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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

偽りの教えの例――異端グノーシス主義の構造(4)

3.グノーシス主義におけるアダムの「神化」

クリスチャンは、全世界が堕落したのは、神にサタンが反逆したためであり、さらに、サタンにそそのかされた人間が、神に背いて罪を犯したためであることを 知っています。アダムとエバは神の御旨に従って全地を統べ治めるために創造されましたが、善悪を知る知識を選ぶことによって神に逆らって罪を犯し、彼らの 罪を通して、全人類に罪と死が入り込みました。そこで、人類は地を正しく統べ治めるという、神から任せられた本来の使命を遂行することができなくなり、堕 落の瞬間から、生まれながらの人間の力はサタンの支配下に渡されることとなったのです。

こうして、アダムは不名誉な堕落によって、肉の象徴、朽ちる命の象徴、罪と死の象徴となりました。「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:19)、これが第一の人であるアダムに対する神の宣告です。アダムという名前は「塵」を意味する「アダマ」を語源としていますが、アダムに属する生まれながらの人は、すべて罪のうちに滅び、塵に帰る他なくなったのです。

「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」(ローマ5:12)

アダムによってもたらされた罪と滅びから人々を救うため、神は罪を知らない第二の人、神の独り子であるイエス・キリストを地上に送られました。キリストは 人類の罪の身代わりとして十字架にかかられ、私たちのために贖いとなられました。第一の人(アダム)はただ失敗しましたが、第二の人が私たちに救いの道を 開いたのです。しかし、人がキリストの救いを受けるためには信仰が必要であり、罪を悔い改めて、神の御子キリストの十字架の贖いを個人的に信じて受け入れ ることのない人が、再生されておらず、救われていないことは言うまでもありません。

信仰により、私たちはイエス・キリストの十字架を信じて永遠の命に与り、キリストの十字架を通して、古きアダムの命に死に、罪と死の法則に対しても死に、もはやアダムの種族としてではなく、キリストにある新しい種族とされて生かされています。

信じる者のうちに生きて働く聖霊によって、クリスチャンは日々、キリストの十字架の死と復活により深くあずかり、悪鬼やサタンを駆逐してこの地上に神の国 の統治をもたらし、キリストの命にあって地を統べ治めるという使命を帯びています。アダムが失敗した任務を、神はキリストのまことの命にあって、キリスト 者が実現するよう願っておられます。

「もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。」(ローマ5:17)

しかし、私たちはキリストの支配を地上にもたらすためには、信仰によって、日々主と共なる十字架の死にとどまらなければなりません。アダムの古き命によって、肉に従って歩むなら、私たちは神を喜ばせることはできません。

繰り返しますが、キリストの十字架の贖いは一人ひとりが個人的な信仰によって受け取るべき個人的な救いであり、御子を信じない者までも、自動的に一括救済 するような救いではありません。その意味で、今日、信仰の有無に関わりなく、「全ての人の内にキリストが住んでおられる」と説いている人々の主張が、完全 に偽りであることは明白です。御子を信じない者の上には神の怒りがとどまり、裁きと滅びが臨むのです。「信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。」(ヨハネ3:18) 「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。 」(ヨハネ3:36)

十字架が試金石であり、十字架の死が、アダムにある種族とキリストにある新しい人々とを決定的に隔てます。生まれながらの人は誰一人、御子の十字架を信じ ることなくして、キリストの復活の命に与ることはできませんし、生まれながらの人は誰一人、御国には受け入れられません。「イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。 」(ヨハネ3:5)

しかし、驚くべきことに、こうした御言葉に逆らって、グノーシス主義の教えは、堕落したアダムを栄光化し、アダムこそ御国にふさわしい住人だというので す。彼らはアダムをギリシア語のアダマスという栄えある名前で呼ぶことにより、彼から「塵」という不名誉な語源を取り去ります。そうして、アダムをあたか も不滅の人間のようにみなすのです。この転倒した教えにおいては、アダムは「真の至高者」、すなわち 『偉大なる唯一のもの』 と密接な関係にあり、グ ノーシスにおける「神」(至高者)と「人間」とは本来的なつながりを持つものとされ、アダムは神のような者、いや、創造主に勝るという点で神以上の者とさ れるのです。再び、マービン・マイヤーの説明を引用しましょう。

『ユダの福音書』に登場する人物の中では、アダムとイブの三番目の息子セツが重要な位置づけにある。キリス トとも呼ばれるセツは、この世界を支配する天使の一人に挙げられており、その名は「セツの世代」(「偉大なる世代」、「あの世代」、「その上にいかなる支 配者も頂かない世代」とも呼ばれる)という表現でも登場する。また、セツの両親アダムとイブは、アダマスという名でも呼ばれ、光り輝く雲の中、天上に住むアダムとして描かれている。<…>

<…>『ユダの福音書』に登場するアダムは、下界の人間というだけでなく天上における理想的人間像でもある。アダマスと呼ばれるアダムは、「天使ですら見たことがない第一の光輝く雲の中で、『神』と呼ばれるものたちに囲まれていた」(チャコス写本四八ページ)。アダマスという名には、ギリシャ語adamasの「鋼のような」とか「打ち破られない」という意味が込められているようだ。<…>

『ユダの福音書』では、天上のアダマスが第一の光る雲の中に存在すると記されているが、これはアダマスが神聖なる栄光の中、『偉大なる唯一のもの』の身近 に暮らしているという意味だ。理想的な人間アダマスと『偉大なる唯一のもの』が密接な関係にあることは、グノーシス主義の研究者としても有名だったドイツ の学者ハンス-マルチン・シェンケの説の正しさを裏付けている。

シェンケによれば、グノーシス思想における至高神と人間の原型との間には密接な関係があり、卓越した人間と至高の存在である『偉大なる唯一のもの』とがさ まざまな方法と形態で結びつけられるという。セツ派の書では、この至高の『神』と『人間』とのつながりを示す具体例が、神聖なるものの最初の啓示の中に示 されている。<…>(同上、pp.179-181)


グノーシス主義者がこのようにアダムを神のような者にまで高める根拠の一つとされているのが、創世記の次の記述です。

「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家 畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造さ れた。」(創世記1:26-27)

グノーシスの教えにおいては、この御言葉は歪曲されて独特に解釈されます。彼らはアダムは劣った創造神である「神」のかたちに似せて造られたのではなく、創造神にまさる「真の至高者」にかたどって造られたのだと主張するのです。

『創世記』一章二六節には創造主が神をかたどり神に似せて人間を造るとあり、セツ派の伝承ではこれを、地上 のアダムが天上に住むアダマスの完全無欠な姿をまねてかたどられたという意味に解釈している。地上を支配する者が、天の御国に住む崇高なる人間の姿かたち を模してこの下位の世界の人間を造るというグノーシス主義思想は、創造神デミウルゴスがイデア(理想)の王国の理想と原型を基にこの世界を造ったというプ ラトン哲学の考え方にそっくりだ。(同上、p.182)

グノーシス文献である『ヨハネのアポクリュフォン』においては、グノーシスの教えにおける人の創造神話が、 さらに詳しく説明されています。そこで、人は創造主にまさる真の至高者の姿をかたどって、初めに水の上に像となって映し出され、その映像を見た劣った無知 な神であるヤルダバオートが、自らが人によって光を得たいと願って、人を造り出したという二段階の創造神話が展開されています。そこでは人間は無知なる神 に「光を与える」ほどにまで、創造主に勝る存在とされており、神と被造物たる人間の関係は完全に逆転されているのです。こうして、この教えにおいてアダム は栄光化され、神は罪なるアダムに対し、キリストの十字架において死の宣告を下されたのだという事実は否定されます。

天上にある至高の王国から声が発せられた。「人間が存在する。そして人間の子も」。その声を聞いた第一の支配者ヤルダバオートは母が発した ものと考えた。どこで発せられた声なのか気がつかなかったのである。神聖で完全なる『母-父』、完全なる『先在の知識』、『見えざるもの』の像、あらゆる ものの存在をもたらした『万物の父』であり、第一の人間であるもの、これが彼らの前に人の姿で現れたものだった。

第一の支配者の王国全体が震えおののき、奈落界の基盤が揺れ動いた。物質世界の上方にある水の底が、現われ出たこの人の像により照らし出された。すべての権力者と第一の支配者がこの様子を眺めていると底全体が明るく輝くのが見えた。

そして、この光を通して水の中にその人の像が見えた。ヤルダバオートは彼に付き従う権力者たちに「来なさい、神の姿に似せ、我々に似せて人間を造ろう。そうすればこの像が我々に光を与えてくれるだろう」

彼らは、各々に付与された性格に応じた力を用いて人間を造り出した。各権力者は彼らが見た像のかたちに合わ せて霊的特性を与えた。彼らは、完全なる第一の人間によく似た生き物を造り出すと、こう言った。「その名前が光の力を我々に与えてくれるように、それをア ダムと呼ぼう」(Ⅱ・14-15) (同上、p.182-183)
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偽りの教えの例―異端グノーシス主義の構造(3)

1.グノーシス主義における罪人たちの「復権」

前回は、異端グノーシス主義の教えでは、正統な福音書における秩序がすっかり逆転されて、神に反逆した罪人の名が高く掲げられていることを見ました。今回 は、『ユダの福音書』に加えて、『トマスによる福音書』も挙げながら、さらに詳しくこの教えの構造を見ることにしましょう。

グノーシス主義文献において「復権」されている罪人は、イスカリオテのユダにとどまりません。リヨンの司教エイレナイオスは、著書『異端反駁』の中で、グ ノーシス主義者たちが、カインや、エサウ、コラ、ソドムの住人、イスカリオテのユダなど、神に対して反逆を行った人物を次々と擁護していると非難しました が、実際に、前述の『ユダの福音書』の他にも、ナグ・ハマディ文書のグノーシス文献、『ヨハネのアポクリュフォン』と『エジプト人の福音書』においては、 カインは世界を支配する天使として登場し、『エジプト人の福音書』では、ソドムとゴモラの人々が正当なる反逆者として誉めたたえられています(『原典 ユダの福音書』、pp.157-158参照。なお、ナグ・ハマディ文書については旧ブログで触れているため説明を省きます)。

このことはそもそもグノーシス主義が人類の罪を否定し、神に背いて堕落したアダムの種族(生まれながらの人間、人類)を高く掲げることによって、創造主よりも人間を上位に位置づけようとする思想であることをはっきりと物語っています。

この教えにおいては、この世界を創造した神はデーミウルゴスやヤルダバオート、サクラ(愚か者)などと呼ばれ、狭量で悪意に満ちた神であるとされ、この世 にあって、人はこの横暴な神の支配下で、肉体の牢獄の中に閉じ込められているとされます。そこで、創造神への尽きせぬ憎悪と敵意によって、グノーシス主義 者の一部は、カインや、ソドムとゴモラの住人など、神に逆らった人々をかえって「真実を見た人」、「救済に必要な秘密を理解した人々」として誉めたたえ、 神と罪人との関係を逆転するのです。

バート・D・アーマンはカイン派についてこう書いています。

「エイレナイオスによれば、カイン派は、道徳的に極端なまでに、旧約聖書の神に逆らっていた。神が命じるこ とは何にでも反対したし、神が禁ずることは何にでも賛成した。安息日を守り、豚肉を食べず、姦淫をしないように神が命じると、この神から自由であることを 示すために、カイン派は安息日を無視し、豚肉を食べ、姦淫した。(『ユダの福音書』、p.112-113)

このことは私たちに次の御言葉を思い出させます。創造主と争うことがいかに愚かであるか、聖書ははっきりと告げています。

「あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、『彼はわたしを造らなかった』と言い、形造られた物は形造った者について、『彼は知恵がない』と言うことができようか。 」(イザヤ29:16)

「陶器が陶器師と争うように、おのれを造った者と争う者はわざわいだ。 」(イザヤ45:9)



2.グノーシス主義における神の御子キリストの否定

グノーシスの教えは、ただ唯一の創造主を否定し、創造主を劣った神とするだけでなく、そこからさらに進んで、イエスも神の独り子ではないのであり、創造主 よりもさらに上位に位置する真の「至高者」(この至高者は、グノーシス主義においては一般的に「父」、「母」、「子」の”三位一体”で構成されることが多 い)から遣わされた使者であるとします。この点で、キリストの名を用いながらも、この偽りの教えは事実上、神の御子としてのイエス・キリストを否定してい るのです。従って、グノーシス主義におけるキリストはクリスチャンが信じているキリストと同一ではありません。アーマン氏はこう書いています。

一部のグノーシス主義者はイエス・キリストが、天の国から遣わされたアイオーンだと教えている。生身の人間 ではなく、人間の肉体をもった「姿」で天から来た存在なのだ。イエス・キリストは、内に神性の輝きを宿した人々(グノーシス主義者)に、救済に必要な秘め られた真実を教える、肉体の姿をまとった幻なのだ。(『ユダの福音書』、p.110)

こうして、グノーシス主義の教えにおいては、キリストの出自が全く歪められているだけでなく、キリストの十字架の死や復活が語られている場合でも、その意 味は歪曲されており、御言葉とは全く異なるものとなっています。一言で言うならば、グノーシス主義の福音書は、聖書を換骨奪胎し、捏造して作られた創作神 話であり、真の福音とは真っ向から対立するものです。その本質は、創造主に対する反逆の思想神の御子としてのキリストを否定し、御子の十字架の贖いを否定する思想であり、神に逆らい、生まれながらの罪人アダムを高く掲げ、被造物に過ぎない人類を神以上の存在とする思想なのです。

偽りの教えの例―異端グノーシス主義の構造(2)

これからしばらく、グノーシス主義、そして様々なキリスト教の異端に関する記事を進めていきます。今回は初期のキリスト教界において異端の書物として正典から退けられた福音書の一つ、『ユダの福音書』を取り上げて、そこからグノーシス主義の基本的な構造を把握します。

初めにお断わりしておけば、これはグノーシス主義を受け入れる目的のために紹介するのではなく、むしろ、この教えが今日のキリスト教における背教(セルフ 教)と密接な関係があり、グノーシス主義とは過ぎ去った時代の異端ではなく、今も働いている時代の霊なのであり、多くのクリスチャンを御言葉から逸らせて しまいかねない脅威であると警告する事を目的としています。

まずは、グノーシス主義の根源はどこにあるのかを見てみましょう。グノーシス主義がクリスチャンやキリスト教にとっての脅威として一般に認識され始めたの は、紀元180年頃にリヨンの教父エイレナイオスが『異端反駁』という著作の中で、グノーシス主義に立脚する数々の福音書について、それがキリスト教を骨 抜きにする危険な教えであることを指摘し、警告してからのことでしょう。

けれども、グノーシス主義の宇宙論それ自体は、この頃に誕生したものではなく、福音書の登場よりもさらに古い起源を持つようで、プラトンの思想や、ユダヤ 教におけるセツ思想にその起源が求められます。キリスト教的グノーシス主義は、前から存在していたその思想の上に、福音書の内容を換骨奪胎して取り込み、 いわば、キリスト教に「偽装した」のだと言えます。

従って、もしも真にグノーシスの根源について調べたいならば、私たちは時代をもっとさかのぼり、ユダヤ教のセツ思想に当たってみるべきでしょう。けれど も、今はとりあえず初期のキリスト教会においてキリスト教的グノーシス主義として知られていた教えだけを吟味することにします。

繰り返しになりますが、もう一度、グノーシス主義の大まかな定義を説明します。

1966年の「グノーシス主義の起源に関する国際学会」等の定義によればグノーシス主義は、以下の点をふまえた神話を創作することが一般であると考えられている。
  1. 反宇宙的二元論: この世界は悪であり、この世界を創造した劣悪な神とは別に、善なる「至高者」が存在する。
  2. 人間内部に存在する「神的火花」「本来的自己」への確信: 人間は、劣悪な造物主に創造されたが、人間の内部には至高者に由来する要素が閉じこめられている。
  3. 人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者の存在: 以上のことを知らない人間に対して、至高者の下からそれを知らせる使いがやって来て、認識を促す
このような考え方に基づき、キリスト教的グノーシス主義では、正典とされている福音書からはおよそ考えられないほどに荒唐無稽な神話が次々と創作されました。その基本的な救済論は大体次の通りです。

1.この世を創造した神エホバは唯一神ではなく、劣った下級神の一人に過ぎないのであり、その上に上位の至高神が存在する。この世が悪なる不条理の世となってしまったのは下級の創造神の無知のせいである。
2.しかし、人のうちには、もともと生まれながらにして真の至高者に由来する「光」(聖なる火花、本来的自己、キリストなど、呼び名は様々である)という神聖な輝きが宿っており、人は自らの「神性」という知識に覚醒することによって霊的に救済される。
3.人の知識による救済を手伝うのが、何らかの啓示者の存在であり、キリスト教的グノーシス主義に登場する「キリスト」は人にその「神聖な」啓示を伝える天界からの使者とされる。

一言で言うならば、グノーシス主義とは、何らかの知識の啓示を受けて、人が本来的自己に覚醒することができれば、神と人とが融合し、人が神のようになれる と説く偽りの教えです。それは、生まれながらの人間が、悔い改めもなく、キリストの贖いの十字架を信じることもなくして、ただ啓示を受けて、自分の内に 宿っている「神性」に覚醒すれば、それにより救済されると説くのです。グノーシスにおける救済の概念は、キリスト教における救いとは全く異なっており、生 まれながらの人が罪によって堕落しており、罪から救済される必要性があるということは、グノーシス主義においては完全に認められていません。罪という概念 さえも登場せず、人の原罪も、神の裁きもないものとされ、救済とは、人がただ不条理なこの世と、限界ある自分の肉体から解き放たれて、霊において神聖なる 天界へ戻ることであるとされるのです。

グノーシス主義は、人は知識に目覚めることによって救済されるため、神と人との仲介者は必要ないとします。このような考え方が、「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」(Ⅰテモテ2:5)という御言葉の完全な否定であることは言うまでもありません。

アダムの堕落や、生まれながらの人の罪を否定し、十字架の贖いを否定し、復活も否定し、サタンも否定し、神の裁きも否定し、悪神とされている創造神と人が 和解する必要はないとしているこの教えがキリスト教ではあり得ないことは明白です。しかしキリスト教会の初期には、このグノーシス主義がクリスチャンの間 に広がり、疫病のように猛威を振るって、多くの人々を惑わせた時代があったのです。

マービン・マイヤーはグノーシスを擁護する立場に立って、『ユダの福音書』の前書きの中で、この異端の福音書とグノーシス主義の特徴について、次のように説明しています。


『ユダの福音書』は、いわゆるグノーシス派の福音書に分類される。おそらくすでに存在していた原典や発想を下敷きにして、二世紀半ばに編まれたと思われる 『ユダの福音書』には、グノーシス(gnosis)、すなわち「知識」を重んじる宗教思想が反映されている。「知識」とは神秘的な知識、神の知恵であり、神と自己との融合である。この宗教思想は一般に「グノーシス」と呼ばれるが、この言葉の使いかたをめぐっては、古代世界から議論が絶えず、今日でも研究者の間で論争が続いている。

神とはおのれのなかに存在する魂であり、内なる光であるとするグノーシスの立場は、仲介者ぬきで直接神とかかわろうと するその自由な発想ゆえに、初期キリスト教の司祭や教父からうとんじられ、異端狩りの対象になった。異端を論じた知識人の著作は、グノーシス主義者は邪悪 な思想をもてあそび、いまわしい活動にふけっているという非難の言葉であふれている。

こうした攻撃に対し、グノーシス主義的な立場の『ユダの福音書』には、当時勢力を伸ばしつつあった正統派教会の指導者や信者こそ、あれこれ良からぬ行動を しているという記述がある。『ユダの福音書』によれば、グノーシス派を敵視するこうした正統派のキリスト教徒は、地上世界を支配する神の小間使いに過ぎ ず、彼らの生きかたはその神の容赦ない支配の仕方にそっくりだというのである。
(『原典 ユダの福音書』、ロドルフ・カッセル他著、日経BP出版センター、2006年、pp.8-9 以下、紫色の字体は全て同書からの引用、太字は筆者)


これを読むと、初期キリスト教界にも、現在のキリスト教界と似たような状況があったことが分かります。異端の教えがあたかもキリスト教であるかのように 装って教会に入り込み、人々をとりこにしていたこと、しかも、異端を異端と宣言して、その教えの偽りを明らかにし、警戒を呼びかけたクリスチャンが、異端 者の側から、かえって「残酷な人間」として罪定めされ、非難し返されていたこと。今日とほぼ変わらない真理と虚偽との対立の構図です。

『ユダの福音書』では、イエスは啓示を伝える者であり、その 最大の使命は、十字架で人類の罪を担うことではなく、神の意識に通じる知識を人に伝授することだとされています。その上、驚くべきことに、イスカリオテの ユダがイエスの一番弟子として「復権」され、彼以外の12弟子は無知ゆえに神秘の啓示を受けられなかったのだと言うのです。ただ創造主を貶め、御子の贖い を否定するだけでなく、福音書における秩序をもこうして全く覆してしまうのです。再び、マイヤー氏の前書きの中から引用します。

『ユダの福音書』最大の読みどころは、イエスが宇宙の神秘についてユダに教える場面だろう。グノーシス主義の福音書はどれもそうだが、イエスはそもそも教 師である。知恵と知識を明かす人物であり、世界の罪を背負って生命を落とす救済者ではない。グノーシス主義によれば、人間が抱える根本的な問題は、原罪で はなくむしろ無知である。それを解決するには、信仰よりもむしろ知識が重要だ。イエスは無知を根絶し、自己と神の意識に通じる知識を、ユダと、『ユダの福 音書」の読者に与えた。.(p.10)


イエスがユダに語ったところによると、まずはじめに、すべてを超越した無限の神性が存在していたという。それから複雑な創造と流出の過程を経て、天は光と栄光で満たされた。
この無限の神性はどこまでも崇高なので、言葉ではうまく表現できない。「神」という言葉さえ、不十分であり、不適切であることがほのめかされている。そし て地上の世界は、ネブロ(「反逆者」の意)またはヤルダバオートという下位の創造神が支配している。この創造神は狭量で悪意に満ちており、私たちの世界が 問題だらけなのはそのせいだ。それゆえ知恵の言葉に耳を傾け、内なる神聖な光に気づかなければならない。

グノーシス派にとって、宇宙の最も深遠な謎は、特定の人間が神性を帯びた魂を宿していることにある。私たちが生きる世界は欠陥だらけで、暗黒と死に支配さ れることが多いが、それでも暗黒を乗りこえ、生命を取り込むことは可能である。イエスはユダに、私たちはこの世界より優れている。なぜなら私たちは神聖な 世界に属しているからだと語った。もしイエスが神性を帯びた存在の息子であるならば、私たちもまたその子どもであるはずだ。私たちに必要なのは、神聖な知 識を頼りに生きること、そうすれば悟りが得られるにちがいない。(p.12)


こうして、この異端の福音書は、人は自分の内なる神聖な光に気づき、悟りを得ることにより、狭量で悪意に満ちた創造神の作ったこの世の不条 理を逃れて、霊魂が救済されると教え、この神聖な知識をイエスは弟子のうちでも、ユダだけに明かしたのだと主張するのです。グノーシス主義の世界観が、こ の地上における存在としての人間に関しては、徹底的に悲観的なものであることが分かります。この教えにおける人間の救済とは、この地上における生を健全に 生きよう目指すものでは全くありません。むしろ、人の霊が天界に運び去られることを解決としている点で、地上における人間の生についてはどこまでも悲観的 なのです。

本来のキリスト教はそれとは正反対です。私たちは、キリストと共なる十字架の死と復活を経ることによって、クリスチャンは罪と死の法則に対して死に、命の御霊の法則によって、死ぬべき肉体をも生かされることを信じています。「も し、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたが たの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」(ローマ8:11)

キリスト教はこの地上における生を悲観的に眺めて、ただ来世を待ち望む現実逃避的な宗教ではありません。御言葉は、この地上においても、キリストのよみがえりの命が私たちを生かす力であることを大胆に宣言しています、「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」(ローマ8:13) 「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。 」(ハバクク2:4)

しかし、グノーシス主義においては人の霊が肉体の制限から解き放たれて天界に戻ることが救済であるとされており、『ユダの福音書』において、啓示を受けた イスカリオテのユダが光り輝く雲の中で変貌し覚醒するというくだりを読むなら、クリスチャンはただ唖然とする他ありません。

この福音書には、すべての人は自分の星をもっていて、星が運命を導くというプラトン思想と通じる部分もあ る。ユダにも彼の星があるとイエスは語る。そしてこの福音書の終わりのほう、ユダが光り輝く雲のなかで変容し、覚醒する直前に、イエスはユダに、空を見上 げ、たくさんの星と光の輝きを見よと告げる。空にはあまたの星があるが、ユダの星は特別なのだ。「皆を導くあの星が、お前の星だ」(p.11)

グノーシス主義においては、私たちクリスチャンが信じ、また知っている霊的な秩序体系がことごとく覆されて いますが、中でもこの捏造された福音書においては、イスカリオテのユダこそが、弟子の中でも最も正統な弟子であったという、正統な福音書に真っ向から逆ら う筋書きとなっています。ユダはイエスを裏切ることによって、逆説的にイエスに仕え、彼の願いをかなえる手助けをしたとされています。ユダの裏切りはただ 神のご計画が成就するために必要悪として存在したというのではありません。イエスが肉体から解き放たれて天界に戻るという、師の最上の願いを手助けした点 で、ユダの行為は罪に定められるどころか、むしろ最高の善であったと主張するのです。

このような主張が荒唐無稽であることは、クリスチャンならば誰しも分かります。しかしこのような転倒した論理には、ともすれば、私たちでさえ欺かれそうに なることがあるかも知れません。たとえば、こんな問いを訴えかけられた時、私たちはどう答えるでしょうか? もしもユダが主イエスを売り渡すことがなけれ ば、十字架も成就しなければ、復活もなかった。だとすると、ユダの行いは、神のご計画の成就のために、なくてはならないものであったのであり、その意味に おいて、ユダでさえ、神に奉仕したのであり、従って、彼の裏切りは善であったと言えるのではあるまいか? 

ある人々は、ここまで極言せずとも、主イエスの愛は最後までユダに注がれていたのであり、従って、ユダの行為そのものは悪かったかも知れないが、彼の魂は救われていると主張します。

しかし、主イエスはユダに関してはっきりとこう言われました、「…人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」(マルコ14:21)。これは、御子を裏切って死に追いやった彼の背信が、どのような点でも、決して赦されることのない罪であったことを示していると私は思います。

ユダの名誉回復というグノーシス主義の転倒した教えを見る時、私にはそれが根底では、今日クリスチャンの間で流行している「何でも愛して赦して式の甘えの 福音」に通じているように感じられてなりません。なぜなら、義人を罪に定めることの恐ろしさを見ようともせず、むしろ、すすんで罪人や悪人を擁護し、悔い 改めの必要性さえ説かずに、生まれながらの罪人を母性的な愛で優しく抱きとめようとする「砂糖まぶしの甘えの福音」の教えは、神の御前には絶対的なもので あるはずの善悪の概念を骨抜きにしてしまうという点で、どのみち、ユダの名誉回復の物語とほとんど変わらないからです。そのような教えは、罪に対する鋭敏 な感覚を人から失わせ、悔い改めなしには罪の赦しもあり得ないという基本的な事実さえ、クリスチャンに忘れさせてしまうのです。

現在、多くのクリスチャンの間では、ちょうど、キリストを十字架につけることを正当化し、バラバを赦せと叫んだ民衆と同じ心理が働いているように思われて なりません。キリストのまことの命に生きようとし、真理に従っている人々が苦難にあっても、多くの人々はそれに対して驚くほど無感覚であり、むしろ、彼ら を苦しめた悪人が赦されることだけを願い、罪人に対する愛と憐みだけを叫び求めているのです。

けれども、バプテスマのヨハネが人々に語った言葉は、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ3:2)でした。主イエスも人々に向かって悔い改めを呼びかけました(マタイ4:17)。主イエスは悔い改めのない町々をはっきりと責められ、彼らに対しては厳しい裁きがあることに言及されました(マタイ11:21-24)

ペテロとヨハネは、人々に向かって、イエスを十字架につけた罪を悔い改めるよう語りました、「ア ブラハム、イサク、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光を賜ったのであるが、あなたがたは、このイエスを引き渡し、ピラトがゆるすこ とに決めていたのに、それを彼の面前で拒んだ。あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、いのちの君を殺してしまっ た。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その証人である。<…>だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。」(使徒3:13-19)。

私たちは地上を歩まれた主イエスと共に生きたわけではありませんが、私の罪が命の君を十字架につけてしまったのだ、という認識は、クリスチャンにとって極 めて基本的な認識であるものと思います。私たちは主を十字架につけたその罪を悔い改めて、神と和解したのです。なのに、再び、罪のない子羊を死に定めてま で、バラバやユダを擁護するようなことがあって良いでしょうか?

正常な福音とは、人に罪を自覚させ、悔い改めて、神と和解するよう呼びかけるものです。人の罪を大目に見て、悪人のために憐みの涙を流し、彼らを無罪放免 するようひたすら叫び求めるのが福音ではありません。正常な福音は、罪人をキリストの十字架へと導きます。十字架こそが、神の愛の全てであり、神の憐みで あり、人の罪からの救い、神との和解の唯一の方法だからです。「神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。」(Ⅱコリント5:20) 

ですから、私たちは人間本位に歪められた、人の罪を認めようとしない、人に優しく、人の自己を高く掲げる偽りの教えに惑わされてはなりません。今日、この ような人間本位の偽りの福音の中から、「全ての人の内には生まれながらに光が宿っており、全ての人の内には生まれながらに神(キリスト)がおられる」と主 張する人々が現れたのです。この主張はその背後に働いているものがまさにグノーシス主義であることを示しています。この偽りの霊の影響は今日の多くの教会 にも知らぬ間に入り込んでいるのではないかと危惧します。

しかし、当然のことですが、生まれながらの人は、聖なる光など全く宿していません。アダムとエバは神のようになろうとして知識を求めましたが、その知識は 彼らを救済するどころか、むしろ彼らに自分の裸の恥を知らせ、彼らを罪によって堕落させて、死に至らしめたのです。私たちは、魂の知識が人を迷わせるだけ であり、悟りや覚醒といった知識によっては誰も救済されないことを知っています。私たちの生まれながらの命の中には、いかなる神性もなく、私たちの自己の うちにはいかなる救済も見出せません。人が神のようになろうとすることは、サタンから来る誘惑であって、主の御前には忌むべき高慢なのです。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)


感謝します、私たちの救いは尊い神の御子、永遠の贖いの子羊なるキリストを信じ、そのよみがえりの命をいただいて信仰によって生きることにあります。私た ちはこの世においても、贖われない肉体の中にあっても、悲観的に生きる必要は決してありません。なぜなら、私たちの内におられる方は世に勝ったお方だから です。ですから、私たちはこの肉体の贖われる日を待ち望んでうめきながらも、主と共に日々、自分の古き人、肉、アダムの命が十字架の死に渡されたことを信 じ、いかなる状況があっても、自分自身を信ぜず、ただキリストが十字架でなして下さった御業を信じて、その事実に立ち続けるのです。

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」(ローマ6:6)

上にあるものを求めなさい

「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ6:12)

終わりの時代には、あたかも神の裁きがすでに臨んでいるかのように、クリスチャンの間で厳しいふるいわけが起こるでしょう。私たちの信仰は試さ れ、私たちは自分が蒔いた種の厳しいまでの刈り取りを行わされるでしょう。これまでにはクリスチャンが肉に従って歩んだとしても、すぐに大きな代償を要求 されることはなかったかも知れません。しかし、時は縮まっています、ふるいわけが厳しくなる時、ひとつひとつの選択の重さ厳しさを、私たちは否応なしに思 い知らされることになるでしょう。

先に引用したエペソ六章12節の御言葉からも分かるように、私たちは望むと望まざるとに関わらず、真理と虚偽との戦いの最中に置かれています。戦いは私た ちの内側から始まっています。肉に従って歩むのか、それとも、御霊に従って歩むのか? 十字架の死に服するのか、それとも自己を建て上げるのか? 私たち は神の武具で武装し、火のような試練が降りかかっても、十字架にとどまることを学ばなければなりません。同時に、世でも戦いは起こっています。もしも欺か れるならば、必ず、それには厳しい代償が伴います。

「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、 …真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。」(Ⅱテモテ4:3-4)

ここで言う人々とはクリスチャンです。すでに多くのクリスチャンが地上のものに心惹かれ、自己(セルフ)を喜ばせる耳ざわりの良い教えに逸れ て、真理を捨てていきました。ある人々はついに、十字架も、血潮も、御言葉も退けて、生まれながらの全ての人のうちには(聖なる)光が宿っており、生まれ ながらの全ての人のうちに神(キリストが)がおられる、という反キリストの教え、異端グノーシス主義の教えを奉じるに至りました。

異端の教えの最後は必ずこのグノーシス主義、人の肉を栄化し、人が神のようになるという主張に至りつきます。しかし、異端の教えの始まりには、人を喜ばせ る甘さがあり、それはあたかも謙遜なものに聞こえるでしょう。その入り口は広くて入りやすく、人に親切なので、欺かれてそこから入っていく者が多いので す。それに対し、十字架は狭き門です。なぜなら、十字架は生まれながらの人に対する罪の宣告であり、人の肉を否定している、生まれながらの人間にとっては 耳ざわりの良くない教えだからです。

今日、十字架によらずとも、生まれながらの全ての人は救われているとか、クリスチャンは悪人も罪人もひっくるめてどんな人でも愛して赦して親しく交わるべ きであるとか、クリスチャンは異端の識別などという偏狭な作業はやめて、福音をゆがめ十字架に敵対する者たちとも無条件に融和して愛し合うべきであるとか いった類の偽りの教えが、教会の中にまで、まことしやかに広まっています。それは、人の耳にはとても心地よく響くため、十字架以外には救いがないと言っ て、真理にとどまっている人々が、かえって偏狭で頑なな人間として罪定めされる傾向にあります。

私たちは真理に踏みとどまり、十字架以外に救いがないと主張する時、心を疑われ、誤解され、罪定めされるかも知れません。しかし、それは神の動かせない事 実であり、真理なのですから、人の歓心を失うことを恐れて、真理に関して妥協することはできません。むしろ、何でも愛して赦して式の見境のない教えは、人 間本位であるがゆえに、人には好感を持たれるかも知れませんが、その本質は偶像崇拝であり、神の御前には忌み嫌われる姦淫の霊、偽りの霊による欺きがそこ にあるのです。

「…民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現われるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。」(Ⅱペテロ2:1-3)

はっきりと言いますが、福音を曲げる異端とは、決して言葉や概念だけの問題ではありません。それは私たちクリスチャンの命に関わる根本問題なのです。偽り の教えは、人の人格を狂わせて、神への反逆の道を歩ませ、人生を破滅させてしまいます。聖書ははっきりと私たちが偽りの教えを識別し、そこから分離して、 真理だけを選択して身を守るよう教えています、「すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。」(Ⅱテサロニケ5:21-22) 「異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい。」(テトス3:10)

人は欺かれる時、その甘さや心地よさのために、偽りに伴う代償の重さを考えないかも知れません。しかし、神は聖なる焼き尽くす火であられ、キリスト以外の 土台に建てられたもの、人の肉(木、草、わら、おがくず、等々)の上に建てられた全てのものは必ず焼き尽くされます。神の裁きは峻厳です。救いそのものは 変わらないかも知れませんが、今生の人生においても、私たちは自分の肉に蒔いたがために、肉から滅びを刈り取り、来るべき永遠においても、神から受けられ るべきであった永遠の報いを失ってしまうことがありうるのです。

さらに、主イエスは門から入って来ない者はみな強盗であると言われました。門とは十字架の子羊であり、御言葉なる主イエスご自身を指します。「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。」(ヨハネ10:10) 十字架を骨抜きにし、キリストの十字架以外に救いがあるかのように教え、生まれながらの人を高く掲げる教えを信じてしまうなら、私たちの人生は盗まれ、食い尽くされて、滅ぼされてしまいます。

キリストの十字架の贖いを捨て去り、セルフを甘やかすことを選んだ人々には、必ず、自己の異常なまでの肥大化という悲惨な結果がつきまといます。これは自 覚を伴わない一つの恐ろしい病気のようなものであり、初めはすぐにそれと気づかないかもしれませんが、時間とともにその経過が周囲にも分かるようにはっき り現われ、その人自身の人格が著しく損なわれ、人生が失われたことが分かるのです。

神は聖なる方であられるがゆえに、ご自分の民にも聖別を要求されます。私たちの神は、決して聖なるものと汚れたものとが混じり合うことをお許しになりませ ん。神の愛は「妬む愛」であり、排他的で独占的な愛です。妻が夫だけを忠実に愛するように、クリスチャンは神のみを礼拝する民として選び出され、この世か ら分かたれたのですから、神以外の霊に身をささげるべきではないのです。聖書における姦淫とは、霊的には偶像崇拝を指しており、人が神以外の霊と親しく交 わることや、偽りの教えを信じて受け入れることがそれに当たります。それは神に忌み嫌われ、神の怒りを招く行為なのです。神は罪人に対して忍耐しておられ ますが、だからといって、不義や罪に対する神の裁きの峻厳さは動かせません。神を侮ってはなりません、私たちは必ず自分の蒔いたものを必ず刈り取らなくて はならなくなります。

ですから、たとえ私たちは人の歓心を失ったとしても、真理に敵対するものをきっぱりと退け、神に対する貞潔さを守ることをやめてはならないのです。御言葉 は幾度となく、クリスチャンが偶像礼拝から遠ざかること、汚れたものと交わらないこと、神以外の霊と交わらず、神の怒りを招く汚れた一切のものから分離す る必要性を訴えています。

「不信者とつりあわないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあ るか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮であ る。神がこう仰せになっている、

『わたしたちは彼らの間に住み、
かつ出入りをするであろう。
そして、わたしたちは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となるであろう』。

だから、『彼らの間から出て行き、
彼らと分離せよ、と主は言われる。
そして、汚れたものに触れてはならない。
触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
そしてわたしは、あなたがたの父となり、
あなたがたは、
わたしのむすこ、むすめとなるであろう。
全能の主が、こう言われる』。

愛する者たちよ。わたしたちは、このような約束を与えられているのだから、肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)


もしも真理に従いたいならば、偶像礼拝者、真理に敵対する者との間には、霊的には常に明確な一線が引かれなければなりません。たとえ人がそれを偏狭さやか たくなさと誤解して罪定めしたとしても、キリストというただ一人の花婿に仕えるために、他の「夫」と交わらないことは、花嫁として当然のつつしみであり、 それは断じて罪などではありません。むしろ人に優しい態度を維持しようとして、どんな教えでも愛し、どんな教えを奉じる人でも、見境なしに受け入れて交わ ることの方が、神に対して貞淑さを失うこと、すなわち霊的姦淫を意味するのです。

残念ながら、すでにクリスチャンと呼ばれている人々の多くが偶像礼拝者となり、異端や背教に逸れていきましたが、このように意図的に神の義を退けて、己の義を打ちたてようとして、真理を否定する人々からはただ遠ざかるしかありません。

「『終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう』。彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。」(ユダ1:18-19)

「もし違ったことを教えて、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉、ならびに信心にかなう教に同意しないような者があれば、彼は高慢であって、何も 知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。だから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、また知性が腐って、真理にそむき、信心を利 得と心得る者どもの間に、はてしのないいがみ合いが起るのである。」(Ⅰテモテ6:3-5)

「終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ 者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する 者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろうこうした人々を避けなさい。<…>

彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。しかし、彼らはそのまま進んでいけるはずがない。彼らの愚かさは、あのふたりの場合と同じように、多くの人に知れて来るであろう。」(Ⅱテモテ3:1-9)

「彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。」(Ⅱコリント4:4)


これが真理を喜ばず、不義を喜ぶ者たちに対する御言葉の厳しい宣告です。不義を喜ぶ者たちの最後は滅びなのです。もしも私たちが、不義の教 えを奉じる人々を喜んで受け入れるならば、私たちはその背後にある偽りの霊と交わることになり、それによって、真理から逸れていくことになるでしょう。繰 り返しますが、聖書はクリスチャンが異端と親しく交わるようには教えていません。

特に、黙示録に登場する淫婦バビロンとは、世の終わりに、偽りの姦淫の霊に支配される霊的な一大共同体を指します(恐らくはそれには神の教会の名がついて いることでしょう)。真理を曲げる異端に対しては昔から容赦のない裁きが行われて来たことはすでに述べたとおりですが、「彼女」に対する裁きがどんなに厳 しいものであるかを思えば、誰もあえて彼女の説く偽りの教えに近寄ろうとは思わないでしょう。

わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。 彼女の罪は積もり積もって天に達しており、神はその不義の行いを覚えておられる。彼女がしたとおりに彼女にし返し、そのしわざに応じて二倍に報復をし、彼 女が混ぜて入れた杯の中に、その倍の量を、入れてやれ。彼女が自ら高ぶり、ぜいたくをほしいままにしたので、それに対して、同じほどの苦しみと悲しみとを 味わわせてやれ。

彼女は心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言っている。それゆえ、さまざまの災害が、死と 悲しみとききんとが、一日のうちに彼女を襲い、そして、彼女は火で焼かれてしまう。彼女をさばく主なる神は、力強いかたなのである。彼女と姦淫を行い、ぜ いたくをほしいままにしていた地の王たちは、彼女が焼かれる火の煙を見て、彼女のために胸を打って泣き悲しみ、彼女の苦しみに恐れをいだき、遠くに立って 言うであろう、『ああ、わざわいだ、大いなる都、不落の都、バビロンは、わざわいだ。おまえに対するさばきは、一瞬にしてきた』。」(黙示録 18:4-10)


バビロンはこの世との結婚によって、世を夫として富める者となり、自らの栄華を誇るようになりました。バビロンは「私はやもめではないので、悲しみを知ら ない」と言っていますが、彼女に幸せをもたらしたその結婚は、本来、結婚と呼ばれるべきものではなく、むしろ姦淫と呼ばれるにふさわしい関係です。

彼女は、ただ一人の花婿キリストを待ち望む純潔の花嫁という道から逸れてしまい、自分の手っ取り早い幸せを追い求めて、キリスト以外のものでも、何でも夫 として受け入れ、世と妥協し、罪を大目に見て、この世にしっかりと座を据えてしまいました。彼女はキリストを待ち望んで、この世においてはつつましい寄留 者として、十字架の苦難と貧しさに甘んじることをやめて、むしろ世との交渉によって世に固定的な居場所を手に入れ、誰にでも愛想を振りまき、自分の手腕と 美によって、女王のような権力と富を持つに至ったのです。

ある人がいみじくも、このような世との結婚は、ノアとロトの時代に人々が娶ったり嫁いだりしていたのと、本質的に同じ現象であると指摘しています。神の民 が神ご自身から目を離し、自分だけの幸せを求めて、世との交渉によって世に座を据え、世に深入りし、定着してしまう時、その堕落によって汚染された「婚 姻」は、人には一見、幸せをもたらすように思われても、神の目には正しい婚姻としては認められず、ある日突然、滅ぼされてしまうのです。

「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぐなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。

ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄が降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現われる日も、ちょうどそれと同様であろう。

その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへ戻るな。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。」(ルカ17:26-33)


この文脈において、もう一度、次の御言葉を見てみると、娶ったり嫁いだり、売り買いしたりすることが、この世の移ろいゆく有様に過ぎない事柄であり、たと えそれが神の恵みとして私たちに与えられたものであっても、私たちの目がそれに奪われてしまったり、そこに座を据えたりすることは、神の御心に反している ことが分かるでしょう。

「兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののよう に、泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきで ある。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。」(Ⅰコリント7:29-31)

「その日」は突然やって来ます。その時、私たちが心の中で最も大事にしていたものは何であったかが、私たちの行動にはっきりと表れます。私 たちが愛していたものは、何だったのでしょうか? 私たちの目は本当に見えない神ご自身だけを単一に見つめていたのでしょうか? 私たちはどれくらい地上 的な幸せを誇り、この世の成功をよすがに生きていたのでしょうか? 私たちが追い求めていたのは、自分自身を養うことだったのでしょうか? それとも、人 からの愛や賛同だったのでしょうか? 家庭的幸福や、仕事での成功、社会的地位、もしくはクリスチャンの間での評判だったのでしょうか?

その日、私たちが世に対して、人に対して、持ち物に対して、見えるもの全てに対してどれくらいはりつけにされていたのか、それとも、むしろ、心惹かれてい たのかが、私たちの「振り返る」という行動になって表われないように願います。その日、私たちの目は、それまで自分が最も心を砕いて追い求めて来た何か に、自然とひきつけられるでしょう。たとえ敬虔そうな行いの実であっても、目に見える産物、地上的なことがら、この世の移ろいゆく有様に重点を置いて生き ていた人は、何か未曾有の事態が起こって、見える世界が足元から揺るがされる時に、上にある事柄、すなわち、目に見えない神の来るべき御業をまっすぐに見 つめるのでなく、自然と、下にある事柄、これまでに熱心に築き上げて来た地上的な安定を取り戻そうとして、後ろを振り返り、後戻りすることになるでしょ う。

この世を振り返る、たったそれだけの行為が、人の心の中にあるものを全て暴露してしまうのです。その人が最も愛していたものは何であったか、その人が最も 執着していたものは何であったかを、たった一つの行為が物語り、それが主の御前で私たちを決定的に罪定めするかも知れないのです。私たちはこのような厳し いふるい分けがなされる時代へ向かって歩いています。だからと言って恐れすぎる必要はありませんが、目に見えるものの偽りがますます深まる中、クリスチャ ンが真に見えないお方のみに望みを置いて、目に見えない都を目指し、地上のものを頼りとすることなく、人を頼りとするのでもなく、ただ岩なるお方のみを錨 とし、やぐらとして生きるべく、今から一つ一つの選択を慎重に求められていると私は感じています。

「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘 れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと務めているのである。」(ピリピ2:13-14)

「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」(コロサイ3:1-2)


偽りの教えの例―異端グノーシス主義の構造(1)

「まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。」(ガラテヤ6:7-8)

当初の予定を廃して、以前からの予定であった内容を書こう。

神は侮られるような方ではない。従って、私たちが望むと望むまいと、人は自分のまいたものを必ず刈り取らねばならない。肉にまく者は肉から滅びを刈り取り、霊にまく者だけが、永遠に朽ちない報いを得る。

もう一度言うが、神は決して人に侮られるような方ではない。従って、たとえ人がどのような言い分を述べようとも、私たちは神の裁きの峻厳さを、畏れをもって思いみるべきである。肉なる者はすべて神の御前に静まり、膝をかがめ、ただ主の御名のみが讃えられますように。

聖書を見れば、人が神よりも自己を高く掲げ、己が罪を見ようとせず、子羊の贖いの血潮を否定し、十字架を否定し、己を神として生きるならば、その者が神から受ける裁きはまことに厳しいことが分かるだろう。十字架に敵対する者が受ける報いは滅びである。

神はすべてを見ておられ、不正を行う者、神の御言葉を曲げる者は、神の裁きの前に立ちおおせることはできない。たとえ虐げられた者がほふり場にひかれて行 く子羊のように沈黙を守ったとしても、まことの裁き主であられ、正しい報復を行われる方は、アベルの血が天に向かって叫ぶように、絶えず天に届いている無 実の人々の訴えに耳を貸して、悪しき者たちに向かって、必ず正しい裁きを行われる。私たちの罪からの救いは、ただ子羊の贖いの血潮にある。

昔、クリスチャンの大迫害が起こった時には、神の言葉を守り、あかしの言葉を守ったがゆえに、殉教したクリスチャンたちが大勢出た。今そのような時代が、 再び、間近に迫って来ている兆候が見られるように思う。しかも、悪いことには、背教に陥った自称(偽)クリスチャンがまことのクリスチャンを迫害するとい う構図がすでに見られる。

背教の根幹とは、すでに述べたように、キリストの贖いの十字架を否定し、アダムの罪を認めず、罪に汚染された人の生まれながらのアダムの命を聖なるものと して、神にまで祭り上げようとすること、すなわち、人が自分を神とすることである。反カルト運動に注目すれば分かるように、クリスチャンを名乗っている者 たちの中からでさえ、神の義を退けて、己の義を主張する者たちが現われたが、このようにして神の義を退けるなら、その者は己を神とするまでの高ぶりに陥 り、十字架を否定して、真理に逆らい、神に敵対する者となるという結果を、私たちは目のあたりに見ている。

自己を神とするという高ぶりに陥ることが、どれほどその人の人格と生き方を狂わせるかという実例は枚挙に暇がない。自分自身には愛がないのに、他人に厚か ましく愛を要求し、自分自身はへりくだることを全く知らないのに、他人には屈従を要求し、自己を義として、自分の一切の過ちを認めず、自己のために最大限 の要求を当たり前のように他人に突きつけ、しかも、同胞を次々と無慈悲に裁いて、無実の者までも容赦なく踏みにじり、神の言葉を忠実に守り、証の言葉を 守っている兄弟姉妹たちを次々と迫害して、数え切れない人々を苦難に陥れるに至った人たちを見れば、それは明らかである。このような時代の有様から、私た ちは来たるべき時の迫害の様相を読み取ることができるであろう。

「小羊が第五の封印を解いた時、神の言のゆえに、また、そのあかしを立てたために、殺された人々の霊魂が、 祭壇の下にいるのを、わたしは見た。彼らは大声で叫んで言った、『聖なる、まことなる主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対 して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか』。

すると、彼らの ひとりびとりに白い衣が与えられ、それから、『彼らと同じく殺されようとする僕仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように』と言い渡された。」(黙示録6:9-11)


これから終末にかけて、クリスチャンの間に背教がはびこるであろうから、これから起こって来る偽りの教えについて、予め警告しないわけにはいかない。かつ て聖霊派の異端を分析しているうちに、私はキリスト教の背教が、最終的にはほとんど、グノーシス主義に集約されていくことに気づいた。グノーシス主義は、 霊と魂の切り分けを否定し、人の生まれながらのアダムの魂を神とし(すなわち肉を神とし)、キリストの十字架の贖いを否定して、アダムを神とする教えであ る。

グノーシス主義の専門的な文献は今は置いておくとして、グノーシス主義とは何であるのか、ウィキペディアの説明を引用して簡単に説明しよう。

1966年の「グノーシス主義の起源に関する国際学会」等の定義によればグノーシス主義は、以下の点をふまえた神話を創作することが一般であると考えられている。
  1. 反宇宙的二元論: この世界は悪であり、この世界を創造した劣悪な神とは別に、善なる「至高者」が存在する。
  2. 人間内部に存在する「神的火花」「本来的自己」への確信: 人間は、劣悪な造物主に創造されたが、人間の内部には至高者に由来する要素が閉じこめられている。
  3. 人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者の存在: 以上のことを知らない人間に対して、至高者の下からそれを知らせる使いがやって来て、認識を促す。
一言で言うならば、この教えは、堕落した人の生まれながらのアダムの命が、罪のゆえに神によって滅びに定められたことを認めず、むしろ、アダムの全ての命 の中に「聖なる要素(神的火花)」が宿っているとして、アダムの命を聖なるものとして祭り上げ、アダムの復権を目指して、人の自己(セルフ)を神とし、肉 を神として、神の永遠のご計画をひっくり返そうとするものである。この教えにおいては、人が救われるために、キリストの贖いの十字架を信じる必要性は否定 され、キリストの名が語られている場合にも、彼はただ啓示を伝えるための存在に格下げされている。そして、人は何らかの「啓示」もしくは「覚醒」の体験に よって、自分が本来的に持っている聖なる要素に目覚めて、「本来的自己」に復帰することができ、それにより、悟りに達することができると教えるのである。

グノーシス主義の世界観においては、神とルシファーとの関係は完全に逆転されている。この教えにおいては、この世界を創造した創造主は悪神であったという ことになり、造物主の悪のために世界が堕落したことになっている。こうして、天地万物の創造主をおとしめた上に、さらに、造物主の上には、もっと別な善な る至高者がいるのだと教える。世界を創造した神よりも、もっと高い、真の善なる知恵を持った「神」が存在するというわけである。そして、人は本来的自己に 回帰して、悟りに達することにより、世の堕落の真の原因を知り、「真の至高者」の存在を知るというのである。

このような筋書きは、まさに神になりたかった者の願いを言い表している。蛇は善悪の知識(悟りを得られること)によってエバを誘惑した。「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:5)蛇はこうして、神は不当に何らかの知識を人間の目から隠しており、人はそれを知ることによって、神のようになれると思わせたのである。

グノーシス主義は、今日でも、人が悟りによって奥義的な知識を手に入れることができるとして、人の魂を誘惑(啓発)し、一定の方法で、人の自己を刺激する ことによって、アダムの命の中に眠っている何らかの魂の力(それは聖なるものではありえず、堕落によってこの世の君へと渡された悪しき力である)を超自然 的に覚醒させ、人に自分を神のような者と思い込ませることによって、人を高慢にし、創造主に対する反逆へと駆り立てているのである。

グノーシス主義は様々に形を変えて、色々な宗教の教えの中に入り込んでいるが、これはこの時代の霊そのものであり、キリスト教の異端にも、この霊の影響が 見られる。たとえその教えの中でキリストや使徒たちの名が用いられていたとしても、このような異端の根幹が、事実上のキリストの十字架の否定であることは 明白である。

私たちは、聖書を通じて、生まれながらの人のうちに義人は一人もいないことを知っている。アダムの命の中にどんな聖なる火花もあろうはずがない。アダムの 罪に汚染された命には何の救いもなく、改善の余地が全くないからこそ、神はキリストを十字架にかけて、そこで全てのアダムの命を滅びに定められた。ただ御 子の贖いの十字架を信じ、水とキリストの御霊によって生まれた者だけが、滅びから救い出され、永遠の命を得て、神の国へと入れられる。

だが、恐るべきことに、御子の十字架による救いを否定し、造り主なるお方をおとしめ、人の自己を啓発し、アダムの生まれながらの命を神としようとする異端 は、巧妙にキリスト教に偽装して、クリスチャンの間にも、入り込んでいる。それはただ誤った教えとして広がっているだけでなく、この時代のアイオーンその ものでもあるため、もしも油断するならば、私たちも、たちまち肉を喜ばせる生き方、自己を高揚させる生き方へと逸れて行きかねない。試金石は十字架であ り、私たちは絶えずキリストと共に十字架の死にとどまる者であらねばならない。

さて、私たちの警戒しなければならない誤った教えの実例を挙げよう。たとえば、キリスト教の書物のごとく紹介されて、私が目を通したサンダー・シングの本 には、次のような驚くべきくだりがあった。それはこの書物がまさにグノーシス主義の影響に基づいて書かれていることを明らかに示している。

「火打ち石の中に火があるように、人の心の中にも神と交わることへの憧れがある。このような願いは罪と無知 という硬い火打ち石の下に隠れているかもしれないが、神の人と近づきになり、あるいは神の聖霊に触れられるときに、ちょうど火打石が鉄で打たれたときのよ うに、即座に火を放つ。」(サンダー・シング著、『聖なる導き インド 永遠の書』、徳間書店、1996、p.295)

「…人がどれほど悪く曲がった生き方をしていようとも、人の性質の中には、決して罪に傾かない聖なる火花、聖なる要素が存在する。良心と霊的感覚が曇り動 かなくなったとしても、この聖なる火花は決して消えることはない。どんな極悪人にも多少の善がみられるのはこのためである。<…>この聖なる火花が不滅の ものであれば、どんな罪人にも絶望することはない。」(同上、p.296-297)


このようにして、サンダー・シングの書物は、人は火打石のようなものであって、火打石と火とは本来一つであり、どんな罪人であれ、人間の中には本来的に聖 なる火花が宿っていると主張する。キリストの贖いによらずして、生まれながらの罪人の中に聖なる要素があると主張するこの教えは異端である。

さらに、驚くべきことに、表向きにはそれとは全く何の共通点もないように思われる別の著書にも、これとほぼ全く同様の記述が見られる。こちらは火打石と火が本来的に一つだったのではなく、後から一つになるという主張である。

すでに述べたように、福音書房から出版されているウォッチマン・ニー全集には、ニーが言わなかったはずの発言が付け加えられ、改ざんされているとの危険性が多くの兄弟姉妹によって指摘されている。その一冊には次のようなくだりがある。

「さらに完全な結合

神はすでにわたしたちをキリストの中に包含されました。わたしたちは今どのようにしてキリストがわたしたちの中へと造り込まれるのかを見なければなりませ ん。キリストが わたしたちの中におられる時だけ、わたしたちの結合は実際であり、完全であり得ます。そして、その時はじめて、キリストが持っておられた あらゆるものが、わたしたちの中へと造り込まれます。このキリストとの関係こそ、その究極的で最高の意味での結合です。

ある日、わたしは鍛冶師が作業しているのをじっと見ていました。彼が大きな一塊の鉄を火の中に投じ、炎を燃え立たせてから、その赤くなった金属を鉄槌で打 ち始めました。脇に立っていた一人の弟子が火を得ようとしていました。彼は一枚の紙を巻き、それを火に突っ込むことをしないで、その端を赤くなった鉄に触 れました。たちまちその紙に火がつきました。わたしは火が鉄から出て来たのを見て非常に驚きました。この一塊の鉄は、今は他のすべての鉄とは違っていまし た。あなたはそれを鉄であったと言うかもしれません。しかし、またそれを一つの火の球と考えることもできます。火は鉄の中に、また鉄は火の中にあったので す。それは鉄の性質と鉄の様相とを持っていました。あなたがそれに一枚の紙を置くと、その紙は燃え上がりました。

神はわたしたちとキリストとの結合がその鉄と火の結合のように親密なものであることを願われます。神はわたしたちのすべての罪を赦されました。そして、わ たしたちの古い人をキリストの中で終わらせました。しかし、神はそこで終わりにされませんでした。鉄と火が一つであったように、神はわたしたちがキリスト と完全に一つであることを欲しておられます。鉄のあらゆる分子は火と混ざり合い、その火のあらゆる性質は鉄の中で現されました。神はこの程度にまでキリス トをわたしたちの中に造り込むことを欲しておられるのです。」(ウォッチマン・ニー全集(第二期 第二七巻、正常なキリスト者の信仰、日本福音書房、 1997、p.200-201)


この文章は、ローカル・チャーチの教えにおける「神と人とが混ざり合う」という主張に合致する。このような主張が誤りであることは次の論稿「神性と人性の混じり合い」「人が神になる」に詳しく指摘されている通りである。

「<…>これから理解できる通り、"人の神化"はまさにこのキリスト・イエスにおける"人性と神性の混ざり合い (mingling) "を根拠として導き出される"啓示"である。リーは1コリント12:12を根拠に、キリストの体である教会が"団体のキリスト"としてキリストご自身でもあると結論し、この延長線上に「父、子、御霊、そして教会は四で一である」とし、ついには「神と人が混ざり合って人(教会)が神化する」となるわけである。リーの"啓示"の導出過程は、たとえば"三一性"についても見られる通り、ある聖句を"文脈から切り離して"解釈を与え、それを根拠にして、あたかも点を線でつなぐようにして、一つの体系を組み立てるわけである。この究極、あるいは底流にはつねに「人が神になる」という"啓示"が頑固に留保されており、すべてはここに至るように組み立てられている。この際のキーワードはまさに"混ざり合い "にある。」

「ウイットネス・リーの晩年(90年代)の言葉("啓示")を紹介します。神の最高にして究極の目的が「人が神になることである」と明快に説いております。初期のうちからすでに「教会が神化する」という"啓示"が見られていたが、特に89年の分裂以降、イエスマンばかりが残ったために、その主張が露骨となった。しかしながら"God begets gods."となると、ついに来るところまで来たという印象すらあります。ここで指摘しておくべきは「あなたがたは神のようになる」と最初に口にした存在は、創世記3:5におけるヘビ=サタンでした。サタンは自分が神になりたかったのですが、それを阻止され、以後彼のすべての誘惑の動機はここにあり続けるのです。なお、ここの文章は、私による英語版からの直接訳ですので、日本福音書房から出版されているものとは用語などが一部異なることがあります。」


鉄と火は本来全く別のものであり、火打石と火も別物である。人の肉と、神の霊とは全く相容れない。私たちは この世の物質世界における肉の事柄と、霊的な事柄を決して混同することはできない。ところが、前述した(紫色の引用文の)文章には、霊の事柄と肉の事柄の 著しい混同が見られるのである。

私たちは、神の霊と交わることができるのは、人の霊だけであり、人の肉は神と交わることはできないし、まして、人の肉と神の霊とが混じり合うことなど不可 能であることを知っている。神は私たちキリスト者の霊のうちを訪れられ、霊のうちにお住まいになることはあっても、神の霊が人の肉の上に注がれることは不 可能であり、まして、神のご性質が人の堕落した肉に混じり合うことはあり得ない。ところが、前述の文章では、霊の事柄と肉の事柄との著しい混同が行われて おり、神が人と共に住まうということが、人のアダム来の生まれながらの肉にまで、後天的に、神の性質が混じり合う(もしくは本来的に含まれている)ことで あるとされ、それが人とキリストとの結合であるとの主張がなされているのである。

このような霊と魂(肉)の事柄を混同した主張は、霊と魂との切り分けを否定する(事実上、霊と魂とを混同する)グノーシス主義の主張と相通じるものであ り、明らかにこの世の霊による教えである。このような荒唐無稽な教えは、現在、様々なキリスト教の異端の教えの中に入り込んでいるが、いずれにしても、そ こには「人が神のようになれる」と教えて、人間を誘惑した神になりたかったあの者の主張が巧みに隠されているのを見て取れる。私たちはこのような教えを偽 りとして断固、警戒し、退けるものである。

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