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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

国家権力は大昔から検閲・監視・密告を統治の手段として活用していた―ASKAの事件から見えて来るもの―

・事実上の共産主義国と化した日本――残された時間で全力で国の破壊にいそしむ安倍独裁政権――
 
安倍政権による日本破壊が続いている。政策にも外交にも全く成果が出ず、アベノミクスの破綻が明らかになって、いよいよ終わりが近いことを悟った現政権は、残された時間でこの国に対するありったけの破壊行為にいそしむつもりだと思われる。

国会でろくな審議もなしに凶悪な法案を次から次へと強行採決しているのはそういう意図を込めてである。もはやこの国の民主主義はほんの建前だけ、うわべだけのものとなった。前々から国会での審議など予定調和的な出来レースだと言われてきたが、かろうじて民主主義国の保たれていたうわべだけの体裁もかなぐり捨てて、今はあからさまな安倍の自民・官僚独裁体制へと移行している。

原発の爆発のツケは国民に回し、GPIFによる年金の運用損も国民に押しつけ、消費が活発化しない分は、カジノ法案を通し、ギャンブルで国民から巻き上げようという所存である。

10年を超える休眠預金はすでに国有化されることが決まった(「貧困対策や若者支援に活用=「休眠預金法」が成立」gooニュース 12月02日 12:20)。この「忘れ去られたお金」は500億~600億ほどは存在するという。貧困対策や若者支援など、これまで政府が一度たりとも本腰を入れてやったことのない政策へ活用するというのだから、そんなことは国民の資産を国が奪うための単なる口実に過ぎないのは明白である。この休眠預金の国有化は来るべき預金封鎖へとつながる初めの第一歩になるのではないかと囁かれている。

これから先、肥大化した官僚機構に率いられる国家権力が少子高齢化(と原発事故の影響による人口の著しい減少から生じる)財政難を乗り越えるために、いかに国民財産のありったけを強制的・合法的に収奪できるか、国会はただそのためだけの法整備の場所へ変わるものと見られる。
 
筆者は、この国はずっと前から事実上の共産主義国であると述べて来たが、いよいよ一人のカリスマ(というのにはあまりにも力不足だが)政治指導者のもとで、事実上、独裁化した中央集権が国民を徹底的に抑圧し、収奪するという、共産主義国には欠かせない政治形態が整ったと言える。もはや天皇さえも国家権力による抑圧のための飾り物のようにされてしまっている。
 
安倍は「美しい国」という偽りの夢(存在しないユートピア)を口実に、とことん人を騙し、国を滅ぼして来ただけで、何一つとしてこの国にリアルな成果を提供することはできていない。

安倍晋三を率いているのは、共産主義や、統一教会、ペンテコステ運動、国家神道を率いる悪霊と同じ種類のカルトの霊であって、これは偽りの父である悪魔から出て来た霊である。
 
安倍の政策は、ペンテコステ運動などと同じく、そもそもの最初から最後まで徹底的な詐欺の仕掛けなのである。その嘘の仕掛けは、かつてソ連が共産主義という、絶対にやって来ない夢を担保にして、とことん国民を騙し、巻き上げたのと同じである。
 
強行採決は、この偽りの霊が、安倍晋三というリーダーを現人神化し、残された時間内で、この人物を通して、とことん民主主義を破壊し尽くすという意志表示である。これを放置していれば、この国は暗黒時代に突入するだけである。


・偽りの北方領土返還の夢――無い夢を担保に、米国とロシアの二国にATM扱いされる悪夢をこの国はどう防ぐのか――

安倍は「強いロシアを取り戻す」というスローガンを掲げるロシアのプーチン政権に自分と同じ思想を見いだし、それゆえ親和性を感じ、個人的な親交を結ぼうとして来たわけだが、日ロの首脳会談は、今やまるで狐と狸の化かし合いのようになって来ている。

むろん、両方が精神性においては詐欺師と言って差し支えないのだが、こういう場合は、悪がより強い方が勝つと相場は決まっている。悪が強い方とはむろんロシアのことであって、この国の闇の深さは、これまで70年間平和を保って来た我が国の想像をはるかに超える。

一説によると、本物のプーチンはすでに死亡しており、現在のウラジーミル・プーチンは替え玉によるなりすましだと言う。プーチンの別れた元妻さえ替え玉であると証言しているというのだ。

長い間、筆者はそんな話はロシアを悪魔化するためのプロパガンダに過ぎないと考え、取り合わずに一蹴して来たが、最近になって過去の動画を比較してみると、確かに、以前のプーチンとは声も顔も違う。身体的特徴も異なれば、声のトーンも違う。


 

若い頃のプーチンには表情にどこかしら敏感で神経質そうな個人的特徴があったが、現在のプーチンには、それが見られず、物腰は訓練された工作員そのもので、電話機や銃を持つときの仕草にその特徴がよく表れている。面長だったプーチンの顔の特徴が丸く変わっており、目の色も変わっていると言われている。かつては流暢に話せたはずのドイツ語では、通訳を介さなければ意思疎通ができなくなった。

 

(秋田犬ゆめ、飼い主から撫でられそうになると顔を背け、逃げ去る)

プーチン死亡・替え玉説という話は深入りせず、この辺でさて置くとしても、こういう話を冗談として一蹴できない国がロシアなのだ。

話を戻せば、安倍が拙速なトランプ詣でをしたことによって、以下のニュースにも見るように、北方領土の返還は、ますます一層、遠のいたと言える。もはや日本は完全にロシアにいいようにあしらわれている様子がよく分かる。
 

岸田外相、プーチン大統領と会談 交渉の難しさ露呈フジテレビ系(FNN) 12/3(土) 1:14配信、から抜粋

岸田外相は、ロシアのプーチン大統領との初めての会談に臨んだが、2時間という、大遅刻の洗礼を受けた。
さらに、ロシア側との交渉の難しさが露呈する出来事が、次々に起こった。1時間50分遅れで始まった会談では、待たされていた岸田外相の前に、笑顔のプーチン大統領が現れ、会談は30分で終わった。
これに先立ち行われた国内行事で、プーチン大統領は、会談の予定開始時刻を1時間すぎても、雄弁に演説し、あわてる気配はない。
 思いがけないハプニングは、これだけにとどまらず、日本時間2日になって、ロシア側から日本側に、会談の出席者を4人から3人に絞るように要請があり、ロシアを担当する欧州局長が協議に入れない事態になった。


 筆者は必ず、こういうことになるだろうと前もって告げておいた。北方領土問題には、1%も希望などもともとなかったのだが、それでも、領土問題に進展がないのだと分かれば、即座に経済協力をひっこめ、プーチン大統領の訪日も中止するくらいのしたたかな駆け引きが日本の首相にぜひとも必要だった。しかし、安倍にそのような決断が出来るはずがない。

仮にもしもここ数年間に起きた日ロの急接近の中で、北方領土返還のチャンスが1%でも我が国にあったとしたならば、それはただロシアが米国に睨まれて国際的に孤立し、悪魔化されて包囲されていた他ならぬその時期だけであったと言えるだろう。だが、その間に安倍政権はロシアに近寄ることなく、むしろ、公然と対ロ制裁に加わった。そして一時はあわや世界大戦勃発に至るかと見られた米国とロシアとの対立も、今はトランプが次期大統領に選出されたことによって、ロシアにとっては緊張緩和の見込みが開けている。そんなバラ色の期待が高まっている今の時期のロシアにとって、わざわざ米国の傀儡に過ぎない日本の安倍政権に自ら歩み寄り、助けを求めねばならないような必然性はまるでない。

むしろ、この先は、米国とロシアとがタグを組んで可能な限りこの自立できない卑屈な属国を踏みつけにして、カモれるだけカモろうという態度を明白にしないように、釘を刺しておかなくてはらない時期に入ったのだ。確かに、安倍氏はそのようなことをされて仕方がないだけの卑劣な二枚舌外交を発揮して来た。自分が最も困難に陥った時期に、敵に回り、信頼と友情を確固として示さなかった人間に、誰がその人間が困ったときに救いの手など差し伸べるであろうか。そういうやり方は、人間関係にも通用しないが、外交としては完全な失敗である。

しかしながら、筆者は、たとえこの国のトップが狡猾な外交作戦を展開できうるだけの頭脳を持っていたとしても、やはり安倍政権の存続中に北方領土が返還される見込みは、初めから1%も存在しなかっただろうと考えている。そのようなことがもし起きうるとすれば、それはこの国が米国のくびきを断ち切って、完全に自立を成し遂げたその後のことである。

もともとロシアから見て、今の日本は米国の延長のようなものに過ぎない。そして、米国はロシアにとってずっと前から仮想敵なのである。日本が米国と共に対ロ制裁に加わった事実は、日本が自ら米国の手足に過ぎないと名乗り出たも同然であり、その記憶はロシアからこの先も決してなくなることはないであろう。いざとなればいつでも敵に変わり得るような国と見えているのだから、そんな国に、どの国が1ミリたりとも領土を明け渡すことがあろうか。そうでなくとも、どの国も自国の領土は1ミリでも大きい方が良いと考えるはずだ。普通に考えさえすれば結論は最初から見えている。

実際は、北方領土返還のテーマもまた国民を欺くための安倍のトリックに過ぎなかったのだが、安倍自身も、それが偽りの夢でしかないことに気づいていなかった可能性がある。

だが、こうした楽観の結果、日本は米国のみならずロシアからもATM扱いされ、国際的に自立できない国として蔑まれ、孤立して行く危険性に直面しているのだと言えよう。だが、ヘタレ国家のヘタレ政権には、そうなってもまだ、このくびきを跳ね返すだけの勇気も力もなく、自分たちが屈従を強いられている分の腹いせを、これから先、すべて国民に向け、国民をいたぶることで晴らそうとして来る可能性がある。それが最悪の結末である。


・強制集団化の始まり――原発事故処理の収束という天文学的負債を国家の破綻を経ずに乗り越えるには、国家が国民を徹底的に抑圧するしかないという悪夢――
 
いずれにしても、少子高齢化の中、半永久的に終わらない原発事故処理という天文学的な負債を抱え、これから先、財政難へと急落して行くことが目に見えている国である。その限りない負債をやりくりするために、この国では、この先、私有財産の国有化がなされ、徹底的に国民の資本と労働力を収奪するための強制集団化が始まるものと見られる。(ただし、こうした現象が起きるであろうという筆者の予測は、実のところは、日本だけでなく、米国やロシアにも当てはまるのだが、そのことは今は置いておく。)

さて、強制集団化とは何か。それは国民の労働力と財産を最後の一滴に至るまで搾り取って国の財産へと変えるための制度づくりである。安倍による農協潰しは、コルホーズ・ソフホーズの建設を思い起こさせる。マイナンバーも、国民財産と労働力を合法的に収奪するために活用されるであろう。いずれマイナンバーは体内埋め込み型のマイクロチップに取って変わり、その刻印を受けた人々はみな「マトリックス」に奴隷として拘束される仕組みが完成すると考えられる。

さて米国では、このほど、時期米国大統領に選出されたトランプの支持者であり、同氏の選挙チームの有力メンバーでもあった人間が、第二次世界大戦中の日系人強制収容所を手本として、米国で移民向けに強制収容所を建設することに言及したという(「「イスラム教徒の入国管理には、戦時中の日系人強制収容が前例になる」トランプ氏支持者が発言」The Huffington Post 投稿日: 2016年11月18日 17時15分 JST   更新: 2016年11月18日 17時31分 JST)

以前からネット上では、全米各地に大規模な強制収容所の建設が進んでいるといった話や、大量の棺桶が用意されているなどの怪しい話が飛び交って、国民に対する大規模な弾圧が行われると言われて来たが、こんな発言を見ると、以前には都市伝説や、流言飛語と思われても仕方がなかったような話が、いよいよ現実味を帯びて来たように感じられる。

つまり、米国は未来のトランプ政権下で、いよいよ本格的に戒厳令国家へと変貌しようとしているのではないかという予想が起きて来るのである。実際、米国民が最も懸念している点はそこであろう。移民抑制など単なる口実に過ぎない。まずは人権抑圧の最初のターゲットとなるのが、トランプが幾度となく憎しみを向けて口撃して来たマイノリティであるというだけで、最終的にはトランプ政権にとって不都合なすべての米国民は、みな強制収容所行きとなる危険を覚悟しなければならないような世の中になるのではないか。それがトランプ一人の治世で終われば良いが、米国の政権の特徴として後戻りできない形で浸透してしまう危険が考えられる。
 
そうなった場合、米国との腐れ縁を断ち切らない限り、我が国も、米国に続いて戒厳令国家へ突入することを免れられなくなるであろう。なぜなら、これまでの歴史的経験から、米国で起きたことは、数年遅れて、我が国の現実となって来たということが言えるからだ。たとえば、官僚だけがヒーローとなって、国民は恐怖に逃げ惑うか、もしくは移動も制限されて、家屋に閉じ込められて、TV画面を通じて報道される大本営発表を固唾を飲んで見守るしかない、という『シン・ゴジラ』のストーリーなども、未来の予表として描かれたものであるように思われてならない。

だが、一体、なぜ国家がそのような戒厳令下の世の中を用意せねばならないのか? 何のために国民の人権を抑圧するのか? それは、いよいよ国家が財政難その他のために経済的にも道徳的にも落ちぶれて行き詰まり、信用を失って崩壊の危機に瀕し、己の生き残りだけが全てとなって、いよいよ犯罪政権としての性質と正体を隠せなくなって来た時に、それでも滅亡を免れるためには、国民から収奪を強化し、手ひどいやり方で反対を封じ込めるために、国民の人権を大規模に抑圧することしか、残る方法はないからだ。

かつての一億玉砕と同じである。国の面子が保たれ、国体が護持されるためであれば、国民が残らず死んでも構わないという発想である。そのような発想の下では、国民は文字通り、犯罪性を帯びた政府と心中させられることになる。
 
だが、人は通常、自分自身の幸福のために生きているのであり、誰も強いられない限り、「お国のために」生きようなどとは考えない。だから、国民の財産と労働のすべてを国家のために合法的に供出させる仕組みを作るためには、まず、国策に反する者は誰であれ、権力の判断で恣意的に逮捕でき、人権(財産権を含む)を放棄させるような仕組みを作らなければならない。強制集団化のような過酷な政策の実施は、流血を伴うのであり、まずは国策に従わない国民から人権を奪って強制的に収容所に送って奴隷労働に従事させるなどの恐怖政治の仕組みを作らない限り、実行できない。
 
だが、初めから、権力のために国民の人権を抑圧しますなどとは、おおっぴらに言えないので、緊急事態や、外敵の脅威を口実に、国内で恐怖政治を常態化させるのである。しかも、最初から国民全体を縛るためにと言っては誰も同意しないので、最初はあくまでごくごく一握りの社会にとって不都合な、国民全体にとって脅威となりうる集団だけを取り締まり、排除するのだと言って、人権抑圧の仕組みを作り、作った後で抑圧の対象を無限大に広げて全国民を取り締まるのである。こうして戒厳令国家の仕組みが成立する。


・国家権力は大昔から検閲・監視・密告を統治の手段として活用していた――ASKA逮捕の事件から見えて来る監視社会――

ところで、筆者はCHAGE&ASKAのファンではなく、この事件にそんなに興味もないが、この度のASKAの逮捕という出来事は、以上のような文脈において、実に象徴的・暗示的であったと思うので触れておきたい。

このほど、二度目に逮捕された歌手のASKAは、本人の言によると、盗聴盗撮の被害を訴えて警察に被害届を出そうと通報したところ、その言い分が「薬による幻覚」であるとみなされて、自身が逮捕されてしまったという。
 
芸能人であるとはいえ、政治家でもない人間が、何らかの犯罪被害を訴えて警察に通報したことがきっかけとなって、逆に自分が疑われて逮捕されたというわけだから、これは人々を震撼させる出来事であり、この日本社会の大きな曲がり角である。

ASKAは週刊誌では脳が壊れたなどとしきりに笑い者とされ、危険な薬中毒患者だから何をされても仕方がないかのような報道がされているが、世論はASKAにかなり同情的で、この行き過ぎたバッシングに拒否反応を示し、真相を疑っている。

実のところ、ASKAに起こったことは、明日には国民全体に誰でも起きうる現実である、と言える。それが分からずに、ASKAを特別な人間と考えて笑い者とし、人権侵害を正当化している人間は、よほど愚かである。

ASKA逮捕が、当局によって周到に仕組まれた計画のもとに行われた罠であったろうことは、逮捕前からメディア中ですでに逮捕の予告が公に報道され、乗ったタクシーの映像まで勝手に公開されるという異常な状況から容易に推測される。

つまり、ASKAが逮捕されるはるか前から、警察、メディア、民間企業などが連携プレイを行って、本人に対する監視体制を作り上げ、網で魚を捕えるように、ただ逮捕の機会を伺っていただけであるとみなさなければ、そういう事態は起き得ないのだ。
 
(「ASKA逮捕を事前予告して“見せ物”に! 清原逮捕に続く警視庁組対5課の情報操作とそれに乗っかるマスコミの手口」 LITERA2016.11.28.などを参照。)

このようにメディア・警察・民間企業の見事な連携プレーを見せられると、「盗聴・盗撮されている」というASKAの言い分が、逆に正しかったのではないかと見えて来るのも当然である。
 
ちなみに、タクシー内の映像ではしっかりと運転手と話をし、料金を支払っているASKAの姿が映っているようなので、覚せい剤の影響で脳が壊れたとの公式発表を完全に否定する証拠となっている。

もちろん、ASKAの逮捕が、年金カット法案や、廃炉費用の国民負担や、カジノ法案の強行採決など、政府の実行しようとしている恐るべき凶悪な国民の権利抑圧の政策を覆い隠すためのスピン報道として存分に用いられたことは疑いの余地がない。だが、この事件は、スピンだけが目的の全てではなかったものと思う。

ASKAはこの逮捕がなければ、活動を再開する準備が整っており、今回の二度目の逮捕は(一度目の逮捕に至る経緯も周到に計画されたものであった可能性が高いが)、社会復帰を妨害する上で重要な役割を果たした。中でも、特に、ASKAが執筆しすでに公刊が近かったとされる『盗聴国家・日本』の出版を妨げるために極めて重要な役割を果たしたのは見逃せない。

(「ASKA容疑者 著書執筆中だった テーマは「盗聴国家・日本」」 スポニチ 2016年11月29日 05:30参照)

ちなみに、今でもごく普通の生活レベルで人々が接触する街の交番や警察署のお巡りさんは、道に迷った人にも親切で、気前も良く、そんな街のお巡りさんだけを見ていたのでは、警察が凶悪な組織だという印象は持ちにくいであろうが、しかし、それはあくまで警察組織の最下層の話であって、組織の上層部はこれとは全く異なる性質を持っているものと考えられる。国家権力の一部としての警察組織が恐るべき腐敗・犯罪性に陥っている可能性については、たとえば、神戸の児童連続殺傷事件についての少年A君冤罪説に関する一連の記事の中でも触れた。

今日、国民の誰かが仮に自転車盗難などの被害を訴えて交番に赴いたからと言って、自らが窃盗容疑で逮捕されるようなことはないと思うが、ASKAの事件は、これから先、平凡な国民が、本気でこの国の闇・タブーに触れるような何かの事件を告発する側に回ると、それをきっかけに、警察を含め、国家権力全体から監視対象としてマークされ、社会活動が不可能となるような妨害を受け、警察に何かを相談しても、かえって疑われ、狂人扱いされ、逮捕され、隔離されるきっかけとされるような、恐ろしい社会が到来しようとしていることをよくよく物語っているように見受けられてならない。

筆者はASKAをかばいだてするためにこう言うのではなく、国民に対する権利侵害に鈍感でいると、それがいずれ全国民の身に降りかかって来ることになると言っているのである。芸能人だから、再犯を疑われたから、自分とは扱いが違うとみなすのは誰しも早すぎるであろう。
 
仮に今、ASKAが訴えた盗聴・盗撮の被害は事実であり、この度のASKA逮捕は、この組織的犯罪を隠すための国策逮捕であったと仮定しよう。

すると、浮かび上がって来る疑問は、これら二つの間には密接な関連性があって、集団ストーキングは連携プレーによる逮捕と同じく、国家権力が不都合な人間を抑圧し、追い込むための闇の統治手段ではないのかということだ。

集団ストーキングという用語は、ネット上で調べると、カルト宗教から脱退した人への報復措置として言及されていることが多く、ネット以外の世界では、そういう話は、ほとんどが薬による幻覚か、もしくは、統合失調症のもたらす妄想として片付けられて終わっているようである。いずれにしても、現実世界はこのような問題の存在自体を頑なに否定しているのである。

だが、盗聴・盗撮という問題を単純に妄想と片づけるのは極めて愚かなことである。何より、ソビエト・ロシアの歴史を知っている者として、ここではっきり言えるのは、国家権力による盗聴・盗撮は、何世紀も前かられっきとして存在しており、いわば使い古された手段であって、何ら個人の妄想の産物でもなければ、新しい発想でもないということである。

全体主義政権は、いつの時代も、自らの政策の異常さ、残酷さ、誤りを、民衆の心に単純に訴えかけるアートの形で発表されることを何よりも嫌がった。そこで、政治家だけでなく、詩人、作家、音楽家など、芸術家をとりわけ厳しい監視対象としたのである。

たとえば、19世紀ロシアの詩人レールモントフは次のような詩を書いた。
 

Прощай, немытая Россия,
Страна рабов, страна господ,
И вы, мундиры голубые,
И ты, им преданный народ.

Быть может, за стеной Кавказа
Сокроюсь от твоих пашей,
От их всевидящего глаза,
От их всеслышащих ушей.



この詩には違うバリエーションもあるようだが、今はこの詩に正確かつ芸術的に完成された訳をつけることは目的とせず、単に意味を大まかに理解するだけに専念したい。もし逐語的に訳せば、次のような意味になるだろうか。

さらば、*無割礼のロシアよ、
奴隷らの国、ご主人様らの国、
おまえたち**青い制服にも、
奴らに忠実な民衆にも。

(注*無割礼と訳した言葉は、原語では「洗礼を受けていない」の意味、つまり、野蛮な、下品な、といった意味合い)
(**青い(空色の)制服とは、帝政ロシアの憲兵の制服)
 
ひょっとして、*コーカサス山脈の向こうまで行けば、
おまえの**官憲から逃れられるかも知れない、
奴らのすべてを見通す目から、
奴らのすべてを聴く地獄耳から。

(注*=僻地への兵役や流刑の方が都にいるよりもはるかにましだという意味)
(**原語では、パシャというオスマン帝国軍司令官の称号、複数形)
 
レールモントフがこの詩の中で激しい侮蔑と嫌悪感を示して糾弾しているのは、帝政ロシアの巨大な権力機構によって国民の間に徹底的に張り巡らされた監視・密告・検閲体制である。当時、ロシアの帝政権力による検閲は、ただ単に政治的な出版物やパンフレットの検閲だけでなく、あらゆる分野の出版物に及び、国民のあらゆる会話の監視・盗聴と、それに基づく密告が行われていた。貴族であっても、この監視体制から逃れられる者はいなかった。

このような徹底的な監視・密告・検閲体制は、ロシア国家の不治の病として、この国の歴史に深く刻まれ、ソビエト体制にも受け継がれる。帝政ロシアが権力を批判する文書を細部に至るまで統制し取り締まっていたと同様、特にスターリン体制になって以後のソビエト権力は、国内のすべての文書を厳しく事前検閲して取り締まりの対象とし、国民のあらゆる会話を盗聴し、国民同士による盗聴・密告体制を作り上げて、国家にとって不都合な人間を排除する手がかりとした。ソルジェニーツィンが収容所群島と呼んだ強制収容所には、国民同士の密告に基づいて「人民の敵」とのあらぬ嫌疑をかけられて秘密警察により逮捕され、証拠もなく有罪にされた数知れない人々が送られた。

だが、ソビエト体制になるよりもずっと前に、レールモントフが自らの詩に描いたのが、まさにこれと同じ世界であった。この詩人にとっては、それこそが「ロシア」であり、ロシアとこの盗聴・密告・監視システムは切り離せないものとして一体化して機能している。しかも、その奴隷のシステムは国家権力だけが独断で作り上げたものではなく、民衆の自発的協力と一体になって成立しており、そのようにして権力に自ら迎合し、媚びへつらい、屈従する国民の卑屈さ、精神的奴隷ぶりが、この誇り高い詩人には我慢がならなかったのである。

今日のロシア人は、この詩はシニカルに過ぎるものとして否定したがるかも知れない。そのような卑屈な奴隷根性を国民的歴史としては認めたがらないであろう。だが、これはロシア国家の不治の病であり、今日もそうした体質は変わらない。ロシアという国に対して幻想を持つのは早くやめた方が良いであろう。

筆者はかつて半数ほどがロシア人から成る小規模な仕事場で働いたことがあったが、そこで、毎日、毎日、ロシア人の集団と顔を合わせているうちに、普通ならば、国際結婚でもしなければ見えて来ないような彼らの国民性の負の部分を間近で観察することになった。その結果分かったのは、ロシア人には自分たちは虐げられているという被害者意識による団結力はあるが、それがあだとなって、自ら監視・密告体制を作り、信念を持たず、浮草のように力の強い者から力の強い者に流れ、何度でも寝返りながら、本心を隠して媚びへつらうという無節操ぶりであった。ロシア国民の大半はこのような無節操な人々から成ると見て良い。筋を通して権力に戦いを挑む真のインテリなど極めて稀である。

そのようなわけで、我が国の現状を相当に辛辣に批判する数多くの人々が、米国嫌いの反動のためか、今もロシアには甘い点をつけ、淡い期待を託している現状を、筆者は残念に思う。

たとえば、兵頭正俊氏でさえ「南スーダンの黙示録」(2016年12月1日)において次のように語っている。
       
 

2015年にノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチが日本にきている。

11月28日に、東京外国語大学で講演して、「日本には抵抗の文化がない」と発言した。福島第1原発破壊の福島を視察して、被災者から国の責任を追及する声が少ないことに驚いたものである。

福島で目にしたのは、日本社会に人々が団結する形での『抵抗』という文化がないことです。祖母を亡くし、国を提訴した女性はその例外です。同じ訴えが何千件もあれば、人々に対する国の態度も変わったかもしれません。全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません。日本ではなぜなのでしょうか

「全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません」という言葉をそのまま受け取るわけにはいかない。ロシアは、世界史に残るロシア革命を成し遂げ、またその革命が裏切られると、ソ連邦をも倒した

 
隣の芝生は青く見えるのであろう。だが、アレクシエーヴィチはロシアという国を十分に知った上で、以上のように発言しているのだ。それは知らない者に否定できる見解ではない。さらに、ロシア革命は、今日の言葉で言うカラー革命の一種であり、ソ連崩壊も同じことである。それらは決してロシア人の勇敢な抵抗の精神を物語る立派な歴史的事実ではない。とにかく、ロシアを色眼鏡で見て甘く評価することは、相当に危険である。この国の流血の歴史に比べれば我が国の方がまだ幾分か罪が軽いとさえ言える。
 
またもや話がロシアに飛んだので、ASKAの話に戻らねばならないが、ASKAが訴えている盗聴・盗撮などといった手法は、以上に記したように、何世紀にも渡り、国家権力が国民を取り締まり、統治を強化するために実際に用いて来た闇の手段なのであり、何も病人による筋の通らない戯言ではなく、さらに、公権力を批判する者が「狂人」や「病人」扱いされるという歴史も、今に始まったことではないのである。

いつの時代にも、国家権力は、人々が何千ページもある難解な論文や報告書を書いて政権を批判することよりも、絵画や、音楽や、詩などの、人の心に単純に訴えかける、民衆に広く理解される単純な形式による政権批判の方を目の敵にして取り締まって来た。
 
何千ページにも及ぶ論文は、読む人も限られるが、わずか数十分のプロモーション・ビデオなどは、誰でも容易に理解できる。

筆者が何を言わんとしているかもう分かる人もいるかも知れない。ASKAが訴えたような執拗かつ大規模な集団ストーキングが、もし国家権力と結びついたものであった場合、一体、それは何を理由として始まったのか。何がきっかけで、同氏はそれほど激しい妨害にさらされることになったのか。
 
誰でもすぐに思いつく重要なきっかけの一つは、 CHAGE&ASKAがかつて宮崎駿監督のスタジオ・ジブリの制作により、反原発をアピールする以下のプロモーション・ビデオ"On your mark"を作ったことである。「ああ、またもや、原発反対派による国家権力による陰謀説か。そんなものは聞き飽きた」と一笑に付すのは簡単だが、少し待ってもらいたい。
  


On Your Mark 投稿者 gulfchannel


このプロモーション・ビデオは、Wikipediaの記述によれば、最初に公開されたのは1995年で、その後も、コンサートツアーで使われたり、2005年にはスタジオジブリのDVDにも収録されたりして、問題なく公開されていた様子なので、その事実を見る限り、最初からこのビデオが問題作として当局からの攻撃の対象となったという事実は全くないものと考えられる。

おそらく、福島原発事故が起きるまでの間は、かなりディープな問題提起がなされているとは言え、それほど物議を醸すことのない比較的無難な作品であったように思われる。

しかしながら、3.11後、権力にとって、このプロモーション・ビデオは、それまでとは全く違った意味合いを持つものとなった。すなわち、原発推進という「国策」に真っ向から逆らう、「権力に盾突く」深刻かつ見過ごせない内容の「危険作品」になったのである。

特に、当のASKA自身が明白に反原発のプロパガンダの意味を込めてこの作品を利用しようとしたことが、余計に当局の反発を買ったのではないかと予想される。

このプロモーション・ビデオのタイトルは、CHAGE and ASKAのライブとしては6年ぶりに予定されていた再始動の意味を持つスペシャルライブ2013“On Your Mark” にも大々的に利用されていた。このライブは、ASKAに「一過性脳虚血症の疑いがある」という理由で延期され、その後、完全中止になったが、この時につけられた病名が本当に正確な診断であったのかどうかについては色々な憶測が飛んでいる。

ASKAが最初に覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕されたのは、2014年5月17日であり、この逮捕の影響により、それから約1か月後の6月18日に予定されていた上記のビデオの「宮崎駿監督作品集」の特典映像としての収録が中止になった。

筆者は、ASKAの覚せい剤使用の容疑が全て捏造であったと言っているのではない。おそらく一度目の逮捕の容疑は事実だったのだろうと想像する。だが、芸能人と暴力団や薬の使用との結びつきは、ASKAに限らず、あまりにもありふれた話でしかなく、当局はそのようなことはすべて知った上で、いつそれを大々的な事件として取り扱うかということだけに焦点を絞っていた可能性が高い。

当局は、有名人CHAGE and ASKAの華々しい再デビューと、反原発のプロパガンダのビデオが一つに結びついて、大々的に国民感情を揺さぶる現象を引き起こすことを何より恐れ、一計を案じたのではあるまいか。これを防ぐために、ライブの中止に向けて逮捕を計画しただけでなく、ASKAの名誉を徹底的に貶める執拗な報道によりビデオの信憑性を国民に疑わせ、その普及を阻止すべく手を打ったのではないかという見方が可能である。
  
さらに、上記のプロモーション・ビデオの他に、当局の恨みを買うきっかけとなったもう一つの事件が、ASKA自身が、(おそらくは国家権力と結びついた)大規模な盗聴・盗撮のシステム(集団ストーカー)の存在を告発しようとしていた事実である。

集団ストーカーの存在は、これまでネット上の妄言とされるばかりで、芸能人や著名人がその存在を認めることはほとんど無かった。影響力の大きい著名人の発言だけに、余計にそれが社会的に認知される前に早々に闇に葬る必要があったと見られる。

ASKA本人の手記によれば、同氏がこの問題に深入りするきっかけとなったのは、身近な他者が集団ストーカーの被害に遭い、自殺したという事件から生じた慙愧の念と義憤だったようである。同氏の手記を額面通りに受け止めるなら、他者の無念を晴らそうと、自らその事件に深入りしているうちに、組織的な盗聴・盗撮集団の存在を突き止め、これを追跡しているうちに、自身がターゲットとされたということになる。

だが、ASKAの手記を読むと、同氏は人を信じやすく、正義感が強く、疑うことのできない人柄の持ち主であったように見受けられてならない。そういう性格の人間を闇の中に誘導して陥れるには、親しい知人を痛ましい事件に巻き込むだけで良い。だから、真相は分からないとはいえ、監視集団の真のターゲットは、初めからASKAだった可能性も考えられる。

こうしたことは、栩内香澄美容疑者についてもあてはまる。ASKAはこの女性をも疑うことができないでいる様子だが、パソナにおける会長秘書という役職を考えるとき、おそらくこれは普通の人間ではないだろうという印象が拭い去れない。彼女はもともと一定の目的で派遣されたエージェントであった可能性が考えられる。道連れに逮捕されたのは目くらましで、当局の真のターゲットはもともとASKA一人だったのではないだろうか。
  
今回、二度目に逮捕される直前、ASKAは盗聴・盗撮集団の存在について、次のように言及していた。
   

  「ASKA容疑者 謎の言葉「ギフハブ」とは?」daily sports 2016.11.30 によると、
 
「同容疑者は警視庁に28日に逮捕される約5時間前に宮根誠司キャスターと電話で話し、その模様を29日に同番組で放送した。その際、同容疑者は「組織があるんですけど、ギフハブっていう。そこが組織を作って今…」などと自分の行動が監視されていると訴えていた。」



そこでASKAの語った具体的な内容は次のようなものだったという。
 

「ギフハブ」っていう組織があるんですけどそこが組織を作って。
今AR(拡張現実)っていう仮想現実なんですけど僕のいるところを映したりして。
携帯の中にそのアプリが埋め込まれてたんですよ。その証拠もとってるんですね。」


この秘密組織の存在は、様々な場所で、ASKAの妄想と幻覚を示す証拠のように嘲笑されているが、本当にすべてが作り話と決めつけられるであろうか。

何しろ、スマートフォンを含む携帯電話が、人々の位置情報、通話内容を含め、音声の盗聴及び盗撮に利用されうること、携帯電話を通して得られた情報をすでにCIAなどの大規模組織が大がかりに利用していることは、エドワード・スノーデンなどもすでに指摘していることであり、何ら新しい情報ではない。

それはあくまで米国の話だと我が国の人々は思って安心している。しかしながら、もしASKAの証言により我が国においても、同様の大規模監視集団の存在があることが明るみに出れば、人々はパニックに陥り、携帯電話を二度と使わないと決意するであろう。そのようなことを防ぐために、こういう話は早めに「妄想」と決めつけるのが手っ取り早い。病気でないなら、薬による幻覚、脳の破壊ということにして、「妄想の持ち主」を徹底的に見せしめに嘲笑すれば、そんな「作り話」は誰も口にしなくなる。

ところで、ARを作って、そこに現実の人物を置くことで、現実世界のパラレルワールドを作り、人間を監視するという、ASKAの語る監視手法は、上記のプロモーション・ビデオの中にもヒントがある。

"On your mark"のストーリーは、すべてがパラレルワールドから成り立っているとも言える。まず、そこでは、現実世界は放射能に汚染されて、人が住めなくなっており、人々は地下に現実を模した人工都市を作って、そこをあたかも現実世界のように思って生活している。それは人々を人為的に閉じ込める一種の「マトリックス」である。

この自由なき地下社会を支配しているのは、現実世界を放射能に汚染させて人が住めないようにした犯罪者政府であり、その犯罪者政府が、いかがわしいカルト宗教と手を結んで人心を統治しているというのが、このビデオの動かせない「現実」である。



ちなみに、このカルト宗教の掲げる標語"God is watching you"「神はあなたを見ている」は、この宗教の第一目的が、全ての人々を「監視する」ことにあるとよく物語っている。要するに、「おまえらはみな監視されているぞ」という脅し文句である。この宗教はフィクション版のフリーメーソンであり、そこで言う「神」とは悪魔を指す。

このすべてが裏返しのフィクションにおいて、主人公は、警察官の職に就いている友人同士の二人である。だが、二人がカルト宗教団体に突入するというストーリーの始まりは、そこからしておそらくはすでに幻想であり、妄想であると筆者は思う。

本当は、この世界においては、犯罪者政府とカルト集団による支配から逃れられる者は誰一人いない。現実における主人公は、カルト宗教・政府の手先としての「官憲」でしかないであろう。だが、ちょうど映画「マトリックス」がそうであるように、現実の欺瞞に気づき、これに耐えられなくなった主人公が、この「マトリックス」を脱し、勇敢に巨悪と闘うる正義の味方となるという「夢」を一人、空想の内に思い描くのである。

この「夢」の中で、主人公はカルト宗教にとらわれていた一人の翼ある少女を救出するというミッションを帯びる。が、何度も失敗しては、また最初からやり直しになる。ゲームのように、一度失敗すると、オールリセットして、また新たな策を練って、初めから出直しとなる。このストーリーでは、少女を救出して解放することが、人類全体の自由を取り戻すことと同義になっている。

その救出作戦の途中で、研究資料として政府に連れ去られた少女の位置情報を探り出すために、主人公はパソコンに向かう。パソコンの上には、不思議の国のアリスに登場するウサギを思わせる置物が置かれている。

少女の位置情報は、パソコンの向こうの仮想現実の中で見つけられる。「マトリックス」の世界に存在するすべては、コンピュータープログラムによって監視され、記録されているので、システム上で探り出すことが可能である。

CHAGEを思わせるもう一人の主人公が作ったものは、無線機のようにも見えるが、少女が監禁されている装置のロックを解除するためのリモコンであるらしい。





 
  
なぜこの少女は国家による研究材料にされて、試験管のような装置の中に閉じ込められたのであろうか?

推測に過ぎないが、この少女にはおそらく、放射能を無害化する特殊能力があるのだと思われる。そのことは、このストーリーの最後に、汚染された町で、少女一人が生き生きと羽ばたいて空へ向かっていく様子からも理解できる。

犯罪者政府とカルト宗教は、放射能を無害化する技術が一般大衆に知れ渡ると、地球が再生され、自分たちが人々を脅し、「マトリックス」である地下都市に監禁する口実がなくなるので、自分たちの支配が永遠に続くように、少女を隔離することによって、その技術を政府が独占し、外へ知られないように手を打ったのである。

むろん、この少女は存在自体が、主人公の「妄想」の産物である。実際には、この少女はカルト宗教に捕われて、無残に犠牲にとされた信者(もしくは奴隷)の一人に過ぎない。その犠牲者の少女に、地球再生の鍵が秘められているというのは、主人公の「夢」でしかない。

だが、その「夢」においては、政府と宗教団体の犠牲となって閉じ込められている一人のか弱い少女を救出して、汚染区域に解き放つことは、少女一人だけでなく、地球全体が救出される道である。少女が持つ放射能を無害化する力によって、汚染区域は、長い時間をかけて、再生の道を辿り、それによって地球は再び人の住める場所となり、未来の人類に、犯罪者政府とカルト宗教による支配から逃れる道が開かれるのである。

つまり、一人のか弱い人間を救うことが、地球全体の救済へとつながっているのであって、それを成し遂げることが、主人公が真の英雄へ至るミッションである。主人公二人は、汚染区域に入ったことによって、死ぬ羽目になるが、少なくとも、自己を犠牲にして、地球を汚染から解き放つ方法を提供することで、真の英雄になれたのである。

このビデオはフィクションとはいえ、現実世界の歪みを鋭く暴いて糾弾する意味を持っている。それは放射能の脅威(だけでなく人類の直面するあらゆる問題)を逆手ににとって、その脅威を悪用して人々を脅しつつ、カルト宗教と結びついて、人々の自由な暮らしを奪いながら、恐怖によって人心を支配する政府の存在を指摘していることである。その犯罪者政府にとって、放射能汚染という恐怖は、永久に取り除かれずに存在していた方が、むしろ、好都合なのである。

3.11以降、このフィクションに込められた現実の矛盾を暴きだす力が、あまりにも強烈なメッセージになったがゆえに、当局はこれをお蔵入りとし、闇に葬る必要があったのである。

そのために、フィクションの物語を裏返しにして、ASKAを模した主人公が、現実世界においてはスキャンダルと恥辱にまみれた「容疑者」となり、決して「英雄」にはなれず、少女も飛び立てず、再生の道が絶たれるように、悪意を込めて物語の事実をひっくり返したのである。

この悪意ある監視集団は、そのために現実とは別のもう一つの仮想現実であるARの世界をコンピュータ内に作り、そこでASKAを監視の対象、さらし者にした。そのARにおいて、彼らはどうやって同氏を罠にかけ、貶めるかを話し合ったのであろう。そして、その悪意が現実世界にも及ぶように、周到な計画を練ったのである。現実世界において、同氏をどんな風に罠に引き込んで凋落させるかを話し合ったのであろう。

「落ちて行くだけのコインは二度と戻らない」とか「流行りの風邪にやられた」などの歌詞を彼らは弄び、悪い事柄だけが現実になって降りかかり、作品自体が本人を嘲弄する手段となるように粋を凝らしたのである。

この犯罪者集団は、おそらくはASKAの他にも自らの脅威となりうる人間に対して、ずっと同じ方法で監視を繰り広げ、その人物が真の社会的脅威となる前に、あらゆる方法を使って社会から排除されるよう、引きずりおろして来たものと想像される。小沢一郎、植草一秀、鳩山由紀夫などの政治的大物は言うまでもないが、影の政府にとって不都合な人間を欺き、その人間性を貶め、周到に罠にかけるのが彼らの仕事であり、今やその手法はただ単に社会的な大物だけでなく、一般人にまで及ぼうとしている・・・。

しかしながら、こうした恐るべき推測を一旦、脇に置いても、このビデオは宮崎駿の作品にしては、随分、不吉な印象である。特に、この翼ある少女には、宮崎作品に登場する多くの女性主人公のような主体性があまり感じられず、彼女はただ受動的に救いを待っているだけの、意志を奪われた無力な人間であり、どちらかと言えば、『風立ちぬ』に登場する女性のように、悲しい犠牲者の風貌をしている。このストーリーの中では、本当の彼女はきっと、翼もなく、ただ痛ましい犠牲となって死ぬおびただしい屍の一人に過ぎないのであろう。この犠牲者としての風貌の中には、汚染された地域の被災者の悲しみのすべてが、隔離された人類全体の悲しみが投影されている。

この哀れな犠牲者の少女を解き放つために、結果的に、二人の主人公も命を失う(としか思われないのだが)というエンディングもかなり悲愴である。話の運びのテンポは良いが、『風立ちぬ』もそうだが、エンディングが、ハッピーエンドなのか、悲劇なのか分からないという消化不良を観た者に引き起こす。『風立ちぬ』の主人公は、明らかに体制側についた人間であり、自らの想像力を悪なる戦争のために利用され、妻を救う手段も見つけ出せなかった無力な人間である。彼には妻の愛情に報いる術もなく、彼女が死の床についてから、病める時も、人生を共にしてやるという伴侶のつとめを果たせず、むしろ戦争の大義を優先したような非力で無能な男性である。それとほぼ同じように、このビデオの中でも、主人公が英雄になれるのは、自分の空想の中だけである。

もしかすると、このあたりが、現在の日本人一般男性の思考と能力の限界かも知れないと思う。何しろ、この国は、真の意味での精神的自立を成し遂げたことが今まで一度もないのだ。だから、これまで、この国で生きるということは、多くの人々ににとって、マトリックスの一員、体制側の人間として生きることしか意味しなかった。特に、男性が、社会に認められようと思ったときに、完全に反体制的人間として、マトリックスを告発する側に立つことはほぼ許されなかった。こうした意味で、我が国の遅れて閉塞的な文化的・精神的な状態はロシアに非常によく似ているのである。

だから、この国の男性たちはおおむね誰もが自分の魂をどこかで置き去りにし、権力に売り渡しながら生きて来たのであり、それが悪であることは、本人の魂が重々知っている。だが、それより他の生き方を選択できないので、その人々は自分の心の本当の願いを、フィクションや、仮想現実や、空想に託すしかない。上記のプロモーション・ビデオも、ある意味では、良心を曲げられ、屈従を強いられた人間の慙愧の念と良心の叫びから出て来る「妄想」や「幻覚」に近い現実逃避としての「夢」のように見受けられる部分がある。

しかし、ASKAはおそらくこの仮想現実の物語を地で生きようとしていたのであろう。カルト宗教団体に捕われ、犠牲となった少女を見捨てておけなかった主人公のように、集団ストーカーの犠牲となった死んだ友達をも放っておくことができず、原発事故被害を見過ごしにすることもできず、犠牲となった人々を助けたいという生来の義憤と同情から、深い暗闇に自ら首を突っ込んで行き、自分自身もその犠牲となったのである。

だが、その同情と義憤にこそある種の非常な人間観の甘さ、お人好しさがあったのだと言える。結局、人間が自分の手で人間を救おうとする試みは必ず頓挫し、犠牲は犠牲の連鎖を生むだけで、どんなに美しく見える人の良心も、愛情も、義憤も、決して人を生かす真の力とはならない。人間の救いは神にしかなく、人間自身には義はないからである。犠牲の連鎖を抜け出る新たな生き方が必要なのである。

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カルト被害者救済活動の暴走―この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険②

2.この世の常識によってクリスチャンを罪に定め、クリスチャンを裁判にかけることで、キリスト教徒を弾圧し、霊と肉の秩序を転倒させることに喜びを見いだすカルト被害者救済活動の異常な支持者たち 
  
2-1.この世の不信者を動員して信者を恫喝して黙らせるカルト被害者救済活動の手口

さて、カルト被害者救済活動の根底に流れる異端思想については、別稿でも詳述する予定であるが、私は異端思想の総称を「東洋思想」と呼べるのではないかと考えている。

東洋思想は日本人には極めてなじみ深いものであり、それは神と人との断絶を認めないことから始まって、キリストの十字架における分離と切り分けを否定して、全体と切り離された個人というものを認めず、個人を「母なるもの(全宇宙)」や「全体」(社会、家族、国家、世論、空気、すなわち最終的には「この世」)の一部とみなす。

この思想は、人間が罪によって神と断絶したことを認めず、被造物の堕落を認めないので、神と宇宙は一つであり、人はこの宇宙と切り離されることなく、それに生まれながらに包含されるという考え方に貫かれており、そこで、宇宙には神が満ちているというとか、木や石にも神が宿っているとか、人も生まれながらに神であるとか、目に見えるものはすなわちみな神であるという汎神論的な考え方を生む。 
 
このような考え方は、見えるものすべてを高く掲げ、人間の罪や堕落といった考えを否定するので、人の耳には心地よく響くかも知れないが、結局、神と人との断絶を認めず、被造物の堕落を認めない思想は、個人を全体から分離することや区別することも否定して、人を堕落した「この世」に永久に閉じ込めて束縛し、決してそこから外に出そうとしない点で、恐ろしい思想なのである。
 
しかし、日本人は古来からこのような思想に慣らされているので、物心ついた時から、全体の中で自分が何らかの役割を果たすことによって、初めて個人としての評価を得られるという考え方をすりこまれている。

ゆりかごから墓場まで、日本人は、絶えず社会や集団における人間関係のヒエラルキー、縦の序列の中で、自分よりも強い立場にある人間に積極的に奉仕し、権威者から覚えめでたい人となり、優秀だという評価を得なければ、自分が人としての価値を失うかのような恐れに縛られて生きている。そのような恐れを人に抱かせるためのシステムがこの世に出来上がっている。

そこでは、個人の尊厳というものが、社会全体においてその個人が果たす役割(あるいは貢献度)を基準としてはかられるのが当然視されているため、個人の尊厳というものが、そもそも他者によって外から評価されたり付与されるべきでなく、個人の尊厳とは、個人が生まれながらにして持っている絶対的な価値だとみなす考え方がないに等しい。

このようなシステムに従って生きている人は、集団と切り離されたところで、集団の中で何の役割も担わない個人というものを考えることができず、自分の価値を、自分を取り巻く集団における自分の有益性という外側からの評価と切り離して考えることが極めて困難である。
 
そこで、ほとんどの人は、外面的な評価を得るための競争に絶えず踊らされながら、大変な努力をして何かを達成しても、それによって満足することもなく、さらに多くの人々を凌駕して、さらに多くのものを手に入れなければ、自分の価値を確信できないという不安と焦燥感に追い立てられている。

クリスチャンは、曲がりなりにも、このような弱肉強食の世が堕落しており、この世で尊ばれているものに価値がないこと、また、人間が堕落した罪深い存在であり、キリストの救いを信じることなくしては、神と断絶していることを知っている。そして、キリストの十字架を信じることにより、信者が罪から贖われ、キリストの義を着せられ、堕落した「この世から召し出された」ことを知っている。この召し出された人々が、神の教会なのである。

召し出された人々は、この世の価値観とは違った価値基準によって生きている。神を信じる以前のように、この世の人々からどう評価されるかという恐れに縛られ、人の目により評価されるべく努力して生きるのではなく、神の目に喜ばれ、評価されることが、クリスチャンの新しい人生の目的である。
  
クリスチャンは世から召し出されたがゆえに、自分がこの世からは激しい憎しみの対象となっていることをも知っている。この世の君は、「空中の権を持つ君」、すなわち、サタンであり、この世の世論、社会の動向、世界の情勢、目に見える世界を直接、支配しているのは、悪魔なのである。しかし、この世にあるものは、必ずしも人の目にすべて悪く見えるものばかりでなく、良識や善と見えるような、良さそうなものも多く含まれており、こうした見せかけの偽善的な道徳や、見せかけの良識を巧みに利用しながら、悪魔はこの世という巨大な偽りの体系を築き上げているのである。

生まれながらの人々は、この世という体系が偽りであり、堕落していることを理解できない。たとえ何かがおかしいと気づいたとしても、罪のゆえに、彼らはこの世の奴隷とされており、死の恐怖のために逃げ出すことができない。

しかし、クリスチャンは、この世の暗闇の圧政から救い出されて、キリストの霊的統治のもとに置かれているため、悪魔がその支配を及ぼすことのできない領域にいる。それゆえ、信者は暗闇の勢力と彼らの支配する「この世」からは激しい憎しみの対象となっており、暗闇の勢力は何としても、この世から召し出された信者を、再びこの世の奴隷に戻そうとたくらんでいるのである。

聖書は、再三に渡り、信者がキリストにあって自由を失わず、キリストの復活の証人として立ち続けるためには、この世を愛してはならず、この世と妥協してはならないと警告している。しかし、この世を愛するとは、単にこの世の富を愛するだけでなく、世からの評価(自己の栄誉)を愛することをも意味する。
 
もし信者が神がどう自分を評価されるかを気にするのではなく、人の目に自分がどう評価されるかを気にして、この世の人々の批判を恐れたり、人から良い評価を受けたいがばかりに、外面を取り繕い始めると、早速、その人は神に対して生きるのではなく、世に対して生きる者となってしまう。

さて、カルト被害者救済活動に携わる人々は、クリスチャンを信仰の道から逸らすために、「この世」を巧みに利用して、クリスチャンを糾弾する「世論」を作り上げた。そして、この偽りの世論によって信者を圧迫することによって、信者が神ではなく、人(不信者)の目を恐れ、世間の評価を気にしながら生きるように仕向けているのである。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、杉本徳久氏のような、カルト被害者救済活動を主導する人々は、「キリスト教界のカルト化問題に警鐘を鳴らす」ことを口実に、キリスト教の信仰を持たない不信者を積極的に動員しては、キリスト教に対する世間の批判的な世論を形成し、キリスト教に対する憎悪と偏見を煽り、裁判などのこの世の強制力を用いて、教会に強制的に介入することを肯定し、「疑わしい」とみなしたクリスチャンを次々とバッシングしたり、裁判にかけることによって、不信者らをクリスチャンに対する弾圧に駆り立てている。

カルト被害者救済活動は、当初、キリスト教界の不祥事の犠牲となった人々を救済することを目指していたが、今やこの活動は、キリスト教そのものに対する憎しみに満ち、キリスト教に対して恨みや被害者意識を持つ人々で溢れかえっている。こうした人々が勝手に「被害」を主張しては、クリスチャンを次々弾圧しているのが現状である。
 
当ブログで悪質な嫌がらせ工作員として紹介している「さわやか読者」も、カルト被害者救済活動に強い影響を受けた人々から成っているが、この人々は実際にはキリスト教のことを何も知らず、関係者でもなく、部外者でありながら、キリスト教に対する憎悪と不信感から、信者を攻撃しているのである。

このような部外者を積極的に集めては、キリスト教に対するネガティブな世論を作り上げ、それをきっかけに、キリスト教徒への弾圧に乗り出し、自らの活動の需要を世間に訴えて、活躍の場を作り出そうとしているのが、カルト被害者救済活動に携わる人々である。

彼らはキリスト教界の不祥事を大々的に発表し、自ら世間におけるキリスト教のイメージを貶めておきながら、もう一方では、「キリスト教のイメージが世間で低下したので、これを正さなければならない」と言って、キリスト教界を力づくで自分たちの活動の支配下におさめようとする。

こうした活動は明らかにマッチポンプであり、彼ら自身が、自らの活動の需要を作り出すために、キリスト教界のイメージを限りなく貶めているのであり、さらに、信者をこの世の不信者らの圧力の下にひれ伏させるために、キリスト教を非難し貶める世論を作り上げ、本物の信者らを、彼らの作り出した世論に怯えさせ、彼らに従わせようとしているのである。

そのために、至る所で、ほえたける獅子のように暴れまわっては、クリスチャン・ブロガーなどに圧力を加え、信者を裁判に引きずり出し、信仰告白をやめさせ、神を信じ、御言葉に従う人々の信仰生活を妨害しているのである。
 
こうして、不信者によって信者を取り締まること、この世の霊的盲目にある人々を利用して、信者を恫喝し、怯えさせて黙らせて、神の霊的統治に関する事柄を、この世の悪魔的統治の支配下に置き、目に見えるものと見得ないものの秩序を逆転し、霊と肉との秩序を逆転させ、悪魔的統治を教会の上位に据えることこそ、村上密氏が唱えていた「カルト監視機構」の発想の根底にある恐ろしい思想なのである。
   
堕落した世の影響を聖書の御言葉以上に高く掲げ、信者を御言葉ではなく「この世」の言い分に従わせようとする圧力に、信者は従うべきではない。いかに上記のような活動の支持者らが「この世の常識」をふりかざして、クリスチャンを断罪していたとしても、信者がその言い分に影響され、欺かれるべきではない。

信者が従うべきは聖書の御言葉であって、この世の常識や世論の動向ではない。この世にあるものはすべて神から来たものではなく、サタンこそ「空中の権を持つ君」であり、悪魔こそ、この世を牛耳り、世論を操り、何が正しいことであるか、真理を捻じ曲げて、虚偽をまことしやかに是認する空気を作り出し、多くの人々を惑わしている張本人なのである。

ちなみに、世間に波風立てないことを第一とし、組織の序列に逆らうことを許さず、人にとって耳障りなことは言わず、世の「空気」に逆らわないで、権威者を立てて生きることを奨励する「和の精神」が、人の目に良さそうに見えても、実際には、どんなに危険な思想であるかについては、以下の記事「東洋思想とは何か。その柱は何を再建しようとしているのか」でも少し触れているので、こちらを参考にされたい。 
 
さて、前の記事「カルト被害者救済活動の暴走 この世を無罪放免しながらキリスト教徒を断罪する村上密氏と杉本徳久氏の活動の危険➀」でも述べたように、クリスチャンは、人の言動の背後に、どういう霊的思想があるのかを鋭く見分けねばならない。キリストの御霊に導かれ、聖書の御言葉に基づいて、これを体現するために生きる人々もいれば、この世には、悪霊の思想を体現し、悪魔の欲望の実現を悲願として生きる人々も存在している。

聖書の御言葉の信用を貶め、その真実性を毀損しようとするすべての思想は、どんなに良さそうな口実を掲げ、この世の常識を装っていても、神から来たものではない。 それはすべて悪魔から来たものであり、反キリストの霊の仕業である。

そこで、「キリスト教のカルト化の危機」を唱えることにより、キリスト教そのものが何かしら不完全で危険なものであって、聖書の御言葉そのものに何か問題があり、御言葉に忠実に生きることが、あたかも「カルト的思考」であるかのように信者に疑わせようとする影響力には注意しなければならない。

キリスト教界に起きている不祥事は、信者が聖書から逸れたために起きたのであって、聖書の御言葉に問題があって引き起こされているわけではない。にも関わらず、不祥事をきっかけに、キリスト教そのものや、聖書の御言葉そのものに疑いを抱かせようとする思想がどこから来たのか、不祥事をきっかけに、キリスト教やクリスチャンを断罪し、罪悪感や、憎悪を抱かせようとするまことしやかな「世論」が、どういう目的で作り上げられたのか、キリスト者は見分けねばならない。
   
こうして一見、「キリスト教の改革」を目指しているように主張しながら、クリスチャンの世論に巧みに偽装して、その実、キリスト教と聖書の信用を貶め、御言葉の真実性を信者に疑わせるために、不信者によって作り上げられた偽りの世論に、クリスチャンは耳を貸すべきではない。そのような「世論」を気にして怯えるべきでもなく、そこで自分が批判されることを恐れるあまり、彼らと歩調を合わせるべきでもない。むしろ、こうした議論が、信者の関心を巧みに神ご自身から、人の思いへと(この世へと)逸らして行こうとするものであることを見抜くべきなのである。
   


 
2-2.匿名掲示板における不信者の議論にクリスチャンを引きずり込み恫喝する手法
 
さて、匿名掲示板で行われている議論にクリスチャンが注意を取られることがないように警告しておきたい。多くのクリスチャンが、当初は本気でキリスト教界の堕落を憂い、聖書に忠実な信仰生活に立ち戻ることを提唱していたが、彼らは不信者とのむなしい議論に熱中するうちに、全く違う方向へ逸らされてしまったからである。

彼らは、不信者の議論に気を取られ、時を追うごとにますますこれに深入りして行き、引き返せなくなって行ったのである。彼らを突き動かしていたのは、自分が人々にどう見られるかという恐れであった。この世の不信者たちの間でキリスト教が批判され、信者が批判され、自分が批判されているのを見ているうちに、自分たちの評判を取り返さなければならないという思いに駆られ、いわれなき嘲笑や批判を抑えるために、不信者を説得したり、彼らと交渉しなければならないという誘惑に駆られたのである。

いわば、外見を気にする保身の思いや、誤りを正さねばならないという義務感が、彼らをこのような議論に引き込んでいくきっかけとなったのである。しかし、そのようにしてクリスチャンを自らの信仰告白という最も重要な舞台から引きずり出し、この世の不信者たちのむなしい争いに満ちた議論の中におびき出し、それによって恐れさせ、がんじがらめに縛って行くことこそ、不信者の議論の真の狙いなのである。

このむなしい論争に気を取られ、深入りして行った人々は、唯一の道から逸れ、泥沼の訴訟に足を取られ、以前のような信仰告白を続けられなくなり、帰らぬ人となった。ルーク氏、山谷少佐、坂井氏の例についてよく考えて欲しい。たとえ彼らがあかしを続けているように見えても、そこには以前のような輝きが、以前、最も彼らが真剣に訴えようとしていた主張の核心がない。彼らは、骨抜きにされてしまったのである。

これが、匿名掲示板の狙いなのである。彼らの議論は、暗闇から来たものだが、闇によって光を駆逐するのが、その目的なのである。識者ぶってキリスト教を批判している不信仰な信者たちや、すでにキリスト教に愛想を尽かして部外者となった人々や、世にどっぷりと迎合している不信者らを巧みに利用して、本物の信者を攻撃させては、恫喝によって口を封じ、もしくは、自主規制させることによって、信者に「世の光」を掲げさせまいとすることが目的なのである。

キリスト教を批判することは、一見、キリスト教の改革のために必要な自己反省のようにも見え、そこに識者らのさまざまなもっともらしい理屈が加われば、欺かれる人も出て来るかも知れないが、その実、そこにあるのは、巧みに聖書の御言葉そのものを疑わせようとする誘惑なのである。

真にキリスト教を改革したいなら、聖書の御言葉に立ち戻ることにしか道はなく、聖書の御言葉への忠実な信仰そのものを疑いや批判の対象とするのでは、より深い混乱が生まれるだけである。
 
さて、このようにして匿名掲示板を利用して政敵を叩くやり方は、自民党も利用していることで有名であり、統一教会など新興宗教等のカルト団体も盛んに使って来た手口である。カルト被害者救済活動も、政敵を追い落とすために、まさにこの方法に頼ったのであり、不信者を動員して信者をバッシングすることによって、キリスト教徒を恐怖に怯えさえ、「世」の支配下に置こうとしたのである。

しかし、クリスチャンには、「この世」と交渉する必要性はない。逆に、この世の方がクリスチャンによって裁かれ、罪に定められ、赦しを乞わなければならない立場にある。「この世」は初めから悪魔の配下にあって堕落しており、罪を犯している。「世」を巧みに利用して、世に調子を合わせることにより、自分の身を守り、信仰者を圧迫し、迫害している人々は、神の霊によって生きているのではなく、悪魔を父としているのであり、これらの人々には、いずれ主の御手が置かれ、彼らは自滅することになろう。

クリスチャンの武器は、小羊の血潮と、自分自身のあかしの言葉である。それによって兄弟たちは悪魔に打ち勝つことができると、はっきりと聖書に書いてある。

そこで、世間で批判されたくないという恐れや、人に自分がどう見られるかという恐れから、信者が悪霊に導かれる人々と交渉したり、彼らに懇願したり、あるいは説得されたり、彼らの誤りに満ちた思想を正してあげようと努力する必要はない。

クリスチャンの使命は、日々、しっかりと自分の信仰告白を握って、主の御名を証し続けることにある。悪魔以上の執拗さを持って、神に向かって彼らの悪しき所業を糾弾し続け、正しい裁きを願い求めることである。そうすれば、「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴える者」は必ず「投げ落とされる」ことになる。

「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。

 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示12:10-11)      



2-3.聖書に基づかず、この世の論理によって、自らの活動を支持しないクリスチャン・ブロガーを断罪し、信者を裁判にかけることにより、この世の支配下に置こうとする杉本徳久氏の活動の危険
  
さて、「世の常識」を味方につけて、「この世」の罪を無罪放免する一方で、クリスチャンを容赦なく断罪しては、懺悔を迫り、処罰することに悦楽を見いだすという、カルト被害者救済活動の支持者らの転倒して異常な特徴は、村上密氏だけでなく、同氏の活動を積極的に支持する人々に共通して見られるものである。

当ブログにおいては、村上密氏の活動に支持を表明している杉本徳久氏から送られて来たおびただしい数の恫喝の書簡を公開しているが、それも「キリスト教のカルト化の危険を訴える」ということを口実にして、その実、クリスチャンを貶めることを真の目的としている彼らの活動の危険性を明らかにするためである。
 
2009年頃まで、筆者は村上密氏や杉本徳久氏の主導するカルト被害者救済活動に公に反対を表明していなかったが、その後、この活動が根本的に聖書に反しており、行き過ぎた魔女狩りや異端審問へ結びつくだけの、キリストの十字架に敵対する誤った運動であることに気づいたため、杉本徳久氏に対して、筆者は直接、この活動にはもう賛成できないことを告げ、かつて筆者が同氏のブログに書き込んだ活動への賛同のコメントを削除してほしいと正式に依頼した。
 
その際、筆者は、教会のカルト化問題を解決する糸口は、クリスチャンの不祥事を次々暴露することにより、クリスチャンを断罪したり、法廷に引きずり出して処罰することにはなく、ただ信者が聖書に立ち戻ることにしかないと、聖書に立脚して説明したのである。

しかし、これが杉本氏から筆者や当ブログに対する多年に渡る嫌がらせのきっかけとなった。杉本徳久氏から帰って来た返答は、罵詈雑言の羅列と、筆者の言い分が、「思い上がって自己中心な」「市井で求められる良識からは外れた文面であ」るという同氏の決めつけだけであり、その思い込みだけを根拠に、杉本氏はそれ以来、今日まで約7年間に渡り、当ブログに対する様々な嫌がらせ工作を続けているのである。

このような異常な執念は狂気の沙汰としか言えず、クリスチャンを何としても苦しめ、弾圧したいという彼らの飽くことのない悪魔的欲望と、クリスチャンに対する呪いや執念のような尽きせぬ憎悪に基づいていることを筆者は感じざるを得ない。

ちなみに、杉本氏は以上に記したような自らの見解をブログ記事に記しており、同記事は当初、筆者に対する一千件のコメントを伴うバッシング記事として、同氏のメインブログ「随想 吉祥寺の森から」に掲載された。

だが、たった一つのコメントを削除してほしいと依頼しただけの筆者を、一千件のコメントを伴う記事によってバッシングしたことに対しては、さすがに杉本氏へ批判が集中したと見られ、その批判を受けて、この記事は同氏が執筆している別のブログ「神々の風景 -religious scene」に移し替えられた。

その上、今年に入ってからは、杉本氏の不安定な心理状態を反映するかのように、この記事は非表示にされたり、ころころと変更が加えられていたが、今のところ、再び公開されているようである。
  



杉本徳久氏が何度もアドレスを変え、さらには非表示にしたりと
同氏の不安定な心理状態を示す幾度もの変更を繰り返しながら、

 「神々の風景」に掲載している筆者に対する嫌がらせ記事。
「神々の風景」という題名からも、同氏がキリスト教徒としての
正常な信仰を持っていないことが明白である。

同氏はプロテスタントそのものを敵視するかのように、
自らのブログにプロテスタント信者を弾劾する記事を次々と掲載、
キリスト教のイメージを世間で貶めることに貢献して来た。
  自らの活動を批判する信者に対する訴訟を積極的に提起しては、
キリスト教徒への弾圧と迫害に臨んでいる。
このような人物がクリスチャンであるとは誰も信じないであろう。
信者を名乗りながら、キリスト教の破壊を試みている人物である。

 
ちなみに、この記事は標題が「東洋からの風の便り ヴィオロン」となっていることからも分かるように、杉本氏が当ブログに対する嫌がらせを目的に、故意に検索結果に表示されるように作成したものであり、その上、当ブログの内容を大量に無断引用しているスパム記事である。さわやか読者の記録にも示しているように、杉本ブログを熱心に支持する読者らは、同氏の書いたこの嫌がらせ記事が検索結果の上位に表示されるように、日夜、工作を繰り返しているのである。

つまり、彼らは聖書に基づく正常な信仰告白である当ブログを駆逐して、彼らの異常で悪意ある情報だけをネットに残すことを目的に、日夜、工作を繰り返しているのである。おそらくはこれまでにもこうした方法により、自分たちにとって好ましくないクリスチャン・ブロガーを次々に沈黙に追い込んで来たのであろう。
 
杉本徳久氏自身や、その読者らが、当ブログの検索結果を操作するために行った不法なアクセス集中の履歴は、次の記事や資料において公開している。

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(前編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(中編)

村上密牧師が杉本徳久氏と共に暗闇で主導する「サイバーカルト監視機構」(後編)
 
    
しかしながら、筆者は上記の嫌がらせ記事の公開を好都合と考えている。なぜなら、これによって杉本氏に対する公の責任追及や反論がより容易になるからである。
 
まずは同氏が上記の記事を掲載しているブログの題名である「神々の風景」という象徴的な言葉に注目したい。この標題は、杉本氏がキリストの十字架を信じておらず、己を生まれながらに神とするグノーシス主義者であることを明確に物語っている。
 
クリスチャンであれば、「神は唯一である」ことを例外なく認めているので、決して「神々」という複数形を肯定的な文脈で使わない。「神々」の存在を認めることは、自分はクリスチャンではなく、唯一の神を信じていないと自ら告白するに等しい。神を複数形とした時点で、これは唯一の神に対する敵対であり、まことの神と、それを信じる者たちに対する一種の冒涜・挑戦だと言っても差し支えない。
 
杉本氏が「神々」という言葉によって何を指しているか具体的なところは不明であるにせよ(おそらくは自分たち唯一の神を信じておらず、キリストの十字架を否定する生まれながらの人間が「神々」であると言いたいのではなかろうかと推測するが)、いずれにしても、複数の神の存在を肯定した時点で、同氏がキリスト教の信仰告白の大前提となる「神は唯一である」という事実を否定していることは明白となる。

いかに同氏がカトリックなどの宗派の教会組織に公に属する信徒であったとしても、この事実は、同氏が内面においては実際にはクリスチャンでないことを意味するに等しい。
 
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5)
  
さて、上記の記事で、杉本氏はカルト被害者救済活動を支持できないとする筆者の見解に対し、事実に立脚しない捏造された文脈で、筆者を罵倒しながら理不尽な非難を繰り返している。同氏は書いている、

 10日ほど前、彼女からのメールを受け取った。それは、

 http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/51884112.html

 2009年3月26日 「沖縄 トランスフォーメーション・グロース」 

 に「ヴィオロン」の名で書き込んだコメントを消して欲しいという依頼であった。しかし、そこには非常に思い上がった上に自己中心的な、彼女が経験した「回心」とその後の心変わりについての理屈が並べられてあった。市井の社会で求められる良識からは外れた文面であった。」

だが、この見解も、杉本氏自身の常識から外れた身勝手な思い込みと偏見に満ちた思考パターンをよく示すものである。

まず、杉本氏のブログに書き込んだコメントは筆者自身が書いたものであり、著作権も筆者にあるので、筆者から削除の依頼があったにも関わらず、杉本氏がこれを削除しない正当な理由が存在しない。にも関わらず、杉本氏は、自分の活動が支持されなくなったという事実そのものが認めがたいので、削除を拒否することを正当化するために、何とかして筆者に罪を着せようと、筆者を罵倒する文脈を捏造して考え出しているのである。


 
以上は杉本ブログに記載されている文面。
杉本氏は、筆者が答えてもいない事柄を、
勝手な決めつけによって
解釈しているが、
なぜそのような見解に至ったのかは不明である。

筆者が勧めたように、真理の御霊には聞かず、
悪霊に聞いて、そのような返答を得たと見られる。
 思い込みに基づいて発した言葉であっても
いずれその重い責任を問われる日が来ることを
誰よりも杉本氏自身が自覚しなければならない。


  
当ブログにおいては、筆者が杉本氏から受け取ったおびただしい数の恫喝書簡の文面を公開しているが、それを読むならば、「思い上がって自己中心な」、「市井で求められる良識からは外れた文面」を記しているのは、筆者ではなく、杉本氏自身であることが、誰にでもよく分かるであろう。

2010年10月5日付   杉本氏が唐沢氏に提訴の報告を求めヴィオロンの記事を罵倒したメール
2010年10月17日付 杉本氏が唐沢氏の提訴予告について進行状況を報告せよと恫喝したメール
2010年11月20日付 杉本徳久氏が唐沢氏の提訴予告について謝罪を要求した恫喝メール
2010年12月8日付   杉本徳久氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に提訴を催促した恫喝メール
2010年12月15日付 杉本氏がヴィオロン、唐沢氏、山谷少佐に記事削除を求めた恫喝メール
2011年12月6日付   杉本氏がヴィオロンの個人情報を特定して恫喝して来たメール
2011年11月28日付   杉本徳久氏が、唐沢氏とヴィオロンに送りつけた恫喝メール
2012年1月1日付    杉本徳久氏がヴィオロンの個人情報を晒すブログ記事を示した恫喝メール
2012年1月22日付 杉本徳久氏がヴィオロンに実力行使に出ると恫喝したメール
2012年3月8日付  杉本徳久氏がヴィオロンに期限を切ってブログ削除を要求した恫喝メール
2012年3月9日付  杉本徳久氏からヴィオロンの返答に対する罵倒と恫喝のメール
2012年3月10日付   杉本徳久氏がヴィオロンに自分を提訴せよと恫喝して来たメール

2016年4月25日付 杉本徳久氏がメールフォームから投稿した恫喝メール
2016年4月30日付 杉本徳久氏がヴィオロンへの提訴をほのめかした恫喝メール
2016年5月2日付   杉本徳久氏がヴィオロンを提訴してやると恫喝したメール
  
 
上記の嫌がらせ記事もそうなのであるが、杉本徳久氏の文面には、読んでいて恥ずかしくなるほど、また吹き出したくなるほどに、他者に対する礼儀を一切わきまえない自己中心な決めつけと、安物のドラマから抜き出して来たような陳腐な罵詈雑言、偏見と一方的な被害者意識に基づいた根拠のない思い込み、そして恫喝が溢れている。

さらに、同氏は、そうしたメールの中で、あまつさえ、自分にとって気に入らない記事を筆者が削除しなければ、筆者の個人情報を無断で公開するという脅迫行為にまで及んでいる。こうした文面のどこが「市井で求められる良識」にかなうのであろうか。

杉本氏こそ、自分の言葉に照らし合わせて、自らの行為を振り返らなければならない。同氏の書いた文章は、子供の書いた作文のように幼稚であるだけでなく、完全にマナー違反であり、なおかつ、違法行為をほのめかすものであるという点で、犯罪的でさえある。

このような脅迫行為を自分が暗闇で行っておきながら、同氏は未だに筆者を一方的に「自己中心だ」とか、「良識を備えていない」かのように非難しているのだから、その倒錯した論理に自分でまるで思いが至っていない愚かさに呆れ果て、恐れ入るのみである。

また、杉本氏は書いている。

「また、彼女ががらりと立場を変えて非難し始めた私や独裁カルト牧師の被害者信徒たちのことについて記した最新の投稿を熟読した後、私は彼女にこれらあなたが非難している人物の中には明らかに私が含まれていると読み取れるがその認識で良いのかと問いただす返事を送ったところ、彼女は私に対して真理の御霊に全てを問い尋ねよと言い、非難の対象が私であることを書き送ってきたのであった。一度、自分の口から出た言葉は後から消すことができないということがわかっていない。もし、それがネット上のものではなく紙媒体の印刷物であれば不可能である。」

これもまた甚だしい虚偽である。杉本氏の根拠のない被害者意識に基づく妄想的な思考を顕著に表す文章であると言える。筆者は、杉本氏に対してただ「真理の御霊に問い尋ねよ」としか答えておらず、筆者の書いた記事の中に杉本氏が含まれているなどと回答したことは一度もない。

そして実際、当時筆者がカルト被害者救済活動を支持できないことを表明するために書いた記事「キリストの十字架以外に救いはない」には、一切、杉本氏の実名は登場していないのである。この記事はカルト被害者救済活動に対する筆者の立場を明らかにするために、あくまで一般論の立場から書かれたものであり、特定の人物を名指しで非難するようなことを目的としていない。そして、カルト被害者救済活動に携わっている主要な人物も、村上密氏のように、当時、杉本氏以外にも、複数存在したのである。

にも関わらず、杉本氏は、何の根拠もなく、さらには筆者自身も認めてもいないにも関わらず、これが杉本氏を名指しで個人攻撃するために書かれた記事であると勝手に決めつけ、それを根拠に、筆者に対する多年に渡る様々な嫌がらせに及んだのである。

一体、杉本氏はこの件について、筆者が同氏に勧めたように「真理の御霊に問い尋ねた」のであろうか? 多分、真理の御霊ではなく、悪霊に問い尋ねたのではないだろうか。そして、悪霊から、「それはあなたのことだ」という答えが返って来たので、それを信じたのではあるまいか。もしそうでないというならば、杉本氏の良心の呵責がそのように思わせたのに違いない。

いずれにしても、筆者はそのようなことを全く答えていない。にも関わらず、筆者が言っていないことを、杉本氏が聞いたというのであれば、どこから聞いたのかが問題となる。それは「真理の御霊」の声ではなく、悪霊の声に違いないと推測せざるを得ないのである。なぜなら、悪霊は嘘つきだからである。

こうして、杉本氏は思い込みや決めつけだけに基づいて、自己中心で身勝手な話を「創作」して行き、これを基に他者への誹謗中傷や嫌がらせに及ぶのだが、それにしても、「一度、口から出た言葉は後から消すことができないことがわかっていない」というのは、誰よりも同氏自身に向けられるべき言葉である。

ネット上でも、一旦、発した言葉は取り消すことは難しい。それは、当ブログにおいて公開している杉本徳久氏による恫喝書簡を読んでも誰しも分かることであろう。こうした手紙は書かれてから年数が経過しているが、だからと言って、文面を通して、人の心の内側にあるものが完膚なきまでに明らかになる事実は変わらない。

当ブログでは、約十四年前の鳴尾教会で起きた事件に関する「教団文書 村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題」なども公開しているが、こうしたものは、歴史的に価値ある資料であり、たとえ民事や刑事事件としての時効を迎えていても、だからと言って、少しも価値が減ずるものではない。

人々のモラルを動かすのに時効はなく、真実が人の心に訴えかける衝撃の重さは時が経っても変わらない。まして人がクリスチャンとして行った行為に時効はない。我々は皆いつか神の御前に立って、自分の行なった言動に対して申し開きをせねばならないのである。
 
杉本氏は、自分が他人を暗闇で恫喝しておいても、こうした書簡が明るみに出されることはないと高をくくっていたのであろう。だが、「一度、口から出た言葉は後から消すことができない」

こうした書簡においても、杉本氏が、筆者が言ってもいないことを再三に渡り、単なる思い込みと決めつけだけに基づいて勝手に解釈し、それを根拠に筆者をなじっては、誹謗し、脅迫まで行い、数々の嫌がらせに及んだ事実が明らかになるが、そうした行為の責任を、杉本氏はきちんと考えて反省せねばならない。これらは罪に問われて当然の行為である。

同氏のして来たことには証拠が残っており、これを取り消すことは誰にもできない。不都合な記事を削除せよと筆者を恫喝しても無駄である。他者に向かって述べた理屈は、自分自身に跳ね返る。自分にできもしないことは、人にも最初から要求しないが良かろう。

 つい最近に至るまでも、杉本氏は再三に渡り、筆者に刑事告訴を予告するメールを送り付けているが、それにしては、告訴の脅しは一向に実行されたことがない。それも当然であろう。筆者をいわれなく脅し、嫌がらせ記事を次々と掲載し、コメント者を煽って嫌がらせに及び、当ブログに嫌がらせのアクセスを集中させて検索結果を操作して来たのは杉本氏自身であるから、その杉本氏が筆者を訴えるなど言語道断であり、そんな告訴が成立するはずもない。そんな訴訟に世間を納得させられるだけの正義の筋書きを見いだすことは誰にもできない相談である。

仮にそんな提訴を無理に成立させてみたところで、同氏には勝算もなく、ただ相手を苦しめるための時間稼ぎであることが明白となるだけである。そんな手段を用いてまでも、クリスチャンを次々と力づくで法廷に引きずり出しては断罪し、打撃を加え、キリスト教徒への弾圧と、クリスチャンの言論統制に日々いそしんでいれば、「日夜、兄弟たちを訴える者」という悪評がさらに定着して行くだけであり、それは同氏にとっても何の利益にもならない。

逆に、筆者自身も、筆者に対する嫌がらせ行為としてなされた個人情報の無断公開やそれによって生じた人権侵害等に関して、事実関係が特定され次第、当ブログに公表したいと考えている。杉本氏以外には、そのような行為に及ぶと筆者を脅迫して来た人物は存在しないのであるが。
 
さて、話を戻せば、以上の嫌がらせの記事や、恫喝メールにおいて、杉本氏が再三に渡り、「市民社会の常識」や「市民社会の一員としての責任」などといった言葉を振りかざしては、筆者を断罪しようとしていた様子が見て取れる。
 
このように、「世間の常識」を盾に取り、自分が世論を味方につけているかのような印象を与えながら、クリスチャンを聖書の御言葉ではなく、「この世の論理」によって追い込んでいく手法は、村上密氏がクリスチャンに対して使って来たものと同じである。

すなわち、カルト被害者救済活動の支持者らは、巧みに世間の常識やら、市井の良識やら、市民社会の責任といった、全く信仰によらないこの世の論理を持ち出して来ては、クリスチャンが信仰の事柄について判断するにあたり、聖書を基準とするのでなく、この世の基準に従って是非を問うよう仕向け、クリスチャンに自らの信仰告白を捨てさせて、この世の土俵へおびき出そうとするのである。

彼らはキリスト教界におきる不祥事を大々的に取り上げては、クリスチャンが「市民社会の常識を備えていない」とか「世間に迷惑をかけた」などと言いがかりをつけ、こうした事件をきっかけに、事件には何の関係もない信者らを非難して、不信者の前に「行き過ぎ」を反省させては懺悔させようとし、それがかなわないと、果てはクリスチャンを無理やり法廷に引きずり出してでも断罪し、何とかして弾圧を加えようとする。

彼らの目指しているものは、最終的に、キリスト教の教義や、聖書の御言葉、聖書の神を信じる信仰そのものを、何か恥ずべき、非常識な、カルト的な、傲慢で、思い上がって自己中心で、狭量な思考であるかのようなイメージを作り出し、聖書の神を信じているクリスチャンの信仰そのものを貶めることで、キリスト教とクリスチャンの信用を毀損し、最終的には、聖書の御言葉の信用を失墜させ、クリスチャンに御言葉への信仰を恥じさせ、信仰告白を捨てさせることなのである。

以上で挙げたような、杉本氏の書いた嫌がらせ記事や、恫喝書簡(それも杉本氏から送られて来たメールの一部に過ぎない)は、クリスチャンをこの世の圧力の前にひれ伏させて信仰告白を捨てさせるための一種の「踏み絵」だと見て良い。刑事告訴の脅しも同様である。

このような行為を平然と行う人間が、聖書に基づくクリスチャンとしての正常な信仰を持っていないことは明白である。

にも関わらず、このような人間が、自ら信者を名乗りながら、非聖書的な手法でクリスチャンを追いつめて断罪し、沈黙に追い込もうとするところに、彼らの活動の最大の卑劣さがある。
 
これはキリスト教徒に偽装してはいるが、その実、キリストへの信仰を全く持たない人々が、信仰者の群れに紛れ込み、キリスト教界を内側から破壊し、信者を攻撃して追い散らし、キリスト教そのもののイメージを貶め、聖書の御言葉の信用そのものを傷つけることによって、キリスト教とその信者をこの世の力の前に跪かせ、弾圧し、処罰することを目的として活動しているだけである。

こうしたすべての事柄は、キリストの御霊によらない、反キリストの霊によるクリスチャンへの弾圧なのであり、彼らが己の前に跪かせようとしているのは、信者のみならず、最終的には、すべてのクリスチャンが信じているまことの神ご自身なのだと言える。従って、彼らの活動は、唯一の神そのものを仮想敵とし、キリスト教そのものに敵対する運動なのであり、聖書の神に対する反逆であるという点で、極めて危険なものであり、その最期が滅びとなることは避けられないであろう。
  
こうした神に対する反逆行為と、クリスチャンに対するいわれなき弾圧を正当化するために、彼らは自己流の定義による「市民社会の良識」を持ち出しては、さも自分たちが世間代表のように振る舞っているのであるが、突き詰めてみれば、その「良識」とやらも、本当に世間の人々に支持されたものではなく、結局は、彼らが狭いネット上で作り出した身勝手な理屈に過ぎず、幻のような偽りの世論である。

彼らは、吠えたける獅子のように人々を恫喝して委縮させながら、クリスチャンを断罪し、見世物として嘲笑することを容認するような「空気」を盛んに作ろうとして来たのであるが、これはどうみても明らかに悪霊から来る働きである。

こうした暗闇の勢力から来る圧迫、「この世の霊」による卑劣な脅しに対して、御言葉を武器に毅然と立ち向かっていくことこそ、クリスチャンにとっての真の「霊の戦い」である。

悪魔は「兄弟たちの告発者」(黙示12:10)である。日夜、クリスチャンを訴え続けることが悪魔の日課なのである。これに対して、信者は沈黙していてはならない。

信者にはまず「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血」(ヘブル12:24)がある。

十字架で永遠に流された小羊の血潮が、永遠に信者の潔白を証する。神がその独り子なるキリストを十字架につけてまで罪を赦されたクリスチャンを再び罪に定めることのできる存在はどこにもいない。

 「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」(ローマ8:33-34)

次に信者は、自ら御言葉に立脚した証の言葉を述べ続けることによって、悪魔の告発に打ち勝つ。「死に至るまで命を惜しまない」とは、死の恐怖におののいて退却しないという意味でもある。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言われている通りである。
  
「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示12:10-11)      

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

「もうしばらくすれば、
 来るべき方が来られる。おそくなることはない。
 わたしの義人は信仰によって生きる。
 もし、恐れ退くなら、
 わたしのこころは彼を喜ばない。」
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
(ヘブル10:35-39)
 

最後に、もう一度、「霊の戦い」についてのパウロの言葉を引用しておこう。聖書は一貫して、信者に「雄々しくあれ、勇敢であれ」と命じている。クリスチャンはこの世の常識によって生きているのではなく、我々のために命を捨てられ、死んで、よみがえられたキリストへの信仰によって生きているのである。「義人は信仰によって生きる」。この事実を証するために、信者は恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者なのである。

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身につけなさい。
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。」(エペソ6:10-13)

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」申命記31:6)

さて、次回以降の論稿においては、カルト被害者救済活動の支持者らが盛んに唱えているような「世の常識」に見せかけた偽りの世論が、東洋思想と密接な関係があること、その根本にあるものが、キリスト教に対抗するグノーシス主義であることについて、より一層、踏み込んで考察を行って行きたい。

村上密牧師と杉本徳久氏によるクリスチャンへのいわれなき迫害③

   ~村上密氏と杉本徳久氏の主導する「サイバーカルト監視機構」の正体~
 
 
4-3.杉本徳久氏の活動履歴(続)


5月2日、4月25日、30日とまた新たに杉本徳久氏から恫喝メール➀恫喝メール②恫喝メール③が来ましたが…、ゴールデンウィークにまで他人に恫喝メールを送りつけずにいられないとは何たる哀れ。平和で落ち着いた家庭人からは程遠い姿ですね…。
同氏による過去の恫喝メールはさらに公開していきますよ!


 
4日も本ブログが更新されるや否や早速、深夜にアクセス。他人に刑事告訴の予告などしている間に、自分自身が様々な罪状により訴えられないといいですね。ネット上で匿名で行ったことも必ず証拠は残るのです。自分に不都合な人間に次々提訴の脅しをかけて言論を封じようとするその姿により、今まで作り上げようとして来た弱者の味方というイメージは完全に崩れています。結局、カルトとの闘いなどほんの口実に過ぎず、クリスチャンの弾圧が真の目的であったことが明白になったのです。


5月6日
やはり自分の情報が気になる様子。掲載されたくなければ、恫喝書簡など書かなければ良かったのです。「思い上がった上に自己中心な」「市井で求められる常識からは外れた文章」を隠れた所で人に向かって延々と書き綴っていたのは誰なのか。全世界に向けて明らかになりましたね。


↓以下の三人がお仲間であることはアクセス時間帯から明白。
英語圏からの異常な訪問者を招致したのも杉本氏と考えられます…。

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kd119104115222.au-net.ne.jp
204.79.180.186



  
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こうやって工作仲間を連れて来るんですよね。残念ですが、まだまだこのシリーズは続きます。あなたの書いた恫喝書簡の公開と共に。


5月9日
わざわざ更新されていないコンテンツにログを残す。真正面から人に対峙できない臆病な性格がよく表れていますね…。またも長文のウェブページがまとめられるのを恐れているのでしょう。(長文どころか、論文ですよ。)いつまでも数の力にものを言わせることは無理なんですよ。自分のしたことには一人で責任を問われる日が必ず来ます。

  

5月11日
 

当ブログで私が勝利の信仰告白をすると、必ず、杉本氏は猛烈嫌がらせアクセスを集中して来るのが恒例に。もはや動物的な反応パターンと化しており、初めから予想可能。深夜3時に狂気のアクセス集中の犯罪履歴は、サイバーカルト監視機構(杉本徳久編)PDFにアップロードしましたので、ご覧あれ!

こんな低次元な方法で、深夜に一人でこそこそ嫌がらせしているところを見ても、刑事告訴などできるはずがないことが明らかですねえ…。結局、大袈裟に喚き立てては周囲を脅して己の罪を隠そうとしているだけ。できもしないことを初めから宣言しなければ、自分が恥をかくこともないのに、愚かですね~。┐('~`;)┌

悪魔は「吠えたける獅子」のように人を脅しますが、その多くは実行不可能なことを吹聴しているだけで、恐れるに足りないのです。たとえ実行に移しても、より一層、自分が不利になるだけ。あるクリスチャンは言いました、「キリストを殺せば、復活という最も恐ろしい事態が起きてしまい、悪魔の最大の武器である死が打ち破られると分かっていたのに、それでも悪魔はキリストを殺さずにいられなかった。自滅と分かっていて攻撃せずにいられない。そこに悪魔のどうしようもない愚かさがある。」と。

ますます魔物との一体化が進んでいるようで、深く同情いたします。大体、キリスト教と聖書が不完全であるかのように糾弾し、聖書の神の不完全さを補って神の民が過ちを犯さないように監視し、取り締まってやろうなどという恐ろしい目的を掲げるから、反キリストの霊が降臨してこれと一体化する羽目になるんです。

どんなに表向き「弱者救済」を唱えていても、常に自分が救済者の立場に立って他者を哀れみ、人より優れて一番でなければ気が済まず、自分が批判されると報復せずにいられないという自己愛とプライドを捨て去れないところに、どうしようもない傲慢さが表れていますね。

その上、神の民を踏みにじり、教会に君臨し、神の上に立とうとするわけですから、それ以上の傲慢さはありません。

プロテスタントにつまづいた多くの人たちが、結局は、御言葉を否定して、キリスト教そのものを否定する結果に至るのです。こうして、キリスト教や教会や信徒につまずいたことをきっかけに、救いから除外されて行く、こういう哀れな元信者たちがいることについては、じっくり分析する必要があります。

偉そうに「キリスト教の病理」だの「自己愛」だのを語り、クリスチャンの批判ばかりしていると、いつこんな風に悪魔の道連れにされて神の敵となり、気づけば救いから完全に弾き出されていたという結末になりかねない。神の民は、神にとって瞳のようなものですから、これを傷つける人間に対しては、神自らが報復されるんです。

人への批判はまだ許されても、御言葉を毀損すればただ事では済みません。教会を攻撃し神の民を踏みにじり御言葉を否定する者は、決してまともな運命には終わりません。これは聖書に書いてあることで、私の個人的見解や呪いではありませんので…(「彼らの(十字架に敵対する者の)最後は滅びです。」(ピリピ3:19))。
 
softbank219215163080.bbtec.net
おや、噂をすれば影。悔い改めないと、行く末は火の池ですよ。手遅れとは思いますがね。
 



   4-4.さわやか読者の活動履歴(続)
 
(5月2日)
kd113154046021.ppp-bb.dion.ne.jp
em1-115-11-20.pool.e-mobile.ne.jp
↑福岡市久留米、もしくは大阪市
p315088-ipngn200404yosemiya.okinawa.ocn.ne.jp
↑沖縄、宮古島、那覇市
pw126210050044.5.kyb.panda-world.ne.jp
cc221-121-239-141.ccnw.ne.jp
↑愛知県日進市
pl1913.nas81d-3.p-fukuoka.nttpc.ne.jp

(5月3日)
p15058-ipngnfx01oomichi.oita.ocn.ne.jp

この人もやはり匿名掲示板の常連。匿名掲示板というのは、それ自体が宗教団体の雇われ工作員による偽装掲示板なんじゃないですかね。

u847096.neas2.ne2.tachikawa.mopera.net
東京都立川市
softbank221080155159.bbtec.net
113x40x2x73.ap113.ftth.ucom.ne.jp 
   
5月5日 
ほとんどの言語が英語ですよ! 米国様が批判されている記事をアドレスを引用しただけでこの始末。一体、この国の言論は誰に牛耳られているのか。何とも野蛮なことで…。

204.79.180.134 
204.79.180.241 
204.79.180.112
↑ヴァージニア州
末尾三桁が絶えず変わっているだけ。
 
「壁に耳あり障子に目あり」、人の情報を詮索し、自分の噂話にあれこれ聞き耳を立てずにいられない恐ろしいまでの詮索好きは米国様の由来だったんですかね? だとすれば、これはもはやとうにロシアの専売特許じゃないですよね。

Быть может, за стеной Кавказа
Сокроюсь от твоих пашей,
От их всевидящего глаза,
От их всеслышащих ушей.

全知全能の神を模したユビキタス・ネットワークの構築、世界は一つ、神と人との断絶はない、人類はみな神であり、地上はユートピアである、…との名目のもと、異論をすべて暴力的に排除し、不都合な人間の言論を取り締まり、人類を監視し、一大家族理想国家という地上天国を詐称する。ヒエラルキーと情報統制の締め付けによるディストピア構築。それがあなた方の目的なんでしょう。お次は緊急事態の導入によるペルソナ・ノングラータの弾圧ですかな。

fitamazing.com
↑米国 ワシントンDC
tor-exit-readme.manalyzer.org
↑フランス、パリ
destiny.enn.lu
↑ルーマニアということに。
edwardsnowden2.torservers.net
↑同じくルーマニア
aurora.enn.lu
↑こちらも。

こういう現象も、結局はSoftbank嫌がらせ集団が主犯と見るのが当然ですね。ソフトバンクは反日イデオロギーと密接な関係があるとの噂も根強く、この嫌がらせ集団も日本人じゃないのかも。

softbank126120083025.bbtec.net
 
茨城県取手市


softbank126021122071.bbtec.net

↑京都府京都市、熱心な杉本読者のようですが。
 

p4ac1ac.chibnt01.ap.so-net.ne.jp

↑千葉県千葉市
 

116-65-225-118.rev.home.ne.jp

検索用語が「有名牧師、逸脱行為、誰」
ですって。とにかく有名な牧師を引きずりおろしたい。次のバッシングのターゲットが欲しくて仕方がない。「俺様に次の獲物を寄越せ!」「次のキリスト教の不祥事の材料は誰だ!」と、まるでほえたける獅子のように獲物を求めてさまよう恐ろしい渇望が見て取れますね。このようにクリスチャンを弾圧することにやみつきになる読者を生んだのが、杉本ブログの明白な罪なのです。  
 
一説によると、埼玉県川口市 UR都市機構川口芝園団地4号棟にお住いの方と。
 
 
(5月4日)
112-70-19-62f1.hyg1.eonet.ne.jp
 
↑尼崎市ハピネスライフケアサービスすぐ、


もしくは、神戸市西区、玉津板金すぐ。


   

113x40x2x69.ap113.ftth.ucom.ne.jp

↑よほど吉祥寺キリスト集会に未練がある様子ですね~。

東京都小金井市と。


om126186246065.7.openmobile.ne.jp
匿名掲示板常連。大和市あたりの地元民とも思われますが。杉本読者です。不信者ではない連中を使って信者を迫害するのが彼らの手口。


 
kd119104110150.au-net.ne.jp
↓東京都狛江市 〒201-000

匿名掲示板のアドレスを見せつけることにより、恫喝したいのでしょうが、自分がやってると白状しているようなものですね~。

kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
↓京都府京都市もしくは大阪市中央区  杉本氏とKFCによほど未練があるようですね。この主犯格の人物が特定されれば、後は楽そうですね。  


36-2-169-88.kanagawa.fdn.vectant.ne.jp
↑↓はお仲間でしょう。
このアドレス、以下のコメント者と極めてよく似ていますが、きっと単なる偶然でしょうね~。
 

ちなみに、大脳辺縁系のなせるわざではなく、悪霊のなせるわざですよ。
搾取する者とされる者の役割分担…それが分かっていらっしゃるなら、KFCでもゴッコ遊びと搾取をやめれば良かったのです。リバイバル運動の偽りが分かっていたのに、なぜ聖霊派の信徒と手を結んだのでしょう。言っていることは正しく、やっていることは正反対というのではまさに偽善者ですね。

以下の読者とほぼ同時間帯にアクセスしていることからも、KFCと吉祥寺の森は一つ、匿名掲示板も一つ、キリスト教界も一つ、全部合わせて「この世」。アンチカルトはカルトと同一、アンチキリスト教界はキリスト教界なのです。

softbank221080155159.bbtec.net
↑例の偽装なりすまし読者です。接吻で裏切るというあの古典的手段ですね…。いかにも偽善者のやること。

softbank126066224032.bbtec.net
↑千葉県千葉市or松戸市
67.208.13.160.dy.iij4u.or.jp
↑埼玉県八潮市
s638105.xgsspn.imtp.tachikawa.spmode.ne.jp
〒922-033 石川県加賀市
ipbfn005-225.kcn.ne.jp
↑奈良県奈良市
s649160.xgsspn.imtp.tachikawa.spmode.ne.jp
↑埼玉県小川市もしくは東京。アドレス露出ここにも。 
町田市?まず信者ではなさそうですね。

 p421233-ipngn200607kyoto.kyoto.ocn.ne.jp

アドレスそのまま、京都府京都市…。




上記の方は5月7日にもお友達と共に工作に来ていたので調べてみましたが、八幡市の住所が表示されていました。
 
softbank126141119050.bbtec.net
↑新潟県新潟市


p421233-ipngn200607kyoto.kyoto.ocn.ne.jp
↑京都府八幡市
   
こちらの地図ではハイソな住宅街が表示されてますね。

 
ipngn26501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp

これも匿名掲示板の常連。他にもある模様。123.225.21.200
 
   
121-81-239-86f1.shg1.eonet.ne.jp


↑滋賀県大津市。カトリックもターゲットになったわけですね。

softbank219034112007.bbtec.net


「預言カフェ」まだそんなことの是非にこだわってるんですか。
本当に終わってますね。この業界。
 
kd119104102241.au-net.ne.jp
長野県諏訪市 角上鮮魚店すぐ。

softbank221080155159.bbtec.net
香川県高松市or坂出市。 ここからアドレスの変化を見られます。

pw126253228234.6.panda-world.ne.jp 

 
「十字架、愛、明け渡し」などという非常に気持ちの悪い説教表題のような検索用語で辿り着くこの方。IPアドレス 126.253.228.234
やはり匿名掲示板の常連。こういうキ教専門用語を文脈から完全に切り抜いて使うのは悪霊の常套手段。要するに、前後の論理的な文脈が全くないんです。短い検索用語を使ってしか話せない時点で、すでに思考がおかしいと言えるでしょう。

tcn024240.tcn-catv.ne.jp
これも上に同じ検索用語。

 
ttb4-ip187.user.xsp.fenics.jp
↑東京都港区 AG信者ですか?

fw1.hokkoku.co.jp

 

首相の偶像化と神社本庁の活動に絶望なさいましたか? 被害者意識に陥り絶望するのはあなたの自由ですが、神は正しい人と悪人を共に滅ぼすようなことはなさいませんよ。義人は信仰によって生きる。未来のない人生は自己責任でどうぞ。

14-132-84-150.aichieast1.commufa.jp
岐阜県美濃加茂市、もしくは愛知県一宮市
大人気ですねえ。このブログ。この訪問者たちは決してキ教以外の宗教をターゲットにしない。 明らかに一定のミッションを帯びた工作員集団。
 
  softbank060065042131.bbtec.net


↑相変わらずバッシング対象を探し求めている読者。そんな暇があれば日本会議の事でも調べたら。

pw126236212121.12.panda-world.ne.jp
ipbfn005-225.kcn.ne.jp
↑は古参さわやか読者

↓はすべて言語が英語です。
203.104.145.49
exit.kapustik.info
h-170-78.a322.priv.bahnhof.se
 
(5月7日)
p673045-ipngn200603sizuokaden.shizuoka.ocn.ne.jp
↑富山県富山市



アッセンブリーズ・オブ・ゴッドに恨みがあるなら、なぜ教団に抗議しないんです?その勇気もない?(おまけにAG信徒だったりして…笑)


softbank126031116219.bbtec.net
↑熊本県合志 県道341号線からほど近く


 

softbank221080155159.bbtec.net
香川県高松市(さわやか読者主犯格)

kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
京都府京都市もしくは大阪市中央区(さわやか読者主犯格)

ipbfn005-225.kcn.ne.jp
(奈良県奈良市もしくは京都府木津川)

この三人がお仲間であることも見えて来ましたね。
 
 
ipbfn005-225.kcn.ne.jpについては…




19.199.13.160.dy.iij4u.or.jp
愛知県名古屋市もしくは安城市
 
 
手束正昭氏の思想の異端性をこれほど詳しく明確に分析したのは、当ブログを置いて他にないと思いますが。感謝されて良いはずなのですがね。あなたは結局、教会成長論の擁護者なんですかね?
 

明治用水会館ほど近く。
 
 
これだけ湧いて出て来ると、ネット対策企業の雇われ工作員よりも、別の宗教団体の信者を思わせますね。

前々から指摘していますが、Br.Taka氏らと同じように、村上氏や杉本氏も、隠れた目的を持ってキ教に送り込まれた偽装信者である可能性を考えてみるべき。彼らのライフワークが通常の牧師や信徒の福音伝道からかけ離れ、キリスト教を破壊することが生業となり、聖書の御言葉に立脚した健全で正常な信仰生活について、全く証することができないところを見ても、彼らにキリストへの信仰があるとは思えません。別の宗教の信者だと考えればすべてに納得がいく。だからこそ、この人々を支持する人たちはクリスチャンではない得体の知れない人たちばかりなのです。 


5月8日
kd106161130104.au-net.ne.jp
杉本氏に関する最新記事がものすごく気になっている様子ですが、だんだん身元が割れて来ましたね。


p6165-ipngn10701marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp 



pw126152100017.10.panda-world.ne.jp




「クリスチャンの病理」と。あなたは自分がクリスチャンではないとお認めになるんですか。情勢に応じてころころ立場を変え、都合の良い時には聖書を引用しながら、都合の悪い時にはクリスチャンと無関係をきどり信者を非難する。立脚点がまるでない卑怯などっちつかずの二重性は村上氏や杉本氏やルーク氏と同じですね。自分の心の二重性を見ず、他者だけを断罪し始めた時点で深刻な心の病気でしょう。
 
softbank126094241180.bbtec.net
信者に対する嫌味のつもりなんでしょうね。村上氏の書いたキリスト教批判を鵜呑みにしてペンテコステ信者を攻撃する人々は数多くいますよ。彼らの記事は結局、信者に対する憎しみと攻撃を煽っているわけです。



p38073-omed01.osaka.ocn.ne.jp


杉本氏とほぼ同時間帯に来ていることから、仲間と見られますね…。

千葉県浦安市老人福祉センター近くもしくは大阪市。

 
117-53-26-116.adachi.ne.jp
↑埼玉県さいたま市もしくは東京都足立区

 

softbank221080155159.bbtec.net 
 

 ↑相当執念深い杉本読者。いつまでも金魚の糞のように首領様にくっついていたら、杉本氏と一緒に責任追及されることになりますよ。

ipbfn005-225.kcn.ne.jp
日夜クリスチャンを訴えるための監視活動、お疲れ様です。どのくらい工作手当もらってるんです?


fs76eee8a5.tkyc210.ap.nuro.jp

↑本日昼の工作員一人。本当にさわやか読者、減りました。しかも検索結果を操作している主要な嫌がらせ犯のほとんどが数名のしつこい常習犯であることも分かりました。最後まで繰り返している人は主犯と共に罪に問われます。個人名が特定されれば、ネット上に公表され、半永久的に削除されませんのでご注意を。

softbank126065009076.bbtec.net
ソフトバンク嫌がらせ古参工作員の一人。↑の直後に来ていることから、杉本読者のお仲間でしょう。


 

34.78.149.210.bf.2iij.net
↑こちらも古参。例の「帝塚山学園」。当ブログのランキング順位を下げるためにおびただしい回数、アクセスを重ねようとするも、途中であえなくログ公開に。
 
おたくひょっとしてキリ短の講師とかと関係あるのでは?犯罪者は現場に戻る、と言うように、何か書かれると困ることがあればこそ、これだけ頻繁に当ブログを訪れているんでしょうねえ。今後もあなたのログはすべて公開し、嫌がらせ行為の証拠として提示しますよ。
勤務時間中に学校に不名誉な行為にいそしんで進退に影響がなければいいですがね。

157.55.2.130
↑米国様。放っておくとまた工作にいそしむ輩。ペンテコステ運動の擁護者でしょう。

 

125-31-115-203.ppp.bbiq.jp
↑福岡県福岡市

 
所在地のすぐ近くに創価学会池田文化会館がありますね。
さわやか読者は、その嫌がらせのやり口から見ても、どうにも新興宗教独特の強い臭気を放っており、キリスト教を敵視する他宗教の工作員信者だという気がしてならないのですが。

softbank060074224186.bbtec.net



↑さわやか読者はこうしていつも当ブログから結論だけを奪い取って、これを無関係な信者を責める材料に使うのですよ。彼らは決してペンテコステ派の組織には直接、抗議せず、むしろ教団を離れた信者らを攻撃する。弱いものイジメ大好きな倒錯して異常な思考が分かります。

杉本と同じで、一見、批判してるフリしながら、その実、水面下ではしっかり敵と手を結んで、自ら異端視しているペ運動と提携しているのです。異端に抗議したいなら、Br.Takaや村上密のようなAG信者に抗議すべきですが、長いものに巻かれいじめっ子に媚びることしかできない人々にそんな勇気があるはずもない。こうして、カルト=アンチカルト。真の反対者を駆逐することが目的の人工芝•偽装反対運動の工作員信者たちなのです。

これらの人々を見て分かるように、一方には、キリスト教をダシに牧師や学校教師となって信徒に君臨しカネを収奪するろくでもないニンゲンがいるかと思えば、その対極には、キリスト教のカルト化問題をビジネスとして信者を収奪し踏みにじり手柄を立てるカウンセラーや自称専門家の輩がいる。さらにその下には、彼らに手柄を献上すべくヒラメや金魚の糞のごとくまとわりついて識者ぶり、「キリスト教の堕落」について得意げにコメントし、自分以外の信者を見下し反省を迫る偉そうな偽装信者たちがいる。

この人たちはクリスチャンを罪に定め懺悔させることに悦楽を感じ、各地でクリスチャンを断罪する材料を探し求めている。異端の情報を得ると、これを早速、本物の信者を駆逐するために悪用し、決して組織には戦いを挑まず、個人を泥沼の訴訟による密告•裏切り•報復合戦に引きずり込む。どこまで腐り切り終わっているのか、このギョウカイ。

これら自称信者(実際にはみなグノーシス主義者の工作員であって、本当の信者ではない!!)が跋扈し自滅に向けて準備万端のこの有様には、誰しも溜息つきたくなります。しかし、神はご自分に忠実な民を知っておられます。エゼキエル書にあるように、神の宮の腐敗を心から憂えている人々が誰であるか知っておられます。正しい人が悪人と連帯責任を負わされることは決してない。

悪人と詐欺師どもは互いに騙し騙されながら悪から悪へと落ちて行き、十字架に敵対する人間の末路は滅びです。街路に落ちて人に踏みにじられるだけの枯れ落ち葉、さまよう星、自分の帰るべき巣を忘れ自分の子らを見捨てた愚かな鳥のような、この真っ暗な暗闇、穢れた鳥どもの巣窟を離れ、聖書に立ち戻れ、言えることはそれだけですね。  

(5月9日)
↓もうだんだんメンバーも限定されてきました。何の面白みもない顔ぶれですね。誰が煽ってるんだかもまるわかり…。
p4695200-ipngn26501marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp
↑古参。主犯格級の一人。
kd114019080055.ppp-bb.dion.ne.jp
↑上に同じ。主犯格。
softbank221080155159.bbtec.net
↑上に同じ。ソフトバンク工作員集団。

こうしてどんどん不審な読者を引き連れて来ては、工作を繰り返し、スギモの立場を悪くしていく杉本読者たち。こんなメンバーしかいないとは、頭悪すぎですね。

204.79.180.155
cpc81275-enfi21-2-0-cust323.20-2.cable.virginm.net
↑上二つは英語組。
ub34019.ubffm.ub.uni-frankfurt.de
↑ドイツ語。
p3dd3124e.hkidnt01.ap.so-net.ne.jp
↑北海道札幌市



om126237052190.9.openmobile.ne.jp
天声教会は日本に数ある熱血韓国系の教会です。繰り返しますが、韓国系です。異端と糾弾するなら、この事実をよーく踏まえて下さいね。知人に話したところ、「その名前だけで遠慮しとくわ」との事。未だにKFC関係の教会のバッシングで盛り上がってるんでしょうか。古いですよ。その話題は。



p13232-ipngn6201hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
おやお久しぶりですね。ドクタールークにまだ関心があるんですか。いい加減卒業なされば。




↓昔、以下のようなコメント者がいたんですね。スギモと同じくプロテスタントに絶望してカトリックに去った信者です。KFCに対する根強いを恨みとルーク氏に対する拭い去れない憧憬と未練を持ち合わせ、去った後までも「私がルークの一番弟子だった」と回想。


ルーク氏とKFCにつまずいたことを機に、プロテスタントへの対抗意識が捨てられなくなった人たちは多数います。しかも、こういう短いコメントしか書けない人って大抵、匿名掲示板の常連なんです。

しかし、プロテスタントに絶望したからカトリックというのは歴史的後退でしかない。もし間違いだと分かったならば、「出て来た故郷」(へブル11:15)に逆戻りするのではなく、「後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進」む(ピリピ3:13)べきなんですよ。

霊的先人たちは組織としての教会の間違いが分かった時にきっぱりと組織を離れた。プロテスタントに絶望するのは勝手ですが、組織の誤りを知りながら、より強力な組織のヒエラルキーに身を委ねるのは、自己矛盾でしかない。教会につまづいた時、その人がより明確な真理を求めているのか、それとも、ただ傷ついた自分の心を優しく介抱してくれそうな人の温もりを求めているだけなのか、そこが決定的な分岐点となります。

前者はより御言葉に立ち返り、神に近づくために犠牲を払いますが、後者は人の組織につまずいたことをきっかけにそれまで知っていた真理をも捨て、前よりも状態が悪くなるのです。真理のために犠牲を払って神に問うことができないと、どんな集団に帰属しても、いずれ不満が生じて脱落するだけでしょう。そして最終的にはキリスト教自体を否定するようになります。

実のところ、この手の人々はプロテスタントにつまずいたのではなく、御言葉につまずき、キリストの「狭い道」につまずいて「広い道」を望んでいるだけなのです。

サンダー・シングやマザー・テレサは西欧キリスト教の「傲慢さ」や「狭量さ」、弱者への憐れみのなさに絶望したことを口実に、東洋思想に後退した。そして、十字架の切り分けを否定するグノーシス主義者となった。組織としてのキリスト教につまずいたことをきっかけに、真理からも弾き出され除外されてしまう人々がいるという恐ろしい実例です。

キリストの真理は、今日も、みすぼらしい土の器の中に入れて運ばれているのです。土の器の中にはゴミも入っているかも知れませんし、器の外見のみすぼらしさをあざ笑うのは結構ですが、だからと言って、容器と中身を混同して、中にある「測り知れない力が神のものであって、私たち(人間)から出たものでないこと」(Ⅱコリント4:7)まで否定すると、最後にはその人は聖書を否定して神の敵にまでなるのです。

 5月11日
↓相変わらず、ボーフラのようなさわやか読者たち…。

182-167-186-40f1.hyg1.eonet.ne.jp
↑兵庫県尼崎市or神戸市の古参。杉本とほとんど同時間にアクセスしていることから、仲間とみられる。鳴尾教会を迫害する側に回ったAG教団や津村氏の関係者とも推測される。


p6253-ipbfp213sizuokaden.shizuoka.ocn.ne.jp
↑これも上に同じ。杉本の仲間。静岡県静岡市



30.net059085008.t-com.ne.jp


m106073147096.v4.enabler.ne.jp
h219-110-85-077.catv02.itscom.jp
204.79.180.19

 
exit.norway.tor-node.net
kd182251243040.au-net.ne.jp
↑広島県尾道市 一つ上はノルウェーですが、上記二人は仲間と見られます。


pw126245021126.16.panda-world.ne.jp
↑東京都福生市、牛浜幼稚園すぐ。



kd182251243005.au-net.ne.jp
kd182251243051.au-net.ne.jp

↑様々な掲示板に出没し、キリスト教徒に対する被害妄想を匿名掲示板に延々と書き連ねる常連。キリスト教に恨みを持つトンデモ不信者をつかまえては、カルト被害者救済活動はクリスチャンへの攻撃に利用して行く。結局、キリスト教をカルト宗教扱いして信用を貶めることが彼らの真の目的と。

ipbfn005-225.kcn.ne.jp
古参杉本読者の常連工作員。

gate.sumitomocorp.co.jp
↑住友商事です。杉本の記事に関心があるようですが、それよりも統一教会や安倍首相と関連があるのでは。武器商人と手を組み国民を殺して金儲けすることを決めた一社でしょうか。そういう噂があるのはご存じ?


  

  


さわやか読者の活動履歴
      
サイバーカルト監視機構(杉本徳久編)②(5月23日版)

サイバーカルト監視機構(杉本徳久編)➀(5月14日版)
        
さわやか読者・サイバーカルト監視機構版(後編)
 
さわやか読者・サイバーカルト監視機構版(中編)
 
さわやか読者・サイバーカルト監視機構版(前編)

優良さわやか読者賞(続)2月22日改定版

優良さわやか読者特別賞 2月10日改定版



村上密牧師による自己流の「異端審問」―アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動

 

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会の私物化問題について~


 



 

2.弱者ではなく、強者の目線に立って行なわれる村上密氏の「弱者救済活動」

2-1.「毒を持って毒を制す」式の考えの危険性 
2-2.弱者の人権を踏みにじり、「世間」という強者の目線に立って行なわれるカルト被害者救済活動
2-3.強制力を用いて人間の内心の自由に対する侵害を繰り返す
2-4.信仰を持たない「家族」や「世間」の観点に立って、カルトに入信した信者だけを問題視する
2-5.公の認可を一切受けておらず、キリスト教界内の規則を無視した越権行為
2-6.聖書に基づく信仰によらず、世間の倫理道徳によってキリスト教界を裁き、この世の強制力を用いて教界を改革しようとする
2-7.強制力を用いて人の心を矯正しようとする活動は、平和な福音伝道によって人々にキリストの救いを宣べ伝え、自主的な回心を促すことを第一とする牧師の本来的な使命から逸脱している
2-8.カルトとの闘いを続行するために、自ら敵を作り出す
2-9.アンチカルトはカルトと同一である
2-10.キリスト教界で回復されなければならないのは、人間の利益ではなく、神の利益である



 




2.弱者ではなく、強者の目線に立って行なわれる村上密氏の「弱者救済活動」

2-1.「毒を持って毒を制す」式の考えの危険性 論敵と同じ誤りを犯していることに気づかない村上密氏


さて、カルトを取り締まるために、カルトを超える強力な取締機関を創設するという、「毒を持って毒を制す」式のカルト監視機構の設立の構想は、おそらくは、村上氏がこれを明確な形で公表するよりもずっと前から、同氏の心に温め続けられて来た計画であったものと思われる。

村上密氏は、前述の記事でも示したブログ記事「ザビエルの光と影 」で、フランシスコ・ザビエルの活動の負の側面として異端審問の創設の提案を挙げる。また、自民党が統一教会の勝共連合などの提案を受けて国会に提出した「スパイ防止法」を危険なものとして非難する。


「ザビエルは1542年にゴアに到着し、1546年5月16日付けの書簡で、ポルトガル国王ジョアン3世に、インドにおける異端審問所の開設を進言しています。1560年にはゴアで異端審問所が発足しています。その結果、多くのマラーノ(15世紀末から、スペインおよびポルトガルにおいて強制的にキリスト教に改宗させられた旧ユダヤ教徒)が安住の地を求めて行ったゴアで火炙りになりました。これが影です。このことを知っている人は稀です。」

「むしろ、自民党政権下、自民党と協力していたカルト宗教が「スパイ防止法」制定に奔走しました。この法案が宗教をも監視下に置くことは一部の人にはよく知られていました。カルトを叩いていた私や他の人がカルトから監視されることも考えられたのです。危ういのは権力と結び付いた宗教です。キリスト教の一牧師の案に大袈裟な警告は夢想家の戯言です。」

しかしながら、村上氏はこのようにしてザビエルの異端審問を彼の活動を負の側面であると指摘し、スパイ防止法の危険性を唱えながらも、自分自身が、論敵と全く同じ誤りを犯していることには気づかない。

スパイ防止法は、かつて中曽根政権下で、国際勝共連合の推進のもと、自民党議員により国会に提出された。この法案は社会党や日弁連、自民党のリベラル派の反対により、審議未了のまま廃案となったが、Wikipediaによると、当初、これを推進していた宗教団体には、統一教会だけでなく、生長の家も含まれていたようである。

国際勝共連合とは、「共産主義の脅威に対抗する」ことを目的として統一教会の創始者であった文鮮明が創設した政治団体であり、今日に至るまで統一教会と不可分の関係にある。
 
「共産主義の脅威」を訴え、これに対抗して勝利することを目指す国際勝共連合の主張を見ると、スパイ防止法の制定や、日本版NSCの創設、日本の核武装なども含め、どれもこれも共産国の国家防衛の手段をそっくり模倣したものばかりであることに気づく。特に、スパイ防止法と日本版NSCの創設は、ソ連が国家の機能として持っていた強大な秘密警察の機能と活動を我が国でも取り入れて合法的に認可しようという構想である。

一言で言えば、勝共連合は、共産主義国の脅威に対抗するという名目の下、日本が強い軍隊を持って核武装し、秘密警察を持ち、外国のスパイを含めて国家にとって望ましくないあらゆる人物を合法的に処罰でき、国家が国民に対する大規模な諜報・監視活動を合法的に行なえるような法整備が必要である、と訴えているわけである。

だが、これは結局、敵以上に武装を強化することによって敵(共産主義国)に対抗しようという発想であるから、「毒を持って毒を制す」式の考えであり、果てしない軍拡競争を招き、より一層の国際的緊張を高めるだけであり、さらには、軍拡競争の中で、いつしか敵に対抗するということが口実となり、自国の武装の強化それ自体が目的となって、とめどない軍拡に陥り、異常に肥大化した軍部が生まれかねないことが予想される。

その結果、最初は手段であったはずのものが、目的化し、果てしない武装それ自体が目的と化す恐れがあるのである。その上、こうしたことの危険性に気づいてそれを訴える国民が、国家にとって望ましくない人物とのレッテルを貼られて弾圧され、武力によって強制的に排除される危険性までが生まれる。最初は共産主義に対抗することが目的であったはずなのに、仮想敵の概念がいつの間にかどんどん膨らんで行き、戦いは果てしないものとなって、ついには武装や諜報の機能のほとんど全てが、真の外敵ではなく、国家にとって「疑わしい」思想を持つ自国民の弾圧へと向けられる恐れが十分に想定される。

ここに「毒を持って毒を制す」式の考え方の危険性がある。外敵との闘いを訴える者は、魔物と闘っているうちに、自ら魔物と一体化し、敵以上の恐るべき魔物に変身してしまいかねないという法則である。 外部の敵との抗争は、いずれ内部抗争に転嫁する。国際勝共連合の唱えているような目的を容認すると、日本は、共産主義に立ち向かうという名目の下、果てしない軍拡競争に巻き込まれ、絶え間ない国際的緊張の下に置かれ、その上、スパイ根絶という口実で、大規模な国民への抑圧が正当化されかねない。こういった危険性が知識人らに指摘されたことの影響もあり、スパイ防止法は廃案になったのである。(だが、今日の秘密保護法にも同じ危険が指摘されている。)
 
ところが、村上密氏が述べているのは、勝共連合の提案と本質的に同様の論理である。村上氏はザビエルの異端審問のアイディアを彼の活動の負の側面として挙げ、今日のプロテスタントのキリスト教界における「霊の戦い」が事実無根の魔女狩りのような様相を帯びていることを非難する。そして、こうしたキリスト教における信者同士の争いが、キリスト教界の恥ずべき「影の歴史」であり、繰り返されるべきではないものであることを訴えている。

ところが、そう述べている村上氏自身が、キリスト教界を浄化するために、ザビエルと同じように、キリスト教界に超法的な「異端審問」機関としてカルト監視機構を設立することを提唱し、「スパイ防止法」を非難しながらも、キリスト教界の「カルト化」を未然に取り締まることを口実に、「カルト防止(監視・抑止)法案」とでも呼ぶべき「カルト監視機構設立案」を宗教界全体に提唱して行くのである。

村上氏は、キリスト教界を改革するという名目で、「異端審問機関の設置」及び「宗教的スパイ防止法案」を提案するという、自ら論敵と全く変わらない極めて危険な発想を述べている自己矛盾にはまるで思いが至っていない。



2-2.真に弱者である信者の側に立たず、弱者の人権を踏みにじり、「世間」という強者の目線に立って行なわれるカルト被害者救済活動

さらにもっと危険なのは、同氏がこのように自ら唱えたプランが、キリスト教界で容認されるかどうかには全く注意を払わず、教界において自分の提案が何ら公の承認を受けたわけでもないのに、自分だけの一存に基づき、非公式に、自己流の「異端審問」を繰り広げ、他教会に対する干渉という越権行為に乗り出して来たことである。

そして、この越権行為を正当化するために、村上氏は「世論」を巧みに利用して、自分自身の思惑が世論に合致しているかのような「空気作り」を行なって来た。

村上氏はカルト監視機構の設立というアイディアを提示するより以前から、カルト被害者救済活動という形で、独自の「異端審問」を行なって来たが、同氏率いるカルト被害者救済活動は、初めは、統一教会等に入信した信者を、信者の親族等の要請を受けて、半強制的に脱会させるというものであった。これは当初、カルトに入信した信者を、強制的に拉致してアパートなどの密室に監禁し自由を奪った上で、牧師などキリスト教の教職者が脱会のための説得工作にいそしみ、信者にカルトの教義の誤りを認めさせて、棄教させるという手法のものであった。

こうした活動は、信者の内心の自由を否定して、さらには身体を拘束し、強制的に外側から「正しい教義」を押しつけて改心を迫るという点で、そもそもの初めから、中世の魔女狩りのような残酷さを備えていたのだと言える。
 
まず、この活動においては、キリスト教の権威者が力づくでカルトに入信した信者の身柄を拘束し、「誤った思想に傾いた罪」を強引に認めさせて、信仰を放棄させるまで自由を与えないという不法な形での懺悔の強要と、強制的な再教育による内心の自由の侵害身体の拘束と言う罰に等しい不法な人権侵害が行われていたことについて考える必要がある。これは憲法が保障する「信教の自由」そのものの否定であり、人の信仰生活を外側から力づくで侵すことを正当化する活動であることに注意が必要である。

このような活動内容を見れば、それが暗黙のうちに意味するところは、信者を取り巻く社会(カルト団体のことではなく、この世の社会のこと)からの容認がありさえすれば、つまり、親族からの同意がありさえすれば、カルトに入信した信者は、危険人物として拘束され、人権を侵害され、思想的再教育を強制的に受けさせられて、信仰を剥奪されても当然であるという思想であると分かる。

そのような思想は、カルトに入信した信者は、その誤った思想のゆえに、世間を騒がせたのだから、身体の自由を奪われて、自らの罪を認めて懺悔させられ、強制的な再教育を受けさせられて半強制的に人格を矯正されても当然であり、なおかつ、誤った信仰に傾倒したことを懺悔するのみならず、家庭を捨ててカルト団体に逃亡したことで、どれほど家族を混乱と悲しみのどん底に突き落とし、社会に迷惑をかけたか分からないのだから、社会を騒がせて迷惑をかけた罪を認めて詫びるべきであるという考えに基づいている。

これは、社会から迷惑を受けたという通報がありさえすれば、人間が外側から力づくで他者の内心を取り締まり、その信仰や思想を弾圧することを正当化する思想であり、このような思想を延長して行くと、やがて誤った思想によって公共の秩序を騒乱した個人は、社会全体の世論の同意がありさえすれば、いかようにでも人権を奪われて処罰されても当然であるという発想へと結びついて行く。

強制的な拉致監禁と強制的な説得工作などの手法を見れば、村上密氏らの「救済」活動が、決してカルトに入信した信者という「弱者」の観点に立って行なわれたものではなく、むしろ、信者を取り巻く社会(家庭を含む)という「強者」(多数者)の観点からなされたものであることが分かる。

ただし、当初、使われていた拉致監禁という手法は、その後、信者を奪われたカルト団体から訴追の対象となったり、また世間からも批判を受けたりして、次第に使われなくなっていくが、そのような暴力的な手段を用いないようになって後も、以下に示す通り、村上氏のカルト被害者救済活動が持つ、信者に対する懲罰的な意味は変わらなかった。

同氏の「救済活動」はその後、キリスト教以外の宗教だけでなく、キリスト教界内部でも積極的に行なわれるが、そこでも、同氏は聖書の教えから逸れて道を踏み外した牧師や信者に対し、この世の司法などの強制力を用いて、その信者が「誤った思想」を認めて懺悔するまで徹底的に圧迫を加え続けるという手法を用いたのである。




2-3.強制力を用いて人間の内心の自由に対する侵害を繰り返す村上密氏のカルト被害者救済活動
 
だが、問題は、一体、この世の誰が、強制的に他人の内心の自由を抑圧してまで、他者の思想の是非を判断し、その誤りを認めさせ、これを「矯正」する権利を持つのかという点である。

そのような思想的再教育プログラムが、人の自主性を侵害して本人に強制されること自体、不法であり、大変、恐ろしいことである。そのような手法は、カルトと同じように、「洗脳」や「マインドコントロール」と非難されても当然であるが、さらに恐ろしいのは、そのような活動が、何ら公の認可を受けず、個人的な思惑に基づいて行われることである。
 
村上氏のカルト被害者救済活動が、主にカルトに入信した信者の親族(必ずしもキリスト教の信者ではない)からの要請に基づいて行われていたことを見ても、この活動が目指していたのは、信者に自主的にまことの神を知ってもらい、聖書に基づく真の信仰に自主的に至りついてもらうことではなく、むしろ、キリスト教の教義は、信者の誤った思想を論破し、誤りを認めさせてかつての信仰を放棄させるための道具として使われたにすぎないことが見えて来る。

この活動の最終的な目的は、信者に本当の神を知りたいという願いを自主的に起こさせることではなく、健全で自然な信仰を持ってもらうことでもなく、信者がカルト団体から完全に足を洗って社会復帰を果たすこと、とりわけ、もとの家庭生活に復帰することにあり、キリスト教はそれを実現するための手段であったのだと見られる。
 
つまり、この活動は、表面的には、キリスト教の信仰に基づくものであるかのように標榜していても、実際にはそうではなく、カルトに入信したがゆえに、家庭から逃亡し、社会生活から切り離されて、半ば孤立状態に陥っている信者を、親族らの訴えに基づき、家庭に連れ戻すことにより、社会生活に復帰させることを、最終目的としていたのであると考えられる。

それを実現する上で、信者の内心を作り変える必要があり、救済活動を行なうキリスト教の教職者らは、カルトの教義以上に強力で首尾一貫した教義を提示することによって、カルト的教義の誤りを暴き出して論破し、その思想の誤りを信者の目の前で明白にする必要があった。その手段として、キリスト教の教義が用いられたのである。これは、多くの新興宗教が、キリスト教を換骨奪胎して作られたキリスト教の亜種のようなものであることを考えれば、不思議なことではない。

だが、いかにカルトの教義が真理からほど遠く、矛盾に満ちた危険なものであったとしても、人が自ら内心で神を求める過程を邪魔してまで、何が真理であり、誤りであるかを、人が人に強制的に教え込み、信者がカルト的思考の誤りに自ら気づくのを待たずに、キリスト教の権威者を名乗る人間が、自らの権威によって、外側から強制的にカルトに入信した信者の思考パターンを打ち砕き、変えようとすること、しかもその説得工作を、信者の身体の自由を奪うという威嚇的な方法を用いて、信者自身が最も屈辱的な状態に置かれ、尋常でない精神状態にあり、正常な判断力の弱まっている時に行うことにより、力づくでカルトの教義の誤りを認めさせて棄教させるという方法では、カルト以上の洗脳とマインドコントロールと非難されても仕方なく、仮にその結果、カルトに入信した信者が以前の信仰生活の誤りに気づいてキリスト教に改宗したとしても、これでは強制的な改宗も同然で、到底、キリスト教の平和で自然な伝道活動とは呼べないし、このような方法によっては正常で自然な信仰も生まれ得ないであろう。

実際に、脱会の方法が強制的であればあるほど、それは本人の自主性に基づかないため、本人の自然な思考を破壊し、結果として、人格を破壊する恐れがあることが指摘されている。カルトから脱会させるという、一見、正しく見える目的のためであっても、これを暴力的な方法で成し遂げれば、後々大きな弊害が信者自身に残るのである。

もしも、正しい教義を知ってもらうためならば、人の内心の自由を力づくで侵しても良いという考えを肯定するならば、たとえそこで用いられているものが、キリスト教の教義であっても、それは実際には、カルト以上にもっとひどい形で人の内心の自由を圧迫し、彼らを洗脳し、マインドコントロールすることを正当化する暴力であるという非難を免れられない。
  
こうして信者の内心の自由を侵す形で棄教を迫るという方法は、カルトに入信していない信者の親族や、カルトを疑わしいものとみなす「世間」という「強者」の観点に立って、彼らの利益の回復のためならば、弱者であるカルト信者への抑圧も正当化されうるという考えに基づくものであり、それは決して真の意味で、弱者の観点に立って行われる救済活動とは言えないのである。




2-4.信仰を持たない「家族」や「世間」の観点に立って、カルトに入信した信者だけを問題視するカルト被害者救済活動
 
さらに、もっと複雑なのは、たとえどんなに信者の家族や親族が、カルトに入信した信者が誤った信仰を捨てて、以前のように家庭に戻って生活することを願い、そのために、カルトからの脱会を手伝ってくれるようキリスト教の牧師に懇願したとしても、カルトに入信した信者を家庭生活に復帰させることが、必ずしも、正しい解決かどうかは分からない点である。

なぜなら、カルトに入信する信者の多くは、家庭環境にもともと何か大きな不安材料があって、その問題から逃れるために、誤った信仰に心惹かれて行ったというケースが多く見られるからである。そのようなケースだと、家庭に潜む根本的な問題を見ずして、家庭復帰イコール健全な社会復帰と安易にとらえることはできない。

むしろ、根本問題が何ら解決されていない状態の家庭に信者を引き戻すことは、ただカルトに入信する以前の状態に引き戻すだけでなく、いや、カルトに逃亡するという形でしか、信者が逃げ道を模索することができなかったのだとすれば、その逃げ道さえ存在しない、より悪い袋小路に信者を追い込むことにもつながりかねない。また、それはカルトに入信することにより、信者が探索していた目的自体を否定し、あきらめさせることであるから、それはより一層、信者の心理を複雑にしてしまうきっかけとなりかねない。このような活動は、決して真の意味での弱者の心のニーズに応えるものとはならないのである。

たとえ説得工作によってカルトに入信した信者にその教義の誤りに気づかせることに成功したとしても、それだけでは、信者がそもそも一体、どんな問題から解放されるために、カルトに接近したのか、カルトに入信することによって、どのような目的をかなえようと目指していたのか、という根本的な心の問題に焦点が当てられない。
 
ただカルトに入信したことが誤りであったという事実を認めさせてその団体から脱会させて、家庭復帰を成し遂げ、あるいはキリスト教へ入信させることだけをゴールとしていたのでは、その信者の個人的な心の必要性は忘れ去られてしまう。

たとえ信者がキリスト教に改宗したからと言って、それでかつて信者の抱えていた心の問題が解決するかと言えば、そのようなことは決してない。だが、カルト被害者救済活動は、基本的に、カルトのマインドコントロールを受けてしまった信者自身の心に、何らかの弱さがあったのだと考えて、その弱さや問題の克服のために、信者に様々なカウンセリング等を受けるよう勧めても、信者自身を取り巻く「世間」の抱える深い問題には言及しないのである。
 
親族らの要請に基づいて行われるカルト被害者救済活動でも、カルトに入信した信者の誤りだけがクローズアップされ、信者をカルトに追いやる原因を作った家庭や社会の側が抱える問題は、半ば蓋がされたまま、その罪が問われることはほとんどない。信者が己の罪を認め、懺悔することは奨励されても、信者をカルトに追いやる原因を作ったかも知れない家庭や社会の「罪」は問われない。こうして、間違っていたのは、カルトに入信した信者だけであり、家庭や社会は「被害者」であって、罪はないという考えに立って、信者は家庭と社会に迷惑をかけた罪を詫びて復帰し、社会に適合するよう努力することだけが、最終的なゴールのようになってしまいかねないのである。

つまり、そこでは、家族や社会という強者の集団の抱える闇という問題は蓋をされたまま、弱者の立場にある信者だけが責められ、「家族や「世間」の利益や都合だけが優先されて、カルトに入信した信者の心のニーズは容赦なく無視され、押しつぶされてしまう危険性がつきものである。実際、そうなっていたであろうことは、説得工作が監禁という強制的な手段を用いて行われたことを見ても分かる。
 
そこで、結論を述べれば、この活動は、この世の腐敗に絶望し、真理や、まことの神や、正しい生き方を求めた結果、誤ってカルトに入信してしまった信者だけを問題視し、信者の思考と生き方だけを矯正の対象とすることによって、彼らがカルトに追いやられざるを得ないような原因を作り出した「世間」の罪を巧みに免罪する性質を持っているのだと言える。


  
2-5.公の認可を一切受けておらず、キリスト教界内の規則を無視した越権行為としての村上密氏のカルト救済活動

さて、村上密氏を含め、多くのプロテスタントの牧師が関わっていたカルト被害者救済活動は、キリスト教外部の宗教から信者を奪還するのみならず、やがてキリスト教内部で起きた不祥事から被害者を「救済する」という内容に重きを置くものへと変わって行った。そうなったのには、信者を無理やり奪われた他宗教から、訴訟などの形で多大な反発があり、なおかつ、世論にも非難の声が上がって、強制的な脱会工作が難しくなり、かつてのような他宗教からの信者の大々的な奪還が困難になって行ったことが反映していると見られる。

その中で、村上氏の活動も、キリスト教外部の「異端」を取り締まることだけでなく、キリスト教内部の「異端」を取り締まることが活動の中心になって行った。

だが、すでに述べた通り、そもそも村上密氏のカルト被害者救済活動は、関係者からの懇願や訴えがあったという他は、一切、公の認可を受けておらず、一体、何の権威に基づいてなされているのか全く分からないという問題を初めから抱えていた。

プロテスタント内部の異端を取り締まるということになれば、本来は、プロテスタント内部の規則に則ってこれを行なうのが当然であるが、プロテスタントの教界には、教団教派や教会の枠組みを超えて、これを外から取り締まることを是認するような規則は存在しない。

村上密氏は自身も牧師であるのだから、自ら属している教団の規則に従うべきであり、その牧師が、教団や教会の規約を踏み超えて、他教会の内政に干渉することは許されざる越権行為に当たる。だが、村上密氏は、同氏の所属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団からさえ公の認可を受けておらず、ましてプロテスタント教界全体においては、何の公の承認も与えられてはいない自らの活動を、個人の一存で繰り広げ、何らの公の権限にも基づかないまま、他教会の内政に積極的に積極的に干渉して行くのである。
 
このような越権行為を正当化するために、村上氏は、キリスト教界からの公の認可を受けようと努力するのではなく、むしろ、この世の裁判という強制力を味方につけようとした。
 
同氏は、カルト化の疑いのある牧師や信徒を裁判に訴え、彼らを強制的に司法の場に引き出して来ることにより、キリスト教内部の問題を議論する場を、無理やりキリスト教の外へ持ち出し、それによって、キリスト教内部の規則を飛び越えて、この世の司法による強制力によって自分の活動を正当化しようとした。

村上氏はこうして、自ら教界に属していながら、教界の規則を無視し、むしろ、教界外のこの世の司法という強制力に訴え得ることによって、キリスト教界に強制的にメスを入れることを正当化しようとしたのである。

このことは、同氏の活動が決して聖書に基づく平和な信仰によるものではなく、むしろ、全く聖書に基づかず、信仰を持たないこの世の論理と力に基づいて、キリスト教界全体を監視し、断罪し、これに強制的に懲罰を加える機会を得ようとするものであったことを意味する。その点で、同氏の活動は、ただキリスト教を隠れ蓑にしただけの、最初から聖書に基づかない、信仰によらない活動だったと言えるのである。
 
村上氏が積極的に用いていた裁判という手法を見ても、同氏の活動は、真に弱者の側に立つものではなく、世論や弁護士等この世の有識者や権威者という「強者」の目線に立って、この世の力を武器にして行われるものであったことが分かる。

村上氏による統一教会などからの信者の「救出」活動も、カルトに入信した信者自身の心の要望に基づくのではなく、信者の親族という「社会的強者」(社会からドロップアウトしたカルト信者に比べれば、彼らは強者の立場にあったと言える。また、親族の背後には信仰を持たない世間の思惑があった)の側に立って、強者の利益を確保するためになされたものであったことを思い出す。そこで、カルトに入信せざるを得なかった信者の深刻な事情や、心の必要性は理解されず、信者個人の人格も尊重されない形でその活動は行われ、むろん、家族側からの依頼に基づいて「救出活動」に携わった牧師に、どれほどの謝礼が成功報酬として渡っていたのかは誰にも分からない。
  
こうして同氏は当初、カルトに入信した信者の親族という「強者」の言い分を利用して、信者の人権に対する侵害を正当化し、信者に懺悔と棄教を迫り、異端審問官のように懲罰的に振る舞ったが、次には、キリスト教界の「疑わしい」牧師や信者を司法の場に強制的に引き出して来ることにより、彼らに強制的に懲罰を加え、それによって倫理の低下したキリスト教界そのものを断罪するということをやり始めたのである。

村上氏は、こうして、弱者救済と言いながら、自らの活動が徹底してこの世の弱者ではなく、むしろ強者の側に立って行なわれ、信仰を持つ者ではなく、むしろ、不信者の利益を擁護するために行われ、この世の力を持って、有無を言わせず信者の内心の自由を侵害し、信者の誤りを暴き出し、断罪することで、弱者の声なき声を踏みにじり、黙殺していることには、気づこうともしない。

そして、同氏は教団や教会の規則を踏み越えて、誰からも何の公の権限も与えられていないのに、自らキリスト教界の「異端審問官」であるかのように振る舞い、関係者からの不確かな証言や要請だけに基づいて、自分の一存で始まったに過ぎない自分の非公式な活動が、あたかも世間全体の後押しを受けているかのように見せかけて、さらには自らの「救済活動」が、宗教界全体に必要不可欠な改革であるかのように唱えるのである。



2-6.聖書に基づく信仰による価値基準ではなく、世間の倫理道徳によってキリスト教界を裁き、この世の司法などの強制力を用いて教界を改革しようとする危険

村上氏は、裁判によってキリスト教界に弾圧を加えることを正当化する理由づけとして、キリスト教界が倫理の低下により世間を騒乱した「罪」を挙げる。前述のブログ記事の中で村上氏はこう続ける。

 さて、キリスト教は世間に良いイメージを持たれています。そのイメージが近年カルト化した教会によって低下していることは読者の知るところです。このような問題を正すためには裁判が必要だとする私に対して、沖縄南部牧師会は声明文を過去に発表しました。<中略>キリスト教のイメージが低下したのは牧師と牧師会の倫理観が低下してきたからが私の見解です。次々と牧師の不祥事が明るみになっています。それを擁護する牧師もいます。被害者は二重三重に心に痛みを受けています。このような被害を知っていながら対策室を開設する教団は稀です。いつまでも限られた牧師たちがやっていること事態(ママ)がキリスト教の怠慢です。


ここで同氏が「世間」を引き合いに出していることが注目される。これによって、村上氏が、あたかも「世間(=信仰を持たないこの世の社会)」の観点に立って、「世間」の要望に基づいてそれをかなえるために自らの活動を繰り広げているかのような印象を与えようとしており、キリスト教に批判的な「世論」の高まりをもって、キリスト教界を断罪することの根拠にしようとしている姿勢が伺える。

つまり、同氏は決して信仰に基づいてキリスト教界の改革を唱えているわけではないのである。同氏は、キリスト教界から聖書の真理が失われ、正しい信仰が失われたがゆえに、「神の利益が損なわれている」ことを嘆くのではなく、キリスト教のカルト化が進行し、牧師の「倫理観」(聖書に基づく信仰ではない!)が失われたために、キリスト教のイメージが世間で低下したことが、あるまじき損失であると言うのである。
 
まず同氏が、一体、誰の利益を回復しようとしているのかという点に注意が必要である。同氏が主張するのは、神の利益ではなく、信者の利益でもなく、「世間」の利益である。キリスト教界によって傷つけられた被害者を救済するという名目を取ってはいるものの、実際には、この活動は被害者本人のために行なわれているものではなく、むしろ、被害者を取り巻く「世間」の観点に立ったものであり、「キリスト教が不祥事を起こして犠牲者を出し、世間をお騒がせしたので、キリスト教はその罪を認めて償わなければならない」と言っているに等しい。
 
さらに、どのような観点から、同氏がキリスト教の倫理の低下を罪深いこととして糾弾しているのかにも注意が必要である。村上氏は、キリスト教に不祥事が起きていることを、「聖書の真理から逸れたために、神に対して犯された罪」として、神の利益が損なわれ、神が心を痛めているという文脈で非難し嘆くのではなく、ただキリスト教に倫理の低下が見られたから、また、被害者が苦しめられたから、これを人の目にかなうように改善しなければならないと言うのであり、ここで、同氏がキリスト教の堕落を糾弾する根拠としているのは、聖書ではなく、世間の倫理道徳観、世間の判断基準である。

村上氏がこうしてキリスト教の現状を裁くものさしを、巧みに聖書の価値基準から、この世の価値基準へと移し替えていることに注目する必要がある。同氏は、「世間でのキリスト教界の倫理的イメージの低下」と「心に痛みを受けている被害者」の存在を引き合いに出すことによって、このままでは、キリスト教界が世間に顔向けできない嘆かわしい状態にあって、早急に改革が必要であるかのように唱え、巧みに「世間」をキリスト教界よりも上位に置こうとしているのである。

だが、すでに述べた通り、信仰者が、自らの信仰生活が正しいかどうかの判断を、信仰を持たない「世間」に委ねることなど、もともとナンセンスである。そのようなことは、霊的な事柄と肉的な事柄の順序を覆し、聖書の秩序を転倒させる危険な考え方であることはすでに前項で述べた。
 
キリスト教界に起きることは、ただ聖書の価値基準に従って、信仰によってしか理解することができないにも関わらず、村上氏は、自らの主張が不特定多数の人々からなる「世間」にバックアップされているような印象を醸し出すことにより、「世間」の判断基準を基に、あたかも世間を味方につけているかのように振る舞い、世間という「強者」の立場から、キリスト教界に起きる不祥事を糾弾し、キリスト教のみならず、宗教全体に対しても、これを疑わしいものとして監視し、断罪し、裁く側に立とうとする。聖書に基づく信仰の観点からではなく、「世間」の立場から、宗教全体を監視し、抑圧する必要性を訴えるのである。

こうして、片方では「弱者救済」を唱えながらも、実際には、村上氏は信者という真の「弱者」の立場に立って物事を考えることを決してしない。同氏は一見、自らの活動がキリスト教に基づくものであるかのように偽装してはいるが、実際には、その活動は、この世の強制力を用いたものであり、聖書に基づくものでなく、さらには信教の自由という憲法上に定められた信者の人権をも否定するものであり、信仰によってしか理解し得ない事柄を、信仰を持たない圧倒的多数者という「強者」の論理に委ねることによって信者の内心を踏みにじり、「世間」の価値判断を、聖書に基づく信仰による価値判断の上位に置き、結果的に、この世を信仰よりも上位に置くことを正当化しているのである。
 
このような転倒した理屈を基に、同氏は「世間でのキリスト教のイメージの回復」を目指し、キリスト教界では誰からも公に認可を受けていない、ただ自分の一存だけで始まったカルト被害者救済活動を、司法の強制力によって推し進め、強制的にキリスト教界に介入してメスを入れ、さらには、このような活動がキリスト教界全体に必要不可欠なものであるとみなし、他の牧師もこれを行なうのが当然であるとまで述べるのである。



2-7.強制力を用いて人の心を矯正しようとする村上密氏の活動は、平和な福音伝道によって人々にキリストの救いを宣べ伝え、自主的な回心を促すことを第一とする牧師の本来的な使命から逸脱している

だが、牧師の主たる活動とは、救いを知らない人々の魂をキリストの福音に導くことにあって、しかも、その魂の救いとは、人が自主的に悔い改めてキリストの救いを信じて受けとることによるのであり、裁判等を通してキリスト教界の不祥事を告発することで、信者に無理やり懺悔を促したり、カルトから信者を奪還しようとして強制的に信者を拉致するなどして他宗教に闘いを挑むことにはないことは明らかである。
 
そこで、こうした村上密氏の活動は、福音伝道という牧師の本来的な使命から逸脱しており、牧師の従来の正常な牧会活動のあり方を否定するものであり、しかも、教団や教会に属していながら、キリスト教界内部の規則に則らずに、この世の強制力によって、キリスト教内部の問題解決を目指している点で、他教会の内政への不当な干渉であり、牧師としての越権行為に過ぎないものであると断言できる。

このように、村上氏が、キリスト教の牧師の本来的な牧会活動のあり方から大きく外れて、絶え間ない政治闘争のような争いを己の主たる活動とし、「弱者救済」を旗印に掲げながらも、実際には、弱者ではなく強者、しかも、信仰を持たない「世間」の目線に立って、強者の利益を確保するために、カルト化問題を訴えて来たこと、また、同氏が常にキリスト教界内の規則にのっとらず、この世の司法などの力にものを言わせて、カルト化問題を解決しようとして、越権行為を繰り返して来たその手法は、約十四年前に起きて今日に至るまで続いている鳴尾教会に対する同氏の干渉にも共通して見られる。鳴尾教会の事件は、村上氏による教会内規則を踏み越えた越権行為としての「カルト狩り」や「異端審問」の走りだったとみなすことも可能である。
 



2-8.自己目的化した村上密氏の活動 カルトとの闘いを続行するために、自ら敵を作り出す


 村上氏の越権行為は、同氏の唱えたカルト監視機構という構想についてもあてはまる。

筆者の警告記事の影響もあったのか、村上密氏のカルト監視機構はキリスト教界からの関係者からの反対も大きく、ネガティブなイメージが定着し、今日に至るまで設立されることはなかった。だが、村上氏は自らの構想に宗教界からのお墨付きが得られるまで座して待つようなことはせず、それまでに自身が率いて来た「カルト被害者救済活動」の支持者を集めて、誰からの認可もないままに、早々とインターネット上に自分たちに都合のよい言論空間を作り上げ、そこで「疑わしい」教会の摘発や、「望ましくない」反対者らへの弾劾に乗り出して行った。

村上氏の活動は、ここでも全く非合法、非公認、非公式なものであり、同氏がインターネット上に組織したものは、カルト化問題について、信者を集めて客観的に話し合う場ではなく、むしろ、プロテスタントの信者ではない部外者たちを積極的に動員して、キリスト教界の不祥事を公表し、キリスト教に関するネガティヴな「世論作り」、「空気作り」を行なうための印象操作の場であった。

明らかに村上氏の意向を受けて、村上氏にとって都合の良い記事を発表するために、村上密氏のカルト被害者救済活動を支持するカトリックの信者とも言われる杉本徳久氏を中心に、そのほとんどが烏合の衆のような身元不明・匿名のネットユーザーから成るインターネット版カルト監視機構と呼ぶべき集団が出来た。そして、こうした烏合の衆のような人々が集まって、何の権限にも基づかず、あたかも世間代表、識者代表のような仮面をつけて、インターネット上でキリスト教界の不祥事を次々告発し、関係者へのバッシングを行ない、キリスト教界に関するネガティヴなイメージづくりに日夜、積極的に励んだのである。

こうした事実を振り返るならば、村上密氏の活動は、一種のマッチポンプと呼ぶべきものであったことが分かる。片方では、杉本徳久氏のような支持者を積極的に利用して、キリスト教界のイメージダウンを狙う弾劾記事を次々発表させた上で、「このようなひどい出来事が起きて世間を騒がせているのだから、キリスト教界の倫理低下とカルト化問題を解決するために、我々は行動を起こさねばならない」と提唱して、自分がカルト問題の有識者として登場するのである。だが、誰よりもキリスト教界のイメージダウンをもたらしたのは、キリスト教界の不祥事を暴くことだけを生業として活動して来た村上密氏や杉本徳久氏のような人々なのである。
 
村上氏がキリスト教界の不祥事にインターネット上で警鐘を鳴らすために利用したのが、そのほとんどが信仰を持たない身元も定かでない部外者でしかないネットユーザーであったことを見ても、同氏の目的が、聖書に基づく信仰についての健全な議論ではなく、まずはキリスト教界を糾弾することを歓迎し、是認するような「世論作り」であったことが分かる。同氏は、キリスト教に関するネガティヴな批判を自身のブログや支持者のブログを通して積極的に発表した上で、自分はこうした「世論」の後押しを受けて、悪しき問題の是正のために行動しているのであり、それゆえ、自分の活動は社会の利益にかなったことなのだという印象を自ら作り出そうとしたのである。

確かに、そのようにして発表された中には、キリスト教界に実際に起きていた不祥事もあったものと思うが、彼らの活動が、絶え間なく「カルトの疑いのある教会や牧師」といった仮想敵を必要とする性質上、その活動は、次第に、捏造してでも良いから、キリスト教界に不祥事を作り出そうと、事実から遠くかけ離れた自作自演劇のようなものとなって行った。

信仰の問題についての議論を、教義さえも満足に知らない不信者のネットユーザーらの手に委ねれば、何が起きるかは誰でも容易に想像がつく。身元も不確かなネットユーザーを盛んに利用したネット上の議論では、暗闇の中で、真偽のほども分からない質の悪い情報が飛び交い、自称「被害者」や、なりすましも現れて、行き過ぎたバッシングが横行し、事実から遠くかけ離れた「魔女狩り」としか言えない荒唐無稽な「異端審問」が過激化して行った。

こうして、村上氏の意向に沿って、村上氏に都合の良い言説や批判を並べる無数の身元不明のネットユーザーから成る、インターネット版カルト監視機構とでも呼ぶべき、ネット暴民のような非合法の集団が暴走し、杉本氏や、村上氏らの活動を理解しない人々や、それに対する反対者を吊し上げる目的で、魔女狩りのようなバッシングが行われた。「キリスト教界のカルト化問題の解決を目指す」とする彼らの目的とは裏腹に、その活動によっては、カルト化問題は何ら解決されるどころか、より一層のひどい混乱がキリスト教界にもたらされただけであったが、それでも、その行き過ぎたバッシングと混乱は、キリスト教界のイメージダウンという世論作りを行なう上では、彼らの目的にかなったものであり、織り込み済みの結果であったと見られる。何しろ、キリスト教界の疑わしい事件が次々発表されて、カルト化の疑いのある教会や牧師や信者という仮想敵が増え、キリスト教界の印象が悪くなればなるほど、カルト救済活動の指導者らの出番は増えるからである。

こうして見ると、村上氏が目指していたのは、初めから、きちんと裏づけの取れた真実の情報だけを発表して、誤った教えに警戒を呼びかけ、キリスト教界の信者らを聖書に基づく正しい信仰生活に立ち戻らせることにはなく、むしろ、暴力的とも言える威嚇的なバッシングによって、キリスト教界に起きる不祥事を次々と暴くことにより、キリスト教界そのもののイメージを低下させ、信者らを怯えさせて自由な議論を封じ込め、インターネット世論を占領し、教界全体に関する世論を自らの手中におさめて情報統制した上で、自分自身はあたかも腐敗したキリスト教界を是正する正義の味方や救済者のように登場し、そのような自己イメージを定着させていくことにあったものと見られる。

つまり、ネット上でのこうした活動はみな、村上氏とその活動の支持者らがインターネットの世論を独占して信者らを委縮させて情報統制し、キリスト教界のイメージダウンを成し遂げた上で、自分たちの活動を正当化し、信教の自由を取り締まり、キリスト教界に懲罰を加えるために、キリスト教界内の権力を掌握する目的で行われた威嚇行為としての自己流の「異端審問」であり、「恐怖政治」だったのである。

村上氏がインターネット上の記事や、裁判などの場面で、支持者を利用して行ってきた自己流の「異端審問」は、それ自体が、キリスト教界に対する威嚇であり、信者を黙らせるための恫喝であり、同時に、信者の自由な信仰生活の否定であり、同氏が教界内権力を掌握するための手段であったと見るのがふさわしい。
 
村上密氏のカルト退治は、自らの活動の需要がなくならないために、ついには自ら積極的に敵を作り出すというところまで行き着いた。これでは到底、同氏はザビエルの「負の」活動を批判できる立場にはないと言える。



2-9.アンチカルトはカルトと同一である 政敵と同化した村上密氏の活動
 
結論を述べると、上記したように、国際勝共連合の主張に危惧されたのと全く同じことが、村上氏の活動にも実際に起こったのである。国際勝共連合の提唱していたスパイ防止法の制定や、核武装が肯定されれば、「共産主義の脅威に立ち向かう」ことを口実として、やがて国家の武装それ自体が目的となり、飽くことない権力への渇望が生まれ、その結果、異常に肥大した軍部や秘密警察による諜報活動が生まれ、やがてはそれが自国民への容赦のない弾圧につながって行く危険性があると危惧されたのと全く同じように、「カルトに立ち向かう」ことを旗印に掲げた村上密氏の活動は、いつの間にか、その活動自体が自己目的化し、無実の信者を貶めてでも、カルトという政敵をでっちあげることによって、カルトとの戦いを終わりなきものとし、それによって同氏が無限に手柄を築き上げるための土壌を作ることが目的となった。キリスト教界のイメージを貶めて、この問題を是正するために、キリスト教を監視し、取り締まる必要があると唱えることにより、同氏は、教界を超える権力を掌握するための手段を自ら作り出して行ったのである。

「弱者救済」や「カルト化問題の解決」といった美名は、実際には、同氏による教界内権力掌握の口実として利用されたに過ぎない。

こうして、記事「行き詰まりの打開は方策でなく、心の改革が根本である」にも書いたように、魔物と闘っている者が、魔物の手法を取り入れることにより、自分自身が魔物と一体化するという現象が起きたのである。

魔物(自分)と闘う者は、その過程で自分自身も魔物になることがないよう気をつけねばならない。深淵をのぞき込むとき、その深淵もこちらを見つめているものである。 「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた」


2-10.キリスト教界で回復されなければならないのは、人間の利益ではなく、神の利益である

確かに、キリスト教界の不祥事それ自体はあってはならないことであるにせよ、果たして、その是正を訴えるにあたり、一体、何を損失としてとらえ、誰の利益を確保する観点から活動するのかという点は、極めて重要である。
 
村上密氏の活動に一貫して見られるのは、同氏が神の利益を回復すること、信者の利益を確保することではなく、むしろ、不信者の利益を確保するために、不信者の目線(世間の目線)に立って、不信者の意見を代弁して、信者の信教の自由そのものを否定しながら活動して来たという特徴である。

同氏の理屈によると、キリスト教界のカルト化問題が解決されなくてはならない第一の理由は、キリスト教界が聖書から逸れたために、真理が損なわれ、神の利益が損なわれ、神が悲しんでおられるためではなく、むしろ、カルト化問題の犠牲になったゆえに、人間に過ぎない被害者たちの利益が損なわれ、被害者が悲しんでいるためであり、さらにはキリスト教界の倫理低下によって、信仰を持たない世間でキリスト教のイメージが低下し、信者が不信者(世間)の恥となり、世間に迷惑をかけているからなのである。

このことを見れば、村上氏が信仰そのものに対してどれほど理解のない態度を取っており、神の願いという観点から物事を見ず、人間の利益の観点、しかも、不信者の利益を中心に物事を見ているかがよく分かる。同氏がいかに聖書の価値観とは相いれない、この世の価値判断を基準として、常に問題解決を行なおうとして来たかその様子がよく理解できるのである。

つまり、村上氏は、一人の信仰者として、人の内心の自由で自主的な信仰生活を尊重しながら、聖書の真理の回復、神の利益の回復を目指しているのではなく、キリスト教を単なる手段として利用しながら、その実、信仰を持たず、神を知らない生まれながらの人間の利益を代弁して、不信者の利益の回復を目指しているのである。これはクリスチャンの自然なものの考え方ではない。

すでに前項でも確認した通り、信仰によらない、生まれながらの人間の道徳観や正義感は、どれほど人間の目に良いものに見えても、むしろ、聖書の唱える神の義には悪質に逆らうものなのであり、そのような方法で、人間社会の抱える問題を解決しようと試みれば、より問題を深化させるだけである。そのことは、キリスト者であれば誰しも理解していることである。
  
そればかりか、生まれながらの人間が、キリストの十字架の贖いによらず、生まれながらの知恵によって他者を救済したり、あるいは自己を正義として、神に代わって他者を裁こうとすることは、自ら神となって全宗教に君臨することと同じであるから、それは反キリストの悪魔的欲望でしかない。このような方法を用いれば、キリスト教界にますます問題を引き起こすだけでなく、やがてはキリストへの信仰そのものに敵対することになり、聖書の神そのものに敵対することにならざるを得ない。
  
村上氏の聖書に基づかない、信仰によらない活動は、結局のところ、宗教界全体を敵に回すものであり、ひいては、信仰そのもの、神そのものを仮想敵としていると言って過言ではない。村上氏が疑惑の眼差しを向け、取り締まり、撲滅しようとしているのは、あれやこれやのカルトではなく、もはや神を信じる信仰そのものなのである。

<続く>

悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構」―村上密牧師の非聖書的で危険な活動

 

大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会の私物化問題について~


 1.悪魔の見果てぬ夢としての「カルト監視機構」
~自らに与えられた権限の範囲を超えて、全キリスト教会と宗教界に君臨してこれに干渉し支配することを願う村上密牧師~

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は彼の声を知っているので、彼について行きます。
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」(ヨハネ10:1-5)
 



アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師が、プロテスタント教会のカルト化問題を訴え、この問題を解決する手段として、カルト監視機構の設立を提唱して以後、私は、 記事
「カルト監視機構という名の秘密警察」などの中で、クリスチャンを名乗っている人々が、聖書によらずに人間の正義を掲げてこのような機関を作るべきではなく、人の心に潜む罪と悪の問題をこのような外側からの強制力によって解決しようとする試みには何の希望もなく、かえって教会に恐ろしい混乱をもたらすだけであると繰り返し警告して来た。

もしこのような機構が設立されれば、必ず、その活動は暴走し、教会のカルト化問題は解決されるどころか、密告と、疑心暗鬼が横行し、人間の思惑に基づいて今まで以上に滅茶苦茶な異端審問が行われ、魔女狩りが横行するようになるだけであると。


これに対して、村上密氏は自身のブログにおいて、こう反論している。

ザビエルの光と影 2010年 07月 22日

「雑感ですが、私は過去に「カルト監視機構」の必要性を訴えました。このことに対してある人が「『カルト監視機構』という名の秘密警察」と批判したことがありました。カルト監視機構が国家権力と結び付かない限り秘密警察とはなりません。むしろ、自民党政権下、自民党と協力していたカルト宗教が「スパイ防止法」制定に奔走しました。この法案が宗教をも監視下に置くことは一部の人にはよく知られていました。カルトを叩いていた私や他の人がカルトから監視されることも考えられたのです。危ういのは権力と結び付いた宗教です。キリスト教の一牧師の案に大袈裟な警告は夢想家の戯言です。

だが、この村上密氏の論理には重大な飛躍がある。まず、村上氏はカルト監視機構が国家権力と結びつかない限り秘密警察とはなりませんと述べているが、この点は完全な論理のすり替えであり、全くの誤りである。

おそらく、同氏がここで強調したかったことは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団を含め、プロテスタントのキリスト教界全体が、この世の政治活動と一線を画し、統一教会や創価学会などのように政界への進出を目指しておらず、国家権力の掌握を目指していないので、カルト監視機構が設立されたとしても、これが国家権力と結びついてその庇護を受けて、無制限の権力機関となることはなく、仮に暴走することがあったとしても、その被害も小さなものに食い止められるだろうという予測であったものと思われる。

だが、仮にそう考えたとしても、村上密氏の主張は、極めて大きな矛盾を抱えている。 まず、第一に、村上氏はここで国家権力だけを危険視しているが、危険なのは、国家権力だけではなく、文字通りあらゆる権力である。

そもそも権力とは、組織と個人との間に、個人と個人の間に、あらゆる形で存在しうるものであり、これを乱用する人間が現れれば、いつでもいかようにでも悪用されうる危険性を持っている。企業においても、宗教団体においても、家庭においても、権力はいかなる場所においても存在しうるのであり、むろん、宗教団体もそれ自体が強大な権力であり、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団も、一つの権力である。

そして、大小を問わず、あらゆる権力は腐敗しうるのであって、宗教もその点は同じである。このことを、教会のカルト化という問題を扱って来た村上密氏が否定することはできないであろう。

時として、宗教には国家権力以上の恐ろしさがあると言えるのは、たとえば、国家権力は、国家が定めている秩序を破壊し、これに立ち向かって来るような人物に対しては、逮捕、裁判、流刑、懲役などの、法の強制力によって脅かし、排除することができるが、宗教は、神の概念を用いさえすれば、法のどんな厳しい裁きも及ばないほどの深みまで、人の内心に立ち入ることが可能だという点である。そこにカルト化問題の源も存在する。
 
しかし、宗教がこのように悪用される危険性があるからと言って、キリスト教界のカルト化問題を食い止めるために、村上密氏が主張しているように、カルト監視機構を設立することによって教会を取り締まろうという発想は、いわば、
毒を持って毒を制す」式の考え方であり、これは教会にさらなる混乱を生みだけで、カルト化問題に根本的な解決をもたらすことは絶対にない。
 
なぜなら、宗教権力を超えるさらなる権力を作り出すことによって、宗教権力の腐敗を取り締まろうと言う村上氏の発想は、権力によって権力を制するという考えを意味し、これでは、権力は腐敗するという根本問題を含め、人間の心の悪の問題の本質に迫ることができないばかりか、宗教全体を取り締まることのできるこれまで以上に強大な権力を作り出すことによって、さらなる権力の悪用と腐敗の危険性に道を開くことなるからである。


村上氏は、カルト監視機構が
国家権力と結びつかない限り、秘密警察とはなりません」と述べているが、同氏は、カルト監視機構そのものが、腐敗した宗教権力や、悪意ある宗教指導者と結びつく危険性をまるで考慮しようとはしない。
 
腐敗した宗教指導者が自らの悪事を覆い隠すためにカルト監視機構を隠れ蓑に活動する危険性や、カルト監視機構のメンバーが自ら誘惑に駆られて権限を悪用する危険、もしくは、最初から悪用を目的にして、悪意ある人間がカルト監視機構に入り込む危険は、誰にでもすぐに思い浮かべることが可能だ。なのに、どうしてそのような単純な危険性さえ、同氏の構想においては全く考慮されていないのだろうか?

 
村上氏の構想では、悪意ある人間によってカルト監視機構そのものが悪用された時、誰がこれを「監視」し、その暴走を食い止めるのかという問題は、極端なまでに過小評価され、全くと言って良いほど考慮されていない。このことは、カルト監視機構は決して間違うことはないという前提を、同氏が思い浮かべていることを意味し、その前提の下に、この監視機構に事実上、無制限の権限を付与することを同氏が提唱しているにも等しい。

村上氏は、カルト化教会の牧師が誤りに陥る危険については声を大にして訴えながら、自分自身を含め、カルト化を監視する側の人間もまた同様に、与えられた権力の大きさに誘惑されて、誤りに陥る危険性を微塵も考慮していないのである。取り締まられる側には誤りがあっても、取り締まる側である自分たちは決して誤ることはないとの思い込みの下に、同氏の構想は述べられているのである。


なぜ村上氏はそのように自分自身だけは決して誤らないという絶対的なまでの自信を持つことができるのだろうか? それは同氏がよほど自らの信仰に自信を持っているためなのだろうか?
  
それにしても奇妙なのは、村上氏が、
カルト監視機構のメンバーに、初めからキリスト教の信仰を持たないこの世の有識者を据えようとしていた点である。村上密氏は、カルト監視機構の設立を呼びかけるにあたり、最初からそのメンバーとして、宗教家や臨床心理士や弁護士や法律家などといったこの世の有識者を念頭に置いており、さらには日蓮宗や天理教の教職者といった協力者も思い描いていた。こうしたことを見ると同氏がカルト監視機構のメンバーとなるための条件として、敬虔なキリスト教の信仰は必ずしも必要ないと考えていたことむしろ、キリスト教とは全く異なる他宗教の信者も最初から大いに歓迎するつもりであった様子が伺える。

そうなったのは、村上氏がカルト監視機構におそらくは最初から、
プロテスタントのキリスト教界のみならず、全宗教を監視する役割を持たせようとしていたためだと考えられる。すなわち、同氏はカルト監視機構というアイディアによって最初から、あらゆる宗教の枠組みを超えて、全ての宗教を上から監視し、抑圧することのできる強大な抑圧機関の創設という構想を提起していたのである。それゆえ、同氏は最初からこの機構のメンバーを「リベラルな」ものとしておくために、キリスト教の信仰者に限定するつもりがなかったのだと見られる。

「■ 『カルト監視機構』、設立へ
 村上密(アッセンブリー京都教会牧師)とウィリアム・ウッドは、『カルト監視機構』の設立に向けて、具体的に動き始めました
。この機構の目的は、カルトと疑問視されている団体を調査し、適正な判定を下し、発表することです。
構成は、カルト問題に精通している宗教家、臨床心理士、弁護士、法律家など、6人から12人ほどです。先日、プロテスタント教会、聖公会、日蓮宗、及び天理教の教職者で、カルト問題に取り組んでいる方々への協力要請の手紙を出し、六月中に最初の会合を持つことを予定しています。

また、『集団のカルト度に関するアンケート調査』も作成しています。その内容は六つの項目(組織、指導者、信者の実生活、組織活動、家庭生活、被害)に分かれており、百以上の質問からなっています。一つの団体に関する、正確でかつ公正な判断を下すのに不可欠な資料になると思われます。自分の属している団体の『カルト度』を計りたい方に、『集団のカルト度に関するアンケート調査』をお送りします。」 
真理のみことば伝道協会 カルト関連NEWSより)
 
以上から分かるのは、村上氏が、教会のカルト化という問題をきっかけに、キリスト教会を外部から監視する必要を訴え、この役割を、信仰を持つクリスチャンではなく、信仰を持たないこの世の不信者に委ねようとしていたことである。

ここに、キリスト教の信者にとっては決して看過することのできない極めて恐ろしい問題がある。もし村上氏のこのような構想が実現したならば、必ずや、キリスト教界の自治が破壊されるだけでなく、
キリスト教会がキリストへの信仰を持たないこの世の不信者の管理下・支配下に置かれ、聖書に基づく霊的秩序が、この世の秩序よりも下位に置かれるようになるためである。

他の記事でも幾度も訴えて来たことであるが、そもそもキリスト教会における信仰生活の正常性を、キリスト教の信仰を全く持たない外部の人々がおしはかるという発想自体が、ナンセンスである。使徒パウロは、教会の中で起きた争い事を、信者がこの世の人々の前に持ち出して、不信者の裁きに委ねるようなことをを勧めていない。

「あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。
あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
私たちは御使いをもさばくべきものだ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないはずではありませんか。
それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。
私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。
それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。
そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。」(Ⅰコリント6:1-7)


このように聖書的な観点から見ると、たとえ教会の中で仮に権力の乱用という問題が起き、それによって争いや混乱が引き起こされることがあっても、村上密氏の考えるように、カルト監視機構を作って、教会の問題を世の人々の仲裁に委ねることは、全く勧められていないのである。

それどころか、争いごとの発生をきっかけに、教会がこの世に助けを求め、この世の法則を内に取り入れ、この世の評価や裁きに身を委ねて行くことは、聖書の定める霊的秩序の転覆を意味する。なぜなら、それは
キリストの十字架を通して、この世に対して死んで、神の定めた霊的秩序に生きるようになった信者(この世から召し出された人々―神の教会なるエクレシア―)を再びこの世の堕落した秩序の管理下に置いて、この世を教会の上位に据えることで、最終的には悪魔の秩序を神の秩序よりも上位に掲げることを意味するからである

もし村上氏の唱えるカルト監視機構が実現すれば、教会はカルト監視機構を通して、絶えず、自分たちが外からどう見えるかにおびえ、気を遣わなくてはならなくなり、この世の有識者の判断や評価に気を遣い、振り回され、カルト監視機構から「疑いあり」とみなされて、取り締まりの対象とされたくない恐れから、自主的にカルト監視機構に迎合し、喜んでこの世と一体化する道へも逆戻って行くことであろう。

その結果、この世の権力闘争とは一線を画して、平和で穏やかな信仰生活に専念することを決めたプロテスタントの教界が、再びこの世の権力闘争に引き戻され、この世の権力と結びつくという、歴史を逆行するような結果も生まれかねないと予想される。

こうしたことからも、村上密氏が思い描く発想は、決して聖書から出て来たものではなく、むしろ、聖書の秩序を否定する悪魔的な発想だと言って差し支えない。それは、
信仰者の生活を、不信者の判断の下に置き、この世を教会の上位に置き、それによって肉的な秩序を霊的な秩序よりも優先し、目に見えるものを目に見えないものの上位に置くという、聖書の秩序を完全に転倒させるものであり、神と悪魔との秩序を逆転させようとする唯物論的発想だと言えるのである。

カルト監視機構が危険なのは、宗教全体を監視するという口実の下、カルト化した宗教権力が人になしうる人心支配よりも、はるかに強力な支配を人の心に及ぼしかねない点にある。カルト監視機構それ自体が、人間の心の自由に対する無制限な干渉や抑圧を正当化する手段となりかねず、もっと言えば、この抑圧機関は、初めからそれを念頭に置いているのだと言える。

カルト監視機構は、人の信仰生活という、人間の内心の自由の最も奥深くにあって、神にしか立ち入ることができず、神にしか判断し得ない事柄に関して、これを外部から別な人間が監視し、その是正を判断し、干渉し、抑圧することを肯定することにより、人の内心の自由に対する最大限の侵犯を肯定していると言って良い。そこで、この計画は人間の自由や自主性という、人の侵しがたい領域に対する侵犯に他ならないことが明白であるだけでなく、その設立自体が、神に対する越権行為なのだと言える。一体、誰が、他人の信仰生活という、神でしか判断しえないような事柄を、外から見て正確におしはかることができるだろうか。

聖書は述べている、
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(Ⅰコリント2:14)

聖書はこのように、
信仰に属する霊的な事柄を、御霊を持たない人々、つまり、信仰を持たない生まれながらの人々が理解し、わきまえることは決してできないことを教えている。キリスト者の信仰生活における霊的な事柄は、この世的な観点からは決して価値判断することが不可能なのである。この世の常識や道徳や伝統など、たとえこの世の英知の全てを結集したとしても、それによって、神に属する霊的な事柄(信仰生活)をおしはかることはできず、ましてこれを裁いたり、評価することはできないのである。

にも関わらず、村上氏は、カルト監視機構の設立により、霊的な(信仰の)領域に肉的な(この世的な)原則を堂々と持ち込み、聖書の秩序を転倒させて、不信者が信者の内心を監視して取り締まることを肯定し、それによって、キリスト教が再びこの世の支配下に引き戻され、教会がこの世の権力と一体化し、結果的には、真のキリスト者がこの世の思惑によって干渉や弾圧を受ける道を開いて行こうとするのである。

村上氏は、カルト監視機構が悪用されれば、これまで宗教権力が悪用されて起きて来た最も恥ずべき歴史である「魔女狩り」や「異端審問」よりも、さらにもっと恐ろしい抑圧行為が容易に繰り返されかねない危険について、全く何の考慮もしておらず、一切沈黙を守っているが、これは極めて恐ろしいことである。

万民祭司となった新約のこの時代、キリスト者は一人一人が神に直接、聞き従うことが求められているのであって、たとえ信者であっても、他者の信仰生活の内面に立ち入って、これを管理したり、取り締まったりすることはできない。まして、キリスト教の部外者である信仰を持たない人々がそれをしようとしたならば、どれほど的外れで支離滅裂な評価や裁きが行われ、でたらめな「カルト狩り」が横行し、キリスト教という宗教全体がどれほどそれによってひっかきまわされることになるかは誰にでも予想できる。


にも関わらず、村上密氏はこのような危惧を一顧だにせず言い放つ、「
キリスト教の一牧師の案に大袈裟な警告は夢想家の戯言です」と。

このような同氏の態度からは、カルト監視機構の真の狙いに対する疑いが逆に生じない方がおかしい。カルト監視機構は、本当にカルト化問題の解決を目的としたものと言えるのか。むしろ、これを提唱する者たちの真の狙いは、キリスト教界の不祥事を口実にして、強制力をふりかざしてキリスト教界に介入し、教会をこの世の管理下に置いて、彼らの思惑に従わないキリスト教徒をことごとく弾圧し、迫害し、排除することにあるのではないだろうか? 教会を、御霊を知らず、神の霊的秩序を全く知らず、これに従うこともしない不信者たちの手に委ね、こうした者たちが、この世の法則をふりかざして教会を占領し、聖書の秩序に忠実に従おうとして彼らの支配を拒む善良なキリスト教徒を、教会からことごとく駆逐することを、この計画は最初から、隠れた目的としているのではないのか? たとえ村上氏が何千万回、そのようなことはあり得ないと述べたとしても、カルト監視機構そのものの悪用と暴走という問題が何ら考慮されていない以上、この機関は、設立されれば、やがてそういう結果に至りつくのは必至だと考えられるのである。

実際に、村上密氏がインターネット上に作り上げた「サイバーカルト監視機構」とでも呼ぶべきネットワークによる教会の監視活動がどれほどの暴走を見せたかについては、別に述べるとして、そもそもカルト監視機構の設立を提唱する村上氏自身は、本当に、同氏の言うように無害な「
キリスト教の一牧師」に過ぎないのであろうか?

本稿では、これから鳴尾教会に関する事件の顛末を振り返りながら、村上密と言う人物について考えて行くが、その過程で私たちは、鳴尾教会に起きた事件を通して、自分は無力で無害な「
キリスト教の一牧師」に過ぎないと述べている村上氏が、当時から、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団という強大な宗教権力を味方につけて、自分よりも弱い立場にある教職者や個人の信徒、ひいては教会そのものに対して、どれほどの影響力を及ぼし、これを蹂躙して来たかを伺い知ることができる。

この事件を通して、私たちは、村上密氏が、カルト監視機構の設立を提唱するよりもはるか前から、自らに与えられた権限を踏み越え、教団や教会の規則を無視して、他教会を私物化し、自分たちの利益にかなわない者にはいわれなき嫌疑をかけて追放し、暗闇の密室に置いて恣意的な「魔女狩り」を繰り広げて来た事実を知るのである。

こうした事件を詳細に振り返る時、「キリスト教の一牧師の案に大袈裟な警告は夢想家の戯言です。という村上密牧師の言葉が、どれほど信用ならない発言であり、これは同氏が心に抱いている野望の重大な危険性と、同氏がこれまで暗闇の密室で、他教会の内政へ不当に干渉し、不法な形で権力の拡大をはかって来た過去をカモフラージュしようという意図のもとに発せられた詭弁であることがよく分かるのである。

村上氏は、自分は善良で無力な一人の牧師に過ぎず、大それたことなどできるはずがないと印象づけることで、自分が全宗教界に君臨してこれを抑圧することのできる機関を作り、その強大な権力機関の頂点に立つという、どんなキリスト教の牧師も心に抱いていないような並外れた計画と野望を心に抱いていることの恐ろしさを人に悟られまいとしているだけである。


こうしたことから思い出されるのは、次の聖句である。
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。」(Ⅱテサロニケ2:4)

聖書によれば、
あらゆる宗教を超えて、それに君臨するほど自分を高く掲げることは、反キリストの特徴であることが分かる。

地上のどんな人間にも、他者の内心を取り締まることのできるような権限は与えられていない。自由意志が保障されることは、人間が人間であり続け、人としての尊厳を保つために決して奪われてはならない条件である。

にも関わらず、人間のこの最も本質的で侵しがたい自由の領域に手を付け、人の内心を取り締まり、抑圧することを正当化するような思想は、表向きどんなもっともらしい口実がつけられていたとしても、事実上、無制限の権力、無制限の人心支配の手段を得たいという欲望から出たものなのである。

いつの時代も、強大な権力を手にした独裁者が最後に目指すのが、言論弾圧と、言論が生まれる源となる人間の内心の自由の弾圧であった。そういうことが起きるのは、権力に憧れる者が、己の手にした権力の完成形として目指すのが、完全な人心支配、すなわち、自分が絶対者となって人々に君臨し、人々の心を完全に掌握し、支配すること、つまり、己が神となって人の心を治めることだからであると筆者は考えている。

ヒトラーもスターリンも、単なる一人の人間に過ぎなかったが、今日、彼らの所業に対して、「
大げさな警告は夢想家の戯言である」などと言える者は誰もいない。こうした独裁者たちは、一個の人間であるよりも前に、強大な権力機関を歯車のように回す司令塔であり、システムであった。

だとすれば、宗教教団全体を味方につけて、教団や教会の規則を無視して他教会の内政に干渉し、教会の自治を破壊し、教団教派の枠組みを超えてプロテスタント教界全体に君臨し、さらには、宗教界全体を取り締まることのできるカルト監視機構というはかりしれない権力を持つシステムの設立を提唱し、その頂点に立ちたいという野望を自ら述べている宗教指導者が、どうして無力で無害な一個の牧師であり続けられようか。強大な権力機構の指導者となった人間は、もはや単なる「キリスト教の一牧師」ではあり得ない。それは大勢のクリスチャンに思うがままに影響力を与え、大勢の信者の運命を狂わせることのできる強大なシステムなのである。
 
こうしたことを考えるならば、人間の信仰生活という、神でなければ決しておしはかることのできない人間の内心の自由の最も深みにまでも干渉し、これに外から価値判断を加え、支配し、取り締まろうという願望を述べる者は、神に代わって人の心を裁き、統治したいという欲望を述べているのであって、それは神に対する越権行為であり、人類が神に反して抱きうる欲望の中でも、最悪の性質のものであると言える。

こうした願望はサタンから来るものであって、神から来るものではない。その欲望の本質は、信者の心を神の御手から引き離して横領しキリストの花嫁である教会をキリストから奪い教会を私物化して、自分が神となってこれに君臨し支配したいという悪魔的願望である。

ちなみに、聖書はこのような願望を述べる指導者が偽り者であって、羊の群れを食い物にするためにやって来た強盗であり、その声に信徒が聞き従ってはならないことを警告している。そこで、聖書に忠実に生きることを真に願っている敬虔な信仰者の目には、彼らの目的が、神に対する反逆としての人間による教会の私物化であることが明確に分かるのである。

<続く>

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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