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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

神の言葉は生きて活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、心の思いと意図を識別します。

神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、
 魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、
 心の思いと意図を素早く識別します。
 (ヘブル人への手紙四章一二節、改訂訳)

ヘブル人への手紙四章一二節のこの注目すべき節は、魂と霊の区別、両者を互いに「切り離す」必要性、それがなされる手段をはっきりと示しています。これは、信者が真に「霊の中で神にしたがって」生きる「霊の」人となるためです(ペテロ第一の手紙四章六節)

ペンバーはこの節に関して、次のように指摘しています、「使徒がここで言っているのは、神の御言葉の切り離す力である。祭司が全焼のいけにえの皮をはいで、四肢をばらばらに切り離したように、神の御言葉は人の存在全体を霊、魂、体に切り離す」

フォウセットは次のように記しています、「神の言葉は『生きていて』、『力があり』(活動的・効果的で、ギリシャ語)、『人のより高度な部分である霊から、動物的魂を分けるにまで至る』」「神の言葉は、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通し、肉的・動物的なものから霊的なものを分離し、魂から霊を分離する」「神の言葉は、緊密に結合している人の非物質的存在、魂と霊を分ける」「この描写は、祭司の剣によって、文字通り関節を切り離し、骨髄を刺し通してさらけだす所から取られている」。

神の霊が信者の霊の宮から自由に活動するかわりに、信者は魂の命によって支配されるおそれがあります。この危険性に対して目を開かれている信者にとって、ヘブル人への手紙四章一二節はとても示唆的であり、教訓的です。フォウセットの言葉はこれを示しています。

霊の人になることを願う信者のうちに、ただち次のような疑問が生じるでしょう、「私はどうすればいいのでしょう?どうすれば、私の歩みや奉仕の中にある魂的なものを識別できるのでしょう?」。

いま考察しているテキストによると、私たちは私たちの大祭司に自分を明け渡さなければなりません。この方は「もろもろの天を通って行った」方であり、この方の目に「すべてのものは裸であり、あらわにされています」(ヘブル人への手紙四章一三節)この方が祭司の務めを果たされます。彼は、鋭い両刃の剣である御言葉を用いて、私たちの内にある魂と霊を切り離すまでに刺し通し、「心の思いと意図」さえも識別されます。フォウセットは注解の中で、「『思い』と訳されているギリシャ語は心や感情に言及しており、『意図』または『知的観念』と訳されている言葉は知性に言及している」と記しています。

主は、私たちの肉体的・道徳的弱さに同情することのできる、「あわれみ深い、忠実な大祭司」(ヘブル人への手紙二章一七節、改訂訳)となるために、人となられました。この方だけが、祭儀用の剣*を用いて、思い、感情、知性、知的観念さえも刺し通し、魂の命を忍耐強く「切り離す」ことができます。なんという働きがなされなければならないのでしょう!

聖霊が内住している霊が支配し、あらゆる思いを虜としてキリストに従わせるには、動物的な魂の命が取り除かれなければなりません。ではどうやって、動物的な魂の命は、その「関節と骨髄」さえも貫いて探知され、取り除かれることができるのでしょう?私たちの大祭司は、決してしくじったり、諦めたりされません。主は裁きの中から勝利をもたらされます。ただしそれは、人が自分を主の御手に委ね、主に信頼する場合です。主は神の霊により、生ける御言葉の剣を振るって下さいます。

魂と霊(Soul and Spirit)ジェシー・ペン-ルイス著  第4章 いかにして「魂」と「霊」は切り離されるのか



裁判官に会う日程も決まり、着々と物事が進行している。
 
さて、このところ、悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、悪魔はあなた方から逃げ去るだろうという御言葉の意味を知らされている。今回は、御霊によって歩む生活を考える上で、邪悪な思念を退けるというテーマについて語りたい。

かつて当ブログでは、主と共なる十字架における自己の死について、幾度か語ったことがある。信者の生まれながらの体の邪悪な働きに対しては、主と共なる十字架における霊的な死が信者に適用されることが実際に可能であると。

多くのクリスチャンが、信仰生活の最初に、罪との格闘において、この段階を通る。そして、罪に対する勝利は、人自身の力によるのではなく、御言葉を通して、人間の堕落した肉体に働く主と共なる十字架の死が適用されることによって初めて可能になるのだと知る。

だが、十字架の働きはそこで終わらない。体に対する十字架の霊的死が適用されれば、次なる段階として、魂の命全体に対する十字架の死が適用されるという段階がある。それは、人の天然の肉体と魂に働くアダム来の命の邪悪な働きに対する死である。
 
罪との格闘が、最初は失敗からしか始まらないように、信者が魂の命の邪悪な力に気づいて、これを御言葉によって克服する方法を知るにも、それぞれの段階がある。まずは気づき、抵抗、格闘、勝利といった段階がある。

悪魔は、クリスチャンに対して、あたかもクリスチャン自身が思い描いていることであるかのように見せかけながら、邪悪な思念を外から吹き込むことができる。悪魔は、信者に恐れや、不安や、神に対する疑いや、罪悪感や、その他、信仰を曇らせるあらゆる邪悪で不潔な思念を心の中に混ぜ込もうとする。

それだけではない。悪魔は光の天使に偽装して、信心に見せかけた誤った思想や、常識に偽装した御言葉にさからう悪しき思念を、もっともらしい理屈のように見せかけて、信者に信じ込ませることもできる。

とにかく悪魔は神の栄光を曇らせる様々な虚偽の思いをクリスチャンの思念の中に絶えず注入しようとしており、それによってクリスチャンの自由を奪い、信者が自分で自分を縛り、信仰が働く余地がなくなるように仕向けているのである。

このことを知らないうちは、クリスチャンはそうした悪しき思念が自分自身の思いなのだと勘違いし、それにとらわれたまま生き続けてしまうだろう。

だが、もしもクリスチャンが、悪魔から来た思いを自分の思いであると信じ込み、また、それが抵抗することも、変えることもできない運命的な結論であるかのように信じて受け入れれば、その思念が実際にクリスチャンの霊の内に働いて現実になってしまう。

悪魔が狙っているのはまさにこのことであり、本来は、神の恵みに満ちた御言葉を地上で生きて実践し、御国の秩序を地に引き下ろすために存在しているはずのクリスチャンを、悪魔の思念を実現させるための道具に変えてしまうことなのである。

そこで、信者の心が戦場となる。信者の心には様々な敵矢が撃ち込まれ、神から来たのではない様々な種がまかれるのである。信者がそれに気づいてこれを取り除かない限り、その種は発芽し、雑草のようにはびこり、信者の心全体がやがて神から来たのではない思想に専有されて行くことさえ起きかねない。
 
だが、信者は誰しも天然の魂の命の邪悪な働きについ初めからて熟知しているわけではないので、この戦いは、完全な勝利から始まるというわけにはいかない。まずは信者が様々なきっかけを通して、霊的な敵が、自分の思いの中に、悪魔から来る要素を注入しようとしているということに気づくところから始めねばならない。

幾度かの失敗と、悪しき思念との格闘の末、ようやくクリスチャンは、自分の天然の魂に働く邪悪な衝動を見分けてこれを撃退する必要に気づき、やがて御言葉による実力行使によって、毅然と自分の思いの中に混ぜ込まれようとする様々な誤った考えに抵抗して打ち勝つことができるようになる。
 
信者は、御言葉に合致しない、神に栄光を帰さない、御言葉に敵対する、悪魔に由来する邪悪な考えや、さらに、自分自身に害を及ぼすような考えを、即座にきっぱり拒否する必要があると分かる。

もしもそれが分からないままでは、その信者は自分が一体、何に攻撃されているのかも分からないまま、ただやられっぱなしの状態が続くであろう。こうした無知な状態をすべてのクリスチャンが脱しなければならないのである。
 
たとえば、クリスチャンが稀に誰かからあからさまに呪いの言葉を浴びせられるということも、現実には全く起きないわけではない。しかし、クリスチャンは、そうした悪意ある言葉を聞いたときには、即座にこれを心の中で断ち切らなければならない。なぜなら、御言葉を参照すれば、私たちのためには、すでに木にかかられて呪いとなられた方がおられるので、そうした邪悪な言葉を私たちが身に背負う必要もなければ、そんな責任も全くない。そのことにちゃんと気づかねばならない。

それができなければ、信仰あるクリスチャンでも、呪いの言葉を受け入れてそれを身に引き受けるなどという馬鹿げた事態に至りかねないのである。

だが、悪意を持って第三者から発せられた言葉であれば、それが悪であることは、比較的誰にでも分かりやすい。誰もそれが神から来たものであるとは思わないであろうし、そんな言葉を真に受ける人も少数であろう。

だが、ふと人の心に何気なく思い浮かぶ様々な思念の中にも、そうした邪悪な起源を持つものが含まれていることがあると、気づいているクリスチャンたちはどれくらいいるであろうか。文字通り、自分の心に去来するすべての思いを、御言葉に照らし合わせて吟味し、まことの大祭司なる神の御手に委ねなければならないことを真に知っている人々はどのくらいいるであろうか?
  
邪悪な起源を持つ思いが、まるでその人自身の思いつきであるかのように装って、人の心に外から注入されるということが実際に起きうるのである。いや、四六時中起きていると言って過言でないかも知れない。そこで、信者は自分の魂に対しても、十字架の霊的死の働きが不可欠であることを知らねばならないのである。

たとえば、どんなに敬虔なクリスチャンであっても、何かよく分からない倦怠感、諦念、恐れや不安に駆られたりすることが全くないわけではないだろう。それは一時的な体調不良や、疲れに伴ってやって来るもののように思われるかも知れないが、それだけではない。
 
大概、暗闇の勢力は、信者の体の弱体化に伴って、邪悪な思いを注入するということに注意が必要である。以前にも書いたように記憶しているが、主イエスは十字架上で、痛みを和らげる効果のある酸い葡萄酒を拒まれた。(ただし息を引き取る直前には、それとは違った文脈でこれを受けられたが)。

このことは、イエスが罪なくして罪人の代表として、十字架刑の苦しみを、人工的な緩和なしに余すところなくその身に背負われたことを意味するが、同時に、主イエスが、体の働きを少しでも麻痺させるような薬の服用によって、霊的な命の支配力が弱まることを拒否されたことをも意味する。

つまり、痛みを和らげるためのアルコールを含めた様々な薬の服用は、ただ人間の苦痛を緩和するだけでなく、人間の判断力を鈍らせ、人が自分自身を治める力自体をも鈍らせ、失わせてしまう効果を持つのである。

霊は信者のうちで支配力を持つ司令塔であるが、体の働きと一切無関係にその支配力を実行に移せるわけではない。従って、体の力が弱まり、バランスが崩れれば、それに伴い、人間の思考力、判断力といったもののすべても低下する。霊的な識別力、判断力も、当然ながら、弱まって来る。
 
そこで、サタンは大概、信者の体のバランスが崩れた時に、信者の魂や霊に対する攻撃をしかける。体の弱体化には、過労や、病気やあからさまな災害によって引き起こされる変調もあれば、投薬による感覚の鈍麻もある。そこで、クリスチャンはそうした体の変調・弱体化を可能な限り、避けるべきである。不必要な薬の服用によって、霊的な命の統治の力までが弱まることに無知でいてはならない。
  
サタンが、こうして信者の体の弱体化に乗じて、正体不明の恐れや不安や疑いを注入して来るとき、信者はこれに毅然と立ち向かって、その思念を撃退することが必要となる。どんなに疲れていても、その思念がどこから来るものであるのかをきちんと見分け、受け入れてはならないものを拒否する姿勢を失わないようにせねばならない。

特に、自分や、家族や、自分に属するすべての大切な人々の命に危害を加えようとするような思念、人生で目指していた目標を諦めさせようとしたり、理由もなく失望落胆させる思念といったものには、徹底的に立ち向かって、これを受け入れることを拒否し、気力を奮い起こして立ち上がって抵抗・撃退しなければならない。

こうした格闘により、信者には、生まれながらの魂の命に働く邪悪な思いを否むことの秘訣がだんだん分かって来る。

だが、このことは決して信者が、主に従う上での苦難を一切、背負わなくなることを意味しない。悪しき思いを退けることと、試練と一切無縁の人生を送ることは別である。依然として、信者の人生には、様々な試練は起きて来るのだが、それでも、信者はこれに極めて積極的に立ち向かって、御言葉により大胆に武装して、これを克服し、勝利する秘訣を学ぶようになる。御名のゆえの苦しみを負いつつも、それに対する勝利があることを確信し、その試練の一つ一つを信仰によって乗り越えて行く秘訣を知るのである。
 
理由もなく苦しみにもてあそばれ、サタンのなすがままになることが、日々十字架を取って主に従うことではない、ということを、信者は心して理解しておかねばならない。霊的な戦いは、まさに信者の心の内側で始まるのであって、信者の魂が戦場となり、神の御言葉と悪魔の虚偽との間で、争奪戦の対象となるのだということを覚えておかねばならない。

私たちはすべてのことについて、神の限りなく豊かな命を選ぶのか、それとも、悪魔の押しつけて来る束縛や限界や死を選ぶのか、問われている。文字通り、すべての選択において問われている。私たち自身が、どちらを真実だとみなして受け入れるかによって、その後の人生が変わる。御言葉に根差して、自らの思いをコントロールすること、御言葉に合致しない思いを退けることは、私たちが神の恵みと祝福に満ちた人生を失わないでいるために、必要不可欠な日々の戦いである。
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霊と魂の切り分けについて(3)

さ て、なぜ霊と魂との切り分けに反対する者が、今日、これほどまでに多いのか、なぜ暗闇の勢力は、この真理をクリスチャンの目から覆い隠そうとするのか、私 達クリスチャンがキリストにある新創造として生きるために、私達の魂が主によって取り扱われることがどれほど重要であるか、私達の魂が主と共なる十字架を 経ないなら、どれほど恐ろしい危険に直面するか、明確に説明している文章を引用します。

ペンルイス夫人著、『魂と霊』から、第三章「いかにして霊と魂は切り離されるか」より

贖われた人が新しくされる過程では、肉の命であれ、魂の命であれ、堕落した命の要素が活発なままの方が、悪の軍勢にとって好都合なのですなぜなら、「霊的」になるにしたがって、信者はますます栄光の主と霊の中で実際的に結合されるようになり、それゆえますます悪霊どもの力を逃れ、彼らを認識し、彼らと戦うために装備されるようになるからです。

しかし最初に、次のことをはっきりと認識しなければなりません。「堕落」は、堕落した大天使であるサタンの嘘を信じた結果でした。そして、サタンが成功し た時、堕落した人類の中に毒が入り込みました。その毒は人のあらゆる要素中を巡っています。これによりサタンは、人の三部分すべてに出入りする力を得まし た。

すなわち、
(a)堕落した霊は神に対して死んでおり、暗闇の君によって支配されている地獄の暗黒の霊の世界に対して開かれています。
(b)知性、想像、思い、意志、愛情を含む魂は、最初のアダムの堕落腐敗した命によって支配されています。
(c)それゆえ、体と魂のすべての部門は、毒殺者の力に対して開かれています。

こういうわけで、使徒ヨハネは率直な言葉で、「全世界は悪しき者の中に横たわっています」(ヨハネの第一の手紙5章19節)と宣言しています。

堕落した人は、神の御子の命の血によって贖われる必要があるだけでなく、暗闇の力から神の御子の王国の中へ実際に移される必要があります。そして、罪の力と動物的な魂の命の力から解放されることにより、霊から始まって、存在のすべての領域を段階的に実際に新しくされる必要があります

最初の創造がとても素晴らしい働きだったように、再創造も真に素晴らしい働きです。被造物は、動物的魂と動物的肉の中にまったく落ち込んでしまいましたが、再創造によってふたたび霊の領域の中へ引き上げられ、霊に魂と体を治めさせるようになります。三位一体の神だけが再創造の働きを成し遂げることができました。御父は御子を与え、御子は彼の命を与え、神の霊は三位一体の御旨を成就するために忍耐と愛をもってご自分をお与えになりました。

暗闇の君は、人が束縛から解放される過程をことごとく邪魔します。これは容易に理解することができます。私たちは、暗闇の君の力に対して開かれている堕落した創造の要素を、はっきり知る必要があります。暗闇の君が再生されていない人を完全に支配していることを、エペソ人への手紙2章2節ははっきりと示しています。使徒はその所で、「肉と心の欲望」(魂的生活)を行う「御怒りの子ら」は完全に彼に支配されている、と述べています。ですから、人の霊が命によみがえらされ、罪の力から解放されても、魂の命と肉体の要素は悪の軍勢に対して開かれています

 (つづく)
 
 

つづきはこちら

霊と魂の切り分けについて(2)

第一テサロニケの手紙にはこうあります、「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。」(5:23)

このように、聖書ははっきりと、人は霊、魂、肉体の三部分から成っていることを告げています。

さらに、御言葉は言います、「神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思いと意図を素早く識別します。」(ヘブル4:12、改訂訳)

神の言葉は人の魂と霊を切り分けることができると聖書は告げています。にも関わらず、今日、クリスチャンに、霊と魂とは切り分けできないものだと思い込ませるか、もしくは、この問題を曖昧なままやり過ごさせようとする惑わしの力が強く働いています。

なぜ私達の霊と魂は切り離されなければならないのでしょうか。なぜその問題がクリスチャンにとってそれほど重要なのでしょうか。

それは、私達の生まれながらの魂は、アダムの命(プシュケー、古き命、魂の命、動物的な命)の支配下にあり、肉の支配を受けて、罪に支配されているため、 その状態が、私達クリスチャンが御霊に従って生きる妨げとなっているからです。生まれながらの人は、肉体だけでなく、魂もまた、罪の下に売られているので す。たとえ救われて信者となっても、私達の魂は依然として、日々、十字架に立ち帰り、御霊によって新しくされる必要があります。それだけでなく、私達の霊 は魂から切り離され、魂は霊によって治められるようになる必要があるのです。

キリストにあって、私達が受けたものは、永遠の命(ゾーエー)であり、私達が生まれながらにして持っていたアダムの命、魂の命、動物的命(プシュケー)と は異なります。しかし、主イエスを救い主として信じて受け入れ、永遠の命を得た後でも、もしもキリストの十字架の御業をより深く実際として経験することが ないならば、私達の魂は、罪に汚染されたアダムの動物的な命、肉の強い影響下に置かれたままなのであり、つまり、私達の魂はサタンの作業場となってしまい かねない危険性を持っているのです。

今日、クリスチャンの間では、人の生まれながらの肉体が堕落しており、罪と死の法則に支配されていることは一般的に知られていますが、私達の生まれながら の魂も、もしも十字架、聖霊、御言葉によって取り扱いを受けないならば、古き人の一部として御霊の導きに逆らい、邪悪な勢力の働く要塞となりかねないこと は、ほとんどかえりみられていません。

人の肉とは、ただ肉体のみを指すだけでなく、アダムの動物的な古い命によって支配される人間の機能の総称とも言えます。私達の魂の機能も、御霊の導きの下にないならば、堕落した肉の支配下にあるのです。

たとえば、人の魂は、御霊の喜びや平安で満たされることができるだけでなく、御霊の支配下にない時には、さまざまな地的な思い、邪悪な想像や、悪意や、疑 いや、激しい怒りや、憎しみや、恐れや、絶望、嘲笑、蔑み、敵意、驕り、妬みなど…に占領され得ます。人の魂は悪しき思いに支配され得るだけでなく、肉体 を通してやって来るさまざまな感覚にも左右されます。

人の生まれながらの魂は、まるで錨のない船のように、絶えず肉体や環境の条件の影響を受けています。そのため、たとえ私達のうちに御霊が住んで下さってい たとしても、私達が自分の生まれながらの魂を主人として生きているうちは、純粋に御霊の導きに従うことは、とても難しいのです。なぜなら、私達の魂から出 てくるさまざまな思いや計画や感情が、御霊の導きを邪魔するか、それに逆らい、私達が霊のうちに感じる御霊の声を、すっかりかき消してしまいかねないから です。

さらに、魂は自己の座です。私達の魂は、生まれながらの特徴として、自己を喜ばせることを願い、神に従うことを願いません。自己はいくらでも自分を実際以 上に良く見えるように、演技したり、フリをすることが出来ますが、そのような演技は神の御前に腐敗しています。人は悪意を善意に見せかけたり、自分を有利 にするために駆け引きをし、ずるく嘘をついて立ち回ることができます。自分が得をするために、神を利用することさえします。さらに言うならば、人は自分の 心が何を願っているのか、自分でも正確に把握できずに、自分の心に欺かれて生きていることがしょっちゅうあります。それほどまでに人の心の欺きは深いので す。

聖書はこのような人の心について言います、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」(エレミヤ17:9)

私達クリスチャンは、人の心が邪悪である事実を知っていますし、自分の心の中に、神に従うことの妨げとなるものが満ちている現実に直面しています。生まれ ながらの人の肉体が、人を罪に引きずっていく力を持っているように、人の生まれながらの魂(もしくは自己)もまた、クリスチャンに御霊の導きを見失わせた り、憎むべき罪の方へと引きずって行く力を持つのです。エバが蛇により誘惑を受けたのは、彼女の肉体に対してではなく、まず、彼女の魂に対してだったこと を思い出すならば、肉体の堕落よりも、魂の堕落の方が、より一層、人を罪の支配下にとどめる強力な力を持っているとも言えます。

パウロはうめきを持って言いました、わたしは自分のしていることが、分からない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。<…>そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしのうちに宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。」(ローマ7:15-18)

私達も自分の魂の腐敗に直面する時、同じようにうめきます。私達は自分の偽りに満ちた心を主君とし、自分の魂に導かれて生きるのでは、決して、神を満足させることはできない事実を知ります。

「…あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって作られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4:22-23)

このように、御言葉は、私達のアダムの命に支配されて生きる古き人が、日々、十字架によって死に渡され、私達の魂も、キリストの十字架の御業により、深み まで、御霊によって新たにされて、真に神にかたどって作られたキリストを着せられて生きる必要があること、それが可能であるばかりか、主の御旨であること を示しています。このことは、私達の魂が消失することを意味せず、私達の魂が御霊に明け渡されて、御霊に服し、自己に対してでなく、神に対して生きるよう になることを意味します。

逆に言うならば、もしもクリスチャンが自分の魂のうちに潜む罪を認めず、自分の生まれながらの腐敗した魂を主人とし、自分の肉体と魂が、絶えずキリストの 十字架の死に渡され、御霊に服するものとなる必要を認めず、キリストと共なる十字架の死のうちにとどまる必要を否定して、そこから離れてしまうならば、そ のことが、その人が己の魂を神とし、自己(セルフ)に導かれて生きる者となってしまう危険に道を開くのです。

私達は血潮や十字架を拒んで、自分の魂がサタンの作業場となることに同意して生きるのでしょうか? それとも、私達の魂に対して、主が十字架を日々実際と して下さることを願い、信じるでしょうか? 終わりの時代には、特に、キリストかセルフかの選択は、クリスチャンにとってとても厳しいふるいわけとなるよ うに感じています。

霊と魂の切り分けについて(1)

主にある一人の姉妹へ

ゆっくりと田舎でくつろぎのひと時を過ごすのは良いものですね。静かな夜が過ぎていきます。主が我が家になして下さった十字架の御業は、ゆるぎないものでした。家族みんなで和やかに食卓を囲み、心安らぐひと時を過ごしています。

この土地では人々の舌が肥えているためか、食べ物屋さんがとても繁盛しているのです。ディスカントストアでは新鮮な海の幸が安く、姉妹の大好きな渡り蟹も、わずか240円、380円という値段です。昨日はいつものごとく美観地区を散歩して過ごしました。

さて、姉妹、洗礼を受けようとしている私たちの姉妹から、「雨になると教会に行けないため、17日に雨が降らないよう祈って下さい」とのメールをいただきました。

返信を書きながら、とても厳粛な喜びに打たれました。もはや、雨が降らないように…、なんて次元の話ではないのではないだろうかと思いました(それも重要 なのはわかっていますが)。姉妹が洗礼を受けること自体が、私達にとって、いや、全世界にとって、いや、天にとって、どれほど奇跡のようにはかりしれない 喜びであるでしょか…。

世から見れば、生きる希望が見出せないほどの耐え難い苦しみの中に、たった一人取り残されていた小さな魂に、主は目を留めて下さり、彼女を救いへと導いて下さいました。

福音は私達のような弱く愚かな人間の手に委ねられていますが、一人の魂が救われること、それはまさに主がなさるのでなければ、決して起こり得ない奇跡であ ることを実感します。主の愛は今、真に砕かれた魂の上に、豊かに注がれているのでしょう。畑は色づいており、刈り入れを待っているのです。そして、主は御 心にかなう働き人をずっと探しておられるのです…。

「イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである。』」(ヨハネ3:5-8)

神は霊であり、神と交わるためには、私達にも霊がなければなりません。しかし、人の生まれながらの霊は、罪の堕落によって死んだ状態にあり、神に対して閉 ざされているため、私達は生まれながらの罪深い姿のままで、御国に入ることはできません。救われて、神と和解し、御国の住人となるためには、人はキリスト の十字架の贖いを信じて受け入れ、神の霊によって生まれ、新しく生かされる必要があります。

水は死を象徴します。バプテスマを通して、私達はこの罪なる肉、アダムの古い命に対して象徴的に死にます。主イエスも人となって地上に来られた時、私達の 模範として、バプテスマを受けられました。私達は、主イエスを救い主として受け入れ、バプテスマを受け、神の霊によって新しく生まれます。

人が再生することは、それだけで奇跡のような喜びですが、悲しいことに、多くのクリスチャンはそれだけで終わりだと思い込まされてしまっています。けれど も、実際には、私達は、日々、キリストの十字架をより深く知ることにより、自分の肉でもなく、魂でもなく、御霊に導かれて生きる、キリストにある新しい人 とされることができるはずなのです。

バプテスマに向けて、主がどうぞ姉妹たちをふさわしく整えて下さいますように。

あなたの姉妹ビオラより

キリストの死にある命――魂の命の死(1)

「そよ風の服ころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けてその木の間に身を隠した。
神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたはどこにいるのか。』」(創世記3:3)


今日、私たちはどこにいるのでしょうか。自分の裸の恥を隠すため、恐れて、木陰に身を隠しているのでしょうか。それとも、苦しめられても、懲らしめられて も、パン屑でも良いから、主の御身体の分け前にあずかるために、主に追いすがり、御衣の房にすがっているのでしょうか。今日、私は自分のオルパとルツに向 かって、こう言いたいと思います。

「さあ、可愛い娘たち、お別れの時がやって来ました。あなたたちと別れるのはつらくて忍びませんが、それぞれ、あなたたちを産んでくれたモアブのお母さま のお家へ帰りなさい。私から離れて、自分の生活に帰りなさい。この十字架の死を絶えず負わされる人生から離れなさい。あなたたちが愛する故郷で、それぞれ 新しい夫を迎え、主に恵まれて、子供を産んで、財産を築き、平和に、豊かに暮らすことを私は願います…。

今日まであなたたちは、よくぞ私の心の慰めとなってくれました。あなたたちが私を愛して、ずっと助けてくれたことは感謝していますし、忘れません。あなた たちがいなければ、あの苦しみを耐えることはできず、今日までやって来られなかったでしょう。本当に感謝しています。けれども、今日、私は心を鬼にして、 こう言わねばなりません、もうこれからは、私に着いて来てはいけません。

私は主に、『はい』と答えました。ですから、今日から、私の名前は『マラ』です。全能者が私を懲らしめるために、御手を伸ばされたからです。主は愛する子 を全て例外なく懲らしめられます。あなたたちは異郷の娘たちでなので、そんな苦しみを負う責任はありませんが、私は主の娘です。私は卑しくされ、つらい目 に遭わされ、苦しみの中を通らされますが、最後まで耐え忍ばなければなりません。

以前、私は主に従うことができずに、飢饉の時に、浅はかにエジプトに下って行って、全財産を失いました。そのせい で、愛する夫ももう生きてはいませんし、子供たちもいません。私は愚かにも、何度もエジプトに下って行っては、失敗し、主の臨在を離れました。けれども、 たとえ主が私を捨てられるとも、私は主を探し求めて、何度でも、旅立たなければなりません。そして、ただ主の御手の中にあって、『ナオミ』に回復される日 を待ちたいのです。(*ルツ記ではモアブ)

どうか、可愛いあなたたち、もしもあなたが、隠れたところにおられる隠れた神を、私と同じように愛し、主から私生児と呼ばれるのを拒否して、サラの娘たち となり、主のために全ての辛苦を最後まで耐え忍ぼうとの覚悟を決めているのでなければ、どうか今、私から離れて下さい。今が去るべき時です。これ以上、私 につきまとってはいけません。私は今から地に埋められようとしています。この先、あらゆる汚名と、汚辱と、今まで以上の艱難と、誤解と、偏見と、孤立が私 を待っているでしょう。

私は地上のどんな利益よりも、真実、真理なるお方を取りたいのです。私自身は不義なる者に過ぎませんが、主の裁きに身を委ね、燃える炉の中を通らされてで も、不義を焼き尽くされることを選びます。それが主が私に求めておられることだからです。けれども、もしも私と一緒にいれば、あなたたちまで、地に埋めら れることになりかねません…。まだ若くて、きれいで、元気いっぱいのあなたたちに、どうしてそんな苦しみを味わわせられますか。行きなさい、娘たち。いい え、あなたたちはもう私の娘じゃありません。あなたたちは命を大事にして、ふるさとモアブへ帰りなさい、そこで願うものをしっかりその手で掴んで、幸福に おなりなさい…。」

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

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