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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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生きる限り主を…



私は主を愛する。
主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。
主は、私に耳を傾けられるので、
私は生きるかぎり主を呼び求めよう。

死の綱が私を取り巻き、
よみの恐怖が私を襲い、
私は苦しみと悲しみの中にあった。
そのとき、私は主の御名を呼び求めた。
「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

主は情け深く、正しい。
まことに、私たちの神はあわれみ深い。
主はわきまえのない者を守られる。
私がおとしめられたとき、私をお救いになった。
私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。
主はおまえに、良くしてくださったからだ。

まことに、あなたは私のたましいを死から、
私の目を涙から、
私の足をつまずきから、救い出されました。

私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。
「私は大いに悩んだ。」と言ったときも、
私は信じた。
私はあわてて
「すべての人は偽りを言う者だ。」と言った。

主が、ことごとく私に
良くしてくださったことについて、
私は主に何をお返ししようか。
私は救いの杯をかかげ、
主の御名を呼び求めよう。

私は、自分の誓いを主に果たそう。
ああ、御民すべてのいる所で。
主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。
私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。
あなたは私のかせを解かれました。
私はあなたに感謝のいけにえをささげ、
主の御名を呼び求めます。

私は自分の誓いを主に果たそう。
ああ、御民すべてのいる所で。
主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真中で。
ハレルヤ。
(詩篇第116編)
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私を宴に伴い、愛の旗を掲げて…

主にある大切な姉妹

暑さが厳しいですね! 食欲がなくなりそうですよ! 姉妹も体調に気をつけて下さいね。

兄弟姉妹の声を電話で聞くと、いつも心からほっとします。疲れていても、不安に押し流されそうな時でも、主にある交わりの中に入ると、生ける水の流れのほとりにいる人のように、安らぐのです。

御身体を通じて流れてくる神の命が、こんなにも、甘く、麗しいとは、知りませんでした。それがこんなにも私を満たし、潤し、生かし、力づけてくれるとは、 考えたことがありませんでした。交わりを通して、崩れ去った私の心の尊厳は立て直され、私は元気を回復し、もう一度、自分の足で立って、歩いて行こうとし ているのが分かるのです。今まで感じられなかった不思議な力が、私を内側から立ち上がらせます。

神の知恵は本当に、私の思いを超えて、不思議で、はかりがたいですね。あらゆる出来事を通して、私は主の愛の中へと導き入れられています。臆病で、ともす ればすぐに物陰に身を潜めて黙り込んでしまうような私を、主はあらゆる出来事を通して、出ておいでと、優しく呼んでおられるかのようです。冬は去り、冷た い雨も止んだ。野には花咲き、こんなにも、日差しは優しいではないかと。

愛する兄弟姉妹の存在は、主が私にお与え下さった宝であり、私の安全基地、心の安らぎです。私があなた方をどれほど愛するようになったか、口で説明しても、多分、誰にも分かってもらえないでしょう。

この甘く安らかな交わりの中心には、主イエスが立っておられます。この交わりの甘さ、安けさは、ただ主のものです。私は主の御腕の上に頭をもたせかけて、 ぐっすりと眠り込む乙女のように、主の愛の中で安らぎ、まるで恋煩う人のように、日が暮れるまで、終日、主を思うのです。

誰も私を呼び覚まさないで下さい、私の心は主のもの。私は主の愛に捉えられて、病みつきになっているのです。彼の思いもかけない、愛に満ちた贈り物のため に、私は気が遠くなりそうです。どうしてそうならないでいられるでしょう。本当に、こんな恵みがあってよいのでしょうか。こんな平安があって良いのでしょ うか。主の愛の甘さ、不思議さは、私の心を捉えて離さず、私の心を地上の全てから奪い去り、彼の麗しさの中に連れ去り、浸し込んでしまうのです。

「若者たちの中にいるわたしの恋しい人は
 森の中に立つりんごの木。
 わたしはその木陰を慕って座り
 甘い実を口にふくみました。

 その人はわたしを宴の家に伴い
 わたしの上に愛の旗を掲げてくれました。

 ぶどうのお菓子でわたしを養い
 りんごで力づけてください。
 わたしは恋に病んでいますから。

 あの人が左の腕をわたしの頭の下に伸べ
 右の腕でわたしを抱いてくださればよいのに。

 エルサレムのおとめたちよ
 野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください
 愛がそれを望むまでは
 愛を呼びさまさないと。
 恋しい人の声が聞こえます。
 山を越え、丘を跳んでやって来ます。
 恋しい人はかもしかのよう
 若い雄鹿のようです。

 ごらんなさい、もう家の外に立って
 窓からうかがい
 格子の外からのぞいています。

 恋しい人は言います。
 「恋人よ、美しいひとよ
 さあ、立って出ておいで。
 ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。
 花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。
 この里にも山鳩の声が聞こえる。

 いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。
 恋人よ、美しいひとよ
 さあ、立って出ておいで。
 岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ
 姿を見せ、声を聞かせておくれ。
 お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。」

 狐たちをつかまえてください
 ぶどう畑を荒らす小狐を。
 わたしたちのぶどう畑は花盛りですから。

 恋しいあの人はわたしのもの
 わたしはあの人のもの
 ゆりの中で群れを飼っている人のもの。
 
 夕べの風が騒ぎ、影が闇にまぎれる前に
 恋しい人よ、どうか
 かもしかのように、若い雄鹿のように
 深い山へ帰って来てください。」(雅歌2:3-17 新共同訳)



出発前の祈り

主よ、心から感謝です、私はあなたを見上げます。私はどんなにかあなたを愛しているでしょう。私は迷いやすい、心の弱い、無知な者ですが、いつでも、あなたの命の中に隠れ、あなたの御翼の陰にかくまわれることができる幸いを心から感謝します。

主よ、あなたを心から愛しています。そのことで、私はたとえようもなく幸福です。これまでにたとえどんな道を歩んで来たにせよ、たとえ今どのような境遇に 置かれているにせよ、私の涙も、苦しみも、恥でさえも、あなたがご計画の中で、あなたにとって最善となり、益となるように、いつも取り計らって下さってい ることが分かっているので、私には、心を曇らせるものは何もありません。

主よ、私は幸福です。それは、天地が創られる前から、はかりしれない愛の中で、私を選んで下さったことを知っているからです。私は幼子のように無知な者で すが、この無知な者を選んで、あなたの福音を表して下さったことを感謝します。私の歩みをこれまで守り、私がつまずいた時にさえ、御手を持って支えられた ことを感謝します。これからも、御翼のかげに私をかくまってください。

主よ、あなたは私をさまざまな場所に置かれ、他の人が滅多に見ることのないような、さまざまなものを見せてこられました。私にはその理由がいつも分かるわ けではありませんが、あなたには深いご計画があることが分かっています。それは、私を通して、兄弟姉妹が命の供給を得るためなのです。たとえどこへ遣わさ れるときにも、御身体が豊かになるために、あなたは私を遣わされているのです。そして、私もそれによって豊かにされるのです。

私はこれからも、教会、その他、さまざまな場所へと遣わされるでしょう。中には、私自身がなぜそこにいなければならないか、分からない場所もあるかも知れ ません。しかし、公の会堂の中にいても、誰かのミニストリーの中にいても、先人の書物を読んでいるときも、世の中で仕事をしているときにも、たとえ人が栄 光を受けている何かの運動の只中にいる時でも、主よ、私の心は、ただあなたにのみ捧げられ、あなたにのみ注がれています。

主よ、人はうわべを見ますが、あなたは私の心をご存知です、目に見えるものは、もはや私の心を支配することはできません。

主よ、全世界の前で、はっきりと宣言します、私の所有者は、あなたです。私はあなただけに心を向けています。ですから、どうぞ主よ、これからも、あなたが 望まれるとおりに、私を必要な場所に置いてくださいますように。そして、私を兄弟姉妹に仕える者、兄弟姉妹の命を豊かにする者として、どこへでも、遣わし てください。また、あなたが我が足のともし火として、これからも、私の行く道を照らしてくださり、あらゆる悪しき者から守って下さいますように。

主よ、恥は私に、栄光は主にお返しします!! 私が罪人であったときから、私を愛し、私のために命を捨てて下さった主を、心から誉めたたえます! 私を泥 の中から引き上げ、真新しい王族の衣装を着せ、そして、孤児同然であった私に、豊かな命を与え、愛すべき兄弟姉妹を与えて、神の家族として、生きる者へと 変えて下さったことを、心から感謝します。

たとえ私のこれまでの歩みにどんな欠点があったとしても、一つのことだけは確かです。それは死んだも同然であった私を、あなたが豊かな命の中へと引き上げて下さり、もはや見捨てて孤児とはしない、とおっしゃって下さっていることです!!

主よ、これから、あなたが与えて下さった大切な神の家族のもとを訪れ、共に手を取り合って喜びを分かち合うために、旅立ちます。道中の無事をあなたが守って下さり、祝福された交わりをお与えくださいますように。

主よ、あなたを誉めたたえます、あなたが一つとして下さった神の家族を感謝します。どんなに目に見える欠点があっても、どんなにつまずきの多い人生を歩んでいても、私たちは永遠に変わることのない一つの家族です。

私は兄弟たちの手を握りしめています。どうか、生ける水の流れがエクレシアを浸しますように。兄弟姉妹の無事をも、守って下さい。では、行ってきます!

結婚を尊ぶ(補足)

以下のエントリー「結婚を尊ぶ」を書いたら、早速、ある読者から、「内容が優等生的すぎて、寂しすぎます」というコメントが来ました。

後からのお断りになりますが、その記事は、実は、一般の読者に向けたのではなく、ある限られた目的のためだけに書いたものです。(そこで表現がかなり厳しくなったかも知れません。ごめんなさい。)

ちなみに、家庭という点について言うならば、私は完全な落第生です。本来、誰に向かって、何のお説教もできる筋合いにはないほどです。私がどれほどに落第生であったのかは、過去の記事につらつらと書き連ねておりますので、どうぞそちらをご参照ください。

もしも主の憐れみがなければ、そして、エクレシアを通して、ふさわしい御言葉が与えられなかったならば、私の家にも、私にも、どんな解決もありえなかったでしょう。恐らく、私は立ち直れなかったであろうと思います。

しかし、御言葉が私を死から生へと移し、主イエスの復活の命が、私の信仰を通して働き、我が家を建て直しました。私はそのことの証人です。

ある人々は、きっと今も治しようのない家庭の問題を抱えて悩んでいることでしょう。それが治しようのないものであることを否定しません。そのために流された涙も否定しません。

しかし、家庭の問題については、人知で考えてどれほど絶望であっても、主がそこに解決として来て下さると、どうか信じて下さい。「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」(ローマ5:20)とある通り、私たちが絶望的な問題にひしがれている時こそ、十字架は、私たちのとてもそば近くにあるのです。

医者から見離された長血の女が、イエス様のもとに駆けつけたように、家庭の問題に苦しむ人々も、今日も生きておられる主イエス様の許に、主によって永遠に 達成された十字架の許に、駆けつけることができます。そこに希望を見出すか、それとも、「何だまた聖書を持ち出して、正論をお説教するのか」と思って、立 ち去るかどうかは、個人の自由ですが…。

家庭の問題に苦しんでいる人たちは、心理学がどれほど絶望を宣言していたとしても、希望を捨てないで下さい。キリストの十字架だけが、あらゆる関係を正常 化することができます。主イエスと共なる十字架の死が働くところには、主イエスの復活の命も働きます。この御子の復活の命は、死をも打ち破った命なので す。どうか御言葉を求めて下さい、そして、与えられた御言葉を宣言して下さい。そうすれば、御言葉が実際となるでしょう。悲しむ者が慰めを得て、苦しみに ある人々に解決と、安らぎが与えられますように。

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 」(ローマ6:6)

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 」(Ⅱコリント5:17)

「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。 」(ガラテヤ6:14)


「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。 」(コロサイ3:3)

結婚を尊ぶ

クリスチャンが陥りやすい危険性は、御言葉を自分勝手に利用すること、御霊の導きから離れて、自分の思いに従って、御言葉を用い、自分の肉の欲望を正当化したり、自分の立場を有利にするために御言葉を用いることです。肉の行いを十字架で死に渡すために御言葉に立つのでなく、かえって、肉の行いの忌まわしさを 覆い隠し、悔い改めを拒んで自己義認し、肉を増長させるめに、御言葉を利用するという誘惑が、クリスチャンには往々にしてやって来るのです。

神は時にかなって、今までに罪と意識しなかったことを、改めて私たちに罪と気づくように仕向けることがあります。そのために、兄弟姉妹の口を通して、主が警告を送られることがあります。そのことは聖書が禁じていることではありません。

「実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。 」(エペソ5:11)
「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、だれかが彼を引きもどすなら、かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。」(ヤコブ5:19-20)


時には、私たち自身が警告を受けることがあります。その時は、用心深くなり、光なるお方の御前に進み出て、自分のうちに傷ついた道がないかどうか、調べて いただきましょう。愚かな失敗に落ち込んで、多くの人をつまずかせ、全被造物の前に恥をさらけ出す前に、神が私たちに何を教えておられるのか、聞く耳を持 つ者は幸いです。

私たちは皆、罪人であり、主によって取り扱われるべき弱さを沢山持っています。なのに、自己義認の思いで、心を頑なにし、へりくだりと柔軟さを失い、御霊 が送られた忠告や、叱責さえも、受け入れなくなって、自分は義とされ、聖とされたのだから、もはや何も改めるべき点などなく、人から罪定めされるいわれは 一切ないと思い込み、兄弟姉妹をつまずかせるような不義なる生活を、平気で正当化し、続けるようになってはなりません。

キリストは罪のない方でありましたが、罪とされて、あらゆる非難を身に負われました。まして、罪ある者である私たちは、兄弟姉妹から忠告を受けるとき、心 を頑なにし、それを全てサタンからのいわれのない叱責として退けるようであってはなりません。主の愛は、常に懲らしめを伴う愛であり、私たちを訓練されま す。

主は私たちを兄弟姉妹との交わりを通しても、訓練されます。ある人が、兄弟姉妹からの忠告に対して柔軟な態度を取れるかどうか、それとも、耳の痛い忠告は 全てサタンからの中傷と決めつけて退けてしまうのかどうかは、彼が本当に、主のへりくだりに立って生きているのかどうかを世に示す一つの重要な試金石でも あります。

私たちは、確かに子羊の贖いの血潮によって清められ、義とされましたが、罪の赦しは、人に自動的に与えられるものではありません。罪の赦しを受けるために は、私たちは神に対して、自分の犯した罪、過ちを正直に告白した上で、何よりも、罪なる生活を離れなければなりません。私たちは、自分の生活における不義 を他人から指摘されるとき、鋭敏な良心の感覚を持って応対すべきです。

私たちの心は依然として罪を慕うかも知れませんが、涙を流し、自分を打ちたたいてでも、つまずきを与える不義なる生活から離れる力を、主に向かって全力で 願い求めるべきです。そうすれば、主は必ず、キリスト・イエスの十字架の解放の力が、すでに私たちのものになっていることを、ある時点で、はっきりと見さ せて下さり、それによって、私たちが今まではどうやっても逃れることのできなかった罪の誘惑に対して、完全に死んだ者として下さいます。

「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」(ガラテヤ5:24)

私たちが心から罪を憎み、罪なる生活から離れたいと願い求めさえするならば、主はキリストの十字架を私たちに適用して下さり、私たちを罪から具体的に実際的に解放し、肉の情と欲に対して死んだ者とし、私たちを自由にして下さいます。

しかし、そのためには、私たちが今まで自分を甘やかし、他人のつまずきの源となって来た生活を手放す決意をしなければなりません。もしも罪を告白したと言 いながら、ある人が不義なる生活を一向に改めずに続け、さらに、その行いによって多くの兄弟姉妹をつまずかせ、悪しき模範となるならば、その人の内に悔い 改めはなく、神の義はありません。罪なる生活を続けながら、私たちはキリストと共に生きることはできませんし、サタンに勝利した、サタンを足の下に踏みし だいたと言うこともできません。

話が変わるようですが、教会を判断する際に、信徒は何を基準に判断すれば良いでしょうか? 色々な判断基準がありますが、最も聖書に合致しているのは、行 いの結ぶ実を見て判断することです。その実の中に、挙げられるものは色々あるでしょうが、私のこれまでの経験から、的確な判断基準として勧められるもの は、特に教える者たち、そして信徒の家庭生活が健全であるかどうか、彼らの家庭が偽りなく幸福であり、調和があるかどうかを見るという基準です。

もしかしたら、ある交わりでは奇跡が起こり、癒しが起こり、主の御力の大胆な現れがあるかも知れません。救われる人が増え、教えは素晴らしく、霊的で、深 みがあり、急成長を遂げているかも知れません。しかし、もしも信徒の家庭生活が正常でないならば、その教会は、その交わりは、何かが変なのです。異常化し た教会では、ほとんどの場合、信徒が自分の家庭を徹底的に犠牲にして奉仕にいそしんでいます。信徒は自分は正しい義務を遂行しているという間違ったおごり によって盲目となり、家庭に残される配偶者、子供たちがどんなにつらく寂しい思いをしているかに気づけなくなっています。しかし、もしも信徒の家庭が健や かでないならば、やがて、その悪しき実はもっと大きな形で教会に現れるでしょう。

「すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は、不品行な者や姦淫をする者をさばかれる。 」(ヘブル13:4)
「妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。」(Ⅰペテロ3:1-2)
「…彼女たちは、若い女たちに、夫を愛し、子供を愛し、慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順であるように教えることになり、したがって、神の言葉がそしりを受けないようになるであろう。」(テトス2:4)

「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、およ び、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。」(ガラテヤ 5:19-21)


家庭の問題を抱える人々には、いつも、それなりの言い分があります。その問題がどれほど解決困難であるか、理由を並べるならば、終わりなく 並べられるでしょう。しかし、私たちが自分の家庭を分裂状態の中に放置したままで、御国のために有用な働き人となるのが不可能であることは、言うまでもあ りません。

たとえ家庭の問題がどれほど深く、解決困難に見えても、私たちクリスチャンは、自分の弱さを憐れんで涙を流したり、敵対や分裂という罪を大目に見て、どこ かに逃避の場を探すよりも前に、御言葉に従うべきであり、自分の問題を主の御前に持って行くべきです。主の御前に真に助けを必要とする病人として進み出る ならば、憐みを受けるでしょう。キリスト・イエスの十字架は、心理学の領域が完全に匙を投げるような、深刻な家庭の問題であっても、その背後にある全ての 罪を根こそぎ取り扱うことができます。

もう一度言いますが、クリスチャンは、自分の家庭においても、他人の家庭に対しても、健全で模範的なあり方を必ず保つことができます。家庭を悪しきものに歪める全ての罪の力を、主が十字架で打ち破って下さったことを、私たちは信じましょう。

「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)

私たちは家庭が困難な状態にある時にも、決して、御言葉を誤った方法で用いて、家庭を見捨てる者、夫婦や親としての義務をおろそかにする者、あるいは、他 人の家庭の破壊者、強奪者のように振舞ってはいけません。私たちは結婚を重んじ、家庭を重んじるべきです。教会を口実にして、夫婦や、親としての義務から 逃避すべきではありません。もしも、私たちが誰か配偶者につながれているならば、それがたとえキリストにない人であり、私たちを苦しめる人であっても、地 上の誰にも勝って、私たちがその人を愛し、その人のために最善を尽くしていることが、傍目にもはっきりと分かるように振舞いましょう。信仰を持たない配偶 者だからと言って、彼らを置き去りにして、奉仕を第一優先すべきではありませんし、まして、他の兄弟姉妹を、家庭での苦しみから逃れるための逃避の場にし てはなりません。もしも私たちが教える者であるならば、なおさらのこと、私たちは結婚について、夫婦のあり方について、献身的な愛によって聖徒に模範を示 すべきです。そうでなければ、神の言葉がそしられる隙を、自ら作ってしまっていることになります。

もしも私たちの愛する兄弟姉妹が、配偶者につながれているならば、その配偶者がたとえキリストにない人であっても、私たちは、その配偶者の面目を公衆の面 前で失わせるような振る舞いをしてはなりません。もしも結婚が有効であるならば、それがどんな問題に満ちているものであっても、私たちはあらゆる結婚を尊 ぶべきです。キリストを信じていない、問題だらけの夫や妻であっても、彼らを兄弟姉妹の間で侮辱してはいけません(そんなことを続けるなら、どうしてその 人がキリスト者になりたいと願うでしょうか?) 私たちは身近な兄弟姉妹と、彼らが配偶者や、家庭で過ごす時間を犠牲にさせてまで、交わりを持とうとすべ きではありません。私たちは家庭での権威には従うべきです。なぜなら、夫と妻とは、キリストと教会の型だからです。たとえキリスト者でない家族であって も、夫の権威をないがしろにしてはなりません。同様のことが、父と子の関係にも言えます。

私たちはどんな問題があろうとも、御言葉を自分に都合よく利用して、家庭での義務から逃げないようにしましょう。どんなに兄弟姉妹を愛し、彼らの直面する 困難に同情したとしても、私たちは他人の結婚や家庭の秩序をないがしろにするような行動を取ってまで、彼らの助けになろうと考えてはなりません。その問題 を解決できるお方はただ主だけなのです。私たちが救済者になろうとするのではなく、信徒が自ら十字架へ向かうように促すべきです。

これが、ある人々にとってどれほど困難な要求であるかは分かっています。しかし、私たちの命はすでに失われて、神の内に隠されているのです。自分を下ろ し、自分の願いを手放して、ただ主の死の中にとどまりましょう。キリスト者が、夫や妻に示す従順、献身、忍耐は、神に不従順な夫や妻の心でさえ、動かすこ とができると、御言葉が私たちに教えてくれているのです。ですから、私たちはそれを信じ、それぞれ配偶者に忠誠を尽くすのみです。たとえ肉によっては仕え ることが困難な家族であっても、家庭を健やかに守る力は、主が御霊によって、必ず、私たちに下さいます。

神が十字架を実際にもたらして下さるならば、私たちの家庭にある全ての隔ての敵意、中垣は取り払われます。夫と妻は心から和解し、父と子も和解します。互 いに訴えあって来た債務証書も無効にされます。しかしながら、それが実現するためには、まず私たち自身が敵意を捨てて、心から、家庭を侮って来た罪を悔い 改め、家族との和解を願わなければなりません。多くの人たちは、自己憐憫を維持することの方を優先して、自分を義としたがいために、悔い改めを拒み、家族 との和解を願わず、むしろ、いつまでも敵対と反目の中に住み続けることを自分に許してしまうのです。だから、十字架が実際となるチャンスがないのです。

しかし、私たちが自分の人生そのものを十字架の死に渡して、自分の義を最後まで手放し、主の義に自分を明け渡して、御言葉を実践して生きようと願うなら、 主は必ず、和解の十字架を実際として下さり、私たちの行くところ全ての道を守り、私たちの家庭をも守って下さるでしょう。

私たちはキリストにあって和解を勧める大使として立っています(Ⅱコリント5:20)、 にもかかわらず、その私たちが、自分や他人の家庭を軽んじ、家庭の分裂や反目を助長する者になってはなりません。肉によって歩む者は、神の国に入ることは できないのです。神の国にふさわしい子供たちとして、私たちは、不品行、好色、妬み、分裂、等々を遠ざけ、敵意と悪意と反目を捨てて、家庭の平和、結婚を 重んじましょう。私たちは弱い者ですが、光の子らしく振る舞うことを、主が私たちに可能として下さいますように。

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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