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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至る



遅ればせながらニュース動画を記念に挙げておきます。
【報道ステーション】2016年3月18日放送 
ワイマール憲法の”教訓” なぜ独裁がうまれたのか? 


 
罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか。」を再掲しましたが、この記事は未完のため、まだまだ多くのことを書き足さなければなりません。

この記事を掲載した当時、記事は大きな反響を呼び、杉本氏サイドからも巨大な反発がありましたが、それはクリスチャンを決して「命の御霊の路線」に至らせず、再び「善悪の路線」へと引きずりおろそうとする彼らの目的が暴かれては困るためであったと私は見ています。

KFCとドクター・ルークの活動とは私は現在、無関係ですし、KFCの理念の誤りについても、詳細な分析をせねばなりませんが、それにしても、当時、ルーク氏の述べていた主張の中には、今日も見落とすことのできない極めて重要な内容がありました。それは主に次の二つの原則に集約されます。
 
➀キリスト教界をエクソダスせよ
②善悪の路線ではなく、命の御霊の路線に生きよ
 

➀については、約20年ほど前から、村上密氏のように、キリスト教界の諸教会のカルト化という問題にしきりに訴えては警鐘を鳴らす人々が現れました。こうした人々は、カルト化した教会やその牧師などを告発・非難することにより、キリスト教界のカルト化問題を解決したり、被害を食い止めることができるとしていたのです。

しかしながら、こうした人々の活動が恐ろしい方向へ暴走していくだろうとの予想を私が述べ、実際に、そうなったことについてはすでに何度も述べてきた通りです。当時、キリスト教界のカルト化という問題について、これとは全く別の見解が存在していました。それは、キリスト教界全体に救いがないこと、この教界は存立の時点からすでに聖書に反しており、フェイクであり、改善の見込みがないため、エクソダス(脱出)するしか信者が正しい信仰を保つ道はない、ということが提唱されていたのです。

実は、カルト被害者なる人々の出現は、この点で、非常に画期的な意味を持っていたのではないかと私は見ています。
 
カルト被害者については、これまで良い印象がほとんど語られてきませんでした。村上密氏や杉本徳久氏の率いるカルト被害者救済活動の異常な暴走がそれに追い打ちをかけ、カルト被害者という言葉すら、最近は、あまり聞かれなくなったようです。

おそらく、当のカルト被害者も、自分たちの存在に何か重要な意義があるとは思っていないでしょう。むしろ、自分たちは弱く無知であったために犠牲にされ、人生の敗者になったのだと考えて自分を恥じ、二度と犠牲者にならなくて済むように、弱さと無知の克服に取り組んでいるかも知れません。

しかし、私はこうしたこの世の観点とは全く別に、カルト被害者の存在には、極めて重要な霊的意義があったと考えているのです。それはまず、彼らがキリスト教界から離脱した点にあります。

人が悪事の被害を受け、犠牲になることは、この世では、何ら良いこととはみなされませんが、カルト被害者の存在について、それを単なるマイナスの出来事と決めつけることができないのは、キリスト教界につまずくという出来事があったために、彼らはキリスト教界の偽りに気づくきっかけを得た点です。そして、何より、その出来事があったおかげで、そこを出て純粋な信仰生活を探求しようとする人々が現れた点です。

もし何らかの出来事をきっかけに従来の組織に絶望するということがなければ、信者がキリスト教界を離れることはありません。

何かの被害が発生して初めて、信者は自分の属していた教会に対する根本的な疑いを持つ可能性が出て来るわけであり、その組織の中では本当の信仰を持てないことを知り、これを離れ、まことの神を探求する可能性が生まれるのです。その際、多くの信者が、たまたま自分の属している教会にだけ重大な問題があったのではなく、キリスト教界そのものに根本的な矛盾があることに気づく可能性があるのです。

神の御前で極めて重要なのは、神を求める人々の心の真剣さ、純粋さではないかと私は思います。そこで、キリスト教界につまずいたことをきっかけに、キリスト教界を告発して報復を果たそうとするのではなく、まことの神ご自身を純粋に知りたいと心から願う人々が出現したことに、はかりしれない価値があったものと私は考えています。   
 
こうして、キリスト教界の虚偽性から離れ去り、聖書のまことの神を真実に知りたいと願う信者の一群が現れたことにより、初めて、組織としてのキリスト教界とは関係のない、これとは全く異なる、聖書だけに立脚した信仰生活が生まれる可能性が生じたのです。

この点で、カルト被害者なる人々の存在は重大な意義を持っていましたが、それゆえ、その後、彼らがどこへ向かって行くのか、彼らが従来の教会生活を離れて、どのような形で信仰生活を維持し、まことの神に仕えるのかという問題もまた、ある意味、全宇宙的と言っても差し支えないほどに、測り知れない重要性を持っていたのではないかと私は考えています。

だからこそ、カルト被害者を含め、キリスト教界を離れた信者らの行方を巡って、実に激しい争奪戦が今日に至るまで繰り広げられて来たのです。それはひとことで言えば、「組織から脱出した人々を、絶対に組織から逃がさず、再び人間の奴隷とすること」を至上命題とする暗闇の勢力が、モーセとイスラエルの民の脱出を妨げようと、彼らを追ったエジプト軍のように、全力を挙げて激しい欺きと妨害によって、キリスト教界を脱出した信者らの前進を妨げて来たためです。

もし信者がキリスト教界にとどまっていたならば、こうした妨害はなかったでしょう。キリスト教界にいる限り、信者は、人間の教えや言い伝えにがんじがらめにされて、自由がなく、まことの神に出会う可能性もほとんどありません。

キリスト教界には、牧師や教職者といった目に見える人間の指導者に信者を従わせるべく、何重ものヒエラルキーや規則が定められており、その伝統的なしきたりや序列を守り、偉い指導者の言うことに聞き従い、彼らの面子を傷つけないことが、あたかも正しい信仰生活であるかのように説かれています。

しかし、これらはすべて人間の言い伝えであり、人を神ではなく人間に従わせる教えであって、このキリスト教界を出ない限り、信者はこの偶像崇拝の体系から、つまり、人間の作り出したこの世の思想に基づいて地上の目に見えるヒエラルキーに人間を従わせようとする偽りの体系から、一歩たりとも外に出ることはできません。

信者が人間の作り出した地上の組織の囲いに閉じ込められて、人間の指導者の顔色を第一に伺って生きている限り、彼は決して真にキリストだけを主と仰いで生きることはなく、キリストの命に基づいて天的な生活を送る可能性もありません。ですから、信者がキリスト教界に所属している限り、悪魔にとって、彼は何ら脅威とはならないのです。

しかし、もしも信者がこの壮大なフェイクであるキリスト教界を離れ、人間の指導者に帰依することを拒み、見えないキリストだけに頼ることを宣言して新たに出発すれば、その信者の行動は、暗闇の軍勢には大変な脅威と映ります。

こうした信者の一人でも、真にキリストと共なる十字架の死を経て、キリストの復活の命に到達すると、そこから、全宇宙を左右するほどの測り知れない天的な歩みが始まります。

そこには、復活、自由、真理が生まれ、悪魔の獄屋が打ち破られて、その虚偽がことごとく明るみだされ、とりこにされていた人々が解放されるきっかけにもつながりかねません。

そこで、信者たちがキリストにあって真に自由で正常な信仰生活を送ろうとしてキリスト教界をエクソダスして、人間の作った組織の囲いから出て行くことは、暗闇の勢力にとっては、極めて重大な脅威なのです。

ですから、こうした人々を組織から逃さず、再び、人間の前に跪かせ、人間を恐れさせ、人間の奴隷とするために、暗闇の勢力は全力を挙げて彼らの妨害に回ったのです。

その目的を遂げるために、彼らは、一方では、カルト被害者を優しくかばい、助けてやる「救済者」を装う偽善的な指導者を立て、彼らの甘言により、被害者を欺いて、彼らが自主的に人間の指導者に従うよう仕向けました。それがかなわないと、今度は、暴民のような自称「信徒ら」を送っては恫喝し、恐怖によって、信者らを再び人間に従わせようとしました。

この点では、KFCも、カルト被害者救済活も、どちらも人間の作った組織の囲いの一つであり、キリスト教界を脱出した信者らが、決してキリストだけに頼る真実で自立した信仰生活に到達しないように、神と信者との中間に立ちはだかる障壁、目くらましとしての機能を果たしたと言えるでしょう。

しかし、それでも、ドクター・ルークの主張の中には、若干、カルト被害者救済活動の指導者らよりも前進していた点がありました。それが、上に述べた二つの原則なのです。

二つの原則のうち、後者の「命の御霊の路線」について考えてみましょう。

「善悪の路線」とは何か、ひとことで言えば、それはクリスチャンが罪の自覚と決して手を切ることのできない生活です。

キリスト教界に所属していると、信者は自分がいかに罪人であるかという自覚だけが深まっていき、決してその罪意識から解放されることができません。キリスト教界でよく見られる風景は、信者が、神を知る前の自分がどれほどひどい生活を送っている罪人であったかという懺悔のような赤裸々な告白の証を、繰り返し、繰り返し、語らせられている風景です。

このような「かつての悪い自分」についての告白を続けることで、信者は余計にその負の記憶から抜け出られなくなり、罪の意識から解放されるどころか、教会を離れるとかつてと同じような罪人に戻ってしまうという恐怖にがんじがらめにされていくことになります。

こうした罪意識は、信者は神を信じているつもりでも、根本的に自分は全く変わっておらず、教会の助けがなければ、更生不可能であるという自覚から生じています。つまり、信者の「救い」が、宗教組織に質に取られていることによるのです。

信者は自分ではあたかも自主的に神を信じて生きているつもりでいても、実際には、彼は地上の宗教組織に属さずには、信仰生活は送れないのだと思い込まされています。

このような思い込みに陥っている限り、信者は、地上の宗教組織を離れることに恐怖を抱き、その組織の人間の指導者から見放されたり、良い評価を得られなくなることが、「不信仰」であると考え、人間の指導者の顔色を第一に伺う生き方から抜け出られません。

ですから、そのような場合、信者は神を信じているつもりでも、実際には、地上の組織、目に見える人間の指導者に従い、人の思惑に基づいて生きていることになります。そして、組織を離れると、救いが失われるかのように思い込まされているのです。

このように、信者にとっての「救い」が組織の所有である限り、組織から承認を得られなくなり、追放されれば、自分は救いを失うのだという恐怖や罪意識から、信者が自由になることはできません。

つまり、信者にとっての「救い」が、本当に自分に属するものではなく、組織から貸与されるものに過ぎない限り、彼には完全な救いの自覚が生まれないのです。キリストの血潮が永遠に自分を救うことができることの意味を知らず、根本的に自分は罪人だが、教会のおかげで何とか普通に生きられているだけだと思い込んでおり、教会からの承認という「応急処置」がなくなれば、自分は恐ろしい罪人に逆戻りするだけなのだという罪悪感から決して抜け出すことができないのです。このような考え方では、真の救いも、罪からの解放も、自由も、決して信者は味わうことができません。

さらに、信仰を持たずとも、複雑怪奇なこの世の仕組みに適合し、そこで人々の評価を十分に得て成功して生きるのは、誰にとっても、かなり難しいことですが、宗教団体に入ると、信者はさらに厳しい道徳的基準を守るよう求められるようになるため、まさにがんじがらめの生活が始まります。

この世においても、社会にうまく適合する術を知らない人々が宗教組織に入ると、そこで救いを得られるどころか、今度は宗教組織の中で、この世よりももっと厳しい基準に適合するよう求められ、それができない信者は、罪の自覚が恐ろしく増し加わり、下手をすると、その重圧のために精神まで破壊されるということが起きます。

このように組織や指導者の意向や都合にがんじがらめにされて、罪意識から一歩も抜け出せない生活こそ、人が自分で自分を義としようとする「善悪路線」に基づく生活であって、これはキリストの血潮に悪質に逆らう偽りなのですが、そこから出て、信者がただ聖書だけに基づいて、見えない神を仰いで生きるようになる時、信者はようやくキリストが十字架において流された血潮が、無条件に信じる者を義としてくれることの意味が分かるようになります。

そして、自分の救いは「組織」にあるのではなく、信仰を通して、他ならぬ自分自身に与えられているのであり、他人の思惑によって奪われたり、取り上げられたりするような不確かなものではないことが分かります。

キリストの流された血潮によって、神の目に自分が永遠に義とされていることが分かった信者は、ようやく従来の罪意識から解放されて、世からの評価を失うことを恐れて汲々とし、絶えず自分を責めながら生きる必要がなくなります。

こうして信者は、罪に定められることへの恐怖からあれやこれやの規則を厳格に守って生きようとする恐れに満ちた生活から抜け出て、その代わりに、自分の心からの願いに従って生きることが可能となります。自らの願いをキリストと分かち合い、信仰によって、それを実現しながら生きるという別の生活が開けるのです。

こうして、キリスト教界を出たことにより、信者の人生の目的は完全に変わるのです。以前は、人の目に罪に定められたくないという恐れから、自分を何とか人の目に正しく落ち度なく見せようと、各種の「べき論」にがんじがらめにされて生きていた信者が、今や、絶え間ない罪の意識から解放され、そういう応急処置のようなやり方で自己改善を目指すことがなくなり、キリストの内なる義に従って、自分が何をしたいのかという願いに基づいて良くなるわけです。

罪意識は常に恐怖と、強迫観念を生み、信者から自由を奪いますが、罪意識から解き放たれたところでは、人は何を「せねばならないか」ではなく、何を「したいか」を中心に人生を生きることができるようになります。これは放縦な生活を意味するのではなく、人が神に自分の願いを知っていただき、神と共同で自らの人生を治める生き方を意味します。

さて、話を戻せば、カルト被害者救済活動の支持者サイドからの攻撃は、このように、キリスト教界の罪定めから自由となって、「いのちの御霊の路線」に生き始めたクリスチャンを、再び「善悪の路線」に引きずりおろすことで、罪意識の奴隷にすることを目的としてなされたものでした。

今はっきり言えることは、一旦、キリストだけを頼りに、神だけに従って生きると決めたのならば、信者は、二度と人間の顔色を伺う生活に戻ってはいけないということです。

人間の歓心を失わないことを第一に生きる(つまり、世間の評価を気にしながら、世間と調子を合わせて、世と折り合いをつけて生きる)ことを目指し始めると、信者はたちまち「善悪の路線」に落ちて、キリストにある自由を失ってしまいます。

なぜ聖書に次のような御言葉があるのか、その意味を考えてみましょう。

たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方とすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときに勝利を得るため。」
 と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

つまり、この世(と世に属する人々)の評価を失うことを恐れながら、同時に、神だけの評価を求め、神だけに従って生きるというのは、不可能であり、世の評価を絶え間なく気にする生き方と訣別しなければ、信者はキリストにある良心の潔白と、自由を保つことはできないのです。

これは、ある人々にとっては、極めて理解しがたいことに映るでしょう。なぜなら、多くの信者は、この世の常識やら、伝統やら、世間体やら、しきたりやら、空気やらを、極めて重要なものとみなしており、こうした世の考え方を気にせず生きるなど、あまりにも大胆不敵で傲岸不遜な、人としてあるまじき放縦な生活だと誤解しているからです。

多くの信者は、道徳的で品行方正な生き方を目指すあまり、それこそが、信仰生活だと誤解しています。あるいは、弱者救済などの慈善事業を評価するあまり、それこそが、信仰生活だと誤解しています。

しかし、ぞれらはいずれも、人間の目に道徳的と見える生き方に過ぎず、こういった生き方を「信仰生活」だと誤解している人々は、この世の最も優れた道徳でさえ、神の義には遠く及ばないどころか、神の義に悪質に対抗するものであることが分かりません。人の目に善と見えるものが、必ずしも、神の目にも善ではないということが分からないのです。

むしろ、神の義とは、恵みとして与えられるものであり、人間が自らの努力によって達成しようと目指す義とは全く無関係なところにあるのです。だからこそ、キリストにある命の御霊の法則は、この世の善悪の法則とは全く異なるものなのです。

私は何度もマザー・テレサのことを書いて来ましたが、彼女のように、この世において立派で優れた生き方をしているように賞賛されている人が、必ずしも、神を親しく知っているわけでないどころか、むしろ、神から見放されたという絶望的な思いに苛まれているがゆえに、この世において立派な生き方を続けないわけにいかないという逆説(強迫観念)に陥っている場合が往々にしてあります。

生涯、弱者救済にいそしむ慈善家のような人々にはこのようなタイプが非常に多いのです。つまり、彼らは、自分が神によって完全に救われているという確信がないがゆえに、絶え間なく外面的に立派な行動をすることによって自己を取り繕わないわけにはいかず、その慈善は真実な愛から出て来たものではなく、むしろ、内心の絶望や恐怖に裏付けられた善行だということです。
 
この世の顔色をどんなに伺って、どんなにこの世に対する義務を果たし、人から賞賛されたとしても、それによっては、人は永久に義とされることはありません。ただ苦労と内心の絶望だけが果てしなく増し加わって行くだけです。

この世は人がどんなに努力しても、人を義とすることができないからです。しかし、御言葉に基づいて、キリストの血潮によって義とされる道を選び、人の思惑に従うのではなく、神のみに従って生きるならば、信者は自分の一切の行ないによらず、いつでもただちにイエスの血潮によって義とされることができるのです。

しかし、信者自身にとっても、このキリストの新しい命に基づく道を歩むことは、極めて大きな発想の転換を意味します。

真にキリストの復活の命に生き始めた時、初めて、信者は、自分がこの目に見える世界全体、生まれながらの人類全体と、その道徳体系にとって、大変な脅威、敵とみなされるようになったことを知ります。

信者は、この世の霊的体系を脱して、キリストの霊的体系を生きるようになって初めて、自分がもはやこの世の所属でなくなり、キリストがこの世から受けられたのと同じ理由なき憎しみを自分も向けられていることが分かります。

それは、彼がこの世ではなく、キリストだけの所有となったことによるのですが、信者は、今まで慣れ親しんで生きて来たこの世全体が、もはや自分の仲間ではなくなり、敵となったことに、しばらくは当惑するでしょう。

さらに、この世の法則は、信者がキリストと共なる十字架で世に対して死んだ後も、全力で彼を再び世の奴隷として取り戻すべく、あとを追って来るでしょう。

こうして、信者は、キリストの命にある自由を失わず、復活の領域を歩み続けるためには、この世とそれを支配する暗闇の軍勢から来るあらゆる敵意と妨害を潜り抜けて戦わなくてはならないことが分かります。

その戦いの過程で、信者はどんな妨害があっても、この世と世に属する人々の圧迫を恐れてはいけないという事実と、たとえ世からどんな妨害があろうと、キリストの命にある力がそのすべての圧迫に勝る勝利を与える、という事実を理解するようになります。

この世が信者に向けて来る憎しみは、人の予想をはるかに超えて、悪質であるにも関わらず、信者はそれにたじろいではならず、圧迫されて後退してもならず、これに対していかなる時にも勝利する秘訣が、キリストの命の中にあり、その命なる方が信仰を通して自分自身の中に宿って下さっていることを理解するのです。

もし信者が、暗闇の勢力からの圧迫を恐れるゆえに、人の言い分に耳を傾け、人に憎まれないことを第一目的として生き始めるならば、彼は再びこの世の奴隷となって敗北するしかなくなり、キリストの天的な命に基づく生活は維持できなくなります。

ですから、たとえ突然、何万人の反対者が現れようと、どんなに親しい兄弟姉妹に裏切られようと、どんな予想を超える出来事が起きようとも、信者は、世と世に属する人々を恐れずに、ただ聖書の御言葉に立脚して、神の義に頼り、これを証し続け、キリストの命だけによってすべてを切り抜ける秘訣を学んで行かねばならないのです。

そうこうしているうちに、こうした戦いの過程で、どんなに心細さを覚える瞬間にも、神以外のいかなるものにも頼らないこと、神の中に全ての問題の解決の秘訣が実際にあることを信者は学ばされて行くのです。

自分を見るならば、信者は自分には何もなく、外からの助けなしには、到底、あらゆる困難を切り抜ける力がないように感じられるかも知れませんが、その天然の無力さにも関わらず、内なるキリストの命が全てを供給するのです。

文字通り、キリストがすべてを供給するのです。救いはすでに一生分、いや、永遠に至る分まで、信者に与えられています。ですから、信者は世にあれやこれやの助けを求める必要がないのです。ただ神だけに頼って前進するならば、信者は信仰によって実際にあらゆる困難が打ち破られること知らされるのです。困難が打ち破られるのみならず、神が願いを成し遂げて下さるのです。ですから、これは途方もない道です。

生まれながらの人類は、この終わりの時代、自己の「道徳」を掲げては、自分たちの存在を美化し、生まれながらの人間の威信を築き上げるために、独自のしきたりを作り、これに一人でも多くの人を取り込むために、あらゆる規則を掲げ、強大な組織を作るでしょう。そして、それにそぐわない人間を容赦なく罪に定めるでしょう。

終わりの時代、生まれながらの人類の全精力が、人間の威信を強化するために注ぎ込まれるでしょう。宗教とは、神の名を用いながら、その実、神によらずに、人間が己のプライドや威信を建て上げるために作りだす壮大な嘘の体系に過ぎません。

キリスト教界の教えは、全体として、信者が神ではなく、目に見える人間に従うべきというもので、そこには、牧師を筆頭として、信者が従うべき無数の重層的ヒエラルキーがあり、人間の序列に反することが、「罪」とされているのです。

神に従わないことが罪なのではなく、人間の定めた教えに従わず、人間の威信を傷つけることが、「罪」とみなされているのです。早い話、そこでは人間が神となっているのです。

いかに人間の目に麗しく、人間に優しく、上品で、道徳的に見え、そつなく、あたりさわりないものであっても、こうして、聖書の基本から逸れて、神への愛と従順を失い、むしろ、神を退けて、生まれながらの人間を義とするために作られた体系には、何の価値もありません。

だからこそ、このような偽りの体系からはエクソダスが必要なのです。

人間の作り上げた偽りの体系は、どこまでも信者を奴隷にしようと、後を追って来るでしょう。しかし、信者が第一に心を砕き、従うべきは神の御心であって、人間の思惑ではありません。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方とすべきです。」との言葉は決して誇張ではなく、行き過ぎでもないのです。神を愛することと、この世を愛することは決して両立しません。

神に従うとは、場合によっては、この世の全ての人々の思惑の全てに反してでも、ただ神の御言葉のみに従うという決断と行動を意味します。これには代償が伴います。

以前にも挙げましたが、旧約聖書の列王記Ⅰ第13章には、人間の言葉を優先して、神の戒めを破った預言者が、野の獣に食い殺された場面があります。この結末を残酷すぎると私たちは異議を申し立てることができるでしょうか?

この世的な見栄えの良さを保とうとする生き方と、真理に従う道は、ほとんどの場合、両立しません。もし信者が、世の評価や人の歓心を失わないことを第一に生きるならば、遅かれ早かれ、彼は真実を売り払って、無難な善人を装いながら、沈黙を守って生きるしかなくなります。それは偽善者の道です。

もし信者がこの世に配慮し、世の人々に同調して生きるならば、同胞が見殺しにされることに沈黙するくらいのことでは飽き足らず、かつてキリストが十字架につけられた時と同じように、今日も、罪なき神の御子を見捨て、裏切り、代わりに人類の代表である罪人のバラバを赦して、キリストを再び十字架につけよと叫ぶ羽目になるでしょう。

世を愛する道は、いつも変わりない結論に至りつきます。それは、罪なき神の御子を再び十字架につけて罪に定めてでも、生まれながらの人類を義とし、名誉回復したいという願望なのです。

そして、逆説的に、神を抜きにした人類の名誉回復という偽りの願望は、決して人類を解放に導くことなく、今まで以上の恐ろしい裁きと罪定めの中に人類を落ち込ませるだけなのです。

主に従う道は、人類が己の義とプライドを強引に押し通す道ではありません。主に従う道は、人が神を退けてでも、己の命を保とうとする道ではなく、むしろ、キリストのために人が自分の命を憎む道であり、キリストのために自分の命を捨てる者がそれを得ると聖書にあります。

戦いは戦いぬけば、必ず、勝敗がつきます。たとえ、この世から憎しみや妨害がやって来たとしても、恐れるには足りません、信者には「世に勝った」方が共におられるからです。

信者が自分の命を惜しまずに、死に至るまで真理を証し、神の義に徹底して立ち続けるならば、悪者は恥をこうむって逃げ去り、代価を払った者が神の御前に良しとされるでしょう。

黙示録によると、臆病者は罪に定められ、火の池に投げ込まれることになっています。ですから、主にあって、臆することなく、勇敢でありましょう。悪魔の罪定めは、その言い分を真に受けて、恐れを感じた人にとってだけ効力を持ちます。イエスの血潮に立脚する信者に対しては、悪魔の言い分は効力を持たないのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたし仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:24-26)

「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」(黙示12:10-12)

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正義の仮面を被り、無実の教会とキリスト教徒を迫害する村上密氏の活動の危険 まとめ

~異端の教えを無批判に取り入れ、無実の教会を迫害し、
正義の仮面を被りながら、カルト被害者救済活動を暴走させる
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と村上密牧師の危険~


 さて、筆者はブログ記事において、2001-2002年にかけて鳴尾教会で起きた混乱に関して、教団が公に配布した資料を公表した。この資料は以下でも示しているが、この発表により、鳴尾教会を巡り教団が長年に渡り、流布して来た数々のデマの暗闇が大きく打破されたものと信じる。

これまで鳴尾教会に関しては、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団及び村上密サイドが、彼らに都合の良い偏った虚偽の情報ばかりをさかんにネット上に流布して来た。 そして、事件の当事者でもなく、当時の教会の様子を知りもしない者たちが、その虚偽の情報に見境なく飛びついては、関係者を中傷し、事件を膨らませながら事実と全く異なる空想物語を言い広めて来た。
 
しかしながら、以下で示す内容は、村上密氏がこれまで鳴尾教会について言い広めて来た情報が、完全に嘘であることを証明している。この主張の信憑性を証拠立てる点としては以下が挙げられる。

1. 以下で示している内容は、当時の教会の実情をよく知る当事者の証言に基づいており、なおかつ、教団側によって公に認められて信徒に配布された資料を根拠としているため、当事者でない者が、確たる証拠もなしに、この事実関係を否定するのは不可能である。
 
2.教団から配布された資料を通して、改めて明らかになるのは、鳴尾教会を混乱に陥れた原因は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する指導者ら(津村昭二郎氏、村上密氏)による不当な教会内人事の私物化にあったという事実である。

鳴尾教会の事件を振り返るとき、何よりも明白となるのは、同教会に混乱を引き起こした何よりの原因が、当時の鳴尾教会の主監者であった津村昭二郎氏の義理の息子としての立場を利用して、教団や教会に定められた正式な手続きに則らず、本来は同教会において何の権限を有していなかったにも関わらず、信徒の了承も得ずに、密室の暗闇で教会に不当な介入を繰り返した村上密牧師の不誠実で信用ならない行動にあったという点である。

また、同教会に尋常ならぬこだわりを抱いて引退を拒み、そのために自らの後継として派遣された伝道師を、過酷な労働条件で酷使した挙句、不当な汚名を着せていわれなく追放した当時の鳴尾教会の主監者であり村上密氏の義理の父である津村昭二郎牧師の行動の責任が問われるべきである。

3.にも関わらず、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、鳴尾教会に混乱が起きた2001-2002年当初から、村上氏と津村氏らによって教団内・教会内手続きに従わずに行われた鳴尾教会内人事の私物化という問題点を何ら追究しないまま、こうした指導者らの無責任な対応をかばい立てし、ごまかすために、ただ津村氏の引退により、事件をうやむやなままに幕引きをはかった。

4.さらに、これに終わらず、教団側はその後も、鳴尾教会に起きた混乱の責任が、あたかも教団自らが派遣した後任の山田牧師夫妻や、信徒の側にあるかのように見せかける虚偽の情報を拡散することで、長年に渡り、自らの責任をごまかそうとして来た。

その嘘を正当化するために、教団側は、かつて津村氏が鳴尾の後継者として派遣された伝道師夫妻に濡れ衣を着せて、鳴尾教会から追放をはかったのと同様に、鳴尾の後任である山田牧師牧師夫妻に「異端者」の濡れ衣を着せることで、鳴尾教会に起きた混乱を後任の牧師に責任転嫁することを正当化しようとはかったのである。

5.しかも、このような虚偽の情報を流布するにあたり、村上密氏は、教団のホームページ等、教団の正式なツールを通じて物事を公にして議論を進めようとはせず、むしろ、自身の私的なブログや、アッセンブリー教団とは何の関係もない私人である杉本徳久氏のブログ「随想 吉祥寺の森から」に代表されるような、教団には何ら関係なく、従って、本来、当然、教会内人事に口をさしはさむ権限も持っていない部外者を積極的に活用して、鳴尾教会を貶めるためのネガティヴ・キャンペーンを行った。

村上氏がこれまで、自らにとって不都合とみなした政敵を貶め、印象を操作して貶めるためのネガティブ・キャンペーン(人物破壊工作)の多くを、教団とは何の関係もない部外者の口から発表させて来たことは周知の事実である。

杉本徳久氏のブログについては、当初から、同氏が「疑わしい」とみなしたクリスチャンを次々と根拠もなくネット上で一方的に吊し上げては私的に制裁を加えるというものであったため、暴走の危険が指摘されていたが、案の上、同氏のブログはキリスト教に恨みを持つ者たちが集まっては、昼夜を問わず、キリスト教徒に対する見境のないリンチを繰り広げるだけの場となって行ったことは、「罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか」ですでに指摘したことである。

村上氏はこのように教団と無関係の部外者を積極利用して、インターネットを中心に、自らの意見を代弁させたわけだが、そうした行為に及んだ理由としては、万一、村上氏や教団側の投げかけた疑惑に十分な根拠がないことが明らかにされて、後日、相手方から名誉棄損の訴訟が提起されるなどして責任を問われた際に、同氏や教団関係者らが直接、矢面に立たされることなく、責任を逃れる目的があったものと見られる。

村上氏はカルト化の疑いを投げかけた教会には幾度も自分から裁判をしかけておきながら、自分自身は責任を追及されたくないばかりに、教団とは何の関係もない個人に全責任を身代わりにかぶらせる形で、一般人に自分の意見を代弁させて、教団側にとって都合の良い捏造された情報を言い広めて来たのである。

こうして、自らの見解を公式に発表して自分の述べた言葉の責任を取ろうとはせず、教団と無関係な個人や支持者を身代わりに矢面に立たせることで、相手に公に反論する機会も与えずに、公の審議にはかることもないまま、何の裏付けも取れていない不確かな虚偽の情報を一方的に次々と流布しては、政敵を貶め、クリスチャン同士の疑心暗鬼と対立を煽り、それによって「カルト問題の専門家」として脚光を浴びて来た村上氏が、いかに信用ならない人物であり、同氏の唱える「カルトとの闘い」が、信憑性のない荒唐無稽な嘘っぱちであるかは、今や誰の目にも明白である。

6.こうした一連の事件を振り返るとき、村上氏の唱える「カルトとの闘い」とは、村上氏が不都合な政敵を追い落とすための口実に過ぎなかったことが分かる。鳴尾の事件を見ても分かるように、同氏はすでに十年以上の長きに渡り、自らにとって都合の悪い信徒に対して、「異端者」の濡れ衣をでっちあげては、繰り返し相手を誹謗中傷することで、信用の失墜をはかり、追放を試みて来たのである。つまり、魔女狩りのような「異端疑惑」は、村上氏が自らに不都合な政敵を追放するために用いる常套手段だったのである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、こうした村上氏や津村氏の身勝手な行動をいさめることもなく、むしろ、その言いなりとなって、彼らと一緒に危険な活動に従事し、卑劣かつ無責任に自らの不適切な対応をごまかし、弱い立場にある牧師や信徒、ひいては教会にまで身代わりに罪を着せながら、責任転嫁をはかって来た。
 
同教団は、本来ならば、鳴尾教会に起きた混乱を収拾すべき立場であったが、それをするどころか、混乱の責任を一方的に教会に転嫁することにより、自分たちは知らぬふりを決め込み、事態をより悪化させて来たのである。

恐ろしいのは、今やアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団全体が、津村氏や村上氏の私物のように動かされている事実である。
 
記事「「カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について」の中でも指摘した通り、こうして他教会の人事に不法に介入しては教会を私物化し、不都合な人間にはでっちあげの嫌疑をかけて追放し、自らに不利な情報は隠蔽し、捏造された情報を支持者を使って大量に流布することによって、自らの責任をごまかし続けて来た村上氏が、まるで正義の味方のような仮面を被って、「弱者救済」の美名の下、「カルト被害者救済活動」を推進し、教団全体を「カルトとの闘い」に巻き込んで来ただけでなく、果ては「カルト監視機構」の設立を訴えて、教団の枠組みを超えて、プロテスタントの全教団教派に属する諸教会の人事にまで介入しようと試みていることは、恐ろしい事態である。
  
このように全く信頼できない行動を繰り返す指導者がリーダーとなって、全プロテスタント教界の教会に干渉することのできる機関が設立されることが、どれほどキリスト教界全体にとって重大かつ恐ろしい危険を意味するか、改めて指摘するまでもないであろう。
 
ちなみに、村上密氏の活動については、カルト被害者の側からも早くから疑念の声が上がっていた。ORCを守る有志の会からは、同氏に対して、すでに2009年の時点で「本当に専門家なのだろうか?」との深刻な疑念が投げかける声明が発表されている。 

 



カルト被害者の側からも村上密氏の活動には疑念の声が上がっている。
ORCを守る有志の会のホームページから)


     
また、筆者が「偽預言者をゲストに招く教会」の記事でも指摘した通り、村上密氏自身が、カルト化の疑いがあると知っていた指導者を堂々と自らの教会へ招き、被害を受けた信徒の目の前でメッセージをさせるという行為に及んでいたことを、被害者自身が証言している。もともと怪しい霊的ムーブメントを率先して無分別に取り入れて来たアッセンブリー教団が、他教会の活動だけを「カルト化の疑いがある」と批判すること自体がおかしいのだが、それをさて置いても、これは悪質な二重性のある行動だと言わざるを得ない。

7.鳴尾教会は、このような恐るべき腐敗・無法状態・無責任状態に陥った教団から、正式に離脱を決定したが、その際、教団側(村上氏+津村氏サイド)は、教会の決定に復讐心を燃やし、あたかもそれが山田牧師夫妻による不法な「教会の乗っ取り」であったかのように主張して、鳴尾教会の教団からの離脱の決定を撤回させようと、教会に恫喝訴訟をしかけるなどして、執拗に制裁を加えた。

8.しかしながら、村上サイドの主張は裁判によっても認められることはなく、教団側はこれらの争いにことごとく敗れ、鳴尾教会は無事に教団から離脱して新たな出発を遂げた

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団側からの長年に及ぶ執念深く陰湿な言いがかりに対して、無実の小さな教会が勇気をもって戦い抜いた経緯は、「鳴尾キリスト福音教会から皆様へ」のブログに詳しい。

こうして、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と関係を断ち、単立教会として晴れて新たな出発を遂げた鳴尾キリスト福音教会の安堵と喜び溢れる様子は、同教会の新しいホームページからもよく伝わって来る。



 
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からのスラップ訴訟に負けず、
礼拝堂も見違えるように美しくなった鳴尾キリスト福音教会


  
9.アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、裁判においても全面敗北しているにも関わらず、今日に至るまで、なお鳴尾教会への対応に過ちを認めることなく、あらぬ疑いをかけて誹謗した鳴尾教会関係者への謝罪も行っていない。それどころか、村上密牧師は未だにブログ等で、同教会とその牧師に対する事実無根の非難を続けている有様である。
 
このように、すでに事実を事実として認めることさえできなくなって、現実から乖離した空想の物語を延々と築き上げては自分を正義のヒーローだと勘違いして「カルトとの闘い」に没頭し、自分に敵対するすべての信徒を「悪者」と決めつけて、虚偽を言い広めて恥じることもなく、他の信徒の平和な信仰生活を執拗に妨害してやまない恐るべき教団とのその指導者が、本当にクリスチャンを名乗る資格があるのか、聖書に基づくキリストの平和な福音に根差しているのか、まして牧師として活動するにふさわしい人物であるか、信仰を持たない人の目にも、明白であろう。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、フランスではすでに準カルトと認定されているが、同教団が暗闇で行って来た一連の信用できない活動を見れば、我が国でも、正式にカルト団体との認定を受けるのがふさわしいと言うべきであろう。

アッセンブリー教団からは、随分前から、信徒の深刻な離脱が起きていると聞く。過激な霊的ムーブメントを無分別に取り入れて来たために、もともとプロテスタント内では評判が芳しくなかった教団であるが、村上密牧師の登場以後、同氏が率先して全プロテスタントの教会を敵に回しながら今日に至るまで推し進めて来たカルト被害者救済活動の暴走の様子を見て、良心的な信徒の心はさらに離れたのだと思われる。

たとえキリスト教界が幾多の問題を抱え、カルト化という現象が実際に起きているにせよ、これを是正する方法は、当ブログで幾度も述べて来たように、クリスチャンが聖書に立ち戻ることにしかない。人間的な思惑に基づいて、聖書に従わずに、どんなに人間の正義を振りかざしても、それは泥沼の闘争にしか至らないのであり、かえって残酷で不公平な私刑を助長し、神と教会とクリスチャンに敵対する危険な運動に変わって行くだけである。

信仰によらず、御言葉によらず、人間の思惑だけに基づいて行われる弱者救済活動は、人の目にどんなに良さそうに見えても、神に敵対する人類の自己救済の運動として、失敗に終わることを運命づけられている。

聖書をきちんと理解するならば、弱者救済といううわべだけの美名に欺かれて村上密氏やアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の活動を支持することがどれほど大きな危険であるかが分かるはずである。
 
聖書の神と、聖書の御言葉への忠実な信仰を捨て、神と教会とクリスチャンに敵対してまで、己のプライドと欲望を満たそうとする教団に所属していることが、クリスチャンの平和な信仰生活に有利に働くことはない。もし聖書に忠実に生きたいと願うならば、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団とその信者らには、何があっても関わらないことが得策である。      
  
10.村上密氏は、「宗教トラブルセンター」や「カルト被害者救済活動」などの看板を掲げて、他教会のカルト化だけを監視し、糾弾し、取り締まる前に、まずは自教団の深刻なカルト化という現実に目を向け、自分というカルトをこそ監視し、取り締まるべきである。
    
  


 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾教会に対する不当な介入と
 村上密牧師率いる「カルト被害者救済活動」の危険性に関するまとめ~

(随時追加予定)
 

 ★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の指導者が鳴尾教会に引き起こした混乱について
(村上密氏による鳴尾教会人事への不当な介入と津村氏による鳴尾後継者の不当な追放)
   
正義の仮面を被り、無実の教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動➀
 
正義の仮面を被り、無実の教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動② 

正義の仮面を被り、無実の教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動③

正義の仮面を被り、無実の教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動④ 
 

★上記の事件に関して教団から鳴尾信徒に公に配布された資料
(津村昭二郎牧師と村上密牧師によって密室でいわれなき嫌疑をかけられて鳴尾を不当に追われた伝道師が教団に宛てた苦情の書簡と津村氏による弁明 ※一部個人情報を伏せ、筆者による注釈を赤字で余白に加えた。)

 村上密牧師と津村昭二郎牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について(教団配布文書PDF)


★村上密氏によるカルト監視機構の発案の基盤となっている非聖書的思想の危険性について

カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について

悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構~村上密牧師の危険な活動

村上密牧師による自己流の「異端審問」
 

★村上密牧師が教団と無関係の個人である杉本徳久氏と結託して暗闇でネット工作員を動員し、当ブログに対して長年に渡り加えて来た妨害工作について

村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害➀

村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害②

村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害③
   

★村上密氏と杉本徳久氏の活動が、信者ではなく、この世の不信者らの目線に立っており、聖書に基づかないこの世の思想を無罪放免しながら、キリスト教を貶め、クリスチャンだけを断罪する構図となっていることの危険性について

この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀

この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②


★杉本徳久氏が同氏にとって不都合な記事を削除しない限り、違法な報復行為に及ぶと当ブログ管理人を脅迫して来たメール

2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール
    
      
★鳴尾教会が正当な手続きによってアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離脱した際、教団が、これを「牧師による教会の乗っ取り」であるかのように主張して、鳴尾教会に加えた恫喝訴訟を含む制裁について(同教団はこの争いに全面的に敗北した)

文化庁第160回宗教法人審議会議事録 ~日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾キリスト福音教会の教団離脱手続きに対する異議申し立て棄却の記録~
 
文化庁第163回宗教法人審議会議事録 ~「日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団」による「鳴尾キリスト福音教会」の単立化手続きに対する異議申し立て棄却の記録~

宗務時報No.115 ~日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾キリスト福音教会の教団離脱手続きに対する異議申し立て棄却の記録~
  

★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒が、身元を隠して他教会に潜入し、他教会を乗っ取った事件について

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り


 ★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団及び村上密氏の推進して来たカルト被害者救済活動の非聖書性とこの活動の暴走について

 罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか。
――杉本徳久氏によるクリスチャンへの聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――


 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか① 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか② 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか③ 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか④ 

  
★弱者救済の思想はなぜ危険なのか 
 
神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~

カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール➀

これは東洋からの風の便りIIIの2012年3月9日の記事「杉本徳久氏への公開書簡」の転載である。 当時、杉本徳久氏から筆者に送られて来た恫喝メールは複数あるため、以下に一つ一つ公開して行く。まずは次のものから。
    
2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール

     
なお、杉本氏のメール本文は紫字、ヴィオロンの注釈は黒字、個人名は〇〇に変えてある。メールの文面からは、いずれも杉本徳久氏という人の思考パターンやその主張の特徴がよく理解できる。

以下の記事は、2012年3月8日付の杉本徳久氏の恫喝メールに対するヴィオロンの回答。
本記事に対する杉本徳久氏の応答は以下の通り。
 2012年3月9日付 杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール



杉本徳久氏へ

本日、「明日、金曜いっぱいまでに削除されない場合」と題するあなたからのメールを拝受いたしましたので、この場を借りてご返答申し上げます。

杉本さん、あなたはメールの中で、私の書いた三つの記事を、本日、3月9日(金曜日)いっぱいに削除するよう要求し、もしも私があなたの指定した期日内にこれらを削除しなかった場合、次の犯行に及ぶ用意があると記しておられます。

「十分、機会はご用意しましたし、十分な期間もとりましたが、なお、お考えが変わらないようならば、あなたの実名を公開し、あなたの住所、あなたの実家の住所などを調べて内容証明、書留郵便を送るべく準備にはいります。」

「その後のあなたに降りかかる不利益は全て自ら招いたこととしてあなた自身が引き受けることになります。」

これらの文章は、もしも私が記事を削除しなかった場合、あなたは無断で私の個人情報を公表するという違法行為に及ぶだけでなく、私の関係者に対しても迷惑 行為を行い、それ以外にも、さらに私に不利益をもたらすような犯罪行為に及ぶつもりであるという意図を明確に示していると受け取れます。

杉本さんは、これまで幾度にも渡り、私の実名を無断で公表するとの脅迫のメールを送って来られました。そこで、あなたは、ご自分の指定された期日内に私が記事を削除しなければ、「私もあなたの実名を記し、卒業したあなたの大学などに問い合わせするなど、可能な対応をとらなければなりません。」などと書いておられます。

このような犯行予告と言っても差し支えない、他人への害意を記したメールを送ることが、脅迫という罪に当たることをあなたはご存じないのでしょうか。

もしもあなたが私の実名を無断でネット上に公開されるならば、あなたは法的に罪に問われることになるでしょう。それにより、今まであなたやあなたのブログのコメント者が私に向けて書き記したいわれのない非難が全て実名による名誉毀損として罪に問われることになるからです。もしもあなたが私の関係者にまで迷惑を及ぼさ れるようなことがあれば、他にもさまざまな犯罪が成立することになりましょう。

なお、杉本さんが削除するよう要求しておられる私のブログやホームページは、サムライファクトリーの正式な認可を得た上で私が掲載しているものです。

杉本さんはこれまで二度に渡り、私の記事についてサムライファクトリーに送信防止措置の要請を行われました。一度目は私の回答が期日を過ぎたため、一旦、 ブログとホームページが削除されるという結果になりましたが、その後、私はあなたの二度目の掲載削除の要請を受けて、二度に渡るあなたの訴えが双方とも事実に基づかないものであり、掲載削除の必要性を裏づけるだけの正当な根拠が存在しないことを、サムライファクトリーに宛てて正式に通知いたしました。

私の申立内容の真実性がサムライファクトリーに認められたため、上記のブログやホームページは今も掲載を許可されています。それにも関わらず、杉本さんがサムライファクトリーの判断を尊重せず、メールによる個人的な脅迫という方法を用いて、これらの記事を削除するよう未だ私に圧力をかけておられることは重大な違法行為に相当します。

杉本さんがブログやメールを通して私に対して行って来られた違法な嫌がらせは長きに渡っており、深刻かつ悪質なものであることから、今後、本件には主として警察を通じて対応いたしますこと、ご承知おき下さい。

(なお、あなたが私に対する権利侵害を行うことを予告しておられる今回のメールは、あなたがブログを掲載している管理会社へも送付させていただきます。)
  

カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール③


<補足>
これは「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール②」の続きである。

さらに、4月30日 4:03:32 JSTにも、杉本徳久氏からは次のようなメールが来たので、補足的に公開しておく。 ただし、メールフォームはすでに閉鎖しており、今後はもう使用できない。

それにしても、ゴールデンウィークにまで他人に恫喝メールを送りつけずにいられないとは! 記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール➀」にも示しているように、これまでにも、同氏からのメールの多くは、新年やクリスマスシーズンなど、世間の人々が最もくつろぎ、楽しんでいる時分に届いていたが、
 平和で落ち着いた家庭人からは程遠いその姿に、哀れを催さずにはいられない。

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 ▼投稿されたメッセージ
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REMOTE_ADDR: 219.215.163.80

[ 名前c ]
杉本徳久


[ メールアドレスc ]
sugimotonorihisa@gmail.com


[ メールアドレス再入力c ]
sugimotonorihisa@gmail.com


[ 件名c ]
4/25付の投稿につきまして


[ ご感想c ]

前略、ヴィオロンこと〇〇様
杉本徳久です。先に私があなたへ送信したメールを引用され、4/25付の新しい投稿を読みました。こちらですね。


http://godslove.kamakurablog.com/Entry/115/



 私はあなたをいたずらに挑発したくてご連絡をとったわけではありませんが、いったい、どういうおつもりでしょうか。

あなたは再三、意味不明の論旨を連ねていますが、全く理解しかねます。

私から警察へ刑事告訴して〇〇さんを法的に訴えてほしいのでしょうか?

(当ブログの記事をきちんと読めば、趣旨は理解できるはずである。それでも理解できないのは、自分に不都合なことを杉本氏が何も理解しようとしていないだけである。

杉本氏は、自分にとって不都合な記事の削除を他者に迫る前に、自分自身が、2009年にヴィオロンが削除を要求したコメントを速やかに削除し、ヴィオロンについて記した一連の誹謗記事を削除してから、人にものを頼むのが筋であろう。自分だけは人をさんざん誹謗しておきながら、それに対する反論も許さないという態度は筋違いである。

杉本氏からは、以前から何度も「何らかの対応を取らねばならない」という脅しメールをもらっているが、同氏は、不法な個人情報の暴露を予告して筆者を脅迫したり、嫌がらせのアクセス集中を行なったりしているだけであり、一向に、正式な方法で、筆者に対峙して来たことがない。常に「訴えるぞ」と相手を脅しているだけで、提訴が成り立たないのである。)

数年前からあなたは私が行ったと主張する「恫喝」、「脅迫」について警察へ相談したと主張されますが、いったい、どこの警察へ、何の罪状で相談されたのでしょうか。当方のところへはどこの警察のどの刑事さんからも一本の電話も、一通の連絡も来ておりません。事件として受理もされていないと思いますが、どういうことでしょうか。


(当ブログで示している杉本氏の違法行為について、杉本氏がどんな形で責任を問われることになるか、前もって杉本氏に知らせる必要はない。いずれにせよ、同氏が筆者に対して行って来たすべての所業は否定できない証拠が残っており、関係機関へも情報提供されており、やがて同氏が罪に問われることになると言えるだけである。当ブログに途中経過は記載しない。明確な結果だけを公表する。)

これ以上、この様な投稿活動を続けられるようでは当方、何らか対応を取らねばならないと思っております。

(このような投稿活動をやめるべきは杉本氏である。まずは筆者の要求したコメントを削除し、筆者について記したブログ記事を全文削除の上、ネット上の不法なアクセス集中を含めた嫌がらせ行為をすべてやめていただきたい。)


直ぐにお辞めいただきたく、また、きちんと削除して下さい。

以上、よろしくお願いします。

2016年4月30日 杉本徳久

(筆者はすでに記事を削除する理由が存在しないことをきちんと説明している。杉本氏が、自分で書いた恫喝メールも含め、一連の記事を公表されると困るというのであれば、違法な方法で筆者に嫌がらせを加えるのではなく、まず、筆者について杉本氏自身がブログに公開しているすべての誹謗中傷の記事及びコメント、筆者の著作物の無断転載を行なっているブログ記事、さらに2009年当時から筆者が杉本氏に削除を要求しているコメントを速やかに削除した上、筆者に対する様々な嫌がらせ行為を謝罪し、生涯に渡り、二度と筆者に関与しないことを公に約束することをお勧めする。それができないのであれば、正式な責任追及は免れられないであろう。)

ペンテコステ・カリスマ運動、カルト被害者救済活動、サンダー・シングはなぜ誤っているのか

・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念の異端性と、キリスト教に偽装する偽りの教えの基本構造 (ペンテコステ・カリスマ運動、カルト被害者救済活動、サンダー・シング、国家神道等はなぜ誤っているのか)
  
ここでは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の繰り広げるカルト被害者救済活動や、ペンテコステ・カリスマ運動のような教義の偽りを始めとして、キリスト教に偽装して入りこむ偽りの教えの基本構造を解明した記事をまとめておきます。

終末の背教(大いなる都バビロン、イゼベルの異端の教え)とは、東洋的神秘主義とキリスト教徒の「混合」であるという説に筆者は立っています。そして、米国から始まって日本に流入しているペンテコステ運動を含め、今日、多くのキリスト教に偽装する混合の教えがキリスト教界を席巻している現状があるため、信者はそれらの教えが聖書に合致しているかどうか自ら注意して識別する必要があります。

終末の背教が、東洋的神秘主義とキリスト教との混合である、ということを明らかにするために、以下では、国家神道、統一教会、ペンテコステ・カリスマ運動などに共通して見られる異端的教義の基本構造を解明しています。

これらの異端思想においては、地上天国建設のために、宗教指導者夫妻を「霊の父母」として、信者が「子」となり、連なる全人類を一つの「霊の家」にまとめるという「人類一家族理想」という考え方が共通してみられ、これはグノーシス主義的な「父・母・子」という偽りの三位一体論に由来することを一連の記事で分析して明らかにしています。

また、ペンテコステ運動が強調する「異言」や「聖霊のバプテスマ」がどのような点で、聖書の記述と異なっていて、偽物であると言えるのか、さらに、人間の指導者を「霊の父母」としてこれに帰依し、霊界と交信することにより「神との合一」に至れるかのようなペンテコステ・カリスマ運動の教えが、聖書に基づかない神秘主義の教えであって、いかに危険であるか、ということを明らかにしています。

さらに、これまでずっと追って来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から始まった「カルト被害者救済活動」という、キリスト教界のカルト化を聖書に基づかず、裁判等によって告発する運動の誤りや、不毛性についても、分析しています。

いかにざっと目次をまとめていますが、関連記事は随時追加していきます。

1.アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の腐敗と、同教団の推進するペンテコステ運動、カルト被害者救済活動の重大な危険性について

 ★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団及び村上密氏の推進して来たカルト被害者救済活動の非聖書性

 罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか。
――杉本徳久氏によるクリスチャンへの聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――


 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか① 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか② 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか③ 
カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか④ 

  
★弱者救済の思想はなぜ危険なのか 
 
神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~


★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が鳴尾教会に引き起こした混乱
  
アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動➀ ~村上密牧師による鳴尾教会人事への不当な介入~ 

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動③ ~村上密牧師による鳴尾教会人事への不当な介入~ 

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動④ ~村上密牧師による鳴尾教会人事への不当な介入~ 伝道師の書簡(前編)

 アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動⑤ ~村上密牧師による鳴尾教会への不当な介入~ 伝道師の書簡(後編) 
 

★上記の事件に関する教団から公に配布された資料
 
 村上密牧師と津村昭二郎牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について(教団配布文書PDF)


★村上密氏の発案による「カルト監視機構」という発想の重大な誤りと危険性

カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動⑥ ~悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構~

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動⑦ ~村上密牧師による自己流の「異端審問」~
 

★村上密牧師が教団と無関係の個人である杉本徳久氏と結託して暗闇でネット工作員を動員し、無実のクリスチャンに長年に渡り加えた妨害工作

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動② ~村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(前編)~

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動② ~村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(中編)~

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動② ~村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(後編)~
   

★村上密氏と杉本徳久氏の活動が、キリスト教を貶め、クリスチャンを不当に断罪・迫害する構図となっていることの危険性

~カルト被害者救済活動の暴走~ この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀

~カルト被害者救済活動の暴走~ この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②


★杉本徳久氏が同氏にとって不都合な記事を削除しない限り、違法な報復行為に及ぶと当ブログ管理人を脅迫したメール

2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール
    
      
★鳴尾教会が正当な手続きによってアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団から離脱した際、教団が鳴尾教会に加えた恫喝訴訟を含む不当な制裁

文化庁第160回宗教法人審議会議事録 ~日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾キリスト福音教会の教団離脱手続きに対する異議申し立て棄却の記録~
 
文化庁第163回宗教法人審議会議事録 ~「日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団」による「鳴尾キリスト福音教会」の単立化手続きに対する異議申し立て棄却の記録~

宗務時報No.115 ~日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による鳴尾キリスト福音教会の教団離脱手続きに対する異議申し立て棄却の記録~
  

★アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒が、身元を隠して他教会(KFC)に潜入し、他教会を乗っ取った事件

カルト被害者救済活動の暴走~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての鳴尾教会への恫喝訴訟とAG信徒による他教会の乗っ取り~



2.ペンテコステ・カリスマ運動はなぜ異端なのか。

カリスマ運動の指導者である手束正昭氏の唱える教会成長論を通して、カリスマ運動がどのような点で根本的に非聖書的な異端であるかを検証した。
 
教会成長論というむさぼりの教え

偽牧師、偽教師、偽預言者への対処法

教会成長論が生む牧師への個人崇拝

教会成長論という強盗の教え(1)

教会成長論という強盗の教え(2)


☆カリスマ運動指導者の手束正昭氏の唱える「養子論的キリスト論」の異端性について検証。
 
クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(1)

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(2)

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(3)

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(4)

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(終)


 ☆ペンテコステ運動の特徴は、カリスマ指導者への個人崇拝と神秘体験の重視にある。

ペンテコステ運動はなぜ誤っているのか(1)―カリスマ指導者に栄光を帰し、五感を信仰よりも優先する教え―

ペンテコステ・カリスマ運動のグノーシス主義的三位一体論―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑦
 

3.異端思想に共通する家族論、グノーシス主義を温存する東洋思想の基本構造

☆異端思想には「父・母・子」という偽りの三位一体論に基づき、全人類を「一つの霊の家」にまとめ、地上天国を目指す共通した家族モデルが存在する

異端思想に共通する地上天国建設のための家族モデル―キリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑤

異端思想に共通する地上天国建設のための家庭モデルーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑥
 
 
☆キリスト教諸国で弾圧された反聖書的なグノーシス主義は、東洋思想の中に受け継がれた
  
東洋思想とは何か。その柱は何を再建しようとしているのか。

国家神道の異端的家族モデルーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑨

国家神道の異端的家族モデルーキリストの十字架の切り分けを否定して未分化の東洋思想への回帰を唱える危険な運動⑩
  

4.サンダー・シングの教えはキリスト教ではなく東洋神秘主義に基づく異端である

☆アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒がネットで宣べ伝えたサンダー・シングの教えがいかに危険な非聖書的な異端であるかを検証。
   
命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(序)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(1)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(2)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(3)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(4)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(5)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(6)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(7)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(8)

命の道と死の道―サンダー・シングの偽りの教えの構造(9)
  
 
5.ペンテコステ・カリスマ運動+サンダー・シングの教えを取り入れた団体の異端化の過程

☆Dr.LukeのKFCはペンテコステ・カリスマ運動と、サンダー・シングの教えを無批判に取り入れた結果どのような形で異端化したかを検証。

羊の門を通らないで入る者はみな強盗である

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑯

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑮

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑭

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑬

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑫

Dr.LukeのKFCとペンテコステ運動の異端性ーキリストの十字架を否定して東洋思想へ回帰する危険な運動⑪

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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