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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

祝福あれ、主の御名によって来る人に。私たちは主の家からあなたたちを祝福する。

思った通り、働かせ方改悪法案が強引に押し通されようとしており、これが通れば、まさに我が国は24時間働かせ放題のディストピアへと転じることになる。

筆者がこれまでずっと述べて来た通り、労働がまさに罪のゆえの終わりなき懲罰と化す時代が到来しているのだ。アウシュヴィッツ行きの列車が人々を満杯に乗せて、汽笛をあげて発車しようとしている。

この列車に乗ってはいけない。今は勤労の精神を説く時代ではない。プロテスタントの始まりと共にヨーロッパ諸国で勤労の精神が取り入れられたが、プロテスタントも、労働市場も、徹底的に腐敗堕落し、もはや終焉にさしかかっているのだ。

「私たちは安定的な雇用を得て、定期的な収入と、高い職業的な地位を得て、まっとうな市民としてのつとめを果たしているから大丈夫・・・」などと思っていると、行き先は飢えと死の支配する強制収容所となろう。

それはキリスト教界も同じで、宗教組織に所属し、宗教指導者に従うことで、それを神の救いの目に見える形の代替物のように思って握りしめていると、行き先は地獄でしかない。
 
この国は、もはやすべてにおいてタガが外れており、善と悪が逆転し、すべてのことがひっくり返っている。善良な人々が悪人とみなされ、悪人が善人面して跋扈している。
 
だが、そうなったのには、深い理由がある。これは我が国が経済成長だけを第一として、金儲けを至上の価値として歩んできたことの手痛いツケであり、必然的な結果なのである。

戦前もそうであったが、戦争は、政府や皇族や大企業の金儲けのために起こされるものであって、口実など何でも良いのである。要するに、儲かりさえすれば、どんな手段を取っても構わないという精神が、戦争へとつながって行くのだ。

人権軽視の憲法改悪と、武器の製造と輸出(軍需産業の育成)、国公立大学における人文科学の縮小、人間を過労死させるまで働かせて使い捨てることを厭わない働かせ方改悪法案などは、すべて根底では一つにつながっている。要するに、これらは金の力の前に人権および人命が徹底的に軽視され続けたことの結果、起きたことである。
 
最近、辛淑玉さんが事実上の国外亡命を果たしたというニュースを知って驚いた。以下のニュースは「読む・書く・考える」のブログから転載したものである。
 

東京新聞(3/14):

 「ニュース女子」問題で辛淑玉さん
 ヘイト標的 拠点ドイツに 

 沖縄県の米軍基地反対運動を扱った東京MXテレビの番組「ニュース女子」で、名誉を毅損されたと認められた団体代表の辛淑玉さん(59)が昨年11月からドイツに生活拠点を移した。本紙の取材に対し、昨年1月に番組が放送されてから民族差別に基づくヘイトクライム(憎悪犯罪)の標的にされかねない不安が高まったとして、「事実上の亡命です」と明かした。(辻渕智之)

 辛さんによると、番組放送後、注文していない物が自宅に届いた。近所で見知らぬ人が親指を下に向け批判するポーズをしたり、罵声を浴びたりもした。これまでも仕事先などへの脅迫や嫌がらせはあったが「私の身近な生活圏に踏込んできた」という。(略)
(略)
 最近は「スリーパーセル」(潜伏工作員)との中傷もある。先月、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部が銃撃されたことに触れ、「私が狙われてもおかしくなかった。国のリーダーは北朝鮮と敵対しても、『日本の中にいる朝鮮人たちは一緒に生きていく隣人です』と宣言してほしい」と訴える。


 この出来事についてブログの著者は呼びかけている、
 

「辛淑玉さんは、日米両政府から差別・迫害されるマイノリティ(沖縄)に連帯し、その自己解放運動を支援してきた。そんなマイノリティ(在日コリアン)女性の自宅を特定し、嫌がらせを繰り返して、ついには国内で生活できなくなるまで追い詰める。これが「愛国」だの「美しい国」だのを標榜している連中の正体なのだ。

一刻も早く、そんな不良日本人どもからこの国を取り返さなければならない。それは、間違いなく、この国のマジョリティである我々の責務である。


まったく同感である。だが、それにしても、ここまで事態が深刻化していたと知って筆者は驚いた。単なるテレビ番組だけの問題ではなくなり、実生活にまで被害が及び、もはや日本にいられないというまでの事態になっていたのだ。

「ニュース女子」とは、化粧品会社DHCの傘下のグループ企業が制作しているテレビ番組である。このDHCは、澤藤統一郎弁護士のブログの文章を理由に、弁護士に高額スラップ訴訟を起こしたことで知られる。DHCが起こした高額スラップ訴訟については、「澤藤統一郎の憲法日記」に詳しく、弁護士はDHCと勇敢に戦って勝訴し、今やDHCが被告となっている。

「ニュース女子」では最近、沖縄の高江・ヘリパット基地建設に関連して、事実として裏づけの取れていない、基地反対派の活動を一方的に敵視して貶める内容の放送を行ったとして、ネットでも数多くの批判を浴びていた。DHCのグループ会社が制作するこのTV番組は、まさにDHCという企業の意向を強く受けて制作されていたと見られる。
 

朝日新聞デジタル 「ニュース女子」打ち切りへ MXと制作会社に隔たり 
田玉恵美 2018年3月1日03時21分 から抜粋
 
 ニュース女子は、化粧品大手ディーエイチシーのグループ会社「DHCテレビジョン」が取材・制作し、MXが完成版の納品を受けて放送している。問題になった昨年1月2日の放送回については、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会が昨年12月、MXが番組内容を適正にチェックせず、中核となった事実についても裏付けがないとして「重大な放送倫理違反があった」とする意見を公表していた。

 関係者によると、批判を受け、MXは自ら番組の制作に関与したいと申し入れて交渉していたが、DHC側から断られたという。このため、今春の番組改編に合わせて番組の放送をやめることを決めた。

 
しかし、BPOから放送倫理違反との結論が出されたことに対し、DHC会長は、かえって「BPOは正気か」とする反論を発表し、そこでBPOは委員のほとんどが「反日、左翼」に占められており、正常な判断など下せるはずがないと、偏見としか言いようのない衝撃的な見解を述べている。そして、「ニュース女子」はうちきりになったわけではない、これからも放映を続行すると強弁して、BPOに対決宣言と見える姿勢を打ち出している。
 

【DHC会長独占手記】「ニュース女子」騒動、BPOは正気か 
「ニュース女子」DHC会長、衝撃の反論手記 
から抜粋
「田嘉明(DHC会長)


 今、問題になっている放送倫理・番組向上機構(BPO)についてですが、まずこの倫理という言葉を辞書で調べてみると「善悪・正邪の判断において普遍的な基準となるもの」(「大辞泉」)ということになっています。そもそも委員のほとんどが反日、左翼という極端に偏った組織に「善悪・正邪」の判断などできるのでしょうか。

 沖縄問題に関わっている在日コリアンを中心にした活動家に、彼らが肩入れするのは恐らく同胞愛に起因しているものと思われます。私どもは同じように、わが同胞、沖縄県民の惨状を見て、止むに止まれぬ気持ちから放映に踏み切ったのです。これこそが善意ある正義の行動ではないでしょうか。

 先日、情報バラエティー番組『ニュース女子』の問題に関して、朝日新聞が「放送の打ち切り決定」というニュースを大々的に流したようですが、『ニュース女子』の放映は今も打ち切ってはいません。これからも全国17社の地上波放送局で放映は続行します。」
 


 だが、以上のような見解を見ても、すぐに分かることは、DHC側が、沖縄の基地問題を、日本と米国の外交問題、政治問題、また、日本本土と沖縄との偏って不公平な関係といった観点からとらえるのではなく、これを日本人対在日コリアンという民族対立のヘイト問題にすりかえることで、人々の目を問題の本当の核心から目をそらそうとしていることである。

もしも民族的対立という観点からとらえるのであれば、沖縄の基地問題は、何よりも、日本人から琉球人への差別という観点から論じられねばならない。今でも続行している日本本土による沖縄への基地の押しつけという不公平にこそ、まずは目を向けなければならない。

ところが、本土と沖縄という問題を、それとは全く異なる日本人と在日コリアンの対立という問題にすり替え、「在日コリアン側からの日本人への敵視」が行われているという、一種の被害妄想めいた話を作り出すことによって、沖縄を差別してきた加害者であるはずの日本人が、かえって被害者であるかのような問題のすり替えが行われようとしている。

そうした原因すり替え論の結果として、辛淑玉さんが国外亡命さざるを得ないような状況さえ起きて来ている。本来は、企業が政治活動に携わること自体が、望ましいことではないと筆者は考えるのだが、最近は、企業にもあからさまな右傾化が起きており、DHCのみならず、巨大企業がブランド力と動員力を使って、テレビだけにとどまらない政治的影響力を行使するようになっている様子が伺える。

とはいえ、日本人もTV番組や巨大企業の宣伝だからと裏づけの取れない情報を完全に鵜呑みにするほどまで愚かではないため、こうした動きに対しては、強い反発も起きており、DHC製品の不買運動もじわじわ広がっているようであり、上記の弁護士などもDHCの不買運動を呼びかけて広く反響を得ている様子である。

東京MXテレビとDHCの開き直りに反感、デモや不買運動もー『ニュース女子』沖縄ヘイト放送
志葉玲  | フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和)  2017/1/27(金) 8:59


だが、今のままだと、まもなく不買運動など呼びかけずとも、化粧品のことなど誰も考えていられないような恐るべき時代がやって来ることになるだろう・・・。しかも、まるでロシア革命時に大勢のロシア人が国外に亡命したように、辛淑玉さんのみならず、我が国で「非国民」のレッテルを貼られた人々が、続々とこの国を捨てて国外亡命を果たすような時代が、もうすぐそこまで来ていると感じられてならないのである。

こうした一連の出来事を見つつ、筆者も色々と考えさせられる。

筆者は最近、ヴァイオリンを弾きながら、辛淑玉さんのように、将来、ドイツへ行ってみるのも悪くないなあ・・・、などと思いめぐらしている。国外亡命のためではない。何しろ、ドイツは教育が無償だそうだから、改めて音楽を学び直す良い機会ともなろう。

音楽には国境もなければ言語の壁もないため、いざとなれば、日本国内外を問わず、そこから何か開けてくるものがあるだろうと思うのだ。筆者はこの試みが、深いところで、筆者自身の自由とも密接につながっていることを強く確信している。

筆者は以前から、この国はソドムとゴモラ化していると書いており、まさしくその通りの展開となっていることを感じている。そして、このような腐敗した領域からは出るべきだと述べている。だが、筆者が述べている「エクソダス」とは、あからさまな国外亡命のような、物理的な移動を指しているわけではないのだ。時には、そういうことが不可欠な場合もないわけではないと思うが、はるかに重要なのは、霊的エクソダスである。

これから先、どれだけ早く真実に気づいて「エクソダス」を成し遂げるかが、一人一人の生死を分けることであろう。

筆者は、働かせ方改悪法案に賛同しておらず、事実上の24時間労働制・国家総動員体制などに賛成票を投じるつもりも全くないが、それでも、残念ながら、我が国に国家総動員体制のようなものが敷かれるのはほとんど避けられない結果だと考えている。

それはこの国がこれまで敷いて来たヒエラルキー、競争原理が必然的にもたらす結果なのであり、一旦、とことん行き着くところまで行き着かない限り、この残酷な競争の激化は止められないのではないかと考えている。

だから、私たちはそうした先行きのない世界から目を逸らし、新しい地境を見るべきなのである。もし船の左側に網を降ろして何も魚が取れなかったなら、右側に網を降ろしてみれば良いのだ。左側は、人間の努力によってすべてを達成する道、右側は、神の約束によってすべてが達成される道である。

話が変わるように思われるかも知れないが、経済界および労働市場の絶望的なることを示すために、あるエピソードを述べておきたい。

それはかつて筆者が何年も前に、アルバイトのような仕事をして、とある故障・修理受付のセンターで働いていた時のことであった。

筆者がその職場に入ったとき、その職場は、開けた都会の駅からすぐの大型ショッピングモールのビル街の只中の、きれいでピカピカのオフィスにあった。まだ立ち上がったばかりで、大勢の同僚たちが雇用され、活気があり、窓から見える景色はきれいで、食べ物屋にも困らず、まことに良い雰囲気であった。

ところが、それがとことん異常になり果てて行くまで、3ヶ月もかからなかった。そのセンターの仕事には最初から前線部門と技術部門の二つの区分があり、最初、これらの部門の間に差別はなかった。だが、最初から給与が違っており、技術部門の方がわずかに高かった。前線部門は修理の受付をして技術部門へ渡すための一次対応であった。

センター始まってしばらくすると、いつの間にか、前線部門と技術部門との間にヒエラルキーのような格差が出来てきた。前線部門は、技術部門に接続する前段階の苦情受付のための捨て駒のような役目を押しつけられ、技術部門との間に、だんだん給与面だけでなく心理的にも大きな格差ができ、技術部門は特権的な地位のようにみなされるようになって行ったのである。

職場の中にヒエラルキーがあるということは心理的にも非常によくない。職場内にあからさまな無気力感が漂い、同僚同士が妬み合ったり、足を引っ張り合ったりして、何一つ良いことは起きない。

だが、そのセンターには、筆者が働き始めて3か月頃した頃から、今度は、いきなり現場の仕事には全く携わることのない庶務部門や、社員の仕事をチェックしてはダメ出しするだけの品質管理部門といった新たな部門が導入されて、さらに新たな重層的ヒエラルキーが出来上がり、事務仕事に携わる連中が、前線部門、技術部門を問わず、センター全体の仕事を見張り、難癖をつけては、大きな顔をするようになったのである。

いきなり導入された庶務部が、シフト管理などにうるさく口出しをし、全従業員に君臨して大きな顔をし始め、一つの職場内で、事実上の官僚集団のようになって行った。一つのセンターの中に完全な「お役所」が出来上がり、筆者は開いた口がふさがらなかった。

そのような事態になるまでの間に、仕事の質もどんどん落ちて行った。最初は活気があったセンターが、連日の苦情のために、どんどん疲弊して行った。さらに、従業員は、あくどい形で、顧客から金をとるために、修理しなくても良い箇所まで、修理させるようにとの業務指示を下されたりと、納得のできないことの連続で、顧客が可哀想だと思われることしきりであった。

何より、連日のように顧客から異常と思われる終わりのない苦情が入って来るようになり、それにみなが苦しめられていた。むろん、そんな苦情が発生したこと自体、企業の経営方針、倫理の欠如が深刻に問われる。そうした希望の見えない仕事の中で、職場では身びいきがはびこり、幹部の覚えめでたい連中だけが、見る間に出世して管理職に登用されて行き、管理者ばかりがゴロゴロいるようになったのであった。

筆者はより高い給与とましな仕事内容を求めて技術部門への転身を試みたが、あいにく実現しなかった。(そして、筆者の人生では、この仕事が本業とは関係のない最後のアルバイトとなった。)
 
以上のような変化の中で、筆者はこの職場には将来の希望が全く見いだせないため、早く転職せねばならないと思うようになった。品質管理部門が、皆の仕事に目を光らせて、あれやこれやとうるさく難癖をつけているため、思うように仕事もできなくなり、筆者はこの職場を一刻も早く出るべきと確信した。
 
ほんのわずかな期間に、入ったばかりの頃のわきあいあいとした雰囲気、同僚たちとのあけっぴろげな談笑、これから何かが始まるぞという活気は、急速に萎み、見る影もなくなっていた。

筆者が仕事に愛想を尽かしかかっている気配を察知して、それまで同僚だった人が、それを上部に密告し、友達の顔をして、筆者の動向を調べ上げ、中枢部に報告するようになった、筆者はうすうす同僚の裏切りを感じてはいたが、それでも、それを全く意に介さず、その同僚の説得を振り切って、センターを去った。

その同僚は、筆者の退職後、筆者を裏切り者のように言いふらしていたらしい。(だが、自己弁明しておけば、そのように悪しざまに言われていた人々の中には、筆者のみならず、この職場を脱出しようとしたすべての同僚たちがを含まれていたのである。)
 
そして、密告までして上部に媚を売り、その仕事にしがみつき、センターに残った人たちが、その後、どのような末路を辿ったのかは、センターにいた仲の良かった別な同僚が仔細に至るまで教えてくれた。

筆者がそこを出た後、なんとごくわずかな間で、本社からリストラ精鋭部隊なるものが送り込まれて、大規模リストラを決行し、そのセンターが事実上、崩壊したというのである。

筆者はその話を聞くまで、追い出し部屋だとかの話を耳にしても、半信半疑で、リストラ部隊などといったものは、あるはずのない話だと思っていた。まさかそれなりに名の通った大企業に、自社の社員たちをリストラすることだけを専門にしている社員が雇われているなど、考えてみたこともなかったのである。一体、何のために?

ところが、それは本当のことらしかった。本部から四人の凄腕のリストラ精鋭部隊が送り込まれて来て、センターに残っていた同僚たちをことごとく片っ端からクビにして行ったというのだ。

仕事のできる優秀な人々がまず真っ先にターゲットとされ、仕事に難癖をつけられては、何度も、何度も、訂正を求められ、それにうんざりして自分から辞めた人も多かったという。数か国語を扱える優秀な社員も同じようにターゲットとされて追い払われた。

次に、管理職、平を問わず、大規模なリストラが決行されて、センターの人員が半数近くもいなくなった。その後は、事実上の恐怖政治が敷かれ、最後までクビにならずに残った人たちは、シフトも自由に申告できなくなり、休みも思うように取れず、恐怖で辞めることもままならず、会社への密告を恐れて同僚と口を利くことさえできなくなり、職場に出勤しても、恐怖のあまり手が震えてパソコンを打てないほどだったという。

センター自体はなくならなかったはずだが、筆者が見知っていた同僚の8割がたは解雇されて入れ替えられた。筆者がいた頃に、身びいきで出世していった人々も、みなすげ替えられたのである。

筆者はこの他にも、職場の腐敗や、崩壊に近い現象をそれなりに見て来たが、短期間でこれほどまでにダイナミックな崩壊(自滅?)を遂げた事例は他に聞いたことがなかった。立ち上げ当初の活気ある雰囲気を知っていただけに、まさかという思いが今でも込み上げて来るが、やはり、自分の中の直観は正しかったのだと思う。

リストラ部隊は、筆者には、抜き身の剣を持った御使いたちの姿を思い起こさせる。コネや身びいきがはびこり、不平等なヒエラルキーが敷かれ、お友達ばかりが管理職になって出世し、誠実な人々はひたすら苦情処理のような味気ない仕事を押しつけられ、昇進の道も閉ざされ、将来の希望もなく、不公平、不正義、堕落、腐敗の代名詞のようになったセンターには、こうして目に見えない剣が投げ込まれて、誰の手にもよらず、職場が自壊して行ったのである。

そうした話を同僚から克明に聞かされた時、職場がそんなひどい状態に陥るよりも前に、筆者がそこを去ったのは、まことに正しい決断だったと、改めて心の中で頷いたものであった。たとえ裏切り者のように罵られたりしたとしても構わない、残っていれば、もっとはるかにひどい事態が待ち受けていたことは明らかなのである。

可哀想なことに、優秀でまじめで仕事好きだった同僚は、精神的に追い詰められて、疲弊した様子だった。決して誰とも対立したり、会社の悪口を言ったりするようなタイプではなく、思いやり深く、働き者の同僚であったが、結局、無理がたたって怪我をして、その仕事を続けることはかなわなくなったようであった。

筆者が何を言いたいかは、しまいまで言い切らずとも、分かってもらえるのではないかと思う。

これまで我が国は、「国と企業のために役立つ優秀な人材」を求めて、ひたすら偏差値教育やら、就職戦線やら、国家公務員試験制度やらを通して、国民同士を競争させ、国民の間にヒエラルキーを敷いて、差別的な階層を作り出した。仕事を得る上でも、新卒・既卒の差別や、正規雇用と非正規雇用の身分差別、圧倒的な賃金格差を作り出し、とことん不公平な体制を敷いて、国民同士を「勝ち組・負け組」に分断して、戦わせて来たのである。

そのような悪しき分断作戦に、国民は気づいて立ち向かうべきであったのに、競争原理に踊らされ、自分を「勝ち組」として、地位にしがみつくことに必死の人々は、隣人に起こっていることに無関心で、自分が優位にあるうちは、自分だけが大丈夫であれば良いと考え、他人を見殺しにした。自分自身が徹底的にターゲットとされるまで、搾取や、リストラや、過労死や、ハラスメントなどは、自分には関係のないことだと高をくくっていた。

そのような愚かさ、無関心さ、無慈悲さ、利己主義がもたらす最後の当然の結末として、我が国では、今や国家や企業の無限大の搾取の願望が、ついに24時間働かせ放題のディストピアという形で押し通されようとしているのだ。

もうこうなると、国の崩壊そのものが近いと言えよう。今や抜き身の剣を持った御使いたちが、天から派遣されて、目に見えない死の剣を、我が国の国民全体の頭上に振りかざしている最中なのである。

それなのに、人々は殺されるまで物言わぬ羊として、上からの覚えめでたい人間として生きるため、地位にしがみつくため、殺人的な政策にも黙って従い、屠殺場に黙って引いて行かれるつもりなのであろうか? 

残念ながら、こうした現象は、経済界だけに限ったことではなく、むろん、国の組織も、学術研究機関も同じであり、およそ地上の組織という組織が、腐敗して、頼りにならない、人間を苦しめ、圧迫し、閉じ込めるものとなっているのである。

それは、宗教指導者の利益を第一とし、宗教指導者から評価されることを信者の「救い」と取り替えた腐敗した宗教組織にも共通することである。

「囲いの呪縛から出よ!」と、筆者はもう一度、言いたい。私たちは「和の精神」の呪縛から自分を解放すべきなのである。

カルト団体では、宗教指導者が信者に死ぬ寸前まで奉仕を要求するが、今の経済界で起こっていることは、それと本質的に同じ現象である。合理的な結果を出すために働かせるのではなく、人間を完全に奴隷化して支配するために、限度を超えた労働を要求しているのである。

このような死の世界には触れてはいけない。問題は、過労死をいかに防ぐかとか、企業や団体に労基法をどうやって守らせるかとか、正規と非正規の格差をどうやって埋めるかと言ったところにはもはやないのだ。

この果てしない地獄のような搾取の願望、人命を何とも思わずに犠牲とする金儲け第一主義の腐敗した理念から、どうやって一人一人が身を引きはがし、身を守り、これにNOを突きつけ、これとは全く異なる価値観に従って生きて行くかという選択の問題なのである。

筆者はクリスチャンとして言うが、今やまさに一人一人の信者が、信仰によって神ご自身との直接のつながりを得て、人間の指導者を介さず、組織を介さず、神のまことの命からすべての供給を受けて生きて行かねばならない時代が来ている。
 
それはハドソン・テイラーやジョージ・ミュラーを含め、幾多のキリスト教の先人が生涯に渡って成し遂げて来た方法であるから、何も不可思議な方法論ではないし、恐れることでもない。

イエスは十字架にかかられる前にこう言われた。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。

わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:23-26)

この御言葉は、隣人愛のために自分を捧げるという文脈で誤解される向きが強いが、実際にはそうではない。この御言葉は、クリスチャンが、この世で得られるすべてのかりそめの栄誉、地位、財産など、人間の間で作り出される虚栄に対して死ぬという意味を強く持っている。

これは、人の目に立派な人間と認められ、この世でひとかどの者と認められて地位を築き上げようとすることをやめて、ただお一人の神だけに評価され、神の御心を満足させることだけを求めて生きよという神の命令なのである。そして、主イエスは、その実現のために、十字架の死に向かわれたのであり、ご自分の死を指して、ご自分の「栄光」だと言われたのである。

イエスが地上に来られた時代、地上には立派なエルサレムの都と神殿があった。多数の宗教指導者がいて、人々に敬われていた。だが、イエスはそうした人々から全く栄光をお受けにならなかった。むしろ、主イエスは彼らを偽善者と呼び、「白く塗った墓」にたとえ、「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ23:27)と非難されたのである。

イエスは彼らにこう言われた、

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者の子孫であることを、自ら証明している。

先祖のが始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ。蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。

こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」(マタイ23:29-36)

今日の時代もこれと全く同じではないだろうか。地上には荘厳で立派な教会がいくつも建てられ、立派な服を着た宗教指導者たちが講壇から重々しく説教し、うやうやしく荘厳な儀式が行われている。そして、彼らのもとに集まる信者は、自分たちは正しい宗教指導者を拝む正しい信者であると自負している。

あたかも、そこには完成に近い素晴らしい礼拝があり、素晴らしい敬虔な指導者や信者たちがいるように見えることであろう。

ところが、そうした人々は、神が遣わされた「預言者、知者、学者」を決して認めようとはせず、その中の「ある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」。そして、その血の責任を、自分自身の身に負っているのである。

イエスが、エルサレムの都と神殿の崩壊を予告して言われたことを思い出したい。

「「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ。めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。

見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。

イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指した。そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石ここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」」(マタイ23:37-39.,24:1-2)

このような宣告が一切、我が国とは関係がないと、私たちは言えるだろうか? 義人を罪に定め、真実を闇に葬り、不法と虐げを見て見ぬふりをし、寄る辺ない弱い者たちを嘲笑して死に追いやり、神に従う信者を迫害し、神が遣わされた預言者を殺そうとする国や街が、この先、無傷で立ちおおせることなどあるだろうか?

だが、私たちは、地上のエルサレムではなく、天のエルサレムを目指して歩んでいる。地上の目に見える都、宗教組織、目に見える礼拝、目に見える宗教指導者に帰属するのではなく、天の都に根差して生きている。だから、私たちは常に見えない新しい地に目を注ぎ、地上の目に見える有様に足を取られることは決してない。上にあるものを求めるために、崩壊しかかっている地上の有様からは目を離すのである。

今日、私たちがこの身に負っている「イエスの死」は、現実の死ではなく、十字架における霊的死である。私たちは絶えず自分の心に問われている、あなたは何を第一として生きるのかと。この地上における栄誉、人からの賞賛や理解、高い地位などと言ったものを求め、それを第一として生きるのか、それとも、見えない神からの賞賛や評価だけを求めて生きるのか。神を愛し、神に従って生きることと、地上での栄誉を求めることは決して両立しない。

筆者は何も持たずにこの地へやって来たときと同じように、手ぶらかつ気楽に、しかし心から、神に向かって祈る、主イエスよ、私はあなたに従います。何があろうとも、私はあなたに従います。私は、キリストがそうであったように、完全な人となり、あなたに従いたいと心から願っている僕の一人です。私の行くべき道を教えて下さい。私を教え、導いて下さい。私の人生は、あなたの御手の中にあり、私は人生最後の瞬間まで、あなたの僕です。

私たち自身の努力や決意は不完全であっても、神は私たちの信仰に必ず応えて下さる。何しろ、私たちが神を選んだのではなく、主が私たちを選んで下さったのであり、それは私たちが出て行って、実を結び、その実が永遠に残るためなのである。

そこで、地上の有様がますます悲惨に、混乱に満ちて行ったとしても、私たちの心の中には、常に新しい尽きない感謝の歌がある。それは、私たちの永遠になくなることのない希望である、まことの神への尽きない賛美と感謝の歌である。

だから、私たちは確信を持って大胆にこう言う、「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなし得よう」と。イエスはすでに十字架で私たちのために勝利を取られたのであり、生涯の終わりまで、完全に私たちの味方でいて下さるのである。

「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
 イスラエルは言え。  慈しみはとこしえに。
 アロンの家は言え。  慈しみはとこしえに。
 主を畏れる人は言え。 慈しみはとこしえに。

 苦難のはざまから主を呼び求めると

 主は答えてわたしを解き放たれた。
 主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。
 人間がわたしに何をなしえよう。
 
 主はわたしの味方、助けとなって
 わたしを憎む者らを支配させてくださる。
 人間に頼らず、主を避けどころとしよう。
 君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。
 
 国々はこぞってわたしを包囲するが
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。
 蜂のようにわたしを包囲するが
 茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。
 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。

 激しく攻められて倒れそうになったわたしを
 主は助けてくださった。
 主はわたしの砦、わたしの歌。
 主はわたしの救いとなってくださった。

 御救いを喜び謳う声が主に従う人の天幕に響く。
 主の右の手は御力を示す。
 主の右の手は高く上がり
 主の道の手は御力を示す。

 死ぬことなく、生き長らえて
 主の御業を語り伝えよう。
 主はわたしを厳しく懲らしめられたが
 死に渡すことはなさらなかった。

 正義の城門を開け
 わたしは入って主に感謝しよう。
 これは主の城門
 主に従う人はここを入る。
 わたしはあなたに感謝をささげる
 あなたは、答え、救いを与えてくださった。

 家を建てる者の退けた石が
 隅の親石となった。
 これは主の御業
 わたしたちの目には驚くべきこと。
 
 今日こそ主の御業の日。
 今日を喜び祝い、喜び踊ろう。

 どうか主よ、わたしたちに救いを。
 どうか主よ、わたしたちに栄えを。
 
 祝福あれ、主の御名によって来る人に。
 わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
 主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。
 祭壇の角のところこまで
 祭りのいけにえを綱でひいて行け。
 あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。
 わたしの神よ、あなたをあがめる。

 恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」(詩編118:5-29) 

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十字架の死と復活の原則―天に備えられた故郷を熱望しつつ、上にあるものを求める―

全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(マルコ16:15-16)

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。

引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。

兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」(マタイ10:16-23)

* * *
 以上の御言葉が、以前よりもはっきり、切実なものとして筆者に迫って来る。
これらのことは、考えてみると、すべて筆者の身の上に成就して来たことばかりである。

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」
これも全くその通りである。

筆者が住んでいる街は、やって来た時には、大きな喜びがあったが、今やソドムとゴモラに近い場所になって来ていると感じる。その理由は前の記事に書いた。暮らしが快適でなくなったという意味ではない。霊的に衰退・退廃してしまったのだ。

筆者は、首都圏全体が、これから大きな苦難に見舞われようとしていることを感じている。

もっとも、このようなことを書いたからと言って、いたずらに人々を脅かしているとは思わないでもらいたい。新聞雑誌で報道されている通り、この先、30年間のうちに首都圏に関東大震災に匹敵する災害が起きる確率は70%以上である。中でも、横浜はとりわけ大きな被害に見舞われると予測されている。

その危険だけを取っても、こうした中で、あえて首都圏にとどまるかどうかは、重い決断である。筆者は阪神大震災、東日本大震災を経験した。幸いなことに、どちらの場合も、筆者自身も、周りにいた関係者も、それほど大きな被害を受けなかったが、次に来るであろう震災については、今までと同じように考えるわけにいかないのだ。

さらに、震災だけではない。戦争の危険が迫っている。このことについてはまた別の機会に書きたい。

だが、筆者は今回、震災や戦争を恐れて逃げ出そうとしているのではない。そのような噂を聞いても慌てるなと聖書に書いてある通りである。

むしろ、筆者は神ご自身から、ここを出るべきだという教訓を与えられたと感じている。
そして、その確信は、筆者が新しい快適な住居に来てからわずか数ヶ月でやって来た。

それはまだ筆者がお気に入りの家具を色々取り揃えている最中のことであった。筆者は信仰告白のブログを更新することよりも、カーテンのサイズをはかり、お気に入りの布を選び、照明器具を物色することに熱心であった。

それから、ピアノを猛特訓していた。ラフマニノフの美しいプレリュードの数々に取り組み、ピアノ・コンチェルトを弾いた。ヴァイオリンに熱中し、セザール・フランクのソナタをそれなりに弾けるようになって来た。実は、以前に記事でも書いた通り、このフランクのソナタが、この地と筆者との最初の挨拶の曲であり、また、別れの曲になってしまったのだが…。

こうして、ようやく落ち着いて楽器が弾けるようになり、気に入った家具を自分の好みに合わせて用意し、大好きな動物たちとゆっくり暮らせると思った矢先、

「あなたが熱中している生活は、私の心にかなうものではありません。」

と、神から示されたのだ。

いや、神からだけでなく、悪魔の側からさえ、皮肉な質問が向けられた、「ヴィオロンさん、あなたはいつからそんな風に、どこにでもいるただの普通の人になったんですか。いまだにこんなところでぐずぐずしてるんですか。まさか本気でここに定住する気じゃないでしょうね。」(そのメッセージはこの世の人々のごく些細な言葉を通してやって来た。)
 
筆者ははっとした。だが、そのような発想は、筆者の考えを超えていたので、筆者はなかなかその結論を受け入れられず、神と争っていたと言っても良い。

「主よ、私がこれまでどんな生活を送って来たか、あなたはご存じではありませんか。今まで一度だって、私は自分の生活に落ち着いて目を向けられたことはありませんでした。私は今まで照明器具のことでこんなに悩んだことはありません。この自由が悪だというのでしょうか。」

「あなたはどうしてしまったんですか。今あなたが物色している照明器具などよりも、はるかにまさったものを、私がいくらでもあなたのために天から用意できるということを、あなたは忘れてしまったんですか。あなたのための宝は、すべて私が天に備えていることをもう忘れたんですか。あなたは地上のものにばかり気を取られ、天の宝に対する憧れをもう持っていないのですか。あなたが今、夢中になって握りしめている地上のすべてのものが、本当に神の国のために本質的に重要だとあなたは思っているのですか。」

「でも、これはあなたが恵みによって私に与えて下さったものではありませんか…」

「いいですか、たとえ与えられた時には恵みであったとしても、あなたがそれを握りしめるなら、たちまちそれは腐敗します。あなたがもしもこの先も、今と同じように、この世の事柄に没頭し続けるなら、あなたは地の塩ではなくなるため、私はあなたを捨てざるを得ません。私は私への信仰によって成ったもの以外の生活を守ったり、保障することはできません。」

「待って下さい、主よ、それでは困ります。そんなことになるくらいなら、私は何もかも捨てます。あなたがすべてを剥ぎ取られる時、それがどういう形になるのか、私はこれまでの人生で痛いほど知っています。剥ぎ取られるよりも前に、私は喜んですべてを捨てます。何も握りしめたりしません。」

もちろん、このような対話が実際にあったわけではない。これは筆者の霊的な気づきの要約でしかない。ただ筆者は、やっと快適な生活が送れて、自分の趣味に没頭できると喜んでいた矢先、自分が心を砕いている生活が、神にとっては全く本質的に重要でなく、神が願っておられるものは、もっとはるかに高いところにあることを痛烈に思い知らされたのだ。

その時、筆者は考えた。平穏な生活の何と危険なことであろう。快適な住居で神を忘れるよりは、狭い不便な住居の中にいても、ただまっすぐに神を見上げていた方がはるかにましであると。

それ以来、筆者は自分の目を楽しませてくれたすべてのものを、パウロが言ったように、損と思い、厭うようになった。家具を物色することに時間を費やすのをやめたのはもちろんである。これは決して生活に必要なものまで放棄することを決めたという意味ではない。そのようなものに熱心に心を砕くのをやめたということである。
 
いつもそうなのだが、筆者は牧歌的な性格なのか、あまりにも楽観的に過ぎるのか、ちょっとした生活の平穏が与えられると、すぐに戦いをやめてしまう。これは人間の生まれつきの傾向であろう、ちょっとでも平和がやって来ると、自分の周りで起きているあまりにも激しい霊的な戦いから目を背け、神の権益を忘れ、自分自身の平和に安住しようとしてしまう。

筆者の心には、これまで「普通の人として穏やかに暮らしたい」という願望が根強く残っていた。できるなら、もう二度とあのような苦しく激しい戦いを戦うことなく、このまま立ち上がらず、穏やかに座ったまま暮らしたいという願いがこみあげて来る。

筆者は神に問う、「主よ、今、少しだけ、このまま立ち止まらせて下さいませんか。楽器を弾きたいんです。他にも色々と考えていることがあるんです。これまで私に一般人としての普通の暮らしという贅沢が、いつ与えられたことがあったでしょうか」と。

しかし、神は、それではだめなのだ、と言われる。楽器を弾くことが罪なのではない。ただ、神の御心にかなう生活は、決して「一般人としての普通の暮らし」などではないのだ。神は、神の御思いは人間の思いよりも高く、神のスタンダードは人間のスタンダードをはるかに上回り、神の考えは、筆者の考えよりもはるかに大きく、広い、と言われる。

筆者が価値だと思っているものよりも、はるかに大きな価値を、神は筆者のために用意しておられ、 「口を大きく開けよ、私がそれを満たそう」と言われるのだ。

なのに、筆者があまりにも小さくしか口を開けず、あまりにも少しの宝で有頂天になってしまうため、せっかく用意された天の宝が届かないのである。
 
要するに、神は、いつでも常に筆者の狭い考えを打ち壊される。筆者がどんなに最善を願っているつもりであっても、まだそれでは低い、と神は言われるのである。

それを示される度に、筆者は、神の恵みと憐れみの深さに、瞠目せざるを得なくなる。そして、やはり、神は神なのであり、人間に過ぎない筆者のちっぽけな思惑になど、とらわれる方ではないと、改めて畏れを覚えるのである。

気をつけておかねばならない。人生に次々と苦難が襲いかかって来るような時には、放っておいても、誰しも必死に神に助けを求めるであろう。油断がならないのは、平和な時である。

神のために召し出された者が、この世の人々と全く同じような生き方を目指していたのでは、塩気を失った塩として捨てられるだけである。

「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。」

さて、以上の御言葉も、全くその通りであることを筆者は知った。筆者はこの地にやって来た時、キリスト者の交わりを求めてやって来たが、当時、筆者が「兄弟姉妹」だと考えていた人々は、ことごとくクリスチャンらしさを失って行った。というより、手ひどい裏切りや中傷といった争いも起きたのだ。

にも関わらず、筆者はごくわずかな心あるキリスト者との交わりを続けていた。だが、ついに筆者が交わっていた心あるキリスト者の夫婦が地上を去ったというニュースをその親族から聞いた。見渡せば、この地にはもはや筆者が兄弟姉妹の交わりを求めてやって来た頃の痕跡は何も残っていなかった。

筆者が交わりを望んで来たクリスチャンらの堕落については、もはや述べる言葉がない。この世の人々がこの世の事柄に没入し、神に敵対して歩んでいるのであれば、まだ分かるが、かつて筆者が兄弟姉妹であると考えていた人々の実に多くが、ロトの日のように、娶り、嫁ぎ、食べ、飲み、売り、買い、この世のことに邁進しながら、本当に地に安住してしまうか、あるいは、イエスを売り渡したユダのように、兄弟を売って恥じないまでになってしまった。

また、首都圏はあまりにも不法と搾取に満ちており、腐敗して未来のない不毛の土地になりつつあるように感じられる。筆者はこれまで、地上の裁判などには一切関わることなく生きていきたいと願っていたが、それでも、この悪しき世の中で、暗闇の勢力からの激しい挑戦を受けて、やむなく一人で裁判官らの前に立ったことが数度ある。四人の弁護士に、筆者一人で対峙し、勝利をおさめたこともある。
 
筆者はこれを手柄や自慢話として書いているのではない。誰しも戦いなど望まないからだ。こうした争いは純粋にこの世の事柄であったが、長い間、いかなる争い事も、決してこの世の法廷に持ち出したくないと考えていた筆者も、それを機に立ち上がることを迫られた。最近では、正しい主張ならば、公然と人前で主張せねばならない事柄も多くあるのだということが分かった。

クリスチャンがこの世の裁判を通して、王や総督の前に引き出され、この世の人々に対して神を証することがある、という聖書の御言葉の正しさを知ったのである。そして、公然と主張すべき事柄を主張すれば、必ず、神が味方して正義を実現して下さると分かったのである。

そのようにして、物事にはきちんと決着をつけておくべき時がある。そのことが、もっと前に分かっていたなら、筆者は色々なことを曖昧なままにしておかず、公然と立ち向かって、早くに終止符を打てたはずのことが数多くある。そのことが今は分かる。だが、何事にも生きている限り、遅すぎることはないだろう。

さて、こうした戦いの過程で、筆者が学んだ何より重要な教訓は、どのような戦いの最中にある時にも、決して弁護人をつけず、神ご自身だけを弁護者として、全ての圧迫に自分で立ち向かって勝利をおさめる秘訣であった。

これまでどんな紛争が起きても、筆者は一切、弁護人をつけなかった。すべての主張をこのブログに記しているのと同じように、自分自身の言葉で書き記し、誰の力をも一切借りることなく、自分自身で不当な主張に立ち向かい、勝利して来たのである。

こうして、神と共に一人ですべてに立ち向かうことこそ、この地に来てから筆者が最も学ばねばならなかった教訓である。それを学ぶのにどれほどの時間を要したであろうか。筆者の戦いたくないという牧歌的で楽観的な考えや、常に誰か有力な人間を頼ろうとする少女的な考えの甘さは、その戦いの過程で相当に削ぎ落とされて行ったと言える。

どんなことが起きても、神と筆者の二人三脚で切り抜けることが可能だと、自信がついたのである。

戦いは難しければ難しいほど面白い。

これは好奇心で言うのではない。神の栄光が現れるためには、人間の力は強くなくて良いのだ。

預言者エリヤは450人のバアルの預言者に、たった一人で立ち向かった。それに比べれば、筆者の通過して来た出来事など、ほんの序の口だと言える。
 
我々には、最強の弁護者である神ご自身がついておられる。聖霊が我々と共にいて弁護して下さる。だから、我々は神以外のどんな存在にもより頼む必要はない。それなのに、心の弱さに負けて、肉なる腕に頼ろうとすれば、無用な苦しみが待っているだけである。

話が脱線するようだが、弁護士という職業は、自分の経済的利益のために、他人の争いを利用して成り立っている。弁護士は、依頼人が裁判に勝っても負けても、どちらの場合でも、自分には食いはぐれがないよう契約しているので、結果はどちらでも構わないのだ。できれば勝ちたいとは願うであろうが、紛争当事者のように、命がけで法廷に立つことは、弁護士には決してないのだ。

さらに、弁護士は時間に応じて報酬を受け取っているので、依頼人の争いがすぐに決着してしまうと損になる。従って、弁護士が、紛争の早期解決に努めることはまずなく、むしろ、紛争がもつれにもつれ、長引いた方が、彼らにとって得なのである。そんな職業である弁護士が、本気になって紛争当事者を助けてくれる理由がどこにあるだろう。
  
普通の人々は、弁護士を大勢つければ、勝算の見込みが上がると考えるのかも知れない。だが、筆者の目から見れば、事実はまるで逆である。

弁護士を大勢つけて戦いに臨むと、「船頭多くして船山に登る」式に、自分の主張に整合性が取れなくなって、勝ち目が薄くなって行くだけである。実際に、何人もの弁護士の書いた答弁書を読めば、まるでつぎだらけの布のように、主張内容に辻褄が合わない場所が多くあり、よく読めば、どの段落から新しい弁護士が担当したのかさえ、明らかになってしまうような有様である。

そこで、このように無責任かつ当事者意識の薄い人々にわざわざ法外に高い謝礼を払ってまでアドバイスを求めることは、賢明とは言えない。さらに、キリスト者がそのようなことをすれば、弁護士の一言一言が足手まといとなり、成るものも成らなくなるだけであろうと思う。

極めつけの問題は、弁護士自身が法を守らない、というお決まりの逸脱にある。弁護士の目的は、他人に法を守らせることであっても、自分自身が法を守り、法に従うことにはない。むしろ、数多くの弁護士が最も得意としているのは、「ああ言えばこう言う」式に、法をどれほど上手にかいくぐり、自分サイドに都合よく解釈して、自分たちだけが自由の幅を広げるかであり、そのような意識が高じると、ついに自分自身が法の上に立って、法を曲げ、支配するというところまで行ってしまう。

その究極の形が、改憲である。

世間は安倍首相の戦前回帰の思想やそれに基づく改憲の野望のことは批判するが、筆者が見たところでは、日本の政治家のほとんどは、与野党を問わず、改憲派である。

たとえば、立憲民主党の枝野代表もまた弁護士出身であり、同氏はかつて憲法9条に関する私的改憲案を自らの論文として出していたことで知られる(現在はその案を放棄しているそうだが)。

このように、立憲民主党の代表がかつて自ら9条の私的改憲案を出していたことは、大きな自己矛盾であり、皮肉であるとさえ言えるかも知れない。日本という国が、成立してこの方、一度も憲法をきちんと守ったことがないのに、すでに現状を優先して憲法を変えるべきだと、政治家は言うのである。

野党の代表でさえ、この始末であるから、一体、誰に期待できるのであろうか。このことは、立憲民主党が護憲政党では全くないことをよく表している。

こうしたことから容易に推し量れるのは、弁護士という職業が、紛争に巻き込まれた人々の弱さや苦しみに寄り添うように見せかけながらも、他者の争いを糧に生きる職業であるのと同様に、与野党の攻防などは、しょせん、国民の弱さや苦しみを糧にして生きる「政治家」という中間搾取層の隠れ蓑でしかなく、AチームBチームの戦いに過ぎないということだ。

話を戻せば、こうして、改憲案の内容には違いがあれど、結局、改憲それ自体は、ほとんどの政治家が目指している共通のゴールであるだけでなく、弁護士にとっても、何かしら最終目的のように見えているのではないかと思われてならない。
  
弁護士でさえ、法を守ろうとは考えておらず、憲法を現状に照らし合わせてズレのあるもの、時代遅れなものとみなし、現状に合わせて法の文言を買えるべきと考えている。彼らは、法よりも(彼らの目から見た)リアリティを優先する人々なのである。

あるいは、もっと言い換えれば、「自ら最高法規である憲法に手をつける」ことが、この国では、政治家だけでなく、多くの弁護士にとっても、悲願なのかも知れない。

もっとも、弁護士のすべてがそういう思いを持っていると言うつもりはない。だが、今、多くの人々の目には、憲法は、そのようにしか映っておらず、野党でさえ、来るべき改憲の日の準備のために、もっと憲法について国民の間で活発な議論がなされるべきだと考え、特に若者の意見を聞くことが必要だ、などと述べたり、誰でももっと気軽に改憲論議に参加できるようにすべきであって、憲法カフェのようなものを作ったらどうだろうか…、などと提案し、お手軽な憲法改正の地ならしをしているのだ。
 
彼らは筆者のように現状を法に合わせて修正すべきだとは考えていない。従って、彼らにとっては、(目に見える)現実の支配が法の支配よりも上位にあるのだ。これではどうやって法の精神を現実に適用することができようか。

従って、こうした事実から見えて来るのは、弁護士という職業は、概して、表向きに多くの人たちがそうに違いないと考えているように、法を敬い、法を遵守することを目的に生きている人々ではない、ということだ。極端な言い方をすれば、法に寄生することで、いかに法から自分の旨味を引き出し、首尾よく中間搾取を成し遂げるかが、弁護士という職業の醍醐味であるのだとも言える。

従って、こうした人々には、自らこそが、法の守り手であり、庶民に比べて、自分たちは法の精神に精通しているという誇りやプライドはあるかも知れないが、そのような自負が強ければ強いほど、かえって彼らは、自ら法に手を付けることも辞さない(自分自身を法の上位に置く)ほどの不遜さを同時に持ち合わせているのである。

厳しい表現を使えば、このような弁護士の不遜さは、パリサイ人や律法学者たちの不遜さに通じるものがあるのではないか、と筆者は思う。主イエスが地上におられた頃の律法学者やパリサイ人たちは、律法のことなら何でも自分たちにおまかせあれと言えるほどに勉強熱心であり、それゆえ、当時の庶民からは、立派な教師のごとく尊敬されていた。だが、主イエスが糾弾された通り、彼らは律法の教師を自認しながら、自分自身は律法を守っていなかったのである。

今日の牧師やいわゆる「御言葉の教師たち」もそれと同じである。講壇から信徒の上に立って、自分はあたかもすべての物事を理解したかのような調子で信徒に説教するが、人を教えながら自分自身を教えず、自分は聖書の御言葉に従って生きていないのである。

筆者はこれまで、牧師や「御言葉の教師」を名乗る人たちは、弁護士と同じように、信者の心の弱さに寄生して生きる霊的中間搾取階級である、と述べて来た。彼らは、自分一人では立てず、霊的な戦いを一人では戦い抜けないと考える心弱い信者を呼び寄せて、彼らの弱さや自信のなさにつけこんで、それを自己の利益や金もうけの手段に変えているのである。

だから、教会のカルト化など憂う前に、クリスチャンは、あちらの先生、こちらの先生へと浮草のように頼るべき存在を求めて放浪することをまずやめ、そもそも牧師という職業が万民祭司の時代には不要であることをきちんと認め、主イエスが教えられた通り、キリスト以外の誰をも教師とせず、ただ神だけを頼りとして一人で立つという気概とプライドがどうしても必要なのである。
 
弁護士からアドバイスを受ければ、足手まといになるが、「御言葉の教師」を自負する牧師や教師たちのアドバイスは、それよりももっとはるかに有害である。
 
「<…>いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:27)

聖書の御言葉がこのように命じているのだから、人間に過ぎない者に頼り、人間に栄光を帰そうとすれば、どのような悲惨な結果が待ち受けているかは明白である。

筆者はこの地へ来てから、「兄弟姉妹の交わり」と称する目に見える人間関係に、再三、欺かれて来た。そのことは、「兄弟姉妹の交わり」と呼ばれているものでさえ、目に見えるもの、地上的な、堕落した人間関係になりうることをよく示している。

勇者サムソンは、異教徒の娘デリラの誘惑に負けなければ、神から来る力を失うことはなかった。今日、デリラとは、弁護士や、教師や、牧師など、人の弱さを利用して、優しさや、思いやりや、助言を装って親切そうに近づいて来る、すべての霊的中間搾取者を指すと言っても差し支えないと筆者は考えている。

デリラと心の鎖でつながれたことによって、サムソンの力は絶たれた。自分一人ならば、どんな強力な鎖でも、彼は瞬時に断ち切ることができたのに、デリラという存在を受け入れてしまった瞬間に、完全に身動き取れず、がんじがらめになって鎖につながれ、自由を失い、さらに霊的視力を失って、両眼をえぐり出されて盲目にされ、奴隷にまで転落してしまったのである。

この警告を、我々は慎重に受け止める必要があるものと思う。デリラとは特に魅惑的な一部の若い女性のことだけを指すなどと矮小化してとらえるべきではない。デリラとは、この地のもの、滅びゆくもの、堕落した被造物全体を象徴していると言ってよく、そこには当然ながら、人間全般も含まれているのである。

我々が警戒しなければならないことは、兄弟姉妹の交わりを求めると言いながら、目に見える人間関係にしがみつき、束縛され、その結果として、見栄や競争意識や義理人情や欲望の渦巻く人間のしがらみの中に、がんじがらめにされて行き、御霊の自由を失うことである。

地上の宗教組織としての教会がそういう場所になってしまっていることについては幾度も論じて来たので、ここでは再び言及しない。今、筆者が述べたいのは、地上の教会組織に幻滅したと言いながらも、依然として、教会をキリストよりも上位に置こうとする誘惑がクリスチャンに強く働いていることである。

以前に、筆者は「エクレシア崇拝」に陥る危険性について警告したことがあった。キリストだけを純粋に慕い求めるエクレシア(教会)を探求するというのは、なるほど大変、美しい表現である。かつて筆者も、きっとどこかに初代教会のように純粋な兄弟姉妹の交わりがあるに違いなく、また、そうしたものを自分たちの交わりを通して実現したいと考えていたこともあった。

地上の宗教団体として堕落してしまった教会への幻滅がひどければひどいほど、初代教会のような交わりを求める気持ちは信者の心に強く働くだろう。

だが、実際には、初代教会が我々の追い求めるべき目標ではないし、理想的な兄弟姉妹の交わりを追い求めることが、クリスチャンの生きる目的でもない。そもそも我々が追い求めるべき対象は、エクレシアではなく、キリストなのである。にも関わらず、エクレシア(教会)に力点を置き、人間の作り出す甘美な交わりのうちに理想を模索したり、あるいは、自分たちの交わりを理想であるかのように賛美することは、結局、キリストを退けて、自己を見つめ、自己(人間)を栄光化することへつながって行く。

特に、自分たちの交わりことそ、まことの教会だと自負している人々や、「家々の教会」を主張している人たちに、この警告は有効であろう。筆者は、長い間、家庭集会などとは無縁の環境に生きていたので、さほど危険を感じなかったが、地上の家や、自分の家で行われる集会をそのまま教会と同一視することは、限りなく危険である。

確かに、主の御名によって、二、三人が集まるところに、主も共におられ、主は兄弟姉妹を通して大いに働いて下さることがある。だが、そういうことが一度や二度あったからと言って、その目に見える交わり、目に見える集会がただちに教会というわけでは決してないのだ。

エクレシアとは決して我々が地上に固定化することができず、これだという形式を探し出して、それにあてはめて定義できるものでもない。それは束の間、地上に現れたように見えるかも知れないが、決して地上的な要素に限定されたり、とらわれることのない、変幻自在で、永遠性を持つものなのである。エクレシアを支配しているのはキリストだけであって、神ご自身以外の者には、決してそれを掴み、私物化したり、エクレシアによって栄光を受けることはできないのである。

もしも誰かがエクレシアをこの手で掴もうとし、コントロールしようとし始めれば、たちまちそれは腐敗し、崩壊して行く。
 
この記事の冒頭で、筆者が最後にこの地で交わっていた善良なクリスチャン夫婦が亡くなった、ということを書いた。夫人が先に亡くなり、続いて夫が亡くなったが、彼らが祈りによって与えられたという美しい家に、筆者は夫人が亡くなる数か月前にお邪魔したことがある。そのことも記事でも触れた。

ノアの箱舟と同じ寸法だというその家には、夫人が選び抜いて設置したセンスの良い家具に囲まれた、清潔で美しい居間があり、そこには、白いアップライト・ピアノが置いてあった。そこで、筆者がピアノを弾き、夫人が讃美歌を歌った。夫人は、本当に筆者を愛してくれたので、涙を流して喜んでくれたほどである。壁には伝道の書の聖句を記した額縁がかけられ、屋上には、静かな森を見下ろしながら、誰にも遠慮することなく長時間祈れるルーフバルコニーがあった。

今でもよく覚えているが、その夫人はどれほど心を尽くして筆者をもてなしてくれただろうか。共に祈り、語らったひと時はどんなに美しい思い出になっているだろうか。

「ヴィオロンさん、私があなたをここへお招きしたのは、祈れば誰でもこれは(こういう家が)手に入ることをあなたに知らせたかったからなのよ」と、夫人は言った。

当時、家庭集会などとは無縁の、暮らすだけがやっとの家に住んでいた筆者は、夫人の言葉に、皮肉気に肩をすくめて笑った。そんな忠告、私にはまだ早いですよ、と思ったのだ。彼女に家の自慢をされたとは思わないが、筆者が家のことについて考えるのは、まだまだ先のことなので、忠告はただ心に留めて置く、と心の中で思った。

当時、筆者の目には、その夫人の家の素晴らしさよりも、誰にも知られず、そこで開かれる二、三人の交わりの方がはるかに素晴らしく映った。その美しい交わりの思い出は、まるで奇跡のように筆者の脳裏に刻まれた。

だが、そのようにしてキリスト者らが交わった家も、その夫婦の死後、すっかりがらんどうにされ、売却される予定だと知らされた。夫婦の親族さえも日本にはいなくなり、もはやその夫婦がこの地上に暮らしていたことを思い出す人々も、筆者の周りにはいなくなった。むろん、夫人が筆者のために何度も横浜にやって来ては、横浜駅の混雑の中で待っていてくれたことなど、誰も覚えてはいない。

その夫婦が亡くなったという知らせもショックであったが、あれほど豊かな交わりのひと時が持たれた美しい家、筆者の目には、神聖な場所も同然に見えていたその家が、すでに当時の面影をとどめておらず、家具もすべて運び出され、空っぽになり、ついには信仰とは一切無縁のこの世の人の手に渡るであろうというニュースは、もっと衝撃的であった。

まるで神聖な思い出が、踏みにじられ、無残に破壊されて行くような寂しさを心に覚えた。

だが、このニュースを、筆者はとても教訓的なものとして心に留めた。筆者はおそらくかなり鋭い感受性を持ち、すべての出来事を豊かな感性で受け止め、鮮明に心に記憶する。そうして記憶した事柄を、何度も思い返しては、分析を加え、書き記す。思い出はどのようなものであれ――良いものであれ、悪いものであれ――筆者の中で生きた記憶であり、まるで筆者自身の一部のようで、その記憶こそが、筆者という人間を形成しているように思われることがある。

さらに、キリスト者の交わりは、ただの思い出ではない。あの時、この場所で、あの兄弟姉妹たちとの交わりの中で、神が力強く働いて下さった、とか、神が私たちの存在を覚え、心に留めて下さった、という記憶は、どれほど人にとって光栄なものであろうか。

ところが、どんなに美しく大切な思い出であっても、主は、「それを手放しなさい、そこに真実があるわけではないのだから」と筆者に言われているように思うのだ。

クリスチャンの道のりは、見知った過去にあるのではなく、常にまだ見ぬ地へと、未来へ向かって行く。だから、主は警告されるのだ、「あなたの目を過去から離しなさい。悪い思い出だけを忘れるべきなのではありません。美しく良い思い出も同様なのです。どんなにそれが美しく心を誘う良き思い出であっても、どんなにそれが美しい交わりの記憶であっても、決してそれを理想化してはなりません。あなたの目標はいつでも、常にまだ見ぬ未来に、これから起きることの中にあるのです。あなたの心は、いつもこの先、私があなたのために天に用意している宝にこそ、向かっていなければならないことを心に留めなさい…。」
 
仮に過去にどんなに優れた、完全に近い兄弟姉妹の交わりがあったとしても、それは、筆者がこの手で掴もうとした瞬間に、幻のように消えて行く。主ご自身が、それが偶像となって筆者の心を支配する前に、これを地上から取り去られ、壊されるのだ。

思い出の場所が壊されて行き、痕跡をとどめなくなることは筆者にはつらい。だが、それでも、信仰の先人たちは、はるかにまさった都を目指して、常にまだ見ぬ地へと出て行ったのである、行き先を知らずに――。

だから、この先、地上でどんなに良い交わりを得たとしても、筆者は二度とそれに拘泥することはないだろうと思う。過去にあったのと同じものを再現しようと考えたり、過去にあった交わりを神聖なものであるかのように惜しんだりもしない。

地上に現れるものはすべて不完全であって、幻影のようなものである。神のエクレシアは決して地上に現れた諸現象によって定義できないし、とらえることもできない。

そのようなわけで、未来に何が待ち受けているのかなど、想像もつかず、知らない土地へ行くとなれば、想像の目安となるものさえもない。だが、それでも、どこへ向かうのか、行き先を知らないまま、出て行くのがキリスト者の役目なのだ。
 
キリスト者は、こうして、最初は弱くとも、次第に、一切の地上的なものを頼りとせず、どんな困難の最中でも、神と自分だけですべてを切り抜ける秘訣を必ず習得することになる。それができないと、前に進んでいくことはできない。

地上のものに頼らないとは、兄弟姉妹の存在にも一切頼らないということである。

だが、多くの信者は、この学課に耐えられないことだろうと筆者は思う。彼らにはほんのわずかな瞬間でさえ、自分一人だけで神と共に取り残されることが、耐えがたい孤独のように映るのだ。だから、人間の温もりから切り離されるくらいならば、いっそ信仰の前進をあきらめて、途中でリタイアしてしまう。
 
だが、筆者は横浜へやって来た当初の目的を決して忘れてはいない。それは、牧師や教師といった霊的中間搾取階級の存在しない、キリスト者の対等な交わりを得るためであった。

万民祭司の時代にふさわしく、信者一人一人がキリストから直接教えを受け、聖書から直接学び、御言葉の教師を自称しているだけの人間に過ぎない者たちに、二度と栄光を掠め取られたり、搾取されたり、支配されることのない、霊的中間搾取者のいない、対等なキリスト者の交わりに連なるべく、筆者はすべての組織及び牧師たちを離れて、この地にやって来たのである。

たとえ、筆者の周りのクリスチャンたちが、口ではキリストだけに頼ると言いながら、結局は、自分たちの好みのリーダーをてんでんばらばらに担ぎ上げ、あるいは、自分自身がリーダーとなって他の信者に君臨し、そうした地上的な人間関係のしがらみを少しも手放すつもりもなく、自らそこに束縛され、地上的な組織を作り上げてはそれをエクレシアと呼び、そこに安住することを考えていたとしても、筆者はそこを出て行かなければならないのである。

むしろ、筆者がそのような人々の中途半端さを疑問に思いながらも、これを退けることもせず、長年、彼らを信仰の敵と考えることもなく、同じ場所に佇んでいたことこそ、大きな停滞の原因であった。

筆者は、当初、キリスト者の自由な交わりを求めて来たはずなのに、自由のない交わりしか目にすることができず、かなり長い間、訳が分からず当惑していた。中途半端にも関わらず、その人間関係をきっぱりと断ち切る決断がつかなかったことが、大きな災いの源だったのである。

キリスト者の歩みは、戦って前進するか、それとも後退するか、そのどちらかしかない。もしキリスト者が勇敢に前進せずに、同じ地点に佇んで足踏みしていたなら、早速、紅海で溺れ死んだはずのエジプト軍が、ゾンビのように背後から襲いかかり、たちまちキリスト者をとうに後にして来たはずのエジプトへ、奴隷として引き戻そうとするであろう。

世の惑わしは、人間関係を通じて最も強力に働く。その中には、当然、クリスチャンを名乗る人々とのしがらみも含まれている。暗闇の勢力は、デリラの誘惑も同然の、「人間関係のしがらみ」を通じて、筆者に対して最も強力に働きかけたのである。

一見、聖なるものを装った、地上的な人間関係のしがらみが、決定的な瞬間に、クリスチャンを身動き取れなくさせる「デリラの罠」として機能するのである。筆者が立ち向かうべきものに毅然と立ち向かわねばならない瞬間に、気づくと、たくさんのデリラたちが、がっちりと筆者を両脇から取り押さえ、抵抗できなくさせてしまうだけでなく、やって来るエジプト軍に喜んで筆者を差し出し、彼らに捕虜として連行させてしまうのである。

だから、筆者の霊的な戦いは、まずは裏切り者のデリラたちにつけいる隙を与えない、ということから始まった。牧師、教師、弁護人、助言者、親切な助力者を装ってやって来る、すべての肉なる腕を排除するところから、戦いは始まった。クリスチャンについても同じである。

ああ、この人々はバビロンの手先でしかなかったのだと、筆者が心から気づいたのは、彼らと知り合って、もう何年も経ってからのことだった。しかも、そうなるまで、一体、何度、筆者はこの人々に裏切られては売り渡されたか、その回数ははかり知れない。

こうした学習を積まなければ、神に対する貞潔さを守り抜くために何が必要か、人間に対する未練が、神に従う上でどんなに重大な障害物となるか、分からなかったのである。

それに気づくためには、手痛い経験が幾度も必要であった。

キリスト者の歩みは、神の目にどう映るかよりも、人の目にどう映るのかを気にし始めた瞬間に、天から地上に転落する。だが、この移行(天から地への移行・転落)は、本人がほとんど気づかないほど些細な逸脱から始まるのだ。

さて、もう一度、話を戻すと、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり…」
これもまた然りである。

これはクリスチャンの兄弟姉妹だけでなく、筆者の親族についても、ことごとく当てはまる。そのことを筆者は予感するがゆえに、二度と地上の故郷を振り返らないと決意しつつ、地上の故郷を出て来たのである。

だが、筆者にも地上の人間としての記憶があるため、懐かしい記憶から、あるいは人間的な感情から、ふと彼らを振り返ろうとすることが度々あった。だが、その度に、ロトの妻に降りかかったような厄災が、猛烈に降りかかって来るのである。

かなり長い間、筆者はその厄災が何のせいで起きているのか分からず、信仰生活を送りながらも、地上の人間的な絆を維持することができると考えていた。ところが、それも誤りであった。

主イエスのために、父、母、娘、息子、家、田畑、仕事、およそ地上の人間のすべての絆を捨てねばならないというのは、本当のことだ。もちろん、地上的な名誉や地位もそこには含まれている。

もっと言えば、被造物全般への愛着を心の中からかなぐり捨てて、地上の一切の人間や事物への未練を断ち切り、ついには自分自身が地上の人間であることさえ否定して、キリストによって、上から生まれた人間として、完全に異なるアイデンティティを持たねばならないのだ。

「誰でもキリストにあるなら、その人は、新しく造られた者…」

実は、筆者の研究テーマは、この「新しい人間」にこそある。神と出会うまで、筆者はその当時、自分がどこへ導かれているのか、何を目指しているのか、自分で知らなかったが、筆者が最初に研究発表を行った時に語ったのが、この「新しい人間」というテーマについてであった。

つまり、筆者の生涯の研究テーマは、新創造なのである。新創造とは、すなわち、キリストである。

私たちはエクレシアを目指しているのではなく、キリストを目指している。そして、「もはや私が生きているのではない」という境地――、キリストが私を通して生きて下さっているという境地を絶えず目指している。

キリストが、もはや分かちがたいほどに私たちと一つとなって下さり、我々の全てがキリストの性質で覆われることを望んでいるのである。地上にある限り、見た目はただの弱々しく平凡な人間に過ぎないが、それでも、信仰によって、神はすでに信じる者と一つであると力強く約束して下さっているのだ。

「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」

そうなのだ。イスラエルの町々を全部回りきらないうちに、人の子が来ると主イエスは言われたのに、筆者はあまりにも長い間、一つの街にとどまっていた。迫害があっても、なお、出て行くことを考えなかった。何という呆れるほどの気づきの遅さであろうか。

要するに、筆者はとうに別の町へ去るべき時期に来ていたのだが、その事実が今まで見えていなかったのである。そして、今、ある予感が筆者をとらえている。それはかつてあの夫人が筆者に述べた言葉は、来るべき場所にて実現するだろうという予感だ。

聖書は何と言っているだろうか。アブラハムは行き先を知らないまま出て行ったが、その行く先に彼が財産として受け継ぐことになる土地があったと言っている。もちろん、私たちの最終的な財産は天にある。受け継ぐのは天の御国である。しかしながら、そこに行き着くまでの仮の宿としての地上の財産(家)も、神は当然ながら、用意して下さるであろう。

「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ11:8)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、それを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいません神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)

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