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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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神は彼らとともに住み、彼らはその民となる

「日曜日が週に二日あったらいいのにね!」

兄弟たちとそう言って笑い合った。二日であろうと、三日であろうと構わない、もしも時間が許されるなら、私たちはきっと永遠にでも、力の限り、主に賛美を捧げ続けるだろう。

24時近くまで語り合うのが恒例になり、半ばエンドレスになりつつある私たちの交わりで、今日も健やかに、身も心もいっぱいに満たされて帰って来た。先週 の日曜日には礼拝の興奮さめやらず、月曜日まで一睡もしないまま職場に駆けつけ、仕事の合間にもまだ賛美を歌っていたのは、どうやら私だけではなかったら しい。明らかに私たちの交わりに何事かが起こっているのだ。しゅろの枝を持って、御座と子羊の前に立つ数え切れない群集の姿が、瞼を閉じればまざまざと目 に浮かび、その賛美の声が耳に聞こえて来るかのようだ。何をか恐れることがあろう。今日は、もはや礼拝の枠組みを超えて、ただいついつまでも主が私たちと 共におられるという喜びと平安だけが心に残った。

「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群集が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。
 彼らは、大声で叫んで言った。
「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、言った。
「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」(黙示7:9-12)


殉教という言葉が、周囲でかなりよく聞かれるようになった。私だけではない。兄弟姉妹の皆が同じ感じを抱いている。私たちはもう言葉の上だけで信仰を語ることのできない、抜き差しならない時代に入ったのだと。

だが、そんなにも切迫した感じを受けているにも関わらず、交わりの中にいると、不思議なほどに爽やかに軽やかに心が満たされるのはなぜだろう。悲壮感、気 負いはなくなっていき、ただ普通に、極めてごく普通に、ただ一つの願いだけが心に残る。全ての被造物が主の御前に膝をかかめ、全ての肉なるものは主の御前 に静まり、ただ主の御名だけが高く掲げられ、主の御名だけが誉めたたえられますように!! 私たちの名がどれほど低められようとも、そんなことはもはや問 題でない、迫害も、圧迫も、苦痛も、恐れも、もはや何の意味も持たない、ただ主だけが栄光をお受けになりますように!! ただ主の御名だけが天と地で高ら かに誉め讃えられますように!! それだけが私たちの願いであり、喜びであり、希望なのだ。死も生も、天使も支配者も、現在のものも、将来のものも、力あ るものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできません!!

今日、メッセージの中で兄弟がゼカリヤ書の次の言葉を引いて語った、「私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。」(ゼカリヤ14:5)、この箇所によれば、主の再臨の時、聖徒たちは地上で主を迎える人々の一群と、先に主を迎えに行った人々の一群との二つのグループに別れるという。先に主を迎えに行った人々とは、携挙されたか、あるいは殉教を遂げた人々のことであろう。

それを聞き、今後、私たちの命運は別れるであろうことを感じた。だが、たったそれだけのことなのだ、地上での別れが意味するものは。私たちは引き離されても、すぐに互いにまみえるであろう、それほど時間をかけることなく。しかもその時には、主が我らと共におられるのだ! 

自分は殉教するだろうと固く思い込み、命を捨てる気満々でいるような人にも、あるいは、主は別の道を用意されるかも知れない。私たちにはまだまだこの先、 自分の道がどう定められるのか分からない。だが、いずれにせよ、私たちを待ち受けている前途は、人の目にどうみすぼらしく見えようとも、私たちにとって は、希望に満ちている。なぜなら、私たちの希望は、自分の運命にあるのではなく、主が来られて私たちを迎えて下さるという事実にあるからであり、復活の身 体で主にまみえ、顔と顔を合わせて主にまみえるその時へと、私たちの願いは今からまっしぐらに向かっているからだ。

スミルナの教会へ向けられた言葉。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(黙示2:9-10)


今、主の御前にこう言おう、私たちは来るべき苦難を恐れていませんと! ただ、どうか私たちが死に至るまでもあなたに忠実であれるよう、あなたの御名に恥 とならないように、私たちのうちで、主よ、あなたが忍耐となって下さい。たとえどのような苦難の中を通らされようとも、世の終わりまであなたが共にいて下 さり、あなた自らが私たちの目の涙を拭い取って下さるという約束を信じています。

「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」」(黙示21:1-5)

主よ、来たりませ! 


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十字架と新しい人

T.オースチンスパークス著、『人とは何者か』より、第8章、十字架と新しい人

ここに挿入した単純なは(巻末参照)、神の観点と人の観点から見た人の内的歴史を示そうとするものです。

第一に、「神が創造した日の」人です(創世記5章1節)。人の三重の性質が定義されています。

1)霊:良心、交わり、直覚の三つの機能を持っており、そのおもな真価は霊的理解です。
2)魂:理性、感情、意志または決意を有しており、その機能は人間生活のために解釈することです。
3)体:肉、血、骨から成り、霊と魂の用事を執行し処理します。


次に、霊による神との関係です。これは五重です:
1.似姿(基礎、「霊」)
2.交わり
3.知識(霊的知覚)
4.協力
5.統治


第二に「堕落」です。その結果と影響は:
1.人の霊は魂に従属するようになった
2.魂はサタンの攻撃と勝利の座になり、悪の軍勢の力の下にある
3.魂の道具である体は、サタンの影響の下で、人自身に似た、人のかたちどおりの人を生み出すことを、その格別な目的とするようになった(創世記5章3節)


次に、霊が神から分離されることにより――これが霊的死の意味です――この五重の関係は引き裂かれました。似姿は傷つけられ、交わりは破られ、知識は曇らされ、協力は不可能にされ、統治は失われました。ですから、人は神から分離され、締め出され、暗くされ、霊的に麻痺し、「虚無に服して」います(ローマ人への手紙8章20節)

この時から人はと呼ばれています――「人はさまよってしまい、肉だからだ」(創世記6章3節)――これは死ぬべき運命を意味するだけでなく、霊と神に敵対する活発な原理の存在をも意味することを、私たちは新約聖書から知っています。さらに、人はそれ以来、「生まれながらの人」(魂的)です。しかし何ものにもまして、人は――自分の意志で――神よりもサタンを信じることを選んだため、「この世の神」によって動かされています。

この時から二重の歴史が始まります。それは図の中で二組の線によって示されています。一方の組の線は狭まっ てゆき、他方は広がってゆきます。狭まってゆく線は、それ以降の、神の御思いによる人の歴史を示しています。人は神の創造の働きの一部でしたが、神は人を 不信仰のゆえに罪の下に「閉じ込め」られました(ローマ人への手紙11章32節)。そして、神は型と象徴により、キリストの十字架の原則を導入されます。この線では、人自身から出たものはまったく神に受け入れられません。ある事柄――おもに三つの事柄です――が常にはっきりと視野に保たれています:

1.裁きの下にある、人の罪深い状態という事実。
2.死。死は生まれながらの人の終わりであり、すべての人の運命であり、受け入れられるべきものです。
3.キリストの完全性。キリストの完全性は神との関係、神とのさらなる関係の唯一の土台です。


これがカインとアベルの事例の内在的意義です。これが神のエコノミーの中で死がこんなにも大きな部分を占めている理由で す。そして――なんという神の知恵、力、驚異でしょう!――ここで神はまさに蛇の尻尾、死のとげ、悪魔の働きをつかみ、キリストの復活と彼による信者の霊 的復活により、死を新しいいのちへの道、彼の御旨への小径としておられるのがわかります。これが、人を神の近くにもたらす、神に受け入れられるささげもの には、傷があってはならない理由です。徹底的な検査の後、祭司の鋭い目から見て、「これは完全である」と言うことができなければなりません。(これこそま さに、すべての試みと火のような試練の結末に関して、キリストが十字架上で叫ばれたことです――決着がついた、完了したということだけでなく、「完全であ る」ということです)

それ以来ずっと、変わることのない不変的な確実さで、神の御思いはキリストの十字架に至ります。個人や人々が神の永遠の御旨との関連で神の直接的統治の下に来る時はいつでも、彼らはあることをはっきりと自覚します。それは、自分の中には「善なるものが宿っていない」(ローマ人への手紙7章18節)ということであり、自分のものではない義の土台のみに基づいて、行いからではなく信仰によって受け入れられているということです――それは別の方の美徳によります。この理解は生まれながらの人を容赦なく打ち砕くので、その中から主の目に留まりうるようなものが現れます。「私が目を留める者は、貧しくて霊(または心)の砕かれている者だ」

ですから、キリストの十字架は生まれながらの人に関する神の御旨であることがわかります。なぜなら、人の子は十字架で私たちの罪を負っただけでなく、代表としての彼のパースンによって私たち自身をも負い、私たちの代わりに、あるいは私たちとして、神の裁きの下で死なれたからです(ローマ人への手紙6章2~10節、コロサイ人への手紙2章12節、コリント人への第二の手紙5章14、15節など)この十字架は、アダムが罪を犯した時点まで、その光を反射します

こんなにも多くのクリスチャンが「肉的」であって、自分自身で神のために生きようとしているのは、十字架の意味に関する適切な全き理解に欠けているからです。これが、霊のいのちの恒常的な弱さと貧しさの根幹です。「リバイバル」のために多くの祈りがなされ、「霊のいのちを深める」ために多くの努力がなされています。これに対する唯一の答えは、十字架を新たに知ることです。罪(複数)それらに対する勝利の生活についてだけでなく、生まれながらの人に取って代わるキリストについて、十字架を新たに知ることです。


パウロはコリントの状況のために、「私はあなたたちに、霊の人に対するようには語ることができませんでした。むしろ肉の人に対するように、幼子に対するように語りました」と書かなければなりませんでした。それは彼らが魂の(「生まれながらの」)人の土台に基づいて多く生きていたからであることが、彼の第一の手紙の最初の数章で説明されています。彼の唯一の治療法は「十字架につけられたイエス・キリスト」でした。信者たち、「召された聖徒たち」(コリント人への第一の手紙1章2節)でも、これをなしうるのです。そして霊の賜物を、それが魂的に重んじられ、用いられる領域にもたらすことすらできるのです。

これを認識するなら、私たちはとても冷静になりますし、堅実になります。「異言」や他の「賜物」が続くいわゆる聖霊の「バプテスマ」は、霊的生活の主要な事 柄についての知識を必ずしももたらしません。ですからパウロは、このような経験をしている人々に、バプテスマ、十字架、主の食卓、キリストのからだ、子た る身分の真の意味について教えなければなりませんでした。啓示は賜物や経験よりもまさっています。賜物の現れは霊的成熟のしるしではなく、しばしばその逆 です。ここにサタンの最高に狡猾な罠があります。このような経験を深い実際の霊性と取り違えるなら、最も誠実な神の子供たちを偽りの経験に導くために願っ てやまない最高の機会を彼に与えることになります。魂的な人に対して深く適用される十字架こそ、霊的なものの驚異的な偽物である、魂的なものの顕現に対する唯一の守りです。


図の続きを見ると、他の面もあります。人は自分に関する神の判決を認めて受け入れることを、これまで常に拒絶してきました。ですから、人は自己表現と自己実現の道を追い求めます。人は最初から、アベルのささげものによって神の道がはっきりと明らかにされた時でさえ、自分自身の道を追い求めました。人は出ていってこの世を建設し、文明を創造し、王国を構成しました。バベルまたはバビロンがその名前ですそれは人の力、能力、栄光の表現であり、記念碑です「さあ、われわれは名をあげよう」(創世記11章4節)「このバビロンは、私が建てたものではないか?」(ダニエル書4章30節)

このように人は得意になり、自己を拡大し、主張します。人が造り出したのは確かにすばらしい世界ですが、それはまったく人の手におえま せん。人はそれを管理することができません。確かに驚異に満ちています――しかし悲劇に満ちているのです!それはたちまち人の破滅に至るでしょう。そし て、人の造り出したものが、人の文明を一掃するでしょう。人は物事を始動させますが、それは自らの慣性によって人の手を離れます。神はこの終末の日々を短くするために介入しなければならないでしょう。さもないと、一人として救われる人はいないでしょう(マタイによる福音書24章22節)。 これがただちに水平線上に現れるでしょう。この線について、何とたくさん書けることか!しかし、そうするのは差し控えます。愚か者、盲目な愚か者、サタン に騙されている人だけが、「この今の世の進路を行けば、おのずと理想郷が生じる」と考えています。文明はこれまで魂の感覚、感受性を強めてきたにすぎませ ん。私たちはすでに「人々は恐ろしさのあまり気を失います」(ルカによる福音書21章26節)という御言葉の意味をいくらか知っています。


しかし依然として神の立場は変わっていません。人は自分の王国を建設し、それを雲にまで届かせるかもしれません。しかし、天は人に対して閉ざされています。キリストの十字架は、神はそのすべてをずっと昔に終わらせたことを宣言します。ですから「カルバリ」はゼロです!神の永遠の御旨に関する限り、死によらずに、信仰によってキリストと一体化されることによらずに、十字架を通り過ぎる道はありませんこの立場を取り、その意味をすべて受け入れる時、キリストとの復活による合一により、新しい人が生じます「だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です」(コリント人への第二の手紙5章17節)

その時から、別の二重の過程が始まります。完全に理解するかどうかにはかかわりなく、神の意図をすべて受け入れる決定的な転機がなければなりません。この転機はすべてを含み、潜在的にすべてを伴います。

その二重の過程とは、一方において新しい人、霊の人が優位に立つことであり、他方において生まれながらの人、古い人を従わせることです。これは生涯にわたる教育です。理解することが必要です。もし神が古い人を実際に消し去って「根絶」していたなら、霊的教育の基盤はすべて取り除かれていたでしょう。新しい霊的能力を用いて別世界ですべてを新しく学ぶことに関して、この「いのちの新しさ」が何を意味するのかについては、すでに他の箇所で指摘しました。この新しい人は「心の中の隠れた人」(ペテロ第一の手紙3章4節)であり、「私たちの霊の父」(ヘブル人への手紙12章9節)によるその訓練は、この同じ手紙の前の部分で述べられている「魂と霊を分けること」(ヘブル人への手紙4章12節)と一致します。図の残りの部分を学ぶなら、この意味が明らかになります。なぜなら、ここには新しい全く別の法則、「いのちの霊の法則」があるからです。このいのちにはそれ自身の法則があり、それを学ばなければなりません。

これは信仰の生活です。「私がいま生きているそのいのちを、信仰の中で生きます」(ガラテヤ人への手紙2章20節)。ですから、知識は信仰の実です。これ以上先に進む必要はないでしょう。しかし前に戻って、十字架の転機について最後に強調することにします。十字架以外の場所では、神は人に対して何も言うことがありません神の子供のいのちの新たな成長はみな、何らかの方法で、十字架の意義が新たに示されることによります深い死は豊かないのちに至ります。神は揺るぎない御手をもってバランスを保たれます。そして最終的には、地上で自分を空にする最後の局面は、天でキリストと共に王座に着く結果となります

旅の思い出

ふるさとに帰郷して、主の御業の素晴らしさを改めて知った。主が我が家に打ちたてて下さった十字架がどれほどゆるぎないものであったかを感じさせられたのだ。

「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」(ヨハネ14:18)

そう言われた主イエスは、ご自身が私たちの居場所となって下さった。彼は上げられた十字架のもとに私たちを引き寄せて下さり、永遠に朽ちない御国を私たちの住まいとして下さった。

だが、地上では寄留者に過ぎない私を、ふるさとが迎える。色づいた稲穂が私を迎え、父母、祖父母が喜んで私を迎える。何というはかり知れない幸いだろうか。


「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」(マタイ19:29)

かつて洗礼を受けたいと、涙して父母に告げた子供の頃から、今に至るまで、私はどれほどのものを失って来ただろうか。主イエスを信じた幼い頃から、両親の愛はおろか、家庭的な平和も崩れ去り、しかも、不信仰に逸れた時には、人生をまるごと焼き尽くされた。

だが、主のために失ったはずのものが、十字架を経由して、皆、向こうから手を携えて戻ってくるのを私は見た。まるで放蕩息子の帰りを待ち受けていた父親が、両手を広げて我が子に駆け寄るように…。

私はただ信じられない思いで、主の采配の素晴らしさに圧倒されて息を飲む。ああ、私はもはや孤児ではないのだ! 御言葉は本当だったのだ! 主の御名を経 由して、血潮を経由して、十字架を経由して、失った何もかもが幾倍にもなって、何倍にも素晴らしくなって、向こうから駆け戻って来るのを私は見たのだ!

「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」(詩篇126:5-6)

一体、この喜びは何だろう。これを何と形容したら良いのか分からない。未だに信じがたいとしか言えないのだ。これがキリストと共に統治するということの意 味なのだろうか。私たちの苦しみのうめきの中から、私たちの自己の裂け目から、信仰を通して、キリストのまことの命が川のように流れ出す。御国の統治が、 私たちの命そのもの、存在そのものを通して、私たちの思いや意志をはるかに越えて、この地上に及んでいく。キリストの見えない命が人々の心に触れ、この地 に流し出されていく…。

「しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」(マタイ18:28)

御国とは、霊的な領域であり、そこにはキリストの排他的統治権が及んでいる。御国の統治が及ぶところでは、キリストに属さない者、御霊によって生まれてい ない者、汚れた霊は活動することができない。アダムの罪のために地は悪しき者の所有となった。しかし、神は十字架を通して、信じる者を御国にエクソダスさ せることに決められた。万物には滅びが定められている。だが御子を信じる者は滅びることはない。主イエスは言われた、彼が神の霊によって悪霊を追い出して いる以上、御国はすでに私たちの只中に来ているのだと。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(Ⅱコリント5:17)
 
御国の住人となった私たちは、今、御子の信仰によってこの肉体を生き、この地において、御子と共に統治する者となるよう、僕として任されている。アダムが 失敗してしまった任務を、愛する御子の支配下で、私たちは再び、実現するように任されたのだ…。私たちがどのくらい、キリストの統治をこの地にもたらすこ とができるのか、それは今はまだ分からない。今は一つのことが分かっている、主が私を捕らえて放さないのです!

もがきも、苦しみも、うめきも、古いものは全て過ぎ去り、キリストにあって、すべてが新しくなった。私たちは日々、キリストの十字架の死とよみがえりの命 を知ることを追い求めて生きている。この身体が贖われる時まで、苦しみのうめきは続くだろう、けれども、それは被造物全体のうめきでもあるのだ。

私たちは切なるうめきをもって、霊、魂、肉体のすべて、私たちの存在のすべての領域に渡り、十字架が実際として刻み込まれ、心の深みまで新たにされて、キ リストにある新創造として生きることを待ち望んでいる。どうか主がその十字架の御業を、私たちのうちで、日々、より確かなものとして下さいますように!  どうか主がその栄光に満ちた御業を私たちにより深く知らせて下さいますように!

全ての膝がかがめられ、ただ主だけが讃えられますように。主が我がためになして下さった全てのはかりしれない恵みのゆえに、畏れをもって主を礼拝します…。

つづきはこちら

ただ神がキリストをご覧になるように…(2)

「私はキリストと共に十字架で死んだ、
もはや私が生きているのではない。
キリストが私の内に生きておられる。
私は今、肉体の中で生きているそのいのちを、私を愛し、
私のためにご自身を与えて下さった神の御子の信仰によって、
生きているのです」

 
やはり、記事を読み返して行くと、前述のオズワルド・チェンバースの言葉などは、信者が信者を精神的に恫喝して「弟子化」して支配するための悪しきツールとして使われていたのだということを感じざるを得ない。

つまり、他の信者の心の罪悪感を刺激し、そのままではいけないと思わせて、襟を正させるような内容の文章を突きつけることによって、ある信者が、他の信者の心に巧みに入り込み、影響力を行使するきっかけを得るために、そのような文章が利用されているのである。

チェンバースの言葉は、キリスト教界で生まれ育ったようなクリスチャンには、まさに「はっとさせられる」内容である。今だからこそ、筆者はそれを虚偽として撃退できるのであるが、紹介させられた当初は、疑うことがなかったし、ほとんどの信者は、その文章の何が悪いのか、理解できまいと思う。

むろん、こうした文章を利用して、信者を「弟子化」する人たちは、自分たちが悪いことをしているのだという自覚はない。引用している文章がもっともらしく、良さそうに見えれば見えるほど、自分は有益で良いアドバイスを他人に与えているのだと思うようになる。まさか他の信者を精神的に支配するための突破口として、他人の「良さそうな」文章をタダで利用しているのだとは、自分では全く気付いていない。

だが、筆者は、ウォッチマン・ニーを筆者に紹介した信者からも「弟子化」されそうになったし、オズワルド・チェンバースの言葉を筆者に紹介した信者からも「弟子化」されそうになった。そのような経験を重ね合わせると、やはり、これらの引用文は、信者を精神的に恫喝して、罪の意識を抱かせることで、その心の弱みにつけこんで、指導的な立場を得るために利用されたのだと思わずにいられないのである。

解放することが目的で書かれた文章ではなく、拘束して支配するために書かれた文章だと思わずにいられない。

チェンバースの言葉を筆者に紹介した信者からの、筆者への罪定めと、精神的支配の圧力は、かなり長い間、続いた。そうした付き合いの果てに、もう本当に筆者はその人の説教がましさ、余計なお節介、善良なふりをした厚かましさに、うんざりしたので、今となって、初めて、チェンバースの言葉も含め、そうした一切の助言を、嫌悪感と共に、また、単に感情論だけでなく、御言葉の根拠に基づいて、ことごとく退けることができるのである。

その信者は、筆者以外の他の信者に対しても、同じように、チェンバースの言葉を紹介して、精神的に「弟子化」しているのであった。チェンバースの言葉に心打たれた人は、それをきっかけとして、それを教えてくれた信者に心酔するようになる。チェンバースのみならず、ある時には、ウォッチマン・ニーを引用していたり、ペン-ルイスを引用していたりもした。ウォッチマン・ニーには随分、心酔していた様子である。

長い間、交わっているうちに、どうしてそんなに引用ばかりするのかと、不審に思えて来て、「なぜあなたはちゃんと自分の言葉で語らないのですか」と問うたこともある。

筆者は大体、次のような警告を放った、「文章というのは、書き手が自ら代価(犠牲)を払って得た教訓しか、本物にならないんですよ。他人の言葉をどんなに引用しても、しょせん、それは他人の言葉ですから、自分が代価を払っていないものを勝手に借用するのは、剽窃のようなもので、そういう盗みにも似たやり方で、どんなに素晴らしい他者の引用文をたくさん繰り返しても、しょせん、自分のものにならないんです。そういうことをすればするほど、立派な引用文に自分でも騙されて、自分が飛躍的に素晴らしい人間になったかのような錯覚が生まれ、自分は本当はどんな人間なのか、分からなくなっていくんです。そんな恐ろしい錯覚しか生まない引用なんか、もうやめてしまったらどうですか」

だが、結局、その人は引用をやめることができなかった。良さそうな材料を見ると、見境なく飛びついてしまう衝動を、どうしても、抑えることができなかったのである。そうこうしているうちに、そこに異端の教えも入って来て、とんでもないごった煮のような状況が出来上がってしまった。だが、そうなっても、まだ聖書から著しく遠ざかっていることに気づいておらず、かえってその「良さそうな文章」を手放すよう警告した筆者のような人間を間違っていると考えて憎む始末だから、全く手に負えない嘆かわしい事態である。

筆者は、今になって、その人はただ悪霊に出入り自由な通路として使われていただけなのだと分かる。見境のない引用というのは、悪霊に利用される入り口にしかならないのである。悪霊は、決して、誰にでも悪霊と分かるようなやり方で、人に近づいたりはしない。多くの場合、それは非常に「良さそうな教え」の形を取ってやって来る。

筆者も知らずにその人に接近し、チェンバースの言葉がきっかけとなって、危うく弟子化されるところであったが、すでに述べた通り、今になってよくよく吟味してみると、ただその人に問題があっただけでなく、チェンバースの言葉自体の中にも、どうにも人に過度な罪悪感を抱かせ、過度に信者に自己否定・自己放棄させようとするような、聖書に合致しない強迫観念のような教えが含まれていることを感じざるを得ないのである。
 
そのような文章ばかり読み続けていると、まるで自分が手術台に乗せられて、「ここも悪い。あそこも悪い。あなたは腫瘍だらけだ。みな切除せねば」と医者に言われて、切り刻まれようとしているような感覚になって、喜びがなくなり、眩暈がして来て、全く自分が神に受け入れられているという実感までもなくなってしまう。だから、どうしても、これは何かがおかしいぞという気がしてならず、その強引で危険な手術が始まる前に、手術台から飛び降りて逃亡しないわけにいかなくなるのである。

筆者は、オズワルド・チェンバースがどういう人間なのかはほとんど知らないし、彼が正しい信仰者だったのかどうかについて論じるつもりもない。それは、ウォッチマン・ニーについても同じである。信仰者一人一人の人生については、多くの謎があり、彼らが神の使いなのか悪魔の使いなのかなどといった単純な図式で議論しても仕方がなく、どんなに資料を積んで調べてみたところで、決して断言できない多くの部分が残されるであろう。

だが、たとえ彼らが神の僕であったとしても、彼らの文章が信者によって利用されて、他の信者に使われる時に、そこに、信者に罪悪感を与えて心を支配しようとする隠れた目的が巧みに入り込み、その影響力を、見抜いて退けなければならない場合が存在することは確かである。だから、そんな風にして、誰かに「弟子化」されて精神的に支配されたくなければ、信者は彼らの支配にとっかかりを与えるような罪悪感を心に持たないに越したことはない。

そもそも罪悪感、自己憐憫、理不尽だという思い、赦せない思い、などなど、何かの突破口がなければ、暗闇の勢力は、信者の心の中に侵入して、足がかりを持てない。

最も利用されやすいものが、罪悪感であり、信者が暗闇の勢力につけこまれる入り口となる罪悪感を持たないことは、ただ主イエスの血潮の絶対的な清めを確固として握ることによってのみ可能となる。

だから、古き人がいかに罪深く、恐ろしいものであるか、云々、などといった話をたとえクリスチャンから延々と聞かされても、信者はそれに脅されることなく、自分に対する神の絶対的な赦しと清め、キリストにある新しい人としての再生を、確固として握り、これを提示することで、無用な罪悪感を退けるべきである。

確かに、信者の古き人は徐々に対処されねばならない部分もある。だが、それは御霊が信者個人の内側で自然になす働きであって、外から誰かが再教育や切開手術のような形で、刺激や感化を与えて他者を変化させるのではないのである。

だから、たとえ「あなたは未だに古き人の領域を生きていますね」などと人からお節介な忠告を受けても、決してすぐに耳を貸さないことである。本当にそうなのかどうかは、神だけが知っておられる。あなたの中で何が対処されるべきなのかは、人ではなく、神が知っておられる。だから、静かに神と向き合って、神に尋ねるべきである。

筆者は今でも、霊的先人の言葉の引用をしないわけではないが、できるだけ最小限度に抑え、相当に吟味することにしている。だが、何より、筆者の基本姿勢は、すべての文章を自分で書くことである。むろん、その中に誤りもあるかも知れないし、未熟さがないとは言えない。だが、多くのことが、自分にはまだよく分かっておらず、模索中であることをもきちんと理解した上で、それでも、ありったけの誠実さを持って、自分で書くのが一番だと言える。

そのようにしていると、読み返した時に、自分の思考にどんな足りないところがあったのか、どんな危険がその当時、自分を取り巻いていたのか、どの程度、信仰に前進があったかなども、よく分かるようになる。
 
何よりも、文章というのは、信者が他の信者に向かって、もっともらしく正しく聞こえる内容を言い聞かせて、自分を飾るためのパフォーマンスではないのである。筆者は、信仰の証は、ただ神に向けて心の願いを率直に打ち明け、暗闇の勢力に向かってはキリストの勝利を宣言し、霊的に自分自身の立ち位置をしっかりと固め、姿勢を正しながら、御言葉の正しさを全ての造られた者に向かって宣言し、神に栄光を帰することを目的として書けば良いのだと思っている。その基本姿勢さえ揺らがなければ、たとえ信者が未熟で、多くのことをまだ自分でよく分かっていなくとも、神がちゃんと守って下さり、その証の不完全な部分さえも覆って下さる。

信者の証の文章は、神との語らい、交わりの一環でもあり、信者はそこで神の御前に虚勢を張って「正しくなろう」と努力するのではなく、そんなことよりも、神への愛と信頼と感謝を率直に語り続ける方が良い。自分がキリストによってサタンの支配から連れ出され、大いなる解放にあずかり、今や主と共に天に生きる者として、神の命の中に隠されていること、キリストのゆえに、信者の古き人はすでに死んで、今や新しい霊、新しい心が与えられ、信者は新しい人となったこと、神が信者のために、天にどれほど大きな宝を蓄えて下さっているか、どれほど豊かな命を与えて下さっているか、キリストと共に天の御国の相続人とされた信者に、将来的にどれほど大きな栄光が待ち受けているか…、などといったことを終わりなく語り続けるのである。

そうすると、良心の呵責と罪定めの意識と自責の念で霊が重くされていっぱいになる代わりに、自由と解放の喜びと感謝が溢れて来て、信者の霊が伸びやかに、軽くされる。天が近くなり、神の御顔をそば近くで拝しているような実感が生まれ、神の愛がより一層、確かなものとして身近に感じられる。自分についても健全な自信が生まれ、恐れは去って、新しい気力が沸き起こり、神の被造物として生きる喜びの中で、神に栄光を帰するために、この地に生かされているのだと実感できる。

たとえ神ご自身を見るわけでなく、霊の内にキリストをありありと実感することがなくとも、信者はそうやって自らの霊をしっかりと奮い立たせ、あるべきポジションに据えて、信仰によって神を見上げることができる。キリストにあって信者が与えられた高い地位、キリストの偉大な解放と勝利の御業、神の御業の素晴らしさを褒めたたえ、喜ぶこと、などなどは、信者の霊を伸びやかに解放するために有益な作業である。とにかく、自分自身の古き人の罪深さに耽溺して意気消沈する時間を、神を見上げ、神の真実、神の清さ、神の正しさを仰ぎ見て、神を賛美するために使うことは、信者にとって有益である。信者は自分が見るものに同化するのである。

ただ神がキリストをご覧になるように…(1)

『私はキリストとともに十字架につけられました。』
ガラテヤ2:20


罪だけでなく、物事の見方すべてをも
喜んで手放すようになるまでは、
イエス・キリストと結ばれていることにはならない。

神の御霊によって生まれ変わるということは、
つかむ前に手放すという意味である。
そして初期の段階では
それはすべての見せかけを放棄することである。

われわれの主がわれわれから求めておられる事は、
われわれの誠実さや正直さや努力ではなく、
正真正銘の罪である。
主がわれわれから受け取ることができるものは
それだけである。

そしてわれわれの罪の代わりに
主は何を与えてくださるか。
正真正銘の義である。

しかし、われわれは
自分が何か価値があるかのような見せかけのすべてを、
かつ神に目を止めていただく価値があるという
主張のすべてを放棄しなければならない。
続いて神の御霊はその後
何を放棄すべきかを示してくださる。

自分には権利があると言う主張を
すべての局面において放棄しなければならなくなるだろう。
私は自分が所有するもののすべて、
私が愛着をもっているものすべて、
すべてのことに関する自らの権利を放棄して、
イエス・キリストの死と結ばれる用意があるだろうか。 

われわれが放棄する前に
常にするどい痛みを伴う幻滅を経験する。

主がご覧になるごとくに人が自分を見るようになると、
その人に衝撃を与えるものはいまわしい肉の罪ではなく、
イエス・キリストに逆らう
自らの心のプライドという恐ろしい性質である。

主の光の中で自らを見ると、
恥と恐怖と絶望的な良心の呵責を痛切に感じるようになる。

放棄という問題にぶつかっているのなら、
危機的状況の中ですべてを放棄せよ。
そうすれば、神があなたに求めておられるに
相応しい者へとあなたを変えてくださる。


これはアッセンブリーズ信者から紹介されたオズワルド・チェンバースの言葉だが、筆者はあまりこういう言辞が好きではない。あまりにも道徳的すぎるからである。

確かに、もっともらしく書かれており、ある程度までは正しい内容も含まれていると言える。いや、全体としては、本当に正しいのかさえよく分からない。教訓的に過ぎるこの調子が、何かがおかしいと思わせるのである。詳しいことは以下で見て行こう。
 
何よりも、一番問題なのは、この言葉自体よりも、このような言葉を語る人(チェンバースを含め、霊的先人の道徳的な言葉をしきりに引用して他の信者に聞かせたがる人たち)は、ほとんどの場合、それを自分に向かっては語らず、自分には適用もせずに、自分でできてもいないことを、他人に向かって語りたがる点である。

しかも、その人たちを見ていると、このような素晴らしい言葉を引用している自分自身に、自己陶酔しながら、その引用文を他人に向かって語り、語っただけで、あたかも自分はそれをすでに成し遂げたような気になってしまっているとしか見えないのである。

それが、筆者にとって、こうした言葉を信者に向かって語りたがる人々の、最も許しがたい悪質な偽善と映るのであった。

なぜ引用ばかり語りたがるのか? 
なぜ、自分ができもしないことをできているかのように、見せびらかすのか?
自分で自分の罪を克服するよう努力していますとアピールするために引用しているのではないのか?

本当に実行するつもりがあるなら、黙して、他人に向かって語る前に己が実行せよ、と思ってしまう。

グリーティングカードに記された無意味な愛の言葉のように、良さそうな文章をしきりに引用しては、クジャクの羽をつけたカラスのように舞い踊るのは、あまりにも愚かな所業だと思われてならなかった。

どんなに他者の言葉を数多く引用しても、それは自分のものにはならなない。
ある意味、社是や社訓のようなものである。
毎日、どれほど題目として唱和しても、それだけでは、決して人の内面に染み込んで行かないのである。

言葉自体は、非常にもっともらしく響くかも知れないが、まるで添加物を含んだ人工甘味料のように、何かがわざとらしく不自然で、心に浸透しないのである。
 
たとえば、こんな風に書かれている、

主がご覧になるごとくに人が自分を見るようになると、
その人に衝撃を与えるものはいまわしい肉の罪ではなく、
イエス・キリストに逆らう
自らの心のプライドという恐ろしい性質である。

主の光の中で自らを見ると、
恥と恐怖と絶望的な良心の呵責を痛切に感じるようになる。


本当にそうだろうか?
こういうもっともらしい言葉を他人に向かって引用する人が、真に自己のプライドの恐ろしさを直視し、「恥と恐怖と絶望的な良心の呵責を痛切に感じ」ながら、自分自身を眺めていたことが一度でもあったろうか?

むしろ、こういう実にもっともらしい、あたかも自己反省したかのような文面を多用することで、「私は自分の罪を悔い改めました」というパフォーマンスを人前で行い、それによってかえって自分の本当の見るべき醜さに手軽に蓋をして、己が罪には見て見ぬふりをし、「罪の悔い改めの儀式はもう済んだから、私は大丈夫」という自己安堵・自己肯定・自己欺瞞に浸っているのではないかという気がしてならない。

チェンバースには悪いのだが、こんな風にまるで他人事か第三者のように書かれた客観的な文章を通して、己の罪を真に主観的に自覚して悔い改めるような人間は、多分、一人もいないのではないかという気がしてならない。

筆者は、これとは全く違うことを言いたい。主がご覧になるごとく自分を見るようになると、人は自分で自分を赦せるようになる、と。

むろん、筆者も人類の一人として、自分で自分の足りなさや失敗を数え、悩みそうになることがないわけではない。「イエス・キリストに逆らう自らの心のプライド」などというものは、私には全くありません、などと豪語する気もない。だが、それでも、主が共におられ、小羊の流された血潮が私を覆っている、という事実を見る時、良心の呵責は去り、魂は悩みから引き上げられて軽くなり、自分で自分を決して責めることなく、自分の弱さをも失敗をも恥じることなく、神の御手に全幅の信頼を持って自分自身を委ねることができるようになる。

さらに、主がご覧になるごとく自分を見るようになるとき、そこには、もはや自分はいないのである。

「もはや私が生きているのではなく・・・」

神は今や、キリストをご覧になるように、信者をご覧になって、その完全さに満足される。神の信者に向けられる愛と満足の眼差しは、キリストに注がれるのと何ら変わらない。その眼差しを、たとえ肉眼で見ることができずとも、筆者は信仰の目によって確かに見るのである。そうすると、贖われてキリストのものとされた新しい自分自身に対する神の満足が、筆者自身の満足にもなって心に流れ込んで来るのである。

これは決して根拠なき自己満足や自惚れではないのである。なぜなら、これは古き人の自己肯定ではなく、古き人は十字架において裁かれて死に、今やキリストにある新しい人だけが存在するからである。

この新しいアイデンティティを掴むこと、キリストにある新しい人格に生きることこそ、信者にとって必要であり、いつまでも、古き自分がいかに神の御前に無価値であるかという懺悔の言葉だけを延々と繰り返し続けるのは、有害であり、無益である。

さらに、

罪だけでなく、物事の見方すべてをも
喜んで手放すようになるまでは、
イエス・キリストと結ばれていることにはならない。

こういったチェンバースの言葉も、もっともらしく響く陰で、非常に胡散臭く感じられる。もし文字通り、信者に当てはめるなら、「イエス・キリストと結ばれていることになる」信者はこの世に一人もいなくなるのではなかろうか。

「物事の見方すべてをも喜んで手放すようにならない限り、
イエス・キリストと信者が結ばれていることにはならない」

などという言葉の根拠が、聖書にあるとは思えない。
だから、これは一種の嘘であり、過度な自己放棄の勧めであり、強迫観念のような自己放棄願望を信者の中に生むだけに終わると思われてならない。
 
筆者は今でも多くの場面で、まだ自分自身の判断を留保していたり、人間的なものの考え方をしていたり、古き人を生きていた時代に培った常識が御霊の知恵の妨げになったりすることを経験している。

神の知恵と人の知恵は、多くの点で異なっており、たとえ御霊の導きがあっても、信者はついつい人間的な思いや常識で物事を判断しそうになることがあるのだ。

その意味で、人がキリストと結ばれていても、キリストの思い、御心からかけ離れた行動をしてしまうということは往々にしてあり得る。

だが、造り替えは進行中である。その過程で、信者は徐々に学んで行かなければならない。ついには、信者はたとえ常識にかなっているように思われたとしても、神の知恵に逆らう考えは全て手放さなくてはならない。その点では、チェンバースの述べている内容を全否定するわけではない。

だが、信者の中で、その思考の造り替えがまだ完全に進行しておらず、信者が古き人の時代に培った多くの物の見方を留保しているからと言って、それが故意でもないのに、その信者が、「物事の見方すべてをも喜んで手放すようにな」っていないから、「イエス・キリストと結ばれていることにならない」とまで断言できるであろうか?

いや、それは一種の暴論・極論と呼ぶべきものである。

たとえ生まれたての幼子のようなクリスチャンで、まだ御霊の導きや、霊と肉の区別など、多くのことをはっきりと識別できていなくとも、それでも、御霊によって生まれ、御言葉の中にとどまっているクリスチャンは、イエス・キリストに結ばれているのである。その信者が知らずに犯した数々の過ちも、血潮によって清められていることも、言うまでもない。

だから、信者は安心して、自分の内に生まれた新しい人を、神ご自身が成長させて下さるのに信頼して任せれば良いのであって、「あれも手放さなければならない。これも手放さなければならない。早く罪深い古き人の物の見方と訣別しなければならないのに、未だにそれができていない私は、何と罪深い人間だろうか!こんな調子では、私はイエス・キリストと結ばれている信者とは呼べないのではないか!」などと考えて自責の念に陥る必要はないのである。

信者が神にあって何を手放すべきかも、御霊が教えてくれる。神に従いたいという願いが本当でありさえするならば、御霊の示しに従い、自然に振る舞えば良いのである。たとえ失敗しても、血潮に戻るだけで良い。そこに自責の念は一切必要ない。まして主に心から従いたいと思っているのに、自分の失敗のために、キリストから切り離されていると思う必要はない(信者が自らそのようなことを認めるならば、本当に主から切り離されてしまうであろう。)
 
だから、以上のようなことを考慮しても、キリスト教界にいる信者が好んで使いたがる上記のような引用文に、筆者はどうにも首をかしげざるを得ないのである。罪の懺悔のパフォーマンスのためだけにそうした文章が使われているように思えてならず、ひたすら古き人の罪深さばかりを語り続けるその文章の内容からは、本当の意味での神の赦しや、神に受け入れられているという事実が見えて来ず、かえってその喜びが覆い隠されて行くように思われてならないからだ。

送られて来たチェンバースの文章には、前後関係がないため、全体の文脈は分からないが、一部だけ取ってみても、どうにも御言葉に沿っているとは思えない承服しがたい数々の点がある。
 
繰り返して言っておく。神がご覧になるように、自分自身を見るようになるとき、キリスト者は、自分がキリストに似た者とされ、キリストと全く同じように、神に受け入れられ、神に愛され、神が自分に満足されていることを知る。そのように自分を見るようになるとき、初めて、人間は、神が人を造られた本来の目的と、人本来のありようを知って、神の被造物としての自己の尊厳を取り戻して、自分に満足し、自分を適切に愛することができる。

神を抜きにして、人の尊厳が真に回復されることは決してあり得ず、神を抜きにした人の自己愛は罪深いものでしかないが、神の眼差しを通して、人が贖われた自分を見る時、人は一切のもがきをやめて、悩みの荷を下ろし、自分自身に真に満足し、神がおっしゃられるように、自分に「はなはだ良い」と言えるようになるのである。その時、人の自分自身への愛は、もはや罪深いものではなく、健全な自己愛へと立て直される。このキリストにある新しい人へのアイデンティティの転換と、健全で、神の御心にかなう新しい自分自身への愛と満足は、キリスト者の信仰生活にとって極めて重要かつ基本的な要素である。

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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