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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

時をよく用いなさい。折が良くても悪くても励みなさい。今は悪い時代なのです。

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」 (エフェソ5:15-17)

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモテ4:2)

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(ローマ12:18)

我が国には「帯に短し襷に長し」などという言い回しがあるが、キリスト者の人生は、これとは正反対であって、すべてに「ちょうど良し」というものであるか、もっと言えば、「必要を満たして余りがある」というものである。

時間についても、同様のことが言える。キリスト者は、神の御心をとらえようと、目を覚まして歩んでさえいるならば、不注意でタイミングを逸したと思うような時でさえ、まるで時間軸を逆走するようにして、失った時間を追うことができる。

このようなことを言えば、「あなたは気でも違ったのですか、何をおっしゃられているのか全く分かりません」という答えが返って来そうだが、これは本当のことなのである。

これをたとえるならば、あなたが予め時刻表を調べて、ある電車に乗車するはずだったところ、駅に到着が遅れて電車に乗り遅れたとしよう。その電車を乗り過ごすと、時間通りに目的地に着けなくなり、あなたの予定は台無しになる。そう思ってあなたが悔やんでいると、どういうわけか、乗り過ごした電車よりも、もっと早く目的地に着く電車が、少しばかり予定時刻に遅れて駅に到着した。あなたは運よくそれに乗車でき、結果的に、遅れを完全に取り戻したどころか、予定時刻よりもはるか前に目的地に着いてしまった、といった具合である。

主にあって、贖われている者は、何事についても、足りないとか、間に合わないということがなく、決して手遅れだと悔やむ必要がない。むしろ、決して手遅れだと自分で認めてはいけないのであって、遅れているように見える時でも、御心を掴むために走り続けていると、多くの場合、遅れたと思ったその時間さえ、取り返すことができる。

そもそもアダムとエバがエデンの園で神に従うことに失敗してから、人類史においては、気の遠くなるような途方もない回り道と遅れだけが続いている。初代教会においては目覚ましい信仰が見られたかも知れないが、今はどうだろう。現代教会史もまた遅れそのものに見える。

この無意味な回り道、終わりのない堂々巡り、延々と続く遅刻状態から、どうやって輝かしい目的の達成などが生まれて来ようか、と人は思うだろう。ところが、神は人類の堕落や、信仰の先人たちや、教会史に溢れるおびただしい失敗といった回り道のことなど、全く意に介しておられない。

今日という極めて悪い時代にも、堂々巡りと回り道と失敗の連続にしか見えない歴史の只中から、神はいつでも熱心に御心を求める者たちのために、完全な御業をなして下さることがおできになるのであって、それは今日の私たちにもまさに当てはまることを、私たちは心に留め、かつ信じる必要がある。

私たちは、どんなに機会を逸したと感じるような時でも、決して後悔することなく、御心を熱心に追い求めることをやめるべきではない。どんな時にも、何が正しいことであって、神が喜ばれることであり、何が機会を有効活用することに当たるのか、考え続け、実行し続ける必要がある。そうする時に、まるで時を遡るようにして、見失ったと思ったものにも、追いつくことができるのだ。

あるいは、これは自分の力量が、果たさねばならない仕事に追いつかないと思われるときにも、同じように当てはまる。

たとえば、比較的最近、筆者は何週間にも渡り、山のような文書作成という仕事と取っ組み合った挙句、あまりにも疲れ切って、ついに自分が何を書いているのかさえ分からないほどの状態になった。自分の書いた文書を読み返すことはおろか、文字さえも見たくないという状態に陥ったのである。

筆者にとって、文章を書くことは、呼吸をするのと同じほど自然な作業で、何ら苦痛ではない。ところが、そんな筆者も、さすがに連日連夜、ぶっ通しで大量の文書作成を行った後では、消化不良状態に陥ったのであった。

それが一つだけのテーマに関わる論文などであったなら、まだ興味も力も尽きなかったかも知れないが、いくつもの仕事を同時に抱え、次々と取り組んでいるうちに、ついに文章を見るのも考えるのも嫌になったのである。もはや自分が何を書いているのか、自信もないが、推敲など考えたくもない、どんなにひどい誤字脱字が発見されようとも、知ったことではない、意味内容に錯綜が見られ、議論が紛糾したとしても、どうでもいい、というほどの心境に至ったのである。
 
しかし、何とかして最低限度のハードルだけはクリアするよう仕上げて手離したと思った直後、またもや頭痛をきたらせるような複雑な案件を、メールだけで解決しなければならなくなった。

その案件もまた、意味が伝わりさえすれば良いと気楽に構えていられるような内容ではなく、交渉事を有利に進めなければならない真剣勝負であった。格闘技にたとえれば、にらみ合っている対戦相手に、最初のわざをしかける瞬間だろうか。威勢のいい啖呵を切って、率先してイニシアティブを取り、相手を威嚇し、後退させねばならないような場面なのに、にらみを利かせるどころか、意味さえ通じるかどうか不明な文章を書き送るのが精一杯だったのである。

筆者としてはそのメールの内容は無念の出来栄えであり、まるで千鳥足で歩くような隙だらけと言ってよい主張だったにも関わらず、その案件は、こじれることもなく、誤解を生むこともなく、まさに筆者が願った通りの効果を生んで、決着が着いたのであった。これはとても不思議なことであった。

おそらく、消化不良状態で作成した文書にも、これと同じことが当てはまるはずだと考えられる。売り物の文学作品でない以上、もともと完璧が要求されているわけではないのだが、そのことをさて置いても、文書の価値は、文字だけにあるのではなく、内面に込められた力にあり、その力のもたらす効果は、文字を超えるのだと言えよう。

だから、その文書には、内面的な力の裏づけがある以上、たとえ未完成であったとしても、この先、十分な効果をもたらすはずだと筆者は確信している。(むろん、ここで言う内面的な力とは、人間の生まれながらの文才や、文章が呼び起こす情感や、あるいは法的根拠のことではなく、地上のすべての法体系を超えた、信仰による御言葉の正しい霊的秩序の裏づけのことである。)
  
私たちが、聖書の御言葉をすべての物事に対して徹底して貫き通す時、対立や紛争が広がる前に打ち砕かれて、早期に平和が到来するということもしばしば起きる。なぜなら、私たちは、信仰によって、暗闇の勢力がしかける罠を、彼らが実際に行動に移すよりも前に見抜くことができ、事前にこれを無効化できるからである。この問題についてはいつか別に書き記すことにしたい。
    
さらに、別な事例もある。以前の記事にも書いた通り、本年が始まってすぐ、筆者は危うく寝たきりになるかという危険にも遭遇したが、筆者が寝込みそうになっていた時、かねてより取引のあった人から、ある買い物をした。すると、今までにはなかなか望んでも手に入らなかった商品が、破格の値段で、山積みとなって提案されただけでなく、通常であれば、東京方面まで出向いて受け渡しをせねばならないところ、売主がとても熱心に購買を勧め、筆者の住んでいる近くまで受け渡しに来てくれたのである。時間も体力もない時であったから筆者は大助かりであったが、そんなことはこれまで一度も起きたことがなかった。

これらはみなすべて、キリスト者には「万策尽きた」という状態が来ない、ということを証明する事例である。キリスト者には、常に必要のすべてが信仰によって、恵みによって与えられ、「足りない」とか「及ばない」ということが決してない。だから、自分の今持っているものを見て、それがとても少ないからと言って、願いをあきらめてはならない。もしその願いが、御心に反しない、正しいものであるならば、それを達成する手段を、神は必ず与えて下さる。筆者の力が尽きても、それで事が終わりとならず、筆者が身動きの取れない時には、筆者の代わりに、他の人が動いてまで事が達成されるのである。

だが、このことは、決して、私たちが他人の目から見て、偉大な人間になることを意味しない。私たちの持っている「かめの粉」も「びんの油」も、決して溢れるほどにはならず、人の目から見て、我々の持っている知性や富や力は、ごくごく限られた貧弱なものに過ぎないかも知れない。

それにも関わらず、この貧弱な土の器を元手として、それを信仰によって何倍にも増強して、勝利をおさめることが実際に可能なのであり、私たちはそのように収穫を来たらせるような達成を続けて歩むべきなのである。

冒頭に挙げた、時をよく用いなさい、という御言葉は、以上に説明した通り、私たちが自分たちの生まれながらの微小な力を、御心を実現するために、信仰によって行使するとき、それが何倍にも増し加えられ、思いもかけない収穫を生むこと、そこで私たちは、たゆみなくそのような収穫を目指して進み続けなければいけないという意味を持つ。

多くの信者は、ただ何もしないで祈り、ぼんやりと空を見上げて待っていれば、千倍、百倍の祝福が空から降って来るなどと考えているようであるが、そのようなことは決して起きないと言えよう。

もしも心から祝福を得たいと願うならば、祝福を願うだけでなく、それを勝ち取らなければならない。それは目的地にたどり着きたいなら、たどり着きたいと願うだけでなく、実際に目的地に向かわなければならないのと同じである。

私たちは、永遠に至る収穫を得たいと願うならば、まず自分が持っているなけなしのものを、神のために捧げ、次に、御心を実現するために、具体的な行動に出なければならない。収穫はそれに続いてやって来る。肝心なことは、主にあって、真に正しい目的のために、御心を満足させると確信する目的のために、自分のなけなしのものを捧げることである。

そうすれば、自分の力がいかに限られたものであろうと、その限界に制約されることなく、いかなる行き詰まりにも達することなく、「勝ち得て余りがある」と言える人生を送ることができる。

だから、人の目に「足りない」とか「及ばない」ように見える有様に、決して心を留めてはいけない。決して、自分自身の限界に目を留めて、正しい願いを実行に移す前に諦めるべきではない。私たちが自分から諦めて退却することさえなければ、神は私たちが持っている取るに足りない力を使って、十分にご自分の栄光を表す大胆な御業をなして下さる。その結果、私たちは神を信じることが、決して失望に終わらないという御言葉の正しさを知り、主と共に喜びに溢れるだろう。そうして、この地上においても、永遠の領域においても、巨大な収穫を得るチャンスを逸さないで生きることは実際に可能なのである。

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御国が来ますように―天地の架け橋としてのキリストにある「新しい人」(7)

オリーブ園のオースチンスパークスの記事「「私たちのすべてなるキリスト」 第九章 子たる身分の意味と価値(3)」が秀逸なので、この一連の論説を続けて読むことをお勧めする。

そこには、御子が地上にあって、どのように御父から命の供給を受け、権威と尊厳を持って生きられたか、その具体的な方法が記されている。それは、今日、私たちが地上にあって御子と同じように使用できる法則である。

私たちは御霊にあって、その命からすべてを引き出す方法を知る必要がある。これは魔法ではなく、子たる身分に基づいて、神から私たちに与えられた恵みである。

私たちは、キリストの復活の命の中から、日々の糧、人々と関わる際の知恵、この世を圧倒的に超える権威、目に見えない高い霊的な地位を供給されるのである。

キリスト者として歩むに連れて、私たちはいかなる人間関係の中においても、自分が支配的・優越的地位に立たなければならないことが分かって来るだろう。それがなければ、私たちに与えられた自由は発揮されることがないし、私たちの霊的権威が地上に及ぼされることもない。

とはいえ、私たちはこの地上において、王でもなく、支配者でも、権威者でもない。むしろ、何の肩書も持たない寄る辺のない民のように見えることであろう。

しかし、その弱く貧しい民が、キリストにあって、彼と共に、地上のすべてのものを足の下にする圧倒的な力と権威を授けられているのである。それはこの世の経済、物流、そして人間関係にももちろん適用される。

私たちが地上のものに心惹かれ、それに心を奪われてしまうと、それが人間であっても、物質であっても、その目に見えるものが私たちの心を支配することになる。しかし、正常な秩序は、それとは逆に、私たちがすべての地上のものを霊的に支配することにある。

私たちが心に抱いている永遠の望み――私たちの信じているただお一人の神、その御名が、すべての目に見えるものにまさる権威として掲げられれ、万物が、私たちの存在を通して、キリストに服従することが、神が望んでおられる正しい秩序なのである。

従って、それゆえに、内にキリストを持ち運んでいる私たちは、地上のどんなものに屈服してもならず、地上の支配よりも下に置かれてはならず、この世の経済や、人の思惑や、この地上に立てられた権威にまさる、これらを霊的に支配することのできる目に見えない霊的権威を与えられているのであって、その霊的権威を行使することによって、初めてこの地上に、御国の秩序を引き下ろすことができる。

私たちは、御子が地上におられた時にそうであられたと同様、この世のすべての物理法則、事物、人々を超越して、霊的に支配する立場に立つことができるのであり、また、そうしなければならない。

それは本当に、御子がそうであられたのと同じ、この世に渦巻く諸々の支配や思惑に巻き込まれて翻弄されることのない、この世の触れることのできない、貴い、崇高な天的な地位である。天の御座から、地上のすべてのものを統べ治める立場である。

その高い地位は、様々な試練の中で、信仰を貫き通す時に、初めてはっきりと姿を現して来る。いわば、エジプトに売られた日の幼いヨセフが、生長して、ファラオに次ぐエジプトの宰相となり、知恵と権威を持ってエジプトを治める者となって、現れて来るような具合である。

キリスト者が人生で遭遇するすべての出来事は、こうして本人の霊的成長に合わせて、スケールが拡大して行く。戦いのスケールも、霊的成長に合わせて拡大して行く。

その中で、私たちはこの世を超える圧倒的な権威を行使する術を学ぶようになるが、しかし、それは、霊的成長に伴う、霊的権威の増し加わりであって、必ずしも、私たちがこの世で、人々がその名を聞いてすぐにひざまずくような、何か圧倒的に偉大な権威を手にすることを意味しない。

私たちの権威は、地上の肩書、地位ではなく、御名に由来するものである。

こうして、御名の権威が私たちを通して地上に現れ出るために、この世の経済、物流、人の心、物事の有様、といったすべてのものを、私たちは、キリストにあって、私たちの意志の下に従属させ、屈服させていく方法を学ぶ必要がある。

それは激しい支配権の争奪戦の中で、十字架を貫き通すことで初めて可能となるが、このように、あらゆる試練の中で、信仰による確信を捨てずに進んで行くならば、不思議と、物事も、人々も、諸条件も、いずれ私たちの意志の下に服するようになるのである。

私たちの意志の下に、と言っても、私たちが御言葉に服従し、キリストにあって生きている以上、それは私たちの存在を通して、地上の事物が、御名の権威に服することを意味する。

こうして、キリスト者は、地上の諸原則をすべて足の下に従える方法を学ばなければならない。それができるようになって初めて、キリストにある新しい人――地上の堕落に巻き込まれ、触れられることのない、真に高貴な人としての霊的地位が現れ出て来ると言えよう。

異教のシャーマンや、修行僧も、物理法則を従える方法を熱心に研究している。しかし、私たちは、そういう修行を通して自己改造するのではなく、私たちの内側に与えられている新しい命の法則に従って自然に生きることにより、この世を超越する新しい法則の中を生きる方法を身につけるのである。

ただし、私たちは肉体的な修行の中を通りはしないが、日々の十字架は負う必要がある。この痛みに満ちた教訓なくして、決して私たちがヨセフのような崇高な地位に立つことはできない。

キリスト者は、神にあって自分に与えられたこの新しい命の力を開発し、知らなければならない。キリストの復活の命の中に、神がどれほど人を愛され、恵まれ、人に崇高で重い使命を託されたか、なぜ、どのような目的で、神は人を創造されたのか、その答えが凝縮されて込められている。

アダムが創造された時、神はアダムに地を治めるように求められたが、その使命は、今日、キリストを通して、キリストにあって生きる私たちに託されている。私たちはこの新たな法則――御国の到来を、人々に告げ知らせる者であり、その新しい法則を実際にこの地上にもたらし、霊的収穫をもたらさなければならない。そうして行くときに、その支配権が、不思議な形で、この世の事物だでなく、多くの人々の心にも及んでいる様子を見ることができるだろう。

命の御霊の法則に従って支配する―一羽の雀さえ、父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(4)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」(ヨハネ16:13-15)

さて、今回も、前回に続いて御霊の導きに従って生きることについて書きたい。

最近のオリーブ園のオースチンスパークスの連載が興味深い内容のため、冒頭で引用しておきたい。聖書箇所は、イエスがまだ幼子だった頃、両親がイエスを主にささげるために宮に連れてやって来たとき、救い主の誕生を待ち望んでいた祭司シメオンが、御霊の導きの中で、ちょうど神殿の境内に入って来たところである。

これはとても美しい調和のとれた絵図である。このように、何の前触れも約束もなかったにもかかわらず、まるで示し合わせたように、シメオンは出会ったその子が救い主であることを証し、祝福すると同時に、イエスに課せられた十字架の使命について語り、それゆえに母マリアが受けねばならない苦難のことも予告するのである。

この記事に該当する聖書箇所をそのまま引用しておこう。

「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。

 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。

シメオンが”霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり
 この僕を安らかに去らせてくださいます。
 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
 これは万民のために整えてくださった救いで、
 異邦人を照らす啓示の光、
 あなたの民イスラエルの誉れです。」

父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカ2:22-35)


以上の箇所について、T.オースチンスパークスの解説している「御霊による生活」 第六章 聖霊の職務と御業 (5)(6)の記事を引用したい。

霊の人の定義

 少しの間、霊の人についてさらに考えることにします。霊の人とは何でしょう?霊の人は聖霊を受けて、聖霊の器官・機能・能力と一致するものに構成された人です。「主に結合される人は一つ霊です」。これは姿・性質の一致です。それはある種の性質や、性質の質だけでなく、能力でもあります。これは、これから生じる諸々の特徴、実際的性質を帯びた諸々の特性の存在を意味します。ですから、霊的識別力、霊的知覚、霊的知識の類があります。使徒は、御言葉があらゆる霊的理解力によって私たちの中に宿りますように、と祈っています。

 さて、これは物体に及ぼす力の働きとは異なります。物体は、その中にその力と一致するもの、その力に協力するものが何もなくても、衝撃を受けただけで動きます。その動きは純粋に力学的です。違いは、私たちの新しくされた霊の中には、御霊の諸々の器官と一致するこれらの器官が導入されており、そこには知的合一が存在するということです。

 これについて説明しましょう。ルカによる福音書の冒頭に、エルサレムにシメオンという名の人がいた、とあります。彼は正しくて敬虔な人であり、イスラエルの慰めを待ち望んでいました。そして、聖霊が彼の上におられました。さて、「両親が子供のイエスを、律法の慣わしにしたがって彼に行うために連れて来た時、この人が御霊によって宮の中にやって来た」と御言葉は告げます。

「前もって手配されていたに違いない。シメオンは祭司だったのだから」と考える人々もいるようです。記録はそのようにはまったく述べていません。ここの語り口はとても自然です。両親は子供のイエスを主に捧げるために連れてきました。この人がそこにいたのは、子供を受け取る用意の整った司式の奉仕者としてではありませんでした。彼はちょうどその時、宮の中にやって来たのです。

「彼は偶然ちょうどその時やって来たのです」と言うべきでしょうか。否!彼は御霊の中でやって来たのです。両親が子供のイエスを連れて来た時、シメオンがその子が誰かを知っていたことを示唆するものは何もありません。だれも、「この子がイエスです」と言いませんでした。彼は外見的には他の子供と同じように見えました。宮の中にやって来た数百、数千の子供たちと、おそらく何の違いもなかったでしょう。普通の両親に普通の赤ん坊でした。

エルサレムで生活していた人であるシメオンは、ちょうどその時、御霊の中でやって来ました。そして、両親が子供を連れて来た時、彼はその子を両腕で抱いて、極めて驚くべきことを述べ始めました。「主よ、今こそあなたは、あなたの御言葉にしたがって、あなたの僕を安らかに去らせて下さいます。私の目があなたの救いを見たからです」。両親は過去を思い出しました。この人は何について話しているのでしょう?どうしてこの人はこのことをすべて知っているのでしょう?これはどこから来たのでしょう?


 その意味合いがわかるでしょうか?シメオンは御霊によって入ってきました。彼の動きは御霊によりました。彼の動きは御霊によって時が計られていました。そして、彼がその赤ん坊を両腕の中に受け取った時、御霊は彼の霊に「この子がキリストです」と証しされました。その赤ん坊が誰なのかを示唆するものは他に何もありませんでした。御霊はキリストについて証しされました。これはつまり、シメオンには、彼の上に御霊がおられたがゆえに、霊的知覚があったということです。自分がキリストの御前にいた時、彼は自分の霊の中で彼を認識しました。

 今、霊の人とは何かわかります。シメオンは一つの例です。とは言っても、後の、ペンテコステ後の霊の人の完全な代表ではありません。霊の人は御霊の促しによって動く人であり、その動く時は聖霊によって計られています。霊の人はいつ動くべきかを御霊によって知ります。御霊の中で動くことにより、キリストに関する御霊の諸々の秘密を発見します。したがって、霊的知覚の器官を持っており、主が何事かをなさっている時、それを知ります。この器官は、神の大いなる御旨に関する機能へと導きます。

 これはあなたには難しく聞こえるかもしれません。しかし、ローマ八章によると、これが信者の正常な生活です。確かに、私たちはその中に直ちに完全に入るわけではありません。「あらゆることで成長して彼へと至りなさい」というパウロの御言葉が私たちに想起させるように、私たちは成長してそれへと至るのです。



この記事では、上記の記事については詳しく触れないが、信者が御霊の導きの中で行動する時、そこには偶然と呼ぶにはあまりにも不思議な調和の取れた神の最善の巡り合いが起きていることが分かるだろう。むろん、それは御霊の命の支配によって起きることであって偶然ではない。

この記事では、信者の実生活に生きて働く御霊の働きについて述べたい。冒頭に挙げた聖書の御言葉を通して、私たちは、聖霊が、来るべき事柄を信者に教えてくれることを知っている。つまり、聖霊は未来についてのビジョンを私たちに見せられるのである。
 
別な言葉で言えば、そのビジョンは私たち自身が心に抱くものでもある。

信者は、御霊の導きに従うことも、その外に出ることもできるが、いつどういう時に、自分が御霊の導きに従って行動しているのか、必ずしも自分ではっきりと知らない場合がある。

多くの信者は「一体、どうやったら、私は何が御霊の導きであるかを知ることができるのでしょうか。どうやったら御霊を悲しませないように行動できるのでしょうか。私のしていることが、御霊の導きに反するものではないかどうか、私には分からないのです。そうである以上、私は主を悲しませたくないので、私のしていることが、御霊の導きに反しないという確証がない限り、信仰によって何も行いたくないのです」などと言うかも知れない。

そんな風に、御霊の導きから逸れること怖さに、自分が行うすべての決断が、御霊から来るものだと確信できないことには、一歩たりとも動かない、などと言う信者もあるかもしれないが、御霊の導きとはそういう風に、まるで占いでもするように、これから自分は右へ進むべきか、左へ進むべきか、はっきりしたお告げを受けなければ、何もしないという生活のことではない。

確かに、御霊は、時には、何かの具体的な行動を明白に信者に対して禁じられたり、何をなすべきかを明白に教えられたり、待つよう求められることがあるが、しかし、多くの場合、信者にはただ普通に行動しているだけの膨大な時間がある。

そのとき、信者には特に自分が御霊の導きを受けて行動しているという自覚はないかも知れないが、それでも、そういう時にも、信者が御霊の調和の中を、信仰によって歩み、何かを待ち望んでいるならば、信者が特に何かを確信して行動しているわけでなくとも、常に御霊は信者と共に働いて、御霊の命の統治の原則がその人と周囲に及んでいるのである。

一体、御霊の導きとは何なのか。それを形容することは少し難しいが、御霊はすべてを支配する超越的な命であって、信者の信仰を通して初めて働きをなすと同時に、ナビゲーターのような働きをも持っており、常に未来へ向かって信者を進ませる。

御霊が、信者に進むべき具体的な方向を指し示すことは少なくないが、ナビに目的地を設定するのはあくまで信者自身である。

信者は信仰によって、自分が何を望み、何を成し遂げようとしているのか、その目的を自分で設定しなければならない。たとえば、シメオンの望みは、「生きているうちに救い主をこの目で見たい」というものであった。あるいは、ジョージ・ミュラーは、寄る辺ない大勢の孤児を信仰によって養いたいと願った。

こうして、信仰によって抱く目的は、信者個人によって異なるものである。必ずしも福音伝道のために是とされているものだけではない。信者自身の生活の必要、あるいは、信者の極めて個人的な願いもそこには含まれる。明らかに主を悲しませる悪であると分かっている事柄でない限り、どんな目的でも願っていけないということはない。あるいは、筆者のように、大型鳥を飼いたいといった願いでも構わないのである。

その目的を、信者は信仰によって今待ち望んでいる目的の一つに設定する。すると、信者がそこへたどり着こうと歩みを進めたその瞬間から、御霊が共に働き始める。(もちろん、筆者はここで御霊が信者の願い事を叶えるためのサーバントだと言っているわけではない。信者の願い事の目的は、ただ自分が満足することに終わらず、あくまで神に栄光を帰することにあるからだ。)

しかし、多くの場合、ただ目的地を設定しただけで、御霊が自動的に信者をそこへ平穏無事に送り届けてくれるというわけでは決してない。まず、信仰によって望んだ目的が実現するためには、信者は必ずと言って良いほど、何かの困難(試練)の中を通らなければならない。あたかも約束によって待ち望んだものが、失われたかのように思われたり、はるかに遠く、手の届かないところにあるように思われたり、長い時間がかかり、信者が自分にはそれを目にすることができないのではないかという不安を持つような状況の中を通らされなければならないことがよくある。

その試練を、信者が信仰によって乗り越えて、周りの状況がどうあれ、待ち望んだものから目を離さずに、確固として目的を目指し続け、達成が可能であると信じ続けて行動したとき、信者が望んだ事柄が実際にこの地上に目に見える形で実現するのである。

とはいえ、ほとんど困難が伴わずに自然に望んだものが実現する時もある。

話は変わるようだが、筆者は昨年頃から、小型~中型鳥の色変わりの鳥を探して来たのだが、なかなか美しい色合いの鳥は見つからず、遠い店まで出かけて行かねばならないなどのこともあって、しばらく鳥探しを中断して、そのような目的があったことさえ自分で忘れかけていた。

ところが、今年、初めて訪れた店で、昨年からずっと探し続けて来た色々な種類の鳥たちを偶然のように一挙に見つけたのである。筆者は以前にもそのようにして鳥を一挙に増やしたことがあったのだが、その時の比ではない珍しい種類の鳥たちに出会った。筆者の鳥ライフになぜかはよくは分からない自然なグレードアップが起きたような具合だった。

そこで、鳥たちの取り揃えを変えたのに合わせて、鳥かごも変えることにして、金色の大きな鳥かごに、珍しい南国の明るいオレンジやブルーの珍しい鳥を何羽も入れてみた。すると、ほんのわずかな価格で買える文鳥たちまで含めて、我が家の鳥たちがみんな、大邸宅の大理石の床に飾ってある豪華な鳥かごの中にいる鳥たちのように見えるようになったのである。

一言でいえば、何もかもが見違えたのであった。その時、初めて、筆者は、鳥というものは、インテリアの一部のように、目の保養として楽しむべき生きものなのであって、それができなければ、鳥の魅力の半分も味わったことにはならないということが分かった。

そして、そこからさらに進んで、このように素敵な装飾としての鳥たちがいるならば、それに見合った家や部屋があるべきで、むろん、今の環境もそれなりに筆者が自分で工夫したものとはいえ、すべてを今以上にグレードアップすることが可能なのだということを思わされたのである。

筆者は長年、鳥の愛好家のつもりだったが、小鳥の楽しみ方においては、ずいぶんと質素すぎるほどに味気ないつまらない人生を歩んで来たことを感じた。ほんのわずかな魅力すらも、まだまだ味わっておらず、この先、もっともっとはるかに豊かな生活が待ち受けていることに、今更のように気づかされたのである。

もちろん、筆者の家には文鳥などのありふれた鳥たちもたくさんいるので、これは決して珍しくない鳥には価値がないなどと言っているのではない。だが、たとえば、市場に出回っている鳥かごは、筆者も色々と試してはみたが、どれもこれも、決して見栄えが良くなく、まるで鉄格子の檻のように殺風景にしか見えない上、サイズも十分でなく、餌入れも小さいので、補充を忘れたときのリスクが高く、フードフィーダーをつけるようなスペースの余裕もなく、構造的にも、目の届かない死角が実に多く危険であった。

何よりも、市場に出回っている鳥かごは、小鳥を鑑賞する目的のために作られたというよりは、一般家庭の部屋の大きさに合わせて、最低限度の設備を用意しただけのものであって、美観の点でよろしくないだけでなく、世話するにも決して最適と言えないことが分かった。

小鳥というものは、その愛らしい性格もさることながら、まずはその姿形の美しさを鑑賞して楽しむことこそ、飼い主に与えられた最大の特権である。だが、その特権を存分に味わうためには、やはり、小鳥を美しく見せられる環境がどうしても必要となるのであって、広々とした場所で、伸び伸び暮らさせて、世話をすることが決して苦痛にならず、億劫にも感じられない環境を作ることができて初めて、飼っている側も楽しい気分になれる。

そう考えると、第一に、必要なのはスペースということになろう。鳥も人間もやっとのことで生きているような環境ではまるでダメなのである。最終的には、広々とした家が必要になるのは言うまでもない。大型鳥の愛好家たちは必ず口を揃えて言う、籠の中に閉じ込めておいてはいけない、鳥のために一部屋は確保するのが最善であると。

そのようにして、小鳥たちの飼育環境について考えながら、筆者は自分の生活にも、決定的に欠けていたかも知れない要素について考えさせられた。たとえば、鳥かごを変えただけで、同じ鳥が、見違えるようにきれいに見える。だが、市販の鳥かごではなかなかその願いを実現できない。この原則を人間に当てはめたらどうだろうか?

人々は、洋服やら髪型やらにはこだわり、自分を美しく見せるために、あれやこれやの工夫をするかも知れないが、そのような小手先のごまかしのような工夫はさて置き、そもそも自分を入れる鳥かご(自分の生きる環境条件そのもの)について、神に大胆な願い事をしたことはあるだろうか? これは家のことだけを指すのではない。すべての環境条件を指している。

人は自分のためにどんな環境を願うだろうか。

かつて筆者の小学生時代の友人の家では、文鳥一羽を入れられるのが関の山という程度の広さの竹籠に、五羽の文鳥が入れられていたのを思い出すが、そういう環境をあなたは望むだろうか。それとも、大きな翼を持って、遠い距離をゆうゆうと渡ることのできる鳥が求めるような環境条件を願うだろうか。

私たちを最も魅力的に見せることができるのは、主人である神の愛情に満ちたとりはからいであるが、私たち自身が主に何も願わないなら、主も私たちに何もお与えにはならない。私たちは鳥ではないが、私たちが自分を何者だと思い、自分のために何を願うのか、どんな条件を求めるのかによって、私たちを入れる「鳥かご」のサイズも変わって来る。

冒頭の記事の趣旨とは異なると感じられるかも知れないが、御霊によって生きるとは、御霊の命の統治の中を生きることであり、その命の支配は、必ず私たちの信仰と連動して働く。そこで、私たちが何を信じ、何を願い、何が自分にふさわしいものであると考え、どんな条件を実現しようとするのか、その願いに連動して、命の統治の力が働く。従って、私たちの願いがあまりにも小さく凡庸なものであるなら、御霊の働きもそれに見合ったものにしかならないのである。

筆者は、美しい鳥たちの姿を見ながら、空の鳥も、野の花も、海の魚たちも、何もかも、すべての生き物は神が人間のために造られたものであることを今更のように思う。それにも関わらず、人間は何とこれを楽しむどころか、重荷や苦痛に変え、この小さな命を通して与えられた祝福を全く味わわずに通り過ぎているのだろう。そのようになっている原因は、人間側の思いの狭さにあるに違いないのではないだろうか?
  
信じる者たちは、一体、何を願うのかによって、その人の人生に信仰を通じて実現する内容、スケールも全く違ってしまう。

 シメオンが願ったように、救い主を生きて見たいという願いを抱くのか、それとも、ジョージ・ミュラーが願ったように、数えきれない孤児を養いたいと願うのか、あるいは、筆者が書いたように、数えきれない鳥を養うことのできる巨木のような、尽きない豊かな資源が備えられている環境を願うのか。あるいは、ただ自分一人かろうじて死なずに生きられる程度の環境が与えられればそれで満足するのか。

神がどんなに素晴らしい方で、御霊にどんな力があろうと、信者が何も願わず、何も信じなければ、何一つ起こることはない。

最後に、こうした文脈でしょっちゅうよく引用される詩編の句を引用しておきたい。ここには、信者が信仰によって大きな願いを心に抱くべきことと、それと同時に、それが実現するために守らなければならない掟が記されている。冗長な解説は省くが、その掟さえ守って生きるなら、信者の生活からは、無用な重荷が取り除かれ、信者に敵対する者には、神が報復をなさり、信者の生活は、最良の小麦、飽くほどの蜜で、存分に潤される。

流れのほとりに植わった木のように、暑さや日照りに関係なく、欠乏とは無縁の、溢れるほどの命の豊かさを味わう生活を送れるのである。
 
「わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。
わたしが、彼の肩の重荷を除き
 籠を手から取り去る。
 わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い
 雷鳴に隠れてあなたに答え
 メリバの水のほとりであなたを試した。
 
 わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。
 イスラエルよ、わたしに聞き従え。
 あなたの中に異国の神があってはならない。
 あなたは異教の神にひれ伏してはならない。
 わたしが、あなたの神、主。
 あなたをエジプトの地から導き上った神。
 口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。

 しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず
 イスラエルはわたしを求めなかった。
 わたしは頑なな心の彼らを突き放し
 思いのままに歩かせた。
 わたしの民がわたしに聞き従い
 イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら
 わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ
 彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。

 主を憎む者が主に屈服し
 この運命が永劫に続くように。
 主は民を最良の小麦で養ってくださる。
 「わたしは岩から蜜を滴らせて
 あなたを飽かせるであろう。」」(詩編81:6-17)

小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:6-7)


新たに飼い始めた文鳥は、今まで飼った文鳥たちと違って初めから性格がかなり大人びているようだ。人には馴れているが、独立心が旺盛で、体は小さくても一人前のプライドがあるように見受けられる。

かつて文鳥の飼育本で読んだことがあったが、小鳥でも、それなりの年齢になると、子ども扱いされるのを嫌うことがあるという。

老鳥となった文鳥に、「可愛いね~」などと、ほめ言葉のつもりで声をかけていたら、鳥に怒られた、などという読者の便りが本に乗っていたのを思い出す。

それは鳥だけでなく、たとえば、犬なども同じであろう。

犬が年を取るのは早く、あっという間に人間の年齢を追い越してしまう。見かけはどんなに可愛らしく、子犬のように見えても、犬にも年齢相応の気概が生まれる。いつの間にか、人間よりも悟りきったようになり、家の中ですっかり権威となってしまう。

だが、人間は、犬がそこまで精神的に生長したことが分からず、いつまでも子犬のように可愛がろうとするのだが、犬の方からは、人間の精神的な未熟さ、身勝手さ、ご都合主義などがすっかり見抜かれて、半ば呆れられ、適当にあしらわれるということさえ、時には起きる。

犬などの気持ちは、人間には時に全く思いが及ばないほど、デリケートである。
鳥にも、犬とは違うが、そういうところがあるのだ。

いずれにしても、人間の平均寿命に比べれば、はかない命だということを理解して、与えられた時間を精一杯、有効活用してやらねばならない。

さて、我が家の白文鳥はまだ一歳にもならず、ついこの間、雛の毛がようやく抜けたばかりだが、それでも、一人前のプライドはしっかりあるようだ。

鳥の性格も人と同じく、実にさまざまである。

飼い主と鳥とが、適切なパートナーシップを築くまでには、それなりの時間がかかる。互いの性格や好みや気持ちの変化を阿吽の呼吸で読めるようになって、お互いにとって嫌なことはせずに、適度な距離を保ちながら、好ましい愛情表現ができるようになるのは、どんなに短くとも、飼い始めて一年程度の時間はかかる。

特に、幼鳥から飼い始めた鳥は、一年間ほど経たないと性格が安定しない。幼鳥の頃は何事にも興味津々で活発に動き回るが、何が自分にとって得で、何が損なのかも分からないし、飼い主の気持ちの変化も読めない。だが、一年ほど経つ頃には、好奇心がおさまり、性格も大人になって安定して来る。

以上のようなことは、他愛のない話であるが、最近、こうしたことに加えて、生き物が変化する未知数の可能性に驚かされることが増えた。

ペットを買う時には、誰しもペットの容姿や健康に気を配るであろう。
考え得る限りの最高の条件を求めようとするだろう。

だが、飼い始めてからも、命はどんどん変化するのである。

どのように変化するのか、未知数の部分があって、飼い主次第で、ペットもどんどん変わって行く。そして、毎日、毎日、良く変わって行く姿を見ながら、神の御業に歓心させられるのである。

そして、気づけば、自分もまたペットのために随分、変わったことに気づかされる。

たとえば、生き物がいない時には、どんなに仕事に没頭しても平気であったのが、生き物のおかげで、適度な休憩を取るようになった。

生き物がいない時には、悩みごとが起きて来ると、果てしなくそれに埋没していたのが、生き物のおかげで、気持ちをすぐに切り替えることができるようになり、どんなことが起きても、動揺しないでいられるようになった。彼らを守るためには、飼い主の心に安定がなければならないからだ。

理解が及ばないことがどれだけあったとしても、必要なのは、よく観察して、生活を共にしているという実感を確かめ合うことだ。そうこうしているうちに、だんだん互いの気性が分かって来る。

筆者は、命である限り、およそどんなものでも、コミュニケーションを取れると思っている。それは相手が虫であっても、もっと高度な生き物であっても同じだ。

ところで、二、三年前に買って来たデンマークカクタスの小鉢が筆者の家にある。

そんなに栄養があるとは思えない環境だが、毎年、ちゃんと花を咲かせている。

今年の夏、ふと気づくと、この小鉢の片隅に小さな雑草がひょろりと一本顔をのぞかせていた。どこからやって来たのかも分からない、最初からこの鉢に根付いていたとも思えない、全く別の種類だ。窓際だから、外から種が飛んで来たのかも知れない。

そのまま放っておくと、雑草はデンマークカクタスの太い葉を迂回しながら枝を伸ばし、いつの間にか結構しっかりした幹になって、ついに可愛らしい白い花をいくつも咲かせた。

筆者は驚いてしまった。

鉢の中にある土には大した栄養分もなく、水さえ、筆者がようやく切らさないでやっている程度なのだが、その乏しい養分も水もほとんどデンマークカクタスが独占している中で、か細い一本の雑草がこんなに小さな鉢の中で花を咲かせるとは、正直、思っていなかったのである。

どんな環境の中でも、自分の場所を見つけて生きる命があるのだと驚かされた。

今、アハブ三世の統治するこの国で、経済は悪鬼化し、企業も悪鬼化し、国家も悪鬼化し、教会も悪鬼化している。どちらを向いても、人類が自己防衛のために築き上げたカインの城壁しか見えるものはない。

人々は自分を守るために武装し、城壁に立って見張りをし、武器を構え、異質な者を撃退しようと待ち構えている。その城壁の中にこもっている者たちには、外部に対する敵意と、自分たちにとって脅威となり得るすべてに、今しも襲いかからんとする殺気以外に、感じられるものはない。

全くもって厄介な存在であるから、筆者はこれらの城壁には可能な限り、近寄らないようにしながら、彼らと接触を絶って、別の次元で生きている。

ある意味では、筆者は自分をいかついデンマークカクタスしか植わっていない鉢に、突如として生えて来た可愛らしい雑草のように感じることがある。周りにあるほとんどのものが、自分とは異質だと分かるからだ。だが、異質なものがあまりにも勝ち誇っているので、一つ間違うと、生える場所を間違えたのではと感じられる環境だ。

だが、それでも、どういうわけか、この土地も、この世も、この国も、悪魔と暗闇の軍勢のためだけにあるわけではなく、たとえ隅に追いやられているように見えたとしても、神はキリスト者のために、必要な生存条件をすべて整えて下さるのである。

だから、右を見ても左を見ても、デンマークカクタスのためにあるような土地で、それとは全く関係ない「雑草」が、花を咲かせるということも十分にありうるのだ。

神の国とその義をまず第一に求めなさい。

その戒めを、筆者はしっかりと守っている。そうすれば、後の物はすべて添えて与えられる、と聖書は約束している。

御言葉の通りに、確かに、これまですべての必要が与えられて来たし、これからも与えられるであろう。神がそのように約束しておられるのだから、これを覆しうる者はない。だから、生きる環境のことについてあれやこれやと心配し、不満を述べることはしていない。たとえ隣で巨木が勝ち誇るように生い茂っていたとしても、アハブとイゼベルがこの国を統治していたとしても、そんなことは筆者の生存とは全く関係ないことである。

イスラエルの民が、エジプトを出て、初めて乳と蜜の流れる土地を見たとき、そこには巨人が住んでいて、彼らはそれを見て恐れ、到底、巨人を追い払って、この土地を占領することは無理だと考えた。

だが、その恐れは、神の御心にかなうものではなかった。その土地は、彼らのために神が用意されたものだったので、彼らは巨人など無いがごとくに恐れずに前進しなければならなかったのである。

筆者には今、その意味がよく分かる。

車を運転するときに、障害物に注目して運転する者はないはずである。運転者は常に進路を見る。障害物は、除けて通るべきものではあっても、注目すべきものではない。そして、すべての障害物を無事に通過して、無事に目的地に着けるという確信がなければ、誰も出発などしない。本当に目的地に着けるのだろうかと、恐れに駆られている人間に、運転は無理である。そういう人間は免許も取らず、決して車道には出ないのが最善である。

出発する以上は、無事に目的地に着けるという確信が誰しも必要なのであり、そのためには、障害物に払う注意は必要最低限度に抑え、ただどこに進路があるか、どこへ向かって進むべきなのか、それだけを第一に考え、どんな時にも落ち着いて冷静に進路を見分ける能力が必要である。

キリスト者はすでにエジプトを脱出したのである。荒野で罪のゆえに倒されて朽ち果てるための脱出ではなかった。だから、我々は神に全幅の信頼を置いて、御手に自分を委ね、神が導いて下さるままに前進して行くのである。恐れなく、勇敢に、喜びと活気に満ちてである。

「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)

「死の陰の谷」を「命の泉」の湧くところとする秘訣

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、 鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、 主と同じかたちに姿を変えられて行きます。 これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18)

神は、神以外に信頼する者を持たない、地上では寄る辺ない者を決してお見捨てになることなく、最後まで共にいて、すべての悪からかくまい、助けて下さる。

以前に、筆者はこれまで「死の陰の谷」ばかりを歩いて来て、「緑の牧場」と「憩いの水際」を経験することが非常に少なかったように思う、という趣旨の話を記事に書いた。そして、この先は、出来るならば信仰によって「死の陰の谷」を短縮する方法を見つけたいものだと。

しかし、今、再び、それを少しばかり訂正し、「死の陰の谷」を歩く時も、そこを「緑の牧場」に変え、「憩いの水際」をわき出させることは可能なのだという確信を述べたい。いや、実のところ、「緑の牧場」と「憩いの水際」はまさに「死の陰の谷」を歩くときにこそ、発見される、と言っても良い。

ペテロが水の上を歩いていた時、自分自身を見て溺れそうになり、主イエスに助けられたように、最初は誰でも失敗するだろう。しかし、「水の上を歩く」ことは必ず可能となるのだ。だから、「死の陰の谷」の只中で、「緑の牧場」と「憩いの水際」を見つけることも、必ず可能となるのである。

こんな内容になって来ると、「ヴィオロンの書いていることは分からない」とさじを投げてしまう人もいるかも知れない。

さて、今週一週間は、ずっと雨の予報で、今も外は雨だ。

今日は休日だから良いのだが、平日は毎日、筆者が通勤している最中、雨はやんでいた。少しパラパラとすることはあったが、ずぶ濡れになったりするようなことは全くない。

それでも、家を出るほんの数十分前には土砂降りの雨が降ったりしていた。神の守りを感じる瞬間であった。

これまで、こういうことがあると(こういうことは無数にあったのだが)、今までは「主が共にいて、守って下さったんだ!」と喜んでいたものだ。何かとても珍しい幸運に見舞われたように。

だが、最近は、それは「幸運」によるものなどでは断じてなく(神は気まぐれな方ではない)、信仰によるものであって、雨くらいのことで騒いでいる場合ではなく、天候のみならず、山をも動かすほどの信仰があれば、本当に山の方が信者に従うのだ、だから、信者はそういう信仰を持ちたいと願うべきなのだ、と思われてならない。

むろん、それは主の御心の只中を信者が歩いている時に限る。己の勝手な欲望を叶えるために、自然界の事象に向かって命じても、それは無駄なことである。だが、本当に信者が神の御心と一体となってこの地上を歩み、その上で、御名の権威を行使するならば、海も割れるのであろうし、嵐も静まり、山も動くのである。

キリスト者の人生は、超自然的な領域における、この世の法則を超えた、キリストと共なる霊による支配である、ということをこれまで書いて来た。霊的領域において主イエスの御名の権威を行使し、この世の事象を御名の権威に従わせ、すべてをキリストにあって管理し、統治する秘訣を学ばない限り、クリスチャンの人生は、決してあるべき姿にはならないであろうという気が筆者はしてならない。

「あなたは何を言っているんでしょうか? しるし・不思議・奇跡を追い求め、超人になることを目指しているんですか? 神になりたいんですか? それは悪魔的誘惑ではありませんか?」

と疑いの眼差しで見る人もあろう。これだから、ペンテコステの出身の人間は駄目なのだ、と言う人もあろう。奇跡や、超自然的な霊的領域のことを全く認めない人々も信者には多い。

むろん、悪魔も反キリストも奇跡を起こす。そのことは聖書に警告されている。そして、筆者は魂の力による偽物の奇跡が存在することを否定しないし、ペンテコステの教義をも認めておらず、奇跡を第一として追い求めているわけではない。むろん、自分は神だなどと言っている人たちの仲間に加わりたい願いは全くない。

だが、信者がキリストとの固い結合を追い求めることと、「神になろうとする」ことは全く別である。そして、もしこの世に「模造品」が溢れているのだとすれば、それは必ず別のどこかに「本物」が存在するためなのである。たとえば、偽物の「聖霊」を語る人たちが現れるのは、本物の「聖霊」が存在するからであり、またその本物を隠すことが目的なのである。もしペンテコステ運動が巨大な贋作なのだとすれば、必ず、霊的統治の本物が存在するはずなのである。

つまり、キリストにあっての霊の統治の本物が必ず存在し、そこに至らせないために、暗闇の勢力が前もって歪められた偽物を大量に流布しているだけなのである。だから、イミテーションがイミテーションだと分かったからと言って、その幻滅のために、本物を探す努力までやめてしまうことが、一番、信者にとって無意味な結論である。

たとえば、「聖書に忠実であるために」、婦人たちは集会でベールをかぶるべきだと主張する信徒の群れがある。それほど、聖書に忠実であるために、努力したい熱心さがあるならば、「病の癒しは現代では起こらない」などと決めつけずに、主イエスが福音書でどれほど数多くの奇跡をおこなわれたかにもきちんと注目すべきである。

こまごまとした形式にばかりはこだわっておきながら、キリストの復活の命の本当の解放の力には注目しない、というのでは、正しい聖書の読み方とは言えない。

福音書を見てもらいたい。使徒行伝を見てもらいたい。主イエスや弟子たちによるどれほど数多くの奇跡が記されているか。また、「山をも動かす信仰」や、ペテロが主イエスに従って水の上を歩こうとした記述などは、一体何のために書かれているか? これは単なる教訓のために作られた大袈裟なたとえ話なのであろうか?

決してそうではないと筆者は考えている。初代教会の当時は、そういう奇跡は至極当たり前だったのだろうと想像する。

だが、その後、キリスト教が世俗化されて行くに連れて、これは単なる死んだ教義や、道徳律や、処世訓のようなものになってしまい、そこから命が失われたのである。

今日、悪魔に支配されるこの世において、絶えず理不尽に苦しめられている信者たちは数多く存在する。しかし、キリストはすでに悪魔に対してカルバリで勝利を取られたのである。

だから、キリストの勝利を実際として信者がこの地上で掴み、これを信仰によって行使するためには、どうしても、この世の法則を超えた力が必要となるのであって、それこそが、キリストの復活の命の力なのである。

悪魔が偉大な奇跡を起こして自己顕示しようとするのとは違って、キリスト者は、自己顕示のために奇跡を求めているのではない。信者は絶えず、カルバリの死に立ち戻る。復活の命は、十字架の死と共にしか働かない。

それが、「死の陰の谷」の意味するところでもある。

もし信者の人生に「死の陰の谷」が全くなければ、人生は相当に楽になるであろう。人間存在としての我々は、自分にとって苦しいことは何も経験したくない、と思う。自分の人生に「緑の牧場」と「憩いの水際」だけが目の前に連綿と続いていてくれたら、どんなに良いかと思うであろう。

だが、キリスト者の人生の不思議は、たとえ目の前に「死の陰の谷」にしか見えない風景が広がっていたとしても、信仰がありさえするならば、そこに「緑の牧場」と「憩いの水際」を見つけることは可能だ、ということなのである。可能であるばかりか、たやすい、と言っても良いかも知れない。

たとえ40年間荒野をさまよったイスラエルの民のように、この世の荒野で訓練されることがあっても、もし信仰さえあるならば、神は信者に豊かに命をお与え下さる方であって、決して信者を飢えさせたり、危険な目に遭わせたいと望んでおられるために、そこへ導いて来られたわけではない、ということが分かって来るであろう。

そうなれば、たとえ目の前に迫りくる敵の大群衆を見る時にさえ、そこに神の勝利を見ることができるようになるであろう。

このような視点を、信者は養わなければならない。それは決してポジティブ・シンキングやら、見たくないものにすべて蓋をするとか、ありもしない空想や超能力や奇跡に期待して、現実的な責任を放棄するといった自分勝手な生き方のことではない。

ただこの世の法則においては、全く何もないどころか、すべてが荒廃し、死んだような有様に見える時にも、すべてを信仰の観点から見て、神が望んでおられるように世界を見て、そこに神の望んでおられる統治を、御名によって、天から地に引き下ろすことである。それが信者の役目なのである。

モーセが荒野にいて民を導いていた時、彼が杖で岩を打てば、岩から水が湧き出たように、荒野に水をわき出させ、緑の牧場を生やすことは、信者の仕事なのである。

それができるようになった時、初めて、「栄光から栄光へ」、「主の似姿に変えられて行く」ということの意味も分かるようになるであろう。

肉眼では「死の陰の谷」から「死の陰の谷」へ向かって歩いているようにしか見えない時にも、そこに神の栄光を見ることができるだろう。そして、栄光から栄光へ向かって歩いて行くのである。

この世の法則を超えた霊による統治能力、これは日々実験し、試して行かなければ、一体、それが何を意味するのか、理解できる人はいないものと筆者は思う。特に、これは現代のクリスチャンの認識からはほぼ失われてしまった領域である。

だが、どうしても、それを開拓して行かねばならないのだと筆者は感じる。

また、天的な教会の姿を見いだす、ということも、それがなければ無理なのである。

信者は自分自身のためだけに、神と共に信仰によって生きているのではなく、団体として生きている。これはキリストの御身体としての教会という団体のことである。

だが、教会とは、この世のあれやこれやの団体のことではなく、それぞれに信者が名前をつけては集っているてんでんバラバラのサークルのことでもない。

教会はこの世を超え、時代を超え、空間を超える。この天的なエクレシアの真の姿を知らなければ、その一部としての自分の機能を知らなければ、信者は自分が一体、この地上で何を担っているのか、その使命を明確に理解することもないであろうという気がしてならない。

オースチンースパークスが書いていたように記憶しているが、教会は「これから建て上げる」ものではないし、人間の努力によって「造り上げる」ものでもない。

たくさんの有望そうな信者をスカウトして来て、地上の集会を増やせば、エクレシアが成長する、ということもない。

エクレシアは初めから完全なのである。エクレシアを成長させようとする努力は必要ない。

キリストはすでに成人に達しているのである。我々の努力がキリストの御身体を成長させるわけではないのだ。

この点を間違えば、信者の生き方は全く本末転倒になってしまうであろう。

今日、あまりにも大勢の信者たちが、「教会を成長させよう、教会を建て上げよう」などと言って努力しているが、それはベクトルが完全に間違っているものと筆者は考えている。

聖書は、「キリストの満ち満ちた身丈にまで成長しなさい」、と信者に対して言うが、「キリストの御身体を成長させなさい」、とは言っていない。

なぜなら、キリストの御身体はすでに完全だからである。御身体とは教会のことである。教会は完全である。神は初めから完全な教会の姿を見ておられる。しみも、しわもない花嫁としての栄光の教会、それはまるであたかも最初から罪を犯したことが一度もなかったかのように、完全な教会の姿である。

だから、成長しなければならないのは、教会ではなく、信者自身なのであり、信者の内なる信仰の増し加わりが必要なのである。地上における集会の規模拡大、信者の人数の拡大などが、教会を成長させるということは、決してないであろうと筆者は確信している。

信者の信仰の増し加わり、信者の内面におけるキリストの増し加わり、それが信者をより一層、完全な教会のリアリティへと導き入れ、組み込むのだと考えるべきであろう。それは極めて個人的な内面の過程である。

「顔の覆いが取り払われて」――つまり、この世の荒廃した有様を見るのではなく、そこに信仰によって、神の御心を一心に見つめ、キリストの命の豊かさを見つめ、それを実際に地に引き下ろす人となること、主イエスがなされたように、地上で囚われている人々を解放し、命を与える役割を果たすこと、「死の陰の谷」に命の泉をわき出させる人となること、それが、「鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、 主と同じかたちに姿を変えられて行」くことの意味なのだ。

まさにキリストご自身のように、キリストご自身と固く結びついて、まことの命そのものに近づいて行くことである。

その完成体が栄光の教会の姿なのである。信者は、信仰によって主に接ぎ木されたように、信仰によって、このエクレシアの実際に入りこむのである。そして、そこから、キリストの命の豊かさ、神の多種多様な知恵をこの世に向かって現すのである。

そして、その教会とは、おそらく、今の時代だけに限定されるようなものではない。キリストが地上に来られ、天に昇られてから、連綿と今に至るまで時代を超えて続いている霊的な存在なのである。

教会とは、断じてこの地上で「教会」という名で呼ばれているてんでんばらばらの組織や団体のことではない。だから、天的な教会の真の一体性と、そこにおける信者の個別の役割を筆者はよりはっきりと知りたい、と思わずにいられない。  

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

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