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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。(2)

さて、これまでの記事の中で、聖書の順序では、肉によって生まれた者が霊によって生まれた者を迫害する、という出来事がまずあり、その次に、霊によって生まれた子が十分に強くなって意思表示を行うとき、初めて肉によって生まれた者が神の家から駆逐されて、霊によって生まれた者が正当な地位を取り戻すことを述べた。

自由の女(サラ)から約束によって生まれた子(イサク)だけが、神の国の正統な後継者であり、奴隷の女(ハガル)から肉によって生まれた子(イシマエル)は後継者になれない。

だが、奴隷とその子が神の家から追い出されるに当たり、どうしても必要だったのが、サラの意志表示であった。

「けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。」(ガラテヤ4:29-30)

同様に、エステル記を読むと、ハマンを悪者として王に訴えたエステルの意志表示が決定的に重要な働きをなしていたことが分かる。

これは、サタンを神に訴えることが、キリスト者の使命であることをよく表している。キリスト者は、御霊によって生まれた者を迫害する肉なる者たちを、神に向かって告発し、これらの者が正体を暴かれて神の家から取り除かれるよう、神に懇願するという重要な使命を担っているのである。

ちなみに、話は逸れるが、以下の原則(ガラテヤ4:27)は、時代を問わず、エクレシア(神の教会)を貫くものである。

「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
  喜びの声をあげて叫べ。
  産みの苦しみを知らない女よ。
  一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。」

サラは老いてからであったとはいえ、約束の子イサクを産んだわけであるから、もはや「不妊の女」という蔑称はふさわしくない、と思うかも知れない。しかし、実は「不妊の女」「産みの苦しみを知らない女」「一人取り残された女」「夫のない女」と言った呼び名は、蔑称ではなく、純潔のエクレシアを示すためには欠かせない永遠に高貴な称号なのである。

最初の人類であったエバは弱さのゆえに罪に堕落して、最も不名誉の女の代表格となってしまった。しかし、こうして不適格者の烙印を押され、堕落の象徴のようにみなされ、見捨てられた存在のようになってしまった「女」を通して、逆説的に人類を回復しようということが、神のご計画の一部としてある。

そこで、神は選ばれた民ではなかったモアブ人ルツをキリストの系譜の中で選び出されたり、キリストを産むために処女マリヤを選び出されたり、スカルの井戸でサマリヤの女に話しかけられたりと、絶えず、選ばれた力ある民ではなく、力のない、無名で、見捨てられ、不名誉を負っていた女たちを、しばしばご計画の成就のために用いられたのである。

最終的には、「女」の回復は、キリストの花嫁たるエクレシアの従順によって成し遂げられる。

だが、そのことは、決して「女性原理」の賛美や崇拝と混同されてはならない。たとえば、多くの宗教画で「聖母マリア」が赤ん坊を抱いた女性として描かれ、その母性本能が褒めたたえられているのとは全く逆に、マリアがキリストをみごもったのは、肉の欲望によらず、肉なる母性本能によるものではなかった。キリストの誕生には、肉なる人間(男性)の参与も必要なければ、天然の「母性原理」が働く余地も全くなかった。マリアはあくまで「夫のない女」「不妊の女」として、聖霊によってキリストをみごもったのである。

このことはサラにも同様に当てはまる。イサクは聖霊によって生まれた子とは言えないが、それでも、サラが子供を産むことのできる条件を失ってから生まれた子であった。従って、これも「母性原理」によって生まれた子ではないとはっきり言える。イサクは神の約束によって、信仰によって与えられた子であり、その意味で、聖霊によって生まれるキリストを予表している。そのためにこそ、サラはイサクを産んだ後でも、「不妊の女」「夫のない女」と呼ばれ続けているのであるが、これは決して彼女にとって不名誉な称号ではなく、むしろ、栄誉ある称号であって、決して彼女が肉なる被造物に服することなく、キリストだけに従う永遠に純潔の花嫁たるエクレシアの一員として生きたことを象徴する呼び名なのである。

このように、エクレシアは永遠に「夫のない女性」「独身の女性」「不妊の女性」である。なぜなら、エクレシアの夫はキリストであるが、まだ彼女は夫が迎えに来るのを待っている未婚の花嫁の状態にあるからであり、その子は聖霊によってのみ生まれることが約束されている子だからである。このように霊的に”未婚”の状態にあること、肉による子供を持たないこと(肉に蒔いて肉による実を持たないこと)、キリストだけに服することは、エクレシアから決して取り除かれることのない条件である。

聖書は結婚を禁じたりは全くしていないが、それでも、パウロは、もし信者が独身でいられるならその方が良いと述べている。なぜなら、肉にある伴侶を持つと、その者に仕えねばならなくなり、こうして人間に対する気遣いに絶えず心を煩わせるよりは、むしろ神のことに専念できる立場にあった方が良いとパウロは言うのである。

「しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。」(Ⅰコリント7:28-35)

それに引き換え、肉によって生まれる者たちは、肉の事柄には聡く、「未婚」や「不妊」などの不名誉な称号とは無縁である。彼らは、霊によって生まれる者たちよりも早く子を産み、子供らの数、家族の人数、己が権勢、財産などの目に見える数々の所有物を誇る。ハマンも息子たちが数多いことを誇っていたとある。

だが、それは肉による実である以上、霊による実に比べ、全く永続性がない。永続性がないだけでなく、神の目には堕落して呪われた被造物である。それらは束の間に過ぎ去り、一時は栄えているように見えても、あっという間に消え失せてしまう。

「王とハマンは王妃エステルの酒宴に臨んだ。 このふつか目の酒宴に王はまたエステルに言った、「王妃エステルよ、あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。

王妃エステルは答えて言った、「王よ、もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしよしとされるならば、わたしの求めにしたがってわたしの命をわたしに与え、またわたしの願いにしたがってわたしの民をわたしに与えてください。 わたしとわたしの民は売られて滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています。もしわたしたちが男女の奴隷として売られただけなら、わたしは黙っていたでしょう。わたしたちの難儀は王の損失とは比較にならないからです」。

アハシュエロス王は王妃エステルに言った、「そんな事をしようと心にたくらんでいる者はだれか。またどこにいるのか」。 エステルは言った、「そのあだ、その敵はこの悪いハマンです」。そこでハマンは王と王妃の前に恐れおののいた。 王は怒って酒宴の席を立ち、宮殿の園へ行ったが、ハマンは残って王妃エステルに命ごいをした。彼は王が自分に害を加えようと定めたのを見たからである。

王が宮殿の園から酒宴の場所に帰ってみると、エステルのいた長いすの上にハマンが伏していたので、王は言った、「彼はまたわたしの家で、しかもわたしの前で王妃をはずかしめようとするのか」。この言葉が王の口から出たとき、人々は、ハマンの顔をおおった。 その時、王に付き添っていたひとりの侍従ハルボナが「王のためによい事を告げたあのモルデカイのためにハマンが用意した高さ五十キュビトの木がハマンの家に立っています」と言ったので、王は「彼をそれに掛けよ」と言った。 そこで人々はハマンをモルデカイのために備えてあったその木に掛けた。こうして王の怒りは和らいだ。


今日、信仰によらない、御霊によらない、肉にある者たちが、神の教会を荒らし回っている。彼らは、唯一の神も、キリストの十字架の贖いも、罪の赦しも、聖書の御言葉も、何一つ信じていないのに、「教会から被害を受けた」「教会のカルト化を許してはおけない」などの言いがかりをつけては、被害者意識、人間の正義感など、肉による動機を振りかざして、教会に自分たちを受け入れるよう迫っている。

この人々は、教会の一員となる資格を全く持っていないにも関わらず、教会を責め、言いがかりをつけることによって、教会の中に巧みに入り込もうとしており、それによって、教会を占拠し、信仰による神の民をかえって迫害・駆逐しようとしている。彼らの中傷、乱暴狼藉、暴虐によって、神の民はまさに圧迫され、滅ぼされようとしているところだ。

これに対し、我々は、エステルが王に願い出たと同様に、この狼藉者たちの暴虐を声を限りに非難し、神に訴えるべきである。彼らが神の民の根絶を願っていることを神に告げて、この不信者らがこれ以上、神の民に害を加えることなく、ふさわしい罰を受けるよう願い出るべきである。

彼らは、ハマンがエステルに懇願したように、神の民に憐れみを乞うことで、処罰を免れようとするであろうが、それは成らない。そして、肉による者たちが、霊による者たちに危害を加え、根絶やしにしようとしたその悪意は、肉による者たち自身に跳ね返る。

ハマンがモルデカイを吊るそうとして自宅に作った処刑台が、ハマン自身の処刑台となったようにだ。
 
ハマンの死を思うとき、今日も、キリストと共なる十字架で死んでよみがえらされ、キリストの復活の命によって生きる神の民を中傷し、穢し、冒涜する者には、一体、この先、どんな厄災が降りかかることであろうか。

カルト被害者救済活動の支持者らは、神の民を精神異常者呼ばわりしているが、彼らが述べている世迷いごとを見れば、実際には、彼らこそ、まさに精神異常に陥っていることが、精神科医でなくとも、誰にでもすぐに分かる。勝ち目もない裁判に信徒を焚き付けたり、自分が見たことも聞いたこともない事柄について、まことしやかに虚偽を並べて人々を中傷したり、彼らの言うことには何の整合性もなく、彼らのしていることは自滅行為でしかなく、もはや人としての最低限度の常識や思考能力すらも完全に見失い、早く自分を罰してくれと世に向かって叫んでいるに等しい。

これが聖徒らを訴える者に降りかかる不幸な結末なのである。何度も述べて来たように、「主を畏れることは知恵の初め。 無知な者は知恵をも諭しをも侮る。 」(箴言1:7)とあるように、聖書の御言葉に従うことこそ、知恵と知識への道であり、御言葉を否定することは、無知と精神崩壊の始まりである。

聖書の御言葉に悪質に逆らう者たちからは、人としてのバランスの取れたものの見方や、常識や、健全な思考能力がどんどん失われて行く。彼らはこれまで裁判を振りかざしては教会を脅し、圧迫して来たが、実際に、自ら宣言している通り、裁判所に赴いてみれば良いのだ。彼らが述べているような嘘に満ちた一貫性のない屁理屈は、この世の人々の前でも、決してまかり通ることがないとすぐに分かるはずだ。

ハマンはエステルに訴えられて後、王の前で「顔を覆われた」。これはハマンが人に忌み嫌われる者の象徴となったことを意味する。この世の言い回しでは「人を呪わば、穴二つ」だが、キリスト者を呪った場合は、「穴一つ」だ。なぜなら、呪った者自身にその悪意が跳ね返るだけだからだ。

愚かなことである。カルト被害者救済活動の支持者らが、わざわざ自分で呪詛の言葉を口にしたりしなければ、それが彼らの身に降りかかることもなかったであろう。「一度口から出した言葉は取り消せない」と、彼らは自ら述べているのだから、彼らは自ら述べた言葉によって罪に定められ、その言葉は二度と撤回できまい。この先、顔を覆われた者同然に扱われることになるのは、彼ら自身である。それが彼らが自分で振りかざした掟によって自ら裁かれることの結末であり、彼らが自分で口にした言葉の刈り取りなのである。

このように、聖書の神、聖書の御言葉に敵対し、神の教会に敵対し、キリスト者を冒涜し敵対する者たちは、信者から憎まれるだけでなく、この世からも憎まれることになる。なぜなら、キリストの復活の命に基づくエクレシアの支配は、この世を超越しており、この世に対しても及んでいるからだ。
 
「その日アハシュエロス王は、ユダヤ人の敵ハマンの家を王妃エステルに与えた。モルデカイは王の前にきた。これはエステルが自分とモルデカイがどんな関係の者であるかを告げたからである。 王はハマンから取り返した自分の指輪をはずして、モルデカイに与えた。エステルはモルデカイにハマンの家を管理させた。

エステルは再び王の前に奏し、その足もとにひれ伏して、アガグびとハマンの陰謀すなわち彼がユダヤ人に対して企てたその計画を除くことを涙ながらに請い求めた。 王はエステルにむかって金の笏を伸べたので、エステルは身を起して王の前に立ち、そして言った、「もし王がよしとされ、わたしが王の前に恵みを得、またこの事が王の前に正しいと見え、かつわたしが王の目にかなうならば、アガグびとハンメダタの子ハマンが王の諸州にいるユダヤ人を滅ぼそうとはかって書き送った書を取り消す旨を書かせてください。 どうしてわたしは、わたしの民に臨もうとする災を、だまって見ていることができましょうか。どうしてわたしの同族の滅びるのを、だまって見ていることができましょうか」。

アハシュエロス王は王妃エステルとユダヤ人モルデカイに言った、「ハマンがユダヤ人を殺そうとしたので、わたしはハマンの家をエステルに与え、またハマンを木に掛けさせた。あなたがたは自分たちの思うままに王の名をもってユダヤ人についての書をつくり、王の指輪をもってそれに印を押すがよい。王の名をもって書き、王の指輪をもって印を押した書はだれも取り消すことができない」。

その時王の書記官が召し集められた。それは三月すなわちシワンの月の二十三日であった。そしてインドからエチオピヤまでの百二十七州にいる総督、諸州の知事および大臣たちに、モルデカイがユダヤ人について命じたとおりに書き送った。すなわち各州にはその文字を用い、各民族にはその言語を用いて書き送り、ユダヤ人に送るものにはその文字と言語とを用いた。 その書はアハシュエロス王の名をもって書かれ、王の指輪をもって印を押し、王の御用馬として、そのうまやに育った早馬に乗る急使によって送られた。 その中で、王はすべての町にいるユダヤ人に、彼らが相集まって自分たちの生命を保護し、自分たちを襲おうとする諸国、諸州のすべての武装した民を、その妻子もろともに滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取ることを許した。

ただしこの事をアハシュエロス王の諸州において、十二月すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちに行うことを命じた。 この書いた物の写しを詔として各州に伝え、すべての民に公示して、ユダヤ人に、その日のために備えして、その敵にあだをかえさせようとした。王の御用馬である早馬に乗った急使は、王の命によって急がされ、せきたてられて出て行った。この詔は首都スサで出された。

モルデカイは青と白の朝服を着、大きな金の冠をいただき、紫色の細布の上着をまとって王の前から出て行った。スサの町中、声をあげて喜んだ。ユダヤ人には光と喜びと楽しみと誉があった。いずれの州でも、いずれの町でも、すべて王の命令と詔の伝達された所では、ユダヤ人は喜び楽しみ、酒宴を開いてこの日を祝日とした。そしてこの国の民のうち多くの者がユダヤ人となった。これはユダヤ人を恐れる心が彼らのうちに起ったからである。
 
十二月すなわちアダルの月の十三日、王の命令と詔の行われる時が近づいたとき、すなわちユダヤ人の敵が、ユダヤ人を打ち伏せようと望んでいたのに、かえってユダヤ人が自分たちを憎む者を打ち伏せることとなったその日に、ユダヤ人はアハシュエロス王の各州にある自分たちの町々に集まり、自分たちに害を加えようとする者を殺そうとしたが、だれもユダヤ人に逆らうことのできるものはなかった。すべての民がユダヤ人を恐れたからである。

諸州の大臣、総督、知事および王の事をつかさどる者は皆ユダヤ人を助けた。彼らはモルデカイを恐れたからである。モルデカイは王の家で大いなる者となり、その名声は各州に聞えわたった。この人モルデカイがますます勢力ある者となったからである。そこでユダヤ人はつるぎをもってすべての敵を撃って殺し、滅ぼし、自分たちを憎む者に対し心のままに行った。ユダヤ人はまた首都スサにおいても五百人を殺し、滅ぼした。またパルシャンダタ、ダルポン、アスパタ、 ポラタ、アダリヤ、アリダタ、パルマシタ、アリサイ、アリダイ、ワエザタ、すなわちハンメダタの子で、ユダヤ人の敵であるハマンの十人の子をも殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。」

さて、エステルが王にハマンの悪事を告げて以後、ハマンはまず自分自身の栄誉、生命を失い、次に、ハマンの家が取り上げられ、さらに、ハマンの子供たちも殺された。

「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:5-6)とあることを思い出そう。

 王は先に出したユダヤ人殺害の詔勅を取り消すことはしなかった代わりに、ユダヤ人が共同してこれに反撃することを許した。そのため、人々の心にユダヤ人への恐れが生じ、大規模な殺害は起きなかったが、それでも、ユダヤ人を憎み、殺害を願っていた人々はまだ残っていたと見られ、これらの人々は反撃を受けて滅ぼされることになる。

 その中で、ハマンの子供たちも殺されたところを見ると、ハマンの計画は、ハマン一人の思いつきというより、一つの思想体系を為しており、子孫らにも受け継がれていた様子が伺える。このように、悪しき思想体系が出来上がり、多くの人々の心をとらえ、ユダヤ人を憎む一大勢力を築き上げていたのである。

 このことは、村上密率いるカルト被害者救済活動が、教会を憎んだり、恨んだりする人々の心を引きつけて、一大要塞化して、教会やクリスチャンに敵対する勢力となっていたことを思わせる。一人の人間が、ある思想を体現するのである。聖書の御言葉に基づく信仰を体現する者もいれば、反キリストの思想を体現する者もいる。そしてそれらの人物が要塞化し、多くの人々を引きつけてて一大勢力となるのである。

 このように悪の要塞と化した勢力を、その巣のレベルから根絶やしにするためには、ユダヤ人たちは、ハマンの残党を駆逐し、敵の牙城を襲撃することがぜひとも必要だったのである。

「その日、首都スサで殺された者の数が王に報告されると、 王は王妃エステルに言った、「ユダヤ人は首都スサで五百人を殺し、またハマンの十人の子を殺した。王のその他の諸州ではどんなに彼らは殺したことであろう。さてあなたの求めることは何か。必ず聞かれる。更にあなたの願いは何か。必ず聞きとどけられる」。

エステルは言った、「もし王がよしとされるならば、どうぞスサにいるユダヤ人にあすも、きょうの詔のように行うことをゆるしてください。かつハマンの十人の子を木に掛けさせてください」。 王はそうせよと命じたので、スサにおいて詔が出て、ハマンの十人の子は木に掛けられた。 アダルの月の十四日にまたスサにいるユダヤ人が集まり、スサで三百人を殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。

王の諸州にいる他のユダヤ人もまた集まって、自分たちの生命を保護し、その敵に勝って平安を得、自分たちを憎む者七万五千人を殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。 これはアダルの月の十三日であって、その十四日に休んで、その日を酒宴と喜びの日とした。 しかしスサにいるユダヤ人は十三日と十四日に集まり、十五日に休んで、その日を酒宴と喜びの日とした。 それゆえ村々のユダヤ人すなわち城壁のない町々に住む者はアダルの月の十四日を喜びの日、酒宴の日、祝日とし、互に食べ物を贈る日とした。

モルデカイはこれらのことを書きしるしてアハシュエロス王の諸州にいるすべてのユダヤ人に、近い者にも遠い者にも書を送り、アダルの月の十四日と十五日とを年々祝うことを命じた。すなわちこの両日にユダヤ人がその敵に勝って平安を得、またこの月は彼らのために憂いから喜びに変り、悲しみから祝日に変ったので、これらを酒宴と喜びの日として、互に食べ物を贈り、貧しい者に施しをする日とせよとさとした。

そこでユダヤ人は彼らがすでに始めたように、またモルデカイが彼らに書き送ったように、行うことを約束した。 これはアガグびとハンメダタの子ハマン、すなわちすべてのユダヤ人の敵がユダヤ人を滅ぼそうとはかり、プルすなわちくじを投げて彼らを絶やし、滅ぼそうとしたが、 エステルが王の前にきたとき、王は書を送って命じ、ハマンがユダヤ人に対して企てたその悪い計画をハマンの頭上に臨ませ、彼とその子らを木に掛けさせたからである。 このゆえに、この両日をプルの名にしたがってプリムと名づけた。そしてこの書のすべての言葉により、またこの事について見たところ、自分たちの会ったところによって、 ユダヤ人は相定め、年々その書かれているところにしたがい、その定められた時にしたがって、この両日を守り、自分たちと、その子孫およびすべて自分たちにつらなる者はこれを行い続けて廃することなく、 この両日を、代々、家々、州々、町々において必ず覚えて守るべきものとし、これらのプリムの日がユダヤ人のうちに廃せられることのないようにし、またこの記念がその子孫の中に絶えることのないようにした。

さらにアビハイルの娘である王妃エステルとユダヤ人モルデカイは、権威をもってこのプリムの第二の書を書き、それを確かめた。そしてアハシュエロスの国の百二十七州にいるすべてのユダヤ人に、平和と真実の言葉をもって書を送り、断食と悲しみのことについて、ユダヤ人モルデカイと王妃エステルが、かつてユダヤ人に命じたように、またユダヤ人たちが、かつて自分たちとその子孫のために定めたように、プリムのこれらの日をその定めた時に守らせた。エステルの命令はプリムに関するこれらの事を確定した。またこれは書にしるされた。
 
アハシュエロス王はその国および海に沿った国々にみつぎを課した。彼の権力と勢力によるすべての事業、および王がモルデカイを高い地位にのぼらせた事の詳しい話はメデアとペルシャの王たちの日誌の書にしるされているではないか。ユダヤ人モルデカイはアハシュエロス王に次ぐ者となり、ユダヤ人の中にあって大いなる者となり、その多くの兄弟に喜ばれた。彼はその民の幸福を求め、すべての国民に平和を述べたからである。

こうして、ハマンの悪しき計画は、ハマン自身の頭上に返され、ハマンは恥を受けて命を失い、ハマンが根絶やしにしようとした民は喜びに溢れ、ハマンが踏みつけにしたモルデカイは、王に次ぐほどの高貴な地位を得た。ハマンの子供たちは、殺害された後で、木にかけられたのかも知れないが、「木にかけられる」とは、その者が呪われることを意味する。エステルはハマンの家系が呪われていることを神と人との前で示すためにそれを求めたのである。

エステル記におけるこのような記述を指して、「キリスト教は残酷だ」「だから一神教はダメなんだ」と述べようとする人々がいる。ハマンがユダヤ人を殺害しようとした計画は悪いにせよ、その報いとしてハマンやその残党が殺される必要が本当にあったのかと異議を唱える人々もいれば、中には「ハマンとその子たちが可哀想」などと同情論を唱える人間もいるかも知れない。

しかし、そのような考えこそ、キリスト教にはバランスが足りないなどと述べて、「人間にやさしいキリスト教」を作り出すために、聖書にはない「何か」をつけ加えて、キリスト教を異端と混ぜ合わせて混合宗教を作り出そうとする考えなのである。そこから、カルト被害者救済活動なども生まれて来たことを思うべきである。

要するに、カルト被害者救済活動とは、(彼らに言わせれば非常に残酷かつ偏った)キリスト教の救いから「除外」され、「被害」を受けた可哀想な自称被害者たちを、何とかして教会に取り戻し、救いに戻してやろう、という人間的な思いから始まる。

神の選びを自ら退け、信仰を捨て、御言葉に服することをやめ、教会の敵にまでなった人々が、神に従うことをやめた自分の弱さを憐れむがゆえに、自分は正しく、神の判決こそ間違っている、非常識なのはキリスト教だ、と考えて、キリスト教に不服を述べ、キリスト教を人間の観点から罪定めするところから、この活動は始まっている。

そのようにして、人間の掟を神の掟以上に高く掲げる人々が、神の救済の対象になることは決してない。なぜなら、彼らは自分自身の罪を決して認めず、悔い改めをも拒んでいるからである。彼らは人間(自分自身)に同情するあまり、罪の悔い改めなくして赦しもないという初歩的な聖書理解をさえ完全に見失い、自分自身の罪をあたかも聖なる要素のごとく掲げているのである。

このように聖書の救いに悪質に対抗する考えを持つ人々が、神の救済の対象となることは決してなく、彼らが聖書の御言葉を曲げ、御子の救いを拒んだ者たちとして罰せられるのは避けられない。彼らを裁くのは、彼ら自身が掟として掲げているこの世の常識であり、この世の法である。彼らは自分たちが人を裁いた基準で、自分自身が裁かれることになるのである。

エステル記は霊的な戦いの絵図であり、神の民の殺害を望むような人々には、その計画が彼ら自身に跳ね返ることをよく示している。この法則は昔も今も決して変わらない。

だから、読者らは、この先、カルト被害者救済活動の支持者らに起きることを、よくよく見てもらいたいと思うのだ。なぜなら、こうした出来事の背景には、霊的な法則が働いており、残酷なまでに冷徹で動かせない結果が現れるからだ。

カルト被害者救済活動の支持者らが、神の民の前で、己が家、家族の人数、子供たちの数、支持者の数、財産、高い職業的地位などを誇ったことが、この先、どのように呪わしい形で彼ら自身に跳ね返るか、よくよく見てもらいたいと筆者は思う。

バビロンは、花婿なるキリストが来られる前に、すでに夫を得て、富んでしまっていた女であった。いや、それは夫というより、数々の愛人と呼んだ方がふさわしい。なぜなら、結婚の約束がないのに、バビロンは愛人たちに早々に身を売ったからである。

だが、ここで言う「バビロン」とは、神に逆らう人類全体を象徴しており(カルト被害者救済活動のような反聖書的な思想体系も含まれる)、バビロンの「愛人」とは、霊的には、この世の目に見える事物を指す。バビロンは孤独や貧しさを嫌っていたがゆえに、キリストが来られるまで辛抱強く一人で待てなかった。彼女は花婿を待つことをやめて、花婿との約束をたがえて、手っ取り早く愛人に身を売り、その報酬として、女王のように豊かになり、孤独とは無縁の享楽的な生活を送った。

だが、もし彼女が、自分はキリストを待てなかったので、愛人に身を売ったのだと自ら認めていれば、彼女の罪はまだ軽かったかも知れない。バビロンの最も忌まわしい罪は、キリストへの貞潔を失っていたにも関わらず、自分はキリストの花嫁にふさわしいかのように振る舞い、真にキリストを待つ民を迫害しながら、嘘をつき続けた点にある。彼女は、自分の心のねじ曲がっており、不誠実で、嘘つきであることをよく知っていたので、自分の心の醜さを隠すために、貞潔にキリストだけを待っている聖徒らを蔑み、聖徒らに罪を着せて悪しざまに言い、自分の高い地位、財産、愛人や取り巻きの数、子供の人数などを誇りながら、自分だけは苦しみや災いに遭わなくて済むと豪語して、聖徒らが御名のゆえに味わっている孤独や貧しさや苦難を蔑み、エクレシアを踏みつけにして嘲笑ったのである。

その結果として、神はバビロンにしたたかに復讐された。バビロンの罪の中には、エクレシアへの蔑みや嘲笑、冒涜の罪も、当然ながら含まれている。バビロンに対する報復は、聖書において決定済みの事項であるから、誰にも覆せない。彼女が人前で誇った数々の宝が、どのように一つ一つ、彼女から奪い取られ、消え去って行くかを見る時、バビロンが聖徒らの苦難を嘲笑うことの罪深さを、誰もが思い知ることができるだろう。

律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。

 律法は、信仰をよりどころにしていません。
律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。

キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからですそれは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受けるためでした。」(ガラテヤ3:11-14)

このように、私たちは律法(人間の掟)によって生きる者ではなく、信仰によって生きる義人である。そして、私たちのためには、すでに呪いとなった木にかかって下さった方がいる以上、私たちを呪うことのできる存在は誰一人としていない。神の御怒りと裁きは、かえって神の子供たちを呪い、冒涜する者たちに注がれる。

カルト被害者救済活動の支持者らは、聖書の御言葉を曲げた自分たちに、当然の裁きと報復が待っているという事実を見たくないがゆえに、聖徒らの証の言葉に猛反発しているだけである。しかし、彼らが何を言ってみたところで、決定は変わらない。彼らへの裁きがどうなるかは初めから確定している。なぜなら、律法によっては義とされる人は誰もいないからだ。彼らは自分たちが聖徒らを裁こうとして振りかざした厳しい基準で、自分自身が裁かれて終わるだけである。
 
ハレルヤ。
 救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。
 その裁きは真実で正しいからである。
 みだらな行いで
 地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、
 御自分の僕たちの流した血の復讐を、
 彼女になさったからである。

 「ハレルヤ。
 大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」(黙示19:1-3)

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神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。(1)

これから、色々と書かなければならないことが山積みである。まずはエステル記からだ。

今回、筆者は9年間という長きに渡り、当ブログにおける信仰告白の殲滅を願って筆者を脅しつけ、筆者を貶め、辱めようと悪意を持ってつけ狙い、筆者の人生の平穏を残酷に奪って来た者たちに対して、ついに法的措置に出た。

それによって、当ブログへの評価を高め、筆者の信仰者としての立場に賛同し、全力を挙げてこれを支援する読者も出て来れば、あるいは当ブログへの理解を失い、あるいは恐れて去って行く読者も出て来るだろう。

そのようなことはすべて予測済みである。そもそもカルト被害者救済活動がこれほど腐敗した運動であり、聖徒らに対する敵意と憎悪に燃えていることが、これほど公衆の面前で明らかになるまでには、相当な月日が必要であり、そうなるまでの間、当ブログの意見に理解を示さない者たちは数多く存在した。

だが、筆者は当ブログを読者の歓心を得るために書いているわけではない、と何度も断っている。だから、この事件を人々がどのように受け止めるかにはあまり関心がない。

重要なことは、キリスト者が暗闇の勢力に対峙するに当たり、どのように神の国の権益に立ってこれを擁護する決意を固めて行くかという信仰の成長にある。筆者自身が、以上のような決意に至るまでに、長い長い年月が流れている。その間に筆者が和解を呼びかけた回数も、一度や二度でないことは誰もが知っている。

どのような罪人に対してであれ、憐れみを唱えようとする人間の肉なる情が、筆者には分からないわけではない。しかし、今回は決してそうした肉の情に従うわけには行かない。むしろ、キリストと共なる十字架において、セルフに死んだ者として、筆者はすべての肉の情をきっぱりと断ち切り、御言葉によってすべてを明白に切り分けるレビ人の剣を手に取り、神の国の権益を擁護する者として、神の教会に敵対し、これを冒涜しようとする者たちに、あらゆる正当な手段を尽くして毅然と立ち向かう。そうすることこそ、まさに神の願っておられる、御言葉に基づく正しい行動なのであると確信する。従って、筆者はアダムに属する者でない以上、アダムを擁護することはできない相談である。

だが、むろん、筆者自身にとっても、その教訓を学ぶことは、一朝一夕でなかったことは言っておかねばならない。

多くの人々が、生まれながらの人間の情ゆえに、カルト被害者救済活動に理解や憐憫を示し、それゆえ、次々と彼らに敗北して行った。彼らはクリスチャンを名乗りながらも、聖書の御言葉よりも、人間としての情愛を優先し、人間が恥をかかされないことを優先して、罪が罪として暴かれ、悪者が悪者として罰せられることを嫌ったのである。

しかし、彼らが罰せられなければならないことは、何年も前からすでに決定済みであったと言える。

そのことは、筆者がかつて「罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか ――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――」の中で、以下のように記した通りである。

要するに、カルト被害者救済活動を支持する人々は、キリストの贖いではなく、自分自身の虐げられた被害者性を持って、自分を教会の一員として認めよと、教会に迫っているのである。それは罪ある人間が、自分は弱者であるがゆえに、悔い改めも、キリストの贖いも経ないのに、罪を免罪されて聖とされるべきと言っているに等しいのであるから、そのようなねじ曲がった考えは、悪質に福音に敵対するものとして、到底、聖書の神によって受け入れられる見込みがない。
 
 「生まれながらの人間は、何とかして肉の罪深い本質が暴かれることなく、自分の罪が照らされることなく、義に達する道がないかと模索しています。生まれながらの人間の心の中には、自分のものであれ、他人のものであれ、人間の罪を決してあるがままの罪として暴かれたくない・見たくない・認めたくないという思いがあります。他人の罪が暴かれることも、自分の罪が暴かれることも同じように、生まれながらの人間にとっては脅威になり得ます。人間は人間を良いものとみなし、人間に恥をかかせたくないのです。だからこそ、人は自分が間違いを犯したことが明白である時でさえ、悪いのはその人を苦しめた環境であって、その人(弱者)自身に罪はないと思いたいのであり、そう言ってくれる他者に飛びつきたいのです。しかし、それは神の事実に基づいた結論ではありません。

神は私たちのあるがままの姿がどんなものであるか知っておられます。弱者であろうと、虐げられた貧しき人々であろうと、抑圧された者たちであろうと、一人残らず、神の御前には惨めな罪人に過ぎません。しかし、光の下に正直に進み出たくない人々は、自分の裸の恥を神の御前で隠し、自己の罪を美化しようとするだけでなく、他者の罪が暴かれることに対しても、激しく抵抗することがあります。そして、罪を罪としてはっきり指摘し、神に立ち戻るよう忠告する人をいわれなく罪定めして退け、逆に、罪を隠蔽し、かばうことを、思いやりや、憐れみや、優しさなどと呼びかえ、悔い改めに導かれる必要のある他者に向かって「あなたは正しいので、悔い改めなど必要ない」とささやき、その人をさらに神から遠く引き離してしまうのです。

 「バラバを十字架につけるな、キリストを十字架につけよ!」という叫びの根底には、何とかして人間に十字架を経由させることなく、人が罪を認めることも、悔い改めることもなくして、人間が傷ついたり、恥じ入ったり、名誉を失うことなくして、尊厳を保ったまま無罪放免される方法がないのかという、人の生まれながらの自己の叫びがあります。

 <略>”弱者”であるから、”被害者”であるから、”虐げられた貧しき人々”だからといって、その人たちに義があるわけではないのです。全ての人が神の御前に生まれながらに罪人なのです。それにも関わらず、”弱者”の美名を利用して、人が自己の内にある罪の本質から目を逸らし、己の内にまるで正義があるかのように思い込み、実際にそう主張していく時、それはいかに人の目には崇高な理念のように見えたとしても、人が神の義を退けてでも、生まれながらの人間を義としようとする、巧妙で悪質な神への反逆になるのです。

<略>   クリスチャンが正直に罪を罪と呼ぶことをやめ、罪人がキリストと共に十字架へ赴く必要を否定して、むしろ、罪人に対する神の刑罰としての十字架を退けて、罪人に対する直接的な”愛”や”憐れみ”や”赦し”や”慰め”の必要を訴えていくとき、それは私たちが再び、バラバを赦してキリストを十字架につけよと叫んでいるのと同じなのです。<略>

「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。」(Ⅰヨハネ1:8) 「光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛した」(ヨハネ3:19)

「悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。」(ヨハネ3:20-21)

 最後に、クリスチャンを名乗っているにも関わらず、主が血潮によって罪赦されたクリスチャンをいわれなくそしり、聖書の御言葉を曲げてでも、教会とクリスチャンを踏みにじり、数々の汚しごとを言い、キリストの花嫁である教会を争いによって引き裂き、虚偽に満ちた議論を展開しては、多くの人々を欺いてキリストの御名を貶めて来た人々が、この先、どうなるかは聖書が予告している通りです

「…この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。」(ユダ10)

彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた全ての人を、さばくのである」(Ⅱテサロニケ2:10-12)

もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と言われ、「また『主はその民をさばかれる』と言われたかたを、わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。」(ヘブル10:28-31)

 以上の記事を書いた時点では、筆者はまだカルト被害者救済活動の支持者らがどのような形で罰せられることになるのかを具体的に知らなかった。その中で自分がどのような役割を果たすのか、また、そのために必要な措置が何であるかも知らなかった。

 しかし、それでも、聖書の御言葉は、その当時から、彼らの最期をはっきりと告げていたのである。それだからこそ、何年も前から、筆者は彼らの辿る結末を知っており、以上の記事を記すことができた。次の御言葉は何度でも繰り返すに値する。

「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に値することであろう。」

 以上の御言葉こそ、筆者が今回のような措置を取るに当たり、依って立っている根拠である。これまで筆者は、彼らのいわれなき告発に対して、キリストの義に立って、防戦するのみであった。しかし、今ここに筆者は彼らとの関係性を逆転して、反撃に転ずる――聖書の御言葉に基づき、彼らの処罰を求めるという積極的な反撃を開始するのである。

 カルト被害者救済活動の支持者らが、クリスチャンを罪に定めて処罰することを望んでいたことを思い出されたい。彼らは筆者を含む、神が贖われて義とされたクリスチャンや教会をまるで犯罪者のごとく処罰しようと望んでいたのである。

 だとすれば、なぜ筆者を含むクリスチャンの側だけが、いつまでも彼らに対する憐れみを持ち続けねばならないのか。いや、むしろ、彼らが望んだ悪しき願いは、そっくりそのまま、彼ら自身の上に注ぎ返すべきではないのか。

 カルト被害者救済活動の支持者らがクリスチャンを罪に定め、処罰を求めるなど、完全に筋違いであり、まさに倒錯した願いであると言える。むしろ、実際は、神に贖われて義とされたクリスチャンこそ、彼らに対する処罰を求めるにまことにふさわしい存在なのである。暗闇の勢力はおそらくそれを最初から分かっていればこそ、自分たちの生き残りをかけて、無防備で無自覚なクリスチャンに先手を打って戦いをしかけたのだろう。
 
 これから先、この戦いがどうなるのかは、筆者自身にとっても非常な関心がある。なぜなら、そこには筆者個人の人生が関わっているだけでなく、聖書の真理、神の御言葉の永遠の正しさがかかっているためである。従って、この先は、筆者の肉の努力や個人的な思惑によらず、神ご自身が御言葉の正しさを証明されるための手続きなのであって、神ご自身が対応されることであろう。

 さて、今回と次の記事の中で、クリスチャンが誰でも知っているエステル記(第3章~第8章)の有名な物語を引用しながら考察してみたい。

「これらの事の後、アハシュエロス王はアガグびとハンメダタの子ハマンを重んじ、これを昇進させて、自分と共にいるすべての大臣たちの上にその席を定めさせた。 王の門の内にいる王の侍臣たちは皆ひざまずいてハマンに敬礼した。これは王が彼についてこうすることを命じたからである。

しかしモルデカイはひざまずかず、また敬礼しなかった。 そこで王の門にいる王の侍臣たちはモルデカイにむかって、「あなたはどうして王の命令にそむくのか」と言った。 彼らは毎日モルデカイにこう言うけれども聞きいれなかったので、その事がゆるされるかどうかを見ようと、これをハマンに告げた。なぜならモルデカイはすでに自分のユダヤ人であることを彼らに語ったからである。

ハマンはモルデカイのひざまずかず、また自分に敬礼しないのを見て怒りに満たされたが、 ただモルデカイだけを殺すことを潔しとしなかった。彼らがモルデカイの属する民をハマンに知らせたので、ハマンはアハシュエロスの国のうちにいるすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの属する民をことごとく滅ぼそうと図った。


 王に引き立てられて得意になった大臣ハマンが、ユダヤ人全体に対して敵意と憎悪を抱いた直接のきっかけは、ユダヤ人モルデカイがハマンの前にひざまずかず、ハマンを神として崇めなかったことによる。ハマンは王に仕える臣下であったとはいえ、内心では、自分を王に等しい存在であるとみなして、王の代弁者のように振る舞っていた。(自分を王と思っていたと言っても過言ではないだろう。)
 
 カルト被害者救済活動の支持者らがどういうきっかけでキリスト教界全体に敵意と憎悪を抱くようになったのかは知らない。しかし、彼らが筆者個人に対して憎悪を抱いた直接のきっかけは、筆者がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団時代に津村昭二郎牧師の前にひざまずかず、村上密牧師の前にひざまずかず、KFCのDr.Lukeの前にもひざまずかず、ゴットホルト・ベック氏の前にもひざまずかず、彼ら牧師や指導者を名乗っている人間をことごとく神として崇めなかったことによる。

 要するに、筆者が牧師制度そのものの前にひれ伏さず、人間に過ぎない者を神として拝んだり、彼らを神のような絶対者とみなして聞き従うことを拒んだことによる。それゆえ、彼らは筆者を不遜な人間とみなし、筆者のために自分が恥をかかされたかのように考え、筆者を憎んだだけでなく、辱め、殺そうとまで願ったのである。(この人々の迫害の執拗さを見れば、彼らが筆者に対する憎悪のみならず殺意をも持っていたことは明白である。)

 聖書にはダニエル等、モルデカイと同じように、人間に過ぎない者を拝まなかったがゆえに迫害された人物は他にも登場する。しかし、彼らはことごとく迫害に対する勝利をおさめている。また、サムエルのように、腐敗した祭司エリのもとで幼少期を過ごしながらも、その腐敗に決して染まらなかった人物もいる。

 このように、神の民がどんなに腐敗する時にも、神はその民の中から、必ずご自分に忠実な人々をとりわけ、神の民全体を正すための準備を整えさせる。信仰に基づいて、見えないただお一人の神だけを神とするのか、それとも、目に見えるもろもろの被造物(人間を含む)を神として拝み、悪魔に魂を売るのか、それはキリスト者が生きている限り、直面し続ける戦いである。
 
アハシュエロス王の第十二年の正月すなわちニサンの月に、ハマンの前で、十二月すなわちアダルの月まで、一日一日のため、一月一月のために、プルすなわちくじを投げさせた。 そしてハマンはアハシュエロス王に言った、「お国の各州にいる諸民のうちに、散らされて、別れ別れになっている一つの民がいます。その法律は他のすべての民のものと異なり、また彼らは王の法律を守りません。それゆえ彼らを許しておくことは王のためになりません。 もし王がよしとされるならば、彼らを滅ぼせと詔をお書きください。そうすればわたしは王の事をつかさどる者たちの手に銀一万タラントを量りわたして、王の金庫に入れさせましょう」。 そこで王は手から指輪をはずし、アガグびとハンメダタの子で、ユダヤ人の敵であるハマンにわたした。 そして王はハマンに言った、「その銀はあなたに与える。その民もまたあなたに与えるから、よいと思うようにしなさい」。」

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は理念が歪んでいるだけでなく、そこから登場する聖職者を名乗る人物も、あまりにも異常で偏っていたと言えよう。村上密は早くからカルト監視機構の設立を提唱し、全キリスト教界を自分自身の監督下に置くことを提唱していた。カトリック教会には統一的なヒエラルキーがあるが、プロテスタントにはそれがない。それゆえ、プロテスタントの教会は、「散らされて、別れ別れになっている」も同然の民であり、これを統一的に管理する規則はない。そこに村上は目を付けたのである。カルト被害者救済活動の支持者らは、プロテスタントの各教会が、誰も手を出せない聖域のようになっていることを許し難いと考え、これを彼らの監視下に置くか、もしくは彼らの支配に屈さない教会は、打ち滅ぼしてしまおうと考えたのである。彼らは諸教会に裁判をしかけることで、教会財産を略奪することをも初めから狙っていた。

「そこで正月の十三日に王の書記官が召し集められ、王の総督、各州の知事および諸民のつかさたちにハマンが命じたことをことごとく書きしるした。すなわち各州に送るものにはその文字を用い、諸民に送るものにはその言語を用い、おのおのアハシュエロス王の名をもってそれを書き、王の指輪をもってそれに印を押した。そして急使をもってその書を王の諸州に送り、十二月すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちにすべてのユダヤ人を、若い者、老いた者、子供、女の別なく、ことごとく滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取れと命じた。 この文書の写しを詔として各州に伝え、すべての民に公示して、その日のために備えさせようとした。 急使は王の命令により急いで出ていった。この詔は首都スサで発布された。時に王とハマンは座して酒を飲んでいたが、スサの都はあわて惑った。」

カルト監視機構は設立されなかった。にも関わらず、村上密は自分の願いを諦めなかった。村上に従った多くの人々が、密偵のようになって各教会を監視し、その情報を偽って指導者に密告した。村上は被害者を募って、諸教会にカルト化の疑いをかけ、それを口実に、教会に対する攻撃としての裁判をしかけ、リーダーを辱めて追放し、信徒を追い散らし、教会財産を賠償金という名目で奪い取った。

モルデカイはすべてこのなされたことを知ったとき、その衣を裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、町の中へ行って大声をあげ、激しく叫んで、王の門の入口まで行った。荒布をまとっては王の門の内にはいることができないからである。すべて王の命令と詔をうけ取った各州ではユダヤ人のうちに大いなる悲しみがあり、断食、嘆き、叫びが起り、また荒布をまとい、灰の上に座する者が多かった。」

多くの牧師たち、信徒たち、教会が村上の手法に異議を唱えた。しかし、村上は自分の手先となった信徒たちを巧妙に利用して、自分の活動を批判する者たちを脅しつけ、反対をことごとく封じ込めて行った。

「エステルの侍女たちおよび侍従たちがきて、この事を告げたので、王妃は非常に悲しみ、モルデカイに着物を贈り、それを着せて、荒布を脱がせようとしたが受けなかった。そこでエステルは王の侍従のひとりで、王が自分にはべらせたハタクを召し、モルデカイのもとへ行って、それは何事であるか、何ゆえであるかを尋ねて来るようにと命じた。ハタクは出て、王の門の前にある町の広場にいるモルデカイのもとへ行くと、モルデカイは自分の身に起ったすべての事を彼に告げ、かつハマンがユダヤ人を滅ぼすことのために王の金庫に量り入れると約束した銀の正確な額を告げた。 また彼らを滅ぼさせるために、スサで発布された詔書の写しを彼にわたし、それをエステルに見せ、かつ説きあかし、彼女が王のもとへ行ってその民のために王のあわれみを請い、王の前に願い求めるように彼女に言い伝えよと言った。


ハタクが帰ってきてモルデカイの言葉をエステルに告げたので、エステルはハタクに命じ、モルデカイに言葉を伝えさせて言った、「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという一つの法律のあることを知っています。ただし王がその者に金の笏を伸べれば生きることができるのです。しかしわたしはこの三十日の間、王のもとへ行くべき召をこうむらないのです」。 エステルの言葉をモルデカイに告げたので、 モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。

そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。」
 
カルト被害者救済活動の暴挙を食い止めるためには、聖書の御言葉に立っている誰かが、命をかけてこれに立ち向かう必要があった。どのような反撃を受けようとも、決して一歩も退かない覚悟で、彼らの暴虐を訴えて、これに立ち向かう勇気と決意を固める人間が現れることが、どうしても必要であった。しかも、その人間は、それができるだけの立ち位置を備えていなければならなかった。

筆者にはその条件が揃っていた。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団で幼少期を過ごしたことも含めて、まるですべてがその準備のためのようである。だが、筆者とて、そうした決意と覚悟を固めるにはやや時間を要したことは確かであり、そして、筆者以外にはそれをすることができる人間が誰もいなかったとは思わない。もしも筆者が臆病にもその仕事を果たさなかった場合には、神はその仕事を筆者のような誰か他の人間に与えられただけである。(むろん、これから先は、もっとたくさん出て来る。)

いずれにしても、筆者は決意を固めるしかなかった。神の教会の敵どもの投げつけて来る悪罵と呪いの言葉を真に受けて、彼らの呪いの通りに、精神異常となって死ぬのか(断じてそのようなことは容認できず、またそんな結末を受け入れねばならない理由は筆者には何一つとしてない)、それとも、彼らの呪いは彼ら自身にお返しして、彼ら自身に負ってもらい、筆者は彼らの悪事を正々堂々と非難して、彼らに対する当然の処罰を求めて生きるのか。

神が筆者にどちらを願っておられるかは、明々白々であった(どうして神がキリスト者を精神異常にしたり、死へ追い込んだりすることを願われるものか)。だとすれば、神の民に対する敵意と殺戮の願いに燃える敵どもに対しては、毅然と対峙するしかない。

「三日目にエステルは王妃の服を着、王宮の内庭に入り、王の広間にむかって立った。王は王宮の玉座に座して王宮の入口にむかっていたが、 王妃エステルが庭に立っているのを見て彼女に恵みを示し、その手にある金の笏をエステルの方に伸ばしたので、エステルは進みよってその笏の頭にさわった。 王は彼女に言った、「王妃エステルよ、何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう」。 エステルは言った、「もし王がよしとされるならば、きょうわたしが王のために設けた酒宴に、ハマンとご一緒にお臨みください」。 そこで王は「ハマンを速く連れてきて、エステルの言うようにせよ」と言い、やがて王とハマンはエステルの設けた酒宴に臨んだ。

酒宴の時、王はエステルに言った、「あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。 エステルは答えて言った、「わたしの求め、わたしの願いはこれです。 もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしわたしの求めを許し、わたしの願いを聞きとどけるのをよしとされるならば、ハマンとご一緒に、あすまた、わたしが設けようとする酒宴に、お臨みください。わたしはあす王のお言葉どおりにいたしましょう」。


こうしてハマンはその日、心に喜び楽しんで出てきたが、ハマンはモルデカイが王の門にいて、自分にむかって立ちあがりもせず、また身動きもしないのを見たので、モルデカイに対し怒りに満たされた。 しかしハマンは耐え忍んで家に帰り、人をやってその友だちおよび妻ゼレシを呼んでこさせ、 そしてハマンはその富の栄華と、そのむすこたちの多いことと、すべて王が自分を重んじられたこと、また王の大臣および侍臣たちにまさって自分を昇進させられたことを彼らに語った。 ハマンはまた言った、「王妃エステルは酒宴を設けたが、わたしのほかはだれも王と共にこれに臨ませなかった。あすもまたわたしは王と共に王妃に招かれている。 しかしユダヤ人モルデカイが王の門に座しているのを見る間は、これらの事もわたしには楽しくない」。

その時、妻ゼレシとすべての友は彼に言った、「高さ五十キュビトの木を立てさせ、あすの朝、モルデカイをその上に掛けるように王に申し上げなさい。そして王と一緒に楽しんでその酒宴においでなさい」。ハマンはこの事をよしとして、その木を立てさせた。」

エステル記に登場する王は、まるで中立的な裁判官のようで、王自身のキャラクターはかなり薄いと言える。どちらかと言えば、登場人物の方がはるかに個性的で、それぞれの意見をはっきり持っており、彼らの進言する内容が王に大きな影響を及ぼす。

これは王が象徴的に神を表していることによる。今日、聖徒らも、悪魔と暗闇の軍勢も、みな同様に神の御前に立って、それぞれの意見を述べているのである。我々は地上にいる間は、目に見える人間を相手にしているつもりになっているかも知れないが、我々のすべての言葉は、神に対する訴えとして聞かれているのである。

すなわち、暗闇の勢力は、聖徒らに対する敵意と憎悪と罪定めの言葉を、聖徒らは暗闇の勢力の悪事と彼らに対する処罰を、神に向かって訴えている。そして、ご存知の通り、ハマンが自分を拝まないモルデカイを憎んで殺すために、自分の家の庭に作った処刑台は、ハマン自身のための処刑台となる。

これは、暗闇の勢力が聖徒らに害を加えようと願ったその願いが、彼ら自身に跳ね返ることを意味する。もちろん、ハマンがモルデカイを木にかけて殺そうと願ったことは、キリストの十字架の予表でもある。だが、キリストは十字架において最後の敵である死を滅ぼし、ご自分に対する殺意を表明する勢力に完全に勝利を取られた。そこで、これから処罰されるのは、悪魔と暗闇の勢力なのである。

「その夜、王は眠ることができなかったので、命じて日々の事をしるした記録の書を持ってこさせ、王の前で読ませたが、 その中に、モルデカイがかつて王の侍従で、王のへやの戸を守る者のうちのビグタナとテレシのふたりが、アハシュエロス王を殺そうとねらっていることを告げた、としるされているのを見いだした。 そこで王は言った、「この事のために、どんな栄誉と爵位をモルデカイに与えたか」。王に仕える侍臣たちは言った、「何も彼に与えていません」。

王は言った、「庭にいるのはだれか」。この時ハマンはモルデカイのために設けた木にモルデカイを掛けることを王に申し上げようと王宮の外庭にはいってきていた。 王の侍臣たちが「ハマンが庭に立っています」と王に言ったので、王は「ここへ、はいらせよ」と言った。 やがてハマンがはいって来ると王は言った、「王が栄誉を与えようと思う人にはどうしたらよかろうか」。ハマンは心のうちに言った、「王はわたし以外にだれに栄誉を与えようと思われるだろうか」。

ハマンは王に言った、「王が栄誉を与えようと思われる人のためには、 王の着られた衣服を持ってこさせ、また王の乗られた馬、すなわちその頭に王冠をいただいた馬をひいてこさせ、 その衣服と馬とを王の最も尊い大臣のひとりの手にわたして、王が栄誉を与えようと思われる人にその衣服を着させ、またその人を馬に乗せ、町の広場を導いて通らせ、『王が栄誉を与えようと思う人にはこうするのだ』とその前に呼ばわらせなさい」。

それで王はハマンに言った、「急いであなたが言ったように、その衣服と馬とを取り寄せ、王の門に座しているユダヤ人モルデカイにそうしなさい。あなたが言ったことを一つも欠いてはならない」。 そこでハマンは衣服と馬とを取り寄せ、モルデカイにその衣服を着せ、彼を馬に乗せて町の広場を通らせ、その前に呼ばわって、「王が栄誉を与えようと思う人にはこうするのだ」と言った。
こうしてモルデカイは王の門に帰ってきたが、ハマンは憂え悩み、頭をおおって急いで家に帰った。 そしてハマンは自分の身に起った事をことごとくその妻ゼレシと友だちに告げた。するとその知者たちおよび妻ゼレシは彼に言った、「あのモルデカイ、すなわちあなたがその人の前に敗れ始めた者が、もしユダヤ人の子孫であるならば、あなたは彼に勝つことはできない。必ず彼の前に敗れるでしょう」。
彼らがなおハマンと話している時、王の侍従たちがきてハマンを促し、エステルが設けた酒宴に臨ませた。」

不思議なことに、ハマンの取り巻き連中の中には、かなり賢明な判断をする者たちが含まれていたようだ。ハマンの妻でさえそうである。彼らはユダヤ人に不思議な力があって、それ以外の全ての民にまさる力があることを知っていた。そして、王がモルデカイの功績を思い出し、彼を取り立てたことが、ハマンの敗北の始まりであることをも、彼らはちゃんと理解していたのである。

次回は、いよいよモルデカイを殺そうと願ったハマンが辱められ、木に吊るされる場面について解説したい。だが、その記事を挙げる前に、筆者は断っておきたい。カルト被害者救済活動の支持者はもはや完全にこの分岐点を過ぎているため、彼らに残されているのは、ただ「木にかけられる」ことだけであると。
 
<続く>

神の教会とクリスチャンを冒涜し、呪う偽預言者らに地獄で待ち受けている永遠の厳しい裁き

毎年、冬の寒さを乗り越えるのはひと苦労だが、ようやく暖かくなり、五月のような気温の日が続いている。 今年はただ春が来たということが嬉しいだけではない。巨大なミッションが一つ達成されたことで、霊的に大きな解放感がある。

先週、長年に渡り、当ブログに嫌がらせをしかけ、誹謗中傷を続けて来たS氏が共犯者と共に刑事告訴された。この人物ができもしない刑事告訴を当ブログに向かって予告してから、それが不成立に終わる結果が出るまでの間に、1年近い月日が流れたことを思えば、今回、警察の対応は、筆者の目から見れば、まるでスローモーションのようであったとはいえ、それでも通常に比べれば、まだスピード感のある対応だったと言える。

筆者は警察組織がどんなところか知っているため、そこでは、聖書に登場する裁判官とやもめのたとえ話を実地で貫き通す覚悟がなければ何も進まないことが分かっている。

S氏にはここ連日、警察から人権侵害の記事を取り下げ、ブログを閉鎖するよう説得が続けられていた。にも関わらず、同氏はこれを拒否する意志表示を明白に示したのであった。

これによって、S氏への説得が終了するのみならず、情状酌量の余地も激減することになる。ちゃんとした弁護士がついていれば、刑事事件になっているにも関わらず、そんな愚かな行動に出るようにとの助言は絶対にしなかっただろう。せっかくこれから弁護しようとしている人間が、罪を軽くする機会を自ら失うような行動に及ぶことを、弁護士が助長するはずがないからだ。

一旦、事件になってしまうと、その後の手続きの流れを止めるのは非常に難しく、あらゆる証拠や証人をかき集めても、エスカレータのように手続きは進んで行く。

それでも、被害者感情を考慮して、罪を認めて謝罪するのは早ければ早いほど、情状酌量の余地が働く。罪を認めている人間を、周囲も強く責めることはできないからだ。(それはキリスト者が悔い改めて神に立ち返る時も同じである。神は悔い改めた人間を決して再び責めはしない。)

しかし、罪を認めなければ、証拠により追い詰められ、本人がどんどん不利になって行くだけなのだ。人に迷惑をかけても、法を犯しても、反省のない悪い人間だという印象が重なり、ついには誰一人、その言い分に耳を傾けなくなるだけである。

おそらく、S氏にとって最も大切なのは、自分の人生の行く末ではなく、一刻でも長くクリスチャンを害する情報を発信し続けることと、自分が訴えられている事実が周囲に知れ渡らないための工作だったのであろう。

だが、クリスチャンに対する害意が明白である以上、神はこれにきっちり応答される。ここ1~2ヶ月の間に、何が起きるかに、ますます注目されたい。果たして、S氏の呪いに効力があるのか、それとも、筆者の主張する神の完全な義認が効力を発するのか、その事実は公然と証明されるため、よくよく注目されたい。

前の記事でも書いたが、筆者のためには、すでに木にかかってすべての呪いを背負って下さった方がおられる以上、誰も地上に筆者を呪うことのできる存在はおらず、筆者が悪魔と暗闇の勢力の悪意をいわれなく身に背負わされる筋合いも全くないのである。

だが、こうした事件が起きるまでもなく、S氏のブログ記事はすでに完全に世間からの信用を失い、内容を信じる人もほとんどいなくなっている。クリスチャンの世間でそうなのだから、ましてや、不信者の世間ではずっと前からそうである。S氏の最後の取り巻きが、共犯者として告訴された以上、この悪党グループに加わる人間はもういない。

さて、ソーシャルワーカーの職務内容には、事故やけがや病気で仕事を失ったり、精神疾患に陥った人々などの社会的弱者の社会復帰を助けることも含まれている。そのために自治体などでも社会福祉士が雇用されている。

筆者は精神異常などでは少しもないが、もし誰かが精神疾患に陥っていたとして、社会福祉士である者が、その者の病気を取り上げてあざ笑ったり、そういう人々の就労困難などの社会への適応困難な状況をあげつらって、これを公の場所で嘲笑するような趣旨の記事を書くことは、断じて考えられない行為であり、社会福祉士の信用をいたく傷つけるものでしかない。

そんなことをするソーシャルワーカーに、自ら弱さを打ち明けて助けを求める社会的弱者は一人もいないであろう。そしてそのような行為を隠れたところでやっていたと分かれば、職場もクビになり、国家資格を剥奪されるという結果に終わるだけである。

そもそも誹謗中傷の記事内容などを信じるのは、人格低劣な人々だけであるから、そのような人々がどんな反応をしたとしても、筆者は意に介さない。だが、こうして彼らの内面にある悪意が、極みまではっきりと証明されたことは、むしろ、喜ばしいことだったと考えている。

今や、カルト被害者救済活動の「師匠」である村上密氏さえ、記事の削除に応じざるを得ない上状況となっている中で、弟子はそれを拒んでいるのだから、これは師匠よりももっとたちの悪いゲヘナの子だ。利用されただけという言い分は成り立たない。弁護の余地などどこにもありはしない。

村上密氏は以下に述べるように、ブログ記事の中で、未だに教会に損害賠償請求をふっかける機会を伺っている様子を記しているが、実際には、その村上氏こそ、信徒への守秘義務違反、個人情報の漏洩、パワハラ、プライバシーの侵害などで損害賠償請求を受けるにふさわしい存在だ。

なぜなら、村上氏は、筆者が2008年に宗教トラブル相談センターに個人的な相談のために訪れた際に知り得た筆者の個人情報を、歪曲しながら虚偽を言いふらし、筆者を中傷する記事を長年に渡り、公表して来ただけでなく、S氏にも筆者の個人情報を提供して、S氏が筆者をブログで誹謗中傷することを幇助した疑いが強く持たれるためだ。

S氏は筆者と面識がないため、筆者の個人情報を単独で入手できる立場にはない。そして、S氏に情報提供を行った人物は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の関係者以外にはあり得ないが、村上密氏以外には、そのようなことができる人物がいないことも、明白なのである。

たとえば、筆者の両親はアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の信徒などではないが、S氏は筆者の両親がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会に通っていたかのような虚偽を言いふらしている。

だが、実際には、筆者の母はずっと他教団の信徒であり続けたがゆえに、アッセンブリー教会に正会員として所属したことがなく、さらに、父はクリスチャンでないため、教会に通った事実そのものがない。こうしたことは、当時の教会を知る関係者ならば、決して間違うはずのない事実である。

ところが、S氏は筆者の両親がアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会にそろって共に通っていたなどと、ありもしない大嘘をついてデタラメを書き記している。こうして、自分が見たことも、聞いたこともない事柄について、不確かな伝聞だけを頼りに、まことしやかに虚偽を書き記すのが、村上密氏およびS氏の常套手段である。

しかし、こんな大嘘も、S氏が一人で考え出せるものではなく、村上氏の(いつものような強烈な)思い込みがなければ、決して生じ得ない思い違いであると言える。

なぜなら、2008年、筆者は村上氏の率いる宗教トラブル相談センターを訪れていた頃、村上氏の勧めもあって(被害者の多くから名ばかりと批判されている)「カウンセリング」の一環として、「家族カウンセリング」のために、一度だけ両親を呼んで、村上氏と面会させたことがあるためだ。その時に、村上氏が筆者に送って来たメールも残っている。

その当時、村上氏は筆者の両親がそろって教会を訪れた姿だけを見て、筆者の父には信仰がないという事実をよく確かめもせず、筆者の両親がともにクリスチャンであって、それ以前にも共に教会に通っていたのだろうと早合点をしたものと見られる。

少なくとも、当時のその教会の信徒たちは、教会でほぼ一度も父の姿を見かけたことがなかったのだから、決して筆者の両親がクリスチャンであるなどという誤解をするはずがない。津村昭二郎牧師でさえ、筆者の父がクリスチャンでないことや、教会に通った事実が全くなく、いかなる伝道集会にも参加していない事実を見失うとは考えられない。村上氏が一度でも津村氏に事情を確かめていれば、こうした思い違いも生まれなかったはずだ。

だが、村上氏もS氏も、事実関係の裏付けを全く取らずに、不確かな伝聞だけを頼りに、自分の思い込みだけで筆を進める。そうした虚偽情報が満載された結果として、彼らの言い分にはますます信憑性がなくなって、誰も見向きもしなくなっていくことを考えもしないのである。

この他にも、津村氏の不祥事事件が発生してから数年後、筆者の一家は遠方の地に移り住んだため、当時の教会の信徒らは、筆者の両親がその後、どこに住んで何をしているかといった情報を知り得る立場にはない。

そこで、S氏が以上のようなデマを書き記すためには、以下の条件が必要となるが、その条件をすべて満たしている人間は、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中に、村上密以外には誰一人としていないのだ。

➀当時のN教会の関係者であること
②筆者の両親がどこかの教会の集会にそろって訪れたところを目撃していること(N教会の信者は誰もそんな場面を見たことがない)
③筆者の両親が引越して後、どこに住み、何を営んでいるかを知っていること(N教会の信徒はその事実を知らない)
④S氏が筆者に対する悪意を持って当ブログへの誹謗中傷の機会を伺っていることを十分に知りながら、それでもS氏に誹謗中傷の材料となる筆者の個人情報をあえて提供するような卑しい心根の持ち主であること(そんなことをする信徒はN教会はおろか、どんな教会にも一人もいない)

村上密氏が、自らのブログで、S氏よりも前から、筆者および当ブログを卑しめる記事を発表していたことは周知の事実であり、その点で、村上氏は以上の➀~③のみならず、④の行為に及ぶ動機をも十分に満たしていたと言える。

また、村上氏が、筆者のみならず、どれほど大勢の同僚の牧師や信徒の個人情報を悪用しながら、自らのブログで、論敵となった牧師や信徒を誹謗中傷する材料にして来たかを考えれば、あえて筆者が以上のような論証をせずとも、村上氏が以上の行動に及ぶような精神を持つ人間であることに、異論を唱える者も、疑問を抱く人間もほとんど残っていまい。

このように、村上氏が宗教トラブル相談センターを訪れた人間の個人情報をあまりにも軽率に言いふらしながら、自分に都合の良い形で悪用している事実は、同氏の直近の記事を読んでもすぐに分かる。

たとえば、村上氏の直近の記事では、次のような内容が記されている。

2018年 02月 28日

聖なる法か 世俗の法か 1

TさんはS教会で洗礼を受け、教会員となった。ところが、TさんがS教会に対して閲覧請求をしたとき、S教会は、あなたは客員だから閲覧請求はできない、と言って拒んだ。TさんはS教会の礼拝に出席を続けてきた。それでも、いつ客員になったかを聞かされていなかった。客員になった年月日を問うがはっきりしない。Tさんはどこの教会からの客員かと聞くと、S教会の宗教法人の下にある外国人教会からの客員であると言う。Tさんは、外国人教会から私たちの教会員ですと言われたことはない。S教会と外国人教会の間では話し合いはなく、文書による通知もない。もし、個人の籍が勝手に他に移っていたら大変な問題である。ところがS教会では重大な問題であるとの認識がない。

2018年 02月 28日

聖なる法か 世俗の法か 2

  一般社会では、不当解雇にあった人が地位保全の裁判をして、不当な処分によって失った地位の回復と利益を取り戻すために損害賠償を請求することがある。Tさんは教会の中で何ができるか。客員決定の日時と理由を、牧師の話ではなく、役員会議事録にどのような理由で客員となったかを確認するために閲覧請求ができる。教会員であっても、外国人教会の教会員であっても、同じ宗教法人の下で教会員である。それを拒むなら、閲覧請求のために裁判所に提訴できる。役員会議事録に明確な理由なしに客員となっていた場合は、不当とみなし、教会員に復帰する提案を教会に提出することができる。もし、役員会議事録を閲覧して、教会員から客員になった記述がない場合は、教会はTさんに対して謝罪と教会員に対して公の場で謝罪をしなければならない。今後、二度と同じことが起きないように気を付け、再発防止策を講じなければならない。この場合、一般社会における不当解雇による賃金未払い分を損害請求するように、教会に対して損害賠償を請求することはできない。そこに賃金の損害が発生していないからである。被ったのは精神的なダメージである。何の知らせもなく、一方的に教会員から客員に籍を移動され、教会員の当然の権利(閲覧請求)を奪われた。権利の侵害である。となれば、民事で精神的な慰謝料請求の道も開けてくる。教会を正すために法の力を借りることは避けがちであるが、自浄作用がなければ裁判も視野に入れる必要がある。


 

未だにこんな記事を書いているとは、愚かなことである。そもそも事件が解決もしていない先から、村上氏が、こんな形で、自分のもとを訪れた信徒の相談内容を公表していること自体が、すでに信徒のプライバシーの重大な侵害であり、守秘義務違反であると言えよう。これがすべて実名であれば、それこそ、信徒からも教会側からも名誉棄損やプライバシーの侵害と言われて訴えを起こされる可能性がある。

(翻って、牧師や教会のしていることは、それが公の活動である限り、批判を受けたからと言って、牧師が信徒を名誉棄損で訴えることはできない。もしも牧師が信徒を訴訟の場に引き出せば、その時点で、その教会は終わりである。そんな恐ろしい牧師や教会のもとにやって来る信徒は誰もいなくなるからである。)

牧師が職務上、信徒から受けた相談内容は、たとえ匿名であっても、絶対に口外してはならないことは、あまりにも当然の配慮であることが、この人にはまるで分かっていない。信徒から了承を得たとしても、事件が解決するまでの間、黙秘することは当然である。(訴訟を通じて解決を目指せば、事件が解決した後では、もっと口外できなくなる可能性が高い。)

村上氏は、こうした記事内容からも、受けた相談を秘匿する義務を自分が不当に踏みにじっている自覚がなく、同氏は相談内容を簡単に外へ漏らす点で、ただ口の軽さに定評があるというよりも、教会を冒涜し、非難するための言葉をひっきりなしに吐かずにいられない精神の持ち主であるがゆえに、こうした記事を書いていることを自ら露呈しているも同然である。

このところ、筆者は、同氏の記事内容が、以前に比べても、格段に劣化したような気がしているのだが、以上の記事で、村上氏が不当解雇を撤回させるための裁判と、信徒が客員にされたことの不服を並べて論じているのも、甚だしい筋違いであると思う。

以上の記事で、村上氏は相談者の信徒が正会員として扱われず、知らぬ間に客員とされていたという事実を、何か特別に不当な措置であり、教会側の暗黙の悪意による差別であるかのように決めつけているが、それ自体が、あまりにも行き過ぎた思い込みであると言えよう。

この記事では、信徒が当初は正会員であったのに、いつの間にか客員にされていたのか、そもそも初めから正会員でなかったのかも、よく分からない。

だが、そもそも教会籍という制度自体が、日本の教会独自のシステムであり、多くの諸外国の教会では、教会籍自体が存在しないことが大半である。そこで、たとえ日本国内の宗教法人の傘下であっても、外国人教会には、日本的な風習を当然のごとく要求して、教会籍の所在を明らかにするよう求められない場合があるということを、村上氏は記事の中で全く考慮していない。そのことは、悪意によるものではなく、文化の違いから来る習慣である可能性がある。

通常、牧師は他教会に通っていたことがある信徒から、自分の教会に所属したいとの申し出があった際、その信徒が、他教会に籍を置いているかどうか、照会を行うはずである。だが、外国人教会が相手では、問い合わせに明白な回答があるかどうかも分からない。回答がなければ、他教会に籍を置いているかどうかさえ、はっきりしないため、二重籍が生まれることを防ぐ目的で、あえて客員にしておくなどの安全策を取ることもあるかも知れない。

それは医者の世界でも、紹介状がないのに、他の医者にかかっていたことが明白な患者を受け入れようとしないのと同じである。

もしその信者が、初めは正会員であったのに、途中から客員になっていたとしても、本来、信徒は自分の所属している母教会の礼拝を日曜ごとに守る義務があるはずだ。プロテスタントの多くの教会では、正会員になる際、信徒がその教会に対して負うべき義務について、誓約書を書かされている。

そこで、一旦正会員となった信徒でも、その後、明らかに他教会の礼拝に出席しているなどのことが発覚した場合には(それが正会員になる際に信徒が署名した誓約に違反する行為である可能性もある)、それを理由として、正会員から客員会員に移されたとしても全く不思議ではない。

(しかも、上記の記事では、信徒が見も知らない外国人教会に勝手に籍を移されていたという記述はないため、実際にその信徒は、外国人教会を自ら訪れた事実があるものと想定される。)

筆者は、牧師同士の気遣い、教会同士の気遣いを必要とする日本の教会籍制度自体が、信徒の移動の自由を妨げるもので、あるべきでないものであると考えているが、そうした考えはさて置き、教会同士が互いに信徒を奪い合ったり、領分を犯し合ったと言われないための当然の配慮として、教会籍の所在(もしくは所属教会)が不明の信徒は、正会員として受けれず、客員として扱うことがあったとしても、それは不当な措置とは言えないものと思う。それは差別ではなく、むしろ、以上のような慣習のもとで、他教会や信徒への配慮に基づいて取られた措置である可能性がある。

しかし、村上氏の記事では、そうした詳しい事実関係の確認や、文化や風習の違いから来る意志不疎通の問題、さらには、その信徒自身に、正会員としての義務を怠る行動があったのではないか、などのことが全く考慮されておらず、ただ「こんなに長いこと教会に通っていたのに、いつの間にか正会員として扱われなくなっていなかったことが分かり、籍を移したこともない教会に籍があるかのように言われて、客員にされていたことが悔しい」という相談者の感情だけを中心として、話が進められ、その悔しさを晴らすために民事訴訟による損害賠償請求まで行ってはどうかと言語道断な提案がされているのである。

しかも、どういうわけか、それが不当解雇された社員が労働審判(裁判)で地位を取り戻す話に重ねられている。全く根拠のない論理の飛躍である。

こういう論理の飛躍は、村上氏の思い込みによるものだけでなく、同氏に実社会での経験がほとんどないことから来ているとも言えよう。

不当解雇が撤回されうるのは、条件明示した労働契約がきちんと労使双方の同意によって結ばれていたにも関わらず、社員が不当な理由で解雇されることにより、契約が履行されなかった場合である。

ブラック企業などでは、いつでも証拠を残さず自由に労働者のクビを切りたいがゆえに、故意に(違法に)労働者を雇い入れたことを示す労働契約書を労働者に渡さないなどの不当な措置を取ることがある。

そういうケースでは、ハローワークの紹介状や、ホームページに掲載された求人募集要項等、何か一つでも、労働条件を明示する具体的な書面があれば良いが、何一つとして労働契約があった事実を裏づける証拠が無い場合、そのような裁判は非常に難しいものとなる。

明示された労働契約書の効果は、このように絶大なのである。

上記の教会の例はそれとは全く異なる。なぜなら、教会と信者との間では、その信者を正会員にするという契約が結ばれた確たる証拠がないからだ。もしくは、当初は正会員であり、何らかの契約締結がなされらのだとしても、どういう条件でその信徒が正会員の資格を得たのか分からず、信徒の側で資格要件が満たされ続けたのかどうかも不明である。

途中から正会員でなくなったのがおかしいというのであれば、信徒は正会員としての資格を失う行為(たとえば他教会の礼拝に通う等)を行っていた可能性もある。正会員としての資格を満たしていないのであれば、教会にはその信者を正会員にしておかななければならない義務がないであろうし、待遇を変更した際、必ずしも、その信徒に通知しなければならない義務が定められていたかどうかも分からない。

仮にその信者が最初は正会員であったが、途中から、他教会にも通っていることが発覚し、その他教会が外国人教会で、籍の問題が不明なままで、文書のやり取りも、話し合いも難しいため、もしかしたら他教会に移籍しているかも知れない可能性を考えて、客員にしたという事情があるような場合、客員にした措置の不当性を問うても、それが認められる見込みはほとんどないだろう。

もちろん、その信者が他の教会を去って多年の年月が過ぎており、完全に一つの教会の礼拝だけを守って毎回出席しており、正会員としてのすべての義務を守っているから、客員であるのは不服で、そろそろまた正会員に戻してくれても当然ではないかと申し出れば、その教会も、その申し出は考慮せざるを得ないであろう。だが、そのことと、知らぬ間に客員にされていたことや、その理由が不明であるため、正会員としての権利を奪われたこと自体が許せないとして、いきなり教会に民事訴訟をふっかけることは全く訳が違う。

さらに、以上の記事では、客員であることが、あたかも正会員より劣った待遇であるかのように思わせる記述がなされているが、実際には、客員は、正会員よりも義務が少ないはずだ。権利も少ないかも知れないが、義務も少ないことによって、多くのしがらみから解放されて、恩恵を享受している。

それは昨今、正社員になるよりも、非正規雇用のままで働いていた方が、賃金も多く、立場も保証され、残業もなく、リストラもされないと言う場合がよくあるのに似ている。多くの職場では、正社員の方が、非正規雇用よりも圧倒的に劣悪な条件で働かされており、賃金さえも、非正規雇用の方が、正規雇用を圧倒的に上回っているような場合もあるのだ。そして、有期雇用契約を中途解除することには法的に多くの制限があるため、場合によっては、正社員の方が非正規雇用者よりももっと容易にリストラされる危険に直面している場合もある。

このように、一概に、非正規雇用だから、正規雇用に比べて、不当に扱われているといった主張が、必ずしも成り立たない場合があるのだ。

それと同様に、客員のままでいることには、それなりのメリットもあり、他教会へ通う自由も、客員ならではのものかも知れない。そのためにあえて正会員にならない信者もいる。現に我が親族もそうであった。(我が親族はもともと転勤ゆえに遠方となり通えなくなった他教団の信徒であり続けるために客員のままだったのである。)

そこで、信者が気づかないうちに客員にされていたというだけで、精神的苦痛をこうむったと訴えても、その訴えが聞き入れられる可能性は極めて低いと言わざるを得ない。会員認証の手続きがきちんと教会規則にのっとったものでありさえすれば、入信時もしくは客員への変更時に説明が不十分だった程度の多少の注意はあるかも知れないが、その瑕疵は信者が裁判で損害賠償まで請求するほどの筋合いのものではない。

「何の知らせもなく、一方的に教会員から客員に籍を移動され、教会員の当然の権利(閲覧請求)を奪われた。権利の侵害である。となれば、民事で精神的な慰謝料請求の道も開けてくる。」

と村上氏は決めつけるが、そもそも教会には信徒に知らせず一方的に客員に籍を移す権限がないのかどうかという点も重大な争点である。その信徒のケースでなくとも、ずっと礼拝に来なくなったような信徒を正会員から除外する手続きは、その信徒に知らせなくとも、教会の一存で行えるはずだ。同様に、正会員から客員に移す際にも、必ずしもその信徒に知らせてからでなくては変更手続きが行えないという規則は、おそらくほとんどの教会にはないと思われる。(なぜなら、教会が信徒と途中から連絡が取れなくなることはよくあることだからである。)

つまり、その教会がその信徒をずっと正会員として受け入れなければならない義務を明示した契約自体が取り交わされておらず、また、教会が自らの一存でその決定を覆してはならないとする規定があるという根拠もなく、不当な理由で教会側が一方的に契約を破ったと言えるだけの根拠もなく、もしくは、信徒の側で正会員であり続けるための資格要件を失っていた可能性さえ想定される以上、その信徒が、正会員の地位を取り返すための(もしくは不明な理由で正会員としての資格を失ったことの精神的苦痛を取り戻すための)裁判にまで及んだところで、取り返せる利益などもとより存在しないも同然である。

仮に信徒が本当に不当な理由で客員にされたことが発覚したとして、信徒がそれによって精神的苦痛を受けたなどと主張してみたところで、実際には、客員の信徒も、正会員とほとんど同じように、礼拝に出席することができ、各種の教会活動を行うことができる現実があり、しかも、上記の記事で、信徒が客員になったことにより不当に奪われたと主張している権利が、閲覧請求権だけである様子を見れば、そんなことを理由に賠償請求に及んでも、その訴えが認められる見込みは極めて薄い。そのような争いは、ただ教会にダメージを与えることだけを目的とする、初めから負けることが分かっている裁判である。

このようにして、勝てる見込みもない裁判に、村上氏がその信者の教会への恨みを煽り立てる形で焚き付けようとしているのは、あまりにも無謀かつ配慮に欠けることであると言える。

村上氏は、このようにして、客観的に事実関係を確かめることもなく、十分な証拠の裏づけもなく、ただ信徒の主観的な感情だけを中心に話を聞いて、信徒が不当に差別されたり、根拠のない扱いを受けたかのように思う気持ちに一方的に同情し、それを理由に、教会とじっくり話し合って対立関係を解消させるどころか、むしろ、ますますその信徒が教会を深く恨んだり、不信感を持つよう仕向け、信徒と教会との間の亀裂を解消不可能なほどに深刻化させていくのである。

こんな風に、村上氏は、クリスチャン同士を仲たがいさせ、争わせるような活動にばかり従事して、問題を解決させるどころか、よりこじらせることに貢献している。人間の感情にばかり揺さぶられて、冷静に物事を見て、事を荒立てずに、きちんと双方の事情をじっくり考慮した上で、もつれた感情を丁寧に紐解いて、対立感情が沈静化するよう解決を目指すのではなく、まるで連想ゲームのような思いつきで根拠もない話をどんどん進めながら、信徒がますます教会の敵となり、見込みのない絶望的なアクションに出て、人生を失うよう仕向けているのである。

このような村上氏の理屈はもう完全に破綻している。鳴尾教会の裁判で負けて以後、村上氏にはこの世の法も味方していない。そのことは、本人が分かっていないだけで、その論理破綻は周りにはもうずっと前から客観的に明らかである。

村上氏がやっていることは、他人の恨みつらみにかこつけて、自分の心の中にある他教会への憎しみを表明し、他教会にけちをつけ、他教会に打撃を与える機会を得るべく、信徒を焚き付けて教会に対する裁判に及ばせることだけである。

しかし、その裁判さえ、勝てる見込みのないものであれば、同氏の述べていることは、聖なる法にも、この世の法にもそぐわないデタラメばかりということになる。
 
村上氏も、S氏も、自分たちの理屈がまるで社会の理屈であるかのように思い込み、自分たちは取り払われるべき闇を暴いているかのように思い込んでいるが、事実は全くそうではない。(闇を払っているのではなく、神聖な領域を冒涜して聖域を犯し、暗闇を持ち込もうとしているのが現実である。)

村上氏はせいぜい自分のもとへ相談に来た信徒から、個人情報の漏洩、守秘義務違反、プライバシー侵害で訴えられるくらいが関の山である。そもそも信徒から受けた相談内容を、事件が解決してもいないうちに公然と言いふらして自らの手柄のように吹聴し、教会を断罪する材料として誇示している時点で、牧師失格である。

こんな牧師に教会を訴える資格などあろうはずもない。これ以上、教会がこんな世迷いごとにより争いの矢面に立たされることがないよう、村上氏に誹謗中傷された同僚の牧師や信徒は、同氏に対して速やかに必要な法的措置を取ることを強くお勧めする。

「聖なる法」も「世俗の法」もどちらも踏みにじる牧師は、牧師の名に値しない。同氏は自分が他の牧師を裁いて来たのだから、自分も同じ基準で容赦なく裁かれるのは仕方がないであろう。

さて、村上密氏については、yahoo!知恵袋でも、以下のような質問が投稿されている。



悪質!! アッセンブリー京都教会、村上密牧師について教えてください。

2014/8/1414:42:25

私の友達が京都にある宗教トラブル相談センターという所に相談に行きました。
しかし、相談初日に、そこの村上密牧師から、探偵を使って相手を裁判をしかけるように薦められ、彼女が戸惑うと、今度は、相手の実名を村上牧師のブログにあげて卑下に誹謗中傷してよいか聞いてきたそうです。彼が言うにはそこで相手を冒涜することにより罰を与えることが出来ると言われたそうです。この話を聞いたとき、牧師も欲にまみれた新聞記者きどりのたあの人間なんだなと思いました。最後の別れ際には、この牧師から口止めと、この教会への入信を言われたそうです。私の友達は今うつ病と闘い精神病院に通っています。最悪の気持ちです。
このアッセンブリー教会と村上密牧師について教えてください。

この質問内容は、投稿された当初は、相手にされていなかったようである。何しろあまりにも無名の人物が、前後関係もないまま、ありふれた掲示板に投稿したものなので、誰もその信憑性を判断する手がかりがなかったのだ。だが、それから何年も経って、こうした無名の人間から発せられる些細な言葉の中にも、重大な真実が込められていたことが、今や多くの人の目に明らかとなっている。

村上氏が被害者に「裁判をしかけるよう薦め」たという記述は、以上の記事と合わせても、内容的に一致するので、真実であると思われる。「探偵を使って」というのは、裁判をしたいのであれば、住所氏名等の相手方の個人情報を入手しなければならないせいであろう。だが、以上の投稿の中で、筆者が最も核心に迫る指摘であると思うのは、次の部分である。

「相手の実名を村上牧師のブログにあげて誹謗中傷してよいか聞いてきたそうです。彼が言うにはそこで相手を冒涜することにより罰を与えることが出来ると言われたそうです。」

この投稿を読んだ時、筆者にはようやくはっきりと合点がいった。村上密氏のみならず、同氏の率いるカルト被害者救済活動を支持するS氏のような者たちが、ひっきりなしにブログで教会やクリスチャンに対する誹謗中傷の言葉を浴びせていたのは、悪霊に由来する教会とクリスチャンに対する「冒涜」であり「呪い」だったのだと。
 
彼らは筆者が「カルト被害者を冒涜した」などという言葉で、筆者を非難していたが、実際には、事実は全くさかさまで、彼らこそ、クリスチャンおよび神の教会を「冒涜」することで、聖書の神の聖なる御名を冒涜し、穢し、呪っていたのである。

繰り返すが、彼らはクリスチャンを罪に定めて「罰を加える」ために、冒涜し呪っていたのだということがはっきりと分かったのである。これでは自分のもとに相談に来た人間から金を取って、呪いの祈祷を捧げる異教のシャーマンと何が違うというのであろうか。

牧師を名乗っている人間が、神の教会およびクリスチャン全体を呪い、冒涜することを自らの職業としているなど、想像を超えるほどに恐ろしい事態である。

村上氏については以下のような指摘もある。

沖縄県のみなさま、沖縄県知事選での自民公明党の敗北おめでとうございま~す。次の総選挙も頑張りましょう。  その他キリスト教界で有名になっていたアガック竹内一雄事件(準強姦、借金で虚偽提訴された人物)の真実とこの民事裁判でアッセンブリーズオブゴット教団の村上 密牧師が使った汚い手段 から部分的に抜粋

現在北見市に在住(?かな、わからないけど)のアガック竹内一雄による準強姦事件(刑事ではなく民事ね)のこと。

興味ない人はスルーして下さいな。

今から3年半ほど前に、アガック竹内一雄事件というものがキリスト教界で有名になっていた(刑事事件ではない)。

このアガック竹内一雄という人物は、キリスト教界の中では異端とされているペンテコステ(聖霊派)のカリスマ派の牧師(キリスト教系新興宗教)。
この竹内一雄が運営するキリスト教会に一人の女性(子持ち)が集うようになった(最初はカウンセリング 家庭の悩み事の相談だったようだが)。
後にこの女性信者と竹内一雄は恋愛関係に、そしてその女性は竹内一雄の婚約者となるも最終的には女性関係でもめ(浮気だったようだが)、竹内一雄はこの元婚約者だった女性信者から民事で訴えられた、ざっとこんな内容だ。

しかし、その訴状自体が笑ってしまうものだった。

その女性信者は竹内一雄と婚約までしていながら、竹内一雄を準強姦で提訴(裁判官らが事実認定するワケがない)。
おまけに、原告女性が竹内一雄に貢いだお金(全額だったかは不明だが)は、貸したお金だった、として返還要求。
しかし、私の調べでは(友人、知人に聞き込んだ)原告女性は「道で大金を拾ったから(竹内一雄の)通帳に振り込んでおくね」と竹内一雄にお金を渡した内容のメールを送信していた。
案の定、そのメール内容が竹内一雄から裁判所に証拠として提出されたのだ、勝てるワケがない。

ということで一審は原告の敗訴、まあ当然でしょう。

まあ、こんな話はたまに起きるであろう怨恨話だと思うが(私の周囲には嘘までついて提訴するような人間はいないが)。

この馬鹿らしい怨恨訴訟でなにが一番解せないか、というと
この原告女性を支援していたアッセンブリーズオブゴット(略してAG)教団の有名らしい(私は知らなかったが)村上 密氏という牧師がやったことがクズすぎて解せないのだ。

村上 密氏はろくに事実関係を調べもせず、この元婚約者である女性信者の言っていることを鵜呑みにし裁判支援(北海道のテレビにまで出て嘘をばら蒔いたのだ)。
その他、この元婚約者である女性信者の訴えが事実かどうかも確認しないまま、竹内一雄を準強姦の犯罪者扱いをした上、借金を踏み倒した悪人としてブログで記事にしネットで拡散(自分だけではなく大勢の信者を使ってブログの記事させてニセ情報を拡散させていた)。

そして、しまいにAERAという雑誌にまでこの嘘記事を書かせている。

そして、裁判が終わった後もこの牧師(村上 密氏)の悪事は現在も続いている。

民事裁判にて、元婚約者である女性信者の訴え(準強姦及び貸金)が事実ではなかったことがはっきりしたにも関わらず、過去に流した嘘記事を訂正も削除もせず(勿論謝罪もしていないだろう)ずっと流し続けているのだ。

誤解があると困るので書いておくが、私は竹内一雄を擁護しているわけではない。
むしろ、絶対に近づいてはならない人物として色んな人に警告していた側なのだ。

しかし、虚偽の訴えで人を裁いているような人間には我慢がならない、非常に不快なのだ。

だから、絶対に真実を書いておこうと思っていた。


筆者は以上の事件には関係していないので、詳細な事実関係に立ち入ることはしないが、他の知っている限りのあらゆる事件に関する情報を合わせても、村上密氏が、被害者を名乗る人物の訴えだけを一方的に鵜呑みにして、教会で起きた不祥事をを針小棒大に書き立て、間違いを犯した(とされる)クリスチャンを「極端に危険人物化」しながら、自らの「思い込み」や「創作」によって巨大な悪役の像を作り上げ、自分はそれをやっつける正義の味方のように振る舞い、世間の評価を得ようとして来たことは事実であるものと思う。

そして、そうした村上氏の「創作物語」(妄想と呼んで良い)が虚偽であったことが後になって判明しても、同氏はいささかも記事を削除せず、訂正しようともせず、鬼の首でも取ったように得意げに誤った情報を自分のブログ等に掲載し続けていることは、上記の事件に限った話ではない。
 
村上氏にとっては、自分が正義の味方を演じて、クリスチャンと教会を「悪役」としてやっつける材料さえ得られれば、真実などどうでも良いのだろう。その姿勢が、以上の記事からも見えて来る。

同氏は、自らの言葉によって教会への恨みを煽り立てられ、争いに焚き付けられた被害者が、見込みのない裁判で人生を滅ぼし、棒に振ることも、全く意に介さないのである。それだけでなく、被害者を名乗る人々が、やがては教会の敵となり、神の敵にまでなって、永遠の領域でも報いを失うことをまさに本心から願っているのだとしか思えない。

このように虚栄心だけが肥大化し、関係者に対する思いやりや配慮、兄弟姉妹への愛情も、牧師としての福音伝道への使命感も、守秘義務も、何もかも見失って、ただ自分を正義と見せかけることだけがすべてとなった同氏の性格や活動は、通常では、サイコパスと呼ばれるにふさわしいものである。少なくとも、他者の争いを仲裁すると言いながら、事件を解決するどころか、ますます関係が修復不可能になるよう、傷を押し広げ、クリスチャン同士を仲たがいさせて争わせ、溝が埋まる見込みが全くなくなるように仕向ける行動は、牧師の道に完全に外れている。

同氏のブログそれ自体が、教会やクリスチャンに対する「冒涜」や「呪詛」を詰め込んだごみ箱のような存在でしかなくなっている。もはや思い込みだとか、妄想だとか、デタラメな記述などという表現にはおさまりきらない、「神の教会とクリスチャンに対する冒涜と呪詛の集積場」のような有様を呈している。

ごみ箱はいっぱいになれば、焼却場へ持って行かれるだけだ。聖書では、火の池こそ、偽預言者に対する格好の焼却場であると言われている。互いに愛し合うようにと教えられている兄弟姉妹を売り渡し、聖徒らの恥や失敗や争い事を糧にして手柄を得るような活動が、まともな牧師の行う活動であるはずがない。羊を食らうためにやって来た偽預言者である。彼らを焼く煙は、バビロンの焼かれる煙と同じように、いつまでも永遠に立ち上ることであろう。


<追記>

2018年2月に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師率いるカルト被害者救済活動の中心メンバーの一人である「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久が、当ブログに対する多年に渡る嫌がらせの罪により刑事告訴された。村上と杉本の活動に深い関連性があることについては以下の記事等を参照。

「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久および共犯者が刑事告訴された事実

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