて下さった至聖所、その避け所の中に、私たちは御霊によって、永遠の御国がすでに到来してい るのを見るのです。そこに、命と平安があります。そこに、主の御霊との交わりがあります。そこに、主が御顔を輝かせて下さいます。

我が魂よ、強くありなさい。雄々しくありなさい。主によって選ばれ、主に愛される者とされた幸いを味わい、楽しみ、元気づけられなさい。主のご計画の確か さを信じなさい。主の御言葉のどれ一つとして、むなしく地に落ちることはないのです。主よ、どうかあなたが御顔の光を私に輝かせて、御言葉によって私を照 らし、聖別して下さいますように。


主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。
主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。
悪を行う者が私の肉を食らおうと、
私に襲いかかったとき、
私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。
たとい、私に向かって陣営が張られても、
私の心は恐れない。
たとい、戦いが私に向かって起こっても、
それにも、私は動じない。

私は一つのことを主に願った。
私はそれを求めている。
私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。
主の麗しさを仰ぎ見、
その宮で、思いにふける、そのために。

それは、主が、
悩みの日に私を隠れ場に隠し、
その幕屋のひそかな所に私をかくまい、
岩の上に私を上げてくださるからだ。

今、私のかしらは、
私を取り囲む敵の上に高く上げられる。
私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、
歌うたい、主に、ほめ歌を歌おう。

聞いてください。主よ。私の呼ぶこの声を。
私をあわれみ、私に答えてください。
あなたに代わって、私の心は申します。
「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。

主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます。
どうか、御顔を私に隠さないでください。
あなたのしもべを、
怒って、押しのけないでください。

あなたは私の助けです。
私を見放さないでください。見捨てないでください。
私の救いの神。
私の父、母が、私を見捨てるときは、
主が私を取り上げてくださる。

主よ。あなたの道を私に教えてください。
私を待ち伏せている者どもがおりますから、
私を平らな小道に導いてください。
私を、私の仇の意のままに、させないでください。
偽りの証人どもが私に立ち向かい、
暴言を吐いているのです。

ああ、私に、
生ける者の地で主のいつくしみを見ることが
信じられなかったなら。――
待ち望め。主を。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
待ち望め。主を。

(詩篇第27編)

死に至るまでも命を惜しまなかった

私 の個人的な経験を語るなら、主は人の自由意志をとても尊重しておられるがゆえに、私たちが御国のために大切なものを捧げるように求められる時に、無理強い はなさいません。永遠に至る実を結ぶような犠牲を私たちに求められる時、主は大抵、前もって私たちの同意を得られるか、もしくは、私たち自身が自主的にそ れを手放す決意を固めてから、それを実行に移されます。

焼き尽くす火であられる神は、私たちの内の不純物をろ過するために、時に、私たちが恐るべき苦難の中を通過するよう求められることがあります。しかし、そ のような時でさえ、御霊は前もって、私たちに来るべき苦難について教え、また、その時、何を手放すべきかを教えて下さり、私たちが自らそれを願い求めるよ うになるまでに、心の準備を整えて下さるのです。

ですから、殉教を選び取るクリスチャンは、その時が来るまでに、自分の命を手放す心の準備がしっかり出来た人たちです。その人々は、その時が来る前から、 主に命を捧げる覚悟をすでに固めており、それが彼らに対する主の御旨であることを十分に分かっているのです。だからこそ、実際に死を目の前にした時、喜ん で死を選び取っていくのです。

御言葉は主の来臨についてこう言います、「…主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。 」(Ⅱペテロ3:20)

「だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。 」(黙示録3:3) 

「(見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。) 」〔黙示録16:15)


主の来臨の時がいつであるかを知ることのできる人は誰もいません。その日には、大いなる災いが地球を襲うでしょう。目を覚ましていない人にとっては、それはまさに青天の霹靂のような完全に不意打ちの打撃となります。

「しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。 」(Ⅰテサロニケ5:4)

けれども、ハレルヤ! 主に忠実な僕らは、怖じまどうことはありません、その日が近いことを御霊がはっきりと告げて下さるからです。御霊は、私たちが主の ご計画に対して目を覚ましているよう、絶えず語りかけています。もし私たちが御霊に聞くならば、不意打ちのように災いが臨むことはなく、主はご計画の一端 を私たちの心に明らかにして下さり、どのような準備が必要かを予め知らせて下さるでしょう。「…真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネ16:13)

殉教は決して強制される出来事であってはなりません。私たちが主に捧げるものは、何一つ、強制されてではなく、自主的なささげ物であるべきだからです。しかし、それでも、主のために命を捧げることのできる人は幸いです、主の御心は、次の御言葉から明らかだと思うからです。

「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。 」(マタイ10:32-33)  

「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」(マタイ10:28) 


殉教について語ることで、私たちはいたずらに苦難を美化したり、奨励したりしているのではなく、また未来の絶望的な展望を提示して、人を不安に陥れている わけでもありません。ただ主が私たちに何を求めておられるのかに、しっかり注意を払いたいのです。自分自身の決意によっては何一つ成し遂げられないとはい え、終わりの時に、自分の命を失うことを恐れて人前で主を拒むことのない、勇気ある者でありたいと願うのです。注意して下さい、黙示録の次の御言葉は、 「おくびょうな者」を、「人殺し」や「姦淫を行う者」、「偶像礼拝者」と同列に並べ、おくびょう者は第二の死に定められるとさえ述べているのです! 

「しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」(黙示録21:8)

恐らく、ここで言う「おくびょうな者」とは、マタイ25章に出て来る1タラントを地中に埋めた僕のような者のことではないかと私は思います。主を信じてい ると告白しておきながら、恐れや不安に支配されて、いざという時になるといつも主のために何かを捨てることを惜しみ、御旨に従うことをためらって足踏み し、しかも自分の信仰の薄さを、神の厳しさや残酷さのせいにして言い訳している人々を指しているのではないかと思われます。

主は言われました、「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」(マタイ16:25) 

この御言葉そのものが、セルフかキリストか、アダムの命かキリストのまことの命か、人類による人類の自己救済かそれとも御子の十字架による救済か、善悪の 路線に生きるのか命の御霊の法則に生きるのか、と言った二者択一の問いを発しています。終末の時代には、とりわけこの選択は厳しいものとなるでしょう。私 たちがこれ以上、何とかして自分の弱さを言い訳して、主の私たちへの要求の水準を引き下げ、自分の不信仰や不従順を神に大目に見てもらおうと、人の耳に優 しい水増しした「福音」ばかりを語るなら、恐らく、私たちはきっとセルフを選んで十字架を捨て去る結果となってしまうでしょう!

私たちは試練の日に、ロトの妻のようにならないよう主の憐みを希いたいと思います。主の名を三度に渡って否むという、ペテロには許された過ちが、もしかす ると、その日には、もう私たちには許されていないかも知れません。どうか私たちが、かの日の火のテストに耐えうるよう、今から、神の子供として十分な訓練 を受けることができますように。もし私たちが不要なものを沢山抱えているなら、主が今からそれを剥ぎ取って下さいますように! どうか私たちが今日富める 者として生きる一方で、かの日に主の御前で貧しい者として恥をかくことがありませんように! フィラデルフィヤの教会のように、かの日に主の誉め言葉にあ ずかり、主が保護したいと願って下さるような、忠実な者となることができますように!

「見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少し しか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。<…>忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わ たしも地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試練の時に、あなたがたを防ぎ守ろう。」(黙示録3:8-10)

「兄弟たちは、小羊の血とあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。」(黙示録12:11-12)


キリストと共なる十字架の死

主にある一人の姉妹へ

ハレルヤ! 主の栄光の御名を誉めたたえます! 喜びが心に溢れる出来事がありましたので、ご報告しますね。現在、直面しているあれやこれやの困難につい て思いめぐらしていた時のことです。最近、私の新しい隣人となって下さった遠方の友より、「一週間をたった3000円で過ごさねばならない」という便りが 来たのです。

一瞬、これは大変だ、と思ったのですが、まず祈るべきだと心に感じました。そこで、すべてを主の御前に持って行き、心のすべてをさらけ出して、へりくだっ て神様の御前に出て、必要を申し上げてください、改めるべきところは全て改めますから、どうか私を正しい道へ導いて下さいと、祈ってみてはどうかと申し上 げたのです。

主は私たちと夫婦のように親しい交わりを結びたいと願っておられるので、主を信じる者にとって、全ての困難は主に通じる道です。主イエスは「羊に命を与え るために、しかも、豊かに与えるために地上に来られた」方であること、「義人は信仰によって生きる」こと、「主により頼む者は失望に終わることがない」な ど、御言葉を宣言しました。そうです、私たちの死ぬべき身体も、主のよみがえりの命によって生かされ、愛する御子の信仰によって「生きる」のです。

彼女からは早速、主の御前に出てくださったという喜びに満ちたお返事がやって来ました。神の御前にへりくだるってこういうことなんだねと、喜んでおられる様子でした。主はどんな風に彼女に応えて下さるでしょうか。(食料備蓄などは十分あるそうです。念のため。)

けれども、話はここからです。この隣人の苦境の話が、私をハッとさせ、重要なことを思い出させました。かつて主を知る以前、信仰を離れて生きていた頃、私 はどんなに貧しい生活を送っていたかを思い出したのです。それはまるで死の陰の谷の淵を歩くような生活でした。教会の友達と共に最も安いファミリー・レス トランで昼食を取るときでさえ、清水の舞台から飛び降りるような決意をせねばならなかったのです。ついにその生活は保てなくなり、しがみついていた全ての ものが私から剥ぎ取られました。私は自分で自分を支えようとする全ての努力をやめて、主の御前に自分を投げ出して降伏宣言をし、心のすべてをさらけ出し て、ただ神に向かって祈り始めたのでした。

生活は完全に失われ、そこから、長い長い悔い改めの期間が始まりました。そのような悔い改めと待ち望みの期間は、約一年間ほど続きました。窮乏という言葉 では表しきれない、まさに私が牢に閉じ込められ、死んで墓に葬られたかのような真っ暗闇の期間。主以外の希望が全て閉ざされた期間。どの扉を叩いても、何 一つ、開かれず、地上の最後の居場所も奪われたような期間。もはや自己の努力によっては何一つ成しえないことが分かり、ただひたすら主の解決を待ち望むし かありませんでした。

それが主による閉じ込めであり、キリストと共なる十字架の死を実際に知るための準備期間だったということは、その頃は考えもしませんでしたし、知りもしま せんでした。ただ私は自己の力が尽き果てるまで、もがくだけでした。解決は、究極的な瞬間まで延期されました。ついに全ての希望がなくなり、信仰さえも絶 え果てるかに思われた時、主は私の心を訪れて下さり、私の上に十字架を実際として下さり、大いなる解放を成して、未だかつてなかった喜びと平安をもって、 私を深い暗闇の淵から引き上げてくださったのです。

それからどれほど私の生活は変わったでしょう。命が与えられました。自由が与えられました。暮らしが与えられました。隣人が与えられました。職が与えられ ました。家族が和解のうちに戻って来ました。確かに困難は尽きませんし、弱い器としての私は、痛みも苦しみもリアルに感じ、時には憤り、弱音をこぼし、涙 し、叫び声を上げそうになる時もあるのですが、それでも、主を知らなかった頃のあのような苦しみと絶望だけは、二度と味わうことがないという平安が心の中 に与えられているのです。

主を知ることの喜び! このことを思い出すとき、地上での苦しみがいかに取るに足りないかが分かるのです。人が私に何をできましょう? これは決して人が 私に何もしえないという意味ではありません。人は私を苦しめることができます。追いつめることができます。失望させることができます。非難することができ ます。居場所を奪うことができます。あらゆる方法で迫害し、圧迫することができます。しかし、そのどれも主が私になした裁きには遠く及ばないのです!

私はキリストと共に十字架で死んだのです! この意味がお分かりでしょうか。神が私に最も重い刑罰を下したのです。今日も、私は主と共に、あの木にかけら れて、最も重い刑罰を受け続けているのです! この十字架の死に同意なさるでしょうか? カルバリにおいて、我が肉体は我が罪のために、永遠に釘付けら れ、裂かれてさらし者とされ、我が魂は苦しみのうちに最後まで注ぎ出され、キリストと共に木にかけられて死んでいるのです。この事実に同意するでしょう か。

人のどんな圧迫も、神が私に下したこの刑罰には及ぶべくもありません。この世のどんな呪いも、非難も、圧迫も、何を合わせても、この十字架の死以上のもの にはなりません。しかも、そこにあるのは永遠の死です。十字架の死、それは私たちの自己の総決算であり、神が私に下された正しい裁きであり、宣告なので す! 私は裁かれました! 神ご自身が、私のアダムの命には生きる価値がないと宣告されて、私を死に至らしめられたのです! 

この世はあらん限りの方法で私を罪定めすることができるでしょうが、私たちはすでに死んでいます。十字架という最も重い奴隷め刑罰を、私たちは今日も、信 仰によって、主と共に受け続けているのです。私たちの命は絶たれ、キリストにあって、神のうちに隠されています。ですから、世が私たちに対して何をなしう るのでしょう。ただこの十字架を通して、私たちはアダムの命に死に、この世との結びつきに対しても死にます。この世から怒号のようにやって来る全ての嵐に 立ち向かう術はただ一つ、このカルバリの死にしかありません。

主の死を思う時、ただその前に深く頭を垂れるのです。主が私たちの罪の身代わりに、十字架で全ての痛みを負って下さり、その打ち傷を通して、私たちを自由 とし、平安を与えて下さったことを思い、はかりしれない厳粛な感謝が心にやって来るのです。あの恐ろしい生活から助け出されたこと、あの苦しみから助け出 されたこと、今やなくてはならぬ全てのものが上から与えられ、神によって養われているその恵みを思うのです。

こうして今、自由とされた私の前には、主が与えて下さった数々の恵みが置かれています。平凡で穏やかな生活、友との親しき交わり、何という甘さがそこにあ ることでしょう。しかし、それでも、目に見える宝は、もはや私の心を引かないのです。パウロが言ったように、日々、キリストの死と復活を知ることを追い求 めたいと願います。どうか私が道を間違えることがありませんように。この世が私を歓迎せず、この世が私の居場所とならなかったことを心から感謝します。主 が私を日々、より一層、カルバリの死にあずかる者として下さり、キリストにあって神のうちに隠して下さり、愛する御子の信仰によって生かして下さいますよ うに。

友へ:時には、私たちの財布には一週間分で3000円以下しかないかも知れませんが、それでも、義人は信仰によって「生きる」のです。

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ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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