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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

私は主によって楽しむ――自分の宝は、天にたくわえなさい。――

「あなたはもう、『見捨てられている。』と言われず、
 あなたの国はもう、『荒れ果てている。』とは言われない。
 かえって、あなたは
 『私の喜びは、彼女にある。』と呼ばれ、
 あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。
 主の喜びがあなたにあり、
 あなたの国が夫を得るからである。」(イザヤ62:4)

 
結婚して家庭生活を送る信者にとっては、この記事は、かなり不本意な内容かも知れない。

多くの信者たちが、筆者の前で自分の夫や子供たちや家庭生活を高らかに誇った。中には、筆者のみならず、独身で一人で生きる人間全般を不憫がったり、嘲笑するような人たちもいた。

家庭を構え、子孫を残すのも、確かに人の生き様の一つだろうとは思う。
しかし、既婚者の信者たちの生き様を見るにつけても、筆者はそれを手本のようにして習おうと思う動機を見いだせなかった。

配偶者に仕えて生きることが無駄だと言うわけではないが、それでもパウロが、もし人が独身でいられるならば、その方が良いと教えている意味が、筆者には分かるような気がする。もし人に捧げる時間を、神に捧げ尽くすことが可能ならば、その方が信仰者の生き方としては、より本分を全うできると思われてならない。

しかも、そう考えるのは、伴侶を持つことの素晴らしさを語る人たちをじっくり観察すると、うわべは幸福そうに見えても、常にどこかしら不自然で、心の中に言葉にならない不満を抱えているように見えてならなかったせいでもある。

むろん、一人で生きることにはそれなりの苦労がある。三つよりの糸は切れないというように、人間が支え合うことで楽になれる部分も当然ながらあるだろう。だが、家庭を持ち、伴侶に仕えて生きることには、そういった側面以上に、一人で生きる何倍もの苦労、何倍もの忍耐が要求されるように思われてならない。そして、それらの忍耐や苦労は、必ずしも、人が生きて誰しも経験しなければならないものばかりでなく、その中には、通過しなくても良い苦しみも含まれているのではないかと筆者は思うのだ。

筆者が不公平に悲観的すぎる例ばかり挙げているとお叱りを受けそうだが、実際にはそんな理由でこの記事を書いているわけではない。筆者は信者の夫婦を見る時に、彼らの間に、年々深まって行く愛を感じることは稀であった。大体、信者の夫婦を揃って目にすること自体が稀であったが(多くの場合、どちらかが救われていなかったからである)、たとえ、夫婦ともどもに信者である光景を目にしたとしても、そこに真に注目に値する愛を見ることは稀であった。

たとえば、人格的な魅力の全く感じられない不誠実な人間から、自分たちの夫婦仲はとても良いのだと聞かされても、説得力がない。そればかりか、その人の子供たちが、信仰を持つこともなく、断絶状態のように、親から遠ざかっている様子を見れば、なおさら不信感しか生まれるものはなかった。

そのような荒廃状態にある家庭を指して、自分の「家庭的幸福」や「夫婦の愛」を誇る信者に、耳を傾ける意味がないのは言うまでもないが、多くの人々の語る「家庭生活の幸福」は、たとえそこまで行かずとも、筆者の目には、何かがおかしく、都合の悪い事実をすべて闇に葬った上で作り上げられた幻想なのだと思わずにいられないのである。

おかしなことに、筆者の目には、信者の家庭よりも、不信者の家庭の方がはるかに健全にバランスが取れているように見えることがよくあった。

また、筆者がこれまで年配の女性信者たちから一様に聞かされたのは、配偶者である夫への怒りや不満や憎しみをどうやって乗り越えて生きて来たか、という信仰の証であった。

それは一応、信仰の証という形を取ってはいたが、どれもこれも、判で押したようによく似た内容であった。仕事に没入して家庭をかえりみず、自己中心で暴君的な夫に、信者である妻はどれほどの憤りを耐えつつ、孤独な家庭生活を送り、夫への怒りや憎しみを手放すために、神の御前で悶え苦しみ、祈り続けて来たか、という内容であった。

それは一応、過去の話として語られていたが、実のところ、バトルはまだ終わってはいないのではないか、という印象が筆者にはどうにもしてならなかった。
 
筆者の目から見ると、こうした問題は、ただ単に、筆者が出会った女性信者たちが、たまたま、みな似たようなタイプだったことから来るものではなく、それは、我が国の女性たちの置かれている一般的な低い立場から生じている問題でもあり、さらに、我が国の行き過ぎて非人間的な労働システムがもたらした弊害でもあると思わずにいられない。

団塊の世代とそれより少し上の世代の女性たちの生き様には、おそらく、一定のモデルが存在するのだろう。彼女たちの多くは、若い時分に恋愛を経て結婚したとしても、人生の夢を共に思い描き、分かち合ったパートナーが、夫になったとたんに、妻よりも一段上に立って、自分を使用人同然に顎で使い、居丈高に自由を奪う姿を見せられて、いたく幻滅を味わった。さらに、社会における男女の不平等がそれに追い打ちをかけ、夫は会社人間となって家庭を置き去りに、家の外でキャリアを積んで出世して行く一方、(不信者の夫の場合、ひどいケースでは浮気に明け暮れて家を空ける者もいる一方で)、妻は一人取り残されるようにして家庭に引きこもり、子育てに専念せねばならなかった。

こうした世代に属する女性たちは、結婚と同時に、夫を会社に奪われてしまったような有様で、学生時代を終えると、夫とは心の歩みをもう共にすることができなくなっていた。そして、まるで母子家庭のように、子供たちと一緒に家庭に置き去りにされて、生きて来たのである。幼い子供を抱え、あるいは親の介護のために、社会に出て働くこともできず、限定された狭い人間関係の他は、社会から半ば切り離されたように、孤独な生活を送った。
 
筆者は、この時代の夫族は、いわば、重婚の状態にあったのだと考えている。つまり、夫らは、妻をめとると同時に、会社とも結婚の関係にあって、二重生活を送っていたも同然であった。

だが、相手が会社では、妻も、文句は言えない。そのようにして会社(夫を雇用している組織や団体が)が、妻以上に、夫の「真の結婚相手」として、さらには、夫以上の「主人」として家庭に君臨し、夫婦の家庭生活を奪い、夫のプライドを打ち砕いた。精神的に会社の奴隷とされて心を傷つけられた夫は、妻を自分よりも下に見ることによってしか、鬱憤を晴らせなかった。こうして、夫も妻も、歪んだ労働システムの犠牲者とされた。これが我が国の「精神的な父不在の母子家庭」のモデルの成立の原因である。

筆者の推測では、日本のほとんどの家庭は、たとえ父がおり、夫がいても、精神的には「母子家庭」同然である。それは日本人の男性が、組織や団体に魂を絡め取られ、精神的に奴隷とされて自負心を打ち砕かれ、家庭において真に健全な主人であることができないために起きている現象である。健全な家庭生活、人間生活のためには、まず夫たちが真にプライドを取り戻し、精神的に奴隷ではなく自由であることがどうしても必要なのだが、この歪んだ労働システムの中でそれを願うことは難しい。

そうしてできた「母子家庭」の孤独に耐えられなくなった妻たちが、家庭をかえりみない夫への憤りや悲しみから、自分も「重婚」しようと、宗教に入信して行くというのは、全く珍しくないケースである。

今日でも、多くの働く夫や妻が、会社と「結婚」している。独身の男女であっても、精神的に会社に身を捧げている。そんな状態では、およそ正常な家庭生活など成り立つはずがないと筆者は思うのだが、多くの人々は、社会の構造的な歪みには気づくことなく、ただ家庭内バトルに明け暮れ、配偶者に対する憤りや憎しみを持て余している。

しかしながら、構造的な問題を脇に置いても、筆者は、配偶者に仕えて生きることが、並大抵の苦労ではない、と思わざるを得ない。それはただ並大抵でないだけでなく、どこかしら不自然かつ無理な部分があるように思われてならないのだ。

人には、真に自分を捨てて他者に仕えて生きるということは、多分、できない相談なのではないか。そのような自己犠牲的な愛は、神にはあっても、生まれながらの人間には備わっていないからだ。

多くの人たちが結婚するのは、伴侶のためではなく、ただ自分のためである。自分が満たされたいばかりに、自分にとって可能な限り、有利な条件を揃えている伴侶を探し出して来るのである。だが、共同生活は、利己主義だけでは成り立たず、他者のために生きることが、どうしても必要になる。それでも、この社会においては、妻の側に求められる自己犠牲の方が、夫に求められるよりはるかに大きく、そのために、多くの女性たちが報われないつらい努力を強いられている。

女性たちは、妻として夫に仕えて生きようと心がける一方で、一体、どこまで夫のために自分自身を犠牲にしなければならないのか、自分のことは誰がかえりみてくれるのかというやるせなさと不満が年々、心にたまって行くことになる。特に、有能で、活発で、結婚前には自分なりの生き方や、夢を持っていたような女性であれば、家庭にのみ引きこもって子育てや介護に専念して生きること自体が、耐えられない孤独のように感じられることだろう。こうした問題は、たとえ妻が家の外に出て働いてもついて回ることになる。

夫の自己実現の夢については、会社が心配してくれるかも知れないが、妻たちの自己実現の夢については、誰一人、振り返る者もない。だが、たとえ心が満たされておらず、孤独であっても、夫が全く家をかえりみなくとも、子供がいれば、彼女たちは母として子供のために愛を注ぎだし、世話をしなければならない。
 
そのような生活におけるやり場のない孤独から、多くの妻たちが家庭の孤独からの逃避と救いを求めて宗教に入信し、あるいはクリスチャンとなって、夫をも回心させようと熱心になるのだが、彼女たちの入信の動機の根底には、仕事に魂を奪われた夫に対する対抗意識が潜んでおり、そうである限り、それが真に純粋な信仰へと結びついて行くことは難しいように、筆者には感じられてならない。
 
入信した妻たちは、企業における立身出世をよすがに生きる夫の生き様を「この世的な成功」として否定した上で、自分は、それにまさる魂の救いを得て、夫に先んじて、人間的な完成に近づいたのだという自負を持つことができるようになる。彼女たちは、この世におけるキャリアをほぼ否定されて、社会において自己実現の道をほぼ閉ざされていればこそ、目に見えない信仰の世界において、「神」から見えない承認を得て、見えないキャリアを築き上げたいと願い、宗教活動にいそしむことになる。

入信した妻たちは、夫の精神的な未熟さや高慢さや横暴な性格、相互理解の欠落という現実を見ても、これに新たな「信仰的な」理由づけを見いだして、自己安堵することができるようになる。すなわち、「夫はまだ救われていないから、こんなにも人間的に未熟なだけなのだ。神を知らない罪深い人間だから、こんなにも粗暴で、私を振り返ってくれないだけなのだ。もし夫も神を信じてくれたら、すべては変わるだろう。それまで待って、祈り続けなければならない」と考え、夫の無知を哀れみながら、自分は彼の欠点を優しくかばい、夫の救いを祈りながら待ち続ける善良な妻であると考えることによって、報われない立場から来る悲しみや憤りをやわらげ、自己を慰め、夫婦の間に積みあがった軋轢をも、何とか飲み下すように乗り越えようとする。

そして、夫が定年退職すれば、待ってましたとばかりに、信仰の世界に夫を引き込み、夫を回心させることに成功すれば、夫婦ともどもすっかり宗教団体を舞台として生きて行くことになる。

だが、妻たちの信仰が、心の根底で、夫とこの世的な成功に対する対抗意識に裏打ちされている限り、彼女たちの入信結果も、何かしら歪んだものとならざるを得ない。最も幸いなケースであれば、入信した宗教団体にそのうち何らかの問題があることが発覚して、エクソダス・・・といった過程を辿るであろうが、最も不幸なケースでは、夫が会社に身も心も奪われて働いたのと同様に、妻たちも宗教団体のためにすべてを捧げ尽くすことになる。場合によっては、退職後の夫もそこに巻き込まれ、夫婦ともどもに、(時には子供を完全に置き去りにするか、犠牲にし、あるいは子供と断絶して)、宗教団体の活動に没入する結果になる。

こうしたケースに当てはまる信者たちが、どんなに家庭を持つことの幸いを筆者の目の前で語っても、筆者には、それはどこかしら不自然で、嘘っぽい、片面だけの真実であるように映ってならなかった。

たとえば、老年になって、頼りない宗教指導者に熱中し、まるでファンクラブのような取り巻きのサークルを作り上げて、指導者の一挙手一投足に一喜一憂させられながら、その後ろ姿を追いかけ、互いに妬み合って足を引っ張り合ったり、あるいは孫が生まれたなどと幸福の自慢をし合っている信者たちの会話を聞いても、一体、これが本当に幸福なのだろうかという疑問以外に、筆者の心に生じるものはなかった。

仮に妻たちが夫を宗教団体に引き込むことに成功したとしても、結局、そこでは再び、夫たちだけが講壇に立って、妻たちの上に立ってメッセージを語るようになる。そうこうしているうちに、夫たちは宗教団体でも長老然、教師然として、次第に偉そうな様子になって行く。他方、妻たちは家庭集会のための準備や料理作りに明け暮れ、夫族はそれに指一本協力せずにふんぞり返って談笑している光景を見せられることになる。そんな風に、まるでどこかで見た風景が目の前に広がっていても、それでも信者たちは、この光景をおかしいと思わないのであろうか?

結局、宗教団体に逃避しても、そこでも、この世と同じ男尊女卑が待ち構えており、結局、男たちだけが栄光ある仕事に就き、婦人たちは沈黙に追い込まれ、報われない仕事に従事しているという序列は変わらない。そのような光景が、彼女たちの望みだったのだろうか・・・? 家庭で隅に追いやられ、その孤独を癒すために入信した宗教団体でも隅に追いやられ、沈黙させられ、訓示のように夫たちの演説を上から聞かされるためだけに、彼女たちはそこに入信したのであろうか・・・?
 
だが、彼女たちは、一生懸命に、その現実のむなしさを見まいと、自分に言い聞かせている。それを見るにつけても、多分、彼女たちは、ずっと人生で見るべき問題から目を背け、自分の心の不満を絶え間なく何か別のもので解消しようと現実逃避を続けて来たのだろうという疑いが、筆者の心に生じて仕方がなかった。

彼女たちは、何かをどこかですっかり諦めてしまったのである。家庭生活とは、もともと耐え忍ぶものだと、信仰生活も、耐え忍ぶものだと、社会人として生きることも、耐え忍ぶことだと。そうしてやるせなさを押し殺し、心の悲しみを押し殺し、自分はひたすら耐え忍んで、自分自身の好みや願望を滅却し、自分よりも強い者に奉仕するのが、生きる道だと、どこかで思い込んでしまったのである・・・。

だが、本当にそうあるべきなのだろうか、と筆者は疑問に思わずにいられない。女性が、そんな風に生きることが、神の御心なのだろうか。そんな生き様に何の自由があると言えるだろうか。しかし、妻族には、そのような疑問は、決して投げかけても理解してもらうことは難しいだろう。彼女たちは、すでにヒエラルキーの一部に取り込まれてしまっているからである。

そうなのだ、それは夫婦というよりも、家庭内の序列であり、ヒエラルキーである。社会における男女の差別的なヒエラルキーが、形を変えて家庭に持ち込まれただけのものになってしまっており、本当の意味での男女の健全かつ望ましいパートナーシップからは、あまりにもほど遠いものである。そのようなものは、この世代の夫婦に見ることは極めて難しい。
 
今は時代が変わって、共働きの家庭が多くなり、独身男女も、既婚男女も、企業との「結婚」によって職場に魂を奪われて生きている。だが、企業人のみならず、自分の魂を常に何物かに質に取られたように奪われて、片時も自分自身として生きられず、常に自分よりも強い他者の利益の道具となって生きているだけの人々が、この国の過半数以上を占めるのではないかという気がしてならない。

我が国には、物心ついた時から、人を組織や団体にからめ取り、人に決して物を考えさせず、自分自身として生きさせないようなシステムがあって、この国に生まれた人間には、子供の頃から、自己否定の精神が教え込まれる。子供たちは早くから、「今のままの自分でいてはいけない」というプレッシャーを強く心に刷り込まれる。学校では「もっと成績を上げろ」と尻を叩かれ、幼いうちから、ヒエラルキーの階段を上るために絶えず努力していなければ、自己価値を喪失するかのような恐怖に追い立てられている。

それはあたかも、自分という恐ろしい負の重荷から逃避するために、ずっと逃走を続けている人生のようなもので、あまりにも大勢の人々が、人の目にかなう自分、もっと高く評価される自分を作り上げるために、悲痛なまでの努力を重ね、そのように努力することをやめた自分は、まるで無価値であって生きるに値しないのだと思い込まされている。

何もしない自分、何もできない自分は、誰からも愛されるに値せず、評価されるにも値しないという恐怖から、そのような自分から逃れるために、人からの承認や評価を求めて、絶え間ない努力を続けるのである。そうこうしているうちに、外側からの人の評価と、自分自身を切り離して捉えることができなくなって、他者の承認を失った自分というものは、考えるだに恐しい空虚な存在だとみなすようになる。だから、自分には価値があり、受け入れられているのだということを絶えず確認して自己安堵するために、ひっきりなしに自分を評価してくれる相手を求め、あるいは何かの団体活動に没頭することによって、自己の抱える存在不安から目をそらさずにいられないのである。

こうして、自分自身に健全で揺るぎない普遍的な価値を全く見いだせないまま、存在不安に悩まされている人間が、その不安をごまかすために、他者を愛し、他者に仕えるという生き方を選び取り、あるいは宗教に入信して神に仕える道を選び取ることがありうる(そういうケースでは、神に仕えると言いながら、結局は、人間の指導者に仕えることになる)。
 
そうした人々は、たとえば、「わがままで頑固で利己的な夫を健気に愛し、赦し、仕えている自分」という自己イメージを作ってそれに耽溺することで、自分の心が真に抱える孤独や空洞から目を背けようとしたり、「次々と大病に見舞われるなかで、健気に神を見上げ、希望を捨てずに信仰生活を送っている涙ぐましい立派な信者の自分」という自己像を作り上げてそれに陶酔することで、自分の心の存在不安から目を背けたりする。
 
そのようなケースでは、現実は、彼ら自身が作り上げたイメージほど美しいものではない。現実には、まるでDV夫から離れられない妻のように、自分自身の心の弱さや欠点を覆い隠し、自己を美化するために、問題と手を切れないでいるだけの場合も多く見られる(問題が大きければ大きいほど、それと闘う人間は自己を美化できるためだ)。

その人が一過性の問題に苦しめられているのでなく、いついつまでもずっと同じ問題の中を進歩なく巡り続けているのであれば、その生活は、本人が自ら選び取っているのだと考えて差し支えない。そこで作り出されている「健気に耐える人」のイメージは、その人の抱えるもっと深刻な問題(たとえば存在不安)を覆い隠すためにこそ演出されているのである。
 
以上のようなことは、人が自己の存在不安から目をそらすために、あるいは自分自身と向き合うことを避けるために、結婚生活を逃げ場にしたり、宗教を逃げ場にして起きていることであって、まるで自作自演劇のように、嘘に等しいごまかしなのだと思わずにいられないのだが、仮にそれを告げてみたところで、人々は憤慨するだけで、筆者の言わんとしていることを理解し、納得してくれることは決してないだろうと思う。

だから、筆者はあえて彼らの誇る「幸福」や「良心的な奉仕」に面と向かって水を差すようなことはしない。が、たとえ口にせずとも、あまりにも芝居じみた作り事には、何の価値も見いだすこともできず、まして自分もそれに習おうなどとは全く思えないのである。

こうしたケースで、何が筆者にとって最も深刻な問題と映るかと言えば、以上のような人々が絶えず誇っているのが、自己の「役割」だという点である。自分がどれほど他者に対して立派に役割を果たし、模範的な忍耐の人となっているか、それが彼らの誇りなのである。

こうした驕り(なぜなら、それは真の忍耐や努力ではなく、自分を美しく見せるための演出に過ぎないからだ)に対しては、筆者はただこう述べるだけだ、

「一度、あなたの周りからすべての人間を排除してご覧なさい。そして、あなた以外の誰とも一切関係ないところで、あなた自身には、一体、どういう人間で、どういう価値があるのか、考えてご覧なさい。母としてでもなければ、妻としてでもなく、企業の人間としてでもなく、誰かの友人や知人としてでもなく、誰とも関係ないところで、あなたは、あなた自身をどうとらえ、どう評価するのか、考えて、答えてみて下さい。」

一度、どれくらいの人々が、家庭や社会での役割を離れたところで、自分を客観的に把握し、しかも、把握した自分に満足していられるだろうか?

むしろ、役割を離れたところでの自分というものが、ほとんど存在しないか、そんなものは見るのも恐ろしいと思って目を背けているからこそ、こうした人々は、絶えず周りの人々との関係性を模索し(しかも多くの場合、かなり問題のはらんだ関係性にしがみつく)、問題の大きさを利用して自己を美化しながら、自分がそこで果たしている役割を人前で誇り続けているのではないだろうか?

そういう人たちは、人との関係性が絶えて、コミュニティから切り離され、人からの承認が受けられなくなると、自己の価値が全く見失われたような恐怖に突き落とされる。だからこそ、絶えず人間関係にすがり、絶え間なく何かの活動に従事し、絶えず問題の渦中にいて注目の的となり、人の目の中に自分の「居場所」を見つけようと追求しているのではないか? 

筆者は、そのようなものが、人間の真の「幸福」だとはどうしても思えないのである。

人間の幸福とは、そもそも環境条件によって定義されるものではない。たとえ問題らしき問題が何もなかったとしても、伴侶があるから、とか、財産があるから、とか、子供があるから、とか、そういう条件によって変わり得るような「幸福」は、そもそも幸福と呼ぶにも値しないと筆者は確信する。

人間の幸福とは、環境条件によって定義され、それによって変動するような脆いものではなく、環境条件がいかにあろうとも、それと関わりなく、人の心の内側から沸き起こって来るものでなければならない。そのような揺るぎない幸福を内に持っておらず、ただ環境に依存して生き、環境が与えてくれる安定性や満足を誇っているだけであれば、その人は環境が変われば不幸のどん底に突き落とされるだけであり、確かな幸福を決して人生で打ち立てることはできないであろう。

この地上にあるものはみなすべて過ぎ去るものである。今日はあっても、明日にはもうないかも知れない。仮に地上的な豊かさをどれほど手に入れたとしても、そのようなものを幸福とし、よすがとして生きることの何とむなしいことか。

たとえ目に見える人間をどれほど愛し、どんなに愛されたとしても(むろん、それも人間の不完全な愛によってのことであるが)、人の心は移ろいゆき、その存在も移ろいゆき、いずれ別離がやって来て、愛することによって得られる満足などは、束の間のうちに消え去ってしまう。

たとえ自分の子供のためにどれほど心血を注いでも、その子供も、場合によっては自分よりも先に死んだり、思いもかけない騒乱に巻き込まれたり、好ましくない伴侶と人生を共にしたりして、全く手の届かないところに去ってしまうかも知れない。あるいは、反逆的な大人に成長する可能性もある。

どんなに他者を生き甲斐としてみても、誰も自分以外の人間の魂を管理することはできないのだ。

だから、人が真に幸福になりたければ、地上の目に見えるものに一切、価値を置かず、決して奪われることのない確かなところに、自己の価値を置くしかない。

それが天である。天に、朽ちず、錆びず、盗人が来て盗まれることもない宝を蓄えなさい、と聖書にある。

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19-21)

筆者は、永遠に変わることのない、人間にとってのまことの伴侶なるキリストただお一人だけに、自分の価値というものをすべて預けるのが最も良いのではないかと思っている。

不完全なものに身を捧げて生きるより、完全なものを追い求めて生きる方が安全ではないだろうか?

キリストこそ確かなお方であり、すべてのすべてである。

それに比べれば、筆者自身の存在さえも、影のようなものに過ぎない。

影である筆者は、影だけで生き続けるのではなく、本体の中に隠されて生きる道を選ぶ。

筆者は今、天への引っ越し作業を進めているところだ。自分の心の宝の全てを、目に見える地上から、見えない天へと移し替えているのだ。

これまでにも、筆者がこのブログ記事で幾度も、「飲んだり、食べたり、娶ったり、嫁いだり」することがみな地上的な事柄だと強調したので、すでにそうした強調にうんざりしている人もあるかも知れない。その人たちには悪いが、もう一度、次の御言葉を引用しておきたい。

「人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
人の子の現れる日にも、全くそのとおりです。」(ルカ17:26-30)

人が自分の地上での幸福な生活を誇りたいならば、好きなようにしていただいて結構であるが、本質的に重要な事柄から、筆者は絶対に目をそらしたくないと思っているのだ。
 
キリスト以外のものを誇りとし、よすがとして生きている人々の台詞に、筆者は十分な理解と頷きを与えるつもりは全くない。そういうものはみな移ろいゆく影でしかなく、本質的な重要性を持たないからだ。

信者には、地上で栄誉を受けてしまえば、天で受ける栄誉がなくなってしまう。筆者は、人の目に栄誉を受けたいのではなく、神の目に栄誉を受けたいのである。だから、地上での有様がどうであるかには頓着するつもりはなく、それを誇るつもりもない。むしろ、誰からも奪われることのない安全な場所に、自分の心と宝を避難させて、神以外のものが栄光を受ける余地をとことんなくしているのである。
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真珠と羊(2)

「見よ。私は戸の外に立ってたたく」(黙示録3:20)

御子は、神の御言葉が生きた命となって、肉体となって、この地上に来られた存在であった。神ご自身が、へりくだって、その威厳とうるわしさを捨ててまで、 私たちを滅びから救い、命を与えるために、ご自分を投げ出されたのだった。なのに、この世の人々はその救いを拒絶し、受け入れなかった。それどころか、ついに は、人々は御子が真理を語ることさえもできないように、十字架につけて、殺してしまった。世は彼の言葉を聞きたくなかったのだ。世にとっては、御言葉なる主イエスが地上に来られたこと自体、迷惑でしかなかったのだ。

このことは、世人の本質が神のぶどう園を横領した盗人・強盗であることをよく物語っている。本当の主人が現れると、自分たちが強盗であるという本質がもはや否定できないほど明白になるため、極めて都合が悪く、真の主人を退けるために、彼らは主人の息子を殺したのである。

さらに、今日、信者を名乗っている人々でさえ、世人と何ら変わらず、主イエスの御言葉に逆らい、聖徒らを迫害する有様となっている。聖書は言う、招かれた人は多くとも、礼装して、宴に出席する人はまことに少ないのだと。狭き門から入る者は少ないのだと、聖書に書いてある。

筆者は、教会というところは、偽の救いを貸与する場所であると考えている。教会は、献金を集め、信者を集め、教団教派という地上の組織拡大を目指しており、初めから福音の本質にそぐわない、福音とは関係のない、人間の営利と自己保存を目的とした集まりである。この世的な目的と本質を福音でカモフラージュしているだけであって、それは悪質な見せかけなのである。

地上の組織としての教会は、大抵、信者が教会を離れ、礼拝に来なくなると、やがてその信者はキリストの御身体から切り離されて、罪深い生活に堕落し、救いをも失うかのように教えている。そのようにして、恐怖を煽ることで、組織から信者が離れられないようにしているのである。だが、そのようにして教会が信者をつなぎとめようとする本当の目的は、教団教派という地上的な組織の拡大と繁栄のために、信者に献金を払わせたり、奉仕をさせたりして、使役するためである。

信者が洗礼を受けて教会員となって、教会籍をもらったからと言って、そのことは、本当は救いとも、天の国籍とは何の関係もないのだが、地上の組織としての教会は、神の救いを信じて受け入れることと、教会員になることが、あたかもワンセットであるかのように信者に巧みに偽りを教え、本来何の関係もないはずの地上的事柄と、天的な事柄を信者が混同するように仕向け、救いというものの本質をすり替えてしまう。神の救いという目に見えない天的な承認と、目に見える教会籍という地上的な承認を同一視するからこそ、教会籍というバッジを失えば、信者は神の救いを失うかのように思い込まされるのである。

そういったことから始まって、地上の組織としての教会が信者に教える偽りは枚挙に暇がない。それを真に受けていると、信者は、教会を離れると、自分は悪魔の虜とされて、とんでもない人間に堕落して行くかのように思い込まされる。教会に集っている信者たちは、クリスチャンを名乗っており、聖書のこともよく知っているが、そのほとんどは、残念ながら、再生も知らなければ、御霊によっても生まれていない、偽物の信者である。彼らの語る聖書の御言葉や説教は、命の欠けた道徳律以上のものではない。

なぜそうなるかと言えば、地上の組織や団体としての教会のような場所で、人々が真に聖書の御言葉に触れ、真に神の救いに触れることはなかなかできないからだ。むろん、そこには本当のクリスチャンもいるのだが、地上の組織や団体に束縛される限り、彼らの信仰も制限を受ける。そして、それが分かっていながら、あえてそのような場所に残り続けると、その信者に何が起きるかと言えば、たとえ信仰を持っていたとしても、ついには福音の敵と化して行くことになるのである。

だから、もし本当に信者が信仰を持っているなら、どこかの時点で、教会を離れる決断をせざるを得なくなる。これは今までの霊的先人のすべてが辿って来た過程である。偉大な宣教師のハドソン・テイラーなどでも、やはり組織を離れるという決断を余儀なくされたのである。
 
さて、偽物であるということは何を意味するかと言えば、結局、彼らは本物に対して悪質に敵対する迫害者になる可能性を秘めているということである。

宝石もそうであるが、イミテーションも、イミテーションと分かって楽しむならば、罪にならない。だが、イミテーションを本物だと偽り、イミテーションが自己の本質を偽って、本物を名乗り、本物に挑戦し、戦いを挑んだ時に、イミテーションの罪が生まれるのである。

本当は救われてもおらず、神の御霊によっても生まれていない、うわべだけクリスチャンを名乗っているだけの人々が、神の御霊に対して罪を犯すのは、彼らが自分たちこそ本物の信者だと言って、人間の利益に過ぎないものを掲げて、主イエスのまことの証に悪質に敵対し、真の聖徒らを迫害するときである。

筆者の考えでは、KFCが堕落したのもそのためである。つまり、KFCの堕落は、この団体が、現役の教会組織の信者と交わり、手を結んだことが最たる原因である。もしキリスト教界を非難するのであれば、彼らはキリスト教界の組織に属している現役信者と手を結ぶべきではなかった。また、教会に類する序列やヒエラルキーを信徒の間に作り出すべきではなかった。

キリスト教界と一線を画し、純粋なキリストの証を持ち続けていることだけが、この団体が正常に存続するためのすべての鍵だったのである。なぜなら、もし主から出た純粋な証を掲げ続けるならば、すべてのことについて、神が責任を負って下さるからである。

だが、アカンが敵の所有物を欲しがってそれを自らの陣営に残しておいたゆえに、イスラエルの民が戦いに敗北したように、もし聖徒が神の御前に忌むべきものを捨て去ろうとせず、この世の宝を大事に保存し、この世の人々やものを愛するならば、キリストの純粋な証と、彼らの聖別が失われる。そうなると、神はその汚れた団体をもはや擁護できなくなるのである。

神に守っていただくための唯一の秘訣は、神の忌み嫌われるものを決して信徒が自己の生活に持ち込まないことであり、世と馴れ合わず、世の悪なるしきたりに染まらず、世人に媚びず、世の思惑におもねらず、御言葉に反するものを心から憎み、これを容赦なく退ける妥協なき姿勢を持ち続けることである。それができなければ、たとえある時まで、御霊に支えられてエクレシアを名乗っている集まりがあったとしても、それは必ず堕落して行く。

宝石であれば、本物がある日、突然、偽物に変わるなどということは起きないが、キリスト者は、信徒としての証をきちんと持ち続けなくては、いずれ世人と同じになってしまう。救いを知らない世人であれば、罪なる生活を送っていても憐れみを受ける余地がまだ残っているが、救いを知っているにも関わらず、福音に背を向けた信者は、世人以上の罪を犯すことになる。

KFCの聖別の根拠は、彼らがキリスト教界以上の真理を見て、キリスト教界をエクソダスしたことから成っていた。だが、キリスト教界に対する優位性を誇りながらも、キリスト教界との境界を自ら否定して、これと霊的姦淫を結び、混合した時、この団体の聖潔は失われ、KFCはキリスト教界とも世とも何ら違いのない、証の失われた団体となり、枯れた枝、塩気を失った塩となって行ったのである。

そうしたことは、筆者がこの団体を知る前から、徐々に起こっていたのであろうが、筆者の目の前で急速に進行した。そして、筆者は、御霊の証印を失い、神の御前に聖潔を失った団体は、悪魔の餌食となるだけで、決して存続することができない、という事実を知ったのであった。

こうした前例があるので、筆者は、たとえ世を愛するクリスチャン「もどき」から、変人・偏屈と言われて、蔑まれ、疎んじられようとも、彼らの誘いに従って世と同化せず、神に忌み嫌われるものと親しく交わることはしないのである。そういう生き方をしていると、当然ながら、クリスチャンもどきから大変、嫌われるだけでなく、世からも憎まれることになる。だが、聖書に書いてなかっただろうか? 本物の聖徒が世から愛されることなど絶対にないと。僕は主人以上の者ではない。主人であるイエスが世から憎まれたのだから、僕も憎まれるのが当然なのである。

にも関わらず、もしその当然であるはずの世からの憎しみを全く受けていない「信者」がいるならば、その人の「信仰生活」は、まずもって本物ではあり得ない。その人は、まさにクリスチャンもどきと考えて差し支えない。そのような人と信徒の交わりを続けていても、百害あって一利なし、である。

「でも、ヴィオロンさん、そんなに厳しいことを言っていては、あなたの目にかなう「信徒」は一人もいなくなるのではありませんか?」

まさにその通りである。だが、その孤独が耐えられないために妥協するほどまでに愚かにはなりたくない。むろん、筆者にはその時、その時で、不思議と、交わる信者は与えられて来たが、仮に一人も信者だと認識できる者が身近にいなくなったとしても、筆者は構わないと考えている。なぜなら、神との交わりは、どんな時にも、取り上げられることはないからだ。

「ヴィオロンさん、あなたは自分だけが正しいと考えており、自分以外のすべての人は間違っていると思っているのではありませんか」

 そう誤解されて非難されたとしても構わない。聖書は何と言っているか。

「たといすべての人を偽り者としても、神を真実な方とせよ」

 これは、もともとすべての人が「偽り者」であることを前提として発せられた言葉である。義人はいないのである。つまり、正しい方は神以外にはいないのである。

 筆者は決して自分だけが正しいと考えているのではない。筆者自身には義はないからだ。キリストの義が信仰によって筆者を覆っているがゆえに、筆者は神の御前に義とされているのである。筆者が主と共なる十字架において、自分への裁きを認め、受け入れたがゆえに、筆者は今や唯一正しい方である神の中に隠されて生きているのである。

 「ヴィオロンさん、あなたのように、そんなにも厳しい要求ばかりしていたら、たとえクリスチャンであっても、誰も着いて来る人はいないでしょうね」と言う人は、主イエスが「狭き門から入れ」と言われたことをどう考えているのであろうか? 十字架は、世人にとって易しいものであろうか?
 
 その人は、きっとドストエフスキーの描いた大審問官と同じように、筆者に対してお説教するだけでなく、主イエスに向かっても、お説教するのであろう、「イエス様、あなたの救いは、あまりにも高尚で、難しく、狭すぎるために、あまりにも大勢の人々を排除しています。大勢の人たちは、あなたのように立派ではなく、頭も良くなく、もっと愚かで、自己中心なのです。でも、そういう愚かな人たちへの優しさを、あなたはもっと持つべきでした。あなたはもっと世に譲歩して、世間の人々にも理解され、歓迎され、受け入れられるような、お手軽で安易な救いを提供すべきでした。十字架は、世人にとってあまりにも厳しすぎる要求です。でも、あなたは妥協がとてもお嫌いなようですから、あなたがやらないことは、私がやります。私が世人にもっと理解され、受け入れられる易しい福音を作り出し、自らそれを彼らに教え、彼らを救ってやります」

 こうして、彼らは福音の敵と化して行くのである。 

  筆者はそんな道を行きたくないのである。たとえ旅の道連れがいなくなり、一人になっても、世と同化して福音の敵となるくらいならば、一人で喜んで旅を続けて行くつもりである。

 筆者と途中まで旅を共にしてくれた信者の道連れは、誰もが一人になりたくなかったので、共に道行く人が減っていなくなればなるほど、しばしば後ろを振り返るようになり、世人を助けねばならない、彼らを教え、目覚めさせて、彼らの信仰をもっと進歩させて、ここへ一緒に連れて来なければならない、自分だけが先を歩くわけにいかない、私には彼らを助ける使命があるのだから、などと言っては、そそくさと道を引き返し、にぎやかな町に戻って行った。そのように引き返して行った人たちは、筆者が歩き続ける中で、それ以来、二度と顔を合わせたことがない。筆者は、そういう人たちは全員、「ミイラ取りがミイラになった」ことを疑わない。

 KFCはキリスト教界と交わり、これと同化してはならなかったのだ、と筆者が言うのは、そういうわけである。自分よりも信仰の劣った誰かを連れて来て、かいがいしく世話を焼き、道を教えてやることが信徒の務めではないのである。そのようにして他者との師弟関係を作り出し、自分が主イエスの代わりに教師となって他人を教え、導くのが信徒の務めではないのである。

 信徒は一人一人が直接神につながり、常にまっすぐに神の方を向いていなければならない。信徒の義務は、世人に対するものではなく、神に対するものであり、彼は世に対してではなく、神に対して生きているからである。

 今日も、神は良い真珠を探すようにして、ご自分の御心にかなう人々を地上で選り分け、探しておられる。再び地上に来られる時まで、主は御心にかなう人々を探し続けるであろう。そして、ご自分の心を満足させることのできる、真にキリストの弟子となる者たちを必ず見出されるであろう。

 何しろ、アブラハムの子孫を石からでも起こすことのできる方である。たとえ地上のほとんどの人々が、終日、神を拒絶し、呪い、信者でさえも、福音を拒絶し、あざけっているとしても、それでも、主イエスはご自分の声を聞き分けて、主の懐に立ち帰る羊を毎日、尋ね求め、見つけては、悪魔の手から取り返して来られるであろう。

 黙示録には、そうやって神のものとされた信者たちが大群衆になって現れる。「神の福音は高尚で狭すぎて厳しすぎるために、ほとんどの人たちには理解されず、受け入れられない」などと言った人は、その光景を見て、恥を受けるであろう。

 確かに、イエスの福音は人間にとって狭き門であるが、それでも、「人にはできないことも、神にはできる」のだ。神は必ずご自分の心にかなう民を得て、満足されるであろう。ご自分のために、そのような民を起こすのは、神のなさることだからである。もし神が許されるのでなければ、自分から神を見いだすことができる人は誰もいない。そして、筆者には、世人が何を思い、世で自分がどういう評判を得るのかなど、全くどうでも良いのである。筆者の願いは、常に神の懐に抱かれ、神の内に隠される一匹の羊であることだ。人の目にではなく、神の目に認められることこそ、人間にとって最も肝心なことだからである。
 
「わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。」(ヨハネ10:27)
「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:10-11)


真珠と羊(1)

「天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである」(マタイ13:45)

筆者はある信者から次のように誉められたことがある。

「あなたの長所は望みの高さですね。」と。つまり、筆者は他の信者に比べて、そんなにも優位な長所をたくさん持っているわけではないが、望みの高さにおいては、他の追随を許さないような信念を持っている、と、その信者は言うのである。

他の信者と比べて云々の評価はすべて余計なものであるが、少なくとも、他の追随を許さないほどの大志を、つまり、神の御名に真にふわしい大志を抱きたい、という願いが筆者にあることは確かだ。

その願いだけが、いわば、筆者を神への信仰から逸らせることなく、今日までここへ導いて来たのである。

たとえるならば、筆者は良い伴侶を探し続けている人間のようなものである。

多くの人々が、伴侶を持つことの素晴らしさを筆者の前で誇って見せたので、筆者も、本当にそうなのかどうかを確かめてみたい思いに駆られたものだ。

だが、地上の人間は、誰一人、筆者の心を満足させなかった。しかも、伴侶を誇っている人たちの家庭生活が、よくよく目を凝らしてみると、かなり悲惨なものであった。多くの場合、浮気は日常茶飯事で、霊的愛人に熱をあげていることも全く稀ではなかった。伴侶に対する幻滅をごまかすために、絶えず何かの遊びに溺れて、自分をごまかしていなくてはならず、それでいながら、暇つぶしが終わると、ちゃっかりと家庭に戻って、良妻賢母や、良き夫を演じるのである。そして、子供が結婚したとか、孫が生まれたといった話をまことに嬉しそうに吹聴し、自分の「幸福」を人前で誇るのである。

そんな馬鹿馬鹿しくわざとらしい演技に何か意味があるのだろうか?と筆者は思わずにいられなかった。

それゆえ、筆者は彼らに注意を払わず、多くの人々は、筆者のそのような態度に侮辱を感じたようであった。つまり、筆者が人間に対して不敬で、悪いところばかりを見ているというのだ。

だが、たとえそのように言われたとて、本音はどう隠しようもないであろう。到底、満足できる水準になく、好感も持てない事柄を、どうして心を偽って賞賛することなどできようか。なぜその人たちは自分たちの生活が高く評価されなかったからと言って憤るのか。全く理解できないことである。

結局、地上における家庭生活は、ほとんどの場合、差別と搾取の上に成り立っているのだという結論に筆者は至らざるを得なかった。妻たちは夫に君臨され、差別され、踏みしだかれながら、味気ない、栄光の少ない仕事ばかりを任されて、不満がたまっている。だが、それが社会の仕組みだからと、彼女たちはどこにも愚痴を言えないと考えている。夫に立ち向かっても、すぐに打ち負かされる程度の教育しか受けてもいない。だから、その不満を、彼女たちは宗教や、別の分野で、屈折した形で、ごまかすしかないのである。

だが、どんなに屈折した形であろうと、その差別的生活から生まれた夫への敵意は、必ず何らかの形で発揮されることになる。たとえば、夫に対する優位を確立するために、彼女たちは宗教に入信する。社会活動に明け暮れる。その敵意が、夫にのみ発揮されるうちはまだ良いが、子供たちへ向けられたり、他の女性に競争心として向けられたりもする。そのようにして、女性が、自己のやるせない立場から来るうっぷん晴らしのために、他の女性を貶め、虐げていることも少なくない。いずれにしても、自分が他者から支配されている人は、他人に対しても、自分がされているのと同じ支配関係を繰り返すことしかできない。自分がどれくらい他人に優位に立っているかが、自己満足のバロメーターになるのである。

そのようなことは、本心から幸福な人間たちの間では生まれるはずのない現象であった。だから、どこに本当に幸福な人間がいるのかと筆者は探してみた。だが、どこへ行っても、人間の(男性の)リーダーが立てられているところでは、虐げられた女性たちの不幸な地位争いが絶えないのであった。そして、家庭生活というものは、その典型的な型であるという結論に筆者は至った。

むろん、愛情深い夫婦の幸福な生活というものが地上に存在しうることを完全に否定するつもりはないが、少なくとも、筆者は、自分の幸福の自慢話をしている人々が、真に幸福だったことは一度もない、という結論を変えるつもりはない。

そして、彼らの家庭は、観察すると、全く「母子家庭」の様相を帯びているのである。家庭だけではない。企業も、団体も、教会も、みなそうである。そこで君臨し、支配者として立っているはずの男性が、事実上、何の責任も果たせておらず、精神的に「不在」なのである。

自分が裸の王様であることを理解しないで、栄光ある場所を飛び回り、家庭を不在にする愚かなリーダーの自己顕示欲の下で、味気ない雑用ばかりを任され、日陰の存在とされた女子供の不満がたまっている。

そういう風景を見るにつけても、筆者は、結局、人間にとっての真の伴侶とは、キリストだけなのであり、キリストが教会(エクレシア―信者)の花婿だというのは、単なるたとえ話ではなく、霊的な事実なのであって、この事実に反するすべての現象は、本体の影、移ろいゆく影でしかない、という結論に至ったのであった。

つまり、地上の伴侶なるものは、キリストの影に過ぎないのである。

こんなことを言えば、地上の夫続と妻続からはさらなる不興をこうむるかも知れないが、それでも、これは霊的事実である、と筆者は考えている。

人間は、目に見える「伴侶」を掴まえて来て、それをまるで自分の所有物のように誇ることはできるが、アダムとエバに宣告された通り、人間の男女間には堕落した支配関係が置かれており、そこにはどうやっても対等な尊敬と愛情が生まれないのである。

そもそも、人間が人間を求めるのは、自己の欲のためであって、他者を満たすためではない。どんなに愛情を持っているつもりでも、人間の抱く愛情というのは、基本的に自己満足のためなのである。そこに、人が人に真の尊敬を持てない最大の理由がある。

だから、そのような腐敗した支配関係の中で日陰の存在として搾取され、長年に渡り苦しみながら、それでも、自他を欺いて幸福を装って生きるという、筆者から見ると、アクロバットに等しい心理的に無理な操作を重ねて生きるよりは、そのように不自然で歪んだ関係は、初めから誰とも結ばない方が良い、と思われてならない。

そんな筆者を変人と思いたい人は、思ってくれて構わないし、あまりにもひどい悲観論だ、極論だと思いたい人は、そう思ってくれて構わないのだが、これが、筆者が周りにいる女性たちの生活実態をよくよく観察した結果として得た偽らざる結論である。彼女たちの不幸な生活に、筆者は習いたくないし、彼女たちを虐げて君臨している「リーダー」にも何の栄光も見いだせないのである。

だが、そうしてキリストこそ、真の伴侶だという結論に至った筆者は、果たしてその結論によって何を得たであろうか? 筆者は夢見がちな人間としてうわごとを言っているに過ぎないのだろうか? 

いや、神は、筆者を実際に専業主婦のように扱ってくれるのである。

筆者はこれまで自分は一人で生きているのだから、自分で自分を支えるのは当然だと思って、つらい労働にも志願したりして来たのだが、そういう時には、決まって神が介在されて、その労働が早く終わるように仕向けられるのであった。

そして、神は筆者に向かって言われる、「この私が、天にも地にも無尽蔵の富を有し、すべての造られたものにまさる権威を持っている私が、あなたにそんな生活しかさせることができないと、あなたは本気で思っているのですか? 私の栄光にふさわしい生き方をしなさい」

幾度も、幾度も、そういう促しを受けるのである。そして、地上の目に見えるリーダーや、有力そうに見える人間のもとを何度訪れても、結局、そこでは何らの解決も得られない、ということが分かる。筆者より何倍か優れた能力がある人間を目の前にしても、彼らは筆者よりも愚かで知恵のない生活を送っていることが分かる。そこでは、目指していた解決が得られないくらいであればまだ良いが、そうして人の目に「良さそう」に見える人間ほど、曲者なのである。そういう人間は、最初から、詐欺師だと考えているくらいがちょうど良い。

そんなわけで、結局、目に見えるどんな人間にも頼らず、神だけに栄光を帰するのが、最も安全な道だということが分かるのである。神は信じる者の期待と信頼を決して裏切られることがないし、我々被造物が弱い存在であることも知っていて、決して見下したりもしない。

グノーシス主義者が言うように、神は人間を見下して嘲笑するために神よりも劣った存在として創造されたわけではないのである。キリストは教会のために命を捨てられたのであるから、キリストとエクレシアとの関係に、男尊女卑はない。神の究極にまでへりくだった愛を受け、その限りなく善良な御心によって生かされることが、エクレシアの幸福である。

筆者はよくたとえとして用いるのだが、誰がペットに高度な知識や経験を求めるであろうか?そのようなものがないからと言って、誰がペットを軽蔑するであろうか? 誰がペットと知識や経験において張り合おうと思うだろうか?

神が人間に張り合おうとされるだろうか? あるいは、人間が神と張り合うことに意味があるだろうか? 神と人間との間には圧倒的な差別があって、神は人間を残酷に支配し、人間は神に蔑視されているなどという思い込みは、地上的な男女差別を反映させた幻想に過ぎない。

神と人との関係はそのようなものではないのだ。神は我々人間に対して、命に至るまでご自分をことごとく提供しておられ、我々にご自分を信頼して頼ること以外には何も求めておられない。そして、神は決して人間の信頼を裏切られることはない。だから、神の御言葉にとどまり、神に愛され、その命によって満たされて生きていることが、我々の幸福なのである。他の供給源は要らない。人工的な栄養素に頼れば頼るほど、不健康になって行くだけである。

そんなわけで、筆者は、ただ本物を、本物だけを探し求めている。もどきは必要ない。なのに、本体の影にすぎないもので満足したと豪語している人たちの証言を、とても本当だとは思えないのである。もしそのようなことがあるとすれば、影に過ぎないものによって得られる満足や利益以上のものを、本体はもたらすことができるはずであり、そこから考えても、わざわざ影に過ぎない不完全なものにすがるのは、どちらかと言えば時間の浪費で、無用な苦しみの源になるとしか思えないのである。
 
もし信者が高価な真珠を探し求めるように天国を探し求めているならば、天国もまた、そのように神だけを本気で求める信者を探し求めているものと思う。そこに、何かしら相思相愛のような関係ができて、信者は求めていたものを見つけ、神の御もとで荷を下ろし、休息する。パウロが言ったように、たとえそこへ達するまでに全財産を売り払ったとしても、信者に後悔はない。売り払ったものにまさる宝を得たことが分かるからである。
 

真の伴侶たるキリストとの交わりの中で休む

一応、以前に書いた以下の文章を記録として残しておこう。

「毎日、くたくたになるまで働いています。試用期間を名目にして、クライアント側からの終わりなき試験が延々と続き、厳しい営業実績が求められています。日曜出勤のできない私は、保険にも入れず、2ヶ月経っても、採用されている実感というものが全くありません。しかし、疲労感の中にも、言い知れない満足感があ ります。勉強になることが多く、同僚も良い人たちで、金銭的な事柄については、主にお委ねしています。

目まぐるしい毎日の中、ブログを書き続ける気力は、なくなってしまいそうです。けれども、あえて文章をつづらなくとも、心の奥底に、平安があります。先日、「あなたはもっと主の中で安息した方が良いと思う」、と、ある兄弟に勧められました。今、私にとって、主を証する記事を書けることも幸いですが、記事 を書かない時も、主と二人きりの時間を過ごす安らぎの時です。主と共に生きる日々には、言葉には言い表せない恵みが伴います。

昨夜、ある遠方の姉妹と電話でお交わりをしました。病床にある姉妹を通して与えられた、私の貴重な友です。受話器ごしに彼女の声を聞けることが、私にとってどれほどの喜びでしょう。主は困難な時にあっても、私に休む場所を備えて下さいました。これまで、兄弟姉妹との交わりの中で、抱えていた荷を下ろし、心 が軽くされる経験を、幾度、味わったでしょう。彼らと言葉を交わしたいと、いつも、どれほど願うでしょう。あいにく、思うように時間が取れないハードな毎 日が続きますが、たとえ会うことができなくとも、私の心は、いつも兄弟姉妹のもとにあります。

私は、主を愛するのと同じように、兄弟姉妹に心を向けます。出会った兄弟姉妹一人ひとりが大切なのです。交わりに出かけて行って、彼らから供給を受けることで、私自身が生かされています。これは、社交への期待でも、人への依存でもありません。キリストの命だけが、私たちを本当に一つに結びつけ、魂を潤すの です。ですが、ここに脈々と流れている命について、どうにも、表現する言葉を持ちません…。」
 
この当時、筆者が関東に来てから初めて志願して就いたこの世の職業は、誰から見ても、最底辺に近いものと考えられていた。「毎日クタクタになるまで働き」、「クライアントからの試験が続き」、「保険にも入れず」、「採用されている実感がない」…などと書いている通りだ。

その後、筆者は、このような仕事はあまりにも異常なのだ、と理解して、もう少しましな条件の仕事を探すために職業を変え、人から尊ばれているような職務にも就いた。

そのような模索の果てに、この国で最高と思われている場所、政府にさえ行った。そこへ行きさえすれば、きっと次なる展望も見えて来るに違いない、と思っていたのであった。

だが、どこを見ても、結局、状況は似たり寄ったりなのであった。それぞれの職務に違いはあったが、結局、筆者はこの世の職業にはいかなる希望も見いだせなかったのである。

それは、この世の経済には、嘘と虐げと不正以外のものを見いだせなかったためである。

専門外の職業に就くから悪いのだとか、雇用形態がましになれば状況は変わる、といった小手先のごまかしでは手の打ちようがなかった。この世の経済そのものが、とことん病んでおり、腐敗しており、絶望しかもたらさない、人を生かす力のないものであり、そういうものにすがっていてはこの先、生きてはいけないであろう、という結論だけが残らざるを得なかったのである。

そのような気づきは、一見、絶望的な結論のように聞こえるかもしれないが、おそらく、この事実に気づくのは、早ければ早いほど有益なのではないかと筆者は思う。なぜなら、見込みがないものにすがり続けているほど、無益な時間の浪費はないからだ。

そして、地上の経済ではなく、天の経済に生きるために、筆者は一年ほど前から、明確な実験を続けているのである。

また、この世の経済の絶望性が分かると同時に、上記の文章で筆者が美化して賞賛していたような「信者の交わり」というものも存在しない、ということが分かった。

仮に「信徒の交わり」なるものが存在するとしても、それは筆者がかつて模索していたのとは全く異なる形で発見されるのではないかと予想する。

当時、筆者は心から兄弟姉妹への愛を持っていたので、上記のような文章も、誇張によって書かれたものではなかったが、それにも関わらず、そうした交わりからは、筆者の期待に合致するようなものは生まれて来るものはなかったのである。

それは、命を供給する方は、キリスト以外にはいないからである。信者がどんなに互いに交わりを尊重しても、一人一人が、キリストに固く結びつき、従い抜くという孤独な行程を抜きに生まれて来るものは何もない。

さらに、当時、筆者が「兄弟姉妹」だと考えていたほとんどの人たちは、兄弟姉妹ではなかったか、あるいは、途中から道を踏み外し、全く違った方面へ向かって行くことになってしまった。それゆえ、筆者は彼らと手を携えて歩むことが完全に不可能となったのである。

そのようにして、当時、筆者が喜んで享受し、命の供給を受けられると考えていた「交わり」なるものは、期待したような効果や発展へ結びつかなかった。

もちろん、祈りや、交わりの中から、信仰によって、生まれて来たものが何もなかったとまでは言わない。確かに、多くの場合、兄弟姉妹の間に、信仰は見られたのである。そして、筆者自身も、その交わりの中で、幾度か光を受け、進むべき道を明確につかんだりもした。
 
だが、それでも、筆者が期待をかけていたようなものは、それらの交わりからは、生まれなかった。多くの場合、筆者の愛した兄弟姉妹は、やがて敵のような存在へと変わり、その交わりを絶つのが遅れたために、害をこうむることさえあった。

筆者自身が、キリストだけに頼るために、人間への期待を全て捨てて、これらの交わりを離れなければならなかった。

以前には、筆者が「孤独な」信仰生活を送ることに反対し、何とかして筆者を交わりへと誘い出そうとする「兄弟姉妹」が数多くいたのだが、今や、筆者はそうした誘いには乗らなくなった。たとえ彼らから変人、偏屈、といった汚名をこうむったとしても、筆者はますます目に見える信者との交わりからは遠ざかって行っている。信者だけではない。地上の人間の集団からも、遠ざかって行っている。

本当にこれで良いのだろうか、これは筆者の人間不信や厭世観がもたらしただけの無意味な孤独ではないのか、と疑いが生じることもないわけではない。

しかし、それでも、ケリテ川のほとりに避難したエリヤのように、神の助けは、筆者に対して十分なのである。主の御業を日々、見る。だから、やはりこれで良いのだ、と思わずにいられない。

反キリストの王国が出来上がる時には、人々は、獣の刻印がなければ、売ることも買うこともできなくなる、と言われている。信者は、その獣の刻印を受けてしまえば、終わりである。そのような試練の時が、近づいて来ているのかも知れないと感じずにいられない。
 
<2016年>

世の光として(2)

ブログのような場所で、信仰告白を記し、御言葉の正しさを証し、十字架を語る際に、私の脳裏を、次のような疑問がよぎることがある。

「私がこの文章を発表することにより、誰に栄光が帰されるのだろうか? これを発表することは、本当に、人ではなく、神に栄光を帰するだろうか?」
 
 確かに、私の心にある欺きの深さは、私自身にも、はかり知れない。人の寵愛を失いたくないばかりに、もしくは、人から非難されることへの恐れや、孤立していると見られて侮られないために、必要以上に、人間を美化し、兄弟姉妹を誉めたたえたりするということが、起きないわけではない。

 さらに、本当のエクレシアを見たい、という気持ちが強ければ強いほど、それが神ご自身への期待ではなく、目に見える人間への期待にすり変わって行く危険性が存在するのである。

 そういう欺きの力に打ち勝つための訓練もあってか、筆者が当初は、とても美しいものと考え、これから建造されていくと期待していた兄弟姉妹の交わりなるものは、絶望的なまでに、悲惨な状態に陥って行ったのである。

 だから、今となっては、「兄弟姉妹の交わり」を誉めたたえ、美化しようという気持ちは、筆者にはない。もっと正直に言えば、「兄弟姉妹の交わり」を求めてあちらこちらを移動しようという気さえ起きない。

 必要なのは、神だけを誉めたたえ、神だけに栄光を帰することである。多分、その過程で、もし出会うことが必要な兄弟姉妹がいれば、ごく自然に、出会うのに違いない。だが、出会ったところで、いつまで一緒に歩いて行けるかは、全く保証の限りではない。

 我々は、数少ない信者たちが発見する狭い道を通っている限りにおいてしか、出会うことのできない人々なのである。もしそこを一歩でも逸れたら、どんなに人間的な感情においては、未練を感じたとしても、もう一緒に歩いて行くことはできない。

 従って、神だけを神として歩むことの重要性に比べれば、人に対して、多少、ぶっきらぼうで、不愛想で、失敬であったとしても、そんなことは何ということはない。

 人間には注意を払いすぎないが良い。賛辞もほどほどにしておくが良い。人間は、自分に「十分な」敬意が払われていないと感じると、立腹し、猪のように憤って向かって来るかも知れない。だが、そんなものを恐れず、それに構うな。

 信者の心は、隅々まで、ただ神だけに捧げられるべきである。神に十分な注意と敬意を払ってさえいれば、後の事はどうとでもなるのである。神ご自身が整えて下さるであろう。

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

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