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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

私を強くして下さる方に…

 「わたしはあなたの前に行って、
 もろもろの山を平らにし、
 青銅のとびらをこわし、鉄の貫の木を断ち切り、
 あなたに、暗い所にある財宝と、
 ひそかな所に隠した宝物とを与えて、
 わたしは主、あなたの名を呼んだ
 イスラエルの神であることをあなたに知らせよう。

 わたしもべヤコブのために、
 わたしの選んだイスラエルのために、
 わたしはあなたの名を呼んだ。
 あなたがわたしを知らなくても、
 わたしはあなたに名を与えた。
 
 わたしは主である。
 わたしのほかに神はない、ひとりもない。
 あなたがわたしを知らなくても、
 わたしはあなたを強くする。
 これは日の出る方から、また西の方から、
 人々がわたしのほかに神のないことを
 知るようになるためである。」(イザヤ45:2-6)


生きることは、これまで筆者が考えていたような事柄では全くない可能性がある。

世人は日々働き、家庭を設け、行きたいところに行き、食べたいものを食べ、買いたいものを買って、それで生きていると思っている。そうこうしているうちに、老いと死がやって来て、もっとやりたいと思っていたことが閉ざされる日が来る。

だが、どんなに多くのことを望んでも、人が一生のうちに成し遂げられることなどたかが知れている。すべての夢を実現したとしても、行き着くところは知れている。大志を抱くなどと言ってみても、どうせ人間のすることである。偉業と言っても、せいぜい月へ行く程度のことであろう。

だが、そのような常識的で限界だらけのちっぽけな計画の中に、到底、おさまりきらないような可能性が、信仰生活の中には隠されているように思われてならない。そして、もしこのスケールで生きることがなければ、信仰を持つ意味というものも、それほどはないのではないかという気がしてならない。

神はむろん、信者の生活を隅々にまで渡って守って下さるが、そうは言っても、ただ単に信者のちっぽけな生活の「お守り」のためだけに、神が存在しておられるわけではないからだ。

筆者はこれまで、通勤前に雨が止んだとか、買いたかった商品が手頃な値段で手に入ったとか、思っていた通りの仕事が備えられた、などといったことで喜んでいたが、本当は、信仰によって得られるものは、そんな程度のものではない、という気がしてならない。

それらの小さな事柄にも、むろん、神の憐れみと慈しみを見るのだが、それでも、信仰によって生きるとは、そもそもこういうことではない、という気がしてならない。

信仰生活とは、常に生きるか死ぬかのところで、水面上に束の間、顔を出したり、またその下に沈んだりしながら、かろうじて命を保っているから、神よ、感謝です、などというものではない、という気がしてならない。

むろん、弱さの中を通らされ、その中でも、神を信頼して見上げ、神の不思議な知恵によってすべての窮地を乗り越える秘訣を知らされた、という経験が有益なのは言うまでもない。筆者自身、そういう細い道を何度も通らされ、信仰を養われたし、これからも、そのような経験が、なくなることはないであろうと思う。

それにも関わらず、信仰というものが持つ可能性は、そんな程度のものではない、という気がしてならない。そんな程度のことはほんの序の口でしかないのだと。

たとえば、我々は死人がよみがえらされるところを一度でも見たことがあるだろうか? 歩けなかった病人が力強く立ち上がって神を賛美するところを見たことがあるか? 決して、奇跡だけを追い求めるためにこのように言うわけではないが、それでも、信者が「主よ、感謝します」と言っていることの内容の大部分は、あまりにもちっぽけで、あまりにも信仰を要しないことばかりではないのだろうか?

つまり、キリストの復活の命にある支配というものを、もっと大きなスケールで、もっと予想を超えて知りたいと思わずにいられないのである。

そして、それを知るためには、おそらく、信者は自分の思いそのものを押し広げる必要があると思う。常識の囲いを取り払い、神の御心にふさわしいほど、信者は自分の思いから、限界という隔てを取り払わなければならないのである。

筆者は、神が望んでおられるように強くなり、思いを広くし、この世の法則に力強く立ち向かって、生きていきたいと願わずにいられない。それはただ単に持久力や精神力や若さといった肉にあっての強さのことだけでなく、主と共なる霊的な統治の力強さなのである。霊的創造の豊かさ、力強さである。
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神の大能の御力によって奮い立たされる

何年間も、筆者は半分、ブルーカラーのような仕事をしながら、色々な仕事に応募するために、数々の派遣会社を巡った。筆者はピアノを弾くので、指の動きはかなりの速さであり、派遣会社で課されるタイピングのテストは常に高得点であったが、ワード、エクセル、パワーポイントなどのお決まりのテストには、最初は随分、閉口させられたものだ。

何しろ、筆者はずっと古いパソコンを使い続けており、当時は、これらのソフトに、全く対応できていなかったのだ。勉強する機会されあれば、そんなものはあっという間に習得できるのに、半分ブルーカラーの仕事では、パソコンに触れる機会もない・・・。

派遣会社では、高学歴の筆者を、半ば蔑むようにして社員たちが見ていた。こんなにも立派な学歴があるのに、なぜこんなところに登録しなければならないのですか、よほどあなたは酔狂なのですね、私たちを馬鹿にするためにここへ来たのでしょうか、とでも言いたげな目つきで、異星人のように眺めるのだった。

ここは筆者の生きるべき世界ではない、彼らは人間の皮を被ってはいるが、人間の心を失った人たちだ、ということが、その目つきからも、態度からも、よく分かるのであった。

それにも関わらず、こうした監獄のような人生を筆者が抜け出るためにかかった時間は、かなりのものであった。抜け出るためには、その世界が、本当に筆者の生きるべき場所ではなく、何としてもこんな世界とは早くさよならしなければ、キリスト者である意味が全くないと感じるに十分なほどの強い嫌悪感が必要であった。

新しいアイデンティティによって、古いアイデンティティが打ち壊されることがどうしても必要であり、貧しい生活、死と恐怖と不安に脅かされ、支配され、搾取されるだけの生活に対する心からの嫌悪と憎しみに加えて、キリストはそのような恐怖に脅かされる生活にこそ、カルバリで打ち勝って下さったのだという聖書の事実への絶対的な確信が必要であった。

貧しい者たちへの同情や共感も、その過程で、振り捨てる必要があった。他者にどんなに同情しても、そのことは彼らにはプラスにならないどころか、その人間が筆者を踏みつけにするだけなのである。そこが自分の属する世界でなく、そこにいる人々も筆者の仲間ではない、ということを完膚無きまでに確信し、望ましくない道連れと完全に訣別する必要があった。

それから、神が信者のために天に蓄えて下さっている宝を、自分自身のものとして、断固、要求し、地上に引き下ろす秘訣が次第に分かり始めたのである。結構な時間が必要であったが、その実験はこれからも続くであろう。

そのような決意を固めるまでに、筆者が悪徳企業とその手下どものあくどさに驚き、呆れ果てた回数は数知れず、遭遇した事件は、すべて省略するが、ここには書ききれないほどである。

周りにいる兄弟姉妹からはよくなぜそのような生活を送らねばならないのか理解できない、と言われ、家人からは、もっと別な生き方があるはずだと諭された。ついに、その頃、周囲にいた裕福な信者たちから、まるで同情の価値なしとして、徹底的に蔑まれて初めて、筆者はそのような生活が、ただ悪魔を喜ばせるだけであることにはっきりと気づき、これを断固拒否して、自分自身から鎖を払い落としたのであった。

そのようなことが可能になる前提として、筆者は、地上の経済とは別に、天の経済というものが確かに存在していることを確信する必要があった。地上の経済は、天の経済によって支配されており、天の統治は、悪魔の統治に勝る。たとえ全地が悪魔の支配下にあったとしても、悪魔の権威にまさるキリストの御名によって天から治める者は、この地の経済の全ての制約を超越する権威を持っているのである。だから、信仰者の生活においては、まず、すべてが信仰によって、地からではなく、天から始められなければならない。そうして初めて、地上にその効果が現れるのである。

それが最初に分かったのは、筆者が横浜へやって来たときのことであり、この移住のために、すべての必要な資金が、筆者の努力によらず、祈りによって、不思議な方法で天に備えられ、供給された。相当な資金が満たされただけでなく、人の心までも変えられたのである。些細なことについて言えば、この地に着いて間もなく、筆者はバスの路線がよく分からず、バスを乗り間違えて、別の停車場で降りたことがあった。その時、バスの運転手が話しかけて来て、路線を尋ねているうちに、持っていた回数券を、筆者にくれると言うのである。そんな風に、天の経済に生きていると、損失というものが生じないのである。信者のこの世の知識が不十分で、バスを乗り間違えたとしても、そのことさえ、補償の対象内となっており、別な方法で必要が満たされるという塩梅であった。

まるで全世界の物流、金の流れ、人の心、この世の動向の全てが、自分を中心に回り始めたと言っても過言ではないくらいの、何かはかりしれない命の力が、自分自身の内にあって働くのである。それがキリストの権威であり、統治なのである。

筆者自身は全く取るに足りない一人の人間に過ぎないのに、信仰によって生きる時、そういう現象が起きて来るのである。そういった一連の事実が、神の見えない霊的な秩序が確かに存在していることを筆者に確信させ、その秩序に大胆に生きる必要に目を開かせた。この地にやって来た時に起きた現象の全てが、信者がこの世の限界に満ちた制約を実際に打ち破り、超え得ることを筆者に確信させた最初の一歩であった。

だが、ネット上のバッシングなどが起こって、兄弟姉妹だと考えていた人々を含め、多くの人々が、筆者に敵対する側に回ったり、裏切る側に回った時、筆者は混乱し、その天的高さに生きることを中断してしまった。なぜなら、その当時の筆者は、確かにキリストによって新しくされた人間であると同時に、未だ古い思考パターンによって、この世の人々と同じように、常識的にものを考える人間だったからである。

この世からの敵対が激しくなればなるほど、その怒りをなだめるために、筆者は自分が何かをせねばならないという思いに駆られた。その敵と憎しみが、筆者にはまるで関係のないことであり、キリストの命によって生かされた全ての新しい人間に対する、地獄の全軍からの尽きせぬ敵意と憎悪なのだということに思いが至るまで、一定の時間が必要であった。

だが、その敵意が地獄から来たものであることを理解した後、それに打ち勝つためにも、筆者は「ただの人」であってはならないことが分かった。ただの人には、地獄の軍勢に立ち向かう力はない。それができるのは、キリスト者が御名の権威に立つときだけなのである。

さて、筆者がキリストと共なる十字架の死と復活を知って、初めてはっきりと理解したことの中に、神の復活の命は、たとえ核爆弾が七回炸裂して全地球が滅びに至るまで汚染されたとしても、そのすべての圧迫に打ち勝つ威力を持っている、ということがあった。

どうしてその時、核爆弾のことに思いが行ったのかは分からないが、いずれにしても、復活の命を滅ぼすことのできる脅威は、宇宙全体に全く存在しない、ということが分かったのである。筆者自身が持っている脆く壊れやすい肉体と、その命のはかりしれない力のコントラストが、自分自身ではっきりと感じられた瞬間であった。

地獄の軍勢に対峙するときにものを言うのは、その復活の命の威力だけである。アダムの命に生きている限り、信者は悪魔にやられっぱなしになるしかないが、復活の命に立つと、彼らは引き下がらざるを得ない。そして、悪魔に支配されているこの世が、信者のために、今までとは全く違った方法で機能し始めるのである。

私たちは主イエスが地上におられた時、どのようにして物質的・金銭的・この世的な必要を満たされたのかに注意してみる必要がある。エルサレム入場の際、主イエスは行ったことのない、見たことのない場所にロバがつないであることを予め知っておられた。主イエスは泊まる場所を確保しておらずとも、ザアカイの存在を知っておられ、彼がご自分のために宿泊の用意を整えるよう、声をかけられた。

そんなことから、主イエスは地上におられる間、常に人の目には行き当たりばったりと思われるような、この世的な観点から見ると、保障のない生き方をされていたことが理解できる。ところが、主イエスは地上で何一つ所有物を持っておられなかったのに、全ての人・物が、彼に仕えたのである。必ずしも、はっきりと言葉に出して命じられたわけでもなく、自然と、そうなっていったのである。それが御霊の統治なのである。主イエスご自身が、人格を持ったパースンであると同時に、神の霊的統治だったのである。

主イエスの統治は、人の人格と結びついた統治であり、しかも、この世の支配のように、虐げ、搾取し、権力を振るうための統治ではなく、解放し、豊かな命を与え、人を永遠に生かす統治であった。

従って、信者は主イエスの地上の生活のことを思う時、それは主イエスお一人だけでなく、信者が実際に送ることのできる生活であると考える必要がある。だが、それは常識から見れば、全く無謀かつ不可能な生活でしかない。この世の常識は、明日の保障を求め、それがあることを安全だと解釈するからである。従って、信仰による霊的統治に生きるためには、それがこの世における常識と全く相容れないことを、信者は理解し、これを受け入れなければならない。

さて、地獄の軍勢と対峙し、主が与えられた命の解放を生きて実際に知るためにも、信者は神の命に込められたその力を奮い起こし、これを最大限、引き出し、鷲が翼をかって天高く空に駆け上るように、もとにいた高度に戻らなければならないのである。

派遣会社が設定したつまらないテストなどを受けて、その結果によって自分をおしはかり、一喜一憂したりしているような場合ではない。そんなものはすべてこの世が人々を奴隷にするために作り出したシステムでしかなく、本当は、信者自身が、この世をテストする側に回るのである。それが本来のあるべき秩序なのである。つまり、信者がこの世の前に跪くのでなく、この世が、キリストの御名の権威の前に跪かなくてはならない。信者はその神の統治を持ち運んでいる者である。

そこで、たとえ、信者自身に、この世的な観点から見て、どんなに能力や、経験や、権勢が不足しているように見えたとしても、信者はそのことで落胆したり、勇気を失ったりしてはならない。誰にも知られない若者だったダビデを召して油を注がれ、ダニエルを呼び出し、落胆していたギデオンを呼び出された神は、この世のどんな取るに足りない者であっても、信仰さえあれば、その者を今日も呼び出され、油を注いで、「勇者よ」と言うことがおできになる。信者が何者であるかは、この世が決めることではなく、神が判断されるのである。信者は神の召しに全幅の信頼を置かなければならない。

そんなわけで、筆者はその後、半分ブルーカラーのような仕事に訣別し、苦手としていたすべてのオフィス系ソフトをも、仕事で問題なく覚えるようになり、やがて派遣会社への登録を全て抹消し、仕事について、かなりの条件をつけて神に願うようになった。

まだまだ、筆者は天の高度にふさわしい意識を完全に取り戻したとは言えず、この世における自分の弱さを思い、不安に駆られることもある。だが、神はご自分の子を訓練されるのである。悪魔と暗闇の勢力に対峙しうる神の軍隊の強力な兵士に生長するまで。

ミデヤンの地で…

モーセはイスラエルの民に生まれた男子に皆殺しの王命が出たとき、まだ赤ん坊だったが、エジプトの王の娘に拾われて九死に一生を得、王子として育てられ、成長してから、自分の本当の出自を知った。だが、同胞がエジプト人に虐げられているのを見て、解放しようとしたところ、かえって殺人者の汚名を着せられてしまった。

モーセはファラオに追われる身となり、自分の無力を知って、恐れ、逃亡した。そして、再び主によって、民の解放のために呼び出されるまで、ミデヤンの地で名もない市民として、知られざる平和で穏やかな生活を送った。

おそらく、家族を慈しみ、家畜を飼い、使用人を養い、財産を管理したことであろう。だが、その間の生活は、モーセの人生において、ほとんど記録もされておらず、それほど重要な意味を持っていたとは言えない。

モーセがミデヤンの地で何を考えていたのかは分からない。彼はエジプト人を殺し、同胞からその罪を非難された嫌な記憶を消し、自分自身から逃れようとしていたのかも知れない。あるいは、ファラオに立ち向かう力のない自分を恥じていたかも知れないし、追手を恐れていたのかも知れない。あるいは、エジプトの王家で育てられたのに、正義感に駆られて、イスラエルの同胞の味方になろうとした自分の浅はかさを恥じて、忘れようとしていたのかも知れない。

いずれにしても、ミデヤンの地で暮らしていた時のモーセの心境は不明だが、彼は自分に与えられたミッションそのものを忘れ去り、そこから逃れようとしていたのではないかと思われる。神は彼の心の準備が整うまでずっと待たれた。

主の軍隊に徴兵されたという事実は、信者の生涯において変わらない。神の召しは決して変わらない。それは私たち人間側からの決意ではないからだ。だが、そうは言っても、私たちの側では、常にそのミッションに対して準備が出来ているわけではなく、モーセがファラオの追手を恐れて逃げたように、あるいは預言者エリヤがイゼベルの追及を逃れて逃亡したように、あるいは預言者ヨナがニネベに罪を宣告するという召しから逃げたように、信者が神の与えられた召しの重さから逃げようとすることがある。

神はそんな時、決して強制はされないが、私たちが再びその召しに戻る準備が整うまで、根気強く待たれる。時に説得し、時に励まし、様子を伺われる。神は、それが決して人間の意志によって始められた戦いではなく、たとえ信者が逃亡したとしても、神が必ず信者を引き戻し、最終的に御旨を成就されるのだということを知らされるのである。

筆者の人生にも、度々、この「ミデヤン生活」の時期が現れた。

 以前、この記事に筆者は、就職面接の履歴書について書いていたようである。だが、それはミデヤンの地で、筆者が主の召しから逃れ、世の仕事に志願するために書いていた履歴書を指している。その当時、このブログの読者は、筆者がモーセのように、大胆に主に召され、何か大きなことを成し遂げるのではないかと期待していたと思うが、筆者はその期待には応えず、かえって世の中でも相当に低いとみなされている仕事に志願し、主の召しについては他の兄弟姉妹にバトンを預けた。

そんなことになったのも、当時のネット上で起きたバッシングの影響が大きかった。その事件は、それまで全生涯を主に捧げ、神の国の働き人となるという、筆者が固めていた決意に、大いに水を差したのである。ネット上のバッシングだけならば別にどうということもなかったかも知れないが、それとほぼ同時期に、当時、親しく交わっていた信者たちから、いわれなく誤解され、排除され、霊的な挟み撃ちに遭ったことが、筆者に大変な衝撃を与えた。

その頃の筆者は未熟で、影響されやすい、単純な人間であった。長い間、筆者は羊のような性格で、自分を未熟者と考えていた。平素は穏やかであるが、穏やかすぎるために、戦闘意欲に欠け、かつ、戦いの方法を知らなかった。敏感で、繊細で、感受性が強く、予想外の出来事が起きると、とにかく逃亡し、長い間、物陰に隠れてただ平穏が戻るのを待った。さらに、兄弟姉妹に裏切られると、少なくとも、一年間くらいは、その事件のショックの余韻を引きずっていたことであろう。

しかしながら、神は筆者よりもはるかに根気強い方であり、どんな信者の場合でも、信者が強くなるまで、あきらめることなく、根気強く訓練されるのである。恥じる必要はない。どんな信者も、初めから強力な戦士ではあり得ず、初戦からして勝利をおさめた者はほとんどいないであろう。コンピューター・ゲームでも、敵との初戦で勝てる人間がまずいないことを思うべきである。

だが、訓練されているうちに、信者は戦い方を会得し、強くなって行くのである。神は、筆者がいつまでも羊のままでいることを願わず、獅子のような羊になるようにと、似たような事件を二度、三度、引き起こすことによって、何が起きているのかを、否応なしに理解せざるを得ない状況を作り出された。そして、これは筆者一人の人生に関わる出来事ではなく、主の権益がかかっている、信者が全力で立ち向かわなければならない霊的な戦いであり、そこでの勝利には永遠の価値があるのだ、ということを知らされたのである。

そこで、筆者は、それまでのように、妨害が起きて来たからといって、そそくさと退却するという姿勢を捨てた。そして、今まで不意に起きたように見えた事件に何一つ偶然はなく、その背後には暗闇の勢力が故意に信者にしかけた妨害が大いにあり、それ自体が攻撃であったということを理解したのである。

何のための攻撃か? 信者を天的な高さから引きずりおろし、御霊による命によってではなく、天然の命によって歩ませるための攻撃である。我々を信仰ではなく、常識に従って、この世の基準に従って歩ませるための妨害である。

「キリストだけに頼り、信仰だけによりすがって歩むなど、馬鹿げたことですよ。あなたはあまりにも大それた夢を見ているんです。あなたは自分の人間としての分を超えて、高慢になっており、ありもしない戯言を信じているだけです。もっと周りを見てみなさい。特に、周りの人間たちの思惑をもっと気にしなさい。あなたはあまりにもマイペースで、自分のことしか考えていません。誰がそんな風に行動していますか? もっと社会に嫌われないように、人に誤解されないように、信者たちから理解してもらえ、生意気な人間とみなされないように、周囲に波風立てないように、人々の仲間として、礼儀正しく生きなさい・・・」
 
そんな風に、世間の「常識」や「道徳」を巧みに盾にとって、そこから外れないように生きることを是とする価値観そのものが罠なのである。悪魔とその軍勢は、信者が決して神の御業が成就することを願わず、キリストの復活の命が生きて現されることを信じず、むしろ、この世の常識的な価値観の中だけに閉じ込められて、束縛の中で一生を送るようそそのかして来る。

しかも、その攻撃が、多くの場合、世人だけからではなく、「兄弟姉妹」を名乗っている人々からもやって来るのだとは、当時の筆者は、十分には理解していなかった。
 
 暗闇の勢力からの攻撃は、一つの方向だけからやって来ることは稀である。時期を同じくして、二方向以上からやって来るのが常であり、それは表面的には全くつながりのないように思われる異なる集団や人々を通してであることが多い。特に、信者を精神的に混乱させ、袋小路に追い詰めるために、暗闇の勢力は信者のそば近くに裏切り要員を前もって準備しておき、決定的瞬間に、あからさまに敵と分かる勢力からの攻撃と同時に、味方による背後からの裏切りという挟み撃ちに遭わせて苦しめるのが常套手段なのである。

それはちょうど主イエスを殺そうとかねてより敵意を燃やしていたユダヤ人たちと、十字架の直前まで主イエスのそばにいて弟子として仕えていたユダの二方向から、主イエスに対する攻撃が行われたのと同じである。信者に対して暗闇の勢力が何かを仕かける時には、あかたさまな敵対勢力による真正面からの攻撃と、背後から来る身内の裏切りという二種類が同時に起きるのは全く稀でない、このことは覚悟しておいた方が良い。

それが分かってから、筆者は、身内のように親しくしていた「信者」たちから、突然に悪口を言いふらされたり、いわれなく非難され、排除されたり、決定的な瞬間に、密告や裏切りを知らされたり、予期せぬ反応を起されても、あまり動じなくなった。そういう異常な出来事は、望ましいことではないにせよ、筆者にとって、想定内でしかなくなったのである。
 
少なくとも、霊的な戦いを戦い抜くためには、敵の卑劣な作戦を知り抜いていることは、どうしても必要である。敵の悪しき攻撃の意図を予め見抜くことと、御言葉によってその成就を妨げ、攻撃を退けることは、悪しき策略にはまらないために必要である。

だから、信者はいつまでも善良でお人好しで臆病な羊のような人間であってはならず、神に召され、悪魔の軍隊と対峙する軍隊の中に置かれた限りにおいては、悪魔の卑劣さについても、学習せねばならず、その卑劣な策略に全く無知であることはできないのである。

そんなわけで、筆者は身内のような信者たちからの評価も、世人の態度にも、一喜一憂させられることがなくなり、誰かの突然の裏切りに衝撃を受けたり、人の癇癪を恐れて逃亡するということもなくなり、そもそも人の歓心を買うために努力するということがなくなった。

わざわざ波風を起こして事を荒立てる必要はないが、世と同調して歩むことが、信者にはもとより不可能なのだから、世からの理解を乞うてはいけないし、それを失ったからとて嘆いてもいけないということが十分に理解できたのである。
 
さて、筆者のミデヤン生活はそろそろ完全な終わりに近づいているが、ミデヤン生活の間に、筆者の履歴書には、羊飼いの職歴だけが長くなった。むろん、これは比喩である。

さて、一般に履歴書というのは、この世の人々に向けて書くものであるが、本当は履歴書には二種類あって、世人に宛てた目に見える履歴書と、神に宛てた霊的な見えない履歴書の二通があり、重要なのは後者、つまり、神に対する履歴書である。

神の履歴書には、地上的なわざとらしい職歴や、輝かしい学歴の羅列など一切なく、ただこう書いてあるだけだ、

「権勢によらず、能力によらず、わが霊によって」。

そして、血潮による署名と、御霊の証印というスタンプが押してある。この世の人々を説得するためのいかなる修辞もそこには存在せず、ただ神の霊的な事実が単純に記してあるだけだ。それが、筆者を含め、信者たちの本当の履歴書の内容なのである。

この履歴書があれば、恐れることは何もない。時代の趨勢がどうあろうと、世人の思惑がどうあろうとも、ミデヤン、エジプトにどんな深刻な不況や、飢饉が訪れようと、あるいは戦いが起こり、ファラオの軍隊の追手が来て、信者がお尋ね者にされようとも、この神の履歴書(身分証明書)は永久にものを言って、信者の潔白を証明し、かつ安全のうちにかくまうのである。

それだけではない、その署名と証印によって、信者はどんなことでも神に願って良い、主イエスの御名によって求めなさい、と言われている。

主が私の牧者であって、私には乏しいことは何もない。
主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水際に伴われる・・・。

生きる限り、恵みと慈しみが私を追う。
私の魂は生きる限り、主を誉めたたえる。

これは筆者の人生、あるいは、一人や二人の信者の人生の解放を意味するだけではない。主の民全体の解放と大いに関係があることだ。

モーセの召しは、ヘブライ人全体のためのものであった。モーセはミデヤンの地で羊を飼い、そこに骨をうずめる覚悟をしていたかも知れない。自分はこのまま忘れ去られ、エジプトの王子として育てられた過去などなかったかのように、へブル人の解放のために立ち上がったことなどなかったかのように、普通の人として死ぬのだと考えていたかも知れない。だが、彼のミッションは消し去られることなく、彼は信者全体の代表として立たされたのである。

モーセの心の準備がどのようにして整ったのかは分からないが、彼がもうかつての「言葉にもわざにも力がある」勇者のような若者だったとは誰にも見分けられなくなった頃、神がモーセに近づいて来られた。そして、勇気を持って立ち上がり、あなたの召しを果たしなさい、と言われたのである。

燃える柴は、私たちの前に輝いている。それは燃えているのに、燃え尽きない、御霊の炎である。私たちが最初の主の召しを受けて、それからどれくらいの時間が経過し、その間に、世の情勢がどれくらい絶望度を増して、私たちがどのくらい無力になったかは関係ない。

2009年8月30日の政権交代は今やはるか昔、年越し派遣村に批判が殺到していたのもはるか昔、今や不法にも搾取にも誰も異議を唱えなくなり、アハブ王がイゼベルと共に王座に就いて勝ち誇っている。腐敗が至るところに横行し、占い師が国を動かし、真実も、正義も、誠実さも曲げられて、誰も尊ばなくなった。もともと悪魔の支配するこの世であったとはいっても、随分、絶望度が増したものである。キリスト教徒は嘲られ、中傷されて、世の片隅に追いやられ、真理の証は損なわれ、今や聖徒らに対する迫害の刃がこっそり研がれている。
 
このような時だからこそ、虐げられている民のうめきは神の耳に届いているのだと筆者は信じている。神はこの状況に対して、答えを持っておられないような方ではない。何よりも、悲惨な状態に置かれている主の民が、解放されなければならない。そのためには、山上の垂訓が、今こそ、信じる者たちのうちで、現実となるべきである。

時は満ちた。忘れていた頃に、地上の戦争に赴くための召集令状ではなく、神の軍隊への召集令状が、信者のもとへ届く・・・。
  
雄々しくあれ、強くあれ。神の勇士たちよ! 立ち上がり、主の民に、御名によって、解放を宣言しなさい。あなたにはイエスの御名によって、悲しむ者に慰めを、捕われ人に自由を告げる権威が与えられている。勇気を出して、立ち上がりなさい。あなたが私を選んだのではなく、私があなたを選び、あなたを立てたのだ。それはあなたがたが行って実を結び、その実が、いつまでも残るためである・・・。

ただ聖霊があなたがたに臨むとき、あなたがたは力を受けて、ユダヤ、サマリヤの全土、さらに地の果てまで、イエスの復活の証人となります・・・

時は満ちた。立ち上がれ、神の勇士たちよ!
ミデヤン生活はもう終わったのだ。その間のことが嘘であったかのように、筆者も思い出を振り切って、燃える柴の中に歩みを進める。焼き尽くす炎によって、信者は自己の命を惜しむことなく注ぎだし、「生きることはキリスト、死ぬことは益」と言える生活に入って行くのである。

弟子たちが主イエスに出会って、漁師から人間を取る漁師に変えられたように、単なる羊飼いは、人間を養う羊飼いへと変えられる。牧者である主がそばについておられるので、イエスの弟子たちはみな主と同じ性質を帯びるのだ。悪魔の囚われ人ではなく、解放者へと。
 

魔法使いにならないように

筆者はクリスチャンになってから後、クリスチャンの世界にも、「演技性人格障害」と思われるような人々が数多く存在することを知った。

仏教や、他の宗教の世界にもそういう人々は多いと思うが、人の世の常として、クリスチャンになっても、あるがまま以上に自分を立派に見せかけ、人の上に立ち、人の注目を浴びて、教師になりたがり、指導者になりたがる人たちは存在するものである。

筆者から見ると、信者になったにも関わらず、神と人との前に自己を偽って、そのような人生を送り続ける人たちの気が知れないのだが、それでも、クリスチャンを名乗りながら、ことさらに正義の味方をきどったり、弱者の救済者になろうとしたり、困っている人たちの優しい助言者をきどり、自分があたかも格別に素晴らしい指導者であって、多くの人の助けになっているように振る舞いたがる人間は、数多く存在するのである。

だが、そんな風に、自分から教師や助言者や救済者になりたがり、人の注目を浴びる場所に立ちたがる人間に、真にそれにふさわしい資質があった試しは一度もない。十中八九、そういう人間は自己顕示欲に憑りつかれているだけの詐欺師である、と言っても過言ではなかろう。

特に、信仰の世界ではそうなのである。なぜなら、我々の本当の救済者、教師、助言者は、主イエス・キリストただお一人であるからだ。それにも関わらず、キリストを押しのけてまで、栄光を受けようとする人間は、およそ本当の信仰者ではあり得ない。何のために、弱みを抱えた人々に近づき、事情のある人たちばかりを周りに揃えて、彼らの師となり、助言者となろうとするのか。そういう人間は、まず詐欺師である、と考えて警戒して間違いはなかろう。

それでも、クリスチャンとして神への熱心な信仰に生きている時ほど、信者は熱心さのあまり、そういう人たちの甘言に、つい身を委ねそうになることがある。

「純粋な兄弟姉妹に出会いたい」という渇望や、「もっと真理を知りたい」などの願いがあだとなって、普段ならば、すぐに見抜けるはずの詐欺師の甘言を、疑わずに受け入れてしまいそうになることがある。

だから、そんなことにならないために、信者は人間に期待しようとする心の弱さに、よほどしっかりとくつわをかけておかなければならない。繰り返すが、我らの救い主は、主イエス・キリストだけである。神以外の目に見える人間に栄光を帰することを、神はご自分の僕にお許しにならない。そして、そのようなことをすれば、悲惨な結果が待ち受けているだけである。

人間に過ぎない者から余計な助言や忠告をされないためにも、信者は人間の指導者に助けを求めず、御霊だけに従うことが必要である。どんなに最初は心細くとも、それが最も安全な道なのだということは、信仰によって歩むうちに、必ず分かって来る。
 
世の多くの人々は、実際にそうである以上に、自分を優れた何者かであるように見せかける策略に長けている。実質よりも、アピールに生きることが、この世における成功の秘訣である。人間社会は不断の演技によって成り立っているようなところがあり、巧みな演出によってどれほど他人の心をつ かむことができるかが、その人の社会での立場や待遇を決定する。

そして、人の心理は巧みな戦術があれば動かすことができる。素晴らしい作曲家の楽曲を使えば、どんな人の心でも開いてしまうことができるかも知れないし、感動的な作文で、人の心をとらえることができる。そのような装置を巧みに用いる人間が、自分自身を実体以上に素晴らしく見せかけては影響力を行使し、社会の動向を決めているのである。

しかし、キリスト者は、そのような見せかけに生きてはならないし、キリスト者が生きているのは、そのような欺瞞の世界ではない。

キリスト者が生きているのは、心理学を超えた、霊的真理の領域である。
 
だが、関東に来てから、筆者が出会ったクリスチャンの多くは、世人と同じように、そつなく自分の弱さを人の目から隠しながら、うわべを美しく飾ることに実に長けていた。むろん、そんな人たちばかりが全てだったわけではないのだが、とにかく世間体を繕うことに対して、驚くほどやり手な人々が、数多く存在したのである。

彼らの多くは、神と人との前で課題などないかのように装い、良いことづくめの信仰生活を送っているように語っていた。

彼らは悩み、もがき、苦しむことなく、世人が常に見舞われている試練にも遭うことなく、むしろそういう悩みの渦中にいる人たちを、常に一段高いところから見おろして、半ば、笑うように、哀れみながら、こう言っていた、「なぜそんなに悩まなければいけないのか分からない」と…。

だが、何年間も、こうした人たちを観察しているうちに、筆者には、彼らの平穏が、非常に作り事めいていて、うわべだけの自己欺瞞である可能性が高い、と疑うようになった。その美しい、そつのない、破綻のない生き方は、一種の虚飾であって、真実な姿でなく、彼らが本来、見るべき課題から目をそらし、現実逃避している結果としての自己欺瞞の産物なのではないか…。

そうした人たちは、自分をあるがまま以上に飾り、できもしないことをたくさん語って、自分は特別に神に恵まれ、愛されている存在であり、他の人の知らない真理を知っている偉大な存在であるかのように装っていたが、本当は、そんなものはすべて作り事に過ぎないのではないか…。

そして、彼らは自分ほど幸福に見えない他者を、いつも「可哀想」という目線で見おろしているのだった。
 
筆者から見ると、彼らの姿は、あまりにも出来すぎていて、嘘っぽく、彼らは自分が演じている優れた人間が、現実ではないということがもはや分からなくなるまで、現実と仮想現実を混同しているのだと思われてならなかった。

長年の観察の後、そういう人たちは、ついに「私たちは神だ」と主張するようになった。ただ教師や指導者となって注目を浴び、「私たちは他の信者とは違って、特別に恵まれた存在である」と主張するだけでは飽き足らず、ついには自己の無謬性を主張するほどにまで、偉くなってしまったのである。

それを横目で見つつ、筆者は呆れ果てながら、やはり現実を偽って、自分のうわべを美しく飾り、自分をあるがまま以上に過大に見せかけて、人の気を引こうとする虚栄と自己欺瞞の罪の重さというものを、考えずにいられない。
 
そんなことになるよりは、たとえ人間の誰かから、不器用だ、とか、不格好だ、とか、可哀想だ、などと見下されたり、嘲笑されたりするようなことがあっても、神の御前に自分を偽らずに正直に生きることが、極めて重要だと思わずにいられない。

筆者の今までの経験から言えることは、神の恵みを受けるために第一義的に必要な課題は、まずは自分自身に対して正直であること、自分の欠乏を神に隠さないことである。主が造られた自分自身の本当の姿を、限界は限界のまま、欠点は欠点のまま、欠乏は欠乏のまま、偽りなく認め、今、自分がどんな課題を抱えているのか、何を必要としているのか、虚勢を張らずに率直に神に相談する姿勢を崩さないことである。

神の御前で完全無欠を気取って、問題などないかのように装い、他者に助けの手を差し伸べるばかりで、自分の必要をかえりみようともせず、人前ではわざとらしい感謝の祈りばかりを捧げて、問題を隠し、自分を偽り、飾らないことである。

人に馬鹿にされたくない、あるいは、自分で自分の弱さを認めたくない、という強がりから、神に対してまで本心を隠さないことである。

人に対して弱さを見せる必要はないが、神の御前でまで、自分の現実を否定して虚勢を張って、うわべばかりを美しく飾っていると、いつの間にか、その厚化粧のせいで、信者は自分の本当の必要が分からなくなる。もし正直に祈ってさえいれば、とうに満たされ、癒され、解決されたはずの色々な問題を、神に打ち明けるチャンスを失い、ずっと人生で抱え続けることになってしまう。

だが、信者は自分ではそういう一連の問題には蓋をしてしまっているので、心の底では苦しんでいても、その苦しみを認めることもできず、自分の苦しみと問題自体をないこととして闇に葬りながら、より一層、ひどい自己欺瞞に落ち込み、自他を欺いて生きることになる。そういうことをやり続けていると、当然ながら、人としての健全さが失われ、高慢になるだけでなく、いずれ思考そのものが異常となり、何が現実なのか、全く分からなくなってしまう。

そうなることに比べれば、他の信者の目線などどうあっても良いから、少なくとも、神にだけは、大いに悩みを率直に打ち明け、力となっていただき、解決をいただく方が、幸福な人生を送れると筆者は思わずにいられない。

むろん、繰り返すが、人に悩みを打ち明ける必要はない。助言者や教師になりたがる詐欺師につけ込む隙を与えるだけだからである。だが、少なくとも、神に対してだけは、正直でなければ、人は恵みを受けるチャンスを失ってしまう。

神は、信者がつまずいたり、悩んだり、苦しんだりしているところを見ても、笑ったりはなさらない。それは、幼児の足取りがおぼつかなく、頼りないからと言って、その親が子供をあざ笑ったりしないのと同じである。むしろ、子供がしっかりと自分の足で立って歩けるようになるまで、親は一生懸命、そばで見守り、必要があれば、助けようとする。

父なる神も、信者の一歩一歩のおぼつかない足取りを、決して笑ったりせず、共に喜び、悲しみながら、細心の注意を払って助けて下さる。だから、信者には自分を偽って神の御前で虚勢を張ったり、ありもしない聖人君子を演じたりする必要は全くないのである。

神に対して正直であれ。そうしていれば、必要な助けを受けられる。そしていつしか、御言葉が信者の内で成長して、足取りも前より力強くなり、キリストと同じ身丈まで達するだろう。だが、それも、信者がキリストを離れて自分だけ強くなることを意味せず、信者が強くなるのではなく、キリストの強さが信者の力となるのである。

信者の成長は、ただキリストとの結びつきがより一層強くなることだけによる。その交わりの強化のためにも、相談事を神に隠さないことである。

阿蘇の渓谷の絶壁

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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