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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

ロシアという国の危険な本質と、北方領土返還の完全な実現の前にロシアと平和条約を結ぶことの愚かさ、無益さ、有害性について

・日ロ両国の接近が我が国に将来的にもたらすであろう悲劇について

・ロシアビジネスの不幸な現場から


かつてロシア人の友人が、筆者に面と向かって言った。

「プーチン政権に逆らうと社会的に抹殺される」

比較的リベラルで、特に体制反対派とも言えないロシアの知識人が口にしたその言葉は、筆者にとってもそれなりに重く響いた。その言葉の重さは、徐々に増し加わり、様々な実体験と共に、筆者のロシアという国への淡い期待を打ち砕き、我が国とロシアとの平和条約締結を無意味なものととらえさせるに十分なきっかけへと発展した。
 
母国をいたく愛するそのロシアの友人には残念なことかも知れないが、ロシア人が一般にどんなに信用ならない、したたかで、ずるい国民性を持っているか、ロシアと我が国との誠実な取引がいかに成立困難であり、またこのような国と取引すること自体が危険な行為であるか、これから具体的に記して行く予定である。

一言だけ先に書いておくと、ロシアビジネスを営む多くの企業を知っている者として筆者が言えることは、この業界は根本的に不幸である、ということだけだ。レールモントフの詩に表現された「奴隷の国(ロシア)」という響きは、当時だけに限ったことではない。ロシアビジネスに携わるほぼすべての企業で敷かれているのは、レールモントフが詩に書いた通りの、細部に渡るまでの行き過ぎた管理と統制、相互監視・密告体制である。そして人命の軽視、人権の軽視、不法と虐げの恒常化…。

むろん、日本にもブラック企業と呼ばれるビジネスが溢れ、テレマーケティングなど業界そのものがブラックと言われている分野もある。状況は似たり寄ったりだと言われるかも知れない。確かにそうとも言えるだろう。今や我々はビジネスそのもの意味が全く異なり、労働そのものが非人間的な苦役と化そうとしている時代にさしかかっているからだ。

だが、ロシアビジネスの場合は、さらにそれに輪をかけて別種の危険が増し加わることになる。まず第一に、ロシア人は一般的に約束を守らないことで有名である。たとえば、仮に日ロ政府間で正式に合意が交わされ、シベリアに何かのモニュメントの建立が決められたとしよう。それでも、ロシア企業は、必要な資材の納期を一年間先延ばしにしても平気である。契約違反と言われようが、全く意に介さず、どうせ自分たちの他に頼る相手などいないだろうと言わんばかりに、追及されてもダラダラと言い訳を並べ、あるいは情に訴えて真相をごまかそうとする。そのくせ、自分に有利な条件を引き出すための交渉には余念がなく、平気で取引相手を出し抜き、利用する。

したたかで、狡猾で、平気で約束を反故にし、常に勝ち馬に乗ろうと、それまでの仲間を捨ててでも強い者に寝返る。こうした手法について、ロシア人に恥を知れと言っても無駄なことである。ロシア人にはこうした方法が、モラルに反しているという認識はない。取引や交渉の進め方について、同じ土台に立てないのであるから、お人好しの日本人には、彼らのしたたかさに太刀打ちする術はないと言って差し支えない。もしどうしても太刀打ちしたいならば、相手にまさるヤクザ的手法を身につけて恫喝するしかない。

だから、こうしたことの自然の成り行きとして、ロシアビジネスに長年、関わっている日本人は、次第に性格がロシア化して行く。見栄と出世だけが全てだとでも言うかのように、とてつもなく厚かましく、尊大で、利己的で、傲慢になり、かつて持っていたはずの礼儀正しさやつつましやかな謙虚さや誠実さを失って、態度からもはっきりと分かるヤクザ者となり、他者の功績を平然と盗んだり、横取りし、あるいは嘘をついて、ルールを破り、同僚を出し抜き、貶めても平気な人間と化してしまう。そして、たとえ自分の非を突かれ、失敗を突きつけられても、頑なに認めず、謝ろうとしない。どこまでも言い訳を並べて居直るか、同情を引き出して言いぬけようとする。

むろん、以上のようなロシアの実情に心を痛めているロシア人もいないわけではないであろうが、それはあくまで例外に過ぎないことが問題だ。ドストエフスキーも、レフ・トルストイも、すべて例外的なロシア人であり、彼らの文学は当時のロシアの現状に対する深い絶望感から生まれて来たものと言っても過言ではない。我々は、ロシア文化のうわずみのような良いところだけを見て、これがロシアだと断定し、国全体を美化することはすべきではない。

筆者は以上のような現状を見つつ、ロシアとのビジネスを発展させても、我が国にさして利益があるわけではない、と結論づけている。これほど長い間、この分野に発展がなかったこと自体、理由のないことではなく、誠実に約束を履行できない相手と取引することは無謀な行為でしかない。これまで我が国にかの国と平和条約の締結がなかったのはむしろ当然で、幸運なことだったのではないか。ロシア人が誠実に物事に対処することを学ぶまで、ロシアとの友好など我が国には要らないのである。


・ロシアの抱える「被害者意識」と歪んだメシアニズム――他文化の絶え間ない「借用」と侵略によって、国力を強化し、傷ついた自己イメージを救おうと試みて来たロシア

ロシアという国は飽くことのない権力闘争に生きる不幸な国である。すでに書いたことであるが、ロシアにアルコール中毒患者が多いのも、あまりにも過酷な権力闘争の中で打ち負かされて、心破れたロシア人男性が多いためであり、ロシア人女性は美しく心優しいと言われるが、その優しさとて、以上のような自国の厳しい現状の只中から生まれて来た一種の諦念と結びついた同情でしかなく、自分よりも弱い者に対しては同情的かも知れないが、決して真の独立や自立を目指す心意気を生まない。

これまでの記事の中で、筆者は、ロシアという国は、文化も借り物ならば、宗教も借り物、およそすべてが借り物で成り立っている、存在そのものがフェイクに近いような幻の国だという、ある種の極論めいた結論を述べた。そのフェイクに近い国が歴史上、ずっと絶え間なく拡大・膨張政策を取り続けて来たことに、ある種の不気味さがある。今回、なぜそのようなことが起きているのか、ロシアという国が自己意識の深層で抱える問題について詳しく考えてみたい。

まず、ロシアという国は、自国にとって有利で、国家の威信を強めてくれそうなものであれば、どんなものでも、他から平然と「借用」する国である。その例は枚挙に暇がない。ロシアの大都市圏で誉め讃えられるヨーロッパ的町並みは、ロシアの近代化のためにピョートル大帝時代に輸入されたものであり、キリスト教も、ロシアを周辺国に一流の国と認めさせるために、国家の威信強化を目的にビザンチンから借用されたものである。ウラジーミル大公の命令によって、それまで民間の異教信仰に頼って生きていた多くの農村の民衆までもが、教義さえ分からないまま、無理やり洗礼を受けさせられ、キリスト教徒に改宗させられた。こんな強制的な集団改宗の有様を見るだけで、それがロシアがうわべだけ「キリスト教国」を偽装するための儀式に過ぎなかったことは明らかである。さらに、ソ連時代にロシアが取り入れた共産主義思想も、ヨーロッパからの輸入である。マルクスは、社会主義は資本主義の発展の結果として起きるものだと考えていたので、自らの思想の最初の実験場が、当時、ヨーロッパには経済的にも文化的にもかなり遅れを取っていたロシアに定められようとは、想像してもいなかった。

マルクス主義思想も含め、このようにロシアが、自国を飛躍的に「世界一」へと高めてくれそうなアイテムであれば、他国に先駆けてでも、それを導入した理由は、ロシアがそれまでずっと自己意識の深層で持ち続けて来た傷ついた国家のイメージ被害者意識の裏返しであったと言える。自国のアイデンティティの根幹で、傷ついた自己意識、被害者意識を持ち続けていたがゆえに、他を凌駕して世界一の存在に躍り出ることで、世界を救済し、劣等感を払拭し、雪辱を果たそうとする歪んだメシアニズムの思想が生まれたのである。

マルクス主義などは、ロシアという国がこのようにもともと深層で持っていたメシアニズムの思想が表面化するときに取った形態の一つに過ぎない。プーチン氏の目指す「強いロシア(の復興)」にも同じ思想が表れており、おそらくは、こうした思想は今後も二度、三度と、現れて来るものと思われる。

さて、以上で見た通り、ロシアが他国の優れた文化や思想や宗教を、自国に「借用」しようとするのは、それらの優れた価値に本気で学ぶためではなく、むしろ、それらの価値を表面的に取り入れることで、一流国の仲間入りを果たしたかのように見せかけ、自国の威信を強化する目的でしかなかった。だから、こうして行われる改革や変化はいずれも、対外的に見栄を張る必要のためだけに行われるものであって、ロシアという国の歴史や文化の只中から必要に迫られて生まれて来たものでない以上、ロシアという国に本質的に根差すことなく、根本的な変化をもたらすものとはならなかった。それでも、一流国であるために、昨日までの民衆の生き様を根底から覆し、自国のそれまでの歴史や文化の価値を根こそぎ否定してでも、急激で極端な改革を実行しようとすることが、ロシアの歴史には度々あった。このように、ロシアにとって、自国が他国に比べて引けを取らず、周辺国と対等に肩を並べ、これらを凌駕する存在となることこそ、いつでも第一義的な課題であり、その目的の達成のためならば、他国の持っている優れた価値を強引に剽窃したり、自国の歴史や文化の連続性を無視してまでも、他文化の物真似に走ることも辞さないのである。すべての価値が、民衆には還元されることなく、ただただ国力の強化、国家の威信の増強へと吸い尽くされて行くところに、この国の不幸が存在する。

このような現象は、国家的なアイデンティティをいたく傷つけられ、ひどいコンプレックスを抱えている国にしか起き得ない事柄である。自尊心を失い、心傷つけられ、本当は自分は一流国でないという劣等感に苛まれていればこそ、借り物の衣装を身にまとってでも、自分を一流国であると認めさせたいのである。軍備の増強と、国家の拡大・膨張政策(マッチョイズム)に走ることで、真の自分自身から目をそらさざるを得ないのである。

うわべだけ他者の真似事に走っても、決して本質では一致することはできないが、かりそめにも自分はエリートの一員となったと思うことで、傷ついた自己を慰めることはできる。こうして、他者のやり方を真似ることで、他者にあたかも自分が仲間であるかのように見せかけて油断させておいて、本心では、自分にひどい惨めさとコンプレックスを味わわせた他者を打ち倒そうと考えながら、その内心を隠して、友好を装ってその相手に近づき、やがて相手をぱっくりと飲み込んでしまう。何しろ、本家本元が消滅していなくなってくれれば、自分をフェイクだと主張する者もなくなる。それが他国とのロシアの絶え間ない争いの歴史であると言えるのではないか。キリスト教の中においてさえ、ロシアには、カトリシズムを堕落したものとみなすあまり、ヨーロッパのキリスト教全体を侮蔑し、自国のキリスト教こそが世界で唯一正しいと自負する思想が存在した。このような優越意識は、劣等感の裏返しとしてしか決して生まれて来ないものである。

筆者は歴史家ではないので、モンゴルによる統治時代に、ロシアに対してひどく残酷な所業が行われたという言い伝えの中に、果たして誇張はないのかといった点についてここで争う気はない。だが、重要に思われるのは、仮にロシアの傷ついた自己意識が、それ以前から持ち続けられたものであったとしても、異民族の占領・統治下に置かれ、国が消滅に近い状態となったタタールのくびき時代の歴史的な記憶が、今日までも、ロシア人の心に大きな屈辱感・劣等感、被害者意識を生む一因となっているのではないかという疑いである。さらにもっと重要なのは、このタタールのくびきを跳ね返すために、ロシアは精神的に敵(モンゴル)と同化し、モンゴル的統治方法を己が内に取り込んだのではないかということである。

ロシア人の多くは、屈辱的なこととして決して認めたがらないであろうが、以上のような指摘はすでになされているものであり、モンゴルによる制圧時代に、事実上、モンゴル人とロシア人との混血が進んだだけでなく、両者の文化が混合し、異質なものが混ざり合い、ロシアにとって、モンゴルとの一体化という後戻りできない変化が起きたのである。

何よりも、ロシアという国を今日まで特徴づける、強大な中央集権的な国家権力による圧倒的な民衆支配の原型は、まさにこのモンゴル統治時代にこそ生まれたのではないかと想像せざるを得ない。なぜなら、このような統一的な政権は、絶えず諸公が分裂していたキエフ・ルーシ時代にはまだ見られなかったものであり、こうした中央集権的な政権そのものが、モンゴルの統治方法の借用であると見受けられるためである。ロシアはモンゴルの抑圧から脱するために、モンゴル以上の強力な国家権力を打ち立てねばならない必要に迫られており、そのために、モンゴルの統治手法を己が内に取り込むことで、これを跳ね返す必要があった。ロシアはモンゴル貴族との婚姻によってモンゴル支配に微笑みながら友好的に協力の手を差し伸べ、これと協力し同化する風を装いながら、これを飲み込んで、相手を打倒して立ち上がった。以後、ロシアの歴史は、モンゴル的な占領・拡大政策と、それ以前からずっと続けて来た絶え間ない「借用」の連続である。

こうして、タタールのくびきは終了し、敵は弱体化し、駆逐されたが、それでも自分たちは踏みにじられ、痛めつけられ、今も絶えず脅かされている弱者だという被害者意識はなくならなかった。その弱者性と屈辱感と恥の意識を覆い隠すために、より一層、国家権力の強化に励み、他国を凌駕しようとの強迫観念から抜け出せなくなったのが、それ以後のロシアなのではあるまいかという気がしてならない。

とにかく、ロシアという国の国家観の根底には、自国の発展と威信強化のためならば、自国民や他国や果ては世界全体がどうなろうとも構わないといった発想があるように思われてならない。なぜ彼らはそこまで「国」というものの強化にこだわるのか? 強迫観念のようなこの思想は、タタールのくびきをきっかけに生まれたものではないとしても、かつて異民族の統治下に置かれて、自国が占領され、抑圧され、消滅同然となった時代に、より強化され、こうして傷つけられて失われた国家の自己イメージを今も引きずり、絶え間ない恐怖と屈辱感に脅かされているために、その傷ついた自己を救うために、永遠に自分を脅かす敵がいなくなるまで、世界征服を模索し続けねばらないという思い込みが生まれているのではないだろうか。

このような批評を「あまりにもひどい一方的で根拠なき感情的な決めつけだ」と考える人がいるならば、ロシア人がかつてシベリアの強制収容所でどのような生活を送ったのか、その記録を読んでみれば良い。同胞同士がどれほど憎み合い、殺し合い、貶め合ったかが分かるであろう。何よりも国力強化のために、このように憎悪すべき強制収容所群島を国中に作り上げ、自国民を徹底的に虐げ、収奪するシステムを完成させたこと自体、ロシアにおける「国」の概念が、どれほど恐ろしく歪んでいるかをよく物語っていると言えよう。

そして、大変、残念なことに、ロシアという国の持っているこのように傷ついた自己イメージ、被害者意識、それを跳ね返すために生まれて来る歪んだ世界征服の夢(メシアニズムの思想)は、かなりの部分がほとんどそっくり、今日の我が国の国家像にも当てはまるのである。

* * *

・安倍氏とプーチン氏に共通する「被害者意識」と、これを跳ね返すためのマッチョイズムとしてのナショナリズム

ソ連が行ったシベリア抑留や、北方領土の占領、またロシアの社会主義化などの出来事のために、我が国では、相当長い間、ロシアに対する不信感が国民に根付いていた。また、プーチン政権に対する我が国世論の批判や不信感も、つい最近まで相当に根強いものがあった。それが激変するのは、明らかに、安倍政権になってからのことである。安倍氏がプーチン氏との個人的な親密さを積極的にアピールしながら、領土問題の解決を自分の手柄にしようと動き出してから、それまで暗黙の了解となっていたロシアへの不信感が、世間で語られなくなって行ったのである。

何度か書いて来たことであるが、安倍政権の思想的特徴は、プーチン政権と本質的に同じである。また、人間としての両者の人格的な欠点も非常に酷似している。彼らには、一部では、サイコパスや、自己愛性人格障害といった評価も向けられているが、それも当然であろう。飽くことのない権力欲、人前で栄光を受けることを愛してやまない名誉欲、困っている人間には同情的なそぶりを見せながらも、人の弱みをとことん利用して出世の手段として行き、その陰で反対者は容赦なく力で抑圧し、駆逐して行く。非情さ、冷酷さ、猜疑心、復讐心の強さ、などは互いに似通っている。
   

安倍政権によるメディア懐柔・統制はすでに批判を浴びて久しいが、プーチン政権に逆らって殺害されたり、不明な死を遂げたジャーナリストの噂も絶えない。

日曜未明、あるジャーナリストの不審死と、先を行く205人のジャーナリストの死 (2016年8月29日)(HKennedyの見た世界から)

「ヴラジミール・プーチンが大統領に就任してからのロシア、及びロシア連邦で暗殺されたり、不審死を遂げたジャーナリストの数は205人に上ります。」

プーチン政権下、暗殺されるジャーナリスト達 
 

  
安倍氏がしきりにプーチン氏を評価するのは、ただ単に同氏が領土問題をきっかけに脚光を浴びたいだけではない。その接近には、何よりも、両者の持つ思想的な親和性が影響しており、安倍氏の目指す理想的な統治像が、プーチン政権にこそあることが影響している。

安倍氏の目指す「美しい日本」像は、プーチンの掲げる「強いロシア」と本質的に同じなのであり、それは我が国においてかつて否定され、退けられた軍国主義・国家主義の再来を意味する。

両者の思想的な親和性がどこから生まれているのか、その理由は、安倍氏と密接な関わりのある統一教会の思想を考慮しても、理解できることである。すでに述べたように、統一教会はかつて「共産主義の脅威」に対抗することを目的に掲げながら、共産主義との闘いの過程で、政敵からすべての忌むべき手法を自分自身の内に取り込んで行った。統一教会が共産主義と一体化した過程は、統一教会の組織である国際勝共連合の掲げる「核武装」や「憲法改正」、「スパイ防止法」などのスローガンが、すべてもとを辿れば共産主義国が実施した人民統制の手段と重なることからも理解できる。これはモンゴル統治を廃するために、ロシアがモンゴル統治と一体化して行った過程とよく似ている。統一教会は、表向きには共産主義と闘っているように喧伝しながらも、実際には、共産主義を手本として、その手段を己が内に取り込むことで、自己の権力拡大の手段としたのである。

そこで、このような全体主義・宗教カルトに関わる全ての人に、今日も、親ロ的な思想が伝統のように受け継がれているのは不思議ではない。KGB出身のプーチン氏の統治方法がソ連時代に極めて酷似していることが示すように、また、日本にいるロシア研究者の数多くが今日も思想的には共産主義に親近感を抱き続けているように、たとえ時代が変わっても、彼らは本質的には今も変わらず共産主義者のままなのだと言って差し支えない。筆者は、共産主義思想ももとを辿ればグノーシス主義思想に行き着くものと考えているが、グノーシス主義とは、元来、被害者意識から生まれるものであって、何よりも「神に対する人類の被害者意識」から発生する思想である。聖書の神によって罪に定められた人類が、被害者意識によって神に敵対して団結し、神の下した判決を覆して自力で自分を無罪とし、名誉回復を遂げようとする思想がグノーシス主義である。

安倍氏には同氏が国家観として持ち続けている「被害者意識」に加えて、個人的なルーツとして持ち続けている「被害者意識」もあり、この二つは安倍氏という個人の人格の中で密接に結びつき、同氏は双方の「名誉回復」を目指している。安倍氏の政策がどれほど対米隷属的だと批判されようとも、同氏のルーツを辿れば、安倍氏が心からの親米派であるとはおよそ考えられないのもそのためである。同氏が望んでいるのは、一時はA級戦犯とされ死刑に処されるかという恐怖を味わった祖父の「名誉回復」であり、それによって自分自身のルーツを「浄化する」ことであろう。だが、そのようにして祖父を名誉回復するためには、どこかで「米国のくびき」を跳ね返すことがぜひとも必要であり、戦勝国によって下された審判を覆して汚名を返上せねばならない。その意味も込めて、ロシアへの接近をはかっているのではないかと考えられる。(だが、以下に書く通り、こうした行為はすべて祖国への裏切りとして、したたかに報いられるであろう。ロシアに接近しても、北方領土の返還にはつながらないどころか、安倍のこうもりのような振る舞いの陰で、同氏は最終的には米ロの両国に裏切られ、敗戦時と同じように、米ロによる新たな日本の領土の占領・分割という悲劇を招くことにもつながりかねないと懸念する。)

さらに、上記したようなロシアが国家像として抱えている「傷ついた自国のイメージ」と、それを跳ね返すために「強い国を取り戻そう」とするスローガンは、敗戦によって「屈辱を受けた」ゆえに、これを「跳ね返さなければならない」と考える、安倍氏を含む日本会議メンバーのような人々の心境にも重なる部分が大きい。

内心では、自国の占領、抑圧、消滅の恐怖を今も持ち続け、歴史的事実のために屈辱感、劣等感に苛まれているという共通点があればこそ、彼らは一人のリーダーのもとで団結する「強いロシア」の国家主義にも親近感と憧れを抱くのである。

ロシア国家が国民性として抱える「傷ついた自己」の本質については、次のような指摘もある。
  

ロシア、アメリカ、日本のナショナリストの抱える危険(HKennedyの見た世界 2016年8月30日、太字、赤字は筆者による)

現在のロシアにあるのは、共産主義というイデオロギーではなく、プーチン大統領を筆頭にしたマフィア集団に政権を牛耳られたロシア・ナショナリズムです。これを要約すれば「すべて周りの国々は我々に対抗している。我々は敵によって周りを囲まれている。我々は強く在らなければならず、プーチンを必要としている。プーチンのみが我々を救う事が出来る」という考えです。

但し、言ってみればこのような主張は、ロシアのナショナリストだけではなく、日本のナショナリストやアメリカのナショナリスト(多くのナショナリストはトランプ支持者です)の間にも広まる『被害者意識』に繋がります。

外国や周辺国が危害を与えようと自分たちの国に敵対しているという『陰謀説』から来る『被害者意識』の蔓延るナショナリズムには、他者(他国)との共存や協力は全て『売国奴』『国の敵』と映ります。ここから考えても、国中にプロパガンダを流してナショナリズムを鼓舞しているプーチン大統領が、外国との連携や協調路線や柔軟路線をとることは無く、又対日外交で言えば、北方領土を返還する意思が微塵も無い事はあまりにも明らかであり、強権を振るうプーチン大統領なら「解決するかもしれない」のではなく、プーチンだからこそ「解決にならない」ことを見極めるべきです。

  
以上の記事では、ロシアの国家の本質は、「すべての国がロシアに敵対している」という「被害者意識」にあるとされる。今日、状況はまさにそれに近いものとなっているので、こうした思い込みは全く根拠がない単なる被害妄想とも言い切れない有様だが、しかし、こうした敵対状況すらも、場合によっては、より深い次元では、ロシアが抱える「被害者意識」が現実に投影されて起きて来たものと見ることもできる。(あるいは、ロシアが己が利益のために、「米国という世界的巨悪に対し、孤立状態に陥ってでも、決然と立ち向かう勇敢な一国」の姿を好んで演出しているという見方もできる。)

だが、このように「周辺国から敵対されている」という被害者意識・危機意識は、「中国の脅威」などをしきりに煽る安倍晋三の「被害者意識」とも共通するものがある。両者ともに、「自分は脅かされている」という危機感から抜け出すことができず、他国に対する不信感・敵意・不安を煽ることによって、それを自己の政治権力強化の手段として行く点は同じである。仮想敵を作り、対立や被害者意識を煽ることによって、「強い統一的なリーダーのもとに国民が一致団結し、国家を強力な防衛の砦としていくこと以外に、我が国民が身を守る術はない」などと訴え、国と自分自身を同一視し、自分という政治的なリーダーの下に国民を集結させようとする政治手法は極めてよく似ている。

こうした人々にとっては、平和が訪れるよりも、敵が存在し、国が危機に晒されているという恐怖感が絶えず国民の間に存在する方が好都合なのである。

かなり古い記事ではあるが、以下のような記事も、プーチン氏個人の世界観をも読み解く鍵となるであろうと思う。「荒海でクジラ撃ちのプーチン首相、「人生は危険なもの」とうそぶく」(2010年8月27日)AFPBB News

全世界が自分に敵対しているという被害者意識を持ち続けていればこそ、こうした人間たちは、人生を絶え間ない権力闘争に置き換え、周囲の人間を「敵か味方か」に二分し、飽くことなく闘争や、スリルに生きることが人生であると捉える。彼らにとっての人生とは、最初から安息の場ではなく、絶え間ない闘争でしかない。このような人間には、他者を信頼するとか、愛することはできない。だからこそ、その証拠に、長年連れ添った伴侶をも離縁してしまうか、家庭内離婚状態となり、家庭に決して平和が訪れないのである。それは彼らが人生の目的としているものが、最初から、家庭の安らぎとは程遠いものだからである。

だが、そのようにして対外的な危機ばかりを煽り、疑心暗鬼から武装を強化し続けていれば、いずれ叫んでいた対立が本当になる日が来ないとも限らない。だから、このような心理的傾向を持つ二つの国の接近は、大変、危険なものであると言える。何よりも、共に被害者意識と疑心暗鬼に苛まれるだけの二つの国の間に、決して真の友情と連帯などあり得ない。あるのは、どちらが先に食うか、食われるか、という問題だけである。


・ロシアはソ連時代と本質的に変わらない――決して北方領土を返還しないばかりか、さらなる領土侵略に及ぶ危険性を考えなければならない
  

侵略国家ロシアは「北方領土」を返さないばかりか北海道の侵略占領を狙う

 「平和条約の締結」は、ロシアが違法に侵略して占領し続けている日本の北方領土を日本に返還し、謝罪と賠償をして、結ばれるものだ。つまり、ロシアが国際法を守り、侵略を否定する「平和愛好国家」に転換したときに結ばれるものだ。だが、そんなことはありえない。ロシアは2008年8月にはグルジアを軍事侵略したのだ。これを、安倍首相のブレーンであり、反米の思想工作を巧みに展開する中西輝政京大名誉教授は強く支持した(私の2013年11月21日脱の文の2節参照)。中西氏は安倍首相の私的諮問機関「安全保障と防衛力に関する懇談会」(2013年9月10日)の委員である。ロシアは、シリアのアサド独裁政権を支援し、化学兵器の原料を提供してきた国だ。

 つまり、 2月8日の日露首脳会談での、<戦後68年間にわたって平和条約がないという異常な状態を終わらせなければいけない>というプーチンの「認識」は、日本国民を騙すための嘘である。同じく安倍首相の「同認識」も、国民を騙すための嘘である。

<略>

 新ロシア帝国は、マルクス・レーニン主義は棄てたが(共産主義では経済を発展させることができないこと、西側自由主義国を騙すため)、ソ連時代のKGBによる国内弾圧体制と、ソ連時代の対外政策=侵略主義を断固として継承したから、国家の本質はソ連時代と同じである。

 ソ連時代の対外政策の侵略主義は、帝政ロシアの対外政策の継承であった。沿海州のウラジオストクは、「東方(日本)征服」の意味である。新ロシアの国章は、帝政ロシアの「双頭の鷲」である。新ロシアの国歌のメロディーは、スターリン作のソ連のものであるし、レーニン廟もソ連時代のままである(中川八洋氏『地政学の論理』17,18頁参照。2009年5月刊)。このように「新ロシア」と称しているが、本質はソ連時代の継承であり、悪の帝国なのだ。

 なによりも、新ロシアの支配者はソ連時代と同じだ。 旧東欧諸国のように、弾圧されていた側が政権を取ったのではない。ソ連共産党の代わりをKGBが担うようになっただけであり、「ソ連崩壊」は、「国家の偽装倒壊」なのである。西側は騙されたのである。

  
「悪の帝国」などという半ば陳腐化してしまった台詞にも見られるように、以上のような記事に、学術的な検証としての価値を見いだすのは困難かも知れないが、しかし、言わんとしていることの趣旨はそれなりに理解はできる。

プーチン氏が、いかに表向きはソ連時代への反省と共産主義と訣別したと宣言し、ロシアが新しい国家として出発したように見えたとしても、実際には、それは見せかけに過ぎず、国家の本質は変わっていないというのである。そのことが、現在のロシア国歌にも表れており、KGB出身のプーチン氏が長期政権を維持している事実にも表れており、レーニン廟が一度も取り払われたことがない事実にも表れているのだという。

そして、ソ連の本質とは、絶え間ない拡大・膨張(侵略)政策であった。それは今も変わらないロシアの国家政策である。別の指摘では、ソ連時代、東欧も含め、ロシアと「平和・友好条約」などといった美しい名前の条約を結んだ国は、ほとんど約束を裏切られて侵略の対象となった。たとえば、アフガニスタンは、1978年にソ連と結んだ善隣友好条約が口実となって、翌年、ソ連に侵攻された。日本はかつて日ソ中立条約に違反して、ソ連からの対日参戦を受けた。こうしたことからも、ロシアにとっては、「中立」や「平和」や「友好」といった名のつく約束は、ただ相手方の行動の自由だけを縛っておいて、自分は約束など無いがごとくに好き勝手に振る舞い、自分にとってのみ有利に事を進めるための裏切りと侵略の第一歩でしかないと見る向きもある。

いずれにしても、ソ連に形式的な終止符が打たれたからと言って、それだけを持って、ロシアという国の、こうした信頼のできない不誠実で裏切りに満ちた歴史的な習慣、ずるくて抜け目のない国民性がなくなったと考えるのは早すぎるであろう。まだソ連時代に学校教育を受けた人々がこの国では若者層を支えている。そうしたことだけを取っても、共産主義のイデオロギーが、体制の変革と共にただちに消え失せたと考えることはできない。

だが、共産主義にこだわらずとも、ロシアという国は、歴史上、強大な国家権力が絶え間なく拡大を続けながら、自国の民衆を容赦なく抑圧するという道を外れたことが一度もない国である。赤の広場はかつてイヴァン雷帝によって人民の公開処刑が行われた場所でもあった。このような悲劇的な過去を持つ国家としてのロシアの本質は、今後も決して変わらないであろうと筆者は考えている。

何よりも、歴史的事実によって傷つけられた自己イメージを、軍備の増強や、国家の威信強化といった表面的な手段(マッチョイズム)で補うとすること自体に無理があるのだ。そのようにして、自己の内面と向き合って、真の健全さ、高貴さを身に着けるために、何が必要なのかを考える代わりに、ただ手っ取り早く他者の持っている優れた価値を強奪したり、仮想敵を作り出すことによって、諸悪の根源が自分以外の何者かにあるように見せかけ、これを口実に軍備を増強し、周囲を屈従させることによって、仮に世界一の座を手に入れたとしても、そんなことで一流国としての気品が身に着くことはない。そうしたことによっては、より一層深い疑心暗鬼と対立関係が生まれるだけで、傷ついた自己イメージが回復されることもなければ、決して本当の安らぎと満足もやって来ない。真の尊厳は、人間の場合も、国家の場合も、等しく内側から始まるのであって、外側から身に着けることはできないのである。

そして、我が国は、敗戦を経て、軍国主義や国家主義とは訣別したはずであるが、「お上」を至高の価値とする以上の価値観を未だ持てず、何事も個人から出発せず、「お上」から出発してしか考えられないない点で、ロシアと同じような精神的遅れを抱えて今日に至っている。そして、かつて大国になろうとして失敗したという汚名を返上するために、より一層、強い国作りに励まなければならないという強迫観念に駆られている点でも、ロシアと似ている。国家としての自信、品格、プライド、尊厳などを、内側から支えるための真の心の支柱を未だに持てず、それを外側からの「借り物」によって補強しながら、「国家」だけをハリボテのように増強し、今またいつかきた道を逆戻って行こうとしている点で、我が国はロシアと非常によく似た病理現象に陥っているのだと言えよう。

このように欠点を同じくする者同士が、己が欠点には目をつぶりながら、互いを誉めそやし、美化し合って、手を結んだ日には、今まで以上の悲劇が起きるであろうと予測するのは当然である。このような光景に対して、筆者がかけられる言葉は次の一言だけである。

「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。」(テモテ3:13)

だから、筆者は、我が国がロシアに接近することは、我が国にとって何のメリットもなく、それどころか、有害な結果をもたらすだけに終わるだろうと確信している。安倍政権がこれまで推進した政策のうち、どれ一つとして、我が国の国益にかなったものはなかったが、とりわけ、ロシアには北方領土を返すつもりなど微塵もない。北方領土を餌にして、我が国はロシアの国益のために仕えさせられ、シベリア・極東開発に存分に利用されるだけで、したたかに欺かれて終わるであろう。それくらいであればまだ良いが、米ロの間に本当の対立が起きた日には、我が国はどちらからも裏切られ、国土が真っ二つに分割されるなどという悲劇にも巻き込まれかねない。そうなった日には、シベリア・極東開発という名目で現地に送り出された我が国民は、シベリアに取り残され、帰国もかなわなくなって、またも第二のシベリア抑留のようなことが起きるだけである。

* * *

・文学的主人公に擬人化されるロシアの傷ついた自己イメージ

エフゲニー・オネーギンの人物像には、ロシアという国の一般的な国民性、また国家観が象徴的に込められていると筆者は見ている。むろん、これは文学的な創作の主人公であり、同種のアンチヒーローとしての「余計者」の系譜は、オネーギン一人では終わらないのだが、オネーギンの人物像は、「傷ついたロシア」の自己イメージを非常に簡潔に象徴的に体現していると言えるのではないかと思う。

オネーギンは、上流階級の出身であるから、うわべは立派で、紳士的で、教養や知識もある前途有望な青年である。ヨーロッパの水準に比べても劣らない立派な教養人であり知識人の紳士であるように、人目には映ることであろう。何よりも、彼は世渡り上手で、空気を読むことに長けており、社交の場では自分を上品に、賢く、魅力的な人間と見せかける術を持っている。彼は人の心を上手に掴むことができる。だが、それは計算づくの行動で、当世風の流儀の上手な模倣に過ぎず、彼の内心は深く心傷ついており、病んで、自信を喪失している。そのため、彼には社会において決して自分のあるべき居場所を見いだすことができず、他者を本気で愛したり、信頼することもできず、人間関係においては、ただ自己の利益のために、相手を期待させて利用しておきながら、したたかに裏切り、傷つけることしかできない。外見は知識人だが、知識人として当然、持っていなければならない倫理や道徳が、彼には決定的に欠けているのだ。

オネーギンにはまだサイコパスとまでは言い切れない、良心の呵責や、ためらいや、後悔も含めた人間らしい感情が備わっているが、それでも、彼の人格は、深い所ですでに致命的な根腐れを引き起こしており、どんな反省も後悔も彼を変えることはできない。彼の傷ついた人格は、決して彼の人生において、あるべき決断をさせず、軽薄でうわべだけの利益になびいて、本質的に重要なものを常に見誤らせ、他者との長続きしない不誠実な関係を結ぶよう仕向けるだけで、彼をどんどん不幸においやってしまう。そのため、オネーギンの人生に巻き込まれた人々は、みな結果的に不幸になる。タチヤーナは一見、優しく誠実な女性のようであるが、彼女の生涯を通じての振る舞いも、オネーギンには何の薬ともならず、彼女はただオネーギンの犠牲者としての立場を抜け出ることはできない・・・。オネーギンに対する処方箋はロシアにはないのである。

オネーギンというのは、単なる創作上の主人公ではなく、「傷ついたロシア」そのものを擬人化した人格だと言えるのではないかと筆者は考えている。同種の人格は、他の文学的創作にもおおむね受け継がれているが、こうしたアンチヒーローは、ただ単に創作上の存在であるだけでなく、ロシア人が国民性として歴史的に常に抱えて来た根深い心理的なコンプレックスと、歪んだ被害者意識と自己憐憫、その心の傷ゆえに、彼らが正しくあるべき関係をどんな他者ともきちんと構築できず、常に嘘や騙しや利用や裏切りといった、他者ばかりか、自分自身にとってもいずれ手痛いツケとなって跳ね返って来るような有害な関係しか結べないという重大な精神的・人格的な欠点を象徴的に示しているように思われてならない。

むろん、すべてのロシア人が同じ人格的欠点を持っていると言うつもりはないが、それでも、こうした人格には、創作の域を超えて、何かしらこの国全体に共通するような深い意味が込められており、ロシアという国の未来が抱える絶望が象徴的に暗示・投影されているように感じられてならない。どんなに個々のロシア人が誠実であっても、国家としての運命全体が不幸であるならば、個人がそれに巻き込まれることを避けるのは難しいであろう。

歴史的に、ロシアの良心的な知識人は、国全体が抱えるこの心理的な傷をどのように克服するかという課題を常に切実なものとして受け止め、ロシアという国から何とかこの不幸の源を切り離して、誠実で温かな心を取り戻して、平和と安息に満ちた国を作ろうと模索した。だが、彼らはその解決方法を見いださなかった。そして、ロシアは国全体として、常に誤った道を選び取ることによって、この問題と向き合うことから目を背けて来たのである。

すなわち、国力のさらなる強化というマッチョイムズへの傾倒によって、己が内面の空虚さ、傷、腐敗を覆い隠し、自己の抱える恐れや劣等感や屈辱感を、うわべだけの模倣や、力によって補強し、他国を制圧することで憂さを晴らそうとする間違った方法を取った。武装することによってしか、人格的欠点を覆い隠せないほどに危険なことはない。傷ついた人格に強力な武器をもたせるのは、周囲にとっては重大な脅威以外の何物でもない。

オネーギンは傷ついた国家、傷ついた国民性の象徴であり、我が国の国民性とも決して無縁とは言えない欠点を持っているのだが、オネーギンと我が国の国民性の違いがあるとすれば、それは我が国にはオネーギンほどの狡猾さ、したたかさがないという点であろうか。もしそうだとすれば、なおさらのこと、我が国は、到底、ロシアのような国を相手にしてはならないと言えよう。もし人生を幸福に送りたいならば、これは決して出会わない方が良く、決して関わるべきでない危険なタイプの人格である。

現在は、米国のやりたい放題の陰で、ロシアが多くのことでいわれなく非難され、国際的に追い詰められているがゆえに、ロシアを被害者のように見て、「可哀想」と考えたり、逆に反米感情からロシアに拍手を送るむきも世間には存在するものと思う。筆者は米国を擁護したいたがために、ロシアのイメージを貶めようとしてこう述べているわけでは決してない。だが、ロシアについては、決してこの国の言い分をいかなる点についても信用しないことが得策であるというのは、歴史があらゆる場面で物語っていることではないかと思う。だから、現状の政治的孤立状態を利用して、この国が自分をあたかも「可哀想な存在」であるかのように見せかけて、被害者のように同情票を得ることもまた彼らの戦略の一環であるから、それに加担しない方が良いと言えるだけである。ロシアはそもそも他国から同情を受けなければならないようなか弱い存在ではない。国家の沽券にかかわる問題については、恐るべき強固なプライドを持って、どれほどのすさまじい犠牲を肯定してでも、面子を守り通そうとする。まさにその途方もないプライドと力こそが、被害者意識と表裏一体をなしているのであって、そのような強さは、本質的には悪であって、決して同情に値するものではない。そのことを見抜けなければ、他国に同情しているつもりが、したたかに利用され、気づいた時には犠牲者にされるだけに終わるであろう。

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偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(12)

罪による神との断絶の否定


では、一体、解放神学者はどのようにしてこの疎外を乗り越えるのであろうか。一言で言うならば、自分を疎外した神を否定し、新しい神の概念を考え出し、貧 しき者自身が自ら神に成り代わることによって、「本来的自己」を取り戻そうと試みることによってである。自分を疎外した神(この世を含む)を否定的に超 え、分離を統合した原初的存在への回帰を目指している点で、解放神学もグノーシス主義も本質的には同一起源の思想であると筆者はみなしている。

私たちは、グノーシス主義においては、死は罪のゆえではなく、分離のゆえにもたらされた、と解釈されていることをすでに見て来た。グノーシス主義において は、主イエスは人類を罪から救うための贖いとして十字架にかかるために地上に来られたのではなく、人類を分離がもたらされる前の原初的統合(本来的自己) へ引き戻すために地上に来たとされていることを、私たちはすでに見て来た。「分 離が死のはじめとなったのである。それ故に、はじめからあった分離を再び取り除くために、彼ら両人を統合するために、そして分離の中に死んだ人々に命を与 え、彼らを統合するために、彼(主イエス――筆者)が来たのである」(『ピリポ福音書』七八)。(『トマスによる福音書』、p.233より引用。)

確かに、分離は死をもたらすものである。その点について筆者は反駁するつもりはない。神と断絶したことはアダムにとって霊的死を意味した。だが、その断絶は何ゆえであったか。

そもそも一体、なぜ人類はこの世で疎外を感じながら生きなければならないのか。それは罪のゆえである、と聖書は言う。アダムとエバはいのちの木を退けて善 悪知識の木を選んだために、神に対して罪を犯し、神との交わりを失い、神と断絶した。その時、彼らは自ら恐れて、神の御前から隠れ、神は人にこう呼びかけ ねばならなかった、「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:9)と。 恥と恐れの意識による、神からの逃亡。自分が見失われ、自己義認によって取り繕った状態。この状態が人類の疎外された状態を指しているのであるが、不思議 なことに、それは人がただ自分自身を見失った状態を指すのではなく、何よりも、神から見て、人間が見失われた状態を指しているのである。

カインもやはり罪によって神と断絶した。カインの「疎外された状態」は、アダムの場合と同様、生まれながらの人類に属する全ての人々の状態を表す。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず…」(ローマ3:23)

カインは罪のために神からの栄誉を失い、神によって拒絶され、疎外されたが、その時、彼は、弟は逆に神に義とされて神に受け入れられ、栄えているのを見た。その時、カインは心に侮辱を感じ、弟に対する妬みを起こし、恥と怒りのうちに顔を伏せた。主はカインに仰せになった。「な ぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのな ら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4:7)

主がカインに罪を治めるようにとの警告を発したことは、人類が罪と戦ってそれに打ち勝ち、神との断絶を克服し、神の内に立ち戻ることが神の御心であることを示している。カインに対して主が言われた言葉、「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」は、罪を犯したエバに対して神が言われた言葉、「あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」(創世記3:16)というフレーズに酷似している。

罪はまずエバを通してアダムにもたらされた。アダムはエバを治めなければならなかったのだが、それに失敗し、妻と一緒になって罪を犯した。それゆえ、アダ ムがエバを治めようとする絶望的な試みは、生まれながらの人々の間では、今日に至るまで絶望的な形で続いている。同様に、罪は人を恋い慕うが、人は罪を治 め、支配しなければならない。人は霊によって、魂・肉体を治める人となり、御霊に従って、人が自分自身を治め、罪なる肉を治めることが、神が人に与えられ た命題であった(罪を治めることができずして、どうして全地を治めることができるだろう)。だが、アダムに属する人々は誰一人として、罪を支配することに 成功することはできず、かえって肉によって支配され、罪に敗北し続けて来た。それゆえ、神は初めから「女の子孫」であるキリストを地上に送って、彼を肉において罰せられ、彼によって蛇の頭を打ち砕き、人に罪に対する勝利の道を開くことを計画されていたのであるが…(創世記3:15)

神はカインに「罪を治める」ように言い渡し、カインがそれに成功するかどうかを ご覧になられた。しかし、カインは誤った方法で罪を治めようとして、さらに失敗を犯した。彼は自らの罪を認めようとはせず、かえって、神が義とされた弟ア ベルを殺すことによって、自分の疎外感を解消し、己を義としようとしたのであった。彼は己の内側にある罪を認めようとはせず、自分の面目を保とうとして、 罪を自分の外側にあるものに転化し、自分に疎外を感じさせる状況や対象を憎み、それを目の前から消し去ることで、あたかも神によって義とされ、受け入れら れているかのように思い込もうとし、また周囲にもそのように見せかけようとした。

己が罪を認めたくないカインの神からの逃避と、義人への妬みと憤りに基づいた自己義認が、偽善というもの を生んだ。それは人間の目にはいかにも正しく敬虔そうに見えるさまざまな形式を伴う、外側だけを取り繕った、心の伴わない括弧つきの宗教を生んだ。たとえ 神の名を用いて、熱心に礼拝を捧げているようであったとしても、その実、それは神に逆らって、人間が己を義とするために考え出した、人間の人間による人間 のための宗教である。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。 」(ルカ9:24)。 神によって疎外され、いのちを失った人間には、悔い改めて、神のうちに立ち戻ることによってしか、いのちを取り戻す方法はない。だが、神の懐に身を避ける ことをせず、御前にへりくだることをせず、悔い改めを拒み、かえって、自分で自分のいのちを救おうとしたために、カインはいのちへ立ち戻る道を自ら閉ざし てしまった。カインのみならず、何と大勢の人々が、自分で自分を義としようとして、見込みのない礼拝を捧げていることだろうか…。

カインの偽善は、自分を義と見せかけるために、命の君なるキリストを殺したパリサイ人、律法学者たちに受け継がれる。人類は、神ご自身を抹殺してでも、己 を義とする道を選んだ。人類は、自分を救うために神が遣わした罪なき神のひとり子を死に至らしめてまでも、己に罪なしと宣告を下し、かえって、自分を疎外 した神に有罪宣告を与えたのである。そのために人間は神の名を利用して一大宗教を築き上げることさえした。これは人類が神に対して君臨しようとして作り上 げた似非宗教であるが、それは人類をよりいのちから遠ざけ、より一層ひどい疎外へと追いやった。終末の時代には、この反逆は、アダムの命を擁護して、神の 選びに敵対し、十字架に敵して立ち上がる反キリストの王国に属する全ての人々に受け継がれる。そしてこの似非宗教にどんなに恐ろしい裁きが下るかについて はすでに聖書が予告している通りである…。

解放神学者も、グノーシス主義者も、「砂糖まぶしの甘えの福音」も、それらは皆、人類が己を疎外した神を何とかして超越し、自力で自己肯定、自己義認しよ うとする、神に対する反逆の試みであり、それは最後のバビロンである獣の王国に至るまでの前奏曲である。それは神を介さずに、神のひとり子なるキリストの 十字架を介さずに、むしろ神のご計画を退けて、神ご自身をさえ否定して、無媒介で、己を義とすることによって、神からの疎外を解消しようとする点で、永久 に希望を持たないカインの哲学の継承である。どんなにキリスト教を装い、どんなに敬虔そうに振る舞い、どんなに弱者の耳に心地よい言葉をささやいていたと しても、それは罪なるアダムをありのままで擁護しようとする哲学であるから、神に受け入れられるはずもなく、また、信仰によって義とされたアベルに対する 嫉妬と歯ぎしりに基づいた兄弟殺しの哲学であるから、罪に罪を重ねるだけであり、自分を疎外した神を抹殺してでも、自分が神に成り代わり、己を義としよう とする、創造主に対する生まれながらの人類の絶望的な反逆と復讐の思想である。

それは神に義とされることを自ら拒み、命の君を拒んで、永久にいのちの書からその名を消し去られ、永久にいのちから疎外された人々の、外の暗闇における嫉 妬と怨念の歯ぎしり、憎しみと絶望の叫びが生んだ偽りの宗教である。神ご自身に敵対し、神の選びそのものに反対しているがゆえに、これらの歪められた福音 には決して救済の見込みはないのだが、それを支持する人々は、それほどまでに絶望的に神に逆らっているために、神に疎外された罪人たちをしきりに擁護し、 彼らへの「愛」や「憐み」を訴え、唯一の創造神を掲げる伝統的なキリスト教や、真理に立つ聖徒らに激しく敵対してでも、神に見捨てられた人々を何とかして 自己救済しようと絶望的に取り組むのである。

このようにして、神の義を否定して、罪人・悪人・弱者を無媒介に救おうとする解放神学の愚かさと不毛性を指摘して、大石昭夫氏は次のように書いている、「『主は言われる、『わたしはあなたがたを愛した』と。ところがあなたがたは言う、『あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか』。主は言われる、『エサウはヤコブの兄ではないか。しかしわたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』(マラキ一・二~三)。
このヤコブとエサウの関係と、それに関わる神の態度、それは極めて差別をしているように見えるが、この原型はカインとアベルにある。その展開としてイサク とイシマエル、ヤコブとエサウ、べレヅとゼラ、ヨセフとその兄弟と続く。神はなぜ弟を愛し、長男を憎まれたのであろうか。

ところでひとり子とはアベルであり、この世とはカインである。すなわちアベルを愛したのは、アベルを通してカインを愛するためである。事実、旧約において アベルはカインに殺されたが、ヤコブはエサウを愛することによって一致を向かえ、イサク一族の中で長子となったのはそのことを示している。ちょうどイエス が人類の長子となられたように。こうしてみるとき、神はイエスを通して人類を救われるという救いの方法論が成立する。

ところが解放神学は、アベル、ヤコブ、イエスを抜きにして、カイン、エサウ、この世を直接救おうとするそれは、直接的無媒介的な救済論理であるため、神の摂理と背反する結果をもたらすのである

ここに神の救済の摂理の不可解さ、困難性、逆説的弁証法(キルケゴール)がある。これを見抜かない限り、基本的宗教性すら失われてゆく。驚くべきイエスの 愛を感嘆の声をもって称えてきたキリスト教であるが、なぜ驚くべき愛なのか、直接的無媒介的論理ではそれは理解されない。こうした神の摂理の具体的方法論 を明確に、厳密にそして徹底的に(北森嘉蔵)究明しないところから生じてきたのが解放の論理、解放神学である。」(p.89-90)

<さらにつづく>

偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(11)

十字架を抜きにした無媒介の救済


解放神学者たちは一様に、伝統的なキリスト教を非難して、「二千年間におよぶキリスト教の教会(コルプス・クリスチアヌム)を、コンスタンティヌス的帝国主義的キリスト教であった」(p.48)と主張した。そして、キリスト教神学は、貧しき人々、社会から打ち捨てられた人々、抑圧された社会的弱者に奉仕するものでなければならず、そのような役割を担わないような神学は、神学ではあり得ず、むしろ反キリストに奉仕する異端の神学であると論じた。

黒人解放神学の代表者ジェームズ・H・コーンはこう述べる、「もし神学が、ご自身を、抑圧された人々の自由への闘いの中で啓示したもう、イエスの神について語るべきであるとするならば、その場合には、神学もまた政治的になって、貧しき者、抑圧された者の神に味方して語ら『なければならない』」

「神学は常に、抑圧された者、卑しめられた者の解放についての言葉である。それは、抑圧者、支配者に対する裁きの言葉である。神学者が、この点を間違いよ うのない仕方で明瞭にできない時にはいつでも、彼らは、キリスト教神学ではなくて、反キリストの神学を遂行しているのである」

「われわれは神学者として、社会の中の助けなき者、声を発することのできない者の光に照らして、神学を遂行することによって、預言者的になる危険を犯さなければならない」(p.44)


解放神学はこうして、虐げられた人々、貧しき人々を擁護し、社会から疎外され、置き去りにされた人々の解放を訴えかけることによって、社会で自己同一の場 を奪われていた人々の心を強くゆさぶった。しかしながら、解放神学がその目的達成のための方法論として正当化していたのは、弱者を疎外することを暗黙のう ちに容認した既存のキリスト教会に対する激しい非難と、暴力革命によって、それまでの支配者と被支配者の関係を逆転することであった。それは要するに「解放者イエスを承認しないすべての言説を異端として断罪する革命の思想」(p.48)であった。

解放神学者たちは主張する、主イエスは虐げられた者の神、貧しき者たち、社会的弱者の解放者であると。コーンは言う、「貧 しき者とは、抑圧され、苦しめられている人々、権力ある者に対して自分を擁護できない人々のことである」、「神の国は、社会の反逆児、見捨てられた人々、 弱者のものであって、自称義人のものではない」、「イエスの生涯は、イスラエルの神は、弱き者、助けなき者への救いを欲したもう、ということの証明であ る」、「イエス物語とは、貧しい人間の物語である」(p.45)

こうして、解放神学者たちは、イスラエルの神とは貧しい者たちの神であって、富める者や、社会の支配者たちの神ではないと主張し、それを裏付けるために、文脈を無視して聖書に根拠を求める。

「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)
「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。」(ルカ6:20)
「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました」(マタイ11:25)
「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。」(マタイ21:31)


ちょうどグノーシス主義者が、アダム、カイン、エサウ、ソドムとゴモラの住人、イスカリオテのユダなど、神に対して罪を犯し、神に反逆した 罪人たちを次々と擁護し、生まれながらのニンゲンの内にはもともと神的要素が宿っているため、自らの神性に目覚めることによって、人は神のようになれると 説いたように、解放神学者たちは、イスラエルの神は、社会から見捨てられた貧しい者たちの神であられると主張することによって、貧しい者たちと主イエスを 同一視し、暗黙のうちに、抑圧された弱者の中に「神性」を求め、貧しい人々を決起(覚醒)させることによって社会全体を救済に至らしめることができるとし たのである。

話が飛ぶようだが、このようにして聖書の文脈を捻じ曲げてでも、社会的弱者を無条件に擁護すべく、御言葉をふんだんに引用する解放神学の中に、私たちは、 今日、キリスト教界で流行している「何でも愛して赦して」式の、ニンゲン本位に歪められた「砂糖まぶしの甘えの福音」と本質的に同様の聖書の歪曲を見るの である。今日流行の「砂糖まぶしの甘えの福音」の中には、暴力革命の肯定こそ見られないかも知れないが、それでも、そこには罪人・病者・弱者を「ありのま まで」擁護するためならば、可能な限り、御言葉を歪曲して辞さない姿勢がある。

たとえば、「砂糖まぶしの福音」が、十字架を否定し、血潮を踏みにじり、神に反逆する罪人たちをも、無条件に擁護し、病者、弱者、悪人、社会から疎外されたあらゆる人々を優しく抱きとめるべく、頻繁に引用するのはこのような聖句である。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)
「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるので す。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといっ て、何の報いが受けられるでしょう。」(マタイ5:44-46)
「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」(ローマ12:14)
「…たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(Ⅰコリント13:3)
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:9)
「まことに、あなたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものよう に、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れ るのです。」(マタイ17:3-5)


聖書は、生まれながらの人間は誰一人として、神の御前に義とされないとはっきりと述べているにも関わらず、この歪められた福音は、上記のような御言葉を手 前勝手に解釈して、聖書が罪人や病人や悪人を無条件に擁護していると根拠として主張するのである。主イエスは弱く、貧しく、寄る辺ない者たちを愛された、 だから、弱く、貧しく、寄る辺ない人々こそ、最も神に近しい人々であり、我々はそのような人々のうちに神を見るのだ、そう言いながら、弱く、貧しく、寄る 辺ない弱者に味方しないような全ての人を糾弾しようと詰め寄るのである。

本来、聖書の言う神の「愛」とは、決してニンゲンにとって優しいものではなかったはずである。神の愛は、ノアの一家8人を除いて、当時生きていた人類の全 員を洪水で溺れさせて死に至らしめるような、一見すると、反人間的とさえ思われるようなものであった。神の愛は、ソドムとゴモラの住人を死に至らしめて、 ただ義人ロトの家族だけを救った。神の愛は、一杯の食のために長子の権を売り払ったエサウを罪に定め、弟ヤコブを祝福した。神の愛は、愛する対象に常に聖 別を要求し、神の聖を拒み、その聖にあずかろうとしない者を神の愛の対象外に定めたのである。

しかし、「砂糖まぶしの甘えの福音」は、妬む愛である神の愛のこのような聖なる厳しさを何ら考慮することなく、「愛」という言葉を用いて、ただ、貧しく、 寄る辺なく、打ち捨てられた人々への無条件の肯定を求める。そこで使われている「愛」という美化された言葉のうちには、弱さを隠れ蓑にして、弱き者が無条 件に自己肯定したいという願望が隠されている。そこには、弱者が、自分を追いつめた強者を、無条件に自分の前にひれ伏させたいという願望、強者を罪に定 め、あわよくば、両者の支配構造を逆転させたいという復讐の意図が含まれている。その意味において、この「砂糖まぶしの甘えの福音」は、社会で自己同一の 場を奪われて、疎外された人々の、自分を疎外した人々に対する無意識の怨念と復讐に基づいているのであり、そこには、「愛」や「憐み」などの美名を用いな がら、何とかして自分を疎外した人々との支配関係を逆転して彼らに復讐し、無条件に自己肯定したいという、疎外された人々の憤りと妬みの歯ぎしりが感じ取 れるのである。

同様に、私たちは解放神学をじっくり見るうちに、それが罪人、弱者、病者、幼子を、十字架の贖いを抜きにして、無条件に是認しようとする「砂糖まぶしの甘 えの福音」に通じるだけでなく、カルト被害者救済活動とも、全く同じ構図を持っていることが分かる。虐げられた人々、貧しき人々を解放するという名目で、 それまでの「支配者―被支配者」を逆転させようとした解放神学の秩序転覆と同じ構図を、今日のカルト被害者救済活動の中にも見て取れる。カルト被害者救済 活動も、十字架を介さず、「被害者性」という「弱者性」を無条件に擁護し、神聖視していればこそ、「被害者」という虐げられた人々を擁護しない教会やクリ スチャンを異端として断罪し、あわよくば、旧来のキリスト教界の秩序全体を打ち壊して、抑圧された者たちの「名誉回復」を図ろうとしているのであろう。こ れも解放神学と同様に怨念に基づいた活動であり、本質的には、被害者を疎外した人々に対する反逆と復讐の思想である。

 

霊・魂・肉体の関係の逆転


解放神学に話を戻そう。私たちは、解放神学者たちが既存のキリスト教界に下した容赦のない診断を振り返る時、解放神学が、単に「弱者」を「解放」するため に、支配者と被支配者との関係を覆そうとしたにとどまらず、そこで唱えられている「解放」とは、根本的に、生まれながらのニンゲンの(肉的)欲求をあらゆ る抑圧から解放することを指していたのであり、それは要するに、人間における霊・魂・肉体の秩序そのものの転覆をはかり、肉によって霊を治めさせようとす る試みであったことが分かる。霊と魂との関係を逆転させることは、最終的には、神による人間に対する支配の否定へとつながり、それは神と人間の関係そのも のの否定、自分を疎外した神に対する人間の復讐・反逆となる。

女性解放の神学の代表者、ローズマリー・リューサーは言う、解放神学は、魂と肉体、主体と客体の二元論的構図を克服せねばならないと。彼女は女性解放とい う文脈の中で、古典的キリスト教は、男性だけが神の像に似て造られた、「人間性」の真髄を備えた存在であり、女性は頭である男性と共にあって、初めて真の 人間性を持つことができるとしている点で、キリスト教は女性を男性の客体とし、「対象物」におとしめていると非難した。

リューサーは独自の理論を展開し、キリスト教的社会においては、この男女二元論が原型となって、社会の全ての抑圧形態に作用していると言う。彼女は言う、 伝統的なキリスト教はグノーシス主義を非難していたにも関わらず、結局は、グノーシス主義と同じように肉体を蔑視し、また、そこから来る肉欲の軽視、及び 禁欲主義的な苦行を励行したがために、グノーシス主義と同じ穴の狢となり、「文字通り死の倫理を形成」するに至ったと。

伝統的キリスト教において、「救いとは、肉的なものを抑えることによってくるものであると解釈 される。肉欲と感情の抑制、そして内的・超越的・霊的自己への逃避。食べること、眠ること、入浴さえもが、また、視覚的・聴覚的楽しみ、そして何にもまし て、一番強烈な肉体感覚である性の喜びなどが真の『悪魔の住処』とされた。文字通り、死の倫理を形成したのである。救いは死を目指しつつ生涯かけて『苦 行』を実践することによって与えられる『魂の肉体からの分離』である。創造を堕落と見るグノーシス主義的思考を訂正しようとして苦心したにもかかわらず、 キリスト教はその同じグノーシス的精神性の多くをそのまま保存するにとどまった」(p.61-62)

キリスト教における「救い」が、「死」を目指して、生涯、禁欲主義的に肉体を抑圧するという「苦行」を通して、「霊的自己」へ「逃避」することだと結論づ けているリューサーの主張には、笑いを禁じえないが、これに対する反論は後回しにすることにして、今はさらに彼女の主張に耳を傾けることにしよう。彼女 は、グノーシス的肉体嫌悪の視点から罪を考えるようになった古典的キリスト教は、肉体を魂の牢獄(プラトン)であるとして、これを抑圧するようになったの であり、このような反物質的精神性は、近代のデカルトに至ってもまだ克服されていないと言う。

「デカルト流の認識論がプラトン主義と同様の前提に立ち、知識に関する概念を主観―客観の二 元論ということで言い表し……思惟と知ることはひとつの経過であり、そこで非物質的思惟主体が、自分の肉体も含め周囲のあらゆるものを支配さるべき客体へ と引きずりおとす……『真に存在するもの』(リアリティー)は、『非物質的思惟実体』と『非思惟的延長』もしくは『物体』とに引き裂かれる。主観―客観の 二元論と『外的実体』とが、近代科学の基礎である。……リアリティーの二元論的近くは、人間を彼自身および物的存在として知覚しうるすべての現実から疎外 する」(p.62)

恐らく、この難解な文章を一読して意味を把握し得る人は多くないであろうと思うが、筆者も理解できないままに、拙い言葉で言葉で言いかえを試みるならば、 リューサーが異議を唱えているのは、「知るもの」と「知られるもの」との分離であり、支配する者と支配される者との関係性の断絶であり、最終的には、それ は霊と魂との切り分けの否定、そして、創造主と被造物との間に横たわる超えがたい溝を否定しようという試みへとつながる。

私たちキリスト者の認識において、神は全知全能であり、永遠そのものであり、"I AM"と言われるお方、つまり、天地万物を造り出した真のリアリティで ある。歴史のいかなる場面においても、神は自ら支配し治める方であり、永遠のいのちの源であり、パースンであり、その意味において、神は常に主体であっ て、客体となることは決してない。だが、人間は全知全能ではなく、神に造られた被造物に過ぎず、それゆえ、人間は最初から神によって「知られる」者であ り、神によって「治められる」対象である。創造の初めからすでに、人間は客体性を帯びており、神と人との間には超えることのできない一線が横たわってい る。

たとえこの世界がどれほど素晴らしくとも、創造主と比較するならば、全被造物は影のようなものであって、真のリアリティとは言えない。それだけでなく、ア ダムによって全被造物に罪と死が入り込み、被造物が滅びを運命づけられたことを考慮するならば、被造物はただ期限付きで存在を許されている影のようなもの である(「見えるものは一時的であり…」(Ⅱコリント4:18))。 この事実は人間存在からリアリティの感覚を失わせ、人が神から常に疎外されている事実を想起させる。たとえ人が信仰によって救いを得たとしても、肉体が完 全に贖われる瞬間までは、完全なリアリティに到達することはできないし、神を完全に(顔と顔を合わせて)知ることはできない。

アダムは地を治めるべく創造されたという点においては、統治者であり、主体であったが、同時に、地上での人間存在は初めから、神によって知られ、治められ る対象としての限界を運命づけられていた。解放神学者(またグノーシス主義者たち)は、このような神による人間への支配(神と人との断絶、神による人の疎 外)を何よりも非難する。彼らは、キリスト教はここから始まって、この断絶をあらゆるものに応用して、社会に無限の断絶をもたらしたのであり、それゆえ に、社会には「もろもろの権威と支配」が成立し、疎外が満ち溢れたのだと言って、伝統的なキリスト教を非難するのである。そして、分離や断絶による疎外を 解消し、人間を「客体性」から解放せねばならない、それが人間の救済である、と主張するのである。

解放神学者の見方はこうである、人は何者かによって「知られ」、「支配される」対象物とされる時、彼を「知り」、「治め」ようとする主体によって物質化さ れ、手段化され、疎外される。社会的弱者は、そもそも弱者とみなされた時点で、すでに強者の「対象物」に貶められている。だが、他者によって「知られ」る 客体となり、対象物として扱われるという、屈辱的な従属の縄目を断ち切り、自ら「知り」、「支配する」側に立ち、自分を支配しようとする全ての存在からの 自由を得るなら、人は解放され、救済されるというわけである。

リューサーは、社会の全ての疎外は伝統的キリスト教の二元論的分離のゆえにもたらされたとして、伝統的なキリスト教に痛烈な非難を浴びせる。「こ の常軌を逸した精神主義の歴史をひとつにまとめてみると、自己疎外、世界からの疎外、そのほか多種多様な社会的疎外、すなわち性差別主義、反ユダヤ主義、 人種差別、階級間の疎外、そして最後に植民地主義的・帝国主義など実に荒廃しきった状況を示す一枚の絵ができあがる。この異常とも言うべき精神主義の文化 の担い手であり、世界中にそれを広める原動力でもあったキリスト教は、この歴史に対して有罪者として極めて重い責任を負っている。この踏み違えた精神性 は、国内の意見の対立を偏執狂のごとく鎮圧しようとする一方で、大地を全滅の危機にさらす死のテクノロジーによって世界を分割しようとする状況の中に明白 に表われている。そしてこれが『もろもろの権威や支配』の全体像であり、われわれはそこからの解放を求めているのである」(p.65)

偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(10)

「疎外されし者たち」の復讐の哲学――解放神学

解放神学とは何なのか。結論から述べるならば、それは神と社会から疎外された人々による、自分を疎外した者たちへの嫉妬と怨念に基づく反逆と復讐の理論である。

南米のゲリラ闘争、黒人解放運動、女性解放運動、韓国の反政府運動…、以上にあげた解放神学の四つのタイプを見れば、私たちはそれらがいずれも、社会が大きな政治的混乱に見舞われた時代に、闘争の只中から生まれて来たものであることが分かる。

社会の歪みが激しくなり、多くの人々が社会の中で自己実現の機会を失ったような時代に、解放神学は、疎外され、行き場を失った人々に居場所を確保し、彼ら の日々のパンの問題を早急に解決するという約束のもと、抑圧された人々の救世主のように登場して、支持を集めたのであった。

だが、解放の神学は、その構図を見るならば、それが当時流行していた政治思想(マルクス主義)の影響を強く受けて生まれたものであることがすぐに分かる。 この神学は、抑圧された社会的弱者の解放という美名のもとに、伝統的なキリスト教を敵対視して、それに激しく戦いを挑み、暴力革命を通して、かつての「支 配者―被支配者」の関係を覆すことを目的にしていた。それは「政治化された神学」であり、いわば、宗教の仮面をつけた革命的なイデオロギーであった。

だが、解放神学に対する批判は、それが単に無神論的共産主義が宗教の仮面をつけて登場して来た政治化された偽りの神学であった、というだけにとどまらな い。私たちは、この解放神学なるものの中身を深く見ていく時に、弱者解放という、アダムの耳に優しい、魅力的な響きを持った、この偽りの神学の根底にも、 やはり、グノーシス主義がひそんでいたこと、解放神学の中には、グノーシス主義の場合と同じように、いつの時代のどのような場所でも、繰り返し発生しかね ない人類の根本問題が含まれていること、そして、生まれながらの人類の欲求が、いかに神の福音に本質的に対立するものであるかを見るのである。
 

 

解放神学の発生の土壌


以前に記事で触れたことだが、グノーシス主義は、社会が絶望的な矛盾や混乱を見せ、多くの人々が社会の中で疎外を感じている時代にこそ、人々を魅了して来たが、それは解放神学にもまさに共通する点である。

繰り返しになるが、ハンス・ヨナス氏はグノーシス主義が広まった当時のローマ帝国時代の人々の一般的な精神状態についてこう述べた、「…当時、多くの人々が現世に深い疎外感を抱き、政治的・社会的実存のしがらみからの逃避として奇蹟的救済を切望していた。」(『ナグ・ハマディ写本』、p.31) 

荒井献氏も、グノーシス主義の成立した時代の状況についてこう述べた、「…古代末期に限って見れば、これは、ローマ帝国の圧倒的支配下にあって、政治的・経済的・社会的に宇宙内の世界のいずれの領域にも自己を同一化できる場を奪われた属州(具体的には、ユダヤ――とくにサマリア地方――、シリア、エジプトなど)民の間に成立した。(『トマスによる福音書』、p.103)

ヨナス氏は言う、グノーシス主義の世界観とは何か、それは「自己超越の試みと結びついた、この世に対する悲観主義の哲学である。」(『ナグ・ハマディ写本』、p.31)。荒井氏は書いている。「それでは、グノーシス主義とは何か。それは、端的にいえば、人間の本来的自己と、宇宙を否定的に越えた究極的存在(至高者)とが、本質的に同一であるという「認識」(ギリシア語の「グノーシス」)を救済とみなす宗教思想のことである。

従ってこれには、人間の「現存在」<…>に対する拒否的な姿勢が前提されている。このようないわゆる「反宇宙的現存在への姿勢」は、「自己」の属する現実世界が、世界を包括する宇宙全体をも含めて、宇宙の支配者、その形成者によって疎外されているという極端なペシミズムの起こる時代と地域に、いつ、どこででも成立しうるものである。」(『トマスによる福音書』、pp.102-103)


このことから分かるのは、グノーシス主義とは、社会から疎外されたニンゲンが、自分を疎外した社会(神、この世、また、この世の全ての支配の秩序と、そこ から疎外された自分自身を含む)を否定的に超えようとする試みであり、それは何よりも、疎外されたニンゲンによる、自分を疎外した神と社会に対する(隠さ れた)憤りと怨念に基づく、反逆と復讐の哲学であるということである。

それはキリストの十字架によらず、血潮によらず、ニンゲンが自らの力(知識による覚醒)によって、自分を疎外したこの世と、この世を創造した神を否定的に 超越し、自ら神のようになることを最終目的としている点で、生まれながらのニンゲンの絶望的な自己肯定の試みであり、決して成功に至る見込みはない。

私たちは解放神学の登場して来た時代背景を見る時、そこには、グノーシスの発生の土壌となった社会状況と極めて類似した状況があったことが分かる。

解放神学が生まれたのは、第二次世界大戦後、ヨーロッパおよび北アメリカが著しい経済生長を遂げて、未曾有の豊かさに到達する一方で、第三世界の諸国が、 依然として、かつてのくびきから脱せず、貧しさのうちに取り残され、両者の対比が、人々の目に無視できないほどに明らかになった時代のことであった。世界 的な規模で、貧富の差、支配者と被支配者との間に横たわる溝がますます超えがたいものと見えるにつれて、豊かさから取り残され、発達から置き去りにされ、 疎外された国々や、地域、人々の間で、搾取や抑圧からの自由を求める激しい政治的闘いが起こった。


そのような政治闘争の中で、伝統的なキリスト教は世俗化に埋没し、現実の諸問題に対してはただ沈黙を守るだ けであった。そのような弱体化した伝統的なキリスト教の無為を激しく批判し、キリスト教神学は、現実の諸問題に対して解決を与えるものでなければならない と強く主張して登場して来たのが解放神学であった。

「解放神学は戦後、キリスト教と西欧、特にアメリカが、なすべきことをなさなかったということに対して反省を促すために、南米、黒人、女性、アジア、特に フィリピン、韓国における抑圧された者たちが、西欧キリスト教世界と精神的従属関係を断ち切って独立しようとするのみならず、主観と客観、精神と肉体の主 体と客体の従属関係を逆転させようとするところから生じて来たものである。」(『解放神学 虚と実』、大石昭夫氏、「解放神学の基本構造」、p.48)


さて、解放神学の発生の経緯を見てみよう。ことのきっかけは、カトリックの第二バチカン公会議(1962-65)において、教会は虐げられた人々の解放・ 救済にむけて、現実的な活動を行なわなければならないという路線が採択されたことにあった。さらに、それに拍車をかけたのが、1968年、コロンビアのメ デジンで開かれた第二回中南米司教会議であり、そこでは、「抑圧された大衆を解放するためには社会構造の変革が必要であり、教会は祈るだけでなく現実的な行動を通して虐げられた人々を救うべきである」(p.33)、との宣言がなされた。

それから3年後、この宣言を根拠にして、ペルーでグスタボ・グティエレス神父が『解放神学』(1971年)を刊行し、それをきっかけにして、解放神学はカ トリック信徒が90%以上に及ぶといわれる中南米全域に渡って広がりを見せた。さらに、解放神学は同様に貧富の差を抱えるアフリカ、インド、フィリピンな どのカトリック系旧植民地にも支持され、形を変えて、民族の解放、女性解放、民主化運動、反戦思想などとも結びつき、欧米を始めとしてキリスト教徒の多い 韓国などにも大きな影響を及ぼしていった。

解放神学を批判したバチカンの教理聖省長官ラッツィンガー枢機卿は、解放神学が登場するに至った社会的背景についてこう述べる、「ヨー ロッパと北アメリカがそれまでに経験したことのない豊かさに達した時に、貧困と抑圧とから来る倫理的な挑戦は、もはや無視することができなくなった。その 挑戦は、既存の伝統のなかには見出しえない新しい答えを明らかに要求していた。状況が変化した神学および哲学は、キリスト教のなかにその答えをはっきりと 求めるように促し、そのキリスト教は、外見上は科学的に基礎付けられた、マルクス主義哲学に由来する希望というモデルに身を任せるものであっ た。」(p.60)

解放神学は一見するとキリスト教の装いをしていたものの、それは初めから、既存のキリスト教に対する強力なアンチテーゼとして登場し、存在そのものが、キ リスト教そのものに対する挑戦であった。さらに、これがマルクス主義に強く影響を受けた、神学を装った革命的イデオロギーに過ぎなかったことは、この著書 の中で、幾度も触れられており、ここでは詳しく論じない。

偽りの教えの例――弱者解放の福音の誤りとグノーシス主義(9)

ここに一冊の本がある。題名は『解放神学 虚と実』(荒竹出版、昭和61年)で あり、実は何年も前から、当ブログでも、グノーシス主義の分析と合わせて取り上げるつもりであった。なぜなら、この著書において取り上げられている弱者解 放の神学と、私たちが今直面しているキリスト教界の歪められた福音との間に直接の歴史的つながりはないものの、この二つが深いところで全く類似した構造を 持っており、霊的には結局、グノーシス主義と同じ起源を持つことは明白だからである。

「ありのままのあなたが高価で尊い」などと言っては、しきりにニンゲンの弱さや欠点をかばい、生まれながらのニンゲンに対する愛と赦し、受容や祝福を強調 し、ニンゲンの耳に心地よい内容ばかりを語り、ニンゲンの罪や腐敗を覆い隠してしまう、現代キリスト教界で今流行している「砂糖まぶしの甘えの福音」、こ の人間本位の甘えの福音が、いかに御言葉に反し、キリストの十字架に反し、神の福音を歪めるものであるかについては、すでにいくつもの記事の中で述べて来 た。このようにして、生まれながらの人間アダムを高く掲げ、アダムの罪や弱さを含め、アダムの腐敗した性質を「ありのままで」擁護しようとする偽りの福音 を受け入れたために、多くのキリスト教会はアダムの延命治療のための「病院」と化し、死すべきアダムの「集中治療室」と化してしまった。

こうして多くの教会では、アダムを終わらせたはずのキリストの十字架については語られなくなった。十字架は飾り物となり、罪の指摘もやみ、悔い改めの必要 も説かれず、主イエスの血潮についても、触れられなくなった。むしろ、いかにしてアダムの弱さを擁護し、アダムを居心地良く介抱するかが主目的となったた め、アダムを「冒涜」するようなもの、アダムの罪を明るみに出すもの、アダムの腐敗を思い起こさせるもの、アダムに不快を感じさせるものは排除され、いか にして十字架を回避させてアダムを生きながらえさせるかが、キリスト教界の焦眉の課題になった。こうして多くの教会はアダムの命を終わらせたキリストの十 字架を退けて、ありのままのアダムを擁護し、しかも、アダムの中でも最も弱いアダムを優しく抱きとめ、社会の最底辺で見捨てられているような罪人アダムを いかにありのままで受け入れるかが教会の課題であるとさえした。このようにしてキリスト教界は、十字架におけるアダムに対する神の裁きを否定してまで、ニ ンゲンを擁護し、ニンゲンを神以上に高く掲げて栄光化するグノーシス主義へと道を開いて行ったのである。

最近、この歪められた「砂糖まぶしの甘えの福音」の只中から、ニンゲンを冒涜するような者は全て異端者として告発すべしという、恐るべき過激な思想を持つ 人々が登場して来た。すなわち、自己を神として掲げ、主イエスの血潮を踏みにじり、十字架に激しく反対しながら、真理にとどまる兄弟姉妹をあらゆる偽りに よって告発し、まことのクリスチャンを追いつめて迫害する「自称クリスチャン」(彼らがクリスチャンではあり得ないことは明白である)が登場して来た。こ の人々は、ニンゲンの弱さを擁護して、被害者と称する人々をかばい、被害者の「正当性」だけでなく、彼らの「神聖」をさえ主張し、抑圧された弱者に味方せ ず、「被害者を冒涜」するような者は全て異端者であるとして、主イエスの十字架にとどまり、真理にとどまる兄弟姉妹を異端者として告発したのである。

カルト被害者救済運動という、抑圧された社会的弱者の解放を掲げる運動は、まさにこのようにニンゲン本位に歪められた、ニンゲンの弱さを擁護する「砂糖ま ぶしの甘えの福音」の中から登場して来た。この運動は端的に言えば、カルト被害者という、キリスト教界内で「抑圧された社会的弱者」の存在を原動力にし て、彼らを「正義」の担い手、神聖な核とみなすことにより、キリスト教界内の既存の秩序を覆そうとする新手の政治運動である。それは宗教に名を借りた革命 運動と呼んだ方がふさわしい。

私はここでキリスト教界の腐敗という事実を否定したり、そこで被害を受けたと主張する人々の実体験を否定しているのではない。しかし、私たちは個々人の体 験と、集合体としてのカルト被害者を利用してキリスト教界内の秩序を転覆させようとする政治運動とは、全く別個のものとして、切り離して考えるべきであ る。

ちょうどアダムを神聖視することによって、人を覚醒させて神に至らせようとするグノーシス主義と同じように、カルト被害者救済運動とは、被害者の「被害者 性」や「弱者性」を神聖な核とみなすことによって、彼らの存在を基盤にして、既存のキリスト教界内の秩序を変革を主張し、そこに新たに理想的秩序を打ち立 てることを目的にしている、神の義によらない、ニンゲンの義によるニンゲンの自己救済運動である。

しかし、これらの運動を見れば、ニンゲンによるニンゲンの自己救済の試みは、ニンゲンによるニンゲンの自己懲罰という悲惨な結末と切り離せないことがよく 分かる。被害者救済運動は、キリスト教界の浄化を掲げているが、そのために用いている方法論は極めて破壊的なものであり、自己懲罰的なものである。この運 動はまず、既存の教会への激しい攻撃と批判を繰り広げることにより、既存の教会の権威失墜と、教会の弱体化をはかり、それから、裁判等の実行力行使をしか けて既存の教会組織に対する破壊行為と吸収合併を行い、最終的には、カルト監視機構という、統一的な警察的な権力の設立による、キリスト教界内での中央集 権的組織の樹立(権力奪取)と相互監視社会の樹立を目指している。

これが少しも福音と呼ばれるべきものではなく、むしろ福音とは何の関係もない、キリスト教界内の利権をめぐる過激な政治闘争に過ぎないこと、それが十字架 によらず、血潮によらず、神の義に逆らってまで、生まれながらの人間が裁き主として諸教会に君臨し、人間の義によってそこに理想的秩序を打ち立てようとす る、神の福音に敵対する絶望的な運動であることは、あえて言う必要もない。これは神の裁きを模倣したニンゲンによる裁きであり、ニンゲンによる自己懲罰で あるから、成功に至ることは決してない。このような運動の推進者がもしも実権を握るようなことがあれば、必ずやキリスト教界に恐怖政治と独裁的支配を生 み、教界を今以上に恐るべき場所へと変えてしまうであろう。それはこの運動が発生してからこの方絶え間なく行なってきた破壊活動と、反対者への無差別的な 粛清を見るだけでも、ほとんどの人の目にはすでに明らかであろう。

とにかくも、グノーシス主義の流行と、カルト被害者救済運動という、どちらも生まれながらのニンゲンの弱さを擁護し、生まれながらのニンゲンを義として、 ニンゲンを栄光化する危険な潮流が、キリスト教界にもともと広がっていたニンゲン本位の「砂糖まぶしの甘えの福音」をバックに登場して来たものである事実 は見逃せない。

今回の記事で訴えようとしているテーマはこうである。福音を弱者解放の手段にし、アダムを擁護する手段とすることはただ間違っているだけでなく、大変危険 な試みである。それはカインがアベルを殺してでも、自分を義としようとしたのと同じように、生まれながらのニンゲンによる、神の知恵に逆らった、嫉妬と恨 みに基づく歯止めのきかない、愚かで絶望的な自己義認の試みなのであり、それはキリストの十字架を退けて、旧創造を延命させようとする試みであるから全く 希望がない。弱者解放(=弱者介抱)という言葉は、ニンゲンの耳にはまことに優しく、正しいことのように聞こえるであろうが、そのようにして、ニンゲンの 自己保存の願望に基づき、ニンゲンの弱さを擁護し、旧創造を弁護するために、セルフのパン種を福音の中に忍び込ませることは、真理を歪め、神に敵対する試 みであるから、決して成功を見ることはないだけでなく、神の怒りを引き起こす。神がキリストの十字架で全てのアダムに滅びの宣告を下したにも関わらず、ニ ンゲンが神の御前で依然としてアダムの命を擁護し、セルフを弁護し、旧創造を保ち、自己の義によって立ちおおせようとすることは、結果的に、ニンゲンに命 を失わせ、滅びへ至らせる結果になる。

アダムの命を「ありのままで」擁護する者は、キリストの十字架に反対しているのであり、それは神の裁きを退けて、ニンゲンによる義、すなわち、ニンゲンに よる裁きと自己懲罰を打ち立てることを意味する。だが、人間の裁きは、神の裁きのように憐み深くもなく、公正でもないから、人間による自己懲罰ほど、人に とって最も不利で、最も厳しく容赦なく、最も不公平で、反人間的なものはない。人が己が力によって自分を義とし、自分の力で生まれながらの命を守ろうとす ることは、結局、人にとって最も過酷で容赦ない処罰を招くことになる。サタンには神の公正な裁きを模倣することはできない。キリストがすでに十字架で達成 された御業により頼み、子羊の贖いの血潮により罪赦されて、神の義によって義とされることだけが、人が救われる方法であり、それ以外の方法でニンゲンが自 己義認しようと試みることは、全て救済ではなく破滅に至るのである。これは動かせない法則性であり、今回はそれを解放神学という過去の事例を通して、明ら かにすることが課題である。

さて、冒頭に挙げた『解放神学』に話を戻すと、この著書は、20世紀に主として中南米のプロテスタントのキリスト教界で最も広がりを見せた「弱者解放の福 音」を分析したものであり、この著書においては、福音を社会的弱者の解放という政治的イデオロギーの手段にしようとする解放神学の試みの不毛性と危険性 が、興味深いことに、学術的な視点から述べられている。

今、私たちはこの本を手がかりに、「解放神学」とは何であったのか、また、福音を弱者解放の手段にすることがどれほど愚かで不毛な試みであるかを、歴史を振り返ることで探ってみたい。

この著書において解放神学に分類されているものの中には、主に四つのタイプがあげられる。

一つは、中南米において、貧しく虐げられた第三世界の解放を目的に登場して来た神学であり、それは、中南米のゲリラ闘争の最中で発生して来た。この神学 は、欧米の政治的・経済的な支配体制からの解放を叫ぶ立場から、既存のヨーロッパ的なキリスト教を、欧米の支配を正当化する反キリストの異端として非難し た。その代表的著書は、グスタボ・グティエレス(Gustavo Gutierrez)の『解放の神学』(1971年)である。プリンストン大学の神学の教授であった米国人リチャード・ショール(Richard Shaull)も、この南米の解放神学に属する神学者に含まれる。

二つ目のタイプは黒人解放の神学であり、黒人という抑圧された者の側に立って聖書を解釈しない神学は、反キリストの神学であるとして非難した。その代表者 は、1969年に『イエスと黒人の革命』を著したジェイムズ・コーン(James H.Cone)であり、彼はさらに『解放の神学』(1970年)、『抑圧された者の神』(1975年)を書いている。

三つ目のタイプは、女性解放の神学である。これは60年代のアメリカで流行した女性解放運動の只中から発生し、伝統的なキリスト教を男性中心主義の倫理を 打ち立てるものとして非難した。その代表は、メアリー・デイリー(Mary Daly)などであり、リューサー(R.Ruether)の『人間解放の神学』(1972年)も、女性解放の神学に含まれる。

四つ目のタイプは、韓国の反政府もしくは反体制運動の只中から登場したいわゆる民衆神学である。

これらの解放の神学者たちは、いずれも伝統的なキリスト教を(グティエレスの言葉を借りれば)、「一つの文化、一つの人種、一つの階級と密接に結びついて来たもの」と して批判する。すなわち、既存のキリスト教は、政治的な支配者の側にのみ都合良く作られた強者の論理であり、搾取や抑圧をむしろ正当化しており、このよう に抑圧された弱者の側に立って、虐げられた弱者を擁護しないような福音は全て異端であり、本来の主イエスの教えを歪曲した偽りだと主張するわけである。 ショールは、「この様な伝統的なキリスト教と、その神学を解放しなければならない。"神学の解放"を行なうべきである」、「今や必要なのは、民衆の、民衆による、民衆のための神学である」と述べている(p.5)

ドストエフスキー研究者として、また、ロシアの政治思想史の研究者として名高い勝田吉太郎氏は、解放の神学の特徴を次のように説明する。

「解放神学の教説の一番のポイントは、一言で言えば、『神は貧しき者、また抑圧された者たちの、悩める生の 中に現前する』と主張する点にある。こういう立場で解放神学者たちは次のような言葉を述べる。『神の国は、社会の反逆児、見捨てられた人々、弱者のもので あって、自称"義人"たちのものではない』。これはコーンの言葉である。『イエスの生涯が証明するのは、イスラエルの神が弱者、助けなき者への救いを欲し 給うということなのである』。」(p.5)
<つづく>
 

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