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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

キリストの身体の一つについての覚書


「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、
 死なば多くの実を結ぶべし」(ヨハネ12:24)


「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。
神の怒りに任せなさい。
それは、こう書いてあるからです。
「復讐はわたしのすることである。
わたしが報いをする、と主は言われる。」
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。
渇いたなら、飲ませなさい。
そうすることによって、
あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
悪に負けてはいけません。
かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)

人の自己が地に落ちて死ななければ、
永遠に至る実は決して結ばれない。
…そのことをあらゆる機会に
確かめさせてもらっています。

しかし、地に落ちるなら、そこから死を補って余りある多くの実が結ばれるのです。

この死とは、肉体の死ではなく、人の古き自己全体に適用される十字架における霊的な死です。

人には数々の場面で、主張できる「自己の正当性」があります。

立派な教育を得た人間が、物事の見方、人間洞察力に関して、
誇ろうと思うなら、いくらでも、まことしやかな話を作り上げられるでしょう。

理不尽な事件に出遭った時には、もちろんのこと、人の手には
自分を守るために作り上げた「立派な正論」があるでしょう。

情に訴えて、自分を悲劇の主人公のようにみせかけ、
他者の同情を引く技術に長けた人たちも大勢います。
  
物事が悪くなった原因を自分以外のところに見つけることにおいて、
 人の頭脳はまさに天才的な業を持ちあわせています。

そして、カルト被害者救済活動を率いる人々が、絶え間なく、
自分の失敗を他人に転嫁しては、「自分は被害者」だと居直る場面を
私は幾度も見せられて来ました。

こういう人々は、他人の中にある「私は被害者だ!憐れまれて当然だ!」
という感情を刺激し、不満を軸にして人々を結集させ、
悪をやっつける正義の味方のように行動しようとします。

彼らは常に他者を懺悔させることに喜びを見いだし、
その一方で、自分だけは決して責められることはないと思っているのです。

しかしながら、よくよく確かめてみると、こういう人々は昔からずっと
他者にばかり濡れ衣を着せ、責任転嫁を繰り返しながら、
卑劣で自己本位な活動を繰り広げて来たことが分かります。

人を貶め、懺悔させることに、彼らは悦楽を見いだしているのです。

そういう人々が、正義の仮面をつけて行動していることの忌まわしさを
私たちはよく考えてみなければなりません。

そして、どんなに義憤に駆られる瞬間があっても、決して
彼らの行動にならわないようにする必要があります。

なぜなら、以下のような人々は、自分自身が神のような裁き主だと思い込み、
もはや自分自身が神の御前に罪人であるという事実すら、忘れてしまっているからです。

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展 
――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~

罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか
――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による
多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――

  
主の御前で、人の「正当性」ほど、役に立たないものはありません。
どんなに人が自分を振り返って、仮になんらの罪を見出せなかったとしても、
(そのようなことは極めてまれだと言わざるを得ませんが、)
それでも、主は人を懲らしめられる時があるのです。

それは、人が神の愛する子であり、神が父としてその人を訓練なさるからです。

そういう時、人に求められているのは、主の懲らしめの御手の下に
徹底的に従順にへりくだること。
そして忍耐を持って、ただ主が与えて下さる解決だけを待ち望むこと。
どんなに時間がかかり、どんなに苦しんだとしてもです。

ところが、性急な人の自己にはそれができません。
 人の自我は自分が蔑まれたり、苦しめられることに耐えられないのです。
だから、人は主の御手の下から何とかして逃げようともがきます。

それは仕方のないことであり、人の本性が現れているだけです。 

けれども、自己を対処なさるのは主の側からのわざであり、
もし人がそれに同意さえするならば、主はみわざを完成されます。

もがいても、もがいても、主の御手からは逃れられないので、
何の解決もなく、やがて人の自己の力尽きる時が来ます。
 
その時、人は主の御前で「降参!」を叫びます。
そして、それまで身を守るために作り出してきた
「あれやこれやの正論」を捨て去ります。

そして「私は正しい」と思ってきた考えを、放棄し、
 主の御前に、「私も罪人の一人です!」と叫ぶのです。

これが「塵と灰の中で悔い改めます」という義人ヨブの叫びです。
 
しかし、ヨブが義人と呼ばれているように、
そうして神の御前に自己の正当性を放棄したことによって、
神はその人を見捨てられるのでしょうか?

その人の苦しみや弱さを忘れ、その人を虐げた悪者を忘れられるでしょうか?

不正義に加担して、弱い者が圧迫され、罪を着せられることを黙って容認されるのでしょうか?

いいえ、そんなことは決してありません。

むしろ、その時、その人の義は、自己の義から神の義に変わるのです。

自己の義はどんなに振りかざしても意味のないものですが、
 これを十字架につけた瞬間から、その人は神の義を帯びるようになるので、
その人の置かれている戦いが、人の手から、神の御手に移行するのです。

主からの圧倒的な愛と憐れみが人に注がれます。

人はもはや自分自身の手で敵に手を下そうとはしません。
しかしながら、敵に対しては、神自らが容赦のない報いを宣告されます。
神は侮られるような方ではないからです。

人がもし御言葉に服するならば、神がその人の正当性を証明なさるのです。

神はご自分だけを頼って御もとに身を寄せた者を決して見捨てられることのない方です。
 
神は「復讐するのは私である。だから、私に任せない」と言われるのです。
  
そこで、神が報復して下さるためにも、人は自己の正義をいったん、手放す必要があるのです。
 
カルト被害者救済活動に関わる人々には、この十字架の死を通るという過程がありません。
だから、彼らの主張は、人間的な観点から見て、
どれほど正しく見える場合にも、 決して神が擁護して下さることはないのです。

そこで、結局、彼らの主張は、混乱と争いを生むだけに終わります。

しかしながら、筆者が自分の人生を振り返っても分かることは、
もし筆者自身が、自己の義を手放し、
キリストの十字架の死に身を置くならば、
神は筆者が侮られるままにしておかれることはなく、

筆者に対して不当に立ち向かって来たすべての人間に対して、明らかに、
神ご自身が報いをもたらされて来たということです。

注意しなければならないのは、自己の義を放棄するとは、
御言葉の正当性まで主張するのをやめるということではありません。
自分が通って来た出来事の全てを忘れ去り、なかったこととして
闇に葬るということとも違います。

ただ「自分が被害を受けたから」、「自分が傷つけられたから」、
「自分が貶められたから」という自分の利益を中心とした物事の主張の仕方をやめるということです。

そして、神が物事をどうご覧になるのかを聖書的な観点を頼りに探り出し、
御言葉に立脚して、神の権益の観点から物事の是非を訴える方法に切り替えるということです。

要するに、御言葉を根拠に、神に御言葉の正しさを、ご自身の正当性を証明して下さるように求めるのです。

まあ言えば、筆者の主張を完全に御言葉の中に入れ込んでしまうのです。
自分を神の中に隠し、御言葉を根拠に、神が守って下さることを要求するのです。
 
神の報復が現されるまでには少しばかり時間がかかります。
 
それは筆者自身とは関係ないところで、あたかも偶然のような形で
その人たちの人生に報いとして降りかかります。

例をあげましょうか?

筆者の貧しさをあざ笑った人は、自分の家を失いました。
筆者に対して、自分の役割を勝ち誇った人は、病に倒れ、死にました。
筆者に対して異端者の濡れ衣を着せた人は、自分の職業的な高い地位を失い、
かつ、自分を神として、自ら異端の伝道者となりました。
そのようなことになったのは、神がその人に惑わす霊を送られたからだとしか考えられません。
神を敵に回した人には、学歴も教養も社会的地位も、何も守りの盾となるものはないのです。

他に、筆者がある活動の機会を望んでいた時に、その機会を与えようとしなかった人は、
自分自身が活動家として全く役に立たなくなりました。
自らの結婚を人前で堂々と誇っていた人々が子供を失うということもありました。

こうしたことは、すべて筆者とは関係ないところで起きていることで、
筆者が彼らと直接の関わりを全く持っていない時期に起き、
しかも、風の便りのように他の信者を通じてもたらされるニュースでした。
 
筆者は他人の不幸を聞いて喜ぶことは決してしませんが、
しかしながら、このようなニュースを聞くとき、
「ああ、やはりそうなったか」という
思いを禁じ得ませんでした。

それは、聖書が言う通り、神は驕り高ぶる者を遠くから見分けられ、へりくだる者に恵みを授けられるからです。高ぶりというのは、その本人には分からないが、周りの人々には遠くからでもよく分かるのです。

もし人が主以外のものを誇るなら、主は多くの場合、それを取り上げられるか、もしくは、壊されるという結果になります。それが人の交わりであろうと、自分の財産であろうと、欲望であろうと、キリスト以外のものを誇っている人々は、次の瞬間、その誇りとするものを失うことになります。
 
神の御前で慎ましくへりくだって自己主張をしなかったエクレシアに対し、
己の栄華を勝ち誇ったバビロンに対する滅びの宣告を思い出さないわけにはいきません。

いずれにしても、
筆者を呪って無傷で済んだ人間はおらず、
筆者を陥れて、自分が凋落しなかった人もおらず、
筆者を嘲笑した人間には、別の方面からの嘲笑が降りかかったのです。

その人々は、筆者を踏みつけにしたとき、筆者があまりにも弱く見えたので、
自分たちは余裕で勝ったのだと高笑いしていたものと思います。
筆者が抵抗しなかったのは、神が働かれる余地を作るための
故意の行動であることが見抜けなかったのです。

そこで、少し間を置いて、主が彼らに報いを下されました。
それは彼らの自滅、凋落、異端化、大切なものを失うこと、などなどの形で証明されて行きました。

多分、そのことはこれからも不思議な方法でずっと証明されて行くでしょう。

最近も、筆者は自分で告発しないために、キリスト教界で起きたある事件に
言及するのをやめましたが、
それを見て、これは筆者が負けを認めたのだ、牧師制度に譲歩したのだ、
キリスト教界の方がやはり正しかったのだ、と考えて喜び、
あざ笑っている人々がいるとすれば、

そのような人々は、当該人物にこれから起きる末路をよくよく観察して下さい。
今までそのようなケースで無事に終わった人は誰一人ありませんので。

こうしたことは主の驚くべきみわざで、筆者の意志を超えたところで、
神がなさっているとしか思われないことの連続です。
 
上記に挙げたカルト被害者救済活動の二人の支持者もそうですが、
初期の頃には、筆者の意見に賛同せず、彼らの活動を支持していた人々は大勢いましたが、
今や、彼らの支持者はクリスチャンの間にはほぼいなくなりました。
すでに信仰を捨てた者だけが、この人々の活動を支持しています。
 
自己の正義を主張するのか、神の義の中に隠れるのか。
それによって人の命運は大きく変わります。

多くの人々は、神の復讐などない、自分が立ち上がらなければ、
誰が擁護してくれるのか、と思っていますが、それは間違いです。

筆者自身は、この世の手練手管に長けているわけでもなく、
自分の周りに人数を集めてこれを組織することによって
自己防衛をはかろうとしたこともありません。

そういう人間が自分で自分を守るのは困難だと人は思うことでしょう。
しかし、主が絶えず私を守り、すべての危難から救い出し、
私に対抗する人に、直接、報いを注いで下さったのです。

権勢によらず、能力によらず、神の霊だけに頼って
物事を成していく時、人にどんな力があるのかないのか、
といったことは何の障害にもならないのです。

ですから、 自分で復讐するよりも、神の復讐に任せるのが、
一番、安全な道です。
  
神が報復して下さるために、あえて十字架の死にとどまって、
神の復活の力がそこから輝き出るのを待つべきなのです。

その時、失ったものをはるかに超える価値あるものを、
必ず、神は虐げられ、蔑まれた人のために用意して下さいます。
  
十字架の死は復活の前提なのであって、単なる死として無駄に終わることはありません。

神の義が人の義を上回らないこともありません。

そのことは、これまでの経験からほぼ確実に言えます。
  
クリスチャンを罪に定め、人を自分の前に懺悔させては
それを悦楽として生きる人々に与しないことです。
そのような呪われた所業をずっと繰り返していると、
いつか必ず、その人は自分が足元に跪かせた人間よりも、
もっとひどく決定的に自尊心を傷つけられる形で、
大勢の人々の前でさらし者とされ、嘲笑されながら、
ハマンのように絞首台にかけられることになるでしょう。

絞首台に吊るされたのは、モルデカイではなく、大臣ハマンだったのです。
これが実現するために必要だったのが、王妃エステルがキリストと共なる十字架の死に赴くことでした。彼女は神の御言葉の正当性を主張するためならば、自分の死をも厭わなかったのです。これは信者のキリスト共なる十字架の死の予表です。

神はこのような人々の信仰を喜んで下さいます。
 
神はご自分の民が誰であるかを知っておられ、これを瞳のように守られるのであって、主の民を踏みつけにした悪党を放置なさることはありません。異端者への裁きも昔から滞ることなく行われています。
 
筆者は、自己の義に基づいて、クリスチャンに濡れ衣を着せようと
訴え続けて来た人々に、神がどういう末路を用意されるのか、
非常に興味深く見守っています。
これらの人々の人生の末路をよく目を開いて見て、学ぶことです。
これまで神に敵対して、人生が無事に済んだ人は誰もいないのです。
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あだを報いられる神よ

我が主よ、私は自分の義にはより頼みません。私の行いにもより頼みません。私の思いにも、感情にも、立場にも、義憤にも、愛にも…。私の最も美しい理想でさえも、あなたは十字架で死に定められたのです。アダムの命に属するものは全て、キリストの十字架で死に渡します。

主よ、告白します。私が主の戦いのためにどんなに迫害され、何をなげうったとしても、その犠牲も、虚しいものです。あなたのために捧げた犠牲のどれ一つとして、私を義とするものはありません。

主よ、我が義はキリスト、あなただけです! 罪ある私たちのために、罪なくして十字架にかかられた尊い贖いの子羊、ただあなただけが私たちの義です! あなたの血潮は、あなたの御前に罪を認めて進み出る者のために、今日も、そして永遠に流れています!

羊の門は主イエス・キリスト、この方以外にありません。この方の十字架の血潮を通らずして、私たちには罪から逃れる方法はありません。門以外の所から入って来る全ての人は強盗であり、殺人者なのです。

私たちは子羊の血の中に隠れます。どうか私たちの罪に満ちたアダムの命に対して、キリストの十字架を実際として下さいますように、私たちの自己の罪深さ を、そして、人の生まれながらの思いや計画が、たとえどんなに理想的に見え、どんなに正しく聞こえようとも、その全てが汚れており、神の知恵に逆らった虚 しいものであることを、教えて下さいますように。

主よ、私たちは自分の義を否定して、ただあなたの義だけにより頼んでお願いします、御言葉を成就し、神の裁きの正しいこと、悪しき者の最後が滅びであるこ とを、全世界の前ではっきりと見せて下さい。神の権威に逆らって、己の欲望を神とし、高ぶって偽りを述べる不義なる者に、どうか、何重にも、あなたが叱責 の言葉を下して下さいますように! その言葉が偽りであり、その欲望が罪であることが世に公然と明らかにされますように!

主よ、私たちも大いなる罪人として主の御前に出ます、私たちは子羊の血潮の中に立っています。どうかあなたが私たちの罪を血潮によって清めて下さいますよ うに。自己の汚れから救って下さいますように。私たちが一瞬でも自己に信頼し、自己をより頼もうとしたその罪をお赦しください。しかし、御血に隠れる者全 てをあなたが義として下さいますように。そして、血潮を否定し、十字架を否定し、己を神とする者たちの罪を明らかにして下さいますように。それにより、全 ての膝がかかめられ、全ての肉なる者が御前に静まり、ただあなただけの栄光が誉め讃えられますように!

主よ、私たちは塵に過ぎません、あなただけが誉め讃えられるべきお方です!私たちはキリストの主権に服し、膝をかがめてあなたを誉め讃えます。

「あだを報いられる神よ、主よ、
 あだを報いられる神よ、光を放ってください。
 地をさばかれる者よ、立って
 高ぶる者にその受くべき罰をお与えください。

 主よ、悪しき者はいつまで、
 悪しき者はいつまで勝ち誇るでしょうか。
 彼らは高慢な言葉を吐き散らし、
 すべて不義を行う者はみずから高ぶります。

 主よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、
 あなたの嗣業を苦しめます。
 彼らはやもめと旅びとのいのちをうばい、
 みなしごを殺します。

 彼らは言います、『主は見ない、
 ヤコブの神は悟らない』と。
 民のうちの鈍き者よ、悟れ。
 愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
 耳を植えた者は聞くことをしないだろうか、
 目を造った者は見ることをしないだろうか。

 『もろもろの国民を懲らす者は
 罰することをしないだろうか、
 人を教える者は知識をもたないだろうか。

 主は人の思いの、むなしいことを知られる。
 主よ、あなたによって懲らされる人、
 あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。
 あなたはその人を災いの日からのがれさせ、
 悪しき者のために穴が掘られるまで
 その人に平安を与えられます。

 主はその民を捨てず、
 その嗣業を見捨てられないからです。
 さばきは正義に帰り、
 すべて心の正しい者はそれに従うでしょう。

 だれがわたしのために立ちあがって、
 悪しき者を責めるだろうか。
 だれがわたしのために立って、
 不義を行う者を責めるだろうか。
 もしも主がわたしを助けられなかったならば、
 わが魂はとくに音なき所に住んだであろう。

 しかし『わたしの足がすべる』と思ったとき、
 主よ、あなたのいつくしみは
 わたしをささえられました。
 わたしのうちに思い煩いの満ちるとき、
 あなたの慰めはわが魂を喜ばせます。
 
 定めをもって危害をたくらむ悪しき支配者は
 あなたと親しむことができるでしょうか。
 彼らは相結んで正しい人の魂を責め、
 罪のない者に死を宣告します。

 しかし主はわが高きやぐらとなり、
 わが神はわが避け所の岩となられました。
 主は彼らの不義を彼らに報い、 
 彼らをその悪のゆえに滅ぼされます。
 われらの神、主は彼らを滅ぼされます。」(詩篇第94編)

詩篇第一〇九編より

「わたしのほめたたえる神よ、もださないでください。
 彼らは悪しき口と欺きの口をあけて、わたしにむかい、
 偽りの舌をもって私に語り、
 恨みの言葉をもってわたしを囲み、
 ゆえなくわたしを攻めるのです。
 
 彼らはわが愛にむくいて、わたしを非難します。
 しかしわたしは彼らのために祈ります。
 彼らは悪をもってわが善に報い、
 恨みをもってわが愛に報いるのです。
 
 彼の上に悪しき人を立て、
 訴える者に彼を訴えさせてください。
 彼がさばかれるとき、彼を罪ある者とし、
 その祈りを罪に変えてください。<…>

 これは彼がいつくしみを施すことを思わず、
 かえって貧しい者、乏しい者を責め、
 心の痛める者を殺そうとしたからです。<…>

 わが神、主よ、わたしをお助けください。
 あなたのいつくしみにしたがって、
 わたしをお救いください。

 主よ、これがあなたのみ手のわざであること、
 あなたがそれをなされたことを、
 彼らに知らせてください。

 彼らはのろうけれども、あなたは祝福されます。
 わたしを攻める者をはずかしめ、
 あなたのしもべを喜ばせてください。
 わたしを非難するものにはずかしめを着せ、
 おのが恥を上着のようにまとわせてください。

 わたしはわが口をもって大いに主に感謝し、
 多くの人のなかで主をほめたたえます。
 主は貧しい者の右に立って、
 死罪にさだめようとする者から
 彼を救われるからです。」(詩篇第109編)

私の義とキリストの義

「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、
 死なば多くの実を結ぶべし」(ヨハネ12:24)


「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。
神の怒りに任せなさい。
それは、こう書いてあるからです。
「復讐はわたしのすることである。
わたしが報いをする、と主は言われる。」
もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。
渇いたなら、飲ませなさい。
そうすることによって、
あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
悪に負けてはいけません。
かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)

人の自己が地に落ちて死ななければ、永遠に至る実は決して結ばれない。
 しかし、地に落ちるなら、そこから死を補って余りある多くの実が結ばれる。

ここで言う「死」とは、アダムの命に対する死であって、そこから復活の命が始まるのである。

「復讐はわたしのすることである」

この言葉を読むとき、神を差し置いて、人間が自分自身の力で行う復讐は、アダムの命の有限性から来る性質なのだと思う。

アダムの命に生きる人々は、自己が脅かされると、耐えられない。立ち上がって、自分の正義を主張し、自分を脅かす者たちに報復を加える。アダムの命に生きる人々は、プライドを傷つけられたと感じると、黙っておらず、徹底的に自分を傷つけた相手を辱めようとする。

そうやって、自分を脅かすものを根絶することでしか、彼らは自分の命を守れない。それは、アダムの命というもの自体が、それほどまでに、脆く、弱く、傷つきやすく、この命の持ち主を絶えざる死の恐怖で脅かしているからなのである。

他者に報復する行為でさえ、「死にたくない」という恐怖から出たものでしかない。

だが、仮に報復行為によって自分自身を脅かすものから身を守ったとしても、アダムの命が持ち主にもたらす結果は、それでも変わりなく、死だけなのである。嫌な人間を苦しめ、目の前から排除することに成功したとしても、せいぜいその効果は、ほんの少し、自分の死が遅くなる程度である。しかも、それすら確かかどうか分からない。

聖書が言うように、もし報復行為によって他者の血を流したならば、自分の血も流されることになる。他者を痛めつけたなら、自分も痛めつけられることになる。人を脅かせば、その分だけ、その脅威は自分にもやがて降りかかることになる。

そんな報復行為が、果たして望ましいものであろうか? 目指していた結果を手に入れるのに有益な措置と言えるであろうか? いや、より自分を危険にさらすだけなのではあるまいか?

だが、そのような尽きせぬ復讐心と、赦さない心を、信者を名乗っている人間でも持っていることがあり、このような人々が、暗闇の勢力に煽られて、信者に戦いをしかける。その戦いに巻き込まれると、信者は心の平安を失う。

カルト被害者救済活動は、信者を名乗っている人間が神と教会とクリスチャンから傷つけられたと主張して、教会を訴えて泥沼の争いに引き込もうとする運動である。

筆者はこの運動が間違っているだけでなく、いずれ神を敵とするであろう大変、危険な運動であることを随分、前から訴え、それゆえ、その運動の支持者たちからは敵のようにもみなされたが、彼らの訴える「人間の正義」は、いずれにしても、筆者を罪に定めることはできなかったのである。

この運動の部外者であっても、筆者によって自分のプライドが傷つけられたと思い、その腹いせに、彼らに便乗して筆者を責め、呪った「信者」たちもいるが、彼らの呪いもまた功を奏さなかった。

人に面と向かって呪われたり、破滅を宣告されるというのは、そうそうあることではないが、それでも、そういった悪魔が放つ悪意の火矢は、御言葉の壁にぶつかって、ことごとく効力を失い、へし折られ、全く恐れるに足りないものとして無効化されて、退けられるのである。

それは筆者を救った神の救いの完全性、筆者を覆う神の義のゆえである。

人間には人間の言い分が色々あるだろう。多くの人たちは、自分を傷つけた者を罪に定めるのは、正しい行為であり、正しい主張だと思っている。しかし、それらの人間を中心とした言い分は、神の小羊の流された血潮が信者にもたらす義に対して、何ら異議を申し立てる根拠とはならないのである。

石とダイヤモンドがぶつかれば、強度の高い方が無傷で残る。

それと同じように、我々がよりすがっている義の根拠の確かさが問われるのである。もし戦いを挑むなら、自分は必ず勝てると言えるだけの確固たる根拠を持っていなければ、いたずらに戦いをしかけるのは無謀である。
 
傍目には、筆者は到底、大勢の人々から圧迫されて、立おおせるような人間には見えなかったであろうが、しかし、筆者は筆者の力によっては立ち向かわず、キリストの名によって立ち向かったのである。

すると、神の命の中に隠れ、キリストの義によりすがっている者を、再び罪に定められるような者はいない、という事実が明らかになり、なおかつ、筆者が全く反撃も反論もしないでいるその間にも、不思議なことに、筆者に敵対してきた人間に、神が報復されたとしか考えられないような色々な出来事が起きたのであった。

筆者の貧しさを嘲笑していた人たちの生活が凋落した。
家族や、伴侶や、味方の多さを誇っていた人たちが、それを失った。
以前には筆者よりも健康に見えた人々が、病に落ち込んで行った。
敵対していた運動は、同士討ちによって滅びた。

そういうことはすべて筆者が全くあずかり知らないところで起き、後になってから人づてに聞かされるのが常であった。

他者の不幸をことさらに喜ぶ気はないが、それでも、人間の肉なる誇りと、人間の肉なる正義が、いかに頼りがいのない、脆いものであるかを思わされる出来事である。

誰でも、身近な人間から思いがけない攻撃に遭えば、その時には、苦しみも覚えるであろう。兄弟姉妹を名乗っている人間に裏切られたり、 自分には及びもつかない富の自慢話を延々と聞かされ、おまえは貧しい人間だから、こちらへ来るな、おれたちとは別世界の人間だと蔑まれ、見下されれば、心も痛むであろうし、惨めさも感じるであろう。

だが、そうした心の痛みの一つ一つを、全て主が覚えておられ、主は「私はあなたをそのようには見ていない。だからあの人たちの言い分は事実ではない」と言われる。そして、ご自分の主張の正しさを、信じる者の人生を通して立証されるのである。

だから、どこかで不思議などんでん返しが起きて、信者を踏みつけにして勝ち誇っていた人たちの「正義」の土台が、砂のように脆く崩れゆく瞬間を見るのである。そして、人の目には、長くは持ちこたえられないかのように見えていた信仰者の家が、流されることもなく、倒れることもなく、残るのである。

我らの神は報復される神である。それはある意味で、見えない法則でもあり、霊的な秩序を犯した者は、倒れなければならないのである。
 
神は、私をご覧になって、キリストをご覧になるように満足されて、私を子供として愛される。だから、私に対してしたことは、キリストに対してされたことと同義なのである。たとえ私がそのように思っていなかったとしても、神はそのようにとらえられ、ご自分の愛する者を瞳のように守られる。

子を侮辱するのは、親を侮辱するのと同じである。従って、神がご自分の子とされた人間を呪うことは、神の救いを否定し、神を呪うことと同義である。そのような行為が、神からの報復なしに済まされることはあり得ない。そして、そのようなことをする人々が出現するのは、その人々が神の家族ではないからであって、彼が神の家の正統な後継者でないのに、まるで後継者であるかのように振る舞い、正統な後継者を押しのけて、財産の横領を企んでいるからに他ならない。そのようにして神の家の乗っ取りをたくらんだ者たちが、したたかに打ち倒されて終わらないことはあり得ない。
 
我らの神は報復される神である。神の裁きは、人間の裁きより正しく、しかも、永遠である。そこには十字架を経た者と、そうでない者との峻厳で明確な区別がある。神の裁きの正しさと、神の報復の恐ろしさが理解できると、ちっぽけな自分の力で報復に及ぶことの無意味さも、よく分かるはずである。

神が信者の弁護者であり、神が信者のために報復されるのだ。一体、神に立ち向かうことのできる人間が、地上のどこにいようか。神に敵対してまで、信じる者を罪に定めることのできる人間がどこにいるのであろうか。そんな人間は、どこにもいない。神の永遠の秩序を犯すような、恐るべき侵犯を企てた人間は、それがどんな動機であるにせよ、したたかに打ち倒されて、跡形もなく取り去られることであろう。我らの神は侮られるような方ではない。

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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