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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

御霊に導かれて生きる~悪魔のディスカウントの鏡を否み、神の新しい完全な人であるキリストを着る~

さて、いつの間にやら当ブログと筆者は「聖霊によって歩むクリスチャン」という極めて名誉ある称号を頂戴していたようである。
 
そのことは厳粛な喜びと感動のような感慨を筆者にもたらす。これは冗談や皮肉で言うのではない。なぜなら、この称号の意味は非常に重く、責任が伴い、それだけに、それが暗闇の軍勢から発せられたことは極めて予表的な出来事だと思うためである。

ちょうどイエスの十字架の上に「ユダヤ人の王」と書かれた札が掲げられていたことを彷彿とさせる。そういう意味で、この表現は筆者の予想を超えて、霊的に栄誉ある称号であり、改めて神に従うキリスト者が誰しも辿らねばならない十字架の道を思わせる。それを理解した上で、心を新たに、主の御前で、御霊に従って生きさせて下さい、あなたに従う道を教えて下さいと厳粛な決意を表明させられるのである。

筆者はかねてより、クリスチャンはみな殉教の覚悟を固めるべきと述べて来たが、「御霊によって歩む」ことには、大きな解放も伴うと同時に、十字架も伴う。それは決して人間にとって好ましい偉大な側面だけを意味しない。代償を払い続ける覚悟がなければ、神に従うことは誰にもできない相談であり、その告白をますます生きて実践的に問われる時代が来ていることを感じる。
 
折しも、ちょうどここしばらくの間、「善悪の路線ではなく、命の御霊の路線によって生きる」というテーマに戻らなければならないと考えていたところだ。

今は地上に「御霊によって歩むクリスチャン」がどのくらいいるのかさえも疑わしい危機的な時代だが、それでも、そのような状況には一切関係なく、もしも個人が心の中で主を見上げ、決して目に目るものによらずに神だけを頼りにして歩むなら、「御霊によって歩く」ことは十分に今日も可能であると確信する。

人には人生で時間をかけて取り組む価値のあることはたくさんあるように見えるかも知れないが、御霊によって、キリストと一つとされて彼の中を歩むことは、他のすべてにまさって価値あることである。そのようにして過ごす短い数日に知る事柄は、人が何十年間かかっても到達することができないほどの深い真理の知識を与える。

聖書の真理は聖霊によってのみ知ることができるものである。真理の啓示には客観的な証明手段が必要とならない。人間が正しい知識を得る際には、必ず、それが正しいものであることを論理的または物的証拠によって証明するための膨大な裏づけが必要となるが、真理に関しては、そのようにして客観的な証拠の積み上げによって、それが真理である(らしい)と証明されるのではなく、神ご自身がそれが正しいことを人の霊の内に直接、啓示して下さるのである。とはいえ、人は霊の内側で知ったことを、魂で再解釈する必要があるので、ただ啓示を受けたというだけでは、たとえそれが神から来たと疑いの余地なく分かっていたとしても、あえてそれを鵜呑みにするのではなく、受けた啓示が正しいものであることを、やはり魂によって吟味し、証明しなければならない。もしそれが真に神から来た啓示であれば、魂による検証作業の過程で、聖書の御言葉との齟齬が出て来ることはない。そうして霊的な事柄を御言葉に照らし合わせて再検証することはどんな場合にも有益である。

御霊の中を歩み続けるならば、絶えず真理を知らされることができるであろうが、残念ながら、クリスチャンは必ず様々な攻撃を受けてそこから逸らされたり、転落させられたりして、御霊によって歩むことの意味を、数々の失敗を通して学ばされるしかない。御霊によって歩むことの学びは一朝一夕では終わらず、まずは、何が自分のアダムの古き命に属するもので、何を十字架において否まなければならないのか、それを知るためだけにも、長い学びの年月がある。

否むべきものが何であるのかが分からなければ、御霊による歩みはほんの一瞬程度しか続かない。神の霊に属するものと、肉に属するものは決して両立しないからだ。人間が天然の魂に従って生きている間は、御霊による歩みは決して続かない。むろん、契約の箱に触れたウザが死んだように、御霊によって歩むことに失敗したからと言って、信者が罰を受けるようなことはないにせよ、信者の命が著しい損傷を受けることは確かである。そして、その損傷の度合いは、信者が御霊の導きを知らなかったときに犯した誤りとは比べものにもならないほどの深刻かつ広範な影響力を及ぼす。ひとたび、神の聖霊と悪魔と暗闇の軍勢との恐るべき戦いの世界に足を踏み入れたならば、霊の世界に生きることが、通常の天然の域をどれほど著しく超えているか、信者は理解しないわけにいかなくなる。それを学ぶためだけにでも、月日がかかるものと思う。
 
だが、今は、天的な領域における霊的戦いについて語るのではなく、一人の人間が自分の思いの中でどうやって天然の衝動を拒んで、御霊に従うことを選択して行くかという話に限りたい。御霊によって歩むとは、キリストの完全の中を歩むことであるが、信者は、キリストの霊によって新しく生まれることを理解して、御霊の導きを見極めようとした瞬間から、思いの中で、激しい戦いが始まる。自分自身の中にある旧創造の命と新創造の命との戦いである。

その戦いに打ち勝つためには、信者が「思いを新しくする」ことが不可欠となる。これは私たちが古いアイデンティティに立って生きるのか、それとも、新しいアイデンティティに立って生きるのか、心の中で起きる激しい戦いのことを示している。

悪魔は新生されたクリスチャンの「思い」に対して攻撃を仕かける。その攻撃の最たるものは「ディスカウント」である。悪魔は別名を「中傷する者(ディアボロス)」と呼ばれ、嘘や、ごまかしや、トリックや、あらゆる禁じ手を使って、何とかして人間の価値を貶めようとする。その方法は、人の思いの中で、その人のイメージを汚すことによる。
 
すでに書いたように、創世記において、悪魔は人類に、神の創造は間違っており、人類は神によって不当に貶められ、制限だらけの劣った存在として造られたかのように嘘を吹き込んだ。

ある意味では、悪魔はその時、自分の手鏡を持って人類の目の前に現れ、その鏡に人類の姿を映し出して見せたのだと言えよう。「ほら、これがあなたの姿ですよ」と、人類の前に、醜く、劣った、傷だらけの、不完全な人類の姿を映し出して見せた。そして、「神はあなたを信用していないから、あなたに対する優位を誇ろうと、わざとあなたを制限の下に置いて、あなたをこんなにも劣って、醜い、弱く、惨めな姿に創造されたのですよ。あなたは自分自身のこんな姿に本当に満足しているんですか。神の決定は不当だと思いませんか。」と問いかけたのである。

悪魔は、このようにして、人類の思いの中で、人類のイメージを汚し、人類が決して神の創造された自分自身の姿に満足できなくなって、その姿を自分で変えなければならいと思い込むように仕向けた。それによって、人類が神に不満を持ち、神を恨むようにそそのかしたのである。人類に神を憎ませ、自分自身を憎ませるためである。

だが、そうして悪魔が映し出して見せた人類のイメージは、悪魔の眼差しという歪んだ鏡に映った映像であったので、人類の真実な姿ではなかった。人間は、神の目に自分がどう映っているかを気にかけるべきであり、悪魔が思い描いた人類の虚偽のイメージに気を取られるべきではなかったのである。

悪魔はこうして人類が創造されたその瞬間から、すでに神と人類とをディスカウントしていたのであって、神を「信用ならない傲慢不遜な存在」とみなした上、人類をも「愚かな神による出来損ないの産物」と見ていた。そして、神と人類との間を引き裂いて、両者の間に不信のくさびを打ち込み、両者を戦わせて相撃ちにさせれば、自分が漁夫の利を得られると考えつつ、人類に近づいたのである。

人類はそのように不当にディスカウントされた像が虚偽であり、悪魔の語りかけは、自分を罠に陥れるための策略であることを理解し、悪魔が提示して来た人類の姿を、自分自身の本当の像として受け入れることを断固、拒否せねばならなかった。しかし、人類がそれを嘘と見抜けず、受け入れてしまった瞬間に、悪魔の嘘はリアリティとなって人類の上に結実し、実際に、アダムの命は限界と弱さの象徴、もっと言えば、死の象徴となってしまった。つまり、堕落が現実に起きる前に、人類は自分は神の御前で何者であるかという認識を、すでに悪魔に奪い取られてしまっていたのである。

ヨブ記では、悪魔はアダムとエバに対して使ったのと似た策略を用いて、義人ヨブをも堕落させようと試みた。悪魔はまずヨブから大事な子供たちを奪い去った上、ヨブにひどい腫れ物をもたらして、彼の外観を別人とみまごうほどに損い、不快な感覚で悩ました。ここでは、悪魔はヨブのイメージをただ彼の心の中だけで傷つけようとしたのではなく、実際に彼の外観を傷つけることで、ヨブが自分は不幸だと嘆いて自己憐憫に沈むよう仕向け、神に対する彼の「思い」を変えようとしたのである。
 
病は悪魔がヨブにもたらした災いのまだ最初の部分であったが、ヨブの妻は、ヨブがそれほど惨めな姿になっても、まだ神を恨んで死のうとしないのを見て、夫を侮蔑した。自分ならば、そんな試練をもたらされれば、とうに神を呪って死んでいただろう、その方が、これほどの屈辱を甘んじて耐え忍ぶよりも、よほど潔いと思ったのだ。

ここに天然の人間特有のものの考え方がある。ヨブの妻の目には、これほど苦しめられても、まだ神の誠実な御心を疑わずにすがっているヨブは、あまりにも愚直すぎ、侮蔑と嘲りの対象でしかなかった。信仰のない生まれながらの人類は、プライドを傷つけられることや、自分が脅かされることに耐えられない。神を信じることよりも、自分の美的イメージを保つことの方がはるかに重要であり、自分のイメージが傷つけ、人前に恥を晒すくらいならば、死を選ぶという人々も少なくない。災いが起これば、早速、「神の祟り」にかこつけ、神に対して自分を被害者とみなし、自らを哀れむばかりか、神を悪罵して死ぬのも当然の権利と考える。彼らの目には、どこまでも正しいのは、自分であって、神ではないのである。

だが、義人ヨブは、天然の人のものの考え方を拒否し、神に対して被害者意識を持つことを強く拒んだ。彼は自分の美的イメージが根こそぎ傷つけられても、神を恨むことはなく、信仰を捨てることもなかった。ある意味で、ヨブは、古き人の中にありながら、信仰によって、すでに「新しき人」であるキリストを見つめていたのである。本当の自分自身は、現実の目に見える古い自分にはなく、神がヨブのために新しい人を用意しておられ、それを上から着ることができると信じていたのである。
 
「 ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。 主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。

サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。 しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。 サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。
ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。 時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。

しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった
。」(ヨブ記2:1-10)


その後、今度は、友人たちがやって来た。彼らは最初はヨブに同情していたが、ヨブが一向に神を恨まないのを見て、今度はヨブ自身を責め始めた。彼が罪を犯したから当然の罰として災いが降りかかったのではないかというわけだ。その言葉で、友人たちの同情が本物でなかったことが判明した。

ここにも天然の人特有のものの考え方がある。普通の人間は、何かとてつもない災いが、自分以外の誰かに降りかかるのを見ると、必ず「原因探し」をしようとする。まずは神を悪者にした上、人間は弱い者同士として、被害者意識で連帯し、災いに見舞われた人に自分も同じような経験に見舞われる可能性のある人間として同情しようとする。

しかし、彼らは災いの当事者に自分を被害者と考えて神を恨ませることができないと分かれば、今度は災いに舞われた人自身を「タブー」とみなして、その者に原因をなすりつけようとする。彼には何か隠れた問題があって、神に見捨てられたせいでそうなったに違いないと考えて、今度は人間を悪者にして済まそうとする。

結局は、そのどちらの行為も、人間に被害者意識を持たせるために行われていることだ。災いを「神の祟り」とみなして神を恨ませようとすることも、「もし神が原因でないというなら、あなた自身が原因だと認めるんですか」と返答を迫ることも、根本的には同じなのである。どちらを選んでも、しょせん理不尽な答えしか導き出せない、間違った問いの立て方である。実のところ、そこには「サタンが悪い」という選択肢だけが巧妙に抜け落ちているのである。

ヨブは神と人とのどちらの側にも原因を認めなかった。その姿勢の中には神の御思いが反映している。ヨブが見ていたのは、責められるところのない、傷のない、完全な人のイメージである。ヨブは自分の義に固執していたわけではなく、そのずっと先に、キリストを見ていた。神は人間を弱く、劣った、罪深い存在として、理不尽に罰して滅ぼすために創造されたのではない。神はご自分の目にかなう、傷のない被造物として、人間を造られた、そして、人間が罪によって神に離反しても、なお罪から贖うことで、ご自分から離れて行った被造物を取り戻そうとしておられる…、その神の御思いをヨブは一心に見つめてそこから目をそらさなかったのである。

ヨブは自分の姿がどうあるかに関係なく、信仰によって神の御心の中心を掴んでいたのである。むろん、ヨブは最後には神に向かって自分は塵と灰の中で悔い改めますと叫ぶが、それは、ヨブの友人たちが彼を責めたように、自分に非があるために一連の災いがもたらされたと認めるという意味ではない。人間は罪深く、弱く、劣った存在であるがゆえに、神に罰せられても仕方がないと認めるという意味では決してないのだ。

ヨブは義人であったから、責められる理由がなかった。それでも、彼は被造物として創造主の前に頭を下げ、自分の処遇のすべてを神に委ねたのである。それは、彼がたとえどのような目に遭わされ、何が自分に降りかかっても、決して神を加害者とはみなさず、自分を被害者とも思わないという信仰告白の総仕上げであった。むろん、ヨブのこの行為は、罪なくして罰せられた十字架上のイエスの父なる神への従順を予表する。

神の御前で(注意:人の前ではない!)自分の義を捨てるという、神への最後の明け渡しの段階を超えた後で、ヨブには失ったもののすべてが新しくされて取り戻される。それは彼が十字架の死を経て、復活のステージに入ったことを意味する。

今はまだ旧創造が贖われつつある時代なので、聖書では、この復活の領域についてあまり多くのことは明らかになっていない。十字架で死に、よみがえられた後のイエスは、復活の体を持って人々の前に現れられた。その体は、それまでの体とは異なっていた。巨大な墓石をどけてしまったり、大勢の人々の前に一度に現れたりすることのできる、天然の世界を超えたよみがえりの体であった。何よりその体にはすべての古い体を縛っている罪と死の法則が全く働いていなかった。

イエス自身は復活の前も後も変わらない同じ人格を持っておられたが、弟子たちはイエスの姿を見ても、それがイエスであることがすぐに分からないこともあった。イエスは十字架で死なれる前にも、数多くの奇跡を行われたが、死を経てよみがえられた時には、以前とは異なる意味で、この世を完全に超越していた。霊・魂・体のすべてが以前とは異なり、全く新しくされていたのである。
 
私たちは神を信じる者がいずれイエスが復活された時と同じように、新しい贖われた体でよみがえることを知っている。だが、それがどのように栄光ある体であったとしても、おそらく、それが私たちの中心的な関心事にはなるまい。この恵みの時代が通り過ぎた後も、聖書が一貫して中心に据えているのは、依然として「弱さのゆえに十字架につけられた」キリストのままである。すなわち、人としての弱さ、限界、痛み苦しみのすべてを背負いながら、最後まで神に従順であったキリストの偉大な達成の御業のままであろう。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられたましたが、神の力によって生きているのです。」(Ⅱコリント13:4)

さて、悪魔は、すべての物事を「加害者と被害者」というフィルターを通して見つめさせようとする。特に、人間に自分は神の被害者だという思いを吹き込むことが、サタンの主要な仕事である。サタンが人を傷つける方法はたくさんある。その中には、ヨブにもたらされたような災いもあれば、その他の試練や、誘惑や、中傷や、裏切りもある。

だが、サタンの人を傷つける方法がどんなものであれ、それらの目的はただ一つ――人間を思いの中でディスカウントすること――人の思いを攻撃して、自尊心を傷つけ、自分自身を恥じさせ、神を憎ませ、自分を憎ませ、人生を苦にして自ら死を選ぶよう仕向けることである。

私たちは、ペンテコステ・カリスマ運動の中から始まったカルト被害者救済活動の中に、この悪魔的な思考の罠を如実に見ることができよう。すなわち、被害者性と加害者性とはまさに一体であり、本質的に同質のものなのである。自分は被害者だと言っている人たちが、ひとたび状況が変われば、自分たちの心の傷やトラウマを、自分よりも弱そうな誰かをターゲットとして残酷に注ぎ込み、新たな被害者を延々と作り出していく。被害者が被害者で終わらず、その心の傷ある限り、彼らはいつでもどんなにでも恐ろしい加害者になりうることを、この運動ははっきりと物語っている。

つまり、自分を被害者だとみなすことは、悪魔のディスカウントを受け入れることと同じなのであり、さらに言えば、悪魔自身と一体化することをさえ意味する。その被害者意識を通して、神への不満と恨みが人間の思いの中に侵入し、それが傷つけられた自尊心を生み、自分を愛せない心を生み、他者を愛せない心を生んで行く。何よりも、自分と同じような境遇から脱して自由になろうとする人々に対する尽きせぬ妬みが生まれる。自分が被害者意識に縛られているのに、他人だけは自由になるなど許せないという妬みである。

だが、キリスト者は、そんな悪しき思いにとりつかれるよりも前に、まずは自分が見ている自分の像が本物なのかどうかを問わなければならない。自分を何者だとみなすかが、人の人生において決定的に重要な意味を帯びているのであって、何が理由であれ、ディスカウントされた像を自ら受け入れることは、その人の人生を決定的に損なう。

正義はれっきとして神にあり、悪人に対する神の裁きは確かに存在する。剣を取る者は剣で滅び、誰かに対する加害行為に及べば、その人は罰せられる。だが、罪人がふさわしい裁きを受けることと、誰かの不当な行為によって傷つけられた人が、値引きされた自分のイメージを自己の像として受け入れるかどうかは別問題である。ここに「思い」の中での戦いがある。

戦いは難しければ難しいほど面白いと当ブログでは以前に書いた。それは、人には立ち向かうことのできない弱さがあればあるほど、そこに信仰によって神の力が現れる余地が存在するからだ。

サタンは、常日頃から、病や、その他の弱さにひしがれて被害者意識に溺れ、ただ同情を乞うためだけに人々の間を巡り歩いているような信者たちは、とりたててターゲットにもしない。そういう人々は、サタンにとって何の脅威にもならないので、いつまでも弱さの中に閉じ込めておく以外にさしたる攻撃も行わない。

だが、真に束縛から抜け出て自由になって、完全な人間性を取り戻そうとする人々を、悪魔は本気で攻撃の対象とする。特に、人間の作った宗教組織の「和」によるディスカウントの束縛の中から抜け出て自由になることを、悪魔は何としても阻止しようとし、キリストの十字架の死と復活に同形化されて、復活の領域を歩むようになったクリスチャンを、死にもの狂いでターゲットとする。

しかし、その攻撃の際に悪魔が用いる方法は、古来から同じである。その人の価値をディスカウントし、中傷を真実であるかのように思わせることによって、神に対する人間の思いを汚そうとするのである。問題は、人々が悪魔の中傷にどの程度影響されるかや、世間が何を真実だと思うかではない。重要なのは、人が自分自身について何を真実だと信じるかである。

ところで、かつて世界的に高名なチェリストのロストロポーヴィチがソビエト体制崩壊後に我が国の記者のインタビューに答えてテレビで語っていた内容を思い出す。そこで記者は、ソビエト体制は芸術家の育成に類を見ないほどの力を入れていたことを指摘し、ロストロポーヴィチに向かって、彼がソビエト体制に生まれ、この体制の中で教育を受けたことは、彼の音楽家としての形成に不可欠な要素となっており、彼にはこの体制から受けた恩恵があるのではないか、ソビエトの教育をどう振り返り、どう評価するか、といった趣旨の質問を向けていた。

チェリストはそれに答えて言った、確かに、ソビエト体制は芸術家の育成に心血を注いでいた、だが、その教育には明らかな限界があった。その限界とは、ちょうど庭の芝刈りと同じで、ひとたび芸術家が体制の望む以上に成長を見せ始めると、その芝はたちまち刈られてしまうのだと。要するに、それは管理された教育であって、ある程度までの成長は許されるが、体制が許した限度を超えて成長することは決して許されないのである。

ロストロポーヴィチ夫妻がソビエト体制から迫害を受け、事実上、国外に追放された明らかな原因の一つは、国外で『収容所群島』を発表するなどしてソビエト体制の暗部を告発したために、体制から抑圧されていた作家ソルジェニーツィンを彼ら夫妻が助けていたことであった。1969年頃からロストロポーヴィチ夫妻はソルジェニーツィンをモスクワ近郊の自分たちの別荘に住まわせて経済的に支援し、作家のためにブレジネフに嘆願書を書いたりもしている。そうした振る舞いが原因となって、すでに音楽家として高い名声を獲得していたロストロポーヴィチはソビエト国内でコンサート活動や録音の機会を奪われて行く。

ロストロポーヴィチ一家は1974年にソビエト文化省から公式の許可を受けて長期の海外滞在に赴いたが、彼らが海外に滞在中の1978年、ソビエト国内では『イズベスチヤ』紙に3月16日付で大々的にロストロポーヴィチの反ソ的活動を非難し、彼らのソビエト市民権が剥奪されたと報道する記事が掲載される。(以下の記事断片は Wikipediaから抜粋)

 

M.L.ロストロポーヴィチとG.P.ヴィシネフスカヤ(*妻)は国外に出発した後、ソビエト連邦に帰国したいとの願いを表明せず、反愛国主義的活動を行い、ソビエト社会の秩序とソビエト市民としての名誉を傷つけた。彼らは反ソ的地下組織や、その他のソビエト連邦に敵対する外国の組織を組織的に支援した。1976-77年には、亡命した白系ロシア人(**ソビエト革命を避けて国外亡命したロシア人)の組織を支援するためにコンサートで募金を募るなどしていた。<略>
ロストロポーヴィチとヴィシネフスカヤが、ソヴィエト連邦の威信を損なう、ソビエト市民としてあるまじき活動を組織的に継続していることに鑑み、ソビエト連邦最高会議は1938年8月19日付のソビエト連邦市民権に関する連邦法第7条に基づき、M.L.ロストロポーヴィチとG.P.ヴィシネフスカヤの市民権を剥奪することを決定した。
1978年3月16日付の『イズベスチヤ』紙(NO.63(18823),p.4


 ソビエト体制も、「和の精神」に基づく「大日本帝国」と同じように、神と人類が同一であるというフィクションに基づくグノーシス主義国であった。グノーシス主義とは、聖書の霊なる見えない神を創造主とせず、物質世界の被造物を神とする教えであるから、本質的に唯物論である。ソビエト体制は、グノーシス主義的唯物論に基づき、人類の欲望をあらゆる制約から取り払って、無限に解放することを人類にとっての幸福社会と考え、欲望が無制限に解放される社会の実現を目的に、革命を起こして旧体制を追放し、グノーシス主義理論に基づく国家を建立したのである。ここでは、ちょうどマルクス主義的唯物論が「グノーシス」の役割を果たしている。グノーシス主義思想の中に見られる終わりなき秩序転覆は、マルクス主義を含めたあらゆる弁証法の起源なのである。

グノーシス主義理論に基づいて成立する国家や社会はいずれも、人類を抑圧から解放して自由と幸福を実現するという名目とは裏腹に、必ず恐るべき抑圧を人間にもたらすことになるのだが、むろん、ソビエト体制もその点で全く例外ではない。

これらのグノーシス主義国という抑圧的な体制は、それ自体が、人間をディスカウントする悪魔の「鏡」にたとえられる。

ロストロポーヴィチは国外滞在中に突然、ソビエト体制から事実上の「破門・追放宣言」を受けて、自分たちはもはや人間として生きるに値しない人々になったという宣告を、祖国の新聞雑誌という「鏡」を通して突きつけられた。彼らには母国に帰国する道はもはや絶たれた。だが、国外に旅立つ前から、国内には居場所がなくなっていたことから、やがてはそうなるであろうことを、夫妻は心の中でうすうす予期していたであろう。ソビエト政権は、彼らがあまりにも有名すぎて、ソルジェニーツィン同様、国内で処罰することができないために、このような形で厄介払いしたのである。

ソビエト政権は、ロストロポーヴィチがこの体制の限界と誤りに気づくまでの間は、彼を育成していたかも知れないが、いざ夫妻がこの国の体制が、根本的に人間性に反していることを悟り、政権の許容範囲を超えて活動し始めると、たちまち迫害に転じた。ロストロポーヴィチは、人間とは箱庭に植えられた芝ではないので、自分に備わった自然な命に従って、他の一般的な芝の高さを超えてでも、どんどん成長していくのが当然と考えたが、労働者と農民の国という形を取ったグノーシス主義国は、人間とは箱庭に植えられた芝であって、許された限度以上には決して成長してはならないとみなしていたのである。

一体、どちらの主張する人間の姿が本当なのだろうか? むろん、答えは明らかであろう。刈られた芝草は、ちょうどグノーシス主義のディスカウントの鏡に映し出された人間の姿を示す。ソビエト社会の秩序だとか、市民としての名誉だとかいったものは、みな「和の精神」というフィクションによって生み出される幻想であり、いわば芝草の背丈を示す、草刈機が作動する口実である。「和」を乱す活動は、すべて「罪」であって許されない活動として、草刈機によって排除される。この排除は、グノーシス主義理論に基づく国家や社会であれば、どこでも同じように起きる。

だが、現実の人間は、鏡に映った歪んだ映像とは異なり、未知数の可能性を秘めており、誰かが勝手に定めた芝草の背丈などにおさまりきらない成長を見せる。人間が箱庭の芝草なのではなく、そもそも人間のために庭があるのだ。その人間をどうして芝草同然に扱うことなどできようか。限界ある普通の人間でさえこうなのだから、まして信仰者はなおさらである。こうした国家は現実に逆らい、現実の人間自身を否定して、虚構の上に成り立っているのである。
 
人間は、神に比べれば確かに劣った存在であり、多くの限界と制約を受ける弱い存在である。創造主と被造物との関係は、人間がどんなに偉大に成長したとしても覆せないものであり、人間はどんな方法を使っても神と等しくなることは決してない。しかしながら、そのことは、神の側からの被造物への侮蔑や軽視を示す事実では全くなく、むしろ、事実は正反対である。
 
聖書に話を戻せば、神が人をどれほど重んじておられるかは至る所で分かる。神は人を滅ぼそうと思われる時にも、その計画を決して人に知らせず、突如として実行されることはなかった。ソドムとゴモラの悪を確かめ、これらの町々を滅ぼそうと決められた時にも、神はアブラハムにその旨を告げられた。

「時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」(創世記18:17-19)

神はイスラエルの民が偶像崇拝に陥り、神に背を向けた時にも、幾人もの預言者を遣わし、民に警告された。また、イエスは弟子たちに言われた、わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ15:14-15)

これらの事実は、神がどれほど人類を重んじて、ご自分の御思いを打ち明け、その実現を人が手伝うことを望んでおられるかということをはっきりと物語っている。神はこの目に見える世界を正しく統治させるために人間を創造されたのである。創造主と被造物との関係は覆せないとはいえ、決して神はご自分の優位性を誇り、人間を自分よりもはるかに劣った存在として貶め、無知にとどめおくために、不当に人間を弱く創造されて、制限をもうけられたわけではない。

しかし、悪魔は、人間に自分の限界だけに目を向けさせ、これを恥じさせることによって、神の御心を見失わせようとした。悪魔は、神は人間を不当に弱く、醜く、劣った存在にとどめおいているのであり、神には人間を信頼するつもりがなく、人間を侮蔑しているからこそ、そうしだのだと人に思わせようとした。人間がそれを真に受ければ、人の内側で神への信頼が失われ、両者の絆が断ち切れることを悪魔は知っていたのである。

それを信じたことは、人間の側のたとえようのない愚かさであったが、それでも、神は人間の犯した罪を人間自身に負わせることを是としなかったがゆえに、キリストを地上に送って贖いの十字架を負わされた。それによって、人類にはキリストによって新しく生まれ、旧創造としての限界を打ち破る可能性が開かれた。悪魔の嘘によって汚されたり、ディスカウントされていない、全く新しい聖なる天と地へ至る道が開けたのである。神はこうして人類を新しい世界へ脱出させることにより、悪魔の嘘によって汚された世界から人類を守り、その本来的な使命を全うさせようと考えられたのである。

キリストの贖いの犠牲によって、悪魔の言い分がどれほど卑劣な嘘であったかが、完膚なきまでに証明された。

にも関わらず、悪魔は今日になってもまだ同じ嘘をつき続けている。悪魔はまずは人間をディスカウントして精神的に抹殺を試み、それでも効き目がない場合には、カインがアベルを殺したように、肉体的抹殺という手段に及ぶ。悪魔の願望が、ただ人間をディスカウントすることにはなく、最終的には殺人にあることは、ここで改めて説明する必要もなかろう。
 
ただし、ディスカウントはそれ自体が精神的殺人であると言える。もしも人が悪魔の吹き込む思いを心の中で受けれれば、必ず、その人は死ぬことになる。殺されずとも、死がその人間の思いの中で働き、その人自身を内側から壊し、いずれ死に赴かせるであろう。

それだからこそ、カルト被害者救済活動は、自殺を罪とみなしていないのである。このことは、彼らが初めから、最終的には、自分たちの陣営に閉じ込めたすべての「被害者」たちを、あからさまに死に至らしめようと積極的に望んでいることをはっきりと物語っている。被害者救済活動という羊頭狗肉の看板は、結局、彼らが被害者として名乗り出て来たすべての人間を永遠に被害者のままにとどめ、ディスカウントの中に隔離して閉じ込めた結果、功を奏することのないむなしい自己改良に延々と取り組ませた結果、絶望して死に至らしめることを目的としていることを物語っている。

神が人類を不当な制約の下に置いたのではなく、悪魔こそ、人類を不当な制約の中に隔離してディスカウントした挙句、死へ追い込むことを願っていた張本人なのである。

だが、大きく見れば、ペンテコステ・カリスマ運動であろうと、キリスト教界であろうと、もしくは以上に挙げた「和の精神」に基づくすべての組織や国家や企業であろうと、あるいはソビエト体制のようなグノーシス主義国であろうと、その悪魔的性質はほとんど変わらない。宗教組織は、人生で様々な悩みや、弱さや苦しみを抱え、人の同情を求めてやって来た人々を、組織の中に束縛し、いつかはその弱さから脱出できるというあらぬ望みと引き換えに、ひたすら献金や奉仕を吸い上げる道具として扱い、彼らが搾取から抜け出せないよう、永久に弱みがなくならないよう、弱さの中に閉じ込める。その構造は、いつかは共産主義ユートピアがやって来るという嘘と引き換えに、国民に赤貧の苦労を耐え忍ばせたソビエト体制と何ら変わらない。

人がその体制の虚偽性に気づいていないうちは、そのような組織の枠組みの中でも、人にはまだ平穏に生きられる道があるかも知れないが、ひとたび、人がその社会が、偽りの希望によって成り立っている死に至るまでの絶望的な隔離病棟も同然であって、その中にいる限り、決して自由は得られず、弱さの克服もなく、絶望と、死が待っているだけであることに気づくと、その瞬間から、「鏡」による残酷な迫害が始まる。激しいネガティブ・キャンペーンが繰り広げられ、中傷によっても抹殺できない人々については、肉体的な迫害も繰り広げられる。

カルト被害者救済活動についても同じである。一体、これまでどれだけの人々が、この活動によって精神的にまた肉体的に追い込まれて殺されて来たことであろう。その人数ははかり知れないことであろう。

現在は皇帝ネロが繰り広げたようなクリスチャンの大規模な抹殺がまかり通るような時代ではないが、戦いは巧妙化しており、今もこれからの時代も、一人一人のクリスチャンに、極めて個人的に厳しい戦いを強いることで、悪魔はクリスチャンへの迫害を強化するであろう。
 
そこで、私たちば常に選択を迫られている。ちょうど我が国で「和の精神」などというものが公に説かれていた時代に、多くの宗教家や思想家が、天皇の前に跪くのか、それとも自分の信仰を貫くのかを問われ、身に危険が及ぶことを恐れて転向するのか、それとも、「非国民」とみなされて迫害の上、獄死する覚悟を固めても信念を貫くのか選択を迫られたように、今日も様々な形でキリスト者は「踏み絵」を迫られているのである。

私たちは、一人一人、いずれ神の御前に出て申し開きをせねばならない。その時に、どれくらい悪魔の策略に対して勝利をおさめ、神の御心を実行して生きたか、成果を問われることであろう。悪魔の「鏡」が突きつける嘘を信じて、自分はディスカウントされていると思い込み、それゆえ、神を恨んで被害者意識の中を生きたのか、それとも、神が人間に与えようと思っておられる自由を固く信じてこれを手放さないで生きたのか――。必ずその信仰を御前で評価される時が来るゆえ、私たちは固く立って、二度と人の奴隷にされないように気をつけなければならない。

勝利を勝ち取るために有益な方法として提示できることの一つが、悪魔の嘘の理論としてのグノーシス主義の基本構造を明らかにすることである。悪魔はオレオレ詐欺のように、人類の不意を狙って、様々な方法で人間に語りかけては、ディスカウントされた像を突きつけて来るであろうが、そのすべての目的は、人間に神に対する被害者意識を持たせるという一点に集約される。

だから、その鏡が嘘であることを見抜いてこれを拒否せねばならないのである。そのために悪魔の嘘である偽りの理論の基本構造を明らかにすることは有益である。

それ同時に、心のすべてを傾けて、神を知ろうとすることであろう。本物を知らずして、偽物を暴くことは難しい。もし信者が一度でもキリストと霊的に一つとなって信仰の中を歩むことについて、生きて実際に知ることがなければ、人は御霊によって心が新しくされるとは何か、キリストの復活の命とは何か、その意味が全く分からず、悪魔によって心が汚されるとはどういう意味なのかも分からないままだろう。

旧創造の傷ついて病んだ状態、罪に縛られ、不完全な自分しか知らない人間が、それ以外のあり方が存在すると、想像することさえできないのは当然だ。だから、キリストの復活の命の中に、人としてのすべての完全さが備わっていることを、私たちは生きて実際に信仰によって知らなければならない。そのために、まずは神がキリストのうちにすべての備えをして下さっていることを信じなければならない。人としての完全さだけではない。物質的な完全さもそこには備わっている。

筆者ははっきりと言っておきたい。ノアが箱舟を建設していた時、ノアの家族以外の人々は、どういう態度を取ってこれを見ていたことであろか。エレミヤが神の宣告を受け、民に罪を告げて悔い改めるよう迫ったとき、民はどういう態度を取ったであろうか。

今日、御霊に従って生きるクリスチャンを、悪魔の手下どもがあらん限りの力を込めて中傷・迫害している風景など、今に始まったことではない。それは旧約聖書時代から果てしなく繰り返されて来た光景であり、我々の主であるイエス自身が、誰よりも経験されたことである。僕は主人にまさるものではなく、主人がこの世でどういう扱いを受けたかを考えれば、何もかも全く不思議ではない。

だが、神はそれらすべてに対して勝利して余りある備えを、私たち一人一人のために天に準備して下さっている。だから、この先起きることをよく見ておいてもらいたい。神はご自分を信じ、従う者を、決して失望で終わらせることのない方である。
 
そこで、筆者は悪魔がまき散らす嘘と、神がキリストにあって約束して下さっている事柄のどちらが真実であるかは、キリスト者自身が、公然と世に証明する責務を負っており、またその証明が可能であることを確信してやまない。そのために、あえて「鏡」をそのままにしておくことにも意味があるものと思う。(むろん、中傷する者は、罰を受けることになり、かつ、その中傷が述べた者自身に跳ね返ることは言うまでもないが。)

悪魔は有史以来、ずっと人類を中傷し続けている。だが、それにも関わらず、キリスト者は主の復活の証人であるから、すべての試練と苦難の中で、神がどんなにご自分の一人一人の子供たちを愛され、重んじ、はかりしれない栄光に満ちた約束を与えて下さっているか、どれほどご自分の子供たちを気にかけて、助けの手を差し伸べ、期待をかけて下さっているか、その愛と、御助けの大きさを証明し、主が十字架上ですでに世に打ち勝たれた勝利を、自分自身のものとして地に引き下ろし、主と共に栄光にあずかる権限と責務を与えられているのである。


T. オースチン・スパークス 「「御霊による生活」 第二章 内なるキリスト (1)

人の子の完成


 主イエスは数々の苦難により、人の子として完成されました。彼は完全であり、罪がありませんでしたが、それでも「彼は数々の苦難によって完成された」と私たちは告げられています。彼の場合、罪の問題はなく、この問題は人の子の完成とは無関係です。人の子の完成は次の事実と関係しています。すなわち、彼には罪がなく、彼は自発的に御自身をささげて、神に頼る生活を送られた、という事実です。彼は決して自分に頼らず、自分自身の人間的願望を行わず、自分自身の人間的判断にしたがって生きず、自分自身の人間的欲望や感覚に従いませんでした。生活・行動・言葉といったいかなる事柄においてもそうであり、彼は御父から離れようとはしませんでした。この基礎に基づいて彼は、あらゆる種類の試みや試練――それは誰もが受ける可能性のあるものです――を受ける束の間の時のあいだ、服従されました。

誘惑や試練に関して彼が何を耐え忍ばれたのか、どちらかというと私たちは何も知りません。彼の生涯の記録は幾つかの試練・誘惑・苦難を見せていますが、それでも、あなたも私も彼の苦しみの深さや厳しさは決して分かりません。レビ記の最初の六つの章の数々の供え物は真にキリストの型ですが、実際上、どの供え物も何らかの形で火にさらされます。こういうわけで、全焼の供え物である彼の十字架においてだけでなく、同じように穀物の供え物という意味においても、彼の純粋で、聖なる、罪のない人間生活は火によって試されたのです。これらの火によって、生きるときも死ぬときも、彼は試されました。御父への信頼、御父への従順、御父から離れて少しでも行動することを拒否すること、御父の時や御旨から出ているものは何でも受け入れること、という基礎について試されたのです。


 ゲッセマネの園と十字架における最後の恐るべき試練は、彼を打ちのめす――もし彼が打ちのめされえればの話ですが――のに十分なものでした。そしてこのような方法で彼は完成されました――完全だったのですが、完成されたのです。

 この人性、この命を彼は生きました。それは完全に神を満足させ、完全に地獄のすべての力と試みを打ち破りました。この人性とこの命は栄光へ、神の右手に上げられました。その神の右手で彼は完成された人として示されています。この人は罪がないだけでなく、試練を通して完全な度量・完全な能力にまで成長しました。これに関して、御霊は聖書を通して私たちに、「あなたたちは新生により、また信仰を通して御霊を持っていることにより、今やまさにこの命に与る者たちなのです」と告げておられます。

この人性は物質的なものにすぎない、と考えないようにしましょう。それは完全な人、完全な性質に属するものであり、完全に神を満足させました。そして聖霊によって私たちに与えられ、私たちの命の最も真実で、最も内奥にある現実となっています。それは私たちに与えられたキリストであり、私たちがそのパンを取る時、私たちは次の事実を証ししているのです。すなわち、今や私たちの天然的存在という基礎ではなく、栄光の中におられるイエス御自身という基礎に基づいて、私たちは自分の生活を営んでいるのであり、自分の生活を選択しているのである、という事実です。次に、今度は私たちが試みられ、試されます。それは、キリスト、神の完全な人という基礎に基づいて生きるのか、それとも、その立場を捨てて自分自身の立場に戻り、何らかの方法で自己の立場に基づいて生きるのか、ということに関してです。

これが、「私はキリストと共に十字架に付けられました……」というパウロの偉大な言葉の最も内奥にある真理です。これが意味するのは、「私」が象徴するものはみな取り除かれ、もはや私ではなくキリストである、ということです。

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燔祭として神に捧げられ、死んでよみがえらされ、神の手から返された新しい人

このところ、都会のすべての喧騒を離れ、キリストにある自由と平安を満喫している。空気は清浄で、食べ物は美味しく、親族を見舞うという名目ではあるが、人生の中で、久方ぶりに与えられた平穏な休暇である。

さて、生ける水を流し出す秘訣は、キリスト者自身にある。自分の中にある新しい命を解放する秘訣を知れば、信仰による創造はそんなにも難しいことではない、と筆者は確信する。

時には良いことだけでなく、人の目には失敗のように見えることも起きるが、そんな中でさえ、神の同情、慈しみと憐れみが、雨のように筆者に注がれている。人からの同情など要りはしないが、神からの同情や憐れみならば、どんな時でも、あればあるほど嬉しい。もし神が筆者に注意を払って下さるならば、どんなにわずかな瞬間であっても良い、その瞬間を何とかしてもっと増し加え、主との交わりの時を増やしたいと切に思う。

まさにダビデが詩編に書いたように、筆者も言う、主よ、奴隷が主人の命令を待って、主人をまっすぐに見つめるように、私の目は、あなたを見つめるのです、ほんの少しでも、あなたの関心を、あなたの慈しみを、憐れみを、祝福を得たいと思って、神よ、私はずっとあなたを見つめ続けるのです…。私の心はあなたがご存知です、お言葉を、命令を、戒めを、あなたの御思いを、私に教えて下さい…。

以前から書いていることだが、主イエスは地上で公生涯を生きられた間、ご自分の職業を持たず、養ってくれる家族を持たず、スケジュール表を持たず、ただ御霊の促しのままに、誰にも相談することなく、御父の御旨だけに従ってすべての物事を決定して生きられた。

主イエスがどのようにして日々の糧を得、どのようにして助け導くべき人々を見分けられ、ご自分の使命を知られたのか、聖書に具体的には示されていないことが多い。しかし、エルサレム入場のために用意されていた子ろばのように、主イエスの召しに必要なものは、すべて天の父が備えられた。それはすべて人知によらず、御霊によって告げられ、理解され、達成される事柄であった。主イエスは、御父の命じることを御霊によって識別することで、父なる神の御心のままに行動されたのである。

前回、筆者は記事において、自然界の動物に生存のための知恵が本能として備わっているように、命というものには、おのずから生きるための法則性が組み込まれており、神がキリストを通して信じる人々にお与えになった新しい命にも、命の御霊の法則性が組み込まれていると考えていることを書いた。天然の命に法則性があるならば、いわんや、キリストの復活の命には、新しい法則が備わっているはずである。そして、それが、御霊の油塗がすべてを教えるということの意味であると筆者は理解している。つまり、天然の命においては、本能という不完全なナビしか設定されていないが、復活の命においては、御霊自身が真実を教えるナビゲータの役割を果たすのである。

とはいえ、御霊の導きに生きるとは、人が機械的に何かの命令に従って自分の意志を放棄して生きることを意味せず、あるいは、信者が説教者になったり、牧師や伝道者になることを最高の到達点と考えて、いわゆる模範的なクリスチャンの生き方を目指して、何かの型に当てはまろうとすることを意味しない。

御霊の導きに従って生きることに、特定の型はなく、それは人の作り出したどんな固定概念にもおさまるものではないと筆者は確信する。神は人それぞれの個性を尊重されるため、それはあくまで神と人との同労によって作り出される生き様なのである。

キリスト者の人生とは、信じる人の個性と、その人の内に住んで下さるキリストの人格とが、何の矛盾もなく、調和の取れた同労を成し遂げて形作られるものである、と筆者は確信している。神は決して人の個性を無理やり押し潰したり、人の意志を否定して、何かを力づくで押しつけ、強制なさることはない。神が信じる者の内で生きて働かれる時には、むしろ、神はその人の意志を最大限に尊重されて、その人の人格と調和の中で同労を成し遂げられる。そのため、そのような生き様においては、信じる者の個性も、圧迫されるどころか、極めて自然に生かされる。

神は信じる者の個性を尊重して、その人と同労することがおできになるのだ。だから、信者の生き様には、ただ神がどんなに偉大で憐れみに満ちたお方であるかという、神の御言葉の真実、神のご性質が様々な形で証されるだけでなく、キリストと共に死んでよみがえらされた信じる者自身の個性も、生き生きとした形で、表現されるはずである。

このように、キリスト者の人生とは、信者がキリストの生涯を真似て、地上でそのコピーになろうとすることとは全く異なる。あるいは、誰か偉大な説教者や、信仰の偉人などの先人たちを手本に、模範的なクリスチャンになろうとすることをも意味しない。

それは、誰の生き様の模倣でもなく、その人自身の人格と、キリストの人格との同労によって作り出される、誰にも似ていない、新しいオリジナルの人生である。ナビゲータは御霊であるが、御霊が力づくで信者をどこかの方向へ引っ張って行くということもない。信者と御霊とが平和的に共存・同労を成し遂げるのである。

だから、筆者は、御霊に従って生きることに、定義というものはおよそ存在しないのだと思っている。おそらく、その生き様は、人知によって外から定義づけをしたり、何かのものさしで推し量って理解したりすることが極めて難しい事柄であろうと思う。

そして、何よりも、その人生には自由がある。それは、こうせねばならない、ああせねばならないという数々の義務や、人間の作り出した常識や、規則によってがんじがらめにされる人生ではなく、また、己の生存を必死になって自力で支えねばならないという恐怖によるものでもない。

共産主義者の定義とは全く違った意味で、それは必然の王国ではなく、自由の王国の生活である。だが、自由といっても、放縦とは違うので、当然ながら、節度や限度はある。その範囲内であれば、信者は自分自身の個性を存分に生かして生きることが許される。

さて、筆者は何年も前に、今身を置いている地上の故郷から新天地を目指して旅立って行ったのだが、長い間、なぜ神は、筆者が関東へ移住することを許して下さり、その条件を気前よく備えて下さったのだろうかと思いめぐらしていた。

当初、筆者は、この移住は、エクレシアに連なるため、信頼できる信仰の仲間に出会い、彼らの交わりに加わるためであったと解釈していたため、その期待が潰えた後には、一体、この移住に何の意味があったのだろうかとしばらく考えざるを得なかった。

そして、もし信頼できる信者の交わりというものがないとしたら、主は、筆者に一体、どんなミッションをお与えになっておられるがゆえに、この地に筆者を呼び出されたのだろうかと思いめぐらしたものである。

だが、最近になって、筆者が思い至るのは、神はただ筆者が御名により心から願い求めたから、ご自分の愛する子供の一人として、筆者の願いを気前よく叶えて下さっただけだ、ということである。

つまり、この移住は、エクレシアに連なるための手段ではなかったのである。いや、どんなことの手段でもなく、それ自体が、筆者の願いに対する神の応答だったのである。あれやこれやの目的の手段として、移住を促されたのではなく、ただ筆者が信仰により願い求めたものに、神が応えて下さったということである。
 
筆者はこれまで、この移住の他にも、実に沢山のものを、信仰により神に注文し(注文という言葉は、まるでい神を手段とするかのような、いささか不適切な表現のように響くが、これには、願いが成就するまで譲らず懇願し続けるという強い意味合いも含まれる)、信仰によって地上に引き下ろして来た。たとえば、一番多く引き下ろしたものは、仕事であろう。筆者が、目下、従事している仕事にどうしても満足できなくなって、もっと違う仕事をやりたいと切望するようになった時、神は、実に不思議な形で、筆者の願いにかなう新しい仕事を用意して下さったのである。

この他、友人や知人が、祈りを通し与えられたこともあれば、筆者が受けた悲しみに、神が思いもかけない豊かな慰めを用意して下さったこともあった。

しかしながら、一つだけ、筆者がこれまでどんなに願っても、実際に呼び出すことができなかったものがあった。全く不思議なことであるが、それが、信頼できる信仰の仲間との恒常的な交わりなのである。エクレシアに連なり、エクレシアの建設のために、移住までしたはずなのに、なぜそんな結果になるのかと、当初は、まことに不思議でならなかったのだが、筆者が共に教会を建て上げる目的で接近したキリスト者(らしき)人々は、ことごとく、交わりの途中で、信仰の道から逸れて行った。彼らがどのようにおかしくなって、聖書に反する考えへとあからさまに移り変わって行ったかといった過程の詳細は、すでに再三、書いて来た通りなので繰り返さない。

筆者は、ある人々に対しては、その変節を実際に詳細に知る前に、これ以上接触すべきでないと直感的に理解したので、交わりから退いた。そして、それ以外の誠実な信者は、亡くなったりするなどして、早々に別れがやって来たのである。

そんなこんなで、ついに筆者には、関東方面で、心にかなう信仰仲間が一人もいなくなった。そして、今やそのような人間を探そうとも思っていないほどである。ただ一つとても嬉しいことは、それ以外では、家人も含め、親族の誰も、地上の組織としての教会にこだわる人々がいなくなったことである。以前には、宗教団体としての教会に拘泥していた親族も、今や全くそのようなものに未練を持たず、むしろ、組織を離れた信仰を模索するようになった。

筆者は、こうして、かつてはエクレシアの一員と思った人々の中から多くの離反者が出て、もはやエクレシアだと確信を持って呼べる、信頼できる信仰仲間の存在が身近になくなってから、かえって、これは非常に自然で有益な結果だったのではないかと思うようになった。なぜなら、おかしな方向に逸れて行った信者たちは、みな目に見える地上の組織や、仲良しサークルのような目に見える仲間との人間関係やつながりを重視して、仲間を失うまいと、人間の絆に必死にしがみついて、人々からの承認や賛同を求めていたからである。

彼らは依然として、宗教団体としか呼べない地上組織を建て上げることに腐心しており、目に見えるリーダーを崇め、目に見える組織を神聖視しており、目に見える団体に所属していることが、自分の聖を信じる根拠になってしまっており、そのような生き方に、筆者は全く真実な信仰のかけらも見いだすことはできなかった。

こうして、筆者が観察しているうちに、かつてこれこそまことのキリスト教であると豪語して、いかにもクリスチャンの交わりを装っていた、目に見えるつながりがことごとく偽りであると判明し、当初は信頼できると考えていた信者たちの中にも、嘘や不誠実さが見い出され、彼らが信頼に値しなかったことだけが判明し、交わりと思っていたものは離散したのである。
 
こうして、何か目に見えるサークルの一員になることによって、教会を建て上げることができるという発想自体が、ことごとくナンセンスなものと判明し、筆者は、教会を建て上げるという概念を、以前とは全く違ったものとしてとらえざるを得なくなった。

筆者は、何年も前の当時は、信頼できる信仰の仲間と手を携えてエクレシアを建て上げることができると考え、それに関心を寄せていたものであるが、今はひょっとすると、そのような考え方にこそ、以上のような人々の犯した過ちに通じる、目に見えるものの神格化という、危険極まりない要素が含まれていたのではないかと考えるようになった。

つまり、エクレシア賛美、エクレシア崇拝の危険性である。目に見える人間同士の連帯、目に見える人的ネットワーク、五感で確かめ合うことのできるつながりを賛美し、そこに神聖を見いだそうとする考え方の罠や、深い危険性を思うのである。

エクレシアという単語には、信者にとって、何かしらとても耳に心地よい、甘く、理想的な響きがある。だが、その響きの甘さに陶酔することの中には、キリスト以上に信者が自分自身を聖なる存在として掲げたいという誤った欲望、間違った自己崇拝、信者の自己神格化の危険が潜んでいるのではないかと危惧されてならない。

いわゆる教会組織と呼ばれている地上の目に見える宗教団体や組織にこだわる信者ほど、この誤った自己崇拝、自己神格化の度合いが非常に深いように思われてならないのはそのためである。

だから、筆者は今、エクレシアを賛美しようという考えは全くもっておらず、これに憧れ、建て上げることが自分の使命であると言うつもりもない。もしそういうミッションがあるとしても、それは日々、自分自身が主と共に死と復活を経ること、自分の十字架を負ってキリストに従うことだけにしかよらないのだ。仲良しごっこのような交わりを通して達成できることなど何一つありはしない。そもそも、我々が見るべきお方はキリストだけであり、キリスト以上に教会を高く掲げ、これを関心の対象とすること自体が、非常に危険なことではないかと思わずにいられない。
 
今までの経験から言えることは、教会が建て上げられ、発展する方法は、多くの人たちが想像するように大人数がひと所に「集まる」ことよりも、むしろ「散らされる」ことにあり、大勢が集まって自分たちの存在を世間にアピールし、「自分たちの名を地上で高く掲げる」こととは正反対なのだと思わずにいられない。人が成功し、有名になったり、地位を築き上げて、安直な手柄を立て、自分をアピールすることではなく、むしろ、低められ、砕かれ、無化され、苦しみを通過しながら、人格が練られることの方にこそあるのだと思わずにいられない。
 
何よりも、もし我々がただキリストだけに目を注ぎ、この方だけに栄光を帰し、この方だけに従って生きていれば、教会を建て上げることに特別な関心など寄せずとも、エクレシアが何なのかは自然に分かって来るのではないかと思われてならない。

すでに一度は書いたような気がするが、筆者が今でも覚えている体験の中に、筆者が横浜に来る前、当初、筆者がエクレシアだと考えていた人々の、幸福そうな集まりの様子を遠くからネットで眺め、何か分厚いガラスの隔たりでもあるかのように、彼らと自分自身との間に決定的な距離を感じ、心に鈍い悲しみを覚えたということがあった。

その時、感じた悲しみや失望が何だったのか、その理由は、実際に彼らと接触してみて分かった。その集まりは、聖書的な交わりを装ってはいたが、結局のところ、いわゆる内輪の知り合い同士の仲良しサークルの域を一歩たりとも出てはいなかったのである。それは互いに誉めそやし合い、自画自賛し合うための、エクレシアに似て非なる集まり、単なる自己満悦のごっこ遊びのようなものに過ぎなかったのである。そこで、結局、筆者はその仲良しサークルを観察しては見たが、その一員には決してなることなく、その交わり(と呼ばれていた偽物)を通り過ぎただけであった。

今、筆者はそのようなものがエクレシアだとは露ほども考えておらず、彼らのように、自分が心許せると考えた仲間内だけで、徒党を組むことで、キリスト者の交わりを確立できるとも思っていない。そのようにして、仲良しサークルを拡大したり、自分たちの交わりこそ本物であると、世間に誇らしげにアピールしようとする試みを一切無視して、もっと言えば、そもそも人に良く見られ、誤解なしに受け入れられたいという衝動そのものとも訣別し、エクレシアというものを、まるで同時代人のサークルのような、人間の目に見えるネットワークに見いだそうとする考えを完全に捨てて、ただ神の御前の単独者として御言葉に従って真実に歩むことだけを目指す生き方を貫くことに決めたのである。

そうこうしている中でも、筆者のもとには、その時々に、神が率直に語り合うことのできる誠実な信仰者を友として送って下さることがあった。だが、その友情や連携は、固い結びつきになって、同志的な関係が生まれる前に、かなり早い段階で、強化されるどころか、分解されるのが常であった。
 
そんなことからも、筆者は、エクレシアを建て上げるという名目で、人々が寄り集まって自画自賛に明け暮れ、自己陶酔に浸ることは、全く神の御心でないばかりか、むしろ、大きな危険性が伴うだけだと考えるようになり、教会を建て上げるとは、気の合ったクリスチャン者同士が、お手手つないで、みんなで仲良く一緒に天国の門をくぐりましょうといった子供騙しのような願望とは全く異なる事柄で、もっともっと厳しい側面を含んでいる、と思わずにいられなくなった。その厳しさの中では、共に手を携えて歩める仲間が現れることの方が少ないほどである。そして、それゆえ、信仰者の歩みの基本は、やはり、神の御前の単独者としての信仰の歩みにしかないと確信している。
 
たとえ信者であっても、人間と人間との間で結ばれる絆や友情は、決して永久的なものとはならず、人は時と共に変化し、あるいは簡単に道から逸れてしまい、固いように見えた絆も取り去られる。だから、どんな時にも、信者は人を当てにせず、まずは神との間で、確固たる信仰による交わりを維持することに心を砕くべきであって、それ以外のものにほんの少しでも価値を置き、期待をかけ、栄光を帰したい衝動が芽生えると、それはたちまち腐敗したものとしてあっけなく失われるのだと思わずにいられない。
 
キリストだけに変わらない価値を置いて、この方にすべてを委ねて生きようと決意するときにこそ、それ以外のものが、必要に応じて与えられる。生活の様々な必要だけでなく、信仰の仲間でさえ、そうなのである。その意味で、キリストとエクレシアとの優先順位は、絶対に逆にされることがあってはならないのではないかと筆者は考える。

さて、以上の内容から、話が再び変わるようだが、筆者は、最近、とある商人からヴァイオリンを買った。どうにもこうにも、ヴァイオリンを弾くべきだと思えてならない時が来たせいである。一年ほど前から、ピアノの特訓を再開していたが、どうにもピアノだけでは物足りなく思えるようになった。

実は、筆者のペンネームは、ヴァイオリンから取られたものなのだが、筆者自身がヴァイオリンを弾けるのかと言えば、子供の頃、我が家に人から譲り受けた分数ヴァイオリンがあったが、本格的なレッスンを始めるに至らず、学校時代に基礎を習ったが、ヴァイオリニストのように自由に弾けるようになる手前で習い辞め、今、暗譜している曲はほんの二曲ほどしかない。それでも、長年に渡り、ヴァイオリンへの情熱は消えず、身近で他人の演奏を聴き続けたりした記憶の蓄積がついに飽和状態に達し、自分で弾かねばならないと思うに至った。
 
全くの余談に聞こえるかも知れないが、そう思ったきっかけは、ピアノだけに熱心に取り組むことに何かしらの限界を感じたせいでもあった。筆者は一時期、仕事に熱中して、ピアノをうっちゃっていたせいで、ほとんどピアノが弾けなくなってしまった時期があり、そのブランクを挽回しようとしているうちに、どうにもピアノという楽器には、何かしら根本的に、人になじみにくい要素があるのではないかと思い始めたのだった。

これは決して愚痴や泣き言ではなく、真剣に取り組めばこそ、思うことなのである。物心ついてすぐに最初に習い始めた楽器がピアノだったので、今までこのようなことを考えたこともなく、ピアノという楽器の難解さを感じても、常にそれは自分の技量の足りなさのせいだとしか思いもしなかったが、何しろ、ピアノには88鍵ものキイがある。隅から隅までこの楽器を使いこなすには、両手をいっぱいに広げねばならず、それだけでも大変な移動距離である。そして、ピアノ曲は旋律だけのものはほとんど皆無で、旋律も伴奏も一台の楽器で全部やってしまうのが通常であり、それゆえ、一度に奏さねばならない音がとにかく多く、その点で、他の楽器に比べても、極めて楽譜も複雑になりがちである。最も重大な注意点は、楽器が巨大なので、持ち運びが利かず、自分用に調整された楽器を演奏会用に準備することもできないことだ。どこへ行っても、コンディションの異なる備え付けのピアノに、奏者が自分自身をなじませるしかない。さらに、楽器が巨大ゆえ、人との間に拭い難い距離感があって、人が楽器と完全に一体になって共鳴することがやりづらい。

そんな楽器にも関わらず、ピアノ奏者は全世界で他の楽器にくらべてもとりわけ多く、音楽界における競争は他のどんな楽器に比べても一層過酷だ。そのような条件は、演奏家に非常に大きな負担を強いるものではないだろうか。

これと比べると、ヴァイオリンという楽器は、ピアノに比べれば、運指のための移動範囲もそれほどでなく、ピアノのように、鍵盤を押しさえすれば、それらしき音が鳴るということもなく、まずは自分で音を作るところから始めねばならないが、その方が楽器としては、はるかに自然な気がしてならない。ピアノは一音が消えるまでの時間が早いため、音を持続させるために、比較的早く次の音へ移行せねばならないが、ヴァイオリンは、弓を上手に使えば、少なくとも、一音をピアノよりはるかに長く持続させることが可能であり、その間に音の強弱も変えられる。

何よりも、ヴァイオリンという楽器の最も自然なところは、奏でる音質が人間の音声に近いことだろう。だから、ちょうど歌を歌うのにも似た感覚で、楽器を演奏することができる。しかも、楽器が人の腕の中にすっぽり入ってしまうくらいの大きさなので、人との距離感がさほどでなく、接触している部分も多く、楽器の共鳴が人体にそのまま伝わる。人の体と楽器がまさに一体となって音楽を奏でているという感覚を持ちやすい。

それに引き換え、ピアノと人体との直接の接点は、指先と、ペダルを踏む足先くらいであろう。だから、ピアノの音の振動は、人間の体で直接、体感する部分が少なく、基本的には、耳で聴いて音を感知するしかない。しかも、ピアノの音は、人間の声にさほど似ていない。

世の中にはピアノとヴァイオリンの他にも無数の楽器が存在するので、この二つだけを比べて論じることには無理があると思うが、それにしても、ヴァイオリンに比べると、いかにピアノが人工的で不自然な楽器かという気がしてならないのである。ピアノが親しみやすい楽器だと錯覚できるのは、子供に初歩を習わせる時くらいのことではないだろうか。

もともとヴァイオリンは、民衆のための楽器であり、クラシックの世界で、ヴァイオリニストたちが、楽器の値段や価値を競い合い、また難解なテクニックを競い合って、激しい競争が行われるようになって、一流ヴァイオリニストが、スター同然にもてはやされたりするようになったのは、ごく最近のことであろう。

そうなるまでのヴァイオリンは、オーケストラや室内楽だけでなく、民衆の祭りなどでも普通に駆り出されるような、庶民にもごくごく身近な楽器であったはずだと思う。肩当てや、顎当てさえ、比較的最近になって普及したのだと言われるように、もともとは非常に単純な楽器である。そんな楽器に、人間が逆立ちしなければ、達成できないような複雑怪奇な操作は、必要とされていないはずで、もともとこれはそんなアクロバットを当て込んで作られた楽器ではないはずだ。だから、本来のヴァイオリンとは、人を寄せつけないほど難解ではない、単純素朴な楽器のはずだと思うのである(だが、ヴァイオリニストはこれを聞いて、異議を唱えるかも知れない。単純なものが全く複雑化されてしまうところは、宗教もクラシック音楽界もどこか似ている。)

もちろん、ピアノにはピアノの良さがあり、ピアノという楽器を知っているがゆえに得られる喜びや満足は非常に大きいと言える。そもそも音楽の基礎を学ぶのに、この楽器を避けて通ることはできず、ピアノ曲には偉大な作曲家の豊富なレパートリーの取り揃えがあるので、一生を費やしても時間が足りないほどの楽しみが満載であると言うことはできる。だが、そうは言っても、ピアノには備わっていない別な要素を、ヴァイオリンのような別の楽器で学び、これをピアノに応用することで、ピアノの人工的で不自然な部分を補うことができないだろうかと筆者は考えているところだ。その実験の最たる目的は、どうすれば、人間の音声からかなり離れたピアノを、人の歌声のように自然に歌わせ、響かせることができるかというところにある。

一体、この実験と信仰に何の関係があるのか?と問われそうだ。まるでこじつけのようにしか聞こえないかも知れないが、これも筆者が神に願って与えられた機会なのである。

筆者はかつて非常に音楽に熱中していた時期があったが、一旦、これを神にお返しした。筆者の専門もこれと同じことで、かつて自分自身の思いで熱心に探求し、愛でていたすべてのものを、どこかの時点で、筆者はすべて手放し、一旦、神に返却することになった。

それゆえ、筆者は多年に渡り、音楽からも、自分の専門からも離れた時期が存在する。一見、その時期は、全くの無駄な紆余曲折のようにしか見えないことだろう。だが、そうして神にお返ししたものは、まるで燔祭に捧げられたイサクのように、一度、死んでよみがえって生かされたものとして、主の御手からもう一度、受け取ることができる。そうすれば、今度こそ、何のためらいもなく、信仰に反しない、聖別されて、祝福されたわざとして用いることができるのだ。

もし離れていた時期がなく、幼い頃から、両方の楽器を真剣にやっていれば、今、与えられている楽しみが、どんなに大きなものとなっていたろうと、ふと考えることがないわけではないが、幼い頃には、理解しようと思っても、分からないことの方が大きい。そんなわけで、筆者はブランクの時期を振り返って後悔するということはない。
 
その当時、筆者を教えてくれた教師たちは、真面目に練習していないがゆえに、抜けの多い筆者の演奏をも、素質があると誉めてくれ、その道に進めばどうかと助言してくれたこともあったが、それでも、当時、筆者の探求心は違ったことに向いていた。どちらかと言えば、筆者には、言葉の方に関心があったのである。

だが、幾年もの月日を経て、言葉への探求と、音楽への探求が、互いに矛盾しないものとして、一つにつながる時がやって来た。さらに、それらは死を経てよみがえらされたことにより、信仰とも全く矛盾しないものとなったのである。

もっと言うならば、言葉になる前の言葉と、音楽になる前の音が、信仰により、信者と一体になる時が来たのだと言っても良いかも知れない。

地上で音楽を奏でるということには、絶えざる格闘がある。なぜなら、プロの演奏者でさえ、思っているような演奏がなかなかできないからだ。コンディションの悪さが、常に演奏を邪魔し、自分が理想として追い求めるイメージと、現実に発せられる音との間に、絶えず開きを生む。自分がとらえよう、獲得しよう、達成しようと思っているものをどんなに真剣に追いかけても、すでにとらえたから、もう満足だという日は来ない。

だが、それでも、奏者は心の中に理想として持ち続けているイメージといつか自分が一体となり、音楽と自分との距離がなくなることを目指して、ひたすら弾き続ける。そこには、聴衆を含めた世界全体が一体となる時を目指すことも含まれている。

また、詩人は、演奏家とはまた違った形で、自らの言葉を通して世界と一体になろうとしている。いや、もっと正確に言えば、有限な言葉を通して、言葉になる前の無限の世界を追い求めていると言って良い。

詩人にとっては、どんなに素晴らしい詩を書いてみたところで、言葉を通して表現されるものが全てではない。言葉の先にある、言葉を生み出す源となるインスピレーション、霊感そのものをとらえようとして追い求めているのである。音楽家もある意味ではこれと同じである。音を通して表現しようとしているものは、音が生まれる以前の何か、音を生み出す源となるものなのである。

鈴木大拙が「神が光あれと言われる前の世界」への回帰を唱えたことを、筆者は別の記事で触れたが、人間が探求しているのは、まさにその霊感の世界なのであろう。だが、筆者は、禅者ではなく、あくまで聖書の神を信じるキリスト者であるから、「神が光あれと言われる前の世界」への回帰を目指さず、むしろ、「神が光あれと言われた後の世界で、光を造られた神と一つとして生きる」ことを目指している。

音楽家や詩人が、音や言葉の生まれる前の、それらを生み出す源となるものと一体化して、これを表現しようとしているならば、筆者は、信仰によって、この地上に実際の事物が生まれる前の、それらを生み出す源となる命そのものと一つになりたいと願っているのだ。

だが、筆者は、歴史を逆行して、神と人(被造物)とが分かたれる前の世界に回帰することで、その一体性を得ようとは思わない。むしろ、創造主と被造物の両者の間には距離があること、その距離が、我々が地上にいる間には、決して完全には克服できないものであること、それゆえ地上では、人の苦悩があることを分かりつつ、それでも、自分の力によらず、ただ一人、この断絶を乗り越えることのできるキリストの十字架の御業によって、朽ちない命に与り、この方と一つとして生きることを目指しているのである。
 
これは決して人が神を獲得することを意味しない。人が人の分際を超えて、神から神である地位と性質を奪おうとする試みでもない。人間の側からの神の詐称でもない。私たちは、神を心から敬い、この方を慕い求め、かつ崇め、誉め讃え、自分が被造物に過ぎないことを十分にわきまえて、畏れかしこみながら、同時に、この方に愛され、受け入れられて、子とされて、一つとされて生きることを心から願っているのである。

信じる者がキリストとの間で、完全な一致を地上にいるうちに獲得できないことを知りつつも、それでも、この方が信じる者のうちに住んで下さり、生きて働いて下さり、この方と共に共同統治者とされることを信じながら、私たちは神を喜び、神を尊び、神を愛して生きているのである。

聖書に書いてある通り、私たちはキリストをこの目で見たことはなく、実際に生きてお会いしたわけでもない。その声を聞いたこともなく、手で触れたわけでもない。神を五感でとらえることはできない。にも関わらず、この見えない方を見るようにして信じ、かつ、愛してさえいる。敬い、崇め、慕い、賛美するが、その賛美は、何よりも、神への愛から来るものなのである。
 
その愛は、この新しい命、朽ちないまことの命は、我々が自力で獲得したのではなく、神の側から一方的な恵みとして与えられたのだという認識から来る。神がまず私たちを愛して下さり、すべてを与えて下さったがゆえに、私たちも神を愛さずにいられないのである。

こうして、神の方を向くならば、人の心の覆いは取り除かれる。自分自身を完全に神に捧げ、かつては自分で握りしめようとしていたものも、今は神に委ねているからこそ、筆者も、キリストにあって再統合された自分自身を、ためらいなく受け入れ、生きることができるのだと言える。

古きは過ぎ去った以上、信じる者の個性そのものが、今やキリストにあって、神に聖別された新しい人として、神の手から信者の手に返されている。そこにはもはや恥じるべきものは何一つなく、隠すべきものもなく、死の宣告を受けたものを、まるで聖別されないものであるかのように思い返して、恥じたり、修正したり、変えようとする必要はない。信者の過去も、人格も、個性も、すべてがキリストにあって新しく生かされていることを信じれば良いのである。
 
筆者は、前途有望と言われた時期に、自分に与えられた様々な可能性を、自分の人生の成功を掴むためには利用しなかった。今となっては、遅すぎると言う人もあろう。たとえば、筆者は、職業音楽家になるにはいささか遅すぎるし、研究者として功績を残すにもやや遅れ気味であり、その他、遅すぎると言われても不思議ではないチャレンジがいくつもある。

だが、筆者はこの「遅延」を嘆くどころか、むしろ喜び、楽しんでいる。地中に眠っている種が、発芽して根を下ろすまでに、長い時がかかることがあるように、他人にどう見えようとも、筆者にとっては遅いということはなく、今がまさにその時なのである。もしもっと前に、有望と期待されている時に、もっと真剣に取り組んでいれば、今以上の結果が出たであろうか? 決して、そうは思わない。その時には、分かっているようで、何も分かってはいなかったのであり、何事にも今と同じ姿勢を到底、持ちようがなかったであろう。

今、筆者に与えられているすべての可能性は、筆者が自力で自分の名誉、地位、成功を築き上げるための手段として与えられているものではなく、そういうものを獲得せねばならないという焦りや義務感や恐怖とも、筆者は無縁である。そういった無用な気負いがないからこそ、平安のうちに、純粋に喜び、楽しむことができるのだと考えている。

今、筆者に与えられているものは、筆者が人生を喜び、楽しんで生き、神に栄光を帰するために、恵みとして与えられたものであって、それ以上の意味はない。自己顕示のための手段でもなければ、地位を築き上げるためのものでもない。音楽であれ、言語であれ、詩であれ、もはやどんなものも、筆者の心の偶像にはなり得ない。たとえ熱心に取り組んだとしても、自分を見失うまで熱中したり、あるいは憑りつかれているのではないかと言われるような取り組み方は決してしないのである。
 
さて、最後に、再び、話が飛ぶと思われるかも知れないが、多くのプロテスタントのクリスチャンをいたずらに苦しめ、恐怖に追いやっているカルヴァンの予定説の何が間違っているのかについて、筆者の考えを少し書いておきたい。

この説の決定的な誤りは、人類(人間一般)という定義の中に、古い人類と新しい人類とを一緒くたに混同していることにあるのではないかと筆者は考えている。決して一緒にしてはならない二つのものを、無理やり同じ土俵で一緒くたに論じればこそ、クリスチャンとなった後でも、誰が真実救われているのかは、信者が死後、神の御前でさばきの座に立たされる時まで本当には分からないなどといった、全く恐ろしい絶望的で不毛な結論が生じるのではないだろうか。

それはまるでチンパンジーとオランウータンを同じ種族と断定して、どれがチンパンジーであってどれがオランウータンなのかは、DNA鑑定をしてみないことには分からないと言っているのと同じくらいのナンセンスに感じられる。

パウロは、ローマ人への手紙で、一人の人(アダム)によって罪と死が人類に入り込んだように、一人の人(キリスト)によって多くの者が義とされ、命を得ることを述べている。この二つの系列の種族は、決して同列に論じられるべきものではない、全く別の種類である。

外見が同じように「人類」に見えるからと言って、アダムの古き命に生きる者と、キリストの新しい命によって生かされる者とを、「人間一般」という定義でひとくくりにするのは全く望ましくない。いや、望ましくないだけでなく、これは誤った定義であり、事実誤認である。外見だけによって、本来、一緒にしてはならないものを一緒にするから、救われた人間と、そうでない人間を、内的確信によって区別することが不可能だとする荒唐無稽が生じるのである。
 
さて、キリストと共に十字架の死にあずかり、共に復活した者は、自分がすべての面において完全に新しくされ、すべての面において聖別されたことを信ずべきである(ただし、これは決してその信者が地上において、すでに罪なき完全に聖なる存在となったことを意味しない)。我々は地上にあっては、依然として、欠けの多い、誤りやすい、不完全な存在にしか見えず、多くの期待はむなしく潰え、もはや手遅れに思われることも多く、キリストご自身との間には、相当な距離があり、達しようと目指しているものとの間には、はるかに遠大な距離があるかのように感じられることだろう。その距離は、我々を打ちのめして、失意や悲しみをもたらしかねないほどのものであり、それゆえ、我々はこの不完全な地上の幕屋の中で絶えず呻いている。

それにも関わらず、我々はその感覚を否定して、呻きの中から、完全に贖われる日を待ち望み、それを信じ、これに達しようとしている。信仰によってそれが事実であることを先取りして、すでにその贖いと一つであること、キリストと一つとされていることを信じ、宣言する。つまり、飲むにも、食べるにも、移動するにも、学ぶにも、演奏するにも、書くにしても、何をするときも、生きることはキリストだと宣言する。たとえ現実がどれほどそこから遠いように見えても、目指しているものが、生きているうちに到達不可能であるように見えても、それでも、生きることそのものが、我々の存在そのものが、地上での限りある一瞬一瞬が、キリストと一つとして生かされており、そうであるがゆえに、この方に栄光を帰するものとなるようにと願い、信仰によってそれを宣言し、待ち望むのである。

このことは、我々が外見的にどんな風に見え、どれくらいの見込みが残されていると想定されるかには全く関係ない。我々の望みは、目に見えるものにあるのではなく、見えないものにこそ置かれているからだ。我々は御言葉により、自分をすでに死んだものとみなし、死者をよみがえらせ、無から有を引き出し、不可能を可能とすることのできる神の御業を信じて、贖いの完成を待ち望んでいるのである。

だから、状況が見込み薄のように見え、嘆かわしく見える時ほど、信じ、待ち望む甲斐があるのだ。主にあって、一度手放したものを、再び返されて、この手に取り上げる時には、常に死の厳粛さと、よみがえりの喜びを思わずにいられない。筆者がこの手に握っているものは、もはや筆者のものではなく、神の所有なのである。

多くの人々は、若いうちに、つまり、自分にたくさんの可能性があるように見え、たくさんの期待を寄せられているうちに、早々に何かを達成してしまうことこそ、人生の成功であると思い込んでいる。そして、失敗や遅延を無意味なものとして、できる限り避けながら、ただ成功だけを手にして前進したいと考えるのかも知れないが、筆者は決してそうは思わないのだ。

人が若くてエネルギッシュで生命力に溢れ、前途有望と誰からも期待されているうちに、持ち前の生命力によって、何かを成し遂げることには、何の不思議もありはしない。そこにはただ天然の命の生まれ持った本能があるだけで、何の奇跡もなければ、瞠目すべき要素もない。

もし死を経るという過程、死んで葬られるという過程がなければ、筆者のすべてのわざは、非常に皮相で、軽薄な、むなしい価値しか持たなかったであろう。筆者は、軽薄で皮相なものを全く欲していないし、そのようなものが自分の人生の本当の麗しい飾りになるとも思っていない。そのようなもので他人を満足させたり、深い感動を与えることができるとも思わない。

神の目から見て、天然の命に属するものが何一つとして価値を持たないように、人の目にも、長年かけて熟成され、正真正銘、試練や、苦しみや、呻きの中で、練られ、洗練たものでなければ、賞賛に値する価値は見いだせない。神の目はごまかせないが、人間の目なら簡単に欺けると考えるのも間違っている。皮相で軽薄なもので人の関心を引き、人目を欺けるとしても、それはほんの一時しのぎでしかない。真に価値を持たないものは、いずれにせよ、短期間で馬脚を現し、長続きしないと相場は決まっている。そのようなものを追って生きても、全くむなしいだけで、一体、何の甲斐があろうか。

キリストのよみがえりの命


私は思い出しています。深い淵をさまよいながら、主のよみがえりの命によって引き上げられた時のことを。私は思い出しています、孤独と絶望の中から、主が私を引き上げて、豊かな慰めを与えて下さった時のことを…。

善悪の路線をさまよう議論は、地をはいずるようで、何一つ私の関心を引かないのです。たとえ私を罪定めするために、サタンがどれほど火矢を放ったとしても、自分で自分を弁護して何になりましょう。神が義とされた聖徒たちを、再び罪定めするために、人々はあらゆる機会をとらえて彼を取り囲んで責めるかも知 れません。しかし、私はもはや自分を弁護しないで、ただ主のうちに隠れるのです。

主が私の乞食の服を脱がせ、私に新しい王族の衣装を着せてくれました。肉の父が私を迎えてくれるのと同じように、天の父が無条件に私を迎えてくれます。そ の愛によって赦され、生かされる幸いを知らされたのです…。それなのに、神が赦され、命を与えられた人間に対し、なぜ地上の人々は罪定めを繰り返し、互い を責め合って相身を滅ぼし合っているのでしょうか…。

私は主とともに十字架で死にました。ですから、サタンが火矢を放ったとしても、それはただ死体に向かって放たれているに過ぎないのです。何とむなしいこと でしょう。はげたかがついばむことのできるのは、生きた人間ではなく、死体だけなのです。何と不名誉なことでしょう。死体に痛みがあるでしょうか。死体が 怒りを覚えるでしょうか。死体が理不尽を感じるでしょうか。キリストと共に十字架につけられた人間に対し、死という、サタンのもたらす最大の損害をすでに こうむってはりつけにされた人間に対し、闇の軍勢の攻撃は何一つ意味をなさないのです。

私は信仰の小船に乗って、ヨルダン川を渡っています。主の約束を記した、見えない証書をいただいて…。

行く先はまだ分かりません。分かっていることは、十字架を通して、この世は私に対して死んだということです。私の過去だけでなく、現在の人間関係も、社会 的地位も、すべてが私に対して死んだのです。兄弟姉妹の交わりでさえもです(交わりと称して、実はそうでないものがどれくらい存在するでしょう)。

主よ、今、私が他のどんなことよりも求めているのは、地上の問題の解決ではなく、ただ上から新しく生まれること、日々、あなたによって新しく生まれるこ と、日々、あなたの復活の命の偉大さを知り、日々、新しい心を与えられ、主のよみがえりの命の領域に生きることなのです…。主のうちに絶えず身を避け、神 のうちに隠されて生きることなのです。

エクレシアとは、上から生まれたものであるはずです。地上のものはもう心からうんざりなのです。混ぜ物入りの福音、自己のパン種、互いの誉めそやし合い と、終わりのない罪定め…。そのようなものには、たださようならです! そのような偽りは、すでに自分が滅びに定められているのに、ただそれを知らないで 自分を誇っているに過ぎないのです。

キリストのまことのよみがえりの命! もしもそれがないなら、どんなに正しい行いをしても、それは無意味なのです。もしも、主の復活の命に基づかないな ら、私たちの全ての奉仕は永遠の実を結ばないのです。キリストの復活の命に堅く接ぎ合わされるためならば、何度でも、何度でも、アダムの死を通って構いま せん。ヨルダン川を渡って構わないのです。いや、きっとそこを通らなければならないのに違いありません。私たちは砕かれなければならないでしょう。あなた の御手によって粉のように挽かれ、陶器師の手にある粘土のようにまでなめらかにされねばならないのでしょう。

あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。(コロサイ3:3)

どうか御言葉が成就しますように! 私たちが自分の古き命に死んで、主のよみがえりの命を実際に知ることができますように!! 私たちの霊を取り囲んでい る分厚い魂に、大祭司なる主イエスのメスが入れられ、御霊がその裂け目から川となって流れ出ますように! 告白します、主の復活の命に関わることのほか は、もう何一つ要らないのです。

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