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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

すべて肉なる者は知るようになる わたしは主、あなたを救いあなたを贖うヤコブの力ある者であることを。 

「シオンは言う。
 主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。
 
 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。
 あなたの城壁は常に私の前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃墟とした者はあなたを去る。
 
 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。

 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。
 
 破壊され、廃墟となり、荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子はら
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕えられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。
 
 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を知につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう

 そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕われ人を救い出せるであろうか。
 主はこう言われる。
 捕われ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。

 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救いあなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。」(イザヤ49:14-26)

* * *
 
オリンピックは、当ブログで再三、予想して来た通り、開催できずに終わる道筋がかなり現実的なものとなって来た。

また、この機に乗じて緊急事態宣言を狙っている人々がいるようだが、それは多分、叶わないのではないかと筆者は考えている。この点について、筆者自身は、よくは分からないし、在宅勤務で給与をもらえるならば、それが最善だと思っているのだが、筆者のいる職場は、テレワークにも、在宅勤務にも対応しておらず、そんな近代的な対応を期待できるところでもない。

だから、緊急事態宣言に伴い、外出禁止令が出され、出勤が停止されて在宅勤務になる…という「夢のような」話はあまり思い描けない。そして、筆者は日常生活が制限されたり、外出が禁止されることなど全く望んでいない。

「ウィルスのせいで内定取り消しになった人もいるのに、在宅勤務を望むなんて、ヴィオロンさんの話は不謹慎だ!」とおしかりを受けそうだ。

確かに、そういう批判が出てもおかしくないほど、街は殺気立っている。日曜日に外へ出ると、平和に見える家族連れさえ、殺伐とした雰囲気を漂わせており、ディスカウントストアに行くと、カップルのうち、まだ若い女性が、レジの店員をヤクザのようなまなざしでにらみつけている。「ウィルスをうつすなよ」と目で合図しているのかも知れないが、何と殺伐とした光景だろう、日曜日の家族の平和な買い物だというのに・・・。

筆者はというと、持ち物の修理のために、初めて行く店をネット上で探して家を出たが、日曜に予約もなく、もう夕方に近い時間帯になってから動いたというのに、思いがけなく、とんとん拍子に話が進んで、すべての必要がかなえられた。事前の説明では、できないと言われていたことさえ、可能となり、自前での修理であったとはいえ、とても嬉しくなってしまった。

ここのところ、筆者の日常生活においては、極限的なストレスが津波のように押しよせ、筆者は心の平安を保つことが困難となり、とても一人ではこの問題には立ち向かえないと考えて、「主にある2、3人」がどうしても必要だと感じた。言い知れない深さの悪に立ち向かうために、仲間が必要であると思ったので、探したのである。

その時、神は祈りの有志を与えて下さった。知り合いのつてさえないところを、ゼロから探したが、腐っても鯛、というたとえは不適切かも知れない。ほとんど絶望的と思われていた思いがけない場所に、仲間が見つかり、さすが、キリストへの信仰のあるところには、奇跡が伴うと、間違っても、他宗教の信者になど声をかけなくて良かったと思った。というより、出会わせてくれたのは主である。
 
「求めよ、そうすれば与えられる」、「捜しなさい、そうすれば見つかります」と、聖書に書いてある通りだ。

こうして、祈りの有志が与えられたことで、筆者の生活に対する天の防衛が強化されたのではないかと思う。不思議なほど、心に平安が戻り、日常生活で大切なことが何であるのかが、よく分かるようになって来たのである。

これまで筆者の人生には、助け手を名乗る様々な不誠実な人間が現れては消えて行った。彼らは、口先だけで調子の良いことをさんざん言って、筆者を持ちあげ、筆者を助けるふりをしながら、その実、自分が筆者から助けを受けるために、あるいは、栄光を盗み取るために接近し、しかも、筆者から取れるものをすべて取り尽くすと、空っぽになった筆者を踏みつけにし、嘲笑しながら、置き去りにして去って行った。

そういう種類の人々には、おびただしい数、遭遇して来た。そこで、彼らのパターンも大体分かるようになった。だから、基本的に、筆者はそういう人たちに利用されたくはないため、誰からの助けをも求めないし、誰かに自分を理解してもらおうとも願わない。

だが、そうは言っても、信仰の戦いにおいては、「祈りの有志(勇士)」が必要になることがある。それくらい、最近、筆者をとりまく環境はますます厳しさを増し、霊的戦いも、激しさを増している。

ある時、派遣社員は「愛人」だと、筆者に言った人がいた。それは永遠に「正妻」になれない「愛人」、蔑まれた地位だという意味である。しかし、筆者は、今、契約社員であろうと、正社員であろうと、一人の偶像(代表)のもとに雇われているすべての被雇用者は、いわば、男女に関わらず、みな社長の愛人みたいなものなのではなかろうかという気がしている。

職場の中で、ヒエラルキーを上にのぼりつめようと、ものすごい競争が行われる。男であれ、女であれ、嫉妬と憎しみに燃え、競争者を押しのけ、陥れてでもいいから、上に行こうとする。負担は他人に押しつけ、自分は楽をし、有利な立場に立つために、水面下で苛烈な競争が行われる。

だが、他者を押しのけて、ヒエラルキーの階段をのぼりつめさえすれば、「正妻」の座を勝ち得られ、誠実で信頼のおける関係に入れるというのは、幻想でしかないと筆者は思う。

一人の目に見える人間を象徴として頂点にいただく組織は、すべて「ハーレム」みたいなものである。ハーレムというのは、一夫一婦制の原則に基づいていないから、その中のどこを探しても、真実や誠実さなどないのだ。

そこで「夫」とか「主人」の役目を果たすトップとは、命の通わない、死んだ彫像みたいなもので、みんなの欲望を投影して作られた「もの言わぬ偶像」である。「虚無の深淵」と呼んでも良いかも知れない。生きた一人の人間とさえ呼べない、作られたむなしいイメージである。

だから、そのようなものとの「結合」を私たちは求めるべきではなく、そのようなものに「供え物」を捧げても、報いがあるわけではない。つまり、世の中で、人間関係の争いに勝とうと、必死に競い合って高い地位を求め、何とかして上部の覚えめでたい人間になろうと努力しても、そんなことは、無意味であるし、不実な偶像に近づく人は、傷つけられる。

とはいえ、私たちは自分に与えられた僕としての役目をきちんと果たすことは必要である。ただそれ以上に、与えられた契約以上に、心をすり減らし、疲れ果てる競争に巻き込まれたり、人からの賞賛や栄誉を受けようと願って、自分をすり減らさないことである。
 
この絶え間なく神経を消耗する競争社会にあって、筆者は、信頼できる、誠実かつ真実な人間を探している。我こそは信頼に値すると名乗り出た人間は、ことごとく偽りであった。

信頼できるかどうかは、一人一人の人間性にかかっており、職業上の立場や、知名度とは全く関係がない。

そして、確かな人間性とは、キリストにあってしか確保できないものである。
  
筆者は、筆者一人だけに忠実であって、誰とも筆者を競争させない関係を求めている。真に心を打ち明け合い、助け合うことのできる人間関係を。

筆者の人間関係の結び方は、非常に深く、求めるものが大きい。そして、その求めの中には、人間に対する期待のみならず、神に対する筆者の求めと期待の大きさが、反映しているような気がしてならない。

だからこそ、筆者の渇望を神に持って行くと、そこに平安が訪れるのである。そして、主は筆者の心の求めを、とても光栄なものとして受け止めて下さっている気がするし、その渇望の深さを知っていればこそ、ご自身の豊かさによってそれを満たすために、筆者を信仰に導いて下さったのではないかという気がしている。

神と人との関わりは、キリストだけを仲保者として、そこに誰をも挟まないものである。

同じように、人と人との間で信頼関係を築くためにも、そこに競争者がいてはならず、唯一無二の関係、「一夫一婦制」の原則が適用されていなければならない、と筆者は考えている。それは、夫婦だけでなく、その他のすべての人間関係に当てはまる原則のように思う。

つまり、筆者は、信頼関係が成り立つためには、まずは一対一の関係がなくてはならず、そこに誰かが競争者として挟まって来るようでは、初めから信頼は成り立たないと考えている。

筆者が求めているのは、筆者の他にスペアを作らず、筆者以外の誰をも賞賛せず、筆者を己の欲を満たす道具として扱わず、真に筆者の利益のために奔走してくれ、筆者が困ったときに筆者を拒まず、筆者の窮状を嘲らず、筆者の他に競争者を絶対に作らない関係だ。
 
喧嘩しても、仲直りでき、弱みを知られたからと言って、悪用される恐れがなく、一度、傷つけられたくらいのことでは、ただちに関係性が壊れることもなく、さよならを告げられると逆上し、恨みに燃えて、復讐に及ばれるような恐れのない関係。
 
非難されても、プライドを傷つけられたと怒り出さず、裏切られても、耐えることができ、誤解されても、誤解が解けるまで待つことができ、たとえ筆者が間違っていても、筆者がその間違いに気づいて立ち戻るまで、じっと待つことのできる関係・・・。

そんな関係が成立するためには、神のような忍耐が必要になると言えるが、それだからこそ、神は筆者の心の求めに対し、「分かった」と言って下さるような気がする。

「あなたの求めは、私でなくては満たせません。
 だから、あなたは私を待ちなさい。
 あなたが本当の本当の満足を得たいなら、
 私が現れてあなたを満たすまで、あなたは待ちなさい。
 また、私以外のものを決して求めてはなりません。」
 
神は、筆者が人間に求めている期待の高さを知っておられ、それゆえ、筆者の失望と嘆きの深さも知っておられ、今なお、筆者の求めを真に満たせるのは、神御自身しかいないことを知っておられ、そのことを幾度も筆者に告げて、主の内にとどまるよう説得なさり、その上で、筆者をそばにおいて、兄弟姉妹を配置し、見守っておられるという気がする。

だが、最近、人間の中にも、神の愛と忍耐に匹敵することはないにせよ、それに類する愛と忍耐を持つ人はいるのだろうと、筆者は思うようになった。それは筆者自身の内面の生長があったためかも知れないが、筆者の出会う人間の質が変わって来たのである。

以前のように、誠実さのかけらもない、裏切り者ばかりが現れるようなことはなくなり、少しずつ、少しずつ、人生を分かち合える仲間のような近しさを持つ人々が現れるようになって来た。
  
もちろん、それは信仰者であればこそだ。この世の人々であっては、やっぱりいけないのだ。

筆者は、喜びも、悲しみも、共に背負っていける唯一無二の関係、筆者の信頼に応えうる生きた人間を求めている。
 
どんなに見かけがよく、知的で、態度が洗練されて、注目や信頼を集めているようであっても、根本的に、内心が空虚で、生き方が病んでいるエフゲニー・オネーギンのような人間はもうたくさんである。

知性や、洗練された物腰が、すなわち誠実さや真実ではない。
 
オネーギンたちは、有名になりたがり、権力と地位を目指すことも多く、今の世では、余計者どころか、成功者である。大勢の取り巻きに囲まれて、常に幸せで、満ち足りていそうで、人気者で、自慢話にも事欠かない。

だが、筆者は個人的にオネーギン族はたくさんなのである。なぜなら、彼らは「ただ一人の人」に対して忠実であることがどうしてもできないからだ。よって、オネーギンの周りには、必然的に「ハーレム」ができる。オネーギンは内心が病んでいるので、どうしても保険をかけずに他人とつき合うことができない。だから、人と人を競争させる。自信がないので、誰かと向き合うときにも、常に心の逃げ場となりそうな「愛人」を別に用意しておかずにいられない。

それに、自己中心で自惚れ屋なので、本当の意味で他者のために心を注ぎだすことができず、他者を助けるのさえ、自己満足のためでしかない。

従って、オネーギンは誰かに向かって愛を語るときでも、それを語り出す前から、すでにその相手を裏切っている。究極的には、オネーギンは自分自身しか愛することのできない人間である。すべての他者を己の栄光の道具とすることしかできず、そして、その愛は病んでおり、本物ではない。

もちろん、これはすべてオネーギンという人物像を用いた人間関係の比喩に過ぎないが、そもそもこんな不誠実な種類の人間に、何も期待できることはないから、こういう種類の人々については、その生き方に巻き込まれないことこそ肝心である。

彼らの幸福は、きちんとした基盤の上に作られていないため、脆く、崩れやすいものでしかなく、彼らの価値観に巻き込まれると、ひどく傷つけられる。

だから、そのような生き様からは、離れ去るべきだと筆者は考えている。人と競争させられて、ヒエラルキーの階段をよじ登る人生から、離れ去るべきであって、その競争に勝つことが、幸福を得る手段であるかのような幻想にとらわれるべきではない。

筆者は地上に築かれたどんな関係においても、誰とも競争したくないし、競争させられるつもりもない。不実な関わりには飽き飽きしている。
 
筆者はキリストがその血の代価を支払って、贖って下さった人間であり、死を経て生かされたのだから、筆者の価値は、キリストの血の値段である。神がお一人であるように、筆者の代わりはどこにもいない。もともと代わりがないものに、どうやってスペアを作って競争させることができるのか。誰がどうやって、主に贖われた筆者が与えることのできる以上の満足を、信仰もないのに、人に与えられるのか。

そういうわけで、筆者が求めているのは、名実共に「あなたしかいない」という台詞だけであって、いつでもいくらでも予備のある、裏切りを前提とした関わりではないのである。

その唯一無二の関係は、私たちが信じる神が、ただお一人であって、スペアなどなく、私たちが、全身全霊で、ただそのお一人の神だけを愛すべきなのと同じである。

ただ一人の神だけに忠実であるからこそ、神は私たちの呼び求めに、応じることを光栄として下さる。
 
そこで、主にあって、贖われたキリスト者は、主の血の代価を持って贖われた自分の持つ絶大な価値をしっかりと認識しなければならない。
  
そして、キリスト者同士が出会うとき、その交わりには、1+1をはるかに超えた効果が生まれる。

それは、都合の良いときだけの連帯ではなく、都合が悪くなっても、切れることのない関わりである。主が結びつけて、出会わせて下さった関係であり、共に主を誉め讃えることを目的に、永遠にまで続いている。だが、その関わりは、義務ではない。あくまで自由意思に基づく関係性なのだ・・・。

そういうわけで、筆者の人生では、キリスト者との祈りの共同戦線が張られると同時に、たちまち見えない領域で、何かが打ち破られた気がしている。
 
それは、キリストご自身の豊満であるエクレシアから助けを得たからかも知れないし、あるいは、絶え間なく人々を競い合わせるオネーギンの不実な「ハレーム」社会の嘘の影響が、打ち破られたためかも知れない。
 
この世の立場がどうあれ、私たちは、断じてたくさんの競争者と競い合わされ、ヒエラルキーの階段をよじ登って行くことでしか、自分の価値を証明できない哀れな一群ではない。

私たちは、ただ一人の男子キリストによって贖われた尊い純潔の花嫁であり、この方が、私たちの価値を確かに認めて下さり、私たちを選んで下さったゆえに、私たちはこの方と同様に、愛と尊厳に満ちた存在なのである。

その事実が、雲間から太陽が姿を見せるように、はっきりと示され、取り戻された。

ああ、この深い心の平安に変えられるものが、何かあるだろうか。この世のどんな競争に勝ったところで、この平安を得られるだろうか、と感じた。

そういうわけで、筆者は、心の中からすべての不誠実な人々の影響を追い払い、この世の喧騒、また、うわべだけの立場に気を取られることをもやめて、キリストの内に住むこと、ただ彼の内だけに住むことへと戻って行った。

そのことについて、キリスト者と共に祈り合い、「アーメン(その通りです)」と同意したのである。

その時、この世を超越して、天の御座の高みからすべてを足の下にし、見下ろすことのできる心の自由が戻った。時を止めるように、何もかも、すべてに手を止めて、今一度、主に自分をすべてお捧げし、「彼の中に住む」道に入り、平安を取り戻したのである。

それと同時に、この社会で、疲れ切って、責任を押しつけ合い、非難し合う人々の哀れな状態が、はっきりと見えるようになった。つい少し前まで、筆者もその囚人のように疲れ切った人々の一人だったのだが、彼らの歩いている姿を見ただけでも、心の惨状がどんなものかがはっきり見えるようになった。

どれほど人々が主ではない別な事柄に気を取られ、そのせいで平安を失っているかが、彼らの姿を見たときに、改めてはっきりと理解できたのである。
 
だから、筆者自身、もう一度、何もかもを主に委ね、もつれた糸を解きほぐすよう、筆者の手に余るすべての問題を、主に解決してもらうために委ね、主が解決を握っておられることを固く信じて、真っすぐに前を向いて進んで行こうと思わされた。

もはや、すべての問題は、筆者の手を離れ、神の領域へと移されて行った。平安は、こうして筆者の手から重荷が取り去られるに比例して戻って来たものであった。
 
* * *

読者は読む必要を感じていないかも知れないが、筆者自身のために、オリーブ園、A.B.シンプソン、「キリスト生活」の「第6章 どのようにして主の内に住むのか」 から、部分的に抜粋しておきたい。これは何年も前に、筆者が十字架のキリストと出会ったときに、非常に新鮮な心持ちで読んだものであり、今再び、オリーブ園の新着ブログにも掲載されているようである。

この記事は、キリスト者が心の平安を保ち、キリストと二人三脚で進む上で、避けては通れない秘訣を記したものである。読むのは簡単であるが、実践している人がどれくらいいるか。この記事は、心の通い合った夫婦の生活のように、私たちが絶えず主の中で、主に立ち戻り、主と相談の上で、すべてを決めて、歩んで行かねばならないこと、それなしに、日常生活において、キリストの内にとどまることができないことを示している。

もちろん、その生活の中には、私たちの心に、主以外の何者かが挟まることはない。自分自身の衝動でさえ、その静かな平安な生活の妨げとならないように、警戒せねばならないのである。

* * *
 
ヨハネは、小さな子供たちだけが主の内に住むことができる、と言っているかのようです。すなわち、私たちが小さくなる時だけ、主ご自身を十分に知ることができ、自分の力を用いるのをやめて彼に依り頼む時だけ、私たちを保持する主の力を知ることができる、とヨハネは言っているかのようです。

ヨハネは私たちに呼びかける時、「あなたがた」と言わずに、「わたしたち」と言っています。これからわかるように、ヨハネは自分自身を小さな子供の一人と見なしています。ヨハネは、古い自分であるボアネルゲ(雷の子)が死んだ時から、霊の中でまったく小さな子供になりました。ヨハネはイエスの御胸によりかかりましたが、それはイエスの支える御腕から離れないためでした。

私たちはキリストご自身の栄光を見てきました。また、キリストにあることと、キリストを私たちの内に持つことがどういうことかも見てきました。そして今、私たちはこれらのものに強く印象づけられたいと願います。ヨハネは、「小さな子供たちよ、彼の内に住んでいなさい。それは彼が現れる時、私たちが確信を持つためです」と言います。

私たち信者は、主の内に住むこの生活をどのように維持すればいいのでしょうか?あなたは自分を主にささげ、自分の意志と力を放棄し、自分の生活を主に支えてもらうことに同意しました。またあなたは、真の花嫁のように、自分自身、自分の名前、自分の独立性を放棄しました。その結果、彼は今、あなたの主となっておられます。あなたのいのちは彼の内に飲み込まれました。そして、彼があなたのかしらとなり、すべてとなっておられます。

さて、愛する方々よ、この生活はどうすれば維持できるのでしょうか?主は、私たちは彼の内に住むべきであり、私たちが彼の内に住む程度に応じて私たちに内に住む、と言っておられます。「私の内に住んでいなさい。そうすれば、私もあなたがたの内に住みます」。

ヨハネによる福音書十五章四節。(訳注)


今を生きる


まず第一に、主の内に住む生活は、今を生きる生活でなければなりません。それは惰性で流れ続ける急流ではなく、小さな行いや習慣の連鎖です。あなたは、今この時、主を完全に所有し、今この時、完全に救われ、今この時、勝利をおさめます。今この瞬間を満たしたものは、次の瞬間をも満たすのに十分です。ですから、もしあなたが毎瞬この交わりを更新していくなら、あなたは常に主の内に住むでしょう。あなたはこれを学ばれたでしょうか?あなたの生涯における失敗の大半は、一瞬を失うこと、一針の縫い目の切断、小さな裂け目、岩の割れ目――そこから水の雫がしたたり落ち、一本の急流になります――から来ます。しかし、もしあなたが一歩も歩みを失わず、一つも勝利を逃さないなら、あなたは主の内に住んで常に勝利するでしょう。

ですからまず第一に、この秘訣を学びなさい。すなわち、もはや恵みも勝利も必要としないほどの聖潔に達することはない、ということです。しかし、もしあなたがこの瞬間に恵みを受け、次の瞬間にも恵みを受け続けるなら、生涯の終わりに、あなたは主の恵みの大洋をことごとく所有するでしょう。最初、それはほんの小さな流れかもしれません。しかし、毎瞬流れ続けさせなさい。そうすれば、その水路が終わらないうちに、それは無限の大海原になります。


意志による決断


次に、主の内に住むことは、意志による決断を続けることによって、また、常にキリストに信頼し続けることによって、確立されなければなりません。主の内に住むことは、あなたの意志の有無にかかわりなく、不可抗力的な衝動として自然に実現されるのではありません。あなたは、主に信頼することから開始して、それが習慣になるまで繰り返さなければなりません。これを悟ることは非常に重要です。

祝福を得た時、それ以上何の努力もしなくても、その祝福は流れ続ける、と考える人が大勢います。しかし、そうではありません。意志の行為、選択の行為は、霊的生活の真の舵輪です。人が罪から救われるのは、イエスを救い主として実際に選択することによります。人が聖別されるのは、自分自身を明確に明け渡して、キリストを自分のすべてとして受け入れることによります。

ですから、愛する方々よ、あなたは主の内に住むことが呼吸するのと同じくらい自然なことになるまで、しっかり舵輪を握って前進し続け、毎瞬毎瞬、キリストに信頼すること、キリストによって生きることを選び続けなければなりません。
それはちょうど、溺死から救われた人のようです。人々が彼を水から引き上げたとき、呼吸は停止しています。呼吸は自然に戻ることはありません。苦労して人口呼吸を続けることによって、呼吸が戻ります。人々が半時間ほど空気を吸わせたり吐かせたりした後、無意識的な呼吸活動が認められるようになります。そして、呼吸本能がよみがえってきて、自発的な呼吸が始まります。間もなく、その人は何の努力もせずに呼吸するようになります。

しかし、それは最初に一定の努力をすることによって起きます。そして、徐々にそれが自然になって行きます。キリストに関しても同じです。もし、キリストの内に住むことを自然なものにしたいと願うのなら、それを霊的習慣にしなければなりません。預言者は「神にとどまる心」について語り、ダビデは「私の心は主に信頼して揺るぎません」と言いました。私たちは決断をもって始め、いかなる代価を払っても主に従う必要があります。そうするなら、少しずつ習慣が確立されて行きます。

<中略>


自我の抑制


さらに、もしキリストの内に住むことを願うなら、自分に信頼しないことを常に学ばなければなりません。自我の抑制が、常に神聖な満たしと能力を得るための第一の要件でなければなりません。何らかの非常事態が生じた時、人は飛び出してしまいがちです。ペテロは、自分が敵に立ち向かえるかどうかわからないのに、剣を抜いて飛び出してしまいました。突然の衝動に駆られて行った行為は、数週間にわたる後悔という結果に終わることがあります。衝動的に事をなすのではなく、主を受け入れなさい。私たちが主から方法を教わる時だけ、主は私たちを用いることができます。

ですから愛する方々よ、自我を抑制することを訓練しましょう。そして何事についても、主を見上げて、「主よ、あなたの御旨は何でしょう?あなたのお考えはどうでしょう?」と尋ねるまで、決定を差し控えることを訓練しましょう。そうするなら、あなたと主の意向が食い違うことはないでしょう。そこにはさいわいな調和があるでしょう。このようにキリストの内に住む人々は、差し控える習慣、静かにしている習慣を身につけます。彼らは落ち着きのないおしゃべりではありません。彼らはよろずのことについて常に見解を持っているわけではありませんし、自分がなすべきことをいつも知っているわけではありません。彼らは性急な判断を差し控えて、神とともに静かに歩みます。むこうみずで衝動的な精神は、主に聞き従うことを妨げます。


依存


もしキリストの内に住むことを願うなら、キリストは人生の非常事態だけでなく、すべてを引き受けて下さることを憶えなければなりません。そして、常に主に頼る習慣を養わなければなりません。主に依り頼み、いたるところで主を見いだし、彼が私たちの生涯の事業を引き受けて下さったこと、そして困難は一つもないこと、もし私たちが主に委ねて主に信頼するなら、主が私たちを運び通して下さることを認識しなければなりません。


主の臨在を認識すること


さらに、もしキリストの内に住むことを願うなら、主が自分の心の中心におられることを認識しなければなりません。主を見い出すために、彼方の天に上って、主が行かれたあたりをさまよう必要はありません。主はまさにここにおられます。主の御座はあなたの心の中にあります。主の富は身近にあります。あなたは神の臨在を感じないことがあるかもしれません。しかし、聖霊があなたの心の中におられる事実を受け入れて、その事実に従って行動しなさい。すべてのことを主に持って行きなさい。そうすれば間もなく、主の臨在を実際に喜ばしく感じるようになります。感情から始めてはいけません。主がここにおられることを信じて行動することから始めなさい。ですから、もしあなたがキリストの内に住むことを願うなら、主が自分の内におられ、自分が主の内にあるものとして、主に応対しなさい。そうするなら、主はあなたの信頼に応えて、あなたの確信に誉れを与えて下さいます。


すべてのものの中におられる神


キリストの内に住むことを願うなら、人生に訪れるすべての事柄の中にキリストがおられること、そして、摂理の過程で起きることはすべて、ある意味で神の御旨と関わりがあることを認識しなければなりません。試練は偶然ではありません。それはキリストと関係無いものではありませんし、「神はなぜ私をこのような試練にあわせるのだろう」といぶかしんで抗議するしかないようなものでもありません。

私たちは、神が試みの中に導かれたこと、そして、たとえ洪水の高波が押し寄せても、神は御座に座しておられ、大波のうねりや水の轟きよりも力強い方であることを信じる必要があります。また私たちは、神は
「人の怒りを賛美に変え、怒りの余りをとどめられる」ことを信じる必要があります。私たちは「神は我らの避け所、また力。苦しむ時、そこにある助け。それゆえ、我らは恐れない。たとえ地は移り、山が海の真中に移っても。たとえ、水が立ち騒ぎ、泡だって、山々が揺れ動いても」(詩篇四十六篇一~三節)と言わなければなりません。

私たちはすべての出来事を、人が選択しうる最善のもの、あるいは、神が与えうる最善のものと見なす必要はありません。その出来事が私たちに臨んだのは、神がご自身の力を私たちに現すためかもしれませんし、あるいは、聖潔、信頼、落ち着き、勇気といった学課を私たちに教えるためかもしれません。その出来事は何か神の御目的にかなうものなのです。ですから、別の境遇を求めるべきではありません。今いる境遇に打ち勝つべきです。現実から逃避して、「自分の好きなところに行けば、キリストの内に住むことができるだろう」と言ってはなりません。私たちは、安らかな港にいる時も、嵐の海にいる時も、キリストの内に住まなければなりません。すべては神の許しによります。神は万事を共に働かせて私たちの益とし、ご自分の目的を果たされます。このことを認識しなさい。


外側の感覚に注意する


キリストの内に住みたいのなら、感覚に警戒する必要があります。体の感覚ほど、私たちをさまよわせ、危険な野原や牧場の脇道にいざなうものはありません。私たちの目は、どれほど私たちを迷わせてきたことでしょう!道を歩いていると、気を散らせる数千のものに出くわします。中には、クモのような目を持っている人々もいます。彼らは前後左右、あらゆる方向を見ることができます。
「あなたの目はまっすぐ前を見、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ」この世が心の中に侵入するのを許すなら、私たちは主の臨在から引き離されてしまいます。

箴言四章二十五節。(訳注)


会話は、それがたとえクリスチャンどうしの会話であったとしても、もしその百分の一でも聞くなら、完全に汚されてしまいます。ですから、あなたは自分の耳を閉ざし、自分の目を閉ざして、小さな範囲に生きなければなりません。
何かする時に、一度に多くのことをしようとしてはいけません。それは気苦労を招くだけです。

水グモという小さな生き物がいます。それは、沼地などの湖底の泥の中に住んでいます。泥の表面から数インチ中にもぐり、始終そこで暮らしています。水グモには不思議な器官があり、それによって自分の体よりも数倍大きな気泡を自分の周りに集めることができます。水面に上がって空気を集めては泥中にもぐります。この小さな気泡は水グモにとっては大気です。水グモはその中に巣を造り、子供を育てます。「空気のあるところに水は侵入しない」という法則のおかげで、にごった水に囲まれた小さな家庭は、水上の澄んだ大気中で生活するのと同じくらい安全です。そのように、私たちは自分の生息圏の中に入って、主と共にとどまることができます。たとえ罪に取り囲まれ、下には地獄があり、人々はもがき、誘惑され、罪を犯していても、私たちはキリスト・イエスと一緒に天上にいる聖徒たちと同じように安全なのです。


内なる祈り


さらに、キリストの内に住むには、内なる祈りの習慣、心の中で神と交わる習慣を養わなければなりません。私たちは、「神は霊ですから、神を礼拝する人は霊と真実の中で礼拝しなければなりません」「すべてのことについて感謝しなさい。なぜなら、これこそ神があなたがたに求めておられることだからです」という御言葉の意味を知らなければなりません。言葉を口に出さずに心の中で祈るこの習慣は、主の内に住む秘訣の一つです。神秘家が用いた古い用語の一つに「静思」というのがあります。これは「静かな霊」ともいえるでしょう。

ヨハネによる福音書四章二十四節。(訳注)
テサロニケ人への第一の手紙五章十八節。(訳注)


目をさましていること


主の内に住むことと関連するもう一つの言葉は、「目をさましていること」です。この言葉は、漂うことの正反対です。それは固守する精神であり、絶えず警戒していることであり、主に守られることです。さて、これは、あなたが固守警戒の働きをすべて一人でしなければならない、ということではありません。あなたは手を舵の上に置かなければなりません。そうするなら、キリストが舵を操作して下さいます。それは列車のブレーキのようです。運転手がブレーキのレバーに触れて電流を流すだけで、列車は止まります。それはまた、列車の動力のようです。技師は自分の力で列車を動かす必要はありません。レバーを回すだけで、列車は進みます。クリスチャンは自分で戦う必要はありません。イエスの御名の中で合い言葉を唱えさえすれば、天の力がそれに続いて働きます。このようにして毎瞬、私たちは交わりと勝利の中にとどまることができ、ついにはキリストが私たちのいのちそのものとなられます。


神の導きに従う


もしキリストの内に住むことを願うなら、神に自分を助けさせようとすることをやめて、神の道の中に入り込み、神に導いていただかなければなりません。信者は「私がキリストに仕えることを選んだのであり、キリストは私を助けなければならない」という考えを自分の中から取り除かなければなりません。信者はキリストの道に入りました。そして、キリストが信者を担っておられます。なぜなら、キリストは他の道を行くことができないからです。
もしあなたが川の真中にいるなら、あなたは川を下って行かなければなりません。もしあなたが神の真中にいるなら、あなたは神と共に行かなければなりません。あなたが自分の人生を神に明け渡すなら、それは何でもできるほど強くなり、天のように素晴らしくなるでしょう。


不慮の出来事


おそらく、不慮の出来事についてお話ししておいた方がいいでしょう。主はしばしば、私たちを警戒させるために、突然誘惑が襲いかかることを許されます。そのようなことが起きたら、それを主からのものとして受け入れなさい。まつげが閉じて目に危険を知らせるように、それはあなたに警戒させるために送られたのです。誘惑は、しばしば私たち自身の不注意から生じます。私たちが道を外れる時、私たちは誘惑にあうことによって、自分が敵の国にいることを悟ります。もし私たちが主の内に住んでいるなら、主の許しがない限り、悪は私たちを打つことができません。おそらく、私たちが中心からはずれる時、キリストは敵を利用して私たちを脅かし、ご自分に立ち返らせるのでしょう。それはちょうど、羊の群れを柵の中に追い込むために、牧羊犬が放たれるようなものです。大きな災いにあうより、小さな失敗を犯す方がましです。


失敗


しかし、十分注意していたにもかかわらず失敗してしまった場合、決して落胆してはなりません。決して、「自分は祝福を失ってしまった」、「こんな生活は自分には実行できない」などと言ってはなりません。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、主は真実でただしい方ですから、私たちの罪を赦し、すべての不義から私たちを清めて下さいます」という御言葉を思い出しなさい。

ヨハネ第一の手紙一章九節。(訳注)


神を現実に経験する方法


多くの人は神を現実の方として感じていません。多くの男性にとって、自分が抱えている困難な仕事の方が神よりも現実的です。多くの女性にとって、自分の仕事や試練の方が神よりも現実的です。多くの病人にとって、自分の病の方が神よりも現実的です。私たちはどうしたら神を現実の方として経験することができるのでしょうか?私が知る最善の方法は、神を現実の事柄の中に迎えることです。頭痛は現実です。その中に神を迎えなさい。そうすれば、頭痛が現実であるように、神も現実となられるでしょう。そして、頭痛が去った後も、神の臨在がとどまるでしょう。これは素晴らしいことです。試みは現実です。それは人生において火のように燃えさかります。神はそれ以上です。洗濯やアイロンがけは現実です。神をあなたの家庭の中に迎えなさい。そうすれば、神は現実となって下さいます。私たちが自分の生活をキリストに結びつける時、彼は現実となって下さいます。

バンヤン樹もこのように成長します。まず、幹と枝々が天に向かって伸びます。次に、枝々が地面に向かって成長し、土地に根をおろします。そして徐々に、数百の枝々が互いに織り混ざり、絡み合って、嵐や風にも動じなくなります。インド洋の熱風ですら、引き裂くことができなくなります。そのように、神が一人の人を救われる時、神は一本の枝を植えられます。その後、神が困難の中にあるあなたを訪れて、あなたを満たし、聖別し、助けて下さる時、その神の満たし、聖別、助けが新たな枝々となります。こうしてあなたの人生は数百の枝々によって神に根ざし、神に結ばれます。地獄の全勢力といえども、その交わりを破ることはできませんし、あなたを主の愛から引き離すことはできません。

主イエスよ、あなたご自身を私にとって、
生ける輝ける現実として下さい。
いかなる外側の物事よりも、
信仰のまなざしにはっきりと見せて下さい。
甘美な地上の絆よりも、
さらに親しく、さらに親密にならせて下さい。

さらに私に近づいて下さい、
生ける愛する救い主よ。
あなたの御顔の幻をさらに明るく輝かせ、
あなたの恵みの御言葉をさらに栄光で満たして下さい。
人生が愛に変わるまで、
地上の天が天上の天に変わるまで。
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人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

町はすっかり閑散として、買い物にでかけると、客がすれ違う客に敵対的な眼差しを向け、店員から話しかけられることにさえネガティブな反応を示す場面も見られる。公共交通機関でも、人々は自分が感染者とみられることを極度に恐れつつ乗車しているかのように見受けられる場面もある。

阪神大震災・東日本大震災の直後には、巷に溢れる悲劇的なニュースは大いに同情と共感を呼び、みなで苦難を分かち合い、乗り越えようとの雰囲気があった。しかし、今回のウィルス騒動では、同じ苦難をともにしている者同士、団結して乗り越えようという雰囲気は見られず、むしろ、より人々の分断化が進み、責任の押し付け合いがあり、隣人同士が互いを警戒し合ったり、品物を奪い合う競争者になってしまうような殺伐としたニュースも飛び交っている。

何か大きな時代の変わり目が来て、これまでの国の方針そのものが揺らぎ始めているのを感じる。裁きの時が来たとまでは言わないが、国の施策はことごとく裏目に出て批判を浴びており、自粛モードの中で、ゴールデンウイーク中の楽しいバカンスや、オリンピックの話題なども、すっかりどこかへ消え去り、口にすることもはばかられる状況になり、いかにしてパンデミックの阻止だけでなく、不安心理の拡大が、暴動や騒乱や政変に結びつくことを防ぐかに心血を注ぐべき状態になったという印象だ。
 
とはいえ、筆者はごく普通の日常生活を続けているだけで、買い占めにも走らず、日常生活に支障をきたす事態にも遭遇していない。震災の時もそうであったが、被害と無縁の地域にはいなかったはずなのに、なぜか筆者の周りには、深刻な被害にあったという人もほとんど現れない。

緊急事態宣言へ向けての法整備が行われるとかいった物騒な話が流れる中でも、筆者は、ただこれまで以上にごく普通の日常生活を送らねばならないと要求されているだけのような気がする。閑散とした町で、日々の通勤を続けることや、相変わらず、こなさねばならない予定に着手することは、それ自体がチャレンジである。

我が国がこれを機にどういう方向へ向かうかは知らないが、筆者の個人の人生において、問われているのは、ただ自分自身の心だけである。

あなたは恐れて退却し、打ち負かされるのか、それとも、立ち向かって勝利を得るのか。
 
ジョージ・ミュラーはすべてのことについて、神に祈れと勧めた。届いた荷物をくくっている紐の結び目が解けない、といった些細な問題についても、神に祈れと。
 
もちろん、声に出して祈ったりしない。神頼みするわけではない。しかし、私たちの内におられるキリストは、すべての問題に対する解決である。
 
だから、この方が共におられるのに、行きづまりなどが、どうして訪れようか。
 
* * *

筆者は最近、物事の本当のありようが、見かけとは正反対であるということに、気づくようになった。

人前に立って演説をし、注目を集めたがる人間の中に、真の実力者はいたためしがない。口達者で饒舌でネットワークを築くことに熱心な人間の中に、真の知恵者がいたこともない。

大勢の人々に囲まれ、人気を博しているように見える人間が、その反面、孤独な悩みを持て余していなかったことはない。

うわべだけパフォーマンスが得意で、さも自分には優れた能力があり、知恵があるかのごとく見せかけることに巧みな人間は、ことごとく詐欺師の類と考えてよい。

その原則は、牧師が神の代理人ではない、というのと同じである。

神に選ばれているかどうかは、うわべだけのパフォーマンスによって決まるものではないのに、見せかけの立場によって、自分が「選ばれた人間」であることを証明しょうとする人々は、ことごとく、選びから漏れていると考えて差し支えない。

つまり、自分たちは神に選ばれた人間であるという名札を下げて集まっているキリスト教という一大集団では、真実性が極端に薄れ、失われているということである。
 
だが、信仰と関わりのない人間社会にも、同じ原則が当てはまる。弁舌巧みで、パフォーマンスに優れ、コネを結ぶのが大得意な人間に、実力や、真実性や、誠実さがあるかどうかは、試してみれば、すぐに明らかになる。

試さないでうわべだけのパフォーマンスを真に受けているから、いつまで経っても、詐欺師を詐欺師と見抜けないまま騙されて終わるのである。

過去には「ヴィオロンさん、私はあなたを助けてあげたいんですよ」などと言って近づいて来る人々もいたが、残念ながら、そんな風に、他人の弱みを見つけ出しては、かいがいしく助力者をきどろうとする人々が、真に助力者の名に値する人間だったことは、一度もない。
 
聖書的な事実に照らし合わせても、それは偽りではない。なぜなら、真の助力者とは、見えないキリストご自身だけであって、目に見える人間はことごとく頼りとはならないからだ。

だとしたら、目に見える人間が、弁舌の巧みさ、パフォーマンスの巧みさ、優れた仕事ぶり、人的ネットワーク、「実力の程」などを誇っていたら、どうだろうか?

ある人々が、自分には高い地位がある、職責がある、俸給がある、豊かさがある、だから、ヴィオロンのごとき貧しい人間とは違う、などと誇っていたら、どうだろうか?

まず、それは詐欺師の類と考えて差し支えない。

彼らは、人前で己が富と権勢を誇っているのではなく、主の民の前で、当てにならないものを誇っているだけなのだ。よって、彼らが凋落するのは避けられない。

この人たちのパフォーマンスは、すべて自分の愚かさ、無能さ、空虚さを覆い隠すための嘘、時間稼ぎでしかないからだ。

だが、彼らは「毒麦」として、刈られるその日が来るまでは、放置されるだろう。いつか裁きの時が来て、何が実体の伴う本物であり、何が空虚な偽物であるかが、試され、明らかにされる日が来る。うわべだけの内実のないパフォーマンスでは、生き残れないし、無能な役立たずとして放逐される日がやって来る。

時が縮まっており、その日が驚くほど駆け足で近づいて来ていることを筆者は感じている…。
 
* * *

以前から、当ブログでは、労働は、人が自己の罪を自分で贖うための救済手段であるため、本質的に神の救いに敵対している、と書いたことがあった。そして、そのような悪しき文脈を離れた仕事のあり方を模索せねばならないと。
 
しかし、この問題についての考察を推し進めて行く中で、筆者が改めて気づいたことがある。
 
この世においては、賃金が払われている限り、対価としての労働を提供するのは当然であるから、雇われている人間が、その立場を捨てずに、以上の仕組みから脱出することはできない。

とはいえ、その世界でも、高給で雇われている人間が、低賃金で雇われている人間以上の働きをしさえすれば、賃金格差が不公平を招くという問題は解消されるのだ。

問題は、世の中がその逆を行っているところにあり、若くスキルもなく低賃金で雇われている未熟者が、人一倍苦しい労働を押しつけられる一方で、経験豊富で年齢も高くスキルもあるはずの高給取りが、その上に君臨してふんぞりかえって遊びながら、舌先三寸で空虚で的外れな命令を下し、不労所得にも近い俸給を得ているところに、不公平の源があるのだと・・・。

賃金格差は、支払われている賃金に見合った労働が提供されれば、なくなる。そこで、経験豊富でスキルの高い高給取りが、誰よりも大変で責任の重い仕事を必死になってこなし、他方、低賃金で雇われている未熟者が、彼らの何倍も負担の軽い仕事をするようになれば、格差などといった概念そのものが消えうせるのだ。

かつて手束正昭というカリスマ運動を率いる牧師が、『教会生活の勘所』という著書の中で、「霊の父・母」である牧師夫妻は、信徒の模範としての威厳を保つために、決して自ら教会のトイレ掃除などしてはいけない、などと書いていたが、これはとんでもない偽りであり、聖書の事実は、それと真逆である。

主イエスは、偉くなりたい人こそ、他の人々に仕えなさい、と教えたのであるから、まず、御言葉の奉仕者である牧師夫妻こそ、信徒の模範として、率先してトイレ掃除に従事すべきなのである。

安定した献金を得ている大教会の牧師が、立派な服を着て壇上に立って信徒たちに向かって偉そうに説教を語る前に、誰にも告げずに膝をかがめてトイレ掃除をすれば良いのである。そこから始まり、すべての雑用を自らこなすべきである。

なぜなら、キリストは、実際に、ご自分がひざをかがめて、弟子たちの汚れた足を水できれいに洗われたからである。牧師たちが、まず汚れ仕事を率先して担うようになれば、それを見た他の信徒たちも、その姿にならう日も来よう。

そういうわけで、高給をもらっている年配者たちは、若者たちの前で、自ら模範となって、自分の手を汚して、苦しい労働を率先して引き受けるべきなのである。自分の仕事がいかに楽であるかを他の人々に思い知らせるために、可能な限り働かず、権威をふりかざして君臨し、偉そうに説教し、役職を書いた名札をぶらさげて、無意味な会議に延々と明け暮れるために、仕事をするのではいけない。

そんな仕事ぶりでは、誰からの尊敬も受けられず、 年齢は、自分だけがずるく立ち回って楽をするための狡知を生み出すための時間としかみなされず、高齢者への憎しみは増し加わって行くだけであろう。
 
もちろん、これは理想論であるとはいえ、実地にも適用可能であるということに、筆者は気づき始めた。

多くのスーパーなどでは、高齢者のための割引がある。高齢者はお金を持っているから、割引することで、さらに消費欲を刺激しようという店側の作戦なのであろう。他方、若者には金がないから、もともと豪奢に散財するはずもなく、どうせ半額セールを狙ってやって来るような客に、割引してやったところで、もとが取れないという考え方なのである。

だが、筆者の考えはそれとは逆であり、若者には、今、手元に何もないからこそ、社会が彼らに未来を与えてやるために、投資しなければならない、というものである。時間的余裕も必要であれば、経済的余裕も必要である。

その余裕を若者(そして若者とは呼べない不況世代も含め)に与えるために、全社会的なアファーマティブ・アクションを実施する必要があり、それを早急にしなければ、この国はもう持たず、未来がない、というのが筆者の考えである。

就職氷河期への支援などは大海の一滴に過ぎず、全社会的アファーマティブ・アクションが必要なのである。すでに人生の安全圏に滑り込んでいる高齢者や、子供のいる家庭、金持ち世帯への優遇策ばかりを頭をひねって考えるのではなく、今、何も持っていない乏しい若者の未来のために、社会が投資をしてやらねばならない。

それができなければ、少子化など解消されるはずもなく、労働力の不足も補うことはできないまま、いずれ町には高齢者が溢れ、介護を必要とする者が溢れ、それを助ける者もなくなり、国は滅亡へ向かうだけである。

他人が困っているときに、残酷にそれを見捨てて、踏みつけにし、嘲笑して来た人間が、どうして自分が困ったときに、他人の助けを受けられようか。老いては自分が見捨てられ、踏みつけにされ、嘲笑されるだけである。

そうならないためには、相互扶助が成り立たなければならないのであって、強い者がその強さを行使して弱い者を助ける社会が成立していなければならないのである。

* * *

そういうわけで、筆者は、筆者よりも強い者が、筆者のために何をすべきか、また、筆者が筆者よりも弱い者のために、何をすべきかを考えている。日々の生活は、そのための実験場であり、そのために労することが、筆者の労働であり、奉仕である。

この世がいかに絶望的に見えても、正しいことは、それなりに実行可能であり、主張し、行いさえすれば、ちゃんと実現することができる。

そこで筆者は、これ以上、むなしいものに注目しないために、うわべだけの見かけ倒しのパフォーマンスや、「自分たちは特別に選ばれているから、あなたとは違う!」などと豪語する人々の自慢話には、全く耳を傾けないことに決めた。

ノアが箱舟建設していた時も、きっとそんな有様だったろうと思う。地元住人たちのうち、誰がその作業の意味を理解したであろうか。嘲笑の的にしかならなかったに違いない。地元住人たちは、自分たちの幸福と安寧は永遠に続くと考え、自分たちこそ選ばれた者だと考えていたため、ノアがなぜその世界を脱出するために箱舟など作っていたのか、一切、思い当たる理由もなかった。ゆえに巨大な箱舟建設は単なる嘲笑の的だったに違いない。
  
地元住人たちは自分の幸福に酔いしれ、その世界はいつまでも安泰だと自慢話を続けていたが、その自慢話は次の一言に集約される、「わたしたちは女王の座に就いており、やもめではないから、孤独を知らない!」

もちろん、それは女王バビロンのつぶやきである。私たちは安全圏に滑り込んだ、豊かになって、乏しいことは何もなく、たくさんの愛人たちや取り巻きもいるため、孤独とは一切無縁であり、心配することなど何もないと・・・。

だが、本物の女王がそんなことを言うはずがない。自慢話をするのは、本当に高貴な身分を有さない僭称者だからである。偽り者だからこそ、自分が本物だと語らずにいられないのだ。

だから、頼りにならないものを頼り、幸福でないものを幸福と偽り、不正にまみれた富を誇り、偽物の王が本物を自称する・・・、そんなむなしい会話の共犯者とされないために、筆者はその会話からは遠ざかることにした。

筆者は心の中で言う、多くの人々は、勝敗はすでに着いた、などと言って、自分の栄耀栄華を誇っているが、まだ勝負の場は終わっておらず、筆者の待っている人は、ここには現れていないと。約束の時間は、まだ来ていないし、本物の王は現れておらず、その王は、自分がやって来たときに、各自の隠れた働きを見て、それを評価すると言われたのだから、筆者はその時を目指して走っていると。

彼らは、他人を可哀想がることで、自己の優位性を感じることを、よすがとしているのかも知れないし、己が富や権勢を誇ることで、他人を駆逐できると勘違いしているのかも知れないが、筆者には、可哀想がられる筋合いもないため、余計なお世話だと思っているし、富や権勢を見せびらかされたからと言って、それを羨むこともない。

筆者が何ら不憫がられる立場にないことは、筆者に日々与えられている課題が、達成不可能なノルマでないことによって、逆説的に証明されている。

こうして、筆者は、誰がどんなに気を逸らそうとしても、ただ自分の分を果たすだけで、人々が誇示する「可哀想でなくなる」ためのヒエラルキーの階段を膝でのぼらず、彼らが自己の優位性として見せびらかしている善悪知識を得るために手を伸ばすこともしないと決めた。

筆者は、かつて裁判官が果たしているような役割を自分も果たしたいと望んだが、今は、その知識と権力の階段をさらに上に上って行くことで、さらなる決定権を持ちたいとは望まない。

そうした判断や決定は一定の効果を持つし、何よりも正義を判断するという仕事には、非常に大きな魅力と、きらびやかさと、権力も伴うが、筆者はそうした仕事の中に真実や正義が見いだせるわけでないことをよく知っているし、何よりも、自分よりも貧しい者たちを罪に定め、虐げるための所業に加担したくない。

それゆえ、筆者は人の考える「善悪知識」から離れ、人の上に立つ権力を求めず、自分よりも貧しい者たちから自分で取立をしないため、かえって、人の注目する知識と判断の全く伴わない領域に去ることに決めた。いや、去ることに決めたというより、筆者はそれに関わってはならないという結論が自然と出て来たのである。
 
そうして訪れたのは、判断しているようで、していない領域、罪に定めているようで、定めていない領域、悪人がいるようだが、いない領域、徴収しているようだが、していない領域だ。

こうして、人の考える正義を貫くために作られたピラトの階段に背を向けることは、人が誉だと考えるものに背を向け、むしろ、敵意と嘲笑の中で箱舟建設をすることにも等しく、その意味を理解する者も少ないであろうが、その生き方は、孤独と見えても、孤独ではない。なぜなら、見えない領域で、ちゃんとその働きを見て評価する「王」がいるからだ。

人目を集め、何か派手なことを達成しているように見えながら、その実、真実性もなければ、公平性もない空虚なパフォーマンスにはこれ以上、加担したくない。

この世からの権勢も、知識も、権力も、栄誉も、賞賛も必要ない。他人の評価など全くどうでも良いことであるから、ただ自分の心の中で、偽りがないと信じられる生き方を貫き、人の目に正しいと認められるのではなく、神の目に正しいと認められる人生を目指すのみである。
 
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:42-45)

愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。

「神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
  魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
  心の思いと意図を素早く識別します。
 (ヘブル人への手紙4:12、改訂訳)

「はじめに神は天と地とを創造された。
 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。 」(創世記1:1-4 口語訳)

それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。

 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:17-18 新改訳)

わたしの民がわたしに聞き従い、
 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。

 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたがたを飽かせるだろう。」(詩編81:14-17)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)


* * *

今から何年も前のことだ。ある職場に勤め始めたとき、上司が「チサイに行ってくるね」と声をかけた。その頃、勤め始めたばかりだった筆者は、ぽかんとした顔で上司を見上げた。

「ああ、あなたはまだ入ったばかりだから分からないよね。チサイって、地裁のこと。東京地方裁判所のこと。」

地裁は職場から歩いて行けるところにあり、上司たちは連れ立って何度も訴訟に出かけていたのであった。筆者自身は、主に事務所の留守番をつとめ、一度も彼らと共に外出することはなかったが、その頃から、少しずつ、裁判所は筆者の人生に近づいて来ていたような気がする。

自分自身が裁判に臨んで、学んだことは無限にあった。汲み出しても、汲み出しても、まだ汲み尽くせないほど、そこには無限の学習があった。筆者はそこに、命の水の流れがあることを感じた。誰も見向きもしない、味気ない紛争のフィールドは、隠された命の宝庫のようであった。ここに、筆者だけでなく、多くの人たちを解放する秘訣があると、筆者は直観で悟ったのである。

筆者はその確信を胸に、二度とそのフィールドを離れないことに決めた。二度と生涯、専門家を名乗ることはないだろう。ただの無名の市民として、この泉のほとりにとどまり、これを自分の生きるフィールドと定め、可能な限りの命を汲み出してみようと決意したのである。

筆者は、プロテスタントと資本主義を離れることに決めたと幾度も書いた。詐欺と、搾取と、弱肉強食の横行する、人間を骨までしゃぶり尽くす過酷な競争の場と化した貪欲な金儲けの世界を永遠に離れ、自分の専門を離れ去り、今後は自分の満足のためでなく、真に人々の益になるよう生涯を捧げようと決意した。

すると、あれよあれよという間に、まるで天がずっと前からあなたをここで待っていたのだと言ってくれたような具合に、すべてが開けたのであった。

これまで、あれほど生きるために苦労していた心配は、何だったのであろうか。今までを振り返っても、これほどすべてが首尾よく運んだことなど一度もないというほど、すべてがビジョンの通りに運んだ。

ああ、これで本当に良かったんだなと思った。どうやら、筆者は運命的な出会いを見つけたらしい。この道は、これまでのように、筆者の片思いではないし、悲劇へと続く道でもない。相思相愛の道、豊かな報いが約束されている道だ。

どんよりとした陰気な曇り空の下、不安の中で踏み出した一歩だったが、物事は見た目ではなかった。紛争とよく似ている。見た目は非常に好ましくない、がっかりさせられるような味気ない外観の中に、永遠にまで至る、尽きせぬ喜びと感動が隠されている。

それは謙虚さや、低められることの意味を知っている人にしか、たどり着けない命の泉である。

さて、このところ、筆者が主に回答を委ねていた複数の問題があった。

この世には、妥協もできず、和解してはならない相手というものが存在する。人間的な思いでは、私たちは誰とも離反したくはないし、誰をも罪に定めたくないと思うだろう。しかし、DVを繰り返す人間が、許せば許すほど、ますます増長して行くだけであるように、許すことが有害な相手、和解してはならない相手というものも、この世には存在する。

もしも私たちがエジプトを真に去ったのならば、後ろを決して振り返ってはいけない。二度と元いた場所に戻ろうと思ってはいけない。だが、そのためには、エジプトと私たちとの間には、紅海という不可逆的な断絶が横たわらなくてはならない。

エクソダスである。御言葉による切り分けである。

そういう意味で、判決とは、相容れないものを永遠に断絶させて、物事の是非を切り分けるための宣言であることが分かった。

原告となって自ら訴訟を起こした多くの人たちは、判決を得ても、賠償が支払われないかも知れない恐れなどから、和解を選択する。判決を取れば、罪に定められた相手が反発し、賠償金を踏み倒すかも知れない。その上、控訴してくるかも知れないと恐れる。だが、和解ならば、きっと双方が自主的に選択した解決だから、誰もこれを踏みにじることはあるまいと考えるのだ。

彼らは思う、判決によって物事を永遠に切り分けるような「残酷な」措置を取るくらいなら、人の面目を潰さず、金銭的和解にとどめておいた方が「穏便な」解決であると。

ところが、筆者は考えてみればみるほど、実はそうではないことが分かって来る。

筆者の心の中で、判決に対して沸き起こる尽きせぬ畏敬の念、憧れのような感情は、一体、どこから来るのだろうか。なぜ筆者はこれほど正しい裁きを切望するのか。

この曲がった世の中で、どうしても、誰かが上から力強く裁きを宣言し、争いに終止符を打ってくれなくてはならない。誰の過失によって、このような事態が起きたのか、はっきりと白黒つけて、宣言してくれなければならない。誰かが力強い腕で、死にかかっている我々を泥沼から救い出し、引き上げてくれなくてはならない。

当事者同士の終わりなき話し合いでは、私たちは闇の中をさまよい続けることしかできず、決して光にたどり着くことができないのだ。

それは神なくして生きる被造物の真っ暗闇の世界に似ている。どれほど主張書面をうず高く積み上げようと、これを認定してくれる存在がなければ、私たちの訴えはむなしい。

もしも一度で正しい裁きが得られないなら、二度でも、三度でも、挑戦して構わない。自分の都合だけを認めてくれと叫ぶのではなく、とにかく光へ向かって、私たちを照らし出してくれる正しい光へ向かって、全力で走って行って、命を獲得しなくてはならないのである。

判決を得ることは、和解することに比べ、多大なる困難がつきものである。しかし、判決の最も大きな効力は、隔てられるべきものを永遠に隔てると宣言することにある。
 
もしも私たちがエジプトを真に去って来たならば、もはやエジプト軍との和解はあり得ないはずだ。追っ手を恐れてはならない。紅海で溺れ死ぬのはエジプト軍であって、我々ではない。

筆者は思う。神は私たちの心から、断ち切られるべきものが断ち切られることを、望んでおられるに違いないと。和解ではない。必要なのは隔てである。

神は十字架を通して、私たちを罪から永遠に断絶させ、永遠の隔てを置こうとなさっておられる・・・。

これまで一度も記したことがなかったが、当ブログを巡る訴訟では、筆者は遮蔽の措置というものを願い出た。

これは法廷で被告と対面しなくて良いための措置である。このような措置が認められるのかどうかは、大きな賭けであった。もしも認められなければ、我々は法廷で一同に会することになる。面識ができることになる。面識が出来るということは、知り合うということであり、関係性がより深まって行くことである。

訴訟が始まるまでの間、一体、この問題はどうなるのかと、筆者は不安に駆られていた。幸い、裁判官はこれを許可したが、被告は憤慨した。被告は筆者が彼らを過度に警戒し、危険人物扱いし、侮辱しているかのように主張していただけでなく、その後、裁判官がこの措置を認めたことまでも、裁判所の不法行為だと言い立てていたくらいである。

一審の最中、筆者は、この遮蔽の措置とは、神と人とを隔てる十字架の象徴であり、人の意思では決して取り除くことのできない、救われた者とそうでない者、聖なるものとそうでないものとを隔てる区別なのだと、準備書面に書いた。

被告がもし信仰によって結ばれた兄弟姉妹として、罪を認めて謝罪と償いができるならば、こんな隔ての壁は要らない。和解も可能なのに違いない。だが、もしも罪を認めないならば――それはただ筆者に犯して来た罪を認めないことを意味するだけでなく、人としての原罪までも否定する行為を意味し、神の救いに逆らっているのであって、彼は兄弟ではない。私たちは対面することができず、知り合うこともできず、神の怒りという遮蔽の措置によって、永遠に隔てられたままに終わるだろう。

こうして、我々は最初から最後まで、対面することがなかった。そして、判決が我々をさらに遠く永遠に隔てた。もう一人の被告は、一度たりとも法廷に出向くことはなかった。

ところが、こうして永遠の隔てが置かれているにも関わらず、それでも一審判決後、筆者は賠償金の取立のために、自らの意志で被告に会いに行こうとしていた。筆者は当初、それが自分の責務であるかのように考えていたのである。

ところが、それも成らなかった。被告は筆者が出向こうとしていることを憤怒して非難し、筆者も忠告を受けて計画を中止した。やはり、我々には、目に見えない霊的な領域において、どうしても乗り越えることのできない隔てがあるらしい。筆者がどう考えようと、会うことが「禁じられている」のだ。

それだけではない。賠償金の取立のための接触さえも、行ってはならないことが、だんだん分かって来た。筆者と被告とは、一切、無関係であり、ただ被告が筆者に対して負い目を負っているだけで、筆者の側から、被告に対してなすべきことはない。

訴訟における判決とは、人間の造り出した法的拘束力を伴う言葉である以上に、霊的な領域においても、隔てられるべきものを永遠に隔てる宣言であり、それ自体が、原告と被告との間に横たわる永遠の「遮蔽の措置」としての十字架だったのである。

二審では、それがもう一人の被告に対しても宣言されねばならない。それによって、呪いが完全に断ち切られるであろう。

これは考えるだに厳しい、峻厳な霊的原則であって、人間的な感情に基づいたものではなかった。

筆者が飽くことなく判決を求める願いはどこから来るのか、少し分かったような気がした。それは、事を荒立てたいという願いから来るのでもなく、誰かを罪に定めたいという願望からでもない。何が正しい事柄であり、何がそうでないのか、何が神に喜ばれる尊い事柄であって、何がそうでないのか、何が清い、聖なるものであって、何がそうでないのか、何が真実であって、何が偽りであるのか、何が正義であり、何が不法であるのか、筆者自身が、可能な限り、その区別を明らかにして、正しい裁きをなして欲しいという切なる心の叫び求めから来るのだと分かった。

たとえ筆者自身が罪人の一人として焼き尽くされ、無とされても良いから、神の喜ばれる正義が何であるか、真実が何であるかが明らかになって欲しい。もうこれ以上の嘘と不法はたくさんだという切なる願い求めがあった。

だが、キリストの十字架ある限り、筆者は、罪から救い出され、死から救われて生きるであろう。

「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。 「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、 雪のように白くなる。 たとい、紅のように赤くても、 羊の毛のようになる。」(イザ1:18)

これは言葉に言い尽くせない峻厳な「切り分け」である。私たちの罪が赦されるすべての根拠はキリストの十字架にある。これが私たちの唯一の防御の盾であり、装甲である。

だから、汚れたものと分離しなさい、と主は言われる。この点について、主の命令は厳しく、妥協なく、絶対的である。中途半端な分離というものはない。彼らを断ち切りなさい! 心の中からも、生活の中からも、一切を断ち切りなさい! 十字架の装甲の中に隠れなさい! 二度と彼らを振り返ってはいけないし、関わってもならない。対話してもいけないし、和解する余地は二度とない。

こうして、二度と後戻りできない断絶が宣言される、それが判決なのだということが、だんだん分かって来た。いや、それが訴訟というものなのである。

和解の問題を考える度に、心に沸き起こってくる厭わしさは、そのためだったのかと分かった。暗闇の余地を残してはならないし、グレーなままで終わりたくない。負うべきでない負い目を、これ以上、恐怖のために負わされたたくない。どんなにリスクが伴っても、正しい裁きへと至り着き、命に到達したいという願いをあきらめられないのだ。

これがエクソダスの原則なのである。エクソダスしたならば、二度と後ろを振り向いてはいけない。堕落したものとの分離において、中途半端な態度ではいけない。山頂に達した人が、そこに自分の旗を立てるように、私たち自身が自分の心に宣言しなければならないのだ。

脱出は完了した。裁きはカルバリにおいて下された。我々はこの十字架を通して、この世に対してはりつけにされ、この世も私たちに対してはりつけにされて死んだ。生きているのはもはや「わたし」ではない。世は私たちに触れることはできないし、重荷を負わせることもできない。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(ヘブライ12:1-3)

「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」、私たちはどこへ向かって走るのか? もちろん、自由へ向かって、解放へ向かって、約束された天の都に向かって、復活の命の領域に向かってだ。後ろを振り返ってはいけない、ただ真直ぐに前だけを見なさい。真直ぐに天だけを見つめ、目的に向かって走り抜けなさい!

まるで霊的な目が開けたように、これは人情でどうにかできる世界ではない、と分かった。鳥肌が立つような厳粛さがそこにあった。もしも後ろを振り返るなら、不信者と共につりあわないくびきを負わされ、ソドムを振り返ったロトの妻のような運命が待ち受けているだけである。

訴訟というのは、分岐路である。もはやそこに来た以上、後戻りはできないのだ。あなたは一体、何を選ぶのか、何を望むのか、問われている。

筆者が慕い求めるべきは、エジプトでもなく、ソドムでもない。御言葉によって与えられた、まだ見ぬ約束である。それがまだ成就しておらずとも、いや、成就していないからこそ、私たちはこの約束を価値あるものとして握りしめ、これを慕い求め、その約束が成就する日を信じて待ち続け、忍耐しながら目的へ向かって走るのである。

その約束の真の意味は、キリストが私たちを迎えに来られることである。そして、私たちの完全な救い、完全な贖いが成就することである。その日のために、私たちはもう一度、自分自身を聖別し、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、自分が何者であり、誰のために捧げられた者であるのか、片時も忘れないように心を決める必要がある。

教会はただ一人の男子キリストのために捧げられた聖なる花嫁である。汚れた者はこれに触れることができない。もう一度、冒頭にも挙げた御言葉を引用しておこう。

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。
 全能の主はこう仰せられる。」

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

私ではなくキリスト―事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(3)

最後に、これまで当ブログでは、掲示板とは、グノーシス主義の「鏡」に当たるものだと主張して来た。この「鏡」とは、本質的に「虚無の深淵」であり、本体の像を盗み、これを歪んだ形で映し出し、出来損ないの贋作を大量に作り出すことによって、本体の尊厳を奪おうとする、悪意ある鏡である。

この贋作は、言い換えるならば、「なりすまし」である。グノーシス主義における神々の誕生は、「存在の流出」という概念に基づくものであって、これは被造物が神になりすますものであることも述べた。

聖書には次のくだりがある。

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


この御言葉を読む限り、鏡とは、被造物である私たちであり、私たち自身が鏡のように主の栄光を反映する存在であることが分かる。

しかし、グノーシス主義はこれとは反対に、創造主である神を「鏡」と規定する。そうすると、本体(造物主)と影(被造物)との関係が逆転し、神は虚無となり、その鏡には、もろもろの被造物の姿が映し出されることになる。

結局、それは、被造物が、自分の姿を鏡に映し出し、それを指して「これが神だ!(私が神だ!)」と言っている状態を意味するのであって、それは虚無に過ぎない被造物が神になりすました世界であるため、その世界をどこまで旅しても、虚無以外のものは見いだせない。

匿名掲示板、おびただしい数のミラーサイトなどは、どこまで行っても、鏡に映った映像以外の何物でもなく、決して「本体」に巡り合うことのない世界である。しかも、その映像は、本体の性質を盗み取って出来た質の悪い模造品であり、自分では何も創造する力がなく、他人のエネルギーを吸い取り、奪い取ってしか生きられない人々の作り出した虚無の世界である。

 * * *

今ちょうどディプログラミングの問題性について書いているところです。(掲示板でおそらくカルト被害者救済活動の支持者と見られる人々の行っている)著作権侵害も、強制脱会活動の一環とみなすことができるかも知れません。

ディプログラミングというのは、米国では70~80年代に行われ、数々の民事・刑事訴追により信教の自由の侵害及び人権侵害の犯罪行為と認定されて、とうに違法となって廃れた強制脱会活動のことですが、日本ではこれが2016年になるまで、プロテスタントのキリスト教会の複数の牧師たちによって続けられて来ました。

要するに、これは「カルト問題の専門家」を自称する人々が、「カルトのマインドコントロールの被害を受けている」と勝手に決めつけた信者の「誤った宗教洗脳」を「解除」しようと、彼らを拉致したり、監禁しながら、彼らが自らの誤りを認めて「棄教」して、脱会カウンセラーにとって都合の良い考えを「正しいもの」として受け入れるまで、無理やり人権侵害を繰り返し続けながら、棄教を強要することなのです。


日本では、統一教会の信者を対象に、ディプログラミングに基づく拉致・監禁を伴う信者の強制脱会・棄教運動が行われて来たことは、すでに述べました。拉致や監禁といった人権侵害を繰り返すことで、「その考えを捨てねば、おまえをもっと苦しめてやるぞ」と圧迫を加え、ディプログラマーが自己に都合の良い「再プログラミング(再洗脳)」をその人に施すのです。

まあ、平たく言えば、拷問で自白を強要して罪を認めさせるようなものです。拷問を受け続ければ、誤った考えを持っていない人でも、いつかは降参して自分の考えを誤ったものとして捨てることになるでしょう。


米国のディプログラミングも、専門家でない人々によって行なわれていたようですが、日本はもっとそうです。たとえば、「脱会・救出カウンセラー」を名乗る村上密、ジャン・ドウゲン、パスカル・ズィヴィー、ウィリアム・ウッド、これらの人々はみな専門的なカウンセラーでも臨床心理士でもない。カウンセリングは、通信教育などで学んだ程度で、大学教育で専門的に学んだわけでなく、実践的な訓練を受けていない。そうして専門家の資格を持たないまま、牧師や宣教師の立場から、カルト問題に関わるようになり、「脱会・救出カウンセラー」を名乗るようになった。いわば、自称専門家であって、真の専門家とは言い難い人たちが中心に、カルト問題を扱って来たのが日本なのです。

さらに、被害者の代理人などという立場は、もっと何者であるか、よく分かりません。私から見れば、ドッペルゲンガーとでも呼ぶべき不気味な存在で、他人の分身になることによって、その人をマインコドントロールするのに非常に都合の良い立場です。

たとえば、誰かの後見人になれば、その人の法的権利まで取り上げられますから、後見人制度を悪用する人たちもいるわけですが、代理人には権利は取り上げられないが、誰かの意思を代弁することはできるのです。


しかも、代理人が、本当にしかるべき代弁をしているならまだしも、鳴尾教会に対する裁判の時のように、代理人が信者を敗訴に導いているのであれば、いかに敗訴は、提訴した信者の責任であると言っても、信者を裁判へ焚き付けた代理人にも、「道義的責任」が生じることは、免れられないでしょう。

なぜ代理人に関する話と、主任牧師引退の話が結びついているのか、すごく分かりにくい不思議な記事ですね。代理人が、信者に訴訟を勧めても、訴訟の途中で、約束した和解を蹴って、加害者が逃亡する例もある。そういう加害者にも、真に「応分の酬い」を受けさせているのであれば、代理人には、道義的責任など生じるはずもないことですが、勝てると思った訴訟で、加害者に逃げられてしまった被害者たちは、無念を噛みしめざるを得ないでしょう。

さらに、代理人が訴訟を勧めても、信者が敗訴した場合、敗訴という不名誉な事実を覆い隠すために、加害者とみなした人間にいつまでもブログで誹謗中傷を重ねることは、不法行為でしかなく、加害者に対する「応分の報い」とは全く呼べないことは言うまでもないですね。


掲示板も、それ自体が、ドッペルゲンガー(グノーシス主義の悪意ある鏡)であり、本体を凌駕して滅ぼすための「分身」なのです。

私に対して悪意を持つ者(おそらくカルト被害者救済活動の支持者)が、ディプログラミングの手法に基づき、このブログを私が更新し続ける限り、嫌がらせをやめないぞという意思表示をしているわけなんです。

被告Aは私が異端者であるとブログにも準備書面にもあからさまに書いていましたが、掲示板の著作権侵害も、私の考えが「異端的教説」であるとみなし続ける人間が、「俺たちを批判するおまえの口を封じるまで、権利侵害に及ぶぞ」と言って加えている懲罰だと私は受け取っていますよ。


被告Bのブログが引用されて締めくくられるところを見ても、こうした権利侵害を繰り返す人間が、カルト被害者救済活動を擁護したいがためにやっているという目的は明らかではないですか? 常に被告Bに更新をリードさせておきたいから、私のブログを引きずりおろし、かつ、被告Bの記事を見せつけるために、コピペを繰り返しているのではないでしょうか。

被告Bは自らのブログで、法的措置が難しい場合には、社会的制裁として、自らのブログでカルトの疑いのある人物や団体を批判する、と書いていませんでしたか? これと同じように、もしくは、これにならって、掲示板で、カルト被害者救済活動の敵対者とみなした人物に「社会的制裁」を加えたい人たちがいるということだと私は思っています。


日本のプロテスタントの牧師らが行って来た強制脱会活動については、まだ全体が裁かれたことがなく、統一教会からは多数の批判と裁判例があり、さらに書籍も出てますが、まだまだ世間にこの問題が一般に周知されたとは言い難い状況にあります。

そこで、今回、このような運びになっていることには、運命的な巡り合わせを感じます。これまで強制脱会活動の違法性を訴えて来たのは、主に統一教会の信者でした。しかし、カルト被害者救済活動が違法であることを、キリスト教の中からも、誰かがはっきりと証明し、キリスト教徒の側からも、この運動を真に終わらせることが必要な時期に来ているのだと私は思っています。


掲示板の権利侵害は、毎回、これまで、裁判の判決などが近づくとやたら激化して来ました。この度、控訴審が始まろうとしていることが、よほど怖いのではありませんか。まあ、私としては、ネット上の嫌がらせを行っている人物を特定する材料が提供されて手がかりが増えるのは、ありがたい限りなんですが・・・。

それにしても、「応分の報いを受けている」。これはすごく怖い言葉だと思います。こういう言葉をさらっと言える人って、人間としてどうなのかと思います。私は勝訴した人物からも、賠償金を払われてないですから、加害者は応分の報いを受けていません。でも、それがかえって今の私にとっては良き効果を生んでいると思うんですよ。

これは賠償金を払わないことを正当化したり、免罪するために言うわけではありません。ただし、勝訴したからと言って、相手を完全に叩き潰すがごとく、執拗に追い続けて「応分の報い」を受けさせるなどということは、私には到底、許されてもいないことを言っているのです。


たとえば、家や土地があれば、わずかな賠償金で家を追われる事態にもなりかねないわけで。職が分かっていれば、仕事もクビになる可能性があるわけで。やろうと思えば、債務名義を片手に徹底的に相手を追い詰めることが可能なわけですし、それができるなら、そうなっていたかも知れませんが、そういう運びになっていないこと、そうなる前に各種の制止があり、かつ、控訴審も始まり、あくまで裁判所が許可した範囲でしか動かないよう道が限定されていることも、私にとっては極めて幸運であって、私が神に愛されていることの一つの証明なのです。

「応分の報い」を受けさせるって、とても怖いことです。加害者を追うのも、あくまで法的に許容された範囲で、判決に基づく強制執行くらいでとどめておかないと。鳴尾教会に対する裁判のように、敗訴した人間が、法的措置も及ばないはずの領域で、自ら相手に「社会的制裁」を加えるなどということは、絶対にやめた方がよろしい。

報復される方は神ですからね。勝っても負けても、自分自身で相手に報復した場合、その人も、悪魔と同じ報いを受けることになりかねません。


ですから、私は当ブログを巡る裁判では、一度で全部勝たなかったことも、争いが控訴審に持ち込まれて長引いていることも、私自身は何の栄光も受けていないことも、すべて神の采配と思いますよ。私には慢心するまで勝利を喜ぶ暇すらも与えられておらず、踏みつけられ、苦難が続いているだけなのですが、そのこと自体が、最大の防御であり、神の恵みと憐れみの証拠なのです。

そういう現状があればこそ、なおさら、一審判決は、私にとって価値ある尊いものなのですへブル人への手紙のごとく、。「まだ見ぬ約束」であればこそ、私は約束のものをはるかに仰ぎ見て、信仰によってこれを喜びを持って迎え、自分がこの地上では寄留者であって、目に見える都ではなく、見えない都を目指して歩んでいることを、尽きせぬ憧れと、誇りと、感謝を持って言い表すのです。

私たちの「応分の報い」は天にあるのです。そのことを考えれば、仮に約束のものに到達せずに死ぬことがあっても、決して恥とは思いませんね。なぜならば、天にはもっと大きな報いが待ち受けているからです。


しかも、神はいつでも私たちに必要なものを、別のルートで、すべて必要なタイミングで供給して下さいますので、苦難があれば、豊かな慰めも伴うのです。このように、判決を得ることには多くの犠牲が伴うものの、それだからこそ、なお一層、判決は尊く価値あるものと私には見えるのです。

* * *


名誉毀損により刑事告訴されたカルト被害者救済活動を率いる牧師が、ブログ記事を非開示にしたと言いながら、一部、閲覧可能なまま放置している。判決で削除を命じられた記事についてもそうだが、ブログが削除されたのか、非開示にされたのか、閲覧者が限定されただけなのかは、実に大きな違いである。

さらに記事の一部が残っていた場合、削除したことになるのか。こうした問題については、慎重な見極めが必要である。

掲示板の著作権侵害は、犯人が特定されるまで、続行された方がむしろありがたいかも知れない。終わったと思ってもまたぞろ出て来るのは、やはり特定せよという天の声とみるべきかも知れない。
 
 筆者は大々的な権利侵害のネットワークを何としても徹底追及しようとは考えていないのだが、これだけ執拗に繰り返されるのは、やはり追及せねばならない理由が存在するからではないのかと思わずにいられない。

筆者は、賠償金の回収を自分の責任として負わないこととしている。この問題には、裁判所が何らかの応答をするであろうし、それは筆者にとって、決してマイナス要因としては働かないだろう。

払おうとしなければ、払わない人間の信用が下がるだけである。一審判決を重んじない人が、何を目的として控訴するのか。二審でも自分に不利な判決が下った場合、それも無視するのかと、問われることは間違いがない。


カルト被害者救済活動を率いる牧師も、他人には謝罪と償いを要求しながら、自分自身が責められる段になると、賠償を払わないダブルスタンダードを容認するのでは、これから先、社会的信用は得られないだろう。

当ブログを巡る今回の裁判によって、カルト被害者救済活動の本質がとことん明らかになった、と筆者は考えている。この運動を今になっても正義の活動のように考えている人は、世間ではほぼ見当たらなくなったのではないか?

警察でさえ、牧師が信徒を名指しで非難するなどあり得ないと発言していた。まして告訴するなど言語道断な所業と言って差し支えない。宗教を知らない一般人から見ても、こうした牧師のしていることは異常と映っているのだ。

こうして、2009年から筆者の指摘した通りの過程を、カルト被害者救済活動は辿っている。めくらめっぽうの異端狩り、無実のキリスト教徒の粛清、魔女狩り裁判・・・。

当時から、被害者意識などに溺れていては、何も始まらないと、筆者は何度も警告している。自分には甘く、他人には厳しく、自己の責任は何も負おうとしないで、ただ他者だけを延々と責め続けるなどのことをしていれば、とんでもなく甘えた人間になって行くだけである。他人を責めるなら、なおさらのこと、自分自身も責められたとき、潔く責任を取らなくてはならない。

被害者意識、特に、神と教会に対する被害者意識は、人間を狂わせる。教会が教会に戦いをしかけ、互いに潰し合うなど、悪魔の所業としか言いようがない。

* * *

昔、学校では風紀員会などというものがあり、校則に違反したり、掃除をさぼっている生徒がいたら、先生に報告する「チクリ屋」の生徒がいましたが、カルト被害者救済活動に従事している人たちは、どこかしらそれに似ていると思いませんか。

当初から予想していたことですが、この運動は、初めは「カルト化した教会」だけを取り締まるなどと言いながら、いつの間にか、役所や、安倍政権批判をする人たちまでも「取り締まる」ようになっているようです。

自分たちは、過去の罪を反省して、清く正しく美しい生き方を目指してリハビリを重ねているという自負(実は束縛されているだけ)が、自由に生きている他者へのバッシングに向かうのでしょか。

掲示板は、役所への批判には過敏に反応しますね。(カルト被害者救済活動の支持者たちは)、自分たちは権力に勇敢に立ち向かっているかのように見せかけながら、いつの間にか、権力に迎合し、弱者や、権力になびかない変わり者をバッシングするようになったのです。私は当初からそうなるとずっと予告して来ました。

政権は自分になびかない国民を攻撃するために掲示板を都合よく利用しているともっぱらの噂です。こうした状態が続けば、いずれ宗教の枠組みを超えて、秘密警察か、隣組のような自警団だって出来かねないと思います。ディプログラミングの手法を使って、自警団のごとく集まった人々が、何の資格も知識もないのに、政権に不都合な人たちを「カルト」や「狂人」に仕立て上げるといったことも、起きかねないのです。

皇帝ネロが今風にキリスト教徒を迫害するとしたら持ち出しそうな理屈ですね。本当は何がカルトかなんて問題はどうでもよく、現政権に都合の悪い人物を迫害したいだけだとすればどうでしょう?

ところで、なぜこの時期に主任牧師引退の話など持ち出して来たと思いますか? 自分は引退なんてしていないぞと、アピールせずにいられない動機があるからでしょう。いつも権力を振りかざし、地位を誇りに思い、いつでも自分が相手よりも優位に立っていることを確認しないと気が済まないからではないでしょうか? 

こういうタイプの人は潔く引退しません。引退を求められても、しぶりにしぶり、引退したように見せかけて、陰の実権になったりして、あとを濁すのですね。どこかの教会ですでにそういう事件が起きました。そんな風に地位にしがみつくのは、自分が他人から権力を持たない無力な人間、人々の支持を失っていると見られることを何より嫌うからです。地位を誇示していないと自信が保てないのです。

すでに書いた通り、ディプログラミングに基づく強制脱会活動に携わっていた人々には、ほとんど専門家としての資格がありませんでした。無資格か、もしくは、通信教育などで学んだ程度のにわか知識で、カウンセラーを名乗っていたのです。真に専門家としての教育を受けていないからこそ、肩書や地位にこだわるのではないですか?

さらに、専門的な資格がなくても、教育訓練を受けておらずとも、代理人という立場を使えば、いくらでも他者の紛争に介入することができる。これはとても恐ろしいことです。無報酬で働いているから、非弁行為ではないというのは、表向きの弁明ではないでしょうか。弁護士のような報酬を受け取らずとも、「献金」ならば、受け取り可能だからです。謝礼金に等しいものを受け取っても、それを他の名目で献金扱いし、無報酬で働いているように見せかけることは、いくらでもできます。被害者が裁判に勝訴してから、報酬という形ではなく、「献金」を受け取れば、それは表向きには成功報酬とはなりません。

しかし、そんな問題は放っておきましょう。私はこういう生き方とは真逆の道を行きます。常にダビデの石つぶて以外には何も持たない無名の市民として、徒党を組まず、権力にすがらず、地位をふりかざさず、富をひけらかさず、自分の手で敵に報復せず、困難な道を行き、裁きは神に委ねます。「応分の報い」を自分から要求しますまい。でも、そうしていれば、必ず、神はその人を高く上げて下さる時が来るのですよ。これは本当のことです。自分で自分を高める人は低くされ、自分を低くする者が高くされる。これが聖書の原則です。

私が神に愛されていると信じられるのは、慢心するよりも前にしたたかに打たれるからです。ひっきりなしの苦難が降りかかり、勝利さえ束の間にしか喜べないのは何のためでしょう? 訓練のためです。そうして十字架を絶え間なく負わなければ、人間というものは、必ず自己過信に陥るのです。それは誰しも同じです。次から次へと好ましい事件だけが起きて、何もかもが順風の時は、人間は必ず慢心します。勝訴も人を高ぶらせるきっかけになります。そういうことが許されない環境を、自分自身が作らなければならないと同時に、主が采配されるのです。

だから、私には勝訴しても、手柄も無ければ報いもなく、誰かがそれを共に喜ぶわけでなく、喜んでくれるはずだった友までも離反し、もう一方の被告からは敗訴だとさんざん踏みつけられ、賠償金は支払われず、取立もむなしく非難されるばかりで、相も変わらず、疑われ、讒言され、迫害を受け続けているのですが、それは、私が打ち立てる勝利は、私のためではなく、主に栄光が帰されるものでなくてはならないからです。そうなった時に、初めて勝利が確立するからなのです。

ダビデが、勇士の部下たちが敵陣で彼のために取って来た水を、自分では飲まず、神に捧げたのと同じですね。その域に達すれば、戦いは完全に終わります。

神は私が自分のための利益と栄光を求めているのか、それとも、主の栄光を求めているのか、どちらなのかをご覧になっておられます。そこで、私が誤った道へ迷い込む前に、適宜、警告や制止や軌道修正がなされることは、私は恵みであると思っています。一番怖いのは、人前に徹底的に踏みにじられて、自己の栄光や誇りを傷つけられることではないのです。むしろ、高ぶりと自己過信に陥り、自分を誇大に見せかけて、嘘に嘘を重ねる生き方から後戻りできなくなることなのです。

ですから、そのような誤りに陥るよりは、恥をこうむっていた方がまだましでしょう。人には何が自己から来るもので、何がそうでないのか、自分で見分けることはできず、神だけがその違いをご存じで、神はこれを切り分けることができます。だから、人は、御言葉の剣に身を委ね、その手術を甘んじて受けねばならないのです。そうして人は、神の力強い御手の下でへりくだらされ、自分自身を練られ、訓練されることが必要なのです。

でも、ふさわしい時が来ればすべてが成就し、嘘は跡形もなく消し去られ、自由と解放が訪れます。栄光ですら与えられます。今、確かめられているのは動機なのです。 


 * * *

さて、これを書いた後、筆者は実際に、書いた通りの出来事に遭遇した。神は大いなる方であり、約束を違わない方であり、へりくだる者を尊ばれる方である。

筆者は新しい目的を見つけたと書いた。船の右に網を降ろせば、いっぱいに収穫があると書いた。本当にそうなったのである。


正しい道を行けば、豊かな報いがある。神の国とその義とを第一として生きるならば、異邦人たちが切に願い求めているようなものは、何一つ苦労することなく与えられる。問題は世の情勢にあるのではない。我が国の情勢や、世界の情勢がどうあろうと、神は私たちの心を直接、ご覧になり、私たちの信仰による確信と願い求めに応じて働かれる。

筆者の第二の人生の始まりである。筆者のみならず、多くの人々が恩恵にあずかることを目指して、自分のためだけでない、新たな生き方の始まりである。この生き方は今後、変わらない。10年くらいのスパンで、筆者はなすべき仕事を果たすであろう。その後、真の大きな挑戦が待っている。その計画が開始したのである。

私ではなくキリスト―事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(2)

ところで、当ブログを巡る訴訟で、筆者が得た最も大きな収穫の一つは、訴訟そのものに対して、また裁判官に対して、それまで持っていた印象が完全に変わったことであった。

訴訟を提起する前、筆者はADRと民事調停しか経験したことはなく、ADRでも民事調停でも、判決文は出ない。

そこで、それらの小さな紛争しか知らなかった頃の筆者にとって、裁判官や弁護士といった法律の専門家は、厭わしい紛争で束の間、やむなく関わるだけの、よそよそしく、近寄りがたい人々であって、そもそも他人の争いを糧にする職業に従事する、可能な限り、関わりたくない人たちとしか見えていなかった。

そこで、その当時の筆者には、そんな紛争の関係者のために、親切心から、読みやすい書面を提出しようなどというサービス精神は、ゼロどころかマイナスであった。筆者にとって、紛争は、可能な限り、関わるべきではないもので、関わっても、1、2回の期日でさっさと終わらせるべきで、長く時間をかけて取り組む価値などないものであった。

そこで、そのような場所に提出する書面は、とにかく審理を早く終わらせることだけを念頭に置いて、短期間で、可能な限りの主張を出し切ってしまうのが最善と見えていた。
 
筆者は当ブログを巡る訴訟が始まった最初の頃にも、可能な限り、早く審理を終えられるよう、書面を圧縮して出していたのである。

もちろん、フォントサイズは10.5以上にしようとは思わない。行間も、文字数も、最大限、一枚の紙面に詰められるだけ詰めて、書面の分量を圧縮する。できれば、期日の回数を減らしたいので、期日直前であっても、追加書面を提出するのは当然である。

それを受け取った人たちが、読みにくいと感じる方がむしろ良いのだ。誰もそんな厭わしい書面を丹念に読み続けて、この紛争を続けたいと願わない方が効果的である。世に陽気な紛争などというものがあるわけでなし、誰にも笑顔を見せる必要などない。とにかく正しい理屈が書かれてさえあればそれで良いのだ。

そういう考えが、はっきりと変わったのは、何度目かの弁論準備手続きが進められている最中のことであった。

一審を担当してくれた裁判官は、相当な時間をかけて、何度も書面を読み直す几帳面なタイプの人物であったらしく、まず筆者の訴状を読了するまでにも、約1ヶ月近くの時間が必要だと言われた。本当に1度や2度でなく、書面を読み返しているらしいことは、後になって分かった。

そこで、早くまとめて書面を提出したからと言って、早く終われるという雰囲気ではなかったため、筆者は急いでもあまり意味がないことに気づき、腰を据えて取り組まねばならないと理解した。

幸運なことに、筆者が生涯で初めて行ったこの訴訟は、そのほとんどの期日が法廷ではなく、電話会議という形でなされた。裁判官と書記官とは、筆者と同じ目線で毎回、テーブルについたので、回を重ねるうちに、筆者には、彼らが筆者のために払ってくれている労の大きさが、目に見える形ではっきりと理解できた。

電話からは、相手が飛び出して来ることはないとはいえ、こじれた紛争の最中、自分が独りぼっちでそこに置かれているのではなく、裁判所の人たちがそばにいてくれたことは、筆者まるで心の防波堤を得たように、頼もしく感じられた。

次第に、紛争がこじれたものであればあるほど、その解決に協力してくれている人たちに、敬意を払わないわけにいかなくなった。

そこで、第一審も終わりに近づく頃、筆者の心に、以前には考えたこともなかった書類の出し方に対する注意も芽生えた。

筆者は、以前にはまるで高い壁を築くように、とっつきにくい書面を作り上げ、頑なにフォントサイズも行間も文字数も変えまいとしていたそれまでの姿勢を改めた。以前には、誰に宛てて書いているのかさえ自覚がなかった書面が、人格を持った裁判官に宛てて出すラブレターのようなものだと気づいた。

被告への反論がすべてではない。被告との終わりなき議論に溺れるのは危険である。むしろ、書面は、裁判官に宛てたものだということを忘れないようにして、判断を仰ぐべき時をきちんと見極めなければならない。

人間相手の書面であるから、そこには当然、人としての思い、配慮、理念のすべてがこめられていなければならない。論理構成や法的根拠だけが重要なのではなく、自分は誰で、何を思い、どういう気持ちでその書面を書いているのか、文字には表れて来ない姿勢も、どうでも良いことではないのだ。

ようやく念願の判決を得たときには、世にこんな判決があるのかと、その分厚さに驚いた。55ページもあった。審理終結から判決までは3ヶ月間あったが、分厚いファイル4冊分にまで達した事件記録を網羅し、対立する双方の陣営の主張を比較衡量して、公平な判決を書くことは、その当時、筆者には、頼まれても、自分にはできそうにない仕事だと思わされた。

筆者はこれまで自分のためにしか書面を書いたことがなかった。何事においても、一方の当事者としてしか生きて来なかった。筆者の世界には、筆者以外の人間が、いなかったと言っても良い。束の間の訪問者はたくさんいたのだが、彼らは筆者の最も言いたい事柄を、結局、理解することができず、それに応える力をも持っていなかったため、入れかわり立ちかわりやって来たすべての人が、この事件については、何一つ理解できないまま、立ち去ることしかできなかったのである。

しかし、この訴訟を通して、筆者には初めて、自分の主張を受け止める誰かが存在することが分かった。紛争の関係者が、それまでとは違って、生きた存在として視野に入った。

そして、自分のためにではなく、他者のために書面を書く仕事が存在すること、しかも、弁護士のように一方の当事者だけを擁護するのではなく、対立する双方の言い分を考慮しつつ、当事者ではない立場から、客観的に、公平にこれを裁く仕事の意味を知らされた。

これは今までに筆者が見たことのない仕事、新しい世界、新しい分野であった。
 
筆者は、どれほど長い間、こうした世界の出現を願っていたであろうか。誰も裁く者がいないという暗闇が、どれほど絶望的に感じられたろうか。ただ当事者同士と野次馬だけが、ずっと延々と終わりなき議論を繰り広げ、いつまでも互いの要求と限界を突きつけ合いながら、見かけ倒しの譲り合いや妥協を求め合うしかない、疲れ果てる泥沼のような紛争から、どれほど救い出されたいと願って来ただろうか。
 
泥沼の争いに力強く終止符を打ち、その深い沼から筆者を引き上げてくれる存在を、どれほど長い間、待ち望んで来ただろうか。

判決は法そのものではないとはいえ、その宣言は法的拘束力を持つ。解放の宣言を手にした時、筆者は法体系へ一歩近づいたような気がした。この判決の向こうにあるもの、これを生み出した根源となるもの、筆者を真に解放する力を持っているものに、もっと近づいてみたいという気持ちが生まれた。

それはまるで何か見えない世界への招待券をもらったような具合であった。

裁判官の存在を介して、筆者が目に目えない法の世界へ向かって書き送った大量のラブレターに、片思いではなく、返事が返って来たのである。膨大な書面は、もはや筆者の独り言では終わらず、報いが与えられたのであった。

その時、筆者の周りを牢獄のように覆っていた高い壁に、ダイナマイトが撃ち込まれ、大きな穴がぶち開けられた。筆者は壁が壊れたのを見て、自分が解放されたことを知り、壁に開いた穴の隙間から、その向こうに広がっている自由な世界に目を凝らした。

今までの果てしない堂々巡りは終わったのだ。だが、壁に穴を開けた者の正体は何なのか。筆者を今、招いている世界は何なのか。筆者はどうしても知らずにおれなくなった。

裁判官が異動して去って行った後、筆者は自分が何をすべきか思案した。事件は控訴審に行った。しかし、もはや重要なのは事件だけではない。筆者に招待状を送って来た存在を見極めるために、そのあとを筆者は追いかけることにしたのである。

* * *

判決文を書くのは実際のところ、ものすごく大変だと思います。私は判決文の10倍をはるかに超える分量の書面を出しています。控訴理由書だけでも数百ページにのぼります。こうした膨大な書面をすべて網羅・整理して、わずか数ヶ月の内に一つも項目をもらさず判決を書くというのは、至難の業と思います。しかも、いくつもの事件と並行しながらその合間にこれを行うわけですから。それを考えれば、確かに判決に不備があったとしても、それは仕方がないという気はしてきますし、判決を書いてくれた裁判官を責めることなどすまいと思いますが、そうした事態が起こらないためにも、書面の出し方には気を使わなくてはいけないと思います。

訴訟を知らなかった頃は、私は弁護士も裁判官も大嫌いで、紛争など関わりたくないし、見向きもしたくないという心境しかなく、そういう場に出す書類は、とりわけ心情的にも厭わしかったので、当事者にとっての読みやすさなど全く度外視して、決して嫌がらせではないですが、ただ紙の分量が減って、送付代がかからないことだけを考え、極力、分量を圧縮して書いていたんです。当然ながら、そういうわけで、フォントサイズも小さくなるし、行間も行数もすし詰めのようになる。読みにくいことこの上ない書面になったはずですが、そんなことは完全にどうでも良く、まさかフォントサイズで不利になるはずもないし、そんなまがまがしい紛争なら最初から何も期待などできはしないと心に決めて、弁護士が大きな字で読みやすい書面を出すのを、裁判官への媚びだと内心馬鹿馬鹿しく思っていたくらいでした。

むろん、広告代理店ではありませんので、今でも、まさか書面のフォントの種類や紙面の読みやすさで媚びを売ろうとは決して思いませんが、それでも、一年近く訴訟をすれば、裁判官であろうと、被告であろうと、当事者に対する思いやりと配慮は当然、生まれて来ます。(もちろん、弁論は対決の場ですから、そこで当事者への思いやりなど公然と述べはしませんが、心情的には当然、そういう配慮は生まれるのです。)

ですから、書面の書き方も、フォントサイズも、紙面の分量も、送付にかかる料金についても、一切、以前とは考えが変わりましたね。紙と代金の節約だけを念頭に、読みにくいことをかえって自慢にするようなことは全く考えられなくなります。今回も、第一審では、エクセル表で出した記事が一つ、削除対象から漏れるという「事故」が起きましたが、あの書面の分量では、そういう事故が起きるのも、全く仕方がないことだったと思います。事件記録は分厚いファイル4冊分に達し、審理が終わった時には、ものすごい量のふせんがつけられていたのだとか・・・。それを書き上げて3日くらいで慌ただしく裁判官は関東から西日本まで異動して行きました。その間に一度だけ更正決定をお願いしましたが、それを果たす以上の時間と余力はきっとなかったでしょう。

そういう有様を見ますと、今後は、分かりやすさ、読みやすさに気を使って書面を書かねばならないと心させられます。もちろん、これは主張のレベルを落とすことを意味しないし、裁判官にはしっかりやってもらわねばなりませんよ。ミスなどあってはならないのです。でも、とりわけ、訴訟では決して、よほどの場合を除き、エクセル表で自らの主張を述べることはすまいと決意しました(笑)。訴訟はもともと文系にとっての得意分野ですから、純粋に文系のやり方で勝負するのが一番かと・・・。

当ブログの文面もそうでしょうし、私自身もそうでしょうが、「人受け」を狙って、見やすいもの、分かりやすいもの、人の目に好ましいものを作ることには、ものすごく抵抗感があるわけです。内実の伴わない、うわべの印象だけで勝負したくない。だからこそ、あえてぶっきらぼうに、近寄りがたく、理解されがたい、回りくどくて、不親切な方法を取ることがある。それが孤高の人のように見え、あるいは、高慢さであるかのように見え、誤解されやすいので、損と言えば損な性格でしょう。

しかし、そんな人でも、さすがに自分の心の最も重要な部分を開示して人と付き合うとなると、不親切な態度は改めざるを得なくなります。誰もが見向きもしたくない紛争を自分自身で提起しているのですから、それを慎重に取り扱ってくれる人たちには、当然ながら、それなりの敬意を払わないわけには行かないですし、愛着も湧きます。弁護士はともかく、裁判官が嫌いなどと自ら言うことはもはや決してありませんね。判決がどういう内容なのかは、出てみるまで分からないとしても、そして、むろん、それに異議を唱える可能性は予め100%排除はできないとしても、少なくとも、自分の心を大事に扱ってくれる人たちを粗末に扱おうとは全く思えなくなります。

そういうわけで、私が訴訟を通して学習させられた最も大きなものは、勝ち負けだけではなく、勝つためのロジックでもなく、むしろ、その内容であり、人間関係だったかも知れません。紛争そのものは人生で他にも遭遇するかも知れませんが、この訴訟には、一生忘れられないほどの重さがあったことは確かなのです。第二審は、もっとシビアに理論上の勝負になるかも知れませんが、第一審は少なくともドラマでした。目に見える判決以上の、理論以上の収穫を得たと思います。

こうした現象はおそらく書面の出し方やら紛争当事者だけにとどまらず、やがてはすべての人間関係に波及して行くでしょう。壁は崩される時が来るということです。しかし、その時、多分、世界が白黒反転し、壁を築いているのはこちら側ではなく、むしろ、あちら側であったということが分かって来ると思いますが・・・。

* * *

もちろん、世には悪徳裁判官としか言いようのない人々も存在する。高圧的だったり、不親切だったり、人を辱めるような詰問口調で話したり、強引に自分の願う解決を押しつけて来たり、果ては、証拠もないのに、印象だけで、誰かを悪者と決めつける裁判官もいないわけではない
 
筆者はそういう人たちのことまで擁護するつもりは決してない。だが、たとえそんな人たちに出会ってしまうリスクがあったとしても、それでも、やはり、筆者は訴訟を起こし、戦い抜いて、判決を得ることには価値がある、という意見を変えないつもりだ。

裁判所は市民にとっての最後の砦である。そして、筆者は、信仰者としても、神と人との前で、飽くことなく正しい裁きを求めることには、絶大な価値があると思わずにいられない。

地上の裁きは不完全であるが、それでも、筆者は地上の法廷に訴えを持ち出すことによって、神に向かって、正しい裁きをも願い求めているのである。

呼び求めれば、答えがあること、神が願い求める者たちに、正しい裁きをなして下さると信じることができなければ、誰にも訴えなど出すことなどできはしない。

そこで、世にどれほど不正な裁判官が存在していようとも、筆者は、正しい裁判官に会うという願いを捨てないであろうし、同様に、地上の裁判官をはるかに超えた、まことの裁き主である神は、私たちの叫び求めに必ず答えて下さる方であるという確信を捨てない。

ただし、誰かを訴えることには、それなりの重さが伴う。自分だけは正義であるかのように思い上がり、我がふりをかえりみることなく、他者だけを一方的に責め続ける人間とならないためには、やはり、自分自身がリスクを負って、最後まで矢面に立ち続ける覚悟が必要である。

だからこそ、筆者は、誰の代理人にもならないし、誰かに代理人になってもらおうとも思わないのだ。リスクは他の誰かに都合よく押しつけて、自分だけは矢面に立つことなく、栄光だけをせしめようと考える人たちに、チャンスを与えるつもりもない。

筆者の主張の全責任は、最後まで、筆者自身が負う。だからこそ、真剣かつ全身全霊の訴えになるのである。その覚悟と決意があって、初めて、その訴えは人を動かすものとなり、神の御心にも届くものとなるだろうと筆者は考えている。

* * *

少しつけたしておきます。ひとこと欄に書いた「膨大な資料を基に判決文を書くのは大変だ」という話ですが、悪意がない過失であれば十分に許せますが、悪意ある「事故」までは、正当化できないでしょう。これは判決であれ、決定であれ、同じですね。

やっぱり、私たちが人を赦せるかどうかの最も大きな分かれ目は、どのくらい故意性があったか、意図的なものであったか、誤りを謙虚に認めるかによるものと思いますよ。これはどんな場合の誰であれ、すべてに共通しますね。

懸命に事件を裁いてくれた裁判官は何らかの落度があったところで、責めようとは決して思いませんが、ぞんざいに事件を扱い、あからさまに高圧的で人の意見も聞かないまま、証拠もないのに一方だけを悪者にする裁判官がいれば、やはりこれは過失では済まされない・・・となるでしょう。他の人たちの場合も全く同じです。故意性のない単なる過ちはいくらでも許せますし、修正もできますが、悪意によって他人を陥れるがごとき行為は、赦そうと思っても赦せるものではありません。だから、赦す赦さないの問題以前に、まずはそうした行為があったことを公然と明るみに出すことからすべてが始まるでしょう。

私はそういう意味で厳しすぎるというか実直すぎるのかも知れませんが、裁判官であろうと、どんな有名人、権力者、企業であろうと、相手によって態度を変えるつもりは全くなく、原則は同じと思います。また、問題を明るみに出したところで、すぐにそれを認めて責任を取る人を、決してそれ以上責めるつもりもありません。まして償いをし、謝罪をした人を責め続けるようなことは酷と思います。ですから、問題を明るみに出すことで「解毒」できると分かったなら、その時点で、すべてが終わります。私はただ筋を通したいだけで、悪事を暴くことをライフワークにするつもりもありませんし、人の罪を訴えることを稼業とする人々と同じ道を行くつもりもありません。

そして、他人の問題だけに熱中するつもりもなく、まずは自分自身をきちんとかえりみ、修正すべきところは修正し、神と人との間で透明性を保てるように生きるべきと思います。自分を吟味する姿勢がないのに、他者だけを責めるのは、それ自体、とても恐ろしいことです。

そのような暴走が起きないための策としては、➀行き過ぎに陥ることがないよう、自分自身が常に主の御手によって打たれ、へりくだらせられることを拒まない。②他者を非難する際、必ず自分自身が矢面に立ち、犠牲を他人に負わせない。などのことは最低限度、必要かと思います。だから、私は他者の代理人にはなりません。もしも私の言い分に瑕疵がある場合に、決してその責任を他人が負わされずに済むようにしておくためです。このように、自分の主張の全責任が自分にふりかかるようにしておけば、下手なことはできず、失敗も許されませんから、当然ながら、行き過ぎに陥るよりも前に必要な警告を慎重に受ける姿勢が保たれます。慢心による暴走や行き過ぎは、多くの場合、周りからおだてあげられたり、担ぎ上げられたりすることによるのです。

ただし、キリストに立っていれば、失敗というものは基本的にないのです。何もかもすべてを主が覆って下さるからです。それから、私の場合は、あまりにも外見的に弱そうに見えることが一つの防御かと思います。私が本気で怒っても、取るに足らない無力な人間と思われるのか、真に受けて立ち向かって来る人の方が少ないので、感情にまかせた戦いに発展せず、まずは筋を通して地道に主張して行く以外にもともと方策がないことですね。だから、物事を訴えるのにすごく時間がかかります。しかし、その間に、数多く学ばされることがありますし、軌道修正もできます。時間がかかるだけに、極端な主張は生まれて来にくいのです。

当ブログを巡る事件は、10年近い月日を経て裁判にまでなりました。その紛争も1年を超えようとしています。膨大な証拠の積み上げと、緻密な論理構成なしに主張できないものです。一審で足りないものをさらに二審で補い、主張を補強し続けているわけです。このような根気強さできちんと物事を訴えることが、紛争解決の基本です。裏づけのない正義感やら、慢心やら、単なる非難やら、報復感情では、決してできない根気の要る作業です。感情論ですと、多分、途中で息切れになると思います。そして、感情論でないからこそ、筋を通して物事を明らかにするだけの価値があるのですね。

とにかく、本人がどれほど深く犠牲を負ったか、その事実がはっきり周囲に見えるようになれば、誰も私が感情論だけでものを言っているなど、到底、考えられなくなり、攻撃もできなくなります。私には基本的に協力者はいませんし、被害者同士の連帯などもなく、紛争に巻き込んだ人もいません。支援者も募りませんし、負うべきものは私一人が負っています。牧師が信徒を名指しで非難すること自体、世間ではあり得ない事態と見られる中、私は牧師含め複数名を、弱い立場から、一人で相手にしています。その上これだけの期間が経過していますから、遊びや悪ふざけや私怨や空想では決してできない作業ですよ。そのことは、この先、もっと明らかになるでしょう。何のためにこのようなことをするのか。それが自己の利益のためでないことは、時と共に明らかになるでしょう。

おそらくは、内心の恐怖を完全に克服した時、この紛争は朝露が光を浴びて消えるように、跡形もなく消失するのではないかという気がします。歴史としては残るでしょうが、もはや全く人の心に影響を与え得ないような領域へ追いやられるのではないでしょうかね。私は人間の生活を曇らせるもの、恐怖で脅かそうとするものをすべて排除して、神の贖いの完全性を証明するために紛争を起こしたのですよ。贖いが完全なら、私の完全な無実が証明されるはずなのです。最後の敵である死が、命にのみ込まれて消えるとは、そのことなのです。

裁判官も人間ですから不完全さや、不備も当然あると思います。人間的なプライドを持ち過ぎた人も中にはいるでしょうし、印象に流されることもないとは言えない。しかし、そういうことを考慮しても、やはり私は、裁判官に判決を求めるという行為は、神に向かって真実な裁きを求める姿勢とどこか重なるように思うのですね。重なるというより、それをやめてしまうと、踏みにじられた弱い者が、真実と正義を求める心の願いには、全く行き場がなくなってしまうことになり、私はそれだけは決してあきらめるわけにいかない願いだと思わずにいられないのです。その願いが真剣であればあるほど、裁判所という場所には敬意を持たないわけにいかないのですよ。そうして本気で正しい裁きを求める者を、神も、人も、決して無碍には扱われないと信じるわけです。ですから、地上の人間を介しつつ、神に向かって真実な裁きを呼び求めているというのが実際のところでしょう。

* * *

<続く>

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