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私ではなくキリストⅣ

「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

その聖なる住まいにおられる神は、みなし子の父、やもめの保護者(2)

[2016年夏]

つい最近も、岡山から美味しい桃とお米が送られて来た!

岡山と言えば、桃と葡萄の産地だが、かの地では恵まれた気候ゆえ、一年中、何かしらの果物や野菜が採れるのだ。

岡山県人の多くは、まるでロシア人がダーチャ(別荘)で家庭菜園を営むように、野菜や果物を自家栽培している。だから、もともと自然災害のない土地なのだが、万一、金融危機のようなものが起きても、この土地の人々は自給自足できるだろう。

それにしても、関東では一個当たり相当に高い値段でしか手に入らない果物が、産地から直送されるというのは、何とも言えない贅沢な幸福である。

いやどんなにお金を積んでも、そんな贅沢はなかなか味わえはしない。天の子供の特権である。

冷蔵庫の扉を開けると、桃のかぐわしい香りがいっぱいに立ち昇る。
コーヒーの香りもだ。

そんな冷蔵庫とは、筆者から見ても、まるでおとぎ話の世界である。CMのように、扉を開けると、梅酒が立ち並んでいる冷蔵庫ではなく、桃が立ち並んでいる冷蔵庫である(笑)。

コーヒーは、焙煎したてのものが送られて来るので、玄関に荷物を置いた時点で、すでにコーヒーの香ばしい香りが漂う。

そして、近所のスーパーでは、鮎や、ニジマスや、さんまや、メバルや、新鮮な魚がいつも安い値段で売られているので、毎日のようにセールで買って来ては、グリルで塩焼きにして調理している。

これが農薬なしで育てられ、精米直後に送られて来るお米と何と良く合うことよ!

筆者は幼い頃、祖父について行って、よく高梁川を船で漕いで、鮎釣りを見せてもらった。鮎を採るためには免許が必要だったが、祖父はそれを持っていたのである。帰宅すると、採れた鮎を早速、塩焼きにする。塩だけで味付けしても、それはそれは美味なのである。

こうして覚えた味は今も忘れられないので、今も鮎を塩焼きにすると、子供時代を思い出す。家庭菜園で採れた焼きなすも全くもって美味である。

家庭菜園で採れたキュウリは、塩さえ要らない。そのままかじっても、ほんのり甘みが漂う。

農薬なしの野菜には、独特の自然さがあり、口にした瞬間から、何かが違うということが分かる。
  
さて、私自身は地球の片隅に存在するつつましい庶民の一人に過ぎないのだが、こうしてみると、贅沢というのとは全く違う意味ながらも、真に豊かな生活を送っていると思う。

それもこれもすべて主のおかげである。
私にはこうした平和が、すべて神が備えて下さった恵みであることが分かる。
  
郷里ではみな元気にやっているようだ。祖父母はすでに90を超え、両親が退職してからオープンしたお店は、はや10年目を迎えようとしている。最初は2年と続くかどうか分からないと思われたのだが、お客が途切れることもなくやって来るのだ。
 
何と麗しい光景であろうか。ハレルヤ!

だが、郷里の人々は、果てしなく営利を追い求めるだけの生活からは距離を置いて、この先、地元の存続のために何をして行くべきかをみなで知恵を寄せ合って考えているようだ。
  
筆者の人生には、いつも保険というものはなく、すべてが一見、行き当たりばったりに見えるかも知れない。明日のことは分からない。だが、毎日、毎日、神の恵みは信仰者の生活にとって十分である。いや、十分すぎるほど十分なのである。

今年が明けてすぐに、筆者は幾度かジョージ・ミュラーの信仰について書いた。ジョージ・ミュラーは数多くの孤児をただ信仰だけによって養うために、ぎりぎりのところまで試されたことがあるという話を読んだ。

以来、この一年間、筆者は、信仰が訓練されることを主に願い求め、その訓練を無事に通過して来た。前年に比べると、実に色々な種類の「試験」があった。いつも100点ではなかったかも知れないが、それなりに及第点は取れたと自負している。それは確かに訓練だったのである。

こうして、天の経済によって生きるということを、筆者は実地で試し始めた。ジョージ・ミュラーが試したことが、いつの時代も、信じる者には誰でも同じように法則として当てはまることを実際に理解したのである。
 
天にはいつも備えがある。そのことを毎日、毎日、あらゆることを通して思い知らされている。

おそらくこの先はますます、天の経済によって生き、天の富を地上に引き下ろす秘訣を学ばなければ、地上でも、普通に生きることが難しい時代になって行くのではないかと考えている。

だから、そこまで困難な時代が来るよりも前に、筆者は、財産の天への移行、天への移住を試みているのである。その引っ越しは順調に進んでいる、と言える。

この地上の信仰者でない人々は、どこかの団体に雇用され、あるいは自分の職業を営むことによって、生活の糧を得て生きているが、「人間を採る漁師」である信仰者の糧は、天から来るのである。これはおとぎ話ではなく、現実である。

神の国とその義を第一にして生きてさえいれば、すべてのものは添えて与えられると聖書にある。人間が採れるだけでなく、鮎も採れるようだ。川に行かずとも、免許がなくても、だ。

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その聖なるすまいにおられる神は、みなし子の父、やもめの保護者(1)

「その聖なるすまいにおられる神は
 みなしごの父、やもめの保護者である。
 神は寄るべなき者に住むべき家を与え、
 めしゅうどを解いて幸福に導かれる。」
                  (詩篇第68篇5-6節)

  
神はどんな状態からでも信者の家庭を回復することのできる方である。神は信者のどんな失われたものでも回復できるし、無から有を作り出すことのできる方である。

むろん、家のない人に家を供給することもできるし、生活の糧も与えることができる。家族のない人に家族を与えることもできる。

神は絶望の淵にいる人々に希望を与え、仕事を失った人たちに良い仕事を与え、主に信頼する者たちに、生きるために必要な全ての糧と、未来の希望を用意することができる。

我らの望みを実現して下さる方は神である。
我らの万軍の主、ただお一人の神である。
  
神の助けを受けるためにただ一つ必要な条件は、神のみを頼りとすること、主イエス・キリストの御名のみにより頼み、キリストのみに栄光を帰すること、人間の助けに頼らないことである。
 
さて、上に書いたような一つ一つの恵みは、私の人生を通しても豊かに立証済みである。

他方、カルト被害者救済活動なるものに関わり、自分自身を被害者と考えて、神と教会や牧師や、他のクリスチャンを訴えることだけに精を出している人間の人生には、この先も、永久に何の解決もないだろう。

100%保証するが、自分を被害者だと自称している人が、神の幸福にあずかることは決してない。
 
しかし、私自身は、この活動と完全に縁を切って、アッセンブリーズ教団や、村上密氏や、彼を支持する人間たちと訣別してから、家庭のすみずみに至るまで、幸福が回復されたのである。

父は以前よりももっと話をじっくり聞いてくれるようになったし、姉妹関係も回復した。 悩みの時には、親族だけでなく、助けてくれる人たちが常に用意されている。

たとえば、ロシア人の友が必要だと主に願い出れば、神が友を送って下さる。
専門の仕事が必要だと願い出れば、神がこれを与えて下さる。
生活の糧も、ペットも、家も、何もかも、主に願って与えられて来たのである。

そして、私自身の安全も、我が実家も、常に守られている。

これは、私の仕事が常に順調で、私に特別な才覚があって、人並み以上に恵まれた生活を送って来たから言うのではなく、むしろ、私は仕事を変えたり、願いが変わったり、明日の保険などという考えとは無縁のところで生きて来た。

が、それにも関わらず、毎日、毎日、必ず、神が必要の全てを備えて下さり、私の人生を守って下さり、しかも、豊かに守って下さることを、これまで一日、一日、しっかりと確かめて来たのである。
   
カルト被害者救済活動なるものにまだ接触があった頃、私は結局、この活動に何らの希望も解決も見いだせず、将来への展望も何も見いだせないまま、その頃に住んでいた家を手放して、実家に帰らざるを得なくなるという出来事があった。

いよいよ郷里に帰るというその時、筆者が当時、助けを求めて通っていたアッセンブリーズ京都教会の村上密牧師の夫人が、筆者に向かってこう言い放った。

「岡山にも、教会はいっぱいあるからね」

耳を疑うようなこの言葉を聞いたとき、どれほどこの婦人が心冷たい人間であるかを筆者はよくよく思い知った。そして、このような人物から離れられることは幸いだと確信したのである。

つまり、村上牧師夫人は、「あなたがいなくなって寂しくなるわ」と、お世辞でも別れを惜しむでもなく、「なかなか会えないけど、元気で頑張ってね」と励ますでもなく、

「岡山にも、教会はいっぱいあるからね」と、それだけ冷たく言い放ったのである。要するに、そこには、「あなたがいなくなってせいせいするわ、二度と戻って来ないでね」というニュアンスが、はっきりと込められていたのである。

実際のところ、この夫人の冷酷さについては、カルト被害者救済活動に関係していた被害者たちの間でさえ、定評がある。まるで氷の人形のように冷酷で無慈悲かつサディスティックだというのである。

村上夫人の旧姓は津村である。筆者はこの女性の父親である牧師の人柄をよく知っている。その牧師を筆頭に、元津村ファミリーの人間は、大体みなそうなのだが、この女性も、まるでサイボーグ戦士のように無感覚で、他人の心の痛みというものを、およそ理解したり、慰めたりできるような繊細な心の持ち主ではない。

だから、もし誰か心傷ついている時に、相談相手が欲しいと願うなら、絶対に、村上夫妻に助けを求めることだけは、やめておいた方がいい。問題が解決するどころか、彼らの餌食とされ、下手をすれば、それをきっかけとして、死へ追いやられることになるだけであろう。

特に、夫人には何も打ち明けてはいけない。まだ癒えない傷を、切れもしない鈍い刀で無理やりグイグイとこじあけられるように、傷口を押し広げられ、徹底的に痛めつけられることは請け合いである。村上夫妻はサディストなのではないかと感じずにいられないほどのやり方である。

言っておくが、これは筆者が一人だけで主張していることではなく、被害者の間での定評なのである。
 
おそらく、カルト被害者の中では、このような悪質な「カウンセリング」の結果、死に追いやられた人たちもいるのではないかと想像せずにいられない。

こうして、筆者はこれらのサディストたちの親子の両方から逃れて来たことになるが、もうすでに彼らと手を切って何年になるか分からないのに、未だに筆者には、この教会と牧師の関係者とおぼしき連中からの嫌がらせが続いている様子を見れば、一般の人々にも、ここで筆者が主張していることが、嘘とは言えないことがよく立証されるであろう。

沖縄の被害者は村上ファミリーによってもっとひどい恫喝の下に置かれているともっぱらの評判である。
 
このような事実があるわけだから、クリスチャンはどんなに不安を覚える出来事に遭遇しても、カルト被害者救済活動なるものには決して関わらないことをお勧めする。アッセンブリーズ教団にも決して足を向けてはいけない。
 
さて、上記のような牧師夫人の捨て台詞と共にその教会を去ることになる前に、一度だけ、筆者は、関西での生活に不安を覚えたことを、この牧師夫人に打ち明けたことがあった。

当時、筆者はバイクで通勤していたので、もし通勤中に交通事故に遭ったならば、どうすれば良いかという不安が心によぎった。もし自分に万一のことがあると、親族が近くにいないので、すぐに誰かに助けを求められないという不安を語ってしまったのであった。

その時に、この牧師夫人が筆者に答えた言葉が、これまた典型的なサディストとして非常に奮っていた。彼女は表情を変えもせず、こう言い放ったのだ。

「遺書を書いて携帯しておけばいいじゃない。『もし私に万一のことがあったら、村上に葬儀をして下さい』って」

筆者はこの答えを聞いたとき、一体、これが牧師夫人の言葉だろうかと絶句した。

「大丈夫、通勤の道も、神様が必ず守ってくれるわよ、それを信じましょうよ」と励ますでもなく、「私たちがついているわよ。何かあったら、すぐに私たちに電話してね」と言うでもなく、

「もし不慮の事故で自分が死んだ時には、村上密に葬儀をして下さい、と遺書に書いて、その遺書を常時、懐に携帯しておけばいいじゃない」

と言ったのである。

まるで筆者が事故死しても当然であるとでも言いたげなこの死に対する消極的かつ絶望的で不信仰で投げやりな答えと、筆者がまだ何も言わないうちから、筆者の葬儀が京都アッセンブリーズ教会で行われることを当然視しているかのようなこの答えには、本当にドン引きしてしまった。

そして、筆者はあまりにもこの牧師夫人の答えに呆れ果てたので、夫人には面と向かって何も言わなかった(言っても無駄であろう)が、その時、心の中で、「絶対に筆者は死なないし、こんな冷酷人間の思い通りになって、こんな連中に葬儀を頼むようなこともしない」と決意したのであった。
 
大体、そんなことが起きたのでは、神の名折れであり、地獄の笑い者にしかならないであろう。一体、そんな死に方のどこに信仰の意味があると言うのか、信仰者の名が泣く。神の助けを信じると言いながら、悪魔の吹き込む嘘の不安に負けて、犬死するなど言語道断であり、絶対にそのよう悪しき前例を作ってはいけないと、断固、決意したのであった。

当時、筆者の信仰はまだ人間に頼ったり、他者に不安を打ち明けたりするほど未熟で、神の守りの万全さを自ら決意するまでには至っていなかったが、それにしても、そんな当時の筆者にも、上記の牧師夫人の答えは、クリスチャンとしてあるまじき言語道断なものであり、そこには死に対する力強い抵抗もなく、死を打ち破る信仰の勝利もなく、もしかけらほどでも信仰を持っていれば、絶対に出て来るはずのない臆病者の悪魔的・敗北的回答だと理解するだけの力はあった。

だから、神への信仰そのものを全否定し、弱い者たちを冷酷に突き放し、人が死ぬことを当然視してそれを助長しこそすれ、死に対して全く抵抗しようともしないこの牧師夫人の不信仰で冷酷な言葉を、筆者は人に生きる力を失わせるための悪魔の策略としてきっぱり退け、夫人の勧めに従って遺書を書くことを拒み、なおかつ、村上密に葬儀を頼むという言語道断な提案をも退けて、その当時、筆者が親交を結んだ信頼できるクリスチャンの名と携帯番号をノートに記して、「万一の際は、この人物に連絡してください」というメモだけを携帯し、絶対に、何があっても、村上密には連絡が行かないように布石を打ったのであった。

むろん、アッセンブリーズ教団と京都教会といかなる縁も持たない今、筆者に関して、この牧師が乗り出して来ることは決してない。

だが、今ならば、筆者は信仰が成長したので、たとえ上記のような状況に置かれても、もう不安を覚えることはないし、誰にも助けを求めることはないであろうと言える。そもそも、筆者は自らの死に備えて、わざわざ遺書など携帯することはない。それは、筆者の死がもし避けがたいものとして近づいて来る時には、必ず、神が知らせて下さると確信しているからである。

それに、第一、クリスチャンが、携え上げや殉教を願うこともなく、ありふれた事故死や、畳の上での死を当たり前のように受け入れているようでは、信仰者としてもう終わりである。

クリスチャンにとっての死とは、生と同じく、神への証でなければならないのだ。それはありふれた出来事ではなく、主への献身の完成でなければならない。

今、筆者はバイクだけでなく車も運転する。必ずしもいつも近くに駆けつけてくれる誰かが常にいるという状況ではない。

しかし、筆者が乗っているのは、信仰という乗り物であり、その同乗者は神である。神が私の保険であり、私の最も注意深い同乗者であり、助手席のナビゲーターである。だから、私は「もし事故に遭ったなら・・・」などという想定を考えることさえなく、困ったことがあれば、「主よ、どうしましょうか?」と相談する。

これは筆者が格別に熟練したドライバーで、腕に相当の自信があるから言うわけでもないし、筆者の車が特別頑丈にできているためでもない。道に迷うことから、機械のトラブルに見舞われることから、日常生活で、全く相談事が生じないことは決してない。だが、それらはすべて主に持って行くのである。実際、筆者が長年のペーパードライバーから特別な講習もなしに一直線にドライバーに戻った時にも、すべて主のみが守り、助けて下さったのである。

頑丈で確かなのは車でもなければ筆者の腕前でもなく、主の確かな守りである。

さて、こんな有様だったので、カルト被害者救済活動と訣別したことに、筆者は何のためらいも後悔もありはしない。あんな風に冷酷でサディスティックで生きる希望を持たない敗北的な連中と関わっていれば、信者はいつしか最初に持っていたはずの生きる望みさえ奪われて、彼らの嫌がらせの果てに精神的に殺されて本当に死者にされてしまうだけである。

別の記事に書いたが、当時、アッセンブリーズ教団に属していた鳴尾教会で、村上夫人の父である津村牧師に関わってボロボロになるまで使役され、マタハラにも遭い、大切な子供を失った伝道者夫妻の話も今日に伝わっている。だから、筆者が上記のように書いたからと言って、それは決して誇張ではないと確かに言える。
 
神でないものに助けを求めれば、悪魔がつけこんで来るだけである。その挙句の果てに行き着く先は、死でしかない。だから、生きていたいという望みがわずかでもあるならば、一刻も早く人間の指導者に助けを求めることをやめて、そんな敗北の道は早々にお断りするにこしたことはない。

さて、この運動を離れたのはもうはるか昔のことであるが、筆者には、それ以来、家を失うなどということは、一度も起きたことがない。
 
かえって、アッセンブリーズ教団に残った信徒が家を失ったという話を聞くばかりである。

その信者は、かつて筆者がカルト被害者救済活動と対立していたことを、まるで筆者の人徳のなさの結果であるかのように責め、嘲笑していた。要するに、筆者が不器用だから人と対立しているのであって、皆と仲良くしていれば、そんな対立は起きるはずなく、筆者はこの運動の支持者とも和解すべきと彼女は言うのであった。
 
彼女には、自分なら決してそんな対立に巻き込まれはしないという自負があって、自分の八方美人性によほどの自信があったのであろう。何しろ、アッセンブリーズ教団の人間なのだから、そう考えたとしても、不思議ではない。そして、筆者を支援するように口では言いながら、陰では多くの信者たちに、筆者に対する侮蔑的な見方を植えつけていた。
  
だが、筆者はその八方美人的な自称信者の上から目線で自信満々な忠告を聞かなかった。
 
何しろ、神に敵対する人間たちと仲良くすることが信仰の道ではないのである。主に対して不忠実で、聖書の御言葉に従わない人間とは、袂を分かたない限り、自分自身にも彼らと同じ呪いを招くことになるだけであることは、その頃には、もう十分に理解していた。

汚れたものとは分離せよ、それが聖書が随所で信者に警告している原則である。

だから、筆者にはアッセンブリーズ教団に戻る気もなかったし、カルト被害者救済活動に戻る気もなく、その信者の助言を聞く必要もないと分かっていた。さらに、その信者と関わる必要もなかったのである。その最後の点だけが、その頃には分かっていなかった点であった。筆者はその人も「信者」だと思っていたからだ。
 
さて、神に祝福されるための道は、御言葉に忠実に従い、神に従わない悪人どもと手を切ることである。人に好かれ、世の覚えめでたい人間になることなどが信仰生活の目的では決してないのである。そのような生き方を推奨し、神にではなく、世に色目を使って媚びる人間とは早く訣別することが肝心である。
 
さて、話を戻せば、筆者の「貧しさ」や「不器用さ」ゆえの苦労を、さんざん他人事のように嘲笑し、自分ならばもっとうまくやれると上から目線で見下しながら、忠告を繰り返していたその信者は、自分と同じ病院で治療を受けていた自分の障害者の友人にも、「私はもっと設備の良い病院で治療を受けるから、あなたとはさよならする」と言い放って、その病院を去って行った。

しかし、その言葉通りに彼女はその後、豊かな生活を送るどころか、かえって夫の給与が下がって、家を手放して、郊外にある実家に戻らざるを得なくなったのであった。

夫を持たない天涯孤独かつ重度の障害者である闘病生活の仲間と、筆者の悩みと孤独の多い信仰生活を、まるで不器用さの証であるかのように、さんざん上から目線で嘲笑した信者の行く末であった。

もしそのアッセンブリー信者の筆者への忠告が正しかったのならば、決してそんな結末にはならなかったであろうと筆者は確信している。設備の良い病院で治療を受けると同時に、より良い家に住み替えるくらいのことができたであろう。

何しろ、どんなに些細なことがきっかけであれ、信仰者がやむなく生活を縮小し、持ち物を手放し、家を失う、という結末は、悪魔を大喜びさせるだけだからである。それはあたかも神の助けが不十分であり、なおかつ、信者が不信仰であることの現れのように世には受け取られる。

だから、もし本当に神を信じているならば、信者は決して自殺によって犬死になどしてはならないし、どんな持ち物も安易に手放してはならないし、世の情勢が悪くなったからと言って、それに影響されて貧しくなって行くこともない。

どんな窮地に追い込まれても、そこから神の偉大さを、信仰を通して立証できるだけの勝利をつかみ取らなければならないのだ。
 
ところが、彼女は、人前で自分の裕福さと器用さ(立ち回りの上手さ)を誇って、自分ほどに器用に生きていない人間を見下して嘲笑していたにも関わらず、時代の趨勢の通りに、より貧しくなっていくという結果を避けられなかったのである。それは、その信者の誇っていた世渡りの才覚が、何ら世の情勢の悪化に立ち向かう力とはならなかったことをはっきりと物語っている。

世と馴れ合う人間は、世が「豊かになれ」と言ってくれる間は、豊かになるが、世に「貧乏になれ」と言われたら、それに全く立ち向かう力を持たないのである。そのような人間は、もし世から「死ね」と言われたら、本当に死んでしまうのに違いない。つまり、彼らが信者を名乗っているのはほんの口先だけのことで、実際には貧しさや病や死の圧迫に対して、信仰によって立ち向かう術を全く持たないのである。一体、そんな信仰に意味があろうだろうか?

我らの神は、そんな時にこそ、我らの力強い助け主となって下さる方である。我らの神は、やもめや、みなし子や、よるべのない者たちを見捨てず、彼らが追い詰められた時の最も力強い砦、最強の保護者である。我々が最も弱く、最も策なく、窮地に追い込まれているようなその時こそ、我らの神の出番があり、神の全能の力が現れる。我らに神以外の全ての助けが断たれるその時にこそ、神の力強さが最も大胆に現れるのだ。
   
それなのに、アッセンブリーズ教団にいるこの人々たちの主張の何と弱々しく敗北的なことだろうか。彼らの言う「信仰」なるものは、この世においてあらゆる死の圧迫に大胆に立ち向かうために全く役に立たない非力なゴミ・ガラクタでしかなく、むしろ、速やかにあの世へ渡って自分を慰めるためのパスポートでしかない。悪魔は大喜びであろう。そのようなものは断じて信仰と呼ばれるべきではない。

だから、そんな様子を見るにつけても、アッセンブリーズ教団やカルト被害者救済活動を擁護することは、誰に対しても、呪いに満ちた悲惨な結果しか招かない、と改めて筆者は確信している。この運動は、世の方しか向いておらず、神の方を向いていないからだ。悪魔と世のなすがままである。それでいながら、どうやって天に蓄えられた宝を信仰によって地上に引き下ろすことなどできよう。こんな運動に関わりながら、神に祝福された人生を送るのは無理な相談である。
 
村上密は、自殺した人間を責めたり、罪に問うのは残酷であって、自殺者は神に拒まれ、天国へ行けないという考えは、クリスチャンの偏見だ、などという趣旨の記事を繰り返しブログに書いているようである。要するに、自殺者も天国に行けるし、神に受け入れられるかのようなデマの流布に加担しているのだ。

このような屁理屈は、死に対する何の抑止力にもなりはせず、死を願う人たちの心の願望をいたずらに助長するだけである。

「自殺しても、罪にはなりません。天国にも行けるし、神様も分かってくれます」
 
そんな風に、人々の自殺願望に太鼓判を押し、死へ向かって背中を押すような、むなしい自己安堵の言葉を、自称「被害者救済活動」に携わる牧師が投げかけているのだから、世も末、言語道断、笑止千万な話である。しかも、それが牧師を名乗っている人間の言葉なのであるから、全く呆れ果てる。

そこに、一体どんな「救済」があるというのか? 死が救済だとでも言うのであろうか?
 
そのような主張から透けて見えてくるのは、この牧師夫妻に関わったために、実際に死に追いやられた被害者が相当数存在するのだろうという暗黙の事実だ。

彼らは、自分たちが救えなかった被害者への無念、自分たちの非力さ、不信仰という罪を覆い隠すために、上記のように自殺者を擁護し、自殺を後押しするような主張をしているだけである、筆者にはそうとしか見えない。
  
だが、キリストは、死に打ち勝った方であり、信じる者に豊かに命を供給される方である。

キリストは、カルバリで悪魔を打ち破り、我々を悪魔のもたらす全ての死の恐怖から救い出し、我々を死の奴隷状態から実際に解放して下さった方なのである。
 
だから、一体、この方への信仰を持っているのに、なぜ、我々が依然、死に怯えて暮らさねばならない理由があるのだろうか。いや、我々は死に立ち向かい、これを断固拒否し、撃退しなければならないのである。
  
筆者自身の確かな経験に立って、ここに警告しておくが、人間に過ぎない村上密に助けを求めた人間は死ぬだけであろう。彼らは救済にもあずかることはないし、受けた被害も回復されない。むしろ、持っていたものまで取り上げられる。

しかし、主イエス・キリストに助けを求める人間は、これらすべてを回復され、単に死に打ち勝つどころか、神の満ち満ちた命の豊かさに至る。
 
だから、筆者は、カルト被害者救済活動に失望し、一旦は、郷里に帰ったが、その後、信仰によってまた新たな家を手に入れて独立できたし、仕事も与えられているし、関西の地を去って後、今度は関東にやって来ることが出来たので、前よりも大きなチャレンジに至った。

まだまだ、このチャレンジは続くのである。むろん、郷里は自然が豊かで食べ物が美味しく、いつでも帰りたいという誘惑はあるが、キリスト者の道は「出て来たところに戻る」ことにはなく、「前に向かって身を伸ばし」、常にまだ見ぬ地へ、天の都を目指すことにある。
 
こうした事柄は、もし筆者がアッセンブリーズ教団や被害者運動などというものにすがっていれば、絶対に起きなかったことばかりで、目に見える人間に助けを求めて、見えない神に従わないことの不毛性をよく物語る事実である。
 
だから、貧しい者はただ主イエス・キリストの御名にすがり、神にのみ助けを求めるが良い。もし本当に神だけに栄光を帰するならば、主は御名に信頼する全ての人たちの願いに応えて、豊かな命を与えて下さる。

神の家族に加えられた人々は、もはやみなし子でもなければ、やもめでもない。神が保護者なのだから、地上の誰にも増して富んでいる人間であり、キリストと共に、天の相続財産が約束された御国の後継者である。

福音書の中で、放蕩息子が帰宅した時に、父親が彼に新しい服を着せ、履物と、指輪をはめてくれたように、神はあらゆる贈り物で、信じる者たちの人生を満たして下さる。
 
だから、真に恵まれて豊かで幸福な人生を生き、人間として地上に生まれて来たことの醍醐味を味わいたいならば、カルト被害者救済活動などという汚れた運動とはさっさと手を切り、被害者をダシにして自分の栄光を求めるような牧師への期待は、可能な限り早く捨てることである。

そして、まことの創造者たる神に立ち返り、神だけに栄光を帰して生きることである。

この唯一の神、我らのまことの造り主なる神を退け、神と教会とクリスチャンを訴える道を選んだ人間には、破滅しか降りかかるものはない。

村上密の最期は、自身の予告にふさわしいものとなるだろう。つまり、彼が自殺を擁護しているのは、自殺した被害者のためではなく、実のところ、自分自身の未来への自己弁明のためなのではないかと思わずにいられない。

「肉の思いは死であるが、御霊の思いは命と平安である。」(ローマ8:6)

貧しい者のために正しい裁きを行われる方

詩篇第140篇

主よ。私をよこしまな人から助け出し、
暴虐の者から、私を守ってください。
彼らは心の中で悪をたくらみ、
日ごとに戦いを仕掛けています。
蛇のように、その舌を鋭くし、
そのくちびるの下には、まむしの毒があります。

主よ。私を悪者の手から守り、
暴虐の者から、私を守ってください。
彼らは私の足を押し倒そうとたくらんでいます。
高ぶる者は、私にわなと綱を仕掛け、
道端に網を広げ、私に落とし穴を設けました。

私は主に申し上げます。
「あなたは私の神。
主よ。私の願いの声を聞いてください。
私の主、神、わが救いの力よ。
あなたは私が武器をとる日に、
私の頭をおおわれました。

主よ。悪者の願いをかなえさせないでください。
そのたくらみを遂げさせないでください。
彼らは高ぶっています。

私を取り囲んでいる者の頭。
これを彼のくちびるの害毒がおおいますように。
燃えている炭火が
彼らの上にふりかかりますように。

彼らが火の中に、また、深い淵に落とされ、
彼らが立ち上がれないようにしてください。
そしる者が地上で栄えないように。
わざわいが暴虐の者を
急いで捕えるようにしてください。」

私は知っています。主は悩む者の訴えを支持し、
貧しい者に、さばきを行われることを。
まことに、正しい者はあなたの御名に感謝し、
直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。

ただ子羊の血に頼る

今日は会社の都合で休日となったので、午後はショッピングモールへ行き、買い物をして楽しんだ。季節の変わり目で、秋物がとても安くなっていた。それから、ゆっくりと休憩しながら、いつものようにメールを書き、ノートブックを広げて主に祈りを捧げた。

慣れない勤務で疲労が極致に達する中、心を圧迫する事件が相次ぎ、我が身の限界を思い知らされた。だが、そんな時、私にできることは、ただみじめで裸の貧 しい者として、主の御前に立ち、助けを願い求めることだけであった。どんなに自分が愚かであろうと、絶望的であろうと、自分の義を投げ捨て、ただキリスト の御血によって、御前に進み出ることだけであった…。

何も隠さず、正直に主の御前に真実を申し上げて助けを乞う。その時、魂には安らぎが与えられ、そして必要な助けも必ず与えられることを信じて疑わない…。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わ たしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

我が救いの岩、隠れ家なる主よ、感謝します。どんな孤独の中でも、あなたが私を捨てず、しかも、時に応じて必要な助け手や、友をさえお与えて下さっている ことを…。そこにあなたの不思議な采配があることを思います。私に何の手柄もなく、私が塵灰に過ぎないことを思い知らされてうなだれている時に、むしろ、 あなたの御名は強く、あなたの御名は甘く、あなたの助けはまことに豊かなのです。ハレルヤ! 私は喜んで自分の冠を御前に投げ捨てます。ただまことの供給 者なるあなたの御手が、私を支えて下さっているのです!

我が栄光の望みは、我が内におられるキリスト、あなただけです。私はこの古き命に属するものが、全て十字架の死に渡されるべきことを知っています。自分の 命を拒んで、あなたの命に生きることを望みながら、私はうめき、葛藤しています。そのうめきの中で、心の喜びや、悲しみといった感情も頼りとせず、自分自 身や目に見える状況に頼らず、ただあなたのみを希望として生きることを学ばされているのです。

世が私の愚かさを笑い、私を罪定めするような時、私はより一層、自分に頼らず、内なるキリストにより頼みます。そして、どんなに私たちが貧しい者であって も、ただあなたの義に頼り、あなたが私たちの上により深く十字架を実際として下さることを信じ、私たちの只中から、あなたが力強く御業を始めてくださるこ とを信じて待ち望んでいます。 

我が望みは地上におけるエクレシアの拡大や、苦難や殉教といった、人の心を誘い、人の偉大さを謳う物語ではありません、私たちは目に見える現象ではなく、 見えないキリストご自身だけに望みを置きます。目に見える都ではなく、来たらんとする目に見えない都こそ私達の待ち望んでいるものです。

ハレルヤ! 主が十字架で私たちの罪の贖いとなられ、世に打ち勝ち、サタンに打ち勝ち、私たちの肉に打ち勝ち、私たちのアダムの命に打ち勝って下さったこ とを感謝します。このお方が、私たちの只中に命となって生きておられるがゆえに、私は助けを求めて走り回る必要から解放されていることを感謝します。

どうか私が窮乏によって心を圧迫される時にも、自分を振り返って、あなたが生きておられることを見ずに、自分の貧しさだけに目を留めることがありませんよ うに。どうか私を十字架から離れさせないで下さい、キリストを得て全てを得ているという事実に確信を持って立たせて下さい。

主よ、あなたが私の全ての全てとなられ、あなたが私の全てを得られて満足される日が来ますように。
あなたの流された血潮によりすがります。

一番小さい者こそ一番大きい

「弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、

『だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである。」(ルカ9:46-48)


悲しいことがあったとき、子供たちのそばにいると、どれほど深い慰めを受けられることだろう。これは私自身が精神的に子供だからと言われても仕方がない が、時々、私には、大人たちの中にいることが耐え難い苦痛となる。なぜこれほどまでに大人たちは素直に心のままを語らないのだろうか? なぜこれほどまで に彼らの心は見えにくく、さまざまなバリケードで覆われていて、彼らの言葉は不正直で、そのかかわりはまるで薄氷を踏むように、気苦労なしには成り立たな いのだろうか?

それに引き換え、子供たちの間では、余計な言葉は一つも要らない。子供たちが好きなことをただ一緒にして遊ぶだけで良い。時間と手間を一心に割いて、彼ら のためだけに向き合えばそれで良い。難しい形式は要らないし、講釈も要らない。私の心が何よりも恐れ、忌み嫌っている、聖書を持ち出してのあの残酷なお説 教や、裁き合いが始まる危険性もない。

子供たちと共にいて嬉しいのは、私がそばにいるだけで、彼らが正直に好意を表してくれることだ。その喜びが、愛が、私の心に自然に触れて、私の心を開か せ、主の恵みを運んでくれる。そして、何より驚くべきことは、私が口にしてもいない悲しみや苦労を、彼らが巧みに感じ取って、可能な限り、慰めを与えよう として骨折ってくれることだ。

そうなのだ、彼らは知っているのだ、私の心の内を。誰にも見せられない、私の涙を。私が彼らのところに避難場所を見出さざるを得ないその事情を、彼らなり に、限られた知識の中で、十分によく理解しているのだ。そして、何も聞かずに、喜んで私を受け入れてくれる。しかも、私の保護者となり、盾となってくれ る。

少し前に、ホームレス伝道について知る目的で、ある町へ行ったが、路傍で出会った元ホームレス(?)のおじさんが、かえって、自分が受け取るはずだった無 料の給食を、喜んで空腹の私に分かち与えてくれた。彼は自分の親切が私の役に立ったので、本当に嬉しそうであった。そして、私をやくざ者から守るために ずっと横に立っていてくれ、私を慰めようとして言った、おれも大変だが、あんたもきっと大変だろう、でも、イエス様を信じれば、必ず良いことがあるよと。

その日、私はホームレス伝道を観察に行ったというのに、元ホームレス(?)から惜しみない恵みを施されて帰って来た。これでは、まるで逆ではないかと批判 されておかしくない。ところが、そのなけなしの親切が、その日、一日、何と私の心に沁みて、私の満足となり、支えとなっただろう。

その時と同じように、いたいけな子供たちが、何も言っていない先から、私を助けようとしてくれるのはなぜなのだろうか。私から助けを受け取るべき、か弱い 存在が、むしろ、私の心を新たな悲しみから守ろうとして、喜んで、騎士となって立ち上がってくれるのはなぜなのか。こんな不思議な逆転現象がなぜ起こるの だろうか。

自分よりも弱い者たちと接しているときに、私は彼らから大いにパワーチャージを受ける。私は富んでいるはずなのに、現実には、彼らよりも貧しい者、弱い者 として、彼らから助けを受け取っている。彼らは貧しさと弱さの中から、溢れるほどの贈り物を人に届ける術を知っている。どこからそんな優しさといたわりが 自然に生まれるのだろうか。

真に弱い者たちは、他人の心に秘められた言い知れない痛みや、苦しみや、悲しみの存在に敏感である。彼らは、人を助けてやるという態度を一切見せない。言 外のうちに、傷ついた人を識別し、無言のうちに、彼ら一流の方法で、精一杯の優しさを提供しようとする。私の心に何があろうと、彼らは一言も、それについ て聞かないし、とやかく言わない。だが、自分たちが弱さを知っているがゆえに、他人の弱さを傷つけずに、かばう術を知っている。出会った喜びを、素直に表 し、平和を作り出すために骨折ってくれる。

最近、ひょんなことから、韓国人の青年にも知り合ったが、日本人の青年たちの中では滅多にお目にかかれないほど、澄んだ目をしていた。眼差しだけでなく、 言葉にも、表情にも、皮肉な態度は一切なく、柔らかさと、正直さと、清らかさがあった。初めは言葉が通じないと思って接触を避けていたのだが、意思疎通さ せて下さるように主に祈ると、彼は日本語が話せることが判明した。彼の用事のために、夜っぴてネットに向かって共に検索していたときの、何と楽しかったこ とよ!

心の清い若者たちには、恐れがない。彼らは傷ついた人や、弱い者を見ても、ひるまない。それどころか、平和の親善大使として活躍できる機会があれば、それ はもう大喜びだ。だから、青年たち、子供たちと共にいる時が、私にはとても楽だ。それは、私が嘘をつかずに済むからだ。余計な気を遣って、思ってもみない お世辞を口にせずに済むからだ。調子を合わせようとして、へとへとになるまで取り繕わずに済むからだ。罪定めされることを恐れて、背丈以上に義人を装う必 要もないからだ。また、彼らに余計な気を遣わせることもないからだ。

子供たちだけでない。この世で最も取るに足りない、小さき者たちとの接触は、どうしてか分からないが、私にとても自然な喜びを届けてくれる。どんなに私が 弱り果てていても、彼らは私の心をいたわって、新たな喜びを届けてくれる。それは彼らが私より弱いからこそ、できることなのだ。弱くされ、砕かれることの 意義は、ここにあるのだろうと思わされる。彼らが私と共にいることを素直に喜んでくれるのと同じように、私も彼らと共にいることを喜ぶ。

最近、複数の人たちから次のような言葉をいただいた、「目いっぱい傷ついて来た人だからこそ、他人の傷をいたわることができるのですよ。今はまだ受けるだ けしかできないかも知れませんが、そのうちまもなく、与えられるようになります。自分が受けた苦しみの深さゆえに、あなたは他人の苦しみをも、きっと必 ず、豊かに覆うことができるようになりますよ…」

もちろん、私たちは、主イエス・キリストを信じる信仰によって救われているのであって、年齢が幼いから、あるいは貧しいから、苦難に遭っているから、心が 清いわけではない。が、それにしても、小さき者たちの示してくれる偽りのない喜びと、何の不自然さもない憐みと、いたわりが、何と私の心を和らげ、豊かに してくれることだろう。小さな小さな平和の大使よ、あなたたちを通しても、私は主の恵みが私に対して十分であることを知ることができる。

「するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、『幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、 止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは 決してできない』。 」(ルカ18:16-17)

ひとこと

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)

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