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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカによる福音書12:2-3)

さて、この一週間、筆者は示談書の内容を考えながら、ネット上の動きを観察していた。神は私たちに非常に丁寧かつ誠実にすべてを教えて下さる方であるため、私たちがお人好しや、楽観のゆえに、危険な領域に足を踏み入れようとしていても、信仰があって、主に聞く姿勢をきちんと持っているならば、きちんと警告して下さる。

前の記事に書いたように、筆者はすべての行きがかりを帳消しにする用意があったのだが、そういう行き過ぎた行為に及んではならないと、はっきりと示されたものと思う。

それはこの重要な時期に、紛争当事者が関わっていないとも決して言い切ることのできない、大きな疑惑を呼ぶ新たな権利侵害がネット上で続行したためである。
 
人物は特定されていないとはいえ、これは非常に残念なことである。筆者はこの事件についてはそっとしておいてほしいと書いたところであるが、一体、なぜ、ある人々は罪赦されることができるチャンスを自ら踏みにじり、救いが与えられているのに、そこから目を背け、暗闇の中に逃げ込んで行くのであろうか。

こうした権利侵害が今も続いている以上、犯人がきちんと特定されるまでの間は、その手がかりとなる可能性を含む情報を抹消してはならないと分かった。何より、これまで積み上げて来た事実関係を自ら否定するような行為に及ぶべきでない。
 
だが、もともと示談とは、あくまで一定の範囲の出来事について決着をつけるだけのものであって、紛争の永久解決を意味しないから、その範囲が限定されるのも、やむを得ないことである。

交通事故でも、事故後、すぐに示談を結んでも、しばらく経ってから後遺症が発生すれば、その時は別途、対応が必要になる。多くの場合は、後遺症には別途対応する旨が、示談書に予め盛り込まれる。

このように、もともと示談は紛争の永久的解決としての和解とは異なる上、さらに、一般に、クリスチャン生活における戦いの成果は、専有した領域の大きさで決まる。光の子らがもしも退却するならば、その領域は悪の諸霊に明け渡される。もしも私たちが自ら権利を放棄するなら、放棄した部分は、敵対者が占めることになる。

だから、紛争をとにかく早く終わらせたいという人間的な思いだけで、すべてのことが明らかになっていないうちに、事件を終結させたり、重要な証拠を消してしまうようなことをしてはならないのである。そのようなことをしてしまうと、物事が非常に中途半端なままに終わってしまい、本来、明らかにすべきであった結論が出されないまま、歴史的後退が起こってしまう。

当ブログを巡る訴訟では、筆者が人間的な感情に流されて判断を誤らないよう、随所で、天からの警告のようなものがなされて来た。

たとえば、筆者は当初、控訴もせずに、第一審判決で争いを終わらせるつもりだったが、それにも関わらず、判決の確定前に、控訴せざるを得ない新たな事情が出来た。それは筆者の予想を超えた事態であって、筆者自らが紛争の継続を願って起きたことではなかった。

また、控訴審では議論を戦わせることも念頭に置いていたが、それもしてはならないと示され、代わりに一方の紛争当事者との和解協議となった。その和解協議で、筆者は紛争の永久解決を目指すつもりであったが、それも今はしてはならず、踏み越えてはならない限度が明白にあることが示されたのである。

一言で言えば、原審判決は守らねばならないのだが、それが許した範囲を超えて、紛争を終わらせたいがための和解条項を結ぶことは、許されていないと分かったのである。さらに、紛争当事者は、おそらくは筆者の赦し自体も、届くかどうかが分からない場所にいる。赦しや救いを受け取り、和解が成立するような状態ではないということである。

こうした一つ一つの出来事は、筆者が人間的な感情に流されて判断を誤らないように示された天からの警告であると筆者は受け止めている。

前から述べている通り、当ブログはインターネット上で激しい権利侵害を受け続けており、今もそれは続行している。最近の裁判の流れとして、悪質な権利侵害サイトにリンクを貼るだけでも、有罪となる世の中だということを読者には周知しておきたい。そして、ネット上で行われている犯罪行為は、決して放置されているわけではないし、犯人が特定されれば、公表するつもりであることは前々から予告している通りであるから、こうした犯罪行為には、読者は絶対に関わらないように注意されたい。

リンクだけで警察に逮捕されます」(日本表現の自由協会)

「2ちゃん」にリンク貼るだけで名誉毀損 ウソの内容を書き込むのと同じと判断(東京高裁2012年(平成24年)4月18日判決)

筆者は、誰も罰せられることを望んでおらず、罪を犯した人にも、悔い改めて、罪赦されて、人生をやり直して歩き出して欲しい・・・と願っている。

それは嘘ではなく、どんな人間が相手であっても、筆者は自ら紛争を拡大したいとか、長引かせたいなどとは微塵も願わない。だが、そのことと、今もインターネット上で続いている犯罪行為の全容を明らかにすることは、全く別の話なのであって、今回の訴訟でも、本来の目的は、これらの権利侵害の全容を解明することにあった。

その目的がまだ果たされていないうちに、浅はかな楽観に基づき、今後、その究明の妨げとなるようなことを自らしてはいけないし、するわけにもいかない、ということが、今回、示されたのである。

だが、これも主の采配である。おそらく、こうした事態が起きなければ、筆者は楽観に基づいて、紛争は解決したものとして、踏み越えてはならない境界をあっさり踏み越えていたかも知れない。

残念なことであるが、筆者がどんなに赦したいと願っても、筆者の思いだけでは、事は成らず、相手が罪を悔い改めてもいないのに、筆者がその罪を赦すこともできないし、相手が守らない約束を、筆者だけが結ぶこともできない。片方だけがどんなに願っても、それによって最終的な和解が成立するわけでもないし、感情的な行きがかりを決着させることと、事実を明らかにすることは異なる。
  
しかし、繰り返すが、このような展開になっていることにも、神の深い采配が働いているのであって、冒頭に挙げたとおり、神は物事を明らかにされる方であって、隠す方ではない。今後、ますます事の真相は明らかになる方向へ向かうのであり、すでに明らかになっている事柄については、やはりきちんと公に記録に残しておかねばならないのであって、筆者の人間的な思いだけで、これを白紙撤回するわけにはいかないのである。

死に至るまで、キリストの復活の証人であり続けるとは、おそらくそういうことなのであろう。私たちの灯は、公然と街の上に掲げておかねばならない。それを隠すなら、証には意味がなくなってしまう。

迫害されたから、権利侵害に及ばれたから、紛争から早く解放されたいから、あるいは、提訴するとか、告訴するなどと脅されたから、そそくさと事実を闇に葬り、隠れたところで取引したり、公然と証言したことを撤回するというのでは、私たちの証は力を失ってしまう。

そういうわけで、今回の教訓は重く、おそらくは罪の赦しが相手に届かないことをよく物語っているように思う。この訴訟に提出された記録も、早晩、きちんと整理し公表することが、必要不可欠になるものと考えている。紛争を激化させるためではなく、何が行われたのか、事実を明らかに記録しておくため、そして、それに基づき、今後も、何が起きるかを記録して行くためである。

ところで、私たちは、兄弟姉妹を引き裂き、互いに対立させ、教会を分裂させようとする目に見えない力が働いていることに注意しなければならない。

筆者はかつて横浜である牧師が率いていた集会においても、敵の様々な陰謀工作が働いて、中傷が横行し、集会が分裂に追い込まれ、兄弟姉妹が互いに信頼を保てなくなり、牧師と筆者とを互いを引き離し、集会をバラバラにする作戦が功を奏するところを見せられた。

その結果、牧師は筆者に対して罪を犯すこととなり、筆者もその牧師の考えには全く共感できなくなり、その後、集会そのものが異端化するという事態が起き、我々は全く無関係となっているが、そうなるまでに、教会の破壊を試みた敵の分裂工作がいかに卑劣かつ巧みであったかは、今となっては十分に理解している。

その時のみならず、現在になっても、この牧師も、筆者も、誰も依頼もしていないのに、事件に全く無関係な者が、この牧師と筆者を何とかして対立させて、公の場所で対決させ、かつて兄弟姉妹だった人々が、いがみあい、教会が分裂する有様を、見世物にしようと願って、様々な情報をばらまいている。

その勢力が、今も自分は姿を隠して、様々な事件に介入し、当事者になりすましたり、その代弁者になることで、実生活においても、兄弟同士の争いを激化させ、インターネット上にも、人々の争いを煽る情報をひたすら投稿し続けているのである。

このような形で、人々の「代理人」になろうとし、他者の思いをあたかも代弁するかのように見せかけながら、クリスチャンの紛争や対立を煽り、徐々に人々の存在を乗っ取り、その相手を貶めて行くことが、この勢力のかねてよりの常套手段であったことに注意を向けたい。

むろん、こうした行為を行っているのが誰であるのかは、現時点では特定されていないが、彼らのやり方は常に同じであるから、その行動パターンの中に、彼らの本質的な特徴がよく表れていると言えよう。
 
彼らは、人々の許可がないのに、勝手に他者の代弁者となったり、権限もなく、他者の争いに介入することで、争いの火に油を注ぎ、兄弟同士をいがみあわせ、対立を修復不可能なまでに押し広げ、教会を分裂させるのである。

その上、クリスチャンを公開裁判の場に引きずり出し、できるならばそこで有罪宣告を受けるよう仕向け、教会が立ち直り不可能な打撃を受け、まことの主を信じるクリスチャンが孤立し、兄弟姉妹を通じて命を受けられなくなるようにし、神の花嫁たる教会を辱めて、神ご自身が損失を受けられるように仕向けることを目的にしている。

私たちを分裂させ、互いに敵対させようと、陰から争いの火に油を注いでいる存在が確固としてあることに、まず気づかねばならないのである。
 
だが、筆者は、そのように、自分は名を隠して、陰から人々の対立や争いを煽り立てている人物こそ、存在を暴かれ、名を公開され、裁判にかけられ、損害賠償請求を行われるに最もふさわしい者であると考えている。

自分は正体を隠したまま、他者になりすましたり、頼まれてもいないのに、自分には無関係の争い事に次々と介入・干渉しては、兄弟姉妹の対立を激化するために、火種をふりまくような者は、断じて裁かれねばならない。たとえその者が刑事罰を受けて、監獄の向こうに行くようなことがあっても、筆者は追及をあきらめるつもりはないことも、断っておきたい。

だから、このような問題が進行中である事情を考えると、なおさらのこと、今、証拠となる情報を消し去ってしまうような愚かで浅はかな約束を結ぶことはできないのである。
 
何とかしてクリスチャンを中世のような見世物裁判に引きずり出しては互いに争わせようとする人々がいることを分かっていながら、その脅しに屈するわけには行かない。かえって、こういう人々の名を特定し、その所業を公表し、彼らを排除し、報いを受けさせることによって、初めて教会は平和を取り戻せる。

それによって、誰がクリスチャンを最も憎んでいるのか、誰が匿名に隠れて、兄弟同士の対立を煽って来たのか、誰が教会に最も大きな打撃を加えて来たのか、世間の前にはっきり証明できるだろう。それは筆者では断じてないのである。

そういう意味で、現在の筆者は、かつてとは様々な点で異なっている。新しい人たちが筆者の周りに現れたおかげだ。もしも時を遡ってやり直せるなら、多分、あの時、こういう言葉で助言はしなかった、ああいう風に伝えただろう、などと思うことはたくさんある。

だが、以前と何より異なっているのは、真心から仕えて構わないと思うリーダーに出会ったことだろう。人を陥れたり、欺いたり、策略を弄しない、約束を守る謙虚なリーダーに出会ったことである。それによって、権威に服従することは、何ら困難ではなく、私たちは権威者に対してもの申すとき、王妃エステルが王の前に命をかけて進言したように、命がけでなければならないことが、よく理解出来るようになった。

私たちは、権威者が誤った道に逸れかけているときは、適宜、忠告せねばならないが、それはあくまで権威への服従の中で行われるべきことであって、忠告に名を借りて、秩序を覆すことが求められているわけではない。その服従とは何であるのか、どのようにすれば、敵の策略に翻弄されずに、信頼関係をつなぎとめることができるのか、様々な場面で、筆者は学ばされている。

以前から、筆者には(霊的な意味において)関節をつなぐ力があると書いて来たが、切れかけた絆も、完全な断絶に至っていないうちは、修復できる。弱った部位に命の息吹を注ぎ込み、傷を丹念に修復し、体が一体性を保って、健全かつ敏捷に機能するようになるまで、ひたすら命を吹き込み続け、回復をはかる。

王妃エステルは、ユダヤ人たちが絶滅を命じられることで、体(宮)としての教会が消滅しないで済むよう、彼らを不当な命令から救うために、命がけで、王に進言をする役割を担った。そのために、彼女は十字架の死を通る必要があったのであり、私たちが今日、何かをリーダーに本気で進言するときには、必ず、命がけと言っても良い服従のプロセスが必要となる。それがあって初めて、忠告は功を奏し、団体の滅びが押しとどめられるのであって、敵のあらゆる分裂工作は、私たちがそれを乗り越えて信頼を維持することを学ぶための戦いなのである。
 
そのようにして、激しい戦いの中で、互いの信頼関係を確固として維持し、互いに守り合い、弱った部位には命を吹き込み、回復されるべきは、兄弟姉妹と呼ばれる人々であって、兄弟たちを分裂に追い込む者ではない。

そういう意味で、憐れみを注ぐべき対象を見誤ってはならないのであり、当ブログを巡る訴訟は、教会に対する迫害が完全に終わらない限り、本当の意味では決着を見ないのであるから、やはり過去に起きた事実を白紙撤回するなどということはできないのである。

この先、控訴取り下げが行われたり、示談が結ばれたからと言って、ネット上でクリスチャンの争いを煽っている勢力に対する追及が終わるわけではなく、控訴審で取りこぼした課題も、それとは別に、これから解決を図らねばならないのであって、決着が着いたと言える日はまだ来ていない。

そういうわけで、今、越えようとしているステップは、ほんのわずかな一歩でしかなく、筆者にはこれからまだ解決せねばならない多くの仕事が残っている。
  
王妃エステルは、命がけで王の前に立つことで、ユダヤ人を絶滅から救っただけではなく、ハマンの処刑に貢献したことを、忘れるわけにはいかない。兄弟たちを分裂させ、主の民に滅びを願うような者は、相応の報いを受けねばならない。たとえ兄弟姉妹の絆が断ち切れて、もはや修復不可能になっているように見える場合にも、それは同じである。

だから、筆者にとって極めて重要であった聖徒の交わりをかく乱し、破壊し続けて来た者どもには、しかるべき報いを受けさせねばならない。そのために、暗闇で行われて来たことを明るみに出すことが、今後は最も先決の課題となる。必ず、その者は最後に存在を暴かれ、裁かれることになるため、くれぐれも読者はそうした犯罪行為に加担されないよう注意されたい。

* * *

<補足>

ところで、刑事事件においては、証拠の有無のみならず、被害者が犯人の処罰を求める感情がどれくらい強いのかも、ものを言う。そこで、示談というのは、刑事事件における罪を軽くすることにも貢献できるかも知れない非常に重要な手続きだったわけである。

筆者はこれについても、考えていたところであった。そのようなタイミングで、円滑な紛争解決や温情が注がれる余地を排除するような新たな権利侵害事件が起きたことは、非常に運命的かつ予表的な出来事であると筆者は思っている。もしも救われるべき人間を相手にしているならば、このようなことは決して起きないからだ。

示談が成立していなければ、訴えられた人間には、刑事事件を有利に運ぶ強力な材料がなくなるが、示談後にも、同様の権利侵害を行っていた事実が発覚するとか、再犯したなどの事実が加われば、それも非常に悪い印象を残すことになる。

これまで当ブログを巡る事件において、筆者は相手方のために、何度も、何度も、猶予をもうけて来たが、その温情も猶予も、紛争を有効に終わらせるために機能したことが一度もなく、かえってこじらせるために悪用されて来た経緯がある。そのことを考えても、やはり、罪赦されるチャンスがいくらでもあるのに、罪赦されることを自ら拒んで、自ら救いから遠ざかって行く人間というものも、この世には存在するのではないかという気がしてならない。

訴訟に関する記録は、いつかはまとめて公表せねばならないと考えて来たが、紛争を拡大しないために、今までこれを控えて来た。示談成立がないような場合には、やむをえないので、ただちに公開し、別訴を提起するなどして、対策を講じねばならない。

なぜなら、紛争のもう一方の相手方が筆者を告訴したなどと言っている以上、筆者も安全策を講じる必要があるためだ。しかし、そうすると、筆者を刑事告訴したとしている牧師の名も、当然ながら本人の書面により全国に向けて明らかになる。果たして信徒を告訴する牧師のもとへ行きたいと願う信徒がいるのかどうか、甚だ疑問である。

しかも、その牧師が、一審ではブログ記事をすべて削除して和解すると言っていたのに、途中で態度を翻したことも、本人の書面を通して明らかになり、なおかつ、当ブログの著作者人格権を侵害した事実があることや、当事者からの依頼もないのに、他者のプライバシーを侵害する記事をブログに多数、掲載している行為が、明らかに、不法行為に当たることも明白となる。

このように、他者の代理人となって紛争に介入することは、筆者の目から見ると、非常に怖いことなのである。今までにもこの人は、多くの事件に資格なく干渉を繰り返して来たわけであるが、それでも、その当時、それは誰かの依頼を受けてやっていることであったため、他者の権利を守るという大義名分がついていた。

だからこそ、筆者は、その人は他の牧師から依頼(提携)を受けて、非公開の資料を公にするようなブログ記事の公開に踏み切ったのだろうと考えていたが、その牧師は、そんな提携はない、それは筆者の考え違いであると嘲笑った。そして、本人の言によると、実は、その牧師は、誰からの正式な依頼も受けていないのに、勝手に他者の代理人になって、他者のプライバシー権を暴き、自分とは無関係の紛争に介入したことが、本人の書面の内容から、明らかとなった。これは極めてまずいことである。

捜査機関が、誰からの依頼もないのに、独自に動き出し、人々の身辺調査を秘密裏にやり出したら、どうなるだろうか。しかも、自分たちの機関に逆らった人々の情報を秘密裏に集めて勝手に公表するようなことをすれば・・・?そうした懸念があることを、ずっと前から筆者は訴え続けて来たのであるが、相当にそれに近いところまで現実が追いついていることが発覚したのである。もはや「代理人」や「相談役」という肩書さえかなぐり捨てて、他人の名を勝手に使って、縦横無尽に争いに介入するところまで来てしまったのであり、その次なるステップとして残るのは、あからさまな「なりすまし」のみ・・・。

よく考えてもみられたい、一体、誰が頼まれてもいない他者の代理人に勝手になって、他者の人物像を勝手に「創作」などしているのであろうか? 誰が他者の名を使って、クリスチャン同士の対立の火に油を注ぎ、教会を分裂させ続けて来たのか?

筆者が訴えて来たのは、そうした「なりすまし」の目的は、教会の簒奪にあるということ、すなわち、聖なる者でない者が、聖なる者の名を詐称して、自分には手に入れられない高みにある宝を奪い取り、これを破壊し、最終的には、教会を乗っ取ることで簒奪し、神ご自身を簒奪することにあるということである。

クリスチャンの名や存在を簒奪することは、聖なる神の教会を簒奪することを意味し、花嫁なる教会の簒奪は、花婿なるキリストの簒奪・蹂躙を意味する。本物を駆逐・破壊して、偽物だけを残すこと。これが異端の目的なのであり、実は異端狩りに熱中している人たちこそ、最も教会を簒奪・破壊している危険な存在なのである。

そのことを、当ブログでは再三再四、主張して来たのだが、それがついに誰の目にも明白になるほどまでに客観的に明らかになろうとしているのが現在である。

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主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

これは知恵と諭しをわきまえ
分別ある言葉を理解するため

諭しを受け入れて
正義と裁きと公平に目覚めるため。

未熟な者に熟慮を教え
若者に知識と慎重さを与えるため。

これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え
聡明な人も指導力を増すであろう。

また、格言、寓話
賢人らの言葉と謎を理解するため。

主を畏れることは知恵の初め。
無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

わが子よ、父の諭しに聞き従え。
母の教えをおろそかにするな。

それらは頭に戴く優雅な冠
首にかける飾りとなる。

わが子よ ならず者があなたを誘惑しても
くみしてはならない。

彼らはこう言うだろう。

一緒に来い。待ち伏せして、血を流してやろう。
罪もない者をだれかれかまわず隠れて待ち
陰府のように、生きながらひと呑みにし
丸呑みにして、墓穴に沈めてやろう。

金目の物は何ひとつ見落とさず
奪った物で家をいっぱいにしよう。
我々と運命を共にせよ。
財布もひとつにしようではないか。」

わが子よ
彼らの道を共に歩いてはならない。
その道に足を踏み入れるな。

彼らの足は悪事に向かって走り
流血をたくらんで急ぐ。

翼あるものは見ている。
網を仕掛けるのは徒労だ。

待ち伏せて流すのは自分の血。
隠れて待っても、落とすのは自分の命。

これが不当な利益を求める者の末路。
奪われるのは自分の命だ。

知恵は巷に呼ばわり
広場に声をあげる。

雑踏の街角で呼びかけ
城門の脇の通路で語りかける。

「いつまで
浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち
不遜な者は不遜であることを好み
愚か者は知ることをいとうのか。

立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら
見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ
わたしの言葉を示そう。

しかし、わたしが呼びかけても拒み
手を伸べても意に介せず

わたしの勧めをことごとくなおざりにし
懲らしめを受け入れないなら

あなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い
恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。

恐怖が嵐のように襲い
災いがつむじ風のように起こり
苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。

そのときになって
彼らがわたしを呼んでもわたしは答えず
捜し求めても
わたしを見いだすことはできない。

彼らは知ることをいとい
主を畏れることを選ばず
わたしの勧めに従わず
懲らしめをすべてないがしろにした。

だから、自分たちの道が結んだ実を食べ
自分たちの意見に飽き足りるがよい。

浅はかな者は座して死に至り
愚か者は無為の内に滅びる。

わたしに聞き従う人は確かな住まいを得
災難を恐れることなく平穏に暮らす。 」(箴言第一章)

* * *

当ブログが始まった頃から述べて来たスローガンの一つに、「主を畏れることは知識の初め」という箴言1:7の御言葉がある。

この御言葉は、裏を返せば、「主を畏れないことは精神崩壊の始まり」となる。

あらゆる異端思想は、必ず、聖書の御言葉を歪曲するものであり、そのようにして御言葉を曲げ、これに逆らった人は、必ず、知性を狂わされ、精神の正常性を保てなくなり、やがては破滅に落ち込んで行った。

そのことが、今日、インターネットで、当ブログに敵対・挑戦して来た人々の人生において、確実に証明されつつあると言えよう。

ある人々は、かねてより、当ブログの主張を精神異常の産物であるかのように声高に非難して来たが、今日、そのような人々が、いかなる犯罪行為に手を染めているかを見れば、彼らがすでに正常な思考を狂わされてしまっていることは、誰の目にも明白である。

もしも彼らの非難している対象が、当ブログだけであったならば、そのような結果にはならなかったに違いない。だが、彼らは、当ブログを非難する際に、当ブログの背後に存在する聖書の御言葉につまずいた。それだからこそ、これらの人々はこのようにまで健全な思考を失って、犯罪行為にまで手を染めるに至ったのである。

私たちのまことの命は、御言葉なるお方であるキリストただお一人である。この方が私たちのすべてのすべてであり、生きるために必要なすべてを供給して下さる方である。

御言葉は、私たちの安全を確保するための最強の装甲であり、堅固な砦である。その外に出れば、私たちの命も、平安も、安全も、無事に保たれるものは何もない。

そこで、御言葉にあからさまに躓いた人々の結末は、とても悲惨なものとなる。彼らは、ただ信仰を失うだけでは済まされず、世人よりもはるかに悪い罪人となって、人生を破滅で終えることになる。そのような例に倣ってはいけない。

さて、当ブログでは、先週も掲示板で行われた犯罪行為について、警察署に告訴状を提出したばかりだが、本日も、ちょうど新たな分厚い告訴状を追加で警察署に送ったところである。これも週が明ければ間もなく受理されるだろう。

掲示板における犯罪的なコメントは、すでに30件以上、告訴対象に含まれている。著作権侵害だけでこれであるから、その他の罪状を含めれば、被告訴人の数は50名以上には達するものと見られる(同一犯の可能性はあるが)。

これが、当ブログの信仰の証しを、精神異常の産物であるかのように、非難し続けた人々の末路である。彼らは、自分たちの行っている行為が、犯罪であるという認識さえも失っているが、そのような事態は恐るべきことであり、彼らが当ブログに投げつけた精神異常との悪罵の言葉が、まさに彼ら自身に跳ね返ったことをよく表している。

筆者はこの犯罪ネットワークの全容を解明するために、これから約1年間ほどの月日が必要であろうと考え、そのために必要な時間と労力を提供するつもりでいる。警察署にも、犯罪行為が完全に終了するまでの間、随時、告訴状を追加で提出する旨を説明し、了承を得ている。

筆者は、ただ当ブログに対する権利侵害を明らかにするという以上に、こうした仕事は誰かが必ずせねばならないことだと考えている。
 
今回の裁判では、この犯罪ネットワークは、まだ全容が解明されていないうちに、判決を迎えることになる。だが、ちょうど裁判の終結間近に、掲示板における犯罪行為がここまで大々的に明るみに出て、誰もの目に触れたことには、非常に意義があったと言えるだろう。

おそらく暗闇の勢力は、判決言い渡し直前の「駆け込み」として権利侵害に及んだのかも知れないが、残念ながら、そうした行為によって、筆者が不利になることもなければ、筆者が信仰の証しをやめることもない。かえって、筆者が本訴訟において訴えていた事実が、ますます裏づけられるだけである。

さて、先の記事で、筆者は、今回の裁判を、非常に良心的で、事件に深い理解のある裁判官が担当してくれた旨を感謝しつつ書いた。これは主の采配である。被告らにとっても、裁判官が相当な努力を払って進めていた電話会議の様子はまだ記憶に新しく、おそらく、裁判所のすべての関係者の誰一人として、悪印象を与えなかったろうと思う。

だが、万が一、被告らがこれらの人々の労にあだで報い、これから言い渡される判決に不服を覚え、控訴などを考えるならば、当ブログでは、その際には、これまで被告らが送付して来たすべての書面をただちに公開する用意があることを改めて断っておく。

これまで当ブログで被告らの書面を公開しなかったのは、裁判官が静かに判決を考える邪魔をしたくなかったからであり、世論の風を味方につけることで、有利な判決を得ようとするような真似をしたくなかったためだ。(筆者は支持者の数によって有利な判決を得ようとは全く願っていない。)

だが、判決が言い渡されれば、被告らの書面の公開の妨げになるものは何もない。

さらに、もしも被告らが良心的な裁判官の公平な判決に不服を覚えて、一信徒を控訴審に引きずり出したいなどと考えるならば、被告らの活動は、完全に世間の理解を失って一貫の終わりとなるだろうと断っておく。

なぜなら、もしもどこかの牧師が、自分のところへ相談にやって来た一信徒を、ブログで批判されたからと言って、10年間もの間、インターネットで名指しでバッシングしただけでは飽き足らず、控訴審(場合によっては最高裁)まで引きずり出して争おうとするならば――そんな牧師の説教を、誰も聞きたいとは願わないであろうし、そんな恐ろしい牧師のもとに、身の上相談に行く信徒は、絶えていなくなることは明白だからだ。

被告らはかねてより、控訴審に争いが持ち込まれた場合には、弁護士に依頼すると予告していたが、そうなった場合には、弁護士費用は三桁に達する可能性もあり、一審と違って、冷酷無慈悲な裁判官が事件を担当して、訴えが棄却されれば、その費用はまさにドブに捨てることになるだろう。

また、控訴すれば、その間に、刑事事件の捜査も進展し、取り調べも進行するであろうし、掲示板において現在、おびただしく行われている犯罪行為への関与なども疑われたりすれば、さらに罪状も増える可能性がないとは言えない。

このように、控訴は誰にとっても何のメリットもなく、今回は、良心的な裁判官が、奇跡的なスケジュール上の都合で、最初から一年以外に判決の言い渡しを予定してくれていたことは、当事者の誰もにとって、極めて幸いな出来事なのだということを関係者は心に刻みつけるべきである。

特に、当ブログに対して行われた権利侵害が、約10年間の長きにも渡っている事実や、今回、原告側から提出された書面の尋常ならぬ膨大な分量を裁判官が考慮する手間、そして、あらゆる訴訟は一年以上長引くことが決して珍しくないなどの事情を考慮すれば、当ブログを巡る訴訟が、一年にも達しないうちに終了することは、まさに奇跡的とも言える幸運なのだということを、当事者はよくよく覚えておく必要があろう。

原告側には、事件の全容が解明されていないうちに審理を終結することに、デメリットがないわけではない。しかし、筆者は、この訴訟においては、努力の限りを尽くして、すべての論証作業を終えたと考えており、何一つ思い残すことなく、その上、神の憐れみに満ちた采配が大いに働いて、信仰を証しするチャンスも与えられたことに、とても満足している。

このように、一切の心残りなく、判決を迎えられることは、この上ない幸いであって、筆者は裁判官を信頼しており、不服を述べるつもりは一切なく、今、自分自身も判決に服する一人として、厳粛な気持ちで、深く頭を垂れるのみである。

今回の事件を通じて、神が信じる者にとって、どれほど憐れみ深い方で、真実で公正な方であるか、そして、地上においても、公正な裁きを見せて下さるか、それを多くの人々が知ることができればと筆者は願っている。

また、悪者にはしたたかな報いがあることが、明らかにされるべきだと筆者は考えている。

筆者はこれまで、悪者に懲罰を加えることや、強制的な判決によって、人の心を縛ることに大きな躊躇があった。

だが、その躊躇が、事態の一層の深刻化を招いた事実や、それから現在に至るまで、当ブログに対する尽きせぬ憎悪を持つ人々が、これほど執拗かつ激しい権利侵害を繰り返しているのを目にし、筆者は、考えを変えざるを得なくなった。すなわち、信仰を捨てた人々の中には、まるで騾馬のごとく、轡をかけられる以外の方法では、決して行動を変えられない人々が存在するのだと思わされたのである。

とはいえ、筆者は決して、自分自身の手で報復しない。ただ正当な法的手段を用いて、悪者への懲罰という仕事は、しかるべき権限をもった人々に委ねるのみである。

信仰を持った人々に対する裁きは、教会の外に持ち出されるべきではないと、筆者は今でも考えている。だが、信者に偽装しながら、御言葉の真実性を否定する人々は、この世によって裁かれても、何の不思議もない。この世のことは、この世が裁くのだから、当然である。

いずれにしても、神は今日も生きておられ、ご自分に頼る人々を決して見捨てられることはないという確固たる事実を、間もなく、多くの人々が知る結果となるだろうことを、筆者は心から確信している。

だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。(1)

「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブ4:7)

「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食いつくそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。

あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へと招いてくださった神ご自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」(Ⅰペテロ5:8-9\10)
 
* * *

主が時間をお与え下さるときは、大抵、何か正しい仕事を果たす必要が迫っている時である。今年に入ってから、当ブログでは、新たな権利侵害による告訴状を作成し、これが受理されたところであるが、事件に関する情報を調べていたところ、改めて某掲示板に、大量の著作権侵害の書き込みがあることを発見し、これも告訴対象に含めることとした。

神は隠れた事柄を明らかにされる方であるから、筆者は、昨年に民事訴訟を提起した時から、当ブログに対して長年に渡り組織的に行われているインターネット犯罪ネットワークの全貌を明らかにしたいと願って来た。

そこで、今回、見つけた投稿も、まさに飛んで火に入る夏の虫とで言うべき、絶好のタイミングであった。これでようやく有名指導者や有名信徒のみならず、無名の信徒に至るまでの犯罪ネットワーク全体を捜査対象に含めることができる段階に入った。
 
著作権侵害は、筆者から見ると、一番、告訴状の作成に手間がかからず、悩む必要のない手続きである。

不正な引用などによる著作財産権の侵害に対する罰則としては、著作権法第119条1項により、十年以下の懲役または一千万円の罰金もしくは両方が科される。法人には、3億円以下の罰金刑が科される(著作権法第124条)。
 
公表されていない著作者の氏名を無断で公表するなどの行為は、著作者人格権の侵害に該当するが、著作者人格権の侵害に対しては、「五年以下の懲役若しくは五百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。」との罰則が定められている(著作権法第119条2項2号)
 
ちなみに、名誉棄損罪に対する罰則は、次の通りである。
「公然と事実を摘示し、人の名誉を損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。」(刑法第230条)

従って、単純に比較するならば、名誉毀損よりも著作権侵害の方が、かなり罰則が重いのであって、掲示板に匿名で「××はバカ」とか「××は〇年〇月に××の犯罪行為をした」などとありもしないコメントを書いて他人を誹謗する罪よりも、誰かが作成した文章をまるごとコピペして出典を示さずに無断で掲載した罪の方が重い処罰を受けるのである。

名誉毀損の場合は、公然と事実を摘示して他者の名誉を毀損したと言える言い回しが必要となり、何が名誉毀損に該当し、何が侮辱罪に該当するかなどで議論が分かれる可能性があるが、著作権侵害は、オリジナルと偽物が対比できれば、犯罪事実の立証ができ、問責される余地が少なく、煩わしさが少ないのである

当ブログで、初めて刑事告訴が受理されたことを読者に告げたのは、昨年のことであるが、それから今まで、被告訴人らしき人間が逮捕されるなどの明白な現象が起きていないことを理由に、このニュースは嘘だと考えたい人々があるようであるが、刑事告訴が受理されてから、捜査が完了し、検察に送致されるまでの間、どのくらいの時間がかかるかという疑問については、やや少し前のデータにはなるが、とある弁護士のオフィシャルサイトに掲載されている平成29年4月25日の法務委員会の民法改正の審議の模様などを参考にされたい。

この審議においては、知能犯罪の刑事告訴が受理されてから、捜査が終了して検察に送致されるまでの間に、どのくらいの期間がかかっているかが質問された。

「配付資料二のとおり、知能犯罪の刑事告訴の件数はおおむね横ばいとなっていることなんですが、御答弁のとおり、検察官への送付までに要した期間としては、一年未満の件数と捉えても全体の約六割にとどまっているということで、やはり通達の趣旨、方針から離れて長期化している印象を受けます。」

この指摘を通しても分かることであるが、知能犯罪の刑事事件を受理すれば、司法警察員は、これを迅速に検察官に送付しなければならないことが義務づけられているとはいえ、実際には、刑事事件の一般的な処理スピードは、方針通りではなく、事件の内容によっても、かかる速度はまちまちなのである。

2017年に提示されたデータによると、知能犯罪の刑事告訴のうち、一年未満に捜査が終了して検察官へ送付されたものは、全体の6割程度でしかなかったことは、以上の審議において、政府参考人が、「これらの合計すなわち約六〇%が一年未満で処理されておりますけれども、一方、受理後一年以上二年未満で処理したものが約一九%、二年以上処理に要したものが約二二%となっている状況でございます。」と答弁している通りである。中には二年以上の月日を要したものも存在することが分かる。

このように、結局のところ、刑事事件が処理されるスピードについては、迅速な処理が期待されているとはいえ、一般的な目安を告げることは誰にもできず、事件の内容によって異なるとしか言いようのない部分があり、それにも関わらず、もしも当ブログの告訴において被告訴人とされた者たちが、捜査状況が明らかになっていないことを理由に、恐れることはないと高をくくっているとすれば、 「その日」は、突然、盗人のようにやって来るという以下の御言葉をそろそろ思い出す頃合いであろう。
 
終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」<略>

ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を送らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで作り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。」(Ⅱペテロ3:3-12)
  
捜査上の秘密は、当事者にさえも、つまびらかにされない。従って、まことに残念であるが、当ブログは、この先も、被告訴人らに対して、いかなる心の準備のための予告もすることはできない。
 
当ブログの内容を無断で転載するなどして、被告訴人となった者たちには、これからも警察と裁判所が有益な働きができるよう、国庫に十分なお金を納めていただくことになろう。昨今、著作権侵害は厳罰化されつつある傾向にあるため、去年に比べ、罰金額が増える可能性も考えられないことではない。
 
さらに、当ブログがペンネームで運営されていることを何の法的根拠もなく許せないと考えるこれらの御仁には、自らの信念に忠実に従い、犯罪事実と共に実名をさらされ、賠償の義務を負いつつ、残る余生を送ることを覚悟していただくのみである。
 
かくて、悪事は国家および市民の重要な資金源となるものであるから、これを見逃す手はない。悪魔からは最後の靴下一枚、最後の毛糸一本まではぎとることが実際に可能なのであり、それくらいの覚悟を固めて、我々は暗闇の勢力と向き合うべきである。

そのようなことが実際に可能なのだと知れば、虐げられた者たちはさぞかし勇気と希望を取り戻すことであろう。

* * *

さらに、筆者が前の記事で、今日の時代、神がキリストの十字架により罪を贖われたクリスチャンが、法廷で訴えられて被告とされるなど、あり得ないことであり、それ自体が、信仰的な敗北を意味すると書いたところ、これに対し、霊的に盲目な反逆の子らが、殉教者の名を持ち出して、愚かしい反駁をしているようなので、そのことについても一言述べておきたい。

使徒パウロや、イエスの十二弟子などが生きていた初代教会の時代は、ギリシア神話を取り込んで建国の理念としたローマ帝国の支配下の時代であった。

従って、初代教会に起きたキリスト教徒の迫害と殉教は、非キリスト教的・異教的な国家権力の存在を背景にのみ、成り立つものであった。秀吉の時代に殉教したキリシタンなどについても、同じことが当てはまる。

しかし、現在の日本国は、いかなる宗教神話をも、建国の理念としておらず、我々は憲法によって、信教の自由を保障されている。

従って、現代のクリスチャンとこの世の国家権力が、信仰的観点から見て、真っ向から対立しているという事実は存在しない(ただし、現代社会においても、一部の全体主義国、共産主義国などでは、これとは異なる状況がある)。

そこで、今日の我々日本のクリスチャンは、憲法を最高法規とする法体系によって、十分に身を守ことが可能なのであり、司法はその点で、我々の味方であり、我々自身も、法に服する存在である。

聖書には、クリスチャンが迫害を受けることについて、次のような記述がある。

「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。 また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。

引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない 。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。

兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」 (マタイによる福音書 10:16-23)

 
ここで「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」と書かれているのは、使徒たちの生きていた時代、ローマ帝国下の地方法院で、実際に彼らに対する鞭打ちが行われたことを指しているが、こうして彼らが罰せられたのも、ローマ帝国の公認宗教の側から見て、初期のキリスト教が異端視されていたという事情があるためである。
 
他方、今日の日本国憲法下では、キリスト教が異端視される根拠自体が存在しない。従って、それにも関わらず、誰かが、以上のような御言葉を口実に、異教的国家権力の統治時代と、我々の時代を同列に引き比べ、パウロやペテロのような使徒たちが処罰され、殉教しているから、現代のクリスチャンも、法廷に引きずり出されて、被告として訴えられ、(まして)処罰されて当然だと唱えるならば、そのような主張は、まさにあり得ないナンセンスな議論だと言えよう。

むしろ、事実はそれとは逆であり、現存する憲法下において、キリスト者が被告として訴えられることは、その者が憲法に保障された信教の自由を否定し、基本的人権を否定するなどして、法の精神を踏みにじり、敵に回したという嫌疑を受けることに他ならず、そうした嫌疑をかけられること自体が、クリスチャンの名折れである。現代の法の精神は、決して我々の信じるところの聖書と真っ向から対立するものではないからである。

さらに、霊的に盲目な人々は、よく目を開いて聖書を読めば良いが、聖書の中に、使徒たちの殉教した様子を表す記述は、全く書かれていない。ステパノは使徒ではなく、さらにステパノの殉教を扇動したのも、ユダヤ人たちであって、国家権力ではなかった。

このように、使徒たちは実際に殉教したにも関わらず、聖書にその記述がなく、ローマ帝国の支配下で、国家権力がキリスト教を公的に弾圧したがために、大規模な迫害が起きたという事実が聖書に記述されていないことには、極めて重要な意義があると考えられる。

筆者の目から見れば、それは、クリスチャンの殉教は、極めて個人的な十字架の道であり、各時代によっても、殉教に至るまでの背景や、その理由、形態が、すべて異なり、定式というものが存在しないためである。

さらに、もっと重要な事実として、聖書においては、国家権力が根本的に悪であって、キリスト教の理念と真っ向から対立するものであるという考えは、どこにも述べられていない。

むしろ、聖書では、人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は、自分の身に裁きを招くでしょう。」(ローマ13:1-2)と記されている通り、およそすべての権威が、根本的に、神に由来するものであるから、権威に対する反逆は、神の定めに背くことに通じるという重要な事実が述べられている。

(このことについては、愚かしい混同を招く浅はかな議論は禁物であるため、あえて書いておきたい。私たちが、あれやこれやの政治家の腐敗を糾弾することは、何ら権威を否定することを意味しない。政治家の汚職や腐敗を監視し、これを指摘し、非難することは、国民の義務と言えるのであり、それをしたからと言って、権威に逆らったことには全くならない。私たちは時の首相を含め、いくらでも政治家を批判することができるし、大いにそうすべきである。個人の政治家と、国家は同一のものではないからである。

しかしながら、世界の思想の中には、マルクス主義のように、国家権力そのものを根本的に悪とみなしてこれを打倒することを目指す思想が存在する。このように、革命やクーデターを唱道する思想は、権威そのものを否定し、権威に逆らう思想であると言えよう。

主イエスも、十字架にかかられる前には、その人気のゆえに、ローマ帝国の圧政からユダヤ人を解放する政治指導者になることを、弟子たちから期待されるほどだったのであるが、イエスは決してそのような道を選ばれなかった。)
 
使徒たちも、ローマ帝国の建国神話が嘘であることを知っていたが、世俗の権力によってあらぬ嫌疑をかけられたからと言って、権威に逆らって、世俗の権力の打倒を狙うことはなく、むしろ、当時の法の決定に従って、自ら十字架へ赴いたのであって、そのことによって、彼らが全く権威に反逆しなかったことが証明されている。
 
それでも、もしも今日、聖書の中に、使徒たちが殉教した場面の記述がなされていたとすれば、それを読む者は、殉教とは、国家権力がキリスト教徒を迫害して起きるものなのだと考え、その考えに基づき、使徒たちを弾圧した政治権力そのものに対して憎しみや反感を持ち、これを自分たちの生きている時代に重ねて、自国に対しても反感を持ったことであろう。

しかし、実際には、国家による大規模なクリスチャンの迫害は、いつの時代にも起きうる普遍的現象ではなく、あくまでローマ帝国や、軍国主義下の日本や、社会主義国などの、非キリスト教的、異教的理念を持った国家や、特殊な理念と政治形態の下でのみ起きうる現象であり、使徒たちの殉教も、そうした文脈でのみ成り立ったものなのである。

従って、ローマ帝国下で起きた特殊な時代現象を、あたかも普遍的現象であるかのように拡大して、現代社会においても、あらゆる国家のもとで、クリスチャンが迫害され、殉教するのが当然であるかのように主張している人々は、あまりにも愚かしい誤謬に落ち込んでいるのであって、さらにもっと言えば、そのような思想の根本には、マルクス主義と同じく、国家権力を、根本的に人民(自分自身)に敵対する悪とみなし、これを憎み、その権威を否定する思想が隠されていることを、我々は見抜かなければならないのである。

聖書には、そのようなことは書かれていない。聖書に書かれているのは、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」とか、「わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをする」といったことだけであり、ここでは、迫害する主体が、国家ではなく、むしろ、ごく普通の市井の人々になっていることに注意が必要である。
 
ちょうど今、掲示板で愚かしい騒ぎを繰り広げている匿名コメント者も、権力もなければ、名もない無数の市民たちである。

ユダヤ人たちに扇動されて、キリストを十字架にかけるよう、声高に叫び、ピラトに向かって、強盗を放免する代わりに、キリストを引き渡すよう要求したのも、名もない群衆であったが、このような名もない市民たちが、より集まっては、無実のキリスト教徒を憎み、談義を重ねては、迫害するというのが、いつの時代も、クリスチャンに対する迫害運動の根本的な引き金なのである。

このように、キリスト教徒の殉教というものが、あたかも時代を問わず、いつでも国家権力の側からの弾圧によるものだと考えて、愚かしいステレオタイプに落ち込んでいる人々は、ただ聖書を全く理解していないことを自ら証しているだけでなく、さらにもっと言えば、自分自身が処罰に値する人間であると自ら告白しているだけである。

殉教者の名前を持ち出して、自分があらぬ嫌疑をかけられて法廷に引きずり出されて被告とされることを容認するような思想は、次のステップへ進むと、自分自身への処罰を容認する思想へと発展し、ついには自分が死刑に処されることをも容認する思想へと至り着くことが予想される。
 
しかしながら、近年、我が国で、誤った宗教的信念とそれに基づく行動が原因となって、死刑に処されたのは、キリスト教徒ではなく、カルトの教祖であったことを見ても分かる通り、現代の日本国憲法下において、キリスト教徒を処罰したり、処刑する口実となる法など、どこにも存在しないのである。

むしろ、キリストは、律法の要求をすべて完全に満たして、神の目にいかなる落度もないと認められた聖なる神の独り子であるから、この方の御霊を内にいただいている者が、律法に及ばない現代の法体系によって裁かれる理由などあるはずがない。
 
それにも関わらず、パウロなどの殉教者を引き合いに出すことで、現代日本社会において、自分が法廷で被告とされるだけでなく、法の裁きを受けて処罰されることまでも、当然視かつ容認するような思想を唱える者は、まさに自分で自分を異端者(違反者)として告白し、カルトの教祖と同列に、自分が処罰されて当然の存在であることを告白しているだけなのである。
 
このような発想は、断じてキリスト教に基づくものではない。掲示板で、火あぶりにされたり、磔刑にされた人々の名を引き合いに出しながら、現代キリスト教徒もそのような末路を辿るのが当然であると、世迷言を日々書き連ねている人々は、その違反行為によって、自分自身が処罰されて当然の存在であることを言い表し、その日が来るのを夢見ているだけのことであって、自分の口で告白した通りの結果を身に招くことになろう。

ただし、今日も、キリスト教徒が世から迫害を受けることと、その結果、世俗の権力者および司法の人々の前で証することは、聖書に記されている通り、変わらない事実である。

現に当ブログに関しても、まさにその通りの現象が起きており、筆者が反訴や提訴や刑事告訴の脅しを受けたことは、それ自体が、聖書の預言の成就であり、そうした迫害が起きた結果、筆者がかえって司法および警察の前で、立派に信仰の証しをし、御子の十字架の贖いの確かさや、それを通して得られた完全な身の潔白を公然と証明して、神を誉め讃える結果となっていることも、まさに聖書の御言葉の忠実な再現なのである。

神は正しい方であり、神が御子の十字架を通して私たちにお与え下さった贖いは、永遠に変わらない判決であるから、暗闇の勢力には、これを奪い取ったり、覆したりするいかなる権限もない。彼らにできることは、脅すことだけであって、神の子供たちを手にかける権限はない。こうして、神はご自分の救いの確かさを万人の前に明らかにして下さり、それによって私たちの主に栄光が帰される。
 
* * *

さて、このように、キリスト教の信者を名乗りながらも、掲示板にたむろして、そこで自らの情欲の赴くままに世迷い言を並べては、神の聖なる子らを罵り、嘲ることをよすがとしている連中については、以下の御言葉を思い出さずにいられない。
  
「彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。<略>この者たちは、捕えられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。」(Ⅱペテロ2:10-12)

この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。」(Ⅱペテロ2:17-19)

こうした信者の名にも値しない不良信者の中には、かつてキリスト教会に失望・幻滅して以来、ずっと心の漂流を続け、キリスト教を憎んでいる者たちが多くいるものと見られる。筆者は、こうした信者たちに向かって、二度と教団などの組織や団体に戻らず、ただキリストだけに頼って生きるよう幾度も呼びかけたが、多くの人々がその忠告を無視して、自分だけは何としても一人になりたくないとばかりに、宗教団体に舞い戻って行った。

しかし、彼らは団体に所属していることによっては、全く心満たされず、依然として、神に出会うことも、神を知ることも、神を愛することもできず、救いの確信も得られず、罪の赦しの確信もなく、形式的な礼拝だけは守るものの、いつまで経っても、罪から自由になることもできず、自分たちの指導者にも敬意を払えず、兄弟姉妹との交わりで心満たされることもなく、罪悪感と劣等感でいっぱいになった空っぽの心を抱えて、結局、夜昼となく、掲示板に漂流し、そこで教会や信者たちの悪口を書き連ねて鬱憤を晴らすしかない状態に陥っている。

このような連中に対しては、次の御言葉を提示するだけである。

 
「人は、自分自身を打ち負かした者に服従するものです。わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、その者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。」(Ⅱペテロ2:17-21)
  
彼らが福音を全く知らない者たちであったならば、まだ罪は軽かったであろう。しかし、キリスト者を名乗りながら、以上のような行為に手を染めることにより、彼らはキリストを知らない世人よりも、なお一層、悪の道を転げ落ちていると言えよう。

しかし、腐敗した宗教団体を一旦、エクソダスしながらも、再び、宗教団体に所属することで、団体からの承認を救いと取り替えた人々に対しては、誰に対してであれ、以上の御言葉は、当てはまるものなのである。

たとえば、アッセンブリー教団に失望してこれを離脱して、日本基督教団へ行き、次に日本基督教団にも失望したから、プロテスタントをやめてカトリックへ行く・・・などという形で、団体から団体へと漂流している人々は、筆者の目から見れば、移籍する度毎に、ますます前よりも状態が悪くなって行くだけである。

筆者はアッセンブリー教団の理念に全く賛同しておらず、ペンテコステ運動も支持していないが、少なくとも、聖霊を重視するこの教団が、プロテスタントの中で、御霊の働きを回復するという、最新の信仰回復運動の中にあったというただ一点においては、どうにかこうにかそれなりの役割を担っていたと言えるであろう(だが、今となっては偽物の霊的運動が取って代わったため、その役目も果たせていない)。

そこで、聖霊派の団体につまずいた人々が、より御霊の働きを重視しない、さらに形骸化したプロテスタントの別の教団に移籍したとからと言って、そこには、信仰の後退以外に、起きるものはない。そのようなことをすれば、その者は、いずれ時が来れば、その団体からも去って、より一層、古く、より一層、命の息吹が感じられない、さらに形骸化した団体へと後退して行くことになるだけである。そして、そうなる頃には、すでに信仰の片鱗も見られず、ゲヘナの子と成り果てていることも保証できる。

しかし、もちろんのこと、誤りだと分かった教団に属したままでいることは、さらに致命的な危険であるため、ある宗教団体の理念の虚偽性が分かった時点で、信徒はこれと訣別しなければならない。その後は、聖書の御言葉が告げる通り、人間の指導者によらず、御霊に直接、教わって生きて行くべきである。

「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではなりません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:27-27)
  
我々は、何が真実な御霊の働きであり、何がそうでないかを、見わけねばならない(Ⅰヨハネ4:1)が、聖書の御言葉を守り、信仰によってこれを実際として生きるに当たり、聖霊の働きを無視することは、致命的な危険と誤りであることを知るべきである。

御霊は、キリストの死と復活を経たまことの命である以上、その働きをないがしろにして、クリスチャン生活は成り立たない。

従って、今日の信者のせねばならないことは、どこかの教団教派につまずいたからと言って、時代を遡って、より古く形骸化した団体に逆戻ることではなく、聖書の御言葉に基づいて、真実な聖霊の働きを飽くことなく求め続けることにあり、私たちは常に、より前衛的でより革新的な真実な命の現れのある信仰回復運動を追い求めて行く必要がある。

とはいえ、前から書いている通り、今日における「より前衛的で革新的な信仰回復運動」は、決してこれまでのような大規模な大衆運動の形を取らないことであろう。

当ブログで、再三再四、引用して来たオースチンスパークスの論説「私たちのいのちなるキリスト」にも、次のようにある通りである。

「聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、キリストの復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望や幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、主だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

「教え、伝統、制度、運動、人などの何かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱や幻滅が生じ、おそらくさらに悪いことになるでしょう。」

時代が終末に向かって進むに連れて、目に見えるもの、「物、人、運動、制度、組織」などは、反キリストの統治手段として利用されて行く。それらのものに付随している「教え、伝統、制度、運動、指導者」なども同じであって、そこに自分を当てはめようとすることが、今や反キリストの原則に身を委ねることを意味する時代が到来しつつあるのだと言える。

組織や事物や指導者に束縛されることが、まことの命なるキリストの御霊の働きを制限するか、もしくはこれに悪質に敵対するものとなることが、今日、明白に証明されつつあるのだと言えよう。

従って、今から約10年ほど前に、宗教団体をエクソダスせよという主張が登場して来たのは偶然ではなく、これらの目に見えるものを離れなければ、純粋かつ正しい信仰を守れない時代が到来しているのである。

ただし、宗教団体をエクソダスせよと唱えながら、自らが宗教団体となり、宗教指導者となっている偽物の団体にも所属してはならない。

今日の信者に必要なことは、目に見えるいかなる指導者にも頼らず、目に見える組織や団体からの保証にすがらず、見えないキリストご自身にのみ立脚して、この方の命によって、信仰の道を歩むことである。そして、それは何ら特殊なことでもなければ、著しく困難なことでもなく、ただ代価を払って主に従う決意があれば、誰にでも十分に可能である。

<続く>

主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。

「カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。

主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。 」(創世記4:8-12)

「主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。 」(創世記18:20-21)

「富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。

見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、「ほふらるる日」のために、おのが心を肥やしている。そして、義人を罪に定め、これを殺した。しかも彼は、あなたがたに抵抗しない。 」(ヤコブの手紙5:1-6)

死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。陰府の綱は、わたしを囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいました。わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。そのとき地は揺れ動き、山々の基は震い動きました。主がお怒りになったからです。」(詩編18:4-7)

「さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか。あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ。

主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。

主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。

悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない」(詩編34:12-22) 


今回の記事のテーマは、「主に向かって不正を声高に叫び、諦めることなく正義を求めて訴え続けよ」というものである。

多くの日本人は、不正に抗議することは無駄であると考えている。権力者の腐敗などに対し、どんなに声をあげても、ただにらまれ、いわれのない制裁を受け、仕事を取り上げられ、人々に見捨てられ、不遇の人生を送ることになるだけであり、そんな人生はカッコ悪く、自分にとって損なだけだと。

そうして多くの人々は、強い者が嘘をついてもいることが分かっていても、自己保身の思いでこれを見て見ぬふりをして沈黙し、真実が曲げられ、不正義が横行し、弱い者が不当に虐げられ、見殺しにされても、全く声もあげない。順番が自分に回って来るまで、すべての苦しみは完全に他人事である。

戦前・戦中もそうであった。かつての戦争は、軍部だけが起こしたものではなく、大衆の無言の賛同があって初めて推し進められたものであった。人々は、竹やり訓練や火消し棒による消火活動では敵軍に勝てないことをよくよく知っていた。鍋や釜はもちろんのこと、家畜やペットに至るまでの供出に全く意味などないこと、「一億玉砕」、「欲しがりません勝つまでは」、「進め一億総火の玉だ」などといったスローガンなどが、どんなに空虚なものであるかをよく知っていた。特攻などは無駄死を奨励するだけで戦況に影響を与え得ないことを誰もが予想できたのである。

にも関わらず、それらの虚しさに人々はほとんど声をあげなかった。自分がその嘘を見抜いていることさえ必死で隠した。命が惜しかったからである。特高警察に連行されたくなかったからである。非国民と呼ばれ、断罪されることを恐れたからである。だが、そうして必死に保とうとした命を、彼らは赤紙一枚で失い、空襲で失い、原爆で失い、戦場で餓死し、大陸に置き去りにされ、集団自決し、自ら無残に捨てるようにして死んでいった。

今という時代の怖さは、まだ戦争も起きておらず、何も起こっていないのに、異変が起きる前から、戦前や戦中と同じく、大衆が権力者の横暴に見て見ぬふりをし、不正に対して憤ることをやめて、善悪の感覚や、良心の判断を故意に眠らせて、自主的な沈黙に甘んじていることにある。

そうこうしているうちに、現在の我が国の状態は、ますます戦争状態に近づき、ネットでは「中世ジャップランド」などと揶揄されるほどまでにディストピアと化してしまった。

日本人には伝統的に、声の大きい者に対しては、その者がどんなに不正なスローガンを唱えていたとしても、長いものには巻かれろ式に、沈黙して、あきらめて従ってしまうという悪い性質があるのだろうか?

東京オリンピックは、「ただボラ」によって支えられるらしい。オリンピックのための資金は有り余るほどあるのに、政府とオリンピックを率いる委員会や関連組織は、猛暑の中、金も払わず、保険もかけず、若者をただで招集し、命がけでボランティアをさせようというのだ。

おそらく死人が出ることは必至だと予想する。選手も大変であろうが、ボランティアが熱中症で亡くなっても、雇用保険にも入っていないのでは、労災にも当たらない。国威発揚のためにただ働きを肯定するどころか、人命までも平気で犠牲にする、まさに呪われたオリンピックとなることが、実施する前から誰にでも分かる有様だ。

こうした事情を見ても、今まさに、戦時中と同じく、大人たちが若者に苦役としか言えない労働や、貧しさや、死を強制する恐ろしい世の中が実現しつつある様子がよく分かる。それが国家的レベルで推進されているところが戦時中とよく似ている。

これまで筆者は当ブログにおいて、あらゆる異端思想には、年長者による年少者の搾取、親世代による子世代の搾取などの歪んだ発想が込められていることを指摘して来たが、そのような搾取は、もとをたどれば、先祖崇拝へと行きつく。

要するに、先祖の罪を子孫が永劫に背負い、罪人に過ぎない亡き先祖の霊を供養することで、先祖の罪を贖おうと努力することが、子孫の最大の義務とみなされるような、理不尽な信仰が、そのような考え方を生んでいるのである。

罪あるもの、呪われたもの、腐敗したもの、尊ばれるべきでないものを「ご本尊」のように拝み、人類に受け継がれている罪による血統を神聖視して拝んでいればこそ、先祖の罪の贖いのために子孫が未来永劫に命を犠牲にせねばならないという転倒した思想が美化され、奨励されるようなことが起きるのである。

従って、以上のオリンピックにかこつけた厚かましいただ働きの要求のような諸現象は、ただ金儲けだけが目的で行われるのではなく、先祖が自らの罪を覆い隠し、これを子孫に転嫁して子孫に償いを要求するために、子孫を犠牲にし、殺すという恐ろしい思想が背景にあってこそ、生まれて来るものなのである。

さて、冒頭の御言葉に戻りたいが、面白いことに、聖書には「未払い賃金が天に向かって叫んでいる」という個所がある。さらに、アベルのように無実にも関わらず殺された義人の血も、天に向かって叫んでいるという。

昨今のようにブラック企業が溢れ、過労死が合法化されようという世の中では、未払い賃金のことなど叫んでも無駄であり、まして不正な事件によって殺された人は、生きている人間の目から見れば、まさに「死人に口なし」の状態に置かれているので、その事件については、今更、誰が何を訴えてももはや無駄であるように見えるかも知れないが、ところが、聖書は、そのような不正事件のすべての証拠は、ずっと天に向かって叫び続けると述べているのである。

罪無くして殺された死者の血が天に向かっておのずから叫び、未払い賃金は、誰もそれを要求せず受け取り手がおらずとも、不当な搾取として、天に向かっておのずから声をあげ続けるというのだ。これは興味深いことである。

そして、それらの不正事件に関連した叫びは、すべて最終的に「アベルの血よりも力強く語るそそがれた血」(ヘブル12:24)へと集約されていく。

主なるキリストこそ、無実にも関わらず十字架ですべての罪人の罪を代表して負われ、苦しみを負い、殺されたがゆえに、彼はあらゆる人間の悲痛な叫び、苦悩、理不尽を代弁して、神に向かって叫び、とりなすことのできる方である。

つまり、地上におけるすべての信仰による義人たちの叫びは、キリストのあかしに集約されていくのである。

従って、信仰の世界は、この世の市場原理主義では成り立っていない。天の御国は、富める者、声の大きい者、力ある者の訴えだけがまかり通る弱肉強食の世界ではない。

むしろ、天の御国では、この世においては、限りなく、声なき弱者に分類され、見殺しにされるはずの者たちの苦悩を、神は確かに知っておられ、神ご自身が彼らをかえりみて下さり、この弱い声なき寄る辺ない人々を苦悩から引き上げて、高く安全なところへ置いて下さるのである。

さらに、ここで言う天の御国とは、断じて死後の世界を指すのではない。私たちが生きて地上にいる現在、信仰によって、その御国は、私たちの只中に到来しており、この世の有様に大きな影響を与えるのである。

これまで、筆者は、自分よりも力の強い者が、真実や正義を曲げて、弱い者を不当に踏みにじっている時、それに対して、真実や正義を守るために、時には無駄ではないかと思うような主張を幾度も投げかけて来た。
 
それは正義の運動という形を取ることもなく、ただ筆者の個人的な訴えであったので、時には、その叫びは弱く、あるいは孤立無援のように感じられた。しかし、後から見れば、そういう声なき声のような、一つ一つの訴えや、苦悩が、まさに主によって聞かれ、取り上げられていたのだと思うことしきりである。

だが、その当時は、自分では決してそうとは分からない。訴えてもむなしく響くばかりであり、誰も正義や真実に耳を傾ける者はないのだと、落胆するようなことがなかったとは言えない。

ところが、束の間の悲しみや、悩み、苦しみが過ぎ去ってみると、最も苦しい時に、人の心の奥底にある呻き、叫び、嘆きのすべてに、神が直接、耳を傾け、聞き取って下さり、ふさわしい助けの手を差し伸べて下さっていたのだと分かる。
 
神はご自分を信じる人々のすべての悩み苦しみに真摯に耳を傾けて下さる方であり、この方に対しては、私たちは何一つ飾らず、どんなことでも率直に打ち明け、心の思いのすべてを余すところなく吐露することが許されている。理不尽な事件に対する憤りも、嘘や不正に対する憤りも、真実を飽くことなく追い求める心も、神に対しては隠し立てする必要が全くないのである。

しかしながら、今回の記事のテーマの一つは、私たちが地上で、ただ黙って心の中で祈る言葉だけではなく、人に対して口にする言葉にも、神は耳を傾けて下さっているということである。

人間は、自分にとって好ましい言葉しか聞きたくないという極めて自分勝手な生き物なので、社会の和を乱す言葉、自分にとって不快な言葉はすべて「悪」と決めつけて退ける傾向がある。

つまり、人間社会においては、圧倒的多数の人間にとって好ましく感じられるかどうかが、正しいかどうかを決める判断基準とされるのである。力ある多数派の意見は尊重されるが、弱々しい少数派の意見は無視される。アピールの仕方が巧みであれば、嘘でも多くの人間に支持されるが、話し方が下手であれば、誰も耳を傾けない。

人間の物事の判断基準はどこまで行っても、身勝手で、自己中心で、不公平で、偏ったものだと言えよう。従って人間が人間の訴えに対し、真に公平な評価を下すということはまず考えられない。

しかしながら、神は、決してそういう観点から、人の口にする言葉をお聞きにならない。神が人の言葉を吟味される基準は、それが誰かにとって不快であるかどうかや、人間社会の和を乱すかどうかといった基準ではなく、それが真実であるかどうか、また、神に届く叫びとしての条件を満たしているかどうか、という点である。

神は誰のことをも偏り見ることなく、公平に物事を見られ、裁かれる方なので、弱い者の訴えだからと言って耳を塞がれることはなく、金持ちだから優遇するということもない。

それゆえ、人間社会では、全く相手にされない訴えが、神には取り上げられる。まして信仰のある者の訴えは天に直通する。
 
私たちの叫びが天に届くとき、それからほどなくして、天からの神ご自身のアクションが帰って来る。

そのタイミングは、信仰者から見ても、しばしば遅いと思われることがある。ダビデがしばしば詩編に書いているように、祈った者自身が、「主はこの祈りを聞き届けてはくださらないのだろうか」などと疑い、忍耐の限りに達しようとしているような時に、神は力強く立ち上がって、天からその者を助けるために、御腕を差し出して下さる。

たとえば、筆者自身も、語った当初は、自分の言葉が、それほど力強い影響力を持つものだとは考えず、むしろ、地上では弱い者としてその訴えが退けられたり、踏みにじられたり、無視されるのを見て悲しんだりと、人間的な感情を経験することもあった。ところが、地上の人々や、筆者の思惑や感情とはまったく別に、その訴えが、やがて地上から天へと運ばれて行き、天を動かし、天から地にその反響が届く、ということがよく起きるのである。

そういう結果を見る時に、初めて、筆者は、自分の主張を過少評価しすぎていたことが分かる。いや、主が着いておられることの意味を十分に理解していなかったことが分かる。あの時、筆者が誰かに向かって発した言葉は、この人間社会においては、蔑まれるほか、全く相手にされないように見えたが、その実、それを、神が直接、注意深く聞いていて下さったのだと分かるのである。

もちろん、人間同士の会話の中に、神が目に見える形で立ち会っておられるわけではない。人間同士の会話では、意思疎通が成立しなければ、どんな訴えも、むなしく空中に散じたように見えるだろう。

しかし、我々があれやこれやと心配する必要がないのは、誰に向かって発したどんな言葉であれ、人間がそれに対してどのような反応を返すかが肝心なのではなく、神がそれを我々の味方になって非常に注意深く耳を傾けて下さり、信じる者の求めに応じて、その者を問題の渦中から引き上げて、平安を与え、解決を与えて下さるからである。

それはちょうどアブラハムとロトが土地を分配し、ロトがソドムとゴモラを含む豊かな低地をことごとく選んで去って行った後、一人になったアブラハムのもとを神が訪れたような具合である。

人間と人間とのコミュニケーションは、常に双方の側から何かの意思疎通に達するとは限らない。我々が毎日、無数に相手にしている人間たちは、正義にも真実にも全く価値を置かず、何を訴えても、自分に都合の良い言葉だけを選び取り、あるいは話が決裂に終わり、あるいは主張が踏みにじられ、あるいは極めて不公平な結論が突きつけられるだけということが起きるかも知れない。

だが、たとえどのように不毛な会話が展開したとしても、神の人(=信仰者)が、そのコミュニケーションを終えて、ほっと一人になって天を仰いだとき、その時、それまで地上での会話の一部始終を見ておられた神が天から応答して下さるのである。

たとえば、カインのように、義人の訴えをかえりみず、それを踏みにじって、無視し、立ち去る者がいたとしても、その後、その者がどうなるかまでは、我々の責任ではない。

私たちが認識していなければならないことは、神は私たちの味方であり、私たちの訴えをことごとく取り上げて下さる方だということである。

今日、私たちは、アベルのように犠牲者となって死ぬ必要はないゆえ、理不尽な事件があれば、それを神に存分に訴え、神が正しく裁いて下さるよう、根気強く願い求めることができる。

そこで、我々はどんな事件に遭遇しても、決して諦めることなく、(聖書に約束された正しい)自分の権利を求めて、天に向かって声を発し続ける必要がある。

これは自らの手で悪人を成敗せよとか、不正な事件を自力で解決せよと言っているのではない。

神がすべての物事を公平にご覧になり、ふさわしい裁きを下して下さる方であり、なおかつ、この世において声をあげることのできない弱い者たちを、悩みの渦中から救い出し、天へと高く引き上げ、すべての解決を与えて下さることのできる方であることを、固く信ぜよと言っているのである。

それを信じて、自分の思いを、決して隠すことなく、率直に、神に向かって訴え、正しい解決を求めることをやめてはいけないと言っているのである。

この世がどれほど異常になり、どれほど人々の心が険悪となり、頑なになって行ったとしても、私たちは、人間社会の有様がどうあるかに心を奪われてはならず、あくまで正しいと思う解決を天に向かって願い求め続けなければならないのである。なぜなら、神は地上の人々のように物事を偏ってご覧になることは決してないからである。

悪事に立ち向かい、悪人に立ち向かい、正しい裁きを天に願い求める私たちの諦めない執拗な祈りは、天を動かす原動力になる。
 
ドムとゴモラには、たった5人の義人もおらず、アブラハムの親族であるロトの家族の他には、誰一人その町の滅びから救い出される者もなかったが、そのように恐るべき腐敗した社会の只中においても、神の正しさは少しも変わらず、神はすべてを公平・公正にご覧になっておられ、これらの町々の悪に対しては、正しい裁きを下されたのである。その裁きは、ソドムとゴモラの社会にとっては、災いであり悲惨なものでしかなかったが、神は彼らの罪に対して、ふさわしく報いられたのだと言える。

神が変わらないお方である以上、今日のソドムとゴモラに、かつてのソドムとゴモラとは異なる判決が下ることはあり得ない。我が国の表面的な有様が、もはや手遅れのようにしか見えないほどに腐敗したものとなっていたとしても、その中で、信仰による義人に対する神の約束は、ほんのわずかたりとも揺らがず、変わることもない。

だから、私たちはこの世の社会の有様がどうあれ、あくまで神の御心にかなった正しい裁きを地上で願い求め続けねばならず、自分が信仰によって生きる義人であることを固く信じて、常に神の助けが約束されていることを信じ、これを受け取って生き続けなければならない。

もう一度、冒頭で引用した聖句を繰り返しておきたい。
 
主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。

主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。

悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。

神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。(2)

さて、これまでの記事の中で、聖書の順序では、肉によって生まれた者が霊によって生まれた者を迫害する、という出来事がまずあり、その次に、霊によって生まれた子が十分に強くなって意思表示を行うとき、初めて肉によって生まれた者が神の家から駆逐されて、霊によって生まれた者が正当な地位を取り戻すことを述べた。

自由の女(サラ)から約束によって生まれた子(イサク)だけが、神の国の正統な後継者であり、奴隷の女(ハガル)から肉によって生まれた子(イシマエル)は後継者になれない。

だが、奴隷とその子が神の家から追い出されるに当たり、どうしても必要だったのが、サラの意志表示であった。

「けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。」(ガラテヤ4:29-30)

同様に、エステル記を読むと、ハマンを悪者として王に訴えたエステルの意志表示が決定的に重要な働きをなしていたことが分かる。

これは、サタンを神に訴えることが、キリスト者の使命であることをよく表している。キリスト者は、御霊によって生まれた者を迫害する肉なる者たちを、神に向かって告発し、これらの者が正体を暴かれて神の家から取り除かれるよう、神に懇願するという重要な使命を担っているのである。

ちなみに、話は逸れるが、以下の原則(ガラテヤ4:27)は、時代を問わず、エクレシア(神の教会)を貫くものである。

「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
  喜びの声をあげて叫べ。
  産みの苦しみを知らない女よ。
  一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。」

サラは老いてからであったとはいえ、約束の子イサクを産んだわけであるから、もはや「不妊の女」という蔑称はふさわしくない、と思うかも知れない。しかし、実は「不妊の女」「産みの苦しみを知らない女」「一人取り残された女」「夫のない女」と言った呼び名は、蔑称ではなく、純潔のエクレシアを示すためには欠かせない永遠に高貴な称号なのである。

最初の人類であったエバは弱さのゆえに罪に堕落して、最も不名誉の女の代表格となってしまった。しかし、こうして不適格者の烙印を押され、堕落の象徴のようにみなされ、見捨てられた存在のようになってしまった「女」を通して、逆説的に人類を回復しようということが、神のご計画の一部としてある。

そこで、神は選ばれた民ではなかったモアブ人ルツをキリストの系譜の中で選び出されたり、キリストを産むために処女マリヤを選び出されたり、スカルの井戸でサマリヤの女に話しかけられたりと、絶えず、選ばれた力ある民ではなく、力のない、無名で、見捨てられ、不名誉を負っていた女たちを、しばしばご計画の成就のために用いられたのである。

最終的には、「女」の回復は、キリストの花嫁たるエクレシアの従順によって成し遂げられる。

だが、そのことは、決して「女性原理」の賛美や崇拝と混同されてはならない。たとえば、多くの宗教画で「聖母マリア」が赤ん坊を抱いた女性として描かれ、その母性本能が褒めたたえられているのとは全く逆に、マリアがキリストをみごもったのは、肉の欲望によらず、肉なる母性本能によるものではなかった。キリストの誕生には、肉なる人間(男性)の参与も必要なければ、天然の「母性原理」が働く余地も全くなかった。マリアはあくまで「夫のない女」「不妊の女」として、聖霊によってキリストをみごもったのである。

このことはサラにも同様に当てはまる。イサクは聖霊によって生まれた子とは言えないが、それでも、サラが子供を産むことのできる条件を失ってから生まれた子であった。従って、これも「母性原理」によって生まれた子ではないとはっきり言える。イサクは神の約束によって、信仰によって与えられた子であり、その意味で、聖霊によって生まれるキリストを予表している。そのためにこそ、サラはイサクを産んだ後でも、「不妊の女」「夫のない女」と呼ばれ続けているのであるが、これは決して彼女にとって不名誉な称号ではなく、むしろ、栄誉ある称号であって、決して彼女が肉なる被造物に服することなく、キリストだけに従う永遠に純潔の花嫁たるエクレシアの一員として生きたことを象徴する呼び名なのである。

このように、エクレシアは永遠に「夫のない女性」「独身の女性」「不妊の女性」である。なぜなら、エクレシアの夫はキリストであるが、まだ彼女は夫が迎えに来るのを待っている未婚の花嫁の状態にあるからであり、その子は聖霊によってのみ生まれることが約束されている子だからである。このように霊的に”未婚”の状態にあること、肉による子供を持たないこと(肉に蒔いて肉による実を持たないこと)、キリストだけに服することは、エクレシアから決して取り除かれることのない条件である。

聖書は結婚を禁じたりは全くしていないが、それでも、パウロは、もし信者が独身でいられるならその方が良いと述べている。なぜなら、肉にある伴侶を持つと、その者に仕えねばならなくなり、こうして人間に対する気遣いに絶えず心を煩わせるよりは、むしろ神のことに専念できる立場にあった方が良いとパウロは言うのである。

「しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」(Ⅰコリント7:28-35)

それに引き換え、肉によって生まれる者たちは、肉の事柄には聡く、「未婚」や「不妊」などの不名誉な称号とは無縁である。彼らは、霊によって生まれる者たちよりも早く子を産み、子供らの数、家族の人数、己が権勢、財産などの目に見える数々の所有物を誇る。ハマンも息子たちが数多いことを誇っていたとある。

だが、それは肉による実である以上、霊による実に比べ、全く永続性がない。永続性がないだけでなく、神の目には堕落して呪われた被造物である。それらは束の間に過ぎ去り、一時は栄えているように見えても、あっという間に消え失せてしまう。

「王とハマンは王妃エステルの酒宴に臨んだ。 このふつか目の酒宴に王はまたエステルに言った、「王妃エステルよ、あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。

王妃エステルは答えて言った、「王よ、もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしよしとされるならば、わたしの求めにしたがってわたしの命をわたしに与え、またわたしの願いにしたがってわたしの民をわたしに与えてください。 わたしとわたしの民は売られて滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています。もしわたしたちが男女の奴隷として売られただけなら、わたしは黙っていたでしょう。わたしたちの難儀は王の損失とは比較にならないからです」。

アハシュエロス王は王妃エステルに言った、「そんな事をしようと心にたくらんでいる者はだれか。またどこにいるのか」。 エステルは言った、「そのあだ、その敵はこの悪いハマンです」。そこでハマンは王と王妃の前に恐れおののいた。 王は怒って酒宴の席を立ち、宮殿の園へ行ったが、ハマンは残って王妃エステルに命ごいをした。彼は王が自分に害を加えようと定めたのを見たからである。

王が宮殿の園から酒宴の場所に帰ってみると、エステルのいた長いすの上にハマンが伏していたので、王は言った、「彼はまたわたしの家で、しかもわたしの前で王妃をはずかしめようとするのか」。この言葉が王の口から出たとき、人々は、ハマンの顔をおおった。 その時、王に付き添っていたひとりの侍従ハルボナが「王のためによい事を告げたあのモルデカイのためにハマンが用意した高さ五十キュビトの木がハマンの家に立っています」と言ったので、王は「彼をそれに掛けよ」と言った。 そこで人々はハマンをモルデカイのために備えてあったその木に掛けた。こうして王の怒りは和らいだ。


今日、信仰によらない、御霊によらない、肉にある者たちが、神の教会を荒らし回っている。彼らは、唯一の神も、キリストの十字架の贖いも、罪の赦しも、聖書の御言葉も、何一つ信じていないのに、「教会から被害を受けた」「教会のカルト化を許してはおけない」などの言いがかりをつけては、被害者意識、人間の正義感など、肉による動機を振りかざして、教会に自分たちを受け入れるよう迫っている。

この人々は、教会の一員となる資格を全く持っていないにも関わらず、教会を責め、言いがかりをつけることによって、教会の中に巧みに入り込もうとしており、それによって、教会を占拠し、信仰による神の民をかえって迫害・駆逐しようとしている。彼らの中傷、乱暴狼藉、暴虐によって、神の民はまさに圧迫され、滅ぼされようとしているところだ。

これに対し、我々は、エステルが王に願い出たと同様に、この狼藉者たちの暴虐を声を限りに非難し、神に訴えるべきである。彼らが神の民の根絶を願っていることを神に告げて、この不信者らがこれ以上、神の民に害を加えることなく、ふさわしい罰を受けるよう願い出るべきである。

彼らは、ハマンがエステルに懇願したように、神の民に憐れみを乞うことで、処罰を免れようとするであろうが、それは成らない。そして、肉による者たちが、霊による者たちに危害を加え、根絶やしにしようとしたその悪意は、肉による者たち自身に跳ね返る。

ハマンがモルデカイを吊るそうとして自宅に作った処刑台が、ハマン自身の処刑台となったようにだ。
 
ハマンの死を思うとき、今日も、キリストと共なる十字架で死んでよみがえらされ、キリストの復活の命によって生きる神の民を中傷し、穢し、冒涜する者には、一体、この先、どんな厄災が降りかかることであろうか。

カルト被害者救済活動の支持者らは、神の民を精神異常者呼ばわりしているが、彼らが述べている世迷いごとを見れば、実際には、彼らこそ、まさに精神異常に陥っていることが、精神科医でなくとも、誰にでもすぐに分かる。勝ち目もない裁判に信徒を焚き付けたり、自分が見たことも聞いたこともない事柄について、まことしやかに虚偽を並べて人々を中傷したり、彼らの言うことには何の整合性もなく、彼らのしていることは自滅行為でしかなく、もはや人としての最低限度の常識や思考能力すらも完全に見失い、早く自分を罰してくれと世に向かって叫んでいるに等しい。

これが聖徒らを訴える者に降りかかる不幸な結末なのである。何度も述べて来たように、「主を畏れることは知恵の初め。 無知な者は知恵をも諭しをも侮る。 」(箴言1:7)とあるように、聖書の御言葉に従うことこそ、知恵と知識への道であり、御言葉を否定することは、無知と精神崩壊の始まりである。

聖書の御言葉に悪質に逆らう者たちからは、人としてのバランスの取れたものの見方や、常識や、健全な思考能力がどんどん失われて行く。彼らはこれまで裁判を振りかざしては教会を脅し、圧迫して来たが、実際に、自ら宣言している通り、裁判所に赴いてみれば良いのだ。彼らが述べているような嘘に満ちた一貫性のない屁理屈は、この世の人々の前でも、決してまかり通ることがないとすぐに分かるはずだ。

ハマンはエステルに訴えられて後、王の前で「顔を覆われた」。これはハマンが人に忌み嫌われる者の象徴となったことを意味する。この世の言い回しでは「人を呪わば、穴二つ」だが、キリスト者を呪った場合は、「穴一つ」だ。なぜなら、呪った者自身にその悪意が跳ね返るだけだからだ。

愚かなことである。カルト被害者救済活動の支持者らが、わざわざ自分で呪詛の言葉を口にしたりしなければ、それが彼らの身に降りかかることもなかったであろう。「一度口から出した言葉は取り消せない」と、彼らは自ら述べているのだから、彼らは自ら述べた言葉によって罪に定められ、その言葉は二度と撤回できまい。この先、顔を覆われた者同然に扱われることになるのは、彼ら自身である。それが彼らが自分で振りかざした掟によって自ら裁かれることの結末であり、彼らが自分で口にした言葉の刈り取りなのである。

このように、聖書の神、聖書の御言葉に敵対し、神の教会に敵対し、キリスト者を冒涜し敵対する者たちは、信者から憎まれるだけでなく、この世からも憎まれることになる。なぜなら、キリストの復活の命に基づくエクレシアの支配は、この世を超越しており、この世に対しても及んでいるからだ。
 
「その日アハシュエロス王は、ユダヤ人の敵ハマンの家を王妃エステルに与えた。モルデカイは王の前にきた。これはエステルが自分とモルデカイがどんな関係の者であるかを告げたからである。 王はハマンから取り返した自分の指輪をはずして、モルデカイに与えた。エステルはモルデカイにハマンの家を管理させた。

エステルは再び王の前に奏し、その足もとにひれ伏して、アガグびとハマンの陰謀すなわち彼がユダヤ人に対して企てたその計画を除くことを涙ながらに請い求めた。 王はエステルにむかって金の笏を伸べたので、エステルは身を起して王の前に立ち、そして言った、「もし王がよしとされ、わたしが王の前に恵みを得、またこの事が王の前に正しいと見え、かつわたしが王の目にかなうならば、アガグびとハンメダタの子ハマンが王の諸州にいるユダヤ人を滅ぼそうとはかって書き送った書を取り消す旨を書かせてください。 どうしてわたしは、わたしの民に臨もうとする災を、だまって見ていることができましょうか。どうしてわたしの同族の滅びるのを、だまって見ていることができましょうか」。

アハシュエロス王は王妃エステルとユダヤ人モルデカイに言った、「ハマンがユダヤ人を殺そうとしたので、わたしはハマンの家をエステルに与え、またハマンを木に掛けさせた。あなたがたは自分たちの思うままに王の名をもってユダヤ人についての書をつくり、王の指輪をもってそれに印を押すがよい。王の名をもって書き、王の指輪をもって印を押した書はだれも取り消すことができない」。

その時王の書記官が召し集められた。それは三月すなわちシワンの月の二十三日であった。そしてインドからエチオピヤまでの百二十七州にいる総督、諸州の知事および大臣たちに、モルデカイがユダヤ人について命じたとおりに書き送った。すなわち各州にはその文字を用い、各民族にはその言語を用いて書き送り、ユダヤ人に送るものにはその文字と言語とを用いた。 その書はアハシュエロス王の名をもって書かれ、王の指輪をもって印を押し、王の御用馬として、そのうまやに育った早馬に乗る急使によって送られた。 その中で、王はすべての町にいるユダヤ人に、彼らが相集まって自分たちの生命を保護し、自分たちを襲おうとする諸国、諸州のすべての武装した民を、その妻子もろともに滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取ることを許した。

ただしこの事をアハシュエロス王の諸州において、十二月すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちに行うことを命じた。 この書いた物の写しを詔として各州に伝え、すべての民に公示して、ユダヤ人に、その日のために備えして、その敵にあだをかえさせようとした。王の御用馬である早馬に乗った急使は、王の命によって急がされ、せきたてられて出て行った。この詔は首都スサで出された。

モルデカイは青と白の朝服を着、大きな金の冠をいただき、紫色の細布の上着をまとって王の前から出て行った。スサの町中、声をあげて喜んだ。ユダヤ人には光と喜びと楽しみと誉があった。いずれの州でも、いずれの町でも、すべて王の命令と詔の伝達された所では、ユダヤ人は喜び楽しみ、酒宴を開いてこの日を祝日とした。そしてこの国の民のうち多くの者がユダヤ人となった。これはユダヤ人を恐れる心が彼らのうちに起ったからである。
 
十二月すなわちアダルの月の十三日、王の命令と詔の行われる時が近づいたとき、すなわちユダヤ人の敵が、ユダヤ人を打ち伏せようと望んでいたのに、かえってユダヤ人が自分たちを憎む者を打ち伏せることとなったその日に、ユダヤ人はアハシュエロス王の各州にある自分たちの町々に集まり、自分たちに害を加えようとする者を殺そうとしたが、だれもユダヤ人に逆らうことのできるものはなかった。すべての民がユダヤ人を恐れたからである。

諸州の大臣、総督、知事および王の事をつかさどる者は皆ユダヤ人を助けた。彼らはモルデカイを恐れたからである。モルデカイは王の家で大いなる者となり、その名声は各州に聞えわたった。この人モルデカイがますます勢力ある者となったからである。そこでユダヤ人はつるぎをもってすべての敵を撃って殺し、滅ぼし、自分たちを憎む者に対し心のままに行った。ユダヤ人はまた首都スサにおいても五百人を殺し、滅ぼした。またパルシャンダタ、ダルポン、アスパタ、 ポラタ、アダリヤ、アリダタ、パルマシタ、アリサイ、アリダイ、ワエザタ、すなわちハンメダタの子で、ユダヤ人の敵であるハマンの十人の子をも殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。」

さて、エステルが王にハマンの悪事を告げて以後、ハマンはまず自分自身の栄誉、生命を失い、次に、ハマンの家が取り上げられ、さらに、ハマンの子供たちも殺された。

「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:5-6)とあることを思い出そう。

 王は先に出したユダヤ人殺害の詔勅を取り消すことはしなかった代わりに、ユダヤ人が共同してこれに反撃することを許した。そのため、人々の心にユダヤ人への恐れが生じ、大規模な殺害は起きなかったが、それでも、ユダヤ人を憎み、殺害を願っていた人々はまだ残っていたと見られ、これらの人々は反撃を受けて滅ぼされることになる。

 その中で、ハマンの子供たちも殺されたところを見ると、ハマンの計画は、ハマン一人の思いつきというより、一つの思想体系を為しており、子孫らにも受け継がれていた様子が伺える。このように、悪しき思想体系が出来上がり、多くの人々の心をとらえ、ユダヤ人を憎む一大勢力を築き上げていたのである。

 このことは、村上密率いるカルト被害者救済活動が、教会を憎んだり、恨んだりする人々の心を引きつけて、一大要塞化して、教会やクリスチャンに敵対する勢力となっていたことを思わせる。一人の人間が、ある思想を体現するのである。聖書の御言葉に基づく信仰を体現する者もいれば、反キリストの思想を体現する者もいる。そしてそれらの人物が要塞化し、多くの人々を引きつけてて一大勢力となるのである。

 このように悪の要塞と化した勢力を、その巣のレベルから根絶やしにするためには、ユダヤ人たちは、ハマンの残党を駆逐し、敵の牙城を襲撃することがぜひとも必要だったのである。

「その日、首都スサで殺された者の数が王に報告されると、 王は王妃エステルに言った、「ユダヤ人は首都スサで五百人を殺し、またハマンの十人の子を殺した。王のその他の諸州ではどんなに彼らは殺したことであろう。さてあなたの求めることは何か。必ず聞かれる。更にあなたの願いは何か。必ず聞きとどけられる」。

エステルは言った、「もし王がよしとされるならば、どうぞスサにいるユダヤ人にあすも、きょうの詔のように行うことをゆるしてください。かつハマンの十人の子を木に掛けさせてください」。 王はそうせよと命じたので、スサにおいて詔が出て、ハマンの十人の子は木に掛けられた。 アダルの月の十四日にまたスサにいるユダヤ人が集まり、スサで三百人を殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。

王の諸州にいる他のユダヤ人もまた集まって、自分たちの生命を保護し、その敵に勝って平安を得、自分たちを憎む者七万五千人を殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。 これはアダルの月の十三日であって、その十四日に休んで、その日を酒宴と喜びの日とした。 しかしスサにいるユダヤ人は十三日と十四日に集まり、十五日に休んで、その日を酒宴と喜びの日とした。 それゆえ村々のユダヤ人すなわち城壁のない町々に住む者はアダルの月の十四日を喜びの日、酒宴の日、祝日とし、互に食べ物を贈る日とした。

モルデカイはこれらのことを書きしるしてアハシュエロス王の諸州にいるすべてのユダヤ人に、近い者にも遠い者にも書を送り、アダルの月の十四日と十五日とを年々祝うことを命じた。すなわちこの両日にユダヤ人がその敵に勝って平安を得、またこの月は彼らのために憂いから喜びに変り、悲しみから祝日に変ったので、これらを酒宴と喜びの日として、互に食べ物を贈り、貧しい者に施しをする日とせよとさとした。

そこでユダヤ人は彼らがすでに始めたように、またモルデカイが彼らに書き送ったように、行うことを約束した。 これはアガグびとハンメダタの子ハマン、すなわちすべてのユダヤ人の敵がユダヤ人を滅ぼそうとはかり、プルすなわちくじを投げて彼らを絶やし、滅ぼそうとしたが、 エステルが王の前にきたとき、王は書を送って命じ、ハマンがユダヤ人に対して企てたその悪い計画をハマンの頭上に臨ませ、彼とその子らを木に掛けさせたからである。 このゆえに、この両日をプルの名にしたがってプリムと名づけた。そしてこの書のすべての言葉により、またこの事について見たところ、自分たちの会ったところによって、 ユダヤ人は相定め、年々その書かれているところにしたがい、その定められた時にしたがって、この両日を守り、自分たちと、その子孫およびすべて自分たちにつらなる者はこれを行い続けて廃することなく、 この両日を、代々、家々、州々、町々において必ず覚えて守るべきものとし、これらのプリムの日がユダヤ人のうちに廃せられることのないようにし、またこの記念がその子孫の中に絶えることのないようにした。

さらにアビハイルの娘である王妃エステルとユダヤ人モルデカイは、権威をもってこのプリムの第二の書を書き、それを確かめた。そしてアハシュエロスの国の百二十七州にいるすべてのユダヤ人に、平和と真実の言葉をもって書を送り、断食と悲しみのことについて、ユダヤ人モルデカイと王妃エステルが、かつてユダヤ人に命じたように、またユダヤ人たちが、かつて自分たちとその子孫のために定めたように、プリムのこれらの日をその定めた時に守らせた。エステルの命令はプリムに関するこれらの事を確定した。またこれは書にしるされた。
 
アハシュエロス王はその国および海に沿った国々にみつぎを課した。彼の権力と勢力によるすべての事業、および王がモルデカイを高い地位にのぼらせた事の詳しい話はメデアとペルシャの王たちの日誌の書にしるされているではないか。ユダヤ人モルデカイはアハシュエロス王に次ぐ者となり、ユダヤ人の中にあって大いなる者となり、その多くの兄弟に喜ばれた。彼はその民の幸福を求め、すべての国民に平和を述べたからである。

こうして、ハマンの悪しき計画は、ハマン自身の頭上に返され、ハマンは恥を受けて命を失い、ハマンが根絶やしにしようとした民は喜びに溢れ、ハマンが踏みつけにしたモルデカイは、王に次ぐほどの高貴な地位を得た。ハマンの子供たちは、殺害された後で、木にかけられたのかも知れないが、「木にかけられる」とは、その者が呪われることを意味する。エステルはハマンの家系が呪われていることを神と人との前で示すためにそれを求めたのである。

エステル記におけるこのような記述を指して、「キリスト教は残酷だ」「だから一神教はダメなんだ」と述べようとする人々がいる。ハマンがユダヤ人を殺害しようとした計画は悪いにせよ、その報いとしてハマンやその残党が殺される必要が本当にあったのかと異議を唱える人々もいれば、中には「ハマンとその子たちが可哀想」などと同情論を唱える人間もいるかも知れない。

しかし、そのような考えこそ、キリスト教にはバランスが足りないなどと述べて、「人間にやさしいキリスト教」を作り出すために、聖書にはない「何か」をつけ加えて、キリスト教を異端と混ぜ合わせて混合宗教を作り出そうとする考えなのである。そこから、カルト被害者救済活動なども生まれて来たことを思うべきである。

要するに、カルト被害者救済活動とは、(彼らに言わせれば非常に残酷かつ偏った)キリスト教の救いから「除外」され、「被害」を受けた可哀想な自称被害者たちを、何とかして教会に取り戻し、救いに戻してやろう、という人間的な思いから始まる。

神の選びを自ら退け、信仰を捨て、御言葉に服することをやめ、教会の敵にまでなった人々が、神に従うことをやめた自分の弱さを憐れむがゆえに、自分は正しく、神の判決こそ間違っている、非常識なのはキリスト教だ、と考えて、キリスト教に不服を述べ、キリスト教を人間の観点から罪定めするところから、この活動は始まっている。

そのようにして、人間の掟を神の掟以上に高く掲げる人々が、神の救済の対象になることは決してない。なぜなら、彼らは自分自身の罪を決して認めず、悔い改めをも拒んでいるからである。彼らは人間(自分自身)に同情するあまり、罪の悔い改めなくして赦しもないという初歩的な聖書理解をさえ完全に見失い、自分自身の罪をあたかも聖なる要素のごとく掲げているのである。

このように聖書の救いに悪質に対抗する考えを持つ人々が、神の救済の対象となることは決してなく、彼らが聖書の御言葉を曲げ、御子の救いを拒んだ者たちとして罰せられるのは避けられない。彼らを裁くのは、彼ら自身が掟として掲げているこの世の常識であり、この世の法である。彼らは自分たちが人を裁いた基準で、自分自身が裁かれることになるのである。

エステル記は霊的な戦いの絵図であり、神の民の殺害を望むような人々には、その計画が彼ら自身に跳ね返ることをよく示している。この法則は昔も今も決して変わらない。

だから、読者らは、この先、カルト被害者救済活動の支持者らに起きることを、よくよく見てもらいたいと思うのだ。なぜなら、こうした出来事の背景には、霊的な法則が働いており、残酷なまでに冷徹で動かせない結果が現れるからだ。

カルト被害者救済活動の支持者らが、神の民の前で、己が家、家族の人数、子供たちの数、支持者の数、財産、高い職業的地位などを誇ったことが、この先、どのように呪わしい形で彼ら自身に跳ね返るか、よくよく見てもらいたいと筆者は思う。

バビロンは、花婿なるキリストが来られる前に、すでに夫を得て、富んでしまっていた女であった。いや、それは夫というより、数々の愛人と呼んだ方がふさわしい。なぜなら、結婚の約束がないのに、バビロンは愛人たちに早々に身を売ったからである。

だが、ここで言う「バビロン」とは、神に逆らう人類全体を象徴しており(カルト被害者救済活動のような反聖書的な思想体系も含まれる)、バビロンの「愛人」とは、霊的には、この世の目に見える事物を指す。バビロンは孤独や貧しさを嫌っていたがゆえに、キリストが来られるまで辛抱強く一人で待てなかった。彼女は花婿を待つことをやめて、花婿との約束をたがえて、手っ取り早く愛人に身を売り、その報酬として、女王のように豊かになり、孤独とは無縁の享楽的な生活を送った。

だが、もし彼女が、自分はキリストを待てなかったので、愛人に身を売ったのだと自ら認めていれば、彼女の罪はまだ軽かったかも知れない。バビロンの最も忌まわしい罪は、キリストへの貞潔を失っていたにも関わらず、自分はキリストの花嫁にふさわしいかのように振る舞い、真にキリストを待つ民を迫害しながら、嘘をつき続けた点にある。彼女は、自分の心のねじ曲がっており、不誠実で、嘘つきであることをよく知っていたので、自分の心の醜さを隠すために、貞潔にキリストだけを待っている聖徒らを蔑み、聖徒らに罪を着せて悪しざまに言い、自分の高い地位、財産、愛人や取り巻きの数、子供の人数などを誇りながら、自分だけは苦しみや災いに遭わなくて済むと豪語して、聖徒らが御名のゆえに味わっている孤独や貧しさや苦難を蔑み、エクレシアを踏みつけにして嘲笑ったのである。

その結果として、神はバビロンにしたたかに復讐された。バビロンの罪の中には、エクレシアへの蔑みや嘲笑、冒涜の罪も、当然ながら含まれている。バビロンに対する報復は、聖書において決定済みの事項であるから、誰にも覆せない。彼女が人前で誇った数々の宝が、どのように一つ一つ、彼女から奪い取られ、消え去って行くかを見る時、バビロンが聖徒らの苦難を嘲笑うことの罪深さを、誰もが思い知ることができるだろう。

律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。

 律法は、信仰をよりどころにしていません。
律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。

キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからですそれは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受けるためでした。」(ガラテヤ3:11-14)

このように、私たちは律法(人間の掟)によって生きる者ではなく、信仰によって生きる義人である。そして、私たちのためには、すでに呪いとなった木にかかって下さった方がいる以上、私たちを呪うことのできる存在は誰一人としていない。神の御怒りと裁きは、かえって神の子供たちを呪い、冒涜する者たちに注がれる。

カルト被害者救済活動の支持者らは、聖書の御言葉を曲げた自分たちに、当然の裁きと報復が待っているという事実を見たくないがゆえに、聖徒らの証の言葉に猛反発しているだけである。しかし、彼らが何を言ってみたところで、決定は変わらない。彼らへの裁きがどうなるかは初めから確定している。なぜなら、律法によっては義とされる人は誰もいないからだ。彼らは自分たちが聖徒らを裁こうとして振りかざした厳しい基準で、自分自身が裁かれて終わるだけである。
 
ハレルヤ。
 救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。
 その裁きは真実で正しいからである。
 みだらな行いで
 地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、
 御自分の僕たちの流した血の復讐を、
 彼女になさったからである。

 「ハレルヤ。
 大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」(黙示19:1-3)

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神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒な記事やコメントを見つけられた方もどんどん通報して下さい。

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