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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

カルト被害者救済活動の反聖書性―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動➀

 

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――カルト被害者救済活動の反聖書性について――
~キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想に回帰する危険な運動~



 

1.キリスト教に恨みや被害者意識を持つ不信者を利用して、キリスト教の信用を貶め、聖書への信仰を毀損するために作り上げられた「カルト被害者救済活動」

2.キリスト教そのものに「カルト化」を生む病理が含まれているかのように唱える人間は、聖書の御言葉への信仰を否定し、神に敵対することになり、その結果、自らが「病理の見本」と化す

3.聖書の御言葉への信仰を「高慢さと自己愛の病理」として非難する人々は、キリスト教界のカルト化問題につまずいているのではなく、聖書の御言葉の「排他性」につまずいている。

4.キリスト教の「二分性」、「排他性」につまずいた人々は、キリストの十字架を否定して、聖書に基づかない「異なる福音」を捏造する。

5.神の知恵である御言葉に逆らって、キリストの十字架を否定し、人が己の努力によって自力で救済に至ろうとする「高慢さ」

6.魂と霊を混同し、信仰によらずに、感覚的な陶酔によって霊の事柄をわきまえようとするペンテコステ運動の危険
  
7.キリストの十字架によらず、肉による善行を通して、人が自力で救済に至ろうとする偽りのヒューマニズムは、「神に見捨てられた罪人を、神の十字架の判決から救う」ための「神に対する被害者運動」である

8.御言葉(十字架)の「二分性」、「切り分け」の機能に基づき、信者が目を覚まして、真理と偽りとを峻別する必要性

9.十字架の「切り分け」を否定する者は、己を神として神への反逆に至る

10.キリスト教の「二分性」を否定する者は、「唯一の神」を否定して、主客の区別を否定する。そして、知性による全ての区別を廃した「善悪未分化の母なる混沌」への「嬰児的回帰」を主張する。

   



1.キリスト教に恨みや被害者意識を持つ不信者を利用して、キリスト教の信用を貶め、聖書への信仰を毀損するために作り上げられた「カルト被害者救済活動」

 
さて、カルト被害者救済活動を推進するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、同牧師の活動を支持する杉本徳久氏は、これまでキリスト教界に起きた不祥事を次々に告発することにより、「キリスト教界のカルト化の危険」を盛んに訴えて来た。

当ブログにおいては、記事「罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか」などにおいて、聖書に立脚していない彼らの活動は、キリスト教の改革に何ら役立たないどころか、ただクリスチャンの間に行き過ぎた異端審問と魔女狩りを生むだけであることを指摘し、この活動を糾弾し、その危険性について警告して来た。

だが、その後、さらに長年、この活動の参加者らを観察した結果、筆者が気づいたのは、こうした活動の参加者らは、クリスチャンというよりも、むしろキリスト教の信仰を持たない不信者が中心であり、どちらかと言えば、これは初めからキリスト教の信仰に基づかない、キリスト教に敵意や恨みを持つ不信者ばかりを強く引きつけて作り上げられた運動だったという事実である。
 
村上密氏自身がプロテスタントの牧師であり、この活動を支持する杉本徳久氏が「信者」を名乗っていたという事実から、筆者は当初、彼らの活動を、あたかもキリスト教の内部から生まれて来た改革運動であるかのように見ていた時期もあった。確かに、活動に参加していた者の中には信者も含まれており、キリスト教界に起きた不祥事を見て、キリスト教の現状に危機感を持つ信者が、彼らと共に「キリスト教界のカルト化の危機」を訴えるということもあるにはあった。

だが、その実、この運動は、今やとうに信者たちからは見放され、カルト被害者からの支持をも失っており、現在は信者よりも、キリスト教に根強い恨みや敵意を持ち、キリスト教に何らかの被害者意識を持つこの世の不信者、もしくは、キリスト教につまずいて信仰をすでに捨て去った元信者らを盛んに引きつけている。そして、この運動は、こうしたキリスト教に敵意を持つ不信者らを駆り立てては、キリスト教に対する敵対的な世論を作り出し、クリスチャンに対する断罪・攻撃に及んで来たことが分かったのである。
 
なぜそのような結果に至ったかと言えば、カルト被害者救済活動は、一部、信者も取り込んでいたとはいえ、本質的には、初めからキリスト教の信仰に基づかない、キリスト教に偽装しただけの、キリスト教とは異質な、別の思想に基づく運動だったためである。むろん、その思想とは聖書を否定するグノーシス主義に他ならず、言い換えれば、東洋思想であるというのが、筆者の見方である。
  
当ブログでは、カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師の活動が、クリスチャンにあるまじき所業であることを幾多の記事で示してきた。
(たとえば、「村上密牧師による鳴尾教会への不当な介入問題 まとめ」や、「この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀」を参照。)

だが、村上牧師のみならず、同氏の活動を最も熱心に支持して来た「信者」の一人である杉本徳久氏の主張を見ても、同氏が「信者」であるという証拠を筆者は全く見いだせない。杉本氏は、カトリックの信者とも言われており、地上の組織としての教会には所属している信徒であるかも知れないが、信仰告白の内容においては、どこからどう見ても、クリスチャンの正常な信仰を持っていると言い難いことが明白である。(記事「この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②」等を参照。)

こうして、カルト被害者救済活動は、キリスト教の「牧師」や「信者」を名乗る人々が率いていたため、一見すると、あたかもキリスト教界の内部から信者自身によって始められた改革運動のように見えたかも知れないが、実際には、この活動の主要な指導者・支持者たちは、キリスト教の信仰を持っているとは到底、言い難い人々であった。さらに、この活動は、「キリスト教界のカルト化問題について論じ合う」ことを口実に、もともとキリスト教に不満や敵意を持つ不信者や、すでに信仰を捨ててしまった元信者たちを盛んに引きつけては、彼らにキリスト教に対する敵意や被害者意識のはけ口を提供し、キリスト教に対する敵対的で批判的な世論を意図的に作り上げた。

こうして、キリスト教のイメージを貶めて、キリスト教があたかも危機的状況にあるかのように世間にアピールしながら、こうした世論の後押しを受けて、不信者が、信者を断罪しては懺悔と自己反省を迫り、キリスト教に対して常日頃から持っていた恨みや被害者意識の鬱憤晴らしを行うという構図になっていたのである。この点で、カルト被害者救済活動は、信者による信者のための改革運動では全くなく、むしろ、不信者のキリスト教に対する敵意と憎しを原動力に、キリスト教に対する非難と攻撃を正当化するための運動だったと言えるのである。
  
村上氏や杉本氏らが、「疑わしい」とみなしたクリスチャンにインターネットで不法なバッシングを加えたり、あるいは法廷に引きずり出して信者に強制的な処罰を試みることが出来たのも、ひとえにこうした不信者らの作り出したキリスト教に対する批判的で敵対的な「世論」の高まりがあればこそであった。
 
こうして、彼らの活動は、あたかもキリスト教の改革が目的であるかのように装ってはいたが、その実、初めから、キリスト教に対して被害者意識や、恨みを持つ人々がその鬱憤を晴らすことを目的としていたのであり、その意味で、この運動は、キリスト教とは本来的に異質なイデオロギーを信奉する人々による「キリスト教の内側からの破壊・乗っ取り作戦」だったとみなすのが最もふさわしいと筆者は考えている。

その意味で、村上密氏が約十四年前、教団から鳴尾教会に正式に遣わされた伝道師夫妻を理不尽な方法で追放し、その後も、被害者を組織して「カルト化の疑いがある」とみなした教会や牧師に裁判をしかけたり、自らの活動を批判する人物に次々に抑圧を加えて来たことは決して故なきことではない。
 
これは、キリスト教徒に偽装してはいるが、実際には聖書に基づくキリストへの信仰を持たない不信者が、キリスト教に対する敵意や被害者意識を持つ人々を意図的に組織することによって、キリスト教内外に、この宗教に対する批判的で敵意に満ちた世論を作り上げ、キリスト教そのものが危機的状況にあるかのように訴えることによって、この宗教の信用を貶め、信者の御言葉への信仰を揺るがし、キリスト教を内側から攻撃し、破壊し、変質させて行くことが、この運動の支持者らの初めからの主要な狙いだったのではないかと見られる。

この運動は、その点で、最初から聖書の信仰に基づくキリスト教の改革運動ではなかったのである。むしろ、キリスト教を敵視し、何らかの恨みや被害者意識に基づいて、この宗教に報復し、打撃を与えたいと願っている人々が、この宗教全体に破壊的な影響を及ぼすために、キリスト教界に起きる不祥事を都合よく利用して、キリスト教を敵視する世論を作り上げ、信者への攻撃に従事して来たのである。

その参加者のほとんどが信者を名乗っていても、実際には不信者であり、彼らの目的は、カルト監視機構を設立することで、キリスト教と信者全体を監視し、取り締まりの対象とし、彼らの支配界に置き、反対者は訴訟や嫌がらせ等によって容赦なく追放しながら、キリスト教の教義を骨抜きにし、キリスト教の中身を、信者もろともにまるごと入れ替えて、彼ら好みの異質な宗教へ変質させていくことが目的だったのではないかと思われるのである。
 
 つまり、これは聖書の神を信じておらず、キリストの救いからも除外され、聖書の御言葉への信仰もなく、キリスト教に敵意と恨みを持ち、「キリスト教から被害を受けた」と主張する人々による、キリスト教とその信者全体に対する怨念に基づく復讐の運動だったとみなすのが、最もふさわしいと筆者は考えるのである。
 


    
2.キリスト教そのものに「カルト化」を生む病理が含まれているかのように唱える人間は、聖書の御言葉への信仰を否定し、神に敵対することになり、その結果、自らが「病理の見本」と化す
    
さて、上記のような活動の支持者らの言い分に明確に共通する点は何であるかを考えると、彼らが盛んに「キリスト教の病理」(言い換えるならば、「キリスト教界のカルト化の危機」)を訴えて、あたかもキリスト教そのものに「カルト化の原因」を生む「病理」が含まれているかのように主張している点であるように思う。

(ただし、彼らはこの問題を教義面から追究して立証するよりも、むしろ、以下に示すように、信者の「高慢さ」や「排他性」を非難するという形を取ることが多い。)
 
ちなみに、「キリスト教の病理」という用語は、ルーク氏の影響もあって、筆者もかつては使ったこともあったが、カルト被害者救済活動の支持者らと袂を分かって後は特に、筆者はそのような形で問題を訴えてはいない。
 
なぜなら、キリスト教そのものに「病理」なるものは存在しないからである。むしろ、聖書の御言葉こそ、人間の陥るすべての「病理」に対する唯一完全な処方箋なのであって、それ以外に、解決策はないのである。人間の作った組織としてのキリスト教界には、あまたの病理現象が見られるかも知れないが、その原因が、聖書の御言葉にあるわけでは決してない。カルト化現象は、信者が聖書の御言葉から逸脱し、これを曲げた結果として生まれるのであり、もし信者が本心からこうした問題を正したいと願うならば、その人々は御言葉へ立ち戻るだけで良い。信仰の問題は、信仰によらずに解決することは不可能である。

しかし、こうした立場とは逆に、聖書の御言葉によらずに、この世の裁判等に訴えて、キリスト教界の諸問題にメスを入れ、信仰の問題に介入しようとするならば、それは唯一の解決策を退けることであるから、より一層「病理」を深めるだけであるばかりか、やがてはその方法は、聖書の御言葉を否定して、キリスト教そのものに敵対して、神と聖徒らに敵対するという恐ろしい運動になって行く。それこそが、カルト被害者救済活動の辿って来た歴史であった。
   
聖書の御言葉への信仰を持たずに、キリスト教全体を疑わしいものとみなして、この宗教そのものに「病理」が含まれているかのようにみなして断罪するようなことをすれば、その人々は結果的にキリストの福音を否定して、神の救いから除外されることになり、理性を失う。御言葉に基づかず、キリスト教そのものを「病理的な、疑わしい宗教」であるかのように非難している人々が、真っ先に、まさに「病理」の見本となって行くのである。

このことは、カルト被害者救済活動の支持者らが非難している対象が、無差別的に拡大していることの中にも見て取れる。

たとえば、村上密氏の場合、当初、同氏は統一教会などのキリスト教外の「カルト」を糾弾していたが、次には同氏の標的は、キリスト教内部の「カルト化の疑いのある教会」になり、果ては、村上密氏自身が所属している教団にまで向いた。同氏は「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の危機」を唱えて、自身の属する教団までも非難の対象としている。

こうなっては、キリスト教界に安全地帯はないということになろう。村上氏は、鳴尾教会に対する訴訟に及んだ事実からも確認できるように、もとは同じ教団の仲間であって、「同じ釜の飯を食った」牧師でさえも容赦なく敵扱いし、打撃を加えることを辞さないのである。

カルト被害者救済活動の指導者による、このようなのべつまくなしの信者への攻撃を見ると、自分の活動を批判し、理解を示さない全ての人を敵扱いするという一種のパラノイド的思考に陥っている様子が見て取れる。筆者が当初より警告した通り、彼らの言う「カルトとの闘い」は暴走して魔女狩りのようになり、キリスト教を信じる全ての信者に対する無差別攻撃になって行ったのである。

このようなことが起きたのは、彼らの率いるカルト被害者救済活動が、もともと本質的に、キリスト教の中から信者自身によって起こされた、聖書に回帰することを唱える平和な改革運動ではなく、むしろ、キリスト教には異質な理念を基礎とする、聖書の御言葉を否んでキリスト教そのものに敵対する運動であって、内側からの破壊運動であったと考えれば不思議ではない。
  
つまり、彼らの真の目的は最初から、聖書に戻ることにはなく、むしろ、キリスト教に異質な思想と方法論を持ち込むことで、キリスト教を破壊し、聖書の御言葉への信仰を毀損することにあるのだと見られるのである。
 



3.聖書の御言葉への信仰を「高慢さと自己愛の病理」として非難する人々は、キリスト教界のカルト化問題につまずいているのではなく、聖書の御言葉の「排他性」につまずいている。
 
このことは、カルト被害者救済活動の支持者らが、聖書に忠実な信仰を維持する信者たちを非難・攻撃する際の主張の中にも見て取れる。
    
筆者は、かつて記事「キリストの十字架以外に救いはない!」において、教会のカルト化という問題は、聖書の御言葉に立ち戻り、キリストの十字架に立ち戻ることによらなければ、決して解決し得ない問題であることを訴えて、聖書に立ち戻ることなく、キリスト教界の不祥事を現象面から糾弾することにのみ熱中しているカルト被害者救済活動に訣別を宣言した。

それ以後、当ブログに対しては、この活動を支持する人々から長年に渡り、猛烈な嫌がらせが行われて来た。中でも、杉本徳久氏からのとりわけ執拗な嫌がらせについては、記事「この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②」等で紹介した通りである。
 
さて、杉本氏が、筆者の信仰的な立場を非難するために書いた一連の記事やメールの中で、しきりに「自己愛性妄想」だの「自己愛イメージ」だのといった意味不明な造語をふりかざしては筆者を断罪しようと試みていたことを思い出したい。
 
実のところ、筆者は長い間、こういう意味不明な単語がどこから出て来たものなのか、さっぱり理解できなかった。そもそも「自己愛性妄想」という用語自体が杉本氏の造語に過ぎず、同氏の言う「自己愛イメージ」という概念も、一体、何を指しているのか、具体的文脈が全く不明なのである。
  
しかしながら、以下に引用するような記事を読めば、彼らが何を言わんとしていたのか、それがどんな理由によって生まれた主張なのか、かなり明確に理解できるように思う。

以下の記事は、教会のカルト化問題をきっかけに、プロテスタントにつまずいて「脱福した」と述べている元信者が書いたものである。記事の標題は、「クリスチャンの自己愛の病理と「病識」の問題」。心理学の分野に造詣のある人物が書いているようだが、しかし「クリスチャンの自己愛や病理や病識」と言った専門用語は、学術世界に正式な用語としては存在していないはずである。従って、これは学術的見解と呼べるものではなく、杉本氏と同じように、単にこの人物が、キリスト教の理念を誤ったものとして非難したいという動機から、自らの専門知識にものを言わせてそれらしく作り出した造語であると見て良かろう。
   
ブログには一見、讃美歌が記されていたり、主イエスの御名が登場したり、カトリックへの共感が語られたりもしており、著者はどうやら幼い頃から、キリスト教になじみ深い環境で育ったようである。当ブログの管理人が、プロテスタントのキリスト教界で起きる様々な問題に疑問と絶望感を覚えながら、真剣に神を求めて歩んでいた頃の姿勢に、どこかしら重なる部分も感じられる。

しかしながら、筆者と以下のブログの著者との決定的な違いは、このブログの著者が、単にキリスト教界の問題に絶望を感じてキリスト教界から脱出したにとどまらず、「脱福した」と自ら記している点である。

つまり、この人は組織としてのキリスト教界の抱える問題に疑問を感じたことをきっかけに、組織としてのキリスト教と訣別したのみならず、それを機に、キリストへの信仰とも訣別したのであり、キリストの福音を自ら捨てたと公言しているのである。

プロテスタント信者の「高慢さ」に辟易してカトリックに戻ったというわけでもなく、プロテスタントにつまずいたことをきっかけに、聖書の御言葉そのものに対する疑念が生じて信者をやめたというのである。
 
そこで、以下の記事は、文化としてのキリスト教にはなじみ深い環境で育った人間であるかも知れないが、すでに信者ではない人間によって書かれたものであり、この著者は、キリスト教の外に立って、プロテスタントの信者たちの「聖書の御言葉中心(絶対)主義」を、信者の「高慢さやナルシシズム」の表れとして非難し、否定しているのである。
    
今ここに、この記事をあえて長々と引用するのは、この記事に記されているプロテスタント信者への非難の言葉の中に、筆者がカルト被害者救済活動の支持者らの言動の中に常に感じて来た「クリスチャンに対する敵意と憎悪」をそっくりそのまま見ることができるからである。

さらに言えば、カルト被害者救済活動の参加者たちが一様に述べる、クリスチャンに対する被害者意識と恨みの念が、実際には、あれやこれやの未熟な信者の言動や、カトリックやプロテスタントといった特定の宗派の独自性につまずいて生まれただけにとどまらず、その根源が、聖書の御言葉そのものに対する彼らの敵意と否定にある様子が見て取れるからである。
 
すなわち、彼らの表明するような、「高慢で自己愛に満ちたクリスチャンたち」に対する恨みや被害者意識の念は、根本的には、彼らのキリスト教そのものに対する敵意と、御言葉に対する敵意と不信感から生まれて来るのであり、最終的には――クリスチャンのみならず、キリストの福音の否定と、聖書の神そのものに対する敵意へと至り着くのである。

クリスチャンの自己愛の病理と「病識」の問題――その①

私がカトリックの世界の中にいた時には比較的感じなかったけれども、プロテスタントの世界に入信して以来強烈に感じる様になった違和感の一つに、福音派のクリスチャンたちの持つ鼻持ちならない高慢さとナルシシズムがありました。

私の親戚縁者には福音派のキリスト教徒が多く、また大叔母などはカトリックでシスターに献身しているくらい熱心なキリスト教徒なのです。そういうわけで、私も幼少期より『聖書物語』を愛読して育ちましたので、アブラハム、イサク、ヤコブの神=「主なる神」という存在をとても身近に感じつつ成長したように思います。

私は諸般の事情があって、主イエスの救いを個人的に受け入れた十三歳のクリスマスには洗礼を受けることが出来ませんでした。しかし、その後も継続的に聖書研究会に出席し続けましたので、カトリックの公共要理についての問答は一通り学びました。

カトリックの大先輩たちには、例えば当時まだ元気溌剌と活動しておられたマザー・テレサもいらっしゃいましたし、フロイト派の精神分析医で「甘え理論」を打ち立てられた土居健郎先生もまだまだ元気で活動しておられました。何より、死生学を日本に広めたアルフォンス・デーケン神父も、今上智大学で臨床心理学の教授をなさっているクスマノ神父もみなさん本当にお元気な姿を見せてくださっていましたね(*^_^*)

私は何もカトリックがよくてプロテスタントは駄目だとか、そんなアホなことは考えていません。カトリックにもプロテスタントにも、と申しますか、キリスト教そのものに本質的な精神病理があると愚考しているのです。「ヨシュア」ことイエスが説いた教えとこんにち存在するキリスト教徒の間には、看過できない乖離があるのではないかと思いますが、いかがですか(^-^;

聖書絶対主義と申しますか、よく言えば「福音的」な信仰と申しますか、そういう発想のただ中にそもそも自己愛的な「排除の病理」を看取するのですよ

聖書しか信じない者が正しいクリスチャンで、聖書以外の中にも何がしかの真理を認めるという姿勢は、リベラルな信仰として排除されるという訳です。

今問題になっている感のあるイスラム教とか仏教についても、大体のクリスチャンは極めていい加減なことしか知らないのに、ただ彼らが聖書第一信仰ではないからというだけの理由で、例えば仏教の寺院に油を掛けたりするのですね。何とも情けない信仰ですね(-_-;)

「聖書だけが唯一正しい(誤りなき)神の言葉だ。」ということを福音派の方々はしばしば呪文のように唱えますね。しかし、聖書が各種の資料を恣意的に置換するように変換して人工的に作られたものであるということは考古学的にも神学的にも自明の理ですのに、どうして論理学的に破綻を来している福音的信仰に疑問を持たないのか、私は不思議でなりません。

「聖書が正しいということは聖書がそう宣言しているのだから、その通りなんだよ。」と言われましても、こんなひどい論理的矛盾はないものですね(^_^;) 

「私が正しいのは『私が正しい』と自分で言っているからだ!!!」と一般人が何万回叫んでみても、誰も耳を貸さないでしょうね

まぁそりゃあ三浦光世・綾子夫妻が体現しておられたようなある意味で麗しい(ように見える)夫婦愛とか、分かりやすい例で言えば『塩狩峠』の主人公が身を持って示したような愛の自己犠牲とかの真実に触れた人が、「この人はどうしてこんなに温かいのだろう? 何がこの人をこんなにもやさしい人にさせているのだろう?」と自発的に思うくらいそこに神の愛が存在するならば、赦しと愛に飢えた人々は押し寄せる様にエクレシアにやってくるでしょうね。

もしキリスト教会に本物のイエス・キリストの似姿としての愛があれば、恵みの雰囲気に飢えた人たちは押し寄せてくると思うんですよね。

バザーをやれば、或いはゴスペルコンサートを上演すれば、それを目当てとしてお客さんが来るかのように求道者が押し寄せてくるのではないかなんて、ペンテコステ派や福音派の信徒さんたちや牧師さんたちは本気で考えているのでしょうかねぇ。そんな姑息な手段では人は集まりませんよ((+_+))

<中略>
 

 私は確かに今後二度とキリスト教会に行くことはありません。それは、こんにちのキリスト教会が本質的に――神学的にも――イエスの説いた本筋から脱線しているということもあるのですが、キリスト教会のカルト化がひどいという事情もあるのです。私はカルト教会に歯向かって、かなり戦いましたのでね。疲れますよ、無駄にねぇ

今日は「クリスチャンの自己愛の病理と『病識』の問題――その①」と題しまして、クリスチャンが持っている自己愛的精神病理や排除によるヒエラルキーの問題、トゥルニエが指摘している『暴力的存在としてのキリスト教徒』の問題、そして自分のおかしさを自分で認識しているといういわゆる「病識」の問題に入っていく切り口を作りかかったところでお時間となりました。

この話題は何回かに分けてゆるやかにお書きしたいと(そんな記事は誰も期待していないでしょうけれど)勝手に思っています<(_ _)> 

カルト教会の問題に興味のある方々にたまに読んでいただけたらとても嬉しいです(*^_^*)

いつの時代も同様だったのではないかと思いますが、キリスト教徒を誠実にこなすことは骨の折れる仕事です。私は一抜けましたが、何せ三十数年間キリスト教会の内幕をつぶさに拝見して参りましたので、その辺りのことをいろいろとお書きしていきたいと思います<(_ _)>


ここでも、「神社への油まき事件」が、村上密牧師らの活動と同じような文脈で、キリスト教とクリスチャンに対して敵対的で否定的な意見を裏づける根拠として利用されていることに注意したい。

筆者から見ると、実に恐ろしい現象なのだが、「教会のカルト化」という問題をきっかけとして、これを非難しているうちに、聖書の御言葉の絶対性を否定して、キリストの福音そのものから除外されて行く「信者」たちが現れるのである。

カルト化問題を解決するために、真に御言葉に立ち戻る必要性があることを訴えるのではなく、むしろ、こうした問題をきっかけに、キリスト教そのものに「病理性」があることを訴えて、この宗教と信者を糾弾し、この宗教への絶望感を語り、煽る人々は、聖書の御言葉への信仰そのものを否定して、キリストの救いから自ら除外されて行くのである。こうした人々は、カルト被害者救済活動の参加者らの中にも多数、見受けられた。
 
ここから、「教会のカルト化」問題を語る際に、その人が、聖書の御言葉に対してどう向き合うかという点が、信者のその後の明暗を大きく分けることが分かる。

教会に起きた問題をきっかけに、神をより真剣に求め、より聖書に忠実に戻ろうとする人は、決して、キリスト教そのものにつまずいて、これを否定するに至ることはない。だが、教会の問題を論じるうちに、聖書の御言葉そのものに懐疑的になる人は、いずれキリスト教からも脱落し、キリストの福音そのものを否定することになる。つまり、救いを失うのである。
 
「クリスチャンに見られるあれやこれやのあるまじき問題」を現象面だけから非難していると、そのうちにいつの間にか、こうした問題が、あたかもキリスト教そのものに原因があって生まれたかのような錯覚が生じ、こうした「被害者」を生み出した「狭き門」としてのキリスト教そのものに懐疑的になり、聖書の御言葉の真実性を否定して、十字架の切り分けを否定して、神の福音から除外されて、福音の外に弾き出されてしまうことになるのである。
 
筆者の観点では、こうした人々は、クリスチャンの未熟な言動につまずいているのではなく、聖書の御言葉そのものにつまずいているのである。彼らが真に糾弾したいのは、あれやこれやの信者の未熟な言動ではなく、カトリックやプロテスタントという特定の宗派の欠点でもなく、むしろ、キリスト教に本質的に備わっている「二分性」、「排他性」なのであり、聖書の御言葉そのものが持つ「分離」や「切り分け」の機能、キリストの福音の排他的な「狭き門」なのである。
 
つまり、キリスト教の「狭い救い」(あえてこのような表現を使うならば)自体が、彼らのような人々にとっては、「反人間的で思い上がったもの」と見え、自分を残酷に排除した「狭量な福音」自体に我慢がならないということが、この人々のキリスト教に対する抗議の核心なのである。
 
従って、こうした人々にとって「教会のカルト化」という問題は、キリスト教に特有の「排他性」を非難するための単なるきっかけに過ぎない。彼らの主張の根幹は、特定の信者や特定の教会や特定の宗派に対する不満にあるのではなく、聖書の御言葉そのものへの不満、否定にあるのだと見られる。
 
すなわち、こうした人々は結局、神と人との断絶という聖書の事実そのものに対して異議を唱え、この断絶を解消するための手段が、唯一、キリストの十字架にしかないという聖書の事実を否定しているのであり、つまりは、己の罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信じて受け入れた者しか救われないという「キリスト教の狭量で排他的な救い」自体に抗議しているのである。そして、このような「狭き門」しか提唱できない「キリスト教そのものに本質的な精神病理がある」と非難して、そのような「狭い救い」から除外された自分たちを、「残酷で狭量なキリスト教の被害者」であるとみなし、彼らを容赦なく救いの対象外としたこの「残酷な」宗教全体を、「神と信者たちの高慢と自己愛が作り出した病的に歪んだ宗教」として非難しようとしているのである。

「キリスト教そのものに本質的な精神病理があると愚考しているのです。」

「聖書絶対主義と申しますか、よく言えば「福音的」な信仰と申しますか、そういう発想のただ中にそもそも自己愛的な「排除の病理」を看取するのですよ。」

筆者は、このブログの著者と同様の見解に立つ人々に個人的に出会ったことがある。たとえば、2009年頃、筆者は「キリスト教界からエクソダスせよ」という呼びかけに共感し、真実なエクレシアを求めてキリスト教界を旅立った信者たちに数多く出会ったが、記事には一度も記したことがないが、その中には、ある信者の「山小屋」で出会った姉妹もいた。彼女もやはりキリスト教界を出た一人であり、当時、私たちは兄弟たちと共に聖書に基づく真実なエクレシアのあり方について、夜を明かすほど熱心に語り合ったものであった。

ところが、ずっと何年も経ってから、この「姉妹」に再会すると、彼女は驚くべきことに、当時とは全く異なる見解に達していた。

その「姉妹」は聖書外伝に多大な関心を持って没頭しており、なぜそれらの外伝が、プロテスタントの信者の通常の概念によると、正統な聖書から除外されねばならないのか、全く理解できない様子であった。その「姉妹」は、聖書66巻だけが神の霊感を受けた書物であるとする「排他的な」プロテスタント信者の聖書信仰に対する明らかな敵意と怒りを込めて、筆者を詰問した。「なぜ聖書66巻だけが神の霊感を受けた書物なんですか!? どうしてそれ以外のものは聖書に含まれないんですか。どうしてこれだけが正しいと言えるんですか? 証明する方法があるなら、証明して下さいよ!!」

以前にエクレシアを求めて和やかに熱心に交わっていた頃とは、全く変わり果てた調子に、筆者はいささか驚いたが、いずれにしても、66巻だけが神の霊感を受けた書物であることを「証明」することは誰にもできない相談であり、我々はそれをただ信仰により「信じて」おり、また、御霊が我々の霊において御言葉の正しさを直接教えてくれるがゆえに、私たちは神の御言葉を論理的証明によるのでなく啓示によって理解するのであり、聖書外伝については、多くのグノーシス主義思想に基づく外伝も書かれているため、そのようなものを無分別に取り入れるのは極めて危険であると忠告した。

その「姉妹」は、上に引用したブログ記事の著者と同じように、聖書信仰が論理的に「証明不可能」であると確認するや否や、侮蔑と嘲笑を込めて、「そんな荒唐無稽で非科学的な未熟な信仰を未だに後生大事に保持している信者たちは愚かで可哀想だ」との見解を述べた。それ以来、筆者は、以前は同じように見えたこの「姉妹」との見解が、天と地ほどかけ離れていることを理解したので、彼女とは一切議論したことがない。
  
通常、聖書66巻が神の啓示によって書かれた書物であるということについて、クリスチャンは証明の必要がないと考えている。しかし、すでにこの点でも、聖書が提示する「二分性」や「排他性」に大きくつまずく人たちが出て来るのである。

このようなことから始まって、何が神に属するものであり、何がそうでないかという、御言葉に基づく「切り分け」自体が全く認められないという人たちが出現するのである。彼らはそれが「高慢で狭量な残酷な排除の論理」だとして、怒りと憎しみを込めてクリスチャンに抗議し、聖書の御言葉の持つ「二分性」を非難するのである。
 
そのような見解に陥る人々が、もともとキリスト教に理解のないこの世の人々であったならば、まだしも理解できるが、元は信者であり、何年間も、教会に所属しており、かなり熱心に真の教会のあり方を探し求めていたような人々が、キリスト教界の不祥事につまずいたことをきっかけに、最後には聖書の御言葉自体を否定して、キリストの救いから除外されて行くことは、筆者から見れば、極めて恐ろしい現象であった。

彼らは一様に言う、プロテスタントの「聖書絶対主義」そのものが、信者の「高慢」と「ナルシシズム」の産物なのだと。つまり、彼らは、信者が聖書66巻の御言葉の真実性を信じていること自体が、「思い上がって身勝手な自己愛」だと言って信者を非難するのである。
 
全く賛同も理解できないが、そのような転倒した理屈が生まれて来るのは、彼らが自分たちは、キリストの救いから「除外されている」という確信を心の内側で持っているためであると見られる。

もし信者が、聖書の御言葉を真実なものとして信じて受け入れていれば、自分は御言葉の内側にいて、すでに救われているという確信が心にあるので、安堵してキリストの救いを受け入れていられるはずである。御言葉は、その人の心に平安をもたらすことはあっても、憤りや憎しみや敵意をかき立てることはない。だが、もし人が聖書の御言葉の真実性を疑うならば、その人は、自分が神の救いから除外されており、罪に定められると感じればこそ、そんな「反人間的な狭い福音は許せない」と抗議するのであろう。

このように、目には見えずとも、聖書の御言葉は、聞く人に確かに何らかの峻厳な区別をつきつけるようである。目に見えずとも、御言葉により、はっきりとした霊的な線引きが生じるのである――そこで、ある人々は、自分は御言葉の「内側にいる」と感じて平安を受け、ある人々は、「外側にいる」と自覚して憤りを覚えるのである。
 
キリスト教そのものに病理があるなどと言って抗議して来る人々は、ほぼ間違いなく、「外側にいる」と感じている人たちである。彼らは、キリストの十字架の贖いを信じた者だけが罪赦されて救われるという、キリスト教の大前提(プロテスタントのみならず、カトリックであっても、正教であっても、教義上、変わらないはずであるが)自体が、全く許せないほどに「狭量で排他的」であり、そんなものは「信者の思い上がって高慢な自己愛とナルシシズム」から生まれて来た偽りであり幻想に過ぎないと抗議するのである。つまり、彼らはそのように信者を非難することによって、結局、自分を除外した福音そのものに異議を唱えているのである。



 4.キリスト教の「二分性」、「排他性」につまずいた人々は、キリストの十字架を否定して、聖書に基づかない「異なる福音」を捏造する。
   
こうして、キリスト教の持つ「二分性」、「排他性」につまずいたことをきっかけに、キリストの福音そのものから除外される人々が出現するのであるが、さらにその上、こうしてキリスト教につまずき、救いから除外された「可哀想な人々」を、聖書とは別な方法で「救済」すべく、キリストの「狭き門」を押し広げて、独自の「広き門」を打ち立てようとする人々が、昔から今に至るまで、数多く存在して来た。上で引用したブログ記事において、キリスト教を捨てた元信者が賞賛しているマザー・テレサもその一人である。
 
記事「神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~」からもう一度、引用したい。

「ここで思い出されるのが、ドストエフスキーの大審問官や、サンダー・シングなどの存在である。ドストエフスキーの大審問官は、聖書的な方法では人類のほんの一部しか救われないため、自分はこのような残酷で狭量な救いの代わりに、人類の圧倒的大多数を救うことのできる寛大で広い救いを作ってやるのだと述べて、教会の提示する方法では救われない圧倒的大多数のための新たな福音を提唱する。

サンダー・シングもまた、ヨーロッパのキリスト教界に接触した際、形骸化した教会生活と高慢なクリスチャンに深い絶望を覚え、こうした「自称クリスチャン」の中に神はおられないという結論に至り、それをきっかけとして、「ヨーロッパの地の塵を足から払い落とし」貧苦に喘ぎながらも真剣に神を求めている東洋の人々へと」関心を移した。「聖なる導き インド永遠の書」林陽訳、徳間書店、p.19。)
 
マザー・テレサや奥田牧師の場合と同様、こうしてクリスチャンを名乗りながらも、教会から打ち捨てられた人々を積極的に救いの対象とする「弱者救済活動」を行う指導者は、往々にして、従来のキリスト教界と従来のクリスチャンに対する深い絶望感、嫌悪感を心の底に秘めている。

彼らの「救済活動」は、神と教会とクリスチャンに対する絶望をきっかけとして始まっており、彼ら自身の自己救済のためであると言える。その出発から見て、必然的に、そのゴールは、神と教会とクリスチャンの「横暴」によって虐げられた者たちを、神と教会とクリスチャンの手から救うという性質を持つものとならざるを得ない。その結果、彼らは信仰による解決を退け、信仰によっては救われない圧倒的大多数のために、別の福音を作り上げるのである。
    
こうした人々の弱者救済活動は、ただ単に形骸化したキリスト教界に対するアンチテーゼであるばかりではなく、本質的に、聖書の提示する狭き門として「狭い福音」そのものに対する抵抗であり、抗議なのである。

彼らはその活動を通して、神自身の「横暴」と「偏狭な救い」から人々を救おうとしているのだと言えるかも知れない。だから、こうした弱者救済活動は、本質的には神を仮想敵としているのだと言えるのである。すなわち、神に疎外され見捨てられた「クリスチャン」が、同じように、教会に見捨てられた人々に自己投影し、この哀れな人々を「救済」することによって、自己救済を成し遂げ、さらには自分たちこそ神に等しい者であると主張することによって、自分を見捨て来た神と教会とクリスチャンに復讐を果たし、彼らを見返そうとする心理がその根底に横たわっているのだと考えられる。
 
従って、こうした弱者救済活動は、いかにうわべはキリスト教的な装いをまとっていたとしても、聖書に基づくものではなく、その支援者らもクリスチャンとは言えない。彼らの救済活動は、本質的には「神と教会とクリスチャンの唱える偏狭な救いに対する抵抗運動」なのであり、彼らが真に糾弾している相手は、彼らを理不尽な苦しみに遭わせ、見捨てて来た神ご自身なのである。」


全く恐ろしいことではあるが、プロテスタントの聖書中心主義につまずいて、そんなものは信者たちの「高慢」や「自己愛」の産物だのと言って非難している人々は、結局、キリスト教そのものを「神の高慢で偏狭な救い」であるとして、この「狭い救い」そのものを退け、御言葉を否定して、神に敵対しているのである。
 
こうした人々は、キリスト教を「病理的な宗教」として非難するのみならず、「教会のカルト化を憂う」、「カルト化現象によって傷ついた被害者を救う必要がある」などという一見、もっともらしく、美しく見えるヒューマニスティックな大義名分を持ち出して、他の信者に接近し、巧みにその信者の教会や信者に対する不満を探り出し、それをきっかけに、目に見える教会のあり方に疑問を感じさせるだけでなく、目に見えないキリストの御言葉の真実性までも疑わせ、巧妙に福音の外へ引き出して行こうとするのである。

カルト化問題をきっかけに、自分が「キリスト教の被害者」であると訴えた人々は、ことごとく、このような偽りに欺かれ、神と教会とクリスチャンの敵となって行った。カルト被害者救済活動を支持するほとんどの人々は、このようにして信者の敵と化したのである。たとえ讃美歌や教会行事や文化としてのキリスト教には関わっていたとしても、御言葉の真実性を信じることができなくなったこのような人々を信者とは呼ぶことはできない。

その意味において、カルト被害者救済活動は、初めから聖書の御言葉に基づく改革運動ではなく、むしろ、「教会に見捨てられ、神に見捨てられた哀れなキリスト教の被害者を、同じように教会につまずき、神につまずき、キリストの救いから除外された者が自己救済するという、神なきヒューマニズムに基づく偽りの救済運動だったと言える。
 
この人々が最もつまずき、「被害」をこうむったと主張している本質的な問題は、教会のカルト化という現象にではなく、彼らを救いから排除した聖書の御言葉にあったのである。

彼らは結局、カルト化問題を告発することにより、こう主張しているのである。「キリスト教が私たち人間を精神病理に陥れる原因を作った。だから、キリスト教は加害者であり、聖書の神は加害者であり、我々はその被害者だ」と。つまり、彼らはただキリスト教の被害者であるのみならず、神の被害者だと自称しているのであり、「我々は自己愛とナルシシズムに満ちたキリスト教の思い上がって身勝手な信者たちだけでなく、神の自己愛とナルシシズムに満ちた狭量な福音によって傷つけられ、そこから理不尽に除外された被害者なのだ!!」と主張しているのである。

従って、カルト被害者救済活動とは何かと問えば、結局、これは「キリスト教という、本質的に精神病理を含んだ狭量で異常で排他的なカルト宗教によって、容赦なく見捨てられ、救いの対象外とされ、精神を病み、被害を受けた主張する哀れな人類を、聖書の神と聖書の御言葉によらずに、別な方法で救済しようとする、キリスト教とは本質的に異質な運動」ということになろう。

だからこそ、当ブログでは繰り返し、この活動はあれやこれやのカルト化教会やあれやこれやの「疑わしい」信者だけを仮想敵とする運動なのではなく、キリスト教そのものと、聖書の神そのものを仮想敵とする神に敵対する運動だと述べているのである。
 
 
<続く>

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カルト被害者救済活動の暴走―この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀

(これはホームページに掲載する予定の論考の一部です。)

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――カルト被害者救済活動の暴走――
~この世の原則を聖書の原則よりも上位に置いてキリスト教を貶める
村上密牧師と杉本徳久氏の思想と活動の危険性について~



 1.キリスト教のイメージを貶める一方で、神社の政治イデオロギーの危険には口を閉ざし、聖書に立脚して異端を識別するための真の霊的戦いの必要性を無視する村上密氏の活動の危険

前述の記事「東洋思想とは何か。その柱は何を再建しようとしているのか」においては、明治憲法時代に逆戻りし、戦前の軍国主義・国家主義・国家神道を復活させようとの狙いのもと、神社本庁が主導して行っている危険な改憲運動について触れた。

今や神社が七五三などの場面で利用される平和で世俗化した宗教団体ではなくなり、こうした過激かつ危険な政治運動に手を染めて、我々クリスチャンの信じる神への敵対行為を行う砦のようになっている事実を見るときに、これまで当ブログにおいて再三に渡り、その活動の危険性を指摘して来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密氏が昨年に行った「神社への油まき事件」についての告発と記者会見(クリスチャン・トゥデイ記事)も、改めて違う角度から見えて来るのである。

村上密氏はこれまで「キリスト教界のカルト化の危険」を声高に訴え、支持者らと共に、キリスト教界における不祥事を次々と世間に発表しては、その是正の必要性があることを訴え、これを口実に、自ら「カルト化の疑いがある」とみなしたクリスチャンを次々と法廷に訴え出ては、訴訟沙汰に巻き込んでいくことによって、キリスト教界の混乱とイメージダウンに貢献して来た。

筆者は、こうした法廷闘争などのこの世の争いを主要な舞台とする村上密氏による「カルトとの闘争」が、従来の平和的な福音伝道を中心とするプロテスタントの牧師活動から逸脱したものであるとみなし、こうした活動が、キリスト教界のカルト化問題の解決に役立つものとは一切考えていない。そのことは、最近の記事「悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構」、「村上密牧師による自己流の「異端審問」」等でも詳しく記して来た通りである。
 
まず、平和な福音伝道という牧師の本来的な使命から大幅に逸れている点で、村上氏の活動は、到底、正常なクリスチャンとしての信仰に基づくものとは言えない。また、聖書的な観点から見ても、この世の司法や警察という世俗の権力の力を借りて異端を取り締まる活動は、この世の権力を教会の内政よりも上位に置くことを意味し、それは結局、この世の堕落した悪魔的な統治を神の御霊による霊的統治以上に高く掲げることであるから、聖書の秩序を転倒させる行為であり、その点で、反聖書的であるばかりか、悪魔的な思想に基づくものであると言って差し支えない。

こうした村上氏の活動は、キリスト教界全体を泥沼の法廷闘争と行き過ぎた異端審問に巻き込み、恐怖政治を生むことはあっても、同氏が唱えているような、カルト化問題に対する解決をもたらすことは決してできない。このことについては、当ブログでは記事「カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について」を通して、実に早い段階から警告して来た通りである。

キリスト教界のカルト化を解決する糸口は、クリスチャンが聖書に立ち戻り、キリストの十字架を原点として、聖書にそぐわない異端の教えを自ら識別して退ける判断力を持つことにしかない。そこで、村上氏の法廷闘争は、キリスト教界のカルト化問題を解決するには完全に無力であり、キリスト教界により深い混乱をもたらす源となるだけでなく、これはただ同氏がキリスト教界において権力を握るための政治闘争の手段に過ぎず、クリスチャンをますます聖書から遠ざけて、人間に権力を集中して行く危険な活動である。この問題についてはすでに記事「「キリストの十字架以外に救いはない」や、論稿「 罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反しているのか。」においても詳しく警告しているのでそちらを参照されたい。

また、村上密牧師がどういう人物であるかを判断するに当たっても、同氏がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中で行って来た信頼できない不透明な活動について、以下の記事にまとめているので参照されたい。「 村上密牧師による鳴尾教会への不当な介入問題 まとめ
   
さて、名は体を表すとはよく言ったもので、世間を騒がせた「神社への油まき事件」に関しても、この事件を引き起こした男が韓国系のキリスト教の伝道者であることを警察に率先して情報提供した(=密告した)のは村上密氏であり、同氏は自らそのことを隠し立てなく自身のブログ記事で告白している

むろん、これまでにも「カルト化の疑いがある」とみなした牧師や信徒を次々と法廷に訴え出ることを辞さなかった同氏のことであるから、こうした行為も、公共の秩序維持、社会の安寧のために正義感から行ったという認識しかなく、「危険人物を当局に率先して売り渡した」という後ろめたさなど微塵も感じてはいないことだろう。

誤解のないように言っておけば、筆者は、この油まき事件を引き起こした人物を擁護するためにこの記事を書いているわけではない。いかにキリスト教信仰に熱心な人間であっても、神社の境内に油をまいたり、他宗教に対して攻撃的な活動に走ることは、容認されるべきではないと考えている。そのような過激で自己本位な活動が正常なキリスト教の信仰に基づくものであるとも考えていないし、そんな過激な行動を伴う「霊の戦い」が正常な信仰生活であると言うつもりもない。

だが、この事件に関しては、それとは別の文脈で注目しなければならないことがある。

それは、村上密氏がこれまで「キリスト教のカルト化の危険」を声高に訴え、キリスト教の内部で起きた不祥事を大々的に世間に公表することによって、これを自身がカルト化問題の専門家として脚光を浴びる機会として来ただけでなく、キリスト教の世間でのイメージを著しく低下させることによって、「カルト対策」という自分自身のライフワークの需要を自ら作り出して来たことである。

従って、この「神社への油まき事件」も、村上密氏にとっては、自らの続行する「カルトとの闘い」が世間で脚光を浴びるための最適の機会となったのであり、同氏がキリスト教の浄化が必要であると訴えて自らの活動の需要を世間にアピールするための絶好のチャンスとなったのである。
  
こうした村上密氏の活動には、クリスチャンが決して見落としてはならない巨大な盲点、落とし穴が存在する。
 
村上氏は、神社へ油をまいたキリスト教徒の活動だけを危険なものとして取り上げて、「キリスト教界のカルト化の危機」を声高に訴える一方で、神社はただその被害者であるという文脈で、神社の唱える信仰そのものの反聖書的な危険性という問題と、神社の主導する国家神道の復活という危険な政治イデオロギーに基づく活動の危険性には全く口を閉ざしている。

同氏はこれまで常に「キリスト教の行き過ぎた霊の戦い」の愚かさと危険性だけを強調することによって、キリスト教において「霊の戦い」という名で呼ばれるすべての活動が、何かとんでもなく狭量で偏見に満ちた、馬鹿馬鹿しく荒唐無稽な概念であるかのような印象を読者に抱かせようとして来た。その一方で、聖書に立脚した真の「霊的戦い」が確かに存在するという事実や、信者が聖書に基づいて正統な信仰と異端思想を鋭く識別して、誤った思想を退ける必要性を覆い隠そうとして来たのである。

聖書は「霊の戦い」そのものが存在していないとは全く言っていない。パウロは書いている。

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ちむ悪ことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。…」(エペソ6:10-13)
 
聖書は、キリスト者には「血肉」に対するものではない、目に見えない霊の領域における戦い、すなわち、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊に対する戦い」が確かに存在することを教えている。そして、信者がこの霊的戦いに勝ち抜くための武器が、聖書の御言葉であることも教えている。
 
「霊の戦い」とは、筆者の言葉で説明するならば、目に見えない霊的領域における激しい霊的・思想的論戦である。聖書によれば、キリストの御霊が存在するように、悪霊というものも存在するが、クリスチャンには悪霊そのものを根絶することはできない。従って、クリスチャンが「霊の戦い」においてしなければならないことは、悪霊そのものを根絶しようとすることではなく、悪霊から来る思想を見分け、これを受け入れずに退け、その嘘に欺かれて悪魔の吹き込む虚偽を信じないことである。

当ブログではこれまで幾度となく指摘して来たことであるが、霊の戦いとは、キリストの御霊に属する思想と、これに反する敵の吹き込む思想とを信者が厳粛に区別し、敵の偽りを見破り、退けるための論戦なのである。

人の行動の背景にはすべてそれなりの動機があり、その動機を作り出しているのは、その人の思想や信念である。一人の人間の言動をじっくり観察すれば、その人がどのような信念の持ち主であるかが分かるであろう。そして、その信念が聖書に立脚したものであるかどうかをつぶさに調べることによって、信者は、その人がやがて行き着こうとしている人生の目的も客観的に理解することができるのである。

すなわち、人を導いているものは、その人の持つ霊的・思想的信念なのであり、一方には、聖書の御言葉に立脚したキリストの御霊から来る思想があれば、他方では、悪霊に属する思想がある。そして、悪霊の思想は、必ず、聖書の御言葉を毀損し、歪曲し、御言葉の信用を貶めるという特徴がある。
 
さらに、当ブログでこれまでずっと分析を重ねて来たように、悪霊の思想である異端思想には、太古から現在に至るまで共通する特徴があり、共通する思想的な原型が存在するのである。
 
異端思想の根幹は、神が唯一であることを否定し、神と人とが罪によって断絶していることを否定し、神と人との交わりを回復するためのキリストの十字架の贖いを否定することである。

クリスチャンは、日々、聖書の御言葉だけに堅く立って、これに反する全ての思想を識別して退け、受け入れないように気をつけねばならない。実際に、暗闇の勢力による欺きは日々行なわれているのであり、信者が注意深い識別力を持って、何が聖書にそぐわない思想であるかを識別し、これを排除するために目を覚まして警戒することがなければ、暗闇の勢力の策略を見抜くことはできず、欺かれて翻弄され、貴重な時間と労力をむなしく失うだけであろう。
 
従って、霊の戦いとは具体的に何かと言えば、それは何か超能力のようなものによって普通の人には見えないお化けのような幻影を見いだしてそれと戦ような愚かしい闘いを意味せず、また、いわゆる「悪霊退散」などのように、お化けを撃退したり根絶することを意味せず、また、キリスト教に属さない他宗教をのべつまくなしに敵視してこれを根絶しようとする愚劣な闘争をも意味せず、それは、クリスチャンが聖書の御言葉を武器として、様々な影響力となって信者のもとにやって来る敵(暗闇の勢力)の吹き込む目に見えない様々な霊的思想を識別し、何が聖書に忠実である正しい思想かを見分け、敵の虚偽を見分けて退け、真理だけに立脚して生きるための絶え間ない論戦なのである。
 
つまり、霊の戦いとは、すなわち、聖書の御言葉を曲げようとする異端思想との闘いなのであり、それは激しい論戦である。この論戦の重要性は、キリスト教の初期の歴史に存在したいくつもの公会議や、霊的先人による異端反駁などを思い出すだけで十分に理解できよう。しかし、その戦いは、異端者を火刑にしたり、残酷な処罰を行うといった外的強制力によって成し遂げられるものではなく、異端思想とは何かという、偽りの思想の骨子を明らかにし、偽りが偽りである所以を聖書に照らし合わせて明らかに証明することにより、何が正統な信仰であり、何が異端であるかを識別し、偽りを退けて、正統な信仰を守り、継承する作業なのである。

この識別は、聖書が実際に奨励していることである。

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしない。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。

人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。

イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」(Ⅰヨハネ4:1-3)

すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。」(Ⅰテサロニケ5:21)
 
上記の御言葉は、反キリストの霊というものが確かに存在しており、反キリストの告白する思想というものが実際にあることをクリスチャンに教えている。そして、クリスチャンが敵の霊を見分けるポイントが、その霊の告白する思想の内容にあることをも明確に教えている。つまり、ある霊の告白する思想が、神の御子キリストの十字架に対して、どのような立場を取っているかが、大きな見分けのポイントになるのである。
  
信者は、自分のもとに人や出来事を通してやって来る霊の述べる思想の内容を吟味して、「敵の霊を見分ける」ことをせねばならないのである。しかし、信者にもたらされる悪霊の影響力は、必ずしも、人の述べる思想や言動だけにはとどまらない。信者の日常生活に起きるすべての出来事によっても、信者の心に何らかの影響が及ぼされるのであり、環境によって引き起こされる影響力も、同じように吟味の対象とならなければならない。信者の日常生活には、暗闇の勢力が及ぼす事件というものも確かに存在するからである。

もし何の霊的識別の努力もしなければ、信者は、ただ暗闇の勢力の引き起こした事件によって翻弄され、悲しみのどん底や、落胆や、失意に追いやられ、絶望感、罪悪感、自己憐憫などの感情を吹き込まれ、神がキリストの十字架において信者のためにすべてを達成されたという聖書の事実から逸れて行き、この事実に基づいて信者はすでにすべての災いから救い出されているのであり、罪からも清められ、キリストにあって、あらゆる問題の解決をすでに得ているのだという事実を簡単に忘れてしまうであろう。

こうして、聖書の御言葉だけに堅く立って、御言葉に合致しない全ての影響力を退け、キリストの十字架を通して信者に与えられている特権としての義や、自由といった権利を守り抜くための絶え間ない戦い――思想的・霊的論戦こそが、クリスチャン生活の真の意味での「霊の戦い」なのである。

しかし、村上氏は、「キリスト教のカルト化問題」を取り上げる際、キリスト教界に起きている諸問題が、信者が聖書から逸れたために、すなわち、御言葉に合致しない敵(暗闇の勢力)の欺きを受け入れてしまったがために起きたものとして、信者に聖書に立ち戻ることを促すのではなく、むしろ、こうした問題が、あたかもクリスチャンがあまりにも聖書の御言葉だけにこだわりすぎて、「二元論思考」に陥ったために起きたものであり、まるでキリスト教そのものが、こうした問題を引き起こす原因を抱えているかのように描き出すのである。

こうして、村上氏は「キリスト教界における行き過ぎた愚かで過激な活動」が、まるでキリスト教そのものに原因があって起きているものであるかのように、キリスト教界やクリスチャンを糾弾し、巧みにキリスト教そのものの信用やイメージを貶める一方で、信者が実際に闘いぬかねばならない真の「霊の戦い」があることや、信者が聖書にそぐわないあらゆる欺きを鋭く見分けて、これを退けながら、実際に「霊の戦い」を闘いぬいて勝利し、御言葉に基づく信仰を堅く守る必要性を覆い隠してしまうのである。
  
「神社への油まき事件」も含めて、村上氏は、クリスチャンの恥ずべき過ちだけを盛んに取り上げることにより、キリスト教における神と悪魔、光と闇、天と地、霊と肉、新創造と旧創造、等々の「切り分け」や「二分」そのものが、何か非常に疑わしい、行き過ぎてカルト的な思考であり、非常識で誤った「二元論的思考」であるかのような印象を人々に抱かせようとするのである。
  
村上氏はキリスト教界に起きた誤った事件ばかりを取り上げることによって、クリスチャンが聖書に照らし合わせて何が正しく、何が間違っているのかを自ら識別して判断する必要性を覆い隠し、むしろ、そうした識別・区別の作業自体が、クリスチャンの独善的で、狭量で、独りよがりな間違った思い込みであるかのような印象を読者に抱かせるのである。

村上氏が「キリスト教における行き過ぎた霊の戦い」の馬鹿馬鹿しさだけを強調すればするほど、クリスチャンは、信者として自分が本来持っていなければならないはずの聖書への忠実さ、貞潔さ、正常な警戒心や、識別作業までが、まるで必要のない潔癖症か、あるいは、信者の高慢さや狭量さや偏見に由来する行き過ぎた態度であるかのように思わされ、これを自己反省して改めなければならないようなプレッシャーを感じさせられるのである。

こうして同氏は、非常に巧妙な形で、聖書における十字架の切り分けや、神の霊に属するものとそうでないものとの絶対的な区別(聖書の持つ「二分性」)そのものを、あたかも実在しない想像の産物や、クリスチャンの歪んだカルト的な思考の産物であるかのように描き出し、聖書の御言葉の真実性そのものを疑うように信者に仕向けて行こうとする

その一つの証拠として、村上氏は、「油まき事件」以後、同氏のブログを読んでクリスチャンから寄せられたというキリスト教特有の「二元論的思考の誤り」に関する信者の反省文を、得意げに自らのブログ記事でいくも披露している

むろん、そこに記載されている行動は、確かに、筆者の目から見ても、正しい「霊の戦い」とは言えない。しかしながら問題は、村上氏が常にこうした誤った事例の愚かしさばかりを強調することにより、聖書の神こそが、まことのただお一人の神であり、これを否定する思想がいかに危険であり、信者がいかに目を覚まして聖書を歪曲する思想の誤りに気づいて偽りを退ける作業が重要であるかという点に触れようとしない点である。

特に、クリスチャンを名乗り、プロテスタントの牧師であるはずの村上密氏が、キリスト教の不祥事だけを一方的に取り上げてクリスチャンを叩くことはしても、唯一の神を否定して「八百万の神」を唱える東洋思想に基づく神社の信仰の危険性、また、神社本庁が主導する軍国主義・国家主義・国家神道の復活へ向けての改憲を促す政治活動の著しい危険性という極めて差し迫って重要な問題について、全く触れようとしないことは不気味でさえある。
 
同氏は、こうして「この世の思想」の危険については完全に沈黙しながら、他方では、行き過ぎに陥ったクリスチャンの反省文を公然と掲げることにより、この世の思想の前に、クリスチャンをひれ伏させて、懺悔と自己反省を迫るのである。そして、クリスチャンが聖書に基づいてこの世(神社も含む)の思想の誤りを指摘して糾弾するなど、無礼千万な思い上がりに過ぎず、信者が聖書に基づいて偽りの思想を糾弾して退けようとする行為自体が、愚かで非常識な偏見に基づく寛容さの欠如であり、無用で行き過ぎたカルト的思考であるかのような印象を醸し出そうとするのである。
  
このようにして、キリスト教だけを断罪しながら、巧みに世の霊に寄り添うのが、村上氏の活動の常なる特徴である。同氏は、キリスト教界に起きた不祥事ばかりを一方的に取り上げて糾弾することによって、いつの間にか、まるで聖書に立脚したものの見方そのものが、過激で行き過ぎた危険な思想であるかのような印象を世間に抱かせ、かつ、キリスト教や聖書そのものに、何かこうした行き過ぎを生み出す源となるものがあるかのように思わせ、あたかもキリスト教が大変、危険な宗教であるかのように世間に思わせようとする一方で、神社の信仰や政治思想のようなものには一切、批判を加えないのである。

同氏の活動は、常にこうしてこの世の不信者の間で空気のように蔓延している反聖書的な思想の危険性についてはほとんど完全に口を閉ざしながら、キリスト教界の不祥事だけを大々的に取り上げることによって、キリスト教が危険な宗教であるかのように世間に思わせることに貢献して来た。また、この世の圧倒的大多数である不信者の世論を味方につけて、この世のマジョリティの力にものを言わせて、日本の人口においては1%程度のマイノリティであるクリスチャンを断罪し、自己反省を促し、懺悔を迫るという形を取って来た。

(ちなみに、クリスチャン人口が約6%にまで上昇したという記事(クリスチャン・トゥデイ)もあるが、いずれにしても日本の全人口においてクリスチャンが圧倒的マイノリティであることに大差はないと言えるだろう。)
 
このようにして同氏は、自らの非難の対象をほとんどキリスト教(と明らかにキリスト教の異端と分かっているもの)だけに絞り込むことによって、自ら牧師であるにも関わらず、キリスト教のイメージを貶めることに貢献して来た。そして、「この世」に蔓延している反聖書的思想の危険性は非難することもなく無罪放免するばかりか、むしろ、この世が「キリスト教の被害者」であるかのように主張して、この世の常識によってキリスト教界に起きた事件を裁き、この世の司法などの強制力を通してキリスト教に強制介入し、聖書の御言葉よりも、この世の常識を上位に据えて、この世の力によって教会を裁くことを正当化しようとして来た。

最終的には、同氏の活動は、聖書の御言葉に基づく信仰自体が、何かしら「過激なとんでもないもの」であり、「二元論的でカルト的な誤った思考」であり、キリスト教や聖書そのものが「カルト思想」を生む源であるかのような印象を人々に与えることにより、聖書の御言葉の真実性を毀損し、聖書の御言葉に忠実であろうとする信者の信仰を「カルト的な行き過ぎ」であると断罪し、そのような「行き過ぎ」に陥らないために、「キリスト教を監視する必要性」まで訴えるのである。
 
こうして、村上氏がキリスト教に起きた不祥事を奇禍として、キリスト教界において権力を掌握してこれを取り締まりの対象としようとしているだけでなく、クリスチャンが何が正しくて何が間違っているかをはかるためのものさしを、巧妙に「聖書」から「この世の常識」にすりかえ、キリスト教の行き過ぎだけを断罪しながら、他方で「この世」の誤った思想の危険性を無罪放免することにより、結局、「聖書の御言葉」よりも、「この世の常識」を上位に置こうとしていることに注意が必要である。

このような文脈で見ると、村上密氏が「神社への油まき事件」に関して行った記者会見は、これまで世間でとらえられていたのとは全く違った文脈で理解されるのである。すなわち、同氏はこの事件を通して、クリスチャンがまたしても神社に対して過ちを犯して「世間に迷惑をかけ」、キリスト教がまたもや過激な行き過ぎに陥って世間に対して「罪を犯している」かのような印象を与えることで、まるで先手を打って、神社本庁が主導する危険な改憲運動や、国家神道の復活といった反聖書的なイデオロギーのはかりしれない危険性について、クリスチャンが聖書に立脚して非難することが、より難しくなるように道を整えようとしているかのようである。
 
このような点で、村上氏の活動は、決して聖書の御言葉に立脚したキリスト教の信仰に基づいて生まれたものとは言えず、むしろ、同氏のすべての活動は、徹底的に信者ではなく、この世の不信者の目線に立ってなされたものである。同氏が牧師であるからと言って、キリスト教的な観点から活動しているのだと思い込むことはできない。むしろ、同氏は、この世を非難することもなく無罪放免し、クリスチャンだけに懺悔を迫ることによって、キリスト教そのものが危険な宗教であるかのように描き出し、結局は、キリスト教そのものと、聖書の御言葉の信用を貶めることに貢献しているのだと気づくべきである。

このような活動は、聖書の御言葉の信用を巧妙に貶めるものである点で、反キリストの霊とこの世の利益に積極的に貢献するものだと言える。

村上密氏による「カルトとの闘い」が、常にこうして信者の側ではなく、むしろ、信仰を持たないこの世の人々の側に立って、この世の価値観を基準として、この世の人々を利するために行われて来たことに注意が必要である。
 
当ブログでこれまで取り上げたいかなる事件においても、同氏は、徹頭徹尾、「勝ち馬に乗る」ことを目指すかのように、この世の「強者」に歩調を合わせ、この世の「強者」の利益を代弁すべく行動することはしても、声を上げることもできない「弱者」である信者の心の必要性をくみ上げ、これを代弁して行動することはなかった。

それは、同氏が初期に行った統一教会等に入信した信者らを、親族らの要請に基いて、拉致監禁という信者の人権侵害を伴う形で強制的に脱会させては「救出」していた頃から見られる特徴であり、また、鳴尾教会において、村上氏が教団や教会の規則を無視して不法に行なった介入と、その結果としての伝道師らの鳴尾からの追放という事件においても共通して見られた。

前者の拉致監禁を伴う「救出」活動においては、村上氏は、信仰を持たない人々の観点に立って、カルトに入信した信者の内心を容赦なく踏みにじり、強制的に過ちを認めさせて棄教を迫ったのであり、後者の鳴尾教会で起きた事件においては、同氏は最初から最後まで、自分の義理の父であり、当時、鳴尾教会の主監者であった津村氏という「強者」に味方して、弱者の立場にあった伝道師らの訴えを容赦なく見殺しにしたのである。

さらに、鳴尾教会がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離脱の決定を下した際にも、村上氏は教会へのスラップ訴訟に及んでまで、これを阻止しようとしたが、これもまた、同氏が弱い立場にある教会に対して、教団という権力側に立って威圧的に振る舞ったことを意味する。

村上氏があらゆる宗教のカルト化を監視する必要があるとして提唱した「カルト監視機構」も、そのメンバーはクリスチャンに限定されたものではなく、この世の有識者、あるいはキリスト教以外の他宗教の信者から成るものであった。 
  
こうして、キリスト教界のカルト化問題を監視するということを口実に、同氏は、日本の人口の圧倒的大多数を占める「強者」である不信者の側に立って、1%程度の信仰者全体の信仰生活を監視し、取り締まる必要性を訴える。不信者の利益を確保するために、クリスチャンを監視・断罪・処罰・抑圧することを肯定するという極めて恐ろしい思想を提唱するのである。

こうして常にこの世の「強者」に味方しては、真の弱者の声を容赦なく圧殺し、見殺しにするという村上氏の手法は、同氏が教会のカルト化問題の解決方法として積極的に推し進めて来た裁判という手法に関してさえ、同じように観察された。キリスト教界の不祥事の犠牲になったとされるいわゆる「カルト被害者」全体の中でも、村上氏が勧めているような裁判を提起することのできる人間はほんのわずかしかいない。訴訟に至るケースは、世間を揺るがすような大がかりな不正事件の場合のみであり、ほとんどの小さな事件は、世間に公表されることもなく、被害者の泣き寝入りで終わっている。だが、そのような弱者の声なき声に対して、村上氏の活動は、何ら答えも解決をも与えるものではない。村上氏自身が、キリスト教の大々的な不祥事をきっかけに、世間で注目を集めて来たという事実を見ても、同氏が、裁判にもならず、自分にとって何の手柄にもならない小さな事件の被害者は容赦なく切り捨てて来たことがおのずと理解できるのである。
 
このように同氏が、キリスト教界の不祥事を大々的に取り上げることにより、盛んにキリスト教が世間に迷惑をかけているかのような印象を世間に与え、クリスチャンを世間に対して不利な立場に置いて、聖書の御言葉ではなく、「世間の常識」や、「この世の司法の力」をふりかざして、「世」にとって有利なように、キリスト教界に介入し、クリスチャンの信仰生活を取り締まろうとして来たことが、一体、なぜなのか、考えてみる必要がある。
 
このような特徴を見れば、結局、同氏の活動は、キリスト教そのものに敵対する運動であると言わざるを得ない。これは聖書の真理を否定し、この世の原則を聖書の御言葉以上に高く掲げて、信者の信仰生活を抑圧の対象とし、内心の自由を奪い、果てはキリスト教のみならず、あらゆる宗教をも疑いの眼差しで見て監視の対象とし、すべて神と呼ばれるものを否定して、神への信仰を否定して、自ら全宗教界に君臨するという、反キリストの欲望へと結びつくものであることは、すでに記事で訴えて来た通りである。

この点で、村上氏の活動は、キリスト教の名誉を棄損し、キリスト教の信用そのものを貶めるために行なわれるキリスト教に敵対する、キリスト教の内側からの破壊活動だと言って過言ではない。いかにキリスト教の牧師を名乗っていても、同氏が実際に目指しているのは、いわば神への信仰そのものを取り締まり、これを監視し、抑圧することであり、結局、それは神に代わって信者の内心を裁くことにより、神以上に己を高く掲げることであり、従って、それは神そのものを仮想敵とし、信仰そのものに敵対する活動だと言って差し支えないのである。

そのように見て行くと、村上氏が自分もキリスト教の牧師であるにも関わらず、なぜ「油まき事件」を通して、神社を擁護し、キリスト教の信用をより一層貶めるという結果に至っているのかも納得できるであろう。

それは同氏の活動がもともと、キリストの御霊から出ておらず、この世の霊、反キリストの霊に導かれる運動だからである。

村上氏の活動が、常に真の弱者を見殺しにする「強者の論理」に貫かれているのも、同じ理由からである。それは同氏の活動が、「叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせ」ず、「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともな」い(イザヤ42:2-3)キリストの御霊の謙虚さに基づくものではなく、むしろ、力と恐怖によって人を支配する弱肉強食のこの世の論理に基づいているためなのである。

この世の霊に導かれていればこそ、同氏は常に勝ち馬に乗ることを目指して、「強者」の利益を確保するために、「強者」の観点から物事を見、「強者の世論」と歩調を合わせて活動して来たのである。
   
同氏の活動が誰の利益になっているのかという観点から物事を見れば、同氏が神に仕えているのか、それとも、この世に仕えているのか、答えは明白であろう。
 
神社への油まき事件も、極めて愚かしい出来事であったとはいえ、それはあくまでキリスト教の一伝道者の行った活動に過ぎなかった。だが、神社の政治活動は、日本全国の神社を巻き込み、国家単位で、国家神道を大規模に復活させることを最終目的に掲げている点で、前者とはくらべものにならないほどの絶大な危険性を持つ。にも関わらず、村上密氏はキリスト教徒の誤りだけは強調しながら、後者のはかりしれない危険性を覆い隠してしまうのである。
   
村上氏が盛んに「キリスト教の霊の戦い」の愚かさを強調している真の意味についても、我々クリスチャンはよく考えてみなければならない。

もし信者一人一人が、聖書の御言葉に精通して鋭い識別力を持ち、村上氏が一体、何の霊に導かれているのかを試し、明らかにし始めるなら、村上氏にとっては大変、困った事態が持ち上がるであろう。

誰よりも同氏が、自分が何の霊に導かれているのかが明るみに出されると困るのである。それだからこそ、同氏はこの世の常識を隠れ蓑にしつつ、キリスト教における行き過ぎた不祥事や、荒唐無稽な「霊の戦い」ばかりを強調することによって、先手を打って、クリスチャンに自己反省を促し、クリスチャンが決して世の罪に気がつかず、間違っても聖書の御言葉に基づいて、この世の堕落した思想の危険性を見抜き、それを訴え、糾弾し、排除したりすることがないよう、予め阻止しているのである。

聖書の御言葉に基づく「切り分け」や「二分」そのものを、何かしらカルト的な疑わしい狭量な思考のように思わせる影響力には注意が必要である。結局、それはクリスチャンに罪を着せる一方で、堕落した「この世」の罪を無罪放免するために流布されている偽りだからである。

カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール④

<杉本氏からの恫喝メール 続き>

本記事は、カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール③の続きに当たる。

杉本氏からは以前にも、同氏にとって気に入らない記事を削除せねば、ヴィオロンの個人情報を無断で公開するなどの脅しを含むメールがおびただしい回数、送られて来た。その罵倒や恫喝に満ちた文面は、記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール」でも示している通りである。

以下は5月2日に杉本徳久氏からさらに送られて来た恫喝メールである。
   
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 ▼投稿されたメッセージ
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REMOTE_ADDR: 219.215.163.80

[ 名前c ]
杉本徳久

[ メールアドレスc ]
sugimotonorihisa@gmail.com

[ メールアドレス再入力c ]
sugimotonorihisa@gmail.com

[ 件名c ]
4/30付けの文章につきまして

[ ご感想c ]
前略、〇〇さん

杉本徳久です。再三、ご連絡をとっていますが、その内容を引用してさらに挑発したり、侮蔑したりする文章を書き加えられている様子を拝見しました。4/30付けの文章につきまして、こちらですね。

http://sosudy.blog.shinobi.jp/Entry/134/


このままですと本当に洒落にならないことになっていきましょう。刑事告訴されるような事態をお望みですか?

すでに警視庁・武蔵野署の刑事さんにも何度も相談済みです。貴殿の立場、状況を鑑み、告訴状を出していないだけの話です。これまであなたの名などについて一切、公開してきませんでしたが、それは一にも二にもあなたの状態を慮ってのことです。

あまり手荒に〇〇さんを追い詰める様なことはいたしたくありませんが、このあたりが当方としても忍耐の限界ですので予め申し添えます。

すぐに書かれた文章を削除されてください。

草々



刑事告訴に至るまでには相当の時間がかかる。しかも、よほどの強力な証拠がなくてはならない。ゴールデンウイーク中はどこの警察も弁護士も対応しない。もし杉本氏が本気で刑事告訴を望んでいるならば、このようにゴールデンウイーク中を見計らってメールフォームから悠長に手紙を送るなどの措置に及ぶことなく、とうに手続きに及んでいたはずである。
 
にも関わらず、なぜ今まで杉本氏の告訴はずっと成就しなかったのか。それは同氏が述べているような、私に対する手加減ゆえではない。坂井氏を訴えた杉本氏であり、また、同氏から私に対する多年の嫌がらせの執拗さ・悪辣さを見ても、同氏にはいかなるクリスチャンに対しても情状酌量があるとみなすことはできない。

告訴が成立しないのは、私の側に何らの罪状もなく、また、私に対して罪を犯しているのは杉本氏であることが明らかなためである。

もし杉本氏が相談を繰り返してきた警視庁・武蔵野署の刑事が、これを刑事事件として扱うことができると判断していれば、杉本氏はとうに告訴に至っていたはずである。杉本氏の性格と主張を考えれば、同氏はクリスチャンを告訴するきっかけが欲しくてたまらないはずである。同氏が何度も警察に相談したにも関わらず、未だに事件化されていないのは、本件が同氏が私を告訴するための構成要件を満たしていないためである。
 
本件は、2009年に私が杉本氏のブログに自分で書き込んだコメントを削除してほしいと杉本氏に依頼したことをきっかけに、これを恨みに思った杉本氏が、以後、約7年近くに渡り、インターネット上で執拗に私に嫌がらせを加えて来たことによる。

2009年当時、杉本氏が速やかに私の望むコメントを削除し、さらに、自身のブログに私に対する一千件のコメントを伴うバッシング記事を掲載したりせず、人の知られないところで、私に嫌がらせメールを再三に渡り送り付けたり、当ブログに悪意あるアクセスを集中させたり、筆者の個人情報を違法に暴露するなどと脅迫したりしなければ、このような事態には至っていない。

杉本氏が筆者に対して何をして来たかは、無数の証人が見て知っている。当ブログでも、杉本氏が用いて来た嫌がらせの手法はすべて公開し、明らかにしている通りである。
 
しかも、私は何年も前から、当ブログにおいて幾度も杉本氏にネットを通じて平和的に和解するよう呼びかけ、速やかに筆者の求めるコメントを削除し、クリスチャンに対する逆恨みと嫌がらせに及ぶのをやめるよう勧めている。
   
にも関わらず、杉本氏は自らの違法行為を反省することもなく、筆者の助言にも提案にも全く耳を貸さず、不法な形で筆者に嫌がらせを続けることにより、事態を煽り続け、悪化させ続けて来た。このことは万人の目に明白である。

にも関わらず、杉本氏がクリスチャンをさらに「手荒に追い詰める」ような措置に及び、本当に「日夜、兄弟たちを訴える者」の道を全うしたいと望むならば、筆者はそれを止めはしない。だが、同氏に勝ち目はないであろう。

聖書には、クリスチャンが法廷に引き出されるのは、キリストの証をするためであると書いてある。歴代の信仰者も、鳴尾教会の信者たちも、みなこの道を通り、あらゆる中傷や迫害を耐えたのである。彼らは恫喝スラップ訴訟をただ耐え忍んだだけでなく、これを立派に戦い通して、真理を守って勝利したのである。

従って、私もまた、神の御前に私の信仰告白を守り通す義務があり、信者に与えられたキリストの義の完全性を訴え続ける義務がある。杉本氏にはこの最も肝心なもの――キリストの義がないのである。神の法廷において、キリストの血潮によってすでに義とされているという、宇宙最大の武器を持っているのに、この世の法廷を恐れるがゆえに、脅しに屈して自主規制をするつもりは筆者にはない。たとえ訴訟が提起されたとしても、かえって主の御名が証され、事実が世間により広く知らしめられるきっかけとなるだけである。
  
杉本氏は、私に記事の削除を求める前に、2009年当時から私が同氏に削除を要請しているコメント及び杉本氏が筆者について書いた一連の記事の削除するのが筋である。そして、筆者に対してこれまで及んできた嫌がらせについて謝罪し、二度とそのようなことを繰り返さないと約束すべきである。それをしてから、筆者に連絡を寄越すのが当然である。

神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念はなぜ危険なのか~

神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性 
~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による
「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~


「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

 というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」(Ⅱコリント11:3-4)

1.社会的弱者を無条件に美化することは、人の原罪を否定することにつながる
2.「異なる福音」
  ~聖書に基づく「救済」の概念を歪曲し、この世的な生活改善を「救済」とみなす異端~

3.「異なるイエス」
  ~キリストは信仰者の内におられるのではなく、信仰を持たない社会的弱者のうちにおられるとする異端~

4.己を疎外した神と教会とクリスチャンに対する復讐としての「弱者救済活動」
5.弱さに居直り、被害者意識と自己正当化に溺れ、欲望に歯止めが利かなくなる信者

 



1.社会的弱者を無条件に美化することは、人の原罪を否定することにつながる
 ~平和な信仰生活を弱者救済という社会事業と政治闘争と置き換える危険~


ペンテコステ運動は、聖霊による超自然的な奇跡や癒しを強調することにより、社会から打ち捨てられた弱者を対象に、彼らへの早急な具体的支援を謳って、積極的に伝道を繰り広げて来たことで知られる。

アッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団もこの点では例外ではなく、同教団は、病者、障害者、元ヤクザ、元統一教会員など、社会で最も憂慮すべき状態にある社会的弱者を積極的に勧誘して信者に取り込み、彼らが神を信じる以前の「負の過去」をも、積極的に宣伝材料として伝道に利用して来た。たとえば、元ヤクザで形成される伝道団体ミッション・バラバの活動を積極的に後押しして来たことなども知られる。
 
だが、キリスト教は本来、社会的マイノリティの救済のための慈善事業ではなく、教会が福音伝道という本来的な目的から逸れて、こうした社会事業に没入することは、教会の本来のあり方を見失わせる危険がつきものである。さらに、弱者や被害者を名乗る人たちをよく確かめもせず同情や救済の対象とし、彼らを美化するのは極めて危険な行為である。


私はこのブログにおいて、弱者救済という活動の美名の背後に潜む非聖書的な理念の危険性を一貫して訴えて来た。以下で映画" Mishima A Life In Four Chapters The Criterion Collection] [1985] Paul Schrader "を紹介したのもそうした理由からである。

この映画からも理解できるように、社会的弱者だからと言って、必ずしも善良な人々であるとは限らない。それどころか、人の強さと同様に、弱さもまた、人が自分よりも強い人間を騙し、巧みに利用して、己の欲望を叶えるための武器になりうるのである。弱さを持った人間が、自分の本当の動機を隠し、自分の弱さを巧みに利用して人の同情や罪悪感を引き出すことにより、自分よりも強い者を騙し、搾取し、支配するということがありうる。こうして、社会的な弱者が、弱者であることをバネに、強者との関係を覆し、強者に君臨し、自らのコンプレックスの憂さ晴らしをして、強者に復讐を果たすということが事実上、ありうるのである。

このような方法は古来から利用されて来たし、思想としても存在して来た。たとえば、マルクス主義も、弱者の復讐願望を理論化したものであると言える。経済的・社会的弱者であるがゆえに、プロレタリアートは善なる人々であるとし、彼らを搾取するブルジョアジーを悪人として描くことにより、マルクス主義思想は、プロレタリアートの救済という大義名分の下、弱者が決起して強者を打ち倒すことにより、強者を抑圧し、復讐を遂げることを肯定したのである。

確かに、強い者が自らの力により頼んでおごり高ぶり、弱者を蔑み、騙し、虐げる罪は重い。だが、それと同時に、弱者が弱者であることを理由に自分を聖なる存在のようにみなし、その弱さを武器にして、復讐心から強者を騙し、搾取し、抑圧して、支配関係を逆転しようとする思想も、前者と同じほど重大な危険をはらむ、恐ろしい思想であると言える。

聖書は人間はみな生まれながらに堕落した罪人であると教えており、その点で、いかなる例外も存在しない。社会的弱者だから、マイノリティだからと言って、心の清い人間は一人もいないのである。社会的弱者が、社会的強者に比べ、優先的に救いに値する心の清い人々だとは、聖書は教えていない。

たとえ社会的弱者であっても、その人に信仰がなければ、人は救われることができない。罪を逃れることもできないし、神の聖にたどり着くこともない。社会的な弱者であるその立場が、信仰なしに魂の救済につながることは絶対にあり得ない。

にも関わらず、社会的弱者であるという点をことさらに強調することによって、まるで彼らが特別に優れて心の清い、神に近い聖なる存在で、最も救済に近い人々であるかのように美化して描くことは、聖書に悪質に逆らう大変、危険な思想であると言える。
 
人はみな生まれながらに罪人であるという聖書の事実を否定して、社会的弱者も社会的強者と全く同じように罪人であるという点を見ず、社会的弱者だから無条件に救済に値すると考えて、弱者を無条件に美化し、弱者救済活動を行うと、結局、人間の原罪そのものを否定し、キリストの十字架を抜きに、人類が自力で自己義認し、神へ反逆するという、最も福音からほど遠い、恐ろしい思想につながりかねない。



2.「異なる福音」~聖書に基づく「救済」の概念を歪曲し、この世的な生活改善を「救済」とみなす異端~

   
かつて記事「疎外されし者たちの復讐の哲学~抑圧された社会的弱者や被害者の内に神を見いだす危険②~」の中で述べたように、キリスト教界において行われて来た弱者救済活動の中には、多くの信仰に基づかない非聖書的な活動があった。というより、弱者救済活動に励むキリスト教徒の指導者は、往々にして、自らが神を見いだせないという絶望に悩み苦しんでいた。上記の記事で挙げたマザー・テレサや、奥田牧師といった人々もそうである。

マザー・テレサは、死んだように形骸化して人への憐れみを失った冷たいキリスト教界の教会生活の中で神を見いだすことができず、神が実在しているのかどうか分からず、神に見捨てられているという絶望感に苛まれていたことを告白している。マザーは、教会にいる信仰者の中にキリストを見いだせず、絶望しか感じられなかったからこそ、路上生活者のもとへ赴き、「イエス=キリストは路上で 生活する貧しい人々に遍在している」と考えて、信仰を持たない貧しい人々の中にキリストを見いだそうと、弱者「救済」に励んだのである。

奥田牧師も同様に、釜ヶ崎のホームレスの置かれている悲惨な状況を目撃し、神はどこにおられるのか分からないという絶望感に苛まれ、自らの絶望をアウシュヴィッツを経験したユダヤ教徒のエリ・ヴィーゼルの告白に重ねながら、虐げられたホームレスの人々の中に神を見い出そうと、路上生活者のもとを訪れた。

形骸化して死んだように生気に欠け、人間への愛や憐れみを見失った従来のキリスト教界とクリスチャンの交わりの中で、神を見いだすことができず、むしろ、自分は神に見捨てられているという絶望しか感じることができなかったからこそ、その絶望感を癒すために、彼らはあえて教会から見捨てられた社会的弱者を対象に、救済活動を始めたのだと見られる。

従って、彼らの活動は、ただ社会的弱者のためだけに行われたというよりも、彼ら自身が、神に見捨てられたという自らの内なる絶望感を解消するために行われた自己救済の試みであった。

つまり、彼らは社会的弱者の哀れな境遇に自分自身を投影し、弱者に優しく手を差し伸べ、その生活の状態を改善することにより、神に見捨てられた絶望感から自分自身を救おうと試みていたのである。

マザー・テレサや奥田牧師は、キリスト教徒であったので、彼らの「救済活動」も、ともすれば、聖書に基づくものだと考えられがちであるが、実際には、彼らの唱える「救済」は、魂の救いという、キリスト教における聖書に基づく従来の「救済」とは全く異なるものであった。
 
だが、彼らの救済活動は、決して聖書に基づいて福音宣教の範囲を拡大することにより、従来のキリスト教界の手の届かないところを補い、宣教の範囲を広げることで、より多くの人々をキリストへ導くことを目的にはするものではなかった。

むしろ、従来の教会の宣教では、決して救いの対象とならないであろう見捨てられた人々を積極的に集め、彼らのために、教会の提示する従来の福音とは異なる福音を作りだすことによって、この人々を救いの対象外に打ち捨てて来た憐れみのないキリスト教界(ひいては神ご自身)に、深刻な疑念を提示し、抗議することを根本的な目的としていたのだと見られる。
 
たとえば、マザー・テレサは、キリスト教を押しつけないという理由で、インドの人々にキリスト教への改宗を促さなかったことが知られている。これを通しても、マザーの「救済」活動は、滅びゆく人々の魂をキリストへの信仰に導く福音伝道を第一目的としていなかったことが分かる。

正常なクリスチャンであれば誰しも、たとえ社会的弱者がどんなに手厚い支援を受けて、人として尊厳ある死に方をしたとしても、もし信仰を持たず、魂の救いに至っていなければ、罪や死後の裁きから逃れる道はなく、永遠の命もないということを否定しないであろう。

さらに、ホームレス伝道の場合も含めて、上記のように弱者救済に励む人々が、たとえ福音伝道をその活動の一部に含めていたとしても、彼らはほとんどの場合、社会的弱者への物質的・精神的支援の必要性を強調して、弱者を支援者である彼ら自身に依存させてしまうだけで、キリストの命にこそすべてがあって、キリストだけを頼り生きることによって、弱者が目に見える人間の支援者に頼ることなく、完全な自立に至ることが可能であることを決して教えない。そこで、ホームレスはホームレス生活からは抜け出られたとしても、今度は支援者につかまってしまい、教会の助けなしには決して自立できないような依存した状態にとどまってしまうのである。
 
困窮する社会的弱者が、弱さや困難から抜け出る秘訣は、本当は、人間の支援者による助けにあるのではなく、キリストの復活の命にこそある。悩める人に必要なのは、人間の与える一時的で不完全な物質的・精神的支援ではなく、神の御子の十字架における贖いの完全性を信じ、永遠の命に至り、この命に立脚して自立して生きることである。

この世の物質的・精神的支援は、それ自体、無意味ではないにせよ、すぐに尽きてしまう束の間の延命治療のようなものに過ぎない。それは人を死から救うこともできないし、人の抱えるあらゆる必要を不思議な天的方法で満たすこともできない。

だが、キリストの十字架の贖いによる救いは、永遠に至るものであり、信者がこの世においても、来るべき世においても、直接、神から助けをいただいて、目に見える誰にも依存せずに、自立して生きる解放を約束するものである。

だから、社会的弱者へどんなに手厚い支援を行なったとしても、もし人々にキリストの十字架の贖いを信じて魂の救済を受けとるように導かず、さらにキリストを信じさせたとしても、ただキリストだけに頼り、キリストの命だけによってすべての必要を供給していただくことが実際に可能であることを教えず、かえって人間の支援者らによる物質的・精神的支援へと依存させていき、彼らの救済活動の枠組みから決して外へ出そうとしないならば、それは偽りの救済活動であり、その対象とされてしまった人々には、目に見える支援者から自立して生きる道が半永久的に閉ざされてしまう。

そのため、こうした活動においては、「支援する側」と「支援される側」に、永久に埋まらない溝(区別)ができ、その格差の分だけ、支援者だけが、弱者の救済の美名を利用して輝き、弱者を土台にして、賞賛され、栄光を受けるのである。

従って、こうした神によらない弱者救済活動は、一見、弱者を解放するように見えても、決して弱者を真の解放へは導かない。むしろ、弱者をまことの神への信仰から遠ざけ、前よりももっと巧妙で気づきにくい新たな支配と搾取の構図の中にからめとって行くだけなのである。ただ、利用されている側の弱者は、前よりも生活が良くなったのは支援者のおかげだと思わされているため、その新たな搾取の忌まわしさが分からないだけである。
 
こうした弱者救済活動にいそしむキリスト教の指導者は、「救い」の概念そのものを歪曲し、すり替えてしまう。彼らの提示する「救い」とは、社会的弱者が、彼らの提供するこの世の物質的・精神的支援を受けて、生活状態が改善することを意味しているのであり、彼らが見えないまことの神を信じて永遠の命を受け取り、その命に基づいて自立して生きることでを「救済」とはしていないのである。

こうして、「救済」の概念をすり替えることにより、こうした指導者は、聖書の提示する救いとは全く異なる別の救済の概念を作り出し、聖書とは「異なる福音」を宣べ伝えているのである。

こうしたことを考えるならば、たとえ世間でどんなにマザー・テレサの「偉業」が誉めたたえられたとしても、彼女の活動は、聖書の信仰を土台とせず、この世的な支援だけを行い、人々の生活状態の改善を「救済」とみなすことにより、むしろ、最も大切な聖書の真理を、滅びゆく人々の目から覆い隠し、彼らがまことの神を信じて魂の救いを受けとる機会を奪ったのだと言える。そうした文脈で見ると、これはキリスト教的な救済事業ではあり得ないどころか、神の福音に本質的に敵対する活動であったということになる。ほぼ同じことが、キリスト教指導者によって行われるホームレス伝道についてもあてはまるのである。



3.「異なるイエス」~キリストは信仰者の内におられるのではなく、信仰を持たない社会的弱者のうちにおられるとする異端~

すでに述べた通り、上記のような弱者救済活動は、救済事業に関わるキリスト教の指導者自身が、神を見いだせないという絶望感から発生していた。

つまり、教会の従来の宣教活動によっては、決して福音伝道の対象とはみなされず、従って、救いの対象外となるしかないような人々が存在していた。献金を払う余裕もなく、教会活動に何ら有益な貢献ができそうにないという理由で、初めから伝道の対象から除外されて、教会から見放され、悲惨な滅びと死へと向かわされている人々がいた。――彼らは地上で苦しんでいるばかりではなく、伝道の対象外であるために、従来のキリスト教の教義によれば、来るべき世でも苦しみしか待ち受けているもののない人々である。――もし、彼らが教会の不作為により、福音を伝えられず、キリストを信じることなく死んでしまった場合、彼らの魂が永遠に救済されないというならば、一体、これらの人々は何のために生まれて来るのか、誰が彼らの存在に対して責任を負うのか、神と教会はなぜこれらの人々を見捨てているのかーー。

自分自身が教会で味わった絶望とあいまって、見捨てられた弱者への痛みに満ちた共感が生まれ、それが彼らを見捨てて来た神と教会とクリスチャンに対する深い絶望感と憤りとなって、上記のような活動へと、キリスト教指導者を追いやったものと考えられる。

そこで、彼らは教会からは暗黙のうちに「救いの対象外」とみなされているような貧しい路上生活者のもとへ赴き、意図的に彼らを対象にして、今まで彼らを疎外することしかできなかった教会の提示する「狭い救い」の代わりに、この世的な手厚い支援を救済とする「広い救い」を作り出して、教会とは全く別のやり方で、これらの人々を「救済」しようとした。

それだけでなく、こうした指導者らは、「神」の概念をもすり替え、キリストは、冷淡で愛を失い生気なく死んだような教会の、死んだようなクリスチャンの只中におられるのではなく、むしろ、教会から見捨てられているように見えるこれらの社会的弱者の中にこそおられるのだと主張した。

そうすることで、彼らは、実は、神から見捨てられた自分自身と、教会から見捨てられた社会的弱者とで、共同のリベンジを果たしていたのだと考えられる。つまり、彼らの論理によれば、神が本当におられるのは、信仰を持っていると自称して自己安堵しながら他者への憐れみを失い弱者を容赦なく教会の外に見捨てているクリスチャンの只中ではなく、信仰を知ることもないまま打ち捨てられている貧しい路上生活者の只中にこそ、神がおられるのであり、従って、その論理を推し進めると、神に本当に見捨てられているのは路上生活者ではなく、むしろ彼らを容赦なく見捨てて来た教会の方だということになる。

こうして、弱者救済活動の支援者らは、自らが教会の中で見いだせなかった救いを、路上生活者のもとに見いだそうとする。彼らは路上生活者に生活の支援を与えることにより、彼らを「救済」してやる代わりに、路上生活者の中に「キリスト」を見いだし、それによって自分自身が「救い」を得るのである。

従って、彼らの活動は、このような観点から見ると、聖書をさかさまにしたものであり、たとえキリスト教界を公に糾弾したり、これと敵対したりすることがなかったとしても、本質的には、この活動は、社会的弱者を容赦なく打ち捨てて来た従来のキリスト教界と、彼らを救いの対象としえなかった従来の福音に対する異議申し立て、告発、強烈なアンチテーゼの意味合いを持っているのだと言える。
  
だが、もちろん、そのような活動は、人の耳には優しく聞こえるかも知れないが、聖書に基づかないものである以上、虚偽であり、まやかしでしかない。

こうした活動では、本来、神の救いを宣べ伝える側に立っているはずキリスト教の伝道者が、宣べ伝えられる側の人々の方に救いを求めているという点で、本末転倒であるだけではない。信仰なくして社会的弱者のうちに「神」が宿っているとする思想は、人の原罪を否定して、生まれながらの人を神に等しいものとしている点で、聖書に真っ向から対立する異端思想である。
  
そこで、こうした「弱者救済」の思想は、マルクス主義と同じく、本質的には、グノーシス主義に分類されるのだと言える。グノーシス主義思想においては、人は生まれながらに神聖な要素を内に宿しているため、その神聖に覚醒して目覚めさえすれば、自らを抑圧から解き放って神の聖に達することができるとされる。

グノーシス主義思想においては、生まれながらの人の原罪は否定されており、人は罪深い存在であるどころか、むしろ「神聖な要素」を内に宿しているのであって、ただこれが抑圧されているために、転倒した状態にあるだけだとされる。そこで、この思想においては、人は己のうちに抑圧されている神聖な要素を解き放ち、自分自身の中で秩序転覆を成し遂げ、神聖な要素を全体に押し広げさえすれば、自ら神のように聖なる存在に到達できるとされる。そのような秩序転覆は、一人の人の内側において可能であるだけでなく、社会全体にもあてはめられる。その際、社会全体の秩序転覆のために利用されるのが、「抑圧された(聖なる要素としての)社会的弱者」の存在である。

つまり、こうした思想においては、社会において「抑圧されている弱者」が「神聖な」要素とみなされているのであり、この「聖なる」人々を抑圧から解き放つことにより、社会全体が「聖化」され、弱者のユートピアという地上天国に至るというのである。

このような文脈における「弱者救済」の思想は、ただ単に個人としての社会的弱者を抑圧された生活状態から救うことを目的として目指しているのみならず、それは社会事業としての意味を持っており、すなわち、弱者の集団を社会全体において抑圧から解き放ち、強者と弱者の関係を覆すことにより、弱者のユートピアを築き、社会全体を浄化しようとする意味を自ずから含んでいるのである。
   
むろん、このような思想には、人の原罪という概念もなければ、人類の罪の贖いのためのキリストの十字架もなく、従って、これがキリスト教に悪質に敵対する異端的な思想であることは明白である。このようなグノーシス主義思想は、早い話が、弱者による秩序転覆のクーデターを容認するものであり、これを正当化する根拠として、社会的弱者をあたかも聖なる存在のように祀り上げているのである。



4.己を疎外した神と教会とクリスチャンに対する復讐としての「弱者救済活動」

  
すでに見て来たように、マザー・テレサや奥田牧師のような「弱者救済活動」に励むキリスト教指導者は、自ら信仰者を名乗っているので、彼らの活動がグノーシス主義思想に基づいているのだとはなかなか外からは見えにくい。

だが、 彼らが「信仰を持たない貧しい人々の中にキリストを見いだしていた」という事実を考えれば、これがまことの神を否定するグノーシス主義思想に沿った考え方であり、彼らが聖書の示す「神」や「救い」の概念をひっくり返して、本来、聖書によれば、罪に定められるべき集団を「聖」とみなし、救われていないはずの者たちを「救われている」とみなし、神に属しているはずのない人々を「神である」と唱え、それによって、最終的には、見捨てられた社会的弱者と共に、神に見捨てられた自分自身を、神に等しい者として祀り上げようとしていたのだと言うことができる。

つまり、彼らは、たとえ公言してはいないにせよ、社会的弱者を「キリスト」と同じ高さにまで祀り上げることにより、彼らだけでなく本当は神から見捨てられた自分自身を「神」としていたのだと言える。すなわち、本当に「キリスト」がおられるのは、神への信仰を持っていると言いながら、死んだ教会の死んだクリスチャンの只中ではなく、むしろ、彼らから疎外され、見捨てられた社会的弱者と自分自身の只中であると言うのである。そう主張することによって、彼らは、神に見捨てられているという絶望感を払拭できるだけでなく、自分を神の愛から疎外した冷たい教会とクリスチャンに復讐を果たし、ひいては、そのような方法で、人類のごく限られた人々しか救いの対象としていない聖書の神の「狭い福音」そのものに異議を唱えているのだと見ることができる。
  
同様のことが、カルト被害者救済活動にあてはまる。すでに述べて来た通り、この活動も、弱者救済という美名を隠れ蓑にしてはいるが、それ自体が、キリスト教界に対する強烈なアンチテーゼであり、告発であった。この活動は、あえてキリスト教界で信仰につまずき、教界から見捨てられて、教界に根強い不満や恨みを持つ分子を集めて来ては、彼らの存在を利用して、キリスト教界に闘いをしかけ、教界を告発して攻撃し、秩序転覆をはかって来た。

つまり、カルト被害者救済活動の支持者から見れば、正しい生き方をしているのは不当に虐げられたカルト被害者であって、彼らを見捨てて来た冷たい教会と冷たいクリスチャンではない。さらに、「救済」に値するのも、虐げられたカルト被害者であって、教会の中にいて彼らを見捨てて来たクリスチャンではないのである。
  
こうして、キリスト教界から見捨てられた「弱者」や「被害者」の存在を口実に、彼らを見捨てたキリスト教界と冷たいクリスチャンを告発し、ひいては神ご自身を非難して、救いの概念を歪曲し、聖書の福音そのものに異議を唱えようとする活動が、カルト被害者救済活動なのである。たとえ彼らがあからさまに神を呪ったり、罵ったりすることがないとしても、彼らにとっての「神」の概念は、正常なクリスチャンと同じものではない。この活動が聖書から著しく逸れたものであることは、すでに幾度も指摘した通りである。
  
こうして、キリスト教徒を名乗っている人々によって行われる「弱者救済活動」は、必ずしも、聖書に基づかないどころか、こうした活動の指導者らには共通して、キリスト教界から見捨てられた社会的弱者・被害者こそ「救済」にふさわしい対象であるとして、弱者のために特別に、従来の聖書の福音とは異なる「救済」を提示することによって、弱者を苦しみの中に容赦なく見捨てて来たキリスト教界の「狭い救い」を否定し、ひいては聖書の提示する福音そのものを否定するという側面があることは否めない。彼らの唱える「救済」は、弱者の生活を改善するという地上のパンを第一の目的としてはいても、見えない霊のパンである聖書の御言葉に基づかないのである。
  
そのため、こうした聖書に基づかない、信仰を抜きにした弱者救済の思想は、それ自体が、神と教会とクリスチャンに対する異議申し立てであり、抵抗運動であり、復讐であると言える。
   
ここで思い出されるのが、ドストエフスキーの大審問官や、サンダー・シングなどの存在である。ドストエフスキーの大審問官は、聖書的な方法では人類のほんの一部しか救われないため、自分はこのような残酷で狭量な救いの代わりに、人類の圧倒的大多数を救うことのできる寛大で広い救いを作ってやるのだと述べて、教会の提示する方法では救われない圧倒的大多数のための新たな福音を提唱する。

サンダー・シングもまた、ヨーロッパのキリスト教界に接触した際、形骸化した教会生活と高慢なクリスチャンに深い絶望を覚え、こうした「自称クリスチャン」の中に神はおられないという結論に至り、それをきっかけとして、「ヨーロッパの地の塵を足から払い落とし」「貧苦に喘ぎながらも真剣に神を求めている東洋の人々へと」関心を移した。(「聖なる導き インド永遠の書」林陽訳、徳間書店、p.19。)
 
マザー・テレサや奥田牧師の場合と同様、こうしてクリスチャンを名乗りながらも、教会から打ち捨てられた人々を積極的に救いの対象とする「弱者救済活動」を行う指導者は、往々にして、従来のキリスト教界と従来のクリスチャンに対する深い絶望感、嫌悪感を心の底に秘めている。

彼らの「救済活動」は、神と教会とクリスチャンに対する絶望をきっかけとして始まっており、彼ら自身の自己救済のためであると言える。その出発から見て、必然的に、そのゴールは、神と教会とクリスチャンの「横暴」によって虐げられた者たちを、神と教会とクリスチャンの手から救うという性質を持つものとならざるを得ない。その結果、彼らは信仰による解決を退け、信仰によっては救われない圧倒的大多数のために、別の福音を作り上げるのである。
    
こうした人々の弱者救済活動は、ただ単に形骸化したキリスト教界に対するアンチテーゼであるばかりではなく、本質的に、聖書の提示する狭き門として「狭い福音」そのものに対する抵抗であり、抗議なのである。

彼らはその活動を通して、神自身の「横暴」と「偏狭な救い」から人々を救おうとしているのだと言えるかも知れない。だから、こうした弱者救済活動は、本質的には神を仮想敵としているのだと言えるのである。すなわち、神に疎外され見捨てられた「クリスチャン」が、同じように、教会に見捨てられた人々に自己投影し、この哀れな人々を「救済」することによって、自己救済を成し遂げ、さらには自分たちこそ神に等しい者であると主張することによって、自分を見捨て来た神と教会とクリスチャンに復讐を果たし、彼らを見返そうとする心理がその根底に横たわっているのだと考えられる。
 
従って、こうした弱者救済活動は、いかにうわべはキリスト教的な装いをまとっていたとしても、聖書に基づくものではなく、その支援者らもクリスチャンとは言えない。彼らの救済活動は、本質的には「神と教会とクリスチャンの唱える偏狭な救いに対する抵抗運動」なのであり、彼らが真に糾弾している相手は、彼らを理不尽な苦しみに遭わせ、見捨てて来た神ご自身なのである。
  
従って、神を隠れた仮想敵としているこうした活動に関わると、たとえクリスチャンであっても、結果として救いを失うことは避けられない。どんなに人の耳に優しく響いたとしても、聖書の福音そのものに対して異議を唱えるこの活動に関わることは全く勧られない
  
  



5. アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による危険な「弱者救済活動」
~弱さに居直り、被害者意識と自己正当化に溺れ、欲望に歯止めが利かなくなる信者~

  
さて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、すでに述べたように、社会的弱者やマイノリティに接近しては、これを積極的に信者に取り込んで来たため、今や教団内には、社会的弱者が溢れるようになった。

さらに、同教団は、こうした社会的弱者やマイノリティの「負の過去」を積極的に伝道の材料として利用して来たので、今や教団内では、元統一教会員や、元ヤクザであることは、何ら恥ずべきこととはみなされず、むしろ、普通の信徒らには欠けている稀有な経験や希少な価値であるかのようにみなされ、歓迎されるようになった。

同教団は、このように社会的弱者やマイノリティを美化して盛んに受け入れるだけでなく、大規模な「カルト被害者救済活動」を推し進め、平和な信仰生活を、弱者救済のための手段に変えて来た。その過程で、キリスト教界につまずいて、キリスト教界に根強い恨みや不満を持つ信徒らを積極的に集め、カルト被害者を「救済」するという口実で、彼らの憎しみや怨念を利用して、既存の教会に争いをしかけて来たのである。

その結果、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、社会的弱者とマイノリティとキリスト教界に不満や憎しみを持つ者たちの「天国」のようにまでなった。
 
同教団では、平和的な信仰生活を送ることよりも、弱者救済を口実に、キリスト教界を絶え間なく非難して、教会やクリスチャンを相手に恒常的に争いに生きることこそ、信仰生活であるかのようにみなされ、争いが第一義的課題のようにまでなったのである。
 
だが、同教団の推進する「カルトとの闘い」は、当初から予想された通り、内ゲバや外ゲバのような泥沼の闘争へと発展し、あらゆる教会や信徒に対する無差別な迫害へと様変わりした。その活動はキリスト教とキリスト教界そのものに対する破壊運動のような様相を帯びて行ったのである。
 
こうした状況を考慮すれば、もはやアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団そのものが、聖書の神と教会とクリスチャンに敵対する者たちの要塞となり、キリスト教界全体に戦いを挑むことを第一目的とする極めて危険な集団になっていることが分かるであろう。
  
教団の誤った非聖書的な教えのために、教団の信徒らも、深刻な悪影響を受けた。 同教団からは、一方では、被害者意識に溺れ、弱さを武器にヤクザのようにクリスチャンを恫喝しては、身勝手な利益をほしいままに引き出す「信者」が生まれたかと思えば、他方では、怪しい非聖書的な霊的ムーブメントに欺かれた結果、偽りのメッセージを盛んに述べ立てては信徒を惑わせ、最終的には呪いや滅びの予告を捨て台詞に立ち去って行く破壊工作型の「信者」も生まれた。(Br.Takaなどは後者の顕著な例である。)いずれの場合も、彼らの真の目的は、信徒らの交わりを私物化して破壊し、兄弟姉妹に深刻な害を与えることにある。

私が関わっただけでも、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に深い関わりのある信者たちは、例外なく深刻なトラブルメーカーであった。デリラがサムソンに誘惑をしかけたように、彼らは自らの弱さを武器に、、自分よりも強い者を脅し、非難しては、罪意識を抱かせ、自分の前にひれ伏させ、謝罪させることに、至上の喜びを見いだしているようであった。
 
統一教会を脱会してアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団へ転籍するというカルト被害者救済活動のお決まりのコースを辿ったある信者は、兄弟姉妹の交わりを求めているように主張していたが、途中から、自らの切迫した生活状況を赤裸々に告白し、交わりを自分の個人的な必要を訴える場へと変えてしまった。そして、兄弟姉妹に具体的支援を求めて懇願を重ね、同情を勝ち得て、身内や信者から総額何百万円にも及ぶ借金を重ねることに成功した。だが、それほどまでに手厚い支援を受けながらも、彼はそれを有効に生かすことができず、次々と事業に失敗した挙句、最後には、自分に十分な同情を示してくれないクリスチャンを冷酷だと非難し、非クリスチャンの方がよほど同情的で信頼できると捨て台詞を吐いて立ち去るのであった。それなりの年齢で、家庭もきちんとありながら、常にクリスチャンに自分の生活改善などの必要のために利用することしかできず、幾度にも渡り手厚い支援を兄弟姉妹からむしりとったその後に、クリスチャンは信用ならないと捨て台詞を吐いて立ち去るのだから、始末に負えないとしか言いようがなかった。
 
こうした信者らを観察した結果として言えることは、彼らは従来の教会とクリスチャンに対する根深い恨みと被害者意識を心に抱えており、それゆえに、たとえ表面的には真の信仰や交わりを求めているように見えても、実際には、兄弟姉妹を自分に都合よく利用したり、身勝手な理由で非難しては懺悔させたり、精神的・物質的に搾取して損害を与えるような有害な形でしか関われないということであった。
 
どのように説得しても、彼らは自分たちの抱える問題を解決できるお方は神であり、ただ神だけに頼って自らの必要を供給してもらうことの方が、人に頼ることに比べ、はるかに安全な方法であることを信じようとはしなかった。また、兄弟姉妹がどれほど彼らに同情を注ぎ、支援を行なっても、彼らを教会やクリスチャンに対する被害者意識から逃れさせるのは、人の力では無理だという事実が判明するのである。

そこで、結論として言えるのは、このような「信者」を相手にしても、クリスチャンには損失以外、何も得られるものはないということである。彼らを被害者意識から立ち直らせるのは神の仕事であって、人の仕事ではない。同情はかえって恨みを増長させるだけで、あだにしかならない。そもそも兄弟姉妹の交わりを第一目的にしておらず、教会を自分の必要を訴える場と誤解している人々をクリスチャンが受け入れても、信仰的に結ばれる実は皆無に等しい。
 
さらに悪いことには、彼らは弱者に偽装しているだけで、本当の意味で手を差し伸べられるべき弱者ではなかった。よく観察してみれば、彼らが本当に困窮している人々に比べて、実に多くの富を手にしていることが分かる。だから、彼らは単に自分の弱さを巧みにアピールの材料として利用し、都合の良い利益を得るために、クリスチャンに接近しているだけだと分かるのである。 
  
しかし、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者にはあまりにもこの手の信者が多かった。 
このようなことが起きる背景には、すでに述べて来た通り、同教団が推し進めて来た誤った人類(弱者)救済思想が深く影響していることは否めない。同教団は、教会と信仰生活を、人が神に従う場ではなく、人が神を利用して自分の欲望をかなえる場所へと変えてしまったのである。

その結果、同教団の誤った教えに影響された「信者」らも、信仰生活とは、信者が聖書の御言葉に服し、見えない神に従い、見えない神を喜ばせるために送るものではなく、目に見える人間である自分自身を喜ばせ、己の欲望を満たす場であり、堂々と自分の必要を声高に主張して、兄弟姉妹をその欲望をかなえる手段として利用しても構わないという誤解に陥って行ったのである。しかも、彼らにとっての「神」とは、どうやら、聖書の見えないまことの神ではなく、社会的弱者である自分自身を指しているらしい。

このようにして「社会的弱者」であるがゆえに、自分自身を正当化し、被害者意識と、自己陶酔に陥り、自分を「神」のようにまでみなしてしまった人々は、もはや恥も外聞も罪の意識もなく、途方もない厚かましさで、兄弟姉妹の交わりを自分の欲望をかなえるための手段として利用する。その挙句、自分の願いに沿わない兄弟姉妹を容赦なく罪定めして退け、最終的には、信仰を持たない人々のうちに神がおられると言って、教会とクリスチャンに背を向けて、信仰者の目の前から立ち去って行くのである。
 
余計なお世話ではあるとはいえ、こうした人々が、たとえ教会とクリスチャンの冷酷さを非難して、教会に背を向けて、信仰を持たない人々のもとへ逃走したとしても、常に他人を利用して同情と支援を乞うばかりで、自分の人生に対して何ら自分で責任を負うことのできない無責任で甘えに満ちた態度では、その後も、正常な人生を送ることはできないであろうと思う。最初は気前よく同情し、支援を与えてくれた人々も、何度も同じことが繰り返されるうちに、本質的な原因がどこにあるのか見抜いて行く。

本質的な原因は、その人自身の信仰の欠落にある。神ご自身に頼って生きる秘訣を学ばない限り、彼らは人の助けや理解をどれほど得たとしても、結局、それを有効に生かすことができず、同じ問題が延々と繰り返されるだけに終わるのである。
 
だが、こうした無責任で甘えに満ちた信徒を大量に生んだ責任はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にある。同教団は、社会的弱者をさかんに美化することにより、彼らを自己陶酔に陥らせて、罪の悔い改めの機会を失わせた。そして、信者が自らの弱さゆえに、自分は清いと考えて己を神に等しいものとみなして自己の欲望を正当化し、他の教会やクリスチャンを見下しては、被害者意識をバネに、彼らを自分の利益を引き出す道具とすることを積極的に奨励して来たのである。
 
聖書がすべての人間は生まれながらの罪人であると教えている以上、たとえ社会的弱者であっても、神の御前に己の罪を否定し、御言葉に服さず、御手の下にへりくだることをしないならば、その人の末路は悲惨なものとなることは避けられない。

たとえ理不尽な苦しみを通されることがあったとしても、すべての人は神の御手の下にへりくだらなければならない。神こそ、人の弱さと苦しみをすべて理解し、人に必要な支援を与えて下さる方である。どれほど兄弟姉妹に失望することがあっても、性急な復讐に走らず、人に助けを求めるのではなく、忍耐強く神だけを待ち続ける態度がクリスチャンに求められている。
  
もし神を畏れることが知恵の初めならば、神を否定することは精神崩壊の始まりである。神は信者の内側には住んで下さっても、信仰を持たない社会的弱者のうちにはおられない。にも関わらず、社会的弱者を「神」のように美化し、人が己の欲望を成し遂げることを「救済」とみなし、福音からほど遠い非聖書的な活動を推し進めるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、決して関わらないことをお勧めする。

「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、
多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。
かれらの 思いは地上のことだけです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のかたらだと同じに変えてくださるのです。」(ピリピ3:18-21)

カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール②

以下の記事「村上密牧師による自己流の「異端審問」」を掲載したところ、早速、杉本徳久氏から、当ブログのメールフォームを利用して、次のような手紙が来たため、読者へのお知らせを兼ねて、この場で公開しておく。

杉本氏からは以前にも、同氏にとって気に入らない記事を削除せねば、ヴィオロンの個人情報を無断で公開するなどの脅しを含むメールが何通も来ており、その文面は、記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール」でも示している通りである。

2012年頃から、実際に杉本氏の恫喝と予告の通り、当ブログの管理人に対するプライバシーの侵害等を含む悪質な書き込みが匿名掲示板に大量に書き込まれ始めたことは周知の通りであり、この件に関しては、杉本氏以外にそのような行為を行なう意図を予め筆者に伝えて来た人間は誰一人存在しない。
 
なお、当ブログ管理人は個人情報を公開していないが、筆者の意に反して、無断で筆者の個人情報を公の場にさらす行為は、罪に問われる可能性があることも警告しておく。さわやか読者の情報も蓄積されているので、これらを合わせると、嫌がらせ工作員の個人情報が特定されて、個人名が公表されるだけでなく、賠償責任などの形により、個人的に責任追及がなされる可能性が十分にあることをこの場で述べておく。

このように本人からの投稿があったことにより、記事「村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(後編)」にて示したIPアドレスが、杉本徳久氏のものであることが確定した。

以下の二つの投稿の時間は、それぞれ2016年4月25日13:26、同日13:27である。

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
  ▼投稿されたメッセージ
 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 REMOTE_ADDR: 219.215.163.80

 [ 名前c ]
杉本徳久

[ 件名c ]
ブログの記載につきまして その1

[ ご感想c ]
拝啓、「ヴィオロン」こと、〇〇様、

武蔵野市吉祥寺北町の杉本徳久です。少し前から再開された〇〇さん執筆のブログの記載につきまして、内容を読み、大きな問題がありますのでご連絡申し上げます。

相変わらず、気に入らない他人のブログ記事内容に削除を迫るためとはいえ、今までずっとメールで連絡して来ていた杉本氏が、急にメールフォームから連絡する気になったのには、どういう意図が隠されているのか、これまでのいきさつを振り返ると、疑わないわけにはいかない。

同氏からは、上記した通り、以前にも、同氏にとって気に入らない記事を筆者が削除しなければ、筆者の個人情報を無断で公開するとの脅しメールもいただいており、それは記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール」に示した通りである。

そこでもし今回、筆者が杉本氏にメールで返信をするようなことがあれば、同氏はそれを機に、筆者のメールの文章や、メールアドレス等の個人情報も、ブログに公開するのが目的であったのかも知れないと考えられる。

以前の杉本氏からの脅しメールの内容を振り返っても、同氏に対して個人的な密室でのやり取りは無用と判断しているため、ここに杉本氏の文面と、筆者の見解を記しておく。

誤解のないように伝えておくが、これは杉本氏に限った措置ではなく、メールフォームからの投稿であっても、公表すべきと筆者が判断するものがあれば、随時、公表して行く。ただし、このブログ始まって以来、メールフォームから筆者に否定的なコメントを送って来た人間は、杉本氏以外にはいない。

たまには、他者への和やかな挨拶と、人の作品を誉めるということから、コメントを始めてはどうかと思うのだが、杉本氏に限ってはそのような忠告も無用であろう。
  
さて、今回の杉本氏の投稿の趣旨も、今までの恫喝メールと同じで、要するに、同氏にとって気に入らない、同氏に関して否定的な内容を記載する記事もしくはその記事から同氏の実名をすべて削除せよという要望である。だが、相変わらず、杉本氏には削除を丁重に依頼する口調が全くない。
 
それでも、以前に比べれば、文面がトーンダウンしており、人をいたずらに罵倒したり、嘲笑するような口調や、檄文のような憤りに満ちた文章や、ドラマから取って来たような感情的で陳腐な紋切り型の啖呵を切るようなことは減ったようである。
 
〇〇さんがかつて「主にある兄弟として信頼」しているとされていたKFCの唐沢治(Dr.ルーク)さんらとなぜ、今は絶縁しているのかなど詳しい経緯はわかりませんが、こと、私に関する記事については看過ならない内容が多くあります。

なぜかここで唐突に唐沢氏の名前が登場する。いつも驚かされるのは、なぜ杉本氏がこれほどまでにルーク氏の話題を筆者に対して頻繁に繰り返すのか、ということである。

よほど杉本氏には、ルーク氏と筆者との関係が気になって気になって仕方がないように見受けられるが、一体、どんな理由で、筆者がルーク氏と親交を結ばなければならないというのだろうか。

「なぜ、今は絶縁しているかなど詳しい経緯はわかりませんが」などと残念そうに書かれているが、筆者のブログを読めば、KFCの理念に対して筆者がどのような態度を取っているかは明白である。にも関わらず、杉本氏は、常に信者間に起きることを、信仰や理念の問題として理解することができず、三流映画のような人間模様のドラマとしてしかとらえられない様子である。いつまで経っても、何年も前の大昔の出来事を引っ張り出して蒸し返さざるを得ないのは、よほどブログに掲載するゴシップのネタが足りなくなっているからなのであろうか。

だが、同氏が「詳しい経緯はわからない」などととぼけているのは、おそらくは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者であったBr.Takaこと鵜川貴範・直子夫妻がKFCを乗っ取った事件に知らぬふりを決め込むためではないかと思われる。この事件は、唐沢氏と私とを分裂させ、KFCを地上から消滅させるために、悪意をもって引き起こされた工作であったと考えられる節が極めて大きいのだが、こうした出来事について杉本氏は、自分は詳しい経緯を知らないと、問われてもいないのに自己弁明せずにいられないような、何かの後ろめたい事情が存在しているようである。
    
例えば、京都の村上密牧師からの指示を受け、「杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」と書かれていますが、私はそもそも村上さんと面識がありません。お会いしたことも電話をしたこともなく、他界された石原牧師などを介したりしたこともありましたが、簡単な事務的メール連絡を取ったことが何度かあるだけです。その私が、どうやって村上さんからの指示を受けて「サイバーカルト監視機構」を主導することなどできましょうか。また、そもそもそのような「機構」は私の知る限りこの世に存在しませんし、私がそれに関与していることなど全くありません。
 
何としても「カルト監視機構」とは無縁だと主張したい杉本氏の思惑が見て取れる文章である。杉本氏が村上密氏と面会したことがないのは事実かも知れないが、直接面会しなくとも、親交を結ぶ方法はいくらでもあり、村上氏とのメールでのやり取りがあることは、杉本氏自身が認めている。こうして、メールのやり取りがあり、人物を互いに確認しているわけであるから、村上密氏と杉本氏に面識がないという結論には至らないであろう。

さらに、私はブログ記事の中で、杉本氏と村上氏との間にどんな面識があるのかについては触れていない。私が記事に書いているのは、この二人の思想的共通性である。
 
二人はまずカルト被害者救済活動を支持し、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を擁護し、ヴィオロンを非難し、鳴尾教会の教団離脱に反対し、津村昭二郎氏を擁護し、鳴尾の山田牧師夫妻を非難するといういくつかの点を見ただけでも、思想的立場をほぼ完全に同じくしている。

杉本氏が、村上密氏の行うカルト被害者救済活動を支持し、カルト被害者を名乗る信者に積極的に接触を図っては、村上氏が「疑わしい」とみなした牧師に対する裁判を後押しして来たことは、杉本氏自身が記事に書いていることであり、被害者間でもよく知られている。

このように、村上氏と杉本氏との両者は思想的に共通した見解を持って、同じ活動の枠組みの中で互いを擁護し支え合って来たのである。もっと言えば、以下に示すように、杉本氏は村上氏を擁護する内容の記事を多数書いていることから、師弟のように密接な関係とまでは言えなくとも、一定の尊敬を村上氏に対して持っており、常に村上氏を支持する立場から活動しているように見受けられる。
 
村上氏と杉本氏との活動は、カルト被害者救済活動を通して、教団教派や教会の枠組みや規則を飛び越えて、これを無視して他教会の内政に干渉し、カルト化の疑いありとみなした教会に対して、ネットによる吊し上げを助長し、司法の強制力を用いて弾圧を試みて来た点でも一致する。

だが、杉本氏はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者ではないため、本来は、鳴尾教会のような他教団の事情に首を突っ込むことができる立場にはない。そもそも、プロテスタントの信者でもない人間が、どんな権限があって、自分が属していないプロテスタントの諸教会の内政に干渉し、その内情を探り出し、暴露するような記事を書くことが許されるのか、甚だ疑問である。
 
同様のことが、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する村上密牧師の場合にも当てはまる。村上密氏のカルトとの闘いも、同じように教界内規則に基づかない単なる越権行為でしかないが、そのような越権行為を、裁判という強制力を用いて正当化できると考えている点でも、村上氏と杉本氏の見解は一致している。

しかも、両者の記事の中には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の関係者でなければ、決して知り得ない情報が含まれており、鳴尾教会に関する裁判の経緯などに関する杉本氏の記事は、教団離脱に反対した鳴尾の信者をバックアップする立場から書かれており、それはおそらくは教会関係者への接触なしには書けない事柄であり、また、その記事内容は、鳴尾教会の教団からの離脱を裁判によって阻止しようと試みていた村上密氏の活動を支援する立場から書かれている。鳴尾教会に関する杉本氏の一連の記事は、村上密氏の思想的立場や、同氏の利益と完全に一致する。
 
村上氏と杉本氏とは共に、事実に反して、鳴尾教会の現在の山田牧師夫妻を、あたかも異端に走った教職者として不適格な人物であるかのように描き出して非難し、鳴尾教会のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からの離脱という出来事を、山田牧師夫妻による「陰謀」や「教会の乗っ取り」であるかのようなストーリーをブログ記事で描き、牧師夫妻を非難している点でも一致する。

一体、村上サイドに立つ情報提供者の協力なしに、どのような方法を用いて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には無関係なはずの杉本氏が、このような記事を書くに至ったのか。杉本氏がかなり中枢深くまで同教団の内情に食い込んでいる様子がはっきり伺えるのである。
  
このように、両者の見解は、驚くほどに共通しており、しかも、その主張の盲点や、事実に反する虚偽の主張についてまで、大筋で完全に一致しているのである。

こうしたことから、村上氏と杉本氏は、いわば思想的な同志のような関係にあって、互いの主張を補い合うという文脈で協力し合って来たことが明白であり、そのことは、村上密氏自身も、自らのブログ記事において、杉本氏の記事を引用していることでも裏付けられる。

さらに、サイバーカルト監視機構という呼び名は、私がつけたものであるにせよ、村上氏や杉本氏が、自ら「カルト化の疑いあり」とみなした教会や牧師や信者を、ネット上で袋叩きにする活動を積極的に後押しして来たことは事実である。

両者が、特定の教会やクリスチャンについてネガティヴなイメージを広めるために書いた記事は、実際に、ネット暴民のような身元不明のユーザーやコメント者を煽り立てて、記事でターゲットとされている人物への嫌がらせのコメント等を助長し、ブログの炎上を起こしたりする効果を与え、ネット上の集団的嫌がらせを次々と生んで来たことは事実である。

そのことは、杉本氏が自身のブログに掲載した私に対するバッシング記事に、一千件のコメントがついた事実を見ても明白である(むろん、この一千件のコメントは水増しの可能性が極めて高いので、実際に書き込んだ人数は数人程度かも知れないが)。このようにネットを利用して、村上氏や杉本氏の活動に賛同しない信者に対する組織的な嫌がらせが行われて来たことは事実であり、こうしたネット暴民のようなネットユーザーによる特定のクリスチャンに対する行き過ぎたバッシング、クリスチャン・ブロガーへの吊し上げや、悪質な書き込みの助長、悪意あるアクセス集中によるブログの検索結果の意図的操作等、ネット上の集団的な嫌がらせを生む母体となって来たのが、村上密氏や杉本徳久氏のブログ記事なのであり、これらの集団的悪意を総称して、私はサイバーカルト監視機構と呼んでいるのである。

このように、ある一定の目的のために活動するネット上の集団的悪意が存在することの証拠として、私はさわやか読者に関する情報を記録に残し、公表して来た。こうした読者らの動きを見ると、彼らが何を目的にしているのかも、おのずと見えて来る。匿名掲示板に大量に書き込まれた筆者に対する嫌がらせのコメントも、村上密氏を擁護する立場から書かれているが、そのようにして私の個人情報を公開すると事前に脅迫して来た人物は、杉本氏の他にはいない。こうしたことからも、村上密氏の活動に好ましくない特定のクリスチャンに対するバッシングによる印象操作や嫌がらせを、杉本氏が分担して担当している構図が見えて来るのである。
 
現実に接点がなくとも、インターネットで知り合った者同士が、思想的に手を結んで、同様の内容の記事を掲載して行くということは十分にあることで、それがたとえ計画的な形でなくとも、コメント者などを巻き込んで、行き過ぎたバッシングという見えない悪意につながっていくこともよくあることである。まして、元記事が悪意による誹謗中傷を含んだ内容であれば、それを鵜呑みにした読者らが、ターゲットとされた人物への集団攻撃に加勢することは容易に起きうる。

本来、ブログ記事は、そのようなことが起きないように配慮して書かなければならないが、村上氏と杉本氏は、最初から特定のクリスチャンを貶める目的で、事実に反して記載して来た決めつけの誹謗記事(たとえば、私や鳴尾教会牧師に対する記事内容については別稿で反論しているので、ここでは触れない)を次々と発表しては、多くのコメント者やネットユーザーを悪意による便乗的な嫌がらせへと駆り立て、ターゲットとされた人の人物評価を長年に渡り、貶めることに貢献して来たのである。

こうした行為は、罪に問われて当然の他者への名誉棄損、信用の重大な毀損であるが、そのような効果を最初から狙って、村上氏や杉本氏は一連の記事を書いて来たのであり、このようなネガティブ・キャンペーンと言える記事を発表することや、また、こうした記事を作成しては、ネット上で次々と好ましくない人物に弾圧を加えて行くことを肯定する思想と行動そのものが、カルト監視機構の本質なのである。
 
村上氏と杉本氏は、私のブログを常に「創作」と呼んで、事実に基づかない空想物語のように決めつけているが、その点でも、二人の主張は驚くほど一致している。
 
さらに、杉本氏は、「自己愛性妄想だ」とか(このような用語自体が「杉本用語」であり、公の概念としては存在しないのであるが)、「訳の分からぬ妄想的な珍説を並べている」などとヴィオロンを罵倒し、嘲笑するような言葉をいくつも並べては、長期に渡り、当ブログを酷評する記事をいくつも掲載して来た。その記事も全文データが残っているので、杉本氏によって書かれた他のスパム記事と共に、近日中に注釈を加えて公表する予定である。

鳴尾教会の教団離脱に関しても、杉本氏は、山田牧師夫妻について、具体的な根拠も提示せずに、一方的に「道に外れている」と決めつけたブログ記事を発表し、村上氏と同じように、鳴尾教会の教団離脱に反対する立場から一連の記事を書き、牧師夫妻のイメージを貶めており、こうした記事がコメント者らをいたずらに夫妻への嘲笑やバッシングに駆り立てて来たことは、杉本氏の記事につけられたコメントを一読しただけで分かることである。

このように、村上氏と杉本氏はネット上で手を組んで、自ら敵とみなした人物の評判を貶めるためのネガティブ・キャンペーンを積極的に展開して来たのであるが、杉本氏が鳴尾教会に関して掲載した情報は、その多くが捏造された不正確な情報であるにせよ、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の内部から出て来たものであり、関係者への接触がなければ知り得ない事柄であり、なおかつ、村上サイドから提供される情報と内容的に一致している。

しかも、鳴尾の山田牧師夫妻に関しては、異端の疑惑は教団内でさえも認められていないにも関わらず、全く根拠なく、杉本氏が彼らを「道に外れている」と非難していという点でも、杉本氏の見解は、その決めつけに満ちた事実に反する一方的で盲信的な主張という欠点において、村上氏の見解と瓜二つなまでに一致している。

ちなみに、杉本氏は、村上密氏のカルト監視機構の発想に全く反対を唱えたことがなかった。

こうして、杉本氏がこれまでにブログに記載して来た特定のクリスチャンに対する誹謗記事は、あらゆる角度から見て、村上密氏の主張と同一の思想を基盤とするものであり、村上密氏の活動を擁護し、支援する立場から書かれたものであることは疑いの余地がない。そして、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者ではない杉本氏に、ここまで事件の詳細を(しかも歪曲された一方的な角度から)情報提供できる人物は、村上密氏(とその関係者)以外には見当たらないのである。

こうした杉本氏の記事が原因となって、今日に至るまで、私のブログに対しても嫌がらせ工作が繰り返されているのだが、その嫌がらせ工作者の多くは、あからさまに杉本氏の記事から当ブログへとリンクして来た形跡が残っている。こうした証拠があるにも関わらず、それでも、杉本氏が自分がブログ記事で行っているネガティブ・キャンペーンが、ターゲットとされた人物に対する読者らの嫌がらせを煽るものではないと主張するつもりであろうか。

しかも、もっとあからさまな事実は、嫌がらせ工作を続けている読者の中に、杉本氏のものとしか考えられないIPアドレスが含まれており、その特定のIPアドレスから当ブログに対して、頻繁に異常なアクセスが集中していることである。これについては以下の記事を参照されたい。

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(前編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(中編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(後編)
  
さて、村上密氏と杉本徳久氏の最も重大な思想的な共通点は、両者がこのようにネットや司法の場を利用して、自ら「疑わしい」とみなしたクリスチャンたちに対して、恫喝訴訟をしかけたり、私刑と言って差し支えない不法なバッシングや、脅迫や嫌がらせなどの圧迫による個人攻撃を行ない、気に入らない人物に対して、この世の法律や教会の規則に基づかない行き過ぎた懲罰的で報復的な行為を容認し、さらにはこれを積極的に奨励してさえいることである。
 
このように、聖書に基づかずに、人間が他者の内心の自由を侵害してまで、自らの思惑に基づいて、神のように他人を裁き、人の内心を監視し、誤った思想を罰し、是正しようとする危険な思想と、こうした思想を容認する活動をこそ、私はこれまで「カルト監視機構」の本質として糾弾して来たのであり、村上密氏と杉本氏の活動とそのブログ記事内容は、このような思想をまさに体現したものであると言える。こうして特定の人物に対して懲罰を加える目的で書かれた彼らの著作物が、それに悪影響を受けて嫌がらせに及ぶネット読者らを生み出すのは当然なのであるが、こうしたネット上の嫌がらせ工作を総称して、私は「サイバーカルト監視機構」と呼んでいるのである。

サイバーカルト監視機構とは、特定の人々が、インターネット上で、好ましくないクリスチャンに対する非合法な弾圧を肯定するために作り上げた「空気」であり、そのような残酷な私刑を是認するための「世論作り」であり、また、そうしたネット上の弾圧によって、キリスト教界に大規模な言論統制をもたらし、好ましくない発言を行なうクリスチャンを恫喝して沈黙に追い込もうとする圧力のことでもある。また、こうした嫌がらせ工作を日夜行うネット上の集団的悪意そのもののことでもある。
 
ネットで起きた事柄については、具体的に、いつ、誰が、誰に対してどんな指示を出したのか、ということを立証することは困難であるが、少なくとも、思想的な共通点を通して、それをある程度、探り出すことは可能である。

村上密氏、杉本徳久氏は、インターネット上で、プロテスタントのキリスト教会を次々ターゲットとした告発記事を掲載し、キリスト教界全体にネガティヴなイメージを形成し、キリスト教界を改革するために、聖書と教界内規則に基づいた改革を訴えるのでなく、信者や教会をこの世の裁判に訴えることを助長するような主張を積極的に行なって来た人物として、キリスト教界において、極めて特異な存在であり、両者の主張を見れば、公の教団教派のつながりにおいては無関係であるにも関わらず、両者が同一の深い思想的なつながりで結ばれており、なおかつ、牧師である村上氏が指導的な立場に立って、杉本氏の執筆活動にも多大な思想的影響を及ぼし、杉本氏が村上氏の活動を擁護し、支える形で活動して来たことが見て取れるのである。

上記したようなすべての事実に反して、杉本氏はそれでもあくまで自分は村上氏とは直接の面識がないのだから村上氏とは思想的にも無関係であり、筆者がサイバーカルト監視機構と名付けているような、ネット上のクリスチャンに対する集団的な嫌がらせには関与していないと言い張るつもりであろうか? その際、筆者に送って来た恫喝メールや、自身のブログに記載して来たバッシング記事については、どのように弁明するつもりなのであろうか?

自分自身は他者を公の場でいわれなく非難し、暗闇で幾度も恫喝しては、沈黙に追い込もうと圧力を加えておきながら、他者から公に反論があると、具体的な根拠も提示せずに、すぐに「名誉棄損だ!」と騒ぎ立て、無理やり記事の削除を迫ったり、個人情報を公開するなどの脅しによって黙らせようとしたり、果ては裁判にまで及ぶのでは、あまりにも非常識で大人げない態度であると思うのだが、杉本氏はそのような考えはないのだろうか。

杉本氏は、自分にとって都合の悪い記事を削除してほしいと他者に依頼するよりも前に、まずは自分自身が、その他者に関して書いたネガティヴなバッシング記事をすべて削除し、他者の名前を自分のブログから抹消するのが筋であろう。それもしないうちに、なぜ他者にだけ一方的に自分にとって不都合な記事の削除を迫ることができるのか。自分こそ、相手の嫌がることはしない、それが相手にものを頼むときの基本的な礼儀ではないかと思うのだが。

杉本氏はプロテスタントの信者でさえないのに、どんな権限があってプロテスタントのキリスト教界の異端審問官のように振る舞い、気に入らないクリスチャンを脅して言論統制を行なう権利があるのか。部外者に過ぎない同氏の不法な主張に信者が従わなければならない理由はない。

 〇〇さんが書かれていることは全て私に対する誹謗中傷であり、私の名誉や信用を重大に毀損する行為に該当します。〇〇さんと唐沢さんやその他の人たちとの間のことについては私はわかりませんが、少なくともすぐに私に関する記事、私の名については削除して下さい。

(もう一通、別のメールに続きます。)

杉本氏は、ここで村上密氏、ルーク氏、Br.Taka夫妻など、すべての人を切り捨てても、自分だけは難を逃れたいという意思を示している。他の人たちはどう非難しても構わないから、自分だけは別扱いにして欲しいと述べているのである。

特に、杉本氏がこれまで、あれほど歩みを一つにして来た村上氏とも、ほとんど無関係に近いかのように弁明して距離を置こうとしている姿勢は興味深い。
 
また、不思議なのは、なぜかここでも、再び、杉本氏が唐突に唐沢氏の名前を出し、「他の人たちとの間のこと」などに言及していることである。

杉本氏の文章にはこのような飛躍がしょっちゅうである。「他の人たちの間のことについては私は分かりませんが」などと、不自然な文脈でもっともらしく弁明している時こそ、その文脈に注意が必要なのである。これは、Br.Takaこと鵜川貴範・直子夫妻の牧師資格詐称やKFCの乗っ取り事件などには全く関与していないという自己弁明であろうか?
  
これまでの杉本氏の様々な言動を振り返ると、同氏は他教会の内政に干渉したり、無関係な他者の個人情報を収集したり、他者の人間関係について詮索したりという越権行為をしりきに繰り返して来ており、そんな人間が「他の人たちの間のことについては私は分かりませんが」などとわざとらしく否定すれば否定するほど、かえって不自然な印象と疑惑だけがより深まって行くというのが正直なところである。

杉本氏に関して私の掲載している記事内容が、事実無根の誹謗中傷でないことは、すでに根拠を示しながら幾度も述べて来たことである。杉本氏が自ら実名で公表している記事について、誰かが公に批評や分析を加えたからと言って、それだけでは何ら誹謗中傷にはあたらない。
 
まして、杉本氏が誰でも読める形でブログに公表している当ブログに対する一連の決めつけに満ちた非難やバッシングや、杉本氏の記事に含まれているスパムとしか思えない当ブログへの悪質なリンクや、杉本氏とおぼしき人物からの当ブログに対する嫌がらせのアクセスや、杉本氏が私に送って来た恫喝メール等に対して、当ブログできちんと根拠を示して反論し、抗議することは、全く誹謗にも中傷にも当たらない。自分自身がそのようなことを行なっておきながら、他者には反論も許さないとは何事か。よって、記事を削除しなければならない理由が全く存在しないのである。



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  ▼投稿されたメッセージ
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 REMOTE_ADDR: 219.215.163.80

 [ 名前c ]
 杉本徳久

 [ メールアドレスc ]
 sugimotonorihisa@gmail.com

 [ メールアドレス再入力c ]
 sugimotonorihisa@gmail.com

 [ 件名c ]
 ブログの文章につきまして その2

 [ ご感想c ]
 〇〇さんの名については、先の坂井能大を相手取った民事訴訟(武蔵野簡易裁判所にて)の中にて、坂井の提出した書証や唐沢が提出したメール記録の書証の中に出てきて、ヴィオロンさんの本名が「〇〇」だということについて確認しました。それまでは疑い半分で本名は不明だという前提でおりました。現段階であなたの本名を私のブログで公開したりしたことは一度もありません。社会福祉士として、あなたが通っていた教会のことやあなたの心の状態が良くわかりますから、あれこれ坂井能大を相手にしたような追及はしませんでした。

杉本徳久氏は、村上密氏と同じように、裁判を通して、自分の属している教会とは無関係な教会や、そこにいる信者の信仰生活に強制的に介入し、懲罰を加えることを肯定して来ただけでなく、その裁判を通じて積極的に自分とは無関係の教団教派に属する信者についての情報収集をも行なって来たようである。ひょっとすると、本当は個人の情報収集が目的で裁判を起こしているのではないかという印象さえ受けるほどである。

さらに、杉本氏はここで坂井氏との裁判を通して私の実名を知ったかのように書いているが、それは虚偽であり、実際には、すでに2011年末の時点で、私は杉本氏から、私の実名を特定したメールを受け取っている。これは坂井氏との裁判が起きる以前のことであり、この時差を杉本氏はどのように説明するのだろうか。まさか当てずっぽうの推測で人の名前を書いていたとは弁明できまい。

杉本氏は私の本名をブログで公開したことは一度もないと自己弁明しているが、それでは、ブログ以外の匿名掲示板などの場所ではどうだったのだろうか。これについては何もコメントがない。杉本氏にとって気に入らない記事を削除しない限り、私の実名を公表すると、恫喝メールで息巻いていたことについては、どのように説明するつもりであろうか。そのように私に予告して来た人物は、杉本氏以外には誰もいないのだが。

「社会福祉士として、あなたが通っていた教会のことやあなたの心の状態が良くわかります」と杉本氏は書いているが、これはどこの教会のことを指しているのか見当もつかない。そもそも、社会福祉士として、他人の通っていた教会のことが分かると主張すること自体、随分、妙な理屈であると思う。社会福祉士とは、そもそも教会の内情や、信者の信仰を理解するための職ではない。もしクリスチャンとしての信仰が本当にあるのであれば、社会福祉士として他者の教会を理解しようとする必要はなく、ただ聖書に基づいて理解すればよいと思うのだが、このコメントを読んでいると、杉本氏には本当に信仰があるのかと疑ってしまう。

「社会福祉士として<中略>あなたの心の状態が良くわかりますから、あれこれ坂井能大を相手にしたような追及はしませんでした。」と、杉本氏は書いているが、このように「配慮してやったのだ」「情状酌量したから提訴しなかったのだ」と、もったいぶって見せる割には、私へのかつてのメールには、「あまりあなたには同情いたしておりませんので、今回の件、私をあまり侮られませんよう。」などと、他人の心境など知ったことではないという脅し文句をちりばめていたのは何だったのであろうか(たとえば 2011年12月6日付メール

 
このように、筆者に何通もの恫喝メールを送って来たり、メールフォームで気に入らない全ての記事から名前を削除せよと要求して来たり、嫌がらせのようなアクセスを当ブログに集中させたりと、人の目に触れない場所で、随分、多くの圧迫と恫喝を杉本氏は私に対して行って来たのだが、それでも、「坂井能大を相手にしたような追及はしませんでした。」と、あくまで手加減してやったのだと言うつもりなのだろうか。

今までのいきさつを振り返ると、こうした言葉も、結局は、杉本氏にとって気に入らない記事を私が削除せず、杉本氏の要望を聞き入れずに、杉本氏の名前を自分のブログ記事から削除しなければ、坂井氏と同じようにおまえも告訴してやるという脅し文句としか受け取れないのである。
残念だが、杉本氏からこれまでにされて来た数々の嫌がらせを考えると、そのように深読みするのが当然である。

 
  一時、閉鎖されていた〇〇さんのブログが今のように大々的に再開された以上、ことを放置することはできません。個人的に、あまりことを大げさにしたいわけではなく、大がかりな対応をとりたいと思っているわけではありませんが、内容が内容だけにこのままで座視するわけにはいきません。

 ブログ記事、すぐに削除して下さいますよう。何か疑問などあれば、どうぞお尋ね下さい。

この文章も、一方では、「あまりことを大げさにしたいわけではなく、大がかりな対応をとりたいと思っているわけではありません」と言いながらも、その実、言うことをおとなしく聞いておかなければ、いつでも事件を大々的に炎上させるぞという杉本氏の思惑が透けて見える。

しかも、これはすごい文章である、「 一時、閉鎖されていた〇〇さんのブログが今のように大々的に再開された以上、ことを放置することはできません。」

つまり、自分に気に入らない内容の記事が書かれているので、ことを放置できないと主張するのではなく、私のブログが今のように大々的に再開されたから放置できないと、はっきり述べているわけである。

大々的に再開されたとは、一体、どういうことなのであろうか。私は以前と同じように淡々とブログ記事を書き続けているだけであり、以前のブログの方が、今より読みやすく、文章も簡潔で、更新も頻繁であった部分もあるように感じているので、努力が足りないと感じることはあっても、特に大々的に何かをやり始めたという自覚はまるで全くない。

杉本氏のこの発言を通して感じられるのは、どれほど同氏が私のブログそのものを未だに目の敵として閉鎖に追い込みたいと考えているか、どんなにその目的で、これまで再三に渡る嫌がらせと恫喝を執拗に重ねて来たか、そして、同氏の脅迫と嫌がらせの数々にも関わらず、私のブログが再開されたこと自体が、どれほど同氏にとって気に食わないことであり、どれほどこのブログが杉本氏にとって脅威と見え、激しい憎悪の的となっているかという事実である。
 
もし本当に相手の心の平安を願う心があれば、まずはこのブログが再開されたことに祝辞を述べるであろうが、相変わらず、杉本氏の文面には、挨拶文さえ記載されておらず、人を祝福する気持ちがまるでないことがよく伝わって来る文面である。上から目線の一方的な命令を下し、不法な手段で人を威嚇することによって、他者の執筆活動を妨害し、不都合な信者をネットから駆逐することで、自分にとって不都合な言説を取り締まり、自分に都合よくクリスチャンの世論を言論統制することだけが、私への接触の目的なのである。

これでは、杉本氏は、私のブログを何が何でも再び閉鎖に追い込む目的で、さわやか読者の履歴に示されているように、今日に至るまで執拗な嫌がらせを水面下で続けているのだと、自ら白状し、宣戦布告を突きつけているようなものである。
 
そんな人に疑問があればお尋ね下さいなどと言われても、尋ねることもなければ、杉本氏がこれまでに行って来た事柄を考えると、返信などしようものなら、どんな厄災が待ち受けているか、誰しも容易に想像できる。

削除はしない。そうするだけの理由が何も存在しないためである。

そう答えれば、また次なる嫌がらせに及ぶつもりだろうか。坂井氏と同じように、私も法廷の場に引き出し、恫喝裁判のターゲットとするつもりであろうか。

しかしながら、杉本氏のこうした恫喝は、何年も前からずっと繰り返されて来たものであり、裁判の脅しなど、全く効果のないものである。さらに、杉本氏が坂井氏を訴え、勝利してさえも、それによってどれほど世間で杉本氏についてネガティヴなイメージばかりが広まり、定着して行ったか、ネットの世論を見回すとよく見えて来る。一般に、身近な他人を次々と訴え、法廷に引きずり出して戦いを挑むことを生きがいとしているような人間は、たとえ勝訴することがあったとしても、みなに嫌われ、近寄られなくなって行くだけである。

しかも、自分にとって気に入らない記事を書いているクリスチャンを暗闇で恫喝し、自分が証拠不十分で敗訴することも織り込み済みで、ただ心理的な打撃を与えることを目的に、次々とクリスチャンを裁判に訴える活動を繰り返して来た人間が、また裁判だと叫んでみたところで、半ばオオカミ少年のように見られるだけではないかと思う。

そのような姿は、クリスチャンの生き様からはほど遠く、これまで幾度も指摘して来たように、「日夜、兄弟たちを訴える者」、すなわち、悪魔を彷彿とさせるのである。
 
こうして、杉本氏がクリスチャンに闘いを挑むために提起してきた裁判という手法も、まさに村上密氏が積極的に奨励し、用いて来た手法であり、両者の行動を見れば、その背後に、クリスチャンに対する尽きせぬ憎悪、何としてもクリスチャンを弾圧したいとの欲望が、どうしても筆者には透けて見えてならないのである。

クリスチャンに言いがかりをつけ、クリスチャンを脅し、クリスチャンを法廷に引きずり出して苦しめ、クリスチャンを罰して、苦しめて、懺悔させたい。神の民を己の前に跪かせ、赦しを乞わせ、屈辱をこうむらせたい。そういう飽くことのない悪魔的欲望が、どうしても両者の行動の背後に透けて見えてならないのである。

従って、両氏の活動は、到底、キリストの御霊から来るものではなく、むしろ、反キリストの霊、キリスト教徒に対する弾圧の霊から来る活動だと言わざるを得ない。従って、彼らの活動の目的も、彼らが口で唱えているように、キリスト教界の改革にはなく、むしろ、キリスト教界の改革を口実にして、気に入らないクリスチャンを次々とネット上で吊し上げ、あるいは法廷に引きずり出して弾圧し、懺悔を迫り、処罰することを目的としているのだろうと思わずにいられない。私が当ブログで早くから訴えて来たのは、この人々の活動の真の目的は、キリスト教界の浄化を口実にしただけのキリスト教徒の弾圧にあるという事実である。

このような活動にいつまでも従事している人々は、キリスト教徒への迫害者という定評が後世にまで残ることになるであろう。キリスト教の恥ずべき異端審問の歴史に、また新たな名が刻まれることになる。

杉本氏がたとえ憤りにまかせてクリスチャンを幾人告訴したとしても、事実無根の訴えでは、勝ち目がない。膨大な時間と労力と資金の無駄が待っているだけであり、そして、キリストの霊的秩序は、この世のすべての秩序を超えるのである。

パウロによれば、クリスチャンは、「御使いさえも裁く者」である。黙って苦しみを担われたキリストのゆえに、クリスチャンはむやみに兄弟姉妹を訴えるようなことはしないが、いずれにしても、我々にはイエスの御名によってキリストと同じ権威が与えられているのであり、この御名を超える権威は地上のどこにも存在しない。小羊の血潮によって贖われ、神が義とされた信者を再び訴え、罪に定めることのできる人間は地上に誰も存在しないのである。

にも関わらず、気に入らないクリスチャンの言説に遭遇する度に、「削除だ!」「裁判だ!」と叫び立て、告発記事の執筆にいそしみ、あるいは水面下で恫喝と嫌がらせ工作にいそしみ、提訴できる相手を探し求めて日々クリスチャン・ブロガーを見回しているのでは、「日夜、兄弟たちを訴える者」という定評がさらに広まって行くだけであり、それでは杉本氏自身にも全く利益にならないであろう。
   
180−0001 武蔵野市吉祥寺北町1−5−14
 杉本徳久
070 5012 7587
sugimotonorihisa@gmail.com
 
 

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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