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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。

「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。 」(イザヤ65:17)

目覚めると、この御言葉が心に響いた。何の変哲もない朝だが、いつの間にかエクソダスが完了していた。いつの間にか紅海を渡り切り、追っ手はいなくなり、エジプト軍は溺れ死んでいた。あの激しい戦いがすべて過去になり、新しい朝が来たことが分かったのである。

このような確信は、言葉で証明できるものではない。まだ周りには、がれきの山が散乱しており、洪水の爪痕が残り、後片付けが残っている。また雨が降るのではないか? 箱舟から降りて大丈夫なのか?

目に見える保証はない。それにも関わらず、「戦いは完了した」とはっきり心の中で理解できるのである。

前にも書いたように、霊的「エクソダス」の瞬間には、いつも激しい戦いが伴う。その脱出は、命がけの試みであり、壮大なドラマである。私たちは信仰の小舟に乗っているが、外の嵐に、小舟は翻弄される。嵐が本当だと信じるのか、それとも、信仰によって与えられる内なる平安を信じるのか。それは常に私たちの心にかかっている。

どんなに波が高く、風が強く見えようとも、心の奥底にある平安を確固として握りしめ、御言葉に立って、主に従い抜けば、いつの間にか、考えられないような静けさが訪れる。戦いは止み、平安が訪れる。

もし本当に脱出したいと望むならば、絶対に目的をあきらめてはいけない。追っ手がどんなに強力に見えようと、妨害がどんなに激しく感じられようと、決してあきらめてはならない。

神が必ず自由な地へと導いて下さる。長血の女がイエスに出会って癒されたように、長年、主の民を圧迫し、食い破ろうとしていた獰猛な獣は追い払われ、鉄の枷が打ち砕かれたのだ。

筆者は、キリスト教界からのエクソダスはとうに完了したと思っていたが、もしかしたら、未完了の部分が残っていたのかも知れない。何が過去に引き留めていたのかは知らないが、いずれにせよ、改めて自分自身をキリスト教の一切の宗教組織から引きはがし、この呪われた絆をキリストの十字架の死において完全かつ永遠に断ち切ったのであった。

むろん、筆者は生涯の終わりまで聖書に忠実な信仰者である。だが、地上の宗教組織は、もはや筆者とはいかなる関係もない。そういうものとは一切縁を切り、地上の呪われたキリスト教界とは何の関わりもないただの人として生きることに決めたのである。

その決意と共に、この古き絆から派生していたすべてのしがらみが死に絶え、断ち切られたのであった。筆者は、全く新しい方向へ向かって歩き出した・・・。
 
溺れ死んだのは、古き人、古き過去、古き呪われた縁の数々・・・。気付くと、キリストにある新しい人としての新しい朝がやって来たのであった。

ちょうど横浜へ来る直前がそのような状況であった。信者の刷新は、まず霊の内側から始まる。霊から始まる新しい命の息吹が、魂へ、体へと波及し、現実に少しずつ影響を及ぼしていく。この変化は少しずつ行われる。

十年ほども前のことであるが、筆者はその頃、色々な戦いがあって疲れていた。霊の内側は新しくされても、体はまだ過去の残滓の只中にあり、主が色々なことを用意して下さったのに、目まぐるしい展開に着いて行けず、自ら望んだことだったにも関わらず、こんなことで大丈夫だろうかと不安に思っていた。

いつものように朝寝坊をしかけていると、御霊によって起こされた。最後の平日だから、今日は住民票を取らないと手続きが間に合わないから行きなさいと、心に思い起こさせられたのであった。

その頃、自分が新しい土地へ旅立ち、どこで何をすることになるのか、皆目、分からないまま、それでも平安の内に御霊と共に歩んでいた。何もかもが手探りである。不慣れゆえすべてに戸惑いがないわけではない。だが、心の底では平安だ。主が着いておられるという確信があった。体がどんなに疲れていても、御霊が新しい命の中から、筆者自身のものではないエネルギーを心と体に供給してくれる。

その当時と今は全く同じである。神と私との間を隔てるものが何もなくなった。おそらく、筆者と神との間を隔てていたものがあるとすれば、それは地上の呪われた宗教組織、神と人との間に立ちはだかろうとする肉なる指導者、十字架を経ていない生まれながらの人間の古き人の情による絆としがらみだったのであろう。
 
だが、古きものはみな水の下に沈み、滅ぼされた。一つの時代が過ぎ去り、ノアは恐る恐る箱舟から降りて、新しい地へ一歩を踏み出す。まだ誰も降りたことのない、清められた新しい地、復活の領域に・・・。

主は私に顔を上げるよう促し、目の前に見える広大な土地を指して言われる、「目をあげて、目の前にある新たな土地を見なさい。あれがあなたのための土地です。まだ誰も足を踏みいれたことのない新しい土地です。これから始まることに思いを馳せなさい。古き世界のものがあなたを追ってくることはありません。それはあなたに手を触れられません。かつてあったものはみな死んだのです。

あなたはキリストにある新しい人、先のことをもう思い出す必要はありません。それは私の中では無きに等しいものですから、あなたも同じように考えなさい。死んだものに未練を持たず、それを振り返らず、これから進むべき地、獲得しなければならない新たな目的をしっかり見据えなさい。

恐れることはありません。私が着いています。私があなたのすべての戦いに共にいます。私の守りの中にとどまりなさい。呪われたものには二度と触れてはなりません。」

依然としてまどろみの中にあるように、心の中で、これは本当のことなのだろうか、と思いめぐらす。40日間、洪水がやまなかった間の窮屈な生活をよく覚えている。だが、神は、これから起きることに目を向けなさいと促される。

自然と、新しい歌が口をついて出て来る。それはこの世の音楽ではない、歌詞やメロディのない、人知を超えた、新しい霊の歌である。

それは、とどまるところを知らない神への賛美である。主を賛美せよ、万軍の主は戦いに勝利を取られた、心貧しい人、虐げられた人、蔑まれる人、弱い人、圧迫された人、神を呼び求め、神の義を求めるすべての選民よ、喜びなさい、神はあなた方のために、新しい人を用意され、新しい天と地を創造されたのだ・・・。

あなた方の古き人の上に、天から下られた聖なる新しい人である主イエス・キリストを着なさい。あなた方の罪のために十字架で死なれ、よみがえられたキリストを着なさい。

見よ、この新しい人の中にすべてがある。キリストこそ、すべてのすべてであって、彼こそあなたのためのまことの命なのです。
 
だから、キリストがお与えになったすべての良き性質を身に着けなさい。あなたのために天に備えられているすべての宝を、賜物を、義を、知恵を、命の糧を、キリストを通して得なさい、それはあなたのために払われた犠牲なのだから…。

主は勝利を取られた。肉の人としてのノアは、まだすっかり以前と変わってしまった大地に戸惑いを覚えている。しかし、霊の人としてのノアは、喜びに溢れ、主を賛美している。人は神のなさることを魂で理解できないが、霊においては、御霊を通して、神が人知を超えた解放の御業をなしておられることを確かに知っている。

だから、信仰の先人たちは、行く先を知らないで出て行くことができたのであり、何が起きているのかを知らないままで、主を賛美しながら、新しい目的に向かって行ったのである。

私たちは、神を畏れながら、新しい大地に跪き、主を崇め、誉め讃え、感謝する。

私たちの目は新しい契約に注がれている。それは神の目に喜ばれる新しい人であるキリスト、復活の命、新しい天と地、私たちのために用意された永遠の都である。

そこでは、もはや人の教えだとか、儀式だとかといったものはない。人が人に向かって「主を知れ」と教えることはない。神と人との唯一の仲保者であられるキリストが、直接、御霊を通して私たちを教え、導いて下さる。キリストは、信じる者たちにご自身を喜んで啓示される。

「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、
主は言われる。
それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
わたしも彼らを顧みなかった』と、
主は言われる。

『それらの日の後、わたしが
イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、
主は言われる。

『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
 彼らの心にそれを書きつけよう。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 彼らはそれぞれ自分の同胞に、
 それぞれ自分の兄弟に、
 「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。
 小さな者から大きな者に至るまで
 彼らはすべて、わたしを知るようになり、
 わたしは、彼らの不義を赦し、
 もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消え失せます。」(ヘブライ8:7-13)

「年を経て古びたもの」という言葉は、「年を経たあの蛇」を思い出させる。

「わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。」(黙示20:1-3)

復活の命には、経年劣化がない。この命は常に新しい命である。だが、堕落したもの、朽ちゆくもの、呪われたものにはすべて老いと死の跡が刻まれる。

エクレシアとは、死を打ち破ってよみがえられたキリストの命によって生かされ、立たされているすべての者たちである。いかなる外的な証明手段にもよらない、復活の命の刻印を帯びたすべての人々を指す。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:17-18)

キリストにあって、神と和解し、一つとされた人々。キリストに結ばれた聖なる花嫁。この人々は、新しい天と地、新しい都へ向かって進軍し続ける強力な軍隊である。

私たちのためには堅固な都が用意されている。そこには汚れた者は入ることはできない。だが、その都へ入るために、私たちは勇敢に前進して、信仰の戦いを戦い抜いて、御言葉を守り抜き、勝利を得る必要がある。聖書は言う、臆病者、不信仰な者になってはいけないと。勝利を得る者が、神の相続財産を受け継ぎ、神の子どとして栄光を受けるのだと。

だから、エクレシアよ、神の軍隊よ、花嫁たちよ、臆することなく、勇敢に前進して行きなさい! あなた方のために備えられた約束の地を勇敢に勝ち取りなさい!
 
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
 見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
 しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示21:1-8)
 
最後に、「神は決して正しい者がゆるがされるようにはなさらない。神は志の堅固な者を全き平安のうちに守られる。」という記事から、もう一度、以下の御言葉を引用しておこう。


あなたの重荷を主にゆだねよ。

主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

しかし、神よ。あなたは彼らを、
滅びの穴に落とされましょう。
血を流す者と欺く者どもは、
おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。
けれども、私は、あなたに拠り頼みます。
(詩編55:22-23)

私たちには強い町がある。
神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。
城門をあけて、
誠実を守る正しい民をはいらせよ。
志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。

いつまでも主に信頼せよ。
ヤハ、主は、とこしえの岩だから。
主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、
これを下して地に倒し、
これを投げつけて、ちりにされる。
貧しい者の足、弱い者の歩みが、
これを踏みつける。
(イザヤ26:2-6)


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神は彼らとともに住み、彼らはその民となる

「日曜日が週に二日あったらいいのにね!」

兄弟たちとそう言って笑い合った。二日であろうと、三日であろうと構わない、もしも時間が許されるなら、私たちはきっと永遠にでも、力の限り、主に賛美を捧げ続けるだろう。

24時近くまで語り合うのが恒例になり、半ばエンドレスになりつつある私たちの交わりで、今日も健やかに、身も心もいっぱいに満たされて帰って来た。先週 の日曜日には礼拝の興奮さめやらず、月曜日まで一睡もしないまま職場に駆けつけ、仕事の合間にもまだ賛美を歌っていたのは、どうやら私だけではなかったら しい。明らかに私たちの交わりに何事かが起こっているのだ。しゅろの枝を持って、御座と子羊の前に立つ数え切れない群集の姿が、瞼を閉じればまざまざと目 に浮かび、その賛美の声が耳に聞こえて来るかのようだ。何をか恐れることがあろう。今日は、もはや礼拝の枠組みを超えて、ただいついつまでも主が私たちと 共におられるという喜びと平安だけが心に残った。

「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群集が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
 彼らは、大声で叫んで言った。
「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。
「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」(黙示7:9-12)


殉教という言葉が、周囲でかなりよく聞かれるようになった。私だけではない。兄弟姉妹の皆が同じ感じを抱いている。私たちはもう言葉の上だけで信仰を語ることのできない、抜き差しならない時代に入ったのだと。

だが、そんなにも切迫した感じを受けているにも関わらず、交わりの中にいると、不思議なほどに爽やかに軽やかに心が満たされるのはなぜだろう。悲壮感、気 負いはなくなっていき、ただ普通に、極めてごく普通に、ただ一つの願いだけが心に残る。全ての被造物が主の御前に膝をかかめ、全ての肉なるものは主の御前 に静まり、ただ主の御名だけが高く掲げられ、主の御名だけが誉めたたえられますように!! 私たちの名がどれほど低められようとも、そんなことはもはや問 題でない、迫害も、圧迫も、苦痛も、恐れも、もはや何の意味も持たない、ただ主だけが栄光をお受けになりますように!! ただ主の御名だけが天と地で高ら かに誉め讃えられますように!! それだけが私たちの願いであり、喜びであり、希望なのだ。死も生も、天使も支配者も、現在のものも、将来のものも、力あ るものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできません!!

今日、メッセージの中で兄弟がゼカリヤ書の次の言葉を引いて語った、「私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。」(ゼカリヤ14:5)、この箇所によれば、主の再臨の時、聖徒たちは地上で主を迎える人々の一群と、先に主を迎えに行った人々の一群との二つのグループに別れるという。先に主を迎えに行った人々とは、携挙されたか、あるいは殉教を遂げた人々のことであろう。

それを聞き、今後、私たちの命運は別れるであろうことを感じた。だが、たったそれだけのことなのだ、地上での別れが意味するものは。私たちは引き離されても、すぐに互いにまみえるであろう、それほど時間をかけることなく。しかもその時には、主が我らと共におられるのだ! 

自分は殉教するだろうと固く思い込み、命を捨てる気満々でいるような人にも、あるいは、主は別の道を用意されるかも知れない。私たちにはまだまだこの先、 自分の道がどう定められるのか分からない。だが、いずれにせよ、私たちを待ち受けている前途は、人の目にどうみすぼらしく見えようとも、私たちにとって は、希望に満ちている。なぜなら、私たちの希望は、自分の運命にあるのではなく、主が来られて私たちを迎えて下さるという事実にあるからであり、復活の身 体で主にまみえ、顔と顔を合わせて主にまみえるその時へと、私たちの願いは今からまっしぐらに向かっているからだ。

スミルナの教会へ向けられた言葉。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(黙示2:9-10)


今、主の御前にこう言おう、私たちは来るべき苦難を恐れていませんと! ただ、どうか私たちが死に至るまでもあなたに忠実であれるよう、あなたの御名に恥 とならないように、私たちのうちで、主よ、あなたが忍耐となって下さい。たとえどのような苦難の中を通らされようとも、世の終わりまであなたが共にいて下 さり、あなた自らが私たちの目の涙を拭い取って下さるという約束を信じています。

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」」(黙示21:1-5)

主よ、来たりませ! 


十字架と新しい人

T.オースチンスパークス著、『人とは何者か』より、第8章、十字架と新しい人

ここに挿入した単純なは(巻末参照)、神の観点と人の観点から見た人の内的歴史を示そうとするものです。

第一に、「神が創造した日の」人です(創世記5章1節)。人の三重の性質が定義されています。

1)霊:良心、交わり、直覚の三つの機能を持っており、そのおもな真価は霊的理解です。
2)魂:理性、感情、意志または決意を有しており、その機能は人間生活のために解釈することです。
3)体:肉、血、骨から成り、霊と魂の用事を執行し処理します。


次に、霊による神との関係です。これは五重です:
1.似姿(基礎、「霊」)
2.交わり
3.知識(霊的知覚)
4.協力
5.統治


第二に「堕落」です。その結果と影響は:
1.人の霊は魂に従属するようになった
2.魂はサタンの攻撃と勝利の座になり、悪の軍勢の力の下にある
3.魂の道具である体は、サタンの影響の下で、人自身に似た、人のかたちどおりの人を生み出すことを、その格別な目的とするようになった(創世記5章3節)


次に、霊が神から分離されることにより――これが霊的死の意味です――この五重の関係は引き裂かれました。似姿は傷つけられ、交わりは破られ、知識は曇らされ、協力は不可能にされ、統治は失われました。ですから、人は神から分離され、締め出され、暗くされ、霊的に麻痺し、「虚無に服して」います(ローマ人への手紙8章20節)

この時から人はと呼ばれています――「人はさまよってしまい、肉だからだ」(創世記6章3節)――これは死ぬべき運命を意味するだけでなく、霊と神に敵対する活発な原理の存在をも意味することを、私たちは新約聖書から知っています。さらに、人はそれ以来、「生まれながらの人」(魂的)です。しかし何ものにもまして、人は――自分の意志で――神よりもサタンを信じることを選んだため、「この世の神」によって動かされています。

この時から二重の歴史が始まります。それは図の中で二組の線によって示されています。一方の組の線は狭まっ てゆき、他方は広がってゆきます。狭まってゆく線は、それ以降の、神の御思いによる人の歴史を示しています。人は神の創造の働きの一部でしたが、神は人を 不信仰のゆえに罪の下に「閉じ込め」られました(ローマ人への手紙11章32節)。そして、神は型と象徴により、キリストの十字架の原則を導入されます。この線では、人自身から出たものはまったく神に受け入れられません。ある事柄――おもに三つの事柄です――が常にはっきりと視野に保たれています:

1.裁きの下にある、人の罪深い状態という事実。
2.死。死は生まれながらの人の終わりであり、すべての人の運命であり、受け入れられるべきものです。
3.キリストの完全性。キリストの完全性は神との関係、神とのさらなる関係の唯一の土台です。


これがカインとアベルの事例の内在的意義です。これが神のエコノミーの中で死がこんなにも大きな部分を占めている理由で す。そして――なんという神の知恵、力、驚異でしょう!――ここで神はまさに蛇の尻尾、死のとげ、悪魔の働きをつかみ、キリストの復活と彼による信者の霊 的復活により、死を新しいいのちへの道、彼の御旨への小径としておられるのがわかります。これが、人を神の近くにもたらす、神に受け入れられるささげもの には、傷があってはならない理由です。徹底的な検査の後、祭司の鋭い目から見て、「これは完全である」と言うことができなければなりません。(これこそま さに、すべての試みと火のような試練の結末に関して、キリストが十字架上で叫ばれたことです――決着がついた、完了したということだけでなく、「完全であ る」ということです)

それ以来ずっと、変わることのない不変的な確実さで、神の御思いはキリストの十字架に至ります。個人や人々が神の永遠の御旨との関連で神の直接的統治の下に来る時はいつでも、彼らはあることをはっきりと自覚します。それは、自分の中には「善なるものが宿っていない」(ローマ人への手紙7章18節)ということであり、自分のものではない義の土台のみに基づいて、行いからではなく信仰によって受け入れられているということです――それは別の方の美徳によります。この理解は生まれながらの人を容赦なく打ち砕くので、その中から主の目に留まりうるようなものが現れます。「私が目を留める者は、貧しくて霊(または心)の砕かれている者だ」

ですから、キリストの十字架は生まれながらの人に関する神の御旨であることがわかります。なぜなら、人の子は十字架で私たちの罪を負っただけでなく、代表としての彼のパースンによって私たち自身をも負い、私たちの代わりに、あるいは私たちとして、神の裁きの下で死なれたからです(ローマ人への手紙6章2~10節、コロサイ人への手紙2章12節、コリント人への第二の手紙5章14、15節など)この十字架は、アダムが罪を犯した時点まで、その光を反射します

こんなにも多くのクリスチャンが「肉的」であって、自分自身で神のために生きようとしているのは、十字架の意味に関する適切な全き理解に欠けているからです。これが、霊のいのちの恒常的な弱さと貧しさの根幹です。「リバイバル」のために多くの祈りがなされ、「霊のいのちを深める」ために多くの努力がなされています。これに対する唯一の答えは、十字架を新たに知ることです。罪(複数)それらに対する勝利の生活についてだけでなく、生まれながらの人に取って代わるキリストについて、十字架を新たに知ることです。


パウロはコリントの状況のために、「私はあなたたちに、霊の人に対するようには語ることができませんでした。むしろ肉の人に対するように、幼子に対するように語りました」と書かなければなりませんでした。それは彼らが魂の(「生まれながらの」)人の土台に基づいて多く生きていたからであることが、彼の第一の手紙の最初の数章で説明されています。彼の唯一の治療法は「十字架につけられたイエス・キリスト」でした。信者たち、「召された聖徒たち」(コリント人への第一の手紙1章2節)でも、これをなしうるのです。そして霊の賜物を、それが魂的に重んじられ、用いられる領域にもたらすことすらできるのです。

これを認識するなら、私たちはとても冷静になりますし、堅実になります。「異言」や他の「賜物」が続くいわゆる聖霊の「バプテスマ」は、霊的生活の主要な事 柄についての知識を必ずしももたらしません。ですからパウロは、このような経験をしている人々に、バプテスマ、十字架、主の食卓、キリストのからだ、子た る身分の真の意味について教えなければなりませんでした。啓示は賜物や経験よりもまさっています。賜物の現れは霊的成熟のしるしではなく、しばしばその逆 です。ここにサタンの最高に狡猾な罠があります。このような経験を深い実際の霊性と取り違えるなら、最も誠実な神の子供たちを偽りの経験に導くために願っ てやまない最高の機会を彼に与えることになります。魂的な人に対して深く適用される十字架こそ、霊的なものの驚異的な偽物である、魂的なものの顕現に対する唯一の守りです。


図の続きを見ると、他の面もあります。人は自分に関する神の判決を認めて受け入れることを、これまで常に拒絶してきました。ですから、人は自己表現と自己実現の道を追い求めます。人は最初から、アベルのささげものによって神の道がはっきりと明らかにされた時でさえ、自分自身の道を追い求めました。人は出ていってこの世を建設し、文明を創造し、王国を構成しました。バベルまたはバビロンがその名前ですそれは人の力、能力、栄光の表現であり、記念碑です「さあ、われわれは名をあげよう」(創世記11章4節)「このバビロンは、私が建てたものではないか?」(ダニエル書4章30節)

このように人は得意になり、自己を拡大し、主張します。人が造り出したのは確かにすばらしい世界ですが、それはまったく人の手におえま せん。人はそれを管理することができません。確かに驚異に満ちています――しかし悲劇に満ちているのです!それはたちまち人の破滅に至るでしょう。そし て、人の造り出したものが、人の文明を一掃するでしょう。人は物事を始動させますが、それは自らの慣性によって人の手を離れます。神はこの終末の日々を短くするために介入しなければならないでしょう。さもないと、一人として救われる人はいないでしょう(マタイによる福音書24章22節)。 これがただちに水平線上に現れるでしょう。この線について、何とたくさん書けることか!しかし、そうするのは差し控えます。愚か者、盲目な愚か者、サタン に騙されている人だけが、「この今の世の進路を行けば、おのずと理想郷が生じる」と考えています。文明はこれまで魂の感覚、感受性を強めてきたにすぎませ ん。私たちはすでに「人々は恐ろしさのあまり気を失います」(ルカによる福音書21章26節)という御言葉の意味をいくらか知っています。


しかし依然として神の立場は変わっていません。人は自分の王国を建設し、それを雲にまで届かせるかもしれません。しかし、天は人に対して閉ざされています。キリストの十字架は、神はそのすべてをずっと昔に終わらせたことを宣言します。ですから「カルバリ」はゼロです!神の永遠の御旨に関する限り、死によらずに、信仰によってキリストと一体化されることによらずに、十字架を通り過ぎる道はありませんこの立場を取り、その意味をすべて受け入れる時、キリストとの復活による合一により、新しい人が生じます「だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です」(コリント人への第二の手紙5章17節)

その時から、別の二重の過程が始まります。完全に理解するかどうかにはかかわりなく、神の意図をすべて受け入れる決定的な転機がなければなりません。この転機はすべてを含み、潜在的にすべてを伴います。

その二重の過程とは、一方において新しい人、霊の人が優位に立つことであり、他方において生まれながらの人、古い人を従わせることです。これは生涯にわたる教育です。理解することが必要です。もし神が古い人を実際に消し去って「根絶」していたなら、霊的教育の基盤はすべて取り除かれていたでしょう。新しい霊的能力を用いて別世界ですべてを新しく学ぶことに関して、この「いのちの新しさ」が何を意味するのかについては、すでに他の箇所で指摘しました。この新しい人は「心の中の隠れた人」(ペテロ第一の手紙3章4節)であり、「私たちの霊の父」(ヘブル人への手紙12章9節)によるその訓練は、この同じ手紙の前の部分で述べられている「魂と霊を分けること」(ヘブル人への手紙4章12節)と一致します。図の残りの部分を学ぶなら、この意味が明らかになります。なぜなら、ここには新しい全く別の法則、「いのちの霊の法則」があるからです。このいのちにはそれ自身の法則があり、それを学ばなければなりません。

これは信仰の生活です。「私がいま生きているそのいのちを、信仰の中で生きます」(ガラテヤ人への手紙2章20節)。ですから、知識は信仰の実です。これ以上先に進む必要はないでしょう。しかし前に戻って、十字架の転機について最後に強調することにします。十字架以外の場所では、神は人に対して何も言うことがありません神の子供のいのちの新たな成長はみな、何らかの方法で、十字架の意義が新たに示されることによります深い死は豊かないのちに至ります。神は揺るぎない御手をもってバランスを保たれます。そして最終的には、地上で自分を空にする最後の局面は、天でキリストと共に王座に着く結果となります

旅の思い出

ふるさとに帰郷して、主の御業の素晴らしさを改めて知った。主が我が家に打ちたてて下さった十字架がどれほどゆるぎないものであったかを感じさせられたのだ。

「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」(ヨハネ14:18)

そう言われた主イエスは、ご自身が私たちの居場所となって下さった。彼は上げられた十字架のもとに私たちを引き寄せて下さり、永遠に朽ちない御国を私たちの住まいとして下さった。

だが、地上では寄留者に過ぎない私を、ふるさとが迎える。色づいた稲穂が私を迎え、父母、祖父母が喜んで私を迎える。何というはかり知れない幸いだろうか。


「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29)

かつて洗礼を受けたいと、涙して父母に告げた子供の頃から、今に至るまで、私はどれほどのものを失って来ただろうか。主イエスを信じた幼い頃から、両親の愛はおろか、家庭的な平和も崩れ去り、しかも、不信仰に逸れた時には、人生をまるごと焼き尽くされた。

だが、主のために失ったはずのものが、十字架を経由して、皆、向こうから手を携えて戻ってくるのを私は見た。まるで放蕩息子の帰りを待ち受けていた父親が、両手を広げて我が子に駆け寄るように…。

私はただ信じられない思いで、主の采配の素晴らしさに圧倒されて息を飲む。ああ、私はもはや孤児ではないのだ! 御言葉は本当だったのだ! 主の御名を経 由して、血潮を経由して、十字架を経由して、失った何もかもが幾倍にもなって、何倍にも素晴らしくなって、向こうから駆け戻って来るのを私は見たのだ!

「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」(詩篇126:5-6)

一体、この喜びは何だろう。これを何と形容したら良いのか分からない。未だに信じがたいとしか言えないのだ。これがキリストと共に統治するということの意 味なのだろうか。私たちの苦しみのうめきの中から、私たちの自己の裂け目から、信仰を通して、キリストのまことの命が川のように流れ出す。御国の統治が、 私たちの命そのもの、存在そのものを通して、私たちの思いや意志をはるかに越えて、この地上に及んでいく。キリストの見えない命が人々の心に触れ、この地 に流し出されていく…。

「しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」(マタイ18:28)

御国とは、霊的な領域であり、そこにはキリストの排他的統治権が及んでいる。御国の統治が及ぶところでは、キリストに属さない者、御霊によって生まれてい ない者、汚れた霊は活動することができない。アダムの罪のために地は悪しき者の所有となった。しかし、神は十字架を通して、信じる者を御国にエクソダスさ せることに決められた。万物には滅びが定められている。だが御子を信じる者は滅びることはない。主イエスは言われた、彼が神の霊によって悪霊を追い出して いる以上、御国はすでに私たちの只中に来ているのだと。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(Ⅱコリント5:17)
 
御国の住人となった私たちは、今、御子の信仰によってこの肉体を生き、この地において、御子と共に統治する者となるよう、僕として任されている。アダムが 失敗してしまった任務を、愛する御子の支配下で、私たちは再び、実現するように任されたのだ…。私たちがどのくらい、キリストの統治をこの地にもたらすこ とができるのか、それは今はまだ分からない。今は一つのことが分かっている、主が私を捕らえて放さないのです!

もがきも、苦しみも、うめきも、古いものは全て過ぎ去り、キリストにあって、すべてが新しくなった。私たちは日々、キリストの十字架の死とよみがえりの命 を知ることを追い求めて生きている。この身体が贖われる時まで、苦しみのうめきは続くだろう、けれども、それは被造物全体のうめきでもあるのだ。

私たちは切なるうめきをもって、霊、魂、肉体のすべて、私たちの存在のすべての領域に渡り、十字架が実際として刻み込まれ、心の深みまで新たにされて、キ リストにある新創造として生きることを待ち望んでいる。どうか主がその十字架の御業を、私たちのうちで、日々、より確かなものとして下さいますように!  どうか主がその栄光に満ちた御業を私たちにより深く知らせて下さいますように!

全ての膝がかがめられ、ただ主だけが讃えられますように。主が我がためになして下さった全てのはかりしれない恵みのゆえに、畏れをもって主を礼拝します…。

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ただ神がキリストをご覧になるように…(2)

「私はキリストと共に十字架で死んだ、
もはや私が生きているのではない。
キリストが私の内に生きておられる。
私は今、肉体の中で生きているそのいのちを、私を愛し、
私のためにご自身を与えて下さった神の御子の信仰によって、
生きているのです」

 
やはり、記事を読み返して行くと、前述のオズワルド・チェンバースの言葉などは、信者が信者を精神的に恫喝して「弟子化」して支配するための悪しきツールとして使われていたのだということを感じざるを得ない。

つまり、他の信者の心の罪悪感を刺激し、そのままではいけないと思わせて、襟を正させるような内容の文章を突きつけることによって、ある信者が、他の信者の心に巧みに入り込み、影響力を行使するきっかけを得るために、そのような文章が利用されているのである。

チェンバースの言葉は、キリスト教界で生まれ育ったようなクリスチャンには、まさに「はっとさせられる」内容である。今だからこそ、筆者はそれを虚偽として撃退できるのであるが、紹介させられた当初は、疑うことがなかったし、ほとんどの信者は、その文章の何が悪いのか、理解できまいと思う。

むろん、こうした文章を利用して、信者を「弟子化」する人たちは、自分たちが悪いことをしているのだという自覚はない。引用している文章がもっともらしく、良さそうに見えれば見えるほど、自分は有益で良いアドバイスを他人に与えているのだと思うようになる。まさか他の信者を精神的に支配するための突破口として、他人の「良さそうな」文章をタダで利用しているのだとは、自分では全く気付いていない。

だが、筆者は、ウォッチマン・ニーを筆者に紹介した信者からも「弟子化」されそうになったし、オズワルド・チェンバースの言葉を筆者に紹介した信者からも「弟子化」されそうになった。そのような経験を重ね合わせると、やはり、これらの引用文は、信者を精神的に恫喝して、罪の意識を抱かせることで、その心の弱みにつけこんで、指導的な立場を得るために利用されたのだと思わずにいられないのである。

解放することが目的で書かれた文章ではなく、拘束して支配するために書かれた文章だと思わずにいられない。

チェンバースの言葉を筆者に紹介した信者からの、筆者への罪定めと、精神的支配の圧力は、かなり長い間、続いた。そうした付き合いの果てに、もう本当に筆者はその人の説教がましさ、余計なお節介、善良なふりをした厚かましさに、うんざりしたので、今となって、初めて、チェンバースの言葉も含め、そうした一切の助言を、嫌悪感と共に、また、単に感情論だけでなく、御言葉の根拠に基づいて、ことごとく退けることができるのである。

その信者は、筆者以外の他の信者に対しても、同じように、チェンバースの言葉を紹介して、精神的に「弟子化」しているのであった。チェンバースの言葉に心打たれた人は、それをきっかけとして、それを教えてくれた信者に心酔するようになる。チェンバースのみならず、ある時には、ウォッチマン・ニーを引用していたり、ペン-ルイスを引用していたりもした。ウォッチマン・ニーには随分、心酔していた様子である。

長い間、交わっているうちに、どうしてそんなに引用ばかりするのかと、不審に思えて来て、「なぜあなたはちゃんと自分の言葉で語らないのですか」と問うたこともある。

筆者は大体、次のような警告を放った、「文章というのは、書き手が自ら代価(犠牲)を払って得た教訓しか、本物にならないんですよ。他人の言葉をどんなに引用しても、しょせん、それは他人の言葉ですから、自分が代価を払っていないものを勝手に借用するのは、剽窃のようなもので、そういう盗みにも似たやり方で、どんなに素晴らしい他者の引用文をたくさん繰り返しても、しょせん、自分のものにならないんです。そういうことをすればするほど、立派な引用文に自分でも騙されて、自分が飛躍的に素晴らしい人間になったかのような錯覚が生まれ、自分は本当はどんな人間なのか、分からなくなっていくんです。そんな恐ろしい錯覚しか生まない引用なんか、もうやめてしまったらどうですか」

だが、結局、その人は引用をやめることができなかった。良さそうな材料を見ると、見境なく飛びついてしまう衝動を、どうしても、抑えることができなかったのである。そうこうしているうちに、そこに異端の教えも入って来て、とんでもないごった煮のような状況が出来上がってしまった。だが、そうなっても、まだ聖書から著しく遠ざかっていることに気づいておらず、かえってその「良さそうな文章」を手放すよう警告した筆者のような人間を間違っていると考えて憎む始末だから、全く手に負えない嘆かわしい事態である。

筆者は、今になって、その人はただ悪霊に出入り自由な通路として使われていただけなのだと分かる。見境のない引用というのは、悪霊に利用される入り口にしかならないのである。悪霊は、決して、誰にでも悪霊と分かるようなやり方で、人に近づいたりはしない。多くの場合、それは非常に「良さそうな教え」の形を取ってやって来る。

筆者も知らずにその人に接近し、チェンバースの言葉がきっかけとなって、危うく弟子化されるところであったが、すでに述べた通り、今になってよくよく吟味してみると、ただその人に問題があっただけでなく、チェンバースの言葉自体の中にも、どうにも人に過度な罪悪感を抱かせ、過度に信者に自己否定・自己放棄させようとするような、聖書に合致しない強迫観念のような教えが含まれていることを感じざるを得ないのである。
 
そのような文章ばかり読み続けていると、まるで自分が手術台に乗せられて、「ここも悪い。あそこも悪い。あなたは腫瘍だらけだ。みな切除せねば」と医者に言われて、切り刻まれようとしているような感覚になって、喜びがなくなり、眩暈がして来て、全く自分が神に受け入れられているという実感までもなくなってしまう。だから、どうしても、これは何かがおかしいぞという気がしてならず、その強引で危険な手術が始まる前に、手術台から飛び降りて逃亡しないわけにいかなくなるのである。

筆者は、オズワルド・チェンバースがどういう人間なのかはほとんど知らないし、彼が正しい信仰者だったのかどうかについて論じるつもりもない。それは、ウォッチマン・ニーについても同じである。信仰者一人一人の人生については、多くの謎があり、彼らが神の使いなのか悪魔の使いなのかなどといった単純な図式で議論しても仕方がなく、どんなに資料を積んで調べてみたところで、決して断言できない多くの部分が残されるであろう。

だが、たとえ彼らが神の僕であったとしても、彼らの文章が信者によって利用されて、他の信者に使われる時に、そこに、信者に罪悪感を与えて心を支配しようとする隠れた目的が巧みに入り込み、その影響力を、見抜いて退けなければならない場合が存在することは確かである。だから、そんな風にして、誰かに「弟子化」されて精神的に支配されたくなければ、信者は彼らの支配にとっかかりを与えるような罪悪感を心に持たないに越したことはない。

そもそも罪悪感、自己憐憫、理不尽だという思い、赦せない思い、などなど、何かの突破口がなければ、暗闇の勢力は、信者の心の中に侵入して、足がかりを持てない。

最も利用されやすいものが、罪悪感であり、信者が暗闇の勢力につけこまれる入り口となる罪悪感を持たないことは、ただ主イエスの血潮の絶対的な清めを確固として握ることによってのみ可能となる。

だから、古き人がいかに罪深く、恐ろしいものであるか、云々、などといった話をたとえクリスチャンから延々と聞かされても、信者はそれに脅されることなく、自分に対する神の絶対的な赦しと清め、キリストにある新しい人としての再生を、確固として握り、これを提示することで、無用な罪悪感を退けるべきである。

確かに、信者の古き人は徐々に対処されねばならない部分もある。だが、それは御霊が信者個人の内側で自然になす働きであって、外から誰かが再教育や切開手術のような形で、刺激や感化を与えて他者を変化させるのではないのである。

だから、たとえ「あなたは未だに古き人の領域を生きていますね」などと人からお節介な忠告を受けても、決してすぐに耳を貸さないことである。本当にそうなのかどうかは、神だけが知っておられる。あなたの中で何が対処されるべきなのかは、人ではなく、神が知っておられる。だから、静かに神と向き合って、神に尋ねるべきである。

筆者は今でも、霊的先人の言葉の引用をしないわけではないが、できるだけ最小限度に抑え、相当に吟味することにしている。だが、何より、筆者の基本姿勢は、すべての文章を自分で書くことである。むろん、その中に誤りもあるかも知れないし、未熟さがないとは言えない。だが、多くのことが、自分にはまだよく分かっておらず、模索中であることをもきちんと理解した上で、それでも、ありったけの誠実さを持って、自分で書くのが一番だと言える。

そのようにしていると、読み返した時に、自分の思考にどんな足りないところがあったのか、どんな危険がその当時、自分を取り巻いていたのか、どの程度、信仰に前進があったかなども、よく分かるようになる。
 
何よりも、文章というのは、信者が他の信者に向かって、もっともらしく正しく聞こえる内容を言い聞かせて、自分を飾るためのパフォーマンスではないのである。筆者は、信仰の証は、ただ神に向けて心の願いを率直に打ち明け、暗闇の勢力に向かってはキリストの勝利を宣言し、霊的に自分自身の立ち位置をしっかりと固め、姿勢を正しながら、御言葉の正しさを全ての造られた者に向かって宣言し、神に栄光を帰することを目的として書けば良いのだと思っている。その基本姿勢さえ揺らがなければ、たとえ信者が未熟で、多くのことをまだ自分でよく分かっていなくとも、神がちゃんと守って下さり、その証の不完全な部分さえも覆って下さる。

信者の証の文章は、神との語らい、交わりの一環でもあり、信者はそこで神の御前に虚勢を張って「正しくなろう」と努力するのではなく、そんなことよりも、神への愛と信頼と感謝を率直に語り続ける方が良い。自分がキリストによってサタンの支配から連れ出され、大いなる解放にあずかり、今や主と共に天に生きる者として、神の命の中に隠されていること、キリストのゆえに、信者の古き人はすでに死んで、今や新しい霊、新しい心が与えられ、信者は新しい人となったこと、神が信者のために、天にどれほど大きな宝を蓄えて下さっているか、どれほど豊かな命を与えて下さっているか、キリストと共に天の御国の相続人とされた信者に、将来的にどれほど大きな栄光が待ち受けているか…、などといったことを終わりなく語り続けるのである。

そうすると、良心の呵責と罪定めの意識と自責の念で霊が重くされていっぱいになる代わりに、自由と解放の喜びと感謝が溢れて来て、信者の霊が伸びやかに、軽くされる。天が近くなり、神の御顔をそば近くで拝しているような実感が生まれ、神の愛がより一層、確かなものとして身近に感じられる。自分についても健全な自信が生まれ、恐れは去って、新しい気力が沸き起こり、神の被造物として生きる喜びの中で、神に栄光を帰するために、この地に生かされているのだと実感できる。

たとえ神ご自身を見るわけでなく、霊の内にキリストをありありと実感することがなくとも、信者はそうやって自らの霊をしっかりと奮い立たせ、あるべきポジションに据えて、信仰によって神を見上げることができる。キリストにあって信者が与えられた高い地位、キリストの偉大な解放と勝利の御業、神の御業の素晴らしさを褒めたたえ、喜ぶこと、などなどは、信者の霊を伸びやかに解放するために有益な作業である。とにかく、自分自身の古き人の罪深さに耽溺して意気消沈する時間を、神を見上げ、神の真実、神の清さ、神の正しさを仰ぎ見て、神を賛美するために使うことは、信者にとって有益である。信者は自分が見るものに同化するのである。

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当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

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