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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえ刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
私たちは、さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち破り、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を制する用意ができているのです。」(Ⅱコリント10:3-6)
 
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえ刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル5:12)


さて、魂と霊を混同する危険については、記事でも少し触れたが、魂と霊の切り分けについてもう少し考えてみたい。
いかにして信者は「魂的」なものを拒んで、「霊的」になることができるのであろうか?

おそらくそれは瞬時になしうることではないものと思われる。なぜなら、十字架の死の働きは、信者に一生を通じて影響を及ぼすものであり、徐々により深くなって行くからである。生まれたての信者が「肉的」であったとしても、それは当然のことであり、信者はそれを悔いる必要もないし、反省させられたり、懺悔させられたりする必要もない。

従って、信者は自ら「早く霊的にならなければならない」と思って苦心惨憺する必要はなく、御霊の啓示によって知らされていないことについてまで、あれこれ自分自身を吟味して、進歩のなさを嘆いたり、悔いたりする必要もない。ただ平安のうちに神を信じて御霊の照らしを願うのみである。そして、信者はただ御言葉に従って、自分の肉が(古き自己が)キリストと共に十字架につけられて死んだ、という立場に立ち続けるのである。

仮にある信者が、堕落した肉の力によって宣教しようともがいていたとしても、その信者自身が、何が霊に属するものなのかを知らないうちは、おそらく、主がその人を罪に問われることはないものと思う。ただし、肉から出たその働きは無益であり、実を結ばない。

たとえば、懸命にトラクトを配り、拡声器を持って声を張り上げてメッセージを宣べ伝え、人を説得し…。そのような熱心な活動が、今日、多々、クリスチャンの間で伝道だと思われているが、これは魂の影響力を用いているにすぎず、しかも、すべては人に向かっており、神に向かっておらず、無益である。

なぜなら、外側からの影響力は、人を本質的に変える力を持たないからである。様々な熱心な説得や、働きかけを通して、外から懸命にその人をある方向へ引っ張っているうちは、人はついて来るかも知れないが、引っ張る力がなくなれば、糸の切れた凧のように彼方へ飛んで行くだけである。

たとえこの世の最も厳しい強制力(たとえば刑罰)を用いても、人がそれによって根本的に変化することはない。

人を本質的に変えることができるのは、霊的な力であり、その人の内側に直接、変化をもたらすことのできる力としての御言葉である。御言葉が、真に霊的な信者と結びついて、信者によって行使されるとき、初めて、御言葉が衝撃力となってこの地にもたらされるのである。

しかし、そうした御言葉の使い方を、信者が一瞬にして知ることはできない。

そして、あまりにも多くの偽物の「霊的活動」が今日、キリスト教界を覆っている。霊的な事柄を何も知らない信者は、常に人の頑張りの領域で、熱心に宣教しているが、それは暗闇の勢力にとっては何の脅威にもならない。人の生まれながらの力により頼んだ努力は、どんなに一生懸命に取り組んでも、効果が知れているからである。

だが、御霊によって生き始めた信者が、堕落した肉の力に誘われて、肉の領域にとどまって、魂的な力により頼んで活動を続けると、これよりもさらに深い危険が生じる。そうすると、霊的な力と、魂的な力が混合されて、超自然的な影響力を及ぼすことになるからである。
 
当ブログにおいて異端の教えの構造を調べているうちに、筆者は、ペンテコステ運動というものは、途中から偽りの運動へと変質したのではなく、どうにも最初から誤った霊的運動だった可能性が高いと考えるに至った。

筆者は、当ブログにおいて再三、ペンテコステ運動に一度でも関わったことのある信者の内側には、危険な霊的影響が残ることを指摘して来た。それはただ彼らが魂的な力と霊的な力を混同しているためだけではない。もっと深い何かしらの霊的悪影響が存在するのである。
 
ペンテコステ運動は、もともと聖書の御言葉を教義として理解するだけの知識や教養を持たず、教会に通って献金を払う余裕もないような社会的弱者の救済運動として始まった。

もともとこの活動は、教会から打ち捨てられ、学問的な素養も持たない社会的弱者に手っ取り早く手を差し伸べるべく、超自然的な癒し等の奇跡体験を強調して始まったのであるが、今日も、この運動が、既存の教会からは見捨てられた社会的弱者を盛んに引きつけている点は変わらない。

そして、こうして教会や社会から見捨てられた社会的弱者を対象としていればこそ、この運動に関わる人々には最初から最後まで「被害者意識」がつきものなのである。そしてこの被害者意識は、信者が家庭や社会において「自分はいたわられるべき弱者である」と考える受け身の意識を生むだけでなく、最終的には、自分は「キリスト教の被害者である」という意識へと結びついて行くのである。

今日、ペンテコステ運動に関わったことのある信者にはある共通した「弱者の意識」、「被害者意識」が見られる。これは男女を問わず共通しており、女性の場合は、人生全体を受け身にしてしまうほどの圧倒的な無力感をもたらす。多くの場合、彼女たちは、家庭においても、自分が(夫や家族の)被害者であり、いたわられるべき弱者であるという思いを捨てられないでいる。男性であれば、この被害者意識が義憤と結びついて、生涯を何らかの無益な改革・救済活動に費やさせるというパターンが多い。

さらに、この運動に関わったことのある信者には、筆者のこれまでの経験から見ると、ほとんど例外なく、何かしらの悪霊に由来する超自然的な活動を行う力が備わっていた。むろん、御霊の働きに比べれば、極めて限定されており、相当に愚かで盲目的な力ではあるが、彼らには一定の霊的な透視能力、もしくは人に暗示をかけたり、あるいは呪いを及ぼす力などが備わっているのである。

こうした堕落した霊的な力は、強力な霊的な力を持つリーダーのみならず、それと知らずに彼らに操られている信者たちを通しても働く。彼らには一定の支配領域がある。

たとえば、カルト被害者救済活動を支持する杉本徳久氏の危険な活動については、当ブログで再三に渡り、述べて来た通りであり、同氏がいかに支持者を自らの悪しき活動に巻き込むことができたかも、一連の記事で示してきた。このようにして、一度でもペンテコステ運動に関わった人々は、霊的に悪霊の「要塞化」してしまう現象が度々起きるのである。
 
Br.Taka氏のみならず、杉本徳久氏もアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の出身であることは、Dr.Lukeが記事で指摘している。同記事によると、杉本氏はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信仰生活につまづいて他宗派に去ったようである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が正体不明かつ行き過ぎた様々な霊的なムーブメントの温床となっていることは、当ブログでも警告している通りであり、この教団に関与することは全くお勧めできない。

しかしながら、杉本徳久氏の場合、依然として同氏がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師の活動を支持している様子を見ても分かることは、すでにそこから離脱しているにも関わらず、本人の心の内側深くに、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(ペンテコステ運動)との断ち切ることのできない霊的なつながりが残っており、霊的な影響においては、未だにこれと一体であるという事実である。

つまり、自らおかしいと気づいて関わりを断ち切ったはずのものを、依然、自らの活動を通して擁護する形になっているという自己矛盾が見て取れるのである。(だが、こうした点は、キリスト教界の偽りを叫びながら、KFCで自らアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒をメッセンジャーに据えたDr.Lukeも全く同じである。)
  
これらの人々に共通する点は、キリスト教界に対する尽きせぬ告発、敵意、憤り、被害者意識、復讐心、そして信者に対する「呪い」であろう。 すでに述べたように、筆者は、上記の三者がみな一様に「呪いの言葉」を口にするところに立ち会っている(杉本氏からの呪いはブログやメールによる)。

むろん、筆者には悪霊の言い分を信じる筋合いは全くないので、そのような事実無根の言葉は、ただ御言葉と小羊の血潮に照らし合わせて退けるのみである。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)
  
そもそも、キリストは十字架においてすべての呪いを背負って下さったのであり、もはや信者が自分で背負わなくてはならない呪いは存在しない。小羊の血潮に立っている限り、信者が罪に定められることはないのである。他の兄弟姉妹も、そのような話を聞いても、悪霊どもの嘘を退け、笑うのみであった。
 
だが、なぜ彼らがそうした呪いの言葉を盛んに他の信者へ向かって述べ立てずにいられないのかを見るときに、やはり、彼ら自身が、キリスト教界で味わった深い孤立感、疎外感、絶望感、彼ら自身が他の信者から受けた呪いの言葉などが土台となって、その魂の傷に悪霊がつけこみ、自ら受けた呪いを他者に転嫁すべく、餌食となりそうな人々を求めてあちこちさまよっている様子が見えて来るのである。

たとえば、キリスト教界との訣別の必要性を明らかにしていた点で、Dr.Lukeの言説にはかなりの正当性があった。しかしながら、同氏がそのテーマを繰り返し述べては、キリスト教界の「病理」を強調せざるを得なかったところに、やはり同氏自身が、キリスト教界で受けた仕打ちに対する拭い去れない深い心の痛みがあったのではないかと推測される。それがキリスト教界全体に対する罪の宣告となり、裁きの宣告となり、次には呪いとなって現れたのである。

その点は、プロテスタントのキリスト教界の不祥事を告発することを生業としている杉本徳久氏も同じであり、また、同氏の支持する村上密氏も同じだと言えるのではないだろうか。村上氏はあたかもアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団で順調に牧師としてのキャリアを積んで来ており、同教団に対して恨みを持つ立場にもないように見えるが、しかしながら、村上氏が行って来た実際の活動は、鳴尾教会への仕打ちにも見られるように、かなり早い段階から、プロテスタントの諸教会だけでなく、同氏自身が属する教団の教会に対しても、破壊的な影響を及ぼすものであった。今日に至っては、杉本・村上両氏の活動は、キリスト教界全体に対する復讐としか見えないようなものとなっている。この点で、キリスト教界を声高に非難し続けたDr.Lukeとも、かなりの共通性があるように見受けられる。
 
筆者は、村上氏が統一教会を脱会するきっかけとなった二つの出来事についてメッセージを聞いた記憶がある。一つ目の出来事は、「密、密、なぜ私を迫害するのか」という神の声を聞いて、己の罪を自覚して、滂沱の涙と共に誤った信仰を悔い改めたという体験であったが、こうした奇跡物語は誰一人としてその客観性を証明できないため、脇に置いておきたい。もう一つの出来事は、父親の厳しい叱責を受けてほとんど無理やり連れ戻されたという体験だったと記憶している。

もしかすると、そのあたりに、同氏の回心の不自然さや、本人も意識しない挫折感や孤独感の始まりとなるものがあったのかも知れない。どんなに誤った教えを信じたにせよ、本人の自主性を無視して、力づくでこれを放棄させられるという体験は、人にとって大変な屈辱とはなっても、決してプラスに働かない。

そこでこれを機に、表面的にはあたかもキリスト教を受け入れたように見えても、心の奥底では、正しい宗教という仮面をつけて自分のかつての信仰を打ち砕いたキリスト教への敵意や恨みが生まれたとしても不思議ではない。そうしたものも含めて、何かの体験がきっかけとなって、キリスト教そのものに対する無意識の敵意や復讐心が生まれ、生涯かけてキリスト教界全体を敵視するかのような破壊的な活動を生み出した、という推測も可能である。(しかし、原体験となるものはもっと前に形成されていたはずだと筆者は考える。)

いずれにしても、上記の人たちに共通しているのは、既存のキリスト教界につまずいた経験と、それゆえに、キリスト教界に対する捨てられない激しい憤りと復讐心である。こうした魂の傷が侵入口となって、悪霊の活動を受け入れるきっかけとなって行ったのである。

彼らはみなキリスト教界につまずいたり、そこを追い出されたりした人々であり、ある程度、偽りが見えていたという意味においては、半分は正しかったと言えるかも知れない。だが、彼らは、決して自分自身の心の真実と向き合うことをせず、自らの心の傷の存在を認め、その癒しを求めるのではなく、これを他者に転嫁・投影し、他者の救済者になることで、己の傷を癒そうと試みたのである。

そのため、彼らは決して求めている解決に到達することはできなかった。そればかりか、教界の偽りに気づいて抜け出そうとしていたはずの彼らが、今度は、そこから抜け出そうとする信者たちに向かって、「おまえだけを決して自由にはさせないぞ!!」とでも言うかのように、全身全霊で離脱を妨げ、迫害と中傷と呪いの言葉を浴びせることにより、自ら告発しているキリスト教界から決して信者を逃がさず、その悪影響から立ち上がれないように信者を束縛するという奇妙極まりない自己矛盾に陥ったのである。

それによって、彼らは自ら訣別したはずのものを無意識に擁護しているのであり、彼ら自身、気づいて抜け出したはずの偽りを未だ後生大事にしっかりと握りしめて守っているのである。自分が虚偽と気づいたものからは、自由になるべきであり、他の人々も自由にすべきなのだが、その行動が全く逆になってしまっているのである。そして、被害者を助けると見せかけて、永久に自分と同じ心の傷の中に束縛しようとするのである。

ここに何かしら、傷ついた感情の癒着――加害者と被害者との深い堕落した霊的癒着――キリスト教界とそれを告発する人々の癒着――のようなものが見られる。そして、その癒着が深まれば深まるほど、当初は一方的に傷つけられた被害者だと主張していたはずの人が、残酷な加害者へと変貌を遂げて行くのである。そして、最終的には、自ら闘っていたはずの魔物と一体化することになってしまう。

この悪循環を立ち切らない限り、どんなにカルトを糾弾し、キリスト教界の偽りを糾弾しても、結果的には、彼らはそれと同一化する道を避けられない。同一化するくらいであればまだ良いが、敵とみなしたものよりも一層悪くなっていく危険性を否定できないのである。



さて、当ブログを再開してから、信仰生活において様々な苦労を経験したらしき人々が再び訪れて来るようになった。最近は特に、嫌がらせ目的の読者だけでなく、熱心に道を探求しているらしい人々も訪れている。

だが、こうした人々に言えることは、すべての出来事に意味があることを考えて、決して自分のこれまで辿って来た道を恥じないように、被害者意識を持たないように、ということだけである。

筆者は、幼い頃に教会に通い始め、そこで信仰を持ったが、その当時は、自ら教会を比較し、選ぶ自由は筆者になかった。それゆえ、自分が望んだわけでもないのに、望ましくない様々な出来事にも遭遇したし、そこを離脱する際にも、大変な苦労を味わったものである。その後、自分自身で聖書に基づく本当の福音を探し求め、神ご自身を知ることを求め始めてからも、波乱がなくなったわけではなく、こうしたことは、もし筆者が幼い時にキリストの福音に触れていなければ、全く起こらなかったことのように思われる。

だが、だからと言って、幼い頃にキリストの福音に触れたことが、無駄だったと考えることは全くないのである。これは決して、当時の教会の有様を弁護するために言うのでなく、その当時受けた教えが正しかったことの証明でもない。だが、たとえその当時、筆者のいた環境がどれほど不完全で、誤りに満ちていたとしても、そんな目に見える組織の有様のために、神を求める人の心の真実までが否定されることは決してないのである。

信仰がなければ、人は神を見いだすことはできない。逆に言えば、信者を神に導いたのは、指導者の説教やら、礼拝の雰囲気などではなく、その人自身の信仰であり、信者の願いに喜んで応えて下さる神の側からの働きかけがあったためである。そうして起きた神と人との出会いが無となることは未来永劫、決してないものと筆者は確信している。
 
神を求める人の探求は長い道のりであり、初めからすべてがうまく行き、真理の何もかもが最初から見えるということはない。必ず、何度も偽りに遭遇し、騙されそうになったり、危険な場所を脱け出したり、様々な紆余曲折を経ながら、純粋に御言葉だけに立ち続けることの意味が分かって来るのである。もし仮に何事も起きず、最初から最後まですべてが順調であったなら、おそらく、人はすっかり自己満足して、神を求める願いすら、失ってしまうのではないかと思う。

だから、たとえ信者が神を求める過程で、知らずに誤った教えに触れ、そのために時間を無駄に費やしたように思われることがあったとしても、こうした「余計な苦労」の全ても、神に至りつくためには必要かつ有益な道のりなのであり、たとえそれが信者の目に無益な失敗にしか見えなかったとしても、その苦労は、神が信者に約束して下さっている天の栄光に比べれば、取るに足りないはずである。(むろん、偽りの教えからは離れる必要があることは言うまでもない。)
 
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:16-18)
 
神は、ご自分の御名のために、主の民が地上で味わった苦労をすべて覚えて下さっており、信者の一つ一つの痛み苦しみから決して目を背けることなく、その苦労を豊かにねぎらうことのできる方である。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」(詩編126:5 )と書いてある通り、主の御名のために私たちが地上で味わった苦労は(たとえそれが自分の愚かな間違いのゆえに起きたことで、いかなる実も結ばないもののように見えたとしても、もし誤りが分かってそこから離れてさえいるならば、それさえ)無駄にはならないのである。

だから、信者が地上で失ったもののために嘆く必要は全くない。天での最終的な勘定は、信者に圧倒的に有利になるはずだからである。信者に必要なのは、失ったものを振り返って嘆くことではなく、与えられた時間の全てを神に注ぎ続けることで、見えない種をまき続けることだけである。
  
長いが、最後にペンルイスの警告を引用しておきたい。ここには、今日のキリスト教界に見られる礼拝と、ペンテコステ運動に見られるような危険な堕落した霊的・魂的な活動への両方の警告を見ることができる。また、心理学の危険についても触れられている。この文章を利用した詳細な分析はまた後日に譲る。



「魂の力」対「霊の力」
 第四章 「子は自分からは何もすることができない」

ジェシー・ペン-ルイス著

"SOUL-FORCE" VERSUS "SPIRIT-FORCE"
 Chapter4: "The Son can do nothing of Himself"
 by Jessie Penn-Lewis


「魂の力」の意味は、「その源が魂にある力」として簡単に定義することができます。そして、「霊の力」は「その源が霊にある力」として定義することができます。魂は両者が働くための媒体です。魂の力は魂の機能を通して現され、同様に霊の力も魂の機能を通して現されますこれを大ざっぱに次のように説明しましょう。上から下に並んでいる三つの区分を描いて下さい。そして、上の区分に「霊」、真ん中の区分に「魂」、一番下の区分に「体」という印をつけて下さい。それから、「霊」から魂に下って外に出て行く矢印を描いて下さい。この矢印は、人の霊の中に住んでおられる聖霊を表します。聖霊は霊から魂に下り、魂の機能を通して働かれます。次に、「体」の区分から魂に上がり、魂の機能を通して外に出ていく矢印を描いて下さい。一番目の矢印は、神から来る霊の力です。それは魂を強めます。二番目の矢印は「魂の力」、肉から生じて魂に流れ込み、外に出て行く力です。「魂」は中央の区画であり、「霊」の力と「魂」の力両方の媒体です。どちらの力が働いているか知るには、その実を見るしかありません。(参照マタイによる福音書七章一六、一七節)

「魂の力」の源は魂にあります。もっと正確に言うと、それは聖書が「肉」と呼んでいる体のいのち、動物的ないのちから生じます。今日、私たちの先祖が夢想だにしなかった、大いなる「魂」の力が発見されつつあります。これらの力の源は「肉」にあり、「霊」にはありません。たとえそう見えない場合でも、これは真実です。なぜなら、内住する聖霊の力によって再生された霊が治めるようにならない限り、「魂」は肉の力の下にあるからです。聖霊は、魂の機能を治めて用いることを願っておられます。たとえば、魂の機能の一つである精神は、魂の力によって強められ、生かされるか、聖霊によって新しくされ、強められるかのいずれかです。

霊の領域の中にあるものを真似て、魂の領域の中に造り出された偽物―――これが今日の危険です。多くの人は無知のゆえに、魂の力を霊的だと思い、それを発達させて、行使しています。しかし、キリストが語られた御言葉が試金石です。彼は「人を生かすのは霊である」と語られました。あなたの霊を通して聖霊から来るものだけが、神に由来するのです魂の中にある潜在的な力を神聖だと思っている人々もいますが、そうではありません。たとえば、「『癒しの賜物』はの内にあり、それを持つ人はその賜物を発達させる必要がある」と言う人々がいます。ある牧者は、「この力は『魂の力』と呼ばれることがある。……この力は、神にささげられる時、『聖霊の賜物』になる。……」と記しました。しかし、実際のところ、聖霊の真の賜物は霊なる神から人の霊を通して来るのであって、「魂」から来るのではありません。

また、「聖霊のバプテスマ」を受けた証拠としての「聖霊の現れ」を求めることに関しても、催眠術と同じような手法が導入され、こうして偽物がキリスト教会の中に入り込みました。他にも、自分の霊の中に聖霊の注入を受けているにもかかわらず、無知のせいで魂の潜在的な力を発達させてしまい、自分の生活や神のための奉仕の中に混ざりものを生じさせてしまった信者の例があります。たとえば、歌を何度も繰り返し歌うことは、集会を一種の催眠状態にもたらすことができます。このような状態にある人は、知的に判断したり、意志を用いて決断することができなくなります。

このように今日、魂の力の潮流が世界に押し寄せています。そして、悪鬼どもは自分たちの計画やたくらみを遂行しつつあります。「人を生かすのは霊であって、肉は何の役にも立ちません」。福音の宣べ伝え、教え、働きなどの奉仕に携わっている神の子供はみな、聖霊によって支配されているか、魂の力によって支配されているかのいずれかです。再生されたのは霊です―――「私はあなたがたに新しい霊を与える」。フォウセットは、「人の霊は聖霊が住まわれる宮であり、聖霊は人の霊を通して働かれる」と言いました。聖霊が人の霊の中に到来し、それを新しくして、そこに住まわれる時、聖霊は精神をも新しくして、魂の諸機能を治めて下さいます。霊によって歩んで、聖霊の働かれる条件を満たすなら、私たちはあらゆる行いにおいて「霊的」になることができます。聖霊が触れたものはすべて霊の証印を押され、すべての機能は変えられ、生かされ、高く上げられます。信者は「新しい人」になるだけでなく、自分の霊の中に神のいのちを持ちます。精神を新しくされることを通して、混乱した思いは過ぎ去り、精神は明瞭になります。

肉は何の役にも立ちません」。これは霊的な働きにおいて、なんと真実でしょう!もし、働きが魂の肉のいのちによってなされるなら、何の実も得られません。どんなに労苦しても、実はまったく得られません!なぜなら、働いているのは、天然のいのちによって強められた「魂」だからです。それゆえ、「何の役にも立ちません」。さんざん苦労しても、まったく成果はありません!「肉」が何の役にも立たない以上、魂の力もまた何の役にも立ちません。こう述べることは、聖書釈義的にまったく正しいことです。

ヨハネによる福音書から、主の模範を見ることにしましょう。主は、ご自分とご自分の力――主の場合、それは罪のない力でした――に対してどのような態度を取られたのでしょうか?私たちの主は、「私の肉を食べ」「私の血を飲むこと」について語られました(ヨハネによる福音書六章五三~五八節)。弟子たちはこれを聞いて、「これはひどい言葉だ」と言いました。この主の御言葉は、「肉は何の役にも立たない」という霊的真理を理解することと関係していました。肉にとって、そして霊の事柄を受け入れることのできない生まれながらの人にとって、主の御言葉は「ひどい言葉」に聞こえます。

主イエス・キリストは「子は自分からは何もすることができません」と言われました。これは何と驚くべき御言葉でしょう!主は決して自分自身の活動をされませんでした。主は御父のなさるわざを見て、その通りに行われたのです――「私の中に住んでおられる御父が、ご自分の御業をしておられるのです」。私たちは、何が主からのものであり、何が自分自身からのものなのかを見極め、言葉や行いをもって神と共に働くことを学ぶまで、一歩一歩絶えず主を待ち望む必要があります。

また、主イエスは言われました、「私は聞くとおりに裁くのです」、「私は人からの栄光を受けません」、「私が来たのは、自分の意志を行うためではありません」、「私は自分の栄光を求めません」。神へのまったき信頼―――これが主の取られた立場であり、私たちが取るべき立場です。主はまた、「誰も御父が引き寄せて下さらない限り、私のもとに来ることはできません」と言われました(ヨハネによる福音書六章四四節)。

神の真の子供たちが今日直面している危険は、魂の力の存在を知らずに、それを発達させてしまうことです。また、広く普及している心理学の教えから来る危険もあります。心理学は、「あなた方は認罪、回心、再生によってではなく、精神療法によって、自分の『弱さ』から救われることができます」と教えます。神の子供といえども注意する必要があります。決して心理学的な自己像を抱いてはなりません。また、霊・魂・体の「諸法則」に気を取られるあまり、聖霊ご自身に信頼することを忘れてはなりません。聖霊はキリストから受けたものを、私たちに啓示して下さいます。今日の大いなる超自然的運動の中には、膨大な量の魂の力があります。私はたった今、ある大きな癒しの運動に関する手紙を受け取ったばかりです。手紙の差出人は次のように記しています、「この運動はまったく間違っています。数千もの人が続々とやって来ますが、それでも間違っています。人々に『手を置く』指導者がタバコを吸い、ウイスキーを飲んでいる有様です。こんな状態でいったい何を期待できるというのでしょう!」。

クリスチャン生活における「魂の力」の危険性について、もう少し述べることにします。意志と関係する「魂の力」も存在します。主は意志を解放して、それを強めて下さいます。しかし、意志は肉によってではなく、御霊によって強められなければなりません。魂の力の危険性の一つは、意志による祈りです。魂の力によって強められた意志を用いて祈るなら、その意志の力を他の人に及ぼしてしまうかもしれません。この危険性を知らない信者の中には、「××さんは、これをするべきです」とか、「これをするべきではありません」と言って、自分の思いを祈りの対象に投影する人がいます。魂の力によって祈る危険性を避けるには、神に向かって祈るよう常に注意する必要があります。すべての祈りを神に向けなさい。また、誰かのために何かをするよう神に指図してはいけません。「××さんを導いて下さい」と神に願う分には結構です。しかし、「××さんはこれこれのことを『するべきです』」とか、「これこれのことを『するべきではありません』」と言ってはなりません。他の人々のために祈る時、神の御旨に関する自分の見解や、悪に関する自分の判断を祈ってはいけません。私たちは一つからだの肢体ですが、各々はただ神に対してのみ責任を負っています。私たちが立つにしても、倒れるにしても、それは主の御前でのことなのです。

それから、礼拝において魂の力を引き出してしまう危険性があります。主は、「神は霊ですから、神を礼拝する者はと真理の中で礼拝しなければなりません」と言われました。それでは、教会の中で感覚的なものが奨励されている事実は何を意味するのでしょう?どうして、月曜から土曜までこの世的な生活をしている人でも、日曜日に教会に行って幸せな気分になれるのでしょう?彼らが幸福で心地よい気分になったのは、音楽などの影響によるのではないでしょうか?彼らは満足を与えられました。しかし問題は、彼らが本当に罪を認めて、再生されたかどうかです。音楽を演奏することはいけないのでしょうか?そんなことはありません。歌には神への賛美が込められています。しかし、ローマ・カトリック教会の礼拝の中に見られる、魂的な要素の数々を考えてみて下さい!アンドリュー・マーレーは、「魂の月並みな働きが礼拝の中に侵入している」と指摘しました。彼はさらに付け加えて、「人々が罪に打ち勝つことができない理由の一つは、彼らが自分の宗教生活の中に魂のいのちを持ち込んでいることである。しかし、彼らはこれをほとんど考えもしない」と述べました。彼らは礼拝の中に自己(肉)を持ち込み、こうして肉的な罪を生かし、活動させています。彼らは「自分は『肉』を始末したはずなのに、どうしてまだ肉が残っているのだろう?」と疑問に思います。「罪」の力は、神への礼拝の中にある魂の働きにあります。それは、宗教生活の覆いの下に隠されている「肉」です。私たちはまず第一に、神に近づく必要があります。次に、私たちは霊と真理の中で神を礼拝しなければなりません。「なぜなら、神はこのような礼拝者を求めておられるからです」。

今日、霊的な信者が直面している危険は、魂の力の危険です。思いを四方に押し流す潮流がいくつもあります。多くの人がそれらの潮流に捕らえられており、無防備です。キリストの死の中に立って、それが自分と空中の軍勢とを隔てるよう求めるなら、あなたはそれらの潮流を完全に自分から断ち切ることができます。

私たちの思いは本当に新しくされたでしょうか?それは神の霊によって力づけられているでしょうか?それとも、私たちは生まれながらの人の思いしか持っていないのでしょうか?今日の合理主義は、知的な議論によってではなく、霊の力と祈りによって対処することができるでしょう。霊にしたがって生活し、霊に従って歩む方法を、主が私たちに教えて下さいますように。新しくされた思いによって、魂と霊の違いを識別することができますように。「神の言葉は生きていて、力があり、魂と霊を分けます」。魂のいのちは十字架上で死に渡されます。そして、私たちは「霊的」になります。



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自分の十字架を負うてわたしに従って来なさい


何度か書いて来たように、この邪悪で曲がった時代は、神がキリストの十字架において全てのアダムに対して下された滅びの宣告を否定しています。この時代は 神の知恵に逆らい、十字架を経ていないものは何一つとして永遠に至ることはないという事実を否定し、生まれながらの人の自己救済を打ちたてようとし、人を 神のようにまで(いや、神以上に)高め、祭り上げ、肉を神とすることを目的にしています。

この時代は、朽ちるものは朽ちないものを相続できないという事実そのものを否定し、人の肉が神の御前で徹底的に腐敗している事実を認めません。そうである がゆえに、この時代においては、罪の贖いとしての十字架についてはまだ語られることがあったとしても、キリストの十字架にこそ私たちのアダムの命、古き 人、肉に対する死の効力があること、神は「御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられた」(ローマ8:3)こ と、主は私たち全てのアダムの肉を着て十字架に向かわれたこと、それゆえ、キリストの十字架の死と一つになることによって、私たちはアダムの命に死に、肉 に死に、自己に死に、この世に死に、キリストのよみがえりの命によって、全く新しい復活の命の領域に生かされるという事実については、あらゆる手段を尽く して沈黙を守ろうとしているのです。

さて、「罪」、「血潮」、「霊」、「肉」、「十字架」、これらのキーワードが、今、どのくらいクリスチャンの間で急速に失われているでしょうか? どれほど多くの人々が、自らの罪、特に単数形の罪、肉の腐敗、アダムの命の腐敗について語らなくなったでしょうか。

しかし、いずれにせよ、肉は神を喜ばせることはできません。肉に生きることは、神の御前に決して受け入れられることのない働きを積み上げることであり、い つかその成果は全て焼き尽くされて灰燼となる日が来ます。しかし、クリスチャンを名乗りながら、あまりにも多くの人たちが、肉とは何であるかを考えようともせず、肉の腐敗を照らし ていただくことを神に求めようともしないで生きていることには驚き、呆れるのです。

御言葉は次のように言います。

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。」(ガラテヤ6:7-8)

「人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。」(マタイ16:27)

私たちは行いに応じて裁かれ、報いを得るのです。ですから、もしも主から評価される行いをしたいと願うならば、何が霊に属することで、何が肉であるのか を、まず御霊によって識別することを求めないわけにはいきません。もし両者を全く識別できないとすれば、一体、どうやって私たちは肉の行いを避け、神に喜 ばれることが何であるかをわきまえることができるのでしょうか。

「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、 党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、 神の国をつぐことがない。」(ガラテヤ5:19-21)

さて、以上のような肉の目に見える悪しき働きについては、それが罪であり、神の憎まれるものであり、神の国の相続を失わせるものであることを、あえて否定する人はあまりいないでしょう。

しかし、もっと巧妙な肉の働きがあります。それは肉が善を行なえるということです。クリスチャンが「神のために」と言って捧げる熱心な礼拝、祈り、さまざまな良 き行い、友情、あるいは愛情のように見えるもの、自己犠牲的な奉仕など、人の目にもっともらしく見え、私たち自身も、とても良いものだと思い込んでいる、 さまざまの善き行いや思いの中に、実は、どれほど十字架につけられていない、生まれながらの自己、そして肉が含まれているか、この点について、私たちは主の光によって目を開かれる必要性があります。

肉は見栄を飾って自分を素晴らしく見せかけることができます。敬虔そうに見せかけることも、へりくだって、教養がありそうに、知的に見せかけることも可能です。色々な種類の肉があります。しかし、どのように上品そうな肉であっても、あるいは劣悪な肉であっても、神は肉を受け入れられません。
 
クリスチャンは、肉が徹底的に腐敗しているという事実を、自分自身で知ることはできません。ただ上よりの御霊の知恵によって、内側からはっきりと啓示していただけるよう神に願い求めることができるだけです。

主イエスは言われました、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見出すであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの特になろうか。」(マタイ16:24-26)

この御言葉は決して、人が自分の力で徹底的に自己犠牲したり、禁欲的苦行を実行することにより、キリストの命にあずかれると言っているのではありません。そのような外面的な努力が、人をキリストのよみがえりの命にもたらすのではありません。

この御言葉は、私たちが信仰によって、主イエスと共なる十字架において、主の死と同一化することにより、アダムの命に対して死に、その古き命の死の上に働くキリストのよみがえりの命によって、神に対して生かされる者となることを告げているのです。

以前、記事の中で疎外という問題について語りました。福音書には、己が魂を楽しませるために、蔵を建て、富を築いた金持ちのたとえがありますが、彼を待っ ていたのは、神の裁きとしての死だけでした。アダムの命に属するものは全て神から疎外されており、神に受け入れられません。私たちがアダムの命にあるもの を死守し、古き人を擁護し続けるならば、たとえ私たち自身は救われていたとしても、私たちの人生はキリストの香りを失うでしょう。そして、神との親しい交わりを失い、聖化とは何であるかを知ることもなく、キリストの似姿へ変えられることもなく、永遠に至る報いを失うでしょう。

罪の贖いとしての十字架はキリストによって永遠に完成されました。しかし、十字架にはその次なる段階としての、より深い働きが存在します。それは私たちが自分の十字架を取って主に従うという段階であり、この段階において、キリストの十字架は、私たちのアダムの命、肉、古き人を対処するという働きをなすので す。

私たちが上よりの光に照らされ、自分の内に取り扱われなければならない内在の罪があることを知り、肉の腐敗を知らされ、古き人の絶望性を知らされ、神に問題の解決を求めて叫ぶならば、キリストの十字架にこそ、その解決があることを、主はレーマとしての御言葉をお与え下さることにより、必ず明確に知らせて下さいます。キリストの十字架以外に、私たちの肉に、私たちの自己に、私たちの古き人に死の効力を及ぼせるものは何もありません。キリストの十字架以 外に、私たちの自己に死を経させ、神の新しいまことの命によって生かし得るものはありません。

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを 愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の信仰によって、生きているのである。」(ガラテヤ2:19-20)

私たちの古き人が十字架で取り扱われることは、一度限りの経験でなく、生涯かけて受け取ることのできる経験です。神はそれを望んでおられます。なぜなら、それなしには、私たちは神に対して生きることができないからです。

もしも私たちが主の御前で朽ちるものを弁護しているなら、私たちには勝ち目がありません。神は十字架により、永遠に至るものと滅びに至るものとの境界を はっきりと定められたのです。ですから、今、主の御手の下にへりくだり、今、何が神に喜ばれるものであり、何がそうでないのかをわきまえ、信仰を 火によって精錬され、焼き尽くされるべきものを焼き尽くしていただきたいと願うのです。

もしそのような願いを全く持たない信者がいるならば、いずれその人たちは、神に敵する道を歩んで行かざるを得なくなるものと思います。

どうかこの地上にあるうちに、大祭司なる主イエスが、私たちの上で執刀医となって下さり、霊と魂とを切り分けて下さり、何が神に喜ばれるものであるかを、 知らせて下さいますように。どうか私たちの内でキリストに属するものと、アダムに属するものを、主イエスが御言葉の剣を持って明確に切り分けて下さいます ように。こうして、日々、自分の十字架を取って主に従うことの意味を、知ることができますように。

「すべて肉なる者よ、主の前に静まれ。主はその聖なるすみかから立ちあがられたからである。」(ゼカリヤ2:13)

導きうるのはただ神のみ


「あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を建てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。」(レビ記26:1)

道端に立つ地蔵のように、石で刻まれた像を拝む人々を、クリスチャンは愚かだと笑うかも知れません。しかし、人の目に最も分かりにくいのは、心に刻まれた 像ではないでしょうか。どれほど多くのクリスチャンが、自分を適切に導いてくれる指導者を求めて、神ではなく人につき従うという罪を犯し、荒野で倒れて 行ったことでしょうか。そこには、モーセの帰還を待ちきれなくて、自分の目を喜ばせるために金の子牛を造り、それを見て、踊り、戯れた民と同じような姿が あります。そのような背信の民にどうして神の妬む愛が焼き尽くす火となって燃え上がらないわけがあるでしょうか。

主の日は盗人のようにやって来ます。人々がおのおの自分の心に好ましい像を造り、それを愛し拝んで人生を楽しみ、娶り、嫁ぎ、飲み、食い、売り、買い、植え、建て、踊り、戯れ、平安だの、無事だのと言っているその矢先に(Ⅰテサロニケ5:3)。神の焼き尽くす火は、不意に人々の人生を襲い、朽ちるもの全てを灰燼に帰するでしょう。

その時、指導者があなたを適切に導いてくれなかったと言って、どんなに人を責めても無駄です。神は決して栄光を他の者に渡されはしません。神はご自分の他 には、決してあなたを正しく導きうる者はないことを、はっきりと世に証明されるでしょう。なぜなら、あなたを造られた創造主である神ご自身の他に、あなた を完全に理解し、助けうる存在はないからです。

「わたしは主である、これがわたしの名である。わたしはわが栄光をほかの者に与えない。また、わが誉を刻んだ像に与えない。」(イザヤ42:8)

ただお一人の創造主を敬い、創造主を畏れることがこの地に回復されなければなりません。この父なる神が私たちを贖うために独り子を世に遣わして下さったの です。それなのに、私たちはどれほど長い間、自分の罪について聞くのを拒んでいるでしょうか。どれほど長い間、真摯に悔い改めをしていないでしょうか。ど れほど長い間、神の裁きの峻厳さについて、神が焼き尽くす火であられることや、神の妬む愛について聞いていないでしょうか。特に、単数形の罪、すなわち、 私たちの古き人がキリストと共なる十字架により死に渡され、私たちが単数形の罪に対して死ぬ必要性について、どれほど私たちの目は閉ざされているでしょう か。

この邪悪で曲がった時代は、単数形の罪が十字架で取り扱われる必要性について、何とかして隠しておきたいのです。なぜなら、古き人がキリストと共に十字架で死に渡される時、初めて本当に、私たちはキリストの似姿へと変えられ、新しい人とされるからです。

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」(ローマ6:6)

「…あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされ、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4:22-24)


この時代は、霊と魂との切り分けを否定し、肉を弁護し、生まれながらのニンゲンを賞賛し、私たちが自分の内の古き人を死守し、弁護し、手放さないように仕 向けていますが、それは私たちが主と共なる十字架を経て、実際に古き人に死に、単数形の罪に対して深い取り扱いを受け、新創造とは何かを実際に知り、真に 自由とされて復活の領域を生きることを妨げるためです。

「肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない」(Ⅰコリント15:50)と、 はっきりと御言葉に定められているにも関わらず、この時代は私たちの内在の罪という問題を覆い隠し、私たちの血肉を新創造であるかのように呼び変え、私た ちの肉欲や、罪をさえ、あたかも神に由来する神聖なものであるかのように見せかけようとしています。(しかし、もしもこのような偽りの教義に身を任せるな らば、私たちは放縦の結果、滅びへと至ります。)

この時代がどれほど切り分けを曖昧にしようとも、神が定められた区分を変更できる人は誰もいません。何が永遠の御国を相続する朽ちないものであり、何が朽 ちるものに過ぎないか、何が御霊に属するものであり、何がそうでないか、何が新創造であり、何が旧創造であるか、神ご自身がはっきりと明らかにされます。 ただ神だけが、ご自分に属するものは何であるかを知っておられます。私たちはこの事実に対し、目を開かれたいと強く願うのです。

ノアの後ろで「戸は閉ざされた」のです(創世記7:16)。 ですから今日、まだ恵みの時であり、救いの日が過ぎないうちに、畏れを持って、私たちも神の御声に応答しようではありませんか。神は愛を持って、私たちを 霊・魂・肉体のすべてにおいて十字架の中へエクソダスさせようと呼びかけておられます。私たちは古き人の絶望性と、肉の腐敗について強く照らされる必要が あります。それは私たちが互いに裁き合うためではなく、神が私たちを適切に取り扱われることを信じて待つためです。

「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。」(ヘブル12:4)

このことは、私たちの罪に対する取り組みに、より深い段階があることを示しています。自らの肉の腐敗、罪を知らされることは、痛みを伴うか も知れませんが、それでも、私たちがもし光を拒まないならば、キリストの十字架はこの問題のすべてに完全な解答を与えることができると知るでしょう。私た ちは絶えず主の死と信仰によって一つになることにより、肉に対して死んで、神の国の霊的秩序の中にエクソダスしたいと願うのです。十字架を経ていないもの は何一つとして神の火のテストに耐え得ません。両手、両足そろって永遠の火に投げ込まれるよりは、たとえ片手、片足になっても、身体ごと復活の命の領域で ある御国に入ったほうがよいのです…(マタイ18:8)

合わせてご参照下さい:オリーブ園、新着ブログより 「導きうるのはただ神のみ!」

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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