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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

偽りの教えの例――異端グノーシス主義の構造(8)――

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのではないことを、悟るのである

信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。

信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれたものと、あかしされていたからである。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求めるものに報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである

信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。

信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である

信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生まれてきたのである。

これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している

もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし、実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである

信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。<…>

信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、 キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、 エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。<…>

信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。<…>

彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。<…>

ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。なおほかの者たちは、あざけ られ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、 やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中の岩の穴と土の穴とを、さまよい続 けた。

さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。」(ヘブル人への手紙第11章より)


ローマ帝国時代、なぜ多くのクリスチャンは自ら殉教を選び取っていったのでしょうか。それは彼らが現に目に見ているものよりも、さらに良い都を神が用意し ておられることを信じ、地上での富と悦楽を全て否定し、捨て去ってでも、見えない天にあるふるさとを願い求めていることを自ら告白し、神を信じて従う者に は、神が豊かに報いて下さる方であることを身をもってあかししたからです。

私たちはアベル、エノク、モーセなど、信仰によって神に受け入れられた人々の人生を見る時、彼らが真の受難に遭って、それまでのふるさとの富や栄光を捨て て、命を脅かされたり、殺されたり、神のために大いなる犠牲を払う前に、彼らの信仰告白が神によって明らかに喜ばれていることが、はっきりと彼ら自身に も、周囲にも表されていたことを見ます。

受難は啓示の後に続きます。人々は信仰を告白し、神はその信仰を喜んでおられることを僕たちに示されます。その後で、信仰が試される時がやって来ます。最 初に告白した信仰を、次には命をかけて証明することが求められます。それによって、人々は自分が求めているものが、本当に、神のご計画に合致しているこ と、彼らが求めているものは、地上のものではなく、永遠に至る御国のために実を結ぶものであることを、代価を払っても証するよう求められるのです。

従順には代価がつきものです。アベルのささげ物も、アブラハムがイサクを捧げたことも、モーセの出エジプトも、イスラエルの民が紅海を渡ったことも、すべ てはキリストの十字架の死とよみがえりの予表でした。私たちが目に見えるものにしがみついて死を拒んでいる限り、そこによみがえりの命が働く余地はありま せんが、主と共に十字架の死を経過する者は、よみがえりの命に至るのです。

ローマ帝国時代、クリスチャンに厳しい迫害が臨んだ時、一部のクリスチャンは死を拒否しました。ある人々は、殉教を選ぶことは命を粗末にすることであるか ら、神の御心に反すると考えました。「キリストが私たちの身代わりに死んで下さったのは、私たちが死なないためです」、そう考えて生き延びる道を選んだ人 々もいました。

また、クリスチャン以外の権力者の中には、殉教を選ぶキリスト教徒は、自虐を見せびらかしているに過ぎないと考えて侮蔑する者もいました。さらに、グノー シス主義者の多くは、この世の支配者は下級神デーミウルゴスの手先に過ぎないと考えていたので、この世の支配者の手に落ちて、自ら犠牲となって果てていく クリスチャンを無知で愚かな人々だとあざ笑いました。

グノーシス主義者は、目に見えているこの世の秩序が、本来、霊的な秩序の下位に置かれるべきものであると認識していた点では、非常に進歩的で「霊的」な信 徒のように見えたことでしょう。彼らは前述したように、この世のふるさとを捨てて、神の御旨に従って旅立ったアブラハムやモーセのような人々の認識から、 そう遠くなかったとさえ言えるかも知れません。グノーシス主義者もまた、この世を超越して、彼らの考える「御国」に戻ること、すなわち天に、彼らの霊が解 き放たれる時を切に待ち望んでいたのですから。

しかしながら、クリスチャンとグノーシス主義者との両者には、ある決定的な違いがありました。グノーシス主義者は、天にあるふるさとにはただ信仰によって しか至れないこと、御子と共なる十字架の死を経ることによってしか、人は復活の領域には至れないことを否定したのです。彼らは信仰ではなく、覚醒によっ て、最終的に御国に至るのだと主張したのです。

もしも人が十字架の死を否定して、生まれながらの人がアダムの命に死ぬことなしに、よみがえりの命を得て、御国にいたりつけると考えるならば、必ずその人 は偽りと欺きによって道に迷うことになるでしょう。それはアダムの不死を追い求めることに他なりません。グノーシス主義者の考える「御国」の概念が、著し くゆがんでいたことについては、次回以降に詳しく触れますが、結局のところ、彼らが終局的に目指していた「御国」とは、原初回帰、子宮復帰の願望であり、 それは人が「その出てきたところ」(ヘブル11:15)を振り返り、そこへ戻ろうとする試み以上のものではないのです。

しかし、グノーシス主義者の中にも、キリストの受難に意味を見出し、殉教を語っていた人々が若干いなかったわけではありません。それでも、グノーシス主義 者にとっての受難とは、クリスチャンの考える受難とは意味が異なっていました。グノーシス主義者にとっての受難とは、彼らがより本来的な自己を知って、よ り世を超越し、より神(キリスト)に近いものとなるために必要な自己修練の過程とみなされていたのです。彼らの受難は、自己を否んで主に従うためではな く、彼らがより本来的な自己を発見し、それに生きるための手段でした。

グノーシス主義者たちのほとんどは殉教を嫌いました。殉教に対するこのような否定的な見方は、彼らがキリストの十字架におけるまったき「死」と「よみがえ り」への信仰を否定していたことと、密接な関係があります。グノーシス主義者も、あたかも表面的には、キリストの受難、死、復活と言った言葉を用いて、そ れを肯定しているかのように語っていたかも知れません。しかし実際には、その文献を読むならば、彼らがキリストの死の意味を引き下げることによって、キリ ストのよみがえりをも否定していたことが分かるのです。

すでに紹介したグノーシス文書『トマスによる福音書』では、死と復活の順序が逆転して語られています。荒井氏はこう解説しています。

<…>イエスの苦しみ<…>と死の意味は当福音書において、『真理の福音』や『三部の教え』その他と共に承認されている。それは「収穫」(本来的自己)を「得るため」の苦難なのである。<…>

それでもなおトマスは、イエスの死からの復活は認めていない。<…>トマスによれば、真実の意味で「生ける者」は、たとえ――肉体的に――殺されても、「死なないであろう」(一一)。――「『主はまず死んで、(それから)よみがえった』と言う者は間違っている。なぜなら、彼はまず復活し、(それから)死んだからである。もしある者がまず復活を得ないなら、彼は死なないであろう」(『ピリポ福音書』二一)。(『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社、p.227)


なぜこのグノーシスの福音書はこのように死と復活の順序を逆転させるのでしょうか。それは「トマス福音書において「死」とは、肉体的死ではなく、むしろ原初的関係の断絶」とみなされていたからです。すでに述べたように、グノーシス主義者にとっての死とは、人間の罪のゆえにもたらされた避けられない結果ではなく、人が原初の統合関係から「分離」されたがゆえにもたらされた悲劇であり、その分離を取り除き、原初の「関係を回復し、「はじめに立つ者」に「死ぬことはない」とされていたからです。(同上、pp.319-320)

今、詳しい説明を全て省略して、端的に結論から述べるとこうなります。グノーシスの主張とは、「原初、アダムは神であった。アダムこそキリストであり、創造主を超える真の至高者である父の本質であり、アダムは不死であり、よみがえりであった。従って、原初的アダムに回帰することが、人類の救済への道である」ということになります。ですから、それを理解するならば、グノーシス主義が、人が本来的自己に覚醒し、原初の状態へ回帰することによって、よみがえりの命を得られるとしているのは不思議ではありません。

そのため、この教えにおいては、人がよみがえりの命を得るために、主と共なる十字架で死を経る必要は完全に否定されます。死がなくて、どうして、よみがえ りがあるのか、という単純な問いもここでは無視され、むしろ初めによみがえりがあったので、人は初めにあった「光」に立ち戻れば、死から救い出されて、復 活を得ることができるとされるのです。さらに進んで、この教えにおいては、その時、人は自らキリストとなるのであり、主と共なる十字架の死など経ずとも、 隠された啓示を受けて、本来的自己に回帰するならば、それによって人は神と合一できるのだ、とされるのです。

「隠されているもの」が啓示されるのは、人間がイエスの「口から飲む」とき、それによって自らが「イエス」 となるときである。イエスと共に「父」の本質――「光」と「命」に象徴される「同じもの」に与り、自らにこの原初的「自己」の統合を回復するときなのだ (六一)。なぜなら、覚知(グノーシス)者にとって終末とは「始源」なのだから。(同上、p.309)

サタンが今日、何よりもクリスチャンの目から隠したいのは、主と共なる十字架の死の必要性です。闇の軍勢の目的は、クリスチャンが決して主の十字架の死 を、信仰によって自らの死として受け取らないように仕向けることにあります。なぜなら、完全な死がない限り、完全な復活があり得ないことを、彼らも知って いるからです。

暗闇の勢力は、クリスチャンが十字架を自分のものとして受け取ることを嫌い、クリスチャンが十字架を離れるよう働きかけます。十字架上のイエスに向かって投げつけられたあざけりは、私たちに対する嘲笑でもあるのです。「他 人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。 」(マタイ27:42)、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」(マタイ27:40)

生まれながらの人は十字架の意味を理解できません。十字架は真に反人間的なものであり、十字架の死には、人間を喜ばせる何の偉大さもないか らです。そこには人目を惹くものは何一つとしてなく、ただ人間にとって究極的に苦しい限界、制限があるだけです。そこにはアダムの命を高揚させるものは何 一つとしてなく、むしろ、アダムの命にはただ霊的死があるだけです。しかし、この十字架の死を土台としなければ、私たちを全く新しく生かす、キリストのよ みがえりの命はあり得ないのです。

サタンは十字架の死が信徒にとって恐ろしく、無価値で、無用なものであると思わせることに失敗したならば、次には、十字架を、人の肉にとって心地よいもの へと変え、アクセサリーのように飾り立て、美化されたストーリーに変えてしまおうとします。暗闇の軍勢は、十字架がアダムに対する神の刑罰であったことを 人に忘れさせ、アダムにとって心地よい物語を作り出すか、あるいは、十字架に穴をこじあけてでも、生まれながらのアダム来の何かを、私たちが十字架の向こ う側に持ち込むことができるかのように思わせたいのです。

グノーシス文書『ヤコブのアポクリュフォン』では、一見、あたかもキリストの受難と死が肯定されているかのように見えます。そこでは、ヤコブとペテロが拷問と死を目前にした時、主が彼らを励ますために現れて、「まことに汝らに告ぐ、わが十字架を信じない者はなんぴとも救われることはない。しかし、わが十字架を信じた者は、神の国が彼らのものである。」と語ったと述べています。もし記述がそれだけならば、異議を唱える理由は何もありません。

しかし、ここにも非常に巧妙なあざむきがあることを私たちは次の文章から見るのです。

……まことに汝らに告ぐ、死を恐れる者はなんぴとも救われることはない。なぜなら死の国は、自らを死に渡す者に属するからである。(『ナグ・ハマディ写本』、エレーヌ・ペイゲルス著、白水社、pp.163-164)

ここにもまた、キリストは初めから死を超越していたのであり、だからこそ、キリストに従う信徒は自らを愚かにも死に渡す必要はない、むしろ、自分が始めから死を超越していることを見出すことによって死に打ち勝つべきだ、という主張が透けて見えます。

別のグノーシス文献、『真理の証言』は、キリストは神的な力に充ちているので、受難や死にはもとより異質な存在であったと主張して、十字架は主イエスに とって神の刑罰や呪いではなかったのであり、むしろ、彼を肉体から解き放つ解放であり、彼は積極的に十字架で己が肉体を破壊したのだとさえ言います。

人の子は不滅より[来り〕、汚れとは異質で(あり)、……陰府(ハデス)に降って、大いなる業をなされた。 彼はそこで死者を起こし、……また、人々のなかから、彼らの業を毀ち(こぼち)、こうして、足なえや盲人や中風患者や聾唖者(や)悪霊にとり憑かれた者た ちが癒された。……このために彼は、彼が背負った〔十字架〕から己の肉体を〔破壊した〕。(同上、p.166-167)

『ユダの福音書』が、キリストの十字架を彼の肉体からの解放、霊が天界へ戻る手段であるとみなしていることについては、すでに述べました。同じくグノーシ ス文献の『ペテロ黙示録』は、キリストは初めから死を超越していたがゆえに、キリストの十字架において死んだのは、ただ彼の肉体的部分だけだったのであ り、それゆえ主イエスは十字架で苦痛を感じることさえなく、喜びに満ちて笑いながら十字架にかけられたのであり、彼の「原初的部分」、すなわち叡智の霊 は、十字架によって肉体から解き放たれて、まったき光に結ばれたのだと主張します。

「……あなたの見た、十字架の上で喜び笑っている者は、生けるイエスである。しかし、彼らが手足に釘を打ち つけているその人は、生けるイエスの肉体的な部分であり、それは身代りである。彼らは、彼の似像に残ったものを辱めているのだ。だから、かれを 見なさ い。そして、私を[見なさい]。」(p.168)

これよりもさらに複雑なグノーシス主義のヴァレンティノス派は、キリストの受難と死の重さを確かに認めながらも、主イエスの十字架の死は、彼自身にとって は死であったが、人間、すなわち、グノーシスを得る者にとっては、「木になる実」、すなわち、生命を生み出す「知識の木」の新しい「実」であるから、それ はアダムにとっては何の脅威でもなく、刑罰でもないと主張します。

少し長いですが、エレーヌ・ペイゲルスの説明から、私たちはグノーシス主義者が、キリストの十字架をいかに生まれながらの人間にとって心地よいもの、人間 本位なものに変えてしまっているかを見ることができます。ヴァレンティノス派のグノーシス文献、『真理の福音書』はこう述べています。

……木に釘づけにされた。彼は父の知識(グノーシス)の実になった。しかし、それは食べ[られ]ることによって破滅を与えるものになるのではないそうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのである。なぜなら、彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだしたからである。……

キリストの死は人間を誤ちと罪から贖うための犠牲と解釈する正統派の諸資料とは反対に、このグノーシス派の福音は、内なる神的自己を発見する機会として十字架刑をとらえている。<…>

……いつくしみ深い忠実なイエスが、苦難を身にひき受けて耐え忍んだ、……なぜなら彼は、彼のこの死が、多くの人々にとって命であることを知っていたからである。……彼は木に釘づけにされた。……彼は自らを死に至らせるが、彼は永遠の命を身につける。滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとうのである。……

もう一つの注目すべきヴァレンティノス派の文書『三部の教え』は、救い主を「生まれいで、受難すべき存在」として紹介している。人間に対する憐みの情に動かされて、彼は進んで

彼らのごとくになった。こうして彼は、彼らのために、自発的ならざる苦難のなかに顕れることになった。……彼が救おうとした人々の死を自らにひき受けたばかりか、彼はまた、彼らの小ささも受けいれたのであった。……彼は自らを孕ませ、身も心も幼子として生まれた

<…>同様に『真理の福音書』は、イエスの人間としての死について述べた後、さらに次のように言っている。

≪父≫の≪言葉≫が万物のなかに入り込み、……それを清め、≪父≫のなかに、≪母≫のなかに連れ戻す。――優しさの限りなきイエスが。

ヴァレンティノス派の第三の文書『グノーシスの解釈』は、同じような逆説を表明している。一方において、救い主は苦難と死に感じやすい存在になるが、他方において、神的力に充ちた≪言葉≫である。救い主は説明する。

――「私は非常に小さくなった。それは私が、私の卑下によって、あなたがたがそこから落ちた大いなる高みにあなたがたを連れ戻すためである。」

これらの資料の一つも、イエスが実際に受難して死んだことを否定してはいない。すべてがそれを前提にしている。しかしながら、すべての資料は、いかにキリストがその受肉において人間の本性を超えており、その結果彼が神的力によって死に打ち勝つことができたかを示すことに関心をよせている。」(同上、pp.169-171)


このようにして、グノーシス主義者は、イエスの「優しさ」や、「愛」、イエスのまとわれた卑下、イエスの「幼子性」ばかりを強調することにより、十字架を 人間本位に解釈し、十字架が生まれながらの人にとって、大変心地よいものであるかのように説き、十字架が全ての人に対する罪の宣告であり、滅びの宣告に他 ならず、呪いであり、罪定めであった事実を覆い隠してしまうのです。

以前に私は、キリストの神性・人性をどのように解釈するかが、クリスチャンの信仰的なアイデンティティを決定してしまうということについて述べました。キ リストと私たちエクレシアとは決して引き離すことの出来ない運命共同体であり、花婿をどのようにとらえるかが、花嫁の運命も決定してしまいます。

私たちは十字架についての美談に欺かれないようにしなければなりません。キリストは初めから死を超越していたために、十字架の死にさえも、神的な力をもっ て打ち勝ったのだという主張には、何らかの説得力があるかも知れませんが、そのような主張をもしも信じてしまうならば、私たちはまず第一に、キリストの十 字架が、全てのアダムに対する神の破滅的な刑罰であったという事実を見なくなります。彼がアダムの代表として十字架に向かわれ、ご自分の肉に全てのアダム の肉を含められ、ご自分を死に渡されたのだという事実は失われるでしょう。そうすれば、私たちをアダムの命の腐敗や、罪から救う方法は、もはや全くなく なってしまいます。

次に、キリストは神であられたがゆえに、神的な力によって十字架に耐えることができたのだと考えるならば、彼の完全な人性は否定され、「彼の十字架の死」 は、決して、「私の十字架の死」ではあり得なくなります。そのように考えるなら、キリストは神であったから十字架を負うことができたが、私たちは人である がゆえに、十字架を耐え忍ぶ必要はなく、自分に耐えられるほどほどの苦しみがあればそれで結構であり、命をかけて主に従う必要はないという主張が生まれる でしょう。

このような考えは、私たちを巧妙に十字架から外に連れ出します。私たちはキリストの十字架の死の意味を引き下げないようにしなければなりません。あるい は、十字架を人間にとって甘く、優しく、受け入れやすくするために、割り引いて考えたり、飾り立てたりしないようにしなければなりません。キリストの十字 架の死には、何の栄光もなければ、人を喜ばせるどんな要素もありませんでした。それは彼自身にとっても、解放ではなく、死であり、刑罰であり、呪いだった のです。 

「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。」(ガラテヤ3:13)

キリストは私たちのために呪いとなって、十字架の苦しみを余すところなく背負って、神にさえ捨てられて、自らを奴隷としての死に渡されました。しかし、彼 が死に至るまでも従順であることが、彼に対する神の御心だったのです。そして、ご自分の命を捨てても、神の御心に従ったがゆえに、神はキリストに全ての栄 光を賜り、彼を全ての名に勝る名とされたのです。

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれを むなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられ た。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。」(ピリピ2:6-9)

神はキリストの十字架の死によって、朽ちるものと朽ちないものとの境界をはっきりと定められました。十字架によって、何が神の国を継ぐことのできるもので あり、何がそうでないか、全ての人の前に明らかにされたのです。御子の十字架を信じず、十字架を経ない者を、神が滅び行くものとして罪に定められないこと はありませんし、そのような者たちが神の国を継ぐことはありません。

そして、キリストを長子として、キリストによって生まれた全ての兄弟姉妹たちは、キリストにならうことを求められます。主が世から憎まれたように、主の僕たちも必ず、世から憎まれるようになることを、主イエスははっきりと予告されたのです。「も しあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。か えって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。 」(ヨハネ15:19)

もしも真に十字架によって私たちが世から隔てられているならば、主の御名のゆえに苦難を受けることは、私たちにとって、決して避けて通ることはできない道です。「またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 」(マタイ10:22

「…イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。したがって、わた したちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、私たちの求めて いるものである。だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではない か。」(ヘブル13:12-15)

主イエスの弟子たちも、初代教会のクリスチャンたちも、主イエスの御名のゆえに受ける苦しみを恥とは考えませんでした。「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。」(コロサイ1:24)

「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。」(Ⅰペテロ4:13)


しかしながら、グノーシス主義者はキリストの十字架を全てのアダムに対する神の刑罰として考えることを拒みました。彼らはキリストの十字架は、彼の肉体か らの解放だったと捉えることによって、十字架はアダムの罪を示すために存在するのではないと考え、また、キリストを信じる者が、主の十字架の死に自分自身 を同一化する必要もないと考えました。彼らは、あるいは、主イエスは初めから死を超越していたので、十字架は彼にとって苦痛ではなかったはずだと述べ、あ るいは、十字架の死とよみがえりの事実そのものを否定し、あるいは、主イエスの十字架は、主イエス自身にとっては苦痛に満ちた死であったが、彼の死は、人 間にとっては、「グノーシス」という甘く麗しい実を与えるものであるとし、十字架を人間本位なものにゆがめ、かえってアダムに栄光をもたらすもの、アダム の延命措置に変えてしまおうとしたのです。

このような論拠に立って、多くのグノーシス主義者は、主の御名を人前で拒まず、自ら死に赴くことで、神への従順を証ししようとしたクリスチャンの殉教者たちを軽蔑しました。グノーシス文献『真理の証言』は、殉教を選び取ったクリスチャンをあざけってこう述べています。

「愚かな者たち――彼らは、力をもってではなく、言葉だけで「私たちはキリスト教徒だ」と告白すれば生きる と心のなかで思っているが、(ほんとうは)迷っているのだ。無知に、人間の死に自らを渡し、自分がどこに行くのかも、キリストは誰であるかも知らないで。 ――このような愚かな者は、権威と権力に走る。彼らは、自分のうちなる無知のゆえに、権威と権力の手中に落ちるのだ。」

[虚しい〕殉教者である。なぜなら彼らは、自ら〔のため〕にのみ証しをするだけだからである。……彼らが(殉教者の)死によって「全う」されるときでも、 彼らが考えていることはこういうことである。――「われわれが主の御名のために、自らを死に渡すならば、救われるであろう。」しかし、そうはいかないの だ。……彼らは、〔命〕を与える≪言葉≫を持ち合わせていない。(同上、p.165)


多くの異端反駁者たちは、主の御名のゆえの受難を否定し、殉教を嘲笑ったグノーシス主義者に激しく反対し、そして自らも殉教や苦難の道を選び取っていきました。
<つづく>
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偽りの教えの例――異端グノーシス主義の構造(7)

兄弟たちよ、時は縮まっています。キリストの御名のゆえに私たちクリスチャンが激しい試みを受ける日はますます迫って来ているように感じられます。

なぜ私がグノーシス主義の教えを分析しているのかについてはすでに幾度も触れましたが、もう一度、繰り返します。それは、この古来の異端の中に、現代キリ スト教界を席巻している偽りの教え、やがて世界規模で到来しようとしている偽りの霊の教えをはっきりと見て取れるからです。それは神の義を否定して、人間 の義を主張し、創造主に逆らって、人間を神としようとする偽りの教えです。グノーシスの教えが、アダム、カイン、エサウ、ソドムとゴモラの住人、イスカリ オテのユダなどを次々と「復権」し、生まれながらの罪人を高く掲げ、本来、十字架の死にしか値しない生まれながらの罪人を「神」とするように、今日、クリ スチャンを名乗っている多くの人々は、「弱者に優しい砂糖まぶしの福音」に欺かれて、生まれながらの人を罪に定める十字架を拒否して、神の御前に真摯な悔 い改めを拒み、かえって罪人に対する愛や憐みばかりを叫び求めて、神の義を退けてまで、自己の義により頼もうとしているのです。

自己を神以上に高く掲げるようになった人々は、御子の十字架を否定することによって、神ご自身を敵としているだけでなく、自分自身を神とすることにより、 己に逆らう者すべても敵とせざるを得ません。彼らは自分自身を罪に定める御子の十字架を憎むのみならず、十字架を信じている全ての兄弟姉妹をも憎み、否定 しないではおれないのです。すでに今の時点で、神の目に義とされた、御心にかなった兄弟姉妹に激しい憎しみを燃やして、十字架を信じるクリスチャンを絶え 間なく虚偽により告発している「自称クリスチャン」がいますが、彼らによる兄弟たちへの度を越した迫害は、彼らの内には神を愛する愛もなければ、兄弟姉妹 を愛する愛もないことをはっきりと示しており、彼らの憎しみに満ちた主張は、それがまさに外の暗闇に追い出された者たちの「嫉妬」のゆえの「号泣」や「叫 び」や「歯ぎしり」に他ならないことを示しています。しかし、まことのクリスチャンに対するこのような憎しみは、時と共にさらに大規模化し、ついには反キ リストによる迫害へと至ることでしょう。

来るべき時代には、今は一部の人々のものに過ぎないこの「歯ぎしり」が、人類全体の「歯ぎしり」に変わります。己が罪を認めようとしない生まれながらの人 類は、まさに地球規模で、神の義に挑戦するための塔を築き上げようとするでしょう。それは「弱者救済」、「人類救済」、「人類の幸福と公共の福祉のため」 という名目で建てられるでしょう。そして、彼らの打ちたてようとしている人類の義に反対する全ての者たちは罪定めされ、居場所を奪われ、処罰されるでしょ う。

これを大袈裟な表現、もしくは悲観的過ぎる見方だと考える人はそう考えて下さって結構です。しかし、歴史を振り返るなら、まことのクリスチャンに対する迫 害は幾度も繰り返されてきた事実であり、私たちが今どのような時代に直面しているのかを思えば、迫害を他人事と考えることはできません。クリスチャンには そろそろ殉教の覚悟が必要です。ですから今日はグノーシス主義の分析という文脈の中ですが、来るべき時代に備えるために、主の御名を人前で拒まず、自分の 命を否んでも、主に従う決意を固めた兄弟姉妹たちを励ます目的で、ローマ帝国時代のクリスチャンの殉教の有様について触れます。

以下に引用する本の著者はグノーシス主義の擁護者であり、いわゆる正統なクリスチャンには懐疑的な立場を取っています。それゆえに、彼女の記述には我々の 信仰的立場に合致しない部分が含まれています。にも関わらず、この著書の中で触れられているクリスチャンの殉教のシーンは、それだけでグノーシス主義の教 えが色あせて見えるほどに、とりわけ強い説得力を持って、生き生きと読者に語りかけます。ですから、彼女の文章をそのまま引用します。グノーシス主義者が 殉教に対してどのような態度を取ったかは、次の記事で触れます。

イエスの弟子たちは、彼が裏切られ逮捕されたという衝撃的な出来事を自ら体験し、また、彼の裁判と拷問と最 後の苦悩に関する話を聞いた。彼らにとっては、これ以上に焦眉の問題はあり得なかったのである。そのとき以来、とくに、彼らのなかでももっとも卓越したペ テロとヤコブが逮捕され処刑されて以来、すべてのキリスト教徒は、運動に関わることが危険に身を晒すことだということを知っていた。

キリスト教徒に対してはなはだしい侮蔑を共に抱いた宮廷付き歴史家タキトゥスとスエトニウス(一一五年頃)は、このグループが公の迫害の主たる標的であったと述べている。ネロの生涯を語るくだりで、スエトニウスは、皇帝の行った業を列挙する文脈で、「キリスト教徒、この悪意ある新しい迷信に傾いた人々の一集団に罪罰が課せられた」と報告している。タキトゥスは、ローマの大火について、彼の所見を次のように付け加えている。

 そこでまず、信仰を告白していた者が審問され、ついで、彼らの申し立てに基づいて、実におびただしい民衆が、放火罪もさることながら、彼らの人類に対する敵視のゆえに、罪に定められた。そして、彼らの死刑には侮辱が加えられた。(すなわち)彼らは獣の皮をかぶせられ、犬に食い裂かれて死んだ。あるいは、十字架につけられ、陽の沈んだ後、夜を照らす灯火代わりに燃やされたのである。ネロは、この見世物のために、彼の庭園を開放した。……

(『ナグ・ハマディ写本――初期キリスト教の正統と異端』、エレーヌ・ペイゲルス著、荒井献他訳、白水社、p.142 本記事の以下の引用は全て同書から。太字、下線による強調は筆者。文中の脚注は紙面の都合で割愛した。)


 皇帝ネロが自分の作った無価値な詩を完成させるために、ローマの街に放火し、その罪をクリスチャンに着せたという逸話は有名です。しかし、驚くべきこと に、タキトゥスはローマのクリスチャンが告発された最大の理由は、放火罪という濡れ衣を着せられたこと以上に、クリスチャンの「人類に対する敵視」が原因 だったというのです! すなわち、生まれながらの人類を一人残らず罪に定める神の御子イエス・キリストの十字架を信じていることが、クリスチャンの「人類 に対する侮蔑」、「敵視」とみなされて、その信仰の「反人間性」ゆえに、キリスト教徒は罪に定められたのだというのです! ここに、私たちは生まれながら の人類が全体としていかに十字架を激しく憎み、自分たちを罪に定める神のご計画に敵対して屹立するものであるか、その有様を見ることができます。

 キリスト教徒に対する迫害は、兄弟姉妹の内に連鎖するようにして、ローマのクリスチャンに対する告発を次々と呼び起こし、やがて世界的広がりを見せていきます。

 キリスト教に(紀元後一五〇―一五五年頃)改宗した哲学者ユスティノスは、アントニヌス・ピウス帝とその 息子、後の皇帝マルクス・アウレリウスに、後者に対しては哲学の同僚にして「学問の愛好者」と呼びかけながら、大胆にも手紙を書き送り、そのなかで、キリ スト教徒が帝国の法廷で受けている不当行為に対して抗議している。ユスティノスは、ローマで起こった最近の事件について述べている。

――ある女性がぶどう酒に良いしれ、夫と従僕らとともにさまざまな形態の性行為に耽っていたが、その後、彼女の師プトレマイオスの影響でキリスト教に改宗 し、その結果、このような行為に加わることを拒んだ。彼女の友人たちは、なんらかの和解を希って、離婚しないよう彼女を説得した。しかし彼女は、エジプト のアレクサンドリアへ旅行の途上、夫が今まで以上にひどい振舞いをしたことを知り、離婚の訴訟を起こし、彼のもとを去った。

憤慨した夫は彼女を法廷に告発して、「彼女はキリスト教徒である、と証言した」。彼女が裁判を遅らせる嘆願を勝ち取ると、夫は彼女のキリスト教の師を攻撃 した。裁判官ウルビクスは告訴を聞き、プトレマイオスにただ一つの質問をした。――彼がキリスト教徒であるか、と。彼がそうであると認めると、ウルビクス は彼に対して、即座に死刑を宣告した。この命令を聞いて、法廷にいたルキアスという男が判事に抗議した。

「この判決は何の役に立つのでしょうか。なぜあなたはこの人を、姦夫でも、姦通者でも、強盗でもなく、まったく何の罪も認 められないのに、彼がキリスト教徒という名で呼ばれていると告白したことだけで、処罰したのですか。ウルビクスよ、あなたの下したこの判決は、皇帝ピウス にも、哲学者にして皇帝の子息(マルクス・アウレリウス)にも、神聖なる元老院にもそぐわないものであります。」

これに対してウルビクスは、「おまえもキリスト教徒の一人と思われる」とだけ答えた。ルキアスが「まさにその通りです」と言うと、ウルビクスは、彼――と傍聴者のなかのもう一人の抗弁者に――プトレマイオスに従って死につくように宣告した。(pp.145-146)

ユスティノスはかつてはプラトン派の哲学者でしたが、公衆の面前で拷問に耐え、処刑されるキリスト教徒の勇 気を目撃したことをきっかけに、彼らが神の霊に満たされていることを信じ、クリスチャンとなったのでした。彼はローマでクリスチャンに対して起こっている 迫害を見て、自分もクリスチャンであることを理由に、やがて政敵に粛清されるに違いないと確信します。

ユスティノスはこの話を詳細に述べ、だれでも、キリスト教徒に対する個人的な恨みを晴らすために、キリスト教という罪名を利用することがで きる、と指摘している。「それゆえに、私も陰謀をたくらまれ、十字架刑に処せられると思われる」――たぶん、仕事上の競争者の一人、クレスケンスという犬 儒(キュニコス)派の哲学者によって、と彼は付け加えている。

ユスティノスの予想は正しかった。彼自身の逮捕と裁判と紀元後一六五年の有罪宣告へとつながる告発は、明らかにクレスケンスによってなされたのである。マ ルクス・アウレリウス(この頃には皇帝として父の跡を継いでいた)の個人的な友人ルスティクスが、裁判を執り行なった。彼はユスティノスの処刑とともに、 彼の弟子たち全員の処刑を命じた。彼らの罪状は彼からキリスト教哲学を学んだことにあったのである。彼らの裁判の記録には、ルスティクスがユスティノスに 次のように訊問したことが示されている。

「おまえたちはどこで会合するのか。」……「おたがいに好きなところで、あるいは都合のよい機会に、どこででも」とユス ティノスは答えた。「いずれにしてもあなたは、私たちが全員同一の場所で会合できると思いますか。そうではありません。キリスト教の神は、場所によって制 限されることなく、目に見えず、もろもろの天と地を充たし、あらゆるところで信徒に礼拝され、誉め称えられているのですから。」

 総督ルスティクスは言った、「どこでおまえたちは会合するのか。私に明かしなさい。どこにおまえたちは弟子たちを集めるのか」と。
 ユスティノスは答えた、「私は、ティミオティノスの息子マルティノスという者の浴場の上に住んでおりました。そして、私がローマに滞在した全期間に(こ れで二度目ですが)、ここ以外のいかなる集合場所も知りません。望む者はだれでも、私のすみかを訪れることができ、私はその者に真理の言葉を授けるであり ましょう」と。

総督ルスティクスが言った、「それではおまえは、キリスト教徒であることを認めるのか」と。「さようです」とユスティノスは答えた。<略>

「さて」と総督は言った、「争点の核心、必要にして差し迫った要件に移ろうではないか。神々にいけにえを献げることに同意しなさい」。
「いかなる健全な精神も」とユスティノスは言った、「敬神から瀆神に変わることはありません」。
総督は言った、「服従しなければ、おまえたちは情容赦なく処罰されるであろう」と。


彼らが、「意のままにして下さい。私たちはキリスト教徒であります。偶像にいけにえを献げはいたしません」と答えたとき、ルスティクスは宣告を下した。 「神々にいけにえを献げることを拒否し、皇帝の勅令に従うことを拒否する者どもは、法律に従ってむち打たれ、斬首さるべし。」(pp.146-148)


 しかし、このような残酷な処刑は執行する人々の側にもためらいを引き起こしました。そこで役人たちは信仰を棄てるようにクリスチャンに勧めます。

不従順のかどで処刑を宣告するといういやな仕事を課せられたローマの役人たちは、被告人に自らの命を救うように、しばしば説得を試みた。その当時の記録(一六五年頃)によると、小アジアのスミルナの年老いた司教ポリュカルポスが、官憲によって逮捕された後に、

総督は彼に、信仰を否定させようと試み、「自分の年を考えてみるがよい」と申しました。そのほか、こういう場合に言うこと になっている同様のことを並べたて、「皇帝陛下の守護神(ゲニウス)にかけて誓うがよい。信仰を否定せよ。『無神論者は滅びろ』と言うがよい」と申すので す。ポリュカルポス様は冷静な表情で、競技場に集まっていた無法な異教徒どもの群れすべてを見渡し、……「無神論者どもは滅びるがよい」とおっしゃられた のです。

総督はなおも固執し、「誓え。誓ったら釈放してやろう。キリストを呪うがよい」と申します。しかし、ポリュカルポス様は答えておっしゃられました。「八十 六年間もキリスト様にお仕えして参ったが、ただの一度たりとも、キリスト様は私に不正を加え給うようなことはなさらなかった。……貴下がいたずらに、今言 われたように、私が皇帝の守護神にかけて誓うことがあると期待しておいでになるとすれば、また貴下が、私が何者であるかを御存知ないかのようなふりをな さっておられるのならば、お聞きいただきたい。私は貴下にはっきり告げよう。私はキリスト教徒なのだ。」


ポリュカルポスは、公共の闘技場で焼き殺された。(p.148-149)

 このようにして、多くのクリスチャンは信仰を捨てるならば恩赦を受けて生きながらえることができると提案されたにも関わらず、自主的にそれを拒んで、殉教を選び取っていきます。

北アフリカに由来する記録(一八〇年頃)には、地方総督サトゥルニノスが、キリスト教徒として起訴された九人の男性と三人の女性を前にして、彼らの命を救ってやろうとしている様子が描かれている。彼は言う。

「おまえたちが正気に戻るならば、わが皇帝陛下の寛恕を得ることができる。……われわれも信心深い国民であり、わが宗教は 単純なものである。われわれは、わが皇帝陛下の守護神にかけて誓い、陛下の健康のために祈りを献げるのである。――おまえたちも、そのようにすべきであ る。」

彼らの毅然とした決意に直面して、サトゥルニノスは、「再考の余地はないのか」と尋ねた。被告人の一人スペラトゥスは、「そのようなことについては再考の 余地はありません」と答えた。それにもかかわらず地方総督は「考え直せ」と述べて、三十日間の執行猶予を命じた。しかしながら、三十日後に、被告人を尋問 した後で、サトゥルニノスは余儀なく次のような命令を下した。

 スペラトゥス、ナザルス、キティヌス、ドナタ、ヴェスティア、セクンダ、その他の者どもは、キリスト教徒の祭儀に従って 生きてきたことを告白した。また、ローマの慣習に戻る機会を与えられたにもかかわらず、かたくなにキリスト教に固執した。それゆえに、これらの者どもに斬 首刑を宣告する。

スペラトゥスは、「私たちは神さまに感謝します」と述べ、ナザルスは、「今日私たちは天国で殉教者に加わります。神さまに感謝します」と述べた。(pp.149-150)

 <つづく>

偽りの教えの例――異端グノーシス主義の構造(6)――

1.世のバビロン化とグノーシス主義の関係

新約聖書学者ヴィルヘルム・ブセットは、グノーシス主義の起源が古代バビロニアとペルシアに求められるという学説を提示していますが、この説は私たちの関 心を非常に引きます。もちろん、クリスチャンは、人が啓示を受けて知識に目覚めることによって、神と等しくなるというグノーシスの教えが、エデンの園で善 悪知識によってアダムとエバを誘惑した蛇にさかのぼるであろうことは容易に想像できます。しかし、歴史的に見るならば、堕落したユダヤ教(神秘主義思想) がバビロン捕囚時代に古代バビロニア、ペルシアの宗教と「混血」し、ヘレニズム文化の影響を受けて生まれたものがグノーシス主義であると考えることは、非 常に聖書にかなった説であるように私には思われるのです。

預言者たちがあれほどまでに警鐘を鳴らしたイスラエルの堕落した宗教、預言者イザヤが陶器師と争う陶器と描写した人々の根底には、捕囚が神への背信に対す る罰として与えられたものであることを理解して、悔い改めて神に立ち帰ることを拒み、かえって神の代わりに自己を神としようとする願いがなかったでしょう か。そこには肉による捧げ物が神に拒絶されたことを恨みに思って、神に敵対して世に出て行ったカインの精神、人類の神に対する反逆として天にまで届く塔を 建てようとしたニムロデの精神が息づいていたのではないでしょうか。そして黙示録において終末における堕落した宗教がバビロンと呼ばれているのも、歴史を 越えて流れる霊的な文脈がそこにあることを示しているように思われるのです。

オースチンスパークスは書いています、人は自分に関する神の判決を認めて受け入れることを、これまで常に拒絶してきました。ですから、人は自己表現と自己実現の道を追い求めます。人は最初から、アベルのささげものによって神の道がはっきりと明らかにされた時でさえ、自分自身の道を追い求めました人は出ていってこの世を建設し、文明を創造し、王国を構成しましたバベルまたはバビロンがその名前ですそれは人の力、能力、栄光の表現であり、記念碑です「さあ、われわれは名をあげよう」(創世記11章4節)。「この大バビロンは、私が建てたものではないか?」(ダニエル書4章30節)。」

グノーシス主義の起源という問題はさて置くとしても、グノーシス主義はまさに世がバビロン化した時代にこそ隆盛を極める教えなのです。研究者が一様に述べ ていることは、グノーシス主義のような、この世に対する悲観主義的な哲学、そして自己超越の試みは、世の有様が混乱と矛盾に満ち、社会に政治的無関心が広 がり、人々の心に絶望が広がった時代にいつでも現われうるものであり、そのような時代にこそ、人を魅了するということです。いわば、宗教界と世の徹底的な バビロン化こそ、この偽りの教えが多くの人々の心を捉えるための酵母の役割を果たすのです。

グノーシス主義の研究者エレーヌ・ペイゲルスは次のように書いています。

一九三四年に――ナグ・ハマディにおける発見の十年以上も前に――二冊の重要な書物が公刊された。ハンス・ ヨナス教授は、グノーシス主義の歴史的源流を問う姿勢を転換して、それがどこで実存論的に成立したかという問題を提起した。ヨナスの提唱によると、グノー シス主義はある種の「現存在に対する姿勢」から生起した。

彼は、紀元後の最初の二世紀にローマ帝国東方に広まった政治的無関心と文化的停滞状態が東方宗教のヘレニズム文化への流入と同時に起こったことを指摘している。ヨナスの分析によると、当時、多くの人々が現世に深い疎外感を抱き、政治的・社会的実存のしがらみからの逃避として奇蹟的救済を切望していた。ヨナスは、得られるかぎりの数少ない原資料を駆使し、鋭い洞察力をもって、グノーシス主義の世界観を復元した。――それは、自己超越の試みと結びついた、この世に対する悲観主義の哲学である。彼の著書の普及版は英訳されて、現在でも古典的入門書になっている。
(『ナグ・ハマディ写本 ―初期キリスト教の正統と異端―』、エレーヌ・ペイゲルス著、荒井献訳、白水社、p.31)


さらに、荒井献氏も、グノーシス主義と時代の風潮との関わりについて書いています。

それでは、グノーシス主義とは何か。それは、端的にいえば、人間の本来的自己と、宇宙を否定的に越えた究極的存在(至高者)とが、本質的に同一であるという「認識」(ギリシア語の「グノーシス」)を救済とみなす宗教思想のことである。

従ってこれには、人間の「現存在」――身体→この世→宇宙→宇宙の支配者たち(星辰)→宇宙の形成者(デーミウールゴス)――に対する拒否的な姿勢が前提されている。このようないわゆる「反宇宙的現存在への姿勢」は、「自己」の属する現実世界が、世界を包括する宇宙全体をも含めて、宇宙の支配者、その形成者によって疎外されているという極端なペシミズムの起こる時代と地域に、いつ、どこででも成立しうるものである。

これを古代末期に限って見れば、これは、ローマ帝国の圧倒的支配下にあって、政治的・経済的・社会的に宇宙内の世界のいずれの領域にも自己を同一化できる場を奪われた属州(具体的には、ユダヤ――とくにサマリア地方――、シリア、エジプトなど)民の間に成立した。(『トマスによる福音書』、pp.102-103)


この説明を読むならば、バビロン捕囚におけるイスラエルの民も、世における自己疎外、アイデンティティの喪失、強力な抑圧のために生まれる極端なペシミズムなど、まさに同じような条件下に置かれていたであろうことを想像できます。

人は抑圧の下に置かれ、世における自己疎外感を強く感じさせられる時、その苦しみを神の御旨に沿って与えられた試練として御手の下にへりくだり、神の解決 を待ち望むのか、それとも、あくまで自己を義として、神に立ち向かう道を選ぶのか、選択を迫られます。クリスチャンにとって「キリスト(と共なる十字架) を選ぶのか、それとも自己(セルフ)を選ぶのか?」は命に関わる重大な選択であることを御言葉は告げています。

「…自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:39)

たとえ自分の願いが全否定されても、私たちはただキリストの義により頼んで神を信じて生きるのでしょうか。それとも、自己の願いがかなわないことを苦にして、自己に厳しい十字架を退けて、神に敵対するのでしょうか? いかなる状況においても、「自分の中には「善なるものが宿っていない」(ローマ人への手紙7章18節)ことを認め、「自分のものではない義の土台のみに基づいて、行いからではなく信仰によって受け入れられ」ることを求める人は幸いです。

しかし、ある人々はカインと同じように、神の義を拒んででも、自己を義とする道を選びます。そのようにして神を離れて、十字架を退けて、居場所を求めてさ まよった人々の終着点が、グノーシスの思想なのです。それはとどのつまり、人が自らを疎外した神を否定的に越える「至高者」の存在を考え出して、それと自 己を同一視することによって、この世における一切の支配から解き放たれて、自分自身が何者にも支配されることのない「神」のような存在になろうという思想 です。自分の罪のゆえに、神と断絶してしまったことを認めず、かえって自分を罰した神を退けて、自己を神以上の存在とみなす反逆の思想(――「セルフ教」 ――)がグノーシス主義なのです。

現代では、グノーシス主義はその名ではもはや呼ばれていないかも知れませんが、それはあらゆる方法でキリスト教に侵入を試みており、クリスチャンにとって 他人事ではありません。これからの時代、クリスチャンは「キリストかセルフか」の厳しい選択を迫られるでしょう。もしもクリスチャンであっても、その人が 自己を手放さず、完全にキリストと共なる十字架の死に服すことを拒み、自己を誇り、自己の義により頼むなら、その瞬間から、すでにその人の内でグノーシス 主義(セルフ教)は始まっているのです。

もう一度、キリスト教界のバビロン化とセルフ教の蔓延についてのDr.Lukeの警告を転載しておきます。
 
「今後大衆が切に求める、また自身をすらそれに委ねるであろうもの-それは自己保存欲求を満たしてくれる存在。それは本来神だったのであるが、人類は『何か』に置き換えたいのだここにバビロン由来の宗教・経済複合体が侵入する隙があるのだ。『何か』がすなわちアイドル(偶像)となる。…アイドルとはかくも深く人間の実存性と関わるもの…」(記事

私たちは絶えずセルフかキリストかの選択に直面している…。すなわち肉とはセルフの実体化であり、信仰とはキリストの実体化である。…かくしてこの世はセルフのぶつかり合いであるからともかくとして、ニッポンキリスト教の根本病理は、前からずっと指摘しているとおり、『セルフの病理』なのだ。個々の現象をあれこれあげつらったところで、それは『実』に過ぎない。根本にあるのは自分で自分の生存を担保し、自己増殖を試みる動機である。…

このために経済・宗教-いずれもセルフがセルフを救うシステム-が偶像となり、またセルフを喜ばせるもの、セルフを増長させるもの、これが肉の欲・目の欲・暮らし向きの自慢の3つのチャネルから侵入する。かくして経済・宗教複合体の侵入により、ニッポンキリスト教は、否、世界的にもバビロン化されてしまっているキリスト教はまさにセルフの要塞と化し、むしろセルフを否む信仰あるいは福音にとっての最大の障害、あるいは敵にすらなっている。」(記事


神のご計画は、私たちがキリストの十字架の死と一体化されることにより、十字架で死に、キリストのよみがえりの命を受けて、新創造とされて 生きることです。私たちが「新しい人間」とされる道は、ただキリストの十字架を通して、私たち自身がアダムの命に死んで、自己を否んで、神のまことの命に よって生きる以外にはありません。

キリストが十字架で死なれたことを信じるだけではまだ十分ではありません、私たちはキリストと共に私たち自身が十字架につけられて死んだことを信じるべき です。私たち自身がキリストの内にあって、キリストと共に十字架につけられて死んだのです! どうかその事実を神が私たちに実際として見せて下さいますよ うにと願います。その時に初めて、私たちの狡猾なセルフに対して霊的な死が実際となるのです。

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生 きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛 し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子の信仰によって、生きているのである。」(ガラテヤ2:19-20)

神はアダムの堕落の結果としての死と永遠の滅びから人を救うために御子を送られ、アダムの代表として罪のない御子を身代わりに死に定められました。しか し、死に打ち勝つことによって、キリストはアダムとは異なる新しい種族の始まりとなったのです。このキリストの十字架を個人的に信じ、さらに主と共に十字 架の死を経てアダムの命に死ぬことにより、私たちはキリストにある新創造とされるのであり、それが神の御旨なのです。ところが、サタンは常に神の模倣を行 います。そこで、暗闇の軍勢にとっても、いかにして十字架によらずに偽りの「新創造」を生み出すかが焦眉の課題なのです。

これまで生まれながらの人類の悲願は常に、キリストの十字架によらずに、自らの力で「新しい人間」を生み出すことにありました。革命思想などのあらゆる ユートピア主義思想、そして心理学を含めた様々な学問の領域では、人が自己の力によって人間を改造し、理想的な新しい人間を生み出し、理想的な社会を生み 出すためにあまたの理論が考え出されました。その理論を実行に移すために、革命や動乱さえも起こされました。しかし、それは人を救わなかったどころか、理 想とは逆の以前よりもはるかに恐ろしい社会を作り出したのです。宗教界においても、人間を改造し世直しをするために様々な運動やプログラムが日々考案され ています。反キリストの支配は、世俗と宗教とを一つにした世界の統一(世界の救済)という形でやって来るでしょう。

これらの人が人を救済するという思想は、つまるところ御子の十字架の否定であり、学問にさえ、神に対する反逆の精神が流れています。歴史を振り返るなら、 マルクス主義も含めた人類救済の思想は、グノーシス主義と同じく、世が悲劇的な様相を呈し、多くの人々が社会から疎外され、自己の居場所を担保してくれそ うな新たな秩序を模索する時代と場所でこそ、支持を集めました。マルクスが自らの理論が歴史的に先駆的なものであると考え、歴史の進んだ先進国においてこ そ革命が成就するはずであると考えたにも関わらず、実際にその理論に基づき革命を起こしたのは、どちらかと言えば、歴史的な停滞を抱える比較的後進的な諸 国であったのもそのためです。

生まれながらの人は、何とかして神によらずに、自分で自分を救済したいのです。混沌とした希望の見えない世の中で不安を感じている人々の内で、そのような 願望が互いに響きあった時、人類救済の思想が生まれ、それが人々を魅了し、人類の一致という結束へと駆り立て、その願望を象徴する誰か(反キリスト)を歴 史の頂点へと押し上げるのです。長くなりますが、もう一度、シュテファン・ツヴァイクの文章を引用したいと思います。

「人間性の奥底に、自分を社会のなかに溶けこましていこうとするふしぎな欲求があることは疑う余地がない。私たちの心のなかには、人類のすべての成員にとって公正な永遠の平和と秩序をもたらす特定の宗教的・国家的・または社会的な制度がやがて発見されるにちがいないという昔からの見はてぬ夢が抜きがたく残っている

ドストエフスキイの作品に登場する大審問官は非情な論理を駆使して、大半の人間はもともと自分自身の自由を恐れているのだということをあきらかにした。がっかりさせられるように雑多な問題や解決を必要とする人生の複雑な困難や責任をまえに疲労困憊したひとびとは、彼らにものを考えるという面倒な手間を一切はぶいてくれるような世界の劃一化、いつどこでも通用するような固定した秩序に実はあこがれているのだということをあきらかにした。

さし迫った問題がすっかりかたづいてしまうような状態にたいするあこがれ――救世主にたいするあこがれにもにたこの熱烈なあこがれこそ、あらゆる社会的予言者に道をひらいてやる酵母の働きをするのである。ひ とつの世代の理想がそのいきいきとした生命の火と色彩を失ったときにはいつでも、つよい暗示力に富んだひとりの人間が立ちあがって、この自分こそはあたら しい真実の体系を発見した、あるいは編みだしたと厳然とした調子で宣言しさえすれば、幾千幾万のひとたちはたちまちこの自称民族救済者または世界救済者を 信用してしまう

あたらしいイデオロギイというものは、いつでもこの世にまずあたらしい理想主義を生みだすものである(おそらくこれがあたらしいイデオロギイの形而上学的な意味なのであろう)。なぜかというと、ひとびとに統一と純粋というあたらしい幻影をもたらす人物は誰でも、まず第一に彼らからもろもろの力のうちで最も神聖な力である献身と熱狂とをひきだすからである。何百万というひとたちが、まるで魔法にかけられたように自分の方から進んで身を任せ、はらませられ、陵辱されるままにさえなる。

そして、この予言者または予言者が彼らに多く要求すればするほど、彼らは随喜の涙を流す。彼らはこの予言者に対する愛著から、いささかも抵抗することなく 指導されたいばかりに、つい昨日までは彼らの最大のよろこびであった自由を棄てさってかえりみないのである。『われわれは奴隷状態におちる』(Ruere in servitium)という古いタキトゥスの言葉はすでに一度ならず実現されてきた。人間の連帯という考えに酔いしれた民衆はみずから進んで隷属のなかにわが身を投げこんでいったし、彼らが鞭うたれているその鞭さえも賛美したのであった。」
(『ツヴァイク全集17 権力とたたかう良心』、ツヴァイク著、高杉一郎訳、みすず書房、1973年、p.11-13。)


グノーシスの教えが、人は自己の内に抑圧されていた知られざる「神性」に目覚めて、それを核として「覚醒」することによって、それまでの抑圧を否定的に超 えて、自己をさえ超越して、「神のようになれる」と説くならば、その発想を全社会的に拡大して捉えたものが、「革命」思想だと言えるでしょう。革命思想 は、いわば社会全体を「一人の団体の人」として捉え、社会を覚醒させることを目的とする思想なのです。

その思想は、グノーシス主義と同じように、社会という「団体の人」の内に埋没し抑圧されている何らかの「聖」なる分子を見つけ出し(それは大概、「貧しき 民衆」や、「虐げられた弱者」、「社会的弱者」、「被害者」などの美名で呼ばれる)、その分子を核として、全社会の「悪」なる支配構造を覆そうとするだけ でなく、その分子を基盤として、社会を理想的な秩序の状態へ持って行くことができると仮定しています。それらの思想においては「聖」や「絶対」といった概 念が公に用いられることはないかも知れませんが、実質的にその思想が生まれながらの人の自己の内にある何らかの要素を絶対化していることは疑いがありませ ん。

憂慮すべきことは、今まさにキリスト教界においてこのような肉による偽りのユートピア主義の教え、革命的な秩序転覆の構想が広まりつつあることです。キリ スト教界の腐敗を強調して、カルト被害者などの「虐げられた弱者の救済」を口実に、教界に新たな秩序を打ちたてることを目的としているカルト監視機構設立 などの計画、そしてカトリックとプロテスタントの相違さえも解消して、場合によっては宗教の違いさえ超えて、クリスチャンの融和、一致を唱えているエキュ メニズムは、その典型例だと言えるでしょう。

これらは十字架によらず、世の方法論によって世直しを試みる絶望的な運動以外の何物でもありません。しかもその上、このような構想は、クリスチャンは神の 代理権威であるということを口実にして、自らを神に等しい存在とみなし、キリストの統治という言葉を利用して、教界における従来の秩序を打ちこわして権力 の統一を目指し、やがて来るべき世界支配という終局的な目的に向かって進んでいるのです。

グノーシスの教えにおいて、「グノーシス」が自己を覚醒させるための不可欠な媒介としての啓示であるならば、上記のような構想は、その理論そのものが社会 を目覚めさせるための「グノーシス」の役割を果たしていると言えるでしょう。「知識」に魅了された人々の内には変化が起こり、かつてなかった尊大さが生ま れ、次第に、彼らは自己を絶対的なものとみなすようになります。その人は知識に目覚めるや否や、これまで自分がおとなしく服従して来た権威にもはや隷属す る必要はなく、これ以上、世の不条理にただ弄ばれるだけの客体として生きる理由はないことを見出すだけでなく、自分は本来的に全ての支配の上に立つ権威を 持つ神のような存在であるとさえ思い始め、これまで自分を虐げて来た支配の縄目を大胆にふりほどき、その下で呻吟する人々を高みに立って見おろし、自分た ちこそ真理を知って、弱者を救いに導き、人々を統治するにふさわしい存在だと自負するようになるのです。

私たちは、カルト被害者などを含め、社会的に虐げられている人々を核として、彼らを守るためにクリスチャンが共同戦線を作り出し、連帯することによって、 キリスト教界により良い秩序をもたらせるというような主張が、全くの虚偽であることを知っています。そのようなものは新しい種類の革命理論に過ぎません。 クリスチャンを連帯させることができるのは、弱者を救うという使命でもなければ、虐げられた人々に対する同情でもなく、ただ主の血潮、キリストの十字架だ けです。

キリストによって、救いはすでに達成されたのです。私たちはキリストの御業から信仰によって全てを引き出します。私たち自身の力によって達成できるものは何もありません。十字架は目に見える一致ではなく、霊的な一致をもたらします。「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。」(ガラテヤ3:28)  すでに十字架が達成されているのに、どうして人は改めて自分たちの力で一致や連帯を作り出そうとして奮闘するのでしょうか? どうして自分の力で「弱者」 を救おうと試みるのでしょうか? なぜ神に介入していただくことを願い求めるのでなく、自分の「善意」によってやり遂げようとするのでしょうか?

生まれながらの人間はどうしても、目に見える形で一致や連帯を作り出したいのです。自分が参与する機会が欲しいのです。それによって自己肯定することを 願っているのです。その心の奥底には罪に対する恐れがあります。多くの人は自分で自分の罪を贖おうとして今も奮闘しているのです。多くのクリスチャンは自 分の義を積み重ねることによって、神の義に届こうとして日夜奉仕を重ねています。神は生まれながらの人から出た何ものもお受けになることはなく、ただキリ ストに属するものだけを喜ばれるという事実が受け入れられないのです。人間の義を積み重ねて神の義に達しようとする試みは、今やクリスチャンを名乗ってい る人々の間に世界的連帯を生もうとしています。しかし、人間の負債は人間によっては払いきれません! すでに十字架が与えられているのに、それを退けてま で、子羊の血によらない肉の方法で、目に見える形での一致や連帯を作り出そうとするなら、その努力は、ことごとく痛ましい破滅に至るでしょう。

もう一度、オースチンスパークスの次の文章を引用して終わります。

人は自分の王国を建設し、それを雲にまで届かせるかもしれませんしかし、天は人に対して閉ざされていますキリストの十字架は、神はそのすべてをずっと昔に終わらせたことを宣言します。ですから「カルバリ」はゼロです! 神の永遠の御旨に関する限り、死によらずに、信仰によってキリストと一体化されることによらずに、十字架を通り過ぎる道はありません。この立場を取り、その意味をすべて受け入れる時、キリストとの復活による合一により、新しい人が生じます。「だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です」(コリント人への第二の手紙5章17節)

偽りの教えの分析――今後のあらまし――

(ひとこと欄に掲載した文章から。)

ようやく週が終わろうとしていますね。勤務のためなかなか時間が取れませんが、今後、偽りの教えに関する分析の予定をここに書いておきます。

まず、教会時代の初期に起こった異端グノーシス主義から、近代の革命思想、そして近年の教界におけるエキュメニズムの動きや、カルト監視機構設立の構想に至るまで、その根底に流れる霊的な影響力が全く同じであることについて、さらに厳密に分析を進めていきます。

十字架によらない人類のユートピア社会建設は、初めこそ輝かしい理想のように見えても、必ず恐ろしい粛清機関を伴う恐怖政治(監視社会)という反ユートピ アに終わること…、これは実は学生時代からの私のテーマなのです。振り返れば、その頃から主の召命としてこのテーマが与えられていたことを疑いませんが、 今は学問的な観点ではなく、御言葉に基づき、霊的な視点に立ってこのことを捉えたいと願っています。時代の流れを考え合わせるならば、今後、これは命がけ のライフワークとなっておかしくありません。

私たちクリスチャンは、偽りの教えに対しては毅然と立ち向かわねばなりません。それはよく誤解されるように個人感情などの血肉による戦いではなく、主が真 理を曲げる偽りを忌み嫌われる方であるがゆえに、聖徒たちが決して避けて通ることのできない、真理と虚偽との霊的な戦いなのです。私たちはどんな時にも、 御言葉との照合と、御霊の内なる油塗りによって、何が真理で何が虚偽であるか識別することをやめてはなりません。人前で主を拒む者を主も拒まれるのです。

この戦いの武器は肉によるものではありません。私たちはただ子羊の血とあかしの言葉によって、偽りに立ち向かいます。

「あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。」(Ⅰペテロ1:18)

キリストが十字架で流された血潮だけが私たちを救うことができます。十字架によらない「理想」や「救済」はすべて虚偽です。たとえ「愛」や「平和」や「弱 者救済」などの美辞麗句が用いられていたとしても、人の力ではいかなる平和も一致も打ち立てることはできず、「理想」の名のもとで最悪の統治がもたらされ るだけであることを私たちは知るべきです。

平和は私たちの内にはなく、ただ十字架を経られたキリストのまことの命の内に、血潮の中にのみあります。クリスチャンがキリストの命にあって、この地を主 の御旨にかなって統治するためには、私たち自身がまず主の十字架の死に自分自身を絶えず同形化し、主に対して完全に明け渡すことを知らなければなりませ ん。私たちの魂はことごとく十字架に渡され、自己信頼の気持ちと肉の欲は最後まではりつけにされねばなりません。

私たちが自分のアダムの命を信頼し、いかにして自分の魂を十字架に渡すかを知らないまま、自分の生まれながらの魂の愛や美徳によって人々を愛し、治めよう とするならば、致命的な危険に陥るでしょう。私たちは自分の天然の魂が好む「愛」や「一致」や「弱者救済」や「平和」などの美徳に容易に欺かれ、肉による 人類のバビロン建設という誤りに落ちていくでしょう。しかし、御言葉による真理を持って虚偽に毅然と立ち向かうなら、虚偽は正体を暴露されて恥をこうむり 逃げ去ります。

残念ながら、今後は時代の霊の流れとして、世と教界のありさまが悲惨になればなるほど、キリストの十字架を抜きにして、人の自己を高く掲げる甘く麗しい人 間本位の偽りの教えが大流行し、(特に教界においては)異端が主流にさえなり、多くの人々がその耳ざわりの良さに欺かれて、肉によるユートピア建設の作業 に取り組むことでしょう。そしてこの偽りの「統治」がもたらされる時、教界は今以上に完全な監視社会となり、破滅的な影響をこうむるでしょう。その時、個 々人のクリスチャンもそれと無関係ではいられません。

エキュメニズム、カルト監視機構などの構想の裏側にあるのは、クリスチャンの一致や、弱者救済を口実に、プロテスタント教会の自治を破壊し、キリスト教界 全体に一元的な支配を打ちたて、末端の教会に至るまでもその統制下に置き、監視化しようとの狙いです。これらの運動は、一見、教会の弱体化を憂い、虐げら れた弱者を救い、クリスチャン間の分裂を取り払い、教界に新たな理想的な秩序を打ち立てるという美名の下に登場するでしょう。しかし、それが決して弱者を 救済することはなく、正義を打ち立てることもありません。そのようにして確立される新しい支配体制は、教会から自由を奪い、反キリストの支配に道を開き、 最後には無実のクリスチャンに対する大いなる迫害を生むのです。

その予表と言うべき事件が、すでに(自称)クリスチャンによるクリスチャンに対する監視と激しい告発という形で現れています。十字架を否定していると自ら 明言しながら、それでもクリスチャンを装い、諸教会の上に裁き主として君臨しようとしている、自己を神とする人々の、正義の名を借りた恐るべき粛清の暴走 ぶりを見る時、私たちはこの出来事がプロテスタントの自治の遠からぬ終焉を象徴しており、教界にやがて打ちたてられようとしている反キリストの精神に基づ いた恐ろしい監視体制の予表であり、それにより、やがて個々のクリスチャンにまで及ぶ激しい迫害の前触れであることを予想できるのではないでしょうか。

今後、目に見えるものはより一層大いなる欺きの中に落ちていき、激しく震われるでしょう。けれども、私たちは震われない都を受けているのですから感謝します。私たちの目指す都はこの地上にはなく、来たらんとする目に見えない都です。「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。」(Ⅱコリント5:7) 

どうか目に見えるものの混乱に惑わされませんように。混乱に乗じて登場してくる、肉による「愛」や「統一」や「正義」や「平和」や「弱者救済」といった、 地上に理想的なユートピア共同体を建設することを目指す、十字架を経ない見せかけだけの甘い計画に欺かれませんように。我らの救いは人による救済ではな く、神による救いです。そしてキリストにより、救いはすでに達成されたのです! 人が自力で付け加えられるものはもうないのです! ですから、私たちは虐 げられた人々を救済するという名目で、地上に理想社会を打ち立てるために権力を取ろうと目指したりすべきではありませんし、そのような計画の偽りを知って います! 私たちの目的は人の上に立つことではなく、むしろすすんで自己を否んで十字架の死にとどまり、主の達成された御業の内に信仰によってとどまり、 彼のまことの命によって御旨を成就し、その命のうちに安息することです。

感謝します、私たちは尊い子羊の血潮によってすでにあながい出されました! 「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。」(詩篇23:1)と ダビデが謳ったように、全ての欠乏を満たして余りある大いなる神が、私たちの味方なのです。世に打ち勝った子羊が私たちの贖い主なのです。ですから、クリ スチャンはどんな貧しさや試練の中を通らされる時にも、救済してくれる人を求めて走り回る必要はありませんし、新たに登場してくる救済運動に惑わされるこ ともありません。

神の聖にあずかる者として、クリスチャンが前もって来るべき時代への警告を汲み取り、真理の内に、十字架の死のうちに堅くとどまる者であれますようにと願います。これから行う作業は来るべき時代への警告です。どうぞ耳のある人は汲み取って下さいますように。

補記:グノーシス主義の起源は古代バビロニアとペルシアにあるとする学説もあるようです(新約聖書学者ヴィルヘルム・ブセット)。



(以前にひとこと欄に掲載した文章から)

 「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。」(ローマ1:18)

 聖書には、不義を持って真理を阻もうとする不信の者には、天から主の激しい御怒りが臨むことが記されています。

 今、ある不信の者がクリスチャン全体に大きな害を与えています。彼は兄弟について偽証することで、大勢のクリスチャンを惑わせて欺きました。そして自分 の仲間を次々と裏切り、友であったはずの人間を罠にかけて罪に陥れ、さらに、一年以上も前から、彼と一面識もない私に対しても、執拗に絡んでは嫌がらせを 繰り返し、真理を証するクリスチャンの言葉に戦いを挑んでいます。

 この者はにせ兄弟であり、その主たる目的は、クリスチャン全体をあざけり、ペテンにかけ、悪質な異端の教えを言い広めることです。彼は真理に逆らって汚 し言を言い、偽りを流布し、兄弟姉妹の名誉を傷つけ、キリストの十字架と血潮を踏みにじって、霊と魂との切り分けを否定し、全ての人間の心に生まれながら に神が宿っているとする、異端グノーシスの教えを言い広めています。

 しかし、彼は自らの恥知らずな行為によって、彼の良心がいかに汚れているか、彼の奉じている教えがいかに彼自身を救済しえないかを明らかに示していま す。彼の唱える「幼心」や「愛」がただの空想であり、欺瞞に過ぎないことは、彼の老獪で自己本位で厚顔無恥な生き様を見れば、誰の目にもはっきりします。

 聖書はこの者の唱えているような悪質な異端をクリスチャンが識別し、遠ざけることは、神の御旨にかなっていることをはっきりと示しています。

 「すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。」(Ⅱテサロニケ5:21-22)

 「彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。」(Ⅱペテロ2:1)

 「異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい。」(テトス3:10)


 終わりの時代には偽りがはびこりますが、クリスチャンはキリストの十字架の勝利にとどまり、血潮と証の言葉により、真理を曲げようとする偽りに打ち勝た ねばなりません。主イエスの栄光の御名によって祈ります! どうか主が、真理に逆らって異端の教えを奉じる者の末路を全世界の前ではっきりと見せて下さい ますように! クリスチャンを陥れ、欺き、罠にかける人間を、あなたが幾重にも叱責し、この道から完全に退けて下さいますように! 悪しき霊を打ち、真理 に逆らい汚し言を語るその口を封じて下さい! 

 主よ、どうか虐げられた者のために、あなたの裁きの正しいことを見せて下さい。不義を働く者に対するあなたの御怒りが正しいことを見せて下さい。国と力 と栄とはあなたのものです! 不義を愛し、偽りを愛する者たちが恥をこうむり、御言葉が地の果てまで宣べ伝えられ、あなただけに栄光が帰されますように!

偽りの教えの例――異端グノーシス主義の構造(5)

4.グノーシス主義における「キリストの受肉」と、「原初的統合者」としてのキリストについて

こうして、グノーシスの教えにおいて、アダムは罪人ではないどころか、真の「父」である至高者をかたどった映像を基に造られた、創造神に勝る者であるとさ れ、アダムの堕落の事実と、キリストの十字架において全てのアダムが死の宣告を受けた事実は否定され、むしろ、アダムに属する人間は、本来的に真の至高者 に由来する光を内に宿す「神」のような者として高く掲げられます。ナグ・ハマディ文書のグノーシス文献『トマスによる福音書』には次のような記述がありま す。

イエスが言った、「もし彼らがあなたがたに、『あなたがたはどこから来たのか』と言うならば、彼らに言いな さい、『私たちは光から来た。そこで光が自ら生じたのである。それは[自]立して、彼らの像において現われ出た』。もし彼らがあなたがたに、『それがあな たがたなのか』と言うならば、言いなさい、『私たちは(光の)子らであり、生ける父の選ばれた者である』。もし彼らがあなたがたに、『あなたがたの中にあ る父のしるしは何か』と言うならば、彼らに言いなさい、『それは運動であり、安息である』と」(『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社、p.202)

この偽りの教えは、人は「父」(もしくは「父―母」)であり「光」である「真の至高者」から生じたのだと し、それゆえに、神の御子を救い主と信じる信仰がなくとも、人は本来的に「光の子ら」なのであり、人の内には本来的自己、すなわち神性の「光」が宿ってい るとするのです。

さて、こうして人間の罪を否定し、人間を高く掲げ、キリストの十字架の贖いの必要を否定しているグノーシスの教えでは、一体、イエス・キリストは何のために登場するのでしょうか? 『トマスによる福音書』は述べています、
「イエスが言った、「私はこの世の只中に立った。そして、彼らに肉において現われ出た。」(同上、p.165)

この言葉はⅠテモテ3:16「キリストは肉において現われ、霊において義とされ…」というくだりに似ていますが、しかし、「イエスは肉において現われ出た」というグノーシスの福音書の言葉は、イエスが人となったこと(キリストの受肉)に対するグノーシス主義者の極めて独自な解釈に基づいています。

荒井献氏は『トマスによる福音書』の解説の中でこう書きます、「人間(の本来的自己)が「光」(「父」つまり至高者)の具現者としてのイエスから出て、イエスに帰するとは、グノーシス主義に基本的な立場である」(同上、p.240)

人間は元来、「光」から来た「光の子ら」である。この場合の「光」とは、文脈から見て「父」(至高者)のこ とを指す。人間はこの意味で「父の子ら」なのだ。しかし他方、「光が自ら生じた」、「それは[自]立して」人間の「像において現われ出た」と言われる。わ れわれはすでに、前章の冒頭で、「私はこの世の只中に立った。そして、彼らに肉において現われ出た」というイエスの言葉を確認している。とすれば、「光」 とはイエス自身のことでもあろう。<…>

 イエスが言った、「私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。
 木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」(七七)


イエスは「光」として、覚知(グノーシス)者にとっては、そこから出てそこに帰る「すべて」のもの――人間のみならず、木にも石にも内在する。――こうし て、「父」と「子」(イエス)と「子ら」は、「光」にあってその本質を一つにする。そしてこの「光」は、<…>「一人」あるいは「同じ者」と言い換えられ るのである。<…>この「一人」あるいは「同じ者」は、分裂を超えた原初的「統合者」――人間としては「単独者」――を意味するのであるが、これについては後述することにしよう。<…>

イエス(と父)のいる「場所」は、「光」であると共に(二四)、「命」であるといわれる(四)。そもそもトマス福音書の語録は、「生けるイエスが語った、 隠された言葉」であった(序)。さらにイエスは端的に「生ける者の子」(三七)、「生きている者」(五二)と呼ばれ、他方「自己自身を見出す者」つまり覚 知者は「生ける者(イエス)から生きる者」(一一)、「生ける者」(一一)と呼ばれている。こうしてみると、父と子と子らは、「生者」として、「命」にお いてその本質を一つにすることが明らかであろう。(pp.301-303)


この表現を要約すると、次のようになるでしょう。グノーシスの教えにおいては、「父」であり「母」である真の至高者の「子」がイエスということになってお り、驚くべきことに、このトマスによる福音書では、キリストは人間の内に元来、光として内在しているだけでなく、木にも石にも、全ての被造物に内在すると いうのです! そして、この福音書において、イエスは後述するように、「原初的統合者」であるとされ、イエスが「肉において現われ出た」こ とにより、(つまり、キリストが受肉したことにより)、人はイエスの隠された教えに与り、この世を捨ててイエスの弟子となることにより、あらゆる分裂を超 えた「単独者」、すなわち、本来的自己に回帰することができ、そして、万物もキリストによって統合されるというのです。

このことは『トマスによる福音書』におけるグノーシスの教えの究極的目的が、人間を含めた万物のキリストへの回帰(原初的回帰による万物の一致)であるこ とを示しています。そして、それこそが「御国」の本質であると、この福音書は言うのです。このことを理解するためには、後述するように、「原初的統合者」 とは何であるかを踏まえておかなければなりません。

本来、
聖書の御言葉は、天にあるもの地にあるものすべてがキリストにあって一つ にされることが神のご計画であると述べています。しかし、それはただキリストの十字架を通して実現されるのであり、人の原初的回帰や、本来的自己による一 致によるのではありません。しかも、教会の時代には、御国は聖霊において人の只中に来ているのであり、最終的な神の国の実現は、来るべき時代のことです。

「神はその恵みをさらにまし加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜り、御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。 」(エペソ1:8-12)

「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。ただ、各自はそれぞれの順序に従わなければならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。最後の敵として滅ぼされるのが、死である。「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。

ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろうそれは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。」(Ⅰコリント15:20-28)


ところが、『トマスの福音書』では、キリストにあっての「一つ」の概念はこれとは全く異なっています。そこでは、御国の概念も歪曲されてお り、御国とは無知な創造主に属する「神」の国ではなく、真の至高者である「父の国」であるとされているだけでなく、その「御国」の支配も、キリストのまこ との命によるのではなく、グノーシス主義者の自己による支配であるとされ、その「御国」は現在「地上に拡がっている」というのです。

この福音書は言います、「もしあなたがたが二つのものを一つとするならば、あなたがたは人の子らとなるであろう」、「イエスが言った、「二人の者が同じ家でお互に平和を保つならば、山に向かって、「移れ」と言えば、移るであろう」

荒井氏はこの言葉を次のように解説しています。

<…>トマスには、アダムは元来イブと原初的両性具有の対関係にあり、イブがアダムから離れて「男」と 「女」になったとき、死(分裂)が生じたという表象が前提されていることを確認した<…>。右の語録一0六の「二つのものを一つとするならば、あなたがた は人の子らとなるであろう」とは、分裂しているものが原初的統合を回復するならば、原初的「人」つまり分裂前の「アダム」の子孫となるであろうとの意であ る。

ここから当語録を「解釈」すれば、分裂状態にある「二人の者」が、元来両性具有であったことを覚知して、「一つの家」つまりグノーシス主義者の中で「平 和」裡に原初的対関係を保つならば、それは山を移すほどの奇跡を引き起こすであろう、ということになる。(同上、pp.200-201)


つまり、この福音書においては、驚くべきことに、本来的な「アダム」は、エバを対とする両性具有的な人間だったのであり、二人が分かれた時に、死(分裂) が起こったというのです。そこで、人は原初的統合者であるイエスにならうことによって、分裂を超越した「単独者」になり、それにより、イエスの「命」に 与って死んだ状態から回復し、分裂以前の「本来的自己」を回復すべきだといういます。イエスは本来的な自己の具現者として、分裂に統合をもたらすために肉 において現われたのだとされ、グノーシス主義者によれば、イエスは「統合者」であっても、「分割者」ではないとされます。

これと同様の考えは、他のグノーシス文献の福音書にも見られます。「分離が死のはじめとなったのである。それ故に、はじめからあった分離を再び取り除くために、彼ら両人を統合するために、そして分離の中に死んだ人々に命を与え、彼らを統合するために、彼が来たのである」(『ピリポ福音書』七八)。(同上、p.235)

しかし、このような教えは全く荒唐無稽であり、御言葉が示しているように、死が罪の結果として人類にやって来たことや、そして、人の内にある敵意を滅ぼし て二つのものを神にあって一つにできるのは、ただキリストの十字架だけであることを完全に否定しています。また、キリストが敵対している二つの人を一つの 身体として神に和解させるのは、「原初的統合」を回復するためではなく、神にあって「一人の新しい人」に造りかえるためなのです。

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の 肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造り変えて平和をきたらせ、十 字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(エペソ2:14-16)

キリストの十字架は人を神との和解に導き、神を抜きにして人と人とを直接和解させたり、融合させたりすることはありません。しかし、グノーシス主義では、 人はイエスの十字架によって神と和解して、神の教会として兄弟姉妹と一つとされるのではなく、人は「原初的統合者」であるイエスにならって分裂を超え、分 裂以前の原初的な未分化の状態に逆戻ることによって、魂が救済に導かれるというのです。

元来、正統な教えにおいては、神の御言葉には「切断する」という重要な機能があります。キリストの十字架は、信じる者の霊においては一致、平和をもたらし ますが、肉に歩む者にとってはかえって分裂を引き起こすつまずきとなります。主イエスは十字架によらない肉の平和に対して、剣を、分裂をもたらすために地 上に来られたと言われました、「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」(マタイ10:34) 

さらに、ヘブル4:12に ある霊と魂の切り分けに関する御言葉にもはっきりと示されているように、御言葉は「諸刃の剣」よりも鋭く、神の霊に属するものと、そうでないものとを明確 に「切り分け」ます。御言葉は光であり、光は自ら闇とははっきり区別されるという意味においても、御言葉には切り分けの機能があります。「この言葉に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ1:4-5)

ところが、グノーシス主義は「分割」や「切断」を「死」として否定的に捉えて遠ざけ、人間が分裂によって2分され、切断される前の未分化の状態、原初的統 合の状態を理想とし、イエスは人を分裂前の状態に戻すために「統合者」として「肉において現われ出た」のだとします。この教えにおいて、このような原初的 統合状態に回帰した人は「単独者」と呼ばれています。


5.グノーシス主義における「御国」と「幼子」との関係

『トマスによる福音書』には次の記述があります、「イエスが言った、「単独なる者、選ばれた者は幸いである。なぜなら、あなたがたは御国を見出すであろうから。なぜなら、あなたがたがそこから(来て)いるのなら、再びそこに行くであろうから」

このように、このグノーシスの教えにおいては、男女の区別さえなくなるほどに未分化的、原初的統合を回復した人間――単独者――こそが、「御国」にふさわ しい住人とされ、さらにこのようにして本来的な自己に回帰した者が、自己による支配を打ち立てることが「御国」だというのです。荒井氏はこの福音書におけ る「御国」の概念を説明して言います。

トマスにとって「選ばれた者」とりわけ「単独者」とは、分裂を超えて原初的統合を「自己」の中に回復する者 の意であり、この本来的「自己」支配が究極的には「御国」であった<…>。この意味で、元来人間は「御国」の出自であり、同時に「御国」は人間の還帰すべ き目的地である。当語録には典型的なグノーシス的人間観が言述されている。――「このように(自己を)認識する者は、自分がどこから来て、どこに行くかを 知る」(『真理の福音』二二・一三―一五)。(同上、pp.201-202)

こうしてこの福音書は、「御国」の概念を聖書の御言葉とは全く違うものへとすり変えてしまいます。ここで言われている御国とは、神の御子の贖いを信じ、自 己を否んで、キリストの十字架の死に自らを同形化し、聖霊を内にいただいている信仰者の只中に来ている神の国のことでは決してありません。むしろ、人が本 来的自己に目覚めて自己によって支配することが、「御国」だというのです。

御言葉は言います、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」(ヨハネ3:8)。この世の知識や、人の肉による思いは、御霊に関する事柄をわきまえることはできません。そして、神の思いは人の思いを超えて高いのです。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると/主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8-9)。ダビデはこう歌いました、「主よ、わが心はおごらず、わが目は高ぶらず、わたしはわが力の及ばない大いなる事と/くすしきわざとに関係いたしません。」(詩篇131:1)。しかし、グノーシス主義者は、自らの知識を誇り、自分たちは自分がどこから来て、どこへ行くのかをはっきりと知っていると断言するのです。

『トマスによる福音書』は、「御国」について次のように言います、「イエスが言った、「<…>御国はあなたがたの只中にある。そして、それはあなたがたの外にある。あなたがたがあなたがた自身を知るときに、そのときにあなたがたは知られるであろう。そして、あなたがたは知るであろう、あなたがたが生ける父の子らであることを。<…>」

荒井氏はこう書いています、「御 国はあなたがたの只中にある」。この文章は、「御国」を「神の国」に置き換えれば、ルカ一七・二一b と正確に一致する。トマスは、その反宇宙的二元論の 立場から、「神」や「天」を否定の対象にしているので、「神の国」や「天国」の表現を避けて、ほとんどの場合「御国」あるいは「父の国」の表現をとってい ることについてはすでに述べた<…>(同上、pp.125-126)。

<…>「御国」は、客観的に可視的な特定の領域なのではない。そうではなくて、人間が「自己」の本質(「生ける父の子らであること)を「知る」ときにおの ずから「知られる」、人間の「只中」に内在し、同時のその「外」に外在する一つの「支配」状態なのである(「国」はギリシア語でもコプト語でも元来「支 配」を意味する)。従って、「御国」あるいは「父の国」とは、覚知者に啓示される「自己」支配と言い換えてよいであろう。(同上、p.305)


神の国が統治であり支配であることについては、クリスチャンにも異存はないと思いますが、しかし、何によって統治されるのかという点におい て、クリスチャンとグノーシス主義者の考える「御国」の概念は決定的に異なっています。前者では、人がキリストの十字架の死に自分を同形化し、自己を否ん で、キリストのまことの命に服することによって、キリストの支配がこの地にもたらされるのに対し、後者では、人間がむしろ本来的な自己を高く掲げ、それに 回帰することによって、「御国」の支配がなされるというのです。

さらに、この福音書においては、「御国」の支配領域に入ることを許されているのは、「子供」、「単独者」、「貧しい者」だといいます。「単独者」が、男女 の性が分かれる前の両性具有的な人間を指していることはすでに述べました。「貧しい者」とは、本来的自己に属さないこの世的なものをすすんで捨てた人々を 指しています。これに加えて、グノーシスの教えは、「子供」、すなわち、「幼子」を特別に御国にふさわしい住人として高く掲げるのです。

「イエスが言った、「日々にある(高齢の)老人は、(生後)七日(目)の小さな子供に命の場所について尋ねることを躊躇しないであろう。そうすれば、彼は生きるであろう。なぜなら、多くの先の者は後の者となるであろうから。そして、彼らは単独者になるであろうから」

荒井氏は、ここで「幼子」が「御国」の住人に最もふさわしい存在として、老人よりも高く評価されている理由を次のように説明しています。

<…>ユダヤ人は生後八日目に、人間に対する神の契約のしるしとして割礼を受けた<…>。生後七日目の子供といえば、ユダヤ人の価値基準から見ると、まだ 割礼を受けていない、人間としての資格のない存在ということになる。それに対して「老人」は、律法に基づく知者あるいは預言者として高く評価され、尊敬さ れていた<…>。とすればこの語録では、「老人」と「子供」にかかわる価値の逆転がテーマとなっている<…>。

もちろんマルコ(一0・一三―一六並行)でもQ(マタイ一一・二五//ルカ一0・二一)でも、イエスは「幼な子」を弟子たちや知者に優先している。しかし そこでは、律法や知恵を基準とした価値判断をイエスは批判的に逆転しているのに対し、トマスでは「子供」が「原初的なるもの」の隠喩として評価されている のである。それ故に老人は小さな子供に「命の場所」について尋ねることをはばからない。この場合、「命の場所」(topos)とは、イエスがいる「場所」 すなわち「光」(二四)、あるいは「父の場所」(六四)、――要するに「御国」(三)のことであろう。」(同上、pp.126-127)


つまり、グノーシスの教えにおいては、物質世界の現実に汚染されておらず、創造主によって作り出された律法的な善悪の判断も未分化の状態に 等しい、性の区別もさほど進んでいない、裸同然の「幼子」が、分裂を超えた原初的なるもの、理想の人間像とみなされ、「御国」にふさわしい住人として高く 評価されているのです。

前述の『ユダの福音書』では、「しばしばイエスはそのままの姿で弟子たちの前には現われず、一人の子供として弟子たちの中にいた」と記述されています(『ユダの福音書』、p.23)。 つまり、この教えにおいては、イエスが肉体に縛られることなく、自在にさまざまな姿になることができたと示唆されているだけでなく(これがキリストの人性 の否定であることは言うまでもありません)、さらに、イエスが一人の幼子の姿になってわざわざ弟子たちの前に現われたと記述されていることは、グノーシス の教えにおいて、「幼子」が原初的な統合の象徴であり、「御国」に最もふさわしい理想的な存在とみなされていることを示しています。
 


<つづく>

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