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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久からの恫喝メールおよび杉本徳久が刑事告訴された事実④

<追記>
 2018年2月に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。

杉本の多年に渡る嫌がらせについて、また、村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事やその他で詳しく記しているため参照されたい。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実

なお、当ブログが杉本の嫌がらせ行為について、警察に相談を行っていることを最初に警告したのが2012年に記した「杉本徳久氏への公開書簡」の記事であった。この記事の中で、当ブログ著者は、親切にも、杉本本人に向かって、杉本が当ブログから気に入らない記事を削除しなければ、当ブログ著者の個人情報を無断で公開するなどと息巻いていることが、名誉毀損やプライバシーの侵害の罪に当たることを警告したが、杉本はこの警告を考慮しなかった。

杉本は当ブログ著者が杉本の嫌がらせ行為について警察に相談しているという事実を嘘だと思いたかったようであり、なおかつ、当ブログを名誉毀損で訴えるつもりだったようであるが、実際には、当ブログ著者が杉本の行為について警察に相談していたことは事実であり、杉本の当ブログへの告訴も成らなかった。

なお、当ブログは2012年頃より、掲示板に記された嫌がらせコメントなどについて告訴が可能な旨を警察からアドバイスされていた。ただし、より明白な証拠を得たいがために踏み切らなかっただけである。(読者には掲示板のコメントでも告訴される可能性が十分にあることをよくよく熟慮されたい。)


<杉本氏からの恫喝メール 続き>

本記事は、カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール③の続きに当たる。

杉本氏からは以前にも、同氏にとって気に入らない記事を削除せねば、ヴィオロンの個人情報を無断で公開するなどの脅しを含むメールがおびただしい回数、送られて来た。その罵倒や恫喝に満ちた文面は、記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール」でも示している通りである。

以下は5月2日に杉本徳久氏からさらに送られて来た恫喝メールである。
   
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
 ▼投稿されたメッセージ
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

REMOTE_ADDR: 219.215.163.80

[ 名前c ]
杉本徳久

[ メールアドレスc ]
sugimotonorihisa@gmail.com

[ メールアドレス再入力c ]
sugimotonorihisa@gmail.com

[ 件名c ]
4/30付けの文章につきまして

[ ご感想c ]
前略、〇〇さん

杉本徳久です。再三、ご連絡をとっていますが、その内容を引用してさらに挑発したり、侮蔑したりする文章を書き加えられている様子を拝見しました。4/30付けの文章につきまして、こちらですね。

http://sosudy.blog.shinobi.jp/Entry/134/


このままですと本当に洒落にならないことになっていきましょう。刑事告訴されるような事態をお望みですか?

すでに警視庁・武蔵野署の刑事さんにも何度も相談済みです。貴殿の立場、状況を鑑み、告訴状を出していないだけの話です。これまであなたの名などについて一切、公開してきませんでしたが、それは一にも二にもあなたの状態を慮ってのことです。

あまり手荒に〇〇さんを追い詰める様なことはいたしたくありませんが、このあたりが当方としても忍耐の限界ですので予め申し添えます。

すぐに書かれた文章を削除されてください。

草々



刑事告訴に至るまでには相当の時間がかかる。しかも、よほどの強力な証拠がなくてはならない。ゴールデンウイーク中はどこの警察も弁護士も対応しない。もし杉本氏が本気で刑事告訴を望んでいるならば、このようにゴールデンウイーク中を見計らってメールフォームから悠長に手紙を送るなどの措置に及ぶことなく、とうに手続きに及んでいたはずである。
 
にも関わらず、なぜ今まで杉本氏の告訴はずっと成就しなかったのか。それは同氏が述べているような、私に対する手加減ゆえではない。坂井氏を訴えた杉本氏であり、また、同氏から私に対する多年の嫌がらせの執拗さ・悪辣さを見ても、同氏にはいかなるクリスチャンに対しても情状酌量があるとみなすことはできない。

告訴が成立しないのは、私の側に何らの罪状もなく、また、私に対して罪を犯しているのは杉本氏であることが明らかなためである。

もし杉本氏が相談を繰り返してきた警視庁・武蔵野署の刑事が、これを刑事事件として扱うことができると判断していれば、杉本氏はとうに告訴に至っていたはずである。杉本氏の性格と主張を考えれば、同氏はクリスチャンを告訴するきっかけが欲しくてたまらないはずである。同氏が何度も警察に相談したにも関わらず、未だに事件化されていないのは、本件が同氏が私を告訴するための構成要件を満たしていないためである。
 
本件は、2009年に私が杉本氏のブログに自分で書き込んだコメントを削除してほしいと杉本氏に依頼したことをきっかけに、これを恨みに思った杉本氏が、以後、約7年近くに渡り、インターネット上で執拗に私に嫌がらせを加えて来たことによる。

2009年当時、杉本氏が速やかに私の望むコメントを削除し、さらに、自身のブログに私に対する一千件のコメントを伴うバッシング記事を掲載したりせず、人の知られないところで、私に嫌がらせメールを再三に渡り送り付けたり、当ブログに悪意あるアクセスを集中させたり、筆者の個人情報を違法に暴露するなどと脅迫したりしなければ、このような事態には至っていない。

杉本氏が筆者に対して何をして来たかは、無数の証人が見て知っている。当ブログでも、杉本氏が用いて来た嫌がらせの手法はすべて公開し、明らかにしている通りである。
 
しかも、私は何年も前から、当ブログにおいて幾度も杉本氏にネットを通じて平和的に和解するよう呼びかけ、速やかに筆者の求めるコメントを削除し、クリスチャンに対する逆恨みと嫌がらせに及ぶのをやめるよう勧めている。
   
にも関わらず、杉本氏は自らの違法行為を反省することもなく、筆者の助言にも提案にも全く耳を貸さず、不法な形で筆者に嫌がらせを続けることにより、事態を煽り続け、悪化させ続けて来た。このことは万人の目に明白である。

にも関わらず、杉本氏がクリスチャンをさらに「手荒に追い詰める」ような措置に及び、本当に「日夜、兄弟たちを訴える者」の道を全うしたいと望むならば、筆者はそれを止めはしない。だが、同氏に勝ち目はないであろう。

聖書には、クリスチャンが法廷に引き出されるのは、キリストの証をするためであると書いてある。歴代の信仰者も、鳴尾教会の信者たちも、みなこの道を通り、あらゆる中傷や迫害を耐えたのである。彼らは恫喝スラップ訴訟をただ耐え忍んだだけでなく、これを立派に戦い通して、真理を守って勝利したのである。

従って、私もまた、神の御前に私の信仰告白を守り通す義務があり、信者に与えられたキリストの義の完全性を訴え続ける義務がある。杉本氏にはこの最も肝心なもの――キリストの義がないのである。神の法廷において、キリストの血潮によってすでに義とされているという、宇宙最大の武器を持っているのに、この世の法廷を恐れるがゆえに、脅しに屈して自主規制をするつもりは筆者にはない。たとえ訴訟が提起されたとしても、かえって主の御名が証され、事実が世間により広く知らしめられるきっかけとなるだけである。
  
杉本氏は、私に記事の削除を求める前に、2009年当時から私が同氏に削除を要請しているコメント及び杉本氏が筆者について書いた一連の記事の削除するのが筋である。そして、筆者に対してこれまで及んできた嫌がらせについて謝罪し、二度とそのようなことを繰り返さないと約束すべきである。それをしてから、筆者に連絡を寄越すのが当然である。

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神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の理念はなぜ危険なのか~

神と教会に敵対するクーデターとしての「弱者救済」の思想の危険性 
~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による
「弱者救済活動」はなぜ危険なのか~


「しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

 というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」(Ⅱコリント11:3-4)

1.社会的弱者を無条件に美化することは、人の原罪を否定することにつながる
2.「異なる福音」
  ~聖書に基づく「救済」の概念を歪曲し、この世的な生活改善を「救済」とみなす異端~

3.「異なるイエス」
  ~キリストは信仰者の内におられるのではなく、信仰を持たない社会的弱者のうちにおられるとする異端~

4.己を疎外した神と教会とクリスチャンに対する復讐としての「弱者救済活動」
5.弱さに居直り、被害者意識と自己正当化に溺れ、欲望に歯止めが利かなくなる信者

 <補足>
 2018年2月に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事等を参照。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実




1.社会的弱者を無条件に美化することは、人の原罪を否定することにつながる
 ~平和な信仰生活を弱者救済という社会事業と政治闘争と置き換える危険~


ペンテコステ運動は、聖霊による超自然的な奇跡や癒しを強調することにより、社会から打ち捨てられた弱者を対象に、彼らへの早急な具体的支援を謳って、積極的に伝道を繰り広げて来たことで知られる。

アッセンブリーズ•オブ•ゴッド教団もこの点では例外ではなく、同教団は、病者、障害者、元ヤクザ、元統一教会員など、社会で最も憂慮すべき状態にある社会的弱者を積極的に勧誘して信者に取り込み、彼らが神を信じる以前の「負の過去」をも、積極的に宣伝材料として伝道に利用して来た。たとえば、元ヤクザで形成される伝道団体ミッション・バラバの活動を積極的に後押しして来たことなども知られる。
 
だが、キリスト教は本来、社会的マイノリティの救済のための慈善事業ではなく、教会が福音伝道という本来的な目的から逸れて、こうした社会事業に没入することは、教会の本来のあり方を見失わせる危険がつきものである。さらに、弱者や被害者を名乗る人たちをよく確かめもせず同情や救済の対象とし、彼らを美化するのは極めて危険な行為である。


私はこのブログにおいて、弱者救済という活動の美名の背後に潜む非聖書的な理念の危険性を一貫して訴えて来た。以下で映画" Mishima A Life In Four Chapters The Criterion Collection] [1985] Paul Schrader "を紹介したのもそうした理由からである。

この映画からも理解できるように、社会的弱者だからと言って、必ずしも善良な人々であるとは限らない。それどころか、人の強さと同様に、弱さもまた、人が自分よりも強い人間を騙し、巧みに利用して、己の欲望を叶えるための武器になりうるのである。弱さを持った人間が、自分の本当の動機を隠し、自分の弱さを巧みに利用して人の同情や罪悪感を引き出すことにより、自分よりも強い者を騙し、搾取し、支配するということがありうる。こうして、社会的な弱者が、弱者であることをバネに、強者との関係を覆し、強者に君臨し、自らのコンプレックスの憂さ晴らしをして、強者に復讐を果たすということが事実上、ありうるのである。

このような方法は古来から利用されて来たし、思想としても存在して来た。たとえば、マルクス主義も、弱者の復讐願望を理論化したものであると言える。経済的・社会的弱者であるがゆえに、プロレタリアートは善なる人々であるとし、彼らを搾取するブルジョアジーを悪人として描くことにより、マルクス主義思想は、プロレタリアートの救済という大義名分の下、弱者が決起して強者を打ち倒すことにより、強者を抑圧し、復讐を遂げることを肯定したのである。

確かに、強い者が自らの力により頼んでおごり高ぶり、弱者を蔑み、騙し、虐げる罪は重い。だが、それと同時に、弱者が弱者であることを理由に自分を聖なる存在のようにみなし、その弱さを武器にして、復讐心から強者を騙し、搾取し、抑圧して、支配関係を逆転しようとする思想も、前者と同じほど重大な危険をはらむ、恐ろしい思想であると言える。

聖書は人間はみな生まれながらに堕落した罪人であると教えており、その点で、いかなる例外も存在しない。社会的弱者だから、マイノリティだからと言って、心の清い人間は一人もいないのである。社会的弱者が、社会的強者に比べ、優先的に救いに値する心の清い人々だとは、聖書は教えていない。

たとえ社会的弱者であっても、その人に信仰がなければ、人は救われることができない。罪を逃れることもできないし、神の聖にたどり着くこともない。社会的な弱者であるその立場が、信仰なしに魂の救済につながることは絶対にあり得ない。

にも関わらず、社会的弱者であるという点をことさらに強調することによって、まるで彼らが特別に優れて心の清い、神に近い聖なる存在で、最も救済に近い人々であるかのように美化して描くことは、聖書に悪質に逆らう大変、危険な思想であると言える。
 
人はみな生まれながらに罪人であるという聖書の事実を否定して、社会的弱者も社会的強者と全く同じように罪人であるという点を見ず、社会的弱者だから無条件に救済に値すると考えて、弱者を無条件に美化し、弱者救済活動を行うと、結局、人間の原罪そのものを否定し、キリストの十字架を抜きに、人類が自力で自己義認し、神へ反逆するという、最も福音からほど遠い、恐ろしい思想につながりかねない。



2.「異なる福音」~聖書に基づく「救済」の概念を歪曲し、この世的な生活改善を「救済」とみなす異端~

   
かつて記事「疎外されし者たちの復讐の哲学~抑圧された社会的弱者や被害者の内に神を見いだす危険②~」の中で述べたように、キリスト教界において行われて来た弱者救済活動の中には、多くの信仰に基づかない非聖書的な活動があった。というより、弱者救済活動に励むキリスト教徒の指導者は、往々にして、自らが神を見いだせないという絶望に悩み苦しんでいた。上記の記事で挙げたマザー・テレサや、奥田牧師といった人々もそうである。

マザー・テレサは、死んだように形骸化して人への憐れみを失った冷たいキリスト教界の教会生活の中で神を見いだすことができず、神が実在しているのかどうか分からず、神に見捨てられているという絶望感に苛まれていたことを告白している。マザーは、教会にいる信仰者の中にキリストを見いだせず、絶望しか感じられなかったからこそ、路上生活者のもとへ赴き、「イエス=キリストは路上で 生活する貧しい人々に遍在している」と考えて、信仰を持たない貧しい人々の中にキリストを見いだそうと、弱者「救済」に励んだのである。

奥田牧師も同様に、釜ヶ崎のホームレスの置かれている悲惨な状況を目撃し、神はどこにおられるのか分からないという絶望感に苛まれ、自らの絶望をアウシュヴィッツを経験したユダヤ教徒のエリ・ヴィーゼルの告白に重ねながら、虐げられたホームレスの人々の中に神を見い出そうと、路上生活者のもとを訪れた。

形骸化して死んだように生気に欠け、人間への愛や憐れみを見失った従来のキリスト教界とクリスチャンの交わりの中で、神を見いだすことができず、むしろ、自分は神に見捨てられているという絶望しか感じることができなかったからこそ、その絶望感を癒すために、彼らはあえて教会から見捨てられた社会的弱者を対象に、救済活動を始めたのだと見られる。

従って、彼らの活動は、ただ社会的弱者のためだけに行われたというよりも、彼ら自身が、神に見捨てられたという自らの内なる絶望感を解消するために行われた自己救済の試みであった。

つまり、彼らは社会的弱者の哀れな境遇に自分自身を投影し、弱者に優しく手を差し伸べ、その生活の状態を改善することにより、神に見捨てられた絶望感から自分自身を救おうと試みていたのである。

マザー・テレサや奥田牧師は、キリスト教徒であったので、彼らの「救済活動」も、ともすれば、聖書に基づくものだと考えられがちであるが、実際には、彼らの唱える「救済」は、魂の救いという、キリスト教における聖書に基づく従来の「救済」とは全く異なるものであった。
 
だが、彼らの救済活動は、決して聖書に基づいて福音宣教の範囲を拡大することにより、従来のキリスト教界の手の届かないところを補い、宣教の範囲を広げることで、より多くの人々をキリストへ導くことを目的にはするものではなかった。

むしろ、従来の教会の宣教では、決して救いの対象とならないであろう見捨てられた人々を積極的に集め、彼らのために、教会の提示する従来の福音とは異なる福音を作りだすことによって、この人々を救いの対象外に打ち捨てて来た憐れみのないキリスト教界(ひいては神ご自身)に、深刻な疑念を提示し、抗議することを根本的な目的としていたのだと見られる。
 
たとえば、マザー・テレサは、キリスト教を押しつけないという理由で、インドの人々にキリスト教への改宗を促さなかったことが知られている。これを通しても、マザーの「救済」活動は、滅びゆく人々の魂をキリストへの信仰に導く福音伝道を第一目的としていなかったことが分かる。

正常なクリスチャンであれば誰しも、たとえ社会的弱者がどんなに手厚い支援を受けて、人として尊厳ある死に方をしたとしても、もし信仰を持たず、魂の救いに至っていなければ、罪や死後の裁きから逃れる道はなく、永遠の命もないということを否定しないであろう。

さらに、ホームレス伝道の場合も含めて、上記のように弱者救済に励む人々が、たとえ福音伝道をその活動の一部に含めていたとしても、彼らはほとんどの場合、社会的弱者への物質的・精神的支援の必要性を強調して、弱者を支援者である彼ら自身に依存させてしまうだけで、キリストの命にこそすべてがあって、キリストだけを頼り生きることによって、弱者が目に見える人間の支援者に頼ることなく、完全な自立に至ることが可能であることを決して教えない。そこで、ホームレスはホームレス生活からは抜け出られたとしても、今度は支援者につかまってしまい、教会の助けなしには決して自立できないような依存した状態にとどまってしまうのである。
 
困窮する社会的弱者が、弱さや困難から抜け出る秘訣は、本当は、人間の支援者による助けにあるのではなく、キリストの復活の命にこそある。悩める人に必要なのは、人間の与える一時的で不完全な物質的・精神的支援ではなく、神の御子の十字架における贖いの完全性を信じ、永遠の命に至り、この命に立脚して自立して生きることである。

この世の物質的・精神的支援は、それ自体、無意味ではないにせよ、すぐに尽きてしまう束の間の延命治療のようなものに過ぎない。それは人を死から救うこともできないし、人の抱えるあらゆる必要を不思議な天的方法で満たすこともできない。

だが、キリストの十字架の贖いによる救いは、永遠に至るものであり、信者がこの世においても、来るべき世においても、直接、神から助けをいただいて、目に見える誰にも依存せずに、自立して生きる解放を約束するものである。

だから、社会的弱者へどんなに手厚い支援を行なったとしても、もし人々にキリストの十字架の贖いを信じて魂の救済を受けとるように導かず、さらにキリストを信じさせたとしても、ただキリストだけに頼り、キリストの命だけによってすべての必要を供給していただくことが実際に可能であることを教えず、かえって人間の支援者らによる物質的・精神的支援へと依存させていき、彼らの救済活動の枠組みから決して外へ出そうとしないならば、それは偽りの救済活動であり、その対象とされてしまった人々には、目に見える支援者から自立して生きる道が半永久的に閉ざされてしまう。

そのため、こうした活動においては、「支援する側」と「支援される側」に、永久に埋まらない溝(区別)ができ、その格差の分だけ、支援者だけが、弱者の救済の美名を利用して輝き、弱者を土台にして、賞賛され、栄光を受けるのである。

従って、こうした神によらない弱者救済活動は、一見、弱者を解放するように見えても、決して弱者を真の解放へは導かない。むしろ、弱者をまことの神への信仰から遠ざけ、前よりももっと巧妙で気づきにくい新たな支配と搾取の構図の中にからめとって行くだけなのである。ただ、利用されている側の弱者は、前よりも生活が良くなったのは支援者のおかげだと思わされているため、その新たな搾取の忌まわしさが分からないだけである。
 
こうした弱者救済活動にいそしむキリスト教の指導者は、「救い」の概念そのものを歪曲し、すり替えてしまう。彼らの提示する「救い」とは、社会的弱者が、彼らの提供するこの世の物質的・精神的支援を受けて、生活状態が改善することを意味しているのであり、彼らが見えないまことの神を信じて永遠の命を受け取り、その命に基づいて自立して生きることでを「救済」とはしていないのである。

こうして、「救済」の概念をすり替えることにより、こうした指導者は、聖書の提示する救いとは全く異なる別の救済の概念を作り出し、聖書とは「異なる福音」を宣べ伝えているのである。

こうしたことを考えるならば、たとえ世間でどんなにマザー・テレサの「偉業」が誉めたたえられたとしても、彼女の活動は、聖書の信仰を土台とせず、この世的な支援だけを行い、人々の生活状態の改善を「救済」とみなすことにより、むしろ、最も大切な聖書の真理を、滅びゆく人々の目から覆い隠し、彼らがまことの神を信じて魂の救いを受けとる機会を奪ったのだと言える。そうした文脈で見ると、これはキリスト教的な救済事業ではあり得ないどころか、神の福音に本質的に敵対する活動であったということになる。ほぼ同じことが、キリスト教指導者によって行われるホームレス伝道についてもあてはまるのである。



3.「異なるイエス」~キリストは信仰者の内におられるのではなく、信仰を持たない社会的弱者のうちにおられるとする異端~

すでに述べた通り、上記のような弱者救済活動は、救済事業に関わるキリスト教の指導者自身が、神を見いだせないという絶望感から発生していた。

つまり、教会の従来の宣教活動によっては、決して福音伝道の対象とはみなされず、従って、救いの対象外となるしかないような人々が存在していた。献金を払う余裕もなく、教会活動に何ら有益な貢献ができそうにないという理由で、初めから伝道の対象から除外されて、教会から見放され、悲惨な滅びと死へと向かわされている人々がいた。――彼らは地上で苦しんでいるばかりではなく、伝道の対象外であるために、従来のキリスト教の教義によれば、来るべき世でも苦しみしか待ち受けているもののない人々である。――もし、彼らが教会の不作為により、福音を伝えられず、キリストを信じることなく死んでしまった場合、彼らの魂が永遠に救済されないというならば、一体、これらの人々は何のために生まれて来るのか、誰が彼らの存在に対して責任を負うのか、神と教会はなぜこれらの人々を見捨てているのかーー。

自分自身が教会で味わった絶望とあいまって、見捨てられた弱者への痛みに満ちた共感が生まれ、それが彼らを見捨てて来た神と教会とクリスチャンに対する深い絶望感と憤りとなって、上記のような活動へと、キリスト教指導者を追いやったものと考えられる。

そこで、彼らは教会からは暗黙のうちに「救いの対象外」とみなされているような貧しい路上生活者のもとへ赴き、意図的に彼らを対象にして、今まで彼らを疎外することしかできなかった教会の提示する「狭い救い」の代わりに、この世的な手厚い支援を救済とする「広い救い」を作り出して、教会とは全く別のやり方で、これらの人々を「救済」しようとした。

それだけでなく、こうした指導者らは、「神」の概念をもすり替え、キリストは、冷淡で愛を失い生気なく死んだような教会の、死んだようなクリスチャンの只中におられるのではなく、むしろ、教会から見捨てられているように見えるこれらの社会的弱者の中にこそおられるのだと主張した。

そうすることで、彼らは、実は、神から見捨てられた自分自身と、教会から見捨てられた社会的弱者とで、共同のリベンジを果たしていたのだと考えられる。つまり、彼らの論理によれば、神が本当におられるのは、信仰を持っていると自称して自己安堵しながら他者への憐れみを失い弱者を容赦なく教会の外に見捨てているクリスチャンの只中ではなく、信仰を知ることもないまま打ち捨てられている貧しい路上生活者の只中にこそ、神がおられるのであり、従って、その論理を推し進めると、神に本当に見捨てられているのは路上生活者ではなく、むしろ彼らを容赦なく見捨てて来た教会の方だということになる。

こうして、弱者救済活動の支援者らは、自らが教会の中で見いだせなかった救いを、路上生活者のもとに見いだそうとする。彼らは路上生活者に生活の支援を与えることにより、彼らを「救済」してやる代わりに、路上生活者の中に「キリスト」を見いだし、それによって自分自身が「救い」を得るのである。

従って、彼らの活動は、このような観点から見ると、聖書をさかさまにしたものであり、たとえキリスト教界を公に糾弾したり、これと敵対したりすることがなかったとしても、本質的には、この活動は、社会的弱者を容赦なく打ち捨てて来た従来のキリスト教界と、彼らを救いの対象としえなかった従来の福音に対する異議申し立て、告発、強烈なアンチテーゼの意味合いを持っているのだと言える。
  
だが、もちろん、そのような活動は、人の耳には優しく聞こえるかも知れないが、聖書に基づかないものである以上、虚偽であり、まやかしでしかない。

こうした活動では、本来、神の救いを宣べ伝える側に立っているはずキリスト教の伝道者が、宣べ伝えられる側の人々の方に救いを求めているという点で、本末転倒であるだけではない。信仰なくして社会的弱者のうちに「神」が宿っているとする思想は、人の原罪を否定して、生まれながらの人を神に等しいものとしている点で、聖書に真っ向から対立する異端思想である。
  
そこで、こうした「弱者救済」の思想は、マルクス主義と同じく、本質的には、グノーシス主義に分類されるのだと言える。グノーシス主義思想においては、人は生まれながらに神聖な要素を内に宿しているため、その神聖に覚醒して目覚めさえすれば、自らを抑圧から解き放って神の聖に達することができるとされる。

グノーシス主義思想においては、生まれながらの人の原罪は否定されており、人は罪深い存在であるどころか、むしろ「神聖な要素」を内に宿しているのであって、ただこれが抑圧されているために、転倒した状態にあるだけだとされる。そこで、この思想においては、人は己のうちに抑圧されている神聖な要素を解き放ち、自分自身の中で秩序転覆を成し遂げ、神聖な要素を全体に押し広げさえすれば、自ら神のように聖なる存在に到達できるとされる。そのような秩序転覆は、一人の人の内側において可能であるだけでなく、社会全体にもあてはめられる。その際、社会全体の秩序転覆のために利用されるのが、「抑圧された(聖なる要素としての)社会的弱者」の存在である。

つまり、こうした思想においては、社会において「抑圧されている弱者」が「神聖な」要素とみなされているのであり、この「聖なる」人々を抑圧から解き放つことにより、社会全体が「聖化」され、弱者のユートピアという地上天国に至るというのである。

このような文脈における「弱者救済」の思想は、ただ単に個人としての社会的弱者を抑圧された生活状態から救うことを目的として目指しているのみならず、それは社会事業としての意味を持っており、すなわち、弱者の集団を社会全体において抑圧から解き放ち、強者と弱者の関係を覆すことにより、弱者のユートピアを築き、社会全体を浄化しようとする意味を自ずから含んでいるのである。
   
むろん、このような思想には、人の原罪という概念もなければ、人類の罪の贖いのためのキリストの十字架もなく、従って、これがキリスト教に悪質に敵対する異端的な思想であることは明白である。このようなグノーシス主義思想は、早い話が、弱者による秩序転覆のクーデターを容認するものであり、これを正当化する根拠として、社会的弱者をあたかも聖なる存在のように祀り上げているのである。



4.己を疎外した神と教会とクリスチャンに対する復讐としての「弱者救済活動」

  
すでに見て来たように、マザー・テレサや奥田牧師のような「弱者救済活動」に励むキリスト教指導者は、自ら信仰者を名乗っているので、彼らの活動がグノーシス主義思想に基づいているのだとはなかなか外からは見えにくい。

だが、 彼らが「信仰を持たない貧しい人々の中にキリストを見いだしていた」という事実を考えれば、これがまことの神を否定するグノーシス主義思想に沿った考え方であり、彼らが聖書の示す「神」や「救い」の概念をひっくり返して、本来、聖書によれば、罪に定められるべき集団を「聖」とみなし、救われていないはずの者たちを「救われている」とみなし、神に属しているはずのない人々を「神である」と唱え、それによって、最終的には、見捨てられた社会的弱者と共に、神に見捨てられた自分自身を、神に等しい者として祀り上げようとしていたのだと言うことができる。

つまり、彼らは、たとえ公言してはいないにせよ、社会的弱者を「キリスト」と同じ高さにまで祀り上げることにより、彼らだけでなく本当は神から見捨てられた自分自身を「神」としていたのだと言える。すなわち、本当に「キリスト」がおられるのは、神への信仰を持っていると言いながら、死んだ教会の死んだクリスチャンの只中ではなく、むしろ、彼らから疎外され、見捨てられた社会的弱者と自分自身の只中であると言うのである。そう主張することによって、彼らは、神に見捨てられているという絶望感を払拭できるだけでなく、自分を神の愛から疎外した冷たい教会とクリスチャンに復讐を果たし、ひいては、そのような方法で、人類のごく限られた人々しか救いの対象としていない聖書の神の「狭い福音」そのものに異議を唱えているのだと見ることができる。
  
同様のことが、カルト被害者救済活動にあてはまる。すでに述べて来た通り、この活動も、弱者救済という美名を隠れ蓑にしてはいるが、それ自体が、キリスト教界に対する強烈なアンチテーゼであり、告発であった。この活動は、あえてキリスト教界で信仰につまずき、教界から見捨てられて、教界に根強い不満や恨みを持つ分子を集めて来ては、彼らの存在を利用して、キリスト教界に闘いをしかけ、教界を告発して攻撃し、秩序転覆をはかって来た。

つまり、カルト被害者救済活動の支持者から見れば、正しい生き方をしているのは不当に虐げられたカルト被害者であって、彼らを見捨てて来た冷たい教会と冷たいクリスチャンではない。さらに、「救済」に値するのも、虐げられたカルト被害者であって、教会の中にいて彼らを見捨てて来たクリスチャンではないのである。
  
こうして、キリスト教界から見捨てられた「弱者」や「被害者」の存在を口実に、彼らを見捨てたキリスト教界と冷たいクリスチャンを告発し、ひいては神ご自身を非難して、救いの概念を歪曲し、聖書の福音そのものに異議を唱えようとする活動が、カルト被害者救済活動なのである。たとえ彼らがあからさまに神を呪ったり、罵ったりすることがないとしても、彼らにとっての「神」の概念は、正常なクリスチャンと同じものではない。この活動が聖書から著しく逸れたものであることは、すでに幾度も指摘した通りである。
  
こうして、キリスト教徒を名乗っている人々によって行われる「弱者救済活動」は、必ずしも、聖書に基づかないどころか、こうした活動の指導者らには共通して、キリスト教界から見捨てられた社会的弱者・被害者こそ「救済」にふさわしい対象であるとして、弱者のために特別に、従来の聖書の福音とは異なる「救済」を提示することによって、弱者を苦しみの中に容赦なく見捨てて来たキリスト教界の「狭い救い」を否定し、ひいては聖書の提示する福音そのものを否定するという側面があることは否めない。彼らの唱える「救済」は、弱者の生活を改善するという地上のパンを第一の目的としてはいても、見えない霊のパンである聖書の御言葉に基づかないのである。
  
そのため、こうした聖書に基づかない、信仰を抜きにした弱者救済の思想は、それ自体が、神と教会とクリスチャンに対する異議申し立てであり、抵抗運動であり、復讐であると言える。
   
ここで思い出されるのが、ドストエフスキーの大審問官や、サンダー・シングなどの存在である。ドストエフスキーの大審問官は、聖書的な方法では人類のほんの一部しか救われないため、自分はこのような残酷で狭量な救いの代わりに、人類の圧倒的大多数を救うことのできる寛大で広い救いを作ってやるのだと述べて、教会の提示する方法では救われない圧倒的大多数のための新たな福音を提唱する。

サンダー・シングもまた、ヨーロッパのキリスト教界に接触した際、形骸化した教会生活と高慢なクリスチャンに深い絶望を覚え、こうした「自称クリスチャン」の中に神はおられないという結論に至り、それをきっかけとして、「ヨーロッパの地の塵を足から払い落とし」「貧苦に喘ぎながらも真剣に神を求めている東洋の人々へと」関心を移した。(「聖なる導き インド永遠の書」林陽訳、徳間書店、p.19。)
 
マザー・テレサや奥田牧師の場合と同様、こうしてクリスチャンを名乗りながらも、教会から打ち捨てられた人々を積極的に救いの対象とする「弱者救済活動」を行う指導者は、往々にして、従来のキリスト教界と従来のクリスチャンに対する深い絶望感、嫌悪感を心の底に秘めている。

彼らの「救済活動」は、神と教会とクリスチャンに対する絶望をきっかけとして始まっており、彼ら自身の自己救済のためであると言える。その出発から見て、必然的に、そのゴールは、神と教会とクリスチャンの「横暴」によって虐げられた者たちを、神と教会とクリスチャンの手から救うという性質を持つものとならざるを得ない。その結果、彼らは信仰による解決を退け、信仰によっては救われない圧倒的大多数のために、別の福音を作り上げるのである。
    
こうした人々の弱者救済活動は、ただ単に形骸化したキリスト教界に対するアンチテーゼであるばかりではなく、本質的に、聖書の提示する狭き門として「狭い福音」そのものに対する抵抗であり、抗議なのである。

彼らはその活動を通して、神自身の「横暴」と「偏狭な救い」から人々を救おうとしているのだと言えるかも知れない。だから、こうした弱者救済活動は、本質的には神を仮想敵としているのだと言えるのである。すなわち、神に疎外され見捨てられた「クリスチャン」が、同じように、教会に見捨てられた人々に自己投影し、この哀れな人々を「救済」することによって、自己救済を成し遂げ、さらには自分たちこそ神に等しい者であると主張することによって、自分を見捨て来た神と教会とクリスチャンに復讐を果たし、彼らを見返そうとする心理がその根底に横たわっているのだと考えられる。
 
従って、こうした弱者救済活動は、いかにうわべはキリスト教的な装いをまとっていたとしても、聖書に基づくものではなく、その支援者らもクリスチャンとは言えない。彼らの救済活動は、本質的には「神と教会とクリスチャンの唱える偏狭な救いに対する抵抗運動」なのであり、彼らが真に糾弾している相手は、彼らを理不尽な苦しみに遭わせ、見捨てて来た神ご自身なのである。
  
従って、神を隠れた仮想敵としているこうした活動に関わると、たとえクリスチャンであっても、結果として救いを失うことは避けられない。どんなに人の耳に優しく響いたとしても、聖書の福音そのものに対して異議を唱えるこの活動に関わることは全く勧られない
  
  



5. アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による危険な「弱者救済活動」
~弱さに居直り、被害者意識と自己正当化に溺れ、欲望に歯止めが利かなくなる信者~

  
さて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、すでに述べたように、社会的弱者やマイノリティに接近しては、これを積極的に信者に取り込んで来たため、今や教団内には、社会的弱者が溢れるようになった。

さらに、同教団は、こうした社会的弱者やマイノリティの「負の過去」を積極的に伝道の材料として利用して来たので、今や教団内では、元統一教会員や、元ヤクザであることは、何ら恥ずべきこととはみなされず、むしろ、普通の信徒らには欠けている稀有な経験や希少な価値であるかのようにみなされ、歓迎されるようになった。

同教団は、このように社会的弱者やマイノリティを美化して盛んに受け入れるだけでなく、大規模な「カルト被害者救済活動」を推し進め、平和な信仰生活を、弱者救済のための手段に変えて来た。その過程で、キリスト教界につまずいて、キリスト教界に根強い恨みや不満を持つ信徒らを積極的に集め、カルト被害者を「救済」するという口実で、彼らの憎しみや怨念を利用して、既存の教会に争いをしかけて来たのである。

その結果、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、社会的弱者とマイノリティとキリスト教界に不満や憎しみを持つ者たちの「天国」のようにまでなった。
 
同教団では、平和的な信仰生活を送ることよりも、弱者救済を口実に、キリスト教界を絶え間なく非難して、教会やクリスチャンを相手に恒常的に争いに生きることこそ、信仰生活であるかのようにみなされ、争いが第一義的課題のようにまでなったのである。
 
だが、同教団の推進する「カルトとの闘い」は、当初から予想された通り、内ゲバや外ゲバのような泥沼の闘争へと発展し、あらゆる教会や信徒に対する無差別な迫害へと様変わりした。その活動はキリスト教とキリスト教界そのものに対する破壊運動のような様相を帯びて行ったのである。
 
こうした状況を考慮すれば、もはやアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団そのものが、聖書の神と教会とクリスチャンに敵対する者たちの要塞となり、キリスト教界全体に戦いを挑むことを第一目的とする極めて危険な集団になっていることが分かるであろう。
  
教団の誤った非聖書的な教えのために、教団の信徒らも、深刻な悪影響を受けた。 同教団からは、一方では、被害者意識に溺れ、弱さを武器にヤクザのようにクリスチャンを恫喝しては、身勝手な利益をほしいままに引き出す「信者」が生まれたかと思えば、他方では、怪しい非聖書的な霊的ムーブメントに欺かれた結果、偽りのメッセージを盛んに述べ立てては信徒を惑わせ、最終的には呪いや滅びの予告を捨て台詞に立ち去って行く破壊工作型の「信者」も生まれた。(Br.Takaなどは後者の顕著な例である。)いずれの場合も、彼らの真の目的は、信徒らの交わりを私物化して破壊し、兄弟姉妹に深刻な害を与えることにある。

私が関わっただけでも、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に深い関わりのある信者たちは、例外なく深刻なトラブルメーカーであった。デリラがサムソンに誘惑をしかけたように、彼らは自らの弱さを武器に、、自分よりも強い者を脅し、非難しては、罪意識を抱かせ、自分の前にひれ伏させ、謝罪させることに、至上の喜びを見いだしているようであった。
 
統一教会を脱会してアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団へ転籍するというカルト被害者救済活動のお決まりのコースを辿ったある信者は、兄弟姉妹の交わりを求めているように主張していたが、途中から、自らの切迫した生活状況を赤裸々に告白し、交わりを自分の個人的な必要を訴える場へと変えてしまった。そして、兄弟姉妹に具体的支援を求めて懇願を重ね、同情を勝ち得て、身内や信者から総額何百万円にも及ぶ借金を重ねることに成功した。だが、それほどまでに手厚い支援を受けながらも、彼はそれを有効に生かすことができず、次々と事業に失敗した挙句、最後には、自分に十分な同情を示してくれないクリスチャンを冷酷だと非難し、非クリスチャンの方がよほど同情的で信頼できると捨て台詞を吐いて立ち去るのであった。それなりの年齢で、家庭もきちんとありながら、常にクリスチャンに自分の生活改善などの必要のために利用することしかできず、幾度にも渡り手厚い支援を兄弟姉妹からむしりとったその後に、クリスチャンは信用ならないと捨て台詞を吐いて立ち去るのだから、始末に負えないとしか言いようがなかった。
 
こうした信者らを観察した結果として言えることは、彼らは従来の教会とクリスチャンに対する根深い恨みと被害者意識を心に抱えており、それゆえに、たとえ表面的には真の信仰や交わりを求めているように見えても、実際には、兄弟姉妹を自分に都合よく利用したり、身勝手な理由で非難しては懺悔させたり、精神的・物質的に搾取して損害を与えるような有害な形でしか関われないということであった。
 
どのように説得しても、彼らは自分たちの抱える問題を解決できるお方は神であり、ただ神だけに頼って自らの必要を供給してもらうことの方が、人に頼ることに比べ、はるかに安全な方法であることを信じようとはしなかった。また、兄弟姉妹がどれほど彼らに同情を注ぎ、支援を行なっても、彼らを教会やクリスチャンに対する被害者意識から逃れさせるのは、人の力では無理だという事実が判明するのである。

そこで、結論として言えるのは、このような「信者」を相手にしても、クリスチャンには損失以外、何も得られるものはないということである。彼らを被害者意識から立ち直らせるのは神の仕事であって、人の仕事ではない。同情はかえって恨みを増長させるだけで、あだにしかならない。そもそも兄弟姉妹の交わりを第一目的にしておらず、教会を自分の必要を訴える場と誤解している人々をクリスチャンが受け入れても、信仰的に結ばれる実は皆無に等しい。
 
さらに悪いことには、彼らは弱者に偽装しているだけで、本当の意味で手を差し伸べられるべき弱者ではなかった。よく観察してみれば、彼らが本当に困窮している人々に比べて、実に多くの富を手にしていることが分かる。だから、彼らは単に自分の弱さを巧みにアピールの材料として利用し、都合の良い利益を得るために、クリスチャンに接近しているだけだと分かるのである。 
  
しかし、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者にはあまりにもこの手の信者が多かった。 
このようなことが起きる背景には、すでに述べて来た通り、同教団が推し進めて来た誤った人類(弱者)救済思想が深く影響していることは否めない。同教団は、教会と信仰生活を、人が神に従う場ではなく、人が神を利用して自分の欲望をかなえる場所へと変えてしまったのである。

その結果、同教団の誤った教えに影響された「信者」らも、信仰生活とは、信者が聖書の御言葉に服し、見えない神に従い、見えない神を喜ばせるために送るものではなく、目に見える人間である自分自身を喜ばせ、己の欲望を満たす場であり、堂々と自分の必要を声高に主張して、兄弟姉妹をその欲望をかなえる手段として利用しても構わないという誤解に陥って行ったのである。しかも、彼らにとっての「神」とは、どうやら、聖書の見えないまことの神ではなく、社会的弱者である自分自身を指しているらしい。

このようにして「社会的弱者」であるがゆえに、自分自身を正当化し、被害者意識と、自己陶酔に陥り、自分を「神」のようにまでみなしてしまった人々は、もはや恥も外聞も罪の意識もなく、途方もない厚かましさで、兄弟姉妹の交わりを自分の欲望をかなえるための手段として利用する。その挙句、自分の願いに沿わない兄弟姉妹を容赦なく罪定めして退け、最終的には、信仰を持たない人々のうちに神がおられると言って、教会とクリスチャンに背を向けて、信仰者の目の前から立ち去って行くのである。
 
余計なお世話ではあるとはいえ、こうした人々が、たとえ教会とクリスチャンの冷酷さを非難して、教会に背を向けて、信仰を持たない人々のもとへ逃走したとしても、常に他人を利用して同情と支援を乞うばかりで、自分の人生に対して何ら自分で責任を負うことのできない無責任で甘えに満ちた態度では、その後も、正常な人生を送ることはできないであろうと思う。最初は気前よく同情し、支援を与えてくれた人々も、何度も同じことが繰り返されるうちに、本質的な原因がどこにあるのか見抜いて行く。

本質的な原因は、その人自身の信仰の欠落にある。神ご自身に頼って生きる秘訣を学ばない限り、彼らは人の助けや理解をどれほど得たとしても、結局、それを有効に生かすことができず、同じ問題が延々と繰り返されるだけに終わるのである。
 
だが、こうした無責任で甘えに満ちた信徒を大量に生んだ責任はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団にある。同教団は、社会的弱者をさかんに美化することにより、彼らを自己陶酔に陥らせて、罪の悔い改めの機会を失わせた。そして、信者が自らの弱さゆえに、自分は清いと考えて己を神に等しいものとみなして自己の欲望を正当化し、他の教会やクリスチャンを見下しては、被害者意識をバネに、彼らを自分の利益を引き出す道具とすることを積極的に奨励して来たのである。
 
聖書がすべての人間は生まれながらの罪人であると教えている以上、たとえ社会的弱者であっても、神の御前に己の罪を否定し、御言葉に服さず、御手の下にへりくだることをしないならば、その人の末路は悲惨なものとなることは避けられない。

たとえ理不尽な苦しみを通されることがあったとしても、すべての人は神の御手の下にへりくだらなければならない。神こそ、人の弱さと苦しみをすべて理解し、人に必要な支援を与えて下さる方である。どれほど兄弟姉妹に失望することがあっても、性急な復讐に走らず、人に助けを求めるのではなく、忍耐強く神だけを待ち続ける態度がクリスチャンに求められている。
  
もし神を畏れることが知恵の初めならば、神を否定することは精神崩壊の始まりである。神は信者の内側には住んで下さっても、信仰を持たない社会的弱者のうちにはおられない。にも関わらず、社会的弱者を「神」のように美化し、人が己の欲望を成し遂げることを「救済」とみなし、福音からほど遠い非聖書的な活動を推し進めるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には、決して関わらないことをお勧めする。

「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、
多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。
かれらの 思いは地上のことだけです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のかたらだと同じに変えてくださるのです。」(ピリピ3:18-21)

「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久からの恫喝メールおよび杉本徳久が刑事告訴された事実③

<追記2>
 2018年2月に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。

杉本の多年に渡る嫌がらせについて、また、村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事やその他で詳しく記しているため参照されたい。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実

なお、当ブログが杉本の嫌がらせ行為について、警察に相談を行っていることを最初に警告したのが2012年に記した「杉本徳久氏への公開書簡」の記事であった。この記事の中で、当ブログ著者は、親切にも、杉本本人に向かって、杉本が当ブログから気に入らない記事を削除しなければ、当ブログ著者の個人情報を無断で公開するなどと息巻いていることが、名誉毀損やプライバシーの侵害の罪に当たることを警告したが、杉本はこの警告を考慮しなかった。

杉本は当ブログ著者が杉本の嫌がらせ行為について警察に相談しているという事実を嘘だと思いたかったようであり、なおかつ、当ブログを名誉毀損で訴えるつもりだったようであるが、実際には、当ブログ著者が杉本の行為について警察に相談していたことは事実であり、杉本の当ブログへの告訴も成らなかった。

なお、当ブログは2012年頃より、掲示板に記された嫌がらせコメントなどについて告訴が可能な旨を警察からアドバイスされていた。ただし、より明白な証拠を得たいがために踏み切らなかっただけである。(読者には掲示板のコメントでも告訴される可能性が十分にあることをよくよく熟慮されたい。)

 これは「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール②」の続きである。
 
その後、4月30日 4:03:32 JSTにも、杉本徳久氏からは次のようなメールが来たので、補足的に公開しておく。 ただし、メールフォームはすでに閉鎖しており、今後はもう使用できない。

それにしても、ゴールデンウィークにまで他人に恫喝メールを送りつけずにいられないとは! 記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール➀」にも示しているように、これまでにも、同氏からのメールの多くは、新年やクリスマスシーズンなど、世間の人々が最もくつろぎ、楽しんでいる時分に届いていたが、 こうして休暇中にまで人を脅しつける平和で落ち着いた家庭人からは程遠いその姿に、哀れを催さずにはいられない。

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 ▼投稿されたメッセージ
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REMOTE_ADDR: 219.215.163.80

[ 名前c ]
杉本徳久


[ メールアドレスc ]
sugimotonorihisa@gmail.com


[ メールアドレス再入力c ]
sugimotonorihisa@gmail.com


[ 件名c ]
4/25付の投稿につきまして


[ ご感想c ]

前略、ヴィオロンこと〇〇様
杉本徳久です。先に私があなたへ送信したメールを引用され、4/25付の新しい投稿を読みました。こちらですね。


http://godslove.kamakurablog.com/Entry/115/



 私はあなたをいたずらに挑発したくてご連絡をとったわけではありませんが、いったい、どういうおつもりでしょうか。

あなたは再三、意味不明の論旨を連ねていますが、全く理解しかねます。

私から警察へ刑事告訴して〇〇さんを法的に訴えてほしいのでしょうか?

(当ブログの記事をきちんと読めば、趣旨は理解できるはずである。それでも理解できないのは、自分に不都合なことを杉本氏が何も理解しようとしていないだけである。

杉本氏は、自分にとって不都合な記事の削除を他者に迫る前に、自分自身が、2009年にヴィオロンが削除を要求したコメントを速やかに削除し、ヴィオロンについて記した一連の誹謗記事を削除してから、人にものを頼むのが筋であろう。自分だけは人をさんざん誹謗しておきながら、それに対する反論も許さないという態度は筋違いである。

杉本氏からは、以前から何度も「何らかの対応を取らねばならない」という脅しメールをもらっているが、同氏は、不法な個人情報の暴露を予告して筆者を脅迫したり、嫌がらせのアクセス集中を行なったりしているだけであり、一向に、正式な方法で、筆者に対峙して来たことがない。常に「訴えるぞ」と相手を脅しているだけで、提訴が成り立たないのである。)

数年前からあなたは私が行ったと主張する「恫喝」、「脅迫」について警察へ相談したと主張されますが、いったい、どこの警察へ、何の罪状で相談されたのでしょうか。当方のところへはどこの警察のどの刑事さんからも一本の電話も、一通の連絡も来ておりません。事件として受理もされていないと思いますが、どういうことでしょうか。


(当ブログで示している杉本氏の違法行為について、杉本氏がどんな形で責任を問われることになるか、前もって杉本氏に知らせる必要はない。いずれにせよ、同氏が筆者に対して行って来たすべての所業は否定できない証拠が残っており、関係機関へも情報提供されており、やがて同氏が罪に問われることになると言えるだけである。当ブログに途中経過は記載しない。明確な結果だけを公表する。)

これ以上、この様な投稿活動を続けられるようでは当方、何らか対応を取らねばならないと思っております。

(このような投稿活動をやめるべきは杉本氏である。まずは筆者の要求したコメントを削除し、筆者について記したブログ記事を全文削除の上、ネット上の不法なアクセス集中を含めた嫌がらせ行為をすべてやめていただきたい。)


直ぐにお辞めいただきたく、また、きちんと削除して下さい。

以上、よろしくお願いします。

2016年4月30日 杉本徳久

(筆者はすでに記事を削除する理由が存在しないことをきちんと説明している。杉本氏が、自分で書いた恫喝メールも含め、一連の記事を公表されると困るというのであれば、違法な方法で筆者に嫌がらせを加えるのではなく、まず、筆者について杉本氏自身がブログに公開しているすべての誹謗中傷の記事及びコメント、筆者の著作物の無断転載を行なっているブログ記事、さらに2009年当時から筆者が杉本氏に削除を要求しているコメントを速やかに削除した上、筆者に対する様々な嫌がらせ行為を謝罪し、生涯に渡り、二度と筆者に関与しないことを公に約束することをお勧めする。それができないのであれば、正式な責任追及は免れられないであろう。)

「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久からの恫喝メールおよび杉本徳久が刑事告訴された事実②

<追記>
 2018年2月に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。

杉本の多年に渡る嫌がらせについて、また、村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事やその他で詳しく記しているため参照されたい。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実

なお、当ブログが杉本の嫌がらせ行為について、警察に相談を行っていることを最初に警告したのが2012年に記した「杉本徳久氏への公開書簡」の記事であった。この記事の中で、当ブログ著者は、親切にも、杉本本人に向かって、杉本が当ブログから気に入らない記事を削除しなければ、当ブログ著者の個人情報を無断で公開するなどと息巻いていることが、名誉毀損やプライバシーの侵害の罪に当たることを警告したが、杉本はこの警告を考慮しなかった。

杉本は当ブログ著者が杉本の嫌がらせ行為について警察に相談しているという事実を嘘だと思いたかったようであり、なおかつ、当ブログを名誉毀損で訴えるつもりだったようであるが、実際には、当ブログ著者が杉本の行為について警察に相談していたことは事実であり、杉本の当ブログへの告訴も成らなかった。

なお、当ブログは2012年頃より、掲示板に記された嫌がらせコメントなどについて告訴が可能な旨を警察からアドバイスされていた。ただし、より明白な証拠を得たいがために踏み切らなかっただけである。(読者には掲示板のコメントでも告訴される可能性が十分にあることをよくよく熟慮されたい。)


以下の記事「村上密牧師による自己流の「異端審問」」を掲載したところ、早速、杉本徳久氏から、当ブログのメールフォームを利用して、次のような手紙が来たため、読者へのお知らせを兼ねて、この場で公開しておく。

杉本氏からは以前にも、同氏にとって気に入らない記事を削除せねば、ヴィオロンの個人情報を無断で公開するなどの脅しを含むメールが何通も来ており、その文面は、記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール」でも示している通りである。

2012年頃から、実際に杉本氏の恫喝と予告の通り、当ブログの管理人に対するプライバシーの侵害等を含む悪質な書き込みが匿名掲示板に大量に書き込まれ始めたことは周知の通りであり、この件に関しては、杉本氏以外にそのような行為を行なう意図を予め筆者に伝えて来た人間は誰一人存在しない。
 
なお、当ブログ管理人は個人情報を公開していないが、筆者の意に反して、無断で筆者の個人情報を公の場にさらす行為は、罪に問われる可能性があることも警告しておく。さわやか読者の情報も蓄積されているので、これらを合わせると、嫌がらせ工作員の個人情報が特定されて、個人名が公表されるだけでなく、賠償責任などの形により、個人的に責任追及がなされる可能性が十分にあることをこの場で述べておく。

このように本人からの投稿があったことにより、記事「村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(後編)」にて示したIPアドレスが、杉本徳久氏のものであることが確定した。

以下の二つの投稿の時間は、それぞれ2016年4月25日13:26、同日13:27である。

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  ▼投稿されたメッセージ
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 REMOTE_ADDR: 219.215.163.80

 [ 名前c ]
杉本徳久

[ 件名c ]
ブログの記載につきまして その1

[ ご感想c ]
拝啓、「ヴィオロン」こと、〇〇様、

武蔵野市吉祥寺北町の杉本徳久です。少し前から再開された〇〇さん執筆のブログの記載につきまして、内容を読み、大きな問題がありますのでご連絡申し上げます。

相変わらず、気に入らない他人のブログ記事内容に削除を迫るためとはいえ、今までずっとメールで連絡して来ていた杉本氏が、急にメールフォームから連絡する気になったのには、どういう意図が隠されているのか、これまでのいきさつを振り返ると、疑わないわけにはいかない。

同氏からは、上記した通り、以前にも、同氏にとって気に入らない記事を筆者が削除しなければ、筆者の個人情報を無断で公開するとの脅しメールもいただいており、それは記事「カルト被害者救済活動の暴走―杉本徳久氏からの恫喝メール」に示した通りである。

そこでもし今回、筆者が杉本氏にメールで返信をするようなことがあれば、同氏はそれを機に、筆者のメールの文章や、メールアドレス等の個人情報も、ブログに公開するのが目的であったのかも知れないと考えられる。

以前の杉本氏からの脅しメールの内容を振り返っても、同氏に対して個人的な密室でのやり取りは無用と判断しているため、ここに杉本氏の文面と、筆者の見解を記しておく。

誤解のないように伝えておくが、これは杉本氏に限った措置ではなく、メールフォームからの投稿であっても、公表すべきと筆者が判断するものがあれば、随時、公表して行く。ただし、このブログ始まって以来、メールフォームから筆者に否定的なコメントを送って来た人間は、杉本氏以外にはいない。

たまには、他者への和やかな挨拶と、人の作品を誉めるということから、コメントを始めてはどうかと思うのだが、杉本氏に限ってはそのような忠告も無用であろう。
  
さて、今回の杉本氏の投稿の趣旨も、今までの恫喝メールと同じで、要するに、同氏にとって気に入らない、同氏に関して否定的な内容を記載する記事もしくはその記事から同氏の実名をすべて削除せよという要望である。だが、相変わらず、杉本氏には削除を丁重に依頼する口調が全くない。
 
それでも、以前に比べれば、文面がトーンダウンしており、人をいたずらに罵倒したり、嘲笑するような口調や、檄文のような憤りに満ちた文章や、ドラマから取って来たような感情的で陳腐な紋切り型の啖呵を切るようなことは減ったようである。
 
〇〇さんがかつて「主にある兄弟として信頼」しているとされていたKFCの唐沢治(Dr.ルーク)さんらとなぜ、今は絶縁しているのかなど詳しい経緯はわかりませんが、こと、私に関する記事については看過ならない内容が多くあります。

なぜかここで唐突に唐沢氏の名前が登場する。いつも驚かされるのは、なぜ杉本氏がこれほどまでにルーク氏の話題を筆者に対して頻繁に繰り返すのか、ということである。

よほど杉本氏には、ルーク氏と筆者との関係が気になって気になって仕方がないように見受けられるが、一体、どんな理由で、筆者がルーク氏と親交を結ばなければならないというのだろうか。

「なぜ、今は絶縁しているかなど詳しい経緯はわかりませんが」などと残念そうに書かれているが、筆者のブログを読めば、KFCの理念に対して筆者がどのような態度を取っているかは明白である。にも関わらず、杉本氏は、常に信者間に起きることを、信仰や理念の問題として理解することができず、三流映画のような人間模様のドラマとしてしかとらえられない様子である。いつまで経っても、何年も前の大昔の出来事を引っ張り出して蒸し返さざるを得ないのは、よほどブログに掲載するゴシップのネタが足りなくなっているからなのであろうか。

だが、同氏が「詳しい経緯はわからない」などととぼけているのは、おそらくは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者であったBr.Takaこと鵜川貴範・直子夫妻がKFCを乗っ取った事件に知らぬふりを決め込むためではないかと思われる。この事件は、唐沢氏と私とを分裂させ、KFCを地上から消滅させるために、悪意をもって引き起こされた工作であったと考えられる節が極めて大きいのだが、こうした出来事について杉本氏は、自分は詳しい経緯を知らないと、問われてもいないのに自己弁明せずにいられないような、何かの後ろめたい事情が存在しているようである。
    
例えば、京都の村上密牧師からの指示を受け、「杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」と書かれていますが、私はそもそも村上さんと面識がありません。お会いしたことも電話をしたこともなく、他界された石原牧師などを介したりしたこともありましたが、簡単な事務的メール連絡を取ったことが何度かあるだけです。その私が、どうやって村上さんからの指示を受けて「サイバーカルト監視機構」を主導することなどできましょうか。また、そもそもそのような「機構」は私の知る限りこの世に存在しませんし、私がそれに関与していることなど全くありません。
 
何としても「カルト監視機構」とは無縁だと主張したい杉本氏の思惑が見て取れる文章である。杉本氏が村上密氏と面会したことがないのは事実かも知れないが、直接面会しなくとも、親交を結ぶ方法はいくらでもあり、村上氏とのメールでのやり取りがあることは、杉本氏自身が認めている。こうして、メールのやり取りがあり、人物を互いに確認しているわけであるから、村上密氏と杉本氏に面識がないという結論には至らないであろう。

さらに、私はブログ記事の中で、杉本氏と村上氏との間にどんな面識があるのかについては触れていない。私が記事に書いているのは、この二人の思想的共通性である。
 
二人はまずカルト被害者救済活動を支持し、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を擁護し、ヴィオロンを非難し、鳴尾教会の教団離脱に反対し、津村昭二郎氏を擁護し、鳴尾の山田牧師夫妻を非難するといういくつかの点を見ただけでも、思想的立場をほぼ完全に同じくしている。

杉本氏が、村上密氏の行うカルト被害者救済活動を支持し、カルト被害者を名乗る信者に積極的に接触を図っては、村上氏が「疑わしい」とみなした牧師に対する裁判を後押しして来たことは、杉本氏自身が記事に書いていることであり、被害者間でもよく知られている。

このように、村上氏と杉本氏との両者は思想的に共通した見解を持って、同じ活動の枠組みの中で互いを擁護し支え合って来たのである。もっと言えば、以下に示すように、杉本氏は村上氏を擁護する内容の記事を多数書いていることから、師弟のように密接な関係とまでは言えなくとも、一定の尊敬を村上氏に対して持っており、常に村上氏を支持する立場から活動しているように見受けられる。
 
村上氏と杉本氏との活動は、カルト被害者救済活動を通して、教団教派や教会の枠組みや規則を飛び越えて、これを無視して他教会の内政に干渉し、カルト化の疑いありとみなした教会に対して、ネットによる吊し上げを助長し、司法の強制力を用いて弾圧を試みて来た点でも一致する。

だが、杉本氏はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者ではないため、本来は、鳴尾教会のような他教団の事情に首を突っ込むことができる立場にはない。そもそも、プロテスタントの信者でもない人間が、どんな権限があって、自分が属していないプロテスタントの諸教会の内政に干渉し、その内情を探り出し、暴露するような記事を書くことが許されるのか、甚だ疑問である。
 
同様のことが、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する村上密牧師の場合にも当てはまる。村上密氏のカルトとの闘いも、同じように教界内規則に基づかない単なる越権行為でしかないが、そのような越権行為を、裁判という強制力を用いて正当化できると考えている点でも、村上氏と杉本氏の見解は一致している。

しかも、両者の記事の中には、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の関係者でなければ、決して知り得ない情報が含まれており、鳴尾教会に関する裁判の経緯などに関する杉本氏の記事は、教団離脱に反対した鳴尾の信者をバックアップする立場から書かれており、それはおそらくは教会関係者への接触なしには書けない事柄であり、また、その記事内容は、鳴尾教会の教団からの離脱を裁判によって阻止しようと試みていた村上密氏の活動を支援する立場から書かれている。鳴尾教会に関する杉本氏の一連の記事は、村上密氏の思想的立場や、同氏の利益と完全に一致する。
 
村上氏と杉本氏とは共に、事実に反して、鳴尾教会の現在の山田牧師夫妻を、あたかも異端に走った教職者として不適格な人物であるかのように描き出して非難し、鳴尾教会のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からの離脱という出来事を、山田牧師夫妻による「陰謀」や「教会の乗っ取り」であるかのようなストーリーをブログ記事で描き、牧師夫妻を非難している点でも一致する。

一体、村上サイドに立つ情報提供者の協力なしに、どのような方法を用いて、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団には無関係なはずの杉本氏が、このような記事を書くに至ったのか。杉本氏がかなり中枢深くまで同教団の内情に食い込んでいる様子がはっきり伺えるのである。
  
このように、両者の見解は、驚くほどに共通しており、しかも、その主張の盲点や、事実に反する虚偽の主張についてまで、大筋で完全に一致しているのである。

こうしたことから、村上氏と杉本氏は、いわば思想的な同志のような関係にあって、互いの主張を補い合うという文脈で協力し合って来たことが明白であり、そのことは、村上密氏自身も、自らのブログ記事において、杉本氏の記事を引用していることでも裏付けられる。

さらに、サイバーカルト監視機構という呼び名は、私がつけたものであるにせよ、村上氏や杉本氏が、自ら「カルト化の疑いあり」とみなした教会や牧師や信者を、ネット上で袋叩きにする活動を積極的に後押しして来たことは事実である。

両者が、特定の教会やクリスチャンについてネガティヴなイメージを広めるために書いた記事は、実際に、ネット暴民のような身元不明のユーザーやコメント者を煽り立てて、記事でターゲットとされている人物への嫌がらせのコメント等を助長し、ブログの炎上を起こしたりする効果を与え、ネット上の集団的嫌がらせを次々と生んで来たことは事実である。

そのことは、杉本氏が自身のブログに掲載した私に対するバッシング記事に、一千件のコメントがついた事実を見ても明白である(むろん、この一千件のコメントは水増しの可能性が極めて高いので、実際に書き込んだ人数は数人程度かも知れないが)。このようにネットを利用して、村上氏や杉本氏の活動に賛同しない信者に対する組織的な嫌がらせが行われて来たことは事実であり、こうしたネット暴民のようなネットユーザーによる特定のクリスチャンに対する行き過ぎたバッシング、クリスチャン・ブロガーへの吊し上げや、悪質な書き込みの助長、悪意あるアクセス集中によるブログの検索結果の意図的操作等、ネット上の集団的な嫌がらせを生む母体となって来たのが、村上密氏や杉本徳久氏のブログ記事なのであり、これらの集団的悪意を総称して、私はサイバーカルト監視機構と呼んでいるのである。

このように、ある一定の目的のために活動するネット上の集団的悪意が存在することの証拠として、私はさわやか読者に関する情報を記録に残し、公表して来た。こうした読者らの動きを見ると、彼らが何を目的にしているのかも、おのずと見えて来る。匿名掲示板に大量に書き込まれた筆者に対する嫌がらせのコメントも、村上密氏を擁護する立場から書かれているが、そのようにして私の個人情報を公開すると事前に脅迫して来た人物は、杉本氏の他にはいない。こうしたことからも、村上密氏の活動に好ましくない特定のクリスチャンに対するバッシングによる印象操作や嫌がらせを、杉本氏が分担して担当している構図が見えて来るのである。
 
現実に接点がなくとも、インターネットで知り合った者同士が、思想的に手を結んで、同様の内容の記事を掲載して行くということは十分にあることで、それがたとえ計画的な形でなくとも、コメント者などを巻き込んで、行き過ぎたバッシングという見えない悪意につながっていくこともよくあることである。まして、元記事が悪意による誹謗中傷を含んだ内容であれば、それを鵜呑みにした読者らが、ターゲットとされた人物への集団攻撃に加勢することは容易に起きうる。

本来、ブログ記事は、そのようなことが起きないように配慮して書かなければならないが、村上氏と杉本氏は、最初から特定のクリスチャンを貶める目的で、事実に反して記載して来た決めつけの誹謗記事(たとえば、私や鳴尾教会牧師に対する記事内容については別稿で反論しているので、ここでは触れない)を次々と発表しては、多くのコメント者やネットユーザーを悪意による便乗的な嫌がらせへと駆り立て、ターゲットとされた人の人物評価を長年に渡り、貶めることに貢献して来たのである。

こうした行為は、罪に問われて当然の他者への名誉棄損、信用の重大な毀損であるが、そのような効果を最初から狙って、村上氏や杉本氏は一連の記事を書いて来たのであり、このようなネガティブ・キャンペーンと言える記事を発表することや、また、こうした記事を作成しては、ネット上で次々と好ましくない人物に弾圧を加えて行くことを肯定する思想と行動そのものが、カルト監視機構の本質なのである。
 
村上氏と杉本氏は、私のブログを常に「創作」と呼んで、事実に基づかない空想物語のように決めつけているが、その点でも、二人の主張は驚くほど一致している。
 
さらに、杉本氏は、「自己愛性妄想だ」とか(このような用語自体が「杉本用語」であり、公の概念としては存在しないのであるが)、「訳の分からぬ妄想的な珍説を並べている」などとヴィオロンを罵倒し、嘲笑するような言葉をいくつも並べては、長期に渡り、当ブログを酷評する記事をいくつも掲載して来た。その記事も全文データが残っているので、杉本氏によって書かれた他のスパム記事と共に、近日中に注釈を加えて公表する予定である。

鳴尾教会の教団離脱に関しても、杉本氏は、山田牧師夫妻について、具体的な根拠も提示せずに、一方的に「道に外れている」と決めつけたブログ記事を発表し、村上氏と同じように、鳴尾教会の教団離脱に反対する立場から一連の記事を書き、牧師夫妻のイメージを貶めており、こうした記事がコメント者らをいたずらに夫妻への嘲笑やバッシングに駆り立てて来たことは、杉本氏の記事につけられたコメントを一読しただけで分かることである。

このように、村上氏と杉本氏はネット上で手を組んで、自ら敵とみなした人物の評判を貶めるためのネガティブ・キャンペーンを積極的に展開して来たのであるが、杉本氏が鳴尾教会に関して掲載した情報は、その多くが捏造された不正確な情報であるにせよ、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の内部から出て来たものであり、関係者への接触がなければ知り得ない事柄であり、なおかつ、村上サイドから提供される情報と内容的に一致している。

しかも、鳴尾の山田牧師夫妻に関しては、異端の疑惑は教団内でさえも認められていないにも関わらず、全く根拠なく、杉本氏が彼らを「道に外れている」と非難していという点でも、杉本氏の見解は、その決めつけに満ちた事実に反する一方的で盲信的な主張という欠点において、村上氏の見解と瓜二つなまでに一致している。

ちなみに、杉本氏は、村上密氏のカルト監視機構の発想に全く反対を唱えたことがなかった。

こうして、杉本氏がこれまでにブログに記載して来た特定のクリスチャンに対する誹謗記事は、あらゆる角度から見て、村上密氏の主張と同一の思想を基盤とするものであり、村上密氏の活動を擁護し、支援する立場から書かれたものであることは疑いの余地がない。そして、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信者ではない杉本氏に、ここまで事件の詳細を(しかも歪曲された一方的な角度から)情報提供できる人物は、村上密氏(とその関係者)以外には見当たらないのである。

こうした杉本氏の記事が原因となって、今日に至るまで、私のブログに対しても嫌がらせ工作が繰り返されているのだが、その嫌がらせ工作者の多くは、あからさまに杉本氏の記事から当ブログへとリンクして来た形跡が残っている。こうした証拠があるにも関わらず、それでも、杉本氏が自分がブログ記事で行っているネガティブ・キャンペーンが、ターゲットとされた人物に対する読者らの嫌がらせを煽るものではないと主張するつもりであろうか。

しかも、もっとあからさまな事実は、嫌がらせ工作を続けている読者の中に、杉本氏のものとしか考えられないIPアドレスが含まれており、その特定のIPアドレスから当ブログに対して、頻繁に異常なアクセスが集中していることである。これについては以下の記事を参照されたい。

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(前編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(中編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(後編)
  
さて、村上密氏と杉本徳久氏の最も重大な思想的な共通点は、両者がこのようにネットや司法の場を利用して、自ら「疑わしい」とみなしたクリスチャンたちに対して、恫喝訴訟をしかけたり、私刑と言って差し支えない不法なバッシングや、脅迫や嫌がらせなどの圧迫による個人攻撃を行ない、気に入らない人物に対して、この世の法律や教会の規則に基づかない行き過ぎた懲罰的で報復的な行為を容認し、さらにはこれを積極的に奨励してさえいることである。
 
このように、聖書に基づかずに、人間が他者の内心の自由を侵害してまで、自らの思惑に基づいて、神のように他人を裁き、人の内心を監視し、誤った思想を罰し、是正しようとする危険な思想と、こうした思想を容認する活動をこそ、私はこれまで「カルト監視機構」の本質として糾弾して来たのであり、村上密氏と杉本氏の活動とそのブログ記事内容は、このような思想をまさに体現したものであると言える。こうして特定の人物に対して懲罰を加える目的で書かれた彼らの著作物が、それに悪影響を受けて嫌がらせに及ぶネット読者らを生み出すのは当然なのであるが、こうしたネット上の嫌がらせ工作を総称して、私は「サイバーカルト監視機構」と呼んでいるのである。

サイバーカルト監視機構とは、特定の人々が、インターネット上で、好ましくないクリスチャンに対する非合法な弾圧を肯定するために作り上げた「空気」であり、そのような残酷な私刑を是認するための「世論作り」であり、また、そうしたネット上の弾圧によって、キリスト教界に大規模な言論統制をもたらし、好ましくない発言を行なうクリスチャンを恫喝して沈黙に追い込もうとする圧力のことでもある。また、こうした嫌がらせ工作を日夜行うネット上の集団的悪意そのもののことでもある。
 
ネットで起きた事柄については、具体的に、いつ、誰が、誰に対してどんな指示を出したのか、ということを立証することは困難であるが、少なくとも、思想的な共通点を通して、それをある程度、探り出すことは可能である。

村上密氏、杉本徳久氏は、インターネット上で、プロテスタントのキリスト教会を次々ターゲットとした告発記事を掲載し、キリスト教界全体にネガティヴなイメージを形成し、キリスト教界を改革するために、聖書と教界内規則に基づいた改革を訴えるのでなく、信者や教会をこの世の裁判に訴えることを助長するような主張を積極的に行なって来た人物として、キリスト教界において、極めて特異な存在であり、両者の主張を見れば、公の教団教派のつながりにおいては無関係であるにも関わらず、両者が同一の深い思想的なつながりで結ばれており、なおかつ、牧師である村上氏が指導的な立場に立って、杉本氏の執筆活動にも多大な思想的影響を及ぼし、杉本氏が村上氏の活動を擁護し、支える形で活動して来たことが見て取れるのである。

上記したようなすべての事実に反して、杉本氏はそれでもあくまで自分は村上氏とは直接の面識がないのだから村上氏とは思想的にも無関係であり、筆者がサイバーカルト監視機構と名付けているような、ネット上のクリスチャンに対する集団的な嫌がらせには関与していないと言い張るつもりであろうか? その際、筆者に送って来た恫喝メールや、自身のブログに記載して来たバッシング記事については、どのように弁明するつもりなのであろうか?

自分自身は他者を公の場でいわれなく非難し、暗闇で幾度も恫喝しては、沈黙に追い込もうと圧力を加えておきながら、他者から公に反論があると、具体的な根拠も提示せずに、すぐに「名誉棄損だ!」と騒ぎ立て、無理やり記事の削除を迫ったり、個人情報を公開するなどの脅しによって黙らせようとしたり、果ては裁判にまで及ぶのでは、あまりにも非常識で大人げない態度であると思うのだが、杉本氏はそのような考えはないのだろうか。

杉本氏は、自分にとって都合の悪い記事を削除してほしいと他者に依頼するよりも前に、まずは自分自身が、その他者に関して書いたネガティヴなバッシング記事をすべて削除し、他者の名前を自分のブログから抹消するのが筋であろう。それもしないうちに、なぜ他者にだけ一方的に自分にとって不都合な記事の削除を迫ることができるのか。自分こそ、相手の嫌がることはしない、それが相手にものを頼むときの基本的な礼儀ではないかと思うのだが。

杉本氏はプロテスタントの信者でさえないのに、どんな権限があってプロテスタントのキリスト教界の異端審問官のように振る舞い、気に入らないクリスチャンを脅して言論統制を行なう権利があるのか。部外者に過ぎない同氏の不法な主張に信者が従わなければならない理由はない。

 〇〇さんが書かれていることは全て私に対する誹謗中傷であり、私の名誉や信用を重大に毀損する行為に該当します。〇〇さんと唐沢さんやその他の人たちとの間のことについては私はわかりませんが、少なくともすぐに私に関する記事、私の名については削除して下さい。

(もう一通、別のメールに続きます。)

杉本氏は、ここで村上密氏、ルーク氏、Br.Taka夫妻など、すべての人を切り捨てても、自分だけは難を逃れたいという意思を示している。他の人たちはどう非難しても構わないから、自分だけは別扱いにして欲しいと述べているのである。

特に、杉本氏がこれまで、あれほど歩みを一つにして来た村上氏とも、ほとんど無関係に近いかのように弁明して距離を置こうとしている姿勢は興味深い。
 
また、不思議なのは、なぜかここでも、再び、杉本氏が唐突に唐沢氏の名前を出し、「他の人たちとの間のこと」などに言及していることである。

杉本氏の文章にはこのような飛躍がしょっちゅうである。「他の人たちの間のことについては私は分かりませんが」などと、不自然な文脈でもっともらしく弁明している時こそ、その文脈に注意が必要なのである。これは、Br.Takaこと鵜川貴範・直子夫妻の牧師資格詐称やKFCの乗っ取り事件などには全く関与していないという自己弁明であろうか?
  
これまでの杉本氏の様々な言動を振り返ると、同氏は他教会の内政に干渉したり、無関係な他者の個人情報を収集したり、他者の人間関係について詮索したりという越権行為をしりきに繰り返して来ており、そんな人間が「他の人たちの間のことについては私は分かりませんが」などとわざとらしく否定すれば否定するほど、かえって不自然な印象と疑惑だけがより深まって行くというのが正直なところである。

杉本氏に関して私の掲載している記事内容が、事実無根の誹謗中傷でないことは、すでに根拠を示しながら幾度も述べて来たことである。杉本氏が自ら実名で公表している記事について、誰かが公に批評や分析を加えたからと言って、それだけでは何ら誹謗中傷にはあたらない。
 
まして、杉本氏が誰でも読める形でブログに公表している当ブログに対する一連の決めつけに満ちた非難やバッシングや、杉本氏の記事に含まれているスパムとしか思えない当ブログへの悪質なリンクや、杉本氏とおぼしき人物からの当ブログに対する嫌がらせのアクセスや、杉本氏が私に送って来た恫喝メール等に対して、当ブログできちんと根拠を示して反論し、抗議することは、全く誹謗にも中傷にも当たらない。自分自身がそのようなことを行なっておきながら、他者には反論も許さないとは何事か。よって、記事を削除しなければならない理由が全く存在しないのである。



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  ▼投稿されたメッセージ
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 REMOTE_ADDR: 219.215.163.80

 [ 名前c ]
 杉本徳久

 [ メールアドレスc ]
 sugimotonorihisa@gmail.com

 [ メールアドレス再入力c ]
 sugimotonorihisa@gmail.com

 [ 件名c ]
 ブログの文章につきまして その2

 [ ご感想c ]
 〇〇さんの名については、先の坂井能大を相手取った民事訴訟(武蔵野簡易裁判所にて)の中にて、坂井の提出した書証や唐沢が提出したメール記録の書証の中に出てきて、ヴィオロンさんの本名が「〇〇」だということについて確認しました。それまでは疑い半分で本名は不明だという前提でおりました。現段階であなたの本名を私のブログで公開したりしたことは一度もありません。社会福祉士として、あなたが通っていた教会のことやあなたの心の状態が良くわかりますから、あれこれ坂井能大を相手にしたような追及はしませんでした。

杉本徳久氏は、村上密氏と同じように、裁判を通して、自分の属している教会とは無関係な教会や、そこにいる信者の信仰生活に強制的に介入し、懲罰を加えることを肯定して来ただけでなく、その裁判を通じて積極的に自分とは無関係の教団教派に属する信者についての情報収集をも行なって来たようである。ひょっとすると、本当は個人の情報収集が目的で裁判を起こしているのではないかという印象さえ受けるほどである。

さらに、杉本氏はここで坂井氏との裁判を通して私の実名を知ったかのように書いているが、それは虚偽であり、実際には、すでに2011年末の時点で、私は杉本氏から、私の実名を特定したメールを受け取っている。これは坂井氏との裁判が起きる以前のことであり、この時差を杉本氏はどのように説明するのだろうか。まさか当てずっぽうの推測で人の名前を書いていたとは弁明できまい。

杉本氏は私の本名をブログで公開したことは一度もないと自己弁明しているが、それでは、ブログ以外の匿名掲示板などの場所ではどうだったのだろうか。これについては何もコメントがない。杉本氏にとって気に入らない記事を削除しない限り、私の実名を公表すると、恫喝メールで息巻いていたことについては、どのように説明するつもりであろうか。そのように私に予告して来た人物は、杉本氏以外には誰もいないのだが。

「社会福祉士として、あなたが通っていた教会のことやあなたの心の状態が良くわかります」と杉本氏は書いているが、これはどこの教会のことを指しているのか見当もつかない。そもそも、社会福祉士として、他人の通っていた教会のことが分かると主張すること自体、随分、妙な理屈であると思う。社会福祉士とは、そもそも教会の内情や、信者の信仰を理解するための職ではない。もしクリスチャンとしての信仰が本当にあるのであれば、社会福祉士として他者の教会を理解しようとする必要はなく、ただ聖書に基づいて理解すればよいと思うのだが、このコメントを読んでいると、杉本氏には本当に信仰があるのかと疑ってしまう。

「社会福祉士として<中略>あなたの心の状態が良くわかりますから、あれこれ坂井能大を相手にしたような追及はしませんでした。」と、杉本氏は書いているが、このように「配慮してやったのだ」「情状酌量したから提訴しなかったのだ」と、もったいぶって見せる割には、私へのかつてのメールには、「あまりあなたには同情いたしておりませんので、今回の件、私をあまり侮られませんよう。」などと、他人の心境など知ったことではないという脅し文句をちりばめていたのは何だったのであろうか(たとえば 2011年12月6日付メール

 
このように、筆者に何通もの恫喝メールを送って来たり、メールフォームで気に入らない全ての記事から名前を削除せよと要求して来たり、嫌がらせのようなアクセスを当ブログに集中させたりと、人の目に触れない場所で、随分、多くの圧迫と恫喝を杉本氏は私に対して行って来たのだが、それでも、「坂井能大を相手にしたような追及はしませんでした。」と、あくまで手加減してやったのだと言うつもりなのだろうか。

今までのいきさつを振り返ると、こうした言葉も、結局は、杉本氏にとって気に入らない記事を私が削除せず、杉本氏の要望を聞き入れずに、杉本氏の名前を自分のブログ記事から削除しなければ、坂井氏と同じようにおまえも告訴してやるという脅し文句としか受け取れないのである。
残念だが、杉本氏からこれまでにされて来た数々の嫌がらせを考えると、そのように深読みするのが当然である。

 
  一時、閉鎖されていた〇〇さんのブログが今のように大々的に再開された以上、ことを放置することはできません。個人的に、あまりことを大げさにしたいわけではなく、大がかりな対応をとりたいと思っているわけではありませんが、内容が内容だけにこのままで座視するわけにはいきません。

 ブログ記事、すぐに削除して下さいますよう。何か疑問などあれば、どうぞお尋ね下さい。

この文章も、一方では、「あまりことを大げさにしたいわけではなく、大がかりな対応をとりたいと思っているわけではありません」と言いながらも、その実、言うことをおとなしく聞いておかなければ、いつでも事件を大々的に炎上させるぞという杉本氏の思惑が透けて見える。

しかも、これはすごい文章である、「 一時、閉鎖されていた〇〇さんのブログが今のように大々的に再開された以上、ことを放置することはできません。」

つまり、自分に気に入らない内容の記事が書かれているので、ことを放置できないと主張するのではなく、私のブログが今のように大々的に再開されたから放置できないと、はっきり述べているわけである。

大々的に再開されたとは、一体、どういうことなのであろうか。私は以前と同じように淡々とブログ記事を書き続けているだけであり、以前のブログの方が、今より読みやすく、文章も簡潔で、更新も頻繁であった部分もあるように感じているので、努力が足りないと感じることはあっても、特に大々的に何かをやり始めたという自覚はまるで全くない。

杉本氏のこの発言を通して感じられるのは、どれほど同氏が私のブログそのものを未だに目の敵として閉鎖に追い込みたいと考えているか、どんなにその目的で、これまで再三に渡る嫌がらせと恫喝を執拗に重ねて来たか、そして、同氏の脅迫と嫌がらせの数々にも関わらず、私のブログが再開されたこと自体が、どれほど同氏にとって気に食わないことであり、どれほどこのブログが杉本氏にとって脅威と見え、激しい憎悪の的となっているかという事実である。
 
もし本当に相手の心の平安を願う心があれば、まずはこのブログが再開されたことに祝辞を述べるであろうが、相変わらず、杉本氏の文面には、挨拶文さえ記載されておらず、人を祝福する気持ちがまるでないことがよく伝わって来る文面である。上から目線の一方的な命令を下し、不法な手段で人を威嚇することによって、他者の執筆活動を妨害し、不都合な信者をネットから駆逐することで、自分にとって不都合な言説を取り締まり、自分に都合よくクリスチャンの世論を言論統制することだけが、私への接触の目的なのである。

これでは、杉本氏は、私のブログを何が何でも再び閉鎖に追い込む目的で、さわやか読者の履歴に示されているように、今日に至るまで執拗な嫌がらせを水面下で続けているのだと、自ら白状し、宣戦布告を突きつけているようなものである。
 
そんな人に疑問があればお尋ね下さいなどと言われても、尋ねることもなければ、杉本氏がこれまでに行って来た事柄を考えると、返信などしようものなら、どんな厄災が待ち受けているか、誰しも容易に想像できる。

削除はしない。そうするだけの理由が何も存在しないためである。

そう答えれば、また次なる嫌がらせに及ぶつもりだろうか。坂井氏と同じように、私も法廷の場に引き出し、恫喝裁判のターゲットとするつもりであろうか。

しかしながら、杉本氏のこうした恫喝は、何年も前からずっと繰り返されて来たものであり、裁判の脅しなど、全く効果のないものである。さらに、杉本氏が坂井氏を訴え、勝利してさえも、それによってどれほど世間で杉本氏についてネガティヴなイメージばかりが広まり、定着して行ったか、ネットの世論を見回すとよく見えて来る。一般に、身近な他人を次々と訴え、法廷に引きずり出して戦いを挑むことを生きがいとしているような人間は、たとえ勝訴することがあったとしても、みなに嫌われ、近寄られなくなって行くだけである。

しかも、自分にとって気に入らない記事を書いているクリスチャンを暗闇で恫喝し、自分が証拠不十分で敗訴することも織り込み済みで、ただ心理的な打撃を与えることを目的に、次々とクリスチャンを裁判に訴える活動を繰り返して来た人間が、また裁判だと叫んでみたところで、半ばオオカミ少年のように見られるだけではないかと思う。

そのような姿は、クリスチャンの生き様からはほど遠く、これまで幾度も指摘して来たように、「日夜、兄弟たちを訴える者」、すなわち、悪魔を彷彿とさせるのである。
 
こうして、杉本氏がクリスチャンに闘いを挑むために提起してきた裁判という手法も、まさに村上密氏が積極的に奨励し、用いて来た手法であり、両者の行動を見れば、その背後に、クリスチャンに対する尽きせぬ憎悪、何としてもクリスチャンを弾圧したいとの欲望が、どうしても筆者には透けて見えてならないのである。

クリスチャンに言いがかりをつけ、クリスチャンを脅し、クリスチャンを法廷に引きずり出して苦しめ、クリスチャンを罰して、苦しめて、懺悔させたい。神の民を己の前に跪かせ、赦しを乞わせ、屈辱をこうむらせたい。そういう飽くことのない悪魔的欲望が、どうしても両者の行動の背後に透けて見えてならないのである。

従って、両氏の活動は、到底、キリストの御霊から来るものではなく、むしろ、反キリストの霊、キリスト教徒に対する弾圧の霊から来る活動だと言わざるを得ない。従って、彼らの活動の目的も、彼らが口で唱えているように、キリスト教界の改革にはなく、むしろ、キリスト教界の改革を口実にして、気に入らないクリスチャンを次々とネット上で吊し上げ、あるいは法廷に引きずり出して弾圧し、懺悔を迫り、処罰することを目的としているのだろうと思わずにいられない。私が当ブログで早くから訴えて来たのは、この人々の活動の真の目的は、キリスト教界の浄化を口実にしただけのキリスト教徒の弾圧にあるという事実である。

このような活動にいつまでも従事している人々は、キリスト教徒への迫害者という定評が後世にまで残ることになるであろう。キリスト教の恥ずべき異端審問の歴史に、また新たな名が刻まれることになる。

杉本氏がたとえ憤りにまかせてクリスチャンを幾人告訴したとしても、事実無根の訴えでは、勝ち目がない。膨大な時間と労力と資金の無駄が待っているだけであり、そして、キリストの霊的秩序は、この世のすべての秩序を超えるのである。

パウロによれば、クリスチャンは、「御使いさえも裁く者」である。黙って苦しみを担われたキリストのゆえに、クリスチャンはむやみに兄弟姉妹を訴えるようなことはしないが、いずれにしても、我々にはイエスの御名によってキリストと同じ権威が与えられているのであり、この御名を超える権威は地上のどこにも存在しない。小羊の血潮によって贖われ、神が義とされた信者を再び訴え、罪に定めることのできる人間は地上に誰も存在しないのである。

にも関わらず、気に入らないクリスチャンの言説に遭遇する度に、「削除だ!」「裁判だ!」と叫び立て、告発記事の執筆にいそしみ、あるいは水面下で恫喝と嫌がらせ工作にいそしみ、提訴できる相手を探し求めて日々クリスチャン・ブロガーを見回しているのでは、「日夜、兄弟たちを訴える者」という定評がさらに広まって行くだけであり、それでは杉本氏自身にも全く利益にならないであろう。
   
180−0001 武蔵野市吉祥寺北町1−5−14
 杉本徳久
070 5012 7587
sugimotonorihisa@gmail.com
 
 

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至る



遅ればせながらニュース動画を記念に挙げておきます。
【報道ステーション】2016年3月18日放送 
ワイマール憲法の”教訓” なぜ独裁がうまれたのか? 


 
罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか。」を再掲しましたが、この記事は未完のため、まだまだ多くのことを書き足さなければなりません。

この記事を掲載した当時、記事は大きな反響を呼び、杉本氏サイドからも巨大な反発がありましたが、それはクリスチャンを決して「命の御霊の路線」に至らせず、再び「善悪の路線」へと引きずりおろそうとする彼らの目的が暴かれては困るためであったと私は見ています。

KFCとドクター・ルークの活動とは私は現在、無関係ですし、KFCの理念の誤りについても、詳細な分析をせねばなりませんが、それにしても、当時、ルーク氏の述べていた主張の中には、今日も見落とすことのできない極めて重要な内容がありました。それは主に次の二つの原則に集約されます。
 
➀キリスト教界をエクソダスせよ
②善悪の路線ではなく、命の御霊の路線に生きよ
 

➀については、約20年ほど前から、村上密氏のように、キリスト教界の諸教会のカルト化という問題にしきりに訴えては警鐘を鳴らす人々が現れました。こうした人々は、カルト化した教会やその牧師などを告発・非難することにより、キリスト教界のカルト化問題を解決したり、被害を食い止めることができるとしていたのです。

しかしながら、こうした人々の活動が恐ろしい方向へ暴走していくだろうとの予想を私が述べ、実際に、そうなったことについてはすでに何度も述べてきた通りです。当時、キリスト教界のカルト化という問題について、これとは全く別の見解が存在していました。それは、キリスト教界全体に救いがないこと、この教界は存立の時点からすでに聖書に反しており、フェイクであり、改善の見込みがないため、エクソダス(脱出)するしか信者が正しい信仰を保つ道はない、ということが提唱されていたのです。

実は、カルト被害者なる人々の出現は、この点で、非常に画期的な意味を持っていたのではないかと私は見ています。
 
カルト被害者については、これまで良い印象がほとんど語られてきませんでした。村上密氏や杉本徳久氏の率いるカルト被害者救済活動の異常な暴走がそれに追い打ちをかけ、カルト被害者という言葉すら、最近は、あまり聞かれなくなったようです。

おそらく、当のカルト被害者も、自分たちの存在に何か重要な意義があるとは思っていないでしょう。むしろ、自分たちは弱く無知であったために犠牲にされ、人生の敗者になったのだと考えて自分を恥じ、二度と犠牲者にならなくて済むように、弱さと無知の克服に取り組んでいるかも知れません。

しかし、私はこうしたこの世の観点とは全く別に、カルト被害者の存在には、極めて重要な霊的意義があったと考えているのです。それはまず、彼らがキリスト教界から離脱した点にあります。

人が悪事の被害を受け、犠牲になることは、この世では、何ら良いこととはみなされませんが、カルト被害者の存在について、それを単なるマイナスの出来事と決めつけることができないのは、キリスト教界につまずくという出来事があったために、彼らはキリスト教界の偽りに気づくきっかけを得た点です。そして、何より、その出来事があったおかげで、そこを出て純粋な信仰生活を探求しようとする人々が現れた点です。

もし何らかの出来事をきっかけに従来の組織に絶望するということがなければ、信者がキリスト教界を離れることはありません。

何かの被害が発生して初めて、信者は自分の属していた教会に対する根本的な疑いを持つ可能性が出て来るわけであり、その組織の中では本当の信仰を持てないことを知り、これを離れ、まことの神を探求する可能性が生まれるのです。その際、多くの信者が、たまたま自分の属している教会にだけ重大な問題があったのではなく、キリスト教界そのものに根本的な矛盾があることに気づく可能性があるのです。

神の御前で極めて重要なのは、神を求める人々の心の真剣さ、純粋さではないかと私は思います。そこで、キリスト教界につまずいたことをきっかけに、キリスト教界を告発して報復を果たそうとするのではなく、まことの神ご自身を純粋に知りたいと心から願う人々が出現したことに、はかりしれない価値があったものと私は考えています。   
 
こうして、キリスト教界の虚偽性から離れ去り、聖書のまことの神を真実に知りたいと願う信者の一群が現れたことにより、初めて、組織としてのキリスト教界とは関係のない、これとは全く異なる、聖書だけに立脚した信仰生活が生まれる可能性が生じたのです。

この点で、カルト被害者なる人々の存在は重大な意義を持っていましたが、それゆえ、その後、彼らがどこへ向かって行くのか、彼らが従来の教会生活を離れて、どのような形で信仰生活を維持し、まことの神に仕えるのかという問題もまた、ある意味、全宇宙的と言っても差し支えないほどに、測り知れない重要性を持っていたのではないかと私は考えています。

だからこそ、カルト被害者を含め、キリスト教界を離れた信者らの行方を巡って、実に激しい争奪戦が今日に至るまで繰り広げられて来たのです。それはひとことで言えば、「組織から脱出した人々を、絶対に組織から逃がさず、再び人間の奴隷とすること」を至上命題とする暗闇の勢力が、モーセとイスラエルの民の脱出を妨げようと、彼らを追ったエジプト軍のように、全力を挙げて激しい欺きと妨害によって、キリスト教界を脱出した信者らの前進を妨げて来たためです。

もし信者がキリスト教界にとどまっていたならば、こうした妨害はなかったでしょう。キリスト教界にいる限り、信者は、人間の教えや言い伝えにがんじがらめにされて、自由がなく、まことの神に出会う可能性もほとんどありません。

キリスト教界には、牧師や教職者といった目に見える人間の指導者に信者を従わせるべく、何重ものヒエラルキーや規則が定められており、その伝統的なしきたりや序列を守り、偉い指導者の言うことに聞き従い、彼らの面子を傷つけないことが、あたかも正しい信仰生活であるかのように説かれています。

しかし、これらはすべて人間の言い伝えであり、人を神ではなく人間に従わせる教えであって、このキリスト教界を出ない限り、信者はこの偶像崇拝の体系から、つまり、人間の作り出したこの世の思想に基づいて地上の目に見えるヒエラルキーに人間を従わせようとする偽りの体系から、一歩たりとも外に出ることはできません。

信者が人間の作り出した地上の組織の囲いに閉じ込められて、人間の指導者の顔色を第一に伺って生きている限り、彼は決して真にキリストだけを主と仰いで生きることはなく、キリストの命に基づいて天的な生活を送る可能性もありません。ですから、信者がキリスト教界に所属している限り、悪魔にとって、彼は何ら脅威とはならないのです。

しかし、もしも信者がこの壮大なフェイクであるキリスト教界を離れ、人間の指導者に帰依することを拒み、見えないキリストだけに頼ることを宣言して新たに出発すれば、その信者の行動は、暗闇の軍勢には大変な脅威と映ります。

こうした信者の一人でも、真にキリストと共なる十字架の死を経て、キリストの復活の命に到達すると、そこから、全宇宙を左右するほどの測り知れない天的な歩みが始まります。

そこには、復活、自由、真理が生まれ、悪魔の獄屋が打ち破られて、その虚偽がことごとく明るみだされ、とりこにされていた人々が解放されるきっかけにもつながりかねません。

そこで、信者たちがキリストにあって真に自由で正常な信仰生活を送ろうとしてキリスト教界をエクソダスして、人間の作った組織の囲いから出て行くことは、暗闇の勢力にとっては、極めて重大な脅威なのです。

ですから、こうした人々を組織から逃さず、再び、人間の前に跪かせ、人間を恐れさせ、人間の奴隷とするために、暗闇の勢力は全力を挙げて彼らの妨害に回ったのです。

その目的を遂げるために、彼らは、一方では、カルト被害者を優しくかばい、助けてやる「救済者」を装う偽善的な指導者を立て、彼らの甘言により、被害者を欺いて、彼らが自主的に人間の指導者に従うよう仕向けました。それがかなわないと、今度は、暴民のような自称「信徒ら」を送っては恫喝し、恐怖によって、信者らを再び人間に従わせようとしました。

この点では、KFCも、カルト被害者救済活も、どちらも人間の作った組織の囲いの一つであり、キリスト教界を脱出した信者らが、決してキリストだけに頼る真実で自立した信仰生活に到達しないように、神と信者との中間に立ちはだかる障壁、目くらましとしての機能を果たしたと言えるでしょう。

しかし、それでも、ドクター・ルークの主張の中には、若干、カルト被害者救済活動の指導者らよりも前進していた点がありました。それが、上に述べた二つの原則なのです。

二つの原則のうち、後者の「命の御霊の路線」について考えてみましょう。

「善悪の路線」とは何か、ひとことで言えば、それはクリスチャンが罪の自覚と決して手を切ることのできない生活です。

キリスト教界に所属していると、信者は自分がいかに罪人であるかという自覚だけが深まっていき、決してその罪意識から解放されることができません。キリスト教界でよく見られる風景は、信者が、神を知る前の自分がどれほどひどい生活を送っている罪人であったかという懺悔のような赤裸々な告白の証を、繰り返し、繰り返し、語らせられている風景です。

このような「かつての悪い自分」についての告白を続けることで、信者は余計にその負の記憶から抜け出られなくなり、罪の意識から解放されるどころか、教会を離れるとかつてと同じような罪人に戻ってしまうという恐怖にがんじがらめにされていくことになります。

こうした罪意識は、信者は神を信じているつもりでも、根本的に自分は全く変わっておらず、教会の助けがなければ、更生不可能であるという自覚から生じています。つまり、信者の「救い」が、宗教組織に質に取られていることによるのです。

信者は自分ではあたかも自主的に神を信じて生きているつもりでいても、実際には、彼は地上の宗教組織に属さずには、信仰生活は送れないのだと思い込まされています。

このような思い込みに陥っている限り、信者は、地上の宗教組織を離れることに恐怖を抱き、その組織の人間の指導者から見放されたり、良い評価を得られなくなることが、「不信仰」であると考え、人間の指導者の顔色を第一に伺う生き方から抜け出られません。

ですから、そのような場合、信者は神を信じているつもりでも、実際には、地上の組織、目に見える人間の指導者に従い、人の思惑に基づいて生きていることになります。そして、組織を離れると、救いが失われるかのように思い込まされているのです。

このように、信者にとっての「救い」が組織の所有である限り、組織から承認を得られなくなり、追放されれば、自分は救いを失うのだという恐怖や罪意識から、信者が自由になることはできません。

つまり、信者にとっての「救い」が、本当に自分に属するものではなく、組織から貸与されるものに過ぎない限り、彼には完全な救いの自覚が生まれないのです。キリストの血潮が永遠に自分を救うことができることの意味を知らず、根本的に自分は罪人だが、教会のおかげで何とか普通に生きられているだけだと思い込んでおり、教会からの承認という「応急処置」がなくなれば、自分は恐ろしい罪人に逆戻りするだけなのだという罪悪感から決して抜け出すことができないのです。このような考え方では、真の救いも、罪からの解放も、自由も、決して信者は味わうことができません。

さらに、信仰を持たずとも、複雑怪奇なこの世の仕組みに適合し、そこで人々の評価を十分に得て成功して生きるのは、誰にとっても、かなり難しいことですが、宗教団体に入ると、信者はさらに厳しい道徳的基準を守るよう求められるようになるため、まさにがんじがらめの生活が始まります。

この世においても、社会にうまく適合する術を知らない人々が宗教組織に入ると、そこで救いを得られるどころか、今度は宗教組織の中で、この世よりももっと厳しい基準に適合するよう求められ、それができない信者は、罪の自覚が恐ろしく増し加わり、下手をすると、その重圧のために精神まで破壊されるということが起きます。

このように組織や指導者の意向や都合にがんじがらめにされて、罪意識から一歩も抜け出せない生活こそ、人が自分で自分を義としようとする「善悪路線」に基づく生活であって、これはキリストの血潮に悪質に逆らう偽りなのですが、そこから出て、信者がただ聖書だけに基づいて、見えない神を仰いで生きるようになる時、信者はようやくキリストが十字架において流された血潮が、無条件に信じる者を義としてくれることの意味が分かるようになります。

そして、自分の救いは「組織」にあるのではなく、信仰を通して、他ならぬ自分自身に与えられているのであり、他人の思惑によって奪われたり、取り上げられたりするような不確かなものではないことが分かります。

キリストの流された血潮によって、神の目に自分が永遠に義とされていることが分かった信者は、ようやく従来の罪意識から解放されて、世からの評価を失うことを恐れて汲々とし、絶えず自分を責めながら生きる必要がなくなります。

こうして信者は、罪に定められることへの恐怖からあれやこれやの規則を厳格に守って生きようとする恐れに満ちた生活から抜け出て、その代わりに、自分の心からの願いに従って生きることが可能となります。自らの願いをキリストと分かち合い、信仰によって、それを実現しながら生きるという別の生活が開けるのです。

こうして、キリスト教界を出たことにより、信者の人生の目的は完全に変わるのです。以前は、人の目に罪に定められたくないという恐れから、自分を何とか人の目に正しく落ち度なく見せようと、各種の「べき論」にがんじがらめにされて生きていた信者が、今や、絶え間ない罪の意識から解放され、そういう応急処置のようなやり方で自己改善を目指すことがなくなり、キリストの内なる義に従って、自分が何をしたいのかという願いに基づいて良くなるわけです。

罪意識は常に恐怖と、強迫観念を生み、信者から自由を奪いますが、罪意識から解き放たれたところでは、人は何を「せねばならないか」ではなく、何を「したいか」を中心に人生を生きることができるようになります。これは放縦な生活を意味するのではなく、人が神に自分の願いを知っていただき、神と共同で自らの人生を治める生き方を意味します。

さて、話を戻せば、カルト被害者救済活動の支持者サイドからの攻撃は、このように、キリスト教界の罪定めから自由となって、「いのちの御霊の路線」に生き始めたクリスチャンを、再び「善悪の路線」に引きずりおろすことで、罪意識の奴隷にすることを目的としてなされたものでした。

今はっきり言えることは、一旦、キリストだけを頼りに、神だけに従って生きると決めたのならば、信者は、二度と人間の顔色を伺う生活に戻ってはいけないということです。

人間の歓心を失わないことを第一に生きる(つまり、世間の評価を気にしながら、世間と調子を合わせて、世と折り合いをつけて生きる)ことを目指し始めると、信者はたちまち「善悪の路線」に落ちて、キリストにある自由を失ってしまいます。

なぜ聖書に次のような御言葉があるのか、その意味を考えてみましょう。

たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方とすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときに勝利を得るため。」
 と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

つまり、この世(と世に属する人々)の評価を失うことを恐れながら、同時に、神だけの評価を求め、神だけに従って生きるというのは、不可能であり、世の評価を絶え間なく気にする生き方と訣別しなければ、信者はキリストにある良心の潔白と、自由を保つことはできないのです。

これは、ある人々にとっては、極めて理解しがたいことに映るでしょう。なぜなら、多くの信者は、この世の常識やら、伝統やら、世間体やら、しきたりやら、空気やらを、極めて重要なものとみなしており、こうした世の考え方を気にせず生きるなど、あまりにも大胆不敵で傲岸不遜な、人としてあるまじき放縦な生活だと誤解しているからです。

多くの信者は、道徳的で品行方正な生き方を目指すあまり、それこそが、信仰生活だと誤解しています。あるいは、弱者救済などの慈善事業を評価するあまり、それこそが、信仰生活だと誤解しています。

しかし、ぞれらはいずれも、人間の目に道徳的と見える生き方に過ぎず、こういった生き方を「信仰生活」だと誤解している人々は、この世の最も優れた道徳でさえ、神の義には遠く及ばないどころか、神の義に悪質に対抗するものであることが分かりません。人の目に善と見えるものが、必ずしも、神の目にも善ではないということが分からないのです。

むしろ、神の義とは、恵みとして与えられるものであり、人間が自らの努力によって達成しようと目指す義とは全く無関係なところにあるのです。だからこそ、キリストにある命の御霊の法則は、この世の善悪の法則とは全く異なるものなのです。

私は何度もマザー・テレサのことを書いて来ましたが、彼女のように、この世において立派で優れた生き方をしているように賞賛されている人が、必ずしも、神を親しく知っているわけでないどころか、むしろ、神から見放されたという絶望的な思いに苛まれているがゆえに、この世において立派な生き方を続けないわけにいかないという逆説(強迫観念)に陥っている場合が往々にしてあります。

生涯、弱者救済にいそしむ慈善家のような人々にはこのようなタイプが非常に多いのです。つまり、彼らは、自分が神によって完全に救われているという確信がないがゆえに、絶え間なく外面的に立派な行動をすることによって自己を取り繕わないわけにはいかず、その慈善は真実な愛から出て来たものではなく、むしろ、内心の絶望や恐怖に裏付けられた善行だということです。
 
この世の顔色をどんなに伺って、どんなにこの世に対する義務を果たし、人から賞賛されたとしても、それによっては、人は永久に義とされることはありません。ただ苦労と内心の絶望だけが果てしなく増し加わって行くだけです。

この世は人がどんなに努力しても、人を義とすることができないからです。しかし、御言葉に基づいて、キリストの血潮によって義とされる道を選び、人の思惑に従うのではなく、神のみに従って生きるならば、信者は自分の一切の行ないによらず、いつでもただちにイエスの血潮によって義とされることができるのです。

しかし、信者自身にとっても、このキリストの新しい命に基づく道を歩むことは、極めて大きな発想の転換を意味します。

真にキリストの復活の命に生き始めた時、初めて、信者は、自分がこの目に見える世界全体、生まれながらの人類全体と、その道徳体系にとって、大変な脅威、敵とみなされるようになったことを知ります。

信者は、この世の霊的体系を脱して、キリストの霊的体系を生きるようになって初めて、自分がもはやこの世の所属でなくなり、キリストがこの世から受けられたのと同じ理由なき憎しみを自分も向けられていることが分かります。

それは、彼がこの世ではなく、キリストだけの所有となったことによるのですが、信者は、今まで慣れ親しんで生きて来たこの世全体が、もはや自分の仲間ではなくなり、敵となったことに、しばらくは当惑するでしょう。

さらに、この世の法則は、信者がキリストと共なる十字架で世に対して死んだ後も、全力で彼を再び世の奴隷として取り戻すべく、あとを追って来るでしょう。

こうして、信者は、キリストの命にある自由を失わず、復活の領域を歩み続けるためには、この世とそれを支配する暗闇の軍勢から来るあらゆる敵意と妨害を潜り抜けて戦わなくてはならないことが分かります。

その戦いの過程で、信者はどんな妨害があっても、この世と世に属する人々の圧迫を恐れてはいけないという事実と、たとえ世からどんな妨害があろうと、キリストの命にある力がそのすべての圧迫に勝る勝利を与える、という事実を理解するようになります。

この世が信者に向けて来る憎しみは、人の予想をはるかに超えて、悪質であるにも関わらず、信者はそれにたじろいではならず、圧迫されて後退してもならず、これに対していかなる時にも勝利する秘訣が、キリストの命の中にあり、その命なる方が信仰を通して自分自身の中に宿って下さっていることを理解するのです。

もし信者が、暗闇の勢力からの圧迫を恐れるゆえに、人の言い分に耳を傾け、人に憎まれないことを第一目的として生き始めるならば、彼は再びこの世の奴隷となって敗北するしかなくなり、キリストの天的な命に基づく生活は維持できなくなります。

ですから、たとえ突然、何万人の反対者が現れようと、どんなに親しい兄弟姉妹に裏切られようと、どんな予想を超える出来事が起きようとも、信者は、世と世に属する人々を恐れずに、ただ聖書の御言葉に立脚して、神の義に頼り、これを証し続け、キリストの命だけによってすべてを切り抜ける秘訣を学んで行かねばならないのです。

そうこうしているうちに、こうした戦いの過程で、どんなに心細さを覚える瞬間にも、神以外のいかなるものにも頼らないこと、神の中に全ての問題の解決の秘訣が実際にあることを信者は学ばされて行くのです。

自分を見るならば、信者は自分には何もなく、外からの助けなしには、到底、あらゆる困難を切り抜ける力がないように感じられるかも知れませんが、その天然の無力さにも関わらず、内なるキリストの命が全てを供給するのです。

文字通り、キリストがすべてを供給するのです。救いはすでに一生分、いや、永遠に至る分まで、信者に与えられています。ですから、信者は世にあれやこれやの助けを求める必要がないのです。ただ神だけに頼って前進するならば、信者は信仰によって実際にあらゆる困難が打ち破られること知らされるのです。困難が打ち破られるのみならず、神が願いを成し遂げて下さるのです。ですから、これは途方もない道です。

生まれながらの人類は、この終わりの時代、自己の「道徳」を掲げては、自分たちの存在を美化し、生まれながらの人間の威信を築き上げるために、独自のしきたりを作り、これに一人でも多くの人を取り込むために、あらゆる規則を掲げ、強大な組織を作るでしょう。そして、それにそぐわない人間を容赦なく罪に定めるでしょう。

終わりの時代、生まれながらの人類の全精力が、人間の威信を強化するために注ぎ込まれるでしょう。宗教とは、神の名を用いながら、その実、神によらずに、人間が己のプライドや威信を建て上げるために作りだす壮大な嘘の体系に過ぎません。

キリスト教界の教えは、全体として、信者が神ではなく、目に見える人間に従うべきというもので、そこには、牧師を筆頭として、信者が従うべき無数の重層的ヒエラルキーがあり、人間の序列に反することが、「罪」とされているのです。

神に従わないことが罪なのではなく、人間の定めた教えに従わず、人間の威信を傷つけることが、「罪」とみなされているのです。早い話、そこでは人間が神となっているのです。

いかに人間の目に麗しく、人間に優しく、上品で、道徳的に見え、そつなく、あたりさわりないものであっても、こうして、聖書の基本から逸れて、神への愛と従順を失い、むしろ、神を退けて、生まれながらの人間を義とするために作られた体系には、何の価値もありません。

だからこそ、このような偽りの体系からはエクソダスが必要なのです。

人間の作り上げた偽りの体系は、どこまでも信者を奴隷にしようと、後を追って来るでしょう。しかし、信者が第一に心を砕き、従うべきは神の御心であって、人間の思惑ではありません。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方とすべきです。」との言葉は決して誇張ではなく、行き過ぎでもないのです。神を愛することと、この世を愛することは決して両立しません。

神に従うとは、場合によっては、この世の全ての人々の思惑の全てに反してでも、ただ神の御言葉のみに従うという決断と行動を意味します。これには代償が伴います。

以前にも挙げましたが、旧約聖書の列王記Ⅰ第13章には、人間の言葉を優先して、神の戒めを破った預言者が、野の獣に食い殺された場面があります。この結末を残酷すぎると私たちは異議を申し立てることができるでしょうか?

この世的な見栄えの良さを保とうとする生き方と、真理に従う道は、ほとんどの場合、両立しません。もし信者が、世の評価や人の歓心を失わないことを第一に生きるならば、遅かれ早かれ、彼は真実を売り払って、無難な善人を装いながら、沈黙を守って生きるしかなくなります。それは偽善者の道です。

もし信者がこの世に配慮し、世の人々に同調して生きるならば、同胞が見殺しにされることに沈黙するくらいのことでは飽き足らず、かつてキリストが十字架につけられた時と同じように、今日も、罪なき神の御子を見捨て、裏切り、代わりに人類の代表である罪人のバラバを赦して、キリストを再び十字架につけよと叫ぶ羽目になるでしょう。

世を愛する道は、いつも変わりない結論に至りつきます。それは、罪なき神の御子を再び十字架につけて罪に定めてでも、生まれながらの人類を義とし、名誉回復したいという願望なのです。

そして、逆説的に、神を抜きにした人類の名誉回復という偽りの願望は、決して人類を解放に導くことなく、今まで以上の恐ろしい裁きと罪定めの中に人類を落ち込ませるだけなのです。

主に従う道は、人類が己の義とプライドを強引に押し通す道ではありません。主に従う道は、人が神を退けてでも、己の命を保とうとする道ではなく、むしろ、キリストのために人が自分の命を憎む道であり、キリストのために自分の命を捨てる者がそれを得ると聖書にあります。

戦いは戦いぬけば、必ず、勝敗がつきます。たとえ、この世から憎しみや妨害がやって来たとしても、恐れるには足りません、信者には「世に勝った」方が共におられるからです。

信者が自分の命を惜しまずに、死に至るまで真理を証し、神の義に徹底して立ち続けるならば、悪者は恥をこうむって逃げ去り、代価を払った者が神の御前に良しとされるでしょう。

黙示録によると、臆病者は罪に定められ、火の池に投げ込まれることになっています。ですから、主にあって、臆することなく、勇敢でありましょう。悪魔の罪定めは、その言い分を真に受けて、恐れを感じた人にとってだけ効力を持ちます。イエスの血潮に立脚する信者に対しては、悪魔の言い分は効力を持たないのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたし仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:24-26)

「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」(黙示12:10-12)

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