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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

これは知恵と諭しをわきまえ
分別ある言葉を理解するため

諭しを受け入れて
正義と裁きと公平に目覚めるため。

未熟な者に熟慮を教え
若者に知識と慎重さを与えるため。

これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え
聡明な人も指導力を増すであろう。

また、格言、寓話
賢人らの言葉と謎を理解するため。

主を畏れることは知恵の初め。
無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

わが子よ、父の諭しに聞き従え。
母の教えをおろそかにするな。

それらは頭に戴く優雅な冠
首にかける飾りとなる。

わが子よ ならず者があなたを誘惑しても
くみしてはならない。

彼らはこう言うだろう。

一緒に来い。待ち伏せして、血を流してやろう。
罪もない者をだれかれかまわず隠れて待ち
陰府のように、生きながらひと呑みにし
丸呑みにして、墓穴に沈めてやろう。

金目の物は何ひとつ見落とさず
奪った物で家をいっぱいにしよう。
我々と運命を共にせよ。
財布もひとつにしようではないか。」

わが子よ
彼らの道を共に歩いてはならない。
その道に足を踏み入れるな。

彼らの足は悪事に向かって走り
流血をたくらんで急ぐ。

翼あるものは見ている。
網を仕掛けるのは徒労だ。

待ち伏せて流すのは自分の血。
隠れて待っても、落とすのは自分の命。

これが不当な利益を求める者の末路。
奪われるのは自分の命だ。

知恵は巷に呼ばわり
広場に声をあげる。

雑踏の街角で呼びかけ
城門の脇の通路で語りかける。

「いつまで
浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち
不遜な者は不遜であることを好み
愚か者は知ることをいとうのか。

立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら
見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ
わたしの言葉を示そう。

しかし、わたしが呼びかけても拒み
手を伸べても意に介せず

わたしの勧めをことごとくなおざりにし
懲らしめを受け入れないなら

あなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い
恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。

恐怖が嵐のように襲い
災いがつむじ風のように起こり
苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。

そのときになって
彼らがわたしを呼んでもわたしは答えず
捜し求めても
わたしを見いだすことはできない。

彼らは知ることをいとい
主を畏れることを選ばず
わたしの勧めに従わず
懲らしめをすべてないがしろにした。

だから、自分たちの道が結んだ実を食べ
自分たちの意見に飽き足りるがよい。

浅はかな者は座して死に至り
愚か者は無為の内に滅びる。

わたしに聞き従う人は確かな住まいを得
災難を恐れることなく平穏に暮らす。 」(箴言第一章)

* * *

当ブログが始まった頃から述べて来たスローガンの一つに、「主を畏れることは知識の初め」という箴言1:7の御言葉がある。

この御言葉は、裏を返せば、「主を畏れないことは精神崩壊の始まり」となる。

あらゆる異端思想は、必ず、聖書の御言葉を歪曲するものであり、そのようにして御言葉を曲げ、これに逆らった人は、必ず、知性を狂わされ、精神の正常性を保てなくなり、やがては破滅に落ち込んで行った。

そのことが、今日、インターネットで、当ブログに敵対・挑戦して来た人々の人生において、確実に証明されつつあると言えよう。

ある人々は、かねてより、当ブログの主張を精神異常の産物であるかのように声高に非難して来たが、今日、そのような人々が、いかなる犯罪行為に手を染めているかを見れば、彼らがすでに正常な思考を狂わされてしまっていることは、誰の目にも明白である。

もしも彼らの非難している対象が、当ブログだけであったならば、そのような結果にはならなかったに違いない。だが、彼らは、当ブログを非難する際に、当ブログの背後に存在する聖書の御言葉につまずいた。それだからこそ、これらの人々はこのようにまで健全な思考を失って、犯罪行為にまで手を染めるに至ったのである。

私たちのまことの命は、御言葉なるお方であるキリストただお一人である。この方が私たちのすべてのすべてであり、生きるために必要なすべてを供給して下さる方である。

御言葉は、私たちの安全を確保するための最強の装甲であり、堅固な砦である。その外に出れば、私たちの命も、平安も、安全も、無事に保たれるものは何もない。

そこで、御言葉にあからさまに躓いた人々の結末は、とても悲惨なものとなる。彼らは、ただ信仰を失うだけでは済まされず、世人よりもはるかに悪い罪人となって、人生を破滅で終えることになる。そのような例に倣ってはいけない。

さて、当ブログでは、先週も掲示板で行われた犯罪行為について、警察署に告訴状を提出したばかりだが、本日も、ちょうど新たな分厚い告訴状を追加で警察署に送ったところである。これも週が明ければ間もなく受理されるだろう。

掲示板における犯罪的なコメントは、すでに30件以上、告訴対象に含まれている。著作権侵害だけでこれであるから、その他の罪状を含めれば、被告訴人の数は50名以上には達するものと見られる(同一犯の可能性はあるが)。

これが、当ブログの信仰の証しを、精神異常の産物であるかのように、非難し続けた人々の末路である。彼らは、自分たちの行っている行為が、犯罪であるという認識さえも失っているが、そのような事態は恐るべきことであり、彼らが当ブログに投げつけた精神異常との悪罵の言葉が、まさに彼ら自身に跳ね返ったことをよく表している。

筆者はこの犯罪ネットワークの全容を解明するために、これから約1年間ほどの月日が必要であろうと考え、そのために必要な時間と労力を提供するつもりでいる。警察署にも、犯罪行為が完全に終了するまでの間、随時、告訴状を追加で提出する旨を説明し、了承を得ている。

筆者は、ただ当ブログに対する権利侵害を明らかにするという以上に、こうした仕事は誰かが必ずせねばならないことだと考えている。
 
今回の裁判では、この犯罪ネットワークは、まだ全容が解明されていないうちに、判決を迎えることになる。だが、ちょうど裁判の終結間近に、掲示板における犯罪行為がここまで大々的に明るみに出て、誰もの目に触れたことには、非常に意義があったと言えるだろう。

おそらく暗闇の勢力は、判決言い渡し直前の「駆け込み」として権利侵害に及んだのかも知れないが、残念ながら、そうした行為によって、筆者が不利になることもなければ、筆者が信仰の証しをやめることもない。かえって、筆者が本訴訟において訴えていた事実が、ますます裏づけられるだけである。

さて、先の記事で、筆者は、今回の裁判を、非常に良心的で、事件に深い理解のある裁判官が担当してくれた旨を感謝しつつ書いた。これは主の采配である。被告らにとっても、裁判官が相当な努力を払って進めていた電話会議の様子はまだ記憶に新しく、おそらく、裁判所のすべての関係者の誰一人として、悪印象を与えなかったろうと思う。

だが、万が一、被告らがこれらの人々の労にあだで報い、これから言い渡される判決に不服を覚え、控訴などを考えるならば、当ブログでは、その際には、これまで被告らが送付して来たすべての書面をただちに公開する用意があることを改めて断っておく。

これまで当ブログで被告らの書面を公開しなかったのは、裁判官が静かに判決を考える邪魔をしたくなかったからであり、世論の風を味方につけることで、有利な判決を得ようとするような真似をしたくなかったためだ。(筆者は支持者の数によって有利な判決を得ようとは全く願っていない。)

だが、判決が言い渡されれば、被告らの書面の公開の妨げになるものは何もない。

さらに、もしも被告らが良心的な裁判官の公平な判決に不服を覚えて、一信徒を控訴審に引きずり出したいなどと考えるならば、被告らの活動は、完全に世間の理解を失って一貫の終わりとなるだろうと断っておく。

なぜなら、もしもどこかの牧師が、自分のところへ相談にやって来た一信徒を、ブログで批判されたからと言って、10年間もの間、インターネットで名指しでバッシングしただけでは飽き足らず、控訴審(場合によっては最高裁)まで引きずり出して争おうとするならば――そんな牧師の説教を、誰も聞きたいとは願わないであろうし、そんな恐ろしい牧師のもとに、身の上相談に行く信徒は、絶えていなくなることは明白だからだ。

被告らはかねてより、控訴審に争いが持ち込まれた場合には、弁護士に依頼すると予告していたが、そうなった場合には、弁護士費用は三桁に達する可能性もあり、一審と違って、冷酷無慈悲な裁判官が事件を担当して、訴えが棄却されれば、その費用はまさにドブに捨てることになるだろう。

また、控訴すれば、その間に、刑事事件の捜査も進展し、取り調べも進行するであろうし、掲示板において現在、おびただしく行われている犯罪行為への関与なども疑われたりすれば、さらに罪状も増える可能性がないとは言えない。

このように、控訴は誰にとっても何のメリットもなく、今回は、良心的な裁判官が、奇跡的なスケジュール上の都合で、最初から一年以外に判決の言い渡しを予定してくれていたことは、当事者の誰もにとって、極めて幸いな出来事なのだということを関係者は心に刻みつけるべきである。

特に、当ブログに対して行われた権利侵害が、約10年間の長きにも渡っている事実や、今回、原告側から提出された書面の尋常ならぬ膨大な分量を裁判官が考慮する手間、そして、あらゆる訴訟は一年以上長引くことが決して珍しくないなどの事情を考慮すれば、当ブログを巡る訴訟が、一年にも達しないうちに終了することは、まさに奇跡的とも言える幸運なのだということを、当事者はよくよく覚えておく必要があろう。

原告側には、事件の全容が解明されていないうちに審理を終結することに、デメリットがないわけではない。しかし、筆者は、この訴訟においては、努力の限りを尽くして、すべての論証作業を終えたと考えており、何一つ思い残すことなく、その上、神の憐れみに満ちた采配が大いに働いて、信仰を証しするチャンスも与えられたことに、とても満足している。

このように、一切の心残りなく、判決を迎えられることは、この上ない幸いであって、筆者は裁判官を信頼しており、不服を述べるつもりは一切なく、今、自分自身も判決に服する一人として、厳粛な気持ちで、深く頭を垂れるのみである。

今回の事件を通じて、神が信じる者にとって、どれほど憐れみ深い方で、真実で公正な方であるか、そして、地上においても、公正な裁きを見せて下さるか、それを多くの人々が知ることができればと筆者は願っている。

また、悪者にはしたたかな報いがあることが、明らかにされるべきだと筆者は考えている。

筆者はこれまで、悪者に懲罰を加えることや、強制的な判決によって、人の心を縛ることに大きな躊躇があった。

だが、その躊躇が、事態の一層の深刻化を招いた事実や、それから現在に至るまで、当ブログに対する尽きせぬ憎悪を持つ人々が、これほど執拗かつ激しい権利侵害を繰り返しているのを目にし、筆者は、考えを変えざるを得なくなった。すなわち、信仰を捨てた人々の中には、まるで騾馬のごとく、轡をかけられる以外の方法では、決して行動を変えられない人々が存在するのだと思わされたのである。

とはいえ、筆者は決して、自分自身の手で報復しない。ただ正当な法的手段を用いて、悪者への懲罰という仕事は、しかるべき権限をもった人々に委ねるのみである。

信仰を持った人々に対する裁きは、教会の外に持ち出されるべきではないと、筆者は今でも考えている。だが、信者に偽装しながら、御言葉の真実性を否定する人々は、この世によって裁かれても、何の不思議もない。この世のことは、この世が裁くのだから、当然である。

いずれにしても、神は今日も生きておられ、ご自分に頼る人々を決して見捨てられることはないという確固たる事実を、間もなく、多くの人々が知る結果となるだろうことを、筆者は心から確信している。

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だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。(1)

「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」(ヤコブ4:7)

「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食いつくそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。

あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へと招いてくださった神ご自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」(Ⅰペテロ5:8-9\10)
 
* * *

主が時間をお与え下さるときは、大抵、何か正しい仕事を果たす必要が迫っている時である。今年に入ってから、当ブログでは、新たな権利侵害による告訴状を作成し、これが受理されたところであるが、事件に関する情報を調べていたところ、改めて某掲示板に、大量の著作権侵害の書き込みがあることを発見し、これも告訴対象に含めることとした。

神は隠れた事柄を明らかにされる方であるから、筆者は、昨年に民事訴訟を提起した時から、当ブログに対して長年に渡り組織的に行われているインターネット犯罪ネットワークの全貌を明らかにしたいと願って来た。

そこで、今回、見つけた投稿も、まさに飛んで火に入る夏の虫とで言うべき、絶好のタイミングであった。これでようやく有名指導者や有名信徒のみならず、無名の信徒に至るまでの犯罪ネットワーク全体を捜査対象に含めることができる段階に入った。
 
著作権侵害は、筆者から見ると、一番、告訴状の作成に手間がかからず、悩む必要のない手続きである。

不正な引用などによる著作財産権の侵害に対する罰則としては、著作権法第119条1項により、十年以下の懲役または一千万円の罰金もしくは両方が科される。法人には、3億円以下の罰金刑が科される(著作権法第124条)。
 
公表されていない著作者の氏名を無断で公表するなどの行為は、著作者人格権の侵害に該当するが、著作者人格権の侵害に対しては、「五年以下の懲役若しくは五百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。」との罰則が定められている(著作権法第119条2項2号)
 
ちなみに、名誉棄損罪に対する罰則は、次の通りである。
「公然と事実を摘示し、人の名誉を損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。」(刑法第230条)

従って、単純に比較するならば、名誉毀損よりも著作権侵害の方が、かなり罰則が重いのであって、掲示板に匿名で「××はバカ」とか「××は〇年〇月に××の犯罪行為をした」などとありもしないコメントを書いて他人を誹謗する罪よりも、誰かが作成した文章をまるごとコピペして出典を示さずに無断で掲載した罪の方が重い処罰を受けるのである。

名誉毀損の場合は、公然と事実を摘示して他者の名誉を毀損したと言える言い回しが必要となり、何が名誉毀損に該当し、何が侮辱罪に該当するかなどで議論が分かれる可能性があるが、著作権侵害は、オリジナルと偽物が対比できれば、犯罪事実の立証ができ、問責される余地が少なく、煩わしさが少ないのである

当ブログで、初めて刑事告訴が受理されたことを読者に告げたのは、昨年のことであるが、それから今まで、被告訴人らしき人間が逮捕されるなどの明白な現象が起きていないことを理由に、このニュースは嘘だと考えたい人々があるようであるが、刑事告訴が受理されてから、捜査が完了し、検察に送致されるまでの間、どのくらいの時間がかかるかという疑問については、やや少し前のデータにはなるが、とある弁護士のオフィシャルサイトに掲載されている平成29年4月25日の法務委員会の民法改正の審議の模様などを参考にされたい。

この審議においては、知能犯罪の刑事告訴が受理されてから、捜査が終了して検察に送致されるまでの間に、どのくらいの期間がかかっているかが質問された。

「配付資料二のとおり、知能犯罪の刑事告訴の件数はおおむね横ばいとなっていることなんですが、御答弁のとおり、検察官への送付までに要した期間としては、一年未満の件数と捉えても全体の約六割にとどまっているということで、やはり通達の趣旨、方針から離れて長期化している印象を受けます。」

この指摘を通しても分かることであるが、知能犯罪の刑事事件を受理すれば、司法警察員は、これを迅速に検察官に送付しなければならないことが義務づけられているとはいえ、実際には、刑事事件の一般的な処理スピードは、方針通りではなく、事件の内容によっても、かかる速度はまちまちなのである。

2017年に提示されたデータによると、知能犯罪の刑事告訴のうち、一年未満に捜査が終了して検察官へ送付されたものは、全体の6割程度でしかなかったことは、以上の審議において、政府参考人が、「これらの合計すなわち約六〇%が一年未満で処理されておりますけれども、一方、受理後一年以上二年未満で処理したものが約一九%、二年以上処理に要したものが約二二%となっている状況でございます。」と答弁している通りである。中には二年以上の月日を要したものも存在することが分かる。

このように、結局のところ、刑事事件が処理されるスピードについては、迅速な処理が期待されているとはいえ、一般的な目安を告げることは誰にもできず、事件の内容によって異なるとしか言いようのない部分があり、それにも関わらず、もしも当ブログの告訴において被告訴人とされた者たちが、捜査状況が明らかになっていないことを理由に、恐れることはないと高をくくっているとすれば、 「その日」は、突然、盗人のようにやって来るという以下の御言葉をそろそろ思い出す頃合いであろう。
 
終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」<略>

ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を送らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで作り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。」(Ⅱペテロ3:3-12)
  
捜査上の秘密は、当事者にさえも、つまびらかにされない。従って、まことに残念であるが、当ブログは、この先も、被告訴人らに対して、いかなる心の準備のための予告もすることはできない。
 
当ブログの内容を無断で転載するなどして、被告訴人となった者たちには、これからも警察と裁判所が有益な働きができるよう、国庫に十分なお金を納めていただくことになろう。昨今、著作権侵害は厳罰化されつつある傾向にあるため、去年に比べ、罰金額が増える可能性も考えられないことではない。
 
さらに、当ブログがペンネームで運営されていることを何の法的根拠もなく許せないと考えるこれらの御仁には、自らの信念に忠実に従い、犯罪事実と共に実名をさらされ、賠償の義務を負いつつ、残る余生を送ることを覚悟していただくのみである。
 
かくて、悪事は国家および市民の重要な資金源となるものであるから、これを見逃す手はない。悪魔からは最後の靴下一枚、最後の毛糸一本まではぎとることが実際に可能なのであり、それくらいの覚悟を固めて、我々は暗闇の勢力と向き合うべきである。

そのようなことが実際に可能なのだと知れば、虐げられた者たちはさぞかし勇気と希望を取り戻すことであろう。

* * *

さらに、筆者が前の記事で、今日の時代、神がキリストの十字架により罪を贖われたクリスチャンが、法廷で訴えられて被告とされるなど、あり得ないことであり、それ自体が、信仰的な敗北を意味すると書いたところ、これに対し、霊的に盲目な反逆の子らが、殉教者の名を持ち出して、愚かしい反駁をしているようなので、そのことについても一言述べておきたい。

使徒パウロや、イエスの十二弟子などが生きていた初代教会の時代は、ギリシア神話を取り込んで建国の理念としたローマ帝国の支配下の時代であった。

従って、初代教会に起きたキリスト教徒の迫害と殉教は、非キリスト教的・異教的な国家権力の存在を背景にのみ、成り立つものであった。秀吉の時代に殉教したキリシタンなどについても、同じことが当てはまる。

しかし、現在の日本国は、いかなる宗教神話をも、建国の理念としておらず、我々は憲法によって、信教の自由を保障されている。

従って、現代のクリスチャンとこの世の国家権力が、信仰的観点から見て、真っ向から対立しているという事実は存在しない(ただし、現代社会においても、一部の全体主義国、共産主義国などでは、これとは異なる状況がある)。

そこで、今日の我々日本のクリスチャンは、憲法を最高法規とする法体系によって、十分に身を守ことが可能なのであり、司法はその点で、我々の味方であり、我々自身も、法に服する存在である。

聖書には、クリスチャンが迫害を受けることについて、次のような記述がある。

「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。 また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。

引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない 。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。

兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」 (マタイによる福音書 10:16-23)

 
ここで「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」と書かれているのは、使徒たちの生きていた時代、ローマ帝国下の地方法院で、実際に彼らに対する鞭打ちが行われたことを指しているが、こうして彼らが罰せられたのも、ローマ帝国の公認宗教の側から見て、初期のキリスト教が異端視されていたという事情があるためである。
 
他方、今日の日本国憲法下では、キリスト教が異端視される根拠自体が存在しない。従って、それにも関わらず、誰かが、以上のような御言葉を口実に、異教的国家権力の統治時代と、我々の時代を同列に引き比べ、パウロやペテロのような使徒たちが処罰され、殉教しているから、現代のクリスチャンも、法廷に引きずり出されて、被告として訴えられ、(まして)処罰されて当然だと唱えるならば、そのような主張は、まさにあり得ないナンセンスな議論だと言えよう。

むしろ、事実はそれとは逆であり、現存する憲法下において、キリスト者が被告として訴えられることは、その者が憲法に保障された信教の自由を否定し、基本的人権を否定するなどして、法の精神を踏みにじり、敵に回したという嫌疑を受けることに他ならず、そうした嫌疑をかけられること自体が、クリスチャンの名折れである。現代の法の精神は、決して我々の信じるところの聖書と真っ向から対立するものではないからである。

さらに、霊的に盲目な人々は、よく目を開いて聖書を読めば良いが、聖書の中に、使徒たちの殉教した様子を表す記述は、全く書かれていない。ステパノは使徒ではなく、さらにステパノの殉教を扇動したのも、ユダヤ人たちであって、国家権力ではなかった。

このように、使徒たちは実際に殉教したにも関わらず、聖書にその記述がなく、ローマ帝国の支配下で、国家権力がキリスト教を公的に弾圧したがために、大規模な迫害が起きたという事実が聖書に記述されていないことには、極めて重要な意義があると考えられる。

筆者の目から見れば、それは、クリスチャンの殉教は、極めて個人的な十字架の道であり、各時代によっても、殉教に至るまでの背景や、その理由、形態が、すべて異なり、定式というものが存在しないためである。

さらに、もっと重要な事実として、聖書においては、国家権力が根本的に悪であって、キリスト教の理念と真っ向から対立するものであるという考えは、どこにも述べられていない。

むしろ、聖書では、人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は、自分の身に裁きを招くでしょう。」(ローマ13:1-2)と記されている通り、およそすべての権威が、根本的に、神に由来するものであるから、権威に対する反逆は、神の定めに背くことに通じるという重要な事実が述べられている。

(このことについては、愚かしい混同を招く浅はかな議論は禁物であるため、あえて書いておきたい。私たちが、あれやこれやの政治家の腐敗を糾弾することは、何ら権威を否定することを意味しない。政治家の汚職や腐敗を監視し、これを指摘し、非難することは、国民の義務と言えるのであり、それをしたからと言って、権威に逆らったことには全くならない。私たちは時の首相を含め、いくらでも政治家を批判することができるし、大いにそうすべきである。個人の政治家と、国家は同一のものではないからである。

しかしながら、世界の思想の中には、マルクス主義のように、国家権力そのものを根本的に悪とみなしてこれを打倒することを目指す思想が存在する。このように、革命やクーデターを唱道する思想は、権威そのものを否定し、権威に逆らう思想であると言えよう。

主イエスも、十字架にかかられる前には、その人気のゆえに、ローマ帝国の圧政からユダヤ人を解放する政治指導者になることを、弟子たちから期待されるほどだったのであるが、イエスは決してそのような道を選ばれなかった。)
 
使徒たちも、ローマ帝国の建国神話が嘘であることを知っていたが、世俗の権力によってあらぬ嫌疑をかけられたからと言って、権威に逆らって、世俗の権力の打倒を狙うことはなく、むしろ、当時の法の決定に従って、自ら十字架へ赴いたのであって、そのことによって、彼らが全く権威に反逆しなかったことが証明されている。
 
それでも、もしも今日、聖書の中に、使徒たちが殉教した場面の記述がなされていたとすれば、それを読む者は、殉教とは、国家権力がキリスト教徒を迫害して起きるものなのだと考え、その考えに基づき、使徒たちを弾圧した政治権力そのものに対して憎しみや反感を持ち、これを自分たちの生きている時代に重ねて、自国に対しても反感を持ったことであろう。

しかし、実際には、国家による大規模なクリスチャンの迫害は、いつの時代にも起きうる普遍的現象ではなく、あくまでローマ帝国や、軍国主義下の日本や、社会主義国などの、非キリスト教的、異教的理念を持った国家や、特殊な理念と政治形態の下でのみ起きうる現象であり、使徒たちの殉教も、そうした文脈でのみ成り立ったものなのである。

従って、ローマ帝国下で起きた特殊な時代現象を、あたかも普遍的現象であるかのように拡大して、現代社会においても、あらゆる国家のもとで、クリスチャンが迫害され、殉教するのが当然であるかのように主張している人々は、あまりにも愚かしい誤謬に落ち込んでいるのであって、さらにもっと言えば、そのような思想の根本には、マルクス主義と同じく、国家権力を、根本的に人民(自分自身)に敵対する悪とみなし、これを憎み、その権威を否定する思想が隠されていることを、我々は見抜かなければならないのである。

聖書には、そのようなことは書かれていない。聖書に書かれているのは、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」とか、「わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをする」といったことだけであり、ここでは、迫害する主体が、国家ではなく、むしろ、ごく普通の市井の人々になっていることに注意が必要である。
 
ちょうど今、掲示板で愚かしい騒ぎを繰り広げている匿名コメント者も、権力もなければ、名もない無数の市民たちである。

ユダヤ人たちに扇動されて、キリストを十字架にかけるよう、声高に叫び、ピラトに向かって、強盗を放免する代わりに、キリストを引き渡すよう要求したのも、名もない群衆であったが、このような名もない市民たちが、より集まっては、無実のキリスト教徒を憎み、談義を重ねては、迫害するというのが、いつの時代も、クリスチャンに対する迫害運動の根本的な引き金なのである。

このように、キリスト教徒の殉教というものが、あたかも時代を問わず、いつでも国家権力の側からの弾圧によるものだと考えて、愚かしいステレオタイプに落ち込んでいる人々は、ただ聖書を全く理解していないことを自ら証しているだけでなく、さらにもっと言えば、自分自身が処罰に値する人間であると自ら告白しているだけである。

殉教者の名前を持ち出して、自分があらぬ嫌疑をかけられて法廷に引きずり出されて被告とされることを容認するような思想は、次のステップへ進むと、自分自身への処罰を容認する思想へと発展し、ついには自分が死刑に処されることをも容認する思想へと至り着くことが予想される。
 
しかしながら、近年、我が国で、誤った宗教的信念とそれに基づく行動が原因となって、死刑に処されたのは、キリスト教徒ではなく、カルトの教祖であったことを見ても分かる通り、現代の日本国憲法下において、キリスト教徒を処罰したり、処刑する口実となる法など、どこにも存在しないのである。

むしろ、キリストは、律法の要求をすべて完全に満たして、神の目にいかなる落度もないと認められた聖なる神の独り子であるから、この方の御霊を内にいただいている者が、律法に及ばない現代の法体系によって裁かれる理由などあるはずがない。
 
それにも関わらず、パウロなどの殉教者を引き合いに出すことで、現代日本社会において、自分が法廷で被告とされるだけでなく、法の裁きを受けて処罰されることまでも、当然視かつ容認するような思想を唱える者は、まさに自分で自分を異端者(違反者)として告白し、カルトの教祖と同列に、自分が処罰されて当然の存在であることを告白しているだけなのである。
 
このような発想は、断じてキリスト教に基づくものではない。掲示板で、火あぶりにされたり、磔刑にされた人々の名を引き合いに出しながら、現代キリスト教徒もそのような末路を辿るのが当然であると、世迷言を日々書き連ねている人々は、その違反行為によって、自分自身が処罰されて当然の存在であることを言い表し、その日が来るのを夢見ているだけのことであって、自分の口で告白した通りの結果を身に招くことになろう。

ただし、今日も、キリスト教徒が世から迫害を受けることと、その結果、世俗の権力者および司法の人々の前で証することは、聖書に記されている通り、変わらない事実である。

現に当ブログに関しても、まさにその通りの現象が起きており、筆者が反訴や提訴や刑事告訴の脅しを受けたことは、それ自体が、聖書の預言の成就であり、そうした迫害が起きた結果、筆者がかえって司法および警察の前で、立派に信仰の証しをし、御子の十字架の贖いの確かさや、それを通して得られた完全な身の潔白を公然と証明して、神を誉め讃える結果となっていることも、まさに聖書の御言葉の忠実な再現なのである。

神は正しい方であり、神が御子の十字架を通して私たちにお与え下さった贖いは、永遠に変わらない判決であるから、暗闇の勢力には、これを奪い取ったり、覆したりするいかなる権限もない。彼らにできることは、脅すことだけであって、神の子供たちを手にかける権限はない。こうして、神はご自分の救いの確かさを万人の前に明らかにして下さり、それによって私たちの主に栄光が帰される。
 
* * *

さて、このように、キリスト教の信者を名乗りながらも、掲示板にたむろして、そこで自らの情欲の赴くままに世迷い言を並べては、神の聖なる子らを罵り、嘲ることをよすがとしている連中については、以下の御言葉を思い出さずにいられない。
  
「彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。<略>この者たちは、捕えられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。」(Ⅱペテロ2:10-12)

この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。」(Ⅱペテロ2:17-19)

こうした信者の名にも値しない不良信者の中には、かつてキリスト教会に失望・幻滅して以来、ずっと心の漂流を続け、キリスト教を憎んでいる者たちが多くいるものと見られる。筆者は、こうした信者たちに向かって、二度と教団などの組織や団体に戻らず、ただキリストだけに頼って生きるよう幾度も呼びかけたが、多くの人々がその忠告を無視して、自分だけは何としても一人になりたくないとばかりに、宗教団体に舞い戻って行った。

しかし、彼らは団体に所属していることによっては、全く心満たされず、依然として、神に出会うことも、神を知ることも、神を愛することもできず、救いの確信も得られず、罪の赦しの確信もなく、形式的な礼拝だけは守るものの、いつまで経っても、罪から自由になることもできず、自分たちの指導者にも敬意を払えず、兄弟姉妹との交わりで心満たされることもなく、罪悪感と劣等感でいっぱいになった空っぽの心を抱えて、結局、夜昼となく、掲示板に漂流し、そこで教会や信者たちの悪口を書き連ねて鬱憤を晴らすしかない状態に陥っている。

このような連中に対しては、次の御言葉を提示するだけである。

 
「人は、自分自身を打ち負かした者に服従するものです。わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、その者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。」(Ⅱペテロ2:17-21)
  
彼らが福音を全く知らない者たちであったならば、まだ罪は軽かったであろう。しかし、キリスト者を名乗りながら、以上のような行為に手を染めることにより、彼らはキリストを知らない世人よりも、なお一層、悪の道を転げ落ちていると言えよう。

しかし、腐敗した宗教団体を一旦、エクソダスしながらも、再び、宗教団体に所属することで、団体からの承認を救いと取り替えた人々に対しては、誰に対してであれ、以上の御言葉は、当てはまるものなのである。

たとえば、アッセンブリー教団に失望してこれを離脱して、日本基督教団へ行き、次に日本基督教団にも失望したから、プロテスタントをやめてカトリックへ行く・・・などという形で、団体から団体へと漂流している人々は、筆者の目から見れば、移籍する度毎に、ますます前よりも状態が悪くなって行くだけである。

筆者はアッセンブリー教団の理念に全く賛同しておらず、ペンテコステ運動も支持していないが、少なくとも、聖霊を重視するこの教団が、プロテスタントの中で、御霊の働きを回復するという、最新の信仰回復運動の中にあったというただ一点においては、どうにかこうにかそれなりの役割を担っていたと言えるであろう(だが、今となっては偽物の霊的運動が取って代わったため、その役目も果たせていない)。

そこで、聖霊派の団体につまずいた人々が、より御霊の働きを重視しない、さらに形骸化したプロテスタントの別の教団に移籍したとからと言って、そこには、信仰の後退以外に、起きるものはない。そのようなことをすれば、その者は、いずれ時が来れば、その団体からも去って、より一層、古く、より一層、命の息吹が感じられない、さらに形骸化した団体へと後退して行くことになるだけである。そして、そうなる頃には、すでに信仰の片鱗も見られず、ゲヘナの子と成り果てていることも保証できる。

しかし、もちろんのこと、誤りだと分かった教団に属したままでいることは、さらに致命的な危険であるため、ある宗教団体の理念の虚偽性が分かった時点で、信徒はこれと訣別しなければならない。その後は、聖書の御言葉が告げる通り、人間の指導者によらず、御霊に直接、教わって生きて行くべきである。

「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではなりません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:27-27)
  
我々は、何が真実な御霊の働きであり、何がそうでないかを、見わけねばならない(Ⅰヨハネ4:1)が、聖書の御言葉を守り、信仰によってこれを実際として生きるに当たり、聖霊の働きを無視することは、致命的な危険と誤りであることを知るべきである。

御霊は、キリストの死と復活を経たまことの命である以上、その働きをないがしろにして、クリスチャン生活は成り立たない。

従って、今日の信者のせねばならないことは、どこかの教団教派につまずいたからと言って、時代を遡って、より古く形骸化した団体に逆戻ることではなく、聖書の御言葉に基づいて、真実な聖霊の働きを飽くことなく求め続けることにあり、私たちは常に、より前衛的でより革新的な真実な命の現れのある信仰回復運動を追い求めて行く必要がある。

とはいえ、前から書いている通り、今日における「より前衛的で革新的な信仰回復運動」は、決してこれまでのような大規模な大衆運動の形を取らないことであろう。

当ブログで、再三再四、引用して来たオースチンスパークスの論説「私たちのいのちなるキリスト」にも、次のようにある通りである。

「聖霊の主要な目的の一つは、信者を復活・昇天した主であるキリストと一体化し、キリストの復活のいのちを信者の経験の中で実際のものとすることです。時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。他方、そうしたものへの失望や幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、主だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。

「教え、伝統、制度、運動、人などの何かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱や幻滅が生じ、おそらくさらに悪いことになるでしょう。」

時代が終末に向かって進むに連れて、目に見えるもの、「物、人、運動、制度、組織」などは、反キリストの統治手段として利用されて行く。それらのものに付随している「教え、伝統、制度、運動、指導者」なども同じであって、そこに自分を当てはめようとすることが、今や反キリストの原則に身を委ねることを意味する時代が到来しつつあるのだと言える。

組織や事物や指導者に束縛されることが、まことの命なるキリストの御霊の働きを制限するか、もしくはこれに悪質に敵対するものとなることが、今日、明白に証明されつつあるのだと言えよう。

従って、今から約10年ほど前に、宗教団体をエクソダスせよという主張が登場して来たのは偶然ではなく、これらの目に見えるものを離れなければ、純粋かつ正しい信仰を守れない時代が到来しているのである。

ただし、宗教団体をエクソダスせよと唱えながら、自らが宗教団体となり、宗教指導者となっている偽物の団体にも所属してはならない。

今日の信者に必要なことは、目に見えるいかなる指導者にも頼らず、目に見える組織や団体からの保証にすがらず、見えないキリストご自身にのみ立脚して、この方の命によって、信仰の道を歩むことである。そして、それは何ら特殊なことでもなければ、著しく困難なことでもなく、ただ代価を払って主に従う決意があれば、誰にでも十分に可能である。

<続く>

主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。

「カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。

主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。 」(創世記4:8-12)

「主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。 」(創世記18:20-21)

「富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を責め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。

見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、「ほふらるる日」のために、おのが心を肥やしている。そして、義人を罪に定め、これを殺した。しかも彼は、あなたがたに抵抗しない。 」(ヤコブの手紙5:1-6)

死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。陰府の綱は、わたしを囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいました。わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。そのとき地は揺れ動き、山々の基は震い動きました。主がお怒りになったからです。」(詩編18:4-7)

「さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか。あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ。

主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。

主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。

悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない」(詩編34:12-22) 


今回の記事のテーマは、「主に向かって不正を声高に叫び、諦めることなく正義を求めて訴え続けよ」というものである。

多くの日本人は、不正に抗議することは無駄であると考えている。権力者の腐敗などに対し、どんなに声をあげても、ただにらまれ、いわれのない制裁を受け、仕事を取り上げられ、人々に見捨てられ、不遇の人生を送ることになるだけであり、そんな人生はカッコ悪く、自分にとって損なだけだと。

そうして多くの人々は、強い者が嘘をついてもいることが分かっていても、自己保身の思いでこれを見て見ぬふりをして沈黙し、真実が曲げられ、不正義が横行し、弱い者が不当に虐げられ、見殺しにされても、全く声もあげない。順番が自分に回って来るまで、すべての苦しみは完全に他人事である。

戦前・戦中もそうであった。かつての戦争は、軍部だけが起こしたものではなく、大衆の無言の賛同があって初めて推し進められたものであった。人々は、竹やり訓練や火消し棒による消火活動では敵軍に勝てないことをよくよく知っていた。鍋や釜はもちろんのこと、家畜やペットに至るまでの供出に全く意味などないこと、「一億玉砕」、「欲しがりません勝つまでは」、「進め一億総火の玉だ」などといったスローガンなどが、どんなに空虚なものであるかをよく知っていた。特攻などは無駄死を奨励するだけで戦況に影響を与え得ないことを誰もが予想できたのである。

にも関わらず、それらの虚しさに人々はほとんど声をあげなかった。自分がその嘘を見抜いていることさえ必死で隠した。命が惜しかったからである。特高警察に連行されたくなかったからである。非国民と呼ばれ、断罪されることを恐れたからである。だが、そうして必死に保とうとした命を、彼らは赤紙一枚で失い、空襲で失い、原爆で失い、戦場で餓死し、大陸に置き去りにされ、集団自決し、自ら無残に捨てるようにして死んでいった。

今という時代の怖さは、まだ戦争も起きておらず、何も起こっていないのに、異変が起きる前から、戦前や戦中と同じく、大衆が権力者の横暴に見て見ぬふりをし、不正に対して憤ることをやめて、善悪の感覚や、良心の判断を故意に眠らせて、自主的な沈黙に甘んじていることにある。

そうこうしているうちに、現在の我が国の状態は、ますます戦争状態に近づき、ネットでは「中世ジャップランド」などと揶揄されるほどまでにディストピアと化してしまった。

日本人には伝統的に、声の大きい者に対しては、その者がどんなに不正なスローガンを唱えていたとしても、長いものには巻かれろ式に、沈黙して、あきらめて従ってしまうという悪い性質があるのだろうか?

東京オリンピックは、「ただボラ」によって支えられるらしい。オリンピックのための資金は有り余るほどあるのに、政府とオリンピックを率いる委員会や関連組織は、猛暑の中、金も払わず、保険もかけず、若者をただで招集し、命がけでボランティアをさせようというのだ。

おそらく死人が出ることは必至だと予想する。選手も大変であろうが、ボランティアが熱中症で亡くなっても、雇用保険にも入っていないのでは、労災にも当たらない。国威発揚のためにただ働きを肯定するどころか、人命までも平気で犠牲にする、まさに呪われたオリンピックとなることが、実施する前から誰にでも分かる有様だ。

こうした事情を見ても、今まさに、戦時中と同じく、大人たちが若者に苦役としか言えない労働や、貧しさや、死を強制する恐ろしい世の中が実現しつつある様子がよく分かる。それが国家的レベルで推進されているところが戦時中とよく似ている。

これまで筆者は当ブログにおいて、あらゆる異端思想には、年長者による年少者の搾取、親世代による子世代の搾取などの歪んだ発想が込められていることを指摘して来たが、そのような搾取は、もとをたどれば、先祖崇拝へと行きつく。

要するに、先祖の罪を子孫が永劫に背負い、罪人に過ぎない亡き先祖の霊を供養することで、先祖の罪を贖おうと努力することが、子孫の最大の義務とみなされるような、理不尽な信仰が、そのような考え方を生んでいるのである。

罪あるもの、呪われたもの、腐敗したもの、尊ばれるべきでないものを「ご本尊」のように拝み、人類に受け継がれている罪による血統を神聖視して拝んでいればこそ、先祖の罪の贖いのために子孫が未来永劫に命を犠牲にせねばならないという転倒した思想が美化され、奨励されるようなことが起きるのである。

従って、以上のオリンピックにかこつけた厚かましいただ働きの要求のような諸現象は、ただ金儲けだけが目的で行われるのではなく、先祖が自らの罪を覆い隠し、これを子孫に転嫁して子孫に償いを要求するために、子孫を犠牲にし、殺すという恐ろしい思想が背景にあってこそ、生まれて来るものなのである。

さて、冒頭の御言葉に戻りたいが、面白いことに、聖書には「未払い賃金が天に向かって叫んでいる」という個所がある。さらに、アベルのように無実にも関わらず殺された義人の血も、天に向かって叫んでいるという。

昨今のようにブラック企業が溢れ、過労死が合法化されようという世の中では、未払い賃金のことなど叫んでも無駄であり、まして不正な事件によって殺された人は、生きている人間の目から見れば、まさに「死人に口なし」の状態に置かれているので、その事件については、今更、誰が何を訴えてももはや無駄であるように見えるかも知れないが、ところが、聖書は、そのような不正事件のすべての証拠は、ずっと天に向かって叫び続けると述べているのである。

罪無くして殺された死者の血が天に向かっておのずから叫び、未払い賃金は、誰もそれを要求せず受け取り手がおらずとも、不当な搾取として、天に向かっておのずから声をあげ続けるというのだ。これは興味深いことである。

そして、それらの不正事件に関連した叫びは、すべて最終的に「アベルの血よりも力強く語るそそがれた血」(ヘブル12:24)へと集約されていく。

主なるキリストこそ、無実にも関わらず十字架ですべての罪人の罪を代表して負われ、苦しみを負い、殺されたがゆえに、彼はあらゆる人間の悲痛な叫び、苦悩、理不尽を代弁して、神に向かって叫び、とりなすことのできる方である。

つまり、地上におけるすべての信仰による義人たちの叫びは、キリストのあかしに集約されていくのである。

従って、信仰の世界は、この世の市場原理主義では成り立っていない。天の御国は、富める者、声の大きい者、力ある者の訴えだけがまかり通る弱肉強食の世界ではない。

むしろ、天の御国では、この世においては、限りなく、声なき弱者に分類され、見殺しにされるはずの者たちの苦悩を、神は確かに知っておられ、神ご自身が彼らをかえりみて下さり、この弱い声なき寄る辺ない人々を苦悩から引き上げて、高く安全なところへ置いて下さるのである。

さらに、ここで言う天の御国とは、断じて死後の世界を指すのではない。私たちが生きて地上にいる現在、信仰によって、その御国は、私たちの只中に到来しており、この世の有様に大きな影響を与えるのである。

これまで、筆者は、自分よりも力の強い者が、真実や正義を曲げて、弱い者を不当に踏みにじっている時、それに対して、真実や正義を守るために、時には無駄ではないかと思うような主張を幾度も投げかけて来た。
 
それは正義の運動という形を取ることもなく、ただ筆者の個人的な訴えであったので、時には、その叫びは弱く、あるいは孤立無援のように感じられた。しかし、後から見れば、そういう声なき声のような、一つ一つの訴えや、苦悩が、まさに主によって聞かれ、取り上げられていたのだと思うことしきりである。

だが、その当時は、自分では決してそうとは分からない。訴えてもむなしく響くばかりであり、誰も正義や真実に耳を傾ける者はないのだと、落胆するようなことがなかったとは言えない。

ところが、束の間の悲しみや、悩み、苦しみが過ぎ去ってみると、最も苦しい時に、人の心の奥底にある呻き、叫び、嘆きのすべてに、神が直接、耳を傾け、聞き取って下さり、ふさわしい助けの手を差し伸べて下さっていたのだと分かる。
 
神はご自分を信じる人々のすべての悩み苦しみに真摯に耳を傾けて下さる方であり、この方に対しては、私たちは何一つ飾らず、どんなことでも率直に打ち明け、心の思いのすべてを余すところなく吐露することが許されている。理不尽な事件に対する憤りも、嘘や不正に対する憤りも、真実を飽くことなく追い求める心も、神に対しては隠し立てする必要が全くないのである。

しかしながら、今回の記事のテーマの一つは、私たちが地上で、ただ黙って心の中で祈る言葉だけではなく、人に対して口にする言葉にも、神は耳を傾けて下さっているということである。

人間は、自分にとって好ましい言葉しか聞きたくないという極めて自分勝手な生き物なので、社会の和を乱す言葉、自分にとって不快な言葉はすべて「悪」と決めつけて退ける傾向がある。

つまり、人間社会においては、圧倒的多数の人間にとって好ましく感じられるかどうかが、正しいかどうかを決める判断基準とされるのである。力ある多数派の意見は尊重されるが、弱々しい少数派の意見は無視される。アピールの仕方が巧みであれば、嘘でも多くの人間に支持されるが、話し方が下手であれば、誰も耳を傾けない。

人間の物事の判断基準はどこまで行っても、身勝手で、自己中心で、不公平で、偏ったものだと言えよう。従って人間が人間の訴えに対し、真に公平な評価を下すということはまず考えられない。

しかしながら、神は、決してそういう観点から、人の口にする言葉をお聞きにならない。神が人の言葉を吟味される基準は、それが誰かにとって不快であるかどうかや、人間社会の和を乱すかどうかといった基準ではなく、それが真実であるかどうか、また、神に届く叫びとしての条件を満たしているかどうか、という点である。

神は誰のことをも偏り見ることなく、公平に物事を見られ、裁かれる方なので、弱い者の訴えだからと言って耳を塞がれることはなく、金持ちだから優遇するということもない。

それゆえ、人間社会では、全く相手にされない訴えが、神には取り上げられる。まして信仰のある者の訴えは天に直通する。
 
私たちの叫びが天に届くとき、それからほどなくして、天からの神ご自身のアクションが帰って来る。

そのタイミングは、信仰者から見ても、しばしば遅いと思われることがある。ダビデがしばしば詩編に書いているように、祈った者自身が、「主はこの祈りを聞き届けてはくださらないのだろうか」などと疑い、忍耐の限りに達しようとしているような時に、神は力強く立ち上がって、天からその者を助けるために、御腕を差し出して下さる。

たとえば、筆者自身も、語った当初は、自分の言葉が、それほど力強い影響力を持つものだとは考えず、むしろ、地上では弱い者としてその訴えが退けられたり、踏みにじられたり、無視されるのを見て悲しんだりと、人間的な感情を経験することもあった。ところが、地上の人々や、筆者の思惑や感情とはまったく別に、その訴えが、やがて地上から天へと運ばれて行き、天を動かし、天から地にその反響が届く、ということがよく起きるのである。

そういう結果を見る時に、初めて、筆者は、自分の主張を過少評価しすぎていたことが分かる。いや、主が着いておられることの意味を十分に理解していなかったことが分かる。あの時、筆者が誰かに向かって発した言葉は、この人間社会においては、蔑まれるほか、全く相手にされないように見えたが、その実、それを、神が直接、注意深く聞いていて下さったのだと分かるのである。

もちろん、人間同士の会話の中に、神が目に見える形で立ち会っておられるわけではない。人間同士の会話では、意思疎通が成立しなければ、どんな訴えも、むなしく空中に散じたように見えるだろう。

しかし、我々があれやこれやと心配する必要がないのは、誰に向かって発したどんな言葉であれ、人間がそれに対してどのような反応を返すかが肝心なのではなく、神がそれを我々の味方になって非常に注意深く耳を傾けて下さり、信じる者の求めに応じて、その者を問題の渦中から引き上げて、平安を与え、解決を与えて下さるからである。

それはちょうどアブラハムとロトが土地を分配し、ロトがソドムとゴモラを含む豊かな低地をことごとく選んで去って行った後、一人になったアブラハムのもとを神が訪れたような具合である。

人間と人間とのコミュニケーションは、常に双方の側から何かの意思疎通に達するとは限らない。我々が毎日、無数に相手にしている人間たちは、正義にも真実にも全く価値を置かず、何を訴えても、自分に都合の良い言葉だけを選び取り、あるいは話が決裂に終わり、あるいは主張が踏みにじられ、あるいは極めて不公平な結論が突きつけられるだけということが起きるかも知れない。

だが、たとえどのように不毛な会話が展開したとしても、神の人(=信仰者)が、そのコミュニケーションを終えて、ほっと一人になって天を仰いだとき、その時、それまで地上での会話の一部始終を見ておられた神が天から応答して下さるのである。

たとえば、カインのように、義人の訴えをかえりみず、それを踏みにじって、無視し、立ち去る者がいたとしても、その後、その者がどうなるかまでは、我々の責任ではない。

私たちが認識していなければならないことは、神は私たちの味方であり、私たちの訴えをことごとく取り上げて下さる方だということである。

今日、私たちは、アベルのように犠牲者となって死ぬ必要はないゆえ、理不尽な事件があれば、それを神に存分に訴え、神が正しく裁いて下さるよう、根気強く願い求めることができる。

そこで、我々はどんな事件に遭遇しても、決して諦めることなく、(聖書に約束された正しい)自分の権利を求めて、天に向かって声を発し続ける必要がある。

これは自らの手で悪人を成敗せよとか、不正な事件を自力で解決せよと言っているのではない。

神がすべての物事を公平にご覧になり、ふさわしい裁きを下して下さる方であり、なおかつ、この世において声をあげることのできない弱い者たちを、悩みの渦中から救い出し、天へと高く引き上げ、すべての解決を与えて下さることのできる方であることを、固く信ぜよと言っているのである。

それを信じて、自分の思いを、決して隠すことなく、率直に、神に向かって訴え、正しい解決を求めることをやめてはいけないと言っているのである。

この世がどれほど異常になり、どれほど人々の心が険悪となり、頑なになって行ったとしても、私たちは、人間社会の有様がどうあるかに心を奪われてはならず、あくまで正しいと思う解決を天に向かって願い求め続けなければならないのである。なぜなら、神は地上の人々のように物事を偏ってご覧になることは決してないからである。

悪事に立ち向かい、悪人に立ち向かい、正しい裁きを天に願い求める私たちの諦めない執拗な祈りは、天を動かす原動力になる。
 
ドムとゴモラには、たった5人の義人もおらず、アブラハムの親族であるロトの家族の他には、誰一人その町の滅びから救い出される者もなかったが、そのように恐るべき腐敗した社会の只中においても、神の正しさは少しも変わらず、神はすべてを公平・公正にご覧になっておられ、これらの町々の悪に対しては、正しい裁きを下されたのである。その裁きは、ソドムとゴモラの社会にとっては、災いであり悲惨なものでしかなかったが、神は彼らの罪に対して、ふさわしく報いられたのだと言える。

神が変わらないお方である以上、今日のソドムとゴモラに、かつてのソドムとゴモラとは異なる判決が下ることはあり得ない。我が国の表面的な有様が、もはや手遅れのようにしか見えないほどに腐敗したものとなっていたとしても、その中で、信仰による義人に対する神の約束は、ほんのわずかたりとも揺らがず、変わることもない。

だから、私たちはこの世の社会の有様がどうあれ、あくまで神の御心にかなった正しい裁きを地上で願い求め続けねばならず、自分が信仰によって生きる義人であることを固く信じて、常に神の助けが約束されていることを信じ、これを受け取って生き続けなければならない。

もう一度、冒頭で引用した聖句を繰り返しておきたい。
 
主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。

主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。

悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに罪に定められることはない。

神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。(2)

さて、これまでの記事の中で、聖書の順序では、肉によって生まれた者が霊によって生まれた者を迫害する、という出来事がまずあり、その次に、霊によって生まれた子が十分に強くなって意思表示を行うとき、初めて肉によって生まれた者が神の家から駆逐されて、霊によって生まれた者が正当な地位を取り戻すことを述べた。

自由の女(サラ)から約束によって生まれた子(イサク)だけが、神の国の正統な後継者であり、奴隷の女(ハガル)から肉によって生まれた子(イシマエル)は後継者になれない。

だが、奴隷とその子が神の家から追い出されるに当たり、どうしても必要だったのが、サラの意志表示であった。

「けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。」(ガラテヤ4:29-30)

同様に、エステル記を読むと、ハマンを悪者として王に訴えたエステルの意志表示が決定的に重要な働きをなしていたことが分かる。

これは、サタンを神に訴えることが、キリスト者の使命であることをよく表している。キリスト者は、御霊によって生まれた者を迫害する肉なる者たちを、神に向かって告発し、これらの者が正体を暴かれて神の家から取り除かれるよう、神に懇願するという重要な使命を担っているのである。

ちなみに、話は逸れるが、以下の原則(ガラテヤ4:27)は、時代を問わず、エクレシア(神の教会)を貫くものである。

「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
  喜びの声をあげて叫べ。
  産みの苦しみを知らない女よ。
  一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。」

サラは老いてからであったとはいえ、約束の子イサクを産んだわけであるから、もはや「不妊の女」という蔑称はふさわしくない、と思うかも知れない。しかし、実は「不妊の女」「産みの苦しみを知らない女」「一人取り残された女」「夫のない女」と言った呼び名は、蔑称ではなく、純潔のエクレシアを示すためには欠かせない永遠に高貴な称号なのである。

最初の人類であったエバは弱さのゆえに罪に堕落して、最も不名誉の女の代表格となってしまった。しかし、こうして不適格者の烙印を押され、堕落の象徴のようにみなされ、見捨てられた存在のようになってしまった「女」を通して、逆説的に人類を回復しようということが、神のご計画の一部としてある。

そこで、神は選ばれた民ではなかったモアブ人ルツをキリストの系譜の中で選び出されたり、キリストを産むために処女マリヤを選び出されたり、スカルの井戸でサマリヤの女に話しかけられたりと、絶えず、選ばれた力ある民ではなく、力のない、無名で、見捨てられ、不名誉を負っていた女たちを、しばしばご計画の成就のために用いられたのである。

最終的には、「女」の回復は、キリストの花嫁たるエクレシアの従順によって成し遂げられる。

だが、そのことは、決して「女性原理」の賛美や崇拝と混同されてはならない。たとえば、多くの宗教画で「聖母マリア」が赤ん坊を抱いた女性として描かれ、その母性本能が褒めたたえられているのとは全く逆に、マリアがキリストをみごもったのは、肉の欲望によらず、肉なる母性本能によるものではなかった。キリストの誕生には、肉なる人間(男性)の参与も必要なければ、天然の「母性原理」が働く余地も全くなかった。マリアはあくまで「夫のない女」「不妊の女」として、聖霊によってキリストをみごもったのである。

このことはサラにも同様に当てはまる。イサクは聖霊によって生まれた子とは言えないが、それでも、サラが子供を産むことのできる条件を失ってから生まれた子であった。従って、これも「母性原理」によって生まれた子ではないとはっきり言える。イサクは神の約束によって、信仰によって与えられた子であり、その意味で、聖霊によって生まれるキリストを予表している。そのためにこそ、サラはイサクを産んだ後でも、「不妊の女」「夫のない女」と呼ばれ続けているのであるが、これは決して彼女にとって不名誉な称号ではなく、むしろ、栄誉ある称号であって、決して彼女が肉なる被造物に服することなく、キリストだけに従う永遠に純潔の花嫁たるエクレシアの一員として生きたことを象徴する呼び名なのである。

このように、エクレシアは永遠に「夫のない女性」「独身の女性」「不妊の女性」である。なぜなら、エクレシアの夫はキリストであるが、まだ彼女は夫が迎えに来るのを待っている未婚の花嫁の状態にあるからであり、その子は聖霊によってのみ生まれることが約束されている子だからである。このように霊的に”未婚”の状態にあること、肉による子供を持たないこと(肉に蒔いて肉による実を持たないこと)、キリストだけに服することは、エクレシアから決して取り除かれることのない条件である。

聖書は結婚を禁じたりは全くしていないが、それでも、パウロは、もし信者が独身でいられるならその方が良いと述べている。なぜなら、肉にある伴侶を持つと、その者に仕えねばならなくなり、こうして人間に対する気遣いに絶えず心を煩わせるよりは、むしろ神のことに専念できる立場にあった方が良いとパウロは言うのである。

「しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」(Ⅰコリント7:28-35)

それに引き換え、肉によって生まれる者たちは、肉の事柄には聡く、「未婚」や「不妊」などの不名誉な称号とは無縁である。彼らは、霊によって生まれる者たちよりも早く子を産み、子供らの数、家族の人数、己が権勢、財産などの目に見える数々の所有物を誇る。ハマンも息子たちが数多いことを誇っていたとある。

だが、それは肉による実である以上、霊による実に比べ、全く永続性がない。永続性がないだけでなく、神の目には堕落して呪われた被造物である。それらは束の間に過ぎ去り、一時は栄えているように見えても、あっという間に消え失せてしまう。

「王とハマンは王妃エステルの酒宴に臨んだ。 このふつか目の酒宴に王はまたエステルに言った、「王妃エステルよ、あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。

王妃エステルは答えて言った、「王よ、もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしよしとされるならば、わたしの求めにしたがってわたしの命をわたしに与え、またわたしの願いにしたがってわたしの民をわたしに与えてください。 わたしとわたしの民は売られて滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています。もしわたしたちが男女の奴隷として売られただけなら、わたしは黙っていたでしょう。わたしたちの難儀は王の損失とは比較にならないからです」。

アハシュエロス王は王妃エステルに言った、「そんな事をしようと心にたくらんでいる者はだれか。またどこにいるのか」。 エステルは言った、「そのあだ、その敵はこの悪いハマンです」。そこでハマンは王と王妃の前に恐れおののいた。 王は怒って酒宴の席を立ち、宮殿の園へ行ったが、ハマンは残って王妃エステルに命ごいをした。彼は王が自分に害を加えようと定めたのを見たからである。

王が宮殿の園から酒宴の場所に帰ってみると、エステルのいた長いすの上にハマンが伏していたので、王は言った、「彼はまたわたしの家で、しかもわたしの前で王妃をはずかしめようとするのか」。この言葉が王の口から出たとき、人々は、ハマンの顔をおおった。 その時、王に付き添っていたひとりの侍従ハルボナが「王のためによい事を告げたあのモルデカイのためにハマンが用意した高さ五十キュビトの木がハマンの家に立っています」と言ったので、王は「彼をそれに掛けよ」と言った。 そこで人々はハマンをモルデカイのために備えてあったその木に掛けた。こうして王の怒りは和らいだ。


今日、信仰によらない、御霊によらない、肉にある者たちが、神の教会を荒らし回っている。彼らは、唯一の神も、キリストの十字架の贖いも、罪の赦しも、聖書の御言葉も、何一つ信じていないのに、「教会から被害を受けた」「教会のカルト化を許してはおけない」などの言いがかりをつけては、被害者意識、人間の正義感など、肉による動機を振りかざして、教会に自分たちを受け入れるよう迫っている。

この人々は、教会の一員となる資格を全く持っていないにも関わらず、教会を責め、言いがかりをつけることによって、教会の中に巧みに入り込もうとしており、それによって、教会を占拠し、信仰による神の民をかえって迫害・駆逐しようとしている。彼らの中傷、乱暴狼藉、暴虐によって、神の民はまさに圧迫され、滅ぼされようとしているところだ。

これに対し、我々は、エステルが王に願い出たと同様に、この狼藉者たちの暴虐を声を限りに非難し、神に訴えるべきである。彼らが神の民の根絶を願っていることを神に告げて、この不信者らがこれ以上、神の民に害を加えることなく、ふさわしい罰を受けるよう願い出るべきである。

彼らは、ハマンがエステルに懇願したように、神の民に憐れみを乞うことで、処罰を免れようとするであろうが、それは成らない。そして、肉による者たちが、霊による者たちに危害を加え、根絶やしにしようとしたその悪意は、肉による者たち自身に跳ね返る。

ハマンがモルデカイを吊るそうとして自宅に作った処刑台が、ハマン自身の処刑台となったようにだ。
 
ハマンの死を思うとき、今日も、キリストと共なる十字架で死んでよみがえらされ、キリストの復活の命によって生きる神の民を中傷し、穢し、冒涜する者には、一体、この先、どんな厄災が降りかかることであろうか。

カルト被害者救済活動の支持者らは、神の民を精神異常者呼ばわりしているが、彼らが述べている世迷いごとを見れば、実際には、彼らこそ、まさに精神異常に陥っていることが、精神科医でなくとも、誰にでもすぐに分かる。勝ち目もない裁判に信徒を焚き付けたり、自分が見たことも聞いたこともない事柄について、まことしやかに虚偽を並べて人々を中傷したり、彼らの言うことには何の整合性もなく、彼らのしていることは自滅行為でしかなく、もはや人としての最低限度の常識や思考能力すらも完全に見失い、早く自分を罰してくれと世に向かって叫んでいるに等しい。

これが聖徒らを訴える者に降りかかる不幸な結末なのである。何度も述べて来たように、「主を畏れることは知恵の初め。 無知な者は知恵をも諭しをも侮る。 」(箴言1:7)とあるように、聖書の御言葉に従うことこそ、知恵と知識への道であり、御言葉を否定することは、無知と精神崩壊の始まりである。

聖書の御言葉に悪質に逆らう者たちからは、人としてのバランスの取れたものの見方や、常識や、健全な思考能力がどんどん失われて行く。彼らはこれまで裁判を振りかざしては教会を脅し、圧迫して来たが、実際に、自ら宣言している通り、裁判所に赴いてみれば良いのだ。彼らが述べているような嘘に満ちた一貫性のない屁理屈は、この世の人々の前でも、決してまかり通ることがないとすぐに分かるはずだ。

ハマンはエステルに訴えられて後、王の前で「顔を覆われた」。これはハマンが人に忌み嫌われる者の象徴となったことを意味する。この世の言い回しでは「人を呪わば、穴二つ」だが、キリスト者を呪った場合は、「穴一つ」だ。なぜなら、呪った者自身にその悪意が跳ね返るだけだからだ。

愚かなことである。カルト被害者救済活動の支持者らが、わざわざ自分で呪詛の言葉を口にしたりしなければ、それが彼らの身に降りかかることもなかったであろう。「一度口から出した言葉は取り消せない」と、彼らは自ら述べているのだから、彼らは自ら述べた言葉によって罪に定められ、その言葉は二度と撤回できまい。この先、顔を覆われた者同然に扱われることになるのは、彼ら自身である。それが彼らが自分で振りかざした掟によって自ら裁かれることの結末であり、彼らが自分で口にした言葉の刈り取りなのである。

このように、聖書の神、聖書の御言葉に敵対し、神の教会に敵対し、キリスト者を冒涜し敵対する者たちは、信者から憎まれるだけでなく、この世からも憎まれることになる。なぜなら、キリストの復活の命に基づくエクレシアの支配は、この世を超越しており、この世に対しても及んでいるからだ。
 
「その日アハシュエロス王は、ユダヤ人の敵ハマンの家を王妃エステルに与えた。モルデカイは王の前にきた。これはエステルが自分とモルデカイがどんな関係の者であるかを告げたからである。 王はハマンから取り返した自分の指輪をはずして、モルデカイに与えた。エステルはモルデカイにハマンの家を管理させた。

エステルは再び王の前に奏し、その足もとにひれ伏して、アガグびとハマンの陰謀すなわち彼がユダヤ人に対して企てたその計画を除くことを涙ながらに請い求めた。 王はエステルにむかって金の笏を伸べたので、エステルは身を起して王の前に立ち、そして言った、「もし王がよしとされ、わたしが王の前に恵みを得、またこの事が王の前に正しいと見え、かつわたしが王の目にかなうならば、アガグびとハンメダタの子ハマンが王の諸州にいるユダヤ人を滅ぼそうとはかって書き送った書を取り消す旨を書かせてください。 どうしてわたしは、わたしの民に臨もうとする災を、だまって見ていることができましょうか。どうしてわたしの同族の滅びるのを、だまって見ていることができましょうか」。

アハシュエロス王は王妃エステルとユダヤ人モルデカイに言った、「ハマンがユダヤ人を殺そうとしたので、わたしはハマンの家をエステルに与え、またハマンを木に掛けさせた。あなたがたは自分たちの思うままに王の名をもってユダヤ人についての書をつくり、王の指輪をもってそれに印を押すがよい。王の名をもって書き、王の指輪をもって印を押した書はだれも取り消すことができない」。

その時王の書記官が召し集められた。それは三月すなわちシワンの月の二十三日であった。そしてインドからエチオピヤまでの百二十七州にいる総督、諸州の知事および大臣たちに、モルデカイがユダヤ人について命じたとおりに書き送った。すなわち各州にはその文字を用い、各民族にはその言語を用いて書き送り、ユダヤ人に送るものにはその文字と言語とを用いた。 その書はアハシュエロス王の名をもって書かれ、王の指輪をもって印を押し、王の御用馬として、そのうまやに育った早馬に乗る急使によって送られた。 その中で、王はすべての町にいるユダヤ人に、彼らが相集まって自分たちの生命を保護し、自分たちを襲おうとする諸国、諸州のすべての武装した民を、その妻子もろともに滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取ることを許した。

ただしこの事をアハシュエロス王の諸州において、十二月すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちに行うことを命じた。 この書いた物の写しを詔として各州に伝え、すべての民に公示して、ユダヤ人に、その日のために備えして、その敵にあだをかえさせようとした。王の御用馬である早馬に乗った急使は、王の命によって急がされ、せきたてられて出て行った。この詔は首都スサで出された。

モルデカイは青と白の朝服を着、大きな金の冠をいただき、紫色の細布の上着をまとって王の前から出て行った。スサの町中、声をあげて喜んだ。ユダヤ人には光と喜びと楽しみと誉があった。いずれの州でも、いずれの町でも、すべて王の命令と詔の伝達された所では、ユダヤ人は喜び楽しみ、酒宴を開いてこの日を祝日とした。そしてこの国の民のうち多くの者がユダヤ人となった。これはユダヤ人を恐れる心が彼らのうちに起ったからである。
 
十二月すなわちアダルの月の十三日、王の命令と詔の行われる時が近づいたとき、すなわちユダヤ人の敵が、ユダヤ人を打ち伏せようと望んでいたのに、かえってユダヤ人が自分たちを憎む者を打ち伏せることとなったその日に、ユダヤ人はアハシュエロス王の各州にある自分たちの町々に集まり、自分たちに害を加えようとする者を殺そうとしたが、だれもユダヤ人に逆らうことのできるものはなかった。すべての民がユダヤ人を恐れたからである。

諸州の大臣、総督、知事および王の事をつかさどる者は皆ユダヤ人を助けた。彼らはモルデカイを恐れたからである。モルデカイは王の家で大いなる者となり、その名声は各州に聞えわたった。この人モルデカイがますます勢力ある者となったからである。そこでユダヤ人はつるぎをもってすべての敵を撃って殺し、滅ぼし、自分たちを憎む者に対し心のままに行った。ユダヤ人はまた首都スサにおいても五百人を殺し、滅ぼした。またパルシャンダタ、ダルポン、アスパタ、 ポラタ、アダリヤ、アリダタ、パルマシタ、アリサイ、アリダイ、ワエザタ、すなわちハンメダタの子で、ユダヤ人の敵であるハマンの十人の子をも殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。」

さて、エステルが王にハマンの悪事を告げて以後、ハマンはまず自分自身の栄誉、生命を失い、次に、ハマンの家が取り上げられ、さらに、ハマンの子供たちも殺された。

「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:5-6)とあることを思い出そう。

 王は先に出したユダヤ人殺害の詔勅を取り消すことはしなかった代わりに、ユダヤ人が共同してこれに反撃することを許した。そのため、人々の心にユダヤ人への恐れが生じ、大規模な殺害は起きなかったが、それでも、ユダヤ人を憎み、殺害を願っていた人々はまだ残っていたと見られ、これらの人々は反撃を受けて滅ぼされることになる。

 その中で、ハマンの子供たちも殺されたところを見ると、ハマンの計画は、ハマン一人の思いつきというより、一つの思想体系を為しており、子孫らにも受け継がれていた様子が伺える。このように、悪しき思想体系が出来上がり、多くの人々の心をとらえ、ユダヤ人を憎む一大勢力を築き上げていたのである。

 このことは、村上密率いるカルト被害者救済活動が、教会を憎んだり、恨んだりする人々の心を引きつけて、一大要塞化して、教会やクリスチャンに敵対する勢力となっていたことを思わせる。一人の人間が、ある思想を体現するのである。聖書の御言葉に基づく信仰を体現する者もいれば、反キリストの思想を体現する者もいる。そしてそれらの人物が要塞化し、多くの人々を引きつけてて一大勢力となるのである。

 このように悪の要塞と化した勢力を、その巣のレベルから根絶やしにするためには、ユダヤ人たちは、ハマンの残党を駆逐し、敵の牙城を襲撃することがぜひとも必要だったのである。

「その日、首都スサで殺された者の数が王に報告されると、 王は王妃エステルに言った、「ユダヤ人は首都スサで五百人を殺し、またハマンの十人の子を殺した。王のその他の諸州ではどんなに彼らは殺したことであろう。さてあなたの求めることは何か。必ず聞かれる。更にあなたの願いは何か。必ず聞きとどけられる」。

エステルは言った、「もし王がよしとされるならば、どうぞスサにいるユダヤ人にあすも、きょうの詔のように行うことをゆるしてください。かつハマンの十人の子を木に掛けさせてください」。 王はそうせよと命じたので、スサにおいて詔が出て、ハマンの十人の子は木に掛けられた。 アダルの月の十四日にまたスサにいるユダヤ人が集まり、スサで三百人を殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。

王の諸州にいる他のユダヤ人もまた集まって、自分たちの生命を保護し、その敵に勝って平安を得、自分たちを憎む者七万五千人を殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。 これはアダルの月の十三日であって、その十四日に休んで、その日を酒宴と喜びの日とした。 しかしスサにいるユダヤ人は十三日と十四日に集まり、十五日に休んで、その日を酒宴と喜びの日とした。 それゆえ村々のユダヤ人すなわち城壁のない町々に住む者はアダルの月の十四日を喜びの日、酒宴の日、祝日とし、互に食べ物を贈る日とした。

モルデカイはこれらのことを書きしるしてアハシュエロス王の諸州にいるすべてのユダヤ人に、近い者にも遠い者にも書を送り、アダルの月の十四日と十五日とを年々祝うことを命じた。すなわちこの両日にユダヤ人がその敵に勝って平安を得、またこの月は彼らのために憂いから喜びに変り、悲しみから祝日に変ったので、これらを酒宴と喜びの日として、互に食べ物を贈り、貧しい者に施しをする日とせよとさとした。

そこでユダヤ人は彼らがすでに始めたように、またモルデカイが彼らに書き送ったように、行うことを約束した。 これはアガグびとハンメダタの子ハマン、すなわちすべてのユダヤ人の敵がユダヤ人を滅ぼそうとはかり、プルすなわちくじを投げて彼らを絶やし、滅ぼそうとしたが、 エステルが王の前にきたとき、王は書を送って命じ、ハマンがユダヤ人に対して企てたその悪い計画をハマンの頭上に臨ませ、彼とその子らを木に掛けさせたからである。 このゆえに、この両日をプルの名にしたがってプリムと名づけた。そしてこの書のすべての言葉により、またこの事について見たところ、自分たちの会ったところによって、 ユダヤ人は相定め、年々その書かれているところにしたがい、その定められた時にしたがって、この両日を守り、自分たちと、その子孫およびすべて自分たちにつらなる者はこれを行い続けて廃することなく、 この両日を、代々、家々、州々、町々において必ず覚えて守るべきものとし、これらのプリムの日がユダヤ人のうちに廃せられることのないようにし、またこの記念がその子孫の中に絶えることのないようにした。

さらにアビハイルの娘である王妃エステルとユダヤ人モルデカイは、権威をもってこのプリムの第二の書を書き、それを確かめた。そしてアハシュエロスの国の百二十七州にいるすべてのユダヤ人に、平和と真実の言葉をもって書を送り、断食と悲しみのことについて、ユダヤ人モルデカイと王妃エステルが、かつてユダヤ人に命じたように、またユダヤ人たちが、かつて自分たちとその子孫のために定めたように、プリムのこれらの日をその定めた時に守らせた。エステルの命令はプリムに関するこれらの事を確定した。またこれは書にしるされた。
 
アハシュエロス王はその国および海に沿った国々にみつぎを課した。彼の権力と勢力によるすべての事業、および王がモルデカイを高い地位にのぼらせた事の詳しい話はメデアとペルシャの王たちの日誌の書にしるされているではないか。ユダヤ人モルデカイはアハシュエロス王に次ぐ者となり、ユダヤ人の中にあって大いなる者となり、その多くの兄弟に喜ばれた。彼はその民の幸福を求め、すべての国民に平和を述べたからである。

こうして、ハマンの悪しき計画は、ハマン自身の頭上に返され、ハマンは恥を受けて命を失い、ハマンが根絶やしにしようとした民は喜びに溢れ、ハマンが踏みつけにしたモルデカイは、王に次ぐほどの高貴な地位を得た。ハマンの子供たちは、殺害された後で、木にかけられたのかも知れないが、「木にかけられる」とは、その者が呪われることを意味する。エステルはハマンの家系が呪われていることを神と人との前で示すためにそれを求めたのである。

エステル記におけるこのような記述を指して、「キリスト教は残酷だ」「だから一神教はダメなんだ」と述べようとする人々がいる。ハマンがユダヤ人を殺害しようとした計画は悪いにせよ、その報いとしてハマンやその残党が殺される必要が本当にあったのかと異議を唱える人々もいれば、中には「ハマンとその子たちが可哀想」などと同情論を唱える人間もいるかも知れない。

しかし、そのような考えこそ、キリスト教にはバランスが足りないなどと述べて、「人間にやさしいキリスト教」を作り出すために、聖書にはない「何か」をつけ加えて、キリスト教を異端と混ぜ合わせて混合宗教を作り出そうとする考えなのである。そこから、カルト被害者救済活動なども生まれて来たことを思うべきである。

要するに、カルト被害者救済活動とは、(彼らに言わせれば非常に残酷かつ偏った)キリスト教の救いから「除外」され、「被害」を受けた可哀想な自称被害者たちを、何とかして教会に取り戻し、救いに戻してやろう、という人間的な思いから始まる。

神の選びを自ら退け、信仰を捨て、御言葉に服することをやめ、教会の敵にまでなった人々が、神に従うことをやめた自分の弱さを憐れむがゆえに、自分は正しく、神の判決こそ間違っている、非常識なのはキリスト教だ、と考えて、キリスト教に不服を述べ、キリスト教を人間の観点から罪定めするところから、この活動は始まっている。

そのようにして、人間の掟を神の掟以上に高く掲げる人々が、神の救済の対象になることは決してない。なぜなら、彼らは自分自身の罪を決して認めず、悔い改めをも拒んでいるからである。彼らは人間(自分自身)に同情するあまり、罪の悔い改めなくして赦しもないという初歩的な聖書理解をさえ完全に見失い、自分自身の罪をあたかも聖なる要素のごとく掲げているのである。

このように聖書の救いに悪質に対抗する考えを持つ人々が、神の救済の対象となることは決してなく、彼らが聖書の御言葉を曲げ、御子の救いを拒んだ者たちとして罰せられるのは避けられない。彼らを裁くのは、彼ら自身が掟として掲げているこの世の常識であり、この世の法である。彼らは自分たちが人を裁いた基準で、自分自身が裁かれることになるのである。

エステル記は霊的な戦いの絵図であり、神の民の殺害を望むような人々には、その計画が彼ら自身に跳ね返ることをよく示している。この法則は昔も今も決して変わらない。

だから、読者らは、この先、カルト被害者救済活動の支持者らに起きることを、よくよく見てもらいたいと思うのだ。なぜなら、こうした出来事の背景には、霊的な法則が働いており、残酷なまでに冷徹で動かせない結果が現れるからだ。

カルト被害者救済活動の支持者らが、神の民の前で、己が家、家族の人数、子供たちの数、支持者の数、財産、高い職業的地位などを誇ったことが、この先、どのように呪わしい形で彼ら自身に跳ね返るか、よくよく見てもらいたいと筆者は思う。

バビロンは、花婿なるキリストが来られる前に、すでに夫を得て、富んでしまっていた女であった。いや、それは夫というより、数々の愛人と呼んだ方がふさわしい。なぜなら、結婚の約束がないのに、バビロンは愛人たちに早々に身を売ったからである。

だが、ここで言う「バビロン」とは、神に逆らう人類全体を象徴しており(カルト被害者救済活動のような反聖書的な思想体系も含まれる)、バビロンの「愛人」とは、霊的には、この世の目に見える事物を指す。バビロンは孤独や貧しさを嫌っていたがゆえに、キリストが来られるまで辛抱強く一人で待てなかった。彼女は花婿を待つことをやめて、花婿との約束をたがえて、手っ取り早く愛人に身を売り、その報酬として、女王のように豊かになり、孤独とは無縁の享楽的な生活を送った。

だが、もし彼女が、自分はキリストを待てなかったので、愛人に身を売ったのだと自ら認めていれば、彼女の罪はまだ軽かったかも知れない。バビロンの最も忌まわしい罪は、キリストへの貞潔を失っていたにも関わらず、自分はキリストの花嫁にふさわしいかのように振る舞い、真にキリストを待つ民を迫害しながら、嘘をつき続けた点にある。彼女は、自分の心のねじ曲がっており、不誠実で、嘘つきであることをよく知っていたので、自分の心の醜さを隠すために、貞潔にキリストだけを待っている聖徒らを蔑み、聖徒らに罪を着せて悪しざまに言い、自分の高い地位、財産、愛人や取り巻きの数、子供の人数などを誇りながら、自分だけは苦しみや災いに遭わなくて済むと豪語して、聖徒らが御名のゆえに味わっている孤独や貧しさや苦難を蔑み、エクレシアを踏みつけにして嘲笑ったのである。

その結果として、神はバビロンにしたたかに復讐された。バビロンの罪の中には、エクレシアへの蔑みや嘲笑、冒涜の罪も、当然ながら含まれている。バビロンに対する報復は、聖書において決定済みの事項であるから、誰にも覆せない。彼女が人前で誇った数々の宝が、どのように一つ一つ、彼女から奪い取られ、消え去って行くかを見る時、バビロンが聖徒らの苦難を嘲笑うことの罪深さを、誰もが思い知ることができるだろう。

律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。

 律法は、信仰をよりどころにしていません。
律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。

キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからですそれは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受けるためでした。」(ガラテヤ3:11-14)

このように、私たちは律法(人間の掟)によって生きる者ではなく、信仰によって生きる義人である。そして、私たちのためには、すでに呪いとなった木にかかって下さった方がいる以上、私たちを呪うことのできる存在は誰一人としていない。神の御怒りと裁きは、かえって神の子供たちを呪い、冒涜する者たちに注がれる。

カルト被害者救済活動の支持者らは、聖書の御言葉を曲げた自分たちに、当然の裁きと報復が待っているという事実を見たくないがゆえに、聖徒らの証の言葉に猛反発しているだけである。しかし、彼らが何を言ってみたところで、決定は変わらない。彼らへの裁きがどうなるかは初めから確定している。なぜなら、律法によっては義とされる人は誰もいないからだ。彼らは自分たちが聖徒らを裁こうとして振りかざした厳しい基準で、自分自身が裁かれて終わるだけである。
 
ハレルヤ。
 救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。
 その裁きは真実で正しいからである。
 みだらな行いで
 地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、
 御自分の僕たちの流した血の復讐を、
 彼女になさったからである。

 「ハレルヤ。
 大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」(黙示19:1-3)

神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。(1)

これから、色々と書かなければならないことが山積みである。まずはエステル記からだ。

今回、筆者は9年間という長きに渡り、当ブログにおける信仰告白の殲滅を願って筆者を脅しつけ、筆者を貶め、辱めようと悪意を持ってつけ狙い、筆者の人生の平穏を残酷に奪って来た者たちに対して、ついに法的措置に出た。

それによって、当ブログへの評価を高め、筆者の信仰者としての立場に賛同し、全力を挙げてこれを支援する読者も出て来れば、あるいは当ブログへの理解を失い、あるいは恐れて去って行く読者も出て来るだろう。

そのようなことはすべて予測済みである。そもそもカルト被害者救済活動がこれほど腐敗した運動であり、聖徒らに対する敵意と憎悪に燃えていることが、これほど公衆の面前で明らかになるまでには、相当な月日が必要であり、そうなるまでの間、当ブログの意見に理解を示さない者たちは数多く存在した。

だが、筆者は当ブログを読者の歓心を得るために書いているわけではない、と何度も断っている。だから、この事件を人々がどのように受け止めるかにはあまり関心がない。

重要なことは、キリスト者が暗闇の勢力に対峙するに当たり、どのように神の国の権益に立ってこれを擁護する決意を固めて行くかという信仰の成長にある。筆者自身が、以上のような決意に至るまでに、長い長い年月が流れている。その間に筆者が和解を呼びかけた回数も、一度や二度でないことは誰もが知っている。

どのような罪人に対してであれ、憐れみを唱えようとする人間の肉なる情が、筆者には分からないわけではない。しかし、今回は決してそうした肉の情に従うわけには行かない。むしろ、キリストと共なる十字架において、セルフに死んだ者として、筆者はすべての肉の情をきっぱりと断ち切り、御言葉によってすべてを明白に切り分けるレビ人の剣を手に取り、神の国の権益を擁護する者として、神の教会に敵対し、これを冒涜しようとする者たちに、あらゆる正当な手段を尽くして毅然と立ち向かう。そうすることこそ、まさに神の願っておられる、御言葉に基づく正しい行動なのであると確信する。従って、筆者はアダムに属する者でない以上、アダムを擁護することはできない相談である。

だが、むろん、筆者自身にとっても、その教訓を学ぶことは、一朝一夕でなかったことは言っておかねばならない。

多くの人々が、生まれながらの人間の情ゆえに、カルト被害者救済活動に理解や憐憫を示し、それゆえ、次々と彼らに敗北して行った。彼らはクリスチャンを名乗りながらも、聖書の御言葉よりも、人間としての情愛を優先し、人間が恥をかかされないことを優先して、罪が罪として暴かれ、悪者が悪者として罰せられることを嫌ったのである。

しかし、彼らが罰せられなければならないことは、何年も前からすでに決定済みであったと言える。

そのことは、筆者がかつて「罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか ――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――」の中で、以下のように記した通りである。

要するに、カルト被害者救済活動を支持する人々は、キリストの贖いではなく、自分自身の虐げられた被害者性を持って、自分を教会の一員として認めよと、教会に迫っているのである。それは罪ある人間が、自分は弱者であるがゆえに、悔い改めも、キリストの贖いも経ないのに、罪を免罪されて聖とされるべきと言っているに等しいのであるから、そのようなねじ曲がった考えは、悪質に福音に敵対するものとして、到底、聖書の神によって受け入れられる見込みがない。
 
 「生まれながらの人間は、何とかして肉の罪深い本質が暴かれることなく、自分の罪が照らされることなく、義に達する道がないかと模索しています。生まれながらの人間の心の中には、自分のものであれ、他人のものであれ、人間の罪を決してあるがままの罪として暴かれたくない・見たくない・認めたくないという思いがあります。他人の罪が暴かれることも、自分の罪が暴かれることも同じように、生まれながらの人間にとっては脅威になり得ます。人間は人間を良いものとみなし、人間に恥をかかせたくないのです。だからこそ、人は自分が間違いを犯したことが明白である時でさえ、悪いのはその人を苦しめた環境であって、その人(弱者)自身に罪はないと思いたいのであり、そう言ってくれる他者に飛びつきたいのです。しかし、それは神の事実に基づいた結論ではありません。

神は私たちのあるがままの姿がどんなものであるか知っておられます。弱者であろうと、虐げられた貧しき人々であろうと、抑圧された者たちであろうと、一人残らず、神の御前には惨めな罪人に過ぎません。しかし、光の下に正直に進み出たくない人々は、自分の裸の恥を神の御前で隠し、自己の罪を美化しようとするだけでなく、他者の罪が暴かれることに対しても、激しく抵抗することがあります。そして、罪を罪としてはっきり指摘し、神に立ち戻るよう忠告する人をいわれなく罪定めして退け、逆に、罪を隠蔽し、かばうことを、思いやりや、憐れみや、優しさなどと呼びかえ、悔い改めに導かれる必要のある他者に向かって「あなたは正しいので、悔い改めなど必要ない」とささやき、その人をさらに神から遠く引き離してしまうのです。

 「バラバを十字架につけるな、キリストを十字架につけよ!」という叫びの根底には、何とかして人間に十字架を経由させることなく、人が罪を認めることも、悔い改めることもなくして、人間が傷ついたり、恥じ入ったり、名誉を失うことなくして、尊厳を保ったまま無罪放免される方法がないのかという、人の生まれながらの自己の叫びがあります。

 <略>”弱者”であるから、”被害者”であるから、”虐げられた貧しき人々”だからといって、その人たちに義があるわけではないのです。全ての人が神の御前に生まれながらに罪人なのです。それにも関わらず、”弱者”の美名を利用して、人が自己の内にある罪の本質から目を逸らし、己の内にまるで正義があるかのように思い込み、実際にそう主張していく時、それはいかに人の目には崇高な理念のように見えたとしても、人が神の義を退けてでも、生まれながらの人間を義としようとする、巧妙で悪質な神への反逆になるのです。

<略>   クリスチャンが正直に罪を罪と呼ぶことをやめ、罪人がキリストと共に十字架へ赴く必要を否定して、むしろ、罪人に対する神の刑罰としての十字架を退けて、罪人に対する直接的な”愛”や”憐れみ”や”赦し”や”慰め”の必要を訴えていくとき、それは私たちが再び、バラバを赦してキリストを十字架につけよと叫んでいるのと同じなのです。<略>

「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。」(Ⅰヨハネ1:8) 「光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛した」(ヨハネ3:19)

「悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。」(ヨハネ3:20-21)

 最後に、クリスチャンを名乗っているにも関わらず、主が血潮によって罪赦されたクリスチャンをいわれなくそしり、聖書の御言葉を曲げてでも、教会とクリスチャンを踏みにじり、数々の汚しごとを言い、キリストの花嫁である教会を争いによって引き裂き、虚偽に満ちた議論を展開しては、多くの人々を欺いてキリストの御名を貶めて来た人々が、この先、どうなるかは聖書が予告している通りです

「…この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。」(ユダ10)

彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた全ての人を、さばくのである」(Ⅱテサロニケ2:10-12)

もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と言われ、「また『主はその民をさばかれる』と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。」(ヘブル10:28-31)

 以上の記事を書いた時点では、筆者はまだカルト被害者救済活動の支持者らがどのような形で罰せられることになるのかを具体的に知らなかった。その中で自分がどのような役割を果たすのか、また、そのために必要な措置が何であるかも知らなかった。

 しかし、それでも、聖書の御言葉は、その当時から、彼らの最期をはっきりと告げていたのである。それだからこそ、何年も前から、筆者は彼らの辿る結末を知っており、以上の記事を記すことができた。次の御言葉は何度でも繰り返すに値する。

「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。」

 以上の御言葉こそ、筆者が今回のような措置を取るに当たり、依って立っている根拠である。これまで筆者は、彼らのいわれなき告発に対して、キリストの義に立って、防戦するのみであった。しかし、今ここに筆者は彼らとの関係性を逆転して、反撃に転ずる――聖書の御言葉に基づき、彼らの処罰を求めるという積極的な反撃を開始するのである。

 カルト被害者救済活動の支持者らが、クリスチャンを罪に定めて処罰することを望んでいたことを思い出されたい。彼らは筆者を含む、神が贖われて義とされたクリスチャンや教会をまるで犯罪者のごとく処罰しようと望んでいたのである。

 だとすれば、なぜ筆者を含むクリスチャンの側だけが、いつまでも彼らに対する憐れみを持ち続けねばならないのか。いや、むしろ、彼らが望んだ悪しき願いは、そっくりそのまま、彼ら自身の上に注ぎ返すべきではないのか。

 カルト被害者救済活動の支持者らがクリスチャンを罪に定め、処罰を求めるなど、完全に筋違いであり、まさに倒錯した願いであると言える。むしろ、実際は、神に贖われて義とされたクリスチャンこそ、彼らに対する処罰を求めるにまことにふさわしい存在なのである。暗闇の勢力はおそらくそれを最初から分かっていればこそ、自分たちの生き残りをかけて、無防備で無自覚なクリスチャンに先手を打って戦いをしかけたのだろう。
 
 これから先、この戦いがどうなるのかは、筆者自身にとっても非常な関心がある。なぜなら、そこには筆者個人の人生が関わっているだけでなく、聖書の真理、神の御言葉の永遠の正しさがかかっているためである。従って、この先は、筆者の肉の努力や個人的な思惑によらず、神ご自身が御言葉の正しさを証明されるための手続きなのであって、神ご自身が対応されることであろう。

 さて、今回と次の記事の中で、クリスチャンが誰でも知っているエステル記(第3章~第8章)の有名な物語を引用しながら考察してみたい。

「これらの事の後、アハシュエロス王はアガグびとハンメダタの子ハマンを重んじ、これを昇進させて、自分と共にいるすべての大臣たちの上にその席を定めさせた。 王の門の内にいる王の侍臣たちは皆ひざまずいてハマンに敬礼した。これは王が彼についてこうすることを命じたからである。

しかしモルデカイはひざまずかず、また敬礼しなかった。 そこで王の門にいる王の侍臣たちはモルデカイにむかって、「あなたはどうして王の命令にそむくのか」と言った。 彼らは毎日モルデカイにこう言うけれども聞きいれなかったので、その事がゆるされるかどうかを見ようと、これをハマンに告げた。なぜならモルデカイはすでに自分のユダヤ人であることを彼らに語ったからである。

ハマンはモルデカイのひざまずかず、また自分に敬礼しないのを見て怒りに満たされたが、 ただモルデカイだけを殺すことを潔しとしなかった。彼らがモルデカイの属する民をハマンに知らせたので、ハマンはアハシュエロスの国のうちにいるすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの属する民をことごとく滅ぼそうと図った。


 王に引き立てられて得意になった大臣ハマンが、ユダヤ人全体に対して敵意と憎悪を抱いた直接のきっかけは、ユダヤ人モルデカイがハマンの前にひざまずかず、ハマンを神として崇めなかったことによる。ハマンは王に仕える臣下であったとはいえ、内心では、自分を王に等しい存在であるとみなして、王の代弁者のように振る舞っていた。(自分を王と思っていたと言っても過言ではないだろう。)
 
 カルト被害者救済活動の支持者らがどういうきっかけでキリスト教界全体に敵意と憎悪を抱くようになったのかは知らない。しかし、彼らが筆者個人に対して憎悪を抱いた直接のきっかけは、筆者がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団時代に津村昭二郎牧師の前にひざまずかず、村上密牧師の前にひざまずかず、KFCのDr.Lukeの前にもひざまずかず、ゴットホルト・ベック氏の前にもひざまずかず、彼ら牧師や指導者を名乗っている人間をことごとく神として崇めなかったことによる。

 要するに、筆者が牧師制度そのものの前にひれ伏さず、人間に過ぎない者を神として拝んだり、彼らを神のような絶対者とみなして聞き従うことを拒んだことによる。それゆえ、彼らは筆者を不遜な人間とみなし、筆者のために自分が恥をかかされたかのように考え、筆者を憎んだだけでなく、辱め、殺そうとまで願ったのである。(この人々の迫害の執拗さを見れば、彼らが筆者に対する憎悪のみならず殺意をも持っていたことは明白である。)

 聖書にはダニエル等、モルデカイと同じように、人間に過ぎない者を拝まなかったがゆえに迫害された人物は他にも登場する。しかし、彼らはことごとく迫害に対する勝利をおさめている。また、サムエルのように、腐敗した祭司エリのもとで幼少期を過ごしながらも、その腐敗に決して染まらなかった人物もいる。

 このように、神の民がどんなに腐敗する時にも、神はその民の中から、必ずご自分に忠実な人々をとりわけ、神の民全体を正すための準備を整えさせる。信仰に基づいて、見えないただお一人の神だけを神とするのか、それとも、目に見えるもろもろの被造物(人間を含む)を神として拝み、悪魔に魂を売るのか、それはキリスト者が生きている限り、直面し続ける戦いである。
 
アハシュエロス王の第十二年の正月すなわちニサンの月に、ハマンの前で、十二月すなわちアダルの月まで、一日一日のため、一月一月のために、プルすなわちくじを投げさせた。 そしてハマンはアハシュエロス王に言った、「お国の各州にいる諸民のうちに、散らされて、別れ別れになっている一つの民がいます。その法律は他のすべての民のものと異なり、また彼らは王の法律を守りません。それゆえ彼らを許しておくことは王のためになりません。 もし王がよしとされるならば、彼らを滅ぼせと詔をお書きください。そうすればわたしは王の事をつかさどる者たちの手に銀一万タラントを量りわたして、王の金庫に入れさせましょう」。 そこで王は手から指輪をはずし、アガグびとハンメダタの子で、ユダヤ人の敵であるハマンにわたした。 そして王はハマンに言った、「その銀はあなたに与える。その民もまたあなたに与えるから、よいと思うようにしなさい」。」

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は理念が歪んでいるだけでなく、そこから登場する聖職者を名乗る人物も、あまりにも異常で偏っていたと言えよう。村上密は早くからカルト監視機構の設立を提唱し、全キリスト教界を自分自身の監督下に置くことを提唱していた。カトリック教会には統一的なヒエラルキーがあるが、プロテスタントにはそれがない。それゆえ、プロテスタントの教会は、「散らされて、別れ別れになっている」も同然の民であり、これを統一的に管理する規則はない。そこに村上は目を付けたのである。カルト被害者救済活動の支持者らは、プロテスタントの各教会が、誰も手を出せない聖域のようになっていることを許し難いと考え、これを彼らの監視下に置くか、もしくは彼らの支配に屈さない教会は、打ち滅ぼしてしまおうと考えたのである。彼らは諸教会に裁判をしかけることで、教会財産を略奪することをも初めから狙っていた。

「そこで正月の十三日に王の書記官が召し集められ、王の総督、各州の知事および諸民のつかさたちにハマンが命じたことをことごとく書きしるした。すなわち各州に送るものにはその文字を用い、諸民に送るものにはその言語を用い、おのおのアハシュエロス王の名をもってそれを書き、王の指輪をもってそれに印を押した。そして急使をもってその書を王の諸州に送り、十二月すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちにすべてのユダヤ人を、若い者、老いた者、子供、女の別なく、ことごとく滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取れと命じた。 この文書の写しを詔として各州に伝え、すべての民に公示して、その日のために備えさせようとした。 急使は王の命令により急いで出ていった。この詔は首都スサで発布された。時に王とハマンは座して酒を飲んでいたが、スサの都はあわて惑った。」

カルト監視機構は設立されなかった。にも関わらず、村上密は自分の願いを諦めなかった。村上に従った多くの人々が、密偵のようになって各教会を監視し、その情報を偽って指導者に密告した。村上は被害者を募って、諸教会にカルト化の疑いをかけ、それを口実に、教会に対する攻撃としての裁判をしかけ、リーダーを辱めて追放し、信徒を追い散らし、教会財産を賠償金という名目で奪い取った。

モルデカイはすべてこのなされたことを知ったとき、その衣を裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、町の中へ行って大声をあげ、激しく叫んで、王の門の入口まで行った。荒布をまとっては王の門の内にはいることができないからである。すべて王の命令と詔をうけ取った各州ではユダヤ人のうちに大いなる悲しみがあり、断食、嘆き、叫びが起り、また荒布をまとい、灰の上に座する者が多かった。」

多くの牧師たち、信徒たち、教会が村上の手法に異議を唱えた。しかし、村上は自分の手先となった信徒たちを巧妙に利用して、自分の活動を批判する者たちを脅しつけ、反対をことごとく封じ込めて行った。

「エステルの侍女たちおよび侍従たちがきて、この事を告げたので、王妃は非常に悲しみ、モルデカイに着物を贈り、それを着せて、荒布を脱がせようとしたが受けなかった。そこでエステルは王の侍従のひとりで、王が自分にはべらせたハタクを召し、モルデカイのもとへ行って、それは何事であるか、何ゆえであるかを尋ねて来るようにと命じた。ハタクは出て、王の門の前にある町の広場にいるモルデカイのもとへ行くと、モルデカイは自分の身に起ったすべての事を彼に告げ、かつハマンがユダヤ人を滅ぼすことのために王の金庫に量り入れると約束した銀の正確な額を告げた。 また彼らを滅ぼさせるために、スサで発布された詔書の写しを彼にわたし、それをエステルに見せ、かつ説きあかし、彼女が王のもとへ行ってその民のために王のあわれみを請い、王の前に願い求めるように彼女に言い伝えよと言った。


ハタクが帰ってきてモルデカイの言葉をエステルに告げたので、エステルはハタクに命じ、モルデカイに言葉を伝えさせて言った、「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという一つの法律のあることを知っています。ただし王がその者に金の笏を伸べれば生きることができるのです。しかしわたしはこの三十日の間、王のもとへ行くべき召をこうむらないのです」。 エステルの言葉をモルデカイに告げたので、 モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。

そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。」
 
カルト被害者救済活動の暴挙を食い止めるためには、聖書の御言葉に立っている誰かが、命をかけてこれに立ち向かう必要があった。どのような反撃を受けようとも、決して一歩も退かない覚悟で、彼らの暴虐を訴えて、これに立ち向かう勇気と決意を固める人間が現れることが、どうしても必要であった。しかも、その人間は、それができるだけの立ち位置を備えていなければならなかった。

筆者にはその条件が揃っていた。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団で幼少期を過ごしたことも含めて、まるですべてがその準備のためのようである。だが、筆者とて、そうした決意と覚悟を固めるにはやや時間を要したことは確かであり、そして、筆者以外にはそれをすることができる人間が誰もいなかったとは思わない。もしも筆者が臆病にもその仕事を果たさなかった場合には、神はその仕事を筆者のような誰か他の人間に与えられただけである。(むろん、これから先は、もっとたくさん出て来る。)

いずれにしても、筆者は決意を固めるしかなかった。神の教会の敵どもの投げつけて来る悪罵と呪いの言葉を真に受けて、彼らの呪いの通りに、精神異常となって死ぬのか(断じてそのようなことは容認できず、またそんな結末を受け入れねばならない理由は筆者には何一つとしてない)、それとも、彼らの呪いは彼ら自身にお返しして、彼ら自身に負ってもらい、筆者は彼らの悪事を正々堂々と非難して、彼らに対する当然の処罰を求めて生きるのか。

神が筆者にどちらを願っておられるかは、明々白々であった(どうして神がキリスト者を精神異常にしたり、死へ追い込んだりすることを願われるものか)。だとすれば、神の民に対する敵意と殺戮の願いに燃える敵どもに対しては、毅然と対峙するしかない。

「三日目にエステルは王妃の服を着、王宮の内庭に入り、王の広間にむかって立った。王は王宮の玉座に座して王宮の入口にむかっていたが、 王妃エステルが庭に立っているのを見て彼女に恵みを示し、その手にある金の笏をエステルの方に伸ばしたので、エステルは進みよってその笏の頭にさわった。 王は彼女に言った、「王妃エステルよ、何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう」。 エステルは言った、「もし王がよしとされるならば、きょうわたしが王のために設けた酒宴に、ハマンとご一緒にお臨みください」。 そこで王は「ハマンを速く連れてきて、エステルの言うようにせよ」と言い、やがて王とハマンはエステルの設けた酒宴に臨んだ。

酒宴の時、王はエステルに言った、「あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。 エステルは答えて言った、「わたしの求め、わたしの願いはこれです。 もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしわたしの求めを許し、わたしの願いを聞きとどけるのをよしとされるならば、ハマンとご一緒に、あすまた、わたしが設けようとする酒宴に、お臨みください。わたしはあす王のお言葉どおりにいたしましょう」。


こうしてハマンはその日、心に喜び楽しんで出てきたが、ハマンはモルデカイが王の門にいて、自分にむかって立ちあがりもせず、また身動きもしないのを見たので、モルデカイに対し怒りに満たされた。 しかしハマンは耐え忍んで家に帰り、人をやってその友だちおよび妻ゼレシを呼んでこさせ、 そしてハマンはその富の栄華と、そのむすこたちの多いことと、すべて王が自分を重んじられたこと、また王の大臣および侍臣たちにまさって自分を昇進させられたことを彼らに語った。 ハマンはまた言った、「王妃エステルは酒宴を設けたが、わたしのほかはだれも王と共にこれに臨ませなかった。あすもまたわたしは王と共に王妃に招かれている。 しかしユダヤ人モルデカイが王の門に座しているのを見る間は、これらの事もわたしには楽しくない」。

その時、妻ゼレシとすべての友は彼に言った、「高さ五十キュビトの木を立てさせ、あすの朝、モルデカイをその上に掛けるように王に申し上げなさい。そして王と一緒に楽しんでその酒宴においでなさい」。ハマンはこの事をよしとして、その木を立てさせた。」

エステル記に登場する王は、まるで中立的な裁判官のようで、王自身のキャラクターはかなり薄いと言える。どちらかと言えば、登場人物の方がはるかに個性的で、それぞれの意見をはっきり持っており、彼らの進言する内容が王に大きな影響を及ぼす。

これは王が象徴的に神を表していることによる。今日、聖徒らも、悪魔と暗闇の軍勢も、みな同様に神の御前に立って、それぞれの意見を述べているのである。我々は地上にいる間は、目に見える人間を相手にしているつもりになっているかも知れないが、我々のすべての言葉は、神に対する訴えとして聞かれているのである。

すなわち、暗闇の勢力は、聖徒らに対する敵意と憎悪と罪定めの言葉を、聖徒らは暗闇の勢力の悪事と彼らに対する処罰を、神に向かって訴えている。そして、ご存知の通り、ハマンが自分を拝まないモルデカイを憎んで殺すために、自分の家の庭に作った処刑台は、ハマン自身のための処刑台となる。

これは、暗闇の勢力が聖徒らに害を加えようと願ったその願いが、彼ら自身に跳ね返ることを意味する。もちろん、ハマンがモルデカイを木にかけて殺そうと願ったことは、キリストの十字架の予表でもある。だが、キリストは十字架において最後の敵である死を滅ぼし、ご自分に対する殺意を表明する勢力に完全に勝利を取られた。そこで、これから処罰されるのは、悪魔と暗闇の勢力なのである。

「その夜、王は眠ることができなかったので、命じて日々の事をしるした記録の書を持ってこさせ、王の前で読ませたが、 その中に、モルデカイがかつて王の侍従で、王のへやの戸を守る者のうちのビグタナとテレシのふたりが、アハシュエロス王を殺そうとねらっていることを告げた、としるされているのを見いだした。 そこで王は言った、「この事のために、どんな栄誉と爵位をモルデカイに与えたか」。王に仕える侍臣たちは言った、「何も彼に与えていません」。

王は言った、「庭にいるのはだれか」。この時ハマンはモルデカイのために設けた木にモルデカイを掛けることを王に申し上げようと王宮の外庭にはいってきていた。 王の侍臣たちが「ハマンが庭に立っています」と王に言ったので、王は「ここへ、はいらせよ」と言った。 やがてハマンがはいって来ると王は言った、「王が栄誉を与えようと思う人にはどうしたらよかろうか」。ハマンは心のうちに言った、「王はわたし以外にだれに栄誉を与えようと思われるだろうか」。

ハマンは王に言った、「王が栄誉を与えようと思われる人のためには、 王の着られた衣服を持ってこさせ、また王の乗られた馬、すなわちその頭に王冠をいただいた馬をひいてこさせ、 その衣服と馬とを王の最も尊い大臣のひとりの手にわたして、王が栄誉を与えようと思われる人にその衣服を着させ、またその人を馬に乗せ、町の広場を導いて通らせ、『王が栄誉を与えようと思う人にはこうするのだ』とその前に呼ばわらせなさい」。

それで王はハマンに言った、「急いであなたが言ったように、その衣服と馬とを取り寄せ、王の門に座しているユダヤ人モルデカイにそうしなさい。あなたが言ったことを一つも欠いてはならない」。 そこでハマンは衣服と馬とを取り寄せ、モルデカイにその衣服を着せ、彼を馬に乗せて町の広場を通らせ、その前に呼ばわって、「王が栄誉を与えようと思う人にはこうするのだ」と言った。
こうしてモルデカイは王の門に帰ってきたが、ハマンは憂え悩み、頭をおおって急いで家に帰った。 そしてハマンは自分の身に起った事をことごとくその妻ゼレシと友だちに告げた。するとその知者たちおよび妻ゼレシは彼に言った、「あのモルデカイ、すなわちあなたがその人の前に敗れ始めた者が、もしユダヤ人の子孫であるならば、あなたは彼に勝つことはできない。必ず彼の前に敗れるでしょう」。
彼らがなおハマンと話している時、王の侍従たちがきてハマンを促し、エステルが設けた酒宴に臨ませた。」

不思議なことに、ハマンの取り巻き連中の中には、かなり賢明な判断をする者たちが含まれていたようだ。ハマンの妻でさえそうである。彼らはユダヤ人に不思議な力があって、それ以外の全ての民にまさる力があることを知っていた。そして、王がモルデカイの功績を思い出し、彼を取り立てたことが、ハマンの敗北の始まりであることをも、彼らはちゃんと理解していたのである。

次回は、いよいよモルデカイを殺そうと願ったハマンが辱められ、木に吊るされる場面について解説したい。だが、その記事を挙げる前に、筆者は断っておきたい。カルト被害者救済活動の支持者はもはや完全にこの分岐点を過ぎているため、彼らに残されているのは、ただ「木にかけられる」ことだけであると。
 
<続く>

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