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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。

「イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マルコ10:29-31)

さて、我が家の成員が急遽増えたので、しばらくそちらにかかりきりになっていた。
鳥の雛が我が家にやって来たのだ!

毎朝、毎夕、我が家のベランダには可愛い雀たちが群れて挨拶にやって来て、つい先日は、手の届くほどの距離で物干しさおにちょこんと止まっていたが、鳥好きの私としては、雀を眺めているだけでは物足りない。

むろん、我が家のメンバーはすでに存在しているのだが、もう少し成員を増やしたいと願った。

以前の記事にかつて起きた小鳥の落鳥のことを書いた後、言葉が足りなかったなと思うことがあった。「主が与え、主が取りたもう」・・・、このストーリーには確かに続きがあるが、まだそれを書いていないからだ。

は与え、は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21) これはヨブの言葉であるが、主は取られることもあれば、必ず、その後、以前よりも豊かにお与え下さる方なのである。

それが証拠に、ヨブはサタンの試みにあって家族を失い、一時は一家全滅の寸前まで追いやられたのに、物語の最後では、前よりも豊かになっている。

このように、むろんヨブほどの試練ではないにせよ、何かが我々の生活から取り去られる時、いつも主にあってそれを小さな十字架として受け止めるならば、しばらくの悲しみの後に、前よりももっと豊かな祝福が与えられる。

それがどんなきっかけで生じた損失であれ、法則は同じなのである。自分の過失であれ、誰かの裏切りであれ、偶発的な事件であれ、何が原因で生じたものであれ、すべての痛みと損失を主に持って行き、主にあって、これを日々の十字架として受け取り、「主が与え、主が取りたもう、主の御名は誉むべきかな」と宣言するのである。

すると、そこに死と復活の法則が働く。そして、不思議と受けた損失を補って余りある祝福が天から与えられるのである。

私はこのことをよく経験して来た。

だから、きっと小鳥もそうに違いないと確信していた。案の定、探すと不思議な幸運で、大した苦労もなしに、ちょうど雛のシーズンが終わる前に、実によく人馴れした愛らしい鳥たちに出会うことが出来た。

それは願った以上のものが向こうからやって来るほどで、頼んでもいないのに珍しい鳥が集まって来るのである。

しかし、これは鳥に限った話ではない。以前に、あるキリスト者に向かって、ロシア語の練習の機会が欲しいのだと話した時に、こう言われた、「ヴィオロン、それはね、ロシア人よ、私のもとに集まれ!と命じるんだよ」と。その時にも、実際に不思議とそうなって行ったのだが、今度は鳥である。(鳥と同列に論じられるとロシア人は怒るかも知れないが。)

キリスト者は自らの言葉によってさまざまな出来事を主と共に創造している。だから、どのようなことであれ、主の栄光になるように語ることが大切である。「主は与え、主は取りたもう。しかし、主の御名はほむべきかな、主は我々のすべての必要と心の動きをご存知で、私たちの地上の人生は、痛み苦しみだけでは終わらないのだ…」

むろん、誰しも、大きな別離を経験したすぐ後に、立ち上がって再び出会いを探そうというのは無理な話である。そんな不自然なことをする必要はない。悲しみたい時には悲しみ、涙を流すべき時には思い切り泣き、目いっぱい、人として自然な生活を送り、そして、立ち上がり、望む気力が出て来たときに、新たな出会いを模索するのである。それはペットであれ、仕事であれ、人との出会いであれ、みな同じである。主は絶対に人の心の自然な動きに反するようなことを求められない。

だが、信仰者が信仰によって望みを抱いて立ち上がるなら、そこから、常に新しい展望が開けて来る。それは信者の歩みが主との二人三脚だからである。

十字架の死と復活の法則は、すべてのことを信仰によって主の御手から受け取る時に確かに生きて働く。良いことも、悪いことも、喜ばしいことも、悲しいことも、何もかもすべてを主の御手から受けとるのである。

そして、主こそ、それらすべての現象をご自身の栄光に変えることのできる方であることを信じるのである。

それは日々起きるすべての出来事の中での信仰による一瞬の手続きである。何も考えずにただ現象に振り回され、左右されるのでなく、すべての出来事の只中にあって、主を見上げ、すべてのことを主の御手から受けとることを、あえて信仰によって宣言するのである。

そうすると、悲しみや苦しみでさえ、まもなく新たな喜びへと変えられて行く。何かが失われたように見えても、しばらくの後に、溢れるほどの祝福が返って来る。その不思議ないきさつを見ていると、おそらくは、そこに日々の十字架の働きが――死と復活の命の働きが確かにあるのだろうと想像するしかない。

私は十字架の恵みに満ちた喜ばしい側面だけを強調しようとは思わない。主に従う上で、苦しみは確かに避けて通ることができないと知っているからだ。セルフがキリストと共に十字架の死に同形化されることに、痛みが全く伴わないはずがない。

しかし、それでも、キリスト者の人生とは、苦しみの連続には終わらない。ダビデが謳ったように、慈しみと恵みとが生きている限り、キリスト者を追って来るのである。

そして、当ブログに書いて来た通り、これまで筆者が出会ったクリスチャンを名乗る人々の間では(むろん、彼らはとても信者を名乗るに値する人々ではなかったのだが)、裏切りや離反や密告や誹謗や讒言や、誰も目にしたくもないさまざまな偽りの光景が目の前で起きて来たが、同時に、これらの損失(?)を補って余りある祝福もまた上から与えられるのだと信じている。

人の人生を食い荒らすことしかできないバッタやイナゴのような無価値な一群とは別に、人に喜びを与え、そのさえずりによって安らぎをもたらす美しい鳥たちの群れも飛んで来ることであろうと確信している。

私は何もこの手に握らない。これだけは私のものだ、これだけは取らないでくれ、としがみつくものはない。
それでも、聖書には書いてある、信仰者は主の御名のために失ったものの百倍を受けるのだと。今の世でも、来るべき世でも、豊かな報いを受けるのである。(来るべき世には家というものがないので、永遠の命を報いとして受ける)。回復されるものの中には、兄弟姉妹も含まれている。これには信仰による兄弟姉妹も含まれると私は確信している。

だから、ヨブが失った家や娘息子たちを再び主の御手を通して得たように、失われたクリスチャンの兄弟姉妹たちも再び得られる時が来るだろうと確信している。ちょうど、海の向こうから贈り物を携えてやって来る外国人たちを信仰によって呼び出したように、すべての生活の必要と、兄弟姉妹を、呼び出すのである、御言葉に基づき、信仰によって――。

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主の囚人

主の囚人―オースチンスパークス著から引用(段落の順序は変えてあります。)

エペソ人への手紙3章1節、4章1節;テモテへの第二の手紙2章9節、1章8節

<…>啓示を委ねられる人は、「私はあなたのしるしです」と 言えるくらい、その啓示を自分の存在と生涯の中に造り込まれなければならないということ、これがまさに神のエコノミーの一つの原則であると思われま す。<…>一つの節を見ると、パウロの生涯の晩年は縮小と制限の過程を辿っていたことがわかります。それは一つには「大きな堕落」のためであり、またもう 一つには、彼が代表していた証しを一般を対象とするものから特定の人を対象とするものに狭めなければならなかったためです。

これはまさに、「終末」の状況について正確に予言されていることです。最後の手紙の中のテモテへの預言的な言葉の中でこれが特に述べられているのは、意味のないことではありません。ですから、後期の手紙に出てくる「主の囚人」というこの句には、預言的な意味がありますし、主の主権の最後の道をみごとに説明しています。


これを読むと、特に終末の時代、主から啓示を委ねられた人は、特別な閉じ込めと制限の中に置かれなければならないことが予想されます。その 閉じ込めは、人の思惑によっては様々な解釈が可能でしょうし、しばしば人災のように見えることもあるでしょう。しかし、その閉じ込めには、主の主権が及ん でいるのであり、啓示が、真理がその人のうちに作りこまれ、その人自身が生きた真理の証となるために避けて通れない過程なのです。

「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マタイ19:24)という原則は、ただ救われることを指して言われたのではなく、主に従うことについて言われたのであると私は解釈しています。

主に従うために、私たちはしばしば、純粋な動機の妨げとなっている多くのものを剥ぎ取られなければなりません。福音を自分が豊かになる手段として利用したい思いや、信仰生活を通して、人に受け入れられ、喜ばれたいと願う動機も取り扱われねばならなくなるでしょう。

十字架の閉じ込めは、周囲からの理解を失わせます。最も身近で親しかったクリスチャンでさえ、その人を非難したり、誤解したりして、去って行くかも知れま せん。そこには何かしら教会の堕落という問題が関係しています。教会は地的なものに関心を奪われすぎました。多くの人々は真理を求めていると言いながら、 実際には、自己をさらに富ませることを追い求め、信じることで自分の義を立てるか、もしくは自分を楽しませることを求めているだけの場合がほとんどです。 上にあるものを求めている人はほとんどいません。

そこで、閉じ込めによってクリスチャンが練られ、ふるい分けられることになります。自分だけの恵みを求めたいと願う多くの人は去って行くでしょうし、本人 も、不自由、拘束、圧迫に苦しみ、しばらくその状況に何の意味も見出せないかも知れません。何よりつらいのは、今まで交わりの中で得ていた慰めや理解を失 うことかも知れません。

しかし、それは、私たちの自己に属するものがろ過されて、純粋に神を求める動機だけが残されるために必要な過程でもあります。今まで良き達成と見えていた さまざまなものを失い、活動が極端な縮小や制限をこうむっても、主を知ることを切に追い求める民はどこにいるのでしょうか。誤解や恥や非難をこうむり、徹 底的に低められ、身近な友を失って、世間から全く誤解されても、なお神を信頼し、主に従っていく人々はどこにいるのでしょうか。

閉じ込めや制限は、神の民をふるいわけるための主の方法の一つなのです。閉じ込められた人がますます主だけへ向かうなら、そこで何か人知を超えたことがその人の上になされ、さらに光が与えられるでしょう。

また、それは御身体全体に益を もたらすための主の方法でもあります。一人のクリスチャンが、主によって究極的な閉じ込めの中に置かれ、視界の遮られた小さな苗床の中に置かれることが、 なぜ御身体全体の益になるのか、人知によって説明することは難しいですが、実際にそうなのです。

ですから、私たちはたとえ牢獄のような環境に閉じ込められている時にも、信仰を持ってそれを主の囚人であることとして受け入れ、主のご計画を見たいと願い ます。その時に、私たちの苦しみは自分の苦しみではなく、真にキリストの苦しみにあずかるものとなり、私たちの思いをはるかに越えて、御身体のために豊か な実を結ぶことにつながるでしょう。


<…>たとえその出来事が人間的に解釈されてきたとしても、そのすべての出来事の中には神の主権的支配があったのです。また、彼が牢獄にいたのは皇帝の囚人としてではなく、主の囚人としてだったのです

<…>彼はついに、主の道として急速に明らかになりつつあったことを完全に受け入れました。「この道はキリストのからだにとって最大の益になる」ということが、ますます彼に明らかになりました。<…>

完全な啓示にどれほど迫れるかは、つねに相応の代価によりました証しのための僕はみな、疑いや非難の下に置かれてきました。その度合いは、主に対する価値の度合いに応じていました。そしてこれは、彼らは人間的にそれくらい制限されていたことを意味します。

多くの人が後退し、堕落し、遠ざかり、疑い、恐れ、問いを発しました。しかし、「あなたたちのための私の艱難、それはあなたたちの栄光なのです」(エペソ人への手紙3章13節) 「あなたたち異邦人のためのキリスト・イエスの囚人」(エペソ人への手紙3章1節) とパウロが言うことができたように、主にあって受ける制約の度合いが彼の民を富ませる度合いなのです。

啓示が豊かであればあるほど、理解する人は少なくなり、遠ざかる人の数は増えます。啓示が来るのは、ただ艱難と制限によります経験的に啓示を得ることは、何らかの方法で代価にあずかることを意味しますしかしこれこそ、神がご自身のために霊的な苗床を確保される方法なのです。<…>

<…>このような方法で主は御民をふるいにかけ、誰が本当に完全に彼ご自身と彼の証しの味方なのか、誰が他の思惑や興味によって多少なりとも動かされているのか、見破られます。ですから、大衆から拒絶されるというこの立場にあるその僕は、本当に必要を抱えている人や動機の純粋な人を探し出すための主の手段なのです。彼らはその僕を探し出し、その僕は彼らの必要に応じます。<…>

そこからわかるように、イエス・キリストの啓示の究極的最大事、個人的救いを超えた事柄、救われることを遙かに超えた永遠の時の前からの神の御旨に関する事柄に、主の民が導かれて直面する時、縮小、閉鎖、制限がなされなければならないのです。それまでは多くの活動が行われてきましたし、それはみな物事を特定の場所や状況にもたらすうえで極めて適切なものでした。しかし今や、それらを推進することはやみ、もっと強烈なものが必要になります。

神の究極的御旨を最も完全に証しするもの、そしてそれに最も近い証しを示すものは、次に、準備段階では必要だった神からの多くの良いものを剥ぎ取られ、究極的なものの中に閉じ込められなければなりません。この閉じ込めは真理の理解のためでも、教理の受け入れのためでもありません。

啓示に続く経験と、経験を解き明かす啓示により、存在のまさに繊維中にそれを造り込まれるためです。これは信奉されている解釈のために戦うことではありません。それはその僕たちの命そのものであり、その僕はまさにその化身なのです。そうなることを望むかどうかの問題ではなく、囚人になるしかないのです。神の主権がそうしたのです。<…>


「ですから私たちの主の証しを、また彼の囚人である私のことを、恥じてはなりません」(テモテへの第二の手紙1章8節)

「彼は自分で借りた住まいに満二年滞在して、自分を訪ねてくるすべての人を受け入れ(中略)主イエスに関する事柄を教えた」(使徒の働き28章30節)

「どうか主がオネシポロの家にあわれみを賜わりますように。なぜなら、彼はしばしば私を新鮮にしてくれましたし、私の鎖を恥とも思わないで、ローマに来た時、熱心に私を捜し回り、見つけ出してくれたからです」(テモテへの第二の手紙1章16節)



つづきはこちら

キリストの苦しみにあずかる(3)

こ の経験は、神の聖なる御霊が私の上に下るためには、まず私自身が、キリストと共に十字架に死に渡され、全焼の生贄として、焼き尽くされていなければならな かったことを示しています。キリストを信じた時から、聖霊は私の内に住んで下さっていたのだと思いますが、それだけでは、私には、罪なる生活に打ち勝つ力 もなければ、この世の圧迫に打ち勝つ力もなく、神を信じて、神に祈り、神により頼んで生きる力もなかったのです。何よりも、神を全てに勝るリアリティとし て知ることができませんでした。

そこで、私には根本的に、聖霊のさらなる力づけが必要でした。しかし、聖なる御霊は、私のおごり高ぶって、汚れた肉の上には、注がれることができません。 ですから、聖霊の力づけ(聖霊のバプテスマ、油塗り)を求める人は誰でも、それを受ける前に、キリストの十字架の死が、その人の内で実際となって、その人 自身が十字架で死に渡されて、完全に終わらされている必要があることを知らなければなりません。しかし、それは何と私たちの魂にとって、重く苦い経験で しょうか!

兄弟姉妹は、私がキリストの十字架を本当の意味で知るために、なくてはならない助けを与えてくれましたが、その兄弟姉妹との交わりでさえ、私の心を打ち砕 く材料となりました。私は人前で、恥じずに済む、独立した一人前の人間として、彼らの前に姿を現すことができませんでした。傷ついた心に、優しい慰めと励 ましを受けることもできませんでした。私が人を喜ばせて、人に奉仕してあげる側に立つこともできませんでした。むしろ、私は、まるでいじけきった浮浪者 が、通行人から仕方なしにお恵みを受け取って生きるように、寝たきりの老人が、他人の介護によってようやく命をつなぐように、自分の意に反して、他人の憐 れみによりすがらねば、最低限の願いも、かなえられない状態に置かれました。そのことによって、人が無力な状態で、他人の親切を受け取るためには、どれほ どのへりくだりが必要であるか、多少なりとも、思い知ったのです。

今、主の憐れみによって、恐ろしい危機を脱した私は、このへりくだりを忘れてしまっているに違いありません。もう一度、あのように魂を打ち砕かれること に、私は同意できるでしょうか? しかし、いずれにせよ、神の聖霊の力づけを受けるために、私にはそこまでの屈辱、苦しみ、貧しさ、孤独、孤立無援、絶体 絶命、無力を通らされる必要があったのです。そして、私が十字架において、キリストと共に死に渡される必要性は、当時も今も、少しも変わらないのです。他 人の豊かさの前に、私は徹底的に貧しくなり、他人が私に施して豊かになるために、私は地上で無にされて、私の願いは最後まで終わらされなければなりませ ん。私は絶体絶命になり、自分の命ではなく、ただ神の命によって生きるために、神の懐に全てを捨てて逃げ込むことが必要なのです。主はこのような無力とへ りくだりを、喜んでくださいます。

パウロは言います、「…主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)

今、キリストの偉大な復活の命の御力にあずかるために、私たちに必要なのは、強さではなく、弱さです。自分で何でも成し遂げられる力強い自立ではなく、神 に頼らなければ何一つできない、子供のような無力と、依存です。力と豊かさに溢れる人間になるよりも、無力と貧しさとへりくだりに溢れる人間になることが 必要なのです。 幸福で満ち足りた生活を神に感謝するよりも、むしろ、塵と灰の中で悔い改める、貧しく、砕かれた心が必要なのです。私たちは覚えておかな ければなりません、もしも心からキリストに従いたいと願うなら、キリストが持っておられたのと同じ、徹底的な無力と貧しさを、地上で私たちも、必ず、持た なければならないのだと。それは私たちの無力と貧しさが、神の力と豊かさで覆われるためであり、全ての栄光が、私たちの生まれながらの力にではなく、ただ 神だけに帰されるためです。

主イエスは地上における生涯の間、何と貧しく、人々に依存しておられたことでしょう。何と人々からの奉仕をへりくだってお受けになられたでしょう。主は地 上で何一つ所有することなく、人々を天における富で富ませるために、むしろ自分はすすんで貧しくなられました。ついに主は、墓さえも、他人からの借り物の 墓に入られたのです。C.H.スポルジョンは、「イエスの墓」の中でこう述べています。

「ご自分の持ち家を1つも有しておらず、他の人々の住まいでお休みになったお方、――何の食卓も持たず、ご 自分の弟子たちのもてなしによって生活しておられたお方、――説教するために小舟を借り、この広大な世界に無一物であられたお方は、他人のお情けで墓に入 らざるをえなかったのである。おお! 貧しい人は勇気を持つべきではないだろうか? 彼らは隣人の負担で葬られることを恐れている。だが、もし彼らの貧困 が避けがたいものだとしたら、何ゆえに赤面することがあろうか? イエス・キリストご自身が他人の墓に埋葬されたというのに。ああ! 私にヨセフの墓が あったとしたら、イエスを中に葬るべき墓を持っていたとしたら、どんなによいかと思う。…」

私たちの前には常に二つの道が置かれています。一方は、地上で喜び楽しみ、自分の魂を満足させるために、己の魂の命を手放さない道です。自分のために気に 入った家を建て、愛する家族や友人を集めて、財産を蓄えて、それらを自分の手に握り締めたまま、自分の魂にこう命じる道です、「たましいよ。<…>さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:19)。  もう一つは、キリストの弱さと貧しさと苦しみに進んであずかる道です。主のために、地上の宝を手放し、死に至るまでも、自分の魂の命を十字架で注ぎ出 し、主の御前で、徹底的に焼き尽くされて、無力に、貧しくなり、世においてはキリストと共に葬られることによって、主からの永遠の報いと、来るべき時代の 栄光を勝ち取る道です。

どうか、今日、私たちがキリストの弱さ、キリストの苦しみ、キリストのへりくだりの道を選びますように。その時、私たちが天で受ける報いと喜びと慰めは大きいのです。

「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」(コロサイ1:24)

「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。 」(Ⅰペテロ4:13 新共同訳)

「それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」(Ⅱコリント1:6)

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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