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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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神の義 対 人間の行いによる義

これからしばらく、キリスト対セルフという問題を集中して扱いたいと思います。

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(Ⅱコリント4:18)

かねてから、私たちはキリスト教界からのエクソダスを呼びかけて来ましたが、それも最終段階に入ったように思います。少し前に耳にした沈没船の幻の話を私は今、思い出しています。

今しも沈もうとしている大きな船があります。それは、日本丸を指すのでしょうか? これを日本丸もしくは、キリスト教界の霊的状態と考えて、私的解釈を述べてみたいと思います。

この船の中には、すし詰めになっている沢山のクリスチャンがいます。船は暗闇に覆われ、真理の光を見失っています。そして、攻撃されても、防衛能力がな く、安全感覚が失われているため、沈没寸前です。信徒たちは、てんでばらばらに自分勝手な願望を抱き、神に聞き届けられることのない自分勝手な祈りを捧げ ています。乗客の間には何の一致協力もなく、相争っているような始末ですので、この船がどこへ向かっているのか誰にも分かりません。船の中では、風が止 まっていますが、それは人の思いに妨げられて、御霊の働く余地が全くなくなっていることを意味します。空中には人々の捧げた身勝手な祈りがゴミとなって浮 いており、空気は淀み、船は窒息状態です。人々は脱出先を探しますが、どこへエクソダスすればよいのか分かりません。

混乱に乗じて、偽りの「救い」を提供する様々な救助船がやって来ます。耳に心地よく、甘い理想を唱える、偽りの福音が解かれます。十字架を抜きにした異端 の教えが流入します。あの教会、この教会、あの集会、この集会、あの先生、この先生、あのメッセージ、このメッセージ、様々な船が救助を申し出ます…。

「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。」(Ⅱテモテ4:3-4)

救助を申し出た船は、自分たちの組織に信徒を取り込もうと、言葉巧みに語りかけます。惑わされる人々が大勢出ます。ですが、ある人々は強烈な違和感を覚 え、救いはそのように目に見える組織や、人の自己を甘やかす教えの中にはないと気づきます。そして、脱出先は、ただ主の御名の中へ、血潮の中へ、十字架の 中へしかないと気づきます。そうして彼らは他の人々が空中に投げ捨てた十字架をしっかりと掴んで、上へと引き上げられて行きます…。

この幻の解釈はともかくとして、今、主ご自身が、御名の中へエクソダスする人々を集めておられるのではないかと私は思います。恐らく、エクソダスした人々 は、主の御名だけを頼りに、御霊の導きだけを頼りに、御言葉なるキリストにとどまり、まことの命なるお方と共に、誰も歩んだことのない道を歩むことになる のではないでしょうか。そして、終末の時代に、この道を歩むためには、ある程度、覚悟が要るのではないでしょうか。なぜなら、そこには人にやさしいレール や手すりはないからです。

主イエスは言われました、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」( ヨハネ14:6)。 私たちはこの道であられる方を通ってしか、父なる神の御許へ召されることはできません。さて、この道を歩むことが、人間に快楽や、地上での栄誉を約束して くれるという記述は、聖書には見当たりません。むしろ、この道は、人間にとって苦労の多い、厄介なものとなるでしょう。

「それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった…」(使徒9:2)
「ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言ったので…」(使徒19:9)
「そのころ、この道について容易ならぬ騒動が起った。 」(使徒19:3)
「そして、この道を迫害し、男であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを死に至らせた。 」(使徒22:4)


この道を行く者は、悪し様に言われ、騒動の中心となり、迫害され、拘束され、投獄され、ついには死にさえ至るかも知れません。これは大袈裟でしょうか? いいえ、主ご自身が次のように言われたのです。

「わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々 がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。 」(ヨハネ15:20)

特にこの時代、もしも真に主イエスの僕であるならば、好むと好まざるとに関わらず、キリストの苦しみにあずかる者とされることを避けられないように思いま す。それはこの地上でキリストの御身体全体が豊かにされるためであり、かつ、やがて来るべき時代に主と共に栄光にあずかるためです。

「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。」(コロサイ1:24)

「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。」(Ⅰペテロ4:13)


この先、目に見えるものの偽りはますます深まり、迫害は、クリスチャンを名乗る人々から最も激しくやって来ると予想されます。それはちょうど、主が肉体を 取って地上にこられた時に、まことの命の君をユダヤ教徒が受け入れず、憎んだのと同様の構図です。その当時、既存の宗教界がまことの命の君を受け入れな かったのは、当時の宗教が、神による義ではなく、人の行いによる義を追い求めていたからです。

律法学者、パリサイ人たちは、自分の行いによって自分の正しさを獲得しようとし、自らの義により頼んでいました。彼らは神に対してとても熱心ではありまし たが、生まれながらのアダムの命によって(肉の努力によって)、神に義とされ、御国に受け入れられることは不可能であることを認めませんでした。

主イエスは人が律法を守るという行いによっては、決して義とされることはないという事実を示されました。そして、十字架上で、私たち全てのアダムの命が例 外なく、神により死の刑罰に定められていることをお示しになられ、ご自分の肉体を通して、全てのアダムを死に渡されました。神は主イエス・キリストの十字 架を通して、全てのアダム(肉、魂の命)に対して、死の宣告を下され、万物が十字架で死に定められたのです。

私たちは一人ひとりが信仰によって、このキリストと共なる十字架の死を実際のものとして受け取る必要があります(それは自動的に私たちのものになるのでは なく、信仰に基づいて実現します)。キリストと共なる十字架を通して、私たちはアダムの古き命に死んで、肉に死んで、自己に死に(これは自己が消失するこ とを意味しません)、この世に対して死んで、主と共によみがえらされることにより、もはや罪に汚染されたアダムの種族としてではなく、キリストに属する新 しい種族として、神の新しい命の領域を生きることが可能になるのです。

「すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。」(ローマ9:8)
すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」(ローマ8:14)


アダムの命によっては、誰も御国に入ることはできません。水と霊によって新しく生まれた者が、御国にふさわしい神の子供たちなのであり、私たちは再生した後も、肉に従って歩まず、御霊に従って歩むことを継続的に学ぶ必要があります。

「なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。」(ローマ8:7-8)

しかし、今日、多くのクリスチャンが肉の努力によっては神の義に達することができないという事実を見ず、かえって肉の努力に励み、神の義ではなく、己の義を打ちたてようと努力しています。

肉による努力は、神を喜ばせることはできません! しかし、キリスト教界では、キリストが十字架の贖いによって達成した神の義を退けてまで、人が行いによ る義を再び打ちたてているのです。日曜礼拝、祈祷会、十一献金、各種の集会や運動への参加…等がほとんど義務のように課され、信徒は熱心にそれを守ること によって、人の目に義と認められようと努力しています。多くの信徒が、指導者や他の信徒から罪定めされることを恐れて、人の言いなりになり、神の目に義と されることでなく、人の目に義と認められることを追い求め、恐れによって連帯し、不信に目をくらまされ、自由を奪われています。

これは今日的な文脈での、クリスチャンの律法による義への逆戻りです。しかし、このような誘惑はキリスト教界だけにつきものなのではありません。私たち自 身も、もし自己に従って生きるなら、同じように欺かれるでしょう。どんなに熱心に御言葉を宣べ伝えても、どんなに霊的な教えを学んでも、どんな苦難を耐え たとしても、もしも私たちが行いによって義を打ちたてるならば、それは御霊の思いには反するのであり、神の義に届くことは決してないのです。

「わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜ なら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の 終りとなられたのである。」(ローマ10:2-4)

さて、神の義とは何でしょうか。それは人が自分の行いによって義と認められようとすることではなく、恵みによって、キリスト・イエスの十字架の贖いを信じることによって、代価なしに義とされることです。

「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(ローマ3:21-28)


このように、私たちが義とされるのは、全て信仰により、恵みによります。私たちの自己の内に何らの誇るべきものもありません。私たちの自己の内にはただ不 義しかなく、私たちの自己から出て来る最善の努力も、最善の理想も、神の御前に義と認められるものは一つもありません。たとえ善行を行ったとしても、それ を私たちが誇りにすることは虚しいのです。

にも関わらず、多くのクリスチャンは自分たちの教会の建物を立派にしたり、奉仕者を増やして教会の規模を拡大したり、伝道に力を注ぎ、立派な礼拝を作り上 げ、各種の行事に専心し、それが「神の栄光」のためであると思い込んでいます。しかし、そのような努力に対しては、主なる神はこう仰せになるだけでしょ う。

「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。」(使徒17:24-25)

人は自分の力によって神を喜ばせたり、神の義に達しようとするせわしない努力をやめるべきなのです! 私たち自身からは、何の良いものも生まれないことを 認めるべきなのです! 自分の理想によって神に届くことは出来ないと認めるべきなのです! しかし、肉に従って歩む者、アダムの命を義としようとする者に は、この事実がどうしても理解できません。

生まれながらの人間の知恵は、自分の最善の努力や知恵や理想さえ神の御前には忌まわしく、自分が徹底的に罪に汚れており、ただ死の刑罰にしか値しないなど とは、決して認めません。生まれながらの人は、自分の罪が御子を十字架につけたのだとは決して認めようとしません。生まれながらの人間の知恵は、神の義を 受け入れず、神の知恵に逆らってでも、何とかして自分が義であることを自分で証明したいのです。

人の肉は数々の善行を行うことができ、麗しい理想を考え出すことさえします。そしてその見せかけの美しさの中に自己の腐敗を隠そうとします。私たちは大 抵、口では自分が罪人であることを認めていますが、心の中では、あの人よりはまし、この人よりはまし、などと思って、自己を高く評価しているのです。自分 が神の御前で絶対的に腐敗しており、自分の古き人の努力によっては神を喜ばせることはできず、自分の生まれながらの命が主と共に十字架の死に渡されること だけが神の御心にかなうことなのだということを、生まれながらの人はどうしても認めることができないのです。

このように、人の生まれながらの命から出て来る思いは、自己の絶望性を認めず、神の御思いに常に対立・敵対します。私たちの中にも、まだ多分に、この自己 というものが生きています。もしも御霊によって、神ご自身が、私たちに自己の腐敗を知らせて下さり、私たちの自己を十字架でより一層、深く対処して下さら ないならば(このことは私たちの努力によっては実現できず、ただ私たちの信仰に応じて主が上から十字架を実際として下さることによります)、たとえ神を信 じているつもりでも、私たちの自己は増長し、神の義を否定して己の義を築き上げようとし、神をさえ、自己の栄光を築き上げるための手段としようとするで しょう。人の自己とは本来、そのようなものです。

全ての異端は、人の生まれながらの自己保存の思いに基づき、キリストが十字架で全てのアダム(肉、自己、魂の命)を終わらせたことを否定して、むしろ、ア ダムを延命させ、アダムの命を栄光化し、アダムを神の位置にさえ置き、それを教義体系として確立します。異端の教えの根幹は、アダムが堕落したために、人 の生まれながらの命は徹底的に罪によって腐敗し、もはや死にしか値しなくなってしまったという事実を認めず、キリストの十字架におけるアダムの死の必要性 を退けて(あるいは十字架の概念を骨抜きにして)、生まれながらの人間を義とし、生まれながらの人間を高く掲げ、生まれながらの人間を神の子(もしくは 神)にまで祭り上げようとするところにあります。これまでに様々な自己改善、自己啓発、自己覚醒、ユートピア主義的な人間改造の試みが存在して来ました が、その中心は、キリストの十字架を退け、アダムを肥大化させて神に至らしめようとすることであり、アダムを神とすることが全ての異端の共通の特徴なので す。

しかし、まことのクリスチャンは、アダムの命には何の希望もないことを知っています! もしも私たちが自己に従い、肉に従い、生まれながらの命に従って歩 むなら、そこには、ただ罪以外の何も見つけることはできません。私たちは日々、真に十字架を経て、古き命を死に渡し、キリストにある新しい人としていただ くことを神に願い続けるのです。

本来、神の教会とは、キリストと共なる十字架の死とよみがえりの命と、子羊の血による一体性の上に初めて建て上げられる、目に見えない霊的な建物のことで す。ですから、人手によらずに切り出された岩なるキリストの命の上に建てられた教会と、人手によって切り出され、人の肉の努力によって建て上げられた人工 的な建造物とは、決して一致しません。このような意味で、十字架の死を経ることを拒み、神よりもセルフを高く掲げているクリスチャンと、主と共なる十字架 の死を土台とし、自己を否んでキリストのまことの命に生きるクリスチャンは、今後、ますます明確にふるい分けられ、その相違と対立がはっきりするでしょ う。

終末には、十字架に敵対し、セルフの死を拒む人々の一群が、一大勢力として結集し、キリストの十字架の死と復活を証する真理を、再び、世から取り除こうと することが予想されます。終末の迫害には、第二のアダムなるキリストの十字架の御業を否定しようとする第一のアダムに属する人々からの激しい挑戦、キリス トのまことの命に対抗して人の生まれながらの自己を延命させようとする勢力の死に物狂いの抵抗がこめられるでしょう。

しかし、神の永遠のご計画は、アダムの堕落によって神から隔絶し、サタンの陣営に渡されてしまった人間を含め、万物をキリストの十字架の和解を通して、一 つに帰することです。万物の相続者は御子です。万物はいずれ御子の支配に完全に服するようになります。このことはさまざまな形で御言葉に明記されていま す。(ヘブル1:2)(ピリピ3:21)(エペソ1:22)(ローマ11:36)

万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。」(コロサイ1:16)

「そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。」(コロサイ1:20)

「そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。」(Ⅰコリント15:28)


このように、キリストを通して、キリストの血によって、万物が一つとされることが神のご計画なのです。しかし、生まれながらの人の自己は、これに逆らい、 自らの罪を認めず、血潮の必要性を認めず、キリストの十字架による和解を退けて、キリストのまことの命に対抗して、生まれながらの自己の力によって、万物 を一つにしようと考えるのです。すでにそのような計画が見られますが、生まれながらの人間は、人知によって作り出された理想を持ち出して、一致を唱え、融 和を唱え、再び、未曾有の規模で、天にまで届く建造物を建て上げようとするでしょう。

「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう。」(創世記11:4)

さて、私たちはどちらの道を選ぶのでしょうか。セルフの力を結集させて、己を義とし、己の威信を誇るために、果てしない努力を積んで、自分の理想によっ て、神の義に達しようとするのでしょうか? それとも、「義人は信仰によって生きる」ことを信じて、自分で自分を救おうとする無意味な努力をやめて、自ら 罪人として十字架の前に頭を垂れて、子羊の贖いの血潮の恵みにすがって義とされるのでしょうか?

最後に、オースチンスパークス著、「キリストのからだなる教会」第二章から。

ルターは任務を帯びてローマに遣わされました。彼はその都と特別な懺悔の場所を訪問することを熱望していました。それは、その階段を手と膝でのぼることにより、特別な恩恵と罪の赦しなどを得るためでした。

この恐ろしい苦行を自分に課せば、義とされて安息を得るだろう」と彼は考えました。彼はのぼり始めました。のぼるのが大変になってきた時、何かが「義人は信仰によって生きる」と言いました。

彼はふたたび進みました。すると、あの声がふたたび、「義人は信仰によって生きる」と言いました。彼はさらに階段をのぼりました。すると、また声がして、一つの単語を強調しました、「義人は信仰によって生きる(ハバクク書2章4節、ローマ人への手紙1章17節、ガラテヤ人への手紙3章11節、ヘブル人への手紙10章38節)。これが彼を回心に導き、行いによる義というローマの体系全体を放棄するよう彼を導いたのです。

「義人は信仰によって生きる」。大事なのは私たちの信仰そのものではなく、私たちの信仰の対象である主イエスの御業です。私たちは自分の信仰の度量をあまりにも重んじますが、大切なのは私たちの信仰の対象です。私たちが安息の中に入るのは、キリストと、私たちのための彼の完全な御業という対象の上に、自分の信仰を据える時です私たちはもはや、手と膝で石段をのぼりません

これは主の民の団体生活にとって基本的なことです。不安、発酵、不満足の要素は出て行きます。そして、私たちは神との平和を持ちます。調和を得ます。なぜ なら、調和は平和の別の言葉にすぎないからです。これが安息です。聖書の中の平和は、何らかの雰囲気ではなく、完全な調和の内に全ての要素が互いに適切に 調整されていることです。」


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キリストかセルフか

愛する兄弟姉妹へ

主にある親しいお交わりを心から感謝です。皆さんとの交わりを通しても、私の信仰生活に無視できない大きな転機がやって来たことを感じさせられています。

ある読者から、キリスト教界を覆う闇について、次のようなご心配のお手紙をいただきました。私の判断で表現を多少、変えながら、手紙の一部をご紹介しますね。

「(キリスト教界の闇は、)おそらく貴方が思っている以上、想像以上に驚くほどどす黒く、考えるだけでも恐 ろしいです。やくざははっきり悪人と解ります。 しかし、教会関係は一見、そう見えませんし、一通りの礼儀も持ち合わせていますが、中身はやくざ以上です。そのように正体がわからず、恐ろしいひとがほと んどです。

ですから貴方のような繊細な感性の持ち主は、近寄らないほうがいいと思います。召しと思われるのでしたら別ですが、そうでなければ巻き込まれ、大変なことになる事さえあります。

キリストの名の下に批判を受けるのは幸いですが、『聖なるものを犬にやるな』という言葉もあります。聖なるものを差し出しても、相手がおろかだとこちらを 攻撃してきます。ただの攻撃でははっきり解りますが、巧妙で、うまくこちらの弱みをついたわなにかけられることさえあります。

先日もそのようなやさしげなサタンのオファーを受けましたが、何とか見破れました。どうぞそのような罠にかからずすごせますように、お祈り申し上げます。いずれにせよ、安全のため、召しを貫いていただきたく思います。」


この手紙を読んで、どのような印象を持つかは、個人の判断にお任せします。私自身、実際に、火の中をくぐるようにして、キリスト教界の闇からかろうじて逃れました。私よりもはるかに悪い経験をして来た人たちにもお会いしました。

以来、十分すぎるほどに、キリスト教界における教会の腐敗について訴えてきました。この問題には、御言葉と、キリストの十字架、御血に立ち戻る以外に解決 はないこと、カルトもアンチカルトも本質的に同一の腐敗に通じていること、反カルト運動は必ずや暴走し、同士討ちの結果、崩壊に至るであろうこと、前々か ら警告して参りました。この問題を訴えたがために、さらなる苦難にも遭いましたし、人間的に見るならば、そろそろお役御免になっても良い頃かと思います。

しかし、実際には、進めば進むほど、ますます、私は厳しく問われるのです。私はこの先、戦いの全くない平和な生活だけを望んでいるのか、それとも、自分の 望みが否定されても、御心をとらえたいと願っているのか、本当に、キリストにあって、自己を否むつもりがあるのかどうか…。私が信じているのは、「私のた めの神」なのか、それとも、「神のために私」が捧げられるのか。

真に主のために生きるつもりならば、自己というパン種を、最後まで、キリストの十字架で取り除いてもらいなさい! 十字架があなたの内側で、どんな痛みを 伴ってでも、より深い働きをするのを許しなさい! 自己憐憫を最後まで捨てて、あなたが壊れないようにと、大切に握りしめている「あなた自身」を手放し、 あなたを全く主に委ねなさい! 私はあなたに、あなただけの視点を離れて、神の視点から、共に物事を見て欲しいのです…。

今後、キリスト教界の闇は、ますます深くなるだろうと予想しています。以前には、かなり冗談めかしてこの話題について触れられたものですが、この先は、この問題に取り組む人は、誰もそのような覚悟ではいられなくなるでしょう。

「不法の者」(Ⅱテサロニケ2:8)が現われる時が近づいています。前述のチャールズ・アシャーの「十字架に帰れ!」は、三四半世紀以上も前(1920年7月初版)に語られたメッセージですが、もう一度振り返って下さい。

教会は急速に背教の状態へと陥りつつあり、ますます神から遠ざかっています。戦争により、世界は混沌とし、教会は麻痺しました。暗闇の力が解き放たれ、教会にも世界にも邪悪な影響を及ぼしています。」

私たちは疑いなく、背教の時代を生きています。大きな邪悪な力がさらに解き放たれようとしています。新たな戦争は次第に近づいて来ています。霊的な暗闇が おびただしい数のクリスチャンを覆っています。今後、クリスチャンのふるいわけはさらに進み、場合によっては、兄弟姉妹が互いに裏切り合う事態さえ起きる でしょう。

御言葉が明らかに告げているように、終わりの時代には、キリストのまことの命に生きようとする全てのクリスチャンが激しい試みに遭います。この困難で厳しい時代が、足早に近づいて来ていると私は感じています。

オースチンスパークスは「私たちのいのちなるキリスト」の中で、時代が終末(キリストの再臨)に近づくに連れて、二つの傾向が顕著になるだろうと述べています。

「一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。」

この二つの傾向は、決して相容れないものです。一方では、人手によって作り出された人工的な偽りの命である「キリスト教」――これは人造の 偽りのキリスト教、すなわち、今日のキリスト教界という、人為的な体制そのものです――が大いなる発展を遂げ、もう一方では、人手によらずに切り出された 生ける岩なるキリストのまことの命に立つ少数のクリスチャンが、(恐らくは追いつめられ、迫害されながらでしょう)、信仰生活を続けると予想されます。

一方の人工的な命は、「反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。」つまり、それは、本質的には反キリストへと続く流れであり、キリストではなく、生まれながらの人間(肉、アダム)を高く掲げるものであるにも関わらず、見かけ上は、まさにキリスト教を装っているのです。それはフェイクであり、「人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです。」「第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。」

この人工的な偽りの命、偽のキリスト教は、御国の模造品を生みます。そこでは、人の知恵によって作り出された各種の教え、伝統、制度、運動などが、独自の 理想を掲げて活動を繰り広げます。そこでは、ヒューマニズムや、生まれながらの人間の善意や、努力や、真面目さなど、人の肉の産物が、大いにたたえられる でしょう。肉による「一致」が叫ばれるでしょう。人類みな兄弟、と言ったような、耳に心地よい友愛的な政策が唱えられるでしょう。

しかし、これらのものの見かけと実質は正反対です。うわべでは、協調や、一致や、愛や、人類の幸福がスローガンに掲げられるにも関わらず、その本質にある ものは、反キリストの憎しみなのです。ですから、友愛的な政策とは裏腹に、むしろ、時が経つに連れ、混沌と悲惨が生み出されるでしょう。

これと決定的に異なるもう一つの傾向は、いのちなるキリストに立脚するまことのクリスチャンが現われることです。人手によらない、神の霊の建造物が、御霊 によって建て上げられ、万物がキリストを通して一つに帰せられるという最終的な目的のために、神が望んでおられる御身体が建造され、それを通して御国が地 上に到来し、キリストの花嫁なるエクレシアが姿を現します。

「新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は『キリストがすべてのすべて』となることです。私たちは、神の霊の実際の働きはすべてをキリストご自身に帰することで あることを学ばなければなりません。彼、キリストが『内なる人』である私たちの霊のいのちでなければなりません。それは、私たちが主の中で強くあるためで す。自分自身や、他の人々や、物事によってではありません。私たちは、彼の内なる力だけで、逆境を切り抜けなければなりません。」

この二つの「命」のうち、私たちはどちらに立つのでしょうか? 私たちはもちろん、キリストのまことの命に生きる者です。けれど、生まれながらのアダムの 命を拒み、キリストのまことの命に生きるかどうか、私たちは試みに遭って選択を迫られるでしょう。悪しき日に、サタンのあらゆる策略に対抗して、キリスト の主権を守って立ち続けるために、エクレシアの成員は今後、大きな戦いを強いられるであろうことを私は予感します。私たちは御身体として共同戦線を張る必 要がありますし、主にあって、心の武装をしなければなりません。

「それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。」(エペソ6:13)

「…あなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタイ10:22)

「そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。」(マタイ24:9)


試練は、私たちがキリストの死のうちにとどまり、私たちの内にある自己の不純物が、神の火によってあぶりだされ、焼き尽くされ、洗練されるために必要なも のです。キリストのよみがえりの命が、私たちのうちに働くためには、私たちは徹底的に弱くされ、自分自身に絶望し、無力とされる必要があります。自己に属 するもの全て、自己憐憫も、最後まで十字架を通して断ち切られなければなりません。

私たちは、キリストだけを頼みとすると言いながら、往々にして、自分の生まれながらの力に頼って生きています。神のために生きる、主のために十字架を負 う、などと言いながら、その実、生まれながらの自分を義とし、自己を飾るために、神や十字架をさえ、手段として利用しようとしているのです。この自己とい うものの偽りの深さ、狡猾さを私たちは自分ではほとんど知りません。

「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。 」(エレミヤ17:9)

人の生まれながらの自己は、絶えず、神を自分が栄光を受けるための手段にしようとしています。神をさえ手段化するほど自己は偽りと高慢さに満ちているので す。この自己を対処できるのは、キリストの十字架だけです。十字架を通して、私たちは自己を拒み、生まれながらの命を拒み、キリストの死を知ることができ ます。まずアダムの命の死がなければ、復活の命が働く余地はありません。

「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。 」(ローマ6:5)

「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」(マタイ16:25)


セルフか、それとも、キリストか。それは生涯続く選択です。私たちが自己を自分で対処できるわけではありません。十字架を手段として利用しようとするなら、逆に、自分が微塵に打ち砕かれてしまうでしょう。

けれど、ただ神に信頼します。私たちはただ一人の男子キリストに婚約するために捧げられました。私たちは真に純潔な花嫁、神を喜ばせる、自己のパン種を持たないエバとなるために召し出された民なのです。

塩が塩の味を失ったら、何によってそれが取り戻されるでしょう。御名の中に選び出された兄弟姉妹が、主の名のために辱めを受け、迫害を受け、苦痛を耐え忍 ぶことを恥としたら、誰が主の栄光のために自分の命を注ぎ出すのでしょうか。主よ、どうか、私の怠慢と臆病をお赦し下さい。私があなたの御名よりも常に自 分を優先し続けて来た罪をお赦し下さい。けれども、どうぞこの偽りに満ちた邪悪な「私」を、あなたが祭壇で取り扱って下さい。

私たちは神を手段化したくありません。自分の「理想」が微塵に打ち砕かれ、我が身の美しさが消えうせ、憎しみと怒りの怒号のうちに私の叫びがかき消され、 神ご自身の臨在さえも遠のくように思われる時にも、キリストを信頼し、主よ、あなたの御旨の中にとどまり、御心に従順であり続ける花嫁となることができる よう、御霊により、私たちを助けていただきたいのです。

御霊によらなければ、誰がそれを全うできるでしょうか。それは肉の決意によって、なし遂げられる事柄ではありません。しかし、それは私の願いではなく、神 の願いであると信じます。神が死に至るまでキリストを信頼して連れ添う花嫁、神がご自分の命を安心して注ぎ込むことのできる従順な御身体を、どんなものに もまして、今、求めておられると思うのです。

堕落に沈んでしまった人間を再び得るために、御子をさえ否定された神の孤独、苦しみの深さを思います。私たちは、喜びだけでなく、苦難をも、主と共にすべきなのです。神は地上で御心に心の照準を合わせる全ての人々に、御旨を成就して下さると信じます。

「わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。わたしたちの戦いの武器は、 肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、 神の知恵に逆らって建てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべ て不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。」(Ⅱコリント10:3-6)

どうか御身体が建造され、御身体を通して、キリストの主権がこの地に回復されますように。悪の要塞が打ち破られ、とりこになっている者が解放されますよう に。どうか私たちの偽りに満ちた自己を祭壇で焼き尽くし、聖なるキリストの住まい、神の宮にふさわしい者として、私たちを整えて下さい。主が私たちを最後 まで得られて満足されますように。

舌を制御する(2)

筆者が当ブログに書いていることは、前の記事でジェシー・ペンルイスが書いていることとは一見真逆である。

ペンルイスは自分の体験について沈黙を守ることの意味を記している。

それに引き換え、筆者はここに信者間で遭遇したあらゆる事件、また、それによって自分が受けた印象、得られた教訓、といったことを赤裸々に書いている。しかも、その内容の多くは、人の目から見て心地良い、万人受けするような耳障りの良い話でないどころか、筆者自身の心をも含め、関わった人々の行動の真の動機と、心の内情を容赦なく暴き出すようなものがほとんどである。

このような話は聞きたくもないし、書かれたくない、という人は多いであろう。たとえ信者の世間であっても、世間はおそらくこのような内容に反発して、「あなたはあまりにも赤裸々に起きた出来事の印象、しかも、主観に基づいて書いているため、その内容は兄弟姉妹の心証を悪くし、結果的に、人を傷つけている。それは舌禍というものではないか」と言う人もあるかも知れない。

少なくとも、筆者が関わって来た兄弟姉妹の90%程度は、そのように考えて心証を害するであろうと思う。筆者のブログは、初めから彼らに不評であった。そして、信者であっても、場合によっては99%の人々には、以上のようにネガティブな印象を持ってしかこのブログは受け止められないであろうことは、百も承知で、筆者は彼らにとってあえて耳の痛い話ばかりを書き続けているのである。

しかしながら、以前、このブログを始めた頃には、筆者は巨大なバッシングを受けたばかりであったので、読者から不評ばかりをこうむるのは嫌だという防衛心理が働いて、相当に周囲の信者にも気を遣い、彼らにとって害にならないような内容だけを記すように心がけていたものであった。兄弟姉妹のブログを宣伝したり、彼らとの交わりを賛美したりしながら、人々と手を取り合って進んで行く道を模索していたのである。それを今、無意味で無価値な記事として、大々的に削除し、書き変えている。

残念なことであるが、ジョン・バニヤンの『天路歴程』のストーリーにも表れているように、キリスト者が本当に神だけに忠実に歩もうとしたとき、多くの道連れを見つけて来ることはできない。人々と手を取り合って進んで行こうとすれば、必ず、世の法則が働いて、罠に落ちてしまうことになるのである。
 
だから、正直に言って、「人を傷つけない」ために、周囲の兄弟姉妹の良いところだけを見て、彼らのための宣伝材料になるような、ヨイショ記事ばかりを書き続けることには、全く意味がない。たとえば、この世においても、国民は政治家を監視せねばならず、国民がその監視の役目を果たさず、政治家と癒着し、その太鼓持ちになっても仕方がない。にも関わらず、俸給をもらっているわけでもないのに、総理大臣のヨイショ記事を書き続けてみたところで、何になるのであろうか。

同じように、キリスト者は、誰の代表・代弁者として生き、発言し続けているのかと言えば、この世の利益の代表ではなく、神の利益の代表なのである。従って、キリスト者は決して人間の利益の代表者となってはならず、この世を擁護すべき立場にもない。それは関わる相手がたとえクリスチャンであり、クリスチャンの世間が相手であっても、同じなのである。

だから、「キリスト教の印象を貶めたくない」「兄弟姉妹の印象を貶めたくない」という信者の世間への遠慮から、人に媚びて歯に衣を着せれば着せるほど、その結果として、記事内容は真実から遠ざかるだけでなく、関わる全ての人間の利己主義を助長し、悪影響を及ぼすものとなっていくのである。

キリスト教の印象を貶めないことは重要であるが、だからと言って、人間の作り出した組織、人間の思惑などを無条件に肯定することがブログ記事の目的ではないし、信仰告白でもない。筆者の場合、何よりも、聖書の御言葉の正しさを立証することがブログ記事の目的なのである。

そもそも、聖書の御言葉は、人間の心の内にある罪を細部に至るまで照らし出す。そこで、多くの場合、御言葉はおのずと生まれながらの人間の名誉にとっては、極めて都合が悪いものとならざるを得ない。たとえクリスチャンであっても、アダムの命に生き、自分の罪を見たくないと思っている信者にとって、御言葉に照らされることは、非常に都合が悪い可能性があるのだ。

だが、「たといすべての人を偽りとしても、神を真実な方とせよ」と聖書が言うように、それでも、もし御言葉だけに忠実に生きようとするならば、どうしても、全世間を「偽りとする」ことを避けられない。神を取るのか、世間を取るのか、絶えず選択を迫られるのである。世人の友となろうとするなら、神に対しては敵対することになる。

たとえクリスチャンの知り合いが数多くいたからと言って、その兄弟姉妹が、神と同じほど頼りになることは絶対にないのである。真実な方は神ただお一人であって、人間の中には、誰一人として、真の意味で、頼れる者も、賞賛に値する者もいない。人間に栄光を帰そうとすると、たとえ相手が信者であっても、そこから悪しき様々な結果が起きて来ることになる。

だから、本当に心から、キリストのみに従って行こうとするとき、信者はどうしても、人間を賞賛し、人間に栄光を帰することをやめ、神にのみ栄光を帰するという厳粛な潔癖さを貫かざるを得ない。

たとえ信者間であっても、人間によって作り出される交わりを美化したり、賛美したりしながら、人間の威信を高めて行くことを目的に発言しようという誘惑を戒め、むしろ、人間の不真実さ、不誠実さ、頼りがいのなさ、変わりやすさ、自己中心、といった、できるなら目を向けたくない現実を、シビアに直視しなければならない。

にも関わらず、人前での評判や、人の理解や、支持を失いたくないばかりに、自分が「属している」信者の交わりを宣伝し、宗教行事を宣伝し、人の面目を決して傷つけることのない、世間にとって毒にも薬にもならないような記事ばかりを書き続けていると、結果として、ブログそのものの内容が堕落して信憑性を失って行き、聖書の御言葉の持つ本来的な鋭さからはほど遠いものとなって行くのである。そのように世と馴れ合っていると、それは全く聖書の神への信仰告白ではなくなり、最後には悪魔のツールと化して終わるだけである。
 
人間美化の土台の上に書かれたものは、たとえ人にとってはどんなに良い内容のように聞こえても、実際は、誰にとっても益にならないのである。どんなに人の集まりを美化する言葉を並べても、それは見知らぬ人たちには、ただつまらない自慢話としか受け止められず、しかも、どんなにそこで身近な人々を誉めたたえてみたところで、彼らは味方になるどころか、より一層、書き手を軽んじるようになるだけである。

自分が誉めちぎっていたはずの人々が、知らぬ間に自分の陰口や噂話に明け暮れ、裏切りに明け暮れ、以前よりもさらに、このブログを嫌いになって行く、といったことが起こるのみであろう。神を差し置いて人間を賞賛することには、百害あって一利なしなのである。
 
その上、もっとひどいことに、そのように人の顔色を伺えば伺うほど、あれやこれやの注文が以前よりももっと厚かましく書き手に向かって投げかけられるようになる。自分の周囲の人々が、ブログ記事内容だけでなく、自分の生き様、ものの考え方、交友関係などに、細部に渡るまでことこまかに注文をつけて来て、思い通りに思想統制しようと試みて来るのである。しかも、信者を名乗っている人たちが、「クリスチャンはいかにあるべきか」ということを口実に、注文をつけて来るようになることも全く稀ではない。
  
そのようなことは、本来、信仰生活とは何の関係もない事柄である。ところが、信者が世間の方を向いて、少しでも世間の評判なるものを気にし始めると、たとえそれが信者間の世間であっても、そこに世の法則が働き、たちまち、神だけに忠実に従うということが不可能になり、人間による支配が入り込んでくるのである。
 
従って、栄光を帰すべき対象はただ神のみであって、人に媚び、人のご機嫌伺いをし続けることは、最終的に悪魔に魂を売ることにつながるだけである。従って、ものを書くときは、特にそれが信仰告白ならば、人がそれをどうとらえ、どう受け止め、どう感じるのか、ということに対する気兼ねを一切排除しなければならない。人に好かれ、良い印象を与えたいという思いから、何かを書こうとしているならば、執筆そのものをやめておいた方がよかろう。

もし気にするとすれば、書いた内容が、悪魔と暗闇の軍勢にとってどれくらい激しいダメージとなり、神の栄光となるかだけを気にすべきである。たとえ人の名誉が徹底的に卑しめられたとしても、神が栄光を受けられ、神の真実が証されることが目的なのである。
 
だから、ブログ記事は、人にどう受け止められるかなどを気にして書いてはならない。では、一体、何のために書くのかと言えば、まず自分と自分を取り巻く状況を真実にありのまま把握するため、そこにある問題点をあぶり出すため、次に、それが聖書の理想から程遠い現状に見えたならば、どのようにすれば、その状況の中で、神の御言葉をこの地上に引き下ろして実際とし、神の御心にかなう生き様へとたどり着くことができるのか、その道筋を把握するのである。

地図を見るときは、現在地と目的地を偽ってはならない。もし現状が目的地からはるか遠く、辿りもつけそうにないと思われたとしても、真実を直視しなければならない。もし仮に現状が悲惨ならば、それをありのまま悲惨なものとして把握せねばならない。現実を偽って、自分の立ち位置を偽り、自分を美化し、周りの状況を美化しながら、地図を正しく解読して、目的地までの道のりを知るのは無理である。現在地を偽っていれば、目的地に到達することは永遠にない。

だから、最もシビアに見なければならないのは、人間に関する真実である。

自分自身に対してもであるが、兄弟姉妹であっても、美化してはならない。人間については、自分で思うよりも、何倍も厳しめの評価を下しておいた方が無難である。

だが、それはキリスト教の印象を貶め、信者の印象を貶め、信仰を持つことに対する世間の絶望感を呼び起こすことを目的としているのではない。

自己の真実と向き合うのは、人にとって易しいことではない。自分を美化して自画自賛に明け暮れ、周囲の人々にも、絶えずおべっかを使っていれば、一見、人間を傷つけてはいないように見えるだろうし、少なくとも、それだけ無難な言葉を並べておけば、自分も満足できるし、周囲からも非難の言葉は返って来ないかも知れない。だが、それはいずれにしても真実ではないのである。

人間について不利な事実を赤裸々に書き出し、人が直視したくないと思うような厳しい現実を暴き出すことは、人にとっては耳の痛い話であり、不快に感じられるであろう。だが、もしそれが真実であるならば、砂糖菓子のように甘く心地よい嘘で塗り固めたフィクションによって人を欺き、人間の欲望と利己主義をより一層、増長させ、破滅へと導くことに比べれば、はるかに害が少なく、ましであり、神にも喜ばれると筆者は考える。
 
人には、耳に心地よい作り話と砂糖まぶしの嘘で人を欺き、傷つけることは可能なのである。だから、自分にとって心地よいかどうかを基準として話の信憑性を判断しようとすれば、必ず、欺かれるであろう。人にとって心地よい話が真実だったことは、未だかつてほとんどないからだ。
 
だから、人間にとって不都合で、耳の痛い話を展開しながら、筆者が目指しているのは、人を傷つけることでも、不快にすることでもなく、神の御前で何が真実であり、何が人のあるべき、神に喜ばれる姿であり、どうすれば、我々がキリストにある「新しい人」として、この地上に実際に生きることができるのかという課題だけなのである。

アダムにある古き人は十字架で死んだ。
 
この世においても、死者には名誉棄損で生者を訴える権利は存在しない。むろん、そんな権利があったところで、死者はこの世にいないので、もう訴えることもできないのだが、たとえ死者の遺族であっても、死んだ者の名誉を守るために立ち上がって、生者を訴えることのできる権利を持っている者は存在しない。

だから、正直な話、アダムの人権というものは、霊的には存在してないも同然であり、アダムに対する名誉棄損という罪は、存在しないのである。アダムにとっては、十字架以上の「名誉棄損」は存在しないが、その最大の恥辱がすでに下された以上、どんな名誉棄損もあり得ないのである。アダムは最大の罪人としてすでに死刑にされた。その判決は、永遠に変わらず、悪魔に魂を売った人間の永遠の恥辱を意味している。名誉回復はないのである。

だから、アダムの命に生きることの罪深さと、そのような人間の歩みの悪をどれほど暴き出し、程度酷評してみたところで、誰にも実害が及ぶということはないのだ。むしろ、アダムを美化し、これと馴れ合い、親しく手を取り合って生きることの方が、信者にとってよほど有害なのである。だから、キリスト者がまずなさなければならないことは、アダムの命に生きることを賞賛することではなく、生まれながらの人間すべてが属しているアダムの死を告げ知らせ、キリストにある新しい命に生きる意義を語ることだけである。

アダムの命の最大の特徴は、常に「足りない」ということである。アダムの命は絶えず欠乏と死の恐怖に脅かされているので、必死の自己防衛をせねば生きてはいけない。アダムの命に生きる者たちは、自分が傷つけられず、脅かされないために、全人類と霊的に手を携えて結託し、互いにかばい合い、守り合おうとしている。

だが、キリスト教は、このアダムの命の自己防衛の願望そのものに、十字架の死という終止符を打ったのである。だから、キリスト教は、アダムの命に生きる人々が、互いを傷つけず、互いを思いやり、互いを美化し、かばい合うために、共にイチヂクの葉で連帯して己が恥を隠すために生まれた同盟ではなく、むしろ、アダムの命に死んだ人々が、キリストの復活の命によって新たに生かされて生まれたものである。

だから、信者のブログ記事を吟味するならば、その際、「人を傷つけていないか」を基準に判断するのではなく、「神を傷つけていないか」を基準に判断しなければならない。

キリストによって新しく生まれた人にとって重要な利害は、「アダムにある人間が脅かされていないか」ではなく「神の権益が脅かされていないか」なのである。
 
従って、どんなに人に優しいことを書いていても、もしそれが神の真実に反するならば、信者はこれに立ち向かい、反駁せねばならない。神を傷つけ、神の利益を損なうものに対して、信者は容赦してはならず、神の利益は、人の利益以上に優先されなければならないのである。

それが、「たとい全ての人を偽りとしても、神を真実な方とせよ」という御言葉の意味である。そのような覚悟がなく、「全ての人を偽りとする」ような人間に対する侮辱は行いたくないので、「全ての人を真実としたい」と思っている信者がいるならば、そのような人は、そもそもブログなど書くのはやめておいた方がよかろう。悪魔に都合よく利用され、地獄の道連れにされるだけである。

結局、「舌を制御する」とは、「人にとって耳障りで不快なことを一切言わない」とか、「読者の心証を悪くしない」ということを意味せず、ただ信者が「神の権益を傷つける告白をしない」ことを意味するのである。

真の謙遜とは何か(3)

謙遜と信仰は、聖書においては、多くの人々が知っている以上に、密接な関係を持つものとされています。このことを、キリストのご生涯においてながめてみましょう。主がりっぱな信仰について語られた場合が二つあります。

主は「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と言って百人隊長の信仰に驚嘆されました。それに対して彼は「先生を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と言ってはいないでしょうか。また、主から「ああ、あなたの信仰はりっぱです」と言われた母親は、小犬と呼ばれることに甘んじ、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも……パンくずはいただきます」と言わなかったでしょうか。

たましいをして神の御前になきに等しい者とするのは謙遜です。それはまた、信仰のすべての障害を取り除き、神に全面的によりたのまないことにより神に不名誉をもたらすことだけを恐れさせるのです。

主にある友よ。私たちが聖潔の探求において失敗する原因は、ここにあるのではないでしょうか。私たちの献身、私たちの信仰をこの上なく皮相的なものとし、この上なく短命なものとしていた理由はこれではないでしょうか。たとい私たちが知らなかったとしても。

高ぶりと自我が今なおひそかに私たちのうちに働いていること、神のみが私たちのうちにおはいりになり、その強い御力をお用いになることによってそれを追放することがおできになること――私たちは、これらのことを全く知りませんでした。私たちは、古い自我と全面的に取って代わる新しい神の性質のみが、私たちをほんとうに謙遜にすることを理解していませんでした。

絶対的な、不断の、普遍的な謙遜が、他の人に対するすべての取り扱いの基礎でなければならないとともに、またすべての祈り、すべての神への接近の基礎でもなければならないということ、そして全面的な謙遜、心のへりくだりなしに神を信じ、神に近づき、神の愛のうちに生きようとするのは、あたかも目なしに見、呼吸なしに生きようとするようなものであること――私たちは、これらのことを知らなかったのです。

主にある友よ。私たちは次のような失敗をしてはいなかったでしょうか。すなわち、信じようとして非常な努力をしながら、他方においては、高ぶった古い自我があって、それが神の祝福と富を所有しようとしているといった失敗をしていなかったでしょうか。私たちが信ずることができなかったのも無理もないことです。私たちの方針を変えましょう。

まず何よりも先に、神の力強い御手の下に、私たち自身が謙遜になりましょう。神は私たちを高くしてくださるでしょう。イエスがご自身を低くされた十字架、死、そして墓は、神の栄光への道であったのです。私たちの唯一の願い、私たちの熱烈な祈りの題目を、彼とともに、そして彼のようにへりくだることとしましょう。神の御前に、人々の前に私たちをへりくだらせるものは、どのようなものでも喜んで受け入れましょう。――これのみが、神の栄光への道なのです。

アンドリュー・マーレー著、『謙遜』、pp.65-67.


これまで、真の謙遜とは何かというテーマで連続して記事を書いてきた。各記事の冒頭に挙げているアンドリュー・マーレーの言葉は、記事本文とだいぶ調子が異なるため、ともすればどんな脈絡があるのかと問われそうにも感じられるが、それでも、謙遜というテーマについてのこの引用文はあえて残しておきたい。

上記のマーレーの文章の中から、今回は「神の祝福と富を所有する」という、クリスチャンが犯しうる大罪について注目したい。そして、多くのクリスチャンが謙遜への道だと誤解しながら、知らずに陥りがちな誤謬について、この場で考察しておきたいと思うのだ。

これまでの一連の記事において、筆者は、真の謙遜とは、キリストにあって自分は何者であるか、ということを信者が余すことなく認識し、神がキリストにあって自分にお与え下さった自由や権利を十全に行使できる状態にあることを指すと書いた。それは信じる者が、自分の不完全さにより頼まずに、神の完全さにより頼んで生きることである。

しかしながら、この世における謙遜は、これとは全く逆に、人が自分の不完全さを強く認識し、自己の欠点を己が努力によって克服しようと努めることによって、自己を抑圧するか、もしくは自分の正当な権利までも自主的に放棄して、自分を弱く、低く、無力に見せかけることを指す場合が多い、ということについて触れた。

ともすれば、以上に挙げたアンドリュー・マーレーの言葉も、そうした文脈で誤解されたり、悪用されたりする危険性があると言えるであろう。マーレーは書いている、「神の御前に、人々の前に私たちをへりくだらせるものは、どのようなものでも喜んで受け入れましょう。――これのみが、神の栄光への道なのです。」

このような言葉を使って、「神と人の前にへりくだりましょう」ということを口実として、教会の権威者や信者が、他の信者を組織の序列の中に組み込み、権威者の言い分に従うことを「へりくだり」であると思わせ、人の思惑の中に信者を拘束し、あるいは無権利状態に甘んじるよう誘導することはたやすい、と筆者は思う。しかし、マーレーはもちろん、そのようなことを意図して上記の文章を書いたわけではなく、人の目に謙遜だと評価されたいがために世の思惑や、人の思惑を気にして、それにがんじがらめに支配され、て生きることと、神の御前での謙遜は全く異なる事柄である。

神の目には、そもそも人間が自分の力で自分の欠点を克服しようとすること自体が、謙遜ではなく、むしろ、高慢である。神の御前の謙遜とは、人が自分の弱点や問題を自分の力でどうにかしようという希望を一切捨てて、自分そのものを全く処置不可能な堕落した存在として神に委ね、御言葉に基づいて、神がこれに霊的死を適用して下さった上で、十字架を通して新たな命によって生かして下さることに完全に期待することを意味する。

しかし、世間では、幾度も指摘してきた通り、それが全く逆にとらえられている。そして、その誤った考え方は、クリスチャンの間にも、根強く広まっている。今回は、そのようなことが起きる背後に、誤った世界観が横たわっていることを理解し、クリスチャンが以上のような誤謬に陥って人や世の思惑にがんじがらめにされることなく、キリストにある完全さ、自由を手にして、人としてあるべき姿に生きるヒントを見つけることができればと考えている。

信仰をもたない世間、特に我が国の一般社会では、もし人が世間から「謙虚な人間」とみなされたいならば、決してその人は自己の諸権利などについて主張せず、むしろ、自分に与えられている当然の権利を行使するにあたっても、自分はどれほどそうした権利に値しない未熟者であるかということをしきりにアピールする必要があるかのように思われている。自分の権利ばかりを当然のものとして主張する人間は、「わがままだ」とみなされてバッシングされる風潮が強いからである。

そこで、人は自分が権利ばかりを当然のように求めているわけではない、と見せかけるために、自己卑下を繰り返し、自分がいかに諸権利に値しない人間であるかを人前で強調するだけでなく、自分の未熟さや欠点にも積極的に言及し、己が欠点をどれほど切実に自覚しており、自分を未熟者と考えているか、自己の欠点を克服しようとどれほど真面目に努めているか、それにも関わらず、その痛ましいまでの努力が、今に至るまで、どれほど実を結んでいないか、ということをも、ワンセットで強調することが一種のお約束事となっている。

もし誰かが「これだけ努力したので、私はもう自己の欠点をすでに克服し、ひとかどの人間になりました。そこで、私は自分に与えられている諸権利に十全に値する人間となったと思いますので、この権利を当然のものとして要求します」などと言おうものならば、その人は世から「若造に過ぎないくせに、何と高慢なことを言うのか。厚かましく自分の権利を要求する前に、自分の果たすべき義務について考えろ。もっと果たすべき努力が残っているのではないか」などと言われ、バッシングされかねない風潮がある。そこで、人々はそういったことが起きないための自己防衛策として、「私は自分の欠点をよく自覚しており、自分が様々な権利に値しない未熟者であることをよく分かっています。そして、目下、欠点を克服する努力はしているのですが、残念ながら、未だ道半ばで、思ったほどの成果が出ていません。きっとそれも、私の努力が足りないせいか、あるいは私が愚かで知恵が足りないせいなのでしょう・・・」などと、どこまでも自己卑下を繰り返しながら、いかに自分が一人前の人間からほど遠いかを強調することが普通に行われている。そのような自己卑下を繰り返す人間が、世間では「謙虚だ。自分の分をわきまえている」とみなされるのである。

言い換えれば、この世においては、何事についても、「達成した」と言うこと自体をタブー視するような暗黙の風潮が存在するのである。何かを「達成した」と主張することは、「自分はひとかどの(一人前の)人間になった」と主張することに等しいが、生きた人間が「一人前の人間」になること自体、社会では、一種のタブーとみなされていると言っても良い。そこで、誰かが何かを「達成した!」と述べと、それ自体が、「とんでもない高慢だ」とみなされる危険性があるのだ。

むろん、キリスト者ならば、なすべきことを「達成」された方は、キリストお一人であることをよく知っている。私たち信仰者は、キリストの十字架における死と復活に同形化されることによって、彼の達成された御業を自分のものとして受け取る。彼の御業にこそ、キリストにあって、信者が受けとることのできる完全さ、安息、自由、達成が存在する。ただキリストにあってのみ、彼の死と復活と一体となることによってのみ、信者は自己の努力による一切のもがきをやめて、自分自身を神に受け入れられる清く、貴く、完全な人間とみなして、安息することができる。それはただ御子の達成された御業によるのであって、信者の自己の努力の結果ではない。

キリストの中にこそ、「完全な(成熟した一人前の)人間」が存在する。信者は地上においては霊的に幼子のようで未熟であったとしても、キリストを信じて受け入れた時から、神の目には、彼の完全さをデポジットのように受けとっているのである。

だからこそ、信者はキリストにあって安息し、自分の未熟さを自分で克服するための努力をやめて、御子との達成の中で安らぐことができる。キリストにあって、自分を不完全で罪深く未熟な存在とみなして、責め続けたり、卑下することをやめて、キリストを通して、彼の持っておられる権威、自由、祝福を受け取り、これを行使することができる。ところが、そのようにキリストにあって信者が新しい自己の完全を受け取って生きることをも、世の風潮は「高慢だ」とみなして、激しくバッシングする。そして、あろうことか、この世的な偽りの「謙遜」の概念に欺かれた信者が、自分ばかりか、他の信者からも、神がキリストを通してその信者にお与え下さった権利を奪い取り、自由を妨げようとすることも、しばしば起きている。だが、そのようなことは神の御心ではない。神は人を自由にするために、御子を送って御業を成し遂げられたのであって、「謙遜」の名の下に、人間の思惑に信者をがんじがらめにするために十字架が存在するのではないからである。

そのような歪んだ捉え方が生まれる背後には、(グノーシス主義的)世界観がある。(ここで言うグノーシス主義的価値観とは、聖書のまことの神の御言葉に基づかない異教的価値観の総称として、筆者が広義で用いているものである。)

長い説明はさて置き、ここでは結論のみ述べたいのだが、たとえば、仏教では、仏陀は死後も現在に至るまで修業中ということになっているが、こうしたところに、グノーシス主義的世界観が顕著に表れていると言えるのではないかと思う。グノーシス主義とは、一言で言えば、人類が自らの努力によって神の叡智に達するための、果てしない探索の過程だと言えるかも知れない。しかしながら、クリスチャンであれば、誰しも分かっている通り、人類が自己の努力によって「叡智」に達し、それによって安息を得る日は決して来ない。だから、そこで言われている「悟り」というものは、事実上、あってないようなものだと考えて良い。死後、何百年間と終わらない修行によって得られる「悟り」などというものは、一種の言葉遊びのようなもので、無に等しいと言って差し支えない。さらに、すでに悟りを得た人間が、死後に至るまでも、さらなる悟りに達するために修行を積まねばならないのだとすれば、そのような人間の弟子となった人間の誰も師匠を超える悟りに達し得ないのは当然である。つまり、こうした世界観においては、人は死後に至るまでも、終わりなき永遠の努力を続けるしか道がないのである。

グノーシス主義的な世界観には、必ず、終わりなき無限のヒエラルキーがつきものであり、こうした世界観が反映する社会でも、無限のヒエラルキーが肯定される。そこでは、この世だけでなく、死後の世界においても、霊界のヒエラルキーなどというものがあることにされて、人の霊魂は、生前のみならず、死後においても、さらなる高みに上昇するために、絶えざる努力(修行)を積まねばならない決まりになっている。

つまり、グノーシス主義的世界観とは、人間の霊魂が(神のような高みに)上昇することを至上の価値とする考え方だと言うこともできるものと思う。ところが、その世界観においては、上昇するための梯子は無限であるため、どれだけ人が修行を積んでも、達成したという時が来ないのである。仏陀が未だ修行中なのも、霊界におけるヒエラルキーをさらに上に昇って行くための修行が続いているためであり、それは言い換えれば、人の魂が修行という「自己の努力」によって、「神」の高みに達しようという試行錯誤は、永遠に終わらないことを象徴的に指している。

言い換えるならば、その霊魂上昇のための終わりなき努力は、ルターが自力で登ろうとしてあきらめたピラトの階段にもたとえられよう。よく知られているように、ルターは贖罪のためにピラトの階段をひざで這い上っているうちに、人間が自力で神に到達することは不可能であるという聖書の真理に気づいて、「義人は信仰によって生きる(=人はキリストによらず、自己の努力によって神に贖われて義とされることはできない)」という結論に達し、果てしない階段を自力で上り続けることによって、自分で自分を贖い、神の聖に達しようとの努力を放棄した。

だが、信仰によって生きない不信者は、今でもこの階段を膝で登り続けている。場合によっては、死後に至るまでも、その努力はやまないのである。

多少、話は脱線するようだが、筆者はこれまで、日本の官僚制度や牧師制度などを強く批判して来たが、それはこうした制度の背後に、グノーシス主義的な無限のヒエラルキーの階段が潜んでいると考えているためである。つまり、こうした制度は単なる制度ではなく、ある種の世界観の反映として出来上がっているものなのである。

現存する社会の制度や仕組みの背後には、必ず、それに相応する目に見えない価値観・世界観が存在する。一つの制度が生まれて来る背景には、それを肯定し、生み出す原動力となった何らかの宗教・哲学的イデオロギーが必ず存在しているのである。この点に注目しなければ、ただ人の目に時代錯誤で歪んだものと見える社会制度だけをどれほど糾弾したところで、その制度の本質にまで迫って、制度自体が根本的に悪であるということを訴えることはできない。そして、歪んだ制度を支える世界観とは何かという問題を追求して行くと、ほとんどの場合、結局、グノーシス主義の終わりなきヒエラルキーに行き着くのである。

たとえば、官僚制の背後には、人に抜きんでて優秀な人間とみなされるための努力を積んで、学校で良い成績をおさめ、受験競争を勝ち抜いて、より良い就職口を得て、組織内で出世し、高給と安定的な暮らしを経て、国を動かすような組織の頂点に立つことを至高の価値とするような価値観がある。それは、人の人生とは、他者に抜きんでてエリートの階段を上って行くための絶え間ない努力の過程である、という価値観を象徴している。

牧師制度もそれによく似て、献身して神学校に入り、特別な教えを受ければ、その信者は、他の信徒とは別格の霊的な祝福を得て、信徒の模範的存在になれるかのような考えに基づいている。こうした考えには、学習を積み、知恵を手に入れた人間は、他の人間よりも優れた価値ある別格の存在として、他の人間の及ばない有利な待遇を手に入れるに値する人間となる、という前提がある。教会においては、学習を積んで、エリート的な指導者になったからこそ、牧師はその奉仕に報酬をもらうことが教会内で認められるが、信徒の奉仕は無償なのである。

このようなものは、人間の平等、信徒の平等の原則に反するエリート制度であり、聖書に合致する概念でもない。そこにあるのは、偽りの霊界のヒエラルキーの階段を上り続けた人間だけが、優れた価値ある人間になる、グノーシス主義的世界観である。

なぜキリスト教界からのエクソダスなどを筆者が唱え続けているのか、その理由もここにある。それは、既存の教会組織においては当然のものとみなされている牧師制度や(もしくはカトリックのような聖職者のヒエラルキーは)、根本的に聖書の御言葉に反しており、信徒の平等を否定するものだからである。

そのような階級制度、ヒエラルキーは、官僚制度が憲法に違反しているのと同じくらい、聖書の御言葉に反している。これは聖書的な制度ではなく、むしろ、グノーシス主義的・異教的価値観を取り込んで成立したものであり、教会の堕落やこの世との妥協を示す一例である。この問題については以下でもう少し詳しく触れる。

我が国を含め、非聖書的なグノーシス主義的世界観の支配する社会では、序列というものがほとんど絶対化され、人間存在は、無限のヒエラルキーの階段を上昇し続けるためだけに生きているかのようにとらえる。

たとえば、現在の我が国の至るところに蔓延する長時間残業の習慣化といった現象などにも見られるのは、合理性よりも、情緒的かつ無意味な、うわべだけの「頑張り」や「自己犠牲」を評価し、奨励する風潮である。効率的に仕事を終えて、定時にすべての課題を「達成して」帰宅する社員よりも、非効率的に仕事をして遅くまで会社に残って残業し、いつまでも課題が達成できないと嘆きながら奮闘している社員の方が、上司から高く評価されるといったナンセンスな評価が起きて来るのも、その背後に、以上のような考え方が存在するためである。

グノーシス主義的世界観においては、人間存在はどこまで行っても「道半ば」であって、終わりなき霊魂上昇の梯子を上り続けるための道具でしかない。この世界観において、絶対的な価値を誇っているのは、霊魂上昇のための永遠の梯子だけであって、人間はその梯子によって値踏みされる存在でしかない。だからこそ、人の人生は終わりなき苦行の連続であって、そこに完全さや、達成は存在せず、人が安息することは、死後になっても、永遠に許されないのである。

そこでは、どんなに努力しても、人は「ひとかどの人間」には到達しない。どんなに懸命に階段を上っても、その階段には終わりがなく、一つ課題を終えても、次から次へとさらなる課題がやって来るだけで、いつまでも「努力中」という看板を下ろすことが許されない。たとえ何か一つの事を達成してみたところで、それは果てしないヒエラルキーの梯子全体から見れば、無にも等しい。だから、このような価値観においては、人間の努力は全く報われず、人は何事も「達成した」と言ってはいけないという暗黙の前提が存在するのである。

ある意味では、早くそのカラクリを見抜いて、「努力中」という看板を表向きにだけ掲げておいて、その実、サボタージュに及んだ人間の方が、必死で努力し続けて報われない人生を送る人間よりもまだ賢いということになる。

だからこそ、そのような世界観の中で、己が霊魂を上昇させるための絶えざる努力をずっと続けている人々には、どういうわけか、お決まりのように、悲劇的かつ逆説的な現象が起きて来て、いつの間にか、彼らが口で唱えているご大層な理想と、彼ら自身の現実のありようが正反対のものとなり、その乖離状態・偽善性が誰しも否定できないまでになって、その矛盾を他者から指摘されてさえ、「どうせ私は努力中の身で道半ばですから」ということを口実に、自らの未熟さ・不完全さに居直るまでに至る人々が出現するのである。こうした人々にあっては、自己の努力などといったものは、単なるアリバイ工作でしかない。

このようなものは、人の努力や願いそのものをあざ笑うかのような、実に絶望的かつ悪意ある世界観である、と思わざるを得ない。このような世界観に基づいて成立していればこそ、この社会においては、人は自分がいかに未熟者であるかを強調することによって、自己卑下を繰り返さざるを得ず、自分がいかに何かを「達成した」と言える「ひとかどの人間」からかけ離れているかを、絶えず口にしないわけにいかないのである。

出る杭は打たれる」などという風潮も、その意味において単なる風潮ではなく、その背後にあるのは、グノーシス主義的世界観である。そこでは必死の努力を積んで何かを「達成した」と述べた人間が「高慢だ」とバッシングされ、「未半ばで努力中です」という看板だけを掲げて自己の欠点に居直っている人間の方が、「謙虚だ」とみなされるのである。

この世界観は人間にとって大変不幸なものである。このような世界観においては、いつまで経っても、人の努力が認められ、何かを達成したと、堂々と胸を張って安息できる日は来ない。仏陀ですら今も修行中なのだから、人間が修行から解放される時は死後も永遠に来ない。このような世界観は、非常に歪んだ、悪意ある、人を不幸にするだけのものである。それは常に言う、「人間存在とは、自己の努力によって、(いつかは神に達するために)、ピラトの階段を上り続ける宿命を負った存在だ。その苦役から永久に解放されることはできない。それをまだ始めたばかりの人間が、自分は何かを達成し、特別にこの苦役から解放されので、もう努力する必要はなくなった、などと思うのはとんでもない思い上がりだ」と。

ただし、この世界観においては、永久に達成も安息もやって来ないかも知れないが、人は自分の必死の努力のおかげで、梯子をいくらか上に昇り、下界にうごめいている無知蒙昧な衆生に比べれば、いくらかましな存在になったと自己満足する程度のことは許されるかも知れない。そのような優越感・特権意識だけが、この終わりなき梯子を自力で昇って行くというむなしい報われない努力に生きる人々を支える原動力となっているのである。

だから、こうした考えが根底に横たわっている社会においては、個人の絶対的な価値というものは否定されるのは仕方がないであろう。なぜなら、そこでは個人の価値とは、ヒエラルキーをどれだけ昇ったかによって変わって来るものだとみなされているからである。結局、そこでは、個人というものは、端的に言えば、人類が自己の努力によって神に到達するための道具でしかないのである。「神に到達する」と言えばまだ聞こえは良いかも知れないが、現実は、特攻と同じくらい、達成不可能かつ無謀な目的のために、永遠に奉仕させられる道具なのである。ただ各種の偽りの美徳でおだてられて、自分の進歩に鼻高々になっているために、この偽りの梯子の操り人形となっている個人は、自分が何をさせられているのか分からないだけである。

さて、話を戻すと、クリスチャンでさえ、以上のようなこの世的な偽りの世界観に立って、信仰生活における自らの進歩のなさを克服するために、熱心な勉強会を開いたり、祈祷会を開いたり、あるいは懸命に霊的なハウツー本のようなものを探し出して来て、クリスチャン同士教え合ったり、優れたクリスチャンの功績に習おうと頑張っているという現状がある。

この世的な観点から見れば、そのように自己の不完全さを自覚して、足りないものを補うために、熱心に勉強している信者の姿は、謙虚に見えるかも知れない。だが、一つまかり間違えば、このような勉強熱心さは、神の御前では、謙遜とは無関係であるばかりか、「神の祝福、富を、(人間が自己の力で)所有しようとする」大いなる高慢、大罪に相当する恐れが十分にある。

前回の記事において、エクレシアという語に「教会」という訳語を割り当てること自体が、不適切である、と筆者は書いた。

今日、当然のごとく使われているキリスト「教」、「教会」という呼び名は、他に相当する語がないため、一般に使用を控えることが難しい状況があるが、本当のことを言えば、これは聖書の御言葉の本質を適切に表すにふさわしい訳語とは呼べない。

そもそもキリスト教は、人間の作った「教え」ではなく、イエス・キリストを開祖としてできた宗教哲学でもなく、エクレシアとは「教える会」ではなく、「クリスチャン」のという語のもともとの由来は「キリストに属する者」という意味であり、英語の"christianity"という単語にしても、「教え」という意味は含まれていない。にも関わらず、この訳語に「教」という語が入っていること自体、不適切かつ誤解を呼ぶものだと言える。

このように不適切な訳語が割り当てられているために、キリスト教には「教え」の要素が色濃く強調されているのだが、 筆者の考えでは、これは決して偶然に起きたことではなく、ここにも、牧師制度と同じほどにグノーシス主義的価値観の反映が見られるように感じられてならない。

つまり、この訳語のために、信者の間でさえ、教会というところは、あたかも「霊的偏差値を上げるための熱心な勉強会」のようにとらえられているのである。だが、それは御言葉の正しい解釈ではなく、人間の驕りに基づくとんでもない勘違いでしかない。

前回の記事において、信者は聖書が教えている通りに、キリストご自身から、御霊を通して、御言葉を直接、教わるべきであって、人間の指導者から教えを受ける必要はないことを書いた。たとえ信徒同士で励まし合ったり、戒め合ったりすることが有益であるにせよ、信徒がキリストご自身の役割を奪ってまで、他の信徒を教える立場に立ち、他の信者を自らの精神的指導下に「弟子化」して行くことは誤っているという考えを述べた。特に、ネズミ講のような目に見えないピラミッド体系を作り、上に立つ信者が配下にいる信者から様々な諸権利を奪い取り、不当な自己犠牲を強いることによって、奉仕を受けたり、栄光を受けたりして、霊的搾取に及ぶなど言語道断である。

それにも関わらず、霊的先人たちの教えを「教本」のように用いながら、他の信者に対して、教師然と君臨し、教える立場に立とうとする信徒は枚挙に暇がなく、またそのような教師や指導者になりたがる信者に、自ら教わろうとして弟子化されていく信徒も終わりがない。このようなものこそ、まさに人間による「教え」によって作り出された霊的搾取と支配のためのヒエラルキーの体系なのである。

しかも、すでに述べたことであるが、今日、たとえば、ウォッチマン・ニーであれ、オズワルド・チェンバースであれ、誰であっても構わないが、霊的先人たちの教えをしきりに引用しては、他者を教える立場に立ち、熱心な学びをアピールしている信徒のうち、どれほどの人々が、自ら教えていることに忠実に生きているかを見てみれば良い。残念ながら、その圧倒的大多数は、心からその教えに従いたいと願っているというよりも、むしろ、自らの本質を覆い隠すための二枚舌、アリバイ工作として、霊的先人の教えを表向きに掲げているに過ぎない、という現状が見えて来る。先人たちの教えを数多くストックしつつ、他者を教え、自分も学んでいることをしきりにアピールしている実に数多くの信者が、口先で唱えている教えとは正反対の生活を恥ずかしげもなく送り、自らの信念を裏切っているのである。一体、そのような偽善的な人々の「説教好き」や「勉強熱心さ」は、どこから来たものなのかを、我々は今一度、吟味してみなければならない。

アダムとエバが、神に対して最初に罪を犯し、堕落したきっかけは、彼らが、神が許された限度を超えて、自分たちの力で霊的な高みに上り、「神のようになろう」としたことであった、という事実を思うとき、信徒が霊的な進歩を追い求めて、自ら熱心な学びを進めようとすることに潜む大いなる落とし穴の存在を思わずにいられない。

信者がカルバリの十字架において、この世的な栄光を一切奪われたところで、キリストご自身の死に同形化されて、ただ神からの栄誉のみを求めて、御霊によって教わるのではなく、信者がキリストの十字架の死という土台を離れたところで、この世や、周りにいる信者たちから、「熱心に努力している優秀な信徒」とみなされて好評を博し、拍手を受け、自己満足・自己肯定することを目的に、御霊が教えてくれるのを待たずに、自ら様々な教本に手を伸ばし、その学びを通して神に近づこうとすることは、大変危険な行為である。それは人類が自らの力で霊的に進歩し、神に到達しようという欲望そのものを表す行為であると言って差し支えないからだ。

たとえば、ローカルチャーチを批判しながらも、ウォッチマン・ニーの教本を長い間使用し、ついに自分たちを神だと宣言したKFCとDr.Lukeの例を考えてみる意義は大きいであろう。彼らが引用していた「教本」は、ウォッチマン・ニーに限らず、様々な聖霊派の教えや、心理学や、脳についての非科学的な発表など、多岐に渡る知識の寄せ集めであったが、それらすべての人工呼吸器や点滴のような知識の「栄養補給」が彼らにもたらした結論は、そうした学びによって、彼らが「神に到達した」という結論だけだったのである。

このような宣言は、決して御霊に導かれる信者から出て来ることはないものである。彼らの学びの意欲は、彼らを謙遜に導くことは決してなく、彼らをますます高慢にして行き、ついに神の高みに自力で達し得たと豪語するまでのところまで、彼らを導いたのである。キリスト教界とローカルチャーチの欺瞞を批判していた人々が、批判していた対象と全く同じ偽りに陥ったことに注意したい。

こうした事実から察するに、この人々が手に取った「知識」とは、御霊から来るものではなく、サタンから来る「人が神になるためのノウハウ」であった、と考えるのが妥当である。

筆者は、すべての霊的先人が間違った記述を残していると言うつもりはなく、中には御霊に導かれて書き残された記述もあることだろうと思う。これまで筆者自身が、そうした記述から有益な霊的な糧を受け取ったこともあれば、そうしたものを紹介してくれた信者から、必要な御言葉を聞いたこともある。だから、こうした「教本」のすべてが無益でむなしいものだと主張しているわけではなく、また、信者がそれらから学ぶことが皆無で、全く有害でしかないと言うわけでもない。

だが、よくよく覚えておかなくてはならないことは、どんなに霊的先人たちの残した記述が優れているとしても、信者がそのような記述を可能な限り身の回りにかき集めて来て、自分の知識の本棚にストックし、クジャクの羽をつけたカラスのように見せびらかしたからと言って、それによって、カラスがクジャクになることは決してない、という事実である。キリストとの直接の交わりがなければ、どんなに優れた先人の残したどんなに優れた知識をどれほど大量に蓄積したところで、それによって、その信者の堕落した自己の本質は決して寸分たりとも変わりはしないのである。その信者は、そのような学習によっては、一歩もキリストに近づくことはなく、むしろ、そのような方法でこうした「教本」を利用すると、どんなに優れた学習教材も、その信者が自己の本質を偽り、自分を飾るためのイチヂクの葉以上の効果を全く持たないものとなってしまう。

しかし、こうした問題について、KFCだけを断罪するのは当たらないであろうと思う。というのは、類似した問題が、キリスト教界全体に起きているからである。筆者が何を言いたいか、もうお分かりの読者もいるかも知れない。

キリスト教は人間の作り出した言い伝えや教えではなく、エクレシアは「教える会」(勉強会)ではないにも関わらず、それが意図的に「教会」と訳され、その訳語のために、エクレシアが霊的偏差値をさらに高めるための勉強会のようにみなされている背景には、エクレシアの本質を何かしら別物にすり替えようとする暗闇の勢力の意図が働いているのではないかと思わざるを得ない。

一体、何のための「勉強会」なのであろうか? そこで教えられているものとは何なのか? 

端的に言えば、そこで教えられているのは、「人が神になるためのノウハウ」なのである。その点で、今日、キリスト教界で広がっている光景は、主イエスが地上に来られた時の宗教家たちの姿とさほど変わらないものだと言えよう。当時の律法学者やパリサイ人たちは人一倍、神に近づくことに熱心な人々であった。彼らは律法を守り、落ち度なく行動し、聖書にも精通しており、人からも尊敬を受けていた。そして、彼らは自分たちの宗教熱心さのゆえに、自分自身を神にも等しい聖なる存在のようにみなしていた。それにも関わらず、実際は、彼らの熱心な努力は、彼らを神に近づけることは全くなかったのである。主イエスは彼らの偽善性を指摘してこれを罪として非難された。

今日の状況もそれとよく似ている。人前に何の栄光ももたらさない十字架の死という土台にとどまって、信者がただキリストご自身が、御霊によって、直接、信者の霊に啓示を与えて下さるのを待つかわりに、手っ取り早く人間が自ら作り出した学習教材に手を伸ばし、そこから疑似的な啓示を受け、そこで受けた刺激や感化を通して、自分を飾り、あたかも自分がそれによってキリストに近づき、人間性が改善・進歩したかのような錯覚に陥っている。それはどこまで行っても、神を抜きにした人類の独りよがりな自己改造の努力に過ぎないのだが、それが分からなくなった信者は、そのようなヴァーチャルな変化を積み重ねて行くことにより、神との合一に達しうるかのように考え、ついには神に達したと宣言するまでに至っている。このヴァーチャルかつ偽りの自己改造の努力を、会員全体で積み上げることによって、皆で霊的偏差値を上げてキリストに近づき、到達しましょうというのが、「教会」という訳語が本来的に意図する目的なのではあるまいかと筆者は考えずにいられない。

そのように考えると、今まで教会について疑問に思われたすべてが腑に落ち、納得できるのである。今日のキリスト教界がなぜ現状のような有様になっているのか、なぜとりわけ熱心そうに見える教師然とした信徒たちが、恐るべき偽善的な生活を恥ずかしげもなく送ることができるのか、なぜ信者間に競争があり、差別があり、排除があり、同胞を貶め、排除しながら、特定の集会に居残った人たちが、まるで神に選ばれたエリートであるかのように勝ち誇るといった現象が起きているのか、すべてがよく理解できるのである。

それは、彼らが信仰の名のもとに目指しているものが、キリストご自身によらずに、自分たち人間の力で神に到達し、神の聖なる性質を我が物とすることだからである。一言で言えば、彼らは霊的な淘汰の競争を勝ち抜いて、霊的なヒエラルキーの階段を高みに駆け上って、自ら神の選民となり、神と合一することを目指しているのだと言える。

だが、そのような願いは御霊から出て来た思いではない。だからこそ、そのようなこの世的な歪んだ競争原理、淘汰の原則の働くところ、もっと言えば、霊的な優生思想とで呼んでも差し支えない悪しき歪んだイデオロギーの支配する場所では、様々な不幸な現象が起きて来ることは避けられず、それはもはや一部の教会だけがカルト化しているなどといった次元の問題ではないのである。にも関わらず、キリスト教界組織そのものに根本原因があることを見ずして、キリスト教界がキリスト教界を取り締まるために、自らが繰り広げるカルト被害者救済活動など、全く根本的な対策とはならないのは当然である。

信徒間にヒエラルキーを作り出し、霊的支配と搾取を肯定し、ただ神からの栄誉を求めるのではなく、世と人前でに栄誉を受けることを求め、神の働きを静かに待ち望むのでなく、人間の側からの熱心な努力により頼んで、神に近づき、神の聖に至りつこうとしている今日のキリスト教界そのものが、「ピラトの階段」と化しているのである。

霊的な進歩を求めて熱心に学習を積むことは、人の目には善良なことのように映るであろう。しかし、神の目には、神ご自身から生まれたものでなければ、決して価値あるものと評価されることはない。そして、神からの栄誉と人からの栄誉を同時に受けることは決してできない。神の祝福や富が人間に注がれるためには、カルバリの十字架における霊的死がどうしても必要なのであり、人の古き自己が完全に焼き尽くされ、灰にされた地点でのみ、神からの祝福がその人に注がれるのである。

にも関わらず、人前での栄誉、世からの栄誉を追い求め、これを完全に失う十字架の死の地点を経由していないのに、信者が自己の努力で様々な学習を積んで、神の聖に近づこうとすることは、神を抜きにして、人が神に到達しようとする驕りである。そのような学習を通じて得られる知識は、信者を高ぶりに陥らせるだけで、決して神に近づけることはない。

繰り返すが、人が神に到達する道は、十字架以外には存在しない。その十字架は、人前に何の栄光もなく、その道は、人前に「熱心で模範的な優秀な信徒」や、「優れた霊的賜物を持つ教師」などとみなされて評価され、誉めそやされて脚光を浴び、感謝と拍手を受けて、栄光化されることとは全く相容れない道である。

真の謙遜とは何か(1)

神の家の建造が可能になるには、まず<..>人を重んじるサタンの働きは完全に断ち切られなければなりません。人の栄光と、自分のために栄光を求める人の欲求は、低くされなければなりません。これは主の御名のための家であり、天と地と地獄の中にある他の名のためではありません私の栄光を他の者に与えはしないと主は言われます(イザヤ書42章8節)

主は常にこれをなさっています。ああ、神聖な領域における、人の肉の恐ろしい現れ! ああ、神に属する領域の中で得る名声! ああ、教会の中で地位を得る喜び! ああ、この肉は自分の喜びと満足を求めて何と頻繁に活動することか! 主は常に肉を激しく打ち、痛撃を加えておられます――それは、彼の家が私たちから出たものの上にではなく、正しい土台の上に建造されるためです。これは私たちに強い感銘を与えます。

「主よ、ダビデのために、彼のすべての謙卑を思い出して下さい」(詩篇132篇1節)。<...>

彼は言います、「私は何と自分を低くしたことでしょう! 私は自分の目に眠りを与えません。寝床にも上がりません。自分の家を楽しみません。私は自分を低くし、乏しくなりました。それは、主のために一つの場所を見いだすためです」。 

主はこの謙卑を要求されます彼は人をこのように砕かれます。それは、家が正しい土台の上に据えられるためです。これが私たちに対する彼の取り扱いの理由です。彼は私たちをひとかどの者にはされません

真に神の住まいとなるには、私たち自身は無でなければなりません。名声を求めてはいけません。印象づけようとしてはいけません。自分の威厳に固執してはいけません。人々よりも抜きんでて、彼らに自分を尊重させようとするようなことを、決して何もしてはいけません。そのようなことは主には通用しません

ですから、それを取り除きましょう。<...>神の目から見て自分がどのような者なのかを認識しましょう。彼はこれを成し遂げられます。ですから、自分の本当の姿とは異なる姿を人々の意識に植え付けて優位に立とうとするなら、私たちは神の家の原則に反することになります。自尊心はすべて捨てなければなりません。認められたいという欲求も、すべて捨てなければなりません。このようなことはみな、一掃されなければなりません。

神の家はそのようなものの上には据えられません。神はそれをお許しになりません。人は低くされます。それ以外のことは、すべて悪魔の働きです。それは、心の中に高慢が見つかった者から来ます。

 オースチンスパークス著、『神の家の諸原則』より

 
真の謙遜とは、多くのパラドックスをはらんでいる。神の目から見た真の謙遜は、この世や、人の目に謙虚と映るものとは、むしろ真逆である。

この世において「謙虚さ」と受け取られている内容は、おそらく、自分が何者でもないと認識し、人前に自分を誇らないことであろう。

特に、我が国のような場所では、自信満々に振る舞う人は、「己惚れている」とか、「思い上がっている」、「生意気だ」などとみなされて、叩かれる風潮がある。そこで、このような風潮の下では、人は他者から目をつけられ、攻撃されたくないばかりに、ことさらに自分を「謙虚」に見せかけようと、しばしばあるがまま以上に弱々しくふるまうし、自己卑下をする。そして、その結果として、いつしかあったはずの自信までも失って、本当に自分を無力だと認識するようになり、ここ一番という勝負の時にさえ、力を発揮できないまでになる。
 
しかしながら、そのように、自分が世から攻撃されないことを目的に、わざと弱々しく振る舞い、自分を弱い人間だと思い込み、そのように表明することは、一種の擬態のようなものであり、真の謙虚さとは全く関係がない事柄である。
 
神から見た謙虚さとは、アダムの命にあっては何も誇らなくとも、キリストにあって自分は何者なのか、神にあるアイデンティティを確固として掴み、手放さないことである。

つまり、「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。」(Ⅱコリント12:9)ということを確信し、信者が依然として自分の生まれながらの弱さを抱えているように思われる時でも、そこに働く神の強さを確信し、「人にはできないことが、神にはできるのです。」(ルカ18:27)と固く信じて進んで行くことにある。
 
「神にはできる」最も重要な事柄は、キリストにある者を新創造として生かすことである。

「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことは、すべて神から出ているのです。」(Ⅱコリント5:17-18)

キリストにあって、贖われたということは、すべての罪から清められており、キリストの新しい復活の命によって生かされていることを意味する。それは信者の古き人のアイデンティティからの訣別を意味する。

こうした約束が与えられているにも関わらず、信者がただ「私は無です、無力です、私は死すべき罪人の一人に過ぎません」と言い続けるだけでは、単なる自己卑下に終わってしまい、神の御業がその人に大胆に表されることもなければ、神の力がその人を通して現れ出ることもない。

だが、このあたりが、今日のクリスチャンがあまりにも大きく誤解している点である。
 
たとえば、「真に神の住まいとなるには、私たち自身は無でなければなりません」という以上のオースチン-スパークスの言葉を、信者がまるで強迫観念のように受け取って、いかに自分は肉の満足を求めていないか、自分を誇っていないか、ということを周囲の信者に証明しようと、いたずらに自分の権利を放棄し、苦しい生活を送るだけでは、単なる自虐に終わってしまうであろう。

そもそも人前に謙虚に映るように振る舞うことと、神の目に謙虚であることは全く異なる事柄である。たとえば、聖書は、断食する時には、人前に見せびらかさないようにしなさい、とか、祈る時には、戸を閉じて隠れて祈りなさい、などと告げている。神に対する謙虚さ、熱心さ、奉仕は、隠れたところですべきものであって、人前でアピールすべき種類のものではない。

だから、「私は神のためにこんなに多くのものを捨てました!もはや肉の誇りに生きていません!」などと言って、信者が次から次へと自分の諸権利を捨てて行くことが、「真の神の住まいとなるために、自分を無にする」ことではないのである。

神にある謙遜とは、そのようなものではなく、「神の目から見て自分がどのような者なのかを認識しましょう」という言葉にもよく表れている通り、キリストにあって贖われた自分自身は、一体、何者なのか、という事実を信者が正しく認識し、これを掴むことである。

そこでは、信者が自分に与えられたキリストの御名の権威を過小評価して、「人にはできないことが、神にはできるのです。」という事実を信じず、「私には何もできない」と言い続けて、神の御業を退けることこそ、謙遜ではなく、高慢なのである。

では、一体、それでは、オースチン-スパークスの批判している、肉の高慢の正体は何なのか?と、問う人もあろう。

神聖な領域における、人の肉の恐ろしい現れ! ああ、神に属する領域の中で得る名声! ああ、教会の中で地位を得る喜び! ああ、この肉は自分の喜びと満足を求めて何と頻繁に活動することか!
 
このような肉の誇り、地位、名声は、ほとんど例外なく、信者の不信仰につけこんで出来上がる教会内ヒエラルキーから発生する、と筆者は考えている。

これまで筆者は、キリスト者がキリスト者を「弟子化する」ことの危険性を、幾度も述べて来た。御霊が教師となって直接、信者に御言葉の意味を教えて下さる以上、信者は人間の指導者に依存しなければならない理由はもはや存在しない。信者間の交わりはあって良く、信者が信者から光を受け、重要な気づきを与えられることも、十分に起こり得るが、だからと言って、信者間に序列や等級を作って、教師と師弟のような関係を固定的に結び、ヒエラルキーを作る必要は全くないと筆者は考えている。そのようなものは地上的な組織の形態であって、エクレシアとは関係のないものである。

しかし、信者を名乗っていても、教師やリーダー格になりたがる野心家は多く、年齢や経験や信仰歴をかさにきて威張ろうとする者もないわけではなく、さらに、牧師制度というものを敷いている集まりは多数存在する。牧師制度を置かない、と公言している団体でさえ、結局、牧師と変わらないリーダーを固定的に作り上げている例は多い。

このように、指導的立場に立ちたがる人間が、教会の中で一定の地位を占めると、キリストの御業は脇に追いやられることになるが、そんな人間が台頭して来るに当たって、必ず、利用されるのが、信者たちの心の恐れや、不安や、自信のなさや、弱点である。つまり、こうした野心家は、他の信者の心の弱さと不信仰につけこんで、これを足がかりに、優しい助言者や、教師のように振る舞いながら、人々を自分に依存させ、自らの地位を教会内で築き上げて行くのである。まず信者の不信仰が前提になければ、こういう肉なる野心家の台頭も決してあり得ない、と言えよう。

肉の誇りというものは、いずれの場合も、人間の弱さや恐れと密接に結びついている。この世のたとえで言えば、あたかも受験競争のようなものである。片方には、偏差値で優秀だと言われている人たちがいて、人前に栄光を受けているが、彼らの「優秀さ」なるものは、もう片方に、「劣等生」と呼ばれる一群が存在しなければ成り立たない。肉の誇りというものは、みなこのように、例外なく、他者との比較に基づいて、誰かを貶めることによって成り立っており、信者が教会内で肉を誇るというのは、要するに、信者が自分よりも弱く、劣って、惨めな信者たちを踏み台にし、自己の栄光の道具とすることを意味する。

だが、問題なのは、そうして嘲られ、踏み台にされ、利用されている信者たちが、あまりにも弱々しく、不信仰なので、彼らは自分たちが野心的なリーダーの栄光の道具とされていることの忌まわしさにさえ全く気づかずに、むしろ、自分たちのような弱々しい群れには、誰か象徴的に導いてくれるリーダーがいなければ、正常な信仰生活を送るのは無理であり、リーダーがいるだけありがたいとさえ思い込んで自ら隷従している点である。

そのようにまで自信を失い、不信仰に目をくらまされ、自立から遠ざかった群れは、自らの人間への依存状態が、人の肉の誇りを助長し、キリストの栄光を傷つけていることが分からない。このような群れの信仰の弱々しさにつけ込んで、人間の指導者が教会内で台頭して来るのであって、不信仰な群れの「霊的民度」の低さにふさわしいリーダーが立てられているのだ、と言えないこともないだろう。

だが、目立ちたがり屋の野心的指導者の肉の誇りはさて置き、そうでなくとも、生まれながらの人は、信者が信仰を通して得られる神の強さが理解できない。だから、信者が信仰によってサタンの枷を振るい落として、本当に力強く立ち上がろうとするときには、決まって、不信仰な人々から、激しい反対が起きて来ることは避けられない。「あれはナザレのイエスではないか」と言って、主イエスを侮った人々のように、「あなたは何者でもないのに、自分に力があると己惚れているだけであり、それは高慢ではないか」という非難が、不信仰な人々から必ずやって来ることになる。

そうした非難は、たとえば、信者が人間の指導者を離れて、真に神だけに従って生きようと自立する時に起きて来るであろうし、あるいは信者が、神の癒しを信じて、無益な薬と手を切って、病から本格的に立ち上がって健康を求めようとする時に起きて来るであろうし、信者がそれまでずっと引きずって来た何らかの弱さや依存状態を脱して、信仰によって力強く立ち上がろうとする時に起きて来るであろう。

信者がキリストにあって約束された自由を手にしようと、それまでの束縛を断ち切って立ち上がる時、必ず、悪魔は自分たちの手下となっている誰かを利用して、「そんな生き方は高慢だ!あなたは己惚れているだけだ!不可能事を目指しているのだ!」といった非難をぶつけて、信者が自由になることを妨げようとして来るものである。

それまで信者の弱さを食い物にして利益を享受して来た団体が、信者の足元に蜘蛛の糸のように群がって来て、何としても以前の依存状態に引きずりおろそうと画策して来るかも知れないし、裏切り者のように非難を浴びせるかも知れない。

その時になって初めて、信者は「自分たちのような弱々しい群れには、リーダーがいるだけありがたい」などと思っていたことが、全くの欺瞞であったことに気づく。リーダーは味方ではなく、信者を弱さの中に閉じ込めておくための束縛の枷でしかなかったのである。だが、それは信者が自ら依存状態を脱しようと立ち上がったときに初めて見えて来る事実であり、もし弱さを脱却しようと望まないなら、永久にその事実は見えないことであろう。

この世においては、自分を弱々しく、無力に見せかけることが、自己防衛の手段となるかも知れない。だが、神は贖われた信者にこう言われる、「あなたはもはや自分は弱い、などと言ってはなりません。私の強さがあなたの弱さを覆うからです。あなたはもはや自分は未熟で、助けてくれる人や、リーダーがいなければ生きられない、などと言ってはいけません。私こそあなたの真のリーダーとして、あなたを正しく導くことができるからです。あなたは自分は年若く力もないので、どうせ大したことはできない、などと言ってはいけません。神があなたの味方なのです。ですから、勇気を出しなさい、あなたはたった一人で地獄の軍勢と対峙する時にも、恐れなく、勇敢でありなさい。私があなたに必要な知恵を全て与えます。約束の通り、私は敵前であなたの頭に油を注ぎ、あなたの杯を祝福します。たとえあなたがこの世を見て、どんなにそこに強敵がいるように感じ、自分を弱く感じたとしても、恐れてはなりません。私の助けはいつもあなたにとって十分なのです。思い出しなさい、私は世に勝ったのです。あなたは私によって贖い出されました。あなたにはもはや再び世から来る各種の脅しに屈しなければならない理由はありません・・・。」

多くの信者たちの目には、信仰生活とは、霊的階段を高みに昇って行くための学習塾のようなものと映っており(そもそも教会という訳語からして不適切であろう)、信者が互いにできないところを教え合い、不勉強を助け合い、知的・霊的成熟に達するための訓練場のように受け取られている。だが、学習塾ならば、テストに合格するまでの間だけ通えばそれで良いであろうが、もし信仰生活を学習塾のようにとらえるならば、信者は一体、いつまでその「塾」に通い続ければ、及第点が取れるのであろうか? いつまで教師や助言者に依存し続けることになるのだろうか?

信仰生活とは、互いに教え合うサークルではなく、教える方は、キリストであり、信仰のナビゲーターである御霊を通して、信者はすでに必要のすべてを受け取っている。自分の中にすでに羅針盤があるのに、他の誰かに道を聞く必要はない。

たとえ信者が年若く、救われて間もなく、まだ多くのことを知らないように思われても、教えて下さる方は、キリストであり、キリストは信者を導く完全な知恵を持っておられる。この点を間違えて、信者が自分は未熟だからと考えて、人間の指導者に教えを乞えば、必ずや、誤謬の中に導き入れられ、後になって、近道を行ったつもりが、とんでもない遠回りをさせられたことに気づくであろう。
 
信者は自らの信仰の歩みに、他の信者から同意や許可を得る必要はない。たとえ人からの理解が得られず、未だ誰も歩いたことのない場所に新たな一歩を踏み出すことになる時にも、もしそれが神から出たことであれば、信者は人の思惑を気にせず、勇気を持って進んで行かなくてはならない。

信仰生活は、信者が、すべての面で自由を得ることと密接に結びついている。それは勝手気ままな放縦としての自由ではなく、神にあって、律法の要求を完全に満たすことのできる自由である。信者は限りなく、神がキリストを通して信者にお与え下さった自由を希求して行かねばならない。それがどんなにこの世の常識からかけ離れ、人間の目にあるいは不可能事と見えたとしても、信者は御言葉に従って、絶えず「人にはできなくとも、神にはできる」と告白し、自分の限界を見ず、神の全能を選び取って進んで行かなければならない。

真の謙遜とは、信者がいつまでも自分を無力と考えて、不自由や弱さや隷従の中にとどまり続けることを意味しない。むしろ、キリストにあって自分は何者とされたのか、その事実を信者が御言葉によってはっきりと掴み、それを自分自身に適用して、絶えず天から地に引き下ろすことこそ、真の謙遜である、と筆者は確信してやまない。

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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