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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

神の国と神の義とを第一とする

主にある兄弟姉妹へ

ようやく就職先を得た安心感からか、しばらくどっと疲れが出て記事を中断していました。この喜ばしいニュースを兄弟たちに共に喜んでいただけることを感謝しています。

「…あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。」(Ⅰテサロニケ4:11)

再び、手ずから働くことが可能となるまで、何と長い道のりだったことでしょう! まさかこんなにも長い期間を耐えねばならないとは思ってもみませんでした。けれども、これは神の御旨に従って、私が自己を取り扱われるために必要な期間だったのです。

ちょうどイサクを連れて、アブラハムが山に登った時のように、主によって私の生まれながらの命(自己)が取り扱われるために、私は肉の力がつきるまで、山の頂上へ向けて登らねばならなかったのです。

私たちの自己というものに対する主の取り扱いは、恐らく、一生涯続く行程となるでしょう。私たちはいつも自分の感情や、自分の計画や、自分の願望を固く手 に握りしめて、それを手放そうとしません。往々にして、そのために、私たちは、主のご計画が何であるか、主の御心が何であるか、気づけなくなっているので す。そこで主は時折、困難な環境を通して私たちの自己の願望を砕き、時に、私たちにとって最善の望みさえも取り去られます。こうして、目の前に立ちふさ がっている自分の願いが取り去られなければ、私たちは、神の御心を第一に尋ね求めることを学べないことがよくあるのです。

信仰によって、主の御手から受け取る時に、苦しみは恵みに変わります。私は自分の命の心配を主に委ねなければなりませんでした。自分の生活を自分で握りし め、思い通りに操縦したいという願い、自分の平穏を何よりも優先し、人との対立を避け、主の義に立つための戦いを避けて、平和に暮らしたいという私の願望 は、取り除かれねばならなかったのです。

多分、この地上に、戦いを避けて平和に暮らしたいと願わない人は、一人もいないでしょう。まして前途ある若者なら、当然、つつましくても良いから幸せな家庭を築き、安全で平和な暮らしを営みたいと願うでしょう。それを誰か罪定めできるでしょうか? 

パウロでさえ、嘆きをこめてこう言っています、
「わたしたちには、飲み食いする権利がないのか。わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。」(Ⅰコリント9:4-6)

もちろん、私たちにも、人並みの暮らしを営む権利があります。けれども、主の私たちへの願いは、私たちが人並みの暮らしを最優先するのでは なく、神の国と神の義を第一とすることなのだということを、私は再確認させられるのです。さて、神の国、神の義を第一とするとは何でしょうか。それは時 に、真理に立ち続けるために、たとえ自己が損失をこうむったとしても、偽りに対抗し、主の戦いを恐れなく戦い、走るべき行程を走り尽くす責務を含んでいる のです。そこには、罪を罪として指摘し、偽りを偽りとして指摘し、真理に逆らうものを明るみに出し、時に、愛する兄弟姉妹から誤解されたり、不当な非難や 迫害にも耐えながら、真理について妥協なしの姿勢を保ち続けることが含まれているのです。

あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、
『あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、
 あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため』
 と書いてあるとおりである。 」(ローマ3:4)


まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33)

私たちは自分の発した言葉に応じて、神の裁きを受けなければなりません。自分の発した言葉によって、義とされるかどうか、勝利を受けるかどうかが決められ るのです。ですから、ためらわず真理を証することにより、私たちが神の義に立ち続けている姿勢を、公然と世に示すことの重要性を見落としてはなりません。 圧迫を受ける時、恐れに駆られて、証の言葉を取り去られてしまってはならないのです。

この背教の時代には、真理ではなく偽りを喜び、十字架に敵対し、血潮を否定し、真理に敵対する大勢のクリスチャンが実際に存在します。そこで、真理に立ち続けるためには、時に、火のような激しい戦いをくぐる覚悟が必要となるのです。

周知の通り、キリスト教界では、自己を極端なまでに甘やかす、砂糖まぶしの福音がはびこり、それにより、罪を罪とするという聖書の基本さえ見失われまし た。そこでは、罪が見落とされたために、悔い改めもなくなり、十字架と血潮の必要性も見失われました。つまり、神の義が失われたのです。

それに代わって、信徒が神ではなく、指導者に聞き従うことによって義とされるシステムが導入されました。日曜礼拝や、各種の教会行事を積極的に遵守し、教 会の利益に貢献する信徒は高く評価される一方で、教会の利益に貢献しない信徒は罪定めされるという、まるで営利企業を思わせるような一元的なものさしに 従って、信徒の信仰の生長をおしはかることが一般的となりました。そして、信徒が神ではなく、人に聞き従い、人の目に義と認められることを追い求める制度 が確立したのです。

それは、聖書があれほどまでに戻ってはならないと警告している、「あの無力で貧弱な、もろもろの霊力」(ガラテヤ4:9)への逆戻りであり、信徒が神にある自由を捨てて再び人(指導者)の奴隷となり、人が自らの行いによって自己の義を打ちたて、神の義に届こうとする、あの忌まわしい建造物を建てることを意味していました。

人の肉の誇りと、自己の欲望によって塗り固められたこの偽りのキリスト教、人造の命であるキリスト教界は、御言葉から逸れ、大勢のクリスチャンに真理を見 失わせ、そこからは、道徳的に腐敗したカルト化教会と、その逆の極端である、悪意と憎悪に満ちた懲罰運動としての反カルト運動が、有毒の副産物として生み 出されたのです。

十字架を抜きにした甘えに満ちた砂糖まぶしの福音に育てられた多くのクリスチャンが、どれほど主の御名を傷つけ、社会にどれほどの偽りと害悪を生み出したでしょう。彼らの「…知力は暗くなり、その内なる無知心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだね」(エペソ4:18-19)るようになってしまったのです。

一部の人々は、自己憐憫に溺れ、悔い改めの必要も認めず、心は頑なで他者の痛みに無感覚であり、自分の罪は棚に上げて、他人の罪だけを一方的に裁き、同胞 に対する憎しみに燃え、無実の人を陥れるために偽証してはばからず、憐みを失い、まことの裁き主である神に対する畏れの心を失って、十字架も、血潮も見 失っているにも関わらず、自らを神よりも高く掲げ、自分は神に等しい者だと宣言するまでになりました。これらは信仰を持たない世の人々よりも、なお一層、 著しい悪の見本であり、人間が行いの義によって神の義に届こうとする制度が、いかに人間を歪めてしまうか、真理を否定することが人間の意識をいかに狂わせ るかを物語る、うってつけの見本です。すでに何度も語ったように、神よりも自己(セルフ)を高く掲げ、罪を認めないことによって、十字架も、贖いの血潮の 必要性も事実上、否定している、これらの「キリストの十字架に敵対して歩いている」クリスチャンたちについては、「彼らの最後は滅びである」ことが、はっきりと御言葉に明記されてします。(ピリピ3:19)

しかし、このようなクリスチャンをおびただしい数、生み出したキリスト教界の問題性を、御言葉に基づいて明らかにし、クリスチャンに十字架と血潮に立ち戻 るよう呼びかけた人々は、度を越した理不尽な憎しみと怒りを向けられ、虚偽によって告発され、誹謗と中傷の限りを浴びせられ、口をつぐむよう要求されまし た。この戦いの予想を超える激しさに、驚きを感じなかった人は誰もいないことでしょう。一時は私も混乱し、キリスト教界とのこれ以上の対立を避けて、平和 な生活を生きるべきではないかと考えました。

しかし、兄弟たちと熱心に議論するうちに、私はこの戦いは、もはや個人的な思惑のレベルを超えて、神の主権の領域に入っているのだと感じずにいられません でした。私たちは個人的な感情に基づいて個人的な戦いを戦っているのではなく、今や、地上におけるキリストの主権を守るために、キリストの御身体全体とし て、真理と虚偽との激しい戦いに直面しているのです。そこで自己の安寧を最優先することは、神の御心を後回しにしてしまうことにもつながりかねません。

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上 にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。 」(エペソ6:12-13)

私がしきりに戦いを強調しているので、これは物騒な話だ、カルト思想だと思われる方がいらっしゃるかも知れません。しかし、私を含め、兄弟たちの身に降りかかっている苦難を見れば、悪しき日は、もうすでにやって来ているのだと、気づかないでいられるでしょうか?

神は取るに足りない被造物である人間を通して、地上で神の栄光を表すことを望んでおられます。主を真に信頼するクリスチャンは、地上においてキリストの権 利を守るために存在する軍隊のようなものです。その兵士が圧迫に押されて、真理の旗を下ろしてしまうことは、神が損失をこうむられることを意味するので す。

ですから、私たちは決断を迫られているのではないかと思います。この背教のはびこる時代に、真理に固く立ち、真理を消し去ろうとする偽りの全勢力に対抗し て、キリストの義にとどまるために、私たちはより一層、十字架に立ち戻り、キリストと共なる十字架で、自分の肉を、自己を、魂の命を対処していただかねば なりません。私たちは自己の願いを最優先して生きるのではなく、真理を擁護する戦いを、代価を払っても、完遂するクリスチャンとなりたいと願うのです。そ のために神の武具で武装されるべきではないでしょうか。そのためにキリストの死と復活をより深く知ることを追い求めるべきではないでしょうか。今後も圧迫 や偽りがやって来るでしょうが、それに押されて、真理に関して妥協したくないと願うのです。

今、主が必要としておられるクリスチャンとは、教会の座席に居心地の良い一画を占め、耳に心地よいメッセージを聞くことで満足とする信徒ではなく、神の国 と神の義を第一とするために、勇気を持って偽りに立ち向かい、困難に遭っても、兄弟たちと共に協力して、最後まで小羊の血とあかしの言葉を保って、主と共 に自己を否んで、十字架に立ち続ける人々ではないでしょうか? 

もしも私たちが、真理のために損失をこうむることを嫌がり、自分の安全な日常の片隅だけを最優先して生きるなら、地上におけるキリストの主権を守るため に、小羊の血とあかしの言葉を持って、暗闇の軍勢の偽りに対抗し、最後まで耐え忍んで、それに打ち勝つ人はいなくなるかも知れません。私たちはそれで良い かも知れませんが、御国の前進はあり得ないでしょう。誰が自分の願いではなく、神の御心を第一として生きるのでしょうか? 誰が神の国と神の義を第一とす るために、自分の命を惜しまずに、十字架を負うのでしょうか?

しかし、私たちは、思い込みに基づき、もしくは、自分を誇るために自己犠牲を勧めているのではなく、真に御霊の導きに基づいて、主のために代価を支払う必 要があります。そのようにして支払われた代価には、必ず豊かな報いがある、御言葉はそのことを示してくれているのではないでしょうか?

「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。 」(マルコ8:35)

「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、 わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。<…>…自分の財産をこ とごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。」(ルカ14:26-27,33)


「兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼にうち勝ち、死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。 」(黙示録12:11)

「だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。
すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。 」(マルコ10:30)

キリストの御身体は一致して、暗闇の主権と支配に立ち向かう必要があります。これは決して、誰か一人のクリスチャンの正義感やら、努力や忍耐に基づいてな し遂げられる個人的な戦いではありません。私たちは御身体の「一つ」について、もっとよく知らせていただけるよう主に願いたいと思います。

どうか私たちが自分の必要性ではなく、神の必要性にまず目を 向けられるようになりますように。どうか主が私たちに御心が何であるかを教えて下さいますように。御心が地になりますように。御国が来ますように。主よ、 私たちが試練を通して清められ、あなたにふさわしい花嫁となるまで、どうか御霊によって導き、整えて下さい。

「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずら うな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。<…>あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じ である。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 」(マタイ6:25,32-33)


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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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