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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

流れのほとりに植わった木のように

主にある大切な私の姉妹へ

昨夜は感謝でした。何時間、話していたことでしょうね(笑)!? 一緒に祝っていただけて、本当に嬉しかったです。できるなら、手を取り合って喜びたかっ た。主がこのようにまで隠し立てなく、真実を持って話し合える姉妹を私に与えて下さったこと、私のためにキリストの命を真剣に注ぎ出して下さる方をお与え 下さったこと、心から主に感謝しています。

姉妹のおかげで、今はとても心強く感じていますよ。次には、ぜひ夜っぴて語り明かす機会が与えられるよう願います。たとえ何も語ることがなくとも、一緒にいるだけで主は喜ばれると信じていますけれども…。

お話したように、何かしら、深い闇がクリスチャンを覆っているような虚しさを覚えて、非常な孤独を感じておりました。まるで分厚い幕を隔てて向き合ってい るように、真実を述べても、それが全く空振りに終わるような、手ごたえのない虚しさを…。私たちが直面している戦いの意味を、ほとんどの人たちには理解し てもらえないと感じるだけではありません、目に見えるものが、急速に(時は縮まっていますね!)偽りに変わってゆくのを、目の前で見させられている驚 き…。分かっていても、止めようがありません、多くの人たちが道を踏み誤るでしょう。とりこにされる者はとりこにされていかなければならないのでしょう。

今の時代、本当に主が大切にしておられるものは、ますます覆い隠されていっているのかも知れませんね。こうして、公に言葉を述べたり、公に集まることので きる時代も、もうすぐ終わろうとしているように感じられます。今までも、あまりにも大勢のクリスチャンが、いわゆる組織としての教会からは見捨てられ、追 い出されて来ました。公の会堂への背教の影響はこの先、さらに強くなるでしょうし、真理そのものが公の場から取り去られようとしています。教会が地下化 し、主の御名の2,3人の集まりへと砕かれて行っていることも、確かではないかと思うのです。

しかし、公の場を覆う暗闇は深まっても、隠れたところで隠れたことを見ておられる神は確かに働いておられます。姉妹がおっしゃったように、主はザアカイの 人生に個人的に現われ、サマリヤの女に個人的に現われられたように、人知れぬ場所で、個人の信仰に答えて、確かに働きを続けておられ、御心にかなう人々を 今も個人的に召し出しておられると思います。私の今の生活も、私たちの交わりも、そのようにして与えられたものでした。

私の信仰生活も、兄弟姉妹との交わりも、新たな局面を迎えているのが感じられます。既存の目に見える公の体制からは、急速に命が失われる一方で、隠れたと ころでは、未だかつてなかった新しいことが始まっているという感じを受けています。それが何なのか、まだはっきりとは分かりません、全てが手探り状態で、 まだ先が見えません…。この道には、御霊の導き以外のレールはないようです。死んだ文字の教本ではなく、生きた視聴覚教材が、主の配剤により与えられて、 実地で学ぶよう申し渡されています。

まだ分からないことは多いですが、主を頼りに、主を信じて、この人生を、主と共に歩んでいきます。この先、霊的な闇は深くなり、迫害も、無理解も、一層、 激しくなり、もしかすると、再び、完全な孤立を通らされることさえ、あるかも分かりませんが、その一方では、地にしっかりと足をつけて、ごく普通の社会生 活を営み、良き家庭人として、キリストにあって、真に人間らしく、平凡な人生を、健やかに生きていきたいと願うのです。

「だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。 」(マルコ10:30)

これは大いなる矛盾のようですが、矛盾ではありません。昨日も、兄弟に笑いながら話したのですよ、「今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受ける と、御言葉にはっきりと書いてあると。主によって人生を焼き尽くされた時に、あるいは、故郷を後にした時に、私は家も、父母も、姉妹も、畑も、全て捨て て、身一つで旅立って来ました。その後も、迫害や困難が続いています。けれども、御言葉は約束してくれています、今この時代でも、私たちは主のために捨て たものを、「迫害と共に」、主から受けると!

ですから、ハレルヤです、私たちは追いつめられて、時に孤独を感じ、無力を覚えることも多いですが、同時に、この人生において、主が確かに私たちを見捨て てはおられず、祝福をも与えて下さることを知るのです。もちろん、全部いっぺんにとは言いませんし、それはひそやかに与えられる恵みかも知れませんが、と にかく、全ては添えて与えられるでしょう、仕事も、家庭も、その他一切の恵みもね!

霊的な戦いとは、私たちが自分の力で何かに立ち向かっていくことを意味しません。試練の中で、私たちがより一層、真理にとどまり、真理を自分自身のうちに 作りこまれることが、戦いの主たる目的の一つなのです。私たちがキリストの十字架の勝利に依拠し、十字架で自己を否み、子羊の血潮にとどまり、真理を証す る言葉を世に示し続けることにより、暗闇の力に打ち勝つこと。そうして、私たち自身が真理の生きた見本となり、暗闇に打ち勝つ世の光となること。それによ りキリストの主権が地に確立すること。それが戦いの主要な目的なのです。

真に御心に沿って生きるなら、試練と共に、必要な恵みも、全て与えられるのです。私たちは自分の願いにしがみつくことはしませんが、それでも、キリストに あって、真に健やかな人、真に人間らしい人として、アダムの命ではなく、キリストの命によって、常に新しく生かされる新創造とされる特権、兄弟たちとの愛 による一致の中で、健やかに、平和に生きていく特権を与えられていることを疑いません。それを可能にして下さったのが御子の十字架の御業なのです。

まだまだ足りないものが沢山あります。まだまだ十字架の御業の深さをほとんど知りません。でも、全てはこれからですよ。主に向かって口を大きく開けて、神 の愛の深さを、神の知恵の多様さを、神の家族の一つを、さらに強く知らせていただきたいと願います。栄光が主にとこしえにありますように。
                     あなたの姉妹 ビオラより
 
「悪しき者のはかりごとに歩まず、
 罪びとの道に立たず、
 あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
 このような人は主のおきてをよろこび、
 昼も夜もそのおきてを思う。

 このような人は流れのほとりに植えられた木の
 時が来ると実を結び、
 その葉もしぼまないように、
 そのなすところは皆栄える。

 悪しき者はそうではない、
 風の吹き去るもみがらのようだ。
 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
 罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

 主は正しい者の道を知られる。
 しかし、悪しき者の道は滅びる。」(詩篇第一篇)


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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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