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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

生ける石として

「…わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義をわたしがどう理解しているかがわかる。<…>それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである

わたしは、神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである。すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務めがどんなものであるかを、明らかに示すためである

それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。この主キリストにあって、私たちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである。

だから、あなたがたのためにわたしが受けている患難を見て、落胆しないでもらいたい。わたしの患難は、あなたがたの光栄なのである

こういうわけで、わたしはひざをかがめて、天上にあり地上にあって『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。どうか父が、そ の栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くしてくださるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住 み、あなたがた愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに超 えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る

どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに超えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。」(エペソ3:3-20)


  キリストの御身体の一致、エクレシアの建造ということを考えていると、教会という概念 が、明らかに、今までとはまるで変わって見えて来た。教会とは、目に見えるこの世の事物を土台として建て上げられる、あれやこれやの目に見える建物のこと ではなく、人には捨てられた尊い隅のかしら石なるイエス・キリストを土台とし、すなわち真理を土台として、兄弟姉妹がそれぞれ生ける霊の石となって築き上 げられる、見えない霊の家のことである。そこで、神に喜ばれる霊と真理の礼拝が捧げられるのである。

「あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石であるこの主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい

聖書にこう書いてある、『見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終わることがない』。」(Ⅰペテロ2:3-6)
 
この教会には、何という偉大な使命が託されていることだろう。神がキリストを通して実現 された、永遠のご計画の中で、教会は、世に対しても、天上のもろもろの権威や支配に対しても、神の多種多様な知恵を現し、告げ知らせるべき存在なのであ る。それによって、かしらなるキリストと共に、教会はキリストのからだとして、神に栄光を帰するのである。

従って、教会が神の知恵や不思議に満ちているのは言うまでもない。だが、教会がその使命を遂行するにあたり、とりわけ、天の御父にパウロが熱心に求めたの は、何か特別な霊的な力や、あるいは、教会の組織的な規模の拡大など、外面的におしはかることのできる諸々の力や現象ではなかった。

むしろ、パウロが祈り求めたのは、キリスト者の霊の内側で人知れず、ひそやかに起こる事柄であった。すなわち、御霊によって、個々のクリスチャンの内なる 人が強められること、信仰によって、彼らの心のうちにキリストが住まわれること、及び、何よりも、キリスト者が愛に根ざし、愛を基として生活すること、そ れにより、個々のクリスチャンが、「すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに超えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、…満たされるように」ということである。

キリストの愛には、何かしら不思議な伝染性があると私は思う。主から直接、あるいは兄弟姉妹の存在を通して、主の愛を教えられる時、私たちの内なる人は、 おのずと変えられる。そこには、言葉での説得もなければ、外面的な力の行使もない。しかし、主の愛は、人の内側に直接、触れて、愛のなかった人でさえ、愛 に満ちた人に変えてしまう。ペテロは、神の愛に触れて、私たちの内なる人が変えられる時、私たちの内なる人は、神の御前に極めて尊い飾りを見につけること ができることを書いている。

「かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。 」(Ⅰペテロ3:4)

パウロは、教会が神の知恵を現し、神に栄光を帰するために、何よりも必要なのは、このように、キリスト者がキリストの愛を知って、キリストに似た者へと変 えられていくこと、キリストの愛のうちにとどまり、その愛のうちに生活し、キリストの愛によって愛し合うことであるのを知っていた。神の愛にとどまること なしに、偉大な霊的な力を求めても、一切が無益である。

キリストの愛のうちにこそ、神に満ちているすべての良き物が宿っている。聖徒たちは、キリストの愛を通して、初めて、神の良き物に満たされることができるのである。

もしも、キリスト者がキリストの愛のうちにとどまるならば、その時、私たちが思うところをはるかに超えて、神は御霊を通して働く力により、私たちの心の願いを豊かにかなえて下さる。

その時、私たちの心に願いを与えられるのは神であり、それを実現して下さるのも神である。それによって、教会は神の栄光を表すのである。これは何と自然な秩序なのであろうか。

私たちはしばしば、あまりにも外側の事物によってのみ、教会の前進を推し量り、神の栄光を推し量ろうとする誤りを犯してはいないだろうか。そうして、疲れ果てるまで、目に見えるプロジェクトを追い求める一方で、人の心の内側で起こる変化には、目もくれようとしない。

ところが、使徒たちの判断基準は、それとは逆であった。聖徒たちが心の内側で、直接、神を知る、キリストの愛に触れるということがなければ、教会にはどん な前進もないことを彼らは知っていた。その神の愛を知るということでさえ、人知によって考え出された方法によって達成されるのでなく、神ご自身が成される のである。パウロが言うように、ただ「神の力がわたしに働いて、自分に与えられた神の恵みの賜物により、福音の僕とされたのである」

主が始められ、主が完成される。私たちが目指すべきは、ただ単純に、神を信頼し、子供のように、キリストの愛を信じ、キリストの愛を知ること、キリストの 愛を喜び、その愛のうちにとどまり、その愛の中に憩い、その愛の中に暮らし、その愛を持って、互いに愛し合うこと。その中に願いが与えられ、互いに主の御 名によって祈りあい、主がそれを実現して下さる。これは本当に、何と自然な秩序であり、何と私たちの心にかなった順序だろう。

この原点に立つまでに、私には相当に長い紆余曲折があった。改めて、今、私を御身体の中に置いて下さり、キリストの愛に触れさせて下さり、兄弟姉妹との一致の中で、主の愛の中に置いて下さった、天の御父のはかりしれない恵みに感謝したい。
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モーセでもエリヤでもなく…

「ペテロはイエスにむかって言った、『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために』。

彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け』。弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。」(マタイ17:4-6))

「…あなたがたは先生と呼ばれてはならないあなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだからまた、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。
そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならないだれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイ23:8-12)

主がどうして私を再び、教会というところにお遣わし下さったのか分からないが、その目的は私の期待とは異 なっていたようだ。今、改めて、予感するのは、目に見える人間を高みへと押し上げ、目に見える人間に注目と栄誉を集め、目に見える人間の意志に、人々を聞 き従わせようとする場所は、この先、今まで以上に、より一層、深い闇に落ち込んでいくだろうということである。

誰か特定の個人の語るメッセージに限定して養われるという時代は、きっと、私の中では終わったのだろう。誤解を招かないようにお断りしておけば、私は決し て、ここで、兄弟姉妹から御言葉の手ほどきを受けることの必要性を否定しているわけではない。キリストの御身体なるエクレシアは、一つの命によって結び合 わされ、互いに命を分け合っている存在でもある。主は、エクレシアを通じて、私に必要な御言葉を、随時、届けて下さった。その助けがなければ、私の人生に おいて、必要な扉は開かれなかっただろう。

ピリポに宦官は言った、「だれかが、手引きをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」(使徒8:31)。御霊は時に、まさに兄弟姉妹の口を通して、私たちに御言葉の手ほどきを施すことを望まれる。あるいは、先人の書物が、私たちに、なくてはならない御言葉の手ほどきを与えてくれる場合もある。こうした目に見える助けが、ぜひとも必要な場合もあるだろう。

だが、誰か養育係が現れて来たからといって、決して、目に見える誰かに栄光が帰されることは望ましくない。優れた書物があるからといって、その書物の著者 に栄光が帰されるのも望ましくない。目に見える人間に、人々が聞き従うことを求めるシステムは、それ自体、存在が望ましくない。では、特定の個人に偏ら ず、できるだけ多方面から、教えをかき集めれば、バランスが取れるのか言えば、そんな問題ではない。

私たちが聞き従うべきは、モーセでも、エリヤでもなく、キリストである。天からの声が、弟子たちに告げて言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。私たちの教師は、ただキリストだけであり、キリストの御霊こそが、私たちに必要な全てを教えてくれる、尊い内なる塗り油である。


「わたしは、あなたがたを惑わす者たちについて、これらのことを書き送った。あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまって いるので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたよう に、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。」(Ⅰヨハネ2:26-27)


このキリストを見上げる時にこそ、私たちの霊のうちには光が輝く。命である御霊こそが、私たちに随時、必要な助けを与えてくれる。兄弟姉妹からの助けも、 御霊によって与えられるものである。だから、この先、どんなに優れた養育係に出会ったとしても、目に見える誰かに注意を奪われて、見えないキリストに頼る ことを、忘れてしまったりしないようにしたい。

私は弱い者であるから、これまで、御言葉の手ほどきをしてくれる誰かが現れると、早速、その見える存在に飛びついて、つき従おうとして来た。先生と呼ばれ る誰か、教師と呼ばれる誰か、父と呼ばれる誰か、御言葉の深い解釈を施してくれる優れた先人、私に満足を与えてくれる、私を引き上げてくれそうな、人の間 で認められている誰かが、いつも私の注意を引きつけた。しかし、目に見えるものに依存し、それを祭り上げようとすることの結果は、いつも苦い失望だけで あった。

今はただ、エクレシアの全ての成員と、ただ愛する兄弟姉妹として関わりたい。私は決して、自分が偉くなって、人から誉めそやされ、先生と呼ばれ、私のもと へ人々を集め、私の意見に人々の耳を傾けさせ、人から当たり前のように色々な奉仕を受け、どこへ行っても歓迎されて、もてはやされる地位を得るために、御 言葉を学んで来たのではなかった。私自身が栄光を受けるためではなく、むしろ、私が低められて、仕える者となり、僕となり、与える者となり、見世物とさ れ、忘れられるために、主は私を召されたのである。

私はよく、人生がやりきれないような瞬間に、この御言葉を思い出すし、また、この御言葉が好きでもある。「わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。」(Ⅰコリント4:9)

キリストを信じ、キリストにすがって生きようと決意してから、私の栄光は築き上げられなかった。主は驚くばかりの恵みを私に施してくれたのだが、私自身は と言えば、弱く、愚かで、惨めなままであり、いつもいつも、死刑囚のような者として、全世界に対して見世物にされている。私の愚かしい失敗も、七転八倒の 歩みも、何一つとして、人々の前に隠されてはいない。それでも、このところようやく、キリストに従う者は、最後まで契約の箱をかついで、ヨルダン川の底に 立っていなければならないのだということに、納得がいくようになってきた。私の責務は、一粒の麦として地中に埋められ、甘んじて死に服することだけなのだ ろう。そうする時に初めて、そこから多くの命が生まれるのである。

「あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。」(詩篇23:4)

「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、『あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその 民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思 う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕え るためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。」(マタイ20:25-28)

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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