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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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十字架における死と復活の原則―神の御前での単独者としての厳粛かつ孤独な歩みを決して忘れるな―

前回、キリストにある新しい人(栄光から栄光へ主の似姿に変えられて行くこと、復活の命による統治、命の御霊の法則)というテーマについて語る際、法則性はない、と書いたが、この点について改めて訂正もしくは補足をしておきたい。これまで繰り返し書いて来たことだが、「主と共に十字架の死と復活にとどまる以外には法則性はない」と。
 
なぜなら、ゴルゴタを離れること、キリストと共なる十字架の死の重要性から少しでも目を背け、これを過小評価したり、言及せずに通り過ぎることは、たちまち、クリスチャンを別な道へ逸らせる大きな危険性であることを、改めて思わされるからだ。

筆者にも、クリスチャンが低められること、主と共に苦しみを負うことについて、長々と語りたくないという衝動が生じることがある。そのようなネガティブな話題からは、いい加減、目を背けてもいい頃合いではないかと。しかしながら、そうした衝動や願望にははかりしれない危険がある。

主と共なる死からクリスチャンが卒業できる日など来ることは決してなく、キリストの十字架は、来るべき世においても永遠の偉業として打ち立てられている。だから、クリスチャンが、主と共なる栄光は欲しいが、死は負いたくないという衝動に安易に身を任せて、十字架の死について沈黙し、復活という側面だけを語ろうとすることは、極めて重大な危険としての背教に陥る最初の一歩なのである。

主と共に栄光を受けたいならば、主と共に苦難をも受けるべきである。高められたいならば、低められることにも甘んじねばならない。キリストと共なる復活の側面だけを重視して、死の必要性を少しでも過小評価することは、たちまち、我々キリスト者を違った教えへと逸らせる要因にしかならない。

実際に、幾度も書いて来たように、筆者の知っている多くのキリスト者たちが道を誤ったのは、彼らがキリストと共なる死の中にとどまることをやめて、ゴルゴタの装甲の外に飛び出し、主と共なる輝かしい復活の要素だけにあずかろうと願ったためである。そのために、彼らは自画自賛、自己顕示、自己宣伝、セルフを建て上げる道へと逸れて行ったのである。その結果、ついにはセルフを神とし、自分への恵みを受けるためだけにキリストを利用し、主イエス・キリストを否定するまでに至っている。

そのような誤りに陥らないために、たとえ生活の何もかもが順風満帆で、思わぬ苦しみや不幸のように見える出来事に全く遭遇することなく、自分の名誉が望まずして傷つけられたり、恥を負わされたりすることがなかったとしても、あえてゴルゴタの死の中にとどまろうとする姿勢がどれほど重要であるかを思う。

特に、人に誉めそやされたり、ありがたがられたり、重宝されるようなことがあれば、特別な用心が必要であり、そうしたどこから来たのかも分からない流れに持ち上げられ、流されることなく、主と共なる死の中に自らとどまろうとする姿勢は非常に重要である。

ゴルゴタは我々にとって最も堅固な要塞であり、装甲のようなものである。そこから一歩でも外へ出ることは、神の守りの外へ自ら出ることを意味し、その結果として、自分を守ることができなくなる。人前に、キリスト者ゆえの苦難を受けることを厭い、他人からのお世辞やお追従を好み、自画自賛や、自慢話に明け暮れ、自分を喜ばせる快楽(目の欲、肉の欲、持ち物の誇り)を好んだ人の中に、正常な信仰を維持しえた人間は、これまで一人もいない。そういう人間は、信仰を持たない世でも忌み嫌われるが、まして信仰者としては完全な失格者となる他ない。だから、我々はどんなに神の恵みが雨のように降り注がれたとしても、決してそのような道を行かないことを宣言する。

さて、筆者の家人や親族への義務はあらかた終わったことを思う。筆者は、束の間、地上の故郷に帰って来たが、それは地上の肉の絆を確かめ合うことが目的ではなかった。

キリストは公生涯の間、家を持たず、地上における職業を持たず、御霊の導きのままに歩まれた。だから、主がそうであれらたのだから、筆者は、地上の故郷を故郷と呼ぶことはもうないだろう。ここは伝道のために立ち寄った地の一つに過ぎず、そこが筆者にとっての真の故郷ではないからだ。
  
『ギルバート・グレイブ』という映画を知っている人は覚えていると思うがが、そこに、地上の家を離れることができないまま生涯を終えた主人公の母親が登場する。彼女の悲劇は、家から一歩も外出ができないほどまでに太ってしまった点にあるのか、それとも家から離れられなかった結果そうなったのか、どちらが先かを論じても仕方がないが、少なくとも家がもたらす精神的束縛(もしくは現実逃避)こそ、そのような結果を招いたことは間違いない。

地上の家というものは、多かれ少なかれ、そういうものだ。肉親の情愛はどんなに美しく飾られていたとしても、最終的には、人間を縛りつけ、また、現実逃避のための砦や繭となってしまう。

地上の故郷や、肉の絆にしがみつく人々は、家族や親子の情愛という麗しいヴェールで、生まれながらの自分自身の弱さを覆い隠そうとしているに過ぎない。それは、堕落した人間の自己欺瞞の手段であり、さかのぼれば、創世記において、罪を犯したがゆえのアダムとエバが、自分が裸であることを知って、己の恥を隠そうとして編んだイチヂクの葉に由来する(それがイチヂクだったのかどうかは定かではないが、筆者はこれを便宜上「イチヂクの葉」と呼んでいる。)また、弟アベルを嫉妬ゆえに殺して神から逃避するに至ったカインが、自分や一族を復讐の脅威から守るために築き上げた都市(要塞、城壁)に由来する。
 
筆者は、地上における家というものは、霊的には、このイチヂクの葉、カインの城壁と密接につながっており、それはすなわち、人間の滅びゆく命の防衛の砦としての地上の肉体の幕屋そのものを象徴しているように思えてならない。
 
人間の肉体は、その人自身の一部であると同時に、その人の脆くはかないアダムの命を持ち運び、これを守るための砦(幕屋、宮)である。

この宮は命を守るために存在する。しかしながら、人間の肉体は、朽ちゆくものであるから、宮を守る使命とは裏腹に、命を守るにはあまりにも不十分であり、脆く、弱い砦でしかなくい。宮だけでなく、肉体という宮によって守られている命そのものも、有限で儚いものである。そのような人間の命の弱さ、脆さ、限界は、罪から来るものであり、最終的には、罪の報酬である死が命全体を滅ぼし、奪い去ってしまう。

だが、そのように人間の命が脆く有限であるにも関わらず、生まれながらの人間は、己の罪を認めず、己の罪のもたらす当然の結果である己の有限性、弱さ、脆さを認めず、最終的には、死をも認めようとしない。
 
たとえば、三島由紀夫は、自らの肉体を鍛え上げることで、己の精神的弱さやコンプレックスを隠し、そこから目を背けようと試みた。三島由紀夫の人生においては、マッチョイズムによる自己からの逃避は、私営の軍隊の創設、盾の会といったより高度な形へと発展して行く。そして、最後には、自己を守るための「殉死」(結局は自己破壊)という、パラドックスに満ちた究極の結末へと至りつく。そこには、天皇を守るためという大義名分がついていたが、その根底にあるのは、生まれながらの人間の有限なる命への絶望感と、己の罪を否定して、己を永遠の存在に高めようとする願望であった。
 
天皇を現人神とみなすことで、三島が何とかして信じようとしていたのは、生まれながらの自己の命の永遠性である。天皇を神とみなし、それに殉ずることで、三島が永遠の存在へと高めようとしていたのは、他ならぬ自分自身であった。

三島は、生まれながらの人間とその美を愛するあまり、生まれながらの人間が朽ちゆくもろく儚い、滅びゆく存在に過ぎないという事実が認められなかった。彼は朽ちゆく人間の命を惜しみ、己の肉体を鍛えることや、目に見える人間を賛美することで、人間の命が滅びゆくものであるという事実そのものを、人類への冒涜とみなして否定し、アダムの命とそれを守るための砦としての人間を永遠とみなそうとした。肉体を鍛え、軍隊を創ることは、人間の有限性という事実を否定する手段であり、最終的には、自分自身を理想化し、これを永遠の存在として保存するために、自死という最期を遂げたのである。

さて、地上における肉による絆だけによって築き上げられる「家」というものも、筆者には、上記と全く同じ文脈で、人が地上の朽ちゆく有限な命と、その幕屋としての肉体を永遠とみなそうとする自己欺瞞の思想の象徴であるように感じられてならない。
 
すでに別な記事で幾度も論じたように、万世一系という神話を作り出し、天皇と臣民を一つの家になぞらえ、「家」を守るために、個人が自己の命を捧げることが、人の最高の使命であるかのように教え、親のために子が命を捨て、指導者のために部下が命を捨て、天皇のために臣民が命を捨てて、こうして、「家」を存続させることによって、人類が己の「神聖な」命を存続できるかのように教える考えは、結局、人が生まれながらのアダムの命の有限性を否定して、自らを永遠とみなそうとする偽りの思想から出て来たものに他ならない。

そうした文脈における「家」とは、通常の文脈におけるただの家を指すのではなく、偽りの神話に基づいて、生まれながらの人間の家系(=アダムに属する人類の血統)を神聖視・絶対視するために作り出された要塞であり、かつ神話である。人間には明らかな寿命があるため、人間の命が永遠でないことは、誰の目にも明白な事実であるにも関わらず、子孫が先祖に仕え、代々、家を守ることが人間の使命であるかのように説くことによって、この思想は、人間の命を血統になぞらえて不滅のもののようにみなし、アダムの命の有限性から目を背けて、人類という堕落した血統を神聖で永遠のものであるかのように讃えようとしているのである。

そのような考えで、もし個人を「家」を守るための手段とするならば、その時、その個人はもはや個人ではなくなり、実際には存在しない「神聖な家」の附属物か、もっと言えば、家の象徴のようなものへと変えられて行く。
 
そのようにして「家」と一体化した個人は、自らの意志を奪われた、偽りの神話の象徴となり、束縛された奴隷も同然になってしまう。万世一系などといった神話でどんなに飾りたて、どんなに不滅のもののように見せかけ、誉め讃えても、この偽りの思想は、その虜となった人間を滅ぼしてしまうだけなのだ。

『ギルバート・グレイプ』に存在する母親のように、人が自らの弱さ、脆さを隠すために築き上げる要塞としての家に束縛されてしまうと、その人間は、その偽りの安全から外に出て、現実に直面する勇気を失って、家と一体化してその象徴と化してしまう。その家は、人間の弱さや脆さと直面することを拒否する、同情や優しさに見せかけた様々な偽りの情に塗り固められて美化されてはいるが、実際には、人を縛りつける場所にしかならず、誰をも自由にはせず、幸せにもしない。

筆者は、今、我が国は曲がり角に来ており、大きな過渡期にあるものと思う。すなわち、敗戦後、我が国は、天皇を現人神とみなすことをやめ、象徴天皇制に移行した。官吏は天皇に仕える僕ではなくなり、公務員は国民の公僕とされた。しかしながら、この改革は非常に中途半端なもので、数多くの矛盾を抱え、数多くの点で、ミイラのような過去の残存物を内に抱えている。

すでに書いたように、憲法上の真の公務員の定義は、官僚を指すものではなく、選挙で選ばれた政治家を指すものであって、現在の官僚は、本当の意味での公務員ではなく、戦前の官吏の影のような残存物であって、勝手に公務員を詐称しているに過ぎない。さらに、天皇が国民の象徴として存続し続けることの矛盾は、天皇自身が退位を望んだという事実に何よりも明白に表れている。

筆者は、神と人とがつながるために、キリスト以外のどんな仲介者もあってはならず、牧師という役職は不要であると再三に渡り、述べて来たが、それと全く同様に、国民の象徴としての天皇という存在も必要ないと考えている。

すでに説明したように、カトリックのような、法王を中心とする聖職者階級を否定して、聖書の真理をすべての人々に解放すべく行われたプロテスタントの宗教改革は、結局、牧師を中心とする教職者制度を残したことによって、非常に中途半端で、かつ、矛盾だらけの改革に終わった。そして、当然のごとく、このように中途半端に教職者制度を肯定したことは、悪魔に口実を与えるきっかけとなり、その結果、牧師夫妻を「霊の父・霊の母」として崇めるような、全く聖書に反する異端の思想が、公然とプロテスタントに侵入して来る契機を作ったのである。

日本国憲法も、結局はプロテスタントに起きた現象と同じような、中途半端な過渡的改革を示している。敗戦後、天皇を神として崇める思想は否定されたものの、天皇制そのものは廃止されず、これが国民の「象徴」として残されたことによって、依然として、主権在民が完全に実現しないまま、改革は中途半端に終わったのだ。国民一人一人が完全に個人としての自覚や責任を持つには大きな妨げが残ったのである。

そして、天皇が「象徴」として残されたことによって、ただ未来への前進が中途半端に妨げられただけでなく、さらに、過去に立ち戻ろうとする動きにも口実を与えることとなり、戦前回帰などという愚かな潮流の出現も手助けされているのである。

そこで、以前も述べた通り、次なる時代が到来するためには、筆者は、プロテスタントもそうであるが、我が国の体制そのものも、この中途半端な「象徴」を取り除き、一人一人が完全な主権を取り戻し、個人が個人として生きられるような形式を整えるしかないと考えている。今はそのための過渡期・移行期であって、歴史を逆行して、天皇を再び現人神とすることによって、後退することが必要とされているのではなく、むしろ、天皇制を廃して、完全なる国民主権を実現することで、未来へ前進することこそ必要なのであり、もしも憲法を改正するならば、そのような前進の文脈でこそ、初めて意義が生まれるのである。

皇族や、国民の象徴という言葉は、いかにも偉大な響きを帯びてはいるが、実際には、天皇の任務は、考えられているほど尊いものでもなければ、美しいものでもない。そのことが、天皇の退位という問題をきっかけに、今になってようやく多くの人々に広く認識されるようになった。

象徴天皇制は、天皇自身に人権すら与えずに、一生、生まれながらに選択の自由もなく、象徴としての義務に縛りつけるような、残酷な束縛の枷にしかなっていない。

天皇自身がその矛盾に気づいており、象徴であり続けることに疑問を感じているにも関わらず、そんな制度をありがたがり、天皇の気遣いを受けることで、自分が満たされ、高められるかのように錯覚している国民がいるとすれば、その国民の方も、(まるで牧師の気遣いに依存する信徒同様に)全くどうかしていると言わざるを得ない。

他人に犠牲を強いることによってしか、自己の価s値を十全に感じられないというならば、その充足感は偽りである。たとえ高齢の天皇が退き、若い世代に道を譲る事で、新たな天皇を立てたとしても、生きた人間を「象徴」的存在に閉じ込め、自由な意志選択や自己決定権を奪うことの忌まわしさは何一つ変わるものではない。

それなのに、なぜ人間は、まるで金の子牛像を拝むようにして、常に自分の偉大さを証明してくれる、目に見える象徴を求め、目に見える自分以外の人間からの賞賛や支援や同情や激励の言葉を求めずにいられないのか。

そういう浅はか弱々しく自己本位な願望と訣別すべき時が来ているのである。にも関わらず、もしこれから先も、我が国の国民が、他者からの賞賛や激励や同情といったものを求め続けるならば、その美しい言葉を口実に、どんどん自らの自由と権利をかすめ取られて行くだけであろう。

そのような文脈での「象徴」としての任務が、光栄な務めであって、偉大な使命であると考えるのは間違っている。それは人間の依存心を助長し、自立を妨げ、無用な束縛を増し加えるだけである。

さて、話を戻せば、偽りの思想における「家」というものの欺瞞性に、筆者が言及したのも、以上と同じ文脈である。家系を代々、絶やさないことによって、家を守ることを人の最高の使命とし、それによって、人類の血統を永遠のものに高めようとする思想は、非常に忌まわしいものでしかなく、そのような文脈によって生まれる「家」というものも、何ら美しい存在ではない。
 
また、『ギルバート・グレイプ』の映画に登場する母親のように、分厚いたるんだ脂肪に包まれているだけの人間も、三島由紀夫のように、自らの肉体を鍛え上げることで、肉体美・筋肉美を誇る人間も、外見はまるで正反対のように見えたとしても、本質的には全く同じであり、両者ともに、生まれながらの人間の自己を神格化し、その考えに基づいて、人類という「家」を守るためのカインの城壁にしがみつき、束縛されているだけなのだ、という事実に気づく人は少ないだろう。

結局、この両者は、己の肉体にしがみつくことで、どちらもが地上の故郷である「家」へしがみつき、執着しているのである。象徴としての「家」を絶対視・神聖視し、それに自ら束縛されることで、己の有限性、弱さ、罪を否定して、現実から目を背けて、堕落した人類には存在しないはずの永遠に思いをはせているのである。その偽りの思想は、個人に個人として生きることを許さず、秩序を転倒させ、最終的には、個人を滅ぼしてしまう。
 
その結果、本来、家というものは、家族の成員を守るための屋根のようなものに過ぎないのに、この屋根を守るために、家族が命を捨てるという本末転倒な結果が生まれるのである。あるいは、肉体は、命を守るための砦に過ぎないのに、その砦を不滅のものとするために、人が自己の命そのものを滅ぼすという結果になる。こうした考え方を延長して行くと、牧師のために、あるいは教会組織のために、信徒が命を捧げ、企業を守るために社員が命を捨て、象徴天皇制を守るために、国民が犠牲を払い、あるいは天皇のために、もしくは国のために、再び国民は命を捨てよという思想が生まれる。

このような思想においては、何もかもがさかさまである。人間のために家があるのに、家のために人間が存在することにされ、人間のために肉体があるのに、肉体のために人間が存在することにされ、人間のために組織があるのに、組織ために人間があることにされ、国民のために国があり、天皇が存在するのに、天皇のために、国のために国民が存在することにされてしまう。
 
最終的には、そのようなさかさまの思想は、神と人との秩序を転覆させる。聖書によれば、本来、人間は、神に仕える宮であるのに、その宮に過ぎない者、被造物に過ぎない者が、主人である神を超えて、自らを永遠の存在として誇るという秩序転倒に至る。宮が主を超えてしまうのである。

その結果、パラドックスに満ちた現象が起きる。自らが神聖でないのに、神聖の領域に不法侵入した者が、打ち滅ぼされる。 自らが永遠でないのに、自らを永遠と宣言した者が、己を滅ぼし、それによって、自らが永遠でないことを逆説的に立証するのである。天皇のために「殉死」した三島もそうであったし、滅んだ「皇軍」もそうであり、家と一体化したまま死んだ母親もそうだが、結局は自殺としか言えない結末に至るのである。

こうして、腐敗した朽ちゆくアダムの命を神聖視し、滅びゆく不完全な地上の幕屋としての肉体にしがみつき、人間を滅びに導くだけの肉欲にしがみつき、朽ちるものに執着し、それに同情の涙を注ぐことによって、滅びゆく自分の堕落や弱さから目を背けて、自己を保存しようとする人間の自己防衛の試みは、究極的に、自己破壊という結果に至りつくだけなのである。

だから、家を自分の弱さから逃避するための手段として用いる人々もまた、自己の罪を隠すためのイチヂクの葉により頼んで生きているだけなのだと言える。地上の組織の強化や拡大にこだわる人間もすべてこれと同じである。

家にしがみつく人間も、企業の繁栄や、宗教団体の繁栄や拡大にこだわり、あるいは国家の強化や、軍備の増強を唱える人間は、すべて同一線上に立っている。それは決して十字架の死を経ることのない、アダムに属する人間の、生まれながらの自己(セルフ)を建て上げ、永遠に肯定したいという欲望の言い換えに過ぎないのである。
 
生まれながらのセルフの腐敗・堕落を隠すために、彼らはその覆いとしての宮(肉体、家、組織、国家)を賛美し、そうすることで、神に背いた人類の堕落した本質を隠しながら、被造物に過ぎない自分自身を、造物主以上に掲げて、神と宣言しているのである。

このように、神を口実にしながら、結局、神の地位をのっとることで、己を高め、神格化しようとするこの思想の傲慢さ、忌まわしさは、三島の「殉死」が、彼が最も崇めたはずの他でもない天皇の意志を無視して単独で行われたことにもよく表れている。どんなに天皇を口実に掲げていても、三島の最期は、現実の天皇の意志をまるで無視して行われた独りよがりなパフォーマンスに過ぎず、結局、三島が望んだのは、天皇を口実に持ち出すことで、自らを神格化することだけだったのである。

今、戦前回帰を持ち出して天皇を担ぎ上げ、讃えている人々がしていることも、全く同じである。天皇をありがたがる人々ほど、実際には、天皇自身の意志や人格などまるで尊重してはおらず、単に自己を高める口実として、他者を利用しているに過ぎない。

そして、プロテスタントの信者が牧師や教会組織にこだわる理由もこれと同じである。彼らは、自分たちの属する教会やリーダーを絶対視し、誉めそやすことで、結局、自分を偉大な存在に祀り上げようとしているだけなのである。家や家系を絶対視する人々もそれと同じであり、その根底にあるのは、常に自己を偉大な存在とする口実が欲しいという「セルフの神格化」の願望だけである。
 
真のキリスト者の願いや、目指す目的は、決して、以上のような人々と同じものではない。キリスト者の目的は、地上的な様々な象徴によって自己を強化し、武装し、己を高めて、神聖視し、それによって、自己の抱える本当の弱さ、愚かさ、罪深さから目を背けて、自分を偉大に美しく見せかけることにはない。我々にとって、真により頼むべきものは、そうした地上的なものではない。

だから、冒頭のテーマへ話を戻すと、もしもクリスチャンが、主と共なる十字架の死にとどまることの重大な意味を忘れ、主と共なる復活、栄光だけを願い始めるなら、その人はたちまち、自分では神に従っていると錯覚しながら、実際には、生まれながらの己を神として祀り上げる誤った方向へ逸れて行くであろう。
 
また、少しでも、神との直接的な交わりではなく、地上の人間たちとの横のつながり、人間との絆や連帯を賞賛し、もしくは自分の帰属集団などに価値を見いだし、栄光を帰そうとするなら、たちまち以上のような誤った思想へ逸れて行くであろう。

多くのクリスチャン(と称する人々)が実際にそうなったのであり、筆者はまさにそれゆえに、地上における家にこだわり、地上的な情愛にとらわれることへの重大な危険を思い、また、それを警戒している。
 
もしもこうした要素を信仰生活に少しでも混ぜ込むならば、たちまち、神への純粋な従順も失われてしまうであろう。

確かに、「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という御言葉には重大な意義があるが、それは、決して、我々が肉の情愛を神聖視し、それにしがみつき、埋没するための口実ではないのだ。
 
人は、地上における自分の家や、勤め先の企業や団体、もしくは宗教団体や、国家といった組織を隠れ蓑のように利用して、その中に埋没することで、己の罪や弱さや限界から目を背けるのではなく、常に個人として、一人分の重荷を負って生きねばならない。その生き様は、集団の中に自分の居場所を求め、地上への帰属を誇ることで、個人としての孤独や自分独自の使命を忘れ、自己の本質から目をそらそうとする衝動や生き様とは正反対である。

集団に埋没することの中には、自己忘却の誘惑としての安楽が常にあるが、それはキリスト者の道ではない。

人はもともと集団を維持するための道具として生まれているのではなく、個人として生きており、それゆえ、個人としての意志や、独立性を生まれ持っている。他の誰のコピーや附属物でもない、オリジナルな、他から独立した、個人として生きており、それゆえ、個人としての尊厳や、諸権利が生じるのであり、個人の尊厳は、決して、帰属集団によって担保されたり、定義されるものではない。誰のコピーでもないオリジナルであるがゆえ、その使命も人と同じではなく、独自の重荷を負わねばならない。ましてキリスト者はそうであり、キリスト者は、「日々の十字架」として、一人分の重荷、一人分の孤独、一人分の十字架を常に負う任務があることを筆者は疑わない。地上では寄留者として、どこにも最終的に定住することなく、つつましく歩み、常に神の御前の単独者としての孤独を負い続けねばならない。
 
だが、多くのクリスチャンを名乗る信者たちが、まさにつまずき、脱落して行ったのは、この点であった。

彼らを堕落させたのは、自分は絶対に一人になりたくない、孤独を負いたくない、人間の絆から切り離されたくない、人間の絆から生じる温もりや、連帯を失いたくないという願望であった。その思いが、彼らが十字架の死を経ない、アダムの命によって生じる生温かい情に身を委ね、集団の中に安易に埋没して、神の御前での単独者として、自分独自の重荷、自分独自の孤独、自分独自の十字架を負うことを拒ませるきっかけとなり、その孤独な歩みを忘れさせたのである。そのような信者たちは、その後、まるで営利企業や、軍事力の強化に走る国家も同然に、自分たちの連帯を神聖視し、賛美しながら、自分たちの属する宗教団体の権威や威光を誇示し、これを強化・拡大することを至高の目的として、完全に誤った道へと逸れて行った。
 
筆者は、彼らと同じ道を決して行くまいと決意している。だが、そのためには、神の御前で、どんな時も、キリスト者が自分一人分の孤独を自ら背負い続ける姿勢が、極めて重要なのだと思わずにいられない。その任務は、人の目には、孤独で悩み多きもののように見えても、地上における人間たちのどんな種類の連帯にもまさる意義を持つと確信している。

つまり、神に満たしていただくためには、神が来られる前に、信者である人間が、すでに満たされてしまっていては駄目なのだ。神の御許にだけ、我々が携えて行かねばならない一人分の孤独、弱さ、限界、飢え渇きがどうしても必要なのである。神の御前で、人間が、すでに満たされてしまっておらず、孤独で、飢え渇いていることが必要なのである。

ところが、人間が、自分自身の弱さを恥として否定すべく、自分で自分を強め、孤独を忘れるために、自分を慰め、励ましてくれる象徴を自ら作り出し、人間の温もりと連帯の中に安易に身を埋めると、本来は、神に向けるべき、一人分の飢え渇きが、あまりにも簡単にあっけなく失われてしまう。そして、もはや以前のように、悩みや苦しみの中でも、心の底から神を求め、信じて見上げるだけの純粋な信仰、純粋な叫び、祈り、求めが曇らされ、なくなってしまう。最終的には、そのような人間にとっては、ただ神にのみ自分のすべてを委ねて生きることよりも、悩みや苦しみから手っ取り早く目を背けて、自己の弱さを忘れることおの方が、はるかに重要課となり、まるで中毒患者のように、現実の自分自の弱さから目を背けるために、自己に慰めをもたらすものに依存し、それを手放せなくなる。それが家であったり、家族であったり、偉大に見える指導者であったり、企業や宗教団体であったり、または国家になったりするのである。
 
そのような状態こそ、筆者は恐れるのだ。人間的な観点からは、まことに幸福そうで、問題がなく、強そうで、理想的で、満たされているように見えたとしても、神を語りながら、実際には、まるで神を必要としないという、人間側の独りよがりな状態以上に、忌むべき状態があろうか。しかも、キリストが来られるよりも前に、信者の側がすでに満たされてしまい、自己陶酔、自己満悦、自画自賛に陥っていることほど、神の目に忌むべきことはないと思われてならない。我々にそのような錯覚としての偽りの満足をもたらすものは何であれ、早々に手放し、ゴルゴタの死へ戻るのが最善である。

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わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。

「イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マルコ10:29-31)

さて、我が家の成員が急遽増えたので、しばらくそちらにかかりきりになっていた。
鳥の雛が我が家にやって来たのだ!

毎朝、毎夕、我が家のベランダには可愛い雀たちが群れて挨拶にやって来て、つい先日は、手の届くほどの距離で物干しさおにちょこんと止まっていたが、鳥好きの私としては、雀を眺めているだけでは物足りない。

むろん、我が家のメンバーはすでに存在しているのだが、もう少し成員を増やしたいと願った。

以前の記事にかつて起きた小鳥の落鳥のことを書いた後、言葉が足りなかったなと思うことがあった。「主が与え、主が取りたもう」・・・、このストーリーには確かに続きがあるが、まだそれを書いていないからだ。

は与え、は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21) これはヨブの言葉であるが、主は取られることもあれば、必ず、その後、以前よりも豊かにお与え下さる方なのである。

それが証拠に、ヨブはサタンの試みにあって家族を失い、一時は一家全滅の寸前まで追いやられたのに、物語の最後では、前よりも豊かになっている。

このように、むろんヨブほどの試練ではないにせよ、何かが我々の生活から取り去られる時、いつも主にあってそれを小さな十字架として受け止めるならば、しばらくの悲しみの後に、前よりももっと豊かな祝福が与えられる。

それがどんなきっかけで生じた損失であれ、法則は同じなのである。自分の過失であれ、誰かの裏切りであれ、偶発的な事件であれ、何が原因で生じたものであれ、すべての痛みと損失を主に持って行き、主にあって、これを日々の十字架として受け取り、「主が与え、主が取りたもう、主の御名は誉むべきかな」と宣言するのである。

すると、そこに死と復活の法則が働く。そして、不思議と受けた損失を補って余りある祝福が天から与えられるのである。

私はこのことをよく経験して来た。

だから、きっと小鳥もそうに違いないと確信していた。案の定、探すと不思議な幸運で、大した苦労もなしに、ちょうど雛のシーズンが終わる前に、実によく人馴れした愛らしい鳥たちに出会うことが出来た。

それは願った以上のものが向こうからやって来るほどで、頼んでもいないのに珍しい鳥が集まって来るのである。

しかし、これは鳥に限った話ではない。以前に、あるキリスト者に向かって、ロシア語の練習の機会が欲しいのだと話した時に、こう言われた、「ヴィオロン、それはね、ロシア人よ、私のもとに集まれ!と命じるんだよ」と。その時にも、実際に不思議とそうなって行ったのだが、今度は鳥である。(鳥と同列に論じられるとロシア人は怒るかも知れないが。)

キリスト者は自らの言葉によってさまざまな出来事を主と共に創造している。だから、どのようなことであれ、主の栄光になるように語ることが大切である。「主は与え、主は取りたもう。しかし、主の御名はほむべきかな、主は我々のすべての必要と心の動きをご存知で、私たちの地上の人生は、痛み苦しみだけでは終わらないのだ…」

むろん、誰しも、大きな別離を経験したすぐ後に、立ち上がって再び出会いを探そうというのは無理な話である。そんな不自然なことをする必要はない。悲しみたい時には悲しみ、涙を流すべき時には思い切り泣き、目いっぱい、人として自然な生活を送り、そして、立ち上がり、望む気力が出て来たときに、新たな出会いを模索するのである。それはペットであれ、仕事であれ、人との出会いであれ、みな同じである。主は絶対に人の心の自然な動きに反するようなことを求められない。

だが、信仰者が信仰によって望みを抱いて立ち上がるなら、そこから、常に新しい展望が開けて来る。それは信者の歩みが主との二人三脚だからである。

十字架の死と復活の法則は、すべてのことを信仰によって主の御手から受け取る時に確かに生きて働く。良いことも、悪いことも、喜ばしいことも、悲しいことも、何もかもすべてを主の御手から受けとるのである。

そして、主こそ、それらすべての現象をご自身の栄光に変えることのできる方であることを信じるのである。

それは日々起きるすべての出来事の中での信仰による一瞬の手続きである。何も考えずにただ現象に振り回され、左右されるのでなく、すべての出来事の只中にあって、主を見上げ、すべてのことを主の御手から受けとることを、あえて信仰によって宣言するのである。

そうすると、悲しみや苦しみでさえ、まもなく新たな喜びへと変えられて行く。何かが失われたように見えても、しばらくの後に、溢れるほどの祝福が返って来る。その不思議ないきさつを見ていると、おそらくは、そこに日々の十字架の働きが――死と復活の命の働きが確かにあるのだろうと想像するしかない。

私は十字架の恵みに満ちた喜ばしい側面だけを強調しようとは思わない。主に従う上で、苦しみは確かに避けて通ることができないと知っているからだ。セルフがキリストと共に十字架の死に同形化されることに、痛みが全く伴わないはずがない。

しかし、それでも、キリスト者の人生とは、苦しみの連続には終わらない。ダビデが謳ったように、慈しみと恵みとが生きている限り、キリスト者を追って来るのである。

そして、当ブログに書いて来た通り、これまで筆者が出会ったクリスチャンを名乗る人々の間では(むろん、彼らはとても信者を名乗るに値する人々ではなかったのだが)、裏切りや離反や密告や誹謗や讒言や、誰も目にしたくもないさまざまな偽りの光景が目の前で起きて来たが、同時に、これらの損失(?)を補って余りある祝福もまた上から与えられるのだと信じている。

人の人生を食い荒らすことしかできないバッタやイナゴのような無価値な一群とは別に、人に喜びを与え、そのさえずりによって安らぎをもたらす美しい鳥たちの群れも飛んで来ることであろうと確信している。

私は何もこの手に握らない。これだけは私のものだ、これだけは取らないでくれ、としがみつくものはない。
それでも、聖書には書いてある、信仰者は主の御名のために失ったものの百倍を受けるのだと。今の世でも、来るべき世でも、豊かな報いを受けるのである。(来るべき世には家というものがないので、永遠の命を報いとして受ける)。回復されるものの中には、兄弟姉妹も含まれている。これには信仰による兄弟姉妹も含まれると私は確信している。

だから、ヨブが失った家や娘息子たちを再び主の御手を通して得たように、失われたクリスチャンの兄弟姉妹たちも再び得られる時が来るだろうと確信している。ちょうど、海の向こうから贈り物を携えてやって来る外国人たちを信仰によって呼び出したように、すべての生活の必要と、兄弟姉妹を、呼び出すのである、御言葉に基づき、信仰によって――。

主の囚人

主の囚人―オースチンスパークス著から引用(段落の順序は変えてあります。)

エペソ人への手紙3章1節、4章1節;テモテへの第二の手紙2章9節、1章8節

<…>啓示を委ねられる人は、「私はあなたのしるしです」と 言えるくらい、その啓示を自分の存在と生涯の中に造り込まれなければならないということ、これがまさに神のエコノミーの一つの原則であると思われま す。<…>一つの節を見ると、パウロの生涯の晩年は縮小と制限の過程を辿っていたことがわかります。それは一つには「大きな堕落」のためであり、またもう 一つには、彼が代表していた証しを一般を対象とするものから特定の人を対象とするものに狭めなければならなかったためです。

これはまさに、「終末」の状況について正確に予言されていることです。最後の手紙の中のテモテへの預言的な言葉の中でこれが特に述べられているのは、意味のないことではありません。ですから、後期の手紙に出てくる「主の囚人」というこの句には、預言的な意味がありますし、主の主権の最後の道をみごとに説明しています。


これを読むと、特に終末の時代、主から啓示を委ねられた人は、特別な閉じ込めと制限の中に置かれなければならないことが予想されます。その 閉じ込めは、人の思惑によっては様々な解釈が可能でしょうし、しばしば人災のように見えることもあるでしょう。しかし、その閉じ込めには、主の主権が及ん でいるのであり、啓示が、真理がその人のうちに作りこまれ、その人自身が生きた真理の証となるために避けて通れない過程なのです。

「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マタイ19:24)という原則は、ただ救われることを指して言われたのではなく、主に従うことについて言われたのであると私は解釈しています。

主に従うために、私たちはしばしば、純粋な動機の妨げとなっている多くのものを剥ぎ取られなければなりません。福音を自分が豊かになる手段として利用したい思いや、信仰生活を通して、人に受け入れられ、喜ばれたいと願う動機も取り扱われねばならなくなるでしょう。

十字架の閉じ込めは、周囲からの理解を失わせます。最も身近で親しかったクリスチャンでさえ、その人を非難したり、誤解したりして、去って行くかも知れま せん。そこには何かしら教会の堕落という問題が関係しています。教会は地的なものに関心を奪われすぎました。多くの人々は真理を求めていると言いながら、 実際には、自己をさらに富ませることを追い求め、信じることで自分の義を立てるか、もしくは自分を楽しませることを求めているだけの場合がほとんどです。 上にあるものを求めている人はほとんどいません。

そこで、閉じ込めによってクリスチャンが練られ、ふるい分けられることになります。自分だけの恵みを求めたいと願う多くの人は去って行くでしょうし、本人 も、不自由、拘束、圧迫に苦しみ、しばらくその状況に何の意味も見出せないかも知れません。何よりつらいのは、今まで交わりの中で得ていた慰めや理解を失 うことかも知れません。

しかし、それは、私たちの自己に属するものがろ過されて、純粋に神を求める動機だけが残されるために必要な過程でもあります。今まで良き達成と見えていた さまざまなものを失い、活動が極端な縮小や制限をこうむっても、主を知ることを切に追い求める民はどこにいるのでしょうか。誤解や恥や非難をこうむり、徹 底的に低められ、身近な友を失って、世間から全く誤解されても、なお神を信頼し、主に従っていく人々はどこにいるのでしょうか。

閉じ込めや制限は、神の民をふるいわけるための主の方法の一つなのです。閉じ込められた人がますます主だけへ向かうなら、そこで何か人知を超えたことがその人の上になされ、さらに光が与えられるでしょう。

また、それは御身体全体に益を もたらすための主の方法でもあります。一人のクリスチャンが、主によって究極的な閉じ込めの中に置かれ、視界の遮られた小さな苗床の中に置かれることが、 なぜ御身体全体の益になるのか、人知によって説明することは難しいですが、実際にそうなのです。

ですから、私たちはたとえ牢獄のような環境に閉じ込められている時にも、信仰を持ってそれを主の囚人であることとして受け入れ、主のご計画を見たいと願い ます。その時に、私たちの苦しみは自分の苦しみではなく、真にキリストの苦しみにあずかるものとなり、私たちの思いをはるかに越えて、御身体のために豊か な実を結ぶことにつながるでしょう。


<…>たとえその出来事が人間的に解釈されてきたとしても、そのすべての出来事の中には神の主権的支配があったのです。また、彼が牢獄にいたのは皇帝の囚人としてではなく、主の囚人としてだったのです

<…>彼はついに、主の道として急速に明らかになりつつあったことを完全に受け入れました。「この道はキリストのからだにとって最大の益になる」ということが、ますます彼に明らかになりました。<…>

完全な啓示にどれほど迫れるかは、つねに相応の代価によりました証しのための僕はみな、疑いや非難の下に置かれてきました。その度合いは、主に対する価値の度合いに応じていました。そしてこれは、彼らは人間的にそれくらい制限されていたことを意味します。

多くの人が後退し、堕落し、遠ざかり、疑い、恐れ、問いを発しました。しかし、「あなたたちのための私の艱難、それはあなたたちの栄光なのです」(エペソ人への手紙3章13節) 「あなたたち異邦人のためのキリスト・イエスの囚人」(エペソ人への手紙3章1節) とパウロが言うことができたように、主にあって受ける制約の度合いが彼の民を富ませる度合いなのです。

啓示が豊かであればあるほど、理解する人は少なくなり、遠ざかる人の数は増えます。啓示が来るのは、ただ艱難と制限によります経験的に啓示を得ることは、何らかの方法で代価にあずかることを意味しますしかしこれこそ、神がご自身のために霊的な苗床を確保される方法なのです。<…>

<…>このような方法で主は御民をふるいにかけ、誰が本当に完全に彼ご自身と彼の証しの味方なのか、誰が他の思惑や興味によって多少なりとも動かされているのか、見破られます。ですから、大衆から拒絶されるというこの立場にあるその僕は、本当に必要を抱えている人や動機の純粋な人を探し出すための主の手段なのです。彼らはその僕を探し出し、その僕は彼らの必要に応じます。<…>

そこからわかるように、イエス・キリストの啓示の究極的最大事、個人的救いを超えた事柄、救われることを遙かに超えた永遠の時の前からの神の御旨に関する事柄に、主の民が導かれて直面する時、縮小、閉鎖、制限がなされなければならないのです。それまでは多くの活動が行われてきましたし、それはみな物事を特定の場所や状況にもたらすうえで極めて適切なものでした。しかし今や、それらを推進することはやみ、もっと強烈なものが必要になります。

神の究極的御旨を最も完全に証しするもの、そしてそれに最も近い証しを示すものは、次に、準備段階では必要だった神からの多くの良いものを剥ぎ取られ、究極的なものの中に閉じ込められなければなりません。この閉じ込めは真理の理解のためでも、教理の受け入れのためでもありません。

啓示に続く経験と、経験を解き明かす啓示により、存在のまさに繊維中にそれを造り込まれるためです。これは信奉されている解釈のために戦うことではありません。それはその僕たちの命そのものであり、その僕はまさにその化身なのです。そうなることを望むかどうかの問題ではなく、囚人になるしかないのです。神の主権がそうしたのです。<…>


「ですから私たちの主の証しを、また彼の囚人である私のことを、恥じてはなりません」(テモテへの第二の手紙1章8節)

「彼は自分で借りた住まいに満二年滞在して、自分を訪ねてくるすべての人を受け入れ(中略)主イエスに関する事柄を教えた」(使徒の働き28章30節)

「どうか主がオネシポロの家にあわれみを賜わりますように。なぜなら、彼はしばしば私を新鮮にしてくれましたし、私の鎖を恥とも思わないで、ローマに来た時、熱心に私を捜し回り、見つけ出してくれたからです」(テモテへの第二の手紙1章16節)



つづきはこちら

キリストの苦しみにあずかる(3)

こ の経験は、神の聖なる御霊が私の上に下るためには、まず私自身が、キリストと共に十字架に死に渡され、全焼の生贄として、焼き尽くされていなければならな かったことを示しています。キリストを信じた時から、聖霊は私の内に住んで下さっていたのだと思いますが、それだけでは、私には、罪なる生活に打ち勝つ力 もなければ、この世の圧迫に打ち勝つ力もなく、神を信じて、神に祈り、神により頼んで生きる力もなかったのです。何よりも、神を全てに勝るリアリティとし て知ることができませんでした。

そこで、私には根本的に、聖霊のさらなる力づけが必要でした。しかし、聖なる御霊は、私のおごり高ぶって、汚れた肉の上には、注がれることができません。 ですから、聖霊の力づけ(聖霊のバプテスマ、油塗り)を求める人は誰でも、それを受ける前に、キリストの十字架の死が、その人の内で実際となって、その人 自身が十字架で死に渡されて、完全に終わらされている必要があることを知らなければなりません。しかし、それは何と私たちの魂にとって、重く苦い経験で しょうか!

兄弟姉妹は、私がキリストの十字架を本当の意味で知るために、なくてはならない助けを与えてくれましたが、その兄弟姉妹との交わりでさえ、私の心を打ち砕 く材料となりました。私は人前で、恥じずに済む、独立した一人前の人間として、彼らの前に姿を現すことができませんでした。傷ついた心に、優しい慰めと励 ましを受けることもできませんでした。私が人を喜ばせて、人に奉仕してあげる側に立つこともできませんでした。むしろ、私は、まるでいじけきった浮浪者 が、通行人から仕方なしにお恵みを受け取って生きるように、寝たきりの老人が、他人の介護によってようやく命をつなぐように、自分の意に反して、他人の憐 れみによりすがらねば、最低限の願いも、かなえられない状態に置かれました。そのことによって、人が無力な状態で、他人の親切を受け取るためには、どれほ どのへりくだりが必要であるか、多少なりとも、思い知ったのです。

今、主の憐れみによって、恐ろしい危機を脱した私は、このへりくだりを忘れてしまっているに違いありません。もう一度、あのように魂を打ち砕かれること に、私は同意できるでしょうか? しかし、いずれにせよ、神の聖霊の力づけを受けるために、私にはそこまでの屈辱、苦しみ、貧しさ、孤独、孤立無援、絶体 絶命、無力を通らされる必要があったのです。そして、私が十字架において、キリストと共に死に渡される必要性は、当時も今も、少しも変わらないのです。他 人の豊かさの前に、私は徹底的に貧しくなり、他人が私に施して豊かになるために、私は地上で無にされて、私の願いは最後まで終わらされなければなりませ ん。私は絶体絶命になり、自分の命ではなく、ただ神の命によって生きるために、神の懐に全てを捨てて逃げ込むことが必要なのです。主はこのような無力とへ りくだりを、喜んでくださいます。

パウロは言います、「…主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)

今、キリストの偉大な復活の命の御力にあずかるために、私たちに必要なのは、強さではなく、弱さです。自分で何でも成し遂げられる力強い自立ではなく、神 に頼らなければ何一つできない、子供のような無力と、依存です。力と豊かさに溢れる人間になるよりも、無力と貧しさとへりくだりに溢れる人間になることが 必要なのです。 幸福で満ち足りた生活を神に感謝するよりも、むしろ、塵と灰の中で悔い改める、貧しく、砕かれた心が必要なのです。私たちは覚えておかな ければなりません、もしも心からキリストに従いたいと願うなら、キリストが持っておられたのと同じ、徹底的な無力と貧しさを、地上で私たちも、必ず、持た なければならないのだと。それは私たちの無力と貧しさが、神の力と豊かさで覆われるためであり、全ての栄光が、私たちの生まれながらの力にではなく、ただ 神だけに帰されるためです。

主イエスは地上における生涯の間、何と貧しく、人々に依存しておられたことでしょう。何と人々からの奉仕をへりくだってお受けになられたでしょう。主は地 上で何一つ所有することなく、人々を天における富で富ませるために、むしろ自分はすすんで貧しくなられました。ついに主は、墓さえも、他人からの借り物の 墓に入られたのです。C.H.スポルジョンは、「イエスの墓」の中でこう述べています。

「ご自分の持ち家を1つも有しておらず、他の人々の住まいでお休みになったお方、――何の食卓も持たず、ご 自分の弟子たちのもてなしによって生活しておられたお方、――説教するために小舟を借り、この広大な世界に無一物であられたお方は、他人のお情けで墓に入 らざるをえなかったのである。おお! 貧しい人は勇気を持つべきではないだろうか? 彼らは隣人の負担で葬られることを恐れている。だが、もし彼らの貧困 が避けがたいものだとしたら、何ゆえに赤面することがあろうか? イエス・キリストご自身が他人の墓に埋葬されたというのに。ああ! 私にヨセフの墓が あったとしたら、イエスを中に葬るべき墓を持っていたとしたら、どんなによいかと思う。…」

私たちの前には常に二つの道が置かれています。一方は、地上で喜び楽しみ、自分の魂を満足させるために、己の魂の命を手放さない道です。自分のために気に 入った家を建て、愛する家族や友人を集めて、財産を蓄えて、それらを自分の手に握り締めたまま、自分の魂にこう命じる道です、「たましいよ。<…>さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:19)。  もう一つは、キリストの弱さと貧しさと苦しみに進んであずかる道です。主のために、地上の宝を手放し、死に至るまでも、自分の魂の命を十字架で注ぎ出 し、主の御前で、徹底的に焼き尽くされて、無力に、貧しくなり、世においてはキリストと共に葬られることによって、主からの永遠の報いと、来るべき時代の 栄光を勝ち取る道です。

どうか、今日、私たちがキリストの弱さ、キリストの苦しみ、キリストのへりくだりの道を選びますように。その時、私たちが天で受ける報いと喜びと慰めは大きいのです。

「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」(コロサイ1:24)

「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。 」(Ⅰペテロ4:13 新共同訳)

「それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」(Ⅱコリント1:6)

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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