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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

前回の記事を多少、補っておきたい。

以下の事典の抜粋にもあるように、今日でも、キリスト教の宗派の中で、とりわけ説教を重要視しているのは、プロテスタントである。

世界大百科事典 第2版の解説 せっきょう【説教 preaching】

 一般に宗教集会において,その教えを信徒および未信徒に説く言葉。仏教では,説法,唱導,説経など諸種の呼び名がある。今日,説教をその布教の最も重要な手段として重視するのは,プロテスタント教会である。古来キリスト教会では,集会(礼拝)において,聖書朗読と,その聖書の言葉の意味を会衆に説き明かして聞かせる説教とが重視されてきた。カトリック教会や東方正教会では,説教の重要性が薄れ,これを再び強調したのが宗教改革である。

プロテスタントの礼拝では、牧師の説教は、礼拝時間全体の6~8割くらいを占め、説教題が、その日の礼拝の主要テーマとなる。聖歌や讃美歌、祈りの内容、証等も、基本的には、すべて説教に合致するものが選択される。

今日、カトリックのミサでも、説教は行われるが、カトリックの礼拝における説教の重要性は、プロテスタントとは比べられないと、かつてカトリックに去った信者が言っていたことを思い出す。

『[シリーズ・世界の説教]近代カトリックの説教』(高柳俊一編、教文館)という著書に関する石井祥裕氏による書評「近代におけるカトリック教会の多面性」にも解説されている通り、現在、カトリックのミサで今日行われている説教は、20世紀のバチカン公会議によって義務づけられたものである。

「カトリック教会における説教のあり方に関しては、ちょうど半世紀前に開幕した第二バチカン公会議(一九六二~六五年)が新たな時代を切り拓いた(編者序文参照)。同公会議は説教を神の民全体の救済史的使命によって基礎づけ、ミサにおける神のことばの食卓での奉仕としての姿がその根本的な姿であることを明らかにした」

このことは裏を返せば、20世紀半ばの第二バチカン公会議の時点まで、カトリックでは主日礼拝における説教が義務づけられていなかったことを指す。そして、今でも平日ミサでは説教は義務とされていない。

こうした事実だけを見ても、プロテスタントが、カトリックよりもずっと先に、カトリックでは失われていた説教の重要性を、宗教改革として取り戻した様子が分かるだろう。
 
このように説教を重視するプロテスタントの伝統と、プロテスタントが教会内の装飾を取り払ったことには密接な関係がある。

カトリックと東方正教会は、今日でも基本的に礼拝の儀式的な側面に重きを置いており、信者は礼拝堂の荘厳な装飾や、美しい讃美歌の音色や、聖画などを通して、宗教的荘厳さ・敬虔さを視聴覚的に感覚受容する傾向が強い。こうした感覚的要素を、カトリックも正教会も、偶像崇拝であるとか、悪魔的な堕落を含む悪しき誘惑であるとみなして排除してはいない。

そこで、今日でも、カトリックの聖堂には、ステンドグラスなどから始まり、美しい多彩な装飾が施され、東方正教会では、さらに壁や柱に一面に聖画が描かれ、大量に金をあしらった装飾が施され、まさに寺院という言葉がふさわしい印象を、訪れる者に与える。

しかし、プロテスタントでは、聖画やステンドグラスやその他の教会の装飾を、偶像崇拝につながるものとして徹底的に取り払い、教会の礼拝堂を、無駄な装飾を一切、排除して、無味乾燥と言っても良いほどまでに、極めてシンプルなものとした。

こうして、「見えるもの」から来る視聴覚的な要素を、信者を偶像崇拝に導く堕落した感覚的要素として排除し、感覚的要素に依存することをやめた結果、プロテスタントの礼拝は、知的な内省(個人の心の内省ではなく、聖書の御言葉の知的理解)を重んじるようになったのである。

つまり、プロテスタントの礼拝が、牧師の説教にとりわけ重きを置くようになったのは、教会の中から目に見える装飾を排除して、神への礼拝というものを、目に見える感覚的刺激によってとらえるのではなく、目に見えない御言葉に対する知性による理解、また、霊的理解によってとらえようとしたことの結果なのである。
 
このことは、プロテスタントが礼拝のあり方を、カトリックに比べ、より初代教会のあり方に近づけ、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:18)
「それで、わたしたちは<略>目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」(Ⅱコリント5:6-7)
という聖書の御言葉を、より忠実に実践しようとしたことを意味する。

従って、プロテスタントの礼拝は、キリスト教の礼拝を、信徒が目に見えるものに心奪われるのではなく、見えないキリストに思いを馳せ、キリストから直接、啓示を受けて聖書を理解し、神を崇めるために行うものにすることで、本来あるべき礼拝に、確かに近づける役目を果たしたと言えるのである。

このような文脈で、プロテスタントの牧師の説教も、先に述べたように、人間が目に見えるものから来る感覚的刺激に頼らず、目に見えない聖書の御言葉を、自分自身の内面を通過させて、知的によりダイレクトに理解することを始めたという点で、画期的な意味を持っていた。

しかしながら、すでに述べた通り、当初は画期的な宗教改革として始まった牧師による説教も、今日は、牧師にあまりにも大きな権限と、信徒との不平等を言える経済格差を生んだ結果として、かえってキリスト教の信仰の前進の大きな妨げとなる要素に転じたと言える。

プロテスタントは、信徒の目を、教会内の装飾という目に見える事物からは引き離したであろうが、見えないキリストご自身に向けさせるには至らず、その代わりに、目に見える牧師へと逸らしたのである。

しかも、カトリックのような統一的なヒエラルキーがない中、ただ牧師だけが、他の信徒らに優って、神の御言葉を正しく理解し、他の信徒を教え、導くことができる指導者であるとみなすプロテスタントの牧師制度は、必然的に、教会内で、独裁的とも言える権威を牧師に与える。

プロテスタントの牧師の権威は、神の御言葉を取り継ぎ、これを信徒に伝える「説教」という召しからこそ来ている。この神聖かつ崇高な召しがあればこそ、牧師は、フルタイムの献身者として、その召しに専念できるよう、他の信徒とは違い、教会の献金から謝儀を受け取ることが許されているのである。

もちろん、歴史的には、プロテスタントからは多数の優れた説教者が登場して来ており、その説教が今日の信徒にも非常に有益な内容として伝えられていることは事実であるが、その一方で、毎週日曜の礼拝において、礼拝のほとんどの時間を、ほとんどこの世での苦難に遭遇したこともない牧師が、独演会のようなスピーチによって信徒を教化するというスタイルが取られると、必然的に、牧師が独裁者化して信徒へのマインドコントロールが起きやすい土壌が生まれる。牧師も人間であるから、他者からの監督や指導なくして、自分一人で教会の主となってこれをコントロールして行くことは難しい。

さらに、そこに金銭的な不平等が付け加わわれば、独裁者を生む完全な土壌が整うのであって、今やプロテスタントの牧師制度は、牧師が実質的に信徒に君臨し、信徒を搾取して成り立つ差別的特権階級に他ならないものとなってしまっていると言える。

こうした牧師制度の弊害が、20世紀後半になって、多数のカルト化教会の出現という形で浮き彫りになったのであり、現代という時代は、ただ牧師一人だけが、他の信徒に抜きんでて、聖書の御言葉を正しく理解して、信徒に向かって教えることができるとするプロテスタントの牧師制度そのものが、教会全体にとって重荷となり、信徒の信仰の前進の大いなる妨げとして、役目を終えて廃れつつあると言える。

私たちは、初代教会における礼拝が、たった一人の牧師が、毎週日曜日に講壇から大勢の信徒らに向かって、長広舌のスピーチを宣べて終わるというスタイルではなかったであろうことを容易に想像できる。

そこで、今日、より本来的な教会のあり方を取り戻すためにも、また、礼拝が真にキリストに捧げられるものとなるためにも、信徒は、ますます牧師に頼らず、自分自身で聖書の御言葉を理解し、これを実戦すべく、自分自身が神の神殿としての機能を正常に取り戻し、神との一対一の直接的な交わりを回復すべき時に来ていると筆者は確信している。

さらに言えば、礼拝とは、もともと真理と霊を持って捧げられるものであって、場所を問わないものであるから、牧師だけでなく、固定化された教会の建物からも、今や解放される必要性があると言える。

「イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)

このように、プロテスタントは、教会内の無駄な装飾を施し、信徒の心を、目に見えるものではなく、見えない聖書の御言葉へと向かわせ、神との直接的な交わりを回復するための第一歩としては、大きな役割を果たした。

しかし、プロテスタントは礼拝堂から無駄な装飾を排除した代わりに、今度は、牧師という目に見える「装飾」をそこに置いて、神ではない一人の人間を偶像化して、その言葉に信徒の心を向かわせた。
 
その他にも、特に20世紀になってからは、牧師が偶像化したことに加えて、情緒的な讃美歌や、感動的な信仰の証の披露など、まるでアーティストのショーのような感動的な演出効果を伴う大衆伝道のスタイルが編み出され、それらも結局のところ、教会の装飾に取って代わる目に見える新たな感覚刺激として、新たな偶像と化してしまった向きが非常に強いと言えよう。

そこで、今、キリスト教の礼拝は、こうしたすべての「目に見える偶像」すなわち、五感を楽しませてくる魅力的な視聴覚的要素、さらには、特定の礼拝堂という時空間による制約から解放されて、より自由に、より純粋に、神にダイレクトに捧げられるものとなる必要に迫られていると言えよう。

そのことは、2008年に当ブログ始まって以来、再三、語り続けて来たことである。

当時、このようにプロテスタントにおける礼拝のスタイルを偶像崇拝として批判し、初代教会において見られたような、真の礼拝を回復しようとして、既存の教団教派を離れることは、別段、信者にとって珍しいことではなく、あわや一大運動が起きてもおかしくないほどの状況があった。

その後、集まるための特定の場所を持たないことが弱点となり、この人々は散らされて行き、ある人々は、礼拝堂を持たない代わりに、家庭集会こそが、本来的な礼拝のあり方だと主張し、ある人々は、再び、教団教派に戻って行くなどしたが、筆者は、そうした議論や、信者の離散によって、すでに明らかとなった結論が、覆されるとは思っておらず、今必要なのは、あくまで一人一人の信者が、目に見える指導者に頼らずに、キリストに直結する信者として、神の神殿として、生きた礼拝堂としての機能を取り戻すことにあるという結論は、決してこの先も変わらないものとみなしている。

聖書のどこを見ても、教会というものが、特定の時代の、特定の場所や、建物を指すものであることを示した記述はない。ましてそれが特定の指導者によって率いられる特定の群れであると示した箇所はない。

教会とは、キリストを頭として、キリストの権威と支配の及んでいるキリストの体を指すのであって、その体とは、神の神殿である一人一人の贖われた信者を指し、また、信者らの総体を指すものと理解できる。

「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:22-23)

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。」(Ⅰコリント12:27-28)

「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4:11-13)

「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:19-22)

別の言葉で言えば、教会とは、死と復活を経たキリストの命の支配が及んでいる領域のことである。

「わたしたちは神に属する者ですが、この世全体は悪い者の支配下にあるのです。」(Ⅰヨハネ5:19)とある通り、この世はサタンの支配が及んでいる。

しかし、サタンおよび堕落したこの世のすべての目に見えるものはやがて滅ぼされ、すべてがキリストの御名に服従する新しい天と地が打ち立てられる。

そうなる前に、この世から召し出された者たちが、エクレシアなのであって、この世が罪に堕落しており、滅びに定められていることを知った一人の人間が、自らも罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信仰によって受け入れ、神に立ち帰り、この世から召し出されて、神の命によって新しく生まれ、御霊によって導かれて生かされるようになる時、その信者を通して、信者の周囲のこの世の事物にも、キリストの支配の霊的影響が及ぶようになるのである。

その信者が、真に御霊に導かれ、その働きを実現して生きているならば、その影響が及んでいる範囲は、キリストの命の支配領域である。すなわち、教会の支配下にあると言えよう。

従って、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」というエフェソ書の言葉は、教会とは、キリストの御名と権威による霊的支配の及んでいる領域、神の国の霊的秩序の満ちている領域であることを示している。

とはいえ、神の国が真に成就するのは、この世が滅び、新しい天と地が到来した時のことであるから、今日の時代の教会に現れているキリストの命の支配は、やがて到来する新しい秩序の前触れ(先取り)であり、それが信者の内側に霊的に到来し、行使されているものであると言える。

つまり、キリスト者は、この世から召し出され、来るべき時代の秩序を先取りして行使する者なのである。

さらに、教会は特定の時空を超えるものであって、同時代を共に生きている信者だけに当てはまるものではないから、初代教会から今日までの(もしくはそれ以降の歴史時代も含む)贖われた信者らの総体が、教会であると言うこともできよう。

このように、聖書を見るならば、教会というものを、特定の時空間の制約の中にある一つの建物にとどめたり、特定の礼拝堂、特定の指導者の下にとどめようとすることは、正しい解釈ではないことが分かる。

従って、プロテスタントの礼拝スタイルは、初代教会のような教会の本来的な姿が回復されるまでの、ほんの過渡的なものであって、今日、その過渡的なものが役目を終えつつある以上、より本来的な教会の姿が回復されねばならないのは当然である。

役目を終えたものが存続し続けると、やがて有害なものへ変わる。信者が、見えないキリストだけに心を向けねばならない必要が生じている時に、目に見える牧師や指導者が、信者たちの目をあくまで自分に向けさせ、自分の教えに帰依させようとすることは、有害である。

そのことを指して、オースチンスパークスは「私たちのいのちなるキリスト」の中で、目に見える事物、人、組織、教え、伝統などは、時代が終末に近づくに連れて、ますますキリストのまことの命の現れから遠ざかり、むしろ、反キリストの現れ(統治手段)として利用されて行くと予告したのである。

ドストエフスキーも、終末の反キリストは、敬虔なキリスト教徒の指導者を装った異端審問官の姿で登場することを暗示している。

今日、カルトや異端を駆逐するという名目で現れたカルト被害者救済活動の中に、私たちはこうした警告がまさに的中していることを見て取れる。この運動は、まさに反キリスト的運動の先駆けである。

先の記事で書いた通り、当初は、聖書に立脚しないで教会へのバッシングに明け暮れるこの運動に、プロテスタントの諸教会も、抵抗を見せていた。

しかし、プロテスタントの教団教派は、やがてその恫喝に屈し、沈黙に入り、今や完全にこの運動の下に制圧されてしまった。そうなったのは、プロテスタントの諸教会が、すでに役目を終えた牧師制度を何とか温存しようとして、それを真に代価を払ってキリストの福音を宣べ伝える使命と取り替えたためである。

プロテスタントの諸教会は、すでに随分前から、命をかけて福音宣教することよりも、牧師一家を養い、支えることを主たる目的として存在するようになっていたため、牧師たちは、自分たちが命を脅かされ、この世での穏やかな生活を奪われるような事態に遭遇してまで、命がけで福音を守り抜くつもりはなく、そのため、早々に悪魔と取引をして身の安全を保ったのである。

たとえるならば、戦時中でもないのに、戦時中のような時代がやって来て、諸教会には、新しい国体思想のような、あからさまに聖書に基づかない異端思想への忠誠が命じられ、それに従わない教会を弾圧する異端審問官が現れ、目に見えない宗教団体法が敷かれ、それにプロテスタントの諸教会全体が屈したようなものである。
 
こうして、プロテスタントにおいても、目に見えるものの偽りが、牧師制度という形で、極限的にまで明らかになっているのが今の時代であり、それに対して、神に忠実な子供たちが出すべき結論は、かつてプロテスタントが、カトリックの教会で当然のように用いられていた教会内の装飾を拒否して、これを偶像崇拝として取り払ったように、牧師という目に見える偶像を取り払い、見えないキリストに目を注ぐという、「新たな宗教改革」なのである。

とはいえ、筆者は何ら既存の教会の打ちこわしや、牧師の罷免などを要求しているわけではない。そのような組織改革を筆者は一切提唱しておらず、結論はむしろ逆である。以上のような事実に気づいた信者たちが、自主的にプロテスタントをエクソダスして、それぞれが自らの持ち場にあって、神の神殿としての礼拝を回復すべきなのである。
 
当ブログが、このような結論を公然と提示していると、今でも、ネトウヨのような諸氏が、さして有名でもなければ、訪問人数が多いわけでもない、個人のつつましいこの信仰の証しにまで、早速、噛みついて来る。
 
必死になって、彼らは日夜、掲示板等で、当ブログに攻撃をしかけているようであるが(とはいえ、交代制の勤務の様子であるから、多分、雇われているのであろう)、そのような有様を見ても、プロテスタント全体が暗闇の勢力に制圧された今、残る最後のともし火を吹き消すことが、いかに彼らの重要なミッションとなっているかが分かる。
 
暗闇の勢力にとって何の脅威ともならない、毒にも薬にもならぬ内容ならば、このようなつつましいブログに、このような攻撃を行う理由がないはずである。

従って、キリスト教の教会が本来あるべき姿を回復するために、牧師制度から教会を解放することが、いかに重要性絵を帯びた緊急の課題であるかが改めて認識されよう。

* * *

さて、使徒パウロは、わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」(Ⅱコリント5:13-14)と記しているから、私たちも、キリストへの愛のために、ネトウヨ諸氏から正気ではないというという罵りを受けることにも、喜んで甘んじたいと思う。もしも私たちが、気が狂っているとするならば、それは神のためなのである。

さて、これまで当ブログは、暗闇の勢力からの尋常ならぬ徹底攻撃に晒されてきたが、その中で、敵の卑劣な攻撃手法がいくつも分かっため、この度、掲載しておきたい。これから暗闇の勢力に向き合う覚悟を固めた信者にはきっと役に立つはずである。

はっきり言っておきたい、もしもキリスト者として、私たちが信仰を守り通したいのであれば、こうした敵の飽くことのない卑劣な作戦と手法をよく理解した上で、このようなものに脅かされず、嘘を見抜いてさらりと交わし、どんな攻撃にでも、根気強く立ち向かって打ち勝つだけの、勇気と決意と覚悟が必要となる。

おそらくは、戦時下のクリスチャンにはそれがあっただろうと思われる。彼らは同僚の信者からも、特高警察に売り渡されることを覚悟の上で、決して信念を曲げず、福音を宣べ伝え続ける勇気と覚悟を持っていたのである。

現在は、国家が宗教と対立しておらず、信者に偽装する一部の人々が狂ったように信仰の迫害に及んでいるだけであるとはいえ、当ブログに対しても、長年に渡り、組織的犯罪行為が行われているため、そこから、このような迫害に立ち向かうために、何が必要であるかを学ぶことができる。

筆者がこれまでに学んで来た戦いの手法は、みな暗闇の勢力の側から先にしかけられた攻撃を研究した結果である。そのような攻撃がしかけられることは、誰にとっても愉快とは言えないが、それがなければ、暗闇の勢力との戦いというものが存在することも、その脅しに打ち勝たなければ、信仰の前進はあり得ないことも、また、脅しを打ち破るための有効な御言葉がきちんと存在しており、圧倒的な勝利をおさめることが可能であることも、分からなかったであろう。

聖書には、「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ5:4-5)と記されている通り、私たちには、すでに世に打ち勝った方がおられ、勝利が約束されている以上、恐れることはないのである。

さらに、「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(Ⅰヨハネ4:16-18)

とある通り、敵の脅しに立ち向かうために、まず必要なのは、自分自身の内なる恐れを払拭することであり、その恐れとは、神の掟を全うしていないかも知れないという、自分自身の心の恐れ、もしくは罪悪感である。これらのものを完全に十字架に死に渡し、キリストの義と聖と贖いに固く立って、全く揺るがされないことが肝要である。

さて、これまでの組織的犯罪行為を通して明らかになった敵の手法は、以下の通りである。
 

 ネトウヨ鬼戒律(暗闇の勢力による犯罪的バッシング手段)

その➀  必ず強い方ではなく弱い方を叩け。
(男性と女性ならば、女性を、指導者と信徒なら信徒を、親と子なら子をバッシングせよ。
 なぜなら、強い者でも、自分の愛する弱い者が攻撃されれば、うろたえるからである。)

その② 本格的な攻撃前に、嘘八百の風評被害をばらまいて、標的を弱体せよ。
(裏取りなど必要ない。責任は訴えられてから考えれば良い。とにかくデマを急速に拡大し、噂の出所を水増しして大合唱に見せかけることが重要。弱い相手ならこの時点で狼狽して降参する。デマの中でも悪魔の最高の好物が性的スキャンダル。不倫など絶好の材料。なければ、でっちあげるだけ。)

その③ 個人に対して常軌を逸した集団的なバッシングをせよ。
(十年間粘着するなどは序の口。人数を水増ししつつ、殺意を感じさせるまでの執念により集団的にッシングを繰り返し、恐怖して退却させろ。)

その④ 標的から受けた非難は、すべて裏返しにして標的に返せ。
(白黒反転論法。ターゲットの言葉を使ってターゲットを攻撃せよ。)

その⑤ ターゲットを徹底的に揶揄して「裸の王様」に仕立てあげろ。
(集団的に笑いものにして、支持者を減らし、信用を引きずり落とすことが肝心。)

 
その⑦ ターゲットのトラウマとなる出来事を調べて繰り返し攻撃せよ。
(ネチネチと執念深く繰り返し急所を攻撃することが重要)

その⑧ 女性がターゲットの場合、執拗に年齢と容姿と異性関係を攻撃材料とせよ。
(若ければ若いことを、年寄りは年寄りであることをバッシングの理由に。女性は年齢を突かれることと美醜を指摘されることに弱い。若い美人には特に念入りに性的スキャンダルを捏造せよ。)

その⑨ 絶対的確信に満ちて支離滅裂な嘘を吐け。
(嘘を吐くときこそ悪魔の真骨頂。あまりにもあからさまな嘘を、あまりにも大胆に宣言されると、人は意気阻喪して、反論の意欲が萎える。蜘蛛の巣のように錯綜した嘘も、反論に手間がかかるので絶好の武器。)

その⑩ 人間関係を引き裂いて孤立させよ。
(悪魔は裏切りと密告が大好物。親しい知人に近づいて裏切らせるのは蜜の味。孤立していなくても孤立しているという噂をまき散らし、それらしい雰囲気を演出。)

その⑪ 特に家族関係を徹底的に傷つけろ。
(家族だけでなく、友人、知人、職場の関係者、可能な限り大人数を調べ上げてスキャンダルに巻き込め。人は社会的地位を惜しむので、騒ぎを拡大されることに弱い。)

その⑫ 孤立させたら即座にマインドコントロールを。
(相手がうろたえている時にこそ精神を集中攻撃して陥落せよ。)

その⑬ 優しい同情者を装って近づき情報を盗み出して裏切れ。
(スパイの古典的手法。うろたえさせることに成功すれば、ターゲットは必ず誰かのところに相談に行く。その人間に近づいて裏切らせよ。)

その⑭ 水に落ちた犬は徹底的に叩け。
(とにかく弱い者を叩きまくれ。二度と浮かび上がって来ないまでやれ)

その⑮ 正当な理由がないのに訴訟や告訴の脅しをやたら振り回せ(そして実行しない)

その⑯ ターゲットになりすませ!
(大量のドッペルゲンガー作成による惑わし。別名、分身の術。ブログ、ホームページの大量コピペや偽造だけでなく、本人になりすましてコメント投稿、ひたすら発言を盗みまくり、質の悪い模造品を大量に偽造し続けることが重要。)

その⑰ 不気味かつ不快な印象を与える接触を繰り返せ。
(人は意味の通らない支離滅裂な行為を繰り返されると、うんざりして立ち向かう気力をなくす。)

その⑱ 太刀打ちできない非難を受けたら、恋愛感情にすり替えろ!
(自分はターゲットから愛されているから非難されるのだという論法を使えば、反論する必要もない。)



これらはすべて古典的手法であって、しかも、ほんの序の口である。従って、信者はこの程度の脅しに屈しているようでは、先はない。(しかし、これらをクリアするために、約十年程度の時間が経過しているのは事実である)。

「なりすまし」については、大量の偽物を作成して本物を凌駕しようとすることは、古来から暗闇の勢力の常套手段であるが、これはグノーシス主義の「存在の流出」と密接な関係があり、掲示板もこれに深く関係しているため、このことについては、改めて記事にまとめることにしたい。
 
* * *
 
 
さて、戦時中、日本基督教団が軍国主義に加担し、兄弟たちを迫害する側に回ったことについては先の記事で触れたが、これに関連して、日本基督教団幹部がホーリネスの牧師を迫害する側に回ったことを示す解説もあるため、紹介しておきたい。

5.ホーリネス教会への弾圧と富田満 (日本基督教団 西方町教会ホームページ)

ちなみに、日本基督教団が戦争に加担したことなどは、すべて過去の出来事であって、現在とは関係ないから、このような歴史的事実を取り上げて、教団の優劣を論じたりすること自体が間違っていると言う人がいるかも知れない。

しかし、筆者はそのようには思わないし、また、筆者は教団の優劣を論じているわけでもない。筆者は、戦争体験を軽んじるわけではないにせよ、これを歴史的な出来事として客観的に知ることと、当事者(しかも深い罪悪を負った者)として受け止めるのでは、雲泥の差が生じると考えている。
 
私たちは後世に生きる者として、歴史を教訓にすることは大いにすべきであるが、主にあって、罪赦された者として、決して不必要な罪悪感に苛まれたり、無用な霊的な傷を負うべきではないと確信する。

筆者から見て、ペンテコステ系の教会は、底抜けに明るく、歴史が浅すぎるがゆえに、未熟で、軽薄と思われても仕方のない部分がある。また、あまりにも無定見に様々な霊的ムーブメントを取り込んだがために、悪霊の働きにも大きく扉を開いてしまったことは確かである。

しかしながら、こうした欠点とは別に、筆者は個人的に、聖霊の働きをなくして、キリスト教信仰は全く成立し得ないものであり、戦後成立したペンテコステ系の教団教派が、戦前・戦中に弾圧されたり、思想的転向を経験させられたりした信者ら特有の、拭い去ることのできない罪悪感や絶望感と無縁で生まれて来たことは、非常に良いことだと思っている。

キリスト者であれ、共産主義者であれ、戦時中に思想弾圧を受け、強制的に転向させられたり、力づくで自分の信念を曲げて屈服させられたりした体験のある人々は、筆者から見て、ある共通する独特かつ非常な「霊的暗さ」を持つ。

たとえば、遠藤周作の作品などを読むとき、戦時中に受けた体験のものすごい負の影響が、彼の信仰観全体に反映していることを、筆者は言外に感じざるを得ない。

たとえば、映画『沈黙』などは、予告編を見るだけでも、あまりにも絶望的で、ほとんど救いのない世界だという印象を受ける。そして、こうした世界観には、おそらくは遠藤自身の戦争体験から来る心の深い罪悪感と関係しているであろうことが容易に想像がつく。

おそらく、当時、戦争に加担させられたクリスチャンには、これと同じように、生涯、拭い去れない深い霊的な傷が生じたに違いないと思われる。

かつて当ブログにおいては、マザー・テレサや奥田智志牧師などの名を挙げつつ、若かりし頃に、あまりにも悲惨な形で他者の死や破滅の光景を目にした者は、その光景が、心に強烈なトラウマとなって焼きつけられ、生涯、その負の体験から離れられなくなり、罪悪感から弱者救済事業に身を捧げねばならなくなった例があることを紹介した。

マザー・テレサは一般には、キリストの愛を宣べ伝えるために、インドの貧しい人々を助けたのだと考えられているが、実際には、彼女自身が何十年間にも渡り「神の愛が分からない」という絶望感に苛まれていたことが、死後になって、明らかにされている。

上記の『沈黙』などは、筆者の目から見ると、それとよく似た世界観に基づいて作られており、そこには、マザー・テレサや奥田牧師と同じように、「神はどこにいるのか。なぜ私たちの苦しみに答えて下さらないのか。どうしてこのような理不尽の中に人類(私たち)を見捨てておかれるのか。」という、神の愛の中にいる信者ではなく、むしろ、神の愛から疎外された人々の悲痛な叫びが込められているように思われてならない。

しかし、筆者が知っている限り、ペンテコステ派の教会で説かれる神は、このように人間を理不尽の中に見捨てて沈黙される神ではないのである。

もちろん、ペンテコステ派の集会には、あまりにも多くの偽物の、眉唾物の奇跡体験が溢れていることは確かであり、そうした偽の奇跡の中には、悪魔的起源を持つものも、多く含まれているのではないかと考えられる。次々に新しく出て来る海外宣教師の著書も、一体どこまで信憑性を信じて良いやら分からないような話ばかりである。

しかし、その問題をさて置いても、キリストは、実際に、カルバリで悪魔のわざを打ち壊し、死を打ち破って復活されたのであって、御霊は、死と復活を経たキリストのまことの命であるから、常識的に考えて絶体絶命の状況においても、信者を勝利させる力を持っていることは確かなのである。

従って、筆者は、ペンテコステ運動に様々な問題があることは否定するつもりがなく、また、筆者自身が、真にキリストに出会ったのも、この教団を離れて後のことであったとはいえ、それでも、戦争中の暗い歴史から来る罪悪感とは無縁で、ダイナミックで奇跡的な聖霊の働きを重視する、底抜けに明るいペンテコステ系の教団で、筆者が幼少期を過ごしたことは、筆者自身の信仰観の形成にとって、極めて重要な意味を持つ出来事であったと考えている。

聖霊派の教会における底抜けの明るさと、愚直なほどに単純な喜びは、やがてその後、筆者が知ることとなる復活の命の勝利の喜びに通じるものがあったと思うのである。

今日でも、筆者の信仰は極めて単純であり、神が筆者のすべての必要を満たして下さり、筆者のためにすべてを成し遂げて下さるというものである。

しかし、特に戦時中に戦争に加担させられたキリスト教の信者には、神は、ペンテコステ系の信者が認識しているような、力ある方としては、とらえられていない。こうした人々の心の中では、神は信じる者に力強く自由と解放を与える方ではなく、むしろ、最も悲惨な状況で、人類を絶望の中に置き去りにして沈黙するような存在として認識されているのである。

だが、筆者から見れば、それは、人の罪悪感のなせるわざであって、本当は神の側の問題ではない。
 
いずれにしても、戦争を当事者として体験したかどうか、(その罪を連帯責任として共に背負わされたかどうか)という点は、それほどまでに、同じキリスト教信者の信仰観を分けたようなのである。

従って、戦後成立した聖霊派の教団教派に、そのような負のトラウマが、出発の時点から刻みつけられなかったこと、そして、筆者自身も、そうしたトラウマと無縁であることができたがゆえに、自らの信仰観に著しい制約を受けなかったのは、まことに運命的かつ幸運なことであったと思わずにいられない。

さらに、ペンテコステ派が登場して来る前の日本のキリスト教全体には、死はあっても、復活がはっきりと視野に入っていないという印象を受けざるを得ない。

このことは、戦時中に最も激しい弾圧を受けたホーリネスが、いわば、聖霊派の走りであったという点にも見て取れる。ホーリネスは、新生、聖化、神癒、再臨という四重の福音を唱えており、当時のホーリネス信者は、神癒なども、文字通りに信じていたのである。

その点で、当時のホーリネスの信者の信仰は、今日のペンテコステの信者に極めて近いものであり、御霊による神のダイナミックな解放のみわざを信じていたという点で、ホーリネス信者は、当時のクリスチャンの中で、最も先駆的で革新的な信仰を持っていた人々であったと言えよう。

だからこそ、軍国主義下の日本において、ホーリネスの信者は、政府にとって、不倶戴天の敵であるかのように、最も激しい弾圧の対象とされたのである。それは彼らが、聖書の記述が文字通りの真理であることを信じ、特に、聖霊の大胆な解放の働きを、現実のものとして受け入れ、実際にそれを行使することによって、悪魔のわざを打ち壊し、とらわれ人を解放し、キリストの再臨を引き寄せることができると信じて、それを真剣に実践していたためである。

つまり、ホーリネス信者らの働きの中には、信仰によって、聖霊による、人間の力を超えた神の大胆なみわざが実際に現れていたからこそ、国体思想の持ち主の側から見て、彼らはとりわけ看過できない重大な脅威をもたらす存在と映り、最も激しい迫害と弾圧の対象となったのである。

それ以外の、御霊の働きを重視しない形骸化したキリスト教は、おそらく軍国主義政権にとって、さしたる脅威とはみなされなかったことであろう。

そこで、聖霊のダイナミックな働きというものを視野に入れるか入れないかによって、キリスト者の信仰観は180度変わると言えるのである。

悪魔と暗闇の勢力が、現在、最も憎むべきものとして敵視しているのも、御霊の働きであって、これを一切、無視したキリスト教信仰などは、彼らにとって痛くも痒くもないものだと言える。

約2000年前、悪魔と暗闇の勢力は、キリストが地上に来られた際、彼を憎んで十字架にかけて殺害した。しかし、今やキリストは復活されて、聖霊を通して、信者の内に住み、イエスが約2000年前に地上でなされたような大胆で奇跡的な解放のわざを、一人一人の信者を通して成し遂げることができる。

彼は私たちのために義と聖と贖いとなられ、私たちをすべての苦難と脅威から実際に救い出す権威と力を持っておられるのであって、そのために、今日の信者も「この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。」と言うことができるのである。

しかも、聖霊は、来るべき神の国の秩序そのものであって、アナニヤとサッピラをただちに死に至らせたような聖なる支配領域であって、死の向こう側にある復活であるから、悪魔と暗闇の勢力には、どんなことをしても全く手を触れられないものである。

従って、そのような領域が、サタンの支配下である地上に出現することを、悪魔と暗闇の勢力は断じて許しがたい事態として徹底的に憎んでいるのである。

そういう意味で、今日、ある信者が、聖霊派に属し、聖霊の力ある働きが現実に存在しうる事実を知ったならば、そのことには、はかり知れない重要な意義が込められている。

たとえその信者が、ペンテコステ運動に多くの混乱が入り込んでいることに気づき、心傷ついてその教団教派を去り、あるいは、バラバラに離散することがあったとしても、彼らに求められていることは、二度と混乱を味わいたくないという思いから、聖霊のことになど言及もしない、より古く形骸化した教団教派に戻ることではないのである。

冒頭で述べた通り、キリスト教は、今日、新たなる信仰回復運動の出現に直面しているのであって、そこでは、信者らが、信仰によって歩むために、見えるものに依存せず、さらに見えないキリストだけを追い求め、より新鮮で偽りのない聖霊のみわざを通して、御言葉を地に引き下ろし、実現して行くことが求められている。

従って、私たちに与えられているミッションも、歴史的により古い団体に逆戻り、そこで、すでに後にして来たはずの霊的な負の遺産を罪悪感として背負うことではない。

御霊は人の心を刷新し、すべての傷を癒し、復活の領域において、心を全く新しくすることができる。まるで生まれてから一度たりとも罪を犯したことのない、生まれたての魂のように、人の心を刷新することができる。

私たちには、そのような刷新、すなわち、心だけでなく、霊、魂、肉体のすべてにおいて、死の後に働く復活の命の現れを、絶え間なく求めつつ、キリストの命が、私たちを生かすすべての動力源となることを信じて、さらに大胆な解放のみわざを求めて前進して行くことが求められている。

どれほど迫害が激しいにせよ、死を打ち破ったキリストの御霊は、すべてにおいて勝利をもたらすことができる。それを信じて、そのまことの命の現われを、神の聖なる自由と解放のみわざを、飽くことなく信じて追い求めて行うこと、それが私たちが、キリストの復活の証人であることの意味であり、私たちはその復活の命を、自分自身の内側に確かに持ち運んでいるのである。

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良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ。

* * *

 さて、これまで、プロテスタントはもはや霊的に終焉しており、聖書への正しい信仰を保つためには、ここからエクソダスするしかないという結論を繰り返し書いて来た。

 ここから先は、プロテスタントを脱出することが、資本主義から脱出することと本質的には同じ意味を持つこと、今や私たちはこれらの両方からエクソダスして、真に万民祭司の原則に基づき、新しい生き方をすることが求められている、というテーマについて書きたい。

 一つ前の記事で、カルト被害者救済活動は、プロテスタントの牧師制度の悪から出て来た猛毒の副産物であると書いた。

 プロテスタントは、その発生の当初は、カトリックの宗教腐敗を正し、カトリックの聖職者が独占していた聖書をラテン語から各国語に翻訳して全世界に普及させるなどして、聖書を一般に解放・普及するために、大きな役割を担った。

 さらに、プロテスタントは、聖書をただ一般の人々に解放しただけではなく、一般の信者が、聖書の御言葉を自ら知的・霊的に理解し、御言葉の証しを、自分自身の言葉で述べるという、初代教会には当たり前であった信仰を目覚ましく回復したのである。

 カトリックのミサは、儀式的な色合いが強く、司祭が聖書の内容を自分で咀嚼・吟味して、その解釈を信徒に説教として向かって語ることはない。

 しかし、プロテスタントの礼拝においては、人間に過ぎない者である牧師が、聖書の内容を自分自身で吟味・理解して、これを自分自身の言葉を通して、信徒に向かって証として語るという説教のスタイルが取られ、これは人間による聖書の知的理解という意味で、画期的な役割を担ったのである。
 
 プロテスタントにおいては、聖書の御言葉は、ただありがたいお経のように受け身に受容すべきものとしてはとらえられず、むしろ、信者らに積極的で深い知的な理解を要求するものとみなされた。牧師は信者の代表格として、「御言葉を取り継ぐ」奉仕に専念し、信者たちも、勉強会を開いたりすることによって、聖書研究を行おうと熱心に励んだ。
 
 20世紀頃になって、プロテスタントの中では、最も最新かつ先駆的な運動として、ペンテコステ・カリスマ派と呼ばれる、御霊の働きを回復しようとする各種の運動が登場して来た。

 もちろん、こうした運動は、それ以前から存在していたのだが、大規模な大衆運動として拡大し、各種の教団教派を生んだのは、20世紀になってからのことである。

 この運動は、聖書の御言葉を、ただ知的な文脈で、死んだ文字としてとらえるのではなく、聖霊の働きによって、そこに生きた霊的衝撃力を伴わせることで、信者たちの聖書研究に新たな息吹を吹き込んだ。それは現代の信者の生活においても、主イエスが地上におられた当時に行われた奇跡のように、人間の常識的な理解を超えた、ダイナミックな働きを取り戻すことを目指すものだったからである。
  
 だが、「霊」を識別することなく、霊的なムーブメントを無分別に受け入れたために、ペンテコステ・カリスマ運動は著しい誤謬の中に落ち込んで行き、多くの混乱を生むこととなる。

 そこで、今日、求められている新たな信仰回復運動も、聖霊の働きと切り離せないものであるとはいえ、偽物の聖霊運動を排除して、真の御霊の働きがどこにあるのかを見分けることは、死活的重要性を帯びた課題であると言えよう。

 さらに、プロテスタントには、もう一つの決定的と言える弱点があった。それは、この宗派においても、カトリックほどに厳格な聖職者階級というものはなかったにせよ、まだ、聖書は完全に一般に解放されたとは言えず、依然として、牧師だけが「御言葉を取り継ぐ者」であって、信徒は、牧師の説教を受け身に聞いて、牧師に教えを乞い、教会に献金を納め、牧師一家を支える奉仕者として、牧師よりも実質的に下の階級(被抑圧階級)に置かれ、聖書の御言葉の積極的な理解から排除されていたことである。

 プロテスタントにおける牧師階級は、前述した通り、その発生当初は、人間が自ら聖書の御言葉を解釈して、大胆に証を述べるという意味で、画期的な役割を担い、また、大衆伝道を通して御言葉を全世界に宣べ伝える点で、大きな貢献を果たしたと言えるかも知れないが、その後、福音が全世界に普及し、宣教師たちが命がけで未開・未踏の地に福音を届けるというミッションがほぼ終了して消え去った後では、ただ信徒を搾取し、信徒を聖書の理解から排除し、いつまでも信徒を霊的赤子状態にとどめるという点で、信仰の前進の著しい妨げとなったのである。

 牧師だけが聖書を知的・霊的に理解・咀嚼して、信徒に説教を語り、信徒は牧師から「霊的な乳」を飲ませてもらわなければ、信仰に生きることができない「赤子」にとどめられるというプロテスタントの礼拝スタイルは、今やそのものが、キリスト教の前進の著しい妨げとなって、排除を迫られているというのが現状である。

 いわば、プロテスタントからの新たな宗教改革が必要とされているのが、現代という時代なのである。その改革の核心として、牧師階級から聖書をさらに一般に向けて解放することが、早急な課題として求められていると言えよう。

 さて、こうして、牧師階級の弊害というものが、一般に認知されるようになった大きなきっかけは、昨今、一部の教会で、牧師による信徒へのあまりにもひどい搾取や差別や虐待が行われているために、それを是正するという名目で、カルト被害者救済活動が登場して来たことによる。

 だが、この運動は、決して聖書に基づくものではなく、従って、教会に真実な信仰の回復をもたらすこともなかった。

 このことは、すでに述べた通り、ブラック企業とそれに対抗する団体との抗争を思い浮かべれば、非常に分かりやすい。

 資本主義が行き詰まりを迎えるに連れて、労働者は著しく劣悪で非近代的な労働環境に置かれるようになり、我が国でも、1995年以来続く不況の中で、追い出し部屋、賃金未払い、過重労働、過労死、リストラ、非正規雇用など、様々な悪しきトピックが取りざたされるようになり、ブラック企業という言葉も、一般に認知されて定着した。

 ブラック企業の登場と共に、ブラック企業との闘いを公然と唱える団体も、行政及び民間の中から登場して来たが、よく見てみれば分かることであるが、こうした団体が究極の目的としていることは、ブラック企業との闘いのために立ち上がった人々を支援するという名目で、これらの人々を新たに自分たちの利益の源とすることにある。

 つまり、ブラック企業との闘争を売り物にする各種団体は、弁護士ほどではないが、かなりの割合で、成功報酬をかすめ取ることを定めており、行政もまた、表向きには、ブラック企業撲滅を掲げてはいても、その本質は、ブラック企業が真になくなってしまうと、存続できないというものなのである。

 このように、ブラック企業も、ブラック企業の根絶を掲げる各種団体も、共に虐げられた弱い人々に群がり、そこにたかって、利益を食い漁る利権団体であるという点で、本質的には変わらないのであって、ただブラック企業根絶を掲げる各種の団体は、ブラック企業ほど悪質かつ強引な搾取を行わないだけである。

 それ以外の点では、これらは、双方で利益を補い合って存続している車の両輪のようなものであって、もしかすると、ブラック企業根絶を掲げる団体は、正義の旗を掲げているだけ、ブラック企業以上に悪質である可能性も否めない。

 話を戻せば、カルト被害者救済活動も、プロテスタントの牧師階級による金銭的・霊的搾取に対抗することを目的に掲げて始まったものの、結局は、牧師階級によって食い物にされた信徒を、さらに食い物にして栄光と利益を吸い上げ、かすめ取る点で、カルト牧師と同質か、より以上に悪いものであり、プロテスタントを浄化する作用を全く持たなかったどころか、かえって牧師階級の持つ致命的な毒素をそっくり温存したまま、さらにこれをより強固なものとして信徒を支配する契機となったのである。

 今や日本のプロテスタントは、牧師制度の腐敗を是正するという正義の旗を掲げて登場して来たカルト被害者救済活動によって、完全に恫喝され、沈黙に追いやられるという恐るべき状態に陥っている。

 そのようなわけで、不況下のサラリーマンがいつまでもブラック企業と労基署との間を行き来していても仕方がないように、プロテスタントの信者も、カルト化した教会とカルト被害者救済活動の間での愚かしい堂々巡りに終止符を打って、今やプロテスタントという水槽そのものから、脱出せねばならない時に来ていると言えるのである。

 「エクソダス」の原則は極めて単純であって、これ以上、人間の指導者や、組織や団体に属さず、万民祭司の原則に従い、キリストご自身に直接、属して信仰生活を送ることである。

 信者が、霊的・金銭的に搾取される立場から抜け出るためには、自分を搾取する存在から離れなければならないのは当然である。牧師制度を敷く教会の中にい続ける限り、決して搾取の構図からは抜け出られないのは明々白々の事実である。牧師のみならず、すべての聖職者制度から離れるべきである。

 さて、以上の経緯を踏まえた上で、プロテスタントからの脱出と、資本主義からの脱出は、根底では一つの事項であるという話に戻りたい。

 マックス・ウェーバーは、著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、プロテスタントのキリスト教国において、資本主義が目覚ましく発達したのには、宗教が大きく関係しており、プロテスタントの信者は、「自分が本当に神に救われているかどうか分からない」という不安を払拭するために、神の召し(天職)としての自分の職業に邁進し、それによって、資本主義の発達が促されたのだとしている。

(ウェーバーの著書を知らない人のためには、あまりにも要約しすぎであるとはいえ、「5分でわかるウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(プロ倫)」要約」を紹介しておく。)

 福音書では、主イエスは、弟子たちに、御言葉を実践して生きるように教え、信者たちには、それによって、神の国の収穫を増し加えるというミッションが与えられていることを、次の御言葉を通して語られた。
 
 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

 早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、②タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントンを預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントンを預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンをお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。」

 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』

 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所から書かき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりをするだろう。』」(マタイ26:14-30)

 以上の御言葉は、神の国の権益拡大の原則を示したものであって、キリスト教徒が、この地上における生涯を、神の国に利益をもたらすために、有効に用いなければならないことを示している。それが商売にたとえられ、有益なもうけを出した者が、神からの褒賞にあずかるというのである。
 
 とはいえ、神の国の権益拡大といっても、プロテスタントの一般の信者たちには、牧師と違って、それぞれに世俗の職業がある。それゆえ、彼らは、毎日、聖書の御言葉だけに没頭して暮らすわけにはいかない。

 そこで、プロテスタントの信者たちは、自分の生活において、御言葉を実践して、より多くのタラントをもうけ、まことの主人である神に誉めていただくとは、一体、どのようなことを具体的に指すのかを考えた。

 その結果、信者たちは、神の国の権益を拡大するために、日曜礼拝に出ている以外の週日は、自分の「天職」としての職業に励み、自分の資産を拡大し、その結果として、利益の十分の一を教会に献金として捧げることが、神の国の権益拡大に当たると考えて、それゆえ、自分の職業に熱心となったのである。

 ウェーバーの説を極端に要約するならば、そういうことの結果として、資本主義が発達した、という結論と至るだろう。

 さらに、これと同じ理屈を用いて、さらに前進するならば、資本主義が行き詰まりに達したのも、プロテスタントの倫理そのものが行き詰まりに達したからだ、という結論が自然と導き出される。

 なぜなら、組織としてのプロテスタントは、その霊的な息吹を失った時点で、形骸化して、自己目的化してしまい、プロテスタントにおける十分の一献金には、かつてカトリックが免罪符を売ったのと全くよく似た腐敗が隠されていたからである。

 すなわち、プロテスタントの信者たちがどんなに日々、労働に励み、自分の資産を賢く拡大し、その利益の十分の一を教会に納めても、その献金が、プロテスタントの聖職者制度という、信徒の上に君臨する独占的・特権階級をより富ませ、彼らの独占状態をより強固にするという悪しき目的のために利用されるならば、それは真に神の国の権益拡大にはつながらない。

 いわば、ブラック企業の従業員が、自分が搾取されていることも知らずに、どんなに身を粉にして会社のために働いても、その真面目な労働が、すべてブラック企業の社長の利益として吸い上げられ、その企業がますます悪くなるだけに終わるのでは意味がないのと同じである。

 このような行き詰まりを打開するためには、ブラック企業の従業員は、ただ身を粉にして働くだけではいけないのであって、自分の労働が真に正しい成果を生むように、ブラック企業を退職して、自分のためになる事業を起こすなどするしかない。

 だが、そこに一つの困難がある。その従業員は、ブラック企業を辞めても、これまで、社長の定める指揮命令系統に忠実に従って労働を受け身に提供するだけの雇われ社員であったので、自分の事業を起こすためのアイディアやノウハウの蓄積がないということである。

 この状態は、プロテスタントの信者たちの霊的「赤子状態」に非常によく似ている。十分の一を教会に納める代わりに、聖書を知的・霊的に理解する仕事を、牧師という存在に任せっきりにし、自分たちは、月曜日から金曜日まで、望むがままに世俗の生活を自由に送り、牧師から「霊的な乳」を飲ませてもらうことで、かろうじて信仰を保っていたに過ぎない弱々しい信者には、いざ牧師を離れて、自分自身の力で信仰生活を送る力が、ほとんど養われていないのである。

 とはいえ、どんなに信者たちが霊的に幼く弱くとも、プロテスタントが行き詰まりを迎え、牧師階級そのものがこの宗派の重荷となっている以上、牧師制度の下に身を置いている限り、信徒らも、ますます貧しく、弱くなって行くしかないのであって、そうこうしているうちに、ついに信者には牧師たちを経済的に支える力もなくなり、教会は完全に押しつぶされてしまう。

 その悪循環を抜け出すための選択肢はただ一つしかなく、信徒が牧師の霊的赤子状態から自立して、聖書の御言葉を自分自身で咀嚼・理解・実践することのできる霊的「おとな」になって、御言葉により、何者にも奪われることなく、永遠に残る収穫を生み出す存在となることである。

 このようにして、霊的「おとな」になることには、信者の生活をすべてにおいて富ませるのであって、経済的な富も、当然ながらそこに付随して着いて来る。

 もしも資本主義の発達が、ウェーバーの言うように、プロテスタントの倫理によって促されたものであるならば、新たなる経済発展の鍵も、聖書の御言葉の中にこそ存在することを、信者らは特に否定しないことであろう。

 歴史を振り返るならば、経済の発達は、霊的優位性と密接な関係があり、いわば、聖書の御言葉をよく理解し、これを実生活に応用する秘訣を知っている者が、この世においても、真の意味で支配者となり、不足のない豊かな生活を送ることができたという原則があることが分かるはずである。

 すなわち、世界史を大きく動かしているのは、戦争でもなければ、国際金融機関の動きでもなく、宗教であって、その中でも、キリスト教の最も先駆的で、革新的な信仰回復運動こそが、時の経済の発達と密接な関係を帯びていることが分かるであろう。

 現代キリスト教においては、プロテスタントが最も先駆的な信仰回復運動であり、資本主義はその倫理を土台として成り立ったと言って良いが、プロテスタントは、キリスト教の教会史の発展の一時的な形態に過ぎず、プロテスタントの次に来る信仰回復運動というものが、必ず存在するはずである。

 だが、なぜ宗教すなわちキリスト教が、経済の発達を促す原動力になり得たのか。

 カトリックの聖職者制度およびプロテスタントの牧師階級に注目するならば、そこには、救いの確信を心の内に得ている者が、救いの確信を持たない者よりも霊的に優位に立って、彼らの労働の成果を搾取して支配する根拠を得て来た、という構図があることが分かるであろう。

 ここには、非常におぼろげかつ不正確な形であるとはいえ、「罪人の富は正しい者のために蓄えられる」という聖書の原則が、影のように反映している。

 カトリックの聖職者や、プロテスントの牧師たちが、多くの信徒に君臨して彼らを搾取の材料とし、支配することのできた理由は、自分たちがあたかも人間の罪を指摘し、これを赦す権限を持ち、何が正しい生き方であって、何が誤った生き方であるかを人に教え、彼らを導くことのできる者であるかのように振る舞うことで――言い換えるならば、聖書の知識を独占し、自分たちこそ神かその代理人であるかのように振る舞うことで――罪赦されて義とされたいという人々の心の不安を巧みに利用して、彼らよりも優位に立ち、信者らに対して指導的権限を握ることができたからである。

 プロテスタントの信者は、「自分が本当に救われているかどうか分からない」という不安を埋め合わせ、慰めてもらう代価として、目に見える教会と、目に見える指導者の教えのもとにつなぎとめられ、週日の労働の成果を、十一献金という形で教会に納めたのである。

 今日でも、自分が確かに救われて、罪赦されているという、信仰による平安を持たない信者たちは、手っ取り早く、目に見える形で、自らの不安を解消しようと、目に見える教会に籍を置き、見えない命の書ではなく、目に見える会員名簿に自分の名前を記載してもらい、見えないキリストではなく、目に見える牧師に教えを乞い、その”ありがたい”説教を聞くことで、まるでお祓いでも受けるように、自分の罪が清められたかのように思い込み、教会に献金を納めることで、神に仕えているのだという安心感を持ち、目に見える自分の名札(教会籍)と、目に見える兄弟姉妹を見て、自分は神の国に連なって救われているのだと、心慰め、安心しようとする。

 しかし、それは手に取ればすぐに消えてしまうあぶくのような、不確かな保証に過ぎず、信者たちの心の中の永遠に取り去ることのできない確信ではないから、信者たちは、まるで鎮痛剤でも打ってもらうように、その効果が消える頃に、またも同じ痛み止めを打ってもらうことを求めて牧師たちのもとを訪れるしかない。牧師たちは、このような信徒たちの拭い去れない不安を定期的に慰めてやる代価として、彼らの献金によって支えられ、信徒らの上に君臨しているのである。

 筆者は、牧師たちが、救いの確信を本当に得ているとは言わない。ほとんどの場合、彼らは、ただ自分たちが他の信徒に優って、聖書の御言葉をよく知っており、あたかも揺るぎない救いの確信を持っているかのように振る舞う秘訣をよく心得ているだけであり、なおかつ、他の信徒たちの不安を見抜き、これを自分に都合よく利用して、利得の手段と変える心理的トリックを豊富に持っているだけである。

 多くの牧師たちは、筆者から見て、外面的行動だけを取っても、本当に救われているかどうかさえ、全く分からないような人々である。

 しかし、いずれにしても、彼らは自分たちがまるで魂の医者よろしく、揺るぎない救いの確信に立っているかのように振る舞う術を心得ている点で、一般信徒以上にしたたかなのであって、自分の心の内側に、救いの確信を持たない信者は、心の不安を巧みに利用されて、こうした自分の救いを保証してくれそうな指導者(もしくは団体)にいつまでもすがりつき、彼らに年貢を納め、心の不安を解消してもらうことで、平安を得るという生き方をやめることができない。

 こうした信者たちは、自分で自分の貧しい心の状態に気づかない限り、その霊的弱さのゆえに、自分たちの汗水流して真面目に働いた労働の成果を、いつまでも詐欺師のような人々に吸い取られ続ける運命にある。

 このような弱く貧しい信者が、経済的にも、魂的にも、自由になるためには、彼らが一刻も早く、目に見える人間の指導者から自立して、その助けなしに、キリストに直接、連なり、御霊によって直接、御言葉の意味を教わり、誰にも保証してもらう必要のない救いの確信をはっきりと心に得て、御言葉を自分の人生に実際に適用して生き、その成果を勝ち取る秘訣を自分で学ぶしかない。

 すなわち、霊的な優劣を作り出す差別的な宗教制度を離れ、霊的中間搾取者階級を自分の上に置かず、組織や目に見える人や事物に依存せず、あらゆる虐げから遠ざかり、自分の救いの確かさが自分で分からないほどまでに惨めな霊的赤子状態から抜け出すしかないのである。

 霊的な乳を、牧師から飲ませてもらうことをやめて、キリストご自身から、御霊によって、すべてを教わる方法を知り、それによって生長して、霊的に「おとな」になって、すべての物事について自立した大人の考えを持つこと、そうして生長することだけが、「赤子」と「大人」との霊的優劣を撤廃するただ一つの方法である。
 
 かくてプロテスタントは霊的に役目を終えて終焉しつつあり、プロテスタントに次ぐ新たな信仰回復運動の登場が待たれているのであるが、資本主義の行き詰まりを打開する鍵も、その新たな信仰回復運動にあるものと筆者はみなしている。
 
 その新たな信仰回復運動とは、万民祭司の原則に基づき、信者がいつまでも自分を赤子にとどめるゆりかごなる「囲いの呪縛」(目に見える組織や団体による束縛)から抜け出て、キリストご自身から来る、誰にも奪われない救いの確信を心に得て、その命の自由の中を生きることである。

 自分が救われているかどうか分からないという心の不安を埋めるために、自分で自分を贖おうと、ひたすら労働に励み、かつ、その成果を、いつまでも目に見える指導者や、組織に貢いでは、その対価として慰めを受けるのをやめることである。
 
 資本主義における労働は、救いの確信を持てないプロテスタントの信者が、自分で目に見える救いを確保しようと、自分で自分を贖う悲痛なまでの努力が、体系化して生まれたものであると言えるかも知れない。

 そのような意味で、今日には宗教的要素が抜け落ちて形骸化しているにせよ、資本主義における労働には、初めから、人類による人類の自己救済という、聖書の御言葉とは相反する願望が込められていたのであって、それゆえ、その労働は実を結ばずに終わることが運命づけられているのかも知れない。

 それでも、プロテスタントが全世界に福音を届ける使命をまだ積極的に担っていたうちは、資本主義も、その対の車輪として勢いよく回り続けたかも知れないが、今は両方のタイヤにヒビが入り、取り換えが必要な時期が来ている。

 私たちキリスト者は、信じる者として、一人一人が神の祭司であり、御言葉の奉仕者であるが、自分たちの働きが、誰からも不当にかすめ取られることなく、真に実を結ぶものとなるように、今一度、自分が誰に奉仕しているのか、どこに向かって種を蒔き、どうやって収穫を勝ち取るのか、私たちの本当の主人は誰なのか、といった問題について、考えるべきであろう。

 以下のよく知られている聖書箇所も、御言葉には、信じてこれを行う者に、天においても地においても、豊かな実りと栄光をもたらす力があることをはっきりと示している。なぜなら、御言葉は、復活されたキリストであって、私たち一人一人をすべての問題から救い、満たすことのできるのまことの命だからである。

 聖書の御言葉は、信じてこれを行う者に、どんなに少ない場合でも、三十倍の収穫をもたらすことができるのであり、その収穫とは、天的な利益だけでなく、この世のすべての必要性が満たされることをも含んでいる。

 だが、信者が実際にその収穫を獲得し、これを存分に享受し、キリストの満ち満ちた命の豊かさの中を生きるためには、盗人だけでなく、中間搾取を行う者どもをも、自分たちの生活から徹底的に排除しなければならない。

 御言葉を実践しているのに、収穫がもたらされない信者には、常に邪魔しているものが存在するのであって、自分のための泉の水を、道端にまき散らし、自分のための栄冠を常に他人に奪われているような生き方では、残るものがないのは当然である。

 従って、自分一人では十分に物事を考えられないとか、一人では救いの確信が持てないとか、一人では自己価値を感じられず不安だなどといった理由で、常に自分以外の目に見えるものにすがりつき、それによって自己価値を保証してもらおうと頼っている限り、その信者に蒔かれた種は、発芽しても、その実はすぐに奪い取られ、手元には何も残らないことを知るべきである。

 組織や、事物や、指導者に依存して、目に見えるものによって自己価値を保証してもらうことをやめ、霊的な中間搾取者から離れなさい。そうすれば、信者は、見えない神に直接、仕えることができるようになり、その働きが、誰にもかすめ取られず、信者自身の人生に利益として還元され、いつまでも残る実りになるでしょう。

「よく聞きなさい。種を蒔く人が種まきに出て行った。

 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。

 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ目を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

 他の種はいばらの中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。

 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。


「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。

 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。

 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。

 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるのである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。

 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
」(マルコ4:1-8, 14-20)

神の国とその義を第一として生きるならば、地上を生きるための必要はすべて添えて与えられる。

さて、一つ前の記事は、今から何年も前に起きた出来事を指しており、その後、筆者はこの世の不正に巻き込まれず、むしろ、それを拒み、理不尽には毅然と立ち向かうことを続けて来た。そうして立ち向かう仕事は、だんだん筆者の真の意味での「お仕事」になって来たと言える。

多くの人は知らないが、世の中では、正しいことは正しい、間違っていることは間違っていると、臆することなく、公然と根気強く主張し続けることによって、無益な騒動が起きるどころか、失われた利益が豊かに戻って来ることが多い。

むしろ、どんな理不尽に巻き込まれても、何一つ苦言も呈さず、抵抗もせず、ただ暗闇の勢力のなすがままに翻弄されているからこそ、一方的に奪われるだけに終わるのであって、嘘や不正には毅然と立ち向かうべきなのである。それをしない限り、人は自分を犠牲者とする道を自ら選んでいるも同然なのである。(ただし、このことは事実を公然と主張することを意味し、力づくで復讐を果たすこととは全く訳が違う。)
 
特に、我々の年代以下の世代は、きちんと声をあげて自分の権利を世の中に主張することをしなければ、この先、未来永劫、強欲な経営者(や年長世代ら)によって踏みしだかれ、犠牲とされていくだけである。筆者は世代間の対立を煽るためにこう言うのではない。それが高齢化社会の避けられない構図だからである。(また、それは先祖崇拝や儒教などの精神のもたらす弊害でもある。)
  
そこで、たとえ自分よりも年長であったり、力の強い人間を相手にする時であっても、自己の尊厳を守るために、自分自身の命を守るために、嘘は嘘であり、不正は不正であり、誤ったことは誤っていると、公然と主張すべきであって、それをするかしないかは、生死を分ける問題なのである。

そんなわけで、筆者はかつて信仰の友が語ってくれた通りに、反対に遭っても、あきらめないで根気強く訴え続けることの重要性について、今に至るまで大いに学ばされている。神に対しても、人に対しても、その原則は同じである。

時には、神に対しても、一歩も退かない覚悟で、自分の望みを切に申し上げ、答えを得るまで、直談判を続けねばならない。そして、神はそのように強い願いを持って、ご自分を信頼して御許にやって来る人々を、決して無碍に退けられることなく、むしろ、その願いを喜んで受け止めて下さる。

そのため、私たちはただ自分が生き延びられさえすればそれで良いなどという、あまりにも低い目標で満足して生きるのではなく、決してあきらめることのできない崇高で切なる願いを、誰しも持つべきである。そして、それをこの社会に、人々に訴え、まことの神に訴えながら、根気強く実現を目指して生き続けるべきなのである。

ところで、話題は変わるようだが、筆者の地上の家系には、求道者の血筋が流れていると言えるかも知れない。

筆者は現在、キリストにあって、地上の生まれとは全く異なる新しいアイデンティティを生きているが、それでも、時折、地上の生まれにも、深い意味があったのかも知れないと思いめぐらすことがある。

そう思うほど、筆者の家には、宗教に関わりのある人々が多く、キリスト教徒も、数は少ないが、祖先にいないわけではない。どうやら筆者の地上の家系には、飽くことなく道を探求する血筋が受け継がれているようである。

しかし、筆者は中途半端な求道者にはなりたくない。どうせならば、生涯に渡り、本気で道を究め、真剣勝負で生きたいものである。

筆者の遠い親戚のある一人は、若い頃に、尼僧になろうとして禅寺に出家した。本来ならば、この世を最も謳歌していて不思議ではない娘時代のことである。

彼女は少しも引っ込み思案でもなければ、厭世的な性格でもなく、むしろ、幼い頃から活発で、怜悧で、いつも大勢の友達に慕われ、成績も抜群で教師からの覚えもめでたかった。

それにも関わらず、俗世での成功をすべて捨てて構わないと決意したのには、おそらく、戦後、敗戦の根本的な反省もないままに、経済成長だけを至高の価値のように目指していた当時の時代の風潮や、物資と愛情に不足しながら育った家庭環境への疑問が影響していたのではないかと思われる。

彼女は、自分の生まれ育った家庭を見て、一体、これが真の幸福だろうかと疑問に思い、家庭に入って妻となり母となるという役割は、人生のゴールたりえないと思ったのであろう。また、受験競争や就職戦線を通して、何なく勝ち得られそうなこの世のもろもろの成功も、移ろいゆく表面的な有様に過ぎず、真の満足を見いだせないものと見たのであろう。

目に見えるものよりも、もっともっと本質的で、永遠に消えることのない確かな価値を求めて、か細い希望を辿りながら、暗闇の中を手探りするように、俗世における幸福をすべて捨てる覚悟で、修行に入ったと見られる。

しかし、その探求は中途で止まってしまった。修行中に、生涯独身を貫くことを覚悟していた彼女に、熱心にプロポーズする人が現れたのである。その人もまた修行僧であった。「あなたには尼さんのような孤独な生活は向かない。ぼくが住職になるから、ぼくの妻になって、ぼくをサポートしながら、幸せな生活を送りなさい」

真面目で働き者だった彼女は、人を助けることには向いていたと思われる。そのプロポーズの言葉を、真摯な愛情だと思い、尼僧になる道をあきらめ、住職の妻となり、家庭に入った。

しかし、その後、歩んだ道は、およそ道と呼べるものではなく、彼女が当初、探求していた目標とは、大きくかけ離れていた。

苦しい修行の時代が終わると、黙っていても、死者が出る度に、寺にはいくらでも収入が入ってくるようになった。夫も遊び好きで、贅沢な別荘を買い、国外へ進出し、豪奢な生活をほしいままにした。

子供たちにも何不自由ない暮らしをさせて、良い大学に進学させ、良い就職先に送り出した。あるいは、寺に嫁がせたりと、ちょうどキリスト教界における牧師の師弟らが政略結婚を重ねているのと同じように、血縁とコネがものを言う、世俗にまみれた特権的生活が築き上げられたのである。
 
それは、外見的には大きな成功であったかも知れないが、若い頃に彼女が真剣に探求していた道とは随分、異なっていただろう。本当にそんな生活を送るために、寺に入ったのだろうか。これでは俗世と何の違いがあろうか。しかし、その疑問は、心の奥底に封印されてしまった。

そのうちに人生の引退を考えるべき年齢になり、夫も病に倒れ、以前のように精力的な活動ができなくなった。幸福という幸福は手に入れたので、人生でやり残したことはもうないかのようであった。だが、幼い頃からずっと抱えて来た心の飢え渇きは、答えを見つけて解消しない限り、老人になっても、ずっと満たされないまま持ち続けられる。

夫に尽くし、子供に尽くし、寺を発展させるという選択肢がもはや人生の第一目的ではなくなった時、彼女は、生まれ育った家庭の両親を振り向いて、親の必要を満たすために尽くし始めた。

しかし、それは自分がすでに出て来た家庭であり、そこでは、すでにほかの兄弟が親に仕えていた。

にも関わらず、彼女は夫に仕えるようにかいがいしく両親に奉仕し、湯水のように使える金を惜しまず介護に投じた。
 
だが、その奉仕は、兄弟には喜ばれなかった。むしろ、やればやるほど、兄弟との間にライバル関係が出来上がって行ったのである。それはただ幼い日の生活の再現でしかなかった。

彼女の親は、彼女の熱心さ、親切さを大いに利用したが、それは娘を評価するがゆえではなく、自分が有利になれる保険を常に用意しておくことが目的だった。

悪い親は、子供たちを自分の利益の道具として競争させて、ライバル関係に置く。兄弟姉妹の信頼関係はそのせいでズタズタに壊され、もしそのことに気づかなければ、生涯に渡り、血を分けた兄弟姉妹の間で、親の評価を奪い合う骨肉の争いが続くことになる。
 
彼女はそれが分からず、親に仕えた。それはちょうど彼女が、尼僧になる道を捨て、夫の人生のサポート役として、自ら夫の出世を実現するための道具となって仕えたのと同じである。
 
彼女はそれが善意であり、親切だと考えていたのであろう。しかし、彼女が仕えた相手にとって、彼女は保険でしかないことを考えてみなかった。
 
彼女が彼らに仕えれば仕えるほど、ますます彼らはわがままになって行き、彼女の誠意を軽んじるようになった。それは彼らがいつも、彼女とは別な誰かを天秤にかけて、彼女と競争させることで、自分に有利な結果を引き出そうとしていたからである。
 
彼女の奉仕は、平和ではなく争いを生んだが、彼女はそのことに気づかなかった。
 
出家したにも関わらず、彼女がそのように自分の家を重んじ、人の関心や評価を勝ち取るために、人の利益に仕えて生きて来たのは、おそらく、まだ日本が豊かさの中に入っていなかった幼い時代に、彼女が両親から十分に振り返ってもらえず、物質的にだけでなく、精神的にも貧しい家庭生活を送ったことに原因があると見られる。

その時代、同じような幼少期を送った人々は多かったであろう。彼女は決して親を煩わせることのない、よく出来た子供であったが、そのように優秀であったがゆえに、余計に、必要な時に親に助けを求めることもできず、振り返ってもらうことのできない寂しさを心に抱えていたと考えられる。

その満たされない思いが、大人になり、老人になっても、持ち続けられ、そのせいで、人からの評価や関心が欲しいという心の飢え渇きが、出家後も、我が道を貫くことを邪魔して、彼女を常に人の思惑の方へとひきつけて行ったのである。
 
それは、彼女が出家しながらも、真の意味での「出家」ができていなかったことを意味する。生まれ育った家庭からのエクソダスが、心の中で完了していなかったからこそ、自分の心の探求よりも、地上の「家」を優先して生きる道に舞い戻ってしまったのである。
  
筆者はこの人に直接、聞いてみたことはないが、心の中で次のように問うてみる、禅寺であなたが探していた答えは見つかりましたか。そこで人生の本当の満足は得られましたか。裕福な家庭を築き上げることが、あなたの出家の真の目的だったのでしょうか。それから、あなたを幸せにすると約束した人は、本当にその約束を果たしてくれたと思いますか。むしろ、あなたを道から逸らして、あなたが目指していたのとは全く違う目的のために、あなたを都合よく利用しただけの可能性があるとは思いませんか。
  
もしもその推測が当たっていたとして、あなたを取り巻く人々が、あなたに対して心から忠実でなく、あなたの親切心や善意を利己的な動機で利用したのだとしても、それは他ならぬあなた自身が、自分の心が最も求めていた答えに忠実でなかったから、周りの人々も、あなたに対して同じように振る舞ったのだとは思いませんか?

あなたは道を究めようとしながら、同時に世俗の幸福を追い求めた。それは二心ではなかったでしょうか。豊かに生きることが悪いことなのではない。しかし、禅の道に入ったのは、決してこの世の成功を第一に目指して生きるためではなかったはずです。あなたにはそれ以上に求めていた目的があったのではないでしょうか。

人から真に評価を勝ち得たいと思うなら、そのためにも、我が道を貫かねばならず、望んでいる最高の答えを見つけ出さねばならないのです。

しかし、あなたは本当の答えを見つけるために、孤独な生活を耐え抜いて、納得がいくまで、すべての物事を見極めるという探求に、自分は値しないという人の言葉を信じてしまった。

あなたはそのような高い犠牲を払える人間ではないから、その道は早々にあきらめた方が良いという他人の言葉を信じてしまった。その人は、その言葉をあなたのために発したのではなく、自分のために発したのに、あなたにはそれが見抜けなかった。そして、求めている最高の価値に、自分は値しないと思い込み、他者のサポート役に徹し、自分の目的をあきらめたから、あなたの探求は、世人と同じように、中途で終わってしまったのです。

だからこそ、現在のあなたの生き方の中には、俗世の人々と同じ価値観の他、出家して初めて得られたという知恵と喜びが見受けられないのです。
 
* * *

上記の話は厳しい批判の言葉であるが、一種の比喩である。クリスチャン家庭にも、似たような事例は数えきれないほどある。真理を探究しながら、途中で別の道へ逸れていく人は、いつの時代にも後を絶たない。
 
人の目には、この世で成功しているように見えさえすれば、心の探求を置き去りにしたことなど、誰にもとがめられないであろうが、神の御前には、自分の心をごまかすことはできない。

私たちは、道を探し求める時、自分自身の心の飢え渇きに対してどれほど忠実に歩めるかを試される。そして、その問題にまだ答えが見つかっていないうちに、それ以下のもので満足させられて、探求をやめてしまうことには、重大な危険が伴うことを知らなければならない。

筆者は、キリスト教徒として、「自分の心に忠実に歩む」のでなく、「神の御心に忠実に歩む」と言わなければならないが、しかし、神に忠実であるとは、そもそも自分自身の心の求めに忠実でなければ、できない相談である。

自分で自分の本心を偽っておきながら、神に対してだけは忠実に歩むなど、不可能だからである。

そこで、真実に神に従うためにも、自分で自分の心をごまかさず、偽らず、自分に対しても、他者に対しても、神に対しても、正直でなければならない。

しかし、多くの人々は、人の目に評価されるために、自分で自分の心を偽り、自分の本当の願いを後回しにし、自分を押し殺して生きている。そのような不真実な歩みの中で、神に対してだけは忠実に生きるとか、あるいは、真剣に真理を尋ね求めるなど、土台、無理な話なのだが、それを知らないのである。

自分で自分の心をごまかしている人が、真理に到達するなどということは、いかなる宗教であろうと、絶対にあり得ない相談である。

しかし、自分の心を偽らないで生きることは、かなりの犠牲を要し、他者が何と言おうとも、一切、その言い分に引きずられたり、心惑わされることなく、わき目もふらずに、自分の心の願い求める利益だけを第一優先して生きる姿勢がなくてはならない。

納得のいく答えを得るまで、絶対にあきらめず、困難にぶつかっても一歩も退却せずに、目の前にある課題とずっと取っ組み合わなくてはならない。
 
それはこの世の人間関係のしがらみにとらわれず、他者の思惑を全く意に介さない生き方であるがゆえに、この世の価値観とは全く異なり、わがままだとか、非常識だとみなされることが多い。そして、そのように誤解を受けたり、反対を受けたり、その探求をやめるよう説得されたり、世の賛同や理解を失うときにも、他者からの評価をすべて置き去りにしてでも良いから、自分の心の願い求めを最優先して生きることには、相当な犠牲が伴う。それを貫徹できるかどうかで、求めている答えが人生で得られるかどうかが決まるのである。
 
しかし、それを果たしてこそ、求道生活なのであり、答えを得るためには、自分の心が真に求めているものに対して、徹底的に正直な姿勢が必要である。

伝統的なキリスト教においては、自分の利益を最優先して生きることは、罪深いことだと教えられている。しかし、そのような考え方の中には、ある種の危険が伴う。キリスト教徒の間でも、物欲が罪だとか、年長者の意見に従わないことは罪だとか、フルタイムの献身者になりたい人がペットを飼うのは罪だとか、ありとあらゆる愚かしい誤解が飛び交っている。

しかし、真の罪とは、人が神でないものを神として最優先して生きることであり、人がこの世の事物や思惑によって、自己決定権を奪われ、自分の意志により御言葉に従うことができなくなった状態を指す。

もしも物欲や、欲望それ自体が罪だというならば、人間は地上に生存する術すらもなくなるであろう。何かを欲することそれ自体が罪なのではなく、その欲望が、神に従うことと両立しないまでに、その人の心の王座を占め、人が己が欲望の奴隷になるとき、罪が発生するのである。

筆者は記事冒頭で、禅寺に出家した人が、世俗的な享楽を謳歌することを批判したが、それは決して禁欲的な生活を奨励するためではなく、裕福な生活を送ることや、家庭を持つことが罪だと言いたいがためではない。

そうではなくて、人は自分が願い求めている最高の価値を、まず第一に追い求めて生きる姿勢を貫かねばならず、その原則は、キリスト教に限らず、すべての物事に共通するということを言いたいのである。

金メダルを目指していた人が、それ以下の賞で満足できるだろうか? 「あなたには金メダルは無理だから、目指すなら、最初から銅メダルくらいにしておいたらどうですか?」という言葉が、人を真に尊重する言葉であろうか?

どうせ高い目標を打ち出すならば、高望みしただけで達成できなかったと言われないために、最後まで犠牲を払って目的を追い続けなければならない。自分が目指している目標のために犠牲を払うこと怖さに、自分で自分の心を偽り、二義的な利益で満足してしまうと、最も価値ある探求がやむことになり、結果として、地上的利益が、真理を退ける罠となってしまう。

裕福な生活を送ることそれ自体が罪であるわけではない。しかし、そうしたこの世的な価値を至高の価値であるかのように錯覚して、この世の事物を超越した、真理を求める自分の心の探求を、二義的なものとして扱うときに、目に見えるこの世の事物が、人間の心を誘惑し、堕落させる罠となるのである。

だから、もう一度、以下の御言葉を挙げておこう。

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:30-34)

命の御霊の法則に従って支配する―朽ちる卑しいもので蒔きながら、朽ちない高貴な収穫を刈り取る

このところ、筆者は、キリスト者の人生においては、何もかも、信者が信じた通りになるということを、あらゆる機会に確かめさせられている。そして、絶大な権威を持つ主の御名を託された神の子供たちの召しについて考えさせられている。

ほとんどの人たちは、あらゆる瞬間に、自覚せずとも、何かを信じ、何かを事実として受け入れる決定を心の中で下している。たとえば、天気が良ければ、今日は良い日になるだろうと予測するが、TVで沈鬱なニュースが流されたり、どんよりした空を見れば、それに影響されて、今日という日には何も期待できないなどと気落ちしたりする。

信者の場合は、そうした予測が単なる予測で終わらず、心に確信したことが、信仰を通じて働き、事実として成就する。そこで、信者が、どんな状況でも、御言葉に約束されている神の恵みに達するまでは、決してあきらめずに進み続けるのか、それとも、状況に翻弄されて簡単に御言葉に反する現実を抵抗せずに受け入れるのかにより、信者の人生、信者を取り巻く状況は大きく変わる。

神の約束を失わないために、信者が見張り、コントロールせねばならないのは、自分の心である。

「 力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。 」(箴言4:23)

この原則は、信者が自ら主と共に絶え間のない創造行為を行い、常に恵みを天から地に引き下ろす通り良き管となるために、まずは自分自身の心の思いをしっかりと制御しなければならないことを示している。

一言で言えば、神の絶大な祝福を受けるために、信者には口を大きく開けることが求められており、目的をまっすぐに見据え、何が起ころうとも、そこから目を離さず、目的を達するまで進み続ける姿勢が必要となる。恐れに駆られて、自分の口を自分で閉じてしまうことがないよう、自分の心を見張らねばならないのである。

これまで、信者は御霊の命の法則に従って支配する存在である、ということを述べて来た。最近のオリーブ園のオースチンスパークスの連載は、奇しくも、まさに同じテーマを扱っている。

一言で言えば、信者は主の御名により、地上のすべてのものについての決定権・支配権を握っているのであり、さらに来るべき世界においても、これを行使するために、その支配権の使い方をこの地上で学ばなければならないのである。

信者にはアダムに与えられた召しである地上のすべての被造物を管理する権限が、キリストを通して託されている。そこで、信者がキリストの身丈まで成長するとは、信者の内側での信仰の増し加わりを意味し、その増し加わりは、しばしば目に見える結果を伴う。

キリストの身丈にまで成長することは、世で考えられているように、信者がキリスト教組織を拡大するために偉大な福音伝道者となることを意味せず、信者が地上の人生を通して、地上にあるものを、いかに神の御心にかなうように管理し、それによって神の栄光を表すかという度量・力量を指す。

有名なへブル書の文章は、信仰によって、私たちが目に見えない世界から、目に見える結果を引き出すことができるとはっきりと告げている。これはまさに無から有を生み出す創造行為であり、それが信仰の力である。そして、私たちはこのような形で、無から有を果てしなく生み続け、天から相続財産を地上に引き下ろし、増やし、表していかねばならないのである。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)

信仰とは、信じる者たちがそれぞれが自らの望みに従って、目に見えない世界で創造行為を行い、自ら望んだ事柄を、事実として実体化させることを保証するものである。

私たちが望んだ事柄が、目に見えない信仰の霊的な世界で働いて、目に見える事実として結実することを、それに先立って保証するものが信仰なのである。

このような信仰のサイクル(無から有の創造)を行うためには、信者は、まず、望む(願う)という行為を行う必要がある。次に、願ったことが、まだ目には見えないうちに、すでにそれが「事実」として自分に約束されており、その成就が約束として保証されていることを、心に固く信じることが必要である。

さらに、その信念に従って、実際に、望んだものを手にするために、これを要求し、獲得するための具体的なアクションに出る必要がある。

筆者から見て、この最後のアクションである「要求する」ということは、非常に重要である。なぜなら、望んだものが実際に成就するまでには、幾多の困難があり、その困難をすべて粉砕・打破して、心に確信した目的にたどり着くために、信者には絶え間なく御言葉の約束に立って、自らに保証されたものを要求し続ける態度が必要だからである。

望んだものにたどり着くまでに、様々な困難につき当たると、たちまち諦めて退却してしまうような姿勢ではダメなのである。

無から有を生み出す行為は、天地を造られた神のなさるわざであるが、それを私たちはキリストの御名を託されていることにより、主と共に自分自身で行う権限を持つ。

御名を託されている信者は、救われた神の子供たちであるだけでなく、神の代理人としての相続人でもある。地上のものの管理を任されているだけでなく、来るべき事柄、来るべき国の管理をも任されている。

だが、信者が未熟なうちは、多くの訓練を経なければならず、その意味で、偉大な相続人であるというよりも、神の僕と呼ばれるべきかも知れない。だが、神の御心は、私たちが僕で居続けることにはない。信者が成熟した暁に、キリストと共に、神の国の跡継ぎと呼ばれるにふさわしい神の息子・娘たちになることにある。

僕、子から成人した息子・娘たちへの成熟は、私たちが神ご自身、キリストご自身とほとんど変わらないまでに絶大な権威を持つ御国の相続人となることを意味している。

しかし、そのはかりしれない意味を理解する者は、この地上には少ないかも知れない。なぜなら、神が人にご自分とほとんど変わらないほどの絶大な権限を与えられたなどということは、人にとってはまことに信じがたい事実だからである。

そして、そのことは、決して人が神と同一になることを意味しない。この世で現人神を名乗り、自らの力で神を乗り越えようとする人々は、決まって悲惨な最期を遂げる。信者にどんなに信仰が増し加わったところで、信者が神ご自身になるわけではない。

とはいえ、それにも関わらず、神は、一人一人の信者に、実際にキリストと同じほど、御子と変わらないまでの高貴な性質を約束しておられ、それに一人一人をあずからせたいと願っておられ、そのためにこそ、惜しみなく御子を私たちにお与えになられたのである。

神は唯一であり、ご自分の栄光を決して他の者にお与えにならない方である。ところが、エステル記において、王がエステルに向かって、もし彼女が願うなら、王国の半分でも与えようと述べたように(王国の半分を与えるとは、王と共に共同統治者になることである)、神はご自分の子供たちに、ご自分と同じような、共同の統治権を与えたいと願っておられる。それほどに、人に大きな期待と権限を託されているのである。

神は、天地創造以来、この目に見える地上の世界を治める役目を、人間に託されたが、それだけでなく、その目に見える世界における支配を、やがて来るべき霊的な世界(新しい天と地―御国)における支配の土台とされようとしているのである。

私たちはこのことをよく理解する必要がある。それによって、どれほど大きな権限を神が人間に付与しようとしておられるか、理解できるからである。

マタイによる福音書の第25章14節から30節までに記されているイエスの語られた有名なタラントのたとえが何を意味するのかは、それによって理解できる。

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。

早速、五タラントンを預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントンを預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントンを預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』

主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。:主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った、『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

このたとえは、一言で言えば、信仰による創造行為を指している。たとえば、目に見える容姿、身体的特徴、知能などの卑しい体の性質が一人一人異なるように、一人一人の信者に、目に見える形で与えられている資質、才覚、賜物はそれぞれに異なっている。

しかし、それとは別に、それぞれの信者に、からし種一粒のような信仰が、御霊によって与えられている。そこで、この信仰を経由して、信者には今現在、自分が手にしている目に見える賜物を元手に、それを信仰によって何倍にも増やして、天の父なる神に栄光を帰することが求められているのである。

それが「霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(ガラテヤ6:8)の意味である。

また、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。」(Ⅰコリント15:43)という御言葉の意味である。

後者の御言葉は、死者の復活だけに当てはまるのではなく、無から有への創造行為のすべてに当てはまる原則である(死と復活の原則)。

つまり、このことは、この目に見える世界に生きている信者らが、目に見えるごくわずかな取るに足りないものを元手として、それらを目に見えない信仰の世界を経由させることによって、自ら望んでいるものを、目に見えない世界から、目に見える形で呼び出し(生み出し)、それによって、霊的な収穫を得て、天に栄光を帰することを意味する。

タラントのたとえでは、そのような創造行為を盛んに行い、神の栄光を表すに十分な収穫を得た僕だけが、主人の心にかなう者として、よくやったと褒められるのである。

このたとえを読む限り、たとえば、「私はしょせんどこにでもいる取るに足りない人間に過ぎませんから、信仰などあっても、どうせ大それたことなどできるはずがありませんし、そんなことは初めから望んでもいません」などと言い続けている信者は、まさに、与えられた賜物を全く活用せずに地中に埋めて隠した悪い僕と同じであることが分かる。

あるいは、「私は可哀想な人間です。私はこれまで絶えず運命に翻弄されて追い詰められて来た被害者です。こんな風に絶えず傷つけられ、卑しめられている弱い人間に、一体、何ができるでしょう。私を哀れんで下さい」などと言い続けている信者も、同じである。

確かに、人間一人一人には弱さがあり、この地上の体は、有限であり、様々な制約に縛られている、朽ちる卑しい体である。また、私たちが地上で与えられているものも、ちっぽけでささいなものに過ぎないかも知れない。しかし、少年が差し出した二匹の魚と五つのパンを、イエスが祝福して、何倍にも増やされた時と同様に、私たちは、自分に任されている、朽ちる卑しい、弱くちっぽけなごくわずかなものを使って、これを何倍にも増やし、はかりしれない天の祝福を表すことを求められているのである。

たとえば、あなたが今ごくわずかなお金を手にしているとする。そのお金を、あなたは信仰を経由することなく、地上の必要に費やすこともできるが、そうすれば、そのお金はただ消費されてなくなるだけである。

しかし、あなたはそのお金を、信仰を経由して、キリストの栄光のために、地上の必要に費やすことができる。ただ飲み食いし、買い物をして、自分の必要を満たすためだけに使うのであっても、それをキリストのために、天の栄光のために行うならば、そこで費やしたものは、ただ消費されてなくなるのではなく、さらに豊かな収穫を伴って帰って来るのである。

つまり、そこで消費されたお金は決してなくならない。これは本当のことである。(しかし、そうなるためには、真に信仰によって、神の栄光になるように使わなくてはならない。)

だが、あなたがごくわずかなお金しか手に持っていないときに、この原則を試すのには、まさに勇気と信仰が要るだろう。ごくわずかなお金しか持っていない人は、通常、これを使うことをひかえる。貧しい人たちは、そのようにして、外出も、飲食さえも、最小限度にとどめ、自分が持っているごくわずかなものを消費することを何とかして避けようとする。しかし、そのような姿勢は、まさに地中に一タラントを埋めた悪い僕と同じなのである。

もしあなたに信仰があるならば、自分が持っているごくわずかなもの(それはお金だけでなく、あなたの心、体、資質、才覚、あなた自身であるかも知れない)を、恐れの心から、なくならないように自分で握りしめ、使用を制限しようとすることをやめて、大胆にそれを消費するために差し出さねばならない。

(だが、繰り返すが、それは真に信仰によってなされなければならない事柄であって、たとえば宗教指導者など他人からの命令や、他人の期待に応えるためにやってはいけない。)

この原則を試してみることをお勧めする。信仰によって、消費すれば消費するほど、それはすり減ってなくなるどころか、かえって増えるという原則をあなたは見い出すだろう。

前回、私たちが信仰によって求めるものは、主に対するつけ払いのようなものだと書いたが、私たちは、今、地上にうなるほどの財産があって、はてしない土地を所有しているから、自分は豊かだと宣言するのではない。

それらの目に見えるものが、まだ目の前にない時に、来るべき豊かな相続財産が確かに約束されていることを信じて、これを宣言し、そこへ向かって、信仰によって一歩を踏み出すのである。
 
聖書は、主の御名によって求めなさい、と教えている。私たちが何を求めて良く、何を求めてはいけないか、という具体内容は、聖書にはほとんど書かれていない。主を悲しませると明らかに事前に分かっている悪でなければ、私たちは自分に必要なものを、どんなものでも、大胆に御座に進み出て神に希う自由を与えられているのである。文字通り、どんなものでも。

しかし、目に見える保証が目の前にない時に、その望みに向かって一歩を踏み出すことは、まさに信仰のわざである。ほとんどの信者は、目に見えるちっぽけな財布、さらに、自分のちっぽけな狭い心と相談の上、受けられるはずの祝福を自分で拒否する。そして、偉大な主人の僕であって、はかりしれない御国の相続人でありながら、まるで奴隷のように行動し、あらゆる恵みを自分で拒否した挙句、「なぜ神は私には恵みを与えて下さらないのか。なぜ私の人生はこんなに惨めで不幸の連続なのか。神よ、どうして私を憐れんで下さらないのですか」などと神に問うのである。

それが、一タラントを地中に埋めた男のたとえである。しかし、彼は自分で自分の恵みを制限しているのであって、神が彼を制限したわけではない。神は私たちにそれぞれの分に応じて、十分な人間的な個性や、能力をお与え下さり、さらに財産をもお与え下さった。それが今現在、あなたの目にどんなにちっぽけで些細なものに見えたとしても、私たちは、からし種一粒ほどの信仰を経由して、それらの目に見えているものを何倍にも拡大し、神に栄光を帰するためのはかりしれない富を生み出すことが可能なのであり、その成果を現実に期待されているのである。

そこで、あなたがもし真に豊かになりたいと願うならば、自分が持っているものを、なくならないように握りしめて、誰にも触れさせないように金庫に保管するのではなく、豊かに蒔き、散らさなければならない。それは絶え間ない消費活動であって、そのサイクルの中で、初めてあなたは獲得物を増やしていくことができる。

そのようにして信者一人一人が自分に地上で任された目に見えるものを、目に見えない信仰を経由して、どのように管理するか、どのように収穫を得るのか、得られた成果に応じて、来るべき御国における信者一人一人の権限や分が決められて行くのである。
 
このような地上での訓練を通して、最終的に、御国の相続人(神の代理人)にふさわしい権威、尊厳、支配権を持つことが、父なる神が、信者一人一人に期待されている事柄なのである。

あなたがたが地上つなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

「はっきり言っておく。あなたがたが地上つなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:18-20)

今、一つの絆を永遠に解き、一つの絆をつなごうとしている。これは厳粛な瞬間である。主の御前で永遠に断ち切れる絆と、再び結び合わされる絆がある。

断ち切るべきものを断ち切って、初めて回復される交わりがある。今、筆者は命ではなく、死に通じる扉を永久に塞いでしまうとしている。神の祝福が失われた枯れ枝のような交わりを幹から丁寧に取り除き、木を剪定して、死んだ枝を焼却炉に投げ込もうとしているのだ。

しばらく会うことのなかった信徒と久々に交わりを持ったが、困難の最中に回復された絆は、さまざまな嵐を耐え抜いて残ったものなので、頑丈だ。

筆者は日曜礼拝などに全くこだわるつもりはないが、これから素朴な日常生活を送りながら、二、三人の集まりが、徐々に拡大して行くだろうという気がしている。

筆者が専門と関係のない様々な仕事をしていた頃、地獄の一丁目のような職場でさまざまな人と出会った。学歴も高くはなく、社会層としても、そう高くない出身の人々に数多く出会い、彼らと一緒に働いた。

そういうとき、何気ないことで、助言ともつかぬ助言を、筆者がその人たちに向かって発したことがある。

何年も経ってから、その人たちが、筆者から受けた忠告を、別れた後も大切に守り続けていることを教えてくれた。彼らは、「あの時、ヴィオロンさんがこう言ってくれたから…」と言って、ずっと筆者の教えた法則を大切にし続けて生きたというのである。

ただ法則を知らないがゆえに、迷い続けている人が、法則を掴みさえすれば、生き方が安定することがある。筆者が発した何気ない言葉は、彼らにとっては、まさに必要な光だったのだと思う。

その頃、筆者には助言をしているというつもりはなく、ただ自分自身が生きて掴んで来た法則性をよかれと思って彼らに伝えただけである。だが、その後、伝授された法則を守って生きるのか、それを無用な忠告と退け、侮って生きるのかで、人の道は分かれた。

こちらの言い分を重んじて耳を傾けてくれる人たちには、関わる価値がある。華やかな学歴や教養に乏しくも、どんなに貧しく社会の底辺に位置している不安定な人々のように見えたとしても、忠告に耳を傾け、重要な法則に逆らわないで、これを掴んで取り入れる人たちは、時間と共に着実に生き方が進歩して行く。

それに比べ、自分は賢い、誰からも何も教えてもらう必要はないと考えている高慢な人たちは、何年、関わっても、全く進歩がない。彼らは恵まれた境遇にあるため、いい加減な生き方をしていても、それが何となく成り立ってしまい、試練を通して人間性が練られることも、変化することもなく、ただ同じところを堂々巡りし続ける。地位や肩書や財産などがあるので、かしづいてくれる人たちはたくさんいるが、それによりかかって生きているため、人格がいつまでも成長が止まったまま、幼稚で、未熟である。はっきり言って、そういう人との関わりは退屈でしかない。

彼らは貴重な助言も、侮り、罵倒し、逆らい、踏みつけて来るだけなので、助言する価値も、関わる価値も無い。どんなにクリスチャンを名乗っていても、そのような怠惰な人々との関わりは、交わりと呼べるものではないので、枯れた枝のように、木から剪定して行き、みずみずしい葉のついた生きた枝だけを残すべきである。

もちろん、枯れ枝を切り取って焼却することは神のなさるわざなのだが、それでも、時には、私たちが自分で剪定しなければならないこともある。私たち自身の意志表示も、やはり重要になって来るのだ。枯れ枝なのに、自分は生きていると主張して、他の枝の成長を妨げるような枝は、やはり木から取り除かねばならない。

さて、第一の訴えに付随して、何と段ボールひと箱分以上の資料が出来上がった。これも複合的な訴えなので、必要部数をすべてそろえると、当然、それくらいの分量にはなるのだ。ひと箱では運ぶのに分量が多すぎるため、3箱くらいに分けた。

訴えの中のあるものは約180頁、証拠だけで70以上もの番号がふられている。一セットゆうに400頁くらいになるだろうか? 

しかも、これは第一弾に過ぎず、続編が待っている。家庭用印刷機のレベルを超えた仕事だ。我が家の床も、ちょっとした私立探偵の事務所風になっている。

さて、この書類の山をどうやって裁判所へ持ち込むか思案し、台車があればちょうど良いのだが・・・と思いめぐらしていると、夜間、交わりから車で戻って来た際、ちょうど駐車場に車を止めると、すぐ真横のコンクリートの塀に、どうぞ使って下さいと言わんばかりに、使い古したキャリーが立てかけてあった。

まさかそんな都合の良いことが現実にあるだろうかと目を凝らすと、本当だった。駐車場は個別のスペースで区切られているため、間違ってそこにこんなものを置いて行く人がいるとは思えない。しかも、そのキャリーはほどよい古び具合で、持ち主が大急ぎで取りに戻って来るような代物ではない。そこに捨てられた可能性も十分に考えられた。

これはまさに筆者のために特別に用意されたものであるとしか思えなかったが、一体、誰がそんな親切を? 筆者に今これが必要だと知っている人はいるはずないのだが。

その時、「主がお要りようなのです」

という言葉が脳裏をよぎった。

まさにエルサレム入場の際の子ろばのことが思い出された。

これは主だ、としか思えないありがたいタイミング。ありがたく数時間、お借りして、またもとの場所に戻しておくことにした。必要なら、持ち主が取りに来るだろうし、捨てて行ったのなら、取りに来る人はいまい。

似たような具合で、必要のすべてがそろった。細かな道具の一つ一つに至るまで、目指した日にまでの間にすべてが供えられた。

このようにして、このところ、この地上は、まるで筆者のための共産主義社会になったような具合だ。決して他人の所有物の概念を否定する考えを述べるつもりはないが、キリスト者にとっては、誰かが地上に引いた境界線や、誰かが独占的に蓄えた私有財産などといった区分は、事実上、ないようなもので、すべてのものは天地を造られた神の所有なのである。そこで、神の子供たちに必要なものは、すべて天から適宜、供給される。

復活の命を生きて体験した人は、筆者の言わんとしていることを理解してくれるだろう。キリストの復活の命は、神の非受造の命であって、どんなものにも依存しない、死を打ち破った命である。そこで、この命が、持ち主のために、必要のすべてをおのずから供給する。

天の経済は、キリスト者の必要に応じて伸縮し、拡大・縮小する。

筆者は、これは神の喜ばれる正しい仕事なのだということを、あらゆる機会に痛感している。筆者はこの仕事をただ自分の必要、自分の権利を守るためだけにやっているのではない。聖書の神が生きておられ、今日も神の子供たちを十分に守って下さり、すべてのことについて、必要な解決となって下さり、ご自分の栄光を信じる者に存分に表して下さることを、公然と生きて世に証明することが、私たちの責務であり、証なのだと考えているからこそ、それに取り組むのである。

この方を信じて生きることが、人間にとっての喜びであり、最高の満足であり、どんな場合にも、その信仰は決して失望には終わらないことを、生きて証明し続けることが、私たちの責務なのである。そして、神はその期待に十分に応えて下さることがおできになる方である。

敵の要塞はエリコの城壁のように崩壊する。多くのことは書かないが、結果が目に見える形で現れるとき、何が起きているのかを人々は理解するだろう。

筆者が今手がけているのはすべて弁護士が書くような書類ばかりであるが、そういうことも、一般人でも工夫すれば十分に対応できる。バッハの『シャコンヌ』をヴァイオリンで満足の行くように弾くことに比べれば、書類作成などはるかに易しい。

筆者はある会社に勤めていた時、100頁近くもある就業規則を外国語に訳したことがあった。そこにはネイティブスピーカーもいたが、誰一人その仕事に着手する者も、完遂できる者もいなかった。業者に依頼すれば20万円以上に相当する翻訳だと言われた。それを他の仕事と共にやった。まるで頭髪の長さまで規定した校則のように、社員をがんじがらめにする意味のない規則ばかりではあったが、その時、そのように苦労して書類を作るのならば、会社を去った後も、自分の人生に残るもっと価値のある書類を作るべきだと心から思った。

今、やっていることが、それに似ている。誰のためでもない、自分のための権利の主張文である。だが、その書類では、筆者一人だけの権利ではなく、そもそもキリスト者の権利とは何か、天と地において、人とは何者なのか、という問題が提起されている。

たとえば、信教の自由、思想信条の自由という言葉が、私たちが様々な紆余曲折を経ながら、まことの神を探求し、神と共に生きる道を模索し続ける求道者としての魂の遍歴を十分に優しく認めてくれている。人は神と出会うために、また神に従って生きるために、必ずしも平坦ではない様々な試練の道を通らねばならない。だが、その道が平坦でないからと、これを罵倒できる人などどこにもいはしないのだ。

神は、私たちに「求めなさい」と言われる。あなたたちは何も求めないから、手に入らないのだと。多くの人々は、それを聞いても、自分は富んでいて、豊かで、何も乏しいことはなく、神の御前で打ち明けるべき弱さや、問題などない、と考えているため、何も神に求めようとはしない。求めるものは現世利益だけで、それさえも、つつましく分相応に見えるように、自分の規定したスケールの範囲内でしか求めない。常に周りを気にし、人並みの生き方をしてそこから逸脱しないことにしか目標がないのである。

彼らはあまりにも神と人との前で虚勢を張りすぎているため、自分の弱さを認めず、自分の人生の尺度を自分で規定してしまい、神の御前に素直に問題を打ち明けることもできず、自分の人生を打ち破るようなスケールの恵みを求めることもない。自分のために何も要求しないし、自分はその恵みに価しないと考えている。だから、何も与えられないのである。信じないから、何も与えられないのである。

それに引き換え、主張文を書くことは、自分の正当な権利の行使であり、要求である。自分はそれに価すると信じなければ、要求することはできない。地上でさえ、人の訴えを裁判官が取り上げ読み、審議するのだから、天に出すべき訴えというものも、当然ながらある。神は正しい方であり、真実が曲げられるようなことをなさらない。寄る辺ない人々の訴えに喜んで耳を傾けて下さる。

だから、地上で書類の山を作るのも必要だが、まして重要なのは、天に向かって訴えを出し続け、父なる神に向かって子としての権利を要求し続けることだ。

時に、信者が本気で神にぶつかり、扉が開けるまで懇願し続けなければならないことがある。答えが遅いように見える時もあるかも知れない。だが、信じてよい、神は我が子の訴えに喜んで耳を傾け、これを取り上げて下さると。神は信じる者たちの願いを喜んで受けられ、彼らの信仰に応えることを、ご自分の栄光とみなして下さる方である。

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