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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(29)―彼のものは一切、債権者に奪われ 働きの実りは他国人に略奪されるように。

本日、筆者の中で何かの一線を超える出来事があった。筆者の中でいよいよ堪忍袋の緒が切れたのである。

杉本が筆者の用意した供託書の内容では供託ができず、自分には債権債務はないと告げ、債務を支払うつもりもないのに、直接、口座間でやり取りをする必要性があるかのように告げて来てから、筆者は二度と杉本には返信しないことを決意していた。

支払いの意思を示さない人間に個人情報など伝える必要は全くない。そして、供託書は最後の温情であるから、これに従わないのであれば、筆者の側からは一切の救済措置はない。

筆者は今日になって、もうこれ以上、被告らにいかなる発言の機会をも与えてはいけないこと、彼らにお伺いなど絶対に立ててはならないことを理解した。

杉本はただ単に賠償金の支払いを拒んでいるだけではない。そもそも彼は負けを認めておらず、この紛争は、どちらか一方の陣営が、完全に社会的に抹殺されるまでずっと続くことであろう。

これは激しい霊的戦いであって、通常の紛争とはわけが違う。筆者が人間としての情けから、敵に猶予を与えれば、自分が死に直面することになるだけだと分かったのである。

裁判官の与えてくれた判決は、被告の意志次第で変更できるようなものではない。ところが、取立という名目で、筆者が被告に接触すれば、被告はその機を最大限に利用して、自分にとって都合の良い言い訳をひたすら並べ、筆者を自分の要求に従わせようとして来る。あわよくば、判決内容さえを自分に都合よく変えようとして来る。

そこで、これ以上、筆者は敵の意思を問うたり、敵に猶予を与えることをしてはならず、そのようなことは、筆者の尊厳をいたく傷つけ、筆者に死以外の何物ももたらさない行為だと理解した。

ところで、先の記事の中で、筆者は訴訟において提出する準備書面は、裁判官に宛てたラブレターのようなものだと書いた。だが、このことを、筆者は訴訟が始まった時からすぐに自覚していたわけではない。

そもそも紛争などというものには、当事者でさえ、積極的に関わりたいとは願っていないので、裁判が始まった頃の筆者には、裁判所の人々が最初から身近な人々に見えていたわけではない。むしろ、できるだけ早く決着をつけて、この事件の関係者とは関わらなくて済む日が来るのが、皆にとって最善だと考えていた。
 
また、被告らとはつきあいが長かったので、当初は、裁判所の人々よりも、被告の方がリアリティを持つ存在のように見えていたほどである。持ち前のお人好しさや人間的な甘さから、筆者はこの訴訟の途中で、被告らが何とかして自分の行動の誤りを悟り、良心の呵責を覚えて、少しでも生き方を改めてくれるのではないかといった楽観をも持っていた。
 
だから、筆者は書面を通して被告らに語り掛けようと試みた。被告らに対する厳しい叱責と非難と忠告の言葉を並べながらも、それが筆者から彼らに向けた真心のこもった「ラブレター」だと述べたことさえあった。

ところが、その関係が、裁判の途中で逆転して行った。筆者は書面を通して語りかけねばならない相手は、被告ではなく、裁判官であることに気づいた。口頭弁論の最中、ほとんど何も発言しない裁判官であったが、彼にははっきりと自らの判断があり、考えがあり、計画があり、筆者を守ろうという思いがあることが分かり、この人に判断を委ねなければならないということに気づき始めた。

そこで、書面を提出する目的も、被告の主張を論破することが第一義的課題であってはならないと途中で気づいたのである。

これは極めて、本当に極めて重要な気づきであった。だが、残念なことに、その気づきは長くは続かず、一審の最後の口頭弁論が終わり、裁判官に宛てて書面を書くこともなくなって以後、筆者はまたしても、被告との差し向かいの牢獄に閉じ込められ、その上、掲示板の嵐のような誹謗中傷が追い打ちをかけた。

筆者は、心を圧迫され、どこにも助けを求めようのない、出口のない状態に置かれ、頭を抱えて嵐が過ぎ去るのを待つ人のように、自力でそれに耐える以外には、何ら方法のない受け身の状態に置かれたかのようであった。

唯一できることは、ただひたすら彼らの嘘を論破することだけであった。

一審判決の言い渡しが、筆者にとって大きな緊張を伴うものであったのは、ただ単に、それが事件の真の終わりにならないという予感が伴ったためだけではない。ようやく築き上げられた裁判官との信頼関係が断ち切れれば、筆者はその後、誰に向かって、何を訴えれば良いのか分からなかったためでもある。

実際、一審判決言い渡し後、賠償金を取立てるためには、筆者は自ら被告に接触する以外に方法がないという状況に置かれた。

これはまさに地獄のような状態への逆戻りであったと言える。だが、その状態にも二審を前に、いよいよ新たな体制が組まれ、書面の送り先も決まり、手続きが開始してから、終止符が打たれた。

筆者には、自分の主張をこれから誰に向けて提示すべきかが見えて来たので、ようやく自分の陥れられていた恐るべき密室状態に、風穴を開けることができたのである。

そこから、脱出口が見えて来た。筆者は、もうこれ以上、取り合う価値のない被告らのごたく(控訴審では被控訴人だが、あえて被告としておく)に注意を向けたり、彼らにお伺いを立てたり、彼らに眼差しを注いだりしなくて良いことが分かった。

見るべき人を見、掴むべき目的を見失わないようにしなければならない。

筆者はまだ二審を担当する3名の裁判官に会ったこともないが、全身全霊のSOSと共に、この人々のもとに駆けこまねばならない。そして、わき目も降らず、彼らの与えてくれる判決をつかみ取り、それを抱えたまま、まっしぐらに前に走り、二度と絶対に被告らの方を振り返ってはいけないし、彼らに発言の機会を与えてもならないということを理解した。

まだ審理が始まってもいないうちから、それが分かった。被告らを振り切り、なおかつ、彼らを合法的に二度と追って来られない場所へ追いやらねばならないのだと。モーセの率いる民とエジプト軍が、紅海で隔てられたようなエクソダスである。

それが明白に分かった時、紛争はまだ続いているが、同時に終わっていること、これを終わらせるのは、筆者自身の意思と決断によることも分かった。

そういうわけで、本日、筆者の前には、二つの手続きが目の前に置かれていた。命につながる手続きと、死につながる手続きとである。死につながる手続きとは、筆者が被告の意思を問うもので、この手続きは、筆者を再び牢獄へ連れ戻そうと、残酷な本性を発揮して、筆者を思い切り打ちのめし、痛めつけた。だが、筆者は獄屋の刑吏の手から逃れるように、そこから逃げ出し、命につながる手続きを掴んだ。

死につながる手続きは、あらん限りの力で、筆者の前進を妨げようとしたが、命につながる手続きは、すべてぎりぎりのところで予定通り達成された。

夜になって、高裁に宛てて申請書を出すために、郵便局の夜間受付窓口へ走った。右折車線に並ぶために車線変更しようとしたが、入れてもらえなかったので、仕方がなく直進し、Uターンして左折すると、筆者を入れてくれなかった行列がまだ停車しているうちに、目的の道へ進むことができた。

こういうものなのだなと思った。これ以上、開かない扉を叩き続けてはならない。遅々として進まない行列に入れてもらおうとしてはいけない。むしろ、遠回りに見えても、青信号に向かってまっすぐ走りなさい。その方がはるかに早く目的地に着けるだろう。

そういうわけで、筆者は、一見、遠回りに見えても、被告の意思を問わず、各種の手続きを次々と実施することにしたのである。

これが命へつながる手続きである。その手続きには、誰一人、反対する者もなければ、滞らせる者もなかった。筆者は時刻ぎりぎりで駆け回っていたが、何もかもが予定通りに達成された。それを見たとき、改めて、これがゴーサインで――神の御思いは、きっとここにあるのだろうという気がした。

筆者の脳裏に、以下の詩編の御言葉が思い起こされる。

特定の人間に向けるには、あまりに残酷すぎるように思われるダビデの言葉である。多くの信者たちは、この御言葉を読んで、さすがのダビデも、私怨には打ち勝てなかったとか、悔しさがにじみ出ている――などと思うかも知れない。これはダビデの神へ向けた愚痴だと言う人もあるかも知れない。

だが、筆者はそうは思わない。これはダビデが聖徒らの代表として、霊的な敵に向けたふさわしい宣告なのである。

聖書には、サタンに対する厳しい裁きの宣告は、あちこちで語られているが、それはあくまで神のなさるわざであり、信仰者個人が、ここまで容赦のない宣告を敵に向けた箇所は、聖書の他の場所では、そうあまり多くは見られない。

だが、筆者は、これは比喩でなく、暗闇の勢力に真実、発せられねばならない当然の宣告であることを思う。

人々は以下の詩編を「呪いの言葉」と理解するかも知れないが、ダビデは、ここで、敵の発した呪いの言葉を、敵に向かって返しているだけである。

ここでダビデは、彼を絶え間なく悩ませ、神と聖徒らに敵対する者たちに、太刀打ちできない敵対者が起こされるように、彼らが裁きによって罪に定められ、祈りが聞かれないようにと願っている。

さらに、彼らの地位が取り上げられ、家が取り上げられて、彼らのすべての財産が債権者に取り上げられ、働いても、働いても、その実りはすべて他人のものとなり、家族が路頭に迷い、極貧の状態に落ち込み、子孫が絶え果て、ついには地上から彼らの名が消し去られるように、と願っている。

すさまじい宣告に聞こえるかも知れないが、筆者は、これは何ら行き過ぎた宣告でもなく、不適切な内容でもなく、ただ単に峻厳な霊的事実を告げたものに過ぎないと思う。

これは暗闇の勢力に対する極めて妥当な宣告なのだということが、今ならば、はっきりと分かる。

筆者が誰かの身の上にこのような事柄が成就することを望んだのではない。筆者は幾度も、幾度も、敵にチャンスを与えたにも関わらず、彼らが自ら悔い改めの機会を拒みながら、筆者の情けを嘲り、破滅へ向かって走っているのである。

そこで、筆者は彼らの発した呪いの言葉を、ダビデと同じように、彼ら自身に跳ね返すと同時に、慰め主なる方のもとへ向かって一目散に逃げ込む。

神よ、あなたはこの状況を御存じです。私たち聖徒らがどれほど侮られ、嘲られ、助けない状況に置かれて、踏みにじられて来たか、あなたはすべてご存じです。報復なさる方よ、公正で真実で人を偏りみない方よ、私はあなたに裁きを委ねます。どうか敵に対して、あなたの正しい宣告を、あなたの容赦のない裁きの宣告を発していただきたいのです。そして、あなたが私たちに与えて下さった救いの確かさと、あなたの愛の大きさを、今一度、私たちに見せていただきたいのです。

私たちは、あなたを信頼しています。どのような状況にあっても、あなたが正しい方であり、私たちを苦難の中に見捨てておかれない方であることを知っています。

* * *
 
「彼に対して逆らう者を置き
 彼の右には敵対者を断たせてください。
 裁かれて、神に逆らう者とされますように。
 祈っても、罪に定められますように。

 彼の生涯は短くされ
 地位は他人に取り上げられ
 子らはみなしごとなり
 妻はやもめとなるがよい。

 子らは放浪して物乞いをするがよい。
 廃墟となったその家を離れ
 助けを求め歩くがよい。

 彼のものは一切、債権者に奪われ
 働きの実りは他国人に略奪されるように。

 慈しみを示し続ける者もいなくなり
   みなしごとなった彼の子らを
 憐れむ者もなくなるように。

 子孫は断たれ
 次の代には彼らの名も消されるように。
 主が彼の父祖の悪をお忘れにならぬように。

 母の罪も消されることがないように。
 その悪と罪は常に主の御前にとどめられ
 その名は地上から断たれるように。

 彼は慈しみの業を行うことに心を留めず
 貧しく乏しい人々
 心の挫けた人々を死に追いやった。

 彼は呪うことを好んだのだから
 呪いは彼自身に返るように。

 祝福することを望まなかったのだから
 祝福は遠ざかるように。

 呪いを衣として身にまとうがよい。
 呪いが水のように彼のはらわたに
 油のように彼の骨に染み通るように。

 呪いが彼のまとう衣となり

 常に締める帯となるように。

 わたしに敵意を抱く者に対して
 わたしの魂をさいなもうと語る者に対して
 主はこのように報いられる。」(詩編109:6-20)
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村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(18)―愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。

 「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(一ヨハネ4:16-21)

さて、このとこと筆者は複数の仕事を果たさねばならず、かけもちで忙しい。掲示板では、反カルト陣営の抑えがたい凶暴性、悪質性が表面化している様子で、魔女狩り裁判をしたくてたまらない人々が次の獲物を求めて集まっているようだ。


 
やれやれ、牧師が信徒を訴えたくてたまらない時代。何という恐るべき曲がった世の中になったことだろうか。

このようなことが起きることを予見して、当ブログでは再三、牧師制度の悪なることを主張し、牧師制度から離れるよう読者に警告して来た。牧師制度は撤廃するしかない、そういう明白な結論が出るところまで来たと筆者は考えている。

ちなみに、信徒を刑事告訴した牧師などは、筆者が知っている限り、日本にたった二人しかいない。いみじくも二人とも筆者の知り合いで、これには運命の数奇な縁を感じる。
 
一人目は、KFCの元信徒を訴えた唐沢治だが、この件は、後になって、筆者自身が唐沢の告訴の正当性に疑問を抱くようになり、筆者の他にも、「呪いの予言はあった」と証言する人物が現れるなど、虚偽告訴だった可能性が指摘されている。

二人目は、村上密で、何とこちらは筆者を告訴したという記事を発表、すでに記事が削除されている以上、この情報の真偽の程は定かでないが、事実であれば、こちらは虚偽告訴罪を主張する構えでいることも、すでに記事に記した通りである。

いずれにしても、牧師が信徒を訴えるという行為が、どれほどキリスト教の精神に反するものであるかは、今更、説明するまでもない。村上は、筆者が理由なく村上を悪魔扱いしているかのように非難していたが、黙示録には、こうあるではないか。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)。悪魔の主要な特徴は、救われた兄弟姉妹を告発することにある。だとすれば、筆者に反訴を予告したり、告訴を予告する行為は、これに該当しないと言えるだろうか。
  
なぜ牧師が信徒を告訴するなどという恐るべき出来事が起きるのか。それは、牧師という職業そのものが、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」(一テモテ2:5)の御言葉に反し、神と人との間に、目に見える「代理権威」としての人間を置こうとする制度だからである。

人間に過ぎない者が、神と人との仲保者であるキリストになり代わろうとするなど、筆者に言わせれば、まことの神への反逆、とてつもない高慢である。にも関わらず、そのような恐るべき地位の略奪(=キリストの地位の略奪)をしようとするからこそ、これらの牧師たちには、あたかも自分こそ神であるかのような錯覚が生じ、「自分に盾突く者はどんな手段を使ってでも社会的に抹殺したい」といった残酷な欲望が生じるのである。
 
私たちはこのような現象を見て、神と自分たちの間に、宗教指導者という「代理権威」を置くことがいかに忌むべき行為であるかを理解し、牧師制度に服することを拒否して、見えないキリストだけにより頼んで信仰生活を送るべきである。

牧師たちの暴走は、カルト・反カルトどちらの陣営をも問わず、自己を現人神とする牧師制度ある限り、今後も発生し続けるのである。

さて、村上密の率いる反カルト運動に深い影響を受けた信者らが、村上がブログで新たな団体や信者を「カルト認定」する度に、村上に倣って、村上が標的とした人物や団体に集団で人権侵害の記述を繰り返して来たことは、周知の事実である。

反カルト陣営は10年以上にも渡り、他宗教の信者のみならず、キリスト教徒の中から「獲物」を見つけては、バッシングに及ぶことによすがを見いだしており、村上はこれらの人々に、獲物をくれてやるがごとくに話題を提供する役目を担って来た。

そして、今や彼らは筆者をも獅子の穴に投げ込んだつもりでいるらしい。

だが、筆者には訴えられる理由もなければ、キリスト教徒としてのいかなる信仰的逸脱もないため、筆者はこうした話を全く意に介しておらず、かえって牧師たちこそ、訴えられて倒れると心に確信している。このような時には、ダニエル書6章の記述を思い出すだけで良い。
 

「ダリヨスは全国を治めるために、その国に百二十人の総督を立てることをよしとし、また彼らの上に三人の総監を立てた。ダニエルはそのひとりであった。そこで総監および総督らは、国事についてダニエルを訴えるべき口実を得ようとしたが、訴えるべきなんの口実も、なんのとがをも見いだすことができなかった。
 「われわれはダニエルの神の律法に関して、彼を訴える口実を得るのでなければ、ついに彼を訴えることはできまい」と。

こうして総監と総督らは、王のもとに集まってきて、王に言った、
 「すなわち今から三十日の間は、ただあなたにのみ願い事をさせ、もしあなたをおいて、神または人にこれをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れるというのです。それで王よ、その禁令を定め、その文書に署名して、メデアとペルシャの変ることのない法律のごとく、これを変えることのできないようにしてください」
そこでダリヨス王は、その禁令の文書に署名した。

ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。

そこでその人々は集まってきて、彼らは王の前にきて、王の禁令について奏上して言った、
 「王よ、あなたは禁令に署名して、今から三十日の間は、ただあなたにのみ願い事をさせ、もしあなたをおいて、神または人に、これをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れると、定められたではありませんか」
 王は答えて言った、
 「その事は確かであって、メデアとペルシャの法律のごとく、変えることのできないものだ」

そこで王は命令を下したので、ダニエルは引き出されて、ししの穴に投げ入れられた。王はダニエルに言った、
 「どうか、あなたの常に仕える神が、あなたを救われるように」
そして一つの石を持ってきて、穴の口をふさいだので、王は自分の印と、大臣らの印をもって、これに封印した。これはダニエルの処置を変えることのないようにするためであった。こうして王はその宮殿に帰ったが、その夜は食をとらず、また、そばめたちを召し寄せず、全く眠ることもしなかった。


こうして王は朝まだき起きて、ししの穴へ急いで行ったが、ダニエルのいる穴に近づいたとき、悲しげな声をあげて呼ばわり、ダニエルに言った、
 「生ける神のしもべダニエルよ、あなたが常に仕えている神はあなたを救って、ししの害を免れさせることができたか」
ダニエルは王に言った、
 「王よ、どうか、とこしえに生きながらえられますように。わたしの神はその使をおくって、ししの口を閉ざされたので、ししはわたしを害しませんでした。これはわたしに罪のないことが、神の前に認められたからです。王よ、わたしはあなたの前にも、何も悪い事をしなかったのです」

そこで王は大いに喜び、ダニエルを穴の中から出せと命じたので、ダニエルは穴の中から出されたが、その身になんの害をも受けていなかった。これは彼が自分の神を頼みとしていたからである。
 王はまた命令を下して、ダニエルをあしざまに訴えた人々を引いてこさせ、彼らをその妻子と共に、ししの穴に投げ入れさせた。彼らが穴の底に達しないうちに、ししは彼らにとびかかって、その骨までもかみ砕いた。」

 
 
ダニエルは、人間である王に祈願を捧げるよう求められたが、神への礼拝を続けて、その命に従わなかった。それゆえ、罪を着せられてライオンの穴に投げ込まれた。

しかし、神はダニエルを守られ、彼は無傷で出て来た。それを見て、王はダニエルの神が本物であることを知り、かえってダニエルを訴えようとした人々を獅子の穴に投げ込む。

村上密のブログは、筆者から見て、キリスト教徒を吊し上げ、教会を断罪するための暗闇の勢力の要塞と化している。杉本徳久のブログも同様で、彼らのブログの真の狙いは、キリスト教徒を迫害することにこそあると筆者は見ている。

そして、当ブログ執筆者が杉本を敗訴に追い込む前後から、反カルト陣営がキリスト教徒をバッシングする場は掲示板に移った。
   
これら反カルト陣営の人々は、獲物を求める殺気立った獣のように振る舞っているが、彼らがどうしても否定したい事実が一つある。それは、彼らが信奉する牧師たちが、すでに刑事告訴されていることだ。ダニエル書にある通り、無実のキリスト教徒は、讒言されても、罰せられず、害も受けないが、無実のキリスト教徒を訴えた者たちには、防御の方法がない。

キリストの贖いの血潮により頼まない者たちが、キリスト教徒を訴えた場合、彼らには小羊の血潮という防御の盾がない分、ダニエルを悪しざまに訴えた人々と同様の末路が待ち受けている。

* * *
 
さて、村上が筆者を刑事告訴したという記事を投稿した際、筆者がただちに村上を虚偽告訴罪に問うという反論記事を発表したので、村上はこれにひるんで、わずか数時間も経たないうちに、記事の削除に及んだことはすでに述べた。

その際、注目すべき出来事が起きた。村上は筆者に対する記事を削除したのみならず、ただちにそれを自分が五次元スクールによって名誉毀損で告訴されたという別の内容の記事に差し替え、筆者に向けた非難の矛先を、自分自身に向け変えたのである。

その行動に、筆者は村上の恐怖心を見た気がした。

おそらく、村上は筆者に恐怖を抱かせる目的で、筆者を告訴したとする記事を投稿したと見られるが、筆者がこれに全く動じず、かえって村上の告訴を罪として非難したので、恐れは村上自身に跳ね返ったのである。

筆者は何年来、反カルト陣営からのいわれのない讒言に立ち向かって、霊的戦いを続けて来たし、ここ数カ月間は特に「一日中死にさらされ」ていると言って過言でない状況であったので、こうした出来事にどう対処すべきかは、すでに十分に学んで来ていた。

私たちの罪の債務証書は、すでに十字架の上で破り捨てられ、無効とされている。そうである以上、私たちを罪に問おうとするいかなる試みも、最終的には効力を失うと決まっている。私たちには、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)に対抗するために、最強の武器が与えられている。それは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝(黙示12:11)ことである。

だから、このような状況下での防御の方法は、より入念に過越しのキリストの贖いの血潮の下に隠れつつ、死に至るまで忠実な信仰を持ち続け、証の言葉を公然と掲げることである。

それに引き換え、村上は筆者から虚偽告訴罪に問うと言われ、筆者からの報復と、世間の評判を失うことを恐れて、記事を削除したのである。
 
このような戦いでは、恐れた方が負けである。人には自ら恐れることが、実際となるからである。私たちが恐れないでいられるのは、神を愛しているからであり、また、神が私たちのために独り子を十字架につけて下さった深い愛を知り、生きている限り、その愛に応え、御言葉に従いたいという願いを持っているからである。

聖書に次のように書かれている通りである。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(一ヨハネ4:18)

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利をおさめています。」(ローマ8:31-37)

 
村上が筆者に向けるつもりだった不吉な予告を、自分自身へ向け変えたことは、非常に予表的な出来事であったと筆者は感じている。

五次元スクールによる村上への告訴は、以下に示す記事でも指摘されている通り、極めて些末な問題であったため、村上は不起訴になって事件はすでに終わっているが、これから村上に起きる出来事は、もはやそのようなスケールでは終わらない可能性があるからだ。

村上は筆者を有罪に追い込みたかったのであろうが、その決意を確固たるものとして貫き通すことができず、かえって神と人との前で、公然と「兄弟たちを告発する者」(=悪魔)と呼ばれる恐れに耐え得ず、記事における非難の矛先を筆者から自分自身へと向け変えた。

この事実は極めて大きい、と筆者は思っている。

はっきり言えば、主と共なる十字架において、自分の罪が確かに赦されたという揺るぎない確信を持たない者が、このような記述を行ったことを、神も見逃されないであろうし、悪魔と暗闇の勢力も当然、見逃さないだろう。(人には自分で心に信じて予告した事柄が実際となって降りかかるのである。)

1.差し替え後の記事
村上が筆者に対する記事を削除後、自分が五次元スクールから刑事告訴されたことに言及し、告訴状作成から刑の執行までの流れを記した記事
刑事告訴




2.差し替え前の記事
村上が削除した筆者に対する記事の後半
(同じ文面を村上が後になって、自分自身に向けて書き換えた様子が分かる)

 


* * *

さて、村上が五次元スクールからどのような理由で告訴されたのかについては、以下の記事に詳しい。
 

オタクで結構コケコッコー

(該当部分のみ抜粋)

村上さんを名誉毀損で刑事告訴するきっかけとなったのは、
村上さんがブログ上に五次元スクールで販売してるカレンダーの値段を
本当の価格1080円ではなく、12000円と書かれてた事でした。
値段を間違えてただけじゃんとかほんとやめてくださいね...(−_−;)
明らかに許される範囲の間違い方ではないです。
(お金をぼったくってるみたいな事も他の記事に書かれてましたし)
値段を正して欲しいと村上さんにお願いしても聞いてもらえず。
それなら他の手を探して、間違いを正してもらうという当たり前のことをしたまでです。

以前、五次元スクール生数名がブログに書かれてる内容を訂正してもらうために、
直接に村上さんと話しに行ってくれたことがありました。
その時、私が作成したとなぜか思われてる「村上密 悪事を暴く!!」のサイトも違うと
言ってくれたみたいなんですが、村上さんは...
「やってないなら有希が訴えれば良いんですよ」とおっしゃったそうです。\(-_-;) オイオイ

残念ながら今回は不起訴となってしまいましたが、
訴えたからこそ村上さんは五次元スクールに関する記事を非公開にするしかなくなった。
とりあえず、今は嘘の情報を広めるのをやめてもらえてて、おたっきーは嬉しいです。

村上さんご自身のブログに書かれてあった
“このようなことは人の名誉にかかわることなので
慎重に事実を確認してから書くものである。”

ほんとそれな。
“慎重に事実を確認してから書くものである。” とご自身がおっしゃった言葉通り、
事実を確認してから書いていただきたいものです。
沖縄県のみなさま、沖縄県知事選での自民公明党の敗北おめでとうございま~す。その他キリスト教界で有名になっていたアガック竹内一雄事件(準強姦、借金で虚偽提訴された人物)の真実とこの民事裁判でアッセンブリーズオブゴット教団の村上 密牧師が使った汚い手段

(該当部分のみ抜粋)

今から3年半ほど前に、アガック竹内一雄事件というものがキリスト教界で有名になっていた(刑事事件ではない)。
このアガック竹内一雄という人物は、キリスト教界の中では異端とされているペンテコステ(聖霊派)のカリスマ派の牧師(キリスト教系新興宗教)。
この竹内一雄が運営するキリスト教会に一人の女性(子持ち)が集うようになった(最初はカウンセリング 家庭の悩み事の相談だったようだが)。
後にこの女性信者と竹内一雄は恋愛関係に、そしてその女性は竹内一雄の婚約者となるも最終的には女性関係でもめ(浮気だったようだが)、竹内一雄はこの元婚約者だった女性信者から民事で訴えられた、ざっとこんな内容だ。
しかし、その訴状自体が笑ってしまうものだった。

その女性信者は竹内一雄と婚約までしていながら、竹内一雄を準強姦で提訴(裁判官らが事実認定するワケがない)。

おまけに、原告女性が竹内一雄に貢いだお金(全額だったかは不明だが)は、貸したお金だった、として返還要求。
しかし、私の調べでは(友人、知人に聞き込んだ)原告女性は「道で大金を拾ったから(竹内一雄の)通帳に振り込んでおくね」と竹内一雄にお金を渡した内容のメールを送信していた。
案の定、そのメール内容が竹内一雄から裁判所に証拠として提出されたのだ、勝てるワケがない。
ということで一審は原告の敗訴、まあ当然でしょう。

まあ、こんな話はたまに起きるであろう怨恨話だと思うが(私の周囲には嘘までついて提訴するような人間はいないが)。

この馬鹿らしい怨恨訴訟でなにが一番解せないか、というと

この原告女性を支援していたアッセンブリーズオブゴット(略してAG)教団の有名らしい(私は知らなかったが)村上 密氏という牧師がやったことがクズすぎて解せないのだ。
村上 密氏はろくに事実関係を調べもせず、この元婚約者である女性信者の言っていることを鵜呑みにし裁判支援(北海道のテレビにまで出て嘘をばら蒔いたのだ)。
その他、この元婚約者である女性信者の訴えが事実かどうかも確認しないまま、竹内一雄を準強姦の犯罪者扱いをした上、借金を踏み倒した悪人としてブログで記事にしネットで拡散(自分だけではなく大勢の信者を使ってブログの記事させてニセ情報を拡散させていた)。

そして、しまいにAERAという雑誌にまでこの嘘記事を書かせている。
そして、裁判が終わった後もこの牧師(村上 密氏)の悪事は現在も続いている。
民事裁判にて、元婚約者である女性信者の訴え(準強姦及び貸金)が事実ではなかったことがはっきりしたにも関わらず、過去に流した嘘記事を訂正も削除もせず(勿論謝罪もしていないだろう)ずっと流し続けているのだ。
誤解があると困るので書いておくが、私は竹内一雄を擁護しているわけではない。
むしろ、絶対に近づいてはならない人物として色んな人に警告していた側なのだ。

しかし、虚偽の訴えで人を裁いているような人間には我慢がならない、非常に不快なのだ。
 

* * *
 
ここで指摘されているような無責任なデマの拡散は、村上だけでなく、類は友を呼ぶ式に、村上を取り巻いている反カルト陣営のおよそすべての人々に共通する行動である。

彼らのやり方はこうである。裏が取れようと、取れまいと、証拠があろうと、なかろうと、とにかく自分たちがターゲットとみなした人間について、さんざん悪評をまき散らす。そして、訴えられる段になって、ようやくデマの拡散をやめ、削除を命じられれば、記事を部分的に削除したり、書き換えたりという行為には及ぶものの、根本的な反省はなく、さらに、敗訴しても賠償金さえ速やかに支払わないのだから、もはやヤクザのレベルだと言って差し支えない。

明らかに、この人々は信仰者の名に値しないだけでなく、すでに人の道からも外れかかっていると言えよう。

筆者はこれまでの経験に立って言うが、当事者でない人間が、誰かを擁護するために騒ぎを煽る場合には、必ず、ある種の行き過ぎに陥り、当事者よりももっと厳しい処罰を受けてしまうという法則性のようなものがある。

これは杉本ブログに愚痴を書き込んで告訴されたKFCの元信徒にも当てはまるし、掲示板にたむろしている村上の信奉者たちや、坂井能大の裁判にも当てはまる。当事者でもない人間が、確たる証拠を握っていないのに、誰か他人の言い分を鵜呑みにして、その言い分を補強しようと、(たとえば、ある人物が犯罪を犯しているなどと)、他人の名誉を傷つける投稿を続けていると、そういう人間が、真っ先に訴えられるリスクを負うのである。

つまり、指導者の罪を、信者がかばおうとした場合、かばおうとした信者の方に、先により重い責任が降りかかる可能性が高いということである。

そこで、村上密の不確かな記述を鵜呑みにして、中傷を言い広めている人たちは、村上本人よりも、先に責任を負わされる可能性があることをよくよく考えてみるべきであろう。村上自身が、証拠がないまま記事を書いているのであれば、それを鵜呑みにした信者らが訴えられた際、彼は何らの手助けもしてくれるまい。

そして、筆者はこのようなことこそ、偽預言者たちが最も望んでいることではないかと考えている。つまり、偽りの宗教指導者は、自分自身が神の御言葉に逆らい、破滅へ向かって突き進んでいるだけでなく、その破滅に、可能な限りの大勢の無関係な信者たちを巻き添えにするためにこそ、取り巻きを通じてデマを拡散させるなどの行為に及び、多くの信者たちに罪を負わせるのである。


* * *
 
さて、村上は以上に挙げた五次元スクールから告訴されたという記事に、自分が告訴されたことについては反省もなく、得意気に次のように書いている。

「私が持っていた訴えた側の資料が大量に警察の手に渡った。まさか、そんなことが起きるなんて考えなかったのだろう。墓穴を掘ると言う言葉があるが、まだ墓穴には入っていない。しかし、日本での活動がしにくくなったのではないか。」

これは村上が五次元スクールを何とかして「墓穴」に陥れ、日本から追い出したいと願っている意図がよく感じられる記述である。だが、筆者が知っている限り、警察は被告訴人の側から、事件とは直接的な関係のない「大量の資料」が提出されたからと言って、それを精査して、何らかの結論を下すようなことはしない。それは別個の問題として扱われる。まして、それが宗教的な対立や紛争となれば、なおさら、警察はその資料について踏み込んだ捜査をしないであろう。

従って、五次元スクールを壊滅に追い込みたいなら、村上自身がその資料を用いて刑事告訴に踏み切るしかない。だが、彼は被害者でないので、告訴はできないであろうし、被害者がいたとしても、そこまでの措置に踏み切る証拠と決意があるかは定かではない。

従って、村上のこの記述は、明らかに、自分が疑いをかけられて追及される側に回ったという失態を棚に上げて、かえって自分が五次元スクールを追い詰めた事実があるかのように、虚勢を張るものである。そういうことも分からないまま、村上の信奉者たちが彼の記事を鵜呑みにして騒いでいることは、まことに愚かとしか言いようがない。

また、村上は筆者に対する記事でもこう書いていた、

「彼女は、裁判の中で私が反訴を口にすると、「反訴の脅しをかけた」と4月13日の記事に書いている。裁判を仕掛けた人が言う言葉ではない。」
 
これも藪蛇や墓穴と言わずして何と言うのだろうか。村上はこの記事で、自分が「反訴を口に」したとはっきり認めている。
 
ちなみに、裁判において、無実を主張することと、反訴を口にすることは、全く別の事柄である。

筆者が杉本と村上の両名を被告として訴えたのは、杉本が20本以上の筆者に対する名誉毀損の記事をブログに投稿し、その際、誰が杉本に筆者の個人情報を渡したのか分からず、村上以外に思い当たる人物もいなかったためである。

しかし、一審において、村上はそうした事実があったとは認めず、証拠も出て来なかったので、村上には杉本との共同不法行為は認定されていない。

だが、村上はいかに自分が訴えられたことを不快に思っていたとしても、本来ならば、牧師として、杉本の行為をいさめるべき立場にあったことは確かであろう。それが、杉本と一緒になって、筆者を罵ったメールを書証として提出したり、杉本と一緒になって、筆者が彼らの提案する和解条件を飲まなければ、反訴すると言い立てたことは、牧師としての村上の資質を根本的に疑わせる行動である。

ちなみに、この事件では、一審を担当した裁判官も書記官も、被告らが一緒になって原告に反訴を言い立てた場面に遭遇している。

筆者が覚えている限り、その日の口頭弁論では、当事者間で、非常に険悪な議論が展開された。おそらく話題は、杉本が提出して来た筆者と杉本との間で2009年に交わされたメール、および、杉本と唐沢とが交わしたメールのことに触れていたものと思う。

筆者は杉本に向かって、2009年に杉本が筆者に返信した残りのメールも、書証として出してもらえないかと頼み、筆者はそこに非常に興味深いことが書いてあったように記憶しており、そこでは、創世記において、神が人間をご自分のかたちに造られたという御言葉が引用されていたような気がすると述べた。

杉本はこれに対して、筆者をせせら笑うような口調で、「これ以上はもう出せませんよ。あなたは一体、何を言っているんですか。大体、そんな聖句がメールに書いてあるわけもないでしょう?」と突っぱねた。

さらに、筆者は杉本に向かって、唐沢とのメール文通についても、何を目的としてこれを書証として提出したのか問うた。だが、杉本はこれにも筆者を嘲笑うような口調で答えた。

「さあ、知りませんよ。それは唐沢さんにお聞きになったら?」

筆者は杉本の筆者を嘲るがごとき口調に憤りを感じつつ言った、 「そうは言っても、あなたが自分でこれを出して来られたんでしょう?」

また、杉本は別な場面では、急に猫なで声とも感じられる口調で筆者に言った。「ヴィオロンさん、もしもあなたが記事を削除なさるなら、私たちも削除していいと思っているんですよ。もしその言葉が信じられないなら、私たちの方から先に削除してもいい。それで終わりにしましょう。賠償はなしです。」

筆者は首を横に振って、そんな提案には決して応じられない、ときっぱり拒否した。

すると杉本らは筆者が彼らの和解案を飲まないので、怒りを露わにして言った。「だったら、もう反訴しかない。あなたが私たちの和解を蹴るのなら、私たちは反訴しますよ!」

筆者は答えた、「まだ口頭弁論も続いている最中に、何を馬鹿なことを言っているんです。あなた方は、反訴なんか考えるよりも前に、今、目の前で行われている弁論で、ちゃんと十分な議論を尽くして勝つことをまず最初に考えたらどうです? いいですか、刑事事件にもなっていることですし、いたずらに審理を長引かせれば、不利になるのはあなた方なんですよ、そのことをお考えになったら・・・」

裁判官は、議論が険悪な雰囲気になりつつあり、当事者が皆本気で憤っており、杉本が「刑事事件になどなっていない」と書面で頑なに主張していたことも知っていたため、「もういい!」と語気を荒げてこの議論を打ち切った。

あまりにも険悪な雰囲気であった。裁判官も含め、全員がそれに影響されていた。

すると、被告らは、今度は裁判官に向かって、しなだれかかるような口調で語りかけた、「お分かりでしょう、原告が和解に応じないのだから、私たちにはもう反訴しかないですよ・・・」

裁判官は、被告らを何とかして思いとどまらせるべく、苦々しい表情で答えた。「それはやめてもらいたいですね、どうしてもというなら、この事件が終わった後に、提訴にしてもらいたい」

筆者はそれを聞いて、心の中で苦笑しながら首を横に振った、(いやいや、裁判官、それは違います。反訴も駄目だけど、提訴だって駄目だから。)

裁判官は異動を見越して年内終結を目指すつもりで、当事者にはそれを含んでおいて欲しいと予め述べており、反訴されれば、異動前の終結が間に合わなくなることが明白であったので、これを全く歓迎していなかった。しかも、事件がさらに紛糾した状態で、これを別人に引き継いで異動することなど、絶対にしたくないと考えていたものと見られる。

そこで、被告らは、せっかくの提案をないがしろにされてプレッシャーをかけられた裁判官が、非常に気分を害していることを十分に知りつつ、それを楽しむような口調で続けた。「でもねえ、私たちはヴィオロンさんの住所も電話番号も知らないんですよ・・・。これじゃあ、提訴もできないじゃないですか・・・。私たちに反訴以外にどうしろって言うんですか・・・。」

裁判官は実に忌々しそうな表情で押し黙った。まるで審理の年内終結という課題と一緒に、筆者を人質に取られて、全く身動き取れなくさせられたような恰好であった。

筆者は、このやり取りを非常に注意深く観察していた。口頭弁論が終わった時、裁判官は、被告らの言葉を真に受けたのか、これで、この事件をきちんと片付けられる希望はなくなった、こうなったのも、原告らがまずい議論を続けたせいだ、とでも言わんばかに、大きなため息をついた。

その時、筆者は被告らが述べていることは、心理的な脅しに過ぎず、彼らはいたずらに騒ぎを煽っているだけであって、これも被告らがキリストの贖いを無効にしたくて繰り広げている悪のカーニバル(悪ふざけ)のようなものに過ぎず、要するに、筆者と裁判官の心に揺さぶりをかけ、互いにいがみ合わせて、疑心暗鬼に陥らせ、協力体制を壊すことを目的にしていると分かっていたので、裁判官に向かって、まずは落ち着いてもらうよう懇願し、それから、たとえこの先、何があっても、筆者はすべての圧迫に最後まで立ち向かう覚悟が出来ているので、決して筆者の身の上を心配しないでもらいたい、仮に反訴を受けることになり、あるいは一審で終わらなかったとしても、それも覚悟の上であるから、議論を制止しないで、筆者に言いたいことを最後まで言わせてほしいと懇願した。

後から考えてみると、この時、裁判官は、三つも四つもの事件を同時に抱え、それらすべてを異動前に片づけねばならず、筆者の書面を十分に読む時間もなくなり(裁判官からは、提出する書面を減らして欲しいとの要請もあった)、残された時間を考えると、これ以上、事件が紛糾しては、もはや事態の収集がつかなくなるため、それだけは何としても避けたいという重大なプレッシャーに直面していたものと思われる。
 
そこで、裁判官は、何とかしてこの事件のために善処したいと考えながらも、その考えが逆に心理的なプレッシャーとなっており、そういう中で、被告らが筆者に反訴すると述べたことは、裁判官の心の平穏をも失わせるような、さらに重大な心理的打撃となったのである。

こうした状況で、筆者は何としても、ここで自分が動揺してはならず、自分の命を惜しんではいけないということを理解した。もしも筆者が自分の命を惜しみ、反訴されることを恐れ、取り乱して裁判官に助けを求め、裁判官がこれを察知して、筆者に代わって、被告らに受け答えすることで、何とかして筆者をかばい、反訴を押しとどめようとするならば、裁判官は筆者を人質に取られているも同然の立場であるから、何もできず、かえって被告らの思う壺となるだけであることが、筆者には予め分かっていた。そして、最後には、助けてやれなかったという慙愧の念と、誰のせいでこうなったのかという責任の押し付け合いが残るのみであろう。
  
筆者は、そのような事態を回避して、この戦いを貫徹して勝利に導くために必要なのは、死に至るまでも従順な信仰であって、筆者が自分の命、自分の権利を惜しむことではないと知っていた。そもそもこの戦いは、信仰の戦いであって、筆者と同じ決意と覚悟ができていない、当事者でない人間には、どうすることもできない種類のものである。

すでに述べた通り、反訴はそれ自体が被告の権利なので、これを否定したり、押しとどめることは誰にもできず、反訴をとどめるには、人知によらない、それを超えた信仰が必要となる。
 
従って、被告らによる反訴の予告を、空中で粉砕し、押しとどめることのできる人間は、筆者しかいないことは明白なのである。そして、筆者は御言葉に基づき、反訴が実現しないことを前もって知っていたが、この世の人々である裁判官や書記官には、そのことが前もって分かるはずもない。
 
だから、筆者は、裁判官に向かって述べたのであった、一審判決で事件を終結したいという強い願いは筆者にもあるし、また、そのためにできるすべてのことはやりたいと思っているが、たとえ事件が長引き、次の裁判官にこれを委ねることになったり、もしくは、一審で事件が解決しなかった場合にも、筆者はすべてのことに覚悟ができており、今後、どのような展開になろうとも、決して誰にも責任を押しつけるつもりはないと、だから、最後まで主張をさせて欲しいと。

だが、筆者はそれと同時に、裁判官の言うことも心に留めて、その忠告を重んじた。そこで、それ以後、口頭弁論で被告と議論することは一切、避けることに決め、すべての主張を書面で戦わせる方法に切り替えたのである。

そして、最後の口頭弁論前には、裁判官も、筆者がこれを最後の弁論にしたいと願っていることを十分に確認した上で、今後、被告らから反訴があった場合には、職権で拒否するとはっきり告げてくれた。

筆者は、たとえそれが人間的な思いから出た行動であったとしても、裁判官が、被告らの主張を前に、筆者をかばおうとしてくれたこと、被告らの反訴の予告の前にも、可能な限りの手立てを講じて、これを阻止しようとしてくれたことを、重く受け止めている。

いかに筆者が、信仰によって主導権を握り、自らこの事件を引っ張って行かなくてはならない立場にあるとはいえ、民事であれ、刑事であれ、やはり、筆者には協力してくれる人たちが必要なのであって、その人たちの善意があったからこそ、それなりの結果が得られていることへの感謝を忘れることはない。

このようにして、関係者と息の合った協力を打ち立てることに、どれほど大きな価値があるかを知ったからこそ、筆者はどんな脅しに直面しても、それを恐れたり、動揺することなく、最後まで神を信頼して立ちおおせねばならないと理解しているのである。
 
* * *

さて、話を戻せば、被告らは実際に反訴しなかったからこそ、これが「脅し文句」に終わったと筆者は述べている。さらに、筆者が訴えを提起した側に立っていることは、被告らが反訴を言い立てたことを、筆者が精神的な脅しをかけられたことだと理解してはならない理由とはならない。

そもそも牧師としての村上が、元信徒・相談者を非難する記事をブログに投稿し、さらに、その信者の個人情報を杉本に渡したのではないかという嫌疑までかけられ、法廷に呼び出されたこと自体が、村上の大きな失態だと言えようが、そんな事態になってもまだ、村上が杉本をいさめて紛争の早期解決に努力するどころか、杉本と一緒になって筆者を馬鹿にするメールを書証として提出、さらに自分の無実を主張するだけでは飽き足らず、杉本と一緒になって筆者に反訴するなどと言い立て、自分たちの和解案を無理やり筆者に飲ませようとした行為自体が、キリスト教の牧師として、どれほどあるまじき非常識な振る舞いであるかは、ここで改めて説明するまでもないだろう。

その上、筆者が反訴の脅しをかけられたと述べたことを「名誉毀損」だと主張して、刑事告訴に及び、勝訴を宣言しただけにとどまらず、信者の息の根を止めるがごとく、社会的抹殺を望むがごとき行為に及ぶなど、およそ常軌を逸した行動だと言う他ない。
  
そのことが分からないのは、村上だけであろう。これまで、戦いに生きて来た村上は、平和を作る道を知らず、また、その道を誰からも教わらなかったのかも知れないが、村上のこうした行動はいずれも、村上がキリスト教信者に対して、まさに「兄弟たちを告発する者」(=悪魔)のように振る舞っているという以外に、意味するものはない。

村上はこのような行動を取ることによって、キリスト教徒も含め、どんな宗教団体の信者であれ、村上の言いなりにならない者には、同じ措置を講ずる用意があることを示して威嚇しているのである。
 
村上は、かつて他の牧師らと共に、統一教会の信者などを拉致・監禁して、密室に閉じ込め、「誤った考え」を捨てさせるために、信者の尊厳を踏みにじって、強制脱会活動を行っていたが、今もその頃と同じように、自分が「誤った考え」を持っているとみなした信者たちを弾圧するためならば、あらゆる方法を用いて、懲罰を加える用意があることを示している。

そこにある恐ろしいまでの攻撃性、真の動機に、彼は気づいていない。村上は書いていた、

「書けば書くほど怒りが込み上げて来るのか、留まるところを知らない書き方である。書けば書くほど自分に不利なことを書き立てていると気付かないでいる。ブログの中で怒って人を罵倒し、事実でないことをみだりに他人に言いふらし、信用を棄損するような記事を書いている。その内容は放置できないレベルに足している(筆者注:達しているの間違い)。」

村上のこの言葉は、誰よりも村上自身にこそ当てはまるだろう。事実でないことをみだりに他人に言いふらし、信用を毀損し、その内容が放置できないレベルに達しているのは、村上自身である。そのことは、以上に挙げた記事で示した通り、五次元スクールの側からも、その他の人からも指摘されているではないか。

むろん、きちんとした法的根拠を示さないまま、自らの主観だけに基づき、「その内容は放置できないレベルに達している」などと断言する村上の語調が、杉本徳久の言葉とそっくりである様子にも驚かされる。

村上は、自分がのべつまくなしに様々な宗教団体に戦いを挑んでいる真の目的がどこにあるのか、立ち止まって、考えてみるべき頃合いではないだろうか。前の記事にも書いた通り、筆者の目から見れば、それは村上自身が幼少期からずっと受け続けて来たトラウマに起因する行動であって、聖書への信仰によるものではない。
 
村上は若い頃に家庭で起きていた暴力から逃げる術もないまま、家庭という名の「牢獄」に閉じ込められて成長し、さらに統一教会への逃避行を企てた際にも、これを力づくで押しとどめられ、悲劇的な形で強制的に信仰生活に終止符を打たれて、再び家庭という牢獄へ連れ戻された。
 
おそらく村上は、神が自分を虐待という苦しみから助け出して下さることを求めて、統一教会に入信したのではないかと筆者は推察するが、その逃避行が、親族らの暴力によって打ち砕かれて、再び牢獄のような家庭に連れ戻され、そこに閉じ込められたことによって、村上の「神」観は、村上を救い得ない絶望的なものとなってしまったのである。そのことから彼はあまりにも深い心の傷を受けたのではないかと見られる。

そうであるがゆえに、村上の中では、自分に虐待を加えた肉の父が、そのまま神のイメージとなり、神は人に自由を与える方ではなく、束縛と、隷従と、抑圧を加える存在と見えるようになり、それゆえ、彼はそのような残酷な神観に基づき、自由な信仰生活を送る他の信者たちにも、「解放」という名目で、抑圧を加えねば気が済まなくなったのである。

筆者は五次元スクールや統一教会を擁護するつもりはなく、その理念を受け入れるわけでもないが、たとえ信念を共有できずとも、彼らを人として尊重することはできるはずであり、理念が異なるからと言って、彼らに人権侵害を加える行為が許されるはずはないことは言うまでもないと考えている。もしもそのようなことを正当化する理念があるとすれば、そのような理念こそ、誤っている。
 
筆者の神観は、村上の神観とは真逆である。村上から見れば、筆者は「交流の少ない所」「インターネットを頼り」として「甘っちょろい空想」を述べ、「藪の中から石を投げ」「怒りにまかせてものを書いている」だけの無責任な人間と映っているのかも知れないが、その筆者が、神は全能であり、筆者をあらゆる窮地から力強く救い出して下さることを信じ、どんな境遇に置かれても、平安と、喜びと、救いの確信と、神への愛と従順を失わずにいられる秘訣を学んでいるのである。

村上は、筆者が書いているごくわずかな批判の記事にも耐えられなかったが、筆者は匿名の投稿者によって数千件以上の誹謗中傷がなされても、まだ神への信頼と希望と愛情を失わずに立っている。筆者は自分を全く恥じようとも思わないし、自分の信仰をも、自分が信じている神をも恥じてはいない。
 
筆者は村上に聞きたい、あなたはこのようなことに耐えられるかと。あなたはかつて自分が生命の危険を賭してカルトと闘っているかのように主張し、他方、筆者の論は、安全なところから、悪ふざけで石を投げて楽しむだけの無責任なものであると決めつけていたが、実際のところはどうなのか。

筆者は自分の命を最後まで神のために注ぎだしたいと願っており、神に従い抜く上で、中傷されること、軽んじられること、誤解されること、離反されること、孤独や、苦しみの中を通過させられることを、甘んじて受け入れる覚悟があり、実際に日々十字架を負っている。だが、あなたはそれに耐えることができるか、また、それにどれくらい耐えた経験があるのか。

しかし、そのようなことは、筆者にとって、どうでも良い問題である。筆者は人間の思惑を意に介していないので、村上や杉本や唐沢のような人間からどう見られようとも、それが重要な問題なのではない。私たちがただ一人、その眼差しを得たいと願い、その信頼と賞賛を勝ち得たいと切に願い続ける存在は、人間とは別にある。

その方への愛と希望と信頼があればこそ、また、その方がすべての人々の願いと呼び求めに実際に応えて下さるという確信があればこそ、私たちはあらゆる試練に耐えて信仰を保ち続けて前進することが可能なのである。
 
この世に対して、人間に対して、自己に対して、徹底的に絶望し、これらの腐敗・堕落したものに対して、十字架の霊的死を経由することなくして、神に真に希望を見いだすことは、誰にとっても、無理な相談なのではないかと筆者は考えている。この世に対して死んだことがなく、自己に対しても、人間に対しても、絶望することもなく、依然として、この朽ちる、移ろいゆくものに希望をつなぎ、すがりつき、そこによすがを見いだしている人々に、見えない神を本気で愛し、信頼し、従い抜くなどのことができるとは思えない。

聖書は言う、

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(16)―生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。

11.訴訟費用を払わない他人を非難しながら、自分は賠償金を踏み倒そうとする杉本徳久

もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

復讐はわたしのすること、
 わたしが報復する
と言い、また、
主はその民を裁かれる
 と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヘブライ10:26-31)

4月29日午後13時頃、筆者は杉本徳久に債務の支払いを要求するために電話で連絡した。何日か前から連絡していたのだが、ようやく電話がつながると、杉本は「忙しい」とか「弁護士と話す」などの理由にもならない理由で、支払いを拒否、そそくさと向こうから電話を切った。この男の狡い本性がよく分かる会話であった。

ちなみに、杉本がかつて勝訴したHCCの牧師に、通常の訴訟ではあまり請求されることのない訴訟費用を請求し、弁護士の手続きの仕方が不誠実で、支払いが遅い、卑劣だ、とブログでさんざんぼやいていたことは周知の事実だ。

「嘘つきの作った合意書」で、杉本がどんな言葉でHCC側の対応を非難していたか、ここに転載しておこう。

「完全敗訴が決まった後に判決で命じられた「訴訟費用」の支払いについてさえのろのろした上に、その訴訟費用請求申し立て手続きについても実際はほとんど全く使われない手続きであるのにそれが一般的な普通の方法だ、と法律家ではない素人の私に対して嘘の説明をしてきた人物。
 私からは彼らに十分な告知、猶予期間を設けて連絡したが、松下自らの怠惰によって応対が遅れに遅れた揚げ句、自分勝手にこの8月末に支払うと振込期限を一方的に設定。ここまで来ると怒りを通り越して呆れかえってしまう。どうしようもない弁護士であり、司法の担い手に全くふさわしいといえない。人間、ここまで卑しくなれるものとは情けない限り。だ

この言葉はそっくり杉本にお返ししよう。もはや判決から一カ月、十分な告知期間、猶予期間をもうけて筆者は杉本に連絡した。ところが、杉本は自らの怠慢によって対応を遅らせ、身勝手な言い訳を並べるばかりで、筆者が提示したGW明けという支払い期限さえ守る姿勢を見せなかった。

杉本の極度なほどのものぐさ精神と、切手代まで惜しむほどのケチさぶりは、民事調停の時点からすでに見えていたのだが、以上の記事で、HCC側が微々たる訴訟費用を払わないことをさんざん非難していた杉本は、自身が判決から1ヶ月経っても、賠償金をまるごと踏み倒そうとしていることについて、どのように弁明するのだろうか。

ここまで来ると、憤りや情けなさを通り越して軽蔑が残るのみである。人間、果たして、ここまで卑しくなれるものだろうか・・・。筆者は杉本自身の言葉をそのまま彼にお返しする。

杉本はこの記事のコメント投稿欄にもこう書いていた、「榊山清志も、中村良二も、松下泰三も、竹内徹も、みな本当に卑劣で許し難い人たちであると私は思います。 」

いや、卑劣で許しがたいのは自分ではないのか? こうして数多くの他人だけは実名で非難しながら、自分だけは何をやっても許されると言わんばかりに、自分が非難した人々以上の無責任な行為に手を染め、その上、こそこそとブログから名前を消して、幽霊人間にでもなれると思っているのか。

尊大な口ぶりで、他人ばかりを厳しく責めながら、自分は微塵もしかるべき社会的責任を負おうともしない。自分が他者から受けた仕打ちを、ただ自分よりも弱い人間にいたずらに投げ返しては、弱い者イジメにいそしみ、鬱憤晴らしをすることしかできない。

これがこの男の正体なのである。他人には厳しく、自分には甘く、とことん利己的で、子供のように幼稚としか言いようのない身勝手な行動の数々。株式会社メディアテラスと取引することが何を意味するのかをも、読者はよく考える必要があろう・・・。

さて、杉本が弁護士と相談しても、書面を送る先は裁判所以外にどこにもない。むろん、賠償金の支払いの際に、筆者に杉本と合意書など交わす義務がないことは言うまでもないので、杉本の言い分は、単なる時間稼ぎであることは見え透いている。控訴して判決を覆すために戦うつもりがあるなら、とうにそのように意思表示しているはずである。

要するに、自分から本格的に相手と戦うために手間を払いたくないが、不利な判決も認めたくない。どこまでも労力を惜しみつつ、不利な事実から逃げ続けるだけの無責任で卑劣な人間の姿があるばかりだ。

取り立てはこちらの正当な権利なので、今後も、容赦なく実行するのみである。それに従わなければ、杉本の社会生活が、中断せざるを得ないような、合法的かつ正当な法的措置を講じねばならなくなるだけだ。

筆者はあくまで正攻法で行く。だが、正攻法でも相当なことができることは、読者にも知っておいてもらいたい。警察は基本的に、民事不介入であるが、筆者が民事と刑事の二本立てで攻めるのは、ただ処罰を求めるがゆえだけでなく、犯人が逃亡した場合のことを見越しての措置でもある。

先週、筆者は三時間ほども警察の上部とやり取りして、この問題について話し合った。杉本のことだけでなく、村上による権利侵害のことも、掲示板の集団リンチのことも、反カルト脱会運動の人権侵害のことも、何もかも告げてある。告訴事実に記載した内容だけでなく、この紛争がどのような信仰的な意味と背景を持つものであるのかも伝えている。警察からは、しかるべき措置を必ず講じることの約束があり、確かに、天文学的な時間数に渡る労力を払って、上部を呼んだ意味はあると言える会話であった。

今、杉本がこのように極端とも見えるほどの不誠実な態度を見せて、自分が何カ月もかけて関わって来た民事の判決にさえ逆らっているのは、決して偶然ではないと、筆者はみなしている。なぜなら、刑事事件で処罰に至るためには、それなりに超えなければならないハードルがあるからだ。たとえば、不法行為がおびただしい回数、繰り返されており、犯人に反省の意がなく、誠意も見られず、法的・社会的責任を負う能力はあるのに、全くその意思が見られないなど、どうしても処罰しなければならないだけの悪質性が必要となる。

だが、筆者から見て、杉本はそのために必要な要件を見事に満たしつつあるように見える。情けを受ける余地を自分で減らし、行き着くところまで行き着こうとしている。要するに、それほどまでに処罰を望んでいるといことなのであろう。

筆者は2010年から杉本はラスコーリニコフに倣って法的処罰を受けるべきだと主張している。その当時、まだそう言えるだけの明白な根拠は揃っていなかったかも知れないが、時と共に、その予告はますます現実化している。

このように判決をないがしろにすると、刑事事件の進展にも影響を与えるだけでなく、これから始まる控訴審での被告らの印象も、出だしから極めて悪くなる可能性があることは確かだ。それにしても、プロテスタントの諸教会をあれほど居丈高に断罪し、司法・警察を通じて牧師の責任追及を行うよう呼びかけていた男としては、あまりに恥知らずであるとしか言いようがない・・・。

* * *

12.被害者意識をバネに連帯し、御霊に背き、神に逆らう「カルト被害者救済活動」

さて、以下では、筆者のカルト被害者救済活動に対する最終的な決別宣言をかねて、今回、第一審で杉本徳久が出して来た書証の中に含まれていた、2009年に筆者がこの運動と訣別するために杉本に宛てて書き送ったメールを紹介しておきたい。

このメールを長年に渡り、筆者は取り戻したいと願っていた。筆者はこのメールをやり取りした直後、杉本のあまりに常軌を逸したすさまじい憤りの剣幕に、恐れと不快感を覚え、メールを削除してしまった。その後、杉本は筆者の手元にオリジナルが残っていないことを逆手に取るように、筆者の書き送ったメールの内容が、あたかも常識はずれの文面で、高慢で許しがたい内容であったかのように、ブログで一方的に筆者を断罪し始めた。

例の1000件以上のコメントが投稿されて杉本ブログが炎上に至ったバッシング記事から、該当部分の記述を抜き出しておこう。

杉本が筆者のメールの文面を歪曲し、筆者がカルト被害者を冒涜していると非難した記事



 
「10日ほど前、彼女からのメールを受け取った。それは、
  
 http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/51884112.html
 2009年3月26日 「沖縄 トランスフォーメーション・グロース」

 に「ヴィオロン」の名で書き込んだコメントを消して欲しいという依頼であった。しかし、そこには非常に思い上がった上に自己中心的な、彼女が経験した「回心」とその後の心変わりについての理屈が並べられてあった。市井の社会で求められる良識からは外れた文面であった。

 また、彼女ががらりと立場を変えて非難し始めた私や独裁カルト牧師の被害者信徒たちのことについて記した最新の投稿を熟読した後、私は彼女にこれらあなたが非難している人物の中には明らかに私が含まれていると読み取れるがその認識で良いのかと問いただす返事を送ったところ、彼女は私に対して真理の御霊に全てを問い尋ねよと言い、非難の対象が私であることを書き送ってきたのであった。一度、自分の口から出た言葉は後から消すことができないということがわかっていない。もし、それがネット上のものではなく紙媒体の印刷物であれば不可能である。」
  
筆者はこの当時、オリジナルの文面を残しておかなかったために、具体的な論拠を示して反論することもできないことが、どれほど悔やまれたろうか。

しかし、筆者はその当時から、おそらくこのメールは、必ず杉本側で保存されており、いつか取り戻す日が来るだろうと考えていた。その予想の通り、それから約10年近い時を経て、筆者が杉本に書き送ったメールは、書証という形で手元に戻って来た。

杉本の以上の記事における主張が、いかに嘘に満ちていたかは、以下に挙げる筆者のメールの文面を読めば分かる。

2009年に筆者が杉本とやり取りしたメール
  
      
 
   

「杉本さん

「東洋からの風の便り」を書いているヴィオロンです。

お書きになられたプロフィールから、連絡先をうかがい、メールさせていただいています。

お手数ですが、この度、一つ、お願いがあります。
以下のページにおいて、私が貴ブログに書き込ませていただいたコメント(17)を削除していただきたく、お願いします。

http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/51884112.html
2009年3月26日の記事「沖縄 トランスフォーメーション・グロース」

お手を煩わせないため、できるなら、自分でその作業をしたいところなのですが、
貴ブログでは私自身がコメントを修正することも、削除することもできないようになっています。
管理人様だけが、そのような操作が可能かと思います。

書き込みした本人である私自身が削除を願い出ておりますので、
どうかお聞き届け下さいますようにと願っています。

念のために、不要かもしれませんが、削除を希望する理由を述べておきます。
私はかつてカルト被害者の一人として、キリスト教界の不正を声を大にして訴えるということを自分の使命のように考え、その面から、杉本さんの姿勢にも、しばらく同調・賛同しておりました。

悪事を明るみに出すということは、社会改革のために必要なことであり、正しいことだと思っていたのです。

しかし、ある時、ちょうどパウロがダマスコ途上でイエスの光によって倒されてあように、明確に、神御自身が光となって、私の人生に介在されて、私の過去の被害を全て帳消しにされ、悪事と闘うために人生を捧げる道は、信仰によるものではないことを示されました。

主は、社会改革によっては、いかなる救済も人類にはありえず、ただ十字架だけが私と人々の罪と悪からの救いであることを改めて示されました。
十字架を介さなければ、何を訴えても、無意味であることを示されたのです。

こうして、神ご自身が十字架を通して、私の被害を取り除かれたので、その時点から、私はもはやかつてのようにカルト被害者を名乗ることはできなくなり、また、教界の不正と闘うために、人生を費やしている人たちを心から支持することもできなくなりました。

それまでの私の言動、人生の目的は、御心にかなうものではなかったのです。
ですから、この先、これ以上、私は神への反逆を続けるわけにはいきません。

私はただ神にのみ自分を完全に明け渡し、人々に対して、キリスト教界の悪事ではなく、キリストの十字架について語らねばなりません。

その立場は、私のブログ記事の上ではすでに明らかにしておりますし、今後も、明らかにしていくつもりですが、しかし、杉本さんのブログに残させていただいた私のコメントは、明らかに現在の私の立場と食い違う内容のため、削除しておかねばならないと感じています。

何しろ、貴ブログは、私のブログよりも、百倍以上も社会への影響力が大きいため、たった一つのコメントでも、私のブログ全体を凌ぐほどの影響力になりかねないのです。

最近、このことについて熱心に問い合わせて来られる方があったため、私が、自分から世間に誤解を招く内容の発言を残しておくのはよくないと気づかされた次第です。
そのような理由で、お手数ですが、ご協力いただければ幸いです。

ヴィオロン」

 

* * *

筆者はこの時、神はどんな人の受けた心の傷をも癒すことがおできになり、筆者を力強く「被害」から救い出して下さり、もはや傷のない、完全な新しい人として下さった、という事実を杉本に告げて、反カルト運動および被害者陣営に訣別宣言を出した。

ところが、杉本は筆者が被害者意識と完全に決別し、もはや誰からも憐れまれる必要もなければ、助けの手を差し伸べられる必要のない、完全で新しい人として、杉本らの陣営に別れを告げた行為に猛烈に腹を立て、筆者の考えを「許しがたい高慢」として否定しようとした。

杉本は筆者がキリストにあって「新しい人」とされたどころか、むしろ、カルトの宗教洗脳に陥り、重症の精神異常になっているがために、杉本らの活動に賛同できなくなったのだ、などと、それ以降、本年に至るまで、ネット上で筆者に激しい中傷を向けて来るようになったのである。

だが、そうなったのは、杉本がブログを通して、プロテスタントの福音派を猛攻撃して来たことを見ても分かる通り、杉本自身の心の中に、プロテスタントの教会に対する拭い難い被害者意識が存在したからであろうと思われる。

これは唐沢治、村上密にも共通した心理である。唐沢はかつてキリスト教界から追い出されるも同然にそこを出ており、今や自分たちは従来のキリスト教とは別のものを信じていると告白している。村上密は強制脱会により自らの意思を打ち砕かれてキリスト教に改宗させられた過去がある。そして、杉本もアッセンブリー教団でペンテコステ運動につまずき、それを機に、プロテスタントの全教会に対し、尽きせぬ憎悪と懐疑の念を向けるようになった。

これらの人々は、みなキリスト教の理念と教会に対する根強い被害者意識を持つ人々であり、それゆえ、彼らは教会で被害を受けたとする人々に強く心を惹かれ、自己憐憫の裏返しとして、彼らの被害者意識を慰撫し、彼らを支援しようとしたのだと見られる。

そこに、被害者意識による一大癒着としての要塞が出来上がった。これがキリストが十字架で私たちに約束して下さった自由を告げる神の福音に悪質に逆らう反逆的・冒涜的運動になって行ったのである。

彼らの運動は、カルト被害者を自由にするためでなく、いついつまでも被害者意識の中に閉じ込め、決して「被害者」というステータスから抜け出られないようにし、彼らを「救出」した指導者に栄光を帰する材料とするために利用された。

筆者が杉本に2009年に送ったメールの中で投げかけた言葉、そして、当時、筆者がブログで表明していた信仰は、はからずも、被害者を自称する人々が心に持ち続けている被害者意識が、本質的に神の福音に反するものであり、暗闇の勢力の要塞として利用されている事実を明るみに出した。

そうであるがゆえに、杉本はその指摘に耐えられず、これからも被害者意識に立ってプロテスタントの教会を攻撃したいという思いを手放さないでいるために、筆者の主張に全面的に猛反発を示し、それと共に、神の教会における聖徒の交わりと、神が十字架を通して約束して下さっている解放までも、退けたのであった。

書証の中には含まれていないが、筆者が杉本に依頼のメールを送ってからしばらくして、常軌を逸した剣幕で、筆者を詰問・断罪するメールが、杉本から返信されて来た。そこで杉本は、筆者が杉本とカルト被害者を「冒瀆」しているとか、筆者が「匿名に隠れている」などと非難して、個人情報をすべて開示せよ、さもなくば、依頼には応じない、と筆者をなじっていた。

* * *

 杉本の激昂したメールに対し、筆者は以下のように返信した。


「杉本さん、

とりあえずご返信いただけたこと感謝いたします。

私があなたにお願いしたことは、あえてここで二度目に繰り返す必要もないかと思いますが、以前にあなたのブログに書き込みました私のコメントを削除して下さいという、その一点だけです。

それ以外の点について、私は今、あなたとやり取りをする必要性を感じていません。
またコメント削除のお願いを出すにあたって、私には住所氏名等を相手に明かす義務もありません。

コリントⅡ10:12-18節を参照いただければ、分かりますが、私たちの推薦状はキリストだけです。

「自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、確かな人なのである。」

もしあなたが聖霊を受けて、証印を押された主にある私の兄弟であるならば、
私がキリストを信じ、キリストの同じ御霊の証印を受けて遣わされている姉妹であることを
私の証しを通して、そして例によって、おのずから識別するでしょう。

それに加えて、私はあなたのブログに意見することを目的としてメールを出したのではありませんし、また、あなたも、自分のブログに関して、私の意見などをお求めになる必要は全くないかと思います。

なぜならば、杉本さんが本当に主の忠実な僕であるならば、誰の意見を聞くまでもなく、
主が直接、あなたに必要な真理を、御霊を通して、全て教えて下さるはずだからです。

「あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、
だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。
それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、
あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。」(Ⅰヨハネ2;27)

どうか真理の御霊に全てを問い尋ねて下さい。

人の意見などには何の価値もありません。それに振り回されていては何一つ始まりません。

杉本さんが心から主に願うならば、唯一、真実であられる神が直接、あなたに必要なこと全てを教えて下さるでしょう。

さて、杉本さんへの私のお願いはすでに申し上げました。それをもしお聞き届けになるご意志がないのでしたら、それはあなたの判断ですから尊重しましょう。そして、後のことはどうあれ、全てを主にお任せいたしましょう。

杉本さんのために兄弟姉妹と一緒に祈っていますよ。

願うことはただ一つ、あなたがこの先、キリストにとどまられ、キリストの命を失うことがありませんように。

また主の平安があなたにあるように。

ヴィオロン」


 
ここで筆者はあえて議論を避けるために、杉本に対して、真正面から反対意見を述べたり、コメント削除の依頼を強要したり、自分の考えを押しつけるような返答は一切しなかった。だが、杉本はここで筆者が「真理の御霊に全てを問い尋ねて下さい」と書いたことを曲解・悪用し、後にこれは筆者が自らのブログでカルト被害者を「冒涜」したことを認める発言だなどと吹聴、あくまで個人情報を開示せよと執拗に求めた。
 
 


そこで、筆者は以下のように返信した。
 

「杉本さんへ

残念ながら、ネット上では、匿名を保つのが一般常識です。

それは個人のプライバシーを守るために社会的に奨励されていることです。

杉本さんがネット上で住所氏名電話番号まで公開なさるのは、あなたの自由ですし、
また、あなたにはきっとあなたなりの信念があって、あえて公人並の負担を自主的に背負い込んでおられるのでしょうが、

それと同様の負担を、あなたのような作業に従事していないほかの人(=公人ではなく私人)にも同様に求めることいささか行き過ぎていると思います。

特に、ネット上で知り合っただけの人に誰かがあなたに個人情報を明かさなかったからといって、すぐに「匿名に隠れている」という表現を遣って、相手を非難するのは適切ではありません。

というのは、その人は、単に防犯上の必要性から、何の悪意もなく、ただ常識に従って、
そうせざるを得なくなっている場合がほとんどだからです。

しかし、杉本さん、それとは別に、もしもあなたが個人として、本当に、私がどのような人間であるのかを知りたい、

と希望なさっておられるのであれば、
私はいつでも喜んであなたに直接、お会いして構わない覚悟でおりますよ。

大人として、個人として、また主の御前にあって、一つの魂として、恥じることなく、互いに礼儀正しく、あなたが私に対して自分を現し、また私もあなたに自分自身を現すことを願っておられるのなら、私はいつでも喜んでそれに応じるつもりです。

ただし、もちろん、せっかく互いに貴重な時間を使うのですから、できるだけ不愉快にならないように気をつけましょう。

互いに非難をなすりつけあったり、罵り合ったり、まるで興信所か、あるいは事情聴取のように自分の聞きたいことだけを根掘り葉掘り無遠慮に尋ねたり、

ただ互いを断罪し合って終わるというような、不愉快でみっともない邂逅は避けましょう。

それではあまりにも幼稚ですからね。互いの印象はますます悪くなるだけでしょうし、主も悲しまれるでしょう。

夫婦喧嘩は犬も食わぬと言われますが、クリスチャンの痴話喧嘩は蛇の餌食になるだけです。

問題は、キリスト教界の問題について、私たちが意見の一致に至れるかどうか、ではありません。

あなたと私とのやり取りの中から、少しでも、1グラムでも、キリストが現れることができるかどうか、なのです。

その希望があるならば、私は喜んで自分の時間を遣うでしょう。

あなたと私との間にはすでに多くの事柄について膨大な意見の食い違いが見受けられますが、しかし、そのような事柄は、キリストご自身の絶大な価値とは比べようもありませんから、それに比べれば、すべては些末な問題です。

しかし、たとえ杉本さんがそう思われなかったとしても、私たちは互いに大人なのですから、ある程度までは、意見の食い違いを耐え忍ぶことはできるでしょう。

「相手にとって不愉快なことを決して強要したりせず、たとえ話が一致しなくとも、穏やかに話、激昂したり、相手をなじったりしない、互いに良い印象で時間を過ごすことにつとめる」という、ごく当たり前の事柄をごく当たり前に守るということに、杉本さんがもし異論がないのであれば、直接、お会いして、互いに相手を確認する方法が、一番、いいのではないかと思いますが?

もちろん、あなたは忙しい人できっと時間は限られているのでしょうが、犠牲はお互い様です。互いに互いを自分の目できちんと見て、その声を聞き、表情を見て、相手に悪意が無いことを確認し、これなら大丈夫と思った範囲内でのみ、自分を明かす、ということは、世間の常識かと思います。

こんな危険なご時世にあって、その確認ができてもいないのに、何でも自分のことを自分からペラペラ話す人がいたとすれば、それはきっと愚か者だけでしょう。

杉本さんご自身も、ご自分が安全な人間であられることを
いつでも喜んで世間に向かって公平に広く証明する心の備えが出来ている人であることを願っていますよ!

吉祥寺付近は一度だけ歩いたことがあります。

それでは。」


 
これに対して、杉本からの返信と筆者からの最後の返信が、杉本側から書証として提出されている。


 
 
以下の杉本の返信を読めば、杉本が自分の気に入らない主張に対しては、揚げ足取りのような難癖をつけ、自己の言い分が通るまで、他者の希望を踏みにじり、まるで自分が世間代表であるかのように尊大で上からのもの言いに終始し、それと同時に、極端な自己卑下によって、直接人と対面することへの恐怖心や劣等感を隠そうとしている様子がよく分かるだろう。

自分から相手に個人情報を要求しておきながら、それでは直接、会って話してはどうかと問い尋ねられると、子どものようにこれを突っぱね、自分自身が相手を拒絶しているにも関わらず、あたかもその拒絶が、相手のせいで起こったものであるかのようにかこつける。

自分の欠点を何も見ようとせず、すべて相手のせいであるかのように転嫁し、ひたすら相手だけを責め続けるあまりにも幼稚な駄々っ子のような返答に、当時の筆者も強い当惑と不快感を覚えた。

ただし、杉本のこうした憎悪を含んだ非難の中には、おそらくは、筆者個人に対する反発だけでなく、そもそも御霊によるエクレシアの信徒の交わりそのものへの嫌悪、教会への憎悪が反映していたのではないかと見られる。

杉本はその後も、カトリック教会に通い続けたと見られ、ミサや祝祭日に出席する必要だけは嫌と言うほど強調し、筆者が既存の教会に通わず、日曜礼拝にも出席しない行為を盛んに非難していたが、杉本はこうして形式的な教会生活の重要性を説く代わりに、不思議なほど、信徒の交わりというものの重要性に言及しない。むろん、信徒の交わりだけでなく、神との交わりの重要性についても、全く触れることはなかった。
 

「拝復、

杉本です。

>杉本さんへ、

>残念ながら、ネット上では、匿名を保つのが一般常識です。
>それは個人のプライバシーを守るために社会的に奨励されていることです。

>杉本さんがネット上で住所氏名電話番号まで公開なさるのは、あなたの自由ですし、
>また、あなたにはきっとあなたなりの信念があって、あえて公人並の負担を自主的に背負い込んでおられるのでしょうが、
>それと同様の負担を、あなたのような作業に従事していないほかの人(=公人ではなく私人)にも
>同様に求めることいささか行き過ぎていると思います。

そのような「一般常識」は存在しません。個人のプライバシーを守るために、
個々のユーザーがそうしている事実はありますが、それが「社会的に奨励」されている良識はありません。
公的なもの言いをするのであれば、特に対外的な信頼が落ち、まして、他者への批判を伴うのであればなおのこと、責任が大きいこと。

あなたがもし、同じ事を、英語やドイツ語、フランス語で書き記したとしても、所詮は匿名。学生論文の方がまだ読む価値がある、と判断されるでしょう。

>特に、ネット上で知り合っただけの人に誰かがあなたに個人情報を明かさなかったからといって、
>すぐに「匿名に隠れている」という表現を遣って、相手を非難するのは適切ではありません。
>というのは、その人は、単に防犯上の必要性から、何の悪意もなく、ただ常識に従って
>そうせざるを得なくなっている場合がほとんどだからです。

他人を公然と否定し、罵倒し、内心に至るまで徹底的に扱き下ろしておきながら「匿名に隠れている」あなたに言えた台詞ではないでしょう。

>しかし、杉本さん、それとは別に、もしもあなたが個人として、本当に、私がどのような人間であるのかを知りたい、
>説き某なさっておられるのであれば、
>私はいつでも喜んであなたに直接、お会いして構わない覚悟でおりますよ。

私は特にあなたにお会いしたいと思っておりません。

>大人として、個人として、また主の御前にあって、一つの魂として、恥じることなく、互いに礼儀正しく、
>あなたが私に対して自分を現し、また私もあなたに自分自身を現すことを願っておられるのなら、

匿名に隠れて散々、私や被害者信徒を否定し、独自の珍説を開陳なさるあなたに言えたことでしょうか。

>ただし、もちろん、せっかく互いに貴重な時間を遣うのですから、できるだけ不愉快にならないように気をつけましょう。

あなたの「貴重なお時間」を私ごときのつまらぬ人間のためにお使い下さらなくて結構です。

>問題は、キリスト教界の問題について、私たちが意見の一致に至れるかどうか、ではありません。
>あなたと私とのやり取りの中から、少しでも、1グラムでも、キリストが現れることができるかどうか、なのです。
>その希望があるならば、私は喜んで自分の時間を遣うでしょう。

あなたとの対話の上には、私に限らず「どなたであれ」、それが現れる希望はないでしょう。

>「相手にとって不愉快なことを決して強要したりせず、たとえ話が一致しなくとも、穏やかに会話し、
>激昂したり、相手をなじったりしない、互いに良い印象で時間を過ごすことにつとめる」という
>ごく当たり前の事柄を当たり前に守るということに、
>杉本さんがもし異論がないのであれば、直接、お会いして、互いに相手を確認する方法が、
>一番、いいのではないかと思いますが?

 そういうことはあなたが中学生の先生にでもなって、子どもに教えて差し上げれば良いでしょう。私はあなたのクラスの生徒ではありません。

>もちろん、あなたは忙しい人できっと時間は限られているのでしょうが、犠牲はお互いさまです。
>互いに互いを自分の目できちんと見て、その声を聞き、表情を見て、相手に悪意が無いことを確認し、

 私ごときのためにあなたの「犠牲」をお払いいただくことは必要がありません。また、あなたに悪意が無いとも私には到底、思われません。

>杉本さんご自身も、御自分が安全な人間であられることを、
>いつでも喜んで世間に向かって公平に広く証明する心の備えが出来ている人であることを願っていますよ!

 私が危険な人間だ、と思っている、と思いたいのであればどうぞご自由に。
 
 あなたと対話することは、「世間に向かって公平に広く証明する心の備えが出来ている」ことに繋がることはありません。

 私と直接会いたいという方は他にもおりますが、基本的にお受けしておりません。

 自分の名を売るためにやっていることではありませんし、目立ちたいとも思っておりません。

 あなたからは、一切、謙虚な心が感じられません。そのままであれば、私に限らず、これからも多くお人から拒絶されるであろうと思われます。

 

杉本はこの時、筆者の提案をことごとく拒絶することによって、おそらくは、聖徒の交わり、御霊の交わりそのものを拒絶したのではないかと見られる。杉本はそうなる前から、プロテスタントのキリスト教会、とりわけ聖霊派の教会を嫌悪・憎悪していたが、この時、決定的に御霊の導きに背を向けて、自分をあらゆる被害者意識から解放することのできる神の福音に背を向けてしまったのではないかと見られるのだ。

それにも関わらず、杉本は、拒絶されているのは筆者であって、自分ではないかのように置き換え、自分自身が神に心を閉ざし、教会にも、聖徒らにも、すべての者に心を閉ざしている疑心暗鬼から来る苦しみを、何のいわれもなく筆者に転嫁しようとしたのである。

それでも、筆者はこの時、杉本の返答に対して厳しい非難の応酬をすることはなかった。 

「杉本さん、

このようなお返事をいただき、とても残念です。

お会いしても構わないということは、あなたが私が何者であるかを予め確認したいと最初におっしゃられたのであえて勇気を持って申し出たことです。

氏名住所電話番号を聞いても相手の人柄は分かりませんが、直接、面と向かって対峙すれば、かなりの程度のことが理解できます。

そうして、顔と顔を合わせて互いに自己紹介して、知り合いになることは、声のないメールだけのやり取りに比べ、人間の出会い方としてはよほど自然です。

しかし、杉本さんにそうされたいご希望がないのであれば、別にそれは結構です。

私は主にあって多くの兄弟姉妹と交わりの機会を得させていただいています。
ネット上でもどれほど多くの貴重な友を得てきたかはかりしれません。

キリスト者は「私の名ゆえにすべての人に憎まれるだろう」とはっきりとイエスによって
聖書で迫害が予告されているとはいえ、しかしながら、今、多くの兄弟姉妹との
優しい愛情の絆を主にあって結ばせていただいているのは、ひとえに恵みとあわれみに
よるのです。また、このつながりは永遠です。

杉本さん、お怒りなのは十分に伝わってきますし、お怒りになるのもあなたの自由ですが、
それにしても、いつでも、火に油を注ぐような結果を招かないために、もう少し冷静になって、
言葉を抑えられた方がよろしいかと思います。

あなたのような方に今のような言葉はふさわしくありません。
見ず知らずの相手に対しては、特に、たとえ好意を持てない相手であっても、
言葉を選んだ方が、あなた自身の御評判と将来を守ることにつながるでしょう。

(おそらく、今のあなたは私のこの言葉さえも悪意という風に解釈されるでしょうが…。)

あなたに主が御顔の光を示してくださり、ただ主ご自身が真実が何であるかということをあなたに見させて下さいますように。

そして、平安があなたに戻りますように。

それでは、これにて失礼します。

ヴィオロン」


  
杉本は筆者がこのように最後まで杉本と議論の応酬を避けたことが、よほど気に入らなかったのであろう。筆者を恐怖させるか、取り乱させるかを目的に、以上のメールを送ったのに、筆者が非難の応酬に応じなかったことに怒りが収まらなかった杉本は、筆者にさらに打撃を与えようと、筆者が上記のメールを返信した直後に、筆者と当ブログだけを標的に、1千件のコメントを伴うバッシング記事を発表した。

それ以来、エクレシアの兄弟姉妹の一員でもなければ、信仰の仲間でもない杉本が、あくまで個人情報を開示せよと、ナンセンスな要求を続け、筆者を異端者と呼んで、長年に渡る不毛かつ不快な関わりを強いて来たわけであるが、そのような不毛な応酬の結果、筆者は現在、間違っても、二度と杉本に対して、上記のような忌憚なく本心を打ち明けたメールを送ろうとは思わないし、杉本を兄弟姉妹の一員として和解を呼びかけることもない。

杉本にふさわしいのは、もはや呼びかけではなく、命令であり、提案ではなく、強制である。しかし、このような地点に至るまでに、筆者自身も、幾度となくためらい、悩み、様々な策を講じたのであるし、杉本にも、幾度も引き返すチャンスが与えられた。

判決が言い渡された後も、杉本は望むならば、自分からメールを送って、支払い方法を相談することも可能であり、差押通知が来た時点で、そうすることもできたのである。

しかし、杉本は自分が人間らしく、思いやりと配慮を持って扱われるための前提条件を自ら破壊し続けた。

そこで、今、杉本に残ったふさわしい呼びかけの言葉は、杉本自身が幾度となく、年末年始やGW中に筆者に送りつけて来た恫喝メールの調子を、そっくり返した債務取立の文面、「ゴールデンウィーク明けまでに債務の支払いなき場合」くらいであろう。

こうして呆れるほどに長い、無益なエクソダスの行程の果てに、2009年以来、筆者が主張していたカルト被害者救済活動との訣別はようやく成し遂げられた。

筆者は二度と「カルト被害者」を美化したり、彼らに寄り添おうとは思わない。むしろ、これから、聖書に反するこの運動に対する裁きが始まると考えている。「被害者」という美名に隠れて、神の聖なる教会を容赦なく断罪した人々には、どんなに厳しい裁きが下されるであろうか。人は自分自身が他人を裁いて来た基準で、自分自身も裁かれることになるのである。
  
もう一度、冒頭に挙げた御言葉を繰り返しておく。

モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(12)―草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。

3.不利な判決から逃げ回る杉本徳久と、賠償金を支払えない株式会社メディアテラス

さて、杉本は、強制執行がなされたにも関わらず、未だ自主的に判決に従う態度も見せず、賠償金を支払ってもいないことを断っておかねばならない。

これは杉本の恐るべき怠慢および無責任である。杉本はブログで不祥事を起こした牧師を激しく非難し、彼らは民事、刑事できちんと責任を取るべきだと息巻いていた。たとえ国外に逃亡しても、その責任からは逃げ切れるものでないと非難していた。

なのに、自分が裁判で負けると、不利な判決からはとことん逃げる・・・。何という呆れるほどに卑劣な二枚舌であろうか、と筆者は憤りを覚えずにいられない。他人に向かっては、「市井の良識」などを上から目線で振りかざし、自分こそ他人に説教できる筋合いにあるかのように振る舞い、自分の考えに従わない者には、様々な権利侵害を予告して、脅しめいた圧力をかけつつ、命令口調で語っていた。なのに、自分自身はどこまでも法的・社会的な責任を負うことを拒否するとは。
  

 
第三債務者である株式会社メディアテラスの代表としての杉本の陳述書。極端に内容が手抜きで不誠実であるばかりでなく、判決にも自主的に従わず、強制執行されても、賠償金の支払い能力のないこの企業の信用が問われる。
 
だが、そもそも、判決言い渡し後、強制執行によって差押を実行せねばならないような相手は、まずまともとは言えない。その上、強制執行も空振りに終わるとなると、よほど悪質な相手と言える。真に資金繰りに苦労していることが考えられる。

これで、株式会社メディアテラスの実態も、杉本徳久という男の本質も、万人の目に明らかになったと言えよう。

こんな微々たる賠償金さえ、速やかに支払えない企業と取引することが、どんなに危険であるかは、今更、言うまでもないことである。しかも、判決に従わない人間が、一体、どんな人間の言い分ならば、聞くというのだろうか? 

筆者は、杉本に向かって、早く賠償金を裁判所に供託するよう強く要求する。いつまでも無責任かつ卑怯に逃げ回っていると、「逃亡の恐れあり」とみなして、こちらはより断固たる厳しい措置で臨むことになるだけだ。

そうなると、日常生活も完全に中断し、より多くの人々に失態が知れ渡り、その後、社会生活に復帰することも、難しくなるだけであろう。そうなる前に、早くこの問題を解決することである。

杉本自身の言葉を使うなら、「いつまでも逃げ回っていないで、市民として果たすべき責任を果たしなさい」ということだ。

この先、神の教会と贖われた人々を厚かましくも非難・断罪して来たこの男が、自らの責任からどこまで逃げ回るつもりか、見ものである。筆者は、杉本がこれまで教会に対してして来たことを思えば、彼は全世界に対する教訓となるのがふさわしいと考えているため、はっきり言っておくが、情けをかけるつもりはない。
   
こうして、判決を実行に移すためのすべての手間暇を、何もかも筆者にかけさせて、自分に不利なことは、何一つ自分から実行しようとしないところに、杉本徳久という男の利己的で甘えた性格がよく表れている。
 
これが今まで司法制度を使って、クリスチャンを脅かして来た男の本性である。自分から他者を訴えて来たにも関わらず、自分が債務から逃げれば逃げるほど、ますます不利になり、信用が落ちて行くだけであることを、分かっていないようである。
 
神はこの問題にもふさわしい解決を与えて下さるであろう。だが、杉本の名は、このようなことを繰り返せば繰り返すほど、恥に変わって行くことになる。
   
* * *
   
4.教会を冒涜するカルト被害者救済活動の要塞として利用された杉本ブログ

しかし、おそらく、以上のような性格は、杉本のみならず、掲示板で誹謗中傷を重ねているカルト被害者の擁護者全体にもきっと当てはまるものであろう。掲示板で権利侵害を繰り返して来た連中に、いざ訴訟に引っ張り出され、責任をきちんと担う覚悟があるとは到底、思えないからだ。
 
杉本もそうだが、この人々は、被害者意識というものが、人の人格を根底から腐らせてしまうことを示す生きた実例である。彼らは「被害者」の美名を利用して、ひたすら自己を美化し、自分だけを憐れんでいるうちに、全く他者のことをかえりみることのできない、どうしようもなく幼稚で甘え切った人間へと変わって行ってしまうのである。

筆者はこのような人々を見ると、彼らは何かしらの悪質な疑似宗教による重症のマインドコントロールに陥って、正常な意識を失っているのではないかという風に思えてならない。

筆者から見れば、それは戦前・戦中の軍国主義を彷彿とさせる出来事である。戦前・戦中の日本人は、自分が見たことも、会ったこともない天皇を神だと信じ、天皇を拝み、支持することによって、あたかも自分自身も、神々の子孫に高められるかのように思い上がっていた。

そして、彼らは自分たちが「神々」の子孫であると考えながら、天皇の名において、若者を特攻隊に送り、隣人を隣組により密告し、罪のない人たちを特高警察に売り渡し、侵略戦争を支持していたのである。それが己を「神々」であると自負するようになった人たちの忌むべき真の姿であった。

今、カルト被害者運動を支持する人々も、全く同様の誤謬に陥っているものと思われてならない。彼らにとって、詩織さんや、ビュン事件で被害を受けた人々や、その他の残酷な被害を受けた人々は、まるで「神々」のような存在である。

彼らは美化された被害者の像を、あたかも神聖なもののように伏して拝み、それに自分自身を重ね合わせることによって、あたかも自分も、何かしら神々しい存在になれるかのように思い込み、被害者意識を崇め奉ることによって、その高慢の中で己を滅ぼしているのである。

筆者から見れば、彼らは、被害者意識を擬人化して、これを神にまで祀り上げて拝んでいるだけである。だが、彼らが拝んでいる被害者意識の正体とは、生まれながらの人間の罪深いセルフ(自己)でしかない。そうであるがゆえに、彼らは自らが帰依している罪深い被害者意識に飲み込まれて、自らトラウマの権化のようになって、その中で自己を喪失して滅びてしまうのである。
 
我々はそろそろ、杉本ブログに集まる人々が、これまで盛んに自己を美化するために振りまいて来た「被害者」という美名や、彼らが作り出した耳に心地良い美談・お涙頂戴の物語の覆いを取り払って、その陰で、彼らが実際にはどれほどの無法を容認・助長して来たのか、現実を直視し、冷静に考え直すべき頃合いが来ているのではないかと思う。

さらに、掲示板の悪質な投稿は、村上密がブログに記事を投稿すると、早速、勢いづくという特徴があることにも、注目されたい。そのことを見れば、掲示板に最も影響を与えているのは、杉本ブログだけでは決してないことが分かるはずだ。

村上・杉本のブログは、これまでカルト被害者救済活動という、聖書に反する冒涜的運動の一大要塞として利用されて来た。それに唐沢治も加えて、これら数名のブログの投稿は、今やキリスト教会を嘲り、聖徒らを侮辱することによって、神を冒涜し、教会の前進に打撃を与えるための攻撃拠点として、暗闇の勢力に存分に用いられているのである。
  
* * *
 
5.他人の匿名性を非難しながら、自分は匿名に隠れる杉本徳久

さて、杉本は第一審で、「自分はカルト被害者救済活動などしていない。」と主張した上、カルト被害者の裁判にも無関係を装っていた。
 
だが、ネット上で、誰がそんな言葉を信じる人がいるだろうか? 杉本ブログの主要なテーマが、杉本自身の裁判も含め、カルト被害者の裁判に関する情報の発表にあり、カルト被害者の裁判をきっかけに、不祥事を起こした牧師たちや教会を声高に非難・断罪することにあったことは、誰の目にも明白である。

カルト被害者の裁判の模様をいち早く発表していたからこそ、杉本のブログは世間の大々的な注目を集めて来たのである。
 
ところが、今や、過去に自分に成功をもたらしたその事実さえ、都合が悪くなると、自分で否定するほどまでになっているとは・・・。

ちなみに、杉本は今や自分のブログから、自分の名を消している。

あれほど「匿名のブログには信憑性がない」と叫んでいた杉本が、今や「匿名に隠れている」。

これは、形勢が不利になって、これ以上、訴えられると困ると考え、杉本がそそくさと自分の名を消したというだけでなく、杉本が自分の名を当ブログに奪われたことをも意味する。
 
これは昨年2月に筆者が杉本に対して民事調停を提起してから、その後、現在に至るまでの間に、杉本が自己のプロフィールをどのように書き換えたかを示す画像である。

1.「随想 吉祥寺の森から」の書き換え前のプロフィール



ちなみに、ここで杉本が自分の氏名や連絡先を開示していただけでなく、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」などと、三島由紀夫を彷彿とさせるような発言を行っていたことも、注目に値する。一時は肉体を鍛えていたとも書いている。これは唐沢の理念とも共通するものであろう。

おそらく、このプロフィールが書かれた頃、杉本は若さと活気の絶頂にあったのではないかと見られる。様々な心のトラウマや不安、自信のなさが文章に見え隠れするものの、外見的には、これから未来を迎える若者として、それなりの自負を持っていた様子が伺われる。

だが、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という言葉は、聖書の理念とは決して相容れるものではない。筆者は、キリスト者の優先順位は、霊→魂→肉体であって、見えないものが見えるものを規定する、というものであることを再三に渡り、述べて来た。

ところが、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という言葉は、それをさかさまにするものであって、要するに、下部構造が上部構造を規定するという唯物論を指す。

別な言葉で言えば、健全な肉体とは、宮であり、器であって、これは神の神殿たる人間を象徴する。そして、健全な魂とは、人間の魂であるだけでなく、宮が迎える見えない神の霊のことを暗示している。

そのように考えると、以上の言葉は、神と人との聖書的な秩序を逆転させるものであって、神を迎える宮を立派に整えることで、そこに迎えられる神も立派になる、と言っているようなもので、結局のところ、人類を神以上に誉めたたえる異端的思想を暗示しているのである。

このプロフィールは、2005年に発表されたことになっているが、当時からこのように書かれていたのだとすれば、それはその当時から、杉本が聖書とは相容れない唯物論的思想を心に持っていたことを意味し、この「さかさまの思想」こそが、後に杉本を村上と共に「教会の破壊者」とし、破滅へと至らしめる暗い運命となったのだと言えよう。

2.「随想 吉祥寺の森から」の書き換え後のプロフィール

 
 
書き換え後のプロフィールは、以上に挙げた、若さと活気にあふれた輝かしい自己紹介と比べると、惨めなまでに寂しい内容である。杉本の名も、連絡先も、消されているだけではない。「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という言葉さえも、どこかへ消え去っている。

健全な肉体を造り上げることで、健全な精神を養うという、杉本流の神殿建設の試みは、不成功にしか終わらなかった。そして、プロフィールは圧縮され、ただ自分は年を取った、青春は過ぎ去った、と言わんばかりの哀惜の言葉で締めくくられている。

筆者は次の御言葉を思い出す。

人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、

 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24-25)

どんなに一時は勢いがあるように見え、輝かしい成功をおさめているように見えたとしても、それがもし束の間に咲き誇る花のようなものでしかないならば、その成果は一瞬で過ぎ去り、消え去って行く。

もしも主の御言葉に立たないならば、すべてはむなしく、存在しているように見えても、次の瞬間には消え失せてしまう。

健全な肉体が健全な魂を養うのではない。神から与えられた新しい霊が、私たちの心を治め、肉体をも治めるのである。この秩序を覆す者は、決して永遠の領域に入ることはできない。人間が己を神以上に高く掲げて、主の御前に立ちおおせることは決してない。

杉本と杉本のブログに今起きていることは、御言葉によらずして、神の教会を敵に回す者に、どのような運命が降りかかるかを万人の前で示したものである。

だからこそ、杉本は全世界の教訓となるだろうと筆者は述べているのである。
  
* * *

6.村上密を偽預言者であるとみなしていたにも関わらず、これを擁護した杉本徳久

ちなみに、話のついでに、第一審でも論じたが、杉本が当初は村上密に対していかなる不信感を持っていたかについても、述べておきたい。

以下は、2005年に杉本が書いた記事であるが、今でも閲覧可能である。ここに、その当時、杉本が村上をどのようにとらえていたかがはっきりと記されている。



ここで杉本は、不祥事を起こした聖神中央教会がペンテコステ派に属していることを説明した上で、当時、聖神中央の事件で被害を受けた少女たちのケアに当たっていた村上密を指して、これは聖神中央の牧師と同じほど信用できない牧師であるとして、辛辣な言葉で村上を批判している。該当の記述を抜き出しておく。

「ちなみに今回、少女たちを救い出す役回りを引き受けている村上密(「むらかみひそか」と読む)牧師はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の京都教会にいる人だが、このアッセンブリーズという教団もアメリカ源流の福音主義的ペンテコステ派。そのスタイルは全くそっくりである。私はずっとアッセンブリーズ日曜学校に行っていたからよく解る。だから、犠牲者の少女達は彼に相談したのだろう。

私は間違ってもアッセンブリーズを異端だと否定はしないが、相当に深い問題を感じている。ちなみにこの村上氏、詳細はとても申し上げる余裕がないが、私個人は全く一切、信用していない人である自身がかつて統一教会のカルトにはまっていた時期があり、そこからの「脱会」経験を持っているので、「カルト宗教からの被害者信者の救済」をライフワークにしている人であるとだけこの場では申し上げておくに留めたい。」


さらにこの記事で、杉本は幼少期にペンテコステ派の教会で受けた心のトラウマについて、これを性的凌辱事件になぞらえつつ、それが自分にとって、生涯、払拭しがたいほどの被害体験であると語ていた。ここにも、杉本の暗い運命を予表するいくつもの言葉が並んでいる。

杉本にとって、幼少期から属していた教会は、彼を神に導く場所ではなかったようである。杉本はペンテコステ派の教会で受けたトラウマのことしか語らず、そこで神を知ったことの意味を語ることはない。

幼少時に牧師から性的に陵辱を受けるという、こうした経験をしてしまった人たちはいったい、どれほどのトラウマを今後引きずることか、気の毒でならない。私など、あの「異言」や「祈りの細胞」、「Devotion」などを幼少期から青少年期にかけて、ろくに客観的な説明もされずに目の当たりにさせられたことでものすごい打撃を食らっている。カルトといわれてもやむを得ない面を、紛れもなくペンテコステ派や福音主義派は持っているのである。
 
 彼らのスタイルを絶対に認めないとはいわない。しかし、子どもに対する接し方、あるいは女の子や女性に対する働きかけに知恵と配慮があって当然である。それが全然ないという場合が少なくない。はっきり言って連中はばかじゃないかと思う。だから、今持って彼らに対する不信感と軽蔑の感情が私の脳裏から消えてくれない。今のままのスタイルを一切の見直しなしに進めていったとしたら、やがてまたこうしたカルト的軋轢や性的なスキャンダル(牧師だけでなく、教会員どうしのそれも含めて)を生んでしまうだろうと私は思う。」

確かに、ペンテコステ派の教会に様々な偽りの霊が入り込み、混乱した運動が多数、生み出されて来たのは事実である。そういう意味で、杉本の指摘は全く的を外れているわけではない。だが、杉本はペンテコステ派を批判するばかりで、聖書の御言葉に立ち帰らず、神の真実性を信じない。それゆえ、彼は教会につまずき、彼が教会に向けた批判が、そっくりそのまま、杉本自身に跳ね返り、彼がカルト牧師と名指しした人物への非難が、杉本自身への非難となって跳ね返るという悪循環に陥るのである。

これが、聖書の御言葉に立脚せずに、自分の人間的な判断や価値観に基づいて、神の教会や贖われた信徒たちを敵に回すことの非常に恐ろしい結末であると筆者は考えている。

どれほどひどい不祥事を犯したように見える牧師たちを非難する際でも、私たちが注意しなければならないことは、その非難は、人間的な観点からなされてはならず、聖書に立脚したものとならなければならない、という点である。

相手は一度でも神のために献身し、福音の使徒となった人々であって、そうした人々に向けて、聖書の御言葉による裏づけなしに、つまり、神による守りなしに、ただ人間的な観点からのみ非難の言葉を向けると、非常に恐ろしい結果が跳ね返って来る。
  
福音の使徒に、人間的な思惑に基づいて立ち向かえば、待っているのは敗北のみである。私たちは常に御言葉によって武装しなければ、こうした問題に立ち向かうことはできない。

そういう意味で、杉本が人間的な正義感に基づいて、教会を告発して来た作業は、神の知恵に逆らう恐るべき高慢の上に成り立ったものだと言えるのである。彼を支持するカルト被害者の擁護者たちのしていることも同様である。
 
さて、筆者自身が、ペンテコステ派の教会で育って来た思い出を振り返っても、むろん、この運動には、実に多くの問題があることは確かであるだが、そういった問題の存在を認めつつも、筆者は常に神への信仰を持ち続けて来たし、神が真実な方であることを決して忘れたことはない。

だから、筆者は杉本と違って、ペンテコステ派で立ち直り不可能なトラウマを負ったなどと、考えることもできないし、その後、ペンテコステ派以外の様々な教会で見聞きした混乱も、何ら筆者の信仰を弱めるものとはなっていない。

話を戻せば、杉本がもっと辛辣な言葉で、村上密を非難した記事がある。

これも2005年に書かれた記事で、今も閲覧することができるが、この記事の中で、杉本は、村上密が統一教会時代に、神の語りかけを聞いて回心したという体験談を、全く信用できない眉唾物の作り話として、一刀両断に切り捨てている。



ここでも、杉本は聖神中央教会の牧師による性スキャンダルに触れつつ、被害者の信徒をケアしていた村上密が、全く信用できない人間であり、加害牧師も、被害者のケアに当たっている牧師も、どちらも本質は同じであって、偽預言者に他ならないという厳しい結論に至り着いている。

そして、村上密が信用できない人間であることを示すために、彼の眉唾物の回心体験を引き合いに出し、懐疑の念を示している。該当箇所を抜き出しておこう。

「この聖神中央教会の被害者のケアに当たっているのが、日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の京都教会、村上密(むらかみ・ひそか)牧師であることはすでに何度も私も書いたことだが、彼が牧師に転身したきっかけは「神の声を聞いた」からだそうである。
 
 当時、教祖・文鮮明が率いるカルト的教団、統一教会(桜田淳子などが会員であり有名)の信者だったのだが、ある日、

 「密(ひそか)、密(ひそか)」
 
 と村上氏の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 「なぜお前は私を迫害するのか?」
 
 主イエス・キリストのお声だったと彼は言う。統一教会のドグマ(教義、教条)が誤りであることに「気づいた」彼は、カルトの悪夢から目覚めてキリスト教徒に変わったのだとされる。

 以前にもちらっと書いたが、私自身はそういう「神秘的経験、バプテスマ的体験」はいっさいしたことがない。「声」も「姿」も私の五感でキャッチしたことは一度もない。負け惜しみで言うわけではないが、 
 
 「使徒パウロでもあるまいし、そうそう簡単に神の声が聞こえてたまるか。あほらしい。」

 といつも思う。
 
 くだんの村上牧師の逸話は、修辞学の名手といわれ、新約聖書の多くを記述し、屈指の文才を持った使徒パウロが、まだ自ら進んで初代キリスト教会に迫害の限りをつくしていた時に経験した
 
 「パウロよ、パウロ。なぜおまえは私を迫害するのか。」

 という神の声を聞いて以後の人生を大転換したという使徒行伝の下り(これを「パウロの回心」という。)と全く同じ。いきなり統一教会の教えが間違いだと気がつき、劇的に真理を知ったという話の突飛な展開とも合わせ、どうにも私には飲み込めない話である。

 「神の声を聞いた」

 という人の中には、本当にそういう恵まれた幸運に身を置くことが出来た人もいるのだろうが、多くは詐欺師的、偽預言者的な虚偽が混じっているので重々気をつけるべきだと、少なくも私は申し上げたい。

実際に村上がこのような話を当時から人前で吹聴して回っていたことは、筆者も見聞きして知っているので、この記述は嘘ではないと言えよう。アッセンブリー教団では、この手の奇跡体験はまことに人受けが良い。

だが、同時に、村上はその頃から、自分が統一教会を脱会したのは、父親と親族によってほとんど半殺しの目に遭わされて、力づくで家に連れ戻され、脱会させられたからだ、というもう一つの体験談をも披露していた。

そこで、そうした体験談も考慮すると、筆者は杉本同様に、このような奇跡体験が本物であるとは全く信じる根拠がないものと考える。これは村上の「創作」であるとしか言いようのない話である。あまりにも痛ましい形で、統一教会への逃避行に終止符が打たれた村上が、その心の傷を覆い隠すために作り上げた物語なのかも知れないし、あるいは、このようなことが自分の身に起きたと、村上は今でも本気で信じ込んでいるのかも知れないし、受け狙いの自慢話を「創作」したのかも知れない。

だが、いずれにしても、人が神に出会うことは、このように突飛な体験ではあり得ず、もう少し、知的にも、論理的にも、説明のできる出会いになるのが通常である。なぜ統一教会が誤っているのか、自分自身で考え、少しずつ、気づきが始まり、まことの神が分かり始めるというのが、カルトからの脱会の通常のパターンであろう。

このように理屈を超えた何らかの神秘体験に力づくで圧倒されるがごとくに、いきなりすべてが180度転回して、それまでの生き方が誤りだったと劇的に分かる、ということはまずない。

いずれにせよ、この記事を通して、2005年の時点では、杉本は村上を詐欺師・偽預言者と言わんばかりの目で見ていたことが分かる。

さらに、杉本の村上への不信感は、「干潟は水が腐っているわけではない」という記事の中でピークに達する。この記事についての解説は、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」という記事の中ですでに述べたので、繰り返さないが、この記事で杉本が指摘していることの中には、非常に重要な見逃せないポイントがあるため、なぜ杉本はこの時の自分の直観に従って、その後も、村上は信用できないという信念を持ち続けて生きることができなかったのであろうかと、筆者は首をかしげざるを得ない。
 
杉本は、この記事の中で、次の村上の言葉に猛反発していた。

 「悩み苦しみが心の中に溜まったままだと、悪水ぬきが必要です。話を親身になって聞いてくれる人は溝や堀のような存在です。悪水のはけ口になってくれるからです。良くない聞き手は、悪水を逆流させます。悪水をぬけば、悩み苦しみも心の肥やしになり、その人の心を沃野にします。」

当時の杉本の見解はこうであった、人の悩み苦しみは、断じて心の中に溜まった「悪水」などではなく、親身になって聞いてくれる人が現れ、その苦しみが取り除かれさえすれば、見栄えの悪い干潟は、整然とした街並みに置き換えられ、人の心は肥沃になり、ハッピーな人生を生きていける、などというお気楽で単純な結論は絶対にあり得ない。

それは、杉本自身が、アッセンブリー教団で心に抱えた言い知れないトラウマや、あるいは、人生で初めて被告とされた際に味わった裁判の屈辱が、決して誰にも打ち明けることのできない心の悲しみ、秘密として、永遠に捨てられずに持ち続けられるものとなることを、自分で予感していたためかも知れない。

人は誰しも、決して誰にも打ち明けることのできない心の秘密を抱えており、それは誰かに話したからと言って、決して解決に至ることはない。誰か良い聞き手を見つけて、自分の苦しみを吐露しさえすれば、話しただけで都合よく問題が解決するかのような村上の論は、あまりにも浅薄で、見当はずれであって、現実を無視しており、絶対に実現し得ない不可能事であることを、杉本自身が、自分の心の傷を振り返って、悟っていたのであろう。

それにも関わらず、杉本は村上を偽預言者としてきっぱり退けることに失敗するのである。

それは、ただ村上が、このような記述を不都合と思い、これを取り除くために、杉本を懐柔して行ったというだけでなく、杉本自身が、誰にも打ち明けられない自分の心の秘密を、黙って神の御許へ持って行き、神にのみ打ち明け、心を注ぎだして祈り、解決を求めることをしなかったためであると筆者は考えている。

むしろ、「健全な魂は健全な肉体に宿れかし」という杉本の主張は、村上の論を嫌悪・反発しながらも、見栄えの悪い干潟はさっさと埋め立てて、公共事業により整然とした街並みを造ることこそ、人類の幸福であるかのような村上の論と響き合うものである。

これと同じことが、唐沢治と杉本との関係にも当てはまる。杉本は唐沢をも2010年当時は、偽預言者として非難していたが、結局、その主張を貫くことがないまま、自ら偽預言者呼ばわりしていた唐沢と意気投合するはめになる。

このように、杉本の心の中には、常に相矛盾する考えが同居しており、結局、杉本は何かを偽りだと見抜いても、その信念を最後まで貫くことができず、常に自分にとって安易な方を選んで妥協してしまうことを繰り返した。

それは、黙って根気強くただ一人の花婿だけを待ち望むことに耐えられず、手っ取り早く、自分を慰めてくれる理解者を求めて、幾人もの愛人で心を満たしたバビロンの姿を彷彿とさせる。

杉本は様々な教会の混乱を見るとき、そうした現象の背後にも、主の御手が働いておられることを見ようとしなかった。そして、混乱した有様だけを見て、信仰なくして教会をバッシングして、その手痛いツケがすべて自分に跳ね返って来ることになった。

杉本は自分が理解者であるかのように考え、飛びつき、手を伸ばした人々によって、さんざん欺かれ、利用され、人生を奪われ、滅ぼされてしまった。それだけではない。杉本が養おうとした健全な肉体も、健全な魂も、彼を裏切ったのである。そういうものは、何もかも、束の間に過ぎ去るものでしかなく、彼に栄光をもたらさなかった。

公共事業によって建てられた町並みは、人目には、堅固で、長持ちするように見えるかも知れない。だが、それは太古からの自然である干潟に比べ、あまりにも短命で、無内容の、薄っぺらい束の間の営みでしかない。公共事業の痕跡は、100年ほどで過ぎ去るであろうが、干潟は、何万年も残り続ける。

人と人との出会いや関係が、どれほど良好に見え、そこにどれほど大きな一大運動が出来上がり、自信と、輝きと、勢いがあったとしても、御言葉に立たないものは、すべて風のように過ぎ去り、消えて行くだけなのである。

杉本ブログの栄枯盛衰は、そのことを我々によく伝えている。御言葉を捨てて、人間の慰めにすがれば、すべての栄光はむなしく消え去るということをよく物語っている。
 
杉本は、筆者と当ブログに挑戦した時、自分の勢いによって、筆者を容易に打ち負かすことができると考えていたに違いない。だが、筆者は、御言葉によって武装していたので、彼を打ち破り、杉本によって人質にされていた筆者の像を彼の手から取り返し、逆に杉本の名を、杉本から奪った。杉本がブログから名を消したのは、当ブログに名を奪われたからであり、それはもはや杉本の存在そのものが、当ブログによって上書きされて、消えかかっていることを意味する。
 
これが神の教会の圧倒的な霊的優位性なのである。ものを言うのは、性別でも、外見でも、人数でもない。霊的優位性である――。この優位性を、筆者のみならず、教会全体が持っているのであり、今まで教会はさんざん杉本や村上の恫喝にも等しい非難によって圧迫され、また、唐沢の罵詈雑言によって嘲笑され、提訴の脅しによって、踏みにじられて来たように見えるかも知れないが、実際には、聖書の御言葉に立脚しないカルト被害者救済活動こそが、教会の足の下に踏みにじられるべき屑のような存在でしかない。それゆえ、その霊的事実は、間もなく実際として、この地上に引き下ろされることになる。
 
杉本が判決から逃げ回ることのできる期間はそう長くはない。遅かれ早かれ、彼はこれに従わざるを得なくなる。そして、杉本のみならず、杉本に深く関わって来たすべての牧師たち、信者たちも、彼と同じ罪にあずかり、彼と同様に、教会によって塵芥のように踏みつけられた上、外の暗闇の投げ捨てられ、恥をこうむり、足早に姿を消して行くことになると筆者は予告しておく。
 
これから杉本に起きることは、カルト被害者救済活動全体を震撼させる教訓となり、この運動を根底から揺さぶり、最終的には完全に瓦解させる効果をもたらすであろう。彼が教会や聖徒らに対して投げつけたすべての悪罵が、まさに彼の身の上に成就する時が来たからだ。

キリストを知らない、キリストによって贖われていない、聖霊を内に持たない人間が、生まれながらの肉の思いで、教会に手をかけることは、それほど恐るべき罪なのである。そのことは、アナニヤとサッピラの例を思い出すだけで十分である。

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(11)―耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
 キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、
 キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、

 キリストもわたしたちを否まれる。

 わたしたちが誠実でなくても、

 キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自身を

 否むことができないからである。」(二テモテ2:11-13)

1.掲示板で起きた集団リンチと、カルト被害者救済活動の終焉
 ~神の承認を受けずに、人間が己の被害だけを訴え続けることの恐ろしい危険~


さて、味方のように装って登場しながら、陰でその人間を裏切り、勝手に人の名を使って騒ぎを無限に拡大して行く人間は、敵よりも始末が悪い・・・。

この結論は、これまで幾度となく実際に裏づけられて来たものである。

唐沢治も、当初は筆者の味方であるかのように装っていたが、実際には、筆者を自分のために都合よく利用し、筆者の事件をますますこじらせただけで、今や公然と筆者を敵のように断罪している。

この度、唐沢と同様に、これまでさんざん当ブログの名や主張を利用して、杉本徳久を挑発し、陰から対立を煽って来た坂井能大牧師に直接、メールを送ってみたところ、坂井は、当ブログをダシにして杉本を挑発した行為があったことを自ら認め、当該記述をすべて非公開にするか削除することに同意した。

筆者は、坂井が唐沢を通じて入手した筆者の転送メールを対杉本との裁判で利用した行為や、巧妙に筆者のブログの記述を利用して、杉本徳久を挑発するような内容の投稿を重ねたことが、どれほど筆者にとって迷惑であったかを告げて、二度とこのようなことを行わないよう、もしも杉本徳久に恨みがあるなら、筆者を利用せず、自分自身の言葉で、直接、杉本に呼びかけるよう求めた。

このことについて、坂井からは何一つ、反省も謝罪の言葉もなかった。ただし、投稿を非開示もしくは削除することを速やかに行ったことだけは、唯一評価できるポイントであった。(この他、事実かどうかまでは知らないが、坂井は唐沢と手を切ったことを明言していた。)

筆者から見れば、この人物が杉本との裁判に負けて以後も、杉本を嘲笑する投稿を続けて来たのは、自分の負けを認めたくないがゆえの、うわべだけのポーズに過ぎない。
 
結果はすでに裁判で確定している。なのに、坂井が当ブログの内容を利用して、杉本に宣戦布告していたのは、自分ではもはや杉本を訴えられないので、筆者の主張を利用するしか方法がなかったのであろう。

だが、坂井の場合は、杉本に敗れる以前から、そうした行動をしきりに繰り返して来たことから、坂井の行ったことは、結果的には、杉本を挑発することによって、筆者を重大な危険に陥れるものであったと言える。
  
実際に、そのとばっちりは、これまですべて筆者に向けられて来たのである。このことは、唐沢治が杉本徳久に民事提訴を予告しながら、これを実行しなかった際に、杉本の怒りの矛先が、筆者はエシュコルのようなKFCの信徒等に向けられたのと同様である。

筆者は、このような現象を、牧師たちの信用ならない内心を如実に示すものだとみなしている。牧師たちが、意識的にか、無意識的にかは知らないが、非常に巧妙な形で、信徒を陥れては、対立や紛争に巻き込んで、人生を失わせて来た様子がよく分かるように思う。
 
まるで牧師たちが気に入らない信徒を陥れるために陰からしかけているゲームのようにさえ見える。

唐沢治、村上密の両名が、現在、筆者に対してどういう態度を取っているかに加え、坂井能大牧師の行動を見ても、筆者が当ブログにおいて、決して牧師という連中を信用しないようにと呼びかけて来たことが、事実無根の主張ではないことが、読者に分かるのではないかと思う。

しかも、プロテスタントの牧師の幼稚さ、低俗な人間性が、これらの人物を通じてよく分かろうというものだ。(これらの人々がキリスト教徒としての全うな理念を持っているかという問題は別として、いかに牧師という連中が、人格的に未熟で幼稚であるかだけは、よく分かるはずだ。)

そこで、筆者は改めて、聖書の御言葉を信じる信者として生きることと、このような牧師たちの支配下に身を置いて生きることは全く訳が違うので、信仰を持つ者たちには、牧師たちとは一切関わらないで生きることをお勧めするのみである。
   
とはいえ、今回、坂井が書き込みを削除したことで、筆者の中では、今後、こういう出来事が起きた場合には、投稿者の本心を確かめるために、直接、その人物にコンタクトを取るのが一番良いという結論が判明した。

確かに、直接、コンタクトを取ることによって、罵詈雑言に満ちた返答が返って来て、騒ぎが大きくなり、事件が炎上する危険がないわけではない。とはいえ、たとえそうなったとしても、今回の裁判でも、筆者が2009年に杉本にコメント削除の依頼のメールを送ったことが、正当な要求であったと認められたように、相手が要求に応じないリスクを踏まえたとしても、もしそれが正当な根拠の伴う要求であるならば、きちんとした意思表示を、早い段階で直接、明白に行っておくことは重要なのである。

同じことが、掲示板の投稿者にも当てはまるであろう。

掲示板の匿名の投稿は、これまで、村上や杉本や唐沢を不必要に焚き付けて筆者と対立させるために、つまり、争いの火に油を注ぐために大いに役立って来た。

筆者は個人的に当ブログを使用して彼らに対する主張を投げかけているが、掲示板では、当ブログの主張に、尾ひれ背びれをつけ、これを無限大に歪曲・拡大するなどして、筆者が述べてもいない事柄を、村上や杉本や唐沢に対して述べたかのように記し、筆者を中傷しつつ、争いを激化する投稿が無数に続けられて来た。

さらに解せないことは、こうした内容の投稿が、筆者がパソコンから離れている時間帯、もしくはブログ記事を更新しようとしている時間帯に集中的に行われていることである。
  
本日も、掲示板において、筆者を中傷する投稿が重ねられたのは、筆者がパソコンからも、携帯からも、遠ざかっていた20時から21時までの間であった。21時を過ぎて、筆者が坂井に以上のメールを送ってやり取りを続けてから、中傷の投稿は一旦、やんだ。

それから、23時を過ぎて、掲示板を確認し、当記事を書き始めると、再び中傷(および著作権侵害)の投稿がなされた。
 
さらに、掲示板では、24時を回ると、翌朝4時~6時くらいまで、規則的に中傷の投稿がやむという特徴もある。(これは他の匿名掲示板では見られない現象ではないかと思う。)

このようなことが、これまでも終わりなく、繰り返されて来たのである。
   
掲示板における当ブログへの中傷の投稿は、明らかに筆者がオンラインにしていない時間帯を狙って集中的になされているとしか思えず、その目的も、内容も、全く一致した方向を向いており、しかも一定の時間が来ると、まるで業務終了のベルが鳴ったがとごくに中断する。

このような現象は、自然発生的に起きるものではない。 早い話が、掲示板の話題が、常にカルト被害者救済活動の支持者に不利にならないように、当ブログに対する攻撃に転じるように仕向ける、人為的な世論操作が行われているとしか思えないのである。
 
仮にこれが、筆者の過剰な推測であるしても、そう考えるなら、放っておけば良いだけである。

ところが、掲示板の投稿者たちは、躍起になって、筆者が監視されていると感じていることを、嘘だ、妄想だ、幻想だ、創作だと否定し、筆者が現存していると主張したわけでもない「サイバーカルト監視機構」の存在を、必死に否定していることは、筆者から見て、たとえようもなく不自然なことだ。

なぜ彼らはそれほどまでに「サイバーカルト監視機構」の話題にこだわり続け、それゆえ、筆者の感じていることを躍起になって否定せざるを得ないのか? 何度、議論をよそへ向けても、結局は、彼らの主張はそこへ戻って行く。そして、 「俺たちがヴィオロンを監視している事実などない!!そんなのは妄想だ!!」と合唱を続けるのである。

ついに唐沢でさえ、そうした主張に加担し始めたことは、筆者には驚くべきことである。
 
しかも、筆者はKFCを2012年に去ってから、KFCとは一切関わりのない数人の兄弟姉妹と交わりを行っただけで、その交わりすらも、兄弟たちの逝去などによって途絶え、それ以後、筆者は宗教界とは一切関わりのない生活を送っている。

そこで、信者の中には、筆者の容姿がどのように変化したかなどを詳細に知っている人間はいないはずであるが、それにも関わらず、これらの匿名の投稿者らは、非常に細かく筆者の外見的な特徴をあげつらい、それを材料に、筆者を中傷・罵倒していることは、不審極まりない事実である。

もちろん、そうした内容の中には、嘘もたくさん混じっているとはいえ、いずれにしても、掲示板においては、以上の通り、筆者自身や、筆者の行動を事細かに監視していなければ、とてもではないが、想像だけで、そこまで細部に至るまで、様々な特徴をあげつらいつつ、筆者を中傷したり、なおかつ、当ブログの更新を細かく見張りつつ、新しい文章が発表されるや否や、ただちに剽窃して悪質な投稿を繰り返すことはできない、と言えるだけの内容の投稿が、おびただしい回数、重ねられて来たのである。

そのような仕打ちを受ければ、筆者でなくとも、行動を監視されていると考えるのは、ごく自然な成り行きでしかない。
  
さらに、この掲示板で、筆者に対して中傷を重ねている人物は、全員が、唐沢治、村上密、杉本徳久のいずれか(もしくは全員の)擁護者であり、なおかつ、カルト被害者救済活動を熱烈に擁護する人物ばかりであることも見逃せない。

次の記事では、杉本徳久が未だ判決に従わず、賠償金から逃げ回っている事実と、カルト被害者を擁護する人たちが、被害者という美しいベールで自己を美化しながら、いかに暴虐に満ちた行為に手を染めて来たかについて語る予定であるが、筆者はそもそも2009年から、カルト被害者救済活動などという聖書の神に逆らう冒涜的運動とは、手を切らなければならない、と主張して来た。

被害者意識を隠れ蓑に、人間が自己を無限に美化し、己の罪なる本質から目を背けたまま、神によらない救済を目指し、自分自身が神に代わって裁き主になろうとするこの運動は、終わらなければならない。

筆者はそうした見解に立ちつつ、ずっと以前から、カルト被害者救済活動は、正義を失って、今や嘘の温床となり、無法地帯と化していると告げて来たが、今や掲示板を見れば、誰もがその事実を客観的に確認できるまでの事態となりつつある。

掲示板を見れば、カルト被害者を擁護する人々が、どれほど自分たちの被害を訴えることだけに熱心で、その被害を否定する人々に対して、残忍で、容赦のない制裁を加えずにいられない利己的で粗暴な人々と化しているか、いかに彼らが被害者意識に溺れるあまり、常識を失い、法令順守の精神をも失い、自分にとって不都合な事実は見ようともせず、自己を美化し、気に入らない人間に対してのべつまくなしに汚い言葉で罵詈雑言を浴びせ、執拗かつ徹底的な権利侵害を繰り返さないではいられないか、しかも、いかに彼らがその残忍な行動の責任を微塵も感じることなく、一人前の社会的責任を負うことから逃げつつ、ただ「藪の中から石を投げ」ては他人を傷つけるだけの卑劣で無責任な人間に成り果てているか、誰にでも分かるはずである。
 
筆者が幾度も予告して来たように、このように被害者意識に溺れて自己を失った人々は、反社会的になり、法を犯しても、良心の呵責もなくなり、それゆえやがて厳しく裁かれて、人生を失って行くことは避けられない。

彼らは未だに、あたかも筆者が妄想や幻覚に陥り、あたかも当ブログが犯罪的な内容となっているかのようにさえ示唆する記述を続けているが、かく言う彼らこそ、正常な意識を失い、現実と妄想の区別がつかなくなり、やがて反社会的な行動に手を染めて、それが犯罪行為として厳しく裁かれるに至るのである。
 
筆者は、この掲示板が、カルト被害者救済活動の悪質な本質を、また、カルト被害者を擁護する人々の隠されていた悪意に満ちた内心を、こうまで赤裸々に表してくれたのは、非常に幸いで、良いことだったと考えている。

おそらく、この投稿を見て、今後、カルト被害者を支援したいと願う人は、出て来ないだろう。筆者が2010年から2011年頃にかけて、いかにカルト被害者救済活動が反聖書的で、神に逆らう冒涜的運動と成り果て、法にも社会常識にも逆らう無法地帯と化しているかを述べていた頃は、まだこれほどまでには、この運動の悪質さを証拠立てる客観的な事実が揃っていなかった。

だが今や、当時、予告した通りの現象が起きつつあり、この運動の悪しき本質が、またとないほどはっきりと露呈したのである。
  
今、この掲示板で、筆者に向かって、味方を装い、僭越なアドバイスを行っている人たちや、悪質な中傷を行っている人たちに必要なことは、おそらく、現実社会に引っ張り出されて、自分の発言の責任を厳しく取らされることであろうと思う。

次の記事でも触れるが、かつてはあれほど筆者がペンネームでブログを執筆している行為を「匿名に隠れている」と非難していた杉本徳久が、今やブログからそそくさと自分の名を消して、「匿名に隠れている」事実も見逃せない。

これが彼らの本質なのである。他者に向かってはさんざん根拠のない要求を繰り返し、途方もなく厳しい非難や断罪を行うにも関わらず、自分に対しては、微塵も同じ基準を適用せず、自分だけは何をしても許されるかのように、一切の法的・社会的責任を負おうとしないのである。

今日、掲示板の投稿者の中で、一人でも、インターネットにとどまらない接触を、筆者と直接行って、公然と日の下に出て来て、自分が誰であるかを示し、さらに訴訟のリスクを背負いつつ、実名で責任を負って立つ勇気と覚悟のある人はいるのだろうか?

おそらく、そういう勇気を持った人間は、彼らの中には、一人もいまい。だが、筆者は彼らの思惑とは無関係に、そろそろ彼らと現実社会における接触が必要な頃合いが来たと感じている。

彼らの実名を特定し、法的・社会的責任を取ってもらうことは避けられないであろうと筆者は考えている。杉本も、かつてこれと全く似たような言葉を口にしていたが、杉本はそれをただ脅し文句のように振りかざすばかりで、決して掲示板の匿名の投稿者に対して、合法的かつ正当な方法で向き合おうとすることはなかった。

だが、筆者は、市民として許された合法かつ正当な方法で、このように悪質な権利侵害を繰り返す人々を、匿名の世界から、リアルな社会へと引っ張り出して来て、自己の行為の責任と向き合わせることは、この先、ぜひとも必要だと考えている。そのために必要な根気強い労を厭おうとは思っていない。

なぜなら、そうした時に初めて、彼らが一体、カルト被害者とどのようなつながりがあって、村上密や唐沢治といかなる関係にあるから、これほど熱心に彼らを指導者として擁護しつつ、筆者を中傷しているのか、分かるからである。
 
そして、この事実が明らかにならない限り、一体なぜ、この人々がいつまでも「サイバーカルト監視機構などない!!」と叫び続けているのかも、明らかとはならないであろうと思うからである。
 
* * *

2.第一審で提出された原告および被告の書面の分量比較

さて、村上密がまたも筆者を断罪する記事を書いている。またもや筆者が村上の像を「創作」しているのだという。だが、不思議なことに、この記事の中で、村上は、筆者が一体、村上の像をどのように「創作」しているのか、一切、触れていない。

これはおかしなことである。村上は筆者の記事をまるごと「創作」と決めつけているだけで、何をどう否定したいのかが分からないのだ。具体的な反論にすらなっていない。

以前には、村上は、自分が「教会の破壊者」と呼ばれていると、自慢げに吹聴していたことを忘れたかのように、筆者が村上の像を不当に「悪魔化」しているとして、筆者を非難していた。

だが、今回は、筆者の主張が「感情論」であるかのように決めつけているだけで、何を具体的に否定したいのかもよく分からない。

ひょっとすると、村上は、以下の記事で、筆者が、カルト被害者の裁判を支援する人々が、勝訴した被害者から、成功報酬のごとく、賠償金の何割かをキックバックされた可能性があると発言したことが、そんなにも気に入らず、「創作」だと言いたいのであろうか。

あるいは、村上がカルト被害者の救済のために全国各地を飛び回るための旅費が、どこから出ているのか分からず、ほとんどが被害者の自主的な負担となっているのではないかと、筆者が指摘したことが、「創作」に当たると言いたいのであろうか。

あるいは、村上が筆者の著作者人格権を侵害し、筆者を刑事告訴したとブログで発表した上、その記事を一瞬で削除し、今や、控訴審で筆者から名誉毀損を主張されるはめになっていることが、「創作」に当たると言いたいのであろうか。

あるいは、筆者が何を訴えたところで、村上の率いるセンターはびくともしないと、村上が記事でアピールしているように筆者が感じられたという印象を述べたことが、「創作」に当たると言いたいのか。
 
筆者は以上の事柄について、何一つ事実として断言していない。すべて単なる推測の域を出ない話としか書いていない。むろん、状況も、人物も、特定されておらず、それで名誉毀損など、成立するはずもないことである。それらが「創作」に当たると言いたいのであれば、なぜ漠然と十把一からげに作り話であると決めつけるのでなく、具体的に事実を摘示して、個別に反論しようとしないのか、不思議に感じられる。
   
さらに、村上は「一審で大量の準備書面を出したが、何の効果もなかった。」とぼやいている。

主語のないこの短い文章を読んだとき、筆者は、村上が「私はヴィオロンに反論するために大量の準備書面を出したが、ヴィオロンには何の効き目も無かった」と書いているのだと受け止めた。

そして、村上は、毎回の口頭弁論に、たった1枚~3枚程度の書面しか出していないのに、何を言っているのだろうかと笑った。

後になって、この文章について考えを巡らすと、村上はおそらく「ヴィオロンは一審で大量の準備書面を出したが、それによって私を追い詰めることはできなかった」と言いたかったのだろうと、ようやく合点が行った。
  
主語がないのだから、受け取りようによっては、正反対の解釈が成り立つ、誤解を招きかねない紛らわしい一文である。このような曖昧な表現では、意図したのとは正反対に解釈されたとしても、文句は言えないことであろう。

だが、その問題はさて置くとしても、ついでながら、ここに先日、判決言い渡し直後に、筆者が事件ファイルを閲覧して、原告側・被告側から提出された全ての書面のページ数を集計した結果を記しておきたい。
 
これを見れば、毎回の口頭弁論に、村上がどれほど少ない書面しか出さなかったかが読者によく分かるはずだ。

原告・訴状 149頁 30.5.25(日付)
原告・訴状訂正 4頁  30.6.4
訴状訂正(2) 10頁 30.6.12
訴状訂正(3)6頁  30.6.29
被告村上・答弁書 2頁 30.7.23
被告杉本・答弁書6頁 30.7.25
原告・訴状訂正(4) 3頁 30.7.25
原告・準備書面 52頁 30.7.30
原告・訴状訂正(5)2頁 30.7.30
原告・申立の趣旨変更申立書 2頁 30.7.30
被告村上・準備書面 2頁 30.8.31
被告杉本・準備書面 9頁 30.9.3
被告杉本・準備書面 11頁 30.9.10
原告・訴状訂正(6) 12頁 表2頁 30.8.26
原告・準備書面(2) 11頁 30.9.3
原告・準備書面(3) 171頁+5頁 30.10.14
被告村上・準備書面(3) 3頁 30.11.2
原告・準備書面(4) 80頁 30.11.21
被告杉本・準備書面(その4) 37頁 30.11.22
原告・準備書面(3・4)の訂正申立書 12頁 30.1.26
被告杉本・準備書面(その5)4頁 30.11.27
被告村上・準備書面 1頁 30.12.3
原告・準備書面(5) 151頁 30.12.10
被告杉本・準備書面(その6)3頁 30.12.20

書証(枝番号を除く)
原告・甲1号証~甲109号証
原告・証拠申出書 30.10.3
裁判所・調査嘱託 30.11.9
被告杉本・乙1号証~乙32号証
 
書証からは枝番を除いているので、枝番も含めれば、筆者が出した書証の数は、130はあるだろうと見られる。
 
この書面の分量の推移を見れば、村上と杉本が当初、唐沢治からの「不知」で通せとの助言に忠実に従ったのか、極端に枚数の少ない答弁書を出していたことが分かる。

その後、杉本の書面の分量は次第に増加したが、村上の反論は、依然として、1~3頁程度にとどまり、3頁を超えたことがない。また、村上の提出した書証はゼロであった。

筆者が100頁を超える準備書面や、100を超える書証を出していたにも関わらず、このようなことが、村上に可能であったのは、村上が杉本を盾のようにして筆者と全面対決させて、自分は傍観者的な立場に立っていたためである。

第一審では、誰が杉本に筆者の個人情報を渡したのか、筆者の側で、これを明白に特定する証拠がなく、それが村上の不法行為であることを明白に証拠立てる内容が提示されていなかったので、村上は必至に自己防御する必要がなく、1枚の反論で事足りたのである。

その代わり、一審で杉本が筆者をあらん限りの言葉で誹謗中傷した、途方もなく支離滅裂な内容の書面を提出して、筆者と全面対決に及んだ。
 
そして、村上がこのように極端なまでに少ない枚数の反論しかしなかったことは、筆者にとって不幸中の幸いであった。もしもこの時点で、村上が杉本と同じほどに錯綜した内容の文書を、同じほどの分量で出して来ていたならば、筆者は、2名の被告に全力で反論するために、次回期日までの期間を倍にしてもらわなければならなかったからだ。

この一審を通して、筆者は、訴訟に立ち向かうためには、何よりも時間的余裕が必要であることを思い知った。どんなに優れた文章力があろうとも、優れた思考能力があろうとも、時間が用意されない限り、人はいかなる反論も行うことができない。

すでに書いた通り、この時間的余裕を得ることこそ、論敵に対して優位に立つために必要不可欠な前提条件なのである。
  
だが、限られた条件下で、時間的優位性を生み出すことは、まさに神の采配なくしてはできないわざであり、主だけがそのような采配がおできになることが、この訴訟において、筆者に関しては、見事に証明されたものと考える。

また、一審では、すでに述べた通り、ほとんど書面を出して来なかった村上も、終結前には、杉本と一緒に筆者に反訴の脅しをかけて来たため、筆者は準備書面を通して全力でこの圧迫を撃退・粉砕せねばならなかった。

反訴はそれ自体が権利なので、これを否定することはできず、従って、被告が反訴すると言っているときに、原告がこれを押しとどめることは、およそ常識で考えて容易に出来ることではない。そこで、この戦いには、まさに強力な御言葉の裏づけの伴う信仰が必要であった。
 
筆者の提出した最終準備書面を読めば、その内容はもはや訴訟というよりも、信仰による激しい戦いにふさわしいものとなっていた様子がよく分かるだろう。

実際、筆者はただ御言葉に基づく信仰だけによって、彼らの反訴の予告を空中で粉砕したのであった。そして、このように、第一審では、非常に広く深い信仰的な議論が展開されたからこそ、筆者にとって、これは限りなく深い満足を覚える、主の栄光となる訴訟だったのである。
 
だが、第二審は、もはや第一審ほどのリスクは伴わないであろう。

二審では、反訴のリスクはほぼ回避できるばかりか、それはもはや筆者と杉本ではなく、筆者と村上との争いになると予想される。しかも、明白な証拠の伴う村上自身の不法行為が争点となるので、村上には、一審のように薄っぺらい反論で、筆者の論に立ち向かうことは、不可能となることだろう。

村上がこれからその作業をどんな風に成し遂げるのか、お手並みを拝見したい。

筆者は弁護士という職業がどのようなものであるかを知っているので、弁護士相手の戦いを、一切、恐れていないが、相手方に弁護士がつくとすれば、それには筆者にとってもメリットがある。

それは、弁護士は裁判所の決定を軽んじたりは決してしないことだ。訴訟の相手方に弁護士がついている場合には、杉本が今しているように、自分に不利な判決からはどこまでも逃げ回るような悪質な態度を取ることはまず考えられない。

筆者が勝訴すれば、弁護士は速やかに判決に応じようとするはずである。
 
<続く>
 
補足:この記事は4月22日の深夜2時~2時半頃に投稿したものであるが、本来ならば、多くの人々が寝静まっており、当ブログの更新など全く気にかけていないはずのこの時間帯に、ただちに更新を察知して記事を閲覧しに来るIPアドレスが以下の通り、確認されている。
常時更新を見張っているIPアドレスの一つと見られるが、
訪問回数を見ても、管理人と見まごうほどに、おびただしい回数、当ブログを訪問している様子が分かるため、およそ善良な訪問でないことは推知できる。
ちなみに、杉本のIPアドレスも、4月21日の深夜に掲示板に中傷の投稿がなされる前後に確認されている。

 

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☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110

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