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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」としてのペンテコステ・カリスマ運動(3)

・「父なる神」の概念を、被造物の都合によって生まれる擬制的な存在(フィクション、偶像)に変えてしまうグノーシス主義がもたらす悲劇

さて、旧約聖書の創世記においては、「神は自分のかたちに人を創造された。」(創世記1:27)とあるように、人類は父なる神に似せて創造されたことが記述されている。

だが、人類は罪によって堕落したために、父なる神から切り離され、「父」を喪失してしまった。そのため、人類は「失われた父」を取り戻すために遍歴を重ねており、完全なアイデンティティを回復するためには、キリストの贖いを受け入れて、御子を通して、まことの父を知るしかない。

つまり、堕落した被造物である人類が、いかにして「失われた父」へ回帰するか(逆に言えば、「父なる神」の側からも、いかにして失われた人類を取り戻すか)が、聖書の中心的なテーマなのだが、このテーマは、グノーシス主義においても、ある程度共通する。
 
それぞれのグノーシス主義文献の神話的なプロットに見られる無数の細かい差異の話などは、今はすべて脇に置いておくことにして、大きく見れば、グノーシス主義においても、人類が「父なる神」に似せて創造されたという事実は否定されていない。

さらに、人類が「父なる神」の似姿として創造されたにも関わらず、「父なる神」から切り離されて、「父を喪失」していることが、人類の悲劇の根本原因となっている、という認識も、グノーシス主義と聖書において、大筋では共通していると言えるだろう。

さて、人類が「父なる神」に似せて創造されたというとき、そこで使われる「似せて」という言葉は、何を意味するのかを考えてみよう。

創世記1章26-27節にはこうある。

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」

聖書は、こうして人間が、神の「かたちに」、神に「かたどって」創造されたと述べ、人間が神の「似姿」であるとする。

このことをグノーシス主義では「似像」という言葉を使って表現する。その「似像」とは、ちょうど鏡に映し出された姿や、水に映った姿と同じ「反映」である。
 
グノーシス主義も、「父なる神」(真の至高者)は、物質的な世界ではその姿形を捉えることのできない、目に見えない存在であるとしているが、人間は、その目に見えない至高の神が、自分自身の姿を、あたかも水面や鏡に映し出すようにして、目に見える世界に映像のごとく映し出すことによって出現したものであると言うのである。

このような表現は、たとえとしてはよく出来ている。グノーシス主義は、人類が目に見えない「父なる神」の似姿であり、影のような存在であるという事実を認めている点では、聖書の記述からそれほど遠くないと言える。

なぜなら、聖書においても、被造物全体は、キリストという本体の「影」であるとしているためである(コロサイ2:17)
 
だが、しかし、それでは、グノーシス主義の「似像」のたとえを、聖書にも通じる概念として、聖書に逆輸入できるかと言えば、それは無理である。なぜなら、グノーシス主義においては、霊的な世界と物質的な世界とが、どこまで行っても交差しないものであって、霊的な世界から物質的な存在を造りだすことのできる方は、神以外には誰もおらず、その逆は決してないという点が考慮されていないからだ。

聖書の記述において、「神は霊である」(ヨハネ4:24)一方、人類は、創造された時点においても、堕落した後も、キリストによって再生されない限り、この世の物質的存在の域を出ない、霊的な世界と全く接点を持たない者である。

アダムには創造された時点で、神に由来する「息」が吹き込まれていたが、それは、被造物としての動物的生存のレベルの命ではあっても、神の霊ではなかった。

キリストの贖いを受け入れない限り、人間の霊は死んでいるか、悪霊のとりこになっているかであって、人間は霊的存在としての意味を全く持たない。(悪霊の世界に対して扉を開いていると言うことは言えるかも知れないが、神の霊とはいかなる接点もない。)

そこで、人類が「父なる神」の目に見えない姿を、目に見える世界に映像として映し出すことによって創造されたというグノーシス主義の表現を、そのまま聖書に当てはめようとすれば、いくつものおかしな破綻や矛盾点が生じることになる。

まず、そのように考えるためには、霊的世界の存在を物質的世界の存在に映し出し、変換するための装置として、「鏡」や「水面」のような媒体が存在すると仮定しなくてはならないが、一体、その「鏡」とは何なのかという問いが生じよう。

聖書の記述を読む限り、神の創造は、すべて神ご自身によって完結してなされたものであり、神がご自分の御思いを表すために、ご自分の外に、ご自分の御思いを映し出す鏡のような媒体を必要とされたという記述はない。聖書には、霊的世界と物質的世界の架け橋や、変換装置となるような媒体は一切、存在しない。
 
聖書において、霊的世界と物質的世界の架け橋となる存在があるとすれば、それは人格や意志を持たない「鏡」や「水面」といったような媒体ではなく、神と人との唯一の仲保者であり、人となられたイエス・キリストご自身、さらに今日、キリストと共に霊的に十字架の死と復活を経て神に対して生きるクリスチャンこそ、霊的な世界と物質的な世界の両方に生きる架け橋的な存在(天地の人)だと言えるのである。

さらに、もしもグノーシス主義のように、霊的な世界を物質的な世界に映し出すことのできる、意志を持たない「鏡」のような媒体があると仮定すると、「神は見られる対象なのか」という、厄介な問題が持ち上がることになる。

なぜなら、「鏡」というものは、誰かが自らの意志でそれを用いて自分自身の姿を映し出すことができると同時に、必ずしも本人の意志に関係なく、自動的に対象となる存在を映し出してしまうからだ。

もしも霊的存在である神が、自分自身の姿を「鏡」に投影して、被造物を生み出すことができると仮定するならば、神は「鏡」を通して創造する者であるだけでなく、「鏡」を通して被写体のように「見られる」対象だということになる。

そうなると、「鏡」の持つそのような双方通行性を利用して、物質的世界にいる何者かが、「鏡」を通して、霊的存在である神の似姿を「盗み撮る」ことも可能だということになる。
 
「盗み撮る」などという不届きな意志がなくとも、神の似像が自動的に「鏡」に映し出されることによって、神の意志とは関係なく、どんどん物質的世界に流出して行くという現象が起きうるのである。

ここに、グノーシス主義の神話的プロットに満ち溢れる「神的な存在の流出」という概念の源がある。

グノーシス主義においては、「父なる神」は誰も見ることのできない存在であるという。ところが、同時に、以上のような「鏡」の存在を仮定することによって(グノーシス主義では「父なる神」自身が「鏡」のような深淵であると定義される)、実際には、「見ることのできない」はずの「神」の似像が、神の意志とは別に、どんどん流出し、神的存在(グノーシス主義においてはアイオーンと呼ばれる)がほとんど無限に作り出されるのである。
 

「グノーシス主義の多くの神話によれば、世界の始原においては、絶対的存在者である至高神、すなわち「父なる神」が、ただ一人で存在している。そして至高者は、何らかの仕方で自分自身の「分身」を発出するのである。<略>

キリスト教教父のエイレナイオスによれば、ヴァレンティノス派のプトレマイオスという人物は、その教説を次のように説き始める。

(ヴァレンティノス派は、)不可視で名づけることのできない高みに、潜在した完全なアイオーンなるものがあると言い、これを「原初(プロアルケー)」とも、「原父(プロパトール)」とも、「深淵(ビュトス)」とも呼ぶのである。(エイレナイオス『異端反駁』I.1.1)

このようにヴァレンティノス葉は、至高神のことを「原父」と呼んでいる。それは確かに「父なる神なのだが、しかしただの「父」ではない。それはあらゆる父的存在の原型となるものであり、ゆえに「原父」と呼ばれるのである。

 同時に至高神は、「深淵」とも称される。先に見た『ヨハネのアポクリュフォン』においては、至高神は「霊の泉」のなかに自分自身の姿を見たのであるが、ヴァレンティノス派において至高神は、この「泉」自体と同一視されている。父なる至高神は、森の深部に潜み、その奥底を見通すことができない「深淵」のように、秘められた存在なのである。

 しかしあるとき、その「深淵」に、一条の光が差し込む。そして、水面のきらめく反射によって周囲に光が溢れ出すように、「深淵」から数々のアイオーンたちが流出するのである。同じくヴァレンティノス派に属すると見なされている『三部の教え』というテキストでは、後に触れるように、父なる至高神のことが「水がどれほど溢れ出ても尽きることがない泉」と称されている。このように至高神とは、そこから万物を流出する「泉」であり、同時に万物を映し出す「鏡」そのものなのである。」(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』、大田俊寛著、春秋社、2009年、pp.123-125)


グノーシス主義においては、このように「父なる神」である「至高者」の像が絶え間なく流出して、無限とも言える神々が造りだされるが、そうこうしているうちに、不正な流出事件も起きる。大田氏はこれを「模倣による簒奪」、「模倣による剽窃」と呼ぶ。

グノーシス主義の神話のプロットにおいて、最下位の女性人格であるソフィアが、「至高者」を知りたいという、分不相応な欲望を抱いた結果、単独で神を知ろうとして失敗し、醜いヤルダバオートを生むという事件がそれに当たる。彼女は、「至高者」の像を不正に「盗み見よう」とした結果、歪んだ似像を生み出したのである。

だが、そのようなプロットも、そもそも至高者の存在が、もし誰かが盗み見ようとすれば、あたかもそれが可能であるかのように、「鏡」のような深淵であると定義されることなしには、成立し得ないものであったと言えるかも知れない。
  
このように、グノーシス主義における被造物の創造は、あたかも水面に光が反射するような受動的な「神的存在の流出」によるのであり、時には、創造主の意志を超えて存在が流出することさえあるのに対し、聖書における「父なる神」による被造物の創造は、すべてが神の意志に基づいた、主体的で能動的な命令の結果である。

聖書においては、被造物は決して神の意志の範囲を超えて誕生することはなく、グノーシス主義の言うような、受動的な「存在の流出」はない。

さらに、聖書においては、創造主と被造物との間には絶対的な主従関係があり、被造物には生み出された後も、存在している限り、創造主の意志に従う義務がある。創造主は確固たる人格を持った存在であり、決してグノーシス主義の言うような、意志を持たない沈黙する「鏡」ではない。そして、創造主は被造物の違反を沈黙して見逃したりすることはなく、被造物は絶対者である神に背いたがために、堕落し、滅びに定められたのである。

このように、聖書において、創造主である神の意志は絶対であり、被造物は決して創造主の意志や許しの範囲を超えて自らの存在を主張したり、保つことができない(そのようなことをすれば結果的に破滅するだけである)。

だが、グノーシス主義における「至高者」は、聖書の「父なる神」のような絶対的な意志を持つ存在ではなく、それゆえ、グノーシス主義においては、絶対者の意志に背いた被造物が罪に定められたり、罰せられることはない。人類が父なる神に背いたがために、神と断絶したという事実も全く認められていない。

しかしながら、以上に記したような、看過できない重大な差異をすべて脇に置いて、大筋だけを見るならば、グノーシス主義においても、人類は真の至高者の影のような「似像」であるがゆえに、「本体」である「父」と共にいなければ、存在意味が完全でなく、それにも関わらず、「父を喪失」したことが、人類の悲劇の原因となっているということは、ある程度、認められている。

そうした意味で、グノーシス主義においても、人類は、自己の同一性を、初めから「父なる神」に担保されているのであり、それにも関わらず、本体である「父」を見失い、自分のルーツを喪失していることが、人類の悲劇の原因なのである。

そこで、聖書においても、グノーシス主義においても、人類がいかにして「喪失した父」を取り戻し、「父に回帰する」ことができるか、という問題が焦眉の課題であり、それによらなければ、人類は自分が一体、誰を模して創造されたのか、何のために創造されたのか分からず、自分の存在意義を見失ったまま、意味のない人生を生きるしかないという認識は、大筋では、共通していると言える。
 
しかし、結論から言ってしまえば、グノーシス主義は、「神は不可知である」と定義することによって、人類が自らの創造主を知って「父なる神」に回帰する解決の道を自ら閉ざしてしまう。

人類には、母のルーツと、父のルーツがあり、母のルーツは、常に明白で、人類の「母」は人類である。つまり、人類は、目に見える被造物として、自分と同じ目に見える人類という被造物を「母」として生まれる。肉なる人類は、肉なる人類からしか生まれない。(「母」という言葉自体が、被造物を象徴する。)

しかし、人間の誕生の際、DNA鑑定などの手段のなかった昔には特に、父が誰であるかを証明することは難しかったように、人類にとっても、「母」のルーツは常に議論の余地なく明白であるにも関わらず、「父」のルーツはより精神的で見えないつながりを意味し、それを証明するためには、「母」とは異なる、より複雑な内的証明手段が必要とされるのである。
 
そのように「父」を証明することは単純でないにも関わらず、人類にとってより重要なのは、動物的生存のレベルの「母」のルーツではなく、見えない精神的なルーツとしての「父」である。なぜなら、「父」のルーツは、創造主へと続くものであるから、「母」のルーツに比べて、圧倒的に高貴であり、それを発見するときに初めて、人類は、動物的生存のレベルを超えた完全な在となる可能性を持つことができるためである。

ところが、グノーシス主義は、「父」という存在を「フィクション」にしてしまうことによって、事実上、人類には父に回帰する道がない、という結論に自動的に行き着いてしまうのである。

グノーシス主義における「父なる神」とは、万物を生み出す根源となる「真の至高者」であるが、グノーシス主義において、その「至高者」は、あまりにも崇高な存在であるために、言葉によっても形容できず、感覚によってとらえることもできない、誰も見ることのできない虚無の深淵であり、不可知的存在であるとされる。
 

グノーシス主義によれば、父なる神は「鏡」として存在しており、それ自体を認識することができない。父なる神からは、鏡のなかに束の間に浮かび上がる仮初の像のように、見せかけの姿を呈した数多くの神々が流出し、そして彼らは、可視的世界においてさまざまな交流と相克を展開し続けるのである。こうしてグノーシス主義は、彼らなりの仕方で、この世界にはなぜかくも多くの神々の形象が溢れかえっているのか、そしてその状況のなかで「真の父」の存在が見失われてしまうのかということを、明らかにしようと試みたのだった。」(同上、p.175)

グノーシス主義では、すべての被造物が、根源的には「至高者」によって創造されたことになっているものの、それぞれの被造物がどれくらい至高者に近い存在として創造され、どの程度、至高者を知ることができるかによって、被造物の間にヒエラルキーが定められる。
 

「「深淵」として存在する至高神から、アイオーンの神々が流出することによて成立する世界は、「プレーローマ(充溢)」と呼ばれる。プレーローマ界は、光と美によって満たされた、精神の充溢界なのである。<略>

 それでは、完全無欠の世界として成立したはずのプレーローマ界に、どのような理由で亀裂が発生することになるのであろうか。一言で言えばそれは、神々のあいだに立ち現れる「競合」の関係である。

 これまでに述べてきたように、プレーローマ界に住まうアイオーンの神々は、すべて「深淵」である至高神から流出する。しかしながら、それゆえにすべてのアイオーンが平等の立場にあるかと言えば、実はそうではない。「(原)父」である至高神を見ることができるか、またそれによって自分自身を知ることができるかということに応じて、アイオーンたちのあいだには、暗黙のうちにヒエラルキーが設定されているのである。」(同上、p.126)


 そのため、「至高者」に創造されながらも、「父を知らず」、それゆえ「自己を知ることのない」アイオーンたちが数多くいる。そして、ある神話的プロットでは、「独り子」だけには「至高者」を知ることができる資格が与えられているが、それ以外の者には、人類も含め、一切、「至高者」を知る手立てはないとされる。
 

「このようにヴァレンティノス派の教説によれば、プレーローマ界を構成する数々のアイオーンたちのなかで、父を知り、また自らを知っている者は、「独り子(モノゲネース)(別名は「叡知(ヌース)」と呼ばれるアイオーンのみであった。「父」は「子」のみによって知られ、そして「子」だえけが、父の存在を表すことができるのである。すなわち、「父」と「子」のあいだには、鏡像的かつ想像的な一体性が特権的に確保されており、そしてその他のアイオーンたちは、このような完全な一体性から疎外されている。「他のアイオーンたちは、(子と)同じように自分たちの種子を流出したものを見たい、また初めのない根を観察したいと、密やかに憧れていたのだった」(エイレナイオス『異端反駁』I.2.1)。

アイオーンたちのなかで、このような欲望をもっとも激しく抱くようになったのは、『ヨハネのアポクリュフォン』の物語と同様に、末娘のアイオーンである「知恵(ソフィア)」であった。ソフィアは、自分も至高神から生み出されたアイオーンであるのに、どうして「独り子(ヌース)」と同じように父を知ることができないのかと憤り、彼に対して嫉妬の感情を抱く。」(同上、pp.128-129)


 このように、グノーシス主義の矛盾や悲劇は、「万物の創造の根源となる至高者は確かに存在する」として、その至高者からほとんど無限とも言える神々の流出を認めながらも、同時に、その「至高者」は被造物の側からは不可知であって、ヒエラルキーに応じてしか知ることができず、「独り子」なる存在の他には、ほとんどすべての被造物に見ることができず、知ることもできない存在であるとして、あらゆる被造物を「父なる神を知る」ことから締め出し、疎外していることに起因する。

最下位の女性人格であるソフィアだけが、大胆にもその禁を破って、自ら至高者を知ろうとするのだが、彼女の試みは失敗に終わる。それは当然である。なぜなら、グノーシス主義における至高者とは、誰にも自分を開示することのない虚無の深淵だからである。

以下の大田氏の指摘は、驚くほどに正鵠を射たものではないかと筆者は思う。
 

さて次に、「独り子」以外には知りえないという「父なる神」の姿を、ソフィアは一瞬であるとはいえ垣間見たわけであるが、その姿は果たしてどのようなものだったのだろうか。

 その答えとは、おそらく先に見たように、父とは「深淵」であり、「鏡」である、ということであるように思われる。やや積極的な解釈を試みるとすれば、父が不可視であるということは、鏡そのものが不可視であるということに等しい。いくら鏡をのぞき込んでみても、そこに映っているのは鏡をのぞき込んでいる自分自身にすぎず、「鏡そのもの」を見ることはできないからである。

 ソフィアがそこに見たものを想像してみよう。ソフィアが見たものは、自分自身の姿であると同時に、鏡という「無」であった。ソフィアはナルキッソスと同じように、自分自身の姿の美しさ、その甘美さに酔いしれる一方で、それがいくら手を伸ばしても自分のものにすることができない「虚無の深淵」であり、手に入れようとして深く身を伸ばせば、「死」のなかに飲み込まれてしまうということを知ったのではないだろうか。オウィディウスがナルキッソスの物語で描き出したように、自己愛の甘美さの裏には、死の棘が潜んでいるのである。」(同上、pp.132-133)


 このように、グノーシス主義は、人は神に似せて創造されたとしながらも、「至高者」の存在を「鏡」や「深淵」にたとえ、「至高者」を知ることのできない存在とみなすことによって、被造物が「至高者」を知るためには、自分自身を見つめるしか手段がなくなり、その結果、見えない「至高者」よりも、その影として生まれたに過ぎない「被造物」の方が、あたかも確かなリアリティであるかのように関係が逆転してしまうのである。
 
グノーシス主義においては、こうして見えざる存在である「至高者」と見える存在である被造物との唯物論的な関係の逆転が起こり、人類が「神を知ろう」と思えば、神の似像として造られた自分自身を見つめるしかないため、人類は自己の内に神を探しつつ、歪んだ自己愛に溺れ、結局、神を得られず、絶望の中で苦悶するしかないというトートロジーに陥るのである。そうした支離滅裂なトートロジーの結果として起きたのが、ソフィアの過失であり、ソフィアによって生まれたヤルダバオートが作り出した出来そこないの下界であり、今日も、グノーシス主義的な考えに立脚して神を探求することは、自分自身の内に神を探求することを意味するから、そのようなことを企てる者は誰であれ、結果として、水面に映った自分の姿に恋い焦がれて死んだナルキッソスと同じように悲劇の運命を辿るしかないのである。
 
だが、一体、なぜこんな愚かしいトートロジーが生まれるのであろうか。そもそもグノーシス主義はなぜ「真の至高者」をこんな風に不可知的深淵であると定義しているのであろうか。

大田氏はその謎を解く鍵を、古代社会に求める。古代社会おいては、父という存在が、生物学的にはきわめて不確かな存在であり(父方のルーツは証明不可能であり)、しかも、子供の死亡率が高かったため、「養子制度」の需要も高く、そうした時代には、家族を生物学的な絆にとらわれてとらえることのメリットが薄く、それゆえ、より流動的で融通の効く家族制度を作り上げるために、父子関係を、生物学的なつながりに必ずしもとらわれない、儀礼的なものとみなす必要があったのであり、その結果、生物学的な絆ではなく、言語表明(宣誓)によって作り上げられる儀礼的な父子関係を中心として、家族制度が作り上げられて行ったのだと主張する。
 

古代社会の宗教において、父と子の関係を成立させるのは、母子関係のような生物学的事実ではなく、むしろ「宣誓の言葉」という儀礼的行為であった。すなわち、生まれてきた赤子に対して、「これは私の息子(娘)である」と父親が宣言することにより、正式な父子関係が成立すると見なされたのである。

このような宣誓行為は、古代の宗教における中心的な行事の一つであった。すなわち、子供はただ母親から産まれてきただけでは家族の一員となることはできず、父親によって司られた祭祀において、正式な成員として承認されなければならないのである。」(同上、pp.34-39)


こうして、大田氏は、古代社会においては、子供はただある家族のもとに生まれて来たというだけの理由では、または、父や母と生物学的な絆を有するというだけの理由では、子として認められず、父親が「わたしの子である」と宣誓することによって、初めて生きた父子関係が成立したのだと言う。

ここまでならば、ある程度、聖書においても、同様の原則が見られると言えるかも知れない。

なぜなら、聖書においても、人類は生まれながらにして神の子供とは認められないからである。人類は父なる神に似せて創造されはしたものの、罪に堕落して神と断絶したため、キリストの贖いを信じて受け入れ、水と霊によって生まれなければ、神の子供とはならない。

そして、聖書の父なる神と人類との間で結ばれる父子関係は、極めて排他的なものであって、人の側から、神の側からの双方の「宣誓」が必要となり、人間の側からの宣誓としては、己が罪を認め、これを悔い改め、キリストの十字架の贖いを信じて受け入れると告白し、この世と分離し、父なる神の御心に背く一切のものからの分離としてのバプテスマを通過しなければならない。

「だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。
 全能の主はこう言われる。」(Ⅱコリント6:17-18)

このことを、主イエスご自身が、人類の代表として、バプテスマのヨハネから洗礼を受けることにより証明された。

「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ3:16-17)

イエスは聖霊によって生まれたので、最初から神の独り子であったにも関わらず、人類の代表としてバプテスマを受けることにより、霊的死を通って、堕落したアダムに属する自分自身も含め、神の忌み嫌われる一切のものと分離し、神に属する新しい命によって復活されたことを象徴的に表されたのである。その時、初めて、天が開けて、父なる神の御許から聖霊がイエスに降り、イエスが神の御心にかなう、神の子供であることが、周りの人々にもはっきりと分かる形で、父なる神によって宣誓された。

このように、聖霊によって生まれたイエスでさえ、バプテスマという霊的儀礼を通過することによって、初めて、父なる神から「わたしの子である」という公的な承認を受けたという点では、大田氏が指摘しているように、父子関係は「宣誓」によって初めて確かなものとなるという主張は、聖書からそうかけ離れて遠いものではないと言えるかも知れない。
 
パウロも、選民であったユダヤ人をさし置いて、異邦人に救いが最初に宣べ伝えられ、かつては神の民とは認められなかった異邦人が、救いを受け入れることにより、神の側から「わたしの子である」と、承認されたことについて、次のように述べた。これも信仰に基づく「父」と「子」の双方からの「宣誓」であると言えないこともないかも知れない。
 
「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出して
くださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。
わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、
 愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
 『あなたたちは、わたしの民ではない』
 と言われたその場所で、
 彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」(ローマ9:24-26)

以下の詩編も、直接的にはキリストを指すとはいえ、救いを受け入れ、水と霊によって新しく生まれたすべてのクリスチャンに当てはまる神の側からの宣誓である。

主はわたしに告げられた。
「お前はわたしの子
 今日、わたしはお前を生んだ。
 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
 地の果てまで、お前の領土とする。
 お前は鉄の杖で彼らを打ち
 陶工が器を砕くように砕く。」」(詩編2:7-9)

このように、聖書においても、父なる神とその子供たちとの関係は、生まれながらの生物学的な絆(肉による絆)によるのではなく、信仰による双方からの宣誓に基づくものである。人間の側からも、キリストの救いを受け入れ、神の御心に背く一切のものと分離して、バプテスマによって霊的死を通り、キリストの命によって新しく生まれたことを宣言すると共に、神の側からも、その信仰による表明を受け入れて、その人間を信仰を通じて神の子供として承認するという宣誓により、霊的父子関係が成立するのである。

だが、そこから先、グノーシス主義と聖書における記述では、この「父子関係」を巡る態度が決定的に分かれる。グノーシス主義は、こうして成立した父子関係を、生物学的な絆に基づかず、物理的に立証不可能な儀礼的なものであって、それは家族や社会に秩序を与えるために便宜上、造りだされた概念に過ぎないため、本質的には「フィクション」であると結論づけることにより、聖書とは正反対の結論へとたどり着く。

聖書においては、信仰によって宣誓された父子関係は、決して人間社会を保たせるための便宜上の絆ではない。それは生物学的な絆を超越して、永遠のリアリティとして効力を発する、父と子との排他的な結びつきであり、神の側からの無償の愛と人間の側からの従順による強力な人格的な結びつきである。

それに引き換え、グノーシス主義は、儀礼的な祭祀を通して言語による宣誓によって表明された父子関係は、あくまで社会を保たせるための便宜上の絆であり、「擬制的なもの」「パフォーマティブなもの」、要するに、実体の伴わないフィクションだと言うのである。

大田氏は、古代社会において、父子関係は、生物学的な絆にとらわれず、家族制度を維持するために便宜上、作り出された儀礼的・擬制的なものであったということを根拠に、「父とは擬制(フィクション)的な存在である」と言い切るだけでなく、古代社会における「父」の概念は、そもそも、死者(先祖)を神として祀る家制度の中で、「神聖な始祖」々から先祖代々に受け継がれる「神聖な血統(火花)」を継承するという「神話」に基づいて作り出されたものであり、「神聖な始祖」自体が虚構の概念である以上、そのような「神話」を継承するために造りだされた「父」の概念も当然ながらフィクションだと言うのである。

さらに大田氏は、そこからすすんで、「父」とは「フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者」であると定義し、古代社会の家族制度におけるフィクションとしての「父」の概念が、その後、発展して、共同体社会や都市国家の基礎になったのだという。
 

「それでは「父」とは、一体何だろうか。端的に言えばそれは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である。すでに述べたように、父と子の関係は、「お前は私の息子(娘)である」という儀礼的宣誓、すなわち、パフォーマティブな言語行為によって創設される。これを言い換えれば、そのような言語行為が行われる以前、子供が子供でないのと同様に、父もまた父ではない。父はその子と同じように、言語によって創設されるのである。

 しかし、父が擬制的な存在であるというのは、このような意味においてのみではない。そもそも彼が、新しく生まれた子を家族の成員として承認するという権限を持つと見なされるのは、どのような背景に基づいているのだろうか。それは彼が、家族の「神聖な始祖」から「生命の火花」を継承していると考えられていることによる。そしてこの「神聖な始祖」は、先に述べた通り、普段は先祖代々の墓に眠っているのだが、神聖な篭に火が灯されると、現世へと来臨する。すなわち、真の意味で「父(パーテル)」と呼ばれるにふさわしいのは、現実世界に存在しているわけではない、この「神聖な始祖」という虚構の人格、虚構の存在者なのである。」(同上、pp.41-42)


 このように、大田氏が古代社会の家族制度や都市国家の成立とグノーシス主義における「フィクションの父」という概念を結びつけていることは、非常に興味深く、的を射ているのではないかと思われる。
 
だが、それは聖書における「父なる神」と神の子供たちに当てはめることのできる概念ではない。以上のような分析を通して、はっきり分かることは、グノーシス主義における「父子関係」と、聖書における「父子関係」は、それが一体、誰のために結ばれる関係なのか、という点で、完全に異質であり、全く逆の方向を向いていることである。

聖書においては、父なる神は、失われた人類を滅びから救い、罪から贖い出すことを願っておられ、その神の御心に気づいて、これに応答してキリストの十字架を信じて受け入れた人々が、神の子供とされる。それは「初めの愛」にもたとえられるように、当事者同士の強力な個人的な結びつきであって、あくまで当事者の利益のために結ばれるものであって、決して、当事者以外の周囲の人々のために便宜をはかったり、人類社会や家制度を存続させる目的で生み出される絆ではない。

しかし、グノーシス主義における「父子関係」は徹底して、当事者である「父子」のために結ばれるものではなく、むしろ、「神聖な始祖」というフィクションに基づき、当事者以外の人々、先祖、家族、家制度、共同体、人間社会の秩序を保ち、人間社会に便宜をはかるために結ばれる絆なのである。そうであるがゆえに、それはどこまで行っても、真実からはほど遠く、人間の威信を保ち、社会の秩序を成り立たせるために便宜上、作り出された「神話」の一部であり、「フィクション」なのである。

そのことを考えれば、なぜグノーシス主義における「至高者」が「鏡」や「虚無の深淵」にたとえられ、不可解かつ不可知な存在であって、聖書の「父なる神」のように、はっきりした人格や意思を持って、物事に善悪の区別をつけり、時には被造物の世界に積極的に介入し、神に反して反逆した被造物を罰したりすることがないのか、その理由もおのずと見えて来る。

グノーシス主義において「虚無の深淵」にもたとえられる「至高者」は、多数の神々を流出させはするが、物事の善悪を定めたり、背いた者を怒って罰することのない、意志表示さえしない沈黙する神である。その代わりに、「至高者」によって生み出された様々な被造物たちは、「至高者」よりもはるかに活発に動き回り、自らの意志や願望を表明する。

天界の被造物を生み出す根源となったのも「至高者」自身ではなく、「至高者」から最初に生み出されたとするバルベーローという女性人格であり、さらに、時にはソフィアのように、分を超えた逸脱行為を犯して「至高者」の真似をしようとする者も出て来る。それでも、ソフィアが「至高者」によって罰せられて滅ぼされることはない。

ソフィアの過失の結果、天界の歪んだ模造である不幸な下界が誕生したわけだが、それでも、最終的には、人類が天界に復帰することにより、ソフィアの過失も修正されることになっている。
 
その際、グノーシス主義においては、人類は、自己の内に生まれながらにして「神的自己」(「至高者」に由来する神聖な霊の欠片)が宿っていると気づくことにより、自分が「至高者」の子孫であると名乗り出るのだが、その一方で、その神話のプロットに「至高者」が登場して、人類を我が子として「認知」するという場面はない。
 
グノーシス主義においては、子の側から名乗り出る場面はあっても、父が子を前にして「これが我が子である」と宣誓する儀礼的場面が全く存在しないのである。大田氏は一方では、父子関係が、言語行為によって宣誓される儀礼的なものであると述べているのだから、「子の側からの宣誓」はあっても、「父の側からの承認」がないことは、極めて奇妙な矛盾に感じられる。

だが、このことは、グノーシス主義の物語が、根本的に、創造主なる「父なる神」を中心として造られたものでなく、「和を持って尊しとなす」式に、被造物の思いや願望を中心に、被造物の世界に秩序を保たせるために造られたものであることを考えれば納得が行く。

グノーシス主義においては、ソフィアのように、ヒエラルキーを無視して過失を犯した者も、決して悪者にされたり罰せられたりすることなく、彼女の願望もある程度、認められ、彼女の過失を「修正」する仕事は、人類が身代わりに負わされることにより、何とかして物事がおさまりがつくように、辻褄合わせのような筋書きが作り出される。

こうして、グノーシス主義においては、どの被造物も罪に定められることがない一方で、悪者にされている存在が一人だけいる。それは「私は妬む神である」と宣言しているヤルダバオートである。
  
だが、普通に考えれば、ヤルダバオートはソフィアの過失の結果として生まれたのだから、彼もまた哀れな被害者であって、ソフィアの過失を責めずにヤルダバオートだけを責めるのは筋違いであると言えよう。

それにも関わらず、グノーシス主義は徹底してヤルダバオート一人に責めを帰する。
 
グノーシス主義が責め立てているヤルダバオートの「非」や「罪」とは、一体、何なのかという問題を通して、我々は、グノーシス主義という思想の本質をかなりはっきりととらえることができる。

すなわち、グノーシス主義の考えるヤルダバオートの「非」とはおそらく、

➀外見が醜く愚かであるため、他の被造物(特に「母」であるソフィア)の不快を催す存在であること、
②自分の他に神はいないと考えて神の称号を独占しようとしており、他の被造物とのヒエラルキーの中におさまらず、他の被造物から見れば、秩序を乱し、自分たちの栄光にならない目障りな存在であること、

の二点であろう。要するに、ヤルダバオートが他のすべての被造物との間のヒエラルキーに従わず、自分だけが神であるかのように宣言して、他の被造物たちの自惚れに水を差し、他の被造物たちの考える「秩序」を壊し、かつ視覚的にも他の被造物に不快をもたらす存在であるから、徹底的な侮蔑に値するというわけなのである。

このことからも、グノーシス主義とは、徹頭徹尾、被造物の都合や願望を中心に造られた者であり、被造物の世界に、何とか折り合いをつけ、「和をもって尊しとなす」式に、うわべだけの秩序を成り立たせるために作られたストーリーだと言えよう。

そこで最も重要な価値は、聖書の教えるように、絶対者である「父なる神」の命令に背かず、その意志に従うことではなく、むしろ、被造物の社会で、多数決式に、他の被造物にできるだけ迷惑をかけずに、浮いた存在とならず、他の被造物たちとの間で、折り合いをつけて生きることなのだと考えられる。

グノーシス主義において、最も大切なのは、至高者の意志ではなく、被造物たちの意志であるからこそ、至高者に背いたかどで誰も罰せられたり滅ぼされたりすることなく、過失を犯しても、それぞれの被造物の願望がみなある程度、認められているのである。
  
つまり、グノーシス主義にもし善悪という概念があるとすれば、それは、「至高者」の意志に服従するかどうかとは全く関係なく、被造物たちに好ましい影響を与えるかどうか、被造物たちの社会の秩序を成り立たせることに貢献し、そのヒエラルキーに従っているかどうかという基準ではかられるものだと言って良いかも知れない。

グノーシス主義は、被造物の自己肯定や自己都合のために(被造物の欲望をかなえるために)作り出された物語あり、そこでは、被造物の都合が第一優先されているがゆえに、被造物たちの目に慰めとならず、被造物のヒエラルキーにも従わない、「空気」を読めないヤルダバオートが、目障りな存在とみなされ、侮蔑の対象とされ、「悪」とみなされるのである。「神々」の世界において、ヤルダバトートが「わたしの他に神はいない」と宣言することが、他の被造物の自己愛に水を差し、面目を失わせる行動に映るからこそ、ヤルダバオートは毛嫌いされ、「悪」とみなされるのである。
   
グノーシス主義の中心は、被造物の思いであるがゆえに、「至高者」であるはずの「父なる神」さえも、決して絶対の存在ではない。「至高者」は、言葉の上では、至高の存在であるかのように讃えられてはいるものの、実際には、被造物らの願望や都合によって、事実上、骨抜きにされ、形骸化してしまっている。「至高者」は、被造物の勝手な振る舞い合を制止することも、罰することもできず、自らの意志表示を行うことさえなく、まるで神棚に祭られた先祖の遺影のごとく、ただ被造物の願望に口実を与え、彼らの存在を神格化するためだけの名ばかりの存在として沈黙しているだけである。

グノーシス主義において、最高の位階にある神的存在であるはずの「至高者」が、これほど不確かな人格や意思を持たない存在として描かれ、「鏡」や「虚無の深淵」と同様の存在であるかのように、極めて曖昧かつ否定的な表現でしか表されないのは、この「至高者」の存在が、もともと被造物の欲望を集積して作り出された「フィクション」であり、「偶像」だからだと考えられる。

つまり、「至高者」の存在を「虚無の深淵」であると定義するグノーシス主義は(根源的にはその「虚無の深淵」は、仏教などの「無」の概念にも通じるが)、「父なる神」をただフィクションにしているというよりも、「至高者」とは、結局、被造物の欲望の総体として作り出される偶像だとみなしているのであって、それゆえに、「至高者」自身が、あらゆる被造物の願望を映し出す「鏡」と称されているとみなされるのである。
 
つまり、グノーシス主義における「至高者」とは、このように、被造物の存在を承認し、彼らに「神々」としてのステータスを与え、被造物の欲望の総体として生み出された偶像なのであり、被造物自身の欲望の化身としての「フィクション」なのである。
 
このようにして、グノーシス主義の神話は、創造主に似せて人類が造られたため、人類はまことの創造主に回帰することによらなければ自己を発見できないと言いながらも、その創造主を、人類の欲望の対象、偶像に変えてしまうことによって、無限のトートロジーに陥っているのである。

そこで、このような教えを信じた人々が、神に至る道を見つけるために、無限の深淵なる鏡をのぞき込み、そこに自分自身の姿を投影して果てしなくそれに耽溺し、ついに自分が神であると宣言するか、あるいは、「至高者」の崇高な姿を見ることのできない苦悩から逃れようと、嫉妬に駆られて、自分が憧れる対象を歪んだ摸造に写し取ることで剽窃するという、不幸な悪循環に陥るのは当然である。 

こうしたことを考えれば、なぜKFCのDr.Lukeが「わたしたちはエロヒムだ!」というとんでもない宣言をメッセージで行ったり、杉本徳久のような人々が、クリスチャンの個人情報を集めてはそれを利用して、自らのブログを鏡のようにして、そこにターゲットとなる人物の印象操作を行うために歪んだ像を造りだして映し出すことで、ガティブ・キャンペーンを行ったり、あるいは鵜川貴範のような人々が、他教団の人間であるにも関わらず、KFCの違法なコピーサイトを作ったり、KFCの半分を乗っ取って横浜で集会を開き続けたりしたのか、その理由もおのずと明らかになろう。

これらはすべて「簒奪の模倣」や「剽窃」(歪んだ「模倣の霊」の働き)であって、「父なる神」を探求しながらも、自己存在を見つめる以外に「父なる神」に至る道を見つけられないグノーシス主義者が、苦悩のあまり、不正な方法で「父なる神」の似像を盗み見、模倣しようとする手法を意味するのである。
 
さらに、多少、先走って結論を述べれば、牧師制度も、グノーシス主義における「至高者」を模して成り立つ誤った制度であり、大田氏の言葉を借りれば、「擬制的存在である」。

グノーシス主義における「至高者」が、被造物の都合や欲望によって、被造物を神格化して存在に意義を与えるためだけに作り出された「フィクション」であるのと同様、牧師という存在もまた、信徒らの欲望に口実を与えるために作り出された「偶像」であり「フィクション」であり「擬制的存在」なのである。
 
大田氏は、「父」とは「端的に言えばそれは、フィクションを創設することによって、人間社会を統御する者である。」と述べるが、現実には、このような「フィクションとしての父」は、人間の欲望をいたずらに刺激し、苦悩を増し加えるばかりで、決して人間社会を統御などせず、何の秩序をももたらさない。

「フィクションとしての父」しか存在しない場所では、人々は己が欲望を「父」に投影し、「父」にそれを叶えてもらおうと熱心に願い出るが、その「父」自体がフィクションなので、彼らの願いは実現できない。結果として、ソフィアの欲望がもたらしたと同様の悲劇が延々と繰り返され、誰もが知ろうとしても知りえない「父」のために、嫉妬と苦悩を増し加え、悶絶しながら神の像を盗み取ろうと、悪しき模倣を繰り返し、争いを繰り広げるだけなのである。

以上の考察を通して、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らが、なぜカウンセリングを通しての自己認識につとめているかも理解できよう。大田氏は著書で精神分析とグノーシス主義の関連性について論じているが、カウンセリングも、神を見いだそうとしながら、その神を自己の内にしか見つけられないと考える人々(グノーシス主義の教えに影響を受けた者たち)が、「鏡」に映し出した自己像に耽溺することで、何とかして完全な自己を取り戻そうと苦しい努力を重ねる過程なのである。

ある人が、自分の悩み苦しみを他者の前で言葉を通して吐露し、それに他者が頷きながら耳を傾けるのを見ることによって、その人は、他者の眼差しという「鏡」を介して自己存在に承認を受けたように錯覚する。人はそこで他者が自分の主張に頷いてくれたことで、自己存在のリアリティが取り戻されたかのように錯覚する。

ところが、「鏡」を通して自己を発見しようとする過程では、常にそのような望ましい結果が出るとは限らない。他者の眼差しの中に「あらまほしき自己像」を見つけようとしても、そこには、自分の意に反して、自分が望みもしない醜く悪しき自己像が映し出されるということが度々繰り返される。そこで、人は、満足の行く自己像を発見するために、願い通りの自己像を映し出してくれそうな「鏡」を探し求めて走り回るという作業を重ねずにいられないが、そのようなことをすればするほど、他者の眼差しに自己を奪われ、数多くの「鏡」に乱反射する自分自身の一体どれが本物なのかも分からなくなり、ますます自己を見失って行くだけなのである。

人が「鏡」を通してしか自己を認識できないと考えている限り、自分を「鏡」によってどんどん質に取られ、不正に流出させられる結果を防ぐこともできない。
 
結局のところ、「父なる神」をフィクションであると仮定すると、「父なる神」に似せて創造された人類も「フィクションである」という結論しか生まれないのである。神的自己を発見するどころか、自己存在を発見しようとして、虚無の深淵だけが残る(もしくは歪んだ模倣の結果、異形の産物が生み出される)という本末転倒な結果に至るしかないのである。

神を探し求めると言いながら、このような無限のトートロジーに陥った人間は、最後には狂気に至るしかなくなる。

それゆえ、筆者は、「母性原理の崇拝」すなわち、「被造物崇拝」のグノーシス主義を基盤として成立しているペンテコステ・カリスマ運動が、キリスト教の二分性を非難しているのは、とんでもない見当違いであると言うのである。キリスト教の二分性が人を狂気に陥れているのではない。グノーシス主義の支離滅裂なトートロジーの教えこそ、人間を狂気に陥れる根源なのである。 

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ペンテコステ・カリスマ運動は、人類を神以上に高く掲げる「イゼベルの霊」(異教的母性崇拝)に支配される「神の家の乗っ取り運動」

・ペンテコステ・カリスマ運動は、人類を神とする東洋的異教の母性崇拝(「イゼベルの霊」)に支配される運動である。
 
さて、これまでにも当ブログでは、ペンテコステ運動とは、イゼベルの霊(一言で言えば、異教的母性崇拝の思想)に導かれる運動である、ということを再三に渡り、述べて来た。はっきり言えば、ペンテコステ運動とは、異教に由来する非キリスト教的な思想に基づく「神の家の乗っ取り運動」なのである。
  
ペンテコステ運動にははっきりした教義体系が存在せず、教義体系を明らかにする文献も少なく、ただ「聖霊のバプテスマ」を受けて「異言」を語るなどの超常現象ばかりを重んじるため、自然と、この運動の問題について語られる場合にも、現象面の分析で終わりがちであり、教義面からこの運動の根本的な危険性を洗い出す議論は少ない。

とはいえ、それでもペンテコステ運動の教義の基礎を明らかにしていると見られる文献はいくつか存在し、それを手がかりにこの運動の異常性を教義面から論証することは可能である。

そうした文献の一つが、大きく見れば、ペンテコステ運動の中にひとくくりにできるカリスマ運動の指導者である手束正昭氏の言説である。当ブログではすでに幾度も述べて来たように、手束氏は、すべての物事にはっきりとした区別をつけて、何が善であり、何が悪であるかを峻別する聖書の二元論を非難して、キリスト教は、このようにすべてに区別をもうけようとする父性原理ばかりが強すぎて、すべてを慈愛によって包容する母性原理が足りず、それゆえ、バランスが取れていないため、キリスト教は精神異常や狂気を生むなどと主張する。

ペンテコステ・カリスマ運動にもし「教義」というものがあるとすれば、それはこのように伝統的なキリスト教にあたかも「重大な欠陥」が存在しており、それゆえ、キリスト教が「人を精神異常に追い込む狂気の根源」となっているかのように主張し、それを口実に、あたかも聖書の御言葉だけでは不十分であるかのように、キリスト教の中に聖書にはない「何か」を巧みに持ち込み、つけ加えることにあると言えよう。

彼らがキリスト教につけ加えようとしているその「何か」とは、聖書の二元論という「父性原理」を骨抜きにするための「母性原理」である。
 
彼らの理屈によると、キリスト教では、何が善で何が悪であるかを厳しく区別する父性原理の二分性が人間を苦しめ、狂気に追いやっているという。そして、「キリスト教は、あまりにも厳しすぎる区別をもうけたがために、人間を狂気や精神異常に追いやる宗教となった。そこで、そのようなことの起きない、人にやさしいキリスト教を新たに作り出さねばならない」と主張し、そのために、キリスト教は父性原理の二元論を廃し、物事に区別をつけずにすべてを慈愛によって優しく包容する、母のような寛容さを補うべきである、と言うのである。

こうして、ペンテコステ・カリスマ運動は、まずはキリスト教を「ディスカウント」し、もともと聖書にはない「何か」を、あたかも聖書の教理に補われるべき要素であるかのように主張して、「慈愛」や「慈悲」などの美しい言葉を口実に、キリスト教を骨抜きにするような、すべてを曖昧にして包容する「母性的要素」を、キリスト教につけ加えよと要求するのである。
 
だが、当ブログの読者であれば、このような形でキリスト教に「母性原理」をつけ加えると、どういう恐るべき結果がもたらされるかは、あえて説明しなくとも了解しているものと思う。

それでも、キリスト教の「父性原理」に、キリスト教にはない「母性原理」をつけ加えようとすれば、何が起きるのか、それを「家庭内紛争」にたとえながら、あえて説明したい。

家庭の中で、父は、一般的に、規則や権威を象徴する存在である。そこで、ある家で、父親が子供に向かって「宿題はかならず毎日夜の8時までには終えて、夜9時には就寝しなさい」というルールを定め、子供がルールを破った場合には、罰を受けなければならないと定めたとしよう。

しかし、子供がルールを破り、父親が叱責と罰を加えようとする度に、母親が飛んで来て、「お父さん、あなたの決めたルールはあまりにも厳しすぎて理不尽で、それを理由に子供を罰するなんて、残酷すぎます。そんなにまでも、すべてをはっきりさせる必要が本当にあるんでしょうか。あなたはいつも小さなことで目くじら立てては、子供を叱っていますが、あなたのやり方では、子供は委縮してしまってのびのび成長できません。教育上有害です。」などと言って、毎回、子供をかばったら、その子はどのように成長するだろうか。

母親は子供をかばってさらに言う、「お父さん、今日、この子は宿題をまだ終えていないのに、あなたは9時だからもう寝なさいと言いますね。でも、それじゃあ、この子は明日、学校で、宿題を忘れたと言って、友達の前で、自分だけ恥をかかされ、先生から怒られなければいけなくなるんですよ。あなたはこの子が友達の前で恥ずかしい思いをして、それが原因でいじめられるようになっても、何とも思わないんですか? あなたはそうやって、いつも規則を守ることの方が、人間の感情よりも優先されるべきだと言いますが、あなたは私から見れば、規則を口実にして、ただ子供に対して威張り散らして、鬱憤晴らしをしたいだけなんです。そんな動機で、可愛い我が子を危険にさらすことは私には許せません。この子の宿題は私が代わりにやってあげますから、あなたは何も言わないで下さい。私はあなたの定めたルールにも、罰をもうけることにも反対です。」

母親がこんな風に主張すれば、家庭の秩序は成り立たなくなる。おそらく、子供は父の権威を侮るようになり、父を平然と見下げるだけでなく、父は自分の幸福を願っておらず、いたずらに権威を振りかざして自分を威圧し、罰しようとしているだけなのだと考えて、父を憎むようにさえなるだろう。そして、自分が恥をかかず、心傷つけられず、罰せられないで済むように、自分に都合の良いことを言ってくれる母の言うことだけを聞くようになり、母にべったりと甘え、そのうち、自分はどんな過ちを犯しても、決して罰を受けることなどないと高をくくるようになり、一言で言えば、途方もなく甘やかされて、駄目になってしまうに違いない。

このように、ルールを定め、それによって物事の是非をはっきりさせて、ルールを破ったものには罰をもうけるという、父性原理に基づく二元論的な考え方と、何もかも白黒つけずに「母のような慈愛によって」包含しようとする母性原理に基づく考え方は、決して相容れない。このことからも、キリスト教に「父性原理」と「母性原理」を同居させようとする試みは、決してうまくいくことがないと言える。そのようなことをすれば、キリスト教は骨抜きにされ、崩壊するだけである。
 
にも関わらず、ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教の「父性原理」が悪の根源であるかのように主張して、これを否定して、そこに「母性的な要素」をつけ加えることで、キリスト教の「残酷さ」や「偏狭さ」を改革できると言うのである。一見、その言い分は、「愛」や「憐れみ」にカモフラージュされているため、人の耳には心地よく響くであろうが、その教えを受ければ、信者はもはやキリスト教徒ではなくなり、異端の教えによってすっかり自己を肥大化させられた、およそ信者と呼べないばかりか人としても駄目な人間になってしまうだけである。
 
一言で言えば、ペンテコステ・カリスマ運動は、それ自体が、キリスト教に偽装しつつも、キリスト教を骨抜きにして崩壊させるために登場して来た異端の教えなのである。そして、この運動が主張する「母性原理」なるものの起源も、東洋的な非キリスト教的異教にある。

これまで確認して来たように、ペンテコステ・カリスマ運動がキリスト教に足りないと言って導入しようと試みている「母性的要素」とは、もとを辿れば、非キリスト教・異教的な宗教哲学から受け継がれた母性崇拝に由来する。

多くのオリエント・東洋宗教哲学においては、キリスト教のように、「父なる神」が万物を生み出したとは考えられておらず、万物の生命の源として、女性原理の象徴である「神秘なる母性」が讃えられる。(この「母性原理」は、様々な宗教神話において「女神」の形を取って現れたり、あるいは、必ずしも人格を持たない万物の生命の源として「神秘なる母性」、「神秘なる混沌」などと呼ばれる。老子はこれを「玄牝」と呼んだ。)

早い話が、ペンテコステ・カリスマ運動とは、 このように異教に由来する原則を、公然とキリスト教の中に持ち込もうと試みているだけであって、この運動は、西洋的な伝統的なキリスト教と、東洋的・オリエント的な母性崇拝を混ぜ合わせて出来上がった混合宗教なのである。
 
このことを理解すれば、我々は、なぜペンテコステ運動の只中から生まれて来たカルト被害者救済活動のような運動に影響を受けた人々が、クリスチャンに向かってしきりに「精神異常者」のレッテルを貼って中傷しようとしているのかを理解できるだろう。

彼らは、たとえば、完全に健康な筆者に向かっても、何の根拠もなく、「立ち直り不可能な人格障害に陥っている」かのような決めつけを長年に渡って行って筆者を中傷しているのだが、こうして彼らがクリスチャンに「精神異常」というレッテルを貼りたがる背景には、そもそもペンテコステ・カリスマ運動が、「伝統的な西洋的キリスト教は、人間を狂気に陥らせる宗教だ」とみなして非難していることが挙げられる。

つまり、この運動が、聖書に基づく純粋なキリスト教そのものにあたかも重大な欠陥があって、それがために「父性原理ばかりが強すぎるキリスト教が、人を狂気に陥れている」かのように主張しているからこそ、その運動の支持者たちは、キリスト教だけでなく、聖書に忠実に従うクリスチャンたちにも、「狂気の宗教」を信じる「精神異常」のカルト信者といったレッテルを貼り、さかんにディスカウントしているわけなのである。

ペンテコステ・カリスマ運動は、あたかもキリスト教の一派のように、プロテスタントの中で座を占めているが、以上のようにキリスト教をディスカウントして聖書にはない新たな要素をつけ加えるよう主張している人々が、クリスチャンであろうはずなく、この運動は、ただキリスト教に偽装して、キリスト教を内側から骨抜きにして破壊するために登場して来た、根本的に異端の教えなのである。

彼らは、(彼らに言わせれば)「狂気を生み出す根源」でしかないキリスト教の父性原理(二元論、御言葉による切り分け)を攻撃して否定し、御言葉に忠実に従うクリスチャンに狂気のレッテルを貼って、真にクリスチャンを駆逐したいがためにこそ、日夜、以上のように根拠もない印象操作や人格攻撃にいそしんでいるだけなのである。そのような異常な一群を生み出すペンテコステ・カリスマ運動が、聖書を土台にしていないことは明々白々である。

しかし、終末においては、このようにキリスト教の装いをした忌むべき混合宗教が、世界規模で登場することになると予告されている。それが聖書の黙示録に登場する「大淫婦バビロン」であり、彼女が「混ぜ合わせた杯」(黙示18:6)を持っていることからも、バビロンとは、キリスト教と、それとは異質な異教的な要素の混合物であることが分かる。

その「混ぜ物」こそ、東洋・オリエント的異教に由来する母性崇拝の原理であって、ひいては、人間を神とする反逆の思想なのである。


・ペンテコステ・カリスマ運動は、「母」の罪を擁護し、私生児として生まれた「父なし子」を「神の家の後継者」であるかのように詐称するグノーシス主義神話に基づく「神の家の乗っ取り運動」である
 
さて、ここで、非キリスト教的異教が「母性崇拝」を掲げていることは、決して意味のないことではないと断っておきたい。

聖書によれば、万物を生み出したのは「父なる神」であって、母性原理は生命の源ではない。

聖書では、キリストを生んだ処女マリアを例にとっても、彼女はあくまで聖霊によってみごもったのであり、彼女の「女性原理」がキリストを生んだわけではない。イサクを産んだサラも同様で、父なる神の「約束」があって初めてイサクが生まれた。黙示録には、龍に迫害されながら、男の子を生む女が登場するが、この女も、諸説あるとはいえ、母なるエルサレムや、エクレシアを象徴していると考えられており、エクレシアがキリストに属する御霊の実を生むにあたっても、やはり単独で子供を生めるわけでなく、必ず、そこには御霊による働き、御言葉に基づく約束がある。

聖書において、これらの女たちが幾度も「夫のない女」「一人残された女」「産まず女」などと、蔑称のような言葉を用いて、霊的に独身・未婚であると強調されているのは、彼女たちには、キリストを抜きにして自分の力では決してまことの生命を生み出す力がないことをよく表していると言える。

つまり、聖書においては、生命を生み出す根源は、常に神の側にあり、被造物それ自体には、キリストとの結合なくして、自力でキリストに属する産物を生むことは決してできないのである。

ところが、カリスマ運動の指導者の手束正昭氏は、すでに見て来たように、聖霊を「母なる霊」と定義することによって、「父なる神」と「母なる聖霊」と「子」の「三位一体」という、聖書には全く記されていない異常な教理を主張し、あたかも、キリストが「父なる神」という父性原理の象徴と、「母なる聖霊」という母性原理の象徴との結合の結果として生まれたかのようにみなし、「母なる霊」という呼び名で、異教に由来する母性崇拝の原理をキリスト教に偽装して持ち込もうとする。

このような異端的な教説では、まだ「母なる霊」が単独で子を産み出したまでは言い切られていないが、聖書にはない「母性原理(母なる霊)」がつけ加えられることによって、神の独り子であるキリストが、あたかも「母なる霊」によって生み出されたかのように主張されている。

こうして、手束氏の考える「キリスト教」には、東洋・オリエント的母性崇拝の思想が公然と持ち込まれ、それによって聖書の教理までがすっかり変質させられているのである。

そして、これまでにも書いて来たように、このように生命を生み出す根源が、あたかも「母性原理」にあるかのように唱える主張は、異教に由来するだけでなく、もとを辿れば、グノーシス主義に起源がある。

グノーシス主義には、すでに述べたように、共通して、女性人格が単独で生命を生み出すという神話的プロットがある。そこで、万物の生命の根源があたかも女性原理にあるかのように唱える異教的な思想は、大きく見れば、すべて根源的にグノーシス主義を土台にして成り立っていると言える。

このように、異教的な思想が、「父性原理」よりも「母性原理」を高く掲げるのは、神と被造物との主従関係の逆転するためであり、結論から言えば、異端とは、唯物論的な被造物崇拝の教えなのである。
 
聖書によれば、神は人類をご自分に似せて、ご自分の助け手として創造された。そこで、人類は神に対して霊的に女性の立場にある。また、聖書においては、男が先に創造され、男をもとに女が造られている。

だが、すべての異端的思想は、この正当な秩序を覆し、神によって創造された被造物に過ぎない人類(霊的に女性)を、あたかも創造主であるかのように主張し、神以上に高く掲げる。

東洋的な異教が「女性原理」を「父性原理」よりも高く掲げようとするのは、その背景に、「本来は神に似せて、神から生み出された被造物に過ぎない人類を、創造主である神以上に高く掲げたい」とする欲望があるためである。

フェミニズム神学(およそ異端なので本当は神学という名に値しないが)は、「女が男から造られた、男よりも弱い被造物だという聖書の記述は、女を男の付属物に貶める男尊女卑の考えであって、誤りである」などと主張して、聖書の記述を否定する。

母性原理を高く掲げる異教的な思想もこれと同じ理屈を用いて、「人類が神によって、神に似せて創造された被造物だという考え方は、人類を神よりも劣ったものとみなしている点で、人類に対する許しがたい差別・蔑視であって、事実ではない。我々はキリスト教の神による人類へのこのような蔑視を決して認められない」と主張して、神と人類との関係を逆転しようとしているのである。

このように、東洋的な異教の思想において誉めたたえられている「女性原理」とは、文字通りの女性を指すのではなく、被造物全体、もっと言えば、神の被造物としての人類全体を象徴しているのだと言える。そして、ペンテコステ・カリスマ運動のような思想が、キリスト教の「父性原理」の中に「母性原理」を持ち込むことで、両者を競合させ、最終的には「母性原理」によって「父性原理」を骨抜きにし、駆逐して行こうとしていることにも、創造主と被造物との関係を逆転させようという意図が込められている。

そこで言われる「父性原理」とは、父なる神を指している一方、「母性原理」は人類全体を指しており、結局、ペンテコステ・カリスマ運動も、神によって創造された被造物に過ぎない人類を、神と対等か、神以上に高く掲げ、人類を神と同一視して、聖書の父なる神に反逆して、創造主と被造物の関係を逆転させようとしている教えなのである。
 
このように、東洋思想が「女性原理こそ万物の生命の源」であると主張していることには、結局、「我々人類は、誰の手にもよらずに単独で生まれた独立した存在であって、誰の被造物でもない。そして、我々自身が、神のように、単独で生命を生み出す力を持つ、神に等しい存在なのだ。」という主張が込められているのである。

そして、このような東洋的な母性崇拝をキリスト教に混ぜ込んで出来上がったペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた人々は、その教えがもたらす当然の結果として、聖書が教える「人類は神によって造られた被造物に過ぎず、創造主である神に服する義務がある」という基本原則に反抗して、被造物である自分自身を「神」として最高の地位につけようと高く掲げるようになり、自画自賛に溺れて行くのだと言えよう。

ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教にそのような悪しき結果をもたらす致命的な毒素としての「女性原理」を受け入れよと迫っているのである。

(ちなみに、筆者はペンテコステ・カリスマ運動のみならず、「エクレシア崇拝」に陥ることも、以上と同様の反聖書的な考え方であるとみなしている。クリスチャンが自分たちの集会を絶対化したり、賛美するようになれば、それ自体が偶像崇拝に該当する。エクレシアであろうと、何であろうと、被造物に過ぎないものを、キリスト以上に高く掲げることは、すべて「女性原理の崇拝」と同じなのである。)

さて、これまで、グノーシス主義には「女が単独で子を産む」という聖書に反する考え方があると記した。グノーシス主義には神話はないが、神話的プロットと呼んでも差し支えないような共通の筋書きがあり、大きくまとめると、それは以下のようになる。

➀ 万物を生み出す「まことの父(真の至高者)」の能力を見て、「女性人格」がそれを嫉み、自分もその能力が欲しいと願う
② その結果、「女性人格」が規則を破って、「男性人格」の参与なく、単独で子を産む
③ 「女性人格」はその違反の結果として天界から転落しかかり、違反の結果生まれた「子」も転落して醜く愚かな「悪神」となって下界を支配する
④ しかし、「女性人格」が単独で生んだ「子」(悪神)の子孫である「人類」は、悪神よりも賢く、知識の啓示を受けて、自分には「まことの父(真の至高者)」に由来する「神聖な霊の欠片」が受け継がれており、自分の本当の父は「悪神」ではなく、「まことの父」なのだと気づく。
⑤ 人類は、こうして自分が「まことの父」の子孫であると自ら名乗り出ることによって、「母の過ち」を修正し、「母子」ともに天界へ復帰する。

このような物語では、第一に、女性人格が単独で子を生むという違反を犯すことによって、万物の生命を生み出す力は、誰にあるのか、「父なる神」にあるのか、それとも、「母なる神」にあるのかが全く分からないという混乱が持ち上がる。

そして、さらに、人類は、女性人格が単独で生んだ子の子孫であるとされることによって、人類は事実上、父がいないも同然の存在(父を喪失した存在)となる。

だが、最下位の女性人格であるソフィアが単独で子を生んだということは、より深い文脈では、グノーシス主義が、「人類とは、聖書の神によって創造された被造物などでは決してなく、誰にも創造されることなく、自力で生まれた独立する存在なのだ」と言わんとしていることを意味する。

グノーシス主義は、旧約聖書における神を「悪神」とみなし、これをヤルダバオトとか、デーミウルゴスなどと呼び、無知で愚かな神として徹底的に侮蔑する。グノーシス主義のプロットによれば、この「悪神」こそ、最下位の女性人格であるソフィアが単独で子を生むという違反に及んだ結果生まれた、醜く、愚かな、出来そこないの「神」である。

この「悪神」は、出来そこないの醜い産物であるにも関わらず、身の程知らずな思い上がりに陥って、自分こそ至高の神であり、他の神はないと思い込み、「わたしの他に神はいない」「わたしは妬む神である」などと豪語しながら、「神」の称号を不当に独り占めしていると、グノーシス主義は言う。そして、悪神であるがゆえに、彼の創造した被造物はすべて醜く不完全で、それゆえ、地上は不幸に満ちていると言うわけである。

グノーシス主義はこのようなフィクションを作り出すことにより、聖書が「神は唯一である」と述べていることを嘲笑し、聖書の神が「妬む神」であって、決して神という称号を他に明け渡すことがないという事実を徹底的に否定・侮蔑・嘲笑しながら、聖書における神を、醜く愚かな「悪神」にたとえて冒涜する一方、その悪神の子孫であるはずの人類を、悪神よりも賢く高貴な存在として描き、人類こそまことの「神」の子孫であるから、悪神を否定的に超えて天界に復帰できると主張するのである。

だが、このようなものは随分虫の良い身勝手な話であって、額面通りに受けとる方がどうかしていると言えよう。

グノーシス主義の以上のような神話的プロットでは、いくつもの論理破綻と言っても良い規則破りが犯されている。

まず第一に、グノーシス主義においては、あらゆる概念が「対」としてとられ、単独では完全でないとされているにも関わらず、女性人格であるソフィアが、対となるべき男性人格の了承なくして、単独で子を産みたいと願い、実際にその行為に及ぶ時点で、「対」の原則が破壊されている。

次に、その「母」である女性人格は、単独で子を産むという「違反行為」を犯したわけだから、普通に考えれば、その結果、生まれた「子」は、誰を「父」としているのか分からず、それを立証する手立てもないはずである。要するに、その「子」は私生児である。

グノーシス主義の一部の物語によれば、人類は、女性人格が違反を犯して単独で生んだ悪神から生まれた子孫であるだけでなく、悪神が自分を生んだ母を知らずに凌辱して生まれたのが人類だという。単なる「私生児」であるだけでなく、あまりにも悲劇的な生い立ちである。

にも関わらず、グノーシス主義においては、そのような「悪神」によって創造された素性も知れない「人類」(ソフィアが違反の結果生んだ愚かで醜い「悪神」の子孫)が、どういうわけか、悪神よりも上位の神の似像として造られ、その息を吹き込まれているため、悪神を超える存在であり、「神聖な知識の啓示」を受けて、自分は天界にいる「真の至高者(真の父)」のDNA(「神聖なる霊の欠片」)を受け継ぐ神聖なる存在であると気づくことによって、「真の父」の後継者であると自ら名乗り出て、「母の過ち」を修正して、「母子」ともに天界に復帰するのだというのである。

このような話を聞いていると、この「母子」はどこまでも得体の知れない存在だと思わずにいられない。

なぜなら、グノーシス主義が、「人類」は「真の至高者」の子孫であると主張していることには、いかなる客観的な根拠も存在せず、その神話的なプロットの中でさえ、「真の至高者」の側からの「子」への承認や賛同(認知)はなく、「人類」が自分は「真の至高者」の子孫であると主張しているのは、完全に自称の域を出ない、思い込みのような話でしかなく、極言するならば、詐称と呼んで差し支えないほどに疑惑に満ちた主張だと言えるからなのである。
  
そして、人類が本当に「真の至高者」の子孫だというならば、「真の至高者」がそのプロットに登場して、自分の子として人類を認知しないのは一体、なぜなのかという疑問が生まれよう。しかし、グノーシス主義における「真の至高者」とは、そもそもそれ自体が、あたかも人格を持たない虚無の深遠、混沌のような概念であるため、この神話は初めから「真の至高者」の存在や意志など全く無視して出来上がっていると言えるのである。

こうして、グノーシス主義の神話的プロットでは、どこまでも「父」がないがしろにされ、「母」だけが重んじられる一方的なストーリーが展開されるが、こうして、「父」からの承認や応答を一切抜きにして、「違反」を犯した「母」と、「知識の啓示」を受けたと自称する「子」だけが、何一つ客観的な証拠のない、思い込みのような主張により、自分たちは「まことの父」の正当な子孫であるから、神の家に復帰させよと主張して、「母の過ち」を正当化し、母子ともに名誉回復して幸せになろうと目指す、というのが最終目的なのだから、こんな話はあまりにも眉唾ものと思われるのである。

一言で言えば、この話は、家の相続権を巡る争いであるが、一目見ても、これほど素性の分からない「母子」に本当に「真の至高者」の子孫として名乗り出る資格があるのかという疑いが生じるのは当然である。
 
さらに、このような出生の汚点を抱えて生まれた「子」としての人類は随分、不幸な存在である。まず、「母」が極めて身勝手な存在であり、「母」は自分の過ちによって、不幸な出生の「子」を誕生させた上、自分の名誉を挽回するために、「子」を生涯、自分の欲望の道具として束縛してしまう。「子」は、「母」をかばって自分のルーツを正当化し、出生の汚点を取り除くためには、「母の過ち」を修正するために生きるしかなく、証拠があろうとなかろうと、自分が「真の至高者」の子孫であると名乗り出るしか手立てがないという状況に置かれている。この「母子」は不幸な運命共同体であって、こういう状況に置かれている限り、「子」には「母」から自立できる見込みは全くない。

この物語では、「母」の過ちによって、すべてが狂わされたにも関わらず、その過ちがとがめられることもなく、罰せられることもなく、その後、屁理屈のような主張が延々と積み連ねられることによって、「母の過ち」修正して正当化することが最終目的であるとされ、そのために、人類が存在するとされ、連綿と不幸が生み出されているのである。

この物語だけを眺めても、本当の「犯人」は決してグノーシス主義が徹底的に侮蔑する「悪神」ではないだろうと思われて当然である。なぜなら、この「悪神」も、ソフィアの過失のために誕生した不幸な産物に過ぎないためである。にも関わらず、グノーシス主義の神話的プロットにおいては、その「悪神」だけが悪者とされ、ソフィアの過ちが咎められず、人類の使命が「母の過ちを修正する」ことにあるとされているがゆえに、この物語はどこまで行っても不当な主張に満ち溢れた荒唐無稽な内容なのである。
 
このように得体の知れない「神話」が、キリスト教に偽装して、キリスト教の中に公然と入り込んで来ると、当然ながら、真にキリストによって生まれ、神の国の正統な後継者たる神の子供たちが、迫害される結果になるのは避けられない。信仰もなく、キリストによって生まれた事実もなく、場合によっては、聖書の父なる神をさえ信じていない、全く素性の明らかでない人々が、公然と神の家(教会)の後継者を詐称して、神の子供たちであるクリスチャンたちを脅かし、駆逐するようになるのは避けられない。

「父」を裏切ってひそかに誰の子とも知れない子を産んだ「母」と、誰を「父」としているのかも分からない「子」がタグを組んで、自分たちこそ神の正当な子孫であって、神の家の正当な後継者であるかのように主張して、天界に復帰を企てるというグノーシス主義的な「神話」が、キリスト教の中に入り込むと、結局、真に聖書に従うクリスチャンたちを迫害し、教会から追い出して、神の家を乗っ取ろうとする運動が生まれるのは当然である。

ペンテコステ・カリスマ運動は、キリスト教に「母性原理をつけ加えよ」と主張することによって、以上のような悪しき目的を果たし、正当な資格がないにも関わらず、不当に神の家を乗っ取ろうと目論んでいるのだと言える。この運動は、本来的にキリスト教に属さない、聖書の神に属さないはずのものを、あたかも正当なキリスト教であるかのように主張して、神の家を乗っ取り、堕落させるために生み出された運動なのである。

だからこそ、カルト被害者救済活動などという恐るべき忌むべき運動も、ペンテコステ・カリスマ運動の只中から生まれて来ているのである。

カルト被害者救済活動が目的としているのも、結局は、「母の過ちを修正すること」、すなわち、人類の罪を、人類が自力で修正することなのである。

この運動は、何らかの原因があって、教会生活につまずき、信仰生活につまずき、聖書の神への信仰を捨て、教会やクリスチャンに恨みを持った人々が、信仰がないため、本来は、教会の一員となる資格もないにも関わらず、自分たちの被害者意識を口実にして、教会を責め、クリスチャンに罪悪感を持たせることにより、自分たちを教会の一員として受け入れよと迫っているのである。

教会はキリストの十字架の贖いを通して罪赦され、贖われた人々のものであるはずなので、信仰のない人々には無縁であるはずだが、この人々は、贖われていないか、贖いを自ら否定しているのに、被害者意識を口実に、自分たちが神の家に入り込む資格があると主張して、自分たちを神の子として「認知」するよう、クリスチャンに迫っているのであるから、このようなものは、神の家の乗っ取り運動である。

このように神の家の正当な相続権を持たない「私生児」が、信仰もないのに、教会を占拠し、正当な相続権を持つ神の子供たちであるクリスチャンを脅かし、迫害し、負い出しているのである。

だが、ペンテコステ・カリスマ運動の教義の異端性を考えるなら、この異端的運動の只中から、こうした極めて異常な歪んだ「救済運動」が生まれて来たのも、まさに必然と言える。

さて、ここまでは、これまでの記事においても幾度か述べて来た内容と重なるが、ここから先は、「グノーシス主義の思想 <父>というフィクション」(大田俊寛著、春秋社、2009年)という、このテーマを掘り下げるに当たり、議論の材料を与えてくれそうな極めて興味深い文献なども参考にしながら、ペンテコステ運動のグノーシス主義的起源をめぐる議論の中核にさらに迫っていきたい。

だが、結論から述べておけば、「父性原理を重んじ、母性原理をないがしろにする伝統的なキリスト教の二元論が、人間を狂気に追い込む原因となっている」などというペンテコステ・カリスマ運動の主張は、完全な偽りであって、笑止千万な荒唐無稽である。

むしろ、真実は、それとは全く逆であり、以上のような論理破綻したグノーシス主義的「神話」こそ、人間の精神を著しく害し、精神異常に追い込む狂気の根源なのである。

すでに述べたように、母性崇拝(女性原理の崇拝)の思想とは、被造物である人類が、あたかも創造主であって、自分自身が神であるかのように唱え、まことの神に反逆する反聖書的な思想のことなのであるが、グノーシス主義はまさにそのような聖書に対するすべての反逆的思想の土台となる思想である。

そして、グノーシス主義の「神話」とは、罪を犯した者が決して己が罪を認めず、過ちの責任も取らずに、本来、罰せられて然るべきにも関わらず、罰を免れて自己正当化をはかり、堕落したルーツしか持たない者が、そのルーツをごまかして、自分を神の子であると詐称して、自己正当化をはかるために作り出された終わりなき嘘であるため、この「神話」では、一つの嘘をごまかすために、次の嘘が作り出され、そうして人類が自分のルーツをごまかすために、果てしなく嘘で塗り固めた「創作神話」が述べられ続けているのである。

そのような荒唐無稽な神話に没入して行った挙句、その人の精神の正常性が保たれることはまずない。

繰り返すが、聖書の二元論が人を狂気に追い込むのではなく、グノーシス主義的荒唐無稽な神話が、人を狂気に追い込むのである。だからこそ、この異端の影響を受けたペンテコステ・カリスマ運動からは、至る所で、眉をひそめるような混乱が引き起こされ、また、カルト被害者救済活動のように、信仰を持たない人間から見ても、全く異常であるとしか言えない運動ばかりが登場し続けているのである。

<続く>

カルト化する安倍政権――霊媒師・安倍晋三率いるオカルト政府による、国民への「呪い」と目くらましの「魔法」としての「まつりごと(祭祀)」と、偽りの人工芝・反対運動――

・ソ連の末期状態との類似性――いよいよカルト化・反社会化して、凶悪さをむき出しにする安倍政権――

安倍政権はいよいよ断末魔の状態にさしかかっているように見受けられる。この政権のやることなすことすべてが支離滅裂・あからさまな反社会的・国民蔑視・愚弄の抑圧政策になっている。

憲法改正や、緊急事態宣言など、この政権が実行を目論む凶悪な政策は、これからが本番とはいえ、あまりにも政治の劣化が激しいので、いよいよ体制の崩壊が近いのかも知れないと感じられる。まさに国家のメルトダウンが起きている。

戦後、本来ならば、もっと早くに倒されていなければならなかった体制が、そのまま温存された弊害がいよいよ誰にも無視できないほどに明らかになって、真の意味での体制転換の日が迫っていると見られる。

ソ連はチェルノブイリ原発事故後、そう長くは持ちこたえられなかった。ゴルバチョフが推し進めたペレストロイカ、グラースノスチによって世に出たスターリン時代を含むソビエト体制の暗黒時代の政府の機密資料の存在が、ソ連の体制の信頼失墜の決定打となり、崩壊を導いたことは疑いがないが、それに加えて、チェルノブイリ原発事故の悪影響をソ連政府が隠蔽し続けた悪影響も、相当に大きかったことであろう。

ソ連に限らず、理念を失った国家は滅亡する以外に道はない。戦前の財閥と天皇家の血縁と肥大化した官僚機構に支えられる現在の日本の国家体制が辿りつつある道は、古代ローマ帝国の崩壊や、ソ連崩壊を彷彿とさせる、内側からの道徳的腐敗・腐食による国家のメルトダウンである。

この政府の終わりは存外に早く来るかも知れない。今、国会を蹂躙している政権与党は、力が尽きるまでやりたい放題のことをするであろうが、彼らの拙速すぎる愚かな行動が、報われる日は来ないと思う。

景気が回復しないのに、国家公務員の給与やボーナスだけを政府がずっと引き上げ続けて、官僚のご機嫌を取っている近視眼的な策も、政府の寿命をさらに縮めるだけであろう。

福島原発事故にかかるコスト、さらにオリンピックによって生じる多額のコストも、急速な人口減少とあいまって、国家財政の赤字化に急速に拍車をかけるであろう。

ここに一つの予測を述べておくと、2020年を境に、この国の人口バランスと財政状態は目に見えて急速に悪化するものと思う。従って、公務員の給与引き上げなどは、あと二、三年もしないうちに、タブーとなるものと思う。そして、この国の行政府は、全体が、間もなく夕張市のような縮小の末路を辿ることになる。

だから、国民は、劣化する政府のまやかしの言辞に全く希望を託すことなく、今から自存できる方法を探しておくに越したことはない。遠からず、今のような政府の形態は終焉を迎えることになるだろう。そうなれば、組織や団体にすがってしか生きられない人々が、真っ先に難民化することになる。

国内の足元の土台が崩れ始めている時に、防衛費を拡大し、戦争に前のめりになっても、労働力と食糧さえまともに自給できないこの国に戦争の遂行が無理であるのは、すでに70年以上前に立証済みである。我が国には戦争に長期に渡り持ちこたえられるだけの体力も知恵もない。経済活動においても原則は同じであり、国内で需要を満たせない分、野心を抱いて海外に進出すれば、情勢の悪化に伴い、撤退を迫られたり、社員が現地に取り残されて帰国できなくなるだけである。


・リゾート法の二の舞となるであろうカジノ法案――20年と経たずに次々と破綻したテーマパークの前例――
 
さて、カジノ法(案)については、政府与党は、参議院での採決を延期するか、省略するかして、国民の目を欺き、国民感情が冷めてから実行に移せば何とかなると考えていると思われるが、現実はそれほど甘くない。

国会で拙速に法案を通したとしても、その後、カジノ法には、予想もしなかった様々な障害が持ち上がり、結果として、近道をしたはずが、最も遠回りになるだけであろう。

そもそもカジノなど、原発と同じで、いざ立地となれば、強硬な住民反対運動が起きることは目に見えている。
 
自分の住む街を、一攫千金の夢に騙されて賭けに負けた、人生のうらぶれた敗残者たちが、夜な夜な当てもなくうろつくような、恐ろしい界隈にしたいと願う住人は一人もいない。

どんなにIRに建設されるのはカジノだけではないと役人が念を押しても、住民は「今のままで十分」、「怪しげな大人たちにウロウロされたんじゃ、子供を連れて散歩もできなくなる」、「治安が悪くなり、地価が下がる」などと言って反対することだろう。

カジノ建設を巡っても、原発建設の場合と同じような、建設反対派と賛成派とによる住民同士の分断や、長期に渡る反目が助長されかねないことだけでも、すでに今から大いなる負の懸念材料である。

さて、「「巨大カジノ」で日本経済は本当に良くなるのか?」(静岡大学人文社会科学部教授 鳥畑与一 YOMIURI ONLINE 2016年11月07日 11時43分)などの論稿を参照しても、改めて、カジノを誘致して栄えた都市は基本的に世界にはないのだ、と思わざるを得ない。

カジノ大国の米国でさえ、
  


カジノによる繁栄の象徴であったアトランティックシティ(ニュージャージー州)が、カジノ収益の半減により、12あったカジノのうち、5つが閉鎖し、市経済が破綻に瀕している。ミシシッピ州の貧しい街がカジノで再生し、「チュニカの奇跡」と称賛されたカジノ街・チュニカも同様である


という状況であり、世界では希少なカジノ誘致の成功例のように言われるシンガポールでも、国内客のカジノ利用は厳しく規制されている。つまり、シンガポールのカジノは主として外国客向けで、国内客が集まらないおかげで、ようやく治安と依存症対策が保たれている様子である。

だから、もともと観光を主産業としているわけでない日本にカジノを建設してみたところで、外国客だけを最初からターゲットに絞るのは極めて困難と思われる。複合型施設というのであれば、なおさらのことである。従って、日本にIRを建設し、これを日本人客向けに経営すれば、結局、日本人の利用客を対象として見込むことになるが、この娯楽は日本人の従来の生活観・道徳観になじまないので、客足が遠のいて米国の二の舞となり、カジノは早期に破綻し、街の活性化にはつながらず、ただ治安が悪くなるだけに終わることは目に見えている。

カジノ法案は、かつてのリゾート法を彷彿とさせるが、カジノも、経営戦略においては、他の娯楽施設とそう大きな違いはないはずである。

かつてバブル期の87年に「総合保養地域整備法(通称リゾート法」が成立した。これに基づき、全国に無数のテーマパークの建設ラッシュが相次いだが、そのほとんどが、わずか20年も経たずに経営破綻したという事実に、大型娯楽施設の経営の難しさがよく証明されている。

次のサイトに掲載されているだけでも、リゾート法成立後に建設され、破綻(閉園)となった有名どころのテーマパークはこれほど数多く存在する。(紫字はすでに閉園済)。

倉敷チボリ公園の閉園や、ハウステンボスの経営破綻などは有名な例だが、リゾート法に後押しされて、国内客を当て込んで建設されたテーマパークは、その9割近くがすでに閉園となり、しかも、カジノの場合は、対象客が絞り込まれておらず、需要が明白でない上に、他の娯楽施設にはない弊害が「負のおまけ」として着いて来る。
 

長崎オランダ村(開園1983年、閉園2001年)
ハウステンポス(開園1992年、2003年破綻)
グリュック王国(帯広市 開園1989年、閉園2003年)
カナディアンワールド公園(芦別市 開園1990年、閉園97年)
志摩スペイン村(三重 開園1994年、2006年経営再建)
レオマワールド(丸亀市 開園1991年、2000年閉園)
呉ポートピアランド(呉市 92年開園、98年閉園)
柏崎トルコ文化村(柏崎市 96年開園、2001年閉園)
ナムコ・ワンダー・エッグ(1992年開園、2000年閉園)
シーガイア(宮崎 開園1994年、2001年破綻)
ワイルド・ブルー・ヨコハマ(開園1992年、2001年廃園)
鎌倉シネマワールド(95年開園、98年閉園)
富士ガリバー王国(上九一色村 97年開園、2001年閉園)
アジアパーク(熊本県荒尾市  93年開園、2000年閉園) 
チボリ公園(倉敷市 97年開園、2001年経営建直し、2008年閉園)
スペースワールド(北九州市 90年開園、2005年破綻)
新潟ロシア村(1993年開園、2003年閉園)
フェスティバル・ゲート(97年開業、2004年閉業)
ネイブルランド(大牟田市 95年開園、98年閉園)
伊豆長岡スポーツWワ-ルド(伊豆の国市、88年開園、96年倒産 )


かつてのリゾート法の反省もないままに、またぞろ過去と同じような政策を打ち出して来るのだから、よくよく過去の総括ができない愚かな政府である。

リゾート法とカジノ法案の抱える問題の類似性は、どちらもが、地元の歴史や伝統に根差した独自性のある産業の育成に力を入れず、外国からの借り物に過ぎないノウハウを使った娯楽施設を一朝一夕で建設し、短期間で一獲千金を狙うという安易な発想と、地域産業の活性化を国が主導・管理しようとする越権行為である。

早い話が、地域の活性化に名を借りて、国が大規模な建設需要を作り出して、手っ取り早く土建業者に利益を渡すための癒着の仕組みである。地元を犠牲にした利権にまみれた儲け話だから暴走しているのである。

安倍首相はカジノで雇用が創出できるなどと吹聴しているようだが、カジノを使わなければ創出できない雇用など、なくて結構である。売春宿に雇用されていることが、人にとって何の誇りともならないのと同じように、人様の不幸を踏み台にしてまで、自分だけが雇用にありつくことを、人に平気で願わせるような仕組みはこの国に必要ない。そんな「就職」がカタギの人間の人生にとって誇りとなり幸いをもたらすと思っている人間はすでに気が狂っている。

それにしても、市場原理主義もここまで行き着くいたのかと思う末期状態である。もともと金儲けが全てという価値観を教育現場にまで持ち込み、学校時代から、級友を出し抜いて、自分だけがテストで良い点数を取り、受験競争を勝ち抜いて、良い学校へ進学し、エリート官僚になり、エリート企業に就職して、上級国民の仲間入りすることだけを隠れた「国是」とするような、歪んだ教育システムを普及させ、国民の間に無駄に競争を煽った結果がこれである。

国民同士が互いを騙し合い、踏みつけ合い、食い合ってでも、人の弱みを利用して、他者を最大限不幸に追いやりながら、自分一人だけ、利益を得て甘い汁を吸い、勝ち残りさえすれば、人生の「勝者」だというわけであろう。

こんな悪魔的な競争からは、早期にリタイアするに限る。

カジノ法のようなものを放置していれば、次なる儲け話として、今度は国際的な大規模売春施設のビジネス展開やら、福島原発における廃炉作業や、自衛隊のかけつけ警護などを含めた、「現代の特攻・人材派遣ビジネス(実質的な人身売買)」などといった話も出て来よう。

戦前・戦中もそうであったが、人々の経済難・就職難という不幸を悪用して、人間を死出の旅路に赴かせる「人材派遣業(人身売買)」が隆盛を極めるのであろう。

我が国政府は、戦前・戦中も、国民の犠牲の山を作り出し、これを踏み台として、蓄財の根拠とすることにしか関心がなかったのである。その体質は今日に至るまで変わらない。

地方は、これ以上、地元の活性化という自分たちの大切な仕事を、この悪魔的な日本政府に奪われるべきではないだろう。地方の成長には、中央集権化された政府のマニュアルは必要ない。何百年間とそこに暮らす人々の間に受け継がれて来た地の利に関する知識や、伝統産業の技法や、地元の人々の自主的な暮らしの中で得られた知恵と工夫によって、生き延びる策は見つかるはずだ。それは外国から輸入することによって補いうるような紛い物のにわか知識ではないはずである。

大体、人間が自分の頭を使ってきちんと物事を考えなくなり、安易なマニュアルに頼って一獲千金の夢を目指し、それによって経済成長を成し遂げることができると考えるようになれば、そんな人間はもうおしまいであり、そういう考えの地域は真っ先に衰退して滅びるだけであろう。ギャンブルに手を出す人間も、そんな「ビジネス」に頼って産業を活性化できると考える面々も、どうかしており、共に気が狂っている。結局は両者共に同じ穴の狢で、悪魔的破滅へ落ちて行くだけである。関わらないのが一番である。


・各種の目くらましの反政府運動――SEALDsの人工芝・ネームロンダリング・政治資金規正法違反疑惑――

さて、少し遅くなったが、色んな場所で以下のビデオが拡散されていたので、ここにも貼り付けておきたい。

御用メディアと新聞がもはや人々に飽きられて見向きもされなくなってしまった中、アーティストによるこのような「抵抗運動」は、今後ももっと増えて来るものと思われる。もともと芸術には真の犠牲に裏打ちされた迫真性がなければ、決して人々に支持されることはない。

長渕剛について筆者は今は何とも言えないが、各人の抵抗がどれだけ本気であるかは、その生き様によって裏付けられるだろう。中島みゆきのように、ある程度までは、はみだし者・反骨精神のアーティストとしてかなり良い線を行きながらも、団塊の世代の代弁者として高度経済成長などの国策に沿った歌を作り、最終的には国策及びメディアと合体してしまうのか、それとも最後まで反骨精神のアーティストとして残るのか、興味深いところである。


【長渕剛】FNS歌謡祭 初出演!『魂の叫び〜乾杯』(2016/12/07... 投稿者 happy274

ただし、LITERAの解説「長渕剛がFNS歌謡祭でワイドショーや歌番組を真っ向批判! 凍りつくフジ、『とくダネ!』は長渕映像を封印」(2016.12.08.)を読むと、長渕剛は反安倍政権デモの学生団体SEALDsを支持していたようであり、この点はいただけない。

SEALDsについては、すでに色々なところで疑惑が表明されており、その中でも最も有力な説はこれが草の根反対運動に見せかけだけの「人工芝運動」であるということである。以前から当ブログでも、この学生運動は、体制側によって巧妙に仕組まれた偽りの運動に過ぎないという見解を示して来た。

特に、信仰者の立場からあえて言わねばならないことは、聖書に基づくキリスト教信仰と、組織としてのキリスト教界は全く別物であり、キリスト教界(関係者含む)は偽善にまみれて腐敗した組織となっているため、キリスト教界とその関係者から出て来る「善良そうに見える弱者救済運動」は、特に内容を疑ってみる必要があるということだ。

SEALDs代表者の奥田愛基氏の父奥田知志氏は、すでに述べた通り、ホームレス伝道という弱者救済事業に従事する牧師であるが、奥田牧師の弱者救済思想の理念をつぶさに見て行けば、それが極めて聖書から離れた、牧師にふさわしくない異端的な思想であることは、すでに記事の中で明らかにした。

そもそもキリスト教は、聖書の神の御言葉に基づく信仰による救いという、目に見えないパンを人々に紹介することを第一義的課題としており、これは経済困窮者に地上のパンを与えることを主たる目的とする弱者救済の思想や社会活動ではない。にも関わらず、目に見えないパンと、目に見える地上のパンの優先順位を逆にしたとき、それはたとえどんなに人間の目や耳に優しく心地よく響いても、もはやキリスト教ではない悪魔的な思想へと変わって行くのである。

こうした見地に立てば、奥田牧師は真の信仰者でなく、キリスト教徒に見せかけた非キリスト教思想の持主であり、愛基氏は幼い頃からホームレス伝道にのめりこむ父親の悪影響を受けて、自身が深い孤独や絶望を経験したにも関わらず、父親の活動の欺瞞を批判することなく、むしろ、これを継承し、同じ手法によって、弱者の弱みにつけ込み、救済者のような役を演じることによって、世間の注目を浴びて有名人となった。愛基氏の活動は、キリスト教のホームレス(路上生活者)伝道の手法から宗教色を除き去り、対象者を路上デモ者に置き変えただけのものである。

SEALDsはこれまで幾度も名前をころころと変えては活動を行い、現在は、Re:DEMOSと改称している。奥田氏が2011年の震災後に主宰した政治団体だけでも、TAZ、SASPL、SEALDsといくつも名称が変わっている。

これほど短期間で頻繁に名称を変えねばならない理由は不明であり、特に、SEALDsが何の目的達成もされていないのに、昨年8月15日という時期に解散した意味も全く不明であり、その解散前に、この団体に対する政治資金規正法違反の疑惑が浮上していた事実は見逃せない。

SEALDs、政治資金規正法違反の疑惑浮上…違法な手段で寄付募集や政治活動か」(BUSINESS JOURNAL 2016.06.27)などを参照。

結局、SEALDsの解散は、政治資金規正法違反の疑惑から世間の目をそらすための目くらましであった可能性があり、その意味で奥田氏の度重なる政治団体の改称は「ネームロンダリング」とも揶揄される。

筆者は当ブログにおいて、ペンテコステ運動に属する似非キリスト教の教団である日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の(牧師でもない)信者の鵜川貴範氏が、幾度も幾度も名前を変えて、経歴を詐称しながら、自分のミニストリーを開いて来た過去があることを指摘した。

鵜川貴範氏に限らず、そのような方法は、ペンテコステ運動の偽指導者の使う常套手段である。この似非キリスト教運動は、短期間で、次々と新たな「自称預言者」を生産しては、社会的弱者などを旗印に使って、お涙頂戴の物語を提示し、指導者に派手なパフォーマンスを伴う新種のミニストリーを打ち出させることで、信者から金を巻き上げるプロの宗教詐欺である。

ペンテコステ運動の指導者らは突然、どこからともなく現れて、人目を引く派手なパフォーマンスを行い、弱者救済の理念を打ち出して、人々の同情や共感を巧みに引き出しながら、その間に集金活動にいそしみ、短期間で大量の献金を募って姿をくらますのである。しかも、鵜川氏に見るように、指導者としての訓練さえ受けていないたった一人の信徒が、生涯に渡り手を変え品を変え、このような詐欺的な活動を繰り返す例もある。

奥田愛基氏の行動は、こういう偽りのキリスト教徒の用いる方法を彷彿とさせるものである。

しかも、ペンテコステ運動の詐欺師と呼ばれて差し支えない宗教指導者の多くは、社会的マイノリティの出身であったり、元ヤクザや、病者や、自殺志願者であったり、過去に何かしら不幸な体験や生い立ちを抱える「いわくつきの人間」であることが多い。

そうした人々が自分の負の体験や生い立ちを売り物にして、自らを「社会的弱者の代表者」のように見せかけ、人々の被害者意識と一体化し、同情票を得ながら、集金活動を行う。奥田氏の活動はその点もよく似ている。

多くの日本人は、弱者救済に見せかけた偽りのお涙頂戴物語を疑うことができないので、これが詐欺の仕掛けであることをも見抜けず、自分の代わりに抗議の声を上げてくれそうな誰かに安易に期待しては、資金を託そうとする。

だが、こうして自分自身は声を上げずに、今まで通りの生活を送りながら、自分の代わりに疑問を代弁してくれそうな誰かに期待を託した時点で、裏切られることはすでに決定済だと言えよう。

そのことは、川内原発の再稼働反対を訴えて当選したはずの鹿児島県知事三田園氏の「変節ぶり」からも見えて来る。同氏の変節は選挙当選直後から始まっていたようである。

【三反園ショック(上)】「原発ばっかり、答えようがない」 当選後、報道陣振り切る三反園氏…九電「元の木阿弥」募る懸念」(産経WEST 2016.7.12 07:36更新)

三反園鹿児島県知事の正体(上) 」(ニュースサイト ハンター 2016年10月11日 11:10 この他にも一連の記事あり)などを参照されたい。

同じことが、翁長知事にも当てはまる。翁長知事は「辺野古に基地を作らせない」ことを公約に掲げながらも、その行動を見れば、結局、基地建設を容認する側に回るであろうという予測を、植草一秀氏が何度も訴えている。

筆者は、これまで幾度か、沖縄の基地問題について、記事を書こうとしたが、その度ごとに思い起こされるのが、沖縄のキリスト教界におけるカルト被害者問題であった。

筆者にはどうしても沖縄の人々を一方的な被害者として描くことはできない。筆者は当ブログにおいて、上記した通り、似非キリスト教であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団において、キリスト教界において被害を受けたとする「カルト被害者らの救済活動」を主導する村上密牧師が、どれほど危険で信用ならない人物であるか、再三に渡り、書いて来た。

だが、沖縄のカルト被害者の一部は、同牧師の信用できない人柄を筆者以上によく知っていながら、それでも公然と反対の声を上げないのである。沖縄には村上氏の統制が本土以上に行き届いており、反対者は即座に報復を受けるというのが理由であった。

これを知った時、筆者は何と臆病なことかと思うと同時に、直観的に翁長知事のことが頭をよぎった。沖縄の人々は、自分たちの問題を手っ取り早く解決してくれそうな政治的リーダーに安直な期待を寄せるという受け身の生き方を未だやめられないのかと思ったのである。

リーダーに欠点があることを知っていても、それでもまだ自分ではない誰かに自分たちの「被害」を代弁してもらおうというナイーブで依存的なものの考え方をしている限り、きっとこれからも騙され続けるだろうという気がしたのである。

 これはあながち厳しすぎる書き方とは言えない。それは筆者自身が、キリスト教界において「神の代弁者」をきどる牧師やパスタ―などといった人種がどれほど不誠実で信頼ならない私利私欲にまみれた偽善者であるかを軒並み見続けて来たことから来る直観的な確信である。

政治家も宗教家も、騙しのテクニックはみな同じで、人が自分に関する極めて深刻重要な問題の解決を、自分ではない誰かに全権委任し、その人間が善意によって自分の要望に都合良く応えてくれるだろうと期待し始めた時点で、敗北はすでに始まっているのだと言えよう。

沖縄の独立という問題は、日本全体の独立とも深くつながる精神的には一つづきの問題だと筆者は考えるが、この問題が長引いている背景には、人々の弱みを利用し、依存心につけこむ悪なる権力者たちの存在があるだけでなく、そうした欲深い権力者の正体を見抜けず、彼らに自ら期待を託そうとする人々の愚かさという問題がある。

人間の真の自立は、目に見える人間のリーダーへの安易な依存や期待を捨てて、まず、自分の抱える問題を、誰にも明け渡さず、ただ自らの力だけで解決してみせるという意気込みを持たない限り、決してやって来ることはない。自分の抱える問題を他者に解決してもらおうとしている限り、その人間は自立のスタートラインにさえ立てないと思われてならない。

SEALDsにも全く同じことが言える。人々がこの団体に希望を託そうとするのは、自分にはできないことを彼らが自分に代わって成し遂げてくれるという期待からである。この団体を支援する人々の心理は、慈善事業への支持とほぼ同じで、要は特権階級による一種の罪滅ぼしである。
 
若者だから、話が巧みだから、勢いがあって、純粋で善良そうだから・・・、そんなうわべは、彼らが信用できる人間だという何の根拠ともならない。いつの時代も詐欺師ほどパフォーマンスは巧みなのである。

奥田愛基氏のように、2015年以前にはほとんど注目されていなかった若者が、何のバックアップなしに独力でメディアで注目される活動を行うことは、まず無理なのだという事実に気づかなければならない。メディアに好意的に取り上げられていること自体が、すでに十分な疑いの根拠になりうる。以下の画像は、「元SEALDS政治資金規正法違反、カンパの使途不明、収支報告非公開、資金源についての調査1」M.x.file (2016/9/21(水) )から転載したものだが、このような広告を朝日新聞の前5段に載せるには、定価ベースで1500万円の資金が必要となるという。

この不況下で、求人広告さえ有償で出せない中小企業も多い中、学生団体に過ぎないものが、このような高額な広告を出し、それが社会に容認されていること自体、随分、おかしな話であると、多くの人々はなぜ疑わないのか。こんな広告が出せるなら、SEALDsがカンパを募らなければならない必然性はもとよりないと言えよう。にも関わらず、「学生の善意と借金で運営されている」などとアピールして、しきりにカンパを募り、しかも、そのカンパさえ、政治資金規正法違反の疑いが濃厚というのだから、こんな団体のどこに透明性・信頼性があるだろうか。

よくよくダブルメッセージが大好きな連中であると思う。美しい謳い文句だけを掲げて、この国が民主主義国家であるかのように見せかけて、人々を酔わせておいて、本質的に重要なアクションが何であるかを人々に見失わせ、人の目を欺いて、正反対の結果を導くのである。

「断固、ブレない、TPP反対」などと言っていた連中と全く同じ手法である。目下、我が国の民主主義は立ち止まり、機能停止の上、死に瀕している。SEALDsが民主主義の前進の何の役に立ったというのか。言っておくが、歴代首相のすべてが天皇家の血縁だという事実だけを見ても、我が国はもとより民主主義国家ではないことは誰の目にも明白である


イメージ 1
 (この新聞広告が出せる団体は大企業に匹敵する。カンパの必要はない。)



・死者が大好きなオカルト政府とオカルト信者の安倍晋三による
真珠湾の死霊詣で

さて、この度、突然に発表された安倍晋三の真珠湾訪問について、これをサプライズ外交だなどともてはやすメディアはともかく、なぜ、今、真珠湾なのか。日本人の多くは突如、発表されたこの訪問について非常に不気味な印象を覚えている。

安倍のパールハーバー訪問は、まずは拙速なトランプ詣でに対して抗議を申し入れたというオバマ政権からのお仕置きのためのお詫び行脚の要求であった可能性が高いが、そうでなくとも、政治的に過去の出来事が引き合いに出される時には、いつでも現在の出来事と同時進行するものとして、二重のコンテクストを持つ。

安倍の他ならぬこの時期のパールハーバーへの訪問は、南スーダンへ自衛隊の派遣が行われたことなどともおそらく無関係ではあるまい。

つまり、この訪問は、これから先、自衛隊を軍隊に昇格させて「お国のために」命を捧げる人間たちを英雄化したいという安倍の野望に、米国の側からしっかり釘を刺す機会として利用されるものと思われる。もしも日本がこの先、軍国主義の復活を目指して、米国の指示に一歩でも先んじて暴走しようとするならば、何度でも同じことが起きるぞ、という警告である。

だから、安倍の今回の真珠湾訪問は、自衛隊の任務が着々と拡張されつつあることに対する米国からの牽制の意図があると受け止められる。70年以上前の日本軍の”罪過”を今再び蒸し返すことで、安倍の国家主義の暴走に釘を刺しているのである。

だが、それだけではない。兵頭正俊氏は、この訪問は、オバマの広島訪問と対を成すものであり、原爆投下に対する国際的な非難や、米国内での罪意識が高まる中で、要するに、原爆投下は日本軍の暴走を止めるためにやむを得ない措置だったというストーリーを強化し、今日の日米軍事同盟が、日米両国の双方からの合意に基づく欠かせないものであるものと見せかけるための儀礼的なパフォーマンスであるとみなす。
 

ポピュリズムとファシズム」(2016年12月8日)から引用 

「太平洋戦争における、軍事的には不必要だった広島・長崎への原爆投下は、インディアンや黒人への原罪意識と同様に、時間とともに米国の贖罪意識に深化しつつある。また、米国の若い世代では、原爆投下は不必要だったという認識が増えてきている。それを解消するために、米国の1%はオバマを広島に遣わしたのである。

その意味は、太平洋戦争は、日本の宣戦布告なしのパールハーバー急襲から始まり、広島・長崎への原爆投下によって終わった。原爆投下は、戦争を終わらせるためにやむを得ないものであった。オバマの広島見物はこのストーリー強化の第一幕なのである。

(中略)

このストーリーを完成させるためには、第二幕として日本の首相にパールハーバーを訪問させ、謝罪させなければならない。そこで初めて米国は太平洋戦争の贖罪意識を払拭できるのだ。

米国にとってはパールハーバーがあくまでも中心であり、パールハーバーによって広島・長崎を相対化したいのである。

(中略)

広島とパールハーバーを両国の首脳が相互訪問する戦略は、

1 米国の広島・長崎への贖罪意識の払拭

2 米日軍事同盟の強化

の2点から成っている。

(中略)

行き着く果ては米日軍事同盟の強化なのだ。

第一幕はすでに上がった。オバマの広島見物で日本が失ったものは大きい。いずれオバマによって拡大強化された小型核兵器を、米軍支配下の自衛隊が使う時代がくるかもしれない


こうして、「真珠湾攻撃があったから、原爆投下もやむを得なかったのだ」というストーリーが強化され、到底、つり合わない二つの出来事を「相殺」することによって、原爆投下の罪悪が「帳消し」にされるだけでなく、結局、米国の助けなしには、日本は永久に自立などできない半人前の国家なのだというストーリー立てが日米の両政治家によって流布されるのである。

つまり、日本という国は、今も昔も、己自身の力だけによって自分を正しく治めることのできない半人前の未熟な国家であり、米国の庇護なしには一瞬たりとも自存できず、それは日本政府自らが認めている事実なのだから、日本の自衛隊も、日本国民も、米国の絶えざる監視と制約の下で行動するのは当然であるという見解を、日米両国の合意事項として既成事実化し、事実上の占領状態を半永久的に長引かせる狙いがあると考えられる。

安倍自身の思想に照らし合わせても、今回の真珠湾への慰霊訪問は、おそらく本意ではなかったに違いないと思われるが、そのようなストーリー立てにチャンスを与える隙を、拙速なトランプ詣でにより、安倍が自ら作ったのである。

日本という国は、70年以上も前の「罪過」をもとに未だに精神的に脅され、ゆすられ、半人前扱いされているのであるが、ある意味では、そのためにこそ、日本の政府高官や国会が、日本会議メンバーで占められているという事実や、安倍が首相であるという事実があるのではないだろうか。

岸信介がCIAに身売りしたことと引き換えに、A級戦犯としての処刑を免れ、首相の座にまで上り詰められたのだという話はよく広まっているが、米国は安倍晋三の危険な政治思想をよく知っているはずである。

こうした事実は、日本という国をあえて「自立できない危険な国」に見せかけ、思い通りに操り、弱体化しようと考える国が絶えず行っている見えないクーデターであると考えられないだろうか。

だが、安倍晋三は、我が国政治家が、単に政治的に米国に身売りしているだけでなく、霊的・魂的なレベルでも、悪魔に身売りしているのだという事実をよく示しているものと思う。

これまで当ブログでは、米国から持ち込まれたキリスト教の異端としてのペンテコステ運動が、いかに日本のキリスト教界を堕落させたかという危険な特徴について分析して来たが、安倍晋三は、この運動の危険な霊媒師と非常に共通する特徴を持っている。

ペンテコステ運動は一応表向きにはキリスト教を装っているが、実質的には、統一教会と変わらないただの異端であり、彼らを動かしているのは悪魔に由来する偽りの霊であって、彼らはその偽りの霊を受けて語る霊媒師なのである。

聖書のたとえでは、悪霊は、人間の中に大量に住むことができることが示されている。以下に挙げる安倍首相夫人の言を通しても、安倍が関わって来た「宗教」は統一教会だけではないこと、従って、安倍晋三はもはや一つや二つだけでないあらゆる正体不明の汚れた霊どもの住処になっている可能性が高いように思われてならない。

以下の記事がどこかの新興宗教のパンフレットであれば、誰も相手にせず笑って通り過ぎるだけであろうが、首相夫人の発言だというから呆れる。
 

 「「日本の精神性が世界をリードしていかないと地球が終わる」 安倍昭恵氏インタビュー BLOGOS 2016年11月09日 11:14 以下、昭恵夫人の発言

深く考えないで」というか。何をするか考える時にも、「じゃぁ、これ!」みたいな感じで生きているので。

「そうですね。でも今はごちゃごちゃで、自分でも何してるのか、よくわかっていなくて。でも「神様に動かされてる」と思っているので(以下略)」 

「キリスト教の学校で育ったんですけど、今は別にキリスト教というわけじゃなくて、どちらかというと神道です。」   

私は、大きな自然の一部であって、“動かされてる感”がすごくあるんですよね。主人もよく言うのですが、総理大臣は努力でなれるものではなくて。」  

「そこで総理大臣になるっていうのは、“何か持ってる”“何か別の力”だと思うんですよ。「神」という言い方をしなくてもいいんだけど、なんかこう、“大いなる力”が働いていると私は思っていて。その力にある意味流されてるというか、乗っかっているのかなと、私は感じます。  」 

主人自身も特別な宗教があるわけじゃないんですけど、毎晩声を上げて、祈る言葉を唱えているような人なんですね。 」


こういう人々が「神」と呼んでいるものは、間違いなく、悪魔に由来する霊であって、この夫婦は正体不明のオカルトの「霊」に操られていればこそ、自分では主体的・能動的に物事を考えられなくなって、印象と感覚が命じるままに、受け身に流されて生きているのである。

ペンテコステ運動のようなキリスト教の異端の最たる特徴は、人間が知的・論理的に深く物事を考察することをやめて、ただ印象と直感を重視して、考えもなしに愚直な体験主義に走るようになる反知性主義にあって、その危険は、人間に理性を失わせる麻薬と同じである。だが、そのようにして理性を失っているにも関わらず、この運動の信者たちは、愚直な自分たちこそ最も賢く正しいと思い込むのであって、こうした頑なさ、高慢さは、悪魔に由来する「偽りの知恵」から来るものであることを再三に渡り、述べて来た。

その意味で、安倍首相夫妻の思想的高慢さは、まさにペンテコステ運動の信者たちと全く同じ病理的様相を呈している。物事をきちんと吟味・考察する力を失い、フワフワとした印象と感覚だけに流されて直情的・衝動的・受動的に、愚直な思いつきで生きているにも関わらず、そんな自分たちが世界で最も賢い知恵ある人間であるかのように思い込み、自分たちの指南がなければ「地球が終わる」とまで思い込んでいるのである。ほとほと呆れるとしか言いようがない。

どんな宗教を信じていようとも、こういう高慢さが、日本人の精神性のうちには含まれていないということだけははっきり言える。日本人はもともと謙遜を重んじ、決して自分自身を人前で高く評価したり、自ら勝ち誇ることを美徳としない国民性の持ち主である。

だから、上記の安倍首相夫人が述べているような思想は、明らかに、日本人の伝統的な精神性から出て来るものではなく、何か「外来の異質な思想」がそこに加わった結果である。

そして、こうした根拠のない思い上がりは、元を辿れば、大抵、悪魔が人間に吹き込んで生まれる異端思想へと行き着く。人間が自分自身できちんと物事を考えず、オカルト的な霊の言いなりになって受動的に動いていればこそ、「何か大きな力に突き動かされている」という自覚が生まれるのであり、悪魔に操られているにも関わらず、自分たちは「神に従っている」と思い込んでいるのである。

上記のインタビューの中で、首相夫人が、安倍総理が、総理にふさわしい実力もないのに、何か得体の知れない力が働いた結果、首相の座に返り咲いたと語っていることは重要である。

これは、安倍が首相の座に再び返り咲いたのが、(米国からの政治的なバックアップのみならず、)まぎれもなく悪魔的な力、オカルト的な力との闇取引の結果であることを物語っている。おそらくは、安倍はその正体不明の”霊力”を受けるためにこそ、毎晩、得体の知れない相手に向かって祈祷を続けているのであろう。そして、安倍の政治は、このオカルト的な呪いに満ちた霊力を我が国のみならず、全世界に波及させるための「祭祀」であり「儀式」なのである。

宗教に全く理解のない人々は、こうした話を笑って受け流すかも知れないが、悪魔と契約を結んだ結果、人が地上で偽りの栄光を受けることは、ハリウッドスターなどの芸能人や芸術家やマジシャンなどには極めてありがちな話である。

すでに述べた通り、悪魔に魅入られる人間には、幼少期からの暗い特殊な生い立ちがあることが多いが、安倍晋三にはその意味でも絶好の材料を持っている。これに加えて、人生のどこかの時点で、安倍自身がオカルト的な力に自分の魂を完全に売り渡し、それと引き換えに現在の立場を得ているのであろう。

悪霊から来る力を受けていればこそ、同氏の思想は反知性主義、人権抑圧の悪魔的思想に貫かれているのであって、同氏の用いる論法は、ことごとく嘘、詭弁、ごまかし、論理のすり替え、脅しなどの暗闇の手法に満ちているのである。

首相夫人の言葉によると、彼ら夫妻は、日本のみならず、全世界をも自らの悪魔的思想によって統治することを目指しているオカルト政治家ということになる。要するに、世界征服の野望に憑りつかれているのであって、彼らの言う「地球儀俯瞰外交」なるものはその野望の言い換えなのであろう。

そして、以前から書いている通り、悪魔的な思想は、常に死者の世界に非常な関心を抱いており、多くの霊媒師たちは、死者の霊と好んで交流する。

だから、安倍晋三が真珠湾に赴くのは、同氏による死者の霊への追っかけとみなせる。”英霊”に対する愛着もそうなのだが、そこには基本的に死者の霊への愛着が表れているだけでなく、もっと言えば、「自ら殺害した犠牲者の霊への尽きせぬ思慕」という、まさに犯罪者の精神性としか言いようのない異常嗜好が込められている。

以前、筆者は、安倍晋三の内心は、いや、安倍晋三だけでなく、日本政府の異常な精神性は、童話の『青ひげ』とまるで同じだと述べたことがある。『青ひげ』の童話においては、青ひげの家の秘密の部屋には、青ひげが自ら殺した数多くの妻の亡骸がうずたかく積まれていることになっている。だが、現実に、これを地で行っているのが我が国政府であり、我が国の厚労省の建物内部には、未だ70年近く前の戦没者の白骨がうずたかく積まれている。これはオカルトや創作ではなく、現実の話であり、どこにも引き取り手がなく、他に行き場がない戦没者たちの遺骨が当局に何十年間とため込まれているのである。

政府当局が、70年近く前に死んだ国民の身元も知れない白骨化した遺骸を、何十年間も公の官舎に大量にため込んでいるなどという話が、世界のどこか別の国で聞かれるであろうか?

この政府は、そういう異常なことをしておきながら、もう一方では、戦没者たちの亡骸の前に立って、さめざめと頭を垂れて空涙を流し、「二度と過ちは繰り返しませんから」などと述べて、反省したふりをしながら、犠牲者を上から見下し、人々の犠牲を利用して偽善者ぶりを最大限に発揮して、脚光を浴び、自己満足しているのである。

このようなものが真の反省とどうして言えるであろうか。我が国では、かつての軍国主義政府に逆らって特高警察に殺された人々の名誉回復さえまともになされていない。約70年前に政府が自ら殺したも同然の国民の亡骸さえも十分に弔っておらず、遺族のもとに返されてもいない。にもかかわらず、この国の政治家は、もう国内の犠牲者や、自国の戦没者はさて置いて、他国の戦没者を「追悼」するという華々しい役割を引き受けて、全国民に頭を下げさせ、自らを栄光化しようと言うのであろうか。どこまで浅ましい人たちなのか。

こうして、このオカルト政府は、自分たちが踏みにじり、愚弄し、犠牲とした人々を、死後までも半永久的に愚弄し、己が栄光の手段に変えることに、手放せない快楽を見いだし、そのためにこそ、彼らは好んでもの言えない死者を訪問するのである。生者からも生き血を吸うが、死者の栄光までも盗むのである。

こうして、一方では、口先だけで過去の「戦争の罪過」を反省したかのように装いながら、もう一方では、着々と防衛費を拡大し、自衛隊の任務を押し広げ、近々新たな戦争を起こして、どうやって自国民を犠牲にするか、機会を伺って話し合い、戦争が起こらないまでも、国民を紛争地へ送り込んで、どうやって国民の白骨をまた増やそうかという考えに胸躍らせているのである。

一体、これが青髭の異常な精神性とどう違うというのか。我が国はまさにかつてのソ連やナチスや北朝鮮とそっくりになって来ているとしか言えない。


・「風が吹けば桶屋が儲かる」――他者の弱みを食い物にして利益に変えるカルト宗教と偽善者政府とのマッチポンプ――

さて、このカルト化した政府は、死者から栄光を盗むだけでは飽き足らず、自らが国にもたらした恐るべき人心荒廃、国土の荒廃、国民に強いた犠牲に対する「処方箋」として、自分たちの偽りの「宗教」をマッチポンプとして提示する。

医者が人の病気なしには儲からないのと同様、詐欺師の政治家にとって最も困るのは、人々が自立して、彼らの助けを必要としなくなることである。だから、詐欺師の政治家にとっては、雇用情勢の悪化や、経済の貧困化など、国民の問題は山積しておいた方が良い。

だから、彼らは必ず人の弱みや、他者の犠牲を自分たちのパフォーマンスの材料として利用する。人の弱みにつけこんで、救済者のように登場し、脚光を浴び、栄光を受けようとする。彼らの政策はもともとすべてマッチポンプである。

もし他者に弱みがなければ、あえて問題を作り出してでも、彼らはターゲットとなる人間を弱体化させる。弱体化させた上で、自分たちの助けなしには生きられないと言って人を自分に依存させ、栄光を盗むのである。

安倍晋三の政治家としての手法は、人々の弱みを利用することで成り立って来た。だが、北朝鮮拉致被害者の問題もそうであるように、安倍晋三が着手して成果らしきものがわずかでも出た問題が一つでもあったか。

彼らにあずけた問題には解決がないのは当然で、こうした連中にとっては、いつまでも人を脅しつける材料として、人の弱みは永久になくならない方が有利なのだ。

こうして国民の弱みに寄生し、それを食い物とする政治家たちのマッチポンプが最後に行き着くのが宗教である。

この度、衆院でのカジノ法案の審議中、国会で般若心経を読み上げて批判を浴びたという自民党の谷川弥一衆院議員が、無駄な長広舌の中で語ったのが、カジノ法案がもたらす「負の部分」としての人心の荒廃に対する「処方箋」として宗教の必要性であった。

(「カジノ法案質問で般若心経 「採決前」6時間審議の中身」(J-Castニュース 2016/12/ 5 21:00等を参照。)
 
つまり、カジノ法などを通して徹底的に国民生活を荒廃させれば、人心荒廃現象に対する「救い」として、自ら宗教に走る人々が増えるから、宗教が儲かる、そこで政府は宗教の必要をぜひとも見直して、宗教ともっと緊密に連携していただきたい、というのが、この議員の主張であった。

自ら人心を荒廃させるような政策を推進しておきながら、「(野党のように対案もなくただ一方的に)批判するだけでは芸がない」、「我々には宗教というれっきとした『対案』がある」と言うわけである。

何ともおぞましいまでの偽善者ぶり、典型的なマッチポンプ型思考ではないか。

こういう偽善者の宗教家らにとっては、原発事故の被害を含め、国土の荒廃、人心の荒廃、国民の不幸、犠牲、弱みこそ、まさにビジネスチャンスなのである。徹底的に人を苦しめ、不幸に追いやり、犠牲にしておいて、自分たちは混乱の最中に、犠牲になった人々に優しく「救いの手」を差し伸べるヒーローを演じ、それをきっかけに人々をまた新たな抑圧の中へと閉じ込めて行くのである。

こうして、前回の"On your mark"に関する記事でも述べたように、放射能汚染などの恐怖によって人々を脅すことで、国民を自由なき牢獄に閉じ込めて支配するカルト宗教と、この宗教と一体化した政府が出来上がる。

谷川弥一衆院議員の主張の趣旨は、「カジノ法案その他その他で、この国が暗黒国家へと転落し、人心が荒廃した分は、我々宗教が受け皿になりますよ。こんな美味しい話はないじゃないですか。ですから、政府もぜひともここは一つ宗教と手を組んでですね、利益を山分けしましょう」ということに尽きる。

こんな話が国会で聞かれるということは、悪魔的宗教と政府が公然と手を結んで、祭政一致に至ろうとしている事実を示すものでしかない。我が国は、まるでヨーロッパ中世を彷彿とさせるような、暗黒国家への転落にさしかかっているのである。

この国の国民はそろそろ、この国のトップや要職の座についているのは、シャーマンと同様のいかがわしい霊媒師・詐欺師であって、彼らは次から次へと国民に目くらましの魔法(呪い)をかけては国民を抑圧し、国民が弱体化したところに偽りの助けの手を差し伸べることによって、救済者を演じながら、自らの魔術師としての仕事の需要を作り出しているだけだということに、いい加減、気づく必要がある。

彼らは、ペンテコステ運動の指導者と同じく、詐欺師であり、霊媒師なのである。彼らにとっての政治とは、自分たちのオカルト的な霊力を全国に押し広げ、波及させるための魔法としての「まつりごと(祭祀)」である。

彼らが次々と打ち出す政策は、霊媒師のお告げと同じく、決して的中することのない嘘の予言であり、彼らの繰り広げるパフォーマンスは、国民を欺くための「魔法」であると同時に、「呪い」である。これ以上、彼らに嘘と呪いの言葉を言わせないためには、彼らに口を開く機会を与えるべきではない。

安倍政権はそもそもが違憲内閣であり、この政権が実行することは、ことごとく規則破りであり、彼らの権威は、現実に立脚しない幻の上に築き上げられたものに過ぎない。安倍政権とそれに追従する人々は、害ばかりもたらす凶悪な政策を次々実行し、国を徹底的に破壊し尽くす前に、憲法違反の罪に問われ、公職から追放されなければならない。

だが、偽りの指導者とそれにつき従う従者たちは、自分たちが詐欺師であることをよくよく分かっていればこそ、その正体が告発される前に、先手を打って、憲法を改正し、人権を抑圧し、自分たちを告発する可能性を持つ人間(国民)を根こそぎ抑圧し、滅ぼそうとしているのである。

王妃エステルが大臣ハマンに立ち向かったように、自分の全ての利益と引き換えにしてでも、これらの連中を弾劾する人々が出て来なければならない。

イゼベルの霊がもたらす男女の秩序転覆――男性化した女性たちと、非男性化された男性たち

・「偽りの期待を持たせて人を欺きながら、梯子を外し、騙された相手を嘲笑する」(ダブルバインド)イゼベルの霊の典型的な心理操作のテクニック

さて、話題は少し変わるようだが、以前の記事の末尾で紹介したEden Mediaの警告動画では、興味深い事実が告げられている。それは「イゼベルの霊」が、女性の男性化と、男性の非男性化という転倒した現象を人々にもたらすという指摘である。

本稿では、ペンテコステ運動に関わった信者たちと接して来た筆者自身の実体験を通して、この問題について、より踏み込んで考察していきたい。
 


 
 
筆者は、ペンテコステ運動とはイゼベルの霊に率いられる弱者救済を装った秩序転覆(キリスト教破壊)運動であると見ており、イゼベルの霊とは、端的に言えば、グノーシス主義の秩序転覆の霊を意味する。

なぜイゼベルという女性の名がついているかと言えば、この霊は神に対する人類(霊的女性)の側からの反逆の霊であり、より低い次元では、男女の秩序を覆すフェミニズムの思想を指しているからである。ペンテコステ運動にも、その思想的な基盤に、フェミニズム神学なるものが存在することはすでに確認した。
 
このように、イゼベルの霊とは、男女の秩序を覆す霊、もっと言えば、神と人類との立場を置き換えて、被造物に過ぎない人間が、己を神として自分自身を拝み、栄光化する人類の自己崇拝とナルシシズムの霊であり、他者の心の傷をきっかけに人の心に侵入し、ターゲットを抑圧的に支配する。当然ながら、この霊は、ターゲットが自分よりも強い男性であっても、弱みを握ることで、思い通りに支配して行く。

さて、「男性の非男性化、女性の男性化」という本題に入る前に、まずは最初にイゼベルの霊の心理的支配のテクニックについて述べておきたい。

以下の図は、以上の動画の画像に筆者が注釈を書き加えたものであるが、これはイゼベルの霊がターゲットとする人間を、自分に都合の良い「箱(マトリックス)」に閉じ込めた上で、様々な心理的な駆け引きを行うことによってターゲットを自分の支配下に束縛し、搾取・抑圧する手法を構造的に表している。
 
 
  
イゼベルの霊とターゲットとは、何らかの心の傷(コンプレックスや負の記憶のトラウマ)を通じて強固なソウル・タイによって結ばれている。この霊は一見、人の心の傷に優しく寄り添い、これを癒してやるように見せかけながら、ターゲットに近づいて行く。その偽りを見抜けず、心を開いたターゲットは、彼女の偽りの優しさに依存するようになる。だが、イゼベルの霊は、ターゲットの心の傷を癒すどころか、より押し広げ、ますます重症化して行くことで、ターゲットの弱みを半永久的に握って、自分から離れられないように仕向ける。「傷」を頼りに結ばれるこの「絆」が絶ち切れない限り、ターゲットはイゼベルの霊によって永久に搾取され、人格がどんどん弱体化して行くことになる。

イゼベルの霊は、愛や同情や優しさに見せかけて、自分がターゲットを搾取し、不当に抑圧していることを気取られないように、ターゲットを自分の用意した「マトリックス」(=イゼベルの霊の管理と統制が行き届いている閉鎖的な組織や宗教団体やサークル等)に閉じ込め、ターゲットが得られる情報が非常に偏った一方的な内容に制限されるように操作する。

情報こそ、人間が物を考え、自由を希求する上で最も有力となる手掛かりなのであり、人間へのマインドコントロールは、まずはターゲットとなる人間から自由な情報源を奪い、ターゲットを社会的に孤立化させて、得られる情報を制限することから始まる。ターゲットとなる人が客観的な情報を自由に幅広く入手した上で、自分自身の頭で、何が正しくて何が間違っているのかを自主的に吟味し、物事を疑いながら批判的に考察しながら判断を下す自由と考察能力を失った時点で、マインドコントロールの基礎はほぼ完成している。

イゼベルの用意する「箱(マトリックス、子宮)」はそのためにこそ存在する。つまり、この霊は、ターゲットがまるで子宮の中にいる赤ん坊のように、彼女からの栄養補給がなければ、自分では何もできないような、依存的で手足を縛られた状態にするのである。この霊は、ターゲットを何かの閉鎖的な組織や団体に閉じ込めることで、ターゲットが誰とでも自由に交流でき、様々な情報を自分の意志で広く入手できるような環境を奪う。経済的な自立を奪うことで、行動を制限することも少なくない。そして、この霊は、自分の気に入った一方的で都合の良い偏った情報だけを、ターゲットに「正しい情報」として与え、それ以外の情報を一切、「間違ったもの」として受けつけなくなるように教え込むことで、ターゲットが不都合な情報に接するのを禁じ、マインドコントロールを施す。

多くの場合、宗教団体がターゲットを閉じ込める「マトリックス」の役割を果たすことになる。イゼベルの霊は、「神」の概念を悪用することによって、自分にとって都合の良い情報にしかターゲットが接触しなくなるように仕向ける。彼女は、世話好きで、慈愛に満ちた優しい助力者、敬虔な信者や、宗教指導者の姿に仮装し、自分こそが人生の正しい指南役であるかのように、ターゲットの前に現れてその心を掴み、「神」や「宗教」に名を借りて、ターゲットが自分の与える情報や助言だけに依存して生き、彼女の思う通りの人間になるよう操作して行く。こうして、イゼベルの霊が、ターゲットを閉じ込めるための「子宮(マトリックス)」が完成する。

もしこの霊の閉じ込めがあまりにも乱暴で性急であれば、誰でも自分が操作されている危険に気づくであろう。そこで、イゼベルの霊は、ターゲットが自分は騙され、搾取されているだけなのだとは気づかないように、様々な偽りの「餌」を与えることで、ターゲットを懐柔しながら、アメとムチによって心理的駆け引きを繰り広げる。ある時は、ターゲットをおだてあげ、立派な指導者的な立場などを用意してやることにより虚栄心をくすぐり、ある時は、か弱いふりをして、泣き落としや、同情を引き出す作戦に出、ある時は、性的な魅力をアピールし、思わせぶりな態度を取ることで、恋人の代わりを演じ、ある時は、何か偉大な奇跡のような事柄を約束し、心を揺さぶる。そのようにして、ターゲットを様々な「餌」を使って自分に引きつけておきながら、いざターゲットがそれに騙されて近づいてくると、冷たく突き放して混乱させる。そして、その混乱した姿を見て、ターゲットを侮蔑し、恥をかかせ、それはターゲットが悪かったからそうなったのだと言っては、罪悪感を持たせ、態度の改善を求めて、自分から離れられないようにして行くのである。
 
このように相矛盾するメッセージを同時に投げかける心理作戦(ダブルバインド)に陥れられたターゲットは、イゼベルの霊の絶えず豹変する矛盾に満ちた行動にどう反応すべきか分からず、立ちすくんでしまい、彼女への同情心や、自分が慰めてもらいたい願望から、彼女を憎み切ることもできず、離れられないまま、対処に悩み続けることになる。そのように悩みながらこの霊と関わりを続けること自体が、すでにしかけられた罠にはまっていることを意味するのである。

さて、このようなマインドコントロールのテクニックを用いて人を思うがままに支配するイゼベルの霊の持ち主が、必ずしも、女性であるとは限らない。なぜなら、男性であっても、イゼベルの霊とソウル・タイを結べば、その人の人格は、やがてイゼベルの霊そっくりになって行くからである。

たとえば、筆者は以前の記事で、Kingdom Fellowship ChucrhのDr.Lukeによる信者への心理的駆け引きの手法についてすでに触れた。同氏には、青春時代において、将来の結婚を前提とする交際をしていた女性から結婚を求められた際に、曖昧な態度で身をかわし、返答を先延ばしにしたことがきっかけとなって、交際が破局したという事件が起きたことを、同氏自身が、自らのメッセージにおいて明らかにしていたことにも触れた。

Dr.Lukeはそれがきっかけで神を求めて回心に至ったと証するのだが、その後の人生でも、全くこれと同じパターンの行動を繰り返し、今度は、KFCという宗教団体を舞台として、そこへ集まって来る信者に対して、以上の女性に対して行ったのと同じ心理的駆け引きを繰り広げているのである。すなわち、同氏は、ブログやインターネットや動画や様々なツールを使って、いかに自分が霊的に高邁で魅力的な存在であるか(そこには性的な意味合いも当然ながら含まれる)をしきにりアピールしながら、人望を集め、その心理的トリックを見破れずに、同氏を魅力的な宗教指導者のように思って期待して近づいて来る信者らに対して、ことごとく「梯子を外す」ような行動に出て、彼らを失望させ、恥をかかせ、その信者らの混乱した様子を見て、「自分は何も約束していないのに、彼らは勝手に期待してぶら下がって来た。そういう依存的な心に問題があるのだ」などと言って彼らを侮蔑し、嘲笑するということの繰り返しであった。それでも、KFCに残り続けているのは、Dr.Lukeのそういう残酷な性格をよくよく理解した上で、殴られても殴られても夫のもとを去らない妻のように、何かの弱みがきっかけとなって、不当な扱いに完全に抵抗する力を失ってしまった信者たちだけである。

このように、何かの約束を口にしておきながら、それを守らず、あるいは思わせぶりな態度を取って人の心をひきつけておきながら、相手を突き放すことによって、ターゲットを混乱させ、その心を傷つけ、侮辱するという不誠実な行為は、典型的なイジメのテクニックである。こうした行動は、たとえば、Dr.Lukeが一方的に杉本徳久氏を提訴すると語った行動にも、よく表れていただろう。同氏は杉本徳久氏からの非難に遭遇した時、これに対してきちんと反論しようとはせず、誰も依頼していないにも関わらず、自ら勝手に筆者の名前を持ち出して、同氏に提訴の予告を行った。ところが、多くの関係者に絶大な影響を及ぼしたにも関わらず、同氏は、全く理由不明なまま、長期間に渡り、その宣言を実行に移そうとせず、ただ巻き込まれた関係者だけが大変な迷惑をこうむるという事態が起きた。Dr.Lukeがこの不誠実な行動に対して弁明らしき言葉を公に発したのはずっと何年も後になってからのことである。当時、筆者が同氏の行動の不誠実さを責め、どんなに対立している相手に対しても、そのような行動を取るべきでないと指摘し、回答を迫った時のDr.Lukeの反応は、まさに返答を先延ばしにすることで梯子を外し、自分の発言の影響に巻き込まれた全ての人間に恥をかかせ、追い詰めるものでしかなかった。しかも、KFC外の人間に対してはこのように曖昧な態度を取っておきながら、Dr.Lukeは元KFCの信者でありながら自分を批判する人間に対しては速やかな告訴に及んだのである。当時、同氏の行動の意味を正確に理解できる者はなかったであろう。

このようなことはすべてイゼベルの霊が行う心理的な駆け引きをよく物語っている。Dr.Lukeの行動は、自分の潔白を証明するために行われたものではなく、ただKFCという団体を通じて自分に接触して来た信者たちが、偽りの期待や、もしくは、何かのこじれた事件を通して自分自身につながり、半永久的に離れなれなくなることで、苦しめることを目的とするものであった。同氏は常日頃から特に何も事件が起きないまでも、他人にいたずらに期待を持たせておいて、約束したものを決して与えないことによって、いつまでも信者たちが自分から離れられなくなるように仕向けていたのである。

若い時分に、Dr.Lukeのこうした行動の背後にある不誠実さを見抜いた上で、同氏に対する希望を完全に捨てて、同氏の元を早々に去った女性は、その意味で、慧眼であったと言えよう。その女性に信仰があったのかどうかは知らないが、それに引き換え、これまで何十年間もDr.Lukeの人柄を観察して来たにも関わらず、今日になってもまだ、心理的なトリックを見抜けず、Dr.Lukeの信奉者となってKFCに束縛されている信者たち以上に愚かな存在はいない。むろん、彼らは何かの弱みを担保に取られていればこそ、不誠実な指導者といつまでも癒着を続けねばならない状況に陥っているのである。

このようなことは、村上密牧師のカルト被害者救済活動の場合にも、同じように当てはまる。村上牧師の人柄が、その外見とは裏腹に、全く信頼できない不誠実なものであることは、約14年前に鳴尾教会で同氏が引き起こした事件によって証明されている。村上牧師は、Dr.Lukeが公然とキリスト教界に反旗を翻すことで"ワル"をきどり、その挑戦的な態度で人気と注目を集めたのと同じように、キリスト教界に恨みを持つカルト被害者を集めて、裁判を通じてキリスト教界に戦いを挑むことで、自分自身を正義の味方のように見せかけたのである。

だが、その正義の味方としての立ち振る舞いも仮面に過ぎず、この牧師のもとに身を寄せた信者の中でも、裁判による解決に至るのはごくわずかでしかなく、裁判にも至らないケースが水面下に数多く存在し、真に解決を得られる信者は稀であった。さらに、鳴尾教会に対する訴訟に見るように、村上牧師自身が、スラップ訴訟としか言いようのない勝ち目のない裁判を自ら教会にしかけて、敗訴する側に回っている。そのように、問題解決の見込みがほとんどないにも関わらず、偽りの期待を持たせることによって信者たちを自分のもとに引きつけ、かつ、反対者をひどく中傷することで、自分自身の不誠実な行為の犠牲者となった人間を愚弄し、笑い者にするというのは、Dr.Lukeの行動とほとんど変わらない狭量さである。このような指導者が自らの配下にある者たちを守ることができないのは一目瞭然であろう。

だが、そうした特徴は、Dr.Lukeや村上密牧師といった個人に限ったものではなく、ペンテコステ運動全体の特徴でもある。天声教会のケースでも、KFCと全く同じように、教会という団体そのものが、指導者層が自分にとって都合の良い情報だけを一方的に信徒に信じ込ませるための「マトリックス」となっている。指導者自身も、社会から隔絶されたこの閉鎖的な環境に束縛されて、偏った物の見方しかできなくなっているが、信者たちもそこに束縛されている。

KFCや、天声教会や、カルト被害者救済活動のすべての例に共通するのは、彼らが指導者を中心に自分たちにとっての安全地帯である何かの「マトリックス」を作り、そこに閉じ込められている者だけが、正しい信仰の持ち主であって、自分たちの活動に反対する人間は皆、悪魔の手下であるかのような虚偽を流布している点である。さらに、既存のキリスト教界に対して挑発的に振る舞い、自分たちには従来のクリスチャンにはない正しさがあるかのように主張して、自分自身を正義の味方に見せかけ、常に反対者を侮辱したり嘲笑するようなメッセージを投げかけることで、批判を封じ込め、自分たちの優越性を主張しようとしている点も同じである。

彼らのメッセージ内容はほとんど全てが自分たちの正しさと優越性を誇示するためのものとなっている。それは彼らの「マトリックス」がいかに優れて正しいものであるかを、関係する信者たちに信じ込ませ、他の教会は堕落しているので決して行かない方が良いと思わせて、接触を禁じ、情報を統制した上で、自分たちのもとに永遠に束縛するために使われるマインドコントロールの手段である。

こうした指導者たちが、本当は、自分自身がまるで牢獄のような環境に閉じ込められて、自由を失っているにも関わらず、牢獄の外にはもっとひどい世界が広がっていると思わせることで、また、自分たちの活動に与しない反対者を徹底的に吊し上げ、公衆の面前で侮辱・嘲笑することによって、彼らの「マトリックス」の異常性に人々が気づいて脱走するのを阻止するという手法は、かつてソ連が取っていた政策にそっくりである。ソビエト・ロシアは、一国社会主義路線を取っていた間、世界から孤立していたが、戦争や計画経済の失敗によって国が荒廃し飢餓状態に陥ってもなお、自分たちの政策が世界に先駆けて優れたものであるという思い込みを捨てることなく、「西側の資本主義国では地獄絵図のような風景が広がっているが、それに比べれば、我が国はまるでユートピアだ」などと偽りの宣伝を行うことによって、国民の逃亡を阻止し、国外への亡命者に対しては「人民の敵」として大々的なバッシングを行うことで見せしめとし、国外逃亡に対してはこれを「罪」として死刑に相当する厳罰を科していた。共産主義という絶対にやって来ない幻を「餌」としてぶら下げることで、無いものを担保に、徹底的に国民を騙し、搾取し、支配していたのである。
 
なぜ以上に挙げたようなペンテコステ運動の指導者たちは、自己の教会を「マトリックス」化して、自由なき牢獄に自ら閉じ込められた上、他の者たちをも同じ牢獄に閉じ込めようとするのだろうか。そこにどんな目的があるのだろうか。

第一には、指導者が信者たちを食い物にして栄光を受け、金もうけをしたいという欲望があるだろう。イゼベルの霊は名誉欲の塊である。だが、彼女の内心は非常に空虚なので、自分一人だけでは何事も果たせず、常に手下となってくれる信奉者を必要とする。支持者や信奉者たちを搾取し、彼らから盗むことによってのみ、彼女は栄光を受けるのである。

この霊は偽りの希望を信者たちに持たせて彼らを欺いている間、信者たちから栄光を盗むだけでなく、金銭(献金)や労働(奉仕)をも搾取する。すでに述べた通り、ペンテコステ運動の指導者たちは、その出身を調べて行くと、その大半が、単なる「自称牧師」や「自称カウンセラー」などの、まともな教育訓練をほとんど受けていない、ただ勝手に指導者として名乗り出ただけの、ほとんど成り上がり者と言っても良いようなにわか牧者たちである。中には、明らかに問題のある環境に育ち、非行(場合によっては殺人さえ)などの眉をひそめる行為を繰り返していたり、回心してクリスチャンになった後でも、成熟した社会生活を送った経験がないに等しいような場合も珍しくない。このように、詐欺師と言っても過言ではないような不誠実かつ不適格な人間が、「聖霊のバプテスマ」を口実にして、何かの超自然的な霊力を誇たというだけで、無から一足飛びに宗教指導者として栄光の座に就き、短期間で、自分のミニストリーを開き、信者たちを集めて大金を巻き上げるのである。

こうした指導者は、(詐欺師はみなそうであるが)大胆で厚かましくパフォーマンスが巧みで、人の心の弱点を見抜いてそれを利用する技に長けているので、最初のうちは、弱者救済などを口実にして、既存のキリスト教界を勇敢に非難してその問題点をあぶり出し、悪代官をやっつける正義の味方のように振る舞い、人々の抱える問題に寄り添うことで、救済者のように振る舞い、注目を集め、感謝され、信頼され、期待されるかも知れない。

詐欺師は、無いところから幻に過ぎない栄光を引き出すために、他人の持っている栄光を盗むしかなく、その第一歩は、既存の秩序を引きずりおろして転覆させて、権力の空白地帯を作り出すことから始まる。彼らは従来の体制の不備を突き、それを転覆させる改革者のように装って現れ、その斬新で奇抜で挑戦的なパフォーマンスに圧倒された愚かな人々が、歓呼して彼らを支持し、そうした信者たちからさらに搾取して、自分の勝手気ままに支配できる団体(ミニストリー)を作り上げるのである。

だが、以上のようなペンテコステ運動の指導者たちは、突如としてどこからから現れ来て、一瞬、人々の注目をさらうものの、人間関係の結び方、行動があまりにも未熟で幼稚であり、不誠実かつ挑戦的なために、そのうち多くの人たちから相手にされなくなり、仲間内でも分裂し、孤立化して行くことになる。そうなると、何かしら一国社会主義路線のようなものが出来て、反対者も増えて来るので、信者の離散を食い止めるために、ますます彼らは疑心暗鬼に陥り、他の団体に対する敵意をむき出しにしながら、より厳しく情報を統制して引き締めをはかり、自己の優位性をしきりに強調して、信者を引き留めるしかなくなる。最後の一人が離脱するまで、自分の縄張りの外にいる信者たちを敵視・非難・断罪しながら、「自分たち(だけ)が正しい信仰の持ち主である」と言い張り続けるのであろう。指導者の不誠実な正体が早々に見抜かれてメンバー全員が離脱すればまだ良いが、そうならないうちに、指導者がいよいよ自分の正体が気づかれそうな段階になると、自らが責任追及されることを恐れて、人民寺院事件や、戦中の日本がまさにそうであったように、信者たちを道連れに集団的な心中ような悲劇的最期に向かうこともあり得る。そうなると、まさに「盗み・殺し・滅ぼす」という悪魔の意図が達成されることになる。
 
 
男性の「非男性化」と女性の「男性化」――イゼベルの霊が生み出す卑怯で軟弱化した男たちと尊大で厚かましい女性たち

さて、話を戻せば、筆者自身の目から見ても、ペンテコステ運動に関わる信者たちには、「女性の男性化」、「男性の女性化」という現象が顕著に見られた。
 
もっと卑近な言葉で説明するならば、この運動を特徴づけるのは、「男性の上に立ち、男性を思うがままに操ろうとする傲岸で不遜な女性たち」と、「そうした女性たちの尻に喜んで敷かれ、彼女たちの助けなくては何もできないほどまでに軟弱化した女々しい男性たち」であった。
 
ペンテコステ運動に関わる女性信者たちは、外見的には、非常に女性らしく、たおやかに、敬虔そうに、純粋そうに見えるかも知れない。以前、筆者は学生時代に遭遇した(後には著しいトラブルメーカーとなった)ペンテコステ信者について記事に記したことがあるが、彼女の場合も、その外見には、いずれそういう厄介な事態が持ち上がると予想させるものはなく、かえってある種の純粋な美しさのようなものさえ見て取れたものだ。その後、ペンテコステ信者たちとの関わりにおいて、筆者はこうした純粋そうに見える外見的な美が、この運動に関わる信者たちの多くに共通する特徴の一つであると分かった。

ペンテコステ運動に関わる女性信者たちは、一見、率直で、信仰熱心で、全てのことをあけっぴろげに語り、人の弱さに対しても敏感で、困っている他人にはかいがいしく寄り添う術を心得ており、その同情心溢れる行動や、親切心は、女性らしさや、内心の謙虚さの証のように見えるかも知れない。信仰生活においても、彼女たちは人助けに熱心で、自分が直面している問題や、様々な事柄についての印象を隠し立てなく語るので、それを信頼の証であるように誤解してしまう人もあるかも知れない。

だが、もう少し深く関わりを続けて行くと、そのぱっと見のたおやかさ、愛らしさ、優しさ、柔軟さとは裏腹に、彼女たちは内心では非常に頑固で、融通が利かず、しかも、一度、何かを思い込んだらどんなに周囲が止めても自制がきかないほどまでに猪突猛進で、その判断は、非常に偏っており、直情的で、非論理的で、一言で言えば、暗愚であり、何事も深く考察せず思いつきや印象だけで判断し、周囲の理解やサポートを度外視して、自分勝手に進んでいき、それにも関わらず、自分の判断に絶対的なまでの信頼を置いていることが分かるだろう。

彼女たちに何かを思いとどまるように説得するのは非常に困難である。なぜなら、彼女たちは、自分は他者よりも物事がよく分かっており、霊的に目が見えているのに、他者には自分ほど霊的視力がないから、自分の考えていることを理解できないのであって、そんな可哀想な彼らには、自分が逆に物事を教えてあげなければいけない、と考えているからだ。こうして彼女たちは、他者からの忠告を軽んじ、思い込んだ方向へまっしぐらに突き進んで行く。その勢いは止めようもないほど強引で、呆れながら見守っているしかない。すると、最後になって、やはり、彼女たちの確信は誤りだったのだということが事実として判明する。だが、それに巻き込まれた人たちは大変な迷惑をこうむるのである。

一言で言えば、ペンテコステ運動の支持者たちは、男女を問わず、大変なトラブルメーカーである。しかし、彼・彼女たちは、霊的な慢心に陥っているため、内心では自分を他者よりも賢いと思っており、自分がトラブルを引き起こしているとの自覚はない。彼らの自分は霊的に目が見えているという思い込みは、内心のコンプレックスの裏返しとして生まれる反知性主義から来る。

すでに述べたように、ペンテコステ運動の信者たちの中には、高学歴の信者は少なく、どちらかと言えば、マイノリティや、社会的に冷遇されて来た立場の信者が多く、女性信者たちの多くも、ごくごく平凡な主婦であったり、普通の人々であり、立派な学歴や、専門知識や、エリート的な職業を誇示して、自分は賢いとか、一般大衆に抜きんでた存在であるなどと言えるような人々はこの運動にはあまりいない。

だから、彼らは一見、自分たちは平凡な人間で、とりたてて賢いわけでもなく、特技があるわけでもないと振る舞っているが、その謙虚さも、真の謙遜ではなく、謙遜に見せかけた傲慢であり、彼らは謙虚そうな外見とは裏腹に、内心では、ひそかにあらゆる「知」を嫌悪し、憎みながら、無知である自分が最も賢いと考えているのである。

そのような考えが生まれる理由は、この運動の支持者らが、偽りの「霊」を受けていることにある。すでに述べた通り、ペンテコステ運動を率いる霊は、グノーシス主義的な秩序転覆の霊、人類の自己崇拝・自己栄化・ナルシシズムの霊である。この霊の特色は、まず反知性主義である。なぜなら、この霊の起源は、サタンが人類に吹き込んだ偽りの知恵に由来するからである。ペンテコステ運動が反知性主義的(別の言葉で言えば、体験主義)である理由は、まさにここにある。

なぜペンテコステ運動が体験重視なのかと言えば、それはこの運動が、もともとあらゆる知性(による考察と検証)を憎んでいるからである。この運動においては、何の論理的な裏付けも検証もなしに、信者たちが見せかけ倒しの奇跡や、安易な受け狙いのパフォーマンスに欺かれているが、そうなるのは、この運動に関わる信者たちがもともと深く物事を自らの頭で考察し、自分自身の知性によって検証することを馬鹿にし、嫌悪しているからである。こうした現象はペンテコステ運動を率いる反知性主義的な霊が引き起こしている霊的盲目である。

ペンテコステ運動の体験主義は、悪魔から来る偽りの知恵
であって、その起源は創世記において、エバが悪魔にそそのかされて、何が正しく、何が間違っているのかを自らの頭で考察・検証することをやめて、ただ感覚と印象だけに身を任せて、自分にとって美しく、好ましいと感じられる禁断の実を手に取って罪に堕落した時に、彼女に吹き込まれた偽りと同じトリックである。

悪魔は、決して信者たちに何事もきちんと考察・検証させず、ただ感覚と印象だけに従って、自分にとって好ましいものを選び取るようそそのかす。その上、そうした愚かで自己中心な行動によって、「神のようになれる」と吹き込むのである。今日も、ペンテコステ運動の信者たちは、何も考えずに自分にとって好ましいと思われる体験に安易に身を任せることで、自分が「神のように賢くなった」と偽りの高慢を吹き込まれているのだが、そんな思い上がりが、キリストの御霊から生まれて来ることは決してあり得ない。


ペンテコステ運動の信者たちは、内心では反知性主義的で、知性そのものを憎んでいる。彼らは、知性があるから、自分は賢いと考えているのではなく、「霊」を受け、何かの神秘体験を味わったから、自分には霊的視力が与えられたと思い込んでいるのである。彼らが「知性」だと考えているものは、その実、自らの欲にそそのかされる「愚かさ」であって、「霊的盲目」に他ならない。だが、その霊は、反知性主義的な高ぶりの霊であるがゆえに、それが愚かさに過ぎないことを気づかせず、むしろ、一番愚かな者に、「自分は一番賢く偉い」などと思い込ませるのである。


この反知性主義は、コンプレックスの裏返しでもある。もう一度、創世記で、悪魔がアダムとエバを堕落させるために欺いた時に用いた心理的トリックを振り返ると、悪魔は人類に向かって、「神は不当にあなた方(人類)の目から知性を隠して、知性を自分だけの専売特許として独占することによって、偉く賢い存在となっているのだ」などと思わせたことが分かる。悪魔は人類に対して、「あなた方は不当に教育(知)を受けられなかったがゆえに、未だ愚かさの中にとどめおかれているのであって、神のあなた方に対する扱いは不当である」という(神に対する)コンプレックスを植えつけたのである。

ペンテコステ運動の信者たちは、低い社会層の出身であることが多いと書いたが、彼らの中には、幼少期から満足な家庭環境がなかったために、心傷つき、あるいは低い社会層の出身であるがゆえに冷遇され、差別されたり、回心前には、少年時代からの不良であっていたり、非行に走っていたり、果てはヤクザになったりした者もある。こうした社会層の出身者には、たとえ無意識であっても、自分の生い立ちへの引け目があり、特に、「自分たちは貧しかったがゆえに不利な立場に置かれ、無学な状態に留め置かれ、十分な教育を受けられなかったために、こんなに愚かになってしまったのだ」というコンプレックスと恨みが心に存在していることが多い。そういう恨みは、特に、高い教育を独占することによって、有利な就職をし、高給にあずかり、「貴族」のごとく支配層となっている知的エリートに対する恨みとして心に潜んでいる。

その無意識の恨みと、被差別感情があるゆえに、彼らは常に自分よりも弱く、問題を抱えた人たちを周りに集めて、人々の救済者のように振る舞いたがるのであり、男性信者、男性指導者であれば、自分よりも知的な女性が目の前に現れた時に、コンプレックスゆえに彼女らを自分に対する大いなる脅威と感じ、敵愾心をむき出しにしたりするのである。

ペンテコステ運動の信者たちは、たとえ無意識であったとしても、いつまでも社会の底辺の敗残者とみなされたままでいることには我慢がならないという怒りと復讐心と、それでも、社会的弱者が知性において勝負しても知的エリートに決して勝つことはできないという確信から、自分たちを見下し、踏みつけにして来た知的エリートを出し抜くために、知性によらず、神秘体験を高く掲げることによって、エリートを凌駕し、復讐を果たそうと試みているのである。それは、彼らを導く霊がさせていることである。このようなことを全て認識した上で、この運動に入信する信者はいないであろうが、たとえ信者たちが認識していなくとも、この運動の根底に流れるものは、反知性主義を掲げることによる知的エリート(最終的には人類、神)に対する復讐である。

だから、こうした運動に関わる信者たちが、愚かな者こそ一番賢いと思って、一切の知的考察を退け、ただ感情と印象だけですべての物事をおしはかるような暗愚な行動を、「知」として誇っている背景には、自分は十分な教育の機会を不当に奪われて社会において冷遇されて来たがために、愚かさの中に閉じ込められて生きるしかなかったのだという恨みの念と、その劣等感ゆえに知性を軽んじ、嫌悪することで、あらゆる知的なものに対して優位に立ち、勝ち誇りたいという復讐心が潜んでいるのである。

筆者はむろん、この国の(あるいは世界の)知的エリートと呼ばれる人々の誇る知性が、必ずしも正しいものだとは思っていないし、彼らが高い教育を財力によって独占している状況もあるべきとは考えない。多くの国々では教育は無償化の方向へ進んでおり、それが世界的な流れであって、我が国もそうならなければならないと考えている。だが、たとえ、すべての人々が高い教育を受け、今とは比較にならないほどの知性を手に入れたとしても、まことの知恵はただ神にのみあり、人類にはどちらを向いても、正しい知恵はないのである。人間の知性にはいたずらに人を高ぶらせる効果がある。今日の知的エリートもまた歪み、病んでいる。だが、それでも、ペンテコステ運動の信者たちの知的エリート主義に対する反発から生まれる反知性主義がいただけないのは、たとえそれがどんなに表面的には、社会構造の歪みから生まれるやむを得ない反発であるように見受けられたとしても、その根底には、神に対する恨みに起因する、人類と神への挑戦という恐るべき性質が隠されているからである。特に、ペンテコステ運動の信者たちは、自らの無知や愚かさを「知」として誇ることで、内心では、悪魔の知恵を振りかざして神の知恵に挑戦しているのである。

こうした特徴のために、ペンテコステ運動に関わる信者たちは、うわべは柔軟で謙虚そうに振る舞っていても、内心では頑固で融通が利かず、一旦何かを思い込むと、周囲のどんな説得にも耳を貸さず、誰に対しても、自分の方が物事がよく見えていると思い込み、その思い込みに基づいて、他者を思い通りにコントロールしようとするのである。

だから、この運動に関わる女性信者たちは、外見がどんなに女性らしく見えたとしても、男性的なまでに猛烈なパワーを発揮してリーダーシップを握り、旋風のごとく周りを巻き込みながら、あらゆる物事を自分の思い通りに進めようとする。

そして、これと引き換えに、この運動に関わる男性信者たちは、軟弱で、意志薄弱で、女性たちからの助けがなければ何もできないほどまでに臆病で無責任な卑怯者となって、上記のような信者たちの言いなりになって、その掌で転がされ、彼女たちの命令に引きずられて行くのである。

このように「男性化した女性」と「非男性化された男性」との転倒した秩序は、たとえば、KFCで隠れてメッセージを語っていたBr.Takaこと鵜川貴範氏とその妻直子氏の関係性にも顕著に見られた。二人の内で主導権を握っていたのは、明らかに妻の方であった。直子氏の高圧的で恫喝的な物言いの前には、Br.Takaのみならず、Dr.Lukeもまるで忠犬のごとく従っていたのであった。

ペンテコステ運動に関わる男性たちが、このように大胆不敵な女性たちに屈従するのは、彼らの内面が空虚で、劣等感に苛まれ、自己が傷ついているためであって、彼らには真のリーダーシップを取れるだけの自信と力がないのである。こうした男性たちには、支持者に誉めそやされ、他者を押しのけて優越感に浸る以外には、自信の源となるものがない。そして、他者から何かを盗むことだけを生き甲斐としている。

筆者は、ペンテコステ運動(だけに限らないが)の信者たちが、勝手に人のメールを転送したり、他人のブログ記事を自分が思いついたもののようにメッセージで利用したり、聖書や先人たちの著書を無断印刷して大量に配布したり、これを自分の作品のように自分のブログで著作権表示もなしに縦横無尽に引用したり、改造する場面を幾度となく見て来た。その結果、こうした剽窃は、盗みなのだという結論に筆者は至っている。

彼らは、自分に近づいて来る信者から栄光を盗むだけでなく、手柄を盗み、思想を盗み、夢を盗む。特に、人の望みを奪って、他者を失望させ、隅に追いやっておきながら、自分だけが脚光を浴びて、すべての栄光を独占することで、気に入らない他者に対する圧倒的な優位性を誇示することが、彼らの最大の生き甲斐であり、よすがである。

この人々は内心が空虚なので、人から盗む以外には、自己の自信と力の源となるものが存在しない。彼らが力強く、大胆に、目を輝かせて、立派そうな態度を取り、雄弁なメッセージを語るのは、イエスマンの支持者に囲まれて誉めそやされ、持ち上げられている時か、教師然と人を上から教えている時か、他者を批判して引きずりおろしている時か、自分よりも弱そうな誰かに支援者のように寄り添い、人の弱みを巧みに聞き出しては内心で自分の優位性を確認して満足している時か、あるいは、自分の偉大な超自然的な力を誇っているような時だけである。

彼らは、人に正体を見破られ、おべっかを受けられなくなり、捧げてもらうものもなくなり、盗むものがなくなり、自己の優越性が失われると、完全に心弱くなって力を失ってしまう。彼らは自分が栄光を受けることのできる舞台には、好んで出かけて行くが、いざ自分が不利な立場に置かれ、人に非難されたりすると、途端に臆病になり、まともな反論一つもできずに、仲間を見捨ててさっさと逃亡し、自己弁護や反論の仕事を支持者たちに任せきりにしながら、自分は影に隠れて陰湿な復讐計画にいそしむことも珍しくない。

多くの場合、ペンテコステ運動のリーダーたちは、あまりにも自尊心が傷つきやすく、臆病で、ナイーブなので、普通の人々であれば、公然と反論できるような些細な疑問や批判にさえ、まともに立ち向かう力がない。それはただ自尊心が傷つきやすすぎるためではなく、内心では、自分が詐欺師だという自覚があるので、反論できないということもあるだろう。

こんなリーダーだから、男性であっても、自分や、配下にある人間を、各種の脅威から力強く守ることもできず、仲間が傷つけられても、我が身可愛さに、自分だけ難を逃れることを最優先して逃亡することしかできない。要するに、彼らは聖書のたとえにある通り、群れを守らない雇われ羊飼いなのであり、羊を食い物にして栄光を受けることだけが目的で、敵の襲来を受ければ、真っ先に羊を見捨てて逃亡するような、勇気と潔さのかけらもない、男らしさを失った、見栄と自己保身だけが全ての、卑怯で臆病な牧者なのである。

だから、そういう臆病で見栄っ張りで自己中心なリーダーの周りには、自然と、同じような取り巻きだけが残ることになる。そのように臆病でずるくて身勝手な人々が、自分たちの弱さ、欠点、醜さには目をつぶって、互いを誉めそやし、自分たちを高く掲げて、神に等しい存在とみなして自画自賛し、自分たちに逆らう者は「悪魔の手下」とみなして中傷し、追い払い、気に入らない他者を呪い、裁きや、破滅の宣告を下すのであるから、目も当てられない有様となる。もうこうなっては、男性らしさ、女性らしさ云々というレベルの話ではなく、人格が荒廃して狂犬のようになって人間らしささえ失っていると言った方が良いだろう。

ペンテコステ運動とは、現実の人生において、社会的に低い立場に置かれ、冷遇され、様々な弱さや屈辱感や劣等感を抱える人々が、地道な努力によって自己の弱さを克服することなく、また、真に神により頼み、信仰によって強められることによってその弱さを克服しながら歩んで行くのでもなく、自分自身の弱さからは目を背け、手っ取り早く、悪魔的な力を手にすることによって、栄光の高みに上り、自分を踏みつけにした人々を見返すための、霊的ドーピングのようなものである。

この運動に関わる信者たちは、自己の真の状態から目を背けて、偽りの神秘体験によって自分が飛躍的に偉大になったかのように錯覚している。そして、リバイバルなどと言った偽りの夢と、自分は神に油注がれた偉大な預言者であって他の信者たちとは別格の存在であるという思い込みに基づいて虚栄に生きているので、そのような目くらましの現実逃避に生きている期間が長くなればなるほど、人格が弱まり、現実の様々な問題に勇気を持って自ら直面しながら生きる力がなくなって行く。

彼らは常日頃から、宗教の世界に逃げ込み、誰もが立ち向かわなければならないような現実の諸問題との接触を避け、自分がいつでも人から賞賛を受け、決して憎まれ役や悪役になって名誉を傷つけられたり、対立に巻き込まれることもなく、ヒーローとなって活躍できるような、安全で夢のような幻想の舞台を、弱すぎる自己のための延命集中治療室として用意している。彼らはその「マトリックス」にあまりにも長期間引きこもっているため、精神的には手足をもがれたも同然の状態であり、その救命室から一歩でも外に出ると、もう自分では生きられないほどに弱くなっている。

現実世界においては、そんな彼らの弱さのために、多くの場合、こうした指導者らの家庭は深刻な危機にさらされている。夫婦仲が悪かったり、配偶者をよそにして信者との霊的姦淫にふけっていたり、子供たちが病に倒れ、自殺に追い込まれていたりするが、それにも関わらず、こうした指導者たちは、自らの崩壊しかかった家庭や、孤独に悩み苦しんでいる(あるいは死にかかっている)家族をかえりみようともせず、自分一人だけ脚光を浴びる舞台に立って、立派な教師然とメッセージを語り、人々の注目と拍手喝采を浴びて満足していたりする。最悪のケースでは、子供たちが自殺に至っても、その事件を「神が信者としての私に与えたもうた信仰の試練」などと言って美化・正当化し、自分の宗教活動の異常さに気づくこともなくさらに突き進んで行く有様である。

筆者は、異端の宗教はみな弱肉強食であり最終的には子殺しへと結びつくと述べて来たが、このような域まで達すると、信者が支払った代償も大きすぎるので、偽りに気づいて後戻りすることもほぼ不可能であろうと思う。ペンテコステ運動が信者に与える影響とは、このようなものなのである。どうしてそんなものが正常な信仰と呼べようか。

ところで、筆者の考えでは、真の男性らしさというものは、自分を傷つけられたり、脅かされたりする時にも、忍耐強く耐えしのびつつ、苦難に力強く抵抗し、言うべきことはしっかり言って反論もしながら、自分を守り、同時に仲間を励まし、希望を持ち続ける力にこそある。

真の男性らしさとは、人からいわれなく誤解されたり、非難されたり、評判を傷つけられたり、反抗されたり、あるいは突如、襲来する敵と戦いになって傷を受けても、自分と自分の配下にあるものを最後まで力強く勇敢に守り抜くことができる強さにこそある。この強さは、ただ単に肉体的な強さを意味するのではなく、何よりも精神的な強さを意味する。だが、その強さは、己のためにあるのではなく、自分よりも弱いものをかばい、声なき者の声を代弁するための強さである。だから、真に男らしい人間は、自分が憎まれ役になって泥をかぶることを厭わず、誤解されること厭わず、自分の栄光を愛さず、傷つけられても力づくで報復しない。このような強さと忍耐こそ、真の男気につながる賞賛に値する美徳ではないかと筆者は考えている。

真に完成された「男らしさ」は、人間にはなく、人類の救いのために、あらぬ嫌疑をかけられ、いわれなく誤解され、憎まれて、十字架において死に渡されることによって、人類の反抗を耐え忍ばれたキリストにこそ、最もよく表れているのではないかと思う。キリストにこそ、神は男性に本来的に与えられた理想的な忍耐力を余すところなく表されたのではないかと筆者は考えている。その忍耐力とは、自己の名誉や、自己の評判や、自己の安全を守るために、自己の圧倒的な強さを他者に見せつけ、他者を力づくで排除してでも、自分の正当性を主張するというものではなかった。むしろ、自分を理解しない者、自分を誤解する者、自分を非難し、自分に石を投げ、嘲笑する者のために忍耐し、また、自分の愛する者、自分の信じる者のために、自分自身を完全に投げ出して犠牲にし、愛する者が真に自分を理解して振り返ってくれる時まで、誰にも何事も押しつけることなく待つことのできる力であった。

むろん、このような完全な忍耐と自己犠牲は、キリストにしか提供することのできないものであり、神がついておられればこそ、御子の正しさが証明されるのであって、人間が神に代わって自己犠牲することで他者を救うことはできないし、それによって自分の正しさを証明することもできないであろう。だが、我々は、キリストを模範として、そこから学ぶことはできる。キリストは聖霊を受け、神の力を持っておられたにも関わらず、それを自己の強さや優位性を他者に見せつけて、他者を圧倒して排除する目的では用いられなかった。キリストの力は、自己の正当性を主張するためではなく、神の栄光を証するために、他者を生かすために用いられ、ご自身はその力によって武装することなく、自分自身を誇示することもなく、むしろ、徹底的な弱さの中を通らされることによって、ご自身ではなく、神に栄光を帰されたのである。

その行動を見れば、ペンテコステ運動の信者たちの目指している目的が、どれほどキリストの示された模範からほど遠いものであるかが分かるであろう。この運動は、神に栄光を帰さず、キリストを証しない。むしろ、神を口実として、人類が己を神以上に高く掲げ、自己を栄光化し、自分自身を「神」として崇拝することを正当化する。この運動は、キリスト教に名を借りていても、その本質は全くキリスト教ではない異質な思想であり、そこでは、劣等感や心の傷や怨念によって癒着した人々が、キリスト教界を仮想敵として団結しながら、聖書の御言葉に基づく真の知恵ではない、体験主義という偽りの知恵を掲げて、キリスト教に戦いをしかけ、怨念と反知性主義によって、クリスチャンを引きずりおろして、その代わりに自分自身を高く掲げるのである。

彼らは常に仮想敵を作っては、自分たちは敵に囲まれ、不当に攻撃されていると言って騒いでいる。その仮想敵は、主にキリスト教界を指しているのだが、一体、それほどまでにキリスト教界を非難し、攻撃し、侮蔑せずにいられない彼らの恐怖と疑心暗鬼はどこから来るのであろうか。それは、彼らの内心の拭い難い恐怖と劣等感――根源的には悪魔の恐怖と屈辱感――に由来する。自分たちの卑怯さを重々内心では分かっており、自分たちはいつか罪のゆえに必ず裁かれ、その裁きはすでに決定済であるという確信あればこそ、彼らは絶えず恐怖に怯え、自己正当化のために、キリスト教とクリスチャンに有罪宣告せずにいられないのである。彼らに裁きを宣告するのが、聖書の神であり、キリストの十字架であり、クリスチャンの証であればこそ、彼らは自分たちを訴える者を早々に取り除き、消し去ろうと、今日もキリスト教界を敵とし、キリストの十字架を敵とし、クリスチャンを敵として非難しながら、「バラバを赦せ!キリストを殺せ!」と叫んでいるのである。どうしてこんな運動がキリスト教の一派のわけがあろうか。

クリスチャンに社会的弱者に対する負い目の意識を植えつけることで、神ではなく世に奉仕させる偽りのキリスト教としてのペンテコステ運動

・クリスチャンに社会的弱者への負い目の意識を植えつけることで、キリスト教を世人の利益に都合よく改造し、神ではなく人類に仕えさせようとする偽りのキリスト教としてのペンテコステ運動の危険
 
さて、これまでの記事において、イゼベルの霊というテーマを用いて、クリスチャンが怨念と被害者意識に支配されて、すべての物事を「加害者・被害者」の対立というフィルターを通して見るようになり、自分自身を被害者とみなすか、もしくは自分を加害者の立場に置いて、罪の意識から絶えざる懺悔と自己批判を繰り広げ、他者への償いを使命として生きるようになることの危険性を見て来た。

すでに見た通り、こうしたトリックは、異端の宗教では普通に用いられており、統一教会においては、信者に罪の意識を植えつけることで、償いとして奉仕活動や献金を促そうとする手法が使われている。しかし、今日、統一教会の脱会者である村上密牧師の主導で、ペンテコステ運動において繰り広げられている、キリスト教会で傷つけられた被害者を「救済する」ためのカルト被害者救済活動も、以上に書いたのと同じ心理的カラクリに基づくものであり、これはキリスト教の中にいながら、キリスト教への加害者意識を捨てられない者が、自らの拭い去れない罪の意識から繰り広げるキリスト教への自己批判であると同時に、罪の償いとしての社会的弱者への懺悔の活動であることを書いた。

だが、これに類似する現象は、ペンテコステ運動の枠組みを超えて、キリスト教界に広く普及しており、ホームレス伝道などの中にも同じ性質を見て取れる。ホームレス伝道に関しては別途、稿を改めて書きたいと考えているが、すでに過去の記事でも触れた通り、解散した学生団体SEALDsの代表者であった奥田愛基氏の父である奥田知志牧師や、マザー・テレサのケースに見るように、生涯を弱者救済活動に捧げる人間には、幼少期もしくは青春時代に何かの事件を通して決定的な罪の意識が心に植えつけられている場合が多く、(奥田牧師は釜ヶ崎で、マザー・テレサはインドのコルカタで、そのような体験をしたものと思われる)、こうした人々はその時に植えつけられた自らの罪の意識を払拭せんがために、残りの生涯を弱者救済事業に捧げざるを得なくなるのである。

このような文脈における弱者救済活動は、弱者救済という美しい響きとは裏腹に、実際には、たとえクリスチャンを名乗っていても、心傷つき、罪悪感に苛まれ、神の救いを見いだせない信者が、自らの心の傷を慰め、自分自身を罪から贖うために行う偽りの自己救済の試みであって、そのようなものは、真の意味での他者への愛や支援にはならない、ということをこれまで書いて来た。奥田牧師の場合にも、同牧師が自分の家庭を半ば置き去りにするような形で、ホームレス伝道にのめりこんでいた影響なども手伝って、息子の愛基氏が幼少期に絶望に至り、学校でのいじめなどを苦にして自殺未遂にまで至っていることが、息子の手記から明らかになっているという。このように、まるでかつての学生運動時代の共産主義の革命家を、キリスト教の社会活動家に置き変えただけのような、家庭をも自分をもかえりみない、痛ましいまでに自己犠牲的で熱血で悲壮な救済事業への取り組みは、決して健全な心理から生まれるものではなく、隣人愛に基づくものでもなく、ただ人間の罪の意識から出て来るものであって、決して誰に対しても正常な結果をももたらさないであろうと言える。

奥田家の場合は、同牧師は家庭に異変が起きても、ホームレス伝道への自らの熱意の裏にある動機の根本的な危険性に気づくことなく、同氏のホームレス救済事業は成功談のように美化され、息子もまた父の事業の根本的な歪みを疑うことなく、父の持っていた罪意識から来る使命感を受け継ぎ、路上デモ支援に身を捧げるなど、親子二代に渡って、類似する道を歩むことになっている。

本当は、このように人の家庭を歪め、子供たちを犠牲にしてまで行われる弱者救済事業は根本的に何かがおかしいのだと気づいて、これを美談として扱うことなく、息子は、この事業に働く怨念と罪の意識の呪縛を見抜いた上で、これと訣別し、いつまでも罪の償いのために生き続ける人生を拒否すべきであったろう。しかし、現実はそうはならず、親子二代に渡って、罪の意識による弱者への自己懺悔の活動が継承された。路上デモ者の苦難に寄り添い、彼らの苦難に自分の苦難を重ね、彼らに手を差し伸べることで自らに手を差し伸べ、路上に人生の活動の場を積極的に見いだす愛基氏の行動は、もともとキリスト教会の信者が繰り広げるホームレス伝道や路傍伝道から福音伝道の要素を抜き去っただけのものであり、そのスタイルはもともとキリスト教会の社会事業、もっと言えば同氏の父の活動に由来する。

本来、牧師という職業は、イエス・キリストが十字架において信じる者の一切の罪を贖われたので、これを信じるなら、もはやその信者が罪の意識に苦しめられて、自分で己が罪の償いを続ける必要はないという聖書の普遍的事実に立って、世の罪を指摘し、世に悔い改めを迫り、世に救いの道を指し示すべき立場にあるはずなのだが、今日のキリスト教は、神の福音だけではどうしても飽き足らなくなって、キリスト教は独善的で冷たいという世からの批判をかわすために、世に譲歩し、世からの承認と賛同を求めずにはいられなくなっている様子である。その歩み寄りが、社会的弱者の救済事業となって表れるのである。

近年、キリスト教においては、『キリスト教の自己批判:明日の福音のために』(上村静著、新教出版社、2013年)などといった著書にも見られるように、社会的弱者への憐れみの欠如した伝統的なキリスト教のあり方を厳しく批判し、これをキリスト教の「独善性」や「排他性」とみなして断罪(クリスチャンの側から自己批判)しながら、キリスト教徒はこれまで自ら無関心に見捨てて来た社会的弱者に対して罪の償いを果たすために行動すべきであると唱える理論がしきりに登場している。社会的弱者のために、という美化された口実があるために、こうした理論の本質的な危険性に気づいて声を上げる人間はほとんど皆無と言って良い状況にある。だが、「明日の福音のために」という、以上に挙げた著書のタイトルにもよく表れているように、こうした理論は、社会的弱者の利益に仕えようとしない排他的で独善的な宗教に未来はないとして、信者自身の告白という形を取りながらも、暗にキリスト教そのものを仮想敵のごとく非難し、変革を迫っているのである。

これまでにも幾度も述べて来たことであるが、このように、キリスト教の内側から出て来る自己批判を装いながら提示される偽りの弱者救済の理論には非常な注意と警戒が必要である。当ブログでは解放神学の危険性を考察することで、こうした偽りの弱者救済理論の持つ危険性を指摘して来たが、このような理論には、「キリスト教は社会的弱者の利益に奉仕するものでなければならない」という大義名分を振りかざして、従来のキリスト教を社会的弱者を排除する「残酷で独善的で排他的な宗教」であったと糾弾し、キリスト教に有罪を宣告し、キリスト教はもっと社会に貢献する寛容で慈愛に満ちた宗教に変革されねばならないと唱え、キリスト教の福音の本質を、巧妙に何か別のもの(すなわち、神の利益に奉仕するものから、人間の利益に奉仕するものへと)すり替えようとする意図がその根底に隠されている。

以上に挙げた『キリスト教の自己批判』においても、解放神学とほぼ同じように、キリスト教の使命を、人間の魂を救うことではなく、信仰を持たない社会的弱者の利益を確保するための社会奉仕活動へとすり替えてしまうよう効果が見て取れる。

こうした理論は、社会的弱者の存在を口実にしつつ、信者が目に見えないパンよりも、目に見える地上のパンを優先して生きるよう促し、キリスト教が人間の魂の救いよりもこの世の物質的な利益を優先して、神ではなく人類の利益に奉仕するものとなるよう、「救済」の概念を巧妙にすり替え、キリスト教の福音を人間の地上的な利益にかなうものへと変質させる効果を持っている。

このように神とこの世の地位を逆転させ、目に見えない霊的な糧とこの世の物質的な糧との優先順位を置き換える転倒した思想を普及させるために、偽りの弱者救済の理論は、「キリスト教はこれまで社会的弱者を十分にかえりみて来なかった」と言ってはクリスチャンを責め、クリスチャンに罪悪感を植えつけることで、世から贖い出された信者たちを、再び、この世の奴隷とし、人類の利益に奉仕する存在へと変えようとするのである。

一旦、このトリックにはまって、罪の意識を持ってしまえば、その信者は良心を汚されてしまい、もはや神の目に清められた者として自信を持って立つことはできなくなる。たとえかつてはキリストの十字架の贖いを信じて罪赦されたという自覚を持っていたとしても、再び、罪の意識の奴隷となれば、その負い目ある限り、その信者はずっと罪の奴隷、この世の奴隷として束縛された状態に置かれ、自ら「被害者」を名乗る人間(世)の意のままに動かされることになる。

聖書には、人間の罪を表すものとして「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書」(コロサイ2:14)という言葉が用いられているが、罪悪感とは、霊的な文脈における貸し借りの関係であり、もしもある人が罪のために負い目の意識を持つならば、その人は霊的な負債を負っているのであり、たとえその負い目を発生させる源となった出来事がどんなに遠い過去であって、仮に当事者がすでに亡くなっているなどして、誰一人それを記憶している者がなかったとしても、本人さえもその出来事を忘れていたとしても、その霊的な負債が完済されて、貸し借りの関係が一切解消されていない限り、その人はいつまでも罪による束縛の下に置かれ続けることになる。

罪意識は、それがキリストの贖いによって解消されない限り、人が悪魔に脅され、この世の支配下に屈する最大の根拠とされるものである。これは悪魔が人を脅し、ゆすり、支配するための格好の材料である。統一教会を含む、いかがわしい各種の宗教では、不幸な事件に遭遇した人に対して、「あなたは十分に先祖供養しなかったために、先祖の祟りとしてこのような災いがふりかかったのだ」などと言って、人を脅し、その「罪」を解消するために高価な壺などを買わせようとする手法が知られているが、そこでは、人に罪悪感を植えつけることで、これを植えつけた人間がその相手を思い通りに支配するという心理的トリックが利用されているのである。

そこで、「キリスト教は社会的弱者を容赦なく見捨てて、自分たちだけで神の救いを独占して来た排他的で独善的な宗教であるから、キリスト教は自らの排他性を罪として悔いて、もっと世に役立つ寛容で慈愛に満ちた福音となって、社会的弱者の利益にも積極的に貢献するようつとめるべきだ」などといった主張も、実のところ、上記の「先祖の祟り」による脅しとさほど変わらない心理的トリックに貫かれていることを見抜かなければならない。

そこではただ「被害者」の仮面をつけて登場しているのが「先祖」なのか、それとも「社会的弱者」なのか、という違いがあるだけで、その他の事項はほとんど基本的に変わらない。結局、そこでは、クリスチャンに対して、何かの行動が不足していたと言っては、真の被害者とは到底言いがたい第三者が巧妙に「被害者」の仮面をつけて登場し、クリスチャンを罪に定め、罪悪感を持たせることで、信者が己が罪を償うためには、「自称被害者」の希望に従って、彼らの注文通りに行動することで、自らの行動を改めるしかないのだと思い込ませるのである。

こうした考えの偽りを見抜けず、そこでしかけられた心理的な罠にはまってしまうと、クリスチャンはとがめのない良心を失って、自分を「加害者」とみなすようになり、「キリスト教や教会やクリスチャンに見捨てられた被害者」を名乗り出る人々に全く頭が上がらなくなり、彼らに対して終わりなき罪の償いを果たさなくてはならなくなる。実際には、ただあらぬ罪の意識を植えつけられ、世から言いがかりをつけられ、その因縁のために脅され、ゆすられ、たかられ、自分の人生を自由に生きられなくなっているだけにも関わらず、「弱者救済」の美名がついているがために、懺悔活動にいそしんでいる人々は、自分は社会に役立つとても良い事業を行っているのであって、まさか信仰を持たない人の背後に働く悪霊に都合よく脅されて彼らの利益の操り人形になっているのではないと思い込んでいるのである。

だが、本来ならば、世から罪定めを受けるどころか、世に罪を告げ知らせ、世に悔い改めを迫り、世の利益のためでなく、神と御国の利益のために働くべき牧師や信者たちが、このようなトリックにまんまとはまって、神を知らない不信者に自分の罪意識を解消してもらおうと、彼らのもとを訪れてはその注文を聞き、こうして世人への罪の償いに努力している様子は、まさに皮肉としか言いようがない。

筆者は、ホームレス伝道にいそしむ奥田牧師や、カルト被害者救済活動に携わる村上密牧師は、以上のように、隣人愛ではなく、罪悪感から弱者救済に突き動かされている人々であると考えている。こうした人々は、自分自身の抱える心の闇(罪の意識や、絶望や、空虚感)を埋めるために、自分と同じような、あるいは自分よりももっと「可哀想な人々」を見つけて来ては、彼らを支援することで、自己の空虚な心を慰め、かつ、自分自身の心の抱える怒りのはけ口を、何らかの救済事業(という名目での抵抗運動)に求めずにいられないのである。

筆者は、クリスチャンが社会的弱者に対して憐れみのない行動を取るべきだと言いたいわけではなく、また、真に困っている人に対して物質的支援が一切、無駄だと言うわけでもない。だが、ここで提起しているのはそれよりももっと深い問題なのである。 

ここで問題となっているのは、「加害者・被害者」という対立構造を持ち出して、クリスチャンであるにも関わらず、罪悪感から、見捨てられた弱者・被害者の救済にいそしむ人々は、人間の罪を指摘し、また人間の罪を赦すことができる存在とは誰かという問いへの答えを、巧妙に捻じ曲げ、はき違えており、そうした人々の思考においては、信仰を持たない者が、社会的弱者という立場に名を借りて(もしくは社会的弱者の存在を巧妙に口実として利用して)、キリスト教とクリスチャンに対して「神」のごとく君臨してこの宗教全体を罪に定め、信者であるはずの人々が、それに反論するどころか、信仰を持たない彼らの言い分を全面的に認めて、自ら言いなりになってその要求に従うことを肯定している異常さである。

そのようにして、信仰を持たないこの世の不信者が、自らの利害に基づいてキリスト教を断罪し、この宗教の足りないところを数え上げて、罪に定めるなど全く恐ろしいことであり、さらに、そのような理不尽な言い分を大真面目に聞いて心に罪悪感を植えつけられた一部のクリスチャン(?)たちが、自分は神に贖われたという清い良心と御子の贖いの完全性を信じる信仰を失って、世人の言いなりとなって、自ら加害者の立場に立って、世の不信者に懺悔し、彼らの利益に仕える道具となって、キリスト教の第一義的使命が、神に仕えることでなく、世に対する奉仕活動にあるかのようにみなしていることは、大変、恐ろしい事実である。

もしもこのような転倒した理屈が成立するならば、クリスチャンは、キリスト教に何らかの被害者意識を持つ者たちが現れれば、簡単にその言いなりになって、彼らの気のすむまで脅され、ゆすられ、たかられ、賠償を要求されるであろう。こうして、キリスト教全体が不信者の利益のために都合よく書き変えられ、全く別の宗教に変質することであろう。このような理屈は、「見捨てられた社会的弱者」を口実にして、キリスト教を脅して思うがままに従わせたい人々の欲望を正当化しているだけである。こうした理論は、キリスト教に恨みを持つ者たちにとってはまさに好都合であり、そこから皇帝ネロの犯したキリスト教徒への迫害と殺戮の罪までの距離はわずかに数歩程度でしかない。

世人はいつの時代も、ネロのような大規模迫害を用いなくとも、常に自ら神となってキリスト教に君臨したいと願っており、そのためにキリスト教の福音を骨抜きにして、この宗教全体を世の利益に仕える道具へ変えて行こうと狙っている。このような不信者の思惑にクリスチャンが自ら迎合し、この世の人間の非難に屈して、地上的・物質的支援(目に見えるパン)を神の福音(見えないパン)と対等かそれ以上の位置に掲げる時、キリスト教の福音は完全に骨抜きにされ、存在意義を失うのである。そうなると、これはもはや塩気を失った塩として捨てられ、踏みつけられるだけである。

さて、ペンテコステ運動に話を戻せば、自ら抱える拭い難い罪の意識の償いとして弱者救済事業にいそしむ牧師たちの活動の一環として、アーサー・ホーランドや元ヤクザの牧師(ミッション・バラバ)による世界各国での十字架行進なども挙げられるだろう。この十字架行進は、公式ページの記載によると、1992年に始まり、ごく最近まで、長年に渡り、世界各国で続けられて来たようであるが、イエス・キリストがすでに負われたはずの十字架を、人間に過ぎない者が再び背負って歩こうとするこの活動は、福音伝道の観点からは全く意味をなさない二番煎じであるばかりか、霊的には有害でさえあると筆者はみなしている。

確かに、奇抜な格好をした牧師が、十字架を背負って各国を巡り歩く姿は、人目を引くであろうし、そのパフォーマンスを見て、これをクリスチャンの巡礼の一種ととらえ、信者の謙遜さや世に対する愛の表れであるかのように誤解して、感動し、涙を流すような人間も、ひょっとすると、いるにはいるのかも知れない。しかし、たとえそうであったとしても、人が十字架を背負って歩くという行為は、クリスチャンならば誰もが知っているように、霊的には罪を負った人間が世のさらし者となりながら己が罪を悔いつつ死へ向かって行進することを意味するだけであるから、信者にふさわしい行動とは言えない。それは罪人が自ら犯した罪のゆえに、恥辱を負って、衆目に晒され、罵倒されながら、自らの罪にふさわしい罰を受けるために刑場へ引かれて行く惨めな姿そのものである。

一体、なぜキリストの贖いを信じて受け入れ、罪赦されたはずの人間が、このような行為をせねばならないのか? それが意味するところは何なのであろうか? 十字架が価値ある貴いものとなるのは、罪を犯したことのない聖なる神の御子キリストが、人類の身代わりに罪無くして十字架において罰せられることによって人類のために贖いとなられたという霊的な文脈においてのみであり、それ以外のケースで、罪ある人間が自ら十字架を背負って歩くことには、ただ単に人類の自業自得の罪を表す以外の意味はない。もっと言うならば、キリストの十字架の贖いを受け入れたはずのクリスチャンが、キリストがされたのと同じように、自ら十字架を背負って歩くことは、その信者がキリストの贖いを内心では否定しており、これを退けて、再び、自分で自分の罪を贖うために終わりなき苦行に励んでいるのと同じ無益で無謀な行為を象徴的に意味する。信者にそのような行動をさせるのは、キリストの御霊ではなく、反キリストの霊だと言われてもおかしくない。

聖書には、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:38)という主イエスの御言葉があるが、これは信者が信仰ゆえに自らの生活において負わなければならない目に見えない様々な代償(自己の死、霊的な試練等々)を意味するのであって、信者が文字通り、目に見える十字架を肩に担いで世界各国を巡礼せよという命令を意味するのではない。さらに、信者が十字架を負って従うべき対象も、目に見えない主イエス・キリストのみであって、世人の目に認められるためのパフォーマンスとして十字架を負えという意味ではない。

アーサー・ホーランドの十字架行進は、この牧師自身がキリストの贖いを自ら退けていることを物語っているにも等しい。こうした活動は、世に対するパフォーマンス以上の効果はなく、その必然性がどこにあるのかも不明であるが、これをクリスチャンになっても罪の意識を捨てられない牧師や信者たちが、自らの負い目の意識から繰り広げる世に対する自主的な罪の告白と償いという文脈でとらえるならば、初めてその意味が明白になる。

アーサー・ホーランドが、牧師になった後でも、根本的に罪赦されたという実感を持てないでいるであろうことは、同氏が創設した元ヤクザの牧師の伝道団体である「ミッション・バラバ」の命名にもよく表れている。

一般に、クリスチャンが、聖書において自分自身をどの人物に同形化するのかは、極めて重要な問題であるが、ミッション・バラバのメンバーの牧師たちは、ゴルゴタに立てられた三本の十字架のどれにも自分を同形化せず、むしろ、キリストの代わりに無罪放免されて十字架刑を完全に免れた殺人者バラバに自分を同形化したのである。

筆者が覚えている限り、ミッション・バラバの命名の根拠については「十字架を免れたバラバも結局は、その後、自分の代わりに十字架に処せられたキリストの死に衝撃を受け、自らの罪を悔い改めてクリスチャンになったのではないか」などという楽観的な推測が用いられていたような気がするが、いずれにしても、そんな話は聖書にはない。

だから、バラバは決して悔い改めた罪人の代名詞ではないのである。この命名には、ひょっとすると「バラバが赦されたことは、キリストに対して申し訳ないことであった」という思いが込められていたのかも知れない。バラバに代表されるような、「恥辱と死の苦痛を免れたいばかりに、罪なきキリストを身がわりに十字架につけてまで、自分自身を無罪放免した卑怯で身勝手で頑なな加害者」としての人類の側から、「人類の横暴のために罪なくして殺された被害者であるキリストへの懺悔」としての意味合いが込められていたのかも知れない。

だが、もしそのような考えが根本にあるとすれば、それは一見、神に対する罪の悔い改めのように見えるかも知れないが、実際には、そこにあるのは、甚だ不遜な考えである。なぜなら、人類が神を人類の「被害者」であるかのように考えて、神に対して同情するほどまでに不遜な考えはないからである。人間に過ぎない者が、神を自分たちの悪行の「犠牲者」とみなして、自ら神に同情することによって、神の霊をなだめ、慰めようとするのは、傲慢以外の何物でもない。聖書をきちんと読めば、キリストは人類の罪の「被害者」として十字架にかかられたわけでなく、人類の凶暴さという意味では、そのような側面が確かに一面では見受けられはするものの、同時に、この十字架にはそれよりも深遠な神のご計画があり、キリストの十字架は、人類の贖いのために神の側から愛によって自主的に差し出された犠牲であり、人類はそれを自分自身の罪の贖いとして感謝して受けとるべきであって、自分とは無関係のものとして涙を流して同情すべき対象ではないことが分かる。

にも関わらず、もし誰かがキリストに「同情する」ならば、その人は、御子の十字架を自分のものとして受け取っていないのである。なぜなら、自分は運よく罰を免れたが、他人は不器用のせいかあるいは不運のせいでそれを免れられなかったと考えている人だけが、自分と違っていわれなく重い刑罰に処せられた誰かに同情することができるからである。もし信者が本当に自分自身の罪を認め、キリストの十字架を自分の罪に対する身代わりの刑罰として受け取っているならば、キリストの受けられた刑罰は、信者が当然受けるべき罰であるから、信者はこれを「不当なもの」として受け止めることはできない。彼はキリストを通して贖いが達成されたことを喜び、感謝し、御子の犠牲を賛美しこそすれ、キリストを人類の罪の被害者のようにみなして「同情」することは決してないであろう。たとえ約二千年前にゴルゴタの丘で死んだのが信者の肉体でなく、信者自身はキリストと同じ苦痛を寸分たりとも味わっていないとしても、信仰を通じて、霊的にその信者は確かにキリストと一体となって、永遠に十字架において罰せられたのである。キリストの受けた刑罰は、信者自身に下された刑罰であり、そこでは信者の信仰を通して、キリストが信者と一つになっていればこそ、キリストの贖いがその信者に対して生きて効力を発し、キリストと共に霊的に死んだ信者は、キリストと共に復活し、贖われた者として新しく生きるのである。

だが、ミッション・バラバという名を見る限り、アーサー・ホーランドを始めとして、そのメンバーは、キリストの十字架の贖いを自分自身の罪に対する贖いとして受け取っていなかった可能性が極めて高いように見受けられる。彼らは、ゴルゴタに立てられた三本の十字架のうち、ただキリストの十字架に自分を同形化しなかったのみならず、死の直前でキリストに向かって罪を悔い改めて、彼をメシアと認め、救われて御国に受け入れられた罪人にも自分をなぞらえなかった。むしろ、十字架刑を完全に免れて、ゴルゴタに立つこともなかったバラバに自分をなぞらえることで、キリストの十字架と自分自身を無縁としたのである。これは極めて暗示的である。

どんなに表向きクリスチャンを名乗っていても、内心ではキリストの十字架の贖いの霊的意義を自分自身に適用していないからこそ、彼らはバラバと同じ立場に立って、不当に十字架を免れた罪により、未だに神(と人類)に赦免を求めて懺悔と償いを続けねばならなくなっているのではあるまいか。そのようにして、自分自身を神の贖いと無縁の者として切り離しているからこそ、彼らは元ヤクザとか、元不良といった過去の負のレッテルを捨てることもできず、この恥ずべきレッテルを貴重なものであるかのように、社会的弱者の証としてかえって売り文句にしながら、神の贖いを退けた人間が、自分自身で背負わねばならない負いきれない刑罰の象徴としての十字架行進などといった活動にいそしんでいるのではないか。それは牧師でありながら、彼らの内心では罪の意識が全く内側で払拭されていないことの証拠である。

アーサー・ホーランドは十字架行進の開始以前から、元不良や元ヤクザの信者仲間と共に、路傍伝道にも精力的に乗り出していたが、このように、世人に対して、特に、世人の中でもとりわけ社会的弱者を対象に、神の愛と憐れみを積極的に説きながらも、同時に、自分自身には罪赦された自覚がなく、内心で深い絶望感を抱えながら、弱者救済という名目で、自らの罪の償いに従事する様子は、奥田牧師や、マザー・テレサ等と共通しているように見受けられる。

マザー・テレサの場合もそうであるが、信仰を持たない世の方を向いて、打ち捨てられた不信者に寄り添い、愛を示すことで、世に愛想を示そうとする活動から見えて来るのは、彼らがその不信者に自分自身を同形化し、彼らの苦しみの中に、自分自身の内心の苦悩を重ね、彼らの中に、自分自身の絶望感を投影することで、自分自身を救おうとし、彼らを「神」とすることで、自分自身を「神」として拝んでいるという事実である。

結局、そこでは、信者の信仰生活を評価するのが、見えない神ではなく、世の人々であるかのように置き換えられ、「社会的弱者」や「被害者」などといった世の人々が、クリスチャンに対して「神」になってしまっており、牧師や信者が、聖書の御言葉に基づき、世を罪に定め、悔い改めを迫るどころか、世に向かって「あなたは神に愛されている」などと語って世の罪を積極的に覆い隠し、世に媚びて、世の利益の代弁者となり、そうしてキリスト教の使命を、人間に奉仕し、人間の欲望をかなえるための社会活動へとすり変えているのである。

このように世に迎合した行動を取るのは、決まって、何かの罪悪感を心に抱え、自分の魂を世に質に取られ、神の救いを拒んでいる人間だけである。「犯罪者は(繰り返し)現場に戻る」という言い回しに表れているように、彼らは自らの心に負い目があり、罪によって自分の魂を世につながれ、担保に取られていればこそ、世という現場に縛りつけられ、繰り返し、そこへ戻らざるを得ないのである。彼らは神を見失っていればこそ、信仰を持たない世人を肯定することで、自分自身を肯定し、世の不信者を美化することで、自分自身を美化し、不信者を「神」のごとく高く掲げることによって、自分自身を崇拝しているのである。

しかし、クリスチャンとは、世から贖い出された者であり、信者はもはや自分自身や、世の栄光のために生きているのではなく、神の栄光のために生きている人々である。信者は罪のゆえに悪魔の奴隷として死の恐怖に脅かされながら、この世の支配下に置かれている者ではないので、世人の利益に媚びて、彼らの言いなりになる必要もない。クリスチャンを無罪放免するのは、世人ではなく、世の社会的弱者でもなく、神お一人だけである。

「義人は信仰によって生きる」と聖書にある通り、信者がどんなに立派な人間性を誇り、熱心な社会奉仕活動を誇ってみたところで、それはマルチン・ルターが登るのをあきらめたピラトの階段を信者が自らの膝で這い上ることと同じであり、それらの行為によって、信者が己が罪を自ら贖い、神の目に義とされることは永久にない。そうした行為によって、人が自らを義としようとすることは、みな人類による自己懺悔、終わりなきむなしい自己救済の試みでしかなく、どんなに社会的弱者に罪の償いを続けても、彼らは罪を告白すべき相手を完全に間違えている以上、人がその行為によって罪赦される日は永久に来ないのである。

聖書の神が、昨日も今日も、永遠に変わらないお方であるように、聖書の福音は時代を通じて一つであり、福音の本質は、過去も未来も永遠に変わらない。キリスト教の福音の本質は、時代のニーズの変化や、人間の思惑によって左右されるものではない。だから、欺かれてはならない、昨日や今日とは全く異なる「明日の福音」なるものは決して存在しない。もしそのようなものがあるとすれば、それは偽りの福音だけである。

福音が一つである以上、人間が罪から解放されて、自由になりたければ、そのために通るべき道もただ一つしかない。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」(Ⅰコリント7:23)聖書にこのようにある通り、キリストの贖いを通して、世から贖い出された信者が、その自由を失わないでいるためには、信者がただ神にのみ従い、再び世の(人の)思惑に屈して、世の(人の)奴隷とならないことが必要である。

世に真理はなく、正義も、真実もない。加害者であろうと、被害者であろうと、弱者であろうと、マイノリティであろうと、御子の贖いの下にいない者は、全て罪人でしかなく、人間の罪を赦す権限は世にはなく、神にしかない。それにも関わらず、信者が、世のために、弱者のためにという美名に欺かれて、世の顔色を伺い、世の軍門に下るならば、世は自らの前に跪き、その支配に下る人間を徹底的に騙し、盗み、滅ぼすだけであろう。「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:3)

このように、
信仰を持たず、神を敬わず、神に従うこともない世に媚びて、世の悔い改めない不信者に対して「あなたは神に愛されている」などと言っては世の罪を無罪放免し、すすんで世の利益の代弁者になろうとする人々は、今日も自分自身を神の敵として、「この人を除け。バラバを釈放しろ。」(ルカ23:18)と叫んでいるのである。だからこそ、そのような人々は決して世を罪に定めようとはしない代わりに、キリスト教を「独善的で排他的な宗教」だと言って罪に定め、クリスチャンに有罪を宣告し、罪の償いを求める。それは結局、彼らが神を罪に定め、敵に回しているのと同じことである。そういうことをしておきながら、同時に「キリストが無罪であるにも関わらず十字架にかけられたのは申し訳ないことであった」などと言って、神のために同情の涙を流し、神を犠牲者に見立てて見当外れな懺悔の活動にいそしむのである。

バラバとは、「都に起こった暴動と人殺しのかどで牢にはいっていた者」(ルカ23:19)であり、一説によれば、革命家だったとも言われる。虐げられた民衆の不満を手っ取り早く解消するために、都の秩序転覆を企てて暴動を起こし、悪代官のように見える役人を何人も殺害したりしていたのかも知れない。そんな荒くれ者の男の方が、キリストに比べ、民衆には親しみやすく、身近に思えたのである。それは、バラバが民衆の利益、つまり、弱者の救済を口実にこれらの犯罪を行ったからであろう。バラバの名前の由来も、息子を意味する「バル」と父を意味する「アバス」から成っているというが、それも偶然ではなかろう。問題は、彼の父は誰なのかということである。ピラトの前には二人の男が立っている。一人は聖なる神の独り子なるキリストであり、もう一人は罪深い人類から生まれたバラバである。当然ながら、キリストを罪に定めることによって無罪とされたバラバは人類を代表しているのであり、その父については、次の御言葉が当てはまる。

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときには、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)

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