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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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霊と魂の切り分けについて(3)

さ て、なぜ霊と魂との切り分けに反対する者が、今日、これほどまでに多いのか、なぜ暗闇の勢力は、この真理をクリスチャンの目から覆い隠そうとするのか、私 達クリスチャンがキリストにある新創造として生きるために、私達の魂が主によって取り扱われることがどれほど重要であるか、私達の魂が主と共なる十字架を 経ないなら、どれほど恐ろしい危険に直面するか、明確に説明している文章を引用します。

ペンルイス夫人著、『魂と霊』から、第三章「いかにして霊と魂は切り離されるか」より

贖われた人が新しくされる過程では、肉の命であれ、魂の命であれ、堕落した命の要素が活発なままの方が、悪の軍勢にとって好都合なのですなぜなら、「霊的」になるにしたがって、信者はますます栄光の主と霊の中で実際的に結合されるようになり、それゆえますます悪霊どもの力を逃れ、彼らを認識し、彼らと戦うために装備されるようになるからです。

しかし最初に、次のことをはっきりと認識しなければなりません。「堕落」は、堕落した大天使であるサタンの嘘を信じた結果でした。そして、サタンが成功し た時、堕落した人類の中に毒が入り込みました。その毒は人のあらゆる要素中を巡っています。これによりサタンは、人の三部分すべてに出入りする力を得まし た。

すなわち、
(a)堕落した霊は神に対して死んでおり、暗闇の君によって支配されている地獄の暗黒の霊の世界に対して開かれています。
(b)知性、想像、思い、意志、愛情を含む魂は、最初のアダムの堕落腐敗した命によって支配されています。
(c)それゆえ、体と魂のすべての部門は、毒殺者の力に対して開かれています。

こういうわけで、使徒ヨハネは率直な言葉で、「全世界は悪しき者の中に横たわっています」(ヨハネの第一の手紙5章19節)と宣言しています。

堕落した人は、神の御子の命の血によって贖われる必要があるだけでなく、暗闇の力から神の御子の王国の中へ実際に移される必要があります。そして、罪の力と動物的な魂の命の力から解放されることにより、霊から始まって、存在のすべての領域を段階的に実際に新しくされる必要があります

最初の創造がとても素晴らしい働きだったように、再創造も真に素晴らしい働きです。被造物は、動物的魂と動物的肉の中にまったく落ち込んでしまいましたが、再創造によってふたたび霊の領域の中へ引き上げられ、霊に魂と体を治めさせるようになります。三位一体の神だけが再創造の働きを成し遂げることができました。御父は御子を与え、御子は彼の命を与え、神の霊は三位一体の御旨を成就するために忍耐と愛をもってご自分をお与えになりました。

暗闇の君は、人が束縛から解放される過程をことごとく邪魔します。これは容易に理解することができます。私たちは、暗闇の君の力に対して開かれている堕落した創造の要素を、はっきり知る必要があります。暗闇の君が再生されていない人を完全に支配していることを、エペソ人への手紙2章2節ははっきりと示しています。使徒はその所で、「肉と心の欲望」(魂的生活)を行う「御怒りの子ら」は完全に彼に支配されている、と述べています。ですから、人の霊が命によみがえらされ、罪の力から解放されても、魂の命と肉体の要素は悪の軍勢に対して開かれています

 (つづく)
 
 

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つづきはこちら

霊と魂の切り分けについて(2)

第一テサロニケの手紙にはこうあります、「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。」(5:23)

このように、聖書ははっきりと、人は霊、魂、肉体の三部分から成っていることを告げています。

さらに、御言葉は言います、「神の言葉は生きていて、活動しており、どんな両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思いと意図を素早く識別します。」(ヘブル4:12、改訂訳)

神の言葉は人の魂と霊を切り分けることができると聖書は告げています。にも関わらず、今日、クリスチャンに、霊と魂とは切り分けできないものだと思い込ませるか、もしくは、この問題を曖昧なままやり過ごさせようとする惑わしの力が強く働いています。

なぜ私達の霊と魂は切り離されなければならないのでしょうか。なぜその問題がクリスチャンにとってそれほど重要なのでしょうか。

それは、私達の生まれながらの魂は、アダムの命(プシュケー、古き命、魂の命、動物的な命)の支配下にあり、肉の支配を受けて、罪に支配されているため、 その状態が、私達クリスチャンが御霊に従って生きる妨げとなっているからです。生まれながらの人は、肉体だけでなく、魂もまた、罪の下に売られているので す。たとえ救われて信者となっても、私達の魂は依然として、日々、十字架に立ち帰り、御霊によって新しくされる必要があります。それだけでなく、私達の霊 は魂から切り離され、魂は霊によって治められるようになる必要があるのです。

キリストにあって、私達が受けたものは、永遠の命(ゾーエー)であり、私達が生まれながらにして持っていたアダムの命、魂の命、動物的命(プシュケー)と は異なります。しかし、主イエスを救い主として信じて受け入れ、永遠の命を得た後でも、もしもキリストの十字架の御業をより深く実際として経験することが ないならば、私達の魂は、罪に汚染されたアダムの動物的な命、肉の強い影響下に置かれたままなのであり、つまり、私達の魂はサタンの作業場となってしまい かねない危険性を持っているのです。

今日、クリスチャンの間では、人の生まれながらの肉体が堕落しており、罪と死の法則に支配されていることは一般的に知られていますが、私達の生まれながら の魂も、もしも十字架、聖霊、御言葉によって取り扱いを受けないならば、古き人の一部として御霊の導きに逆らい、邪悪な勢力の働く要塞となりかねないこと は、ほとんどかえりみられていません。

人の肉とは、ただ肉体のみを指すだけでなく、アダムの動物的な古い命によって支配される人間の機能の総称とも言えます。私達の魂の機能も、御霊の導きの下にないならば、堕落した肉の支配下にあるのです。

たとえば、人の魂は、御霊の喜びや平安で満たされることができるだけでなく、御霊の支配下にない時には、さまざまな地的な思い、邪悪な想像や、悪意や、疑 いや、激しい怒りや、憎しみや、恐れや、絶望、嘲笑、蔑み、敵意、驕り、妬みなど…に占領され得ます。人の魂は悪しき思いに支配され得るだけでなく、肉体 を通してやって来るさまざまな感覚にも左右されます。

人の生まれながらの魂は、まるで錨のない船のように、絶えず肉体や環境の条件の影響を受けています。そのため、たとえ私達のうちに御霊が住んで下さってい たとしても、私達が自分の生まれながらの魂を主人として生きているうちは、純粋に御霊の導きに従うことは、とても難しいのです。なぜなら、私達の魂から出 てくるさまざまな思いや計画や感情が、御霊の導きを邪魔するか、それに逆らい、私達が霊のうちに感じる御霊の声を、すっかりかき消してしまいかねないから です。

さらに、魂は自己の座です。私達の魂は、生まれながらの特徴として、自己を喜ばせることを願い、神に従うことを願いません。自己はいくらでも自分を実際以 上に良く見えるように、演技したり、フリをすることが出来ますが、そのような演技は神の御前に腐敗しています。人は悪意を善意に見せかけたり、自分を有利 にするために駆け引きをし、ずるく嘘をついて立ち回ることができます。自分が得をするために、神を利用することさえします。さらに言うならば、人は自分の 心が何を願っているのか、自分でも正確に把握できずに、自分の心に欺かれて生きていることがしょっちゅうあります。それほどまでに人の心の欺きは深いので す。

聖書はこのような人の心について言います、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。」(エレミヤ17:9)

私達クリスチャンは、人の心が邪悪である事実を知っていますし、自分の心の中に、神に従うことの妨げとなるものが満ちている現実に直面しています。生まれ ながらの人の肉体が、人を罪に引きずっていく力を持っているように、人の生まれながらの魂(もしくは自己)もまた、クリスチャンに御霊の導きを見失わせた り、憎むべき罪の方へと引きずって行く力を持つのです。エバが蛇により誘惑を受けたのは、彼女の肉体に対してではなく、まず、彼女の魂に対してだったこと を思い出すならば、肉体の堕落よりも、魂の堕落の方が、より一層、人を罪の支配下にとどめる強力な力を持っているとも言えます。

パウロはうめきを持って言いました、わたしは自分のしていることが、分からない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。<…>そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしのうちに宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。」(ローマ7:15-18)

私達も自分の魂の腐敗に直面する時、同じようにうめきます。私達は自分の偽りに満ちた心を主君とし、自分の魂に導かれて生きるのでは、決して、神を満足させることはできない事実を知ります。

「…あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって作られた新しき人を着るべきである。」(エペソ4:22-23)

このように、御言葉は、私達のアダムの命に支配されて生きる古き人が、日々、十字架によって死に渡され、私達の魂も、キリストの十字架の御業により、深み まで、御霊によって新たにされて、真に神にかたどって作られたキリストを着せられて生きる必要があること、それが可能であるばかりか、主の御旨であること を示しています。このことは、私達の魂が消失することを意味せず、私達の魂が御霊に明け渡されて、御霊に服し、自己に対してでなく、神に対して生きるよう になることを意味します。

逆に言うならば、もしもクリスチャンが自分の魂のうちに潜む罪を認めず、自分の生まれながらの腐敗した魂を主人とし、自分の肉体と魂が、絶えずキリストの 十字架の死に渡され、御霊に服するものとなる必要を認めず、キリストと共なる十字架の死のうちにとどまる必要を否定して、そこから離れてしまうならば、そ のことが、その人が己の魂を神とし、自己(セルフ)に導かれて生きる者となってしまう危険に道を開くのです。

私達は血潮や十字架を拒んで、自分の魂がサタンの作業場となることに同意して生きるのでしょうか? それとも、私達の魂に対して、主が十字架を日々実際と して下さることを願い、信じるでしょうか? 終わりの時代には、特に、キリストかセルフかの選択は、クリスチャンにとってとても厳しいふるいわけとなるよ うに感じています。

霊と魂の切り分けについて(1)

主にある一人の姉妹へ

ゆっくりと田舎でくつろぎのひと時を過ごすのは良いものですね。静かな夜が過ぎていきます。主が我が家になして下さった十字架の御業は、ゆるぎないものでした。家族みんなで和やかに食卓を囲み、心安らぐひと時を過ごしています。

この土地では人々の舌が肥えているためか、食べ物屋さんがとても繁盛しているのです。ディスカントストアでは新鮮な海の幸が安く、姉妹の大好きな渡り蟹も、わずか240円、380円という値段です。昨日はいつものごとく美観地区を散歩して過ごしました。

さて、姉妹、洗礼を受けようとしている私たちの姉妹から、「雨になると教会に行けないため、17日に雨が降らないよう祈って下さい」とのメールをいただきました。

返信を書きながら、とても厳粛な喜びに打たれました。もはや、雨が降らないように…、なんて次元の話ではないのではないだろうかと思いました(それも重要 なのはわかっていますが)。姉妹が洗礼を受けること自体が、私達にとって、いや、全世界にとって、いや、天にとって、どれほど奇跡のようにはかりしれない 喜びであるでしょか…。

世から見れば、生きる希望が見出せないほどの耐え難い苦しみの中に、たった一人取り残されていた小さな魂に、主は目を留めて下さり、彼女を救いへと導いて下さいました。

福音は私達のような弱く愚かな人間の手に委ねられていますが、一人の魂が救われること、それはまさに主がなさるのでなければ、決して起こり得ない奇跡であ ることを実感します。主の愛は今、真に砕かれた魂の上に、豊かに注がれているのでしょう。畑は色づいており、刈り入れを待っているのです。そして、主は御 心にかなう働き人をずっと探しておられるのです…。

「イエスは答えられた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである。』」(ヨハネ3:5-8)

神は霊であり、神と交わるためには、私達にも霊がなければなりません。しかし、人の生まれながらの霊は、罪の堕落によって死んだ状態にあり、神に対して閉 ざされているため、私達は生まれながらの罪深い姿のままで、御国に入ることはできません。救われて、神と和解し、御国の住人となるためには、人はキリスト の十字架の贖いを信じて受け入れ、神の霊によって生まれ、新しく生かされる必要があります。

水は死を象徴します。バプテスマを通して、私達はこの罪なる肉、アダムの古い命に対して象徴的に死にます。主イエスも人となって地上に来られた時、私達の 模範として、バプテスマを受けられました。私達は、主イエスを救い主として受け入れ、バプテスマを受け、神の霊によって新しく生まれます。

人が再生することは、それだけで奇跡のような喜びですが、悲しいことに、多くのクリスチャンはそれだけで終わりだと思い込まされてしまっています。けれど も、実際には、私達は、日々、キリストの十字架をより深く知ることにより、自分の肉でもなく、魂でもなく、御霊に導かれて生きる、キリストにある新しい人 とされることができるはずなのです。

バプテスマに向けて、主がどうぞ姉妹たちをふさわしく整えて下さいますように。

あなたの姉妹ビオラより

キリストの死にある命――魂の命の死(1)

「そよ風の服ころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けてその木の間に身を隠した。
神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたはどこにいるのか。』」(創世記3:3)


今日、私たちはどこにいるのでしょうか。自分の裸の恥を隠すため、恐れて、木陰に身を隠しているのでしょうか。それとも、苦しめられても、懲らしめられて も、パン屑でも良いから、主の御身体の分け前にあずかるために、主に追いすがり、御衣の房にすがっているのでしょうか。今日、私は自分のオルパとルツに向 かって、こう言いたいと思います。

「さあ、可愛い娘たち、お別れの時がやって来ました。あなたたちと別れるのはつらくて忍びませんが、それぞれ、あなたたちを産んでくれたモアブのお母さま のお家へ帰りなさい。私から離れて、自分の生活に帰りなさい。この十字架の死を絶えず負わされる人生から離れなさい。あなたたちが愛する故郷で、それぞれ 新しい夫を迎え、主に恵まれて、子供を産んで、財産を築き、平和に、豊かに暮らすことを私は願います…。

今日まであなたたちは、よくぞ私の心の慰めとなってくれました。あなたたちが私を愛して、ずっと助けてくれたことは感謝していますし、忘れません。あなた たちがいなければ、あの苦しみを耐えることはできず、今日までやって来られなかったでしょう。本当に感謝しています。けれども、今日、私は心を鬼にして、 こう言わねばなりません、もうこれからは、私に着いて来てはいけません。

私は主に、『はい』と答えました。ですから、今日から、私の名前は『マラ』です。全能者が私を懲らしめるために、御手を伸ばされたからです。主は愛する子 を全て例外なく懲らしめられます。あなたたちは異郷の娘たちでなので、そんな苦しみを負う責任はありませんが、私は主の娘です。私は卑しくされ、つらい目 に遭わされ、苦しみの中を通らされますが、最後まで耐え忍ばなければなりません。

以前、私は主に従うことができずに、飢饉の時に、浅はかにエジプトに下って行って、全財産を失いました。そのせい で、愛する夫ももう生きてはいませんし、子供たちもいません。私は愚かにも、何度もエジプトに下って行っては、失敗し、主の臨在を離れました。けれども、 たとえ主が私を捨てられるとも、私は主を探し求めて、何度でも、旅立たなければなりません。そして、ただ主の御手の中にあって、『ナオミ』に回復される日 を待ちたいのです。(*ルツ記ではモアブ)

どうか、可愛いあなたたち、もしもあなたが、隠れたところにおられる隠れた神を、私と同じように愛し、主から私生児と呼ばれるのを拒否して、サラの娘たち となり、主のために全ての辛苦を最後まで耐え忍ぼうとの覚悟を決めているのでなければ、どうか今、私から離れて下さい。今が去るべき時です。これ以上、私 につきまとってはいけません。私は今から地に埋められようとしています。この先、あらゆる汚名と、汚辱と、今まで以上の艱難と、誤解と、偏見と、孤立が私 を待っているでしょう。

私は地上のどんな利益よりも、真実、真理なるお方を取りたいのです。私自身は不義なる者に過ぎませんが、主の裁きに身を委ね、燃える炉の中を通らされてで も、不義を焼き尽くされることを選びます。それが主が私に求めておられることだからです。けれども、もしも私と一緒にいれば、あなたたちまで、地に埋めら れることになりかねません…。まだ若くて、きれいで、元気いっぱいのあなたたちに、どうしてそんな苦しみを味わわせられますか。行きなさい、娘たち。いい え、あなたたちはもう私の娘じゃありません。あなたたちは命を大事にして、ふるさとモアブへ帰りなさい、そこで願うものをしっかりその手で掴んで、幸福に おなりなさい…。」

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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