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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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神の和解を受けなさい

愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現われる際に、よろこびにあふれるためである。

キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。<…>クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい。<…>神の御旨に従って苦しみを受ける人人は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。」(Ⅰペテロ4:12-19)


今、降り盛る火のような試練を通して、キリストの苦しみにあずかっている兄弟姉妹の上に、神の豊かな慰めと、キリストの栄光の御霊が臨みますように。キリ ストの名のゆえに、そしりや、迫害や、苦難を受けるなら、そのクリスチャンは幸いです。なぜなら、主の栄光が現われるとき、彼らも主と共に、栄光にあずか る者となるからです。

今、クリスチャンをそしる者、告発する者、対立する者たちがいるならば、もう一度、キリストが十字架で流された血潮によって、神との和解、兄弟姉妹との和 解を受けるように勧めます。私たちの負うべき罪を、神はキリストに負わせ、御子を十字架で死なせました。それは、私たちがもはや律法によって罪とされ、罰 せられ、死に定められることがないためです。それなのに、どうして私たちが、再び、自分の義を持ち出して、兄弟姉妹と互いに告発し合い、相争うことができ るでしょうか。

神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務めをわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。

神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」(Ⅱコリント5:18-21)


キリストを信じている、キリストの使者として言います、神が、その独り子なるキリストを死に定めてまで、私たちのために開いて下さった和解を、無駄にして はなりません。キリストの御血を通して、私たちクリスチャンは、全ての敵意、隔ての壁を取り除かれて、すでに、一つの御霊の中で、一つの神の家族に結び合 わされているのです。

ですから、神が結び合わせた家族であるのに、その家族の成員が、どうして互いに食い合ったり、裁きあったりして、その一致を破壊して良いでしょうか。もし 神を信じて義とされ、聖なる神の宮とされ、神の家族とされた者を滅ぼそうとするなら、その者は、神の宮を滅ぼそうとするのですから、自分が滅ぼされてしま うでしょう。

「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。 」(Ⅰコリント3:16-17)

御言葉は、私たちの敵意は、もはや、十字架につけられて、滅ぼされてしまった、と言うのです。信じる私たちは、互いに一つのキリストの御身体として、兄弟 姉妹として、平和のうちに結び合わされている、と教えるのです。互いに一つの御身体であるのに、傷つけ合ってはなりません。争いがあるならば、十字架がも たらされますように。キリストの御血によって、和解しましょう、神が御子の死を通して与えて下さった尊い平和を、受け入れましょう。

「だから、記憶しておきなさい。あなたがたは<…>当時は、キリストを知らず、<…>この世の中で希望もなく神もない者であった。ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである

キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのであるそれは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである

それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。というのは、彼によって、わたしたち両方の者が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。」(エペソ2:11-19)


「神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである

あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。」(コロサイ1:19-23)


ですから、もう一度、懇願します、神が私たちを赦して下さったように、私たちも、互いに赦し合いましょう。互いに告発し、裁き合ってはなりません。神の家 族として、愛のうちに、一つにとどまりましょう。私たちは肉にあっては、不完全な者ですが、神はキリストの血潮により、私たちを義とされ、神の御前に聖な る、傷のない、責められることのない者として立たせて下さるのです。神が義として下さった兄弟姉妹を、どうして訴えることができるでしょうか。私たちはこ の平和の福音の中に踏みとどまらねばなりません。

だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。<…>わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。」(ローマ8:33-37)

誉めたたえます、私たちのために、終日、ほふられている尊い小羊! その永遠に流された血潮によって、私たちは義とされ、神と和解したのです。ですから、 私たちを訴える者が来る時、私たちは御血によって、大胆に、こう言うことができます。キリスト・イエスは私たちのために死んで、よみがえり、神の右に座し て、今日も、私たちのためにとりなして下さるのです。このキリストの愛のうちにとどまっている限り、誰が私たちを訴えるのでしょうか? 迫害も、そしり も、試練も、中傷も、どんな被造物も、私たちを神の愛から引き離すことはできません。私たちはどんな訴えを受けても、キリストの流された血潮、贖いの十字 架によって、勝ち得て余りがあるのです。

「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである。」(ローマ10:4)

私たちは、信じる者です。ハレルヤ、尊い神の知恵を誉めたたえます。
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赦すことの幸福

今、「この世の霊」は、「健全さ」を標的として食いつくすべく活動しているように見えます。

それは見かけはさまざまな活動の形をとっていますが、根底では一つであります。それはちょうど、かつてさまざまな国で、その日を過ごすのも困難な貧しい階級に属する一般大衆が、パンを求めて行進し、その行進が勢いあまって、裕福な人々の家屋への打ち壊しとなり、王宮を破壊したり、地主の屋敷や蔵を打ち壊し て、穀物を奪ったり、住人を傷つけたのとよく似た現象であり、同じような心理がその背後で働いています。

生活の糧を奪われ、困窮状態に追い込まれた人たちが、その鬱憤をどこに向けるべきか分からないまま持て余し、何かのきっかけに、それが事件となって爆発するのです。

人を赦せない思いは、人がそれを神によって処理してもらおうと望まないならば、時が経つごとに膨らんで行き、泥沼化した争いへと発展していきます。必ずしも、それは敵とみなした人間だけに向けられず、無関係な人に対する憎しみとなって爆発することもあります。

人を赦せない思いは、膨らんで行くと、その他の色々な悪意と手を結びます。他人の幸福を妬んだり、他人の築き上げた財産を強奪したい誘惑に駆られたり、不当に人の信用を失わせようとする悪意などにつながっていきます。

歴史を見ると、誰をも愛することができず、誰をも信じることのできなくなった人間不信、疑心暗鬼が、その根底に横たわっていた運動が数々、挙げられます。 悪意と不法に基づいた運動は、表向きは、常に、弱者救済をその美名に掲げてきましたが、実際に、弱者を救済したことはありませんし、目的としていた幸福社会を打ち立てることも決してありませんでした。

しかし、各時代で、明らかに人類に何の益ももたらさないそのような破壊活動が、革命的な運動にまでに高められ、猛威を振るった時があります。それは社会が不安定化し、次なる社会の形態が見えなくなった時に、頻繁に起こって来た現象なのです。しかも、それらは新しい時代を代表する正義の担い手であるかのように装って登場してきました。ここに、人間の知恵の限界があると言えるでしょう。

しかし、ハレルヤ! 人間の知恵が行き詰まりに達するような時代には、その分だけ、神の知恵に満ちた啓示を求める心が、人の中に起きます。今日、インターネット上でも、どれほど多くのクリスチャンが、真に聖霊の内住を経験し始めて、心からの賛美の歌を神に捧げていることでしょう。御霊の平安を内にしっかりと経験しているクリスチャンが多いことに、私は驚かされるのです。

このような不安定な時代だからこそ、真摯に神を求め、キリストの御霊の内住を経験として知り、それを力とし、命として、聖潔に生きることを願うクリスチャ ンが増えているのではないでしょうか。そうして、神に祝福され、平安を心にいただき、心に欠け目のない成長を遂げる信徒たちが、未だかつてないほどに現れ て来ていることを私は感じます。

クリスチャンといえども、問題に巻き込まれないという保証はありません。ですから、私たちは、あらゆる問題を打ち破る力を持っておられる神のうちに隠された命を生きるということを、今から実際にし ていくことによって、来るべき試練の日に備える必要があると思います。

クリスチャンの避難所となり、砦となって下さるのは、神です。神こそが、私たちの命 を悪しき者から救い出し、清く保つことができるお方であること、それは、特に悪しき日が到来せずとも、誰にでも、今から経験可能です。

同時に、目を覚まして、偽クリスチャンをも警戒する必要があります。なぜなら、このような時代にこそ、偽クリスチャンがその本領を発揮すると言っても過言 ではないからです。ですから、誰が内住のキリストを内にいただく人であり、誰が御霊を持たない人であるか、上からの知恵によって、予め、識別できるよう願 い求めることは重要です。

その第一の手がかりは、「実」を見て判断することにあるでしょう。怒りや憎しみや暴力をその原動力とし、破壊的な実が結ばれているような活動には、神の命は全く見出せません。

神はすべてのクリスチャンのために死なれました。
神はすべてのクリスチャンを清めて、御手の器とすることを願っておられます。
ですから、たとえ兄弟姉妹から痛手を受けることがあっても、私たちは彼らに力を持って、敵対して立ち上がってはなりません。
今こそ、兄弟を赦す心を得られるよう、神に願い求めましょう。
互いに赦し合うことができる心を神に祈り求めましょう。

互いの欠点だけを延々と取りざたしては、自分を人と区別し、自らの義を誇るのをやめて、クリスチャンとは、キリストをかしらとする一つの御身体であり、お互いによって補われなければ、存在しえない関係にあることをもう一度、しっかりと確認しましょう。

キリストは、自分の力では決して一つになれない人々を一つにすることがおできになります。
私たちの内から、あらゆる怒りと憎しみを除去し、新しい心を与えて下さることが、神にはできるのです。主に栄光あれ。


つづきはこちら

和やかな正月

正月を田舎でゆっくり過ごせるのは、何という恵みだろうか。
鴨鍋をみんなでつついたり、
父のお手製パスタを食べたり、
祖父母と一緒に、お雑煮をすすったり・・・。
わいわいがやがやとしたこの雰囲気、久し振りだなあ。

両親とつついた鴨鍋には、なぜか鴨がなかったのが残念!
豚しゃぶは最高においしかった。
たまには、こうやって豪華な料理にあずかるのもいいね。

都会に出て、わずか数ヶ月で、めまぐるしいほどに環境が変わった。
今改めて、田舎のゆっくりした時間が心を慰めてくれる。

神様がなしてくださることには、本当に、安定感がある。
十字架の御跡のあるところには、混乱が入り込む余地がない。

神様は人を裁き、呪うために、御子を地上に送られたのではなかった。
敵同士だった者たちを和解させ、互いに愛し合うようにと、
御子を犠牲に捧げられたのだった。

この十字架が人々の間に生きて働く時、
人間的思惑に基づいた いかなる対立も、分裂、分派も、
十字架のゆえに無効にされていく・・・。

久々に、家のピアノで、ラフマニノフや、シューマンや、
グリーグを弾いてみた。
記憶にほころびが出て来ている。
それに、ずいぶん、指がなまってしまっている!

でも、何という美しい音色だろうか、と思う。
やっぱり、本物のピアノがいいね。

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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