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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。

「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」(Ⅰ列王記19:18)
 
「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。

五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。

そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。」(ルカ12:4-9)
 
主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

 
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)

 
朝方、小鳥たちのさわやかな美しい鳴き声で目が覚めるのはまことに気持ちが良い。外出時には引き留められ、帰宅時にも愛らしい出迎えがある。

猫派、犬派だけでなく、鳥派、というものもおそらくあるのではないかと思う。地に足をつけない生き物だからこそ、好感が持てる。特に、文鳥のように小鳥の中でもとりわけ小さな鳥が、どれほど人間によくなつくものか、知っている人はそう多くはないのかも知れない。

鳥がどこまで人間になつくものか、どこまで鳥とのコミュニケーションが可能か、愛好家を除き、どれほどの人々が知っているだろうか。犬猫には多くのことが期待されるが、鳥には一般にあまり期待がかけられていないように思う。

聖書では、鳩を除いて、鳥一般がそれほど良い生き物とはあまりみなされておらず、しばしば悪霊の象徴として描かれるが、都会暮らしの筆者にとって、残念ながら、鳩はそんなに好感が持てない。むしろ、1アサリオンで2羽買えるという雀の方がよほど愛らしく思える。

色々と珍しく美しい鳥を飼ってみて、それぞれに独特の愛らしさがあり、極彩色の珍しい鳥には目を奪われるが、やはり、素朴で愛らしい庶民的な鳥として、文鳥は異彩を放っていると思う。文鳥は鳥綱スズメ目カエデチョウ科に属するそうだから、ほとんど雀のようなものだろう。

値段的にも手頃なので、文鳥は誰にでも入手できる(ただしよく馴れたものを飼わなければならない)。そこで、独り暮らしの老人や、様々な苦難に追われている人々の家にも、一羽の文鳥がいれば、人々は生きる意欲をこの小さな鳥からも、存分に学べるのではないかと思う。

何しろ、大きな鳥がエネルギッシュなのは当然であるとして、これほど小さな体の鳥がこれほど愛らしく造られ、賢く活発に飛び回って生きているその様子を見ていると、まして人間にはさらにもっと多くのエネルギーと知的可能性が備わっていることは疑いの余地がないと分かって来る。

こうした生き物を見るときに、彼らに注がれる神の愛を思わずにいられない。神の許しなしには、一羽の雀も地に落ちることはない(マタイ10:29)というフレーズを思い出す。それは転じて人間に対する神の愛として受け止められる。勇気を出しなさい、一羽の雀さえ、こうして神が素晴らしく造られ、養っていて下さるのだから、まして人間はもっと神の御前に高価で貴い存在ではないのか。

だが、それは単に人間の貴さを力説して人を自己満足させるための御言葉ではない。冒頭に引用したように、人間に注がれている神の愛は、信者が主の御名の証人として立つことと大いに関係がある。

こうして主が新しい鳥たちに出会せて下さるのも、小さな十字架の死と復活の働きである。
 
さて、参院選が近づいているが、今一つ選挙は盛り上がっていないような印象を受ける。大本営発表は早くも与党に有利な情報ばかりを流しているらしいが、筆者は大本営広報部というものは嘘しか発表しないと理解しているので、全く目にしていない。さて、ネットには次のような面白い記事があったので引用しておきたい。

マスコミに載らない海外記事」からの引用である。翻訳もさることながら、訳者のコメントがいつも気が利いていて面白い。巨城も蟻の一穴から崩れる、と言われる通り、IWJに6000人近くも読者いるのであれば、憂鬱になる必要はないだろう。なぜなら、その6000人がみなインテリであって、自分の耳に入れた情報を隣人に伝えて行く力があれば、それだけでかなりのインパクトがあるからだ。10万人の愚者が定期購読している御用新聞よりも、6千人の知者が購読している民間のメディアの方が力がある。

ここで筆者にはバアルに膝をかがめなかった7千人、という聖書のフレーズが頭をよぎる。

それはバアルの預言者たちの前で、大胆に神の奇跡を行ない、バアルの偽預言者たちを皆殺しにした神の預言者エリヤが、アハブ王を背教によって堕落させた王妃イゼベルに命を狙われ、彼女の追跡を恐れて逃亡していた時に神がエリヤに言われた言葉である。

エリヤはバアルの預言者たちの前であれほど大胆に主の御名を証したのに、なぜイゼベル一人に恐れを感じて荒野へ逃げたのか、という質問を投げかける人がよくいる。どのような方法でイゼベルがエリヤを追い詰めたのかは分からないが、少なくとも、エリヤは追われるのは沢山だ、自分の命を取ってくれと神に願うのである。

しかし、神はそんなエリヤをあざ笑ったり、見捨てたりすることなく、むしろ、食うや食わずで疲労困憊していた彼のために食事を備え(復活のイエスが漁をしていた弟子たちのために食事を整えた光景を思い出す)、そして、国中の全ての人間が背教に落ちたアハブ王とイゼベルの手先になっているわけではないことを告げ知らされる。しっかりしなさい、エリヤよ、あなたは一人で戦っているわけではないのだ、アハブとイゼベルに魂を売らなかった人間が確かに残っているのであり、その数は7千人であると。

筆者は考えている。志の純粋性さえ保てていれば、人数はそう多くなくて良いのだと。当ブログなど、再開当初は訪れる大半はさわやか読者であったが、そんな中でも、記事を書き続けていると、さわやか読者の数はもうほとんど1人、2人程度しか残っておらず、その代わりに、あっと思うような輝きを放つ検索用語で当ブログにたどり着いて来る人々が増えた。

以前のような聖書の脅し文句ではなく、真実、キリストを訪ね求めた人々でなければ、決して使わない御言葉である。

そんな光景を見ていると、御言葉を慕い求める人々が尽きたわけではないことがよく分かって来るのだ。常に筆者を意気阻喪させようと工作に余念がない人々の活動は脇に置いて、主が取り置いて下さった人々のことを考えたい。

ブログを書き続けていると、自ら発表したもののの影響の大きさを常に感じさせられるが、相手は常に人間ではないのである。目に見える読者でもなければ、読者数でもない。はっきり言えば、ものを書いて行く上での影響力の大きさは、情報の質である。

真に美味しいコーヒーや、入手しにくい珍しい鳥を訪ね求めてはるばる行脚する人々がいるように、安っぽい嘘にはうんざりして真実かつ高い質の情報を求めている人々は常に存在しており、そういう人々の要求に応えうるものを作って行けば、必ず、その衝撃力の大きさは現れるのである。

さらに、キリスト者である以上、筆者はただ人間の満足のためだけにものを書き続けているわけではない。これは主の御名による戦いであり、暗闇の勢力に対する衝撃力を伴う攻撃でもあるのだ。敵が我々を意気阻喪させることに余念がないならば、こちらも彼らを意気阻喪させねばならない。それはただ御言葉に基づき、何が真実であって、何が虚偽であるかを明るみに出すことによる。それが我々の霊的戦いなのである。

さて、以下の引用であるが、「スネオファシズム」とは実に言い得て妙である。誰に対するファシズムかと言えば、当然、のび太に対するファシズムである。つまり、我が国の行き先が参院選で問われているわけだが、選択肢は二つに一つだということである。

ジャイアンーースネオーーのび太という三者の関係から思い出すのは、常にキリスト教界や、他の教会や、他の信者を見下すことで、自分たちだけは天の特権階級であると誇って来たある宗教団体である。ペンテコステ・カリスマ運動を通じて、その宗教団体は、カルト被害者救済活動と一体であるが、その宗教団体は、自らの背教を隠すために、筆者にイゼベルの汚名を着せたのであった。しかし、すでに幾度も記事で書いて来た通り、イゼベルと呼ばれるにふさわしいのは、筆者ではなく、異端の教えを臆面もなく言い広めた上で、筆者に濡れ衣を着せようとした人々である。

その団体は、昔から高慢さと自己満悦で有名で、これに関わった人々は、筆者の周りでも、ことごとく手に負えない高慢さに落ちて行き、自分以外の他の信者を見下し、人の弱みをあげつらってはあざ笑うようになった。それを自分たちが「神に祝福されている証拠」だととらえ、どんな風に自分が欲望をかなえたか、どれほど他者には手の届かない非凡な体験をしたか、という話をまるで信仰の手柄であるかのように吹聴して回るようになった。日常の体験だけでなく、その人々は「神の御声を聞いた」とか「御姿を見た」とか、誰が聞いても怪しいとしか感じないような呆れる体験談を盛んに手柄として自慢するのである。
 
しかし、他者に対する優越感しかよすがのない人間というのは、本当に内面が空虚である。常日頃から、自尊心を捨てて、自分よりも強い者に媚びへつらい、魂を売って生きているからこそ、自分よりも弱い者の弱点を暴き立て、これを踏みしだき、優越を誇ることによってしか、自分の惨めさを隠し、憂さ晴らしする方法がないのである。そういう風に、人々の間に見えない階級制度を作り出し、互いの間に差別を敷くことによって、国民を分断し、互いに争わせ、もはやあるまじき出来事がどれほど身の回りで起きても全く心が痛まないほどに他者の痛みに鈍感になり、己の満足しか眼中になくなった人間を大量生産し、そういう愚者を操ることによって、己の統治を強化しようとしている何者かが存在するということを考えてみるべきであろう。他者への優越感を生き甲斐として他者を見下して勝ち誇っているような連中は、みなその格好の操り人形となっているだけである。だが、ある時期が来たら、そういう人々はみな御用となって消え去る。なぜなら、栄枯盛衰、権力というものはどれも永遠ではないからである。

さて、我が国がこれからもずっとジャイアンに踏みしだかれて、自尊心を絶えず傷つけられ、一個の人格として否定されながら、それでも自分よりも成績の劣ったのび太に対する優越感だけを生き甲斐として生きる惨めで意気地なしの「スネオ」であり続けるのか、それとも、のび太を踏みつけにすることで憂さ晴らしをするという虚栄の生き方を捨てて、のび太と共にジャイアンに立ち向かい、誰もが生きられる世界を目指すのか、問われている。

参院選の争点は、アベノミクスでなく、改憲なのだが、何よりも、対米隷属という「長い物には巻かれろ」式の生き方から、いつになればこの国は脱却するのかということが、毎回、問われている。「ジャイアン(米国)」の威を借る「スネオ」(奴隷)として生きることのみっともなさをそろそろ自覚すべき頃合いである。

というのも、ジャイアンの攻撃性は日々強まっており、今までのように、スネオがのび太を馬鹿にし、踏みつけにし、貢がせる程度のことでは、欲望がおさまらなくなって来ているからだ。今、ジャイアンが夢見ているのは、スネオに武器を持たせて、自分の代わりにスネオがのび太を殺す光景を見たいということだ。そのような見世物を俺様に早く寄越せと、ジャイアンは随分前から、スネオにせっつき、スネオを脅すようになっているのだ。さすがのスネオも一応、インテリのはしくれではあるので、こういう要求には我が身の危うさを感じ、蒼白になっている。

だが、ジャイアンは、別の町にもスネオのような、いや、スネオよりももっと凶暴な第二のスネオを抱えているので、スネオが要求をおとなしく飲まないと、殺されるのはのび太ではなくスネオだぞと脅している。いつになったら、そんな呪われた関係から、スネオは抜け出るのか、どこまでジャイアンと共に罪の連帯責任を負い続けるのか。ジャイアンのためなら、殺人者になることも厭わないのか? スネオは、その一線を超えるつもりなのか? そうして、いずれ町ごとジャイアンのための献上物、見世物として、焼け跡のように変えてしまうつもりなのか?

というのも、ジャイアンが、たかがのび太がやられたくらいのことで、満足するはずがない。スネオがのび太をやったら、ジャイアンの要求はさらにエスカレートするだろう。のび太が100人死んでも、ジャイアンの欲望はおさまらない。おそらく、スネオも死んで、町の住人が皆殺しになって、ジャイアン一人残るまで、ジャイアンは満足しないだろう。ジャイアンの猜疑心はそれくらい深いので、自分以外の誰かが生き残っているだけでも、王座を奪われるのではないかと、気が休まる時がないのだ。だから、ジャイアンにとっては、自分以外の誰もいない世界が望ましく、スネオであろうとのび太であろうと、皆が敵なのである。だが、そんなジャイアンの欲望の言いなりになっては、この国土はもはや灰塵と帰して何も残りはすまい。そして、その日にジャイアンは言うだろう、「おまえたちには大変、不幸なことだったな。何しろ、空から原爆が降ってきたんだ。どういういきさつでそんな惨事が起きたのか、俺は全く知らない」と。

むろん、これはジョークであるが、実際に、このような経過を我が国が辿ることはないであろう。なぜなら、歴史は繰り返せないからである。グノーシス主義の原初回帰が不可能であるのと同様、軍国主義の再来も不可能である。以前に起こったことをどんなにもう一度起こそうとしても、それは無理である。

そして、神は義人と悪人とを共に滅ぼすようなことはなさらない。地球が何万回滅びるほどの出来事が起きたとしても、神はご自分を頼る民を必ず守り、救い出して下さる方なのである。十字架の死は、決して霊的死のみでは終わらず、復活の前提なのである。主の御名は誉むべきかな。
 
  
以下は「マスコミに載らない海外記事」から抜粋(太字、赤字は筆者による強調)

大本営広報部とは、全く違う見方をする記事、今朝の日刊IWJガイド・ウィークエンド版をそのまま引用させていただこう。こういう記事・報道を読む人々の人数が、60,000人ではなく、6,000人に満たないという事実を読むたび、毎回、憂鬱になる。
 

■■■ 日刊IWJガイド・ウィークエンド版【参院選まであと15日!】「本日11時より、岩上さんが東電による『メルトダウン』隠蔽に関して郷原信郎弁護士に緊急インタビュー!/イギリスのEUからの離脱が確定、キャメロン首相が辞意表明/IWJでは各党各候補者の街頭演説に関する記事を続々とアップしています!」2016.6.25日号~No.1380号~ ■■■

(2016.6.25 8時00分)

 
おはようございます。IWJで主にテキスト関連の業務を担当している平山と申します。

 
世界は今、大きな曲がり角を迎えているようです。

 
昨日6月24日、イギリスでEU(欧州連合)からの離脱の是非を問う国民投票が行われ、離脱派が52%の票を獲得して48%の残留派をわずかに上回り、過半数に達しました。この結果、これから2年をかけ、イギリスはEUとの離脱協議に入ります。1973年に前身のEC(欧州共同体)に加盟して以降、43年にわたるイギリスのEU加盟に終止符が打たれることになりました。ヨーロッパは、分裂の危機を迎えることになったと言えます。

 
今回の国民投票の結果を受け、イギリスのキャメロン首相は辞意を表明。10月の党大会後に辞職し、イギリスでは新たな首相を選ぶ選挙が行われることになります。

 
イギリスによるEU離脱決定を受け、6月24日の東京市場は大混乱に陥りました。円高が急激に進み、一時1ドル=99円に。これは2年7ヶ月ぶりの値です。日経平均株価も、一時下げ幅が1300円を超えるなど大暴落しました。

 
この事態を受けて麻生太郎財務相は緊急の会見を開き、「足もとの為替に極めて神経質な動きがみられる。世界経済や市場に与えるリスクを極めて憂慮している」と述べました。しかし、円安・株高で輸出企業と富裕層のみが儲けるアベノミクスにおいて、どんな操作を行おうと、外的要因で思惑はこなごなです。

 
アベノミクス・ブームに乗せられて、株に手を出した個人投資家は、これまでも乱高下相場で痛い目にあってきましたが、今回は絶叫に近い悲鳴が聞こえてきそうです。また、こうした中でいつも気になるのは、年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が運用する国民年金資金です。今回の株価暴落により、いったいいくらの国民の年金が消えたのか、その額ははかりしれません。

 
今回、イギリスでEUからの離脱派が残留派を上回った背景には、EU各国からイギリス国内に流入し続けている移民や難民が、英国人の雇用を脅かしている、というイギリス国内での認識があります。今回の結果を受け、フランスの極右政党「国民戦線」のマリーヌ・ルペン党首はただちに歓迎の意を表明。「フランスや他のEU加盟国でも国民投票の実施が必要だ」と語りました。また、米大統領選挙で共和党の指名権獲得を確実にしているドナルド・トランプ氏にとっても、追い風となることは間違いありません。

 
移民・難民を排斥する極右の台頭により、イギリス発、フランス経由、そしてアメリカ着で、戦後の国際秩序がみしみしと音を立てながら崩れ始めているように感じます。同時にこれは、冷戦後に国民国家の役割を相対化してきたグローバリズムにも、ブレーキをかけるものとなる可能性があります。

 
さて、今回のイギリスによるEUからの離脱確定は、日本の参議院議員選挙にどのような影響をもたらすでしょうか。日本人にとっては何よりも最大の気がかりです。

 
自民党改憲草案を見れば一目瞭然ですが、安倍総理が目指す改憲とは、「緊急事態条項」を創設することで基本的人権を停止させるとともに、集団的自衛権を行使して米軍とともに世界中で戦争をする「国防軍」を創設しつつ、天皇を「象徴」ではなく「元首」と戴く「祭政一致の国家神道」の復活を含意するものです。

 
これは、日本が戦前に復古し、国権を強化するベクトルと、米国にどこまでも忠実につき従ってゆく属国化、果ては植民地化へのベクトルという矛盾した真逆の方向を向く2つのベクトルを同時に抱えこむもので、いずれその矛盾によって破綻しかねないように思われます。

 
ただそのウルトラナショナリズム米国隷従のどちらにも共通するのは、日本国民の主権、人権、利益、権利が最小化されてゆくという点です。国民主権、基本的人権の尊重や平和主義といった、戦後の日本社会が日本国憲法を通じて守ってきた人類普遍の原理を覆し、戦後の国際秩序に対して挑戦し、孤立化を招くものです。米国の陰に隠れてさえいれば、あとは国内の国民の声も国際社会の米国以外の国々も無視するという、岩上さんいわく「ジャイアンに依存スネオファシズム」が極大化されます。

 
この時、「スネオ化」した日本の支配層は、「国民は総活躍しろ、血を流せ、死ぬまで働け、ためこんでいる金は吐き出せ、働けなくなったら死ね」と先日の麻生氏の発言を現実化してゆくのでしょう。その意味で、今回のイギリスにおける危機は、日本にとっても対岸の火事ではありません。英国の危機よりも、日本の危機の方がはるかに深刻であるというべきでしょう。

 
悲惨な戦争の記憶とともに築きあげられた平和と人権を守る戦後秩序を守るか、あるいは戦前の軍国主義とも少し違う「スネオファシズム」体制に突入してゆくのか。今回の参院選では、有権者一人ひとりに対し、このような問いが突きつけられていると言えます。

 
今週、IWJでは6月22日に公示を迎えた参院選の取材に、最も時間を割きました。本日の「日刊IWJガイド」は、ウィークエンド版として、今週の岩上さんによるインタビューとIWJによる取材成果をふり返ってゆきたいと思います。

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あなたがたは衣服ではなく、心を裂け

地は彼らの前におののき、天はふるい、
日も月も暗くなり、星はその光を失う。

主はその軍勢の前で声をあげられる。
その軍勢は非常に多いからである。
そのみ言葉をなし遂げる者は強い。

主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、
だれがこれに耐えることができよう。

主は言われる、
「今からでも、あなたがたは心をつくし、
断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。
あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。

あなたがたの神、主に帰れ。
主は恵みあり、あわれみあり、
怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、
災いを思いかえされるからである。

神があるいは立ち返り、
思いかえして祝福をその後に残し、
素祭と灌際とを
あなたがたの神、主にささげさせられる事はないと
だれが知るだろうか。

シオンでラッパを吹きならせ。
断食を聖別し、聖会を招集し、
民を集め、会衆を聖別し、
老人たちを集め、幼な子、乳のみ子を集め、
花婿とをその家から呼びだし、
花嫁をそのへやから呼びだせ。

主に使える祭司たちは、
廊と祭壇との間で泣いて言え、
「主よ、あなたの民をゆるし、
あなたの嗣業をもろもろの国民のうちに、
そしりと笑い草にさせないでください。
どうしてもろもろの国民に、
『彼らの神はどこにいるか』と
言わせてよいでしょうか」。


(ヨエル書2:10-17)

へりくだって悔い改めなさい(2)

主にある大切な兄弟姉妹へ

ようやく秋らしい天気になって来ましたね。毎日ぐっすり眠れて仕方がないです。

私が以下の記事で、いきなり深刻な筆遣いで語り始めたので、ある方にはご心配をいただきました。でも、主にあって、私はとても平安を得ていますので、どうかご心配なさらないで下さい。

多分、これから、記事の中で、少々、厳しい内容を取り扱わねばならないように思います。私たちは人の耳に優しい言葉ばかりを語ろうとするのではなく、罪 や、自己、そして肉というものについても、主の光の中で見せていただき、もっと恐れを捨てて、語らなければならないのではないでしょうか。

私たちは主の来臨に備えて、整えられる必要があります。何よりも、主がお住まいになる神の宮として、私たち一人ひとりが、十字架のより深い対処を受けて、 整えられる必要があります。今、私たちの身に降りかかっている患難は、私たちを神の国にふさわしく整えるためにあるのではないでしょうか。これは主の御身 体全体に起こっていることなのですが、多くの人たちは特殊な事件としか捉えておらず、そのような認識を持つ人は少ないと思います。

多くのクリスチャンは、以前から言われているように、人にとって耳障りの良い「砂糖まぶしの福音」をこしらえて、その中に逃げ込んでしまいました。神の義 と聖と裁きを否定して、何でも赦し、人の罪までも大目に見てしまう、東洋的な(母性的な)愛の概念を導入することによって、自分の罪からも、他人の罪から も、目を背けてしまったのです。こうして、教会において、裁き主であられるキリストが否定され、耳障りの良い教えだけが語られ、悔い改めを要求するメッ セージが聞かれなくなるという現象が起こりました。もしも今日、バプテスマのヨハネのようなメッセージを語る人がいたなら、大勢のクリスチャンはどのよう に反応するでしょうか。

そのようにして、クリスチャンの間で、人間の罪が大目に見られ、世的な配慮が重んじられ、甘えが助長される一方で、他方では、御言葉に基づかない、度外れに厳しい身勝手な懲罰が出現して来たのです。

私たちは神の裁きに服さねばなりません。それが人にとって最も公平で正しい裁きだからです。まことの神を抜きにして、人間が人間を救済しようとしたり、人 間が人間を裁こうとしたりする世界が、どのように恐ろしいものであるかは、歴史を振り返り、また今起こっていることを見れば、一目瞭然です。クリスチャン が、いかに主の光の中で、自分の罪を取り扱っていただく必要があるか、いかに自己というものが嘘に満ちており、十字架の対処を受ける必要があるか、いかに クリスチャンに悔い改めが必要であるか、こういった問題を、私たちはまざまざと現実に見せられています。情けないことですが、大勢のクリスチャンは、まさ にこの基本に立ち戻らなければなりません。私たちはもっと罪をより深く対処されるために、十字架を実際として知らなければなりません。

ですから、今こそ、私たちは主の御前にへりくだりたいと思います。何が罪であるのか、主によって示していただき、十字架において、私たち自身の自己をさら に取り扱っていただきたいと願うのです。また、主の御身体としてつなぎ合わされる必要があることも、もっと見せていただきたいと願っています。

主の御身体は、暗闇における主権や支配に対抗して、主の権益を守る義務を負っています。しかし、昨今、万民融和的な思想がはびこる中で、暗闇の軍勢だと か、場合によっては、霊的な敵という言葉に言及することさえ、偏狭さとして一笑にふされるような場面も、多くなって参りました。ダビデが詩篇の中で、敵の 存在にあれほど繰り返し触れているというのに、悪鬼や邪霊の存在に言及すると、作り話のごとく一笑に付され、サタンに言及することはもっとタブーになりか ねないような雰囲気が満ちています。

しかしそれでも、主の戦いは続行しているのです。私たちはすでに主の兵士として持ち場に立たされています。国境警備兵が敵の姿を見ただけで逃げ出していた ら、防衛は成り立つでしょうか? 私たちは戦いの厳しさというものを知らなさ過ぎるのではないでしょうか。しかし、それでも、主は私たちを通して栄光をお 受けになることを望んでおられます。ですから、私たちはいつまでも弱さについて語り続けるのではなく、主にあって、神の武具で武装されて、強くなる秘訣を 学ぶ必要があると思います。

さて、今回の記事はこれで終わります。まだまだ暑いですが、身体に気をつけて、良い時を過ごして下さい。

へりくだって悔い改めなさい(1)

主にある大切な兄弟姉妹!

(キリスト教界における問題、教会のカルト化、教会の腐敗の問題についての私の現在の立場)

私たちキリストの御身体は、今、試練の最中に置かれています。主にある兄弟姉妹を罪定めしようとする勢力は、声の限りを尽くして十字架を罵り、十字架にと どまろうとする私たちをも罵り、怒号のうちに、私たちの信仰をかき消そうとし、神を忠実に信じるクリスチャンの信用をおとしめ、その生活までも圧迫しよう としています。

この出来事の中には、クリスチャンが同胞クリスチャンを憎み、同胞を迫害するという、終わりの時代の末期的な様相が顕著に現れています。クリスチャンがク リスチャンを憎み、戦いを挑むとは、何という恐るべき不義なる時代でしょうか。けれども、私たちはこのような時にも、忍耐を持って神を信じ、キリストと共 なる十字架の死にとどまらなければなりません。私たちは迫害する者に対しても、祝福を持って応えることを忘れないでいたいと思います。

愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。

それは、キリストの栄光が現われる際に、よろこびにあふれるためである。キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。」(Ⅰペテロ4:12-14)


ああ、こうして試練さえも、恵みとしてくださる主。このお方に感謝し、全てのことで、主に栄光を帰します。もしも私たちが一粒の麦として、主の御手の中で砕かれることに真に同意するなら、私たちの死を通して、多くの実が結ばれるでしょう。

しかし、ここで誤解してはならない点が一つだけあります。このようにして、たとえ私たちが自分に罪を犯す者を赦し、迫害する者を祝福で迎え、悪によって悪 に報いず、偽りの言い分に対して言い返さなかったからといって、それにより、偽りを述べる人たちが、神に対して犯した罪までが、消し去られるわけではない ということです。

もしもクリスチャンが御言葉に逆らい、真理に逆らい、御霊に逆らい、十字架に逆らい、神に逆らい、偽りの言葉で兄弟を訴え、兄弟を憎み、兄弟を裁き、罵り、赦さないならば、彼らはその罪を、人に対してではなく、神に向かって申し開きせねばならなくなります。

この意味で、クリスチャンは罪という概念を決して誤解してはなりません。聖書で言う罪とは、人が人に対して犯すものではなく、人が神に対して犯すものなのです。神に対して、自分が犯した罪を告白せず、悔い改めもしないならば、その罪はその人に残ることになるでしょう。

聖書は、兄弟たちを赦さないことが罪であり、兄弟を裁く者は、必ず、自分自身も罪に定められることを告げています。

「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである。」(ローマ2:1)

「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」(ローマ14:4)


さらに、兄弟たちを憎む者には、神の愛がとどまっていないことを、聖書は告げています。

『光の中にいる』と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。」(Ⅰヨハネ2:9)

『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」(Ⅰヨハネ4:20)

「あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。」(Ⅰヨハネ3:15)


御言葉を読むならば、キリストによって生まれた兄弟たちを憎み、迫害する者は、本質的に神の子ではなく、人殺し(の子孫)であると言われていることが分かります。

兄弟を愛さない者は、闇の中にいるのであり、どんなにその人が光を求めていると言っても、その者のうちには、光がなく、神の愛がとどまっていません。

今、キリストが十字架で血を流して、罪を赦して下さった同胞を再び、罪定めして、石を投げつけ、虚偽によって告発し、兄弟姉妹を憎み、嘲笑し、虚偽によっ て圧迫している大勢のクリスチャンたちがいます。このような人々は、クリスチャンを名乗ってはいますが、彼らが兄弟姉妹へ向けている激しい憎しみと怒りを 見れば、この人々が、神の愛の中に全くとどまっていないこと、光の内に生きているのではないことは、誰の目にも明白です。

これらの人々が燃やしている甚だしい憎しみと怒りを見て、ほとんどの人々が彼らに抵抗しようとしないので、彼らはより一層、高慢になって、自らを義とし、 非難の限りを尽くしています。ですが、たとえ人のうちに声を上げる者が一人もいなくとも、神は彼らの高ぶりと、彼らの犯している悪事をご覧になっておられ ます。もしも、正直に神の御前に兄弟を偽りにより誹謗した罪を悔い改めないならば、彼らはいずれ自分が兄弟を裁いたそのはかりによって、自分自身も厳しく 裁かれ、罪に定められる時が来るでしょう。そして、神の激しい御怒りにさらされることになるでしょう。

私たちは神に対して自分が罪を犯したことを見ずして、他人だけを厳しく裁くという罪を犯さないようにしたいと願います。かつて私は、キリスト教界で不正を 目の当たりにし、その痛み悲しみを訴えるために、ブログを書き始めました。その当時、私は自分をキリスト教界の被害者と思っておりましたし、地上的な組織 としてのキリスト教界には、全く希望がないと考えていました。それが当時、私の下した結論であり、キリスト教界に対する結論は今もって変わりません。

しかし、教界の悪事について書き記しているうちに、誰よりもこの問題で最大の被害を受けておられるのは、人ではなく、神であられるということに、私は気づ きました。教会がこのような有様になっているのは、何よりも、真理が失われた結果なのです。教会は神の宮であり、神が栄光をお受けになられる場所です。そ の教会において、神の主権が踏みにじられ、真理が損なわれ、神の尊厳が傷つけられ、神の栄光を奪ってまで、人が栄光を受けているというのに、そこで人が何 らかの被害を訴えたとしても、人の主権が、教会のまことの主権者であられる神の権利を差し置いて、回復されることなどありうるでしょうか?

ですから、キリスト教界で起こっている問題を真に取り扱おうと思うなら、私たちクリスチャンは、この問題では、神こそが最大の被害者であられることに、ま ず目を向けなければならないのです。どうして神の宮で、神ご自身が脇に追いやられているのに、それを差し置いて、私たち人間が、自分の被害だけを訴えるこ とができるでしょうか? そんな態度で、神がどうして私たちの訴えを真摯に取り上げて下さる理由があるでしょうか? 

ですから、私たちは、教会の腐敗という問題を、まるで自分には関係ないことのように、批評家然と、高みから論評する態度を捨てて、あるいは自分の正義を振 りかざすために、他人だけを告発するような態度を捨てて、むしろ、この問題は、私たち自身が、罪人の筆頭者として、神の御前にへりくだり、神の御前に頭を 垂れて進み出るためにあると認識せねばなりません。そうしないことには、神が私たち人間の受けた被害に目を向けて下さり、私たちを弁護して下さることも、 決してないだろうと思います。

そのことに気づいてから、私は個人的に悔い改めの日々を送りました。私はそれまでの人生において、神から遠ざかって来た罪、その間に犯した罪々を、一つ一 つ直視し、神の御前に悔い改めました。そもそも、教会において、私が人の述べた偽りの甘言に欺かれてしまったのも、誰よりも、私自身が、真理から遠ざかっ ていたことの結果なのです。私が神ではなく、人につき従おうとしてしまったのは、偶像崇拝の罪であり、神をいたく悲しませたものであることを、正直に認 め、悔い改めました。

ああ、キリスト教界における最大の罪とは、何でしょうか。それは神ではなく、人の栄光を築き上げようとする偶像崇拝、神ではなく、指導者に信徒を聞き従わ せ、人による支配を打ちたてようとする偶像崇拝の罪なのです! 人を人に従わせるという、肉による偶像崇拝が、あまりにも多くの信徒を破滅へと追いやった のです。しかし、それは多くのクリスチャンが、真理を喜ばず、不義を喜んでいたことを公然とお示しになるために、主があえて許された悲しい出来事でもあり ました。

彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。」(Ⅱテサロニケ2:10-12)

もしクリスチャンが神の義ではなく、人の義を主張し、神の栄光を退けてまで、人間の栄光を築き上げようとするなら、その人々は、真理を喜ばず、不義を喜ん で生きているのであり、その報いとして、欺きと偽りによって惑わされ、人生において大きな損失を受けたとしても仕方がないことは、御言葉に明記されている のです。ですから、教会において欺かれ、つまずいた人々は、それが真理を信じないで不義を喜んでいた結果であることをまず認めねばなりません。しかし、教 会の腐敗に気づいた多くの人たちは、自らが神の御前で大いなる罪を犯したことを見ようとせずに、ただ自分を被害者と考えるか、もしくは自分の正義だけを一 方的に振りかざして、自分には一切罪がないかのように自分を憐れみ、不正を行った人々だけを責めるという過ちを犯してしまったのです。

そのようにして、神の宮は、人間の利害を掲げる闘争によって、さらに荒らされていきました。真の被害者である神ご自身は、置き去りにされ、問題の核心がか えって覆い隠されるような形で、教会の腐敗という問題がセンセーショナルに取り扱われました。この分野は、今や、人がおのおの手前勝手な正義を振りかざし て論争を繰り広げるための戦場のようになっており、戦況は泥沼化し、同士討ち的な闘争が行われ、被害者が二重三重の屈辱を受けているのは、見るのも痛まし いことです。

これは、多くのクリスチャンが人間側の利益だけに注目し、神の利益が損なわれたことには、目も留めず、自分自身の罪を悔い改めようとせずに、自らの利益の 回復だけを図ろうとし、さらにもっと悪いことには、ある人々は自分が裁き主となって、まことの審判者である神の主権を犯してまで、独断で、御言葉に逆らっ て裁きを(私刑を)執行しようとしたことの厳しい結果です。

キリスト教界における腐敗を真に考えようとするなら、私たちはまず、クリスチャンが神に対して犯している罪を見なければなりません。何よりも、偶像崇拝と いう罪を直視し、それを取り除く必要があります。たとえそのために自分が被害を受けた場合であっても、意図せずして自分もその罪の一端を担ってしまったこ とを、私たちは主の前に正直に認めて悔い改めるべきなのです。それをせずして、私たち自身が裁き主のように登場することは言語道断です。

私はキリスト教界から我が身を分離した後、しばらくしてから、自分の義を訴えることをやめ、被害者という美名に隠れることも捨てて、主の御前に一人の罪人 として進み出ました。そうして、ただ一人の罪人として、神の御前に悔い改めたことが、私が神の憐みを受け、神ご自身と出会い、罪赦されて、人生の再出発を 遂げるきっかけとなったのです。

もちろん、私が悔い改めたことが、私を義としたわけではありません。キリストが流された血潮以外に、私を罪から解放するものは何一つとしてありません。主 が恵みによって私を救って下さったのです。しかし、私が自分の罪を悔い改めようとしていなければ、私に対する罪の赦しは、あり得なかったでしょう。私が神 の御前に己が義を徹底的に投げ捨てた時に、神はようやく私を全ての被害から救い出して下さり、私の心を全く新たにして、新しい出発を遂げさせて下さいまし た。

私はこうしてキリスト教界の問題から解放されましたので、これ以上、キリスト教界を告発することに生涯を捧げるつもりはありません。キリストを土台としな い、人手によって作り上げられた組織に希望がないことは、聖書を読めば一目瞭然であり、再三に渡り、ここでも述べて来た通りなので、繰り返す必要を感じま せん。私は教会を否定しているのではありません。神の教会とは、本来、見えない霊の建造物であって、それを目に見える地上的な建物や組織という観点からの み捉えようとすることは不可能です。

今、心から言えることは、私たちはキリストにあって自由とされたのだから、目に見える地上的な組織や、人の栄光を築き上げたり、人や人の作った組織の奴隷 となるような偶像崇拝の罪を、再び犯してはならないということです。これは教会に通うべきでないと言っているのではなく、偶像崇拝の罪を再び犯してはなら ないと言っているのです。

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」(ガラテヤ5:1)

「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)


繰り返しますが、教会の腐敗の問題は何よりも、神の御前でのクリスチャンの罪を示しています。教会において十字架が見失われ、 真理が損なわれ、罪に対する良心の感覚が失われたために、このような甚だしい罪が多くの教会にはびこったのです。それにも関わらず、クリスチャンが自分に は何の罪もないかのように、自分を義とするために、この問題を取り扱わないように気をつける必要があります。今、クリスチャンが神の御前で犯している甚だ しい罪のために、真に心を痛め、涙を流して執り成し、何よりも、神の宮において、神の主権が損なわれていることを、真摯に悔い改める心を持つ人が、必要と されているのではないでしょうか。少なくとも、私たちが神の利益を差し置いて、人の利益の回復だけを求めても、その願いが聞かれることは決してないものと 私は確信しています。

どうか主が光の中で、何が罪であるか、罪の罪たるその本質を、私たちの心にはっきりと示して下さいますように。どうか主よ、私たちの鈍い心をお赦し下さ い。私たちが神の御前に真にへりくだって、自分自身を光の中で吟味していただき、己が罪を正直に認めることができますように。どうか私たちが十字架のより 深い取り扱いを受けて、心砕かれ、神の和解と平和をもっと受け取ることができますように。主よ、クリスチャン同士が互いに訴え合い、告発し合う罪から、私 たちを救って下さい。私たちに対する偽りの訴えに対し、あなたが私たちの義となって下さり、偽りを述べる者たちを叱責して下さいますように。どうか私たち を憐れんで下さい。

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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