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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守りなさい。聞いて忘れてしまうことなく、行う人になりなさい。

「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」
(ヤコブ1:19)


「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」
(ヤコブ1:22-25)


キリスト者の交わりは正直かつ誠実でなければならない。そこで、時には、どんなに相手にとって耳の痛いことであっても、言うべきことは、言うべきときに、はっきりと相手に伝えねばならない。

それができなければ、交わりは人間のエゴによって甘やかされ、腐敗し、ダメになって行ってしまう。だが、もしも一言苦言を呈しただけでも、たちまちダメになるような交わりがあるとすれば、それは最初から多分、交わりと呼べるものではなく、長続きする人間関係でもないと言えよう。

その意味で、筆者は今まで自分に、いや人間に対して、あまりにも優しすぎ、優柔不断であった側面があることを否めない。筆者は誰かに、二、三言、苦言を呈した際、その相手が、のらりくらりとその忠告を交わすようなことがあっても、かなりの猶予をもうけてその相手と向き合って来た。

だが、そのようなことをすると、最後には、その人間のわがままによって害を受けることになる。わがままを通したい人間が、忠告を聞くふりだけをして時間を稼ぎ、結果的には、その忠告をないがしろにして踏みにじった挙句、自分に耳の痛い助言をして来た人間を悪者扱いして排除するということが、度々起きて来たのである。

そうした教訓に立って、最近は、二、三回、よくよく話し合って注意しても、全くそれを聞き入れず、態度が変わらない人には、それ以上、関わらないようにしている。どこで線を引くかということに関して、慎重な判別がなされなければならないのだ。

だが、同時に、正直な態度を保持していると、助言を素直に聞き入れながら、互いに変化して行くことのできる関係が存在することも、次第に分かって来る。もしも常に歯に着せて、良いことづくめの甘い言葉だけを言わねばならない人間関係があるとすれば、それはこの世的な人間関係であって、キリスト者の交わりとは関係がない。

だから、時には、兄弟姉妹は、互いに言うべきことをはっきりとお互いに言い合い、正直であり、誠実であることが必要となる。しかし、それは、それぞれが人間としての情愛で結ばれるのではなく、キリストを介した信仰の絆で結ばれていればこそ、できることだ。

もしも人間の情愛による関係しかそこになければ、それは打算に基づくものであるから、利益がないと分かれば、たちまち崩壊するであろう。しかし、主がつなげて下さった絆は、そんなにも簡単なことでは壊れない。長い時がかかるかも知れないが、互いに辛抱強く進歩して行くこともできるのだ。

兄弟姉妹は互いに光をもたらす存在である。誰かが教師となって教えることはなくとも、それぞれが互いを照らし出す光を持っている。その時、自一人一人が、自分を照らし出してくれた光に正直に誠実に向き合うことができるか、できないかによって、そのクリスチャンのその後の歩みは分かれる。
 
そして、兄弟姉妹から光を受けなくとも、我々は御言葉によって絶えず光を受ける。生まれつきの自分の顔を鏡に映して見るように、生来の自分の衝動や欲望だけに従って生きるのではなく、御言葉を受け入れ、これを実践して行くことによって、いつか正真正銘の自由にたどり着くことができる。むろん、キリストを信じて私たちは自由とされているのだが、段階的に実現する自由というものもある。それはアダム来の自分自身からの自由でもある。
 
さて、オリーブ園の記事「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (2)」にも書いてあるように、時にキリストに根差した生活の最も大きな障害となるものが、形骸化した枠組みとなった宗教である。

当ブログは2009年以来、ずっとキリスト教界をエクソダスすべきことを唱えて来たが、その頃には、キリスト教界と牧師制度の欺瞞に気づき、そこからエクソダスすべきと唱える信者たちは、かなりの数、存在しており、活発な議論が行われていた。

その当時、既存の教団教派に失望して、教会難民のようになって、教会を離れた信徒の数は非常に多く、そうした人々が、既存の教団教派にとらわれることのない、聖書に忠実なエクレシアを模索していた。その当時、多くのクリスチャンたちが牧師制度を離れ去るべきと公然と唱えており、そうした論は珍しくもなかった。

ところが、エクレシアを模索していたそれらの人々が、その後、欺かれ、まっすぐな道を進めなくなり、散らされたのには、大きくわけて二つの原因があると考えられる。

一方には、「キリスト教界からエクソダスせよ」と言いながら、キリスト教界をエクソダスしていない群れがあった。その群れは、牧師制度を否定していたが、実際には、牧師制度と同じように、リーダーを立ててそれに従っていたのである。

他方には、カルト被害者救済活動のような偽りの運動があり、それが牧師制度の悪を糾弾する信者たちを傘下に集めては、巧妙に彼らを再び牧師制度のもとへ帰属させようとして行った。

これら二つともが、表向きには牧師制度を批判していたものの、両者ともに、実際には牧師制度に深く根差しており、従って、牧師という存在と訣別することができない自己欺瞞の運動だったのである。

このような欺瞞の運動に関わっている限り、信者は決してキリスト教界をエクソダスできず、キリストだけに従って生きるのも無理な相談である。

そのため、「キリスト教界をエクソダスせよ」と言いながら、それをしなかった群れは、その後、どんどんキリスト教界寄りになって行き、ついには一人の指導者を立てて、日曜礼拝を厳守するまでになった。有料のセミナー、売れ筋の出版物などをキリスト教界を通じて販売し、もはや何の区別も存在しない。
  
筆者が、これらの双方の群れから離れ、完全に牧師制度と無縁の真に独立した群れを模索し始めたとき、どれほど激しい妨害や攻撃が起きてきたかを見れば、キリスト教界という宗教組織が、いかに組織内に取り込んだ信者をいつまでも奴隷として拘束し、自由になることを許さず、かつ、牧師が信者の上に立つというヒエラルキーを何としても死守しようとするかを、誰しも十分に見て取れるだろう。

これが宗教というものの本質だとも言える。

カルト被害者救済活動は、信徒が牧師を訴えるという動きを、あくまで牧師の承認のもとにコントロールしようとしていたところに、根本的な腐敗と欺瞞があった。このように、背後に牧師がついている反対運動は、ある意味で、牧師と牧師のプロレスごっこと同じような出来レースなのであり、決して信徒の自主的な運動とはならず、本当の意味で、牧師制度の腐敗を根本的に正す原動力ともならない。

それが証拠に、かつてカルト被害者救済活動に関わる牧師が、カルト被害者のメールなどの個人情報を、加害者の牧師に無断でそっくり転送したことが発覚したために、カルト被害者から絶縁を言い渡されたりもしている。

その後も、この牧師は絶え間なく被害者の個人情報の漏洩を続けてきたが、それは彼がカルト被害者を傘下に集めているのは、被害者を自由にするためではなく、決して牧師制度から逃がさないように束縛することが目的だからである。
 
このような運動に身を寄せてしまえば、被害者は自由になるどころか、より一層、束縛されて行くことになるだけである。

それだけではない。この牧師は、自教団とは何の関係もない信徒を利用して、被害者が自分の囲いのもとから逃げられないように脅し、圧迫し続けている。

このような現象から見ても十分に分かるのは、牧師制度を敷くキリスト教界が、もしも地獄のようなところであるとすれば、カルト被害者救済活動というのは、その地獄から信徒を逃さないための、地獄の門番のようなものでしかないということである。

そんな運動が、根本的に牧師制度そのものを撤廃したり、キリスト教界を浄化する原動力には絶対にならないことは明白である。
 
キリスト教界の誤りに気づきかけ、牧師制度の誤りに気づきかけ、牧師に反旗を翻そうとした信徒たちを、再び牧師のもとへ集め、聖職者階級という階層制が、決してキリスト教界からなくならないように、それに疑いを抱いたり、反対する信徒たちを骨抜きにし、潰してしまうために、カルト被害者救済活動という偽りの運動が存在するのである。

だが、牧師制度や、教職者階級制度が、聖書に照らし合わせて、れっきとした誤りである以上、そうした運動や制度の中には、今後も、御霊の生きた息吹きは決して誰も見いだせまいと思う。

そこで、私たちは静かにそうした制度を離れ去る。神ご自身が、その制度が誤りであることを証明されるだろう。私たちがそこを離れ去った後、この教界は前よりも一層悪くなるだろうことを筆者は確信している。今、抜け出さなければ、抜け出ることさえできない時が来るであろう。

私たちは宗教組織に根差すのではなく、指導者に根差すのでもなく、見えないキリストにのみ従う民である。宗教組織に根差す信者は、その宗教の枠組みから出られない。特定の指導者に根差す信者は、別の指導者のもとにいる信徒と交われない。彼らの関係は、ちょうど医者と患者のようなもので、かかりつけの医者ができてしまえば、その医者から紹介状を書いてもらわない限り、別の医者にはかかれず、別の病院にも行けない。医療の世界では、セカンドオピニオンも尊重されるが、封建的なキリスト教界ではそれも無理である。信者は一人の牧師のもとへ行けば、その牧師に拘束されてしまう。ある教団は、信者が教団から離脱することさえ許さない。

そのような牧師制度のもとで繰り広げられる「教会のカルト化対策」などは完全に嘘っぱちである。それが証拠に、彼らは、カルト化教会の牧師が、この世の法に従わないと言って非難しているが、そういう彼ら自身が、法に従わず、自分に不都合な場合は、裁判の結果さえ軽んじるという自己矛盾を呈している。

村上密という牧師は、かつて鳴尾教会がアッセンブリー教団から単立化した際、これに反対して、教団を通して教会に裁判をしかけて裁判に敗れたが、その際、「私は裁判の結果など意に介さない」という趣旨のことを豪語している。

そこから見ても分かるように、彼らは、ある時には、「教会は聖なる法だけが支配しているために無法地帯になっているから、その聖域にこの世の法を適用し、聖域を撤廃せねばならない」などと言って、「この世の法に従え」と言いながら、教会に裁判をしかける。

ところが、その後、彼らにとって不利な判決が出ると、彼らは「この世の法だから限界があるのだ。この世の法を超えた聖なる法に従え」と言う。裁判結果などはどこ吹く風、自分たちにとって得になる結果だけは認めるが、損になる結果は、この世の司法がもたらす結論であろうと、たちまち「意に介さない」と言って、自分たちはこの世の法を超える規範に従う超法的な民であるかのように言い始めるのである。

こうした主張は完全に詭弁であり、彼らが振りかざしているのは、この世の法でもなければ、聖なる法でもなく、ただ自己の義それだけである。

聖書には、冒頭に挙げた通り、「人の怒りは、神の義を全う(実現)するものではない」という聖句があるが、そのように人間の義憤と、神の義は一致しない。私たちにはやはり最終的な裁きを神に任せるという慎重さが必要である。

だが、そんな彼らの言うことにも半分は理があると言えるのは、彼らが指摘している「教会のカルト化」問題とは、要するに、牧師制度につきものの問題だということである。牧師制度ある限り、その教会では、腐敗が絶えず、牧師が「法」となって信徒の心を支配し、結果として、無法地帯が出来上がることは避けられない。だからこそ、教会のカルト化から身を避けたいならば、牧師制度そのものをきっぱり離れ去るべきなのである。牧師が牧師をやっつけるという構図の中では、決してこの問題から抜け出ることは誰にもできない。そうなると、キリスト教界から出る以外に選択肢がないのは当然であろう。
 
そもそも教会のカルト化は1980年代になって始まったのでなく、特定のあれやこれやの教会だけが腐敗したわけでもない。教会のカルト化は、牧師制度が根本的な原因となって引き起こされているのであり、見えないキリストではなく、目に見える人間の指導者に信者を従わせようとする反聖書的な思想から来ているのである。

現にカトリックの聖職者制度においても、プロテスタントで起きていることと相当な類似性のある大規模な腐敗が起きているが、そうしたことも、決して近年になって始まった現象ではない。神の福音が、聖職者という特権階級を養うためのビジネスとなり、それゆえ、信徒が、聖職者階級を支えるための道具として食い物にされるとき、そうした腐敗堕落が起きて来るのは当然である。教会成長論などといったものは、この聖職者ビジネスの途上に現れて来たに過ぎない。
 
だから、聖職者階級という階級制度ある限り、カルト化問題はなくならず、それゆえにこそ、カルト化を取り締まる側に立って救済活動を率いているはずのアッセンブリー教団とこの活動を率いる牧師こそが、他のどの教団や牧師よりも深刻にカルト化しているという現実が存在するのである。
 
繰り返すが、カルト被害者救済活動に正義など微塵もなく、私たちは悪しき牧師制度全体と訣別せねばならない。私たちは見えないキリストのみに従い、根差す民であり、どんな教団、教派であれ、特定の指導者の思惑が、あたかも神の聖なる法であるかのように押しつけられる囲いの呪縛に束縛されるべきではない。

私たちはどんな教団教派にもとらわれることなく、信仰によって同じようにキリストに根差すすべての民と、一つのエクレシアを形成している。

私たちはそうした真のエクレシアの姿を模索するその一員であり、その時々で、同じようにキリストだけに頼り、聖書に忠実なエクレシアを追い求めている信者に出会っては、主の御名のもとに集まる二、三人の群れを形成して来た。

日曜礼拝だとか、家庭集会だとか、聖会だとかいった目に見える囲いが、信徒の敬虔さの証になるのではない。ごく普通の日常生活の中で、互いに会って交わりをし、食事をし、主を誉めたたえ、恵みを分かち合う。讃美歌も歌わないかも知れないし、必要がなければ、祈りさえしないかも知れない。聖書の朗読なども行なわないかも知れない。

だが、たとえそうであっても、そこには、あくまで主を中心とした交わりがれっきとして存在しており、そのためにこそ集まり、話し合っていることを、一人一人が知っているのである。

なぜ、主の御名の中に集まる二、三人なのか? それは、おそらく、規模が二、三人を超えてしまうと、なかなか親密な交わりは難しくなってしまうからだろう。

もしもそこでリーダーとなって教えと垂れようとする人が現れれば、そこでその交わりはおしまいになる。兄弟姉妹は互いに助言し合い、光によって照らし合う存在ではあるが、それは誰かが教師となって誰かを教える関係を意味しない。階層制が出来てしまえば、その交わりはそこで死んでしまう。

さて、この記事の後半に書いておきたいが、ある人々が、当ブログに逆SEOがしかけられているというのは嘘だと言っているのだが、以下のような記録がたくさんあるため、皆さん、嘘に騙されないよう気をつけられたい。
 
当ブログへの集中アクセス履歴(6月6日~6月7日) 
当ブログへの集中アクセス履歴(6月30日~7月1日)
  
もちろん、サーバーに負荷をかけるような集中アクセスを繰り返すことは、ブログに対する明白な攻撃であるから、当然、被害を主張されても仕方がないということは、おそらくご存じの上でやっておられるのであろう。

筆者はIPアドレスの開示請求のための訴訟に及ぶ予定にしているが、こうした嫌がらせ行為は当然ながら、その範疇に含まれて来る可能性が高い。
 
筆者は、上記のアドレスの持ち主が、カルト被害者救済活動のコアな支持者だと言うつもりはないし、キリスト教関係者だとも考えていない。だが、カルト被害者救済活動が暴走した結果として、本来はキリスト教と何の関係もない人々の間にまで、無実のクリスチャンに対するいわれのない憎悪や迫害を駆り立ていることは事実である。

そうしたネット上の嫌がらせに取り組んでいる「宗教的ネトウヨ」のような人々を、筆者は総称して「サイバーカルト監視機構」という言葉で呼んでいるだけである。だが、むろん、彼らは実際には、何一つ信仰心など持ち合わせていない人々であるから、宗教的な要素はなく、またネトウヨでもない。
 
筆者は、カルト被害者救済活動というものが登場して来たその最初の頃から、この運動は、カルト化した教会を是正・改革することが真の目的ではなく、むしろ、必ずや既存の教団教派に属さない信徒らをカルト扱いして排除することが主要な目的となるだろうと警告して来た。

筆者はそのことを10年前から警告している。要するに、カルト被害者救済活動というものは、カルトを撲滅することが目的なのではなく、初めから、真実、主に従う神の民を迫害し、殲滅することを真の目的とする悪魔的運動なのだと。

彼ら自身が書いていることなのだが、人を欺くためには、真実の中に多少のデマを混ぜ込めば良いのだそうだ。危険なのはこの点である。彼らの言うことの80%が本当だったとしても、残りの20%が嘘であれば、その20%の嘘によって、神の聖なる民が無実にも関わらず断罪され、迫害され、排除される危険が出て来るのである。

そういうわけで、私たちは一つの情報、一つの記事を読むときに、その背景に至るまで事実を詳細に分析し、文脈を疑いながら読む癖を身につける必要がある。そうでなければ、簡単に欺かれるだろう。

繰り返すが、生きた人間に決して異端審問の権限などを与えてはならない。そのようなことをすれば、必ず、本物の異端だけでなく、偽物の異端(つまり全く異端ではない真実な信仰まで)も、共に異端として駆逐されることになり、それは必ず現代の異端審問所となって暴走して行くだけである。

私たちクリスチャンは、誰と交わり、誰と交わらないかを、自己決定する権限は持っているが、地上から異端を根絶したり、力づくで排除するとなれば、それは全く別の話である。

そもそも異端というのは、思想であるから、構造面からの緻密な分析なくしては、見分けることもできず、排除もできない。異端に対する取り組みは、平和的で根気強い議論の積み重ねの上にしか成り立たないのであり、平和な議論ではなく、力の行使によって異端の排除に及ぶ人々は、根本的に方法論をはき違えているのであり、これは大変危険な暴力的運動である。

だが、今、カルト被害者救済活動にとどまらず、既存の教団教派に属さない人々の信仰心そのものを敵視し、侮蔑し、排除しようとして、憎しみを駆り立てている勢力が存在していることを感じざるを得ない。そうした世相が形成されつつあることを感じる。
 
たとえば、以下の記事も、そうした世相に照らし合わせて読むと、ある種の非常な危なっかしさと怖さをはらんでいることが分かる。これはある意味で、大変に誤った方向へ人々を導く記事だと言えるであろうから、ちょっと取り上げて注意を促しておきたい。

ネトウヨの中心層は40代~50代、バブル崩壊などを経験!「純粋過ぎて宗教的な怖さ」 」(情報速報ドットコム 2018.06.05 22:10)

たとえば、この記事の標題のつけ方に、すでに相当な注意が必要である。

まず「ネトウヨの中心層は40代~50代」という決めつけに、本当に信憑性のある具体的な根拠があるのかどうかを、記事を読んで確認してみよう。

その前に、まず、ここで「ネトウヨ」と呼ばれている人々が、誰を指すのかという問題について考えねばならないが、ここで言われている「ネトウヨ」とは、ただ単に最近、弁護士に大量に懲戒請求を送りつけたという事件に関わる人々だけを指すのであって、本来の「ネトウヨ」の概念は、この事件にとどまらず、もっと広いものであることに注意しなければならない。

つまり、この記事では、ネトウヨの概念が極めて矮小化されているのである。

次に、この記事の元記事となった日刊ゲンダイの記事「ネット右翼の中心層を40代後半~50代が占める空恐ろしさ」の文面を読んでも、そこに書かれているのは、

「この会見でもうひとつ驚いたのは、懲戒請求した人たちの年齢構成だ。あくまで和解に応じた人での範囲だが、最も若い人で43歳、中心層は40代後半から50代で、60代、70代も含まれていたという。」

ということだけで、ここには年齢層を示す正確なデータもなければ、60代、70代の割合が全体のどの程度を占めていたのかも示されていない。つまり、どこにも40~50代が中心層だと言えるだけの明白な根拠が示されておらず、不確かな伝聞だけしかそう決めつける頼りになるものがないのだ。さらに、それさえも、和解に応じた人々だけの年齢層であるから、和解に応じなかった人々も含めなければ、全体の年齢構成を判断する正確な根拠とはならないことは言うまでもない。

こうした不確かなデータしか存在しないのに、ゲンダイの記事が「ネット右翼の中心層を40代後半~50代が占める空恐ろしさ」などと決めつけて標題としているのは、ある意味、あまりにもあからさまな誘導的なタイトルの付け方であり、特定の年齢層の人々に対する侮蔑や憎悪を煽るタイトルだとさえ言える。

また、筆者に言わせれば、この年齢は必ずしも「失われた20~30年世代」と重なるわけではないので、必ずしも就職氷河期などを経験して、社会で冷遇された人々と一概に結びつけることもできないのだが(多少のズレが存在する、どちらかと言えばネトウヨと名指しされているその層は、煽りは受けたかも知れないが、一番過酷な時代の直撃を免れた人々である)、ほとんど根拠のない連想ゲームのような具合で話が進み、「就職で不利となり、社会で居場所を失って、自尊心を傷つけられた世代がネトウヨ化した。そうした世代が、大体40~50代の世代に集中しており、この年齢層は、不安定な雇用情勢などが引き金となり、危険思想の持主となりかねない社会の不穏分子だ」といったような、ある種のイメージ操作のようなことまでが行われていることを感じずにいられない。

そして、仮にそのようなこと(この世代のネトウヨ化)が現実にあるのだと仮定しても、それに対する対策は、そもそも就職氷河期世代に政府が緊急かつ明白な雇用の手を差し伸べることでなければならず、中でも高学歴の人々に安定的なポストを供給することにあったのであり、無謀な大学院の拡張や、デフレ脱却に対する無策といった政府の施策の数々の失敗が、彼らのネトウヨ化を招いた根本原因であることは明白にも関わらず、そうした政府の責任という問題には蓋をしまま、いきなり、「ネット右翼の中心層を40代後半~50代が占める空恐ろしさ」などという標題をつけ、あたかもこの年代層が社会を不安定化させている不穏分子であるかのように決めつけているところに、まさにこの記事の「空恐ろしさ」があると言えよう。

さらに、この記事の「空恐ろしさ」はこれだけでは終わらない。以上のような曖昧なデータしか存在していない元記事を根拠に、記事の書き手も、ネトウヨについて、「ネット上では工作員だの雇われているだの言われていることもありますが、彼らの9割は本気で右派系のメディアやブログを信じ込んでいる一般人でした。」などと断言する。

だが、ここで言われている「9割」というのが、何の内訳であるのかもはっきりせず、彼らが本当に雇われていなかったのかどうかや、一般人なのかどうかなども、現時点ではすべて未確定の事実であるにも関わらず、推測だけで、ネトウヨは「工作員ではない」という決めつけがなされる。むろん、ここで言う「ネトウヨ」とは、弁護士に懲戒請求を送りつけた人々だけに限定されているのだが、そのことも十分には触れられていない。
 
仮に、彼らが実際に工作員でなく、いかなる雇用関係もない一般人であったとしても、それはあくまで弁護士に懲戒請求を送り、和解に応じた「ネトウヨ」だけを対象とするのであって、それ以外のネトウヨ全体が、工作員でないのか、雇われていないのか、といった問題は、この事件だけを通しては全く見えて来ない事実であるにも関わらず、そのことも触れられていない。

こうして、記事では、まるで弁護士に懲戒請求を送り和解に応じた人々だけを「ネトウヨ」とみなすかのように、物事を極度に矮小化した果、「ネトウヨは俗にいう雇われ工作員ではありませんでした」と受け取れるような結論が提示されているところに、ある種の世論誘導的な空恐ろしさを感じざるを得ない。

さらに、そうしたネトウヨが「本気で右派系のメディアやブログを信じ込んでいる」ことは、ただ単に彼らの愚直さ、愚劣さを示しているだけであるにも関わらず、それをあえて「純粋」と呼び変えるところにも、この記事のある種の「空恐ろしさ」がある。
 
「純粋」という言葉は、本来、こういう文脈で使うべき言葉ではない。これはカッコつきの純粋さであり、むしろ、以上のようなネトウヨは、決して純粋ではなく、不純であり、愚直、愚劣であったからこそ、このような悪事に手を染めたのである。

さらに進んで言えば、本来、宗教とは何の関係もないネトウヨに対して「純粋過ぎて宗教的な怖さ」 があるなどと決めつけ、宗教に対する敵視まで呼び込もうとしていることに、筆者などは、一体、この記事の目的は何なのだろうかと、背筋がぞっとして来るのである。
 
宗教と無縁の運動を「宗教的」と呼ぶからには、相当な根拠がなければならない。もしもネトウヨを宗教扱いしたいのであれば、そこには、戦前・戦中の国家神道などのイデオロギーの分析が土台にあり、安倍政権との思想的な親和性が前提として語られなければならない。

しかし、この記事には何らそうした前提となる考察の裏づけや分析がないまま(むろん、現政権への思想的な批判もきちんと向けられないまま)、いきなりネトウヨに「純粋過ぎて宗教的な怖さ」 などというレッテルが貼られ、ネトウヨをいきなり無差別的にひとくくりに「宗教」という名と結びつけて、特定の年代層に対する蔑視に加えて、宗教全般に対してまでも侮蔑の眼差しを向けさせようとしているところに、この記事の本当の「空恐ろしさ」がある。

一体、この記事の真の目的はどこにあるのかという疑惑が生じるのは当然である。本来、ネトウヨに対しては「安倍真理教」などと言った名称が向けられており、そうした文脈で批判がなされるならまだ分かるのだが、ここで言われている「宗教」なるものが何であるのかは、全く明らかにされていないため、論点のすり替えを感じるだけである。
 
むろん、筆者は「宗教」を擁護するつもりはないのだが、今、ここで述べていることは、聖書に基づくキリスト教の信仰の本質は、宗教にはないということとはまた別の問題である。

そこで、筆者は、以上のような、正当な文脈を外れた「純粋」だとか「宗教的」だとか、根拠のない年代層の決めつけなどの曖昧な言葉の使い方が、結局は、宗教全般に対する敵視、特定の世代に対する敵視、社会から打ち捨てられた不遇の人々に対する差別感情や憎悪、はたまた既存の教団教派に属さない人々の純粋で素朴な信仰心そのものに対するいわれのない憎悪や敵意を生んでいきかねないと考えるがゆえに、この記事の「空恐ろしさ」を感じずにいられないのである。

結果として、こういう類の決めつけの記事は、40代から50代の人々に対するいわれのない差別感や、社会的に不遇の立場にある人々に対する蔑視や、真面目な信心を持つ信者に対するいわれのない侮蔑の念、蔑視を呼ぶだけで、根本的なネトウヨの分析には全くなっていないと言えよう。
 
かつては以下のような記事も出され、一般的には、政府与党によるネット上の書き込みの大規模な規制・監視が、ネトウヨと呼ばれる人々を生んだのだということは、今や世間の共通見解のようになっているのに、以上の記事はその前提まで否定しかねない勢いである。

「自民党の凄まじいネット工作!!自民党はツイッターやブログの書き込みを常時監視し、問題があればすみやかに反論&削除を要請!

  
自民党が組織的に人員を雇用して大規模なネット規制や監視を行い、世論誘導を行って来たことは、今や周知の事実であり、ネトウヨはそうした中から生まれて来た雇われ工作員であることも、ほとんど共通見解になっているというのに、以上のような記事は、そうした政府のネット上の工作からは人々の目を背け、ネトウヨの問題を極度に矮小化することで、それをあたかも個人の問題、特定の年代層の問題であるかのように置き換え、問題をすり替えて、自民党による組織的で大規模なネット上の工作などは、まるで行われていなかったかのように、あるいは、それとネトウヨの発生は全く無関係であるかのように話をごまかす効果を持っている。

つまり、以上のような飛躍した内容の記事は、「ネトウヨとは、社会で行き場がなくなり、ネットで気晴らしするしかなかった特定の年代層の個人が、愚直で信じやすいがために、ネットの嘘に騙されて煽られただけで、自民党の工作などとは一切、関係ないんだよ」と世間に信じ込ませる手段となり得るのである。(ついでに政府の施策の失敗がもたらしたネット難民のような人々の存在という問題をも、侮蔑によってかき消してしまう効果もある。)
 
こうしたあまりにも飛躍した論理が高じると、最後にはまるで皇帝ネロがしたように、ネトウヨが引き起こしたすべての災いまでもが、ネトウヨとは何の関係もないクリスチャンに転嫁されて、「純粋過ぎて宗教カルト化した人々がすべての原因だったのだ」などというとんでもない虚偽の風説の流布にさえつながりかねない怖さを感じる。

関東大震災の後で、朝鮮人に暴動の罪が着せられ、多くの人々が何のいわれもない害を受けたのと同じで、宗教とは何の関係もない出来事が、宗教や、信仰心に根拠もなく結び付けられ、特定の集団がバッシングを受けたりすることにつながって行くことは、歴史上、度々、起きて来た事実なのである。

そこで、ネトウヨの罪をいわれなく宗教や信仰心にかこつけようとするこうした根拠も不明な曖昧な内容の記事は、特定の集団をターゲットとして憎悪を煽る流言飛語をまき散らす人々にとって格好の材料になりかねない危うさを持つ、ということを何度でも断っておきたい。今はまだそういう人々はそう多くはないかも知れないが、そのような風潮がじわじわと強まって来ていることを筆者は感じるのである。
 
そこで、筆者はこの種の記事には何とも言えない嫌悪感を覚えている。繰り返すが、ネトウヨを生んだのは、間違いなく、政府与党であり、安倍政権のイデオロギーである。もちろん、ネットにたむろして鬱憤晴らしをするしかないような行き場のない個人を生んだ原因も、政府の施策の失敗にある。そうした問題をすべて個人の問題に置き換えて、個人だけを叩き、さらに、思想的・宗教的なところに原因をすり替えることで、人々の目を問題の本質から逸らし、本当の問題の原因を胡散霧消させようとするこうした記事による巧みな世論誘導の中に、筆者は歴史を都合よく簡単に書き換える者たちの「空恐ろしさ」を感じずにいられない。

このようなわけで、我々は何かを信じる前に、その根拠となるソースについて、まず十分な分析を行わなければならず、その際には、枝葉末節のように細かい情報だけを頼りとするのではなく、広い視野を持って大局的に物事を見なくてはならない。特に、勧善懲悪の物語がもたらす単純な正義感に踊らされるのは命取りであって、そのことは弁護士に懲戒請求を送りつけたネトウヨの行動にも十分に当てはまるが、これを批判している側にも同じように当てはまる。

ネトウヨを批判していたつもりが、いつの間にか、自分たちの批判している対象が、本来のものとは全く別の何かにすり替わり、罪のない者たちにいわれなく石を投げる行為に加担していた・・・ということが起こらないように、特定の年代層、特定の宗教、あるいは信心があるかないか、といった人々の属性に応じて、特定の集団に対する差別、侮蔑、敵愾心、憎悪、偏見などを煽る傾向のある記事にはよくよく注意しなければならない。

現代はフェイクに満ちた時代なのであるから、すべての情報に注意が必要である。宗教に向けられるヘイトというものも存在するということを我々は覚えておかなければならない。

筆者はそういう意味で、カルトに対する憎しみを極端なまでに煽り続けるカルト被害者救済活動は、一種の「宗教ヘイト」と言って差し支えない極めて危険な運動になっているとみなしている。聖書は独麦を抜くなと教えている。誤った思想にふさわしい時に裁きを下されるのは、神の仕事であって、人間の仕事ではない。必要なのは、クリスチャン一人一人が真実な信仰に立って歩むことであって、他者の歩みに干渉して力づくでこれを変えようとすることではない。侮蔑や憎しみや対立や猜疑心を煽る内容の記事は、いかなるものであれ、よくよく注意しなければならない。

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日々の十字架を代価として払って主に従う―「私に従って来なさい、死人を葬るのは死人に任せなさい」

以前にも、「死人を葬るのは死人に任せなさい」という趣旨の記事に書いた通り、肉の絆に対する十字架の取り扱いは相当に厳しいものである。それは自分で分かっているつもりの領域を超えて、なお、生まれながらの人間の情に鋭くメスを入れ、これを断ち切る。

幾度も書いて来たことであるが、肉による情をキリストの死の向こう側の復活の領域にそのまま持ち込むことは許されない。たとえば、家人だから、親族だから、親しい友人だから、自分にとって身近な大切な人だから、長くつきあった仲間だから、肉の情愛に結ばれたまま、手をつないで、天国の門をくぐりたい、この地上で別れても、永遠の世界で再び出会いたい…などとどんなに願ったとしても、そのような願いを神が聞き届けられることはない。

むしろ、そのような肉の思いこそ、徹底的に十字架の死に渡されなければならないであろう。
 
なぜならば、人が真に救われるためには、まず、水と御霊によって生まれなければならないからだ。(信仰仲間との連帯であっても、肉による情のすべては十字架において死に渡されなければないのだが、今回は、まず生まれながらの肉による情や絆について書いておきたい。)
 
何よりも、神が唯一であり、神の独り子である主イエス・キリストが人類の罪のために十字架で死なれ、よみがえられたこと、信じる者のために永遠の贖いとなられたことを信じ、この救いを受け入れないのに、天国に入れる者は誰一人としていない。

だが、ニコデモがそうであったように、水と霊によって再び生まれなければ、誰も神の国に入ることはできないというイエスの御言葉を聞いて、それを即座に素直に信じて受け入れることのできる人は、ごくごく限られており、非常に少ないであろうと思う。

筆者は、90歳を超える親族が病の床に着いた知らせを聞いたとき、自分の書いた記事を思い出し、この親族が救われて神に至ることを願いつつ、帰郷した。

しかしながら、しばらくの間、この親族を観察してよく分かったことは、この親族は、二十年以上の歳月をかけて、生長の家の信者を続けており、病床で残されたわずかな時をさえ、生長の家の説教テープを聞くことに費やしていたことである。その姿は、筆者には、衰えゆく自分自身への不安を紛らし、過去から目をそらし、現実から目をそらし、死の恐怖から目をそらすためとしか見えなかった。
 
それにしても、この老いた親族が病床から起きられなくなってから、生長の家で親しくしていたはずの信者たちはどこへ消えたのか、誰一人姿を見かけることもなく、訪問して来ることもなかった。

それもそのはずであろう。生長の家は、人間は生まれながらにしてみな神の子であって、神の威厳と大能を帯びて、金色のオーラに包まれており、病や邪念などはみな影や幻想に過ぎないものであって、人間に触れて害することはできないと教えているからだ。

この偽りの宗教は、人間は生まれながらにしてみな神の子であると嘘を教えて、キリストの十字架の贖いを介さなければ、誰も神の国に入れないという聖書の事実を否定している。そして、生まれながらに神の子である人間はみな、神の体、神の命を持っていると、偽りを教えている。

ところが、生まれながらにして神であるはずの信者を、影に過ぎないはず、幻想に過ぎないはずの病が脅かし、病の床に臥させ、信者を今や死の恐怖をもって脅かしているのだ。この現実に対し、彼らはどう言い訳できようか。それでも彼らは、実相の世界においては、人間の霊魂は不滅なのだから、病に冒された肉体も幻想なのだと言って、矛盾のすべてをごまかすのであろうか。
 
彼らがどんなに多くの詭弁を用意していたとしても、そのような虚しく空々しい言葉が、厳しい現実を前に通用するはずもない。死を目前に見ている病人に真の安心を与えるはずもない。そこで、この宗教の信者たちが、この親族が元気なうちには、徹底的に偽りの教えによって献金を巻き上げた上、不都合な事態が起きると、寄り付きもしなくなり、姿を消すのは当たり前であると思う。

だが、それにしても、90を超える老人にも、家族の反対を押し切ってまで、献金をまきあげるように捧げさせていたこの宗教には、恐るべしと言うほかない。その献金のために、この親族はわざわざ新札まで用意していたというから、そこまでさせていたこの宗教に、呆れ、憤慨するだけだ。だが、さすがにそのお布施は、家族が反対してようやくやめさせるに至ったようである。

家族の理解も得られないまま、長年、周囲に反対されつつ、多額の献金と奉仕を費やして、この宗教にはまり続けて来たのである。今更、説得して、どんな効果があるのか、とまずは思わざるを得ない。そんな風にして、家庭から長年に渡り、家族の成員の心と体を奪って行ったこの宗教の欺瞞を、まずは糾弾せずにいられない。

生長の家は、アッラー、仏陀、キリスト、その他のどんな神々を信じようとも、最終的にはみな救いに至れると教えており、一言で言えば、あらゆる宗教の「いいとこどり」だけで出来あがった混合物である。
 
しかしながら、こうした生長の家のいいとこどりの教えは、汎神論や、原始宗教の名残のような、八百万の「神々」への信仰心の残る日本の精神風土にはなじみやすいものである。伝統的な日本の土着の宗教は多神教だからである。

さらに、「人間は生まれながらにしてみな神の子である」という、生長の家の偽りの教えは、人の自尊心やエゴを巧みにくすぐって、人間の心をおだてあげる。自分自身を「神である」と思わせるのである。この親族は、特に、家長であったから、自分自身がもともと家全体のシンボルであり、長年、先祖供養などを通して、いずれは自分も子孫として、(神や仏となって)その家系に連なるのだという自覚を養われていたことであろう。

さて、筆者が上記の記事を書いた時には、まだ筆者はこの親族の病のことを全く知らなかったので、何の関連性もなくこの記事を書いたのであった。

だが、人間は知らないことも、神だけでなく、悪霊どもも知っている。そして、筆者は、親族の病という不幸を聞いて、たとえ回想であっても、こんな不吉な記事を書くものではないと当初は考えたが、むしろ、現実はその逆であったと言えよう。

筆者は、肉親の情から、この親族の病を哀れんだが、逆に、この親族の内にいる(キリストを知らない)霊は、肉親の情や絆に訴えかけることで、筆者との取引を願っていたのだと思われてならない。

なぜなら、すでに書いた通り、この親族は、筆者を呼び寄せて、開口一番、こう言ったからである。「苦しまなくて済むように、キリストさんに祈って欲しい」と。

この親族は、自分の病名も知らず、この先、自分がどうなるのかも知らなかったが、直観的に、死が近いことを感じていたのであろう。最期が苦しくないものとなるように願って、筆者に助力を求めたのであった。その時、親族は、体力はそれなりに衰えていたので、寝ていなければならない状態であったが、まだ自分で行動することもでき、会話も可能で、それほど重大な苦しみには直面していなかった。

そこで、親族からの求めに対し、筆者は、筆者だけが代わりに祈っても意味がないこと、何より、そう願っている本人が、自分でまことの神を信じて祈らなければ効果がないことを述べた。それは、果たして、この親族に、キリストを心から信じる気持ちがあるのかどうかかをはっきりさせるためにあえて問うた内容であった。

しかし、このようなやり取りがあったこと自体が、実に不思議なことであった。何しろ、この親族は90歳という高齢で、人生の大先輩であり、かつ肉においては先祖に当たり、筆者などはまだほんの小娘に過ぎない。かつて信仰について論争した時にも、この人は筆者の助言や忠告など何も必要としていなかった。しかし、「キリストさんに祈って欲しい」とわざわざ依頼して来たところに、自分の力ではもはや太刀打ちできない深刻な事態が起きているという切迫感があるのだろうかと思わされた。

この際、きっかけが何であれ、構わない。たとえそれが苦しみたくないという利己的な願いからであれ、あるいは死の恐怖から逃れたい願いであったとしても、どのようなことがきっかけでも良いから、何が何でも、まことの神に至りつき、真理を知って平安を得たいという心さえあれば、神は聞いて下さると筆者は信じてやまないので、その助けになれないかと筆者は考えた。

筆者自身も、窮地にあって、何度、神に助けを求めたり、率直に願いを祈り求めたか知れない。そして、その祈りの中に、利己的な動機が微塵も含まれていなかったとは言えない。自分が楽になりたいという気持ちが微塵も含まれていなかった、とか、すべては自分自身のためだけではなかった、などとは言えず、言うつもりもない。

だが、それでも、筆者の多くの祈りを、願いを、実際に、神は御言葉に応じてかなえて下さった。神は私たち人間の地上における弱さ、脆さ、儚さを十分に知っておられ、その弱さの中で強さとなって下さる方である。聖書の神が、我々の肉体の限界から来る悩み、苦しみに、耳を傾けて下さらない方だとは、筆者は思っていない。
 
だが、神の助けを受けるためには、条件がある。それは、他の神々を捨てねばならないこと、そして、自分がまことの神をおざなりにして来たならば、そのことを罪として悔い改めねばならないことだ。その罪に対する赦しとして、キリストの贖いがあることを信じねばならないことだ。

だが、それは、人は生まれながらにして神の子ではなく、生まれながらにはただの罪人でしかないと認めることを意味する。自力で、つまり、地上の生まれ持った出自によって、血統によって、永遠に至ろうとするのではなく、神の一方的な恵みとしてのキリストの十字架の贖いを受け入れることによって、神の国に至ることを意味する。それがこの親族に出来るだろうか?
 
重要なのは、ただ単に人の苦しみが軽減されることではなく、人の魂が救われることである。そこで、たとえ筆者が代わりに祈ってみたところで、この親族の魂が根本的に救われなければ、すべては何の意味もないのだ。だからこそ、この点(自分でキリストを信じることができるかどうか)は極めて重要な争点であると筆者は考えた。

しかしながら、観察すればするほど、親族が願っているのは、そういうことではない、ということが分かって来た。何よりも、二十年以上(あるいは三十年以上か?)生長の家の教えを受け続けて来た影響は相当に根深いものがある。その教え込みを打破して、誤りに気づいてもらうこと自体が、至難の技である。しかも、90歳という高齢者を前にして、そのようなことを、50歳以上の年の差がある小娘が行おうとしているのだ。不遜だと思われても仕方がないだけではない。この親族に関しては、死後についてもすっかりレールが敷かれており、葬儀の依頼先や、墓までも決まっていることが分かった。もちろん、一切、キリスト教とは関係のない、義理の世界の話である。

このような状況の中で、この親族が、キリスト者になることを、誰が望み、受け入れられるであろうか? そして肝心の本人は、この点をどう思っているのか。もし本人が、それでも何が何でも、病床で本当の神を求め、信じると宣言すれば、誰もその内心の決定には立ち入れないであろう。だが、本人がこの点についてはっきりしないのでは、筆者としてはできることがない。

親族がキリストを信じられると言う中には、明らかに、生長の家が、あらゆる神々を奉じており、その中の一人にキリストをも含めているということがあった。つまり、他の神々を捨ててまでキリストを信じるという告白ではないのである。
 
そこで、こうした対話の中で、筆者が感じたことは、この親族(本人の魂というよりも、その内にいる霊)が筆者に、ある種の取引を持ちかけているのではないか、ということであった。

むろん、これは誰にも証明することのできない話なので、筆者の印象と言われても仕方がないであろうが、その(キリストを知らない)霊は、筆者が記事に書いた内容を知っているのであろうと予感せざるを得なかった。

筆者は以上の記事の中で、特定の病においては、死に様が非常に苦しみに満ちたものとならざるを得ないこと、特に、神を信じていない者の苦しみは逃れ難いもので見るにも忍びないものであり、特定の不信者の最期が筆者の目にどのように見えたかを描いた。

おそらく、親族の内にいる(キリストに属さない)霊は、時空間を超えて、その内容を察知し、そこから、自分の未来に起こり得る事態を予想し、そのような結果が自分の身に降りかからないようにと、筆者を通して神に懇願しようとしているのだとしか思えなかったのである。

もしもその人が自らキリストを信じることさえできれば、神ご自身がその人を確かに守って下さるであろう。だが、筆者が「自分で信じて祈らなくちゃね」と切り返しても、親族の反応はなかった。

幾度かそのような対話があって、その霊が望んでいることは、やはり、キリストを信じて、唯一の神に栄光を帰することではなく、あくまでただ自分の苦しみが軽減されることだけなのであろうと感じられた。唯一の神としての聖書の神、神の独り子としてのキリストの贖いを信じないままでも、どうにかして、その憐れみにあずかることができないかと考え、そのルートとして、筆者を頼ったのである。
 
もちろん、この身内は筆者に決してそうは言わないが、筆者にとっては、一種の脅しめいた心理状況が展開された。

要するに、敵は筆者に向かってこのようにささやくのである、「おまえはこの人間の身内なんだろう。この状況を見て、おまえはこの病人を可哀想だと思わないのか。こんな状況でも、おまえはこの身内のために、この人の苦しみが少しでも少なくなるよう、おまえの神に祈ってやる気はないのか。この身内にキリストへの信仰がないからと言って、おまえはその懇願まで突っぱね、拒否するのか。おまえには何と情がなく、おまえらの宗教は何と残酷なのか」

しかし、どう脅されようとも、そこには、筆者がどうしても譲れない厳格な線引きが存在するのであった。

おぼろげながらに記憶しているが、筆者はまだ10歳にも満たない頃、この親族の家で、先祖が祀られた仏壇を拝むよう求められ、それを拒否して立ち去ったことがあった。筆者は、その際、子供ながらに、「私にとっての神様は一人しかいないので、他の神様にお祈りするわけにはいかないの」と言って立ち去ったようである。

だが、その場に立ち会っていた(当時)無神論者の父は、子供のこの思いがけない行動に驚き、「キリスト教とは何と礼儀しらずで排他的な宗教か。先祖に対する無礼だ」としか感じなかったようで、後で(筆者にではないが)文句を言っていたようである。その後、様々な話し合いによって、筆者の聖書の神への信仰のあり方を知って、父も現在はもはやかつてと同じようには考えておらず、仏壇を拝むよう筆者に求めて来ることはまずないであろうと思うが、そんなはるか昔から、筆者の中で、すでに信仰による戦いは始まっていたのである。

その戦いとは、この世界を造ったのは「神々」なのか、それとも「唯一の神」なのか、人間は「生まれながらにして神」なのか、それとも「恵みによらなければ救われない」のか、という論戦である。
 
この論戦は、この世が終わるまでずっと神と悪魔との間で続く激しい戦いである。そして、我々は一体、どっちの側につくのか、絶えず、回答を求められている。筆者は、「神々」の側には決してつかないことを、子供の頃からはっきりと決意していたのであった。その頃は、単に教会の日曜学校で教えられた通りの教えに従っていただけであったかも知れない。その教会も、日曜学校も、まことに誤りの多い組織でしかなかったので、結局、その誤りはすべて後々、気づいて修正しなければならなくなるのだが、たとえそうであったとしても、筆者の中には、その頃から、ただ聖書の御言葉だけに基づいて、唯一の神だけを神とし、「神々を拝む」ことへの拒否感が、親族への情愛や礼節以上に強く、重んじるべきことであり、仏壇を拝むことはやってはいけないというはっきりした認識があったのだ。
 
その当時、筆者が拝むよう求められた仏壇は、筆者の先祖が祀られている場所であり、もしも筆者にキリストへの信仰がなければ、筆者は何のためらいもなく、先祖への感謝と畏敬の念からそれに手を合わせ、そして、何のためらいも不思議もなく、いずれ筆者自身も「神々」の一人となって、その仏壇に加えられ、代々、家系を守る者となり、子孫から手を合わせられるのだということを受け入れていたかも知れない。
 
(想像でしかないが)そうして筆者が仏壇に祀られる頃には、筆者にはもはや己の肉体もなくなって、食べることも、飲むことも、見ることもできなくなっているのに、毎日、毎日、子孫によって、位牌の前に、菓子やら、花やら、米やら、色々な供え物を置かれ、それを筆者はあの世から見て、ああ、もう一度、人生をやり直して、あの美味しそうな菓子を食べられたらなあ、とか、何よりも、生きているうちに、神の救いをちゃんと受け入れておくのだった…、キリストを受け入れなければ、行き先は地獄しかないと、地獄の釜の蓋が開いて、年に一度だけ家に戻れるという盆の時にでもいいから、子孫に警告できたら…などと思っていたかも知れない。

いずれにしても、キリストへの信仰がなければ、筆者は何の疑うこともなく、「生まれながらにして神」と信じる「神々の家系」の一人として祀られることになっていたであろう。

だが、そのようにして血統がものを言う「家」と一体となって、「生まれながらにして神聖」な存在として祀り上げられる人生から、筆者は様々な巡り合わせによって、完全に「ドロップアウト」したのであった。

物心ついた頃から、筆者の目から見ると、そのような価値観は、あまりにも変なのであった。こんなにも誤りやすい、未熟で、愚かな人間たちが、「生まれながらにして神」などということは、筆者から見ても、絶対にあり得なかった。むしろ、筆者が早くから求めていたのは、このような限界ある弱く愚かな人間たちの一切の思惑や行動を超えて、もっと高いところから、すべての被造物を正確に把握し、間違いなく治め、裁くことのできる、まことの神の存在であった。

このように、聖書の神への筆者の信仰は、ただたまたまキリスト教会なるところに、子供時代に関わったことによって生まれたものではなく、早くから、目に見えるこの世の一切の矛盾や不条理を超えて、また、人間の弱さや、愚かさや、罪深さを超えて、それらのすべての目に見える世の矛盾を克服することのできる絶対的な正義がどこかにあるはずだ、という確信に基づくものであり、もしそのような文脈で、神がおられるのでなければ、この地上を生きる意味そのものが存在しないという、筆者自身の切なる確信と求めがきっかけだったのである。

そして、その道は単純ではなく、筆者が今も聖書の神をまことと信じているとはいっても、子供時代にキリスト教会で受けた誤った教え込みから脱して、純粋に聖書の御言葉を自分自身で学び、知り、まことの神ご自身、キリストに直接、出会うために、どのような道を通らねばならなかったかも、すでに書いた通りである。

筆者は、自分が努力によって神に到達したとは言わない。これだけ苦しんだから、神に達する資格や権利があると言うつもりもない。苦行を通して神に達することができるという考えは誤りである。

苦しみがありさえすれば信仰が生まれるということは決してない。だが、信仰が生まれ、深められるために、苦しみが存在せねばならない場合は存在するのである。

聖書の信仰の先人たちのほとんどすべては、生涯を通して、苦しみによって信仰を練られた人々ばかりである。もしも彼らが、人生の初めからすべてが順風満帆で、幸せいっぱいで、何一つ思い悩むこともなく、立ち向かうべき問題も持たず、挫折もしなかったなら、彼らには信仰そのものが生まれなかったか、あったとしても、全く成長しないままに終わったであろう。
 
このように、救いも、信仰も、人間の努力によって達成されるものでなく、神の側から与えられる恵みであるとはいえ、神を求める気持ちが全くない人間に、神がご自身を啓示して下さることは絶対にない。人の中に、神を切に呼び求める願いがなければ、神はその人に自分自身を現さず、信じることのできる力もお与えにならない。

だが、神を切に呼び求める気持ちが人の心に生まれるためにこそ、しばしば、人は逆境や、苦しみの中を通らされねばならないのである。

さて、筆者は、「生まれながらにして神」という高みに祀り上げられる人生の歩みから、早々にドロップアウトしたが、それをとても幸運に思っている。なぜなら、自らその歩みからおいとましたからこそ、キリストの救いにあずかることができたのだと思うからだ。その両方を取ることは絶対に無理であったと確信する。

どういうわけかは全く分からないが、筆者には、子供の頃から、地上の「家」に思いを寄せつつも、そこが自分の最終的な「家」には決してならないという確信が存在していた。先祖から子孫に至るまで、家の人間がみな神々のように祀られている風景を見て、自分もそこに連なるのだという意識は持てなかった。むしろ、そのような自画自賛的な、自己肯定的な、自己顕示的な有様に対して、相当な違和感か、もしくは、拒絶感しか覚えるものはなかった。
 
それは単なる思想信条上の違いにはとどまらず、実際に、年月が過ぎるに連れて、ますます大きな考え方の差異を生んで行ったのである。年月が過ぎるに連れて、ますます、筆者は自分がその「家」の一員ではないという感じを強くして行ったのであった。

これはその土地が住みにくいとか、人々と気質が合わなかったとか、そんな皮相なレベルの問題ではない。むしろ、筆者はその土地が気に入っており、親族にもいたく心を寄せて、家に対する思い入れも存在したのである。あるいは、筆者が、その家を継ぐ者になるという可能性もないわけではなかった。

にも関わらず、そのような肉の情や絆は、決して筆者がその土着の宗教と一体化した家の一員となる決定的な要因とはならなかった。むしろ、それを断ち切ってでも、獲得せねばならない、より高度で重要な課題が現れ、筆者は彼らのもとを立ち去らねばならなくなったのである。

そして、今、「家」を代表する人が、筆者の目の前で、衰えて、子孫に道を譲ろうという段階になって、その人が、筆者に頼みごとをして来ている。だが、筆者は、それを簡単に受けるわけにはいかない。

肉における地上的存在としての筆者への頼み事なら、情によって引き受けることは可能であろう。しかしながら、主の御名を使って、キリストを通して神に願うとなれば、それは安易に受けるわけにはいかないのだ。

筆者が神に願うことができるのは、人の魂が救われて神に至ることであり、それ以前のどんなレベルの要求でもない。そして、人が救われて神に至るためには、しばしば、らくだが針の穴を通るように、その人が苦境を通らねばならないことを筆者は知っている。苦しみを軽減してほしいという人間の願いがどんなに大きなものであっても、しばしば、神はあえて人の信仰を試すために苦しみを用いられることを、筆者は実際に幾度も経験して知っている。

だから、主イエスが祈られたように、「できれば苦しみを私に与えないで下さい。けれども、たとえ苦しみがあっても、私は本当の神と出会うこと、本当の神がご自身を私に示して下さることを願います」というのであれば、それは筆者にはとてもよく分かる祈りであって、協力することは可能であり、そのような祈りを神が聞いて下さらないことはないと思うのだ。
 
人が神を知るために、地上で何の思い煩いも悩みも苦しみもなく、孤独にも迫害にも対立にも遭遇せず、本当の神を知りたいという祈りも探求心も持つことなく、ただ自分にとって喜ばしく心地よいことだけを体験しながら、何一つ地上的利益を手放すことなく、同時に、真理を知って神に至ることができるとは、筆者は全く考えていない。そのような救い、そのような信仰があると言う人がいたとしても、それを本当だとも思わない。

まことの神に至りつくために、苦労があるだけではない。まことの神を知れば知ったで、そこから、この神だけに従うための戦いも始まる。

その代価を自ら支払っていない、もしくは、支払うつもりのない人間に対して、救いだけを安易に投げて寄越す(約束する)ことは、神を軽んじることであり、神の救いを曲げることであり、筆者には、それは決してできない相談なのであった。

だが、死を間近にして、苦しみを逃れたいと懇願する人に、そのように返答すること自体、「おまえの宗教は何と残酷なのか」と受け取られるきっかけになりかねない。地上の肉親の情や絆だけをすべてとする人々には、この言い分は容易には理解できないであろう。そのように誤解される危険を十分に理解した上で、それでもなお、そのようにしか返答できないのである。

それは、筆者自身が、この神に従うために、この神だけに従うために、払い続けて来た代償を知っていればこそであった。他の「神々」にすがりながら、同時に、キリストの救いや慰めも欲しいと主張するのは、心の分裂でしかない。それは、夫以外、妻以外の幾人もの愛人と浮気を重ねながら、夫の愛、妻の愛も欲しい、私は伴侶を愛しているとあくまで言い張るのとさほど変わらず、神への貞潔さが欠けているのだ。だから、どうしても、まことの神に至りつくためには、その人の心の中に、激しいまでの純粋な願い求め、「正真正銘、本当のことだけを私は知りたい。嘘はもうたくさんだ」という思いが、なくてはならないのである。

筆者は、親族の抱える内心の問題を、親族が直接、神に願い求めるよう促し、まことの神はただ一人しかおらず、「神々」は存在しないのだという事実を告げた。そして、厳しいようだが、もし生長の家の教えが真実だったならば、今の現実(病)そのものが存在していないはずなのだから、この結果を見れば、この宗教の教えに、人を救う力がないことは明白ではないかと告げた。だから、もし救いを与える力がないのであれば、その教えは間違いであったことを認めて、本当の神を知りたいと望み、悔い改めて神に立ち返りさえすれば、神ご自身がその願いに応えて下さるはずだと。

キリスト者になったから、死なないと言うつもりはない。だが、私たちは、病を幻想として否定して、死を否定するのではなく、死と正面から向き合った上で、キリストがすでにこの最終的な敵である死を滅ぼされてことを信じている。キリストと共に死ぬならば、キリストと共に復活することを信じている。もしキリストの贖いを信じれば、その人は永遠の命を受けることができ、その命によって、死んでも、主と共によみがえって生きることができるのだ。
  
だが、筆者は、それ以上の説得を行わなかった。後は神と本人との対話である。たとえ苦しみを軽減したいという願いがきっかけであったとしても、他の神々のすべてを捨ててでも、本当の神に願い求めたいという強い気持ちが、本人に生まれるのならば、神が応えて下さるであろう。だが、今までの人生を振り返って、自分がすがり続けて来たものに、自分を救う力はなかったという現実に直面する勇気が本人にあるかどうか、自らまことの神を探し求める気持ちがあるかどうか、それは本人の意志と選択なのであって、もし本人にその希求がなければ、これはどんなに理屈が揃っていても、他者が強要したり、説得したりできるものではない。

そして筆者は、あまりにも親族が色々なものにがんじがらめにされているのを傍観しながら、もしそのようなこと(キリストへの信仰)が仮に親族の中に生まれたとしても、それはきっと想像を絶するほどに激しい戦いを巻き起こすだろうと思わずにいられなかった。

だから、筆者は、それ以上の領域に踏み込み、立ち入ってまで、本人の望まないことを、説得によって押しつけることで、人の意志を無理やり変えようとは思わない。だが、そのような状況で、筆者がずっとそこにとどまっていれば、かえって押しつけないという立場を悪用されて、筆者は情にほだされ、人が苦しまなくて済むことだけを最高の価値とする人間本位な教えに仕えさせられて行き、いずれ「死人を葬る」ことに助力させられてしまうであろう。しまいには、地縁・血縁の支配する土地で、他の神々を拝むことをも余儀なくさせられかねない。そうこうしているうちに、すでに後にしてきたはずのものに、すっかりからめとられ、引き戻されてしまうであろう。
  
おそらくは、キリストに属さない「霊」の狙いはこの点にこそこそにあるのだと思わないわけにはいかなかった。つまり、肉の情や義理を口実として、キリスト者をキリスト以外のものにがんじがらめにして行き、キリスト者の探求をやめさせることである。

だが、そんなことが今になってできるくらいなら、筆者はもともとこの土地を離れて移住することもなく、幼い頃から今に至るまで、この土地で何の問題もなく、親族らと共に、平和に幸福に満足して暮らしていたことであろう。自分も死んでいずれ仏壇に祀られ、神々の一人のごとく子孫に拝まれる対象となるという考えに何の違和感も持たなかったであろう。それらをすべて拒否して後にしてでも、向かわなければならない先があったのである。そこで一体何が打ち立てられたのか、どんな成果があるのか、未だ何もないではないか、と問われても、それでも目指さなければならない地が存在するのである。最終的には、それは見えない天の都である。
   
だが、そうはいっても、感覚的に慣れ親しんだ地上の故郷を後にするのは、人間的には常に断腸の思いであり、今回ほど、それが強く激しかったこともない。何しろ、客観的な判断としては、今の状況では、親族が他の神々を捨てて、まことの神の救いを心から求める可能性は極めて低いと言わざるを得ず、親族の救いを見ないまま、その地を後にすることがためらわれるだけでなく、筆者自身が、この血脈に支配される人間関係の中で、自分が決定的に「異質な存在」になってしまったことを強く感じるからだ。本当は、それはとうの昔に始まっていたことなのだが、それでも、筆者はまだ彼らにそれなりに受け入れられ、情による絆が強く残っていたため、この両者の間に横たわる決定的な違いを、筆者自身がそれほど体感していなかったのである。それが今、何かしら大きな節目を迎え、霊的な領域において、何かが断ち切られ、後戻りの道が閉ざされた。つまり、地上の故郷というものの欺瞞性が、もはや無視できないほどにまではっきりと筆者の目に見え、情による絆に、未だかつてない鋭いメスが入れられ、終止符が打たれたのである。

たとえどんなに長年の絆や、歴史があったとしても、どんなに強い情や義理で堅く結ばれていても、個人の救いというものは、他者がどうすることもできないほどまでに、極めて内心の厳粛な問題である。さらに、土着の宗教や地縁が深くものを言う社会で、このしがらみを脱することには非常に大きな犠牲が要求される。地上の肉による社会から受けられるすべてのメリットを捨て、そこから来る対立をすべて乗り越えるほどの強い信仰がなければ、このような環境で、キリストへの信仰は生まれようがなく、維持することも不可能なのだ。それは奇跡であり、人間の側からの激しい願い求めと、神の側からの強い介入なくしては決して生まれ得ない奇跡である。
  
さらに、筆者が思うことは、筆者が誰かにキリストの救いを語り、十字架の死と復活を語る時、筆者の心に溢れる感動や、喜びは、あくまで筆者自身のものなのであって、他の誰のものではないということだ。

筆者がかつて関東に移住し、エクレシアに連なりたいと願って、それを神に願い求め、神がこの願いを不思議な方法で聞き届けて下さった時、筆者の心には大きな喜びがあり、すぐさま信仰仲間とその喜びを分かち合えるのではないかという期待感があった。だが、それはあくまで筆者の信仰に、神が直接、応えて下さっただけのことであって、他者とは関係ないのであった。それは関東にいた信者たちがとりわけ素晴らしく、彼らが親交に値するから、筆者を彼らの中に投入することで、何かを学ばせようと、神がそういう出来事を起こされたわけでもなかった。ただ、筆者の心に生まれた願いがそれほどまでに強く、諦められないものであり、純粋な願い求めだったので、御言葉に基づいて、神がそれを叶えて下さった、というだけのことである。一言で言えば、その後、起きて来ることについても、その時と同じほどの強い決意を持って、探求を続けねばならないのであって、何もせず待っていさえすれば、何か素晴らしいことが起きるということは、絶対にないのであった。

筆者はしばしば、自分が感じている喜びや感動を、他者とも分かち合うことができるのではないかと期待する。神が筆者に与えて下さった素晴らしい恵みを、他者と分かち合おうと考える。あるいは、神が出会せて下さったキリスト者なのだから、これはきっと素晴らしい信仰仲間なのに違いない、などと安易に考える。ところが、神は、それは違う、とはっきり示される。

「私はあなたが私に求めたから、あなたが私を信じているから、それに応えているのであって、そこに他の人は一切関係ないのです。他者にはほとんどの場合、あなたが考えていることがほぼ全く理解できませんし、あなたと同じ恵みを分かち合うこともできません。どんなにあなたが喜びに溢れ、天に昇るほどの感動を覚え、御言葉の意味を悟り、この恵みをぜひとも他の人に伝えたい、他の人にも同じように解放されて欲しい、などと切に願っていたとしても、ほとんどの場合、それを受けとることができる人々の数は、あまりにも限られており、他者の心の状況はあなたとは全く違うのです。

たとえその人がキリスト者であっても、信仰があるから、あなたと同じ理解を共有できるということも、ほぼあり得ません。この点で、あなたに求められていることは非常に厳粛です。あなたはどんな時でも、他者の理解や共感や賛同を一切当てにせず、ただ私だけに聞き従い、私だけを見て、私の考えだけを探るべきであって、一瞬たりとも、他者との関係で自分をとらえ、他者の心の中で起きることに足を取られて、他者の顔色を伺うようになって、思うように良好な関係が生まれないと言っては自分を振り返り、後悔や反省に明け暮れたりして、自由を奪われるべきではないのです。

あなたが私の名による福音を語っても、人々が聞かず、あなたが手を差し伸べても、人々が拒絶し、あなたが仲良くなろうとしても、嘲笑や拒絶だけがかえってくることは往々にしてあります。さらには、ようやく純粋な信仰仲間に出会えたと思った瞬間に、その人が地上から取り去られるということもあるでしょう。

その時、あなたはいぶかしむでしょう、『このミッションは、神に祈り、願い、神が許されて起きたはずなのに、どうしてこんな不本意な結果にしかならないのか。私がどこでどう間違ったから、このような結果に至ったのか』

それを不本意だと思う必要はありません。もちろん、そのような結果にならないよう、願い求めることは有益です。しかし、動かせない結果が出たなら、それが人々の応答であり、また彼らの選んだ結末なのです。あなたを誰かが拒絶したとしても、それをあなたがまるで自分の責任のように感じる必要もありません。聖書の預言者のすべては、人々からそのように扱われたことを思い出しなさい。私の名で語れば、いつも人々から友好的な反応が得られ、私の名で語れば、人々に通じるということはまず絶対にないと思って差し支えありません。むしろ、人々は様々な地上的な理由づけを持ち出して反対して来るでしょう。しかし、あなたは人々の反応がどんなであれ、ただ私だけに従って来なければなりません。もし人々との間で望ましい結果が出るとしても、それはあなたが人々に良好で望ましい態度で関与をしたからではなく、ただあなたが私との間で自分の召しとして与えられた探求を決して諦めずに遂行し続けた結果でしかありません。」

「私は貴人たちと争った」―ネヘミヤの例から―キリストの御業の完全性と、キリストが御父にとって完全な満足である真理を回復する終末の運動

 さて、Dr.LukeのKFCの異端思想の分析がひとつの山を越えたので、少しほっとしている。

 むろん、これで終わりではないが、一つの山場を越えただろうと感じている。KFCの理念の異端化を明確に分析することにより、この悪しき団体と霊的な訣別宣をしたことが、今後、筆者の人生に必ずや有益な効果をもたらすであろうと確信している。

 ずっと以前に「牧師制度の危険〜偶像崇拝が大衆にもたらす偶像との一体化願望〜」という記事を書いたが、そこに記されている警告のほぼすべてがまさにKFCにぴったり当てはまっていると感じられるため、多少、追記しておいた。
 
 KFCは、キリスト教界に属さず、牧師制度を持たなくとも、教会に「御言葉を取り継ぐ」ための人間のリーダーを置けば、必ず、その人間が神格化され、どの団体でも最後には同じ腐敗に落ち込むということを証明する格好の生きた実例であると言える。
 
 キリスト教界の牧師制度を批判していたDr.Lukeが、牧師制度と同じ罠に落ちたことは、まさにカルトとアンチカルトが同一であることをよく示している。御言葉に立脚して生きないならば、他者への批判はむなしい。むしろ、御言葉に立脚せずに、人間的な観点から、政敵を批判することは、危険でさえある。Dr.Lukeもまた、村上密牧師と同じように、魔物を見つめているうちに、魔物と一体化したのである。

 神と人との仲保者はキリスト以外にはない。信者にはキリスト以外のどんな目に見える「霊的指導者」も要らない。にも関わらず、御霊以外に「みことばを取り継ぐ教師」を置き、それを介して神を理解しようとする制度を打ち立てると、必ず、それが人の心の偶像となり、神の御怒りを買う様々な呪われた事象を引き起こす源となることをKFCはよく証明している。

 確かに、Dr.Lukeの言った通り、エクレシアとは人間が造った組織ではないのである。しかしながら、Dr.Lukeはそのことを重々知りながら、自分自身が組織のリーダーとなる栄光にしがみつき、これを捨てられなかったのだから、キリスト教界よりももっと罪が深いと言えよう。
 
 ペンテコステ・カリスマ運動は、特定の霊的指導者に信徒を従わせるという共通したスタイルを持っており、KFCはこの運動と手を切らなかったのであるから、以上のような結果に至るのも偶然ではない。

 牧師制度を非難しながら、自分が牧師同然の存在となって、信徒の心を盗み(しかも現役のキリスト教界に身を置いて、他の指導者に従っている信者たちの心を盗み)、自らを「神」として、栄光を受けているDr.Lukeには、もはやニッポンキリスト教界を非難することのできる資格がない。

 にも関わらず、相変わらず同氏は、キリスト教界だけに非があるかのように非難して、自分自身をかえりみようともしないのだから、そんな同氏に降りかかる報いは、おそらくキリスト教界の牧師以上に厳しいものとなるであろう。

 Dr.Lukeは現在、自分の活動を批判する人間は、みな同氏に「嫉妬している」のだと公言している。筆者のように、あからさまにKFCの異端性を指摘している人間も、同氏から見れば、まさに「Dr.Lukeに嫉妬している筆頭格の人間」ということになるのであろう。

 だが、実際には、そんな馬鹿げた理屈は、同氏の頭の中だけで作り上げられた被害妄想に過ぎない。何しろ、筆者にはこの老境にあって自分を「神だ」と宣言しているおじさんに嫉妬しなければならない理由が何も存在しない。

 筆者は自分の人生に満足しており、主がこれから何をして下さるのか、将来どんなみわざを見せて下さるのかに霊的飢え渇きと期待を寄せている。

 普通に人間的な要素だけから考えても、筆者には、Dr.Lukeに嫉妬する理由がない。筆者はDr.Lukeよりも長生きするし、Dr.Lukeはピアノを弾けるのだろうか、楽譜を読めるのだろうか、白鍵と黒鍵の区別が分かるのであろうか、キリル文字が読めるのだろうか、それから、女性ならではのたくさんの特権を、全く味わうことができないではないか。

 一体、なぜ、筆者がそれらを全部脇に置いて、Dr.Lukeに嫉妬しなければならない理由があるのか、あるいは、Dr.Lukeを目当てに群がっている信者たちに筆者が嫉妬している、という理屈になるのであろうか。

 だが、KFCに集まっている全ての人々よりも、筆者は年少であり、さらに、KFCにいる女性たちの多くが、家庭的に不幸である。結婚していても、夫の愚痴を外で触れ回るような人たちがおり、あるいは、夫憎しという気持ちから、もしくは家庭内の孤独から、Dr.LukeとKFCに希望を託し、現実逃避しているように見えてならない。自分の抱える人生の諸問題から逃げるために、KFCを利用しているのである。

 しかも、彼らはKFCの中で、Dr.Lukeという偶像を巡って、絶えざる内紛を経験して、互いに妬み合い、押しのけ合っており、そして、いつも最も有能な人々から順番に排斥されて今日に至っている。

 そういう恐るべき様子を実際に見ていながら、誰がそんな集団を妬むのであろうか。
 すぐに考えれば分かることだが、すべてはさかさまであり、逆なのである。Dr.Lukeこそ、キリスト教界と、彼に理解できない真理を知っている信者たちに、嫉妬して来た人間である。

 まず、Dr.Lukeがとりわけ憎しみを向けているキリスト教界の牧師には、自分の教会と信徒の群れがおり、彼らはDr.Lukeよりもはるかに商売上手でしたたかであるから、礼拝堂さえ持たないKFCとDr.Lukeを妬まなければならない理由は存在しないであろう。

 さらに、キリスト教界には、真理がそれほど開けていなくとも、Dr.Lukeには逆立ちしてもできないような、神に対する貞潔な生き方をする信者たちが存在している。多くの富はなくとも、主だけを愛する人々が存在している。そのような人々は、たとえ組織の中にいたとしても、エクレシアの一員なのである。

 そして何よりも、我々には、御言葉なるお方への確かな信仰が存在している。我々はキリストのうちにあって「神の子」とされる特権にあずかっているので、Dr.Lukeのようにキリストを否定して、「私は神である」などと決して宣言する必要がない。そのように言うことによって、Dr.Lukeは自らまことの神、唯一の神を否定して、自らを救いの対象外としているのである。

 大体、ペットが飼い主になり代わろうとは願わないのと同じように、我々は神の地位を乗っ取ろうと願う必要がない。ペットは慈しまれ、可愛がられ、育てられてこそ、幸せなのであり、我々は、神になるためではなく、神を賛美するために造られたのである。

 ペットは飼い主と共に泣き、喜び、楽しんでこそ、幸せである。ペットがパソコンに向かって複雑な作業をする必要もないし、生活のことで思い煩い、月曜から金曜まで満員電車に乗って通勤して働かなくとも良い。学術論文も書かなくて良いし、偉業を成し遂げることも期待されていない。そんなことは彼らに最初から求められていない。ペットを養うのは飼い主の責任であり、飼い主がペットの命を支えるために偉業を成し遂げるのである。

 我々は動物以上の存在であり、ペット以上の存在であり、神に愛され、育まれ、訓練される神の子供である。しかし、子供であり、僕でありながら、同時に、キリストは我々を友と呼んで下さり、花婿の愛を持って接して下さり、もし私たちが切に願い求めるならば、ご自身を現し、御心を分かち合って下さる。果てしなく偉大である方が、我々人間に過ぎない者を心に留めて、愛し、慈しみ、ご自身を分かち合って下さるのである。

 そのように愛され、キリストを通して、父なる神の子供として受け入れられているのに、一体、何の不満があって、我々が、神の地位を乗っ取る必要があるのか。神の子らは、時が来れば相続者として、父の財産をすべて受け継ぐのである。主イエスの御名によって、彼のものはすでに私たちのものとされている。御霊が、約束のものを受け継ぐ保証として与えられている。なのに、一体、何のために、我々が神の子の特権を捨てて、「神」ご自身になり代わろうとする必要があるのか。

 神から疎外されていればこそ、彼らはそのように企てるのである。相続者でないからこそ、家長を押しのけて、家の財産を乗っ取り、盗もうとするのである。

 現在のDr.Lukeの姿は、まるで一杯のレンズ豆のあつもののために、長子の特権を売り払ったエサウのようである。己の肉欲のために、子としての特権を売り払ってしまったので、もう「神の子である」と言えなくなってしまったのであろう。だからこそ、家全体を乗っ取ることによって、不法に相続にあずかろうと、家長を否定してまで、「私が神である」と主張しているわけである。まだ時も来ていないのに、自分が家長になろうとしているのである。

 腐敗した富や特権が彼らをそこまで盲目にさせたのであろうか。救いは、神の恩寵であって、人間の覚醒によっては決して手に入らないことを彼らは忘れたのである。エサウは泣いて懇願したが、長子の特権はもう戻って来なかった。

 これまでにもそうであったが、自分がいかに愛されているかではなく、いかに妬まれているかということばかり強調するDr.Lukeは、自ら悪しき言葉を振りまくことによって、自分で自分を貶め、自分で自分を呪い、自ら全世界の信者の憎まれ者・嫌われ者となり、悪霊の攻撃を自ら呼び起こしているのである。

 日本には言霊信仰というものがあるが、ましてクリスチャンは御言葉なるお方を信じているわけであるから、自分の述べる言葉の大切さを理解しなければならない。我々は自分の言葉によって、自分の歩みを規定しているのである。

 悪い言葉を自分に対して吐けば、悪霊がそれに乗じてやって来る。Dr.Lukeのように、絶えず「私はキリスト教界から標的にされ、大勢の信者たちから憎まれ、嫉妬され、歯ぎしりされる対象となっているのだ」などと豪語する人間が、無傷で済まされるはずがない。

 そういう自虐的な言葉は、悪霊たちの大好物であり、そういう台詞を吐き続けて自分で自分を傷つけている人間を、悪霊どもが放っておくことはなく、喜んで人間関係のもつれと混乱の中に投げ込み、彼を自分で述べた通りの結末へと導くであろう。

 いい加減に気づかなければならない。日本キリスト教界がDr.Lukeを攻撃しているのではなく、彼が自分で自分を貶めているだけである。 Dr.Lukeのことばを聞けば分かるが、同氏は自分で悪しき汚れた言葉を連発しては、自ら暗闇の勢力の敵対感情を煽り、自分で破滅と呪いを招き続けているのである。

 Dr.Lukeはこれまでニッポンキリスト教界に破滅の宣告を下し続けたが、かえってその報いは、KFCに降りかかり、キリスト教界の手先が送り込まれてKFCは会堂を失うということも起きた。
 
 また、KFCでは、絶え間なく、信者たちの妬みによる足の引っ張り合いが起きて来たが、それもまたすべてDr.Lukeが自らを神格化したことによって引き起こした現象である。

 KFCにはこれまで絶え間なく不幸な事件が起きて来たが、そうした事件は、全てDr.Lukeのことばによって招かれたものであった。今や、同氏は、自分や自分たちの団体が、全世界から憎まれ、とりわけキリスト教界から激しい憎しみの対象とされ、絶えず攻撃されているかのように主張しているが、そのように主張することによって、自ら悪霊につけ入るすきを与え、霊的に敵を呼び込んでいることに全く気づいていないのである。

 そんな自作自演劇によって自ら滅んで行こうとしているのだから、全く取り合う価値もないほど馬鹿馬鹿しいことである。しかも、自分たちを「神だ」と言いながら滅びゆくのだから、何とも形容しがたいほどに愚かしいパラドックスである。

 だが、約70年ちょっと前に、そういう人々が我が国には大量に存在していた。その人たちは、全身全霊で「神になる」ことを求めながら、異常かつ悲劇的な死に方で、死んで行ったのである。いつの時代にも、恵みによって救われるのでなく、自分から神になろうとする人々の行き着く先は、同じなのである。

さて、今回の本題は、T. オースチン-スパークスの「ネヘミヤ 今日への生けるメッセージ」を示すことにあった。これを読んで気づかされたことがある。

 筆者はこちらに来た当初、こちらには、エクレシアに属する民が大勢いるのだろうと想像していた。そこで、そのような信者たちと出会い、今までと違ったより充実した交わりを育めるだろうと期待していた。

 ところが、現実はまるで逆であった。筆者がここに来るまでは、高みに存在するかのように見えていた輝ける信者たちのほとんどが、筆者の仲間でないどころか、聖書の御言葉に反する憎むべきものを手放そうとしないアンシャン・レジームの代表者であることが判明したのである。

 彼らは、自分たちは組織を持たない、と言いながら、組織を作り、指導者を置かない、と言いながら、指導者を崇拝し、自分たちはキリスト教界の信者とは違う、と豪語しながら、キリスト教界よりももっと悪い霊的姦淫に落ちていた。そして、地上の富を誇り、肉欲を誇り、十字架を語りながら、自己を決して十字架の死に決して渡すことなく、神の御言葉を曲げて、高慢に、忌むべきものを宝として歩んでいたのである。

 筆者は当初、人間的な未熟さから、そのような人々を説得可能であるかのように思っていた。彼らを公然と辱めることがためらわれ、何より、彼らの存在が惜しまれたのである。だが、それが、不必要な同情であることに気づき、また、すべての説得は意味がなく、それはミイラ取りがミイラになる道でしかなく、この人々はもともと仲間ではなく、むしろ、公然と対峙せねばならない敵同然の裏切り者の相手だったのだ、という事実に気づき、彼らを説得しようという考えを捨てて、ただ主に向かって行ったのである。
  
 だが、しばらくの間、こうした事態は筆者の目に異常すぎるように映ったので、一体、これは何だろうと思いめぐらしていた。一体、筆者が期待していたエクレシアはどこへ行ってしまったのか。こんな有様が主の御心なのか? 何のために筆者はここに置かれたのであろうか? なぜにこれほど主に忠実な民がいないのか?

 だが、T. オースチン-スパークスの「ネヘミヤ」を読むと、そんな疑問も氷解する。
 
「終末の状況」、これは主イエスが地上に来られた当時の様子と重なる。

・・・ネヘミヤ記は一貫して主の来臨と関係しているということです。ルカはただちに主イエスを示します。彼は宮の中で少数のレムナントに囲まれています。これらのレムナントは旧経綸から来た人々であり、新経綸の証しを担います(なぜなら、主イエスが来られた時、証しを担っている人はごく僅かしかいなかったからです。シメオン、アンナ、他の少数の人々だけが、イスラエルの慰め、主のキリストを求めていました)。

主イエスは確かにこう言われたのである、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:8)

これは主の来臨に向けて、エクレシアが地上で大規模に拡大して行くというある人々の予測とは全く逆である。彼らは、神の家を建設するという名目で、絶えず人間の方ばかりを向いて、普通に考えても、到底、満足できない水準にある人々、しばしば堕落した人々を助けようと、活動にいそしんでいる。その結果、ほとんどの場合は、ミイラ取りがミイラに、盲人による盲人の手引きになって終わるのである。

キリスト者は、弱さや問題によって連帯することはできない。十字架を経て、エクレシアの戸口で自己に死んで、キリストの復活の成分によって結びつかなければ、エクレシアとは呼べない。キリスト以外のものによって連帯する時、決して持ち込んではならないものが神の家に持ち込まれ、交わりが損なわれることになるのを私たちは理解しなければならない。

おそらく、エクレシアの発展とは、規模の増し加わりではなく、質の深まりなのであろう。キリストが増し加えられる度合いが、エクレシアの拡大であり、それは明らかに規模の問題ではなく質の問題なのである。

そこで、終末の時代に、主に忠実な民がほんの少ししか残っていないように見えたとしても、落胆すべきではないことが分かる。

さて、ここからは解説を省くことにする。筆者の言いたいことは、もはや解説しなくても明らかだからだ。ネヘミヤの物語のどれほど多くの部分が、実際に、筆者自身の経験して来たことと重なるであろうか。

ネヘミヤは神の家の腐敗に直面した。大祭司や、神の家にいて高い地位に着いている指導者や信者たちの堕落を見た。信者が自分の兄弟を貶め、踏みにじり、兄弟を搾取することによって利益を得ているのを見た。また、信者が分不相応な贅沢を享受した結果、負債から抜け出られなくなっている様子を見た。信者と呼ばれている人々の多くは、大会、指導者のメッセージ、先人たちの書物など、外からの教えの助けにすがり、自分自身の信仰によって立っていなかった。また、多くの信者が、神によらない汚れた教えを大目に見て、異端が公然と神の家に入りこんでいた。ネヘミヤはこうしたものを見逃さず、「貴人たちと争った」――、すなわち、主イエスが商人たちを宮から追い出したように、妥協することなく、混合を退け、十字架に敵対する人の自己からのものを神の家から断ち切ったのである。そして、神の満足は、ただキリストだけであることを示し、キリストだけを土台として据えるよう、神の民に促した。神の家の回復はただそのようにしてしかなされ得ない。



当時の状況

さて、この本に戻ってそれを読み通し、ネヘミヤの時代の状況を示すものに注目するなら、とても嘆かわしい状況が示されていることがわかります。第一に、神の家の明確な証しは崩れ去っています。エズラが反対した問題が舞い戻り、よみがえっています。エズラ記が示すあの麗しい運動、神の家に関するあの真理の回復、この証しや神の家に反する事柄の放棄は、すべて台無しになっています。そして、昔の悪がふたたび台頭しています。証しは弱く、効果のない状況にあります。

エズラ記を背景として、エズラ記とその内容をすべて生き生きと心に留めながらネヘミヤ記を読み通すなら、ネヘミヤの時代、誰もそれらに気づいていなかったこと、そして、ネヘミヤが登場して神の御心にかなうことを行った時、初めてそれらが白日の下にさらされたことに、私たちはびっくり仰天するでしょう。

これは常にそうです。心から神のために出て行かない限り、そこにいかなる邪悪なものや神に反するものがあるのか、あなたは決してわからないのです。しかし、そうする時、以前なら存在するとは信じられなかったものを、あなたは見いだします。それらはひっそりしており、隠されています。ひっそりと進行しつつあり、人々の生活をとらえ、主の証しを破壊しつつあります。神のための積極的な何かが到来する時、初めてそれらの生命や活動が明らかになるのです。



抑圧

そのいくつかを見て下さい。主の民の多く(歴史的に言ってユダヤ人のこと)は、自分の兄弟たちの間で奴隷として売り飛ばされていました。主の民はお互いを売買しあい、自分の兄弟を犠牲にして、自分の権益や利益を求めていました。自分の兄弟を辱め、貶めることで、自分の地位を維持していたのです。

「今日の霊的状況はこれとは異なる」と言う自信は、私には到底ありません。自分の支配下に置ける人々がいなかったなら、また神の民をも自分の食い物にすることができなかったなら、一部の人々はどうするのでしょう?私にはわかりません。これは単純な形から極端な形に至るまで、様々な形で現れます。これは、あの聖くない不快な批判という単純な形で、主の民の間に現れるかもしれません。そうした批判は結局のところ、「自分たちは彼らよりも優れている」と言っているにすぎず、相手を犠牲にして自分たちを正当化しているにすぎません。

私たちの相互批判のうち、これが隠れた動機ではないものがどれくらいあるでしょう。ああ、あの永遠の恒久的な「しかし」、留保が常にあるのです!「ご存じのように、彼らは主を愛しています。しかし……」「彼らは主のためにとても熱心です。しかし……」「彼らには長所がたくさんあります。しかし……」。この「しかし」が、長所全体よりも大きく浮かび上がって、長所をすべて傷つけるのです。

この「しかし」を用いる私たちの多くは、「自分はすぐれている」という思い込みや自分のプライドのために、そうするよう駆り立てられているにすぎません。つまり、他の人を貶めることによって優位に立つことが、私たちにはあまりにも多いのです。そして、神の子供たちを損なう高ぶりのこの形態により、私たちは自分の優位性、地位、影響力を得ますし、また得ようとしているのです。これはそれを霊的に示す単純な例なのかもしれません。

新約聖書の勧めはすべて、これとは別の方向を強調しています。それが強調しているのは、他の人を自分よりも上に置くこと、他の人を自分よりも優れていると常に思うことです。これは反対の方向です。これをするのは肉にとってとても辛いことです。天的なものの証しを神の家の中で十分明確に維持するには、十字架が最初に到来して、この高ぶり、この傲慢、この狡猾な自己充足、自己評価、この「謙遜な」(?)批判――これは結局のところ、高慢の本質そのものです――の根元に直ちに至らなければなりません。

この事実を強調しなければならない理由はおわかりでしょう。高慢は他の多くの方法で現れるかもしれませんし、実際に現れています。たとえば、神の民を支配すること、地位を得ること、奉仕の特権や機会を自分が地位を得るための機会とすることです。新約聖書風の別の言い方をすると、次のようになります。

弟子たちは聖霊でバプテスマされる前、自分の兄弟たちよりも上に立つ機会、互いに優位を競いあう機会、首位の座を占める機会ばかり求めていました。主イエスは彼らに強い言葉を述べなければなりませんでした、「私はあなたたちの間で仕える者のようです」「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためです」。これが十字架の精神です。

さて、ネヘミヤ記に記されている状況に相当する霊的状況がまぎれもなく存在していることを、あなたは理解できると思います。他の人々が私たちの利益の手段とされており、霊的な意味で私たちは自分の益のために自分の兄弟たちを奴隷として売り払っているのです。もしよければ、あなたはこれをもっと詳しく追うことができます。



破産

この本に出てくるもう一つの点は、主の民であるユダヤ人の多くが破産した生活を送っていたことです。その理由の一部は質入れによるものであり、自分の息子や娘を奴隷として売り飛ばしたことによるものでした。つまり、彼らは自分の権利にしたがって生活していなかったのです。彼らは困窮に陥り、資産もありませんでした。それゆえ、威厳も誉れもなく、負債を負った民だったのです。

この状況も今日霊的にあてはまります。愛する人たち、私たちや主の民の多くは、今日、自分の身分にふさわしく生きているとは到底言えません。残高を調べるなら、破産していることが明らかになるでしょう。もっと簡単な言い方をすると、私たちのうちどれくらいの人がキリストの富を自分で知っているのでしょう?また、私たちのうちどれくらいの人が、他の人々の富に頼って生きなければならない誤った立場にあるのでしょう?

つまり、霊的助けになる外側のものをすべて剥ぎ取られるなら、集会や交わりやそうしたものをすべて取り去られるなら、私たちのうちどれくらいの人が、「私は自分の身分にふさわしく生きています。徹底的分析によると、そうしたあらゆるものから私は完全に独立しています」と言えるでしょう?

私たちはそれらを享受し、それらから益を受け、それらのゆえに神に感謝します。しかし、私たちの命を構成するものは外側のものではなく、主の尊さを知る自分自身の知識なのです。たとえ外側のものをすべて剥ぎ取られたとしても、私たちには決済する能力があり、立ち上がって言うことができます、「あなたは私自身の嗣業を奪うことはできません。私はキリストの内に嗣業を持っています。

それは集会、大会、メッセージ、外側のいかなるものにもよりません。それは主と共にある私自身の内なるいのちです。私は彼を知っているのです」。主はご自分の民の多くを召して、このような状況に直面させられるでしょう。それは、彼らが自分で発見して、見い出すためです。

愛する人たち、終末はまさにこのような状況かもしれません。私は確信していますが、「神の子供たちはみな、個人的な内なる方法でキリストを知り、キリストにあって充足と満足に至らなければなりません」「外側のものが取り除かれ、崩壊し、失望を与えたとしても、自分のためにキリストの内に豊かさを見いださなければなりません」と、終末の時に主は要求されるでしょう。

あなたには決済する能力があるでしょうか?あなたは抵当に入れられているのではないでしょうか?あなたは他の人々がくれるものにすがって生きているのではないでしょうか?それがあなたの支えなのではないでしょうか?

それとも、あなたは自分が主から得るものによって生きておられるのでしょうか?もしそうなら、もしあなたが自分のものを持っているなら、あなたは与えるものを持っており、この人々が陥っていたような物乞いや困窮の状態にはありません。

喜ばしいことに、ネヘミヤは奴隷として売り飛ばされていた人々を贖い、買い戻して、正当な権利を得させました。喜ばしいことに、ネヘミヤは生計を維持するための質入れや子供の売買の仕事をやめさせて、すべての人が自分の足で神の御前に立って自分の道を歩めるようにしました。これは主の民にとって重要な霊的思想であり、終末における運動を示しています。なぜなら、私たちはあまりにも長いあいだ恵みの外的手段にすぎないものに基づいて生活してきたからであり、主ご自身が自分にとっていかなる御方であるかに基づいてあまりにも少ししか生活してこなかったからです。




汚された神の家

次に、宮が異教徒によって汚され、世俗的な用途に用いられました。これを適用する必要はほとんどないと思います。この二つは共に進みます。天から直接生まれた純血の者ではない人々、新生した神の子供ではない異教徒が神の家の中に入り込み、主の民の間に場所を得る時、主の家はただちに主の御心とは正反対の関心や用途の方向にそらされてしまいます。地に引きずり降ろされてしまいます。神の家は地的なものにされ、あるべき場所から引き出されてしまいます。

敵は常にこれをしようとしています。真に再生されているわけではない人々や、再生されたと思い込んでいる人々を、主の民の間にこっそり入り込ませることが、敵の常套手段です。彼らは主の民に属する者としてやって来ますが、主の民ではありません。彼らの存在によって、この世的判断、この世的方法、人の方法、人の考えが、神の家の中に入り込み、それを肉の水準の低い生活にまで引き下げてしまいます。これは悪魔の主要な働きの一つであり、悪魔は絶えずこれを試みています。そして、この試みは成功することがあまりにも多いのです。

確かに、私たちはこれを今日見ることができます。なぜなら、これは大いに広まっているからです。これについて教えてもらう必要はほとんどありません。私たちは至る所でこれに気づきます。しかし、ネヘミヤは終末の神の動きを代表する者として、それに終止符を打ちます。彼は神の家から異教徒を一掃し、神の家が神の御思いにしたがって維持されるように、そして人の考えや人の方法が排除されるようにしました。

もちろん、私が物質的な神の家のことや、人々の集まる諸教会や場所のことを述べていると思う人は誰もいないでしょう。それもこの一つの適用になりうるかもしれませんが、私の念頭にあるのは、神のために天的な民になるよう召された神の民です。

この民の中に肉的な原則、天然的な活動や力を持ち込もうと、敵は絶えず試みています。それは、この証しを天上から引きずり降ろして、人によって運営される地的なものをそれから造り出すためです。ネヘミヤはそれを許しません。彼はそれに抵抗します。こういうわけで、彼は終末に神がなさることを示しているのです。




破られた安息日

次にまた、安息日が無視されていました。安息日がそのあるべき地位から転落し、軽視され、脇にやられ、見過ごされ、無視されていたとは、エズラからこのかた、とんでもないことではないでしょうか。

ここでただちに言いますが、私たちが今考えているのは、これに相当する新約聖書的な霊的意味であり、日のことではありません。ここの時としての安息日のゆえに私たちは依然として神に感謝していますし、それに固執して容易に手放しはしません。しかし、安息日に関する私たちの理解は遙かに高い水準に引き上げられていて、私たちは次のことを見るに至っています。

すなわち、安息日は、神が主イエスによって安息に入られる時の、神の働きの完了の歴史的な型なのです。また、安息日は御子のパースンによって神の働きがすべて完全に成就されたことを物語っているのです。

キリストによる神の働きの完成を脇にやり、見過ごし、無視するなら、あなたには安息も平安もありません。あなたは依然として荒野の中をぐるぐるとさまよっています。あなたは依然として、成就されていない不完全な働きの領域の中にいます。「成就した」という言葉を宣言する立場の上に、あなたはいまだ落ち着くには至っていません。

完成されたキリストの御業を霊的に真に理解している魂は、安息している魂です。神の安息の中に入って、悪魔の圧制から解放されています。完成されたキリストの御業は「もはや罪定めはない」と言っているのに、この事実にもかかわらず、悪魔は常に訴えや罪定めをもたらそうとしています。このせわしなさ、熱っぽい内省、自己分析、ひきこもりはすべて、安息日を見過ごしているせいです。決して安息することも、落ち着くことも、確信を持つこともなく、確かなものが何もないのは、すべてそのせいです。


私たちにとって安息日とは一人の御方であって、日のことではありません。したがって、毎日が私たちにとって安息日でなければなりません。私たちはみな、聖書の一節、テキストとして、「主の喜びはあなたたちの力です」という御言葉を引用しますが、これがこの素晴らしい御言葉の最も深い意味に違いありません。主の喜びとは何でしょう?「神はすべてのわざを休まれた」「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それははなはだよかった」。

主の喜びとはもっぱら、十字架によって完全に御業を成就されたキリストなのです。神はキリストにある新創造を見て、「よし」と言われました。「主の喜びはあなたたちの力です」。神はキリストによって完全に満足しておられます。これを見過ごしたり、見逃したりするなら、あなたは安息日の休みを失い、心の安息を失います。これがこの状況の原因でした。

しかし、ネヘミヤはそれを回復しました。終末時の運動は、キリストの御業の完全性と、キリストが御父にとって完全な満足であることを回復するものであり、神の民をその中にもたらすものです。

ああ、愛する人たち、この重要性はどんなに評価してもしすぎることはありません。なぜなら、敵は必死になってこれに反対するからです。二つの運動が終末を特徴づけることになると私は見ています。一方において、敵は神の民の足下から確信の根拠を断ち切るために、彼らから安息、確証、平安、確かさ、確信を奪い去ろうとしており、彼らを疑い、恐れ、心配で取り囲んでいます――兄弟たちを訴える者は、終末にこのような方法で、強烈な姿でやって来ます。

神はそれに対抗して、キリストによるご自分の御業の十全性と完全性を回復されます。そして、ご自分の民を安息日の休みの中に置き、その民の心をキリストの方に向かわせて、「これは私の愛する子、私は彼を喜ぶ」「あなたは彼にあって受け入れられており、私は満足しています」と仰せられます。これはみなキリストによります。

主イエスのこの証しを終末に回復すること、これは大いなる対抗要素です。「ネヘミヤ」は終末における回復のための一人の人かもしれませんし、あるいは一つの団体的な器かもしれません。いずれにせよ、「ネヘミヤ」は自分の務めの重要な一部分として、このような意味で安息日を確立しなければならないのです。




十分の一を納めることを怠る

状況の一部分として、もう一つのことがこの本の中に出てきます。それは、主の民が自分の持ち物の十分の一を納めるのを怠っていたということです。私たちが十分の一について述べる時、「十分の一だけが主に属しており、残りの十分の九は自分に属している」とは誰も思わないで下さい。これはまったく間違った聖書理解です。十分の一は全体を表すものであり、「一切を主のために所持する」という事実を示すものとして献げられたのです。

十分の一は「すべては主のものであること」の印であり、証しでした。十分の一が献げられた時、「この収穫全体の十分の一は、すべては主のものであることの印であり、あらゆるものを主からの賜物として主のために所持する印です」という精神で献げられました。

さて、生活がこの域に達する時、神の祝福があります。十分の一を献げることをあなたが始めておられるかどうか、私にはわかりません。それは始まりにすぎません。これが十分に確立される時、主はそれを遙かに超えることを可能にされることがわかるでしょう。そして、この道に沿って到来する主の祝福に、あなたは驚くでしょう。

主の民の多くは、収入や現世の所有物のことで苦しみ、心配し、悩んでいます。この領域での彼らの生活は苦しいものです。これは主に正当な地位を与えていないからです。「あなたの持ち物をもって、あなたの収穫の初なりをもって、主をあがめよ」「私を尊ぶ者を私は尊ぶ」。主のために所有するという主の法則を悟り、真っ先に十分の一をもって主をあがめるようにしさえするなら、現世の困窮から大いに解放されるでしょう。

この言葉を忍んで下さい。これをもう一度強調しても構わないでしょう。神はあらゆるものに対して権利を持っておられます。私たちの十分の一は、すべては主のものであること、そして、すべては主に属するものとして保たれ、用いられねばならないことの、初歩の証しにすぎないのです。

さて、ネヘミヤは民の所有や収入に関して主を正当な地位に置き、これを正常化しました。これは霊的繁栄と現世の安寧に寄与します。さしあたって、これはこれで良いことにします。




混合と区別の喪失

また次に、主の民の多くが外国の妻と結婚していたこと、そうして彼らの区別が失われていたことが、ここでわかります。ネヘミヤはそれらの婚姻関係を断ち、違反者たちに妻を郷里や祖国に送り返させて、そうして神聖な原則を確立しました。

さて、これに対応する霊的意味は、「回心していない夫や妻を持つ人は、彼らから離れ、彼らを無視しなさい」ということではありません。しかし、遺憾ながら多くの人がそうしています。回心していない夫や妻は、主のことも主の権益も心にかけません。そのため、彼らの伴侶たちは多くの集会に出かけて、彼らを独りぼっちにしてしまいます。この罠にかかってはいけません。

これに相当する霊的意味は、「旧約聖書の中のこれらの妻たちは、常に原則を表す」ということです。ご存じのように、女性は聖書全体を通して数々の原則の型です。ここで型として示されているのは、神に完全に属しているものとは異なる数々の原則との同盟、関係、関わりです。こうした原則のいずれかと自発的に関わるなら、主の民を常に特徴づけているべき、あの霊的区別は破られてしまいます。

これはとても広範な領域を網羅しており、数え切れないほど多くのことを含んでいます。しかし、これがその包括的適用です。ここに記されているのは、啓示された神の御旨に反する要素、特徴、原則、法則であり、主の御心、神の御言葉、御霊の道とは別の相容れないものです。ここに示されているのは、それと自発的に関わりを持つこと、それが自分と関係を持つのを許すことです。そのような道の結果、混合という子孫が生じます。これは、神に属するものと敵に属するものとの混合です。神の御言葉に啓示されているように、神が最も忌み嫌われるものは混合です。至る所で神は混合に反対されます。神は物事を全く完全かつ絶対的にはっきりと規定して、完全にご自分に属するものとされます。

ネヘミヤ記のこの城壁は、神に完全に属するものと神に属さないものとを分ける印です。神から出ていないものの割合や程度の問題ではなく、神からではないものが少しでもあってはならないのです。内側にあるものは隅々まで神に属していなければなりません。神に属していないもののための余地は、そこにはありません。ですから、これらの妻たちはその領域から追放されて、送り返されなければなりません。これが示されている霊的原則です。神は混合に反対されます。主の民の間には、恐ろしいほどたくさんの混合があります。




郊外のクリスチャンたち

述べるべきことが、おそらく他に二つあります。ここに見られる民の大部分は、エルサレムの外の郊外に住んでいました。そのため、エルサレムには手仕事に十分な人がおらず、ネヘミヤは彼らに、出て来て他の人々を中に連れてくるよう訴え、励まし、勧めなければなりませんでした。この霊的解釈はとても単純ですが重要です。

霊的郊外に住んでいる主の民が大勢います。彼らは主の証しの中にいません。ほんの少しだけ外にいるのかもしれませんし――ほんの少しとはいえ、外にいることに変わりはありません――あるいはかなり離れているのかもしれません。彼らはあらゆる種類の理由をあげることができるでしょう。「変人になりたくありません」「バランスを欠いていると思われたくありません」「バランスを取りたいのです」と言う人もいるでしょう。あらゆる種類の理由(?)が挙がるでしょう。偏見や疑いのためかもしれません。安全な道を進み続けたいからかもしれません。代価への恐れや、価を払いたくないからかもしれません。中に入ってネヘミヤに協力するなら、サヌバラテやトビヤが好意的でない目で自分たちのことを見るようになるためかもしれません。

これに関して全く確信がないからかもしれません。事がどう運ぶのか見ることを彼らは願っています。事がうまく運ぶなら、そして事が堅固な土台の上に据えられていることがわかるなら、彼らは危険を冒すでしょう!事が堅固なら何の危険もなく、したがって何の英雄的行為も栄誉もありません。

私が何を言っているのか、おわかりでしょう。主が新しいことをなさる時、また、全くご自分と天――そこには天然的な肉の人のための余地はまったくありません――に属するものに対する完全な証し、全く主に属するものに対する完全な証しを得ようとされる時、それは代価を払うこと、好意を失うこと、友人をなくすことを伴います。誤解や誤報を伴います。批判や、「あまりにも極端で変わっており、他のすべての人たちと異なっている」という非難を伴います。そのようなあらゆることを伴うのです!そうではないでしょうか?

さて、これはどうなのでしょう?問題は、神と共に完全に中に入るのか、それとも郊外にとどまり続けるのか、ということです。ネヘミヤは促し、勧め、嘆願し、励まし、手を差し伸べ、招き入れようとします。神はほむべきかな!必要を満たすのに十分な応答がありました。周辺にとどまるのか、それとも中に居てそのような立場の結果を受け入れるのか、私たちは決心しなければなりません。私たちは徹底的にこの問題に決着をつけなければなりません。私たちの中にはそうしなければならない人がいます。

これが何を伴うのか、どれだけ代価が必要なのか、私たちはわかっています。少なくとも、神と共にこの道を取ることによって実際に生じる必然的結果について、私たちはかなりよく見てきました。そうです、しかし、「これは主の道だったのでしょうか?もし主の道なら、長い目で見て、その外側にいても仕方がないのではないでしょうか。一時のあいだ何かを得たとしても、遅かれ早かれ、それは失われてしまうにちがいありません」ということこそ、まさに問題なのです。確かに、私たちは低い水準――損得――で物事を見るべきではありません。結局のところ、「私たちは何のためにここにいるのでしょうか――主のためでしょうか、それとも自分のためでしょうか?」という問題なのです。

主のためでしょうか、それとも自分のためでしょうか?肝心なのは、「主は何を欲しておられるのか?」ということです。それには代価が必要かもしれません。それは多くのことを意味するかもしれません。多くの方面で交わりを失い、好意を失うかもしれません。敵の恐ろしい悪意に巻き込まれるかもしれません。しかし、私たちに何ができるというのでしょう?私たちは神と共に進み続けなければならないのです。私たちはみな、この場所にいるでしょうか?この問題により、様々な思いが私たちの心に迫っているのではないでしょうか?




公の妨害

次に、締めくくるに当たって、これまで誤謬や悪について述べてきましたが、それらのものにネヘミヤはことごとく遭遇しました。それらの誤謬や悪が存在していたにもかかわらず、彼が登場するまで何の注意も払われていませんでした。有力な、影響力のある、公の階級、祭司たちや貴人たちが、それらの誤謬や悪を支持していました。大祭司ですらそれらにくみしていたのです。ネヘミヤはこれに反対しました。

主と共に進むことを決意する時、公的要素が妨害します。これはまさに真実です。私たちは影響力を持つ勢力に出会い、地位や身分のある人々から反対されます。大祭司のように神の最高の権益を公に代表し、人からもそのように受け入れられている人々ですら、神のご計画や神の御旨に対して好意的ではなく、神の完全な証しに全く反するものを大目に見ていることに、私たちは何度も気づきます。これはまさに真実です。

あなたたちの中にはこれを証明した人もいます。主と共に進むことを決意するなら、あなたにもこれがわかるでしょう。ネヘミヤはそれにことごとく出会いました。勇気をもって出会いました。「私は貴人たちと争った」と彼は言いました。影響力を持つ階級を前にして、彼は屈しませんでした。彼は公人たちに屈服しませんでした。彼は貴人たちと争いました。自分が神の委託を受けていることを彼は知っていました。これが人々の間で、天然的権威だけでなく霊的権威をも彼に与えたのです。なぜなら、神から与えられた立場に立って、神から与えられた務めを果たす時、神が自分の傍らに立って下さることを彼は知っていたからです。 彼をこのような人にした他の数々の要素が背景にあったことを、私たちは理解しなければなりません。しかし、これが彼の態度でした。

自分が神の御旨の中にあることがわかるのは素晴らしいことです。自分が神の働きの中にあることを知る時、あなたは大きな確信を持ちます。あなたがその中にあるものは、あなたが始めたものではなく、天から来たのです。そして、あなたはその中に天から霊的に入ったのです。それは神に属しています。これはあなたを道徳的にも霊的にも優った地位に置きます。そして、形式的なものにすぎない非霊的な威厳を上回る威厳をあなたに与えます。


<略>私たちは主の来臨にかかわる終末の時にいるのであり、終末における働きは際立った証しを起こすものなのです。その証しは復活のいのちと力によるものであり、まったく神から出ており、その中に人からのものは何もありません。この証しは、自らに反する多くのものを対処して取り除くことを要求します。」




最後にもう一度だけ繰り返しておこう、

「主の喜びとはもっぱら、十字架によって完全に御業を成就されたキリストなのです。神はキリストにある新創造を見て、「よし」と言われました。「主の喜びはあなたたちの力です」。神はキリストによって完全に満足しておられます。」

2010年を終えて

いつものように夜行バスで帰郷してみると、美しい雪景色…。家族とともにゆっくり食卓を囲み、父の手料理を味わい、ピアノを弾いて、愛犬と遊びながら、平和な年末を迎えています。
 
2010年、まことに色々なことがありました。失業も、迫害も、別れもありました。しかし、驚くべきことに、主はその全ての問題に対して、必要な助けと、豊かな解決を与えて下さいました。

困難に見舞われたとき、恵みの御座に進み出て、御言葉に基づいて、悪しき霊のカルバリでの敗北を宣言し、そして主の取られた勝利を大胆に証し、御名によって心の願いを言い表したことによって、どれほど多くの恵みを私はいただいたことでしょう。

時代はカインとアベルの相克を見せています。しかし、真理に立つ者を主がどれほどの愛で愛し、守って下さるか、その愛の深さを今、私ははっきりと見せてい ただいています。多くのクリスチャンたちが、ただ物事のうわべだけを見て、人の耳に都合の良い事実を語ってくれる教師の方へそれていき、真理につまずきま した。

しかし、この先、神は私たちの隠れた動機をご覧になって、真理を喜ぶ者と、不義を喜ぶ者の違いを明確に明るみに出されるものと確信しています。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3-4)

今年の大きな収穫のひとつは、この時代の霊、そしてキリスト教界を見舞っている背教が、グノーシス主義と密接な関係があることを発見し、このテーマについ ての分析に具体的に取りかかれたことです。キリスト教界で流行している、何でも愛して赦して受け入れて…の、「砂糖まぶしの甘えの福音」が、本質的に真理 に敵対していること、そのような教えがアダムを高く掲げ、人を最終的にはアダムを神とする方向へ導くことを、明確に理解することができたのは幸いでした。

仮にどんなに人間が人間の罪を弁護し、人の弱さを大目に見、生まれながらの人間に属する全ての要素を愛し、赦し、受け入れるべしと主張したとしても、アダ ムに由来するものは全て、キリストが十字架ですでに廃棄されたため、アダムにはもはや何の希望もなく、旧創造はただ滅びにしか値しないということが、神の 事実なのです。

この神の事実に逆らって立ちおおせる者は、一人もいません。今、キリスト教界を含め、時代は、人間の罪という問題から必死になって目を背けようとし、むしろ罪人を公然と弁護し、罪人に対しては神の裁きがあるという明確な事実をさえ、何とかしてかき消そうと抵抗しています。

「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は 光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが 明らかにされるためである。」(ヨハネ3:19-21)

今、自分の行いの義により頼む人々は、信仰による義によって生きる人々を、あらゆる機をとらえて罪定めしようと目論んでいます。それはちょうどキリストが この世に来られたのに、人々が彼を受け入れず、自分の罪が明るみに出されることを恐れて、己を義とするために、命の君を十字架にかけてしまったのとまった く同じ構図です。「除け。除け。十字架につけろ。」(ヨハネ19:15)、これが命の君に対する世の反応でした。僕は主人以上の者ではないのですから、主が世から憎まれたように、私たちも、世から敵意が向けられるのはむしろ当然であることを覚えておく必要があります。

しかし、神は自ら報復される方です。何が真理であり、何が虚偽であるか、神は必ず、ご自分の威信にかけて証明なさいます。御言葉は、諸刃の剣よりも鋭く、 霊に属するものと魂に属するものを切り分けます。大祭司なる主イエスご自身が、何が神に属するもので、何が肉から出たものに過ぎないか、はっきりと切り分 けて下さいます。神はご自分により頼む者を、決して失望に終わらせません。ですから、どのような出来事に遭遇したとしても、私たちはただ平安のうちに主を 誉めたたえるのです。

預言者エリヤは450人のバアルの預言者と対決して、たった一人で神の側に立ちました。彼は民に向かってはっきりと言いました、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」(列王記Ⅰ18:21)

エリヤは神が僕に望んでおられることが何であるかを明確に知っていました。それは彼が情勢や人の思惑に流されて妥協することなく、どれほど不利な状況に立たされても、虚偽を虚偽としてきっぱり退け、人を恐れることなく、信仰によって、大胆に真理だけを証することでした。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは『あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。』と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

時代は真理と虚偽との切り分けを否定し、キリストとベリアルを調和させようとし、神の宮とされた人々を、自己を偶像とする人々の前に再び、ひざまずかせよ うとしています。しかし、私たちは真理に堅くとどまり、どのように脅かされても、十字架に敵対する教えに屈服することはしません。私たちは知っています、 神は偽りを言う者たちを必ず滅ぼされること、悪を行なう者は断ち切られること(詩篇37:9)、神が義とされた者を罪に定める者は、自らが罪に定められること(詩篇34:21)、義人は信仰によって生きること(ハバクク2:4)、己の力を神とする者は罰せられること(ハバクク1:11)、十字架に敵対する者の最後は滅びであること(ピリピ3:19)を。

アベルは殺されましたが、信仰によって今もなお語っています。バプテスマのヨハネは首をはねられましたが、彼は今なお荒野の声として語っています。私たちも闇の行いを捨てて、光あるうちに、光の中に来ようではありませんか。「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」(マタイ3:2)

この2010年、私たちは時代の霊がどのようなものであり、自分たちが今、何に直面しているのかを把握しました。しかし、2011年、真理に立つ者と、虚 偽を選んだ者との行く末の違い、キリストのまことの命を選んだ者と、アダムの命にとどまることを選んだ者との人生の違い、信仰による義を選んだ者と、律法 による義(自分自身の行いによる義)を選んだ者との末路の差はいよいよはっきりと現れてくるでしょう。それはますますむなしい言葉の議論を離れて、命対命 の対決として現れるでしょう。すなわち、罰せられ、廃棄されるしかないアダムの古き命と、とこしえに新しいキリストの支配するまことの命との差がますます 明らかになるでしょう。

ハレルヤ! この先の時代には、たった1人でも神を選んだエリヤの祭壇に火がつけられるのか、それとも、バアルの450人の預言者の祭壇に火がつけられる のか、神ご自身が答えを出されるでしょう。人間の力によらず、能力によらず、神ご自身の霊によって、神はご自分に属する民が誰であるか、はっきりと答えを 出され、証明して下さるでしょう。 「主はご自分に属する者を知っておられる。…主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」(Ⅱテモテ2:19)

ですから、私たちは何も恐れません。

主の御名は何と栄光と力に満ちているのでしょう! 主の裁きは何と正しいことでしょう! 主の御腕は何とご自分により頼む羊を力強く守って下さることでしょう! 主こそ私の魂の守り、高きやぐら、私は絶えず御翼の影に身を避けます。

「主はこころの打ち砕かれた者の近くにおられ、
たましいの砕かれた者を救われる。
正しい者の悩みは多い。
しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。
主は、彼の骨をことごとく守り、
その一つさえ、砕かれることはない。

悪は悪者を殺し、
正しい者を憎む者は罪に定められる。
主はそのしもべのたましいを贖い出される。
主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。」(詩篇34:18-22)

キリストかセルフか(2)――神の武具で身を固めなさい――

キ リストの十字架を信仰によって信じずとも、人の内には何らかの「神性」が宿っていると唱え、生まれながらの人が神のようになれると説くグノーシス主義は、 過ぎ去った時代の異端ではありません。そこには人がエデンの園で善悪知識を選び取って以来、神に敵対する悪しき霊と、生まれながらの人々の内に連綿と受け 継がれて来た神に対する反逆の教え――蛇の致命的な毒――が凝縮されてこめられています。

人のセルフを高く掲げ、「人は神のようになれる」と述べるだけでなく「人は神である」とさえ説くこの教えは、人類史始まって以来の人に対する蛇の誘惑であ り、アダムの堕落以後、生まれながらの人の内に流れ続けている蛇の毒でもあります。現代ではセルフ教の形となってキリスト教に入り込もうとしているグノー シスの教え――それは終末におけるクリスチャンを襲う背教の中核であり、現在、教界で起こっている様々な腐敗した現象は、この悪しき霊的な源が結んでいる 実に過ぎません。

聖書は「日の下には新しいものはない。」(伝道の書1:9)と告げていますが、実際に、私たちは過去の異端を分析することを通して、これからの時代、私たちクリスチャンを見舞うであろう試練を予想することができますし、私たちを厳しくふるいわける基準となる「キリストかセルフか」という問いかけを最確認することができます。

さて今回は、グノーシスの話はさて置き、いかにして私たちの自己が十字架で対処されるのかということを話します。なぜなら、セルフを否んでキリストの命に生きることは、ただ十字架によってのみ可能だからです。

主を救い主として信じて受け入れた後も、私たちの生まれながらの自己は、神の御手によって絶えず取り扱われ、十字架の刻印を経る必要があります。血潮に よって罪が赦されただけで私たちは満足してしまうべきではありません。主と共なる十字架の死に私たちの自己が服するのでなければ、私たちはキリストのよみ がえりの命の領域を実際に生きて知ることはありませんし、私たちの自己はいつまでも敵の要塞であり続けます。

人に対する神のお取り扱いは、私たちの霊・魂・肉体の全ての部分に渡って、キリストの十字架が深く実際として経験として刻み込まれ、私たちの旧創造が対処されて、新創造がもたらされることにあります。十字架は生まれながらの人の全部分に渡って適用される必要があります。

しかし、生まれながらの人のセルフ(肉)の狡猾さは、悪だけでなく、善を行うことができる点にあります。かつての記事を基にもう一度繰り返しますが、肉には様々な長所や美徳があり、肉の性質とは、必ずしも人の目に否定的に見えるものだけではありません。

私たちは誰しも自分の生まれながらの長所に自信を持っているものです。人と自分を比べて、自分はかれこれのことをした、かれこれの能力がある、と自負し、 それを理由に自己肯定しようという欲求が人にはあります。時には、弱さや、罪や、失敗でさえ、誇ろうとすればできますし、さらに、人は神のために何かをし た時、必ずと言って良いほど、それを自己の手柄とみなそうとします。

とどのつまり、私たちの魂は常に自分自身の力によって自分にOKを出そうとしているのです。そうすることによって罪の意識から逃れ、自分で自分を贖おうと しているのです。さらに、自分自身だけでなく、周囲を見まわす時にも、私たちは自己保存にとって価値があるかどうかという基準だけで、物事の善悪を判断し ようとします。人は自分にとって心地よいもの、自分を優しく守ってくれるもの、自分を高めてくれるもの、自分を傷つけないものにOKを出し、それを善と考 え、自分にとって厳しく煩わしく破壊的に感じられるものを全て悪として罪定めしようとするのです。

しかし、私たちのそのような自己を基準とした善悪の判断は、神の善悪の判断とは全く一致しません。何よりも、私たち自身がどれほど自分に誇りを持ち、自分 にOKを出したとしても、たとえ人が私たちをどれほど高く評価したとしても、神の目に生まれながらの人間は徹底的に腐敗しています。自分の力によって神の 御前に義とされる人は誰一人いません! それなのに、依然として、私たちのセルフは神の基準で物事を見ることを拒み、何とかして、十字架の死という神の刑 罰を逃れて、自分の力で自分の生まれながらの自己を延命させられないだろうかと試行錯誤を重ねているのです。それだけでなく、あれやこれやの方法でセルフ を誉めたたえ、あまつさえ、セルフを神を越えるものとして提示しようとさえしているのです。あらゆるものを自分のために利用し、神をさえ自分のために利用 してはばからない、生まれながらの人の性質は、アダム以来の古い人に属するものであり、神の目には邪悪です。そして、それは私たちが御霊に従って歩むこと を絶えず妨げています。

魂は、見られ、知られ、聞かれることを望む自分の中の『わたし』という自己愛、高慢の場所です。また、実際は『わたしは他の者のようではないことを神に感謝します』と言っている、宗教的高慢さに満ちた所でもあります。この宗教的高慢さは、最も霊的な魂の中にも忍び寄り、汚してしまいます。」(ウォッチマン・ニー全集第一巻、チャールズ・アシャー著、p.248 引用は福音書房の付録から。)

では、私たちは肉体と魂を支配するこの古い命の邪悪な性質を対処するために、何をすれば良いのでしょうか? 自分で自分を葬り去るために努力すれば良いのでしょうか? いいえ、自分の判断や自分の行動によって自分を対処できる人は誰一人いません。

ただカルバリがあります。主イエスの御血の清めは、私たちを罪の汚れから清めますが、キリストの十字架は、私たちの古い命の邪悪な性質そのものを対処します。チャールズ・アシャーは言います、「わたしたちの邪悪な性質を対処するのは、血の清めではなく、十字架です。『わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた』(ローマ六・六)。『キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を……十字架につけてしまったのである』(ガラテヤ五・二四)。」(同上)

カルバリの十字架において、主イエスはご自身の肉に私たちの肉を含められ、それらを全てはりつけにされました。そこで私たちの古き人は、キリストと共に死 刑宣告を受け、刑罰を受けて殺されました。私たちの古い命は、カルバリで死に渡されました。サタンの思うままに支配されていた肉は死んだので、私たちを支 配する効力を失いました。これが霊的な事実です。自分自身や自分を取り巻く環境がどれほど絶望的に見えても、私たちがこの霊的な事実に信仰によって立ち続 けるならば、キリストの死と復活の力が私たちの内側で実際となります。

主イエスは十字架に向かわれる前にこう言われました、「…ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:14-15)

これはカルバリの予表です。モーセが荒野で青銅の蛇を掲げた時、それを見た民は、背信の罪のゆえに冒された致命的な蛇の毒から救われて、命を与えられました(民数記21:9)。この時、民がしたことは、掲げられた青銅の蛇をただ見上げることだけでした。

今日、私たちが求められているのも、自分から目を離して、ただ十字架を仰ぐこと――それだけなのです。主イエスがペテロに水の上を歩くよう求めた時にも、 彼はペテロが自分を見ずに、ただ主イエスご自身だけを見つめるよう求められました。主イエスご自身を見つめることだけが、私たちに水(死)の上を歩かせる のです。それはなぜでしょうか? 主イエスは私たちのために罪なる肉体のさまで十字架に向かわれ、十字架の上で、自ら神の呪いを受けて呪いとなられること によって、私たち信じる者の代表として、蛇の毒に冒された私たちの肉を死に渡されたのみならず、蛇(サタン)そのものをご自分の死によって対処されたから です。 

「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。」(ガラテヤ3:13)からです。主を誉めたたえます、御子は私たちのために神の呪いを受けられましたが、サタンが彼にもたらした最大の脅威である死によって、サタンに勝利されたのです。主イエスは「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし」(ヘブル:14)たのです。ハレルヤ! 主イエスは死を打ち破ってよみがえられました! カルバリで滅ぼされたのは、主ではなく、蛇(サタン)でした!

主イエスが私たちのために呪いとなられました! だから、十字架にかかられたキリストを見る時、御子を信じる者は、蛇(サタン)の死の毒から救われて生きるのです、もはや罪に汚されることのない、清く、新しい、神の霊なる命によって生きるのです。 

ただカルバリのキリストだけが、私たちの負債を全額返済するのです。「神は、わたしたちを責め て不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、 キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。」(コロサイ2:14-5)
 
カルバリ以後、御子を信じる全ての人には、主と共なる十字架を経て、堕落したアダムの命に死んで、キリストのご性質によって形作られる新しい命によって、復活の領域に生かされる新しい人となる道が開かれたのです。

「創造主はその御子のパースンにおいて、全世界の罪をご自身の上に担い<…>、血と肉にあずかり、堕落した 種族へと結合されるという束縛を受けられ、その神聖な性質において、あの堕落したアダムの命を十字架へともたらし、避けることのできない当然支払うべきも のでもあり、またその結果でもある死の刑罰をそこで受けられました。それは、彼がその堕落した被造物のために、神へと立ち返る道を切り開き、彼の性質と実質そのものから建造され、形づくられた新しい種族のかしらとなるためです。」(付録5、ジェシー・ペン-ルイス、「十字架は蛇を滅ぼす」、p.297)

十字架は堕落したアダムに属する私たちの古い命が、神の刑罰を受けて死に渡される場所であり、そして、私たちが神の命と性質にあずかる新しい種族として生 まれる場所でもあります。このカルバリに立ち、主の死に自分の死を同一化し、私たちの罪なる肉がすでにキリストと共に死刑に処せられたという事実を信仰に よって受け取り、どんな試練の中でも、そこに立ち続けることを通して、私たちはそれまで罪の肉による支配から解放されて、キリストの復活の新しい命によっ て生きるのです。

私たちの堕落した肉、魂、古き人は、これまで、邪悪な暗闇の勢力のもろもろの支配と権威に服し、邪悪な勢力によって思うがままに占有されてきました。わた したちの内の古き人は、常に、サタンとその邪悪な霊たちを強めるための武具となり、彼らの家財道具となってきました。しかし、主イエスはカルバリで彼らに 打ち勝たれ、強い人であるサタンを縛り上げ、サタンの武具とされて来た私たちの罪の肉を永久にさらしものとされたのです。こうして、サタンの霊的な支配と 権威は、私たちから解除され、サタンと邪悪な霊たちの支配と権威は永久に打ち負かされて、恥辱をこうむり、カルバリで、主と共に私たちも凱旋にあずかって いるのです。

「これが、その神聖な目的における十字架の意味であり、堕落した人がこの世、肉、悪魔に打ち勝つ勝利の道です。これが、堕落、すなわちサタンの霊によって占有された堕落した肉の意味です。これが、サタンに対する、また罪に対するカルバリの答えです。堕落した被造物が十字架につけられたのは、すべての人が古い種族から離れ去るという選択を持ち、最初のアダムという共通のかしらから離れ去り、『キリストにあって』再び新創造を始めるためです。」(同上、p.297-298)

私たちは長い間、罪に支配されてきたので、そこから抜け出すのはあまりにも困難である、と言うかも知れません。私はあまりにも弱く、罪や誘惑に打ち勝つ力 が少しもない、と言うかも知れません。しかし、私たちは決して、自分自身の弱さだけを見つめてそこでひしがれてはなりません。カルバリには神の勝利の命が あります。私たちは絶えず、十字架を通して、自分がすでに暗闇の支配から愛する御子の支配下へ、まことの新しい命の領域へと移し出されたことを信じるので す。

御子の十字架に基づき、私たちは古い命ではなく、新しい命である聖霊によって支配されて生きることを、大胆に神に願い求めようではありませんか! 十字架 は私たちをアダムの種族から連れ出し、新創造へ入らせる道をすでに開いてくれているのです! 私たちはこのあたりで、十字架をただ複数形の罪の贖いとして 受け取るだけの初歩の教えから一歩前に進み、十字架のより深い働きを実際に経験し、十字架で主イエスが肉体を割いて開かれた道を通って、キリストの新しい 命の領域を生きようではありませんか! しかし、よみがえりの命や、昇天だけを追い求めることがあってはなりません。私たちは絶えず十字架の死にとどまる ことによって、よみがえりの命を受け、暗闇の勢力に実際に勝利し、キリストの支配をこの地にもたらす人となるのです。

「キリストにある信者と、やみの力に関する神の目的は何でしょうか? これを見るために、わたしたちはカル バリにおけるキリストの働きへと目を向け、カルバリの勝利を理解しなければなりません。カルバリの十字架において、彼はご自身から邪悪な支配と権威とをか なぐり捨てて、彼らをさらしものとされました。

キリストの死において彼と同一化された魂は、彼と共に、また彼にあって、『やみの王国』から昇天された主の『統治する命』の中へと移されています。カルバリの勝利を通して、あなたは神の目的にあってやみの王国から移し出され、その領域の中を歩かず、その視点、尺度、方法、邪悪さを受け入れないのです。

しかし、これが実際の経験となる前に、あなたはまず、あなたに対する神の全き目的と、彼があなたをやみの力から移し出してくださったことを理解する必要があります。それは、やみの君がもうあなたに要求したりせず、あなたに対する権利も持たないようになるためです。というのは、神はその統治する命にあって、『(わたしたちをキリストと共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さった』からです。

たとえどれほどあなたがその経験に不足していようとも、あなたは自分に対する神の目的を決して引き下げずに、常に彼の意図を見つめ続け、彼が目的としておられる命へと、あなたを導いてくださるよう彼に求めなければならないことを覚えてください。あなたの立場は、『やみの力から移し出されている』というものです。

それでは、どれだけあなたは自分自身の中で、また自分の生活の中で、実際的に敵を縛っているでしょうか? <…>あなたの願いは、『やみの力から、その愛する御子の支配下に移され』、『キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さった』という神のみこころと同じでしょうか?(コロサイ1:13 筆者註)」(付録6、ジェシー・ペン-ルイス、「やみの力から移し出される」、p.300-301)


敵は何と活発にクリスチャンが主と共なる十字架の死を経験し、キリストのよみがえりの命の領域に生きることを妨げているでしょうか。敵は何と激しく、上げ られた青銅の蛇――すなわち十字架のキリスト――をクリスチャンの目から隠そうとしていることでしょう。主と共なる十字架の死を通して、クリスチャンが自 己に対して死に、肉に対して死んで勝利し、キリストと共に凱旋の行進において敵の武装を解除してさらしものにし、キリストと共に天で座につかせて下さった という事実、この事実をはっきりとクリスチャンが認識し、経験することを、サタンと闇の軍勢はどれほど恐れ、嫌っているでしょう!

キリストの命は統治する命であり、暗闇の全ての悪しき力に対する勝利の命です。もしもクリスチャンの存在を通して、地上にキリストの支配が及ぶなら、暗闇 の勢力は必然的にその領域から出て行かなければなりません。私たちは自分の力を奮うことによって敵に勝利するのではありません、組織や、計画や、何らかの 人為的な結束によって、霊的圧迫に立ち向かうのではありません。十字架の死によってサタンを打ち破られたキリストのよみがえりの命が、信仰によって生きる クリスチャンの内で実際となり、命なる御霊がクリスチャンの内側から流れ出すことによって、暗闇の軍勢はおのずから正体を暴かれて退去せざるを得ないので す。このような領域にクリスチャンは生きるべきです。

クリスチャンはキリストの十字架からもっと信仰によって勝利を引き出さなければなりません。キリストの十字架は信仰によって私たちに与えられている無限の 預金通帳のようなものです。そこから私たちが得られる勝利の一つ目は、罪に対する勝利であり、私たちが肉や、古い人に対して死んで打ち勝つことです。ローマ人への手紙第六章は、十字架によって、私たちが「罪に対して死んだ者である」ことを認めるように教えています。

さらに、私たちがキリストの御名のために人々に誤解され、そしられ、迫害され、罪に定められるようなことがあったとしても、最後には命そのものも脅かされ るようなことがあったとしても、その苦難を最後まで耐え忍ぶことによって勝利を得ることができます、子羊の血とあかしの言葉によって全ての偽りに立ち向か うなら、彼(サタン)に打ち勝ち、しかも「勝ち得て余りがある」(ローマ8:37)ことが約束されているのです。

「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう。」(ヤコブ3:7)と聖書は告げています。キリストの御名によって悪魔に堅く抵抗する(Ⅰペテロ5:9)ことは、とりわけ、終末の時代には必要となるでしょう。クリスチャンに対する激しい迫害が起こり、私たちは偽りの勢力に命がけで立ち向かわなければならないことでしょう。火のような試練(Ⅰペテロ4:12)が降りかかるだけでなく、最後には、反キリストの姿をとったサタン自身がまことのクリスチャンを霊的に圧迫し、肉体的にも殲滅しようとすることでしょう。

この激しい試練に血肉の力で打ち勝つことは、誰にとっても不可能です。しかし、ただ「しし―小羊」であるキリストの命によって、私たちは圧倒的に強くされ るのです。そのことを私たちは今から実際に学ぶよう求められているのではないでしょうか。激しい試みが臨んだ時には、すでに遅いかも知れません。

暗闇の圧迫は、しばしば、身近な人々(ほとんどはクリスチャン)を通してやって来ます。身近な人々が私たちに真理から逸れるように要求したり、圧力をかけ たりすることがよくあります。それらの要求は、私たちが御霊ではなく、再び、肉に従って歩むようにという内容であるかも知れません。もしも私たちが彼らの 助言や要求を拒否するならば、私たちは罪定めされ、彼らの愛を失って孤立し、多くの人たちから非難されるかも知れない状況に直面することでしょう。私たち の心は愛する者を失うことに苦しみ、極限まで圧迫されるかも知れません。その上、生活上のあらゆる問題が一挙に襲いかかって来るかも知れません。全ての名 誉を剥ぎ取られ、カルバリの他には何一つ私たちを生かすものはなくなるかも知れません。それでも、「あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。」(ローマ3:4)。神の眼差しは常にカルバリのキリストに注がれています。カルバリこそが神のご計画の中心であり、私たちにとっても圧倒的な勝利の場所なのです!

エペソ人への手紙第六章は、敵に抵抗することにおける、勝利の生活のこの最後の面を描写しています。主イエスは人に対して『小羊』であると共に、悪魔に対しては『しし』でした彼はもろもろの支配と権威との武装を解除し、彼らをさらしものとされました。そして、人の目には敗北であったことが、神の目には勝利となったのです。人の目には『恥』であったことが、神の目には勝利であったのです。サタンとその邪悪な軍勢すべてに対しては、キリストはしし、すなわち、ユダ族のししでした

エペソ人への手紙第六章でわたしたちは、やみの力に対する何か霊的な戦い、ししの命を見ます。ここでわたしたちは、兵士の霊を持った兵士を見ます。『こういうわけで、強くなりなさい』。人の側では、キリストは『弱さのゆえに十字架につけられた』(Ⅱコリント13:4―筆者註)のでした。しかし、彼は『強く』、『強い人』よりももっと強いのでした。彼の名は『強い』です『もっと強い者が襲ってきて』(ルカ11:22―筆者註)ですから、キリストの名は『もっと強い者』です。彼は『強い人』よりもっと強いのです。

ですから、『キリストの中に』立ち、サタンへと立ち向かう信者に対するメッセージの言葉は、『強くなりなさい』です。もはやあなたは、『弱さ』について語ってはなりません。あなたは人性と自分自身においては弱いかもしれません。しかしあなたは『主にあって強く』ならなければなりません」(付録4、ジェシー・ペン-ルイス、「勝ち得て余りがある」、p.291)


「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

「最後に言う、主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。」(エペソ6:10-11)

 

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