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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

「私は貴人たちと争った」―ネヘミヤの例から―キリストの御業の完全性と、キリストが御父にとって完全な満足である真理を回復する終末の運動

 さて、Dr.LukeのKFCの異端思想の分析がひとつの山を越えたので、少しほっとしている。

 むろん、これで終わりではないが、一つの山場を越えただろうと感じている。KFCの理念の異端化を明確に分析することにより、この悪しき団体と霊的な訣別宣をしたことが、今後、筆者の人生に必ずや有益な効果をもたらすであろうと確信している。

 ずっと以前に「牧師制度の危険〜偶像崇拝が大衆にもたらす偶像との一体化願望〜」という記事を書いたが、そこに記されている警告のほぼすべてがまさにKFCにぴったり当てはまっていると感じられるため、多少、追記しておいた。
 
 KFCは、キリスト教界に属さず、牧師制度を持たなくとも、教会に「御言葉を取り継ぐ」ための人間のリーダーを置けば、必ず、その人間が神格化され、どの団体でも最後には同じ腐敗に落ち込むということを証明する格好の生きた実例であると言える。
 
 キリスト教界の牧師制度を批判していたDr.Lukeが、牧師制度と同じ罠に落ちたことは、まさにカルトとアンチカルトが同一であることをよく示している。御言葉に立脚して生きないならば、他者への批判はむなしい。むしろ、御言葉に立脚せずに、人間的な観点から、政敵を批判することは、危険でさえある。Dr.Lukeもまた、村上密牧師と同じように、魔物を見つめているうちに、魔物と一体化したのである。

 神と人との仲保者はキリスト以外にはない。信者にはキリスト以外のどんな目に見える「霊的指導者」も要らない。にも関わらず、御霊以外に「みことばを取り継ぐ教師」を置き、それを介して神を理解しようとする制度を打ち立てると、必ず、それが人の心の偶像となり、神の御怒りを買う様々な呪われた事象を引き起こす源となることをKFCはよく証明している。

 確かに、Dr.Lukeの言った通り、エクレシアとは人間が造った組織ではないのである。しかしながら、Dr.Lukeはそのことを重々知りながら、自分自身が組織のリーダーとなる栄光にしがみつき、これを捨てられなかったのだから、キリスト教界よりももっと罪が深いと言えよう。
 
 ペンテコステ・カリスマ運動は、特定の霊的指導者に信徒を従わせるという共通したスタイルを持っており、KFCはこの運動と手を切らなかったのであるから、以上のような結果に至るのも偶然ではない。

 牧師制度を非難しながら、自分が牧師同然の存在となって、信徒の心を盗み(しかも現役のキリスト教界に身を置いて、他の指導者に従っている信者たちの心を盗み)、自らを「神」として、栄光を受けているDr.Lukeには、もはやニッポンキリスト教界を非難することのできる資格がない。

 にも関わらず、相変わらず同氏は、キリスト教界だけに非があるかのように非難して、自分自身をかえりみようともしないのだから、そんな同氏に降りかかる報いは、おそらくキリスト教界の牧師以上に厳しいものとなるであろう。

 Dr.Lukeは現在、自分の活動を批判する人間は、みな同氏に「嫉妬している」のだと公言している。筆者のように、あからさまにKFCの異端性を指摘している人間も、同氏から見れば、まさに「Dr.Lukeに嫉妬している筆頭格の人間」ということになるのであろう。

 だが、実際には、そんな馬鹿げた理屈は、同氏の頭の中だけで作り上げられた被害妄想に過ぎない。何しろ、筆者にはこの老境にあって自分を「神だ」と宣言しているおじさんに嫉妬しなければならない理由が何も存在しない。

 筆者は自分の人生に満足しており、主がこれから何をして下さるのか、将来どんなみわざを見せて下さるのかに霊的飢え渇きと期待を寄せている。

 普通に人間的な要素だけから考えても、筆者には、Dr.Lukeに嫉妬する理由がない。筆者はDr.Lukeよりも長生きするし、Dr.Lukeはピアノを弾けるのだろうか、楽譜を読めるのだろうか、白鍵と黒鍵の区別が分かるのであろうか、キリル文字が読めるのだろうか、それから、女性ならではのたくさんの特権を、全く味わうことができないではないか。

 一体、なぜ、筆者がそれらを全部脇に置いて、Dr.Lukeに嫉妬しなければならない理由があるのか、あるいは、Dr.Lukeを目当てに群がっている信者たちに筆者が嫉妬している、という理屈になるのであろうか。

 だが、KFCに集まっている全ての人々よりも、筆者は年少であり、さらに、KFCにいる女性たちの多くが、家庭的に不幸である。結婚していても、夫の愚痴を外で触れ回るような人たちがおり、あるいは、夫憎しという気持ちから、もしくは家庭内の孤独から、Dr.LukeとKFCに希望を託し、現実逃避しているように見えてならない。自分の抱える人生の諸問題から逃げるために、KFCを利用しているのである。

 しかも、彼らはKFCの中で、Dr.Lukeという偶像を巡って、絶えざる内紛を経験して、互いに妬み合い、押しのけ合っており、そして、いつも最も有能な人々から順番に排斥されて今日に至っている。

 そういう恐るべき様子を実際に見ていながら、誰がそんな集団を妬むのであろうか。
 すぐに考えれば分かることだが、すべてはさかさまであり、逆なのである。Dr.Lukeこそ、キリスト教界と、彼に理解できない真理を知っている信者たちに、嫉妬して来た人間である。

 まず、Dr.Lukeがとりわけ憎しみを向けているキリスト教界の牧師には、自分の教会と信徒の群れがおり、彼らはDr.Lukeよりもはるかに商売上手でしたたかであるから、礼拝堂さえ持たないKFCとDr.Lukeを妬まなければならない理由は存在しないであろう。

 さらに、キリスト教界には、真理がそれほど開けていなくとも、Dr.Lukeには逆立ちしてもできないような、神に対する貞潔な生き方をする信者たちが存在している。多くの富はなくとも、主だけを愛する人々が存在している。そのような人々は、たとえ組織の中にいたとしても、エクレシアの一員なのである。

 そして何よりも、我々には、御言葉なるお方への確かな信仰が存在している。我々はキリストのうちにあって「神の子」とされる特権にあずかっているので、Dr.Lukeのようにキリストを否定して、「私は神である」などと決して宣言する必要がない。そのように言うことによって、Dr.Lukeは自らまことの神、唯一の神を否定して、自らを救いの対象外としているのである。

 大体、ペットが飼い主になり代わろうとは願わないのと同じように、我々は神の地位を乗っ取ろうと願う必要がない。ペットは慈しまれ、可愛がられ、育てられてこそ、幸せなのであり、我々は、神になるためではなく、神を賛美するために造られたのである。

 ペットは飼い主と共に泣き、喜び、楽しんでこそ、幸せである。ペットがパソコンに向かって複雑な作業をする必要もないし、生活のことで思い煩い、月曜から金曜まで満員電車に乗って通勤して働かなくとも良い。学術論文も書かなくて良いし、偉業を成し遂げることも期待されていない。そんなことは彼らに最初から求められていない。ペットを養うのは飼い主の責任であり、飼い主がペットの命を支えるために偉業を成し遂げるのである。

 我々は動物以上の存在であり、ペット以上の存在であり、神に愛され、育まれ、訓練される神の子供である。しかし、子供であり、僕でありながら、同時に、キリストは我々を友と呼んで下さり、花婿の愛を持って接して下さり、もし私たちが切に願い求めるならば、ご自身を現し、御心を分かち合って下さる。果てしなく偉大である方が、我々人間に過ぎない者を心に留めて、愛し、慈しみ、ご自身を分かち合って下さるのである。

 そのように愛され、キリストを通して、父なる神の子供として受け入れられているのに、一体、何の不満があって、我々が、神の地位を乗っ取る必要があるのか。神の子らは、時が来れば相続者として、父の財産をすべて受け継ぐのである。主イエスの御名によって、彼のものはすでに私たちのものとされている。御霊が、約束のものを受け継ぐ保証として与えられている。なのに、一体、何のために、我々が神の子の特権を捨てて、「神」ご自身になり代わろうとする必要があるのか。

 神から疎外されていればこそ、彼らはそのように企てるのである。相続者でないからこそ、家長を押しのけて、家の財産を乗っ取り、盗もうとするのである。

 現在のDr.Lukeの姿は、まるで一杯のレンズ豆のあつもののために、長子の特権を売り払ったエサウのようである。己の肉欲のために、子としての特権を売り払ってしまったので、もう「神の子である」と言えなくなってしまったのであろう。だからこそ、家全体を乗っ取ることによって、不法に相続にあずかろうと、家長を否定してまで、「私が神である」と主張しているわけである。まだ時も来ていないのに、自分が家長になろうとしているのである。

 腐敗した富や特権が彼らをそこまで盲目にさせたのであろうか。救いは、神の恩寵であって、人間の覚醒によっては決して手に入らないことを彼らは忘れたのである。エサウは泣いて懇願したが、長子の特権はもう戻って来なかった。

 これまでにもそうであったが、自分がいかに愛されているかではなく、いかに妬まれているかということばかり強調するDr.Lukeは、自ら悪しき言葉を振りまくことによって、自分で自分を貶め、自分で自分を呪い、自ら全世界の信者の憎まれ者・嫌われ者となり、悪霊の攻撃を自ら呼び起こしているのである。

 日本には言霊信仰というものがあるが、ましてクリスチャンは御言葉なるお方を信じているわけであるから、自分の述べる言葉の大切さを理解しなければならない。我々は自分の言葉によって、自分の歩みを規定しているのである。

 悪い言葉を自分に対して吐けば、悪霊がそれに乗じてやって来る。Dr.Lukeのように、絶えず「私はキリスト教界から標的にされ、大勢の信者たちから憎まれ、嫉妬され、歯ぎしりされる対象となっているのだ」などと豪語する人間が、無傷で済まされるはずがない。

 そういう自虐的な言葉は、悪霊たちの大好物であり、そういう台詞を吐き続けて自分で自分を傷つけている人間を、悪霊どもが放っておくことはなく、喜んで人間関係のもつれと混乱の中に投げ込み、彼を自分で述べた通りの結末へと導くであろう。

 いい加減に気づかなければならない。日本キリスト教界がDr.Lukeを攻撃しているのではなく、彼が自分で自分を貶めているだけである。 Dr.Lukeのことばを聞けば分かるが、同氏は自分で悪しき汚れた言葉を連発しては、自ら暗闇の勢力の敵対感情を煽り、自分で破滅と呪いを招き続けているのである。

 Dr.Lukeはこれまでニッポンキリスト教界に破滅の宣告を下し続けたが、かえってその報いは、KFCに降りかかり、キリスト教界の手先が送り込まれてKFCは会堂を失うということも起きた。
 
 また、KFCでは、絶え間なく、信者たちの妬みによる足の引っ張り合いが起きて来たが、それもまたすべてDr.Lukeが自らを神格化したことによって引き起こした現象である。

 KFCにはこれまで絶え間なく不幸な事件が起きて来たが、そうした事件は、全てDr.Lukeのことばによって招かれたものであった。今や、同氏は、自分や自分たちの団体が、全世界から憎まれ、とりわけキリスト教界から激しい憎しみの対象とされ、絶えず攻撃されているかのように主張しているが、そのように主張することによって、自ら悪霊につけ入るすきを与え、霊的に敵を呼び込んでいることに全く気づいていないのである。

 そんな自作自演劇によって自ら滅んで行こうとしているのだから、全く取り合う価値もないほど馬鹿馬鹿しいことである。しかも、自分たちを「神だ」と言いながら滅びゆくのだから、何とも形容しがたいほどに愚かしいパラドックスである。

 だが、約70年ちょっと前に、そういう人々が我が国には大量に存在していた。その人たちは、全身全霊で「神になる」ことを求めながら、異常かつ悲劇的な死に方で、死んで行ったのである。いつの時代にも、恵みによって救われるのでなく、自分から神になろうとする人々の行き着く先は、同じなのである。

さて、今回の本題は、T. オースチン-スパークスの「ネヘミヤ 今日への生けるメッセージ」を示すことにあった。これを読んで気づかされたことがある。

 筆者はこちらに来た当初、こちらには、エクレシアに属する民が大勢いるのだろうと想像していた。そこで、そのような信者たちと出会い、今までと違ったより充実した交わりを育めるだろうと期待していた。

 ところが、現実はまるで逆であった。筆者がここに来るまでは、高みに存在するかのように見えていた輝ける信者たちのほとんどが、筆者の仲間でないどころか、聖書の御言葉に反する憎むべきものを手放そうとしないアンシャン・レジームの代表者であることが判明したのである。

 彼らは、自分たちは組織を持たない、と言いながら、組織を作り、指導者を置かない、と言いながら、指導者を崇拝し、自分たちはキリスト教界の信者とは違う、と豪語しながら、キリスト教界よりももっと悪い霊的姦淫に落ちていた。そして、地上の富を誇り、肉欲を誇り、十字架を語りながら、自己を決して十字架の死に決して渡すことなく、神の御言葉を曲げて、高慢に、忌むべきものを宝として歩んでいたのである。

 筆者は当初、人間的な未熟さから、そのような人々を説得可能であるかのように思っていた。彼らを公然と辱めることがためらわれ、何より、彼らの存在が惜しまれたのである。だが、それが、不必要な同情であることに気づき、また、すべての説得は意味がなく、それはミイラ取りがミイラになる道でしかなく、この人々はもともと仲間ではなく、むしろ、公然と対峙せねばならない敵同然の裏切り者の相手だったのだ、という事実に気づき、彼らを説得しようという考えを捨てて、ただ主に向かって行ったのである。
  
 だが、しばらくの間、こうした事態は筆者の目に異常すぎるように映ったので、一体、これは何だろうと思いめぐらしていた。一体、筆者が期待していたエクレシアはどこへ行ってしまったのか。こんな有様が主の御心なのか? 何のために筆者はここに置かれたのであろうか? なぜにこれほど主に忠実な民がいないのか?

 だが、T. オースチン-スパークスの「ネヘミヤ」を読むと、そんな疑問も氷解する。
 
「終末の状況」、これは主イエスが地上に来られた当時の様子と重なる。

・・・ネヘミヤ記は一貫して主の来臨と関係しているということです。ルカはただちに主イエスを示します。彼は宮の中で少数のレムナントに囲まれています。これらのレムナントは旧経綸から来た人々であり、新経綸の証しを担います(なぜなら、主イエスが来られた時、証しを担っている人はごく僅かしかいなかったからです。シメオン、アンナ、他の少数の人々だけが、イスラエルの慰め、主のキリストを求めていました)。

主イエスは確かにこう言われたのである、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:8)

これは主の来臨に向けて、エクレシアが地上で大規模に拡大して行くというある人々の予測とは全く逆である。彼らは、神の家を建設するという名目で、絶えず人間の方ばかりを向いて、普通に考えても、到底、満足できない水準にある人々、しばしば堕落した人々を助けようと、活動にいそしんでいる。その結果、ほとんどの場合は、ミイラ取りがミイラに、盲人による盲人の手引きになって終わるのである。

キリスト者は、弱さや問題によって連帯することはできない。十字架を経て、エクレシアの戸口で自己に死んで、キリストの復活の成分によって結びつかなければ、エクレシアとは呼べない。キリスト以外のものによって連帯する時、決して持ち込んではならないものが神の家に持ち込まれ、交わりが損なわれることになるのを私たちは理解しなければならない。

おそらく、エクレシアの発展とは、規模の増し加わりではなく、質の深まりなのであろう。キリストが増し加えられる度合いが、エクレシアの拡大であり、それは明らかに規模の問題ではなく質の問題なのである。

そこで、終末の時代に、主に忠実な民がほんの少ししか残っていないように見えたとしても、落胆すべきではないことが分かる。

さて、ここからは解説を省くことにする。筆者の言いたいことは、もはや解説しなくても明らかだからだ。ネヘミヤの物語のどれほど多くの部分が、実際に、筆者自身の経験して来たことと重なるであろうか。

ネヘミヤは神の家の腐敗に直面した。大祭司や、神の家にいて高い地位に着いている指導者や信者たちの堕落を見た。信者が自分の兄弟を貶め、踏みにじり、兄弟を搾取することによって利益を得ているのを見た。また、信者が分不相応な贅沢を享受した結果、負債から抜け出られなくなっている様子を見た。信者と呼ばれている人々の多くは、大会、指導者のメッセージ、先人たちの書物など、外からの教えの助けにすがり、自分自身の信仰によって立っていなかった。また、多くの信者が、神によらない汚れた教えを大目に見て、異端が公然と神の家に入りこんでいた。ネヘミヤはこうしたものを見逃さず、「貴人たちと争った」――、すなわち、主イエスが商人たちを宮から追い出したように、妥協することなく、混合を退け、十字架に敵対する人の自己からのものを神の家から断ち切ったのである。そして、神の満足は、ただキリストだけであることを示し、キリストだけを土台として据えるよう、神の民に促した。神の家の回復はただそのようにしてしかなされ得ない。



当時の状況

さて、この本に戻ってそれを読み通し、ネヘミヤの時代の状況を示すものに注目するなら、とても嘆かわしい状況が示されていることがわかります。第一に、神の家の明確な証しは崩れ去っています。エズラが反対した問題が舞い戻り、よみがえっています。エズラ記が示すあの麗しい運動、神の家に関するあの真理の回復、この証しや神の家に反する事柄の放棄は、すべて台無しになっています。そして、昔の悪がふたたび台頭しています。証しは弱く、効果のない状況にあります。

エズラ記を背景として、エズラ記とその内容をすべて生き生きと心に留めながらネヘミヤ記を読み通すなら、ネヘミヤの時代、誰もそれらに気づいていなかったこと、そして、ネヘミヤが登場して神の御心にかなうことを行った時、初めてそれらが白日の下にさらされたことに、私たちはびっくり仰天するでしょう。

これは常にそうです。心から神のために出て行かない限り、そこにいかなる邪悪なものや神に反するものがあるのか、あなたは決してわからないのです。しかし、そうする時、以前なら存在するとは信じられなかったものを、あなたは見いだします。それらはひっそりしており、隠されています。ひっそりと進行しつつあり、人々の生活をとらえ、主の証しを破壊しつつあります。神のための積極的な何かが到来する時、初めてそれらの生命や活動が明らかになるのです。



抑圧

そのいくつかを見て下さい。主の民の多く(歴史的に言ってユダヤ人のこと)は、自分の兄弟たちの間で奴隷として売り飛ばされていました。主の民はお互いを売買しあい、自分の兄弟を犠牲にして、自分の権益や利益を求めていました。自分の兄弟を辱め、貶めることで、自分の地位を維持していたのです。

「今日の霊的状況はこれとは異なる」と言う自信は、私には到底ありません。自分の支配下に置ける人々がいなかったなら、また神の民をも自分の食い物にすることができなかったなら、一部の人々はどうするのでしょう?私にはわかりません。これは単純な形から極端な形に至るまで、様々な形で現れます。これは、あの聖くない不快な批判という単純な形で、主の民の間に現れるかもしれません。そうした批判は結局のところ、「自分たちは彼らよりも優れている」と言っているにすぎず、相手を犠牲にして自分たちを正当化しているにすぎません。

私たちの相互批判のうち、これが隠れた動機ではないものがどれくらいあるでしょう。ああ、あの永遠の恒久的な「しかし」、留保が常にあるのです!「ご存じのように、彼らは主を愛しています。しかし……」「彼らは主のためにとても熱心です。しかし……」「彼らには長所がたくさんあります。しかし……」。この「しかし」が、長所全体よりも大きく浮かび上がって、長所をすべて傷つけるのです。

この「しかし」を用いる私たちの多くは、「自分はすぐれている」という思い込みや自分のプライドのために、そうするよう駆り立てられているにすぎません。つまり、他の人を貶めることによって優位に立つことが、私たちにはあまりにも多いのです。そして、神の子供たちを損なう高ぶりのこの形態により、私たちは自分の優位性、地位、影響力を得ますし、また得ようとしているのです。これはそれを霊的に示す単純な例なのかもしれません。

新約聖書の勧めはすべて、これとは別の方向を強調しています。それが強調しているのは、他の人を自分よりも上に置くこと、他の人を自分よりも優れていると常に思うことです。これは反対の方向です。これをするのは肉にとってとても辛いことです。天的なものの証しを神の家の中で十分明確に維持するには、十字架が最初に到来して、この高ぶり、この傲慢、この狡猾な自己充足、自己評価、この「謙遜な」(?)批判――これは結局のところ、高慢の本質そのものです――の根元に直ちに至らなければなりません。

この事実を強調しなければならない理由はおわかりでしょう。高慢は他の多くの方法で現れるかもしれませんし、実際に現れています。たとえば、神の民を支配すること、地位を得ること、奉仕の特権や機会を自分が地位を得るための機会とすることです。新約聖書風の別の言い方をすると、次のようになります。

弟子たちは聖霊でバプテスマされる前、自分の兄弟たちよりも上に立つ機会、互いに優位を競いあう機会、首位の座を占める機会ばかり求めていました。主イエスは彼らに強い言葉を述べなければなりませんでした、「私はあなたたちの間で仕える者のようです」「人の子が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためです」。これが十字架の精神です。

さて、ネヘミヤ記に記されている状況に相当する霊的状況がまぎれもなく存在していることを、あなたは理解できると思います。他の人々が私たちの利益の手段とされており、霊的な意味で私たちは自分の益のために自分の兄弟たちを奴隷として売り払っているのです。もしよければ、あなたはこれをもっと詳しく追うことができます。



破産

この本に出てくるもう一つの点は、主の民であるユダヤ人の多くが破産した生活を送っていたことです。その理由の一部は質入れによるものであり、自分の息子や娘を奴隷として売り飛ばしたことによるものでした。つまり、彼らは自分の権利にしたがって生活していなかったのです。彼らは困窮に陥り、資産もありませんでした。それゆえ、威厳も誉れもなく、負債を負った民だったのです。

この状況も今日霊的にあてはまります。愛する人たち、私たちや主の民の多くは、今日、自分の身分にふさわしく生きているとは到底言えません。残高を調べるなら、破産していることが明らかになるでしょう。もっと簡単な言い方をすると、私たちのうちどれくらいの人がキリストの富を自分で知っているのでしょう?また、私たちのうちどれくらいの人が、他の人々の富に頼って生きなければならない誤った立場にあるのでしょう?

つまり、霊的助けになる外側のものをすべて剥ぎ取られるなら、集会や交わりやそうしたものをすべて取り去られるなら、私たちのうちどれくらいの人が、「私は自分の身分にふさわしく生きています。徹底的分析によると、そうしたあらゆるものから私は完全に独立しています」と言えるでしょう?

私たちはそれらを享受し、それらから益を受け、それらのゆえに神に感謝します。しかし、私たちの命を構成するものは外側のものではなく、主の尊さを知る自分自身の知識なのです。たとえ外側のものをすべて剥ぎ取られたとしても、私たちには決済する能力があり、立ち上がって言うことができます、「あなたは私自身の嗣業を奪うことはできません。私はキリストの内に嗣業を持っています。

それは集会、大会、メッセージ、外側のいかなるものにもよりません。それは主と共にある私自身の内なるいのちです。私は彼を知っているのです」。主はご自分の民の多くを召して、このような状況に直面させられるでしょう。それは、彼らが自分で発見して、見い出すためです。

愛する人たち、終末はまさにこのような状況かもしれません。私は確信していますが、「神の子供たちはみな、個人的な内なる方法でキリストを知り、キリストにあって充足と満足に至らなければなりません」「外側のものが取り除かれ、崩壊し、失望を与えたとしても、自分のためにキリストの内に豊かさを見いださなければなりません」と、終末の時に主は要求されるでしょう。

あなたには決済する能力があるでしょうか?あなたは抵当に入れられているのではないでしょうか?あなたは他の人々がくれるものにすがって生きているのではないでしょうか?それがあなたの支えなのではないでしょうか?

それとも、あなたは自分が主から得るものによって生きておられるのでしょうか?もしそうなら、もしあなたが自分のものを持っているなら、あなたは与えるものを持っており、この人々が陥っていたような物乞いや困窮の状態にはありません。

喜ばしいことに、ネヘミヤは奴隷として売り飛ばされていた人々を贖い、買い戻して、正当な権利を得させました。喜ばしいことに、ネヘミヤは生計を維持するための質入れや子供の売買の仕事をやめさせて、すべての人が自分の足で神の御前に立って自分の道を歩めるようにしました。これは主の民にとって重要な霊的思想であり、終末における運動を示しています。なぜなら、私たちはあまりにも長いあいだ恵みの外的手段にすぎないものに基づいて生活してきたからであり、主ご自身が自分にとっていかなる御方であるかに基づいてあまりにも少ししか生活してこなかったからです。




汚された神の家

次に、宮が異教徒によって汚され、世俗的な用途に用いられました。これを適用する必要はほとんどないと思います。この二つは共に進みます。天から直接生まれた純血の者ではない人々、新生した神の子供ではない異教徒が神の家の中に入り込み、主の民の間に場所を得る時、主の家はただちに主の御心とは正反対の関心や用途の方向にそらされてしまいます。地に引きずり降ろされてしまいます。神の家は地的なものにされ、あるべき場所から引き出されてしまいます。

敵は常にこれをしようとしています。真に再生されているわけではない人々や、再生されたと思い込んでいる人々を、主の民の間にこっそり入り込ませることが、敵の常套手段です。彼らは主の民に属する者としてやって来ますが、主の民ではありません。彼らの存在によって、この世的判断、この世的方法、人の方法、人の考えが、神の家の中に入り込み、それを肉の水準の低い生活にまで引き下げてしまいます。これは悪魔の主要な働きの一つであり、悪魔は絶えずこれを試みています。そして、この試みは成功することがあまりにも多いのです。

確かに、私たちはこれを今日見ることができます。なぜなら、これは大いに広まっているからです。これについて教えてもらう必要はほとんどありません。私たちは至る所でこれに気づきます。しかし、ネヘミヤは終末の神の動きを代表する者として、それに終止符を打ちます。彼は神の家から異教徒を一掃し、神の家が神の御思いにしたがって維持されるように、そして人の考えや人の方法が排除されるようにしました。

もちろん、私が物質的な神の家のことや、人々の集まる諸教会や場所のことを述べていると思う人は誰もいないでしょう。それもこの一つの適用になりうるかもしれませんが、私の念頭にあるのは、神のために天的な民になるよう召された神の民です。

この民の中に肉的な原則、天然的な活動や力を持ち込もうと、敵は絶えず試みています。それは、この証しを天上から引きずり降ろして、人によって運営される地的なものをそれから造り出すためです。ネヘミヤはそれを許しません。彼はそれに抵抗します。こういうわけで、彼は終末に神がなさることを示しているのです。




破られた安息日

次にまた、安息日が無視されていました。安息日がそのあるべき地位から転落し、軽視され、脇にやられ、見過ごされ、無視されていたとは、エズラからこのかた、とんでもないことではないでしょうか。

ここでただちに言いますが、私たちが今考えているのは、これに相当する新約聖書的な霊的意味であり、日のことではありません。ここの時としての安息日のゆえに私たちは依然として神に感謝していますし、それに固執して容易に手放しはしません。しかし、安息日に関する私たちの理解は遙かに高い水準に引き上げられていて、私たちは次のことを見るに至っています。

すなわち、安息日は、神が主イエスによって安息に入られる時の、神の働きの完了の歴史的な型なのです。また、安息日は御子のパースンによって神の働きがすべて完全に成就されたことを物語っているのです。

キリストによる神の働きの完成を脇にやり、見過ごし、無視するなら、あなたには安息も平安もありません。あなたは依然として荒野の中をぐるぐるとさまよっています。あなたは依然として、成就されていない不完全な働きの領域の中にいます。「成就した」という言葉を宣言する立場の上に、あなたはいまだ落ち着くには至っていません。

完成されたキリストの御業を霊的に真に理解している魂は、安息している魂です。神の安息の中に入って、悪魔の圧制から解放されています。完成されたキリストの御業は「もはや罪定めはない」と言っているのに、この事実にもかかわらず、悪魔は常に訴えや罪定めをもたらそうとしています。このせわしなさ、熱っぽい内省、自己分析、ひきこもりはすべて、安息日を見過ごしているせいです。決して安息することも、落ち着くことも、確信を持つこともなく、確かなものが何もないのは、すべてそのせいです。


私たちにとって安息日とは一人の御方であって、日のことではありません。したがって、毎日が私たちにとって安息日でなければなりません。私たちはみな、聖書の一節、テキストとして、「主の喜びはあなたたちの力です」という御言葉を引用しますが、これがこの素晴らしい御言葉の最も深い意味に違いありません。主の喜びとは何でしょう?「神はすべてのわざを休まれた」「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それははなはだよかった」。

主の喜びとはもっぱら、十字架によって完全に御業を成就されたキリストなのです。神はキリストにある新創造を見て、「よし」と言われました。「主の喜びはあなたたちの力です」。神はキリストによって完全に満足しておられます。これを見過ごしたり、見逃したりするなら、あなたは安息日の休みを失い、心の安息を失います。これがこの状況の原因でした。

しかし、ネヘミヤはそれを回復しました。終末時の運動は、キリストの御業の完全性と、キリストが御父にとって完全な満足であることを回復するものであり、神の民をその中にもたらすものです。

ああ、愛する人たち、この重要性はどんなに評価してもしすぎることはありません。なぜなら、敵は必死になってこれに反対するからです。二つの運動が終末を特徴づけることになると私は見ています。一方において、敵は神の民の足下から確信の根拠を断ち切るために、彼らから安息、確証、平安、確かさ、確信を奪い去ろうとしており、彼らを疑い、恐れ、心配で取り囲んでいます――兄弟たちを訴える者は、終末にこのような方法で、強烈な姿でやって来ます。

神はそれに対抗して、キリストによるご自分の御業の十全性と完全性を回復されます。そして、ご自分の民を安息日の休みの中に置き、その民の心をキリストの方に向かわせて、「これは私の愛する子、私は彼を喜ぶ」「あなたは彼にあって受け入れられており、私は満足しています」と仰せられます。これはみなキリストによります。

主イエスのこの証しを終末に回復すること、これは大いなる対抗要素です。「ネヘミヤ」は終末における回復のための一人の人かもしれませんし、あるいは一つの団体的な器かもしれません。いずれにせよ、「ネヘミヤ」は自分の務めの重要な一部分として、このような意味で安息日を確立しなければならないのです。




十分の一を納めることを怠る

状況の一部分として、もう一つのことがこの本の中に出てきます。それは、主の民が自分の持ち物の十分の一を納めるのを怠っていたということです。私たちが十分の一について述べる時、「十分の一だけが主に属しており、残りの十分の九は自分に属している」とは誰も思わないで下さい。これはまったく間違った聖書理解です。十分の一は全体を表すものであり、「一切を主のために所持する」という事実を示すものとして献げられたのです。

十分の一は「すべては主のものであること」の印であり、証しでした。十分の一が献げられた時、「この収穫全体の十分の一は、すべては主のものであることの印であり、あらゆるものを主からの賜物として主のために所持する印です」という精神で献げられました。

さて、生活がこの域に達する時、神の祝福があります。十分の一を献げることをあなたが始めておられるかどうか、私にはわかりません。それは始まりにすぎません。これが十分に確立される時、主はそれを遙かに超えることを可能にされることがわかるでしょう。そして、この道に沿って到来する主の祝福に、あなたは驚くでしょう。

主の民の多くは、収入や現世の所有物のことで苦しみ、心配し、悩んでいます。この領域での彼らの生活は苦しいものです。これは主に正当な地位を与えていないからです。「あなたの持ち物をもって、あなたの収穫の初なりをもって、主をあがめよ」「私を尊ぶ者を私は尊ぶ」。主のために所有するという主の法則を悟り、真っ先に十分の一をもって主をあがめるようにしさえするなら、現世の困窮から大いに解放されるでしょう。

この言葉を忍んで下さい。これをもう一度強調しても構わないでしょう。神はあらゆるものに対して権利を持っておられます。私たちの十分の一は、すべては主のものであること、そして、すべては主に属するものとして保たれ、用いられねばならないことの、初歩の証しにすぎないのです。

さて、ネヘミヤは民の所有や収入に関して主を正当な地位に置き、これを正常化しました。これは霊的繁栄と現世の安寧に寄与します。さしあたって、これはこれで良いことにします。




混合と区別の喪失

また次に、主の民の多くが外国の妻と結婚していたこと、そうして彼らの区別が失われていたことが、ここでわかります。ネヘミヤはそれらの婚姻関係を断ち、違反者たちに妻を郷里や祖国に送り返させて、そうして神聖な原則を確立しました。

さて、これに対応する霊的意味は、「回心していない夫や妻を持つ人は、彼らから離れ、彼らを無視しなさい」ということではありません。しかし、遺憾ながら多くの人がそうしています。回心していない夫や妻は、主のことも主の権益も心にかけません。そのため、彼らの伴侶たちは多くの集会に出かけて、彼らを独りぼっちにしてしまいます。この罠にかかってはいけません。

これに相当する霊的意味は、「旧約聖書の中のこれらの妻たちは、常に原則を表す」ということです。ご存じのように、女性は聖書全体を通して数々の原則の型です。ここで型として示されているのは、神に完全に属しているものとは異なる数々の原則との同盟、関係、関わりです。こうした原則のいずれかと自発的に関わるなら、主の民を常に特徴づけているべき、あの霊的区別は破られてしまいます。

これはとても広範な領域を網羅しており、数え切れないほど多くのことを含んでいます。しかし、これがその包括的適用です。ここに記されているのは、啓示された神の御旨に反する要素、特徴、原則、法則であり、主の御心、神の御言葉、御霊の道とは別の相容れないものです。ここに示されているのは、それと自発的に関わりを持つこと、それが自分と関係を持つのを許すことです。そのような道の結果、混合という子孫が生じます。これは、神に属するものと敵に属するものとの混合です。神の御言葉に啓示されているように、神が最も忌み嫌われるものは混合です。至る所で神は混合に反対されます。神は物事を全く完全かつ絶対的にはっきりと規定して、完全にご自分に属するものとされます。

ネヘミヤ記のこの城壁は、神に完全に属するものと神に属さないものとを分ける印です。神から出ていないものの割合や程度の問題ではなく、神からではないものが少しでもあってはならないのです。内側にあるものは隅々まで神に属していなければなりません。神に属していないもののための余地は、そこにはありません。ですから、これらの妻たちはその領域から追放されて、送り返されなければなりません。これが示されている霊的原則です。神は混合に反対されます。主の民の間には、恐ろしいほどたくさんの混合があります。




郊外のクリスチャンたち

述べるべきことが、おそらく他に二つあります。ここに見られる民の大部分は、エルサレムの外の郊外に住んでいました。そのため、エルサレムには手仕事に十分な人がおらず、ネヘミヤは彼らに、出て来て他の人々を中に連れてくるよう訴え、励まし、勧めなければなりませんでした。この霊的解釈はとても単純ですが重要です。

霊的郊外に住んでいる主の民が大勢います。彼らは主の証しの中にいません。ほんの少しだけ外にいるのかもしれませんし――ほんの少しとはいえ、外にいることに変わりはありません――あるいはかなり離れているのかもしれません。彼らはあらゆる種類の理由をあげることができるでしょう。「変人になりたくありません」「バランスを欠いていると思われたくありません」「バランスを取りたいのです」と言う人もいるでしょう。あらゆる種類の理由(?)が挙がるでしょう。偏見や疑いのためかもしれません。安全な道を進み続けたいからかもしれません。代価への恐れや、価を払いたくないからかもしれません。中に入ってネヘミヤに協力するなら、サヌバラテやトビヤが好意的でない目で自分たちのことを見るようになるためかもしれません。

これに関して全く確信がないからかもしれません。事がどう運ぶのか見ることを彼らは願っています。事がうまく運ぶなら、そして事が堅固な土台の上に据えられていることがわかるなら、彼らは危険を冒すでしょう!事が堅固なら何の危険もなく、したがって何の英雄的行為も栄誉もありません。

私が何を言っているのか、おわかりでしょう。主が新しいことをなさる時、また、全くご自分と天――そこには天然的な肉の人のための余地はまったくありません――に属するものに対する完全な証し、全く主に属するものに対する完全な証しを得ようとされる時、それは代価を払うこと、好意を失うこと、友人をなくすことを伴います。誤解や誤報を伴います。批判や、「あまりにも極端で変わっており、他のすべての人たちと異なっている」という非難を伴います。そのようなあらゆることを伴うのです!そうではないでしょうか?

さて、これはどうなのでしょう?問題は、神と共に完全に中に入るのか、それとも郊外にとどまり続けるのか、ということです。ネヘミヤは促し、勧め、嘆願し、励まし、手を差し伸べ、招き入れようとします。神はほむべきかな!必要を満たすのに十分な応答がありました。周辺にとどまるのか、それとも中に居てそのような立場の結果を受け入れるのか、私たちは決心しなければなりません。私たちは徹底的にこの問題に決着をつけなければなりません。私たちの中にはそうしなければならない人がいます。

これが何を伴うのか、どれだけ代価が必要なのか、私たちはわかっています。少なくとも、神と共にこの道を取ることによって実際に生じる必然的結果について、私たちはかなりよく見てきました。そうです、しかし、「これは主の道だったのでしょうか?もし主の道なら、長い目で見て、その外側にいても仕方がないのではないでしょうか。一時のあいだ何かを得たとしても、遅かれ早かれ、それは失われてしまうにちがいありません」ということこそ、まさに問題なのです。確かに、私たちは低い水準――損得――で物事を見るべきではありません。結局のところ、「私たちは何のためにここにいるのでしょうか――主のためでしょうか、それとも自分のためでしょうか?」という問題なのです。

主のためでしょうか、それとも自分のためでしょうか?肝心なのは、「主は何を欲しておられるのか?」ということです。それには代価が必要かもしれません。それは多くのことを意味するかもしれません。多くの方面で交わりを失い、好意を失うかもしれません。敵の恐ろしい悪意に巻き込まれるかもしれません。しかし、私たちに何ができるというのでしょう?私たちは神と共に進み続けなければならないのです。私たちはみな、この場所にいるでしょうか?この問題により、様々な思いが私たちの心に迫っているのではないでしょうか?




公の妨害

次に、締めくくるに当たって、これまで誤謬や悪について述べてきましたが、それらのものにネヘミヤはことごとく遭遇しました。それらの誤謬や悪が存在していたにもかかわらず、彼が登場するまで何の注意も払われていませんでした。有力な、影響力のある、公の階級、祭司たちや貴人たちが、それらの誤謬や悪を支持していました。大祭司ですらそれらにくみしていたのです。ネヘミヤはこれに反対しました。

主と共に進むことを決意する時、公的要素が妨害します。これはまさに真実です。私たちは影響力を持つ勢力に出会い、地位や身分のある人々から反対されます。大祭司のように神の最高の権益を公に代表し、人からもそのように受け入れられている人々ですら、神のご計画や神の御旨に対して好意的ではなく、神の完全な証しに全く反するものを大目に見ていることに、私たちは何度も気づきます。これはまさに真実です。

あなたたちの中にはこれを証明した人もいます。主と共に進むことを決意するなら、あなたにもこれがわかるでしょう。ネヘミヤはそれにことごとく出会いました。勇気をもって出会いました。「私は貴人たちと争った」と彼は言いました。影響力を持つ階級を前にして、彼は屈しませんでした。彼は公人たちに屈服しませんでした。彼は貴人たちと争いました。自分が神の委託を受けていることを彼は知っていました。これが人々の間で、天然的権威だけでなく霊的権威をも彼に与えたのです。なぜなら、神から与えられた立場に立って、神から与えられた務めを果たす時、神が自分の傍らに立って下さることを彼は知っていたからです。 彼をこのような人にした他の数々の要素が背景にあったことを、私たちは理解しなければなりません。しかし、これが彼の態度でした。

自分が神の御旨の中にあることがわかるのは素晴らしいことです。自分が神の働きの中にあることを知る時、あなたは大きな確信を持ちます。あなたがその中にあるものは、あなたが始めたものではなく、天から来たのです。そして、あなたはその中に天から霊的に入ったのです。それは神に属しています。これはあなたを道徳的にも霊的にも優った地位に置きます。そして、形式的なものにすぎない非霊的な威厳を上回る威厳をあなたに与えます。


<略>私たちは主の来臨にかかわる終末の時にいるのであり、終末における働きは際立った証しを起こすものなのです。その証しは復活のいのちと力によるものであり、まったく神から出ており、その中に人からのものは何もありません。この証しは、自らに反する多くのものを対処して取り除くことを要求します。」




最後にもう一度だけ繰り返しておこう、

「主の喜びとはもっぱら、十字架によって完全に御業を成就されたキリストなのです。神はキリストにある新創造を見て、「よし」と言われました。「主の喜びはあなたたちの力です」。神はキリストによって完全に満足しておられます。」

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2010年を終えて

いつものように夜行バスで帰郷してみると、美しい雪景色…。家族とともにゆっくり食卓を囲み、父の手料理を味わい、ピアノを弾いて、愛犬と遊びながら、平和な年末を迎えています。
 
2010年、まことに色々なことがありました。失業も、迫害も、別れもありました。しかし、驚くべきことに、主はその全ての問題に対して、必要な助けと、豊かな解決を与えて下さいました。

困難に見舞われたとき、恵みの御座に進み出て、御言葉に基づいて、悪しき霊のカルバリでの敗北を宣言し、そして主の取られた勝利を大胆に証し、御名によって心の願いを言い表したことによって、どれほど多くの恵みを私はいただいたことでしょう。

時代はカインとアベルの相克を見せています。しかし、真理に立つ者を主がどれほどの愛で愛し、守って下さるか、その愛の深さを今、私ははっきりと見せてい ただいています。多くのクリスチャンたちが、ただ物事のうわべだけを見て、人の耳に都合の良い事実を語ってくれる教師の方へそれていき、真理につまずきま した。

しかし、この先、神は私たちの隠れた動機をご覧になって、真理を喜ぶ者と、不義を喜ぶ者の違いを明確に明るみに出されるものと確信しています。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3-4)

今年の大きな収穫のひとつは、この時代の霊、そしてキリスト教界を見舞っている背教が、グノーシス主義と密接な関係があることを発見し、このテーマについ ての分析に具体的に取りかかれたことです。キリスト教界で流行している、何でも愛して赦して受け入れて…の、「砂糖まぶしの甘えの福音」が、本質的に真理 に敵対していること、そのような教えがアダムを高く掲げ、人を最終的にはアダムを神とする方向へ導くことを、明確に理解することができたのは幸いでした。

仮にどんなに人間が人間の罪を弁護し、人の弱さを大目に見、生まれながらの人間に属する全ての要素を愛し、赦し、受け入れるべしと主張したとしても、アダ ムに由来するものは全て、キリストが十字架ですでに廃棄されたため、アダムにはもはや何の希望もなく、旧創造はただ滅びにしか値しないということが、神の 事実なのです。

この神の事実に逆らって立ちおおせる者は、一人もいません。今、キリスト教界を含め、時代は、人間の罪という問題から必死になって目を背けようとし、むしろ罪人を公然と弁護し、罪人に対しては神の裁きがあるという明確な事実をさえ、何とかしてかき消そうと抵抗しています。

「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は 光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが 明らかにされるためである。」(ヨハネ3:19-21)

今、自分の行いの義により頼む人々は、信仰による義によって生きる人々を、あらゆる機をとらえて罪定めしようと目論んでいます。それはちょうどキリストが この世に来られたのに、人々が彼を受け入れず、自分の罪が明るみに出されることを恐れて、己を義とするために、命の君を十字架にかけてしまったのとまった く同じ構図です。「除け。除け。十字架につけろ。」(ヨハネ19:15)、これが命の君に対する世の反応でした。僕は主人以上の者ではないのですから、主が世から憎まれたように、私たちも、世から敵意が向けられるのはむしろ当然であることを覚えておく必要があります。

しかし、神は自ら報復される方です。何が真理であり、何が虚偽であるか、神は必ず、ご自分の威信にかけて証明なさいます。御言葉は、諸刃の剣よりも鋭く、 霊に属するものと魂に属するものを切り分けます。大祭司なる主イエスご自身が、何が神に属するもので、何が肉から出たものに過ぎないか、はっきりと切り分 けて下さいます。神はご自分により頼む者を、決して失望に終わらせません。ですから、どのような出来事に遭遇したとしても、私たちはただ平安のうちに主を 誉めたたえるのです。

預言者エリヤは450人のバアルの預言者と対決して、たった一人で神の側に立ちました。彼は民に向かってはっきりと言いました、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」(列王記Ⅰ18:21)

エリヤは神が僕に望んでおられることが何であるかを明確に知っていました。それは彼が情勢や人の思惑に流されて妥協することなく、どれほど不利な状況に立たされても、虚偽を虚偽としてきっぱり退け、人を恐れることなく、信仰によって、大胆に真理だけを証することでした。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは『あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。』と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

時代は真理と虚偽との切り分けを否定し、キリストとベリアルを調和させようとし、神の宮とされた人々を、自己を偶像とする人々の前に再び、ひざまずかせよ うとしています。しかし、私たちは真理に堅くとどまり、どのように脅かされても、十字架に敵対する教えに屈服することはしません。私たちは知っています、 神は偽りを言う者たちを必ず滅ぼされること、悪を行なう者は断ち切られること(詩篇37:9)、神が義とされた者を罪に定める者は、自らが罪に定められること(詩篇34:21)、義人は信仰によって生きること(ハバクク2:4)、己の力を神とする者は罰せられること(ハバクク1:11)、十字架に敵対する者の最後は滅びであること(ピリピ3:19)を。

アベルは殺されましたが、信仰によって今もなお語っています。バプテスマのヨハネは首をはねられましたが、彼は今なお荒野の声として語っています。私たちも闇の行いを捨てて、光あるうちに、光の中に来ようではありませんか。「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」(マタイ3:2)

この2010年、私たちは時代の霊がどのようなものであり、自分たちが今、何に直面しているのかを把握しました。しかし、2011年、真理に立つ者と、虚 偽を選んだ者との行く末の違い、キリストのまことの命を選んだ者と、アダムの命にとどまることを選んだ者との人生の違い、信仰による義を選んだ者と、律法 による義(自分自身の行いによる義)を選んだ者との末路の差はいよいよはっきりと現れてくるでしょう。それはますますむなしい言葉の議論を離れて、命対命 の対決として現れるでしょう。すなわち、罰せられ、廃棄されるしかないアダムの古き命と、とこしえに新しいキリストの支配するまことの命との差がますます 明らかになるでしょう。

ハレルヤ! この先の時代には、たった1人でも神を選んだエリヤの祭壇に火がつけられるのか、それとも、バアルの450人の預言者の祭壇に火がつけられる のか、神ご自身が答えを出されるでしょう。人間の力によらず、能力によらず、神ご自身の霊によって、神はご自分に属する民が誰であるか、はっきりと答えを 出され、証明して下さるでしょう。 「主はご自分に属する者を知っておられる。…主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」(Ⅱテモテ2:19)

ですから、私たちは何も恐れません。

主の御名は何と栄光と力に満ちているのでしょう! 主の裁きは何と正しいことでしょう! 主の御腕は何とご自分により頼む羊を力強く守って下さることでしょう! 主こそ私の魂の守り、高きやぐら、私は絶えず御翼の影に身を避けます。

「主はこころの打ち砕かれた者の近くにおられ、
たましいの砕かれた者を救われる。
正しい者の悩みは多い。
しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。
主は、彼の骨をことごとく守り、
その一つさえ、砕かれることはない。

悪は悪者を殺し、
正しい者を憎む者は罪に定められる。
主はそのしもべのたましいを贖い出される。
主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。」(詩篇34:18-22)

キリストかセルフか(2)――神の武具で身を固めなさい――

キ リストの十字架を信仰によって信じずとも、人の内には何らかの「神性」が宿っていると唱え、生まれながらの人が神のようになれると説くグノーシス主義は、 過ぎ去った時代の異端ではありません。そこには人がエデンの園で善悪知識を選び取って以来、神に敵対する悪しき霊と、生まれながらの人々の内に連綿と受け 継がれて来た神に対する反逆の教え――蛇の致命的な毒――が凝縮されてこめられています。

人のセルフを高く掲げ、「人は神のようになれる」と述べるだけでなく「人は神である」とさえ説くこの教えは、人類史始まって以来の人に対する蛇の誘惑であ り、アダムの堕落以後、生まれながらの人の内に流れ続けている蛇の毒でもあります。現代ではセルフ教の形となってキリスト教に入り込もうとしているグノー シスの教え――それは終末におけるクリスチャンを襲う背教の中核であり、現在、教界で起こっている様々な腐敗した現象は、この悪しき霊的な源が結んでいる 実に過ぎません。

聖書は「日の下には新しいものはない。」(伝道の書1:9)と告げていますが、実際に、私たちは過去の異端を分析することを通して、これからの時代、私たちクリスチャンを見舞うであろう試練を予想することができますし、私たちを厳しくふるいわける基準となる「キリストかセルフか」という問いかけを最確認することができます。

さて今回は、グノーシスの話はさて置き、いかにして私たちの自己が十字架で対処されるのかということを話します。なぜなら、セルフを否んでキリストの命に生きることは、ただ十字架によってのみ可能だからです。

主を救い主として信じて受け入れた後も、私たちの生まれながらの自己は、神の御手によって絶えず取り扱われ、十字架の刻印を経る必要があります。血潮に よって罪が赦されただけで私たちは満足してしまうべきではありません。主と共なる十字架の死に私たちの自己が服するのでなければ、私たちはキリストのよみ がえりの命の領域を実際に生きて知ることはありませんし、私たちの自己はいつまでも敵の要塞であり続けます。

人に対する神のお取り扱いは、私たちの霊・魂・肉体の全ての部分に渡って、キリストの十字架が深く実際として経験として刻み込まれ、私たちの旧創造が対処されて、新創造がもたらされることにあります。十字架は生まれながらの人の全部分に渡って適用される必要があります。

しかし、生まれながらの人のセルフ(肉)の狡猾さは、悪だけでなく、善を行うことができる点にあります。かつての記事を基にもう一度繰り返しますが、肉には様々な長所や美徳があり、肉の性質とは、必ずしも人の目に否定的に見えるものだけではありません。

私たちは誰しも自分の生まれながらの長所に自信を持っているものです。人と自分を比べて、自分はかれこれのことをした、かれこれの能力がある、と自負し、 それを理由に自己肯定しようという欲求が人にはあります。時には、弱さや、罪や、失敗でさえ、誇ろうとすればできますし、さらに、人は神のために何かをし た時、必ずと言って良いほど、それを自己の手柄とみなそうとします。

とどのつまり、私たちの魂は常に自分自身の力によって自分にOKを出そうとしているのです。そうすることによって罪の意識から逃れ、自分で自分を贖おうと しているのです。さらに、自分自身だけでなく、周囲を見まわす時にも、私たちは自己保存にとって価値があるかどうかという基準だけで、物事の善悪を判断し ようとします。人は自分にとって心地よいもの、自分を優しく守ってくれるもの、自分を高めてくれるもの、自分を傷つけないものにOKを出し、それを善と考 え、自分にとって厳しく煩わしく破壊的に感じられるものを全て悪として罪定めしようとするのです。

しかし、私たちのそのような自己を基準とした善悪の判断は、神の善悪の判断とは全く一致しません。何よりも、私たち自身がどれほど自分に誇りを持ち、自分 にOKを出したとしても、たとえ人が私たちをどれほど高く評価したとしても、神の目に生まれながらの人間は徹底的に腐敗しています。自分の力によって神の 御前に義とされる人は誰一人いません! それなのに、依然として、私たちのセルフは神の基準で物事を見ることを拒み、何とかして、十字架の死という神の刑 罰を逃れて、自分の力で自分の生まれながらの自己を延命させられないだろうかと試行錯誤を重ねているのです。それだけでなく、あれやこれやの方法でセルフ を誉めたたえ、あまつさえ、セルフを神を越えるものとして提示しようとさえしているのです。あらゆるものを自分のために利用し、神をさえ自分のために利用 してはばからない、生まれながらの人の性質は、アダム以来の古い人に属するものであり、神の目には邪悪です。そして、それは私たちが御霊に従って歩むこと を絶えず妨げています。

魂は、見られ、知られ、聞かれることを望む自分の中の『わたし』という自己愛、高慢の場所です。また、実際は『わたしは他の者のようではないことを神に感謝します』と言っている、宗教的高慢さに満ちた所でもあります。この宗教的高慢さは、最も霊的な魂の中にも忍び寄り、汚してしまいます。」(ウォッチマン・ニー全集第一巻、チャールズ・アシャー著、p.248 引用は福音書房の付録から。)

では、私たちは肉体と魂を支配するこの古い命の邪悪な性質を対処するために、何をすれば良いのでしょうか? 自分で自分を葬り去るために努力すれば良いのでしょうか? いいえ、自分の判断や自分の行動によって自分を対処できる人は誰一人いません。

ただカルバリがあります。主イエスの御血の清めは、私たちを罪の汚れから清めますが、キリストの十字架は、私たちの古い命の邪悪な性質そのものを対処します。チャールズ・アシャーは言います、「わたしたちの邪悪な性質を対処するのは、血の清めではなく、十字架です。『わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた』(ローマ六・六)。『キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を……十字架につけてしまったのである』(ガラテヤ五・二四)。」(同上)

カルバリの十字架において、主イエスはご自身の肉に私たちの肉を含められ、それらを全てはりつけにされました。そこで私たちの古き人は、キリストと共に死 刑宣告を受け、刑罰を受けて殺されました。私たちの古い命は、カルバリで死に渡されました。サタンの思うままに支配されていた肉は死んだので、私たちを支 配する効力を失いました。これが霊的な事実です。自分自身や自分を取り巻く環境がどれほど絶望的に見えても、私たちがこの霊的な事実に信仰によって立ち続 けるならば、キリストの死と復活の力が私たちの内側で実際となります。

主イエスは十字架に向かわれる前にこう言われました、「…ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:14-15)

これはカルバリの予表です。モーセが荒野で青銅の蛇を掲げた時、それを見た民は、背信の罪のゆえに冒された致命的な蛇の毒から救われて、命を与えられました(民数記21:9)。この時、民がしたことは、掲げられた青銅の蛇をただ見上げることだけでした。

今日、私たちが求められているのも、自分から目を離して、ただ十字架を仰ぐこと――それだけなのです。主イエスがペテロに水の上を歩くよう求めた時にも、 彼はペテロが自分を見ずに、ただ主イエスご自身だけを見つめるよう求められました。主イエスご自身を見つめることだけが、私たちに水(死)の上を歩かせる のです。それはなぜでしょうか? 主イエスは私たちのために罪なる肉体のさまで十字架に向かわれ、十字架の上で、自ら神の呪いを受けて呪いとなられること によって、私たち信じる者の代表として、蛇の毒に冒された私たちの肉を死に渡されたのみならず、蛇(サタン)そのものをご自分の死によって対処されたから です。 

「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。」(ガラテヤ3:13)からです。主を誉めたたえます、御子は私たちのために神の呪いを受けられましたが、サタンが彼にもたらした最大の脅威である死によって、サタンに勝利されたのです。主イエスは「死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし」(ヘブル:14)たのです。ハレルヤ! 主イエスは死を打ち破ってよみがえられました! カルバリで滅ぼされたのは、主ではなく、蛇(サタン)でした!

主イエスが私たちのために呪いとなられました! だから、十字架にかかられたキリストを見る時、御子を信じる者は、蛇(サタン)の死の毒から救われて生きるのです、もはや罪に汚されることのない、清く、新しい、神の霊なる命によって生きるのです。 

ただカルバリのキリストだけが、私たちの負債を全額返済するのです。「神は、わたしたちを責め て不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、 キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。」(コロサイ2:14-5)
 
カルバリ以後、御子を信じる全ての人には、主と共なる十字架を経て、堕落したアダムの命に死んで、キリストのご性質によって形作られる新しい命によって、復活の領域に生かされる新しい人となる道が開かれたのです。

「創造主はその御子のパースンにおいて、全世界の罪をご自身の上に担い<…>、血と肉にあずかり、堕落した 種族へと結合されるという束縛を受けられ、その神聖な性質において、あの堕落したアダムの命を十字架へともたらし、避けることのできない当然支払うべきも のでもあり、またその結果でもある死の刑罰をそこで受けられました。それは、彼がその堕落した被造物のために、神へと立ち返る道を切り開き、彼の性質と実質そのものから建造され、形づくられた新しい種族のかしらとなるためです。」(付録5、ジェシー・ペン-ルイス、「十字架は蛇を滅ぼす」、p.297)

十字架は堕落したアダムに属する私たちの古い命が、神の刑罰を受けて死に渡される場所であり、そして、私たちが神の命と性質にあずかる新しい種族として生 まれる場所でもあります。このカルバリに立ち、主の死に自分の死を同一化し、私たちの罪なる肉がすでにキリストと共に死刑に処せられたという事実を信仰に よって受け取り、どんな試練の中でも、そこに立ち続けることを通して、私たちはそれまで罪の肉による支配から解放されて、キリストの復活の新しい命によっ て生きるのです。

私たちの堕落した肉、魂、古き人は、これまで、邪悪な暗闇の勢力のもろもろの支配と権威に服し、邪悪な勢力によって思うがままに占有されてきました。わた したちの内の古き人は、常に、サタンとその邪悪な霊たちを強めるための武具となり、彼らの家財道具となってきました。しかし、主イエスはカルバリで彼らに 打ち勝たれ、強い人であるサタンを縛り上げ、サタンの武具とされて来た私たちの罪の肉を永久にさらしものとされたのです。こうして、サタンの霊的な支配と 権威は、私たちから解除され、サタンと邪悪な霊たちの支配と権威は永久に打ち負かされて、恥辱をこうむり、カルバリで、主と共に私たちも凱旋にあずかって いるのです。

「これが、その神聖な目的における十字架の意味であり、堕落した人がこの世、肉、悪魔に打ち勝つ勝利の道です。これが、堕落、すなわちサタンの霊によって占有された堕落した肉の意味です。これが、サタンに対する、また罪に対するカルバリの答えです。堕落した被造物が十字架につけられたのは、すべての人が古い種族から離れ去るという選択を持ち、最初のアダムという共通のかしらから離れ去り、『キリストにあって』再び新創造を始めるためです。」(同上、p.297-298)

私たちは長い間、罪に支配されてきたので、そこから抜け出すのはあまりにも困難である、と言うかも知れません。私はあまりにも弱く、罪や誘惑に打ち勝つ力 が少しもない、と言うかも知れません。しかし、私たちは決して、自分自身の弱さだけを見つめてそこでひしがれてはなりません。カルバリには神の勝利の命が あります。私たちは絶えず、十字架を通して、自分がすでに暗闇の支配から愛する御子の支配下へ、まことの新しい命の領域へと移し出されたことを信じるので す。

御子の十字架に基づき、私たちは古い命ではなく、新しい命である聖霊によって支配されて生きることを、大胆に神に願い求めようではありませんか! 十字架 は私たちをアダムの種族から連れ出し、新創造へ入らせる道をすでに開いてくれているのです! 私たちはこのあたりで、十字架をただ複数形の罪の贖いとして 受け取るだけの初歩の教えから一歩前に進み、十字架のより深い働きを実際に経験し、十字架で主イエスが肉体を割いて開かれた道を通って、キリストの新しい 命の領域を生きようではありませんか! しかし、よみがえりの命や、昇天だけを追い求めることがあってはなりません。私たちは絶えず十字架の死にとどまる ことによって、よみがえりの命を受け、暗闇の勢力に実際に勝利し、キリストの支配をこの地にもたらす人となるのです。

「キリストにある信者と、やみの力に関する神の目的は何でしょうか? これを見るために、わたしたちはカル バリにおけるキリストの働きへと目を向け、カルバリの勝利を理解しなければなりません。カルバリの十字架において、彼はご自身から邪悪な支配と権威とをか なぐり捨てて、彼らをさらしものとされました。

キリストの死において彼と同一化された魂は、彼と共に、また彼にあって、『やみの王国』から昇天された主の『統治する命』の中へと移されています。カルバリの勝利を通して、あなたは神の目的にあってやみの王国から移し出され、その領域の中を歩かず、その視点、尺度、方法、邪悪さを受け入れないのです。

しかし、これが実際の経験となる前に、あなたはまず、あなたに対する神の全き目的と、彼があなたをやみの力から移し出してくださったことを理解する必要があります。それは、やみの君がもうあなたに要求したりせず、あなたに対する権利も持たないようになるためです。というのは、神はその統治する命にあって、『(わたしたちをキリストと共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さった』からです。

たとえどれほどあなたがその経験に不足していようとも、あなたは自分に対する神の目的を決して引き下げずに、常に彼の意図を見つめ続け、彼が目的としておられる命へと、あなたを導いてくださるよう彼に求めなければならないことを覚えてください。あなたの立場は、『やみの力から移し出されている』というものです。

それでは、どれだけあなたは自分自身の中で、また自分の生活の中で、実際的に敵を縛っているでしょうか? <…>あなたの願いは、『やみの力から、その愛する御子の支配下に移され』、『キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さった』という神のみこころと同じでしょうか?(コロサイ1:13 筆者註)」(付録6、ジェシー・ペン-ルイス、「やみの力から移し出される」、p.300-301)


敵は何と活発にクリスチャンが主と共なる十字架の死を経験し、キリストのよみがえりの命の領域に生きることを妨げているでしょうか。敵は何と激しく、上げ られた青銅の蛇――すなわち十字架のキリスト――をクリスチャンの目から隠そうとしていることでしょう。主と共なる十字架の死を通して、クリスチャンが自 己に対して死に、肉に対して死んで勝利し、キリストと共に凱旋の行進において敵の武装を解除してさらしものにし、キリストと共に天で座につかせて下さった という事実、この事実をはっきりとクリスチャンが認識し、経験することを、サタンと闇の軍勢はどれほど恐れ、嫌っているでしょう!

キリストの命は統治する命であり、暗闇の全ての悪しき力に対する勝利の命です。もしもクリスチャンの存在を通して、地上にキリストの支配が及ぶなら、暗闇 の勢力は必然的にその領域から出て行かなければなりません。私たちは自分の力を奮うことによって敵に勝利するのではありません、組織や、計画や、何らかの 人為的な結束によって、霊的圧迫に立ち向かうのではありません。十字架の死によってサタンを打ち破られたキリストのよみがえりの命が、信仰によって生きる クリスチャンの内で実際となり、命なる御霊がクリスチャンの内側から流れ出すことによって、暗闇の軍勢はおのずから正体を暴かれて退去せざるを得ないので す。このような領域にクリスチャンは生きるべきです。

クリスチャンはキリストの十字架からもっと信仰によって勝利を引き出さなければなりません。キリストの十字架は信仰によって私たちに与えられている無限の 預金通帳のようなものです。そこから私たちが得られる勝利の一つ目は、罪に対する勝利であり、私たちが肉や、古い人に対して死んで打ち勝つことです。ローマ人への手紙第六章は、十字架によって、私たちが「罪に対して死んだ者である」ことを認めるように教えています。

さらに、私たちがキリストの御名のために人々に誤解され、そしられ、迫害され、罪に定められるようなことがあったとしても、最後には命そのものも脅かされ るようなことがあったとしても、その苦難を最後まで耐え忍ぶことによって勝利を得ることができます、子羊の血とあかしの言葉によって全ての偽りに立ち向か うなら、彼(サタン)に打ち勝ち、しかも「勝ち得て余りがある」(ローマ8:37)ことが約束されているのです。

「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう。」(ヤコブ3:7)と聖書は告げています。キリストの御名によって悪魔に堅く抵抗する(Ⅰペテロ5:9)ことは、とりわけ、終末の時代には必要となるでしょう。クリスチャンに対する激しい迫害が起こり、私たちは偽りの勢力に命がけで立ち向かわなければならないことでしょう。火のような試練(Ⅰペテロ4:12)が降りかかるだけでなく、最後には、反キリストの姿をとったサタン自身がまことのクリスチャンを霊的に圧迫し、肉体的にも殲滅しようとすることでしょう。

この激しい試練に血肉の力で打ち勝つことは、誰にとっても不可能です。しかし、ただ「しし―小羊」であるキリストの命によって、私たちは圧倒的に強くされ るのです。そのことを私たちは今から実際に学ぶよう求められているのではないでしょうか。激しい試みが臨んだ時には、すでに遅いかも知れません。

暗闇の圧迫は、しばしば、身近な人々(ほとんどはクリスチャン)を通してやって来ます。身近な人々が私たちに真理から逸れるように要求したり、圧力をかけ たりすることがよくあります。それらの要求は、私たちが御霊ではなく、再び、肉に従って歩むようにという内容であるかも知れません。もしも私たちが彼らの 助言や要求を拒否するならば、私たちは罪定めされ、彼らの愛を失って孤立し、多くの人たちから非難されるかも知れない状況に直面することでしょう。私たち の心は愛する者を失うことに苦しみ、極限まで圧迫されるかも知れません。その上、生活上のあらゆる問題が一挙に襲いかかって来るかも知れません。全ての名 誉を剥ぎ取られ、カルバリの他には何一つ私たちを生かすものはなくなるかも知れません。それでも、「あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。」(ローマ3:4)。神の眼差しは常にカルバリのキリストに注がれています。カルバリこそが神のご計画の中心であり、私たちにとっても圧倒的な勝利の場所なのです!

エペソ人への手紙第六章は、敵に抵抗することにおける、勝利の生活のこの最後の面を描写しています。主イエスは人に対して『小羊』であると共に、悪魔に対しては『しし』でした彼はもろもろの支配と権威との武装を解除し、彼らをさらしものとされました。そして、人の目には敗北であったことが、神の目には勝利となったのです。人の目には『恥』であったことが、神の目には勝利であったのです。サタンとその邪悪な軍勢すべてに対しては、キリストはしし、すなわち、ユダ族のししでした

エペソ人への手紙第六章でわたしたちは、やみの力に対する何か霊的な戦い、ししの命を見ます。ここでわたしたちは、兵士の霊を持った兵士を見ます。『こういうわけで、強くなりなさい』。人の側では、キリストは『弱さのゆえに十字架につけられた』(Ⅱコリント13:4―筆者註)のでした。しかし、彼は『強く』、『強い人』よりももっと強いのでした。彼の名は『強い』です『もっと強い者が襲ってきて』(ルカ11:22―筆者註)ですから、キリストの名は『もっと強い者』です。彼は『強い人』よりもっと強いのです。

ですから、『キリストの中に』立ち、サタンへと立ち向かう信者に対するメッセージの言葉は、『強くなりなさい』です。もはやあなたは、『弱さ』について語ってはなりません。あなたは人性と自分自身においては弱いかもしれません。しかしあなたは『主にあって強く』ならなければなりません」(付録4、ジェシー・ペン-ルイス、「勝ち得て余りがある」、p.291)


「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

「最後に言う、主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。」(エペソ6:10-11)

 

生きることはキリスト、死ぬことは益

「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」(ピリピ1:21)!と、パウロは言った。私たちクリスチャンは決して死に急ぐ民ではないし、殉死を美化する思想の持ち主でもない。だが、主のために生き、主の御旨に従って、主のために死ぬ…、それ以上の幸いがあるだろうか。

グノーシス研究のためにある著書を読んでいた時のこと、私の目は皇帝ネロの時代にキリスト教徒が殉教していくシーンに釘付けになった。想像を絶する迫害の 苦痛の中で、喜びに満ちて主のために命を捧げることを自ら選び取っていく人々の姿を見た時、私はこれが来るべき時代の出来事であり、必ずや、私自身の身に も降りかかる出来事であると理解した。殉教か、それとも、携え上げか? それはまさに先週の交わりで飛び出したテーマでもあった。

そこで、私はずっと殉教というテーマを考え続けて来たのだった。それでも、このテーマを発表することへのためらいがあった。私が殉教を語ろうとしているの は、単に魂の気負いに過ぎないのではないか? 私の心には、殉教という言葉を自分の信仰の飾りとして利用しようとする不純な動機が隠れてはいまいか? ま るでミデヤンの地に逃れたモーセのように、私の心には何かしらくじけてしまった部分、自分の召しにまっすぐに向かえない部分があった。喜びに満ちて主に命 を捧げることを約束して以後、私はどれほど自分の無能さを味わい、心ひしがれて来ただろうか。

だが、今週、兄弟姉妹との交わりの中で、燃える芝が私の心に迫って来たのだった。まるで強い勢いで背中を押されるように、「殉教について語れ!」という後 押しを私は受けたように感じた。ある兄弟は交わりの最中に心に迫られてエジプトを捨て去る決意を宣言した! ああ、主はどれほどそのような告白を私たち一 人ひとりに願っておられるだろう。今、みどり子、乳のみ子のように頼りない私たちが、心の全てをかけて、自分自身を主に捧げますと告白すること、私たち自 身がそうして完全に主の御手の中におさめられ、主によって御旨のままに自由に取り扱われる器となること、それ以上に主が私たちに最も願っておられることは ないのではなかろうか。

私はかつて主と一つの約束を交わした。主を離れていた時に犯した罪のゆえに、人生を焼き尽くされて大切な宝をことごとく失い、絶望の淵をさまよい、主に向 かって助けを叫び求めていた頃のこと、まだキリストの御霊の内住を経験的に知らず、ただ苦難から逃れて、神の御心を知りたい一心で、自分のために祈ってく れる兄弟たちを涙ながらに探し求めていた時のこと、私はある兄弟にこう尋ねたのだった。

「私には分からないのです、このままこの牢獄のような環境で、世間から完全に忘れ去られたまま、理不尽な最期を迎えるのが、神様の私への御心なのでしょうか?」
兄弟は答えた。
「そんな御心はないと思いますよ」

その時、藁にもすがる思いで、私は自分を生かしてくれる主の御旨があるという希望にすがりついた。私の人生は絶望の坂を転がり落ちるようにして、死へと向 かっていた。死はもうすぐそこにあって、避けることのできない結果のように思われた。だが、そこで犬死することが主の私への御心ではないかも知れない。主 は私を絶望から助けて下さるかも知れない。悲しみのどん底で、私は心のうめきをしぼり出した。
「私には神様に聞いていただきたい願いがあるのです。もしもどうしても死ななければならないなら、私は主のためにこの命をささげたいのです…」

その時、ボロボロに傷つき、プライドを完全にへし折られ、人生の夢は微塵に砕け散り、世間からは完全に見放されて、誇るべき何物も持たなくなった人間、肉 親からさえ疎んじられて居場所を失い、無に等しい存在となっていた私の言葉を、全世界の誰も、真に受ける必要はなかった。なのにその時、私にはなぜか、私 の打ち砕かれた魂の奥底からしぼり出された告白を、主は非常な関心を払って聞いておられるという確信があった。

私の心は叫んでいた。主よ、どうかこの罪人の私を憐れんで下さい。私を憐れんで下さい。この恐るべき苦しみから私を助け出し、御旨に沿って私を生かして下さい。もしそうして下さるなら、私は残る生涯をあなたにお捧げします…。

そして、私の言葉を聞いた兄弟は、喜びに満ちてこう言ってくれたのだった。
「姉妹、それは啓示ですよ!」

その時交わりで交わした言葉は、今も忘れることができない。それは主に対する私の約束となった。そこから私の信仰は真の出発を迎えたと言っても過言ではな い。自分のために生きる人生を捨て去り、ただ神のために生きることを願うと告白したその時から、私の人生ははっきりと変わり始めたのだった。もちろん、そ の決意の中に、私の魂の気負いが混じりこんでいなかったとは言えない。いざ十字架を目の前にした時、私が横に逃げて飛び退らない保証はどこにもない。だ が、たとえ私の決意がどれほど不純であろうとも、主は真実な方であられるがゆえに、ご自分へ向けられた、取る足りない人間の貧しい告白をも、決しておろそ かには受け取られないと私は信じている。願いを与えられるのは主であり、それを遂げさせて下さるのも主である。

ああ、主よ、もしもそれを私に言わしめたのが本当にあなたの御霊であるならば、どうぞ私の心の願いを、私の能力によらず、私の権勢によらず、ただあなたの 霊によって、遂げさせて下さい。私が本当に自分を否んで、十字架を取って最後まであなたに従う者となれるよう導いて下さい! あなたの御旨の中で生きるこ との素晴らしさをどうぞ私に教えて下さい!

ある自称クリスチャンたちは、自分の同胞であるはずのクリスチャンに尽きせぬ憎しみを燃やして、今も虚偽の告発を続けている。彼らにとって私の「罪状」 は、私が十字架のキリストを宣べ伝えたことにある。キリストの十字架の死とよみがえりを宣べ伝えたことが、私が告発される最大の理由となっているのであ る。何という恐るべき時代であろうか。ネロの精神はまさに現代にも息づいているのである。真の迫害が起こるのはもはや時間の問題であろう。悪しき闇の勢力 は、すでに今から、あらん限りの威嚇と中傷によって、地上で真理をあかしする兄弟たちの言葉をかき消し、キリストの十字架と血潮を覆い隠そうとし、キリス トのよみがえりの命をこの世から除き去ろうと願っている。

このような真理と虚偽との激しい衝突は、ちょうど教会時代の初期のクリスチャンと異端グノーシスとの戦いを彷彿とさせる。現代にあって、教会はまさにその当時と同じように背教に襲われているのである。

だが、私たちは決して、自分自身や、教会の権威を絶対化することによって偽りに立ち向かうことはしない。

私たちはこれからも誤解されるだろう。虚偽の告発を受けるであろう。圧迫されるであろう。罪定めされ、裁判にさえ引き出されるであろう。私たちの教会は脅 かされ、私たちは追い散らされ、あらゆる方法で痛めつけられるであろう。しかし、私たちは自らの権威を絶対化することによって、悪しき勢力に立ち向かおう とはしない。私たちは自らを権威とはせず、エクレシアを絶対化したりはしない。自分たちの教会こそが普遍的教会だと主張したりはしない。私たちの武器は血 肉のものではなく、御言葉であり、私たちが服従すべきは、目に見える人ではなく、キリストである! 私たちが常に立ち戻るべき場所は、キリストの流された 血潮の中、キリストの十字架というゼロ地点であり、そこは私たちが自己を権威化する場所ではなく、私たちの自己が徹底的に砕かれ、無化される場所である!

エクレシアはキリストなしに自存できる存在ではない。花嫁が花婿を抜きにして自分ひとりだけ栄光を受けるなど忌まわしいことである。教会がキリストご自身よりも自分自身を高く掲げるようなことは決してあってはならない。

だから、私たちが赴く場所は、絶えず主と共なる十字架というゼロ地点、私たち自身の終わりの場所である。ゴルゴダ――キリストと共に十字架につけられて、 私たちが死んでいる場所、全てのアダムが最大の恥辱をこうむって死に至らしめられている場所――ただそこだけが、私たちにとっての揺るぎない守りの砦であ り、この世と私たちとを分ける境界なのである。ただ十字架の死だけが、キリストのよみがえりの命を私たちに受けさせる場所なのである。もしも私たちがキリ ストの十字架の死という地点を離れ、自分自身の何かによって敵に立ち向かおうとするならば、ただちに私たちは罪に定められ、サタンの火矢が私たちを貫き、 私たちは命を失うであろう。

ゴルゴダにとどまり自分の命を拒む者が、この世で命を保ち、永遠の命をも受けるのであり、この世で自分の命を保とうとしてゴルゴダを捨て去る者が、この世 でも命を失い、永遠の命さえも失ってしまいかねないのである。殉教とは、日々ゴルゴダにとどまることなしには考えられない。ただ日々のゴルゴダだけが私た ちを殉教へと導くのである。そして殉教とは、何も肉体的な死という最後の瞬間だけを指すのではなく、私たちがキリストの十字架の死とよみがえりの証人とし て絶えず立ち続けることと同義である。

●ウォッチマン・ニーの黙想集『荒野に宴をもうけ』から

6月29日

いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る人よ-詩篇91:1
 
  誘惑者の目的は、つねに私たち自身が何かをするようにさせることです。対日戦争の初 期において、私たち中国人は数多くの戦車を失いました。また次の作戦を取るまでは、日本の兵器に対処することもできなかったのです。待ち伏せした狙撃兵が 一発の弾丸を日本の戦車に撃ち込みます。しばらく時間が経ってから、再び次の弾丸を撃ちます。またしばしの沈黙があって、次の弾丸を・・・と。すると戦車 の操縦者がいらいらしたあげく、そのうっとおしさの原因をつかもうとして、周囲を見回すために頭を出します。この瞬間、次の狙い済まされた一発が彼の最期を告げるのでした装甲の中に隠れている限りは、彼は完全に安全なのです。私たちの策は彼を外へとおびき出すことでした。同様に、サタンの誘惑も私たち自身をおびき出すことです私たちが隠れ場から出て、キリストの覆いから動き出し、自分自身に頼る状態に陥るならば、ただちに勝利を得ることをサタンはよく知っているのです


ああ、誰がこのような神の知恵を想像できたであろうか。キリストと共なる十字架の死という最悪 の終わりだけが、私たちにとっての完全な防衛となり、キリストと共によみがえらされるという、最善の始まりになるとは! 信仰によって主の十字架の死を自 分自身の死として受け取る者だけが、主の復活の命の領域を実際に味わい、生きることができるのだとは!

「人に命を与えるものが知識や本なのであればイエスキリストの十字架は全く必要がなくなったであろう。むしろ善悪の知恵により生きる知恵ある者をはずかしめるために、主は十字架により愚かさを選ばれた。そこに深遠な知恵がある。」ユテコ・ウー兄弟)
 

神の義 対 人間の行いによる義

これからしばらく、キリスト対セルフという問題を集中して扱いたいと思います。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(Ⅱコリント4:18)

かねてから、私たちはキリスト教界からのエクソダスを呼びかけて来ましたが、それも最終段階に入ったように思います。少し前に耳にした沈没船の幻の話を私は今、思い出しています。

今しも沈もうとしている大きな船があります。それは、日本丸を指すのでしょうか? これを日本丸もしくは、キリスト教界の霊的状態と考えて、私的解釈を述べてみたいと思います。

この船の中には、すし詰めになっている沢山のクリスチャンがいます。船は暗闇に覆われ、真理の光を見失っています。そして、攻撃されても、防衛能力がな く、安全感覚が失われているため、沈没寸前です。信徒たちは、てんでばらばらに自分勝手な願望を抱き、神に聞き届けられることのない自分勝手な祈りを捧げ ています。乗客の間には何の一致協力もなく、相争っているような始末ですので、この船がどこへ向かっているのか誰にも分かりません。船の中では、風が止 まっていますが、それは人の思いに妨げられて、御霊の働く余地が全くなくなっていることを意味します。空中には人々の捧げた身勝手な祈りがゴミとなって浮 いており、空気は淀み、船は窒息状態です。人々は脱出先を探しますが、どこへエクソダスすればよいのか分かりません。

混乱に乗じて、偽りの「救い」を提供する様々な救助船がやって来ます。耳に心地よく、甘い理想を唱える、偽りの福音が解かれます。十字架を抜きにした異端 の教えが流入します。あの教会、この教会、あの集会、この集会、あの先生、この先生、あのメッセージ、このメッセージ、様々な船が救助を申し出ます…。

「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。」(Ⅱテモテ4:3-4)

救助を申し出た船は、自分たちの組織に信徒を取り込もうと、言葉巧みに語りかけます。惑わされる人々が大勢出ます。ですが、ある人々は強烈な違和感を覚 え、救いはそのように目に見える組織や、人の自己を甘やかす教えの中にはないと気づきます。そして、脱出先は、ただ主の御名の中へ、血潮の中へ、十字架の 中へしかないと気づきます。そうして彼らは他の人々が空中に投げ捨てた十字架をしっかりと掴んで、上へと引き上げられて行きます…。

この幻の解釈はともかくとして、今、主ご自身が、御名の中へエクソダスする人々を集めておられるのではないかと私は思います。恐らく、エクソダスした人々 は、主の御名だけを頼りに、御霊の導きだけを頼りに、御言葉なるキリストにとどまり、まことの命なるお方と共に、誰も歩んだことのない道を歩むことになる のではないでしょうか。そして、終末の時代に、この道を歩むためには、ある程度、覚悟が要るのではないでしょうか。なぜなら、そこには人にやさしいレール や手すりはないからです。

主イエスは言われました、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」( ヨハネ14:6)。 私たちはこの道であられる方を通ってしか、父なる神の御許へ召されることはできません。さて、この道を歩むことが、人間に快楽や、地上での栄誉を約束して くれるという記述は、聖書には見当たりません。むしろ、この道は、人間にとって苦労の多い、厄介なものとなるでしょう。

「それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった…」(使徒9:2)
「ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言ったので…」(使徒19:9)
「そのころ、この道について容易ならぬ騒動が起った。 」(使徒19:3)
「そして、この道を迫害し、男であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを死に至らせた。 」(使徒22:4)


この道を行く者は、悪し様に言われ、騒動の中心となり、迫害され、拘束され、投獄され、ついには死にさえ至るかも知れません。これは大袈裟でしょうか? いいえ、主ご自身が次のように言われたのです。

「わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々 がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。 」(ヨハネ15:20)

特にこの時代、もしも真に主イエスの僕であるならば、好むと好まざるとに関わらず、キリストの苦しみにあずかる者とされることを避けられないように思いま す。それはこの地上でキリストの御身体全体が豊かにされるためであり、かつ、やがて来るべき時代に主と共に栄光にあずかるためです。

「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。」(コロサイ1:24)

「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。」(Ⅰペテロ4:13)


この先、目に見えるものの偽りはますます深まり、迫害は、クリスチャンを名乗る人々から最も激しくやって来ると予想されます。それはちょうど、主が肉体を 取って地上にこられた時に、まことの命の君をユダヤ教徒が受け入れず、憎んだのと同様の構図です。その当時、既存の宗教界がまことの命の君を受け入れな かったのは、当時の宗教が、神による義ではなく、人の行いによる義を追い求めていたからです。

律法学者、パリサイ人たちは、自分の行いによって自分の正しさを獲得しようとし、自らの義により頼んでいました。彼らは神に対してとても熱心ではありまし たが、生まれながらのアダムの命によって(肉の努力によって)、神に義とされ、御国に受け入れられることは不可能であることを認めませんでした。

主イエスは人が律法を守るという行いによっては、決して義とされることはないという事実を示されました。そして、十字架上で、私たち全てのアダムの命が例 外なく、神により死の刑罰に定められていることをお示しになられ、ご自分の肉体を通して、全てのアダムを死に渡されました。神は主イエス・キリストの十字 架を通して、全てのアダム(肉、魂の命)に対して、死の宣告を下され、万物が十字架で死に定められたのです。

私たちは一人ひとりが信仰によって、このキリストと共なる十字架の死を実際のものとして受け取る必要があります(それは自動的に私たちのものになるのでは なく、信仰に基づいて実現します)。キリストと共なる十字架を通して、私たちはアダムの古き命に死んで、肉に死んで、自己に死に(これは自己が消失するこ とを意味しません)、この世に対して死んで、主と共によみがえらされることにより、もはや罪に汚染されたアダムの種族としてではなく、キリストに属する新 しい種族として、神の新しい命の領域を生きることが可能になるのです。

「すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。」(ローマ9:8)
すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」(ローマ8:14)


アダムの命によっては、誰も御国に入ることはできません。水と霊によって新しく生まれた者が、御国にふさわしい神の子供たちなのであり、私たちは再生した後も、肉に従って歩まず、御霊に従って歩むことを継続的に学ぶ必要があります。

「なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。」(ローマ8:7-8)

しかし、今日、多くのクリスチャンが肉の努力によっては神の義に達することができないという事実を見ず、かえって肉の努力に励み、神の義ではなく、己の義を打ちたてようと努力しています。

肉による努力は、神を喜ばせることはできません! しかし、キリスト教界では、キリストが十字架の贖いによって達成した神の義を退けてまで、人が行いによ る義を再び打ちたてているのです。日曜礼拝、祈祷会、十一献金、各種の集会や運動への参加…等がほとんど義務のように課され、信徒は熱心にそれを守ること によって、人の目に義と認められようと努力しています。多くの信徒が、指導者や他の信徒から罪定めされることを恐れて、人の言いなりになり、神の目に義と されることでなく、人の目に義と認められることを追い求め、恐れによって連帯し、不信に目をくらまされ、自由を奪われています。

これは今日的な文脈での、クリスチャンの律法による義への逆戻りです。しかし、このような誘惑はキリスト教界だけにつきものなのではありません。私たち自 身も、もし自己に従って生きるなら、同じように欺かれるでしょう。どんなに熱心に御言葉を宣べ伝えても、どんなに霊的な教えを学んでも、どんな苦難を耐え たとしても、もしも私たちが行いによって義を打ちたてるならば、それは御霊の思いには反するのであり、神の義に届くことは決してないのです。

「わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜ なら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の 終りとなられたのである。」(ローマ10:2-4)

さて、神の義とは何でしょうか。それは人が自分の行いによって義と認められようとすることではなく、恵みによって、キリスト・イエスの十字架の贖いを信じることによって、代価なしに義とされることです。

「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(ローマ3:21-28)


このように、私たちが義とされるのは、全て信仰により、恵みによります。私たちの自己の内に何らの誇るべきものもありません。私たちの自己の内にはただ不 義しかなく、私たちの自己から出て来る最善の努力も、最善の理想も、神の御前に義と認められるものは一つもありません。たとえ善行を行ったとしても、それ を私たちが誇りにすることは虚しいのです。

にも関わらず、多くのクリスチャンは自分たちの教会の建物を立派にしたり、奉仕者を増やして教会の規模を拡大したり、伝道に力を注ぎ、立派な礼拝を作り上 げ、各種の行事に専心し、それが「神の栄光」のためであると思い込んでいます。しかし、そのような努力に対しては、主なる神はこう仰せになるだけでしょ う。

「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。」(使徒17:24-25)

人は自分の力によって神を喜ばせたり、神の義に達しようとするせわしない努力をやめるべきなのです! 私たち自身からは、何の良いものも生まれないことを 認めるべきなのです! 自分の理想によって神に届くことは出来ないと認めるべきなのです! しかし、肉に従って歩む者、アダムの命を義としようとする者に は、この事実がどうしても理解できません。

生まれながらの人間の知恵は、自分の最善の努力や知恵や理想さえ神の御前には忌まわしく、自分が徹底的に罪に汚れており、ただ死の刑罰にしか値しないなど とは、決して認めません。生まれながらの人は、自分の罪が御子を十字架につけたのだとは決して認めようとしません。生まれながらの人間の知恵は、神の義を 受け入れず、神の知恵に逆らってでも、何とかして自分が義であることを自分で証明したいのです。

人の肉は数々の善行を行うことができ、麗しい理想を考え出すことさえします。そしてその見せかけの美しさの中に自己の腐敗を隠そうとします。私たちは大 抵、口では自分が罪人であることを認めていますが、心の中では、あの人よりはまし、この人よりはまし、などと思って、自己を高く評価しているのです。自分 が神の御前で絶対的に腐敗しており、自分の古き人の努力によっては神を喜ばせることはできず、自分の生まれながらの命が主と共に十字架の死に渡されること だけが神の御心にかなうことなのだということを、生まれながらの人はどうしても認めることができないのです。

このように、人の生まれながらの命から出て来る思いは、自己の絶望性を認めず、神の御思いに常に対立・敵対します。私たちの中にも、まだ多分に、この自己 というものが生きています。もしも御霊によって、神ご自身が、私たちに自己の腐敗を知らせて下さり、私たちの自己を十字架でより一層、深く対処して下さら ないならば(このことは私たちの努力によっては実現できず、ただ私たちの信仰に応じて主が上から十字架を実際として下さることによります)、たとえ神を信 じているつもりでも、私たちの自己は増長し、神の義を否定して己の義を築き上げようとし、神をさえ、自己の栄光を築き上げるための手段としようとするで しょう。人の自己とは本来、そのようなものです。

全ての異端は、人の生まれながらの自己保存の思いに基づき、キリストが十字架で全てのアダム(肉、自己、魂の命)を終わらせたことを否定して、むしろ、ア ダムを延命させ、アダムの命を栄光化し、アダムを神の位置にさえ置き、それを教義体系として確立します。異端の教えの根幹は、アダムが堕落したために、人 の生まれながらの命は徹底的に罪によって腐敗し、もはや死にしか値しなくなってしまったという事実を認めず、キリストの十字架におけるアダムの死の必要性 を退けて(あるいは十字架の概念を骨抜きにして)、生まれながらの人間を義とし、生まれながらの人間を高く掲げ、生まれながらの人間を神の子(もしくは 神)にまで祭り上げようとするところにあります。これまでに様々な自己改善、自己啓発、自己覚醒、ユートピア主義的な人間改造の試みが存在して来ました が、その中心は、キリストの十字架を退け、アダムを肥大化させて神に至らしめようとすることであり、アダムを神とすることが全ての異端の共通の特徴なので す。

しかし、まことのクリスチャンは、アダムの命には何の希望もないことを知っています! もしも私たちが自己に従い、肉に従い、生まれながらの命に従って歩 むなら、そこには、ただ罪以外の何も見つけることはできません。私たちは日々、真に十字架を経て、古き命を死に渡し、キリストにある新しい人としていただ くことを神に願い続けるのです。

本来、神の教会とは、キリストと共なる十字架の死とよみがえりの命と、子羊の血による一体性の上に初めて建て上げられる、目に見えない霊的な建物のことで す。ですから、人手によらずに切り出された岩なるキリストの命の上に建てられた教会と、人手によって切り出され、人の肉の努力によって建て上げられた人工 的な建造物とは、決して一致しません。このような意味で、十字架の死を経ることを拒み、神よりもセルフを高く掲げているクリスチャンと、主と共なる十字架 の死を土台とし、自己を否んでキリストのまことの命に生きるクリスチャンは、今後、ますます明確にふるい分けられ、その相違と対立がはっきりするでしょ う。

終末には、十字架に敵対し、セルフの死を拒む人々の一群が、一大勢力として結集し、キリストの十字架の死と復活を証する真理を、再び、世から取り除こうと することが予想されます。終末の迫害には、第二のアダムなるキリストの十字架の御業を否定しようとする第一のアダムに属する人々からの激しい挑戦、キリス トのまことの命に対抗して人の生まれながらの自己を延命させようとする勢力の死に物狂いの抵抗がこめられるでしょう。

しかし、神の永遠のご計画は、アダムの堕落によって神から隔絶し、サタンの陣営に渡されてしまった人間を含め、万物をキリストの十字架の和解を通して、一 つに帰することです。万物の相続者は御子です。万物はいずれ御子の支配に完全に服するようになります。このことはさまざまな形で御言葉に明記されていま す。(ヘブル1:2)(ピリピ3:21)(エペソ1:22)(ローマ11:36)

万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。」(コロサイ1:16)

「そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。」(コロサイ1:20)

「そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。」(Ⅰコリント15:28)


このように、キリストを通して、キリストの血によって、万物が一つとされることが神のご計画なのです。しかし、生まれながらの人の自己は、これに逆らい、 自らの罪を認めず、血潮の必要性を認めず、キリストの十字架による和解を退けて、キリストのまことの命に対抗して、生まれながらの自己の力によって、万物 を一つにしようと考えるのです。すでにそのような計画が見られますが、生まれながらの人間は、人知によって作り出された理想を持ち出して、一致を唱え、融 和を唱え、再び、未曾有の規模で、天にまで届く建造物を建て上げようとするでしょう。

「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう。」(創世記11:4)

さて、私たちはどちらの道を選ぶのでしょうか。セルフの力を結集させて、己を義とし、己の威信を誇るために、果てしない努力を積んで、自分の理想によっ て、神の義に達しようとするのでしょうか? それとも、「義人は信仰によって生きる」ことを信じて、自分で自分を救おうとする無意味な努力をやめて、自ら 罪人として十字架の前に頭を垂れて、子羊の贖いの血潮の恵みにすがって義とされるのでしょうか?

最後に、オースチンスパークス著、「キリストのからだなる教会」第二章から。

ルターは任務を帯びてローマに遣わされました。彼はその都と特別な懺悔の場所を訪問することを熱望していました。それは、その階段を手と膝でのぼることにより、特別な恩恵と罪の赦しなどを得るためでした。

この恐ろしい苦行を自分に課せば、義とされて安息を得るだろう」と彼は考えました。彼はのぼり始めました。のぼるのが大変になってきた時、何かが「義人は信仰によって生きる」と言いました。

彼はふたたび進みました。すると、あの声がふたたび、「義人は信仰によって生きる」と言いました。彼はさらに階段をのぼりました。すると、また声がして、一つの単語を強調しました、「義人は信仰によって生きる(ハバクク書2章4節、ローマ人への手紙1章17節、ガラテヤ人への手紙3章11節、ヘブル人への手紙10章38節)。これが彼を回心に導き、行いによる義というローマの体系全体を放棄するよう彼を導いたのです。

「義人は信仰によって生きる」。大事なのは私たちの信仰そのものではなく、私たちの信仰の対象である主イエスの御業です。私たちは自分の信仰の度量をあまりにも重んじますが、大切なのは私たちの信仰の対象です。私たちが安息の中に入るのは、キリストと、私たちのための彼の完全な御業という対象の上に、自分の信仰を据える時です私たちはもはや、手と膝で石段をのぼりません

これは主の民の団体生活にとって基本的なことです。不安、発酵、不満足の要素は出て行きます。そして、私たちは神との平和を持ちます。調和を得ます。なぜ なら、調和は平和の別の言葉にすぎないからです。これが安息です。聖書の中の平和は、何らかの雰囲気ではなく、完全な調和の内に全ての要素が互いに適切に 調整されていることです。」


ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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