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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実③


~Dr.LukeことKingdom Fellowship Church(KFC)の唐沢治も守秘義務を破り、対杉本の裁判において当ブログ執筆者の個人情報を杉本徳久へ提供・漏洩したと見られる事実について~


この記事は「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実②」の続きである。

さて、杉本は、筆者の個人情報(名前)についてだけは、Dr.Lukeこと唐沢治と坂井能大氏が行った裁判で坂井氏側から提出された資料を通して入手したと述べている。

おそらくこの記述は事実であると考えられる。ただし、杉本はそれ以前から筆者の氏名を別のルートでも入手しており、それゆえ、筆者に名前を記した上で脅しメールを送って来ている。

杉本対坂井氏の裁判が行われた当時、筆者は以前の記事にも記した通り、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒であった鵜川貴範・直子夫妻が、他教団の信徒であるという身元を隠してKFCに潜入し、集会をかき回し、会堂契約を失わせ、筆者を断罪・追放し、唐沢をもメッセンジャーから降ろすという出来事があったことを機に、唐沢と完全に親交を絶ち切っていた。

筆者は唐沢に前もってアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団および鵜川夫妻の危険性を告げていたが、同氏はその忠告を全く信じようとせず、鵜川夫妻に感情的に(ほとんど盲目的と言っても良いほどに)入れ込んでおり、集会が終わるたびに三人だけで場所を移して長時間に渡り話し込んでいる有様だった。

筆者は彼ら三人からKFCの集会中での「態度が悪い」(?)とか「面従腹背である」(???)などを理由に断罪され、ほとんど「呪いの予言」と述べて構わない言葉の数々を浴びせられた挙句、KFCから追放されたのであるが、この馬鹿馬鹿しい事件については「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒による他教会(KFC)乗っ取り事件」 にも詳しい。鵜川夫妻がどれほど信用できない人物であり、その二人を信用した唐沢がどんなに愚かで人を見る目がないかも分かる出来事である。

以前にも書いたように、筆者はそうした出来事を真に受けず、その足でまっすぐ唐沢のことを長年知っている別な兄弟姉妹のもとへ行き、この事件をどう思うか尋ねてみた。すると、彼らは異口同音にKFCの異常性を述べ立て、このような異常な団体に関われば、上記のような事件が起きるのはまさに当然であって、彼らの吐いた言葉にはことごとく根拠がないと述べ、一切唐沢との親交を絶ち切るように告げて来たので、筆者はそれを聞くまでにも彼らと同様の見解を持っていたが、やはりそうだったのかと納得した。

筆者自身が当ブログにおける議論の中では、唐沢のコメントを通して大いに実りある収穫を得たとはいえ、唐沢には何かしら非常に不穏な存在感を覚えていたため、もし杉本によるバッシング事件がなければ、おそらく横浜に来ても、KFCや唐沢のもとに足を向けることは決してなかったであろうと思う。

以上のような経緯があったため、筆者は、唐沢にも完全に愛想を尽かし、KFCの欺瞞にもうんざりしており、唐沢が支援したという坂井氏の裁判には全くと言って良いほど関わっておらず、筆者が書いたメールを、そこで唐沢が裁判資料として提出することに同意した事実も全くない(一体、誰がそんなことに同意できようか)。

要するに、唐沢は筆者をKFCから自ら追放しておきながら、その事実がなかったかのように隠した上、筆者には無断で、筆者の個人情報の記載されたメールを裁判資料として提出したのである。

そのようなことを唐沢が行った理由として、筆者の証言という援護射撃を受ければ、坂井氏の裁判を有利に進められるだろうという考えがあったことが推測される。
 
唐沢はニュッサのグレゴリウス氏を刑事告訴した際にも、筆者ともう一人のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団出身の信徒に、自分に有利な証言をさせている。

唐沢は2010年当時、グレゴリウス氏が杉本のブログ等で「Dr.Lukeに呪いの予言をされた」などと書き連ねていたことに、相当に頭を悩ませていたらしく、その件で、筆者に力になって欲しいと、自ら頼み込んできた。

その当時、筆者は唐沢のことをよく知らず、また、筆者自身が杉本のブログで激しいバッシングを受けて、その件で困り果てていたこともあり、唐沢がまるで杉本のバッシングの件で筆者の相談に乗ってやる交換条件のように、グレゴ氏の件で支援して欲しいと話を持ちかけて来たとき、筆者自身が唐沢という人物とほとんど直接接触したことがなかった情報の少なさも手伝って、そこで聞かされた内容を疑ったり、断ることができなかった。

唐沢は2010年に、杉本によるバッシングの件で途方に暮れて唐沢のもとを訪れた筆者に向かい、「KFCに関わるつもりがあるなら、グレゴ氏の事件のことも、含んでおかなくてはいけないよ」などと述べて、グレゴ氏のことなど一切知らない筆者にも、まるでこの事件の解決の責任があるかのように図々しく主張した。

だが、筆者はグレゴ氏が誰なのかも知らず、当時のKFCの様子も全く知らず、唐沢とグレゴ氏の間に何があったかも全く知らず、その事件の解決のためにできることもほとんどなかった。
 
にも関わらず、唐沢はこの事件に無関係であった筆者の存在を、事件を自分に有利に「解決」するために最大限に利用して、グレゴ氏に対する和解の呼びかけを何度も書き直させたり、自分に有利な証言を行わせたりして、自分一人、難を逃れるための手立てをいくつも講じた。

筆者はその当時、紛争の経緯は知らなかったものの、グレゴ氏と唐沢との早期の和解を心から願っていたために、唐沢が送って来た和解の呼びかけの文章にも目を通し、効果的な呼びかけに必要と思われる数々の助言を行った。だが、筆者がそのようにして、どうすれば二人の間に和解が成立するかと、真剣に頭をひねっていた間にも、唐沢は「あくまで扉は開いているということをアピールするためにね」と述べて、その和解案が、単なる表向きのポーズでしかないという意図を明白に表明した。

唐沢はおそらくその頃から、グレゴ氏の自分への「裏切り」を許し難いものとみなして、グレゴ氏を刑事告訴して有罪に追い込むことだけを目的に据えており、初めから和解する意図はまるでなかったのではないかと推測される。筆者は、それより少し前に、唐沢があまりにもその事件のために悩んでいる様子であり、筆者にできることもなかったので、被害届でも出したらどうか、という意味で、「警察に相談したらどうですか」と水を向けてみたことがあった。

しかし、唐沢はその言葉の意味を、筆者の述べたのとは全く違った意味内容として受け取ったらしく、グレゴ氏に対する報復を果たす手段が手に入ったと考えたのか、その後、早速、グレゴ氏を刑事告訴することに決めたと告げて来た。ちなみに、この行為については、実に数多くの信徒が唐沢を非難し、「杉本を告訴するならともかく、なぜ元信徒を告訴するんだ」と反対した。筆者に対しても、「ルークを止めて欲しい」と言った依頼がなされたし、後に筆者のもとにやって来て、面と向かって、「あの時、自分の集会に通っていた元信徒を告訴したことで、ルークは指導者として決定的に信用を失った」と述べた信徒もいた。

そうした経緯もあって、筆者自身も、当時は、唐沢に何とかして思いとどまってグレゴ氏と平和的に和解してもらおうという意図のもと、話し合いを提案し、自らそれに赴こうとさえしていた。すでに述べたように、結果としてその計画は成らなかった。唐沢が「あなたがそこまで言うなら、あなた自身が話し合いに同席して下さい」と(厚かましくも)筆者に頼み、筆者が土産物まで用意して、グレゴ氏のもとへ向かおうと、唐沢が筆者をピックアップした直後、警察から制止が入って、話し合いによって和解を求める計画は中止となったのである。筆者はこれを、筆者がこれ以上、事件に深入りすることのないように助けられた神の采配であったと考えているが、その結果、筆者はグレゴ氏と対面したこともなく、グレゴ氏が誰なのかも知らず、以後、その事件のなりゆきには、全く関わっていない。

さて、唐沢はグレゴ氏を刑事告訴したと筆者に告げた際に、「Dr.Lukeは人を呪うような人間ではない」という趣旨の証言を、筆者にもしてもらいたいと頼み込んで来た。

筆者はその頃、あまりにも未熟で愚かな信徒であったので、唐沢の心中を疑うことができず、まさか筆者同様に高い学歴を持つ教養人であるはずの唐沢が、「呪いの予言」などを口にするなど、あり得ないことだと考えて一笑に付していた。とはいえ、この依頼のことで、筆者は後に、唐沢に面と向かって、非常識な行動の数々を責めることになった。まず、唐沢が自分から人に証言を頼んでおきながら、面倒なことには一切関わりたくないとばかりに、自分自身は警察署に足を運ぼうともせず、自分のために証言してくれた他人の労をねぎらおうともしなかったこと、証言と言いながら、台本まで首尾よく用意していたことなどから始まり、筆者はこの事件で罠にはめられたように感じ、この事件を巡る唐沢の行動があまりにも非常識であり、不信感を呼ぶものであることを面と向かってかなり率直に責めた。

その当時、筆者はよく唐沢と口論のような喧嘩をしていた。以上のような事柄だけでなく、信仰に関わる事柄についても、兄弟姉妹に関わる事柄についても、あまりにも数多くの点で、唐沢には不信感を呼ぶ行動が見られたため、誰も決して言わないであろう耳の痛い苦言を、筆者は何度も唐沢に向かって述べた。

唐沢は当初、嫌そうな顔をするでもなくそうした叱責や忠告を聞いていたが、筆者が、唐沢はただ人の心をいたぶったり、弄んだりしながら時間を稼いでいるだけであって、真心からのいかなる忠告も、一切功を奏することのない対話者であると分かったのは、それからかなり月日が経ってからのことであった。

本来ならば、裁判や事件で、自分に有利な証言を行ってくれた人間は、恩人にも等しい存在であるから、一生、頭が上がらなくなるものと思う。だが、唐沢には、そういう考え方はまるでなかった。唐沢は、筆者を理由もなくKFCから追放し、筆者がKFCを公然と批判するようになった後では、筆者が唐沢のために証言した事実など全くなかったかのように沈黙し、かつての恩も忘れ、掌を返して筆者を中傷しているのであるから、大した「恩返し」である。

こうして、筆者は唐沢のために有利な証言を行ったが、唐沢は筆者のために不利な証言しかしなかった。むろん、杉本のバッシングの件でも、唐沢は筆者のために何の力ともならず、実行するつもりもない民事提訴の予告をしたりして、事件をより一層こじらせただけであった。

そして、その当時から、唐沢は筆者に向かって、次のような話も得意げにしていた。杉本が信頼して心を打ち明けて、クリスチャンをバッシングする計画を逐一相談している牧師がいるが、その牧師が杉本に恐れをなして、杉本が送って来るメールをすべて唐沢に転送しているため、杉本の計画は、すべて唐沢には分かっているのだと。

筆者はそれを聞いた際、ますます唐沢という人物に不信感を持ち、「あなたはどうしてそうやって人の裏をかくような、スパイみたいな活動に手を染めるんですか。どうして自分が予告した通りに、民事裁判のような開かれた場所で、正々堂々と勝負しないんですか」と尋ねただけで、その牧師とは誰であったのか、唐沢が掴んでいる杉本の情報とは何なのか、尋ねようという気にもならなかった。

むろん、その後、唐沢がそうして得られた情報をもとに、杉本がしようとしている計画を筆者に事前に告げて、気をつけるよう警告して来たことは一度もなかった。今となっては、唐沢はただ自分一人だけ他の人々には及ばない情報を握り、高みに立って、大勢の無知な人々を惑わせ、争わせて楽しんでいたようにしか、筆者には見受けられないのである。

このようなことから、筆者は大きな教訓を学んだ。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。 」(エレミヤ17:9)と、聖書が言う通り、人の心の中で起きていることは、誰にも分からず、決して誰をも弁護しようと思ってはならず、他者の証人になってもいけない、ということである。

唐沢のために弁護してやる価値がなかったことは確かであり、こういう利己的な人間の正体を見抜けなかったことは(当時は唐沢との親交も短く、様々な事件のために混乱しており、状況そのものが極めて異常だったとは言え)やはり愚かであったとみなさなければならない。

だが、以上のような事柄は、決して唐沢一人に当てはまるのではなく、例外なくすべての人間に当てはまるのである。外見がどうあれ、社会的地位がどうあれ、他の人々からの受けがどうあれ、つきあいの長さがどうあれ、どれほど思い入れがあろうとなかろうと、人間というものは、一人の例外もなく、弁護に値しない存在だというのが、聖書の教える真理なのである。

だから、人間については決して早まった判断をしてはいけない。うわついた賛辞や、耳に心地よいおべっかや、お世辞、人々の人間性について太鼓判を押すような言葉は極力控え、ただ辛辣な批判だけを述べている方が、よほど真実には近く、無難であるとさえ言えるかも知れない。そのようにして、人間を高く掲げず、賞賛もしないことは、世の中の考えとは真逆であろうが、実際には、それが聖書の最も真実に近い態度なのである。
 
今となっては、村上同様に、唐沢の利己主義、ご都合主義、非常識にも、呆れ果てるのみで、二人は悪党同士、良い仲間だと言えよう。
 
また、グレゴ氏の言い分には、かなりの割合で、事実が含まれていたものと筆者は考える。特に、唐沢が「呪いの予言を行った」とする同氏の言い分は、少なくとも、筆者自身に起きた事柄に照らし合わせても、事実であった可能性が相当に高い。

だが、だからと言って、それでは、グレゴリウス氏は一方的な犠牲者であるのかと言えば、そうも言えない。唐沢をかばうつもりは筆者には微塵もなく、唐沢が指導者としての地位や権威を利用して、グレゴ氏を圧倒的に有利な立場から叩きのめした行為は非難されてしかるべきであると思うが、グレゴ氏がその非難から身を守れなかったのにも、それなりの理由がある。

グレゴ氏は、唐沢の呪いの予言などを真に受けず、まずきちんと聖書の御言葉に立って、それに対抗しなければならなかった。そのようなことを「被害」として主張すべきでなく、ましてそれを杉本ブログ(しかも杉本が筆者と当ブログをいわれなくバッシングしている記事)に書き込んだりすべきでもなかった。唐沢に不信感を抱いたとしても、唐沢と筆者とが別人であることを理解した上で、面識もない筆者を同様に扱うべきではなかったろう。さらに、病と手を切り、自分が完全に健康であることを主張して立ち上がるべきであった。

結局、悪魔からどのようないわれのない非難を受けたとしても、キリスト者は堅く信仰に立って、身の潔白を主張して、応戦せねばならないのであって、もし神が味方して下されば、キリスト者には、必ず、どのような状況でも、自分を守り通す方法はある。不当な主張には徹底的に抵抗し、立ち向かわねばならない。それは相当に骨の折れる作業ではあるが、信仰によって貫徹すれば、必ず、身の潔白は証明される。なぜなら、神の義に立っている信徒を守って下さることは、神の仕事だからだ。

そのことは、筆者自身が、たった一人で杉本からのいわれのないバッシングや、刑事告訴の脅し、また、唐沢や鵜川夫妻の三人から受けた「呪い」の言葉の数々や、杉本や村上や唐沢の取り巻き連中からの心ない言葉や、呪詛と呼ぶにふさわしい言葉の数々も含めて、すべての圧迫に、ただ聖書の御言葉だけを武器に、一人で立ち向かったからこそ、言えることである。
 
こうして、グレゴリウス氏を巡る事件は錯綜しており、誰にどれだけの責任があるのかは、まさに神のみぞ知る領域であって、安易に決めつけることはできないが、少なくとも、その事件が起きる中で、唐沢が自分だけ都合よく難を逃れるために、無関係に等しい筆者を最大限に利用したことは確かである。

こうしたことがあったために、筆者は今、自分自身のためには、誰の証言も求めないのである。筆者のための証人としては、最も確かな証言をして下さる聖霊がついておられるから、それで十分である。それ以上の保証人はどこからも探し出して来ることはできない。


筆者が正しい人間なのか、そうでないのか、神の御言葉に忠実に従っているのか、そうでないのか、生きた人間の中には、誰一人として保証できる者はいない。筆者は、そのことを十分に分かっており、最後まで自分のための弁護を、ただ神お一人にだけ依頼するつもりである。自分のしていることや、歩んでいる道に、他人を巻き込むつもりはなく、誰からの理解や援護も求めるつもりはない。困難が深ければ深いほど、筆者は自分のための弁護を決して神以外の方に委ねず、神がついておられなければ、勝利もないという状況にあえて立とうと思うのである。だが、このように神以外の一切のよりどころを持たないからこそ、神自身が筆者の潔白を証明して下さると確信している。(こんな風に神に頼る人間を見捨てれば、神の名折れである。)
 

ただそうは言っても、読者はここに筆者が述べていることも含め、それぞれの主張を見比べて、誰が本当のことを言っているのか、真剣に吟味・判断してもらいたい。

さて、唐沢は、一度目の成功に味をしめたので、坂井氏の裁判の際にも、筆者の証言が得られれば、有利に事を運べると踏んだものと見られる。もしくは、何とかして筆者をもその裁判に引きずり込みたかったのであろう。

だが、愚かなことである。本人不在の中で、裁判にメールなど提出してみたところで、何の信憑性があるというのだろう。裁判で証言を行うためには、陳述書という形を取るのが通常である。しかし、唐沢は自ら鵜川夫妻と一緒になって、筆者をKFCから追い出す側に回った以上、筆者から陳述書を取れる状態にあるはずもなかった。

唐沢はそうした事情を、おそらくすべて坂井氏に隠した上で、あたかも依然、筆者の味方であるかのように振る舞いながら、筆者のメールを裁判に提出したのだと思われる。

本来、メールは私信であるから、本人の承諾なく裁判資料として提出するなど考えられない行為である。しかも、唐沢は杉本に敵対する立場として、裁判に臨み、杉本が筆者を憎み、中傷していた事実も十分に知っていたわけであるから、そのような状況で、杉本に筆者の個人情報を提供することが、どれほど危険な行為であるかを知らなかったはずがない。

それ以前にも、唐沢は2010年に杉本に自ら民事提訴の予告をしておきながら、それを長い間、理由も示さずに、実行せず、そのせいで事態は余計にこじれ、杉本がそのことで激高して筆者を非難したため、とばっちりはすべて筆者に及んだ。その上、唐沢は筆者に悪意を持っていることが明白な人物に、筆者の個人情報を流出・漏洩させて、裁判に負けた後では、筆者一人を矢面に立たせ、自分だけはあたかも杉本と和解したかのようにちゃっかりと装っているわけだから、もはや唐沢の信用ならない性格や、唐沢の心に筆者への善意や筆者を守ろうという気持ちが微塵もなかったことは明白だと言えよう。

こうしたことは、唐沢も、村上と同様の人間であることをよく物語っている。自分が批判されると、その批判を交わすために、信徒を陥れることなど平気であり、自分の身を守るためならば、真実でない主張も、平然と繰り広げられるのである。保身のためならば、守秘義務違反、信徒のプライバシーの侵害、個人情報の漏洩などの行為を犯すことにも、まるでためらいがない。彼らにとって大切なのは、自分の美しい外見的イメージが傷つけられず、見栄を保つことだけなのである。

今や、唐沢は、以上のような悪事を自分が行ったことを隠すために、都合よく立場を翻し、杉本同様に、筆者の書いていることが夢想であるかのように述べて、筆者に人格攻撃を行っている。それによって、筆者の主張の信憑性を読者に疑わせようとしているのである。インテリの何も値しないどうしようもない見かけ倒しの人間で、弁護する価値など全くなかったとしか述べる言葉もない。

筆者は、唐沢の集会を去って以後、唐沢のブログを読むこともほとんどなかったが、この度、標記事件について調べる過程で、唐沢が2011年2月19日の記事に追記する形で、自分をかばうために、筆者の人格を貶めて中傷したり、「ヴィオロン氏と杉本徳久氏の争いに関して、2009年当時はヴィオロン氏が私の元にいたので間に割って入ったが、2012年以降私とは関係ない状況にあり、またニュッサの件も真実が明らかにされ、杉本と争う根拠は消失した故、一切手を引いている。」と記していることを知った。

こうして、唐沢は一方の口では、筆者について「2012年以降私とは関係ない状況」、「一切手を引いている。」と言いながら、もう一方では、その記述を自ら裏切る形で、筆者には無断で、筆者の個人情報を裁判資料として提出したり、あるいは、かつては筆者のブログで自分も中心的存在となって、村上密を糾弾する立場に立っていたにも関わらず、そうした事実が全くなかったかのように、筆者が個人感情ゆえに一人で村上に対立しているかのように述べながら、筆者を貶め、杉本が筆者の人格を誹謗中傷する格好の材料を提供しているのだから、全く呆れ果てるばかりである。

もちろん、「ニュッサの件」で唐沢が真実を闇に葬る側に回ったことも、それから、杉本に依然として自分が偽預言者扱いされているにも関わらず、それに立ち向かおうともせずに「杉本と争う根拠は消失した」などとうそぶいていることにも、呆れ果てるだけである。(唐沢は裁判に負けたために、杉本の主張にやむなく妥協させられたという不都合な事実を隠すために以上のように述べているだけである。)

「一切手を引いている」と言いながら、よくこれだけの嘘をついて、事態の悪化に関与し続けられるものである。このように、唐沢の言動は全く不誠実であり、首尾一貫性がなく、自己矛盾に満ちている。だが、そのことは、唐沢の集会の信徒たちも十分に知っており、唐沢が嘘つきであることを承知しながら、彼らはリーダーへの心酔をやめられないのである。村上の信奉者の場合と同様である。

今や唐沢が杉本を非難しているのは、ほんのうわべだけのポーズでしかなく、実際には、唐沢は次々と杉本を利する行動に出ては、坂井氏を含め、多くのクリスチャンを杉本に敗北させる結果へと追い込もうとして来たことは明白である。

これも牧師制度というものの闇を見る格好の事例であろう。一旦、宗教指導者となって信徒の上に君臨してしまった人間が、どんなに人格を狂わされ、見栄だけがすべてとなって、自分を守るためならば、真実を平然と売り渡し、信徒を裏切るかという事例である。

唐沢も、エクレシアの兄弟姉妹は対等であるべきで、リーダーは要らないと述べて、公然と牧師制度に異議を唱えていたが、それにも関わらず、自分が指導者となって集会を支配し、神を差し置いて、信徒らの前に栄光を受けてしまった罪は重い。

唐沢の様々な相矛盾する言動から、読者は唐沢の信用ならないご都合主義的な性格や変心を十分に伺い知ることができよう。

 
<④に続く>

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「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実②



 




~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密が守秘義務を破って杉本徳久に当ブログ著者の個人情報を漏洩したと見られる事実について~
 
さて、この記事は「「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実➀」の続きである。

杉本徳久は当ブログの著者と直接の面識がないため、第三者から情報提供を受けない限り、当ブログ著者を誹謗中傷する材料となる筆者の個人情報を入手できない。そこで、杉本がどのような経路で筆者の個人情報を入手したのかが問題となるが、そこで、杉本に情報提供した疑いが極めて高い人物として、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が浮かび上がって来ることについてはすでに述べた。

なぜなら、杉本は自らのブログにおいて、筆者の「両親」があたかもアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の鳴尾教会に通っていたかのような虚偽の情報をブログに公然と記している。

だが、そうした杉本のブログには多くの虚偽が含まれており、まず第一に、鳴尾キリスト福音教会というのは、鳴尾教会がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を離れて以後の名称であるから、筆者を含め、筆者の家族の誰一人として、鳴尾キリスト福音教会に通った事実は存在しない。

第二に、筆者の母はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の会員でなく、他教団の信徒であり、鳴尾教会では客員であり続けた。また、筆者の父に至っては、クリスチャンでさえないため、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のいかなる教会のいかなる集会にも通った事実が全く存在しない。

それにも関わらず、杉本徳久は筆者の「両親」がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の鳴尾教会に通っていたかのようなデマを勝手にまき散らしているのだが、そのようなデマは、杉本が一人で考え出したとは思えず、その根源となる偽情報を杉本に伝達した誰かがいるためだとしか思えない。

そして、そのような誤った情報を杉本に伝達しうる人物は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師以外には、誰一人として存在しないのである。

なぜなら、杉本に以上のようなデマ情報を提供するためには、以下の条件が必要となるが、その条件にすべて当てはまっている人間は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中に、村上密以外には誰一人としていないからだ。

➀当時の鳴尾教会の関係者であること
②筆者の両親がどこかの教会の集会にそろって訪れたところを目撃していること(鳴尾教会の信者は誰もそんな場面を見たことがない)
③筆者の両親が引越して後、どこに住み、何を営んでいるかを知っていること(鳴尾教会の信徒はその事実を知らない)
④杉本が筆者に対する悪意を持って当ブログへの誹謗中傷の機会を伺っていることを十分に知りながら、それでも杉本に誹謗中傷の材料となる筆者の個人情報をあえて提供するような心卑しい人間であること(そんなことをする信徒は鳴尾教会はおろか、どんな教会にも一人もいない)

村上密が、自らのブログで、杉本よりも以前から、筆者および当ブログを卑しめる記事を発表していたことは周知の事実であり、その点で、村上は以上の➀~③のみならず、④の行為に及ぶ動機をも十分に満たしていたと言える。

もっとも、そのような村上の行為自体が、牧師として考えられないほどに幼稚で、牧師の職業倫理にもとる行為であることはすでに述べた。通常の牧師であれば、一度でも自分の教会に通ったことのある信徒については、信徒が教会を去った後でも、決して個人情報を口外せず、まして、信徒の信用を貶めるような情報を口にすることはない。

たとえその信徒が牧師と対立して教会を去った者であったり、牧師の活動を公に批判している信徒であっとしても、牧師は公人であるが、信徒は私人であるため、牧師はその信徒に報復を果たすために信徒の個人情報を公にしたり、信徒を中傷して信用を貶める内容の記事を公表したりすることは決してない。

そのようなことは牧師の職権を濫用したパワハラに該当し、プライバシー侵害や名誉毀損その他の責任追及を受ける可能性も出て来るが、何よりも、その牧師と牧師の教会の評判を著しく落とすため、そのような中傷合戦のようなことに通常の牧師が手を染めることは決してない。

だが、村上密には通常の牧師であれば、誰しも備えている品格、常識といったものがまるでないのである。

さらに、当時の鳴尾教会を知る信徒たちは、筆者の両親がそろって教会を訪れるところを誰一人目撃していないため、筆者の両親が共に教会に通っていたなどという誤解を抱きうる人間もいない。

津村昭二郎牧師でさえ、筆者の父がいかなる伝道集会にも決して出席しなかった事実を見失うとは思えず、こうしたことは、村上が一度でも津村氏に確認していれば、生じなかった誤解である。

次に、筆者の両親は、津村氏が不祥事により引責辞任してから何年も経って、遠方の地に引っ越した。そこで、筆者の両親がどこに引越し、何を営んでいるのかといった事柄について、当時の鳴尾教会の信徒たちは知らない。

しかし、村上密はこうした情報を握っていたのである。なぜなら、2008年、筆者は村上密の率いる宗教トラブル相談センターを訪れた際、村上の勧めもあって(被害者の多くから名ばかりと批判されている)「カウンセリング」の一環として、「家族カウンセリング」のために、一度だけ両親を呼んで、村上と面会させたことがあるためだ。

その時に、村上氏が筆者に送って来たメールが以下である。ちなみに、このメールは村上の記名が入っているが、伝道師の長澤氏のアドレスから送信されている。

このことは、2008年当時から、村上には信徒の個人情報に関する守秘義務という概念が全くなく、村上が伝道師と全ての情報を共有していた様子を物語っている。

2008年7月22日に村上密が「家族カウンセリング」を名目にヴィオロンの父と連絡を取った証拠

そして、実際に、筆者の両親は、筆者の依頼に基づき、村上の教会を訪れているのだが、村上はその際、筆者の両親がそろって教会を訪れた姿だけを見て、筆者の父には信仰がないという事実をよく確かめもせず、筆者の両親がともにクリスチャンであって、それ以前にも一緒に教会に通っていたのだと早合点したものと見られる。

また、村上は、その際、筆者の両親がどこに住んで何をしているかなどの情報も、二人から個人的に聞いて確かめている。

このように、杉本徳久が筆者の両親がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の鳴尾教会に通っていたとか、どこに住んで何をしているかなど、嘘をまき散らしているのは、いつものように、村上密の「強烈な思い込み」を伝授されてこれを真に受けた結果としか考えられないのである。

村上密と杉本徳久のブログは、このように、不確かな伝聞だけを頼りに、自分が見たことも聞いたこともない事柄について、まことしやかに虚偽を書き記す点で一致している。

そして、村上密が自身のブログで、これまでどれだけ大勢の同僚の牧師や信徒らの個人情報を悪用して、そうした情報を、村上の活動を批判するようになった元同僚や、信徒たちを誹謗中傷する材料として利用して来たかを思えば、あえて筆者が以上のように事細かく説明せずとも、村上が宗教トラブル相談センターを訪れた信徒らの個人情報を平気で漏洩しうる精神の人間であることに、異論を唱える者も、疑問を抱く人間もほとんどいまい。

 さらに、それに加えて、杉本自身が、筆者の情報について、村上密に問い合わせたと自らのブログで述べているのである。その際、村上が、杉本をいさめて、誹謗中傷をやめるよう説得したとか、信徒のプライバシーに触れる情報は一切提供できないと断ったなどの記述は全くない。

むしろ、杉本よりも前から、筆者に悪意を抱いていた村上は、杉本からの問い合わせを受けて、渡りに船とばかりに、筆者に関する情報を提供したのではないかと考えられる。

いずれにしても、そのような問い合わせを杉本から受けた際、村上が杉本を制止しようともせず、筆者の個人情報を漏洩したと見られる行為が、どこからどう見ても、牧師の道に完全に外れたあるまじき行動であることは言うまでもないだろう。

村上が杉本よりも先に筆者や当ブログについて書いた中傷の記事が、悪質な虚偽であることは、すでに幾度も述べて来た通りであり、筆者は杉本のみならず、村上にも記事の削除を求めているが、村上がそれに同意して記事を取り下げたという話を今の時点で全く聞いていない。

これで今でも牧師を名乗っているというのだから、心底、呆れ果てるのみだ。まさに牧師の名を穢すだけの、キリスト教徒を名乗る資格のない牧師である。杉本も村上も両者ともにゲヘナの子であるとしか言えない。

<③に続く。>

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実➀



 




 

~ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実~

さて、読者のために誤解のないよう断っておきたい。

この度、当ブログに対して長年に渡り、おびただしい回数の嫌がらせを行って来た「現代の風景 随想 吉祥寺の森から」(http://d.hatena.ne.jp/religious/)および「神々の風景 ーreligious sceneー」(http://d.hatena.ne.jp/religious/)と題するブログの著者杉本徳久氏およびその共犯者たちが刑事告訴された(この名は本人が公開したプロフィールから得たもの。情報は以下参照)。

上記のブログの著者とその共犯者たちが、2009年以来、当ブログに対してどんなに執拗かつ陰湿な嫌がらせと誹謗中傷を重ねて行って来たかについては、幾度も当ブログ記事で詳しく証拠を提示して記して来た通りであるので、これについては過去の記事を参照されたい。
  
杉本徳久氏への公開書簡」には、当ブログが、杉本なる人物から、本人の住所氏名連絡先を記した上で、送りつけられたおびただしい数の嫌がらせメールを公開している。当ブログは、そこで、杉本にとって気に入らない記事を一方的に削除するよう迫られたり、その不当な要求に応じなければ、当ブログ執筆者の個人情報を無断で暴露すると脅されたり、その他にも様々な嫌がらせを予告されて来た。
 
こうしたすさまじい陰湿な嫌がらせ行為を受けて、当ブログ執筆者が幾度も警察に報告・相談を行った結果、杉本および共犯らは、去る2月23日に神奈川県警察に名誉毀損罪により刑事告訴された。さらに、杉本は名誉毀損の他にも、つきまとい等の迷惑行為防止条例違反で警察から警告を受けている。

杉本は当ブログ執筆者が警察に相談していることを事実だと考えなかったのか、あるいは、それが事実であると大変不都合であると考えたのか、当ブログが警察に相談しているという事実が根拠のない虚偽であるかのように吹聴していたようだが、実際には、杉本の行為は刑法に触れる罪であって刑事事件にまで発展している。

さて、当ブログでは、何年も前に、「罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――」と題する論文を掲載し、そこで、杉本が何の公的資格にも基づかず、自らの義憤だけに基づいて、「教会のカルト化を監視する」として、自らのブログで、様々な教会やクリスチャンに関する不利な情報を集めては、教会や信者をブログでバッシングする記事を発表していることに、何の正当な根拠もないこと、また、杉本ブログに掲載されている情報が虚偽の温床になっていることを指摘した。
 
その記事の中で、杉本は、以上のようなクリスチャンや教会に対するいわれのない迫害の当然の報いとして、必ず刑罰を受けねばならなくなるだろうと予告した。

今回、まさにそうした予告が現実になった形であるが、やはり、聖霊に導かれるキリスト者の述べる事柄には、一つ一つ、本人が自覚している以上に深い意味があるのだと考えさせられる。

ちなみに、当ブログでは、2012年頃からすでに各種の掲示板等に投稿された嫌がらせのコメントに対して刑事告訴が可能である旨を警察から告げ知らされていた。ただし、杉本本人につながる確たる証拠が出て来るのを待ちたいという筆者の意向があったために、告訴がなされなかっただけである。

このように、現代という時代は、個人のブログであろうと掲示板であろうと、いずれにしても、書き込み者を特定して責任追及を行うことは十分に可能な世の中であるから、読者はよくよく熟慮してコメントを投稿されたい。
 
さて、筆者は杉本とは面識が全くないので、杉本徳久という名前がペンネームなのか本名なのかも知らない。杉本の年齢は、ブログの情報によれば、40代の男ということになろう。

杉本の職業は、本人が自らブログで社会福祉士であると述べていることから、ブログだけでなく、実生活においても、社会的弱者の救済をライフワークにしている様子が伺える。

しかし、それにしては、杉本は自らのブログで、筆者のような健康な人間を何の根拠もなく精神異常呼ばわりして嘲笑った挙句、精神異常者の社会への適応困難な状況や、就労困難を嘲笑するような内容の記事を書き、社会的弱者を罵倒しているわけであるから、人目につかないところで、そのような社会的弱者へのイジメのような行為にコソコソ手を染めていたことが発覚すれば、当然ながら、職場も解雇される恐れが十分に出て来る。

何よりも、刑法に抵触する行為の報いとして罰を受ければ、社会福祉士の国家資格を剥奪されることが十分に考えられる。

たかがブログと考えて、自分よりも弱そうな社会的弱者を鬱憤晴らしに貶めるような行為に手を染めれば、その報いとして、現実生活に数多くの不利益がふりかかることになるという見本のようである。何度も当ブログではそういう事態になることを警告していたのに、耳を貸さなかったのだから、愚かとしか言いようがない。
 
さて、杉本の住所は、「随想 吉祥寺の森から」および「神々の風景」および、さらに同じ人物が主催者となっているサッカーチームのブログ「Soccer team - FC弥生- Yayoi football club」の三つのブログで公開されているプロフィールを手がかりにすると、以下の通りである。

ちなみに、これらのプロフィールは未だに閉鎖されることもなく無防備に閲覧可能な状態で放置されている。(著者に自分が訴えられたことの自覚がまるでない様子を伺わせる。)

株式会社メディアテラスという会社が実在しているかどうかについても、筆者は知らない。ネットの情報によれば、何年も前から幽霊会社になっているという説もある。もしそれが事実だとすると、杉本に社会的弱者を笑っているような経済的余裕が本当にあるのかどうかも疑わしい。
 

   

 

http://d.hatena.ne.jp/religious/about

 

 

http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/cat_50012366.html


 

http://d.hatena.ne.jp/fcyayoi/20070112

さて、このブログの杉本徳久なる人物は、以上のプロフィールの連絡先に、警察からの連絡を受け、本人確認を済ませた上で、自ら以上のブログを書き、当ブログに対する嫌がらせ行為に及んだ事実を認めたものの、人権侵害に該当する記事の削除や、ブログの閉鎖を求められると、強硬に拒んでいるという。

この度、当ブログはプロバイダを通じても、杉本がブログの削除を拒否している旨の通知を受け取っている。事件になった以上、削除は本人の意志の問題でないことも、まるで分かっていない様子だ。そこには、一秒でも長くクリスチャンを害する情報をまき散らしたいという本人の悪しき願望を見るだけである。
  
きちんとした弁護士がついてさえいれば、杉本とてこのような愚かな行為に至ることはなかっただろう。何しろ、警察の警告にも耳を貸さないとなれば、悪印象が募り、本人がこの先、情状酌量を受ける余地がますます減って行くだけだからである。

このように、他人に迷惑をかけても一切の自覚がなく、法律を遵守しようとの姿勢もなく、自ら行った行為の犯罪性の認識が皆無で、刑法に触れる記事を削除するつもりもなく、被害者に謝罪する意志や、反省の態度も微塵も見られないとなると、やがて本人の意志に関わりなく、処罰を受けることでしか反省してもらう余地はないね、という結論が、関わった人々から異口同音に出て来るのは避けられないであろう。

ちなみに、一般には、不当な理由で告訴された人には、虚偽告訴という形で対抗することが可能であるが、杉本徳久の場合には、それは当てはまらない。なぜなら、杉本の嫌がらせ行為は、あまりにも大勢の人々が知り得る場所で行われており、十分すぎるほどの目撃者と証拠の蓄積があることに加え、杉本はこれまで一年間もかけて当ブログを刑事告訴しようと試みたにも関わらず、武蔵野警察署がそれを受理せず、杉本の訴えを棄却した経緯があるからだ。

そういう事情を考慮すれば、この先、警察が杉本の虚偽告訴を受理する可能性は、今まで以上に低くなったと言えるだろう。そのようなことをすれば、武蔵野警察が先の告訴を受けなかったことが誤りであったと認め、また、神奈川県警察の仕事を否定するも同然の格好になってしまう。
 
さて、筆者は、約9年間という長きに渡り、不当な嫌がらせによって損害を受けたことに対し、杉本に対し、民事においても責任追及する所存である。

杉本の虚偽(というより妄想)に溢れた「創作物語」に対する当ブログの公式な反論及び民事上の責任追及については、詳細を以下に公表するつもりであるが、情報の公開までは少しだけ待たれたい。

杉本の当ブログに対する主張が何から何まで完全に虚偽であることについて

さて、筆者はここで、杉本ブログで同様の被害に遭われたすべてのクリスチャンが、決して泣き寝入りすることなく、本人に対してしかるべき責任追及を行うよう呼びかけたい。

杉本はこれまで自分がクリスチャンや教会を訴えることに何のためらいもなかったわけであるから、自ら他者に対して行ったことを、自分自身の身に受けるのは、至極当然である。

事態を大きくすることをためらう必要はない。このような種類の人間は、強制力を行使して、捕えられ、世間からの強い圧力がかかることがなければ、決してクリスチャンをターゲットとして嫌がらせを続け、苦しめることをやめないであろう。

信徒は、住所や連絡先を公開せずとも、刑事や民事での責任追及は可能であるから、時効を迎える前にきちんとアクションを取られたい。
 
当ブログの読者であれば、杉本が長年に渡り、当ブログにしかけて来た争いが、当事者同士で解決できるレベルをはるかに超えており、筆者が個人でそれに対応しなければならない理由もなく、筆者自身にも市民としての措置を取る権利があることには同意してくれるだろう。

しかも、筆者がそうしたアクションを取るまでには、長い長い年月が経過している。その間に、杉本自身が、当ブログを刑事告訴すると息巻いていたことや、杉本から行われたあらゆる嫌がらせにも関わらず、筆者が杉本に幾度も和解を呼びかけては嫌がらせをやめるよう警告を行ったこと、むろん、警察に相談している事実があることも本人に知らせた上で、万策を尽くした事実があるわけだから、今更、以上のような措置に出たところで、遅すぎるという非難は受けたとしても、誰もそれに反対する者はいまい。

今後、事件の捜査および進展の過程で、新たな情報が出て来れば、それもまたここに掲載したいと考えている。
 
筆者はこれまで第三者を介した話し合いの場で、それまで居丈高に高圧的に振る舞い、暴言を吐き続けて来たような人間が、まるで捕えられた獣のように急におとなしくなり、何も言えなくなる瞬間を何度も目撃して来た。

筆者は弁護士という職業が好きではないが、あまりにもプライドに凝り固まり、真実が見えなくなり、感情的で、理性を見失った人間を相手にする場合には、向こうに弁護士がついている方が都合が良い場合もあることを知っている。なぜなら、弁護士は当事者よりもはるかに現実的に物事が見えており、裁判官の助言も重んじるため、当事者が感情に走りすぎている場合は、ちゃんといさめてくれるからだ。

弁護士にとって、紛争が長引けば得になると書いたのは、あくまで取りはぐれのない企業などが依頼人になっている場合であって、個人の争いが長引いても、弁護士に得になることはない。紛争が長引く間に、その個人が自己破産でもしようものならば、収入の見込みも途絶えるため、弁護士は個人の紛争をいたずらに長引かせず、裁判官の判断には基本的に従う。
 
そこで、当事者は、感情的になっていても、裁判官と自分の依頼した弁護士の両方から説得を受ければ、最終的に折れざるを得ない。紛争を第三者の前に持ち出すことの意味はこうしたところにある。

<②へ続く>

悪魔と暗闇の勢力に対する容赦のない裁き―神は罪人らが悔い改めて癒されることのないよう、彼らの心を頑なにされる―

「この獣にはまた、大言と冒涜の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒涜した。」(黙示13:5)

「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。」(黙示21:6-8)
 
オリーブ園にちょっと不思議な記事が掲載されている。

これまでずっとオースチン-スパークスの連載が続いていたのだが、途中に以下のエバン・ロバーツの記事が掲載されているのだ。

戦いに関する光

悪魔の白旗に注意しなさい!それは戦いを停止させるための休戦の旗なのです。悪魔は出来ることなら何らかの方法で入り込み、まさにカナン人がヨシュアにしたように、教会を自分に妥協させようとします。危険なのは戦いが終わる前に妥協して、戦いをやめることです。暗闇の力に対していかなる妥協、あわれみ、同情もあってはなりません。

 悪霊どもは知性と交信することができますが、接触するのは霊です。霊に接触し、知性と交信するのです。これがあなたが大いに警戒しなければならない理由であり、あなたが大いに戦わなければならない理由です。悪霊どもは足がかりがあろうとなかろうと、実際に霊に接触します。あなたがあなたの霊の中にあればあるほど、ますますあなたは悪霊どもと接触するようになります。あなたの霊を守りなさい。あなたが自分の霊を正しい状態に保つなら、あなたの霊はまさに船の緩衝材のように働きます。船が港の岸壁に衝突しても――緩衝材がその衝撃を散らしてくれるのです。

 悪霊どもの大目的は悪です。悪霊どもがある人の外側にいる時、悪霊どもが行いたいことをその人が理解し、願い、遂行するという保証は彼らにはありません。しかし、もし悪霊どもがその人の中に入り込むことができるなら、悪霊どもはその人に自分たちの行いたいことを行わせることができます。悪霊どもの大きな願いは、その人に自分たちの意志を遂行するよう強いることです。悪霊どもが人に取り憑く時、その主な現れは強制です。あるいは、悪霊どもが取り憑く主な目的はこれなのかもしれません。取り憑くことにより、悪霊どもは安堵するのです。

エバン・ロバーツ


 この記事は前後の記事がないため、言わんとしていることの具体的な意味がそれほどまでに明瞭ではないが、筆者はこの記事の内容に心を留める。

 以上の記事が具体的に何かを指して言われたのかどうかは分からないが、筆者は、カルト被害者救済活動の偽りと対峙する時、「暗闇の力に対していかなる妥協、あわれみ、同情もあってはなりません。」という忠告は、まさに当てはまるものだと思う。

 このところ、カルト被害者救済活動の支持者には、警察から、刑法に違反し、人権を侵害する記事を取り下げるよう、連日、警告が行われていた。ところが、当初は記事を取り下げることに同意していたその人物は、その後心を翻し、記事を掲載し続ける意向を示している。

 ついに、警察の忠告にまで逆らう意向を示したのだ。だが、そうしたことも、いわば、織り込み済みの事実であったと言える。なぜなら、この人々は今までずっと「市民社会の掟」を振りかざしては、クリスチャンが非常識な存在であるかのように断罪して来たとはいえ、本当は、彼らの正体こそ、最も非常識かつ反社会的な勢力だからだ。

 神の教会に敵対して立ち向かいながら、この世の社会にだけは色の良い顔をすることは不可能なのである。

 もうしばらくすれば、彼らは警察に対しても正体を現し、彼らがこれまで何か貴いものであるかのように振りかざして来た「市民社会」そのものを冒涜し、踏みつけにするだろう。そして、自らの強情さによって、可能な限りの手下を滅びの運命に道連れにしようとするだろう。

 しかし、彼らの計画は中途で打ち砕かれる。

 まだ終わりの時は来ていない。バベルの塔の建設が完成に至ることはなく、必ず、それは離散で終わると相場は決まっている。

 従って、今回、彼らが警察の忠告まで振り切って行動したことは、神のご計画の範疇なのである。つまり、神ご自身が、彼らの心を頑なにされたことをよく示している。

「この民のところへ行って言え。
 あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。
 この民の心は鈍くなり、 
 耳は遠くなり、
 目は閉じてしまった。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 耳で聞くことなく、
 心で理解せず、立ち帰らない。
 わたしは彼らをいやさない。」(使徒28:26-28)

 これまで幾度も述べて来たように、神は、ご自分で癒そうと考える者の心を柔軟にし、癒すつもりのない人間の心を頑なにされる。

 心を頑なにされた人間には、悔い改めて神に立ち返って罪赦される可能性が失われる。人間的な観点から見ても、情状酌量の余地がなくなり、その後は徹底的な滅びへと向かって行くだけになる。
  
 筆者は、こうした事態を見ながら、やはり悪魔と暗闇の勢力は、自分の手下となった人物に対する使い捨ての法則を貫き、その人物から情状酌量を受ける余地を完全に奪い去り、徹底的な破滅へ追い込むものだという確信を強めている。

 こうして、また一つまた一つと彼らの新たな罪状書きが増えて行く。だが、それでも筆者は知っているのだ、彼らが何を考え、どう行動し、何を宣言しようと、結論は最初から決まっていると。

 結論が決まっているからこそ、彼らは当初から、筆者やクリスチャンに対してこれほど激しい憎しみを燃やし、自分の運命に抵抗して来たのである。

 それは、筆者自身の中にある神の御霊が、彼らの目から見てそれほどまでに重大な脅威だったためである。
 
 ところで、筆者は以前にある人が刑事告訴され、逮捕されたいきさつを間近で見ていたことがあるため、そういう事件の進展の仕方と、訴えられた人がどうなるのかも知っている。

 その当時の筆者は、まだとても未熟な信者で、人間的な対立を可能な限り避けて、すべてを当事者同士の話し合いで解決できるものと信じていた。だから、最後の最後まで、事件などにはせず、何とか話し合って和解できないかと、関係者に呼びかけていたのである。

 すると、告訴人に当たる人物が、筆者に向かって言った、「ヴィオロンさん、あなたがそこまで言うのなら、あなた自身が私たちの話し合いに立ち会ってもらえませんか?」

 それは何度目かの和解の呼びかけがすべて拒否された後の出来事であった。

 今から考えれば、筆者にはその提案を受ける筋合いはなかったのだが、筆者はその当時、あまりにも未熟であったがゆえに、どこかに和解の道が残っているに違いないと信じ、彼らを思いとどまらせるべきと考えていた。そして、自分としてできることをすべてしようと思い、説得する材料となりそうな土産物まで持って、車に乗り込んだのである。

 ところが、我々の出発直後に、警察からストップがかかった。「行ってはいけません。ここから先は我々に任せて下さい。」

 まさにそれは天の守りもしくは介入だったものと思う。その当時、いかに筆者が未熟で愚かな信者であったにせよ、神は筆者を守って下さり、筆者が超えてはならない一線を踏み越えて、足を踏み入れるべきでない領域に介入することがないよう、すべてを采配して下さり、筆者を力づくでその事件から遠ざけたのであった。

 結局、筆者はその当事者に会うこともなく、説得に赴くこともなく、その人物が誰なのかさえも知らないまま、時が過ぎ、その人物が間もなく逮捕されたことを聞かされた。その逮捕が当人にとってどれほど測り知れない衝撃であったかも知らされた。

 いわば、事件になったその時から、筆者が何を言ってみたところで、そういう顛末を辿ることは最初から決まっていたのだと言える。話せばきっと思いは通じるだろうといった浅はかで子供じみた感情的な次元の対立ではなかったのである。

 この出来事を通して、筆者は初めて、人が力づくで拘束されることや、それによって生活を奪われ、社会的名誉も失い、自分の書いたもののすべてが強制的に削除され、以後、どこにも何一つ意見発表できなくなり、完全な沈黙に追いやられ、人としての活動を失うということの意味を、傍観者の立場を通してだが、はっきりと目撃したのであった。

 現在の日本社会では、男性にとっては特に、容疑を受けて身柄を拘束されること自体が、社会生活のほぼ完全な破滅を意味すると言っても差し支えない。人々は自分が告訴されたと分かっただけでも、職場を辞めたりする。その後の顛末がどうあれ、関係者に迷惑をかけないためである。冤罪事件で逮捕された人も、後になって、それがどんなに自分の生活に重大な悪影響を及ぼす出来事であったかを繰り返し語る。

 筆者は、以上の事件には、話し合いで物事を解決する道がなくなって以後、全くと言って良いほど関与もしておらず、もっと言えば、最初から何の関係もなかったのだが、関わらなくなって以後も、以上の事件で逮捕された人が、立ち直ったという話を二度と聞かない。本人のみならず、関係者からも、その人が一体、どうなったのか、全く話を聞かない。生きていたとしても、死んでいるも同然のごとく、噂が全く絶えてしまったのである。

 だが、そうなったのは、以上の事件だけがきっかけではなかったものと思われる。その人は、有罪になることを免れる目的もあってか、心神喪失を主張していたらしいが、その過程で、多分、自ら主張した病が現実になってしまったのだろうと思われる。

 これまでに何度も警告して来たことであるが、クリスチャンは、絶対に自分から病にかかっているなどと宣言してはいけない。病は火遊びの相手としてはあまりにも危険すぎ、断固、拒否しなければ、些細な入り口から侵入して、全身を燃え上がらせて灰にしてしまう。

 だが、その人には初めから、病に徹底的に立ち向かう姿勢が見られなかった。それだけではなく、呪いに対しても、毅然と立ち向かう姿勢がなかった。その結果、自ら信じたことがその身に成就してしまったのである。

 信仰に立って最後まで抵抗すべきであった。自らを被害者の立場に置くのでなく、神がすべての呪いを身代わりに背負って下さったことを信じて、抵抗すれば、すべての縄目は絶ち切れていたであろうし、むろん、早期に和解もできていたに違いない。
 
 この出来事は、筆者にとって、非常に暗示的であり、教訓的であった。それまでの筆者は、この事件に限らず、強制力を用いて人間の意志が打ち砕かれる瞬間を、一度も見たことがなかったためである。

 また、病が徐々に人を滅ぼして行くように、ある時点まで、普通に行動していた人間が、ある時点を境に、強制的に社会から隔離され、生活を送れなくなるまでに追い込まれるという現象も、見たことはなかった。しかも、信仰者の世界では、なおさらそんな事件は目にしたこともなかった。

 だが、そうした事件を目撃しつつ、筆者が思わされたのは、罪人に対する神の裁きの容赦のなさであった。この世には永遠に至るまでの刑罰はないが、それでも地上の刑罰にも、永遠の予表としての意味はある。

 神は罪人、悪魔、暗闇の勢力に対して、最終的には、容赦のない裁きを宣告されて、彼らを強制的に隔離・排除・処分される。

 神はしばらくの間、人に猶予を与えておられ、選択の自由も、行動の自由も与えておられるが、人がその自由を悪用し、いつまでも福音に背を向け、聖徒らの説得に全く耳を貸さず、神を冒涜し、神の教会やクリスチャンを冒涜し続ければ、その人の末路は悪魔と同じようになるであろう。

 筆者は、カルト被害者救済活動の支持者らが、筆者を呪い、いわれなく罰し、社会から隔離しようと企んでいたその悪意をよくよく知っている。彼らは罪もない筆者を、いわれのないことで呪い、罰したかったのであるが、その計画は成らなかった。

 筆者は神の義に立っているためである。

 筆者はずいぶんたくさんのいわれのない悪意や、彼らの発する呪いの言葉に直面したが、それでも、筆者のために呪いとなって木にかかって下さった方を知っているため、そういう呪いの言葉が、筆者に対して効力を持たないことをよく知っている。
 
 そして、実際には、クリスチャンではなく、カルト被害者救済活動の支持者らこそ、罰せられるにふさわしい人たちなのだということも知っている。筆者がそのことにはっきりと気づいた以上、彼らは、この先、その運命を免れることはできない。

 そのことは、筆者が何年も前から当ブログで予告して来た通りである。筆者は何年も何年も前から、彼らは刑罰を受けなければならない、ということを主張して来た。一緒になって罪を犯して来た者たちも同様である。その当時は、そうした日が来るとは、多くの人たちは思っていなかったかも知れないが、実際に、その言葉は現実に成就するであろう。
 
 彼らの自らの罪を認めようとしない強情さ、頑なさが、人間の理性や常識や思いをはるかに超えていることを見るにつけても、筆者は日一日と確信するようになっている、この人たちは間もなく拘束されて、強制的に排除されることを免れられないだろうと。

 以上で挙げた事件の際にも、警察の制止が入ったことにより、その人物が完全に筆者の手の届かないところに隔離され、その後、永遠に関わることがなくなった時と同じように、今、この時点を境として、カルト被害者救済活動の支持者らは、筆者から霊的に隔離され、筆者は彼らの運命を何とか取り戻そうと、これ以上、説得したり、呼びかけたり、関与することのできない立場に置かれたのである。

 それは、彼らが暗闇の勢力に連行され、外の暗闇に投げ込まれることが確定したためである。

 彼らの心をそこまで頑なにされたのは神である。それは、彼らの末路が悲惨なものとなることが、いかなる情状酌量の余地もなく、公然と世に表されるためである。

 神は彼らの心を徹底的に頑なにされることにより、神と教会とクリスチャンに立ち向かう人々の末路が、たとえようもなく悲惨なものであり、そこには情け容赦の余地が一切なく、後戻りの可能性もないことを、公然と世に示されようとしているのであり、また、神の容赦のない裁きが、現実に存在することを、信仰を持たない人々も含め、この世のすべての人々の見ている前で、証明されようとしているものと筆者は思う。

 悪魔と暗闇の勢力に立ち向かう戦いの中では、いかなる妥協、憐れみ、同情も持ってはならない。そのような激しい決戦が行われるために、筆者の助言も忠告も和解の呼びかけも、何一つ彼らには届かず、彼らの目は曇らされ、その耳は聞こえなくなり、背は曲がり、心は頑なにされたのである。それは彼らが誰からもいかなる憐れみも受けず、一切の免罪の可能性を奪われるためである。

 以前にも、筆者は当ブログにおいて、彼らを「サタンに引き渡す」と宣言した。それは「あなたのしようと思うことを今すぐしなさい」という言葉と同じ意味である。その後、間もなく、その宣言は現実になり、彼らは一線を超えて自分自身の人生を破滅させる行為を行った。だから、今回の宣言も、間もなく実現するだろう。

 筆者はここでいかなる情け容赦もなく、カルト被害者救済活動の支持者らを、暗闇の勢力に引き渡して連行させ、二度と聖徒らの世界に手を触れることのできないところに隔離すると宣言しておく。

 筆者が「暗闇の勢力に引き渡す」と言っているのは、この世の強制力は、本質的には、堕落した力であり、神に由来するものではないことを知っているからだ。以前に、現代の世の中で、誰かがステパノを石打にして殺せば、石打にした人々は殺人罪に問われるだろうと書いた。このように、この世のことは、この世が裁くのである。はっきり言えば、この世の裁きには、神の裁きのような容赦がないので、この世の裁きに服するよりは、神の裁きに服した方が、圧倒的に生きやすい。
 
 手続きは放っておいても粛々と進んで行く。病が徐々に進行して、人の肢体から自由を奪うように、砂時計の砂が徐々に落ちるように、時を追うごとに、彼らの自由は失われる。病が進行すれば、病人はいずれ口もきけなくなるように、彼らの発言には何の効力もなくなり、お伺いを立てる者もいなくなる。

 彼らのためには、この先、真っ暗な闇が用意されているだけだ。それは彼らが聖徒らのいかなる猶予にも和解の呼びかけにも全く応答しなかったためである。


<追記>
 2018年2月に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人であった「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事等を参照。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実


人間の指導者崇拝という偶像崇拝の罪と手を切ることこそ我が国の主権回復の道――安倍による宮中クーデターとトランプ・プーチン賛美者を待つ暗い未来――

・安倍政権が宮中で繰り広げるクーデターと、2017年も終わらないであろう米ロの対立
 
2017年が始まった。今年に予想されるいくつかの問題について述べておきたい。

まず、安倍政権による天皇の政治利用の問題と、米国におけるオバマからトランプへの政権の引継ぎが本当に順調に行われるのか、それによって米ロ関係に緊張緩和が訪れる可能性があるかどうかという疑問から入ろう。

筆者はオバマ氏がこのまま政界から引退することがあるのかどうかに疑問を持っている。すでに他所でも指摘されているように、大統領選前、ヒラリー・クリントン、トランプの両氏が候補者として様々なスキャンダルの疑惑と非難にさらされる中、オバマには不思議なほどスキャンダルがなく、安倍に真珠湾詣でをさせたことなどにも見るように、最後の最後まで、政治家として一定の功績を挙げた。

むろん、筆者はオバマの政治手法を評価しているわけではない。広島訪問の際のオバマ氏の空虚な演説内容によく表れているように、それは単に政治家としての表面的なパフォーマンスに過ぎず、同氏の人間的な資質や誠意や良心などといった事柄とは全くかけ離れた次元の話である。

それでも、国内で大きな反乱を経験せず、最後まで比較的クリーンに見える功績を積み上げたことは一つの成功と言えるであろう。それが、ただ任期が終わったというだけで、政治の舞台から退場して消え去るとは、筆者には思いがたいものがある。

他方、トランプは選挙中から人種差別的・性差別的な偏見に満ちた様々な発言が取りざたされて、相当に偏った狭量な思想を持つ人間であることが明らかになっており、最近も、ツイッターで新年のあいさつと称して爆弾発言をして非難を浴びていることなどにも見るように、その思想的狭量さは本人の人格の深い所に根差すものであって、単なる選挙中の受け狙いのパフォーマンスではないと考えられる。

このような人間が大統領に就くことは、米国国民にとって決してプラスとはならないと筆者は確信するが、とりわけ、この人間に黙って道を譲ることは、オバマにとって、自分の在任中の功績を全て無にするにも等しいだろうと思われる。

オバマ自身が、もし自分が今回の大統領選に出馬していれば、ヒラリー・クリントンとトランプの両候補を凌ぐ功績を残せただろうと語った事実にも見るように(「オバマ氏「私なら勝てた」 クリントン氏批判」毎日新聞2016年12月27日 10時50分(最終更新 12月27日 12時55分)参照)、ひょっとすると同氏にはこの先も何か仕事してやろうという思いがある可能性が否定できない。そういう意味においても、米国の今後は予想不可能な要素に満ちている。

さて、安倍はプーチン訪日の際に、経済協力と称してロシアに無償で国富を提供する約束をしたことにより、領土問題の解決をさらに遠のかせただけでなく、真珠湾訪問では、日本やアジア諸国の戦死者をよそにして、米国の戦没者だけを讃え、慰霊することによって、太平洋戦争を正当化したいという自分の思想を脇に置いても、オバマの引退のための花道を整えるという属国首相ぶりを発揮した。

安倍はその際、パールハーバーで犯した罪の前に頭を垂れるという「屈辱感」から目を背けるためであろう、自分の卑屈さを、天皇に転嫁して話をすりかえたのであった。すなわち、安倍は、今上天皇が、被災者を含め、日本人の苦しみの前に膝をついて耳を傾ける姿を「卑屈」なものとして揶揄することによって、自分は、天皇のように日本人のために跪いたりせず、むしろ、米国人の前に膝をつくのだから、天皇以上の存在である、と、暗黙のうちに、安倍以外の人間には誰も納得できないような、ねじ曲がった理屈によって、パールハーバーを訪れねばならない内心の屈辱感から目を背けようとした。天皇に対して上から目線で接することにより、自分は天皇に「模範を示した」と考えていたものと思われる。

(「生前退位で天皇の意向無視した安倍首相が親しい政治家の前で天皇を茶化す発言! 天皇は誕生日会見で何を語るか」LITERA 2016.12.18.参照)

実際に、安倍は自分をすでに天皇を超える存在とみなしているものと思われる。それが証拠に、自分の息のかかった人物ばかりを集めた有識者会議で、今上天皇が表明した生前退位に関する希望を、一代限りに限定し、皇室典範の改正を拒むことで、事実上、退けてしまった。それも憲法改正という自身の野望の実現に向けてスケジュールを乱されないための策であり、同時に、国家神道の復活にとって障害となりうるような皇室典範の改正を拒むためであったと見られる。

それに加えて、今年は、天皇の新年のあいさつもとりやめになった(「天皇陛下、新年の感想取りやめ=年末年始の負担軽減で-宮内庁」JIJI.COM 2016/12/26-15:32等参照)。

巷では、これについて「天皇の負担軽減のため」という公式説明をほぼ誰も信じていない。今上天皇の新年のあいさつとりやめの事実は、生前退位に関する天皇の意向をNHKが突如スクープした時と同じように、国民の間では、内閣による陰謀として受け止められている。そこでは、➀安倍が自らの政治思想とははるかに隔たりのある今上天皇から発言の機会を奪うために口を封じ、この先も、天皇からは徹底的に出番を奪う気だ、という説と、②天皇自らが安倍に対する無言の抵抗として、自らあいさつを控えたのだ、という二つの観点が論じられている。

だが、今回は、ネットを見る限りでは、➀の観点を支持する人々が圧倒的に多いように見受けられる。LITERAの以下の記事などは明らかにその立場に立っていると言えよう。(「天皇が「主権回復の日」に「沖縄の主権は回復されてない」と異議を唱えていた! 安倍政権に奪われる天皇の発言機会」LITERA 2017.01.01.)

いずれにしても、安倍と天皇との間でバトルが繰り広げられていることは今やほとんど誰も否定しない周知の事実となっている。そして、安倍が着々と今上天皇の意向を退けながら、自分自身が天皇以上の存在であるかのように傲慢に振る舞い、宮中をも自らの勢力下に置きつつあることは、あらゆる事実から察することができる。

当ブログでは前々から予測して来たことであるが、安倍政権の目論見は、巧妙に今上天皇と現皇太子(徳仁)から力を奪って、いずれ秋篠宮家を担ぎ上げて将来的には悠仁を天皇の座につけることにあるだろうと予測する。なぜなら、それによって、安倍政権は今上天皇にしたたかに報復できる共に、最も操りやすい天皇を手に入れることができるからである。仮に現在の皇太子徳仁が天皇に即位したとしても、安倍政権は、その在位を短期間に終わらせるか、実質的な権力を初めから秋篠宮に与えようとしていることが予想される。そのための「皇太子待遇」である。

秋篠宮さまを「皇太子」待遇…「退位」特例法案」(YOMIURI ONLINE 2017年01月01日 12時02分)

上記記事は、タイトルを見ただけでも、安倍政権が今上天皇の「生前退位」の意向を利用して、「退位」と「皇太子待遇」を引き換え条件のようにして、自らに有利な形で皇室に介入を試みている様子が理解できる。

筆者は以前から、佳子様ブームなるものも、秋篠宮家に注目を集めるために意図的に作り出された現象であって、安倍政権の目論見は、今はほんの子供に過ぎない人間(悠仁)を将来的に天皇の座につけることで、天皇を完全に内閣の奴隷、政権の操り人形とすることにあるものと語って来た。
 
そうした懸念は、現在、至るところで表明されており、何ら珍しいものではない。たとえば以下の記事の中には、読売の記事で発表された特例法案に対する分析と批判が詳しく書かれており、今回、内閣が行おうとしていることの恐ろしさが見て取れる。詳細は記事を読んでいただきたいが、要点は、今回の変更は天皇家の三代にまで及ぶものであるにも関わらず、これを憲法と皇室典範の改正という正式な手続きを経ずに、政府が「一括」の特例法案で済まそうとする目論見の恐ろしさ、そこに隠されたやましさである。
  

生前退位特例法案(「一括」という罠)自民党憲法改正草案を読む/番外62(情報の読み方)」詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)2017-01-01 10:42:19 から抜粋
   
 安倍は「ていねい」に審議することを嫌い、すべて「一括」ですまそうとする。そこに多くの「隠し事」がある。
 秋篠宮の経済負担を軽くする(皇族費を値上げする)といえば「聞こえ」はいいが、その背後にどんな思惑が動いているか、見過ごしてはいけない。
 さらに「18年中の退位を視野」というのは、天皇を18年中に退位させ(邪魔を取り除き)、19年には憲法改正を推し進めるというスケジュールを安倍が組んでいることを語っている。安倍の暴走はますます加速している。


安倍の押し通した解釈改憲の時もそうであったが、このように、常に規則破りな形で、自分が超法的な存在ででもあるかのように、法を骨抜きにして、あるいはないがしろにして、己が意向を無理やり押し通そうとするのは、異端・グノーシス主義者の常なる行動である。グノーシス主義は「秩序転覆の霊」だから、そのような思想を持つ人間は、必ず、何事においても、秩序を破壊して行動する。まだ現在の皇太子が即位もしていない今から、秋篠宮をあたかも皇太子と対等であるかのように扱うニュースを発表させるなどのことも、まさに秩序転覆の思想がなければ出て来ない発想である。

しかしながら、ロシアのSputnikなどは、安倍政権のこの卑しい目論見に便乗し、勝ち馬に乗ろうとして、今上天皇の新年のあいさつがとりやめになっただけでなく、来年からは一般参賀もなくなるであろうと、すでに今上天皇を完全に過去の人のように扱う記事を出している。「今日、天皇陛下の最後の新年一般参賀であろう?」(Sputnik 2017年01月02日 07:59)一応、疑問符はついているものの、実際には、もはや今上天皇は安倍の言いなりになるしか道はないと見透かして、今から今上天皇にさよならを告げているのである。常に強い方へばかり簡単に寝返るロシア人の精神性が見事に表れている記事と言える。

しかしながら、こうしたことがあっても、筆者は長期的な展望に立てば、このようにまで安倍政権が暴走して、天皇を再び、内閣の奴隷として政治利用しようとしていることは、将来的には、マイナスにならないと考えている。なぜなら、このようなことをすれば、安倍政権の倒壊と共に、必ずや、天皇制自体の廃止が訪れるからである。ここまで極端な天皇の政治利用が行われなければ、天皇制は今後も平和裡に我が国に存続した可能性が高いが、安倍政権の暴走が決定的な負の事件として歴史に刻まれることにより、やがては天皇制にも終止符が打たれるのである。

本当は、今上天皇により「生前退位」の意向が表明された時点で、この国の天皇崇拝者にとっては「太陽がお隠れになった」のであり、天皇制についてはすでにパンドラの箱が開かれたのである。国民は天皇の苦悩を理解しており、天皇制は国民の前に意義を失っている。この国の「神」(むろん、天皇崇拝者にとっての神)は、この国を精神的な象徴として統治する仕事を自ら放棄したいと望んだのであるから、この国は偶像にさえ見捨てられ、末法のような闇の世界となったのである。

従って、天皇自身がこうして「お隠れになった」以上、今上天皇の退いた後の空席を誰に譲り渡し、誰を後の天皇や摂政に据えてみたところで、この見捨てられた国には日は再び昇らず、この国を統治することは、その人間にとって栄光となるどころか、むしろ、とてつもない重荷となるであろう。末法と化した世を収束させるためには、天皇制を廃止し、安倍政権を終わらせるしかないが、多少、先走って言えば、安倍は必ず最後には、祖父の負うべきであった罪を自ら負って果てるであろうと筆者は予測している。ちょうどヒトラーの最後のようなものだ。全ての事柄について常に規則違反を繰り返すヤクザ・博打・軍国主義政権の指導者には決してまともな最期は来ない。
 
さて、安倍の真珠湾訪問に話を戻せば、オバマに花を持たせることで、属国の卑屈さをこれでもかと見せて、安倍が拙速なトランプ詣でのお詫びをしたにも関わらず、真珠湾での安倍の表情は写真で見ると、どれもこれもプーチンと共にいた時とは比べものにならないほど暗くさえない。顔は悲愴感に歪み、やつれている。それはただ単に慰霊のための演技とは思えず、この真珠湾への訪問が、安倍にとっておよそ報いのないものであったことをよく物語っていただろう。
 
安倍が真珠湾で見せたこのやつれ具合は、何よりも、オバマから受けた精神的苦痛のためと思われる。おそらく、オバマには安倍のお追従が全く通用せず、憎悪にも近い嫌悪感をあからさまに向けられていたのであろうと推測せざるを得ない。そう思っても不思議ではないほど苦り切って困り果てた表情である。
 
死を前にした病人のようなこのひどい表情は、安倍が一方では米国との同盟関係を強調しながら、他方では、トランプとプーチンに拙速に媚を売ったという、理念と礼節の欠如した安倍の八方美人外交に対して、オバマから非常に手厳しい「お仕置き」をされたことの証明であるように思われてならない。

オバマは、安倍が拙速なトランプ詣でをしただけでなく、米国に先んじて、プーチンとの「仲良しごっこ」を世界に見せつけて自慢し、制裁を受けている最中のロシアの大統領に手柄を与えたことを、決して内心では許さなかったものと思われる。そこには、もしかすると、初の黒人大統領としてのプライドもあったかも知れない。
 
ABE OBAMA

写真は以下から転載。「安倍首相の前に現職首相3人が真珠湾を訪問していた、外務省が確認
 The Huffington Post    |  執筆者: ハフィントンポスト編
投稿日: 2016年12月26日 18時51分 JST   更新: 2016年12月26日 18時51分 JST

「真珠湾、安倍」の画像検索結果

写真は以下から転載。「安倍首相を敬語で讃えるワイドショーキャスター、真珠湾訪問報道の違和感-「ポスト真実」支えるメディア」志葉玲  | フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和) YAHOO!JAPANニュース 2016/12/28(水) 20:49 
 
何しろ、口にするにも値しないほど愚劣極まる発言のため、我が国でさえ、すでに人々には忘れられている可能性が高いが、自民党のさる議員が、昨年に次のような発言をしたことも、当然ながら、オバマの耳に入っていたに違いないと思われる。安倍の軽はずみな行動は、まさに以下のような人種差別的な思想が、安倍の心の中にも存在している可能性を、改めてオバマに想起させた可能性があるだろう。
 

丸山和也議員、オバマ大統領についての「黒人奴隷」発言を謝罪

CNN.co.jp 2016.02.19 Fri posted at 13:52 JST から抜粋

丸山議員は17日の参院憲法審査会で、「いまアメリカは黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ」と発言した。

この発言は日本の憲法改正を巡る論議の中で飛び出した。丸山議員は米国の「ダイナミックな変革」を引き合いに出し、「アメリカの建国、あるいは当初の時代に、黒人、奴隷がアメリカの大統領になるなんてことは考えもしない」と力説していた。

<中略>

オバマ氏は初のアフリカ系米国人の大統領だが、奴隷の子孫ではない。父はケニア人、母はカンザス州出身の白人だ。

丸山議員の発言は人種差別的と見なされ、審査会後の記者会見で同議員は「誤解を与えるようなところがあった」として謝罪した。<後略>


オバマはトランプのように表立って相手を罵り、踏みつけにして勝ち誇ったりはしないが、自分が「歴史の舞台から消えゆく人間」として存在を軽んじられたことに黙ってはおらず、静かに怒りを表明し、大統領として残された時間を使って、対ロ制裁強化という「最後っ屁」を放ち、自分をないがしろにした安倍やプーチンやトランプへの置き土産とした。(「オバマ政権、対ロシア制裁発表へ 米大統領選への介入めぐり」CNN.co.jp 2016.12.29 Thu posted at 12:46 JST等参照)。

そこで、2017年の米ロ関係は緊張関係で幕を開けることになるが、それでも、世には未だトランプ大統領の出現によって米ロ関係は緊張が緩和されるという楽観的なムードが漂っている。だが、筆者にはそのように単純に物事が運ぶとはどうしても思えないのである。
 
米ロの二国は、この先、どんなに歴史が進んだとしても、仮想敵国同士の立場から解放される道はないであろう。その点で、天木氏の以下の見解に、筆者はかなり同感する。それはロシアという国が持つイデオロギー本質がもたらす当然の結果である。

そして、その対立は必ず、日本にも波及する。つまり、ロシアが日本にとって真に友好国となることは、多分、この先も決してないと筆者は見ている。だから、安倍が勇み足でトランプとプーチンの二人に媚を売ったことは、全く愚かしい徒労にしかならず、この先も頭痛の種をさらに増やすだけに終わるのではないかと思う。
 

最後に凄みを見せたオバマとひとたまりもないプーチン
2016年12月31日 (天木直人氏のブログから抜粋。)

(前略)
 そして、米国にとって、ロシアは今も昔も、価値観が最も異なる潜在敵国なのである。

 今度の対ロ報復制裁措置は、弱腰大統領と言われ続けてきたオバマ大統領が最後の最後に見せた、プーチン大統領に対する必殺のカウンターパンチだ。

 そして、それはまた同時に、オバマ大統領のレーガシィを全否定しようとするトランプ氏に対する、これ以上ない重い置き土産だ。

 トランプ大統領は、みずから繰り返す米国の国益ファーストと、プーチン大統領のロシアとの関係構築の間で、また裂き状態で出発することになる。

 そして、わが日本の安倍首相は、トランプの米国とプーチンのロシアの間で、また裂き状態となる。

 最後まで、オバマ大統領は安倍首相にとって相性の悪い米国大統領だったということである。


ロシアはしたたかで、プーチンはこの程度のことでは動じない。だが、筆者は、もしかすると、オバマと安倍との因縁は、今回限りで終わらないという気がしている。この先、安倍政権の暴走にどのような形で終止符が打たれるかは分からず、誰にも未来のことは断言できないが、安倍に引導を渡す役割が、政界に返り咲いたオバマになる可能性も、完全には捨てきれないような気がするのだ。いずれにしても、ロシアとの融和を唱えてトランプとプーチンを浅はかに支持した者たちは、間もなく馬鹿を見させられることになるであろう。

さて、ロシアという国のイデオロギー的本質の問題に関してであるが、筆者は以下の一連の記事において、ロシアは共産党政権が崩壊しても、未だ共産主義思想のままなのであり、それはこの先も決して変わらないという見解を述べて来た。そうである限り、ロシアはいつまで経っても、思想的に危険をはらむ国のままであり続けるのであって、我が国がそのような国を信頼することは不可能である。
 
これとほぼ同じ見解を、筑波大学名誉教授の中川八洋氏がブログに記している。同氏のブログはつい最近拝見したばかりだが、その論調は檄文かと思うほどの激しい非難に貫かれていたため、筆者はこれを最初に読んだ際には、学者の見解だとは思わなかったほどである。

しかしながら、よく読んでみると、その内容は、国際政治学、政治哲学の観点から書かれたものであり、相当にロシアという国の歴史や文化に迫って、この国の本質を解明しようとしていることが見えて来る。ロシア人とロシアという国を実際に知っている人間には、痒い所に手が届くように、うなずけるロシア批判なのである。

中川八洋氏は上記のブログで、この度の安倍・プーチン会談の合意を、日本の国益を著しく損なう売国行為として厳しく非難しているが、筆者にとって、何より興味深いのは、同氏がそこで、ロシアという国において、共産主義思想は、ただソ連時代だけに限定して一時的に国家イデオロギーとされただけのものではなく、この国と本質的に一体不可分の精神的基盤をなすとみなし、それゆえ、ソ連崩壊後の新生ロシアも、事実上の共産主義ソ連の延長であるとみなしている点である。こうして、ロシアは今でも思想的に共産主義のままであるゆえに、ロシアと日本との間には、いかなる友好・信頼関係も、決して発生し得ないと結論づける点には、筆者は同感する。

このような説を学者が唱えているとは予想しておらず、それゆえこれが学説としては批判を受けるであろうことも理解できるが、このような見解は、以前に筆者が当ブログで他所の引用をしながら述べたのとかなりの部分で一致しており、国際政治学者でさえ、現在のロシアを共産主義時代の延長とみなしているというのは、大変興味深い。

筆者の見解では、すでに述べたように、ロシアにおける共産主義思想は、1917年革命によって初めてロシアに公に取り入れられたものでは全くなく、それはナロードニチェストヴォなどにも見るような、ロシアの初期の社会主義思想から受け継がれて、その思想が変化したものに過ぎず、そうした思想の起源はさらに古くは、正教の宗教的メシアニズム、より古くはキリスト教導入以前の異教信仰(グノーシス主義)に求められる。要するに、社会主義思想もまた、ロシアにもとからあった異教的精神を土台として移植されたものなのである。

筆者は、「母なるロシア」を神格化する母性崇拝の思想こそ、ロシアの精神性の核となる土着の異教的信仰であり、これが歴史を通じて、ロシアの真の宗教、真の政治思想を形成していたものと見ている。キリスト教や、共産主義といったものは、みなロシアのこの土着の異教的信仰の上にコーティングされた表層に過ぎない。この国の根底に流れるものは、昔も今も変わらず「母なるロシア」への信仰なのである。これは、本質的にはグノーシス主義の変種であり、母性崇拝(=人類の自己崇拝)の思想なのであるが、ロシアのこの異教的本質は、強制的なキリスト教の移植によっては変わらなかった。革命と同時に、表層に過ぎなかったキリスト教の仮面はあっさり脱ぎ捨てられ、代わりに共産主義が表層に移植されたが、それもまた表層だけのことであり、ロシアの本質はずっと異教的精神性のままであったが、ソ連崩壊後に、共産主義の表層が取り去られた時に、内側にあるこの異教的本質が「強いロシアの復活」というスローガンになって表に出て来たのである。

だから、筆者が、ロシアは今でも共産主義国だと言うのは、何もマルクス主義に限定した話ではなく、もっと深い意味で、ロシアの本質が、国家(及び指導者たる人間)を賛美・神聖視する母性崇拝の思想にあり、この国が国家を神聖な世界救済の母体とするメシアニズムの思想に貫かれていることを広義で言い表したものに過ぎない。ロシアのマルクス主義においては、世界初の社会主義国家であるソビエトが、全世界に共産主義ユートピアをもたらす母体として事実上神聖視されたのであるが(しかし、その母体は、望まれた子を生むことなく、むしろ子を食い殺して自分が永遠に存続しようとした)、「母なるロシア」の思想に流れるのも、ロシアが世界を破滅から救う神聖な母体だという思想である。そうした思想は、決して宗教や政治思想の形をとってはいないが、これまでのロシアの国家イデオロギーは全てこの「母なるロシア」を神聖視する異教的信仰が、キリスト教や共産主義を含む多くの異なる思想と合体•混合して生まれたものである。現在のプーチンの「強いロシア」に源流として流れるのも、ロシアそのものを神聖視する異教的信仰なのである。こうした思想があるゆえに、ロシアでは国家指導者が、事実上「母なるロシア」と神聖な結婚の関係にあるものとみなされ、その人物の意向が、国家の意向と同一視され、神格化されるのである。
 
そして、このロシア賛美という母性崇拝の思想の本質は当然ながら、人間を神とするグノーシス主義である。もともとグノーシス主義は、様々な宗教や哲学の中にもぐりこみ、そこに寄生することで知られている。ロシアでは、それがキリスト教や共産主義の中にもぐりこみ、息づいて来たと共に、ソ連崩壊後にもこの国の精神的基盤をなし続けているのである。

だから、ロシアという国が、思想的に大いなる脅威だと筆者が言うのは、この国が本質的にずっと「母なるロシア」こそが世界を救うというメシアニズム信仰に立ち続けているためである。これは統一教会や国家神道やペンテコステ運動と同じく、世界救済の思想であり、言い換えれば、世界征服の野望を示すものでしかない。

ところが、我が国の世論の一部も、このようなロシア美化、ロシア賛美を疑うこともなく取り込んで、すでにかなりの割合、ロシアのメシアニズムに毒されている。たとえば、ネット上では、プーチンを「米国という巨悪と対立して、NWOと勇敢に戦う善人」のように描こうとする意見があるかと思えば、プーチンが日本の国家主権を危ういものとして、「あなた方はどの程度自分で物事を決められるのですか」と問うた台詞を、我が国が対米隷属から脱し得ていないことを見ぬいてこれを鋭く糾弾する慧眼だともてはやし、ロシアこそ、我が国を自立に導く助け手だとする説まである。

こうしたロシア賛美者は、全く愚かなことに、我が国がただロシアに欠点をあげつらわれて、足元を見られ、余計なお節介を受けているだけだという事実がまるで見えていないのである。そもそも、自国の外交の欠点や弱みについて、他国の指導者からお説教され、それを疑問にも思わず、善意と受け止めて喜んでいる時点で、そのような人々はとてつもなくおめでたい愚者としか言えないだろう。
 
実のところ、プーチンは日本人の心に揺さぶりをかけ、分裂を促すために以上のように言ったのであるが、こうしたやり方で、接近した相手の尊厳を貶め、現在、その相手が享受している大いなる特権を自ら捨てさせ、何らかの短絡的なアクションを取るよう促す方法は、まるで聖書の創世記において、悪魔が人類をそそのかすために吐いた言葉にそっくりである。

「それを食べると、あなた方の目が開け、あなた方が神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:5)

プーチンの言説のポイントは次の通りである。「米国は本当にあなた方にとって『友』なのでしょうか? もしそうなのだとしたら、どうして米国の許可なしに、あなた方は自分では何も決められない惨めな状態に留め置かれているのですか。あなた方が誰の許可もなしに自分で物事を決められるだけの知恵と力を得ることこそ、あなた方の自立であり、完全な主権ではありませんか。その自立を奪うことによって、米国はあなた方の主権を侵害しており、そうすればあなた方を無力化できると知っていて、わざとそうしているのです。あなた方にそのような状態を強いて、あなた方の主権を侵害している存在が、果たしてあなた方の『友』なのでしょうか。それは友というよりも、敵と言った方がふさわしいのではないでしょうか…」。

これは米国に対する暗黙の反乱の勧めである。国家主権や対米隷属からの脱却や「自立」という甘い言葉を餌にして、同盟国でもないロシアが、我が国に向かって同盟国への裏切りを勧めているのである。それは、ただ我が国を貶める発言であるばかりか、我が国をいずれ米国と分裂させて弱体化させる目的あってこその発言であり、その先には、我が国を侵略し、米国の代わりに属国化したい目的あってのことである。それをなぜ見抜けない人々が多いのであろうか。

筆者は、日本は確かに米国に対して多くのことを物申さなければならず、日米の関係性は変化し、属国状態は解消されなければならないものと思う。沖縄にも、自由が与えられるべきであって、我が国の現在の自立の程度が完全でないことは認めるべきであるものと思う。だが、その自立や、米国からの分離は、これから先、日本人が文化的・精神的成熟によって自ら勝ち取って行くべきものであり、ロシアには関係ない事柄である。我が国の自立の問題は、我が国固有の問題であって、ロシアに指図されるべきものでなく、また、ロシアに接近することによって解決が与えられるような種類の問題でもない。

それにも関わらず、プーチンの言説は、話が途中ですり替えられている。日本が主権を完全に取り戻すという問題が、我が国がロシアへ接近することによって、ロシアから承認されるべきだという内容に話がすり替えられているのである。
 
こうした論理のすり替え、ごまかし、トリックはソ連時代からのロシア人の常套手段であり、プーチンは、同じような論理のすりかえにより、四島返還はナンセンスであるという話題を持ち出し、二島返還の可能性をもはぐらかし、帳消しにした。

「ロシアとは決して交渉してはならない」という中川八洋氏の主張がまことに正しいと言えるのは、こうした事情があるためである。上記で、聖書の創世記で悪魔が人類をそそのかした誘惑の言葉を筆者が引用したのは故なきことではない。こうして、相手の弱点を巧みに突いて、その弱みを最大限に利用して、不当な交渉を行って自分にとってのみ有利な解決を引き出し、相手の弱みを利用して相手の心の内側に侵入し、精神的に揺さぶりをかけ、分裂させて、支配するというやり方は、一連の記事で述べて来たグノーシス主義者のマインドコントロールの手法に共通する。こうした人々が、弱みを抱えた人たちの前にぶらさげる餌も、約束も、決して果たされることのない嘘の「夢」である。

ロシアは、我が国の弱みを盾に取って、我が国を脅し、ゆすっているだけである。つまり、日本が「完全なる主権」を回復し、「自立した外交」を打ち立てるためには、米国から距離を置くだけでなく、むしろ、ロシアに接近し、ロシアとの「友好関係」をロシアに承認してもらえるよう努力すべきだと言っているのである。米国に従っている限り、日本には、ロシアとの友好はなく、領土問題の解決もないのだとささやくことで、「主権」や「自立」や「平和条約の締結」や「領土問題の解決」などを餌に、ロシアに接近すれば、米国との関係からは生まれ得ない利益が我が国に飛躍的に生じるかのように思わせて、その絶対に実現しない期待を担保に、我が国から融資を無限にむしりとり、領土返還についての話もはぐらかして帳消しとし、さらには、あわよくば日米同盟にもヒビを入れて、日本を孤立化させて、ロシアが日本を思い通りに操ることがより容易になるように仕向けようとしているのである。

このように、ロシアと交渉することの危険性は、ロシアが相手の弱みや、利益となりそうな餌をちらつかせることによって、征服したい相手の心に揺さぶりをかけて、思う存分気を持たせて利用し、あわよくば分裂を引き起こし、弱体化したところで、支配して来る点にある。

筆者は、以前に、キリスト教が社会的弱者に対して冷たい宗教であると断罪することによって、クリスチャンに罪悪感を持たせ、キリスト教徒を思い通りに変革しようという悪しき試みがあることに言及したが、ロシアがやっていることはそれに非常に似ており、「日本には完全な主権がない」と暗に示唆することにより、プーチンは日本人に自らの状態が不完全であるかのような自覚を与え、その問題の解消のために、ロシアの指南に従うよう仕向けようとしているのである。
 
プーチンは、安倍や、日本人の心に眠る米国への心理的恨み、対米隷属から脱していないという屈辱感やコンプレックスを存分に利用しながら、以上のようなトリックを用いたのであり、それによって、ロシアこそ、日本のパートナーにふさわしく、世界の未来の覇者にふさわしいかのように見せかけて、日本を自分にひきつけようとしたのである。だが、ロシアが我が国にそのように思わせる目的は、決して我が国の誠意あるパートナーになるためではなく、日本の完全な主権の回復のためでもなく、ただ日本の弱みを盾に取って、脅し、ゆすり、騙すためである。もし、我が国がそれを理解せずに、ロシアに弱点を逆手に取られ、ロシアから承認されたいばかりに、ロシアへの接近を続ければ、どこまでもロシアに思い通りにゆすられる運命が待っているだけである。
 
我が国は、どの国の指導者にも、国家としての主権の不完全性などを指摘されてはならないのであり、まして弱みを利用して足元を見られ、嘘に満ちた不誠実な誘惑の台詞を語らせるような隙を与えてはならない。我が国が完全な主権を回復し、これを発展させ、真の自立と尊厳をぜひとも身につけたいと願うなら、米国に支配の口実を与えてはいけないのと同様、ロシアにも、内政干渉される隙を決して作ってはならないのである。そのような初歩的な事柄も理解できないで、他国から完全な主権がないと言われてそれに反駁するどころか、その説教に喜んで耳を傾けているような愚かさでは、外交などおよそ無理であって、どの国に接近しても、属国化される以外の運命はないであろう。

ロシアが善意から我が国の「主権」や「自立」の問題に言及するなどあり得ないことを理解すべきである。それはただ「分割して統治せよ」の法則に乗っ取り、相手をより操りやすくするために、疑いを吹き込んで分裂を促しているだけである。こうして近づいた相手をまず分裂させて弱体化させることこそ、侵略しようとの意図を隠し持つ国の使う古典的な外交手段なのだと、いい加減に早く理解した方が良い。

すでに述べた通り、ロシアという国の国家イデオロギーは、いつの時代も、ロシアが世界の覇者となることにこそあり、そのためにこの国は膨張・拡大を続けて来た。ロシアはその精神性において、今でも世界征服を国家の最終目的とみなしているのである。そうである以上、必ず、同じように世界の覇者を目指す米国とも対立関係になる運命にあり、米国だけでなく、ロシアに接近する全ての国は、この国に飲み込まれないために対策を講じなければならないのである。

オバマにはおそらくプーチン率いるロシアの戦略がよく理解できており、安倍が心理的な弱みを握られてすっかりプーチンの手玉に取られていることも分かっていたであろうし、それが分かっていればこそ、対ロ制裁の強化という形で抗議を残して行ったのであろうが、残念ながら、安倍の方では、自分がプーチンに何をされているのかさえ、見抜く力はなかったと思われる。

安倍のみならず、我が国の世論の一部は、あまりにも未熟で、お人好しすぎるために、ロシアという国が持つ潜在的な悪意を見抜くことができないで、70年間、関係が膠着状態にあった国と、望みさえすれば、速やかに友好や信頼が成立するように思い込んでいる。プーチンに「私を信頼してほしい」と言われれば、疑うこともなく「はい」と頷いて着いて行くのでは、まるでショッピングモールで迷子になった子供が、知らない大人に声をかけられて、そのまま疑うこともなく誘拐されるのと同じような愚かさである。

インターネット上では、プーチンとトランプがタグを組むことで、この二人があたかも現在の悲壮感溢れる諸問題から世界を救ってくれる救済者になるかのような楽観的な期待さえ漂っているが、こういう安易な期待に身を任せる人々は、何度、騙されれば、自ら愚かな為政者(しかも他国の!)の野望の道具とされる馬鹿さ加減から、目覚める時が来るのであろうか。
 
このような人々の心理は、いかがわしい宗教指導者の言い分を真に受けてカルト団体に入信する信者たちによく似ており、自分を誰かから完全な存在と認めてもらいたい、自分を承認し、受け入れてもらい、自分が今抱えている問題に一足飛びに解決を与えて欲しいという願いがあだとなり、自分に都合の良いことを言ってくれる宗教指導者に群がり、子供のようにその後を追って誘拐されて行くのである。彼らは連れ去られ、戻って来ないであろう。

そのように、自分の抱える問題を、自分の手で解決しようとする忍耐強い努力を常に怠って、誰か強そうな他者にすり寄り、手っ取り早い助言や解決を求めて彼らにすがり続ける幼児的な欲求があだとなって、彼らは自分に優しくしてくれる者を簡単に善人だと思い込み、他人の悪意や、下心を見抜けず、その不誠実な発言に何度でも騙され、振り回され、人生の宝を奪われるのである。
 
そして、そのように自ら騙されて行く愚かな人々は脇に置いたとしても、詐欺師と詐欺師との間にも、友情と信頼が成立するはずがないのは言うまでもなく、この先、トランプとプーチンとの間に、決して信頼関係が生まれることはないと筆者は確信している。そこにあるのはただ、どちらが先に食われるかという問題だけである。

イスラエルが孤立化へ向かっているのと同じように、どの時点で、どこの国が、ロシアに対して実力行使に立ち上がるのか、ということが問題なのである。そうなるまで、ロシアは自分には敵を作ったり、世界と戦ったり、世界を征服する野望など全くなく、目指しているのはあくまで友好と信頼関係だと言い続けるであろうが、いつまでそのように気を持たせて時間を稼ぐことができるだろうか。
 
プーチン訪日前には、ソフトバンクの孫正義氏が、海底パイプラインを使ったロシアの電力会社との取引に乗り気だというニュースが流れたりもした。(「プーチン氏とも会談 北方領土の鍵握る「孫正義ペーパー」」(NEWS ポストセブン 2016.11.21 07:00)参照。)だが、もしも我が国がこの先、ロシアのエネルギーに依存して、ライフラインをロシアにあずけたりすれば、有事の際には、早速、我が国も現在のウクライナのような運命を辿るだけである。IT事業や人工知能の分野でロシアと協力すれば、すべての情報がロシアに渡り、もはや国防どころではなかろう。

トランプ、プーチン、安倍、孫正義などの面々に共通するのは、彼らが本質的に理念の欠如した商売人だということである。彼らは常に儲け話を追い、自らの権勢の拡大と栄光を飽くことなく追い求め、常に勝ち馬に乗って、自分を素晴らしく偉大に見せかけてくれる環境を求め、そのためには、人を欺いたり、約束を翻すなどの不誠実な行動も平気で取り、自分が騙して凋落させた敗残者を容赦なく踏みしだいて勝ち誇ることを、己の人生のよすがとしている。このような商売人が政治の世界に足を踏み入れ、為政者になると、国民はひどく不幸になる。

孫正義氏は、以下の記事等にも見るように、以前には60歳を迎えれば引退するかのように表明していたが、これを撤回することにより、グーグルから自らの後継者と目して引き抜いたニケシュ・アローラ氏をわずかな期間で退任させた。「アローラ退任、孫社長「変心」までの22カ月 「欲が出てきてわがままで続投」は本当か?」(東洋経済ONLINE 2016年06月27日)

複数の情報によると、関係者は、孫氏がアローラ氏に事業を譲るなどの計画は初めから信じていなかったように見受けられる。だが、もし後継者として道を譲るという期待を持たせておかなければ、アローラ氏は孫氏のもとへやって来たであろうか。

ビジネスの世界では、他人を騙すがごとくに出世を約束し、存在しない偽りの期待を持たせることで、その人の人生を自分に都合よく利用して、短期間で使い捨てるなどのことは、ありふれた現象に過ぎず、ブラック企業では毎日のように起きている。まさに生き馬の目を抜く世界である。

上記のような出来事を通して、孫氏が個人的にどういう人柄であるか、我々は伺い知ることが出来る。勝つためには、手段を選ばず、他人を踏み台にしてでも、勝ち残るというタイプである。こういう人間であれば、トランプやプーチンとはウマが合うであろう。

だが、孫氏がアローラ氏に対して行ったことは、違法ではなくとも、必ず何かの報いを伴うであろう。なぜなら、人にいたずらな期待をもたせて失望に追い込む人間は、自分が他人にしたことの報いとして、もっと大きな罠にかけられる危険があるからだ。おそらく、このような理念の欠如した商売人のタイプの人々は、何人集まっても、意気投合するのは一瞬だけで、互いに利用し合い、最後には裏切り合って終わり、彼らの間に真の友情や連帯が生まれることは決してないであろうと予測する。誰が最初に食われるのか、問題はそれだけなのである。

さらに、日本国では急速に国民の貧困化が進んでいるため、高額な携帯料金を払えないで解約する人々も続出している。ただでさえスマートフォンが盗聴や監視の手段として利用されている事実が世間に広まっているため、人工知能も警戒されており人気がない。携帯業界はこの先、急速に斜陽になる可能性があるものと筆者は思う。

さて、ロシアに話を戻そう。以上に挙げた国際政治学者の中川氏は、Wikipediaには、「政治哲学に関しては、1980年代はマルクス・レーニン主義に対する批判的研究をしていたが、1992年から英米系政治哲学に研究の軸足を移した。2000年に入り、フランクフルト学派社会学を含め、ポスト・モダン思想、フェミニズム、ポストコロニアリズムにまで研究対象を広げ、これらの思想の危険性を訴えている。」とあり、詳しい研究内容はまだ知らないのだが、おそらく共産主義思想とフェミニズムなどの思想に、共通の土台がある事実を見ていたであろうと思われることが極めて興味深い。

こうして、学者の世界においても、共産主義や、フェミニズムの思想に、本質的な共通性があって、それは古くはグノーシス主義にまでさかのぼることを、「正統と異端」という概念に照らし合わせて研究していた人々の存在があることは興味深く、このような視点は、『解放神学 虚と実』(荒竹出版)を著した勝田吉太郎氏らと重なる部分を感じさせる。

筆者の考えでは、現代政治のあらゆる問題は、その本質を辿って行くと、最終的にはみな「正統と異端」という対立構図に行き着く。世界のおよそ全ての政治的・思想的対立の背後には、未だに「キリスト教対グノーシス主義」という構造が潜んでいると言っても過言ではない。

むろん、ここで筆者の言う「キリスト教」とは決して、決してプロテスタントやカトリックや正教といった今日的なキリスト教界の宗教組織を指すのではなく、聖書の記述が現す見えない思想的(霊的)本質を指す。

そして、グノーシス主義の危険とは、今までずっと当ブログで述べて来たように、ロシアの国家イデオロギーだけにつきものなのではなく、欧州・米国・我が国などのキリスト教界にも公然と入り込んでおり、統一教会と深い関わりのある安倍政権や、日本会議に支配された日本政府を通して、我が国の政界に深く浸透している。政府与党が暗黙のうちに目指している国家神道に基づく戦前回帰のイデオロギーなども、まさにグノーシス主義を起源としている。その意味で、現在の日本の政府と政治は全体がグノーシス主義に汚染されてしまっている。

だが、だからと言って、もともとすでにある危険の上に、さらなる危険として、ロシアにおける共産主義までも取り込んで、国を消滅の危険にさらす必要はないであろう。


・人間に過ぎない宗教・政治指導者を美化・神格化して崇拝する偶像崇拝の罪と訣別しなければ、沖縄を含め、我が国には自由も解放もない

信仰者の目から見れば、この世の事象と霊的世界は合わせ鏡であり、この世の問題の根底には「正統と異端」の対立があることが見て取れる。

2009年、自民党から民主党への政権交代が起きたのは、日本のクリスチャンの間で、グノーシス主義に汚染されたキリスト教界への批判がかつてなく高まっていた時期であった。ペンテコステ運動のような米国発の非聖書的な偽りのキリスト教への疑念と批判が信者の間で噴出し、さらに、人間に過ぎない宗教指導者を絶対的な存在として崇め、奉る牧師制度がキリストへの信仰に反する人間崇拝の罪であるとの批判が噴出し、この罪と手を切って、キリスト教界からエクソダスしようとする信者が続出していた。

これは、キリスト者が人間を美化・賛美する偶像崇拝から脱し、聖書に基づく正しい信仰に立ち戻ろうとする正しい運動であったと筆者は見ている。

しかし、この運動がその後、辿った経緯は非常に教訓に満ちたものであった。この時に生まれたキリスト教界への批判者たちが、その後、どうなったかというと、彼らは自分が批判していた教会からエクソダスして、聖書に基づくまことの信仰に立ち戻るどころか、再びどこかの宗教指導者や、組織や団体に帰依して、前よりも深く巧妙な偶像崇拝に落ちて行き、その結果、キリスト教界における偶像崇拝の罪を批判する者たちや、教界をエクソダスした者を同士討ちに陥れて口を封じ、自ら改革を潰すという愚行に及んだのである。

当初、見えない神にのみ従うことを誓って、人間に過ぎない指導者への隷従からの自由と解放を目指して、組織や団体を出ようとしていたはずのクリスチャンたちの、この180度の転向と愚かしい同士討ちという、腐敗と堕落の過程は、民主党の瓦解の経過にも似ており、筆者がそれらの出来事の分析から得た教訓は計り知れないほど大きい。

この草の根的な運動を堕落させて潰すために、とりわけ信者たちに巧妙な分裂の罠をしかけたのが、キリスト教界の宗教指導者であり、その中に、信者を泥沼の裁判に引きずり込んで疲弊させる村上密やDr.Lukeのような人々がいた。

この人々は、キリスト教界に対する信者たちの怨念を巧みに吸い上げる形で、人々の弱みを利用して自らの運動を作り上げた。彼らは、不誠実で信頼ならない指導者であったが、彼らを非難したり、告発する人間たちが、彼らよりもずっと不器用でみっともなく見えたため、人々は立ち回りが上手く声の大きいこの指導者の方を支持し、すすんでその手先となって利用されて行ったのである。

人前で救済者を演じる詐欺師のような宗教指導者たちは、人々の心の中にある勝ち馬に乗りたい願望、人前で見栄を張り、自分が攻撃されて恥をかきたくない願望などを大いに利用して、反対者を徹底的に嘲笑して、見世物にすることで、自分を勝者に見せかけて、支持を拡大したのである。

しかし、彼らの虚勢は見せかけに過ぎなかったので、以上のような宗教指導者に信頼を託した人々の希望は、すぐに風船のように弾け飛び、解放や自由の代わりに、隷属と恐怖だけが残った。

トランプとプーチンの手法は、以上のような宗教指導者らの手法に非常によく似ている。彼らは反対者を貶めることと、自分が勝利者であるかのような「ムード」を醸し出すのは得意だ。だが、彼らの主張には内実がないため、「まことしやかな雰囲気」に欺かれて、彼らを支持した人々は、悲惨な結果に至るだろうと筆者は見ている。この人々の連帯は、気の持たせ合い、騙し合いの連帯なので、長く続くことはないからだ。

筆者が、沖縄は米軍基地問題を巡る政府との闘いで敗北するであろうと言っているのにも、以上と同様の理由がある。沖縄の解放という問題の根っこには、偶像崇拝が深く絡んでおり、筆者は、沖縄クリスチャンがカルト被害者運動と公然と訣別しない限り、彼らには政治的にも勝利はないと考えている。

なぜなら、人間の利益は神の利益に勝らないからだ。自分の生活の安寧や自分の名誉を、信仰よりも優先して、人間に過ぎない指導者につき従っている限り、その信者にはいかなる自由も解放もない。まことの神は全てをお造りになった方であり、この方のみを崇め、従うことは、辺野古の海を守るよりもはるかに重要事項である。そのことをクリスチャンが理解して、自分を解放してくれそうな人間への浅はかで愚かな期待を捨てない限り、沖縄が騙され続けることは変わらないであろう。しかし、それは沖縄だけでなく、日本全体に共通する問題なのである。

改革者や解放者を名乗って現れる人間の指導者に安易な期待を託して欺かれる人々の心の根底には、いつも自己美化の願望がある。自分を美化しているから、宗教・政治指導者などを美化して、期待を寄せるのである。しかし、聖書は人間の本質について何と言っているか。クリスチャンが聖書の事実に立ち戻り、真に頼るべき存在は誰かという問いに正しく答えを出さない限り、我が国にはただ人の奴隷となる道だけが延々と続くのである。だが、かつて起きた出来事は、信者が人間崇拝という罪と完全に手を切って、まことの神への貞潔を回復するならば、速やかな解決があることを示している。

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