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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

「律法による義」もなければ「信仰による義」もない村上密の呆れた正体

「愛する者たちよ。 すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。 多くのにせ預言者が世に出てきているからである。 」(Ⅰヨハネ4:1)

以上に挙げた聖書の御言葉にあるように、人は試されなければ、その本質は決して分からない。

そのことは、とりわけ牧師や信徒に当てはまる。そこで、見かけが正義漢で善良そうに見える人間ほど、内実は一体、どうなのか、よくよく試してみることをお勧めする。その人間が表向きに掲げている美しいスローガンを、他人に向かって振りかざすだけでなく、自分自身も本当に守るつもりがあるのか、試してみることをお勧めする。

今回、当ブログでは、これまで自称「被害者」の信徒らを募っては、次々とプロテスタントのキリスト教会に「カルト化の疑い」ありとレッテルを貼り、裁判をふっかけて来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密という人間の薄っぺらい人間性を見せつけられる出来事に遭遇したため、そのことを書いておきたい。

ここしばらく、このような物騒な話題が続いていることに飽き飽きしている読者もいるかも知れないが、もうしばらく辛抱していただきたい。

筆者は、この度、今月(2018年3月)下旬の期日に向けて、村上密および杉本徳久を民事調停に呼び出した。場所は武蔵野簡裁だ。この調停は、杉本が長年に渡り、当ブログに対して執拗な嫌がらせ行為に及んで来たことに対する民事上の責任追及であるが、村上密も杉本の行為を幇助した疑いが極めて濃厚であるため、両名を呼び出したのである。

これは裁判に至る前段階である。民事調停というのはADR(裁判外紛争解決手続き)の一種で、参加は任意で不参加の罰則はない。決定に不服があったからと言って、上告などの制度もなく、即、裁判に至るわけでもない。

民事調停は裁判とは異なるが、その代わり、利点もあり、裁判のような大事に至る前に、また、裁判ほどの長期化を避けて紛争解決しておきたいと願う人々にとっては都合の良い場だ。裁判のようにきっちりと法的概念に照らし合わせてすべてが白黒つけられるわけではなく、弁護士でなくては作成できないほどの緻密な文書も要らず、話し合いの性質が高いため、裁判よりは緩やかな基準で物事の解決がはかられる。

民事調停は、このように話し合いの性質が高いという特性を利用して、夫婦の離婚の話し合いや、子供の親権に関する争いなど、家庭に関わる紛争にも大いに利用されており、大きなもめ事から小さなもめ事まで、市民に開かれた場だと言えよう。

ところで、なぜ筆者が今回、出席さえ義務づけられていない、拘束力のない手段をあえて取ったかというと、筆者は突然、誰かに裁判をふっかけるとか、突然、誰かを予告なく逮捕に至らせるとか、そういうやり方が好きではないからだ。

裁判にすれば、欠席のまま終了するリスクが減ることは分かっている。だが、筆者は、グレゴリウス氏が訴えられた時に、その事件を傍から見ていてつくづく思ったのだが、可能な限り、強制力を行使することを最小限度に控え、まずは本人の意志を活かす余地のある場から始めたいと思うのだ。

たとえば、本来、刑事事件になると、被告訴人には、自分が訴えられた事実が前もって告げられることは決してなく、捜査が進んで行くうちに、本人が特定され、突然、ある日、逮捕に至るというケースが稀ではない。それまでに任意の事情聴取が行われるかどうかも分からず、本人は自分に捜査が及んでいることを全く知らないまま、突然、青天の霹靂のように逮捕されるということも起きうる。

だが、それでは、突如、そのような目に遭わされた人間にとっては、あまりにもはかりしれない衝撃となろう。

むろん、告訴されている事実を相手に告げれば、証拠隠滅や逃亡などの恐れが出て来るので、通常、そんなことは決してしない。ただし、当ブログに対して行われた嫌がらせについては、今更、証拠隠滅もないものと筆者は考えている。従って、今回の措置には筆者の意向や決断が大きく影響している。

筆者は、手荒な措置を恐れるがゆえに、緩やかな手段を取りたいわけではない。ただ我々の信じている神が、突如として人を罰したりは決してなさらず、何度も、何度も、真理の道に立ち返るよう、人々に警告を行い、最後の最後まで、人間の自由意志による判断に物事を委ねておられ、最後の最後の段階になってから、ようやく裁きを行われるというその性質を、筆者は自分自身も持ちたく思っており、見習うべきと考えているのである。

だから、筆者は、どんな紛争についても、いきなり裁判、ではなく、まずは話し合いの場を、というのが、常識人の考える当然のルールであろうと思う。刑事事件として扱うにしても、いきなり逮捕、有罪ありきではない。まずは何度も、何度も、問題行為をやめるよう警告が繰り返され、その一つ一つの忠告が次々と破られて行き、何を言っても、本人に全く反省の態度が見られず、いかなる忠告や叱責も全く効き目がなく、自分が引き起こした事件に対する自覚が完全に皆無で、それをやめる意図もなく、罰せられる以外にその行為が悪であることを自覚してもらう道が他にないと分かってから、初めて、強制力を持った措置が取られるべきであると思う。

むろん、事件化されることは、物事は有罪の方向へ向かっていくということなのであるが、それでも、その中でも、踏むべき手順を一つ一つ踏んで、他に残る手段が何もないことが分かってから、最後に強制力を持った措置が取られるべきだと考える。

そのようにすべてのプロセスを十分に踏み、なおかつ、本人にも弁明の機会を与えたにも関わらず、本人がそれを嘲笑い、踏みつけにしたというのであれば、その後、強制力を行使する最悪の結果になっても、それが不可避であって行き過ぎた報復措置でないことは誰もが認めることになろう。

そこで、筆者の場合は、ただ扉を開いていますよという、うわべだけのパフォーマンスではなく、きちんとした段取りを踏んで、物事の本質、人の心の本質を底の底まで確かめるために、一つ一つ時間をかけて踏まなければならない手順があると考えているのである。

このようにして、筆者の紛争解決のやり方は、まずは緩やかな措置から始まり、それが功を奏さなければ、次第に、取る措置の難度・強度が増していくというものである。律儀すぎるかも知れないが、そのように段取りを踏まずに、いきなり強制的な措置を取ることには、あまり賛成できない(そうすることを恐れるがゆえに言うのではなく、神と人との前に、証明しなければならない段取りがあると考えているのである)。

だが、村上は今回、裁判ではなく、それよりも緩やかな民事調停が取られたという事実を自分に都合よく理解してか、事件を京都に移送することを希望しており、京都でなければ出席しないと言い張り、話し合いに応じる姿勢すら見せていないらしい。

それを聞いても、何という滅茶苦茶な話だろうかと筆者は呆れている。村上は事実上、残る二人に京都まで来いと言っているに等しい。要するに、自分一人さえ交通費と時間が浮けばそれでいいというスタンスらしい。

しかも、村上は、サラリーマンでなく、自営業者でもなく、信徒からの献金を受けて生計を成り立たせている牧師なのだ。交通費を惜しまなければならないほどに赤貧の貧乏人でもなければ、働き蟻のように働いて平日に裁判所へ赴いただけで生計が破綻するようなパートやアルバイトの勤め人でもない。

そこで、読者は注意されたい。こういった些細な返答からも、村上の利己主義は明白に見えて来るであろう。自分一人さえ楽であればそれでよく、他の人々が自分のためにこうむる都合など考えもしないのだ。というより、京都への移送の嘆願は、そもそも調停に参加しないための言い訳でしかないと見るべきだろう。

これでも本当に牧師なのだろうか。これでは通常人よりももっと不誠実ということになりかねない。

しかも、村上は、今回、筆者の出した約50頁近くの申立書(証拠書類を含めるとおよそ100頁にはなる)に対し、一枚の反駁の答弁書も送って来ず、ただ裁判所の照会書のフォーマットに、短く「私こそ実名で色々書かれて迷惑しています。ここには書ききれません。」などと三行程度の呆れるほどに子供じみた回答しかしていないと聞いている。

やる気のなさが最初から見えている、人を馬鹿にした回答である。

このことから、村上が筆者をどれほど見下げているか、どれほど民事調停をなめてかかっているか、どれほど自分の教会の元信徒を軽んじているかがよく分かるが、それでも筆者は、ここではっきりと言っておきたい。

村上は事態の深刻さを何も分かっていないようだが、これは村上が筆者一人だけに対して取っている行動ではなく、神と全教会と全クリスチャンの前で取っている行動なのである。

そこで、もし本当に村上が今回の調停期日に武蔵野へ出て来なければ、村上の活動はこれでもうお終いであると筆者は断言しておく。村上の社会的信用は完全に地に落ちることになる。

村上が筆者を見下げるのは今に始まったことでなく別に結構だが、村上自身がこれまで裁判を振りかざして来たにも関わらず、自分への訴えだけは忌避するような態度を取れば、村上の信用はそれでお終いである。

なぜなら、裁判というものは、自分が相手を訴えることもできる代わりに、自分自身が訴えられた場合にも、きちんと応じてそれなりの責任は取りますよ、という双方通行の姿勢がなければ、決して世間の信用を得られないからだ。

これまで村上は、「自分は命をかけてカルトと戦っている」などと正義漢ぶって豪語しながら、「カルト化している」とみなした教会や牧師たちを相手取って裁判を起こして来た。そして、そうした裁判のことを、村上は誇らしげに自分の手柄のように語って来た。

村上は、自分がそうして次々と教会やクリスチャンを裁判に訴えるのであれば、当然ながら、自分が訴えられた時にも、それを受けて立つ姿勢がなければならない。

他人だけを訴えておきながら、いざ自分自身が訴えられる段になると、忙しいだの、遠いだの、様々な逃げ口上を並べて、ろくに反駁もせず、雲隠れするのであれば、もはやそんな人間のふりかざすご都合主義的な「裁判」など、誰一人見向きもしなくなるだろう。

しかも、村上はこれまで様々な教会に対し、「被害者」を名乗る元信徒を募っては、裁判をけしかけて来たのだから、村上自身の教会の「元信徒」である筆者が訴えを起こす場合にも、当然ながら、それに向き合う道義的な義務が生じるであろう。

どんなに不当な訴えを出されたと感じても、やましいことがなければ、きちんと開かれた場所へ出て来て、十分な証拠を提示して、論拠を示して反駁すればいいだけのことだ。オープンな姿勢を見せること、不当な主張にも忍耐強く、正当な手段で向き合っている姿勢をアピールすることは、市民からの信頼を勝ち得るために必要なアクションだ。

それが、裁判所から呼び出されても、遠いとか、書ききれないとか、子供の寝言のようなことを並べて、真面目に対応もせず、姿さえ見せないというのでは、ネットの影に隠れて自分は言いたい放題、一方通行の場所で、自分に都合の良い嘘ばかりを並べ、いざその言葉の証拠を求められ、責任を追及されると、早速、全速力で遁走し、世間の前で堂々と勝負することもできずに、敵前逃亡して逃げ回るしかないという最低最悪の印象を免れられない。出て来ないのは、やましいことがあるからだろうと憶測されるのは当然である。

しかも、TVにまで出て記者会見までして名前を売っているのに、実名で色々書かれて迷惑だとか、自分を未成年の中学生か何かだとでも思っているのだろうか、と呆れる。政治家や芸能人などの有名人が、どれほどの批判に耐えているか分からないのだろうか。ましてや、村上は自分自身が他の牧師にどれほど容赦のない批判を浴びせて来たかを、都合よく忘れ去ったのであろうか?

あれほど「被害者を助ける勇敢な正義の味方」をきどって、諸教会に裁判をふっかけておきながら、いざ自分が訴えられると、しょせん、この程度なのか。市民や元信徒から責任を追及されても、出るべきところに出る勇気さえ持たない臆病者なのか。肩をすくめざるを得ない。

読者の方々は、村上が元信徒からの民事調停の訴えから逃げているというこの事実を決して見逃さないでもらいたい。

さらに、筆者は先の記事で、村上が杉本を切り捨てにかかっていると書いたが、今回のことで、多分、それも本当のことになりつつあるのだろうという印象を受けている。

今回、杉本は出席について回答していないが、杉本は刑事責任を問われている以上、この先、どちらにせよ、逃げることができなくなる。弁明の機会や交渉の機会が与えられているのに、そこに出て来なければ、どんどん立場が不利になって行くだけなのだ。逃げれば逃げるほど、ますます世間の心証は悪くなる。刑事事件の結末がはっきりしてから裁判をするよりも、今の段階で和解の姿勢を示しておいた方が有利なことも確かである。

村上密がネットではこれまで相方のように協力しながらクリスチャンを貶めて来た杉本を、この度、積極的に弁護してやる気もないらしい態度にも、筆者は心底、呆れている。だが、これは実に村上らしい態度だ。

これまで村上は、周知の通り、杉本ブログをさんざん利用して、村上自身とアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に都合の良い偏った虚偽の情報を発表して来た(今ここで紙面を割いて詳しく論証しないが、鳴尾教会に関する記事などを読めば、杉本ブログの情報源が村上と同一であることは一目瞭然である。こうした事柄については後ほど詳しく証拠を提示して論じる予定であるから、その発表を待たれたい)。が、いざその虚偽情報の責任を問われる段階になると、村上は杉本一人にそれを押しつけて、自分は陰に隠れようというのか。

村上にとって信徒とは、そういう都合の良い、捨て駒のような存在なのか。政治家の秘書のように、牧師をかばうためなら、信徒が罪をかぶるのは当然だと考えているのだろうか。

おそらく、杉本は村上にとって、初めから「捨て駒」であり、「とかげの尻尾」だったのだろうと筆者は思う。筆者が最も許せないのはその点なのである。杉本の行為も、当然ながら、筆者には許し難いが、ある意味では、それよりも許し難いと言えるのが、村上の行為である。

村上が、カルト化教会の牧師が信徒を利己主義の犠牲にする行為を非難しながらも、自分自身は、筆者や同僚の牧師や信徒ら(杉本でさえ、ある意味では村上の犠牲者だと言える)を、自分の利益のために犠牲にしてはばからない態度を取っていることは、言語道断な行為である。これでは一体、村上はどの口で他の牧師たちが信徒を犠牲にしていると非難できるのであろうか?

読者は、この事件を通して、ぜひとも村上密の人柄をよくよく観察して判断してもらいたい。村上はこれまで自分が栄光を受けられる場面であれば、それが東京であれ、どこであれ、率先して駆けつけたものだ。しかし、村上はそのようにして物事の「おいしいところ」をつまむことには積極的でも、今、自分にとって不都合な事柄は、徹底的に避けて通りたいという姿勢を示している。この偏ったご都合主義的な行動を、読者はよくよく見て脳裏に焼き付けてもらいたい。

杉本もそうなのだが、住所氏名電話番号を公開しているからと言って、必ずしも物事に責任を取るつもりがあるという姿勢には直結しない。牧師だから、権威者だから、有名人だから、信用できるというわけでもない。要は、牧師であろうが、信徒であろうが、自分のしたことに最後まで責任を持って向き合えるかどうか、そこにすべてがかかっている。

繰り返すが、今回、期日に出て来なければ、村上密の活動の社会的信用は、地に落ちるだろう。自分が「元信徒」から訴えを受けても、見向きもせず、振り返りもしないような牧師が、他の牧師にだけは、元信徒を「被害者」としてけしかけ、「被害者」の言い分に耳を傾けよ、などと訴えても、説得力はゼロである。まずは自分への訴えをきちんと解決・処理してから、他人への訴えに取り組めと言われて、どの教会でも門前払いになるのが関の山だ。

村上の信奉者は、今、彼の行動をよくよく見て脳裏に焼き付けておくことだ。なぜなら、人は不利な状況に立たされた時、初めてその本質が現れるからだ。順境にあって威勢の良い言葉だけを並べているときに、その人の人間性を判断することは難しい。その人が責められ、不利な立場に立たされた時に、初めてその人の本当の人間性が現れて来る。くれぐれも、聖書の御言葉を都合よくちりばめただけの本質的に無内容の綺麗事に目を奪われることなく、きちんと行動を見てその人の本質を確かめられたい。

さて、こうして、世間に波風立てつつ行動するのはかなり大変な労力の要ることであるし、勇気も、犠牲も要ることである。村上はかつてブログで、「自分は命をかけてカルトと戦っている」のに、筆者は「藪の中から石を投げているだけの非常識で幼稚な生き方」をしているとあざ笑っていた。

だが、今、筆者は読者の前で、はっきりと言わせてもらいたい。事実は全く逆ではないかと。自分に都合が悪くなると、途端に「藪に隠れて石を投げる」だけになるのは、村上自身ではないのかと。

もちろん、頭の中で想像を極度に巡らせて、筆者を含め、数々のクリスチャンを「極端に危険人物化」して、巨大な悪役の像を仕立て上げては、無責任な「創作物語」を綴っているのも、村上と杉本であって、筆者ではない。そして、今回のように信頼の失墜を自ら招くような行為を続けていれば、そのうち、杉本のみならず、村上自身にも、「交流も少ない所」に住まざるを得ないという条件が、おのずと跳ね返ることになろう。

他人だけを裁判に引きずり出してあらゆる苦悩を味わわせておいて、自分は訴えられても逃げ隠れし続けるような牧師の言い分に、誰がこの先、真面目に耳を傾けるであろうか。むろん、信徒から受けた相談内容を軽率に口外しているような牧師のもとに、相談を持ち込もうとする信徒がいなくなることは言うまでもない。

筆者は、当ブログを始めた当初は、命がけでキリスト教界の腐敗と是正を訴えるつもりであったが、その目的はその後、少しずつ変化して行った。とはいえ、今になっても、相変わらず、記事を書くことには、命をかけるような代価が必要だ。いや、記事を書くことではない。キリストに従うことそれ自体が、自分のすべてをかけて行う価値のあることだ。もし命をかけるというなら、文章を書くことではなく、神を愛すること、神に従うことにこそ、かけるべきである。

筆者はクリスチャンであるから、「和を持って貴しとなす」式に、世間に波風立てず、すべての物事を曖昧にして、切り分けを否定しながら、人間の心だけを満足させるような生き方を是としない。たとえ波風が立つことになっても、人の感情を時には害することになっても、あくまで聖書の御言葉に基づき、何が神の御心であって、何がそうでないのか、何が真実であって、何が虚偽であるのか、すべてにはっきりと公然と区別をつけるべきであると考えている。

だから、筆者は自分の主張を取り下げるつもりはない。時間はかかっても、また、代償は必要となっても、真実を訴え続ければ、嘘の牙城はかならず崩れると信じている。多くの先人たちもこういういばらの道を辿ったが、彼らの名誉はきちんと回復されているのだから、何も心配することはない。

最後に、またも村上が愚かしい内容の記事を書いている。

「全き者であれは、行いではない。倫理的完全の要求ではない。義は与えられるものであって、獲得するものではない。「律法を行なうことによっては、だれ一人神の前に義と認められないからです。」(ローマ3:20)パウロは、信仰による義、神の前に正しいとされる道(ローマ3章21~5:21)を教えている。「義の賜物」(ローマ5:21)でわかるとおり、義は神から与えられるものであって、自分で獲得する義(自己義)ではない。神の前には「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:24)行いとは別の道、神の前を歩み(信仰生活を)続けよう。

これはきっと村上が、自分は完全無欠な人間でなくてもいいと自己弁護するため、もしくは開き直るために書いたのか、あるいは、村上の率いるカルト被害者救済活動が、筆者の言うような「自己義に基づくものではない」と弁明するために書かれた記事なのだろう。

だが、もしも村上が、自分で書いているように、神は「倫理的完全を人に要求しておられない」と本気で主張しているならば、それでは、これまで村上自身が、信仰によって義とされたはずの他の牧師やクリスチャンを「倫理の欠如」によって訴え、責め立てて来た根拠はどこにあるというのだろうか?

村上がこれまでこの世の法によってさんざん他教会の内情に干渉し、「聖なる法」よりも「この世の法」を高く掲げてクリスチャンを裁く行為に手を染めて来た根拠はどこにあるのだろうか?

そんな活動に手を染めながら、村上は、いざ自分が責められる段階になると、今更、自分だけは、「義人はいない」と豪語して、「信仰による義」に隠れられると考えているのだろうか? 

いや、もしも村上が本当に「信仰による義」に立っているなら、村上は、逃げも隠れもせず、堂々と裁判所に赴くことができるはずではないか。何しろ、信仰による義は、この世の法を超越するのだ。神によって義とされている信者は、決してこの世のいかなる法によっても罪に定められたりはしない。

にも関わらず、村上が裁判所へ来ることを避けているのは、本当は、自分には「律法による義」も、「信仰による義」も、両方ないことが初めから分かっているためではないのか?

筆者は以前にこう書いた。

神が義とされた教会やクリスチャンに、この世の法の裁きを適用し、クリスチャンを有罪に追い込むことで、正義を実現しようと考えるような人々は、結局、自分自身がよりどころとしているこの世の法によって最も容赦なく罪に定められるだけである。

彼らを裁くのは、御霊ではなく、主イエスでもなく、御言葉ではない。彼らには神の憐れみに満ちた裁きが適用されず、彼らを裁くのは、彼らが信じて頼みとしているこの世の法である。そして、悪魔の悪魔に対する裁きはいかなる容赦もないものであり、彼らが他者に対してふりかざした厳しい基準がそのまま彼らに当てはまることになる。律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」(ルカ16:17)のだ。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)

村上が本当にクリスチャンであるなら、以上の御言葉を見失うことは決してないはずだ。すなわち、筆者が村上に反感を持ち、村上に対する訴えを両手に抱えているのを見れば、大急ぎで供え物を祭壇の前に置いて、筆者のもとにすっとんで来て、まずは筆者と和解をしてから、「神の前を歩こう」と豪語するだろう。それができないことが、村上が内心ではクリスチャンではなく、信仰による義に立っていないことの何よりの証拠である。

だとすれば、聖なる法だけでなく、この世の法も、こんな人間に味方しはしない。だが、筆者は、この先、村上に対峙する仕事は、おそらく、誰よりも彼に貶められた牧師たちの仕事になるのではないかという気がしている。

繰り返すが、読者らは、今回の出来事を通して、よくよく村上の人間性を見極められたい。(果たして、こんな人物を恐れて口をつぐむ必要がどこにあるのかと。)

神は人前での信仰による告白を重んじて下さる。我々は聖書の御言葉に立ってこれを守って生きていることを、神の前だけでなく、人々の前でも告白し、証明しなければならない立場に置かれている。

クリスチャンから訴えられているにも関わらず、その兄弟姉妹との和解を目指そうともしない村上密に、信仰による義など欠片もないことは誰の目にも明々白々である。

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「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実⑤






~ 奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならない~

これは「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実④」の続きである。

 さて、そろそろ、神の教会は、キリスト教と教会と信者全体を冒涜し、呪うような狼藉者たちに、団結して立ち向かうべき時が来ているのではないかと筆者は思う。

 前回、取り上げた村上密の最新の記事には、次のような一文がある。

「権利の侵害である。となれば、民事で精神的な慰謝料請求の道も開けてくる。教会を正すために法の力を借りることは避けがちであるが、自浄作用がなければ裁判も視野に入れる必要がある。」

 この文章から読み取れるのは、村上が何とかして教会にケチをつけ、教会に打撃を与えるチャンスを伺い、教会財産を一銭でも減らし、教会を貧しくしようと、教会に恨みを持つ不信者(こんな人々は信者とは呼べないが)をけしかけては、教会に対する裁判を起こすチャンスを狙っている様子だ。

 同氏が牧師であるにも関わらず、何とか口実を見つけては教会に争いをしかけ、教会財産を不信者のもとに移したいと願っている様子が伺える。

 自浄作用が働かないから裁判に出るというのであれば、見込みのある裁判をせねばならない。
 
だが、「法の力を借り」たとしても、村上の言うような裁判には、勝ち目がないことが明白であることはすでに述べた。従って、村上の主張は、「聖なる法」である教会規則になじまないばかりか、「この世の法」に照らし合わせても、非現実的な世迷いごとでしかない。
  
「自浄作用」をなくしているのは、村上密と同氏の所属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であって、それ以外の教会ではない。
 
村上自身の言葉を使えば、事実は以下の通りとなるだろう。

「村上密は、自らのブログにおいて、かつての同僚、「同じ釜の飯を食った」牧師たちであっても、教団と袂を分かった者については、個人情報を漏えいし、それを歪曲する形で、彼らを誹謗中傷する材料としている。また、同氏は、かつて自分の教会に相談に訪れていた信徒であっても、気に食わなくなれば、信徒の個人情報を漏えい・悪用しては、信徒を中傷している。

このようなことは、同氏の牧師としての倫理の徹底的な欠如を証明しているだけでなく、牧師としての守秘義務違反、信者のプライバシーの侵害、パワハラ、個人情報の漏洩などの深刻重大な人権侵害に相当する可能性が大である。


となれば、当然、村上の行為によって被害を受けた信徒や牧師には、村上密に対して精神的・もしくは物質的な損害に対する賠償請求を行う道が開けて来る。村上は牧師を名乗っているのだから、本来、牧師の活動を正すのは教会や教団であるべきで、この世の法を用いることは適当でない。しかしながら、自浄作用が全く働かなくなっているアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と、牧師としての職務から完全に逸脱しており、クリスチャンとしての信仰の欠片も見られない村上についてだけは話は別である。兄弟姉妹としてのいかなる忠告も、話し合いも効果のない人間の行動を押さえるためには、当然ながら、この世の裁判を考慮に入れる必要が出て来る。」

このように、損害賠償、慰謝料請求は諸教会に対してでなく、村上牧師とその活動に「悪のり」して兄弟姉妹を誹謗中傷する者たちに対して行われるのが最もふさわしい。

村上は、元信徒を裁判に焚き付けては教会から受けた被害を取り返すよう主張して来たのだから、その主張は同氏自身にも全くその通りに適用されねばならない。自分は人を訴えておきながら、自分が訴えられれば、逃げ回るというのでは、あまりにも往生際が悪い。

筆者は、村上とその活動の支持者らが行って来た人権侵害に対して、被害を受けた牧師や教会や信徒らは、黙っておらず、必要な法的アクションを取ることを強くお勧めする。取れる手段は色々ある。この人々は、キリスト教を断罪しているのだから、兄弟姉妹として扱う根拠がなく、法的措置以外の方法で、このタイプの人々に主張の誤りを認めさせたり、責任を取らせることは決してできないと筆者は考える。

クリスチャンは世の光なのであるから、虚偽の訴えに対して沈黙していてはならない。偽牧師、偽預言者、偽信徒だなどといわれなく非難されて黙っているなど論外である。おくびょう者の行き着く先も、地獄の火の池なのだから。
 
今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 
 兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。
 
 このゆえに、もろもろの天と、
 その中に住む者たちよ、喜べ。
 地と海とは不幸である。
 悪魔は怒りに燃えて、
 お前たちのところへ降って行った。
 残された時が少ないのを知ったからである。」
(黙示12:10-12)

さて、最後に、ハガルとイシマエル、サラとイサクの話をつけ足して記事を終わりたい。

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。

喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ。
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。

 ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。
要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ4:21-31)
 
カルト被害者救済活動は、幾度も述べて来たように、生まれながらの人間の正義を掲げるものであって、神の義に反し、御霊に基づく運動ではない。「肉によって生まれた」運動である。

ところが、これまで、信仰に基づかないこの偽りの運動が、全教会を圧迫し、信者を無差別的に迫害して来た。「肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。

しかも、多くの信者たちが自らこの悪しき運動に降伏宣言し、汚し言を言う獣のような彼らの主張の前にひざまずき、彼らの軍門に下った。それによって兄弟姉妹を売った。だが、このようなことに対して、聖書は何と言っているか。

奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである

 さて、女奴隷とその子が追い出されるためには、サラとイサクが成長して強くならなければならない。その時、初めて、肉にあるものと霊にあるものの関係が逆転し、御霊によって生まれた子らが「しかるべき地位を取り返す」のである。

 この仕事を、神はクリスチャンに委ねておられる。

 これが、私たちが地上に置かれていることの意味なのだ。私たちが戦わずにただ沈黙していて、福音がこの地上で前進し、成就することはない。私たち自身が福音の旗を掲げて、霊的な戦いを命をかけて真剣に戦い抜き、新しい陣地を勝ち取り、サタンのわざを打ち壊して前進して行かなければ、神の国の前進はないのである。

 神の国を前進させるとは、多くのクリスチャンがそう信じているように、地上で座って楽しく飲み食いし、気に入った信徒だけを周りに集めて、お気に入りの讃美歌を歌い、耳に心地よい歓談にふけりながら、それを「聖徒らの交わり」と称して誇ることでは断じてない。そのような瞬間が、場合によってはクリスチャンの交わりにないわけではないとしても、激しい霊的戦いを戦い通さねば褒賞を得られないことも事実なのだ。

 先の記事で、筆者は不当解雇された人が、裁判で地位確認請求を行って権利を取り戻すことに触れたが、その際に、決定的に重要な証拠となるのが、雇入れ時に労働契約を明示した書面が労使双方の間で取り交わされているかどうかであると述べた。

 このことをクリスチャンに適用するならば、我々が神の国の正統な後継者として神の教会に残り、狼藉者を追い出す根拠となるのは、神と我々との間に結ばれた契約、約束の御言葉である。

 イサクは、神との約束を生まれる前から持っていたが、イシマエルにはその約束は与えられていなかった。それゆえ、イサクには正統な跡継ぎであると主張できる根拠があったが、イシマエルにはそれがなかった。

 今日、神の教会に連なるための条件は、キリストの贖いを受け入れ、罪赦されて神の子供たされたという、聖書の御言葉に基づく信仰であって、教会に対する怨念や被害者感情ではない。むろん、人受けのする性格や見栄えの良い外見でもないのは言うまでもない。

 ところが、カルト被害者救済活動の支持者らは、神の約束に基づかず、神との契約によって結ばれていない人々を、全く不当な理由で、教会に受け入れるよう迫っているのであるから、こうした人々は、正統な神の国の相続人ではないのに相続人を詐称する不法者として、教会から追い出されて当然である。
 
 このように、まず最初に約束の契約が与えられなければ、クリスチャンは神にも教会にもいかなる地位をも主張できない。だが、約束が与えられているなら、それに基づいて、大胆に権利を主張し、天に対して「地位確認請求」を出すことが重要である。

 創世記(21:9-14)を読むと、神の国の前進のためには、サラの意志表示が決定的に重要な意味を持っていた様子が分かる。

「サラはエジプトの女ハガルのアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクと遊ぶのを見て、アブラハムに言った、「このはしためとその子を追い出してください。このはしための子はわたしの子イサクと共に、世継となるべき者ではありません」。 

この事で、アブラハムはその子のために非常に心配した。

神はアブラハムに言われた、「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです
しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。
そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。」

 ハガルは奴隷にも関わらず、自分が先に主人の子を産んだことで得意になり、早くから女主人のサラを見下げていた。それゆえ、サラもハガルを相当いじめていたようだが、それでも、一定期間、ハガルとサラは一つ屋根の下で暮らし、イシマエルとイサクも兄弟のごとく過ごした。

 おそらく、アブラハムはイシマエルもイサクもどちらをも息子として愛し、ハガルとサラも何とか折り合いをつけてやって行けるかのように考えていたのであろう。

 だが、サラの堪忍袋の緒が切れる時が来た。これ以上、ハガルとイシマエルを一つ屋根の下に置いておけば、彼らはかならず、サラとイサクを押しのけて、家の跡取りになろうとしてクーデターを起こすだろうことが、彼女にはっきり予測できたためである。そこで、彼女はアブラハムに明白な意志表示を行う、奴隷とその子を家から追い出してくれと

 神はアブラハムに言われた、「サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。」そして、アブラハムは神の約束に従い、サラの要求を聞き入れ、奴隷とその子を家から追い出した。

 アブラハムにとってはつらい決断だったろう。以後、彼は二度とイシマエルを見なかったのだから。だが、人間の肉に基づく関係、生まれながらの魂の情愛は断ち切られ、御霊に基づく関係だけが残らねばならなかった。

 今日、神の聖徒らは、約束を持たない奴隷の子らに向かって、同じように言わねばならない。「奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならない」と。

 このように、我々が神と人との前で、明白な意志表示を行うことがぜひとも必要なのである。自分たちの「あるべき地位」をきちんと請求するための訴えを天に対して、神と人との前で起こすことが重要なのである。おそらくサラも一度や二度ではなく、アブラハムに願い出たに違いない。

 今、神の教会を荒らし回り、御霊によって生まれた子たちをいわれなく迫害する者たちを、クリスチャンが一致団結して、神の家からきっぱり断ち切り、追い出す覚悟を固めるべき時が来ている。イエスが強盗たちを、憤りを持って宮から追い出されたように、聖徒らは、激しい憤りを持って、神の教会と聖徒らをあざけり、冒涜し、呪う者たちを、容赦なく福音の敵として神の家から追い払うべきなのである。
 
小さな群れよ。恐れるな。あなたがたの父は喜んで御国を与えてくださる。」(ルカ12:32)

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実④



 




~教会の不祥事をきっかけに、キリスト教を欠陥宗教のように非難するDr.Lukeと村上密の主張の類似性について~

これは「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実③」の続きである。

さて、カルト被害者救済活動の支持者らが、クリスチャン同士に分裂・分断工作をしかけ、互いを憎み合わせ、争わせることで、キリスト教界を弱体化させる手段として来たことはよく知られている。そうした分断工作の結果、以前にはブログ上でも活発に重要な意見交換をしていた筆者と唐沢との間にも、くさびがうち込まれたのは事実である。

しかし、それだけがすべての原因だと筆者は言うつもりはない。結局は、そうした出来事が試金石のようになって、個人の心の中にもとからあった要素が外に露呈し、個人個人が、神の御言葉の前で「ふるいわけられた」だけなのである。

筆者が唐沢について不審に思うのは、以上のように、唐沢が村上と全く同様に、自分への批判を受けたからと言って、信徒である筆者の利益を害する行動に出たというだけが理由ではない。

そもそも2010年の初めに、唐沢が杉本に向かって、筆者や当ブログをバッシングする記事を取り下げるよう働きかけた後、杉本が唐沢をもバッシング対象とし、自身のブログで誹謗中傷するようになったことは、周知の事実である。

むろん、杉本のこうした行為が許し難いものであることは明白である。これは杉本がクリスチャンや教会を断罪する新たな材料として、まずは筆者を、次に唐沢を獲物のように捕らえたというだけでなく、唐沢と筆者とのクリスチャンとしての親交を冒涜して、クリスチャン同士を引き裂くために行った分断工作であったと見られる。
 
そのバッシングの際、杉本は、唐沢と唐沢の集会にも、「偽預言者」「独裁カルトの妄想教組」「まごうことなき新興カルト宗教団体」などとあらん限りの罵倒を浴びせた。
 
ところが、唐沢は、その当時から、そうした冒涜の言葉の数々に対して一言も反論しなかった。ただ杉本への民事提訴の予告を実行に移さなかっただけではない(名誉毀損は親告罪であるから、もともと唐沢が筆者の件を理由として杉本を訴えるなど不可能であり、唐沢にできるのは、自分が誹謗中層されたことで杉本を訴えることだけであった)。

唐沢は杉本からの主張に、具体的に論拠を示して反論せず、記事の削除に必要となるアクションを取らなかった。当時、社会的地位もあった唐沢がしかるべく行動を取ってさえいれば、杉本のバッシング記事は速やかに削除されて、それ以上の広がりを見せることなく、事態はおさまっていた可能性が高い。それをしなかったことが、唐沢の目に見える妥協の始まりであった。そして、唐沢がこのようにしてグレゴ氏を「有罪」と決めつけながらも、杉本を「免罪」しようとしたことは、唐沢の内面の二重性と深い関係がある。
 
唐沢が杉本の行動を非難しているのは、うわべだけのポーズであることに加え、ただ「人間的な感情の観点」だけからの非難である。杉本の行動は、人の心を傷つけるから許せないというわけである。しかし、そのような主張はすべて感情論でしかなく、実に些細な事柄であって、本質的な議論は、全く別のところにある。
 
唐沢は、杉本の主張の反聖書性を立証し、杉本によって自分が偽預言者と呼ばれて非難されていることについてこそ、反駁し、疑惑を晴らさなければならなかった。グレゴ氏に立ち向かうくらいならば、杉本に対してはもっと毅然と立ち向かって、とことん疑惑を晴らし、身の潔白を主張せねばならない立場にあった。何より、聖書の御言葉に基づく信仰そのものを守らねばならなかったのである。

にも関わらず、唐沢は杉本には反論せず、その主張に立ち向かいもしなかったのであるから、それは裏を返せば、杉本の主張を自ら容認しているも同然である。うわべだけは対立しているようなポーズを取りながら、その陰ではどんどん紛争が拡大して行くような行動を取り続けたのである。
 
その後、唐沢がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒に欺かれ、坂井氏と杉本との裁判においても、筆者のメールを無断で提出するなどあからさまに不審な行動を取った挙句、坂井氏ともどもに敗れたことは周知の事実であり、こうして唐沢がどんどん深みにはまるようにして、カルト被害者救済活動の陣営の圧力にますます屈して妥協(「転向」)させられて行った様子が分かる。

だが、そうなる前から、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒らは(KFCの乗っ取り事件を起こした人物だけでなく、別の人物も)KFCの集会に深く影響を及ぼしており、サンダー・シングの教えなど、明らかに聖書に反する教えを、集会に公然と持ち込んでいた。唐沢はこれについても、サンダー・シングを異端として退けるどころか、かえってサンダー・シングを読んでいた信徒に同情の涙を注いで擁護し、筆者および筆者の警告を退けたことはすでに書いた通りである。ここでも、唐沢が振りかざしたのは「同情論」であり、聖書の御言葉に基づく議論ではなかった。

上記アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者は、筆者が唐沢と知り合うより前からKFCに関わっており、KFCに通えるところに居住していなかったとはいえ、唐沢の長年の知り合いであり、事実上、この集会において極めて重要な役割を担っていた一人であると見られる。
 
唐沢の言動には、このように、「身びいき」や「情」に基づく偏った判断はあっても、御言葉による「切り分け」が存在しなかった。唐沢は当初から、一方では、キリスト教界を激しく非難しながらも、他方では、キリスト教界を離れず、離れようともしていない他教団の信徒と積極的に交わり、人情に流されるあまり、自分に親しく関わろうとする信徒に入れ込み、何が異端であるかを識別しようという姿勢すらも失っていた。

唐沢は当初から、聖書の御言葉を基準とせず、人間の情、自分の感覚や感情を基準として物事の是非を判断し、自ら情に流されて、自分が心地よく感じるものを正しい教えであるかのようにみなし、自分が「可哀想」と感じる信者らにどんどん肩入れして行った。その信者らに自分たちのリーダーがあり、それぞれ所属する教団があっても、お構いなしであった。

そのようにして御言葉の「切り分け」を曖昧にし、異端の教えを吟味もせずに受け入れ、自ら批判していたキリスト教界の信徒らと親交を続けた結果、唐沢の教えはすっかり混合物となり、以前にあった主張の鋭さは失われ、「セルフかキリストか」とあれほど問いかけていたにも関わらず、自ら「セルフ」を選んで、聖書の御言葉の敵となり、ついには筆者をも、敵のようにみなすようになったのである。そのような被害者感情に引きずられやすい情に流されたものの見方は、村上と完全に一致している。

さらに、重要な点として、唐沢は、ニッポンキリスト教界を非難・糾弾する過程で、あたかもキリスト教そのものに根本的な問題(欠陥)があるかのように、早くから自らのブログ等で幾度も述べていたが、この点こそ、唐沢の主張と村上の主張との最大の共通項であるため、読者は注意されたい。
 
教会に様々な不祥事が起きるとき、それを聖書の御言葉への信仰や、キリスト教からの逸脱として訴え、改めて聖書に立ち戻るよう呼びかけるのか、それとも、そうした事件を、あたかもキリスト教の理念そのものの「欠陥」が引き起こした歪みであるかのように訴えて、キリスト教全体を断罪するのかでは、主張が180度違ってくる。そして、まさにこの点こそ、その人間が神の民であり続けられるのか、それとも、偽預言者となって終わるのか、命運を分ける分水嶺である。
 
筆者は、唐沢および村上の信用ならない人柄を見るにつけても、聖霊派特有のナルシシズムの弊害とでも言うべきものを常に感じざるを得ないが(アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、牧師だけでなく、信徒の中にも、うわべを飾って「良い子」を演じることに生涯の情熱を費やしている人々があまりにも多い。そして美化された自己像にすっかり溺れて、真の自分が見えなくなっているのである)、それに加えて、両氏の主張の問題点を論じるに当たっても、やはりアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念がどんなに危険なものであるか、幾度となく強調せざるを得ない。

(ちなみに、キリスト教界全体を口汚く罵っていた唐沢が、筆者が「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団で挫折した」と語っている様子には、思わず笑ってしまう。一体、唐沢はどの口を持って一方ではキリスト教界全体を罵りながら、他方では、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を擁護できるのであろうか。こうした主張は身びいきと言う他ないだろう。

むろん、筆者がこの教団で挫折した過去などなく、筆者がこの教団を離れた直接的なきっかけは、津村昭二郎氏の牧会に失望幻滅したことにあり、津村氏が不祥事事件で引責辞任に追い込まれ、かつその疑惑に相当な根拠があることについては、教団配布の様々な証拠資料と共に具体的に記事に記した(津村昭二郎・村上密が共同して鳴尾教会から津村氏の後継者となるべく招かれた伝道師夫妻を追放した事件)。唐沢が「転向」されられて以後、津村・村上ファミリーおよび杉本を擁護するために、筆者を中傷して以上のような嘘を述べているのは明白である。)

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を率いる聖霊派の理念の誤りは、大きく見れば同じ聖霊派に位置づけられるカリスマ運動の指導者である手束昭明氏の著書を引き合いに出して詳しく論じた通りである。要するに、キリスト教には「父性原理ばかりが強すぎて、母性原理が足りない」と、あたかもキリスト教にはバランスが欠けているかのように非難して、もともとキリスト教にあるはずのない「母性原理」という新たな要素(要するに、異端思想)を巧妙に付け加えようとするのである。
  
異端思想はこのようにして、まずはキリスト教に何らかの「重大な欠陥」が存在するかのように「ケチ」をつけるところから侵入口を得る。(被害者を募って教会に「ケチ」をつけては裁判をしかける手口と同じだ。もちろん、彼らは信徒に対しても同じように振る舞う。異端思想を見分けてこれとの分離を訴える筆者のような信徒が現れれば、「非難された人が可哀想」と同情論を唱え、「愛情や同情心に欠ける」などと人格攻撃を浴びせ、こうして人柄に「けち」をつけることで人物像を歪め、すべてを人間的な対立の話に置き換えることで、聖書の御言葉に関する議論から逃げ、物事を曖昧にごまかそうとするのである。)
 
だが、聖霊派が「キリスト教に補われるべき」と主張しているこの「母性原理」こそ、東洋的な母性崇拝に起源を持つ、キリスト教に根本的に敵対する悪魔的な思想であることは幾度も述べた。洋の東西に関わらず、母性原理を「神」として崇める非キリスト教的な宗教は、「慈愛」とか「慈悲」とかいった言葉を悪用しながら、「和をもって貴しとなす」式に、人間の感情が満たされ、傷つけられないことだけを最終目的としながら、すべてを情に基づいて判断し、物事に白黒つけることを嫌い、光と闇を明白に切り分ける聖書の御言葉に悪質に対抗する。そして、人間を高く掲げながら、最終的には聖書の神に敵対し、キリスト教に敵対し、クリスチャンに敵対する運動を生んで行く。

キリスト教の異端は、こうした母性原理を崇める思想が、巧妙にキリスト教の仮面をつけて、キリスト教の中に入り込んで来ることによって生まれる。そこで、筆者は、「父性原理」に立つのか(御言葉の切り分けを保持するのか)、「母性原理」に立つのか(情に流されて御言葉の切り分けを曖昧にするのか)という議論は、本質的に重要なものであって、クリスチャンが、人間の感情が満たされることだけを最終目的に掲げて、すべてを明白に切り分ける御言葉の「父性原理」を退ける道を選べば、待っているのは破滅だけであると確信する。信者は、人間の感情が根こそぎ傷つけられても、聖書の神の御言葉に従い、御言葉が成就することだけを最終目的として、御言葉の「父性原理」(切り分け)に服さねばならないと考える。どちらの立場を取るのかによって、信者の人生ははっきりと明暗が分かれてしまう。

村上と唐沢の主張の非常によく似ている点は、両者がキリスト教の教会で起きる様々な事件を糾弾する過程で、被害者感情に寄り添い、自称被害者たちの言い分を盲目的に信じて肩入れして行くうちに(実は被害者に寄り添うことで、彼らは自分自身の心を慰撫しているだけなのであるが)、そうした事件があたかもキリスト教そのものに原因があって引き起こされたかのように述べて、自分と被害者を一体化させる形で、キリスト教全体を敵視し、クリスチャンを敵視する発言を何度も行い、諸教会を断罪し、自分たちの傘下に身を寄せた信徒や同僚を次々と売り渡すような行動に出ながら、それでも、自分たちだけが正しい教えに立っているかのように主張している点にある。

両者ともに、自分たちが偽預言者と呼ばれて非難されても、人格攻撃のような形で論敵を貶めながら、話の矛先を逸らそうとするだけで、決して真正面から反論しようとはしない。彼らには、論敵と対峙するに当たり、そもそも教義に関する議論を避け、自分たちの「見てくれ」で勝負しようと試みるという特徴が共通して見られる、要するに、自分たちは優れた人好きのする外見を持っていて、つきあい上手で、取り巻きも多いが、自分たちを非難する人間は、見栄えの悪い、欠点だらけの人物で、誰からも好かれていないかのようなネガキャンを行うことで、論敵の人格について印象操作を行って議論から逃げようとするのである。

このようなものは稚拙な印象操作であって、議論とは呼べない。だが、果たして、そこまで言うのならば、彼らにはそれほど誇れる立派な「外見」が本当にあるのだろうか?という疑問も生じる。大体、家庭内暴力などを振るう男たちは、決まって外面だけは良いのを自慢とするが、唐沢の例に至っては、以前から自分が大学の守衛から不審者のように見られたと述べたり、何より「自分は真っ赤な偽牧師だ」と至る所で自嘲していたような有様なので、これで誇れる立派な外見があると言うのはあまりにもお粗末である。
  
そもそも自分で自分を「偽牧師だ」と自称しているような人物の言葉に、信憑性があるのかどうかは、読者の目には明らかであろう。

以前に持っていたそれなりに尊敬される社会的地位までも自ら捨ててしまったとあれば、外見を誇りながら、その外見と社会的地位によって人を納得させる道すら自ら絶っているも同然である。さらに、この世の裁判でも杉本に敗北したとなれば、唐沢の主張は、この世の実社会においても、認められなくなりつつある様子が分かる。次々と何らかの事情のありそうな信徒を周りに集めては、その信徒を助ける風を装って、同情をきっかけに、信徒に感情的に肩入れして行き、その後、その信徒らから訣別を言い渡されると、今後はその信徒の人生を破滅させるような行為に手を染めるのだから、全体として見れば、誰一人としてきちんと育った「教え子」がいないわけで、信頼が失墜するのは無理もなかろう。このような点でも、唐沢は村上と同じである。
  
杉本との裁判に敗北して妥協させられて以後、唐沢は村上のみならず杉本ともあからまさにそっくりな主張を展開するようになっている。どちらも、自分にとって不都合な真実を見ないでいるために、罪もない人間に罪を着せて、虚偽を言いふらしているだけである。

唐沢はこうして自分を偽牧師と罵る杉本の主張の前にひれ伏し、ひざまずいたのである。それは唐沢が主イエスの御名を裏切って、信徒の血を代価として、神と人との前で公然と行った行為であるから、この世だけでなく来るべき世でも、二度と撤回はできまい。
   
このように、村上も唐沢もともに、キリスト教の本来的な信仰から逸脱している不信者らの被害者感情に寄り添うあまり、キリスト教そのものを敵に回すような活動に手を染め、そうしたがゆえに、御言葉の敵となり、教会の敵となり、信徒の敵となってしまったのである。

欺かれてはいけない。事の本質は、決して弁舌の巧みさや、カリスマ性のある外見や、取り巻きや支持者の数や、おべっかやお追従を受けているかどうかや、人好きのする性格、うわべの行動のそつのなさ、立ち回りの器用さ、老練さ、老獪さがあるかどうかなどの外見や手練手管にあるのではない。
 
そうした性質をすべて備えているのは、詐欺師だけである。そして、そういう派手な外見とうわついた甘言にやすやすと欺かれるのも、愚か者だけと相場は決まっている。物事を深く考察せず、見た目で判断せよと迫って来る人間の中に、真実はまずない。このことは世人でさえ否定しないであろう。
 
クリスチャンは、あの有名なイザヤ書53章で、主イエスの外見について、聖書に何と書かれているか、立ち戻ってきちんと朗読されたい。

だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。
 主の腕は、だれにあらわれたか。
 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。
 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

このように、主イエスには、「われわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさも」なかった。奇跡を行っても、人々に受け入れられず、人を癒しても、感謝もされず、多くの町々で、まるで不審人物のように追い払われた。最後は罪を犯していないのに、十字架にまでかけられ、殺された。
 
主イエスが、きらびやかな外見や、弁舌の巧みさ、弱者救済のお涙頂戴のスピーチなどで、人の注目を集めたなどという記述は聖書には全くない。数多くの取り巻き連に担ぎ上げられて、おべっかや、お追従を受けて自己満悦されたなどの記述も全くない。

そこで、我々は、以上のように、キリスト教に敵対する人々が、クリスチャンの外見のみすぼらしさ、貧しさ、弱さ、不器用さを嘲笑しながら、得意げな自己アピールによって、自分こそ正しく信頼に値する人間であるかのように吹聴している有様を見れば、彼らの主張が、主イエスの生き様とはまさに正反対であることを知る。

キリスト教の不祥事などを口実に、あたかもキリスト教が欠陥宗教であって、キリスト教そのものの理念に重大な問題があるかのように吹聴し始めた人々は、その主張がことごとく聖書と真逆になって行く様子がよく分かるのである。
 
唐沢のメッセージでは、もはや十字架の死と復活という言葉も聞かれず、キリストの十字架そのものが消え失せている。これは筆者から見れば、極めて恐ろしい、ぞっとする事実である。
 
信者たちは、決してこのような例に倣うことなく、たとえ外見はどんなに弱々しく、みすぼらしく、不器用で、力もないように見えても、内心では決して揺るがされることなく、最後までキリストの十字架に堅く立って、人間の義ではなく、神の義を主張し続けたい。

<⑤に続く>

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実③


~Dr.LukeことKingdom Fellowship Church(KFC)の唐沢治も守秘義務を破り、対杉本の裁判において当ブログ執筆者の個人情報を杉本徳久へ提供・漏洩したと見られる事実について~


この記事は「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実②」の続きである。

さて、杉本は、筆者の個人情報(名前)についてだけは、Dr.Lukeこと唐沢治と坂井能大氏が行った裁判で坂井氏側から提出された資料を通して入手したと述べている。

おそらくこの記述は事実であると考えられる。ただし、杉本はそれ以前から筆者の氏名を別のルートでも入手しており、それゆえ、筆者に名前を記した上で脅しメールを送って来ている。

杉本対坂井氏の裁判が行われた当時、筆者は以前の記事にも記した通り、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒であった鵜川貴範・直子夫妻が、他教団の信徒であるという身元を隠してKFCに潜入し、集会をかき回し、会堂契約を失わせ、筆者を断罪・追放し、唐沢をもメッセンジャーから降ろすという出来事があったことを機に、唐沢と完全に親交を絶ち切っていた。

筆者は唐沢に前もってアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団および鵜川夫妻の危険性を告げていたが、同氏はその忠告を全く信じようとせず、鵜川夫妻に感情的に(ほとんど盲目的と言っても良いほどに)入れ込んでおり、集会が終わるたびに三人だけで場所を移して長時間に渡り話し込んでいる有様だった。

筆者は彼ら三人からKFCの集会中での「態度が悪い」(?)とか「面従腹背である」(???)などを理由に断罪され、ほとんど「呪いの予言」と述べて構わない言葉の数々を浴びせられた挙句、KFCから追放されたのであるが、この馬鹿馬鹿しい事件については「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒による他教会(KFC)乗っ取り事件」 にも詳しい。鵜川夫妻がどれほど信用できない人物であり、その二人を信用した唐沢がどんなに愚かで人を見る目がないかも分かる出来事である。

以前にも書いたように、筆者はそうした出来事を真に受けず、その足でまっすぐ唐沢のことを長年知っている別な兄弟姉妹のもとへ行き、この事件をどう思うか尋ねてみた。すると、彼らは異口同音にKFCの異常性を述べ立て、このような異常な団体に関われば、上記のような事件が起きるのはまさに当然であって、彼らの吐いた言葉にはことごとく根拠がないと述べ、一切唐沢との親交を絶ち切るように告げて来たので、筆者はそれを聞くまでにも彼らと同様の見解を持っていたが、やはりそうだったのかと納得した。

筆者自身が当ブログにおける議論の中では、唐沢のコメントを通して大いに実りある収穫を得たとはいえ、唐沢には何かしら非常に不穏な存在感を覚えていたため、もし杉本によるバッシング事件がなければ、おそらく横浜に来ても、KFCや唐沢のもとに足を向けることは決してなかったであろうと思う。

以上のような経緯があったため、筆者は、唐沢にも完全に愛想を尽かし、KFCの欺瞞にもうんざりしており、唐沢が支援したという坂井氏の裁判には全くと言って良いほど関わっておらず、筆者が書いたメールを、そこで唐沢が裁判資料として提出することに同意した事実も全くない(一体、誰がそんなことに同意できようか)。

要するに、唐沢は筆者をKFCから自ら追放しておきながら、その事実がなかったかのように隠した上、筆者には無断で、筆者の個人情報の記載されたメールを裁判資料として提出したのである。

そのようなことを唐沢が行った理由として、筆者の証言という援護射撃を受ければ、坂井氏の裁判を有利に進められるだろうという考えがあったことが推測される。
 
唐沢はニュッサのグレゴリウス氏を刑事告訴した際にも、筆者ともう一人のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団出身の信徒に、自分に有利な証言をさせている。

唐沢は2010年当時、グレゴリウス氏が杉本のブログ等で「Dr.Lukeに呪いの予言をされた」などと書き連ねていたことに、相当に頭を悩ませていたらしく、その件で、筆者に力になって欲しいと、自ら頼み込んできた。

その当時、筆者は唐沢のことをよく知らず、また、筆者自身が杉本のブログで激しいバッシングを受けて、その件で困り果てていたこともあり、唐沢がまるで杉本のバッシングの件で筆者の相談に乗ってやる交換条件のように、グレゴ氏の件で支援して欲しいと話を持ちかけて来たとき、筆者自身が唐沢という人物とほとんど直接接触したことがなかった情報の少なさも手伝って、そこで聞かされた内容を疑ったり、断ることができなかった。

唐沢は2010年に、杉本によるバッシングの件で途方に暮れて唐沢のもとを訪れた筆者に向かい、「KFCに関わるつもりがあるなら、グレゴ氏の事件のことも、含んでおかなくてはいけないよ」などと述べて、グレゴ氏のことなど一切知らない筆者にも、まるでこの事件の解決の責任があるかのように図々しく主張した。

だが、筆者はグレゴ氏が誰なのかも知らず、当時のKFCの様子も全く知らず、唐沢とグレゴ氏の間に何があったかも全く知らず、その事件の解決のためにできることもほとんどなかった。
 
にも関わらず、唐沢はこの事件に無関係であった筆者の存在を、事件を自分に有利に「解決」するために最大限に利用して、グレゴ氏に対する和解の呼びかけを何度も書き直させたり、自分に有利な証言を行わせたりして、自分一人、難を逃れるための手立てをいくつも講じた。

筆者はその当時、紛争の経緯は知らなかったものの、グレゴ氏と唐沢との早期の和解を心から願っていたために、唐沢が送って来た和解の呼びかけの文章にも目を通し、効果的な呼びかけに必要と思われる数々の助言を行った。だが、筆者がそのようにして、どうすれば二人の間に和解が成立するかと、真剣に頭をひねっていた間にも、唐沢は「あくまで扉は開いているということをアピールするためにね」と述べて、その和解案が、単なる表向きのポーズでしかないという意図を明白に表明した。

唐沢はおそらくその頃から、グレゴ氏の自分への「裏切り」を許し難いものとみなして、グレゴ氏を刑事告訴して有罪に追い込むことだけを目的に据えており、初めから和解する意図はまるでなかったのではないかと推測される。筆者は、それより少し前に、唐沢があまりにもその事件のために悩んでいる様子であり、筆者にできることもなかったので、被害届でも出したらどうか、という意味で、「警察に相談したらどうですか」と水を向けてみたことがあった。

しかし、唐沢はその言葉の意味を、筆者の述べたのとは全く違った意味内容として受け取ったらしく、グレゴ氏に対する報復を果たす手段が手に入ったと考えたのか、その後、早速、グレゴ氏を刑事告訴することに決めたと告げて来た。ちなみに、この行為については、実に数多くの信徒が唐沢を非難し、「杉本を告訴するならともかく、なぜ元信徒を告訴するんだ」と反対した。筆者に対しても、「ルークを止めて欲しい」と言った依頼がなされたし、後に筆者のもとにやって来て、面と向かって、「あの時、自分の集会に通っていた元信徒を告訴したことで、ルークは指導者として決定的に信用を失った」と述べた信徒もいた。

そうした経緯もあって、筆者自身も、当時は、唐沢に何とかして思いとどまってグレゴ氏と平和的に和解してもらおうという意図のもと、話し合いを提案し、自らそれに赴こうとさえしていた。すでに述べたように、結果としてその計画は成らなかった。唐沢が「あなたがそこまで言うなら、あなた自身が話し合いに同席して下さい」と(厚かましくも)筆者に頼み、筆者が土産物まで用意して、グレゴ氏のもとへ向かおうと、唐沢が筆者をピックアップした直後、警察から制止が入って、話し合いによって和解を求める計画は中止となったのである。筆者はこれを、筆者がこれ以上、事件に深入りすることのないように助けられた神の采配であったと考えているが、その結果、筆者はグレゴ氏と対面したこともなく、グレゴ氏が誰なのかも知らず、以後、その事件のなりゆきには、全く関わっていない。

さて、唐沢はグレゴ氏を刑事告訴したと筆者に告げた際に、「Dr.Lukeは人を呪うような人間ではない」という趣旨の証言を、筆者にもしてもらいたいと頼み込んで来た。

筆者はその頃、あまりにも未熟で愚かな信徒であったので、唐沢の心中を疑うことができず、まさか筆者同様に高い学歴を持つ教養人であるはずの唐沢が、「呪いの予言」などを口にするなど、あり得ないことだと考えて一笑に付していた。とはいえ、この依頼のことで、筆者は後に、唐沢に面と向かって、非常識な行動の数々を責めることになった。まず、唐沢が自分から人に証言を頼んでおきながら、面倒なことには一切関わりたくないとばかりに、自分自身は警察署に足を運ぼうともせず、自分のために証言してくれた他人の労をねぎらおうともしなかったこと、証言と言いながら、台本まで首尾よく用意していたことなどから始まり、筆者はこの事件で罠にはめられたように感じ、この事件を巡る唐沢の行動があまりにも非常識であり、不信感を呼ぶものであることを面と向かってかなり率直に責めた。

その当時、筆者はよく唐沢と口論のような喧嘩をしていた。以上のような事柄だけでなく、信仰に関わる事柄についても、兄弟姉妹に関わる事柄についても、あまりにも数多くの点で、唐沢には不信感を呼ぶ行動が見られたため、誰も決して言わないであろう耳の痛い苦言を、筆者は何度も唐沢に向かって述べた。

唐沢は当初、嫌そうな顔をするでもなくそうした叱責や忠告を聞いていたが、筆者が、唐沢はただ人の心をいたぶったり、弄んだりしながら時間を稼いでいるだけであって、真心からのいかなる忠告も、一切功を奏することのない対話者であると分かったのは、それからかなり月日が経ってからのことであった。

本来ならば、裁判や事件で、自分に有利な証言を行ってくれた人間は、恩人にも等しい存在であるから、一生、頭が上がらなくなるものと思う。だが、唐沢には、そういう考え方はまるでなかった。唐沢は、筆者を理由もなくKFCから追放し、筆者がKFCを公然と批判するようになった後では、筆者が唐沢のために証言した事実など全くなかったかのように沈黙し、かつての恩も忘れ、掌を返して筆者を中傷しているのであるから、大した「恩返し」である。

こうして、筆者は唐沢のために有利な証言を行ったが、唐沢は筆者のために不利な証言しかしなかった。むろん、杉本のバッシングの件でも、唐沢は筆者のために何の力ともならず、実行するつもりもない民事提訴の予告をしたりして、事件をより一層こじらせただけであった。

そして、その当時から、唐沢は筆者に向かって、次のような話も得意げにしていた。杉本が信頼して心を打ち明けて、クリスチャンをバッシングする計画を逐一相談している牧師がいるが、その牧師が杉本に恐れをなして、杉本が送って来るメールをすべて唐沢に転送しているため、杉本の計画は、すべて唐沢には分かっているのだと。

筆者はそれを聞いた際、ますます唐沢という人物に不信感を持ち、「あなたはどうしてそうやって人の裏をかくような、スパイみたいな活動に手を染めるんですか。どうして自分が予告した通りに、民事裁判のような開かれた場所で、正々堂々と勝負しないんですか」と尋ねただけで、その牧師とは誰であったのか、唐沢が掴んでいる杉本の情報とは何なのか、尋ねようという気にもならなかった。

むろん、その後、唐沢がそうして得られた情報をもとに、杉本がしようとしている計画を筆者に事前に告げて、気をつけるよう警告して来たことは一度もなかった。今となっては、唐沢はただ自分一人だけ他の人々には及ばない情報を握り、高みに立って、大勢の無知な人々を惑わせ、争わせて楽しんでいたようにしか、筆者には見受けられないのである。

このようなことから、筆者は大きな教訓を学んだ。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。 」(エレミヤ17:9)と、聖書が言う通り、人の心の中で起きていることは、誰にも分からず、決して誰をも弁護しようと思ってはならず、他者の証人になってもいけない、ということである。

唐沢のために弁護してやる価値がなかったことは確かであり、こういう利己的な人間の正体を見抜けなかったことは(当時は唐沢との親交も短く、様々な事件のために混乱しており、状況そのものが極めて異常だったとは言え)やはり愚かであったとみなさなければならない。

だが、以上のような事柄は、決して唐沢一人に当てはまるのではなく、例外なくすべての人間に当てはまるのである。外見がどうあれ、社会的地位がどうあれ、他の人々からの受けがどうあれ、つきあいの長さがどうあれ、どれほど思い入れがあろうとなかろうと、人間というものは、一人の例外もなく、弁護に値しない存在だというのが、聖書の教える真理なのである。

だから、人間については決して早まった判断をしてはいけない。うわついた賛辞や、耳に心地よいおべっかや、お世辞、人々の人間性について太鼓判を押すような言葉は極力控え、ただ辛辣な批判だけを述べている方が、よほど真実には近く、無難であるとさえ言えるかも知れない。そのようにして、人間を高く掲げず、賞賛もしないことは、世の中の考えとは真逆であろうが、実際には、それが聖書の最も真実に近い態度なのである。
 
今となっては、村上同様に、唐沢の利己主義、ご都合主義、非常識にも、呆れ果てるのみで、二人は悪党同士、良い仲間だと言えよう。
 
また、グレゴ氏の言い分には、かなりの割合で、事実が含まれていたものと筆者は考える。特に、唐沢が「呪いの予言を行った」とする同氏の言い分は、少なくとも、筆者自身に起きた事柄に照らし合わせても、事実であった可能性が相当に高い。

だが、だからと言って、それでは、グレゴリウス氏は一方的な犠牲者であるのかと言えば、そうも言えない。唐沢をかばうつもりは筆者には微塵もなく、唐沢が指導者としての地位や権威を利用して、グレゴ氏を圧倒的に有利な立場から叩きのめした行為は非難されてしかるべきであると思うが、グレゴ氏がその非難から身を守れなかったのにも、それなりの理由がある。

グレゴ氏は、唐沢の呪いの予言などを真に受けず、まずきちんと聖書の御言葉に立って、それに対抗しなければならなかった。そのようなことを「被害」として主張すべきでなく、ましてそれを杉本ブログ(しかも杉本が筆者と当ブログをいわれなくバッシングしている記事)に書き込んだりすべきでもなかった。唐沢に不信感を抱いたとしても、唐沢と筆者とが別人であることを理解した上で、面識もない筆者を同様に扱うべきではなかったろう。さらに、病と手を切り、自分が完全に健康であることを主張して立ち上がるべきであった。

結局、悪魔からどのようないわれのない非難を受けたとしても、キリスト者は堅く信仰に立って、身の潔白を主張して、応戦せねばならないのであって、もし神が味方して下されば、キリスト者には、必ず、どのような状況でも、自分を守り通す方法はある。不当な主張には徹底的に抵抗し、立ち向かわねばならない。それは相当に骨の折れる作業ではあるが、信仰によって貫徹すれば、必ず、身の潔白は証明される。なぜなら、神の義に立っている信徒を守って下さることは、神の仕事だからだ。

そのことは、筆者自身が、たった一人で杉本からのいわれのないバッシングや、刑事告訴の脅し、また、唐沢や鵜川夫妻の三人から受けた「呪い」の言葉の数々や、杉本や村上や唐沢の取り巻き連中からの心ない言葉や、呪詛と呼ぶにふさわしい言葉の数々も含めて、すべての圧迫に、ただ聖書の御言葉だけを武器に、一人で立ち向かったからこそ、言えることである。
 
こうして、グレゴリウス氏を巡る事件は錯綜しており、誰にどれだけの責任があるのかは、まさに神のみぞ知る領域であって、安易に決めつけることはできないが、少なくとも、その事件が起きる中で、唐沢が自分だけ都合よく難を逃れるために、無関係に等しい筆者を最大限に利用したことは確かである。

こうしたことがあったために、筆者は今、自分自身のためには、誰の証言も求めないのである。筆者のための証人としては、最も確かな証言をして下さる聖霊がついておられるから、それで十分である。それ以上の保証人はどこからも探し出して来ることはできない。


筆者が正しい人間なのか、そうでないのか、神の御言葉に忠実に従っているのか、そうでないのか、生きた人間の中には、誰一人として保証できる者はいない。筆者は、そのことを十分に分かっており、最後まで自分のための弁護を、ただ神お一人にだけ依頼するつもりである。自分のしていることや、歩んでいる道に、他人を巻き込むつもりはなく、誰からの理解や援護も求めるつもりはない。困難が深ければ深いほど、筆者は自分のための弁護を決して神以外の方に委ねず、神がついておられなければ、勝利もないという状況にあえて立とうと思うのである。だが、このように神以外の一切のよりどころを持たないからこそ、神自身が筆者の潔白を証明して下さると確信している。(こんな風に神に頼る人間を見捨てれば、神の名折れである。)
 

ただそうは言っても、読者はここに筆者が述べていることも含め、それぞれの主張を見比べて、誰が本当のことを言っているのか、真剣に吟味・判断してもらいたい。

さて、唐沢は、一度目の成功に味をしめたので、坂井氏の裁判の際にも、筆者の証言が得られれば、有利に事を運べると踏んだものと見られる。もしくは、何とかして筆者をもその裁判に引きずり込みたかったのであろう。

だが、愚かなことである。本人不在の中で、裁判にメールなど提出してみたところで、何の信憑性があるというのだろう。裁判で証言を行うためには、陳述書という形を取るのが通常である。しかし、唐沢は自ら鵜川夫妻と一緒になって、筆者をKFCから追い出す側に回った以上、筆者から陳述書を取れる状態にあるはずもなかった。

唐沢はそうした事情を、おそらくすべて坂井氏に隠した上で、あたかも依然、筆者の味方であるかのように振る舞いながら、筆者のメールを裁判に提出したのだと思われる。

本来、メールは私信であるから、本人の承諾なく裁判資料として提出するなど考えられない行為である。しかも、唐沢は杉本に敵対する立場として、裁判に臨み、杉本が筆者を憎み、中傷していた事実も十分に知っていたわけであるから、そのような状況で、杉本に筆者の個人情報を提供することが、どれほど危険な行為であるかを知らなかったはずがない。

それ以前にも、唐沢は2010年に杉本に自ら民事提訴の予告をしておきながら、それを長い間、理由も示さずに、実行せず、そのせいで事態は余計にこじれ、杉本がそのことで激高して筆者を非難したため、とばっちりはすべて筆者に及んだ。その上、唐沢は筆者に悪意を持っていることが明白な人物に、筆者の個人情報を流出・漏洩させて、裁判に負けた後では、筆者一人を矢面に立たせ、自分だけはあたかも杉本と和解したかのようにちゃっかりと装っているわけだから、もはや唐沢の信用ならない性格や、唐沢の心に筆者への善意や筆者を守ろうという気持ちが微塵もなかったことは明白だと言えよう。

こうしたことは、唐沢も、村上と同様の人間であることをよく物語っている。自分が批判されると、その批判を交わすために、信徒を陥れることなど平気であり、自分の身を守るためならば、真実でない主張も、平然と繰り広げられるのである。保身のためならば、守秘義務違反、信徒のプライバシーの侵害、個人情報の漏洩などの行為を犯すことにも、まるでためらいがない。彼らにとって大切なのは、自分の美しい外見的イメージが傷つけられず、見栄を保つことだけなのである。

今や、唐沢は、以上のような悪事を自分が行ったことを隠すために、都合よく立場を翻し、杉本同様に、筆者の書いていることが夢想であるかのように述べて、筆者に人格攻撃を行っている。それによって、筆者の主張の信憑性を読者に疑わせようとしているのである。インテリの何も値しないどうしようもない見かけ倒しの人間で、弁護する価値など全くなかったとしか述べる言葉もない。

筆者は、唐沢の集会を去って以後、唐沢のブログを読むこともほとんどなかったが、この度、標記事件について調べる過程で、唐沢が2011年2月19日の記事に追記する形で、自分をかばうために、筆者の人格を貶めて中傷したり、「ヴィオロン氏と杉本徳久氏の争いに関して、2009年当時はヴィオロン氏が私の元にいたので間に割って入ったが、2012年以降私とは関係ない状況にあり、またニュッサの件も真実が明らかにされ、杉本と争う根拠は消失した故、一切手を引いている。」と記していることを知った。

こうして、唐沢は一方の口では、筆者について「2012年以降私とは関係ない状況」、「一切手を引いている。」と言いながら、もう一方では、その記述を自ら裏切る形で、筆者には無断で、筆者の個人情報を裁判資料として提出したり、あるいは、かつては筆者のブログで自分も中心的存在となって、村上密を糾弾する立場に立っていたにも関わらず、そうした事実が全くなかったかのように、筆者が個人感情ゆえに一人で村上に対立しているかのように述べながら、筆者を貶め、杉本が筆者の人格を誹謗中傷する格好の材料を提供しているのだから、全く呆れ果てるばかりである。

もちろん、「ニュッサの件」で唐沢が真実を闇に葬る側に回ったことも、それから、杉本に依然として自分が偽預言者扱いされているにも関わらず、それに立ち向かおうともせずに「杉本と争う根拠は消失した」などとうそぶいていることにも、呆れ果てるだけである。(唐沢は裁判に負けたために、杉本の主張にやむなく妥協させられたという不都合な事実を隠すために以上のように述べているだけである。)

「一切手を引いている」と言いながら、よくこれだけの嘘をついて、事態の悪化に関与し続けられるものである。このように、唐沢の言動は全く不誠実であり、首尾一貫性がなく、自己矛盾に満ちている。だが、そのことは、唐沢の集会の信徒たちも十分に知っており、唐沢が嘘つきであることを承知しながら、彼らはリーダーへの心酔をやめられないのである。村上の信奉者の場合と同様である。

今や唐沢が杉本を非難しているのは、ほんのうわべだけのポーズでしかなく、実際には、唐沢は次々と杉本を利する行動に出ては、坂井氏を含め、多くのクリスチャンを杉本に敗北させる結果へと追い込もうとして来たことは明白である。

これも牧師制度というものの闇を見る格好の事例であろう。一旦、宗教指導者となって信徒の上に君臨してしまった人間が、どんなに人格を狂わされ、見栄だけがすべてとなって、自分を守るためならば、真実を平然と売り渡し、信徒を裏切るかという事例である。

唐沢も、エクレシアの兄弟姉妹は対等であるべきで、リーダーは要らないと述べて、公然と牧師制度に異議を唱えていたが、それにも関わらず、自分が指導者となって集会を支配し、神を差し置いて、信徒らの前に栄光を受けてしまった罪は重い。

唐沢の様々な相矛盾する言動から、読者は唐沢の信用ならないご都合主義的な性格や変心を十分に伺い知ることができよう。

 
<④に続く>

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実②



 




~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密が守秘義務を破って杉本徳久に当ブログ著者の個人情報を漏洩したと見られる事実について~
 
さて、この記事は「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実➀」の続きである。

杉本徳久は当ブログの著者と直接の面識がないため、第三者から情報提供を受けない限り、当ブログ著者を誹謗中傷する材料となる筆者の個人情報を入手できない。そこで、杉本がどのような経路で筆者の個人情報を入手したのかが問題となるが、そこで、杉本に情報提供した疑いが極めて高い人物として、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が浮かび上がって来ることについてはすでに述べた。

なぜなら、杉本は自らのブログにおいて、筆者の「両親」があたかもアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の鳴尾教会に通っていたかのような虚偽の情報をブログに公然と記している。

だが、そうした杉本のブログには多くの虚偽が含まれており、まず第一に、鳴尾キリスト福音教会というのは、鳴尾教会がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を離れて以後の名称であるから、筆者を含め、筆者の家族の誰一人として、鳴尾キリスト福音教会に通った事実は存在しない。

第二に、筆者の母はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の会員でなく、他教団の信徒であり、鳴尾教会では客員であり続けた。また、筆者の父に至っては、クリスチャンでさえないため、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のいかなる教会のいかなる集会にも通った事実が全く存在しない。

それにも関わらず、杉本徳久は筆者の「両親」がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の鳴尾教会に通っていたかのようなデマを勝手にまき散らしているのだが、そのようなデマは、杉本が一人で考え出したとは思えず、その根源となる偽情報を杉本に伝達した誰かがいるためだとしか思えない。

そして、そのような誤った情報を杉本に伝達しうる人物は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師以外には、誰一人として存在しないのである。

なぜなら、杉本に以上のようなデマ情報を提供するためには、以下の条件が必要となるが、その条件にすべて当てはまっている人間は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中に、村上密以外には誰一人としていないからだ。

➀当時の鳴尾教会の関係者であること
②筆者の両親がどこかの教会の集会にそろって訪れたところを目撃していること(鳴尾教会の信者は誰もそんな場面を見たことがない)
③筆者の両親が引越して後、どこに住み、何を営んでいるかを知っていること(鳴尾教会の信徒はその事実を知らない)
④杉本が筆者に対する悪意を持って当ブログへの誹謗中傷の機会を伺っていることを十分に知りながら、それでも杉本に誹謗中傷の材料となる筆者の個人情報をあえて提供するような心卑しい人間であること(そんなことをする信徒は鳴尾教会はおろか、どんな教会にも一人もいない)

村上密が、自らのブログで、杉本よりも以前から、筆者および当ブログを卑しめる記事を発表していたことは周知の事実であり、その点で、村上は以上の➀~③のみならず、④の行為に及ぶ動機をも十分に満たしていたと言える。

もっとも、そのような村上の行為自体が、牧師として考えられないほどに幼稚で、牧師の職業倫理にもとる行為であることはすでに述べた。通常の牧師であれば、一度でも自分の教会に通ったことのある信徒については、信徒が教会を去った後でも、決して個人情報を口外せず、まして、信徒の信用を貶めるような情報を口にすることはない。

たとえその信徒が牧師と対立して教会を去った者であったり、牧師の活動を公に批判している信徒であっとしても、牧師は公人であるが、信徒は私人であるため、牧師はその信徒に報復を果たすために信徒の個人情報を公にしたり、信徒を中傷して信用を貶める内容の記事を公表したりすることは決してない。

そのようなことは牧師の職権を濫用したパワハラに該当し、プライバシー侵害や名誉毀損その他の責任追及を受ける可能性も出て来るが、何よりも、その牧師と牧師の教会の評判を著しく落とすため、そのような中傷合戦のようなことに通常の牧師が手を染めることは決してない。

だが、村上密には通常の牧師であれば、誰しも備えている品格、常識といったものがまるでないのである。

さらに、当時の鳴尾教会を知る信徒たちは、筆者の両親がそろって教会を訪れるところを誰一人目撃していないため、筆者の両親が共に教会に通っていたなどという誤解を抱きうる人間もいない。

津村昭二郎牧師でさえ、筆者の父がいかなる伝道集会にも決して出席しなかった事実を見失うとは思えず、こうしたことは、村上が一度でも津村氏に確認していれば、生じなかった誤解である。

次に、筆者の両親は、津村氏が不祥事により引責辞任してから何年も経って、遠方の地に引っ越した。そこで、筆者の両親がどこに引越し、何を営んでいるのかといった事柄について、当時の鳴尾教会の信徒たちは知らない。

しかし、村上密はこうした情報を握っていたのである。なぜなら、2008年、筆者は村上密の率いる宗教トラブル相談センターを訪れた際、村上の勧めもあって(被害者の多くから名ばかりと批判されている)「カウンセリング」の一環として、「家族カウンセリング」のために、一度だけ両親を呼んで、村上と面会させたことがあるためだ。

その時に、村上氏が筆者に送って来たメールが以下である。ちなみに、このメールは村上の記名が入っているが、伝道師の長澤氏のアドレスから送信されている。

このことは、2008年当時から、村上には信徒の個人情報に関する守秘義務という概念が全くなく、村上が伝道師と全ての情報を共有していた様子を物語っている。

2008年7月22日に村上密が「家族カウンセリング」を名目にヴィオロンの父と連絡を取った証拠

そして、実際に、筆者の両親は、筆者の依頼に基づき、村上の教会を訪れているのだが、村上はその際、筆者の両親がそろって教会を訪れた姿だけを見て、筆者の父には信仰がないという事実をよく確かめもせず、筆者の両親がともにクリスチャンであって、それ以前にも一緒に教会に通っていたのだと早合点したものと見られる。

また、村上は、その際、筆者の両親がどこに住んで何をしているかなどの情報も、二人から個人的に聞いて確かめている。

このように、杉本徳久が筆者の両親がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の鳴尾教会に通っていたとか、どこに住んで何をしているかなど、嘘をまき散らしているのは、いつものように、村上密の「強烈な思い込み」を伝授されてこれを真に受けた結果としか考えられないのである。

村上密と杉本徳久のブログは、このように、不確かな伝聞だけを頼りに、自分が見たことも聞いたこともない事柄について、まことしやかに虚偽を書き記す点で一致している。

そして、村上密が自身のブログで、これまでどれだけ大勢の同僚の牧師や信徒らの個人情報を悪用して、そうした情報を、村上の活動を批判するようになった元同僚や、信徒たちを誹謗中傷する材料として利用して来たかを思えば、あえて筆者が以上のように事細かく説明せずとも、村上が宗教トラブル相談センターを訪れた信徒らの個人情報を平気で漏洩しうる精神の人間であることに、異論を唱える者も、疑問を抱く人間もほとんどいまい。

 さらに、それに加えて、杉本自身が、筆者の情報について、村上密に問い合わせたと自らのブログで述べているのである。その際、村上が、杉本をいさめて、誹謗中傷をやめるよう説得したとか、信徒のプライバシーに触れる情報は一切提供できないと断ったなどの記述は全くない。

むしろ、杉本よりも前から、筆者に悪意を抱いていた村上は、杉本からの問い合わせを受けて、渡りに船とばかりに、筆者に関する情報を提供したのではないかと考えられる。

いずれにしても、そのような問い合わせを杉本から受けた際、村上が杉本を制止しようともせず、筆者の個人情報を漏洩したと見られる行為が、どこからどう見ても、牧師の道に完全に外れたあるまじき行動であることは言うまでもないだろう。

村上が杉本よりも先に筆者や当ブログについて書いた中傷の記事が、悪質な虚偽であることは、すでに幾度も述べて来た通りであり、筆者は杉本のみならず、村上にも記事の削除を求めているが、村上がそれに同意して記事を取り下げたという話を今の時点で全く聞いていない。

これで今でも牧師を名乗っているというのだから、心底、呆れ果てるのみだ。まさに牧師の名を穢すだけの、キリスト教徒を名乗る資格のない牧師である。杉本も村上も両者ともにゲヘナの子であるとしか言えない。

<③に続く。>

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