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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

全ての悪意を捨てて、ただキリストの御霊を慕う

「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。 それによっておい育ち、救に入るようになるためである。あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。

主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。」(Ⅰペテロ2:1-5)


当ブログは読者もご存知の通り、波乱万丈の出来事に常に見舞われている。かつて兄弟姉妹を名乗っていた人々からも随分、酷評されたものだし、暗闇の勢力が引き起こしたバッシングにも遭った。これらの勢力は今でも、何とかして筆者の心に悪影響を与え、執筆を滞らせようと頑張っている模様である。

だが、暗闇の勢力にはまことにご愁傷様である。物心ついた時から、気づけば文章を書き続けて来た筆者にとって、書くことはまるで呼吸のようなものであり、誰にもやめさせることはできない。

さらに、それが信仰告白と結びついてからは、記事はもはや人に向かって書き記されるものではなくなり、ネット上に公開していないものも含め、神に捧げる祈りとなった。ブログを中断していた時でさえ、天に向かって祈りを言葉にすることをやめることはできなかった。

地上のネガティブ事件は、別にブログなど書いておらずとも、クリスチャンの日常生活で起きて来るものであり、それらを全て避けて通ることはできない相談であり、立ち向かう術を理解しないことには、信仰者となった意味もない。

しかし、ブログを書いていると、そんな否定的事件をはるかに上回るほどの良い出来事があるのだ。

こうして文章を書いていることにより、何よりも、神に向かう姿勢において、背筋を正すことができる。自分の思いにまとわりつくすべての余計なものを脱ぎ捨て、何が最も重要な事柄であるか、心を研ぎ澄ますことができる。そして、世がどれほど暗闇に覆われていても、天を見上げて重荷を下ろし、天に直通の祈りを神に向かって捧げるために、心を奮い立たせることができる。

ブログ記事を書いていると、自己を客観視できるので、自分がこれまでの人生で受けて来た出来事、そこから得られる教訓を整理し、自分自身の思いや感情と、日々起きる出来事の関連性を探り、どうすれば自分の霊を奮い立たせて、霊的秩序において、主と共に同労して、無から有を創造し、御心を地に引き下ろすことができるのか、そのヒントをも明確につかむことができる。

信者の霊は、魂や体の影響を受けて圧迫され、落ち込んだ状態になることがある。暗闇の勢力が狙っているのはまさにそれである。彼らが次から次へと悪意を込めて信者の周りに不快かつ衝撃的な事件を起こして、信者の霊を圧迫するのは、信者から、霊のバランスの取れたクリアな状態(天に向かって一心に開かれた状態)を奪うことが目的なのである。

なぜなら、このバランスの取れた、軽やかで、平安な、開かれた霊の状態がなくなると、信者はキリストの復活の命の力を、自分から外に向かって流し出すことができなくなるからである。

だから、そのような暗闇の勢力の策略の意のままにはならず、どれほどネガティブな事件が起きている時にも、信者はただまっすぐに立って、出来事に頓着せずに進んでいく秘訣を学ばなくてはいけない。

たとえるなら、自分が歩いているすぐ真横で砲弾が炸裂したとしても、あるいは自分が立っている大地がゆれ動き、大水が押し寄せて来るのを見たとしても、怖じ惑うことも、逃げ惑うこともなく、いかなる混乱もせずに、ただ神を信頼して、全く動じずに歩みを進めて行くほどまでに肝が据わっている必要がある。

たとえ全世界の人々から敵対されたとしても、それに影響されず、自分に向かって押し寄せて来る大波をも静め、地震をも撃退し、炸裂する砲弾にも、まっすぐに地獄へお帰りいただくよう命じるほどに、覚悟ができている必要がある。それは死を超越した信仰の歩みである。

(むろん、これは、地震が来ても津波が来ても戦闘が始まっても信者は逃げてはいけないと言っているわけではない。信者には危険を避けて行動すべき時もあるであろうが、その時にも、出来事に翻弄されて、我を失って逃げ惑うのではなく、冷静で活発な正常な判断力を失わずに、自主的に行動するのである。そのために、どんな状況でも内なる平安に座す秘訣を学ぶ必要がある。しかし、信者には逃げなければならないようなケースは、極めて稀であると言わざるを得ない。)

そのような不動の覚悟を最初から駆け出しの信者が求められても、それは無理なことであるから、そういう方法は霊の戦いの中で訓練されて体得して行くしかない。信者が霊的戦いの中で学ぶのは、いかにこの世の現象に影響されず、恐怖に打ち勝って、嘘、不正、不真実を撃退し、神の勝利に固く立ち続けて、それを実際として行くかという方法であり、その時に最も激しい戦場となるのは、信者の心(ここでは魂ではなく、霊)である。

ブログを書いていて最も良いことは、自分の心の状態を整えることができる点である。

悲しみに暮れているときには、その悲しみを主に持って行き、喜んでいる時には主を賛美し、どんな状況に置かれている時にも、その只中から神を見上げることができる点である。

どんな状況においても、神を見上げることができることこそ、信者の最大の強みなのである。
 
信者の霊は、天に向かって開かれて、重荷のない平安で軽やかな状態に保たれている時に、その祈りが最大限に効果を発揮する。霊の統治能力が最良・最大・最強の状態になる。
 
そのように圧迫されない状態こそ、信者の霊にとって最良かつ正常な状態であり、信者が自分の霊をこのような状態に保つために、自分の霊を重荷による束縛から解き放ち、天高く舞い上ることのできる平安で軽やかな状態に保つ秘訣を学ぶことは、重要である。

「上にあるものを思いなさい。地上のものに心を惹かれてはならない」と聖書が言うのは、信者の霊が天の御座に座しているためである。信者の霊が高度を増し、御座に近くなればなるほど、その祈りに力が出る、と言っても良いのではないかと思う。信者の霊がしっかりと立って、思考力・判断力がクリアになり、霊的統治能力がしっかりと強められるとき、祈りに効果が出る。

それに引き換え、霊が地上で起きる様々な圧迫的な出来事によって攻撃を受け、不安や、恐れや、悩みや、怒りや、失意や、憎しみといった重荷を抱えさせられ、天を見上げる余裕がなくなると、信者の霊の祈りの力は弱まる。祈ることさえできなくなることもある。あるいは疲労や、失意が激しければ、何かを望む力もなくなって、何を祈るべきか、その内容もなくなり、力が失われる。起きた出来事に翻弄され、人間に対して怒りや、不満や、失望を抱え、心が人間や現象に引きつけられている間も、天に目を上げて神に祈ることができなくなる。祈りが絶えることは、主と共なる霊的創造が絶えることであり、霊の統治能力も当然ながら弱まる。

霊が深刻なダメージを受けると、信者は、霊による統治(創造)ができなくなり、「ただの人」のようになってしまう。そして、自分の霊を再び以前のように軽やかな状態に戻すために、しばらくの間、閉じこもって、主と共に疲労の回復に専念しなければならなくなる。すなわち、怒りや、嘆きや、憎しみといった思いがどこから来たのか、原因を特定してこれを排除することで、感情の重荷を降ろし、悲しみがあればそれがキリストの慰めによって癒され、失意が取り去られ、再び、健康で生き生きとした望みに満ちた活発な霊の状態が回復されるまで、主と共に時を過ごす必要があり、十全に回復するまでの間、半ば霊的活動がやんだようになる。

その間、キリストから受ける栄養は、すべて信者自身の霊の回復のために消費され、外側に流し出す余剰分はほとんど残らない。だが、信者が回復して霊がもとのように活発になれば、キリストの命の力は、再び、信者を通して外側に流れ出すようになる。そして、祈りと共に霊による支配が拡大して行くのである。

筆者が霊の統治と呼んでいるのは、キリストの復活の命の力を、信者が自分の内側から外へ流し出し、この世に対する影響力・支配力として行使することである。

祈りと言っても、必ずしもひざまずいて言葉にして祈ったり、何かのリクエストを紙に書き出したりするわけでなく、信者の心の中で起きているすべての思い、あるいは信者の態度、行動による表明が、信仰告白であり、神への祈りになって行くのである。

信者が祈っていることに気づいていない瞬間さえも、信者は天と結ばれて、その祈りは天に届いており、主と共なる同労はなくならない。だが、信者が意識して、この同労の力を働かせ、それを通して、天を地にもたらそうとしない限り、たとえ信者が救われていつでも天に直通の祈りを捧げることができても、実際にその効果が現れることはない。

キリスト者は自分の霊的統治を絶えずこの世に対して行使して行かねばならないのである。

そのために、信者が自分の霊の状態をクリアに保って置き、魂が地的な思い煩いで埋め尽くされたり、否定的な感情によって曇らされたり、過度な疲労に陥ったりしないように注意することは大事である。だが、それは信者が自分の周囲で起きていることから現実逃避したり、感情を殺して、何も感じないようにすることによって、影響を受けない状態を装うこととは違う。

信者は自分の周りで起きている出来事について、それが肯定的なものであれ、否定的なものであれ、すべてをきちんと把握して対処するのである。それらの出来事から受ける印象は、信者の思いを通過するし、理性によってもわきまえられる。悲しい出来事が起きれば、当然ながら、痛み苦しみも感じる。それにも関わらず、信者は、自分の霊に害を与えるようなすべての影響力を排除して、それらを十字架につけられたものとみなして退け、キリストとの同労による霊の創造が、地上で起きる様々な事柄のために、ダメージを受けないようにするのである。

信者はただ地上の出来事によってのみならず、自分自身の心や体によっても、霊がダメージを受けないようにする秘訣を学ぶ必要がある。

心と体は霊の入れ物のようなものであるが、それは地上の朽ちゆく肉体であるため、霊にネガティブな影響を与えうる。たとえば、朝、起きた直後、眠りに着く前、あるいは体が疲労していたり、心が極度に思い煩っている時などは、信者の霊の働きが活発でないため、心と体のノイズの影響を受ける。

正常な睡眠の中にある時以外の、心と体がまどろんだ状態は、決して、霊にとって良いものではない。なぜなら、それは霊の決断力を鈍らせるからである。

筆者が、薬の服用を極力、避けるのもそのためである。主イエスは十字架にかかられた時、酸い葡萄酒を差し出されたが、これを拒まれた。酸い葡萄酒には、痛みを和らげる効果があるという。だが、主イエスは十字架という極限に至るまでの激しい苦痛の只中にあっても、自分の肉体と心が少しでも正常な状態から逸れることをお許しにならなかった。それは主イエスが、自らの主体的な決断として十字架を選び取り、その恥辱と苦しみを自ら余すところなく自分の意志でご自身に背負われたことの証明である。
 
主イエスの肉体と心が、十字架上で正常な状態にあるとは、彼が十字架の痛み苦しみを余すところなく感じることを意味し、それはまさに想像を絶する苦しみであった。だが、それにも関わらず、痛み苦しみから逃れるために、少しでも感覚を鈍らせたりすることを主イエスは選択されなかったのは、十字架にかかることが、100%、主イエスの自由意志による自主的な決断としての御父への従順であることを証明するためであった。
 
今日、もし信者が、自分の痛み苦しみを緩和しようとして薬に手を伸ばすなら、それは我々の体の痛みを和らげるだけでなく、霊をも鈍らせる効果を持つことに注意する必要がある。むろん、どんな状況でも、一切、薬の服用を控えるべきと筆者は言うつもりはない。だが、信者は決して安易に薬に手を伸ばすべきでなく、薬の恒常的な使用は避けるべきであり、その服用は必要最小限におさえた方が良い。

信者は霊は、移ろいゆく心や体の調子に左右され、それに支配されて動くべきでなく、霊こそが、心と体を治めるべきである。しかしながら、もし信者の心や体の状態が正常でなくなれば、当然ながら、霊も圧迫される。もし信者が薬を服用して、心や体の感覚の一部が不自然に眠らされるならば、それによって霊にどんな影響が及ぶかは分からない。もし信者の心や体が極度の疲労困憊に陥れば、当然ながら、霊にも有害な影響が及ぶ。心と体の判断力の低下は、霊的判断力の低下につながる。判断力が弱くなった霊は、当然ながら、悪に対する抵抗力も弱まり、敵におびき出されたり、欺かれやすくなる。誘惑に打ち勝つ力や、自主的に物事を吟味して、正しい道を見分け、選び取って行く力が低下することは避けられない。そのようにして、ダメージを受けた心と体が、霊を圧迫するような状態を、信者は避けるべきである。信者はどんな時にも、自分の霊に対して、心や体が主導権を握ることを許すべきでなく、霊が心と体を治めるようにしなければならない。
 
それでは、病や、怪我が起きた場合はどうなのか、と聞いて来る人があるかも知れない。絶えざる病の苦痛や、治癒していない怪我の痛みのために、信者が常に悩まされなければならない状態で、霊は圧迫されないだろうか?

断じて、筆者はここで言いたいのだが、そのような恒常的な病や、治らない怪我などは、信者の人生に決してあるべき事柄ではない。もしそういうことが起きたなら、信者は自分の心の状態が正常でないことを疑ってみるべきであろう。心を平安に保っていなければ、色々なことが起きる。思いがけない事故や、怪我も起きうるし、長く思い煩っていれば、その思い煩いの結果、体の病気にもなろう。

だが、そうした思いがけない事故のような突発的な出来事や、長く続く抜け出せない病などは、もし信者が自分の心をきちんと霊によって治め、健全な自主性を失わないクリアで平安な状態を保っていれば、起きないことである。あるいは、起きたとしても、比較的短期間に静めることができるであろう。

筆者はここで、信者にはいかなる肉体的な弱さもあってはならない、と言っているのではない。パウロが言及した「肉体のとげ」のように、信者がどれほど神に願っても取り去られることのない肉体的な弱さというものも、あるかも知れない。だが、それが絶えず信者の霊に圧迫を与え、正常な信仰生活そのものを脅かし、妨げ、信者を最終的に死に導くことが明白な危険であるとしたら、信者はそのような脅威を受け入れるべきでなく、その状態はやはり何かがおかしいのであるから、そのような障害は、取り去られることを願うべきであり、取り去られるために必要な措置が何であるのかを、神に祈りつつ探すべきであろう。

「肉の思いは死であるが、御霊の思いは命と平安です。」

いずれにしても、状況に関係なく、信者の心はいつも御霊を慕い、命と平安を思うべきである。どんな状況に置かれ、自分がどのような状態であっても、悲しみや、苦しみの中にあっても、あるいは信者が若くとも、老いていても、同じように命と平安を思うべきであり、信者の霊は「鷲のように翼をかって、天高く舞い上る」秘訣を学ぶべきである。地上の制約、肉体の限界に左右されることなく、「歩いてもたゆまず、走っても疲れない」キリストの復活の命の力を追い求めるべきである。

信者は、自分が死ぬことを当然だと思うべきではない。ましてや、絶えず病に圧迫されていたり、絶えず悩みに圧迫されていたり、絶えず貧しさや欠乏や、ありとあらゆるネガティブな出来事に翻弄されて脅かされている状態を、断じて、正常だと考えるべきではない。

信者は自分の霊をより自由で、より軽やかで、より平安で、命に溢れた状態に保つために、必要な環境を主に願い求めるべきであり、こうした状態を害する要因を極力排除しながら、平安を維持する方法を模索して行くべきである。そして、健康で正常な霊によって、どれほどの統治が可能であるのか、生きているうちに知るべきである。

主イエスが地上におられた間に行われた様々なわざは、おそらく、今日も、信者であれば、誰にでも可能なことなのであると筆者は思う。可能というよりも、それこそ、信者の正常な生活、霊による正常な統治のあるべき姿なのである。

だが、信者に信仰がないか、あるいは霊の機能を全く知らないために、今日の信者のほとんどは「霊の人」として生きる方法が分からず、霊的統治が全くできない状態に置かれている。その上、暗闇の勢力が何としてもその重要性に気づかせまいと、日夜、攻撃をしかけて無価値なことに注意をそらしている。

しかしながら、主イエスのわざは今日にも回復されなければならず、信者は「霊の人」として生きるべきである。(霊の人になるために努力するのではない。)信者は何が霊の「正常な状態」なのかを知って、その状態を維持する方法をも知るべきである。筆者はそう確信してやまない。

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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