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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。

そこでイエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。

イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。

だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。

そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。」(ルカ36:-50)

* *  *

  
「あなたの信仰があなたを救った。さあ、安心して行きなさい。」

イエスのこの言葉を筆者はどれほど待ち望んでいることだろう。もちろん、筆者はイエスがすでに筆者を贖って下さり、自分が救われていることも知っている。

だが、改めて、どうしても今一度おっしゃっていただきたいと願わずにいられないのだ。

「生きよ」と。

全被造物は、罪のゆえに堕落し、神から切り離されて、まるで本体を失った影も同然となって、虚無の中をさまようしかなくなった。

それゆえに、全被造物は、自分自身の内には虚無以外には何も見いだすことができず、ただひたすら、その影の持ち主である本体に見出され、神の御言葉の光に照らされることで、もう一度、新たに生かされる瞬間を待ち望んでいる。

自分だけでは生きられない、ものを言うことも、存在を証明することもできない「影」。

ここに、被造物としての私たちの嘆き、呻き、苦しみがあり、悲しいまでの「女性性」がある・・・。
 
* * * 

ラザロは、もの言わぬ死者となって、墓に横たわりながらも、きっとそこでイエスが来られるときを待ち望んでいただろう。自分の愛する方がそばに来られ、「ラザロよ、出てきなさい」と力強く命じられる瞬間を。

その時こそ、死者はよみがえらされて立ち上がり、喜びと感謝に溢れて愛する者たちのところに駆けつける。地上の多くの人々は、生きていると思っているが、自分がラザロ同然に、実は死んで墓に横たわっていることを知らないのだ。

パリサイ人たちからは、屑のように蔑まれ、社会から排除されていた罪の女も、ただイエスに出会いさえすれば、必ず自分のすべての罪が赦され、あらゆる汚れから清められて、彼に似た、貴い、聖なる姿に変えられるはずだとひたすら信じて、イエスを見た時、わき目もふらずに御許にかけつけ、その足元に身を投げ出して、泣き伏さずにいられなかった。

彼女は信じていた、自分自身がそれまでどのように生きて来たかなど関係ない、ただ御姿を見て、イエスを見つめられさえすれば、そうすれば、彼女は救われて、変えられると・・・。

38年間、ベテスダの池のほとりで病の癒しを待ち続けた男も、同じように、心の中で、イエスを待ち続けていた。イエスの衣に触りさえすれば、病は癒されると信じた長血の女も、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(マタイ8:8)と述べた百卒長も、みなイエスに出会って、その声を聞き、その言葉を聞きさえすれば、失われた存在であった自分たちは見いだされ、命にあずかり、完全に回復されると信じ続けたのである・・・。

「主よ、お言葉を下さい。そうすれば、僕(しもべ)は生きます」

これは、筆者の懇願であると同時に、虚無に服しながら、完全な贖いを求める全被造物の切なる叫びだ。

主よ、ただあなたの一言を下さい、あなたの一瞥だけで良いのです。この塵に過ぎない者に、一言、お命じ下さい。「立ち帰って生きよ」と・・・。そうすれば、僕は生きましょう・・・。

「人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。

彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 」(エゼキエル33:11-12)


とこしえに生きておられる方。「わたしはある」と言われる方。すべてにまさるリアリティである方が、虚無に過ぎない私たちに向かって、その眼差しを注ぎ、声をかけて言われる。

「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んで良かろうか。」

私たちはすでに罪赦されて贖われた民であるが、なお、罪と死の痕跡の一切を取り除かれて、自分たちを縛っている死の縄目から完全に自由とされる日を待ち望んでいる。

まるで草花が夜の闇の中で静まりつつ、朝日が昇って、光の中で存分に身を伸ばす瞬間を待ち焦がれるように、全被造物が、虚無に服しながら、主イエスの言葉がかけられるのを待っている。

「立ち帰って生きよ。あなたの信仰があなたを救った。女(被造物)よ、あなたは完全に買い戻された。安心して行きなさい…」
 
私たちがイエスを待ち望むのは、彼(御子)こそ、失われた「影」としての私たちの「本体」であり、私たち被造物のまことの命であり、私たちの全ての全てだからである。

どうして影が本体を離れて、影だけで存在できようか。影だけの存在に、一体、何の価値があろうか。私たちは自分自身の内に何も見いださない。

どんなに声を張り上げて自分の言い分を述べ、あるいは、どれほど優れて美しい姿をしていたとしても、影はただ影でしかなく、本体が来られ、私たちを照らして下さらない限り、何の意味も持たない闇でしかないのだ。

かくて影はどこまでも本体を慕い求める。まことのリアリティの到来を待ち望む。暗闇でしかない自分自身から目を離し、ただ光なるお方を見つめ、ひたすら、本体である真実なお方から見出され、贖われ、再び一つとされる時を待ち望んでいる・・・。

* * *

創世記に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 」(創世記2:7)とあるように、神は最初の人間であるアダムを、塵の中から造られた。

アダムが塵から造られたことは、彼が被造物として、神を離れては無価値であり、虚無でしかないことをよく表している。

神が息を吹きかけられたとき、アダムは生きた人間となった。ここで言う「息」とは、神から与えられた霊であり、また、人を生かす神の御言葉のことでもある。

「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記:26-27)

聖書は、人類は「神にかたどって」創造されたと言う。だが、「神にかたどって(神のかたちに)」造られたとは、人類の外見を指すものではないだろう。塵から造られたアダムの外見に、神の栄光に満ちた「かたち」が表れているわけではないからだ。

むしろ、これは人類の役割のことである。

アダムの役割は、神の御言葉を守り、神に与えられた霊によって生かされることで、神の栄光を表すことにあった。アダムに与えられていた霊は、聖霊ではない。だが、御言葉が光となって彼を照らすことで、塵に過ぎないアダムに、神の栄光が反映していた。

こうして、神の御思いを体現し、鏡に映し出すように、神の栄光を反映し、神を誉め讃えて生きることが、アダムの役目であり、こうして神に栄光を帰して生きることこそ、被造物に与えられた栄光に満ちたつとめであり、それが被造物の表す「神のかたち」だったのである。

次に、神はアダムの肋骨からエバを造られた。

「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。

主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。 」(創世記2:18-25)


神はご自分の助け手として、ご自分の栄光を表す、ご自分に似た者として、アダムを創造されたが、次に、アダムのためにも、アダムに似た者として、助け手となる存在を用意された。

それがエバである。アダムが死のような深い眠りに落ち、再び、目覚めたとき、そこにアダムの性質をそっくり受け継ぎ、かつ、彼の栄光を表す者であるエバがいた。

アダムは彼女を見たとき、彼女が自分自身から出来ており、自分の栄光であることがすぐに分かったので、たちまち、自分を愛するように、彼女を愛した。

神は塵から造ったアダムに、息を吹き入れて、アダムをご自分の栄光を映し出す者とされたように、アダムの成分を使って造られたエバを、アダムのために、アダムの栄光を表す者とされた。

助手は、助手だけでは存在できない。必ず自分が仕えている主人が存在するはずである。もしもアダムが、神のかたちにかたどられた、影のような存在だとするならば、エバも、アダムのかたちにかたどられた、アダムの影のような存在であった。

そして、悲劇は、本体の栄光を表すために造られたはずの「影」が、本体から離反して、罪の堕落のゆえに、死を宣告されて、影だけで絶望の中をさまよわなくてはならなくなったことである。

人が神の御言葉を捨てて、罪を犯したとき、人の霊は死に、人の栄光は消え去った。彼を照らしていた御言葉の光は消え去り、人は真っ暗闇となって、自分自身の存在意義を見失ったまま、やがて消滅するのを待ちつつ、暗闇をさまようことしかできなくなった。

全被造物は、堕落によって神から切り離され、それ以後、自分の主人となるべき神を見いだせなくなり、己の堕落した虚無の世界を、ひたすら絶望のうちに堂々巡りせざるを得なくなったのである。

だが、被造物には、絶望の中でも、神を思う思いが与えられている。そこで、ひたすら、嘆き悲しみ、苦しみの中でも、自分を造られたただお一人のまことの神を思い、まことの神に見出され、贖われ、もう一度、息を吹きかけられて、神の栄光を表すものとして、御前に立たされる時を、切に待ち望んでいる。

主よ、もう一度、我ら全体におっしゃっていただきたいのです、立ち帰って生きよと、そうすれば、僕は生きましょう・・・。
 
主よ、あなたこそ私たちを造られた方、私たちの栄光なる望み、私たちは皆あなたによって、あなたの栄光のために、造られた者です。私たちはあなたの影、あなたは私たちの主、どうして私たちがあなたを離されて、存在し続けられましょうか。
 
主よ、お帰り下さい。お帰り下さい。そして、お言葉を下さい。このすべての世界は、あなたのために、あなたの栄光のために造られたのです・・・。

* * *

預言者ホセアは、神によって、姦淫の女を娶り、彼女の生んだ淫行の子らを引き取るようにと命じられた。

「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」 」(ホセア1:2)

神の預言は、ホセアの結婚が悲惨な過程を辿ることを始めから予告していた。

ホセアは、自分に忠実な汚れのない女性を妻に迎えたはずであったが、ホセアが娶った妻ゴメルは、神に逆らい続けるイスラエルの民を象徴する女であって、彼女は、ただ一人の主人だけを愛するには、最初からあまりにも心が多すぎた。

彼女はホセアと結婚して後、すぐに、彼を捨てて、子供たちと共に、愛人のもとへ去った。むろん、彼女が生んだ子らは、ホセアの子ではない。あまりにも気が多すぎる彼女は、やがて愛人にも捨てられて、ついには身を落として奴隷にまでなった。

それでも、ゴメルはなかなか自分の主人のもとに立ち帰ろうとはしなかった。

こんな「妻」から、誰がどんな良いものを見いだせようか。いや、こんな女を誰が「妻」と呼べようか。また、どうして彼女の子供を「我が子」と呼べようか。

この汚れた「母」を告発せよ――。

裏切られたホセアの嘆きは、神の嘆きにそのまま重なる。

このゴメルは、神の御言葉に従うことを捨て、奴隷に身を落とし、バビロンと化した今日の教会そのものである。欲に誘われるまま生き、時期尚早に多くの子を産みはするが、そこには、何一つ本当のものがない。彼女の勢いは束の間でしかなく、その幸福は不実で、何一つ永遠に残るものがない。

この汚れた「母」を告発せよ――。

その叫びに応えるようにして、剣を持った残忍な軍隊のような、獰猛な野獣のような勢力が彼女に押しかけ、教会という教会に対し、告発を重ね、多くの神の宮が、土足で踏み荒らされた。

それでも、彼女はいまだ着飾って、晴れやかな祝祭日を楽しみ、祝うことをやめない。そこで豪奢な食卓を用意しては、己が富や権勢を誇り、自分たちの慕う目に見える指導者らを拝んでは、我が幸福は永遠なりと豪語している。

彼女たちは、自分たちが拝んでいるものが、偶像であることにも気づかず、己が誇っている富が、これらの偶像によってではなく、ただお一人のまことの主なる神が与えられたものであることにも気づかない。

それゆえ、野獣の牙は、より一層、残忍に彼女に噛みつき、彼女を食い荒らし、蹴散らして、その富と栄光を奪い去り、彼女の恥を露わにして、彼女を壊滅にまで追い込む。

告発せよ、お前たちの母を告発せよ。
彼女はもはやわたしの妻ではなく
わたしは彼女の夫ではない。

彼女の顔から淫行を 乳房の間から姦淫を取り除かせよ。
さもなければ、わたしが衣をはぎ取って裸にし
生まれた日の姿にして、さらしものにする。

また、彼女を荒れ野のように
乾いた地のように干上がらせ
彼女を渇きで死なせる。

わたしはその子らを憐れまない。
淫行による子らだから。

その母は淫行にふけり
彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。
彼女は言う。「愛人たちについて行こう。
パンと水、羊毛と麻
オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」

それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ
石垣で遮り 道を見いだせないようにする。

彼女は愛人の後を追っても追いつけず
尋ね求めても見いだせない。

そのとき、彼女は言う。
「初めの夫のもとに帰ろう
あのときは、今よりも幸せだった」と。

彼女は知らないのだ。
穀物、新しい酒、オリーブ油を与え
バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのは
わたしだということを。

それゆえ、わたしは刈り入れのときに穀物を
取り入れのときに新しい酒を取り戻す。

また、彼女の裸を覆っている
わたしの羊毛と麻とを奪い取る。

こうして、彼女の恥を愛人たちの目の前にさらす。
この手から彼女を救い出す者はだれもない。

わたしは彼女の楽しみをすべて絶ち
祭り、新月祭、安息日などの祝いを
すべてやめさせる。

また、彼女のぶどうといちじくの園を荒らす。

「これは愛人たちの贈り物だ」と
彼女は言っているが
わたしはそれを茂みに変え
野の獣がそれを食い荒らす。
バアルを祝って過ごした日々について

わたしは彼女を罰する。

彼女はバアルに香をたき
鼻輪や首飾りで身を飾り
愛人の後について行き
わたしを忘れ去った、と主は言われる。

野獣に食い荒らされたゴメルの「ぶどう園」とは、あの強盗のような農夫たちに占拠されたぶどう園と同じだ。悪い農夫たちが、彼女のぶどう園を強奪し、その収穫を我が物としてかすめ取って来たが、そのぶどう園は、神の圧倒的な御怒りの前に、踏み荒らされて廃墟となり、破壊される。

ゴメルは罰せられ、彼女が生んだ、誰を父としているとも知れない子らも、罰せられ、神に討たれて、駆逐された。

神はゴメル(神に背いた教会)を依然、愛しておられるが、彼女を罪あるままで、受け入れることは決してできない。そのため、ゴメルは罰せられねばならない。偶像崇拝によって生まれた子らは、消し去られなければならない。

だが、ゴメルは貧しさと死の苦しみの中で、ホセアのことを思い出した。

一体、それはゴメルにとって、どれほど遠い記憶だったであろうか。何人の愛人が、彼女を通り過ぎて行ったことだろうか。しかも、今彼女を支配しているのは、彼女を奴隷として酷使する横暴な主であって、もはや愛人ですらない。

ゴメルには昔の美しさは見る影もなく、自由であった頃の面影もなく、今はただ貧しく蔑まれ、見捨てられて、やつれ果てた奴隷の女でしかない。

だが、彼女には、昔、確かにホセアという主人がいた。彼女は自由の身であった時があった。彼女はホセアを思い出したとき、ようやく自分を今まで支配してきたすべての者たちが、残忍で、嘘つきで、強盗で、人殺しである事実に気づき、これらの者どもを一切、自分から断ち切り、生き方を改めることを決意した。

彼女はホセアの名を呼んだ。だが、もう手遅れだ、遅すぎる、こんなにまで身を落として、どうして彼に助けを求められようか。どうして彼を夫と呼べようか。
 
ところが、ホセアは彼女の呼び声に応えた。ホセアは、奴隷に身を落としたゴメルを買い戻すために走った。海の向こうから、山々の向こうから、はるかな道のりを辿り、地の果てのようなところまでたどり着いて、見失われ、忘れられ、変わり果てた我が妻を探し出し、彼女を説得して家に連れ戻した。

イスラエルは、神の栄光を映し出すために造られた器。どうして神がこれを忘れられようか。神は手のひらを返して、見捨てられたゴメルのために報復される。彼女を蹂躙し、傷つけた者どもにしたたかに報復されて、追い払われる。

「島々よ、わたしに聞け
 遠い国々よ、耳を傾けよ。
 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。

 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
 わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
 わたしに言われた

 あなたはわたしの僕、イスラエル
 あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

 わたしは思った
 わたしはいたずらに骨折り
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。

 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。

 主の御目にわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、わたしの力。

 今や、主は言われる。
 ヤコブを御もとに立ち帰らせ
 イスラエルを集めるために

 母の胎にあったわたしを
 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。

 わたしはあなたを僕として
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

 だがそれにもまして
 わたしはあなたを国々の光とし
 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

 イスラエルを贖う聖なる神、主は
 人に侮られ、国々に忌むべき者とされ
 支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。

 
王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。
 真実にいますイスラエルの聖なる神、主が
 あなたを選ばれたのを見て。

 主はこう言われる。
 わたしは恵みの時にあなたに答え
 救いの日にあなたを助けた。
 わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて
 民の契約とし、国を再興して
 荒廃した嗣業の地を継がせる。

 捕らわれ人には、出でよと
 闇に住む者には身を現せ、と命じる。
 彼らは家畜を飼いつつ道を行き
 荒れ地はすべて牧草地となる。

 彼らは飢えることなく、渇くこともない。
 太陽も熱風も彼らを打つことはない。
 憐れみ深い方が彼らを導き
 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。

 わたしはすべての山に道をひらき
 広い道を高く通す。

 見よ、遠くから来る
 見よ、人々が北から、西から
 また、シニムの地から来る。

 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。
 山々よ、歓声をあげよ。
 主は御自分の民を慰め
 その貧しい人々を憐れんでくださった。

 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。

 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃虚とした者はあなたを去る。

 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。
 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。

 破壊され、廃虚となり、
 荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子らは
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕らえられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。

 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を地につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう。

 
そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。

 主はこう言われる。
 捕らわれ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。
 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。 」(イザヤ書第49章)


 * * *

神はこうして背信に背信を重ねて、完全に見失われた存在となったご自分の民を、彼らの内にごくわずかに残った、あるかなきかの信仰だけを頼りに、地の果てまで探しに行かれた。

そして、ご自分の呼び声に応答する者を一人でも見つけると、その者を家に連れ戻し、汚れた着物を脱がせ、一切の罪の汚れを水の洗いで清められ、真っ白な新しい服を与え、再び、ご自分の栄光を表すための、しみもしわもない、聖なる栄光の花嫁なる教会として、ご自分の前に立たせられた。

心の定まらなかったゴメルは、もういない。そこにいるのは、心の中から偶像を取り除かれて、ただ一人の主人だけを愛するようになった、忠実な妻である。彼女の罪は一切、消し去られ、痕跡すらも残らなくなり、ホセアとゴメルとの結婚は回復される。そして、彼らは祝福されて、その子らは海の砂のように、数えきれないほどになる。

その子らとは、天のエルサレムを母とする、サラの汚れのない子供たちである。この一家には神の慈しみと憐れみとが注がれ、彼らは神の栄光を表す器となる。もう誰も収穫を得られないのに労苦することはない。

「初めの愛」が回復されて、恋人に語らうように、主はご自分の花嫁なる教会に向かって優しく語りかけられる。

「それゆえ、わたしは彼女をいざなって
荒れ野に導き、その心に語りかけよう。

そのところで、わたしはぶどう園を与え
アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。

そこで、彼女はわたしにこたえる。
おとめであったとき
エジプトの地から上ってきた日のように。

その日が来れば
と 主は言われる。

あなたはわたしを、「わが夫」と呼び
もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない。

わたしは、どのバアルの名をも
彼女の口から取り除く。
もはやその名が唱えられることはない。

その日には、わたしは彼らのために
野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。
弓も剣も戦いもこの地から絶ち
彼らを安らかに憩わせる。

わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。
わたしは、あなたと契りを結び
正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。

わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。
あなたは主を知るようになる。

その日が来れば、わたしはこたえると
主は言われる。
わたしは天にこたえ
天は地にこたえる。

地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ
それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。

わたしは彼女を地に蒔き
ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ
ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって
「あなたはアンミ(わが民)」と言う。
彼は、「わが神よ」とこたえる。 」(ホセア2:16-25)

「イスラエルの人々は、その数を増し 海の砂のようになり 量ることも、数えることもできなくなる。彼らは 「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と 言われるかわりに「生ける神の子ら」と言われるようになる。

ユダの人々とイスラエルの人々は ひとつに集められ 一人の頭を立てて、その地から上って来る。イズレエルの日は栄光に満たされる。あなたたちは兄弟に向かって 「アンミ(わが民)」と言え。あなたたちは姉妹に向かって 「ルハマ(憐れまれる者)」と言え。」(ホセア2:1-3)


 * * *

神の裁きは正しく、神はご自分のもとに立ち帰るすべての民を回復される。

「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 
 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。
 
 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

* * *

創世記におけるアダムとエバの愛に満ちた関わりも、ホセアとゴメルの愛の回復も、すべてキリストと教会の愛の交わりの回復の予表である。

エクレシア(教会)は、十字架で死なれたキリストのわき腹から、水と血と霊によって生まれた聖なるエバである。それはキリストの肉の肉、骨の骨から生まれ出て、彼の息によって御霊を受けて生まれた、新しい生きた女(被造物)だ。

イエスは十字架にかかられた後、弟子たちのもとに現れて、ご自分の手とわき腹を見せて、ご自分が確かに死なれ、復活されたことを示された。そして、弟子たちに息をふきかけて、聖霊を受けよ、と言われた。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

そう言って、手とわき腹とをお店になった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

そう言ってから、彼らに息をふきかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:19-23)

ここに、聖なるエクレシアの誕生がある。本体なる神から切り離され、虚無の中をさまようことしかできなくなった、失われた影である被造物が、神に立ち帰り、イエスの十字架の死と復活にあずかり、彼のわき腹から新しく生まれ、彼のよみがえりの命によって生かされる、新しい聖なる女(被造物―人類)とされた。

その時、イエスが十字架にかかられたことに、はかり知れないショックを受けて、ただ恐怖の中に閉じこもり、ユダヤ人たちを避けて逃げ隠れることしかできなかった弟子たちは、再び喜びに満たされ、勇気づけられ、そして、地の果てまで、イエスの復活の証人となった。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)

かつて神が失われた民を、地の果てまで探しに行かれたように、今度は、見出された民が、地の果てまで、主の復活の証人となる。私たちの神が、私たちを愛し、私たちのために先に命を捨てられたように、今度は、私たちが、ただお一人の神を愛し、神のために、死に至るまでも命を惜しまず、自分を残らず注ぎだして従うことができるようになるのだ。

聖霊を受けた弟子たちは、主の死と復活にあずかることで、主と同じ霊にあずかり、それゆえ、彼らには主イエスが持っておられたのと同じ、御名の権威が与えられた。病人を癒し、蛇を踏みつけ、毒を飲んでも害を受けず、人の罪を赦す権限も、赦さないでおく権限も与えられた。

弟子たちに吹きかけられた息―聖霊は、アダムと生かした霊とは異なる、死と復活を経たキリストの霊、永遠の命であり、「臆病の霊」ではなく、「力と愛と思慮分別の霊」である。

それは信じる者を、どんな苦難や試練に耐え抜いてでも、最後まで、固く御言葉に立たせ、あらゆる敵の嘘による惑わしを打ち破る知恵を与え、死に至るまでも、主の復活の証人とすることのできる霊である。

パウロは言う。

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを耐え忍んでください。

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。

この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。

キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。

というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。

キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(Ⅱテモテ1:7-14)


キリストのために受ける苦しみを、恥じてはならない。失われていたものが見いだされ、死んでいた者が生き返り、神が大いなる喜びを持って、ご自分に立ち帰る民を迎えられるためならば、自分は何を耐え忍んでも構わない、パウロはそう語る。

今、神の御思いの中心にあるのは、被造物の完全な回復である。神は、立ち帰った民の罪を赦されるだけでなく、これらの民を、堕落した一切の痕跡のない、しみもしわもない、キリストの栄光に輝く花嫁なる教会として完成されようとしておられる。

死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者が見いだされることへの神の喜び。放蕩息子の帰還を喜ぶ父の言葉は、ご自分の民を迎える父なる神の喜びである。

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。そして、祝宴を始めた。」(ルカ15:22-24)

キリストがエクレシア(教会)を愛されるのは、エクレシアが、キリストの成分から成る、彼の栄光を表す器だからである。アダムがエバを見たときに、これこそ自分の肉の肉、骨の骨と叫んだように、主はご自分の前に立つ花嫁なる教会を見て、そこにご自分の死と復活を見、ご自分の聖なる性質を見、ご自分の栄光の反映を見て、心から満足される。

エクレシアは、キリストにとって自分自身のような愛の対象であり、エクレシアにとっても、キリストは自分自身のような愛の対象である。この二つは一つであって、互いに呼応し合って、離れることがない。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。

そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちはキリストの体の一部なのです。

それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(エフェソ15:22-33)

* * *

さて、今日、ホセアとゴメルの失われたはずの子ら、サラとアブラハムに約束された数えきれない子どもたちとは、一体、誰を指すのだろうか。

それは、黙示録に記されている、あの白い衣を着た数えきれない大群衆のことではないかと思う。つまり、キリストによって贖われ、新しく生まれた神の子供たち、主のものとされ、死から贖い出された者たち、それが、私たちが産みの苦しみを味わいつつ、労苦していることの実なのではないかと思う。

だが、それはただ数えきれない大群衆という、数の問題ではない。被造物が、この地上にある間に、どれくらいキリストのご性質にあずかり、彼に似た者とされるかという、贖いの成就の程度と、完成の問題である。

すべての被造物の贖いの完全な成就――これこそ、神の御思いの中心にあるテーマであり、それこそが、キリストの花嫁なる栄光に輝く教会の完成なのである。その完成のためにこそ、現在、私たち神の子供たちは、すべての被造物と共に、産みの苦しみに呻きつつ、御言葉の光によって照らし出されて、ますます主の栄光を反映させて、主の似姿とされるために、試練を耐えて労苦している。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」(ローマ8:18-24)

私たちには、罪赦されて贖われただけでは終わらない希望がある。それは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられ、神の栄光を完全に映し出す器とされることである。

「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、”霊”のことですが、主の霊のおられるところには自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:16-18)

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められたました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光を与えになったのです。」(ローマ8:28-30)

こうして、私たちが栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられるとき、私たちは、神の栄光を完全に表し、ご自分の造られた者への神の愛の深さを余すところなく証明する者とされる。私たちの存在そのものが、神の愛の深さ、その偉大さの証明となる。それが被造物に与えられた役割なのである。
 
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。


「わたしたちは、あなたのために
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

 と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35-39)

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御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(1)

「御国が来ますように。
 御心が天に成るごとく、地にもなさせたまえ。」

またもや大きな勝利があった。死の恐怖からの自由、不当な圧迫に対する勝利、むなしく不毛な苦役からの解放、自由の中での勝利が与えられた。神が信じる者をどれほど入念かつ注意深く助け、守って下さるかが証明された。そして、信じる者は、この地にあって、すべてを足の下にされているキリストの目に見えない復活の命の統治を持ち運んでいるがゆえに、地を従える者であることが証明されたのである。

オリーブ園に再び、オースチンスパークスの「開かれた天」が連載されている。ここには、地上におけるキリスト者がキリストと合一することにより、その者が天(御心)を地に引き下ろすための架け橋となることが記されている。

当ブログで、これまで繰り返し、オースチンスパークスを取り上げて来たのは、彼の論説が、明らかに御霊によって書かれたものだと分かるためである。私たちはそのような論説を読むとき、御言葉に基づく神の光によって、霊的に照らされることができる。

霊的に照らされるとは、私たちが地上の人間的な卑俗な観点や思いを離れ、何が神にとって最も重要な事柄であるのか、御国の権益に関わることとは一体、何なのか、改めて思い起こさせられ、目が開かれるということである。その効果は非常に絶大である。

残念ながら、霊的先人と呼ばれている人々の文章のすべてが、御霊によって導かれて書かれたものではない。正直に言えば、ペンテスコステ系の先人たちの論説のように、キリストを証しているように見せかけながら、実際には、人間の言葉に過ぎないものが数多くある。

しかし、真実、御霊に導かれて書かれた数少ない例外があり、筆者が見たところ、オースチンスパークスの論説もその一つである。それは、そこにキリストを証する文章、また、天的な法則性が記されていることからも分かる。「開かれた天」にも、キリストとの合一、死と復活の命の法則により、いかにキリスト者が、この地上にあって、御国をこの地上に引き下ろす存在となるかという法則性が記されているのである。

さて、そのようにして照らされることの重要性を述べた上で、当ブログでも、もう一度、御国の統治を地に引き下ろすことについて書きたい。

キリスト者は、死を打ち破って復活されたキリストのまことの命の霊的統治を持ち運ぶ者であることについては、これまでにも再三に渡り、書いて来た。

しかし、そのまことの命の統治が、はかりしれないほどに絶大なものであればこそ、キリスト者は、暗闇の勢力から絶え間なく攻撃を受け、何とかして神のまことの命の支配がこの地に実現しないように、妨害を受けるのである。

だが、そもそも、一体、神のまことの命の支配とは、具体的に何を意味するのか、と問われるであろう。それは福音伝道をしてクリスチャンを地上に増やすことなのか、教会の領域を押し広げることなのかと言えば、決してそうではない。

それは、地上では、か弱い人間に過ぎない一人の信仰者を通して、その者を死から贖われ、キリストの復活に同形化された神のご計画の正しさ、その者を死から贖った絶大な神の命の力が、この地上の人々にも、それと分かる形で、はっきりと現れ出ることを意味する。

究極的に言えば、一人の人間がすべての死の圧迫から解放されて、真に自由とされ、自由の中を、神と共に生きることを意味する。それは真実に基づく、偽りのない、御心にかなう生活である。
  
つまり、キリスト者は、地上では弱く脆い土の器であるが、その者が、自分を何とかして再び罪に定め、死に追いやろうと、飽くことなく敵意と憎悪を燃やしている地獄の全勢力からの果てしのない妨害を打ち破って、キリストの復活の命によって、神に対して真に生きる者とされ、永遠に贖われた神のご計画の正しさを明らかに証明することなのである。

この命の力、死を打ち破ったキリストの命の統治の力が発揮される時、暗闇の勢力と、天的な勢力との間の激しい支配権の争奪戦に終止符が打たれ、支配権が逆転するのを私たちは見る。

この世においては、キリスト者はあまりにも無力で、弱く、地獄の軍勢の虜とされて、苦しめられている罪人の一人のようにしか見えないかも知れない。いや、キリスト者となって贖われたがゆえに、世人をはるかに超える憎しみに遭遇し、世人以上に、なお一層、虜とされて苦しめられているようにさえ見えるかも知れない。

しかし、信仰によってそれらの妨害が打ち破られる時、地獄の支配権と、天的な支配権とが逆転し、悪魔の死の力を十字架において打ち破ったキリストの復活の力が、この世のすべての物事を超越してこれらを自らの意志に従えるという統治の順序の逆転が現れ出て来るのである。

つまり、キリストの復活の命は、支配権の問題であり、支配権の争奪戦だということが分かるだろう。神はアダムに地の支配権をお与えになったが、アダムの堕落のゆえに、地は悪魔によって不法に占領され、不法に統治されているが、これを悪魔の支配権から奪還して、キリストの復活の命の統治下に置くことが、神の命題であり、キリスト者の使命なのである。

そのために遣わされているのが、キリスト者なのであり、キリスト者は、神の命の支配、御子の復活の命の支配権を持ち運んでいる存在なのである。

そして、そのキリスト者が、内に御霊をいただくことによって、目に見えない形で絶えず持ち運んでいる、キリストと共に復活にあずかった新しい人としての新たなる支配権は、その者の中から、その者自身の意志、望み、活動と連動して、生ける水の川のように流れだす。ちょうど山頂に登頂した人間が、そこに旗を立てるように、その者が、何を征服しようと望み、どこに行き、何をするのかといった望みと活動に連動して、目に見えない支配圏が押し広げられて行くのである。

筆者が、キリストの復活の命の支配権の拡大を、登頂になぞらえたのは偶然ではなく、実際に、支配権(圏)の拡大は、新たなる領域を征服することにによってのみもたらされる。そして、キリスト者の場合、復活の命の支配権の拡大は、その者の内なる望みに基づく行動によるのである。

先に、キリストの命の支配の拡大とは、地上でクリスチャンが増えることや、教会の領土が拡大することとは何の関係もないということを書いた。それでは、一体、この支配とは何なのか?という疑問が生じよう。

それは何よりも、すでに書いた通り、人を真に自由とする支配であり、自由の中で、望みによって打ち立てられる支配である。

この世において、人は死の恐怖の奴隷とされている。己を養うため、命を支えるため、死から逃れるために、人は実り少ない苦役のような労働につながれ、絶えず、自分の命が失われるという恐怖の中に虜とされてしか生きることができない。何をするにも、どうやって自分の命を保たせるか、ということだけが中心課題となる。

しかし、神の復活の命の統治が現れ出る時、人はもはやそのような死の恐怖の虜ではなくなり、その恐怖から解放され、自由の中で、安息を得て、その安息の中で、自分の意思決定を下せるようになる。

これを表すに当たり、「必然の王国から自由の王国へ」という、かつて共産主義者が使用したスローガンを利用することもできるかも知れない。(ただし、共産主義者は、アダム来の人間の欲望に従って人間の自由を願ったが、キリスト者は、人に自由を得させることが、神の御心であるという事実に基づき、キリストと共に死と復活を経由した者として、自由を求めている。私たちは、己の欲望だけに従って欲望の実現を追い求めて生きているのではなく、神の御心にかなう真実で偽りがなく公正かつ自由な統治を求めているのである。)

つまり、贖われた人は、死の恐怖のゆえに、限られて乏しい選択肢の中から、仕方がなく意に沿わないものを選んで生きるしかないという限定された生活ではなく、真に自分の望みに従って、自由の中から自分の選択を決めることができるようになる。(共産主義者が使用したスローガンは、聖書における御国の模倣である。)
 
キリストの命の支配の拡大は、その者が何を望み、何を実現しようとするかにかかっている。信仰者には、どんなにそれが個人的な望みであっても、自分の個性、望みに従って、自由に行動することができる新たな生活が保障されているのである。

アダムは地の奴隷であったが、キリスト者においては、その関係が逆転しており、地の方が、キリスト者に従うようになる。これが真に正しい順序であり、その秩序が本当に現れ出る時、この世の人々、事物、状況のすべてが、キリスト者に従うようになるのを見て、私たち自身が、それが自分の力ではなく、自分の内にある神の命の支配の力によるものであることを知って瞠目するであろう。

キリスト者は、自分の望みを神に申し上げ、それが御心に反するものではないと認められたなら、その望みが実現するまで、激しい争奪戦を戦い抜いて、御国の統治を実現しなければならない。
 
だが、一体、キリスト者の自由な選択はどうやって保証されるのか?という疑問も生じよう。何を望むのも自由だが、望んだからと言って、どうしてすべてがかなうと言えるのか?
 
それを保証するものが、信仰であり、復活の命である。キリストの復活の命が、その者に必要なすべてを供給するのである。個人的なごくごく些細な望みに至るまで、その命が、その者の生活のすべてを支え、保証するのである。

人にはそれぞれ個人的に異なる望み、異なる生活がある。地上組織としての教会の拡大のために働くことと、キリストのまことの命によって生きることは何の関係もない。そこで、キリスト者が復活の命によって支えられながら、何を実現して生きようと願うのかは、個人によって異なる。クリスチャンだからと言って、その生活も、望みも、人によって全く異なる。一人一人に与えられている召しも、望みも、生きざまも、すべて異なるのである。

そこで、神の復活の命にどれほどのはかりしれない力が含まれているかについては、ちょうどこの地上の人々が、海底や、地底に人知れず眠っているエネルギー資源を見つけた時のように、一人一人が自らの生活の中で、その命の力を開発し、利用し、使う方法を具体的に学ばねばならないのである。

クリスチャンが、自分の願い、望みを率直に神に申し上げ、それを神の復活の命を経由させて、地に実現して行く方法を具体的に学ばなければならないのである。

キリスト者が地上で生きることが、ただ個人的なレベルの生活にとどまらず、御国の統治そのものと密接につながっており、御国の権益と関わっていることに気づき、天的な展望のレベルで物事を見る必要がある。
 
そして、キリストの復活の命にこめられた力を実際に知らなければならない。復活の命が、キリスト者に、ただ命の保障を与えるだけでなく、どうやって信仰によって、望みのものを約束し、保証してくれるか、これを開発し、法則性を探り出し、利用しなければならないのである。

その過程で、キリスト者は、まず何よりも霊的に積極性を失わない「攻めの姿勢」を持たなければならない。絶えず目を覚まして警戒を怠らず、新たに目指すべき目標が何であるかを知り、これに大胆に向かって行かなければならない。消極的で受動的な態度でいながら、霊的支配を拡大して行くことは無理である。
 
ここで言う「攻めの姿勢」とは、霊的な積極的な生産のサイクルと密接に関連している。

まず、それは妨害があっても、決してあきらめないだけの強い願いを持つことから始まる。キリスト者が(どんなに些細かつ個人的な事柄のように思われても良いから)、新たな望みを大胆に持ち、次に、どんなに周囲の状況が否定的で圧迫的に見えたとしても、その望みが神にあって実現可能であることを信じて、望みに向かって大胆に邁進して行き、望みが実現するまで、どれほど激しい戦いがあっても、臆して退却することなく、妨害を打ち破って、前進し続けることが必要となる。

こうして、キリスト者が積極的な望みに基づき、さらなる自由に到達し、神の栄光を増し加える新たな霊的山頂を目指して、絶え間なく前進して行き、勝利をおさめ、新たな自由を勝ち取ることが、目に見えない神の命の支配を拡大するための霊的生産サイクルなのである。

それは大いなる戦いであって、信仰者が御名によって、新たな見えない領土を獲得するための戦いである。その戦いがあまりにも激しくなると、キリスト者が意気阻喪して、望むことをやめてしまったり、前進をあきらめて立ち止まることがある。そうすると、霊的支配の前進もやんでしまう。それだけでなく、再び、彼自身が、死の圧迫の虜とされてしまうことがあるかも知れない。そうなれば、暗闇の勢力は、彼がすでに獲得したはずのものにも、大いなる打撃を与え、これを奪い取り、彼をどんどん退却させて行こうとするであろう。

しかし、たとえそのような停滞や退却があったとしても、キリスト者は再び、上からの力を受けて、絶え間なく、死の圧迫を打ち破って、自由に向かって前進し続けることが必要である。それを成し遂げて行くときに初めて、信じる者たちには、弱った足腰が強くされ、よろめく膝がまっすぐになり、たゆむことなく、遠くまで歩いて行くことのできる力が上から与えられる。こうして前進し続けて、さらなる自由を獲得し、御心を地に引き下ろし、御名に栄光を帰することが、キリストの復活の命の支配の拡大の法則性なのである。

あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)

今週一週間も、またしても、多くの学びある時を過ごした。

このところ毎日のように、暗闇の勢力の圧迫に立ち向かうことを学ばされている。毎日、何も起こらない日がないのである。電車に乗れば、人身事故で大幅な遅延が起きて予定が狂ったり、平穏な朝を迎え、駐輪場にバイクが止めたかと思えば、もう夕方には思いもかけない突風が来て車が倒れている。我が家の鳥たちにも、動物たちにも、日々、様々な変化が起き、油断して隙を作らないように、色々なところに心を配らなければならない。
 
このような種類の圧迫は未だかつてなかったものであり、時が縮まっていることを強く感じざるを得ない。時代が新たなフェーズに入っており、霊的な防衛の盾をはりめぐらさなければならないことを感じる。しかし、こうした圧迫に立ち向かうことは、決して困難ではない。
 
そのために必要なのは、何よりも、周囲でどのような出来事が起きようとも、決して、出来事の表面的な有様に心を奪われて、失望したり、落胆することなく、毅然と心の中で顔をあげて、これらの一つ一つの出来事の只中で、死を打ち破ったキリストの復活の命に立って、死の圧迫を打ち破るために立ち向かうことである。

その中で、「かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えない。」と以前に書いた通り、享楽的な生活を送るほどにまで有り余る資産はなくとも、貧しすぎて生きていけないほどの困窮を通らされることもなく、神の守りの中で、自分の資産を心配していちいち数えたりせずとも、必要なものがすべて天から供給されて与えられ、行きづまることがないのを知らされている。
 
多くの信仰の先人たちは、最後のなけなしの資産をもなげうって、主のための奉仕に邁進したが、その中で、彼らは、自分たちの生計を神が不思議な方法で維持して下さったことを証ししている。まさにその通りのことが、筆者の身にも起きており、信仰による明け渡しの度合いは、年々、深まっている。ただぼんやりと「神が守って下さる」と考えるのではなく、筆者の限られた知恵の中に、主が働いて下さり、何をどうすべきか、教えられているがゆえに、守られているのである。

もし上からの知恵がなければ、筆者のように平凡な人間の生活は、昨今の凶悪なご時世の中で、とうに破滅して終わっていたことであろう。それほど不思議な力が臨んで、筆者の生活は守られ、生かされ、支えられているのである。

そこで、筆者は、どんなことでも、神に率直に打ち明けて助けを乞うことをお勧めしたい。

かつて筆者に向かって「神には泣き言であろうと、怒りであろうと、不満であろうと、恨み言であろうと、愚痴であろうと、どんなことでも、正直に思いの丈を打ち明けて、まさに神の胸ぐらをつかむような勢いで直談判することも許されるのですよ。そういう正気さも神は重んじて下さるのですよ」と助言した信者がいた。

その頃から、筆者は、愚痴や弱音や泣きごとのようなことでも、神には恥じることなく率直に打ち明け、解決を得ることを続けて来た。神は真実なお方であるから、私たちが助けを乞うているのに、それを退けたりはなさらない。こうして相談する先があればこそ、筆者は行きづまることがないのである。

だからこそ、筆者は、すべての信者に、自分の主張を神に率直に打ち明けることをお勧めする。

この世でも、自分の権利をきちんと訴えなければ、それが認められることはない。たとえば、裁判は、ただ人が受けた被害を取り返す目的のためだけに起こされるものではない。そもそも、自分がどんな権利を持っているのか、どのような人間であって、どう扱われるのがふさわしいのか、自分自身の完全な権利を自覚することなくして、不当な主張に立ち向かうことは誰にもできない相談である。

筆者がこれまで常にカルト被害者救済活動を批判して来たのは、この活動を支援する人々(カルト被害者を名乗っている人々ではなく、被害者を支援すると表明している人々)が、常に自分には何の弱さも落ち度もなく、困っているのは自分以外の誰か他人であると主張して、いつも他人ばかりを助けようとする一方で、自分は神に助けを求めないためでもある。

一体、彼らはどういう動機から被害者を支援すると言っているのか、定かでない。おそらく、彼ら自身も、どこかの時点で、教会やキリスト教につまずいて、心の傷を負った被害者なのだろうと思われるが、彼らは決して自分の心が傷ついていることを認めず、自分が被害を受けたとは主張せず、自分の弱さ、自分の脆さ、自分の恥、自分の心の傷を、頑なに認めず、覆い隠しながら、傷ついて助けを求めているのは自分ではなく、他の誰かであると言って、常に自分以外の誰かに、自分の弱さを転嫁して、他人を助けることで、自分を救おうとするのである。

だが、それは彼らが自分の真の姿を否定して、自分を救うために行っている代償行為であるから、そのように他者を助けることによって、彼らの傷ついた自己が癒されることは永遠になく、彼らの弱さが取り除かれて、問題が解決することもない。マザー・テレサのように他人を助けていれば、社会からは、善良で思いやり深い人間であるかのように高く評価されるかも知れないが、その一方で、彼らの心の中では、他人を助ければ助けるほど、ますます自己の孤独が深まり、神が分からないという闇が深くなって行くのである。

それは彼ら自身が、常に他人の弱さだけに注目し、決して自分の弱さ、自分の行き詰まり、自分の問題を見ようとしないためである。そうして彼らが神の助けを乞わないので、神ご自身も、彼らから遠のいて行ってしまい、彼らの抱える問題にはいつまで経っても解決が与えられないのである。

それに引き換え、他人がどうあれ、自分の抱える問題を真正面から見据え、自分の問題の解決のために、なりふり構わず、率直に弱さを認めて天に助けを乞うことができる人は、問題から抜け出すスピードも速い。

裁判では、緻密な証拠の裏づけ、法的根拠の裏づけを確保した上で、自分の主張を明白に提示せねばならないが、そのようにして明白かつ合理的に自分の主張を行えば、多くの場合、その主張は認められる。しかし、主張しなければ、初めから願いが認められる見込みもない。

この法則は、霊的な世界においても適用されるのであって、神に対して(もしくはサタンに立ち向かって)、自分の権利がどのようなものであるかを強く主張せず、暗闇の勢力からいわれのない非難を受けても、黙っており、自分の権利を少しも取り戻そうとしない人間は、決して不完全な状態から脱する見込みがないばかりか、いずれその非難が現実になってその人の身に成就してしまうのである。

このことは、悪人に立ち向かって、彼らに自ら報復を加えよと言っているのでは決してない。裁判では主張できない多くの被害がこの世に存在することは確かであり、筆者がここで述べているのは、たとえに過ぎず、何よりも、信者が神に対して自分の弱さを認め、自分の問題を率直に認めて神に打ち明けて、真に完全な人となるために、御言葉が約束してくれている権利に基づき、上からの新たな力を乞い、神に解決を求めることの重要性である。そのように主張する根拠となるのが、真の意味での人権意識なのであり、その人権意識は、聖書の御言葉に立脚するものなのである。

この世の法廷闘争においては、憲法を最高法規として、法が規定する人権の概念に基づき、自己の権利を主張するが、霊的な世界において、我々が自分の権利を主張する根拠となるのは、キリストが獲得された完全な人としての権利である。

我々はキリストの贖いの完全性に立って、これを穢し、否定するすべての主張に立ち向かうのである。

もう一度言うと、筆者がカルト被害者救済活動を決して認めることができないと主張するのは、これまで幾度も述べて来た通り、この活動を支援する人々が、あたかも被害者を助けてやるように見せかけながら、被害者を永久に被害者の鎖につないだまま、栄光を搾取する道具とし、彼らが被害から立ち上がって、神の完全な救い、完全な贖い、完全な回復に到達して自由になることを決して許さないためである。

このような活動は、労働者が手っ取り早く仕事を見つける手助けをしてやるように見せかけながら、労働者の賃金を中間搾取する人材派遣業や、信者が神の御言葉を受けとるためには、牧師の手助けを受けなければならないとする牧師制度によく似ており、要するに、人間の弱みをダシにした霊的中間搾取の手法でしかないのである。

牧師制度は一人一人の信者を、まるで母親の乳房にすがりつく赤ん坊のように、牧師という存在から離れられない依存状態に押しとどめ、決して信者が自立して御言葉の糧を一人で得て咀嚼できる大人に成長することを許さない。そのように信者を霊的な赤ん坊のような弱さの中に閉じ込めることによって初めて、牧師は信徒の弱さに付け込んで、信徒の助け手として、手柄を得ることができる。

同様に、カルト被害者救済活動は、被害者を永久に被害者のままにしておくことによって、初めて被害者を支援する人々に栄光をもたらすのである。

しかし、私たちは、自分が霊的にいつまでも後見人や保護者を必要とする子供ではないことを知っており、不要な松葉杖を捨てて自力で立ち上がる必要がある。いつまでも自分を半人前に押しとどめようとする圧力に屈してはならないのである。

このことは、別なたとえで言えば、最近、自動車業界で起きた完成検査不備の大規模なリコールを思い出させる。そこでは、資格を持たない者が完成検査を行ったため、一度は完全であると宣言されて公道を自由に走っていたはずの車が、リコール対象とされ、再び不完全なものであるかのように検査を受けなくてはならなくなったのである。

私たちはキリストの十字架の贖いを信じて受け入れることにより、一度限り永遠に罪赦されて、完全な贖いにあずかり、神の目にキリストと同じく完全な人として受け入れられる資格を得たはずである。

それにも関わらず、一体誰が、その贖いが成就した後で、神の贖いには不十分なところがあったかのように、私たちが不完全な人間であるかのように非難して、私たちを罪に定めることができるのであろうか。

もしそんな主張が成り立つならば、神が一度限り永遠に、私たちを完全な存在として受け入れられ、私たちを自由とされた宣言は、間違っていたことになる。そのように一旦、自由が宣言された後で、神の検査は、実は不完全なものであって、私たちは再び、何者かによって、自由を取り上げられ、罪ある不完全な存在であるかのように、再検査の対象とされなければならないのだとすれば、そんな救いに何の価値があるだろうか。

そんなことがあって良いはずがない。神の検査は、真の資格者による検査であるから、その検査に合格した者に、後になって不備が見つかることは絶対にあり得ないのである。それにも関わらず、その検査に不備があったと訴えている者がいるとすれば、それはまさに虚偽であって、「兄弟たちを訴える者」による不当な告発に他ならない。

筆者がこの世の裁判において証明しようとしているのは、まさに以上の事柄なのである。暗闇の勢力は、何とかして神が義とされた者たちを訴えて、再び有罪を宣告しようと願っているが、それは虚偽の訴えであるから、ことごとく打ち破られて、退けられることになる。

神は私たちの潔白を公然と立証して下さる。私たちはリコール対象ではなく、神の目に、いかなる不備も落ち度もない完全な存在として受け入れられている。現実の私たちは、土の器なので、あれやこれやの弱さや、未熟さや、不完全さが見受けられるように思われるかも知れないが、それにも関わらず、私たちに対して神の贖いが及んでおり、神の目には、私たちはキリストと同じ完全な人として受け入れられているのである。

そこで、私たち自身が、自分の表面的な有様にとらわれることなく、自分たちの真の人権(キリストが何者であるかという事実)に立脚して、自分の権利を主張して譲らず、私たちを訴えて再び有罪を宣告しようと願っている暗闇の勢力からのすべての圧迫に対して、毅然と立ち向かって、虚偽の主張を退けなければならないのである。

かつて筆者を刑事告訴すると予告して来た人間がいたが、その計画は、筆者が予想した通り、成就しなかったことを思い出してもらいたい。その者は筆者を罪に問うことができなかったのである。

それと同じように、この度も、裁判の過程で、筆者に対して中傷行為を行っていた一人の牧師が、その記事を自ら取り下げると宣言した。その牧師は、決して自己の過ちを認めたわけではないにせよ、筆者に有罪を宣告して謝罪を迫った自分の主張を押し通すことを断念せざるを得なくなったのである。

このように、筆者を無実にも関わらず罪ある者として訴えようとするすべての主張は、この先も、ことごとく打ち破られて行くであろう。

そして、それは筆者自身だけの力によるものではなく、筆者の弁舌の巧みさや、裁判の風向きによるものでもなく、ただ神の完全な贖いが筆者に臨んでいることの明白な証明なのである。要するに、神が筆者を贖われたのに、その後で、筆者を訴えることのできる人間は、地上には一人もいないという事実が立証されているだけなのである。

しかし、繰り返すが、筆者の外見および地上の人間として筆者が持っている能力は、平平凡凡なものに過ぎず、何の偉大さもきらびやかさもないため、この先も、そのように取り立てて偉大ではない筆者の外なる人の要素だけを見て、筆者を蔑んだり、軽んじようとする人間は現れるかも知れない。

だが、そのようなことも、ほんの表面的な有様に過ぎない。脆く儚い土の器としての信者の外なる人の中に、神のはかりしれない力が働いているのが現実なのであり、その力こそ、キリストの復活の命であり、その力が筆者の朽ちゆく不完全な外なる人を覆っている以上、信者の表面的な有様だけを見て、神が贖われた信徒に挑戦しようとする人間は、結果的にしたたかな敗北を見るだけである。

ところで、話題が変わるようだが、多くのキリスト教徒を名乗る人々が、異端の方向へ逸れて行ってしまうのは、彼らが神を自分が享楽を得て、偉大な存在になるための手段として利用しようとするためである。

聖霊派の集会では、絶え間なく、キャンプやら、聖霊待望集会のような、非日常的で享楽的な催し物が開かれている。筆者は聖霊派には属さないゴットホルト・ベック氏の集会においても、同じように、絶え間なく「喜びの集い」が開かれていることの異常性に、疑問を呈したことがある。

一体、これらのお祭り騒ぎ的イベントは、何を目的として開かれるものなのか? 吟味して行けば、これらのイベントは、みなそれに参加する信者らに、「神」を「体験して味わう」という一種の恍惚体験、享楽的感覚を与えるものであって、信者が「神」を口実にして、神秘体験を通して快感を得るための手段でしかないことが分かるだろう。

信者が神に従う過程で、不思議な出来事は幾度も起きて来るが、しかし、神はあくまで私たちが僕として服し、その命に従うべき主人であって、私たちが快感や満足を得るための手段ではないし、自分を偉大に見せかけるための手段でもない。

それにも関わらず、神を自分が楽しみを得るために、また、自分を偉大な存在とする目的で食する秘密の果実か何かのように扱うならば、たちまち、その信者は異端の方向へ逸れて行ってしまう。それは神と人の主従関係が逆転するためであり、そのような考えはすべて神秘主義から来ている。

そこで、筆者はこれらの恍惚体験をもたらす感覚的享楽をもたらすイベントは、すべて本質的に悪魔的なものであると断言して差し支えないものとみなしている。それが証拠に、こうしたイベントに参加した信者らは、異口同音に、自分たちが他の団体の信者らよりもすぐれて真理を知っており、高みに引き上げられているかのように述べて、他の信者を見下げ、優位を誇るようになる。そのような高慢さが公然と信者らの言動に現れることが、何よりも、これらのイベントが本質的に悪魔的なものであることの明白な証明であると筆者は感じている。

このようにとんでもない思い違いに至って、神を己を偉大とする手段として利用しないためにこそ、神は愛する子供たちに、あえて弱さや、圧迫や、苦難の中を通らせ、私たちが常に自己の限界の中で、率直に神の助けを呼び求めて、上からの力にすがらざるを得ない状況に置かれるのである。

そこで、もしもある信者の生活の中に、全く苦難もなく試練もないのだとすれば、その信仰生活は何かが根本的におかしいのだと断言して構わない。

私たちの外見も、神の助けを得たことにより、立派になったり、偉大になったりするわけではなく、私たちの生活が、神の助けを得たことにより、飛躍的に悩み苦しみの一切から解かれるわけでもない。

むしろ、一つの事件に劇的解決が与えられても、次にそれよりもさらに高度な試練が待ち構えている。神の助けは常に、私たちが頭を低くして、圧迫や蔑みや嘲笑や誤解をも甘んじて受けながら、それでも、それらの圧迫や苦難に信仰によって毅然と立ち向かう時にこそ、与えられる。

繰り返すが、神の御前に私たちが己を低くするとは、私たちが不当な蔑みや嘲笑にいつまでも翻弄されて、どんなに侮辱されても、それに受け身に甘んじることを意味しない。私たちは、不当な訴えには、毅然と立ち向かい、潔白を主張して虚偽を粉砕せねばならない。

しかしながら、それと同時に、私たちが不当な訴えを受けることによってこうむる痛み苦しみは、神の目には、私たちが御前に己を低くして、試練を耐え忍んだことの証として評価されているのであり、私たちがそうした圧迫の中でも、自分を確かに保って、虚偽の訴えに屈することなく、神の贖いの完全に立脚して、御言葉によって神の完全を主張し続けた努力は、天において高く評価されるのである。

こうして、神の偉大な力は、常に私たちの弱さとセットになって働くのであって、私たちの生来の気質として与えられた器用さや、能力、才覚などが、そのまま神の力として働くわけではない。だからこそ、周囲の人々は、私たちを守り、支えている力が、私たち自身に由来する力でないことを知って、これに瞠目し、驚嘆せざるを得ないのである。
  
霊的な法則性は、霊的な事実に従って、自己の権利を主張したものが勝つというものである。主張しなければ、どんな権利も認められない。だが、デタラメな主張でも、主張しさえすれば、認められるというものではなく、私たちは正当な根拠に基づいて、権利を主張しなければならないが、何よりその根拠となるものが、聖書の御言葉なのである。

そこで、筆者は決して自己の権利のためだけに、各種の訴えを出しているわけではない。筆者を贖われた神がどういう存在であるか、神が私たちに約束して下さった御言葉がどれほど確かなものであるかを公然と証明するために、一連の主張を行っているのである。
 
御言葉は、キリストが神の御心を完全に満足させたことにより、御子を信じる私たちも、キリストと同じように、神の目にかなう者とされたと述べている。だからこそ、私たちを訴えることのできる者は誰もいないのである。そして、この御言葉は、「しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」(ルカ16:17)とある通り、私たちが目の前に見ている天地万物、神羅万象、私たちの朽ちゆく外なる人を含め、すべての滅びゆく目に見える被造物にまさる神の永遠かつ不変の事実なのである。

私たちはキリストのゆえに、律法の要求するすべての厳しい検査に合格して義とされ、自由とされた。それにも関わらず、私たちが再び律法の検査に不合格とされて、リコール対象とされることは決してない。つまり、私たちが公道を思いのまま自由に走る権利は、神に由来するものであるから、私たちに不完全を言い渡してこれを取り上げて、検査対象に引き戻すことのできる者はどこにもいないのである。

冒頭に挙げた御言葉は、前後の文脈を読むと、あたかも悪人に対する寛容さを求めるものであるかのように受け取れないことはないが、筆者は、この御言葉は、信者が、神を信じる人に対しても、そうでない人に対しても、自分に与えられた贖いがどれほど完全なものであるかを絶えず証し続けることの重要性を述べたものであると理解している。

神が完全であるように、私たちも完全な者になるとは、決して私たちが自力で弱さを克服して一切の未熟さや落度のない偉大な存在になろうと努力することを意味せず、ただ私たちが自分がどのような者であれ、どんな状況の只中であろうとも、御言葉の約束に立脚して、自分に与えられた救いの完全さを信じて、神の完全な力が自分を覆うよう、神を信じてより頼むことを意味するだけである。

「わたしはあなたと争う者と争い、あなたの子らを救う。」―神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となった。

「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。

神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。

わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に”霊”を与えてくださいました。」(Ⅱコリント1:18-22)

最近、上記の御言葉の深淵な意味を理解する貴重な機会に恵まれている。
 
筆者は最近、世の中で発せられる言葉がことごとく嘘にまみれ、それが嘘であることさえ否定されるほどに厚かましく虚偽が大手を振って跋扈していることに対し、心底からの憂慮と憤りを覚えていた。

労働市場には求人詐欺が溢れ、公文書は改ざんされ、政治家の公約は平然と破られ、それでいて誰も責任を取らされることもなく、世の中に溢れる言葉の一つ一つが耐えられないほど無意味となり、何を信じて良いのか、もはやその目安さえ見つからないほどすべてが混沌として、信頼に足る根拠のある言葉が見つからないことに、空恐ろしい感覚を覚えずにいられなかった。

まるで全世界が深い嘘の闇の中に沈んで行こうとしているのに、それをどうすることもできないむなしさ。一体、これほど深い海のような嘘の中で、我々はどうやって身を守り、生きて行けば良いのか? 

そんなことを考えていた時、昔の友人、いや元同僚と会話する機会があった。かつて我々はある職場で出会ったのだが、そこはまるで魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿のようなところで、仕事は尋常でなくハードで、労基法の存在など誰にも認識されていなかった。研修中に半分以上の新入社員が黙って姿を消していくような職場だった。
 
当時、その職場のあまりにも極端な有様に、我々も驚き呆れた。懸命に働いたが、長くは持ちこたえられず、間もなく皆が散り散りになって行った。しかし、苦労の只中で生まれた絆は、時が経っても、消え去ることなく保たれた。

最近、ふと思い出して連絡を取った時、思いもかけない返事が返って来たのである。

「ねえ、ヴィオロンさん、私が今どこにいると思う? あの会社よ!」

驚くべきことに、同僚が口にしたのは、筆者の中では、まるで恐るべきものの代名詞だったような社名であった。

「びっくりでしょう~? でも、本当にこの会社は変わったのよ。とても働きやすくなったの」

彼女が言うには、何とその会社が、根本的に変化して、福利厚生を整え、社員の願いをくみ上げ、未来を与えることのできる風通しの良い会社になっているというのだ。

残業代は1分単位で支払われ、社員への慰労会が催され、働けばちゃんと報いが得られる仕組みになっているという。何よりも苦労の多かった元同僚が、すでにかなり長くその職場にいるという事実自体が、他のどんなことよりも、彼女の語る言葉が事実であることを物語っていた。
 
しかし、何よりも、筆者が驚いたのは、次の言葉である。

「つい最近、5年勤めた私の同僚が、終身雇用になったばかりなのよ。色々と続けられるかどうか悩んでいた時期もあったようだけれど、ついに終身雇用になって、本当に安心したって言ってたわ」

筆者は耳を疑った。シュウシンコヨウ? 何しろ、それは安定とは程遠いイメージの、最も人の出入りの激しい業界のことである。さらに、世の中では、正規雇用への転換を阻むための雇止めが横行している中、勤めて5年経ったら終身雇用とは、まさか?

だが、その話は聞けば聞くほどどうやら本当らしいのであった。

筆者は驚いてしまった。

筆者の心の中で、その会社のイメージは、筆者がいた頃の混乱した有様で、記憶が止まっていた。あまりにも多くの人々を無碍に会社の外へ放り出し、悪事をたくさん犯し過ぎたので、立ち直りは不可能だろうとさえ思っていた。

筆者がその職場を去る前、上司にその胸の内を打ち明けると、上司は、頷きながらも、その時、自分はここに残ってこの現状を改革するのが夢だと語っていたことを思い出した。

よくは分からないが、長い歳月が過ぎ、当時、胸を刺し貫かれるような光景を幾度も目撃しながら、育てて来た後輩を次々と見送り続けて来た人たちが、やがて幹部となって、会社を改革したのかも知れなかった。

筆者は、元同僚の勧めで、会社説明会に行ってみることにした。すると、確かにすべてが以前とは異なるのであった。大体、企業の登録説明会などに行くと、生気の抜けた空々しいスピーチを聞かされ、あれやこれやの禁止事項を言い渡され、おどろおどろしい内容のビデオを見させられたり、細かい字が敷き詰められた誓約書にサインを求められたり、まだ何も始まっていないのに、早くもこんなにも要求過多なのでは、この先、どうなることやらと、げんなりしながら帰宅したりしていたものだが、そうした印象はほとんどなかった。

ビルにたどり着くまでの親切な道案内、受付の快活さ、お決まりのビデオでは、禁止事項は一つも挙げられず、かえってどれだけその職場が自由で伸び伸びとしており、社員にとって働きやすい制度が整備され、企業が社員の未来に心を配っているかということが強調されていた。

上から目線の義務と要求の押しつけが全くと言って良いほどなかったのである。

感動屋の筆者は、そのビデを見ているうちに、当時、別れ別れになった上司や同僚たちの姿が脳裏をよぎり、よくぞここまで変わったものだと、涙ぐんでしまった。

かつてはまるで次々と同僚が討ち死にして行くのを横目に、自分の順番が回って来るのを待つしかない戦々恐々とした戦場のようだった場所に、いつしか涼しい木陰をもたらす大きな樹木と憩いの広場のようなものができていた。

かつてはやって来る人をみな鬼のような形相で追い払う恐ろしい聖域のようだった場所に、日照りの中を歩くことに疲れた人々が、自然に休息を求めてやって来る大きな木陰ができていた。

筆者はこんな事例を他に一つも見たことはないが、とにかく組織というものは変わりうるのだという実例を目の前で見せられた気がした。

今まであまりにも多くの血を流し過ぎたから、立ち直り不可能ということはないのだ。どんなに悲惨な光景が広がっているように見えたとしても、そこにごくわずかでも良いから、良心と未来のビジョンを持った人々が、犠牲を払って踏みとどまりさえすれば、全体が変わる日が来るのかも知れない。

それは大きな教訓であった。筆者にはその当時、ここに踏みとどまろうという決意はなく、別の目的もあり、その混乱の只中から何かが生まれて来るとは、到底、信じることができなかったが、それでも、ごくわずかな間であっても、命がけのような毎日を送りながら関わって来た人々と、長い長い年月が経って、かつては予想もできなかった形で再会できたことは、実に感慨深いことであった。

この企業の取り組みは 時代を先取りしているように感じられた。これから5~10年も経つ頃には、大規模な人手不足時代がやって来るだろう。人のやりたがらない苦労の多い仕事には、就く人もいなくなるに違いない。それに先駆けて、アルバイトであろうと派遣であろうと非正規雇用であろうと、今、その仕事に就いて苦労してくれている社員らに未来の夢を提供することで、その会社が、自分たちに仕えてくれる人たちを自社に残そうとしていることは、正しい選択であるように思われた。
 
まるで階級制度のように超えられない壁のように見えた正規・非正規の壁を、その会社が取り払おうとしていることは、正しい選択であるように感じられた。

筆者は、ここ最近、重要なのは、筆者を取り巻く人々や、組織が、外見的にどう見えるかではなく、その人たちの中に真実があるかどうか、もっと言えば、その人々が嘘偽りのない生き方を心から目指しているかどうかに、すべてがかかっているのだということに、はっきりと気づいた。

身内や、親族や、長年の知己や、信仰の仲間や、著名な指導者だからと言って、その人が我々に真実に接してくれる保証はない。老舗の会社だから、誠実に仕事をしてくれるということもない。

ただお互いに、心の中で、嘘によって汚されることのない清い命の流れ、嘘偽りのない真実を探し求めている時にだけ、我々の間には、有益な関係が成立しうるのだ。

さて、ここから先は、クリスチャン向けの話題であるが、これまで筆者は、当ブログにおいて、嘘や自己矛盾や二重性というものは、聖書には決してない特徴であり、それは悪魔に由来する偽りであって、誤った教えには、首尾一貫性がなく、必ず、嘘による自己矛盾や、論理破綻が見られることを述べて来た。

グノーシス主義思想の分析においても、筆者が幾度も強調したのは、誤った教えは「全てがダブルスピークで成り立っている」ということであった。

グノーシス主義の究極目的は、正反対の概念の統合にあるとこれまで幾度も述べた。仏教もそうであるように、グノーシス主義の教えはみな「有る」と言いながら、同時に「無い」と主張するのである。
 
従って、このような教えの究極目的は、「然り」と「否」との統合にあるのだと言えよう。

だが、私たち聖書に立脚するクリスチャンは、「然り」と「否」とを統合するなどということは、誰にも絶対にできない相談であり、それは錬金術のような詐術でしかないことを知っている。

たとえば、公文書を改ざんしている人々も、国会で偽証している人々も、求人詐欺などしている会社も、みな「然り」と「否」を混同しているのである。

「困ったときは、私たちに相談して下さいね」と言いながら、いざ相談してみると、「甘えるな。自分のことくらい、自分で何とかしろ」などと言ってくる人も、「然り」と「否」を混同している。

「私はあなたと信仰による兄弟姉妹です。神が出合わせて下さったのだから、私たちの絆は絶対に壊れません」などと言いながら、いざ様々な不都合な問題が持ち上がると、早速、兄弟姉妹であることを否定して、関係を切り捨ててにかかる人々も、「然り」と「否」を混同している。

主にある兄弟姉妹はみな対等であって、宗教指導者は要らないと言いながら、自分が指導者になって信徒に君臨している人々も、「然り」と「否」を混同している。

要するに、自分で約束した言葉を守ろうとせず、言動が一致していない人々は、みな「然り」と「否」を混同する偽りに落ちてしまっているのである。

人柄が問題なのでもなければ、性格が問題なのでもなく、関係性が問題なのでもない。その人自身が、真実に立って、二重性を排除して生きるつもりがあるかどうかが、それが、我々がその人間と信頼性のある関係を築き上げられるかどうかを決める最も重要な要素なのである。

だから、私たちは限りなく、嘘偽りのない真実を追い求めなくてはならない。どんなに虚偽が海のように深く、すべてを覆っているように見えても、それでも、その中に真実を追い求め続けることをやめてはならない。

そのようにして固く偽りを拒否し、真実(真理)に立って、これを守り続けて生きる人々を探し求め、それを見つける時に、初めて、彼らとの間で連帯や協力が成り立つ。

長年の知己であろうと、親族であろうと、クリスチャンを名乗っている人々であろうと、名だたる企業の幹部であろうと、宗教指導者であろうと、誰であろうと、 「然り」と「否」を混同している人々に、何を求めても、返って来るものは何もないのだ。

クリスチャンを名乗りながらも、聖書は神の霊感によって書かれた書物ではない、と否定する者たちがいる。その者たちは、一方では真実を語りながら、もう一方では、それを自ら否定しているのだから、そのような人々と語り合っても、得るものがないのは当然である。

それは大円鏡知、すべてがさかさまの世界、すべての存在するものが究極的には「無い」という虚無の深淵へと通じて行くだけの語り合いである。

ちょうど今は盆の季節で、多くの人々が先祖供養のために帰省している。国民のほとんどには、自分たちが先祖崇拝という宗教儀式に参加している自覚はないであろう。しかし、終戦の日が8月15日に定められ、我が国最大の国家的行事としての戦没者追悼式がこの日に行われるのも偶然ではないように筆者には思われる。

我が国は、巨大な先祖供養のための国家的共同体であり、天皇は死者の霊の鎮魂と慰謝のための象徴である。その天皇の姿に、国民は自分を重ねながら、未だ先祖供養を自らの最優先課題として今も生きているのかも知れない。

だが、地獄の釜の蓋が開いて、束の間子孫のもとへ戻って来るという亡き先祖の霊が、子孫のために何かをしてくれたことが、これまでに一度でもあったのだろうか? 彼らは、子孫に慰めを要求し、供え物を要求する一方で、自らは何一つ子孫のために奉仕することもない。

それもそのはずである。地獄に落とされたという亡者たちが、生者のために何かしてあげることなど、できるはずもない。生前に自ら犯した罪のゆえに地獄で責め苦に遭い、永代供養を求めることしかできない地獄の死者たちが、本当に、厚かましく、独りよがりな亡霊ではなくて、尊敬すべき立派な先祖であり、まして仏であり、神として讃えられるべき存在だと、本当に考えられるであろうか?

いや、彼らが本当に神ならば、自分のためだけに生贄を終わりなく子孫に要求し続けるようなことをせず、生きとし生ける者の命を維持するために、自ら奉仕し、配慮するであろう。
 
自分が生んだ子らに慰めを与え、命を与え、日々の糧を与え、見離すことなく、生涯の終わりまで、共にいて助けるであろう。

それでこそ、神の名に値する。

それなのに、子孫に向かって永遠に要求を重ね、子孫の財産を奪い去ることしかできず、子孫の配慮によって、自らに供えられたものを、食べることも、味わうこともできず、感謝の言葉を発することもできない死者の霊が、果たして、神だなどということが、あるはずがないではないか。
 
クリスチャンであれば知っている。死者の霊が神になるわけではないと。そんなことは決して起きないと。神の独り子なる救い主であるキリストへの信仰を持たない者が、死んだからと言って、神になることなど決してありはしないのだ。

神の子に連なるためには、人は水と霊によって、すなわち、新しい命によって生まれねばならず、それは、その人が人類の生まれながらのアダムの命や、それに連なる関係に対して、霊的死を帯びることを意味する。

詩編には次のような言葉がある、

「父母はわたしを見捨てようとも 主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」(詩編27:10)

この言葉は、私たちが救われたのは、生まれながらの肉の絆によるのではないことを、はっきり示している。十字架で私たちの罪のためのいけにえとなられた神の御子キリストを信じることによって、私たちには新しい命が与えられ、このキリストの命によって、私たちは神の共同体に加えられ、神の家族とされたのである。

だからこそ、神は私たちを子として守って下さる。必要な慰めを与え、励ましを与え、困った時に支え、助け、命を与えて下さる。それはこの世の命だけでなく、来るべき世においても続く永遠の朽ちない命である。
 
この関係は、死者の霊に子孫として連なる地上の肉なる絆「生み生まれる親子の立体関係」とは全く異なる。

私たちは、死と復活を経られたキリストの霊によって新しく生まれ、天的な新しい家族関係の中に入ったのである。

私たちが連なるのは、死者の霊ではなく、命を与える霊となり、よみがえられた最後のアダムなるキリストである。

そこで、古きは過ぎ去らなければならない。死んでは地獄に陥れられ、子孫に束の間の慰めを求めてすがるばかりで、子孫を慰めることも、救うこともできないような「生み生まれる親子の立体関係」は、死に渡されるべきなのである。

「イエスは言われた、「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:29-30)

これは、私たちキリスト者が、地上の「生み生まれる」肉なる関係に対して死ぬ変わりに、神の家族という、新しい関係、新しい天の財産が豊かに与えられることを示している。

地上の関係を信仰のゆえに喪失するときは、それは一時的に、悲しいことのように感じられるかも知れず、また、そのような生き方は、この世の常識とは異なるため、世間の理解を受けられないかも知れない。

だが、私たちが失ったものをはるかに補って余りある天の豊かな相続財産を、神が私たちに約束して下さっていることは確かである。

最後のアダム、命を与える方、この方の言われる言葉はすべて真実であって、偽りがない。だからこそ、我々は然り、アーメン、と言うのである。

「神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。

神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。」
 
最後に、今一度、これまでに何度も引用したイザヤ書49章の後半を挙げておきたい。神はご自分が全能の主であることを知らせるために、ご自分のもとへ身を寄せるすべての者を守って下さる。神が信じる者を守って下さり、慰め、憐れみ、決して恥をこうむらせず、失望させることはないという約束は真実である。
 
「 天よ、歌え、地よ、喜べ。もろもろの山よ、声を放って歌え。主はその民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。

しかしシオンは言った、「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。


女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。
見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。
あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、あなたを荒した者は、あなたから出て行く。

あなたの目をあげて見まわせ。彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。主は言われる、わたしは生きている、あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、住む人の多いために狭くなり、あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。

あなたが子を失った後に生れた子らは、なおあなたの耳に言う、『この所はわたしには狭すぎる、わたしのために住むべき所を得させよ』と。

その時あなたは心のうちに言う、『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子をもたない。わたしは捕われ、かつ追いやられた。だれがこれらの者を育てたのか。見よ、わたしはひとり残された。これらの者はどこから来たのか』と」。


主なる神はこう言われる、「見よ、わたしは手をもろもろの国にむかってあげ、旗をもろもろの民にむかって立てる。彼らはそのふところにあなたの子らを携え、その肩にあなたの娘たちを載せて来る。 もろもろの王は、あなたの養父となり、その王妃たちは、あなたの乳母となり、彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、あなたの足のちりをなめる。こうして、あなたはわたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。

勇士が奪った獲物をどうして取り返すことができようか。暴君がかすめた捕虜をどうして救い出すことができようか。
しかし主はこう言われる、「勇士がかすめた捕虜も取り返され、暴君が奪った獲物も救い出される。わたしはあなたと争う者と争い、あなたの子らを救うからである。 わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。こうして、すべての人はわたしが主であって、あなたの救主、またあなたのあがない主、ヤコブの全能者であることを知るようになる」。

見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。

「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。 」(イザヤ65:17)

目覚めると、この御言葉が心に響いた。何の変哲もない朝だが、いつの間にかエクソダスが完了していた。いつの間にか紅海を渡り切り、追っ手はいなくなり、エジプト軍は溺れ死んでいた。あの激しい戦いがすべて過去になり、新しい朝が来たことが分かったのである。

このような確信は、言葉で証明できるものではない。まだ周りには、がれきの山が散乱しており、洪水の爪痕が残り、後片付けが残っている。また雨が降るのではないか? 箱舟から降りて大丈夫なのか?

目に見える保証はない。それにも関わらず、「戦いは完了した」とはっきり心の中で理解できるのである。

前にも書いたように、霊的「エクソダス」の瞬間には、いつも激しい戦いが伴う。その脱出は、命がけの試みであり、壮大なドラマである。私たちは信仰の小舟に乗っているが、外の嵐に、小舟は翻弄される。嵐が本当だと信じるのか、それとも、信仰によって与えられる内なる平安を信じるのか。それは常に私たちの心にかかっている。

どんなに波が高く、風が強く見えようとも、心の奥底にある平安を確固として握りしめ、御言葉に立って、主に従い抜けば、いつの間にか、考えられないような静けさが訪れる。戦いは止み、平安が訪れる。

もし本当に脱出したいと望むならば、絶対に目的をあきらめてはいけない。追っ手がどんなに強力に見えようと、妨害がどんなに激しく感じられようと、決してあきらめてはならない。

神が必ず自由な地へと導いて下さる。長血の女がイエスに出会って癒されたように、長年、主の民を圧迫し、食い破ろうとしていた獰猛な獣は追い払われ、鉄の枷が打ち砕かれたのだ。

筆者は、キリスト教界からのエクソダスはとうに完了したと思っていたが、もしかしたら、未完了の部分が残っていたのかも知れない。何が過去に引き留めていたのかは知らないが、いずれにせよ、改めて自分自身をキリスト教の一切の宗教組織から引きはがし、この呪われた絆をキリストの十字架の死において完全かつ永遠に断ち切ったのであった。

むろん、筆者は生涯の終わりまで聖書に忠実な信仰者である。だが、地上の宗教組織は、もはや筆者とはいかなる関係もない。そういうものとは一切縁を切り、地上の呪われたキリスト教界とは何の関わりもないただの人として生きることに決めたのである。

その決意と共に、この古き絆から派生していたすべてのしがらみが死に絶え、断ち切られたのであった。筆者は、全く新しい方向へ向かって歩き出した・・・。
 
溺れ死んだのは、古き人、古き過去、古き呪われた縁の数々・・・。気付くと、キリストにある新しい人としての新しい朝がやって来たのであった。

ちょうど横浜へ来る直前がそのような状況であった。信者の刷新は、まず霊の内側から始まる。霊から始まる新しい命の息吹が、魂へ、体へと波及し、現実に少しずつ影響を及ぼしていく。この変化は少しずつ行われる。

十年ほども前のことであるが、筆者はその頃、色々な戦いがあって疲れていた。霊の内側は新しくされても、体はまだ過去の残滓の只中にあり、主が色々なことを用意して下さったのに、目まぐるしい展開に着いて行けず、自ら望んだことだったにも関わらず、こんなことで大丈夫だろうかと不安に思っていた。

いつものように朝寝坊をしかけていると、御霊によって起こされた。最後の平日だから、今日は住民票を取らないと手続きが間に合わないから行きなさいと、心に思い起こさせられたのであった。

その頃、自分が新しい土地へ旅立ち、どこで何をすることになるのか、皆目、分からないまま、それでも平安の内に御霊と共に歩んでいた。何もかもが手探りである。不慣れゆえすべてに戸惑いがないわけではない。だが、心の底では平安だ。主が着いておられるという確信があった。体がどんなに疲れていても、御霊が新しい命の中から、筆者自身のものではないエネルギーを心と体に供給してくれる。

その当時と今は全く同じである。神と私との間を隔てるものが何もなくなった。おそらく、筆者と神との間を隔てていたものがあるとすれば、それは地上の呪われた宗教組織、神と人との間に立ちはだかろうとする肉なる指導者、十字架を経ていない生まれながらの人間の古き人の情による絆としがらみだったのであろう。
 
だが、古きものはみな水の下に沈み、滅ぼされた。一つの時代が過ぎ去り、ノアは恐る恐る箱舟から降りて、新しい地へ一歩を踏み出す。まだ誰も降りたことのない、清められた新しい地、復活の領域に・・・。

主は私に顔を上げるよう促し、目の前に見える広大な土地を指して言われる、「目をあげて、目の前にある新たな土地を見なさい。あれがあなたのための土地です。まだ誰も足を踏みいれたことのない新しい土地です。これから始まることに思いを馳せなさい。古き世界のものがあなたを追ってくることはありません。それはあなたに手を触れられません。かつてあったものはみな死んだのです。

あなたはキリストにある新しい人、先のことをもう思い出す必要はありません。それは私の中では無きに等しいものですから、あなたも同じように考えなさい。死んだものに未練を持たず、それを振り返らず、これから進むべき地、獲得しなければならない新たな目的をしっかり見据えなさい。

恐れることはありません。私が着いています。私があなたのすべての戦いに共にいます。私の守りの中にとどまりなさい。呪われたものには二度と触れてはなりません。」

依然としてまどろみの中にあるように、心の中で、これは本当のことなのだろうか、と思いめぐらす。40日間、洪水がやまなかった間の窮屈な生活をよく覚えている。だが、神は、これから起きることに目を向けなさいと促される。

自然と、新しい歌が口をついて出て来る。それはこの世の音楽ではない、歌詞やメロディのない、人知を超えた、新しい霊の歌である。

それは、とどまるところを知らない神への賛美である。主を賛美せよ、万軍の主は戦いに勝利を取られた、心貧しい人、虐げられた人、蔑まれる人、弱い人、圧迫された人、神を呼び求め、神の義を求めるすべての選民よ、喜びなさい、神はあなた方のために、新しい人を用意され、新しい天と地を創造されたのだ・・・。

あなた方の古き人の上に、天から下られた聖なる新しい人である主イエス・キリストを着なさい。あなた方の罪のために十字架で死なれ、よみがえられたキリストを着なさい。

見よ、この新しい人の中にすべてがある。キリストこそ、すべてのすべてであって、彼こそあなたのためのまことの命なのです。
 
だから、キリストがお与えになったすべての良き性質を身に着けなさい。あなたのために天に備えられているすべての宝を、賜物を、義を、知恵を、命の糧を、キリストを通して得なさい、それはあなたのために払われた犠牲なのだから…。

主は勝利を取られた。肉の人としてのノアは、まだすっかり以前と変わってしまった大地に戸惑いを覚えている。しかし、霊の人としてのノアは、喜びに溢れ、主を賛美している。人は神のなさることを魂で理解できないが、霊においては、御霊を通して、神が人知を超えた解放の御業をなしておられることを確かに知っている。

だから、信仰の先人たちは、行く先を知らないで出て行くことができたのであり、何が起きているのかを知らないままで、主を賛美しながら、新しい目的に向かって行ったのである。

私たちは、神を畏れながら、新しい大地に跪き、主を崇め、誉め讃え、感謝する。

私たちの目は新しい契約に注がれている。それは神の目に喜ばれる新しい人であるキリスト、復活の命、新しい天と地、私たちのために用意された永遠の都である。

そこでは、もはや人の教えだとか、儀式だとかといったものはない。人が人に向かって「主を知れ」と教えることはない。神と人との唯一の仲保者であられるキリストが、直接、御霊を通して私たちを教え、導いて下さる。キリストは、信じる者たちにご自身を喜んで啓示される。

「もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、
主は言われる。
それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
わたしも彼らを顧みなかった』と、
主は言われる。

『それらの日の後、わたしが
イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、
主は言われる。

『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
 彼らの心にそれを書きつけよう。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 彼らはそれぞれ自分の同胞に、
 それぞれ自分の兄弟に、
 「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。
 小さな者から大きな者に至るまで
 彼らはすべて、わたしを知るようになり、
 わたしは、彼らの不義を赦し、
 もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消え失せます。」(ヘブライ8:7-13)

「年を経て古びたもの」という言葉は、「年を経たあの蛇」を思い出させる。

「わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖を手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。」(黙示20:1-3)

復活の命には、経年劣化がない。この命は常に新しい命である。だが、堕落したもの、朽ちゆくもの、呪われたものにはすべて老いと死の跡が刻まれる。

エクレシアとは、死を打ち破ってよみがえられたキリストの命によって生かされ、立たされているすべての者たちである。いかなる外的な証明手段にもよらない、復活の命の刻印を帯びたすべての人々を指す。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:17-18)

キリストにあって、神と和解し、一つとされた人々。キリストに結ばれた聖なる花嫁。この人々は、新しい天と地、新しい都へ向かって進軍し続ける強力な軍隊である。

私たちのためには堅固な都が用意されている。そこには汚れた者は入ることはできない。だが、その都へ入るために、私たちは勇敢に前進して、信仰の戦いを戦い抜いて、御言葉を守り抜き、勝利を得る必要がある。聖書は言う、臆病者、不信仰な者になってはいけないと。勝利を得る者が、神の相続財産を受け継ぎ、神の子どとして栄光を受けるのだと。

だから、エクレシアよ、神の軍隊よ、花嫁たちよ、臆することなく、勇敢に前進して行きなさい! あなた方のために備えられた約束の地を勇敢に勝ち取りなさい!
 
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。

そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。
 見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない。最初のものは過ぎ去ったからである。

すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。

また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。
 しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示21:1-8)
 
最後に、「神は決して正しい者がゆるがされるようにはなさらない。神は志の堅固な者を全き平安のうちに守られる。」という記事から、もう一度、以下の御言葉を引用しておこう。


あなたの重荷を主にゆだねよ。

主は、あなたのことを心配してくださる。
主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

しかし、神よ。あなたは彼らを、
滅びの穴に落とされましょう。
血を流す者と欺く者どもは、
おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。
けれども、私は、あなたに拠り頼みます。
(詩編55:22-23)

私たちには強い町がある。
神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。
城門をあけて、
誠実を守る正しい民をはいらせよ。
志の堅固な者を、
あなたは全き平安のうちに守られます。
その人があなたに信頼しているからです。

いつまでも主に信頼せよ。
ヤハ、主は、とこしえの岩だから。
主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、
これを下して地に倒し、
これを投げつけて、ちりにされる。
貧しい者の足、弱い者の歩みが、
これを踏みつける。
(イザヤ26:2-6)


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