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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

当ブログでは好んで引用する聖句だが、今週も大きな収穫があったので報告しておきたい。 
 
膠着状態にあった事件が急ピッチで進み始め、新たな組織態勢が組まれた。このブログを開設したばかりの頃のように、非常に清浄な空気が周りにあることを感じる。

この出来事については、事件の関係であまり詳しく書けないが、準備作業が着々と進んでいるので、遠からず、どんでん返しが起きるであろうと言っておきたい。

こうなるまで、かなりの時間と労力を要したが、あきらめずに主張しただけの甲斐はあった。このブログ記事の結論を述べると、悪魔から来た重荷は一刻も早く悪魔に返しなさい、という一言に尽きる。

たとえば、当ブログを中傷する記事を約10年近くもネットに掲載し、その記事の削除と引き換えに、当ブログ記事の削除を求めていたアッセンブリーズ・オブ ・ゴッド教団の村上密牧師が、少し前、裁判を通じて事実上の降伏宣言を出した。 

村上の準備書面には、「裁判では和解が勧められる。まだ勧められてはいないが、一刻も早い紛争解決を望むので、原告に対する2つの記事を削除することにする。」と記されている(準備書面2頁)。
 
村上は、裁判開始当初、当ブログ記事の削除を要求していたが、具体的なURLや権利侵害の事実を挙げることさえせず、それらを立証するよう求められた結果、自らの要求をさっさとあきらめ、和解を目指して自ら問題となる記事を取り下げると宣言したのである。

だが、まさかこれが真に「和解」を目指した主張であるとは誰も理解しないであろうし、そんな和解が評価に値することはなく、実にみっともないことである。

なぜみっともないのか? 自分が主張した事実をきちんと最後まで論証して闘う努力をはらわず、論証できないからと言って、「和解」という綺麗事を理由に、論争から逃げようとすること自体がみっともないのである。

筆者はてっきり、村上は、鳴尾教会に教団を使ってしかけた裁判の時と同じように、最高裁まで争うつもりだろうと考えていたので、記事の取り下げは意外かつ拍子抜けであった。しかも、かつてはかなり有名だった牧師が、弁護士も雇わず、人を馬鹿にした二枚程度の準備書面で、自分の主張をあっさり撤回したのである(準備書面は真実、2枚しかない)。教団を大いに利用できる時には、弁護士もつけるが、自分個人の争いでは、極力費用と労力を惜しみたいという思惑が透けて見える。信徒相手だから、ろくに答弁もしなくても良いと思っているのかも知れない。しかも、自分の書いた記事が虚偽であることさえ認めず、それにも関わらず、記事を取り下げるという自己矛盾ぶりである。

このことから、村上牧師の人間性を読者は十分に観察することができるであろう。当ブログでは、信仰に基づいて主張したことは、命をかけて証明せねばならないということを繰り返し書いて来た。殉教者たちは死に至るまで「キリストの復活の証人」だったのである。

ところが、村上牧師のような人々は、自分のブログでは大風呂敷を広げて、次々と「怪しい」とみなした牧師や信徒を非難断罪するものの、いざ裁判で、自らのブログ記事の証拠を求められると、あっさりと記事の撤回に応じる。何という情けない、無責任ではた迷惑かつ一貫性のない行動だろうかと思わずにいられない。
 
すぐに諦めるくらいなら、初めから正義感ぶって、他者をカルト扱いしたり、無責任呼ばわりするような嘘を記事に書いたりして、挑発行為に出なければよかったのである。 裁判においても、当ブログの記事の削除など、初めから要求しなければよかったのである。費用の計算もせずに家を建てかけて途中でやめれば、笑い者になるだけだという聖書のことば通り、できもしないことは初めから要求すべきではないのだ。そのことがこの人々にはどうしても分からないようだ。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、この手の人騒がせな信者らが、数えきれないほどに存在していることは、幾度も繰り返し述べて来た通りである。筆者はこれは「霊的な」現象であると考えており、彼らが「聖霊のバプテスマ」と称して受けた「霊」が、この人々にこのような無責任かつ奔放な行動をさせているのだと理解している。

彼らは根拠もない事柄を「神から示された」と主張して、多くの人を巻き込んで人騒がせな事件を起こすが、いざ自らの主張の具体的な根拠を求められ、公の場で論証するよう要求されると、何の証拠も提示できずに、そそくさと主張を撤回して逃げて行き、自分の引き起こした事件の後始末をすべて他人に押しつけるという体たらくである。

筆者は同教団の中にこのような性質の信徒がいることは幾度も確かめて来たが、牧師も例外ではない。そもそも公の場においてきちんと論証できないような主張を提示すること自体が間違っているが、彼らにはそれは言っても無駄なことである。

昔は「男に二言はない」などと言われたが、そもそも、人が一旦、信念に基づいて主張したことを、最後まで貫き通す覚悟もなく、途中で撤回すること自体が情けない。何より、そうして主張を簡単に翻すことが、その人間が信念に基づいて行動していないことの証拠である。そうした行動から、彼らのしていることは、正義や真実や信念に基づく行動ではなく、ただうわべだけ自分がヒーローを演じ、誰かを悪者にしては、他人に不快な思いをかけ、膨大な手間暇をかけて自分に抗議をさせて、人生を浪費させることだけが目的の迷惑行為でしかないと分かる。
 
だが、それでも、牧師にも関わらず、信徒と全面的に争い、最高裁まで我を押し通すよりは幾分かマシであろう。そんなことをすれば、全キリスト教界の笑い者でしかない。牧師が信徒と最高裁まで争う、そんな教会には、まず人は来ない。KFCのように、牧師が信徒を公然とブログで非難断罪・呪い・中傷するような教会も、人々は願い下げである。

村上の他に、最後まで全面的に筆者と争いたいという人間がいる(唐沢治もその一人である)が、そういうことをすれば、牧師としてのその人間の信用は粉微塵に砕け散るだけである。唐沢治は未だにニッポンキリスト教界を敵視し、日々、呪詛のような非難の言葉を浴びせ、さらに自分の集会を去った信徒を公然とブログ記事で断罪し続け、筆者に対しても全面的に争う姿勢を見せているが、そのような行為に及ぶ宗教指導者に将来はないであろう。

さらに、唐沢治が本年になって杉本徳久といまだに交わしていた一連のメールを、杉本が裁判に提出して来るというコントのような滑稽さである。互いに裏切り合って協力もできないのになぜメールなど交わし続けているのであろうか。いつまで経っても、和解を目指ささず、自分に盾突いた人間を半永久的に許さずに恨みに思い、公に根拠のない非難断罪を続けるという点で、二人は実によく似ていると感じられる。こんな牧師を擁護する弁護士がいることにも呆れる。しかも、弁護士を使ってまで、かつては「ヴィオロンさんのために」などとさかんに筆者の名前を勝手に引き合いに出しては、自分が大見栄を切って助言者や擁護者を演じようとした信徒と争う。その陰で、その信徒を苦しめた加害者と内通して文通を重ねる。そして、唐沢は自分は筆者と「牧師と信徒の関係ではなかった」と主張しているのだから、笑い話のごとく呆れた話である。

こうした行動から、読者は唐沢治という人物の不実な人間性をもよくよく理解できるはずである。こういう牧師のいる集会に通えば、どういう将来が待ち受けているか予想できないのは、よほどの愚か者だけである。この集会に通った信徒が、その後、どんなトラブルに巻き込まれても、こういう牧師は、「私はそもそもあなたの牧師などにはなっていませんから、私には何の責任もありません」と後から言ってくるのは間違いない。その上、牧師のブログで公開処刑のごとく糾弾され、その牧師は別な人物に信徒の実名を書き送り、晒させるであろう。このような牧師は、まさに狼がやって来れば、群れを放棄して逃げる、聖書に登場する悪い牧者のたとえの典型例と言える。

読者のみなさん、牧師ななどという職業を安易に信用することは決してお勧めできませんよ。自分を正義漢や、優しい助言者に見せかける人間の内実を強く疑い、彼らを試してみることをお勧めします。大抵は、その本質はこういう人々から成るものだからです。
 
村上牧師は、あるいは、これ以上この事件を深く掘り下げると、もっとヤバい問題が噴出してくると危惧して、争いを早期終結させようとしているのかも知れない。杉本には公に言って良いことと悪いことの区別がつかないらしく、関係者を裏切るような証拠を次々と裁判に提出している。村上に筆者に関する問い合わせを行ったことを自ら答弁書において証言しているのも杉本である。杉本のその証言がなければ、そもそも村上が裁判に呼ばれる事態とはなっていない。

従って、この先、杉本がどれほど自己正当化のために不用意な発言を重ねるかは注目されるところであり、また、村上のブログで被害を受けたのも、筆者のような無名信徒の一人や二人ではないため、本件が長引けば、そうした人々が公に被害者として名乗り出て来る可能性は実に高いと見られる。
 
鳴尾教会を含め、当ブログなどよりもはるかに深刻な被害を受けた人々や団体が存在する。今回の裁判でも協力を仰いでいるが、彼らには勇気を捨てないでもらいたい。最後まで主張することの重要性を決して見逃さないでもらいたい。神にあって潔白とされ、無実とされ、誰からも罪に定められない贖いを得たことのはかりしれない意味を今一度、公然と主張してもらいたい。そして、正義は人間でなく神にあることを証明してもらいたいと願っている。 

ところで、読者にはさらなる注意事項がある。

それは、村上密についての記事を書くと、早速、掲示板等で騒ぎ立て、話題を逸らそうとする「さわやか読者」らが現れることだ。村上密の場合、他の人々に比べて、話題がかく乱されるスピードが圧倒的に速いため、他の人々との影響力の違いを感じさせる。

こうしたコメント投稿者らは、当ブログだけではなく、村上に敵対する人間に対して、ことごとく「狂気」「馬鹿」「人騒がせ」などの粗野な言葉で悪人のレッテルを貼り、しきりに誹謗中傷を繰り広げることで、話題を逸らし、この牧師を擁護する部隊の役目を果たしているのである。
 
こうしたコメント投稿者らは、何者なのか素性の全く分からない人間たちである。 一体、これらの人々が、まさか京都七條基督教会の信徒であるために村上を擁護しているとは思えず、信仰については一言もないため、おそらくクリスチャンでもないと見られる。

しかし、彼らは明らかに村上牧師を擁護する目的で団結しており、この牧師についてのコメントを隅から隅まで監視し、批判的な言動があると、一斉に匿批判者を名掲示板で中傷するなどして、話題をそらす役目を担っている。

そこで、彼らが誰の支持やリクエストに従って、こうしたコメントの投稿を日夜行っているのか、読者はよくよく考えてみられたい。特に、村上密が統一教会の出身であった事実を重視されたい。

村上牧師がこれまで常に杉本徳久のように、自分の教団や教会とは一切、無関係な人間のブログ記事を、自分のブログで引用しながら、自分の主張の裏づけとして来たことを思い出されたい。

なぜこの牧師は、自分の主張を展開するに当たり、自分の教会の信徒でもなければ、教団関係者でもない人間の主張を援用するのであろうか? どうしてカルト監視機構は最初から、キリスト教とは関係のない人間が、キリスト教界を監視することを想定していたのか? この事実をよくよく考えてみられたい。

村上はこのように、初めからキリスト教界に、キリスト教界に属さない部外者の手でメスを入れることを提案していたのであり、その部外者の中には、天理教の関係者なども含まれていたのであるから、それならば、統一教会の関係者だけは、カルト監視機構のメンバーになってはいけないという理由もあるまい。

実に恐ろしいことであるが、このように、村上の提唱するカルト監視機構は、最初から信仰を持たない人々によって教会の内情を監視することを目的としていたのであり、その意味で、カルトを取り締まると言いながらも、まさにカルトと内通し、「カルトによって教会を監視する」という逆転現象が起きる危険を最初から内包した機関だったと言えるのである。
 
従って、こうした事実を通して、現在、掲示板で匿名で、村上に敵対するクリスチャンへの誹謗中傷をしきりに繰り広げているコメント投稿者の雇い主(指導者)が誰であるのか、所属団体は何であるのか、彼らがそもそもどこから来たのかという事実をよく考えてみられたい。
 
もしも村上の主張が正しければ、裁判で全面的に自分の正義を主張し続けて、敵対勢力を敗訴に追い込めば良いだけであり、表向きの「和解」という美辞麗句を名目にして、自らの要求の取り下げを行う必要など全くないのである。

それにも関わらず、裁判では自らの主張を提示できなかった牧師が、掲示板等ではヒーローとなり、その牧師に「たてついた」信徒らが、依然、「悪者」とされて、根も葉もない誹謗中傷が拡大されて騒ぎが繰り広げられる。

こうした現象が繰り返されているのであり、繰り返されているという事実自体が、それが偶然ではなく、計画的に行われていることをよく物語っている。組織されたコメントであり、運動だということである。
 
公平かつ中立的な読者は、こうした現象を通して、当ブログに対する敵対がどの方面から来ているのか、村上密牧師を批判した牧師や信徒らが、これまでどのような目に遭わされて来たかをよくよく観察して、事の本質を見極められたい。

そして、村上牧師を含め、カルト被害者救済活動を推進したり、あるいは、ニッポンキリスト教界をしきりに挑発・敵対して来た唐沢治のような牧師が、本当にクリスチャンと言えるのかどうか、彼らは一体、何者であるのかについても、よくよく考察されたい。
  
さらに、信仰もなく掲示板で騒ぎを拡大している連中こそ、真に「匿名に隠れて」無責任な挑発行為を繰り返している人々であるから、最も警察の捜査対象となるにふさわしいと当ブログはみなしている。実に2015年から、当ブログでは2chの書き込みも十分に刑事告訴の対象となりうることを警察から知らされていることは、すでに書いた通りである。そして、告訴状を提出できる場所も、警察だけではないことを読者は知っているだろうか。彼らに対する警告は十分である。

さらには、掲示板では、パソコンを通じて敵対する勢力を監視していることをほのめかす読者まで現れる始末であるが、カルト監視機構の設立を願っていた村上密のような人々が、自分たちに挑戦して来るカルト勢力が、自分たちのパソコンをハッキングしようとしたとまでブログで主張していることを思い出されたい。

だが、一体、カルト被害者救済活動に関わる人々は、どのような経緯で自分たちのパソコンがハッキングされた事実を知り得たのか?という疑問が生じるのは当然である。そのような事実を察知したというだけで、この人々が普通の暮らしを送っていないであろうことは容易に推測される。なぜなら、セミプロ的な知識を持って、常時、そのような危険が自分にあることを理解して見張って、犯人を特定できなければ、そのような事実が分かるはずもないからである。

その意味で、彼らは、自分たちも同じ手口を使って常時、敵対勢力を監視していればこそ、敵の手法が分かったのではないかと推測される。

このように、カルトも闇であるが、カルト被害者救済活動も、同じほど深い闇なのである。どちらの陣営も、まさに暗闇におけるスパイ合戦でしかない。これまで、カルト被害者救済活動を支持する人々が、どれほど非合法な手段を駆使しては、自分たちへの批判をしきりに闇に葬ろうとして来たか、それは彼らの用いた手法、また彼らの取り巻きや支持者となった人々の言葉から十分に伺える。

この人々はクリスチャンでは断じてない。そして、キリスト教界を破壊することを目論むこの勢力がどこから送り込まれて来たのかについては、読者はよくよく考察と注意が必要である。彼らの目的が、聖書に基づく正しい信仰の破壊にあるということを決して忘れないでもらいたい。

   
とはいえ、掲示板等に書き込まれている証拠のない文章は、何年も残るものではなく、すべて束の間に消えて行くものでしかない。すでに昔に書かれたものの多くが板ごと削除されている。

他方、白日の下に残るのは、公の場所に提出された文書と、そこで下された判決文である。そして、筆者は、カルト被害者救済活動は、ただ自分たちの批判者を誹謗中傷しているのではなく、神が御子キリストを通して私たち人間にお与え下さった贖いそのものに敵対しているのだと2009年以来主張している。

私たちが主張しているのは、神の贖いの完全性であって、自分自身の義ではない。また、読者に自分自身を見させることが目的でもない(我が身可愛さ、自己主張が目的であれば、どうしてこれほどまでの手間暇と大いなる犠牲を払ってまでわざわざ主張するだろうか。無駄なことである)。

当ブログではただ、私たちを贖われたキリストの十字架における犠牲の完全さを主張し、贖われた人間を再び罪に定めることのできる人間は誰もいないということを示しているのである。
 
従って、聖書に予告された通り、この贖いに敵対する人間は、ヴィオロン何某に敵対しているのではなく、神の贖いを否定しているわけであるから、自ら救いを退けているのであり、罪に定められるのは当然である。

以上のような出来事は、やはり不当な圧迫に毅然と立ち向かえばこそ、得られる収穫である。

多くの人々は、著名人や、自分より強い力を持った権力者に対して、波風を立てることは、無益であり、害をこうむるだけだと考えている。彼らの頭の中では、法を犯すことが悪なのではなく、「権力者に立ち向かうこと、世間に波風立てることが悪」なのである。

しかし、筆者の言い分は、これとは全く別である。不当な主張に対して、立ち向かわなければ、何一つ成果はない。立ち向かわないことは、不当な主張が真実であると認めることに等しい。その悪しき効果は、すでに幾度も述べた通りであり、最初はどんなにいわれのない中傷や非難の言葉であっても、それを退けずに認めるならば、その「呪い」が現実になって行くのである。

また、不当な主張に反論しないということは、自分の権利を知らないこと、それを自ら放棄することを意味する。自らの権利を侵害されても、それを権利侵害と主張しない人間が、正当な権利を手にすることは決してない。

だが、自分の権利を主張するためには、まず、自分がどういう者なのかを知らなければならない。 
 
私たちの立脚点はあくまで天のキリストである。キリストの完全性が、私たちの霊的現実であり、また最終ゴールなのである。そこで、私たちの諸権利は、地上の法的根拠によっても付与されていることは確かだが、何よりも、天におられるキリストから発するものなのである。

キリストが持っておられる義が、私たちの義なのであり、彼の持っておられる聖が、私たちの聖なのであり、彼の贖いが、私たちの贖いとなったのである。これが、私たちクリスチャンにとっての本当の「人権」が生じる発端である。

つまり、この世の法的根拠は、アダムに属する古き人の人権を規定しているが、私たちはキリストから生まれた「新しい人」として、アダムにはるかにまさる人権を持っていることを知るべきなのであり、私たちの人権意識はすべてここを発端として始まるのである。
 
この他、山と書かねばならない事実があるが、それはこれからの記事に回すことにしたい。そこでは、虚偽や、他人の悪意や、中傷だけでなく、金銭面でも、仕事の上でも、人間関係でも、私たちは全ての圧迫に立ち向かわねばならないことを示すつもりである。そのためには、攻めの姿勢が極めて肝心だということを書きたい。

ただその前に一言だけ、もう一度、言っておきたい、サタンは、人に不当な重荷を課す達人だが、その重荷はサタン自身にお返しできるのだと。その法則を学びさえすれば、不当な圧迫に立ち向かうことは難しいことではないと。

長年、当ブログにいわれなく敵対・挑戦して来た人々は、村上牧師のように、自己の名声のためだけでも良いから、早期に主張を撤回して和解しないなら、彼らの名誉はいずれ打ち破られて粉々になるだろう。特に、宗教指導者でありながら、信徒と徹底的に争うようなことをすれば、その指導者の名声は終わりである。

さらに、物事には順序があるが、匿名掲示板だから対象外ということは決してない。というよりも、実名により、もしくは、自分自身でブログやホームページを開設して、きちんと文責の所在を明らかにした上で、公に論争している人々に比べ、このように真に「匿名に隠れて」、一切、責任を取ろうとしない形で、騒ぎを拡大している人々の方が、より罪が重く、責任も重いのは当然である。彼らが誰であり、誰の指示に従って動いているのか、といった事実も、時と共にはっきりするであろう。

筆者は、横浜にやって来た目的はここにあると考えている。つまり、試金石としての役目を果たすことにある。世間に媚び、地的な思いに心を占領されている人々と仲良くすることが目的では初めからないのだ。そして、暗闇の中で、ひそひそ声でささやかれただけのような会話が、今、公にされている事実を見ても、神はやはり闇の中に隠れていた真実を明らかにされる方だと思わずにいられない。

私たちは信仰のともしびを内に持つ者として、闇を照らす光である。私たちクリスチャンが存在することによって、世はその暗闇の中に隠れていた事柄を明るみに出されるのである。カルト監視機構を闇を暴くのではない。神の教会とクリスチャンこそ、高い山の上から下界にある町々をことごとく照らし出す大きなともしびなのである。
 
そこで、筆者はすべての心あるクリスチャンに向かって言いたい、最後まで目を上げて、この戦いをしっかり見なさいと。そして、不当な重荷を勇敢に押し返しなさいと言いたい。勇敢に重荷を払いのけて、早くそれを負うべき人間に押し返しなさい!と。

かつて、日本軍は敗戦に敗戦を重ねている時でさえ、自分たちは「勝っている」と嘘を発表して来たが、悪魔のやり方は今日も同じである。敵は最後まで「負けてはいない」と見栄を張るであろう。そして、正しい人を罪に定め、殺そうとするであろう。しかし、当ブログを嘲笑している人々が、恥をこうむって終わることは、聖書によれば、初めから確定済みの事実である。なぜなら、神を避けどころとする人間が恥をこうむることは決してないからである。
 
おそらく、当ブログがカルト被害者救済活動に対して勝つか負けるか、虎視眈々と結果に注目している人々が、世間にはかなりの人数、存在しており、情勢次第では、早速、カルト被害者救済活動に恨みを晴らすために襲いかかろうとしている人々も、たくさんいるものと考えられる。なぜなら、この活動はあまりにも多くの人々に敵対して来たためである。すでに戦いの決着はつき始めている。

筆者はクリスチャンであるから、カルトを擁護しようとは全く思わない。しかし、筆者はキリスト教を絶対的なものとして、人々に押しつけるつもりは毛頭なく、これを信じない人々を排斥するつもりもない。

筆者が擁護しているのは、内心の自由であり、信教の自由である。

クリスチャンであっても、人々は間違うことがある。そして、神はアダムが誤って罪を犯してしまうことを想定した上で、それでも、アダムに自由意志を授けられた。神が人間を創造される時、自分に逆らわないように脅したり、強制力によって意志を奪うということはなさらなかったのである。

それは今日も同じであって、神は、私たちが自らの判断で、物事の真偽を確かめ、正しい道を選び取っていくことを願っておられる。人は一時的に誤った教えをそれと知らずに信じてしまうこともあるかも知れない。だが、だからと言って、これらの人々が、その誤った思想のゆえに、危険人物のごとく排斥・殲滅されるようなことはあってはならない。公正な論争は行われなければならないが、それはあくまで法的に許された範囲内で行われるべきである。誤った思想を持つ人間を排斥することが目的になれば、それは初めから間違った運動である。

(しかしながら、一つのパラドックスとして、当ブログの根絶を願った人々が、自らブログを根絶され、当ブログ主の社会的抹殺を願った人々が、自ら社会的に抹殺されるということは大いに起きうるであろう。それはただ彼らが他人を呪い、他人の不幸を願い、他人に対して宣告した呪詛の言葉が、自分自身に跳ね返っているだけのことである。)
  
人は病原菌に感染して免疫抵抗力を育み、耐性を身に着けて強くなる。その意味で、病原菌そのものは有害であっても、人はその危険性に触れてそれを理解・体得したことによって、結果的に耐性を身に着け、進歩することがある。異端や誤った教えもこれに似ている。それ自体は極めて有害なのだが、それが存在していることによって、初めて、人々は、これを見わけ、退け、抵抗していく術を学び、自分の弱点をも知って、これを防衛する方法を学び、より賢明になり、進歩するのである。

その意味で、カルトそのものは誤っており、あるべきでないとはいえ、人の人生は複雑であって、これに触れたことによって初めて学べる教訓が存在する。その意味で、人の内心の自由は、誤った思想を信じないことよりも、より高度な利益であり、優先されるべきものである。

それにも関わらず、カルトが危険だというだけの理由で、カルトとカルトに「感染」した人々を根こそぎ危険人物扱いし、断罪し、無理やり棄教させ、考えを改めさせ、徹底的に謝罪させて恥をかかせ、誤りを認めさせなければ気が済まないといった時代遅れな方法では、物事は何も解決できない。まして強制力を用いて彼らを思想改造(洗脳)し、脱会工作を行い、内心の自由を侵してキリスト教徒に仕立て上げるといった方法では、カルトの問題を解決することは決してできない。

神がサタンを最終的に滅ぼされるまではまだ時間が残されている。その時間は、私たちが触れてはならないものが何であるか自ら識別することを学習し、誤った思想に対する耐性を身に着けるための時間なのである。従って、誤った教えを根絶して完全な無菌室を作ることは、地上では不可能事であるだけでなく、それによっては、私たちの進歩はない。

しかしながら、同時に、話を戻せば、恐怖、不安、脅かし、嘘といった圧迫は、何よりも、それをもたらした悪魔自身にお返しし、悪魔にこそ、恐怖を増し加えることができるのである。

だから、不当な圧迫は、どこから来たのか、原因を特定した上で、悪魔にお返ししなさい。恥は悪魔に、栄光は神に返しなさい。私たちは、キリストと共に天の栄光に満ちた御国を相続する者なのだから、主に信頼する者が恥をこうむることがないというのは、真実である。だとすれば、当然、恥は、それを負うべきしかるべき存在が、キリスト者とは別に、存在しているはずである。

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小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださるのだから。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

さて、当方が申し立てた民事調停の第二回目の期日が開かれなかったことを、まるで当方が一方的に調停期日を「キャンセル」したかのように、自分に都合よく言いふらしている連中がいるようなので、一言断っておきたい。

普段から、裁判、裁判と叫んでいる割には、彼らは裁判手続きの詳しいことをよほど知らないらしい。当方は、申立を取り下げたわけでは全くなく、そもそも民事調停のキャンセルと不成立は全く違うものなのだ。

今回は、訴訟へ切り替えるために、裁判所に調停不成立としてもらえるよう要請を行った。後日、必要文書が裁判所から送られて来るので、それをつけて訴状を出すだけである。

民事調停は不成立になれば、これを前提として訴訟に移行することができる。その方がゼロベースから訴訟を起こすよりはるかに有利なのだ。しかも、今度は、原告の住所地の裁判所へ訴状を出すことになる。わざわざ遠方へ足を運ぶ必要がない。実に便利である。

訴えは複数、提起することになろう。しかし、この辺のことは戦略なのでブログで詳細を公にはしない。だが、本訴となれば、判決も含めて、申立の内容も、答弁書も公表されるため、誰が嘘を言っているのかは、当然ながら、万人に知れ渡ることになる。訴えに反論するためには十分な証拠が必要であり、根拠のある反論ができなければ、原告の言い分が認められるだけである。

カルト被害者救済を唱えている陣営は、案外、裁判手続きに疎いようで、この当たりのことを何も知らずに、ただ調停が開かれなかっただけで、争いは終わった、自分たちは勝った、通常通りの生活に戻ったと、恥ずかしげもなく嘘のプロパガンダを流布しているようだ。相変わらず、刑事事件も終結していないうちから、あまりにも軽率な連中である。
  
だが、考え違いをしないでもらいたいのだが、彼らのついた嘘は必ず、責任追及されることになる。当ブログは信仰告白がメインなので、裁判手続きについて細かいことは、これからも事前には決して書かない。場合によっては、事後も書かないことがあるかも知れない。今、言えるのは、こちら側では必要なアクションを着々と取って行くだけであり、脅されたからと言って退却することは決してないということである。

向き合う価値のない連中、あまりにも愚かな論争とは思うが、バアルの450人の預言者を相手取ったエリヤと同じように、勇敢に、決して途中で諦めたり、手を引くことはせず、決着をつけるまで戦い抜く所存である。

これまでも、幾度も見て来た光景なのだが、理屈の勝負となった時に、人数や力だけをよりどころとして来た連中は、絶対に勝てない。仮に向こうが当方を「口達者なだけで臆病な兎」と考えて馬鹿にし、見下げているとしても、口で筋の通った理屈を唱えられなければ、負けるのが裁判というものなのだ。そこでは、人数も図体も腕力も何の頼りにもならない。

それが証拠に、鳴尾教会との裁判で、アッセンブリー教団・村上サイドはボロ負けしている。そうなるまで、鳴尾教会の信徒の人数の減少を、村上は鬼の首でも取ったように吹聴して、さんざん上から目線で馬鹿にしていたが、その村上が負けたのだ。次には、「穴にこもった兎」と揶揄してさんざん馬鹿にしていた人間に負けることになる。事前に馬鹿にすればするほど、敗訴した時にはさらに面目丸つぶれとなろう。
 
このように、ジャイアン対のび太、ジャイアン対スネ夫の勝負であっても、ジャイアンが必ず負けるのが裁判というものなのだ。ジャイアン相手であれば、誰でも訴状を出しさえすれば、自動的に勝てると言っても過言ではない。別に口達者でなくてもよいのである。ジャイアンには腕力以外の取り柄がないので、誰にとっても恐れるに足りない。しかも、申立書は8割方出来ている。

もっと言えば、私たちはロゴスなるキリストに立脚して、信仰によって、すべてのことを行っている。私たちには、決して揺るがされることのない永遠の岩なるお方がおられる。だが、向こうには何も立脚するよりどころがない。あえて言うなら虚無の深淵、混沌から生まれて来たような、信仰のない連中である。このような闇が光に打勝つことは決してあり得ない。よろめいても、つかまる支えになるものさえ彼らにはなく、風に吹き去られるもみ殻である。

このような状況で、とある連中が、決着も着いていない争いについて、嘘のプロパガンダをさんざん流布していることは、こちらにとっては、実に好材料である。間違いなく、彼らが垂れ流す嘘は、賠償金や罪の重さに関わって来ることになるからだ。大いに油断させて、言いたい放題言わせて、周到に材料を集めながら、様子を見るのも一つの戦略で、愚か者は口が軽く、思い込みが強く、自惚れ切って、慢心しているため、自らの愚かさによって墓穴を掘るに任せよう。

ちなみに、参考までに書いておくと・・・

(被告の)名誉毀損行為が違法でないと認められるには以下の3つの条件が必要になります。
• 【公共の利害に関すること】
• 【書き込んだ目的が公共の利益を図るもの】
• 【その内容が真実である又は真実と信じる相当の理由がある】
これらを1つでも満たしていないことを裁判所に主張し、認められれば(原告の)請求が認められる可能性はあります。

これを読めば、我々にとっての戦いのハードルがどんなに低いかすぐに分かるのではないだろうか。筆者に関する誹謗中諸の書き込みは、この条件を全部満たしていない。筆者は公共性のある人間ではない。当ブログは公刊論文でもなく、宗教団体の発信したメッセージでもなく、公共の利益とは関係のない、私人の信仰告白に過ぎない。さらに、最後の真実であることの立証責任を彼らは絶対に果たせないであろう。本人でない者がこれを立証するのはもともと至難の業だからだ。

たとえば、実際に刑事告訴された人物について、事実に基づき、「誰それが刑事告訴された」とブログに書くのは、事実なので、基本的に違法行為とはみなされない。しかし、「誰それのブログ内容が犯罪的である」とか「誰それは精神疾患である」などと書き、それが名誉毀損の違法行為に当たらないと主張するためには、「誰それのブログに具体的な犯罪性があること」および「誰それが精神疾患に陥っていること」を、書いた本人や情報を掲載した者が、具体的根拠と共に立証せねばならないのである。

そこで、相手をよく知りもしないのに、根拠なく人を貶める印象批評ばかりしていれば、その記述のすべてについて、立証責任を問われることになり、それが立証できないために、誹謗中傷になって終わる。記事の削除くらいで済めば良いが、賠償請求の対象となる危険が極めて高いのだ。

だからこそ、当ブログでは結論を述べるに当たっては、必ず根拠となるソースを明白にするようにしている。画像の転載でも、安全と認められなければ、出典を記載しないことはない。こういう細かい作業は、論文の書き方の基本である。しかし、彼らの主張には根拠となるソースがいつもない。そこで、多分、彼らは反論のために論拠を探し出すだけでも、大変な苦労となるだろう。次々とネガキャンを書けば書くほど、立証責任がますます重く彼らにのしかかって来るというわけだ。

それから、もう少しだけついでに予告すると、訴えの内容如何によっては、賠償金は必ずしも判決が出てから支払いになるとは限らない。さらに、調停で一回請求がなされていると、延滞利息がつけられることもある。むろん、追加の請求が発生することは言うまでもなく…あとは、残念ながら、訴状が届いてからのお・楽・し・みだ。

そういうわけで、今、思い出されるのは、以前、筆者がこちらへ引っ越して来たばかりの頃に、筆者のバイクがいたずらで盗まれ、犯人が全員検挙された時のことだ。筆者は警察に被害届を出した際、犯人が見つかることには大した期待を寄せておらず、バイクも見つからないかも知れないと半分あきらめていた。しかし、すぐに近所で乗り捨てられていたバイクが発見され、それほどの故障もなく、十分に使用可能であったので、日常生活にはまるで支障をきたさなかった。後ほど弁護士から示談の電話がかかって来て、その時に、筆者のバイクを盗んだのは、8人くらいの少年グループで、あちこちで似た様な事件を引き起こしていたため、別の家で防犯カメラにばっちりと犯行の映像が映っていたことから、全員、面子が割れて捕まったと聞かされた。悔やまれるのは、その時、一人一人にきちんと賠償請求していれば、即座に新しいバイクが買えていたに違いないということだけである。

そこで、以前にも書いたように、村上密、杉本徳久を含め、カルト被害者救済活動の支持者らに誹謗中傷された人々は、集団訴訟に移行することを強くお勧めする。筆者はカルト団体は基本的に支持しないが、信教の自由を守る戦いにおいては、心は一つである。しかも、以上の連中は「不正に時効はない」という考え方のようなので、大昔の事件でも思う存分に追及されたら良いと思う。根拠のない脅しメール一通であっても、賠償請求に上乗せすればよろしい。迷惑を受けた宗教団体の方々は、アッセンブリー教団に公式に苦情と罷免の請求を送りつけられたらどうだろうか。当ブログでも、訴訟が開始すれば、署名なども募るかも知れない。

当ブログは、裁判沙汰やネガキャンにのめりこむことなく、この先も、あくまで基本路線の穏やかで平和な信仰告白と異端反駁を続けて行きたいと考えているが、おそらく、この事件の決着をつけることと、安倍政権の崩壊は深い所では一つにつながっているのではないかと感じられてならない。ネトウヨが跋扈して弁護士に勝ち目のない懲戒請求を送りつけるような、薄汚れた曲がった時代は早く終わらねばならない。きっと大勢の人々がそう感じているはずだ。

しかし、神の国の前進は、我々がぽかんと空を仰いでいてやって来るものではなく、一人一人のクリスチャンの毅然としたアクションにかかっている。そこで、我々は勇敢に真実を持って誠意ある行動を取るべきなのである。

「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)

私を強くして下さる方に…

 「わたしはあなたの前に行って、
 もろもろの山を平らにし、
 青銅のとびらをこわし、鉄の貫の木を断ち切り、
 あなたに、暗い所にある財宝と、
 ひそかな所に隠した宝物とを与えて、
 わたしは主、あなたの名を呼んだ
 イスラエルの神であることをあなたに知らせよう。

 わたしもべヤコブのために、
 わたしの選んだイスラエルのために、
 わたしはあなたの名を呼んだ。
 あなたがわたしを知らなくても、
 わたしはあなたに名を与えた。
 
 わたしは主である。
 わたしのほかに神はない、ひとりもない。
 あなたがわたしを知らなくても、
 わたしはあなたを強くする。
 これは日の出る方から、また西の方から、
 人々がわたしのほかに神のないことを
 知るようになるためである。」(イザヤ45:2-6)


生きることは、これまで筆者が考えていたような事柄では全くない可能性がある。

世人は日々働き、家庭を設け、行きたいところに行き、食べたいものを食べ、買いたいものを買って、それで生きていると思っている。そうこうしているうちに、老いと死がやって来て、もっとやりたいと思っていたことが閉ざされる日が来る。

だが、どんなに多くのことを望んでも、人が一生のうちに成し遂げられることなどたかが知れている。すべての夢を実現したとしても、行き着くところは知れている。大志を抱くなどと言ってみても、どうせ人間のすることである。偉業と言っても、せいぜい月へ行く程度のことであろう。

だが、そのような常識的で限界だらけのちっぽけな計画の中に、到底、おさまりきらないような可能性が、信仰生活の中には隠されているように思われてならない。そして、もしこのスケールで生きることがなければ、信仰を持つ意味というものも、それほどはないのではないかという気がしてならない。

神はむろん、信者の生活を隅々にまで渡って守って下さるが、そうは言っても、ただ単に信者のちっぽけな生活の「お守り」のためだけに、神が存在しておられるわけではないからだ。

筆者はこれまで、通勤前に雨が止んだとか、買いたかった商品が手頃な値段で手に入ったとか、思っていた通りの仕事が備えられた、などといったことで喜んでいたが、本当は、信仰によって得られるものは、そんな程度のものではない、という気がしてならない。

それらの小さな事柄にも、むろん、神の憐れみと慈しみを見るのだが、それでも、信仰によって生きるとは、そもそもこういうことではない、という気がしてならない。

信仰生活とは、常に生きるか死ぬかのところで、水面上に束の間、顔を出したり、またその下に沈んだりしながら、かろうじて命を保っているから、神よ、感謝です、などというものではない、という気がしてならない。

むろん、弱さの中を通らされ、その中でも、神を信頼して見上げ、神の不思議な知恵によってすべての窮地を乗り越える秘訣を知らされた、という経験が有益なのは言うまでもない。筆者自身、そういう細い道を何度も通らされ、信仰を養われたし、これからも、そのような経験が、なくなることはないであろうと思う。

それにも関わらず、信仰というものが持つ可能性は、そんな程度のものではない、という気がしてならない。そんな程度のことはほんの序の口でしかないのだと。

たとえば、我々は死人がよみがえらされるところを一度でも見たことがあるだろうか? 歩けなかった病人が力強く立ち上がって神を賛美するところを見たことがあるか? 決して、奇跡だけを追い求めるためにこのように言うわけではないが、それでも、信者が「主よ、感謝します」と言っていることの内容の大部分は、あまりにもちっぽけで、あまりにも信仰を要しないことばかりではないのだろうか?

つまり、キリストの復活の命にある支配というものを、もっと大きなスケールで、もっと予想を超えて知りたいと思わずにいられないのである。

そして、それを知るためには、おそらく、信者は自分の思いそのものを押し広げる必要があると思う。常識の囲いを取り払い、神の御心にふさわしいほど、信者は自分の思いから、限界という隔てを取り払わなければならないのである。

筆者は、神が望んでおられるように強くなり、思いを広くし、この世の法則に力強く立ち向かって、生きていきたいと願わずにいられない。それはただ単に持久力や精神力や若さといった肉にあっての強さのことだけでなく、主と共なる霊的な統治の力強さなのである。霊的創造の豊かさ、力強さである。

神の大能の御力によって奮い立たされる

何年間も、筆者は半分、ブルーカラーのような仕事をしながら、色々な仕事に応募するために、数々の派遣会社を巡った。筆者はピアノを弾くので、指の動きはかなりの速さであり、派遣会社で課されるタイピングのテストは常に高得点であったが、ワード、エクセル、パワーポイントなどのお決まりのテストには、最初は随分、閉口させられたものだ。

何しろ、筆者はずっと古いパソコンを使い続けており、当時は、これらのソフトに、全く対応できていなかったのだ。勉強する機会されあれば、そんなものはあっという間に習得できるのに、半分ブルーカラーの仕事では、パソコンに触れる機会もない・・・。

派遣会社では、高学歴の筆者を、半ば蔑むようにして社員たちが見ていた。こんなにも立派な学歴があるのに、なぜこんなところに登録しなければならないのですか、よほどあなたは酔狂なのですね、私たちを馬鹿にするためにここへ来たのでしょうか、とでも言いたげな目つきで、異星人のように眺めるのだった。

ここは筆者の生きるべき世界ではない、彼らは人間の皮を被ってはいるが、人間の心を失った人たちだ、ということが、その目つきからも、態度からも、よく分かるのであった。

それにも関わらず、こうした監獄のような人生を筆者が抜け出るためにかかった時間は、かなりのものであった。抜け出るためには、その世界が、本当に筆者の生きるべき場所ではなく、何としてもこんな世界とは早くさよならしなければ、キリスト者である意味が全くないと感じるに十分なほどの強い嫌悪感が必要であった。

新しいアイデンティティによって、古いアイデンティティが打ち壊されることがどうしても必要であり、貧しい生活、死と恐怖と不安に脅かされ、支配され、搾取されるだけの生活に対する心からの嫌悪と憎しみに加えて、キリストはそのような恐怖に脅かされる生活にこそ、カルバリで打ち勝って下さったのだという聖書の事実への絶対的な確信が必要であった。

貧しい者たちへの同情や共感も、その過程で、振り捨てる必要があった。他者にどんなに同情しても、そのことは彼らにはプラスにならないどころか、その人間が筆者を踏みつけにするだけなのである。そこが自分の属する世界でなく、そこにいる人々も筆者の仲間ではない、ということを完膚無きまでに確信し、望ましくない道連れと完全に訣別する必要があった。

それから、神が信者のために天に蓄えて下さっている宝を、自分自身のものとして、断固、要求し、地上に引き下ろす秘訣が次第に分かり始めたのである。結構な時間が必要であったが、その実験はこれからも続くであろう。

そのような決意を固めるまでに、筆者が悪徳企業とその手下どものあくどさに驚き、呆れ果てた回数は数知れず、遭遇した事件は、すべて省略するが、ここには書ききれないほどである。

周りにいる兄弟姉妹からはよくなぜそのような生活を送らねばならないのか理解できない、と言われ、家人からは、もっと別な生き方があるはずだと諭された。ついに、その頃、周囲にいた裕福な信者たちから、まるで同情の価値なしとして、徹底的に蔑まれて初めて、筆者はそのような生活が、ただ悪魔を喜ばせるだけであることにはっきりと気づき、これを断固拒否して、自分自身から鎖を払い落としたのであった。

そのようなことが可能になる前提として、筆者は、地上の経済とは別に、天の経済というものが確かに存在していることを確信する必要があった。地上の経済は、天の経済によって支配されており、天の統治は、悪魔の統治に勝る。たとえ全地が悪魔の支配下にあったとしても、悪魔の権威にまさるキリストの御名によって天から治める者は、この地の経済の全ての制約を超越する権威を持っているのである。だから、信仰者の生活においては、まず、すべてが信仰によって、地からではなく、天から始められなければならない。そうして初めて、地上にその効果が現れるのである。

それが最初に分かったのは、筆者が横浜へやって来たときのことであり、この移住のために、すべての必要な資金が、筆者の努力によらず、祈りによって、不思議な方法で天に備えられ、供給された。相当な資金が満たされただけでなく、人の心までも変えられたのである。些細なことについて言えば、この地に着いて間もなく、筆者はバスの路線がよく分からず、バスを乗り間違えて、別の停車場で降りたことがあった。その時、バスの運転手が話しかけて来て、路線を尋ねているうちに、持っていた回数券を、筆者にくれると言うのである。そんな風に、天の経済に生きていると、損失というものが生じないのである。信者のこの世の知識が不十分で、バスを乗り間違えたとしても、そのことさえ、補償の対象内となっており、別な方法で必要が満たされるという塩梅であった。

まるで全世界の物流、金の流れ、人の心、この世の動向の全てが、自分を中心に回り始めたと言っても過言ではないくらいの、何かはかりしれない命の力が、自分自身の内にあって働くのである。それがキリストの権威であり、統治なのである。

筆者自身は全く取るに足りない一人の人間に過ぎないのに、信仰によって生きる時、そういう現象が起きて来るのである。そういった一連の事実が、神の見えない霊的な秩序が確かに存在していることを筆者に確信させ、その秩序に大胆に生きる必要に目を開かせた。この地にやって来た時に起きた現象の全てが、信者がこの世の限界に満ちた制約を実際に打ち破り、超え得ることを筆者に確信させた最初の一歩であった。

だが、ネット上のバッシングなどが起こって、兄弟姉妹だと考えていた人々を含め、多くの人々が、筆者に敵対する側に回ったり、裏切る側に回った時、筆者は混乱し、その天的高さに生きることを中断してしまった。なぜなら、その当時の筆者は、確かにキリストによって新しくされた人間であると同時に、未だ古い思考パターンによって、この世の人々と同じように、常識的にものを考える人間だったからである。

この世からの敵対が激しくなればなるほど、その怒りをなだめるために、筆者は自分が何かをせねばならないという思いに駆られた。その敵と憎しみが、筆者にはまるで関係のないことであり、キリストの命によって生かされた全ての新しい人間に対する、地獄の全軍からの尽きせぬ敵意と憎悪なのだということに思いが至るまで、一定の時間が必要であった。

だが、その敵意が地獄から来たものであることを理解した後、それに打ち勝つためにも、筆者は「ただの人」であってはならないことが分かった。ただの人には、地獄の軍勢に立ち向かう力はない。それができるのは、キリスト者が御名の権威に立つときだけなのである。

さて、筆者がキリストと共なる十字架の死と復活を知って、初めてはっきりと理解したことの中に、神の復活の命は、たとえ核爆弾が七回炸裂して全地球が滅びに至るまで汚染されたとしても、そのすべての圧迫に打ち勝つ威力を持っている、ということがあった。

どうしてその時、核爆弾のことに思いが行ったのかは分からないが、いずれにしても、復活の命を滅ぼすことのできる脅威は、宇宙全体に全く存在しない、ということが分かったのである。筆者自身が持っている脆く壊れやすい肉体と、その命のはかりしれない力のコントラストが、自分自身ではっきりと感じられた瞬間であった。

地獄の軍勢に対峙するときにものを言うのは、その復活の命の威力だけである。アダムの命に生きている限り、信者は悪魔にやられっぱなしになるしかないが、復活の命に立つと、彼らは引き下がらざるを得ない。そして、悪魔に支配されているこの世が、信者のために、今までとは全く違った方法で機能し始めるのである。

私たちは主イエスが地上におられた時、どのようにして物質的・金銭的・この世的な必要を満たされたのかに注意してみる必要がある。エルサレム入場の際、主イエスは行ったことのない、見たことのない場所にロバがつないであることを予め知っておられた。主イエスは泊まる場所を確保しておらずとも、ザアカイの存在を知っておられ、彼がご自分のために宿泊の用意を整えるよう、声をかけられた。

そんなことから、主イエスは地上におられる間、常に人の目には行き当たりばったりと思われるような、この世的な観点から見ると、保障のない生き方をされていたことが理解できる。ところが、主イエスは地上で何一つ所有物を持っておられなかったのに、全ての人・物が、彼に仕えたのである。必ずしも、はっきりと言葉に出して命じられたわけでもなく、自然と、そうなっていったのである。それが御霊の統治なのである。主イエスご自身が、人格を持ったパースンであると同時に、神の霊的統治だったのである。

主イエスの統治は、人の人格と結びついた統治であり、しかも、この世の支配のように、虐げ、搾取し、権力を振るうための統治ではなく、解放し、豊かな命を与え、人を永遠に生かす統治であった。

従って、信者は主イエスの地上の生活のことを思う時、それは主イエスお一人だけでなく、信者が実際に送ることのできる生活であると考える必要がある。だが、それは常識から見れば、全く無謀かつ不可能な生活でしかない。この世の常識は、明日の保障を求め、それがあることを安全だと解釈するからである。従って、信仰による霊的統治に生きるためには、それがこの世における常識と全く相容れないことを、信者は理解し、これを受け入れなければならない。

さて、地獄の軍勢と対峙し、主が与えられた命の解放を生きて実際に知るためにも、信者は神の命に込められたその力を奮い起こし、これを最大限、引き出し、鷲が翼をかって天高く空に駆け上るように、もとにいた高度に戻らなければならないのである。

派遣会社が設定したつまらないテストなどを受けて、その結果によって自分をおしはかり、一喜一憂したりしているような場合ではない。そんなものはすべてこの世が人々を奴隷にするために作り出したシステムでしかなく、本当は、信者自身が、この世をテストする側に回るのである。それが本来のあるべき秩序なのである。つまり、信者がこの世の前に跪くのでなく、この世が、キリストの御名の権威の前に跪かなくてはならない。信者はその神の統治を持ち運んでいる者である。

そこで、たとえ、信者自身に、この世的な観点から見て、どんなに能力や、経験や、権勢が不足しているように見えたとしても、信者はそのことで落胆したり、勇気を失ったりしてはならない。誰にも知られない若者だったダビデを召して油を注がれ、ダニエルを呼び出し、落胆していたギデオンを呼び出された神は、この世のどんな取るに足りない者であっても、信仰さえあれば、その者を今日も呼び出され、油を注いで、「勇者よ」と言うことがおできになる。信者が何者であるかは、この世が決めることではなく、神が判断されるのである。信者は神の召しに全幅の信頼を置かなければならない。

そんなわけで、筆者はその後、半分ブルーカラーのような仕事に訣別し、苦手としていたすべてのオフィス系ソフトをも、仕事で問題なく覚えるようになり、やがて派遣会社への登録を全て抹消し、仕事について、かなりの条件をつけて神に願うようになった。

まだまだ、筆者は天の高度にふさわしい意識を完全に取り戻したとは言えず、この世における自分の弱さを思い、不安に駆られることもある。だが、神はご自分の子を訓練されるのである。悪魔と暗闇の勢力に対峙しうる神の軍隊の強力な兵士に生長するまで。

ミデヤンの地で…

モーセはイスラエルの民に生まれた男子に皆殺しの王命が出たとき、まだ赤ん坊だったが、エジプトの王の娘に拾われて九死に一生を得、王子として育てられ、成長してから、自分の本当の出自を知った。だが、同胞がエジプト人に虐げられているのを見て、解放しようとしたところ、かえって殺人者の汚名を着せられてしまった。

モーセはファラオに追われる身となり、自分の無力を知って、恐れ、逃亡した。そして、再び主によって、民の解放のために呼び出されるまで、ミデヤンの地で名もない市民として、知られざる平和で穏やかな生活を送った。

おそらく、家族を慈しみ、家畜を飼い、使用人を養い、財産を管理したことであろう。だが、その間の生活は、モーセの人生において、ほとんど記録もされておらず、それほど重要な意味を持っていたとは言えない。

モーセがミデヤンの地で何を考えていたのかは分からない。彼はエジプト人を殺し、同胞からその罪を非難された嫌な記憶を消し、自分自身から逃れようとしていたのかも知れない。あるいは、ファラオに立ち向かう力のない自分を恥じていたかも知れないし、追手を恐れていたのかも知れない。あるいは、エジプトの王家で育てられたのに、正義感に駆られて、イスラエルの同胞の味方になろうとした自分の浅はかさを恥じて、忘れようとしていたのかも知れない。

いずれにしても、ミデヤンの地で暮らしていた時のモーセの心境は不明だが、彼は自分に与えられたミッションそのものを忘れ去り、そこから逃れようとしていたのではないかと思われる。神は彼の心の準備が整うまでずっと待たれた。

主の軍隊に徴兵されたという事実は、信者の生涯において変わらない。神の召しは決して変わらない。それは私たち人間側からの決意ではないからだ。だが、そうは言っても、私たちの側では、常にそのミッションに対して準備が出来ているわけではなく、モーセがファラオの追手を恐れて逃げたように、あるいは預言者エリヤがイゼベルの追及を逃れて逃亡したように、あるいは預言者ヨナがニネベに罪を宣告するという召しから逃げたように、信者が神の与えられた召しの重さから逃げようとすることがある。

神はそんな時、決して強制はされないが、私たちが再びその召しに戻る準備が整うまで、根気強く待たれる。時に説得し、時に励まし、様子を伺われる。神は、それが決して人間の意志によって始められた戦いではなく、たとえ信者が逃亡したとしても、神が必ず信者を引き戻し、最終的に御旨を成就されるのだということを知らされるのである。

筆者の人生にも、度々、この「ミデヤン生活」の時期が現れた。

 以前、この記事に筆者は、就職面接の履歴書について書いていたようである。だが、それはミデヤンの地で、筆者が主の召しから逃れ、世の仕事に志願するために書いていた履歴書を指している。その当時、このブログの読者は、筆者がモーセのように、大胆に主に召され、何か大きなことを成し遂げるのではないかと期待していたと思うが、筆者はその期待には応えず、かえって世の中でも相当に低いとみなされている仕事に志願し、主の召しについては他の兄弟姉妹にバトンを預けた。

そんなことになったのも、当時のネット上で起きたバッシングの影響が大きかった。その事件は、それまで全生涯を主に捧げ、神の国の働き人となるという、筆者が固めていた決意に、大いに水を差したのである。ネット上のバッシングだけならば別にどうということもなかったかも知れないが、それとほぼ同時期に、当時、親しく交わっていた信者たちから、いわれなく誤解され、排除され、霊的な挟み撃ちに遭ったことが、筆者に大変な衝撃を与えた。

その頃の筆者は未熟で、影響されやすい、単純な人間であった。長い間、筆者は羊のような性格で、自分を未熟者と考えていた。平素は穏やかであるが、穏やかすぎるために、戦闘意欲に欠け、かつ、戦いの方法を知らなかった。敏感で、繊細で、感受性が強く、予想外の出来事が起きると、とにかく逃亡し、長い間、物陰に隠れてただ平穏が戻るのを待った。さらに、兄弟姉妹に裏切られると、少なくとも、一年間くらいは、その事件のショックの余韻を引きずっていたことであろう。

しかしながら、神は筆者よりもはるかに根気強い方であり、どんな信者の場合でも、信者が強くなるまで、あきらめることなく、根気強く訓練されるのである。恥じる必要はない。どんな信者も、初めから強力な戦士ではあり得ず、初戦からして勝利をおさめた者はほとんどいないであろう。コンピューター・ゲームでも、敵との初戦で勝てる人間がまずいないことを思うべきである。

だが、訓練されているうちに、信者は戦い方を会得し、強くなって行くのである。神は、筆者がいつまでも羊のままでいることを願わず、獅子のような羊になるようにと、似たような事件を二度、三度、引き起こすことによって、何が起きているのかを、否応なしに理解せざるを得ない状況を作り出された。そして、これは筆者一人の人生に関わる出来事ではなく、主の権益がかかっている、信者が全力で立ち向かわなければならない霊的な戦いであり、そこでの勝利には永遠の価値があるのだ、ということを知らされたのである。

そこで、筆者は、それまでのように、妨害が起きて来たからといって、そそくさと退却するという姿勢を捨てた。そして、今まで不意に起きたように見えた事件に何一つ偶然はなく、その背後には暗闇の勢力が故意に信者にしかけた妨害が大いにあり、それ自体が攻撃であったということを理解したのである。

何のための攻撃か? 信者を天的な高さから引きずりおろし、御霊による命によってではなく、天然の命によって歩ませるための攻撃である。我々を信仰ではなく、常識に従って、この世の基準に従って歩ませるための妨害である。

「キリストだけに頼り、信仰だけによりすがって歩むなど、馬鹿げたことですよ。あなたはあまりにも大それた夢を見ているんです。あなたは自分の人間としての分を超えて、高慢になっており、ありもしない戯言を信じているだけです。もっと周りを見てみなさい。特に、周りの人間たちの思惑をもっと気にしなさい。あなたはあまりにもマイペースで、自分のことしか考えていません。誰がそんな風に行動していますか? もっと社会に嫌われないように、人に誤解されないように、信者たちから理解してもらえ、生意気な人間とみなされないように、周囲に波風立てないように、人々の仲間として、礼儀正しく生きなさい・・・」
 
そんな風に、世間の「常識」や「道徳」を巧みに盾にとって、そこから外れないように生きることを是とする価値観そのものが罠なのである。悪魔とその軍勢は、信者が決して神の御業が成就することを願わず、キリストの復活の命が生きて現されることを信じず、むしろ、この世の常識的な価値観の中だけに閉じ込められて、束縛の中で一生を送るようそそのかして来る。

しかも、その攻撃が、多くの場合、世人だけからではなく、「兄弟姉妹」を名乗っている人々からもやって来るのだとは、当時の筆者は、十分には理解していなかった。
 
 暗闇の勢力からの攻撃は、一つの方向だけからやって来ることは稀である。時期を同じくして、二方向以上からやって来るのが常であり、それは表面的には全くつながりのないように思われる異なる集団や人々を通してであることが多い。特に、信者を精神的に混乱させ、袋小路に追い詰めるために、暗闇の勢力は信者のそば近くに裏切り要員を前もって準備しておき、決定的瞬間に、あからさまに敵と分かる勢力からの攻撃と同時に、味方による背後からの裏切りという挟み撃ちに遭わせて苦しめるのが常套手段なのである。

それはちょうど主イエスを殺そうとかねてより敵意を燃やしていたユダヤ人たちと、十字架の直前まで主イエスのそばにいて弟子として仕えていたユダの二方向から、主イエスに対する攻撃が行われたのと同じである。信者に対して暗闇の勢力が何かを仕かける時には、あかたさまな敵対勢力による真正面からの攻撃と、背後から来る身内の裏切りという二種類が同時に起きるのは全く稀でない、このことは覚悟しておいた方が良い。

それが分かってから、筆者は、身内のように親しくしていた「信者」たちから、突然に悪口を言いふらされたり、いわれなく非難され、排除されたり、決定的な瞬間に、密告や裏切りを知らされたり、予期せぬ反応を起されても、あまり動じなくなった。そういう異常な出来事は、望ましいことではないにせよ、筆者にとって、想定内でしかなくなったのである。
 
少なくとも、霊的な戦いを戦い抜くためには、敵の卑劣な作戦を知り抜いていることは、どうしても必要である。敵の悪しき攻撃の意図を予め見抜くことと、御言葉によってその成就を妨げ、攻撃を退けることは、悪しき策略にはまらないために必要である。

だから、信者はいつまでも善良でお人好しで臆病な羊のような人間であってはならず、神に召され、悪魔の軍隊と対峙する軍隊の中に置かれた限りにおいては、悪魔の卑劣さについても、学習せねばならず、その卑劣な策略に全く無知であることはできないのである。

そんなわけで、筆者は身内のような信者たちからの評価も、世人の態度にも、一喜一憂させられることがなくなり、誰かの突然の裏切りに衝撃を受けたり、人の癇癪を恐れて逃亡するということもなくなり、そもそも人の歓心を買うために努力するということがなくなった。

わざわざ波風を起こして事を荒立てる必要はないが、世と同調して歩むことが、信者にはもとより不可能なのだから、世からの理解を乞うてはいけないし、それを失ったからとて嘆いてもいけないということが十分に理解できたのである。
 
さて、筆者のミデヤン生活はそろそろ完全な終わりに近づいているが、ミデヤン生活の間に、筆者の履歴書には、羊飼いの職歴だけが長くなった。むろん、これは比喩である。

さて、一般に履歴書というのは、この世の人々に向けて書くものであるが、本当は履歴書には二種類あって、世人に宛てた目に見える履歴書と、神に宛てた霊的な見えない履歴書の二通があり、重要なのは後者、つまり、神に対する履歴書である。

神の履歴書には、地上的なわざとらしい職歴や、輝かしい学歴の羅列など一切なく、ただこう書いてあるだけだ、

「権勢によらず、能力によらず、わが霊によって」。

そして、血潮による署名と、御霊の証印というスタンプが押してある。この世の人々を説得するためのいかなる修辞もそこには存在せず、ただ神の霊的な事実が単純に記してあるだけだ。それが、筆者を含め、信者たちの本当の履歴書の内容なのである。

この履歴書があれば、恐れることは何もない。時代の趨勢がどうあろうと、世人の思惑がどうあろうとも、ミデヤン、エジプトにどんな深刻な不況や、飢饉が訪れようと、あるいは戦いが起こり、ファラオの軍隊の追手が来て、信者がお尋ね者にされようとも、この神の履歴書(身分証明書)は永久にものを言って、信者の潔白を証明し、かつ安全のうちにかくまうのである。

それだけではない、その署名と証印によって、信者はどんなことでも神に願って良い、主イエスの御名によって求めなさい、と言われている。

主が私の牧者であって、私には乏しいことは何もない。
主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水際に伴われる・・・。

生きる限り、恵みと慈しみが私を追う。
私の魂は生きる限り、主を誉めたたえる。

これは筆者の人生、あるいは、一人や二人の信者の人生の解放を意味するだけではない。主の民全体の解放と大いに関係があることだ。

モーセの召しは、ヘブライ人全体のためのものであった。モーセはミデヤンの地で羊を飼い、そこに骨をうずめる覚悟をしていたかも知れない。自分はこのまま忘れ去られ、エジプトの王子として育てられた過去などなかったかのように、へブル人の解放のために立ち上がったことなどなかったかのように、普通の人として死ぬのだと考えていたかも知れない。だが、彼のミッションは消し去られることなく、彼は信者全体の代表として立たされたのである。

モーセの心の準備がどのようにして整ったのかは分からないが、彼がもうかつての「言葉にもわざにも力がある」勇者のような若者だったとは誰にも見分けられなくなった頃、神がモーセに近づいて来られた。そして、勇気を持って立ち上がり、あなたの召しを果たしなさい、と言われたのである。

燃える柴は、私たちの前に輝いている。それは燃えているのに、燃え尽きない、御霊の炎である。私たちが最初の主の召しを受けて、それからどれくらいの時間が経過し、その間に、世の情勢がどれくらい絶望度を増して、私たちがどのくらい無力になったかは関係ない。

2009年8月30日の政権交代は今やはるか昔、年越し派遣村に批判が殺到していたのもはるか昔、今や不法にも搾取にも誰も異議を唱えなくなり、アハブ王がイゼベルと共に王座に就いて勝ち誇っている。腐敗が至るところに横行し、占い師が国を動かし、真実も、正義も、誠実さも曲げられて、誰も尊ばなくなった。もともと悪魔の支配するこの世であったとはいっても、随分、絶望度が増したものである。キリスト教徒は嘲られ、中傷されて、世の片隅に追いやられ、真理の証は損なわれ、今や聖徒らに対する迫害の刃がこっそり研がれている。
 
このような時だからこそ、虐げられている民のうめきは神の耳に届いているのだと筆者は信じている。神はこの状況に対して、答えを持っておられないような方ではない。何よりも、悲惨な状態に置かれている主の民が、解放されなければならない。そのためには、山上の垂訓が、今こそ、信じる者たちのうちで、現実となるべきである。

時は満ちた。忘れていた頃に、地上の戦争に赴くための召集令状ではなく、神の軍隊への召集令状が、信者のもとへ届く・・・。
  
雄々しくあれ、強くあれ。神の勇士たちよ! 立ち上がり、主の民に、御名によって、解放を宣言しなさい。あなたにはイエスの御名によって、悲しむ者に慰めを、捕われ人に自由を告げる権威が与えられている。勇気を出して、立ち上がりなさい。あなたが私を選んだのではなく、私があなたを選び、あなたを立てたのだ。それはあなたがたが行って実を結び、その実が、いつまでも残るためである・・・。

ただ聖霊があなたがたに臨むとき、あなたがたは力を受けて、ユダヤ、サマリヤの全土、さらに地の果てまで、イエスの復活の証人となります・・・

時は満ちた。立ち上がれ、神の勇士たちよ!
ミデヤン生活はもう終わったのだ。その間のことが嘘であったかのように、筆者も思い出を振り切って、燃える柴の中に歩みを進める。焼き尽くす炎によって、信者は自己の命を惜しむことなく注ぎだし、「生きることはキリスト、死ぬことは益」と言える生活に入って行くのである。

弟子たちが主イエスに出会って、漁師から人間を取る漁師に変えられたように、単なる羊飼いは、人間を養う羊飼いへと変えられる。牧者である主がそばについておられるので、イエスの弟子たちはみな主と同じ性質を帯びるのだ。悪魔の囚われ人ではなく、解放者へと。
 

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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