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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。

兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:12-14)
 
A教団を離れるに当たり、大きな苦労を払って、独立を勝ち取った教会が、間もなくNK教団に所属するという噂がある。
  
それが実現するかどうかは知らないが、実現すれば、プロテスタントのおよそすべての教会が、自分の身の安全と引き換えに、御言葉を曲げて教会を迫害するカルト被害者救済活動の吠えたける獅子のような咆哮に、膝を屈して、信仰の証しを捨てて、沈黙に入ったことになる。

つまり、日本のプロテスタントはこれで霊的に完全に終焉するということだ。前々から当ブログでは、プロテスタントからはエクソダスせよと述べて来た通りである。
   
筆者は以前から、偽信者、偽預言者らから投げつけられた悪罵の言葉は、単なる誹謗中傷ではなく、霊的効力を持つ呪いであるから、きちんと抵抗して、その呪いを跳ね除けて発言者自身にお返ししなければ、それは時と共に効力を発揮して現実となる、ということを再三、警告して来た。
 
これらの冒涜者は、キリスト者を中傷することで、神の神聖を穢し、キリスト者の贖いを奪い取ろうとしているのであるから、私たちが、これに毅然と立ち向かうかどうかは、ただこの世における名誉に関わる問題であるだけではなく、来るべき世における永遠の命にも関わる問題なのであると。
 
自分の教会や、神の家族である教会員らが侮辱されても、立ち上がりもせず、御言葉が曲げられている時に、沈黙している指導者が、どうして来るべき世において、神から託された羊たちをきめ細やかに世話したと評価を受けられるのか。

我々キリスト者は、外面的な強さではなく、内なる霊的な強さを帯びなければならない。それは御言葉に固く立って、何があっても揺るがされず、信仰の証を保ち続ける強さである。
 
どれほど体を鍛え、屈強な外見になっても、もしもその人が自分の家庭や信者を守れないようでは、この世においても、その力は認められることはない。まして、私たちが天から預かっているのは、神の家であり、指導者は、そこに身を寄せている信者らを守り切らなくてはならない。
 
だが、日本全国の教会の指導者の中には、教会が冒涜を受けても、もはや毅然と抵抗するところもなくなった。

なぜそのようにまでプロテスタントの教会は堕落したのか。それは、プロテスタントは、かつてカトリックがそうであったように、今や信徒に君臨する特権階級としての牧師階級を養うことだけを、第一の目的としているためである。

牧師たちの家庭を守ることが第一義的課題となっていればこそ、世と軋轢が生まれるのを避けたいと、プロテスタントの指導者は、教会が冒涜されても、争いを避けるようになったのである。
 
この点で、気に入らない信者たちをのべつまくなしにバッシングして沈黙に追い込むカルト被害者救済活動と、信徒を虐げていつまでも支配階級として君臨したいプロテスタントの牧師階級は、利害が一致している。

むしろ、すでに幾度も述べて来た通り、カルト被害者救済活動それ自体が、信徒を搾取し、食い物にするプロテスタントの牧師階級の悪の猛毒の副産物として生まれて来たものである。

それはちょうどブラック企業と、ブラック企業からの救済ビジネスが本質的に一つであって、共に貧しく、虐げられた人々をさらに食い物にするために存在しているのと原理は同じである。カルトとアンチカルトは同一であり、まさに車の両輪なのである。

さて、A教団を去って、NK教団へ移るとは、どこかで聞いたような話だ。その先に、さらにカトリックにまで霊的に後退して行った”先達”がいる。
 
NK教団のホームページを開くと、真っ先に目に飛び込んで来るのは、第二次世界大戦時、教団が正式に侵略戦争を是認したことへの懺悔のことばである。

戦時下でキリスト教の宗教団体がどのような状況に置かれていたかは、『戦時下のキリスト教 -宗教団体法をめぐって- 』(キリスト教史学会編、教文館)という書物に詳しいようだが、その書評「よみがえった反動的パワーに対峙するための基礎固めを」(石浜みかる)だけを読んでも、当時の状況がよく分かるので、抜粋してみたい。
 
戦時下で、国は宗教団体を国体思想の中に取り込んで戦争に協力させ、信者らの抵抗を抑えるために、宗教団体法を成立させた。そして、従う団体は優遇するが、従わない団体は弾圧するというアメとムチ作戦に出た。
 
 

 「宗教団体法」は、戦時下の一九三九年四月に成立し、日本の全宗教団体を横並びに串刺しにした戦時統制法です。宗教関係者にとって、法律は論じることの少ない分野ですが、憲法九条が揺らぐ今この時に、〈あの〉宗教団体法に焦点を絞った書籍が出たことは、まことに時宜を得ていると思います。本書のなかで研究者の方たちは、キリスト教界の代表的な五つの団体それぞれに、当時何が起きていたのかを(長らく語られなかった内部の状況もふくめて)、渾身の力を込めて語っておられます。

 三九年に成立した宗教団体法の草案が、文部省宗教局の高級官僚によって練られたのは、その四年前の一九三五年です。超国粋主義議員たちの突き上げにより、国会が「天皇陛下は憲法のもとで統治されるのではない。日本は現人神天皇陛下が、憲法を超越して治められる神国なり。皇国なり」と、古代のような「憲法の解釈変更」を決議したからです(三月二四日衆議院、天皇機関説排撃による国体明徴決議案可決)。

そして翌三六年の二・二六事件いらい、軍部が政治を掻き乱していき、日中戦争が泥沼化すると、国民のあいだに不安と厭戦気分がひろがり、国内秩序が崩れていきました。復古的日本精神を鼓舞する官製の「国民精神総動員運動」が始められますが、戦死者の遺骨はつぎつぎにはるか遠い中国大陸から戻りつづけます。お葬式を執り行う宗教界の絶対的服従が必須でした。超国粋主義者であった平沼騏一郎首相は、三九年二月、ついに宗教団体法案を貴族院特別委員会に提出し、「どんな宗教も、我が国体観念に融合しなければなりません。国家としては保護もします。横道に走るのを防止するために監督もいたします」と恫喝します。宗教団体法は可決されました。

  (第一条)本法において宗教団体とは神道教派、仏教宗派及び基督教其の他の宗教の教団(以下単に教派、宗派、教団と称す)並びに寺院及び教会を謂(い)う

 アメ(保護・懐柔)は「認可を受ければ所得税は取らない」という条項であり、ムチ(監督・強権)には、合法でない宗教行為には罰をあたえる、トップ解任もあるとの脅しの条項もありました。黙って「認可」を受ける指導者たちの無抵抗の従順さを見て取るやいなや、文部省宗教局官僚は一気に強制的大統合をすすめたのでした。こうして宗教界諸団体は、国体に融合し、「和」を保てという同調圧力に屈してしまったのでした。それは滅私報国・戦争協力への道でした。


 
 このように、キリスト教界においても、多くの団体が、「和」の精神という同調圧力に屈し、戦争への協力の道を選んだことは知られている。とはいえ、抵抗した者たちもいた。その当時、最も激しい弾圧を受けたのは、ホーリネスだったと言われる。
 

一番すさまじいムチを受けたのは、一部が日本基督教団にも統合された、ホーリネス関係者でした。法律が一つ成立すれば、関連法が「改正」されます(安保関連諸法の改正のように)。内務省の特別高等警察は、「改正」治安維持法を適用して一三〇名以上の牧師を粛々と検挙しました。七一名を起訴。実刑一四名、死者七名――。



 当時、国策としての戦争に協力を拒んだがために、検挙されたり、実刑を受けたり、処刑されたりしたクリスチャンは、まさに殉教者の名に値する人々であろう。

 翻って、NK教団は組織的な抵抗を何ら行うことなく、国体思想に従順に従い、今になって懺悔の言葉をホームページに掲載している。だが、それはただ戦争に加担したことへの懺悔を意味するだけではなく、この誤った国策に協力するために、罪のない牧師、信徒、神の家族を率先して売り渡し、陥れ、犠牲にしたことへの懺悔の言葉であることを忘れてはならない。

 抵抗できなかった、と言えば聞こえは良いが、要は、兄弟たちを売り渡し、見殺しにする側に回ったということなのである。

 A教団はこの恐るべき戦時下には、まだNK教団という母体の中におり、世に生まれ出ていなかった。従って、A教団は、今日、どれほど目にしたくないほどの多くの腐敗と混乱を抱えているにせよ、最も暗いこの歴史的時代に、後ろ暗い負の遺産を負わされずに済んだのである。

 それなのに、一体、なぜ、A教団の理念の誤りを見抜いた教会が、このような歴史的負の遺産を抱える団体へ後退して行かねばならないのか。

 表向きの理由は、教会を地域社会で存続させるためであっても、内実は、牧師階級を延命させるためのバーター取引であるとしか受け止められない。

 牧師たちが自力で教会を支えているのでは、万一、彼らが倒れた時に、教会がなくなってしまう恐れがあるという理屈は、ほんの表向きのものでしかない。NK教団に所属すれば、牧師たちには謝儀が保障されるかも知れないが、翌年から、教会は教団に負担金をおさめなくてはならなくなる。それは信徒らに落ちかかって来る事実上の年貢だ。
 
 筆者は、おそらくは当ブログの訴訟が決着するこの3月が、様々な意味で、筆者にとどまらない多くの兄弟姉妹にとっても、大きな分岐点となることを、前もって予想していた。これはエクソダスのために開かれた道である。そこで、この時点までに、プロテスタントの諸教会が、暗闇の勢力に毅然と立ち向かって、受けた侮辱を跳ね返し、聖書の御言葉の正当性を公然と守ることをしなければ、その後、おそらく二度と彼らにはチャンスがなくなるであろうこと、それどころか、必ず、著しい信仰的後退が起きるであろうことを筆者は予想していた。

 当ブログでは、牧師制度を無用なものと考えているため、いつまでも牧師制度を抱える教会や信者たちと、手を取り合って進むことが可能であるとは初めから考えていなかったが、それでも、筆者は筆者なりに、できる限りの努力を尽くし、そして、予想通りの結果が返って来た。差し伸べた手を握り返す力は次第に弱くなり、書面は次第に遅れがちになり、そこに断固たる要求の調子は見られず、さらに武道を習っているという話までも聞こえて来た。

 筆者は、「道」のつくものは、みな東洋思想を基盤としており、相反する概念の統合としての「和」を至高の価値とするものであるから、これは聖書の神に逆らう理念であって、大変、危険な影響であることを警告した。脳裏には、三島由紀夫を信奉していた指導者の姿がまざまざとよぎった・・・。

 さて、以上の話は、これまでにも何度も起きては立ち消えになったものであるから、実現するかどうか、筆者に問われても分からない。

 だが、もしも実現すれば、すでに書いた通り、プロテスタントの教会からは、最後のともし火が消え、地の塩としての役目がほぼ完全に消えることになる。なぜなら、長いものに巻かれず、独立性を保って、カルト被害者救済活動に毅然と立ち向かう教会が、地上から消え失せるからである。
 
 軍国主義の時代でもないにも関わらず、プロテスタントは、自らカルト被害者救済活動の前に膝をかがめ、神の福音を自分の生活の保障と取り替えたのである。
 
 そこで、もしも最後に残った教会までもが、かつて「和」の精神を唱えて同調圧力に負けて戦争に加担した教団を所属先に選ぶとすれば、それも極めて暗示的・予見的な出来事と言えるであろう。
  
 筆者は、プロテスタントの終焉という出来事が、いかに恐ろしい現象であるか分かっており、この宗教がこれから何の影響力の下に集約されて行こうとしているのかも想像がつくが、こうした有様に驚いてはいない。

 なぜなら、カルト被害者救済活動に恫喝されて諸教会が沈黙に入ったのは、すでに何年も前のことだからである。

 そして、神はプロテスタントの中から、筆者のように、すべての組織や団体を離れてエクソダスを成し遂げた信者をすでに各地に用意しておられることも信じている。

 そこで、筆者がせねばならないことも、後ろにあるものを振り向くことではなく、自分が失格者とならず、むしろ、賞を得られるように、前に向かって走ることだけである。  
 
   信仰の世界においては、本物でなければ、存続しない。だが、存続するための秘訣は、黙ってぼんやり受け身に待っていることではなく、神の御言葉を行い続けることにこそある。

 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(マタイ7:24-25)

 神の御言葉を聞いて行うことをやめれば、その時点で、家の土台の強度は失われ、その家は砂地に建てた家と同じになってしまう。どんなに世と迎合して、様々な支えを得たつもりであっても、その支えが、基礎となる岩から来るものでなく、御言葉に基づくものでなければ、その家は、雨が降り、川が溢れ、風が吹いて襲いかかれれば、ひどく押し流されて、倒壊することになる。

 だから、どんなに時が良くても、悪くても、私たちは決して信仰の証しをやめてはいけない。私たちは一体、誰の目に、自分を認められることを願っているのか。何に支えを見いだすのか。頼るべきは、世なのか、それとも、ただ一人の見えないお方なのか。

 水の上を歩いたペテロが、一瞬の不安に駆られて、見るべきお方だけを真っすぐに見ず、足元を見た時のように、もしも私たちが、主イエス以外のものに自分の生活の安寧や保障を見いだそうとするなら、私たちの思いは、たちまち穢され、支えを失ってしまうことであろう。

 そこで、見るべきお方から、一瞬も目を離さず、自分を奮い立たせて、自分の関心のすべてをとりこにして、キリストに従わせ、目標に向かうために真っすぐに走るのである。
 
 神は愛する子供を懲らしめる親のように、信仰者を燃える炉の中に投げ込んで洗練するように鍛えられる。だが、忍耐して賞を勝ち取ることができれば、天に朽ちない栄冠が待っている。

 力弱くとも、最後まで忍耐して従えば、大きな栄誉が待っている。私たちは、自分の栄冠を誰にも奪われることのないよう、固く守らなければならない。
  
「わたしはあなたの行いを知っている。
 見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。
 あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。
 
 見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。
 実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。
 見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。
 
 あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すために全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。
 わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。

 勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。
 耳のある者は、”霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」(黙示3:8-13)

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栄光から栄光へ―鏡のように主の栄光を反映させながら、主と同じかたちに姿を変えられて行く

偽りの宗教からのエクソダスが完了し、悪しき霊どもを除霊し、地獄の軍勢にもと来たところへ帰るように命じ、原点に立ち戻って、生ける水の水脈を見つける。

追いすがるファラオの追手を振り切って、その軍隊がことごとく水に沈むのを見届けて、この地にやって来た時に見えていた、新たなすがすがしい展望を取り戻す。

キリスト者が立っている土地は、悪しき軍勢に占領され、踏みにじられたために、荒廃している。この土地に、彼はキリストの復活の旗を立てて、御子の統治を宣言する。

キリスト者は、はるかに天の都を仰ぎ見つつ、前途に神が信じる者のために備えて下さった豊かな約束の地を見据える。そこで天の無尽蔵の豊かな富と、永遠の栄光がキリスト者を待ち受けている。

そう、御子の復活の命の統治は、信じる者の内ですでに始まっているのだが、信者が自分の内でそれを知ったことで、すべてが終わるのではない。キリスト者にはまだまだこれから獲得せねばならない土地がある。つまり、自分自身の内にある統治を外へ流れ出さなければならないのだ。

信じる者の足元では、荒れ果てた大地の割れ目から、澄んだ泉が湧き出すように、復活の命の統治を通して、清らかな水が流れ出ている。それはまだ少量の流れだが、いずれは大河になって、荒廃した大地全体を潤し、よみがえらせるはずだ。これは、主イエスが信じる者たちにただで受けよと言われた生ける水、疲れた人々を癒し、病んでいる人を立ち上がらせ、死んだものを生き返らせ、サタンに支配されていた人々を解放する力のある命の流れである。

御座の統治から流れ出す生ける水の川々である。

長年に渡り、深く深く井戸を掘り続けてきたキリスト者は、ようやく水脈に達したという確かな手ごたえを感じて、安堵する。飢え渇きと共に飽くことなく井戸を掘り続けて来た彼は、ようやく荷を降ろし、喜びのうちに安堵して、額を拭う。やはり、神は信じる者の呼び声に応えて下さったのだ。求め続けるうちに、天の資源にようやく達した。そうなれば、工事はあらかた終わったようなもので、あとはこの水を汲み出し、絶え間なく流れさせるための設備を整えなければならない。

さて、前回の記事では、キリスト者にとっての苦しみと栄光の不思議な関係について述べた。

キリスト者が神の御前に栄光を受けようと思えば、地上で苦しみをも受けなければならないことを書いた。この二つは密接に結びついており、苦しみがキリスト者の体を通過することによってしか得られない栄光がある。

クリスチャンは世から召し出された者たちであるが、御国の働き人であり、神の兵士でもある以上、ただ自分自身の幸福と平和と繁栄のためだけに召されたのではなく、神の国の権益を守る兵士として、神の利益のために召し出されたのである。そうである以上、キリスト者は、神の軍隊の兵士として、地獄の軍勢との激しい戦いを戦い抜いて勝利をおさめることなしに、神からの褒め言葉にあずかることは決してできない。そして、戦いはどんなものであっても、命がけであり、自分自身のためだけでなく、自分を召して下さった方の栄光のために、あらゆる障害を乗り越えてでも、勝利したいとの強い願いがないなら、むしろ、初めから臨まない方がましである。
 
だから、クリスチャンには、地上で人前に栄光を受けて、拍手喝采を浴びて、安楽に生き、自分自身だけを楽しませながら、なおかつ、神の御前にも栄光を受けようなどという生き方は成り立たないのである。むしろ、神の御前にどれだけ己を低くして地上における患難を耐え抜いたかが、来るべき日において、キリスト者が神の御前で受ける栄光の度合いを決める。

今回は苦難がもたらす栄光というテーマをさらに発展させて、「栄光から栄光へ」というテーマを語りたい。

「しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:14-18)


古い契約、それはキリスト者が去って来た世界、すでに水に沈んでいる世界であるが、それは何も律法や、ユダヤ教のことだけを指すのではない。今日、聖書に従う信仰に見せかけた偽りの宗教においては人が敬虔な信者を装うために勝手に作り出した様々な規則や掟が存在する。日曜礼拝を遵守することや、奉仕や献金を行うこともそれに含まれ、そのような定めを数多く守って、人の目に正しい行いをしていると認められることこそ、敬虔な信者のあるべき姿だと説かれる。

しかし、そのようにして、各種の規則で自分を縛り、自分自身の立派な行動を通して、人前に義を得ようとすることは、どこまで行っても終わらない偽りの霊性を得るための偽りの精進である。どれほど人が善行を積んでも、そのことによって、「私はここまで達したのだから、もう義人となった。これ以上、誰からも後ろ指をさされることなく、何も要求されることはない。もう大丈夫だ」と言える日は来ない。また、世が信者が学びや精進によって高みに到達しようとする必死の努力を認めてくれて、「あなたはここまで努力を払ったのだから、合格水準に達しました。もうこれ以上何も要求しません」と言ってくれる日も来ない。

むしろ、人が努力すればするほど、ますます深く泥沼にはまって行くかのように、要求だけが加算される。どれほど人が善行を積んでも、心に「もう大丈夫だ」という確信と平安はやって来ないばかりか、彼に対する期待と要求がさらに増し加わる。だから、そのように自分自身の善行や努力によって義を得ようとする人は、自分自身の心の消えない不安を覆い隠すために、永遠に終わらない努力を重ねているのであり、その行為は、人が義とされるために行っているというよりは、むしろ、心の内なる罪悪感を薄め、本当の自分自身の惨めな姿から目を背け、これを覆い隠すために行われる自己欺瞞であり、キリストによらない人類の偽りの贖罪行為なのである。

このような努力を人がどんなに重ねても、ちょうど巨額の負債を抱えて苦しむ人が、返済しても、返済しても、利子がますます膨らんで行くことにより負債の額が減らないように、人類がどんなに自分で自分を義としようと努力しても、罪悪感はますます膨らみ、義とされることはなく、神に到達することはない。魂のあがないしろは高価で、人は自分で自分の罪を贖うことはできないからである。

そのような人たちは、心に覆いがかかり、思いが鈍くされており、神の義が分からなくなってしまっているのである。彼らは自分では神を信じていると思っているかも知れないが、彼らの悲痛なまでの努力の根底にあるのは、神への信頼や、愛ではなく、むしろ、神に対しての虚勢、演技、取り繕いであり、なおかつ、彼らの心の根底にあるのは、「どうして神は我々に対して、こんなにも重い返済不可能な罪の負債を負わせたのだ」という憤り、恨みである。そして、彼らは「神によって不当に負わされた罪の債務証書」を帳消しにするために、それほどまでに悲痛な努力を払っているのだから、神もそれを認めざるを得ないと考えて、神ご自身を否定して、神の御心を退けて、神の御怒りから身を避けて、自分自身を守るための偽りのレンガの塔(バベルの塔)を建設し続けているのである。

だが、そのように人が己が力では到底、返しきれない罪の負債を人類に負わせたのは、神ではなく、サタンである。だから、サタンを打ち破ることによってしか、人がその負債から解放される術はない。そして、神はそれをすでに成し遂げて下さったのであり、神はキリストの十字架を通して、すでに人間の罪の債務証書を無効にする道を開いて下さっているのである。だから、人がこの「罪の債務証書」を自力で返済する必要はなく、また、そのことで神を恨みに思う必要もなく、むしろ、糾弾されるべきは悪魔であって、神はキリストを通して彼に打ち勝たれたことを確信し、それを宣言し、喜び、現実に適用するだけで良いのである。

ただ上記のような人々はそれが分からず、自分に負わされた途方もない負い目を返済し続けることにより、自分たちは神に仕えているのだと誤解しており、彼らが仕えている相手は、神ではなく、彼らをまさに罪の負債地獄に突き落とした地獄の看守たる悪魔であるということが分からないのである。

しかし、人が真にキリストご自身の方を向くならば、この救いようない古い契約でがんじがらめにされた泥沼の状態から、誰しも自由にされることができる。それだけではない、その人の内側が新たにされ、主の御姿へと変えられて行く。

しかしながら、栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行くことは、やはり、信じる者が己を低くして苦難を甘んじて受け、キリストの遜りにあずかることにしかないのである。だから、キリスト者が「いいとこどり」の人生を送ることはできない。神から喜びや恵みと平安だけを頂戴し、苦しみは一切御免だと言うことはできない。

しかし、誤解してはならないのは、信者が無駄に虐げられ、抑圧の中にとどまり、悪魔の圧迫の虜とされ続けることが、神が栄光をお受けになる手段ではないことである。むしろ、信者はそうしたすべての圧迫の中で、これに勝利する力を信仰によって得なければならないのである。

信者にとって地上の苦しみとは何なのかと問えば、それは、苦しみを通して信者に突きつけられる地上的な限界のことだとも言えよう。信者は患難を通り抜けることによって、恐れや、不安や、自分自身の限界を痛切に感じる。しばしば、自分自身の人生を照らされ、自分の誤りの多い選択を振り返り、もしかしてこれは避けることので来た苦しみではなかったかと考える。

しかし、信者は自分の抱えるあらゆる限界や愚かさにも関わらず、それに対して自分の力によってではなく、ただ信仰に立って、キリストにより、絶え間なく、この限界に「NO」を突きつけるのである。つまり、信者は、「自分にはできないが、神にはできる」という確信に立って、迫りくるすべての苦難に立ち向かい、それを乗り越えるのである。信者はこの地上で圧迫を受け、苦しめられ、追い詰められもし、そのような出来事が起きた原因がどこにあるのかさえ分からないことが多いが、絶え間なく、これらの地上の圧迫に対し、地上の限界ある人間としての自分自身に基づいてではなく、天的な人である「キリスト」によって、立ち向かい続けるのである。その時、そのパラドックスの中に、神のはかり知れない力が働く。

従って、信者が患難を通過することによって得られる天の栄光とは、信者が苦しみに翻弄され、悪魔に圧迫され続ける立場に受け身に立つことや、自虐的的で、自縄自縛の立場に身を置くことを意味せず、むしろ、それとは反対に、信仰によってそれらの圧迫を内面的に打ち破り、これに勝利する秘訣を学ぶことにある。信者の人生には、絶え間なく外側で様々な事件が起き続けるであろう、しかし、信者が苦難に勝利する力を学ぶと、それらの出来事が、信者の内面に影響を及ぼさないようになる。いかなる現象が起きようとも、どのように自分自身を脅かされようとも、信者が大胆な確信に基づいて、キリストの復活を宣べ伝えることが可能になるのである。

パウロは書いている、

「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。

私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。

ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する賞賛が届くのです。」(Ⅰコリント4:3-5)

パウロは神の力ある使徒であったにも関わらず、兄弟姉妹と呼ばれた人々からも中傷されたり、あらぬ疑いをかけられたりもし、兄弟姉妹ではないこの世の人々からは、まして誤解され、憎まれ、迫害され、しばしばあらぬ罪を着せられて法廷にも立たされ、弁明を求められたりした。

このような迫害を使徒たちも経験したというのに、今日、キリスト者がこうした誤解や偏見や対立や苦難を全て避けて通ることができると考えるのは大きな間違いであろう。もしそのようにいかなる対立も迫害も生じないのだとしたら、その信者の信仰生活は何かがおかしいのだとはっきり言える。

しかしながら、パウロは、この世の目線に立って、人間の見地から、自分に対して下される評価や「人間による判決」をものともせず、「私は自分で自分をさばくことさえしません」と述べた。パウロはかつては熱心なユダヤ教徒であり、教会の迫害者であり、それゆえ、クリスチャンからは回心当初は恐れられもし、疑いもかけられもしたが、そのような過去でさえ、パウロは神の御前に死んだものとして一切ないがごとくに自分の手から放し、すべてを神の御手に委ね、自分自身では全く過去に拘泥せず、それに限らず、回心後に起きたどんな事柄についても、自分で自分を振り返って犯した過ちとキリストへの従順を勘定して、自分がどの程度義人であるかをはかるようなことをしなかった。

パウロは人前に立たされて弁明を求められる時、自分自身により頼まず、ただ彼を贖い出されたキリストの御名、キリストの義と聖と贖いだけに頼って立ったのであった。それだけが自分を守る防御の盾であることを彼は知っていたからである。彼は、神がいずれ自分を裁かれることを知っているが、神の裁きをも恐れてはいない。神の裁きについて大胆に述べることができたのも、彼が人間の裁きから身を避ける口実として、神の裁きを持ち出していたからではなく、人間の裁きよりもはるかに正確で決して間違いのない、すべてをご存知である神のさばきの前に立たされる時でさえ、確信を持って進み出ることができるという自負を持っていたためである。

その確信に満ちた自負は、地上の人であるパウロ自身から生まれるものではなく、パウロを通して働かれるキリストによるものであった。全身全霊でキリストに従い通しているがゆえに、パウロは、この方が、自分自身を力強く弁護して下さり、義として下さり、神は信じる者の信頼に応えて下さるという確信がったのである。

それだけではなく、パウロは、神の裁きの前に立たされる時、自分が罪に定められることがなく、義とされるばかりか、朽ちない栄冠を受けるであろうことを確信していた。信仰者はただキリストの贖いを信じて神の目に義とされただけでは十分ではない。それだけでは、罪赦されて、ただスタートラインに立っただけのことである。それ以上に、神からの栄誉にあずかるために、地上で勝利を持って試練を通過せねばならないのである。

兵士が戦いを経ずして勲章をもらうことはできず、スポーツ選手が試合を経ないのに賞を勝ち取ることができないように、信者には、この地上において患難を忍び抜くことによってしか、得られない天の栄誉がある。苦しみや圧迫を通して、信仰が試され、すべての試練に勝利する秘訣を学び、キリストにあって、完全に「おとな」にならない限り、神の朽ちない栄冠を得ることはできないことを、パウロは知っていた。だからこそ、救われた後の地上における生涯を、彼はこの朽ちない「神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走る」ことに費やしたのである。

つまり、天で用意されている「神の栄冠」という栄誉を得るために、信者は、この世における苦しみを通され、それを通して、キリストの十字架の死に同形化され、より深く復活の命にあずかるのである。この死を土台とした復活の命の増し加わりこそ、教会の成長の秘訣なのである。

「私たちは、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくさる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:12-14)

ヤコブも同じように、試練、患難、苦しみを信仰によって忍び通すことによってのみ、信者は「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者とな」ることを書いている。

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いてよしと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」(ヤコブ1:12)

以上の事から、私たちは、どうすれば信者がキリストに似た者とされるのか、どうすれば、「鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行」くことができるのか、どうすれば、「キリストの身丈まで成長し、完全なおとなとなる」ことができるのか、その秘訣を学ぶことができる。

エペソ書4章11節から16節には、キリストのからだを建て上げるために、信者それぞれに与えられた賜物に従い、教会には役割分担があることが語られると同時に、そうして信者一人一人が賜物に応じて互いに仕え合うことが、信じる者たちが「キリストの満ち満ちた身丈」にまで成長し、「完全におとなになって」、もはや人間の言い伝えに過ぎない偽りの教えに騙されたり、弄ばれたりすることなく、真理のうちにとどまり、キリストに従い抜いて成長するためであることが語られている。

しかしながら、多くのプロテスタントの教会においては、エペソ書のこの箇所は、組織としての教会内の信者の役割分担を示すものと解釈して、教会に牧師制度を置く根拠とさえみなしている。だが、筆者はそのような文脈でこの聖書箇所を引用しない。筆者はそもそも教会というものを、地上の組織としては見ておらず、教会内に町内会やらPTAやら、はたまた学習塾のような、様々な固定化された役割分担を置くことにより、教会の成長を促すことができるとも考えていない。

むしろ、筆者自身の経験に立って言えば、キリストのみからだなるエクレシアの働きは、決して、地上的な組織としての役割分担や、まして教団教派や組織の枠組みにとらわれるものではなく、むしろ、そのような地上的な疑似教会組織と無関係になった時点で、初めてキリストの生きた働きが信者に見えて来るのである。神は人間が人間の意志によって立てた地上の組織のネットワークを通さず、人の思いによらず、人知を超えた不思議な方法で、互いに知らない信者たちをも時宜に応じて引き合わせ、しばしば、予期せぬ形で、塩気を失って死んだこの世の地上組織としての教会の代わりに、この世の不信者からの圧迫でさえも、エクレシアを建て上げる機会として用いられる。

これは、決して不信者が教会の一部となって、教会のために奉仕していると言うのではない。不信者はあくまで教会の外にいて、教会を建て上げる目的でその働きに関わっていないのだが、それにも関わらず、この世の不信者からの迫害や圧迫を、神は教会を建て上げる手段として用いておられるのである。

前回、ステパノの殉教の場面に触れたが、イエスの復活後、このような形でユダヤ教徒による教会への迫害が強まるまでは、弟子たちの宣教によって、神の御言葉を受け入れる人々が地上に増え広がり、神の教会に加えられる兄弟姉妹が増加していた。人の目には、あたかも、そのようにして信者数が地上で増加し、教会が地上で権勢拡大し続けることこそ、教会の「成長」を指すように見えるであろう。

ところが、神は教会の成長を、決して、そのような規模や人数や組織力によってはかられないのである。むしろ、神は、サウロによる教会への迫害、ステパノの殉教などの出来事を許されて、教会が地上で勢力を増して人間的な力の結集する場所となって、強大な組織が建設され、弟子たちが多くの信者たちを従えて宗教的権威となるよりも前に、信者たちを迫害によって散らされ、教会を離散させられたのである。

教会の成長は常にこのように、世からの激しい迫害や苦難と背中合わせで、人間の目から見た繁栄や成功とは真逆の方向性を向いており、真にキリストに従う弟子たちが、大勢の人びとから敬われ、かしずかれ、立派な教師、宗教的権威者として崇められることはない。神の望んでおられる「教会成長」は、これとは全く正反対で、地上における迫害や苦しみや誤解や偏見とは一切無縁の、地上で歓迎され、安泰な地位を築き上げることのできる強力な組織力を意味しないのである。むしろ、神から見た教会の成長とは、量や規模といった、外側から見て誰しもすぐに分かるような基準でおしはかられることはなく、より深く内面的な基準によってはかられ、量よりも質を指していると言えよう。つまり、信者があらゆる苦しみの中を通され、代価を払って、ただキリストだけに従い抜く過程で生まれて来る洗練された従順、献身、信者がキリストの死と復活に同形化されたその程度の増し加わり、神への燃えるような愛の増し加わりを意味するのである。

このようなわけで、筆者は、エクレシアが何であるのかを、信者が肉眼でとらえて理解することはできず、エクレシアというものを、人が地上の組織の中に限定・固定化することもできず、また、エクレシアをキリストにふさわしく建て上げ、成長させるために、神がどのような方法を用いられるのかを、決して人知でははかりしることができない、という考えに立っている。

神がエクレシアを成長させられる手段は、この世の人々が組織を成長させるために考え出すような手練手管とはむしろ反対なのである。この世の人々は、教会に学習塾のような役割分担を設け、専門家による教育訓練を充実させ、入塾した者たちを鍛えれば、それによって教会全体の信仰を成長させることができると思うかも知れない。だが、神は決してエクレシアの成長のためにそんなな方法を用いられることはない。

先の記事でも触れた通り、パウロが述べたのは、むしろ、教会に栄光がもたらされるのは、キリスト者が投獄されたり、迫害されたり、誤解され、排斥され、苦しみを受けるなど、人間の目には決して好ましくない、心地よくない様々な出来事を通してだということであった。そのようにして、一人のキリスト者が苦しむのは、教会全体のためであり、教会全体の利益にかなっていると、彼は述べたのである。

これはまさに人が肉眼で見て、組織を成長させ、発展させる方法とは真逆である。人間の目には、苦しみや、迫害や、組織を弱体化させるものにしか映らないであろう。このような逆説的な方法を用いて、神が教会を成長させておられるとは、信仰者でさえ、信仰によらなければ、理解することはできないであろう。

しかしながら、たとえ人知ではかることができずとも、このような形で、キリスト者が不思議な形で互いに仕え合うことによって、教会が成長して行くのである。信者たちが互いにお世辞を述べあって、互いを誉めそやし、互いに栄光を受け合い、苦しみとは無縁の、人間にとって心地よく安全な共同体を地上に確固として築き上げることで、教会が成長するのではなく、むしろ一人一人が自分の代価を払って、試練を忍び通しながら、キリストに従い抜くその過程で、初めて互いが仕え合うことが可能になるのである。そのようにして、信者一人一人が「完全におとなになってキリストの満ち満ちた身丈にまで達する」のである。

「それが、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。<…>

 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:12-16)

果たして、今日、キリスト教と呼ばれる宗教が、すっかり人間の安楽と現世利益のためだけの疑似宗教と化している中、このように主のための試練をも甘んじて受け、この世からの迫害や誤解や偏見や危難をも勇敢にくぐり抜け、様々な訓練を通して、神の御手に懲らしめられながら、それでも己を低くしてそれに耐え、苦難を忍び通して信仰を成長させ、キリストの死と復活により深く同形化され、朽ちない神の栄冠にあずかりたいと、心から願う信者は、どのくらい存在するのであろうか? 

そういう信者がどのくらいいるのかいないのか、それは筆者の知るところではないが、苦難と栄光の深い関わりについてのテーマは、この後の記事でもさらに続行して行く。

涙を持って種まく者は喜びの声をもって刈り取る



「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(コロサイ1:13)

さあ、一つの区切りとして、このブログを終了する時が来ました。書きたいことはまだ沢山あるのですが、次の予定は未定、今しばらくの間、お休みをかねて、主の与えて下さる命の恵みを、静かに、目いっぱい享受しながら、進んで行きたいと思います。

主の栄光の御名は誉むべきかな! 主は賛美されるにふさわしい方! 私たちを全ての苦難から救い出し、死から命へと移し出し、完全に贖って下さる方! 私たちの働きのすべてを主の御手に置きます、主がすべてに報いて下さいますように。

 主がシオンの繁栄を回復されたとき、
 われらは夢みる者のようであった。
 その時われらの口は笑いで満たされ、
 われらの舌は喜びの声で満たされた。
 
 その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」
 と言った者が、もろもろの国民の中にあった。
 主はわれらのために大いなる事をなされたので、
 われらは喜んだ。

 主よ、どうか、われらの繁栄を、
 ネゲブの川のように回復してください。
 
 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
 種を携え、涙を流して出て行く者は、
 束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

(詩篇第126編)

主を畏れ、主の道に歩む者は幸いである

「主がシオンの繁栄を回復されたとき、
われらは夢みる者のようであった。
その時われらの口は笑いで満たされ、
われらの舌は喜びで満たされた。

その時 『主は彼らのために大いなる事をなされた』と
言った者が、もろもろの国民の中にあった。
主はわれらのために大いなる事をなされたので、
われらは喜んだ。

主よ、どうか、われらの繁栄を、
ネゲブの川のように回復してください。

涙をもって種まく者は、
喜びの声をもって刈り取る。
種を携え、涙を流して出て行く者は、
束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」(詩篇第126篇)

「主が家を建てるのでなければ、
建てる者の勤労はむなしい。
主が町を守られるのでなければ、
守る者のさめているのはむなしい。
あなたがたが早く起き、おそく休み、
辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。

主はその愛する者に、眠っている時にも、
なくてはならぬものを与えられるからである。

見よ、子供たちは神から賜った嗣業であり、
胎の実は報いの賜物である。
壮年の時の子供は勇士の手にある矢のようだ。
矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。
彼は門で敵と物言うとき恥じることはない。」(詩篇第127編)

「すべて主をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。
あなたは自分の手の勤労の実を食べ、
幸福で、かつ安らかであろう。
あなたの妻は家の奥にいて
多くの実を結ぶぶどうの木のようであり、
あなたの子供たちは食卓を囲んで
オリブの若木のようである。

見よ、主をおそれる人は、このように祝福を得る。
主はシオンからあなたを祝福されるように。
あなたは世にあるかぎりエルサレムの繁栄を見、
またあなたの子らの子を見るであろう。
どうぞ、イスラエルの上に平安があるように。」(詩篇第128篇)


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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

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