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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。

愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。

あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。

今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。
「正しい人がやっと救われるのなら、
不信心な人や罪深い人はどうなるのか」
と言われている通りです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」(Ⅰペテロ4:12-19)

兄弟たちは、小羊の血と

 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

* * *

夏が終わると同時に、筆者の心の休暇も完全に終わり、筆者に与えられた厳しい任務の全容が見えて来た。

人を助けることを仕事とするために、筆者は相応しい仕事に就き、干潟を開拓している最中であると書いた。しかし、人を助けるためには、人に対して優しい態度を取るのではなく、逆に、人の欲しない事柄を告げて、厳しい態度を取らねばならないという逆説があることを思わされる。

人間の欲望を助長し、人間を甘やかし、人間の罪を大目に見ることと、人を助けることは、正反対なのである。

筆者の訴えを裏づけるために、憎まれたり、嫌われる役目を果たしてくれた大勢の人たちがいる。警察も、行政の役人も、裁判官も、他者に違反を突きつけ、犯人を悪者とし、上から指導したり、有罪を宣告するために働かなくてはならず、その意味で、彼らは決して人に優しい仕事をしていない。

だが、そのようにして他者を罪に定めねばならない悲しみを知っているがゆえに、この人たちには、筆者がなぜ他者を告発するような訴えを出さざるを得なくなったのかを理解するだけの深い同情や思いやりもあった。

すべてがすべてそういう人たちばかりだったとは言わないが、不法行為は裁かれなければならないとの信念のもと、彼らの多くが、忠実に役目を果たしてくれたのである。

だとしたら、筆者は、彼らの仕事の成果を無駄にしないように働かねばならない。他人には、厳しい罪の宣告を口にさせておきながら、自分だけは、人に受け入れられ、誰にも苦言を呈さなくて済むよう上手く立ち回り、甘言だけを弄して、彼らの積み上げた仕事の成果を自ら台無しにするような生き方をするわけには行かないのだ。

そういう意味で、次第に、筆者自身が、彼らと同じように、権威を持って他者を裁くという立場に立つ時が近づいているのを感じる。もはや裁判官や、警察官や、弁護士や、役人など、宗教指導者はもちろんのことだが、誰か自分以外の権威者に決定を委ねるのではなく、彼らの果たしてくれた功績を基礎として、その上に、自ら判断を打ち立てねばならない時が近づいているのである。

聖書の神は、決して人類に媚びて、人に甘い顔をされる神ではない。

以前、当ブログでは、旧約聖書において、神がどれほど厳しい宣告を自らもしくは預言者を通じて人類に突きつけられたかを列挙したことがある。

ゼファニヤ書などは冒頭からこのように始まっている。

「わたしは地の面から
すべてのものを一掃する、と主は言われる。
わたしは、人も獣も取り去り
空の鳥も海の魚も取り去る。
神に逆らう者をつまずかせ
人を地の面から絶つ、と主は言われる。」(ゼファニヤ1:2-3)

人を地の面から絶つ・・・何度神はそのような宣告を人類に対してなされたことであろか。すべては人類の罪のためであった。

神は決して人類に対し、決して媚びて語りかけられるようなことをせず、一貫して、人類が耳を塞ぎ、足早に逃げ去り、聞かされたくないと願うような宣告を突きつけ続けて来られた。

神が人類に突きつけられた事実とは、人類は罪を犯し、神に背いており、生まれながらに死の宣告と永遠の滅びの刑罰にしか値しないという内容である。そして、その宣告の集大成が、カルバリの十字架なのであり、そこでキリストが受けられた死の刑罰こそ、生まれながらの人類にふさわしい神からの最終的な「判決」であり、恥辱に満ちた人類の真の姿だったのである。

だが、私たちはその刑罰をキリストだけに押しつけ、自分は一切無関係で生きて行くのでは、いつまで経っても、その贖いは、私たちのものとはならない。

自分で自分を十字架につけたり、自分で自分を苦しめたり、蔑む必要はないとはいえ、それでも、私たちには、日々、主と共に十字架を負う姿勢は必要である。主の十字架が私たちに適用されるからこそ、私たちはもはや罪の宣告を受けなくて良くなるのであり、その代わりに、その十字架が、罪赦されていない罪人と、私たちの間を、決定的に分けてしまう。

だから、この十字架の切り分けにより、私たちがどんなに和解を願っても、決して和解することもできず、一つになることのできない人たちが出現して来るのである。

地上の裁判官の最も主要な仕事は、他者に対して罪の宣告を下すことである。裁判官は、紛争当事者に和解を勧めることもあるが、最も重要な仕事は、やはり判決を書くことにあると言える。しかし、判決は、実に多くの場合、訴えられた者の不法行為を認定して、賠償を命令するものとなる。

裁判官がその役目を果たしてくれるからこそ、原告はそれによって救われるのである。

しかし、もしもこの世の裁判官が、判決を書く際、権力者や、宗教指導者や、企業の代表や、有名人などといった、この世で力と名声を持つ人々に媚び、自分が彼らに恨まれたり、報復されること怖さに、彼らをできるだけ罪に問いたくないと考え、この世の権力者に有利な判決を書いたとすれば、そんな訴訟に、あなたは原告として何を期待することができようか。

ところが、そういう日和見主義的な裁判官も、この世には相当数、存在するものと思われる。だが、裁判官に求められるのは、そんな自己保身や、この世の名声に気を取られ、この世の権力を持つ者を擁護し、彼らの罪を無罪放免したり、彼らに有利な決定を下す姿勢ではない。

そんな裁判官に訴訟を委ねるくらいなら、自らが判断した方がはるかにましなのである。だが、それを考えるとき、やはり、自分が恨みを買うことも恐れず、判決が憤りや反発を呼び起こすことも十分に理解した上で、それでも事実を厳粛に見据え、たとえ権力者であっても、悪者に対しては厳しい宣告を下すことが、人にとって非常に困難を伴う作業であることも分かる。

裁判官は、この世の権力者に媚びてはならないだけでなく、人類そのものに媚びてはならない。人類というものに幻想を抱き、人間を美化してとらえ、人間がそんなに悪いことをするはずがないとの先入観から、人をできるだけ罪に問いたくないなどと考え、どんな罪でも、できるだけ赦すべきだなどと説いて、和解勧告ばかりを行ったり、不法行為を認定して厳しい判決を書くべきときに、かえって不法行為を大目に見る判決ばかりを書き続けていたのでは、この世の秩序は崩壊してしまう。

そういう意味で、裁判官の仕事は、決して生まれながらの人類を満足させることにはなく、人間の罪なる本質をできる限り明らかにすることは避けて通れない、と言えなくもない。

このように、あらゆる紛争においては、誰かが命を得るためには、誰かが罪を宣告されねばならないという側面がある。罪人に対して、いつも容赦する決定が下されているのでは、誰も報いを得る者はない。赦しがあるとしても、それは、悔い改めと、謝罪と、償いのあとにもたらされるものであり、罪の自覚がないところに、謝罪も、償いも、赦しも、あるはずがなく、人は悔い改めない限り、罪赦されることなく、神に立ち返り、義とされることもないというのは、聖書の事実である。

そこで筆者は、キリスト者に与えられた使命は、どこかしら、この世の裁判官と似ており、決して、この世に迎合し、その罪を大目に見ることではないのだと知らされる。バプテスマのヨハネが、人々に悔い改めを迫ったように、十字架が、今も人類に対する罪の宣告なのであり、それゆえに、そこにはりつけられている人類の罪なる本質を決して見誤ることなく、その事実に立って、すべての物事を見据えねばならないのだと思い知らされる。

そういう意味で、筆者の仕事は、決して人間にとって喜ばしいものではないし、そうであってはいけないのであって、この世において真に正しい裁きが実現することを願うなら、筆者自身が、人類に対して媚びて甘い判断や決定を下してはならないのであって、決して人間的な感情から、対立を恐れ、違反を容赦してはならないのだという厳しい現実があることを思わされる。

おそらくプロテスタントもそうであるが、地上のキリスト教のあらゆる組織や団体が、地の塩としての役目を失ったのは、人助けと称して、この世に迎合し、人間が「恵まれる」ことだけを目的に、自己満足的なイベントを追及し、人類に対して甘い言葉しかかけなくなったためであろう。

カルト宗教にはすべてそういう要素がある。偽りのキリスト教は、偽りの救済論に基づき、罪ある人々が、罪を悔い改めずとも、罪あるままで、自己救済によって、救いを得ることができると説く。

偽りのキリスト教には、キリストの十字架の贖いがないので、そこには、その代わりに、人類の自己流の「罪滅ぼし」がある。それは一生続き、人生のすべてを投入してもまだ足りないのであって、罪滅ぼしのために、カルトの集団生活があり、不法行為が存在すると言って良い。

つまり、カルトの集団生活とは、人類の自己救済の手段なのであり、カルト宗教が犯す不法行為のすべては、彼らが結局、返済しきれない罪の負債をごまかして終わるための自殺行為のようなものなのである。

当初は「世界救済」などという名目をつけて、善行を行っているように見えても、そこで行われているのは、結局、自己救済のための不毛な「罪滅ぼし」である。

しかし、今日の組織としてのキリスト教にも、この世における労働にも、それと非常に似た要素が見いだせる。

最近、ふとしたことから、プロテスタントにおいては、2017年に日本信徒前進大会なる奇怪なイベントが催されていたらしいことを知ったが、そこに出席した信徒も、「恵まれる」どころか、きっとその正反対の災いしか受けなかったであろうと確信する。

以前には、こうしたイベントは「リバイバル」を売り物にしたお祭り騒ぎ的な内容のものが多かったが、クリスチャン・トゥデイの記事を読む限り、今は殺伐とした世相に合わせて、終末を感じさせる内容にシフトしつつあるように感じられる。

だが、どんな内容であれ、こうしたイベントは、すべて筆者にはマサダの自決へと続く「蛇の道」であるように思われてならない。以前から、「喜びの集い」や「リバイバル待望集会」や「聖霊降臨待望会」や「再臨待望集会」などと、様々な名をつけては、全国各地の信徒たちが、集団決起大会のようなイベントに、鈍行を乗り継ぐなどしながら、多大な時間的・経済的負担を負って駆けつけていたことを筆者は知っている。

しかし、筆者は、個人的には、それらのイベントのすべてが、要するに信者が浮世のすべての悩みを忘れ、我を忘れて現実逃避するためのまやかしでしかないから、そのようなイベントが、信者に幸いをもたらすことは決してないどころか、彼らの生活を後退させるだけであるとみなしている。

ノアはこの世に身を置いて、世人から嘲られながら、箱舟を建設していたのであり、洪水が来たときに、初めてノアの信仰の正しさが明らかになった。

ところが、今日の実に多くの信者たちは、洪水が来てもいないのに、早々と箱舟を作ってその中に閉じこもり、この世に出て行って奮闘するどころか、この世と接触して悩み苦しみを受けるなどたくさんだとばかりに、自分たちの間でしか通用しない特別な掟を振りかざし、特別空間としての箱舟に逃げ込み、いつか洪水が来て、自分たちの引きこもり生活の正しさが証明されると言っては、自分たちは「選民だ」と互いに囁き合い、慰め合っている。

その間にも、時は流れ、世の中では様々な事件が起き、彼らの家庭においても、子供たちが苦しんだり、夫婦が争ったり、彼らが自ら責任を果たして積極的に解決しなければならない出来事がたくさん起きるのだが、この人々は、信仰のイベントこそ、人生の中心であるかのようにみなし、彼らにとっては無菌室に等しい、居心地の良い特別の閉鎖空間(箱舟)に閉じこもり、そこから独自の理論を振りかざして物事を口先だけで論じているだけなので、この世においていかなる問題が起きても、見向きもせず、その解決に取り組むことも、責任を果たすこともない。

彼らはただ箱舟にさえ乗っていれば、この世のすべての困難は自動的に解決されるかのようなまやかしの救済論に身を委ね、実際に汗水流して取り組まなければならない様々な現実的な困難に取り組むことを自ら放棄して避けているので、そのような状態が長く続けば続くほど、現実に起きる様々な問題に対処する能力が低下して行き、この世も、彼らが現実逃避にいそしんでいるうちに、ますます悪くなって行くだけであり、彼らにはそれを止める力もない。

結局、この人々は、この世に正しい秩序をもたらすために働いているのではなく、この世の悩み苦しみから手っ取り早く逃避し、我を忘れるために、イベントに駆けつけているだけで、その現実逃避が「救済」であるかのように錯覚させられているだけなのである。

その光景は、カルト宗教の集団生活と何ら変わることはない。まだ地下鉄にサリンを蒔くところまで至っていないだけで、その末路は非常に厳しいものになると、筆者は予測せざるを得ない。

もっと進んで言えば、こうした特別なイベントだけでなく、彼らが何より重んじている日曜礼拝、教会生活そのものが、カルト宗教の集団生活と何ら変わらない、「現実逃避」なのであって、それは信者が自分自身の真の罪ある状態から目を背けるための「引きこもり生活」と呼んだ方が良いものであると筆者は感じている。

もしも彼らが真に現代のノアでありたいならば、この世に積極的に出て行き、そこにおいて、たとえ嘲られ、自分が劣勢にあるように思われても、粘り強く戦って、不正義の中に正義をもたらすために努力を重ねるべきであろう。

いつまでも手をこまねいて待っているだけで解決する問題などあるはずもなく、「自分たちは選民だ!」と豪語しながら、身内だけで集まり、自画自賛を重ねるだけで、世が罪を認めて彼らのもとにやって来ることは決してなく、天を地に引き下ろし、正しい秩序と裁きが、この世に実現するために、時を無駄にせず、労苦を惜しまないで取り組むべき様々な問題がある。

さらに、信仰者には、世に勝利した者が着いておられる。それなのに、なぜ大胆に世に出て行くのではなく、むしろ逆に箱舟など作って、そこに引きこもる必要があるのか。

「神から生まれた人は皆、世に勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(ヨハネの手紙一5:4-5)

その信仰はどこへ消えたのか。その不安心理はどこから来るのか。筆者はとても奇妙に思う。

だが、そういうことになるのは、きっと彼らが真に十字架の贖いを受け入れて、罪赦されていないことの証なのであろう、と思わざるを得ない。

これは恐るべき逆説である。病院は、病人のために必要な場所であって、健康な人のための場所ではない。同じように、地上の組織や団体としての教会は、罪人のために存在するのであって、罪赦された人のためには必要ない。

イエスは、病を癒し、罪を赦すために来られたが、イエスの救いにあずかった人々は、自由になって召し出されて行ったが、その救いを拒んだ人たちは、どこにも召し出されることなく、かえって隔離されてしまったのである。

誰も彼らを力づくで隔離したわけではない。だが、彼らは罪赦されていないからこそ、自分たちは清められなければならないと考え、いつか罰せられる日に怯えて、身を寄せ合い、かばいあうために、バリケードを作り、そこを自分たちの安全地帯とし、神からも人からも顔を伏せて生きているのではないだろうかとみなさざるを得ない。

だが、自分たちがいつまでも罪のゆえにこの世から隔離され続けているなどとあまりに恐ろしすぎて認められないので、自分たちは贖いのために精進を重ねているのであって、聖化の途上にあるなどといったことを自分に言い聞かせ、何とかして罪赦されていない現実の恐怖から目を背け続けているのではあるまいか。

つまり、この世で一般的に教会生活とみなされているものは、いわば、己が罪を自己申告した人々による隔離生活のようなものであって、罪赦されたという確信がない限り、その人たちは、何度でも、罪悪感を薄めてもらうための投薬を求めて、隔離病棟に通い続けるしかないのである。そのような生活を重ねれば重ねるほど、罪の赦しが得られるどころか、ますます赦しは遠のき、不安と、ごまかしが増し加わって行くだけである。

そういう生活は、はたから見ると、カルト宗教の驕りに満ちた「世界救済」を目的にした集団生活と何ら変わるところはないように見える。だからこそ、その末路も、カルト宗教と同じものになるだろうと筆者は感じているのである。

5年、10年、あと何年かかるか分からないが、毎年のごとく繰り返されているこうしたイベントが、いつか最後には破滅的な内容になるだろうとの予感を持たないわけにいかない。

だが、そのようなことは脇に置いておこう。今までずっと書いて来たように、筆者の目から見れば、この世における労働も、実は、教会生活と本質的には全く変わらない、人類の自己救済のための集団生活(隔離生活)なのである。

あの悪名高いカルヴァンの予定説――人は救いの確信を内側に持つことはなく、神にしか、誰が救われるか分からないという、あの荒唐無稽な説が、救いの確信を持てない大勢の人々に不安を抱かせ、その不安心理から逃れるために、人々が労働に励む――という悪循環を作り出す。

その労働とは、とどのつまり、神に救われているかどうかが分からない人々が、自己の不安と罪意識から逃れるために、外側を飾って、自分が善行に励んでいるように見せかけるための、自己救済としての終わりなきバベルの塔建設の試みに他ならないのである。

だから、そのような文脈での労働は、従事すればするほど、ますます神への反逆としてその本人に豊かさではなく、死と呪いとをもたらすものとなってしまう。

筆者はある時にそのことに気づき、こうした悪循環としての労働からは退かねばならないことに気づいた。そして、自己救済のための労働ではなく、真に意味のある働きをせねばならないと理解した。

だが、その真に意味のある有益な仕事とは、筆者が当初考えたような、単純な人助けではなかったのである。

裁判官の主要な任務が、人の罪を告げ知らせ、場合によっては、死さえ宣告せねばならないものであるように、やはり、信仰者に与えられた最大の任務も、人に罪を告げ知らせ、裁きと、処罰の日があることを告げて、悔い改めを求めるという、この世では栄光の少ない仕事なのであろうという気がしてならない。

人類の耳に心地よい自画自賛の言葉をささやき、誰に対しても「あなたの罪は赦された」と言うのはたやすい。だが、違反と、罪の宣告を厳しく告げなければならないときに、そのような心地よい言葉ばかり並べて、罪人を大目に見ているならば、後でひどい処罰がその人自身に下るに違いない。

人々に率直に罪を宣告し、謝罪と、償いを求め、この世において、地の塩としての役目を果たすことは、非常に苦労の多い仕事であり、それは、人間にとっては、同胞を敵に回すがごとく、とても気の進まない、憎まれる、嫌な仕事であり、この世における報いも非常に少ないように見えるだろう。

だが、それを果たさなければ、私たちキリスト者に地の塩としての価値はないのである。そして、救いとは、この世から離れたところに存在する内輪の集まりでもなければ、集団生活でもない。

私たちはこの世のあらゆる不合理の只中に立って、決してそこから逃げることなく、その最中に正しい裁きと秩序がもたされるよう、奮闘しなければならない。

そして、十字架において御子の贖いが達成されていればこそ、私たちの奮闘にも、勝利が約束されているのである。この勝利の約束から、私たちはすべてのものを引き出す。地上における助力者も、必要な物資も、適宜、必要な時に届けられる情報も、慰めも、決定も、必要の何もかもである。

神の国と神の義を第一として生きている限りにおいて、私たちには、地上生活においてすべての必要を満たされることが約束されている。そして、真に命の豊かさに至り着く道を、見つけたいと願うならば、この優先順位は、決して逆転されてはならない。地上において人前に栄光を受け、人に喜ばれ、受け入れられることが、神から喜ばれ、栄光を受け、受け入れられることよりも優先されるようなことは、決してあってはならないのである。

当ブログが、神の御前に立ち続けることができているのも、それがあるためなのである。

もしも筆者が世に迎合し、さらに世に迎合している偽りのキリスト教に迎合し、人の恨みを買いたくないとか、争いを避けて通りたいというだけの理由で、地の塩としての役目を果たすことをやめて、罪人の罪を大目に見ることを始めたなら、当ブログも、役目を終えたものとみなされ、踏みつけにされて終わるだけである。
 
歴代預言者のすべてが同じ細く狭い道を通った。このように、キリストの十字架の贖いの正しさを主張するならば、どうしても人々の罪を告発するという仕事を避けて通ることはできない。神と人(富、世)との両方に兼ね仕えることは絶対にできないのである。
  
そういう意味で、この先の道は、今まで以上に狭き門、細い道となることであろうと思う。現代のキリスト者が最もなさなければならないのは、おそらく、神の家を支配する穢れを告発し、これに触れないようにしながら、本物の見えない神殿を構築することなのであろうと思う。

かつて多くの人たちが、日本のプロテスタントの嘆かわしい現状を訴え、改革に着手しようとした。その人たちが、真に御言葉に立って、神の家を告発していた間は、いかにその言葉が厳しくとも、神もその人を守って下さったことであろうと思う。

だが、その人たちは、みすぼらしい干潟のほとりで、神からのみ栄光を受けるために、人からは忌み嫌われる仕事を忠実に果たすことをやめて、かえって人からの栄光を受けようと、不公平な判断を下し、ついには、神の家を支配する穢れに自ら迎合し、干潟など見るのも嫌だと、きらびやかな公共事業を建設する方向へとなびいて行ってしまった。

その結果、彼らは堕落し、不法行為に手を染め、かえって筆者がその人たちからバトンを奪い、その人たちに罪を告げ知らせるという厳しい任務を任されている。
 
だが、筆者は、もしも地の塩としての役目を捨てるなら、誰であろうと同様のことが起きるであろうと理解している。

私たちは一体、何に依拠して、他者に対して厳しい宣告を突きつけることができるのか。カルバリで下された神の判決に立ってである。それがあればこそ、この世の何人をも恐れずに、私たちはあるがままの事実を彼らに対して宣告することができる。逆に私たちが世に媚びることは、十字架を曲げることであって、神を敵に回す行為を意味する。

筆者はこれまで地上の紛争を通して、裁判官が筆者を死地から救い出してくれるように考えたり、あるいは、警察官に助けられたり、善良な上司や、信仰の友に出会い、それによって、大いに救われたように考えて来たこともあったが、事実はまるでそうではないことがよく分かった。

そういうものはすべて神が備えて下さった束の間の条件の一つに過ぎず、それらすべての条件を超越したところに、キリスト者は立たされている。そして、最終判断はすべて、キリスト者自身が、誰にも奪われることなく、自ら下さねばならないのである。それは、神と二人三脚で進む孤独な道であって、そのようにしてすべてを自ら判断することができなければ、どんな困難をも人は切り抜けることはできない。

このようにして、他者に対して罪の宣告を行うという筆者の「任務」は、この先もずっと続くであろうし、それが筆者の仕事なのだということを、筆者は理解させられている。そのために、誤解や、迫害を受けることも、当然に予測される試練のうちであるし、もしこの「任務」が真に必要なものであれば、それを切り抜ける方法も、必ず天に備えられているはずである。

「キリスト者として苦しみを受けるなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。」と聖書に言われている通り、それは何ら恥ずべき試練ではないし、いつか重い栄光で報いられる時が来る。

だから、もしもあなたが箱舟を作りたいならば、心の中に、神と自分とのみが入れる箱舟を作り、そこに避難しなさい。鳥が高い高い崖の上に巣を作り、そこに我が子を置くように、決して他者の入り込めない高みに、小さな安全地帯を設け、そこで、神と一対一で、誰にも知られないひそかな語らいを持ちなさい。いつ、誰に対し、どんな判断や決定を下さなければならないか、あなたが人々に何を告げねばならないかも、そこで考え、主に相談して決めなさい。

そうすれば、そこでひそやかに下された決定が、やがて大きな影響力となって、地上の出来事に波及し、あなたは自分の下した宣告が、まるで動かせない判決のようになって、すべての物事に効果を及ぼすのを見るだろう。

悪者は断ち切られ、正義が実現されて、命の水と、豊かさが川のように溢れ流れる。だが、そうなるまで、あなたは祭司として身を清め、神の御前で多くの孤独な時を過ごさねばならない。決して世に媚びたり、迎合したり、報復を恐れず、人からの寵愛を失うことを恐れず、非難されることを恐れず、神との間に、誰をも置くことなく、自分のすべてを、神の国とその義を地上に実現するために捧げなさい。

カルトの集団生活からは、何一つ生まれるものはなく、そこにあるのは、嘘と、虐げと、不法行為だけであるが、あなたが人の目からは完全に隠れたところで、生きておられるただお一人の神に捧げたものは、何一つ忘れられることはなく、豊かな報いと共に返される。地上の人々は、あなたの生き方を損だと言って、あなたが自分の幸福をすべて後回しにしてむなしいもののために身を捧げていると嘲るかも知れないが、恐れることはない、主はあなたの労にちゃんと報いて下さるからである。

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主は計らい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる。

悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 彼らは草のように瞬く間に枯れる。
 青草のようにすぐにしおれる。
 
 主に信頼し、正義を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

 あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。

 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。
 繁栄の道を行く者や
 悪だくみをする者のことでいら立つな。
 怒りを解き、憤りを捨てよ。
 自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。
 
 悪事を謀る者は断たれ
 主に望みをおく人は、地を継ぐ。
 しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。
 彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。

 貧しい人は地を継ぎ
 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。
 
 主に従う人に向かって
 主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが
 主は彼を笑われる。
 彼に定めの日が来るのを見ておられるから。

 主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り
 貧しい人、乏しい人を倒そうとし
 まっすぐに歩む人を屠ろうとするが
 その剣はかえって自分の胸を貫き
 弓は折れるであろう。

 主に従う人が持っている物は僅かでも
 主に逆らう者、権力のある者の富にまさる。

 主は御自分に逆らう者の腕を折り
 従う人を支えてくださる。
 無垢な人の生涯を
 主は知っていてくださる。
 彼らはとこしえに嗣業を持つであろう。
 
 災いがふりかかっても、うろたえることなく
 飢饉が起こっても飽き足りていられる。
 しかし、主に逆らい敵対する者は必ず滅びる。
 捧げ物の小羊が焼き尽くされて煙となるように。

 主に逆らう者は、借りたものも返さない。
 主に従う人は憐れんで施す。
 神の祝福を受けた人は地を継ぐ。
 神の呪いを受けた者は断たれる。

 主は人の一歩一歩を定め
 御旨にかなう道を備えてくださる。
 人は倒れても、打ち捨てられるのではない。
 主がその手をとらえていてくださる。

 若いときにも老いた今も、わたしは見ていない
 主に従う人が捨てられ
 子孫がパンを乞うのを。
 生涯、憐れんで貸し与えた人には
 祝福がその子孫に及ぶ。
 悪を避け、善を行えば
 とこしえに、住み続けることができる。

 主は正義を愛される。

 主の慈しみに生きる人を見捨てることなく
 とこしえに見守り
 主に逆らう者の子孫を断たれる。
 主に従う人は地を継ぎ
 いつまでも、そこに住み続ける。

 主に従う人は、口に知恵の言葉があり
 その舌は正義を語る。
 神の教えを心に抱き
 よろめくことなく歩む。

 主に逆らう者は待ち構えて
 主に従う人を殺そうとする。
 主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
 罪に定められることをお許しにならない。
 
 主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
 地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。

 主に逆らう者が横暴を極め
 野生の木のように勢いよくはびこるのを
 わたしは見た。
 しかし、時がたてば彼は消えうせ
 探しても、見いだすことはできないであろう。

 無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。
 平和な人には未来がある。
 背く者はことごとく滅ぼされ
 主に逆らう者の未来は断たれる。
 
 主に従う人の救いは主のもとから来る
 災いがふりかかるとき
 砦となってくださる方のもとから。
 主は彼を助け、逃れさせてくださる。
 主に逆らう者から逃れさせてくださる。
 主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」(詩編第37編)

* * *

さて、以前にも、なぜ使徒行伝には、使徒たちの殉教の場面が書かれていないのかということについて書いた。

本来ならば、使徒たちの殉教は、信仰の道を貫くためのクライマックスであるから、物語としては、これが描かれていた方が、ドラマチックで完成しているように見える。

それに引き換え、現存の聖書66巻に含められている使徒行伝では、使徒の殉教は随所で示唆されてはいるものの、実際にその場面の描写はなく、むしろ、使徒たちおよびクリスチャンが迫害に耐え抜いて、信仰を宣べ伝え、各地の教会が紆余曲折を経ながら成長して行く過程が重点的に描写されている。

使徒行伝の締めくくりにはこうある、「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒行伝録28:30)

ここには、パウロがいずれ殉教するのだという悲壮感は全くない。むしろ、神の国を告げる福音が拡大して行き、これからエクレシアは完成へ向かって行くのだという期待感が感じられる。

これは中途半端とも見えるような、未完成を思わせる終わり方である。花嫁エクレシアはまだ幼く、婚礼の支度にも入っていないが、もっと後になれば、物語のクライマックスがやって来る。しかし、それはこの時代にはまだ起きていない事柄であるから、描かれていないだけであって、真に重要な出来事は、これから始まる、まさにあなたたちの生きる時代に起きるのですよ・・・、とでも言いたげな期待感を込めたニュアンスが伝わって来るように思う。

つまり、使徒行伝は終わっておらず、今日の時代までずっとこの物語は続いていているのであり、パウロの生活から、一歩、前へ足を踏み出せば、そこに私たちの時代があって、私たちもその続きを生きているのだ、と言いたげな終わり方に感じられる。

とにもかくにも、エクレシアが完成に向かうというテーマに比べると、使徒たちが殉教して生涯を終えるということは、取るに足りない事であるかのように扱われているような気がしてならない。

さらに、使徒たちの殉教の描写が聖書にないのは、それがローマ帝国という多神教の異教的世界観を土台とした政治状況の中で起きた出来事だからこそであると、筆者はかつて書いた。

もしも使徒行伝の中に使徒たちの殉教の場面が描かれていたならば、おそらく、それを読んだ後世の人々は、彼らの生涯の終わりを模範のように考えるようになり、信者は誰しもそのようにして、時の政治権力と対立関係に陥り、迫害されて、非業の死を遂げるのが理想だとさえ考えるようになるだろう。

しかし、聖書はもともと人類の罪を贖うためのキリストの死と復活を中心に据えており、最初から最後まで、被造物の代表・初穂として贖われ、ただ一人神の目にかなう「完成された人」であるキリストについて語っているのであり、政治問題には全く主眼を置いていない。時の政権による信仰に対する迫害というテーマは、聖書のメインテーマから外れている。さらに、聖書はこの世において立てられた権威に逆らうようにとは信者に全く教えていない。従って、聖書は、信者を政権に対して刃向かうように、政治闘争へ赴くように焚き付けることを全く目的としていない。

しかも、使徒たちの殉教は、ローマ帝国が多神教の神話を建国の理念とし、キリスト教を公認していなかった時代という、一定の政治・時代状況を背景にしてこそ、起き得たものなのであって、今日の民主主義に基づく政治体制において、同様の現象が再び、繰り返されうるかと考えれば、それは(独裁体制やら共産主義国などの特殊な政治形態を除き)考えにくい。

そこで、そのように特殊な政治状況、時代状況のもとにしか起き得ない現象を、あたかも普遍的な事象(もしくは信者のあるべき模範)であるかのように描くという混乱が起きないために、また、キリスト教徒を政治権力との無用な対立関係に陥らせたり、使徒を迫害したこの世の政治権力に対する反感をいたずらに信者たちに抱かせるという結果が起きないよう、あえて聖書には、使徒たちの殉教の描写が省かれているのではないかと筆者は考えるのである。
 
ところで、「ルカによる福音書」と「使徒行伝」はともに同じ著者による二巻の書物であるが、どちらもが、パウロの死後十数年以上が経過してから書かれたものであるとみなされている。つまり、使徒行伝は、パウロの殉教後に書かれたものであって、まだ事件が起きていなかったために、この書物にパウロの殉教の描写がないというわけでは決してない。

さらに、パウロの殉教後に書かれている以上、これらの2つのルカによる書物が、パウロが裁判において有利な結果を得られるよう援護射撃として書かれたとみなす理由は存在しない。

ルカの2巻の書物が目的としているのは、パウロの運命を左右するために何らかの手立てを講じることではなく、あくまでキリストがどのような方であるかを宣べ伝えることにある。
 
さらに、パウロが上訴したカエサルとは、今日、キリスト教徒の迫害者として知られている悪名高い皇帝ネロである。その時代、ネロはまだキリスト教徒に対する大迫害に及んでいなかったが、パウロがカエサルに上訴したことによって、裁判において有利な立場に立ったとか、勝訴判決を得たといった記述は、聖書の中では全く見受けられない。

パウロがネロに上訴したことによって、いかなる結果が起きたのか、また、パウロが殉教に至った理由と、パウロがそれまでに受けた裁判との間にどのような関連性があるのか、具体的なことは不明である。

とはいえ、パウロは皇帝ネロの命により、斬首されて処刑されたとも言われている。パウロの殉教は、暴徒による襲撃などの結果ではなく、為政者から有罪とみなされたがゆえの処刑であったことは、ほぼ定説である。

このように、パウロがキリストの復活の命にあずかり、神からの力強い義認を受けていたにも関わらず、なぜ異教的世界観の支配するこの世の不正な裁判によって罰せられたり、不正な君主によって死をもって処罰されるようなことが起き得たのかという問題は、聖書では取り上げられていない。このことは他の聖書箇所と対比して、大いなるパラドックスに見えるかも知れない。

なぜなら、もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8:31-34)

というあの力強い神の義認に関する宣言は、他ならぬパウロ自身の記述だからである。このように書いたパウロが、ユダヤ人からの讒言に基づき、裁判で有罪を宣告されるか、もしくは皇帝から不当な判決を受けて処刑されたりするようなことがどうして起き得ようか。

聖書はこのパラドックスを説明していないが、筆者の目から見ると、それはやはり、ギリシア・ローマ神話の多神教の世界観に基づくローマ帝国という特殊な政治・時代背景と関係があるように感じられる。つまり、パウロの殉教という出来事は、異教的な世界の中で、その時代状況に限定して起きた出来事だったからこそ、聖書はあえてパウロの殉教を「キリスト者の模範」のように描くことなく、むしろ、「例外」のごとく扱い、パラドックスとして説明することもなく、通り過ごしているように思えてならないのである。

確かに、聖書には多くの殉教者が存在することが記されている。殉教そのものは、キリスト教徒の召しの中で非常に重い価値のあるものである。ステパノの殉教の時と同じように、使徒たちの殉教が土台となればこそ、その後、福音の広がりがあり、ローマ帝国へのキリスト教の浸透という出来事も起きたのであろうと見られる。今日我々が享受している信教の自由も、そうした犠牲の上に獲得された権利であると言えるかも知れない。

しかしながら、使徒たちの殉教は、教会の最初の礎が築かれたことを意味しているに過ぎず、今日のキリスト教徒が、パウロや、他の使徒たちと同じ政治状況に生きていないのに、彼らと同じように、時の政権からの迫害と受難の末、殉教すべきであるという定式のようなものは、決して存在しないと筆者は見ている。

むしろ、今日の「殉教」のスタイルは様々であり、「日々の殉教」というものもありうるし、何よりも、信者が殉教を目的化して、自ら死を目指すようなことを、聖書は全く教えていない。特殊な政治情勢下における迫害が起きた場合を除いて、今日のキリスト教徒のために、神は死ではなく命を、罪定めではなく、小羊の血潮に基づく潔白を、圧迫ではなく、むしろ、大いなる自由を与えて下さり、主により頼んで生きるすべての人々に対し、様々な苦難はあれど、神は最終的には、冒頭に挙げたダビデの詩編のごとく、

「あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。」

主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
 罪に定められることをお許しにならない。
 
 主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
 地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。

と記された通り、主により頼む信仰者が、不当な濡れ衣を着せられて恥をこうむり、罪に定められるようなことが決してないよう、キリストの義がそれにあずかる者にもたらす絶大な効果を、クリスチャンのみならず、この世の人々の前でも、真昼の光のように輝かせ、私たち信じる者を悪人たちによる謀略や、あらゆる虚偽の訴えから、守って下さるものと筆者は確信している。

だから、筆者自身も、真に信仰により頼んで生きるキリスト者が不当な判決を得て有罪に終わることなど全くあり得ないこととみなしており、

「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか。」

「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。」

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」


とのパウロの宣言を文字通り、心に確信している。パウロに起きた出来事は、あくまでローマ帝国でキリスト教が国教化される前の、帝国内にキリスト教が浸透しつつあり、教会が生まれたばかりで成長し始めていたその困難な状況の中で起きた出来事であり、今日の一人一人のクリスチャンがそれを模範や理想として生きるために起きた出来事ではないのである。

だから、我々が心がけるべきは、あらゆる理不尽な出来事が降りかかるように思われる時にも、虚偽の訴えや、謀略によって追い詰められるような時にも、心真直ぐに主を信頼し、神がふさわしい解決を与えて下さり、信じる者を義として下さることにいささかも疑いを抱かないで、憤りを捨て、心騒がせず、平安の中に座すことであろうと考えるのである。
 
「無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。
 平和な人には未来がある。
 背く者はことごとく滅ぼされ
 主に逆らう者の未来は断たれる。
 
 主に従う人の救いは主のもとから来る
 災いがふりかかるとき
 砦となってくださる方のもとから。
 主は彼を助け、逃れさせてくださる。
 主に逆らう者から逃れさせてくださる。
 主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。」

* * *

ところで、一旦、御言葉による確信に立ったならば、恐れや、不安や、疑いを抱かないことは重要である。なぜなら、これまでにも幾度も書いた通り、キリスト者にあっては、彼の霊の内側で起きることが、周囲の環境にそのまま影響するからである(霊的命が環境を創造する)。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37)
 
イエスが言及された「生ける水の川」とは、御霊であり、復活の命であるキリストの霊の只中から生まれて来る命の流れであり、天的な秩序のことでもある。

 信仰によって、不正のあるところに正義をもたらし、嘘の只中に真実をもたらし、弱く貧し人たちを豊かさへと導き、悲しむ者に慰めを、とらわれ人を自由にすることのできる、天的な秩序をこの地に引き下ろすことのできる、清く純粋な命の泉は、信じる者の霊の内側にある。

その清い命の流れは、人の霊の内、心の只中から湧き出て来る。その流れを絶やさないようにし、周囲を潤すことのできる、清い心の泉を枯れさせないよう守るためには、信者が神と自分の心との間に、さえぎるものを置かないようにすることが重要である(それが無垢であることの意味である)。

我々の生活の中では、理不尽だと感じられる出来事は、絶え間なく起こる。それによって、心を曇らせ、霊を圧迫されて、命の流れをせき止めてしまうと、私たちの働きは止む。

様々な疑念、不満、悩み、理不尽であるという憤りなどが、どんどん心をにため込まれて行くと、それはやがてバリケードのようにうず高く積みあがり、命の流れを完全に塞いで、せき止めてしまう。

キリスト者の霊の内側から流れ出す命の流れは、その人の心が信仰によって抱く喜び、愛情、希望、信念等と密接な関係があり、心が重荷で塞がれて、意気阻喪していたり、憤りに満ちているときに、開放的な命の流れを生み出すことはできない。

だから、信者は絶え間なく、新しい創造を行って、大胆に主の御業の中を生きるためには、心に去来する様々な重荷や圧迫を手放し、投げ捨て、自分自身の霊(むろん心も)の状態を常に明朗に、清く、軽快に、開放的に保っておくことが必要なのである。

それは決して、ポジティブ・シンキングのような心のコントロールを意味するものではないし、あるいは、不当な状況の只中に置かれても、笑ってなすがままになれという意味ではないし、理不尽な出来事を、理不尽であると感じて憤ってもならず、そのように主張してもいけないという意味ではない。

以前にも書いた通り、理不尽な状況は理不尽であると主張して構わないのである。ただし、状況の理不尽さを打ち破るための最大の秘訣は、憤って自分で誰かに報復したりすることにはなく、ただまっすぐに主の救いを信頼し、これを砦とし、糧とし、よすがとして、喜びを持って歩み続ける信仰の姿勢を捨てないことにある。

だから、心を憤りでいっぱいにしてはならないのである。

私たちの心は、被告であるサタンに対して開かれていたのではいけない。しかし、憤りを持ち続けると、やがてそれは報復願望や、悪事の企みへとつながって行き、悪魔に対して心を開くことにつながりかねない。

だから、私たちは、理不尽な状況に遭遇したとき、敵対者に対する憤りを心に抱き続けるのではなく、むしろ、まことの裁き主である神に直接、その事件を訴え、私たちの力強い弁護者でもあ神に自分の言い分を聞いていただき、主が自らの言い分を私たちに向かって述べて下さるときを待ち望むべきなのである。

そうして、理不尽と見える様々な状況の中に置かれたときにも、その状況の理不尽さだけに目を留めることなく、むしろ、その状況の中に、神の御手が働いており、その状況さえも、私たちが自分の心を治める上で、必要不可欠な訓練として与えられているものであって、私たちがその訓練において学ぶべきことを真に習得しさえすれば、その状況は、早急に取り除かれることを思うべきなのである。

神が信者のために正しい裁きを輝かせて下さるのは、私たちがそれを理解した後の瞬間のことである。つまり、私たちは今この時代に、使徒たちのように殉教して命を捨てることを自ら願う必要はないにしても、「日々の殉教」は否が応にも与えられる。

私たちにとって、理不尽かつ苦難と感じられる出来事は日々起きて来る。その中には、私たちの感情を揺さぶり、圧迫し、怒りを抱かせるような、相当に困難と感じられる出来事も含まれているであろうが、すべての状況には意味があり、それも神の深い采配の下に与えられているのであって、信者がいかなる状況においても、主を信頼して心騒がせず、勝利の確信に立って、揺るがされない方法を学びさえすれば、信者を取り巻く状況は、劇的に改善する。

悪の軍勢はカルバリで打ち破られているため、本当は、私たちを取り巻く状況が真実なのではなく、私たちが何を信じるのかにすべてがかかっているのである。だから、私たちは自分の外で嵐のような出来事が荒れ狂う瞬間にも、心を穏やかに保ち、勝利はすでに主にあって取られているという確信に常に立てるようにならなければならない。それができるようになれば、状況はもはや信者の心に触れなくなり、悪しき様々な問題には終止符が打たれる。

すべての試練、困難な状況は、信じる者が、自分で自分の心を守り、そこから湧き出る価値ある命の流れを絶やさず、いかなる状況においても、注意を逸らされずに、自分のミッションを果たし続けることを学ぶためにこそ、与えられているものなのである。

だから、神に対して心を開き、その御言葉に従い、サタンの言い分には心を閉ざし、これを退けなさい。あなたの心を、敵の蒔く様々な悪しき思いから守り抜き、喜びを絶やさないで目的へ向かって進む方法をできるだけ早いうちに学びなさい。
 
「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」(箴言4:23)

あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。

「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。

あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」(ルカ22:24-30)


訴訟の判決が、出口のない堂々巡りのような問題に、待ち望まれていた新たな脱出口を与え、紛争当事者だけでなく、社会のあり方までも変えることが分かって以来、筆者は、裁判所という不思議な場所に魅了されてしまった。そこから、汲めども汲めども尽きることなく流れて来る命の泉のような流れに、日々、何かの形で関わりたい、もしくは、関わることができないかと願っている。

身近で日々、法律関係、裁判関係の用語を見聞きすることができるのは、筆者にとっては、まさに、演奏家が毎日、様々な楽曲の音色に耳を傾け、楽譜をめくっているような具合で、幸いである。

筆者の夢は、この地に召されてやって来たときから、いつかここから、生ける水の川々が尽きせぬ洪水のような流れとなって溢れ、流れ出ることにある。

これがいわば、筆者に与えられた「開拓伝道」である。これを馬鹿らしいファンタジーを語っていると笑いたい人がいれば、それはそれで結構である。

筆者の住んでいる県の名前は、全国で唯一、神の名がつけられている都道府県であるが、長年、命の川どころか、荒野しか見当たらない中で、敵の襲来や、かんばつに脅かされ、一体、初めに与えられたビジョンが、いつどういう形で実現するのか、分からない月日がずっと続いた。

もはや筆者に何かの召しがあったことさえ、人々はもちろん、筆者自身さえも忘れ去ろうとしていた頃、筆者は、裁判所という不思議な「干潟」を見つけ、そこから不思議な命の流れが湧き出ていることを発見した。

霊的大干ばつの最中のことである。裁判所には、人々が目を背け、耳を塞ぎ、足早に通り過ぎて行きたくなるような、こじれた訴えばかりが送りつけられ、うず高く積まれていた。それはまるで見栄えのしないヘドロや泥水ばかりがたまった何の役にも立たない「干潟」のようである。

筆者自身が、誰も見向きもしない訴えを抱えてそこにたどり着いた。その時は、誰一人として筆者を応援する者もなかった。しかし、筆者はそこに正しい裁きが存在するという噂を聞きつけ、最後の望みを持ってそこにたどり着いたのである。

やはり、噂は嘘ではなかった。その「干潟」にたどりつくと、そこにたまった「あぶく」の一つ一つに、不思議な光が当てられ、光合成が働き、それが神秘的な作用により、新たな命を生み出すエネルギー資源へと変えられていることが分かった。

干潟は単に水が腐った無用な地帯ではなく、そこには人手によらず、太古から続けられて来た途方もなく不思議な天然のエネルギー資源の循環があった・・・。そこで、筆者も自分の訴えに順番が回って来て、光が当てられるのを待った。実際に、その結果としてどういう現象が起きるのかを知ってから、この不思議な「干潟」に魅了されて、そのそばを離れられなくなったのである。

裁判所が扱う訴えの範囲は、とどまるところを知らない。たとえば、筆者は我が国に、行政職員を罷免する制度がないのは、本当に異常であると感じている。本来ならば、国家公務員に対して、国民は罷免権を持っているはずだが、行政の職員に対してはそれはない。

筆者は我が国で国家・地方公務員と呼ばれている人々は、憲法上定められた公務員の定義から外れており、これは戦前の遺物としての「官吏」の残存物のような、不明な位置づけにある集団だという考えを、他の人々の主張を踏まえ、提示して来たが、罷免権がないという意味でも、その考えは裏づけられているように思う。

本来ならば、公務員の選定と罷免は、国民固有の権利であるはずなのに、実際には、行政職員に対しては、市民は何もできない立場に置かれており、それゆえ、あまりにも行政の腐敗が進み過ぎたのである。

国家公務員の不祥事について、人事院は個別の要件を扱わず、関係省庁は苦情があったからと言って、何の対処の権限も実際にはほとんど行使しない。行政に関する苦情について、市民にはどこにも訴える場所がほぼないのが実状である。

だからこそ、今日の行政には決して自浄作用というものが全く期待できず、裁判所のように市民からの訴えを真剣に取り上げる場もほぼほぼなくなっているため(システムが形骸化してしまっている)、一旦、役所が腐敗すれば、その腐敗はとどめようもなく、仕事をしない役人がいたからと言って、これをクビにする方法も市民にはないといった状況が生まれる。

行政は、市民と直接、接しているにも関わらず、市民からの声を汲み上げづらい状況にあり、その乖離がますます進んでいるように見えてならない。
 
もちろん、行政といっても、ありとあらゆる分野が存在するわけで、すべてがすべて腐敗の危険の只中にあると言うつもりはないが、やはり、国民からの選定と罷免の権利が及ばないことには、それだけの大いなる暗闇が存在するものと筆者は思う。
 
ところが、裁判所はそうした用件であっても扱える。もちろん、裁判所が公務員を罷免するわけではないにせよ、事件を裁判所に持ち出すことによって得られる効果は絶大である。裁判所には、行政の決定さえも覆すだけの権威がある。そして、その原動力となるのは、やはり、取るに足りない弱い無名の市民からの一つ一つの訴えである。

紛争を起こすことは、一見、物事を紛糾させ、問題を深化させるだけの行為のように見えるかも知れないが、筆者は、その一つ一つの訴えには、はかりしれない意味があると考えている。

物事を丸くおさめ、自分が譲歩して、あるいは願いをあきらめて、穏便に早期に和解によって紛争を解決するのは、「美しい」決着のように見える。それに比べ、紛争を提起する行為自体が、和を乱す「美しくない」行為と見える。まして紛争を徹底的に戦い抜いて、白黒決着をつけるなどの行為は、なおさらそう見えるだろう。

だが、実際には、その見栄えの悪い、調和を壊すような「美しくない」訴えの数々の中から、はかりしれない価値が生み出されているのが現実なのである。リスクを覚悟で最後まで訴訟を戦い抜く人々がいなくては、画期的な判決が生まれることもなく、その分だけ、社会の進歩や、成果が、勝ち得られずに終わる。

そういう意味で、筆者は、当事者が戦い抜いて得た判決には、やはり決して社会全体がおざなりにできず、またそうしてはならない絶大な価値があるものと考えている。

賠償金がいくら払われるか、どうやって支払わせるのか、といった金銭的な問題だけがすべてではないのである。もちろん、債務名義は、強制執行を行うこともできる根拠となるが、そのことをさて置いても、裁判所がもたらす新たな判決は、それ自体が、新しい生命の息吹となり、社会の目に見える物事の正邪を切り分け、目に見える物事を超越した立場からこれに裁きを宣告し、実際に物事を是正し、変えて行くだけの力を持つものである。
 
筆者は、裁判所が持っている権威の大きさや、市民が起こす一つ一つの訴えの意義、そして裁判所の使命について、飽くことなく考えさせられている。

我が国における三権分立は、決して行政を司法の下に置くものではないにせよ、もしも腐敗した行政というものがあるとすれば、それはやがて裁判所の権威の下に是正されることになるだろうと筆者は思う。
  
ところで、当ブログに関する訴訟の第一審は、そのほとんどの部分が、法廷ではないところで、弁論準備手続きとして行われ、裁判官が法衣を着て現れたのも、全体で三度でしかなかった(開廷の時、弁論終結の時、判決言い渡しの時)。

さらに、今、事件は控訴審へ向かっているため、これからは三人の裁判官が事件を担当することになる(それも何かしら三位一体を象徴するようにも感じられる)。

しかし、筆者にとって、法廷のイメージとは、常に法衣をまとった一人の権威ある裁判官が、原告・被告の双方が揃っているところで、厳かに判決を言い渡すというものである。

ただ裁きに権威があるというだけでなく、裁判官は決して当事者と同じ目線に立たず、当事者を見下ろす法壇に立ち、そこから裁きを宣告するからこそ、より一層、厳粛に感じられるのである。

この法廷のイメージは、筆者の心の中で、神とサタンと人間とが相対してそれぞれの主張をぶつける天的な法廷の地上的な絵図のようである。

ところで、筆者は三権分立を、不正確なたとえとはいえ、霊、魂、体という聖書に登場する三部位に置き換えて考えてみる。

行政とは、いわば「からだ」であって、司法は「頭脳」である。
 
立法は「命令」そのものを考えて発令する部位であり、聖書にたとえるなら、「光あれ」といった命令が発せられるところである。筆者から見ると、この発令は、あたかも霊からすべてが始まることを予表するかのようである。

司法は、発せられた命令に基づき、目に見える物事が実際にあるべき秩序にかなっているかという是非を判断し、違反を是正する部位であるから、一旦、「光あれ」という命令が下されたなら、何が光であり、何が闇であるかを精査し、光と闇とが決して混ざることのないようにこれを切り分ける機能を持つ。

つまり、絶えず善悪の判断を行う魂の働きになぞらえられる。

行政は「からだ」であって、目に見える物事の世界で、命令されたことを実行する手足のような機関に当たる。

この世における三権分立に主従関係はないが、霊、魂、体はそれぞれ主従関係にあり、その中で、最も卑しい部位は体である。なぜなら、体はこの世(目に見える世界の物事)と接触する部位であって、自ら判断を行うわけではないからである。

筆者は以前に、ハンセン病者は、体に痛みを感じなくなることによって、自分で自分の体を傷つけても、それに気づけなくなり、それが原因となり、体の一部を失って、いびつな姿になって行くのだと書いた。

もしかすると、我が国の行政には、これと似たような病が起きているのかも知れないと筆者は思う。我が国の行政は「からだ」である。ところが、この「からだ」は、良心の機能から切り離されて、次第に、自己を統制する力を失いつつある。
 
行政が、国民に奉仕しながらも、国民の選定・罷免が及ばないことによって、ほぼ完全に閉ざされた自存それ自体を目的とする自己目的化した機関のようになっていることは書いた。そのために、これはあくまで比喩であるとはいえ、三権の中でも、行政は、司法からも、立法からも、抑制が及ばなくなって、「良心の機能」という痛みの感覚から切り離されて、自分で自分を傷つけても、あるいは他人を傷つけても、それが分からない状態に陥っているのではないかと感じられる。

そのために、体のあちこちをぶつけ、随分、歪んでいびつな姿になってもそれが分からず、国民からの監視も、選定も、罷免も行き届かないことにより、すでに壊死しているような部分も、たくさんぶらさがっているのではないだろうか。

その「からだ」とは、「頭脳」のコントロールが効かなくなり、「知性」から切り離されて、感覚麻痺した不気味な体である。

そこで、このような「からだ」の感覚鈍磨、もしくは麻痺状態を是正するためには、生命の通わなくなった部位を本体から切り離し、そこに新たな生命力をもった「細胞移植」が必要となる。

良心の働きを、すなわち、痛みの感覚を取り戻すために、死んだ細胞の代わりに、新たな細胞を移植し、体の働きに「頭脳」の指令がきちんと行き届くようにせねばならない。

むろん、筆者が「移植」を行うわけではない。それは筆者とは何の関係もない事柄である。

しかし、自然淘汰に近いような形で、実際には、どんどん「移植」が行われている。行政サービスの様々な分野は、民間企業やその他の様々な団体に移行(委託)されているが、このことは、裏を返せば、純粋に「行政」と言える機関には、もはやこれらの仕事を自ら遂行する力がなくなりつつあることを意味するのではないだろうか。

新たな発想、そして、優れたノウハウが生まれて来るために、もはや自己の力だけではどうしようもなく、外へ助けを求めざるを得ない状況が生まれているのである。

だが、そのようなことは、行政が「閉ざされた機関」ではなく「開かれた機関」であったなら、おそらく起きなかった現象であろうと筆者は考えている。役所から見れば、それは単なる外部委託に過ぎない事業であろうが、真の意味で、政府が(もしくは地方行政が)、長年に渡る業務遂行を通して、絶え間なく国民・市民からの直接の声を汲み上げることができていたならば、その間に、サービスの向上、多様化が進み、民間委託するしか方法がないという状態には陥らなかったことであろう。

むろん、委託によって新たな生命の息吹が注ぎ込まれることは、歓迎すべきことなのであるが、筆者はどうしても、そういう現象が起きていること自体に、行政の行き詰まりのようなものを感じずにいられない。
  
以上で、裁判所の権威とは、目に見える物事を超越した領域から、裁きを宣告することにあると書いた。そこで、三権分立には、主従関係はなく、それは互いに抑制し合い、働きを分散させたものに過ぎないとはいえ、そうはいえども、筆者の目から見ると、実はやはり、目に見える領域で働く「体」=「行政」は、最も知性からはほど遠い場所にあると言って差し支えなく、その意味で、これは、命令を実行する手足のような機関であり、かつ、裁きに服さねばならない、徹底して「仕えるため」にある部位であると考える。

にも関わらず、「体」が知性を凌駕し、頭脳との関係までも覆し、一人の人間の中で、王様になってしまうと、人間の本来的な秩序が転倒する。ところが、我が国では、半ばそれに類することが起きているのが現状ではないだろうかと筆者は考えざるを得ない。

今は問題提起の段階なので、これ以上のことは深く語れないが、筆者はそのように、たとえるならば、麻痺しかかったような状態にある「体」に、良心と生きた感覚の機能を取り戻させるために、いかなる方法(手術・治療)が必要であるのかについて、ずっと考え続けている。

冒頭に挙げた御言葉は、従来の聖書的な解釈によれば、当然ながら、一人一人の信者に適用されるものであるのだが、それと同時に、これは「からだ」の働きを持つすべての職に当てはまる。

人に仕える立場にあるはずのものが、王様のように君臨している状態は、明らかに異常であるから、そのような状態を是正するためにも、自然と、壊死した細胞を生きた細胞に取り替える必要が生じているのではないだろうか。罷免が及ばなくとも、必然的に、何かしらの淘汰や刷新に近いことが起きているのである。

筆者がいたずらに行政の無為を批判し、役立たずの役人を罷免する制度が欲しいと言いたいがために、こうした事柄を、決めつけで書いているとは考えないでもらいたい。国家・地方公務員の選定と罷免を国民の側から可能とすることは、何らかの方法で必要であろうと考えるが、その問題とは別に、まずは行政と司法との間で(筆者は立法府のことはまだ知らず、関わっていないため言及できない)、生きた橋渡しを行い、真に抑制し合う関係を打ち立てるために、今後、必要となることは何なのか、筆者は自分自身の置かれた立場から考え続けねばならないと述べているだけである。

* * *

最後に、いくつかの個人的な事柄について書いておきたい。以下の二つは、筆者が当ブログを巡る訴訟が行われている期間中に学んだ最大の教訓である。
 
➀物事は非常に困難な方法で取り組んでみることにこそ価値がある(望みうる最高の願いを決してあきらめずに、犠牲を払ってそれに向かうことに価値があること)。
②理不尽だという思いを捨てることこそ、すべての物事の解決の最短コースだということ。

➀について言えば、通常の感覚では、訴訟の提起そのものが著しい冒険であり、未知の分野への挑戦であったため、それにも関わらず、控訴審まで及ぼうとしていること自体が、途轍もない大いなる挑戦(もしくは無謀な冒険)と映ることであろう。

しかし、周りからどのような評価を得たとしても、筆者は、やはり、どうしてもこれだけは譲れないと考える望みに対しては、人は妥協なしに取り組まねばならないことをいつも思い知らされている。

筆者の目から見て、なぜ裁判所がそれほどまでに尊い場所に映るのかという理由もそこにあるのだ。それは、そこに人々の命がけの「望み」が託されているためである。

訴訟には一つ一つ、個人的な争いにはとどまらない社会的な価値があると、筆者は考えている。当ブログに関する訴訟では、特に、クリスチャンの側から、どうしても述べておかねばならない問題があった。強制脱会活動の違法性の問題である。

遅ればせながら、ようやく控訴審になってからこの問題に言及することが可能となったとはいえ、こうなったのは運命的な巡り合わせであり、かつ、これははかりしれない価値あるテーマだと筆者は考えている。

なぜなら、今までクリスチャンの側から、強制脱会活動の違法性を認め、こうした活動を批判したり、反省する発言が、公の場所で聞かれたことはほぼないと考えられるためである。しかし、筆者は、これをプロテスタントの恥ずべき歴史としてとらえており、そのことをプロテスタントの中から(これまでプロテスタントの信者であった者の側から)公式に認め、声明することには、非常に重い意味があると考えている。

筆者は牧師でもない一信者に過ぎず、そもそも訴訟では他者の不法行為を指摘しているのであって、自分自身が脱会活動に携わって来たわけではないが、当ブログでは、そもそもの初めから、強制脱会活動はプロテスタントの汚点であるということを指摘し続けて来た。

その意味で、筆者の訴えは、キリスト教徒の側から、異教徒に対して、反省し、懺悔せねばならない問題があることを公に宣言するという意味を持っていないわけではない。筆者の訴えは、統一教会とは何の関わりもないところで提起されているとはいえ、クリスチャンの側から、こうした脱会活動を強く非難する言葉を、公の場所で述べておくことはぜひとも必要であると考えている。

そのチャンスが巡って来たのは、やはりこの戦いを控訴審へ持ち込むことに、真に意義があったたことを表しているように思われてならない。
  
さらに、②の理不尽だと感じる思いを捨てることは、決して誰から何をされても一切異議申し立てをしないという口封じの圧力に屈することは訳が異なる。理不尽なことは、理不尽であると、むしろ、公然と訴えるべきなのである。だが、そのことと、許せないという感情をいつまでも持ち続けることは異なる。

筆者は、第一審が終わってから数ヶ月ほどたった時に、心の中で理不尽だという思いを手放しつつ、それでも、訴えを続行することは可能なのだということを学んだ。それは、真実を明るみに出し、きちんと事実関係と責任の所在を明らかにし、物事をあるべき所に是正して行くために、必要な措置だから、訴えを続けるというだけのことであり、相手を徹底的に追い込むとか、自分の思い通りの決着に従わせるために、何としても争いを続行するというものではない。

そのように個人的な感情を手放すことができた時、その訴えは、神ご自身が取り上げて下さり、人間の努力によらずとも、速やかにしかるべき解決が与えられることを筆者は学んで来た。

ただし、これは繰り返すが、うわべだけ謙虚さを装い、波風立てないことだけを第一として、相手の前にわざと自分の主張を放棄して折れて出るとか、望みをあきらめるということとは全く意味が異なる。筋を通さなければならない場面では、不本意な妥協や和解を退け、最後まで物事を公然と明らかにすることは必要である。だが、それを個人的な怒りや報復感情とは関係のないところで、真に物事があるべき姿を取り戻すためにこそ、行うことは可能だと学んだのである。
 
ところで、最後に蛇足ながらつけ加えておくと、政府の行う行政サービスの中に、国側が敗訴した国賠訴訟への対応というものもある。さすがに、この仕事は外部委託はできないため、半永久的に、政府自身が行わなくてはならないであろうが、その領域まで行くと、役所はもはや自己正当化ができなくなる。たとえば、先の大戦中に政府が犯して来た数々の過ちの償いの問題があるし、ハンセン病者とその家族への償いもあろうが、こうした問題を扱っている役人は、どうしても国民の前に「悪者として立つ」ことを避けられない。

その領域まで来て、初めて行政サービスに自己反省と自浄作用の余地が生まれる。(言い換えれば、それ以下の国賠訴訟で敗訴を味わったことのない下部の行政機関には、我がふりを自分で正すという自己反省の力がないということである。)

だが、それとて、市民たちが必死の覚悟で訴訟を戦い抜いたことの成果なのであって、行政自身の自然な自浄作用によって生まれた結果ではない。集団的な国賠訴訟が起こされなければ、行政が自ら過ちを認めることはなく、苦情の電話や書面といったレベルで対応がなされることも決してなかったであろうと筆者は確信する。

そういうことを考えても、筆者は、やはり、行政が今や決して自力で到達できなくなっている自己反省の部分を補うという意味でも、司法の働きの重要性を思わずにいられない。そして、司法には、人間の魂の最も重要な機能としての「良心」の働きがあるように感じられてならない。だからこそ、そこに筆者は尽きせぬ興味関心を抱くのである。
 
弱く無力で追い詰められた立場から、国を相手取ってでも、訴訟を戦い抜いて、判決を勝ち取った人々の努力と成果があってこそ、先の敗戦によって生じた様々な混乱の責任を含め、数々の過ちの責任を政府に追及することが可能となり、我が国の今日の様々な法と社会のあり方が打ち立てられているのであって、その訴訟がなければ、政府自身が己が過ちを認めることは決してなかったであろうことを考えると、それを起こした人々の努力にはやはり敬意を持たないわけには行かないと思うのである。

それと同時に、「体」に働く痛みの感覚とは、人の良心の働きであって、人が自己反省によって軌道修正して行く力そのものであろうが、それを失ったとき、人は他者を傷つけるだけでなく、自己をも傷つけることになることを思わされる。

自浄作用をなくした行政の腐敗という問題と、プロテスタントが繰り広げた強制脱会活動の問題とは、そういう意味で、筆者から見ると、何かしらの共通点を持っているような気がしてならない。「プロテスタントの教会に自浄作用が働くなったために、被害者は裁判を起こすしかない」と警告していた牧師自身が、強制脱会活動に関わって来たことはまるで運命の皮肉のような話である。

なぜプロテスタントはそのようにまで盲目的で自己反省のない状態に陥ったのか。なぜ自ら神を信じると豪語する人々が、それほどまでに良心を失い、自分自身を正義の担い手のように考えながらも、他者から裁判を起こされるまで、人々の悲鳴に耳を貸さなくなったのか。(さらにもっと言えば、裁判を起こされても、なお不都合な判決には耳を貸さなくなった。)信者はこの問題についてよく考えなければならないものと思う。

筆者は、そこに、数々の外注の業者や、末端の下々の職員を絶え間なく(内心では見下しながら)「選定」したり「クビ」にしながらも、自分たちだけは、決して誰からも「選定」されることもなく「罷免」されることもないという自己安堵に陥った行政役人の「驕り」と、自分たちは由緒正しい正統な信仰を維持するキリスト教徒であるから、救いを知らない(で地獄に落ちる)他の人たちとは全く異なると自負する信者の「驕り」という、何かしら非常に似通った心理的問題があるような気がしてならない。
 
とにかく、そこに共通する問題として、高慢さとその結果としての自分とは異質な他者に対する君臨というものが存在することは確かであろう。それだからこそ、筆者は、逆にキリスト教徒の側から、誰か一人でも、この問題について、自分たちの側に責任があることを認めて、異教徒の前に頭を下げる人間が現れることが必要ではないかと考えている。

そのために、筆者は、誰が当事者として耳を貸すわけではないとしても、また、筆者自身が、責任を負うわけではないにしても、少なくとも、信仰者を名乗る人間が、こうした問題が起きていることに、気づきもせず、神と人の前で、声をあげることもない鈍感さと良心の欠如は、実に恐るべき感覚麻痺であって、そのような状態を避けるためにも、この問題について、真実を公然と明らかにし、責任の所在を問うことは、必要な作業であると感じている。そして、そのチャンスが与えられたことは、光栄だと感じているのである。

人は自分自身が罪を犯したわけではなくとも、人々の代表として、頭を下げなくてはならない瞬間がある。そして、聖書が根本的に述べているのも、人は誰も義人ではなく、生まれながらに罪人であるから、誰もヒーローにはなれないということである。

救われて、キリストに似た者とされるとは、より一層、へりくだって仕える人になることをしか意味せず、尊大で他者を見下しながら、自分だけは特別だと己惚れる人間になることを意味しない。だから、たとえ自分に罪がなくとも、信者にはへりくだることが必要であり、そのために、自分の憤りを手放すことも必要であり、それがなされた時に初めて、我々の訴えは、神と人との前に義と認められて、速やかに聞き入れられるものとなるのではないかと感じている。

そのことを、筆者は自分自身の訴訟を通しても、日々の生活の中でも、毎回、毎回、繰り返し、思い知らされつつ、同時に、それでも手放すこともできず、あきらめることもできない切なる願いを、神と人とに訴え続けながら生きている。それだからこそ、それだけの言葉に言い尽くせない思いを通過しながら、学び、勝ち取られた成果としての判決には、そこに書かれている文字以上の価値があると思わないわけにはいかない。また、そうした人々の悲痛な思いが集積されているのが裁判所であることを思うと、その場所には、畏敬の念や、厳粛さと同時に、深い憧れや愛情にも似た特別な思い入れを抱かないわけにいかないのである。

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(29)―彼のものは一切、債権者に奪われ 働きの実りは他国人に略奪されるように。

本日、筆者の中で何かの一線を超える出来事があった。筆者の中でいよいよ堪忍袋の緒が切れたのである。

杉本が筆者の用意した供託書の内容では供託ができず、自分には債権債務はないと告げ、債務を支払うつもりもないのに、直接、口座間でやり取りをする必要性があるかのように告げて来てから、筆者は二度と杉本には返信しないことを決意していた。

支払いの意思を示さない人間に個人情報など伝える必要は全くない。そして、供託書は最後の温情であるから、これに従わないのであれば、筆者の側からは一切の救済措置はない。

筆者は今日になって、もうこれ以上、被告らにいかなる発言の機会をも与えてはいけないこと、彼らにお伺いなど絶対に立ててはならないことを理解した。

杉本はただ単に賠償金の支払いを拒んでいるだけではない。そもそも彼は負けを認めておらず、この紛争は、どちらか一方の陣営が、完全に社会的に抹殺されるまでずっと続くことであろう。

これは激しい霊的戦いであって、通常の紛争とはわけが違う。筆者が人間としての情けから、敵に猶予を与えれば、自分が死に直面することになるだけだと分かったのである。

裁判官の与えてくれた判決は、被告の意志次第で変更できるようなものではない。ところが、取立という名目で、筆者が被告に接触すれば、被告はその機を最大限に利用して、自分にとって都合の良い言い訳をひたすら並べ、筆者を自分の要求に従わせようとして来る。あわよくば、判決内容さえを自分に都合よく変えようとして来る。

そこで、これ以上、筆者は敵の意思を問うたり、敵に猶予を与えることをしてはならず、そのようなことは、筆者の尊厳をいたく傷つけ、筆者に死以外の何物ももたらさない行為だと理解した。

ところで、先の記事の中で、筆者は訴訟において提出する準備書面は、裁判官に宛てたラブレターのようなものだと書いた。だが、このことを、筆者は訴訟が始まった時からすぐに自覚していたわけではない。

そもそも紛争などというものには、当事者でさえ、積極的に関わりたいとは願っていないので、裁判が始まった頃の筆者には、裁判所の人々が最初から身近な人々に見えていたわけではない。むしろ、できるだけ早く決着をつけて、この事件の関係者とは関わらなくて済む日が来るのが、皆にとって最善だと考えていた。
 
また、被告らとはつきあいが長かったので、当初は、裁判所の人々よりも、被告の方がリアリティを持つ存在のように見えていたほどである。持ち前のお人好しさや人間的な甘さから、筆者はこの訴訟の途中で、被告らが何とかして自分の行動の誤りを悟り、良心の呵責を覚えて、少しでも生き方を改めてくれるのではないかといった楽観をも持っていた。
 
だから、筆者は書面を通して被告らに語り掛けようと試みた。被告らに対する厳しい叱責と非難と忠告の言葉を並べながらも、それが筆者から彼らに向けた真心のこもった「ラブレター」だと述べたことさえあった。

ところが、その関係が、裁判の途中で逆転して行った。筆者は書面を通して語りかけねばならない相手は、被告ではなく、裁判官であることに気づいた。口頭弁論の最中、ほとんど何も発言しない裁判官であったが、彼にははっきりと自らの判断があり、考えがあり、計画があり、筆者を守ろうという思いがあることが分かり、この人に判断を委ねなければならないということに気づき始めた。

そこで、書面を提出する目的も、被告の主張を論破することが第一義的課題であってはならないと途中で気づいたのである。

これは極めて、本当に極めて重要な気づきであった。だが、残念なことに、その気づきは長くは続かず、一審の最後の口頭弁論が終わり、裁判官に宛てて書面を書くこともなくなって以後、筆者はまたしても、被告との差し向かいの牢獄に閉じ込められ、その上、掲示板の嵐のような誹謗中傷が追い打ちをかけた。

筆者は、心を圧迫され、どこにも助けを求めようのない、出口のない状態に置かれ、頭を抱えて嵐が過ぎ去るのを待つ人のように、自力でそれに耐える以外には、何ら方法のない受け身の状態に置かれたかのようであった。

唯一できることは、ただひたすら彼らの嘘を論破することだけであった。

一審判決の言い渡しが、筆者にとって大きな緊張を伴うものであったのは、ただ単に、それが事件の真の終わりにならないという予感が伴ったためだけではない。ようやく築き上げられた裁判官との信頼関係が断ち切れれば、筆者はその後、誰に向かって、何を訴えれば良いのか分からなかったためでもある。

実際、一審判決言い渡し後、賠償金を取立てるためには、筆者は自ら被告に接触する以外に方法がないという状況に置かれた。

これはまさに地獄のような状態への逆戻りであったと言える。だが、その状態にも二審を前に、いよいよ新たな体制が組まれ、書面の送り先も決まり、手続きが開始してから、終止符が打たれた。

筆者には、自分の主張をこれから誰に向けて提示すべきかが見えて来たので、ようやく自分の陥れられていた恐るべき密室状態に、風穴を開けることができたのである。

そこから、脱出口が見えて来た。筆者は、もうこれ以上、取り合う価値のない被告らのごたく(控訴審では被控訴人だが、あえて被告としておく)に注意を向けたり、彼らにお伺いを立てたり、彼らに眼差しを注いだりしなくて良いことが分かった。

見るべき人を見、掴むべき目的を見失わないようにしなければならない。

筆者はまだ二審を担当する3名の裁判官に会ったこともないが、全身全霊のSOSと共に、この人々のもとに駆けこまねばならない。そして、わき目も降らず、彼らの与えてくれる判決をつかみ取り、それを抱えたまま、まっしぐらに前に走り、二度と絶対に被告らの方を振り返ってはいけないし、彼らに発言の機会を与えてもならないということを理解した。

まだ審理が始まってもいないうちから、それが分かった。被告らを振り切り、なおかつ、彼らを合法的に二度と追って来られない場所へ追いやらねばならないのだと。モーセの率いる民とエジプト軍が、紅海で隔てられたようなエクソダスである。

それが明白に分かった時、紛争はまだ続いているが、同時に終わっていること、これを終わらせるのは、筆者自身の意思と決断によることも分かった。

そういうわけで、本日、筆者の前には、二つの手続きが目の前に置かれていた。命につながる手続きと、死につながる手続きとである。死につながる手続きとは、筆者が被告の意思を問うもので、この手続きは、筆者を再び牢獄へ連れ戻そうと、残酷な本性を発揮して、筆者を思い切り打ちのめし、痛めつけた。だが、筆者は獄屋の刑吏の手から逃れるように、そこから逃げ出し、命につながる手続きを掴んだ。

死につながる手続きは、あらん限りの力で、筆者の前進を妨げようとしたが、命につながる手続きは、すべてぎりぎりのところで予定通り達成された。

夜になって、高裁に宛てて申請書を出すために、郵便局の夜間受付窓口へ走った。右折車線に並ぶために車線変更しようとしたが、入れてもらえなかったので、仕方がなく直進し、Uターンして左折すると、筆者を入れてくれなかった行列がまだ停車しているうちに、目的の道へ進むことができた。

こういうものなのだなと思った。これ以上、開かない扉を叩き続けてはならない。遅々として進まない行列に入れてもらおうとしてはいけない。むしろ、遠回りに見えても、青信号に向かってまっすぐ走りなさい。その方がはるかに早く目的地に着けるだろう。

そういうわけで、筆者は、一見、遠回りに見えても、被告の意思を問わず、各種の手続きを次々と実施することにしたのである。

これが命へつながる手続きである。その手続きには、誰一人、反対する者もなければ、滞らせる者もなかった。筆者は時刻ぎりぎりで駆け回っていたが、何もかもが予定通りに達成された。それを見たとき、改めて、これがゴーサインで――神の御思いは、きっとここにあるのだろうという気がした。

筆者の脳裏に、以下の詩編の御言葉が思い起こされる。

特定の人間に向けるには、あまりに残酷すぎるように思われるダビデの言葉である。多くの信者たちは、この御言葉を読んで、さすがのダビデも、私怨には打ち勝てなかったとか、悔しさがにじみ出ている――などと思うかも知れない。これはダビデの神へ向けた愚痴だと言う人もあるかも知れない。

だが、筆者はそうは思わない。これはダビデが聖徒らの代表として、霊的な敵に向けたふさわしい宣告なのである。

聖書には、サタンに対する厳しい裁きの宣告は、あちこちで語られているが、それはあくまで神のなさるわざであり、信仰者個人が、ここまで容赦のない宣告を敵に向けた箇所は、聖書の他の場所では、そうあまり多くは見られない。

だが、筆者は、これは比喩でなく、暗闇の勢力に真実、発せられねばならない当然の宣告であることを思う。

人々は以下の詩編を「呪いの言葉」と理解するかも知れないが、ダビデは、ここで、敵の発した呪いの言葉を、敵に向かって返しているだけである。

ここでダビデは、彼を絶え間なく悩ませ、神と聖徒らに敵対する者たちに、太刀打ちできない敵対者が起こされるように、彼らが裁きによって罪に定められ、祈りが聞かれないようにと願っている。

さらに、彼らの地位が取り上げられ、家が取り上げられて、彼らのすべての財産が債権者に取り上げられ、働いても、働いても、その実りはすべて他人のものとなり、家族が路頭に迷い、極貧の状態に落ち込み、子孫が絶え果て、ついには地上から彼らの名が消し去られるように、と願っている。

すさまじい宣告に聞こえるかも知れないが、筆者は、これは何ら行き過ぎた宣告でもなく、不適切な内容でもなく、ただ単に峻厳な霊的事実を告げたものに過ぎないと思う。

これは暗闇の勢力に対する極めて妥当な宣告なのだということが、今ならば、はっきりと分かる。

筆者が誰かの身の上にこのような事柄が成就することを望んだのではない。筆者は幾度も、幾度も、敵にチャンスを与えたにも関わらず、彼らが自ら悔い改めの機会を拒みながら、筆者の情けを嘲り、破滅へ向かって走っているのである。

そこで、筆者は彼らの発した呪いの言葉を、ダビデと同じように、彼ら自身に跳ね返すと同時に、慰め主なる方のもとへ向かって一目散に逃げ込む。

神よ、あなたはこの状況を御存じです。私たち聖徒らがどれほど侮られ、嘲られ、助けない状況に置かれて、踏みにじられて来たか、あなたはすべてご存じです。報復なさる方よ、公正で真実で人を偏りみない方よ、私はあなたに裁きを委ねます。どうか敵に対して、あなたの正しい宣告を、あなたの容赦のない裁きの宣告を発していただきたいのです。そして、あなたが私たちに与えて下さった救いの確かさと、あなたの愛の大きさを、今一度、私たちに見せていただきたいのです。

私たちは、あなたを信頼しています。どのような状況にあっても、あなたが正しい方であり、私たちを苦難の中に見捨てておかれない方であることを知っています。

* * *
 
「彼に対して逆らう者を置き
 彼の右には敵対者を断たせてください。
 裁かれて、神に逆らう者とされますように。
 祈っても、罪に定められますように。

 彼の生涯は短くされ
 地位は他人に取り上げられ
 子らはみなしごとなり
 妻はやもめとなるがよい。

 子らは放浪して物乞いをするがよい。
 廃墟となったその家を離れ
 助けを求め歩くがよい。

 彼のものは一切、債権者に奪われ
 働きの実りは他国人に略奪されるように。

 慈しみを示し続ける者もいなくなり
   みなしごとなった彼の子らを
 憐れむ者もなくなるように。

 子孫は断たれ
 次の代には彼らの名も消されるように。
 主が彼の父祖の悪をお忘れにならぬように。

 母の罪も消されることがないように。
 その悪と罪は常に主の御前にとどめられ
 その名は地上から断たれるように。

 彼は慈しみの業を行うことに心を留めず
 貧しく乏しい人々
 心の挫けた人々を死に追いやった。

 彼は呪うことを好んだのだから
 呪いは彼自身に返るように。

 祝福することを望まなかったのだから
 祝福は遠ざかるように。

 呪いを衣として身にまとうがよい。
 呪いが水のように彼のはらわたに
 油のように彼の骨に染み通るように。

 呪いが彼のまとう衣となり

 常に締める帯となるように。

 わたしに敵意を抱く者に対して
 わたしの魂をさいなもうと語る者に対して
 主はこのように報いられる。」(詩編109:6-20)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(18)―愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。

 「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(一ヨハネ4:16-21)

さて、このとこと筆者は複数の仕事を果たさねばならず、かけもちで忙しい。掲示板では、反カルト陣営の抑えがたい凶暴性、悪質性が表面化している様子で、魔女狩り裁判をしたくてたまらない人々が次の獲物を求めて集まっているようだ。


 
やれやれ、牧師が信徒を訴えたくてたまらない時代。何という恐るべき曲がった世の中になったことだろうか。

このようなことが起きることを予見して、当ブログでは再三、牧師制度の悪なることを主張し、牧師制度から離れるよう読者に警告して来た。牧師制度は撤廃するしかない、そういう明白な結論が出るところまで来たと筆者は考えている。

ちなみに、信徒を刑事告訴した牧師などは、筆者が知っている限り、日本にたった二人しかいない。いみじくも二人とも筆者の知り合いで、これには運命の数奇な縁を感じる。
 
一人目は、KFCの元信徒を訴えた唐沢治だが、この件は、後になって、筆者自身が唐沢の告訴の正当性に疑問を抱くようになり、筆者の他にも、「呪いの予言はあった」と証言する人物が現れるなど、虚偽告訴だった可能性が指摘されている。

二人目は、村上密で、何とこちらは筆者を告訴したという記事を発表、すでに記事が削除されている以上、この情報の真偽の程は定かでないが、事実であれば、こちらは虚偽告訴罪を主張する構えでいることも、すでに記事に記した通りである。

いずれにしても、牧師が信徒を訴えるという行為が、どれほどキリスト教の精神に反するものであるかは、今更、説明するまでもない。村上は、筆者が理由なく村上を悪魔扱いしているかのように非難していたが、黙示録には、こうあるではないか。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)。悪魔の主要な特徴は、救われた兄弟姉妹を告発することにある。だとすれば、筆者に反訴を予告したり、告訴を予告する行為は、これに該当しないと言えるだろうか。
  
なぜ牧師が信徒を告訴するなどという恐るべき出来事が起きるのか。それは、牧師という職業そのものが、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」(一テモテ2:5)の御言葉に反し、神と人との間に、目に見える「代理権威」としての人間を置こうとする制度だからである。

人間に過ぎない者が、神と人との仲保者であるキリストになり代わろうとするなど、筆者に言わせれば、まことの神への反逆、とてつもない高慢である。にも関わらず、そのような恐るべき地位の略奪(=キリストの地位の略奪)をしようとするからこそ、これらの牧師たちには、あたかも自分こそ神であるかのような錯覚が生じ、「自分に盾突く者はどんな手段を使ってでも社会的に抹殺したい」といった残酷な欲望が生じるのである。
 
私たちはこのような現象を見て、神と自分たちの間に、宗教指導者という「代理権威」を置くことがいかに忌むべき行為であるかを理解し、牧師制度に服することを拒否して、見えないキリストだけにより頼んで信仰生活を送るべきである。

牧師たちの暴走は、カルト・反カルトどちらの陣営をも問わず、自己を現人神とする牧師制度ある限り、今後も発生し続けるのである。

さて、村上密の率いる反カルト運動に深い影響を受けた信者らが、村上がブログで新たな団体や信者を「カルト認定」する度に、村上に倣って、村上が標的とした人物や団体に集団で人権侵害の記述を繰り返して来たことは、周知の事実である。

反カルト陣営は10年以上にも渡り、他宗教の信者のみならず、キリスト教徒の中から「獲物」を見つけては、バッシングに及ぶことによすがを見いだしており、村上はこれらの人々に、獲物をくれてやるがごとくに話題を提供する役目を担って来た。

そして、今や彼らは筆者をも獅子の穴に投げ込んだつもりでいるらしい。

だが、筆者には訴えられる理由もなければ、キリスト教徒としてのいかなる信仰的逸脱もないため、筆者はこうした話を全く意に介しておらず、かえって牧師たちこそ、訴えられて倒れると心に確信している。このような時には、ダニエル書6章の記述を思い出すだけで良い。
 

「ダリヨスは全国を治めるために、その国に百二十人の総督を立てることをよしとし、また彼らの上に三人の総監を立てた。ダニエルはそのひとりであった。そこで総監および総督らは、国事についてダニエルを訴えるべき口実を得ようとしたが、訴えるべきなんの口実も、なんのとがをも見いだすことができなかった。
 「われわれはダニエルの神の律法に関して、彼を訴える口実を得るのでなければ、ついに彼を訴えることはできまい」と。

こうして総監と総督らは、王のもとに集まってきて、王に言った、
 「すなわち今から三十日の間は、ただあなたにのみ願い事をさせ、もしあなたをおいて、神または人にこれをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れるというのです。それで王よ、その禁令を定め、その文書に署名して、メデアとペルシャの変ることのない法律のごとく、これを変えることのできないようにしてください」
そこでダリヨス王は、その禁令の文書に署名した。

ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。

そこでその人々は集まってきて、彼らは王の前にきて、王の禁令について奏上して言った、
 「王よ、あなたは禁令に署名して、今から三十日の間は、ただあなたにのみ願い事をさせ、もしあなたをおいて、神または人に、これをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れると、定められたではありませんか」
 王は答えて言った、
 「その事は確かであって、メデアとペルシャの法律のごとく、変えることのできないものだ」

そこで王は命令を下したので、ダニエルは引き出されて、ししの穴に投げ入れられた。王はダニエルに言った、
 「どうか、あなたの常に仕える神が、あなたを救われるように」
そして一つの石を持ってきて、穴の口をふさいだので、王は自分の印と、大臣らの印をもって、これに封印した。これはダニエルの処置を変えることのないようにするためであった。こうして王はその宮殿に帰ったが、その夜は食をとらず、また、そばめたちを召し寄せず、全く眠ることもしなかった。


こうして王は朝まだき起きて、ししの穴へ急いで行ったが、ダニエルのいる穴に近づいたとき、悲しげな声をあげて呼ばわり、ダニエルに言った、
 「生ける神のしもべダニエルよ、あなたが常に仕えている神はあなたを救って、ししの害を免れさせることができたか」
ダニエルは王に言った、
 「王よ、どうか、とこしえに生きながらえられますように。わたしの神はその使をおくって、ししの口を閉ざされたので、ししはわたしを害しませんでした。これはわたしに罪のないことが、神の前に認められたからです。王よ、わたしはあなたの前にも、何も悪い事をしなかったのです」

そこで王は大いに喜び、ダニエルを穴の中から出せと命じたので、ダニエルは穴の中から出されたが、その身になんの害をも受けていなかった。これは彼が自分の神を頼みとしていたからである。
 王はまた命令を下して、ダニエルをあしざまに訴えた人々を引いてこさせ、彼らをその妻子と共に、ししの穴に投げ入れさせた。彼らが穴の底に達しないうちに、ししは彼らにとびかかって、その骨までもかみ砕いた。」

 
 
ダニエルは、人間である王に祈願を捧げるよう求められたが、神への礼拝を続けて、その命に従わなかった。それゆえ、罪を着せられてライオンの穴に投げ込まれた。

しかし、神はダニエルを守られ、彼は無傷で出て来た。それを見て、王はダニエルの神が本物であることを知り、かえってダニエルを訴えようとした人々を獅子の穴に投げ込む。

村上密のブログは、筆者から見て、キリスト教徒を吊し上げ、教会を断罪するための暗闇の勢力の要塞と化している。杉本徳久のブログも同様で、彼らのブログの真の狙いは、キリスト教徒を迫害することにこそあると筆者は見ている。

そして、当ブログ執筆者が杉本を敗訴に追い込む前後から、反カルト陣営がキリスト教徒をバッシングする場は掲示板に移った。
   
これら反カルト陣営の人々は、獲物を求める殺気立った獣のように振る舞っているが、彼らがどうしても否定したい事実が一つある。それは、彼らが信奉する牧師たちが、すでに刑事告訴されていることだ。ダニエル書にある通り、無実のキリスト教徒は、讒言されても、罰せられず、害も受けないが、無実のキリスト教徒を訴えた者たちには、防御の方法がない。

キリストの贖いの血潮により頼まない者たちが、キリスト教徒を訴えた場合、彼らには小羊の血潮という防御の盾がない分、ダニエルを悪しざまに訴えた人々と同様の末路が待ち受けている。

* * *
 
さて、村上が筆者を刑事告訴したという記事を投稿した際、筆者がただちに村上を虚偽告訴罪に問うという反論記事を発表したので、村上はこれにひるんで、わずか数時間も経たないうちに、記事の削除に及んだことはすでに述べた。

その際、注目すべき出来事が起きた。村上は筆者に対する記事を削除したのみならず、ただちにそれを自分が五次元スクールによって名誉毀損で告訴されたという別の内容の記事に差し替え、筆者に向けた非難の矛先を、自分自身に向け変えたのである。

その行動に、筆者は村上の恐怖心を見た気がした。

おそらく、村上は筆者に恐怖を抱かせる目的で、筆者を告訴したとする記事を投稿したと見られるが、筆者がこれに全く動じず、かえって村上の告訴を罪として非難したので、恐れは村上自身に跳ね返ったのである。

筆者は何年来、反カルト陣営からのいわれのない讒言に立ち向かって、霊的戦いを続けて来たし、ここ数カ月間は特に「一日中死にさらされ」ていると言って過言でない状況であったので、こうした出来事にどう対処すべきかは、すでに十分に学んで来ていた。

私たちの罪の債務証書は、すでに十字架の上で破り捨てられ、無効とされている。そうである以上、私たちを罪に問おうとするいかなる試みも、最終的には効力を失うと決まっている。私たちには、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)に対抗するために、最強の武器が与えられている。それは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝(黙示12:11)ことである。

だから、このような状況下での防御の方法は、より入念に過越しのキリストの贖いの血潮の下に隠れつつ、死に至るまで忠実な信仰を持ち続け、証の言葉を公然と掲げることである。

それに引き換え、村上は筆者から虚偽告訴罪に問うと言われ、筆者からの報復と、世間の評判を失うことを恐れて、記事を削除したのである。
 
このような戦いでは、恐れた方が負けである。人には自ら恐れることが、実際となるからである。私たちが恐れないでいられるのは、神を愛しているからであり、また、神が私たちのために独り子を十字架につけて下さった深い愛を知り、生きている限り、その愛に応え、御言葉に従いたいという願いを持っているからである。

聖書に次のように書かれている通りである。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(一ヨハネ4:18)

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利をおさめています。」(ローマ8:31-37)

 
村上が筆者に向けるつもりだった不吉な予告を、自分自身へ向け変えたことは、非常に予表的な出来事であったと筆者は感じている。

五次元スクールによる村上への告訴は、以下に示す記事でも指摘されている通り、極めて些末な問題であったため、村上は不起訴になって事件はすでに終わっているが、これから村上に起きる出来事は、もはやそのようなスケールでは終わらない可能性があるからだ。

村上は筆者を有罪に追い込みたかったのであろうが、その決意を確固たるものとして貫き通すことができず、かえって神と人との前で、公然と「兄弟たちを告発する者」(=悪魔)と呼ばれる恐れに耐え得ず、記事における非難の矛先を筆者から自分自身へと向け変えた。

この事実は極めて大きい、と筆者は思っている。

はっきり言えば、主と共なる十字架において、自分の罪が確かに赦されたという揺るぎない確信を持たない者が、このような記述を行ったことを、神も見逃されないであろうし、悪魔と暗闇の勢力も当然、見逃さないだろう。(人には自分で心に信じて予告した事柄が実際となって降りかかるのである。)

1.差し替え後の記事
村上が筆者に対する記事を削除後、自分が五次元スクールから刑事告訴されたことに言及し、告訴状作成から刑の執行までの流れを記した記事
刑事告訴




2.差し替え前の記事
村上が削除した筆者に対する記事の後半
(同じ文面を村上が後になって、自分自身に向けて書き換えた様子が分かる)

 


* * *

さて、村上が五次元スクールからどのような理由で告訴されたのかについては、以下の記事に詳しい。
 

オタクで結構コケコッコー

(該当部分のみ抜粋)

村上さんを名誉毀損で刑事告訴するきっかけとなったのは、
村上さんがブログ上に五次元スクールで販売してるカレンダーの値段を
本当の価格1080円ではなく、12000円と書かれてた事でした。
値段を間違えてただけじゃんとかほんとやめてくださいね...(−_−;)
明らかに許される範囲の間違い方ではないです。
(お金をぼったくってるみたいな事も他の記事に書かれてましたし)
値段を正して欲しいと村上さんにお願いしても聞いてもらえず。
それなら他の手を探して、間違いを正してもらうという当たり前のことをしたまでです。

以前、五次元スクール生数名がブログに書かれてる内容を訂正してもらうために、
直接に村上さんと話しに行ってくれたことがありました。
その時、私が作成したとなぜか思われてる「村上密 悪事を暴く!!」のサイトも違うと
言ってくれたみたいなんですが、村上さんは...
「やってないなら有希が訴えれば良いんですよ」とおっしゃったそうです。\(-_-;) オイオイ

残念ながら今回は不起訴となってしまいましたが、
訴えたからこそ村上さんは五次元スクールに関する記事を非公開にするしかなくなった。
とりあえず、今は嘘の情報を広めるのをやめてもらえてて、おたっきーは嬉しいです。

村上さんご自身のブログに書かれてあった
“このようなことは人の名誉にかかわることなので
慎重に事実を確認してから書くものである。”

ほんとそれな。
“慎重に事実を確認してから書くものである。” とご自身がおっしゃった言葉通り、
事実を確認してから書いていただきたいものです。
沖縄県のみなさま、沖縄県知事選での自民公明党の敗北おめでとうございま~す。その他キリスト教界で有名になっていたアガック竹内一雄事件(準強姦、借金で虚偽提訴された人物)の真実とこの民事裁判でアッセンブリーズオブゴット教団の村上 密牧師が使った汚い手段

(該当部分のみ抜粋)

今から3年半ほど前に、アガック竹内一雄事件というものがキリスト教界で有名になっていた(刑事事件ではない)。
このアガック竹内一雄という人物は、キリスト教界の中では異端とされているペンテコステ(聖霊派)のカリスマ派の牧師(キリスト教系新興宗教)。
この竹内一雄が運営するキリスト教会に一人の女性(子持ち)が集うようになった(最初はカウンセリング 家庭の悩み事の相談だったようだが)。
後にこの女性信者と竹内一雄は恋愛関係に、そしてその女性は竹内一雄の婚約者となるも最終的には女性関係でもめ(浮気だったようだが)、竹内一雄はこの元婚約者だった女性信者から民事で訴えられた、ざっとこんな内容だ。
しかし、その訴状自体が笑ってしまうものだった。

その女性信者は竹内一雄と婚約までしていながら、竹内一雄を準強姦で提訴(裁判官らが事実認定するワケがない)。

おまけに、原告女性が竹内一雄に貢いだお金(全額だったかは不明だが)は、貸したお金だった、として返還要求。
しかし、私の調べでは(友人、知人に聞き込んだ)原告女性は「道で大金を拾ったから(竹内一雄の)通帳に振り込んでおくね」と竹内一雄にお金を渡した内容のメールを送信していた。
案の定、そのメール内容が竹内一雄から裁判所に証拠として提出されたのだ、勝てるワケがない。
ということで一審は原告の敗訴、まあ当然でしょう。

まあ、こんな話はたまに起きるであろう怨恨話だと思うが(私の周囲には嘘までついて提訴するような人間はいないが)。

この馬鹿らしい怨恨訴訟でなにが一番解せないか、というと

この原告女性を支援していたアッセンブリーズオブゴット(略してAG)教団の有名らしい(私は知らなかったが)村上 密氏という牧師がやったことがクズすぎて解せないのだ。
村上 密氏はろくに事実関係を調べもせず、この元婚約者である女性信者の言っていることを鵜呑みにし裁判支援(北海道のテレビにまで出て嘘をばら蒔いたのだ)。
その他、この元婚約者である女性信者の訴えが事実かどうかも確認しないまま、竹内一雄を準強姦の犯罪者扱いをした上、借金を踏み倒した悪人としてブログで記事にしネットで拡散(自分だけではなく大勢の信者を使ってブログの記事させてニセ情報を拡散させていた)。

そして、しまいにAERAという雑誌にまでこの嘘記事を書かせている。
そして、裁判が終わった後もこの牧師(村上 密氏)の悪事は現在も続いている。
民事裁判にて、元婚約者である女性信者の訴え(準強姦及び貸金)が事実ではなかったことがはっきりしたにも関わらず、過去に流した嘘記事を訂正も削除もせず(勿論謝罪もしていないだろう)ずっと流し続けているのだ。
誤解があると困るので書いておくが、私は竹内一雄を擁護しているわけではない。
むしろ、絶対に近づいてはならない人物として色んな人に警告していた側なのだ。

しかし、虚偽の訴えで人を裁いているような人間には我慢がならない、非常に不快なのだ。
 

* * *
 
ここで指摘されているような無責任なデマの拡散は、村上だけでなく、類は友を呼ぶ式に、村上を取り巻いている反カルト陣営のおよそすべての人々に共通する行動である。

彼らのやり方はこうである。裏が取れようと、取れまいと、証拠があろうと、なかろうと、とにかく自分たちがターゲットとみなした人間について、さんざん悪評をまき散らす。そして、訴えられる段になって、ようやくデマの拡散をやめ、削除を命じられれば、記事を部分的に削除したり、書き換えたりという行為には及ぶものの、根本的な反省はなく、さらに、敗訴しても賠償金さえ速やかに支払わないのだから、もはやヤクザのレベルだと言って差し支えない。

明らかに、この人々は信仰者の名に値しないだけでなく、すでに人の道からも外れかかっていると言えよう。

筆者はこれまでの経験に立って言うが、当事者でない人間が、誰かを擁護するために騒ぎを煽る場合には、必ず、ある種の行き過ぎに陥り、当事者よりももっと厳しい処罰を受けてしまうという法則性のようなものがある。

これは杉本ブログに愚痴を書き込んで告訴されたKFCの元信徒にも当てはまるし、掲示板にたむろしている村上の信奉者たちや、坂井能大の裁判にも当てはまる。当事者でもない人間が、確たる証拠を握っていないのに、誰か他人の言い分を鵜呑みにして、その言い分を補強しようと、(たとえば、ある人物が犯罪を犯しているなどと)、他人の名誉を傷つける投稿を続けていると、そういう人間が、真っ先に訴えられるリスクを負うのである。

つまり、指導者の罪を、信者がかばおうとした場合、かばおうとした信者の方に、先により重い責任が降りかかる可能性が高いということである。

そこで、村上密の不確かな記述を鵜呑みにして、中傷を言い広めている人たちは、村上本人よりも、先に責任を負わされる可能性があることをよくよく考えてみるべきであろう。村上自身が、証拠がないまま記事を書いているのであれば、それを鵜呑みにした信者らが訴えられた際、彼は何らの手助けもしてくれるまい。

そして、筆者はこのようなことこそ、偽預言者たちが最も望んでいることではないかと考えている。つまり、偽りの宗教指導者は、自分自身が神の御言葉に逆らい、破滅へ向かって突き進んでいるだけでなく、その破滅に、可能な限りの大勢の無関係な信者たちを巻き添えにするためにこそ、取り巻きを通じてデマを拡散させるなどの行為に及び、多くの信者たちに罪を負わせるのである。


* * *
 
さて、村上は以上に挙げた五次元スクールから告訴されたという記事に、自分が告訴されたことについては反省もなく、得意気に次のように書いている。

「私が持っていた訴えた側の資料が大量に警察の手に渡った。まさか、そんなことが起きるなんて考えなかったのだろう。墓穴を掘ると言う言葉があるが、まだ墓穴には入っていない。しかし、日本での活動がしにくくなったのではないか。」

これは村上が五次元スクールを何とかして「墓穴」に陥れ、日本から追い出したいと願っている意図がよく感じられる記述である。だが、筆者が知っている限り、警察は被告訴人の側から、事件とは直接的な関係のない「大量の資料」が提出されたからと言って、それを精査して、何らかの結論を下すようなことはしない。それは別個の問題として扱われる。まして、それが宗教的な対立や紛争となれば、なおさら、警察はその資料について踏み込んだ捜査をしないであろう。

従って、五次元スクールを壊滅に追い込みたいなら、村上自身がその資料を用いて刑事告訴に踏み切るしかない。だが、彼は被害者でないので、告訴はできないであろうし、被害者がいたとしても、そこまでの措置に踏み切る証拠と決意があるかは定かではない。

従って、村上のこの記述は、明らかに、自分が疑いをかけられて追及される側に回ったという失態を棚に上げて、かえって自分が五次元スクールを追い詰めた事実があるかのように、虚勢を張るものである。そういうことも分からないまま、村上の信奉者たちが彼の記事を鵜呑みにして騒いでいることは、まことに愚かとしか言いようがない。

また、村上は筆者に対する記事でもこう書いていた、

「彼女は、裁判の中で私が反訴を口にすると、「反訴の脅しをかけた」と4月13日の記事に書いている。裁判を仕掛けた人が言う言葉ではない。」
 
これも藪蛇や墓穴と言わずして何と言うのだろうか。村上はこの記事で、自分が「反訴を口に」したとはっきり認めている。
 
ちなみに、裁判において、無実を主張することと、反訴を口にすることは、全く別の事柄である。

筆者が杉本と村上の両名を被告として訴えたのは、杉本が20本以上の筆者に対する名誉毀損の記事をブログに投稿し、その際、誰が杉本に筆者の個人情報を渡したのか分からず、村上以外に思い当たる人物もいなかったためである。

しかし、一審において、村上はそうした事実があったとは認めず、証拠も出て来なかったので、村上には杉本との共同不法行為は認定されていない。

だが、村上はいかに自分が訴えられたことを不快に思っていたとしても、本来ならば、牧師として、杉本の行為をいさめるべき立場にあったことは確かであろう。それが、杉本と一緒になって、筆者を罵ったメールを書証として提出したり、杉本と一緒になって、筆者が彼らの提案する和解条件を飲まなければ、反訴すると言い立てたことは、牧師としての村上の資質を根本的に疑わせる行動である。

ちなみに、この事件では、一審を担当した裁判官も書記官も、被告らが一緒になって原告に反訴を言い立てた場面に遭遇している。

筆者が覚えている限り、その日の口頭弁論では、当事者間で、非常に険悪な議論が展開された。おそらく話題は、杉本が提出して来た筆者と杉本との間で2009年に交わされたメール、および、杉本と唐沢とが交わしたメールのことに触れていたものと思う。

筆者は杉本に向かって、2009年に杉本が筆者に返信した残りのメールも、書証として出してもらえないかと頼み、筆者はそこに非常に興味深いことが書いてあったように記憶しており、そこでは、創世記において、神が人間をご自分のかたちに造られたという御言葉が引用されていたような気がすると述べた。

杉本はこれに対して、筆者をせせら笑うような口調で、「これ以上はもう出せませんよ。あなたは一体、何を言っているんですか。大体、そんな聖句がメールに書いてあるわけもないでしょう?」と突っぱねた。

さらに、筆者は杉本に向かって、唐沢とのメール文通についても、何を目的としてこれを書証として提出したのか問うた。だが、杉本はこれにも筆者を嘲笑うような口調で答えた。

「さあ、知りませんよ。それは唐沢さんにお聞きになったら?」

筆者は杉本の筆者を嘲るがごとき口調に憤りを感じつつ言った、 「そうは言っても、あなたが自分でこれを出して来られたんでしょう?」

また、杉本は別な場面では、急に猫なで声とも感じられる口調で筆者に言った。「ヴィオロンさん、もしもあなたが記事を削除なさるなら、私たちも削除していいと思っているんですよ。もしその言葉が信じられないなら、私たちの方から先に削除してもいい。それで終わりにしましょう。賠償はなしです。」

筆者は首を横に振って、そんな提案には決して応じられない、ときっぱり拒否した。

すると杉本らは筆者が彼らの和解案を飲まないので、怒りを露わにして言った。「だったら、もう反訴しかない。あなたが私たちの和解を蹴るのなら、私たちは反訴しますよ!」

筆者は答えた、「まだ口頭弁論も続いている最中に、何を馬鹿なことを言っているんです。あなた方は、反訴なんか考えるよりも前に、今、目の前で行われている弁論で、ちゃんと十分な議論を尽くして勝つことをまず最初に考えたらどうです? いいですか、刑事事件にもなっていることですし、いたずらに審理を長引かせれば、不利になるのはあなた方なんですよ、そのことをお考えになったら・・・」

裁判官は、議論が険悪な雰囲気になりつつあり、当事者が皆本気で憤っており、杉本が「刑事事件になどなっていない」と書面で頑なに主張していたことも知っていたため、「もういい!」と語気を荒げてこの議論を打ち切った。

あまりにも険悪な雰囲気であった。裁判官も含め、全員がそれに影響されていた。

すると、被告らは、今度は裁判官に向かって、しなだれかかるような口調で語りかけた、「お分かりでしょう、原告が和解に応じないのだから、私たちにはもう反訴しかないですよ・・・」

裁判官は、被告らを何とかして思いとどまらせるべく、苦々しい表情で答えた。「それはやめてもらいたいですね、どうしてもというなら、この事件が終わった後に、提訴にしてもらいたい」

筆者はそれを聞いて、心の中で苦笑しながら首を横に振った、(いやいや、裁判官、それは違います。反訴も駄目だけど、提訴だって駄目だから。)

裁判官は異動を見越して年内終結を目指すつもりで、当事者にはそれを含んでおいて欲しいと予め述べており、反訴されれば、異動前の終結が間に合わなくなることが明白であったので、これを全く歓迎していなかった。しかも、事件がさらに紛糾した状態で、これを別人に引き継いで異動することなど、絶対にしたくないと考えていたものと見られる。

そこで、被告らは、せっかくの提案をないがしろにされてプレッシャーをかけられた裁判官が、非常に気分を害していることを十分に知りつつ、それを楽しむような口調で続けた。「でもねえ、私たちはヴィオロンさんの住所も電話番号も知らないんですよ・・・。これじゃあ、提訴もできないじゃないですか・・・。私たちに反訴以外にどうしろって言うんですか・・・。」

裁判官は実に忌々しそうな表情で押し黙った。まるで審理の年内終結という課題と一緒に、筆者を人質に取られて、全く身動き取れなくさせられたような恰好であった。

筆者は、このやり取りを非常に注意深く観察していた。口頭弁論が終わった時、裁判官は、被告らの言葉を真に受けたのか、これで、この事件をきちんと片付けられる希望はなくなった、こうなったのも、原告らがまずい議論を続けたせいだ、とでも言わんばかに、大きなため息をついた。

その時、筆者は被告らが述べていることは、心理的な脅しに過ぎず、彼らはいたずらに騒ぎを煽っているだけであって、これも被告らがキリストの贖いを無効にしたくて繰り広げている悪のカーニバル(悪ふざけ)のようなものに過ぎず、要するに、筆者と裁判官の心に揺さぶりをかけ、互いにいがみ合わせて、疑心暗鬼に陥らせ、協力体制を壊すことを目的にしていると分かっていたので、裁判官に向かって、まずは落ち着いてもらうよう懇願し、それから、たとえこの先、何があっても、筆者はすべての圧迫に最後まで立ち向かう覚悟が出来ているので、決して筆者の身の上を心配しないでもらいたい、仮に反訴を受けることになり、あるいは一審で終わらなかったとしても、それも覚悟の上であるから、議論を制止しないで、筆者に言いたいことを最後まで言わせてほしいと懇願した。

後から考えてみると、この時、裁判官は、三つも四つもの事件を同時に抱え、それらすべてを異動前に片づけねばならず、筆者の書面を十分に読む時間もなくなり(裁判官からは、提出する書面を減らして欲しいとの要請もあった)、残された時間を考えると、これ以上、事件が紛糾しては、もはや事態の収集がつかなくなるため、それだけは何としても避けたいという重大なプレッシャーに直面していたものと思われる。
 
そこで、裁判官は、何とかしてこの事件のために善処したいと考えながらも、その考えが逆に心理的なプレッシャーとなっており、そういう中で、被告らが筆者に反訴すると述べたことは、裁判官の心の平穏をも失わせるような、さらに重大な心理的打撃となったのである。

こうした状況で、筆者は何としても、ここで自分が動揺してはならず、自分の命を惜しんではいけないということを理解した。もしも筆者が自分の命を惜しみ、反訴されることを恐れ、取り乱して裁判官に助けを求め、裁判官がこれを察知して、筆者に代わって、被告らに受け答えすることで、何とかして筆者をかばい、反訴を押しとどめようとするならば、裁判官は筆者を人質に取られているも同然の立場であるから、何もできず、かえって被告らの思う壺となるだけであることが、筆者には予め分かっていた。そして、最後には、助けてやれなかったという慙愧の念と、誰のせいでこうなったのかという責任の押し付け合いが残るのみであろう。
  
筆者は、そのような事態を回避して、この戦いを貫徹して勝利に導くために必要なのは、死に至るまでも従順な信仰であって、筆者が自分の命、自分の権利を惜しむことではないと知っていた。そもそもこの戦いは、信仰の戦いであって、筆者と同じ決意と覚悟ができていない、当事者でない人間には、どうすることもできない種類のものである。

すでに述べた通り、反訴はそれ自体が被告の権利なので、これを否定したり、押しとどめることは誰にもできず、反訴をとどめるには、人知によらない、それを超えた信仰が必要となる。
 
従って、被告らによる反訴の予告を、空中で粉砕し、押しとどめることのできる人間は、筆者しかいないことは明白なのである。そして、筆者は御言葉に基づき、反訴が実現しないことを前もって知っていたが、この世の人々である裁判官や書記官には、そのことが前もって分かるはずもない。
 
だから、筆者は、裁判官に向かって述べたのであった、一審判決で事件を終結したいという強い願いは筆者にもあるし、また、そのためにできるすべてのことはやりたいと思っているが、たとえ事件が長引き、次の裁判官にこれを委ねることになったり、もしくは、一審で事件が解決しなかった場合にも、筆者はすべてのことに覚悟ができており、今後、どのような展開になろうとも、決して誰にも責任を押しつけるつもりはないと、だから、最後まで主張をさせて欲しいと。

だが、筆者はそれと同時に、裁判官の言うことも心に留めて、その忠告を重んじた。そこで、それ以後、口頭弁論で被告と議論することは一切、避けることに決め、すべての主張を書面で戦わせる方法に切り替えたのである。

そして、最後の口頭弁論前には、裁判官も、筆者がこれを最後の弁論にしたいと願っていることを十分に確認した上で、今後、被告らから反訴があった場合には、職権で拒否するとはっきり告げてくれた。

筆者は、たとえそれが人間的な思いから出た行動であったとしても、裁判官が、被告らの主張を前に、筆者をかばおうとしてくれたこと、被告らの反訴の予告の前にも、可能な限りの手立てを講じて、これを阻止しようとしてくれたことを、重く受け止めている。

いかに筆者が、信仰によって主導権を握り、自らこの事件を引っ張って行かなくてはならない立場にあるとはいえ、民事であれ、刑事であれ、やはり、筆者には協力してくれる人たちが必要なのであって、その人たちの善意があったからこそ、それなりの結果が得られていることへの感謝を忘れることはない。

このようにして、関係者と息の合った協力を打ち立てることに、どれほど大きな価値があるかを知ったからこそ、筆者はどんな脅しに直面しても、それを恐れたり、動揺することなく、最後まで神を信頼して立ちおおせねばならないと理解しているのである。
 
* * *

さて、話を戻せば、被告らは実際に反訴しなかったからこそ、これが「脅し文句」に終わったと筆者は述べている。さらに、筆者が訴えを提起した側に立っていることは、被告らが反訴を言い立てたことを、筆者が精神的な脅しをかけられたことだと理解してはならない理由とはならない。

そもそも牧師としての村上が、元信徒・相談者を非難する記事をブログに投稿し、さらに、その信者の個人情報を杉本に渡したのではないかという嫌疑までかけられ、法廷に呼び出されたこと自体が、村上の大きな失態だと言えようが、そんな事態になってもまだ、村上が杉本をいさめて紛争の早期解決に努力するどころか、杉本と一緒になって筆者を馬鹿にするメールを書証として提出、さらに自分の無実を主張するだけでは飽き足らず、杉本と一緒になって筆者に反訴するなどと言い立て、自分たちの和解案を無理やり筆者に飲ませようとした行為自体が、キリスト教の牧師として、どれほどあるまじき非常識な振る舞いであるかは、ここで改めて説明するまでもないだろう。

その上、筆者が反訴の脅しをかけられたと述べたことを「名誉毀損」だと主張して、刑事告訴に及び、勝訴を宣言しただけにとどまらず、信者の息の根を止めるがごとく、社会的抹殺を望むがごとき行為に及ぶなど、およそ常軌を逸した行動だと言う他ない。
  
そのことが分からないのは、村上だけであろう。これまで、戦いに生きて来た村上は、平和を作る道を知らず、また、その道を誰からも教わらなかったのかも知れないが、村上のこうした行動はいずれも、村上がキリスト教信者に対して、まさに「兄弟たちを告発する者」(=悪魔)のように振る舞っているという以外に、意味するものはない。

村上はこのような行動を取ることによって、キリスト教徒も含め、どんな宗教団体の信者であれ、村上の言いなりにならない者には、同じ措置を講ずる用意があることを示して威嚇しているのである。
 
村上は、かつて他の牧師らと共に、統一教会の信者などを拉致・監禁して、密室に閉じ込め、「誤った考え」を捨てさせるために、信者の尊厳を踏みにじって、強制脱会活動を行っていたが、今もその頃と同じように、自分が「誤った考え」を持っているとみなした信者たちを弾圧するためならば、あらゆる方法を用いて、懲罰を加える用意があることを示している。

そこにある恐ろしいまでの攻撃性、真の動機に、彼は気づいていない。村上は書いていた、

「書けば書くほど怒りが込み上げて来るのか、留まるところを知らない書き方である。書けば書くほど自分に不利なことを書き立てていると気付かないでいる。ブログの中で怒って人を罵倒し、事実でないことをみだりに他人に言いふらし、信用を棄損するような記事を書いている。その内容は放置できないレベルに足している(筆者注:達しているの間違い)。」

村上のこの言葉は、誰よりも村上自身にこそ当てはまるだろう。事実でないことをみだりに他人に言いふらし、信用を毀損し、その内容が放置できないレベルに達しているのは、村上自身である。そのことは、以上に挙げた記事で示した通り、五次元スクールの側からも、その他の人からも指摘されているではないか。

むろん、きちんとした法的根拠を示さないまま、自らの主観だけに基づき、「その内容は放置できないレベルに達している」などと断言する村上の語調が、杉本徳久の言葉とそっくりである様子にも驚かされる。

村上は、自分がのべつまくなしに様々な宗教団体に戦いを挑んでいる真の目的がどこにあるのか、立ち止まって、考えてみるべき頃合いではないだろうか。前の記事にも書いた通り、筆者の目から見れば、それは村上自身が幼少期からずっと受け続けて来たトラウマに起因する行動であって、聖書への信仰によるものではない。
 
村上は若い頃に家庭で起きていた暴力から逃げる術もないまま、家庭という名の「牢獄」に閉じ込められて成長し、さらに統一教会への逃避行を企てた際にも、これを力づくで押しとどめられ、悲劇的な形で強制的に信仰生活に終止符を打たれて、再び家庭という牢獄へ連れ戻された。
 
おそらく村上は、神が自分を虐待という苦しみから助け出して下さることを求めて、統一教会に入信したのではないかと筆者は推察するが、その逃避行が、親族らの暴力によって打ち砕かれて、再び牢獄のような家庭に連れ戻され、そこに閉じ込められたことによって、村上の「神」観は、村上を救い得ない絶望的なものとなってしまったのである。そのことから彼はあまりにも深い心の傷を受けたのではないかと見られる。

そうであるがゆえに、村上の中では、自分に虐待を加えた肉の父が、そのまま神のイメージとなり、神は人に自由を与える方ではなく、束縛と、隷従と、抑圧を加える存在と見えるようになり、それゆえ、彼はそのような残酷な神観に基づき、自由な信仰生活を送る他の信者たちにも、「解放」という名目で、抑圧を加えねば気が済まなくなったのである。

筆者は五次元スクールや統一教会を擁護するつもりはなく、その理念を受け入れるわけでもないが、たとえ信念を共有できずとも、彼らを人として尊重することはできるはずであり、理念が異なるからと言って、彼らに人権侵害を加える行為が許されるはずはないことは言うまでもないと考えている。もしもそのようなことを正当化する理念があるとすれば、そのような理念こそ、誤っている。
 
筆者の神観は、村上の神観とは真逆である。村上から見れば、筆者は「交流の少ない所」「インターネットを頼り」として「甘っちょろい空想」を述べ、「藪の中から石を投げ」「怒りにまかせてものを書いている」だけの無責任な人間と映っているのかも知れないが、その筆者が、神は全能であり、筆者をあらゆる窮地から力強く救い出して下さることを信じ、どんな境遇に置かれても、平安と、喜びと、救いの確信と、神への愛と従順を失わずにいられる秘訣を学んでいるのである。

村上は、筆者が書いているごくわずかな批判の記事にも耐えられなかったが、筆者は匿名の投稿者によって数千件以上の誹謗中傷がなされても、まだ神への信頼と希望と愛情を失わずに立っている。筆者は自分を全く恥じようとも思わないし、自分の信仰をも、自分が信じている神をも恥じてはいない。
 
筆者は村上に聞きたい、あなたはこのようなことに耐えられるかと。あなたはかつて自分が生命の危険を賭してカルトと闘っているかのように主張し、他方、筆者の論は、安全なところから、悪ふざけで石を投げて楽しむだけの無責任なものであると決めつけていたが、実際のところはどうなのか。

筆者は自分の命を最後まで神のために注ぎだしたいと願っており、神に従い抜く上で、中傷されること、軽んじられること、誤解されること、離反されること、孤独や、苦しみの中を通過させられることを、甘んじて受け入れる覚悟があり、実際に日々十字架を負っている。だが、あなたはそれに耐えることができるか、また、それにどれくらい耐えた経験があるのか。

しかし、そのようなことは、筆者にとって、どうでも良い問題である。筆者は人間の思惑を意に介していないので、村上や杉本や唐沢のような人間からどう見られようとも、それが重要な問題なのではない。私たちがただ一人、その眼差しを得たいと願い、その信頼と賞賛を勝ち得たいと切に願い続ける存在は、人間とは別にある。

その方への愛と希望と信頼があればこそ、また、その方がすべての人々の願いと呼び求めに実際に応えて下さるという確信があればこそ、私たちはあらゆる試練に耐えて信仰を保ち続けて前進することが可能なのである。
 
この世に対して、人間に対して、自己に対して、徹底的に絶望し、これらの腐敗・堕落したものに対して、十字架の霊的死を経由することなくして、神に真に希望を見いだすことは、誰にとっても、無理な相談なのではないかと筆者は考えている。この世に対して死んだことがなく、自己に対しても、人間に対しても、絶望することもなく、依然として、この朽ちる、移ろいゆくものに希望をつなぎ、すがりつき、そこによすがを見いだしている人々に、見えない神を本気で愛し、信頼し、従い抜くなどのことができるとは思えない。

聖書は言う、

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

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