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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。(3)

* * *

さて、今回は、前回の続きとして、グノーシス主義および東洋思想といった、非キリスト教的異教の思想の中には、決まって「ハガル―シナイ山―バビロン」の原則が流れている、ということに触れておきたい。

ハンス・ヨナス教授が述べた通り、グノーシス主義思想とは、特定の時代に限定された特定の思想を指すものではなく、時代の様相が混迷を極め、人々の思いの中に悲観が広がり、政治的にも危機的状況となり、明白な希望が失われているような時代には、いつでもどこでも、発生しうるものであり、さらに、この思想は、独自の神話を持たないため、あらゆる宗教や思想の中にもぐりこみ、それを換骨奪胎しては、自分に都合よく変えてしまう性質がある。

グノーシス主義は、いわば、常に何かの思想や宗教哲学などを宿主として、そこに潜り込み、寄生して成り立つ模倣と簒奪の思想なのである。

グノーシス主義には、独自の神話はないが、一応、神話的なプロットの原型はあり、果てしない模倣と簒奪を正当化するためだけに存在しているこの思想では、その神話的プロットも、当然ながらその原則に沿ったものとなる。それが「存在の流出」という考え方である。

まず、グノーシス主義思想では、真の至高者なる神が存在するとされるが、その神はあまりにも神々しい存在であるため、(一部の説では「独り子」以外には)、誰も見たことのない「知られざる神」であるという。

それにも関わらず、どういうわけか、その「知られざる神」が、この思想では「虚無の深淵」や「鏡」にたとえられ、その深淵である「鏡」に至高者の姿が映し出されることによって、無数の神的存在(アイオーン)が流出したとされる。

だが、これは非常に奇怪千万な話である。至高者にも関わらず、グノーシス主義の神は、自分の存在が「流出」することを自分でコントロールできなかったというのだろうか。

このことから、グノーシス主義の「神々」(アイオーン)は、至高神自身の意志とは関係なく、至高神の存在を模倣・簒奪して、まるで神の神聖が盗み取られ、漏洩されるようにして「流出」したものであると言える。つまり、グノーシス主義のプロットの中では、至高者は、神であるにも関わらず、自己存在が、自己の意志と関係なく「流出」することを、自分で制御することができない存在なのである。

このことを考えると、グノーシス主義における「神々」(アイオーン)の誕生は、聖書の神が、被造物を創造された時のように、主体的で能動的な創造行為ではなく、むしろ、被造物の側から、至高者の存在を盗み取り、これを模倣して自らを生んだも同然のものであるとしか言えない。

その点で、グノーシス主義の「神」は、至高神という名とは裏腹に、最初から自己存在を他の被造物によって見られ、知られ、盗み取られる受け身の神であって、主体ではなく、客体なのだと言えよう。
 
こうして、グノーシス主義の「神」は、最初から客体として、他の被造物に存在を盗み取られ、侵害されているのであって、神と呼ばれるにはふさわしくない存在である。その受動性、沈黙、弱さ、非独立性は、聖書における神が、「わたしはある」と言われ、自らの意思によって被造物を創造し、被造物が神に背いて堕落した際には、被造物を追放したり、滅びに定めることのできる、強い権限を持ち、人格と意志を持った能動的存在であることとはまさに逆である。
 
グノーシス主義の「至高神」は、たとえるならば、「御真影」のようもの言わぬ神であって、無数の「神々」であるアイオーンの存在に神的位置づけを与えるためのアリバイ、もしくは、お飾りのような存在に過ぎないと言えよう。

この点で、グノーシス主義は、最初から、神と被造物との関係を逆転し、至高神という神を規定しながらも、その神を「知られざる神」とすることによって、至高神に「リアリティ」があるのではなく、むしろ、至高神の神聖を映し取って生まれた模造品である被造物なるアイオーンの方に、「リアリティ」が存在するとして、神と被造物の関係性を逆転していると言えるのである。
 
結局のところ、グノーシス主義とは、本体である至高神から、その神聖を流出させて、模倣・簒奪して、無数の影のようなアイオーンたち(模倣者たち)を作り出すことを正当化するために生まれた思想であると言える。(ちなみに、アイオーンの間にもヒエラルキーがあって、至高者から遠ざかるに連れて、質の悪いコピーのようになって行く。)

そういう意味で、グノーシス主義とは、終わりなき質の悪いコピペを正当化する模倣と簒奪の思想なのであって、本来ならば、万物の創造主でなければならない神に主体性を持たせず、かえって神を客体として、被造物の方に主体性を与える「さかさまの思想」だと言えるのである。

さらに、グノーシス主義思想において、当初のアイオーンの流出は、アイオーンの側から至高者の神聖を盗み出すために意図的に起こされた反乱ではなかったが、この思想においては、その後、「ソフィアの過失」というさらに決定的な出来事が起きる。

グノーシス主義の神的世界では、すべてのアイオーンは男性名詞と女性名詞のペアとなっており、そのペアからしか子供は生まれないとされているにも関わらず、最下位の女性人格のアイオーンであるソフィアが、単独で子を産もうと欲して、何かしらの禁じ手を使って、おそらくは至高者なる神を「知り」、その「過失」の結果として、醜い悪神ヤルダバオート(デーミウルゴス)という子を生んで、この子を下界に投げ捨て、この悪神が、下界(地上)の支配者となって、悲劇と混乱に満ちた暗闇の世界がそこに創造され、悪神の子孫として人類が生まれたというのである。

ここで、ソフィアが単独で子を生んだことは、至高者の側からの願いに基づくものではなく、ソフィアの側からの意識的な反逆として、彼女が至高者の神聖を盗み取って、故意に流出させたものであるとみなせる。

このように、グノーシス主義の神話的プロットにおいては、繰り返し、神の神聖が、被造物の側から盗み取られていることが分かる。そして、後になるほど、その盗みは、より意図的で、より悲劇的で、より悪意あるものとなって行く。

そして、そのように、至高神の意志を介在せずに、被造物の側からの違反によって、神の神聖が不当に盗み出された結果、グノーシス主義では、人類が誕生したとされているのであって、父を不明として、ソフィアの過失をきっかけとして生まれた人類は、初めから悲劇を運命づけられている。

それでも、この思想においては、どういうわけか、父不明のはずの人類には、至高者のものである「神聖な霊の欠片」が宿っているため、人類は、自分の直接的な父である悪神よりも知恵があり、悪神を否定的に超えて、真の至高者へ立ち戻ることができ、それによって、「母の過ち」を修正することができるとされている。

グノーシス主義では、悪神ヤルダバオートが、聖書の創造主(ヤハウェ)と同一視されるため、この思想では、聖書の神を徹底的に愚弄して、これを出し抜くことが、あたかも人類の正しい使命であって、人類を真の神に回帰させることにつながるかのようにみなされるのである。

だが、ここで人類の母とされているソフィアが、どうやって単独で子を生んだのかがはっきりしない以上、グノーシス主義においける人類が、真に至高神から神聖な霊の欠片を受け継いでいるとする客観的な根拠は何もない。何よりも、グノーシス主義思想それ自体において、至高神は、人類を己が子孫と認める発言を行ってないのである。

それにも関わらず、人類が、自分は至高神の子孫であると名乗り出て、自分を天界に認知せよと求めただけで、至高神に連なる者となれるとしていること自体が、これまたこの思想のどうしようもない模倣と盗みの原則をよく表していると言え、グノーシス主義の世界観の中では、誰かが「自称」しさえすれば、何ら客観的な根拠がなくとも、それが真実であるかのようにまかり通ることをよく示している。

このように、グノーシス主義思想とは、初めから、誰かが自分よりも優れた他者の性質を模倣し、盗み取り、本体を映したおぼろげな映像に過ぎないものを、本体と置き換える盗みと反逆を正当化する思想なのであって、そこには、神に逆らって堕落した人類が、不当に神の性質を盗み、これを模倣・簒奪することにより、聖書の神を否定して、自ら神であると宣言して、神と置き換わろうとする悪魔的思想が流れていると言えるのである。

ところで、この悪魔的思想の「模倣と簒奪の原則」は、インターネットの掲示板でも、顕著に見て取れよう。今日、掲示板は、そこに集まった悪意ある人々が、現実世界に存在する様々な事物の姿を歪めて映し出しては、存在を流出させてディスカウントするための「鏡」となっている。

そこで、悪意ある人々は、掲示板で、この世の事物をターゲットとして映し出し、そこで自分たちが盗み取って流出させた歪んだ映像の方が、本体を凌ぐリアリティであるかのように言いふらし、自分たちにこそ、本体を見定める資格があると主張して、本体のオリジナリティを侵害し続けている。

さらに、そうして存在を盗み取られた人々の一部も、ヴァーチャルリアリティである掲示板の方に、あたかも「リアリティ」があるかのような虚偽を信じ、掲示板に書かれた誹謗中傷を苦にして、自殺に追いやられたりまでしている。

こうして、本体とその歪んだ映像に過ぎないものの主従関係を逆転し、本体の質の悪いコピーに過ぎず、影に過ぎないものを、本体であるかのように偽り、出来そこないのコピーの大量作成によって、本体を凌駕し、駆逐することを狙っている点で、掲示板は、本質的に、グノーシス主義と同じ、見えない悪意による「模倣と簒奪の原則」に基づいて成り立っていると言えるのである。

さらに、グノーシス主義における、人類の悲劇の誕生は、先の記事で触れたハガルとイシマエルの運命にも重なる。

ハガルは、女主人であるサラの考えによって、アブラハムに子をもうけるために与えられた奴隷であるから、自ら反逆として、アブラハムをサラから奪ったのではなかった。

とはいえ、アブラハムはハガルの夫ではなかったわけであるから、やはり、ハガルの行為は一種の盗みのようなもので、なおかつ彼女が子を産んでから、奴隷であるにも関わらず、自らが女主人であるかのように思い上がって、サラを見下げるようになったことは、主人らに対する反逆であったと言えないこともない。

また、ハガルが子を生んだことは、肉の働きであっても、信仰によるものではなかったわけであるから、その点でも、ハガルの行為は、本来は至高者を知る権限がなかったにも関わらず、己が欲望に基づき、至高者の子を欲したソフィアの過失に極めて近いものであったと言える。

さらに、ソフィアがその「過失」ゆえに天界から転落しかかり、その子であるヤルダバオートが下界に投げ落とされたように、ハガルとイシマエルは、アブラハムの家から追放されて、父のいない母子家庭になったという点も似ている。

そして、彼らは自分たちが行ったことが深い罪であって、自分たちが神の御心にかなわない不完全な存在であるとは決して認めたくないがゆえに、その後も、自分たちは神の家の正統な後継者であるかのように偽って、約束の子らを迫害し続けるのである。

このように見て行くと、グノーシス主義では、「信仰によらず、己が肉の力によって、神を知り、その実としての子を生みたい。」という、人類の肉の欲望を肯定する思想が、一貫して流れているのだと言えよう。

従って、これは一貫して、人類が自らの下からの生まれを、あたかも神聖なルーツであるかのように偽り、自らを神とする、聖書における大淫婦バビロンを肯定する思想だと言えるのである。

グノーシス主義は、どんな思想や宗教の中にでも入り込むものであるから、その発生は洋の東西も問わず、東洋思想において「母が脅かされている」とする考え方の中にも、これと本質的に全く同じものが流れていると言える。

東洋思想においても、万物を生み出す源は「神秘なる混沌」という母性原理にあるとされており、万物の生命の源は、「父」ではなく「母」にあるとされる。そこに我々は、被造物(女性原理=人類)と、創造主(父性原理=父なる神)との主従関係の逆転が起きている様子を見て取れる。

ちなみに、グノーシス主義思想の研究者である大田俊寛氏は、このような思想の発生を、古代社会においては、DNA鑑定もなく、母が誰であるかは明白であるが、父が誰であるかを確かめる術がなかったことに見いだし、「擬制(フィクション)としての父」という考えを提示している。

それに基づき、大田氏は、古代社会から家父長制から現代に至るまで、人類が父によって支配されるという考え方は、「フィクション」に過ぎないのだとし、そこから、聖書の父なる神もフィクションに過ぎないという考えを導き出すのである。

このことは、むろん、「父なる神」をフィクションどころか、「わたしはある」という絶対的なリアリティであると定義する聖書の真理に悪質に反する虚偽であることは明白であるが、グノーシス主義の核心を表すたとえとしては、言い得て妙である。

グノーシス主義では、ソフィアの過失が、具体的にどんな事件であったのかが全く明らかにされていないことを見ても分かるように、要するに、この思想においては、何らかの形で「子」が生まれさえすれば良いのであって、本当の父が誰であるかは、さして重要ではないのである。
  
もちろん、グノーシス主義は、このような考えが、聖書の唯一の神である「父なる神」を否定し、キリストと教会の関係に基づく一夫一婦制を否定するものであることを知っていればこそ、己が思想が、本質的に、キリスト教における、揺るぎないリアリティであるまことの父なる神に対する裏切り、反逆であり、キリスト教に悪質に敵対するものであることを無意識的に知っており、そうであればこそ、この思想の中には、潜在的にキリスト教(の「父なる神」)に対する恐怖、すなわち、いつか自分たちがキリスト教の「父なる神」によって罰せられることになるという恐怖が内包されているのである。

そのため、この思想には、父のいない母子家庭に生まれ、父からの正当な承認がないのに、神聖な神の子孫を自称(詐称)する人類が、いつか「父なる神」から罰せられることになるため、その御怒りから自分たちを守らなければならないという、自己防衛と被害者意識による連帯願望が流れていると言えるのである。

なお、東洋思想においては、この自己防衛の思想が「禅」という形で結晶化し、また、手段としての自己防衛は、「武士道(武術)」という形で結実した。武士道の根底にあるものは、人類を楽園から追放し、滅びに定めた聖書の神に対する怒りと憎しみの感情であって、それは神の御怒りに満ちた裁きから身を避けようとする人類の自己防衛の手段であり、永遠から切り離されて滅びに定められた者たちの生んだ悲痛な「死の美学」であることも、すでに確認した通りである。

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 (上二つの画像は、映画『龍の正体』から)



筆者はこれと同じ自己保存・自己防衛の願望を、戦前・戦中の日本の国体思想に、またユダヤ教メシアニズムにも、見出さずにいられない。

第二次大戦中の日本の沖縄戦における集団自決、そして、マサダの集団自決などに流れる思想は、根本的に全く同じものであると筆者はみなしている。つまり、それは、まことの父なる神の承認によらず、父なる神を避けて、人類という「母子」が、自らの力で自分たちのルーツを浄化して、神からの恵みと承認によらず、自力で神の神聖に至り着くことができるかのように主張して、自己防御しようとした結果、必然的に行きついた悲惨な滅びなのである。

そこには、己の力で神に達しようとする者が、霊的に罰せられずには終わらないというバベルの塔と同じ原則が働いている。

おそらく今日、ホロコーストを生き延びたユダヤ人によって建設されたイスラエルでも、自己防衛のための団結の願望は、以前にもまして強いものとなっていることが予想される。それがパレスチナ住民たちに対する攻撃の激しさの中にも現れているのだろう。

なお、プロテスタントの宗教改革の指導者であったマルチン・ルターは、ユダヤ人をキリスト教に改宗させることができると望んでいた間は、ユダヤ人を擁護していたが、それが不可能であることが分かってからは、ユダヤ人を激しく批判したことも知られている。今日、ルターのそうした言説は、反ユダヤ主義を促すものとして非難の対象となることもあるが、いずれにしても、人は神の恵みによって、信仰によってしか救われないとするキリスト教の信仰が、人は律法を守ることによって救われるとしているユダヤ教の理念と相容れないことは確かであるから、ルターによるユダヤ人への批判の中には、不思議とは言えない部分がある。

こうしてキリストを拒んだがゆえに、都を破壊されて失い、さらにプロテスタントのキリスト教徒からも激しい非難と迫害を受け、全世界に散らされた歴史的過去は、今日のユダヤ人には、トラウマに近い感情を残しているのではないかと想像される。それだからこそ、その悲痛な歴史的記憶の只中から、より一層、強固な自己保存、自己防御の感情が生まれて来るのであり、それが彼らのメシア待望という、聖書の神に最終的に逆らう終末の反キリストを生み出す原動力となって行くのではないかと考えられるのである。

人は信仰によって何かを獲得するためには、神が定められた約束の時まで、忍耐強く御言葉の成就を待つことが必要とされる。それは、あくまで神の決定としての御言葉の成就であって、人間の側からの欲望に基づく思いつきではなく、その約束を成就して下さるのも神である。そして、神がご自分の約束の成就される時、それは決して人間の肉欲を満足させる形で成し遂げられることはない。

だが、人は肉の情欲によって、神の約束を待つことができず、性急に自分で自分を保存しようとする。そして、常に感覚的満足(快楽)を欲し、己が力で成果を勝ち取ることで、神を喜ばせることができると考える。
 
しかし、どんなにそこに悲痛なまでの幸福への希求の思いが込められていたとしても、神の御言葉に立脚しないものは、すべて真のリアリティを持たず、永続性がない。だからこそ、肉によって生まれる子は、霊によって(信仰によって)生まれる子よりも、先に勢力を増して勝ち誇るがものの、その勢いは、ほんの一時的でしかなく、肉によって生まれたものは、神の計画によらないため、初めから滅びを運命づけられ、すぐに消えて行くのである。
 
「人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24-25)

そこで、当ブログでも、己が肉の力を誇り、この世の栄耀栄華を誇るクリスチャンに偽装する指導者らの唱える幸福が、草のようにしおれ、消失して行くのは当然だと主張している。

当ブログでは、とある宗教指導者の家庭に降りかかった様々な不幸のことにも言及したが、これもまさに、以上で述べた通りのバビロンに働く聖書の原則が成就したものに過ぎず、筆者が述べている個人的な見解ではない。

これに対する唯一の処方箋は、悔い改めて神に立ち帰ることである。

「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。 あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。 」(エゼキエル18:30-32)

かつてイスラエルの家が責められているように、今、プロテスタントの神の家と呼ばれる教会やその牧者たちも責められているのである。

だが、彼らが依然として、悔い改めを退け、己が富、権勢、支持者の人数、家庭、所属団体の規模、安楽な生活などを誇り、貧しい主の民を蔑み、嘲笑し続ける限り、彼らの繁栄は束の間の風のように過ぎ去るであろう。

主イエスが地上の都エルサレムに対して下された宣告と、その後のエルサレムの歴史、そして人類の肉に対する滅びの宣告を、私たちは思い出すべきである。

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:6-8)
  
だが、何一つ絶望する必要がないのは、エクレシアは最終的に、「夫ある女よりも多くの子を生む」と言われており、バビロンの栄耀栄華をはるかに超えて、永遠に至る栄光を約束されているからである。

だからこそ、私たちは地上にある間、己が権勢や、能力を誇らず、より一層、神の御前に「夫を持たない女」「やもめ」「子を生まない女」として、キリストだけを待ち望んで生きるつつましい純潔の花嫁、聖なる天の都を目指したいと願うのである。

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たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。(2)

信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じなければならないからです。」(ヘブライ11:6)

神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、
 決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
 だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。
 
 「主はわたしの助け手。
 わたしは恐れない。
 人はわたしに何ができるだろう。
 
 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。
 彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見習いなさい。
 イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
 いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。」(ヘブライ13:5-8)

* * *
   
神の国の権益を真に確保しようとするクリスチャンが、誰であれ迫害を受けることは、イエスが聖書の随所で予告しておられることである。

暗闇の勢力による神の子供たちへの理由なき激しい憎しみは、地獄から来る。悪魔は人殺しであるから、最終的には、悪魔は神の子供たちを殺害しようとする。それが許されない間にも、悪魔と暗闇の勢力は日々、正しい人々に対して精神的殺人を繰り返している。

だが、私たちはこのような地獄の軍勢の激しい憎しみを恐れたり、その前にたじろぐべきではない。主の御名のために犠牲を払うことは、貴い価値あることであり、そして、神は御自分を呼び求める民を決して孤独の中に打ち捨てておかれることはないから、私たちは御名のゆえに悪しざまに言われることを決して恐れることなく、これを大いに喜ぶべきであろう。天での報いは大きいからである。
  
オリーブ園の連載でも、オースチンスパークスの次のような記事が掲載されている通りである。

「キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(4) から抜粋

キリストの権益の前進を目的とするものはみな、それが何であろうと、ただちに邪悪な嫉妬、疑い、憎しみ、偏見、そしてもし可能なら殺害の対象となります。この反対は、人々に関する限り、何の理由もなく生じます。取り調べや調査もせずに生じます。それはたやすく、自動的に生じます。そして、それは極めて理不尽で非合理的な姿勢で取り囲まれます。そういった姿勢の多くは公正な調査で破綻します。しかし、それは存在します。どうして人々はこの手のものに捕われてしまうのか、という疑問が依然として残ります。しかし、それがどこから来るのか、私たちはよく知っています。そして、それは御子に関する神のあらゆる働きに対する愛とは正反対なのです。



さて、今回は、エルサレム問題の根底にある思想的対立を考えるに当たって、極めて重要な鍵となる、聖書に登場する「二人の女」について触れたい。もちろん、ここで言う「女」とは、象徴であって、二種類の人類のことを指す。

おそらくこのテーマは、今日、ほとんどの教会で語られることがないものであろう。なぜなら、こうしたテーマは、多くの女性にとって、あまりにもデリケートな問題をはらんでおり、ともすれば、誤解を持って受け止められかねないためだ。

だが、これが聖書において極めて重要なテーマである以上、私たちはこのテーマを避けて通ることはできない。そして、当ブログではこれを題材として書くに当たり、今ほどそれに適したタイミングはないものと思う。

当ブログにおいては、人類は神の助け手として造られた霊的な女性であるということを、繰り返し述べて来た。

創世記では、神は最初の人類であるアダム(男)からエバ(女性)を創造された際、次のように述べられた、「また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。 」(創世記2:18)

以上のフレーズを指して、これはアダムからエバが造られたことを意味するだけでなく、神がご自分のための助け手として人類を創造されたことを指しており、その意味で、「神の独り言」であると述べた人もある。

つまり、このフレーズには、アダム(男性)の助け手としてエバ(女性)が造られたというだけでなく、神がご自分の聖なる独り子のために、助け手、花嫁として、人類を創造されたという意味が込められているのである。

そこで、神の助け手として造られた人類は、霊的には女性である。そして、人類がどのような「女」として生きるのかは、一人一人にとって非常に重要である。
 
さて、聖書に登場する一人目の「女」は、神の恵みによって救われて、聖なる花婿なるキリストを忠実に待つエクレシア(教会)を指す。

しかし、彼女は花婿なるキリストがまだ目に見える形で現れていないがゆえに、「未婚の女」、「夫に捨てられた女」、「やもめ」などと呼ばれ、かつ、「子供を産まない女」として蔑まれる。以下のガラテヤ人の手紙に引用されている箇所は、エクレシアを指したものである。

「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ、
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。」(ガラテヤ4:27)

他方、もう一人の「女」とは、エクレシアとは対照的に、神の恵みによって救われるのではなく、自力で神に至り着こうと、神の御言葉を捨て、手っ取り早く、己の情欲に身を委ねる、堕落した教会、バビロンである。

バビロンは、キリストだけを孤独や試練の中で待ち続けることを嫌って、己の欲を満たすために、非常に多くの愛人(異端の教え)と霊的姦淫を重ね、忌むべき子を産み、それゆえ、黙示録では「大淫婦」という恥ずべき名で呼ばれる。また、富んでおり、貧しさや孤独を知らないことから、「女王」や「夫と子供のある女」にたとえられる。

「彼女は心の中でこう言っているからである。『わたしは女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。」(黙示18:7)

あなたは言った、「わたしは、とこしえに女王となる」と。そして、あなたはこれらの事を心にとめず、またその終りを思わなかった。 楽しみにふけり、安らかにおり、心のうちに「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもなく、わたしは寡婦となることはない、また子を失うことはない」と言う者よ、今この事を聞け。」(イザヤ47:7-8)

バビロンは、見た目には富んでいて悲しみを知らず、幸福の絶頂にあるように見えても、情欲のままに生きる、堕落した人類として、その末路は厳しいものとなる。

それは、彼女が罪に生き、主と共なる十字架を通して己が情欲に対して死んでキリストだけをを待ち望むエクレシアの孤独と貧しさを蔑み、神の聖なる御心を成就する新しい人類を憎み、迫害し、神の御言葉を退けたからである。

ちなみに、かつて当ブログでは、バビロンが「混ぜ合わせた杯」を持っていることに触れたが、この言葉は、共同訳では「彼女が注いだ杯」(黙示18:6)となっており、この言葉に、異なる性質のものを混合するという意味は特に込められていないようである。

だが、バビロンはそれ自体が、混合の教えである。ぜなら、バビロンはキリストを知らないがゆえに罪に生きる人類を指すのではなく、キリストの教えを知っていながら、これを受け入れず、うわべだけ神の教えで身を飾り、内実は、堕落した生き方を続けるキリスト教と異教的要素が合体して生まれる背教を指しているからである。

従って、バビロンが持っている杯には、混合物が注がれていることは容易に想像がつくが、同時に、それは彼女が聖徒らを迫害に酔いしれながら流した血や彼らの苦悩を混ぜ合わせた杯であると考えられるのである。
 
聖書のプロットは、ある意味、最初から最後まで、この「二人の女」の相克と、最終的なエクレシアの勝利を描いたものであると言うことができよう。
 
人類最初の女であるエバは、系統としてはバビロンに属する。彼女は、エデンの園で、神が、それを食べれば死ぬから食べてはいけないと禁じた善悪を知る木の実について、あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:4-5)と言った蛇の誘惑に負けて、己の力で、神のようになろうとして、神の掟を捨てて、その罪のゆえに堕落して、夫と共に楽園から追放された。

「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 」(創世記3:6)とある通り、エバは自分を喜ばせてくれる感覚に身を委ね、己の情欲に従って生き、それによって神に到達しようとして、堕落したのである。

以来、人間の堕落した肉は、罪と死の法則に支配され、神に従い得ないものとして、滅びに定められた。そのため、すべての人類は、生まれながらに滅びゆく神の御怒りの子となったのである。

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:6-8)
 
エバは夫と共に子供を産むが、生まれた子供の間では、早くも人類最初の殺人が起きた。

兄であるカインは、地の産物を得る者、すなわち、肉の欲望のままに生きて神に反逆する民を象徴していた。他方、弟アベルは羊を飼う者、すなわち、まことの羊飼いなるキリストおよびキリストに連なる民を象徴する者であった。

カインは地の産物を神に捧げものとして供えたが、弟アベルは、動物のういごの犠牲を神に捧た。そして、カインは、弟の供え物だけが神に受け入れられたのを見て、弟アベルを激しく妬んで、野原に連れ出して殺害した。

こうして、最初の人類の子であるカインとアベルの中にも、早くも「バビロン」と「エクレシア」につながる二つの系統の人類が、象徴的に現れているのを見て取れる。

むろん、誰もが知っている通り、アベルが理由なき憎しみによって殺されたのは、やがてキリストが堕落した人類の憎しみにより、罪なくして十字架にかかって殺されることの予表であった。

今日も、当ブログの証しが十字架の死に基づいているために、これに理由なき憎しみを燃やしている人々がいるが、冒頭でオースチンスパークスの論説に挙げたように、このようなことが、太古から今日まで、神への礼拝を巡って起きているのであり、神の御言葉を守る子供たちが肉によって生まれた子らに迫害されることは、歴史始まって以来絶え間なく続いている現象である。

この二系統の人類すなわち「二人の女」は、旧約聖書と、以下に引用するガラテヤ人への手紙の中で、アブラハムを巡る「二人の女」すなわち、ハガルとサラとして、よりはっきりした対比の中で描かれている。

ここでは、ハガルは、性急で、神が定められた時まで忍耐して待つことができず、何とかして自分の力で死を回避して、自己保存して生き残り、神に到達して永遠にまで至ろうとする人類の肉的な力とその情欲を象徴している。

他方、サラは、忍耐強く神の御言葉の成就を待ち望み、その信仰が認められて、ついに恵みによって、約束の永遠の命を得る忠実な神の子供たち(教会)を象徴する。

彼女たちを巡る話はよく知られている。アブラハムとサラは、百歳になっても子供が生まれなかったため、サラは夫アブラハムのために何とかして子孫を残そうと、己が知恵に頼って、自分の侍女(奴隷)を夫に差し出す。

ハガルはアブラハムのためにイシマエルを生んだが、自分が女主人よりも先に子供を生んだことで、高慢になって、サラを見下げるようになった。

さらに、ハガルが子を生んだ後で、サラとアブラハムは、高齢で子を産む能力を完全に失っていたにも関わらず、信仰によって、御言葉の成就として、「約束の子」であるイサクが与えられた。

その後、ハガルとサラの間には、壮絶な女の戦いが起きるようになり、さらにハガルの子イシマエルも、母にならって、サラの子イサクをいじめるようになった。

アブラハムは、ハガルとサラの板挟みになり、悩んだ末、神の御心を問い、その結果、肉の力によって生まれた母子であるハガルとイシマエルは、奴隷の出自であって、神の御心にかなわず、アブラハムの家の正統な後継者の資格を持たないため、二人を家から追放するしかないという結論に至った。

こうして、肉の力によって生まれた母子は、アブラハムの家から追放されて、約束の相続人としての地位から正式に排除されたのである。

さて、ガラテヤ書において、パウロは、ハガルとサラという二人の女が、霊的な比喩であるとみなして、次のようにその意味を解説している。

ここでは、ハガルは、人類が律法を守り抜くことで、自らの力で義とされ、神の聖にあずかることができると信じる「地上のエルサレム」、すなわち、ユダヤ教の教え全体を指している。

他方、サラは、人は律法を守ることによっては罪に定められるだけで、決して救われることはなく、救われるには、キリストの十字架の贖いを信じて受け入れることによって、神の恵みによって義とされるしかない、という信仰によって生きる「天のエルサレム」(教会)を指している。

「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。

アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。

他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。


「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
 喜びの声をあげて叫べ、
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも
 多くの子を産むから。」

ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あなとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じことが行われています。

しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。


この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
」(ガラテヤ4:21-31,5:1)

 
ここでは、肉の力によって子を産み、早々に孤独とは無縁になった女奴隷ハガル(地上のエルサレム)が、約束の子を忍耐して待ち続けるサラ、(天のエルサレム)を、「子を産まない不妊の女」、「産みの苦しみを知らない女」、「一人取り残された女」、「やもめ」、「夫を持たない女」などと呼んで、罵り、蔑んだ様子がよく分かる。
 
ちなみに、旧約聖書におけるサラは、イサクを生んだことにより、「産みの苦しみを知らない女」ではなくなったし、アブラハムという夫があったので、厳密に言えば、以上の定義には当てはまらない。

それにも関わらず、サラがこのように呼ばれているのは、サラに生まれた子供が、信仰によって、神の恵みによって与えられた子であり、アブラハムとサラの肉的な力によって生まれた子でなかったことを指している。そういう意味で、サラは「夫のない女」と呼ばれているのである。

天のエルサレムが「夫のない女」と呼ばれているのも、彼女が、人間の生まれながらの肉的な力に頼って、収穫を得ようとすることがなく、ただ御霊によってのみ、永遠に残る実を生み出すという、神の教会の聖なる性質を表している。

このようにして、肉の力を誇る者は、早々に繁栄して孤独ではなくなり、幸福を勝ち取ったように見えるものの、それは永遠に残る実ではないため、神の御国では排除されて、忌むべきものとして滅びに定められ、かえって、孤独を耐え忍んで、神の約束の成就を待ち望んだ者が、約束の成就として、御国の後継者となる、という原則が示される。

この原則は、その後、聖霊によって乙女マリヤがイエスを生んだことで完全に成就する。

マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ結婚していないうちに、聖霊によってイエスを身ごもり、救い主が生まれた。イエスは、聖霊によって生まれたという意味で、人間の生まれながらの肉の力とは何の関係もなく、一切の罪による汚れや堕落と無縁の、神の聖なる独り子であった。

マリヤがキリストを生んだとき、「夫を持たない女」であったことは、キリストの生誕には、人の生来の肉の力が働く余地がなかったことを指している。

イサクが生まれるためには、アブラハムの介在が必要であったが、マリヤがキリストを生むに当たり、ヨセフの存在は、ないがごとくに影が薄くなっている。ヨセフは確かに悩んだ末に、御使いに示されて、マリヤを離縁せず、彼女の身の安全を守るためにベツレヘムまで付い、その後、イエスが生まれた後で、彼女の夫になったが、キリストが生まれたことには、ヨセフは何の関与もなかった。

こうして、聖霊によりキリストを生んだマリヤは、やがて御霊の実を結んで多くの収穫をもたらすエクレシア(教会)を予表している。

また、肉の力によらず、聖霊によって生まれた神の独り子なるイエスの出自は、私たちクリスチャンが、バプテスマを受けて地上の肉なる生まれ(下からの出自)に死んで、水と霊によって新しく上から生まれた出自を代表している。

クリスチャンは、キリストを信じ、水と御霊を通して、上から新しく生まれ、さらに、キリストの死と復活にあずかって、聖なる民とされているのであり、このように、キリスト者が、上から御霊によって生まれた者であることを指して、パウロは、「天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。」と述べているのである。

下から生まれた者は、肉の力によって生まれたのであり、罪と死の奴隷である。上から生まれた者だけが、御霊によって、命と平安の自由の中を歩むことができ。

とはいえ、私たちキリスト者も、贖われた者であるとはいえ、その贖いは、地上にあるうちには、まだ完成していない。

私たちの内で贖われているのは霊であって、堕落した魂と肉体は、依然として「罪と死の法則」に支配される旧創造(肉)に属する。それゆえ、信者が地上にいる間、古き肉の情欲に支配されないためには、肉に対して、主と共なる十字架の霊的死の働きが絶えず必要になるのである。

黙示録第12章には、竜(サタン)に追われながら、身ごもって男の子を産む「女」が登場する。これを何の比喩ととらえるのかは諸説別れるが、少なくとも、この女の子孫の残りの者たちが、「神の掟を守り、イエスの証しをまもりとおしている者たち」(黙示12:17)と呼ばれていることを見れば、この「女」は、天のエルサレムに属する者であることが分かる。

このくだりには、女とこれを迫害する竜(サタン)がいるだけで、女の夫たる者の影はない。この時点では、聖徒らを生み出すために、人間の肉なる力が全く必要とされておらず、人類にはまことの主人としてキリストが備えられているため、目に見える「夫」の存在が必要なくなっているためだと見られる。

このように、人類が肉の力で己が子孫を残すという「系図」の意味は、キリストが生まれた時点で終わったのだと言えよう。それ以降、神が注目しておられるのは、人類がどのような者を父母として、どんな系図によって生まれたのかではなく、その者が、果たして、御霊によって上から(キリストから)生まれたのか、それとも、肉なる力によって人類から生まれた堕落した人類に過ぎないのかということだけである。

地上に子孫を残さねばならないという考えは、人間が死ぬことを前提としてのみ成り立っている。一つの世代が死ぬからこそ、自分の命を次世代につなげようとするのであり、これは種としての人類が、自己保存の願望に基づき、世代が連続して続いて行くことによって、あたかもそこに永遠性が保たれているかのように見せかけるトリックのようなものに過ぎない。

だが、キリストによって新しく生まれた人類は、永遠の命を内にいただいているため、この自己保存の願望に支配される理由がないのである。イエスはこのことを指して、サドカイ派の人々と次のような問答をされた。

「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。

「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけなければならない』と。
 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。

 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」」(マルコ12:18-27)

もちろん、この問答は、サドカイ派の人々が、復活を否定するために、イエスを陥れようとしてしかけた論争であったが、イエスの答えを見るならば、復活の時、すなわち、やがて来るべき神の国、新しい天と地においては、人類にはもはや死はないため、人類のうちに、夫も妻も存在しないことが分かるだろう。

強いて言うならば、その時には、キリストが人類の夫であり、人類がその花嫁なのである。ヨハネの黙示録に、

「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。」(黙示21:3)

と書かれている通りである。つまり、この時こそ、神の助け手として、霊的に女性として創造された人類が、まさにあるべき地位について、幕屋としての責務を果たすのである。

だが、そうして新しい天と地が到来する前から、御霊を内にいただいているクリスチャンの内側には、神の国がすでに到来しており、従って、その者はすでに永遠の命にあずかっているわけであるから、死に追い立てられて、子孫を残さねばならないという切迫した生存本能からは解放されているだけでなく、その者にとっての第一義的責務は、地上で滅びゆく子孫を生み出すことではなく、滅びることのない永遠の実を結ぶこと(神の国の権益を増し加え、キリストに連なる者を信仰によって生み出すこと)である。

そのことを指して、パウロは、「今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。人は現状にとどまっているのがよいのです。妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。」(Ⅰコリント7:26-27)と述べたのである。

このように、「めとったり嫁いだり」する行為は、人が有限なる肉体を維持するために、食べたり飲んだりするのと同じく、滅びゆく肉の古き情欲に支配されて起きる、この世の移ろいゆく有様に過ぎず、永遠とは何の関係もないものであり、そのことを、主イエスも次のように示されたのである。

「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。」(ルカ17:26-30)

従って、終末の時代、すなわち、キリストの再臨が近づくに連れて、人が古き肉の情欲に従って、自己保存の願望に突き動かされて生きるのか、それとも、キリストにあって永遠の命によって生まれた者として、神の国の新しい法則(命の御霊の法則)によって生きるのかは、人の生死を分ける決定的な分かれ目になることを知るべきである。

キリストが近づいているにも関わらず、依然として、罪と死の法則に支配されて己が情欲に生きる者は、時が来ているのにそれが分からないまま、この世の些事に没頭しているうちに、滅ぼされてしまう危険があると警告されているのだ。このように、神の御心に反し、それをとらえることに失敗する人々の没頭しているこの世の些事に「めとったり嫁いだり」という行為が含まれていることは、見逃すことのできない事実である。

すでに示した通り、黙示録の終わりには、小羊なるキリストと、聖なる花嫁なる天のエルサレムとの婚礼が描かれており、神の目から見て、最も重要な「婚礼」は、ここにある。
 
婚礼の祝宴に招かれているのに、それに注意を払わず、己の命の心配だけに心を費やしている人々は、みな神の御心が分からず、役に立たない僕として、滅ぼされるか、外の暗闇に追い出されてしまうのである。

「イエスは、また、たとえを用いて語られた。
天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』

しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、その人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。


そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。

 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。その者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」(マタイ22:1-14)

むろん、このたとえは、直接的には、まずはユダヤ人に救いが伝えられたのに、選ばれた民が、キリストを救い主として受け入れることを拒んだので、かえって異邦人たちに福音が伝えられたことを指している。

ルカによる福音書1第14章7-24節でも、同様のたとえが記されており、そこでは、祝宴に招かれたにも関わらず、出席を断った人々は、口々に「畑を買ったので、身に行かねばなりません。どうか、失礼させてください。」とか、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」とか、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません。などという理由で、これを辞退する。

まさに、売ったり買ったり、嫁いだりめとったりして、己の欲に突き動かされて、個人的な生活に没頭していたことが、小羊の婚礼に彼らが全く注意を払わない理由だったのである。

このように、時代が終わりにさしかかるに連れて、神はますます人類の肉なる力には注目されなくなり、滅びゆく人類が、己が力で子孫を残すことは、何の重要性もなくなるどころか、神の御旨に悪質に対立する行為にさえなり、その代わりとして、目に見えない花婿キリストが、花嫁として準備が整ったエクレシアを迎える真の婚礼の喜びに、誰があずかれるのかという問題が、クローズアップされる。

なお、聖書では、終末が近づくに連れて、すべてのもののスケールが拡大している。創世記では、蛇であったサタンは、「巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」(黙示12:9)と呼ばれている。

そして、バビロンは、大いなる都として発展しており、おそらくは堕落した世界的な規模の一大宗教勢力にまで拡大している。

すでに述べた通り、バビロンは、うわべだけキリスト教の装いをしているが、異教と混合した堕落した疑似キリスト教である。そして、「彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神はその不義を覚えておられるからである。」(黙示18:5)とある通り、バビロンは高慢になって、おそらく己が力で天にまで到達しようと、天にまで達するほどの罪をうず高く積み重ねたのである。

これに対して、エクレシアに連なる人々は、獣およびバビロンからの様々な迫害を受けて散らされ、荒れ野に逃げたり、殉教したりしているものと見られるが、バビロンの倒壊後には、聖なる都エルサレムとして姿を現す。これも巨大な都であり、二度と主から離れることのない、聖なる永遠の都として確立する。

このように、主の民は、バビロンと獣からの迫害の中、巨大な試練を受けて、徹底的な弱さの中で、信仰によって、神の力だけによって強められることを知って、すべての試練に勝利をおさめた後で、花婿なるキリストを迎える準備を整えた純潔の花嫁として姿を現すのである。

* * *

さて、以上に挙げたような聖書のくだりを見ても、地上の目に見える都であるエルサレムは、本質的に堕落した都バビロンに通じるものではあっても、贖われた民からなる聖なるエルサレムとは、何の関係もないことがすぐに分かる。

聖書の御言葉のどこを見ても、現在、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三大宗教の聖地とされている地上のエルサレムが、キリストの再臨と大いなる関係を持つ神聖な都であるなどという事実は全く見いだせない。

「また、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた。」(黙示14:1)という黙示録の記述をも、額面通りに受け止めて、キリストが再臨されるのはシオンの山だ、などと言うことはできないであろう。

なぜなら、聖書が一貫して私たちに告げていることは、私たちの目指している都は、地上の都ではなく、「天の故郷」だということだからである。

こうして天のふるさとに達するためにこそ、私たちは目に見えるものに目を留めず、この世的な富、己が欲望を満たすことに心を砕かず、この世に深入りすることなく、かえって、イエスの負われた辱めを身に受けて、宿営(目に見える神殿)の外に出て、みもとへ行こうとしているのである。

「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに行こうではありませんか。
わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。」(ヘブライ13:12-14)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)


このように、私たちが求めているものが「天の故郷」であると聖書が告げているのに、どうしてキリスト者が地上の国であるイスラエルの建国や、エルサレムにおける神殿建設などに注目する理由があろうか。

むしろ、救い主であるキリストが来られたのに、これを受け入れず、十字架につけて殺したユダヤ人たちが、聖なる場所として尊んでいた地上の都エルサレムに向かって、主イエスが、どのように厳しい宣告をなされたかを思い出すべきである。

「「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。

イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはできない。」(マタイ23:37-39.24:1-2)

主イエスの言葉は、西暦70年に成就して、エルサレムはローマ軍の進軍によって陥落した。エルサレム神殿はその時に滅ぼされて壊滅し、神殿に入れば安全だと考え、そこにたてこもっていたユダヤ人は殺害され、ローマの進軍を避けてマサダに逃げたユダヤ人たちは、そこで集団自決を遂げた。マサダとは「要塞」の意味であり、この要塞へ続く道が「蛇の道」と呼ばれていたことも、偶然とは思えないような話である。

そのとき、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」(マタイ24:15)との主イエスの警告も成就したと解釈されるのである。

だが、今日、プロテスタントの信者の一部(キリスト教シオニズムに影響を受けた人々)は、この御言葉には、将来的に起きることを告げる二重の意味があって、やがてエルサレムにユダヤ教の神殿が建設され、そこに反キリストが立つことを預言したものであるとみなし、こうした出来事が成就するのを手助けすることによって、キリストの再臨を早めることができるなどと主張する。

だが、それではまるで反キリストを目に見える都の神殿に立たせることで、キリストの再臨を促そうと言っているのと同じであり、そのためにイスラエルを支援するなどというのは、ほとんど荒唐無稽と言う他ない。

むしろ、こうした状況を吟味すれば、推測できる結論はただ一つであって、反キリストは、異邦人の中からではなく、まさにユダヤ教徒が待望する「メシア」を名乗って、地上の都エルサレムに登場して来るだろうということである。そして、欺かれた一部のキリスト教徒らが、これを聖書預言の成就のため、キリストの再臨のためと称して、イスラエルの諸政策に賛同することで、今からバックアップしようとしているだけなのである。


従って、こうした考えの中には、ユダヤ教とキリスト教の混合という恐るべき発想が込められていることを見なければならない。トランプ米大統領も、娘夫婦がともにユダヤ教徒であり、ユダヤ教の強い影響を受けていると見られるし、トランプの支持層とされるプロテスタントの信者らも、シオニズムが、聖書に合致するものであるかのように思い込むことで、その実、ユダヤ教からの影響力を取り込み、ひどく欺かれているだけであることに気づいていないのである。

だが、日本のプロテスタントも、こうした欺きとどこまで無縁であれるのかは疑わしい。日本のプロテスタントは、米国プロテスタントにあまりにも大きな影響を受けており、さらに、日ユ同祖論などの荒唐無稽な説も流布されており、それを信じて、日本人の生まれながらのルーツを神聖なものとみなそうとする信者すらも現れている。

そのため、日本のプロテスタントにも、イスラエルの行っていることを聖書の御言葉を結びつけて正当化しようという考えがかなり広く普及している。日本が第二次世界大戦中にナチス・ドイツと同盟国であったなどの歴史的過去への罪悪感も、それに影響を与えていることであろう。

こうして、地上のイスラエルという国を、あたかもメシアを生み出すための神聖な母体であるかのようにみなす思想が、プロテスタントの中にも、まことしやかにキリスト教の仮面をつけて入って来ているのであり、こうした動きはすべて、筆者には、目に見える宗派としてのプロテスタントが、反キリストの到来へと整えられつつあることの現れであるように見受けられる。

だが、もちろん、このようなキリスト教シオニズムは、聖書の記述を文字通りに真理であると信じる信仰とは何の関係もない考えであるから、それは聖書信仰に基づく思想ではあり得ないこと、むろん、当ブログの見解とも何の関係もないことを、何度でも断っておかなければならない。

* * *

さて、パウロの言葉の中で、今日、信者の間で多くの議論を呼んでいる箇所がある。それはテモテへの手紙第一の中で、パウロが次のように述べていることである。

「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。この言葉は真実です。」(テモテ一2:12-15,3:1)

今日、ほとんどの教会は、これを文字通りの原則として取り入れるようなことはしていない。

私たちは、主イエスが地上でまだ幼子だったとき、エルサレムの神殿で、長子を神に捧げるための儀式を行うに当たり、シメオンとアンナが彼を出迎えたことを知っている(ルカによる福音書第2章)。そのうち、アンナは八十四歳になったやもめの女預言者であった。

このように、この時点でも、神殿には女預言者が仕えていたのであり、今日のプロテスタントにも、多数の女性牧師や説教者がおり、今日のプロテスタントでも、女性が教会では黙っていなければならないとか、女性が子を産むことによって救われるなどという教説を教えている教会はまずない。
 
なお、ローマ帝国においては、女性には基本的に市民権が与えられておらず、政治参与が認められておらず、その点でローマの女性たちの教養がひどく低かった可能性は考えられ、パウロが、そうした事情の下で、以上の言葉を、文字通りの意味で使っていた可能性も全く考えられないとは言えないものの、それがパウロの勧めという域を超えて、聖書の原則に合致するものであると言えるかと問えば、答えは否であろう。

なぜなら、以上の言葉は、パウロ自身がガラテヤ書で、天のエルサレムを「夫のない女」「子を産まない女」にたとえていることと、全く矛盾するからである。

さらに、イエスがスカルの井戸で出会われ、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)と告げられ、かつ、「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。<略>まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)と告げられた女も、ユダヤ人からは蔑まれているサマリヤの女であり、しかも、かつては五人の夫があったのに、イエスと出会った時には、夫ではない者と連れ添っている女であった。

このように、聖書の原則は、強い者ではなく弱い者、高ぶる者ではなくへりくだる者、人に認められて評価される者ではなく蔑まれる者、選ばれた者ではなく見捨てられた者、人の目から見て取るに足りない者、無に等しい者を、神は常に用いられるというものである。

従って、以上に挙げたパウロの言葉も、一種の比喩としてとらえられる。つまり、ここで言われている「婦人」とは、エクレシア全体すなわち人類を指しており、男から女が造られたように、人類は神の助け手として、神に仕えるために創造されたのであって、その意味で、神と人類、キリストとエクレシアとの主従関係は、逆転されてはならないものである。
 
人類には神に言い逆らうことはできず、御言葉に従わなければない。だが、エバが蛇に最初にそそのかされたように、人類は神に背いて堕落したのであって、もともと罪になびきやすい性質があるゆえ、イエスの御言葉に従うためには、自分の堕落した肉の力である情欲に対して、絶えず十字架の霊的死を帯びていなければならない。そして、偽りの教えに惑わされず、固く信仰に立ち続けて、たゆみなく善を行うならば、高ぶって滅びゆく肉の子孫を誇るのではなく、キリストに連なる永遠に至る収穫をもたらし、神に喜ばれることができるだろう。

「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」(ガラテヤ6:7-10)

従って、神が人類に求めておられるのは、どこまでも肉の力によらず、信仰によって、永遠に至る実を結ぶことなのであり、己の欲により目に見える成果を残すことではない、ということが分かるだろう。

そういう意味で、今日のキリスト教の礼拝は、ますます目に見えるものから解放される必要に迫られていると言える。すでに述べたように、プロテスタントは、神への礼拝を教会の目に見える様々な装飾からくる感覚刺激から解放し、信者をより深い御言葉への知的理解へ向かわせた点で、大きな信仰の回復を成し遂げたが、今日、私たちは、神への礼拝をさらに目に見える指導者や、目に見える礼拝堂からも解放して、「この山でもエルサレムでもない所で」、より一層、見えないキリストを通して父なる神にのみ捧げる必要に迫られている。

そこで、目に見える既存の教団教派が、今後、ますますバビロン化へ向かう一方で、御霊の働きは、地上では何も持たないつつましい「やもめ」として、目に見える団体や指導者にではなく、見えないキリストだけに頼って歩む、エクレシアの各々の信者の中に受け継がれて行くであろう。

生きる限り主を…



私は主を愛する。
主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。
主は、私に耳を傾けられるので、
私は生きるかぎり主を呼び求めよう。

死の綱が私を取り巻き、
よみの恐怖が私を襲い、
私は苦しみと悲しみの中にあった。
そのとき、私は主の御名を呼び求めた。
「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

主は情け深く、正しい。
まことに、私たちの神はあわれみ深い。
主はわきまえのない者を守られる。
私がおとしめられたとき、私をお救いになった。
私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。
主はおまえに、良くしてくださったからだ。

まことに、あなたは私のたましいを死から、
私の目を涙から、
私の足をつまずきから、救い出されました。

私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。
「私は大いに悩んだ。」と言ったときも、
私は信じた。
私はあわてて
「すべての人は偽りを言う者だ。」と言った。

主が、ことごとく私に
良くしてくださったことについて、
私は主に何をお返ししようか。
私は救いの杯をかかげ、
主の御名を呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。
ああ、御民すべてのいる所で。
主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。
私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。
あなたは私のかせを解かれました。
私はあなたに感謝のいけにえをささげ、
主の御名を呼び求めます。

私は自分の誓いを主に果たそう。
ああ、御民すべてのいる所で。
主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真中で。
ハレルヤ。
(詩篇第116編)

私を宴に伴い、愛の旗を掲げて…

主にある大切な姉妹

暑さが厳しいですね! 食欲がなくなりそうですよ! 姉妹も体調に気をつけて下さいね。

兄弟姉妹の声を電話で聞くと、いつも心からほっとします。疲れていても、不安に押し流されそうな時でも、主にある交わりの中に入ると、生ける水の流れのほとりにいる人のように、安らぐのです。

御身体を通じて流れてくる神の命が、こんなにも、甘く、麗しいとは、知りませんでした。それがこんなにも私を満たし、潤し、生かし、力づけてくれるとは、 考えたことがありませんでした。交わりを通して、崩れ去った私の心の尊厳は立て直され、私は元気を回復し、もう一度、自分の足で立って、歩いて行こうとし ているのが分かるのです。今まで感じられなかった不思議な力が、私を内側から立ち上がらせます。

神の知恵は本当に、私の思いを超えて、不思議で、はかりがたいですね。あらゆる出来事を通して、私は主の愛の中へと導き入れられています。臆病で、ともす ればすぐに物陰に身を潜めて黙り込んでしまうような私を、主はあらゆる出来事を通して、出ておいでと、優しく呼んでおられるかのようです。冬は去り、冷た い雨も止んだ。野には花咲き、こんなにも、日差しは優しいではないかと。

愛する兄弟姉妹の存在は、主が私にお与え下さった宝であり、私の安全基地、心の安らぎです。私があなた方をどれほど愛するようになったか、口で説明しても、多分、誰にも分かってもらえないでしょう。

この甘く安らかな交わりの中心には、主イエスが立っておられます。この交わりの甘さ、安けさは、ただ主のものです。私は主の御腕の上に頭をもたせかけて、 ぐっすりと眠り込む乙女のように、主の愛の中で安らぎ、まるで恋煩う人のように、日が暮れるまで、終日、主を思うのです。

誰も私を呼び覚まさないで下さい、私の心は主のもの。私は主の愛に捉えられて、病みつきになっているのです。彼の思いもかけない、愛に満ちた贈り物のため に、私は気が遠くなりそうです。どうしてそうならないでいられるでしょう。本当に、こんな恵みがあってよいのでしょうか。こんな平安があって良いのでしょ うか。主の愛の甘さ、不思議さは、私の心を捉えて離さず、私の心を地上の全てから奪い去り、彼の麗しさの中に連れ去り、浸し込んでしまうのです。

「若者たちの中にいるわたしの恋しい人は
 森の中に立つりんごの木。
 わたしはその木陰を慕って座り
 甘い実を口にふくみました。

 その人はわたしを宴の家に伴い
 わたしの上に愛の旗を掲げてくれました。

 ぶどうのお菓子でわたしを養い
 りんごで力づけてください。
 わたしは恋に病んでいますから。

 あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ
 右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに。

 エルサレムのおとめたちよ
 野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください
 愛がそれを望むまでは
 愛を呼びさまさないと。
 恋しい人の声が聞こえます。
 山を越え、丘を跳んでやって来ます。
 恋しい人はかもしかのよう
 若い雄鹿のようです。

 ごらんなさい、もう家の外に立って
 窓からうかがい
 格子の外からのぞいています。

 恋しい人は言います。
 「恋人よ、美しいひとよ
 さあ、立って出ておいで。
 ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。
 花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。
 この里にも山鳩の声が聞こえる。

 いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。
 恋人よ、美しいひとよ
 さあ、立って出ておいで。
 岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ
 姿を見せ、声を聞かせておくれ。
 お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。」

 狐たちをつかまえてください
 ぶどう畑を荒らす小狐を。
 わたしたちのぶどう畑は花盛りですから。

 恋しいあの人はわたしのもの
 わたしはあの人のもの
 ゆりの中で群れを飼っている人のもの。
 
 夕べの風が騒ぎ、影が闇にまぎれる前に
 恋しい人よ、どうか
 かもしかのように、若い雄鹿のように
 深い山へ帰って来てください。」(雅歌2:3-17 新共同訳)



出発前の祈り

主よ、心から感謝です、私はあなたを見上げます。私はどんなにかあなたを愛しているでしょう。私は迷いやすい、心の弱い、無知な者ですが、いつでも、あなたの命の中に隠れ、あなたの御翼の陰にかくまわれることができる幸いを心から感謝します。

主よ、あなたを心から愛しています。そのことで、私はたとえようもなく幸福です。これまでにたとえどんな道を歩んで来たにせよ、たとえ今どのような境遇に 置かれているにせよ、私の涙も、苦しみも、恥でさえも、あなたがご計画の中で、あなたにとって最善となり、益となるように、いつも取り計らって下さってい ることが分かっているので、私には、心を曇らせるものは何もありません。

主よ、私は幸福です。それは、天地が創られる前から、はかりしれない愛の中で、私を選んで下さったことを知っているからです。私は幼子のように無知な者で すが、この無知な者を選んで、あなたの福音を表して下さったことを感謝します。私の歩みをこれまで守り、私がつまずいた時にさえ、御手を持って支えられた ことを感謝します。これからも、御翼のかげに私をかくまってください。

主よ、あなたは私をさまざまな場所に置かれ、他の人が滅多に見ることのないような、さまざまなものを見せてこられました。私にはその理由がいつも分かるわ けではありませんが、あなたには深いご計画があることが分かっています。それは、私を通して、兄弟姉妹が命の供給を得るためなのです。たとえどこへ遣わさ れるときにも、御身体が豊かになるために、あなたは私を遣わされているのです。そして、私もそれによって豊かにされるのです。

私はこれからも、教会、その他、さまざまな場所へと遣わされるでしょう。中には、私自身がなぜそこにいなければならないか、分からない場所もあるかも知れ ません。しかし、公の会堂の中にいても、誰かのミニストリーの中にいても、先人の書物を読んでいるときも、世の中で仕事をしているときにも、たとえ人が栄 光を受けている何かの運動の只中にいる時でも、主よ、私の心は、ただあなたにのみ捧げられ、あなたにのみ注がれています。

主よ、人はうわべを見ますが、あなたは私の心をご存知です、目に見えるものは、もはや私の心を支配することはできません。

主よ、全世界の前で、はっきりと宣言します、私の所有者は、あなたです。私はあなただけに心を向けています。ですから、どうぞ主よ、これからも、あなたが 望まれるとおりに、私を必要な場所に置いてくださいますように。そして、私を兄弟姉妹に仕える者、兄弟姉妹の命を豊かにする者として、どこへでも、遣わし てください。また、あなたが我が足のともし火として、これからも、私の行く道を照らしてくださり、あらゆる悪しき者から守って下さいますように。

主よ、恥は私に、栄光は主にお返しします!! 私が罪人であったときから、私を愛し、私のために命を捨てて下さった主を、心から誉めたたえます! 私を泥 の中から引き上げ、真新しい王族の衣装を着せ、そして、孤児同然であった私に、豊かな命を与え、愛すべき兄弟姉妹を与えて、神の家族として、生きる者へと 変えて下さったことを、心から感謝します。

たとえ私のこれまでの歩みにどんな欠点があったとしても、一つのことだけは確かです。それは死んだも同然であった私を、あなたが豊かな命の中へと引き上げて下さり、もはや見捨てて孤児とはしない、とおっしゃって下さっていることです!!

主よ、これから、あなたが与えて下さった大切な神の家族のもとを訪れ、共に手を取り合って喜びを分かち合うために、旅立ちます。道中の無事をあなたが守って下さり、祝福された交わりをお与えくださいますように。

主よ、あなたを誉めたたえます、あなたが一つとして下さった神の家族を感謝します。どんなに目に見える欠点があっても、どんなにつまずきの多い人生を歩んでいても、私たちは永遠に変わることのない一つの家族です。

私は兄弟たちの手を握りしめています。どうか、生ける水の流れがエクレシアを浸しますように。兄弟姉妹の無事をも、守って下さい。では、行ってきます!

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

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