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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれ た子と一緒に相続人になってはならないからである。

久々にこれぞグノーシス主義という作品を読んだ。そこで改めてこの思想の反聖書的構造について述べておきたい。

池田理代子という作家がいる。有名な『ベルサイユのばら』を書いた劇画家であり、声楽家としても活躍している。最近まで、筆者はこの作家の作品の中で、『妖子』と『ラムダのとき』という2作品を読んだことがなかったが、これを読んで初めて、この作家は、グノーシス主義の精神を受け継いでいるのだということに納得がいった。

なぜ池田氏の作品の多くは、相当な人気を集めながらも、非常に救いのないプロットになっているのか、考えたことはあるだろうか。宮廷の華やかな生活と革命の混乱を描いた『ベルサイユのばら』にしても、最後には次々と登場人物が死に追いやられ、悲劇で幕を閉じる。明るい未来が提示されているわけでなく、何かの道徳的教訓が投げかけられているわけでもない。革命賛美の物語とも言えない。刹那に消えて行く愛憎劇の模様以外に、作者が一体、この作品を通して訴えようとしたものは何であったのか、読者には今一つ分からない。

しかも、最も大きな疑問は、なぜ主人公は性別を偽って育てられなければならなかったのだろうか、という問題にあろう。それは自分のあり方を根本的に偽る生き方だからである。『ベルばら』の次に描かれた『オルフェウスの窓』ではその問題はさらに深化している。主人公は妾の子として生まれたが家の跡取りになるために性別を偽って育てられたことされている。

さらに、『妖子』と『ラムダのとき』の2作品を読むと、主人公の抱える出生の秘密という池田氏の作品に繰り返し現れるテーマの謎に幾分か答えが見えて来る。それは、この2作の中にこそ、作家の非常に深いところに流れている思想が表れているからだ。この2作品は、そのどちらもが、聖書の神に対する反逆の精神に貫かれた家の乗っ取り物語である。主人公はおよそ正統な後継者と名乗るにはふさわしくない存在にも関わらず、秘密を抱えたまま、家の主人となり、家を支配しようとする・・・。

『ラムダのとき』には、存在しているかも分からない聖書外伝が登場しており、そこでは、聖書の神が人間を理不尽に追い詰める「悪神」として描かれ、それを読んで主人公が自分の出生の秘密に開眼するところも興味深い。この作品では聖書の神とそれに属するものが、誤ったものとして嘲りの対象としてしか描かれていない様子がよく分かるだろう。

もちろん、以上に挙げた2作品は、単なる創作であり、脚本を書いたのは別人であることなどを考えても、そのプロットを作者の思想と安易に同一視することはできないと言われるだろう。それでも、このような悪魔的思想を題材とする作品を、敬虔なキリスト教徒であれば、いかに創作といえども、決して世に送り出そうとは思わないであろうし、また、池田氏のその他の作品群の筋書きの中にも、共通するテーマが扱われているところを見ても、やはりこれらの作品には、作者の思想的な立場がよく表れていると言えるものと思う。つまり、池田氏は、筆者の考えによれば決してキリスト教徒ではありえず、むしろ、グノーシス主義の側に立っていると見てよい。

当ブログでは、グノーシス主義思想とは、聖書の神に対する反逆を正当化するための終わりのない詐術の物語であると述べて来た。それは善と悪、光と闇、天と地、聖と俗、神と悪魔といった、すべてのものの境界線を曖昧化することで、本来、一つに統合することのできない対極にある概念を統合できるかのように見せかけ、そのことによって、罪あるものを聖なるものに見せかけようとする嘘の教えなのであると。

グノーシス主義の神話的なプロットは、「母の過ち」によって生まれた誰を父としているかも分からない子供が、まことの父の後継者の資格を持たないにも関わらず、家の正統な後継者を詐称して、正統な資格保持者を追い出して、家を乗っ取ることを正当化するというものである。

グノーシス主義の物語には、「ソフィアの過失」と呼ばれている事件があり、それは最下位のアイオーンである女性人格ソフィアが、単独で至高神を知ろうとして、誰の子か分からない子を生むという出来事である。ここでは、ソフィアという名そのものが、聖書の創世記において、人類(最初にエバ、次にアダム)が、神によって取って食べてはならないと命じられたはずの善悪知識の木の実を取って食べることによって、神の戒めに背いて、神のようになりたいと願った誤った知識欲を正当化するためにつけられたと見ることもできよう。

「主なる神が作られたの野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

 女は蛇に答えた。

「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、そのの中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

蛇は女に言った。

「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(創世記3:1-7)


人類が神の戒めの中を歩いていた間、人類にはいかなる不足もなかった。自分を見て、裸だ、弱い、身を覆うものが必要だ、などと考えることもなく、自らを恥じる必要を感じることもなかった。しかし、神の戒めを破ったとき、彼らは自分たちが非常に弱く、無力で、恥ずべき存在であることが分かり、その無力さと恥を覆うために、自分を変えるための工夫が必要であることが分かった。

エバが取って食べた善悪知識の木の実が、どういうものであったのかは分からない。だが、その描写から分かることは、アダムとエバは、己が肉欲を通して、神を知る知識を得られるという誤った考えにそそのかされ、欲望のままに行動したということである。その木の実は、人の目に美しく、好ましく、美味しそうに、魅力的に見えた。そして、いかにも賢くなるにふさわしいもののように映った。

しかし、その実を取って食べて、人類に分かったことといえば、自分が堕落して、恥ずべき、無力、無価値な存在であるということだけである。

人類はその事実を自分の目から隠した。自分が罪を犯したこと、堕落したこと、それゆえ、聖なる地位を失って、無価値な者となったことを認めたくはなかった。だから、人類は自分を変えようと工夫した。しかし、自分を変えると言っても、ただ表面的に装うことができるだけである。こうして、神の御前における人類の取り繕いが始まった。彼らはまず自分たちの手で、いちじくの葉を綴り合せて服を作ったが、それはその後、武装手段としての鎧や兜に発展し、各種の武具や装備、また、それらを作り出す知恵となり、神に逆らう人類の知恵の集大成を生み出して行く。

歴史の最後には、その偽りの知恵に基づく人類の活動は、大淫婦バビロンと呼ばれる世界的都市にまで発展している。バビロンは一大商業都市であり、自分の恥を覆うために豪奢な着物を着ているが、それはすべてうわべの取り繕いに過ぎず、内側には不法、搾取、虐げ、詐欺などあらゆる悪が満ちている。

さて、グノーシス主義の言う「母の過ち」とは、聖書的に見るならば、こうして人類が神の戒めを破って、己が力で神を知って、自ら神のようになりたいと願い、反逆によって堕落したことを意味すると言えよう。

ところが、グノーシス主義思想は、そもそも罪という概念を認めず、かえって人類の使命とは、堕落した母の過ちを自力で修正することにあるとみなす。こうして、罪を罪とみなさず、それを取り繕うことを目的とするため、終わりなき自己弁護のための詐術が生まれる。本来ならば、罪に堕落して神から切り離されたため、もはや神の子孫だなどと名乗れる資格もないはずのない人類が、神の許しを受けないままに、自分たちは神の子孫であると名乗り、母がそうしたように、自分も再び己が知識によって神を知って、自力で神に回帰しようと、延々と己がルーツの浄化を試みる詐術の物語を編み出すことになる。

もちろんのこと、人類が自力で神に回帰しようとする偽りの教えの根底に流れるのは、神に反逆して永遠の滅びに定められた悪魔が、自分を罪に定めた神を排斥して、神と入れ替わろうとする願望である。

正統な後継者の資格を持たない者が、正統な後継者を追い出して家を乗っ取る、悪魔が神を追い出して神を詐称する、その願望を受け継いだものがグノーシス主義思想である。

* * *

さて、話は変わるようだが、牧師崇拝とは、神と人との唯一の仲保者であるはずのイエス・キリストを退けて、これを人間に置き換えようとする偶像崇拝の教えである、ということを、当ブログ始まって以来、ずっと述べ続けて来た。牧師とは、神が贖って下さった子供たちの心を、肉なる人間に過ぎない者が、自分に向けさせ、自分を崇めさせるために、神から盗むための存在、と言っても良いだろう。

かつてプロテスタントは、カトリックが法王を中心とした聖職者階級を築き、法王が神の代理人となっている事実を批判し、聖書に忠実な信仰を取り戻すための抵抗運動として生まれて来た。しかし、そのプロテスタントも、結局、牧師と信徒という二つの階級を信徒の中に作り出すことで、事実上、牧師を神の代理人にするという反聖書的な制度をそのまま温存した。

それゆえ、万民祭司の原則を忠実に再現するためには、牧師というプロテスタント固有の現人神制度とも訣別しなければならないのである。プロテスタントの教会の内装は、カトリック教会のような装飾をは省いたものとなっており、信者らの目を、目に見える装飾に引き付けることでこれを信仰に置き換えようとする弊害から抜け出そうとした工夫は見られるが、それでもまだ、特定の時空間に集まるという制約から抜け出ていない。

「あの山でもエルサレムでもない」場所で、真理と霊によって父なる神を礼拝するという本来の礼拝が行われるためには、固定的なリーダーの繰り広げるショーのような催しを見るために、限定された時空間に信者を閉じ込める装飾を省いた礼拝堂からもさよならする必要がある。神への礼拝を、目に見える人、組織、制度、教えといったものの中に閉じ込めようとする試み一切と訣別する必要がある。そのために、既存の教会組織からエクソダスが必要なのである。

ところが、エクソダス、と唱えていた多くの人々も、結局は、牧師か、それに等しいリーダーたちを崇め奉る道へと逆戻って行き、今や牧師制度と訣別して信仰を守る群れは、ほとんど見当たらない。牧師を持たない、と言いながらも、実質的なリーダーを作り、その人の教えに従っている群れ以外に見いだせるものがない。

こうして信者たちの心を神から盗んで自分たちに向けさせる牧師たちの群れの中に、さらにその牧師たちの獲得した信者を盗む新手の盗人たちが忍び込んだ。反カルト運動である。牧師たちの過ちを修正すると言いながら、その牧師たちに対する信徒の反感を煽り、その機に乗じて牧師たちから羊を奪って拡大して行く新手の荒々しい残酷な運動である。

そのようにして既存の組織に侵入して行っては、内側から組織を乗っ取ったり、食い破って破壊したりするのは、ペンテコステ・カリスマ運動の常套手段であるということも、これまで繰り返し述べて来た。だから、反カルト運動が、他ならぬペンテコステ運動の只中から生まれて来たことは偶然ではない。

聖書は、すべての霊が神から来たものではないから、霊を試しなさいと命じている。そこで、ペンテコステ・カリスマ運動のやたらと強調する「霊」とは何なのかをじっくり調べてみる必要がある。当ブログでは、彼らの強調する「異言」や「聖霊のバプテスマ」の光景が、ヒンドゥー教のクンダリーニ覚醒の様子にそっくりであることも、過去の記事で解説した。クンダリーニ覚醒とは、尾てい骨の下から人の内側に侵入した蛇が、頭部に達し、両目の間にある第三の目を開眼させて、覚醒に至らせる過程なのだという。筆者の考えでは、大仏の額にある白毫は、世界に向かって悟りの光を放つ長く白い毛であるとされているものの、きっとその正体は第三の目に到達した白蛇に違いないということも述べた。

いずれにせよ、蛇によって覚醒するなどのことは、聖書的な概念に照らし合わせて有り得ないことであって、それは人がまさに悪魔的な知恵によって、偽りの教えに開眼し、神への反逆の道を歩むことに他ならない。どんなに形を変えていても、それは人間が堕落した肉の情欲に従って生きることにより、知識を得て神のようになれるという、太古から受け継がれた蛇の教えの繰り返しでしかないことが分かる。

だからこそ、ペンテコステ・カリスマ運動の強調する各種の恍惚体験からは、無秩序や混乱以外のものは何も生まれて来ないのである。このように様々な恍惚体験、神秘体験を通して、信仰を得られるかのような考えは、錯覚に過ぎず、それは教会の中に各種の装飾を施し、聖画などと呼ばれるものを飾り、感覚的な体験を、信仰に置き換えようとすることが偽りであるのと同様、深い欺きなのである。

* * *

当ブログでは、そこからさらに大胆に進んで、資本主義の精神はプロテスタントから生まれて来たものであって、プロテスタントが聖書に完全に忠実な制度ではなく、過渡的な段階でしかない以上、資本主義にも同じ弊害が受け継がれていることを述べた。

プロテスタントの信者たちが、自分が神に救われているかどうかがはっきりしない不安から、毎週日曜日に牧師たちの説教を聞きに教会に集まるのと同じように、資本主義社会におけるサラリーマンは、この世に身の置き所のない不安から逃れるために、会社によって社員証という目に見えない救いを貸与してもらい、労働の対価として免罪符をもらうために出社する。

こうして、人々は月曜日から金曜日までの間には、企業にお参りして奉仕することで、代表に不安を慰めてもらい、日曜日には教会で牧師から慰めてもらう。労働(奉仕)はその不安心理を埋め合わせるための代償として、現人神に捧げられているものである。

どちらの場合も、その人生には、不安に駆られる人々が、誰か象徴的な人間から、おまえは正しい生き方をしている、と承認を受けることにより、自分が果たして救われているかどうかも分からず、この世に身の置き所がないという不安をなだめようとする現実逃避あるのみであって、根本的な救いが欠けている。

企業の社員証などはいつなくなるか分からないのであって、教会の会員証を維持するためにも、生きている限り、献金と奉仕が必要である。そして、彼らの不安をなだめる牧師や教師たち、もしくは、企業の代表者たちも、本当は、自分も救われているかどうか全く定かではない人々であるから、彼らに真の慰めなど与えられるはずもない。だから、彼らは口先だけの詐術によって、ないものをあるかのごとく見せかけて束の間、時間を稼ぐことができるだけであり、彼らはむしろ確信犯的に免罪符を売り歩き、それによってもうけを得ているだけであるから、非常に性質が悪い。それでも、不安に駆られた人々は、あるかないか分からない救いのために、教会員やサラリーマンの身分証に飛びつき、自腹を切ってでも、喜んで奉仕までしてくれるのだから万々歳である。

さて、では働いていない主婦はどうするのか。夫に仕えることで、夫から不安を慰めてもらうだけである。ヒンドゥー教の既婚女性が額にビンディーをつけるように、妻となった女性たちは、額に見えない刻印をつけて夫に奉仕することにより、間接的に現人神に仕える。

これらの人々は、みな人間の作った集団に帰属して、そこで互いに果てしない重荷を負い合い、リーダーに仕え、承認を得ることによって、それを救いという内心の問題と置きかえようとしている。つまり、救われているかどうか分からない不安から手っ取り早く逃れるために、神に向かわず、目に見えるものに向かい、本物の救いではない、偽物のかりそめの救いを貸与され、その印を身に着けることによって、自分の心を慰めているだけなのである。

だが、偽物の救いを貸し出してもらうための代価は非常に高く、一生、自分のものにはならない救いのために、馬車馬のごとく立ち止まることなく働き続けなくてはならない。

このような文脈における労働は、根本的に呪われており、不毛であると言って差し支えない。それは人間にはもともと地上に住みかはないという自明の理を証明するためだけの生き方である。その生き方は、人は地上に現れては消えるうたかたのようなものに過ぎず、しょせん、この世で確かにつかめる価値などないのだと告げているに過ぎない。それを超えるものは何もそこには見いだせない。

そこには、人が獲得していないものを、いかにも得たかのように見せかけ、自分のものにならないものを、あたかも築き上げたかのごとく見せかけようとするために、各種のカラクリが存在しているだけであり、そのカラクリは、嘘をまことに見せかけるのみならず、嘘が重ねられる度に、さまざまなピンハネがそこで正当化される。他者に仕えるための労働は、社会全体を罪から救済するという見せかけの目的を得るためのごまかしの手段の一つのようなものであり、だからこそ、どれほど重ねても、自己を真に富ませることがないのである。圧倒的大半の人々は、労働によって富むことはない。そして、飛んでいる人々は労働をしない。このことをよく考えてみた方が良い。

そういうわけで、プロテスタントにおける「救われているかどうか分からない」という不安心理から生み出されるとされている労働は、人類の自己救済という根本的に誤った試みであるから、それとは異なる、自己救済でない働きがなくてはならず、プロテスタントでも資本主義でもない新しい生き様、つまり、万民祭司の原則が忠実に実行された新しいライフスタイルが現れて来なくてはいけない、と筆者は考えている。筆者は少しずつそこへ向かっているところである。

* * *

パウロは人が結婚することを決して禁じはしなかったし、夫には、キリストがご自分の命を教会に捧げられたように、妻を愛しなさいと命じ、キリストと教会との間には、花婿と花嫁のような愛が成立していることを示したが、同時に、人は結婚しないでいられるならそれが最も良いとも勧めていた。

そうした勧めの根本には、人の情欲というものが、しょせん、罪に堕落した自己中心なものでしかなく、愛情とは必ずしも一致しないことが、初めから明々白々だという事情もあろう。つまり、人間の男女の間に成立し得る結びつきは、堕落した欲望を排除することができないという点で、来るべき完全なものの絵図に過ぎないためである。その完全は、キリストと教会との結びつきにある。

人間の欲望というものは、すべて自己の欠乏を満たすために存在しており、喉が渇いているときに、目の前に何かの飲料水があれば、それが炭酸水であろうと、リンゴジュースであろうと、人は大した違いはないものと考えて手を伸ばし、どれでも美味だと感じることであろう。つまり、人は己が欲望が満たされさえすれば、それを満たしてくれた対象のことなどどうでも良く、瞬時に忘れるし、そこに唯一無二の関係は存在しないのである。

人の欲望とは、そういう風に、他者を常に己を満たすための手段として扱う残酷で身勝手な性質を持っており、さらにもっと言えば、欲望の持ち主自身をも奴隷と変えてしまう。それは人間の尊厳をいたく貶めるものであって、人はどんなに相手を愛しているつもりになっていても、己が欲を通して相手に関わっている限り、そこに自己中心性が入り込むことを阻止することはできない。

唯一、そうした堕落した欲望を介さずに関わることのできる関係が、神と人との信仰による関係であり、花婿なるキリストが花嫁なる教会を愛された愛なのであるが、人がそこに到達するためには、キリストと共なる十字架の霊的死を通らなければならない。しかし、人間にとっては、己が肉の欲情を滅ぼすこの十字架の死が非常に恐るべき脅威と映る。人間には、目に見えるものによって自分を満たし、集団に帰属することによって、目に見える安心を得たいとする根強い願望があって、どうしても、目に見えない救いだけでは不十分であるかのごとく、目に見えるものに頼ろうとし、それによって自分を慰めようとすることをやめられない性質がある。

そこで、多くの信者は十字架の死にとどまることができず、見えないキリストだけを一心に見つめて歩むことができない。そこに各種の欲望を誘う人間のリーダーが現れ、牧師やその他の教師たちが群がり、信者たちの心は彼らにそそのかされ、奪われ、偽りの教えに誘い出されて行くことになる。

「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(2テモテ4:3)


ここで教師たちが惑わす者として登場している。信者たちが目に見える人間を権威者として崇め、奉り、偶像視しつつ、その人間に自分の欲望を重ね、それを肯定してもらうために群がる。すでにそういう時代が来ている。だが、聖書ははっきりとそのような教師たちの存在は必要ないと教えている。

「以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(1ヨハネ2:26)


このことは、人間の方を向くことをやめて、キリストの方に向き直るならば、人の心の覆いは取り除かれること、真理の御霊に頼り、教えられて生きることだけが、すべての目に見えるものを超越して歩み、何が真実であるかを知り、この世を超越して支配する秘訣であることを示している。なぜなら、キリストは世に勝って、すべての権威の上に高く上げられ、すべてを超越して支配される方だからである。この方の御霊と共に歩むとは、キリストと共にすべてを超越して支配することを意味する。とはいえ、その支配は、主と共に霊的死にとどまることによって、神の命の中に隠されて生きることであるから、決して人を脅かしたり、虐げたりすることによって他者に君臨するというものではない。

この最もへりくだった方の御霊を受けていながら、なぜ心に割礼を受けていない目に見える人間―偶像に頼る必要があるのか。もし心に平安がないというなら、牧師や教師たちや教師になりたがる信徒たちといった、キリスト以外の肉なるものに頼っていないかどうか、自分の心を点検し、心の偶像をすべて捨て去り、見えない神以外の一切の肉なるものに頼むことをやめるべきである。そうして侵入口を断てば、心に安息が戻り、偽りに翻弄されることも終わり、真実に立ち帰ることができる。様々な権威を振りかざしてやって来る中間搾取者を離れ、神にのみより頼む人生を送ることである。

<続く>

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肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑪~

・Eden Mediaの語る偽りの「悟り」としての「人類超人化計画」(アセンション)について(終)

さて、Eden Mediaの偽りを語る総仕上げとして「悟り」という動画に触れておきたい。この動画は、東洋思想の「悟り」とニューエイジの言う「アセンション」が本質的に同じ概念であることを示している。これまでの東洋思想の偽りを語るシリーズの総まとめとして、その内容の虚偽性について触れておきたい。

今日、ペンテコステ運動もそうであるが、こうした偽りの覚醒体験をキリスト教界に持ち込もうとしている勢力がある。だが、このような覚醒に関わってしまえば、信者はキリスト教徒として生きることはできなくなるであろう。これは堕落した人類の生まれながらの力を開発して、人が自力で神に至ろうとする試みだからである。

今日のバベルの塔は、目に見える形で、天にまで届くれんがの塔を建設する代わりに、「意識の上昇=覚醒」によって、人が自己の力で天にまで至ろうとするものである。神秘主義の言う「アセンション=悟り」とは、人類が自力で死を打ち破って永遠にたどり着こうとする悪魔的な試みなのである。

グノーシス主義は、すべての対極にあるものの融合を目指しており、そこには「男女の統合」も含まれている。割礼を受けることのない男性的なパワーと女性的なパワーの「融合」によって、世界を生み出す源とされる原初的エネルギーを回復して、人間が自力で創造の過程を逆行して世界の根源にまで至り着き、永遠と一体化しようとする試みがそこにある。

以下の動画の解説を通して、私たちは彼らが「光」と「闇」との融合という錬金術を目指していることが分かる。これはグノーシス主義が「神と人」、「男と女」、「精神と肉体」などのあらゆる対立するものの融合を目指していることを表している。
 

あなたは現代社会の欺瞞に立ち向かい、奥底に眠る意識を開花できるか?闇から光へ、今新たな時代が始まる。

光り輝くものをイメージする事では悟れない。
暗闇にあるものを意識に持ってくる事のみで悟れる。
【カール・ユング】

 
しかし、聖書は言う、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは無い一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:1-5)

別な訳では、最後の部分は「やみは光に打ち勝たなかった」となっている。聖書においては、光と闇との間には何の接点もなく、この二つは決して交わることがない、異質なものである。男女の融合、光と闇との融合、神と人との融合など、対極にあるものの融合は、人類が自力で成し遂げられることでは決してない。

しかも、聖書は、世界を形作ったのは、神のことば(ロゴス)であると述べるが、東洋神秘主義は、世界の万物は「気」というエネルギーによって出来たとする。エネルギーは、それが形作るものに、名をつけることもなければ、名を呼ぶこともなく、意味内容も一切伴わない。だが、ロゴスは、名をつけ、意味を表す。ロゴスなるキリストによってこそ、万物は造られたのであり、彼は名と体(本体と影)とを完全に一致させることのできる真のリアリティなのである。

聖書はこのように、世界は意味を持たない混沌・漠然としたエネルギーから作られたのではなく、神の精緻なご計画に従い、極めて論理的な意味内容を伴うものとして創造されたと告げている。

しかし、世界が混沌としたエネルギーから生まれ出たとする東洋神秘主義は、造られたものにも混沌以外の意味を持たせない。東洋神秘主義者は、万物はただ混沌としたエネルギーから生まれたのであり、人類はそのエネルギーへ回帰することで、永遠との一体化が成し遂げられると言うが、原初的エネルギーに溶け合うことを目指すだけで、決して自己存在の中に単独で意味を探そうとせず、一人一人に個人としての価値や意味を認めない。

彼らは、被造物の堕落を認めず、人類が生来のエネルギーを引き出すことで、そのまま神の永遠に至ることができるかのように偽りを教える。そして、その堕落した悪しき力によって、人類が自分たちの力で目覚めて「一つ」になれると主張するのである。
 
そのようなことは、聖書が述べていることとは真逆である。東洋神秘主義者の言うう"ONENESS"(一致)は、まさにバベルの塔の精神の再現であり、同時に、聖書におけるエクレシアの悪質な模倣でしかない。

聖書は、創世記において、人類が堕落した時点で、正しい男女のあり方も失われてしまったと告げている。神はエバはこう言われた。

「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」(創世記3:16)

さらに、アダムには神はこう言われた。

「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」」(創世記3:17-19)

地上における男女の関わり(というよりも、アダムとエバが築いた人類最初の家庭)は、人類の堕落によって、幸福と調和に満ちた一致の場ではなくなり、大いなる不幸の源になったのである。夫は妻に君臨し、支配しようとし、妻はそれによって大いなる苦しみを受けるが、それでも夫から離れることができない。夫は妻子を養うために身を粉にして働くが、大地は実りをもたらさず、苦労が積み重なり、ついには老いて死が人を飲み込む。家庭を維持し、ただ生きるために、夫婦は並々ならぬ苦労を負わねばならなくなり、その後、人類初の兄弟であるカインとアベルが生まれても、たちまちカインによる兄弟殺しが起きた。

人類の堕落によって、人間関係は徹底的に罪に汚染されて壊され、戦争、暴力、殺人を生んで行き、文字通り、家庭も含め、すべての人間関係が汚染され、堕落し、破壊されたのである。

そのような呪われた人間関係とは異なるあり方を人が得るためには、人は生まれながらの堕落した本能的なパワーによって、他人に関わろうとすることをやめて、キリストにあって、古き自己に死に、信仰を経由して、夫や妻を愛し、家族を愛し、他者と関わるという方法しかない。

キリストを経由しなければ、夫と妻の間にも、兄弟姉妹の間にも、他者との間にも、真実な信頼関係や愛情が育まれることは決してないのである。信仰を経由しない肉の絆が生み出せるのは、せいぜい敵意と憎しみでしかなく、そこからはどんな一致も生まれて来ない。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」(エフェソ5:25)

生まれながらの人間の本能的なパワーが、神の永遠とは何の関係もないことは、ロトの時代も、ノアの時代も、人々は
「娶ったり、嫁いだり、飲んだり、食べたり」していたが、そうした行為が、神から見て全く評価の対象とならず、堕落したこの世の有様として、根こそぎ滅ぼされてしまった事実からも分かる。

彼らは地上になにがしかのものを持ち、人間関係を誇り、自分の所有物のように、家庭や地位や財産を誇っていたのであろうが、神の目から見て、それらは全く評価の対象とはならなかったのである。

この世の人々が誇っているものは、神の目には一切、永遠と接点を持たないことごとくむなしいのである。うわべには価値があるように見えるかも知れないし、なにがしかの幸福があるように見えるかも知れないが、それは動物的生存以上の意味を全く持たない堕落した人間の営みでしかなく、神が人に望んでおられたこととは関係がないものである。

しかし、キリストは、十字架において死なれ、復活されたことにより、信じる者にとって新しい永遠の命となられた。キリストは、ご自分の死によって敵意の隔ての壁を取り壊し、二つのものを一つにして神と和解させた。
ただこの方によって、信仰を通して互いに一つに結ばれることによってのみ、信者はエクレシアとして一つに結び合わされることができる。

本来は、信者の家族関係も、このようなエクレシアの一致に入らない限り、つまり、キリストへの信仰に立脚した、キリストを経由した愛情の上に築かれない限り、それはただの堕落した地上の肉なる関係として、分裂、混乱、憎しみ、争いなどの悲劇を決して免れられないのである。

「あなたがたは、皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:26-28)

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。
二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:14-22)


しかし、東洋神秘主義思想は、決してキリストへの信仰に立たず、十字架の死を経由していないのに、人類が神の教会であるエクレシアを模倣して、アダムの命によって一つになり、団結して神の永遠に到達できると考える。しかし、十字架の死を経由していないからこそ、彼らは自分たちの偽りの十字架を造り出し、自死によって死を乗り越えようとするしかないという忌むべきカラクリが生まれるのである。

東洋思想は、時間軸を逆にして、人類が自ら生まれ出た創造の過程を逆行し、根源的なエネルギーに回帰することで、永遠と一体化できるとする。それが以下の動画にも表れているように、「嬰児的回帰」という概念で現れる。

聖書では、イエスが「誰でも幼子のようにならなければ、天の国に入れない」と述べた箇所があるが、このことは、決して東洋神秘主義が言うような「根源的なエネルギー」にへ回帰するための「嬰児的回帰」を指すわけではない。

「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイ18:1-5)

ここで語られているのは、エネルギーの話ではなく、神の国における序列の話である。イエスは、この世においては、年長者が敬われ、子供は軽んじられるが、天で重んじられたいならば、信者は自らを低くして仕える人にならなければならない、と言われたのである。

これは東洋神秘主義者の主張する「嬰児的回帰」(原初回帰)とは全く異なるものである。

むしろ、聖書が教えていることは、信者一人一人が信仰において成長して「キリストにある成人」に達することであり、東洋思想の「嬰児回帰」とは逆である。

だが、肉にあって歩んでいる限り、決して人はキリストの身丈まで成長することはできず、赤ん坊のままだと聖書は言う。

「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。

お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
」(Ⅰコリント3:1-3)


霊的乳飲み子状態からキリストにある成人へと成長するために避けて通ることができないのが、肉に対する十字架の死の働きである。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。<略>キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:19-21,24)

クリスチャンが霊的にどれだけ成長するかは、その人の内側で生まれながらの自己(=肉)に対してどれほど十字架の霊的死が適用されたかに比例する。肉に対していつまでも十字架を経ず、生まれながらの肉のパワーによって生きている者は、いつまで経っても嬰児のままなのであり、それは決して聖書があるべき信者の姿として教えている状態ではない。

生まれながらの自己、生まれながらのアダムの命、そこから来る力や衝動を否み、どれだけ日々の十字架を取ってイエスに従ったか、その過程に従い、初めて霊的に正しい識別力が得られ、成長が起きるのである。

「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの道あふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根差して真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェソ4:12-15)

従って、東洋思想が目指している目的は、何から何まで、聖書とは「さかさま」である。
 

さて、この動画は、まず作成したファンドの名前が"IN SHADOW"(影の中で)と、極めて悪趣味な名前となっていることに注目したい。この名前を見ただけで、この動画がキリスト教とは何の関係もない、「光と闇」との統合を目指すオカルト的な世界観に基づくものであることは明白であろう。

影とは暗闇のことであり、同時に、本体の影でしかない被造物を指す。それは本体なるキリストのいない、被造物だけからなる闇の世界、虚無の世界である。
  


冒頭では「皆既月食」と思われるシーンが登場する。
これはニューエイジの概念では「太陽と月の融合」を意味する。
 


その「輪」は、すべての神秘主義者が、宇宙の根源だと見なしている「対極にあるものの融合」としての「永遠の循環」、すなわち、「和」=「輪」=「道」=「虚無の深淵」=「空」を指している。

この「和=輪」が、おそらくチャクラと思われる三つの輪に分割される。チャクラとは神秘主義で用いられる概念であり、これも「輪」を意味することは前回までに説明した。
 


また、この「三つの輪」は、グノーシス主義の「父・母・子」という偽りの三位一体を意味すると思われる。
つまり、男性的なエネルギー、女性的なエネルギーと、その交わりの結果として生まれる「子」が、グノーシス主義の偽りの三位一体である。

また、ヒンドゥー教では、「ブラフマー」、「ヴィシュヌ」、「シヴァ」の「3神」が、宇宙の創造、維持、破壊という3つの機能を持つ、三人で一組の「神」とされる。この「三神一体(トリムールティ)」とも関係があるかも知れない。
 


ここで、「四角い地球」(=キューブ)という、おかしなシンボルが登場する。
 

(注:Eden Mediaの嘘。人類を支配しているのは「キューブ」ではない!)
 
そして、早速、「キューブは”悪魔のシステム”を表す」などと字幕がつき、人類はまるで家畜がくつわにつながれるように「キューブ」のとりこになって、悪魔崇拝者の奴隷として支配されているとされる。

この世を仕切る秘密結社の悪魔崇拝者たち…
キューブは”悪魔のシステム”を表す。
人は毎日好きでもない仕事に追われる。
しかし、住宅・車ローンのために働く。
来る日も、来る日も…
(右上の時計)
気付けば、魂は吸い取られ…
仮面が…
仮面をかぶって日頃のうっぷんを晴らす。

ここで「キューブ」とは、一体、何なのか?という疑問が生じよう。

早々に種明かしをすれば、「キューブ」とは、キリスト教を指す。

この動画の製作者は、神秘主義者であり、オカルト信仰者であるから、キリスト教を悪者にして非難するために、この動画を作ったのである。

ただし、この動画では、「キューブ」とは、本来のキリスト教という意味から転じて、「西欧キリスト教文明・文化を土台として生まれた現代社会システム」といった意味をも持つ。

この動画は、現代のバビロン化された社会は、西欧キリスト教文化を基に生まれて来たものだとして、根本的にキリスト教を悪者として責任を問いたいのである。そして、東洋思想の方にこそ人類救済の秘訣があるという偽りを広めるために、この動画が作成されたのである。

さて、「キューブ」とは、聖書においては、神の完全を表す形である。神殿の中でも最も聖なる場所であり、神の霊の訪れる至聖所は立方体である。
 

エゼキエル書に従って図案化された神殿の図。

「1.立方体の形。この理由により、昔の幕屋と宮では、全き栄光の完全性は至聖所の立方体の形によって象徴されていた(出三六・一五~三〇)。立方体は完成を表す図形だからである。新しいエルサレムも立方体として示されている(黙二一・一六。なおエゼ四八・一六を参照)。これが教えているのは、新しいエルサレムは完全な天の至聖所だということである。

エーリッヒ・ザウアー(Erich Sauer)「十字架のキリストの勝利」"The Triumph of the Crucified" 第四部 世界の完成と天のエルサレム 第三章 完成された神の宮 から
 

新エルサレムは、神殿の完成であるから、「キューブ」は新エルサレムにおいて完全になる。クリスチャンは今ここへ向かっている途上にあるのだと言えよう。

「しかしキリストにあって、すべては完成されて新しくされた。キリストは道を備える偉大な御方であり、扉を開く御方である。キリストにあって、パラダイスと至聖所は開かれたのである。今や、すべてが成就されている。天は開かれている。しかし、天はエルサレムであり、エルサレムは至聖所であり、至聖所は天の栄化されたパラダイスである。」(同上)

「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(ヘブル12:24)

(*ちなみに、前回引用したDr.Lukeの「エロヒムの祝宴」というポスターは、以上の御言葉から取られた言葉である。ここでの「エロヒム」とは「天使たち」のことである。だが、KFCの信者らはすでに「神々」になってしまっているので、彼らの言う「エロヒムの祝宴」とは、スピリチュアリズムにおける「エロヒム」(=下級神)と同じ概念で、要するに、彼らは自分たちがエロヒムだと言っているのである。)
 
聖書では、立方体は神の完全を表す形であるにも関わらず、Eden Mediaは「キューブは悪魔のシステムだ」として、悪質な概念のすり替えを行い、暗にキリスト教を敵視し、聖書のまことの神を非難する。そして、そこからの「脱出」として「アセンション」を唱えるのである。

だが、真実を言えば、人間を閉じ込めて奴隷化しているのは、「キューブ」ではなく、「和の精神」である。グノーシス主義的な「輪(和)」こそ、人間を奴隷にして逃がそうとしない悪魔のシステムなのである。



その後、突然、動画では「赤ちゃんには”7つのチャクラ”が備わる。」と話が飛躍する。もちろん、このような話は、ニューエイジやヨガでしか使われない概念であるが、要するに、この動画は、人は誕生した時が、一番、何者にも妨げられず、汚染されない、力強い生命エネルギーを持っていると言いたいのである。
 



その後、この動画は、いかにこの世がサタンの奴隷的なシステムによって動かされ、人々がそのシステムに閉じ込められ、苦しめられ、騙されながら、悲惨な生活を送っているか、世の中の不条理を延々と語り出す。

そこで描写されるこの世の人々は、グロテスクで、侮蔑的にディスカウントされた醜い姿をしている。この動画が、厭世的で悲観的な世界観に立って、この世をサタンの牢獄として侮蔑し、見下している様子がよく伝わって来る。要約すれば、その内容は大体、次のようになるだろう。

この世の人々は、悪魔の支配下に置かれ、知らないうちに操られ、奴隷的なシステムの中に閉じ込められて、本来の生命エネルギーを吸い取られて疲弊している。

たとえば、学校教育の弊害、ワクチンの害、戦争、軍需産業、企業による搾取、役人の腐敗、TV業界のマインドコントロール、利権を守るための情報操作、大衆を家畜化しておくためのセレブ、映画、スマホ、ゲーム・・・

人々を支配するツールには終わりがなく、市民たちは無分別に宣伝広告に煽られて、ひたすら化粧品や筋肉増強剤で自分を飾り立て、「オレオレ、ワタシワタシ」と、自分の欲望に突進して、我を失っている。そうこうしているうちに、食べ物はひどく汚染され、人々の健康が害されることで製薬会社が儲かり、科学者、政治家、エリートたちが、大衆を使って動物実験を繰り広げている…

もしも人々が自分たちが操られ、奴隷化されていることに気づいて声を上げようものなら、早速、彼らは狂人として牢獄へ送られる。人々は「もの言えば唇寒し」の状況で暮らし、国を支配するエリートたちは、とても人間の良心を持ち合わせているとは思えないサディストばかりである…

これが、あなたがたの生きるこの世のシステムであり、この世には、真実も正義も希望もなく、ひたすら絶望的で悲観的な世界観があるのみなのだ…。




動画は、このような地上の悲惨はみな「キューブのせい」ということにしてしまう。だが、もちろん、それは嘘である。

そして、動画は、このような悲観的な世界から脱出しなければならないと語り始める。

それが「覚醒=アセンション=悟り」である。いわば、グノーシス主義者の考案した、この世からの偽りの「エクソダス」の方法なのである。
 
どこにでもありそうな幸福な一家の主人が登場する。が、彼は不幸に見舞われ、自死するしかない状況に追い込まれる。この父親だけでなく、大勢の人々が仮面の生活も成り立たなくなり、自死へと追い込まれている。

死なない限り、この不幸な地上世界からは逃れる手立てはない。

と、動画は訴えているのである。

こうして、Eden Mediaの動画は、ひたすら絶望的な地上世界の有様を描き、そこに生きる人々を徹底的な侮蔑の眼差しで見下ろした後で、その生き地獄のような状態から逃れるためには、自死しかないという方向へ人々を誘導して行く。死によって初めて、人類には自分自身から真に解放されて、死を乗り越えて「覚醒」する道が開ける、と暗示されているのである。

「武士道と云ふは死ぬことと見つけたり」

と同じ価値観である。
三島由紀夫の最期と同じ、死による自己完成という偽りの思想が奨励されているのである。
 
 
自死が遂げられた瞬間にこそ、人類は「覚醒」する、と彼らは言う。
 
 
 
「エジプト死者の書」にも記されているという「アセンション」
 

 
「死」との一体化による「超人化」への道!

 
松果体が開かれて邪悪なエネルギーが活性化し、

 
存在しない「霊の波動」を受け、

 
超人的なパワーが生まれる!

 
「覚醒」した超人の意識は、高次元へと上昇していき、

 
死によって自己の殻が取り払われたので、宇宙と一つに融け合い、

 
宇宙に漂う人類全体の集合意識"ONENESS"と一つに融合する。

 
その後も、人類の集合意識はさらに上昇して行き、

 
ついに自らの力で天に昇り、目指していた「道」(=日輪=永遠=混沌)との一体化が成し遂げられる!

 
陰と陽、男と女、太陽と月、神と人、対極にあるものが融合し、

 
人類は自ら宇宙の原初的なパワーへ回帰することによって、
「精→気→神→虚」の回帰が成し遂げられる。
人類は自分を生み出した宇宙の根源へとたどり着き、
嬰児的回帰を成し遂げ、
永遠の混沌(道)と一体化して安らぐ。

 
これぞ涅槃の境地である。

 
こうして覚醒を遂げた者は、邪悪な目が開け、人は神のように善悪を知る者となる。
 
「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4-5)



これが彼らの目指す「アセンション」の内容である。しかしながら、これは、グノーシス主義的な「さかさまの世界観」であり、Eden Mediaは、聖書の神の完全を表す「キューブ」を諸悪の根源であるかのように非難しているが、実際には、彼らが理想としている「和(輪=道=太陽神=永遠の循環=虚無の深淵)」こそ、最も人間を奴隷的に貶めて支配し、自由を与えない諸悪の根源である。

「和の精神」なるものが、うわべは美しい一致や団結に見えても、どれほどはかりしれない人々を死に巻き込んできたのかは、改めて説明する必要もないであろう。この動画は、まだはっきりと明言していないだけで、聖書の神を敵視し、キリスト教への敵視の上に作り上げられており、悪魔の行った悪しきわざを全て聖書の神に責任転嫁しようとしているのである。

おそらく、終わりの時代、人々の心が荒廃し、社会の有様が荒廃・悪化して行くのは、以上のような偽りのアセンションを経て、人類の悪しき集合意識につながる人々が多くなることと無関係ではないと筆者は考える。人の心も体も、異常な方法で変容させられるため、常識では考えられないほどに堕落した人々が出現するのである。

しかし、聖書は、悪くなる者は悪くなるにまかせよと告げている。時代の状況が悪化し、あざける霊が人々の心を支配したとしても、それと同時に、聖なる者は、より一層、聖なる者とされることを、聖書ははっきりと告げている。

そこで、我々のなすべきことは、こうした時代だからこそ、より一層、キリストと共なる十字架において自己を否み、天の父なる神の御心を求め、それを行って生きることである。

世間で何が流行り、人々が何を考え、時代の潮流がどうあるかに一切関係なく、どれほど多くの人々が偽りの覚醒体験に飛びつくかにも関係なく、神は個人個人のわざを見ておられ、それに応じて、人々を裁かれ、報いをなされる。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイ24:35)

私たちクリスチャンが求めているのは、神秘主義者の目指すような「善悪を知る木の実」ではない。私たちは肉なる自己を肥大化させ、自分を高めるだけの「二度目の林檎」を食べることを固く拒否し、自分の衣を改めて血潮によって洗い清め、イエスの十字架の死と一つとなって、イエスという羊の門を通って都に入り、命の木に対する権利を与えられることを心から願う。

クリスチャンは、完成した神殿であり、至聖所である都を目指して歩いている。そして、私たちのためには、すでに死んで下さった方がおられるため、神秘主義者らのように、自分で自分のための十字架を改めて作り出す必要もなければ、自力で死を乗り越えようとする必要もない。

黙示録は言う、「渇いている者は来るが良い。命の水が欲しい者は、価なしに飲むが良い。」と。ここに「価なしに」と書いてある。自分で得るのではない。集団で得ようとするのでもない。しかも、そこには、誰もが神の国に入れるわけではないこともはっきりと書かれている。神の国に入るための条件が列挙されている。神の御言葉を守らず、それに従って生きてもいない人々が、人類の集合意識にアクセスしたからと言って、どこにもたどり着くことはない。

聖書は、「それぞれの行いに応じて報いる」と、はっきり書いている。集団でどんなに連帯して悪質なわざを成し遂げ、どんなに責任の所在を曖昧化したつもりでも、各自は、はっきりと自分のしたことに対して、一つ一つ、神と人との前で責任を問われることになると告げられているのである。

それが真実である。聖書の世界観は、個人を起点として始まり、個人で終わる。そこで問われるのは、どこまでも神と人との個人的な責任関係である。地上では、人間同士が互いに関わり、繋がり合うが、人間関係についても、人は神を介して責任を問われることになる。他者を騙し、陥れ、口を封じ、もはや誰も悪事に声を上げる人がいなくなったとしても、その悪行については、神がその人に責任を問われる。

しかし、東洋思想は、個人を見失わせ、個人を集団の中に埋没させることによって、個人の価値を無化するだけでなく、人は必ず、自分のした行いに対して報いを受けなければならないという基本的な事実をも見失わせる。

そして、東洋思想は、人々を神の御言葉をわきまえるという知性によらず、堕落した本能的なエネルギーに従って、衝動的に生きさせることによって、自分を高めてくれそうなものに見境なく飛びつかせ、訳の分からない集団的な暴走のような現象を引き起こし、人々に取り返しのつかない罪を犯させるのである。その罪が、最後に大きく膨らんで至り着くのが、自死という自己破壊である。これは、我が国が戦中そうであったように、個人的なレベルだけでなく、集団的なレベルで、集団死となって現れることもよくある。アセンションが目指しているのは、人類が自らの死によって死を克服することであるから、必ず、それは必ず人を自ら死に至らしめるという結果を伴うのである。

「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。

見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファでありオメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。

命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。

わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」

”霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るが良い。命の水が欲しい者は、価なしに飲むが良い。」(黙示22:10-17)

人にはたった二つの選択肢しかない。セルフを十字架において否んで、キリストに従い、永遠の命を得るのか、セルフを保って、キリストを拒んで、アダムの命に生き、死に至るのか。クリスチャンは全世界の前で、そのどちらを選ぶのか、自分の生き方を証明させられ、試されているのである。

もう一度、以下の御言葉を引用しておきたい。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。

人をその父に、
娘を母に、
嫁をしゅうとめに。
こうして、自分の家族の者が敵となる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:34-39)

以上の御言葉は、人が心で愛着し、手の中で握りしめているものがすべて――それが自己の命であれ、自分自身であれ、家族であれ――、キリストの十字架の死を経ていないものであれば、どんなにそれを誇りとし、よすがとしていても、必ず、その関係は敵対関係に変わり、無価値なものとなって失われることを示している。

キリストの十字架の死に渡されることなくして、永遠の価値を持つものは何もないのである。殉教とは、キリストの十字架の死の地点において、人が絶えず自己の天然の命を否み続けることの集大成である。十字架における霊的死を経ていればこそ、信者には朽ちることのない神の永遠の命が与えられているのである。

もしも人が十字架において絶えず自己を否むことを拒み、自分の天然の命、生まれながらのエネルギー、それに基づいて築き上げられた関係や、名声、欲望、地位などの獲得物を保存しようとするならば、アセンションへの道しか残されているものはない。その道を行けば、自己を楽しませ、偉大にできるように錯覚できるのも、ほんの束の間で、最終的に待ち受けるものは、死以外には何もなく、得ようと思っていた命さえ、失わて終わることになる。

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑩~

KFCのDr.Lukeの近年のメッセージは、ニューエイジの神秘主義思想から強い影響を受けたものであり、完全に聖書に基づく正しいキリスト教の信仰からは外れているが、Dr.Luke自身、自らのメッセージが、ニューエイジの着想に大いにヒントを得たものであることを否定していない。

以下の記事に見るように、彼は今日のキリスト教界においては霊的息吹を失った形骸化した教えがあるだけであり、その代わりに、ニューエイジには「人が神になる」という変容(覚醒)という「肉汁たっぷりのステーキ」が保存されており、キリスト教界では失われているその「肉汁」の部分を、自分たちは「取り返さねばならない」と主張する。

Dr.Lukeは常にそうであったように、徹底的なキリスト教界への侮蔑と敵視に立って、形骸化したキリスト教界を凌駕するためならば、どんなものでも取り入れると言わんばかりに、ニューエイジという神秘主義思想の「神髄」となるべき核心部分を、自分たちは教えの中に取り込んだと告白するのである。

そこで、Dr.Lukeが、堕落した「肉」と深く関係する「肉汁」という言葉を使っていることは興味深い。その「肉汁」こそが、実のところ、「割礼を受けない人間の生来の本能的なパワー」を指すのであって、「蛇」の力にによって、人が肉的なパワーを肥大化させて、超能力を得ようとするニューエイジの「アセンション」に通じるのである。

これまで、「気」とは、人間の堕落した肉に働く悪魔的なパワーだと述べて来たが、Dr.LukeやEden Mediaの語る「マインド」は、ちょうど「気」の言い換えである。

彼らの言う「マインド」は、「思念」などと呼びかえることもできようが、それは要するに、理知的な思考のことではなく、より本能的で情意的な「思い」を意味し、人間の堕落した魂の働きである。神秘主義やニューエイジにおいては、この「思念」は、肉体の限界を超える、超能力を発揮するエネルギーとなるものである。もちろん「マインド」は「霊(Sprit)」とは別物であり、神の聖霊とは何の関係もない、霊に由来しない、魂的・肉的な力である。

Dr.Lukeは、以下に挙げる記事において、「私たちのマインドには創造する力がある」と述べて、真の霊的創造は「霊(Sprit)」から始まるという事実を無視・否定しているだけでなく、その根拠として、何と驚くべきことに、聖書のバベルの塔の記述を引き合いに出す。それを通しても、彼の主張する「マインドの創造力」なるものが、神の聖霊に由来するものでなく、反キリスト的なパワーであることは明らかである。

また、Dr.Lukeが、人類のエスタブリッシュメントは爬虫類人種だと述べているデイヴィッド・アイクの名を上げて、その説を荒唐無稽として全否定するどころか、興味深いものとして引き合いに出し、半ば肯定する文脈で、「人間とは意識であり、それは孤立してものではなく、大海の一滴のようにすべての人類の意識とひとつである(ONENESS)」などとして、人はバラバラの個人個人では意味をなさず、個々人が「人類の集合意識」にアクセスし、これを通じて「さらに高次元の霊的な存在」と接続して初めて高次の存在になれるかのように述べていることも、彼がどれほどニューエイジ思想から深い影響を受けているかを伺わせる。この「ONENESS]なるものこそ、実質的な「和の精神」のことである。

Dr.Lukeがしきりに主張する「波動」も、ニューエイジの思想では至る所に見られる概念である。ニューエイジの神秘主義者らは、「松果体」の活性化や「覚醒」のために特定の周波数を聴いたり、以下に示す「エロヒム」から「波動」を受けることが有益だと説いたりしている。

しかし、前にも説明したが、「波動」というのは、この世の物理的時空間の中でしか起き得ない物理現象であって、聖書における霊的な世界には、そもそも時空間がないため、波動など起きようがないのである。従って「波動」という言葉が出て来た時点で、それは霊に属する事柄を、この世の物理現象の話にすり換えているとすぐに判断できるのである。

従って、こうした事実から、Dr.Lukeの唱えている以上のような説は、すべて「肉的(物質的)な領域に造り出された霊の偽物」だということが明らかとなる。

Dr.Lukeの唱える「マインドのトランスフォーメーション」は事実上、ニューエイジの「覚醒」(アセンション)と同じものであり、彼はすべてのペンテコステ運動の指導者と同様に、人間の堕落した本能的な力を、キリストの十字架において否む必要を主張するどころか、それをあたかも神の神聖な霊の働きであるかのように装いながら、その堕落したパワーを増幅し、肥大化させることで、人類の超人化(アセンション)を促しているのである。
 

クリスチャニティとニューエイジ 
投稿者: drluke 投稿日: 2017-12-02 

投稿者: drluke 投稿日: 2017-12-02「(このふたつ表向きは実によく似ている。が、本質的にはニューエイジはキリストの否定。しかし、神学オツムで空回りするキリスト教徒よりは霊的世界との触れ方は深い。キリスト教徒は肉汁の抜けた筋張ったステーキを食わされているが、ジューシーな部分はニューエイジに取られている。われわれはそれをゲットバックする必要がある1) コチコチなオツムの人はただ「ニューエイジは危険だ、危険だ」とヒステリックに叫ぶだけだが、きちんとした見極めが必要。そう言ってるあなたのオツムはどうなのよ、と言いたいわけ。

さて、David Ickeなる人物を知っている人は、最近ではけっこう多いと思う。英国人、サッカー選手に憧れるもリューマチで挫折。その後BBCキャスターとして活躍するが、原稿を読まされるだけの仕事に飽き飽き。緑の党の広告塔となり、BBCを解雇され、90年代の初期に霊的覚醒を経験。

その後、世界を巡る間に爬虫類伝説が各地にあることに気づき、世界のエシュタブリッシュメントはスメールの子孫である爬虫類人類(レプタリアン)であると指摘。彼らがいわゆるシェイプシフトする動画などもYouTubeにはころがっている。日本では大田龍氏と親交が深かった。一時は故小石泉牧師とも交流があった模様。

彼の論はきわめて興味深い。いわく、人間とは意識であり、それは孤立してものではなく、大海の一滴のようにすべての人類の意識とひとつである(ONENESS)。この大海の意識はさらに高次元の霊的なエンティティとつながっている。

ところがこの肉体の中に閉じ込められている間に五感によって作られた偽りのリアリティーのカプセルの中に束縛されている。人は恐れによって自分の中に閉じ篭っているのだ。それが場を作り、そこにはある種のエネルギーが存在する。

それを生み出すのが爬虫類脳、つまり私の言うところの大脳辺縁系だ。ここを刺激されると人間は弱くされる。自己保存するための闘争が世では繰り広げられているが、それはこの爬虫類脳を刺激されて、マニュピレートされた結果だ。彼はここでマニュピレートする存在をイルミナティとかメーソンと言うわけ。

レプテリアンが存在するかどうかはわからないが、これはきわめて面白い。ある意味私が指摘しているとおりなのだ。人は欺かれている2) 誰に?Ickeの言うようなエスタブリッシュメントというよりは、霊的な存在による(Eph 2:2)。そのヘッドであるサタンは全人類を欺く存在である(Rev 12:9)。人は爬虫類脳である大脳辺縁系を刺激され、恐れや情欲によって振り回されているのだ。

内的な世界モデルは自分の内面を投影したものであり(☞鏡像原理)、よって人により世界をどう把握するかはテンデンバラバラ。一応その最大公約数的な部分が常識とされるわけだが、この常識というやつが危ない。特にニッポンのものはやばい。さらに危ないのがニッポンキリスト教のそれだ。<略>

われわれがある種の霊的なオーラを発していることは明らか。真に御霊に満たされているクリスチャンの醸す雰囲気は普通とは異なる。その霊的な場に人々が引き寄せられることは当然。イエスも多くの、特に虐げられた人々を吸引した。

また私たちのマインドには創造する力があることはバベルの塔の件で神が証言している。彼らが思い巡らすことは妨げられることはないと(Gen 11:6)。そして言葉にもその力があることは何度も書いている。

われわれはこの物理的世界と霊的世界の狭間に生きている。神と悪魔と人は三角関係のダイナミックスに置かれている。諸霊の影響を受けているのが世の中の人々、そしてオツムだけのキリスト教徒だ。彼らは霊の世界、あるいは霊の場を知らない。その場の振動(波動)がこの物理的世界に現出するのだ。

中東情勢も、個人の経験も、みな原則はひとつ。われわれのフェイスによる言葉はその霊の場に波動を起こす。フェイスによって霊の場の波動、すなわちサブスタンスをこの世界に現出させる(Heb 11:1)。

イエスは内にいます父の言葉をご自身の霊の波動としてとらえ、それを語り出された。これが死者を生かし、水をワインに変え、癒しやしるし・不思議をなしたのだ。物質界も場の波動であり、霊的世界も場の波動。そのふたつの領域を結ぶのがわれわれの言葉だ。内なる霊の波動による言葉を語り出すとき、それは何かを生じる。

Ickeも言っている、マインドのトランスフォーメーションこそが鍵だ、と。目の前の世界、現象を変えるのではなく、自分の内が変われば自ずと世界も変わると。まことにそのとおり。小さな自分というカプセルから飛び出せ!船から水面に一歩を踏み出したペテロのように。神のレーマがあれば水面も固体化するのだ! 
   

 「自分の内が変われば自ずと世界も変わる」などと言って、神に目を向けさせず、ひたすら「自分の内」に目を向けさせていくのは、グノーシス主義者の常套手段である。グノーシス主義者はもともと神を人間と同一とみなしているため、神を見いだすためには、人が自己を見つめることが必要だと言って、自分自身に目を向けさせる。それはどこまで行っても、被造物だけしかおらず、まことの神が不在の世界である。そこでは、「神」は人間の認識を通してしか得られないものとされ、あたかも被造物の付属物のごとく貶められ、被造物に存在を乗っ取られているからである。

Eden Mediaは、神秘主義の独自の概念である「松果体」や「サードアイ」に、まるで聖書に起源があるかのように見せかけながら、人類超人化計画を推進しようとする。あまりにも荒唐無稽なため、あえて紙面を割いて分析する必要もないようには思うが、以下では、笑い出したくなるような、こじつけとしか言えない語呂合わせが展開されている。
 
 聖書における「松果体」について…

古代人は松果体(PINEAL GLAND)を知ってた。
マインドとの繋がりを。
それは難解だった。
実際、聖書も触れてるくらいだ。

それでは、聖書に松果体(PINEAL GLAND)が登場する
節句を挙げていこう。
「創世記 32章30節」

ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、
なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)
と名付けた。

ペヌエル=Peniel="Pineal Gland"(松果体)」


だが、ここで語られているのは、単なる語呂合わせだけではなく、聖書において、ヤコブがヤボクの渡しで神と格闘した際、「もものつがい」を外され、「顔と顔とを合わせて神を見た」ことを、Eden Mediaはグノーシス主義の立場に立って、これを「覚醒」による「真の自己の発見」と結びつけようとしているのである。
 
本来のキリスト教の解釈では、ペヌエルで神との格闘の中でヤコブの「もものつがいが外された」ことは、ヤコブの中で、生まれながらの古き人が、主と共なる十字架につけられて霊的に死んだことを意味する。もちろん、それが起きたのは、キリストの十字架よりも前の時代であるから、ヤコブに起きたことは、キリストの十字架の霊的予表である。

「もものつがい」が外された時、ヤコブの生まれ持った天然のエネルギーの中で、最も強靭で手に負えなかったアダムの堕落した命に由来する本能的な力が、神の力によって「デス・タッチ」を受けて、霊的に死を経たのである。

ヤコブという人物が、かなりわがままで狡猾な策略家で、自分が望んだものは何が何でも手に入れるまで絶対に後には引かないというタイプだったことは、聖書の色々な記述から明らかである。だが、そんな性格ゆえに、ヤコブの人生には様々な苦難が連続して起こった。

むろん、そうしたヤコブの強い性格の中には、神への信仰を決してあきらめないという長所も含まれていたが、同時に、それはヤコブ自身が自分ではどうすることもできない、彼らの頑なで手に負えない天然の内なる自己をも意味していた。

しかし、ペヌエルでは、それまでのヤコブの人生に絶えず働いていた肉的なエネルギーに、神の側からの霊的死が適用されて、そのエネルギーが死んで無効化されたのである。神との格闘の中で、十字架の霊的死に触れられた後で、ヤコブは足をひきずるようになった。そのことは、ヤコブの人生にそれまでずっと働いていた強力な肉的エネルギーが死んだことを意味し、その時から、ヤコブはそれまでのように生まれながらの「古き人」に生きるのではなく、キリストの十字架の死とよみがえりを経た「新しい人」に生きるようになった。すると、それまで、彼の人生に絶え間なく襲いかかっていた困難や試練が徐々に取り去られて行き、神の祝福は、以前よりももっと滞りなく豊かにヤコブの上に流れ出るようになったのである。

キリスト教の正統な解釈では、ペヌエルは「キリストの十字架におけるアダムの自己の死」を象徴する場所である。すなわち、人間の堕落した生来の肉的なエネルギーがすべて神によって触れられて死ぬ場所である。神を見るためには、人は生まれながらの自己に対する死を経なければならないのである。

ところが、グノーシス主義者は、このようなペヌエルの正統な意味をまるで逆にしてしまう。彼らは、ペヌエルで、ヤコブは「鏡」の中に映る自己を見つめてこれを「神」だと認識し、天然の自己を保存してこれに死ぬことなく、肉的なエネルギーの中で「覚醒」して、自ら神に到達したと、話の趣旨を捻じ曲げてしまうのである、

Eden Mediaでは、ペヌエルのエピソードは、ヤコブが十字架の霊的死によって自己を否んだ結果として、神との出会いと祝福の中に入れられたことを意味するのではなく、むしろ、ヤコブが自ら自分は神であるという認識に達して、ヤコブの内側で「アセンション」が起き、彼は超人的な能力を手にして神からの祝福に与り、自ら神と同じものになった、という正反対のとんでもない解釈を施されているのである。 
 

「”ペヌエル”で何が起きていたか説明すると、
ヤコブは夜明け前になっても起きてたんだ。
そんな彼は最高神の天使と格闘中だった。
それは”YAH”(ヤハウェ)の天使だ。
ヤコブが最高神の化身の天使と格闘していると
ヤコブはももの関節をはずしてしまう。

それでも、ヤコブは最高神から
祝福をもらうのに必死で
「祝福するまでは離さない」と言った。
すると、最高神は彼に祝福を与え、彼の名前を
”イスラエル”に変えた。

ヤコブは「顔と顔とを合わせて神を見たので、
その場所を”ペヌエル”と名付けた。
「面と向かって、神を見たため…」



さらに、ここで、Eden Mediaの解説者が、「神(God)」と呼ばずに、最高神(Most High)」などという聞きなれない名を持ち出していることにも注意したい。もちろん、「最高神」などという呼び名は、聖書の神が、唯一の神であることを否定する立場に立っていなければ、出て来るはずのない言葉である。
 
「最高神」という存在は、他にも「下級神」がいて、神は一人ではないという前提なしには生まれない呼び名である。そこで、Eden Mediaが「最高神」と呼んでいるのは、グノーシス主義における「真の至高者」だということがすぐに分かる。つまり、彼らの言う「神」とは、聖書の唯一の神ではなく、グノーシス主義の「至高者(=鏡=虚無の深淵)」のことなのである。
 
このことは、Dr.Lukeが近年、「神」という呼び名を使わずに、やたらと「エロヒム」という言葉を多用している事実をも思い起こさせる。「エロヒム」とは、以下にも記すように、スピリチュアリズムの世界では、極めて広く使われている独自の概念なのである。



Dr.Lukeの出しているポスター。エロヒム(神々)とはKFCの「覚醒」した信者らを指す。


以下は、Dr.Lukeが2016年7月4日に書いた「あなたがたはエロヒムだ!」と題する記事。これはKFCの事実上の「覚醒宣言」であった。

今週のメッセはいわゆるキリスト教(特にニッポンキリスト教)の神学オツムにはかなり刺激的だと思う。あるいは挑発的か。われわれの真のアイデンティティーに覚醒せよ! われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである! WOW! 

そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々(エロヒム)である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。-John 10:34-35


ニッポンキリスト教や英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!エロヒム・ヤハヴェはエロヒムの会議で裁定するのだから。知ろうとせず、闇の中を行き来する、ことのないように!<後略>



むろん、以上で述べられているようなDr.Lukeの聖書解釈は、完全に荒唐無稽で成立し得ないものであることは、別の記事の中で、すでに説明したので繰り返さない。以上で、Dr.Lukeが「われわれの真のアイデンティティーに覚醒せよ! われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである! WOW!」などと述べているのは、間違いなく、ニューエイジの「アセンション」と同一の「超人化」を指しており、KFCの信徒らが「覚醒」に至り、自らを「神々」とみなし始めたことを宣言したものである。
 
スピリチュアリズムにおいても、「エロヒム」の概念は広く使われているが、それが何を意味するのかを見てみよう。以下の記事では、「エロヒムとは天使だ」と言われてはいるものの、そこで言う「天使」とは、「最高神」から直接、創造され、「最高神」のパワーを受けとる「被造物」もしくは「下級神」といったような意味合いである。

また、スピリチュアリズムでは、「エロヒムは高い、効果的な波動を持つ強力な存在」などと言われていることも興味深い。やはり、「霊の波動」などという怪しげな概念を強調するDr.Lukeのメッセージと非常に重なる部分が多く、Dr.Lukeがこのような従来のキリスト教とは全く無縁の用語を強調し始めた理由が、ニューエイジやスピリチュアリズムの影響にあったことが推察される。




 
Eden Mediaは、神秘主義者の言う「アセンション」に、あたかも聖書的な根拠があるかのような虚偽の説明を続ける。

次は「マタイ6章22節」
読み上げると「体のともし火は目である」
「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが…」

Yehushua(イエス・キリスト)…
”人の子”と呼ばれる方
または、罪の贖いのために死んだ方は、
目を”単数形”で話す。

しかし、我々には”二つの目”が…
となると、Yehushuaが話した”目”は
違う目だったはずだ。
”一つの目”と言うからね。

彼は”マインドの目”を語ってた。
それは人間に洞察力を与える目のことだよ。
だから、この”光”…この”目”が…

Yehushuaが話していた
この一つの目が濁っていると…
そして閉じていると、
あなたの身体は全身暗い。
Yehushuaは松果体の存在を知っていただろう。

なぜかって?
彼は最高神”YAH”の息子で、
人間を自分自身に摸って
デザインしたわけだからね。
だから、最高神に摸って、人間をデザインしたということは、
その体の器官やその機能を知った上で創造し―
それらが”身体”と”魂”に与える
影響を知っていたはずだからね。



だが、以上のような記述も、真っ先に「聖書は神による人間の取扱説明書」などと主張していたDr.Lukeの記述を思い起こさせる。Dr.Lukeは、自らのブログの解説を、次のように記していた。

「Dr.Lukeのキングダム・フェローシップ・ブログ。聖書を宗教から解放すべく自然科学者の視点から解き明かす。聖書は神による人間の「取り扱い説明書」であり、物理的世界と霊的世界の関係を啓示しており、スーパーナチュラル。WHOも「霊的健康」なる概念を提唱するが、『霊精神身体医学』を開拓する。



しかし、これはどこから見てもツッコミどころ満載のデタラメな記述である。その根拠として、まず、第一に、聖書は「自然の人は神の霊に関する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(Ⅰコリント2:14)と述べており、霊の事柄は霊によってしか解釈できず、魂で理解することはできないと教えているため、Dr.Lukeの言うように、「自然科学者の視点から聖書を解き明かす」ことは絶対に無理であることがすぐに分かる。なぜなら、自然科学は、人間の魂による探求によって生まれたものであり、神の霊とは無関係であり、必ずしも信仰に基づかないからである。

また、聖書は、神が人間に与えられた約束(契約)であり、人間の側でも神に対して守るべき義務を定めている。聖書は神と人間との間に結ばれる契約であって、決して、Dr.Lukeの言うように、人間の「取扱説明書」ではない。聖書を人間の「取扱説明書」とみなすDr.Lukeの考えの中からは、人間本位の考えが読み取れるだけであって、聖書の中心は、人間ではなく、まことの神ご自身であり、聖書はキリストを中心とする物語であるという概念が抜け落ちている。やはり、ここでも、被造物しか存在しないグノーシス主義の世界観を見て取れるのである。

さらに、仮に聖書が「物理的世界と霊的世界の関係を啓示している」としても、聖書が一環して述べていることは、物理的世界と霊的世界との接点は、十字架で死なれたキリストという、ただ一人の「神と人との仲介者」(Ⅰテモテ2:5)なしには絶対に成立しないということである。このキリストの十字架の死と一つとなって、人が古き自己に死ぬことなくして、人が神に受け入れられ、神の霊と一つとされることは絶対にないという点が完全に抜け落ちている。

さらに、Dr.Lukeの引き合いに出す「霊的健康」なる概念を唱えるWHOは、以下の通りの紋章を使っている。これを見れば、WHOの唱える「霊的健康」なる概念が、どういうものであるかがよく理解できるのではないかと思う。このようなシンボルに従って行けば、霊的健康どころか、霊的病以外には待ち受けているものはないだろう。

 

 世界保健機関(WHO)で使われている「アクレピオスの杖」

 
 
救急車で使われている「アクレピオスの杖」


以上のWHOや救急車で使われているシンボルは、「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、ギリシア神話で名医とされるアスクレピオスが持っていたと蛇の巻きついた杖を指す。むろん、聖書とは何の関係もない概念である。しかし、今日、この「蛇」のからみついた「杖」のマークが、医療・医術の象徴として世界的に広く用いられている。

この杖は、『龍の正体』でウィルソンの昇進の儀式の際に師匠が持ち出して来た魔術師の杖を思い出される。もちろん、シャーマンの杖に、蛇はいない。なぜなら、そこに絡みついている蛇は、悪魔に由来する見えない邪悪なエネルギー(=「気」)を指しているからである。



このような事を考え合わせても、Dr.Lukeが唱えている「霊精神身体医学」なるものは、邪悪な霊的パワーによって人体を変容させる内丹術とほとんど変わらない、非科学的かつ非聖書的な偽りの概念であると言えよう。

彼が目指しているのは、グノーシス主義者と同じように、邪悪な起源を持つ人間の堕落した魂の世界や、堕落した肉的なパワーを、神の御霊と「融合」させるという身体的錬金術なのである。

そして、Dr.Lukeと同じように、Eden Mediaも、本来は、霊によって解釈することしかできない事柄を、この世の物質的世界の諸現象に置き換え、霊に属する概念を、肉に属する概念にすり替えて行く。

むろん、以下のマタイ第6章22節の記述も、「サードアイ」や「松果体」のことを指しているのでは全くないが、Eden Mediaはそれも文脈を捻じ曲げて解釈してしまう。

「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(マタイ6:22)

以上の御言葉は、神の霊が人の内に住んで、御言葉の意味を啓示し、それによって光(正しい知識)を与えることがなければ、人間は自分だけでは何事も正しく理解し、判断することができないということを示したている。確かに、ここで言われている「目」とは、霊の目のことなのだが、それは、キリストの霊と一つになった人間の霊が、霊の中の直覚において、御霊を通して、神の啓示を受けて、何が神の喜ばれることで、何がそうでないかをわきまえる(見る)ことを示している。

一言で言えば、「目が澄んでいる」とは、信者が神の聖霊から御言葉を通して霊的啓示を受けることを指しているのであり、「松果体」やら「松果体を流れるエネルギー」やら「サードアイ」なる概念とは全く何の関係もない話である。そうしたものは、たとえ百歩譲って、作り話ではなく実在すると仮定したとしても、徹頭徹尾、この世の物質世界における物理現象の域を出ない、霊的な事柄とは何の関係もない話である。

しかし、Eden Mediaは、本来、神の「霊(Sprit)」によってしか見極められないはずの事柄を、肉に属する「思念(mind)」の話にすり替え、ひたすら、人間の生まれながらの自己の内側で、すべてを自己完結させて、神に至り着く道を切り開こうとする。そして、「ヤコブはペヌエルで最高神から松果体を開いてもらい、超能力に目覚めたのだから、あなたもそれに倣うべきだ」などと、とんでもない解釈を語り出すのである。

「だから、松果体をデザインした時
主はその明確な役割を知っていたんだ。
”セロトニン”や”メロトニン”
といったホルモンを分泌する
この松果体という小さな器官は―
人間に”夢”や”幻想”をもたらす機能も果たすんだ。

だから人々は鮮明なイメージをマインドで見れるわけだ。
その場で体験しているかのように…。
実際は睡眠中なのにね。スゴイ。

両目は閉じてるのに、

鮮明なイメージが見れるんだ。

例えば、数年前に亡くなった親族が
鮮明に浮かび上がったりする。
または学校のイジメっ子が
現れることもあったり―
そんな彼と遭遇してしまう
恐怖を感じたりする。

(注:こうして死者に言及したり、やたら不気味で不快なイメージばかりを描くところに、Eden Mediaの悪趣味がよく表れている。そんなイメージしか見られない「第三の目」など、開眼する必要は全くないものである。)

あるいはあなたのマインドで創造される
不思議でアブストラクトなイメージを見れたりもする。
それは実際、存在しないが、
あなたはそれを両目が閉じた状態で見れるんだ。

最高神はヤコブを祝福し、彼の松果体を開いた。
そうだ、その通り。
”最高神”が…彼の松果体を開いた。

要するに…あなたは自分の部屋でヨガのポーズをとり
サードアイを開こうとしてはならない。
それは違う。
そんなことすると、あらゆる悪質な存在に隙を与え、
精神分裂症になるだけだからな。
自分で開こうとするならな。

そうでなく、あなたは最高神に集中し、

彼を賛美し、
最高神のガイダンスに従い、
彼に開いてもらうべきなんだ。
それが正しいやり方だ。

では、あなたが、最高神の霊に

身体を引き渡すなら何が起きると思う?
その魂は?
神の息吹(ルアク)は?
聖書によると、”神の息吹(ルアク)”は何をもたらすと?
それはあなたを完ぺきな真理へと
導いてくれると教える。
洞察力を与える。

だから、こうした奇妙なモノは必要ない。
ヨガ、メデイテーション、マントラやら…
周波数やら、トーンやら、
松果体を開くにはね…
最高神に集中すれば、彼が開いてくれる。


Eden Mediaは、「最高神(=グノーシス主義における真の至高者)」を賛美していれば、自然と、「真の至高者」が「松果体」の開き方を教えてくれて、「サードアイ」が開眼するのだと言っていることは、Dr.Lukeの唱えている「セレブレーション」の内容を思い起こさせる。要するに、KFCの「セレブ」は、ニューエイジが考える「霊的覚醒(=アセンション)」を呼び起こし、「人が神になる」ための場なのだと見て良いだろう。

 



以上の記述において、Eden Mediaはいつもの例にならって、一方では、「ヨガや、瞑想や、マントラや、周波数や、波動やらは要らない」と言いながら、他方では、「彼らが言うことは必ずしも嘘ではない」と真逆の結論を述べ、それらを肯定する。そして、「サードアイ」やら「松果体」やらと言った概念は、オカルト的・魔術的・悪魔的なものではなく、使い方次第によっては十分に有益なものとなるため、ニューエイジの思想の価値を「見直す」べきだ、などと人々に訴え、悪魔的起源を有する呪われたものを、クリスチャンが信仰生活の中に積極的に取り入れるよう促していくのである。その主張は、Dr.Lukeとほとんど変わらない。

「言った通り、古代人は松果体を知ってた。
世界中の文化を見渡せばわかる。
それが古代インドだったり、ヒンドゥーだね。
あとは古代中国や…日本もそうだ。
古代エジプト、古代マヤ。
どこ行こうが、皆、松果体を知ってた。

どっかのヨギーが、ヨガを通して、
サードアイの開き方を教えてるからと言って…
彼らは最高神と繋がりを持たない未熟な形で
開こうとしているかもしれないが、
彼らが言うことは、必ずしも嘘ではない。

要は、サタンは何でも悪用できる。
例えば、火を使って、放火することも出来れば、
調理することもできる。
それは、あなたとその意図次第。

では”サードアイ”や”松果体”と言うコンセプトは
本当に悪質でオカルトと言い切れるのか?
”悪魔”で”魔術的”だと…
考えるべきだ。」


 
先に述べたDr.Lukeの主張と、Eden Mediaと驚くほどそっくりである。彼らは「ニューエイジは危険だ」とか「サードアイや松果体などはオカルト的だ」と決めつけず、もう一度、本当にそれらが間違っているのか、考え直すべきであり、ヒステリックに拒否反応するのではなく、「きちんとした見極めが必要」だ、などと言うのである。

これは、かつて蛇がエデンの園で、次のように人類に尋ねたことの繰り返しである。

「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。

今日も、蛇は人類に語り掛ける、「ほんとうに神はあなたにそれを禁じられたのですか? ニューエイジは危険だ、魔術だ、オカルトだから、関わってはならないと、神がほんとうに言われたのですか? 

いや、あなたはもう一度、それについて考え直してみるべきです…。あなたはヒステリックな思い込みに陥っているだけです。きちんとした見極めさえできれば、ニューエイジだろうと、オカルトだろうと、神秘主義だろうと、実に無害で、有益なものなんですよ…。あなたが考えているような危険なものじゃありません。あなたはせっかくのチャンスを、自分の狭い了見のせいで、台無しにしているんですよ…」


このような主張に、決してクリスチャンは耳を傾けるべきではない。Dr.Lukeは「聖書を宗教から解放しなければならない」などと述べて、聖書を「キリスト教」の枠組みからも取り出さなければならないなどと主張するが、その結果、起きるのは、あらゆる忌むべき思想と聖書との「混合」である。

もしDr.Lukeの言うように「オツム」が崩壊して滅びに至るような人々が出現するとすれば、それはキリスト教徒ではなく、むしろ、クリスチャンを名乗りながらも、「二度目の林檎」を取って食べ、ニューエイジの神秘主義思想を内に取り入れた人々である。なぜなら、神を畏れることを捨て、真理を捨てた者が、正常な意識を保つことはなく、蛇の言うことは常に嘘だからである。

「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4-5)

ニューエイジの思想に従って、「人類の集合意識」にアクセスし、これと融け合い、さらなる「高次の霊的意識(=虚無の深淵)」と融合するために、「アセンション」を経ることは、「この世の君」であるサタンの意識に直接アクセスする権限を得るのと同じことであるから、そのような「覚醒」が、もし信者の内で起きれば、その信者は、サタンのための開かれた通路となり、もはや二度と聖書の神への正しい信仰に立ち戻ることはできまい。

前回の記事の冒頭で、黙示録に登場する「獣の刻印」に関する御言葉を引き合いに出したが、そこでは、獣を拝む者には「すべての者にその右手か額に刻印を押させた。」と記されている。この獣の刻印なるものが、具体的に何であるのかは定かではないが、今、分かっていることは、この獣の刻印が押される場所が、「額」すなわち、「サードアイ」と同一の場所であるか、もしくは、ヒンドゥー教で、「聖なる手」とみなされている右手だということである。

このことは、獣の刻印が、悪魔の支配の印であるにも関わらず、あたかも聖なる刻印であるかのようにみなされて、彼らが「聖なる体の部位」だと主張するところに選んで押されるということである。

むろん、獣の刻印が何であるかは分からないとはいえ、神秘主義思想家らの言う「サードアイ」とは、それ自体が、獣の刻印の予表のようなものだと筆者には思われてならない。

そこで、KFCの「セレブレーション」も含めて、ペンテコステ運動の集会や、それに関わる信者たち、Eden Mediaの言う「超越瞑想者の集会」や「サードアイの開眼」など、「クンダリーニ覚醒」によって「蛇」の邪悪なエネルギーを呼び覚まし、サタンに通じる「集合意識」にアクセスして、暗闇の勢力に扉を開く手段には、決して関わらないようにと勧められるのみである。

そのような「覚醒」は、聖書のまことの神への礼拝や賛美とは何の関わりもなく、そのような悪魔的礼拝に関われば、クリスチャンはもはや神の子供ではなくなり、命の書から名前を削られ、救いからも除外されて、神の敵となり、真実なクリスチャンに戦いを挑む暗闇の兵士とされた上、外の暗闇に打ち捨てられるであろう。

このような忌むべきオカルト思想に関わりながら、クリスチャンが同時に神の民であり続けることは不可能である。汚れたものとは分離せよ、という聖書の原則を厳に守らねばならない。

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとべリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。

神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。

「そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主は仰せられる。」(Ⅱコリント6:14-18)

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑨~

・獣の刻印としての「サードアイ」~人が暗闇の勢力に自己を開くことの危険~

「第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。
ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるが良い。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」(黙示13:15-18)

Eden Mediaは、聖書に基づく警告であるかのように見せかけながら、実は反キリストの思想を宣伝する媒体となっていることはすでに述べたが、この媒体は、時を追うごとに、その正体をあからさまに見せ始めている。直近の動画の一つ「【4月】全能の目・松果体のお話。」では、冒頭から、「地球上の誰もが目に見えない形で、つながりを持つ。それが”暗黒エネルギー”や”暗黒物質”とのつながりだ。そして、それを利用し、あらゆるコトが実現できる。」などと、とんでもない話が始められる。

むろん、「暗黒エネルギー」「暗黒物質」などを通して、人間同士が互いにつながり合い、超能力を発揮できるなどという話が、キリスト教とは何の関係もないことは明白である。「暗黒エネルギー」「暗黒物質」といった名前を聞いただけで、これはオカルトだと判断して差し支えない。

この動画では、「暗黒エネルギー」とは何を意味するのか、具体的な内容は示されていないが、これまでの話の流れから察すると、それは「気」や「マインド」のことであり、要するに、「クンダリニー(蛇)」に由来する悪魔的なエネルギーであることが、説明なしでも十分に理解できる。

要するに、冒頭からこの動画は、「悪魔に由来する邪悪な暗黒エネルギーを活性化して、あなたも我々と共に覚醒し、超人となり、人類全体でつながり合って、神に反逆しましょう」と言っているに等しいのである。

この動画の後に続く「悟り」では、そのような路線に沿って、人が暗黒エネルギーに覚醒するとどうなるのかという話が続行される。それについては次回以降に説明するが、「全能の目・松果体のお話。」の動画で語られるのは、人類を超能力に目覚めさせる鍵となる「サードアイ」の開眼というテーマである。



世界中の古代文明は”なにか”を知ってた。

我々に”能力”があることをな…
”超能力”だ。

念動、テレパシー、幽体離脱、
これらはすべてリアルだ。
実際起きる。
実在する。

けど仕組みは?
それは
ここ最近のエビデンスによると
「松果体」がこれらの能力の鍵を握るという。

それでは人間の身体で
最も重要な器官の一つの話をしよう。
闇に閉ざされた…
「ザ・サードアイ」


 
私たちは、前回までの記事において、「サードアイの開眼」は、ヨガの修行「クンダリーニ覚醒」の一環であることを見て来た。これは、人の体の中で背骨の下に眠っている「蛇」を目覚めさせて、「蛇」の上昇によって、人が「覚醒」して「神」になろうとする神秘主義の反キリスト的な修行法である。

Eden Mediaは、以前の動画では、蛇(クンダリニー)が悪魔的なエネルギーであることを認め、「クリスチャンはクンダリーニ覚醒には絶対に関わってはいけない」と警告していた。にも関わらず、今回の動画では、「サードアイ」なる概念が、悪魔的な起源を持つものである事実を無視・否定して、むしろ、「サードアイを開眼せよ」と宣伝する側に回っているのだから、その自己矛盾に呆れる他ない。

グノーシス主義は常にこうして、あるメッセージを打ち出すと同時に、次の瞬間にはそれを自分で否定し、まるで壊れたレコードのように、どこにもたどり着かない永遠の堂々巡りを繰り返すのである。


 
神秘主義の思想では、「第三の目」の開眼は、事実上、「悟り」と同一視されている。そこで言う「悟り」とは、結局、人間が超人化するという「アセンション」を指している。

今ここで、少しの間、動画の解説を脇に置いて、まずは「サードアイ」なる概念の詳細から見ていきたい。むろん、この「第三の目」は、Eden Mediaが述べているように、「最近のエビデンス」によって存在が科学的に証明されたわけではなく、実在が全く証明されていない、古代から神秘主義思想で用いられている独自の概念である。
 
さらに、クリスチャンの観点から見れば、この「第三の目」は「悪魔の目」と呼ぶ他ないものである。
 
「第三の目」は、仏教やヒンドゥー教にも見られる。たとえば、ヒンドゥー教の最高神の一人であるシヴァ神には「第三の目」があり、大仏の眉間などに見られる「白毫(びゃくごう)」(白い毛を巻いたもの)も、実質的には、神秘主義者らの言う「サードアイ」と本質的に同一だとみなせる。

仏像の白毫は、目ではなく、白い毛を巻いたものであり、表向きには、ヒンドゥー教の「シヴァ神」の第三の目とは直接的には関係がないとされる。
 
だが、「シヴァ神」の第三の目も、白毫も、同じように、ヨガの「第六のチャクラ」に当たる位置にあり、また、光り輝いて世界を照らす源となったなどの神話的記述が共通していることを見ると、それらは両方、世界を照らす「悟りの智慧」を意味しており、よって本質的に同じ概念であるとみなせる。

「第三の目」の概念

“内なる目”“松果眼”とも称される神秘主義や形而上学で扱われる概念
 多くの場合、直接認識、精神集中、幻視、透視、千里眼、予知、体外離脱に関連付けられ、また内なる世界や上位意識への扉として扱われる。また肉体的な特徴以上に、統一、均衡、事物の相対的把握、解脱、超越的英知、光の結晶、霊的意識、悟りを象徴するという。

シヴァの額の目や仏陀の白毫、およびヨーガのアージュニャーチャクラがこれに当るとされる(白毫は正確には第三の目を模した毛)。シヴァの第三の目は炎のように輝いて全世界を照らし、仏陀の白毫も光を放って世界を照らすものとして語られる。

ヘッドティカのように、第三の目を模したような装飾品も存在。
みんなでつくるpixivの百科事典参照。



白毫(びゃくごう)は、仏(如来)の眉間のやや上に生えているとされる白く長い毛。右巻きに丸まっており、伸ばすと1丈5尺(約4.5メートル)あるとされる。眉間白毫とも。三十二相の31番目であり、白毫相、眉間白毫相とも。仏教美術での表現から、膨らみや模様と誤解されることがあるが、誤りである。

光を放ち世界を照らすとされる。『法華経』序品には、仏(ガウタマ・シッダールタ)が無量義処三昧の瞑想に入ったとき、白毫が光を放ち東方一万八千世界を照らし出すというシーンが描かれている(爾時仏 放眉間白毫相光 照東方万八千世界)。

白毫の位置は、インド哲学における第6チャクラのアージニャーである。シヴァ神などいくつかのヒンドゥー教の神はその位置に第3の目を持つ。ヒンドゥー教徒が同じ位置にする装飾であるビンディーやティラカと、俗に混同されるが、直接の関係は薄い。
Wikipedia白毫から 

 

 
ビンディ(結婚したヒンドゥー教徒の女性が額につける装飾)


ヒンドゥー教の最高神の一人とされる「シヴァ神」の第三の目


仏像の白毫


 
私たちが常日頃から見ている座禅のポーズをした仏像は、ブッダが「クンダリーニ覚醒」を行う修行の最中であること、また、仏像の白毫は、ブッダが「覚醒」を経て「サードアイ」が開眼した事実を伝えているのだと見て良いだろう。もしくは、仏像はブッダという人間を指しているというよりも、それ自体が、「覚醒(=アセンション)」の象徴なのである。

ちなみに、ヒンドゥー教の「シヴァ神」は、ほとんどの場合、首に蛇を巻いた姿で描かれ、髪の毛にも蛇が絡んでいるが、それは「シヴァ神」が、古代インドにおける「ナーガ(蛇)」信仰と合体して出来た存在だからだと言うことができよう。「ナーガ(蛇)」信仰とは、むろん、本質的にはルシファーへの信仰、悪魔崇拝に他ならない。

悪霊シヴァの起源」などの記事の解説では、「ナーガ(蛇)」信仰も、「シヴァ神」も、もとは悪霊(悪鬼)とみなされていたものが、「神」とされるようになったのだとする。十二神将などと同じように、「シヴァ神」も悪鬼が神格化されたものだという考えには説得力がある。

今日でも、「シヴァ神」を描いた画の中には、不気味なオカルト信仰としか見受けられないような描写が多数含まれているのは、もともとこれが悪鬼であったからだと考えれば理解できる。

 
ヒンドゥー教の最高神である「シヴァ神」はほとんどの場合、蛇を首に巻いた姿で描かれる。今でこそ「吉祥」を表すとされているが、激しい怒りですべてを焼き尽くす「破壊の神」でもあり、もとは悪鬼とされていたものが神格化されたという説は正しいのではないかと想像される。



ヒンドゥー教における「シヴァ神」は「破壊と創造の神」とされており、宇宙の根本原理とされる「ブラフマン(力)」と同一であるとされるが、ここで言う「ブラフマン」とは、グノーシス主義における「虚無の深淵」や、内丹術における「道」とほとんど同一の概念であるとみなしてよいだろう。

シヴァという世界観」などの記事によれば、「シヴァ神」の姿は「リンガ」にたとえられる。インドには至る所に「リンガ」の形となった「シヴァ神」が祀られ、「ヨーニ」と合わせて崇拝の対象となっているという。そこから分かるのは、「シヴァ神」とは、一言で言えば、「割礼を受けていない男性的なエネルギーの象徴」であって、ヒンドゥー教では、それが世界を創造した根源的なエネルギーであるとみなされ、創造と破壊を続ける根源的な力だとみなされて、神格化されて崇拝の対象となっているということである。

老子は、人間は「神は気を生じ気は精となり精は形を成し子孫を生みだす」という過程を経て生み出されるという「神→気→精」の経路を主張し、人間がこれを自ら逆行し、「精→気→神→虚」の経路をたどることで、世界の根源である「道(=虚無の深淵)」への復帰が可能であるとした(内丹道)。「シヴァ神」というシンボルが表しているのは、まさに老子の主張と同じである。老子の述べた「精→気→神→虚」とは、「シヴァ神(リンガ)」や「クンダリニー(蛇)」と同一のエネルギーを意味する。

また、「シヴァ神」の髪の毛にも蛇が絡みついているように、仏像の額に巻いている白毫も、その起源は、とぐろを巻いた白蛇にあると考えるのが妥当ではないだろうか。つまり、それはブッダを「覚醒」に至らせた力も、クンダリニー(蛇)に由来することを暗示しているのである。

そう考えると、相当に多くの謎が解けて来るのではないだろうか。なぜ旧約聖書で、イスラエルの民に属する男子たちは、生まれて八日目に割礼を受けなければならなかったのか。割礼とは、聖書の神が、決して人間の生まれながらの堕落したエネルギー(=人間の生まれながらの自己=肉の力=天然の男性的なパワー)を聖なるものとは認められず、人間が神に受け入れられるためには、(男であれ女であれ)、生来の本能的な力に対して十字架の霊的死を経なければならないという事実を示している。
 
このように、聖書の神は、決して人間の生まれながらの堕落した肉的な力を、神に属するものとして受け入れられることはない。割礼は、人類の生まれながらの肉的な力に対する霊的死の適用を意味する。だが、「シヴァ神」に見られるような異教信仰においては、割礼を受けない男性的パワー、人間の堕落した生まれながらの本能的な肉の力が、そのまま「世界の根源」として崇拝の対象とされ、誉め讃えられる。だが、それは元来は「ナーガ(蛇)」や「クンダリニー(蛇)」に由来することを見ても、悪魔的な力なのである。

「ビンディ」は、ヒンドゥー教徒の女性(被造物全体の象徴)が結婚することで、「割礼を受けていない生まれながらの男性的なエネルギー(=ナーガ(蛇))を主人として、その堕落した悪魔的な力と結びつき、その支配下に入ったことを象徴的に表す印だと言えよう。そして、ヒンドゥー教徒の女性に限らず、「第三の目」を開眼させた者たちはみな、その印によって、彼女たちと同じように、自分が悪魔的なパワーの支配下に入ったことを自ら言い表しているのである。

さて、この蛇(クンダリニー)に由来する 「サードアイ」は、「プロビデンス(=神の摂理)の目」(万物を見通す目)と同じものである。

「プロビデンスの目(Eye of Providence)」は、キリスト教の聖堂などの建築物などでも使用されていたことから、「神の全能の目(all-seeing eye of God)」を意味するものとして、表向きには、三位一体を象徴するキリスト教のシンボルであるかのように言われて来た。

だが、筆者は、これがキリスト教のシンボルだというのは、ほとんどあり得ないことだと考えている。

聖書には次の一説があり、神が確かに全能の目を持っておられることを示している。

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(Ⅱ歴代誌16:9.)

だが、以上の御言葉は、神が「ご自分と心ひとつになっている人々」を見つけ出し、その人々を助けるために、深い関心を持って、全地を見渡し、人類の中にご自分に忠実な信徒を探されている、ということを表しているだけである。
 
以上の御言葉の意図は、ピラミッド・アイとも呼ばれる、自分の象徴を誰にでも見せつけようとするあの自己顕示的な「目」とは全く別物であると筆者は考えている。

私たちは、神の他にも、「全能の目」を持ちたがっている存在が確かにいることを知っている。その存在は、神のように人々を助けるためではなく、神を超えて万物の支配者となるために、人類の心を不当に監視し、覗き見て、弱点を掴み、恐怖に陥れ、暴力と殺戮によって支配しようと、神に等しい「全能の目」を持ちたがっているのである。むろん、その存在とは悪魔である。

錬金術や、フリーメイソンで用いられている「プロビデンスの目」は、神の目ではなく、悪魔の目であるが、それを考えるとなおさらのこと、この「目」が、もともとキリスト教の中で作られたシンボルであったとは考えにくく、これは地上の組織としてのキリスト教界の中枢部が、悪魔的思想に取り込まれて堕落してしまった時に、その腐敗と一緒に外からキリスト教界の中に持ち込まれたと考えるのが妥当ではないかと思う。


 
Wikpediaから 左から順に、キリスト教界で用いられているとされる「プロビデンスの目」のデザイン、錬金術で使われていたシンボル、フリーメイソンの初期のシンボル



さらに、フリーメイソンや錬金術のシンボルである「プロビデンスの目」の起源は、古代エジプトの「ホルスの目(=ラーの目)」にあるとされる。ホルスとは、古代エジプト神話において太陽神ラーの子孫とみなされている「天空と太陽の隼の神」である。ホルスの両目は、太陽と月にたとえられ、右目が太陽の象徴である「ラーの目」、左目は月を象徴する「ウジャトの目」と呼ばれる。


ラーの目」とホルス



「プロビデンスの目」や、神秘主義者が主張している「サードアイ」は、一言で言えば、ホルスの両目である「太陽の目」と「月の目」という二つの目の「統合」の象徴である。そのことは、以下の図からも明白であろう。太陽と月との統合という概念は、光の源である太陽(≒男性、創造主)と、太陽の光によって輝く月(≒女性、被造物)との「統合」を意味しており、要するに、神と人とを融合させようというグノーシス主義的錬金術を指す。

 



ホルスの左目の呼び名である「ウジャト」とは、コブラの姿か、もしくは、頭上にコブラをつけた女性の姿で描かれる、古代エジプト神話の女神である。つまり、これも古代インドの「ナーガ(蛇)」や「クンダリニー」と同じように、蛇を神格化した「女神」である。


ウジャトの像



 

「ウアジェトの目」は、周期的に満ち欠けする月の象徴であることから、欠けた月が再び満ちるように、「失ったものを回復させる」「完全なるもの、修復されたもの」という意味がある。

エジプト神話では、ホルス神の左目である「ウアジェトの目」は、ホルス神が父オシリス神の仇であるセト神を討つ時に失われたが、(この左目はホルス神の下を離れ、エジプト全土を旅して知見を得た後、)知恵の神にして月の神・時の神であるトート神によって癒され(ホルス神の下に戻り)、回復した

そのため、「ウアジェトの目」は「全てを見通す知恵」や「癒し・修復・再生」の象徴(シンボル)とされた。またホルス神が癒された目を父オシリス神に捧げたというエピソードから、供物の象徴(シンボル)ともされた。

また、守護神としてのウアジェトの性質から、守護や魔除けの護符として用いられた。ミイラ(死者)に添えられることもある。ツタンカーメンの「ウジャトの目の胸飾り」が有名である。

第一中間期と中王国時代に、「ウアジェトの目」(左目)と「ラーの目」(右目)を左右に合わせた両目が、ミイラを納めた(ミイラは体の左側を下にして納められることが多かった)柩の左側面に描かれたりした。これはミイラを守る護符とも、死者(ミイラ)がこの世(棺の外)を見るための窓とも解釈される。目は太陽の昇る方向である東に向けられていた。
Wikipedia 「ホルスの目」から



ここで、戦闘中に失われた「ウジャトの目」をホルスに回復させたのは、「知恵の神にして月の神」とされる「トート神」だったとされる。この「トート神」は、歴史的に広範な地域、すなわち、エジプトの外の新バビロニアや古代ローマ帝国でも信仰された対象だったようで、今日でもオカルトにおいて重要な役割を果たしているとされる。

知恵の神、書記の守護者、時の管理人、楽器の開発者、創造神などとされ、王族、民間人問わず信仰された。そのためある程度の規模を持つ神殿には、トートのための神殿が一緒に作られている。」

創世神の一人であり、言葉によって世界を形作るとされる。

「誕生について諸説ある。ヘリオポリス神話において世界ができた時、自らの力で石から生まれたとされる説が有名である(この場合、早く生まれたために足が悪くなったとされる)。<略>

ヘルモポリス神話において世界は、八柱神(オグドアド)によって作り出されたとされている。その後この神々が眠りにつくが世界が終焉を迎えた時、また新しい世界を生み出すために目覚めさせなければならない。この役目を請け負ったのがトートだとされる。あるいは、トートが創造神とされた。」

トートは、魔法に通じておりイシスに数多くの呪文を伝えた。病を治す呪文も熟知していることから医療の神の面もある。<略>」

トートは、ギリシア神話のヘルメス神と同一視された。楽器の開発者とされるなど、他にも神話上に多くの役割を持っている。ピラミッドの建設方法を人間に伝えたのもトトであるとされる。」 Wikipedia 「トート


 
「トート神」はトキの姿で描かれたことから、トキの頭部を「白蛇」の姿に重ね合わせる説もないわけではない(たとえば、「瀬織津姫 & クンダリーニ…No.83」。また、「トート神」自身が蛇の姿になって現れたりしていたとする説もある。
 
さて、「サードアイ」は「太陽」と「月」の統合の象徴であるから、そのシンボル自体が、「太陽」と「三日月」を組み合わせたものだと言われる。

さらに、以下の解説においては、この「全能の目」としての「サードアイ」が、ただ単に「監視する」という意味だけでなく、「裁き」や「正義」「力」を象徴しているとされていることも興味深い。

つまり、「悪魔の目」が全地をあまねく監視する目的は、「正義」の名のもとに「裁き」を行い「力」を行使するためだというのだ。この目は単なる偽りの「知恵」を指しているだけではなく、自分にとって「悪」と見えるものに裁きを下し、実力行使で排除する「力」を兼ね備えた裁きのシンボルなのである。

(このことは、たとえば、「シヴァ神」が「創造と破壊の神」とされ、怒ると「第三の目」から炎を出して対象を焼き尽くすなどとされていることとも重なる。それは「光」であると同時に激しい怒りと憎悪によってすべてを焼きつくす力としての「炎」をも意味するのである。)


「目」の起源

この「目」のシンボル(象徴)の本質は、「月」と「太陽」のシンボルを、合成したものである。「月」は「三日月」、「太陽」は「丸」で表現される

「月」と「太陽」のシンボルを、「月」を上に、「太陽」を下になるように、縦に並べると、横向きの「三日月」が瞼に、「丸」が瞳に、すなわち「目」のように、見える。

「目」の意味

中世からルネサンスにかけて以降、三位一体の象徴としてデザインが用いられた。三位一体の盾から、この三角形の中心にある「目」は、「完全なる神」、「究極の神」、「至高存在」を表している。この目は、光輝いていることから、「光明神」である。「目」は、「目覚めた者」の象徴であり、「知恵(智慧)」と「理性」の象徴である。「知恵(智慧)」と「理性」は、蒙を切り裂き啓く、鋭利な「光」にたとえられる。ゆえに「光明神」は、「知恵(智慧)と理性の神」である。

また、「光明神」は、「太陽神」と同一視される存在であり、いと高きところ(天空)より、その光で世界を遍く照らし、闇=悪=不正の存在を見逃さない(許さない)ことから、「監視する神」であり、「正義の神」であり、ゆえに「裁く神」である。力無き正義は無力である。正義無き力は暴力である。ゆえにこの神は「知」と「力」を兼ね備えた存在である。


「☆青い空大好き☆➀②③ プロビデンスの目」から抜粋




こうした記述からも、「悟りの知恵(般若)」と表裏一体となっている残酷な般若の面という裏側が見えて来る。つまり、「すべてを見通す目」の目的は、表向きには、人に神のような知恵を与えるということになっているが、裏では、このような「第三の目」に覚醒することは、「正義」の名のもとに、容赦のない暴力の行使によって、自分に従わない全ての人々に危害を加え、排除する装置が稼働することをも意味するのである。

このことは、キリストの十字架の死を否定し、キリストの霊的死にあずかることなく、人類の生まれながらの肉の力を使って、神に至り着こうと目指す人々が、本物の十字架を経由しない代わりに、偽りの「十字架」を作り出し、まことの神によらない、身勝手な裁き(私刑)を行うことをよく表しているのではないだろうか。

一方では、彼らは、人類が自力で神に回帰して、地上の楽園を実現できると言うが、他方では、必ず、その実現のために、何かしらとてつもない犠牲が人類に必要となると言う。そして、圧倒的多数の人々を抑圧し、排除するための暴力装置という必要もない犠牲を生み出すのである。

そのようにして、人類が自ら作り出す偽りの十字架が、般若の面や、「薬師如来」を守護する「十二神将」や、「国体」や「和の精神」といった理想論とワンセットになった治安維持法、共産主義ユートピアをもたらすために不可欠とされた秘密警察、カルト救済活動につきもののカルト監視機構、安倍政権の制定した共謀罪などに表れているのである。

要するに、生まれながらの人類を神とする反聖書的な思想と、人類が人類を監視し、気に入らない者に裁きを下すための暴力装置としての「悪魔の目」は一体なのである。「和の精神」は、表向きには、人類を希望で照らす太陽のような「叡知の光」を指すと同時に、不浄のものをすべて焼き尽くしてしまう地獄の火炎としての側面を持つのである。

もう一度、以下の聖書の御言葉を引用して、「悪魔の目」が目指している目的が、神の目とは全く正反対であることを確認しよう。

神の目:「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(Ⅱ歴代誌16:9.)

悪魔の目:「悪魔は自らが全能だとみなしているその目をもって、あまねく全地を監視し、その心が悪魔と一つでない人々(=特にクリスチャン)を断罪し、裁き、実力行使によって排除する。
 
さて、Eden Media に話を戻すが、神秘主義において、「サードアイ」は「松果体」と切り離せない関係にあるとされて来た。このことを知っていれば、まさにEden Mediaの動画は、神秘主義思想そのものであることが分かる。

以下は、神秘家の記した「天空神ホルスの錬金術 天空神ホルスの目覚め:AS2012(60)」 という記事からの転載である。この記事を読めば、神秘主義者が「サードアイ」と「松果体」とをどのように関連づけて考えていたのかが大体分かるだろう。以下の記事では、「サードアイ」とは文字通りの目のことではなく、また「松果体」それ自身でもなく、「松果体を流れるエネルギーである」とみなしている。




こちらが一般的にホルスの眼と呼ばれるデザインです。


 こちらは私たちの脳の構造を表したものです。

一般的に言われる「ホルスの眼」のデザインは「松果体」を中心にした脳の部位を様式化したものです。


こちらは神経網の断面図。

 

ホルスの眼は第三の眼だけではなく、松果体を取り囲んでいる器官をデザイン化したものです

眼の下に突き出ているのは「橋」と「延髄」である「脳幹」です。
そして眼から左斜め下に伸びて最後で螺旋になっているのは「小脳」へ繋がっている神経です。

眼の上に描かれている眉毛のようなカーブは右脳と左脳の間にある「海溝」と呼ばれる溝です。
そして瞳を囲んでいる部分が、海馬と脳弓です。

驚きですね。

太古のエジプト文明では、すでに脳の具体的な構造を理解していたわけです。
その構造の理解は、現代の医療の理解を遥かに超えたものです。

なぜなら「エジプトの死者」の書は一般的に理解されているエジプト人の捉えていた死後の世界、黄泉の世界観を表したものではないからです。
死者の書に書かれている内容は、多次元的な世界へ移行するための技術です。
死後の世界を描いた死者の書ではなく、ファラオ達の通過儀礼としての「アセンションの書」なのです。

以上の記事では、第三の目は松果体そのものではなく、松果体を流れるエネルギーであるとみなしている。

ホルスは第三の眼ではなく、隼・ハヤブサとして松果体の器官に関係するエネルギーを表したものです。
さて次の段階ですが、このデザインの理解のポイントは頭の上と両足に合計三つの赤い玉があしらってあることです。
上の石盤の両足の近くにはアンクが描かれています。
こちらはホルスを立体的に作り上げたもの。
下の胸当てのデザインは、「 隼の姿をしたホルス」が両方の羽を左目の形をしているように見える脳の中心部を表すシンボルに接続されています。
ホルスの翼の片方は眉毛=海馬に、手前の翼は目尻=脳弓に、そして足は小脳に繋がる管に接続されています。 
ホルスは脳の中心部にエネルギーを与える存在ということです。
ホルスの波動は脳の後頭部から入って来るのです。<略>
ホルスの翼は頭の赤い宝石が波動で包まれるという比喩です。
そして松果体は赤い色です。 


では目頭の下から出ているのは何でしょうか?
コブラをデザイン化したものです。
<略>
エジプトの死者の書は、コブラを出現させるためのテキスト、波動を使った体内の錬金術を教える書なのです。

 

以上の記事が「エジプト死者の書」は、「波動」を使って「コブラ」を目覚めさせて、「アセンション」を引き起こすための手順書だったとしていることは興味深い。このようなニューエイジ思想の記述を読む時、私たちは、Dr.Lukeが「祈りとは波動」だと述べたり、以下のように語っていることを思い出さずにいられない。



少しでも神秘主義の思想の構造を知っている者であれば、Dr.Lukeの語る以上のようなメッセージは、ニューエイジの思想から深い影響を受けたものであることをすぐに見て取ることができる。そして、次の記事で指摘するように、Dr.Luke自身が、ニューエイジから積極的に発想を取り入れたことを隠していない。

つまり、Dr.Lukeの語るメッセージは、実質的には、Eden Mediaと同じように、実質的にニューエイジと同じ「覚醒(=アセンション)」へと人々を導く暗闇の思想なのである。

あたかも聖書に根拠があるかのように見せかけながら、「五感を超えた能力を身に着けよ!」と述べて、「覚醒」による超人化を促しているという点では、Eden Mediaと同じなのである。

むろん、そこでは「サードアイ」を開眼せよとは言われていないかも知れない。だが、「サードアイ」なるものはもともと実在しないので、神秘主義者らが「サードアイを開眼せよ」という言葉で表している内容も、実質的には、脳内の「松果体」もしくは「松果体に流れるエネルギー」を「覚醒」させることを通して、五感を超えた能力を身に着けよ、ということであり、人々を超人的エネルギーに目覚めさせようとしている点は、Dr.Lukeの主張と実質的に同じである。

以下の「太陽神「ホルスの目」は、「第3の目」の象徴」という記事を見れば、「第三の目」が五感を作り出す根源、すなわち、五感を超えた見えない知覚や認識の世界全体を象徴していることが分かる。このような認識こそ、根本的には、人が「道」と一体化した「大円境地」を指しているのであり、偽りの知識に目覚めてすべてをさかさまに見るようになった「サタンの目」の意味なのである。




Wikpediaのページに掲載されている「ホルスの目」
これはいったい何を意味するのかと言えば、こちら↓



人間の感覚を表すそれぞれ六つの部分に分かれているのです。

更に、↓



数学の方程式=宇宙の方程式に繋がります。

この世は、数字でできていて、数字が基本
数字で説明、解釈できる世界なんですね。

そして「ホルスの目」の極意にいきます!

「目は水晶体というレンズを通して、フィルムという網膜に映像が映し出され
視神経を通って電気信号で脳に伝わって初めてものが見える、光を感知する。
つまり、目は脳の一部であって、私達は脳でものを見ている」ということは
知識として持っていましたが、その正体が、脳の中心にある「松果体」だったのです。
そして、その「松果体」が「第3の目」=「ホルスの目」に繋がっているのです!<略>



松果体は、松ぼっくりの形に似た脳の中心にある小さな内分泌器で
概日リズムを調節するホルモン、メラトニンを分泌する働きがあるのですが
これが「第3の目」の働きをすることが、近年の研究でわかってきました。

「目を持たない魚たちは松果体で見ていた」というもので
「光の探知に関しては目より松果体のほうが役割が大きい」との
興味深い実験結果も出ています。
詳しくは、
こちらのサイトへ。


松果体は、顔正面の額の高さの位置にあります=「第3の目」


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<続く>

肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑧~

・Eden Mediaが推奨する偽りの「人類超人化計画」(アセンション)の危険性について 

6.錬金術とグノーシス主義は同一である ~なぜフリーメイソンは石工団体なのか?~

「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4-5)

悪魔の目的は、神の能力、支配権を奪い取って、神を超えることにある。そこで、悪魔は人類をそそのかす際にも、自分が望んでいるのと同じ欲望を吹き込もうとする。

そのやり方は、人類誕生の当初から今日までも変わらない。私たちは、Eden Mediaの動画を通して、東洋神秘主義が目指していた悪魔的な超人思想(=人を神のように変容させる術)が、今やニューエイジ思想の中に最も先鋭化した形で受け継がれているのを見て来た。

これまで見て来たように、神秘主義は、ただ思想であるだけではなく、人体を変容させるための方法論でもある。たとえば、古代中国の錬丹術などがまさにその方法論に当たり、何らかの刺激や訓練(修行)を通して、人体を変容させて、眠っている力を引き出し、神のような超自然的な能力を備えさせようとするのである。

その意味で、錬金術も、ただ卑金属を金に変えることだけを目的としていたのではなく、ここにも、人類が不老不死を手に入れ、悟りの智慧を得て神に等しい者になろうとする悪魔的な欲望が込められている。
 

錬金術における最大の目標は賢者の石を創り出すことだった。賢者の石は、卑金属を金などの貴金属に変え、人間を不老不死にすることができる究極の物質と考えられた。また後述の通り、神にも等しい智慧を得るための過程の一つが賢者の石の生成とされた。

「中国では『抱朴子』などによると、金を作ることには「仙丹の原料にする」・「仙丹を作り仙人となるまでの間の収入にあてる」という二つの目的があったとされている。辰砂などから冶金術的に不老不死の薬・「仙丹(せんたん)」を創って服用し仙人となることが主目的となっている。これは「煉丹術(錬丹術、れんたんじゅつ)」と呼ばれている。厳密には、化学的手法を用いて物質的に内服薬の丹を得ようとする外丹術である。
 Wikipedia「錬金術」から

 

現代人は、「賢者の石」などという言葉を聞けば、すぐさまハリー・ポッターの映画などを思い出し、ファンタジーだと一笑に付して終わりたくなるかも知れないが、この概念は、歴史上数多くのグノーシス主義者が追い求めた悲願を意味し、これまでオカルト研究者、魔術師、錬金術師のみならず、自然科学者の関心さえも惹きつけて来た。今日では、万有引力の法則の発見で知られるアイザック・ニュートンも、膨大な労力を錬金術(オカルト)の研究に注ぎ込んでいたことはよく知られている。

あらゆる錬金術師の至上命題は、卑金属を金に変える至高の物質とされ、かつ、治癒不可能な病や傷をさえ瞬時に治す「神の物質」とされていた「賢者の石」の製造と、それによる金の錬成にあった。

ニュートンの死後に残された蔵書のうち、数学・自然学・天文学関連の本が16%であるのに対して、神学・哲学関連は32%を占めていることを見れば(アイザック・ニュートンのオカルト研究)、いかに彼が生涯をオカルト研究に費やしていたかが分かるだろう。

ここで言う「神学」とは、正統な神学のことではなく、錬金術に集約される異端的オカルト研究を指す。ニュートンは、聖書の中に、何とかして錬金術の根拠を探し求めようと、ソロモン神殿などの研究を行っていたが、彼はそもそも三位一体を信じていなかったので、キリスト教徒としての正統な信仰に立っておらず、「神学者」と呼ぶのは全くふさわしくない。ニュートンの名誉をおもんばかって、後世の人々がオカルト研究を「神学・哲学研究」と言い換えているだけである。

ニュートンの錬金術師としての研究の主要な目的は、まずは「賢者の石」の発見、次に賢者の石と同一か、もしくはこれを液体化したものと考えられている「エリクシル」の発見にあった。

また、心理学者ユングも錬金術に注目していた。彼は心理学と錬金術との関係性を研究し、そこから「いっさいの神秘主義は、対立しあうものの結合を目指している」という結論を引き出したという。

心理学者カール・グスタフ・ユングは、錬金術に注目し、『心理学と錬金術』なる著書を書いた。その本の考察のすえにユングが得た構図は、錬金術(のみならずいっさいの神秘主義というもの)が、実は「対立しあうものの結合」をめざしていること、そこに登場する物質と物質の変化のすべてはほとんど心の変容のプロセスのアレゴリーであること、また、そこにはたいてい「アニマとアニムスの対比と統合」が暗示されているということである。
Wikipedia「
錬金術」から

結局、錬金術とは、何とかして卑金属(≒人間)から金(≒神)を生み出し、両者を「統合」させることで、生まれながらの人類という堕落した卑しい種族の中から、聖なる全知全能の「神」を作り出そうとするまさにグノーシス主義的な異端の(詐欺的)試みであったと言えよう。

ちなみに、あらゆる錬金術師の悲願が「賢者の石」を作り出すことにあると考えれば、なぜフリーメイソンが「石工」集団の名で呼ばれているのかも、おのずと理解できるのではないだろうか?

そして、錬金術が、大きく見れば、人体の外にある物質を通して「霊薬」としての「仙丹(=賢者の石)」を作り出し、これを摂取することで、人間が不老不死に到達しようとする外丹術であるならば、人が座禅や瞑想や呼吸法などの修行を通して、体内の丹田(腹)に「気」を集めることで「仙丹」を練り、不老不死に到達しようとするのが、内丹術である。

今日、神秘主義の探求者の間では、錬金術のような外丹術よりも内丹術の方が主流になっているように思われるが、ヨガや、座禅や、瞑想、気功、武術には、人が自らの力で「気」を集めることにより、人体を変容させて永遠に到達しようとする内丹術が受け継がれている。

もちろん、「気」などというエネルギーが実在するという科学的証明は一切ない。そのような超自然的エネルギーがもしあるとすれば、それはただ悪霊に由来する魔術のような力でしかないことはすでに述べた。従って、「気」を引き出すことで、人間が超自然的な力を得て、自ら神を乗り越えようとする内丹術は、聖書の神に反逆する魔術でしかないことも、すでに説明して来た通りである。

だが、神秘主義者らは、今日も変わらず、人間を「神のように」するために、「気」を汲み出すことで超人的な人体の変容を目指しているのであり、それを彼らは「悟り」とか「覚醒」と呼ぶ。

東洋思想における「悟り」(=般若)とは「覚醒」と同義であって、これはただ単に人間の頭の中だけで理解される「知恵」ではない。彼らの言う「悟り」の概念には、人間が神のように変容するための具体的方法論としての修行が含まれており、東洋思想における「悟り」とは実質的に超自然的な能力の「覚醒」を伴うものなのである。

そして、そのような意味での「覚醒」こそ、創世記で蛇が人類に吹き込んだ「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようにな」るという「偽りの知恵」だったのであり、それこそが、鈴木大拙の言う「知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになる」結果として生まれる「行を支配する知」(もしくは「行」と一体化した「知」)なのである。

そう考えると、なぜキリスト教に偽装したグノーシス主義の媒体に"Eden Media"という名称がつけられたのか、その意味も見えて来よう。私たちはこの媒体が、決してキリスト教の信仰に立っておらず、キリスト教の信仰を装いながら、その実、聖書とは決して相容れないものをキリスト教と合体させようとするグノーシス主義的な偽りの「統合」に根差していることをすでに見て来たが、”Eden Media” の意味する "Eden"とは、「入不二界」と同じであり、要するに、鈴木の述べた「第二の林檎を食べ」た後に出現する人類の楽園を意味しており、すべての神秘主義者が飽くことなく目指している人類の地上における幸福社会、第二のエデン、すなわち、「道」との一体化のことなのである。

私たちクリスチャンは知っているはずだが、真のキリスト者であれば、エデンに回帰することなどを決して目指したりしない。私たちの到達目標は、失われたエデンではなく、神の聖なる都としての新エルサレム、新しい天と地である。しかし、グノーシス主義者には、必ず時間軸を逆行して、人類が創造される前の状態に自力で回帰することで神と一つになろうとする、原初回帰という特徴がある。

「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、pp.195-196)

 
むろん、鈴木大拙の以上の主張も、すでに説明した通り、錬金術のような詐術であって、これは徹底的に神不在のグノーシス主義である。アダム、エバのいたエデンには、聖書の神の言葉を人間がわきまえ、それに従うという「知」が存在しており、鈴木の言うように「行」だけが存在したわけではなかった。そこには、「知」と「行」が一体化した世界があったのである。ところが、鈴木はそこから「神の言葉を知るという知」を除き去り、エデンには聖書の神の言葉も、それをわきまえる「知」もなく、ただ「行」だけがあったことにしてしまっている。

その後、蛇に由来する偽りの「知」が出て、失楽園が起きたのであるが、鈴木は、失楽園の原因となった悪魔的な「知恵」をも、聖書の神の言葉を知る「知恵」とすりかえ、人類が自ら神に逆らったため、神の言葉を知る「知」から排除されたことを棚に上げて、知性(聖書における神の言葉に立脚する知性)が二分性を帯びており、人間を罪に定めたり、排除したしりするから、表面的で薄っぺらなもので、人間の本質たり得ないと決めつける。

そこには、聖書の神の御言葉が、ただ人間を排除するものだという決めつけがあるだけで、聖書の御言葉が本来的に目指しているのは、キリストの十字架を通して、人間を神に立ち帰らせることだという神の側からの救済の観点が完全に抜け落ちている。

そして、鈴木は、そのようにして、すりかえと歪曲とごまかしと決めつけに立脚して、「神の言葉を知るという知」を全面的に退け、人類は失楽園の原因となった蛇に汚された偽りの「知」を保存しつつ、これをもとの「行」と一致させることで、第二のエデン(「入不二界」)に復帰できるというのである。

これが禅者の言う「悟り」の本質である。要するに、蛇に由来する偽りの「知」と「行」を一致させることで、人類が聖書の神の言葉を退け、神から疎外されたまま、神不在の状況の中で、「二度目の林檎を食べ」て、隠れた内なる目を開眼させて、自分だけの力で神のような超人の世界に足を踏み入れることができるという教えである。二度目の林檎を食べるとは、要するに、人類が再び、蛇に由来する偽りの知恵に基づいて、「内なる目を開眼させる=悟りを得る=覚醒する」ことを意味する。

これは、結局、創世記において、蛇が「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と人類に言ったことの発展・繰り返しであり、「目が開ける=第三の目が開眼する」、「神のようになる=覚醒して超人的能力を身に着ける」、「決して死なない=不老不死に到達する」、「善悪を知るようになる=悟りを得てすべての物事を聖書の神の秩序とはさかさまに被造物を中心に見るようになる」と理解できる。

大仏像などが、常に座禅のポーズを取っているのは、「覚醒」が起きるための修行中であることを表す。そうして彼らが得ようとしている「悟り」は、頭の中だけで得られる知識ではなく、人体を変容させるための「行(修行)」を含んでいる。つまり、「悟り(般若)」とは、単なる思想ではなく、人類が「神のように」変容するための方法論なのである。


7.座禅(ヨガ)は蛇(クンダリニー)による「覚醒」によって人類を超人化する偽りの「道」
 


鎌倉大仏殿高徳院 PHOTEK

 
日本人は、至る所で、座禅を組んで修行をしている仏像などを見ているものの、あまりにも何気なくそれを通り過ぎているため、自分たちが一体どのようなシンボルに取り囲まれているのか、それにどれほど危険な思想が込められているのかを理解することはほとんどない。

人類が自らの内にある悪魔的能力を開発することによって自ら神に到達するという「アセンション」の概念は、比較的最近になって生まれたわけではなく、実質的に、古代からずっと絶え間なく存在していた。そこで、今回、改めて、神秘主義思想家らの言う「悟り」が、蛇の教えによる「覚醒」と不可分の関係にある大変に危険な思想であることを、鎌倉の大仏の座禅のポーズなどが根本的に何を意味するのかを通して考えて行きたい。

今日、仏教の寺などで一般向けに行われている座禅は、精神統一の方法であるなどと教えられており、そこでは、「悟りを得て神のようになる」という神秘主義思想の本来の中核となる超人思想の要素はかなり薄れているか、あるいは抜け落ちている。

だが、禅は、もともとサンスクリットの dhyāna(ディヤーナ/パーリ語では jhāna ジャーナ)の音写、もしくはその音写としての禅那(ぜんな)から来る名称で、日本の禅宗も、中国禅から来たものであり、その始祖はインド人で中国で禅を広めた菩提達磨(ボーディダルマ)であるとされる。また、座禅とヨガの根源は同じであり、インドの古典哲学「ヨーガ・スートラ」に由来する。

 


(月岡芳年画『月百姿 破窓月』Wikipediaから)
 だるま人形のモデルともなった菩提達磨。手足がない人形に模されるのは、達磨が偽りの知恵に基づき、修行によって「覚醒」した(=「悟り」を得た)結果、自らの思念によって肉体を制圧し、肉体の限界を超えて、手足を使わなくても、まるで霊だけであるかのように自在に動き回り、「神のように」超能力を行使する術を身に着けたことを意味する。

 
このように、座禅とヨガは基本的に同じ概念でり、同じ目的を目指していると言える。そのことを理解した上で、前回、取り上げた、Eden Mediaの「ニューエイジ思想の呪縛 / ヨーガ 」の中で触れられていたヨガの危険性を改めて振り返りたい。

この動画では、ハタ・ヨーガにのめり込んでいたとする解説者が、ヨガの危険性について語る。むろん、Eden Mediaは、すでに述べたように、ニューエイジ思想を非難しているように見せかけながら、実質的には、人々をニューエイジの只中に誘導するという悪しき循環のシナリオになっているため、視聴者はこれがキリスト教の信仰に立つメディアではないということにはよくよく注意して、これを鵜呑みにしないようにしなければならない。ただし、ヨガの起源が悪魔的思想にあるという指摘そのものは事実であるため、一体、座禅やヨガの意味するところが何なのかを理解するために、その危険性が指摘されている部分だけを取り出して見てみたい。

 

ハタ・ヨーガは”月と太陽””光と闇””男と女”
主要目的は内部の対極をバランスさせることです。

しかし、この概念は間違いであり、
別の機会に取り上げる予定です。
ここでは詳しい内容は述べませんが―
根源はオカルトであり、悪魔的です。

(注:対極にあるものを融合するとはグノーシス主義の概念であるから
オカルト的であり、悪魔的であるという指摘は正しい。)

では”ヨーガ”の意味は?
グーグルで”yoga”の意味を調べてみます。
すると現れる定義は、
「ヒンドゥー教の霊的な禁欲苦行」
「主な手法は呼吸法、簡単な瞑想、そして様々なポーズである」

まず気付くのが「ヒンドゥー教の霊的作法」
肝心なのが、そのルーツが間違った宗教にある事です。
私はヒンドゥー教徒の聖典「ハガヴァッド・ギーター」の勉強を行いました。

そして認識すべき事は一つ一つのヨーガのポーズは
ヒンドゥー教の神に対する礼拝になると言う事です。





ヨーガを始める多くの人は、この事実について全く知りません。
ナイーヴな状態です。
しかし、霊的な根源は間違った宗教にあり、
関わるべきではありません。

私が深くのめり込んだのが”クンダリーニ・ヨーガ”でした。
クンダリーニ・ヨーガは
ヨーガの種類の中でも、最も悪魔的です。
主要思想は、背骨の最下部に
休眠中の蛇がいると言うものです。



そこで体験するのが”クンダリーニ覚醒”です。
クンダリーニ覚醒では、螺旋の蛇が背骨を上昇します。
チャクラを経由し、松果体に到達します。
そこはクラウン・チャクラであり、”神意識”が芽生えるのです。

蛇が上昇し、頂点に到達すると―
”悟りの目”と言われるサードアイに達します。



そこであなたが神であると説得します。
ヨーガの最終段階は、神に到達する事だからです。
自分が神であると認識し、すべてが神となるのです。


この解説から、結局、ヨガが目指しているのは、「アセンション」つまり、「人が神のようになる」ことなのだと分かる。そのためには「サードアイ(隠れた第三の目)」の開眼が必要であり、蛇の助けを借りねばならないというのである。
 
聖書の創世記では、蛇の姿をした悪魔が、外側から人類に忍び寄って偽りの知恵を語りかけて欺いたように思われるが、「クンダリーニ覚醒」では、その蛇が人体の中に侵入し、人を内側から「覚醒」させるというのであるから、これは恐ろしい修行である。

だが、聖書において、人類が神に食べることを禁止されていたにも関わらず、取って食べた「善悪知識の木の実」は、実質的に「蛇の卵」だったとのかも知れないという推測も生じる。人類が神に背いて堕落してしまった時に、人類は悪魔の支配下に落ち、その際、霊的な文脈において、悪魔的な種子がすべての人類に植えつけられたのだと考えることもできよう。

 

(*ちなみに、Eden Mediaの動画には、以上のような不気味な映像や、ぞっとさせるような表現が満ちている。ある意味ではそれらの指摘は当たっているのだが、それでも、明らかに、この動画が単なる警告という目的を超えて、あらゆる箇所で不気味さを強調し、このような異常な悪魔的シンボルを人々に見せつけるために作られていることをも感じさせる。)

さて、ヨガという言葉には、「従わせる」という意味が込められているが、これが何を意味するのかを考えてみたい。この語は、もともとは牛馬などの家畜にくびきをつけてつなぐ、という意味を持つ。「十牛図」でも、グノーシス主義的な意味での「神的自己(真の自己)」を牛にたとえ、人類が「真の自己」を発見し、これを制する(一体化する)ことによって、世界(永遠)との合一を目指すという過程が描かれる。
 


十牛図

 
ここで「牛」がモチーフとして使われているのは、ヒンドゥー教では、牛が聖なる動物として崇拝の対象となっていることにちなんでいるだけでなく、牛は、「神的自己」でありながら、同時に、人体にもなぞらえられていると考えられる。

すなわち、ヨガにおいては、人間が自らの思念によって、自分の肉体にくつわをかけて、自在に引き回すがごとくに、己のすべての肉体感覚をないがごとくに滅却する能力を身に着け、肉体の限界を超えて、肉体を離脱して、あたかも霊だけになったかのように、自在に超自然的な働きをなす前提を整える。

「十牛図」の真の意味もそこにあり、一般向けの理解や解釈がどうあれ、この神秘主義思想の本来的な意味においては、ヨガのような修行によって、人間が体を完全に制圧する術を学ぶことによってしか、彼らの考える(偽りの)完全な「悟り」を得て、人が「神意識」に目覚め、「永遠」と一体化して「神のようになる」ことはできない、という意味が込められているものと考えられる。(まさに以下に引用するペンルイスの指摘の通りである。)
 

 

「十牛図」から。
この図は、人が「真の自己」(牛の姿で表される)を発見し、これと一体化して「悟り」に至る過程を絵図で表したとされる。上記の四~六の図では人が思いのままにならない「牛」を制御する方法を会得し、「真の自己」と一体化する過程が描かれている。各画像の出典は、

ヨーガ (योग) は、「牛馬にくびきをつけて車につなぐ」という意味の動詞根√yuj(ユジュ)から派生した名詞で、「結びつける」という意味もある。つまり語源的に見ると、牛馬を御するように心身を制御するということを示唆しており、「くびき」を意味する英語yokeと同根である。『ヨーガ・スートラ』は「ヨーガとは心の作用のニローダである」(第1章2節)と定義している(ニローダは静止、制御の意)

森本達雄によると、それは、実践者がすすんで森林樹下の閑静な場所に座し、牛馬に軛をかけて奔放な動きをコントロールするように、自らの感覚器官を制御し、瞑想によって精神を集中する(結びつける)ことを通じて「(日常的な)心の作用を止滅する」ことを意味する]。
Wikipedia「ヨーガ」より

 

先に引用したように、ペンルイスは、東洋神秘主義の導師(グル)たちが、思念によって肉体感覚を完全な制圧し、服従(=Yoga)させて、すべての肉体感覚を滅却する術を身に着けているがゆえに、邪悪な超自然的な力を発揮できると記している。

「ペンバーの「地球の幼年期」の中に、これに光を当てる節があります。彼は次のように記しています。「『魂の力』を生み出すためには、肉体を魂の支配下に置かなければならない。そうすることによって、自分の魂と霊を投影し、地上に生きていながら、あたかも肉体を持たない霊のように行動することができるようになる

この力を会得した人は『導師』と呼ばれており……意識的に他人の心の中を覗くことができる。彼は自分の『魂の力』によって、外界の諸霊に働きかけることができる。……彼は凶暴な野生の獣をおとなしくさせ、自分の魂を遠方に送ることができる」「彼は遠くにいる友人に、肉の体と同じ様で自分の霊の体を見せることができる」「長期間の訓練によってのみ、これらの能力を会得することができる。訓練の目的は、体を完全に服従させて、一切の喜び、痛み、地的情動に対して無感覚にならせることである」。

「インド人の宗教生活は、まぎれもなく、これらの魂の力を発達させています。キリストの福音を知らない数十万の人々が、ある特定の対象に向けて強烈な「祈り」を放つ効果は、いかばかりでしょう。彼らはこの世の神に導かれて、自分の望む対象に魂の力を「投影」しているのです。」

ジェシー・ペン-ルイス著「魂の力」対「霊の力」 

 

「クンダリーニ覚醒」とは、このようにして、人が自分の肉体を完全に制圧して、その限界から離脱することで、「神意識」なるものと融合するための前提条件だと考えられる。

さらに、そこで、言われている「チャクラ」なる概念も、非科学的で全く実在が証明されておらず、古代インドの神秘主義に由来する概念に過ぎないが、それが「円盤」や「輪」を意味するものであるということを心に留めておきたい。
 

「チャクラ(梵: चक्र, cakra; 英: chakra)は、サンスクリットで円、円盤、車輪、轆轤(ろくろ)を意味する語である。ヒンドゥー教のタントラやハタ・ヨーガ、仏教の後期密教では、人体の頭部、胸部、腹部などにあるとされる中枢を指す言葉として用いられる。
輪(りん)と漢訳される。チベット語では「コルロ」という。」

「身体エネルギーの活性化を図る身体重視のヨーガであるハタ・ヨーガでは、身体宇宙論とでもいうべき独自の身体観が発達し、蓮華様円盤状のエネルギー中枢であるチャクラとエネルギー循環路であるナーディー(脈管)の存在が想定された。これは『ハタプラディーピカー』などのハタ・ヨーガ文献やヒンドゥー教のタントラ文献に見られ、仏教の後期密教文献の身体論とも共通性がある。

現代のヨーガの参考図書で述べられる身体観では、主要な3つの脈管と、身体内にある6つのチャクラ、そして頭頂に戴く1つのチャクラがあるとされることが多い。この6輪プラス1輪というチャクラ説は、ジョン・ウッドロフ(英語版)(筆名アーサー・アヴァロン Arthur Avalon)が著作『蛇の力』 (The Serpent Power) で英訳紹介した『六輪解説』 (Ṣaṭcakranirūpaṇa) に基づいている。
Wikipedia「チャクラ」より

 

さらに、「クンダリニー」とは一体、何を意味するのか調べてみよう。すると、Wikipedia「チャクラを参照すると、それは「蛇の姿をした女神」であることが分かる。第一から第六までの「チャクラ」なるものについての詳細は、ここでは細かく引用しないため、上記ソースを参照されたいが、これを見ると、背骨の下にあるとされる「第一のチャクラ」において、「蛇=クンダリニー」が「休眠」しているということになっており、「覚醒」とは、この蛇が活性化し、次第に頭部まで昇りつめ、人間の全身を制御することで、超人的な変化をもたらすことを指す。「悟りの目」なる「サードアイ」が開眼するのは、この蛇が眉間にある「第六のチャクラ」まで到達した時だとされている。

「クンダリニー(蛇)」の正体とは何なのかさらに調べると、それは「人体内に存在する根源的生命エネルギー」であるとされる。
 

クンダリニー(Kundalini, कुण्डलिनी, kuṇḍalinī)は、人体内に存在する根源的生命エネルギー。宇宙に遍満する根源的エネルギーであるプラーナの、人体内における名称であり、シャクティとも呼ばれる。クンダリーニ、クンダリニと表記されることもある。

クンダリニー・ヨーガなどにより覚醒させられると神秘体験をもたらし、完全に覚醒すると解脱に至ることができるとされているが、覚醒技法の失敗や日常生活におけるアクシデントなどにより準備が整わない形で覚醒が生じる様々な快・不快の症状をもたらすと主張している。
Wikipedia「クンダリニー」より 

「クンダリニー」とは「プラーナ」とも呼ばれているため、「プラーナ」が意味するところも調べてみると、以下の通りである。
 

プラーナ(梵: प्राण、prāṇa) は、サンスクリットで呼吸、息吹などを意味する言葉である。日本語では気息と訳されることが多い。Wikipedia「プラーナ」より

 

これでほとんどの謎が解けたのではないかと思う。武術や座禅や瞑想や呼吸法などの修行によって引き出される「気」というものは、まさに「クンダリニー」すなわち蛇に由来する悪魔的な力だったのである。古代インド哲学や、それを継承する東洋神秘主義思想は、蛇に由来する堕落したパワーをすべての生命の「根源的エネルギー」であるかのようにみなしているということである。

ここで蛇(クンダリニー)が女神とされているのは、おそらくは、サタンも神の被造物(霊的女性)であることから来ているものと思われる。グノーシス主義では、ソフィアの過失なども含め、女性人格の側から男性人格への簒奪が行われるが、それは結局、被造物から神への反乱という意味合いを持つ。

クンダリニーは離れ離れになったシヴァ神(ヒンドゥー教の最高神)と再結合を果たすために、人体に侵入しており、この堕落したエネルギーの活性化により、休眠状態を解いて頭頂部にまで上り詰めるというが、それが果たされれば、堕落した肉的エネルギーが人間の精神を制圧し、人体を完全に操ることになる。

このことは、人間の全身がグノーシス主義的思想によって占められることを意味し、結果として、霊的に「頭のない体」が出来上がる。なぜなら、人間の内側で、精神が肉体をコントロールするのではなく、肉体に由来する本能的で悪魔的なエネルギー(「気」、もしくは「思念」)が、人間の肉体ばかりか精神までも完全に制圧し、知性・理性を駆逐してしまうことは、人が理性を失った状態になることと同じだからである。

これが、グノーシス主義が目指している「嬰児的回帰」の具体内容である。老子が説いている「道への復帰」としての「精→気→神→虚の逆行」の過程も上記と同じことを指しており、人間が知性を退け、彼らが「万物を生み出す根源的なエネルギー」であるとみなす「精、気」に自ら立ち戻ること(嬰児的回帰)を通して、人類が自ら創造された過程を自力で逆行して、すべての創造の根源であり永遠の生命とされる「道」まで昇り詰め、「天地造化の秘密を奪う」ことを終局的な目的としているのである。(人体におけるクンダリニー上昇の過程は、人類の天までの上昇の過程と重なるであろう。)
 

クンダリニーは、神話を研究したソヴァツキーによれば、受精後の肉体の形成にはじまり、人間を終生にわたり成熟・進化させる究極の力であるという。また、フランスのエミール・デュルケームはあらゆる種類の神々の原料のことを集合意識と述べているが、クンダリニーはそれに該当する可能性があると主張する。
Wikipedia「クンダリニー」より

   

『老子』第十六章は「帰根復命」によって、道への復帰をいう。内丹術はこれらに基づいて、「道生一、一生二、二生三、三生万物」という天地万物の生成の「順行」に対し、修煉によって、「三は二となり一と化し道に帰る」という「逆行」に進むことができるとする。人間においては、神は気を生じ気は精となり精は形を成し子孫を生みだすという「神→気→精」が順行の経路であり、「精→気→神→虚」の逆行が根源への復帰であるとした。これが内丹道の説く天地造化の秘密を奪うことであるこの「逆修返源」の方法は「順成人、逆成仙」の原則となり、性と命が虚霊である「元神」(本性・本来の真性)にたち帰り、迷いを去り道を得る、万物と感応し道と交わる、永遠の生命たる道まで昇り一体となる修道(中国語版)の基礎理論となった。

『老子』は神秘思想を語った章があり日本では哲学と考えられていたが、現在では何らかの修行を伴ったとする研究者が増えている。『荘子』は道と一体になる手段として「坐忘」「心斎」を説いている。それを承け紀元前から紀元2世紀の『淮南子』までの初期道家で、虚に至る高度な瞑想実践が行われたとする説も発表されている。
Wikipedia「内丹術」より 

 

一体、彼らが、こうした修行によって到達できるとしている「神意識」なるものは、何なのだろうか。それを人類の「集合意識」だととらえている説もあるから興味深い。そう考えると、なぜグノーシス主義者が個人の悟りでは満足せず、集団的覚醒を促そうとしているのか、その理由も見えて来るだろう。

さて、このように座禅やヨガにおける「悟り」や「覚醒」は、蛇(悪魔)の偽りの知恵に由来するグノーシス主義的な悪しき概念であり、邪悪なエネルギーによって人間の内なる「神的自己」(本当はそのようなものは人間の内に存在しないので、これは邪悪な生まれながらの自己を肥大化したものである)を「覚醒」させて、人間を「神のように」変容させようとする手段であることを理解したい。

その上で、Eden Mediaが出している直近の動画「【4月】全能の目・松果体のお話。」や「悟り」を見てみると、この媒体が、決してキリスト教の信仰に立っておらず、むしろ、反キリストの到来に備えて、人類超人化計画(集団的アセンション)の達成に奉仕しようとするものであることが分かる。

Eden Mediaが真の目的としているのは、人類が「クンダリニー(蛇=悪魔)」の力によって「覚醒」し、「サードアイ」を開眼し、超能力を身に着けて、「神のよう」になって、存在し得ない地上の楽園たる「第二のエデン」に自力で回帰することであり、これはキリスト教に偽装しようとしてはいるものの、その本質は完全に偽りの神秘主義思想を「布教」する媒体なのである。

<続く>

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