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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は罪に定められることがない。

「どのようなときも、わたしは主をたたえ
 わたしの口は絶えることなく賛美を謳う。
 わたしの魂は主を賛美する。
 
 貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
 わたしと共に主をたたえよ。
 ひとつになって御名をあがめよう。

 わたしは主に求め
 主は答えてくださった。
 脅かすものから常に救い出してくださった。
 主を仰ぎ見る人は光と輝き
 辱めに顔を伏せることはない。
 
 この貧しい人が呼び求める声を主は聞き
 苦難から常に救ってくださった。
 主の使いはその周りに陣を敷き
 主を畏れる人を守り助けてくださった。

 味わい、見よ、主の恵み深さを。
 いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。
 主を畏れる人には何も欠けることがない。

 若獅子は獲物がなく飢えても
 主に求める人には良いものの欠けることがない。
 
 子らよ、わたしに聞き従え。
 主を畏れることを教えよう。

 喜びをもって生き
 長生きして幸いを見ようと望む者は
 舌を悪から
 唇を偽りの言葉から遠ざけ
 悪を避け、善を行い
 平和を尋ね求め、追い求めよ。

 主は、従う人に目を注ぎ
 助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
 主は悪を行う者に御顔を向け
 その名の記念を地上から経たれる。

 主は助けを求める人の叫びを聞き
 苦難から常に彼らを助け出される。
 
 主は打ち砕かれた心に近くいまし
 悔いる霊を救ってくださる。

 主に従う人には災いが重なるが
 主はそのすべてから救い出し
 骨の一本も損なわれることのないように
 彼を待追っ手くださる。

 主に逆らう者は災いに遭えば命を失い
 主に従う人を憎む者は罪に定められる。
 
 主はその僕の魂を贖ってくださる。
 主を避けどころとする人は
 罪に定められることがない。」(詩編第34編)

前回も同じ個所を引用したが、共同訳の方がどことなくしっくり感じられる箇所である。

命を永らえることを望む者は、何をなすべきであろうか。まずは偽りから遠ざかり、悪を離れ、善を行い、平和を追求すべきである。

嘘偽りが洪水のように溢れるこの時代、偽りを避けるというだけでも、人の目には狭き門であろう。人々は自分の見栄えが少しでも良くなるよう世間に気を使い、SNSで自分を粉飾し、企業も嘘の広告を出し、偽の期待を人々に持たせ、役所は文書を改ざんし、誰もが息を吐くように嘘をついている。

そんなこの時代に、世間に迎合することなく、偽りのない生き方を見つけることは、非常に困難なように思われる。自分を粉飾して、過大な実力があるように見せかけ、人々の関心を引くことができるなら、その方が楽に生きられるように感じられるだろう。

しかし、その道を行けば、命を失うと御言葉は言う。

どんなに狭き門に見えても、確実に勝利へと続く道を行くのが一番、近道なのだ。そのためには、偽りや、悪から遠ざかることは、決して外してはならない条件である。

さて、少し本題から逸れるようだが、インターネット上では、数年前から、「聖書信仰」やら「福音主義」への攻撃が盛んに行われている。これはカルト被害者救済活動のことだけを指すわけではない。

むしろ、カルト被害者救済活動は、以上の大きな流れの一端として現れて来たものである。そして、この流れが真に正体を現すのもこれからである。

「カルトを告発する」と言いながら、カルトとそうでないものをごちゃ混ぜにし、無実のクリスチャン、しかも、聖書に忠実に歩もうとするクリスチャンを攻撃するというのは、暗闇の勢力が用いるいつものやり方である。

聖書を敵視する運動は、今のところはまだ「聖書信仰」やら「福音主義」だけを攻撃する形を取っているように見えるが、やがて彼らの主張は、必ずや「聖書そのもの」を否定し、排除する流れへと変わって行くだろうと筆者は予想している。

共産党政権下の中国のように、国民の誰かが聖書を所持し、開いているだけでも、犯罪者扱いされるような国を作りたい、聖書を所持し、真面目にその内容を知ろうとしている人間は、みなカルト信者ということにして葬り去ってしまいたい、そういう悪しき思惑が渦巻いていることが感じられる。

そうした思惑は、時を追うごとに、国家神道やら共産主義やら日ユ同祖論やら先祖崇拝やらを一緒くたに混ぜ込んだ新たな異端思想(これこそまさに新手の新興宗教!)の形となって勃興しようとしている。

これもやがては、愛国主義、軍国主義、天皇崇拝などの一連の流れの一環として、戦前回帰という本流へ合流して行くだろう。

たとえば、ネット上には、プーチン政権下ロシアを極端なまでに美化したり、さらにマルクス主義を礼賛したり、日ユ同祖論を唱えたり、国家神道に近い考えを提唱するなど、様々な思想の持主を寄せ集めたような勢力がある。

その勢力は、大きく見れば、陰謀論と呼ばれる流れの中に位置するが、一見、安倍政権に反旗を翻すアウトサイダーのような立場から政権批判を繰り返しつつ、同時にEden Mediaが告発しているような悪魔的思想(グノーシス主義)を告発し、悪魔崇拝を告発すると言いながら、実際には「聖書信仰」を目の敵として、キリスト教を仮想的とする非難を開始している。

グノーシス主義を批判しながら、自らがグノーシス主義に陥っているという点で、この勢力は、まさにカルト被害者救済活動と同じ道を辿っていると言える。

しかし、マルクス主義であれ、国家神道であれ、日ユ同祖論であれ、もともとこうした思想の持主らが掲げている思想が、いずれも明らかに人類の生まれながらのルーツを神聖視するというグノーシス主義の系譜に属する思想ばかりであることを見れば、こうした勢力のものの考え方が、結局、グノーシス主義を批判しているように見えても、グノーシス主義から一歩も外に出られず、かえって正しい思想を攻撃するだけに終わるのは、初めから当然予想できる結果である。

当ブログでは、以前から、「プーチン率いるロシアが日本や世界を救ってくれる」などという考えが、どれほど愚かなものであり、国家としての主権の放棄に等しいか、また、極端なまでのロシア美化・賛美が、どのような背景で生まれて来るのかということを書いて来た。

天皇を賛美し、日本の文化やルーツを礼賛すると言っている連中が、それとは全く相矛盾することに、「プーチン政権下ロシアが日本を救う」などと言っているのだから、呆れることしきりである。最近は、日ロの経済協力も領土問題も全く膠着状態に陥ったので、かつてほどそうした声は聞かれなくなったが、そんなことからも、要するにその声は、表向きには安倍政権を非難しながら、背後では政権とぴったり歩調を合わせていることが分かる。

また、そうした異常なほどのロシア美化の背景には、マルクス主義が存在していることが多い。

マルクス主義の影響を甚大に受けている人ほど、ロシアを非現実的なまでに美化することが多い。今日、ロシアという国を極端なまでに美化してこれをまるで救世主か何かのように信奉している人々の歩みを追って行けば、若い頃に学生運動に参加していた、などのマルクス主義との接点が出て来ることが稀ではない。

すると結局、彼らは若い頃から今に至るまでずっと変わらず、思想的にはマルクス主義者のままだったことが分かるのである。だが、彼らは現実のロシアのことはほとんど知らない。ゆえに、自分の心の中で思い描いたユートピアをロシアに重ねているだけで、ソ連時代の暗黒の歴史がどんなものであったかも、彼らは真正面からは決して見ようとはしない。

マルクス主義は、宗教の形を取っていないが、とどのつまり、人間がキリストの十字架を介することなく地上にユートピアを建設できる(=救いに達することができる)と見なす点では、アダムを神としているグノーシス主義に分類されて差し支えない思想である。

そこで、マルクス主義と、国家神道、日ユ同祖論、先祖崇拝、天皇崇拝などといった思想は、一見、何の共通点も類似点もないように見えても、みな根底では、アダム(生まれながらの人間)を神とし、人類の生まれながらのルーツを神聖視するという、人間崇拝へとつながる点で、ベースが全く同じなのである。

だから、これらの思想がごった煮のように集まって来て「結婚(重婚)」に至ったとしても、不思議ではない。繰り返すが、これらの思想はもともと根本が同一であり、異なるのは表層部分だけだからである。

ロシアには歴史上、「ロシアが世界を救う」と言ったメシアニズムの思想が存在しており、なぜこうした思想が登場して来たのか、その分析はここでは行わないが、ロシア正教の中にもそうした思想が存在したことがあり、マルクス主義はそうしたロシアの文化的・思想的な土壌を背景に、その歴史的延長として、ロシアに移植されたと見てもおかしくないことは以前にも述べた。

さらに、『国体の本義』などを読んでも分かることは、かつての日本が唱えていた「八紘一宇」だとか、「大東亜共栄圏」などのスローガンも、みなメシアニズムの思想から出ているということである。戦前・戦中の国家神道は、天皇を救世主になぞらえ、皇国日本が世界を救うというメシアニズムの思想である。

そこで、これらの各種のメシアニズムの思想が、類は友を呼ぶ式に集まって来て結合し、それらの思想をことごとく闇鍋のように内包している勢力が、今や「聖書信仰」を新興宗教力ルト扱いして攻撃し、否定しにかかっているのも、何ら不思議なことではない。

もともとそういう似非救済思想が、聖書と相性が良いはずもない。彼らも聖書を利用したり、キリストの名を語ることがないわけではないにせよ、その目的は必ず、彼らが「自分たちは、先祖代々から伝わる神聖なルーツを受け継いでいる」と主張するためであり、日ユ同祖論者などは、自分のルーツを美化(神聖視)する道具として、イエス・キリストの名を利用しているに過ぎない。要するに、自分たちはメシアの末裔だから、世界を救う活動に参加する資格があると言いたいのである。

こういう思想を持つ人々が、歴史的に、はた迷惑な世界救済事業に乗り出して来たのであり、それらの思想にとって、聖書などはもとより自分を美化するための添え物に過ぎない。

キリストの名を都合よく騙って自分のルーツを美化・神聖視したいだけの人々にとって、本気で聖書などを読み、真剣にその教えを実践・探求する信者は駆逐したい邪魔者と映るのは当然に予想できる。

だが、もしも「聖書信仰」を攻撃するなら、プロテスタントのほぼすべての教会は「聖書信仰」に立っているため、これらのすべての教会が「カルト」ということにされて終わってしまう。そういう暴論は、ネット上でしか成立し得ないものである。

今日、「カルト」という呼び名は、あからさまな蔑称とみなされ、使用を避けられつつあるため、以上のような人々はやたらと「新興宗教」という言葉を使いたがる。新興宗教という呼び名には、何ら罵倒や侮蔑の意味は含まれていないのだが、こうした言葉をやたら振り回す人々は、「新興宗教と言えば、要するに、キリスト教系のカルトのことだ」という暗黙の了解を前提としているようである。

「新興宗教」などという曖昧模糊とした呼び名は、あらゆる宗教を十把ひとからげに疑わしいものとして攻撃するには、もってこいなのである。

だが、こうしてネット上で、気に入らない思想にのべつまくなしに「新興宗教」のレッテルを貼り、かつ「聖書信仰」を目の敵にして非難している人々のほとんどが、実のところ、統一教会とキリスト教界の区別もつかない人々である。統一教会とはキリスト教なのだと思っている人々が大半という有様で、もちろん、エホバの証人や、ローカルチャーチが使っている聖書と、プロテスタントの教会で使われている聖書の区別もつくはずがない。

彼らはそもそも聖書などほとんど読んだこともなく、キリスト教の基本的な言い回しも知らない人々であるから、彼らの糾弾している「聖書」が、一体、どの「聖書」を指しているのかも定かではない。

彼らはただ、「聖書を真面目に信じるのは狂信者だけのすることである」という先入観・固定概念を作り上げ、人々を聖書から遠ざけたいがために、攻撃的な言葉を振り回しているだけなのである。

しかし、彼らが聖書をあらゆる攻撃対象の中でも、とりわけ攻略せねばならない本丸とみなしていることだけは確かである。「新興宗教批判」は、手始めに創価学会、統一教会などから始まるが、ほとんど間をおかずに、キリスト教への攻撃に転じる。本当の目的は、キリスト教の中でも、「聖書信仰」を攻撃することにある。

こうした動きは、カルト被害者救済活動が辿って来たのと同じように、最初は「危険な新興宗教について警告を発する」という口実を用いながら、様々な宗教への攻撃を正当化して行き、そのうちに、自分たちに属さないすべての思想を攻撃するようになり、独麦と一緒に本物まで一緒に抜くために、もっぱらキリスト教徒に敵意を向けるようになる。

彼らの「本命」は、最初から、創価学会でも統一教会でもなく、キリスト教にあると言って差し支えない。だから、キリスト教徒はこれらの人々の出現に警戒せねばならない。

彼らが聖書を敵視するのは、聖書が彼らの思想の誤りを明白に証明するためである。特に、日ユ同祖論者などは、聖書の御言葉が本物であっては困る人々である。

それはなぜか?

聖書こそ、彼らの血統が偽物であることを証明しているからである。

誰かがチャンピオン犬の直子を買えば、きっと血統書がついて来るだろうが、聖書は、一体、誰がキリストの子孫でありうるのかをはっきりと証明している。

日ユ同祖論者にとって重要なのは、「日本人はユダヤ人の末裔だ!だから、俺もメシアの末裔なのだ!」と主張することである。天皇崇拝者にとっても、天皇の血統を神聖視し、日本国のルーツを高めるためならば、何でもありで、日本人がユダヤ人の末裔だという実に荒唐無稽な説も、天皇崇拝を肯定し、日本人を美化するエッセンスになりうるなら、ウェルカムというところだろう。

だが、聖書は言う、
「愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。」(テトス3:9)

新約聖書を開けば、まずマタイによる福音書における
「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」が目に飛び込んでくる。しかし、このようにして最初の福音書の冒頭に、キリストの系図が登場することの最も重要な意義は、「この素晴らしい選ばれたメシアの血統」を誉めたたえることにはない。

むしろ、メシアの系図という最も選りすぐりの系図も含め、人類の生まれながらの系図の意義は、ことごとくイエス・キリストと共に価値がなくなり、終わった、ということが示されている。

人類の生まれながらの系図は、ただキリストと共に無価値とされただけでなく、キリストと共に「呪われたものとして木にかけられて罰せられた」のである。

そこで、今日、キリストの子孫とは、こうした系図によって、キリストに連なると主張している人々を指すのではない。信仰によって水と霊によって生まれ、キリストに連なる兄弟姉妹となり、神の家族となった人々のことを指すのであって、「日本人のルーツはユダヤ人だ!」などと主張して、自らの血統を誇る人々は、キリストに属する人々には含まれない。生まれながらの血統は、キリストとは何の関係もなく、木にかけられて、罰せられる根拠にしかならなかったのである。

だが、悪貨が良貨を駆逐するように、偽物は本物を駆逐しようと活動しており、そこで、信仰もないのにただ日ユ同祖論のような荒唐無稽な思想を根拠に、「自分はキリストの子孫だ!」と誇り、そのために聖書を飾りとして利用したい人々の目には、聖書など真面目に読んで信じている人々は邪魔な存在としか映らないのである。

一言で言えば、日ユ同祖論であれ、国家神道であれ、天皇崇拝、先祖崇拝であれ、マルクス主義であれ、あらゆるグノーシス主義の流れを汲む思想は、みな今日では「日本スゲー系」などと呼ばれている自画自賛の潮流と何ら変わらないものであって、

セルフの美化 セルフの神化

を究極目的としている。キリストの十字架によらず、自己の死を経ることなく、生まれながらの自己がそのまま神となるという究極目的を彼らは追い求めているのである。

最終的には、天皇を頂点とする軍国主義日本の再来、戦前回帰の流れの中に合流し、一致団結して向かって行くことであろう。このようなものは、キリストの名とは本来的に全く関係がない。

もちろん、「天皇を頂点とする」と言っても、彼らにとっては、天皇も、キリストと同じように、自己のルーツを美化するための道具でしかないため、しょせんは飾り物である。

彼らにとっては、何であれ、すべてが自己を高めるためのツールなのである。そこで、そのような勢力がこの国を占拠するようなことがあれば、この国は「俺様スゲー!」と自己を賛美する人々で溢れかえることになるだろう(考えたくもないが)。

今日、安倍政権に反対しているように見えるほとんどの潮流は、このように、実質的には安倍政権と同一であり、間もなくその本質を表すであろうことに注意が必要である。

たとえば、そこには、護憲を唱えながらも、実質的に、天皇崇拝に陥っている政党も含まれる。

さらに、キリスト教徒を名乗りながらも、天皇に宗教的意義を見いだし、天皇制を強調している者も含まれる。

さらに、キリスト教を装いながら、ニッポンキリスト教を盛んに攻撃している「俺様スゲー系似非キリスト教」もそこに含まれる。

これらはすべて、表向きには日ユ同祖論やマルクス主義とは手を結んでおらずとも、最終的には、一つの勢力として結集して行くであろう思想たちである。

これらは「俺様スゲー!」という自己愛(セルフへの執着)を基軸として、国民が再び一致団結して立ち上がるという究極目的へと続いて行く道である。一体、何に対して集団的に団結して立ち上がるのか? 死の恐怖に対し、侵略の恐怖に対し、自己を喪失する恐怖に対してである。

要するに、自分の内側にある恐怖をごまかすために、「日本はスゴイ!天皇はスゴイ!だから俺達もスゴイ!」などと吹聴して集団的な自画自賛に明け暮れ、自分の罪を見なくて良いように、絶えず自分の外に仮想敵を作り出しては、それに自分の罪を転嫁して集団的に攻撃を繰り返し、さらに、その攻撃を「世界の救済のため」などと言い換えながら、破滅へ向かって進んで行くのである。

こうした思想に欠かせない特徴は、「絶え間のない自画自賛」と「己の欠点から目を背け、自分が他者より優れていることを誇示するために、絶え間なく仮想的を必要とすること」だと言えよう。

たとえば、「ニッポンキリスト教」などという呼び名を使い、キリスト教への絶え間のない攻撃を行っている勢力も、これに含まれる。我々は、そのような勢力が、本質的にキリスト教とは無縁の勢力であることを心しておく必要がある。(現に彼らはキリスト教を否定し、自分たちは宗教とは一切関係がないと公言している。)

本当はキリスト教を攻撃し、駆逐することを目的としている勢力が、表面的には、自分たちがあたかもキリスト教徒の一部であるかのように装いながら、聖書を用いて、偽物の福音を語るということは昔から行われて来た。

エホバの証人やモルモン教徒がキリスト教を名乗っているのと原則は同じである。

もちろん、筆者は日本のキリスト教の宗教組織としての教会のあり方が正しいと言うわけではない。筆者のような人間は、牧師制度も必要ないものとみなしている。だが、そうした地上的な組織の有様に関する議論と、聖書の根底に流れる思想そのものを否定・攻撃することはわけが違う。

聖書66巻を神の霊感を受けて書かれた書物だと認めている人々の間には、いかに教団教派が違えど、宗教組織を超えた連帯が存在する。

しかし、ニッポンキリスト教を絶え間なく批判している勢力は、自分たちがキリスト教よりも優れた勢力であることを誇示したいだけである。彼らは聖書を利用はするが、決してその教えに従わない。十字架を語っても、自己の死を認めない。信仰のゆえの苦難を厭い、自己を高く掲げて栄光化し、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りに邁進し、己を低くして日々の十字架を負うこともない。このようなものがキリスト教と一切、関わりのない自画自賛の思想であることは明白である。ニューエイジの思想も取り込み、アセンションを経て、すでに自己を神とする領域へ達している。

どんなに自己を栄光化し、高く掲げても、彼らがのべつまくなしにあらゆる牧師をひっきりなしに批判し続けねばならないことが、彼らの内心の空虚さを何より物語っている。他者を否定したところで、寸分たりとも自分が進歩し、神聖な存在に近付けるわけではないのに、そのようにして絶えず、自分の処刑場に誰かを引っ張り出して来ては、自分には関係もなく、自分に害を加えたこともない赤の他人をひっきりなしに貶め、辱め、非難し、嘲笑し、否定せずにいられないことが、彼らの内心にある絶えざる恐怖、払拭できない空虚さを何よりもよく証明している。

そのようにして彼らが勝ち誇り、凌駕したい相手とは、最終的には、まさにキリストご自身なのである。キリスト教界に対して勝ち誇ることは、神に対してマウンティングをしていることとほとんど同じである。今日のキリスト教界はあまりにも弱体化しすぎており、牧師という人々が神聖を表すのではないとはいえ、そこにはやはり教会の名残がある。神の教会を貶める行為は、神ご自身を敵に回すのとほとんど同じである。

創価学会や統一教会がカルトと非難されて仕方がないものであるにせよ、あらゆる宗教には、神への畏敬の念が投影されていることは確かであるから、すべての宗教をのべつまくなしにカルト扱いしたり、十把一からげに「新興宗教攻撃」に走る人々は、要するに、あらゆる宗教を攻撃することによって、神ご自身を否定し去ろうとしているのだと言える。

そして、神を否定する代わりに、自分を神として高く掲げるのである。

ニッポンキリスト教を攻撃している勢力の所業は、まさにキリストの名を存分に利用しながら、キリストご自身を否定して、自己をそれに置き換え、自己を神とすることである。

そうして神と自己を置き換えることが、異端思想の特徴である。だから、このように、絶え間なくキリスト教を悪罵しては、「自分だけは本物だ!」と豪語している勢力こそ、まさに偽物のキリスト教なのである。(繰り返すが、彼らは自分たちをキリスト教徒だとみなしていない。すべての宗教とは無縁であり、キリスト教とも別格の存在だと主張している。だが、それならば、いっそ誤解のないように、聖書を使うこともやめれば良かろう。)

筆者はあくまで聖書の御言葉に固く立って歩みを進めるつもりである。それを時代遅れや偏ったものの見方のように吹聴する人々がどれほど現れようとも、事実は逆である。人の目を恐れるのか、それとも神の目を畏れるのか。私たちは常に選択を迫られている。世相になびいて神の御言葉を捨てる者は愚かである。

「「人は皆、草のようで、
その華やかさはすべて、草の花のようだ。

草は枯れ、
花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(Ⅰペトロ1:24-25)

さて、この話題はここまでにしておこう。脱線が長くなってしまったので、手短に本題に入りたい。

「かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えない。」これは筆者がよく思い出す、好きな箇所の一つである。預言者エリヤがケリテ川のほとりで、主のはからいにより、カラスを通してパンと肉を運んでもらって過ごしたというあの有名な箇所の後で、彼は今度は貧しいやもめ女のもとへ身を寄せる。

やもめにはエリヤを養う余裕など全くない。むしろ、彼女は最後の食糧や水を使い切って死のうとしているところであった。そこへ預言者がやって来て、その最後の食べ物を要求する。やもめはこれを断らず、エリヤの命に従った。それによって、預言者も彼女も双方生き永らえるのである。

「しかし国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。
「その時、主の言葉が彼に臨んで言った、「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。

そこで彼は立ってザレパテへ行ったが、町の門に着いたとき、ひとりのやもめ女が、その所でたきぎを拾っていた。彼はその女に声をかけて言った、「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」。

彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持ってきてください」。 彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。

エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。 『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。

彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。 」(列王記上17:7-16)

筆者はあらゆるところでこの話を思い出す。今日、目に見える形で預言者エリヤが私たちのもとを訪れることはない。私たちと共におられるのは、目に見えないキリストである。

そして、キリストは、私たちに地上のものを預けておられる。それを使って神を証しなさいと言われる。しかし、時折、主は私たちが持っているごくわずかばかりのものを指して、「それを私のために使いなさい」と言われることがある。

その命令は、声なき声のようであるから、無視することも簡単にできるだろう。だが、私たちはあらゆる限界、欠乏、死の恐怖を打ち破って、自らの限界ある命を神に差し出し、神に使用してもらおうとする。その時、私の限界、欠乏、死の恐怖が去り、洪水のようにとは言わずとも、日照りで焼け付く地にオアシスが生まれるように、私たちに信仰によって与えられた永遠の命を通して生ける水の川が流れ、荒野に食卓が整えられる。

エリヤとやもめが共有したパンと水とは、まさにキリストの体を象徴していることだろう。

やもめの家に絶えなかった粉、油は、地上でキリストの体を養い、キリストの証しを維持するために与えられたのである。

まことにダビデが歌った通り、敵前でも、主は僕のために食卓をもうけて下さり、杯に注ぎ入れ、頭に油を注いで下さる。それは、人の目には瞠目するような豪勢な食卓には見えないかも知れないが、それにあずかる者には、確かに主が共におられることが分かる、他のどんなものにもかえがたい食卓である。

現代は御言葉の飢饉の時代であり、命の水の川は国中で絶え果てたように見える。嘘偽りがはびこり、どこにも真実など見いだせず、誠実な人々は、このやもめ女のように、恐ろしい危機的時代の様相に倦み疲れ、生きる道など見いだせまいと考えているかも知れない。

だが、その中で、主に従って生きる望みを捨てさえしなければ、私たちは常に一抹のごくわずかな真実を土台に生きて行くことができる。国中が暗黒に包まれたような恐るべき時代に、人の目から見れば、存在しているかどうかも分からないほど貧しく取るに足りないエリヤとやもめの限界の中に、主は確かに共におられ、生きて力強く働かれたのである。

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十字架の死と復活の原則ー地に安住せず、さらにすぐれた故郷、天の故郷だけを目指して歩むー

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

"
人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し 
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします

即ち人にある宗教性には ある時間と場所を定め そこに「立派な礼拝」を
構築したいとする強い願望があるのです。

更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で 
この地上に自分達を根付かせ自分達の名を高く掲げたいと言う
人本来の宗教本能が働いているのです。


その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると。

<中略>

これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。
そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう

そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する

地に住む」(原文では「地に座る」)と言う
人の奥底に居座る根深い願望なのです。
それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。




教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて

出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。
教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。私達は単に 寄る辺無き 
何も持たない「やもめ」でなければならないのです。

「わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22) "

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」(マタイ24:37-39)

「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。
 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:17-18)


わたしの民がわたしに聞き従い、

 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。

 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたがたを飽かせるだろう。」(詩編81:14-17)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

一つ前の記事で書いたことを訂正する必要がある。筆者はこの土地から筆者を追い払おうとする暗闇の勢力による激しい妨害と戦って、自分と住まいを守り通した、という趣旨のことを書いたが、そうした事柄は、勝利として宣言するには甚だ不十分であったことが判明したのである。

前にも書いた通り、クリスチャンにはこの世にあって様々な圧迫が押し寄せて来る時があり、そのほとんどは暗闇の勢力から来るものであるが、信者はこうした悪魔の妨害から、ただそれに立ち向かって、持っているものを信仰によって守り通しただけでは、獲得物はゼロでしかなく、勝利とは言えない。天の褒賞を手にして、ゼロからプラスに生活を拡張して、初めて勝利があったと言える。 

以前にも、「栄光から栄光へ、主の似姿に変えられて行く」とは、どのようなことであるか、という記事でも触れたが、キリスト者に苦難が与えられる時には、必ず、それに相応する天の慰めが待ち構えている。これは変わらない霊的法則性である。試練を信仰によって耐え抜き、戦い通せば、天の褒美が待っている。

だが、その褒賞を掴むには、特に揺るぎない信仰が要る。激しい戦いの最中に疲労困憊してしまったり、失意落胆して、希望を失ったりせず、平静でなければならず、必ず、神はご自分により頼む者を失望に終わらせず、天に褒美を備えて下さるという確信が必要であるが、それに加えて、激しい戦いが決着する時、決してその戦いの激しさだけに気を取られたり、決着したことだけで満足したりもせず、さらなる前進や飛躍に向かって、すぐに大胆に一歩を踏み出す信仰が要るのだ。

なぜなら、キリスト者に与えられる苦難とセットになって来る天の褒賞とは、多くの場合、現実生活において、信者が新たな前進や飛躍を遂げることのできる何かしらの稀有なチャンスとなって現れることが少なくないからだ。いわば、真っ暗闇のトンネルを通過するような激しい苦難の直後に、思っても見ない輝かしいチャンスが訪れるのである。

このようにして準備された天の褒賞に確固として到達しないことには、本当の意味で、信者の霊的な戦いは終わったとは言えず、ただ現状を守り通しただけでは、何も成果がないのと同然なのである。

それどころか、信者が天の褒賞を掴まないで、ただ現状を守り通しただけ満足してしまうと、神の守りから逸れてしまう危険性さえある。

特に、キリスト者の地上の住まいについては、特別な誘惑が伴うので、要注意である。クリスチャンが地上の住まいに固執することは、彼が地に安住してしまう危険性を常に伴うからである。もっとも、住まいに限らず、信者にはどんな事柄についても、自己満足したり、定住、定着、安住しようとする願望が、前進を妨げる大きな障害物となることに注意が必要である。

だが、筆者はここで、クリスチャンが地上の住まいを手放してホームレスになるべきだとか、すべての財産を文字通り捨てて無産階級になるべきだなどということを言っているのではない。そうではなく、神は常に信者が地上生活を送るために必要なすべてを供給して下さるのであり、信者はそれを享受して良く、当然、その中には住まいも含まれているのだが、信者はどんなものが信仰によって与えられても、決して地上的な利益に満足してその状態に定着・安住してはいけないし、それらに執着すべきでもなく、地上で与えられている状態が、過渡的で、不完全なものでしかないことを常に自覚して、地上においてさえ、常に今以上にまさったものを神が備えて下さっていることを信じて前進を続け、最終的には、天の都に到達することを目指さなければならない、と言いたいのである。(地上において決して現状に満足することなく、むしろ、現状に満足することを否んでさらに優れたものを求めて、たゆみなく前進し続けることは、天の都への行路と重なる。)

この点で、現在、オリーブ園にオースチン-スパークスの興味深い記事が連載されているが(末尾にも少し引用する)、そこにも、キリスト者が決して地的なものに巻き込まれることなく、天的な住まいに向かって歩み続けることの重要性が示されている。

キリスト者の前進は、こうして常に天の住まいを理想として、これを目指しながら、それに満たない地上の住まいを不完全なものとして拒み、前進し続ける時にのみ起きる。もし信者が地的なものを見てそれに満足し、そこに安住を企て始めると、たちまち霊的な前進はやみ、天の褒賞もなくなり、神はその事業から手を引かれるのである。
 
このような「地に定住する誘惑」は、信者の住んでいる地上の家が、快適からほど遠く、狭苦しく、貧相で、自慢もできない、あばら家に過ぎない時には、あまり大きなものとはならない。信者は自分の生活が不便であるうちは、早くそこを出て、もっと良い住処に行きたいと願い続け、その願いに天の住まいを重ねるので、地に定住しようなどという気にはならない。

しかし、信者の住んでいる家がそこそこ快適な住処になり、自分でも満足し、人に自慢もできるようなものになって来る時、信者がさらにまさったものを願い続けることをやめて、そこに安住してしまう危険性がただちに生じる。

「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

と聖書にあるように、クリスチャンが信仰によって地上生活で得られるものの中には、霊的な糧だけでなく、物質的な糧も含まれる。これまで書いて来たように、信者は、住居であれ、生活の糧であれ、仕事であれ、何であれ、望むものを、ただ主にあって、御言葉に基づき、信仰により地上にリアリティとして引き出し、獲得することができるのである。

だが、今、すでに目に見えているものに満足する心には、信仰は必要ない。もし今、信者が手にしているものに満足し、見ている風景に満足し、さらにまさったものを神に求めることをやめてしまえば、その時、信者はもはや目に見えるものによって歩んでいるのであって、見えないもの(信仰)によって歩んでいるのではないのである。信者の心は、地上の目に見えている物質や、よく見知った光景に束縛され、それに執着し、神はその状態をどうご覧になるのか、神はそのような中途半端なスケールでは決して満足されることはなく、それをゴールだとも思っておられず、信者にもっともっと遠くまで前進するよう望んでおられ、今見ている風景よりもはるかにまさった都を、実際に信者のために常に用意されているのだという事実を忘れ、否定してしまうのである。

筆者はこれまで幾度もクリスチャンの様々な家庭集会に出席したことがあり、そこで実に立派で麗しい様々な家々を見て来た。そこにある平和で、立派そうな快適な暮らしを見て来た。当時、筆者はそれをまるで自分には手の届かないものを見るように眺め、また、そうした信者たちの中には、小規模な家庭集会を組織することで、初代教会のような、巨大組織を持たない信者の群れを形成しようとし、それが神の御心にかなっているのだと考える信者もいた。

だが、当時の経験に立って、今、筆者が言えることは、筆者は今決して自分で家庭集会を開こうとは思わないし、それが正しいことであるとも思わない、ということだけである。なぜなら、家庭集会というものには、どうしても人間の見栄や競争願望が強く働き、結局、それは自分の暮らしの経済的な規模や、家族の人数などを自慢する場となってしまい、信者たちがいかに地に定着して自分の暮らしに満足しているかをアピールする場になり果ててしまうだけでなく、そこに別な信者を集めることにより、エクレシアを地上に固定化し、別な信者まで「地に住む」者としてしまうという反聖書的・悪魔的な意味合いが強く出てしまうからである。
 
筆者がこの地に来る前にキリスト者たちから聞いた言葉、また、筆者自身が聖書を通して得られる確信は、エクレシアは物理的・地理的制約とは一切関係ないということである。もっと言えば、エクレシアとは、神を信じ、神の子供として受け入れられた信者自身のことであり、地上に固定化された教会の建物とは一切関係なく、また、信者の住んでいる家とも関係ない。
 
にも関わらず、信者が、信仰を口実にして、自分の地上の家に固執し、これを信仰の賜物であるかのように他の信者たちに向かって自慢し、そこに満足して定着し、これを神の神聖な宮のように誇示し始めると、それはたちまち腐敗し、神の御心にかなわないものとなってしまう危険がある。このことは、信者たちが誇る地上の建物としての教会にも全く同じように当てはまる。大規模な礼拝堂を建設することで、信者が神に奉仕できると考えることは全くの誤りだが、信者の地上の家についても同じことが言える。自分の家の経済的規模を誇ることが、神の栄光には全くつながらないのである。
 
もちろん、神は信者の地上生活に必要なものを全て与えられる。そこには家も含まれる。信者は自分が望むことを神に申し上げ、信仰によってそれを実体化すれば良い。より良い家を求めることが悪なわけではない。だが、それは決して、信者が与えられたものに安住し、これを神が目指していた都そのものであるかのように誇るためではない。信者はたとえ地上的な利益が、当初は信仰によって与えられたのだとしても、与えられたものに決して満足することなく、そこに安住もせず、常にさらに先へ進んで行かなければならない。

こうして信仰により、信者が天の報酬を掴みながら、「栄光から栄光へと」、さらに優れた都を目指し、それに近づきながら歩み続けることは、たやすいことではない。その前進の最も大きな妨げとなるのが、信者の自己満足、自己安堵である。

信者は、一つの試練を立派に勇敢に耐え抜いても、一つの戦いに勝利しただけで、たちまちそれがゴールだと思ってしまい、それ以上、進んで行くことを考えなくなることもある。戦いの激しさに疲れ、前進したくないと思うこともある。そうなると、神は信者をさらに前進させるために、信者の自己満足を打ち砕くための新たな試練を課し、信者が握りしめているものを容赦なく剥ぎ取ることまで、時にはせざるを得なくなる。

できるならば、そのような深刻な事態にまで至り着く前に、信者は気力を奮い起こして立ち上がり、真に神の御心を満足させる完全・完成へと至り着かないことには、自分自身も決して満足などしないという気概を取り戻し、さらに前進すべく行軍を進めるべきであろう。
 
さて、個人的なことを言えば、今回、筆者が疑念を抱いたのは、横浜という街に住んでいることへの自己満足であった。筆者は横浜に何のこだわりがあるわけでもなく、この街よりも都会に住んでいたこともあれば、もっと田舎暮らしの良さも知っているが、それでも、以前よりも良い住環境を手にした時、この地にとどまって安住してしまう危険が自分に忍び寄っていることに、遅ればせながらようやく気づいたのである。

そして、信者は何か一つの激しい戦いを経て、勝利を得ても、決してそれですべてが終わったなどと思うことなく、(ただちに)生活をさらに拡張すべく、新たな戦いへ出て行くべきであり、霊的前進がないのに、生活の拡張もあり得ないという事実に気づかされたのであった。

筆者はこの地にやって来た時、神が力強く働いて移住を後押してして下さったという確信があったので、それに気を取られるあまり、この地に深く定着することは、全く神の御心にかなうことでなく、そろそろ別な道が用意されているかも知れない、という可能性をすぐには思わなかったのである。

それどころか、住環境がより良くなると、かえって出る必要など全くないかのように思い、この地を出るべき時がひたひたと近づいていることに、随分、鈍感であった。

ところが、よく考えてみれば、このところ、特にこの数年で、筆者は、横浜の街のみならず、首都圏全域が、まるでソドムとゴモラのように腐敗・変質していることを思わざるを得ない。役人は不誠実、横暴・凶悪になり、住人の気質は陰険になり、人々は互いに騙し合い、搾取し合い、殺し合い、首都圏は、表向きのブランドイメージとは似ても似つかない、善良な人間にとっては、空気を吸うだけでも耐えられないような腐敗して、長くはとどまれない街に変わり果てている。
 
横浜という土地にも、深刻な疑念を抱かざるを得ない事件が、ここ最近、連続している。まず、一昨年は「津久井やまゆり園」事件があった。(2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」が、施設に恨みを持つ元施設職員 の若い男に襲撃され、19人が死亡、27人が重軽傷を負った事件)。そして、昨年は、座間の事件である。(神奈川県座間市の当時27歳の男が住むアパート室内で、若い女性8人 、男性1人の、計9人とみられる複数人の遺体が見つかり、死体遺棄事件として扱われた)。

こうした異常な事件では、どちらの場合にも、この社会で生きることに困難を覚えた社会的弱者たちが、その弱さを利用され、多数、犠牲とされた。後者の事件では、過酷な競争社会を生き抜くことに疲れを感じていた自殺志願者の若者たちの苦しみを足がかりにして、同じ若者世代に属する犯人が、同情的な態度を装いながら、彼らを騙し、歯牙にかけて殺したのである。

さらに、今年になると、新年早々、有名な着付け業者が、横浜の桜木町にあるみなとみらい店で、新成人を騙してサービスを提供せずに夜逃げし、新成人の成人式が大規模に台無しにされる事件が起きた。同様のことが八王子店でも起きたというが、これまで、首都圏でこんな事件が大規模に起きたことはなく、新成人という世代だけがターゲットにされることもなかった。しかも、業者の名前が「はれのひ」というから、皮肉も甚だしく、経営者が特別な反社会的な怨念に基づいて計画的に弱い立場にある者に無差別的な復讐を企てたかのような精神を感じざるを得ない。

だが、こうした事件だけでなく、筆者は日常生活においても、昔であれば、あり得ないような非常識なトラブルをよく見かけるようになった。さらに、西を向いても東を向いても、ブラック企業が蔓延し、それを取り締まる役所も機能停止し、弱い世代が根こそぎ犠牲にされ、食い物にされている。

さらに、このようにして前途ある人々が貧困に陥れられ、結婚もせず、家も買えず、車もなく、それゆえ少子化がますます加速している中で、同性愛者の人権などが公然と叫ばれるようになり、かえって、異性愛者が同性愛者に懺悔を迫られたり、肩身が狭くなる風潮が広がっている。同性愛者の人権を口実に、異性愛者が隅に追いやられたり、弾圧される世の中になりつつあることが感じられるのである。
 
こうした現象には、かつて「自分たちはキリスト教会で傷つけられた被害者だ」と主張するいわゆる「カルト被害者」を名乗る人々が、キリスト教界に登場して来た時、筆者のようなクリスチャンが、彼らの聖書に基づかない、およそクリスチャンらしくない、信仰の欠如した生き方を批判しただけでも、「被害者」を名乗る連中から袋叩きにされる危険に見舞われたのとそっくり同じ構図が見られる。

本来、キリスト教会というところは、聖書の御言葉への信仰を持つ信者によってのみ占められるべきであるのに、そこに、異常な牧師やカウンセラーたちが、「教会のカルト化」を憂慮すると言って、教会でつまずき、傷つけられたとする「カルト被害者」を、「加害者」たる教会が「救済」しなければならない責任があると叫び始め、公然と「被害者」たちをあたかも信者であるかのように教会に招き入れたために、教会が、もはや信者たちの場所ではなくなり、むしろ、教会や信者によって傷つけられたとする、信仰もあるかどうか分からず、さらには教会自体に怨念を持つ人々のたまり場へと変質させられて行ったのである。(その中にはキリスト教と縁がないばかりか、長年、カルトと批判される新興宗教の中にいて、ほとんど無理やり脱会させられただけの他宗教の信者なども数多く含まれていた。)
 
こうして「カルト被害者救済活動」が教会を舞台に公然と繰り広げられた結果、本来、最も教会のメンバーたるにふさわしいはずの正常な信仰を持つクリスチャンが、かえって「加害者」や「悪魔」のレッテルを貼られて、教会から外に追いやられる一方で、信仰の欠片もない「被害者」たちが堂々とまるで「信者」であるがごとくに教会に居残るという転倒した現象さえ、起きたのである。(このようなことは、いわば、教会の本当の信者たちを駆逐して、信仰を持たない人々に総入れ替えするために悪魔的勢力によって行なわれた、教会全体の乗っ取りであったと言えるだろう。)
 
ちょうど同様な現象が、LGBTの人権問題を皮切りに、起きつつあると言えよう。

「自分たちはこれまで差別され、苦しめられ、抑圧されてきた被害者・社会的弱者だ」と名乗る人々が現われ、彼らの存在を利用して、本来、何の問題もなかった正常なはずの人々に「加害者」のレッテルを貼り、罪悪感を抱かせ、追い詰め、これらの人々を駆逐して行くことをきっかけに、正常なものを異常なものによって駆逐し、取り替えようとする動きが出ているのである。

同性愛が、聖書において、神が定められた人間の自然なあり方でないことは繰り返すまでもない。だが、何者かが、同性愛者の「差別され、踏みにじられた人権の救済」を声高に主張することで、同性愛者対異性愛者という対立項をまことしやかに作り出し、同性愛者を異性愛者にぶつけ、両者を戦わせ、異性愛者に「加害者」のレッテルを貼って追い詰めることで、異性愛者を隅に追いやり、ますます異性愛者が生きづらくなり、少子化が加速化するだけの世の中を作っているのである。

その結果として、ついに最後は、結婚のイメージや、夫婦のイメージ、家族のイメージまでもが塗り替えられることであろう。同性同士の結婚が当たり前になり、チャペルは連日、同性愛者の結婚式を扱うようになる一方で、異性愛者は、彼らを差別し排除して来た「罪ある抑圧階級」として、うなだれて、隅に追いやられることになりかねない。

暗闇の勢力の真の目的は、社会的弱者の救済でもなければ、同性愛者の人権の「回復」(?)でもない。むしろ、同性愛者を口実にして、正常で自然な結婚生活、神が造られた自然な男女のあり方そのものを破壊し、駆逐し、根絶して行くことにこそあるのだと言える。

聖書に記されたソドムとゴモラの街は、不法や姦淫が満ち溢れていただけでなく、男色の街だったことに注意が必要である。それなのに、今やクリスチャンや牧師を名乗っている人々でさえ、同性愛者の人権の擁護に回っている始末である。

このようなわけで、筆者は近年、首都圏全体が、もはやソドムとゴモラ同様になりつつあるという感覚を抱かざるを得ない。

さらに、首都圏では、官民を問わず、あまりにも虐げと搾取が横行している。非正規雇用化が進み、どの職場も、まるで信者を食い尽くして存続するカルト団体のように、従業員や職員を骨までしゃぶりつくして利益を上げることに邁進し、長時間残業や、過労死や、不当な解雇や、賃金未払いや、職場でのイジメが横行して、働いても、働いても、豊かになれる見込みのない社会層が国民の圧倒的多数を占めるようになり、彼らは、未来の展望のまるでない、仕事と呼ぶよりも、もはや懲罰にも等しい働き方の中で、じわじわと殺されつつある。このような、カルト団体にも等しくなった社会がまるで「常識」のごとく唱える未来のない異常な生き方に自ら身を委ねるのは、自殺行為にも等しい、と言わざるを得ない。

こうして、貧しい人々を容赦なく踏みしだき、虐げながら、また、被災地の人々の苦しみを見殺しにしながら、一部の巨大企業だけが偽りの経済繁栄を享受して、政府はそれだけを根拠に我が国の経済は復興したと唱え、戦前回帰のイデオロギーに基づき、ありもしない「神国」の威光を世界に知らしめすべく、呪われた祭典としての東京オリンピックが進められようとしている。

筆者にはこんな異常な祭典が正常に開催されるとは到底、信じられないが、この祭典とそれが招きよせる呪いや破滅に巻き込まれないよう、そこから遠ざかる必要を感じないわけにはいかない。

いずれにせよ、カルト団体の中にとどまっていながら、幸福に生きることができないのが当然であるように、このように歪んで呪われたイデオロギーに基づく不毛な土地には、さっさと背を向け、その支配下にとどまることを避けるべきではないだろうか?との疑念が高まるのである。

カルト団体を是正しようとしても無駄なように、政治改革を唱えて、この異常なものと取っ組み合い、それを是正することが信者の仕事ではないであろう。彼らは自らの信念に従い、行き着くところまで行き着いて滅びるしかないことであろう。
 
そういうわけで、長年、安住という状況からほど遠かったがゆえに、特定の地に定住する危険にはさほど見舞われず、それに鈍感であった筆者も、今の首都圏では、何をどう模索しても、明るい未来の展望を切り開くことは無理なのだと思わざるを得ない。それどころか、ここはまさにソドムとゴモラの街そのものであり、どんなにこの腐敗した街で平和と安寧を享受したとしても、それは偽りの繁栄にしかならず、到底、神の御心を満足させるものとはならないのではないかと考えざるを得ない。

信者は、常に心の中では何も持たない貧しいやもめのごとく、身一つで、さらにまさった天の都を目指して歩き続けるべきだが、とりわけこの街については、神の使いは今、この街の大々的な腐敗に心を痛めている人々に一人一人、声をかけて、エクソダスの時を知らせておられるのではないだろうか、という思いさえこみ上げてならない。だが、もしその直観が思い過ごしでなく正しいものであるならば、遠からず、神はそのように道を整えて下さるであろう。
  
以下、オースチンースパークスの論説を引用して終える。

 「土台のある都」 第一章 導入的概論 (9)

四.寄留者であり旅人である

 それと密接に関係し、対応していることですが、その土地のアブラハムは寄留者・旅人として幕屋の中に住み、その地に何の分け前も持たず、その土地では旅人だった、と告げられています。これは天的性質の特徴ではないでしょうか?ここでは寄留者であり旅人です。しかし、それでは私たちはどこに属しているのでしょう?ペテロは彼の手紙を書くときこう述べています、「愛する者たちよ、私は旅人であり寄留者であるあなたたちにお願いします……」(一ペテ二・一一)天の国に属しており、天の市民権を持っているのです。

五.地的庇護や報いを拒むこと

 この世からの庇護や報いは、アブラハムには何もありませんでした。彼は正しい諸原則のために尽力したかもしれませんし、そうすることによってこの世の人々に益をもたらしたかもしれませんが(この地上の主の民の霊的奉仕がこの世に対して、この不敬虔な世に対してすら、何らかの益を及ぼしたことに、異を唱える人がいるでしょうか?その中に主の民がいなければこの世がどうなっていたかは、主だけが御存知です)、アブラハムは彼の活動から益を受けたこの世の人々や、ソドムとゴモラの町の人々に対して、彼らが何らかの報いを与えて彼を庇護しようとした時、「結構です」と言いました。アブラハムは依然として外に立っていたのです。

 この地上の神の民の奉仕を利用すること、彼らに感謝、称号、地位を送ること、彼らをこの地上の人々の間で重要なものにすることが、これまで悪魔が仕掛けてきた最も深刻な罠の一つでした。これらの昇進が行われ、これらの贈物が与えられ、この感謝が送られ、これらの地位が与えられる時、往々にして、深遠な霊的重要性が失われ、その生活の実際の霊的価値は終わりを告げることがわかります。多くの真に価値ある神の僕の悲劇は――彼らは霊的な方法で神によって力強く用いられましたが、その霊的価値を失い、その特徴を失ったまま人生を終えました――何らかの方法で彼らが感謝・受容されるようになり、この世からの感謝と恩恵と報いを受け取ったせいでした。天的性質と分離を維持することが、霊的価値を維持するのに必要不可欠です。

 

神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。


あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができるようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどに着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。

信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられるだから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:25-34)

さて、 今回は、憲法に定められた居住移転職業選択の自由について、また、聖書において信仰者に与えられている自由について、この二つの話題を関連付けながら書きたい。

もっとはっきり言えば、聖書の御言葉を信仰によってこの地上に具現化することが可能であるならば、なおさらのこと、我々信仰者にとっては、憲法に保障された自由を具現化することくらいは、朝飯前だ、という話題について書いておきたいのだ。

ところで、冒頭から物騒な話を書くようだが、筆者は、籠池泰典氏夫妻が逮捕されたのと同じ今年の7月31日に、ブラック企業から突如としてクビを言い渡されそうになり、その是非についてしばらく争うという事件があった。

ちょうど引っ越して間もない頃だったので、筆者には、悪魔がこの出来事を通して企んでいる事柄が手に取るように理解できた(悪の軍勢は前々から筆者をこの土地から追い払いたく思っており、筆者の生活が少しでも豊かになったり、幸福になったりすると許せない思いで、妨害せずにいられないのである。)

もうはるかに昔のことではあるが、過去に筆者は一度だけ、自分で生計を立てることに自信がなくなり、お気に入りの家財をただ同然で売り払い、気に入っていた家をも手放して、よその土地に移ったことがあった。その頃の筆者は、まだ悪魔の策略に一人で敢然と立ち向かうなどということはおよそ考えたこともなく、聖書の御言葉の力なども全く知らない、無自覚で未熟な若いクリスチャンの一人に過ぎなかった。当時の筆者は、信仰者としては精神的に未熟で、いつも自分以外の誰かに心の支えを求めていたし、たくさんの思いがけないネガティブな出来事が、まるで洪水のように不意に積み重なって押し寄せて来る時に、それにどうやって一人で立ち向かうべきかなどと考える知恵もなく、その勇気もなく、立ち向かう前に、さっさと諦めて退却する道を選んでしまっているような臆病な信者であった。そして、それが暗闇の軍勢に対するあまりにも情けない敗北であることにさえ気づいていなかった。

その当時に起こった様々な出来事は、筆者の心にはかりしれない衝撃を与え、トラウマにも近い悲しみを呼んだ。その家を去るよりも前に、まず親族が住み慣れた家を離れて郷里に帰ってしまっていたので、まるで家が二つなくなったかのような衝撃や喪失感をも受けたのであった。

だが、その時の苦い経験を経て、また、その後、聖書の神との力強い本当の出会いを経て、今や、筆者はそういった人間を苦しめ、追い詰め、絶望に至らせようとする数々の出来事が、決して偶然ではないこと、その実に多くが、悪魔に由来する攻撃であり、信者が信仰によって立ち向かわなければならない苦難なのだということをはっきりと理解するようになったのである。

筆者はそうした喪失の後で、神の御言葉に基づき、再びすべての必要を不思議な形で満たされて立ち上がり、移住を遂げた上、今度こそ自分の力によらず、信仰によって、以前にもまさる幸福な生活を打ち立て、徐々にそれを拡張して来たのであった。それと同時に、そのようにして信仰によって上から与えられた生活を、信仰によって今もこれからも自分が守り抜かねばならない責任を負っていることをも知らされたのである。
 
そのような過程を経た現在、筆者は、たとえ悪魔がブラック企業のような団体を通して馬鹿げた宣告を言い渡して来たとしても、そんな内容を真に受けて、神がせっかく与えて下さった自由や解放をみすみすと手放していたのでは、この先、到底、生きていけないことを、とうに理解していた。むろん、筆者も人間なので、理不尽な事件に出会えば憤慨もすれば、嘆きもするが、かといって、自分のせいで起きたわけでもないことを、まるで自分の責任ように負って、不当な苦しみを黙って耐えているようであっては、神の名折れであり、信者の風上にも置けないことくらいは承知していた。

そういう時には、クリスチャンは、悪魔の策略に知恵を駆使して立ち向かい、暗闇の軍勢の当てが外れて、彼らが恥をかかされねばならなくなるように、首尾よく戦うべきなのである。

きちんと立ち向かうと、嘘の霧はさっさと晴れるものだ。抜群のタイミングで問題は解決し、筆者の不敗記録はまたしても更新され、それによって、筆者の信仰および聖書の神の正しさがまたしても暁の光のようにはっきり現れた。

筆者はクビにされず、かといって、労働の義務も免除されたので、結局、「空の鳥のように、野の花のように、蒔くことも刈ることもしないで、神が生活を保障して下さる」という、筆者が今まで唱え続けて来た生き方が、またしても現実になったのである。悪魔が振り上げた斧が、かえって悪魔自身に打撃となって跳ね返るのを見せつけられたような恰好である。

このようなことは、今までにも、幾度も実現して来たが、筆者の目から見て、このようなことは決して偶然に起きることではなかった。筆者はいつもいつもアダムの呪われた苦役としての労働には加担しなくて良いと放免されるのである。

これまで再三、ブログで書いて来たことであるが、筆者の目から見て、この地上における労働とは、罪ある人間が自分で自分の罪を贖おうとする達成不可能な努力のことを指す。

つまり、今や地上における労働とは、人が単に生計を支えるための、もしくは他者の必要に応えるための働きのことではなくなり、本質的に、人類が自分で自分の罪を贖うための自己救済の試み、神に逆らうバベルの塔建設の試みになってしまっているのである。

筆者はこれまで、自分の生活を自己の努力によって拡張したことは今まで一度もない。筆者の人生に劇的な展開(飛翔・拡張)がもたらされたのは、いつも筆者が、信仰によって、聖書の御言葉の実現を求めたときのことであった。それに引き換え、筆者が懸命に働いて、自己の労働によって自分を養い、支えようとし始めると、途端に物事は悪い方へ転がっていくのである。

毎日、すし詰めの満員電車に乗って阿鼻叫喚の地獄のような混乱の中を通勤し、上司の覚えめでたい部下となるために、粉骨砕身して夜遅くまでサービス残業したり、休日を返上までして働き、そうして自分の涙ぐましいまでの努力によって、自分をひとかどの人間として世間に認めてもらおうとする人生は、神の目にはまさに呪われていると言って良い、と筆者は考えている。

そのような努力は、決してまっとうな労働とは呼べず、勤労の義務という概念からも外れており、どんなに繰り返しても、人の幸福にも安定にもつながらないどころか、人をますます追い詰めていくだけである。それは、そのような(今日において当たり前のようにみなされている歪んだ)労働の概念が、本質的に、人類の自己救済の願望から来るものだからであると筆者は考えている。

昨今、この世における人類の労働という概念は、ますます人が自分で自分を義としようとする神に対する反逆を意味するものになりつつあって、今回も、その結論がまた裏づけられる結果となったのだと筆者は考えている。
 
このような経験を幾度も味わった結果として、筆者が今考えることは、もしかすると、旧創造(神によって贖われない、滅びゆくもの)を維持する責任は、旧創造自身にあるのかも知れない、ということである。

冒頭に挙げた御言葉からも分かるように、神は、クリスチャンに対し、神の国と神の義をまず第一として生き、衣食住のことで思い煩うな、と命じている。

信者にも、生きている限り、衣食住の問題はつきまとう。にも関わらず、神は聖書を通して、そのような問題は二義的であるから、クリスチャンは衣食住のことで悩まず、まずは神の国と神の義に注意を向けなさいと教える。

だとすれば、筆者が信者として一義的な問題に心を砕くのは良いとして、筆者の二義的問題を解決する責任は誰が負うのであろうか?

実は、その責任はこの世が負うのではないだろうかと筆者は考えている。

むろん、直接的には、クリスチャンを養うことは、神の仕事である。クリスチャンは「日々の糧を与えて下さい」と神に向かって祈ることができるが、しかし、そのような訴えを延々と繰り返さずとも、神は自然に信者に必要なものを送って下さる。そして、その多くが、この世から不思議な形で提供されるのである。

もっとはっきり言えば、この世にはクリスチャンを支えなければならない義務と責任があるのではないだろうかとさえ、筆者は思うのである。(この世はこれを聞いて憤慨するであろう。だが、実際に、神の国と神の義を第一にして生きるなら、信者は、いつもこの世が自らの富をすすんでクリスチャンに明け渡す結果にならざるを得ないことを痛感するのではないだろうか。)
 
さて、話題を戻すと、本日は、居住移転職業選択の自由、というのがテーマなので、聖書と憲法をからめて語りたい。

筆者の世代は、これまで労働市場において全く有利とは言えない数々のハンディキャップを負わされて来た。だが、それにも関わらず、我らが憲法は、「職業選択の自由」を国民に約束している。

この言葉の意味は絶大である。

なぜなら、それは「雇用主が労働者を選ぶ自由」ではなく、労働者たる「国民が自ら職業を選ぶ自由」を保障するからだ。

筆者はこれまで繰り返し、記事の中で、キリスト教の信仰者として、聖書の御言葉の記述をリアリティとして地上に引き出すことが可能であることについて記してきたが、それに比べれば、人間が造ったことばに過ぎない憲法の文言を具現化するくらいのことは、非常にたやすいことなのだ。

というより、憲法が国民の権利として保障している程度の内容ならば、それは最低限度の条件として、ほとんどすべてが聖書の約束の中に含まれているとも言えるかも知れない。

しかし、残念なことに、今日、多くの国民にとって、憲法の文言は単なる絵空事でしかない。

それは労基法が、多くの雇用主ばかりか、労働者にとっても、絵空事であるのと同様である。

多くの労働者は、残業代を受け取る権利が自分にあっても、雇用主から「それはあんたが勝手に行ったサービス残業だから、残業代を支払うつもりはない」と言われれば、あっさりとあきらめてしまう。

それどころか、雇用主から、ある日、「おまえはクビだ!」と言われれば、それがどんなに不当な理由でも、さっさとあきらめてしまう者も少なくない。

だが、不当な結論を黙って受け入れるのは、悪魔の不当な言いがかりをすべて真に受けて、自分が悪かったと全面的に降伏するのと同じである。自分の側に落ち度がないならば、そんなことをしてはならず、不当な主張とは戦って、身の潔白を主張し、権利を取り返さなければならない。権利は行使しなければ、失われてしまうのは仕方がない。

この時、権利を主張するための正当な根拠となるものが、法である。

憲法は法の中でも最高法規である。

この最高法規に基づいて、日本国民は自分の望みを自分の当然の権利として主張し、「要求する」ことができる。

このようにして、法的根拠に基づいて自らの権利を主張することで、論敵の不当な言い分を退けるという論戦は、基本的に、聖書の神を信じるクリスチャンが、聖書の御言葉を自分に対する神の変わらない約束として受け止め、それを根拠に、神に対してその約束の実現を求め、同時に悪魔の不当な言いがかりに対して立ち向かう論戦と、基本的にルールは同じである。

さて、国民はどのようにして「職業選択の自由」を現実にすることができるのだろうか?

それを考えるに当たり、まず、今日、我々がまるで当たり前であるかのように思い込まされている状況が、どんなに理不尽な嘘であるかを理解しなければならない。

憲法は「職業選択の自由」という、素晴らしい権利を国民に保障するに当たり、国民を「学歴」や「職歴」によって分け隔てしているだろうか?

たとえば、途切れ途切れの短い職歴しかない人間や、転職回数の多い人間は、まっとうな就職はできず、ひどい仕事にしか就ける見込みはない、などと言っているだろうか?

転職回数が5回を超えれば、もう正規雇用の道は閉ざされたも同然だ、とか、前職でクビにされたり、前職を自己都合で退職したら、次にはろくな仕事が待っていないぞ、などと脅したり、勤続年数が少ないから、まともな仕事に就けない、などと言っているだろうか? あるいは、正社員になれるのは、ほんの一握りの人たちだけであり、それ以外の人間は、もういい加減にあきらめるべきだ、などと言っているだろうか?

そんな条件は全くつけられていない。

制限となるのはただ一つ、「公共の福祉に反しない限り」という一言だけである。

日本国憲法第22条第1項

何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する


この権利保障には、職業選択の自由だけでなく、居住移転の自由も含まれている。
 
そして、職業選択の自由の場合と同じように、居住移転の自由を保障するに当たっても、憲法は、「立派な職業がなければ、立派な家に住めませんよ」とは言っておらず、「大家さんのご機嫌を損ねたら、退去させられます」とか、「かれこれの年収がない人には、引っ越し自体が土台無理です」とか、「職歴のない人間には、家は借りられません」とか、「住みたいところに住むためには、まずあなたの年収を上げる努力をしなければ」などの条件をつけていないのである。

このように、居住移転、職業選択の自由は、大家や、雇用主の自由を保障するものではなく、あくまで国民一人一人に与えられた選択の自由である。

もう一度、目を凝らして読んでみよう。

そこには、「雇用主が、自らの都合や好みに従って、労働者を選ぶ自由」ではなく、「国民が、自分の都合や好みに従って、職業を選ぶ自由」がある。

だが、もし選択肢が一つもなければ、そんなものは自由とは呼べないだろう。従って、職業選択の自由の中には、選択肢が豊富にあるということが、前提として含まれているはずである。

それならば、求職者が現実にありったけの求人広告を目を皿のように探しても、何一つ希望する条件に合致するものが見当たらなかったり、どんな仕事に応募しても門前払いを食らわされたりするのは、どういうわけなのだろうか?

憲法が間違っているのか?

いや、そうではない。憲法に矛盾する現実がおかしいのである。

さて、ここからが勝負所である。

ここで、国民一人一人が選択するのである。法の支配を現実として受け取るのか、それとも、法の支配にそぐわない、それに反する現実を「現実」として受け取り、約束された自由をみすみすあきらめるのか。

あきらめたくない人は、どんなに法に反する「現実」がまことしやかに、当たり前のように広がり、人々に常識のごとく受け入れられていたとしても、その「現実」こそが異常なのだという点で譲ってはならない。

分かる人には、筆者の言いたいことはすでに理解できたであろうから、あまり長々と論証することは必要ないと思われる。これは憲法にまつわる話といえども、ほとんど信仰の領域にも等しい内容である。

筆者は、最近、「居住移転の自由」を自らの権利として行使し、約束の保障を具現化するということをやってみたのだが、その際、年収だとか、ローンだとか、頭金の額だとか、いわゆる普通に家を移り住む時に必要となるすべての条件をほとんど筆者は度外視して(そうした条件にほとんどとらわれず)、願いを実現に移したのであった。

筆者はそれまで何年間もの間、「移転」の方法を模索して来たのだが、以上に挙げたような、好条件をすべて持っていたわけではなく、それらがすべてそろう展望があるわけでもなく、それにも関わらず、そうした条件がすべてそろわなければ、「移転」は不可能だとは信じず、しかも、妥協することによって自らの願いの水準を引き下げるのでもなく、自らの願いを実現する方法が必ずあるはずだと信じ続け、そして実際にその通りに、道を開いたのである。

だからこそ、その経験に立って言うが、憲法に保障された居住移転の自由を、絵空事でなしに実現できるなら、職業選択の自由を行使することも、できないはずがない。

このように、法の支配を、それと矛盾するように見える現実を打ち破って実現し、現実を見えない法の支配に従わせることは、信仰を持たない人間の地上生活レベルでも実現可能なのである。多くの人は、それを実行に移すよりも前から、現実を見て、法の支配を行使することをあきらめ、自らに約束された保障をあきらめ、手放してしまうが、それは正しくないのである。
 
このように、人間が造った法規に過ぎない地上の憲法でさえ、これだけの自由を人に保障してくれているのだから、まして、絶対的に正しい聖書の神が、被造物である人間のために悪法を定められるはずがなく、信じる者の望みをいたずらに制限したり、無碍に扱われるはずもない。

聖書の御言葉はどれも神から信者への変わらない約束であり、信仰によって実現することが可能なのである。憲法に書かれた文言が、国民にとって単なる絵空事で終わらないように、聖書の御言葉は、信者にとって、目に見える現実を超越して支配する見えないリアリティなのである。
 
そのことは、この先の時代、ますますはっきりと証明されるだろうと筆者は考えている。

今でも、多くの人々は、働いて収入を増やすことによってのみ、自己の自由の範囲を拡大することができると考えているが、実際には、そのような考えは根本的に間違っていると言える。

実際には、人間の自由と労働との間には、何の関連性もないのである。労働を通して収入を増やすことによってのみ、自由の範囲が拡大するという考えは、憲法にも反しており、聖書の御言葉のリアリティにも反する悪質な虚偽であると言える。

ところが、世間では、今になってもまだ、労働して己を支えて生きることこそ、まっとうな生き方であるとみなされている。そういう人々には、ブラック企業で不当解雇されたり、サービス残業を強制されたり、果ては賃金さえ払われず、長時間残業のために過労死するなどのことは、自分には決して起こるはずのない他人事に見えているのであろう。

だが、筆者は、自己の労働を頼りとする生き方は、この先、ますます絶望に落ち込んで行くだけだと考えている。それは、国民全体に勤労の義務を課すことで、社会全体の負債を国民に分かち合わせるという考え方自体が、本質的に、共産主義思想につながるからである。

話が飛躍していると思われるかも知れないが、前にも書いたように、筆者の目から見ると、現在の日本社会は、ソビエト体制に非常によく似た歴史的経過を辿っており、この国は、表向きの体制や法体系とは別に、本質的に社会主義国なのではないかと考えずにいられない。

1928-29年にソビエトで強制集団化がなされた。

この時、農民・労働者にそれまでの税金の水準に照らし合わせて、思いもかけない高額な税金の納付書が届き、家畜にも重税が課され、家畜のと殺も罪とされた。

そこで、自身の税のみならず、家畜の税が払えず、家畜も没収の上、強制収容所送りになるような人々も出た。払いきれない法外な税金を何とかしてくれとソビエト国民が閣僚に泣きついた数多くの嘆願書が残されている。

さらに、農民を対象として政府による穀物徴発などが行なわれるようになり、農家が屋根裏に隠していた穀物までも国家財産として強制的に取り上げられた。

こうして、レーニン死後、それまでソ連が戦後の荒廃から立ち直るために、比較的自由な経済活動が許されていたネップの時代が終わり、ネップの時代にようやく少しばかりの財産を築いた農民や労働者が「富農」として非難され、彼らからの強制的な取り立てが始まったのである。

赤い貴族とも揶揄された政府要職にある一部の特権階級も同然の裕福な人々を除き、圧倒的多数のソビエト国民が極貧の生活を耐え忍ばねばならない時代が始まったのである。

こうして、文字通り、すべての私有財産が廃止されるという共産主義の理念が実行に移されたわけであるが、しかし、廃止された私有財産は国民のものとはならず、その代わりに、すべての財産が国有化された。国民の勤労の成果も、すべて国の財産として没収されたのである。

こうして、すべての財産が、人類の未来社会に共産主義というユートピアを生み出すための母体である国家のものとされたため、ソビエト国民は、自分が飢えて死なないために、コルホーズからジャガイモ一個盗んでも、国家財産の窃盗として死刑に処されるようになった。それだけではなく、そんな恐ろしい生活から逃げるために国外亡命しようとすることさえ、国家に対する裏切りとして死刑に価する罪とされた。こんな恐ろしい国から逃げる自由さえなくなったのである。

こうして、労働者・農民の天国を作ることを目的としていたはずのソビエト政権が、労働者・農民に対する恐ろしい収奪、抑圧を実行に移し始めた。やがてそれは労働者・農民の財産の没収、労働の収奪(搾取)だけには終わらず、やがて無差別的で大規模な思想弾圧の実行に結びつき、その結果として、特に、大粛清と呼ばれる36-38年の時代には、数えきれないソビエト国民が無実にも関わらず逮捕され、投獄されたり、銃殺されたり、強制収容所で強制労働させられたりすることになった。

強制集団化から大粛清の時期までに、約10年近い時が経過しているが、今、日本は、強制集団化の時点に差しかかっているのだと筆者が考えていることは、別な記事でも書いた。

今、サラリーマンや、自営業者や、その他の、これまで普通に働いて、己を支えて生きて来た国民(立憲民主党の枝野氏の言葉によれば、かつては「分厚い中間層」を形成していたような国民)が、国家によって強制的な収奪の対象とされ、貧困に突き落とされ、やがては死の淵にまで追いやられるような時代が近づいていると、筆者は感じている。

ちなみに、立憲民主党は、「分厚い中間層を取り戻す」ことを公約に掲げているが、筆者の予測では、この先の歴史は決してそのようにはならない。筆者の予感が的中していればの話だが、今、我が国で起きていることは、「雇用情勢の破壊」でもなければ、「中間層の没落」でもなく、「下流老人の増加」でもない。

これは目に見えない形での、一般国民の私有財産の段階的な廃止なのである。

なぜ過労死などといった問題が起きるのか、なぜ労働市場においては残業代が支払われない方向へ向かっているのか。マイナンバーとは何なのか。これらの問題は、この国がすでに実質的な社会主義国であり、徐々に「共産主義」社会へ向かっているという理解なくしては解明できない。

それはとどのつまり、今のこの国では、社会そのものを存続させるために、すべての国民に、平等に負担を負わせようとする政策が推し進められていることを意味する。

すべての国民に平等に(社会を維持するための)負担を負ってもらうために、報われない労働にもどんどん従事してもらい、どんどん財産を没収しましょうという目に見えない政策が進行中なのである。

この国に革命は起きておらず、表向き、資本主義国であることに変化はないが、それでも、見えない革命が起きたも同然に、この国の最上層部は、すでにクーデターによって取り替えられ、社会の仕組みは以前とは全く異なっているのだと言える。
 
今の安倍政権は、第一次の投げ出しに終わった安倍政権とは本質的に全く異なり、今現在、この国が向かっている先にあるものは、「富はすべて国のもの(土地や財産の国有化)」、「すべての負債は国民のもの」(労働の義務及び私有財産の廃止)という、ソビエト体制とほとんど変わらないような負債の連帯責任の社会なのである。

社会主義国では、私有財産制度が廃止されているので、労働者が働いても働いても、その成果が給与に反映されることはなく、店の売り上げがどんなに伸びても、それが労働者の賃金になって跳ね返って来ないので、言ってみれば、そんな社会では、働く意味自体がないに等しい。

怠け者が少ししか働かなくても、勤労者が大きな働きをしても、どちらも同じ報いしか受けないような社会では、労働意欲に溢れている人間ほど、搾り取られるだけに終わるのは目に見えている。

我が国では、名目上、私有財産制は廃止されていないものの、実質的には、それにかなり近い状態が進行している。

労働者の給与は、残業代の固定化、もしくは廃止、あるいは労働時間にとらわれない裁量労働制が広がることにより、個人が働いても働いても、その成果が労働者にますます還元されにくく、かえって一人一人の労働の成果が、会社の共有財産のように分配される時代が近づいている。

安倍政権になってから、貯蓄ゼロ世帯が増えたが、貯蓄がゼロということは、他の財産もほとんど無いに等しい状態を意味する。

若者の車離れも進んでおり、土地もなければ、家もなく、あるとすれば負債だけで、学費すらも、奨学金という負債を抱えなければ捻出できない。そういう世帯が増えているということだ。

このようなことは、目に見えない形で国民の間で私有財産制度の廃止が進んでいることを意味すると言えないだろうか? ほんの一握りの莫大な富を有する富裕層を除き、それ以外の90%以上を占める下層民(そこにはかつて中間層と呼ばれた人々も含む)は、働いても働いてもその成果が何ら給与に反映されず、豊かになれる見込みもなく、貯蓄も減って行く一方で、ほとんど私有財産がなくなるまでに貧困化が進むという事態が、国家の政策レベルで進行中なのだ。

筆者の考えでは、これは目に見えない、段階的な、下層民の間での私有財産制度の廃止そのものであり、この先、ますます、このような傾向は深刻化して行くことになると思われる。
 
政府がサラリーマンからも自営業者からも所得税や年金の取り立て額を引き上げるというニュースがネットを巡っているが、それもこうした流れの中で起きていることであり、いずれその徴収額は考えられないほどにべらぼうな金額にまで引き上げられ、働いてもほぼ意味がないほどまでになって行くものと考えられる。

また、現時点では、共謀罪で死刑とされた人はいないが、これから10年ほどが経つ間に、税の取り立てなどの労働者への収奪がより深刻化すれば、それに伴い、ソビエト政権下で起きたような政府に対する反乱を未然に防ぐための思想弾圧が、この国でも大々的に起きる可能性がないとは言えず、共謀罪はその布石なのだと考えることは十分に可能である。

このようなことは、この国がもはや資本主義国ではなく、社会主義国である、という観点に立たなければ、その意味が本当には理解できないのではないかと筆者は考えている。

この国がどこかの時点で、完全に方向転換して、安倍政権の唱える「この道」(それは安倍晋三自身が考えついて提唱しているだけのものではなく、その背後に存在する勢力と理念がある)を拒否しないならば、必ず、そのような末路にまで行き着くであろう。

さて、共産主義とは、文字通り、すべての人が幸福社会の実現のために平等に働く社会のことである。

概念上では、その幸福社会には何でも豊かにそろっており、商品やサービスをお金で買う必要もないので、私有財産などもとから必要ないのである。

しかし、結論から先に言ってしまえば、そういう社会を理想とする思想の最大の問題点は、そんな社会が到来することが本当にあるのかという一点に尽きる。

むしろ、理想社会の到来を口実にして、人々の財産と労働の成果を不法に収奪することが、その思想を土台に作られる社会の本当の目的となってはしまいかという点にある。

誰もが平等に労働することによって、本当に幸福社会が到来するのならば良いが、もしその幸福社会の実現が、絵に描いた餅でしかなく、人々をタダ働きさせるための口実にしかならないならば、そんな呪われた「幸福社会」の到来を額面通りに信じて、その到来のために真面目に労働する人たちが最も馬鹿を見させられることになる。

「いつか人類の幸福社会が実現して、モノが豊かに溢れ、格差がなくなり、誰も貧しさに苛まれることのない、豊かで幸福な世の中が来ます。そして、その時には、あなたも好きなものをよりどりみどり、何でも自由に取って楽しめるのです。ですから、あなたはそういう社会の到来を信じ、その時が一刻でも早まるよう、粉骨砕身して労働し、今は雀の涙のような少ない給料や、ただ働きにも黙って耐えて我慢しなさい」

などと言われれば、

「えっ、それって、要するに、詐欺ですよね?」とただちに問い返すべきである。

「間もなく日本は戦争に勝利するのですから、その時は、何でも欲しいものが自由に手に入ります。ですから、勝つまでは、欲しがりません、と言って、みんなで貧しさに耐え、お国のためにすべてのものを差し出しましょう」などと言われれば、「いや、それって詐欺ですよね。私たちからすべてのものを身ぐるみ巻き上げた国が戦争に勝つ時なんて、絶対に来ないと思いますよ。そもそも戦争に勝てる力があるなら、こんなことをやる必要もないと思います」と即座に切り返さなければならないのである。

「どうせ約束した共産主義のバラ色の未来なんて、初めから嘘っぱちでやって来ないんでしょう。そのバラ色の未来を口実にして、今、国民からあらゆる権利を、財産を、労働の成果を取り上げることだけが、あなた方の本当の目的なんでしょう? 嘘はいけませんよ、私は信じませんし、応じませんからね」と返答し、そんな不当な契約は悪魔に突き返すべきである。

「未来の幸福社会」などというあるはずもない謳い文句を口実に、実際に、結ばされるのは、ひたすら赤字や負債だけを山分けするという不利な契約だけだからである。

そういうわけで、現在の日本社会においては、今までと同じように、国民一人一人が頑張って働きさえすれば、社会全体が底上げされて、みんなで豊かになれるという前提が、もう幻想も同然に、存在していないのである。そのような時代は過ぎたのであり、今となっては「神話」である。

そもそも日本がかつてのような経済的繁栄を取り戻せるという発想自体が幻想なのだが、その幻想の中には、アベノミクスという「神話」だけでなく、残念ながら、立憲民主党の主張している「分厚い中間層を取り戻す」という「神話」も含まれると筆者は考える。

現実には、国民一人一人が頑張って働けば、社会が底上げされるどころか、少子高齢化及び原発事故等々のツケをその一人一人がみな連帯責任のごとく負わされることになるだけであり、しかも、労働できる世代や人口自体が限られている以上、一人一人がどんなに頑張って働いても、社会全体を今まで通りの水準に維持することはほぼ不可能であり、そのために負わなければならない負担が、天文学的な額にまで上っており、そのような理不尽な状況下では、むしろ、真面目な人々が努力して働けば働くほど、働かない人々がその努力に便乗して利益をむさぼるので、真面目な人々の負担は重くなって行く一方であり、どんな努力を持ってしても、この理不尽な状況を変えることは誰にもできないという時代が来ていることは明白なのである。

この事態の深刻さを直視せず、今まで通りの勤労の概念に踊らされて、従来通りに労働していれば、あたかも社会全体がますます豊かになるかのような幻想を抱いていれば、その人間は、その浅はかさを誰かに都合よく利用され、負いきれない(社会全体の)負債を連帯責任として負わされて、死が待っているだけである。

過労死も、サービス残業も、すべてこの社会が慢性的に負わされている負債を、最も弱い末端の労働者にまで連帯責任のごとく負わせようという考えから起きていることである。

その負債の中には、むろん、デフレや、少子高齢化や、福島原発事故の後始末など、あらん限りのマイナス要素が含まれるであろうが、広義では、その負債は、最終的には、人類の罪そのものを指す。

人類が絶対に自己の力で贖うことのできない罪を、己の力で贖い、何とかしてみんなで己が失敗を償って幸福な社会を自力で打ち立てようという目的で働いていればこそ、どんなに働いても、その労働に終わりが来ることはないばかりか、むしろ、働けば働くほど、要求が過剰なものに引き上げられ、人は永遠の蟻地獄の中でもがき続けるしかないのである。

そのような文脈における労働には希望がない。それは人がどんなに力を尽くして頑張っても、しょせん、返せるはずもない、底なしの負債を、社会のメンバー全員で分け合うことで、あたかも返せるかのように見せかける幻想でしかないからだ。

そこで、そんな試みは決して成功に終わることはないだけでなく、もしそのような仕組みの嘘を見抜けず、その罪の連帯責任に同意してしまったなら、やる気のある人間は、死に至るまでとことん割に合わない条件で働かされるのみである。

そこで、正しい答えは、そのような呪われた労働システムからは、一刻も早く、外に出るべきだ、ということに尽きる。

我々は、義務としての労働ではなく、自由としての労働をどこまでも目指すべきなのである。

国民の勤労の義務を説くにしても、それは「職業選択の自由」があって初めて成り立つのであり、それがないのに、勤労の義務だけを説けば、苦役を課しているのも同然になる。

そして、義務としての労働ではなく、自由としての職業選択の自由を本当に実現するためには、憲法という概念よりも、もっと大きなスケールにおいて、死の恐怖によって人を虜にしている罪の強制収容所の囚人であることをやめるための絶大な効力を持った証書が必要となる。

つまり、社会全体を没落させないという、死の恐怖から逃れるという目的のためではなく、自分自身の望みに従って、完全な自由の中で労働するという新たな文脈が必要なのである。

そのような自由を人に与える効力を持つ証書は、全宇宙にただ一つしかなく、それは死の力を持つ悪魔を十字架において滅ぼしたキリストの贖いだけである。

この十字架における贖いの証書だけが、人を死の恐怖及び罪を贖うための終わりなき苦役としての労働から解き放つことができる。

筆者は、この先、この十字架発の証書を握りしめて進んで行くことだけが、来らんとしている強制集団化と大粛清の中を無傷で生き残る鍵であろうと考えている。読者は、ソビエト時代の社会と現在の日本社会を重ねている筆者の想像を笑うかも知れないが、それでも、筆者の予想は、非常に厳しいものであり、この先、日本にかつてのような平和な時代が取り戻されるというものではない。

そして、聖書の御言葉への信仰に立って、与えられた自由を確固として行使し続けることが、どんな過酷な時代にあっても、無傷で生き残るだけでなく、一回限りの人生で、真に価値ある労苦によって、見えない栄光を掴むための秘訣なのである。

最後に、もう一つのことを書いておきたい。

聖書の神を心から信じるクリスチャンは、神に似た者として振る舞うべきではないかと、最近、筆者は思うのだが、(これは最近はやりの、「人が神になる」というアセンションを意味しない。人間が何かとんでもない神々しい存在になるという種類の自己高揚の話ではない。)果たして、クリスチャンが神に似た者として振る舞うとはどういうことなのかを思うとき、聖書の次なる文句が思い出されてならない。

たとえ飢えることがあろうとも
お前に言いはしない。
世界とそこに満ちているものは
すべてわたしのものだ。」(詩編50:12)

世界とそこに満ちているすべてのものを所有しておられるただお一人の神には、不足というものが全くない。にも関わらず、「たとえ飢えることがあっても」という表現が出て来るのは、一見、パラドックスのようにも思われる。
 
神が飢えるなどということは、想像することもできない。むろん、それは肉体的な飢餓のことを言っているのではなかろう。ここで言われている「飢え」とは、あれやこれやの具体的な話ではなく、欠乏全般を指すものだと考えるのが妥当であろうと筆者は思う。

つまり、この表現が意味するものは、「どんなことについても、神は決して欠乏を口にせず、ご自分以外の者を頼りとされない。なぜなら、神はすべての必要をご自分で満たすことのできる方だから」ということに尽きると思うのだ。

神は全知全能であるから、ご自分以外のものを決して頼りとされる必要がない方である。神は完全であればこそ、不足や欠乏に直面してご自分以外の者に助けを求めることを余儀なくされるという状況自体が、決して起きない方なのである。言い換えれば、どんな欠乏が生じても、それをご自身で満たすことのできる方なのである。

そこで、神がもしそのような方なのであれば、その神に贖われ、神のものとされ、神の子供とされたクリスチャンも、神に似た者として、同じように振る舞うべきではないだろうか?と筆者は考える。

つまり、クリスチャンは、ただ神だけに信頼を置いていればこそ、安易に神以外の者に向かって、欠乏を口にすべきではないし、誰にも助けを乞うべきではないと言えるのではないだろうか? 

筆者はそのことを今回も再び学ばされたように考えている。

我々は生きている限り、多くの苦しみや、時には窮地にも遭遇することがあろう。そのような中で、心弱くなり、ふと誰かに優しい言葉をかけてもらいたいとか、同情してもらいたいと思ったり、あるいは、人に支援を乞いたい不安に駆られることがあるかも知れない。

あともう少しのところで、誰かに心細さや欠乏を打ち明ける寸前だった、というところへ追い込まれることもあるかも知れない。

だが、それでも、クリスチャンであれば、私たちが助けを乞うべき相手は、肉なる人間ではないことを思うべきであり、欠乏に取り囲まれているように感じられる時こそ、あえて以上の原則を思い起こし、神以外の何者にも助けを乞わないという姿勢を貫き通すべきなのである。

そうすれば、万物の造り主なる方、全宇宙をつかさどる方、全知全能の神、死を打ち破られた方が、信者のすべての必要を本当に知っておられ、気遣って下さるので、私たちは、滅びゆくこの世の者に助けを求めないで済むのだということが、実際に分かるであろう。

クリスチャンがこの世に助けを乞うのではなく、むしろ、この世の方が、クリスチャンが持っているはかりしれない権威と力のゆえに、自らクリスチャンを支える義務を負っているのだとさえ言えるのではないかと思う。

クリスチャンは、この世のあらゆる欠乏からすでに十字架における勝利によって解き放たれており、従って、この世のどんな事象にも縛られず、人の思惑に振り回されることなく、むしろ、それらをはるかに超えて、神と共にこの全宇宙を治める側に立つことができる。そのようにこの世を超越した立ち位置にこそ、キリスト者の自由が存在するのである。

これが、憲法という地上のレベルをはるかに超えて、聖書の御言葉が壮大なスケールで信者に与えてくれている自由である。地上の憲法は、場合によっては書き変えられることがあり得るかもい知れないが、聖書の御言葉にはそれはない。
 
聖書の御言葉により、死を打ち破った復活の命によって生かされていればこそ、クリスチャンは地上で様々な困難が持ち上がって来る時にも、右往左往して世に助けを乞うのでなく、むしろ、現実の事象に対して権威を持って命じることができる。

すなわち、現実が御言葉に従うまで、天的な権利の行使を貫徹し、命じ、戦うのである。その時、聖書の御言葉に基づく目に見えない支配が、目に見える事象すべてを上回る圧倒的な支配力であることが実際に証明されて、私たちは自分たちの信じている神が、神と呼ばれるにまさにふさわしいお方であることを痛感することになる。

神の国と神の義とを第一とする

主にある兄弟姉妹へ

ようやく就職先を得た安心感からか、しばらくどっと疲れが出て記事を中断していました。この喜ばしいニュースを兄弟たちに共に喜んでいただけることを感謝しています。

「…あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。」(Ⅰテサロニケ4:11)

再び、手ずから働くことが可能となるまで、何と長い道のりだったことでしょう! まさかこんなにも長い期間を耐えねばならないとは思ってもみませんでした。けれども、これは神の御旨に従って、私が自己を取り扱われるために必要な期間だったのです。

ちょうどイサクを連れて、アブラハムが山に登った時のように、主によって私の生まれながらの命(自己)が取り扱われるために、私は肉の力がつきるまで、山の頂上へ向けて登らねばならなかったのです。

私たちの自己というものに対する主の取り扱いは、恐らく、一生涯続く行程となるでしょう。私たちはいつも自分の感情や、自分の計画や、自分の願望を固く手 に握りしめて、それを手放そうとしません。往々にして、そのために、私たちは、主のご計画が何であるか、主の御心が何であるか、気づけなくなっているので す。そこで主は時折、困難な環境を通して私たちの自己の願望を砕き、時に、私たちにとって最善の望みさえも取り去られます。こうして、目の前に立ちふさ がっている自分の願いが取り去られなければ、私たちは、神の御心を第一に尋ね求めることを学べないことがよくあるのです。

信仰によって、主の御手から受け取る時に、苦しみは恵みに変わります。私は自分の命の心配を主に委ねなければなりませんでした。自分の生活を自分で握りし め、思い通りに操縦したいという願い、自分の平穏を何よりも優先し、人との対立を避け、主の義に立つための戦いを避けて、平和に暮らしたいという私の願望 は、取り除かれねばならなかったのです。

多分、この地上に、戦いを避けて平和に暮らしたいと願わない人は、一人もいないでしょう。まして前途ある若者なら、当然、つつましくても良いから幸せな家庭を築き、安全で平和な暮らしを営みたいと願うでしょう。それを誰か罪定めできるでしょうか? 

パウロでさえ、嘆きをこめてこう言っています、
「わたしたちには、飲み食いする権利がないのか。わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。」(Ⅰコリント9:4-6)

もちろん、私たちにも、人並みの暮らしを営む権利があります。けれども、主の私たちへの願いは、私たちが人並みの暮らしを最優先するのでは なく、神の国と神の義を第一とすることなのだということを、私は再確認させられるのです。さて、神の国、神の義を第一とするとは何でしょうか。それは時 に、真理に立ち続けるために、たとえ自己が損失をこうむったとしても、偽りに対抗し、主の戦いを恐れなく戦い、走るべき行程を走り尽くす責務を含んでいる のです。そこには、罪を罪として指摘し、偽りを偽りとして指摘し、真理に逆らうものを明るみに出し、時に、愛する兄弟姉妹から誤解されたり、不当な非難や 迫害にも耐えながら、真理について妥協なしの姿勢を保ち続けることが含まれているのです。

あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、
『あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、
 あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため』
 と書いてあるとおりである。 」(ローマ3:4)


まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33)

私たちは自分の発した言葉に応じて、神の裁きを受けなければなりません。自分の発した言葉によって、義とされるかどうか、勝利を受けるかどうかが決められ るのです。ですから、ためらわず真理を証することにより、私たちが神の義に立ち続けている姿勢を、公然と世に示すことの重要性を見落としてはなりません。 圧迫を受ける時、恐れに駆られて、証の言葉を取り去られてしまってはならないのです。

この背教の時代には、真理ではなく偽りを喜び、十字架に敵対し、血潮を否定し、真理に敵対する大勢のクリスチャンが実際に存在します。そこで、真理に立ち続けるためには、時に、火のような激しい戦いをくぐる覚悟が必要となるのです。

周知の通り、キリスト教界では、自己を極端なまでに甘やかす、砂糖まぶしの福音がはびこり、それにより、罪を罪とするという聖書の基本さえ見失われまし た。そこでは、罪が見落とされたために、悔い改めもなくなり、十字架と血潮の必要性も見失われました。つまり、神の義が失われたのです。

それに代わって、信徒が神ではなく、指導者に聞き従うことによって義とされるシステムが導入されました。日曜礼拝や、各種の教会行事を積極的に遵守し、教 会の利益に貢献する信徒は高く評価される一方で、教会の利益に貢献しない信徒は罪定めされるという、まるで営利企業を思わせるような一元的なものさしに 従って、信徒の信仰の生長をおしはかることが一般的となりました。そして、信徒が神ではなく、人に聞き従い、人の目に義と認められることを追い求める制度 が確立したのです。

それは、聖書があれほどまでに戻ってはならないと警告している、「あの無力で貧弱な、もろもろの霊力」(ガラテヤ4:9)への逆戻りであり、信徒が神にある自由を捨てて再び人(指導者)の奴隷となり、人が自らの行いによって自己の義を打ちたて、神の義に届こうとする、あの忌まわしい建造物を建てることを意味していました。

人の肉の誇りと、自己の欲望によって塗り固められたこの偽りのキリスト教、人造の命であるキリスト教界は、御言葉から逸れ、大勢のクリスチャンに真理を見 失わせ、そこからは、道徳的に腐敗したカルト化教会と、その逆の極端である、悪意と憎悪に満ちた懲罰運動としての反カルト運動が、有毒の副産物として生み 出されたのです。

十字架を抜きにした甘えに満ちた砂糖まぶしの福音に育てられた多くのクリスチャンが、どれほど主の御名を傷つけ、社会にどれほどの偽りと害悪を生み出したでしょう。彼らの「…知力は暗くなり、その内なる無知心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだね」(エペソ4:18-19)るようになってしまったのです。

一部の人々は、自己憐憫に溺れ、悔い改めの必要も認めず、心は頑なで他者の痛みに無感覚であり、自分の罪は棚に上げて、他人の罪だけを一方的に裁き、同胞 に対する憎しみに燃え、無実の人を陥れるために偽証してはばからず、憐みを失い、まことの裁き主である神に対する畏れの心を失って、十字架も、血潮も見 失っているにも関わらず、自らを神よりも高く掲げ、自分は神に等しい者だと宣言するまでになりました。これらは信仰を持たない世の人々よりも、なお一層、 著しい悪の見本であり、人間が行いの義によって神の義に届こうとする制度が、いかに人間を歪めてしまうか、真理を否定することが人間の意識をいかに狂わせ るかを物語る、うってつけの見本です。すでに何度も語ったように、神よりも自己(セルフ)を高く掲げ、罪を認めないことによって、十字架も、贖いの血潮の 必要性も事実上、否定している、これらの「キリストの十字架に敵対して歩いている」クリスチャンたちについては、「彼らの最後は滅びである」ことが、はっきりと御言葉に明記されてします。(ピリピ3:19)

しかし、このようなクリスチャンをおびただしい数、生み出したキリスト教界の問題性を、御言葉に基づいて明らかにし、クリスチャンに十字架と血潮に立ち戻 るよう呼びかけた人々は、度を越した理不尽な憎しみと怒りを向けられ、虚偽によって告発され、誹謗と中傷の限りを浴びせられ、口をつぐむよう要求されまし た。この戦いの予想を超える激しさに、驚きを感じなかった人は誰もいないことでしょう。一時は私も混乱し、キリスト教界とのこれ以上の対立を避けて、平和 な生活を生きるべきではないかと考えました。

しかし、兄弟たちと熱心に議論するうちに、私はこの戦いは、もはや個人的な思惑のレベルを超えて、神の主権の領域に入っているのだと感じずにいられません でした。私たちは個人的な感情に基づいて個人的な戦いを戦っているのではなく、今や、地上におけるキリストの主権を守るために、キリストの御身体全体とし て、真理と虚偽との激しい戦いに直面しているのです。そこで自己の安寧を最優先することは、神の御心を後回しにしてしまうことにもつながりかねません。

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上 にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。 」(エペソ6:12-13)

私がしきりに戦いを強調しているので、これは物騒な話だ、カルト思想だと思われる方がいらっしゃるかも知れません。しかし、私を含め、兄弟たちの身に降りかかっている苦難を見れば、悪しき日は、もうすでにやって来ているのだと、気づかないでいられるでしょうか?

神は取るに足りない被造物である人間を通して、地上で神の栄光を表すことを望んでおられます。主を真に信頼するクリスチャンは、地上においてキリストの権 利を守るために存在する軍隊のようなものです。その兵士が圧迫に押されて、真理の旗を下ろしてしまうことは、神が損失をこうむられることを意味するので す。

ですから、私たちは決断を迫られているのではないかと思います。この背教のはびこる時代に、真理に固く立ち、真理を消し去ろうとする偽りの全勢力に対抗し て、キリストの義にとどまるために、私たちはより一層、十字架に立ち戻り、キリストと共なる十字架で、自分の肉を、自己を、魂の命を対処していただかねば なりません。私たちは自己の願いを最優先して生きるのではなく、真理を擁護する戦いを、代価を払っても、完遂するクリスチャンとなりたいと願うのです。そ のために神の武具で武装されるべきではないでしょうか。そのためにキリストの死と復活をより深く知ることを追い求めるべきではないでしょうか。今後も圧迫 や偽りがやって来るでしょうが、それに押されて、真理に関して妥協したくないと願うのです。

今、主が必要としておられるクリスチャンとは、教会の座席に居心地の良い一画を占め、耳に心地よいメッセージを聞くことで満足とする信徒ではなく、神の国 と神の義を第一とするために、勇気を持って偽りに立ち向かい、困難に遭っても、兄弟たちと共に協力して、最後まで小羊の血とあかしの言葉を保って、主と共 に自己を否んで、十字架に立ち続ける人々ではないでしょうか? 

もしも私たちが、真理のために損失をこうむることを嫌がり、自分の安全な日常の片隅だけを最優先して生きるなら、地上におけるキリストの主権を守るため に、小羊の血とあかしの言葉を持って、暗闇の軍勢の偽りに対抗し、最後まで耐え忍んで、それに打ち勝つ人はいなくなるかも知れません。私たちはそれで良い かも知れませんが、御国の前進はあり得ないでしょう。誰が自分の願いではなく、神の御心を第一として生きるのでしょうか? 誰が神の国と神の義を第一とす るために、自分の命を惜しまずに、十字架を負うのでしょうか?

しかし、私たちは、思い込みに基づき、もしくは、自分を誇るために自己犠牲を勧めているのではなく、真に御霊の導きに基づいて、主のために代価を支払う必 要があります。そのようにして支払われた代価には、必ず豊かな報いがある、御言葉はそのことを示してくれているのではないでしょうか?

「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。 」(マルコ8:35)

「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、 わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。<…>…自分の財産をこ とごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。」(ルカ14:26-27,33)


「兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。 」(黙示録12:11)

「だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。
すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。 」(マルコ10:30)

キリストの御身体は一致して、暗闇の主権と支配に立ち向かう必要があります。これは決して、誰か一人のクリスチャンの正義感やら、努力や忍耐に基づいてな し遂げられる個人的な戦いではありません。私たちは御身体の「一つ」について、もっとよく知らせていただけるよう主に願いたいと思います。

どうか私たちが自分の必要性ではなく、神の必要性にまず目を 向けられるようになりますように。どうか主が私たちに御心が何であるかを教えて下さいますように。御心が地になりますように。御国が来ますように。主よ、 私たちが試練を通して清められ、あなたにふさわしい花嫁となるまで、どうか御霊によって導き、整えて下さい。

「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずら うな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。<…>あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じ である。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 」(マタイ6:25,32-33)


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