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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

霊と真理によって神に捧げられる礼拝と、霊における天的なエクレシアの交わり

「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(Ⅰコリント2:2:)

今、日本という国が急速に荒廃している。政治の荒廃は言及するまでもなく、ごく普通の人々の日常生活に至るまで、真実、誠実さが姿を消し、嘘、不法、搾取、虐げが横行し、人々は互いに裏切り合い、貶め合い、蔑み合っている。

終末に向けて、悪の霊が大々的に説き離れたこと、日本に生きる人々(もっともこれは日本だけの話ではなく、世界的な現象であろう)の心の荒廃が進んでいることを思わずにいられない。

だが、筆者は、滝が滝壺に向かって流れ下るように、破滅へ向かう激しい濁流のような流れから、完全に距離を起いて、これと関わりのない天的な人生を生きたいと心から思う。どうやら、そのためには、地上の経済を離れ、地上的交流を離れ、天的な角度から、天的な経済と天的な交流によって、人生を建て上げることが必要なのではあるまいか、という実感がしてならない。

すでに書いたことであるが、以上のような人心荒廃現象は、終わりの時代の様相であり、世人だけでなく、信者と呼ばれる人々の間にも起きて来ている。聖書には、終わりの時代に苦難が来ること、他でもなく信者と呼ばれている人々の中から、以下のような人々が出現することが警告されている。

「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」(Ⅱテモテ3:1-5)

この最後のフレーズ、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。」が、以上のような人々が、神を恐れず、神を知らず、信仰を持たない世人の中から現れるのは言うまでもなく、さらに他でもなく信者と呼ばれる人々の中から出現することをはっきりと示している。

以上のような恥知らずな生き方をする人々が、どうして「敬虔」に見えるものか、という疑問を呈する人もあるかも知れないが、それは主イエスが地上に来られた時、市井の人々からは信仰篤い立派な宗教家のようにみなされていた律法学者やパリサイ人たちが、誰よりも悪質に神の御言葉に逆らい、主イエスを憎み、殺意によって陥れ、主を十字架につけたことを考えれば、不思議ではない。上記の御言葉は、その当時と同じように、終わりの時代には、他ならぬキリスト教の中で、他ならぬ敬虔な信者のように振る舞っている人々が、神の福音に最も激しく敵する者になる、という警告と受け止められるのである。

ところで、かつてそのような危機感を抱いていたがゆえに、組織としてのキリスト教のあり方を批判し、キリスト教界を出て、直接、神に結びつく信仰生活を心から追い求めていた信者たちが数多く存在していた。

しかしながら、筆者が出会った、そのようにキリスト教界を出て直接、キリストだけにつながる信仰を追い求めていた信者たちは、そのほとんどが途中から、人間のリーダー、人間の組織へと逆戻りして行ったのであった。

筆者が彼らに出会った当初、彼らの口から一様に聞かされたのは、人間の作る地上的な組織や、人間のリーダーから離れなければ、神への本当の信仰を保つことはできず、地上的な組織は、やがて反キリストの体系へと集約されて行くだけだから、そこから離れなければならない、という確信であった。

にも関わらず、こうした人々は、信者のコミュニティから離れて、自分一人、孤立する危険に直面すると、孤立を恐れるあまり、結局、地上的なサークルへの帰属を求めて散って行ったのである。

こうした現象を見るとき、筆者は「どうして当初の信仰の証を失ったのか」と疑問に思わずにいられない。「あなたたちがあの頃、あんなにも熱心に語っていたことは一体、何だったのですか」と。

これまで、多くの霊的先人たちが、組織としてのキリスト教を離れ、地上の組織や団体に属さずに、直接、神に結びつく信仰生活を模索してきた。

ハドソン・テイラーや、ジョージ・ミュラーや、その他の信仰の偉人と呼ばれる昔の人々の伝記を読んでさえ、その当時から、こうした人々の多くが、従来のキリスト教組織の枠組みから幾度となく離脱を余儀なくされた過程が分かるのである。それは必ずしも組織と対立したり、激しい争いの末に訣別するというようなものではなく、あるいはルターの宗教改革のように大々的に新しい教派を打ち立てるといったものでもなかったが、霊的先人たちは、静かに、穏やかに、組織を離れて行ったのである。

以前、筆者が教会に所属していた頃、「教会での礼拝に出席しなくなり、信徒の交わりを離れれば、信者は信仰を維持できなくなり、やがては救いを失う。」と言った思い込みが盛んに流布されていた。教会を離れ、信徒の交わりを離れることが、すなわち、悪魔の餌食となって、やがて救いを失うことと同一視されていたのである。

だが、人間の作った集団に帰属すること、神に帰属することは全く別の事柄である。だから、教会を離れれば救いを失う、などという考えは完全な誤謬であり、それはただ地上の組織から信者が決して離脱しないように使われる脅し文句に過ぎない。

ところが、そのことをよく理解して、そのような心理的な恐怖によって、地上の団体に信者を束縛しようとする従来の教会組織のあり方に疑問を覚え、そこを去ったはずの信者たちも、結局、そのほとんどが、また別に自分たち独自のサークルを打ち立て、今度は「兄弟姉妹の交わりを離れれば信者は信仰を維持できない」などと言い始めたのである。

そして、彼らは、教会の信者たちがしばしばそうしていたのと全く同様に、自分たちのように定期的な「信徒の交わり」を持たず、個別に神を見上げて生きている信者を上から見下して、「あの人たちは交わりが絶えて霊的に荒廃し悲惨な状態にあるから、祈ってあげなくてはならない」などと悪しざまに言い、しきりに可哀想がったりするのである。

それはかつて教会に所属していた信者たちが、自分たちの教会の礼拝に来なくなった信者たちを指して、「あの人たちは世に心を奪われて信仰が薄くなって危機的状況に陥っている。だが、神はそんな彼らをも愛しておられるから、彼らのためにも、祈ってやらねばならない」などと可哀想がっていたのと同じ有様である。

そのようなこともあって、最近、筆者は、一体、彼らの使う「兄弟姉妹の交わり」という言葉は何なのかと、深刻な懐疑を覚えるようになった。

筆者から見ると、すべては彼らの言い分とは真逆なのである。真に可哀想で、真に祈られるべきは、まるで取税人を見下して自己義認したパリサイ人同様に、自分たちは信徒の交わりを持っているから大丈夫と考えて、そこに属さない信者の「霊的荒廃」を想像し、それを心密かに蔑み、嘲笑しながら、自分自身と引き比べて自己安堵に浸っている信者の方なのである。

そのような姿を見て、筆者が思い出すのは、自分には地上で居場所があると誇ったバビロンのつぶやきだけである。

「彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座についている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。」(黙示18:7)

バビロンが誇っていたのは、天的な居場所ではなかった。彼女は、地上において、自分が受け入れられ、人から承認を受け、立派な信仰者だと認められる居場所がある、ということを誇っていたのである。バビロンとはまことの神への信仰と異教との混合であり、その本質は、うわべは「敬虔」そうに見えるが、「その実を否定する」信者の集合体に他ならない。

そして、終わりの時代、地上の組織としての教会や、地上の信徒の集まりこそ、神の天的なエクレシアに悪質に敵対するものとして、バビロンの混合体に堕して行くのだ、という確信をこれまで筆者は幾度となく述べて来た。また、オースチン-スパークスなどの論説に見られるのも、これと全く同じ主張なのである。

「私たちのいのちなるキリストが現される時・・・」
(コロサイ人への手紙3章4節)


聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、彼の復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

こうしたことには三つの要素があるでしょう。第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。

第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです。

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となること
です。

オースチンスパークス著、「私たちのいのちなるキリスト」から。


バビロンが誇ったのは、神からの承認ではなく、人からの承認であった。新約聖書を振り返っても、主イエスはいつも、自分たちは立派な信仰者で、敬虔で、落ち度なく礼拝を守っており、神から覚えめでたい本当の信者だと自負していた宗教家のもとへは足を向けられず、かえって、ザアカイや、サマリヤの女のように、人々から承認されず、コミュニティからも半ば見捨てられかかったような人々に積極的に声をかけられた。それは人には蔑まれ、見捨てられて深い孤独の中にあったこうした人々の心の中に、ただ神だけを呼び求める信仰が生まれていたからに違いないと筆者は思う。

主イエスが地上で御言葉を語られたのは、常に当時の社会で「敬虔な信者」の外見からはほど遠く見える人々ばかりであった。イエスの弟子たちも、主イエスに召されるまで、当時の社会ではそれほど尊敬されない職業についていたし、主イエスが誕生された時に、天使たちが荒野で姿を見せた羊飼いたちも、社会では蔑まれ忘れ去られているような人々であった。

それを考えても、やはり、教会や信者の集まりの中に身を置いて、「自分たちは信徒の交わりに出ているから霊的状態は万全」などと考えている人たちは、主が再臨される時には、きっと素通りされるのに違いない、と筆者は思わずにいられないのである。

それどころか、終わりの時代、バビロンが高らかに誇った地上の「居場所」は、まさに「兄弟姉妹の交わり」という名目でこそ、美化され、栄光化され、高みに押し上げられて行くのではないだろうか。

筆者が今思い出すことの中に、かつて筆者が心から「兄弟姉妹」と呼べた数少ない信者の一人であったある姉妹(彼女はすでに亡くなった)が、生前、「兄弟姉妹」という言葉に反発していたということがある。

筆者自身は、まだその頃、「兄弟姉妹の交わり」というものに相当な美的イメージを持って、交わりに憧れ、これを追い求め、建て上げることに関心があったので、彼女の台詞にそれほどの共感は持てなかった。

だが、彼女は自分もクリスチャンであるにも関わらず、この言葉だけはどうにも抵抗があると言うのであった。彼女は言うのである、「どうしてクリスチャンの集まりでは、まるで専門用語みたいに『兄弟姉妹』という言葉を使って互いを呼び合うの?」

彼女いわく、「兄弟姉妹」という呼びかけは、クリスチャン(しかもどこかの組織に属している信者)の間
だけでしか通用しない専門用語であり、しかも、自分は正統な信仰生活を送っていると自負したいクリスチャンが互いを承認しあって慰め合うために自己満足のために発する言葉だというのである。

まだはっきりとした信仰を持たない者が教会に足を踏み入れ、そこで信者同士が「兄弟姉妹」と呼び合っている言葉を聞くと、「自分は兄弟姉妹の一員ではないから、この人たちの仲間ではないのだ」と思い知らされ、自分はこの信者たちから排除されている、という印象だけしか受けられずにそこを立ち去ることになる、そんな高慢な兄弟姉妹の交わりはあるべきでない、というのだ。

今日、クリスチャンの書いた色々な読み物に目を通すとき、筆者は、彼女のいわんとしていたことの意味がよく分かるように思う。

排除されているのは不信者だけではない。教会と呼ばれない集まりであっても、多くの場合、そこにいる信者たちは、「兄弟姉妹の交わり」に定期的に出ているかどうかを、まるで信者の霊的状態をおしはかるためのバロメーターであるように思い込み、他の信者の「霊性」を品定めし、裁くために使っている。

彼らから見ると、定期的に「兄弟姉妹の交わり」を持たない信者たちの「霊性」は荒廃しているに違いなく、そのようにして信者の群れからはぐれた信者は、やがては救いを失う、という結論が決めつけられている。だが、よくよく彼らの言うことを吟味してみると、結局、そこでは、「イエス・キリストに直結しているか」よりも、「兄弟姉妹の交わりに直結しているか」ということの方が、はるかに重視されている。あたかも、「イエス・キリストに直結していなくとも、(しばしば牧師やリーダーに直結し)、兄弟姉妹の交わりに直結してさえいれば、何とかなる」とでも言いたげに・・・。

しかしながら、筆者が覚えている限りでは、彼らがそれほど重視する「兄弟姉妹の交わり」という言葉自体、文字通りには、聖書には登場しないのだ。

聖書には、「交わり」という言葉はいく度も登場する。だが、その多くは主として、「神との交わり」、「御霊の交わり」、「イエス・キリストとの交わり」といった文脈で、信徒同士のヨコの関係というよりも、神とのタテの関係を強調するものとなっている。

信徒同士のヨコの関係を示すものとしては「信徒の交わり」という言葉が使われるが(頻度としては神の霊との交わりという文脈よりは少ない)、それとて、神の霊によって生かされる信徒たちの神の霊の中における交わりであることを大前提としている。

そこで、聖書の御言葉が「交わり」と言うときには、それは第一に、神の霊との交わりを指しており、信徒の交わりに言及される場合も同様に、神の霊の中における信徒の霊による交わり、という意味で用いられる。つまり、正しい交わりというものが、神の霊を抜きにしては決して成り立たず、神の霊を抜きにした信徒だけのヨコの関係は「交わり」には含まれないことが分かる。

検索サイトを用いて、口語訳と新共同訳の新約聖書で、「交わり」という言葉がどのように使われているかをざっと検索してみると、結果は次のようになる。そこからも、聖書の言う「交わり」とは第一に「神の霊との交わり」であることがよく理解できる。(ちなみに、交わりという言葉を、神と信者とのタテの関係でとらえる文脈を赤、信徒同士のヨコの交わりを青とした。)
 
使徒行伝/ 02章 42節
そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。

使徒行伝/ 05章 13節
ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。

ローマの信徒への手紙/ 12章 16節
互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。

コリント人への第一の手紙/ 01章 09節
神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。

コリント人への第一の手紙/ 15章 33節
まちがってはいけない。「悪い交わりは、良いならわしをそこなう」。

コリント人への第二の手紙/ 06章 14節
不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。

コリント人への第二の手紙/ 13章 13節
主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。

ガラテヤ人への手紙/ 02章 09節
かつ、わたしに賜わった恵みを知って、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。

フィリピの信徒への手紙/ 02章 01節
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、

ピレモンへの手紙/ 00章 06節
どうか、あなたの信仰の交わりが強められて、わたしたちの間でキリストのためになされているすべての良いことが、知られて来るようになってほしい。

ヨハネの第一の手紙/ 01章 03節
すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。

ヨハネの第一の手紙/ 01章 06節
神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。

ヨハネの第一の手紙/ 01章 07節
しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。


 さて、以上で最後に引用したヨハネ第一の手紙の御言葉、および、以下の聖句、
 
ヘブライ人への手紙/ 10章 25節
ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。

が、「定期的な信徒の交わりから脱落すれば、信者は信仰を失う」、とか、「集会への出席をやめれば、信者は信仰から脱落する」といった半ば脅しめいた固定概念の根拠として引き合いに出されることが多い箇所である。

しかしながら、そんな風に人の心に恐怖を抱かせる台詞を鵜呑みにするよりも前に、まず、聖書の言う「信徒の交わり」とは、何よりも、神の霊における(聖徒らの)霊における交わりであることが大前提であって、単なる地上の人間たちの集まりではない、ということをよく考慮する必要がある。

さて、キリストの霊における交わりとは一体、何なのかを理解する上で、たとえば、パウロは次のような興味深い言葉も記している。
 
コロサイ人への手紙/ 02章 05節
たとい、わたしは肉体においては離れていても、霊においてはあなたがたと一緒にいて、あなたがたの秩序正しい様子とキリストに対するあなたがたの強固な信仰とを見て、喜んでいる。

つまり、この言葉からも分かるように、神の霊の中における信徒の交わりは、地上の肉体の制約や時空間の制限を超えるのである。

そして、エクレシア(本当の意味での教会)とは、そのような意味において、まさに神の霊によって生かされる信徒らの、時代をも空間をも超越する霊的共同体に他ならない。

エクレシアにおける信徒の正しい交わりとは、たとえば、ある日のある固定された時間にある固定された場所へ行かなければ、決してあずかることのできないような地上的な制限の下にある集会を指すのではなく、何よりも、神の霊の只中における時空間の制約を受けない天的な集まりを意味するのである。

そのようなことをただの一度も思いめぐらしたことはない信者は多いことであろう。天的な集まりと言われても、それが何を意味するのか、全く理解できないし、地上における定期的な集会こそ、正しい信徒の交わりのあり方だと信じている人々はまことに多いであろう。しかしながら、たとえ地上で定期的な信者の集会が開かれていたとしても、それが神の霊の中にない、ということは実際にあり得るのである。

さらに、オースチン-スパークスの警告からも分かるように、いかに外側からは敬虔なクリスチャンの集まりのように見えたとしても、「教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょうそして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。

つまり、最初はキリストの御霊によって生まれた信徒たちによって始められた集まりであっても、もしその集まりが、「教え、伝統、制度、運動、人など」、地上の何物かに帰属するならば、その集まりは、地上のものに束縛されて霊的に制約を受け、最後には、ついに神の自由な霊による天的な集会としての要素をすべて失ってしまうことになるのである。そうなると、その集会に残された道は、反キリストの体系に統合されて、キリスト教と異教の混合体としてのバビロンに吸収されて行くことだけである。

それが、終末に、信者がキリストの御霊にとどまらず、「事物、人、運動、制度、組織など」に帰属されて行った時に起きる必然的結果なのであり、そうしたことの結果として、キリスト教と思われている地上的な団体や組織が大々的にバビロン化して行くのである。

だから、我々は、「兄弟姉妹の交わり」と呼ばれている集会があるからと言って、それがすべて神の霊による集まりであると安易に鵜呑みにすべきではない。むしろ、それは本当に「キリストの御霊」による交わりなのか、それとも、人間の作り出した神の霊によらない地上的な集まりに過ぎないのか、そこをきちんと識別しなければならない。

筆者は、信徒が集まることの意味そのものを否定しているわけではなく、神の霊によって生かされた信徒らが集まり、交わることには確かに大きな意味があると考えている。だが、それは必ずしも地上的な制約の下にある集まりばかりを意味せず、場合によっては、時空間を超える霊的交わりが存在しうる。

また、この地上には、偽物の聖霊、偽物の信徒、偽物の信徒の交わりというものが確かに存在しており、偽物は常に本物以上に、自分たちを本物であるかのように誇ろうとすることに注意が必要である。偽物の信徒の交わりも、自分たちこそ本物だと主張して、そこへ盛んに人々を惹きつけ、束縛して行こうとする。

地上に制限だらけの独自のサークルのような「兄弟姉妹の交わり」を作って、そこにいない人々をあたかもみな憂慮すべき霊的状態にあって神から切り離されているかのように決めつけ、自分たちの交わりを高らかに誇り、それを神の選民とそうでない人々を区別する境界線のようにみなしている人々の主張には要注意である。まずもってそのようなものは真の聖徒の交わりではあり得ない。

 
主イエスは次のように言われた。
「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 <…>
しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
 
神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

(ヨハネによる福音書/ 04章 21-24節)

このように、まことの礼拝とは、「霊と真理」によって捧げられるものであり、「この山」、「エルサレム」などといった特定の時空間に制限されるようなものではない。

エクレシアは天的なもので、時代と空間の制限を超える。神の霊によって生かされている信者はみなエクレシアの構成員として天的な礼拝の中に入ることが許されている。だが、一体、時代と空間の制約を超え、信者自身の地上の存在としての制限をも超える本当のエクレシアの霊的交わりとは何なのか、その実際を信者は知る必要がある。
 
神の霊によって生かされる信者らは、ただ霊と真理によって神に礼拝を捧げるのみならず、聖徒らの互いの交わりにおいても、肉的な方法で(人間的な思いで)信徒を知ろうとはしない。パウロが、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」(Ⅱコリント5:16)と述べたように、信者は霊においてキリストを知り、霊において神と交わるだけでなく、信者同士との交わりにおいても、霊において交わるのである。このようなキリストにある新創造の領域における交わりこそ、まさに信徒の交わりとして必要なものである。

「なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。」(Ⅰコリント2:2:)

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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