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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。

「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

 聖書にこう書いてあるからです。

 「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。」

 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」

 のであり、また、
 「つまずきの石、
 妨げの岩」
 なのです。

 彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 あなたがたは、
「かつては神の民ではなかったが、
 今は神の民であり、
 憐れみを受けなかったが、
 今は憐れみを受けている」
のです。」(ペトロの手紙一2:1-10)

* * *

まだ8月も終わっていないというのに、蝉の声がめっきり減って、すっかり秋の気配が感じられるようになった。駆け足で冬がやって来ようとしている。あまりに早すぎる時の流れに、困惑を覚えずにいられないほどである。

さて、前回に引き続き、「重荷を跳ね返す」ことの重要性について書くことから始めたい。これは正しくは、サタンから来た重荷をサタンに跳ね返す、という意味だ。

このテーマを書くに当たり、類似した内容を書いている人が他にいないか探してみたが、見つからなかった。
 
この問題は、注目されていないようだが、キリスト者にとって極めて重要であると筆者は思わずにいられない。

私たちは、日々の十字架として、主から来た重荷を担うべき時がある。その中には、信仰ゆえの試練もあれば、恐怖に打ち勝って前進することが必要な場合もある。

しかし、時に、私たちが負うべきでない重荷が、敵から押しつけられる場合がある。そのとき、私たちは不当な圧迫をもたらす策略を事前に見抜き、その重荷が私たちの手に押しつけられる前に、罠を粉砕して、そこから抜け出すようにしなければならない。

それができないと、人生において長期に渡り、不当な重荷に苦しめられ続けることになる可能性がある。

サタンは責任転嫁の達人である。人をターゲットとして、自己の罪を他人に押しつけ、重荷を押しつけられた人が、あたかもそれを自分のものであるかのように考えて、自らそれを背負い込むよう仕向ける。一旦、背負い込んだら、ますますその荷を重くし、その重荷から二度と抜け出せないように仕向ける。

また、サタンは他人の成果を横取りする達人でもある。私たちが勝ち取った苦労の結果を、まるで我が物であるかのように、栄光をかすめ取ろうとする。

しかしながら、前回、述べた通り、神から来た重荷は、そのような性質のものではない。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

だから、私たちは、一口に重荷と言っても、その中には、神が私たちを成長させるために許されて起きた試練と、人を不当に苦しめ、栄光をかすめ取り、人生を停滞させようとして悪魔がもたらした重荷の2種類が存在することに気づき、後者の重荷については、これを受け取り拒否して、サタンにお返しする方法を学ぶ必要がある。

自分の人生にやって来る様々な困難を、どんなものであっても、すべて神から与えられたものとして受け取っていてはいけない。その出所をきちんと見分け、敵から来たものは、敵に担っていただくのが一番なのである。

* * *

 筆者はこれまで長い間、書類作成の仕事をして来たため、書面を作り上げることはまるで苦にならないと思い、訴訟や、各種の法的手続きのために時間を費やすことを、損と思うこともなく進めて来た。

しかし、そうは言っても、今年は、昨年と違い、審理や各種の手続きのために要する時間を、できるだけ省略する方法を考えなくてはならないと思うようになった。

それは特に、相手方が常に締め切りに遅れ、証拠もない支離滅裂な内容の書面を提出して来るのを見て、このような無意味な主張に、いつまでも膨大な手間暇を割いて反論していてはいけないと思わされたためでもある。

それに、筆者の人生が、訴訟から解放されなければならない必要性があることにもようやく気づいた。

訴訟を提起してからというもの、筆者の人生は、ずっと訴訟を中心として成り立って来た。筆者は、裁判所の仕事に心から敬意を払っているものの、今や審理と同じほど重要な仕事ができた以上、今までのように、準備書面を作成するために、仕事を脇に置くことはできない。仕事だけでなく、自分の人生の時間をきちんと守るため、訴訟に割ける時間を配分しなければならない。

とはいえ、それによって、訴訟において成し遂げなければならない事柄を省略するわけにも行かないため、この先の歩みには、神の助けと知恵が必要である。

それにしても、筆者が新たに選んだ仕事は、本当に、主がこれを与えて下さったのだと思わずにいられない貴重なものである。

そのことは、職場で日々起きてくる様々な難題に、筆者が正しい答えを見つけようと努力しさえすれば、常に問題が解消されて行くことを見ても分かる。
 
時に、働いていると、私たちの仕事の成果を、その本来の意味から全くかけ離れたものへと変えてしまおうとする悪しき圧力がかかることがある。真面目に働く気のない人間が、真面目に働く人たちの努力の成果を、自己の怠慢を覆い隠し、他者の栄光をかすめ取る目的のために、横領するように吸い上げ、利用しようとすることがある。

筆者はこれまでの職場においては、そうした理不尽に、立ち向かう術はないとあきらめていた。

なぜなら、日本の多くの営利企業では、労働の成果が個人に還元されず、集団の成果とされるため、そこでは、働けば働くほど、その者が、働かない者の怠慢をカバーすることになるような理不尽な仕組みがもとから存在するためである。

共産主義社会のようなものである。そこでは、無責任で何もしない人間が、最も軽い荷を負い、高い能力を持ち、責任感も強く、会社の行く末を案じ、周囲に気配りができる、最も誠実な人間が、人一倍、重い荷を負わされることになる。

もっと言えば、1人の優秀な社員の目覚ましい働きに、怠け者の5人の社員がたかり、怠け者が、働き者の仕事の成果をかすめとって自己の怠慢を隠すための集団が、始めから作り上げられていると言っても良い状況がある。そして、働き者は、働かない者の怠慢をカバーするために雇用されると言っても良いほどの仕組みがある。

筆者はそのような労働は、真に社会に役立つことはなく、呪われた罪の連帯責任のように、負債を分かち合うことにしかつながらないと考え、これと訣別すべく、「バビロン体系」を脱したのであった。

その後、筆者が携わっている仕事は、もはや以上のようなものではない。だから、筆者は、他人の労働の成果を我が物としてかすめ取ろうとする人々の不当な干渉が起きたとき、これをきちんと排除し、重荷はこれを考えついた本人に跳ね返すことが可能であることに、ようやく気づいた。

そのようなことが可能となったのも、筆者の行う仕事が、基本的に、筆者自身の裁量に委ねられており、他者からの干渉を受けずに、独立した判断を下すことができるためである。

筆者には、裁判官の仕事にどこかしら似た性質を持つ仕事が与えられたと書いた。裁判官の仕事は、独立しており、合議審を除き、単独審では、一人の裁判官の判断によって判決が下されるし、合議審の場合であっても、裁判官一人一人の判断は、独立しているはずである。

その独立性を保つためにも、裁判官は3年くらいのスパンで全国各地を異動している。地域とのしがらみや癒着が生じて、公平な判断が下せなくなることを阻止するためだという。

筆者がかつて属していた宗教団体の教団でも、同じような制度が存在したと聞かされている。牧師が一つの教会にとどまりつづけると、様々なしがらみが生じるため、それは良くないということで、数年間で、教会を転任するという制度が存在したのである。

ところが、今やその仕組みは崩れ、牧師たちは一つの教会に長年、堂々ととどまるようになり、さらにその息子や娘までが、その教会の跡を継ぐようにまでなった。しかし、裁判官が異動している世の中で、牧師たちが転任を拒む理由は、ないという気がしてならない。
 
わずか3年で全国各地を異動して行くのでは、どこにも定着できない寄留者のような感覚も生じるだろう。家族がいても、単身赴任になることもあろうし、子供たちも、学校を転校するなど、荷を負わなくてはならない。全く新たな見知らぬ土地に行って、その日から、何事もなかったように、日常生活を開始することもできまい。

それでも、あえてそのような制度をもうけることで、市民の訴えに対し、公平性が保たれるよう配慮がなされているのである。
 
筆者は、神から与えられた召しに基づき、信仰によって、この地にやって来たため、果たすべき役割がまだ終わっていないうちに、よその土地に移されることはないであろうと考えている。実際に、筆者自身がよその土地に移ろうと試みたことも何度もあったのだが、その試みはすべて頓挫して終わった。

筆者は、こうして異動こそしていないが、これまで仕事に就くときには、一切、コネを利用せず、常にアウトサイダーとして新たな組織の中に入って来た。
 
その原則は、ずっと前から同じである。どんな時にも、すべてを天に任せ、正攻法で、表玄関を通過して来た。さらに、最近は、複数の応募を同時に行うこともやめて、不実な企業に騙されるリスクがあっても、本命一本だけで勝負するようになった。そこで、勝負の全うさは、以前よりも増し加わっていると言えよう。

筆者の人生の原則は、ただ一つの真実だけを追求するというものであり、それは、神との関係、人との関係だけでなく、あらゆる場所において、貫かねばならない原則であると考える。

そこで、職場を選ぶにも、唯一無二の相思相愛の関係が成立しないような場所に赴く必要はないと考えて、不実な応募はしないことに決めた。相手が不実だから、自分も不実であることが許されると思うのは間違いであって、騙す側に回るくらいならば、騙される側に立つ方がましなのである。

その原則が、間違っていたと証明されたことは一度もない。

そこで、第一審が終わり、筆者が裁判所の近くにとどまり、紛争処理を生きるフィールドに定めようと決意したときにも、当然のごとく、筆者はたった一つの仕事にしか応募しなかった。

しかも、その時、筆者は審理の準備のために、数ヶ月も仕事を辞めていたので、無職となっていた。それまでの筆者ならば、そういう状況で、また新たに就職活動を行わねばならないことを非常に苦痛に思い、不利なスタートとして恐れを感じたであろう。

しかし、筆者にはその時、全く恐れがなかった。それだけでなく、生き方を根本的に変え、目指す方向性を変えようという考えがあったので、それはちょうど良い新たな門出にしか感じられなかった。

さらに、筆者の人生には、財布の中身を決して勘定しないという、もう一つの原則がある。ダビデが王になって人口を数えたことが、罪であると聖書に書いてあるように、筆者は自分の財産を数えないことに決めている。

そこで、いつ何をして働くべきかも、すべて天の采配による。明日のことをあれやこれやと思いめぐらし、懸命に自分の残りの財産を勘定して、損がないように立ち回るなどの計算は全くしない。

だが、歴代の宣教師たちの多くが、そうして自分の生計をすべて主に委ねながら、未開の地に赴き、伝道して来たことを思えば、これは何ら例外的な原則でも、不思議な方法でもない。

神の国とその義を第一にして生きるなら、すべての必要は添えて与えられるのであって、何をして生きるべきか、どうやって日々の糧を得るべきかという問題が、私たちにとって心を悩ませるべき第一義的課題ではないのである。

とはいえ、筆者がバビロン体系の中で生きているうちは、常に嘘や、搾取などといった問題から解放されることはなく、それゆえ、絶えざる困難に悩まされたため、筆者は熟慮の末に、バビロン体系そのものを離れることにした。

そうして、判決を手に新たな任務を探し、新たな場所へ赴き、そこで筆者の裁判を担当してくれた裁判官に、どこかしら似た経歴を持つ上司が、筆者を面接し、その場でただちに内定を受けたのであった。

判決が、まるですべての扉を自動で開けるための鍵のようになって、今までには筆者がどんなに努力をしても、得られることのなかった成果として、新たな進路をもたらしてくれた。

筆者は即日にして、これまでに最長の契約期間を得て、給与の額さえ、自己申告するよう求められた。その上司は、筆者の見栄えのしない履歴書に対し、ディスカウントの言葉を発することは全くなかった。

だが、それでも、筆者はこれを最高の満足とはとらえておらず、すべてはまだ始まったばかりで、この現状で満足してしまっているようでは、前進もないと考えている。さらなる自由、さらなる豊かさを勝ち取るために、進んで行かなくてはならない。

バビロン体系と訣別した以上、筆者の仕事の目的は、もはや自己実現、自己顕示にはない。そういう意味で、この干潟は、筆者にとって休息の場所であり、これまでのように忙しない、生きるためにやむを得ず、馬車馬のごとく働くための「労働」の場所ではない。

筆者は、この干潟のはしくれのような職場にたどり着いてから、一見、頼りなさそうに見える小舟に乗って、そこで船頭の一人のようになって、見張り人の役目を果たしている。舟が危ない岩にぶつかりそうになれば、その都度、警告を発するようにしている。

舟は、筆者の警告を聞き入れて、危険を回避している。こうして、筆者にも、何がしかの役目が与えられ、必要とされていることが分かっているうちは、そこを離れようとは夢にも思わない。

筆者の役目は、自分の労働の成果を誇示して、輝かしい栄達を遂げ、誰かを圧倒することにはない。ちょうど主イエスが、嵐が荒れ狂って、舟に乗った弟子たちが安全確保のために狂奔しているときに、船底で熟睡されていたように、誰からも存在すらも気取られないようなさりげない自然な方法で、舟の安全を守ることにある。

このような働き方は、これまでの筆者の人生にはなかったものである。

労働でありながら、それは安息であって、自分にも、他人にも、安息をもたらす働きである。

他者からの不当な干渉を排除し、自分自身の判断の独立性を保ちながら、自己の望む、真に正しいと信じる事柄を成し遂げるために働く。

徒党を組まず、不誠実な試みには加担せず、独立不羈を貫きながら、それでも、自分一人ではなく、仲間の存在がある。

そのような生き方が成り立つためには、他者と連帯せずに、独立して仕事を進められる自由がなくてはならない。しかも、そこに、仕事そのものが持つ深い意味づけ、筆者の判断が生かされる余地、真実を追求することに価値が見いだされなくてはならない。

さらに職場そのものが、そのような追求に価値を見いだし、これを評価できるところでなくてはならない。

そうした希少な条件が揃った「干潟」が、筆者の人生に出現した。それはまだ完成に至っておらず、本領も発揮しておらず、真の姿には至り着いておらず、船出したばかりであるが、完成体を表す萌芽のようなものが、はっきりと見出され、そこには、筆者と似たような理念、似たような価値観を持つ人々が集まっている。

だから、筆者は彼らと同じ船に乗って、この船の向かう方向性に期待をかけて、そこにとどまっている。おそらくは、一生のつきあいになる可能性もあるのではないかと見ている。

このようなことは、筆者の人生にはこれまで起きたことがなかった。一審で得た判決が、筆者を呪いの言葉から解放し、目に見えない宝を与え、新たな扉を開くための手形のようになってくれたのである。

こうして、筆者の目指す命の川の流れが少しずつ出現している。これはこの先、何年間もかかって完成に至る大型プロジェクトの始まりであって、筆者は地下から大量の生ける水を汲み出すための目に見えない大型パイプラインを建設している最中である。

その生ける水は、筆者が訴訟の最中、裁判所の地下に流れていることを偶然にも発見したものである。訴訟において、筆者は小さな井戸を掘っただけであったが、それだけでも、確かにそこに生ける水が流れていること、これを地上に汲み上げる方法があることが分かった。そこで、筆者は、裁判所の飛び地になっている干潟を探して、これを中継し、地下から地上にこの水を大規模に汲み出すためのパイプラインを作り始めたのである。

もちろん、これは比喩であるとはいえ、比喩とは言い切れない部分がある。判決には人を解放する力があり、人々の切なる訴えが集積している裁判所は、天に向かって人の訴えが届いている場所でもある。人間に過ぎない裁判官も、人々の悲痛な訴えに耳を貸し、自由と解放を与える判決を書くが、神もそれをお聞きになっていることを筆者は疑わない。
 
筆者の抱える訴訟においては、まだ第二審の最初の期日も開かれていないが、筆者の主要な関心は、もはや個人的な係争にはない。警察における手続きも、控訴審の行く末も、筆者の新たな仕事も、やがてはすべてがパズルのピースのように絶妙に組み合わさって、今までになかった新たな形が生まれて来るだろうという気がしている。

今はまだそれがどういう形で起きるのか分からないが、少なくとも筆者は、これまでのように、返済してもしても埋め合わせることのできない負債を返すというむなしい働きのために生きているのではない。ゼロからプラスを構築し、真に正しいと信じられる目的の実現のために働いている。

こうして、干潟に流れるうたかたのように、泥水の中に身を横たえて、上から光を当てられる瞬間をただ待っていただけの、影に過ぎない存在であった筆者が、今や干潟に光を当てて、神秘的作用を自ら引き起こす側に回ろうとしている。

どうしてそんな役目が筆者に回って来たのかは分からない、だが、これはとても光栄な働きであって、何かしら途方もないことが、これから起きようとしていると感じる。筆者はその瞬間に向かって、一人ではなく、他の人々と共に手を携えて進んでいる。

* * *

筆者は10年ほど前、夜行バスに乗って、横浜の街を幾度か訪れた時のことを思う。その頃、この街は、筆者にとって、まさに生ける水が泉となってわき出すために用意された特別な街のようであった。

早朝になって、窓から外の景色を覗くと、窓を開けたわけでもないのに、命の水の流れが、地下だけでなく、地上においても、大気の中に溶け込み、新鮮な空気となって、上から降り注いでいるように感じられた。

駅を歩くだけでも、筆者はこの泉の気配を感じずにいられないほどであった。その頃、筆者は、キリスト者の集会の中に、命の流れの源があるのだと思っていた。兄弟姉妹と共に、手を携えて、これからその泉を地上に流し出す仕事をするのだと考えていた。

その読みは、誤ってはいなかったのかも知れない。だが、その命の流れは、間もなくせき止められ、バリケードで塞がれ、これを受け継ぐ仕事は、筆者にバトンタッチされた。筆者は彼らの舟から失格者のように降ろされたにも関わらず、その仕事は、まさに筆者に受け継がれたのである。

それから何年も経ち、主イエスがスカルの井戸でサマリヤの女に出会われた時のように、筆者は誰も見向きもしないみすぼらしい干潟のほとりで、再び、この泉を発見した。その時、筆者には分かった。生ける命の水の泉を発見する秘訣は、へりくだりにあるのだと。

私たちが、人に捨てられ、誰からも見向きもされず、関心も持たれず、徹底的に侮られ、嘲られ、踏みつけにされ、孤独と、悲しみに暮れて、真のへりくだりに達しないことには、主イエスも、私たちの前に、姿を現すこともできないし、私たちを救うことも、手を差し伸べることもできない。

なぜなら、私たちはあまりにも強すぎて、自信満々で、独りよがりに陥り過ぎていて、常に自己過信し、自己充足し過ぎているためである。その自己過信が取り去られ、自己充足が打ち破られて、私たちが心から本当に主を求めないことには、神でさえ、人をどうすることもできない。

筆者が裁判所から離れたくないと思うのは、いつまでも訴訟にとらわれ、争いを続けたいがためではない。そこで学んだへりくだりから離れたくないためである。自分が最も低くされ、孤独であり、寄る辺なく、助けがなかった時に、神が筆者を見捨てられず、筆者の訴えを取り上げて下さり、筆者を迎える場所を用意し、必要な措置をすべて講じて下さったことの恵みを、片時も忘れたくないためである。

地上の裁判官は、人として束の間、この事件を担当してくれ、一瞬の出会いがあったに過ぎず、地上で筆者が得た判決文の文字も、完全なものであるわけでもない。それゆえ、係争は終わっておらず、判決の約束さえ、未だ完全な実現を見ていない。だが、そんなこととは一切関係なく、神ご自身が、この出来事を通して、筆者の前を通り過ぎて行かれたことを、筆者は忘れたくないし、その感謝に満ちた出来事を、終わらせたいとも、思っていない。

パイプラインの建設が完成に至るためには、おそらくは筆者自身が、第一審が開かれていた時と同じように、絶えず自己を無の立場に置いて、低めることが必要になろう。それは、筆者がただ神にのみ希望を見いだし、自分の何もかもを脇に置いて、この街にやって来た時と同じ心境である。

その頃の筆者は知らなかったが、そのようにして筆者がこの地に招かれたのは、その後、筆者が人の目に偉大な事業を成し遂げるためではなく、その後も、同じへりくだりの中にとどまり続けるためであった。

だから、現在、筆者は、自分が解放されたからと言って、これまで通過して来た大いなる試練を忘れたいとは思わない。最も重要なのは、筆者が解放されたことそれ自体ではなく、筆者を解放しようとして、あらゆる手を尽くしてくれた人々が存在すること、また、彼らの配慮を通して、神の豊かで憐れみに満ちた采配が、今も筆者に降り注いでいることなのである。

だから、筆者は、そのことを心に刻みつけておくために、あえてこの思い出深い場所を離れたくないと考えている。人が苦難の中に、いつまでもとどまり続ける必要は全くないが、人の心の泉は、苦難によって、人の魂に刻みつけられた裂け目から、流れ出す。神に出会うためには、私たち自身が、神と同じほど己を低くすることが必要で、それがなければ、私たちが飽くことなく求めている幸いも、自由も、解放も、決して私たちの人生に真にもたらされることはないのである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

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わたしが、あなたと争う者と争い わたしが、あなたの子らを救う。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。」

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

* * *

8月15日を境に秋の気配が漂うようになった。夏が去ってしまうことが名残惜しい。

今年の前半はほとんど審理の準備に費やされたが、筆者の人生はそれによって停滞することなく、実人生においても、これまでにない大きな前進と収穫があった。

裁判で学んだ様々な有益な教訓を活かして、人々を助けるために、社会との新たな接点や、新たなミッションが与えられたからである。

一審判決が言い渡された時には、地球上にたった一人の裁判官以外には、筆者の主張を認める人もないかのように見えたが、たった一人であっても、信頼と協力を打ち立てることのできる人間が現れたことの意味は大きく、これを突破口のようにして、その後、援護者、協力者が増えつつある。

今や様々な人々と円滑な協力関係を築きながら、事件の解決へ向けて、物事を進められるようになった。気軽な世間話のように、この事件の行く末に関して論じ合うことのできる日も、そう遠くはないであろう。

それは世の人たちであって、信仰者ではないが、筆者はこの地にやって来た時から、ここを生ける水の川々の流れ出す場所にしたいという願いを持っていたので、人々との間で、真実で偽りのない信頼関係、協力関係が築かれつつある有様を見ると、その願いが、少しずつであるが、実現していると思わずにいられない。

紛争は、筆者を絶望に追いやることなく、かえって、一見、厭わしく、みすぼらしく、無益のように見えるこの「干潟」を中心に、そこから流れ出す命の泉が、確実に周囲を潤し、人々の心の思いや、関係を変えて行くようになった。紛争を機に、静かに、そして人目にはつかない形で、確実に社会のあり方が変わって行くのである。

控訴審が開かれるのは、秋になろうが、昨年に比べ、筆者の荷は軽い。相手方が遅れに遅れて出した書面も非常に軽いが、それだけではなく、今や筆者は、様々な重荷を自分の手から離し、その本来の持ち主にお返しする方法を学び始めた。

重荷を減らすためには、これを本当の持ち主に返還するのが一番である。主イエスは、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われたのであるから、負うことが困難なほどに重い荷がやって来れば、それは主から来たものではないものとして、持ち主をよく調べて、真の受取人にお返しすべきである。

控訴審の荷が軽いのは、主がすべてを筆者に負えるよう采配して下さっていることはもちろんのこと、判決が守りの盾となっているからでもある。

一般に、法律家でもない素人が、新たな証拠もなく、判決を覆すのは、まず無理だと言って差し支えない。だから、判決を不服として控訴する者は、判決と戦っているのであって、事件の当事者と直接、戦っているわけではない。

その上、筆者は、キリスト者を訴えられる者は誰もいないという聖書の御言葉を繰り返し引用しているのであるから、そのバリアを破ろうとする不遜な試みは、聖書の御言葉そのものに逆らい、これを破ろうとすることを意味するわけで、神を相手に戦いを挑んでいるようなものである。

そういう試みの結果、生じる途方もない重荷は、その本人のみが負えば良いものであって、他の人たちには関係がない。アナニヤとサッピラが、聖霊が定めた境界を欺きによって乗り越えようとして、エクレシアの戸口で神に討たれて死んだように、不遜な試みは、ただ失敗に終わるだけではなく、必ず、何かの恐るべき報いを伴うこととなる。

筆者はそのようなことが起きないように、モーセが燃える芝の前で靴を脱いだように、自分の超えてはならない分を超えて、立ち入るべきでない領域に足を踏み入れないよう、聖なる領域の前で、心の靴を脱ぐ。

筆者自身も、判決の変更を求めている部分があるが、筆者は、裁判官の下した判断と戦うのではなく、むしろ、判決と筆者の主張の両方を土台に、新たな共同作品を打ち立てるつもりでいる。

そのために一審において言い尽くせなかった新たな主張を加え、新たな証拠を提出し、数ヶ月間を費やし、書面を作成した。ちなみに、高裁では、裁判所ではなく、「裁判体」という言葉が多く聞かれるが、複数の裁判官が事件を裁くわけであるから、その意味でも、新たな判決は共同作品となる。

だが、筆者にとって、一審判決は、まだ筆者の主張に味方する者も、これを公に認める者も、助けの手を差し伸べてくれる者も、ほぼ皆無に近かった頃に下されたものであるという意味で、一人の善良な裁判官の残してくれた、忘れ形見のように、かけがえのないものである。唯一無二の「オーダーメイド」の判決と言ってもよく、これを無に帰するようなことは決してしたくはない。

聖書にはこうある。

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(一コリント15:54-57)

この御言葉は不思議である。なぜなら、朽ちるものと、朽ちないものとの間には、接点はなく、それはどこまで行っても、異質なもののはずである。ところが、聖書は、朽ちるものの上に、朽ちないものが着せられ、死は勝利に「のみ込まれた」と言う。

ここに、筆者の言う「上書き」の原則もある。

一審判決には、幾分か、死の棘がまだ残っている。この小骨のような棘を、敵の主張と共に飲み込み、上書きする過程で、取り除いて行くのである。

それはちょうど壁に塗られたペンキの剥げた部分を丁寧に塗り直しながら、壁全体を新たな色に塗り替えて行くようなものである。

筆者の主張の中で、欠けている部分を補い、古いもの、過ぎ去るべきものを、新しいもので上書きし、覆い、造り変える。

それによって、判決にも新鮮な生きた新しい命を吹き込み、新しい命が、古いものを覆い尽くし、みすぼらしい部分、恥となる部分、瑕疵となる部分は消えて、見栄えのする部分、光栄な部分、完全な部分に変えられる。

どうしても造り変えを拒むようなものも、新たな命に飲み込まれ、覆われて消える。

このように、自らの主張と判決とを合わせて補強・上書きし、さらに新鮮な命の通うものにして行くことができると筆者は信じている。

だが、そうこうしているうちに、おそらくやがて紛争自体が、命によって飲み込まれ、上書きされ、消えて行くだろう。

たとえば、昨年は、筆者は審理を進めることを第一目的として仕事をしていたが、今年は、仕事も審理と同じほど重要になったので、これを守りながら、審理を進めて行くこととなる。そのことは、次第に、紛争が筆者の人生に占める割合が減って来ていることを意味する。これが進むと、やがて実人生の方が、紛争よりもはるかに重いものとなる。
 
そうなる頃には、判決も、筆者の書面も、何もかもが、もはや過ぎ去ったものとして、足の下となり、人生が紛争から解放されることとなる。論敵の主張などは、無かったもの同然に忘れ去られ、消え去ることであろう。

だが、そうなっても、この事件に生きて関わってくれた多くの人々の存在は、筆者の中で、かけがえのない貴重な財産として残るに違いない。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:40-42)

筆者を受け入れ、助けてくれる人たちは、神の御前に覚えられ、筆者と同じ報いを受ける(=似たような性質が分与される)。また、筆者自身も、彼らから何がしかの性質を受け、そこで「命の交換」が行われる。

筆者が紛争を通して裁判所や警察に関わり、それによって彼らの仕事の内容を知り、それが筆者の血肉のようになって、紛争が終わっても、そこを立ち去ることなく、筆者の生きるフィールドに定めたいと願ったように、筆者に関わった人々も、信仰者でなくとも、筆者から何か大切なものを受ける。(むろん、筆者の与えられる最高のものは、キリストご自身である。)

このようにして、何がきっかけであるにせよ、新たな命の通う、真実で、良き関係を築くことは可能なのである。

今や筆者は紛争の当事者という立場を離れ、これを天高くから、まことの裁き主と一緒に、見下ろす立場に立とうとしている。天の御座に就いておられる方が、地上におけるすべての物事をはるか足の下に見下ろすことができる視野を与えて下さる。

だから、筆者は自分の人生を、紛争から徐々に解放すると同時に、より自分自身という一人の限界ある人間の立場を離れて、物事を見るよう促されている。少しずつではあるが、筆者はこれまで絶え間なく行って来た「モーセの書」の作成とそのための議論から解かれ、膨大な書面からも解かれて、顔を上げる。

その時、私たちは、サタンの訴えの前に必死になって自己弁護を行う当事者の立場を離れ、むしろ、モーセの書を事件ファイルのように手にしながら、まことの裁き主なる神と共に、地上のすべてのものを足の下に治め、敵(サタン)を目の前に、私たち信じる者には勝利を、敵には敗北を力強く宣告することになる。

そうなるまでの間、筆者はこの紛争から、学べるだけのものを学び、これを糧として吸収し、その教訓を活かして、自分以外の人々にも利益をもたらす秘訣を探ろうとしている。それができるようになった頃、この紛争はすっかり終結して、誰にも用のない抜け殻のようになって、消えて行くことになろう。

紛争によって筆者に重荷をもたらそうとした者たち、また、その渦中で筆者を見捨てて行った者たちが、その頃、どこでどうなっているか、筆者は知らない。可能な限り、筆者はそうした人々をも、敵に引き渡すことなく、取り返したいと願っているが、仮に彼らが戻って来なかったとしても、その代わりに、新しい人たちが筆者の人生を占め、にぎわせるだろう。

筆者が以下の御言葉を引用したのは、2018年2月のブログ記事「十字架の死と復活の原則―敵のあらゆる力に打ち勝つ御名の絶大な権威を行使し、サタンを天から投げ落とし、イエスの命を体に現す―」のことである。

それから今まで、筆者は猛特訓を受けて、勇気と力を与えられた。筆者の人生においては、以下の御言葉における多くの事柄が成就したものと思う。

「主のほかに神はいない。
 神のほかに我らの神はいない。

 神はわたしに力を帯びさせ
 わたしの道を完全にし
 わたしの足を鹿のように速くし
 高い所に立たせ
 手に戦いの技を教え
 腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。

 あなたは救いの盾をわたしに授け
 右の御手で支えてくださる。
 あなたは、自ら降り
 わたしを強い者としてくださる。

 わたしの足は大きく踏み出し
 くるぶしはよろめくことがない。
 敵を見、敵に追いつき
 滅ぼすまで引き返さず
 彼らを打ち、再び立つことを許さない。
 彼らはわたしの足元に倒れ伏す。
 
 あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ
 刃向う者を屈服させ
 敵の首筋を踏ませてくださる。
 わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。

 彼らは叫ぶが、助ける者は現れず
 主に向かって叫んでも、答えはない。
 わたしは彼らを風の前の塵と見なし
 野の土くれのようにむなしいものとする。
 
 あなたはわたしを民の争いから解き放ち
 国々の頭としてくださる。
 わたしの知らぬ民もわたしに仕え
 わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い
 敵の民は憐れみを乞う。
 敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。

 主は命の神。
 わたしの岩をたたえよ。
 わたしの救いの神をあがめよ。

 わたしのために報復してくださる神よ。
 諸国の民をわたしに従わせてください。
 敵からわたしを救い
 刃向う者よりも高く上げ
 不法の者から助け出してください。
 
 主よ、国々の中で
 わたしはあなたに感謝をささげ
 御名をほめ歌う。
 
 主は勝利を与えて王を大いなる者とし
 油注がれた人を、ダビデとその子孫を
 とこしえまで
 慈しみのうちにおかれる。」(詩編18:32-51)

以上の御言葉の後半はこれから成就しようとしている。報復の時、敵に対する裁き、敵の敗北、そして、キリスト者の完全な勝利は、これからもたらされる。

だが、それと同様に、筆者の心の中にはいつも次の聖句がある。テーマは「失われたものの回復」である。

「島々よ、わたしに聞け
 遠い国々よ、耳を傾けよ。
 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。

 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
 わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
 わたしに言われた

 あなたはわたしの僕、イスラエル
 あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

 わたしは思った
 わたしはいたずらに骨折り
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。

 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。

 主の御目にわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、わたしの力。

 今や、主は言われる。
 ヤコブを御もとに立ち帰らせ
 イスラエルを集めるために

 母の胎にあったわたしを
 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。

 わたしはあなたを僕として
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

 だがそれにもまして
 わたしはあなたを国々の光とし
 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

 イスラエルを贖う聖なる神、主は
 人に侮られ、国々に忌むべき者とされ
 支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。

 王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。
 真実にいますイスラエルの聖なる神、主が
 あなたを選ばれたのを見て。

 主はこう言われる。
 わたしは恵みの時にあなたに答え
 救いの日にあなたを助けた。
 わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて
 民の契約とし、国を再興して
 荒廃した嗣業の地を継がせる。

 捕らわれ人には、出でよと
 闇に住む者には身を現せ、と命じる。

 彼らは家畜を飼いつつ道を行き
 荒れ地はすべて牧草地となる。

 彼らは飢えることなく、渇くこともない。
 太陽も熱風も彼らを打つことはない。
 憐れみ深い方が彼らを導き
 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。

 わたしはすべての山に道をひらき
  広い道を高く通す。

 見よ、遠くから来る
 見よ、人々が北から、西から
 また、シニムの地から来る。

 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。
 山々よ、歓声をあげよ。
 主は御自分の民を慰め
 その貧しい人々を憐れんでくださった。

 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。

 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。
   あなたの城壁は常にわたしの前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃虚とした者はあなたを去る。

 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。
 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。

 破壊され、廃虚となり、
 荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子らは
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕らえられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。

 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を地につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう。

 そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。

 主はこう言われる。
 捕らわれ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。
 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。 」(イザヤ書第49章)


実際に、神は力強い助け主として、筆者と共にいて下さり、多くの人々を筆者の前に連れて来て下さっている。筆者はこれらの人々を花嫁の帯の飾りのようにつなぎ合わせながら、心に思う、「私は助けのない状態に、一人で置かれていたはずなのに、この人々はどこから現れたのか」と。

さらに筆者はいつか周囲を見渡してこう思うだろう、「私たちにはもっと広い場所が必要だ。ここは住むには狭すぎる」と。その願いは筆者の内にすでに生まれている。

主がどのような形で、今後、信じる者の人生を豊かに満たして下さるかは分からないが、筆者はすでに泉のほとりに導かれた。判決が守りの盾になるように、まして神の御言葉は、私たちの揺るぎない強固な防衛の砦であって、これにより頼む者と争う人は、主ご自身と争うのである。

だから、そのような争いには主ご自身が応えて下さり、私たちはその重荷を負わなくて済む。

改めて、筆者はこの年の後半、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」という御言葉の意味を知りたいと願っている。
  
「書類から人へ」のシフトは、ゆっくりではあるが、確かに進行中で、干潟に流れるうたかたのように、紛争もゆっくりと終わりに向かっている。
 
神に望みを置く者が恥を受け、敗北に終わることはない。その御言葉は、真実であるから、主が筆者の人生をどのように豊かな宝で満たし、飾って下さるのか、楽しみにしている。  

流れのほとりに植わった木のように

主にある大切な私の姉妹へ

昨夜は感謝でした。何時間、話していたことでしょうね(笑)!? 一緒に祝っていただけて、本当に嬉しかったです。できるなら、手を取り合って喜びたかっ た。主がこのようにまで隠し立てなく、真実を持って話し合える姉妹を私に与えて下さったこと、私のためにキリストの命を真剣に注ぎ出して下さる方をお与え 下さったこと、心から主に感謝しています。

姉妹のおかげで、今はとても心強く感じていますよ。次には、ぜひ夜っぴて語り明かす機会が与えられるよう願います。たとえ何も語ることがなくとも、一緒にいるだけで主は喜ばれると信じていますけれども…。

お話したように、何かしら、深い闇がクリスチャンを覆っているような虚しさを覚えて、非常な孤独を感じておりました。まるで分厚い幕を隔てて向き合ってい るように、真実を述べても、それが全く空振りに終わるような、手ごたえのない虚しさを…。私たちが直面している戦いの意味を、ほとんどの人たちには理解し てもらえないと感じるだけではありません、目に見えるものが、急速に(時は縮まっていますね!)偽りに変わってゆくのを、目の前で見させられている驚 き…。分かっていても、止めようがありません、多くの人たちが道を踏み誤るでしょう。とりこにされる者はとりこにされていかなければならないのでしょう。

今の時代、本当に主が大切にしておられるものは、ますます覆い隠されていっているのかも知れませんね。こうして、公に言葉を述べたり、公に集まることので きる時代も、もうすぐ終わろうとしているように感じられます。今までも、あまりにも大勢のクリスチャンが、いわゆる組織としての教会からは見捨てられ、追 い出されて来ました。公の会堂への背教の影響はこの先、さらに強くなるでしょうし、真理そのものが公の場から取り去られようとしています。教会が地下化 し、主の御名の2,3人の集まりへと砕かれて行っていることも、確かではないかと思うのです。

しかし、公の場を覆う暗闇は深まっても、隠れたところで隠れたことを見ておられる神は確かに働いておられます。姉妹がおっしゃったように、主はザアカイの 人生に個人的に現われ、サマリヤの女に個人的に現われられたように、人知れぬ場所で、個人の信仰に答えて、確かに働きを続けておられ、御心にかなう人々を 今も個人的に召し出しておられると思います。私の今の生活も、私たちの交わりも、そのようにして与えられたものでした。

私の信仰生活も、兄弟姉妹との交わりも、新たな局面を迎えているのが感じられます。既存の目に見える公の体制からは、急速に命が失われる一方で、隠れたと ころでは、未だかつてなかった新しいことが始まっているという感じを受けています。それが何なのか、まだはっきりとは分かりません、全てが手探り状態で、 まだ先が見えません…。この道には、御霊の導き以外のレールはないようです。死んだ文字の教本ではなく、生きた視聴覚教材が、主の配剤により与えられて、 実地で学ぶよう申し渡されています。

まだ分からないことは多いですが、主を頼りに、主を信じて、この人生を、主と共に歩んでいきます。この先、霊的な闇は深くなり、迫害も、無理解も、一層、 激しくなり、もしかすると、再び、完全な孤立を通らされることさえ、あるかも分かりませんが、その一方では、地にしっかりと足をつけて、ごく普通の社会生 活を営み、良き家庭人として、キリストにあって、真に人間らしく、平凡な人生を、健やかに生きていきたいと願うのです。

「だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。 」(マルコ10:30)

これは大いなる矛盾のようですが、矛盾ではありません。昨日も、兄弟に笑いながら話したのですよ、「今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受ける と、御言葉にはっきりと書いてあると。主によって人生を焼き尽くされた時に、あるいは、故郷を後にした時に、私は家も、父母も、姉妹も、畑も、全て捨て て、身一つで旅立って来ました。その後も、迫害や困難が続いています。けれども、御言葉は約束してくれています、今この時代でも、私たちは主のために捨て たものを、「迫害と共に」、主から受けると!

ですから、ハレルヤです、私たちは追いつめられて、時に孤独を感じ、無力を覚えることも多いですが、同時に、この人生において、主が確かに私たちを見捨て てはおられず、祝福をも与えて下さることを知るのです。もちろん、全部いっぺんにとは言いませんし、それはひそやかに与えられる恵みかも知れませんが、と にかく、全ては添えて与えられるでしょう、仕事も、家庭も、その他一切の恵みもね!

霊的な戦いとは、私たちが自分の力で何かに立ち向かっていくことを意味しません。試練の中で、私たちがより一層、真理にとどまり、真理を自分自身のうちに 作りこまれることが、戦いの主たる目的の一つなのです。私たちがキリストの十字架の勝利に依拠し、十字架で自己を否み、子羊の血潮にとどまり、真理を証す る言葉を世に示し続けることにより、暗闇の力に打ち勝つこと。そうして、私たち自身が真理の生きた見本となり、暗闇に打ち勝つ世の光となること。それによ りキリストの主権が地に確立すること。それが戦いの主要な目的なのです。

真に御心に沿って生きるなら、試練と共に、必要な恵みも、全て与えられるのです。私たちは自分の願いにしがみつくことはしませんが、それでも、キリストに あって、真に健やかな人、真に人間らしい人として、アダムの命ではなく、キリストの命によって、常に新しく生かされる新創造とされる特権、兄弟たちとの愛 による一致の中で、健やかに、平和に生きていく特権を与えられていることを疑いません。それを可能にして下さったのが御子の十字架の御業なのです。

まだまだ足りないものが沢山あります。まだまだ十字架の御業の深さをほとんど知りません。でも、全てはこれからですよ。主に向かって口を大きく開けて、神 の愛の深さを、神の知恵の多様さを、神の家族の一つを、さらに強く知らせていただきたいと願います。栄光が主にとこしえにありますように。
                     あなたの姉妹 ビオラより
 
「悪しき者のはかりごとに歩まず、
 罪びとの道に立たず、
 あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
 このような人は主のおきてをよろこび、
 昼も夜もそのおきてを思う。

 このような人は流れのほとりに植えられた木の
 時が来ると実を結び、
 その葉もしぼまないように、
 そのなすところは皆栄える。

 悪しき者はそうではない、
 風の吹き去るもみがらのようだ。
 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
 罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。

 主は正しい者の道を知られる。
 しかし、悪しき者の道は滅びる。」(詩篇第一篇)


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☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

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