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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

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小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)


新たに飼い始めた文鳥は、今まで飼った文鳥たちと違って初めから性格がかなり大人びているようだ。人には馴れているが、独立心が旺盛で、体は小さくても一人前のプライドがあるように見受けられる。

かつて文鳥の飼育本で読んだことがあったが、小鳥でも、それなりの年齢になると、子ども扱いされるのを嫌うことがあるという。

老鳥となった文鳥に、「可愛いね~」などと、ほめ言葉のつもりで声をかけていたら、鳥に怒られた、などという読者の便りが本に乗っていたのを思い出す。

それは鳥だけでなく、たとえば、犬なども同じであろう。

犬が年を取るのは早く、あっという間に人間の年齢を追い越してしまう。見かけはどんなに可愛らしく、子犬のように見えても、犬にも年齢相応の気概が生まれる。いつの間にか、人間よりも悟りきったようになり、家の中ですっかり権威となってしまう。

だが、人間は、犬がそこまで精神的に生長したことが分からず、いつまでも子犬のように可愛がろうとするのだが、犬の方からは、人間の精神的な未熟さ、身勝手さ、ご都合主義などがすっかり見抜かれて、半ば呆れられ、適当にあしらわれるということさえ、時には起きる。

犬などの気持ちは、人間には時に全く思いが及ばないほど、デリケートである。
鳥にも、犬とは違うが、そういうところがあるのだ。

いずれにしても、人間の平均寿命に比べれば、はかない命だということを理解して、与えられた時間を精一杯、有効活用してやらねばならない。

さて、我が家の白文鳥はまだ一歳にもならず、ついこの間、雛の毛がようやく抜けたばかりだが、それでも、一人前のプライドはしっかりあるようだ。

鳥の性格も人と同じく、実にさまざまである。

飼い主と鳥とが、適切なパートナーシップを築くまでには、それなりの時間がかかる。互いの性格や好みや気持ちの変化を阿吽の呼吸で読めるようになって、お互いにとって嫌なことはせずに、適度な距離を保ちながら、好ましい愛情表現ができるようになるのは、どんなに短くとも、飼い始めて一年程度の時間はかかる。

特に、幼鳥から飼い始めた鳥は、一年間ほど経たないと性格が安定しない。幼鳥の頃は何事にも興味津々で活発に動き回るが、何が自分にとって得で、何が損なのかも分からないし、飼い主の気持ちの変化も読めない。だが、一年ほど経つ頃には、好奇心がおさまり、性格も大人になって安定して来る。

以上のようなことは、他愛のない話であるが、最近、こうしたことに加えて、生き物が変化する未知数の可能性に驚かされることが増えた。

ペットを買う時には、誰しもペットの容姿や健康に気を配るであろう。
考え得る限りの最高の条件を求めようとするだろう。

だが、飼い始めてからも、命はどんどん変化するのである。

どのように変化するのか、未知数の部分があって、飼い主次第で、ペットもどんどん変わって行く。そして、毎日、毎日、良く変わって行く姿を見ながら、神の御業に歓心させられるのである。

そして、気づけば、自分もまたペットのために随分、変わったことに気づかされる。

たとえば、生き物がいない時には、どんなに仕事に没頭しても平気であったのが、生き物のおかげで、適度な休憩を取るようになった。

生き物がいない時には、悩みごとが起きて来ると、果てしなくそれに埋没していたのが、生き物のおかげで、気持ちをすぐに切り替えることができるようになり、どんなことが起きても、動揺しないでいられるようになった。彼らを守るためには、飼い主の心に安定がなければならないからだ。

理解が及ばないことがどれだけあったとしても、必要なのは、よく観察して、生活を共にしているという実感を確かめ合うことだ。そうこうしているうちに、だんだん互いの気性が分かって来る。

筆者は、命である限り、およそどんなものでも、コミュニケーションを取れると思っている。それは相手が虫であっても、もっと高度な生き物であっても同じだ。

ところで、二、三年前に買って来たデンマークカクタスの小鉢が筆者の家にある。

そんなに栄養があるとは思えない環境だが、毎年、ちゃんと花を咲かせている。

今年の夏、ふと気づくと、この小鉢の片隅に小さな雑草がひょろりと一本顔をのぞかせていた。どこからやって来たのかも分からない、最初からこの鉢に根付いていたとも思えない、全く別の種類だ。窓際だから、外から種が飛んで来たのかも知れない。

そのまま放っておくと、雑草はデンマークカクタスの太い葉を迂回しながら枝を伸ばし、いつの間にか結構しっかりした幹になって、ついに可愛らしい白い花をいくつも咲かせた。

筆者は驚いてしまった。

鉢の中にある土には大した栄養分もなく、水さえ、筆者がようやく切らさないでやっている程度なのだが、その乏しい養分も水もほとんどデンマークカクタスが独占している中で、か細い一本の雑草がこんなに小さな鉢の中で花を咲かせるとは、正直、思っていなかったのである。

どんな環境の中でも、自分の場所を見つけて生きる命があるのだと驚かされた。

今、アハブ三世の統治するこの国で、経済は悪鬼化し、企業も悪鬼化し、国家も悪鬼化し、教会も悪鬼化している。どちらを向いても、人類が自己防衛のために築き上げたカインの城壁しか見えるものはない。

人々は自分を守るために武装し、城壁に立って見張りをし、武器を構え、異質な者を撃退しようと待ち構えている。その城壁の中にこもっている者たちには、外部に対する敵意と、自分たちにとって脅威となり得るすべてに、今しも襲いかからんとする殺気以外に、感じられるものはない。

全くもって厄介な存在であるから、筆者はこれらの城壁には可能な限り、近寄らないようにしながら、彼らと接触を絶って、別の次元で生きている。

ある意味では、筆者は自分をいかついデンマークカクタスしか植わっていない鉢に、突如として生えて来た可愛らしい雑草のように感じることがある。周りにあるほとんどのものが、自分とは異質だと分かるからだ。だが、異質なものがあまりにも勝ち誇っているので、一つ間違うと、生える場所を間違えたのではと感じられる環境だ。

だが、それでも、どういうわけか、この土地も、この世も、この国も、悪魔と暗闇の軍勢のためだけにあるわけではなく、たとえ隅に追いやられているように見えたとしても、神はキリスト者のために、必要な生存条件をすべて整えて下さるのである。

だから、右を見ても左を見ても、デンマークカクタスのためにあるような土地で、それとは全く関係ない「雑草」が、花を咲かせるということも十分にありうるのだ。

神の国とその義をまず第一に求めなさい。

その戒めを、筆者はしっかりと守っている。そうすれば、後の物はすべて添えて与えられる、と聖書は約束している。

御言葉の通りに、確かに、これまですべての必要が与えられて来たし、これからも与えられるであろう。神がそのように約束しておられるのだから、これを覆しうる者はない。だから、生きる環境のことについてあれやこれやと心配し、不満を述べることはしていない。たとえ隣で巨木が勝ち誇るように生い茂っていたとしても、アハブとイゼベルがこの国を統治していたとしても、そんなことは筆者の生存とは全く関係ないことである。

イスラエルの民が、エジプトを出て、初めて乳と蜜の流れる土地を見たとき、そこには巨人が住んでいて、彼らはそれを見て恐れ、到底、巨人を追い払って、この土地を占領することは無理だと考えた。

だが、その恐れは、神の御心にかなうものではなかった。その土地は、彼らのために神が用意されたものだったので、彼らは巨人など無いがごとくに恐れずに前進しなければならなかったのである。

筆者には今、その意味がよく分かる。

車を運転するときに、障害物に注目して運転する者はないはずである。運転者は常に進路を見る。障害物は、除けて通るべきものではあっても、注目すべきものではない。そして、すべての障害物を無事に通過して、無事に目的地に着けるという確信がなければ、誰も出発などしない。本当に目的地に着けるのだろうかと、恐れに駆られている人間に、運転は無理である。そういう人間は免許も取らず、決して車道には出ないのが最善である。

出発する以上は、無事に目的地に着けるという確信が誰しも必要なのであり、そのためには、障害物に払う注意は必要最低限度に抑え、ただどこに進路があるか、どこへ向かって進むべきなのか、それだけを第一に考え、どんな時にも落ち着いて冷静に進路を見分ける能力が必要である。

キリスト者はすでにエジプトを脱出したのである。荒野で罪のゆえに倒されて朽ち果てるための脱出ではなかった。だから、我々は神に全幅の信頼を置いて、御手に自分を委ね、神が導いて下さるままに前進して行くのである。恐れなく、勇敢に、喜びと活気に満ちてである。

「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)

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「死の陰の谷」を「命の泉」の湧くところとする秘訣

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、 鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、 主と同じかたちに姿を変えられて行きます。 これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18)

神は、神以外に信頼する者を持たない、地上では寄る辺ない者を決してお見捨てになることなく、最後まで共にいて、すべての悪からかくまい、助けて下さる。

以前に、筆者はこれまで「死の陰の谷」ばかりを歩いて来て、「緑の牧場」と「憩いの水際」を経験することが非常に少なかったように思う、という趣旨の話を記事に書いた。そして、この先は、出来るならば信仰によって「死の陰の谷」を短縮する方法を見つけたいものだと。

しかし、今、再び、それを少しばかり訂正し、「死の陰の谷」を歩く時も、そこを「緑の牧場」に変え、「憩いの水際」をわき出させることは可能なのだという確信を述べたい。いや、実のところ、「緑の牧場」と「憩いの水際」はまさに「死の陰の谷」を歩くときにこそ、発見される、と言っても良い。

ペテロが水の上を歩いていた時、自分自身を見て溺れそうになり、主イエスに助けられたように、最初は誰でも失敗するだろう。しかし、「水の上を歩く」ことは必ず可能となるのだ。だから、「死の陰の谷」の只中で、「緑の牧場」と「憩いの水際」を見つけることも、必ず可能となるのである。

こんな内容になって来ると、「ヴィオロンの書いていることは分からない」とさじを投げてしまう人もいるかも知れない。

さて、今週一週間は、ずっと雨の予報で、今も外は雨だ。

今日は休日だから良いのだが、平日は毎日、筆者が通勤している最中、雨はやんでいた。少しパラパラとすることはあったが、ずぶ濡れになったりするようなことは全くない。

それでも、家を出るほんの数十分前には土砂降りの雨が降ったりしていた。神の守りを感じる瞬間であった。

これまで、こういうことがあると(こういうことは無数にあったのだが)、今までは「主が共にいて、守って下さったんだ!」と喜んでいたものだ。何かとても珍しい幸運に見舞われたように。

だが、最近は、それは「幸運」によるものなどでは断じてなく(神は気まぐれな方ではない)、信仰によるものであって、雨くらいのことで騒いでいる場合ではなく、天候のみならず、山をも動かすほどの信仰があれば、本当に山の方が信者に従うのだ、だから、信者はそういう信仰を持ちたいと願うべきなのだ、と思われてならない。

むろん、それは主の御心の只中を信者が歩いている時に限る。己の勝手な欲望を叶えるために、自然界の事象に向かって命じても、それは無駄なことである。だが、本当に信者が神の御心と一体となってこの地上を歩み、その上で、御名の権威を行使するならば、海も割れるのであろうし、嵐も静まり、山も動くのである。

キリスト者の人生は、超自然的な領域における、この世の法則を超えた、キリストと共なる霊による支配である、ということをこれまで書いて来た。霊的領域において主イエスの御名の権威を行使し、この世の事象を御名の権威に従わせ、すべてをキリストにあって管理し、統治する秘訣を学ばない限り、クリスチャンの人生は、決してあるべき姿にはならないであろうという気が筆者はしてならない。

「あなたは何を言っているんでしょうか? しるし・不思議・奇跡を追い求め、超人になることを目指しているんですか? 神になりたいんですか? それは悪魔的誘惑ではありませんか?」

と疑いの眼差しで見る人もあろう。これだから、ペンテコステの出身の人間は駄目なのだ、と言う人もあろう。奇跡や、超自然的な霊的領域のことを全く認めない人々も信者には多い。

むろん、悪魔も反キリストも奇跡を起こす。そのことは聖書に警告されている。そして、筆者は魂の力による偽物の奇跡が存在することを否定しないし、ペンテコステの教義をも認めておらず、奇跡を第一として追い求めているわけではない。むろん、自分は神だなどと言っている人たちの仲間に加わりたい願いは全くない。

だが、信者がキリストとの固い結合を追い求めることと、「神になろうとする」ことは全く別である。そして、もしこの世に「模造品」が溢れているのだとすれば、それは必ず別のどこかに「本物」が存在するためなのである。たとえば、偽物の「聖霊」を語る人たちが現れるのは、本物の「聖霊」が存在するからであり、またその本物を隠すことが目的なのである。もしペンテコステ運動が巨大な贋作なのだとすれば、必ず、霊的統治の本物が存在するはずなのである。

つまり、キリストにあっての霊の統治の本物が必ず存在し、そこに至らせないために、暗闇の勢力が前もって歪められた偽物を大量に流布しているだけなのである。だから、イミテーションがイミテーションだと分かったからと言って、その幻滅のために、本物を探す努力までやめてしまうことが、一番、信者にとって無意味な結論である。

たとえば、「聖書に忠実であるために」、婦人たちは集会でベールをかぶるべきだと主張する信徒の群れがある。それほど、聖書に忠実であるために、努力したい熱心さがあるならば、「病の癒しは現代では起こらない」などと決めつけずに、主イエスが福音書でどれほど数多くの奇跡をおこなわれたかにもきちんと注目すべきである。

こまごまとした形式にばかりはこだわっておきながら、キリストの復活の命の本当の解放の力には注目しない、というのでは、正しい聖書の読み方とは言えない。

福音書を見てもらいたい。使徒行伝を見てもらいたい。主イエスや弟子たちによるどれほど数多くの奇跡が記されているか。また、「山をも動かす信仰」や、ペテロが主イエスに従って水の上を歩こうとした記述などは、一体何のために書かれているか? これは単なる教訓のために作られた大袈裟なたとえ話なのであろうか?

決してそうではないと筆者は考えている。初代教会の当時は、そういう奇跡は至極当たり前だったのだろうと想像する。

だが、その後、キリスト教が世俗化されて行くに連れて、これは単なる死んだ教義や、道徳律や、処世訓のようなものになってしまい、そこから命が失われたのである。

今日、悪魔に支配されるこの世において、絶えず理不尽に苦しめられている信者たちは数多く存在する。しかし、キリストはすでに悪魔に対してカルバリで勝利を取られたのである。

だから、キリストの勝利を実際として信者がこの地上で掴み、これを信仰によって行使するためには、どうしても、この世の法則を超えた力が必要となるのであって、それこそが、キリストの復活の命の力なのである。

悪魔が偉大な奇跡を起こして自己顕示しようとするのとは違って、キリスト者は、自己顕示のために奇跡を求めているのではない。信者は絶えず、カルバリの死に立ち戻る。復活の命は、十字架の死と共にしか働かない。

それが、「死の陰の谷」の意味するところでもある。

もし信者の人生に「死の陰の谷」が全くなければ、人生は相当に楽になるであろう。人間存在としての我々は、自分にとって苦しいことは何も経験したくない、と思う。自分の人生に「緑の牧場」と「憩いの水際」だけが目の前に連綿と続いていてくれたら、どんなに良いかと思うであろう。

だが、キリスト者の人生の不思議は、たとえ目の前に「死の陰の谷」にしか見えない風景が広がっていたとしても、信仰がありさえするならば、そこに「緑の牧場」と「憩いの水際」を見つけることは可能だ、ということなのである。可能であるばかりか、たやすい、と言っても良いかも知れない。

たとえ40年間荒野をさまよったイスラエルの民のように、この世の荒野で訓練されることがあっても、もし信仰さえあるならば、神は信者に豊かに命をお与え下さる方であって、決して信者を飢えさせたり、危険な目に遭わせたいと望んでおられるために、そこへ導いて来られたわけではない、ということが分かって来るであろう。

そうなれば、たとえ目の前に迫りくる敵の大群衆を見る時にさえ、そこに神の勝利を見ることができるようになるであろう。

このような視点を、信者は養わなければならない。それは決してポジティブ・シンキングやら、見たくないものにすべて蓋をするとか、ありもしない空想や超能力や奇跡に期待して、現実的な責任を放棄するといった自分勝手な生き方のことではない。

ただこの世の法則においては、全く何もないどころか、すべてが荒廃し、死んだような有様に見える時にも、すべてを信仰の観点から見て、神が望んでおられるように世界を見て、そこに神の望んでおられる統治を、御名によって、天から地に引き下ろすことである。それが信者の役目なのである。

モーセが荒野にいて民を導いていた時、彼が杖で岩を打てば、岩から水が湧き出たように、荒野に水をわき出させ、緑の牧場を生やすことは、信者の仕事なのである。

それができるようになった時、初めて、「栄光から栄光へ」、「主の似姿に変えられて行く」ということの意味も分かるようになるであろう。

肉眼では「死の陰の谷」から「死の陰の谷」へ向かって歩いているようにしか見えない時にも、そこに神の栄光を見ることができるだろう。そして、栄光から栄光へ向かって歩いて行くのである。

この世の法則を超えた霊による統治能力、これは日々実験し、試して行かなければ、一体、それが何を意味するのか、理解できる人はいないものと筆者は思う。特に、これは現代のクリスチャンの認識からはほぼ失われてしまった領域である。

だが、どうしても、それを開拓して行かねばならないのだと筆者は感じる。

また、天的な教会の姿を見いだす、ということも、それがなければ無理なのである。

信者は自分自身のためだけに、神と共に信仰によって生きているのではなく、団体として生きている。これはキリストの御身体としての教会という団体のことである。

だが、教会とは、この世のあれやこれやの団体のことではなく、それぞれに信者が名前をつけては集っているてんでんバラバラのサークルのことでもない。

教会はこの世を超え、時代を超え、空間を超える。この天的なエクレシアの真の姿を知らなければ、その一部としての自分の機能を知らなければ、信者は自分が一体、この地上で何を担っているのか、その使命を明確に理解することもないであろうという気がしてならない。

オースチンースパークスが書いていたように記憶しているが、教会は「これから建て上げる」ものではないし、人間の努力によって「造り上げる」ものでもない。

たくさんの有望そうな信者をスカウトして来て、地上の集会を増やせば、エクレシアが成長する、ということもない。

エクレシアは初めから完全なのである。エクレシアを成長させようとする努力は必要ない。

キリストはすでに成人に達しているのである。我々の努力がキリストの御身体を成長させるわけではないのだ。

この点を間違えば、信者の生き方は全く本末転倒になってしまうであろう。

今日、あまりにも大勢の信者たちが、「教会を成長させよう、教会を建て上げよう」などと言って努力しているが、それはベクトルが完全に間違っているものと筆者は考えている。

聖書は、「キリストの満ち満ちた身丈にまで成長しなさい」、と信者に対して言うが、「キリストの御身体を成長させなさい」、とは言っていない。

なぜなら、キリストの御身体はすでに完全だからである。御身体とは教会のことである。教会は完全である。神は初めから完全な教会の姿を見ておられる。しみも、しわもない花嫁としての栄光の教会、それはまるであたかも最初から罪を犯したことが一度もなかったかのように、完全な教会の姿である。

だから、成長しなければならないのは、教会ではなく、信者自身なのであり、信者の内なる信仰の増し加わりが必要なのである。地上における集会の規模拡大、信者の人数の拡大などが、教会を成長させるということは、決してないであろうと筆者は確信している。

信者の信仰の増し加わり、信者の内面におけるキリストの増し加わり、それが信者をより一層、完全な教会のリアリティへと導き入れ、組み込むのだと考えるべきであろう。それは極めて個人的な内面の過程である。

「顔の覆いが取り払われて」――つまり、この世の荒廃した有様を見るのではなく、そこに信仰によって、神の御心を一心に見つめ、キリストの命の豊かさを見つめ、それを実際に地に引き下ろす人となること、主イエスがなされたように、地上で囚われている人々を解放し、命を与える役割を果たすこと、「死の陰の谷」に命の泉をわき出させる人となること、それが、「鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、 主と同じかたちに姿を変えられて行」くことの意味なのだ。

まさにキリストご自身のように、キリストご自身と固く結びついて、まことの命そのものに近づいて行くことである。

その完成体が栄光の教会の姿なのである。信者は、信仰によって主に接ぎ木されたように、信仰によって、このエクレシアの実際に入りこむのである。そして、そこから、キリストの命の豊かさ、神の多種多様な知恵をこの世に向かって現すのである。

そして、その教会とは、おそらく、今の時代だけに限定されるようなものではない。キリストが地上に来られ、天に昇られてから、連綿と今に至るまで時代を超えて続いている霊的な存在なのである。

教会とは、断じてこの地上で「教会」という名で呼ばれているてんでんばらばらの組織や団体のことではない。だから、天的な教会の真の一体性と、そこにおける信者の個別の役割を筆者はよりはっきりと知りたい、と思わずにいられない。  

悪魔による大量生産からキリストにあるオーダーメイドへ

かつて、学術論文を書きながら、生計を維持するために、さまざまな仕事を経験したことがある。今になっても、論文の締め切りに追われていた当時の自分を夢に見ることがある。

その頃の筆者には、人の成さない偉大な仕事を成し遂げた いとの夢があった。友人に向かって、こんな大胆な台詞を口にしていた、「私も自分のケーニヒスベルクへ世界を集められるような人になりたい」*。

(*これはは哲学者カントが生涯のうちに一度も国外旅行をせず、ケーニヒスベルクだけで人生を終えたことになぞらえた言葉である。カントは自分から世界の国々に出て行かなかったが、その代わりに、自らの哲学によって、世界を自分のもとに集めた。人はそれくらいの強烈な創造行為を行うべきである、という意味。

ちなみに、ケーニヒスベルクは東プロイセンの主都であり、ドイツ騎士団によって建てられた美しい貿易都市で、レンガ造りの街並みで知られた。が、第二次大戦中にロシアに占領されてカリーニングラードと改称され、古き良き街並みは破壊され、歴史はほぼ完全に絶たれた。今もって再興は不可能な状態で、いわば、歴史の幻となった都の一つである。)
 
さて、以上のような願いは、天然の人としての筆者だけの力では、実現が不可能であった。そこで、筆者は主と共なる十字架を経て、それまでの願いが全て自分の手から取り去られ、天から聖別されて、再び、キリストの力によって再興されて戻って来るのを見る必要があった。

それまでの夢は、あたかも一旦、目の前で砕け散ったかのようであったが、力強い十字架の解放の御業によって、再び、復興されて筆者の手に返された。筆者はこの十字架の御業により、永遠にアダムの世界にあるあらゆる絶望から救い出され、全ての恐れから解放されて、十字架の死と復活によって、天的な高さへと引き上げられ、暗闇の支配下から、愛する御子の支配下へと移されたのであった。

キリストにあって満ち溢れる光の支配下へと移され、新 しい心と、新しい霊とが与えられた――。

以前とは全く違う人生が開け、過去についての後悔や、痛みや、悲しみは、なくなり、どこにいても、何をしていても、主が共におられると、信じることができるようになった。

そして、今や、主とともに生き、歩んで行きたいという願いだけが、生涯の目的となったのである。

だが、「古き人に死んだ」というテーマと、「神に生きる」というテーマを追求する余り、筆者は、キリストにある新しい人として、自分が過去と現在をどのように結びつけるべきかが、長い間、よく分からなかった。

特に、従来のキリスト教においては、「献身する」とは、信者が自分の個人的な人生を離れて、全生涯を福音宣教に捧げることを意味すると教えられる。

そんな固定概念も手伝って、神のために生きることと、自分の個人生活が、どのように両立し、統合されるのか、筆者には、長い間、よく分からなかったのである。

そして、筆者がこの当時、関わっていた兄弟姉妹は、この点において、全く助けにならなかったどころか、誤った観念によって、かなり有害な影響を及ぼした。

その頃、筆者が「兄弟姉妹」として交わっていた全員が、筆者とは全く無関係なフィールドで生きて来た人たちであり、ほとんどの場合、自らの専門も持っていなければ、あったとしても、すでに仕事からも離れた年金生活者などで、彼らは信仰生活というものを、この世の職業とは何ら関係ない、ほとんど形而上のもののようにとらえていた。

そこで、前途ある若者が、一体、働きながら、どのように神に仕えることができるのか、という問題には、全く具体的な答えやヒントをくれなかったのである。むしろ、そのような人々の話を聞けば聞くほど、筆者にも、「信者がこの世の職業を通して自己実現を目指すことは、御心にかなわない生き方なのだ」といった考えが増し加わるばかりであった。

筆者は兄弟姉妹の人生を参考材料にすることができず、また、彼らも、キリストにある「新しい人」の生き様について、従来のキリスト教の固定概念を超え得るような考えを何も持っていなかったので、その交わりからは、何の新しい発想も生まれて来なかった。

そんなこともあって、筆者は、何年間も、この問題については答えを見いだせなかった。果たして、自分の過去に積み上げて来た功績、過去の自分の持っていた夢、性格、知識、経験、生き様などを、新しい人生にあって、どの程度、継承して良いのだろうか? 

たとえば、学術研究の世界において功績を打ち立てたいという願いは、今後も、妥当なものとして持ち続けるべきなのだろうか? かつて書いていた論文を続行させるために、研究書を取り寄せて、文学の世界に没入することは、許されるのであろうか? 

そんな疑問から始まって、たとえば、ペットを飼うことは許されるのか、とか、一体、自分の願いや嗜好のどこまでが、御心にかなうものとして、生活に適用して良いのであろうか、といった疑問の中にあった。

そういった疑問がなかなか解けなかったので、筆者は長い間、自分で自分の人生を「保留」にし、自分の願いを「保留」し、自分の経歴を「保留」して、それとは無関係の生き様を続けていた。

兄弟姉妹からの不適切な助言の影響もあって、かなり長い間、筆者は自分のかつての個人的特徴を「アダム来のもの」として捨て去るべきなのかどうかという問いに、明確な答えを出せなかったので、個人的な願いに基づいて生活の新たな一歩を踏み出すことをためらっていた。

だが、こうしたことは、全く、間違った固定概念を持つ人々からの悪影響に他ならず、本当は、「キリストにある新しい人」について、そんな疑問を持つ必要はなかったのである。

筆者の過去は、すでに霊的に十字架を経ていたので、キリストにある新しい人に自然と再統合されており、筆者が自分から過去を捨てるとか、個人生活を捨てるとか、そんな行動は全く必要なかった。たとえば、かつてよく筆者が口にしていた「自分のケーニヒスベルクに世界を集める」とかいった台詞も、筆者は、長い間、信仰の何たるかをよく分かっていなかった頃に口にした若気の至りでしかないような気もしていたのであるが、実は、そんな些細な願いでさえ、キリストにある新しい人の中に有益に再統合されていたのである。

そんなわけで、主と共なる十字架の死と復活の何たるかを実際に経験した後も、筆者はあたかも自で自分の過去と訣別せねばならないかのように考えていたため、学術論文を書いておらず、論文を書いているわけでもないのに、ただ生計を立てるためだけに、論文の締め切りに追われていた頃と大差ない、自分の専門とは無関係の仕事に従事したりしていた。

だが、そのような考えは、すでに述べた通り、あたかも信者であるかのように、兄弟姉妹を名乗る人々を通じてもたらされた暗闇の勢力の偽りの力の影響によって生まれたものだったのである。

暗闇の勢力は、信者の人生が、十字架を通して解放され、信者が神と同労して生き生きと自由に生活しながら、,キリストによって生まれた「新しい人」として、天的な歩みを進めることを何としても妨げるために、全力を挙げて、信者の思いを攻撃して来る。だが、その攻撃の多くが、他でもない「兄弟姉妹」を名乗る人々から、間違った不適切な偽りの助言という形を通してやって来ることに、当時の筆者はまだ十分に気づいていなかったのである。

さて、暗闇の勢力が信者に吹き込む嘘の筆頭格は、いわれなき「罪悪感」である。つまり、本当は罪深くもなく、わがままでもなければ、贅沢でもない、信者の些細な願望までも、それがあたかも神の御心にそぐわない罪深いものであるかのように思わせることで、信者に自ら願いを捨てさせ、あきらめさせることが、暗闇の勢力の策略なのである。

第二は、神に対して生きることへの偏見であり、「徹底的に自己を放棄しなければ、神に従うことはできない」という名目で、信者に自分の個性を自ら捨てさせ、自分を否定させようとする偽りであり、これもまた暗闇の勢力による極めて重大な嘘である。そして、第一の嘘と第二の嘘は密接に絡み合っている。

地獄の軍勢は、この世に生きる人々を罪の奴隷として拘束しており、そこで暗闇の勢力は、人を貧しさや、不自由や、夢や希望のない人生に閉じ込め、可能な限り苦しめ、自由を奪うことを使命としている。だが、彼らは、信仰を持たずにこの世に生きている人たちだけでなく、キリストにある新しい人をも、そのように束縛しようと、信者の思いの中に攻撃をしかけて来るのである。

暗闇の勢力は、信者が自分の願いを率直に神に申し上げながら、生き生きと自主的かつ個性的な人生を送ることを何としても妨げようとして、こう言う、「あなたの専門知識や、かつての職業や、かつての願いは、みな堕落したアダムの古き人から生まれたものであるから、あなたはそれを罪深いものとして捨てなければならない。そうしなければ、神のために生きることはできない」と。

実は、兄弟姉妹を名乗っている多くの信者たちでさえ、知らず知らずのうちに、このような悪魔の嘘に加担して、信者をより束縛し、より不自由にし、より不自然に苦しんで生きさせる手伝いをしようとすることが多いのである。

今日の信者のほとんどは、「キリストにある新しい人」という言葉を口にしながらも、実際に、「新しい人」は、この世の職業において、個人生活において、どのように生きるべきか、ほとんど分かってはいない。だから、もしこの点について、信者がうっかり、ふさわしくない兄弟姉妹に助言を求めようものならば、非常に好ましくない有害なアドバイスを受けることがあり得る。

当時の筆者の周りにいた兄弟姉妹の多くは、ただ信者が「神のために」何かを「捨てる」ことや、「理不尽を耐え忍ぶ」ことだけが、御心に従う道であるかのように誤解して、周囲の人々に対して、そのような説得に腐心していた。これは、今日のクリスチャンの多くの姿と同じである。

たとえばの話、「ペットを飼いたい」という願いを、筆者がある兄弟に向かって口にしたとき、その「兄弟」はこう答えた。

「ヴィオロンさん、パウロがペットなんか連れて伝道旅行できたと思いますか?」

こうして、その「兄弟」は、信者がペットを飼うことが、いかにも主への献身の妨げになる、伝道&宣教にとって障害となる、と言わんばかりの否定的反応を示した。だが、筆者は、その頃には、この兄弟の性格を知り抜いていたので、こうした忠告ばかりをずっと聞き続けていれば、自分の人生で何一つ、願いを決行できはしないということを悟っていた。そこで、その忠告を振り切って、ペットを飼ったのであった。

ここで筆者が議論したいのは、信者がペットを飼うことの是非ではなく、従来のキリスト教の固定概念の域を出ない人々は、全ての考え方が、万事こんな調子だということである。つまり、彼らは自分よりも若い「後学」となるような信者をつかまえて、彼からあらゆる自由と権利を取り上げた上で、自分好みの型に当てはめるために、その信者の生活のどんな些細な事柄についても、「神のために」という理由がついていないと、信者に何も許そうとせず、しきりに反対するのである。

たとえば、神のために人生を捧げた人が、学術論文など書くべきではない、といった考えもその中に含まれているし、自分の専門性を人前で誇示すべきではないとか、何を買うか、何を食べるか、といった些細なことでも、「贅沢」や「貪欲」に該当すると非難して、事細かに様々な制約を持ち出して来る人たちもいるのである。そんな人々に助言を求めるのは、自殺行為にも等しい。

だが、何年も、筆者はそういった兄弟姉妹の考え方が根本的に間違っていること、彼らに意見や忠告の機会を与えてはならないこと、あるいは、もっとひどい場合には、こうした人々を「兄弟姉妹」と考えるべきではない、ということに気づくのが遅れた。そして、かなり経ってから、キリストにある新しい人の人生は、過去の何かを「捨てること」に基づいて成り立っているのではなく、むしろ、十字架を経て、「新しい人」には、過去の要素がすべて再統合されているので、信者は自分で過去の生き様と訣別しようと努力して、自分の願いを滅却したり、それを禁じたりする必要はない、ということが分かったのであった。

信者は、御言葉に背き、神を悲しませるような反逆的な内容でなければ、自分の心の自然な願いに従って、ごく普通に生きて行けば良いのであり、もし自分に備わっている何らかの適性があれば、それを思う存分、活かせば良いのである。

奇しくも、そのことを筆者に向かって語ったのは、ベック集会にいた兄弟たちであったが、彼らは、以前に筆者が出会った「兄弟姉妹」たちが、筆者の心にかけた呪縛を解いて、いかに筆者が自分の専門性を有効に活用して生きるべきか、延々と筆者を説得した。

「ヴィオロンさん、あなたの学歴や経歴は、神が許されるのでなければ、決して手に入れられないものです。それが許されたということは、あなたにはそれを用いてなすべきことがある、という意味に他なりません。だから、あなたは自分の専門とは関係のない仕事に就いて苦しんだりする必要はありません。そんな人生が、神のために生きることではないのです。あなたは自分の能力や知識を神に捧げ、神がそれをどう用いて下さるのかを見るべきです。」

この忠告は筆者の心に光を与えた。年々、悪化して行く情勢の中で、専門と関係ない仕事をして生計を立てることには、筆者も限界を感じていたので、筆者は彼らの忠告の通りに、自分の過去に持っていたすべての知識や経験をすべて改めて主にお捧げし、その後、専門の仕事に立ち戻るために必要な努力をして、人生がどう開かれるのかを観察した。

そうして、筆者は確かに専門に復帰したのであるが、しかしながら、以上の兄弟姉妹の助言にも、相当な限界があった。それは、この集会の多くの人たちは、かなり裕福であり、生活の苦労をあまり知らず、特に、筆者の世代が社会で置かれている窮状がどれほど深刻なものであるかに、理解がなかったことである。それゆえ、彼らもまた、前述の兄弟姉妹と同じように、「後学」を自分たちの正しいと思う考えに当てはめ、従わせせようとして来たのである。

以上のような方法で、筆者が神に願って与えられた専門の条件が、過酷で、とても長くは続けられそうにないものだと分かって、筆者がその仕事を辞めようとしたとき、仕事を見つける時に助言し、祈ってくれた兄弟姉妹が、かえって敵対する側に回った。彼らには、「神様が与えて下さった仕事を、そんなにも早く辞めようとするなど、不信仰であり、言語道断だ」という考えしか、返答の持ち合わせがなかった。

また、この集会以外のつながりのある姉妹からも、その時、同じように非難の言葉を返されたことを覚えている。あろうことか、この姉妹からは、この転職を機に、絶縁さえも申し渡されたのであった。その時、筆者には、次の仕事も無事に決まっていたのだが、彼女は、それを喜んでくれるどころか、「もうそんなにも早く、次の仕事を見つけたなんて」と冷たい反応を示し、「もう二度と連絡して来ないで」と、交わりの扉を閉ざしたのであった。

だが、いかに周囲の兄弟姉妹に誤解されたとしても、当時、働いていたのは筆者自身であるから、筆者が誰よりも、その労働環境が、逆立ちしても長くは持ちこたえられないものであることをよく知っていた。そのような不適切な条件に耐えていれば、いずれ自分を壊すことになり、場合によっては、不法に加担することにさえつながりかねない。それが神の御心であろうはずがないことは承知していた。
   
だから、筆者はこれらの「兄弟姉妹」の誤解や怒りや叱責を無視して、自分の判断で、新たな道に踏み出して行った。

こうして、兄弟姉妹と考えていた人々から、間違った、不適切な忠告や助言を受け、それに従わなかったために、筆者がこうむった誤解の数々は、枚挙に暇がない。だが、たとえ不愉快な誤解をこうむったとしても、筆者は根気強く自由と解放を目指して信仰による模索を続けねばならないことを知っていた。だから、そうした助言は、神から来るものではなく、暗闇の勢力から来るものと確信して、筆者はそれらを振り切ったのである。

そもそも、信者は自分の人生について、主ご自身だけを相談相手に、自分自身で決断を下して行かねばならない。たとえ兄弟姉妹であっても、他者に主導権を明け渡すことはできないし、人の支配下に入ると、そこから始まるのは、奴隷的拘束だけである。だから、たとえ兄弟姉妹であっても、他者に助言の隙を与えることは、ほとんどの場合、逆効果となる。
 
そんな模索を繰り返す過程で、筆者には、この世に存在する仕事の大半が、非常に問題だらけで、実に多くの場合は、違法な労働条件のもとに行われており、たとえ専門に関係する仕事に就いても、その事情はすぐに変わらず、こうした悪しき問題が一挙に解決する見込みはほとんどない、ということが分かって来た。

しかし、そんな中でも、筆者は「世の情勢がこんな風だから、どんな不適切な条件にも、自分が耐えるしかない」とは考えず、可能な限り、自分の願いを否定することなく、正常な仕事を探す努力を続けた。

つまり、この世の情勢に自分を合わせるのではなく、あくまで自分の正しいと思うことや、願いを譲らずに天に向かって主張し続けて、根気強く、不正や、不法を助長することなく、神の正義と、自分自身の願いにかなう、納得できる条件を求め続けたのである。

この世の情勢では、99%見込みがない時だからこそ、信仰に頼る価値がある。人にはできなくとも、神にはできる。世はいつでも「これしかないから、あなたは妥協して条件を引き下げなさい。多少の不正には目をつぶりなさい」と言って来るであろうが、信者がその言い分に耳を貸して、自分が最低限度だと思っている条件にさえ、妥協を繰り返すようでは、信仰者となった意味はなく、その先はない。神は必ず、信者が健やかに自立した生活を営むために、必要な全ての条件をお与え下さるはずだ、と、筆者は心に確信していた。

そのような筆者のスタンスを、兄弟姉妹のほとんどは理解できなかったであろうと思う。筆者の態度は、彼らから見れば、「贅沢」であり、「わがまま」であり、「えり好み」でしかなかったのではないかと想像される。だが、そのように不評をこうむるであろうことが予め分かっていたので、筆者の方でも、もう彼らには何の助言も乞わず、相談もしなかった。

そうして、筆者は他者の助言や忠告に従って生きることをやめ、ただ神との関係において、自分の願いをあきらめずに神に申し上げることだけによって、生きることに決めたのである。

そして、その過程で、実に驚くべきことが分かって来た。

筆者がこれまでに見つけた仕事は、もはや相当な数に達しているのだが、もともと数少ないと言われていた専門分野の仕事である。労働条件に文句をつけて、度々、仕事を変わっているような人間に、将来の見込みなどない、と普通の世間は考えるであろう。しかも、筆者は郷里からの援助などは受けず、完全に独立して、自分だけで生計を立てている。筆者の試みは、どうせ長くは続かないだろう、と高をくくっていた人々がいたとしても不思議ではない。

だが、それにも関わらず、筆者は行き詰まりに達することはなく、常に道が開けたのである。そして、それが神の采配であるばかりでなく、筆者と主との「信仰による同労」によって生まれた結果であることが、筆者にも、だんだんはっきりと分かって来た。

つまり、これまでの筆者はよく「こんなご時世だから」と悲観したり、恐れに駆られたりもしながら、それでもあきらめきれずに、「どうか御心にかなう良い条件の仕事をお与えて下さい」と、必死の思いで神に懇願したりしていたのだが、本当はそのように祈るべきではなく、実のところ、神の方が筆者に向かって、問うておられたのである、「あなたは一体、何をしたいのですか。世の情勢は関係ありません。あなたが願っている内容を正直に具体的に私に向かって言いなさい。そして、私にはその願いを満たすことができると信じ、権威を持って行動しなさい。」

神がそのように問うておられることは、その都度、「運よく」見つかる仕事が、どうにも筆者が心の中でそれまで思い描いていた条件にかなり合致している様子からも理解できるのだった。つまり、筆者自身も半信半疑の状態で祈りつつ、「神が奇跡を備えて下さるならば」と期待し、「運よく」見つけたと思っていたものが、実は、筆者自身が心の願いによって、主と同労して自ら創り出したものであり、神が筆者の祈りと信仰に応えて下さったことにより、信仰に応じて「創造」されたものであることを、認めずにいられなくなったのである。むろん、そうしたことは、職探しの過程だけでなく、生活のあらゆる場面で起きて来た。

このあたりから、筆者の考え方が劇的に変わって来た。

つまり、キリストにあって生きる「新しい人」は、この世の情勢に翻弄され、圧迫されて生きるどころか、天に直通の祈りを捧げ、キリストとの同労により、無から有を呼び出して来る権威を持つのだということが、次第に分かり始めたのである。

その「新しい人」の生き様は、世の中の悪化して行く情勢の中で、かろうじて生存が保たれているといったようなレベルのものではなく、まさに(共産主義者が自分たちの思い描くユートピアを表現するために、誇らしげに使っていたあの有名な)フレーズ、「必然の王国から自由の王国へ」、に見るように、「この世の情勢が悪いから、信者は仕方がなく妥協して、たとえ不法で劣悪な条件でも、この程度で我慢しなければならない」といったような、ちっぽけかつ不自由な生き方から、「あなたは何を願うのか」という、信者自身の個人的な願いに基づく「オーダーメイド」の生き方への転換なのである。

「キリストにある新しい人」の人生は、天と地の同労によって作り出される極めて個人的な人生であり、その生き方にキリスト以外の「型」はない。神は信者の心の願いに、細部に渡るまで耳傾け、応えて下さるので、キリスト者の人生は、極めて個人的な特色を持つもの、周囲の誰にも似ていない「オリジナルな」ものとなる、ということを、信者が心に留めておくのは有益である。

この世のほとんどの人々は、まるで大量生産された服を買って着るように、職業や、暮らしぶりなど、人生の隅々においてまで、すべての事柄について、ある種の型に自分をあてはめている。そして、その域を決して出ることはできないし、出ようと考えない。彼らは、その「型」が、自分の個性にとって非常に窮屈で、多くの苦しみをもたらしていることを、ある程度は認識しているのだが、それでも、それがあるまじき制約だとは考えず、あくまで自分自身を型に合わせて切り刻むことが正しいことであり、それ以外の人生はあり得ないかのように錯覚している。

だが、本当の人の人生のあるべき秩序は、それとは逆なのである。人間が型に合わせるべきなのではなく、型が人間に合わせて作られるべきなのである。型というものは、人間によって人間のためにこそ、造り出されるものであって、人間に奉仕することが、その役目だからである。そういう意味で、キリストにあって自由とされた人の人生は、もはや大量生産された型に自分を当てはめて、それに適合しない自分の一部を自ら切り刻んで切除しようと苦しむ人生ではなく、型が信者に従って作られる「オーダーメイド」の人生なのである。

そんなことは信じられないし、信じたくない、という人は信じなくて結構である。

だが、そのように、信者の人生が、信仰による「オーダーメイド」である以上、神との同労において、信者が心に何を願うのか、その願いの内容は、宇宙的な重要性を持っており、信者の人生に最も大きくものを言う事柄である。

そして、聖書の原則はこうである、「口を大きく開けよ、私がそれを満たそう。」

つまり、神は信者に大志を抱くよう求めておられるのである。世人の誰であっても、多少のコネや、実力さえあれば、実現できるような、ちっぽけな願いで人生を終わるのではなく、「どうせなら、神にしか実現できないような、壮大なスケールの夢を持ちなさい。私(神)があなたと同労してそれを叶えてあげるから。そのようにあなたを満たすことが、私の心なのです」と、神は信者に求めておられるのである。

だから、信者が自分の人生について、どういう願望を抱くのかという問題は、信者が神をどのようなお方であると考えているのかという問題に直結している。信者は、神の愛と理解の無限なること、神の懐の深さ、気前良さ、その御力の偉大さなどに、ふさわしい夢を抱くべきである。そして、自分の願いを率直に神に申し上げ、「私にはできないことも、神にはできる」と、神を信頼して一歩を踏み出して行く時、神はそのような信仰を喜んで下さると、筆者は確信している。

そのようなわけで、多くの兄弟姉妹が「わがままだ」とか「贅沢だ」とか「献身者にふさわしくない」、「貪欲だ」などと言って批判し、退けていた信者の個人的な願いこそ、実は、極めて重要な事柄であり、それは信者自身にとってのみならず、神にとっても重要であり、神はその願いに熱心に耳を傾けて下さり、その願いに応えて、ご自分を現して下さることが分かって来たのである。

「現世利益を求めてはいけない」などの言葉で、多くの信者が、自らそんな願望は自分にはないかのように否定しようとしている信者の願いこそが、実は、信者がキリストと共に同労して行う「信仰による創造」の原材料となって行くのだ、ということが分かって来たのである。

だから、信者は、自分の個人的な願いを自ら捨てようとしてはいけないのである。それが明らかに御言葉に反するものでない限り、自分の願いをあきらめることなく、根気強く、天に向かって願い続けるべきである。

信者は自ら「古き人」と訣別しようとして、自分のあれやこれやの特質を自分で抹殺しようと努力する必要はない。信者の過去も、性格も、知識も、能力も、何もかもが、キリストにある「新しい人」に自然に統合されていることを信ずべきである。そして、十字架を経て、自分に備わった全ての特徴が、すでに神のものとして、神にあって有益に活かされることを信ずべきである。

もう一度言うが、信者は、自分の心の願いを通じて、信仰によって環境を創造しているのである。信者が環境に合わせるのではなく、環境が信者によって創造され、治められるべきなのである。

最初のアダムは、地を治めるために創造された。アダムは堕落してその任務に失敗したが、神はキリストにあって再び人類に地を治めさせようと計画しておられる。人間の創造の目的は、人類の罪による堕落と、サタンによるこの世の占領という出来事によってさえ、変わることなく、神はこれを永遠のご計画の中で成就される。それは、ただ単に信者が自らの意志でこの地を治めるというだけでなく、信者が主と同労して、すべてのものをキリストの御名の権威の下に服従させるという壮大な計画の一部なのである。

だから、信者が信仰によって祈り求める時に行使しているのは、御名の権威なのである。その祈りが応えられることは、環境が信者を通して、御名の権威に服することを意味する。

確かに、この世は堕落しており、目に見えるものはいつか終わらなければならない。そうして新しい世がやって来る。だが、キリスト者にあっては、御国はすでに来ている、ということを覚えておかなくてはならない。御国は、信者の心の中に、霊の内にすでに到来しており、信者は御名の権威に基づいて、霊的な支配権を行使することによって、天を地にもたらし、御国をこの地に及ぼし、この世を堕落した悪魔の霊的支配から奪還して、キリストの統治を打ち立てねばならないのである。だから、信者が主にあって何を願い、何を求めるのかは、この二つの支配権――キリストの支配と悪魔の支配――の争奪戦において、極めて重要な意味を持つ。

だが、それはただ単に霊的な戦いにおける勝利と、神の権益の拡大のためという文脈においてのみ行われるのではなく、神は信者自身の個性そのものを、極めて重要なものとして尊重して下さり、キリストにある新しい人の中で、信者の人格や個性が、生き生きと発揮され、そうして信者が一人の人として真に自然なあるべき人間の姿を形成することを願っておられる。

この「新しい人」は、自分の個性を、地獄の軍勢に支配されるこの世が大量生産した型に合わせて自ら歪め、切り刻んでは、自らを苦しめるという不自然で抑圧された生き方(必然の王国)を離れて、信仰によって、神と同労しながら、神に自分の願いを率直に申し上げ、祈りを通して、主と共に望む環境を作り上げていくという「オーダーメイド」(自由の王国)の生き方へと転換して行くのである。

悪魔による大量生産からキリストにあるオーダーメイドへ――御名の権威に基づく環境の創造――それが「キリストにある新しい人」の生き様の主要な特長の一つである。信者が主と共に信仰によって環境を呼び出し、自ら創り出すのだから、信者のいる「ケーニヒスベルク」に全てが集まって来るのは至極当然である。

神の霊の命による支配

「あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
あなたの義を光のように明らかにし、
あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。

主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。
おのが道を歩んで栄える者のゆえに、
悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。

怒りをやめ、憤りを捨てよ。
心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。
悪を行う者は断ち滅ぼされ、
主を待ち望む者は国を継ぐからである。」(詩篇37:5-9)



・キリスト者の人生における神の霊の命の発展

筆者がこれまで生きて来た過程で、どれほど多くの試練と敵対があったであろうか。自分の人生を振り返って、果たしてどこまでの対立が、暗闇の軍勢からのいわれなき霊的攻撃で、どこからが、筆者の判断次第で、避けることができた戦いであったのか、今となっては多くのことが分からない。

筆者は、クリスチャンには戦いがあることを確信しているので、地獄の全軍勢が、キリストによって生まれた新しい人に激しい憎悪を燃やしているという事実を否定するつもりはない。

だが、それにしても、信者の人生において、霊における戦い方というのは確かに存在し、戦い方次第で、信者は損失を最小限度におさえることが可能なのである。そのためには、目に見えるところで起きている現象や、対立が、見えない世界でどのような意味を持っているのか、理解できるようにならなければならない。霊の領域で物事を理解することができないと、信者は自分の人生で攻撃を受けても、防ぐ方法も分からず、ダメージだけをこうむることになる。

暗闇の勢力は信者の不安を煽り、それを足掛かりとして、何かの事件へと発展させ、人の心の平安を奪うことを常としている。信者が早期に見抜いていれば、無傷で立ち去れたものを、深入りしてはいけないところに、足を踏みいれてしまったがゆえに、損失が拡大して行った、ということも起きないわけではない。

だから、信者は戦い方を学ばなければならないのである。こうした戦いは、信者が自分で取り組まない限り、勝利する方法を会得する術はない。御言葉は与えられていても、行使しなければ、何の効力をも発揮しない。だから、信者は、御言葉を実際にこの地に実体として引き下ろし、これを地獄の暗闇の全勢力に対抗する強力な武器として行使する方法を、自分の人生で一歩一歩、学んで行かなければならない。

その過程で、たとえ一度や二度、戦い方が分からなかったゆえに、無駄な損失をこうむったように感じることがあったとしても、それに頓着することなく、再び立ち上がって、より力強く、より勝利に満ちた形で、神の霊の命を行使するために、これまでの教訓に鑑みて、戦い方を研究しなければならない。

まず、霊の戦いとは、信者から自己決定権を奪い、信者が霊の平安と調和に基づいて自分と環境を支配することを妨げようとして、暗闇の勢力がしかけてくる攻撃であることを理解する必要がある。
 
霊の戦いは、まず信者の心(霊)の内側で起きる。それは信者をアダムの命に従って歩ませるのか、キリストの命に従って歩ませるのか、信者の自己決定権を巡る天と地との激しい争奪戦なのである。その戦いは、必ずしも、信者の外からやって来るのではなく、ほとんど場合、信者の心の中で始まる。たとえ本人が意識しておらずとも、信者の心には、絶えざる戦いがある。その戦いが、外側の世界に反映し、目に見える戦いとしての外側の事件となり、信者に何らかの影響を及ぼそうと、跳ね返って来るのである。

暗闇の勢力は、信者の心の状態を極めて注意深く観察している。悪魔とその軍勢には、神のように、人の心を読むことはできないが、かなりの精度で、人が何を考えているのかを把握することができる。

そして、暗闇の軍勢は、信者が力強く生き生きとしている時にはあまり攻撃をしかけず、信者の心の統率力が弱まっていたり、注意が鈍っていたり、警戒心が欠けていたり、疲労困憊していたり、まどろんでいたりする瞬間を狙って、何かの異常な影響力を行使して、信者の心に悲しみや、不安や、恐怖を与えて、圧迫することを常としている。

もし何も異常な事件が特に起きずとも、信者は朝から晩までの自分の心の中に去来する思いを観察・確認しみれば良い。そうすれば、大抵、体が弱っていたり、はっきりと目覚めていなかったりして、体や心の乱れの影響を受けて、信者の霊がしっかりと立っていない時に、不安や、悲観などの、良からぬ思いが近づいて来ることが分かる。

こうしたことを観察すればするほど、信者は、偶然に起きていたと思っていた外側の事件が、実は自分の内面と極めて密接に連動していることが分かる。信者の霊の統治する力の強弱や、霊における平安の有無などの状態によって、信者の外側で起きる事件が変わって来るのである。
 
暗闇の勢力は、信者の霊を弱体化に追い込み、その弱体化したところを狙って、さらなる攻撃をしかける。霊を弱体化させるために、さまざまな不安を煽る出来事を用意する。疲労困憊するまで働かせるとか、親しい人たちからひっきりなしに精神的な攻撃をさせるとか、信者の心と体の平安が失われ、信者の判断力が鈍るように仕向け、信者がその罠にまんまとはまって、起きた出来事を悲しみ、途方に暮れたところへ、さらなる事件を起こす、といった具合である。

そのようにして暗闇の勢力が信者の霊に絶えず圧迫を加えようとするのは、信者の主導権を奪うためである。信者の人生に害を与えるために、信者の人生の操舵室・司令塔そのものを破壊して、判断力・思考力・決断力を圧迫して奪い取るためである。

悪魔がそのようにしてキリスト者の主導権(自己決定権)を奪い取ろうと腐心しているところを見ても、キリスト者が完全に自主性を行使することは、キリスト者自身にとってだけでなく、宇宙全体にとっても、極めて重大な意義を持つのである。

生まれながらの人間には、外的現象をコントロールする力はない。たとえば、自分から遠く離れた場所で何が起きているのか、把握することができず、少し離れたところで、火災が起き、火の手が自分に迫っていても、その情報が自分にもたらされるまで、起きていることを把握することはできない。むろん、自分の周りにいる人間が何を考え、計画しているかなどは、さらに理解できるはずはなく、それをコントロールする力もない。

だから、生まれながらの人間には、外側から様々な現象を通してやって来る圧迫に抗う力はなく、それを防ぐことも、支配することもできず、ただ外的現象のなすがままにされて生きていると言っても過言ではない。

だが、信者の場合は、それとは違うのである。キリストの命によって生かされている信者は、生まれながらの人間とは違って、この世のすべてと十字架の死によって隔てられているため、外的現象に翻弄される立場にはなく、むしろ、これをキリストの復活の命によって治める立場にある。たとえ信者がクリスチャンになりたてであって、そのようなことが自分に可能だとは全く知らなくとも、少なくとも、キリストによって生まれた者には、イエスの御名によって、外的現象を治める権威が、たとえ赤ん坊のようなクリスチャンであっても、確かに与えられているのである。

多くの信者たちは、このような話を聞かされただけで戸惑うであろう。これは「超人」を生み出すための新種のオカルト的な教義なのか、はたまたニューエイジの話なのだろうかと思うかもしれない。だが、そうではない。主イエスの御名には、この地上にある全てのものを治める権威が実際に与えられているのである。

だとすれば、一体、なぜ、それほどまでに絶大な権威が与えられているにも関わらず、信者のほとんどは、未だ外的現象に振り回され、天候を気にし、事故や災害に怯え、人の思惑を気遣い、病や死に見舞われたり、不幸な事件に遭わないようにと、絶えざる不安の中を生き、それでもなお、望ましくない出来事に翻弄されてばかりいるのであろうか?

それは信者が、御名の権威を知らず、これに頼らず、これを行使せず、世人と同じように「ただの普通の人」として生きているからに他ならない。彼らは自分の自主的な自己決定権を一度も完全に働かせたことがなく、多くの場合、他人の言いなりになって生きているので、ほとんど人の奴隷と言っても差し支えない状態にある。

そういう信者が、キリストの御名の権威を行使するためには、まずは自分が人の奴隷となることをやめて、自己決定権を取り戻すところから始めなければならない。信者が完全なる自己決定権を自分に取り返して初めて、キリストの統治も、その人を通して現れ出ることができる。

さて、信者の外側で、外的現象が荒れ狂う時、主イエスが嵐を叱られたように、御名の権威を行使してそれを静め、従わせることは可能である。だが、そうなる前から、すでに信者の霊的統治は、外側の世界に及んでいる。

それは、信者の体全体に、信者の意志による統治が及んでいるのと同じである。脳が何らかの命令を下せば、神経を通じてそれが肉体の末端まで伝わり、体全体がその命令に従う。そのようにして、信者の体全体には一つの意志による統治が及んでいる。キリスト者の場合、それは魂による統治であるだけでなく、霊による統治である。

だが、キリスト者の霊的統治は、ただ彼の肉体の範囲だけにはとどまらない。体の外側にも及ぶのである。さて、ここからが肝心である。あらゆるオカルト的な力を身に着けた人々が、超自然的な活動に従事していることを、クリスチャンならば知っているであろう。一体、彼らのその能力はどこから来るのか。彼らは生まれながらの魂の力を発展させることによって、自分の身体の限界を超えて、世界に影響力を及ぼす秘訣を身に着けているのである。

だが、このような姿は、人間の本来的な自然な姿ではなく、人間の本来的な命を歪めて作り出された、キリストにある「霊の人」の悪魔的な模倣に過ぎない。オカルト的な方法で超自然的な影響力を行使する人々は、キリストの復活の命によって生きる新しい人を、悪魔的な力によって模倣しているのである。

すなわち、このことからも理解できるのは、キリストにある新しい人(霊の人)は、超自然的な能力を行使することが可能である、ということである。それは主イエスが地上におられた時、様々な奇跡をおこなわれたことからも理解できる。主イエスの統治は、彼の肉体を超えて、霊的な統治として、人々に及び、環境にも及んでいた。それはこの世の物流・経済・人の思惑や流れを見えないところまで把握し、支配し、変えてしまうほどの力を持っていたのである。

その力はどこから来るのかと言えば、霊から来るのであって、それが霊の命の統治に他ならない。霊の命の法則が、この世の滅びゆく命の法則と異なるので、それが地上で現れると、奇跡ととらえられるだけである。だが、キリストによって生まれた新しい人は、例外なく、この霊的統治の力を確かに持っている人間なのである。
 
このように言ったからと言って、それではクリスチャンは何かしら超人めいた偉大な存在になるのかと言えば、そうではない。キリストの霊の統治は、超自然的な力でありながらも、同時に、極めて優しく自然であって、何者をも圧倒せず、脅かすことがない。それはこの世の法則と常に調和して働くのである。

だから、オカルト的な魔術師が常に人を圧倒し、己が非凡な能力を世間に誇示しようとするのに対して、キリストの霊の命にある力は、まるで小川のせせらぎのように自然で、自分を誇ることがない。それは信者自身の生まれながらの弱さと絶妙に連携して働くので、世人は、信者を見ても、そこにみすぼらしい限界ある「ただの人」の姿しか見ることがない。それにも関わらず、信者は自分のみすぼらしい「ただの人」としての器の中に、はかりしれない神の霊の命が生きて働いていることを常に不思議な形で知らされるのである。

命というのは、意識していなくとも、独自に活動し、成長するのもであって、アダムの命もそうであるが、神の霊の命もそれは同じなのである。畑にまかれた植物の種が、誰からの指示がなくとも、条件が揃いさえすれば、発芽し、枝を伸ばし、葉を増やしていくのにも似て、神の霊の命も、成長するのであって、それは信者が「私はかれこれこのように成長しなければならない、葉は何枚にして、枝は何本、高さは何メートル、幹の太さは何センチ、根を張る深さは・・・」などと詳細な計画を立てずとも、自然に、その命に備わった性質と力によって成長して行くのである。

ほとんどのクリスチャンは、自分の内におられるキリストが、霊の命なる方であって、人格であると同時に、命である以上、その命は自分の中で成長するのだ、ということに全くと言って良いほど思いが至っていない。一体、霊の命が成長するとは、何を意味するのか、キリストの身丈まで成長するとは、何を意味するのか、それを具体的に考えたことのある信者はほとんどいない。ほとんどの信者が、キリストの身丈まで成長することを願う、と口では言いながらも、地上において全く神の命の力を味わうことなく、完全に「ただの人」として生涯を終えてしまう。それは霊的な領域に対して完全に無知であることから来る。

だが、聖書にも書いてある通り、信者の内にある神の命は成長するのである。そして、その成長は、霊による統治の拡大と発展を意味する。すなわち、信者の霊による統治の及ぶ範囲、強さ、状態、バランス、等々の要素が発展するのである。

信者は、たとえ自分で全く自覚しておらずとも、この地上に主イエスの統治(その統治とは、山上の垂訓の通りである)をもたらす見えないKingdom(王国)である。

このようなことは、ほとんどの信者は、全く信じていないか、口先だけで一度くらい唱えたことがあるきりだろう。なぜなら、ほとんどのクリスチャンは、誰かが作った「王国の模造品」のもとに絶えずお参りし、他人によって作られたしきたりに従い、他人によって統治され、動かされているだけなので、自分自身が「神の王国」である、と言われても、全くピンと来ないからである。この世の人々と同じように、それほどまでに、クリスチャンも自己決定権を奪われて生きている。だが、それは悪魔の欺きなのである。

信者が自分の内におられるキリストの権威と、彼によって自分の内に王国がもたさられていることの意味を生きて知るためには、信者はまず他者の国の奴隷として仕えるのをやめねばならない。まずは自分自身の主導権を取り戻し、自分の人生において世帯主としての権利を完全に回復することである。そして、主イエスと二人きりになって、一体、自分が主と共に治めるべき家(国)とは何なのか、それを考えてみるべきなのである。
 
しかしながら、たとえ信者が王国であることを全く自覚しておらず、まるで他者の国の奴隷のような状態になって、自分の自主性を忘れ去り、自らの霊の命の統治があまりにも弱々しく、あるかなきかの状態になっていたとしても、それでも、信者が生きている限り、彼の内で霊の統治も生きていることは変わらない。ただし、それは条件が揃わないので発芽しない固い種子のようなものであり、信者自身がこの命を成長させ、発展させることに注意を向けない限り、それは最後まで発芽しないかも知れない。だが、それでも、もし信者の再生が本当ならば、その命は生きているのである。そして、神の霊の命が生きている限り、悪魔はその信者を滅ぼすことは決してできない。

だが、信者の霊の命は、いつまでも固い種子のまま、発芽せずに終わるために与えられたものではなく、それは成長して実を結ばねばならないのである。

一体、実を結ぶとは何を意味するのか。ここでも多くのクリスチャンは全く意味を取り違えている。伝道し、回心者を増やし、教会員を増やし、教会の規模の拡大に貢献することが、「霊の実が結ばれる」ことだとほとんど人々が誤解している。
 
だが、実際は全くそうではない、ということを言っておきたい。霊の実が結ばれるとは、信者の霊的統治が発展し、拡大することを意味する。それは地上の教会組織の拡大や発展とは何の関係もないことである。そして、信者の霊的統治は、信者自身の心の願いに基づいて発展して行くのである。

コンピュータ・ゲームにも、都市建設やら、王国支配などといった種類のものがあり、ゲーマーは自分の願いや好みに基づいて、定められた領域をどう治め、どう領土を拡大し、発展させるかを決めて行く。その結果、自分の望みにかなう王国が出来上がる。

信者の霊の統治は、コンピューターゲームや、地上の戦争のように、地上的な領土を拡大したり、富を奪取することを目的としておらず、この地上に、山上の垂訓のごとく、神の御心を満足させる霊的な調和の取れた統治を、どれくらい実際としてもたらすことができるかを意味する。そして、その統治は、すべてをキリストに従わせるための戦いでもあり、その戦いは、まずは信者自身の心、体から始まる。

信者はキリストの命によって自分を治め、自分の人生を治めなければならない。体や心の反乱に悩まされ、振り回され、翻弄されるだけの人間であってはならず、地上における肉体的存在としての自分を、完全に霊に服従させなければならないのである。だが、そのような統治の過程で、信者は自分の霊的統治が、自分だけでなく、自分の身体を超えて、外側にも及んでいることに気づき始めるであろう。

それは最初は些細な気づきから始まる。たとえば、信者は自分だけでなく、自分の管理している持ち物や、生き物にも、神の祝福が及んでいることに気づくだろう。この世の物流や、人の思惑が、不思議な形で、信者の心の願いに合致するのを見るだろう。一体、どこまでが信者の「支配領域」なのか、筆者はそれを確かめたことはまだなく、それを完全に知っている人もいないであろう。いずれにしても、信者に「環境を治める力」が与えられていることは、確かであり、そして、キリストは「天地を治める一人の人」であるから、もしキリストの命の統治の完全性を知ることができるとすれば、信者は、その命が全宇宙を超えるほどの権威ある御名と一体であることを知るはずなのである。

暗闇の軍勢の狙いは、信者が持っているこのように絶大ではかりしれない命の力を、可能な限り、弱め、圧迫し、行使できない状態に追い込むことにある。暗闇の軍勢は、信者の霊の状態をかき乱すことによって、その霊的統治のバランスを崩そうとする。もし信者がはっきりと霊の統治について知っていれば、あらゆる攻撃をしかけて、その統治が成り立たないようにするし、知らないならば知らないで、決してそれに目覚めることがないように、より一層、この世的な制約で信者をがんじがらめにしようとする。

暗闇の勢力は、信者の霊の平安を失わせることに最も心血を注ぐ。信者の心や肉体に絶えず圧迫と攻撃をしかけ、信者が怒りや、悲しみや、悩みや、苦しみから抜け出られない状態に追い込み、信者の霊が平安を失うように仕向ける。なぜなら、神の霊の命の統治は、信者の霊が平安な状態にない限り、機能しないからである。

この霊の命の発展は、一方では、信者自身の内なる望みに基づいた自主的な拡大・発展と、他方では、外側から来る敵の攻撃に立ち向かう信者の霊的な防衛という二種類の方法で成し遂げられる。

いずれにしても、霊の人は超自然的な力を持っており、この力をきちんと行使する方法を知らない限り、神の霊の命の統治というものが何であるのかは、決して分からないと言えるだろう。そして、暗闇の勢力との戦いが、血肉によるものでなく、霊によるものである以上、この領域でどのように活動し、生きるかを知らないまま、時間を過ごすことは、信者にとってはかりしれないダメージとなりかねないのである。

だが、この霊の命の発展に関する学課を学ぶためには、信者はそれまでの常識的なものの考え方を離れる必要がある。道徳としてのキリスト教、慈善事業としてのキリスト教、教会組織拡大のためのキリスト教といった、人の生まれながらの頭脳によって十分に理解できる教えの中をどれほど探しても、この霊の命の発展に関して教えてくれる書物はない。だから、聖書の御言葉に直接、戻らなければならないし、なおかつ、御霊によって直接、教えられる必要がある。
 
命とはおのずから成長し、発展するものであるから、そこにヒントがある。命は、すべて自立したものであって、それ自体に組み込まれたプログラムによって発展して行く。たとえば、植物が成長するのには、空気や、水や、温度や、土といった、成長するために不可欠な外的条件はあっても、その命は、外側から誰かが指示を下さなければ、成長できないようなものではない。

同様に、神の霊の命にも、どのようにその命を発展させるべきか、ナビゲーターとしての御霊が備わっている。そして、神の命は、この世の物質条件に依存しない、完全に自立した永遠に朽ちない命であるから、その命は、この世の一切の外からの助けに依存せず、信者の有限なる肉体の中で発展するために必要なすべての条件を、自らの力によって呼び出して来ることができる。いわば、水や、空気や、温度を整え、必要な栄養を確保する機能も、その霊の命には備わっているのである。従って、信者はどこかから教科書を取り寄せたり、導師のような存在を引っ張って来ずとも、御霊を通して御言葉を教わることにより、今まで全く知らなかったその霊の領域についても、学び始めるのである。

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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