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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実➀



 




 

~ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実~

さて、読者のために誤解のないよう断っておきたい。

この度、当ブログに対して長年に渡り、おびただしい回数の嫌がらせを行って来た「現代の風景 随想 吉祥寺の森から」(http://d.hatena.ne.jp/religious/)および「神々の風景 ーreligious sceneー」(http://d.hatena.ne.jp/religious/)と題するブログの著者杉本徳久氏およびその共犯者たちが刑事告訴された(この名は本人が公開したプロフィールから得たもの。情報は以下参照)。

上記のブログの著者とその共犯者たちが、2009年以来、当ブログに対してどんなに執拗かつ陰湿な嫌がらせと誹謗中傷を重ねて行って来たかについては、幾度も当ブログ記事で詳しく証拠を提示して記して来た通りであるので、これについては過去の記事を参照されたい。
  
杉本徳久氏への公開書簡」には、当ブログが、杉本なる人物から、本人の住所氏名連絡先を記した上で、送りつけられたおびただしい数の嫌がらせメールを公開している。当ブログは、そこで、杉本にとって気に入らない記事を一方的に削除するよう迫られたり、その不当な要求に応じなければ、当ブログ執筆者の個人情報を無断で暴露すると脅されたり、その他にも様々な嫌がらせを予告されて来た。
 
こうしたすさまじい陰湿な嫌がらせ行為を受けて、当ブログ執筆者が幾度も警察に報告・相談を行った結果、杉本および共犯らは、去る2月23日に神奈川県警察に名誉毀損罪により刑事告訴された。さらに、杉本は名誉毀損の他にも、つきまとい等の迷惑行為防止条例違反で警察から警告を受けている。

杉本は当ブログ執筆者が警察に相談していることを事実だと考えなかったのか、あるいは、それが事実であると大変不都合であると考えたのか、当ブログが警察に相談しているという事実が根拠のない虚偽であるかのように吹聴していたようだが、実際には、杉本の行為は刑法に触れる罪であって刑事事件にまで発展している。

さて、当ブログでは、何年も前に、「罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――」と題する論文を掲載し、そこで、杉本が何の公的資格にも基づかず、自らの義憤だけに基づいて、「教会のカルト化を監視する」として、自らのブログで、様々な教会やクリスチャンに関する不利な情報を集めては、教会や信者をブログでバッシングする記事を発表していることに、何の正当な根拠もないこと、また、杉本ブログに掲載されている情報が虚偽の温床になっていることを指摘した。
 
その記事の中で、杉本は、以上のようなクリスチャンや教会に対するいわれのない迫害の当然の報いとして、必ず刑罰を受けねばならなくなるだろうと予告した。

今回、まさにそうした予告が現実になった形であるが、やはり、聖霊に導かれるキリスト者の述べる事柄には、一つ一つ、本人が自覚している以上に深い意味があるのだと考えさせられる。

ちなみに、当ブログでは、2012年頃からすでに各種の掲示板等に投稿された嫌がらせのコメントに対して刑事告訴が可能である旨を警察から告げ知らされていた。ただし、杉本本人につながる確たる証拠が出て来るのを待ちたいという筆者の意向があったために、告訴がなされなかっただけである。

このように、現代という時代は、個人のブログであろうと掲示板であろうと、いずれにしても、書き込み者を特定して責任追及を行うことは十分に可能な世の中であるから、読者はよくよく熟慮してコメントを投稿されたい。
 
さて、筆者は杉本とは面識が全くないので、杉本徳久という名前がペンネームなのか本名なのかも知らない。杉本の年齢は、ブログの情報によれば、40代の男ということになろう。

杉本の職業は、本人が自らブログで社会福祉士であると述べていることから、ブログだけでなく、実生活においても、社会的弱者の救済をライフワークにしている様子が伺える。

しかし、それにしては、杉本は自らのブログで、筆者のような健康な人間を何の根拠もなく精神異常呼ばわりして嘲笑った挙句、精神異常者の社会への適応困難な状況や、就労困難を嘲笑するような内容の記事を書き、社会的弱者を罵倒しているわけであるから、人目につかないところで、そのような社会的弱者へのイジメのような行為にコソコソ手を染めていたことが発覚すれば、当然ながら、職場も解雇される恐れが十分に出て来る。

何よりも、刑法に抵触する行為の報いとして罰を受ければ、社会福祉士の国家資格を剥奪されることが十分に考えられる。

たかがブログと考えて、自分よりも弱そうな社会的弱者を鬱憤晴らしに貶めるような行為に手を染めれば、その報いとして、現実生活に数多くの不利益がふりかかることになるという見本のようである。何度も当ブログではそういう事態になることを警告していたのに、耳を貸さなかったのだから、愚かとしか言いようがない。
 
さて、杉本の住所は、「随想 吉祥寺の森から」および「神々の風景」および、さらに同じ人物が主催者となっているサッカーチームのブログ「Soccer team - FC弥生- Yayoi football club」の三つのブログで公開されているプロフィールを手がかりにすると、以下の通りである。

ちなみに、これらのプロフィールは未だに閉鎖されることもなく無防備に閲覧可能な状態で放置されている。(著者に自分が訴えられたことの自覚がまるでない様子を伺わせる。)

株式会社メディアテラスという会社が実在しているかどうかについても、筆者は知らない。ネットの情報によれば、何年も前から幽霊会社になっているという説もある。もしそれが事実だとすると、杉本に社会的弱者を笑っているような経済的余裕が本当にあるのかどうかも疑わしい。
 

   

 

http://d.hatena.ne.jp/religious/about

 

 

http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/cat_50012366.html


 

http://d.hatena.ne.jp/fcyayoi/20070112

さて、このブログの杉本徳久なる人物は、以上のプロフィールの連絡先に、警察からの連絡を受け、本人確認を済ませた上で、自ら以上のブログを書き、当ブログに対する嫌がらせ行為に及んだ事実を認めたものの、人権侵害に該当する記事の削除や、ブログの閉鎖を求められると、強硬に拒んでいるという。

この度、当ブログはプロバイダを通じても、杉本がブログの削除を拒否している旨の通知を受け取っている。事件になった以上、削除は本人の意志の問題でないことも、まるで分かっていない様子だ。そこには、一秒でも長くクリスチャンを害する情報をまき散らしたいという本人の悪しき願望を見るだけである。
  
きちんとした弁護士がついてさえいれば、杉本とてこのような愚かな行為に至ることはなかっただろう。何しろ、警察の警告にも耳を貸さないとなれば、悪印象が募り、本人がこの先、情状酌量を受ける余地がますます減って行くだけだからである。

このように、他人に迷惑をかけても一切の自覚がなく、法律を遵守しようとの姿勢もなく、自ら行った行為の犯罪性の認識が皆無で、刑法に触れる記事を削除するつもりもなく、被害者に謝罪する意志や、反省の態度も微塵も見られないとなると、やがて本人の意志に関わりなく、処罰を受けることでしか反省してもらう余地はないね、という結論が、関わった人々から異口同音に出て来るのは避けられないであろう。

ちなみに、一般には、不当な理由で告訴された人には、虚偽告訴という形で対抗することが可能であるが、杉本徳久の場合には、それは当てはまらない。なぜなら、杉本の嫌がらせ行為は、あまりにも大勢の人々が知り得る場所で行われており、十分すぎるほどの目撃者と証拠の蓄積があることに加え、杉本はこれまで一年間もかけて当ブログを刑事告訴しようと試みたにも関わらず、武蔵野警察署がそれを受理せず、杉本の訴えを棄却した経緯があるからだ。

そういう事情を考慮すれば、この先、警察が杉本の虚偽告訴を受理する可能性は、今まで以上に低くなったと言えるだろう。そのようなことをすれば、武蔵野警察が先の告訴を受けなかったことが誤りであったと認め、また、神奈川県警察の仕事を否定するも同然の格好になってしまう。
 
さて、筆者は、約9年間という長きに渡り、不当な嫌がらせによって損害を受けたことに対し、杉本に対し、民事においても責任追及する所存である。

杉本の虚偽(というより妄想)に溢れた「創作物語」に対する当ブログの公式な反論及び民事上の責任追及については、詳細を以下に公表するつもりであるが、情報の公開までは少しだけ待たれたい。

杉本の当ブログに対する主張が何から何まで完全に虚偽であることについて

さて、筆者はここで、杉本ブログで同様の被害に遭われたすべてのクリスチャンが、決して泣き寝入りすることなく、本人に対してしかるべき責任追及を行うよう呼びかけたい。

杉本はこれまで自分がクリスチャンや教会を訴えることに何のためらいもなかったわけであるから、自ら他者に対して行ったことを、自分自身の身に受けるのは、至極当然である。

事態を大きくすることをためらう必要はない。このような種類の人間は、強制力を行使して、捕えられ、世間からの強い圧力がかかることがなければ、決してクリスチャンをターゲットとして嫌がらせを続け、苦しめることをやめないであろう。

信徒は、住所や連絡先を公開せずとも、刑事や民事での責任追及は可能であるから、時効を迎える前にきちんとアクションを取られたい。
 
当ブログの読者であれば、杉本が長年に渡り、当ブログにしかけて来た争いが、当事者同士で解決できるレベルをはるかに超えており、筆者が個人でそれに対応しなければならない理由もなく、筆者自身にも市民としての措置を取る権利があることには同意してくれるだろう。

しかも、筆者がそうしたアクションを取るまでには、長い長い年月が経過している。その間に、杉本自身が、当ブログを刑事告訴すると息巻いていたことや、杉本から行われたあらゆる嫌がらせにも関わらず、筆者が杉本に幾度も和解を呼びかけては嫌がらせをやめるよう警告を行ったこと、むろん、警察に相談している事実があることも本人に知らせた上で、万策を尽くした事実があるわけだから、今更、以上のような措置に出たところで、遅すぎるという非難は受けたとしても、誰もそれに反対する者はいまい。

今後、事件の捜査および進展の過程で、新たな情報が出て来れば、それもまたここに掲載したいと考えている。
 
筆者はこれまで第三者を介した話し合いの場で、それまで居丈高に高圧的に振る舞い、暴言を吐き続けて来たような人間が、まるで捕えられた獣のように急におとなしくなり、何も言えなくなる瞬間を何度も目撃して来た。

筆者は弁護士という職業が好きではないが、あまりにもプライドに凝り固まり、真実が見えなくなり、感情的で、理性を見失った人間を相手にする場合には、向こうに弁護士がついている方が都合が良い場合もあることを知っている。なぜなら、弁護士は当事者よりもはるかに現実的に物事が見えており、裁判官の助言も重んじるため、当事者が感情に走りすぎている場合は、ちゃんといさめてくれるからだ。

弁護士にとって、紛争が長引けば得になると書いたのは、あくまで取りはぐれのない企業などが依頼人になっている場合であって、個人の争いが長引いても、弁護士に得になることはない。紛争が長引く間に、その個人が自己破産でもしようものならば、収入の見込みも途絶えるため、弁護士は個人の紛争をいたずらに長引かせず、裁判官の判断には基本的に従う。
 
そこで、当事者は、感情的になっていても、裁判官と自分の依頼した弁護士の両方から説得を受ければ、最終的に折れざるを得ない。紛争を第三者の前に持ち出すことの意味はこうしたところにある。

<②へ続く>

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悪魔と暗闇の勢力に対する容赦のない裁き―神は罪人らが悔い改めて癒されることのないよう、彼らの心を頑なにされる―

「この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。」(黙示13:5)

「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示21:6-8)
 
オリーブ園にちょっと不思議な記事が掲載されている。

これまでずっとオースチン-スパークスの連載が続いていたのだが、途中に以下のエバン・ロバーツの記事が掲載されているのだ。

戦いに関する光

悪魔の白旗に注意しなさい!それは戦いを停止させるための休戦の旗なのです。悪魔は出来ることなら何らかの方法で入り込み、まさにカナン人がヨシュアにしたように、教会を自分に妥協させようとします。危険なのは戦いが終わる前に妥協して、戦いをやめることです。暗闇の力に対していかなる妥協、あわれみ、同情もあってはなりません。

 悪霊どもは知性と交信することができますが、接触するのは霊です。霊に接触し、知性と交信するのです。これがあなたが大いに警戒しなければならない理由であり、あなたが大いに戦わなければならない理由です。悪霊どもは足がかりがあろうとなかろうと、実際に霊に接触します。あなたがあなたの霊の中にあればあるほど、ますますあなたは悪霊どもと接触するようになります。あなたの霊を守りなさい。あなたが自分の霊を正しい状態に保つなら、あなたの霊はまさに船の緩衝材のように働きます。船が港の岸壁に衝突しても――緩衝材がその衝撃を散らしてくれるのです。

 悪霊どもの大目的は悪です。悪霊どもがある人の外側にいる時、悪霊どもが行いたいことをその人が理解し、願い、遂行するという保証は彼らにはありません。しかし、もし悪霊どもがその人の中に入り込むことができるなら、悪霊どもはその人に自分たちの行いたいことを行わせることができます。悪霊どもの大きな願いは、その人に自分たちの意志を遂行するよう強いることです。悪霊どもが人に取り憑く時、その主な現れは強制です。あるいは、悪霊どもが取り憑く主な目的はこれなのかもしれません。取り憑くことにより、悪霊どもは安堵するのです。

エバン・ロバーツ


 この記事は前後の記事がないため、言わんとしていることの具体的な意味がそれほどまでに明瞭ではないが、筆者はこの記事の内容に心を留める。

 以上の記事が具体的に何かを指して言われたのかどうかは分からないが、筆者は、カルト被害者救済活動の偽りと対峙する時、「暗闇の力に対していかなる妥協、あわれみ、同情もあってはなりません。」という忠告は、まさに当てはまるものだと思う。

 このところ、カルト被害者救済活動の支持者には、警察から、刑法に違反し、人権を侵害する記事を取り下げるよう、連日、警告が行われていた。ところが、当初は記事を取り下げることに同意していたその人物は、その後心を翻し、記事を掲載し続ける意向を示している。

 ついに、警察の忠告にまで逆らう意向を示したのだ。だが、そうしたことも、いわば、織り込み済みの事実であったと言える。なぜなら、この人々は今までずっと「市民社会の掟」を振りかざしては、クリスチャンが非常識な存在であるかのように断罪して来たとはいえ、本当は、彼らの正体こそ、最も非常識かつ反社会的な勢力だからだ。

 神の教会に敵対して立ち向かいながら、この世の社会にだけは色の良い顔をすることは不可能なのである。

 もうしばらくすれば、彼らは警察に対しても正体を現し、彼らがこれまで何か貴いものであるかのように振りかざして来た「市民社会」そのものを冒涜し、踏みつけにするだろう。そして、自らの強情さによって、可能な限りの手下を滅びの運命に道連れにしようとするだろう。

 しかし、彼らの計画は中途で打ち砕かれる。

 まだ終わりの時は来ていない。バベルの塔の建設が完成に至ることはなく、必ず、それは離散で終わると相場は決まっている。

 従って、今回、彼らが警察の忠告まで振り切って行動したことは、神のご計画の範疇なのである。つまり、神ご自身が、彼らの心を頑なにされたことをよく示している。

「この民のところへ行って言え。
 あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
 この民の心は鈍くなり、 
 耳は遠くなり、
 目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 耳で聞くことなく、
 心で理解せず、立ち帰らない。
 わたしは彼らをいやさない。」(使徒28:26-28)

 これまで幾度も述べて来たように、神は、ご自分で癒そうと考える者の心を柔軟にし、癒すつもりのない人間の心を頑なにされる。

 心を頑なにされた人間には、悔い改めて神に立ち返って罪赦される可能性が失われる。人間的な観点から見ても、情状酌量の余地がなくなり、その後は徹底的な滅びへと向かって行くだけになる。
  
 筆者は、こうした事態を見ながら、やはり悪魔と暗闇の勢力は、自分の手下となった人物に対する使い捨ての法則を貫き、その人物から情状酌量を受ける余地を完全に奪い去り、徹底的な破滅へ追い込むものだという確信を強めている。

 こうして、また一つまた一つと彼らの新たな罪状書きが増えて行く。だが、それでも筆者は知っているのだ、彼らが何を考え、どう行動し、何を宣言しようと、結論は最初から決まっていると。

 結論が決まっているからこそ、彼らは当初から、筆者やクリスチャンに対してこれほど激しい憎しみを燃やし、自分の運命に抵抗して来たのである。

 それは、筆者自身の中にある神の御霊が、彼らの目から見てそれほどまでに重大な脅威だったためである。
 
 ところで、筆者は以前にある人が刑事告訴され、逮捕されたいきさつを間近で見ていたことがあるため、そういう事件の進展の仕方と、訴えられた人がどうなるのかも知っている。

 その当時の筆者は、まだとても未熟な信者で、人間的な対立を可能な限り避けて、すべてを当事者同士の話し合いで解決できるものと信じていた。だから、最後の最後まで、事件などにはせず、何とか話し合って和解できないかと、関係者に呼びかけていたのである。

 すると、告訴人に当たる人物が、筆者に向かって言った、「ヴィオロンさん、あなたがそこまで言うのなら、あなた自身が私たちの話し合いに立ち会ってもらえませんか?」

 それは何度目かの和解の呼びかけがすべて拒否された後の出来事であった。

 今から考えれば、筆者にはその提案を受ける筋合いはなかったのだが、筆者はその当時、あまりにも未熟であったがゆえに、どこかに和解の道が残っているに違いないと信じ、彼らを思いとどまらせるべきと考えていた。そして、自分としてできることをすべてしようと思い、説得する材料となりそうな土産物まで持って、車に乗り込んだのである。

 ところが、我々の出発直後に、警察からストップがかかった。「行ってはいけません。ここから先は我々に任せて下さい。」

 まさにそれは天の守りもしくは介入だったものと思う。その当時、いかに筆者が未熟で愚かな信者であったにせよ、神は筆者を守って下さり、筆者が超えてはならない一線を踏み越えて、足を踏み入れるべきでない領域に介入することがないよう、すべてを采配して下さり、筆者を力づくでその事件から遠ざけたのであった。

 結局、筆者はその当事者に会うこともなく、説得に赴くこともなく、その人物が誰なのかさえも知らないまま、時が過ぎ、その人物が間もなく逮捕されたことを聞かされた。その逮捕が当人にとってどれほど測り知れない衝撃であったかも知らされた。

 いわば、事件になったその時から、筆者が何を言ってみたところで、そういう顛末を辿ることは最初から決まっていたのだと言える。話せばきっと思いは通じるだろうといった浅はかで子供じみた感情的な次元の対立ではなかったのである。

 この出来事を通して、筆者は初めて、人が力づくで拘束されることや、それによって生活を奪われ、社会的名誉も失い、自分の書いたもののすべてが強制的に削除され、以後、どこにも何一つ意見発表できなくなり、完全な沈黙に追いやられ、人としての活動を失うということの意味を、傍観者の立場を通してだが、はっきりと目撃したのであった。

 現在の日本社会では、男性にとっては特に、容疑を受けて身柄を拘束されること自体が、社会生活のほぼ完全な破滅を意味すると言っても差し支えない。人々は自分が告訴されたと分かっただけでも、職場を辞めたりする。その後の顛末がどうあれ、関係者に迷惑をかけないためである。冤罪事件で逮捕された人も、後になって、それがどんなに自分の生活に重大な悪影響を及ぼす出来事であったかを繰り返し語る。

 筆者は、以上の事件には、話し合いで物事を解決する道がなくなって以後、全くと言って良いほど関与もしておらず、もっと言えば、最初から何の関係もなかったのだが、関わらなくなって以後も、以上の事件で逮捕された人が、立ち直ったという話を二度と聞かない。本人のみならず、関係者からも、その人が一体、どうなったのか、全く話を聞かない。生きていたとしても、死んでいるも同然のごとく、噂が全く絶えてしまったのである。

 だが、そうなったのは、以上の事件だけがきっかけではなかったものと思われる。その人は、有罪になることを免れる目的もあってか、心神喪失を主張していたらしいが、その過程で、多分、自ら主張した病が現実になってしまったのだろうと思われる。

 これまでに何度も警告して来たことであるが、クリスチャンは、絶対に自分から病にかかっているなどと宣言してはいけない。病は火遊びの相手としてはあまりにも危険すぎ、断固、拒否しなければ、些細な入り口から侵入して、全身を燃え上がらせて灰にしてしまう。

 だが、その人には初めから、病に徹底的に立ち向かう姿勢が見られなかった。それだけではなく、呪いに対しても、毅然と立ち向かう姿勢がなかった。その結果、自ら信じたことがその身に成就してしまったのである。

 信仰に立って最後まで抵抗すべきであった。自らを被害者の立場に置くのでなく、神がすべての呪いを身代わりに背負って下さったことを信じて、抵抗すれば、すべての縄目は絶ち切れていたであろうし、むろん、早期に和解もできていたに違いない。
 
 この出来事は、筆者にとって、非常に暗示的であり、教訓的であった。それまでの筆者は、この事件に限らず、強制力を用いて人間の意志が打ち砕かれる瞬間を、一度も見たことがなかったためである。

 また、病が徐々に人を滅ぼして行くように、ある時点まで、普通に行動していた人間が、ある時点を境に、強制的に社会から隔離され、生活を送れなくなるまでに追い込まれるという現象も、見たことはなかった。しかも、信仰者の世界では、なおさらそんな事件は目にしたこともなかった。

 だが、そうした事件を目撃しつつ、筆者が思わされたのは、罪人に対する神の裁きの容赦のなさであった。この世には永遠に至るまでの刑罰はないが、それでも地上の刑罰にも、永遠の予表としての意味はある。

 神は罪人、悪魔、暗闇の勢力に対して、最終的には、容赦のない裁きを宣告されて、彼らを強制的に隔離・排除・処分される。

 神はしばらくの間、人に猶予を与えておられ、選択の自由も、行動の自由も与えておられるが、人がその自由を悪用し、いつまでも福音に背を向け、聖徒らの説得に全く耳を貸さず、神を冒涜し、神の教会やクリスチャンを冒涜し続ければ、その人の末路は悪魔と同じようになるであろう。

 筆者は、カルト被害者救済活動の支持者らが、筆者を呪い、いわれなく罰し、社会から隔離しようと企んでいたその悪意をよくよく知っている。彼らは罪もない筆者を、いわれのないことで呪い、罰したかったのであるが、その計画は成らなかった。

 筆者は神の義に立っているためである。

 筆者はずいぶんたくさんのいわれのない悪意や、彼らの発する呪いの言葉に直面したが、それでも、筆者のために呪いとなって木にかかって下さった方を知っているため、そういう呪いの言葉が、筆者に対して効力を持たないことをよく知っている。
 
 そして、実際には、クリスチャンではなく、カルト被害者救済活動の支持者らこそ、罰せられるにふさわしい人たちなのだということも知っている。筆者がそのことにはっきりと気づいた以上、彼らは、この先、その運命を免れることはできない。

 そのことは、筆者が何年も前から当ブログで予告して来た通りである。筆者は何年も何年も前から、彼らは刑罰を受けなければならない、ということを主張して来た。一緒になって罪を犯して来た者たちも同様である。その当時は、そうした日が来るとは、多くの人たちは思っていなかったかも知れないが、実際に、その言葉は現実に成就するであろう。
 
 彼らの自らの罪を認めようとしない強情さ、頑なさが、人間の理性や常識や思いをはるかに超えていることを見るにつけても、筆者は日一日と確信するようになっている、この人たちは間もなく拘束されて、強制的に排除されることを免れられないだろうと。

 以上で挙げた事件の際にも、警察の制止が入ったことにより、その人物が完全に筆者の手の届かないところに隔離され、その後、永遠に関わることがなくなった時と同じように、今、この時点を境として、カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者から霊的に隔離され、筆者は彼らの運命を何とか取り戻そうと、これ以上、説得したり、呼びかけたり、関与することのできない立場に置かれたのである。

 それは、彼らが暗闇の勢力に連行され、外の暗闇に投げ込まれることが確定したためである。

 彼らの心をそこまで頑なにされたのは神である。それは、彼らの末路が悲惨なものとなることが、いかなる情状酌量の余地もなく、公然と世に表されるためである。

 神は彼らの心を徹底的に頑なにされることにより、神と教会とクリスチャンに立ち向かう人々の末路が、たとえようもなく悲惨なものであり、そこには情け容赦の余地が一切なく、後戻りの可能性もないことを、公然と世に示されようとしているのであり、また、神の容赦のない裁きが、現実に存在することを、信仰を持たない人々も含め、この世のすべての人々の見ている前で、証明されようとしているものと筆者は思う。

 悪魔と暗闇の勢力に立ち向かう戦いの中では、いかなる妥協、憐れみ、同情も持ってはならない。そのような激しい決戦が行われるために、筆者の助言も忠告も和解の呼びかけも、何一つ彼らには届かず、彼らの目は曇らされ、その耳は聞こえなくなり、背は曲がり、心は頑なにされたのである。それは彼らが誰からもいかなる憐れみも受けず、一切の免罪の可能性を奪われるためである。

 以前にも、筆者は当ブログにおいて、彼らを「サタンに引き渡す」と宣言した。それは「あなたのしようと思うことを今すぐしなさい」という言葉と同じ意味である。その後、間もなく、その宣言は現実になり、彼らは一線を超えて自分自身の人生を破滅させる行為を行った。だから、今回の宣言も、間もなく実現するだろう。

 筆者はここでいかなる情け容赦もなく、カルト被害者救済活動の支持者らを、暗闇の勢力に引き渡して連行させ、二度と聖徒らの世界に手を触れることのできないところに隔離すると宣言しておく。

 筆者が「暗闇の勢力に引き渡す」と言っているのは、この世の強制力は、本質的には、堕落した力であり、神に由来するものではないことを知っているからだ。以前に、現代の世の中で、誰かがステパノを石打にして殺せば、石打にした人々は殺人罪に問われるだろうと書いた。このように、この世のことは、この世が裁くのである。はっきり言えば、この世の裁きには、神の裁きのような容赦がないので、この世の裁きに服するよりは、神の裁きに服した方が、圧倒的に生きやすい。
 
 手続きは放っておいても粛々と進んで行く。病が徐々に進行して、人の肢体から自由を奪うように、砂時計の砂が徐々に落ちるように、時を追うごとに、彼らの自由は失われる。病が進行すれば、病人はいずれ口もきけなくなるように、彼らの発言には何の効力もなくなり、お伺いを立てる者もいなくなる。

 彼らのためには、この先、真っ暗な闇が用意されているだけだ。それは彼らが聖徒らのいかなる猶予にも和解の呼びかけにも全く応答しなかったためである。


<追記>
 2018年2月に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人であった「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事等を参照。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実


人間の指導者崇拝という偶像崇拝の罪と手を切ることこそ我が国の主権回復の道――安倍による宮中クーデターとトランプ・プーチン賛美者を待つ暗い未来――

・安倍政権が宮中で繰り広げるクーデターと、2017年も終わらないであろう米ロの対立
 
2017年が始まった。今年に予想されるいくつかの問題について述べておきたい。

まず、安倍政権による天皇の政治利用の問題と、米国におけるオバマからトランプへの政権の引継ぎが本当に順調に行われるのか、それによって米ロ関係に緊張緩和が訪れる可能性があるかどうかという疑問から入ろう。

筆者はオバマ氏がこのまま政界から引退することがあるのかどうかに疑問を持っている。すでに他所でも指摘されているように、大統領選前、ヒラリー・クリントン、トランプの両氏が候補者として様々なスキャンダルの疑惑と非難にさらされる中、オバマには不思議なほどスキャンダルがなく、安倍に真珠湾詣でをさせたことなどにも見るように、最後の最後まで、政治家として一定の功績を挙げた。

むろん、筆者はオバマの政治手法を評価しているわけではない。広島訪問の際のオバマ氏の空虚な演説内容によく表れているように、それは単に政治家としての表面的なパフォーマンスに過ぎず、同氏の人間的な資質や誠意や良心などといった事柄とは全くかけ離れた次元の話である。

それでも、国内で大きな反乱を経験せず、最後まで比較的クリーンに見える功績を積み上げたことは一つの成功と言えるであろう。それが、ただ任期が終わったというだけで、政治の舞台から退場して消え去るとは、筆者には思いがたいものがある。

他方、トランプは選挙中から人種差別的・性差別的な偏見に満ちた様々な発言が取りざたされて、相当に偏った狭量な思想を持つ人間であることが明らかになっており、最近も、ツイッターで新年のあいさつと称して爆弾発言をして非難を浴びていることなどにも見るように、その思想的狭量さは本人の人格の深い所に根差すものであって、単なる選挙中の受け狙いのパフォーマンスではないと考えられる。

このような人間が大統領に就くことは、米国国民にとって決してプラスとはならないと筆者は確信するが、とりわけ、この人間に黙って道を譲ることは、オバマにとって、自分の在任中の功績を全て無にするにも等しいだろうと思われる。

オバマ自身が、もし自分が今回の大統領選に出馬していれば、ヒラリー・クリントンとトランプの両候補を凌ぐ功績を残せただろうと語った事実にも見るように(「オバマ氏「私なら勝てた」 クリントン氏批判」毎日新聞2016年12月27日 10時50分(最終更新 12月27日 12時55分)参照)、ひょっとすると同氏にはこの先も何か仕事してやろうという思いがある可能性が否定できない。そういう意味においても、米国の今後は予想不可能な要素に満ちている。

さて、安倍はプーチン訪日の際に、経済協力と称してロシアに無償で国富を提供する約束をしたことにより、領土問題の解決をさらに遠のかせただけでなく、真珠湾訪問では、日本やアジア諸国の戦死者をよそにして、米国の戦没者だけを讃え、慰霊することによって、太平洋戦争を正当化したいという自分の思想を脇に置いても、オバマの引退のための花道を整えるという属国首相ぶりを発揮した。

安倍はその際、パールハーバーで犯した罪の前に頭を垂れるという「屈辱感」から目を背けるためであろう、自分の卑屈さを、天皇に転嫁して話をすりかえたのであった。すなわち、安倍は、今上天皇が、被災者を含め、日本人の苦しみの前に膝をついて耳を傾ける姿を「卑屈」なものとして揶揄することによって、自分は、天皇のように日本人のために跪いたりせず、むしろ、米国人の前に膝をつくのだから、天皇以上の存在である、と、暗黙のうちに、安倍以外の人間には誰も納得できないような、ねじ曲がった理屈によって、パールハーバーを訪れねばならない内心の屈辱感から目を背けようとした。天皇に対して上から目線で接することにより、自分は天皇に「模範を示した」と考えていたものと思われる。

(「生前退位で天皇の意向無視した安倍首相が親しい政治家の前で天皇を茶化す発言! 天皇は誕生日会見で何を語るか」LITERA 2016.12.18.参照)

実際に、安倍は自分をすでに天皇を超える存在とみなしているものと思われる。それが証拠に、自分の息のかかった人物ばかりを集めた有識者会議で、今上天皇が表明した生前退位に関する希望を、一代限りに限定し、皇室典範の改正を拒むことで、事実上、退けてしまった。それも憲法改正という自身の野望の実現に向けてスケジュールを乱されないための策であり、同時に、国家神道の復活にとって障害となりうるような皇室典範の改正を拒むためであったと見られる。

それに加えて、今年は、天皇の新年のあいさつもとりやめになった(「天皇陛下、新年の感想取りやめ=年末年始の負担軽減で-宮内庁」JIJI.COM 2016/12/26-15:32等参照)。

巷では、これについて「天皇の負担軽減のため」という公式説明をほぼ誰も信じていない。今上天皇の新年のあいさつとりやめの事実は、生前退位に関する天皇の意向をNHKが突如スクープした時と同じように、国民の間では、内閣による陰謀として受け止められている。そこでは、➀安倍が自らの政治思想とははるかに隔たりのある今上天皇から発言の機会を奪うために口を封じ、この先も、天皇からは徹底的に出番を奪う気だ、という説と、②天皇自らが安倍に対する無言の抵抗として、自らあいさつを控えたのだ、という二つの観点が論じられている。

だが、今回は、ネットを見る限りでは、➀の観点を支持する人々が圧倒的に多いように見受けられる。LITERAの以下の記事などは明らかにその立場に立っていると言えよう。(「天皇が「主権回復の日」に「沖縄の主権は回復されてない」と異議を唱えていた! 安倍政権に奪われる天皇の発言機会」LITERA 2017.01.01.)

いずれにしても、安倍と天皇との間でバトルが繰り広げられていることは今やほとんど誰も否定しない周知の事実となっている。そして、安倍が着々と今上天皇の意向を退けながら、自分自身が天皇以上の存在であるかのように傲慢に振る舞い、宮中をも自らの勢力下に置きつつあることは、あらゆる事実から察することができる。

当ブログでは前々から予測して来たことであるが、安倍政権の目論見は、巧妙に今上天皇と現皇太子(徳仁)から力を奪って、いずれ秋篠宮家を担ぎ上げて将来的には悠仁を天皇の座につけることにあるだろうと予測する。なぜなら、それによって、安倍政権は今上天皇にしたたかに報復できる共に、最も操りやすい天皇を手に入れることができるからである。仮に現在の皇太子徳仁が天皇に即位したとしても、安倍政権は、その在位を短期間に終わらせるか、実質的な権力を初めから秋篠宮に与えようとしていることが予想される。そのための「皇太子待遇」である。

秋篠宮さまを「皇太子」待遇…「退位」特例法案」(YOMIURI ONLINE 2017年01月01日 12時02分)

上記記事は、タイトルを見ただけでも、安倍政権が今上天皇の「生前退位」の意向を利用して、「退位」と「皇太子待遇」を引き換え条件のようにして、自らに有利な形で皇室に介入を試みている様子が理解できる。

筆者は以前から、佳子様ブームなるものも、秋篠宮家に注目を集めるために意図的に作り出された現象であって、安倍政権の目論見は、今はほんの子供に過ぎない人間(悠仁)を将来的に天皇の座につけることで、天皇を完全に内閣の奴隷、政権の操り人形とすることにあるものと語って来た。
 
そうした懸念は、現在、至るところで表明されており、何ら珍しいものではない。たとえば以下の記事の中には、読売の記事で発表された特例法案に対する分析と批判が詳しく書かれており、今回、内閣が行おうとしていることの恐ろしさが見て取れる。詳細は記事を読んでいただきたいが、要点は、今回の変更は天皇家の三代にまで及ぶものであるにも関わらず、これを憲法と皇室典範の改正という正式な手続きを経ずに、政府が「一括」の特例法案で済まそうとする目論見の恐ろしさ、そこに隠されたやましさである。
  

生前退位特例法案(「一括」という罠)自民党憲法改正草案を読む/番外62(情報の読み方)」詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)2017-01-01 10:42:19 から抜粋
   
 安倍は「ていねい」に審議することを嫌い、すべて「一括」ですまそうとする。そこに多くの「隠し事」がある。
 秋篠宮の経済負担を軽くする(皇族費を値上げする)といえば「聞こえ」はいいが、その背後にどんな思惑が動いているか、見過ごしてはいけない。
 さらに「18年中の退位を視野」というのは、天皇を18年中に退位させ(邪魔を取り除き)、19年には憲法改正を推し進めるというスケジュールを安倍が組んでいることを語っている。安倍の暴走はますます加速している。


安倍の押し通した解釈改憲の時もそうであったが、このように、常に規則破りな形で、自分が超法的な存在ででもあるかのように、法を骨抜きにして、あるいはないがしろにして、己が意向を無理やり押し通そうとするのは、異端・グノーシス主義者の常なる行動である。グノーシス主義は「秩序転覆の霊」だから、そのような思想を持つ人間は、必ず、何事においても、秩序を破壊して行動する。まだ現在の皇太子が即位もしていない今から、秋篠宮をあたかも皇太子と対等であるかのように扱うニュースを発表させるなどのことも、まさに秩序転覆の思想がなければ出て来ない発想である。

しかしながら、ロシアのSputnikなどは、安倍政権のこの卑しい目論見に便乗し、勝ち馬に乗ろうとして、今上天皇の新年のあいさつがとりやめになっただけでなく、来年からは一般参賀もなくなるであろうと、すでに今上天皇を完全に過去の人のように扱う記事を出している。「今日、天皇陛下の最後の新年一般参賀であろう?」(Sputnik 2017年01月02日 07:59)一応、疑問符はついているものの、実際には、もはや今上天皇は安倍の言いなりになるしか道はないと見透かして、今から今上天皇にさよならを告げているのである。常に強い方へばかり簡単に寝返るロシア人の精神性が見事に表れている記事と言える。

しかしながら、こうしたことがあっても、筆者は長期的な展望に立てば、このようにまで安倍政権が暴走して、天皇を再び、内閣の奴隷として政治利用しようとしていることは、将来的には、マイナスにならないと考えている。なぜなら、このようなことをすれば、安倍政権の倒壊と共に、必ずや、天皇制自体の廃止が訪れるからである。ここまで極端な天皇の政治利用が行われなければ、天皇制は今後も平和裡に我が国に存続した可能性が高いが、安倍政権の暴走が決定的な負の事件として歴史に刻まれることにより、やがては天皇制にも終止符が打たれるのである。

本当は、今上天皇により「生前退位」の意向が表明された時点で、この国の天皇崇拝者にとっては「太陽がお隠れになった」のであり、天皇制についてはすでにパンドラの箱が開かれたのである。国民は天皇の苦悩を理解しており、天皇制は国民の前に意義を失っている。この国の「神」(むろん、天皇崇拝者にとっての神)は、この国を精神的な象徴として統治する仕事を自ら放棄したいと望んだのであるから、この国は偶像にさえ見捨てられ、末法のような闇の世界となったのである。

従って、天皇自身がこうして「お隠れになった」以上、今上天皇の退いた後の空席を誰に譲り渡し、誰を後の天皇や摂政に据えてみたところで、この見捨てられた国には日は再び昇らず、この国を統治することは、その人間にとって栄光となるどころか、むしろ、とてつもない重荷となるであろう。末法と化した世を収束させるためには、天皇制を廃止し、安倍政権を終わらせるしかないが、多少、先走って言えば、安倍は必ず最後には、祖父の負うべきであった罪を自ら負って果てるであろうと筆者は予測している。ちょうどヒトラーの最後のようなものだ。全ての事柄について常に規則違反を繰り返すヤクザ・博打・軍国主義政権の指導者には決してまともな最期は来ない。
 
さて、安倍の真珠湾訪問に話を戻せば、オバマに花を持たせることで、属国の卑屈さをこれでもかと見せて、安倍が拙速なトランプ詣でのお詫びをしたにも関わらず、真珠湾での安倍の表情は写真で見ると、どれもこれもプーチンと共にいた時とは比べものにならないほど暗くさえない。顔は悲愴感に歪み、やつれている。それはただ単に慰霊のための演技とは思えず、この真珠湾への訪問が、安倍にとっておよそ報いのないものであったことをよく物語っていただろう。
 
安倍が真珠湾で見せたこのやつれ具合は、何よりも、オバマから受けた精神的苦痛のためと思われる。おそらく、オバマには安倍のお追従が全く通用せず、憎悪にも近い嫌悪感をあからさまに向けられていたのであろうと推測せざるを得ない。そう思っても不思議ではないほど苦り切って困り果てた表情である。
 
死を前にした病人のようなこのひどい表情は、安倍が一方では米国との同盟関係を強調しながら、他方では、トランプとプーチンに拙速に媚を売ったという、理念と礼節の欠如した安倍の八方美人外交に対して、オバマから非常に手厳しい「お仕置き」をされたことの証明であるように思われてならない。

オバマは、安倍が拙速なトランプ詣でをしただけでなく、米国に先んじて、プーチンとの「仲良しごっこ」を世界に見せつけて自慢し、制裁を受けている最中のロシアの大統領に手柄を与えたことを、決して内心では許さなかったものと思われる。そこには、もしかすると、初の黒人大統領としてのプライドもあったかも知れない。
 
ABE OBAMA

写真は以下から転載。「安倍首相の前に現職首相3人が真珠湾を訪問していた、外務省が確認
 The Huffington Post    |  執筆者: ハフィントンポスト編
投稿日: 2016年12月26日 18時51分 JST   更新: 2016年12月26日 18時51分 JST

「真珠湾、安倍」の画像検索結果

写真は以下から転載。「安倍首相を敬語で讃えるワイドショーキャスター、真珠湾訪問報道の違和感-「ポスト真実」支えるメディア」志葉玲  | フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和) YAHOO!JAPANニュース 2016/12/28(水) 20:49 
 
何しろ、口にするにも値しないほど愚劣極まる発言のため、我が国でさえ、すでに人々には忘れられている可能性が高いが、自民党のさる議員が、昨年に次のような発言をしたことも、当然ながら、オバマの耳に入っていたに違いないと思われる。安倍の軽はずみな行動は、まさに以下のような人種差別的な思想が、安倍の心の中にも存在している可能性を、改めてオバマに想起させた可能性があるだろう。
 

丸山和也議員、オバマ大統領についての「黒人奴隷」発言を謝罪

CNN.co.jp 2016.02.19 Fri posted at 13:52 JST から抜粋

丸山議員は17日の参院憲法審査会で、「いまアメリカは黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ」と発言した。

この発言は日本の憲法改正を巡る論議の中で飛び出した。丸山議員は米国の「ダイナミックな変革」を引き合いに出し、「アメリカの建国、あるいは当初の時代に、黒人、奴隷がアメリカの大統領になるなんてことは考えもしない」と力説していた。

<中略>

オバマ氏は初のアフリカ系米国人の大統領だが、奴隷の子孫ではない。父はケニア人、母はカンザス州出身の白人だ。

丸山議員の発言は人種差別的と見なされ、審査会後の記者会見で同議員は「誤解を与えるようなところがあった」として謝罪した。<後略>


オバマはトランプのように表立って相手を罵り、踏みつけにして勝ち誇ったりはしないが、自分が「歴史の舞台から消えゆく人間」として存在を軽んじられたことに黙ってはおらず、静かに怒りを表明し、大統領として残された時間を使って、対ロ制裁強化という「最後っ屁」を放ち、自分をないがしろにした安倍やプーチンやトランプへの置き土産とした。(「オバマ政権、対ロシア制裁発表へ 米大統領選への介入めぐり」CNN.co.jp 2016.12.29 Thu posted at 12:46 JST等参照)。

そこで、2017年の米ロ関係は緊張関係で幕を開けることになるが、それでも、世には未だトランプ大統領の出現によって米ロ関係は緊張が緩和されるという楽観的なムードが漂っている。だが、筆者にはそのように単純に物事が運ぶとはどうしても思えないのである。
 
米ロの二国は、この先、どんなに歴史が進んだとしても、仮想敵国同士の立場から解放される道はないであろう。その点で、天木氏の以下の見解に、筆者はかなり同感する。それはロシアという国が持つイデオロギー本質がもたらす当然の結果である。

そして、その対立は必ず、日本にも波及する。つまり、ロシアが日本にとって真に友好国となることは、多分、この先も決してないと筆者は見ている。だから、安倍が勇み足でトランプとプーチンの二人に媚を売ったことは、全く愚かしい徒労にしかならず、この先も頭痛の種をさらに増やすだけに終わるのではないかと思う。
 

最後に凄みを見せたオバマとひとたまりもないプーチン
2016年12月31日 (天木直人氏のブログから抜粋。)

(前略)
 そして、米国にとって、ロシアは今も昔も、価値観が最も異なる潜在敵国なのである。

 今度の対ロ報復制裁措置は、弱腰大統領と言われ続けてきたオバマ大統領が最後の最後に見せた、プーチン大統領に対する必殺のカウンターパンチだ。

 そして、それはまた同時に、オバマ大統領のレーガシィを全否定しようとするトランプ氏に対する、これ以上ない重い置き土産だ。

 トランプ大統領は、みずから繰り返す米国の国益ファーストと、プーチン大統領のロシアとの関係構築の間で、また裂き状態で出発することになる。

 そして、わが日本の安倍首相は、トランプの米国とプーチンのロシアの間で、また裂き状態となる。

 最後まで、オバマ大統領は安倍首相にとって相性の悪い米国大統領だったということである。


ロシアはしたたかで、プーチンはこの程度のことでは動じない。だが、筆者は、もしかすると、オバマと安倍との因縁は、今回限りで終わらないという気がしている。この先、安倍政権の暴走にどのような形で終止符が打たれるかは分からず、誰にも未来のことは断言できないが、安倍に引導を渡す役割が、政界に返り咲いたオバマになる可能性も、完全には捨てきれないような気がするのだ。いずれにしても、ロシアとの融和を唱えてトランプとプーチンを浅はかに支持した者たちは、間もなく馬鹿を見させられることになるであろう。

さて、ロシアという国のイデオロギー的本質の問題に関してであるが、筆者は以下の一連の記事において、ロシアは共産党政権が崩壊しても、未だ共産主義思想のままなのであり、それはこの先も決して変わらないという見解を述べて来た。そうである限り、ロシアはいつまで経っても、思想的に危険をはらむ国のままであり続けるのであって、我が国がそのような国を信頼することは不可能である。
 
これとほぼ同じ見解を、筑波大学名誉教授の中川八洋氏がブログに記している。同氏のブログはつい最近拝見したばかりだが、その論調は檄文かと思うほどの激しい非難に貫かれていたため、筆者はこれを最初に読んだ際には、学者の見解だとは思わなかったほどである。

しかしながら、よく読んでみると、その内容は、国際政治学、政治哲学の観点から書かれたものであり、相当にロシアという国の歴史や文化に迫って、この国の本質を解明しようとしていることが見えて来る。ロシア人とロシアという国を実際に知っている人間には、痒い所に手が届くように、うなずけるロシア批判なのである。

中川八洋氏は上記のブログで、この度の安倍・プーチン会談の合意を、日本の国益を著しく損なう売国行為として厳しく非難しているが、筆者にとって、何より興味深いのは、同氏がそこで、ロシアという国において、共産主義思想は、ただソ連時代だけに限定して一時的に国家イデオロギーとされただけのものではなく、この国と本質的に一体不可分の精神的基盤をなすとみなし、それゆえ、ソ連崩壊後の新生ロシアも、事実上の共産主義ソ連の延長であるとみなしている点である。こうして、ロシアは今でも思想的に共産主義のままであるゆえに、ロシアと日本との間には、いかなる友好・信頼関係も、決して発生し得ないと結論づける点には、筆者は同感する。

このような説を学者が唱えているとは予想しておらず、それゆえこれが学説としては批判を受けるであろうことも理解できるが、このような見解は、以前に筆者が当ブログで他所の引用をしながら述べたのとかなりの部分で一致しており、国際政治学者でさえ、現在のロシアを共産主義時代の延長とみなしているというのは、大変興味深い。

筆者の見解では、すでに述べたように、ロシアにおける共産主義思想は、1917年革命によって初めてロシアに公に取り入れられたものでは全くなく、それはナロードニチェストヴォなどにも見るような、ロシアの初期の社会主義思想から受け継がれて、その思想が変化したものに過ぎず、そうした思想の起源はさらに古くは、正教の宗教的メシアニズム、より古くはキリスト教導入以前の異教信仰(グノーシス主義)に求められる。要するに、社会主義思想もまた、ロシアにもとからあった異教的精神を土台として移植されたものなのである。

筆者は、「母なるロシア」を神格化する母性崇拝の思想こそ、ロシアの精神性の核となる土着の異教的信仰であり、これが歴史を通じて、ロシアの真の宗教、真の政治思想を形成していたものと見ている。キリスト教や、共産主義といったものは、みなロシアのこの土着の異教的信仰の上にコーティングされた表層に過ぎない。この国の根底に流れるものは、昔も今も変わらず「母なるロシア」への信仰なのである。これは、本質的にはグノーシス主義の変種であり、母性崇拝(=人類の自己崇拝)の思想なのであるが、ロシアのこの異教的本質は、強制的なキリスト教の移植によっては変わらなかった。革命と同時に、表層に過ぎなかったキリスト教の仮面はあっさり脱ぎ捨てられ、代わりに共産主義が表層に移植されたが、それもまた表層だけのことであり、ロシアの本質はずっと異教的精神性のままであったが、ソ連崩壊後に、共産主義の表層が取り去られた時に、内側にあるこの異教的本質が「強いロシアの復活」というスローガンになって表に出て来たのである。

だから、筆者が、ロシアは今でも共産主義国だと言うのは、何もマルクス主義に限定した話ではなく、もっと深い意味で、ロシアの本質が、国家(及び指導者たる人間)を賛美・神聖視する母性崇拝の思想にあり、この国が国家を神聖な世界救済の母体とするメシアニズムの思想に貫かれていることを広義で言い表したものに過ぎない。ロシアのマルクス主義においては、世界初の社会主義国家であるソビエトが、全世界に共産主義ユートピアをもたらす母体として事実上神聖視されたのであるが(しかし、その母体は、望まれた子を生むことなく、むしろ子を食い殺して自分が永遠に存続しようとした)、「母なるロシア」の思想に流れるのも、ロシアが世界を破滅から救う神聖な母体だという思想である。そうした思想は、決して宗教や政治思想の形をとってはいないが、これまでのロシアの国家イデオロギーは全てこの「母なるロシア」を神聖視する異教的信仰が、キリスト教や共産主義を含む多くの異なる思想と合体•混合して生まれたものである。現在のプーチンの「強いロシア」に源流として流れるのも、ロシアそのものを神聖視する異教的信仰なのである。こうした思想があるゆえに、ロシアでは国家指導者が、事実上「母なるロシア」と神聖な結婚の関係にあるものとみなされ、その人物の意向が、国家の意向と同一視され、神格化されるのである。
 
そして、このロシア賛美という母性崇拝の思想の本質は当然ながら、人間を神とするグノーシス主義である。もともとグノーシス主義は、様々な宗教や哲学の中にもぐりこみ、そこに寄生することで知られている。ロシアでは、それがキリスト教や共産主義の中にもぐりこみ、息づいて来たと共に、ソ連崩壊後にもこの国の精神的基盤をなし続けているのである。

だから、ロシアという国が、思想的に大いなる脅威だと筆者が言うのは、この国が本質的にずっと「母なるロシア」こそが世界を救うというメシアニズム信仰に立ち続けているためである。これは統一教会や国家神道やペンテコステ運動と同じく、世界救済の思想であり、言い換えれば、世界征服の野望を示すものでしかない。

ところが、我が国の世論の一部も、このようなロシア美化、ロシア賛美を疑うこともなく取り込んで、すでにかなりの割合、ロシアのメシアニズムに毒されている。たとえば、ネット上では、プーチンを「米国という巨悪と対立して、NWOと勇敢に戦う善人」のように描こうとする意見があるかと思えば、プーチンが日本の国家主権を危ういものとして、「あなた方はどの程度自分で物事を決められるのですか」と問うた台詞を、我が国が対米隷属から脱し得ていないことを見ぬいてこれを鋭く糾弾する慧眼だともてはやし、ロシアこそ、我が国を自立に導く助け手だとする説まである。

こうしたロシア賛美者は、全く愚かなことに、我が国がただロシアに欠点をあげつらわれて、足元を見られ、余計なお節介を受けているだけだという事実がまるで見えていないのである。そもそも、自国の外交の欠点や弱みについて、他国の指導者からお説教され、それを疑問にも思わず、善意と受け止めて喜んでいる時点で、そのような人々はとてつもなくおめでたい愚者としか言えないだろう。
 
実のところ、プーチンは日本人の心に揺さぶりをかけ、分裂を促すために以上のように言ったのであるが、こうしたやり方で、接近した相手の尊厳を貶め、現在、その相手が享受している大いなる特権を自ら捨てさせ、何らかの短絡的なアクションを取るよう促す方法は、まるで聖書の創世記において、悪魔が人類をそそのかすために吐いた言葉にそっくりである。

「それを食べると、あなた方の目が開け、あなた方が神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:5)

プーチンの言説のポイントは次の通りである。「米国は本当にあなた方にとって『友』なのでしょうか? もしそうなのだとしたら、どうして米国の許可なしに、あなた方は自分では何も決められない惨めな状態に留め置かれているのですか。あなた方が誰の許可もなしに自分で物事を決められるだけの知恵と力を得ることこそ、あなた方の自立であり、完全な主権ではありませんか。その自立を奪うことによって、米国はあなた方の主権を侵害しており、そうすればあなた方を無力化できると知っていて、わざとそうしているのです。あなた方にそのような状態を強いて、あなた方の主権を侵害している存在が、果たしてあなた方の『友』なのでしょうか。それは友というよりも、敵と言った方がふさわしいのではないでしょうか…」。

これは米国に対する暗黙の反乱の勧めである。国家主権や対米隷属からの脱却や「自立」という甘い言葉を餌にして、同盟国でもないロシアが、我が国に向かって同盟国への裏切りを勧めているのである。それは、ただ我が国を貶める発言であるばかりか、我が国をいずれ米国と分裂させて弱体化させる目的あってこその発言であり、その先には、我が国を侵略し、米国の代わりに属国化したい目的あってのことである。それをなぜ見抜けない人々が多いのであろうか。

筆者は、日本は確かに米国に対して多くのことを物申さなければならず、日米の関係性は変化し、属国状態は解消されなければならないものと思う。沖縄にも、自由が与えられるべきであって、我が国の現在の自立の程度が完全でないことは認めるべきであるものと思う。だが、その自立や、米国からの分離は、これから先、日本人が文化的・精神的成熟によって自ら勝ち取って行くべきものであり、ロシアには関係ない事柄である。我が国の自立の問題は、我が国固有の問題であって、ロシアに指図されるべきものでなく、また、ロシアに接近することによって解決が与えられるような種類の問題でもない。

それにも関わらず、プーチンの言説は、話が途中ですり替えられている。日本が主権を完全に取り戻すという問題が、我が国がロシアへ接近することによって、ロシアから承認されるべきだという内容に話がすり替えられているのである。
 
こうした論理のすり替え、ごまかし、トリックはソ連時代からのロシア人の常套手段であり、プーチンは、同じような論理のすりかえにより、四島返還はナンセンスであるという話題を持ち出し、二島返還の可能性をもはぐらかし、帳消しにした。

「ロシアとは決して交渉してはならない」という中川八洋氏の主張がまことに正しいと言えるのは、こうした事情があるためである。上記で、聖書の創世記で悪魔が人類をそそのかした誘惑の言葉を筆者が引用したのは故なきことではない。こうして、相手の弱点を巧みに突いて、その弱みを最大限に利用して、不当な交渉を行って自分にとってのみ有利な解決を引き出し、相手の弱みを利用して相手の心の内側に侵入し、精神的に揺さぶりをかけ、分裂させて、支配するというやり方は、一連の記事で述べて来たグノーシス主義者のマインドコントロールの手法に共通する。こうした人々が、弱みを抱えた人たちの前にぶらさげる餌も、約束も、決して果たされることのない嘘の「夢」である。

ロシアは、我が国の弱みを盾に取って、我が国を脅し、ゆすっているだけである。つまり、日本が「完全なる主権」を回復し、「自立した外交」を打ち立てるためには、米国から距離を置くだけでなく、むしろ、ロシアに接近し、ロシアとの「友好関係」をロシアに承認してもらえるよう努力すべきだと言っているのである。米国に従っている限り、日本には、ロシアとの友好はなく、領土問題の解決もないのだとささやくことで、「主権」や「自立」や「平和条約の締結」や「領土問題の解決」などを餌に、ロシアに接近すれば、米国との関係からは生まれ得ない利益が我が国に飛躍的に生じるかのように思わせて、その絶対に実現しない期待を担保に、我が国から融資を無限にむしりとり、領土返還についての話もはぐらかして帳消しとし、さらには、あわよくば日米同盟にもヒビを入れて、日本を孤立化させて、ロシアが日本を思い通りに操ることがより容易になるように仕向けようとしているのである。

このように、ロシアと交渉することの危険性は、ロシアが相手の弱みや、利益となりそうな餌をちらつかせることによって、征服したい相手の心に揺さぶりをかけて、思う存分気を持たせて利用し、あわよくば分裂を引き起こし、弱体化したところで、支配して来る点にある。

筆者は、以前に、キリスト教が社会的弱者に対して冷たい宗教であると断罪することによって、クリスチャンに罪悪感を持たせ、キリスト教徒を思い通りに変革しようという悪しき試みがあることに言及したが、ロシアがやっていることはそれに非常に似ており、「日本には完全な主権がない」と暗に示唆することにより、プーチンは日本人に自らの状態が不完全であるかのような自覚を与え、その問題の解消のために、ロシアの指南に従うよう仕向けようとしているのである。
 
プーチンは、安倍や、日本人の心に眠る米国への心理的恨み、対米隷属から脱していないという屈辱感やコンプレックスを存分に利用しながら、以上のようなトリックを用いたのであり、それによって、ロシアこそ、日本のパートナーにふさわしく、世界の未来の覇者にふさわしいかのように見せかけて、日本を自分にひきつけようとしたのである。だが、ロシアが我が国にそのように思わせる目的は、決して我が国の誠意あるパートナーになるためではなく、日本の完全な主権の回復のためでもなく、ただ日本の弱みを盾に取って、脅し、ゆすり、騙すためである。もし、我が国がそれを理解せずに、ロシアに弱点を逆手に取られ、ロシアから承認されたいばかりに、ロシアへの接近を続ければ、どこまでもロシアに思い通りにゆすられる運命が待っているだけである。
 
我が国は、どの国の指導者にも、国家としての主権の不完全性などを指摘されてはならないのであり、まして弱みを利用して足元を見られ、嘘に満ちた不誠実な誘惑の台詞を語らせるような隙を与えてはならない。我が国が完全な主権を回復し、これを発展させ、真の自立と尊厳をぜひとも身につけたいと願うなら、米国に支配の口実を与えてはいけないのと同様、ロシアにも、内政干渉される隙を決して作ってはならないのである。そのような初歩的な事柄も理解できないで、他国から完全な主権がないと言われてそれに反駁するどころか、その説教に喜んで耳を傾けているような愚かさでは、外交などおよそ無理であって、どの国に接近しても、属国化される以外の運命はないであろう。

ロシアが善意から我が国の「主権」や「自立」の問題に言及するなどあり得ないことを理解すべきである。それはただ「分割して統治せよ」の法則に乗っ取り、相手をより操りやすくするために、疑いを吹き込んで分裂を促しているだけである。こうして近づいた相手をまず分裂させて弱体化させることこそ、侵略しようとの意図を隠し持つ国の使う古典的な外交手段なのだと、いい加減に早く理解した方が良い。

すでに述べた通り、ロシアという国の国家イデオロギーは、いつの時代も、ロシアが世界の覇者となることにこそあり、そのためにこの国は膨張・拡大を続けて来た。ロシアはその精神性において、今でも世界征服を国家の最終目的とみなしているのである。そうである以上、必ず、同じように世界の覇者を目指す米国とも対立関係になる運命にあり、米国だけでなく、ロシアに接近する全ての国は、この国に飲み込まれないために対策を講じなければならないのである。

オバマにはおそらくプーチン率いるロシアの戦略がよく理解できており、安倍が心理的な弱みを握られてすっかりプーチンの手玉に取られていることも分かっていたであろうし、それが分かっていればこそ、対ロ制裁の強化という形で抗議を残して行ったのであろうが、残念ながら、安倍の方では、自分がプーチンに何をされているのかさえ、見抜く力はなかったと思われる。

安倍のみならず、我が国の世論の一部は、あまりにも未熟で、お人好しすぎるために、ロシアという国が持つ潜在的な悪意を見抜くことができないで、70年間、関係が膠着状態にあった国と、望みさえすれば、速やかに友好や信頼が成立するように思い込んでいる。プーチンに「私を信頼してほしい」と言われれば、疑うこともなく「はい」と頷いて着いて行くのでは、まるでショッピングモールで迷子になった子供が、知らない大人に声をかけられて、そのまま疑うこともなく誘拐されるのと同じような愚かさである。

インターネット上では、プーチンとトランプがタグを組むことで、この二人があたかも現在の悲壮感溢れる諸問題から世界を救ってくれる救済者になるかのような楽観的な期待さえ漂っているが、こういう安易な期待に身を任せる人々は、何度、騙されれば、自ら愚かな為政者(しかも他国の!)の野望の道具とされる馬鹿さ加減から、目覚める時が来るのであろうか。
 
このような人々の心理は、いかがわしい宗教指導者の言い分を真に受けてカルト団体に入信する信者たちによく似ており、自分を誰かから完全な存在と認めてもらいたい、自分を承認し、受け入れてもらい、自分が今抱えている問題に一足飛びに解決を与えて欲しいという願いがあだとなり、自分に都合の良いことを言ってくれる宗教指導者に群がり、子供のようにその後を追って誘拐されて行くのである。彼らは連れ去られ、戻って来ないであろう。

そのように、自分の抱える問題を、自分の手で解決しようとする忍耐強い努力を常に怠って、誰か強そうな他者にすり寄り、手っ取り早い助言や解決を求めて彼らにすがり続ける幼児的な欲求があだとなって、彼らは自分に優しくしてくれる者を簡単に善人だと思い込み、他人の悪意や、下心を見抜けず、その不誠実な発言に何度でも騙され、振り回され、人生の宝を奪われるのである。
 
そして、そのように自ら騙されて行く愚かな人々は脇に置いたとしても、詐欺師と詐欺師との間にも、友情と信頼が成立するはずがないのは言うまでもなく、この先、トランプとプーチンとの間に、決して信頼関係が生まれることはないと筆者は確信している。そこにあるのはただ、どちらが先に食われるかという問題だけである。

イスラエルが孤立化へ向かっているのと同じように、どの時点で、どこの国が、ロシアに対して実力行使に立ち上がるのか、ということが問題なのである。そうなるまで、ロシアは自分には敵を作ったり、世界と戦ったり、世界を征服する野望など全くなく、目指しているのはあくまで友好と信頼関係だと言い続けるであろうが、いつまでそのように気を持たせて時間を稼ぐことができるだろうか。
 
プーチン訪日前には、ソフトバンクの孫正義氏が、海底パイプラインを使ったロシアの電力会社との取引に乗り気だというニュースが流れたりもした。(「プーチン氏とも会談 北方領土の鍵握る「孫正義ペーパー」」(NEWS ポストセブン 2016.11.21 07:00)参照。)だが、もしも我が国がこの先、ロシアのエネルギーに依存して、ライフラインをロシアにあずけたりすれば、有事の際には、早速、我が国も現在のウクライナのような運命を辿るだけである。IT事業や人工知能の分野でロシアと協力すれば、すべての情報がロシアに渡り、もはや国防どころではなかろう。

トランプ、プーチン、安倍、孫正義などの面々に共通するのは、彼らが本質的に理念の欠如した商売人だということである。彼らは常に儲け話を追い、自らの権勢の拡大と栄光を飽くことなく追い求め、常に勝ち馬に乗って、自分を素晴らしく偉大に見せかけてくれる環境を求め、そのためには、人を欺いたり、約束を翻すなどの不誠実な行動も平気で取り、自分が騙して凋落させた敗残者を容赦なく踏みしだいて勝ち誇ることを、己の人生のよすがとしている。このような商売人が政治の世界に足を踏み入れ、為政者になると、国民はひどく不幸になる。

孫正義氏は、以下の記事等にも見るように、以前には60歳を迎えれば引退するかのように表明していたが、これを撤回することにより、グーグルから自らの後継者と目して引き抜いたニケシュ・アローラ氏をわずかな期間で退任させた。「アローラ退任、孫社長「変心」までの22カ月 「欲が出てきてわがままで続投」は本当か?」(東洋経済ONLINE 2016年06月27日)

複数の情報によると、関係者は、孫氏がアローラ氏に事業を譲るなどの計画は初めから信じていなかったように見受けられる。だが、もし後継者として道を譲るという期待を持たせておかなければ、アローラ氏は孫氏のもとへやって来たであろうか。

ビジネスの世界では、他人を騙すがごとくに出世を約束し、存在しない偽りの期待を持たせることで、その人の人生を自分に都合よく利用して、短期間で使い捨てるなどのことは、ありふれた現象に過ぎず、ブラック企業では毎日のように起きている。まさに生き馬の目を抜く世界である。

上記のような出来事を通して、孫氏が個人的にどういう人柄であるか、我々は伺い知ることが出来る。勝つためには、手段を選ばず、他人を踏み台にしてでも、勝ち残るというタイプである。こういう人間であれば、トランプやプーチンとはウマが合うであろう。

だが、孫氏がアローラ氏に対して行ったことは、違法ではなくとも、必ず何かの報いを伴うであろう。なぜなら、人にいたずらな期待をもたせて失望に追い込む人間は、自分が他人にしたことの報いとして、もっと大きな罠にかけられる危険があるからだ。おそらく、このような理念の欠如した商売人のタイプの人々は、何人集まっても、意気投合するのは一瞬だけで、互いに利用し合い、最後には裏切り合って終わり、彼らの間に真の友情や連帯が生まれることは決してないであろうと予測する。誰が最初に食われるのか、問題はそれだけなのである。

さらに、日本国では急速に国民の貧困化が進んでいるため、高額な携帯料金を払えないで解約する人々も続出している。ただでさえスマートフォンが盗聴や監視の手段として利用されている事実が世間に広まっているため、人工知能も警戒されており人気がない。携帯業界はこの先、急速に斜陽になる可能性があるものと筆者は思う。

さて、ロシアに話を戻そう。以上に挙げた国際政治学者の中川氏は、Wikipediaには、「政治哲学に関しては、1980年代はマルクス・レーニン主義に対する批判的研究をしていたが、1992年から英米系政治哲学に研究の軸足を移した。2000年に入り、フランクフルト学派社会学を含め、ポスト・モダン思想、フェミニズム、ポストコロニアリズムにまで研究対象を広げ、これらの思想の危険性を訴えている。」とあり、詳しい研究内容はまだ知らないのだが、おそらく共産主義思想とフェミニズムなどの思想に、共通の土台がある事実を見ていたであろうと思われることが極めて興味深い。

こうして、学者の世界においても、共産主義や、フェミニズムの思想に、本質的な共通性があって、それは古くはグノーシス主義にまでさかのぼることを、「正統と異端」という概念に照らし合わせて研究していた人々の存在があることは興味深く、このような視点は、『解放神学 虚と実』(荒竹出版)を著した勝田吉太郎氏らと重なる部分を感じさせる。

筆者の考えでは、現代政治のあらゆる問題は、その本質を辿って行くと、最終的にはみな「正統と異端」という対立構図に行き着く。世界のおよそ全ての政治的・思想的対立の背後には、未だに「キリスト教対グノーシス主義」という構造が潜んでいると言っても過言ではない。

むろん、ここで筆者の言う「キリスト教」とは決して、決してプロテスタントやカトリックや正教といった今日的なキリスト教界の宗教組織を指すのではなく、聖書の記述が現す見えない思想的(霊的)本質を指す。

そして、グノーシス主義の危険とは、今までずっと当ブログで述べて来たように、ロシアの国家イデオロギーだけにつきものなのではなく、欧州・米国・我が国などのキリスト教界にも公然と入り込んでおり、統一教会と深い関わりのある安倍政権や、日本会議に支配された日本政府を通して、我が国の政界に深く浸透している。政府与党が暗黙のうちに目指している国家神道に基づく戦前回帰のイデオロギーなども、まさにグノーシス主義を起源としている。その意味で、現在の日本の政府と政治は全体がグノーシス主義に汚染されてしまっている。

だが、だからと言って、もともとすでにある危険の上に、さらなる危険として、ロシアにおける共産主義までも取り込んで、国を消滅の危険にさらす必要はないであろう。


・人間に過ぎない宗教・政治指導者を美化・神格化して崇拝する偶像崇拝の罪と訣別しなければ、沖縄を含め、我が国には自由も解放もない

信仰者の目から見れば、この世の事象と霊的世界は合わせ鏡であり、この世の問題の根底には「正統と異端」の対立があることが見て取れる。

2009年、自民党から民主党への政権交代が起きたのは、日本のクリスチャンの間で、グノーシス主義に汚染されたキリスト教界への批判がかつてなく高まっていた時期であった。ペンテコステ運動のような米国発の非聖書的な偽りのキリスト教への疑念と批判が信者の間で噴出し、さらに、人間に過ぎない宗教指導者を絶対的な存在として崇め、奉る牧師制度がキリストへの信仰に反する人間崇拝の罪であるとの批判が噴出し、この罪と手を切って、キリスト教界からエクソダスしようとする信者が続出していた。

これは、キリスト者が人間を美化・賛美する偶像崇拝から脱し、聖書に基づく正しい信仰に立ち戻ろうとする正しい運動であったと筆者は見ている。

しかし、この運動がその後、辿った経緯は非常に教訓に満ちたものであった。この時に生まれたキリスト教界への批判者たちが、その後、どうなったかというと、彼らは自分が批判していた教会からエクソダスして、聖書に基づくまことの信仰に立ち戻るどころか、再びどこかの宗教指導者や、組織や団体に帰依して、前よりも深く巧妙な偶像崇拝に落ちて行き、その結果、キリスト教界における偶像崇拝の罪を批判する者たちや、教界をエクソダスした者を同士討ちに陥れて口を封じ、自ら改革を潰すという愚行に及んだのである。

当初、見えない神にのみ従うことを誓って、人間に過ぎない指導者への隷従からの自由と解放を目指して、組織や団体を出ようとしていたはずのクリスチャンたちの、この180度の転向と愚かしい同士討ちという、腐敗と堕落の過程は、民主党の瓦解の経過にも似ており、筆者がそれらの出来事の分析から得た教訓は計り知れないほど大きい。

この草の根的な運動を堕落させて潰すために、とりわけ信者たちに巧妙な分裂の罠をしかけたのが、キリスト教界の宗教指導者であり、その中に、信者を泥沼の裁判に引きずり込んで疲弊させる村上密やDr.Lukeのような人々がいた。

この人々は、キリスト教界に対する信者たちの怨念を巧みに吸い上げる形で、人々の弱みを利用して自らの運動を作り上げた。彼らは、不誠実で信頼ならない指導者であったが、彼らを非難したり、告発する人間たちが、彼らよりもずっと不器用でみっともなく見えたため、人々は立ち回りが上手く声の大きいこの指導者の方を支持し、すすんでその手先となって利用されて行ったのである。

人前で救済者を演じる詐欺師のような宗教指導者たちは、人々の心の中にある勝ち馬に乗りたい願望、人前で見栄を張り、自分が攻撃されて恥をかきたくない願望などを大いに利用して、反対者を徹底的に嘲笑して、見世物にすることで、自分を勝者に見せかけて、支持を拡大したのである。

しかし、彼らの虚勢は見せかけに過ぎなかったので、以上のような宗教指導者に信頼を託した人々の希望は、すぐに風船のように弾け飛び、解放や自由の代わりに、隷属と恐怖だけが残った。

トランプとプーチンの手法は、以上のような宗教指導者らの手法に非常によく似ている。彼らは反対者を貶めることと、自分が勝利者であるかのような「ムード」を醸し出すのは得意だ。だが、彼らの主張には内実がないため、「まことしやかな雰囲気」に欺かれて、彼らを支持した人々は、悲惨な結果に至るだろうと筆者は見ている。この人々の連帯は、気の持たせ合い、騙し合いの連帯なので、長く続くことはないからだ。

筆者が、沖縄は米軍基地問題を巡る政府との闘いで敗北するであろうと言っているのにも、以上と同様の理由がある。沖縄の解放という問題の根っこには、偶像崇拝が深く絡んでおり、筆者は、沖縄クリスチャンがカルト被害者運動と公然と訣別しない限り、彼らには政治的にも勝利はないと考えている。

なぜなら、人間の利益は神の利益に勝らないからだ。自分の生活の安寧や自分の名誉を、信仰よりも優先して、人間に過ぎない指導者につき従っている限り、その信者にはいかなる自由も解放もない。まことの神は全てをお造りになった方であり、この方のみを崇め、従うことは、辺野古の海を守るよりもはるかに重要事項である。そのことをクリスチャンが理解して、自分を解放してくれそうな人間への浅はかで愚かな期待を捨てない限り、沖縄が騙され続けることは変わらないであろう。しかし、それは沖縄だけでなく、日本全体に共通する問題なのである。

改革者や解放者を名乗って現れる人間の指導者に安易な期待を託して欺かれる人々の心の根底には、いつも自己美化の願望がある。自分を美化しているから、宗教・政治指導者などを美化して、期待を寄せるのである。しかし、聖書は人間の本質について何と言っているか。クリスチャンが聖書の事実に立ち戻り、真に頼るべき存在は誰かという問いに正しく答えを出さない限り、我が国にはただ人の奴隷となる道だけが延々と続くのである。だが、かつて起きた出来事は、信者が人間崇拝という罪と完全に手を切って、まことの神への貞潔を回復するならば、速やかな解決があることを示している。

狭い門からはいりなさい。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)
 
ペンテコステ運動とグノーシス主義の関係について書くと、早速、さわやか読者らが蠢動を始める。グノーシス主義の話題になると、これまでにも必ず、常にスピン的な動きが出て来たが、このことは、ペンテコステ・カリスマ運動の基礎がグノーシス主義にあることが明るみに出されてはよほど困る勢力が存在することを示している。

長年、当ブログに対するさわやか読者の動きを観察して分かることは、当ブログに対して、おそらくはアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の関係者(特に村上密氏やカルト被害者救済活動との関連)から、長年に渡り、彼らの活動への批判を潰すための工作がなされて来たという事実である。

杉本事件もその一環である。当ブログに対する1千件のコメントを伴う杉本徳久氏のブログにおけるバッシングが、杉本氏の一存によって行われたものであろうはずもなく、これも委託された全体の工作の一部であったと考えるのがふさわしい。

そもそも、杉本氏が自身のブログにおいて行って来たプロテスタントの諸教会に対するバッシングは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のカルト被害者救済活動の需要を意図的に作り出したい人々にとって、非常に好都合なものであった。

杉本氏がプロテスタントの諸教会の醜聞を次々発表することによって利益を得るのは誰かを考えれば、それは間違いなく、カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団であり、「カルト対策の専門家」を名乗る村上密氏のような牧師である。

カルト被害者救済活動というのは、とにかく「教会で被害を受けた」と主張する信徒が登場しないことには始まらない。

そして、教会での不祥事は頻繁に起きる事件でないため、杉本氏のブログでの発表の中には、当初は本当のスキャンダルも幾分か含まれていたかも知れないが、結局、同氏らは事件をでっちあげてでも、注目を集める機会を作り出すという「やらせ」に陥らざるを得なかったのである。だが、そのように暴走するよりも前から、もとより、教会のスキャンダルを食い物として、弁護士やカウンセラーや教職者に仕事の機会と出番を作り出し、被害者救済ビジネスを成立させるという村上密氏の活動の手法そのものが、2ch等の「炎上商法」と極めて近い関係にあったと言える。

こういう他者の不祥事を糧とする種類の活動は、もともとその性質上、「やらせ」としての要素を色濃く持つものであり、いずれはスキャンダルをでっちあげてでも需要を作り出していくという暴走したものにならざるを得ない。毎年、年末になると同じ道路を掘り返して需要を作る公共工事くらいであれば、まだしもましであるが、諸教会と生きた信者に対する告発を捏造するところまで行くと、極めて罪が重いと言わざるを得ない。何より恐ろしいのは、これが人間相手ではなく、神に敵対する活動だという点である。

そういう意味において、カルト被害者救済活動は、2chとも極めて性質と仕組みがよく似ている。誰かの醜聞を故意に作り上げることによって人々の注目を集め、それを奇禍としてビジネスチャンスに変えて行くという性質である。

2chには、炎上のためのシナリオがある。まずは事件を大々的に煽る「敵」役が現れ、彼らが自らを当て馬として誰かを追い詰め、そこへ事件を解決するように見せかけた「正義の味方」や、心優しい「助言者」に見せかけた裏切り者などが登場し、その他大勢のエキストラ、情報提供者、ウォッチャーなど、さまざまな役割分担が振り分けられる。

災いをしかけられた側に知識がなければ、その時、その事件は自分の過失が引き起こした結果だと思って自己反省に陥ったり、争いをしかけて来る人物が主犯ではなく演技者の一人に過ぎず、助け手を装って現れる人間もまた工作員であり、すべてが背後にある巨大なネットワークによって一つに結びついて一個のシステムとして動いているのだとは疑うことなく、彼らの思い描いたシナリオ通りの行動パターンを辿らされることになるであろう。

だが、以下に示すような2chの実態等の情報を少しでも知っていれば、それらの事件は、最初からすべて計画的・人工的に仕組まれた舞台演出に過ぎず、霧のように、あってないも同然の事件に過ぎないことが理解できる。悪役でさえも、演技者でしかなく、ヒーローを演じる人物に花を持たせ、観客を動員してビジネスチャンスとなる物語を作り上げるためにすべてのシナリオが仕組まれているのだと分かろう。

そして、その脚本は最初から意図的に書かれたものである以上、誰かの言動がその事件勃発の引き金となったわけではなく、そのようにして延々と被害者を作り出してはビジネス化するネットワークはずっと以前からロシアン・ルーレットのように回り続けて来たのであって、あなたはただ順番が来たから機械的に巻き込まれただけなのである。

さて、一体、その大がかりなネットワークは誰が作り、動かしているのであろうか?

以下の記事を書きながらも、筆者が改めて感じたのは、約十四年間も、自らの名誉と地位を守るために、鳴尾教会に起きた事件の真相を隠し続け、自らの誤りを罪なき他者に冷酷に責任転嫁すべく、ひたすら他者を貶めるための「創作物語」を終わりなく延々と作り上げて来た村上密氏という人物の危険性である。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~


「演技性人格障害」という言葉も存在するが、村上密という人物の病理については深く考え込まざるを得ない。一つ嘘をつくと、それを隠すために、人は次から次へと嘘をつかざるを得なくなり、人前に自己を偽ると、鱗のように嘘に塗り固められた人物像が出来上がって行く。村上密氏が演じているような、被害者を救う「ヒーロー」としての人物像は、同氏自身の真実な姿から著しく乖離しており、もうずっと前から、約十四年以上も前から、破綻していたのだ。本人だけがそれを未だに認めまいとして今に至っている。

恐ろしいことである。だが、村上氏に限らず、「優秀なクリスチャン」を演じようとしたがために、虚像の自分自身を作り上げることになり、その演技がやめられなくなり、もはや現実を直視できなくなる実例は、筆者の周りで珍しいものではなかった。たとえば、筆者はルーク氏や杉本氏や下記に登場するcandy氏に対しても、全く同様の危惧を感じ、しばしば本人に対してかなりあからさまにそれを警告したのである。(だからこそ、KFCは筆者を疎んじたのである。)
 
村上密氏について言えることは、そもそも、メディアと密接な関係があって、メディアでもてはやされる人物というのは、およそ信用がならないということだ。そう言えるのは、メディアへの出演者はみな俳優のようなものであり、彼らが視聴者の注目を得るための番組作りは、その根本に「やらせ」があるためだ。

特に、牧師が自分をヒーローに見せかけるために、常に「仮想敵」を必要とし、「やらせ」に走ってでも、諸教会のスキャンダルをでっちあげては、自らの活動の需要を作り出し、キリスト教界を舞台にして、水戸黄門や暴れん坊将軍といった古典的な時代劇ドラマを思わせるような「勧善懲悪」のストーリーを効果的に演出せねば、世間の支持を得られず、存続もできないというアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のカルト被害者救済活動は、もともとメディアの「やらせ」と、2chなどの匿名掲示板の「炎上商法」と密接に親和性を持つものであったと言える。それゆえに、結局、悪者を終わりなく作り上げ、政敵を追い落とすための工作において、教団と2chの両者は「蜜月」の関係を築くに至ったのだと推測される。

その観点に立てば、杉本徳久氏が当ブログに対して引き起こした事件も工作であったとみなすのがふさわしく、仕掛け人は杉本ではないのである。杉本ブログはそれ自体が隆盛期には巨大な掲示板と化していたのであり、同氏はカルト被害者救済活動を存続させて、自分たちが救済者としての名誉ある地位を失わないでいるために、我が身を当て馬としてでも、事件を作り出す役目を担って来たのだと考えられる。

カルト被害者救済活動と2chとの親和性は次のようなところにある。2chには一般市民を装って常時掲示板の話題を盛り上げるための「プロ固定」と呼ばれる工作員書き込み者が多数存在する。彼らは、通りすがりの市民を装いながら、その実、2chの犯罪ビジネスを成功させるために、金をもらって特定の企業や個人を貶めてはネットから駆逐して言論統制を行う。2ch対策と称して風評被害の解決を謳っている弁護士も、この掲示板と一体であり、これらは表裏合わせて一つのビジネスなのである。

この掲示板には、言論統制や炎上など様々な委託されたミッションの実行に向けて人工的な「世論」の流れを作り出すために、常時、話題を意図的に操作する工作員コメント者が多数配備されている。こうしたことは、以下に挙げたような2chの実態を告発する数々のサイトで、内部告発者らの証言によってすでに裏付けられている事実であるため、ここで改めて詳しく説明する必要もないであろう。

2chのような掲示板での議論が、意図的に犯罪を作り出し、人工的に炎上を引き起こしては儲けるためのビジネスであることは、すでによく知られている。その手法を知るには以下のサイトを多少読むだけで十分であり、これを読めば、杉本事件が偶然に起きたとみなす者は一人もいまい。

匿名掲示板2ちゃんねるの実態
 2ちゃんねる掲示板の運営側による情報操作


2ch裏の歴史と噂話と真相

2ちゃんねる から子供たちを守ろう!

カルト被害者救済活動と2chとに実際に密接な結びつきがあると言えるのは、当ブログに日夜押し寄せて来ていたさわやか読者のIPアドレスを検索すると、その多くが2chを含む掲示板の常連であり、クリスチャンとは全く無縁の不信者ばかりである実態が浮かび上がったことによっても裏づけられる。

それだけでなく、さわやか読者の活動には周期があり、ネット監視の開始時間と終了時間、一人の工作員から別の工作員へのバトンタッチの様子など、アクセスログから活動がスケジュール化されている様子が分かる。そして、IPアドレスなどをもとに集団ネット監視に及んでいる実態が明確に浮かび上がるのである。

2chは、キリスト教に限らず、多数のネットユーザーに対してこうした集団的な監視活動を行うことで有名である。そこで、こうした工作を彼らに委託したのは何者であるのかを考える時に、筆者には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に深い関わりのある人間たち以外からの働きかけを考えることもできないのである。

さわやか読者らの動きも、観察してみると、明らかに、雇い主の指示に従って当ブログを監視しているだけの雇われ工作員と分かるのである。信仰者でない以上、彼らが筆者の主張にもともと特段の関心があろうはずもなく、彼らには筆者に対する私怨はない。ただ議論を封じ込め、筆者の執筆意欲を低下させ、最も重要な争点から人々の注目をそらし、情報の信憑性を低下させるような発言を繰り返して、不穏な印象を与え、議論をかく乱するためのスピンを行うことを主たる「業務」としているだけである。

むしろ、読者の関心が筆者自身に集まると逆に彼らは困るのであろう。なぜなら、筆者が信仰者として神だけを見上げて一人で立っているのに、信仰はおろか、聖書の知識の片鱗すらもない、キリスト教のことを何も知らない部外者が、信者であるかのように立場を偽って、集団で騒ぎ立てて、筆者や、敬虔なキリスト教徒をさらし者としているだけだという悪事がより一層際立つからである。もともと無関係な人々が関わって来ようとする背景には、金をもらっているからだろう、スポンサーは誰なのか、という議論しか起きて来るものはない。

しかも、彼らは集団でかかっても筆者を論破することができない。当然である。さわやか読者には、まるで知性がなく、基礎知識がなく、もともとキリスト教に興味がなく、お仕事でやっているだけである。しかも自作自演なので、ずっと延々と引用とレッテル貼りとごまかししか続けられないのである。そんな無益なことに人生を費やさざるを得ないとは、ご愁傷様であるが、多分、報酬もないに等しいのであろう。

こうしたさわやか読者の雇い主が明らかにアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団やペンテコステ運動の支持者と深い関わりがあると見られるのは、筆者がグノーシス主義についての一連の連載を本格的に始めた頃、次のような馬鹿の見本のような掲示板がスピンのために立てられたことからも推測できる。上記、リンクは貼っておいたが、IPアドレス情報を盗み取られるため、正常な読者は誰も閲覧しないように注意しておく。

こうした掲示板でのスピンのための「やらせ」工作の材料を集めに、当ブログへ毎日せっせとアクセスしてネタを取りに来ている工作員は以下の二人である。

kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
kd210249054007.ec-userreverse.dion.ne.jp  (出身は 掲示板1

主犯は上である。これは何か月間も当ブログを監視しているさわやか工作員であり、日々、「村上密」の名前で当ブログにたどり着いて来ることを見ても、自らどの筋の者かを告白していると言える。いずれアクセス履歴を公表する。下はもともとキリスト教とは何の関係もない掲示板のプロである。この二人か、もしくは上の一人が自作自演によって何人かを演じ分けながら、延々とつまらない話題作りに励んでいるのである。

それにしても、閑古鳥が鳴いている掲示板を、自作自演によって成り立たせるしかないとは、2chも杉本ブログと同じほどの情けない落ちぶれようである。

だが、それもそのはずであろう。昨今は、どんな業界も店舗が一人体制で人手が足りなくて困っているという。足りないのは人手だけではなく、深刻な経営難で人件費が削られ、店員が基礎的な研修も受けられず、業務知識そのものが足りなくなっている。

そういった事情は、掲示板までも変わらないと見られ、寒い懐事情が議論の質の薄さにもろに影響している。まず基礎的文献に全く目を通していないので、議論に必要な知見が圧倒的に不足しており、下調べを何もしないまま、レッテル貼りと争点逸らししかできない。グノーシス主義についても、基礎的な文献を読んでいないのでは、発言に信憑性がない。さらに信者ではなく、信仰の事柄に疎いので、文脈を踏まえた聖書の引用ができず、信仰の常識を踏み間違えて恥を晒しており、結局、自説を証拠立てるための何らの有力な理論も提示できない。

ペンテコステ・カリスマ運動の教義など理解もしていないのであろう。さらに鈴木大拙や禅と仏教と東洋思想の知識になると彼らにはもう完全にお手上げである。日本には僧侶はたくさんいるので、下手に言及すると無知がバレる。これはキリスト教も同じである。無知がバレるというより、教義面から出身がバレるのである。

こんな知見不足の状態では、聖霊派の教義とグノーシス主義を結びつけた詳細な議論に反論できるだけの証拠もあろうはずもない。杉本ブログよりももっと質が低い。その上、自作自演ではもともと議論が盛り上がるはずもない。だからこそ、結局、三歳児でも理解できるようなレベルに落ちて行くだけなのである。

こういったことはすべて、もともと聖書の知識なく信仰もない人間にはこの手の議論は無理な挑戦だということをよく物語っている。そもそも、自分に興味がないことについて、人は何を書こうと思っても書けないものだ。信仰の事柄はまして不信者の議論には向かない。だから、無謀な挑戦をして、阿呆の見本のようになるしかないのだ。

それにも関わらず、なぜそのような無謀な挑戦をこれらの人々は行うのか、それは彼らが業務を委託されているからである。彼ら工作員の間では、常にアッセンブリー教団の批判がタブー化されている様子を見ても、彼らがどこから依頼された仕事として作業に励んでいるのかは明白になる。

彼らの課題は、異端グノーシス主義とペンテコステ・カリスマ運動が本質的に同一であるという事実を隠すことにある。つまり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教義そのものが異端であるという事実を明るみに出さないために、行われていることである。
 
すなわち、これらの工作員らが常に議論を紛糾させようとする目的は、カルト被害者救済活動も含め、そうした運動を生み出した弱者救済のペンテコステ・カリスマ運動が根本的に異端であり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団が根本から聖書に反した理念に基づく運動から生まれたものであり、その基本理念の基本構造はグノーシス主義と同じであるという事実を論証する主張を人の目から覆い隠し、議論をかく乱することにある。そのための目くらましなのである。
 
だが、2chの影響力は実際には世間で恐れられているほど大きくない。それは実際、日々当ブログへリンクして来る人間がまるでいないことを見ても明白である。

さらに、こうした匿名掲示板で、悪質な誹謗中傷の書き込みを繰り返したために、逮捕され、顔写真までさらされている人物もいるようであるからご用心だ。左記のようなケースでは、さしずめ勤務にも影響が出るであろう。人の行動には相当の報いが降りかかるという格好の実例である。

さらに、当ブログの内容を勝手に切り取って転載していると、筆者とは無関係に、その人間が告訴される可能性がある。特に、筆者のブログには、牧師を名乗っている人物も含め、信者を容赦なく次々と法廷に訴え出ては留意を下げているような御仁が度々登場しているので、それらの人々との絡みで、筆者のブログ記事を利用するのは避けた方が良かろう。

当ブログの内容はそれぞれの記事に関連性があり、長大な論文のような構成を成しているため、部分的に切り取ることができない。さらに、筆者の提示している主張が捏造でないことを証明する一連の細かい論証過程がある。

そういう文脈をすべて無視して、当ブログの内容を無理に切り取って一部だけ話題作りに利用しようと転載すれば、筆者は一切その行為に対して責任を負わないが、その人間が自らの言質を取られ、誰かから誹謗中傷と判断されて訴えられる危険を自ら背負うことになる。(ちなみに、コメント書き込み犯が告訴されるために必要な条件はそう多くはない。)

さて結局、こうしたことも、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の率いるカルト被害者救済活動そのものが「やらせ」であり、ペンテコステ運動の基礎が異端グノーシス主義にあるという事実を明白に証明されたくない人々が、真剣な議論を早期に潰し、隠すためにスピン工作を委託しているだけである。
 
さて、一体、そんな工作を委託するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団とはどれほど危険な団体なのか。

筆者は、これまで同教団の信者らに関わって来た経験に立って、2chに「プロ固定」と呼ばれる工作員が存在するのと同じように、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にも、「プロ固定信者」と呼ぶべき工作員信者が相当数、存在するものと考えている。

これらの「信者」は外見的には一般の信者を装っているが、実際にその動向を長く追跡して行くと、彼らのやっていることはセミプロ工作員と言うべき域に達しており、到底、一般信者の取るべきではない数々の怪しい行為に及んでいる実態が見えて来る。

たとえば、記事「カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~」で言及したアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団神召教会所属のBr.Takaこと鵜川貴範・直子夫妻にしてもそうである。

もともと鵜川氏は牧師資格を持たないのに、教会指導者の意向を無視して、街頭で路傍伝道に立つことによって、ニュース記事に取り上げられたりしていただけでなく、次々とペンネームを変えながらネット上で活動を立ち上げては、放棄して来たこともすでに記事に書いた。その上、身元を隠して他教会でメッセージをしたり、といった活動は、単なる伝道の領域を超えた、詐欺師的な仮面の付け替えと言って良い。

真に伝道者を目指し、福音のメッセージを語りたいならば、まずは自分の属している教団の神学校へ入学して堂々と牧師資格を取れば良いことであり、母教会と他教会の信徒らの目を欺いてまで、所属もしていない他教会へ潜入してわざわざ身元を隠してメッセージを語る必要などない。だが、こうした人々はなぜか正規の手段を取らず、わざわざ人を欺いて隠密に行動するのが大好きなのである。それは彼らがもともと身元を公にして活動できないような何らかの秘密を抱えており、一般信者の隠れ蓑を利用して活動していた方が、いずれ嘘がばれた時にも有利だからという計算が働いているためだと思われてならない。

それは名古屋のアッセンブリー信者である「十字架の恵みが溢れて」の著者(candy氏)も同じである。ちょうど杉本氏とのネット上の対立が頂点にあった頃、この信者はあたかも筆者を助けるかのような文脈で幾度か当ブログに書き込んだこともあった。

だが、すでに記事「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」でも述べた通り、どうにも同氏の主張には、常に筆者には同意できない異端的教えの影響が見られ、根本的に何かがおかしいと常に感じられてならなかったのである。

candy氏はある時期「神は愛だから誰をも裁かない」などと聖書に反する異端の教えを宣べ伝えるサンダー・シングの偽りの教えに深く影響を受け、これを広める要塞と化した。

Dr.Lukeもこの信者の影響を受けて2008年に「サンダー・シングの霊性」なる記事を書いている。筆者はDr.Lukeに直接、サンダー・シングの異端性を告げて警告し、さらに、これが筆者の決めつけでないことを証明するために、サンダー・シングの教えの何がどう聖書に反し間違っているのかを一連の記事(「命の道と死の道――狭き門と広き門――偽りの教えの構造(序)」等)で明らかにした。

さらに、Dr.Lukeに対しては「キリスト教界からエクソダスせよ、と自ら唱えながら、なぜ現役のキリスト教界の信者、中でも危険視されているアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信者と関わるのか」を問うた。そのような二重性は、自ら述べている信念に反するものであり、キリストのみへの貞潔を保つにあたって、ふさわしい行動ではないのではないかと。

だが、Dr.Lukeは筆者の警告に耳を貸すことなく、かえってcandy氏とサンダー・シングの教えを擁護し、後にLuke氏とcandy氏とBr.Taka夫妻、および天声教会のリーダーが連帯して、彼らに耳障りな警告を発した筆者に対する「報復」を果たすために、筆者に異端者の濡れ衣を着せて、KFCから追放するという行為に及んだのである。

この事件は偶然に起きたものだとは筆者は全く考えていない。何しろ、ここに三人ものアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信者が関わっているのである。カルト被害者救済活動のやり方は、彼らがターゲットと定めた人物の人間関係に巧みに隠密に工作員を送り込んでは、ターゲットとなる人物に関する情報を収集し、なおかつ、その人物に対する周囲の人々の不満や愚痴を探り出すことによって、「被害」を捏造して、分裂や争いを引き起こし、ターゲットとする人物を中傷し、孤立させることにあるのだということは、長年の観察を通して分かっている。つまり、工作員を送り込んでは人間関係を壊し、「友人」であった人々を裏切らせて「告発者」に変えて行くことが、彼らの常套手段なのである。
 
KFCに関わっていた頃、筆者はアッセンブリー信者を信用していなかったので、彼らを信じても、裏切られるだけであり、Br.Taka夫妻はKFCを乗っ取るために来たのだから、彼らとの連帯は成り立たず、もし筆者の忠告を退けて彼らを信用し仲間だと考えれば、すぐにあなたも追放されることになるはずだと、Dr.Lukeに警告した。実際、その通りになった。Dr.Lukeは一時不名誉な理由でメッセンジャーを降ろされ、KFCの会堂は失われ、Br.Taka夫妻は逃亡し、筆者を陥れるために彼らが作った「同盟」は、わずか数ヶ月も持たなかった。そこにBr.Taka夫妻だけでなく、candy氏も一役買っていることが、Br.Taka夫妻の発言から明白となった。結局、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の人間が連帯して、他団体を潰し、そこにいる信者を中傷し分裂させたのである。
 
以上に挙げたDr.Luke氏の記事「サンダー・シングの霊性」では、サンダー・シングの影響を受けた中には、山谷少佐も含まれていたことが分かる。これはまだ山谷氏の裁判の判決が確定する前のことである。重要な裁判の決着がつく前に、山谷少佐がこの異端の教えを擁護したことには、決定的な意味があったものと筆者は考えている。なぜなら、我々は、自分の戦いに神が味方して下さるためには、どうしても、あらゆる汚れたものと分離して、身を清めなければならないからであり、「アカンの外套」を所持したままだと、戦いに勝てないからである。

こうして、candy氏は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者でありながら、Br.Taka夫妻と同じように、無害な一般信者という立場を装い、ネットを利用して、自分の所属教団の枠組みを超えて、他の教会の信者らに接近し、聖書に立脚して信仰の道を生きる信徒を悪者にして汚名を着せてまで、数多くの人々、特にリーダー格の人々を異端の教えによって惑わすことに成功したのである。

それでも、一般信徒であるがゆえに、Br.Taka夫妻もcandy氏も、批判の矢面に立たされたり、責任を追及されることはない。何事もなかったかのように、すべてに知らぬふりをして活動を続けているだけである。だが、たとえそのようにしてみたところで、聖書によれば、彼らには厳しい報いが約束されており、これを免れることはできない。惑わされた方も責任重大だが、惑わした者はもっと責任が重いのである。

「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」(マルコ9:42)

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:1-3)

candy氏は筆者の忠告を受けて、サンダー・シング関連の記事を削除したが、その教えが異端であるとは未だに認めていない。だが、同氏が認めようと認めまいと、結果的に、彼女の意向を受けてサンダー・シングを支持した人々が、今は見る影もなくなっている様子が、すべてをよく物語っているように思う。Dr.Lukeは自分を神だと宣言するに至っているし、山谷少佐は裁判に勝利できずネットから遠ざかることになった。Br.Taka夫妻については言及する価値がない。

これらの人々はみな聖書の真理よりも、人間の名誉と絆を重んじたのである。情に流され、人との交わりや、そこから得られる感覚的満足を、御言葉よりも優先し、御言葉に従うことよりも、人間の名誉を傷つけないことを優先したがゆえに、忠告の価値を軽んじ、誤った教えに逸れて行ったのである。

さらに、聖書は彼らの教えが「好色」であり、「貪欲」であると述べている。そのことは、Dr.Lukeとcandy氏が自分のブログで飽くことなく続けている「飲んだり、食べたり」(マタイ24:38)の自慢話を見てもすぐに分かることである。まさかそんな自慢話の羅列が信仰の証であろうはずがない。

聖書にはこうある、なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ14:17)

candy氏のブログは、当初の「イエスの喜びと満足のために」書かれる証から、「セルフの恵みと満足のために」執筆されるものへとすっかり変わってしまった。

さらに、上記で挙げた工作員の立てた掲示板の趣旨も「愛と赦し」(の母性的福音)であり、御言葉の切り分けがないところを見ても、まさにサンダー・シングやグノーシス主義やペンテコステ・カリスマ運動を擁護するために立てられたものと言って良い。だからこそ、こうした議論は決まって最後は肉欲の賛美に溺れて行くのである。その様子が彼らの信奉している教えの内容をどんな事実よりも明白に物語っている。

掲示板工作員は、決してBr.Taka氏やcandy氏などのアッセンブリー信者を批判しない。そのことだけを見ても、彼らがどの筋から来た者であるかは明白である。不思議なことに、candy氏のことを当ブログで書いても、さわやか読者はこの話題をタブーのように扱う。彼らはDr.Lukeについては常に騒ぎを煽ろうと狙っているのに、決してこの人物については触れないのである。
 
このようなアッセンブリー信者らの極めて不審な主張と活動を振り返り、彼らが言い広めて来た異端の教えのことを考えるにつけても、こうした「信者」らは、真実な信仰者を迫害し、退けるための「プロ固定信者」であると筆者はみなさざるを得ない。一人の信徒が霊的要塞と化して与えた影響の大きさを思うのである。

「十字架の恵みが溢れて」の著者は、今年5月に「十字架の恵みが溢れて2」という名で、ライブドアにブログを開き直している。言わずと知れた、杉本徳久氏の「随想 吉祥寺の森から」と同じプロバイダである。杉本氏から当ブログに対して実行不可能な提訴を予告する恫喝のメールフォームが送られて来たのと時期的に重なっており、また、当ブログに対するスピンの為に上記匿名掲示板が立てられたタイミングとも時期的にほぼ重なっている。2chとライブドア社も以前から密接な関係にあることが指摘されている。

以前の彼女のブログには、KFC関係者のブログへのリンクが数多く貼られていたが、当ブログでKFCの理念の異端性を明白に書き始めてから、新アドレスに移行している点にも注意が必要である。

こうしたことは、一般信者の立場だからこそできることであり、アッセンブリー教団に所属していながら、次々に他の団体の信者に関わり、しかもKFCのように、キリスト教界そのものに敵対しているような相反する理念を持つ団体に関わり、その団体が批判を浴びて都合が悪くなると、そういう一連の事件は全てなかったことのように、彼らと無関係を装って新たに活動を続ける。そういう変わり身の早さも感じられるように思う。

実際、筆者がKFCに関わって最も驚かされたのがまずこの点なのである。candy氏に限らず、Dr.Lukeのメッセージを熱心に聞いている者たち(特に女性)には、キリスト教界に身を置きながら、牧師に隠れてKFCやDr.Lukeとコンタクトを取り、メッセージを聞くという、二足の草鞋を履いている者があまりに多い。自分の所属している教会と指導者がありながら、キリスト教界の非をこれほど激しくあげつらっては告発しているDr.Lukeのメッセージを聞くこと自体が、自らの群れに対する裏切り行為であることが分からないのであろうか。

本来ならば、エクソダスするのか、現在の指導者に従うのか、どちらかを選ばなければ、信用も成り立たないであろう。(むろん、エクソダスしたからと言って、Dr.Lukeに従うという結果にはならない。)どっちつかずの立場では、自分の指導者に対しても申し開きが出来ない。ところが、まるでどちらかが倒れたらいつでも古巣に戻る準備が出来ているとでも言わんばかりに、いつまでも二重の立場をずるずると続け、両方の「いいとこどり」に終始するのである。それでいながら、自分たちには一般信徒の分かっていない、より深い霊的真理が(Dr.Lukeのおかげで)理解できていると考えているのである。

このように、対立する陣営のどちらにも良い顔をすることが不可能であることが、クリスチャンでありながら、なぜ分からないのか、筆者には全く理解できない。そのような曖昧などっちつかずの態度をずっと続けて、どちらの陣営においても、信用を勝ち得ようとすることは、全く信頼できる行動ではないと筆者は考えている。そのような誠実さの欠ける貞潔さのない人々を信用して、どっちつかずの立場の人々ばかりを積極的に集めては交わりの拡大を重んじたことが、KFCの致命的な誤りであり、それがゆえにこの団体のこれまでの絶えざる二重の歩みがあったのだと筆者は考えている。結局、信仰の純粋性よりも人数(地上の権勢)の方が彼らには大切だったのであり、そうであるがゆえに、他の群れの信徒らを盗み取り、奪い取ってでも、その心を私物化して行こうとしたのである。
 
話を戻せば、こうした一連のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者の動向を考え合わせると、杉本氏からの提訴予告も、単なるシナリオ工作の一環でしかなかったことが見えて来る。その背後に控えているのは、どこからどう見ても怪しい活動を続ける工作員信者らを手先のように他団体へ送り込んで、巧みに駆使しながら、敵対する者たちに関する情報を収集し、次々と争いや分裂をしかけ、中傷を広めては追い落とし、キリスト教界の統一と一元化を目論んで来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団である。

もともとアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念自体が、プロテスタントに潜り込んだ異端であることを考えれば、この教団の信者が、他教団や他宗派の信者の動向を監視したり、裏切りに備えて予め個人情報を収集したり、異端の教えを言い広めては信者を堕落させる悪霊の要塞となったりするのは全く不思議なことではない。

彼らの目的は、親切で忠実な信徒を装って活動しながら、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、できるだけ数多くの信者を惑わし、聖書に基づく唯一の真理から逸らすことにあるのだと言っても過言ではないのではなかろうか。

特に、キリスト教界と一線を画して、真理だけを求めているような群れを、何としても彼らの二重性を帯びた支配・統制の下に置くために、密かに行状偵察し、信仰者の群れを一元管理し、村上密氏のような人物にライバルのいない状態を作り出すために、信者を手先として利用しているのではないのかという疑問が生まれる。
 
こうしたことから、果たして、バビロンや、イゼベルとして非難されるべきは誰なのかという疑問が起こらない方が不思議である。
 
candyというペンネームも相当に象徴的であると言える。何しろ、それはDr.Lukeが最も嫌っていたはずのいわゆる「砂糖まぶしの甘えの福音」を象徴するような名だからだ。十字架は、セルフにとって決して甘い恵みではない。花輪で飾り立て甘い砂糖菓子のようにされた人間に都合の良い「十字架」は本物ではないと気づくべきである。

こうしたアッセンブリー信者の惑わしの働きの源は、その親分にこそあると見るべきである。

村上密氏はキリスト教界の不祥事をきっかけに、クリスチャンに対する裁判を推進することにより、アッセンブリー教団の枠組みを超えて、他教会を破壊することに成功して来た。さらに、同氏のブログも、福音伝道を目的とする牧師のブログというよりは、ネット上の政治プロパガンダ工作を思わせるものである。たとえば、同氏のブログは、書き方一つを取っても、コメントを一切受けつけない点で、対話と異論を初めから排除する「言いっぱなし」の形式を取っている。こうしたことだけを取っても、同氏は初めから一方的なプロパガンダを目的としてブログを開いているのであって、対話と議論を一切目的としていないことがよく分かる。
 
さらに、同氏は筆者の書いた「カルト監視機構という名の秘密警察」という記事に対する反論として、わざわざ「『カルト監視機構』という名の秘密警察」の誤報」と銘打って、筆者の記事のタイトル全文を引用する形で記事を書いている。

こうしたやり方も、本記事に対する緻密な反論が目的というよりも、まるで広告のキャッチコピーのようなレッテル貼りによる印象操作と、明らかに検索結果を意図的に操作して、そこで論敵の記事を貶めることを目的に同氏が記事を書いている様子をよく物語っている。これは杉本徳久氏が用いて来た手法と同じである。つまり、内容を通してきちんと反論することで、自説の正当性を主張するのではなく、他者の記事内容やタイトルや文章をまるごと模倣・剽窃したり、類似するタイトルをわざとつけることによって、論敵の主張をまる飲みする形でダミーを作り、それによって標的とする人物の主張を乗っ取り、追い落として行くのである。

さらに、村上密氏は鳴尾教会関係者のみならず、筆者についても、長年に渡り、人物破壊を行なうためのプロパガンダ記事を掲載し続けている。このような、正攻法とはとても言えない、ネット上の不正な権利侵害によって政敵を蹴落とす手法は、2chなどのネット操作の常連の常套手段であっても、牧師にはふさわしくない。裁判もそうであるが、こうした争い事のやり方にばかり精通しており、反則行為と抜け穴探しのような手法にひどく長けているような人間は、まともな人物ではないと言える。

2chは日本をエバ国家と蔑視する統一教会などとも関連が指摘されており、ことさらに日本人を中傷する掲示板と化している理由が色々と推測されているが、村上氏は統一教会の出身であり、掲示板に書かれている情報の中には、同氏に由来するとしか考えられない情報も含まれている。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、牧師からしてこのようであるから、信者にも、この種の極めて怪しい確信犯的な詐欺師が多いのは無理もない。ヤクザの回心をお涙頂戴の物語として得意げに伝道材料にするくらいであるから、今や教団そのものが、社会的弱者とヤクザと障害者と病者と統一教会出身者で溢れている。

その上、キリスト教界の不祥事を告発することを生業としてクリスチャンに裁判を挑む指導者が牧師として常駐しているわけだから、教団そのものが、まるでキリスト教徒に因縁をつけては罠をしかけるためのヤクザ工作団体と化していると言って過言ではない。
 
こんな団体に所属している信者が、ゆめ油断できない人物ばかりなのは何の不思議もない。杉本徳久氏も、キリスト教界により数多くのスキャンダルをでっちあげて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のカルト被害者運動の需要を作り上げたい勢力から、思う存分、利用されているだけに過ぎないと見るのがふさわしい。そして、アッセンブリー教団の背教は米国に由来するものなのである。

いみじくも、筆者が色々と訴訟関係の手続きを調べている時に、ある専門家が尋ねた。「その教団の理念は、外国から来たものなのではないですか」と。
 
Dr.Lukeは以上に挙げた記事の中で、サンダー・シングをウォッチマン・ニーと同じく「東洋的な霊性」と記している。candy氏はウォッチマン・ニーにも深入りしている様子がブログから分かるが、それを見るにつけても、「東洋的霊性」なるものは混合の教えだと筆者は思わずにいられない。

ちなみに、筆者にウォッチマン・ニーを紹介し、その体系を教えたのは、Mr.Sugarである。Dr.Lukeはこの点もずっと意図的に隠し、あたかも筆者が自ら勝手にウォッチマン・ニーに「傾倒した」かのように、まるで現場を見て来たかのように主張して、事件を無駄に煽って来た。だが、Mr.Sugarはその当時、KFCに全く理解を示していなかったので、この時期、筆者もまたDr.Lukeには一切関わっていなかった。

Mr.SugarはDr.Lukeのローカルチャーチ時代からの長年に渡る年長の兄弟であり、当時、他の信者の誰も及ばないほどにウォッチマン・ニーに「傾倒していた」。筆者とMr.Sugarのそうしたやり取りは、筆者自身が伝えたので、Dr.Lukeは知っているが、それを知った上で、あえてSugar氏の名前は出さず、筆者だけに注目が集まるような、誤解を呼ぶ一連の事実に反する記事をDr.Lukeは自身のブログで断りなく発表していったのである。

たとえば、Mr.Sugarのニーに対する熱心さはこんな風であった。筆者がブログにニーの引用文を載せて、そこに誤変換や誤字脱字があると、早速、Mr.Sugarから電話がかかって来る。そして「あそこの何行目のどこそこの文字が間違っていますよ」と指摘がある。筆者の書いた文章よりも、ニーの文章の方がSugar氏にとってははるかに重要であり、まるで聖書以上にニーが重要であるかのように感じられるほどの関心の払いようであった。それほどまでに、当時、Mr.Sugarはウォッチマン・ニーに心酔しており、しばしば、ニーの最期を思って涙を流し、自身のブログにも、ニーの引用に「加筆した」ものをずっと発表していたのである。

Mr.Sugarは筆者にウォッチマン・ニーを読まないか、恐る恐る勧めたと語っていた。そして筆者が『霊の人』に関心があったと言うと、欣喜雀躍として喜んだという。

筆者は、特に霊的な事柄についてのウォッチマン・ニーの内容の深さには関心を持ったが、どうにもこの心酔ぶりにはついて行けないものを感じていた。そこへ杉本事件が起きた。しかも、それはちょうど、「こんなブログがありますが」と、筆者がMr.Sugarに「随想 吉祥寺の森から」のアドレスを伝えてからほどなくしてからのことであった。杉本氏からの非難は筆者のみならず、ウォッチマン・ニーも対象としていたので、Mr.Sugarはおそらくこんな時だからこそ、ウォッチマン・ニーの信憑性を擁護するために立ち上がるだろうと筆者は思ったが、あにはからんや、同氏はそそくさと理由をつけてネットから撤退してしまった。

その姿を見たとき、あれほどまでに涙を流しては「ニーの同労者になりたい」と告白していた台詞は何だったのだろうかと驚き呆れた。しかも、ちょうど「デッドライン君」の事件が起きた時分であったので、デッドライン君の家族を救うという使命のために、Mr.Sugarはこの事件をひどく胡散臭く思っていた筆者との交わりを絶ってしまった。

Mr.Sugarにはその後も再会し、KFCの偽りを理解する上では数多くのヒントをもらったことは確かであり、おそらく筆者が今まで知り合った目に見える信者の中では、最も鋭い霊的な指摘を受けた一人であろうと言える(その根源は、結局、ウォッチマン・ニーの著書から得られた知識にあると考えられる)。だが、candy氏と同じで、何故、この人も”sugar”なのであろうか、と疑問に思う。そして、この人のブログの題名が「山暮らしのキリスト」であることも、実に意味深に感じられる。
 
筆者はニーの書いたものの中で、ペン-ルイス、オースチン-スパークス、アンドリュー・マーレーのような霊的先人と重なる部分は認めており、それから『霊の人』にも一定の評価を下して来た。魂と霊の切り分け、霊の機能についても、これ以上に意義深い説明を他にはまだ知らない。しかし、『権威と服従』のように、明らかに年功序列を絶対化するような、聖書とは異なる教えがニーの著書とされて混合していることも確かであり、このような教えを土台としたがゆえに、いくつかの集会では、子供への搾取等が発生しているのであると考えられる。ローカルチャーチから出た出版物は特に吟味なく受け入れるべきではないことが指摘されて久しい。

それにとどまらず、ニーの生涯、彼の著作物、ニーの最期についても、すべて再考が必要であるように筆者は思う。それはこれもまた「東洋思想との混合」である可能性があるためだ。

ペンテコステ運動の基盤が東洋思想・グノーシス主義にあることはすでに明確にしたが、聖書に登場する大淫婦バビロンの教えとは、筆者の観点では、まさに東洋思想とキリスト教の混合物なのである。

キリスト教をベースにして、そこに「東洋的霊性」が混合してできる化合物が、悪魔の悲願としてのバビロンの教えの完成であり、そのためにこそ、「キリスト教に父性原理が強すぎるので、母性原理を補うべきである」という主張が繰り返し、キリスト教批判として現れて来るのである。

ただし、ウォッチマン・ニーの著書については、その教えの多くの部分は、先人たちの主張を取り入れたものであり、どこからがニーの独自の言説で、後世の人々による改ざんなのか、めて識別が難しい。今、著書も手元にないので、分析を行えるとしても、まだ先のことになるだろう。

ただし、筆者の周りでウォッチマン・ニーにかなり傾倒した人々に一様に観察された特徴は、先人の良さそうな言葉の引用で身を飾り立てることはしても、その言葉が試された時、代価を払ってその真実性を証明するということがなかった点である。はっきり言ってしばえば、その言葉は借り物の域を超えないのである。
 
以前、candy氏は筆者の前でKFCをかなり批判的に評しており、Dr.Lukeにブログを閲覧されると客観的に内容が書けなくなる、とか、Dr.Lukeはもっと早くにKFCから引退すべきであった、そうであればこうまで異常にはならなかっただろう、などと述べたことがあった。筆者より前からこの団体を知っていた者としての率直な感想であり、こうした意見には全く異存はない。(つまり、筆者がKFCに関わり出した頃は、すでにKFCの異常期に入っていたのである。)さらに、ウォッチマン・ニーであれ、サンダー・シングであれ、すべての聖書以外の信仰の教えは必要ないためみな捨てるべきであると、彼女は筆者の前で自ら述べたこともあった。

彼女が筆者に向かって語った最も良い言葉は、「その父母を離れ」(創世記2:24)である。つまり、聖書の原則は、子がいつまでも親にとらわれ、家を基準として、父母のような指導者を崇め、絶対化することにはないという確信を述べたのである。精神的にも霊的にも完全に自立してあらゆる外からの助けなしに、キリストのみを頼りとして、一人の人間として、大人として、自立して立つことこそ、キリストが信者の一人一人に望んでおられる成長なのだということである。

なぜそれらのことを語った本人がそれを実行しておらず、未だにずっと聖書以外の教えの引用ばかりを繰り返しているのか。

どんなに良いことを語っても、言った本人がこれを実行しないのでは意味がない。だから、誰が述べたにせよ(たとえそれが工作員信者の発言であれ)、良いことはやはり実行に移すべきなのだと筆者は考えている。 そのようにして「知」と「行」とが一致する世界に向かって行くことが、キリスト者には可能であるはずだ。

我々は「知性による分割以前」とか「神が光あれ」と言われなかった前に向かっているのではなく、創世記で「光あれ」と神が言われた言葉がそのまま真実となったように、あるいは御言葉なる方がキリストであり、御言葉とキリストのパースンが一つであるように、言行の不一致がなく、我々の確信するところが、大胆に我々の存在と行動と一つとなって、リアリティとして世に放たれるような生き様を目指している。

だが、それを実行するただ一つの方法は、十字架を通ることにしかない。聖書から逸脱したやり方で、その素晴らしいリアリティが我々と一つになることは絶対にない。
 
Mr.Sugarがかつてとても良いことを書いていた。エクレシアの戸口に達するまでにキリスト者は死んでいなければならないと。要するに、セルフを抱えたまま、復活の領域にたどり着ける者は誰もいないのである。

私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。

「光が、やみの中から輝きでよ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」(Ⅱコリント4:5-11)
 

カルト被害者救済活動の反聖書性―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動④

9.十字架の「切り分け」を否定する者は、己を神として神への反逆に至る
  

さて、前稿「カルト被害者救済活動の反聖書性について キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動③」では、プロテスタントにおける御言葉中心主義を「思い上がりに基づく傲慢な排他主義」として非難することで、聖書の御言葉の否定に至る人々がいることを見て来た。

そして、こうした人々は、プロテスタントにつまづいているのでも、信者につまづいているのでもなく、実際には、聖書の御言葉の持つ「切り分け」や「二分性」につまづいているのであり、とどのつまり、「狭き門」であるキリストの福音そのものにつまづいていることを見て来た。

そうである以上、聖書の御言葉の持つ「二分性」や「排他性」を否定する人々が、やがてキリスト教そのものを拒んで神に敵対するに至るのも不思議ではない。

だが、上記のようにあからさまな御言葉の否定に至らずとも、ペンテコステ運動のように、人間の感覚的陶酔をしきりに強調することによって、「人の五感にとって心地よい福音」を作り出し、御言葉に基づく厳粛な分離や切り分けを曖昧にし、信者が御言葉を守り、御言葉のうちにとどまる必要性をおざなりにする主張も存在している。

キリスト教そのものを破壊することが目的であるかのように、諸教会を訴え、信者を裁判に引きずり出しては、盛んにキリスト教にダメージを与えて来たカルト被害者救済活動が、まさにペンテコステ運動の只中から生まれて来たことは実に興味深い事実である。

カルト被害者救済活動は、ペンテコステ運動を率いる最大の宗教団体であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役の牧師である村上密氏と、かつてアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に所属し、同教団の信仰生活につまづいて他宗派に去りながらも、依然として、同教団の村上牧師を支持する杉本徳久氏が中心的に率いて来たことで知られる。
 
杉本徳久氏が「神々の風景」という題名のブログを執筆していることなど、様々な点から判断して、同氏が到底、キリスト教の正常な信仰を持っているとは言い難いことを当ブログではすでに幾度も指摘して来た。(おそらくは、「神々」という言葉も、彼ら自身(生まれながらの人間)を指しているのだろうと筆者は推測している。)

だが、同時に、キリスト教界の偽りを告発し、被害者運動とは明確に一線を隠しながらも、杉本氏らとの争いを通じて、信者を裁判に引き込む役割を果たしたKFCのDr.Lukeも、実際には、彼らの活動を補完する役割を果たしたことも、当ブログでは幾度も指摘して来た。(記事「キリスト教界と反キリスト教界は同一である~KFCはどのようにキリスト教界と同一化したか~」参照。)

KFCのDr.Lukeのミニストリーもまた、ペンテコステ運動の深い影響を受けたものであることは、一見してすぐに分かる。Dr.Lukeへのペンテコステ運動の影響は、同氏がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒であったBr.Takaこと鵜川貴範氏をメッセンジャーに据えるよりも前から始まっていた。

そこで、上記の人々は、それぞれに立場は異なっているが、みなキリスト教界に何らかの形でつまづいた過去を持ち、それゆえ、キリスト教界に対して尽きせぬ憎悪と敵意を心に持ちながら、キリスト教界を告発することを生業とし、なおかつ、今日に至るまでペンテコステ運動と深い関わりを持っている点で共通している。
 
同時に、自らは聖書の二分性を否定するか、曖昧にし、御言葉を守っていないにも関わらず、キリスト教界の誤りを糾弾し続けている点においても一致している。

彼らの言動は、すべてにおいて「どっちつかず」の「いいとこどり」である。すなわち、一方では、自ら信者を名乗ることによって、クリスチャンの善良なイメージを大いに利用して、世間の信頼を勝ち得て、人前に栄光を受けようとする。ところが、他方では、キリスト教界に起きる様々な不祥事をあげつらっては、キリスト教界を断罪し、信者の無知をひどく嘲りながら、キリスト教の「不備」や「欠点」を暴き出しては強調し、このの宗教のイメージを貶める。

彼らは、自分には一般の信者以上に物事が分かっていると考え、信者を見下しては、断罪するか、あるいは上から手を差し伸べることにより、常にキリスト教界に対して優位に立とうとするが、結局のところ、彼ら自身が、全く御言葉を守っておらず、その中にとどまっていないのである。

KFCの「セレブレーション」の内容の偽りに関しては、東洋思想に関する論稿が終わり次第、分析を進める予定であったため、今まで筆者は内容を詳細に振り返ることがなかったが、しかしながら、改めて内容を分析するまでもなく、以下のような標題を見るだけで、ここまで病状が進行していたのかと驚くばかりである。善良なクリスチャンには、この集会がどれほどひどく聖書から逸脱しており、どんなに恐ろしい結末へ向かっているかが見て取れよう。

以下は杉本徳久氏の「神々」と同じく、極めて恐ろしい告白である。これこそ御言葉の二分性を否定し、キリスト教の「病理」を主張する者たちの行き着く先であり、こうしてアダムを神格化して自ら神と名乗ることこそ、ペンテコステ運動の霊的な本質なのだと言えよう。

悪魔の願望は、神を押しのけて、己を神とすることにある。以前、筆者は記事「カインの城壁 旧創造を弁護するために現実を否定して滅びを選ぶというグノーシス主義者の末路」において三島由紀夫の末路と重ねて、KFCの行く末について述べたことがある。下記のような告白をDr.Lukeと共に行った者たちには、厳しい末路が待ち受けていることであろうと思う。筆者はとうにこの集会を去っていることを改めて神の憐れみに満ちた采配として喜びたい。
  
「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの芽が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記3:4-6)
 

  

ここまで「病理」が進行すると、
もはや解説も不要であろう。
ローカルチャーチの教えとペンテコステ運動と
心理学とサンダー・シング等々、すべての教えの
「いいとこどり」をした結果の結論である。
むろん、聖書についても「いいとこどり」をしたのである。
 このメッセージの冒頭で、ルーク氏はキリスト教界の
罪による癒着という「病理」を批判しているが、
最後には自ら同じ罠に落ちていることに気づいていない。
すなわち、「神が人となって下さった」点だけを強調する
ことにより、キリストを罪人のレベルにまで引き下げ、
人(アダム)が十字架の死を通らなければ、
神に受け入れられない事実を巧妙に覆い隠している。
アダムの神格化という、ペンテコステ運動と
ローカルチャーチの誤りを引き継いで、ついに
自ら神と宣言するにまで至ったのは恐ろしいことである。

 
  



10.キリスト教の「二分性」を否定する者は、「唯一の神」を否定して、主客の区別を否定する。そして、知性による全ての区別を廃した「善悪未分化の母なる混沌」への「嬰児的回帰」を主張する。


さて、これからいよいよ上記の恐ろしい各種の運動のように、御言葉の「二分性」を否定し、十字架の切り分けを曖昧にする思想が、「神は唯一である」という聖書の真理に逆らって、自ら神になりかわろうとする試みであり、その根本に横たわるものは、聖書の神に反逆する東洋思想(グノーシス主義)であることを見ていきたい。
 
さて、聖書は初めから最後まで分離と切り分けに満ちている。天と地、光と闇、神と悪魔、造物主と被造物、堕落したこの世と来るべき世、霊と肉、男と女、父と子・・・。

聖書の御言葉の持つ二分性は本来的にすべて「神は唯一である」という事実に由来する。すなわち、神は絶対者であって、創造主であり、すべてを切り分ける主体である。他方、唯一の神以外の全てのものは、すべて神によって「造られた者」であり、神に「知られる者」という客体である。
 
このように、「神は唯一である」という事実が聖書のあらゆる「二分性」の根源となっている。どこまでも絶対者である主なる神と、それによって造られ、統治される客体である被造物との主客の区別が、キリスト教の「二分性」の根源なのである。

御言葉は、ただ創造主である神と、神によって造られた被造物との区別を生じさせるだけでなく、被造物の堕落後、キリストの十字架を通して、神に属する新創造と、滅びに定められた旧創造を峻厳に区別する。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえ刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル5:12)

神は唯一です。また、神と人との間の仲保者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)

わたしが神である。ほかにはいない。

 わたしのような神はいない。」(イザヤ46:9)

「私は、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、である。
  あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
」(出エジプト20:2-3)

ところが、すべての異端思想は、「神は唯一であり、神と人との仲保者も唯一である」という聖書の事実に激しく逆らう。それは、異端思想は、神の地位を奪おうとした悪魔の欲望を正当化し、悪魔とそれに従う暗闇の勢力が神に対して罪を犯したために神と断絶し、神に永久に見捨てられて滅びに定められているという事実を覆い隠して、主と客を転倒させて、神を罪に定め、悪魔と悪霊たちが自分たちを無罪放免して名誉回復するために作りだした秩序転倒の教えだからである。

そこで、堕落した暗闇の勢力は、神に反逆した自分たちが未来永劫、破滅を運命づけられているという事実を否定し、これを人の目からも覆い隠すために、聖書をさかさまにして、「唯一の神」という聖書の真理を、「傲慢で愚かな悪神の思い上がり」として否定する。そして、神と人との唯一の仲保者であるキリストの十字架をも退けて、聖書の御言葉への信仰を否定して、キリスト教そのものを傲慢な排他主義だと主張して退ける。

今日でも、異端の教えは、キリスト教の持つ「二分性」を「傲慢さ」や「狭量さ」として非難して、御言葉による十字架の切り分けが、愚かで荒唐無稽なカルト的思考であるかのように信者に思わせることで、御言葉を退けて、救われていないこの世を擁護し、神に反逆して堕落した罪あるものを無罪放免し、神を押しのけて悪魔を名誉回復しようとするのである。カルト被害者救済活動は、あたかもキリスト教を装って始まったが、実際には、上記のように、キリスト教そのものに根本的に敵対する運動であることはすでに述べた通りである。
 
当ブログではこれまで、すべての異端思想の根源は、グノーシス主義思想にあることを述べて来たが、グノーシス主義の教えが、自らを唯一の神とする創造主を「悪神」として非難していることを思い出したい。グノーシス主義思想は、この目に見える物質世界を作った神は「狂った悪神」であるとし、この世を不幸に陥れている元凶であり、思い上がりゆえに「妬む神」となって「自分こそが唯一の神である」と宣言したのだとして非難する。たとえば、次のような記述は、グノーシス主義思想の基本を解説したものである。
 
 

グノーシス主義はこの世が悪の支配にゆだねられている理由を、この世を作った神が実は「偽の神」であって、それゆえに「悪の宇宙」、狂った世界が生まれた、と説明する。それはどういう意味かというと、もともと至高神(「真の神」)の作った世界はプレーローマ(充溢)した世界であったが、この至高神のアイオーン(神性)の一つであるソフィア(知恵)が、デミウルゴスDemiuruge(プラトンの「ティマイオス」に登場する造物主)あるいは、ヤルダバオートYaldabaothという狂った神を作った。ヤルダバオートは自分の出生を忘れ、自分こそ唯一の神だと錯覚している。このヤルダバオートの作った世界こそ悲惨に満ちた人間の生存している悪の宇宙である。従って、グノーシス主義はこの狂った宇宙に叛旗を翻す。(反宇宙主義)

グノーシス主義~悪の臨在
より引用



東洋思想には、「唯一の神」を否定するための物語があるわけではないが、事実上、グノーシス主義と同じように、唯一の神という概念が否定されている。

以前にも、当ブログで引用したことのある鈴木大拙氏は、著書『東洋的な見方』(岩波文庫)の中で次のように述べている、すなわち、西洋思想における「二分性」の原則は、知性を発展させて文明の発達に寄与はしたはいいが、それは同時に、力の論理を生み、果てしない分裂と闘争、疎外に結びついたと。そして、鈴木氏はこの悪しき「二分性」の源が、キリスト教にあるとみなすのである。
 
「ラテン語でdivide et imperaというのがある。英語に訳すると、divide and ruleの義だという。すなわち「分けて制する」とでも邦訳すべきか。なんでも政治家軍事上の言葉らしい。相手になるものの勢力を分割して、その間に闘争を起こさしめ、それで弱まるところを打って、屈服させるのである。ところが、この語には不思議に西洋思想や文化の特性を剴切に表現している。

 分割は知性の性格である。まず主と客とをわけるわれと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。

 それから、分けると、分けられたものの間に争いの起こるのは当然だ。力の世界がそこから開けてくる。力とは勝負である。制するか制せられるかの、二元的世界である。」(p.10-11)
 
鈴木大拙氏は、西洋思想における知性による分割の「二分性」の根源はキリスト教にあり、そして、この二分性こそ、「キリスト教の著しい欠点」であると主張する。

「西洋文化といえば、ギリシャ、ローマ、ユダヤ的文化の伝統ということになる。その不完全さは、宗教の上に最も強くあらわれる。自分はキリスト教をみだりに非難するのでなく、また悪口するのでもない。これはいうまでもないところだが、キ教には、二分性から来る短所が著しく見え、それが今後の人間生活の上に何らかの意味で欠点を生じ、世界文化の形成に、面白からぬ影響を及ぼすものと信じる。キ教はこれを自覚して、包容性を涵養しなくてはならぬ。

 二分性から生ずる排他性・主我性などは、はなはだ好ましからざる性格である。二分性を調節して、しかもそれを包含することになれば話はわかるが、これがないと、喧嘩が絶えない。<中略>

 西洋では造物主と所造者とを峻別する。造物主をゴッドという。天地万物はこの能造者から出て来る。造られて出る。そうして能造者自身は造られないものである。絶対者である。それがまた所造者として統率している。それから出る命令は至上命令で、これを乗り越えるわけにいかぬ。二分性は人間に与えられたところのもので、これから脱離不可能だ。能造と所造とを分けてかかると、それから次々とあらゆる対蹠が出てくる。自分と汝、善と悪、罪人と聖者、黒と白、はじめと終わり、生と死、地獄と極楽、運と不運、味方と敵、愛と憎しみ、その他、あらゆる方面に対立が可能になる。こんなあんばいにして、まず二つに分かれてくると、それから無限の分裂が可能になってくる。その結果は無限の関係網がひろがって、人間の考えが、いやが上に紛糾する。手のつけられぬようになる。ある意味で、われらは今日のところ、この紛糾せる乱麻の間中に出没している。それで、手や足やが、彼方にひっかかり、此方にひっかかりって、もがけば、またそれだけ、幾重にもまつわってくるという次第である。一遍ひっかかると、手がつけられぬといってよい。枝葉がはびこると、自然に根本を忘れる。二分性の論理はそういうことになるのが、常である。」(p.169-171)
 
鈴木氏によるキリスト教の持つ「二分性」への非難は、今改めて読んでみると、まさにこれまで当ブログ記事で示してきたような、「キリスト教の排他性」を非難して、キリスト教から「脱福」した元信者や、カルト被害者救済活動の支持者らによる信者に対する非難の言葉にぴったり重なるように思われる。特に、元信者によるキリスト教に対する非難の言葉を思い出したい。

「キリスト教そのものに本質的な精神病理があると愚考しているのです。」

「聖書絶対主義と申しますか、よく言えば「福音的」な信仰と申しますか、そういう発想のただ中にそもそも自己愛的な「排除の病理」を看取するのですよ。」
 
鈴木氏もこうした人々と同様に、キリスト教の「二分性」をあるまじき「排他性」「主我性(言い換えれば、自己愛!)」として非難し、この「二分性」こそ、キリスト教を「不完全」にしている最大の欠点であるとみなし、キリスト教はこの「二分性」を克服して、もっと「包容性」を補わなければならないと言うのである。

鈴木氏のキリスト教に対する非難の言葉を見ると、今日、福音を拒んでキリスト教に敵対している人々の主張が、何ら新しいものではなく、彼らの使う「自己愛」や「ナルシシズム」や「病理」といった言葉でさえ、古くからあるキリスト教批判の焼き増しに過ぎない事実が見えて来る。
 
こうした人々のキリスト教に対する非難の根源となっているのは、「主客の区別」、すなわち「創造主」と「被造物」との区別、「知る者」と「知られる者」との区別などの「二分性」である。そして、彼らはこの主客の二分性を撤廃することによって、キリスト教はその残酷な排他性という著しい欠点(もしくは「病理」)を克服せねばならない、と主張するのである。

だが、彼らの言うように、主客の区別を撤廃することは、被造物に過ぎない者が、自らを造った神に対して、神であることをやめよと言うのと同じであるから、とてつもない傲慢であり、まさに神に対する反逆なのだが、彼らはそのことは全く理解しない。

鈴木氏は、聖書の「唯一の神」から生まれる主客の区別を「キリスト教の不完全性」として退ける一方で、東洋思想の長所と称して、神と人との断絶が生じる前の「主客未分化」の状態へ回帰するべしと提唱する。すなわち、無限の分離を生み出すだけの知性に基づく父性原理にではなく、善悪の区別なく全てを包容する母なる混沌へと回帰せよというのである。

「主客未分化(善悪未分化)の母なる混沌」――これこそ、あらゆる種類のグノーシス主義が一様に原初のユートピアとして回帰を唱えるものの正体である。

さて、鈴木氏の提唱する「主客未分化」の状態とは、神が「光あれ」と言われる前の状態、すなわち、光と闇とが分離されない状態、つまり、善も悪もなく、神と、神に反逆して堕落した永遠の犯罪者である悪魔と暗闇の勢力との区別すらもない混沌とした状態である。

同時に、鈴木氏の言う、神が「光あれ」と言われる前の未分化の状態とは、分割する知性によってあらゆるものが識別される前の状態、すなわち、人が自分自身と、自分を取り巻く世界を明確に区別し、理性によって周囲の物事を分析しわきまえる必要が生じるより前の状態を指している。これは人間の知性による一切の分析や識別自体が存在しない状態である。
 
あたかも暗い母胎のような場所で、人が嬰児のごとく、受動的に世界に包まれて養われており、自分が誰であるのか、これから何が起きようとしているのか、自分を包んでいる世界とは何なのか、どこまでが自分で、どこからが自分でないのか、それさえ分からずに、ただ世界と一体化して無防備に混沌に身を委ねて漂う、一切の自我意識が生じる前の、無意識のような、忘我の境地のような状態を指している。

さらに、重要なのは、この混沌が「母なるもの」と女性形で呼ばれていることである。鈴木氏の言う知性による区別が存在しない「主客未分化(善悪未分化)の混沌」、これこそ、あらゆる東洋的な「母なるもの」の正体であり、グノーシス主義思想が唱えるユートピアとしての「原初回帰」なのであるが、これを説明するために、長いが、鈴木氏の言葉をそのまま引用したい。

「東洋民族の間では、分割的知性、したがって、それから流出し、派生するすべての長所・短所が、見られぬ。知性が、欧米文化人のように、東洋では重んぜられなかったからである。われわれ東洋人の真理は、知性発生以前、論理万能主義以前の所に向かって、その根を下ろし、その幹を培うところになった。近ごろの学者たちは、これを嘲笑せんとする傾向を示すが、それは知性の外面的光彩のまばゆきまでなるに眩惑せられた結果である。畢竟ずるに眼光紙背に徹せぬからだ。

 主客未分以前というのは、神がまだ「光あれ」といわれなかったときのことである。あるいは、そういわんとする刹那である。この刹那の機を捕えるところに、東洋真理の「玄之又玄」(『老子』第一章)なるものがある。この玄に触れないかぎり、知性はいつも浮き足になっている。現代人の不安は実にここから出て来る。これは個人の上だけに表れているのではない。国際政治の上にもっとも顕著な事象となって、日々の新聞に報ぜられる。

 「光あれ」という心が、神の胸に動き出さんとする、その刹那に触れんとするのが、東洋民族の心理であるのに対して、欧米的心理は、「光」が現れてからの事象に没頭するのである。主客あるいは明暗未分化以前の光景を、東洋思想の思想家である老子の言葉を借りると、「恍惚」である。荘子はこれを「混沌」といっている。また「無状の状。無象の象」(『老子』第十四章)ともいう。何だか形相があるようで何もない。名をつけると、それに相応した何かがあるように考える。それで、まだ何とも名をつけず、何らの性格づけをしないとき、かりに、これをいまだ動き始めぬ神の存在態とする。老子は、またこれを「天下谿(てんかのけい)」とも「天下谷(てんかのたに)」ともいう(第二十八章)。谷も谿も同じだ。またこれを「玄牝(げんぴん)」ともいう。母の義、または、雌の義である。ゲーテの「永遠の女性」である。これを守って離れず惑わざるところに、「嬰児(えいじ)」に復帰し、「無極(むきょく)」に復帰し、「樸(はく)」に復帰するのである。ここに未だ発言せざる神がいる。神が何かをいうときが、樸の散ずるところ、無象の象に名のつけられるところで、これから万物が生まれ出る母性が成立する。分割が行ぜられる。万物分割の知性を認識すること、これもとより大事だが、「その母を守る」ことを忘れてはならぬ。東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。

 欧米人の考え方、感じ方の根本には父がある。キリスト教にもユダヤ教にも父はあるが、母はない。キリスト教はマリアを聖母に仕立てあげたが、まだ絶対性を与えるに躊躇している。彼らの神は父であって母ではない。父は力と律法と義とで統御する。母は無条件の愛でなにもかも包容する。善いとか悪いとかいわぬ。いずれも併合して「改めず、あやうからず」である。西洋の愛には力の残りかすがある。東洋のは十方豁開である。八方開きである。どこからでも入ってこられる。

 ここに母というのは、わたしの考えでは、普通にいままでの注釈家が説明するような道といったり、また「ゴッドヘッド」といったりするものではないのである。もっともっと具体的な行動的な人間的なものと見たいのだ。しかし今は詳説するいとまをもたぬ。」(p.13-14)
 
以上の鈴木氏の言葉を読めば、同氏がキリスト教の持つ「二分性」(あるいは「分割する知性」そのもの)を、「律法と義によって統御する」狭量な「父性原理」として退け、むしろ、善悪の切り分け自体が存在しない、何もかもを無条件に許し包容する(知性発生以前の)「母性原理」の境地に嬰児的に回帰することが、東洋思想の醍醐味であり、長所であると述べていることが分かるのである。

だが、実は、このような「母なるものへの回帰」は、大変、恐ろしい思想なのである。

 



11.聖書の原則である「分離」や「切り分け」を否定して、主客未分化の「母なる混沌」への「嬰児的回帰」を提唱する思想は、個人を全体にからめ取り、離脱を許さない恐ろしい支配を生む。

「主客未分化」、「善悪の区別のない母のような包容性」とは、一体、何を意味するのか。
「受容」や「包容」と言った甘い言葉の響きに欺かれることなく、「人が永遠に胎児のままで母胎から抜け出られない世界」とはどういうものか、想像してもらいたい。

「分割する知性が発生する以前の善悪未分化の状態」とは、人が自分で物事を考えることも、識別することもできず、むろん、行動や選択の自由もなく、自己決定権というものが一切、存在せず、ただ与えられるものを無条件に受け入れて、自分を何者かに完全に委ねて明け渡し、自分よりもはるかに強い何者かに包み込まれ、支配されてしか、生きられない状態を意味する。

それは、「母なるもの」の支配から決して人が分離することのできない、永遠に離脱の自由のない、がんじがらめの世界である。

これが決して行き過ぎた表現でないことは、東洋思想に基づいて作られた戦前の日本の国家主義が、個人が共同体(家族、社会、企業、国家)から離脱する自由を一切認めない恐ろしい思想であったことによく表れている。

それは、「神と人との断絶はない」(神と人とが和合している)という思想ゆえに、生まれて来た発想であった。

すなわち、神と人との断絶を認めず、人が神によって造られた被造物であり、なおかつ、堕落しているがゆえに神と切り離されているという聖書の事実を認めないと、主客の区別が消滅し、その結果、全体と切り離された個人という概念も否定されるのである。そうなると、個人として認められない人間は、自分を取り巻く環境から離脱する自己決定権を永久に奪われることになるのである。(記事「東洋思想とは何か。~その柱は何を再建しようとしているのか~」参照。)

こうして、東洋思想が「分離」や「切り分け」を悪いものであるかのように否定して、個人としての人間の自己決定権をも退けて、切り分けの存在しない状態である「善悪未分化」「主客未分化」の「母なる混沌」への「嬰児的回帰」を目指すのに対し、聖書の原則は常に、人が自らの知性を完全に働かせて、大人として能動的に識別し選択する「分離」や「切り分け」を奨励する。
 
聖書には「分離」や「切り分け」を否定的にとらえる発想はない。神に属さないものとは「分離せよ」というのが、聖書の教えの基本である。

不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
 キリストとべリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。
「わたしは彼らの間に住み、また歩む。
 わたしは彼らの神となり、
 彼らは私の民となる。
 それゆえ、彼らの中から出て行き、
 彼らと分離せよ、と主は言われる。
 汚れたものに触れないようにせよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 わたしはあなたがたの父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる、
 と全能の主が言われる。」(Ⅱコリント6:14-18)


キリスト者は、この世からの分離によって、キリストの霊的統治の中に召し出された者たちである。キリストと共なる十字架の死を通して、自らの古き自己に死んで、肉なる家族からも分離を遂げて、神の霊的な家族へと加えられた。このように、キリスト者の信仰の歩みは絶えざる「エクソダス」であり、「分離」であって、その目的は「出て来た故郷」に戻ることには決してない。

聖書の分離の原則は、母胎のような未分化の混沌への回帰とは正反対であり、「父母からの分離」も、聖書の原則の一つである。「それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。」(マタイ19:5)

ここでイエスの語られた御言葉は、男女の結婚を指しているのみならず、キリスト者の信仰の歩みにもあてはまる。つまり、人はキリストへの信仰を持つことにより、生まれながらの自分の出自に死んで、生まれ落ちた家庭を離れ、神の霊的な家族の一員として加えられ、キリストの花嫁なるエクレシア(教会)として召されるのである。信者が教会として召されることは、この世からの分離なくしては決して成り立たない。

ヘブル書11章には、信仰の先人たちの地上での歩みがことごとく神に属さないものからの絶えざる「分離」であったことが記されている。

「信仰は、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟りしたがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。」
「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。」
「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造りその箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」
「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました
 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続する遺作やヤコブとともに天幕生活をしました
 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。」
「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み
はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
 信仰によって、彼は王の怒りを逸れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。
信仰によって、初子を滅ぼす者が彼らに触れることのないように、彼は過越と血の注ぎを行ないました
 信仰によって、彼らはかわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました。」


「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)

このように、「分離」や「切り分け」は、キリスト教から決して外すことのできない大原則であり、信者はこの御言葉の切り分けの機能に基づいて、何が神の御心であり、何がそうでないのかを自ら識別する。そして、神に従う道を選び取るために、堕落したこの世の故郷と自ら訣別して、まだ見ぬ天の故郷へ向けて旅立って来たのである。

しかしながら、今日、キリスト教にも、御言葉の「分離」や「切り分け」を巧妙に否定する異端思想の危険が迫っている。東洋思想における「何もかも包含する母の愛」なるものが、あたかもキリスト教のような仮面をつけてこの宗教に入り込み、「神は愛だから罪人を裁いたりなさらない」などと言って、人の罪を否定して、神と人との断絶を否定したり、神の裁きを否定したりしている。(記事「命の道と死の道――狭き門と広き門――偽りの教えの構造(1)」参照。) あるいは、ペンテコステ運動のように、御言葉の切り分けを曖昧にして、信者が自ら霊的な識別力を放棄して、恍惚状態に受動的に身を委ねることを奨励するような教えが流行している。

東洋思想は、「主客未分化」や「すべてを包含する母なるもの」などの言葉で、神と人との断絶を否定し、光と闇とが分離される前の(悪魔が罪を犯して神に反逆する前の)状態への回帰を主張する。こうして、キリストの十字架を介さずに、「主」である神を退けて、生まれながらの人間が神に至る道を見つけようとする。

このような思想はあらゆる点から見て反逆的なのであるが、何よりもまず、被造物である人間が「神に造られたもの」であって、神に「知られる者」という客体であるという事実を否定する点で、反逆的である。そして、被造物は、自らを造った神に従うのが当然であるという秩序をも否定する。そして、「目に見えるもの」と「見えないもの」の秩序を逆転し、主と客との立場を逆転して、自分が「主」となり、神になり、創造主の神秘を極めようとする。

こうして、東洋思想は、グノーシス主義と同様に、聖書のまことの神を退けて自ら神になろうという悪しき願望を述べるのだが、その反逆的な動機の悪質さを隠すために、「キリスト教は残酷で排他的で不完全な宗教だ!」とか「包容性が足りない!」とか「キリスト教の二分性は争いを助長する!」とか「キリスト教の信者の主我性は自己愛だ!」などと、ありとあらゆる方法で聖書の二分性を非難して、何とかして善悪の区別を廃し、神が唯一であるという聖書の事実を否定して、神に呪われて退けられた堕落した勢力をもう一度、復権し、神にまで至らせようと試みるのである。

その主客転倒(主客未分化ではなく主客転倒!)の試みが、東洋思想においては「善悪未分化の状態である母なる混沌への回帰」となって現れ、グノーシス主義思想においては「唯一の神」を宣言する創造主を「傲慢な悪神」として貶めて断罪するという考えになって現れるのである。

こうした思想を信じる人々は、自ら聖書の御言葉を曲げて神に反逆し、神になりかわろうとしているのであるが、その反逆の意図を隠すためにこそ、「キリスト教の危機」をしきりに訴えては信者の心を揺さぶり、キリスト教を「不完全で短所だらけの排他的で病理的な宗教」として印象づけようと努力し、キリスト教の教義や、聖書の御言葉に立脚した信仰生活が、あたかもカルト的・反人間的な思考に基づくものであるかのように描き出すことで、聖書の御言葉の信用を毀損し、聖書の御言葉の真実性を信者に疑わせて、「思い上がって狭量な信仰」に対する自己反省を迫り、十字架における「切り分け」を否定することで、本来、救われるはずのない人々、罪に定められている堕落した世界を「救済」しようと試みるのである。

結局、こうした人々は、キリストの福音を否定して、罪の悔い改めもなく、キリストの十字架の贖いを信じることもなく、アダムに対する十字架の死の宣告を受け入れることもなくして、誰もがありのままで救われ、神に至ることができるようなヒューマニスティックな「広い道」をよこせと叫んでいるのである。しかも、聖書の御言葉を否定して、自ら神になりかわろうとする忌まわしい欲望を、「キリスト教によって被害を受けた被害者を救済する」などと述べて、人類愛や弱者救済などの美辞麗句で覆い隠そうとしているのである。

これらの思想は、形は違えどその主張の根幹は同じであり、要するに、その根底には、聖書の神に対する反逆の思想がある。このような思想こそ、神に対する「高慢」と「自己愛」と歪んだ「ナルシシズム」の「病理」として非難されてしかるべきであろう。

だが、鈴木大拙のように、キリスト教とは関わりのない他宗教の信者がそのような批判を繰り広げるならば、まだしも理解できるが、キリスト教の内側から、キリスト教に偽装して、そのように福音を曲げる主張が生まれて来ることには驚きを禁じ得ない。

こうした人々を生む土壌となっているのが、カルト被害者救済活動であり、さらに、このカルト被害者救済活動を生み出す母体となっているものが、ペンテコステ運動である。

そして、ペンテコステ運動も、御言葉の切り分けを否定して、生まれながらの人を神に至らせようとする聖書に対する反逆思想の土壌となっていることに注意しなければならない。(たとえば、「偽キリスト」現代における背教:「人が神になる」という偽りの教え---ペンテコステ・カリスマ運動の場合―」参照。)
  
このような主張をする人々は、たとえクリスチャンを装っていたとしても、その思想形態から判断するに、とてもではないが信者とは呼べない。むしろ、こうした人々は、十字架の切り分けの存在しない東洋思想(グノーシス主義)をキリスト教の中に持ち込んで、キリスト教を内側から乗っ取り、この宗教からあらゆる区別を撤廃することで、キリスト教を全く異質なものへ変質させようという大変、危険な試みを推進しているのだと言えよう。

だが、こうした異端思想がどれほど流行しようとも、「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしい」(ルカ16:17)とイエスが言われた通り、聖書の御言葉の真実性が少しでも揺らいだり、キリストの十字架の「分離」や「切り分け」が消滅することは決してない。

たとえキリスト教界の中に、悪党のような嘘つきが入り込み、どれだけ声高に偽りの福音を叫んだとしても、聖書の御言葉は永遠に堅固として不変であり、人間の勝手な必要に応じて変えることはできず、まして堕落した時代の要請に基づいて変えることはできない。

従って、どんな理屈を用いていたとしても、十字架の分離を否定し、神に呪われた旧創造を無罪放免しようとする人々は、聖書の事実に逆らうことによって、神に敵対しているのであり、その試みは、歴史を振り返っても分かる通り、最期は悲惨な自滅に終わるであろう。

聖書はこのような人々の考え方に対して言う、

ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている
 陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。
 造られた者が、それを造った者に、
「彼は私を造らなかった。」と言い、
 陶器が陶器師に、
「彼はわからずやだ。」と言えようか。」イザヤ29:16)
 
  「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、
多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。
彼らの 思いは地上のことだけです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のかたらだと同じに変えてくださるのです。」(ピリピ3:18-21)

 さて、次回は、「母なる混沌」のもたらす支配の恐ろしい本質により迫って行きたい。

<続く>

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