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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画/"MISHIMA"から(終)

・東洋思想の無常観と美の密接な関係 ~命をディスカウントして成立する東洋的な美の概念~
 
さて、かなり駆け足で重要なテーマを見て来た。前回までに記した三島由紀夫に関する一連の分析記事は、これまで書いた記事の中でも、苦労の多い分析であった。

当ブログでは何年も前から、東洋思想が本質的にグノーシス主義と同一であることや、いろは歌や般若心経に流れる無常観がグノーシス主義と同じであることを、記事で指摘しようと試みて来た。それがなかなか形にならなかったのは、グノーシス主義の分析にはかなりの厄介さが伴うせいでもある。

この種の思想は、通常の文章とは異なり、シンボルで出来上がっているため、一つのシンボルの中に幾通りもの解釈が込められ、言葉の後ろにある方程式を読み解かねばならない。その上、詭弁とダブルスピークによって成り立っているこの思想を丹念に解体して聖書と対比しながらその詐術を論理的に証明して行くのはかなり厄介で骨の折れる作業である。
 
そして、そのテーマに関心を払う人も、その作業を遂行できる人も、地上にそう数多くいるとは思えないが、だからこそ、それははかりしれない重要性を帯びた仕事である。この仕事に取り組もうとすると、各方面から激しい妨害が起きて来ること自体、どんなにこのテーマが喫緊の課題であるかをよくよく物語っていると言えよう。

記事は形にまとめることを最優先したため、文章の推敲、修正が必要な箇所は多く、さらなる考察が必要であることは否定しない。だが、そこで触れている一つ一つの事項は、それだけで独立した論文のテーマに値するようなものだ。特に、グノーシス主義における美の概念などについては、それ自体が長大な紙面を割いた考察に値する。だが、今は長大な分析をしている余裕はないため、今回は最後の補足として手短に結論だけを述べたい。

東洋思想は、すべての命がディスカウントされ、死によって脅かされているという危機感の上に成立している。東洋的な美の観念や、「もののあはれ」といった概念も、すべては滅びゆく被造物の無常観によって呼び起こされる情感であり、それは突き詰めて行くと、有限なる被造物の無念(被害者意識)に通じる。

東洋的な「美」の概念は、あらゆる命が死によって脅かされる儚いものであることを前提として生まれる。その意味で、東洋的な美の概念は、死や滅びと密接に結びついており、死と無縁の、死によって脅かされることのない完全な美というものは、この思想の世界観の中には存在しない。仮にそのようなものが出現すると、たちまち、三島の金閣寺のようなことになって、その完全性が憎むべきものとされて排除されるのである。

鈴木大拙は、東洋思想の根底には「母を守る」ことがあると述べたが、そこで言われている「母」とは、脅かされている人類を指す。東洋思想とは、言い換えれば「人類が脅かされている」という被害者意識、また、人類が脅かされねばならないほどか弱い存在であることへの無念を出発点に発生している思想なのである。

だが、この思想では、一体、何によって人類は脅かされているのか? なぜ「母を守る」必要があるのか? 直接的には、「母」を脅かしているのは、死の脅威であるが、さらに突き詰めれば、「聖書の父なる神の脅威によって脅かされている「母=人類」を守らなければならない」というのが、この思想の至上命題ということになろう。

グノーシス主義は、ディスカウントの教えであると言っても良い。ここでのディスカウントとは「本来の価値を値引くこと、尊厳を辱めて貶めること」といった意味である。

グノーシス主義の起源が、聖書の創世記に登場する蛇の教えにあることは幾度も指摘した。創世記で、蛇の形を取った悪魔が、人類に向かって、「神が人類を神よりも劣った存在として創造したことは、神の側から人類に対する不当なディスカウントだった」と嘘を吹き込んだのである。

悪魔のその嘘を信じてしまった瞬間に、人類の価値は値引きされ、その尊厳が傷つけられ、被害者意識が入り込んだ。それまでは神は人類の創造主であり、庇護者であり、まことの主人であったが、悪魔の嘘を信じた瞬間に、神は人類の抑圧者ということになってしまったのである。

ここに、東洋思想の「母を守る」という発想の起源があると言える。その後、人類が悪魔の勧めに従って神の掟を破って堕落したことにより、人類は実際に死という現実的な脅威に脅かされるこようになったのだが、堕落以前から、本当の意味での「ディスカウント」は、人類が悪魔の嘘を真に受けて、神を抑圧者であると考えるようになった瞬間に始まっていた。

悪魔は人類に向かって、人類は創造の初めから、神のもうけた不当な制約のために、いたずらに貶められた存在であり、それに気づいて神のもうけた不当な制約の抑圧の下から抜け出すことなしに自由になれないという偽りの知恵を吹き込んだのである。

いわば、グノーシス主義は、人類が神の形に似せて、神より劣ったものとして創造されたこと自体が、人類にとっての不幸の源であり、人類の誕生そのものが悲劇だと言っているに等しい。実際には、神は人間を創造して、これを見て「甚だ良い」と言われたのであって、その誕生は祝福であったのに、これを抑圧された悲劇に変えてしまったのである。

そのような思想的大転換が起きた後で、人類の思いの中で生じたディスカウントは現実となり、人類は堕落により神から遠く切り離され、創造当初の輝きを完全に失って、神に遠く及ばない存在になり、神のようになるどころか、人間性さえも喪失した。だが、実際に堕落が起きる前に、人類がすでに思いの中で悪魔のディスカウントを受け入れてしまったことに注意しなければならない。

こうして、グノーシス主義においては、まず人類の創造自体が神によるディスカウントであったと事実を塗り替えるところから始まり、その後、すべてのものが「死や滅びによって脅かされている」という危機感や被害者意識を終わりなく生み出していく。

無常観とは、「ディスカウントされている」という被害者意識、無念を基礎として生まれるのであり、そこでは、美意識も含め、すべての価値が、傷つけられ、不完全で、死の響きを帯びている。だが、「すべては有限であり、本質的には無であるが、滅びゆくものだからこそ美しい(=愛(かな)しい)」といった哀惜の情が生まれ、それが美的概念として受け止められるのである。

東洋的世界観では、儚く脆い実体のないものの有限性に対する同情や被害者意識が、美意識や愛情を生んで行く。死に脅かされている被造物同士だからこそ、同情や共感を持ち合い、互いに寄り添いましょうという被害者意識による連帯が、あたかも愛であるかのように錯覚されるのである。

だが、実際には、そこには、真の同情も愛情も存在しない。人間同士が愛情によって結びついたり、同情によって連帯していると見えるのは、ある種の錯覚に近く、この世の滅びゆく存在である限り、人間は自らの欠乏を満たすために他者を利用することをやめられないため、自分の必要を離れて純粋に他者と関わることができないのである。人は最も純粋な愛情が自分にあると思っている時でさえ、その関わりの中には必ず、他者の存在によって自己を満たそう(自分を喜ばそう)とする欲望が含まれている。

人は他者を見ることによって、また、手で触れたり、声を聞いたり、会話したりすることで感覚的な満足を得て、自分が満たされたいと願い、そうした欠乏と関係なく、自分の欲望を一切交えずに、他者と関わりを持つことができない。さらにもっと低い次元では、人は食べたり飲んだりして、外界から物質的な栄養を絶えず摂取しなければ、自分の命を保てない。

このように、人は己が欲望によって外界と関わり、外界から必要を満たされることによらなければ、決して自己存在を保つことができず、満たされても、満たされても、再び飢え渇くだけで、決して飽くことがない存在であるがゆえに、物質的世界の奴隷であり、自己の欲望の奴隷なのである。

本当は、人はキリストと共なる十字架の死と復活を経て、アダムの命に対して死ぬことによって、このようなしがらみに対して死ぬ道が備わっているのだが、神が不在で、被造物だけしか存在しないグノーシス主義には、十字架も、救いもなく、どこまで行っても、その思想の中で、滅びゆく被造物に、物質世界の有限性から脱する道はない。それゆえ、そのような世界観では、人間は自己存在に対して尽きせぬ悲哀を感じないわけに行かないのである。

さらに、グノーシス主義はその悲哀も、間違った方法で克服しようと試みて、さらなる悲劇に陥る。すなわち、人は神より劣った存在として創造されたという「コンプレックス」を自力で解消しようと、アダムの命のままで、自力で自己を高めて「神のように」なろうとし、神に反逆して自分を滅ぼすのである。

本当は、そうなる前に、人が神よりも劣った存在として造られたことが人間の悲劇だという考え方を捨てるべきであり、神の創造を不当なものとみなして、自分の「かたち」を憎み、自分が置かれているすべての状況を神のせいだと考えて創造主と他者だけを責め続ける不毛な堂々巡りから抜け出なければならない。神が人類をディスカウントしているのではなく、人類が自分自身をディスカウントしていることにこそ、真の問題があるのだ。

だが、グノーシス主義者は、どうしても自分を「可哀想」だと考えることをやめられない。彼らは人類を「哀れむべき存在」とみなすことが、人類へのディスカウントであることにさえ気づかず、同情や自己憐憫を美しいものだと考えており、そのことがこの人々が絶えず自己存在をディスカウントされ続ける最大の原因となっているのである。

神の創造そのものに意義を唱えている彼らは、弱い自己を哀れみ、あらゆるものをその被害者意識に染め上げながら観察し、被害者意識と無関係のものを見つければ、早速、それを傷つけることで自分と同じように不完全なものにしようとし、さらに何とかして自分を「神のように」見せかけることで、己の無念を自力で解消しようとする。彼らがしようとしているのは、自分が創造された形そのものに対して意義を唱えること、それを何とかして自分の力で変えることによって神に達することである。

あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。 」(イザヤ29:16)

グノーシス主義化された疑似キリスト教であるペンテコステ・カリスマ運動にも、同様のことが当てはまる。一方では、この運動は、偽物の「聖霊のバプテスマ」を造り出し、その霊を受けることによって、人が霊的に高められ、神のような偉大な存在となれるかのように教える。ところが、もう一方では、この運動の中から、カルト被害者救済活動のような、嫉妬と怨念に基づく破壊的な運動が生まれて来る。

実は、そのどちらもが根底には被害者意識を抱えているのである。カルト被害者救済運動は、表向きはカルト化教会の牧師に立ち向かうとしているが、その本当の敵は、聖書の神であり、正常なクリスチャンであり、神を毀損し、クリスチャンをディスカウントすることに真の目的がある。教会生活の中で心傷つけられて、正常な信仰を見失い、被害者意識を抱える元信者たちが、神に従って生きている正常なクリスチャンを妬み、これを中傷して傷つけることで、自分たちと同じレベルへ引きずり降ろそうとしているのである。

このように、ペンテコステ・カリスマ運動と、そこから生まれて来たカルト被害者救済活動は、見かけは全く異なるように見えても、本質的には同一の運動である。そして、以下に記す通り、そこにはバベルの塔の精神が脈々と流れている。それは自己を神のように高めようとするナルシシズムと、嫉妬と怨念に狂って神とクリスチャンから聖なる性質を奪い取ろうとする二つの側面から成る本質的に同一の運動であり、その運動の根底にあるものはどちらも神に対する嫉妬と怨念と被害者意識に基づく神の簒奪なのである。

こうした運動に関わる人々の心の根底に流れるものは、東洋的無常観と同じく「人間が可哀想だ」という自己憐憫と被害者意識の叫びである。なぜ人間が可哀想なのか? その理由を突き詰めれば、結局、神がそもそも人間を自分よりも劣った有限なる存在として創造されたことが間違っていたという結論になる。いずれにしても、聖書の神が悪いのであって自分たちは悪くないという話になる。彼らは自分たちの罪や弱さをそのままで、何らそれを悔い改めることも反省することもないままに、彼らの存在を哀れみ、被害者意識を慰め、優しく包んでくれそうな東洋的な「慈悲」や「慈愛」や「同情」や「もののあはれ」などの感情に、見境もなく飛びつく。そして、真綿の中でがんじがらめにされて身動き取れなくなるように、同情に見せかけた歪んだ支配の中でますます弱くされて自己を失って行くのである。
 
だが、実際には、そうした偽りの「同情」や「慈悲」といった感情の根底にこそ、人間存在を残酷にディスカウントし、弱さの中に閉じ込める悪魔的な思いが隠されていることに気づかなければいけない。偽りの美辞麗句を弄して人を弱さに閉じ込め、立ち上がれなくさせてしまうこの思想の世界観の異常さに気づき、これを拒否せねばならないのである。
 
同情という感情は、人が自分以外の誰かの弱さや苦しみに直面して初めて生まれる感情であり、逆に言えば、他者が傷つけられるのを見なければ、生まれることもない感情であるため、そこには言外に、苦しんでいるのが自分ではなく他人で良かったという安堵が含まれている。

聖書の神は、人の弱さに同情することのできない神ではないが、神の同情は、単なる言葉や感情にとどまらず、人の抱えるすべての問題に対して、その痛み苦しみを共に担い、分かち合いながら、なおかつ、現実的な解決策を与えてくれる。キリストは、まずはご自分が人の形を取って地上に来られ、人間のすべての痛み苦しみを味わわれ、弱さを体験され、人類のための刑罰を身に背負われた。その過程を経ていればこそ、キリストは人間の苦しみに心から同情する根拠を持っておられるのであり、しかも、死を打ち破られた復活の命によって、悲しむ人には慰めを、病める人には癒しを、罪には贖いとしての十字架を、死には復活を提供することがおできになる。

何よりも、死からよみがえられたキリストの復活の命は、人間を自分自身とこの世の欠乏の奴隷状態から解放する力を持っている。神の同情はただの言葉や感情だけの内実のない同情ではないのである。

だが、それに引き換え、人間が人間に与える同情は、何も生み出さず、何の救済も与えないばかりか、人間を悪質にディスカウントする。人はただ他者の苦しみを前に、自分も同じように脅かされている人間として、他者の苦しみに自分の苦しみを重ねながら、自分の被害者意識のために憐憫の涙を流すことができるだけである。苦しむ他者にどんなに寄り添い、救済を与えたいと願っても、人間が与えられるものは、せいぜい口先だけの言葉や、束の間の寄り添いや、すぐに尽きる物質的支援くらいで、それは一瞬の慰めの後で、さらに相手を卑しめ、ディスカウントし、依存関係を生み出すことはあっても、解放には結びつかない。

同情する者とされる者とは、共に抱き合い、涙を流すことによって、一時的に一つになったかのような共感を抱くかも知れないが、そこにはれっきとして、同情を施す側と、施される側の立場の差があり、優劣がある。その共感からは何も生まれず、さらに悪いことに、そこでは、同情する者が、同情される者を利用して優位性を誇り、栄光を受けることが常態化し、支配関係が生まれることさえある。

そうなると、同情を受ける人は、弱さを抱えた時点ですでに命をディスカウントされている上に、他者から同情を受けることによって、自己の尊厳をより一層ひどく傷つけられ、ディスカウントされて行くことになる。それにも気づかず、うわべだけの感情がもたらす満足により、自分の立場が何一つ変わっていないのに、あたかも救いの手を差し伸べられたかのように錯覚しながら、まるで麻薬を求めるように、すぐに消えてえしまう仮初の感情的な満たしを求めて、泥沼に足を取られるようにして果てしないディスカウントの中に落ち込んで行くのである。
 
そうした偽りの同情が、偽りの救済論として体系化されると、「救う者」と「救われる者」との間の差別的支配関係が固定化される。「救われる者(弱者)」は「救う者」の満足の手段として、永久に弱さの中に閉じ込められたまま、徹底的に利用されることになる。人間同士が互いの弱さに寄り添い、同情しているつもりが、ますます互いをディスカウントしながら、弱く、卑しく、惨めな境遇に閉じ込め合うことになるのである。カルト被害者救済活動のようなものには、まさに偽りの同情がもたらす悪しき支配関係が最も典型的な形で表れていると言えよう。

このように、被害者意識による負の「絆」で結ばれることによって、人類が互いを守り合うことは決してできない。それは助け合いでもなく、解放でもないため、その絆はかえって人をますます罪や弱さの中に閉じ込めるだけで、何の自由を与えないのである。
 
だが、東洋思想の中には、「死によって脅かされない命」が存在しないため、被害者意識によらない連帯という発想が全く生まれる余地がない。そのようなディスカウントとは無縁の、自由に基づく関係が生まれるためには、まずは人間が罪の奴隷、欠乏の奴隷状態から解放されていなければならないが、そのような人間自体がこの世界観の中には存在しないからである。

聖書においては、この物質世界の外におられる霊なる永遠の存在である神が、人類の救済のために、その独り子を地上に送られたことにより、今や御子を信じる者たちが、神の子供たちとされて、「人となられたイエス」の死と復活に同形化され、有限なる被造物でありながら、同時に、永遠の命を持つことができる。

しかし、東洋思想には、神と人との仲保者なるイエス・キリストが存在しないため、この思想の中には、永遠という概念自体がない。霊的世界と物質世界との接点もなく、完全という概念もなく、この思想は、最初から最後まで、物質世界の外に一歩も出ることがないので、永遠という概念が生じようがないのである。(物質界にあるものはすべて一時的だからである。)

東洋思想における生成と消滅の背後にある無限の循環という概念は、永遠の偽物である。なぜなら、真に永遠を考えるためには、まずはこの世の時空間という概念の外に出なければならないが、この「輪」は、無窮とも言える果てしない時間軸の上に成立する歴史的概念であって、決して物質世界の外にある時間と無関係の概念ではないからである。

そこで、結局のところ、東洋思想には、永遠の偽物があるだけで、永遠が存在しない以上、完全もないのである。無限の循環は、この世の諸現象によって作り出される偽りの概念でしかない。

このように、東洋思想は、一方では永遠に憧れ、被造物の有限性という制約を覆すことを目指しながらも、他方では、滅びゆく物質的世界を一歩たりとも外に出ることができず、死によって脅かされることのない、ディスカウントとは無縁の、完全性に到達する道をどこにも見いだせないのである。

そうなるのは、もともとこの思想が、被造物を神とする「神不在」の思想であって、被造物としての物質世界だけで成り立っているからである。創造主に属する霊の秩序ではなく、被造物に属する物質世界が真のリアリティとされる転倒した唯物論的思想なので、このような思想の中では、「わたしはある」という確固たるリアリティである聖書の神や、神の完全という概念が受容されない。そればかりか、このような世界観には何一つ絶対的な価値が存在せず、欠けるところのない完全性、ディスカウントされない命というものが存在し得ないのである。

グノーシス主義には「永遠の女性美」といった概念が存在しているように見えるかも知れないが、それさえも究極的には「脅かされている母」であり、永遠ではなく、死や滅びと無縁の存在でもない。

このように、すべてが死を帯びて、不完全であり、有限なる滅びゆく世界に、いざ永遠に絶対的な価値が出現すると、どうなるだろうか、大変な問題が持ち上がる――なぜなら、両者は完全に異質だからである。

三島作品における金閣寺への放火には、神殿破壊、すなわち、エクレシア殺しという隠れた意味が込められていることを説明した。むろん、三島はそのような隠れたプロットを想定していなかったであろうが、真の意味での「永遠の女性美」とは、神の復活の命によって生かされるエクレシアにしか存在せず、それゆえ、宮を破壊するという行為は、ただ単に人が神の神殿である自分自身を破壊することばかりか、それに加えて、永遠に揺るがされることのない完成した女性美であるキリストの花嫁たる教会を破壊するという隠れた意味合いを持つ。それは人が自分の完全な救いであるキリストを退け、自分自身が神の花嫁となる可能性を根こそぎ否定することを意味する。

ここに、二つの全く異なる存在がある。一方には、東洋思想の死によって脅かされる脆く弱い「母」(エバ、人類)があり、もう一方に、キリストの復活の命によって生かされる神の教会たるエクレシア(キリストの花嫁、新しい人)がある。

三島作品における金閣寺への放火は、東洋的世界観の中には、永遠に揺るがされることのない美、もしくは、キリストにあって完全とされた新しい人という概念が決して存在し得ないこと、つまり、被造物の贖いや、完成というものが決してないことをよく表している。この思想の中では、死を帯びていない何物にも脅かされることのない傷のない完全なものは、決して存在してはならないのである。

『金閣寺』の主人公は、コンプレックスや惨めさや無念を心に抱え、まさに滅びゆく被造物としての不完全性の象徴のようである。そして彼は、東洋思想の原則にのっとって、完成された女性美を、この世界や自分とは全く無縁・異質なものとして憎み、これをディスカウントし、毀損して、自分のレベルまで引きずりおろすことにより、抹殺しようと試みる。

その行為には、すでに述べたように、無意識のうちにも、エクレシアに対する悪魔の憎しみ、死を打ち破ったキリストの復活の命に対する悪魔の憎しみが込められている。このプロットから読み取れるのは、いかに悪魔が、被造物の贖いが完成して、被造物が完全な美を取り戻すことを心から憎んでいるかということである。

悪魔は被造物を永遠にディスカウントしておきたいのである。間違っても、被造物が被害者意識を帯びた「もののあはれ」や無常観とは関係のない、傷つけられたり、脅かされることのない完全な美を取り戻すことを望まないのである。

キリストの復活の命は、死を打ち破る力を持っているが、悪魔は人を攻撃し、ディスカウントしては、信仰を弱め、人が傷ついて、弱く、脆い存在になるよう引きずりおろそうとする。その悪影響は、しばしば、贖われたキリスト者にさえ到達する。

使徒パウロはコリント人への手紙で言う、「あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。」(Ⅰコリント11:30)これはキリストの復活の命によって生かされる信者であっても、不信仰ゆえに、滅びゆく世界の不完全性に逆戻りさせられ、弱さのゆえに死んだ者が数多くいることを示す。

弱さ、傷、病、死などは、決して聖書によれば、美化されるべき概念ではなく、キリストの命の本質とは無縁である。有限なる被造物の、死によって脅かされる脆く儚い、過ぎ行く有様に「もののあわれ」を見いだすような情緒は、聖書とは一切無縁である。それは悪魔のディスカウントした世界を抵抗もせずに受容し、すべてが不完全で弱く傷ついている転倒した有様に喜びを見いだすことであるから、まさに倒錯した嗜好と言って良い。

悪魔は完全なもの、傷のないもの、死によって脅かされないものを憎み、人間を偽りの「慈愛」や「慈悲」や「同情」などの美的概念で騙しつつ、何とかしてキリストの復活の命に達しないよう、滅びゆくアダムの有限な命の世界から逃がすまいとしている。

東洋思想の世界観は、悪魔が人類を騙し、ディスカウントしておくための格好のツールであり、相手が信者であっても、悪魔は信者が被害者意識に陥れて自らの弱さを甘んじて受け入れ、抵抗をやめるか、アダムの命を改良して、自ら神に至ろうとのむなしい努力をするかのどちらかに誘導しようとする。間違っても、アダムの命に対する霊的な十字架の死が適用されて、復活の命が現れることがないよう、細心の注意を払い、もしそれが現れたなら、早速、あらゆる攻撃を加え、ディスカウントし、引きずりおろそうと準備しているのである。


・「和の精神」とはバベルの塔建設における人類の一致の悲願を指す

さて、前回の記事では言及できなかったが、「和の精神」についても補足しておきたい。「和の精神」とは、バベルの塔における人類の一致という、罪人たちの悲願を表す。そう考えれば、実に多くの事柄に納得がいく。

グノーシス主義の偽りの霊性は、常に目に見える人間集団を建て上げることによって、人類の圧倒的な威信を全世界に見せつけ、自己を誇り、人類の一致という悲願を達成しようとする。
今一度、バベルの塔建設のくだりを聖書から引用しよう。

「 全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。

こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。

時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。

こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。 」(創世記11:1-9)

以上のバベルの塔建設における人類の連帯の中には、「和の精神」が見られたのではないだろうか。何しろ、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。」と言われたくらいなので、そこにはどんなことによっても妨げられないほどに統制された瞠目すべき人類の一致、協力、連帯が見られたのではないかと思う。

さて、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」という言葉は、まさに以下のような精神を彷彿とさせる。
 

国体の本義
第一 大日本国体、一、肇国から抜粋

大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(てうこく)の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。」

現御神にまします天皇の大御心・大御業の中には皇祖皇宗の御心が拝せられ、又この中に我が国の無限の将来が生きてゐる。我が皇位が天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。



「万世一系の天皇皇后」というフィクションの神話に基づき、全世界を一つの家とみなして「一大家族国家」を形成し、これを歴史を貫いて輝かせ、永遠に到達しようという思想は、事実上、「町と塔(国家)を建てて、その頂を天に届かせよう」という発想と同じである。

そこでは確かに「我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展する」という、永遠にまで到達しようという果てしない欲望が述べられている。このような思想に基づき、八紘一宇というスローガンのもと、全世界の国民が、一つ屋根の下に集まるように、同じシンボルのもとに集結すべきとしたのであるから、まさにバベルの塔の精神に他ならないではないか。

ここでは繰り返さないが、『国体の本義』が西欧文明の個人主義に対して激しい批判を展開し、西欧文明の長所と東洋思想との合体の末に新日本文化の創設なるものを唱えていたことを思い出したい。なぜ彼らがこのような塔=国家の建設にこだわったかという動機の根底には、「母が脅かされている」(西洋キリスト教文明の個人主義によって東洋文化が脅かされている)、すなわち、言い換えれば「聖書の父なる神によって人類が脅かされている」という被害者意識が存在したことが読み取れるのである。

そう考えると、「和の精神」とは、人類が聖書の神に対する被害者意識から、己が欲望によって自己を高ぶらせて、自力で神の領域にまで達しようとする悪魔的な一致・協力を指すことになる。一つ前の記事で、個人の意思決定権を認めず、集団だけにそれがあるかのようにみなす「和の精神」とは、まるで「かしら」を失った「首のない体」、つまり、精神に統御されない体と同じだと述べたが、首がない体だからこそ、自力で天に到達し、何とかして自分の力でかしらである神につながろうとしているのだと言えるかも知れない。

国家神道が「日輪(太陽=天照大神=天皇)」を神としていたということの中にも、首のない体(人類)が自力で天に到達しようとしていた願望を見ることができるのではないだろうか。そして、このような悪しき塔建設の試みは、必ず、個人単位ではなく、集団で行われるのである。

このような人類の神に対する反逆の試みに対する裁きがとりわけ厳しいものであることは言うまでもない。バベルの塔建設作業には、神の鉄槌が下されて分裂と混乱で終わり、塔も未完に終わったが、今日、そのような悪しき思想を信じる者には、個人単位でも、滅びが降りかかる。

前回、三島がいかに人類の果てしない欲望に対する神の霊的な刑罰を象徴するような最期を遂げたかを見て来たが、それと共に思い出されるのは、使徒行伝でペテロが語ったイスカリオテのユダの最期である。

「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり『血の土地』と呼ばれるようになりました。

詩編にはこう書いてあります。
『その住まいは荒れ果てよ。
 そこに住む者はいなくなれ。』
また、
『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』」(使徒1:17-20)

ユダも自殺して体が真っ二つに裂けてはらわたがみな飛び出したというから凄まじい最期である。ちなみに、マタイの福音書では、ユダはイエスを銀貨三十枚で売ったことを後悔して、祭司長や長老に金を返そうとして断られ、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、その後に首をつって死んだとある。

「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。」(マタイ27:3-8)

この記述が使徒行伝の記述と食い違うと主張する者もあるが、高所で首をつった後、体が地面に転落して裂けたなどのことも考えられるため、表面的な描写だけを取って、死に様が食い違うと考えるのは早いものと思う。

いずれにしても、首を吊った上に腹が裂けたというのだから、あまりにも凄絶な見せしめ的な最期であり、それは三島と同様に、キリストの十字架に敵対する者の最期を思わせるものである。キリストの十字架に敵対してい歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)

ユダの体が真っ二つに裂けたことは、ユダが神と悪魔の両方に心を売ろうとして、最後までどっちつかずの生き方をしたことに対する厳しい報いと受け止められないこともない。そこには、バベルの塔同様に、分裂という要素も見られるし、自力で自分を高めて神以上の存在になろうとする人類が、最後には自分の正常な形までとことん失う様子を見て取れる。また、ユダがイエスを売った血の代価で買われたのが「陶器職人の畑」だったことにも、意味がなかったわけではないだろう。なぜなら、旧約聖書において、陶器師は何度も創造主なる神にたとえられているからだ。そして、そのたとえの中では、神が人の身も心も思うがままに、救おうと思う者を救われ、滅ぼそうと思われる者を滅ぼすことがおできになることが示されている。「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」(ローマ9:18)

エレミヤ書第18章にも、神がご自分を陶器師にたとえる記述が登場する。そして、造られた者でありながら、創造主に逆らう民を、神が滅びに引き渡され、その宣告を告げさせるために預言者を民に向かわせるが、その預言者にも、民は耳を傾けず、かえってその宣告を憎み、彼を殺そうとする。これはまさに今日起きていることではないだろうか?
 
「主からエレミヤに臨んだ言葉。 「立って、陶器師の家に下って行きなさい。その所でわたしはあなたにわたしの言葉を聞かせよう」。
わたしは陶器師の家へ下って行った。見ると彼は、ろくろで仕事をしていたが、 粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。

その時、主の言葉がわたしに臨んだ、 「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。 ある時には、わたしが民または国を抜く、破る、滅ぼすということがあるが、もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、わたしはこれに災を下そうとしたことを思いかえす。
またある時には、わたしが民または国を建てる、植えるということがあるが、もしその国がわたしの目に悪と見えることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとしたことを思いかえす。

それゆえ、ユダの人々とエルサレムに住む者に言いなさい、『主はこう仰せられる、見よ、わたしはあなたがたに災を下そうと工夫し、あなたがたを攻める計りごとを立てている。あなたがたはおのおのその悪しき道を離れ、その道と行いを改めなさい』と。

しかし彼らは言う、『それはむだです。われわれは自分の図るところに従い、おのおのその悪い強情な心にしたがって行動します』と。
それゆえ主はこう言われる、異邦の民のうちのある者に尋ねてみよ、このような事を聞いた者があろうか。おとめイスラエルは恐ろしい事をした。レバノンの雪が、どうしてシリオンの岩を離れようか。山の水、冷たい川の流れが、どうしてかわいてしまおうか。
それなのにわが民はわたしを忘れて、偽りの神々に香をたいている。彼らはその道、古い道につまずき、また小道に入り、大路からはなれた。 自分の地を荒れすたれさせて、いつまでも人に舌打ちされるものとした。そこを通る人はみな身震いして、首を振る。わたしは東風のように、彼らをその敵の前に散らす。その滅びの日には、わたしは彼らに背を向け、顔を向けない」。

彼らは言った、「さあ、計略をめぐらして、エレミヤを倒そう。祭司には律法があり、知恵ある者には計りごとがあり、預言者には言葉があって、これらのものが滅びてしまうことはない。さあ、われわれは舌をもって彼を撃とう。彼のすべての言葉に、心を留めないことにしよう」。」

バベルの塔の精神は、まさに人類が被害者意識によって連帯して、創造主なる神に逆らい、立ち向かいながら、神が自分の主人であることを否定して、神に代わって自分が自分の人生の主人となり、欲望に従って思うがままに生きられるかのような、人類の集団的な思い上がりを示している。彼らがれんがとアスファルトで塔を建てたというのも、神の霊に属する性質ではなく、肉の性質を使って、神に到達しようとしたことを表している。

「和の精神」もその本質はこれと同じで、それは創造主に逆らって己を神とする人類の集団的な思い上がりと反逆、肉の思いによる高ぶりを示している。彼らは飽くことのない繁栄を望むが、首を失った体に対する裁きは厳しいものであり、分裂と、滅亡と、荒廃とが待ち受けている。

キリスト者の道は、このようなものとは全く異なる。筆者は、三島やユダの最期を思うにつけても、やはり、グノーシス主義者の滅びには、一切、キリスト者は手を貸さない方が良いと考えざるを得ない。

筆者は、周りで起きている激しい妨害を知らないわけではなく、それに当然の権利を持って立ち向かい、言葉を返し力を行使しようと思えば容易なことであるのも知っているが、グノーシス主義者には、まずは彼らの心のうちを隅々まで吐露させ、その悪しき思いが誰も否定できないほどにはっきり形を取って現れるまで、好きにさせておけば良いのではないかと考えている。なぜなら、彼らには、必ず、彼らの悪しき思想が形となって結実し、滅びとして身の上に降りかかる時が来ると分かっているからだ。
 
人は自分で自分の生き方を選択していると思っているかも知れないが、自覚せずとも、必ず、何らかの思想に導かれて生きている。その人の思想こそが、その人の生き様を形作っているのである。その思想とは、大きく分けて、この世には二種類しかない。聖書の神に従うのか、従わないのか、そのどちらかしか人間に選択はないのである。

文学作品は、現実から乖離したフィクションに過ぎないと言う人がいるが、実はそうではない。たとえ小説であっても、そこには、著者の世界観、思想がよく表れており、むしろ、小説であるからこそ、現実の何倍もの凝縮された形で端的に著者の思想が込められている場合が少なくない。

著者が作品の中でほとんど無意識に行った告白が、やがて著者の身の上に極めて教訓的な形で結実することはよくある。そのことは三島作品を読めば分かることだ。もし三島の書いた作品が単なる「フィクション」でしかなかったのならば、三島には作品中の主人公と同じような最期を遂げる必要は全くなかったであろう。しかし、実際には、作品中で行われたのはみな三島の死のリハーサルだったのである。

そこで、筆者は、グノーシス主義者らの行く末については、放っておいても、彼らの誤った思想それ自体が、彼らを当然の滅びに引き渡すであろうと考える。そこで、あえて二、三歩、退いて、その生き様を傍から観察し、彼らにふさわしい最期がやって来ることを見届けようと思う。

このように言うのは、「ディアボロス」すなわち「中傷する者=悪魔」に味方する人々に降りかかる裁きが、格別に厳しいものとなることが、予め分かっているためである。筆者はその結末に微塵も責任を負うつもりはなく、それは彼ら自身が選んだ結末としてはっきり身の上に現れなければならない。それがあまりにも悲惨な末路となることが明白であればこそ、キリスト者はその結末に手を貸さず、屠られる羊のように黙しつつ、この世の手段を用いず、ただ小羊の血潮と証の言葉のみに立って、すべての虚偽に立ち向かうことに意味があると考える。肝要なのは、血肉の戦いに精魂を費やすことではなく、まずは偽りの思想という要塞そのものを暴き出し、粉砕することである。

さて、話を戻せば、キリストの復活の命に至りつくためには、個人的な信仰がなくてはならず、それは集団的な連帯によって獲得することは決してできない。その個人的な信仰の歩みは、バベルの塔の連帯とは真逆の方向性である。だからこそ、グノーシス主義者らは必死になって、「集団を離れての個人は存在しない」とか「孤立は死だ」とか言いながら、人が個人としての真実な信仰の探求を行うことを何とかして妨げようと努力しているのであろう。

しかし、「和の精神」は、人類の悪魔的な一致の願望であるから、このような偽りのスローガンのもとで、有限なる被造物を神として崇め奉る組織や集団に帰属している限り、人は永久に復活の命にはたどり着けない。そうした組織の中には、牧師という目に見える人間を神の代理人とする集会も含まれている。

できるなら、これまで何度も引き合いに出して来たオースチン-スパークスの論説私たちのいのちなるキリストが現される時……を、もう一度参照されたいが、そこでは、はっきりと、終末に向けて、反キリストに属する「人造のキリスト教」が大規模に発展すること、それはキリストや、キリストの命に見せかけた「キリストご自身の代替物」を用意して、「自らの勢いで生成発展する偽りのいのち」によって膨らんで行くことが指摘されている。

今日、ペンテコステ・カリスマ運動のように、また、牧師制度を有するすべての組織に見るように、キリストを礼拝すると言いながら、被造物を拝み、被造物の命を偽りの霊性に見せかけて発展させようとするグノーシス主義と合体した虚偽のキリスト教が、キリスト教界を席巻している。彼らは「事物、人、運動、制度、組織」などを中心に据えて、目に見える指導者のもとに、目に見える集団を建て上げ、「大衆を引きつけ、群衆をとらえる」要素をちりばめた、見せかけの礼拝を行うことに心を砕いている。

そうした人々は、主日礼拝を守るとか、安息日を守るとか、祝祭日を守るとかいった表面的な儀式を守ることを敬虔と勘違いし、うわべを飾ることに腐心している。だが、聖書はこれらの人々についてはっきりと言う、

「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。

偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」(コロサイ2:16-19)

ここに、「頭であるキリストにしっかり付いていない」すなわち、「首のない体」が登場していることに注意したい。こういう体に属する人々は、いたずらに思い上がり、自分たちの努力で天にまで到達しようと様々な儀式を守り、偽りの従順を演じ、自らの努力をうず高く積み上げ、そうしていればいつか「頭」が得られるかのように思い込んでいる。

だが、どんなに努力を重ねても、彼らはずっと「首のない体」のままである。どんなに偉大な宗教指導者を組織の頂点に据えても、被造物はすべて体に過ぎないので、頭にはなれない。首のないその体に、どんなに「和」が働いても、そこにあるのは、神をわきまえる知性を捨てた「肉の思い」すなわち堕落した欲望でしかない。

もしもこの先、信者が少しでも「事物、人、運動、制度、組織」に気を取られ、このような価値観を受け入れるならば、欺かれて終わるだろう。「影」に過ぎず「本体」ではない本質的なものでないものに気を取られれば取られるほど、命の制限が生じるだけである。

被造物を神とするあらゆる制度から離れねばならないが、残念ながら、今やこの時代のキリスト者には、現人神のように人間を崇め奉る牧師制度のような偽りの教職者制度を離れ去るだけでなく、己を神として生きる全ての個々の人間からも離れ去ることが要求されている。

以下の御言葉は当ブログでは幾度も引用して来たが、今や隅から隅まで成就したことに慄然とする思いである。

「しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。」(二テモテ3:1-5)

悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(二テモテ3:13-16)


以前にも書いたが、今やこの世、宗教界を問わず、至る所で終末のバビロン化が大規模に進行し、目に見えない洪水がひたひたと押し寄せて来るように、周囲にいるすべてが水の中に飲み込まれて行く様を、筆者は箱舟の中にいながら、静かに見る思いがする。信者を名乗る人々が創造主なる神と神の民に反逆し、国は虚偽と不正と腐敗と搾取にまみれて機能停止し、すべてのものが支離滅裂な思想に汚染され、その中に飲み込まれつつある。悪いものは極端に悪くなり、およそ秩序という秩序が転倒させられている。

だが、ノアの時代、洪水から救われたのは、たった8人であった。イエスは言われた、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いて下さる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:7-8)
 
我々の脱出の道は常にキリストを通して備えられている。それは決して多くの人が見いだすことのない狭き門ではあるが、確かな救いであり、ディスカウントされることのない、まことの命である。オースチン-スパークスの以上の論説も警告している、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることであると。神の霊の実際の働きは、すべてのものをキリストに帰することであるから、我々はその命だけに頼って生きる方法を学ばねばならないのだと。

キリストだけが我々の内なる人の命となるときに初めて、私たちは、被造物の限界に脅かされることなく、彼の中で強くあることができる。もしも私たちが、この方だけに頼ることをやめ、自分自身や、他の人々や、物事に頼ろうとするなら、たちまち弱くされてしまうであろう。我々は、すべての「影」に過ぎないものを退け、「本体」であるキリストの力だけで、すべての逆境を切り抜ける秘訣を学ぶ必要がある。そして、そのために必要なすべての備えが、この命なる方の中には存在するのである。

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神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画/"MISHIMA"から⑦

・般若心経に現れるグノーシス主義的世界観 ~永遠に循環を続ける「無=空」~

多くの仏教の宗派の中で共通の経典として用いられていることを見ても、般若心経の中に、いかに「無=空」の思想が、最も凝縮された端的な形で込められているかが分かる。

多くの日本人は、自分はどんな宗教も信じていないと考えている人間でさえ、葬儀の際には、儀礼的に般若心経を唱えたりする。そうした読経によって、彼らは自覚なしに「いろは歌」と同じように、グノーシス主義の世界観を呼び起こす呪文(マントラ)を唱えているのである。

般若心経についてはいくつもの現代語訳があるため、それらを参考にしながら以下に私訳してみた。これを読めば、般若心経には「いろは歌」よりももっとはるかに鮮明に世界の本質が「空=無」であるという思想が表れていることが分かる。

むろん、仏教は、宗教と呼ぶより哲学であると言った方が良いため、そこには神もなければ神話もなく、一般的なグノーシス主義の物語に見られるようなプロットは存在しない。従って、「空=無」が擬人化されて登場するようなこともない。しかし、そのような差異を脇においても、当ブログでは、仏教の無常観も、世界の本質を「無」であると定義している点で、グノーシス主義と本質的に同一の思想であるとみなしている。

グノーシス主義における至高神にも、すでに見て来たように、およそ人格らしきものは存在しない。グノーシス主義の至高神は、自らの意志で行動して世界に関与することはなく、それはひたすら物言わぬ「鏡」や「虚無の深淵」である。それは結局、グノーシス主義が、人格を持った神の存在を認めておらず、グノーシス主義における至高神が、仏教の「空」や「無」と同一であることを意味する。

つまり、世界の創造者(と言っても人格を有さない神)が虚無の深淵と同一であって、すべての目に見えるものは根源的に「無」に集約されるというで、仏教もグノーシス主義も根本的に同じ思想だと言えるのである。そのことが以下の訳文の内容からも十分に見えて来よう。
  

かんじざいぼさつ
観自在菩薩               (観音菩薩は)
ぎょうじんはんにゃはらみったじ
行深般若波羅蜜多時     (深遠な智慧により彼岸に到るための修業をしている時)
しょうけんごうんかいくう
照見五蘊皆空    (人間存在のすべてが本質的に実体のないものであることを見極め)
どいっさいくやく
度一切苦厄             (物事が思い通りにならない苦しみと災いをすべて彼岸に渡した)
しゃりし
舎利子                 (そしてシャーリプトラに向かって次のように述べた)
しきふいくう
色不異空               (すべて形あるものは、実体のない一時的なものでしかなく)
くうふいしき
空不異色               (実体がないものが一時的に形を取って現れているだけである)
しきそくぜくう
色即是空               (それゆえ形あるものはすなわち実体のない永遠でないものであり)
くうそくぜしき
空即是色               (実体のがなく永遠でないものが一時的に形あるものとして現れているに過ぎない)
じゅそうぎょうしき
受想行識               (人間の心の働きについても、)
やくぶにょぜ
亦復如是               (同じことが当てはまる。)
しゃりし
舎利子                 (シャーリプトラよ、)
ぜしょほうくうそう
是諸法空想             (この世の中のすべての存在や現象は、もともと実体がなく一時的で永遠でないからこそ、)
ふしょうふめつ
不生不滅               (それには本当は生成も消滅もなく、)
ふくふじょう
不垢不浄               (汚れも清さもなく、)
ふぞうふげん
不増不減               (増えることも減ることもないのだ。)
ぜこくうちゅう
是故空中          (すべてのものは常に変化して同じ形をとどめず実体がないからこそ)
むしきむじゅそうぎょうしき
無色無受想行識             (人の体も存在せず、心もまた存在しない。)
むげんにびぜつしんに
無限耳鼻舌身意         (むろん、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心などの感覚器官もなければ)
むしきしょうこうみそくほう
無色声香味触法         (目に見える形や、耳に聞こえる音や、嗅いだ臭い、食べた味わい、触った感触、抱く思いなども存在しない。)
むげんかいないしむいしきかい
無限界乃至無意識界     (物事を目で見て把握したり、心で意識したりしている感覚自体が存在しないのであるから)
むむみょう
無無明                 (当然、悟りに対する無知もければ、)
やくむむみょうじん
亦無無明尽             (悟りに対する無知の克服もない、)
ないしむろうし
乃至無老死             (そこから始まって、老いも死もなく)
やくむろうしじん
亦無老死尽             (老いや死の克服もない。)
むくしゅうめつどう
無苦集滅道             (苦しみやその原因となる迷いを克服して楽になる方法もなければ、)
むちやくむとく
無知亦無得             (真実を知り悟りを得るということもない。)
いむしょとくこ
以無所得故             (従って、悟りを獲得することがないのだから、)
ぼだいさった
菩提薩垂               (悟りを求めている者は、)
えはんにゃはらみった
依般若波羅蜜多         (彼岸に到る本質的な智慧のおかげで)
こしんむけいげ
故心無圭礙             (心を覆う疑いの雲は晴れ)
むけいげこむうくふ
無圭礙故無有恐怖       (心を覆う疑いがないから恐れもなく、)
おんりいっさいてんどうむそう
遠離一切転倒夢想       (あらゆる転倒して誤った幻想から遠く離れて、)
くきょうねはん
究境涅槃               (平安(涅槃)の境地に達することができる。)
さんぜしょぶつ
三世諸仏               (過去・現在・未来において、目覚めたものたちは)
えはんにゃはらみつたこ
依般若波羅蜜多故       (彼岸に到る智慧のおかげで、)
とくあのくたらさんみゃくさんぼだい
得阿耨多羅三藐三菩提   (最高の悟りを得ることができる。)
こち
故知                   (知るがよい、)
はんにゃはらみった
般若波羅蜜多           (彼岸に到る智慧は)
ぜだいじんしゅ
是大神呪               (偉大な神(仏)の呪文であり、)
ぜだいみょうしゅ
是大明呪               (悟りを得るための偉大な呪文、)
ぜむじょうしゅ
是無上呪               (この上ない呪文、)
ぜむとうどうしゅ
是無等等呪             (並ぶもののない呪文である。)
のうじょいっさいく
能除一切苦             (これはあらゆる苦しみを取り除くことができ、)
しんじつふこ
真実不虚               (真実であって虚偽ではない。)
こせつはんにゃはらみつたしゅ
故説般若波羅蜜多呪     (ゆえに、彼岸に到る智慧の呪文を唱えよう。)
そくせつしゅわつ
即説呪曰               (次のように呪文を唱えよう。)
ぎゃていぎゃていはらぎゃてい
羯帝羯帝波羅羯帝         (彼岸へ行く者よ、彼岸に行く者よ)
はらそうぎゃてい
波羅僧羯帝             (彼岸に行きて到達する者が、)
ぼうじ
菩提                   (悟りを得て)
そわか
僧莎訶                 (幸いがあるように。)
はんにゃしんぎょう
般若心経               (悟りを得る智慧の最も重要な経典。)


 
般若心経においても、グノーシス主義に特徴的な「対極にある概念の統合」が見られる。すなわち、すべての物質界の現象は本質的に「空=無」である(実体がない)ため、悟りもないとしながらも、同時に、すべての物事が実体のない無であるという本質を理解することによって、人は「深淵なる智慧」を得て彼岸に到達し、苦しみから解かれて平安を得られるとしている。

このような説は、一見すると著しい自己矛盾でしかなく、そのような理屈は「対極性の統合」の果てに出現して来るものである。般若心経の言う「彼岸」(涅槃の境地)とは、ウロボロスの輪と同じように、生成と消滅を超越したところにある「永遠=無」を指しているのであり、涅槃の境地に達することは、要するに、人が個人としての生成と消滅にとらわれず、個人の枠組みを超越して、すべてのものを包含する「空=無」と一体化することによってのみ可能だと言っているに等しい。

そこで、結局、般若心経における智慧(=般若)は、グノーシス主義における叡智(=グノーシス)と同じであり、それはサタンがエデンの園で、人類をそそのかして吹き込んだ偽りの知恵と同義であり、そこにあるのは、人類と神とが本質的に同一だという思想である。

「でも、仏教にはそもそも神という概念が存在しません。なのに、なぜあなたは仏教の思想までが、人類と神とが本質的に同一だという神秘主義の思想と同じだと言うのですか」と再び尋ねないでもらいたい。

これまで見て来たように、グノーシス主義の神は、物言わぬ「虚無の深淵」である。そして、この「虚無の深淵」と人間とを同一視することによって、グノーシス主義は、人と神とが本来的に同一であるとみなしているのであり、これと比較すれば、すべてのものが人間存在も含めて根本的には「無」であると教える仏教の思想は、グノーシス主義とほとんど変わらないことになる。

聖書の創世記で、サタンは人類が自ら神の掟を破ることで、「神のようになれる」(=神になれる)と教え、人の側から神の性質を盗み取って神になりすますようそそのかした。しかし、その嘘を受け入れて堕落した瞬間から、人類は神を知る知識を失って、神のいない、被造物(自分)しか存在しない、独りよがりな世界に投げ出されたのである。神を喪失した人類の中では、神の席が空席となり、そこに実体のある神の代わりに、虚無の深淵が横たわった。そのため、人が自力で神に到達するために残された道は、虚無の深淵と自己を同一視して、無の中に飲み込まれることしかなくなったのである。


・個人の概念が幻想として消え「永遠の無という循環」だけがリアリティとして残る思想

虚無の深淵が「神」になり、「永遠の無」がリアリティとなって、個人がその中に埋没して消えると、一体、どういう恐ろしいことが起きるのかを、『方丈記』の有名な冒頭の文章を通してよりはっきり理解したい。
 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。  たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。

朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。」


  
『方丈記』では、人間が誕生しては死にゆく有様が「ゆく河の流れ」と「淀みに浮かぶうたかた」にたとえられる。個人の生や死は、水面に束の間現れては消える「うたかた」のような無意味でむなしいものに過ぎず、そこに何一つ確かなリアリティはない。確かなのは、うたかたではなく、うたかたを水面に登場させる絶えることのない「河」の方である。

こうして『方丈記』の冒頭では、「河」という概念が、グノーシス主義の「鏡」や「虚無の深淵」と同じものとして登場する。その「河」は、もちろん、「永遠の循環である無」(ウロボロスの輪)と同じである。

現実には、現れては消える「うたかた」の一つ一つには何の同一性もなければ、連続性もなく、それはただバラバラの一過性の現象に過ぎないのだが、一つ一つのうたかたの生成と消滅を「河」という視点から見ることで、あたかもそこに「うたかたが現れては消える」という繰り返しが発生しているような幻想が生まれる。そこから、その繰り返しが発展して、「先祖」から「子孫」へと、何らかの価値が受け継がれているかのような虚構の連続性が生まれ、循環する永遠の無という概念が作り出されるのである。

この虚構の連続性は、具体的には、万世一系の天皇家といった国家的神話や、先祖代々から受け継がれる神聖な家制度というフィクションや、創設以来永遠の発展を目指し続けている企業やその他の団体などの神話が生まれ、人類の連続性を謳う何らかの組織や集団のフィクションとなる。

そして、「うたかた」である個々の人間の生が幻に過ぎないような無意味なものとされる代わりに、この「人類の連続性」というフィクションが、確固たる永遠の真実であるかのようにみなされるのである。

『方丈記』の無常観を見ても、そこでは、人間存在は「神の似像」という呼び名にさえ値しないような、水面に束の間、現れては消えるだけの「あぶく」として、あるかなきかの些末な存在でしかないため、個人が、このように儚く脆いあぶくとしての存在を抜け出て、自己存在を神のような永遠に高めたいと思えば、自ら「あぶく」であることを捨てて、「河」と一体化するしかない、という結論が自然に出て来る。

従って、ここにも、グノーシス主義が常に導き出す究極の答えが見られる。人が有限なる被造物としての限界を脱したければ、人が自ら自己存在を捨てて、自己の隔ての壁を取り除き、人類の連続性という永遠のフィクションの中に身を投げて、虚無の深淵と一体化するしかないのである。そうしない限り、人間はどこまで行っても、あるかなきかの「あぶく」に過ぎないのである。

つまり、グノーシス主義を信じると、三島由紀夫がそうしたように、人は自分であるという区分を自ら取り払い、自分を抹消することで、「無=永遠」と一体化する以外には、解放に至り着く手段がないことになる。

すなわち、こうした思想では、人間が、目に見える世界の万象はおろか、自分自身の存在さえ究極的には「無である」とみなすことによって、虚無の深淵である「鏡=輪=永遠=無」の中に自ら飛び込み、無である世界と一体化して、自らの苦楽そのものも滅却するしか手立てがないのである。

それゆえ、グノーシス主義は、「無=永遠」と人が一体化するための手段として、肉体からの離脱(自死)という方法を提供する。

だが、多くの場合、グノーシス主義的な「無」との一体化による自己からの「解放」は、三島由紀夫のような凄絶な自死という形を取らず、人々が無意識的に集団の中へ埋没し、個の意識を放棄するという形で成し遂げられる。

般若心経のように、すべてのものが本質的に「無=空」であるとみなす思想を信じると、個人という概念が消え失せてしまい、全体(無)だけが残ることは、禅の視点から般若心経を読み解いた次のサイトの記述を読んでもよく理解できる。
 

『般若心経』を現代語訳するとこうなる - 存在が存在することの意味を説くお経 -

 あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。
 私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。
あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。
 私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。
 「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議は「はたらき」なのである。
「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。
それが、命だ。

だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。
この、「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。
 存在=空=自性がない=無常=変化を繰り返す=常なるものは存在しない
 これらはすべてイコールでつながるものなのだ。
 存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。
ただ、変化を続けるだけである。

<略>
ただ、存在の本質が「空」であり、私という概念が取り払われ、世界と自分とを隔てる虚構が崩された認識というのは、すがすがしいものである
わだかまりを抱くことが何もない。
わだかまりを抱く私が存在せず、わだかまりという心もまた、本当には存在しないから当然といえば当然か。
心に何の恐れも生じないのだ。

<略>
人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。
だが、本当にそうだろうか。
たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か?
この体を作ったのは、自分か?
熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか?
自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか

それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。
存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからだ
このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。


以上の解釈では、まず、人の体の機能について、あたかも、体が人間の意思とは関係のないところで自動的に働いていることが重要であるかのように述べることで、鈴木大拙と同じように、人間の本質は「知」にはなく「行」にあるという発想が述べられていることに注意したい。

つまり、ここでは、意志(精神)が理性によって体全体を統御することが重要なのではなく、体はそれ自体、意志(精神)とは無関係のところで働いているところに重要性があって、その自然な働きに人は身を委ねるべきだと言われているのである。

こうした考えの中に、前回見て来たような「精神と肉体の支配関係の逆転」、「肉体および肉欲の復権」というグノーシス主義の逆転の発想が見られることは言うまでもない。

そうして「精神」を軽視して、肉体の本能的な働きだけを重んじる考えに立って、以上の記述は続ける、人間一人一人の悩み苦しみなど全く本質的な問題ではなく、そのようなものは本質的に「空=無」でしかなく、人間存在は、個別に悩み苦しむバラバラの個人としては全く意味をなさず、人類全体もしくは全宇宙(あるいは社会や国家や家族)という大きなひとまとまりの「体」としてつながって初めて意味が生じるのだと。

裏を返せば、人類は個人単位では全く意味をなさず、個人には「命」も「働き」もなく、むろん、精神もなければ、悩み苦しみもなく、集合体となって初めて人類には「働き」や「命」が生まれるのであって、バラバラの個人という概念自体が虚妄であると言っているに等しい。

そうして、この種の思想では、「自分」というものが虚妄の概念とする以上、「自分」に生じる苦しみも当然、虚妄ということになり、いっそそのような個人の隔ての壁を完全に取り払って、自分と世界とを融合させて一体化すれば、人は自分自身の限界からも解放され、「自分に固有の苦しみ」もなくなり、精神が生じさせるすべての葛藤から解放されて、楽になれると言うのである。

これも「うたかた」を幻とみなす代わりに、「河」を確かなものとみなすフィクションと全く同一の思想である。この思想は、多くの人々の誕生や死は、実体のない「空=無」でしかなく、個人のレベルでは、生成も消滅もないが、それらが集まって集合体をなすとき、「空=無」でしかないはずのうたかたの生成と消滅に、何らかの連続性や均一性といった虚構の概念が付与され、そこに先祖代々から伝わる家制度だとか国家だとかいった神話が生まれ、集合体としての社会に「和」という幻想に基づくフィクションが生まれ、そうなって初めて、その集団に真の「命」が吹き込まれ、「体」としての機能が始まると言っているわけなのである。

このような考え方は、まさに『国体の本義』における「和の大精神」にも通じる。『国体の本義』が、西欧文明における個人主義を徹底して非難し、排除しようとしていることはすでに見て来たが、この書は、「和の精神」の名のもとに、個人という概念を退け、一人一人の人間が「個人」であることを自ら放棄して「生み生まれる親子の立体関係」という(本来、連続性のないうたかたの生成と消滅に連続性を持たせようとするのと同種の)神話的フィクションによって統御される国や家族といった集団に帰属することで、初めて人としての真価が発揮されると主張する。

『国体の本義』では、国家や家族という「生み生まれる親子の関係」という虚構の歴史から切り離された個人は、「所詮本源を失った抽象論」として無意味・無価値な存在として一蹴される。その根底にあるのは、結局、人類は集合体となって初めて「命」や「働き」が生まれるのであって、バラバラの個人という概念はもとより存在しないとする般若心経と同じ無常観である。
 

『国体の本義』、第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」


ここまで見て来ると、個人をフィクションとして集団の中に埋没させ、集団をリアリティとするこの種の思想は、日本の敗戦後も決してなくなるどころか、むしろ、現在に至るまで、日本社会に連綿と受け継がれ、強力かつ無意識的に社会に根を張り、社会全体を隠れたところから支配する原動力となっていることが分かるのではないだろうか。

今日、三島由紀夫のように、死によって永遠と一体化しようとする者はそうないであろう。しかし、その数歩手前で、日本国民の大半が、個人としての自分の存在を自ら滅却し、自己を集団の中へ埋没させ、集団と一体化することが、自分の使命であるかのように思い込み、自己放棄という「緩慢な自殺」を遂げている。彼らは「バラバラの個人」というものは存在しない虚妄の概念であるとみなし、集団に帰属して初めて自己の価値が生じると思い込み、「孤立は死である」などと言って、集団から切り離されることを病的なまでに恐れながら、SNSでのやり取りにやみつきになったり、官庁や、会社や、学校などの集団の中で、自己を放棄しようとむなしい努力を重ねている。そのようにして自己を滅却して集団の中に溶け合うことこそ、麗しい「協調性」であり「和」の精神の美徳であるかのように信じ込み、集団から追放されないことだけを是として生きている。同時に、集団の側からも、「麗しい美徳」としての集団との一体化を拒むような個人が出て来ると、徹底的に攻撃し、その存在を無化しようとする。

このように見ると、なぜ日本には民主主義が真に根付かないのか、その理由もおのずと見えて来よう。最近では、安倍政権の腐敗に絡めて、外国人記者から次のような警鐘が鳴らされたことも記憶に新しい。
外国人からみて日本の民主主義は絶滅寸前だ  森友スキャンダルが映す日本の本当の闇」(東洋経済オンライン 、レジス・アルノー:『フランス・ジャポン・エコー」編集長、仏フィガロ東京特派員2018/03/23 16:35)
外国人特派員が森友「公文書改ざん」に見た日本の深刻な病──この国みんなが“民主主義のお芝居”を演じているだけ?」週プレNews2018年04月05日、仏紙「ル・モンド」東京特派員、フィリップ・メスメール記者へのインタビュー)
 
民主主義とは、そもそも国家などの組織や集団の重要な意思決定を、その組織の構成員(人民、民衆、大衆、国民)が行い、構成員が最終決定権(主権)を持つという制度である。それゆえ、民主主義が成立し、正しく機能するための前提として、まずは個人の意思決定権というものがれっきとして存在しなければならない。

ところが、以上のような日本社会に古来から蔓延するグノーシス主義的無常観は、個人という存在さえ認めないため、個人には決して意思決定権を与えず、個人が自己存在を集団に明け渡すことにより、自らの意思決定権までも集団に委ねてしまうことを要求する。

日本社会にあるのは、依然、個人を出発点とせず、全体を離れた個人という概念を「単なる抽象論」として退け、個人が細胞のように集まってできる「全体」としての「体」の「和」だけをリアリティであるかのようにみなす思想である。個人の意思決定よりも全体の「和」の方がはるかに重視されるのである。その意味で、日本の民主主義は、まさに見せかけだけの概念でしかない。


・「和の精神」とは、頭(精神)による統御を失って自己目的化した「体」に同じ

しかし、このように個人を否定して出来上がる集団に働く「和」の正体とは、一体何なのだろうか。

以上の般若心経の解説では、体は理性とは無関係に、無意識的に動き、人間の意志決定とは無関係に自己防衛的に条件反射して生きており、そこに重要性があるとされる。精神の働きなど、厄介なだけで、自然に身を任せて本能的に生きた方が楽になれると言いたげである。それが人間にとってあたかも正常な状態であるかのように述べ、その考えを集団にまで高めようとする。

だが、そんな考えが正しい結論とはならないだろう。これまでの記事で再三、見て来たように、人間の体は、精神によってコントロールされて初めて正常に機能する。あまりにも強い精神的ショックを受けた人が、自動的に心臓が止まって即死してしまうこともあり得るように、心臓の鼓動も、精神の統御に服していないわけではない。人間存在は、意識していようといなかろうと、必ず、意志のもとに統御されている。

精神のコントロールに服さなくなった体は、ちょうど脳死状態になった植物人間の体と同じである。司令塔としての「頭」を失ったも同然であり、もはや人としての正常なあるべき姿とは到底、言えない。

そこで、個人の存在を「あぶく」のようなものとみなして個人の意志決定権も認めず、個人には生成も消滅もないとしながら、個人が寄り集まって出来る組織や集団にだけは、「命」や「働き」が生まれ、「和」が生み出されるとする思想は、まるで脳死状態にある人の体と同じである。

なぜなら、そこでは、個人の存在もその精神の働きも幻想であるとみなされているため、体全体を統御する意思決定権を持つブレーンが事実上存在しないからだ。そのような集団は、脳が死んで、精神が抜け殻となって生き続けている体と同じである。

体は、脳が死んだからと言って、バラバラに分解することはなく、未だ何らかの「和」を保って生きているように見えるかも知れない。だが、精神のコントロールがなくなった体は、ただ自己保存のためだけに、本能に従って生き続けるだけである。精神が生きているうちは、人間の体は、決して体のためだけに生きることはない。体は主人である人間の意志に従い、自己や他者の必要を満たすために行動する手段でしかない。人間は体を使って他者と関わり、他者に影響を与え、他者に奉仕し、他者との関わりの中で生きる。しかし、精神が死ねば、人は植物状態も同然となり、体は自己保存だけを目的に生きるようになる。もはや他者との関わりはなく、自己表現もなく、すべての活動が、ただ体を生き永らえさせるという目的のためだけに続けられる。体は体としての本来の役割を失い、自己目的化して、ただ己の欲求を満たすためだけに生き続けることになる。

個人の意思決定権を認めない組織は、このように脳が死に植物人間となった体と同じであり、そこに働く「和」とは、結局、体に働く肉欲と同じ、人類の本能的な欲望の総体なのである。「和」と言えば聞こえは良いが、それは結局、知性によるコントロールを退けて、精神の統御が効かなくなった集団の本能的欲望の総体なのである。

グノーシス主義が、個人の内側で精神と肉体との関係を覆し、肉欲を無制限に解放することを目指す危険な教えであることはすでに見て来たが、それが集団に適用されると、集団のレベルでも同様のことが起き、集団における意思決定の方法や所在がどんどん曖昧となる代わりに、歯止めのない集団的な欲望の暴走が起きる。
 
日本の政体における「誰も責任を取らない」摩訶不思議なシステムは、まさに以上のような思想を土台に生まれて来るのだと言える。個人が責任を取るためには、まずは個人が組織の中で重要な意思決定権を持ち、自らの決定に対して責任を負うという発想がなければならないが、グノーシス主義的無常観に貫かれる日本の社会には、個人という概念が存在せず、個人の意思決定権もほとんど認められておらず、結果的に個人ではなく集団が最終的な意思決定権を持ち、集団が最終責任者となる。

最も下っ端の部下から上長まで果てしない人数の人間が承認印を押さねばなならない役所の決裁文書などは、それを表す格好の事例で、そのように多数の人間が承認印を押すことで、結果的に誰が意志決定したのか、責任の所在が無限に分散されて、最後にはすべてが「組織全体の決定」ということになってうやむやにされて終わってしまう。責任を追及しようにも、責任者が事実上いないも同然の仕組みが出来上がるのである。

そのような意思決定権の所在が不明かつ不在の組織は、脳のない体と同様、いざその「体」としての組織があらぬ方向へ向かって暴走し始めたときに、これを制御できるブレーキとしての司令塔が全く存在しない。だからこそ、我が国においては、このような無常観に基づき、かつて軍部の独走やら軍国主義化やら無謀な戦争への突入などといった事件が起きて来たのである。

それは我が国という「体」が、個人を個人として認めず、個人の意思決定権を奪い去り、それを集団に明け渡させて、脳の機能を破壊・放棄して、体の自己保存だけを目的に、果てしない欲望に従って生きた結果として起きたことである。

しかしながら、その教訓もむなしく、今日もかつてとほとんど同じ出来事が進行中である。我が国では、政・官・民・財界すべてが協力して、金儲けだけを第一として危険な原発推進に突き進んだ結果、取り返しのつかない事故が起きてもまだ引き返すことができない。総理夫人は権限もないのに国政に口出しし、首相は国会で虚偽答弁を繰り返し、政治家の汚職と腐敗が官庁に及び、官僚も汚職に手を染め、公文書を改ざんし、経済界は労働者を奴隷的に使役・搾取してその富を内部留保するか国家に貢ぐだけとなり、戦争放棄の憲法を食い破る形で、武器は海外へ輸出され、国内では安保法制や秘密保護法が敷かれ、共謀罪が制定され、カジノが解禁され、自衛隊は海外の紛争地域へ派遣され、国会議員が自衛隊員に脅しつけられ、シビリアン・コントロールは脅かされ、あらゆる場所で秩序の転倒が起きている。
 
今日も見えない「和の精神」の名のもとに追求されているのは、集団に働く人類の欲望の無制限な解放であり、それに歯止めをかけるブレーキの役割を担う知性はとことん軽視され、排除されている。我が国では、あらゆる組織や集団から、政権に逆らう個人が追放され、社会的に抹殺されており、そうなった結果、再び国全体で、良心のブレーキが全く効かなくなり、歯止めのない欲望の暴走が起き、国が再び丸ごと「虚無の深淵」に今しも飲み込まれようとしている最中である。

確かに、外国人記者の言う通り、我が国の民主主義はもはや完全に死に体なのであり、これが精神によって統御されることがなくなり、脳の機能を失って体の欲望だけが無制限に解放された「美しい国」の辿る当然の末路なのである。むろん、「美しい国」という概念における「美」が、見せかけだけの内実のない悪魔的な美であることは言うまでもない。

今や我が国では、国会も今や半ば機能停止し、国家レベルで、脳死状態が進行しつつある。それにも関わらず、「体」という集団だけは、己が欲望に突き動かされて未だゾンビのように歩き回り、ただ自分が今を生き永らえるだけでなく、永遠にまで到達しようと、果てしない欲望を募らせている。

三島由紀夫は戦後の日本社会を侮蔑しており、我が国は戦後、天皇という「かしら」を失ったために、正常な目的意識を失い、自己目的化して生きるようになったとみなして憂慮していた。「などてすめろぎはひととなりたまひし」という三島作品に登場する怨霊たちの叫びも、脳を失った体の漂流に対する危機感から来る叫びであると言えなくもない。

だが、集合体としての人類という「体」に対する真の頭首権は、三島が考えたように天皇にはなく、真の頭首権を有しておられるのは、「ひととなられたイエス」である。

聖書の神は、「わたしはある」と言われる方で、人類のためには一言も発しないグノーシス主義の虚無の深淵とは何の接点もなく正反対の存在である。聖書の神は、虚無の深淵ではなく、まごうかたなきリアリティであり、しかも、人格を持ったお方であるから、人間の弱さに同情できない方ではなく、人類の救済のために、独り子なるイエスを人として地上に送られ、現実的な解決策を自ら打ち出された。神ご自身が、神であるという姿を捨てて、卑しい人間となって地上に来られ、しかも、「肉において罰せられ」、人類の刑罰を身代わりに受けられたのである。
 
グノーシス主義は人間が自ら永遠と一体化するという「下からの解放」を唱えるが、キリスト教は徹底して神の側からの「上からの救済」を唱える。すなわち、イエスが人間となって地上に来られたがゆえに、これを信じる一人一人の信者は、地上にあるままで、罪のゆえに悪魔によって支配される滅びゆくアダムの奴隷状態から抜け出て、自分の人生に対する自己決定権を取り戻して自由にされるのである。

この神を信じるために、人は肉体を破壊して虚無の深淵と一体化する必要はなく、むしろ、キリストの十字架を信じるだけで、神の方から人の内に自ら住んで下さり、人と共に人自身とその周りの世界を治めて下さる。

こうして、滅びゆくだけであった人間は、キリストと共に死んでよみがえらされ、有限なる「あぶく」に過ぎない人間の中から、真のリアリティが生まれる。人の悩みも苦しみも、もはや存在しないと言われることはなく、全体から切り離された個人が虚妄であると言われるどころか、取るに足りない存在であるその土の器の中で、はかりしれない神の命の力が働き、人の内でも転倒していた秩序が回復され、霊が魂を治め、魂が肉体を治めるようになる。
 
ところが、グノーシス主義は、被造物が神になり代わっているために、「神」の概念が骨抜きとなり、神不在となって、その空席に、虚無の深淵が横たわっている。その虚無の深淵に、人間を救う力はなく、そこに映し出される「神の似像」としての人類の姿は、見れば見るほど、むなしく、惨めで、無きに等しいあぶくのような姿である。

グノーシス主義は、被造物が神になりすましたために、神がもとより不在であればこそ、人の苦しみに対して、何の救済策も提示することができず、そこにいる「神」は、人の苦しみをどこまでも傲然と上から目線で見下ろすだけのもの言わぬ深淵であり、それ自体がフィクションである。

グノーシス主義は、神と人との断絶を認めないがゆえに、どこまで行っても、人間にとって「自分しかいない独りよがりな物語」である。そうであるがゆえに、この思想には永遠の堂々巡りという悪循環からの出口がなく、それを終わらせるには、自己存在を滅却する以外に手立てがないのである。
 
グノーシス主義は、人間が聖書における神の側からの救済を退け、自力で救済に至ろうとすると、どういう結末が待ち受けているかという残酷な事実を如実に表す思想である。結局、神をどのようにとらえるかが、人の生を決定するのであって、神をフィクションや虚無とみなせば、結局、人間自身も虚無となって消えるしかない。

我が国をかつて破滅の淵まで至らせたのは、まさに個を認めないグノーシス主義的世界観であり、「和の精神」などといったものが、徹底して個人への蔑視、人間存在への軽視の上に成り立っていることに気づいて、個人を出発点としてすべての物事を考え直さない限り、我が国では何度でも同じ破滅が繰り返されるものと思われてならない。


・グノーシス主義における「智慧」(グノーシス)の本質は、人類と悪魔による神に対する嫉妬と怨念である

ところで 、平安(涅槃)の境地に至るための悟りの智慧を表す訳語であるはずの「般若」は、今日、嫉妬と怨念に狂って鬼と化した女性の顔を表す能面の呼び名になっているが、それも以上のことを考えると、不思議ではないように思われてならない。


(般若の面「面友会」のページから転載)


  
 「般若の面」という呼称が定着したいきさつは、一説では、般若坊という能面師が作った鬼の面の評判が高かったことによるとされるが、その真偽のほどは定かではない。
 
また、能楽の謡曲『葵上』の中には、『源氏物語』の登場人物である六条の御息所が、嫉妬に狂った怨霊となって、源氏の寵愛を受ける葵上の前に現れるシーンがあり、そこで六条の御息所の怨霊が般若経の読経によって成仏させられることから、それにちなんで能面自体が般若と呼ばれるようになったという説もある。

ちなみに、『源氏物語』も、グノーシス主義的な無常観を表すものであって、文字通りにとらえるべき物語ではないと筆者は考えている。そこでは、光源氏という人物が「ゆく河」にたとえられ、登場する女たちは、現れては消える「うたかた」の役目を果たしている。光源氏は、無常観である虚無の深淵が擬人化された存在であって、源氏が美男子として描かれていることも、被造物を神とするグノーシス主義的世界観に一致する。

源氏を取り巻く女たちにとって、彼はあたかも「神」のような存在であるが、その「神」は、人間がどんなに手を伸ばしても、手に入れることのできない、実体のない虚無の深淵のような「鏡」であり、偶像でしかない。その「神」は人間を救済することができないため、人がどんなに神を見いだそうと、「鏡」を覗き込んでも、そこに映る自分の姿を見つめれば見つめるほど、ますます弱く惨めな存在である自分自身を発見し、満足を得られず、自分には手の届かない存在への嫉妬と怨念を募らせるだけである。

六条の御息所が怨霊と化すという筋書きも、本質的には、被造物を神とする人々が、「神」を独占してこれと一体化したいと願い、それによって、むなしい「あぶく」の立場を抜け出ようと願いながらも、思いを遂げられないで滅びゆく無念を表していると言える。

このように、当ブログでは、仏教における「般若」も、グノーシス主義における「グノーシス(叡智)」と本質的に同じで、その起源は、悪魔が人類に吹き込んだ、人類を神と同一視する悪魔的な知恵であるとみなしている。その知恵は偽りであるから、彼らの言う平安の境地も存在しないフィクションである。

そのように考えると、「般若の面」が「嫉妬と怨念に狂った鬼女」の顔をしていることは、全く不思議でない。そこに描かれている「鬼女」とは、脆く儚い「うたかた」であることに我慢ができなくなり、悪魔にそそのかされて、神に対する嫉妬と怨念を燃やし、自ら神になり代わろうとして「神を簒奪する」ことを悟りの境地であるかのように偽る人類そのものの姿だと言えるのである。

鈴木大拙は、東洋思想には「母を守る」ことがその根本にあると述べたが、東洋思想が目指している究極の目的は、グノーシス主義と同じく、「ソフィアの過失を修正する」ことである。つまり、「被造物が神になる」ことによって、被造物の罪を覆い隠し、正当化をはかることなのである。

そこで、東洋思想における「母」とは、神に逆らったために楽園を追われた人類全体を指すと同時に、あらゆる制限から自分自身を解放しようとする人類の欲望それ自体も表す。それは「子」らを自分の欲望をかなえる道具として支配し、集団からの自立を決して許さない「イゼベルの霊」(怨念)とも同一である。
 
三島作品の真の主人公が「怨念」であることはすでに述べたが、永遠を目指しながら永遠に到達できない滅びゆく人類という「母なる存在」が、自らの限界を前に発する無念の叫びは、主人公らの中でどんどん膨張して行く。三島作品の中で、怨念は主人公らを内側から食い破って、死に至らしめた挙句、ついに体も失った怨霊という形で作品の中をさまよわせる。

その怨念は、登場人物ばかりか、ついに三島自身をも内側から食い破って破滅させる。三島は、一方では自己存在を永遠にしたいと望みながら、他方では、自ら考え出した刑罰のような死によって、自分で自分の肉体を破壊し、それによって、「色即是空 空即是色」「是故空中 無色無受想行識」を自ら体現して、「彼岸」に到達しようと試みたのである。
 
むろん、私たちは、そのような方法で、人の魂が解放されることなどあり得ないことをよく知っている。それは、神風特攻隊として死んだからと言って、人が天皇と同化することもなく、まして「神になる」など不可能であるのと同じであり、人が自らの肉体を滅ぼしたところで、それで霊を解放して永遠の存在となれるはずもない。

そこにあるのは、ただ自分のためだけに、永遠の美と知識と満足を追求した結果、その高慢さによって、滅びの刑罰に定められた悪魔と同じ破滅の運命であって、グノーシス主義者がどんなに自らの死を解放に見せかけたとしても、その死は、実質的に刑罰も同然なのである。

こうして、人類の罪を認めず、神と人との断絶を認めず、人類が罰せられることなく自ら神に回帰することを正当化する教えを信じると、人はまるで脳を失った体のように、欲望に引きずられて地上をむなしくさまようだけとなり、神の概念が消えるばかりか、ついに人間も消えてすべてが無となり消失する。

三島が自らの最期に際して、自衛隊に向かってクーデターを呼びかけてそれに失敗し、割腹という手段を取ったのみならず、弟子に自分の首を切り落とさせたことも象徴的である。このような最期は、どこからどう見ても、罪人に対する最も残酷な刑罰以外の何物でもなく、三島が自分で自分を処刑したことを意味するだけではない。

聖書は、すでに述べたように、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者たちが、自らの「腹」を神としていると非難している。そこで言う「腹」とは、人類の欲望の象徴であり、さらに、三島が切り落とした「首」も、キリストの頭首権の象徴である。従って、首のない体とは、神の頭首権に服さなくなった集合体としての人類を意味し、裂かれた腹も、堕落した人類の体に働く罪深い欲望に対する神の裁きを物語ると言えよう。

三島は単なる小説家ではなく、グノーシス主義という反聖書的な偽りの福音を宣べ伝える宣教師であったからこそ、自ら宣べ伝えた恐るべき「福音」がもたらす当然の結末に従い、このような破滅的な最期を遂げたのだと言える。 

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から⑥

・被造物を神とする思想が過剰なまでの美意識とナルシシズムを生む

さて、そろそろ映画"MISHIMA; A Life in Four Chapters"の分析を抜け出たいと考えているが、今回は、これまでの分析の総まとめとして、グノーシス主義における「美」とは何かという疑問について、さらに、グノーシス主義がなぜ個人の概念を認めず、集団からの離脱を許さないのかという問題について考えてみたい。
 
これまで、グノーシス主義は、被造物を神とする被造物崇拝(人類の自己崇拝)の教えであり、この教えは、「父なる神」を事実上のフィクションとしてしまうため、この教えを信じると、人は神を探し求める過程で、自己の像を見つめるしかなくなり、それゆえ、歪んだナルシシズムに陥って滅びるということを再三に渡り、述べて来た。

グノーシス主義は、人間は神の「似像」として創造されたとするが、グノーシス主義における至高神とは、それ自体が「鏡」であり「虚無の深淵」であって、本体を持たないため、結局、グノーシス主義では、「似像」として造り出された被造物の方が真のリアリティだということになってしまう。

それゆえ、この教えを信じる人々は、神を探し求めると言いながら、自分自身を見つめ、己を神とするしか手段がないが、どんなに鏡の中を覗き込んで、そこに映る自分の像を見つめて、神を見いだそうとしても、そこに神はおられないため、彼らはナルキッソスのように自分を映し出す虚無の深淵に吸い込まれて破滅のうちに消えて行くしかないのである。

しかも、ただナルシシズムのうちに絶望して滅びるだけではない。彼らは神を探し求めているうちに、「虚無の深淵」である「鏡」に自分の像を質に取られ、自分をどんどん乗っ取られながら喪失して行くのである。

グノーシス主義とは、弱い者が強い者を乗っ取るというヒエラルキーの転覆を果てしなく正当化する教えである。そこで、このような秩序転覆の教えを信じると、神と人との関係が逆転するだけでなく、男女の秩序も逆転する。そして強い存在であるはずの男性が弱い女性に飲み込まれて自己を喪失するということが起きる。神の助け手となるべく創造された人類と神との関係が壊れることにより、男女の正常な秩序も崩れるのである。

詩編には次のような箇所がある。

「人の子は何ものなのでしょう
 あなたが顧みてくださるとは。
 神に僅かに劣るものとして人を造り
 なお、栄光と威光を冠としていただかせ
 御手によって造られたものすべてを治めるように
 その足元に置かれました。
 羊も、牛も、野の獣も
 空の鳥、生みの魚、海路を渡るものも。」(詩編8:5-9)

ここに、人は「神に僅かに劣るものとして」創造されたとある。確かに、聖書において、人は神の形に似せて創造されたとはいえ、人類は堕落していなかったときから、神と同一の存在では決してあり得ず、人は神よりも弱く劣った存在として造られたのである。そこには明らかに序列があり、優劣があった。

しかし、この優劣はただ単に神と人との主従関係として理解されるだけでなく、人間に任された役割を示すものと理解できる。すなわち、神は霊であるが、人間を霊的な世界と物質的な世界の両方に接点を持つ者として創造され、神の代理人として、神が造られた目に見える万物を正しく治めるために創造されたのである。

いわば、人間は神が造られたこの世という庭の園丁のような存在でもあったと言えるかも知れない。被造物は被造物でしかなく、どこまで行っても、創造主にはなれないとはいえ、人は神と交流を持ちながらも、物質界の主人だったのであり、一つの世界を治めるべき存在として、神は人間に絶大な権限を与えておられたのである。

ここで神と人とは男女になぞらえられる。つまり、神はご自分の創造された物質的な世界を治めるための助け手として人を創造し、この世界を人の監督下に置かれた。何度も言うが、人類は、神に対して霊的に女性として創造されたのである。

ところが、グノーシス主義は、人類が神よりも劣った弱い存在であることを認めず、聖書の創世記において、蛇の姿をした悪魔が人類のもとにやって来て、神は人類を神より劣った存在に貶めるために、人類の知識と力をいたずらに制限しようと「善悪の知識の木の実」を食べることを禁じていると嘘を吹き込んだ。それがグノーシス主義の始まりである。

人類はこの時、悪魔の嘘を信じて神の掟を捨てて悪魔側に寝返ってしまったので、人類の堕落と共に、この世全体の統治権が悪魔の手に渡り、悪魔が人間を奴隷として従えつつ、「この世の君」となったのである。

グノーシス主義は、今日も、その時から少しも変わらず、神と人とがあたかも本来的に対等(同一)な存在であって、そこに優劣はなく、序列もなく、主従関係もなく、知識や力の差もないのが当然であるかのように主張している。

結局、この思想は、人類が神よりも劣った存在として創造されたこと、人類が被造物であって創造主ではないという事実自体に逆らって、人類を神と同一視しているのであり、それと同時に、人類が神の被造物として有限なる存在として創造されたこと自体に被害者意識を持っていると言って良い。

グノーシス主義は、もともと人類が神より劣った存在であることを認めていなかったが、その上、人類が神に逆らって罪を犯したために死に行く存在となって、永遠性から切り離されたので、罪に対する刑罰への恨みも、もともとあった神への被害者意識の上に増し加えた。

おそらく、そのような不当な被害者意識に基づき、神を悪者とする転倒した思想は、サタン自身がもともと神に対して持っていた思想を、そのまま人類に転嫁するために吹き込んだものと考えられる。

グノーシス主義は、別な言葉で言いかえれば、人類(被造物)の側からの、神への怨念に基づく神への反逆としての、神の乗っ取り(なりすまし)の思想ということになる。事実、人類は神ではないにも関わらず、その人類が自己を神と同一視することは、人類の側からの神の存在の乗っ取りやなりすまし以外の何物でもない。

このような転倒した教えを引き延ばして行くと、当然ながら、神と人との関係だけでなく、男女の秩序も破壊される。男性の側からは、女性は自分の「似像」(同一)であると主張して女性を支配しようとするが、他方、女性の側からも同じように自分は男性の「似像」であって、両者は本質的に「同一」であり、「対等」だと主張する。

その結果、神から神であることを奪った人類(男性)は、自分も弱い者(女性)から存在を奪われ、弱い者(女性)に同化させられ、飲み込まれて消え失せる。聖書の創世記において、エバがまず最初に「善悪知識の木の実」を食べ、次に夫であるアダムをそそのかして自分と同じ違反を犯させた様子を見ても、この時点で、すでに男女の秩序が転覆していることが分かる。男が自分よりも弱い女の言いなりになって誘惑されて独自の判断を失い、死に赴かされているのである。

むろん、こうした秩序の転覆は、男女の間だけでなく、人間社会における強者と弱者との間で果てしなく繰り返される。こうして、人類が神から神であることを奪い取って、自分が神になり代わることを正当化すると、人類同士の間でも、果てしなく弱い者からの強い者への乗っ取りが起きるのである。いわば、弁証法的唯物論の原型がグノーシス主義の中にあるのだと言えよう。

さて、話を戻せば、歪んだナルシシズムと並行して、グノーシス主義者の見落とせない特徴として挙げられるのは、過剰なまでの美意識である。

三島由紀夫が自分の美意識にこだわり、その美意識があるために、自分の肉体に対するコンプレックスを常に抱え、それを払拭するために、肉体を鍛えるなどして、何とかして自分の外見を自分の目にかなう「美しいもの」に変えようとしていたことは前回までの記事で確認した。

しかも、三島の場合は、ただ単に外見を美しくしようとするというありふれた努力で終わらず、自らを「永遠の美」の領域にまで高めようとしていたことを私たちは見て来た。自らの存在を永遠にするためにこそ、三島は自分が「美しいもの」になったと考えた次の瞬間、自分の美をそのまま永久に保存するために、死に赴いたのである。

むろん、死は残酷に彼の美を破壊して奪い去っただけで、何一つ保存などしなかったが、当の三島は、死を解放であると思い込み、それが滅びであるとみなしていなかった。我々から見ると、三島の死はまさに自ら造り出した刑罰に他ならず、凶悪な罪人に対する十字架刑のような残酷な死であって、およそ解放などと呼べる類のものでは決してない。

しかしながら、グノーシス主義者は肉体からの解放を、自己存在が永遠と一つに融け合うことだと考えているため、そのような霊的刑罰としての最も残酷な死でさえも、あたかも自己存在を高めるための儀式であるかのように錯覚しつつ、それに陶酔して行くのである。

このように、「宇宙全体と一つになる」という名目で個人を消失させることが、グノーシス主義の最大の破壊的マインドコントロールの効果である。グノーシス主義は、ウロボロスの輪のシンボルにも見られるように、創造と破壊という対極のものを一つに結び合わせるという錬金術的な詐術のもとで、永遠の循環という概念を信じているため、この思想において、死は終わりとはみなされていない。死は新たなる生の始まりのようなものでしかないとみなされているため、そこに個人の死という概念は存在しないのである。

もちろん、当ブログはそういう考えを完全に荒唐無稽とみなしているが、東洋思想の基盤には、すべての生命が滅びることなく永遠に循環するという偽りの概念が脈々と流れている。そのことは、サンダー・シングの教えの偽りについて分析した際にも見て来た。

このような循環あればこそ、美という概念が、彼らにとって極めて重要性を帯びるのだと言えよう。


・被造物が堕落したために、美はその本来的な目的を失って欺きの源となった

ところで、私たちは、女性が自分の美にこだわるならまだ分かるとしても、三島のような男性が、青年期を通り過ぎ、「いい年をしたおじさん」になってから、自分の外見的な美にそれほどまでにこだわり続けたことに、かなり奇異な印象を受けるかも知れない。

だが、そのようにして自分の美にこだわることは、グノーシス主義者には男女を問わず、共通して見られる現象であって、何ら三島に固有の現象ではないのである。当ブログでは、ペンテコステ・カリスマ運動の信者が常に、人前で、弱者の救済者のように振る舞ったり、同情心溢れる純真で貞潔な信徒を演じたりしながら、自分の美的イメージを作り上げることに腐心し、その美しい外観が傷つけられることに強い抵抗感を示すことを見て来た。

彼らは自分で作り上げた美しい自己像にあまりにも耽溺しているせいで、それが現実の自分からは遠くかけ離れた虚構のイメージでしかない事実さえ、もはや自分では分からなくなっており、認められないのである。

さて、クリスチャンが、聖書の中で、自分の美に固執し続けたのは誰かと尋ねられ、真っ先に連想するのは、サタンの存在ではないだろうか。なぜなら、悪魔こそ、自分の美に対して異常なまでの自信と執着を示し、自らの美と知識と繁栄のゆえにおごり高ぶって神に反逆した張本人だからである。

聖書の中では、悪魔の起源は明らかではないが、一般にキリスト教の教理では、悪魔は神に反逆して堕落した天使の一人であるとみなされており、しかも、天使の中でおそらく最高位の神に最も近い位にあったものと考えられている。

聖書では、サタンの神への反逆と堕落がいつ起きたのかは記されていない。それが天地創造以前の段階ですでに起きていたのか、それとも、天地創造以後のことであるのかも、聖書の記述の中からは明らかでない。しかし、エデンの園で悪魔が蛇の姿を取って人類をそそのかしにやって来たところを見ると、この時点ですでに悪魔が堕落していたことは明白である。

一般的に、クリスチャンの間では、エゼキエル書28章は、悪魔の神に対する反逆と堕落の一端を明らかにするものだと考えられている。むろん、この記述が悪魔に関するものだという証拠はなく、異論も存在するが、ここでは「ツロの君」に対する宣告に重ねて、悪魔に対する神の宣告が重ねて込められているという解釈が一般的である。その記述によれば、悪魔の堕落は、悪魔が自らの美しさと知識と、不正な貿易によって増し加えた富のゆえに慢心し、自分を神以上の存在であると考えたために起きたことが分かる。

「人の子よ、ツロの君に言え、主なる神はこう言われる、あなたは心に高ぶって言う、『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。 」(2節)

「それゆえ、主なる神はこう言われる、あなたは自分を神のように賢いと思っているゆえ、 見よ、わたしは、もろもろの国民の最も恐れている異邦人をあなたに攻めこさせる。彼らはつるぎを抜いて、あなたが知恵をもって得た麗しいものに向かい、あなたの輝きを汚し、 あなたを穴に投げ入れる。あなたは海の中で殺された者のような死を遂げる。

それでもなおあなたは、『自分は神である』と、あなたを殺す人々の前で言うことができるか。あなたは自分を傷つける者の手にかかっては、人であって、神ではないではないか。
あなたは異邦人の手によって割礼を受けない者の死を遂げる。これはわたしが言うのであると、主なる神は言われる」。 」(6-10節)

「人の子よ、ツロの王のために悲しみの歌をのべて、これに言え。主なる神はこう言われる、あなたは知恵に満ち、美のきわみである完全な印である。 あなたは神の園エデンにあって、もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。すなわち赤めのう、黄玉、青玉、貴かんらん石、緑柱石、縞めのう、サファイヤ、ざくろ石、エメラルド。そしてあなたの象眼も彫刻も金でなされた。これらはあなたの造られた日に、あなたのために備えられた。

わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブと一緒に置いた。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いた。 あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった。

あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した。

あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。

あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によってあなたの聖所を汚したゆえ、わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前であなたを地の上の灰とした。
もろもろの民のうちであなたを知る者は皆あなたについて驚く。あなたは恐るべき終りを遂げ、永遠にうせはてる」。(12-19節)
 
エゼキエル書の以上の宣告の中には、「ツロの君」に対する宣告と、堕落した人類に対する宣告と、悪魔に対する宣告の三つの意味が重ねられているのではないかと想像されるため、それらをすべて別々に切り離して、どこからどこまでが悪魔に対する宣告なのかを明白にすることは難しい。

しかも、この記述は、悪魔のみならず、神に背いてエデンの園を追放された人類にも、随分、重なる部分があるように感じられる。

たとえば、創世記において、人がエデンを追放された場面にはこうある。

主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。 」(創世記3:22-24)

この楽園追放の場面の記述は、「守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した。 」というエゼキエル書の記述に重なる。

さらに、「わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前であなたを地の上の灰とした。」というエゼキエル書の記述も、「 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:19)というアダムへの宣告に部分的に重なる。アダムが死んで火葬されたという話は聖書にないが、塵に帰るという表現は、灰になることとも似通っているからである。
 
以上の記述の中では、悪魔がかつてアダムのように肉体を持っていたのにそれを失って霊だけの存在になったのか、それとも、悪魔は最初から霊だけの存在であり、体を持っていなかったのかも明白ではない。

ただ悪魔が蛇の姿を取って人間のもとにやって来たという記述から、悪魔は霊的な存在であり、地上の被造物の中に住処を得て入り込み、人知を超えた方法で人間に語りかけることができるという事実が分かるだけである。
 
もしサタンが体を持たなかったのであれば、この目で見ることのできない霊的存在であるサタンに、どのような美が備わっていたのか、我々は想像することもできないが、いずれにせよ、以上の記述から分かるのは、サタンは己が美と知識と繁栄のゆえにおごり高ぶって神に対して逆らったために、特別厳しい裁きと滅びに定められたという事実だけである。

こうしたことを考えれば、聖書の神に対する反逆の教えであるグノーシス主義においても、美意識や美という概念が極めて重要性を帯びて来るのは不思議ではない。

ここで私たちは「美とは一体、何なのか」という根本問題について考えてみたい。そもそも、美というものは、それだけで成立するものではなく、これを見る者、愛でる者、鑑賞し、評価する者があって、初めてその真価を認められるものである。

そういう意味で、美とは、それを有する自己のためにあるというよりも、これを鑑賞する他者の満足のために備えられたものであると言うことができるかも知れない。

花は花自身のために美しく装うわけではない。深海の驚くべき生物たちも、空を飛ぶ鳥たちも、その瞠目すべき彼らの美は、明らかに彼ら自身の命のためだけに用意されたものではない。同様に、フェミニストたちは憤りを表明するかも知れないが、女性の美も、女性自身のためにあるわけではなく、これを見てその美しさを評価する他者のために存在している。その真価を最も評価できるのは男性であろう。

そうしたことから考えると、人間の美、そして、被造物の美とは、最終的には、これを創造した神の満足のために備えられたのであり、被造物自身の満足のためにあるのではないということが言える。

そして、神は決して人を外見だけで偏り見て評価せず、人の心を見られることも聖書には記されている。神が求めておられるのは、外見だけの美ではなく、外見と内面とが一致した、神への従順を通して自然に生まれて来る美しさだと言えよう。

そこで、もしサタンに美が備わっていたというならば、その美も、本来はサタン自身を満足させるために備えられたものではなく、神の満足に奉仕する目的で付与された性質だったはずであると言える。

しかし、サタンはその美を自分自身のために悪用し、まるで自分の手柄のように誇ったため、その瞬間に、サタンの外見的な美が、内面的な美と乖離した。サタンは神に背いて内面的な美を失っていたにも関わらず、外見的な美しさを誇り続けた結果、その美は、表面的でうわべだけの見せかけのものとなり、さらに、サタンに滅びの宣告が下されたことにより、その美は完全に実質とは正反対の欺きの性質となってしまった。

こうして見て行くと、美とは、被造物全般に共通する特徴であることが分かる。神に愛でられ、神の満足のために創造された被造物であるがゆえに、あらゆる被造物は、滅びゆく存在でありながらも、みな束の間の美を付与されていると言えるのである。

ところが、被造物全体が堕落したがために、サタンはおろか、被造物の美は、本来の正常な働きを失って、不幸の源となってしまった。被造物は、サタンと同じように、他の被造物と自らの美を競い合い、手柄のように誇りながら、自分の満足のために、自分の美に固執しつつも、一瞬でその輝きを失って滅んで行くしかない存在になった。人間の持つ美醜の概念は、それ自体が欺きとなり、偽りとなり、形容しがたい醜い争いを生む根源となった。


・グノーシス主義の美意識は、無常観と密接な関係がある

ここで、話が唐突に変わるように思われるかも知れないが、ここでグノーシス主義的な世界観と美の関係性について述べるために、「いろは歌」について触れておきたい。

日本人が誰でも知っている「いろは歌」は、中世から存在しており、平安時代にはすでに存在が確認されているが、誰がどういう目的で作ったのかは明らかでない。

この「いろは歌」には、単なる文字の学習という域をはるかに超えた深淵な無常観を表す思想が込められており、それ自体が、般若心経などと同じような「誦文(ずもん)=呪文」である。もちろん、当ブログの読者であれば、あえて説明せずともお分かりかと思うが、「いろは歌」に込められている思想も、やはりグノーシス主義である。そのことを確認するために、まずは「いろは歌」の解釈を確認したい。

 


(この達筆の書は「極楽浄土~浄土宗~仏教用語集」から借用)


色はにほへど 散りぬるを
(どんなに美しく芳しい香りを放って咲いている花も、すぐに散って枯れて行くように、すべての存在は束の間にしか存在せず、永遠性を持たない滅びゆくものである。[=諸行無常])

我が世たれぞ 常ならむ
(それと同様、人間がこの世の春を謳歌して生きていられるのも、ほんの束の間だけのことであり、人間存在も滅びゆくものであって、永遠ではない。[=是世滅法])

有為の奥山  今日越えて
(目に見えるものも、見えない心の有様も、何もかも束の間に現れては消える儚い幻想に過ぎないが、そのことが分かれば、この世の無常を乗り越えることができるため、 [=消滅滅己])

浅き夢見じ  酔ひもせず
(もはや儚い夢に浮かれたり、この世の苦楽に溺れたりもせず、この世の過ぎ行く有様を超えた平安な心の境地に至ることができる。 [=寂滅為楽] )



「いろは歌」が示しているのは、要するに、目に見える被造物の美しさも含めて、この世の有様のすべては幻のように仮初であり、すべての目に見えるものが、生成から滅亡への過程を辿っているように見えても、その本質は「空=無」であるという思想である。

さらに言えば、すべてのものが一時的でしかなくその本質は「空=無」であることを悟るとき、人々は心の中にあるすべての苦しみを超越して、自己と永遠を一体化させて無我の境地に至り着いて平安を得るという思想である。

この「いろは歌」は仏教思想の本質を表しているとよく言われるが、当ブログでは、仏教を含め、世界の本質が「無」であるというこの種の思想はみな根本的にグノーシス主義であるとみなしている。

つまり、「いろは歌」の中に込められているのは、万物の生成と消滅を一つの循環のようにとらえ、この輪の背後に巨大な永遠(=無)が存在するという思想なのであって、それはウロボロスの輪が意味するものと同じであり、さらに、『国体の本義』が説く「和の大精神」とも本質的に同じである。

すでに見て来たように、『国体の本義』が説くのは、我が国において、「天照大神」を始祖とする神話を継承する天皇家に始まり、先祖代々から人々が誕生と死を繰り返しながら全体として受け継いで来た「和の精神」によって、日本人は「天壌無窮」すなわち永遠に到達し、生成と消滅の「和=輪」の中で、「永遠の今を生きる」という思想である。

ウロボロスの輪がグノーシス主義の思想を表すシンボルであるのと同じように、「和の精神」という言葉や、「いろは歌」という呪文も、それ自体がグノーシス主義と本質的に同じ思想を表すシンボルなのだと言えよう。

(ちなみに、余談であるが、この「いろは歌」には暗号が隠されているといった話があり、その暗号を読み解くと「咎なくして死す」というメッセージが読み取れるという解釈がある。そのような説は江戸時代からあったらしいと思われ、それゆえ、いろは歌は、赤穂浪士の切腹を描いた人形浄瑠璃の題名に使われたり、柿本人麻呂の遺言や、菅原道真の無念が込められていると言った諸説が登場している。さらに、今日では、そこからもっと進んで、「咎(罪)無くして死んだ」者とは、イエス・キリストを示しているといった奇抜な解釈まで見られる有様である。
 


囮の暗号「咎なくて死す」」から転載。



しかしながら、当ブログではこうした暗号の問題に立ち入るつもりはない。また、仮にいろは歌の中に、「咎なくして死す」という暗号が込められているとしても、この歌自体が、無常観という反聖書的な概念のもとに成り立っている以上、その暗号が決してイエス・キリストを指しているはずがないことは明らかであるものと確信する。

仮にこの「いろは歌」を暗号として理解したとしても、そこから読み取れる通低音は、やはり、「などてすめろぎはひととなりたまひし」という三島作品の叫びと同様に、「人類に罪はない! なのに神が人間を滅びに定めたのは不当だ!」というグノーシス主義に常なる滅びゆく人間の無念(被害者意識、怨念)の叫びだけである。)

「いろは歌」の中には「美」という概念がはっきり登場しているわけではないにせよ、そこでは「色」すなわち、この世の物質界の現象が一時的な形を取って現れる有様を「美」と同一視することもできよう。そう考えれば、美とはまさに永遠性を持たない一時的なもの、脆く儚いものの別名、代表格も同然となる。

そのように物質世界の諸現象が、脆く儚い有限な一時的存在として形を取って現れること自体が、グノーシス主義的な美の概念であるとも言えるかも知れない。言い換えれば、グノーシス主義における「美」には、確固たる存在の裏づけがないのである。

さらに、グノーシス主義の神話的プロットにおいて、唯一「醜い存在」として非難されているのが、ヤルダバオートおよび堕落したカインとアベルの種族であることを見ても、我々は、グノーシス主義における美醜の判断の基準が、「自分よりも上位の被造物の思惑を無視して自分にこだわること」と密接な関係を持っていることが分かる。

グノーシス主義が、被造物の間に貴賎を設け、カースト制のようなヒエラルキーを造り出すことを正当化する教えだということはこれまで度々述べて来たが、そのようなヒエラルキーは、グノーシス主義の神話においては被造物がどれほど至高者である神に近い存在であるかに応じて序列が定められていることに由来する。大田俊寛氏は、『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』の中で次のように述べる。
 

これまでに述べてきたように、プレーローマ界に住まうアイオーンの神々は、すべて「深淵」である至高神から流出する。しかしながら、それゆえにすべてのアイオーンが平等の立場にあるかと言えば、実はそうではない。「(原)父」である至高神を見ることができるか、またそれによって自分自身を知ることができるかということに応じて、アイオーンたちのあいだには、暗黙の裡にヒエラルキーが設定されているのである。(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』、春秋社、p.126)


注目すべきは、このヒエラルキーは神と被造物の関係を指すというより、被造物同士の序列を指すことである。悪とは、このヒエラルキーを覆すことである。しかし、グノーシス主義における至高神は、物言わぬ深淵であるから、自分にたてついた者を罰するために出てくることもない。従って、そのヒエラルキーは、至高者の目から見たヒエラルキーではなく、被造物同士の序列だということができる。

グノーシス主義における美醜の概念や、善悪の概念は、このような被造物同士の序列と密接な関係があり、被造物の社会の序列の中で、「空気を読み、自分の分をわきまえて行動すること」こそ美(善)であり、「被造物同士の間で、自分の分をわきまえないで行動すること」が醜(悪
)なる性質であるかのようにみなされる。

ソフィアはヒエラルキーを犯したがそれを後悔して、自分の分をわきまえようとしたのでとがめられることなく、また、ソフィアの行為は、自分も至高神を知りたいと願っていた他の被造物全体の思いを代弁していたため、同情されることはあっても、罰せられることはなかったが、ソフィアの過失の結果として生まれたヤルダバオートは、周りも憚らず、「私は妬む神である。私の他に創造主はいない」と宣言し、自分だけが神であると述べて、自分よりも上位の他のすべての被造物に恥をかかせ、面目を失わせたために「醜悪な存在」として侮蔑と嫌悪の対象とされているのである(もっと言えば、ヤルダバオートは出生の段階から母であるソフィアに恥をかかせていた)。さらに、カインとアベルの種族も、己が欲望だけに邁進して流血と殺人を繰り返す種族であるから醜悪な種族なのだという。

早い話が、グノーシス主義では、神との間で被造物がヒエラルキーを犯すことは無罪放免される一方で、被造物の間のヒエラルキーを犯して自分の存在を絶対化しようとすることは、非常に醜悪な行為とみなされ、侮蔑の対象となるのである。つまり、被造物自身が創造主を差し置いて、善悪や美醜の判定者になってしまっているのだと言える。

そこから考えると、グノーシス主義における美とは、「被造物同士の序列の中で、個々が自分の分をわきまえて、自分を手放すこと」と深い関係があることが見えて来よう。端的に言えば、グノーシス主義は、被造物が「全体のために自分を捨てる」状態にあることこそ「美」(善)であるとみなし、序列を無視して自分に固執する状態を「醜」(悪)とみなしていると言っても良い。それだからこそ、この思想における美は、自己存在の裏づけを持たない、脆さ儚さと切り離せないものとなのである。

このような考え方は、次回でも触れるように、『国体の本義』に現れる「和の大精神」にも通じる。『国体の本義』は、個人の平等を認めず、社会の中に身分制度としての差別的ヒエラルキーをもうけ、その中で、人が「分をわきまえて行動する」ことで、全体の秩序(和)が保たれるかのように教えた。そして、個人はそのような差別的な序列に従ってこそ、その真価が発揮できるかのように説き、決して個人がそのヒエラルキーから離脱することを許さず、集団を離れた個人という概念自体を認めなかった。

グノーシス主義における「美」の概念は、このように差別的なヒエラルキーを守り抜くためにもうけられる「和」の概念と無関係ではない。それは被造物が創造主なる神に従うことによって保たれる美ではなく、むしろ、被造物自身が、神から盗み取って得た美であり、被造物同士が互いのヒエラルキーを保たせ、威信を保つための美である。

その「美」は、弱い者が自分よりも強い者のために自分を捨てながら、個であることを放棄して被造物全体と一体化することによって、初めて成し遂げられる「和」の一部である。

そうした思想の究極の形が、自分が無であること悟ることで世界と一体化するという仏教的な無常観、および、肉体からの霊の解放を救済とみなすグノーシス主義の思想の中に表れている。このような思想は、人が自己存在にこだわることをやめ、自分が生成し消滅する個としての命であることさえ否定し、自己存在が移ろいゆく不確かなものであるばかりか、本質的に無であることをわきまえ、自己存在をまるごと放棄して、永遠=無の中に身を投げる時に、初めて人と世界が一体化して全体の中の調和が取り戻され、被造物があるべき美を取り戻すのだと述べているに等しく、極言するならば、それは滅びと死の中に「美」を見いだそうとする倒錯した思想なのである。

別な言葉で言えば、その「美」は「哀れ」という感情とつながっており、命がヒエラルキーに従ってディスカウントされて完全性を失って行くことによって初めて得られるものである。こうした世界観では、あらゆる生命が死や滅びによって脅かされる儚く脆い存在であることを前提として初めてそれらの生命の「美」が成立するのであり、「美」とは本質的に「可哀想」という感情と一体化しているとも言える。別な言い方で言えば、滅びゆく被造物の無念とそれに対する同情という被害者意識に基づく感情自体が、美という形で表現されていると言えるのである。

日本人は「いろは歌」を通して、知らないうちに、世界の本質が無であるという思想に触れて、その世界観を無意識的に呪文として唱え、呼び出しているのであり、「いろは歌」に込められている無常観は、次回で説明するように、般若心経の中で、もっとはっきりと鮮明で凝縮された形を取って表れている。

<続く>

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から⑤

・ウロボロスの輪と「和の大精神」に見る「二度目の林檎を食べる」という嘘
   
映画"MISHIMA"の終わりで三島は言う、「知性などをはるかに超えたもっと本質的に大切なものが、どこかにあるはずだ。芸術と行動を調和させる何かが。」

この言葉を通しても、私たちは三島が鈴木大拙とほぼ同一の見解に立って、人間の本質とは「知性」をはるかに超えたところにあるものと考え、「行」が「知」によって排除されることのない、全一的な世界を求めていたことを知ることができる。

三島は、「知と行」、「芸術と行動」、「精神と肉体」、「男と女」、「自己と他者」といった、あらゆるの隔ての壁をなくすことで、自分が何者によっても疎外・排除されることのない、完全性、永遠性を身に着けられるかのように考え、自分なりに、最初のエデンの「一段の進出」である「入不二法門の世界」へ入ろうとしたのである。

三島にとって、第二のエデンである全一的な世界は、日輪というシンボルで表される。日輪は、三島の美意識が無限大に拡大して行きついた最後の姿であり、かつて三島を外界に誘い出し、彼が肉体の衝動に従って生きることで、自ら肉体を縛っている制約を取り払い、自己疎外を終わらせられるかのように教えたギリシアやハワイで見た太陽と同じである。

三島はこの「日輪=太陽」というシンボルの中に、「すべての疎外が解消された隔てのない世界」を見、その「母なる神」の懐に飛び込むことで、自己存在を永遠と溶け合わせることができるかのように考えた。
 
その日輪が、天皇家の神話上の始祖とされる天照大神と同一であることは言うまでもない。それは慈悲によってすべてを包容する、決して人間を排除することなく、人間を罪に定めたり、楽園から追放したり、滅ぼしたりすることのない、東洋的な慈悲の神のシンボルであり、東洋思想の「神秘なる母性」の象徴である。

さらに、日輪は「輪」であるから「和」の精神をも指す。「和」とは、かつて『国体の本義』を通して確認したように、「神と人との隔てがなくなった状態」、あらゆる区分が取り払われ、すべてが一体となった全一的な世界を指す。

三島は、自分と世界との区別を取り払うことにより、自分が永遠の存在となるかのように考え、自ら日輪の懐に飛び込むことで、「肉体の牢獄から霊を解放する」という、グノーシス主義の最後の錬金術を達成しようとしたのである。


  

 


知性などをはるかに超えたもっと本質的に大切なものが、どこかにあるはずだ。芸術と行動を調和させる何かが。私はそれが死であると考えた。

地球は死に包まれている。上空には空気がない。
極めて純粋で単純な死がひしめいている。4万5千フィートの上空では、銀色の弾痕は裸になった光の中に見事な平衡を保って浮かんだ。

私の心はのびやかで、生き生きと思考していた。何一つ動きもなく、音も、記憶もない。機体の閉ざされた部屋と、外の開かれた世界とは、一人の人間の精神と肉体のようなものであった。

究極の行為の果てに、私が見るであろう光景が、今私の目の前にあった。雲も海も太陽も、すべてが私の一部であった。もう矛盾は一つもなかった。

精神と肉体も、芸術と行動も、男と女も、

あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪は、ゆっくりと地球の周りをまわった。それは死よりも大きな輪、これこそ、私の求めてやまぬ地点であった。
 

 

 
さて、私たちはここで、日輪という「輪」が、グノーシス主義のシンボルとしてのウロボロスの輪にもぴったり重なることを見いだす。

すでに見て来た通り、日輪は、対極にあるものの統合であり、それは被造物の究極の美を表すと同時に、被造物の限界としての死をも意味する。

ウロボロスの輪も、これと同様に、死と再生、破壊と創造のように、相反するもの、対極にあるものの統合の象徴であり、世界が本来的に一つであるという思想を表す。

つまり、「和の大精神」なるものも、ウロボロスの輪も、本質的に同一の概念を指しているのであり、それは三島が言った通り、「あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪」であり、永遠でありながら、同時に死の象徴なのである。
 
「あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪は、ゆっくりと地球の周りをまわった。それは死よりも大きな輪、これこそ、私の求めてやまぬ地点であった。」

 

このように解釈すると、『国体の本義』で説かれている、「すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる。ここに我が国の大精神がある。」という記述内容は、まさにウロボロスの輪をそっくり体現したものであり、まさしくグノーシス主義の悲願としての「破壊」と「創造」の一体化による永遠性を指していることが分かる。

もう一度、『国体の本義』の中で、日輪(天照大神)がどのように永遠のシンボルとして描かれているかを見てみよう。
  

国体の本義
第一 大日本国体、一、肇国から抜粋


大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(てうこく)の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。

我が肇国は、皇祖天照大神(あまてらすおほみかみ)が神勅を皇孫瓊瓊杵(ににぎ)ノ尊に授け給うて、豊葦原の瑞穂(みづほ)の国に降臨せしめ給うたときに存する。<略>

天照大神は日神又は大日孁貴とも申し上げ、「光華明彩しくして六合の内に照徹らせり」とある如く、その御稜威は宏大無辺であつて、万物を化育せられる。

 天照大紳は、この大御心・大御業を天壌と共に窮りなく弥栄えに発展せしめられるために、皇孫を降臨せしめられ、神勅を下し給うて君臣の大義を定め、我が国の祭祀と政治と教育との根本を確立し給うたのであつて、こゝに肇固の大業が成つたのである。我が国は、かゝる悠久深遠な肇国の事実に始つて、天壌と共に窮りなく生成発展するのであつて、まことに万邦に類を見ない一大盛事を現前してゐる。
<略>

 天壌無窮とは天地と共に窮りないことである。惟ふに、無窮といふことを単に時間的連続に於てのみ考へるのは、未だその意味を尽くしたものではない。普通、永遠とか無限とかいふ言葉は、単なる時間的連続に於ける永久性を意味してゐるのであるが、所謂天壌無窮は、更に一層深い意義をもつてゐる。即ち永遠を表すと同時に現在を意味してゐる。

現御神にまします天皇の大御心・大御業の中には皇祖皇宗の御心が拝せられ、又この中に我が国の無限の将来が生きてゐる。我が皇位が天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。

 
 こうした記述から、私たちは『国体の本義』で述べられている思想は、ただ単に天照大神を始祖とする「万世一系」の天皇家の神話に基づく建国神話といったレベルをはるかに超えた、もっと恐ろしい思想であることが分かる。

ここにおいて、日輪=天照大神とは、はっきりと「天壌無窮」すなわち永遠性のシンボルであると表明されており、そのシンボルのもとに統合される一大家族国家である日本の使命とは、「過去も未来も現在もすべてが一つとなって、永遠の生命を有し、『永遠の今』を生きる」ことにあるとされる。

つまり、「和の大精神」の目指すところは、一言で言えば、人間が自力で永遠の生命にたどり着き、「入不二不問の世界」「一段の進出」としての第二のエデン、神と人との一体化した究極の状態へとたどり着くことであり、それを実現することが、大日本帝国という(虚構の)「国体」の使命(本義)とされていたことが分かるのである。

国体の本義
四、和と「まこと」、
神と人との和 より抜粋

「更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。このことは我が国の祭祀・祝詞等の中にも明らかに見えてゐるところであつて、我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である

  又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。我が国は海に囲まれ、山秀で水清く、春夏秋冬の季節の変化もあつて、他国には見られない美しい自然をなしてゐる。この美しい自然は、神々と共に天ッ神の生み給うたところのものであつて、親しむべきものでこそあれ、恐るべきものではない。そこに自然を愛する国民性が生まれ、人と自然との和が成り立つ。
<略>かゝる自然と人との親しい一体の関係も、亦人と自然とが同胞として相親しむ我が国本来の思想から生まれたのである。

  この和の精神は、広く国民生活の上にも実現せられる。我が国に於ては、特有の家族制度の下に親子・夫婦が相倚り相扶けて生活を共にしてゐる。「教育ニ関スル勅語」には「夫婦相和シ」と仰せられてある。而してこの夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ。即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。

  更に進んで、この和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。

  このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。

  要するに我が国に於ては、夫々の立場による意見の対立、利害の相違も、大本を同じうするところより出づる特有の大和によつてよく一となる。すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる。ここに我が国の大精神がある。而して我が国に現れるすべての進歩発展は、皆かくして成される。聖徳太子が憲法十七条に、
  和を以て貴しとなし、忤ふることなきを宗と為す。人皆党有り、亦達れる者少し。是を以て或は君父に順はずして、乍隣里に違ふ。然れども上和ぎ下睦びて、事を論はむに諧ひぬるときには、則ち事理自らに通ず。何等か成らざらむ。
と示し給うたのも、我が国のこの和の大精神を説かせられたものである。」


   
「和の大精神」がウロボロスの輪に重なるだけでなく、そこで描かれる社会のヒエラルキーもグノーシス主義に固有の概念であることについては、今は細かい説明はしないが、結論だけを述べるなら、一方では「すべてのものが一つに融合している」と言いながら、他方では、人間に貴賎をもうけ、差別的な身分制度を作り出し、「各々が分を守る」などという名目で、固定化された身分制度の中に人を閉じ込め、離脱を許さないのもグノーシス主義の特徴である。
 
 私たちは今日、この壮大な「和の精神」に基づく国家的神話が、我が国にどんな悲惨をもたらしたのかを知っており、三島がどういう形で生涯を閉じたのかも知っている。

『国体の本義』は、初めから「天皇の御ために身命を捧げることは<略>、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。として、すべての「臣民」が、日輪の化身たる天皇のために命を捨てることこそ、「真生命の発揚」であると厚かましく要求していた。このようにして「死をもって永遠性に到達する」というグノーシス主義の究極目的が、狂信的な個人の中だけの願望にとどまらず、国家レベルですべての国民に要求されたのが、軍国主義時代の日本の歴史なのである。
 

第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。


 
三島は、敗戦という過去の歴史を通して、以上のような思想が、実現不可能な虚偽でしかないことがすでに証明されたにも関わらず、それでも、時代に遅れて登場した人間として、過去に失敗に終わった思想を再び個人的な人生で再現しようと、同じ実験に着手し、第二のエデンの出現を目指して、当然の破滅に至ったのである。

三島が目指した「永遠の美」は、すでに述べたように、対極性のある二つの概念を一体化したものであり、美の極致、永遠の完成でありながら、同時に、死と、抑圧と、限界のシンボルでもある。いわば、それは虚無の深淵そのものである。

日輪は、被造物全体の究極の美を象徴すると同時に、被造物が持つ有限性や滅びそのものの象徴なのである。彼はそれが「死よりも大きな輪」であると言うが、そのようなものは現実には存在しない虚構の概念でしかない。

そうであるがゆえに、この日輪は、被造物の限界を表すだけでなく、永遠を目指しながら、決して自力でそれに到達することができず、永遠から疎外され、決して満たされることのない渇望を抱える被造物の呻き、怨念と呪詛をも意味するのである。

日輪は、いわば、滅びゆく被造物全体の無念の象徴であり、それゆえ、「母なるもの」すなわち被造物の怨念と呪詛による支配を象徴するのである。

三島作品には、人間存在を縛っている怨念や呪縛による支配が、常に影のようにつきまとう。そして、その怨念もまた、他のシンボルと同様に、晩年になるに連れて、個人的なスケールから国家的スケールへと昇華される。

たとえば、『鏡子』の家では、高利貸しの女の怨念が、主人公の俳優の人生を乗っ取り、俳優に憑依して心中へ追いやるが、『憂国』の主人公は、二・二六事件で銃殺された将校らの無念(怨念)に憑依されて、彼らの道連れとなるために、自ら死へと赴く。

さらに、『英霊の声』になると、その怨念は、二・二六事件で天皇を守ろうとして銃殺された青年将校らの無念に加えて、神風特攻隊として死んだ兵士らの怨念という形に「昇華」されている。

『英霊の声』では、霊媒師の川崎君が、「鏡」の役割を果たしている。川崎君は、非業の死を遂げて怨霊と化した死者の霊の発する声に一身に耳を傾け、これを代弁して言う、戦後の日本が我欲に邁進し、すっかり自堕落になり駄目になってしまったのは、天皇が人間宣言をしたからだと。それゆえ人々は心のよすがをなくし、自己の尊厳を失い、見当外れな欲望に邁進し、戦死者らの非業の死は全く浮かばれず、彼らは怨霊と化してさまよっているのだと。

川崎君は、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」(=なぜ天皇は人間などになってしまわれたのか)という怨霊たちの呪詛の大合唱を浴びせられた結果、自ら天皇の身代わりとして怨霊たちの集中攻撃を浴びて呪い殺される。死んだとき、彼は自分の顔を失って、神とも人間ともつかぬ、何者か分からない曖昧な顔になっていたという。

これもまさにウロボロスの輪である。神であると同時に人間であるという相反する状態が、川崎君の死において実現したのである。結局、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」という怨霊の叫びは、天皇についてのみ言われたのではなく、永遠に達したいと望みながら、永遠に到達することができず、どっちつかずの状態をさまよいながら、滅びへ向かう被造物全体の無念を象徴しているのである。

つまり、『英霊の声」においては、神になりたいと願いながら、神から切り離されて、永遠から疎外され、滅びに定められている人間全般の抱える無念が、怨霊の声という形で表されたのである。

ここまで来ると、三島作品の登場人物は、偽りの神話によって個性を失っただけでなく、体さえ失って、ついに霊だけになっている。

三島作品の主人公らは、『憂国』においてすでに肉体を脱ぎ捨てていたが、その結果、ついに肉体を失った霊だけの登場人物が現れるという、とんでもない展開が実現しているのである。

そして、このことを通して、私たちは、三島作品の真の主人公は、本当はあれやこれやの人物ではなく、疎外された者たちの怨念であったという事実が分かるのである。

グノーシス主義が、神に疎外された人間による復讐の哲学だと書いた理由はここにある。グノーシス主義はもともと宗教でもなく、独自の神話もないため、どのような宗教や思想の中にでも入り込み、それを換骨奪胎して自分に都合よく作り変えることができる。

ちょうど肉体を失った怨霊が別人に憑依するように、自らの母体を持たないグノーシス主義は、既存の宗教や思想にいくらでも寄生して、そこで自らを増殖・発展させる思想なのである。

三島作品は、ほとんどすべてが無意識のうちに、グノーシス主義的テーマを体現することだけを目的として書かれたものであると言って良く、さらに三島自身が、この思想を自ら体現するために生きたのだと言える。

そこで、三島が晩年に近づくに連れて、グノーシス主義という思想それ自体が、無限大に膨らんで、作品の登場人物や三島の人生を押しつぶし、彼らの人格の内側で、巨大なパン種のように膨らんで、本体を食い破ってしまうのである。

グノーシス主義は、被造物が自力で己が過ちを修正して神に疎外された状態を解消することを目指す思想であるため、これは、どこまで行っても、真実な神が登場しない、人間が自分に都合よく作り出した独りよがりな物語であると言える。
 
この思想における神のイメージは、被造物自身と言って良いほどに、被造物と瓜二つの被造物の似像であり、それゆえ、グノーシス主義の神は、被造物に都合よく作り変えられ、事実上、被造物に乗っ取られて、不在となっていると言えるのである。

そのためにこそ、この思想はどこまで行っても、人間にとって、「自分しかいない」独りよがりな物語であり、そうであるがゆえに、全くどこにも出口を見い出せない堂々巡りの思想なのである。
 
すでに見て来たように、人間が堕落したのは、エデンの園において、人が神の掟に背き、「知」を捨てて「行」を優先した結果であり、その堕落のゆえに、「行」はその美しさを失って、醜悪な恥ずべきものへと転落し、人間の中で精神と肉体が乖離し、肉体の疎外が起こった。

だとすれば、人間がその異常な状態を解消するためにできることがあるとすれば、それは人間がもう一度、神の言葉という「知」を見いだして、それに「行」を一致させることにしかない。

にも関わらず、グノーシス主義者は、人間が「知」の制約を嫌って、肉欲をほしいがままにしたことが、失楽園の原因となったという事実を全く認めようとはず、詭弁を弄することで、そのように転倒した状態のままで、人があたかも再び「知」と「行」を統合して、全一的な美しい自己の姿を取り戻し、永遠の存在となれるかのように教える。

このような錬金術・イカサマによって、堕落した肉に過ぎないものを、神聖な神の霊に属するもののように見せかけようとする結果、グノーシス主義者らは、自力で被造物としての限界を打ち破って、自らを永遠の存在に高め、神と融合するために、悲惨な自己破壊に赴くという悲劇に至るしかないのである。

こうして、これらの錬金術師たちの身の上に、肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。」(ローマ8:13)という聖書の御言葉の正しさが証明されるのである。

しかも、彼らに降りかかる死は、ただの死ではない。まるで偽りの思想に従って生きると、どのように救いようのない報いが降りかかるかを、全世界に教訓として見せつけるかのように、彼らは解放という名目で、死の中でも最も酷たらしい非業の死を自ら選択して行くのである。
 
私たちは、三島の死の介錯をした盾の会の会員や、『憂国』に登場する陸軍中尉の妻などが、ちょうど『ユダの福音書』におけるイスカリオテのユダと同じように、師の霊を肉体から解放する手助けをする弟子の役割を果たしていることに気づかないわけにいかない。

グノーシス主義とは、聖書の神の福音から疎外された人々が、キリストの十字架によらずに、自己の罪を自力で「修正」し、自力で神に到達しようとする偽りの福音であるため、これを信じた人々は、キリストの贖いの十字架を拒否する代わりに、自力で罪を贖うために、最も残酷で悲惨な十字架を再び地上に作り出し、自分自身を磔にすることを余儀なくされるのである。

(*以下の場面では、窓枠がグノーシス主義の歪曲された十字架を象徴していることに注意したい。)

 


 
 
 
 
 


『奔馬』の主人公は、社会正義のために人殺しを達成し、自殺を遂げる際に言う、「まさに、刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪はまぶたの裏に赫奕と上った。」と。

このようなものは、テロリストの思想としか言えないであろう。三島や三島作品の主人公らが自己破壊に至るのには、『奔馬』の主人公が、殺人によって社会を悪から浄化しようと考えるのと同じ原理に基づいている。

彼らは、罪を贖う内なる十字架を持たない代わりに、外なる十字架を作り出し、暴力によって己が理想を実現しようとするのである。それが他者の破壊を正当化するテロリズムの思想になると同時に、やがては自己の破壊という結果となって跳ね返るのである。

聖書によれば、このような教えに従って歩む人々は、まさにキリストの十字架の敵である。

彼らは、自分たちは、被造物が脅かされることのない、弱者に優しい美しい世界を目指しているのだと言うかも知れないが、聖書は、グノーシス主義の「神」とは、彼らの「腹」すなわち、人間の欲望であるとはっきり告げている。

「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、
キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです、彼らの行き着くところは滅びです。彼らは 腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に造り変えてくださるのです。」(フィリピ3:17-21)

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。」(ローマ8:13-14)

グノーシス主義者らが、自らの肉体を「美しいもの」として永遠の完成に導くことを目指しながらも、彼らが自分を神の神殿として建て上げるどころか、むしろ自己破壊によって自ら生命を絶つことで、神殿破壊という結果に至っていることは、極めて教訓的である。

聖書は、信仰のある者たちには、地上の卑しい体が贖われ、やがて復活の栄光の体で、本国である天に帰る日が来ることを示している。だが、その実現の方法は、グノーシス主義とは全く異なる。

キリスト教においては、神と人、男と女、精神と肉体、霊と肉は、決して「対」として混じり合うことのない概念であり、それらのものの間にある敵意を解消することも、キリストの十字架によってのみ可能である。

十字架なしに、人間が自力でこれらの概念に橋渡しをして、敵意を解消して、両者を統合することはできない。しかし、グノーシス主義者らは、十字架なしに、あらゆる対極性のあるものを統合し、あらゆる疎外を解消できると言いつつ、自己存在を、死によって全世界から疎外するという、究極の自己破壊・自己疎外に至るのである。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。

従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス後自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:14-22)

聖書の真理によれば、肉のものと霊のものは決して混じり合うことがないため、人がどんなに「鏡」を覗き込んでも、そこに彼らが探し求めている神の姿は見いだせない。映るのは、有限なる被造物自身の姿だけである。だが、グノーシス主義者らは、鏡に映る弱い被造物の姿を見て、そこに神の似像を見いだし、ひたすら自分自身の弱い像を抱きしめてこれに同情の涙を注ぎながら、自らの弱さを神聖な性質であるかのように誉めたたえ、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と叫ぶことによって、自分が滅びゆく被造物に過ぎない事実そのものに逆らい、自分で自分を救済しようとするのである。

このようなものは、神がキリストの十字架で廃棄を決定された旧創造に対する無用な自己憐憫と救済の物語であるから、その中をどんなに探し回っても、永遠が見出されることは決してない。そして、このようなイカサマ錬金術を用いて、人間が自己存在を永遠に高めようとすれば、人は持っていたものまで失い、永遠を生きるどころか、「今」さえ失って、最も悲惨な自己破壊で生涯を終えるだけである。

聖書においては、救済は徹頭徹尾、ただ神の側から、キリストによってのみ達成されるものであり、人間には神の言葉という真の「知性」に従おうとすることはできても、自力で救済を勝ち取ることはできない。

しかし、グノーシス主義は、「神の側からの介入」を認めず、ひたすら人間の側から、人が自力で神に至り、救済を手に入れることが可能であるかのように見せかける。しかも、人間が真の知性である神の言葉に逆らい、己が欲望に従って生きながら、それと同時に、自らの救済を成し遂げられるかのように教えるがゆえに、それはどこまで行っても、神不在の、人間の独りよがりな自己愛と自己憐憫に基づく虚偽の救済であり、人間に都合の良い「創作物語」でしかないのである。

ペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教を換骨奪胎したグノーシス主義であることは、当ブログでは幾度も述べて来た通りであるが、グノーシス主義にとりつかれた人々は、この運動の信奉者にとどまらず、みな知性に逆らい、肉欲をほしいがままにして、自分を甘やかして生きるために、そのうちに、すっかり理性を失って、精神的に退行・幼児化して行く。

彼らは美を追求し、自分自身を高めると言いながら、滅びへ向かって行く。彼らが最後まで大切に握りしめている自己愛さえも、ついに自己破壊という最も醜悪な形でかき消されるのである。

こうして、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:39)という聖書の御言葉が実現し、アダムの命を惜しみ、これを愛でて、この滅びゆく命を永遠にしたいと望む者は、ことごとくその命を失って行くことになる。

私たちは、三島由紀夫という一人の人物が、滅びゆく被造物を永遠の存在に高めたいというグノーシス主義のフィクションの目的の実現に全生涯を傾けた結果、ついに自分自身の存在を激しい苦しみの果てに、フィクションに飲み込まれて喪失したことを見て来た。

グノーシス主義というフィクションの教えを信じると、初めはあったように見えた実体さえも、このように幻となって消え失せるのである。なぜなら、そこにある美は、初めから幻想でしかなく、そこには完成も永遠も存在しないからである。

三島が作家であり、『鏡子の家』の主人公の一人も俳優であり、『憂国』の主人公にも、特にモデルがあるわけでもないと三島が述べていたことは興味深い。なぜなら、作家や俳優という職業は、どこかしら架空の登場人物や、肉体を失った怨霊たちや、死者の声を代弁しようとする霊媒師にも似ていて、その存在が初めから芝居がかっており、「何者か分からない曖昧な顔」をしているからである。
 
ところで、筆者は、牧師という職業も、基本的には、作家や俳優と変わらないものと考えている。当ブログでは、牧師制度の起源も、グノーシス主義にあることを述べて来た。グノーシス主義は、人間の間に貴賎の差別を設け、階層を設け、身分制度を固定化する思想であり、牧師制度は、グノーシス主義的な階層制という発想にならって、キリスト教界に作り出された身分制度である。そこで、牧師たちも、その本質は、霊媒師や巫女とほとんど同じく、実体のない架空の存在なのである。

牧師たちは、今日、問題を抱えた哀れな信徒のために涙を流し、彼らの問題に手を差し伸べ、人々の欲望と悲哀を一身に引き受けながら、人々の理想を代弁するために奔走る。彼らは会衆の心の慰めと満足のために講壇から福音を語り、「あなたがたはみな神の子供たちです。私たちはみな救われています」と語るかも知れない。人々の心の慰めのために、「貧しい人々のうちにキリストがおられる」と言い、そこからもっと進んで、「あなたがたは神だ!」(Dr.Luke)とさえ言うかもしれない。

だが、そうして人々の心の弱さを一身に引き受けて、被造物の有限性に熱い同情の涙を注ぎながら、救済者然と振る舞うこの人々は、一人の人間としての個性を失った、「何者か分からない曖昧な顔」をしている人々である。

そして、彼らは表向きには「神を知っている」かのように振る舞いながら、同時に、心の中では、「神はどこだ。どこにおられるのだ。」(奥田知志牧師、マザー・テレサ)と叫んでいる。

このように、今日、牧師たちの作り出す信仰告白は、どこまで行っても、グノーシス主義と同じように、神不在の、人間の側から作り出された自作自演劇でしかなく、彼らの信仰告白は、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と叫んだ怨霊たちと同じように、神に疎外されて、神を見いだせなくなった被造物たちの無念の叫びと同じなのである。

それだからこそ、このようなグノーシス主義的現人神の教えである牧師制度に貫かれるキリスト教界では、片方では「母なる聖霊」を受ければ、人が神のように高次の存在になれると教えるペンテコステ・カリスマ運動が登場して来て、各地の教会に悲劇的混乱を引き起こすかと思えば、もう一方では、カルト被害者救済活動のような恐るべき運動が出現し、教会に対する怨念を持つ人々を、教会に受け入れよと迫り、教会に争いをしかけることで、聖書の御言葉を忠実に守り、神に従って生きている兄弟姉妹を教会から追い出し、中傷しながら、「エクレシア殺し」にいそしみ、教会のメンバーを、キリストの復活の命に従って生きている兄弟姉妹から、被造物の有限性に対する怨念や被害者を抱える人々にすっかり取り替えようとしているのである。

そういう恐るべき倒錯現象は、今日のキリスト教界が、牧師制度という被造物崇拝を取り入れることにより、グノーシス主義に汚染され、これと合体したために起きたことである。当ブログでは、大淫婦バビロンとは、東洋思想とキリスト教との合体の結果、生まれるものであることを繰り返し説明して来た。今日のキリスト教界は、この混合の教えにすっかり占拠されているため、信者には、憎むべきバビロンの倒壊に巻き込まれないためには、このような恐るべき教えの偽りを見抜き、それに近寄らないことが求められる。

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から④

・金閣寺は果てしなく巨大化する ~すべてのものを押しつぶす被造物崇拝の恐ろしさ~
  
 三島は、死へロマンチックに憧れるような青年期を過ぎ、美しく死ねる年齢も過ぎてから、自分の死を壮大な自己完成の事業とすべく、創作の世界だけでなく、現実世界でも、周りを巻き込んで巨大な装置を作り出した。

彼は自分の死をありふれた死と同一のものとは全くとらえず、解放という特別な意味をもたせ、自らの死を自己完成であると同時に、国家的な宗教行事の域にまで高めようとした。

『金閣寺』の主人公が述べた言葉の通り、晩年に近づくに連れ、三島の人生と創作において、すべてのシンボルは、まるで綿菓子でも膨らますようにどんどん拡大し、概念的に昇華されて行く様子を見ることができる。

幼少期に三島の心を縛っていた祖母の言葉や、彼の肉体を疎外していた美意識は、三島の人生の中で、無限大な「母なるもの」の支配として拡大・発展して行き、東洋的な永遠の女性美の象徴となり、ついに天照大神や、「和の大精神」といった国家的神話にまで拡大・発展する。

「永遠(とわ)の美しさっちゅうもんは、怖いもんやで。どんどんどんどん大きなって、何もかも押しつぶしてしまうんや。」
「美しさはぼくの怨敵(おんてき)なんや。金閣寺が滅びん限り、とてもやないが、耐えられへん」
  

 三島の幼少期には、祖母という一人の女性による精神的呪縛に過ぎなかった「母なるものの支配」は、晩年には国家的神話のレベルまで拡大している。

それと同時に、かつて三島が、自分の肉体の弱さを個人的に克服しようとした過程も、今や個人の問題ではなくなり、敗戦によってプライドを傷つけられ、尊厳を失い、コンプレックスを抱えた日本が、どのように国としての自信を回復するかという国家的問題へと高められている。
 
また、三島が自らの個人的な弱さを克服するためだけの手段だったボディビルも、今や天皇を守ることを名目とする私営の軍隊「盾の会」に昇格している。

「盾の会」の目的は、「ますらおの心」と「みやびの伝統」を融合させることにあるとされるが、これも「男女の融合」、「精神と肉体の融合」という、三島が追求して来たテーマを概念的に昇華させたものである。むろん、そのテーマの根底にあるものが、神と人との一体化であることは言うまでもない。
 

 
「我々のことをおもちゃの軍隊と、そう呼ぶ人々もいます。しかし、我々のゴールは、我々の心の奥底に潜む、ますらおの心をよみがえらせることなのです。また、作家としての私個人が支持するのは、みやびの伝統であります。私が求めてやまないのは、この二つの伝統を一体化することなのであります。

 
 
こうして、すべてのシンボルが無限に拡大するに伴い、三島の創作の登場人物たちも、概念的に昇華される。

『金閣寺』では、金閣への放火は、主人公の異常心理のゆえの犯罪行為でしかなく、『鏡子の家』における俳優と高利貸しの女の心中も、自虐的な狂気の沙汰の行為でしかなかった。そうした主人公らの自滅が、『憂国』では、殉死というレベルにまで引き上げられる。

『金閣寺』や『鏡子の家』では、コンプレックスに苛まれ、自滅的な死を選んだだけであった主人公が、『憂国』では、国家的神話としての天皇に身を捧げる陸軍中尉に変身し、『鏡子の家』では、俳優を残酷に死の道連れにしただけの醜い高利貸しの女も、『憂国』では、夫の思想に忠実に従って、後追い自殺を遂げる美しく従順な妻に変身している。

つまり、三島の創作の中で、登場人物の思想的レベルが引き上げられ、彼らが、神聖かつ崇高な思想に身を捧げるジハーディストのような存在へと昇華され、美化されているのである。

『金閣寺』、『鏡子の家』で行われた神殿破壊のリハーサルは、『憂国』では、さらに概念的に昇華された形で、三島の現実的な死の予行演習となる。

『憂国』の主人公は、二・二六事件で追及を処刑を免れて一人取り残されて、自死することを選んだ陸軍中尉の青年である。この青年は、ちょうど天皇のために「散華する」という理想を抱きながらも、それを実現する機会のないまま戦後を迎え、理想的な生き様・死に様から取り残された三島自身にも重なる。

だが、三島の晩年になると、こうして登場人物の思想的レベルが引き上げられる代わりに、これらの男女はすっかり個性を失って、非常に退屈な人物になってしまう。 『憂国』の陸軍中尉は、国家神道に心を奪われて個性を失っており、その妻も、ほとんど夫のコピーのような存在でしかなく、この二人にはおよそ人格と言えるものは何もない。

 「母なるものの支配」があまりにも巨大化しているがゆえに、それが主人公らの個性をほぼ完全に奪い取り、押しつぶしてしまっているのである。

こうして、最初から「母なるものの支配」に個性を飲みつくされている主人公たちを待ち受けるのは、ついに命までもこの思想に捧げ切るという最後の段階だけである。ほぼそれだけが、小説の中心的テーマであると言っても過言ではない。

とはいえ、『憂国』では、陸軍中尉とその妻が殉死を決めてから最後に持つ肉体的交わりが、極めて重大な出来事であるかのように、長々と紙面を割いて描写される。

小説では、この夫婦が肉欲にふけることには、何の後ろ暗さも後ろめたさもない出来事として描かれる。仲間がすでに非業の死を遂げた後で、自分たち夫婦が彼らの後を追うことも、すでに決定している。にも関わらず、彼らには、そのような「火急の時」に、自分たちが重大なミッションを差し置いて、卑しく自己中心な欲望にふけっているという感覚は微塵もない。

むしろ、二人の肉体的結合は、「御真影」として祀られる天皇皇后の承認のもと、また、彼ら自身の死を目前にして、いささかの後ろめたさもなく、あたかも聖なる儀式であるかのように、概念的に昇華されるのである。

そのようなことが起きている理由は、この「儀式」の中に、三島が「ますらおの心」と「みやびの伝統」の一体化が具現化しようとしているためであると考えれば理解できよう。

つまり、この夫婦の交わりの中には、「男女の区別を取り払うことにより、完全な自己を取り戻そうとする」グノーシス主義の悲願が込められているのである。

ヴァレンティノス派のグノーシス主義には「新婦の部屋」という概念が存在した。それは、人が「真実の伴侶」を得て、これと「対」を形成し、結婚の儀式を通して、完全な自己存在を取り戻すという儀式であったようである。

教父エイレナイオスが、異端反駁の中で、グノーシス主義者がこの「新婦の部屋」という概念を利用して、性的放埓に耽っていると激しく非難していた事実(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』大田俊寛、春秋社、2009年、p.166)からも推測されるのは、実際に当時のグノーシス主義者たちは、「新婦の部屋」という概念を使って、「対となるべき男女の結合によって真の自己(原初的統合)を取り戻す」ことを儀式化していたのではないかということである。

このようなグノーシス主義的概念に照らし合わると、なお一層、陸軍中尉とその妻との最後の結合は、まさに「人が男と女の区別を取り払うことで自己を完全なものとする」という、グノーシス主義的路線に沿って描かれた「神聖な儀式」という意味を持つものと理解される。

つまり、それは隠された思想的な意義を持つ「秘儀」であるからこそ、三島はこの「儀式」を、作品の極めて重要なプロットとして、自死の場面と同じほどの重きを置いているのだと考えられる。

 『憂国』では、このように主人公らが、男女の区別のない「原初的な自己」を取り戻した後、さらに自分を縛っているすべての制約から自分を解放し、自らが理想とする思想と一体化するために、有限なる肉体を脱ぎ捨てて手に手を取り合って死に至る。

ただし、どんなに作品中で、この夫婦の死が美化されて、神聖な儀式のように描かれているとは言え、結局、その本質は『鏡子の家』で描かれた俳優と高利貸しの女の心中と何ら変わらず、ただそれが思想的に引き上げられ、スケールが拡大されただけであることが読者には分かる。

すでに見て来たように、グノーシス主義の「統合」の本質は、「弱い者が強い者を乗っ取る」ことにあるため、男女の区別を取り払うと、男が女に飲み込まれて消えるという結末になるだけである。

それゆえ、『憂国』でも、『鏡子の家』と同じように、男が先に死に、女がその死を見届けてから、その後を追うという展開になっている。

本来、夫よりも弱い存在であるはずの妻が、夫への従順さを装いながらも、最後には夫よりも強い存在として、物語の中に君臨するのである。この妻がちょうど「鏡」や「虚無の深淵」と同じく、死の象徴として、夫を飲み込んで滅ぼす役割を果たしていることが分かる。

だが、その妻も、自ら死に化粧を施して夫の後を追うため、この夫婦はともに「永遠の美」のシンボルの中にまるごと飲み込まれて消失する。

物語に最後まで残って勝ち誇るものは、人間を抑圧し、その命を残酷に奪い尽くす「永遠の女性美」だけである。これは東洋的な慈悲の神であり、被造物の美の化身であり、国家的神話にまで昇格された天照大神=日輪である。

結局、人が自らの美を永遠のものとして完成するためには、人は自己存在を抹殺するしか手段がないという結論だけが明らかにされるのである。


・グノーシス主義の隠れた目的は「肉欲および肉体を精神の抑圧から解放する」ことにある

ここで少し補足しておきたいことがある。今日、グノーシス主義については、この思想が人間の肉体を、悪神ヤルダバオートが創造した「出来そこないの世界」に属するものと考え、その世界を憎むがゆえに、「肉体は魂(霊)の牢獄である」と考えて、肉体からの解放を目指していたということが強調されるあまり、リューサーが述べたように、「グノーシス主義とは、人間の肉体に対する憎悪・蔑視の教えである」という見解がまるで定説のように広まっている。
 
しかし、当ブログでは、グノーシス主義における人間の肉体のとらえ方は、それほどまでに単純ではなかったものと考える。

むしろ、グノーシス主義においては、二段階の解放が存在したのであり、その第一段階では、「肉体の復権」、すなわち、肉体および肉欲をあらゆる制限から「救い出し」、肉体を自己疎外の状態から解放するという問題に、非常に重要なウェイトが置かれていたことを、私たちは見る必要がある。
 
もしも今日一般に広まっている定説の通り、グノーシス主義者が、人間の肉体を初めから霊を閉じ込める「牢獄」としかみなさず、一方的に嫌悪し、無用の長物のようにみなしていたというのであれば、グノーシス主義者は、彼らの言う、「真理の知識の啓示」を得た後で、すぐに「肉体からの解放」へ向かうだけで良く、肉体の中にとどまって禁欲主義的な修行や、その他の儀式を行うことで、自己修練する必要は一切なかったはずである。

しかし、グノーシス主義の様々な流派では、ある場合は、禁欲主義的な修行によって、ある場合には、性的放縦という、まるで対極にあるように見える手段を用いながら、人が肉体の中にあるうちに、自己完成に到達しようと、様々な儀式や訓練が重ねられていたのである。

このようなことは、グノーシス主義者が、肉体の中に生きているうちから、精神と肉体との融合によって、自己疎外を解消し、自らの存在を「全一的」なものに高め、さらに、男女の区別を廃し、自己と自他の区別を取り払うことで、完全な自己を得ることができると考えていたことを示している。

そのように、あらゆる区分を取り払って全的自己を取り戻そうとする試みの究極の形が、「新婦の部屋」における「真の伴侶との結合」といった、自他の融合(男女未分化の原初的自己の回復)という「儀式」になって現れていたと考えられるのである。

そう考えると、グノーシス主義の第一段階において、肉体および肉欲は、人が原初的統合を実現し、彼らの考える「完全な自己存在」を得るためには必要不可欠な要素とみなされていたと言えるのであり、グノーシス主義者が、最初から、人間の肉体を一方的な嫌悪・蔑視の対象と考え、これを人間にとって用のないものとみなしていたという見解は成立しなくなる。

繰り返すが、グノーシス主義の「解放」には大きく分けて二段階のステージが存在したと言え、第一段階は、グノーシス主義者の内側で、精神と肉体との隔てが取り払われ、肉体の自己疎外が終わり、彼らの言う「全一的な自己」が取り戻されるという過程であった。

それが達成された後で、彼らは自己存在を完全かつ永遠にするために、自分と世界とを隔てる壁となる自らの肉体を脱ぎ捨て、死によって自分を「解放」しようと考えたのである。

グノーシス主義とは、弱い者(抑圧される者・疎外される者)が、強い者(抑圧する者・疎外する者)との区分を自ら廃することで、それまで自分を疎外して来た強い者になり代わって、これを支配することを正当化する教えである。

それはあらゆるヒエラルキーを覆すことにより、人間が自分を縛っているすべての制約から自分を解放しようとする思想であから、その原則は、男女の区別や、自他の区別だけでなく、グノーシス主義者自身の内側における、精神と肉体の区別にも当てはまる。

グノーシス主義の思想の中には、リューサーが述べたように、また、三島が自分自身を実験台として行ったように、「精神(言葉)によって(不当に)抑圧されている肉体を、精神の束縛から救い出す」というテーマが含まれており、「肉体の精神からの解放」は、グノーシス主義において極めて重要なテーマだったと考えられるのである。

このように見て行くと、我々は、グノーシス主義者が「霊を肉体の牢獄から解放する」という、最後の結末に行き着くまでのプロセスは、決して今日、一般的にそうであると信じられているほどに単純ではなく、この思想がただ単純に肉体に対する一方的な嫌悪や蔑視に基づいていたわけでないことを確認できる。

グノーシス主義者の考える「解放」は、すでに述べた通り、大まかに二段階あり、彼らがまずは自分のうちで「全一的な自己」を達成しようと試みた後、世界の融合を目指すことは、三島自身の人生を振り返っても理解できる。

これまでの記事で確認したように、三島の心の中に、自分の肉体への嫌悪が生まれた最初のきっかけは、祖母が彼の幼少期に誤った考えを植えつけたことにあった。幼少期に三島が本当に病弱であったかどうかは不明であるが、彼を手元に置いておきたかった祖母が、彼は体が弱いという嘘を信じ込ませたのである。

だが、いずれにしても、祖母の言葉をきっかけに、三島は自らの弱すぎる肉体が、外界との隔ての壁となっているという制約に気づいた。三島の残る全生涯は、祖母の言葉をきっかけに気づいた自分の肉体の制約を、どうやって克服して、自己を永遠の存在に高めるかという問題に費やされたと言っても過言ではない。

三島は、リューサーが宣言したように、自分で自分の肉体を縛っている「言葉」の制約を取り払い、肉体に沸き起こる自然な衝動に身を任せて生きることで、「言葉が健康な肉体から自分を切り離している」状態を解消しようとした。

彼は、ハワイや、ギリシアで、頭上に明るく降り注ぎ、心を陽気にしてくれる太陽の光に誘われるがままに、自分の肉体の自然な衝動に従って生き、それによって、あたかも今まで自分と外界とを切り離していた壁がなくなり、「太陽と握手したような衝動を覚え」た。

この時、太陽は三島には解放のシンボルのように映り、彼は「太陽が自分を解き放ってくれた」と感じる。

「私はいつも、自分の中にある化け物のような感受性に苦しめられて来た。言葉の世界が、私を健康な肉体から切り離していた。その私を太陽が解き放ってくれた。ギリシアは私の自己嫌悪を癒し、健康への意志を呼び覚ました。」
 
三島は、リューサーが唱えたのと同じように、自分自身の肉体および肉欲を、言葉による制約から解放することで、自己の内で肉体が嫌悪すべきものとして疎外されている状態を解消しようと試みた。さらに、彼は自分の肉体を鍛え、これを自分の目に適う「美しいもの」に引き上げることで、それまで精神によって肉体が恥ずべきもの、醜悪なものとして疎外されていた状態を完全に解消しようとして、肉体の「復権」を試みるのである。

「私は美しい作品を作ることも、自分が美しいものになることも、その道理は同じなのだと見つけた。

こうして、三島の中で、グノーシス主義的な第一段階の「解放」が達成されて、彼は自分の中で、肉体が精神と並ぶものとなり、肉体に対する精神による「不当な抑圧」は終わったと考えた。

ところが、奇妙な逆説現象が起きる。幼少期に聞いた祖母の言葉は、三島が自分の体の弱さを克服した後も、依然として消えることなく、ますます大きくなって、三島の耳にこだまする。「ぼうやは体が弱い」という祖母の声は、いつしか「人間は誰しも老いて死ぬ」という被造物全体の限界を唱える大合唱となって、三島の作り上げた「美しい」肉体を脅かしていた。

三島は、肉体を「美しいもの」にすることによって、ようやく精神と肉体の乖離状態を終わらせたと思ったのに、今度は、死という現実を眼前に突きつけられ、自分が造り出した「美しい肉体」に対する「製造物責任」を問われる。

歯を食いしばって、汗を流して、その生きた芸術作品が出来たとしますね。しかし、それが老いさらばえることはどうするんですか。その美しさはどうなるわけ。作ったあなたが、それをどうにかしなきゃならないんだから。」

三島がこの問題に対して出した回答は、我々にとっては驚くべきものである。

だから、一番美しい時に、死んでしまえばいいんですよ。

私たちは、三島が本気でこのような結論を出していると知って、それをあまりにも馬鹿馬鹿しい考えだと笑うだろう。こんな方法で、どうやって死を克服したことになるのか。そんな死は、老いに直面したくない人間の身勝手な現実逃避であって、無駄死であり、敗北以外の何物でもないと。

ところが、グノーシス主義者はそうは考えない。グノーシス主義者の目から見れば、その死には全く違った意味が込められているのである。

すでに述べたように、三島の中で、グノーシス主義的な第一段階の解放は成し遂げられた。そこで、「美しい肉体」を手に入れ、精神と肉体の乖離状態を解消し、自己存在を「全一的」に高めたと考える彼に残された課題は、その達成を永遠のレベルへ引き上げることだけである。

つまり、自らの肉体の有限性という壁を打ち破って、自分と全世界とを隔てている最後の壁を取り払い、世界と一体化し、神と人とが、創造主と被造物とが区別なく一つの永遠の中に溶け合う世界へ向かって、最後の一歩を踏み出し、永遠と同化することだけである。

そのために、有限なる肉体からの脱出、すなわち、死によって自分自身の限界から解き放たれることが、ぜひとも彼には必要なのである。なぜなら、肉体がある限り、自分と外界との隔ての壁はなくならないからである。

かつて当ブログでは、聖書を甚だしく歪曲するグノーシス主義文献『ユダの福音書』を取り上げて、そこでは、イエス・キリストを銀貨30枚でユダヤ人たちに売り渡した恥ずべき弟子であるイスカリオテのユダが、他のどんな弟子にもまさって、イエスの使命を忠実に理解する優秀な弟子だったとされ、ユダは師匠が「肉体の牢獄から脱出する」ことを手助けするために、率先してイエスを十字架につけたとみなされていることを見て来た。

『ユダの福音書』では、イスカリオテのユダの裏切りは、決してイエスに対する憎悪や蔑視からなされた行為でなく、まさにイエスの霊を肉体から解放するという師匠の悲願の手助けとして行われたことであり、「必要悪」だったとされ、イエスもそれを理解した上で、ユダの行為を評価していたとされる。
 

「今回発見された『ユダの福音書』が注目を浴びたのは、それまで知られていたのとはまったく違うユダがそこに描かれていたからだ。この福音書に描かれるユダは、悪者でもなければ、不正直者でもなく、イエスを裏切り敵に引き渡した弟子でもない。

むしろユダは、誰よりもイエスのことを理解していた最も親しい友で、イエスの「依頼」で、彼を官憲に引き渡したのである。イエスを引き渡したことで、ユダは最大の奉仕をしたのだ。
この『ユダの福音書』によると、イエスは神に反逆するこの世界を逃れて、天にある自分の家へ帰りたかったのだ。」(『原典ユダの福音書』、ロドルフ・カッセル、マービン・マイヤー他著、日経ナショナル・ジオグラフィック社、2006年、p.103)


グノーシス主義の書によれば、<略>、最終的で完全なる神聖さは人々が死すべき運命の肉体と離別して初めて実現するという。『ユダの福音書』のイエスは、セツ(グノーシス主義者)のあの世代の人々が亡くなるとき、肉体は死んでもその魂は死なず、解き放たれた魂は天にある彼らの家へ戻ると告げる(チャコス写本四三ページ)。死ぬと肉体に付随するものすべて、この死を免れえない世界の家にあるものすべてを手放すことになる。知識を獲得した人々の死すべき肉体が放棄されることで「彼らの魂が天上にある永遠の御国へと昇っていく」と、イエスはユダに告げている(同四四ページ)。(同上、p.173)


 
このように、グノーシス主義では、神聖なる霊を宿す人々にあっては、肉体は死んでも、霊は永遠であるため、肉体の死は敗北ではなく、むしろ「霊を天界という家へ帰す」ための解放の手段だと考えられていたのである。
 
だが、私たちは、グノーシス主義者が考えるように、肉体の死によって「霊を天界へ帰す」ことなど不可能であり、そのようなものは、偽りの解放でしかない事実を知っている。

そこで、私たちは、なぜ三島のようなグノーシス主義者が、一方では、自分の肉体に対する極端なまでの美意識に駆り立てられ、肉体を善なるもののようにみなし、愛し、永遠の存在に高めようとしながら、もう一方では、肉体の破壊という自殺行為に至るのか、一体、彼らが肉体の破壊によって到達しようとしている真の目的とは何なのか、という問題について考えたい。

そして、この問題を解くために、もう一度、聖書の創世記の記述を通して、グノーシス主義とは、人間の内部における秩序転覆の教えであるという事実を確認しようと思う。


・グノーシス主義の隠れた目的は「肉欲および肉体を精神の抑圧から解放する」ことにある
 
グノーシス主義の原型は、エデンの園で、蛇が人類に吹き込んだ偽りの知恵にあり、その目指す目的は、とどのつまり、「肉のものを霊のものに見せかける」こと、つまり、人が己が欲望に従って生きることで、あたかも偽りの霊性を身に着け、神に等しい存在になるかのように錯覚させることにより、人間を破滅へと至らせることにあった。

そこで、グノーシス主義においては、その当時だけでなく、今日も、「霊の解放」に見せかけた「肉欲の解放」が極めて重要なテーマとなる。この点を見逃して、グノーシス主義が一方的な肉体嫌悪の教えだと考えているうちは、この思想の本質的な危険性は見えて来ないであろう。

グノーシス主義とは、人間の欲望をあらゆる制約から解放し、欲望を無限大に解き放つことで、人間を解放できるとみなす偽りの思想であり、彼らは「欲望の解放」を、人間を永遠の存在にまで高めるために必要な「霊の解放」と同一視して、美化し、奨励して来たのである。

前回も確認した通り、聖書において、人間は「霊」と「魂」と「体」という三部位から成ると定義される。これらの部位には、それぞれ正しい支配関係(秩序)があり、人間の内でその正しい秩序が成立していることこそ、人間のあるべき正常な状態である。

その正しい秩序とは、霊が魂を治め、魂が肉体を治めるという順位が守られることである。この支配関係はそのまま、この三部位の序列を示している。
 
人の中で神と交わることができ、最も貴い機能を備えている器官は、霊のみである。魂は神の霊との交流とは関係なく、ただ霊の中にあるものを受けて、これを解釈し、自ら思考・判断して、体に意志を伝達して、命令を実行させる機能を持つ。
 
体は、魂から受けた命令を遂行する器官であって、人の中で最も卑俗で、神聖からは最も遠く離れた部位である。

聖書において、人間の三部位は、旧約時代の神殿の原型としての幕屋に当てはめられるが、そのたとえからも、肉体が人間の中で最も卑俗な部位であることが分かる。

霊は、大祭司が年に一回のみ入り、民の罪の贖いのために、いけにえの血を捧げた「至聖所」にたとえられ、魂は「聖所」、体は「外庭」に当たる。外庭とは、犠牲となるべき動物が持ち込まれて殺され、解体され、その血が犠牲として注ぎ出された作業場であり、幕屋の中で、最もこの世に近く、神聖な至聖所から遠い場所である。
 
キリスト教の信仰の全くない人であっても、人間の内で、精神によって肉体が治められている状態が正常であり、その逆に肉体が人間の中で精神を凌駕して主人となるべきではないことは否定しないものと思う。

人間の魂(精神)には、良心の機能があり、どんな人であれ、何が正しく、何が間違っているかを、自らの精神によって判断する。肉体は、精神の判断に従って動くのが当然である。もしもその順序が逆になり、肉体の衝動によって精神が動かされるようになれば、それは動物的生存であって、理性的な生き方ではない。

しかし、グノーシス主義は、人間の内側で、この三部位の秩序を転覆し、聖書とは真逆の秩序を打ち立てようとするのである。
 
もう一度、聖書の創世記の記述を振り返ろう。

「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
 
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 」(創世記3:1-7)

グノーシス主義とは、この創世記の場面で、蛇が人間を神に背かせて堕落させるために吹き込んだ悪魔の知恵と本質的に同じものであり、その今日的な延長であると言える。

そこで、その思想の骨子は創世記の時代から変わらず、それは人間が肉欲に従って生きるようそそのかし、かつ、そのように欲望に従って生きる結果、「偽りの霊性」を身に着け、自己存在を神に等しい高次の存在へと引き上げられるかのように錯覚させる欺きの教えだと言える。

それゆえ、グノーシス主義において、人間の肉体および肉欲が果たす役割は、はかりしれないほど大きいのである。

以上の創世記の記述を見ると、私たちは、エデンの園において、人間の中で理想的な秩序が実現していたこと、人は己が知性によって肉体を治めるという秩序が成り立っていた様子を確認できる。

人間は、園にある木の実を食べることが許されていたが、「善悪を知る木の実」だけからは、取って食べるなという制約が神によって課されていた。その制約は、神の言葉を通してもうけられた。

人間は、楽園にいた当初、自らの知性によって神の掟をわきまえ、神の言葉に従って生きることで、知性によって自分の肉体を治め、人間の「知性」と「行動」との間には、いかなる乖離もなかった。その時、人間の肉欲はまだ罪とはなっておらず、人には自分の肉体を恥じる意識もなかった。

つまり、人が神の掟(神の御言葉)を知るという知性によって肉体を治めていた間は、人間は「全一的存在」であり、肉体の知性からの乖離も、肉体の疎外も起きていなかったのである。

しかし、そこへ悪魔がやって来て、人間に、神がもうけた制約は、人間の知識と力をいたずらに制限するための不当な制約であるかのように思い込ませた。そして、「善悪の知識の木の実」を取って食べれば、人間は、神が定めた不当な制約から解放されて、死ぬどころか、むしろ、「神のような高次元の存在になれる」と嘘を吹き込んだ。

つまり、悪魔は、人間が神の言葉に縛られる必要は初めからなく、己が欲望のままに行動して、タブーを破ることで、逆に神のように高次元の存在となれるのだと教え、「言葉によって健康な肉体から自分自身を切り離す」のをやめるようそそのかしたのである。

人が「善悪の知識の木の実」を見ると、それは「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」ものと見えたため、人は、悪魔の勧めに従って、自分の肉体の衝動(肉欲)に思うがままに身を任せ、その実を取って食べるという行動に及んだ結果、罪を犯し、堕落した。

こうして、人間が肉欲に従って知性を捨てた瞬間、人間の中で、秩序転覆が起こったのである。それまであった知性と行動の一致は壊され、精神が肉体を統御するという秩序も転覆された。そして、最も卑しむべき肉体および肉欲が、人間の中で主人となり、肉体が精神を屈服させたのである。

だが、その瞬間に、奇妙なことに、人間の心に自分の肉体に対する羞恥心が生じた。

おそらく、その羞恥心は、人の霊および魂の中に、まだかすかに残っていた正常な良心の機能がもたらしたものだったと推測される。人間の魂は、神の御言葉を知る知性に従わず、魂の命令を聞こうともせず、自分勝手に行動して罪に堕落した肉体を、恥ずべきものとして自ら嫌悪したのである。それゆえ、この時から、人間の内側で、自らの肉体に対する恥の意識が生じ、肉体の疎外という状態が生まれたのである。

しかし、人間が「善悪を知る木の実」を食べたことにより、人間の魂の知性の中にも、悪が入り込み、魂も全く当てにならなくなった。人間の霊は死に、魂も正常な機能を失い、そのせいで、それ以後、人間の歩みにおいては、「知性」も「行動」も両方とも当てにならないデタラメなものとなり、両者はますます乖離を深め、混乱や矛盾を生じさせるばかりとなった。

それにも関わらず、グノーシス主義者は、人が正しい知性を捨てて肉欲に従い、霊および魂が肉体を統御するという当然の秩序を覆したことこそ、堕落の原因となったのだという事実を認めず、かえって、人が肉欲に従って生きることは、悪いことではないと正当化する。そして、人間は、より一層、肉体および肉欲を様々な制約から取り払うことで、自由になれるかのように教え、そのように転覆された秩序を引きずったまま、人間は再び「知」と「行」を一致させて、第二のエデンに帰れると教えるのである。

鈴木大拙の言葉には、そのようなグノーシス主義者のイカサマ的な願望が非常に端的に表れているため、もう一度引用しておきたい。

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、pp.195-196)



鈴木大拙がここで言わんとしている内容は、リューサーや三島と全く同じである。しかし、それだからこそ、この記述には、多くのトリックが含まれているので、よくよく注意して読まなければならない。

まず、鈴木大拙は、「アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。」と言うが、この記述が、大きな誤りであることに気づかれたい。
 
なぜなら、すでに見たように、エデンにおいて、人間は神から教えられた掟を知って、これに従って生きていたわけであるから、そこにはれっきとして「知」が存在しており、鈴木の言うように「行」のみが存在したわけではないのである。

エデンでの生活では、人間の中で、神の言葉を知るという「知」と「行」とが完全に一致しており、人間は精神によって肉体を治めていた。それこそが人間のあるべき本来的な姿なのである。

ところが、鈴木は、エデンにおいては、あたかも「知」が存在せず、「行」だけが存在したかのように主張することにより、「行」がすべてをほしいままにしている状態こそ、人間にとって理想状態であるかのように主張する。

こうして、鈴木は、暗黙のうちに、「人間にとっての楽園とは、人が己が肉欲を、いかなる制限も受けることなく、ほしいままに解放した状態である」と言っているに等しい。要するに、彼は「行」のみが存在する世界こそ「楽園」であるとして、人間がいかなる欲望でも叶えることのできる唯物論的ユートピアを至上の価値としたマルクス主義者と大差のない楽園観を唱えているのである。

さらに、鈴木の言う「一旦、知が出ると、失楽園となった」という言葉にも、トリックがしかけられている。そこで、鈴木が「知」と呼んでいるものは、悪魔が人間をそそのかして、神に逆らわせるために吹き込んだ「悪知恵」であって、偽りの知恵であるから、そのようなものは、正常な「知」とは呼べない。

しかも、私たちは、これまでのいくつもの記事において、鈴木大拙が聖書の御言葉の二分性に激しい抵抗感や嫌悪を示して来たことを確認して来た。そこで、ここで鈴木大拙が、失楽園の原因となった「知」という言葉で非難しているものは、悪魔のもたらした悪知恵ではなく、聖書の御言葉であることも理解できよう。

つまり、鈴木大拙は、ここでも看過できないトリックを用いて、失楽園をもたらした原因が、あたかも悪魔の悪知恵にはなく、神の御言葉が、人間を楽園から追放した諸悪の根源であるかのようにみなして、そのような論旨のすり替えに立って、「一旦、知が出ると、失楽園となった」「知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。」と述べているのである。

つまり、鈴木は、神の言葉を知るという「知性」を、誤った、薄っぺらなものとみなし、それは人間の行動をいたずらに制限し、罪に定めて排除するだけの、表面的なものでしかないため、そんな「知性」は人間の本質たりえないと言うのである。

そして、彼はエデンには「行」だけがあって「知」がなかったのだから、その状態こそ人間にとっての理想状態であるとして、「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。」と決めつけるのである。

このような理屈は、この世には法があるから、罪人や悪人が生まれるのであって、法をなくせば、罪人や悪人もいなくなると言っているのと変わらない甚だしい詭弁である。
 
要するに、鈴木は、何が善であり、何が悪であるかを判断する「知性」そのものを取り払えば、人間の「行」は無制限に解放されて、それが悪とみなされて排除されることもなくなるため、人間の中で全一的な自己が成立する、と言うのである。

このような理屈は、まさに悪魔的な詭弁であり、「裏返しのキリスト教」であるとしか言えない。

そもそも、「知性が二分性を根本に帯びている」と言えるのは、「行」が「知」に従わない場合のみである。
 
法律を守っている人間にとって、法律は自分を排除したり、罰する脅威とはならないのと同じように、聖書の御言葉をわきまえるという「知性」は、御言葉に従って生きている人々にとって、何ら自分を排除したり、疎外する二分性の脅威とはならないのである。

肉体が知性の統御に従っている限り、知性は何も分割する必要がなく、肉体の疎外という問題も生じない。

そこで、聖書の御言葉の二分性によって、「不当な疎外が生じている」かのように感じるのは、御言葉に従わず、それに逆らっているがゆえに、初めから御言葉から疎外されている者たちだけである。

だが、法に逆らった人たちの側から、自分たちを罰したり排除したりする法が悪いと言われたからと言って、なぜすべての人々が、そんな主張を真に受けて、法を撤廃する必要などあろうか。

「行」が「知」に従わないからこそ、「知」が「行」を恥ずべきものとして除外したのだとすれば、そこで悪者にされるべきは、「知」ではなく、「行」ではないだろうか。

ところが、グノーシス主義は、常に「抑圧された者」の側に立ってこれを一方的に擁護するため、「知」が「行」を排除したのが悪いと決めつけ、「肉体および肉欲が、人の中で精神によって抑圧され、疎外されているのは不当である」と言って、肉欲と肉体の復権を唱えるのである。

このような転倒した理屈で、グノーシス主義者らは、「行」を「知」よりも上位に置き、「行」を排除する「知」を屈服した上で、「知」を撤廃し、さらに「新たな判断」として、「行」を排除したり、罪に定めることのない、「新しい知」の概念を導入しようとする。

それが鈴木大拙の次の言葉の意味するところである。

「人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。」

つまり、彼は、人間が「行為を優先にして、それから反省が出る」生き物であることを十分に理解して、そのような状態を決して罪に定めたりしない、新しい「知性」が必要だと言うわけである。そのような知性を得ることは、「二度目の林檎を食べる」ことを意味し、それによって、新たな「知」と「行」とが調和する「入不二法門の世界」に至る道が開けるというのである。

「入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。」

こうして、グノーシス主義は、人間が神の言葉を捨てて、「知」よりも「行」を優先して、肉欲に生きたために起きた失楽園という過失を全く人間の罪として認めることなく、人間は自らの生き方を少しも変えることなく、依然として肉欲に従って生きているままで、自ら失楽園という過ちを修正して(=ソフィアの過ちを修正し)、自力で第二のエデンに帰れると言うのである。

果たして、そんな都合の良さすぎる「うまい話」が本当にあるだろうか。その答えを、私たちは次章で三島の最期を通じて見て行きたい。

<続く>

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